さて, 節気についていくつか説明して次に進むと言いましたね. レビ記23章! レビ記23章は, 全体がイスラエルの**節気(せっき)**に関する内容です. レビ記23章5節から奉読いたします.
(レビ記 23:5) 「第一月の十四日の夕暮れは, 主の過越である.」
さて, 第一月の十四日! ここで「第一月」というのは, ヒブル暦(ユダヤ暦)のことですね. ヒブルの人々がエジプトで使っていた暦に「民間暦(みんかんれき)」というものがあります. それがヒブル暦(宗教暦)とは7ヶ月の差があるのです.
しかし, それも今日の私たちの太陽暦とはまた違います. ですから, ヒブルの人々の正月が6月だと言うと, 聖書を見ると「正月」「一月」などと出てきて, 月が混乱する場合が多いでしょう. それがヒブル暦なのです. 民間暦(エジプトの民間暦)が7月なら, ヒブルの人々にとっては1月であり, それを私たちの太陽暦に当てはめると, 3月と4月の間くらいになります. それは知らなくても大丈夫です, そういうものがあると思えばいいのですが, 敢えて覚えておくべきことは, ヒブル人の宗教暦1月は「春」だと考えればいいのです. 春です!
そしてイスラエルの七つの節気がありますね. 過越の祭り! 最初に1月14日, 15日が無酵母パンの祭り(除効祭)です. そして16日が初穂の祭りですね. そしてそれから50日後が五旬節(ペンテコステ), 七週の祭りとも言います. なぜなら7×7=49の翌日, 50日目だからです. そしてその次に喇叭(らっぱ)の祭りがあり, 贖罪の日があり, その次に仮庵の祭り! こうして七つの節気がありますが,
前の1月(正月), つまり14, 15, 16日の初穂の祭りまでが「春の節気」で, 七週の祭りや五旬節の時期が「夏」です. 夏の節気です. そして7月の贖罪の日, 喇叭の祭り, 仮庵の祭りが「秋の節気」です. そして「冬」は常に安息(あんそく)を象徴するものです. 安息! ですから, この節気が何かというと, すべてイエス・キリストの生涯を込めているのです.
ですからパウロがコロサイ人への手紙やガラテヤ人への手紙など色々な場所で, それらの節気や新月の祭りはすべて「来たるべきものの影」であり, その「本体」は何だと言っていますか? 「キリストである」と言っていますね. それなのに, まだお前たちは節気を守っているのか? と話しているではありませんか.
初代教会の時もそのようなことがあったということです. 「いや, 我々が1500年間守ってきたものなのに…」モーセの時に与えられたのだから, モーセは紀元前1500年前の人ですよね. だから1500年間守ってきたのに, 「イエス様が十字架を背負ったからといって一気に全部なくしてしまってどうするんだ?」と. そのようにガラテヤ教会や多くの初代教会に, ユダヤ主義を依然として持っている自称クリスチャンたちが来て(偽教師たちですね), 律法を守らなければならないと教えたのです.
それでパウロは怒って, 「それは異なる福音だ!」と言いました. そして「どうしてお前たちは, 私がこれほど長く教えたのに, 異なる福音をそんなに簡単に受け入れてしまうのか?」と言いました. なぜ簡単に受け入れるのかというと, 異なる福音というのは人間の「行為」や「自尊心」を煽るものだからです. 人間は当然, 異なる福音をよく受け入れるようになっています.
人間の「福」を強調したり, あるいは人間の行為を価値あるものとして扱ってあげれば, なぜなら「お前たちが今守っていることが価値となり, 神の前に捧げられることによって, 神がそれに対する見返りとしてお前に福をくれるのだ!」と教えるから, 人間としては格好がつくじゃないですか. ところが, 「お前たちのものは一切受け取らない」と言われ, 「ただ恵みによって, 創世前に選ばれた者がこの地に来て何かを学んで帰るだけだ!」と教えられると, 「じゃあ私たちは何なんだ?」となるわけです.
しかし聖書は明らかに, すべての人間を含む存在そのものが目的ではないと言っています! 人間の存在目的は「約束のために創造されたもの」だと聖書は言っているのです. それはどういう意味かというと, 神様の「創世前の契約」というものがありますね. 「私が自分の国で連れて住む存在たち!」本来, 神様は神の国を必要としません. 霊であられるからです.
しかし神様が国を造られたということは, 神様以外の存在を一緒に連れて住むことに決めたという意味なのです. ですから創世記1章1節が「初めに神が天と地を創造された. 天(複数形)を創造された」と言うのです. その一つが「神の国」です! 目に見える大気圏の空もその中に含まれますが, 「三層天」と呼ばれる神の国! そこにパウロが上って, 自分がそこに住んでいるのを見てきましたよね.
「ああ, 本当に一度見てみたいです. 今も不安で, 死ぬほど苦労しているのに… 行ってみたらなかったらどうしよう? だから一度見たいのです. それを見れば, どんな苦難も耐えられる気がするのに… 実は今も不安です!」
その天(空)です. その天において, 創世前の契約の中で, その天はすでにこのように確定しているのです. では, すでに確定しているのなら, なぜこの歴史と人生が必要なのか? それはなくてもいいものです. ここはですね, そこが終わりなのです. そこが始まりであり終わりです. 「永遠」というのは, その概念自体が過去と現在と未来が統合された領域なのです. だからそこでは一日は千年のようであり, 千年は一日のようだと言うのです.
では, なぜこの順序と待ち時間がある「歴史」が存在しなければならないのか? それこそが, 神様の約束がどのようなものであり, 神様の恵みの豊かさがどのようなものであるかを世に知らせ, 私たちに教えるためだとパウロが言っているではないですか? エペソ人への手紙を見ても, 「あなたがたが恵みによって救いを得たのだ」となぜ言っていますか? 「キリストの, 神のその恵みの豊かさを, 世々に示すため」です.
それなら, 私たちの人生の目的というのは, 神様がどのようなお方であり, 神様の恵みが介入しなかったとき, 被造物という存在がどのような存在であるかを世に描き出す「道具」なのです. 人間というもの自体が!
ですから, 人本主義(ヒューマニズム)はすでにここから行き詰まるのです. 「じゃあ人間は何なんだ?」となるわけです. ヒューマニズムというのは, 非常に良い…, 皆さんの涙腺や感性を刺激する言葉ですよね. このヒューマニズム! と聞くと, むやみに胸が熱くなったりするじゃないですか. ヒューマニズムというその言葉, 単語自体が, 聖書に出てくる神の福音と完全に正反対にある言葉なのです.
もちろん, 私たちから, 聖徒から, 迫害され, 貧しく, 軟弱な存在に対して, 憐れみの心, 切ない心, 愛したい心, こうしたものが当然湧き上がるべきです. なぜなら, 聖徒は内に聖霊を宿して生きる, 聖霊に掌握されて生きる人だからです! すべての人間に普遍的にある感情は, まさに神様の属性が少しずつ現れているものなのです. それは本来, 人間のものではないのです!
ですから私たちがそういうものを見ると, 本当に弱い人々が強い者たちに迫害され抑圧されながらも, 何も言えずに涙だけをぽろぽろ流している姿! そんなのを見れば, 涙が出て, 憤りがこみ上げてくるじゃないですか. 一緒に対抗でもすればまだマシなのに, 対抗もできず, 抑えつければ抑えられるまま, 叩かれれば叩かれるまま, 騙されれば騙されるままに生きていく軟弱な人々! ところがそれを, 絶えず反省も後悔も悔い改めもなく継続して行っている何かを見たとき, 私たちの内に憐れみと不憫な心, そして憤りや義憤のようなものが生まれますよね. それは当然のことなのです.
なぜなら, 神の国の生の原理というのは, そのような力の原理で, 強い者が弱い者を抑圧しながら生きるようにはなっていません. 神の国という場所は! 神様というお方ご自身が! この天地万物の中で最も強いお方が, 最も弱いところに来られて, 最も弱く, 死ぬべきであった(先ほど賛美歌を歌いましたが), 「I must die!」私はまさに死ぬべき者だったのに, 神様が私を「ご自身の死」によって生かしてくださるのが神の国の生の原理であり, これが神の属性なのです.
ですから, 神の聖霊を抱いた私たちから, 当然そのようなことに対する反発や憤りが生まれるのは当然です! そしてそのような人たちのために, 本当にこの身を焼き尽くしてでも, 彼らに神の国を伝えたいという心になるのが正しいのです.
私がもどかしいのは, こうして「恵み(恩恵)」を説教すると, 「うちの牧師が何もしなくていいと言った」と言って, 何もしない人間たちがいることです. 甚だしいのは, 一年に一度貧しい人たちのために食べ物を用意していた行事などをやめてしまった人がいるそうです. なぜやめたのかと聞くと, 「いや, 牧師がそんなのは全部自分の『義(ぎ)』を積むことだと言ったからやめた」と言うのです. その人はやめたほうが幸いです, 実は!
これまでその人がその仕事をしたのは, やりたくないのに無理やりやったのでしょう? あるいは, それをすることによって自分がどれほど立派な人間であるかを自分自身で褒め称え, 満足し, 他の人が自分を称賛してくれること, つまり自分の価値を認めてくれることを楽しんでいたのであって, それは本当の「善」ではありませんでした.
もしそれが本当に, 内にある聖霊によって行われたことであれば, 牧師が何を言おうとその仕事は行われるべきですよね? なぜなら神様がなさったことだからです! なのに, 牧師が恵みについて説明したからといって, 自分の「義」などは決して神の前でカウントされないと言ったからといって, すぐにやめてしまうのは, これまでやりたくないことを無理やりやっていたということではありませんか? それを「義」と言います. 自己の「義」! それが神の前で罪を積むことなのです.
むしろ, イスラエルの…, 伝道者の書(コヘレト)1章8節, 9節を見ると, 「日の下には新しいものはない」と言っていますね. 私たちが今行っていることはすでに過去にあり, 将来の人々が私たちのものを見るだろうと言うではないですか. この歴史は絶えず同じことを繰り返すという意味です. それはどのようなことを繰り返すかというと, 人間の「価値取り」です. これはアダムとエバが善悪の知識の木の実を食べたときから始まったことなのです.
そうでしょう? 「なぜ私が神様の言うことだけを聞かなければならないのですか? 私も自分の力と意志を発動し, 自分の善悪構造を持って, 私が善悪を判別し, 私も価値ある人生を生きます」というのが, 善悪の木の実事件だったではないですか. ですから, そこから人類の歴史は歪んでしまったのです. そして神様がそのように意図して造られたのです.
それなら, 善悪の木の実を最も見やすく, そして最も美味しそうに造られたのです. 「食べろ」ということです. 食べて, お前たちがどのような存在であるか, 一度この歴史の中で経験してみろということです. それを歴史の中にずっと広げていくのが, アブラハムから始まって, アブラハムから始まったイスラエル! そしてそのイスラエル! その霊的イスラエルの実体である教会! 私たちのことなのです. ですから, それが旧約と新約全体の物語なのです.
つまり, 「イエスの恵みがなければ, お前たちはゴミであるしかない」というのが, まさにこの歴史の存在目的であり, 私たちの存在目的なのです.
ですから, そのような「行為」! この世で行われる救済や善行などが悪いというのではなく, そうしたことが人間の価値を高め, 「ほら! 私たち同士でもこうして助け合い, お互いを憐れみ愛しながら, こうして神なしでもうまくやっていける」というバベルの塔を築くことを, 聖徒は必ず警戒しなければならないということであって, そのような行為をやめるべきだという意味ではありません.
皆さん! 必ずそれは私たちの人生の中から出てこなければなりません. なぜなら, それが天国の生活だからです. 聖徒は神の国で生きることになる神の国の民のその生活を追求し, 志向しなければなりません.
しかしそれにもかかわらず, 「神の恵みが介入しなかったとき, 私の人生の中からそのようなものが出てこないことを歴史の中で経験しながら, 神様が私を十字架で殺し, 神の御心のままに, 神の能力で新しく完成してくださらなければ大変なことになるところだった!」ということを私たちがここで学ぶのです.
だからイスラエルという一つの民族が必要だったし, 彼らを通して今や教会が何であり, 神様の, あのイエス・キリストの恵みが何であるかが説明されるのです. つまりイスラエルは, 教会の雛形であると同時に, イエスがどのようにこの世を生きるかについての雛形でもありました. ですから神様が, 出エジプト記で「イスラエルはわが初子(はつご)である」と言われるのです. そして使徒パウロはまた「イエス様が長子(ういご)である」と言いますね. それだけでなく, 聖書は私たちをまた「子」だと言い, 「長子」だとも言います!
ですから, こうしたことをよく理解せずに旧約と新約を見ると, 多分に私たちは聖書を道徳的で倫理的なものとしてだけ見るようになります. 道徳の本, 倫理の本, これは守るべきこと, これはやってはいけないこと, という風に見てしまうのです. それは違うということです.
ですから使徒パウロもあれほど警戒し, すべての節気は, このレビ記23章に出てくるすべての節気はすべてイエスに関するものであったと敢えて何度も説明したのは, 「お前たちが今も節気を守るなら, イエスの死を無駄にするものだ」とまで言ったのは, 人間がそのような行為を通してその中でイエスを発見せず, そのような行為で再び自分たちの価値を手に取ろうとすること! これがパリサイ人だったではないですか? それを警告したのです.
しかし, 今日もどうですか? 七週の祭り! 仮庵の祭り! ユダヤ人は今もすべて守っていますが, このように名前は付け替えていませんが, 復活祭! 収穫感謝祭! クリスマス! 受難週! このように人間がまた全部作り直して, 再び守り抜いていますよね?
皆さん, これをなぜ守っているのですか, 今? イエス様という実体がすでに来られて, そのすべてを, 節気や新月の祭りをすべて完成されたと言いました. だからもうイエスというその実体を受けた者は, 今やイエスを記念すればいいのです. しかしそれは私たちが毎瞬すべきことであって, 何かの節気を決めてそのようにすべきことではないのです.
ところが, それがなぜこっそりと生じてきたのかというと, 四旬節(レント)のようなものですよ! 受難週! 皆さん, それはローマ・カトリックがやっていたことなのです, 元々は! なぜなら, ローマ・カトリックは人間の行為を非常に価値あるものとして評価します. だから人が死ぬと, 罪をたくさん犯して死んでも, 煉獄ミサ(連祷ミサ)のようなものを捧げるじゃないですか. 連続して捧げる祈りという意味です. 結構なお金がかかります. それを捧げるのに, 数百万ウォン(数十万円)ずつ出さなければなりません. 煉獄ミサを捧げるときに!
そのミサを通じて, 誰に懇願するのかというと, 聖者たちがいますね? 聖人たち! 聖フランシスコ! 聖ペテロ! こうした聖人たちがいるじゃないですか. ローマ・カトリックが認めた聖人たち! 彼らが3000人ほどいると言われていますが, すでに天国に行っている彼らに, ミサが捧げられるのです. するとその聖人たちが, 青瓦台(大統領官邸)に入る前にその前庭にいらっしゃるマリアに, またそのようにお願いをするのです. その「マリア崇拝(マリアロジー)」が生まれたのです.
では, なぜマリアにそのようにお願いするのかというと, イエス様のお母さんじゃないですか, マリアが! だからどうしてもお母さんが息子に「ねえ, あの子をちょっと何とか…」これは一種の請託(コネ)ですか? だから彼らがある先祖リンボや煉獄に入っていても, この地上で行うこの「功徳(くどく)」によって, 「彼らは地獄に行く可能性もあったが, 天国にも行ける」というこのような人間の行為, これがユダヤ教のものなのです. ユダヤ教がそのままローマ・カトリックになったのです.
ここから再び「違う! 本来のフォーム, キリスト教に戻ろう!」と飛び出してきたのがリフォームド(Reformed), 改革派教会なのです. 元々の茎から何か突然変異が飛び出したのが改革派教会ではなく, ユダヤ主義! ユダヤ教からすでに歪んでいるこの枠組みから, 「本来のフォームに戻ろう!」というのがリフォーム(改革)なのですから.
ところが今はすべてが…, 私たちは明日, 士師記でレビ人とエブライ人の中のミカという人を調べる予定ですが, そこにそのまま出てきます. なぜこのような行為を今日もこのように守り行い, 大騒ぎするのかというと, まず人間はそうした行為を煽られると, そのような節気の時以外の他の生活は, 一生懸命罪を犯していてもその時に一度にどっさりと献金もして, 記念し, 大きな行事をすることによって, そこで自分たちの不安や汚れなどを相殺しようとするのです. だからできるだけ行事を大きく開くのです. 連合礼拝のようなものもして!
昔はですね, 私が子供の頃だけでも, 復活祭の主日のような時には, 白い服を全員着て, 一緒に夜明けに集まっていました. 全員が白い服を着なければなりませんでした. 何をしているんですか, それは? お化けが出るじゃないですか, 夜に! そしてその時, クリスマス, 復活祭, 収穫感謝祭, こうしたいくつかの節気の間に, 教会の一年の予算のかなりの30%以上の献金がそこで集まるのです.
だから, 神学校では笑えない話ですが, 「献金開発論」という講義があります. そして本もあります. 献金開発論! だから牧師の事務室に入ってみると, そうした本が一、二冊あります. 献金開発論として! そしてある本は, 本当に露骨に, 「羊は随時毛を刈ってあげてこそ健康だ」と. こうして随時お金を集めてあげてこそ, 健康な信仰生活を送るというのです. そういうタイトルの本があります. そしてそういうことに非常に大きな才能を発揮する人々が, 復興師(リバイバリスト)になるのです.
私たちの教会で特にそのような節気たちを守らないからといって, 「本当に牧師さんは独特な牧会をする」と言って教会を去る人々がたくさんいます. なぜそのような「教会暦」! 教会の歴史が教会暦として定めたものを疎かにし無視するのか? 皆さん, 教会の歴史ということ自体が, 欲望する人間たちが吐き出した「排泄物」のようなものであって, それ自体が何かすごいものではありません.
結局, 牧師たち! その説教をこっぴどく叩いて一躍スターになったチョン・ヨンソクという人がいますが, その人は教会暦通りに説教をしない人をすべて悪魔扱いします. めちゃくちゃに叩きます! パク・ヨンソン牧師もそれで叩かれましたが, 講解説教をすると言って! つまり教会暦通りに説教をするイ・ジェチョルや, ほとんどのメソジストの牧師たちは皆, 教会暦通りに説教します. 受難週には受難が入る説教! だから彼らは講解説教をすることができません. 常にそこで行き詰まるからです!
ですからその人の説教評を見ると, 完全に自分が…, その人は聖潔教の牧師ですから, それについて勉強したメソジストの人です, その人は! だからその教会暦にがんじがらめになって, その節気に従って人々に…, それは使徒パウロのこの福音! 書信書自体を本人が無視してかかっているのです. ところがこの無知な人間たちが, その人が大教会の牧師たちを叩くから「ああ, これが正しいんだ」と思ってしまって! その人が間違っているのです. それで(本を買ってあげて)彼をお金持ちにしてあげたわけですね.
とんでもない話です. それはすべて人本主義的で歪んだ教会が吐き出した排泄物が教会暦です. 四旬節は, マルティン・ルターが命懸けでなくしたものでした. その時は豚肉も食べてはいけなかったのです! 「なぜ今までこのように律法に縛られていなければならないのか? そうではないではないか?」とルターが命懸けでなくしたものなのに. ただ過ごすのが退屈すぎるから, いつからかまたじわじわと現れて, 再び四旬節というものができました.
だから神学校でも, アメリカの教授たちも, 四旬節の期間中にはジュースだけ飲みます. 断食をすると言って! だから私はその期間中, 神学校で昼食もまともに買って食べられませんでした. 顔色を伺ってしまって! 教授たちがジュースだけ飲んでいるのに! いっそのこと全く食べないか! ジュースにあらゆる栄養, 人参やパセリなどを全部入れて! 「ああ, それ一つ飲むだけでもお腹いっぱいだろうに!」そうしておいてそれを「守った」と言うのです, 四旬節の間に! それをなぜするのですか? 「私は何かをした」ということでしょう? 私は教会員として, この時代の教会として, 神の前で何かをしたということを今見せたくてショーをしているのです.
クリスマス? イエス様がいつ生まれたか聖書に記録されていますか? ありません. スコットランド教会では3月に守ることもありました! 本来12月25日は, ローマの太陽神ミトラをローマが崇拝していたじゃないですか. その太陽神を祀っていたお祭りの日でした. ところがローマがキリスト教を受け入れることにしながら, 「じゃあ, 本来お祭りしていたその日をそのままクリスマスにしよう!」として作ったのがクリスマスです. では, その日に必ずそれほど騒がなければならないのですか?
復活祭? 皆さん, 復活祭とは何ですか? 私の中にすでにイエスが生きていらっしゃると言うではないですか? 一年365日, 復活されたイエスが私の中にいるのに, 何を一日そうして節気を決めて, 卵を茹でて大騒ぎするのですか? 他の日は, イエスが来られたその意味! またイエスが私のために苦難を受け死なれたというその意味! そして私たちに与えられたすべてが神の恵みであるというそのような感謝の意味!
そしてイエス様がなぜ, どのように復活されたのか? そしてそのお方が今復活してどこにいらっしゃるのかについて考えもせず, 悩みもしないから, 節気をいくつか決めておいて大騒ぎするのです. そして教会の立場では, 献金がたくさん出るからいいわけで! だからその前の週から袋をとても綺麗に飾って週報に入れてあげます. 来週忘れないようにと! 袋が違います, 節気の時の献金袋は!
節気はイエス・キリストを説明するものです. その最初の節気が何だと言いましたか? 過越の祭りだと言いましたね. 過越の祭りを守れと言われながら, 神様が「その月を最初の月とせよ!」と言われました. それでユダヤ暦ができたのです. それまでは民間暦でした. その日! その日が民間暦では7月でした!
なぜ最初の月とせよと言われたかというと, 「新しい時代が開かれる」という意味です! すでに出エジプト記で神様は, 新約の新しい時代, 教会の誕生をあらかじめ象徴的に予告されているのです. だから「最初の月とせよ」と話されるのです. 「今, 新しい時代が始まる」と.
ところで, 過越の祭りとはどんな日かというと, エジプトのすべての長子が死ぬ日です. 長子が死ぬということは, 家系の種を絶やすという意味ですよね? ですから長子は常に男子を代表する存在であり, 男子は一家庭を代表する存在であったため, 「長子」といえば全体を指すのです. つまりエジプト, 世を象徴するエジプトをすべて殺すという意味です.
しかし, イスラエルはすべて生かすということではありませんでした. 小羊の血を鴨居と門柱に塗った者たちだけを生かすと言われました. ですからイスラエルの人々の中でも, その声を聞けずにこの血を塗れなかった人は皆死にました. つまり「本当のイスラエル」, 神の民とは誰かという意味ですか? 小羊の血の意味を知り, 「その血が私を生かしました!」を知る彼らがイスラエルであり, わが民である. 彼らだけが出ていけという意味なのです.
しかしよく考えてみれば, 鴨居と門柱に血を塗らなければ皆殺すという意味は, その小羊の血でなければイスラエルも同様にエジプトと何ら変わりのない者たちであるという宣言ですよね? ですから血を塗らなかったエジプト人の中でも, 血を塗った人は皆生きました. だから「多くの混じり合った群衆(雑族)」が一緒に出てくるのです.
ですからイスラエルが何が立派だからといって神様が彼らを選んだのではなく, すでに400年前にアブラハムに約束した約束があったため, 神様が彼らを訪ねて行かれ, 王朝を変えさせ(ヒクソス王朝だったじゃないですか, 元々は! ヨセフの時にはエジプトの本来の王朝がヒクソス王朝に占領されていました. そうでしょう? そのヒクソス王朝が元々エジプトの正統の人々ではなく異邦人であったため, ヨセフという異邦人を総理として使うことができたのです. そうでなければ無理ですよね, どうして異邦人が来て総理になりますか?).
ところがその王朝が変わり, ヨセフを覚えていない正統なパロ(ファラオ)の王朝が入ると, このイスラエルの人々が完全に厄介者になったのです. 今や異邦人じゃないですか, その時からは! 神様がそのようにされたのですから. そのようにして, パロに彼らを苦しめさせ, 心を頑な(かたくな)にされたと言いますよね? 神様がそのようにして, 「さあ, 私の約束を, 忠実な僕アブラハムにした約束を, 私が今や広げていかなければならないのだが… そのためにはお前たちが今苦難を少し受けなければならない」と神様が役割を付与されたのです.
あのヨセフの時に生きた人々は贅沢をして行きました. ゴセンの地はエジプトで最も優れた土地でした. ところが同じイスラエルなのに, モーセの時のイスラエルは完全にひどい苦労をしたわけです. そのように神様は, この世に, 単なる歴史! あなたの約束と契約を広げるのに, 歴史の中で広げるのに必要な「道具」として, 人々を, 被造物を, ただ使われるのです.
物乞いのラザロのような人! 何か悪いことをして物乞いになったのではありません. 生まれつきの盲人? 生まれつきの盲人! 何か罪があってそうなったのではないと言うではないですか? なぜ? 盲人は, 生まれつき盲人であった私たちの全人類が, イエス様の犠牲! 泥が唾でこねられて目に塗られ, ヨルダン(シロアム)に行って洗うことで, イエスが死ぬことによって目を開くようになるということを説明するために盲人になったのであり! ラザロは? この世で物乞いのように生きるとしても, 本当に福を受けた者は, この世で物乞いのように生きることもあるが, 彼らには天国が約束されていると見せる者として, 役割を引き受けて出てきたわけです.
ですから私たちは各自のその役割を生きて行くのです. 牧師は何が立派だからといって牧師になるのではなく, 長老は何かが優れているから長老になるのではなく, その役割を遂行しながら! 牧師や長老の中にも「悪魔の子供たち」は多いです. こうした悪魔の子供たちまでもが教会の重職に就き, 悪魔の天下を作るような世の中で, 「お前たちを、お前たちだけで放っておいたらどうなるところだったか?」それを教えるために各自の役割を任せるのです. そして皆さんは, そのような役割をただ忠実に遂行して行けばいいのです.
だから「あの人は間違いなく救われた人だ! あの人は間違いなく遺棄された人だ!」こうしたことを皆さんが判断してはいけません. 神様がそのように生きさせ, 死ぬ日まで強盗の仕事ばかりさせていたのに土壇場の大逆転で…. 人々がどれほどその人をあざ笑ったでしょうか? 「あいつは悪い奴だ! 死ぬまで強盗ばかりして… ほら! 最後まであんなに卑怯に自分だけ助かろうと, あなたの御国が来るときに私を思い出してくださいなんて! 八つ裂きにしてやろう!」と言ったはずではありませんか?
ところがその人はその日, 天国へ行ったのですから. 私たちの善悪構造で, 私たちの常識で, 人々を判断しないでください. 「誰かはあんなに善良に生きているのに! 誰かはあんなに改革を叫んでいるのに! 誰かはあんなに綺麗で! 誰かはまたあんなに汚くて!」その人に神様がその役割を任せることがあり得るのですから.
甚だしいのはある人は自殺をしましたが! 聖書に自殺すれば地獄に行くというような神様のお言葉が記録されていますか? その人はただそのように「自殺して来い!」と神様が役割を任せて, そのように生きて行った人である可能性があります. その人が神様の選ばれた民であれば, その役割を終えてただ天国に行くのであり, そうでなければ地獄に行くのです. ところが「その出来事(自殺)」のために行くのではないですから.
同様です, 同性愛! 明日の国家祈祷集会に行けば, とにかくその同性愛者たちが常に討論と論争の主題になりますが…! いや, 同性愛の方が悪いですか? 殺人が悪いですか? 同性愛が悪いですか? 殺人が悪いですか? 殺人の方がより醜悪な罪じゃないですか? 汚い罪!
ところが聖書は「兄弟を愛さないことが殺人だ!」と言いました. ならば私たちは毎日殺人を犯していながら, あの人たちが同性愛者だからといってむやみに教会にも来させず, 「あの人たちは間違いなく地獄に行くだろう! あの呪われた人々だ!」とそんな風に言えるのでしょうか?
あまりにも, そんなことで, この汚い悪の, この悪霊が支配するこの国家ではもう生きたくないだの何だのと, そんな風に話をします, セミナーをすれば! 「ああ, 本当にあなたこそしっかりしなさい!」いや, 私たちの人生の中で, 私たちが本当に断ち切れないのがその同性愛一つだけですか? あの人たちが本当に好きでそうしているのでしょうか? どれほど本人たちは「なぜ一体私はこのように生まれたのか?」についてどれほど悩んでいるでしょうか?
同様です. 酒やタバコ一つまともにやめられない人間たちが, あの人たちをむしろ罵倒しています. 私たちがやめられないのがそれ一つだけですか? 違うのです. 私たちはより汚い罪人たちです. そういう姿はすべて私たちの内に入っているものであり, 私たちに向かって「自分たちの善悪構造を持って判断し定罪して, お前たちは綺麗な人間だということを手に取れ」と私たちに与えているのではないですから.
それにもかかわらず, ただその立派な人間たちが多いせいでですね, 人々を端から! ならば誰が来るのですか, ここに? 教会に誰が来なければならないのですか? なぜあのマンドゥ教会(仮名)の〇〇チャーチの〇〇〇牧師が今度ナソン教会に来たと言われていますが, その方は離婚して(教会を)辞めたのですね. まあ2000人もいて, 私はその方の説教をただの一編も聞いたことがないので, その方についてどう評価することはできませんが, それでも福音をよく伝えたと話されていました.
そして私が昔, その方がやっている祈祷院だったか? あちらの, そこで私たちの教会の青年部の修練会をすると言うので, 講師として行きましたが, 山の中でとても寂しかったのか, ただボクブンジャ(木苺)を摘んできてはジュースを作ってくれたり, 「友達になろう」と。年齢も私より7歳も上の人が! そして毎日電話してきたりして, 私はそんな事情を全く知りませんでした.
ところが後で話をされました. 実は中国人の妻がいて結婚したが, 自分のエンジニア時代に結婚したため, 牧師になった後で仲が悪くなって離婚したと. それで教会の仕事を辞めて, そのように蟄居(ちっきょ)していたのですが. それでもまあそこに行ってあのように暮らしているのを見ると, 羨ましかったですよ. あの祈祷院の前に渓谷が流れていて, そこで釣りをしたり.
そしてまたあそこに寺男のような青年の子が一人いるのですが, 釣りを投げ入れて釣り餌がないようであれば, その子がまた裸足で飛び込んで行ってミミズを付けてくれたりします. 「ああ, これは皇帝だな! 完全に!」時間が来ればご飯を作ってくれ, 空気は良く, そしてマウンテンバイクを一台買ってその山で毎日自転車に乗って登っていましたよ.
それで「ああ, あいつは運勢も本当に… 私のような人間もこうしているのに…」そしてここ(LA)に来ました. 来ましたが「離婚した人が説教をするなんて」と, 全く人々ときたら! 離婚した人がここで説教ができないなら, この礼拝堂に離婚した人は一人も来てはいけません. そうではありませんか? 離婚した人がここで説教をさせないなら, この礼拝堂に離婚した人は一人も入ってきてはいけません. どうして敢えて入って来られますか, ここに!
それはしきりに牧師が何かすごい能力などを持っている人だから, その人の内にあるものを出しているのだと考えるから, しきりにその牧師を見つめるのです. いや, 違うのです. 牧師も神様が任せた役割にただ引きずられていくのです, 本当の牧師は! 何かすごい能力があって自分の中にあるものを, 皆さん, 私が勉強するのが好きだと思いますか? 本を読むのは好きですが, 今は聖書を開くと「また何を話すべきか… 全部話したのに, 今さら!」と頭がズキズキ痛みます. もうやめたいです, 私は!
だから昨日も「ああ, 空港へパッと行ってどこかへ行ってしまおうか?」ハハハ. 一日に12回もそんな気がします. いや, 何をさらに話すというのですか? 創世記から黙示録まで全部してあげたじゃないですか, 私が今! これ以上何の話を? 神様がもう使わないと思えば, その時からゴミです, 同様に! 牧師も同様です. 自分の中にあるものを出すのではなく, 神様がその時その時, ご自身の民! わずかなご自身の民に伝えようとすることをその口を通じて伝えさせ!
だから洗礼のヨハネが「私は声だ」と言うのです. 声? 人格体でもないのです, ただの声, マイクです. スピーカー! だから私がたまにそうする礼拝時間にも流行歌(歌謡曲)を歌ったりするのはなぜかというと, 「人々よ, そういうことをどうか(牧師に期待)しないでくれ!」と. 人々がやって来て, 他の保守的な長老教会にいた人々が来ては仰天して教会を出て行っただの, 出て行っては悪態をついたりしていました. 「あいつは牧師でもないくせに礼拝時間に流行歌を歌い, 悪口を言う」などと言っていますが!
皆さん, なぜ牧師が何か特別な存在だと思うのですか? 本人たちも(特別な存在では)ないくせに! 絶対に違います. 人間はこの肉的自我を開発し成熟させ, ここに変化した何かを積み上げて, 他の人たちとこうして差のある何かを成就していくのではないのです. ただ神様の約束とイエス・キリストをこうして現して, ただ神様が「来い」と言う場所へ行けばいいのです. そこまで準備ができている人を「聖徒」と言います.
「神様が私を地獄に送るというなら私は地獄に行くしかない人間だ!」というところまで行っていてこそ, その人が聖徒なのです. それが「自己否認」ではありませんか? それなのに私はどうにかして天国に行こうと! 違うのです. 皆さん, 過越の祭りの話はできもしないで導入部だけでハハ! 明日過越の祭りについて話します.
とにかく節気, 節気というのはイエスを説明するものです. 律法に縛られないでください. 十一献金? 同様です. イエスが十一献金(の本体)じゃないですか? 十一献金はレビ人の生活費ではありませんでしたか? レビ人は長子ですよね? ええ? 長子の代わりに捧げられた者たちでしょう? 彼らに, 死ぬべき長子たちが「私の代わりに捧げられてくれてありがとう!」と与えたのが「贖い金(贖銭)」! 十一献金だったではないですか?
ところが死ぬべき私たち! 私たちの代わりにイエス様が銀30で, 贖い金として神様に捧げられたではないですか? なのに今また十一献金を出せと言うこと自体が, 使徒パウロが節気や新月の祭り! こうしたものを「お前たちが今も守るなら, お前たちは皆イエスの死を無駄に思うこと, 無駄にすることだ!」とその中に入ることだというわけです.
ところが教会で十一献金を集めなければ, この十一献金が教会の予算のほとんど大部分です. だからこれを出さないと教会の運営ができないため… 運営できなければ(運営)しなければいいのです. ええ? 私はそんな日が早く来ればいいと思っています. 運営ができなくなるその時点が! 運営しなければいいのです. 何をそんなにしきりにしようとするのですか, それを集めて! この話をしたら私はひどい悪口を浴びせられましたが!
「ならば私が聖書に出てくる十一献金の内容が何であるかを説明してあげる」と言っても, また(聞きに)来もしません. それでおいては外で, 老会(ノフェ)で, 総会で「あの人をクビにしろ」と言っている。私たちの教会が少し人数が多くなってきたからクビにもできず, 今はそうしているのですが, いや, 話し合おうということです, 私は! ならば十一献金とは何なのか? あなたたちが, いや, この教会の歴史が今まで堅持してきた十一献金が, 一体どのような歴史的背景を持って今まで来ているのかについて一度討論してみよう! ところが彼らも後ろめたいのです. 自分たちもよく分かっていないのですよ, 実際! だから来もしないのです.
そんなものはありません. 何の十一献金がありますか? 今やお前たちの全存在をすべてくれと言っているのに, 神様は! 「おい, お前たちのものを全部出せ!」と言っているのに… 十一献金をポイと出して「これさえすれば残りは私のもの!」というのは悪党たちです. それが何かの拍子に「ロックフェラーが十一献金を計算する会社を一つ置いた」ということを(例に挙げて)! それで福を受けたと? とんでもない話です.
私は子供の頃から本当に十一献金をただの一銭もごまかしたことがありません, 30年間! なのにこんな有様になりました. あのロックフェラーどころか, あのロックフェラーは? だから金持ちになったのではありません. イエスを信じると言う奴も、このように律法で自分を立派に飾り立ててどれほど悪くなれるかを見せたのがロックフェラーの人生です. あの人がどれほど悪党だったかよくご存知ないのですか? 今もそのロックフェラー財団が全世界を牛耳っています.
その中に入っているその件は, 説教時間の例話ではなく「悪魔の姿はこのようなものだ!」を説明する例話にならなければならないのです. そんなものに騙されないでください. ただ熱心に神様の前で毎日毎日死ねばいいのです.
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(01) - 유월절1 (레23:5)
(레위기 23:5)
5 첫째 달 열 나흗날 저녁은 여호와의 유월절이요
자, 첫째 달 열 나흗날! 여기 첫째 달이라는 건, 그 히브리력(曆)을 말하는 거죠. 그래서 그 히브리 사람들이 애굽에서 쓸 때의 달력이, 민간력(民間曆)이라고 있어요. 그게 그 히브리 사람들! 그 히브리력하고 7개월 차이가 나거든요.
그런데 그것도 오늘날 우리 양력하고는 또 달라요. 그래서 그 이 히브리 사람들의 정월이, 6월이라고 하면, 거기에서 이제 성경을 보면, 정월, 일월, 막 그러는데, 막 달이 좀 이렇게 막 헷갈리는 그런 경우가 많죠. 그게 히브리력이거든요. 그래서 민간력, 애굽의 민간력이 7월 달이면, 이제 히브리 사람들이 1월이고, 그걸 우리 양력으로 따지면, 3월과 4월 사이 정도 되죠. 그건 몰라도 돼요 그런 게 있다고 보시면 되는데, 굳이 여러분이 알아두셔야 될 것은, 그 이 히브리 사람들 민간력 1월은, 봄이다 생각하시면 돼요. 봄!
그리고 이스라엘의 그 일곱 절기가 있죠? 유월절! 처음에 1월 14일 15일이, 무교절이에요 그리고 16일이 초실절이죠? 그리고 그로부터 50일 후가 오순절, 맥추절이라고도 하죠. 칠칠절이라고도 하고, 왜냐하면 칠칠이 49! 50일째 되는 날이기 때문에! 그리고 고 다음에 뭐, 나팔절이 있고, 속죄일이 있고, 그 다음에 장막절! 이렇게 해서 일곱 절기가 있는데,
앞에 그 1월, 정월! 그러니까 14, 15, 16, 초실절까지가 봄 절기고, 이제 그 맥추절, 오순절, 고 때가 이제 여름이에요. 여름! 여름 절기고. 7월, 그 속죄일! 그리고 나팔절, 장막절이 이제 가을 절기에요. 그리고 겨울은, 항상 안식(安息)을 상징하는 거예요 안식! 그래서 이 절기가 뭐냐 하면? 다 그 예수 그리스도의 생애를 담고 있어요.
그래서 바울이 골로새서나 뭐 여러 군데, 갈라디아서에서도 그렇고, 그 절기는, 월삭이나 이런 것들은 다, 오는, 오실 것의 그림자였고, 그 몸은 뭐라 그러죠? 그리스도다 이러죠? 그런데 아직까지 너희가 절기를 지키고 있냐? 이렇게 이야기하잖아요?
그런데 이제 초대교회 때도 그런 일들이 있었다는 거죠. 그래서 ‘야, 우리가 1,500년 동안 지킨 건데…,’ 모세 때 주셨으니까, 모세는 BC 1,500년 전 사람이잖아요? 그러니까 1,500년 동안 지켰는데, ‘야, 예수님이 십자가 지셨다고 한 번에 다 없애 버리면 어떡하냐?’ 그렇게 갈라디아 교회가, 여러 초대교회에, 그 유대에, 유대주의를 갖고 있는, 여전히 갖고 있는, 그런 자칭 그리스도인들이 와서, 거짓교사들이죠? 그러니까 율법을 지켜야 된다고 가르친 거죠.
그래서 바울이 화가 나서, ‘그건 다른 복음이다!’ 그랬어요. 그리고 ‘어떻게 너희들은, 내가 그렇게 오랫동안 가르쳤는데, 다른 복음은 그렇게 쉽게들 받아들이느냐?’ 왜 쉽게 받아드리느냐면, 다른 복음이라는 게, 인간들의 어떤 이 행위! 그리고 인간들에 어떤 자존심! 이런 것들을 부추겨주는 것이기 때문에, 사람들은 당연히 다른 복음을 잘 받아드리게 되어 있어요.
인간들의 복을 강조해준다거나, 아니면, 인간들에 행위를 가치 있게 자꾸 여겨주면, 왜냐면? ‘너희들이 지금 지키는 것이, 그게 가치가 되어, 하나님 앞에 드려짐으로 말미암아, 하나님이 거기에 대한 반대급부로 너에게 복을 주는 거야!’ 이렇게 가르치니까, 인간들이 뭐가 폼이 나잖아요? 그런데 아무것도 너희들 거는 안 받는다 그러고, 그냥 오직 은혜로, 창세전에 이미 택한 자들이 이 땅에 와서 뭔가를 그냥 배우고 가는 거야! 이렇게 가르치면, ‘그럼 우리는 뭐야?’ 이렇게 되는 거죠.
그런데 성경은 분명, 인간들의, 모든 인간을 포함한 존재의, 그 자체! 그 존재가 목적이 아니라! 인간들의 그 존재목적은, 약속을 위해 창조된 거라고 이야기를 한다 말이에요. 성경은! 그러니까 그 말은 무슨 말이냐 하면, 하나님의 그 창세전 언약이라는 게 있죠? ‘내가 내 나라에서 데리고 살 존재들! 원래 하나님은, 하나님나라가 필요 없어요. 영이시기 때문에!
그런데 하나님이 나라를 만드셨다는 건, 하나님 이외에 어떤 존재들을 같이 데리고 사시기로 결정하셨다는 뜻이란 말이에요 그래서 창세기 1장 1절이, ‘태초에 하나님이 천지를 창조하셨다. 하늘들을 창조하셨다.’ 그러죠? 거기에 하나가, 하나님나라에요. 그게! 예, 이게 육안으로 보는 대기권의 하늘도 그 안에 포함이 되고, 또 3층천이라고 일컬어지는 하나님나라! 거기에 바울이 올라가서, 자기가 거기 살고 있는걸 보고 왔죠?
‘아! 그거 정말 한번 봤으면 좋겠어요. 아이고, 지금도 불안해서 말이죠, 이렇게 죽도록 고생하는데…, 가니까 없어! 그럼 어떻게? 그러니까 한번 보고 싶은데! 그거 보면, 아! 무슨 그 어떤 고난도 견딜 수 있을 거 같은데…. 아이, 지금 불안해요. 사실은!
그 하늘이에요. 그 하늘에, 창세전 언약 안에서. 그 하늘이 이미 이렇게 확정이 된 거라 말이에요. 그러면 이미 확정이 됐으면, 뭐 하러 이 역사와 인생이 필요하냐 말이에요 이건 없어도 되는 거예요. 여기는요! 그냥 거기가 끝이거든요! 거기가 처음이자 끝이에요. 영원이라는 건, 그 개념 자체가, 과거와 현재와 미래가 통합된 그런 영역이거든요. 그러니까 거기는 하루가 천 년 같고, 천 년이 하루 같다. 그러는 거예요
그런데 이 역사가, 왜 이 순서와 기다림이라는 것이 있는 이 역사가, 왜 존재해야 되느냐? 그게 바로 하나님의 약속이 어떤 것이며, 그리고 하나님의 은혜의 풍성함이 어떤 것인지를, 세상에 알리고, 우리에게 가르쳐 주기 위함이라고 바울이 이야기하잖아요? 그죠? 에베소서에도 보면, ‘너희들이 은혜로 구원을 얻은 것이라!’ 왜? ‘그리스도의, 하나님의 그 은혜의 풍성함을, 길이 전하게 하기 위하여’예요.
그러면 우리의 삶에 목적이라는 건, 하나님이 어떤 분이시며, 하나님의 은혜가 가입하지 않았을 때, 피조물이라는 존재는 어떤 존재인지를, 그러니까 세상에 이렇게 그려내는 도구란 말이에요. 인간이라는 것 자체가!
그러니까 인본주의는 벌써 여기서부터 막히는 거예요. 무슨 말이냐 말이에요? ‘그러면 인간은 뭐냐?’ 이렇게 나오는 거죠 그러니까 휴머니즘이라는 게, 굉장히 뭐 이렇게 좋은…, 여러분의 그 눈물샘과 감성을 자극하는 이런 단어잖아요? 이 휴머니즘! 그러면 괜히 그냥 가슴이 뭉클해지고 그러잖아요? 휴머니즘이라는 그 말! 단어! 인본주의라는 그 단어 자체가, 성경에 나오는 하나님의 복음과 완전히 대척점에 있는 단어에요. 그건!
그러니까 우리에게서, 성도에게서, 어떤 이렇게 핍박받고, 또 가난하고, 연약하고, 이러한 존재들에 대해서, 연민의 마음! 안타까운 마음! 사랑하고 싶은 마음! 이런 것이 당연히 들어야 돼요 성도에게서는! 왜냐 하면? 성도는, 그 안에 성령을 모시고 사는, 성령에게 장악되어 사는 사람이기 때문에! 모든 인간들에게 보편적으로 있는 그런 감정들은, 바로 하나님의 속성들이 요만큼씩 들어나 있는 거거든요. 그게 인간 것이 아니란 말이에요 원래가!
그러니까 우리가 그런 것들을 보면, 정말 이렇게 약한 사람들이 강한 자들에게 막 이렇게 핍박받고 억압 받으면서도, 아무 할 말 없이 눈물만 뚝뚝 흘리고 있는 거! 이런 거 보면, 막 눈물이 나고, 울분이 치솟아 오르잖아요? 아, 그 같이 이렇게 대항이라도 하고 이러면 그냥 괜찮은데, 대항도 못하고, 누르면 누르는 대로, 때리면 때리는 대로, 속으면 속이면 속이는 대로, 그냥 속아주면서, 그런 연약한 사람들! 그런데 그거를, 끊임없이 반성이나 후회나 회개도 없이, 계속해서 자행하고 있는 어떤 그런 것들을 봤을 때, 우리 안에 막, 연민과 불쌍한 마음과, 그리고 또 울분과 의분 같은 게 생기잖아요? 당연한 거거든요.
왜냐 하면, 그 하나님나라의 삶의 원리라는 게, 그렇게 힘의 원리로, 강한 자가 약한 자를 억압하면서 살도록 되어 있지 않아요. 하나님나라라는 곳이! 하나님이라는 분, 자체가! 이 천지 만물 중 가장 강하신 분이 가장 약한 곳으로 오셔서, 가장 약한, 죽어야 할, 우리 앞에 찬송가 불렀었지만, I must die! 나는 아주 죽어야만 했던 자였는데, 하나님이 나를 당신의 죽음으로 살려내는 게, 하나님나라의 삶의 원리이며, 이게 하나님의 속성이란 말입니다.
그러니까 하나님의 그 성령을 품은 우리에게서, 당연히 그러한 것에 대한 이 반발과 울분 같은 게 생겨나는 게 당연하죠! 그리고 그러한 이들을 위해, 정말 이 한 몸 불살라, 그들에게 정말 하나님나라를 전해야 되겠다는 이런 마음이 드는 게 맞아요.
난 답답한 게, 이렇게 은혜(恩惠)를 설교를 하면, ‘우리 목사님이 아무것도 하지 말라 그랬어.’ 이래갖고 뭐 아무 것도 안 하는 인간들이 있죠? 심지어, 일 년에 한 번씩 가난한 사람들을 위해서, 뭐 이렇게 먹거리를 마련해서 하던 행사! 이런 것들을 그만 둔 사람이 있다 그래요 그 왜 그만뒀냐? 그랬더니, ‘아이, 그 뭐 목사님이 그런 거 다 그냥, 다 자기 의(義) 쌓는 거라 그래서, 그만 뒀다고 그래요. 그 사람은 그만 두는 게 다행이에요. 사실은!
그 동안에, 자기가 그 일을 한 거는, 하기 싫은데 억지로 한 거죠? 응 아니면 그걸 함으로 해서 내가 얼마나 괜찮은 사람인지를, 내 스스로 나를 칭찬해 주면서, 내가 만족하고, 다른 이들이 나를 이렇게 칭찬해 주는, 그 나의 가치를 인정해 주는 것을 즐긴 것이지, 그건 진짜 선한 게 아니었어요.
만약에 그게 진짜, 그 안에 있는 성령에 의해 행해진 일이었다면, 목사가 무슨 말을 해도, 그 일은 행해져야 되죠? 왜 하나님이 하셨던 일이니까! 근데 목사가 은혜에 대해서 설명을 했다 그래서, 자기 의 같은 거, 이런 것들은 절대로, 하나님 앞에서 카운트가 안 된다고 이야기를 했다고 해서, 홀랑 그만 둬버리는 건, 그 동안 하기 싫은 거 억지로 했다는 거 아닙니까? 그걸 의(義)라 그래요. 자기 의(義)! 그게 하나님 앞에서 죄를 쌓는 거거든요
오히려 근데 이스라엘에, 그 전도서 1장 8절 9절에 보면, 해 아래 새 거 없다 그러죠? 우리가 지금 행하는 게 벌써 과거에 있었고, 장래에 그 사람들이 우리 것을 볼 것이다. 그러잖아요? 이 역사는 끊임없이 똑같은 일을 반복한다는 뜻이에요. 그건, 그게 무슨 어떤 일을 반복하느냐면, 인간들에 가치 챙기기 이런 아담과 하와가 선악과 따먹을 때부터 시작된 거거든요.
그렇잖아요? ‘내가 왜 하나님에 말만 들어야 돼요? 나도 내가 내 힘과 의지를 발동하여, 그리고 나에 선악구조를 갖고, 내가 선악을 분별하여, 나도 가치 있는 삶을 살겠어요.’가 이게, 선악과 사건이었잖아요? 그러니까 거기서부터 이 인류의 역사는, 뒤틀려 진거란 말입니다. 그리고 하나님이 그렇게 의도하여 만들어 놓은 거예요.
그러면 선악과를 가장 보기 쉽고, 그리고 가장 먹음직하게 만들어 놓은 거예요. 먹으라는 것입니다. 먹고, 너희들이 어떤 존재인지, 한번, 이 역사 속에서 경험해 보라는 거예요. 그래서 그것들을 갖다가 인제 역사에 쭉 펼쳐 내는 게, 아브라함부터 시작해서, 아브라함에서 시작된 이스라엘! 그리고 그 이스라엘! 그 영적 이스라엘의 실체인 교회! 우리란 말이에요 그러니까 그게 구약과 신약 전체의 이야기예요.
그러니까 ‘예수에 은혜가 없으면, 너희들은 어떻게 쓰레기일 수밖에 없는가?’가 바로, 이 역사의 존재 목적이며, 우리의 존재 목적이란 말입니다.
그러니까 그러한 어떤 이 행위! 이 세상에서 행해지는, 구제나 선행이나 이런 것들이, 나쁘다는 게 아니라, 그런 게 인간들의 가치를 챙겨주고, ‘야! 우리끼리도 이렇게 서로 서로 도우면서, 서로 서로 이렇게 서로를 불쌍히 여기고 사랑하면서, 이렇게 하나님 없이도 잘 살 수 있다.’라는 이런 바벨탑을 구축하는 걸, 성도는 반드시 경계해야 된다는 것이지, 그런 어떤 행위를 그만둬야 된다는 뜻이 아닙니다.
여러분! 반드시 그건 우리 삶 속에서 나와야 돼요. 왜냐하면? 그게 천국의 삶이거든요. 성도는 하나님나라에서 살게 되는 하나님나라 백성의 그 삶을, 추구하며 지향해야 돼요.
그런데 그럼에도 불구하고, ‘하나님에 은혜가 가입하지 않았을 때, 내 삶속에서 그런 게 나오지 않는 것을, 역사 속에서 경험하면서, 하나님이 나를 십자가에서 죽이고, 하나님 뜻대로, 하나님에 능력으로, 새롭게 완성하시지 않으면 큰일 날 뻔 했구나!’를 우리가 여기서 배우는 거란 말이에요
그래서 이스라엘이라는 그런 한 민족이 필요했던 거고, 그들을 통하여 이제 교회가 무엇이며, 하나님의, 그 예수 그리스도의, 은혜가 무엇인지가 이제 설명되는 거라 말이에요 그러니까 이스라엘은, 교회의 모형임과 동시에, 예수가 어떻게 이 세상을 살 것인가에 대한 모형이기도 했어요. 그래서 하나님께서, 이스라엘을 내 장자라고 이야기하죠? 출애굽기에서! 그리고 사도 바울은 또 ‘예수님이 맏아들이다!’ 그러잖아요? ‘장자다!’ 그러죠? 뿐만 아니라 성경은 우리를 또 아들이라 그래요 장자라 그래요 또!
그러니까 이런 것들을 잘 이해하지 않고, 구약과 신약을 보게 되면, 다분히 우리는 성경을, 도덕적이고 윤리적인 것으로만 보게 된다 말이에요. 도덕책, 윤리책, 이건 지켜야 될 거! 이건 말아야 될 거! 이런 식으로 보게 된다 말입니다. 그건 아니라는 거죠.
그러니까 사도 바울도 그렇게 경계한, 모든 절기는, 이 레위기 23장에 나오는 그 모든 절기가 다 예수에 대한 것이었다고 굳이 그렇게 여러 차례 와서 설명한 건, 너희들이 지금도 절기를 지킨다면, 예수의 죽음을 헛되이 만드는 것이라고까지 이야기를 한 건, 인간들이 그런 어떤 행위를 통하여 거기 안에서 예수를 발견하지 않고, 그러한 행위로 또다시 자기들에 어떤 가치를 챙겨갈려고 하는 거! 이게 바리세인이었잖아요? 그걸 경고한 거거든요.
그런데 오늘날도 어때요? 뭐 칠칠절! 초막절! 유대인들은 지금도 다 지키지만, 이런 식으로 이름은 안 붙였지만, 부활절! 추수감사절! 성탄절! 고난주간! 이런 식으로 인간들이 또 다 만들어 갖고, 다시 지켜내고 있죠?
여러분 이걸 왜 지키는 거예요 지금? 예수님이 이미 실체가 오셔서, 그 모든 걸, 절기와 월삭을 다 완성하셨다 그랬어요. 그래서 이제 예수라는 그 실체를 받은 자는, 이제 예수를 기념하면 되는 거거든요. 그런데 그거는 우리가 매 순간 해야 될 일이지, 어떤 절기를 정해서 그렇게 해야 될 게 아니란 말입니다.
그런데 그게 왜 슬그머니 생겨났냐면? 뭐 사순절 같은 거요! 고난주간! 여러분 그건 로만 캐톨릭이 하던 거거든요. 원래가! 왜냐하면? 그 로마 캐톨릭은 인간의 행위들을 굉장히 가치 있게 쳐줘요. 그래서 사람이 죽으면요, 죄를 많이 짓고 죽어도, 연도 미사 같은 걸 드리잖아요, 연이어 드리는 기도란 뜻이에요. 돈 꽤들어갑니다. 그거 드리는데, 그거 하는데, 수백만 원씩 내야 돼요. 연도미사 드릴 때!
그 연도미사를 통하여, 누구에게 읍소를 하냐면? 성자들 있죠? 성인들! 응 성 프란치스코! 뭐 성 베드로! 이런 성인들 있잖아요? 로만 캐톨릭이 인정한 성인들! 그들이 한 3천 명 정도 된다, 그러는데, 이미 천국에 가 있는 그들에게, 연도미사가 올려지죠? 그러면 그 성인들이, 청와대에 들어가기 전에 이제 고 청와대 앞마당에 계신, 마리아에게, 또 그렇게 부탁을 하는 거죠. 그 마리어들러지가 생긴 거예요
그러면 그 왜 마리아에게 그렇게 부탁을 하냐면? 예수님 어머니잖아요? 마리아가! 그러니까 아무래도 엄마가, 아들한테, ‘야! 걔 좀 어떻게 좀…’ 이게 무슨 청탁하는 거예요? 그래서 그들이 어떤 선조 림보나 이런데 연옥에 들어가 있다가, 이 아래에서, 그 행하는 이 공덕(功德)! 응, 이런 것들로, ‘그들이 지옥에 갈 수도 있었는데, 천국에도 갈 수 있다’는 이런 인간들에 행위가, 이게 유대교거거든요. 유대교가 그대로 로마 캐톨릭이 된 거죠.
여기에서 다시, ‘아니다! 원래 폼! 기독교로 돌아가자!’가 튀어 나온 게 리폼드(reformed), 개혁교회란 말이에요. 이것이! 원래의 줄기에서 뭐가 돌연변이가 튀어 나온 게, 개혁교회가 아니라, 유대주의! 유대교로부터, 이 벌써 왜곡되어 있는 이 틀에서, ‘원래의 폼으로 돌아가자!’가 리폼이라니깐요.
그런데 지금은 모든 게 다, 우리가 이제 내일 사사기에서, 이제 레위사람과, 그 에브라임 사람 중에 그 미가라는 사람을 살펴볼 텐데…. 거기 그대로 나와요 그러니까 왜 이런 행위들을, 오늘날도 이렇게 지키고 행하고 진짜 법석들을 떠느냐면, 일단은 인간들이 그러한 행위를 이렇게 부추겨 주면, 고런 절기 때 이외의 다른 삶이, 이제 열심히 죄 짓다가 고 때 한 번에 그냥 왕창 헌금도 하고, 그리고 기념하고, 큰 행사를 함으로 해서, 거기서 이제 자기들의 그런 불안함과, 더러움과, 이런 것들을 상쇄시키려고 하는 거죠. 그래서 될 수 있으면 행사를 크게 벌리는 거예요. 그래서 막 연합예배 같은 것도 하고!
예전에는요, 제가 어렸을 때만 해도, 부활주일 같은 때에는, 하얀 옷을 전부 입고, 그리고 같이 새벽에 모였었어요. 다 하얀 옷을 입었어야 했어요. 뭐하는 짓이에요? 그게? 귀신 나오게! 밤에 그걸 말이죠? 그리고 그때에, 성탄절, 부활절, 추수감사절, 요런 몇 가지 고 절기 동안에, 교회 일 년 예산에 상당한 30프로 이상 헌금이 거기서 걷혀요
그러니까 그래서 여러분 그 어 신학교에서 웃지 못 할 이야기지만, 헌금 개발론이라는 그런 강의가 있어요. 그리고 책도 있습니다. 헌금개발론! 그러니까 목회자들 사무실에 들어가 보면, 그런 책들이 한두 권씩 있어요. 헌금개발론 해서! 그리고 어떤 책은, 진짜 원색적으로, 양들은 수시로 털을 깎아 줘야 건강하다. 이렇게 수시로 이렇게 돈을 좀 걷어줘야, 건강한 신앙생활을 한다는 거죠. 그런 책 제목이 있어요. 그리고 그런 데에 아주 큰 재주를 발휘하는 사람들이, 부흥사들이 되는 거죠.
저희 교회에서 특별히 그런 절기들을 이렇게 안 지킨다고 해서, ‘참 목사님 목회 독특하게 한다.’ 그러고 교회 나가는 사람들이 많이 있어요. 왜 그런 것들을 교회력! 교회의 역사가, 교회력으로 그렇게 정해 놓은 것들을, 소홀히 하고 무시하느냐? 여러분 교회의 역사라는 거 자체가, 욕망하는 인간들이 토해 놓은 배설물과 같은 것이지, 그것 자체가, 무슨 대단한 게 아니에요.
결국 목사들! 그 설교들을 왕창 까가지고, 일약 스타가 된 정용석이라는 사람이 있는데, 그 사람은 교회력대로 설교를 하지 않는 사람은, 다 마귀로 취급을 해요. 아주 작살을 내요! 박영선 목사도 그래서 박살이 났는데, 강해설교 한다고! 그러니까 무슨 교회력대로 설교를 하는 이재철이나, 뭐 감리교 목사들 대부분 다, 교회력대로 설교하거든요. 고난주간에 고난이 들어가는 설교! 그러니까 강해 설교를 할 수가 없어요. 그 사람들이! 항상 거기에 막히기 때문에!
그러니까 그 사람의 그 설교 평을 보면, 완전히 자기가, 그 사람이 성결교 목사니까, 거기에 대해서 공부를 했으니까, 감리교 사람이에요 그 사람은! 그러니까 그 교회력에 꽉 묶여 가지고, 그 절기를 따라서 사람들에게…, 그건 이 사도바울의 이 복음! 그 서신서 자체를, 본인이 무시하고 들어가는 거예요. 그런데 이 무식한 인간들이, 그걸 그냥 그 사람들이, 그 사람을 막 뭐 큰 교회 목사들을 막 까니까. 야, 이게 옳은 거다 싶어 가지고! 그 사람이 잘못된 거예요 그래서 인제 부자 만들어 줬죠. 책 많이 사줘서!
천만에 말씀입니다. 그건 전부 이 인본주의적, 그 왜곡된 교회가 토해내어 놓은 배설물이, 교회력이에요. 사순절은, 마틴 루터가, 목숨 걸고 없애버린 거였어요. 그땐 돼지고기도 먹으면 안 돼! 그래서 아니, 왜 여태까지 이렇게 율법을, 우리가 율법에 매어 있어야 되냐? 아니지 않느냐? 그래서 루터가 목숨 걸고 없애버린 건데. 그냥 지내기가 너무 심심하니까, 어느 때부터 또 슬금슬금 생겨서, 다시 또 사순절이라는 게 생겼어요.
그래서 뭐 신학교에서도, 그 미국 교수님들도, 사순절 기간 동안에는 주스만 마셔요. 금식을 한다고! 그래서 난 그 동안 그 기간 동안에는, 신학교에서 점심도 제대로 못 사먹었어요. 눈치보여가지고! 아니 교수님들이 주스만 마시는데! 아니면 아예 먹지를 말든가! 주스에 그냥 온갖 그 영양을, 뭐 당근 뭐 파세리 이런 걸 다 넣어가지고! 아니 그거 하나만 먹어도 배부르겠다고만! 그래놓고 그걸 지켰다는 거예요 사순절 동안에! 그거 왜 그러는 거예요? 나는 뭘 했다는 거죠? 나는 교인들, 이 시대에 교회로서, 하나님 앞에 뭘 했다는 걸 지금 보여주고 싶어서 쇼를 하는 거예요.
성탄절? 예수님이 언제 태어났는지 성경에 기록되어 있습니까? 없어요. 스코틀랜드 교회에서는, 3월 달에 지키기도 했고! 원래 12월 25일은, 로마 태양신! 그 미추라를 로마가 섬겼잖아요? 그 태양신을 섬기던 그 잔칫날이었어요. 그런데 로마가, 이 옛 그리스도교를 기독교를 받아들이기로 하면서, ‘야! 그냥 원래 우리 잔치하던 날 그날 그냥 성탄절로 하자!’ 해서 만든 게, 크리스마스에요. 그럼 그 날 그렇게 꼭 부산을 떨어야 되냐고요?
부활절? 여러분 부활절이 뭡니까? 내 안에 이미 예수가 살아 계시다면서요? 응 일 년 365일 부활하신 예수가 내 안에 있는데, 뭘 하루 그렇게 절기를 정해가지고, 계란 삶고 왜 난리를 치냐고요? 다른 날은, 예수께서 오신 그 의미! 또 예수께서 나를 위해 고난당하시고 죽으셨다는 그 의미! 그리고 우리에게 주어진 게 모든 것이, 하나님에 은혜라는 그러한 감사에 의미!
그리고 예수님이 왜 어떻게 부활하셨는가? 그리고 그분이 지금 부활하셔서 어디 계신가에 대한 것들을, 생각하지도 않고, 고민하지도 않으니까, 절기 몇 개 정해놓고, 부산을 떠는 거죠. 그리고 교회에 입장에서는, 헌금 많이 나오니까 좋은 거고! 그래서 그 전주부터 그냥 봉투를 아주 아름답게 꾸며서, 주보에 넣어 주죠. 다음 주 잊지 말라고! 봉투가 달라요 절기 때 주는 헌금 봉투는!
절기는, 예수 그리스도를 설명하는 거예요 그 첫 번째 절기가 뭐라 그랬어요? 유월절이라 그랬죠? 유월절이, 음, 유월절을 지키라고 하시면서, 하나님께서, ‘그 달을 첫 달로 삼아라!’ 그랬어요. 그래서 유대력이 생긴 거예요 그 전까지는 민간력이었어요. 그날! 그 날이 7월 달이었어요 민간력으로!
왜 첫 달을 삼으라고 하냐면? 새 시대가 열린다는 의미에요 그것이! 이미 출애굽기에서 하나님은, 신약의 새 시대! 교회의 탄생을 미리 상징적으로 예고하시는 거예요 그래서 첫 달을 삼아라고 이야기하는 거예요 이제 새 시대가 시작된다.
근데 유월절이 어떤 날이냐면? 애굽의 모든 장자가 죽는 날이에요. 장자가 죽는다는 건, 가문의 씨를 말리겠다는 뜻인 것이죠? 그래서 장자는, 항상 남자를 대표하는 존재였고, 남자는, 한 가정을 대표하는 존재였기 때문에, 장자! 그러면, 전체를 이야기하는 거예요. 그러니까 애굽! 세상을 상징하는 애굽을 다 죽이겠다는 뜻이에요
그런데, 이스라엘은 다 살린다가 아니었어요. 어린 양에 피를 인방과 문설주에 바른 그 자들만, 살린다, 그랬어요. 그러니까 이스라엘 사람들 중에서도, 그 소리 못 들어서, 이 피 못 바른 사람은, 다 죽었어요. 그러니까 진짜 이스라엘! 하나님의 백성은 누구라는 뜻이에요? 어린양에 피의 의미를 알고, ‘그 피가 나를 살렸습니다!’를 아는 그들이, 이스라엘! 내 백성이다. 그들만 나가라는 뜻이거든요.
그런데 잘 생각해 보시면, 인방과 문설주에 피를 안 바르면 다 죽이겠다는 뜻은, 그 어린양의 피가 아니면, 이스라엘도 똑같이, 애굽과 하나도 다를 바가 없는 자들이라는 선언이죠? 응? 그러니까 피를 안 바른, 애굽사람 중에서도, 피 바른 사람 다 살았어요. 그래서 중다한 잡족(雜族)들이 같이 나오는 거예요.
그러니까 이스라엘이 뭐가 잘나서, 하나님이 그들을 택한 게 아니라, 이미 400년 전에, 아브라함에게 약속한 약속이 있었기 때문에, 하나님께서 그들에게 찾아가셔서, 왕조를 바꾸시고, 힉소스 왕조였었잖아요? 원래가! 요셉 때에는 애굽의 원래 왕조가, 힉소스 왕조에게 점령을 당했어요. 그죠? 그 힉소스 왕조가 원래 애굽 정통사람들이 아니라, 이방인이었기 때문에, 요셉이라는 이방인을 총리로 쓸 수 있었던 거예요. 아니면 어림도 없죠. 어떻게 이방인이 와서 총리가 됩니까?
그런데 그 왕조가 바뀌고, 요셉을 기억하지 못하는, 정통 바로의 왕조가 들어오자, 이 이스라엘 사람들이 완전히 천덕꾸러기가 된 거예요. 이제 이방인이잖아요? 그때부터는! 하나님이 그렇게 만드신 거라니깐요. 만드셔서, 바로에게 그들을, 그 힘들게 만들, 강퍅케 하셨다 그러죠? 하나님께서 그렇게 만들어서, 이제 내 약속을, 내가 아브라함! 내 종 아브라함에게 한 약속을, 내가 이제 펼쳐 나가야 될 텐데… 그러기 위해서는 너희들이 지금 고난을 좀 당해야 되겠다고 하나님이 역할을 부여하신 거예요.
그 요셉 때 살다간 사람들 호강하다 갔어요. 고센 땅이 애굽에서 제일 훌륭한 땅이었어요. 그런데 같은 이스라엘인데, 모세 때에, 이스라엘은 완전히 개고생을 했다 말입니다. 그렇게 하나님은, 이 세상에, 그냥 역사! 당신의 약속과 언약을 펼치는 데에, 역사 속에서 펼치는 데에, 필요한 도구로, 사람들을, 피조물을, 그냥 들어 쓰는 거예요.
거지 나사로 같은 사람! 뭘 잘못해서 거지가 된 게 아니에요. 눈먼 소경? 날 때부터 눈먼 소경! 뭐가 죄가 있어서 그런 거 아니라 그러잖아요? 왜? 눈먼 소경은, 날 때부터 소경이었던, 우리 이 전 인류가, 예수님에 희생! 흙이, 침에 이겨져서 눈에 발라지고, 요단에 가서 씻기므로, 예수가 죽음으로 말미암아, 이게 눈을 뜨게 된다는 그걸, 설명하기 위해 ,소경이 된 거고! 나사로는? 이 세상에서 거지처럼 산다, 산다고 해도, 진짜 복 받은 자는, 이 세상에서 거지처럼 살 수도 있지만, 그들에겐 천국이 약속되어 있다고 보여주는 자로, 역할을 맡아서 나온 거라 말입니다.
그러니까 우리는 각자의 그 역할을 살다가 가는 거예요. 목사는 뭐가 잘나서 목사가 되는 거 아니고! 무슨 뭐 장로는, 뭐 뭐가 뛰어나서 장로가 되는 게 아니라, 그 역할을 수행하면서! 목사나 장로 중에서도 마귀새끼들 많아요. 이런 마귀새끼들까지도, 이렇게 교회에 중직에 올라서, 마귀 천하를 만드는, 이런 세상 속에서, 너희들이 어떻게 너희들끼리 놔두면, 어떻게 될 뻔했니? 그거 가르쳐 주기 위해서, 각자의 역할들을 맡기는 거라 말입니다. 그리고 여러분은, 그러한 역할을 그냥 충실히 수행하다가 가시면 되는 거예요
그러니까 저 사람은 분명히 구원받은 사람이야! 저 사람은 분명히 유기된 사람이야! 이런 거 여러분이 판단하시면 안 돼요. 하나님이 그렇게 살다 가게 하시고 죽는 날까지 강도짓만 하게 하시다가 막판 뒤집기로…. 사람들이 얼마나 그 사람을 조롱했을까요? ‘저 나쁜 새끼! 저거 죽을 때까지 강도짓만 하다가…. 야! 마지막까지 저렇게 비열하게 자기만 살겠다고, 당신의 나라 임할 때 나를 기억해라! 저걸 막 찢어 죽이자!’ 이랬을 거 아닙니까?
그런데 그 사람 그날, 천국 갔다니깐요. 우리의 선악구조로, 우리의 상식으로, 사람들 판단하지 마시란 말입니다. ‘누구는 어 저렇게 착하게 사는데! 누구는 저렇게 개혁을 외치고 있고! 누구는 저렇게 깨끗하고! 누구는 또 저렇게 더럽고!’ 그 사람에게 하나님이, 그 역할을 맡길 수 있다니깐요.
심지어 어떤 사람은 자살을 했는데! 성경에 자살하면 지옥 간다는 그런, 하나님에 말씀이 기록 되어 있습니까? 그 사람은 그냥 그렇게, ‘자살하고 와!’라고 하나님이 역할 맡겨서, 그렇게 살다가 간 사람일 수 있어요. 그 사람이 하나님에 택한 백성이면, 그 역할 마치고 그냥 천국 가는 거고, 아니면 지옥 가는 거예요. 그런데 그 일 때문에 가는 거 아니라니깐요.
마찬가지에요 무슨 동성애! 뭐, 내일 그 국가기도집회만 가면, 하여튼 그 동성애자들이, 항상 그 토론과 논란에 주제가 되는데…! 아니 동성애가 더 나빠요? 살인이 나빠요? 동성애가 나빠요? 살인이 나빠요? 살인이 더 추악한 죄잖아요? 더러운 죄!
그런데 성경은 형제를 사랑하지 않는 게, 살인이다! 그랬으면, 우리는 매일 살인하고 있으면서, 그 사람들이 그 동성애자라고 해서, 함부로 교회도 못 오게 하고, ‘저 사람들은 분명히 지옥 갈 거야! 저 저주받은 사람들이야!’ 이렇게 말할 수 있냐고요?
하도 그냥, 뭐 그런 걸 갖고, 이 더러운 악의, 이 악령이 지배하는 이 국가에서 더 이상 살기 싫다는 둥, 막 이런 식으로 얘기를 해요. 세미나를 하면은! ‘아, 정말 너나 잘 하세요!’ 아니, 우리의 삶 속에서, 우리가 진짜 끊지 못하는 게, 그 동성애 하나뿐이에요? 그 사람들 그거 진짜 좋아서 그렇게 하겠습니까? 얼마나 본인들은, ‘왜 도대체 나는 이렇게 태어났는가?’에 대해서, 얼마나 고민하겠어요?
마찬가지에요. 술 담배 하나 제대로 못 끊는 인간들이, 그 사람들을 오히려 욕하고 앉아 있다구요. 우리가 못 끊는 게 그거 하나밖에 없냐고요? 아니라니깐요. 우리는, 더 더러운 죄인들이에요. 그런 모습들은 다 우리 안에 들어있는 것들이지, 우리 보고, 우리의 선악구조 갖고 판단하고 정죄하여, 너희들은 깨끗한 사람이라는 거, 챙겨가지라고 우리에게 주는 거 아니라니깐요.
그럼에도 불구하고, 그냥 그 잘난 인간들이 많아서 말이죠? 사람들을 아예! 그럼 누가 오냐고요? 여기에? 교회에 누가 와야 되냐고요? 왜 저기 그 만두교회 거 뭐에요? OO처치 OOO목사가, 이제 이 나성교회로 왔다고 그러는데, 그 분 이혼하면서 그만 둔거거든요. 뭐 한 2천명이나 되고, 난 그분의 설교는 단 한편도 들어본 적이 없기 때문에, 뭐 그 분에 대해서 어떻게 평가를 할 수는 없지만, 그래도 뭐 복음을 잘 전했다고 얘기들 하더라고요.
그리고 제가, 예전에 그분이 하는 무슨 기도원인가? 저쪽에, 거기에 저 있는 우리 교회 청년부 수련회 한다, 그래서, 제가 강사로 갔는데, 어 산속에서 너무 외로웠든지, 그냥 뭐 복분자를 따다가, 막 주스를 해다 만들어 주고, 뭐 친구하자고 막 그러더라고요. 나이도 나보다 7살이나 많은 사람이! 그리고 맨날 전화하고 그래서, 나는 그런 사정을 전혀 몰랐어요.
그런데 나중에 이야기를 하더라고요. 사실은 중국인 아내가 있었는데, 결혼을 했는데, 뭐 자기 엔지니어로 있을 때, 결혼했기 때문에, 목사가 된 이후로 사이가 안 좋아서 이혼했다. 그래서 인제 교회일 그만두고. 그렇게 칩거를 하고 있었는데. 그래도 뭐 그냥 가서 그렇게 사는 거 보니까, 부럽더라고요. 아주 그 기도원 앞에, 무슨 계곡이 흘러서, 거기서 막 낚시, 무슨 숭어에요 틈만 나면 낚시하고!
그리고 또 거기 또 사찰 같은 아이 청년 아이가 하나 있는데, 뭐 그렇게 낚시를 툭 던져갔고, 이렇게 낚시 밥이 없는 것 같으면, 걔가 또 맨발벗고 막 들어가서, 지렁이 막 껴주고 그래요. 아이고, 이거 황제구나! 완전히! 응 흐흐 뭐 밥 때 되면, 밥 차려줘, 공기 좋아, 그리고 뭐 마운틴 바이크를 하나 사가지고, 그 산에 맨날 자전거 타고 오르더라고요.
그래서 ‘야, 쟤는 팔자도 참! 뭐 나 같은 인간도 이렇게 있는데…’ 그래 여기로 왔어요. 왔는데 이혼한 사람이 설교한다고, 아니 나 사람들이 참 나! 이혼한 사람이 여기서 설교 못하면, 이 예배당에 이혼한 사람 한 사람도 오면 안 돼요. 안 그렇습니까? 이혼한 사람이 여기서 설교 못하게 하면, 이 예배당에 이혼한 사람 한사람도 들어오면 안 돼요. 어떻게 감히 들어와요? 여기에!
그건 자꾸 이 목사가 무슨 대단한, 무슨 어떤 능력이나, 이런 걸 갖고 있는 사람이라서, 그 사람 안에 있는 걸, 내놓는다고 생각하니까, 자꾸 그 목사를 바라보는 거예요. 아니, 아니라니깐요. 목사도, 하나님이 그 맡긴 역할에, 그냥 끌려가는 거예요. 진짜 목사는! 무슨 대단한 능력이 있어서 자기 안에 있는 거를, 여러분, 제가 공부하는 거 좋아할 거 같으세요? 책 읽는 건 좋아하지만, 인제는 성경을 펴면, 무슨 얘기를 또 해야 되나 …. 다 했는데, 인제! 아주 머리가 지끈지끈 아파요. 고만 좀 했으면 좋겠어요. 저는요!
그래서 어제도 그냥! ‘아이, 공항으로 확 가서 어디로 가버릴까?’ 허허허. 하루에도 열두 번씩 그런 생각이 들어요. 아니 뭘 얘기를 더하냐고? 창세기부터 계시록까지 다 해줬잖아요? 내가 인제! 더 무슨 얘길 더하냐고? 하나님이 이제 고만 쓰겠다 싶으면, 그때부터 쓰레기에요. 똑같이! 목사도 마찬가집니다. 자기 안에 있는 걸 내놓는 게 아니라, 하나님이 그때, 그때, 당신의 백성! 몇 안 되는 당신에 백성에게 전하고자 하는 걸, 그 입을 통하여 전하게 하고!
그래서 세례요한이, ‘나는 소리다’라고 하는 거예요 소리? 인격체도 아닌 거예요 그냥 소리, 마이크에요. 스피커! 그래서 제가 간혹 그렇게 하는 뭐, 그 예배시간에도 막 유행가도 부르고, 왜 그러냐 하면? 사람들이 그런 것 좀 제발 하지 말라고! 사람들 왔다가, 다른 보수 장로교에 있는 사람들이 왔다가 기겁을 하고, 그냥 교회를 나갔다 그러고. 나가서는 막 악담을 하더라고요. 그 인간은 목사도 아닌 게, 예배시간에 막 유행가를 부르고, 욕을 하고, 그런다고 하는데!
여러분, 왜 목사가 무슨 대단한 존재인 줄 아세요? 본인들도 아니면서! 절대 아니에요. 인간은, 이 육적 자아를 개발하고 성숙시키고. 여기에 변화된 어떤 것을 쌓아서. 다른 이들과 이렇게 차등 있는, 어떤 성취를 해 나가는 게 아니라니깐요 그냥 하나님에 약속과 예수 그리스도를 이렇게 드러내고, 그냥 하나님이 오라는 곳으로 가면 돼요 그거까지 준비가 돼 있는 사람을, 성도라 그래요.
‘하나님이 날 지옥 보내신다면 난 지옥 갈 수밖에 없는 사람이야!’까지 가야, 가 계셔야, 그 사람이 성도라니깐요. 그게 자기 부인 아닙니까? 그런데 나는 어떻게 해서든지 천국 가겠다고! 그냥! 아닌 거예요. 여러분 유월절 얘기는 하지도 못하고, 그냥 서론만 하고, 허허! 내일 유월절에 대해서 하겠습니다.
아무튼 절기, 절기라는 건, 예수를 설명하는 거예요. 율법에 매이지 마세요. 십일조? 마찬가지에요. 예수가 십일조잖아요? 십일조가 레위인들의 생활비 아니었습니까? 레위인은 장자잖아요? 예? 장자 대신에, 바쳐진 자들이죠? 그들에게, 죽어야 할 장자들이, 내 대신 바쳐져서, ‘고마워!’라고 준 게, 속전(贖錢)! 십일조였잖아요?
그런데 죽어야할 우리! 우리 대신에, 예수님이 은 30으로, 속전으로, 하나님께 드려졌잖아요? 그런데 지금 또 십일조를 내라고 얘기 하는 거 자체가, 사도 바울이 절기와 월삭! 이런 것들을 갖다가 너희들이 지금도 지킨다면, 너희들은 다 예수의 죽음을 헛되이 여기는 거! 헛되게 만드는 거다! 고 안에 들어가는 거라 말이에요
그런데 교회에서 십일조를 걷지 않으면, 이 십일조가 교회 예산에 거의 대부분이에요. 그러니까 이거 안내면, 교회가 운영이 안 되기 때문에, 운영 안 되면, 운영 안하면 되죠. 예? 저는 그런 날이 얼른 왔으면 좋겠어요. 운영이 안 되는 그 시점이! 운영 안하면 돼요. 뭘 그렇게 자꾸 하려고 그래요? 그걸 걷어서! 이건, 이 이야기 했다가 제가 아주 욕을 바가지로 먹었는데!
그럼 내가 성경에 나오는 십일조에 대한 그 내용들이 뭔지를 설명해주겠다, 그러는데도, 또 오지도 않아요. 또 그래놓고는, 그냥 밖에서, 노회에서, 총회에서, 저사람 자르라고 그런대. 우리 교회가 조금 인원이 많아지니까, 자르지도 못하고, 인제 막 그러고 앉아 있는데, 아니 얘기하자는 거예요. 나는! 그럼 십일조가 뭔지? 당신들이, 아니, 이 교회 역사가, 지금까지 견지해온 십일조가, 도대체 어떠한 역사적 배경을 갖고 지금까지 오는 것인지에 대해서, 한번 토론해 보자! 그런데 자기들이 켕기거든요. 자기도 잘 모르겠거든요. 사실! 그러니까 오지는 않고 말이에요.
그런 거 없어요. 무슨 십일조가 있어요? 이젠 너희들의 전 존재를 다 달라고 하는데, 하나님은! ‘얘, 너희들 꺼 다 내놔!’라고 하는데…, 십일조 달랑 내놓고, 요것만 하면, 나머진 다 내꺼! 요런 악당들이죠. 요게 그냥 걸핏하면. 뭐 록펠러가 뭐 십일조 계산하는 회사를 하나 뒀다는 걸 갖다가! 그래서 복 받았다고요? 천만의 말씀이에요.
저는 어려서부터 진짜 십일조를, 단 일전도 띄어 먹어본 적이 없어요. 30년 동안! 그런데 요 모양 요 꼴이 됐어요. 그 록펠러는커녕, 그 록펠러는? 그래서 부자 된 게 아니에요. 예수를 믿는다고 하는 놈도, 이렇게 율법으로, 자기를 근사하게 치장해 놓고, 얼마나 악할 수 있는 가를 보여준 게, 록펠러의 삶이에요. 그 사람이 얼마나 악당이었는지 잘 모르세요? 음 지금도 그 록펠러 재단이 전 세계를 주무르고 있어요.
그 안에 들어있는 그 건, 설교시간에 그런 데, 예화 거리가 아니라, ‘악마에 모습은 이런 것이다!’를 설명하는 예화거리가 돼야 된다니깐요. 그런 것에 속지 마세요. 그냥 열심히, 하나님 앞에서 매일 매일 죽으면 돼요.
さあ、レビ記ですね?
23章。過ぎ越しの祭りの説明がしきれませんでしたが、レビ記23章4절、5절をやりましょう。
(レビ記 23:4-5)
4 これらが、あなたがたが定められた時に聖なる会合として布告すべき、主の祭りである。
5 第一月の十四日の夕暮れは、主の過ぎ越しの祭りである。
さて、過ぎ越しの祭り!昨日、私たちはその節気(祭り)について、その節気が何を意味するのかについて、概括的に目を通しましたね。節気は、このレビ記23章に7つの節気が出てきますが、節気はすべて、イエス・キリストを模型(ひな型)としているのだと言いましたね。それが一年の中にすべて収まっているもので、その節気全体が、このように一年の歴史の始まりと終わり、全体を盛り込んでいるのだと言いました。ですから、この節気が新約でそのまま、旧約は予標(タイポロジー)であり、新約が実体だと言いましたね。ですから、この節気が新約でそのまま、この歴史の中で繰り広げられなければ、新旧約はすべて偽物になってしまうのです。
ですから、これらの節気がどのように歴史の中で実体となり、またそれ自体も模型なのです。それが全歴史の模型ですから!これが全歴史の中で、どのように繰り広げられるようになるのかを、皆さんはよく見なければなりません。そうでなければすべて詐欺です。キリスト教は!聖書は!
ところが、これらの節気の中で最も新しく始まるのが「過ぎ越しの祭り」だと言いましたね。ですからヘブライの人々は、暦を三種類使うと言いましたね。エジプトから出る前に使っていた民暦(みんれき)があります。民暦があり、出エジプトの後に使った聖暦(せいれき)という、あのアビブの月が正月であり、それを今私たちが使っている太陽暦で言えば3、4月頃になるもので、その聖暦の1月が民暦では7月だと言いましたね。
ですから、この太陽暦で言えば、節気で言えば、季節で言えば、過ぎ越しの祭り、初穂の祭り、種入れぬパンの祭り、これが「春の祭り」になるわけで、七週の祭り!麦秋の祭りと言いますね。五旬節!それが「夏の祭り」になり、聖暦で7月が太陽暦で秋ですから、その時ラッパの祭り!7月1日がラッパの祭りで、7月10日が贖罪の日でしょう?そして7月15日が収穫の祭り!皆さんがよく知っている仮庵の祭り!聖書にたくさん出てくる!その三つの節気は「秋の祭り」であり、それが!
さて、節気がすべて終わった後に冬が来れば、冬はすべての山々が、地が休む「安息」。ですから全歴史が節気の中にすべて入っているものであり、それがイエス様の生涯にそのまま現れます。ですからイエス様の生涯は、まさにこの歴史の生涯と同じなのです。そして、それがまさに皆さんの生涯と同じなのです。
この過ぎ越しの祭り!この過ぎ越しの祭りが何かというと、エジプトでイスラエルが奴隷としてこのように苦労していますが、それは象徴的なものですね?世の悪魔の奴隷。僕(しもべ)として生きているその悪魔の僕は、すべて「死」です。死に捕らわれている、そのような神様に選ばれた者たちを、神様がいよいよエジプトから引き出す。しかし、どのような方法で引き出しますか。小羊の血を、鴨居(かもい)と二本の門柱に塗ったその家の側の人々、長子たちだけを、すべて引き出すのです。残りはすべて殺します。
ですから、それはエジプトから出る時、その小羊の血が塗られていないイスラエルの家も、すべて死にました。ですから彼らが生き返ったのは、何か彼らが優れていたからではなく、その小羊の血の恵みによって生き返ったのだということを見せているのです。つまり彼らも、小羊の血が塗られていなければ、すべて死ぬべき者だということを同時に見せているのです。ですからイスラエルが何か優れているわけではありません。皆同じように死ぬべき者たちです。死ぬべき者たちなのですが、小羊のあの血によって生きるのです。
ですから神様が死の神!まあ、比喩でお話しするのです。死の神がどこにいますか。神様がただ殺すのです。呼んでおいてこのように!「ああ、お前たち、今エジプトへ下れ!」エジプトは当時、世界の権勢を握っている国ですから、全世界を言っているのです。そこに神の民が含まれている全世界。力の原理を追求して生きているこの悪魔の世に、神の民が入っているわけです。ですからこの世は同じなのです。今、全歴史を話しているのです。
「下って行って皆殺せ!」審判が起こるのです。皆殺すのですが、その中で小羊の血が塗られているあの家は、「私が彼ら、お前たちが殺すべき彼ら、あの者たちの代わりに、あらかじめ小羊を殺した、殺したあの家だから、あの家だけは生かしておけ」。そのように言われたのです。
ええ、ですから教会!聖徒は、その「過ぎ越し(パッスオーバー)」でしょう?つまり「越える(逾)」、「越える(越)」です。つまり「通り過ぎる。死が通り過ぎる」。あの家を!それをあなたたちはこれから代々記念せよというのは、記念とは何ですか。歴史の中で経験されたことを現在化させて記憶することです。そうでしょう?
ですから、経験されたことがただの観念として残っていてはいけませんし、観念化させてはいけません。経験されたことを現在化させて、これが自分のものだということを「記念」と言うでしょう?え?ですから記念せよと言ったのは、まさにエジプトからイスラエルが出る時、あの小羊の血が鴨居と門柱に塗られて彼らが出たというのは、それを代々子々孫々、「私たちは小羊のおかげで生きているのだ」ということを人生を通して記憶せよということです。それが「過ぎ越しの祭りを記念せよ」ということなのです。ですから、私たちが何か立派な行為をして、ではありません。そして、何か資格や条件を備えて?違います。そうではなく、ただ神様が生かしておかれたのです。
ではなぜ生かされたのですか。創世記15章に出てきますね?神様が約束されたでしょう?アブラハムに!すでに400年よりずっと以前に!「私はあなたの子孫をエジプトへ送るし、そしてそのエジプトで彼らを奴隷として仕えさせるが、彼らを400年、四代目で私が引き出す!しかし彼らを奴隷として使っていた者たちは、私が皆殺す」。約束されたでしょう?創世記15章で!
ですから存在というものは、人間というものは、その存在自体が目的ではなく、神様が約束されたこと、神様がどなたであるかをあらわすために、道具として使われるのです。エジプトはなぜ死ななければならないのですか、皆さん。それは不満ありませんか。イスラエルは何が立派で生き残らなければならないのですか。よく考えてみてください。私たち人間の存在自体が目的ならば、これが価値あるものならば、当然、人本主義(ヒューマニズム)の立場から神様に抗議するに値します。「私が何を間違えたからこのように死ななければならないのか。あいつらは何を良くしたからあのように生きなければならないのか」と!
ところが、存在ということ自体、被造物ということ自体は、神様を説明し、あらわすための方法であり、道具なのですよ。ですから「何でもない(ナッシング)」と思えばいいのです。
「無」!ですからエジプトは、神様が400年前に約束されたあの約束を成就するために、死ぬ者として選ばれたのであり、最初から「お前は下って行って死んでこい」と、神様がそのようになさったのです。
イスラエルは?「お前たちは行って奴隷奉公をして、私が小羊の血を鴨居と門柱に塗るから。そしたら、その時塗って、生き返って私のところへ上がってこい」と創造されたのです。気分悪いでしょう?「いや、人間はその程度にしかならないのか」いえ、その程度でもありません。ただのゴミです。「ダスト(ちり)」!ちりです、ちり!
神様がその任された役割!その役割をただ忠実に果たしながら、神様の、神様と永遠に共に生きる神の民に、「神様はそのように契約に忠実な神であり、この歴史を主管し、経綸されるその主体である」ということを明らかに 드러내는(あらわす)のに、方法と道具として使われるのが人間です。
ところが、教会の主人が人間になってしまったでしょう?今!そうでしょう?ですから「私の救い」「私の福」「私の問題」「私の願い」。皆さん、そのようなものは本当に教会の中では無くなるべき単語です。「私の救い」がどこにありますか。皆さんは皆さんの救いのために信仰生活をしているのですか。とんでもないことです。皆さんは皆さんの願いを叶えるために信仰生活をしていますか。違います。そのようなキリスト教はありません。それはすべて悪魔が作り上げた偽物のキリスト教です。
人間は、ただ神様が、陶器師が自分がただ使う器を作るその最中に、ただ作られた器にすぎません。そこに陶器師が醤油を入れれば、ただ醤油を入れて生きるのです。「おい!お前は犬のように這って、ある時点で私の前に来い。私がお前を犬と呼んだら、『はい、そうです、私は犬です』と言って、私が投げてやるパン屑を食べてこい」と言われれば、食べてくるのです。
「お前は金持ちの家の前で、体中がただれているのに、犬たちが来て膿を舐めるのに、追い払う力さえない、そのような存在として生きて、それから来い」と言われれば、行くのです。「お前は一生金持ちとして生きて、後でただ地獄へ行け」と言われれば、そのように生きるのです、その運命を。人間がどのような努力をして、またどのような功労を積み、業績を積んで変えることはできません。「御座を揺るがす」と?人間が?神様の御座を揺るがす祈りがありますか。そのような祈りはありません。
神様は計画される方であり、真実(誠実)な方です。真実(シンシル)とは何ですか。永続性を持っている意志と意図があるということです。変改(へんかい)することができません。ですから「それなのに、どうして私はイエスを信じるようになったのか」そこにただ感激するのです。「私が何をしたから、あの人たちと何が違うから、このようにイエスを信じる者になったのだろうか」。これ、完全に狂っているのではないですか。これ!どうして正気でいて、あの二千年前、十字架で亡くなった方が私の罪をすべて代贖した、そしてこれからの私には永遠の神の国が約束されている。これがどうして信じられるのですか。え?
静かに考えてみてください。それがどうして理屈に合いますか。それも、私たちの先祖でもなく、あのパレスチナの知りもしない、オサマ・ビン・ラディンのような顔をした!パレスチナの大工がどうして神の御子であり、あの方がどうして私の罪をすべて代贖するのですか。
ですから、今、自分が目的となって、イエスを信じることが何かも分からずに礼拝堂に座っている人が90パーセント以上です。それについて真剣な悩みもしてみず、どうしてあの方が私の罪をすべて代贖されたのか。このようなことについての真実な悩みもしてみず!ただシャーマンの儀式(グッ)をするように、礼拝堂に座って、ただ「私の天国」「私の願い」「私の問題」。このようなことにだけ執着し、ただ他の宗教と、倫理と、道徳競争などをしているわけです。それが、それがキリスト教ですか。
仏教徒はこれほど優しいのに、キリスト教徒はどうしてこのように、このようにしか生きられないのか。それが皆さんは健全な討論だと思いますか。キリスト教が、他の宗教と倫理道徳を競争する宗教ですか。キリスト教はそんな宗教ではありません。キリスト教は、イエスの血によって生き返った者たちが、そのイエスの栄光と、そのイエスの恵みと愛に感動して、ただその前に平伏して、「神絶対依存の存在」であることを確認して行くのです。それ以外に他にありません。
ところが、そのように低くなってみると、世界観と価値観が変わるため、その人たちの行動様式が変わるだけです。以前は「自分のもの」「自分の家族」「自分の子供」「自分の財産」。このようなことにだけ、この地のものにだけ集中して生きていた人が、ある瞬間からそれらを手の内からこのように放していきます。え?
あのベーカーズフィールドから来られるあの方々。その中に、ある女執事さんがお一人いらっしゃいますが、あの遠い距離から皆さん、毎週来るのが簡単ですか。私も先週、子供たちを連れてあちらへ休暇に行ってきましたが、行って行くうちに見ると、あそこにベーカーズフィールドがあるのですよ。いや、ここから毎週教会に来るのか?と驚きました。「狂ってる!」と心の中で……!
ところが、その方がおっしゃるのです。自分は。自分は一生、この拳を開いたことがなかったそうです。何でもかき集めて、自分のこの手から出て行くものがあってはいけないのです、その人生が、自分の人生が!ある日、御言葉を、この御言葉の中にどっぷり浸かっていると、この手の、肉が開いていたというわけですね。その時から、この開いた手で分かち合い始めたのです。その人も行動様式が変わります。まあ、変わらなくても構わない!神様が。「おい!お前はどうして最後までそのように生きて、お前は私が恵みを施さなかったらどうなるところだったか」。そんな人もいます。
ですから公式化させて、すべての人が皆そのように変わるだろうと、このような考えはしないでください。また、心の中で安心もしないでくださいね。また、ああ大丈夫だと言うけれど、確かに行動様式は、つまり価値観やこの世界観、そしてこの志向する方向、この指向性が変わります。どうして世界観が変わるのに価値観が変わらず、どうして価値観が変わるのに行動様式が変わらないでしょうか。変わります。たくさん分かち合い、たくさん手放し、また何か困難に、苦難に対処する姿勢などが変わるでしょう。昔は到底想像もできなかった、そのような反応が自分の中から出るのですよ。
見てみますと、そのような小羊の血を、つまり私たちが証しするということは、常に記念して生きるということは、「私はイエスの恵みでなければ大変なことになるところだった!」ということを、自分だけでなく人々にも伝えることなのですが、出エジプト記2章23절をご覧になれば、神様がなぜイスラエルを助け出そうとするかというと、「あのアブラハムとイサクとヤコブになさった契約を思い起こされ……」と言うのです。彼らが苦労したのがあまりに不憫だからではなく、神様がなさった約束を思い起こされ。神様が忘れていてその時思い出したというのではなく、「神様の契約によって時が満ちたので」という意味です。
それでは、新約に出てくる「時が満ちて、時が至り、まだ時が来ないので」というこの「時」が、まさにこの時だということです。新約が、新約においてこの旧約がいよいよ繰り広げられるのですね。では、この小羊がイエスであったから、まさにこの時にイエスが死ななければならないでしょう?ところが、この時がいつかというと、アビブの月1月14日、正月!つまり聖暦1月14日!
皆さん、あのイエス様は、その前にもすでに死ぬ危機を何度も越えられますね。自分の故郷に行って御言葉を伝えると、人々が崖から突き落として殺してしまおうと引きずって行きましたが、その日が安息日であるため、歩数を合わせる「歩行数」があるのですが、それがピタリと引っかかって、この人々がこれ以上歩いて行けずに殺せなかったのです。それでイエス様が「ああ、私は大丈夫だもんね」と言って逃げるのですよ。助かりました!
あの仮庵の祭りの時、いや仮庵の祭りのような時、その弟!弟たちが「なぜこの田舎の隅っこで。あなたがメシアなら、この田舎の隅っこ、ガリラヤで……」。あのナザレという場所は、ただ異邦の地として扱われていた場所です。だから「異邦のガリラヤ」と言うでしょう?聖書が!ですから人々が「おい、ナザレから何か良いものが出るだろうか」と話すほど、田舎の中の田舎でした。「なぜここに埋もれているのか。中央へ出て行って、一度格好良く(ポデ 있게)、あなたの能力を一度見せろ。そうすれば人々がもっとよく従うではないか」と話したわけです。
ところが「上らない」と言われました。でも上ります。こっそり!上って、そこでは「上らない」と言っておきながら、上ってはまた人々と論争をします。また仮庵の祭りに上って、ところが人々はその時殺そうとしたと言います。ところが「時が至っていないので」と話をします。「時」が!つまり、何の時を待っているのかというと、旧約で、このレビ記で、そして出エジプト記で、すでに定められたあの時!あの時はいつですか。過ぎ越しの正月14日まで!神様が待たされたのです。あの正月!
ところがご覧になれば、このピラトもそうですし、またピラトの妻もそうですが、このイエス様を生かそうと努力しますね。ところがイエス様がむしろ何と仰るかというと、「あなたが私を生かしたのではなく、あなたが私を殺すのでもなく、神様があなたに権威を授けられたのであれば……」。その言葉は、「あなたを今、道具として選んでいなければ、あなたは私を生かすこともできず、殺すこともできない。しかし、あなたが私を何とか生かそうと努力したとしても、私は死ぬことになっているので、あなたは私を生かすことができない。だから、あなたは今、神様が命じられる通りにせよ」という意味です。それが「権威を神様が授けられた」という意味なのですよ。ですから自ら死ぬのです。イエス様が。神であるあの方が!あの時に!
イエス様は、普通の人々は死んでこそ頭が垂れるのですが、イエス様は「テテレスタイ(完了した)!」と言って、イエス様は自ら頭を垂れられましたね。そして息が永遠に去って行ったと言います。それは「自ら死んだ」という意味です。イエス様がその前に言われるでしょう?「私は自分の命を得る権威もあり、捨てる権威もある」と言われたでしょう?
ですから神様があの時に、ピタリとアビブの月1月14日、過ぎ越しの晩に殺されたのです。さて、出エジプト記を見ると、「日が暮れる時に羊を屠れ」と言いますが、その「日が暮れる時に」というその単語、ヘブライ語の単語が、正確に「二つの夕方の間」という意味です。ですからこのような内容をよく知らない方々は。つまり聖書がどれほど緻密であるかをよく知りません。この「二つの夕方の間」!
では、夕方が二つあるということか。ヘブライの人々には夕方が二つあります。12時から6時までが一つ目の夕方であり、そして6時以降のナイト。アフタヌーンが一つ目の夕方で、6時以降の夜が二つ目の夕方です。では「二つの夕方の間、日が暮れる時に羊を屠れ」というのは、12時から6時の間、真ん中という意味です。何時ですか。3時。イエス様は何時に亡くなられましたか。3時に亡くなられました。
3時に十字架につけられて、ああ、ですから3時ではなく、9時につけられて午後3時に亡くなられました。ところが12時から3時まで暗闇が臨んだと言います。ですから、午後3時に正確に、旧約で語られた過ぎ越しの掟のその方式通りに、イエス様が3時になるやいなや「完了した!」と言って、ピタリと去られるのです。ですから旧約全体は、新約でこのように、一寸の狂いもなく成し遂げられるということを聖書が見せているのです。
そして出エジプト記を見ると、過ぎ越しには絶対に、小羊の骨を折ってはならないと言います。ですからイエス様が先にお亡くなりになったことによって、二人の強盗の膝を、骨を折ったにもかかわらず、イエス様の骨は折られなかったのです。一寸の狂いもなく、イエス様の生涯の中で、過ぎ越し!その掟が完全に守られるのです。ですから、このように旧約と新約が合致しなければ、聖書はすべて詐欺です。
ところが歴史的にも、一寸の狂いもありません。それほどであれば、私のような懐疑論者が、聖書を研究し、研究し、研究した末に、結局イエス様の前に膝を屈したでしょうか。私は石橋を叩いて渡るのではなく、本当にすべて測量して渡った人間なのですが、人間なのです。100回は叩いてみて、広さと直径と高さをすべて測ってみて、その次に一歩踏み出した懐疑論者なのですが、聖書をこのように深く研究してみると、この歴史がこの聖書の中で一寸の狂いもなく、全くの偶発性やアドリブなしに、聖書の中ですべて合致したというわけです。
数え切れないほど読んだ歴史書、科学、また人文書籍のようなあのような内容が、この中で一寸も外れることができなかったというわけです。ですから信じないわけにはいきません。それでもあの世の浅はかな知識を持って、いまだにキリスト教を何かの迷信だとか言う人々がいます。ですから神様の恵みでなければ、同じ情報と知識を持っていても、むしろ神様に背を向け、否定したりするのです。
そして「この過ぎ越しをその月の最初の月とせよ」と言われるのは、もう新しい時代が開かれるという意味です。イエスの死によって、新しい時代が開かれ、新しいものが生まれる。このように!箴言で見れば、伝道者の書で見れば、「日の下には新しいものはない」と言います。日の下には新しいものはありません。つまりその言葉は、なぜ新しいものがないのか。新製品が新しいものでしょう?ところがその「新しい」が、あの「新しい」ではなく、聖書でヘブライの人々の「新しい」という「カイノス」という言葉の意味は、その新、これ以上新しい新しいもの、新しい新しい新しいもの。それ以外にまた別の新しいものがない時に使う単語です。新しいもの!ですから日の下には新しいものはありません。日の上の神の国から、新しいものが降りてきて、新しいものを創造しなければなりません。ですから日の、すなわち日の下には新しいものはないという意味です。
ところがパウロの書簡を見ると、私たちを「新しく造られたもの(新しい被造物)」と言うでしょう?つまり新しいものが生まれたわけです。どのようにして生まれましたか。イエス様の十字架の血によって!ですから皆さん、この世の中で他にすることはありません。イエス様の血、あの恵み、それが何であるかを証明し、そしてあらわすその役割をしながら生きて行けばいいのです。人間の義や価値、このようなものを得ようとして、昨日、本当に創世記をこのように見ていて、ローマ人の手紙のあの講義、罪論をいよいよ始めなければならないのですが、18절から人間の罪がただもう、3章にわたってずらりと並べられるのですよ。
それでバベルの塔の事件を、創世記を、このようにその最中に、この偏頭痛に悩まされながら創世記をパッと。バベルの塔の事件を見るのですが、本当にどうしてあれほど日の下に新しいものはないというのが、今の私たちの姿と、あのバベルの塔の事件の現場での人間の姿と、エデンの園での人間の姿、預言書に出てくるあの数多くの人間の姿、今日私たちが勉強する士師記でのあのレビ人たち、ダン部族の人々、エフライムの人々。このような人々の姿が、どうしてあれほど同じなのか分かりません。まあ、すべて「自分」に集中しているのです。
神様は歴史の中でそれを打ち砕かれるのですが、ところが私たちはむしろ、ここで自分が善悪の知識の木の実を食べた神のようになった者であるから、自分たち人間が合意し決定しておいた道徳と倫理と社会法をよく守って、どうすれば他の人と差別化された立派な人として存在し、君臨できるか。にだけ関心があります。
そして使徒パウロが「お前たち、パン種を捨てろ」と言ったでしょう?これ、無酵節に出てくるのですが、パン種の入っていないパン!次の時間に無酵節について勉強しますが、パン種というのが何かというと、人間たちの「義」を言っているのです。おい、神様の義ではなく!つまり私たちの義はイエス・キリストの血によってただで与えられるものだと、使徒パウロがいずれにせよ数百回話していますね。
それでは、あの小羊の血という「義」。その義によって侵攻され、どのようにして不可抗力的に義人となってしまった私。ですから、あの神様に栄光を帰し、賛美し、あの方にすべての功労を帰す、このようなことが、いよいよ聖徒がこの世ですべきことなのですが、その「自分の義」を持ってしきりに、あの他の人と比較して。皆さん、そのように比較をしていると、人をしきりに外見(うわべ)で扱うようになるのですよ。外見で評価するようになります。どうにもならないのです、それが。人間の行為を、行為が価値あるものなのに、どうしてすべての人が皆、憐れみに浸った人のように見えますか。違いいまず。優れた人間(난사람)が明らかにいるのですよ、行為を基準に見れば。
それでヤコブがこう言うのです。「どうして人を外見で扱うのか」。それはお金が多い少ないという話ではありません。どんなに優しい人も、神様の憐れみがなければ地獄へ行くものであり、どんなに悪い奴も、神様の憐れみが臨めば天国へ行くのです。それを主管される神様を学ぶのがキリスト教であって。「私はもうイエスを信じたから、誰がより優しく生きるか」。これ、競争、競走するのがキリスト教ではないのですよ。ところが人々がこれを理解できません。
ええ、今日の明け方に見ると、三一(サミル)教会。あそこのウェブ管理をしているあのウェブマスターが、どこかの経営学科の教授です。そこにコンピュータサイエンスを勉強されたあのような方なのですが、私が先日、三一教会へ行って説教をして帰ってきながら、なぜなら、彼らが学んでいた教理や神学とは全く違う話をしたため、早々に裏門から抜けて逃げ帰ったのですよ。あの執事さんが来られたのですが会うこともできず、ただ、ただ帰ってきたのですが。
ところがその方がおっしゃるのです。メールが来たのですが、自分が昨日、三一教会に辞表を出したと言っていました。理由は、私たちの教会は「福音」を伝える教会ではないということを知ったということなのです。これまで、あの三一教会が始まったあの時から今まで、そこで信仰生活をしながら、あの数多くの本を読み、また数え切れない煽動を受けてきて、それで自分がそれほど忙しい教授の立場でも、ウェブサイトをすべて管理していたそうです。一人で。あそこに一度入ってみると、どれほど複雑か分かりません。あの、何か一つ探そうとすると、ただもう……!
ところが……さて、私がその教会へ行って説教して帰りながら、自分は一体あの人はこれまで聞きもしなかった話をするけれど、でも自分の心にはそれが合っているようだったというわけですね。それでその時から、私たちのウェブサイトに入って、説教を聴き始めたそうです。ずっと一つひとつ聴いてみると、ああ、自分はイエスをこれまで間違って信じていたという気がした。
それでウェブマスターであるにもかかわらず、他の方々に私たちの教会のウェブサイトをしきりに紹介して歩いたそうです。「聴いてみて」と。それで、自他共に認められ(自意半他意半)クビになったのですね。「お前はうちの教会とは合わない。出て行け」となったわけです。すると本人が「自分がウェブサイトを一つ作って、三一教会のあのウェブサイトのように、あなたたちの教会を知らせる」と。それで私が「オー・ノー!」と返事を出しました。「そうしないでください」と。これ以上アンチ(反勢力)を作りたくありません。
皆さん、人々はですね、自分の価値をこのようにスルスルと掻き立てて「あなたたちはできる!平安だ!安全だ!よくやっている」というのを無類に好みます。特に若い子たちは、そのようにしてあげれば蜂の群れのようにやって来ます。私が南ソウル教会へ行ったら、あそこの青年たちが一人もいません。「どこへ行ったのか」と聞いたら、皆、三一教会へ行ったと。はは、南ソウル教会はもうポツンと一つで。
ところが三一教会では、ただもう香具師(ヤクチャンサ)たちのように、チームリーダーたちがいて、頼みもしないのに、ただもう、蔚珍(ウルチン)宣教!統営(トンヨン)宣教!自分たちだけで勝手に行くのです。自分たちのお金を出して。お金もものすごくたくさんあります。そうしながらそこで人々のあの意欲を、ただ燃え上がらせてあげるのですよ。
やれやれ、ところが自分たちが正しいイエスを知らないのに、皆さん、何の宣教をするというのか分かりません。どのようなイエスを伝えようとしているのですか。このように一生懸命やれば、高地の頂上に引き上げてくれて福をくださる、あのような神様。あのような神様はどこにいますか。旧約の神様でしょう、それは。え?福、福、福。これは旧約で終わったのですよ。なぜなら福のその実体がまだ来る前であるから、この世にある人間が最も好むあの「福」というもので説明してあげるために、旧約では「守れば福を受け、守らなければ死ぬ」と、絵本のように説明してあげたのです。
もし皆さんが今も、新約時代に来ても、福、福、福と言うなら、今皆さんが礼拝に来る時、羊を一頭ずつ引き連れてこなければなりません。え?そしたら私は手袋をはめてここで屠らなければなりません。完全にあの精肉店の主人のように祭司の役目をしなければならないのですから。私が。そうでしょう?ところが、それはしないでいて。旧約ですでに、いや新約のどこに、イエス様の言葉、イエス様をよく信じて優しく生きれば福をくださるという言葉がどこにありますか。新約で「福」を説教する時、新約にある内容を持って説教する人を見たことがありますか。ありません。いくら探してみてもですね。ここには!
そして旧約でも、「福」は詩篇で見れば、「神様があなたたちに福をくださったが、その福は『永遠の命(永生)』だ」と言うでしょう?ところが人間はこの歴史の中で、自分たちの価値を得なければならないため、自分たちの行為を「福」とこのように引き換えにしました。飴屋のところへ行って、ゴム靴の片方を持って行って飴を貰って食べる人のように。自分たちの生と行為と熱心によって、その「福」を引き換えに食べようとしているわけです。このようなキリスト教はないのですよ、皆さん!
ところが韓国のキリスト教100年が、すべてその話だけを繰り返してきたのですよ、これまで。そして全世界のキリスト教が、その方向へと走り出しているわけです。神様は放っておかれるのです。皆殺すということなのです。これがゴミ捨て場であって、何の教会ですか。
ですから人間の価値をしきりにこのように得て行ったものだから、「地獄もない。神様はすべての者を皆救われる」。なぜなら「人間は大切だから」!そうでしょう?先週か先々週か、アメリカのある大型教会の牧師が、公の場で「地獄はない」と言って問題になったことがありましたが、それなら一体、イエスをなぜ信じるのですか。え?地獄がないのに……皆さん、イエスをなぜ信じるのですか。おい、私は本当に地獄がないのなら、今日にでも行くね。え?いつでも。ただ地獄がないのに、イエスをなぜ信じるのですか。
あります。皆さん。ただ皆さんが考えているような類の地獄ではないからであって。それは仏教から出てくる地獄なのですよ。「火がメラメラと燃える」このようなものは。そのような東洋思想の影響を受けて、キリスト教の地獄がしきりにそのように、「火や塩を振るように落ち、舌を引き抜き、目玉をえぐり出して、ただ夜叉たちがジャグリングをしている姿」として知られているのですが……!
いえ、皆さん。この世であの地獄を経験しなければなりません。皆さん。むしろ、地獄を経験してみれば、「いっそ私の目玉をえぐり、私の皮を剥げ。そして私にシンナーを撒いて私を燃やせ!いっそ!このように生きるよりは、その方がマシだ」というところまで、皆さんが経験してみなければ、皆さんは本当の地獄が何であるか分かりません。
皆さん、神様の恵みが去った被造物という存在。あの「無」の場所が、どれほど凄絶な場所であるかをこの世でこのように経験できなければ、皆さんは童話に出てくるような火がメラメラと燃えて「ああ、熱くて痛くてどうしよう」という、このような滑稽な地獄が怖くてイエスを信じてあげるのです。それはイエスを信じているのではありません。「自分が受ける肉体的なこの苦痛が怖くて、私はイエスを信じてあげる」ではないのですよ、それは。
イエスがいない被造物というのは、このように凄惨で何でもないものであるから、「イエスが私を助け出してくれたということが、どれほど感謝なことであるのか」。これが自覚されていること。ただ生きていることを「イエスを信じる」と言うのであって。「うわあ、後であの熱いのにどうやって耐えるんだ。うわあ、もうイエスを信じちゃうよ。教会へ行ってあげるよ」。これがイエスを信じることではありません。
したがって皆さんは、この聖所で、教会の中で、まず「審判」を受けなければならないのですよ、歴史の中で。そうでなければ、永遠の中でイエス様が、私と共にいてくださって初めて私は幸せになれるのだな、と言って、あの方を離さないのです。たとえ叩きのめされても離さないのです。「私、これは離せません。他のことはすべてやっても、私はこのイエス様の足だけは離せません」と言って追いかけて上がるのです。ですから、イエス様を天国へとグイッと引き上げられる時、あの足を掴んでいる奴らだけが生き返るのです。
だからコリント人への手紙でパウロがこう言うのです。「イエス、初穂を引き上げたら、その下にゾロゾロとついて上がってくる者たちがいた」と話しているわけです。そのように人間たちが中心になるから、「ああ、私は痛いのが怖くて。そして人間が好きなものがぎっしり詰まった場所が天国だ」と思い込んで。そしてあの天国をこの地であらかじめ少し先取りして生きようと言って。
聖徒はこの世で天国を先取りしては生きられません。地獄を先に生きるのですよ。地獄でなければなりません。だから!イエスを信じながらうつ病に一度もかかったことのない人は、その人は地獄を生きられなかった人です。イエスを信じたら常に喜び、常に幸せでばかりいて、その人は狂っているのです。イエスを信じているのではなく。ええ、正気を失えば、人々はただずっとヘラヘラ笑って歩いているではないですか。誰がイエスを信じれば……。
「望み」によって苦難が耐えられるのであって、苦難がただ狂った人のように。「うわあ、どんなに打たれても痛くもなく、このように子供が先に死んだのに、こんなに嬉しいばかりで」。そのような芝居はやめてください。どうして愛する親が亡くなったのに。ああ、私はあの葬儀場へ行って、本当に吐きそうになりました。「お祝いの場だ(チャンチッチッ)」と言って子供たちがヘラヘラ笑って座っています。どうして自分を、自分を産んでくれた親が、歴史の中で自分を去るというのに、その前でヘラヘラ笑って座っていられるのですか。「信仰によって自分はあのように逆境に勝てる」と言って。それは日頃から自分の母さん、父さんが早く死ぬことを願っていた奴らであって、どうして親が亡くなったのに、その前でヘラヘラ笑ってケンガリ(鉦)を叩いて座っているのですか。
そのようなものはキリスト教ではないのですよ。ただ最初から演劇を、自分たち人間が「私はどれほど立派な信仰人か」としきりにこのように他人に「ショウ・オフ(見せびらかす)」しようとするから。あの場所、あの厳粛な聖徒の死の場所の前で演劇をしているのです。「少しも悲しくない、嬉しい、お祝いの場だ」と。どうしてお通夜(チョサンッチッ)がお祝いの場(チャン치ッチッ)ですか。「それほどの信仰がある」というのですよ、自分たちは。違います。あの場所では慟哭して泣かなければならないのが正しいのです。
皆さん、聖書は歴史的にすべて起こった出来事が、一寸の狂いもなく記録されているのです。そしてそれらが私たちの人生の中で、そのまま起こるものなのです。それならば、皆さんが一体、私の生は何であり、私の人生の目的が何であるかを知るためには、当然ここに関心を持たなければならないのではないですか。いや、全く!礼拝に来ておいて、少し前の方で、導入部(序論)をしているのに、家に帰ってしまうような人々を見ると、一体なぜ来たのですか。一体何の用事で来たのですか。それとも牧師の顔を見せに来たのですか。そのような人々がいますね。来てただ帰る。家に。
そして随時、電話を受けに出て行く。いや、あのトイレには、なぜ必ず礼拝時間にだけ行かなければならないのですか。ともすれば来ない。皆さんの人生がこの中にすべて入っています。そして歴史のこの実体が、この中にそのまま入っています。これなしには皆さんが、あの地獄を耐え抜くことはできないのですよ。だから「地獄」を生きていないのです。だから切実さがないのです。
あの方、三一教会のあの方。ウェブマスターがこう言っていました。「ああ、私が長く断っていた酒を、今カムジャタン屋で焼酎を一杯飲んでいる」と私に。自分の、この歴史と人生の実体を知ってみたら、到底素らっ面(素面)でこのように生きていることはできないというのですよ。そのような心が私たちの中に起きなければなりません。見えるのですが、それまで知らなかったのですが、ここが私の座っている場所が「白く塗られた墓」でした。死体の腐った水がポタポタと流れ、汚らわしい臭いがプンプン漂う。なのにどうして同じように生きますか。昔と。痛くなければ。悩まなければ。
そしてここからどうやって抜け出すべきかを、心の中で「ストラグル(葛藤)」しながら探さなければならないのです。そうすれば、それが死ぬまで私たちが勉強しなければならないことが、この御言葉なのです。その内容がここにすべて入っているものだから。
ところが、ただ教会の中で、毎日毎日「幸せな夫婦セミナー」「父親学校」「母親学校」このようなことばかりしているから。どうにかしてこの墓の中で「私は幸せに生きてみせる。この墓を綺麗に掃除して地上天国を作るんだ」と座り込んでいます。「墓を改革しよう。開発して、立派な地下要塞に、バンカーにしよう」と言っているのが今日の教会ではありませんか。私たちの姿でもあり。
皆さん、イエスを信じなければなりません。鴨居と門柱にイエスの血を塗ってかろうじて生き返った者たちが私たちなのですよ。私はこの世で何をしながら生きるべきかは、これから私たちが悩んでみるべきことではないですか。
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(02) - 유월절2 (레위 23:4-5)
(기도) … 하나님을 향한 그런 사랑과 애정보다는, 나를 향한 사랑과 애정에, 더 치우쳐져있습니다. 이게 배반이 아니고 무엇이겠습니까? 그런데 우리는 이것이 배반인줄은 모르고, 그저 내 존재라는 것이, 이 세상의 목적이 되어야 한다고 우기고 있지는 않습니까? 하나님! 말씀을 통하여, 우리는 그냥 그저, 이 세상 속에서, 하나님에 은혜를 드러내는 도구요, 방법이요, 수단일 뿐이라는 것을, 더욱 더 확연히 깨닫고, 이 세상 속에서 맡겨진 역할! 그 역할에 충실히 할 수 있도록 도와주옵소서. 우리 주님께서 빌려 주시지 않으시면, 단 한 순간도 존재로 존재할 수 없다는 것! 이 시간 더욱더 명료하게, 우리 마음 판에 새겨지게 하옵소서. 예수님에 이름으로 기도합니다. 아멘
자, 레위기죠? 23장. 유월절을 설명을 다 못했는데, 레위기 23장 4절, 5절하겠습니다.
(레위기 23:4-5)
4 이것이 너희가 그 정한 때에 성회로 공포할 여호와의 절기들이니라
5 첫째 달 열나흗날 저녁은 여호와의 유월절이요
자, 유월절! 그 어제 우리가, 그 절기에 대해서, 그 절기가 무엇을 의미하는 가에 대해서, 개괄적으로 살펴봤죠? 절기는, 이 레위기 23장에, 일곱 개의 절기가 나오는데, 절기는 모두 다, 예수 그리스도를 모형하고 있는 거라 그랬죠? 그게 이제 일 년 안에 다 들어있는 것으로, 이제 그 절기 전체가, 이렇게 1년 역사의 시작과 끝! 전체를 담고 있는 거라 그랬습니다. 그래서 이 절기가, 신약에서 그대로, 이게 구약은 예표고, 신약이 실체라 그랬죠? 그러니까 이 절기가 신약에서 그대로, 이 역사 속에서 펼쳐지지 않으면, 신구약은 다 가짜가 되는 거예요.
그러니까 이 절기들이, 어떻게 그 역사 속에서 실제가 되고, 또 그것 또한 모형이거든요? 그게 전 역사에 모형이니까! 이게 인제 전 역사 속에서, 어떻게 펼쳐지게 되는지를, 여러분이 잘 보셔야 돼요 아니면 다 사기입니다. 기독교는! 성경은요!
그런데 이 절기 중에서 가장 처음 시작되는 게, 유월절이라 그랬어요? 그래서 히브리 사람들은, 달력을 세 가지를 쓴다 그랬죠? 에굽에서 나오기 전에 쓰던 민력(民曆)! 민력이 있고, 애굽에 출애굽 이후에 쓴 성력(聖曆)이라는, 그런 아빕월이 일월이고, 그걸 이제 양력 지금 우리가 쓰는 양력(陽曆)으로 따지면, 한 3, 4월 되는 거고, 그 성력의 1월 달이, 민력으로는 7월이라 그랬죠?
그래서 이제, 이 양력으로 따지면, 절기를 따지면, 계절로 따지면, 유월절, 초실절, 무교절, 이게 봄절기가 되는 거고, 칠칠절! 맥추절이라 그러죠? 오순절! 고것이 여름 절기가 되고, 7월 성력으로 7월이, 양력으로 가을이니까, 그때 나팔절! 7월 1일이 나팔절이고, 7월 10일이 속죄일이잖아요? 그리고 7월 15일이, 수장절! 여러분이 잘 아는 초막절! 성경에 많이 나오는! 고 세 가지 절기는, 가을 절기고, 그게!
이제 절기가 다 끝나고 난 다음에 겨울이 오면, 겨울은, 모든 산들이, 이제 땅이 쉬는, 안식! 그래서 전체 역사가 절기 안에 다 들어가 있는 거고, 아, 그것이 예수님의 생애에서 그대로 다 나타나요. 그러니까 예수님의 생애는, 바로 이 역사의 그 생애와 똑같은 거죠. 그리고 그게 바로, 여러분의 생애와 똑같은 겁니다.
이게 유월절! 이 유월절이 뭐냐면? 그 애굽에서 이스라엘이, 노예로 이렇게 고생을 하고 있는데, 그건 상징적인 거죠? 세상 마귀의 노예! 종으로 살고 있는, 그 마귀의 종은, 다 사망이에요. 사망에 잡혀 있는, 그런 하나님에 택한 자들을, 하나님이 이제 에굽에서부터 끌어내는, 그런데 어떤 방법으로 끌어내요? 어린 양의 피를, 문방과 문설주에 바른 그 집사람들, 장자들만, 다 끌어내는 거죠. 나머진 다 죽입니다.
그러니까 그건 에굽에서 나올 때, 그 어린양의 피가 안 발려져 있는 이스라엘 집도, 다 죽었어요. 그러니까 그들이 살아난 건, 뭔가 그들이 잘나서가 아니라, 그 어린양의 피의 은혜로 살아난 거라는 걸 보여주는 거예요. 그러니까 그들도 어린양의 피가 안 발려져 있으면, 다 죽어야 될 자들이라는 걸, 동시에 보여주는 거죠. 그러니까 이스라엘이 뭔가 잘난 게 아닙니다. 다 똑같이 죽어야 할 자들이에요. 죽어야 할 자들인데, 어린양의 그 피로 말미암아, 사는 거죠.
그러니까 하나님께서 죽음의 신! 뭐 이제, 그 비유로 말씀드리는 거예요. 죽음에 신이 어디 있어요? 그러니까 하나님이 그냥 죽이는 거예요. 불러놓고 이렇게! ‘아, 너희들, 지금 애굽으로 내려가라!’ 에굽은 당시에 세계의 권세를 잡고 있는 나라니까, 온 세상을 이야기하는 거예요. 거기에 하나님의 백성들이 포함되어 있는, 온 세상! 힘의 원리를 추구하며 살아가는, 이 마귀의 세상에 하나님의 백성들이 들어가 있는 거죠. 그러니까 이 세상은 똑같은 거예요. 지금 전 역사를 이야기하는 거예요.
‘내려가서 다 죽여라!’ 심판이 일어나는 거예요. 다 죽이는데, 그 중에, 어린양의 피가 발려 있는 그 집은, 내가 그들! 너희들이 죽일, 죽여야 할 그들! 그 자들 대신에, 미리 어린양을 죽인, 죽인 그 집이니까, 그 집만 살려놔. 이렇게 이야기 한 거예요.
예, 그러니까 교회! 성도는, 그 유월절이잖아요? 그 패스오버(Passover)! 그러니까 넘을 유(逾)! 넘을 월(越)이에요. 그러니까 ‘넘어가다. 죽음이 넘어가다.’ 그 집! 그걸 갖다가 너희들이 이제 앞으로 대대로 기념하라는 건, 기념이라는 게 뭐에요? 역사 속에서 경험된 걸, 현재화시켜서 기억하는 거예요. 그죠?
그러니까 경험된 게, 그냥 관념으로 남아 있으면 안 되고, 관념화 시키면 안 되고, 경험된 거를 현재화 시켜서, 이게 내꺼라고 하는 걸, 기념이라고 하잖아요? 예? 그러니까 기념하라고 한 건, 바로 애굽에서 이스라엘이 나올 때, 그 어린양의 피가 인방과 문설주에 발려서, 그들이 나왔다는 건, 그걸 이제 대대손손 자자손손 우리는 어린양 때문에 산다는 걸, 인생 내내 기억하라는 거예요. 그게 유월절을 기념하라 거거든요. 그러니까 우리가 무슨 어떤 훌륭한 행위를 해서 아니에요 그리고 뭐 어떤 자격과 조건을 갖추어서? 아닙니다. 그게 아니라, 그냥 하나님이 살려 놓으신 거예요.
그런데 왜 살리셨어요? 창세기 15장에 나오죠? 하나님이 약속했잖아요? 아브라함에게! 이미 400년 훨씬 이전에! ‘내가 너희 후손들을 애굽으로 보낼 거고, 그리고 그 애굽에서 그들을 종살이를 시킬 건데, 그들을 400년! 4대만에, 내가 뽑아 낼 거야! 그런데 그들을 노예로 부리던 자들은, 내가 다 죽일 거다.’ 약속했잖아요? 창세기 15장에서!
그러니까 존재라는 건, 인간이라는 건, 그 존재자체가 목적이 아니라, 하나님이 약속하신 걸, 하나님이 누구신가를 드러내기 위해, 도구로 사용되는 거예요. 애굽이 왜 죽어야 돼요? 여러분? 그건 불만 없으세요? 이스라엘은 뭘 잘했다고 살아나야 돼요? 잘 생각해 보세요. 우리 인간의 존재 자체가 목적이라면. 이게 가치 있는 거라면, 당연히 인본주의 입장에서, 하나님께 항의할 만하죠. 내가 뭘 잘못했다고 이렇게 죽어야 돼요? 쟤네는 뭘 잘했다고 저렇게 살아야 돼요? 이렇게!
그런데 존재라는 거 자체가, 피조물이라는 거 자체는, 하나님을 설명하고 드러내기 위한 방법이요, 도구라니깐요. 그러니까 아무것도 아니라고 생각하시면 돼요. 낫싱(nothing), 없음! 그러니까 애굽은, 하나님께서 400년 전에 약속하신 그 약속을 성취하기 위해, 죽을 자로 택해진 거고, 아예, ‘너는 내려가서 죽고 와라!’라고, 하나님께서 그렇게 만들어 놓은 거예요.
이스라엘은? ‘너희들은 가서 종노릇 하다가, 내가 어린양의 피를 인방과 문설주에 발라! 그러면, 그때 바르고, 살아나서 나에게 올라와!’라고 창조된 거예요. 기분 나쁘죠? ‘아니, 인간이 그 정도 밖에 안 되나?’ 아녜요. 그 정도도 아니에요. 그냥 쓰레기에요. 더스트(dust)! 먼지입니다. 먼지!
하나님이 그 맡긴 역할! 그 역할을 그냥 충실히 하면서, 하나님의, 하나님과 영원히 함께 살, 하나님의 백성들에게, 하나님은 그렇게 언약에 충실하신 하나님이며, 이 역사를 주관하시고 경륜하시는, 그 주체라는 것을, 밝히 드러내는 데, 방법과 도구로 쓰이는 게, 인간이에요.
그런데 교회에 주인이 인간이 되어버렸잖아요? 지금! 그죠? 그러니까 내 구원! 내 복! 내 문제! 내 소원! 여러분, 그런 거는 진짜 교회 안에서는, 없어져야 할 단어들이에요. 내 구원이 어디 있어요? 여러분이 여러분에 구원을 위해 신앙생활을 한다고요? 천만의 말씀입니다. 여러분이 여러분에 소원을 이루기 위해, 신앙생활을 해요? 아니에요. 그런 기독교는 없어요. 그건 다 마귀가 만들어 놓은 가짜 기독교예요.
인간은, 그냥 하나님이, 토기장이가, 자기가 그냥 사용할 그릇들을 만드는, 그 와중에, 그냥 만들어진 그릇일 뿐이에요. 거기에, 토기장이가 간장을 담으면, 그냥 간장 담고, 사는 거예요. ‘야! 너는 개처럼 기어서, 어느 시점에 내 앞으로 와서, 내가 너한테 개라고 부르거든, 예 맞습니다, 저는 개입니다, 그러고. 내가 던져주는 부스러기 먹고 와!’ 그러면, 먹고 오는 거예요.
‘너는 부자 집 앞에서, 온몸이 다 헐었는데도, 개들이 와서 고름을 핥아 먹는데도, 쫓아낼 수 있는 힘마저도 없는, 그런 존재로 살다가, 그리고 와!’ 그러면 가는 거예요. ‘너는 평생 부자로 살다가, 나중에 그냥 지옥 가!’ 그러면 그렇게 사는 거예요. 그 운명을. 인간들이 어떤 노력을 해서, 또 어떠한 공로를 쌓아서, 업적을 쌓아서, 바꿀 수 없어요. 보좌를 흔든다고? 인간들이? 하나님에 보좌를 흔드는 기도가 있어요? 그런 기도 없어요.
하나님은 계획하시는 분이고, 신실하신 분이에요. 신실이라는 게 뭐에요? 영속성을 갖고 있는, 의지와 뜻이 있다는 거예요. 변개(變改)할 수가 없어요. 그러니까 ‘그런데 내가 어떻게 예수를 믿게 됐지?’ 거기에 그냥 감격하는 거예요. ‘내가 뭘 했다고, 뭐가 저 사람들과 뭐가 다르다고, 이렇게 뭐 예수를 믿는 자가 됐을까?’ 이거 완전히 미친 거 아니에요? 이게! 어떻게 제정신을 갖고서, 그 2천 년 전에, 십자가에서 죽으신 분이, 내 죄를 다 대속했다. 그리고 앞으로 나에게는, 영원한 하나님나라가 약속되어 있다. 이게 어떻게 믿어 믿어지냐고요? 예?
가만히 생각해 보세요 그게 어떻게 말이 되냐고요? 그것도, 우리 조상도 아니고, 저 팔레스타인의 알지도 못하는, 오사마 빈 라덴같이 생긴! 팔레스타인에 목수가 어떻게, 하나님에 아들이며, 그분이 어떻게 내 죄를 다 대속하냐구요?
그러니까 지금 내가 목적이 되어서, 예 예수 믿는 게 뭔지도 모르고 예배당에 앉아 있는 사람이, 90프로 이상이에요. 거기에 대해서 진지한 고민도 안 해보고, 어떻게 그분이 내 죄를 다 대속하셨을까? 이런 것에 대한 진정한 고민도 안 해보고! 그냥 무당 굿하듯이, 예배당에 앉아서, 그냥 내 천국! 내 소원! 내 문제! 이런 것에만 착념하여, 그냥 다른 종교와, 윤리와, 도덕 경쟁이나 하고 앉아 있는 것이죠. 그게, 그게 기독교입니까?
불교인들이 이렇게 착한데, 기독교인들은 왜 이렇게, 이렇게 밖에 못사나? 그게 여러분 건전한 토론인거 같으세요? 기독교가, 다른 종교와 윤리 도덕을 경쟁하는 종교입니까? 기독교는 그런 종교가 아니에요. 기독교는, 예수의 피로 말미암아 살아난 자들이, 그 예수의 영광과, 그 예수의 은혜와 사랑에 감동하여, 그냥 그 앞에 납작 엎드려서, 하나님 절대의존의 존재가, 존재임을 확인받고 가는 거예요. 그거 이외에 다른 거 없어요.
그런데 그렇게 낮아지다 보면, 세계관과 가치관이 바뀌기 때문에, 그 사람들의 행동양식이 변할 뿐이에요. 예전에는, 내꺼! 내 가족! 내 자식! 내 재산! 이런 거에만, 이 땅에 것에만, 집중하여 살던 사람이, 어느 순간부터, 그것들을 손에서 이렇게 놓아가요. 예?
그 베이커스 필드에서 오시는 그 분들! 그 중에 어떤 여자 집사님 한 분 계신데, 그 먼 거리에서 여러분 매주 오는 게, 쉽습니까? 저도 지난주에 애들 데리고 그쪽으로 휴가를 다녀왔는데, 가다, 가다 보니까, 거기 베이커스 필드가 있더라구요. 아니 여기서 매주 교회를 온다 말이야? 깜짝 놀랐어요. ‘미쳤다!’ 속으로…!
그런데 그분이 그래요. 자기가. 자기는 평생 이 주먹을 펴본 적이 없대요. 뭐든지 끌어 모아서, 내 이 손에서 나가는 건 없어야 돼요. 그 인생이, 자기 인생이! 어느 날 말씀을, 이 말씀 속에 푹 빠져있다 보니까, 이 손, 살이 펴져 있더라는 것이죠. 그때부터 이 펴진 손으로, 나누기 시작한 거예요. 그 사람도 행동양식이 변해요. 뭐 안 변해도 상관없어! 하나님께서. ‘야! 너는 어떻게 끝까지 그렇게 살다가, 넌 내가 은혜를 베풀지 않았으면, 어떡할 뻔 했냐?’ 그런 사람 있어요.
그러니까 공식화시켜서, 모든 사람이 다 그렇게 변할 거라고, 이런 생각은 하지 마세요. 또 속으로 안심도 하지 마시구요. 또 아이구, 괜찮다는 그런데, 분명 행동양식은, 그러니까 가치관이나, 이 세계관 그리고 이 지향하는 바, 이 지향성이 달라져요. 어떻게 세계관이 바뀌는데 가치관이 안 바뀌고, 어떻게 가치관이 바뀌는데 행동양식이 안 바꿔집니까? 바뀌죠. 많이 나누고, 많이 털어내고, 또 뭐 어려움에, 고난에 대처하는 자세나, 이런 것들이, 달라지죠? 옛날에는 감히 상상할 수도 없었던, 그런 반응들이, 내 안에서 나온다니깐요.
보시면은, 그러한 그 어린 양에 피를, 그러니까 우리가 증거 한다는 건, 늘 기념해서 산다는 건, ‘나는 예수의 은혜가 아니었으면, 큰일 날 뻔 했구나!’라는 것을, 나뿐만이 아니라, 사람들에게도, 이제 전하는 건데, 출애굽기 2장 23절에 보시면요, 하나님께서 왜 이스라엘을 건지려고 하느냐면, ‘그 아브라함과 이삭과 야곱에게 하신 언약을 기억하시고…,’ 그래요, 그들이 고생을 한 게 너무 안타까워서가 아니라, 하나님이 하신 약속을 기억하시고, 하나님이 잊어 버렸다가 그때 기억해 냈다는 게 아니라, ‘하나님에 언약에 의해 때가 되었으므로’란 뜻이에요.
그러면 신약에 나오는 ‘때가 차매, 때가 이르매, 아직 때가 되지 않아서,’라는 이 때가, 바로 이 때라는 거예요. 신약이, 신약에서, 이 구약이 이제 펼쳐지는 거거든요. 그러면 이 어린양이 예수였으니까, 바로 요 때에, 예수가 죽어야 되잖아요? 그런데 요 때가 언제냐면? 아빕 월 1월 14일 정월! 그러니까 성력! 1월 14일!
여러분, 그 예수님께서, 그 전에도 이미 죽을 고비를 여러 번 넘기시죠? 자기 고향에 가서 말씀 전하다가, 사람들이 벼랑에다가 밀어서 떨어뜨려 죽여 버리려고, 끌고 가다가, 그날이 안식일이기 때문에, 걸음을 합하여 걸음 보행수가 있거든요, 고거 고게 딱 걸려서, 이 사람들이 더 이상 못 걸어가서 못 죽인 거예요. 그래서 예수님이, ‘나는 어흐 괜찮치롱!’ 그러고 도망가거든요. 살았어요!
그 초막절 때에, 아니 초막절 같은 때, 그 동생! 동생들이 왜 이 시골구석에서, ‘당신이 메시아라면, 이 시골구석에서, 갈릴리에서…,’ 그 나사렛이라는 곳은, 그냥 이방 땅으로 취급했던 곳이에요. 그래서 이방의 갈릴리라 그러잖아요? 성경이! 그러니까 사람들이, ‘야! 나사렛에서 무슨 선한 것이 나겠느냐?’ 이렇게 얘기할 정도로, 시골 중에서도 시골이었어요. ‘왜 여기 묻혀 있냐? 뭐 중앙으로 나가서 한번 뽀대 있게, 네 능력을 한번 보여라! 그러면 사람들이 더 잘 따를 거 아니냐?’라고 이야기 했단 말이에요.
그런데 안 올라간다, 그랬어요. 근데 올라가요. 몰래! 올라가서, 거기에선 안 올라간다, 그래놓고, 올라가서는, 또 사람들과 논쟁을 해요. 또 초막절에 올라가서, 그런데 사람들이 그때 죽일라 그랬다 그래요. 그런데 ‘때가 이르지 않아서’라고 얘기를 해요. 때가! 그러니까 무슨 때를 기다리는 거냐면, 구약에서, 이 레위기에서, 그리고 출애굽기에서, 이미 정해진 그 때! 그 때가 언제예요? 유월절 정월 14일까지! 하나님께서 기다리게 하신 거예요. 그 정월!
그런데 보시면, 이 뭐 빌라도도 그렇고, 또 빌라도에 아내도 그렇고, 이 예수님을 살리려고 애를 쓰죠? 그런데 예수님이 오히려 뭐라 그러냐면, ‘네가 나 살린 게 아니고, 네가 나 죽이는 거 아니고, 하나님이 너에게 권세를 주셨으면…,’ 그 말은, ‘너를 지금 도구로 택하지 않았으면, 너는 나를 살리지도 못하고, 죽이지도 못해! 그러나 네가 나를 좀 살리려고 애를 쓴다고 해도, 나는 죽기로 되어 있기 때문에, 너는 나를 살릴 수가 없어! 그러니까 너 지금 하나님이 시키는 대로 해라!’는 뜻이에요. 그게 권세를 하나님이 주셨다는 뜻이거든요. 그러니까 스스로 죽는 거예요. 예수님이! 하나님이신 그 분이! 고 시에!
예수님께서 보통 사람들은 죽어야 고개가 떨어지는데, 예수님은, ‘테탈레스 타이 다 이루었다!’ 하고, 예수님은 스스로 고개를 숙이셨죠? 그러고는 숨이 영원이 떠나가셨다 그래요. 그건 스스로 죽었다는 뜻이에요. 예수님이 그 전에 그러잖아요? ‘내가 내 목숨을 취할 권세도 있고, 버릴 권세도 있다!’ 그랬잖아요?
그러니까 하나님이 고 때에, 딱 아빕 월 1월 14일! 유월절 저녁에, 죽이신 거예요. 이제 출애굽기에 보면, 그러니까 ‘해가 질 때에 양을 잡아라!’ 그러는데, 그 ‘해가 질 때에’라는 그 단어! 히브리어 단어가, 정확히 ‘두 저녁 사이’라는 뜻이에요. 그러니까 이런 그 내용들을 잘 모르는 분들은. 그러니까 성경이 얼마나 치밀한지를 잘 몰라요. 이 두 저녁 사이!
그러면 저녁이 두개가 있단 말인가? 히브리 사람들에게 저녁이 두개가 있어요. 12시부터 6시까지가, 첫 번째 저녁이고, 그리고 6시 이후로 나이트! 에프터눈이 첫 번째 저녁이고, 여섯시 이후의 밤이 두 번째 저녁이에요. 그러면 ‘두 저녁사이, 해질 때에 양을 잡아라!’라는 건, 열두시부터 여섯시 사이! 가운데라는 뜻이에요 몇 시에? 세시! 예수님이 몇 시에 돌아가셨어요? 6시에 돌아가셨어요.
3시에 십자가에 달리셔서, 아, 그러니까 3시가 아니라, 열! 그 아홉시에 달리셔서, 오후 3시에 돌아가셨어요. 그런데 12시부터 3시까지 흑암이 임했다 그래요. 그러니까 오후 3시에 정확하게, 구약에서 이야기한 유월절에 규례 그 방식대로, 예수님이 3시가 되자마자, ‘다 이루었다!’ 하고, 딱 떠나시는 거예요. 그러니까 구약 전체는, 신약에서 이렇게, 단 한 치의 오차도 없이 이루어진다는 것을, 성경이 보여주는 거죠.
그리고는 출애굽기에 보면, 유월절에는 절대로, 어린양의 뼈를 꺾지 말라 그래요. 그래서 예수님께서 미리 돌아가심으로 말미암아, 두 강도의 무릎을, 뼈를 꺾었는데도 불구하고, 예수님의 뼈가 꺾이지 않은 거예요. 한 치에 오차도 없이, 예수님에 삶 속에서, 유월절! 그 규례가 온전히 지켜지는 거예요. 그러니까 이렇게 구약과 신약에 뜯어 맞춰지지 않으면, 성경은 다 사기에요.
그런데 역사적으로도, 단 한 치의 오차가 없어요. 오죽하면 저 같은 회의론자가, 성경을 연구하고, 연구하고, 연구하다가, 결국 예수님 앞에 무릎을 꿇었겠습니까? 저는 돌다리도 두들겨 보고 건너는 게 아니라, 진짜 다 측량해보고 건넜던 사람인데, 사람이에요! 한 100번은 두들겨 보고, 넓이와 지름과, 높이를 다 재보고, 그 다음에 한발 내딛고 했던, 회의론자인데, 성경을 이렇게 깊이 연구하다 보니까, 이 역사가 이 성경 안에서 단 한 치의 오차도 없이, 전혀 우발성이나, 에드립 없이, 성경 안에서 다 꿰어 맞춰지더라는 거예요.
수없이 많이 읽었던 역사서! 과학! 또 인문서적 같은 그런 내용들이, 이 안에서 단 한치도 벗어나지 못하더라는 거예요. 그러니까 안 믿을 수가 없어요. 그런데도 그 세상의 알량한 지식 가지고, 여전히 기독교를 무슨 미신이라는 둥, 이런 사람들이 있어요. 그러니까 하나님의 은혜가 아니면, 똑같은 정보와 지식을 갖고도, 오히려 하나님을 외면하고 부정하고 그러죠.
그리고는 ‘이 유월절을 그 달에 첫 달이 되게 하라’고 말씀하시는 건, 이제 새 시대가 열린다는 뜻이에요. 예수 죽음으로 말미암아, 새 시대가 열리고, 새것들이 생긴다. 이렇게! 잠언에서 보면, 전도서에서 보면, ‘해 아래 새것이 없다!’ 그래요. 해 아래 새것이 없어요. 그러니까 그 말은, 새것이 왜 없어요? 신제품이 새 거죠? 그런데 그 새 거가, 그 새 거가 아니라, 성경에서 히브리 사람들의 새것이라는 것은, ‘카이노스’라는 뜻은, 그 새, 더 이상 새 새것! 새 새 새것! 이런! 그것 이외에 또 다른 새것이 없을 때 쓰는 단어에요. 새것! 그러니까 해 아래에는 새것이 없어요. 해 위의 하나님 나라에서, 새것이 내려와서, 새것을 창조해야 돼요. 그래서 해! 곧 해 아래 새것이 없다는 뜻이에요.
그런데 바울 서신서에 보면, 우리를 새로운 피조물이라 그러잖아요? 그러니까 새것이 생긴 거죠. 어떻게 생겼어요? 예수님의 십자가 피로 말미암아! 그러니까 여러분, 이 세상 속에서 딴 거 할 거 없어요. 예수님의 피! 그 은혜! 그것이 무엇인지를, 증명하고, 그리고 드러내는 그 역할을 하면서 살다 가시면 돼요. 인간의 의(義)나, 가치나, 이런 것을 챙겨서, 저 어저께 참 창세기를 이렇게 보다가, 로마서 그 강해! 죄론을 이제 시작해야 되는데, 18절부터 인간의 죄가 그냥 뭐, 한 3장에 걸쳐서 쫙 나열된다고요.
그래서 바벨탑 사건을, 창세기를, 요렇게 그 와중에, 이 편두통에 시달리면서, 창세기를 탁! 바벨탑 사건을 보는데, 참 어쩌면 그렇게, 해아래 새것이 없다는 게, 지금 우리 인간의 모습과, 그 바벨탑 사건의 현장에서의 인간의 모습과, 에덴동산에서의 인간의 모습! 선지서에 나오는 그 수많은 인간들의 모습! 오늘 우리가 공부할 사사기에서의 그 레위인들! 단 지파 사람들! 에브라임 사람들! 이런 사람들 모습이, 어쩌면 그렇게 똑같은지 몰라요. 뭐 전부 ‘나’에 집중된 거예요.
하나님은 역사 속에서 그거 깨시는 건데, 그런데 우리는 오히려, 여기에서, 내가 선악과 따먹은 하나님처럼 된 자이므로, 내가 우리 인간들이 합의하고 결정해 놓은 도덕과 윤리와 사회법들을 잘 지켜서, 어떻게 하면 다른 사람과 차별된 훌륭한 사람으로 존재하고 군림할까? 에만 관심이 있어요.
그리고 사도 바울이, ‘너희들 누룩을 버려라!’라고 이야기 했잖아요? 이거 무교절에 나오는 건데, 누룩이 들어가지 않은 떡! 다음시간에 무교절에 대해서 공부할 텐데요. 누룩이라는 게 뭐냐 하면? 인간들의 의(義)를 이야기하는 거예요. 야! 하나님의 의(義) 말고! 그러니까 우리의 의는 예수 그리스도에 피로 말미암아 거저 주어지는 거라고, 사도 바울이 하여튼 수백 번을 이야기 하죠?
그러면 그 어린양의 피라는 의(義)! 그 의에 의해 침공을 당해, 어떻게 하여 불가항력적으로 의인이 되어버린 나! 그러니까 그 하나님께 영광을 돌리고 찬송하고, 그 분께 모든 공로를 돌리는 이런 것이, 이제 성도가 이 세상에서 해야 할 일인데, 그 자기 의를 갖고 자꾸, 그 다른 사람과 비교하고, 여러분 그렇게 비교를 하다 보면요, 사람을 자꾸 외모로 취급하게 된다니깐요. 외모로 평하게 돼요. 어떻게 안 돼요? 그게! 인간에 행위를, 행위가 가치가 있는데, 어떻게 모든 사람이 다 긍휼에 젖은 사람처럼 보입니까? 아니죠. 난사람이 분명히 있다니깐요. 행위를 기준으로 보면!
그래서 야고보가 그러는 거예요. 어떻게 사람 외모로 취급하냐? 그거는 돈이 많고 없고 이거 이야기하는 게 아니에요. 아무리 착한 사람도, 하나님의 긍휼이 없으면, 지옥 가는 거고, 아무리 못된 놈도, 하나님의 긍휼이 임하면 천국 가는 거예요. 그걸 주관하시는 하나님을 배우는 게, 기독교지! 내 이제 예수 믿었으니까, 누가 이제 더 착하게 사는가? 이거 경쟁 경주하는 게 기독교 아니라니깐요. 그런데 사람들이 이걸 이해를 못해요.
응 오늘 새벽에 보니까, 이제 삼일교회! 그 웹 관리하는 그 웹 마스터가, 어디 무슨 경영학과 교수님이에요. 거기다가 컴퓨터 사이언스를 공부를 한 그런 분인데, 제가 지난번에 삼일교회에 가서 설교를 하고 오면서, 왜냐 하면? 그들이 배웠던 교리와 신학과는 완전히 다른 이야기를 했기 때문에, 얼른 뒷문으로 빠져서 도망 나왔죠. 그 집사님이 오셨는데 보지도 못하고, 그냥, 그냥 왔는데!
그런데 그분이 그러는 거예요. 이메일이 왔는데, 자기가 어제 삼일교회 사표를 냈다고 그러더라구요. 이유인 즉슨, 우리 교회는 복음을 전하는 교회가 아니라는 걸 알게 됐다는 거예요. 여태까지 어, 그 삼일교회가 시작된 그 때부터, 지금까지 거기서 신앙생활을 하면서, 어 수많은 책들을 읽고, 또 수도 없는 선동을 당해왔고, 그래서 자기가 그렇게 바쁜 교수 자리에서도, 웹 사이트를 다 관리했대요. 혼자! 거기 한번 들어가 보면, 얼마나 복잡한지 몰라요. 그 뭐 하나 찾으려면 아주 그냥 …!
그런데 그 … 이제 제가 그 교회 가서 설교하고 돌아오면서, 자기가 도대체 저 사람은 여태까지 듣지도 못한 이야기를 하는데, 그런데 자기 마음에는 그게 맞는 거 같더라는 거죠. 그래서 그때부터 이제, 저희 웹 싸이트에 들어와서, 설교를 듣기 시작했다 그래요. 쭉 하나, 하나 듣다 보니까, 아! 자기는 예수를 여태껏 잘못 믿었다는 생각이 들었다.
그래서 웹 마스터임에도 불구하고, 다른 분들에게 저희 교회 웹 사이트를 막 인제 다니셨다고 그래요. 들어보라고! 그랬다가 자의반 타의반으로 짤린 거죠. ‘너는 우리 교회하고 안 맞는다. 나가!’ 이렇게 된 거죠. 그러더니 본인이 어떤 웹 싸이트 하나 만들어서, 삼일교회 그 웹 사이트처럼, 저희 교회 알리겠다. 그래서 제가 ‘오우 노!’ 답장을 했어요. 그러지 말라고! 어 엔티들을 더 이상 만들고 싶지 않아요.
여러분, 사람들은요, 자기의 가치들을 이렇게 살살살살 긁어서, ‘너희들은 할 수 있어! 평안해! 안전해! 잘하고 있어!’ 무지 좋아해요. 특히 젊은 애들은요, 그렇게 해 주면 벌떼처럼 와요. 제가 남서울교회 갔더니, 거기 청년들이 하나도 없어요. 어디 갔느냐? 그랬더니, 다 삼일교회로 갔다고. 흐흐 남서울교회 곧 달랑 하나고.
그런데 삼일교회서는, 막 그냥 약장사들처럼, 팀장들이 있어서, 뭐 시키지도 않는데, 막 그냥, 울진선교! 통영선교! 자기들끼리 막 다녀! 자기들 돈 내서, 돈도 엄청 많아요. 그러면서 거기에서 사람들의 그 의욕을, 막 불사르게 해주는 거예요..
아이고! 그런데 자기들이 올바른 예수를 모르는데, 여러분 무슨 선교를 한다는 건지 모르겠어요. 어떤 예수를 전하려고요? 이렇게 열심히 하면, 고지 꼭대기에 올려주고 복 주는, 그런 하나님? 그런 하나님은 어디 있습니까? 구약의 하나님이잖아요? 그거는! 응? 복! 복! 복! 이건 구약에서 끝났다니깐요. 왜냐면? 복의 그 실체가 아직 오기 전이기 때문에, 이 세상에 있는, 인간들이 가장 좋아하는 그 복이라는 것으로 설명해 주기 위해, 구약에서는, ‘지키면 복 받고, 안 지키면 죽는다!’라고 그림책처럼 설명해 준거예요
만약에 여러분이 지금도 신약시대에 와서도 복! 복! 복! 한다면, 지금 여러분 예배드리러 올 때, 양 한 마리씩 끌고 와야 돼요 응? 그럼 저는 장갑 끼고 여기서 잡아야 돼! 완전히 그 푸줏간 주인처럼 제사장 노릇 해야되니깐요. 제가! 그렇잖아요? 그런데 그건 안 하면서, 구약에서 이미, 아니 신약에 어디에, 예수님 말, 예수님 잘 믿고 착하게 살면 복 준다는 말이 어디 있어요? 신약에, 복 설교할 때, 신약에 있는 내용 갖고 설교하는 사람 보셨어요? 없어요! 아무리 찾아봐도요! 여기는!
그리고 구약에서도, 복은, 시편에 보면, 하나님께서 너희들에게 복 주셨는데, 그 복은 영생(永生)이다. 그러잖아요? 그런데 인간들은 이 역사 속에서, 자기들의 가치를 챙겨야 되기 때문에, 자기들의 행위를, 복과 이렇게 맞바꿨어요. 무슨 엿장수, 엿장수한테 가서, 고무신짝 갖다 주고서, 엿 받아먹는 사람처럼! 자기들의 삶과 행위와 열심으로, 그 복을 맞바꿔 먹으려고 하고 있는 거예요. 이런 기독교가 없다니깐요. 여러분!
그런데 한국 기독교 100년이, 전부 그 얘기만 해왔다고요. 여태까지! 그리고 전 세계의 기독교가, 그 방향으로 이제 달려가는 거죠. 하나님은 놔두시는 거예요. 다 죽이겠다는 거예요. 이게 쓰레기장이지, 무슨 교회입니까?
그러니까 인간의 가치를 자꾸 이렇게 챙겨 갖다 보니까, 지옥도 없다! 하나님은 모든 자를 다 구원하신다! 왜? 인간은 소중하니까! 그죠? 지난주인가, 지지난주인가, 미국의 어떤 대형교회 목사가, 공개 장소에서 지옥은 없다! 그래서 뭐 문제가 된 일이 있었는데, 그러면 무슨, 예수를 왜 믿어요? 예? 지옥이 없는데…. 여러분, 예수 왜 믿습니까? 야! 난 정말 지옥이 없다면, 오늘 당장 가겠네. 예? 아무 때나. 그냥 지옥이 없는데. 예수를 왜 믿어요?
있습니다! 여러분! 단지 여러분이 생각하는 그런 류의 지옥이 아니어서 그렇지, 그건 불교에서 나오는 지옥이거든요. 불이 뭐 활활 타고 이런 거는! 그런 동양사상에 영향을 받아서, 기독교의 지옥이 자꾸 그렇게, 뭐 불이나 소금치 듯 떨어지고, 혓바닥을 뽑고, 눈알을 뽑아서, 막 야차들이 그냥 저글링을 하고 있는 모습으로 알고 있는데 … !
아니, 여러분! 이 세상에서 그 지옥을 경험하셔야 돼요. 여러분! 차라리, 지옥을 경험해 보면요, 차라리 내 눈알을 뽑고, 내 껍데기를 벗겨라! 그리고 나한테 신나를 뿌려서, 나를 태워! 차라리! 이렇게 사는 것 보다는, 그게 낫겠다! 라는 데까지, 여러분이 경험해 보지 않으면, 여러분 진짜 지옥이 뭔지 모릅니다.
여러분, 하나님에 은혜가 떠난 피조물이라는 존재! 그 없음의 자리가, 얼마나 처절한 자리인지를 이 세상에서 이렇게 경험하지 못하면, 여러분은 동화에 나오는 그런 불이나 활활 타고, 아이고! 뜨거워서 아파서 어떻게? 이런 우스꽝스러운 지옥이 무서워서, 예수 믿어주는 거예요. 그건 예수 믿는 거 아니에요. 내가 당할 육신적 이 고통이 무서워서, 나는 예수 믿어준다 아니라니깐요. 그거!
예수가 없는 피조물이라는 건, 이렇게 처참하고 아무것도 아닌 것이기 때문에, 예수가 나를 건져줬다는 게, 얼마나 감사한 것인지, 이게 자각이 되어 있는 거, 그냥 살아있는 걸, 예수 믿는다, 그러는 거지! 어휴! 나중에 그 뜨거워서 어떻게 참어! 어휴 그냥 예수 믿고 말지! 교회 나가주고 말지! 이게 예수 믿는 거 아니에요.
따라서 여러분은, 이 성소에서, 교회 안에서, 먼저 심판을 당해야 된다니깐요. 역사 속에서! 그래야 영원 속에서 예수님이, 나와 함께 계셔 줘야만, 나는 비로소 행복할 수 있구나! 그러고 그분을 안 놓는 거예요. 아주 뚜들겨 패도 안 놓는 거예요. ‘나 이거는 못 놔요. 딴 건 다해도 난 이 예수님 다리만큼은 못 놓겠어요!’라고 쫓아 올라가는 거예요. 그래서 예수님을 천국으로 쫙 끌어 올리실 때, 그 다리 붙드는 놈들만 살아나는 거예요
그래서 고린도서에서 바울이 그러는 거예요. 예수 첫 열매를 끌어 당겼더니, 그 밑에 줄줄이 따라 올라오는 자들이 있더라고 이야기 하는 거라 말입니다. 그런 맨 인간들이 중심이 되니까, 아휴, 나 아플까봐 무서워서, 그리고 인간들이 좋아하는 것들이 가득 채워진 곳이 천국인 줄 알고 말이죠? 그리고 그 천국을 이 땅에서 미리 좀 당겨서 살겠다고, 그러고 있고.
성도는 이 세상에서 천국을 당겨서 못 살아요. 지옥을 먼저 산다니깐요. 지옥이어야 돼요. 그래서! 예수 믿으면서 우울증 한 번 안 걸려 본 사람은, 그 사람은, 지옥 못살아본 사람이에요. 예수 믿었더니, 늘 기쁘고. 늘 행복하기만 하고, 그 사람 미친 거예요. 예수 믿는 게 아니라! 응 정신이 나가면, 사람들이 그냥 계속 히죽 히죽 웃고 다니잖아요? 누가 예수 믿으면…?
소망으로 말미암아, 고난이 견뎌지는 거지, 고난이 그냥 미친 사람처럼! 어휴, 어떻게 맞아도 아프지도 않고, 이렇게 자식이 먼저 죽었는데도, 이렇게 기쁘기만 하고! 그런 쇼 좀 하지 마세요! 어떻게 사랑하는 부모가 죽었는데, 아! 나는 그 장례식장에 가서, 정말 토할 뻔했어요. 잔치집이라고 자식들이, 히죽 히죽 웃고 앉아 있어요. 어떻게 자기가, 자길 낳아준 부모가, 역사 속에서 자기를 떠나는데, 그 앞에서 히죽 히죽 웃고 앉아 있습니까? 신앙으로 자기는 그렇게 이 역경을 이길 수 있다고, 그건 평소에 자기 엄마, 아버지 빨리 죽기 바랐던 놈들이지, 그게 어떻게 부모가 돌아가셨는데, 그 앞에 히죽히죽 웃고 꽹과리 치고 앉아 있어요?
그런 거 기독교 아니라니깐요 그냥 처음부터 연극들을, 자기 인간들이, 내가 얼마나 훌륭한 신앙인인가? 라고 자꾸 이렇게 남들에게 쇼 오프(show off) 하려고 하다보니까! 그 자리! 그 엄숙한 성도에 죽음에 자리 앞에서, 연극들을 하는 거예요. 하나도 안 슬프다고! 기쁘다고! 잔치집이라고! 어떻게 초상집이 잔치집입니까? 그 정도 신앙이 있다는 거죠. 자기들은! 아니에요. 그 자리엔 통곡하고 우셔야 되는 게 맞는 거예요.
여러분, 성경은 역사적으로 다 일어난 일들이, 한 치에 오차도 없이, 기록되어 있는 거예요. 그리고 그것들이 우리의 삶 속에서, 그대로 벌어지는 것들이에요. 그렇다면 여러분이 도대체 내 삶이 뭐고, 내 인생의 목적이 무엇인지 알기 위해서는, 당연히 여기에 관심을 가져야 되는 거 아닙니까? 아니 세상에! 예배드리러 왔다가, 잠깐 앞에서, 이제 서론 하는데, 집에 가고 이런 사람들 보면, 난 그 왜 온 거예요? 도대체 무슨 일하러 온 거예요? 아니면 목사 얼굴 도장 찍으러 온 거예요? 그런 사람들 있더라고요. 왔다 그냥 가. 집에!
그리고 수시로 전화 받으러 나가고. 아니, 그 놈의 화장실은 왜 꼭 예배시간에만 가야 돼요? 걸핏하면 안 와! 여러분의 인생이 여기 안에 다 들어가 있어요. 그리고 역사의, 이 실체가 이 안에 그대로 다 들어있습니다. 이거 없이는 여러분이, 그 지옥을 견뎌낼 수 없다니깐요. 그러니까 지옥들을 안 살고 있는 거예요. 그러니까 절박함이 없는 거예요.
그 분! 삼일교회 그 분! 웹마스터가 그러더라구요. ‘아! 내가 오랫동안 끊었던 술을, 감자탕 집에서 지금 소주한잔 하고 있다고!’ 저한테! 내 이 역사와 인생의 실체를 알고 나니까, 도저히 맨 정신으로 이렇게 살아 있을 수가 없다는 거죠. 그런 마음이 우리 안에 들어야 돼요. 보이는데, 그 동안 몰랐는데, 여기가 내가 앉아 있는 곳이 회칠한 무덤이었어요. 시체 썩는 물이 줄줄 흐르고, 더러운 냄새가 막 풀풀 풍겨! 그런데 어떻게 똑같이 살아요? 옛날이랑? 아파야죠. 고민이 되어야죠.
그리고 여기에서 어떻게 빠져 나가야 될까를, 내 마음속에서 스트러글(struggle)하면서 찾아야죠! 그러면, 그게 죽을 때까지, 우리가 공부해야 될 게, 이 말씀이거든요. 그 내용이 여기 다 들어가 있는 거니까!
그런데 그냥 교회 안에서, 맨날 무슨 뭐, 행복한 부부세미나, 뭐 아버지학교, 어머니학교, 이런 거나 하고 앉아 있으니, 어떻게 해서든지 이 무덤 속에서, 난 행복하게 살고야 말리라! 이 무덤을 깨끗이 치워서, 지상천국을 만들리라! 이러고들 앉아 있어요. 무덤을 개혁하자! 개발하여, 훌륭한 지하요새로, 벙커로, 만들겠다고 하고 있는 게, 오늘날 교회 아닙니까? 우리의 모습이기도 하고!
여러분, 예수 믿으셔야 돼요 인방과 문설주에, 예수의 피 발라서 겨우 살아난 자들이, 우리란 말입니다. 난 이 세상에서 뭘 하면서 살아야 되는지는, 이제부터 우리가 고민해 봐야 할 거 아닙니까?
さあ、レビ記23章6절からお読みしましょう。
(レビ記 23:6-8)
6 この月の十五日は、主の種入れぬパンの祭りである。七日間、あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。
7 その第一日は、あなたがたにとって聖なる会合の日である。あなたがたはいかなる労働もしてはならない。
8 七日間、あなたがたは主に火によるささげ物をささげなければならない。第七日は聖なる会合の日である。あなたがたはいかなる労働도してはならない。
さて、過ぎ越しの祭りについては勉強しました。二番目の節気が「種入れぬパンの祭り(無酵節)」ですね。15日です!14日が過ぎ越しの祭り、正月14日であり、15日が種入れぬパンの祭りですが、実はイスラエルのその一日は夕方から始まって夕方に終わるため、曜日をこのように、今の私たちの太陽暦を使って決定するのは非常に大変です。ですから、イエス様は木曜日に亡くなられた、金曜日に亡くなられたと、ジェームス・ボイスのような場合は「木曜日だ!」と主張していますが、そんなことは何の役にも立たない論争です。いいですか?
なぜヘ브ライ人の一日が夕方から始まるのかというと、創世記1章の創造の日が「夕があり、朝があった」となっているでしょう?つまり、その言葉は、この日をはじめとする創造に属するすべてのものが、混沌と空虚から、その枠組みと内容物として完成される、このような「新しい創造」!新しい創造の「無」から「有」へ、「夜」から「昼」へと、神様が成し遂げられる救済事業の模型であることを示すために、「夕方から朝へ」と一日が表現されているわけです。いいですか?
ですから、なぜそれほど曜日を重要に人々が考えるのか分かりませんが、聖金曜日だの何だの、受難週だの、復活主日だの、そんなことは知らなくてもいいです。皆さんの毎日の生活の中で、皆さんが知っている福音の中で、そのようなことが私たちの中ですべて享受されており、また感激の中でその福音が理解されているのに、何曜日にイエス様が亡くなって生き返られたのかが、何の意味があるでしょうか。ともかく、種入れぬパンの祭りは、正月14日の午後3時、「二つの夕方の間」の午後3時にイエス様が死なれます。羊が死ぬのです。「小羊をその時に屠れ!」と言われたからです。「二つの夕方の間に屠れ!」と言ったでしょう?
ですから、日が暮れる時、その時点から始まって種入れぬパンの祭りが始まります。それは聖書が語っていることです。ですから正確に言えば、その14日の午後3時からが「種入れぬパンの祭り」です。私たちが考える「夕方」という概念も曖昧なので、いつが一日の始まりで、いつが一日の終わりなのか、よく分かりません。そんなことは実は重要なことではありません。「正確に夕方6時から翌日の6時までが一日だ」と、人々は時間を守らなければならないのでそのように決めましたが、聖書で言う「夕方から夕方まで」は、正確に6時から6時ではないのです。いいですか?
ともかく、このように過ぎ越しの祭りと種入れぬパンの祭りは噛み合っています。なぜ噛み合っているかというと、イエス様の死がまさに私たちの死と繋がっていることを見せるためです。聖書をよく見ると、朝にすべては探し出しませんが、種入れぬパンの祭りにすべきことは何だと言っていますか?「家の中にあるパン種(酵母)をすべて外へ出せ!」ということです。捨てはしませんが、外に出すのです。家の中にパン種があってはいけません。
パン種とは、すなわち人間の罪、自分の義、人間たちの熱心、努力、このようなもの。律法主義、成功主義、高地論、これらすべてが「パン種」です。パン種!それを門の外にすべて出さなければなりません。出しておいて、パン種の入っていないパン!昔の麦の粗末な餅(ケトク)を思い出してください。パン種の入っていないパンは、人間が食べられるようなものではありません。ある面ではパン種が入ってこそ柔らかくなり、うちのウムソクがパンを上手に作りますが、このパン種が入ってこそパンはパンらしくなるものなのに、そのパン種を入れずにパンを作って、三日間、地に埋めておかなければならないのです。
そして、埋めておいたものを取り出してまた食べなければなりません。なぜそんなことをさせたのでしょうか。新約におけるイエス・キリスト、そしてそのイエス・キリストの中で救われる聖徒の人生の中で、そのまま起こることを、旧約でこのように数千年前に、すでに約4,000年前、3,500年前ですね、これはモーセが書いたものですから。その時すでに私たちの人生とイエスの人生を、神様がこの律法の中に記録しておかれたのです。
さあ、小羊が過ぎ越しの祭りに死にます。その過ぎ越しの祭りに死んだ小羊。その小羊を食べて、その長子たちが、エジプトの長子たちがすべて死ぬその時間に、エジプトの中にいる神様が選んだ「面目ない者」、すでに「エジプト化」してしまった者。400年エジプトで暮らしたということは、皆さん、400年ですよ!今のアメリカの歴史は200年しかありません。それなのに、戸籍に「黒人」と書かれている人が、白い白人である場合があります。なぜだか分かりますか?
皆さん、人間というのは三代も経てば、血が混ざれば人種自体が曖昧になります。だから明らかにこの人は黒人だと言われているのに、白い人がいるのです。ユダヤ人たちがわずか数百年、外へ、ディアスポラとしてパッと散らされた後、このように白人のように変わったのです。顔は本来、みんなオサマ・ビン・ラディンのような顔です。ユダヤ人は。パレスチナ人なのですから。それなのに西洋人になったでしょう?ユダヤ人が。
今も同じです。400年エジプトに入って暮らしました。エジプトで生まれ、エジプトの文明の中で、エジプトの文化の中で、エジプトの学問を学び、彼らがそこで神様に仕え、そこに祭壇を築いたと思いますか?いいえ、エジプト人のように生きました。では400年そのように暮らしたのなら、今皆さんがアメリカで数十年住んだだけでアメリカ人であるように、その人たちはエジプト人なのです。神様がただのエジプト人にされたのです。
神の国で完成されていた神の民を、この世に送って「世の人」にされたのと同じことなのです。皆さん、今は世の人です。神の国の民であるにもかかわらず!しかし、神様がこのようにされたわけです。ではなぜこのようにされたかというと、「もしここで神様があなた方をただ本来の『死んだ土』のままにしておいたら、どうなるところだったか」を、死んだ土の姿を通して学び、経験するためです。
ですからエジプトで、彼らがエジプトにあまりにも馴染んだ人として、400年間変化したのです。神の、本来は神の民なのに、アブラハムの血が流れる神の民であるにもかかわらず、このようになったのです。ですから、みんな死ななければならない「同じエジプト人」です。
ところが、神の約束!その約束を受けたアブラハムの血。それは「約束の血」です。その約束の血が流れているという、たった一つの理由のために、同じ人間であるにもかかわらず、ある者たちは羊の肉を食べており、その時間に羊の血を塗って羊の肉を食べていたのです。そしてある人々は、ただ死の神によって滅ぼされていました。まさにその時、同じ時間に!
そのように血を塗り、その肉、羊を、小羊を食べた者。つまり「イエスを食べた者」という意味です。小羊を食べた者たちが、エジプトの長子が全員死ぬその時に、イエスが十字架で釘打たれて死ぬその時間は、すべての「アダムの群像」がすべて死ぬ審判の現場でした。すでに審判は起こったのです。だから「この世の人々は皆死んだ!」と言うのです、聖書で。皆死んだのです。これから永遠の死へと皆入っていくでしょう。
ところがその中で、その小羊の血と関係のある者たちがいるので、彼らが今生き返ったのです。しかし彼らに、そのように皆死に、長子たちが皆死ぬやいなや、パロ(ファラオ)が「出て行け!」と言います。「出て行け!そう、出て行け!お前たちは本当に縁起が悪い。お前たちが行くところには災いが起こるから出て行け!」と言います。「出て行って、お前たちの神に仕えろ!」
ところが何と言っているかというと、出エジプト記12章から14章までがすべてその話なのですが、「パン種の入っていないパン」!なぜなら今すぐ逃げなければならないのに、パン種で小麦粉を発酵させ、パンを焼く時間がないのです。だからパン種の入っていないその「無糖パン(種入れぬパン)」を持って急いで出るのです。ですから「無糖パン」ということ自体にどんな意味があるかというと、「私もそこで死ぬべき者なのに、神様が小羊の血で、小羊の恵みで私を生かしてくださった」ということを見て、記念することなのです。実際の私の人生の中で、これが起こります。「私は死んだ者なのだな。しかし恵みによって生かされた者なのだな!」
ですから、聖書が種入れぬパンを「苦難のパン」と言います。なぜなら、その種入れぬパンということ自体が、聖徒の人生だからです。だから味がしないのです。聖徒の人生が「私は死んだ者であるということ」!しかし、なぜ死ななければならなかったのか、なぜ死ななければならなかったのかを、皆さんが荒野の人生の間に経験するのです。だから種入れぬパンなのです。それが「苦難のパン」です。それでその種入れぬパンを持って、いよいよ紅海の前に向かいますね。紅海の前に着いて、イスラエルがすぐにモーセに指を指して詰め寄りますよね。「エジプトに墓場がないから、私たちをここへ連れてきたのか?」と言いながら、神様に不평を言った、叫んだと言います。
皆さん、聖書がイスラエルを「神の軍勢」と言いますね。そうでしょう?しかしその軍勢と言いながら、紅海の下にエジプトの軍勢を沈めて殺します。その言葉はどういう意味かというと、コリント人への手紙第一10章2節が、イスラエルが紅海で、雲と海の中でバプテスマ(洗礼)を受けたと言っていますね。ところが、コロサイ人への手紙2章12절に行くと、そのバプテスマとは何かというと、「イエスと共に死に」と語っています。「葬られた」と語っているのです。
ですから紅海とは、イスラエル!エジプトの中にいたエジプト化されたイスラエルの中のその「罪」!エジプトが紅海の中に沈んで死ぬのです。それが「エジプトの軍勢が死ぬ」ということです。同じエジプトなのですよ。イスラエルがエジプトなのですが、彼らが紅海を渡り、わざわざ出エジプト記12章を見ると、神様が「あえて紅海へ連れて行った」と言います。近道があるのに、神様が導かれたと言っています。なぜ?殺すために連れて行ったのです。あえて紅海を渡らなくてもいいのです。なぜなら、上に陸地がありましたから。ただ横に行けばいいのです。地図を見ればお分かりでしょうが。
ところがわざわざ下へとずっと連れて降りてきて、紅海を渡らせて荒野へ送られるわけです。そこで殺すということなのです。だからバプテスマなのです。ですから聖書を全体的に繋げて見なければ、聖書はただの物語の本になってしまいます。ですからコロサイ人への手紙2章12절を見ると、そのバプテスマが死であり、葬りなのです。その言葉は、イスラエルが紅海で死んだという意味です。
しかし何が死んだのでしょうか。エジプトにいた、エジプト化されたイスラエルの中の「エジプト」が、紅海で葬られ、そしてカナンに住むにふさわしいイスラエルとして再び生き返るのです。それが葬りです。それが十字架で死ぬことであり、復活することなのです。ですから、それが「埋められること」です。埋められること!
皆さん、40마일(マイル)を、紅海がずっと分かれたその距離は40マイルなのですが、それを荷車を引いて荷物をすべて背負い、子供を連れ、牛を引いて40マイルを歩くには三日かかります。皆さん、紅海の事件は、私たちが、イスラエルが、イエス・キリストのあの「墓の中の経験」をあらかじめ先取りして経験したのです。死ぬのです。「イエスがまさにあなた方をこのように、このように生かし出すのだ!」ということを、イスラエルが先取りして経験していくわけです。だから沈んで死ぬのです、そこに。だからそれほど苦しいのです。
ですから、その生がずっと繰り返されるのが、まさに皆さんの人生なのです。「私はなぜ死ななければならなかったのか。え?私はなぜイエスの中であのように死ななければならなかったのか」ただ見てください。不平というのは、「私には生きる価値がある!そしてそれだけの尊い存在だ!」という前提があるから不平があるのです。ですから種入れぬパンやマナなどを与えられれば不満が出るわけで。しかし、もし自分が「死んだ者」!「無」ということが、自分の中で本当に掌握されている人に、何の不平がありますか。死んだ者に!
ところが教会の礼拝堂の中を見ると、みんな不平!自分の現実に満足している人は、一人もいません。つまり「私は生きている!」ということでしょう。「私は生きている者だ!」だから不平を言う資格があると思っているのです。違います!皆さんが最も凄惨な境遇に置かれているとしても、皆さんはその時、感謝しなければなりません。それは生きているということでしょう?まだ息があるじゃないですか。死ぬべき者が、せめてその場所にそのように!
たまにこのように、教会員の臨終の時に行ってみると、ただ生きたくて、「犬の糞の畑に転がってもこの世が良い」と言うでしょう?何とかしてただ生きさえすれば、あと6ヶ月だけ長く生きられたらいいのに、という人もいます。見てください。そのように死を前にしては、「ただ犬の糞の畑で転がってもいいから、6ヶ月だけ長く生きさせてください!」というような叫びがあるでしょう?
ところが皆さんは明らかに、そのようにもうすでに死ぬべきであり、その死んだ者なのに、せめて今、何かを考え、イエスの話を聞いており、イエスを賛美し、祈りを捧げることができるというこの事実自体が、皆さんにとっては感謝にならなければならないのに、「自分が死んだ者だ」という前提、これを認めないから、四六時中、人生への不平、不満、ただめそめそ、めそめそして。違いますか?自分の夢と野望があるのです。「私はアダムのように生きたいから!神様、今すぐ善悪の知識の木の実を出してください!」と座り込んでいるのです。みんな。
「種入れぬパンの祭り(無酵節)」というその単語。ヘブライ語をそのまま、原語通り直訳して翻訳すると、三つの単語が合わさったものなのですが、「記念日」また「その(定冠詞)」、「埋めた、葬った」。この三つの単語が合わさった単語が「無酵節」です、ヘブライ語の原語で見ると。韓国語で「無酵節」と言っていますが、つまり「その」という単語、その冠詞が何なのか。その無酵節、その中で、ただその意味だけで解釈すれば、無酵餅(種入れぬパン)ですね。そうでしょう?種入れぬパンを埋めておいたことを記念することですから。
ところが、見てください。新約に移れば、イエス様が「私がパンだ!」とおっしゃるでしょう?そして「私を食べなさい」と言っておいて、そのパンが三日間埋められるのですよ、地に。その三日、地に埋められるそのパンが、今度は再び出てきて、それを聖徒が食べるのです。それが無酵節です。レビ記に出てくる無酵節。
ですから旧約もすべてただイエスの話です。律法の話、このようなものはすべてイエスの話なのです。ですから皆さんは聖書を読みながら、聖書から教訓を得ようとしたり、箴言や伝道者の書、このようなところからも教訓を得ようとしたり。違います!皆さんは聖書を「真理」として読まなければなりません。そうでしょう?これらはすべて真理です。そうです。ふむふむ。最初からまたやり直さなければならないかな?真理ですよね、聖書は。
真理というのは何ですか?「トゥルー・シング(True Thing)」という意味です。「実体」。約束の実体が。つまり実体がこれが真理。ですから真理は変わってはいけません、実体というものは。模型は常に変わりますが、変わってはいけません。そうすると、自然だの宇宙だの理念、思想、遺物、物質、すべて変わります。これらは。そうでしょう?変わらないのは神様だけです。イエス!ではこの真理というのは、イエスということです。
では箴言の「保証人になるな」というこれ、どう受け止めるべきですか?保証人になるな。これは真理ですか?保証人になってはいけないのですか、本当に?「私の兄弟を愛せよ」と言ったでしょう?愛せよと言ったでしょう?ところが愛、いや「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と言ったのに、あんな程度の保証が問題ですか?どのように読むべきなのですか、あのような箴言などは。
皆さん見てください。私たちは「保証は兄弟間でもするな」という、このように非常に利己的な、自分の兄弟の保証も立てないような者たちの……保証とは何ですか?「あいつが返せなければ私が返す」というのが保証でしょう?イエスが、「お前たちはそのような存在だが、お前たち、お前たちが死んだ土であり、創造主であるあの方が、死んだ土のようなお前たちの保証人となって、この地に降りてこられた」と見なければならないのです。
ですから聖書を倫理や道徳、社会浄化や社会改革、このようなものとして見るのは、すべて見間違えです。これらはすべて思想にすぎません。「それは呪いを受ける」と言ったでしょう?では法華経のようなものを見ると、この聖書の「山上の垂訓」の内容とほぼ90パーセント以上のシンクロ率で一致します。では法華経も聖書の真理ですか?え?仏教の経典もこの聖書と同じ価値を私たちが付与しなければならないのですか?違うのです、皆さん!
聖書をそのように「道徳の本」「倫理の本」として見てはいけません。ですからガンジーのような人も、「私も聖書を知っている」と言って。朝起きてから真っ先にしたことが、ヒンドゥー教の経典があるにもかかわらず、あの人はマタイの福音書を開いて読みました。死ぬまで。しかし、彼は神を信じてはいなかったのですよ。では何として見たのでしょうか。
聖書を、あの「山上の垂訓」ほど、それほど鮮明で、それほど明快な「倫理綱領」はこの世にない。だから聖書を倫理の本として見たのです。「だから心が清くなければならない」と、ただひたすら清く磨いたのかどうしたのか、ともかく「心の貧しい者は幸いである」、どのように理解したのでしょうか。「憐れみを施さなければならない」。山上の垂訓が、それを守れと私たちに与えられたものですか?そうではないではありませんか。ですから「耳のある者」だけが聖書を聞くことができるのです。
ですからイエスによって解かれないと、そのようにイエスによって一つひとつ解かれていくと、皆さん、レビ記がどれほど面白いですか。え?このレビ記の講義を私は以前、昨年にやろうとしたのですが、教인たちがみんな出ていってしまうかと思って、はは、ぐずぐずしていましたが、後で年を取ったらやろうと。つまり安定したら。あまりに面白くないから。でも、これをやると本当に面白いです、このレビ記のような場合は。
人々は皆、新年に「ああ、今年は聖書を通독しなきゃ」と言っておいて、皆このレビ記あたりで見ると、この手前までだけ真っ黒なのです。このように。え?こうして触って。でもこれ以降は触った跡がありません。面白くないからです。しかし、イエスによって聖書を見ていると、とても不思議で面白いです。「ああ、これが私たちの人生なのだな」と。そしてイエスの人生において、そのまま、そのまま、すべて現れているのです。ええ、そのように見てください。
さて、イスラエルがカナンの地に入ることになれば、そのカナンの地は、つまりエジプトは、ダムを造って、貯水池を造って、いくらでもあのナイル川のデルタ地域ですから、そこで人間の力を、力と努力を動員して穀物を得ることができた場所なのです。ところがカナンの地は、ただ雨が降れば食べられ、降らなければ食べられない、そのような場所でした。神様の恵みだけに頼らなければならない、そのような場所。
皆さん、人間がそのような時、どれほど不安ですか。神様に頼ると言いながらも、私たちもそうでしょう?「おい、死後の対策が立っている人々が、何の老後対策を心配するんだ。神様がどうにかして食べさせてくださるだろう」心の中でそう思いながらも、それでもホームレスが一人通りかかっただけでも「ひょっとして、ああなるのではないか」と思いませんか?不便な人生です。
ところが、神様がそのようにされます、私たちを。行って、少し貯金さえしておけば、子供が事故を起こして、ただ綺麗さっぱり飛んでいって、こうなるのです。そうすると、皆さん、それが本当にどれほど不安で、一日一日が苦いですか。ええ?種入れぬパンと共に「苦い菜」を食べるのです。この歴史の中で、天国、カナンの地、約束の地を生きる私たちは、「私はすでに死んだ者であるから、神様が言う通りに、与える通りに、そのように生きます」ということを経験して行くのです。
そうしながらも私の中で、また別の法が「ああ、私はそのようには生きられません。神様、なぜこんなことをされるのですか」とエジプト化されている私のその姿を発見し。しかし神様は絶え間なくそれを、この「呪いの紅海」のようなこの海で、私を殺し続けていくのです。地に埋めてしまうのです。それが私たちの人生なのですよ。ですから皆さん、この人生の間に大きな期待はしないでください。ここで何か良いことが起こると思いますか。そうでしょう?それを学び、神の国へと入っていくのです。聖徒は、再び戻っていくのですよ。
ですから、そのバプテスマを私たちが葬り去ったのだと言いながら、そのバプテスマをそのまま、そのバプテスマの模型は何でしたか。割礼でしたね。ですから彼らがカナンに入りながら割礼を受け、何と言っていますか。「エジプトの恥が転がり去った」。それが紅海事件です。そしてそれが過ぎ越しの祭りの事件です。ですから皆さんは、この歴史の中で、皆さんの中にあるエジプト、バビロン、ペリシテを爆격されるのです、種入れぬパンを食べながら。
そうでなければ、そのパン種が、皆さんがそのパン種のないパン、その苦いパンを、この地で不味いパンを経験してこそ、皆さんの中にあるそのパン種が除去される証拠なのです。それが。パン種があれば美味しいのですよ。誰が「人生は生きるに値する」と言いますか?この人生は、享受して楽しむものではありません、皆さん。大きな計画を立てておいて、それを成し遂げ、成就する、そんな話をされてはいけません。
最近何かと物議を醸しているシン・ジョンア氏。あの人。インターネット、私たちのインターネット教会員なのですよ。私ともメールを数回やり取りし、アメリカに逃げてきていた時、外に出られないので、いつも私たちのウェブサイトにアクセスして……福を受けたのです、あの人は。アメリカに逃げてきたおかげで、私たちの教会のことも知ることになり。
今回また大きく一発ぶちまけたようですが。ああ、心臓がバクバクします。うちの教会員たちが私をそのように言えば。ところがその方が、その方でもないな、後輩だから、本当にその夢がどれほど大きかった人かというと、ただもう韓国の政界をすべて飲み込もうとしていた人でした。そして、それだけの能力がある人です。
私が後輩の話を聞いてみると、私の後輩たちが青瓦台(大統領府)に皆入っていましたが、テレビや写真で見るのとは違い、身長も170センチ以上あるそうです。ですから、人がパッと見ると、男たちが「ああ、魅力的だ」と思う。だからOOOのような人間が、ただもうコロッと参ってしまったのです。「あの人と少しでも話をしたい」と思うほどに、ものすごい魅力を持っていて、あまりに賢く、そして人と話をしながらその人を引き込む吸着力のある、そのような人だったそうです。
ですから、エール大学の博士課程だの何だのをやっていなくても、ただもう信じてあげたくなるのです。そうでなくても構わないのです。だからチョン・ウォンチャンやこのような人々が、ただもう「飯を食べよう」と言い、エール大学の教授にしてあげると言ったりするのです。
それで私に一度メールが来ました。「行きたい、教会にとてもとても行きたいのだけれど、もし教会に迷惑がかかるかと思って出ることもできないし、自分が説教をこんなによく聴いているということを分かってほしい」と言いながら、とうとうとメールを書いていました。「私はこれこれこういうわけで……」ですから、私はその真心のこもった信仰告白と共に、私にしてくれた話であるから、私はあの女性を信じています。
自分はあのような男たち、情欲に染まったあのような男たちに利用されたということなのですよ。ええ、そして結局、自分たちの恥部が露呈しそうになると、自分一人を殺して自分たちは皆助かろうとしたというのです。それを見て、自分が登り詰めようとしていた場所の末路がどのようなものであるかを、自分がはっきりと見たと言うのです。
それで今回自叙伝を書いたことに対しても、「復讐のためだ」何だ、人々が騒いでいますが、私はあの人が、そのように頂上がどこかも分からず、頂上へ、頂上へと登り詰めようとする、あのような者たちのその実体を、ただ無垢に暴露したものだと思っています。誰かがやらなければならないこと。「それは違ったのに。見ろ、世の中がこのように教養があり、立派で、謙虚であったと言っていた人間たちが、皆こうであった。世の中よ、見ろ!」
皆さん、この世の中でそのような人々がいるのを見ながら、私たちは後ろ指を指しますが、私の中に、私の中にそのような姿はないのですか。え?同じように私の中にそのような姿があるのですよ。誰が誰を後ろ指で指せますか。以前、あの全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領が、どれだけ私腹を肥やしたとか言われた時、その時初めて私たちが集まって、一緒に勉強していた記者たちと座り込んで、「おい、俺が大統領のあの地位にいたら、あれの10倍は私腹を肥やせたぞ」私には計画もありました、本当に。あれっぽっちしか肥やせなかったのかと言ったのですよ。どうしてまた、あれっぽっちしか肥やせなかったのでしょうか、あの地位に座っていながら。
私たちは門さえ開けば、いつでもあちら側へ行くことができる存在なのです。誰が誰を悪く言えますか。だから神様が私たちをこのように爆撃して、こんな有様で、この場所にこのように立たせておくのです。そうであれば感謝しなければなりません。その場所。爆撃を受けたその場所が、エジプトの恥を神様が打ち砕く場所であるから、感謝しなければならないのですよ。それなのにその場所からしきりに逃げ出させてくれと言うから、座って祈っている内容がすべてそれではないですか。
キリスト教とは、ただ神様によって肉的自我を爆撃され、この地でただ打ちのめされて死に、本当に塵のような存在になって神様の前にひれ伏し、その御手だけを固く握る者へと造り変えられていく過程にすぎません。他のことを期待しないでください。他のことを期待するから、しきりにそのように辛く、憂鬱になるのです。絶対に神様は皆さんが望まれるその道へと皆さんを送りません。
イエス様がペテロに仰ったように、「あなたが望まない方向へ引きずって行くだろう」と言われました。ですから皆さんが祈る前に、「私は今、神様が引きずって行こうとしているその方向を念頭に置いて祈っているのか」をもう一度考えてみてください。じっくり考えてみると、皆反対方向へ向かって祈っていることに気づくでしょう。それを祈りと言います。本当の祈り!
「これをして下さい。あれをして下さい」が祈りではなく、それはすべて空中へと消えていくものです。皆さんが望むことを繰り返し、繰り返し、さらには食事まで抜いて自傷行為をしながらまでして、御座を揺り動かして手に入れることを祈りとは言わず。ですからイエス様が聖徒の祈りに自分の香を被せるわけです。結局、「この程度の水準にしかならない私を、神様が恵みで覆って生かして下さったのだな」と悟らせる、その葛藤する過程を「祈り」と言うのです。
「皆さん、必ず天国へ行ってください。一緒に行きましょう」ともう言えません。必ず行ってください。私もどうなるか分からないから。ははは。
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(03) - 무교절 (레23:6-8)
(기도) 하나님! 우리 중에 이끄신 십자가 은혜! 다시 한 번 찬송하게하고, 찬양하게 하심을 감사합니다. 낙심 속에서도 하나님께서 준비하신, 그 십자가와 보혈과 예수의 그 의미가, 우리 안에 깨달아지게 하시고, 그로 말미암아 하늘의 위로가 우리에게 임하게 하여 주옵소서. 예수님에 이름으로 기도합니다. 아멘.
자, 레위기 23장 23장 6절부터 제가 읽어 드리죠.
(레위기 23:6-8)
6 이 달 열닷샛날은 여호와의 무교절이니 이레 동안 너희는 무교병을 먹을 것이요
7 그 첫 날에는 너희가 성회로 모이고 아무 노동도 하지 말지며
8 너희는 이레 동안 여호와께 화제를 드릴 것이요 일곱째 날에도 성회로 모이고 아무 노동도 하지 말지니라
자, 우리 유월절에 대해서는 공부했고. 두 번째 절기가 무교절이죠? 이제 15일! 14일이 이제 유월절! 정월 14일 이고, 15일이 유월절인데, 사실은 이스라엘에 그 날은 저녁부터 시작해서 저녁으로 끝나기 때문에, 아 요일을 이렇게 우리가, 어 그 지금에 우리의 그 양력을 갖고, 그 요일을 이렇게 어 결정하는 게 굉장히 힘들어요. 그래서 막 그 예수님은 목요일 돌아가셨다, 금요일 돌아가셨다, 제임스보이스 같은 경우는, 목요일이다! 이렇게 주장하고 가는데 그런 건 아무 아무 쓸모없는 논쟁이에요. 예?
그러니까 저녁부터, 왜 그 히브리 사람들의 하루가 저녁부터 시작 되냐면, 창세기 1장의 창조의 그 날이, ‘저녁이 되며 아침이 되니’로 이렇게 되잖아요? 그러니까 그 말은, 그러니까 이 날을 비롯한 창조에 속한 모든 것들이, 다 혼돈과 공허에서, 이제 그 틀과 내용물로 이렇게 완성이 되는, 이런 그 새 창조! 새 창조의 없음에서 있음으로, 밤에서 낮으로, 이렇게 하나님께서 이루시는 구속사역의 모형임을 보여주기 위해, ‘저녁에서 아침으로’ 이렇게 하루가 표현이 되는 거라 말이죠? 예?
그러니까 무슨 뭐 왜 그렇게 요일을 중요하게, 사람들이 여겨가지고 그런지 모르겠지만, 그러니까 뭐 성금요일이니 뭐니, 고난주간이니, 뭐 부활주일이니, 이런 거는 몰라도 돼요. 여러분 매일 매일에 삶 속에서 여러분이 알고 계신 복음 안에서 그런 것들을 우리 안에서 지금 다 누려지고 있고 또 그리고 감격 속에서 그 복음이 이해되어지고 있는데 그런 뭐 무슨 요일이 뭐 예수님이 돌아가시고 뭐 살아났는지는 이게 무슨 소용이 있겠습니까? 아무튼 무교절은 정월 14일 날 그 오후 3시에 두 저녁 사이에 오후 세시에 예수님이 죽죠? 양이 죽죠? 어린 양을 고 때 잡아라! 그랬으니까. 두 저녁 사이에 잡아라! 그랬잖아요?
그러니까 해가 저물 때, 고 시점부터 시작해서 무교절이 시작돼요. 그건 성경에서 이야기하는 바죠? 그러니까 정확히 이야기하면, 그 14일 오후 3시부터가, 무교절이에요 그러니까 우리가 저녁의 개념도, 저녁이라는 것의 개념 또한, 모호하기 때문에, 언제가 하루에 시작이고, 언제가 하루에 끝인지, 이런 거 잘 몰라요. 그런 거는 사실 중요한 게 아니에요. 뭐 정확히 저녁 여섯시부터 다음날 여섯시까지가 하루다. 그 사람들이 이제 시간을 지켜야 되기 때문에, 예 그렇게 정해 놨지만, 성경에서 말하는, 그 고 저녁부터 저녁까지는, 정확하게 6시부터 6시가 아니란 말이에요. 예?
아무튼 이렇게 그 유월절과 무교절은 맞물려 있어요. 이렇게 왜 맞물려 있냐면, 예수님의 죽음이 바로 우리에 죽음과 연결이 됐다는 것을 이제 보여주는 거예요. 여러분 성경을 잘 보시면, 아침에 다 찾지는 않겠지만, 아 무교절에 해야 될 일이 뭐냐면? 집안에 있는 누룩을 다 밖으로 내! 이제 버리지는 않지만, 내놓는 거예요. 집 안에 있으면 안 돼요. 누룩이!
누룩은 곧, 인간의 죄를, 자기 의를, 인간들의 열심! 노력! 어 이런 것들을, 이제 율법주의! 성공주의! 고지론! 뭐 이런 거 다 누룩이에요. 누룩! 그걸 문밖에 다 내놔야 돼요. 내어 놓고, 누룩이 들어가지 않는 빵! 그건 옛날에 보리개떡 생각하시면 돼요. 누룩이 들어가지 않는 떡은, 사람이 먹을 수가 없는 거예요. 어떤 면에 있어서는 누룩이 들어가야, 이제 부드러워지고, 우리 음석이가 아주 빵을 잘 만드는데, 이 누룩이 들어가야 떡이 떡 되는 건데, 그 누룩을 넣지 않고 떡을 만들어서, 사흘간 땅에 묻어 둬야 돼요.
그리고 묻어 뒀다가 꺼내서 또 먹어야 돼요. 그걸, 그거 그런 거를 왜 시켰겠냐고요? 신약에서 예수 그리스도, 그리고 그 예수 그리스도 안에서 구원받는 성도의 삶 속에서, 그대로 일어날 일을 구약에서, 이렇게 수천 년 전에, 이미 거의 한 4천년이요. 3천 5백 년 전이죠. 이게 모세가 쓴 거니까! 그때 이미 이렇게 우리의 인생과 예수의 인생을, 하나님께서 이 율법 안에다가 기록을 해놓은 거예요.
자, 어린양이 유월절에 죽어요. 그 유월절에 죽은 그 어린양! 그 어린양을 이제 먹고, 그 장자들이, 애굽에 장자들이, 다 죽는 그 시간에, 그 애굽 속에 들어있는 하나님이 택한 면목 없는, 이미 애굽화 되어버린, 400년을 애굽에서 살았다는 건, 여러분, 400년! 이 지금 미국의 역사가 200년 밖에 안 돼요. 그런데요 그 호적에 흑인이라고 쓰여 있는 사람이, 하얀 백인인 사람들이 있습니다. 웬 줄 아세요?
여러분 사람은요, 3대만 내려가면, 피가 섞이면요, 인종 자체가 모호해져요. 그래서 분명히 이 사람 흑인이라 그러는데, 허연 사람이 있는 거예요. 유대인들이 불과 몇 백 년 이렇게 밖으로, 디아스포라로, 확 흩어진 이후에, 이렇게 백인들처럼 변한 거예요. 얼굴이 원래는 다 오사마 빈 라덴 같은 사람이에요. 유대인들이! 팔레스타인 사람들이라니깐요. 그런데 서양 사람이 됐죠? 유대인들이!
지금 마찬가지에요. 400년을 애굽에 들어가서 살았어요. 애굽에서 나고, 애굽의 문명 속에서, 애굽의 문화 속에서, 애굽의 학문을 배우며, 그들이 거기서 무슨 뭐, 애굽에서 하나님 섬기고, 거기다 뭐 성전 쌓고 그랬는줄 아세요? 아니에요 애굽 사람처럼 살았어요. 그럼 400년을 그렇게 살았으면, 지금 여러분 미국에서 몇 십 년 안 살아도 그냥 미국 사람이듯이, 그 사람들은 애굽 사람이에요. 하나님이 그냥 애굽 사람으로 만드는 거예요.
하나님 나라에 완성되어 있던 하나님의 백성을, 이 세상에 보내서 세상 사람으로 만드는 거랑 똑같은 거라고요. 여러분! 지금 세상 사람이에요. 하나님나라 백성임에도 불구하고! 그런데 하나님이 이렇게 만드신 거라 말입니다. 그런데 왜 이렇게 만들었냐면, ‘여기에서 만약에 하나님께서 너희들을 그냥 원래 그대로 죽은 흙으로 놔뒀으면, 어떻게 될 뻔 했냐?’를, 죽은 흙의 모습을 배우고 경험하는 거예요.
그래서 애굽에, 그들이 애굽에 들어가서, 애굽이 너무 익숙한 사람으로, 이제 400년간 변화된 거예요. 하나님의, 원래 하나님 백성인데, 아브라함의 피가 흐르는 하나님 백성임에도 불구하고, 이렇게 된 거죠. 그러니까 다 죽어야 될 똑같은 애굽 사람이에요.
그런데 하나님의 약속! 그 약속을 받은 아브라함의 피! 그건 약속에 피라고요. 그 약속의 피가 흐른다는 그 한 가지 이유 때문에, 똑같은 인간들인데도 불구하고, 어떤 놈들은 양고기 먹고 있고, 그 시간에 양피 발라 놓고 양고기 먹고 있었다고요. 그리고 어떤 사람들은, 그냥 죽음에 신에 의해 멸망당하고 있었어요. 바로 그 시간, 같은 시간에!
그렇게 이제 피를 바르고, 그 고기 양을 어린양을 먹은, 그러니까 예수를 먹은 자란 뜻이에요. 어린 양을 먹은 자들이, 그 애굽의 장자가 전부 죽는 그 때에, 예수가 십자가에서 못 박혀 죽는 그 시간은요, 모든 아담군상들이 다 죽는 심판의 현장이었어요. 이미 심판은 일어난 거예요. 그래서 ‘이 세상 사람들은 다 죽었다!’라고 하는 거예요. 성경에서! 다 죽은 거예요. 이제 영원한 사망으로 다 들어갈 거예요.
그런데 그 속에서, 그 어린양의 피와 관계있는 어떤 이들이 있으니, 그들이 지금 살아난 거거든요. 그런데 그들에게, 그렇게 다 죽고, 장자들이 다 죽자마자, 바로가 ‘나가라!’ 그래요. ‘나가라! 그래 나가라! 너희들은 정말 재수가 없어서, 너희들이 가는 곳마다, 재앙이 일어나니 나가라!’ 그래요. ‘나가라! 나가서 너희 하나님 섬겨라!’
그런데 뭐라 그러냐면, 출애굽기 12장부터 14장까지가 이제 전부, 거기에 대한 이야기인데, 누룩이 들어가지 않은 떡! 왜 지금 빨리 도망가야 되는데, 누룩으로 밀가루를 발효시키고, 떡을 굽고 할 시간이 없는 거예요. 그러니까 누룩이 들어가지 않은 그 무교병 갖고 급히 나가는 거예요. 그러니까 무교병이라는 거 자체가, 어떤 의미가 있냐면, ‘나도 거기서 죽어야 할 자인데, 하나님이 어린양의 피로, 어린양의 은혜로, 나를 살리셨다’라는 것을 보고, 기념하는 거예요. 실제 내 삶속에서, 이게 일어나요. ‘나는 죽은 자구나! 그런데 은혜로 산자구나!’
그래서 성경이 무교병을 ‘고난의 떡’이라 그래요 왜냐면? 그 무교병이라는 거 자체가, 성도의 인생인데, 그래서 맛이 없는 거예요. 성도의 인생이, ‘나는 죽은 자라는 거!’ 그런데 왜 죽었어야 하는지, 왜 죽었어야 했는가를, 여러분이 광야 인생 동안에 여러분이 경험하는 거예요. 그래서 무교병이에요. 그게 ‘고난의 떡’이에요. 그래서 그 무교병을 갖고, 이제 홍해 앞으로 가죠? 홍해 앞으로 가서, 이스라엘이 금방 모세에게 막 삿대질을 하죠? ‘너 애굽에 매장지가 없어서 우리를 여기로 데리고 나왔냐?’라고 하면서, 하나님께 원망했다 그래요. 부르짖었다 그래요.
여러분 성경이 이스라엘을, ‘하나님의 군대’라고 하죠? 예? 그런데 그 군대라고 하면서, 홍해 아래에 애굽의 군대를 빠뜨려 죽여요. 그 말은 무슨 말이냐 하면? 고린도전서 10장 2절이, 이스라엘이 홍해에서 구름과 바다에서 세례를 받았다! 그러죠? 그런데 골로새서 2장 12절에 가면, 그 세례가 뭐냐 하면? ‘예수와 함께 죽었고’라고 이야기해요. ‘장사 지낸바 되고’라고 이야기한다 말입니다.
그러니까 홍해라는 건, 이스라엘! 애굽 안에 들어있던 애굽화 된, 이스라엘 안의 그 죄! 애굽이 홍해 안에 빠져죽는 거예요. 그게 애굽 군대가 죽는 거예요. 똑같은 애굽이라니깐요. 이스라엘이 애굽인데, 그들이 홍해를 건너, 굳이 출애굽기 12장에 보면, 하나님께서 일부러 홍해로 데리고 갔다 그래요. 빠른 길이 있는데, 하나님이 인도하셨다. 그러거든요.. 왜? 죽이려고 데려간 거예요. 홍해를 굳이 안 건너도 돼요. 왜냐면? 위에 육지가 있었어요. 그냥 옆으로 가면 돼요. 지도를 보시면 아시겠지만!
그런데 굳이 아래로 쭉 데리고 내려와서, 홍해를 건너서, 광야로 보내신다 말이에요. 거기서 죽이는 거라 말이에요. 그래서 세례라는 거예요. 그래서 성경을 전체적으로 연결시켜서 보지 않으면, 성경은 곧 이야기책이 되고 말아버리는 거죠. 그러니까 골로새서 12장 2장 12절에 보면, 그게 세례가 죽음이에요. 장사지냄이에요. 그 말은 이스라엘이 홍해에서 죽었단 뜻이에요.
그런데 뭐가 죽었냐구요? 애굽에 있던, 애굽화 된, 이스라엘 안의 애굽이, 홍해에서 장사지낸바 되고, 그리고 가나안에 살만한 이스라엘로 다시 살아나는 거예요. 그게 장사지냄이에요. 그게 십자가에서 죽는 거고, 부활하는 거라 말입니다. 그러니까 그게 묻히는 거예요. 묻히는 거!
여러분, 40마일을, 홍해가 그 쭉 갈라진 그게 40마일인데, 그걸 리어카 끌고 뭐 짐 다 지고, 애 데리고 소 끌고 40 마일을 걸으려면, 사흘이 걸려요. 여러분, 홍해 사건은, 우리가, 이스라엘이, 예수 그리스도의 그 무덤 속의 그 경험을 미리 선취적으로 경험을 한 거예요. 죽는 거예요. ‘예수가 바로 너희를 이렇게, 이렇게 살려낼 거다!’를 이스라엘이 선취적으로 경험하고 가는 거라 말입니다. 그래서 빠져 죽는 거예요. 거기에! 그러니까 그렇게 고통스러운 거예요.
그러니까 그 삶이 계속 반복되는 게, 바로 여러분에 인생이란 말입니다. ‘나는 왜 죽었어야 되는가? 응? 나는 왜 예수 안에서 그렇게 죽었어야 됐는가?’ 그냥 보세요. 불평이라는 건, ‘나는 살만한 가치가 있다! 그리고 그마만한 어떤 그 귀한 존재다!’라는 전제에서, 불평이 있는 거죠. 그러니까 무교병이나 만나 이런 거 주면, 불만이 있는 거고! 그런데 내가 만약에 죽은 자! ‘없음’이라는 게, 자기 안에서 진짜 장악이 되는 사람에게 무슨 불평이 있습니까? 죽은 자에게!
그런데 교회 예배당 안에 보면, 전부 불평! 자기 현실에 대해서 만족하는 사람은, 단 한사람도 없어요. 그러니까 ‘나는 살았다!’라는 거죠. ‘나는 산 자다!’ 그러니까 불평할 자격이 있는 거예요. 아니에요! 여러분이 가장 처참한 지경에 처해 있다고 하더라도, 여러분은 그때 감사해야 돼요. 그거 산거잖아요? 그래도 숨이 붙어 있잖아요? 죽었어야 할 자가, 그나마 그 자리에 그렇게!
가끔 이렇게! 이제 교인들 임종 때 가보면, 그냥 살고 싶어서, 뭐 개똥밭에 굴러도 이승이 낫다며? 어떻게 해서든지 그냥 살기만 하면, 한 6개월만 더 살았으면 좋겠다고, 이런 사람도 있고! 보세요. 그렇게 죽음 앞에서는, ‘그냥 개똥밭에서 굴러도 되니까, 6개월만 더 살게 해주세요!’라는 고런 부르짖음이 있죠?
그런데 여러분이 분명히 그렇게 벌써 죽었어야 했고, 그 죽은 자인데, 이나마 지금 뭔가를 생각하고, 예수를 듣고 있고, 예수를 찬송하고, 기도를 할 수 있다는 이 사실 자체가, 여러분에게는 감사가 돼야 되는데, 내가 죽은 자라는 전제! 이것을 인정하지 않으니까, 온통, 삶에 불평! 불만! 그냥 징징징징 대고! 아니에요? 자기 꿈과 야망이 있는 거예요. ‘난 아담처럼 살고 싶으니까! 하나님 지금 빨리 선악과 내놓으세요!’ 이러고 앉아 있는 거예요. 다들!
무교절이라는 그 단어! 히브리어를 갖다가, 아 원어대로 직역을 해서 번역을 하면, 세 단어가 합쳐진 건데, 아 ‘기념일!’ 또 ‘그,’ ‘묻었다, 장사지내다’ 요 세 단어가 합쳐진 단어가, 무교절이에요. 히브리어 원어로 보면! 한글로 무교절이라고 했는데, 그러니까 ‘그’라는 단어! 그 관사가 뭐냐면? 그 무교절, 고 안에서, 그냥 고 의미로만 해석을 하면, 무교병이죠? 그죠? 무교병을 묻어둔 것을 기념하는 거니까!
그런데 보세요. 신약으로 넘어가면, 예수님이, ‘내가 떡이다!’ 그러죠? 그리고는 ‘나를 먹어라!’ 그래놓고, 그 떡이 사흘 간 묻힌다고요. 땅에! 그 사흘! 땅에 묻히는 그 떡이, 이제 다시 나와서, 그걸 성도가 먹는 거예요. 그게 무교절이에요. 레위기에 나오는 무교절!
그러니까 구약도 다 그냥 예수 이야기예요. 율법이야기! 이런 것들이 다 예수 이야기라니깐요. 그러니까 여러분은 성경을 읽으면서, 무슨 성경에서 교훈을 얻어내고, 뭐 잠언이나 전도서, 이런 데서도 뭐 교훈을 얻어내고! 아니에요! 여러분은 성경을 ‘진리’로 읽어야 돼요. 그죠? 이거 다 진리에요. 맞아요! 음음! 처음부터 다시 다 시작해야 되나? 진리죠? 성경이!
진리라는 게 뭐에요? 트루 싱(True Thing)이란 뜻이에요. 실체! 약속의 실체가! 그러니까 실체가 이게 진리! 그러니까 진리는 변하면 안 돼요. 실체라는 건! 모형은 늘 변하지만! 변하면 안 돼요. 그러면 자연! 무슨 뭐, 우주! 뭐 이념! 사상! 유물! 물질! 다 변해요. 이거는요! 그죠? 안 변하는 건, 하나님 밖에 없어요. 예수! 그러면 이 진리라는 건, 예수란 말이에요.
그러면 잠언에, ‘보증서지 마라!’라는 거, 이거 어떻게 받아들여야 돼요? 보증서지 마라! 이거 진리에요? 보증 안 서줘야 됩니까? 진짜로? 내 형제를 사랑하라면서요? 사랑하라면서요? 그런데 사랑! 아니, ‘네 형제를 네 몸처럼 사랑하라!’ 그랬는데, 그 그까짓 보증이 문제예요? 뭐 어떻게 읽어야 되냐고요? 그런 잠언 같은 거는요!
여러분 보세요. 우리는, 보증은 형제간에도 서지마라! 라고 이렇게 아주 이기적인, 자기 형제의 보증도 설 수 없는 그런 자들의, 보증이라는 건 뭐에요? 걔가 못 갚으면 내가 갚겠다는 게, 보증이잖아요? 예수가, 너희들은 그런 존재지만, 너희들! 너희들이 죽은 흙이고, 창조주인 그분이, 죽은 흙 같은 너희들의 보증이 되어서, 이 땅에 내려왔다로 봐야 되는 거예요.
그러니까 성경을, 윤리나 도덕이나 사회정화나 사회개혁! 이따위로 보는 건, 다 잘못 보는 거예요. 이건 전부, 사상일 뿐이에요. 그건 저주를 받는다, 그랬잖아요? 그러면 법화경 같은 데 보면, 이 성경의, 그 산상수훈의 내용과 거의 90프로 이상 씽크로율이 맞아요. 그럼 법화경도 성경 진리입니까? 예? 불경도 이 성경과 똑같은 가치를 우리가 부여해 줘야 돼요? 아니란 말입니다. 여러분!
성경을 그렇게 도덕책, 윤리 책으로 보면 안 돼요. 그러니까 간디 같은 사람도, 나도 성경 안다! 그러고. 아침에 일어나면서부터 제일 먼저 했던 게, 힌두교 경전이 있음에도 불구하고, 그 사람은 마태복음을 펴서 읽었어요. 죽을 때까지! 그러나 그는 하나님을 믿지 않았다니깐요. 그럼 뭐로 본 거예요?
성경을, 그 산상수훈만큼, 그렇게 아주 선명하고, 그렇게 명쾌한 윤리강령은, 이 세상에 없다! 그래서 성경책을 윤리 책으로 봤다니깐요. 그래서 마음이 청결해야 돼! 라고, 그냥 막 청결하게 닦았는지 어떻게 했는지, 하여튼 ‘심령이 가난해야 돼!’ 어떻게 이해를 했는지 말이죠? ‘긍휼을 베풀어야 돼!’ 산상수훈이, 그 지키라고 우리에게 준거예요? 아니지 않습니까? 그러니까 귀 있는 자만 성경을 들을 수 있는 거예요.
그러니까 예수로 풀려, 풀어지지 않으면, 그렇게 예수로 하나, 하나 이렇게 풀어지면요! 여러분, 레위기가 얼마나 재미있어요? 예? 이 레위기 강해를 제가 전에, 작년에 하려고 그러다가, 교인들 다 나갈까봐, 허허 뭉기적 이러고 있지만, 나중에 나이 좀 들면 하려고! 그러니까 안정이 되면! 너무 재미없어! 그런데 이거 하면 너무 재미있어요. 이 레위기 같은 경우에!
사람들이 전부 새해에 아 올해는 성경을 일독해야지 그래놓고, 전부 이 레위기에서 다 보면, 그 요 앞에 까지만 까매! 요렇게! 예? 이렇게 만져가지고! 그런데 이다음부터는 만진 자국이 없어요. 재미가 없으니깐요. 그런데 예수로 성경을 보다 보면요, 너무 너무 신기하고 재미있어요. 아 이게 우리의 인생이거든요. 그리고 예수 인생에서, 그대로 더, 그대로 다, 나타난 거거든요. 예, 그렇게 보세요.
이제 이스라엘이 가나안 땅에 들어가게 되면요, 그 가나안 땅은, 그러니까 애굽은, 그러니까 댐을 만들어서, 저수지를 만들어서, 얼마든지 그 나일강의 그 삼각주 지역이니까, 응 그 거기에서 인간의 힘을, 힘과 노력을 동원하여, 곡식을 얻을 수 있었던 곳이거든요. 그런데 가나안 땅은, 그냥 비가 내리면 먹고, 안 내리면 못 먹고, 그런 곳이었어요. 하나님의 은혜만 의지해야 되는 그런 곳!
여러분 인간이 그럴 때, 얼마나 불안합니까? 하나님을 의지한다고 하면서도, 우리 그렇잖아요? ‘야 뭐 사후대책이 서 있는 사람들이, 무슨 뭐 노후대책을 걱정해? 하나님이 뭐 어떻게 다 먹여 살려 주시겠지!’ 속으로 그러면서도, 그래도 지 홈리스 하나만 지나가도 ‘혹시나, 저렇게 되는 거 아니야?’ 그러지 않아요? 불편한 삶이에요.
그런데 하나님이 그렇게 만드세요. 우리를요! 가서 뭐 저금만 조금해 놓으면, 애 새끼가 사고 쳐서, 그냥 홀랑 날아가고, 뭐 이렇게 되는 거죠. 그러면 여러분 그게 정말 얼마나 불안하고 하루, 하루가 씁니까? 예? 무교병과 함께 쓴 나물을 먹는 거예요. 이 역사 속에서, 천국! 가나안 땅! 약속의 땅을 사는 우리는요, ‘나는 이미 죽은 자이기 때문에, 하나님이 시키는 대로, 주는 대로, 그렇게 살겠습니다.’를 경험하고 가는 거예요.
그러면서도 내 속에서, 또 다른 법이, ‘아 나는 그렇게는 못살겠어요.. 하나님 왜 이러세요?’라고 애굽화되어 있는 나의 그 모습을 발견하고! 그런데 하나님 끊임없이 그걸 이 저주의 홍해 같은 이 바다에서, 나를 계속 죽여 가는 거예요. 땅에다 묻어 버리는 거예요. 그게 우리 인생이라니깐요. 그러니까 여러분 이 인생동안에 큰 기대하지 마세요. 여기에서 무슨 좋은 일이 생길 거 같으세요? 그죠? 그거 배우고, 하나님 나라로 들어가는 거예요. 성도는요, 다시 돌아가는 거라니깐요.
그래서 그 세례를, 우리가 장사지낸 거라고 하면서, 그 세례를 그대로 이제, 그게 세례의 모형이 뭐죠? 할례였죠? 그래서 그들이 가나안에 들어가면서, 할례를 받으며, 뭐라 그래요? ‘애굽의 수치가 굴러갔다.’ 그게 홍해사건이에요. 그리고 그게 유월절 사건입니다. 그러니까 여러분은, 이 역사 속에서, 여러분 안에 있는 애굽, 바벨론, 블레셋을 폭격당하는 거예요. 무교병 먹으면서!
그래야 그 누룩이, 여러분이 그 누룩이 없는 떡! 그 쓴 떡을, 이 땅에서 맛없는 떡을 경험해야, 여러분 안에 있는 그 누룩이 제거가 되는, 증거란 말이에요. 그게! 누룩이 있으면 맛있다니깐요. 누가 인생이 살만하다 그래요? 이 인생은, 누리고 즐기는 게 아녜요. 여러분! 대단한 계획 세워놓고, 그거 이루고 성취하는, 그런 말씀하시면 안 돼요.
요즘 뭐 물의를 일으키고 있는 그 신정아씨! 그 사람! 인터넷, 우리 인터넷 교인이거든요. 저하고도 이 메일도 몇 번 오고, 미국에 도망 와 있을 때, 밖으로 나오지 못하니까, 항상 우리 웹사이트 들어오고, 복 받은 거예요. 그 사람은요! 미국에 도망 오는 바람에! 우리 교회도 알게 되고!
이번에 가서 크게 또 한방 터뜨렸더구만요. 아이, 가슴이 철렁철렁 내려앉아요. 우리 교인들이 날 그러면은! 그런데 그 분이, 그 그분도 아니네. 동생이니까, 진짜로 그 꿈이 얼마나 컸던 사람이냐면, 아주 그냥 한국! 그 정계, 다 아주 집어먹으려고 했던 사람이었어요. 그리고 그럴만한 능력이 있는 사람입니다.
제가 후배 얘기를 들어보니까, 제가 그 후배들이 청와대 다 들어가 있었거든요. 티브이나 사진에서 이렇게 보는 거와는 키도 170도 넘는대요. 그래서 이렇게 사람이 딱 보면, 그 남자들 이렇게 매력 있다. 그러니까 OOO같은 인간이, 그냥 홀랑 넘어가서 그런 거예요. 어 저 사람이랑 잠깐 이야기라도 하고 싶다. 이런 정도로 굉장한 매력 갖고 있고, 너무 똑똑하고, 그리고 사람과 이렇게 이야기를 하면서, 그 사람을 끌어들이는 흡입력이 있는 그런 사람이었다, 그래요.
그러니까 무슨 뭐 예일대 박사과정 이런 거 안 했어도, 그냥 아애 믿어주고 싶은 거예요. 아니어도 괜찮아요. 그러니까 정원찬이나 이런 사람들이, 그냥 뭐 밥 먹자 그러고, 예일대 교수 시켜준다 그러고, 그런 거예요.
그래 내게 한번 이메일이 왔어요. 내가 가고 싶어, 교회에 너무 너무 가고 싶은데, 예 혹시 교회에 누가 될까봐 나가지도 못하겠고, 자기가 설교를 이렇게 잘 듣고 있다는 거, 알아달라고 그러면서, 인제 구구절절이 메일을 썼더라구요. ‘저는 이러이러해서…,’ 그래서 저는 그 진심어린 신앙고백과 함께. 저에게 한 이야기들이기 때문에! 저는 그 여자를 믿어요.
자기는 그런 남자들 아주 그 정욕에 물든 그 남자들한테 이용당했다는 거거든요. 예, 그리고 결국 자기들에 치부가 들어날려고 하니까, 자기 하나 죽여서, 자기들은 다 살려고 하더라는 거죠. 그걸 보고, 자기가 그 올라가려고 했던 곳의 끝자락이, 어떤 것인지를 자기가 분명히 봤다, 그러는 거예요.
그래서 무슨 뭐 이번에 자서전 쓴 거 갖고도, 뭐 복수 때문에 그런다, 뭐다, 사람들이 막 이야기하는데, 난 그 사람이, 그렇게 꼭대기가 어딘 줄도 모르고, 꼭대기로, 꼭대기로 올라가려고 하는 그런 자들의, 그런 실체를, 그냥 순진무구하게 폭로한 거라고 봐요. 누군가 해야 되는 일! ‘그건 아니었는데…. 봐라 세상이 이렇게 다 교양 있고, 훌륭하고, 겸손하고, 했다고 하는 인간들이, 다 이렇더라. 세상아, 봐!’
여러분, 이 세상 속에서, 그런 사람들이 있는걸 보면서, 여러분 우리가 손가락질 하지만, 내 안에, 내 안에 그런 모습 없냐고요? 예? 똑같이 내 안에 그런 모습이 있다니깐요. 누가 누구를 손가락질 합니까? 예전에 저 전두환 대통령! 뭐 얼마 해먹었다고 그러기에, 그때 처음으로 우리 모여가지고, 같이 공부하던 기자들하고 앉아 가지고, ‘야! 씨, 내가 대통령 그 자리에 있었으면, 그거 한 열 배 해먹을 수 있었겠다.’ 난 계획도 있었어요. 진짜! 그거 밖에 못해먹냐? 그랬다니깐요. 어떻게 또 그거 밖에 못해먹어요? 그 자리에 앉아서!
우리는 문만 열리면, 언제든지 그리로 갈 수 있는 존재들이에요 누가 누구를 욕합니까? 그래서 하나님이 우리를 이렇게 폭격하셔서, 요 모양 요 꼴로 이 자리에, 요렇게 세워 놓는 거예요. 예 그러면 감사해야 돼요. 그 자리! 폭격 맞은 그 자리가, 애굽의 수치를 하나님이 부수는 자리이기 때문에, 감사해야 된다니깐요. 그런데 그 자리에서 자꾸 벗어나게 해달라고 하니까, 앉아서 기도하는 것들이 전부 그거 아닙니까?
기독교는, 그냥 하나님에 의해, 육적 자아를 폭격당하여, 이 땅에서 그냥 맞아 죽고, 정말 먼지 같은 존재 되어서 하나님 앞에 납작 엎드려, 그 손만 꼭 붙드는 자로, 지어져 가는 과정일 뿐입니다. 다른 거 기대하지 마세요. 다른 거 기대하니까, 자꾸 그렇게 힘들고, 우울하고, 그런 거예요. 절대로 하나님은 여러분이 원하시는 그 길로 여러분을 보내지 않으세요.
예수님이 베드로에게 말씀하신 것처럼, ‘네가 원하지 않는 방향으로 끌고 갈 거야!’ 그랬어요. 그러니까 여러분이 기도하기 전에, 내가 지금 하나님이 끌고 갈려고 하는 그 방향을 놓고 기도를 하는 건가를, 다시 한 번 생각해 보세요. 곰곰이 생각하다 보면, 다 반대방향으로 지금 기도를 하고 있는걸 알거예요. 그걸 기도라 그래요. 진짜 기도!
‘이거 해주세요. 저거 해주세요!’가 기도가 아니라, 그건 다 공중에 날아가는 거예요. 여러분이 원하는 걸 반복하고, 반복하고, 심지어 밥까지 굶으며 자해를 하면서까지 해서, 보좌를 흔들어서 얻어내는 걸, 기도라고 하지 않고! 그래서 예수님이 성도의 기도에다가, 자기의 향을 덮는 거라 말이에요 결국, ‘이런 이 정도 수준밖에 안 되는 나를, 하나님이, 은혜로 덮어서 살리셨구나!’를 알게 만드는, 그 고민하는 과정을, 기도라고 하는 거예요.
‘여러분! 꼭 천국 가십시오. 같이 갑시다!’라고 이제 말도 못하겠어요. 꼭 가세요! 나도 어떻게 될지 모르니까! 허허허
さあ、レビ記23章!初実節(チョシルジョル)について勉強する番ですね。初実節から!初実節の話は9節から出てきます。9節から!さあ、14節まで奉読します。
(レビ記 23:9-14)
9 主はモーセに告げて仰せられた。
10 「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与える地に入り、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来なさい。
11 祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を主の前で揺り動かさなければならない。祭司は安息日の翌日に、それを揺り動かさなければならない。
12 あなたがたが束を揺り動かす日に、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄羊をささげなさい。
13 その穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉十分の二エパを主に火によるささげ物としてささげ、なだめのかおりとしなさい。注ぎのささげ物としては、ぶどう酒四分の一ヒンを用いなさい。
14 あなたがたが神に供え物を持って来るその日まで、パンも、いり麦も、新穂も食べてはならない。これはあなたがたが住むすべての場所で、代々守るべき永遠の掟である。」
さて、初実節!初実節は、安息日の翌日に守る節気ですね。もう一度イスラエルの暦についてお話しすると、イスラエルの人々がエジプトで使っていた暦は「民暦」だと言いましたね。民暦です!そして、ヘブライ人たちが過ぎ越しの祭りの命名の後、「過ぎ越しの祭りがある月を、その年の最初の月としなさい」と神様が暦を新しくくださるじゃないですか。ですから、その過ぎ越しの祭りがある月、アビブの月を正月と呼びます。ですから、聖書で「正月!」と言ったら、正月の元日、私たちの太陽暦の1月を考えてはいけません。ヘブライ人の暦の正月です。アビブの月のことを言っているのです。
その次に太陽暦!これはローマ人が使うものですから。それで、ヘブライ人たちがローマの影響を受けながら、ローマの国教がキリスト教になり、太陽暦を使ったのです。ユダヤ教は今でも聖暦を使っています。ですから、太陽暦の1月が1月なのではなく、聖暦の1月、正月が、民暦の7月であり、また太陽暦では3月か4月の間ですね。春!春です!
その春に、神様が節気を許されますが、過ぎ越しの祭り、種入れぬパンの祭り、初実節、これが「春の節気」だと言いましたね。そうでしょう?ですから正月に始まるのです。では、過ぎ越しの祭りは?アビブの月14日ですね。正月14日!木曜日!普通はそう言いますが、曜日などもあまり縛られなくていいです。
それで、ジェームス・ボイスやロイドジョンソンなども、もちろん友人たちもたくさん論争をしていますが、木曜日だ、金曜日だ。ジェームス・ボイスは、イエス様が亡くなられた日を木曜日だと主張するために、何年も研究して、これほど分厚い本を一冊書きました。全部無駄です。あの人とわざわざ苦労しただけですが、ヘブライ人の曜日というのは夕方から翌日の夕方までなので、私たちが考える木曜日といったら、木曜の夕方から翌日の金曜、私たちが考える金曜の夕方までが木曜日なのです。だから、これを木曜日と言うべきですか?金曜日と言うべきですか?
ですから、イエス様が、人々がいわゆる「聖金曜日」ということで金曜日に亡くなられた、それも合っています。木曜日に亡くなられた、それも合っています。過ぎ越しの祭りが木曜日、木曜日だったのです。そんな本質でもないことで論争したりもしますが、全部必要ありません。無駄なことです。いつも神学生たちがそんなことを私にメールで質問して、「木曜日が正しいですか?金曜日が正しいですか?」と言ってきますが、「君の好きに考えなさい!」と。そんな答えをいつまでも書いていられません。「そう考えなさい」と言いました。関係ありません。
ああ、金曜日だと考えればいいです。なぜなら、今、私たちが主日を「安息日の翌日」と考えているからです。ですから、金曜日が過ぎ越しの祭りだと考えればよく、そして金曜の夜から、イエス様が十字架で。小羊が日暮れ時、それが「夕方と夕方の間」だと言いましたね。午後3時です。ちょうど小羊の首がはねられる瞬間から、その時からが「種入れぬパンの祭り」です。いいですか?
つまり、種入れぬパンの祭りは一週間守らなければならないものなのです。だから、春の節気である過ぎ越しの祭り、種入れぬパンの祭り、初実節、全体をただ「種入れぬパンの祭り」とも言います。なぜなら、その期間内にその3つがすべて入っているからです。それで、その祭りが始まると苦い菜も食べ、パン種(酵母)の入ったパンを食べられないようにし……それを主日によく説明しようと思っているのですが、人間の罪と、おそらく明日の士師記でも少し出てくるかもしれません。すべて同じ話ですから。どの本文を取っても、すべてイエスに結論が出なければならないので!この節気はすべてイエスでしょう?そうでしょう?
コロサイ人への手紙2章18節、19節などを見ると、この節気や新月の祭り、これらはすべて影であり、実体、本体は何だ?キリストだ!ですから、この節気がキリストの生涯において、歴史の中で実際に起こらなければ、すべて偽物になるのです。いいですか?ですから、過ぎ越しの祭りの日にイエス様が亡くなられ、羊が屠られるその日、イエス様が死ぬのです。実際に!
それで、ピラトがパッと放してやろうとしたのに、イエス様は「違う、神があなたに権威を与えたのだ。だから早く殺せ!」とイエス様が言われるのです。「あなたがいくら放そうとしても、神のシナリオに書いてあるのだから、あなたは『ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け』という場所に、その役割を担って来たのだから、あなたは私を殺さなければならない!」とおっしゃるのです。それで「天があなたに権威を与えていなければ、私を殺す権威も生かす権威もない」と言ったのは、神様があなたにさせたのだという意味です。
ですからわざと。そしてその前にもラザロを生き返らせた時もそうで、彼らが殺そうと謀議しますよね。でも殺せません。そして捕らえてこいと下役たちを送ったのに、下役たちがイエス様の言葉に惚れ込んで、「今まであんなふうに話す人は見たことがない」などと言ってまた戻ってきたりしますよね。なぜなら、その日に合わせなければならないからです。
ところが後になって、イエス様はこの過ぎ越しの祭りになると、ユダにパンを浸して与えながら、「さあ、早くおまえのすることをしなさい!」と言って、死を自ら招きます。その日に死ななければならないからです。そして普通の人は十字架にかけると、短ければ一日、長ければ三日まで生きていると言います。すぐには死にません。ところがイエス様は朝にかけられて、午後3時に亡くなられました。だから、思わず「もう死んだのか?」と言うでしょう?ピラトが!「もう死んだのか?」それで足を折って!なぜなら、安息日が始まると、その死体を呪われた木に吊るしておいてはいけません。不浄なものだからです。だから早く死なせてくれと、ユダヤ人たちが願い出て、ハンマーを持ってきて膝を打って折ってしまうのです。
そうすると、人がこのように十字架にかかると、この痛みよりも、体が伸びることで横隔膜が上を圧迫し、肺を圧迫して、呼吸困難でほとんど死にます。だから、足にいくら釘が刺さっていても、あえぎながら膝を立てて息をするのです。ところが膝を折ってしまうとそれができなくなります。それが殺すことなのです。膝を折って!
ところがイエス様を見ると、すでに死んでいました。しかし、どのようにイエス様が死なれたかというと、イエス様が「完了した。テテレスタイ!」とおっしゃった後、三時に頭を垂れられました。イエス様が死なれたのです。何とおっしゃいましたか?亡くなる前に。「私は自分の命を得る権威もあり、捨てる権威もある」とあえておっしゃったのです。「私はあなた方のために、その時間に、旧約の影で予標されたその時間に、死ぬのだ」という意味です。それを神が殺したとも言えるし、イエス様が自ら死なれたと言っても差し支えありません。
「ああ、そのように死なれたのですか?過ぎ越しの祭りに!そして初実節!さあ、種入れぬパンの祭りが来ますね。種入れぬパンの祭りは何をする日だと言いましたか?パン種のないパン、罪のないものです、それは!自分の義のないパンを、地に三日間埋めておくと言いましたね。そして三日目になる日に取り出して食べるのです。それが罪のない供え物である、イエス!世のパンとして来られたイエスが、墓に三日間埋められていることを示しているのです。
その次にやって来るのが、いよいよ初実節です。ですから、種入れぬパンの祭りは15日、過ぎ越しの祭りは14日、初実節は安息日の翌日ですから、16日になるわけですね。そうすると、イエス様は金、土、日曜の未明に復活されなければならないのです。
さて、初実節がなぜ復活を語っているのかというと、皆さんがご覧の通り、安息日の翌日に、最初の初物、最初の穂ですね。つまり、春の3、4月に麦が収穫されると言いますよね。なぜなら、カリフォルニアの天気と同じなので、うまくいけばいくらでも二毛作、三毛作もできる場所がパレスチナなのです。ですから、麦!つまり七週の祭(五旬節)は麦を収穫する日だから、それを秋として「七週の祭」と言いますよね。
ですから、春に最初の穂をささげる日が初実節であり、小麦や、あるいはその他のとにかく最初の穂、地の最初のもの、初物と言います。それを神様の前に揺り動かせと言いますよね。揺り動かす捧げ物を「揺祭(ヨジェ)」と言いますが、揺祭は揺り動かしてささげる祭儀を言います。揺り動かすというのは、眠っている者を揺り起こすという意味なのです。
ですから、安息日の翌日に揺祭を初物としてささげるのは、そのように揺り動かされて生き返る最初の長子が、その日に生まれるということを示しているわけです。それでパウロがコリント人への手紙でその話をする時、テサロニケ人への手紙第一でもそうですが、最初のもの、初物が、初穂が死からこのように生き返りながら、その後に次々と弟たちが生き返るのだという話をします。コリント人への手紙第一15章、ええ、15章を一度ずっと読んでみてください。その話をしているのです。そのように生き返るのです、その時刻に!
見てください。正確にイエス様の生涯や、レビ記の法の中にすべて入っているでしょう?そのまま、一寸の狂いもありません。時間までも正確です。ですから、聖書を勉強すればするほど、「神様はいらっしゃらない」とか、あるいは「イエス・キリストの十字架がなぜ必ず私たちの救いの条件でなければならないのか?」といった質問はできなくなります。ただ聖書を表面的に読んだ中途半端な者たち、ドオル(金容沃)のような人間たちが、「違う!」と言うのです。イ・ウェスのような、あんな「ウェンス(仇)」たちは名前もよく付けたものです。本当に仇のような!聖書はものすごくたくさん読んだ人たちです、彼らは。
私はイ・ウェス氏が有名になる前から知っています。私が大学生の時、文人たちと交流していた時から知っていますが、あの人は不思議なことに、イエス様に対して、生まれつき何の恨みがあるのか、酒さえ飲めばひどい悪態をつきながらイエスを否定し、今までもそうです。それなのに、何かあるたびにウェブ上や新聞などで、いかにも物知り顔をするのでしょうか。「正義がどうのこうの」と言いながら、毎日酒浸りでそのように生きていて、それが何の正義ですか?
ですから聖書を、このようにイエス・キリストと十字架をしっかりと握り、それを通して聖書を解き明かすことができなければ、聖書はすべてそのように、信じられないものになってしまうのです。ドオル・金容沃が今、神学校で旧約学を教えています。韓信(ハンシン)大学で!私は情けなくてたまりません。あの韓信大、本当に!あそこは自由主義神学が胎動した場所ですが、今でもそうです。だから金在俊(キム・ジェジュン)だの文益煥(ムン・イッカン)だの、とにかく改革派、急進改革派が好む牧師たちは、みんなあそこ出身です。つまり社会参加だ何だと言って。
ですから、韓信大は以前、ソウル大よりも過激にデモをしていました。私たちの頃は。だから「韓信大の連中が出てくるぞ」となれば、みんな色めき立って、「よし、今日は派手に戦ってやろう!」と。石も一番上手に投げます。神学校でそんな練習をしているのか。つまり「社会に参加して、私たちが人間にとって住みやすい場所を作ろう」とすることは、それは「人本主義」ではないですか。ヒューマニズム!彼らがそのように主張するヒューマニズム。
そうすると、イエスがその現場でずっと殴り殺されることになるのですよ。イエス様が成し遂げられた仕事は何なのですか?人間がこの世で今、その仕事を手伝うと言って乗り出せば。誰よりも先鋒に立っていた人間が言うのも何ですが、間違っているのです、それは。どれほど時間がもったいないか分かりません。
イエス様が完全にすべて完了されたその仕事に、私たちが手を貸すことで、それが不完全なものへと転落してしまいます。それが士師記の最後の章です。十一の部族が大挙して立ち上がると、結局、一つの部族が完全に全滅します。なくなってしまうのです。不完全になるのですよ。だからイエス様がそれを満たされるのです。非常に難しい内容です、士師記の内容は。実は。しかし聖書全体がまさにその話なのに、私たちはつい人間の価値や有用性を手に入れようとするから、聖書をそのように見ることができないのです。
しかし10節を見ると、「収穫の初穂の束を祭司のところに持って来なさい」と言っていますね。ここで「一束(ひとたば)」というのが重要なのです。一つではありません。穂一つではなく、一束が揺祭として揺り動かされるのです。そうすると、一束というのは、今、最初の、この一束。この初穂の中でも、最も早く刈り取られるものがあるはずでしょう?でもそれだけでなく、一束が共に揺り動かされて目覚めるのです。
イエス様が人々を、旧約の聖徒たちを、よく「眠っている者、眠っている者」と呼びますよね。ラザロも「眠っている」と言われたでしょう?つまり、揺り起こされて起き上がる者たち!とにかく、イエスを信じない者、地獄に行く者も眠っているのです。なぜなら、揺り動かされて後で地獄で目覚めるからです。だから「眠っている」と言うのです。
マタイの福音書27章に行くと、イエス様が初実節、初穂として生き返る時、どんなことが起こりますか。墓の中にいた聖徒たちが復活して、生き返って、どこへ入ると言っていますか?「聖なる都に入った」と言うではないですか。それがすべて一つの模型なのです。
私はあのように徹底した懐疑論者でしたが、イエス様が復活された時、墓が開いて死者が生き返ったというのが、歴史的事実であることを信じます。無理に信じようとしたのではなく、ただ信じられるのです。私は神様が教会のためのことなら、何ができないだろうかと思います。それで多くの人々に、彼らが見えたと言います。200年前に亡くなった曽祖父が突然生き返って、「これ、私が来たぞ。飯をくれ」と。実際に。
それがすべて何なのか。まさにイエス様のこの復活が、聖徒たち全体、イエス様を頭とした初穂を、長子を、頭とした全体の復活を模型しているということ。このレビ記23章10節が、マタイの福音書27章で実際に起こってしまうのです。揺り動かされて目覚めるということです。ですから、私たちが聖なる都に、その時すでに中に入っているのです。
それでヘブル人への手紙に行くと、イエス様が救われたことにより、垂れ幕が裂け、私たちがどこへ入れるようになったと言っていますか?「聖なる聖所に入ることができるようになった」と言いますよね。すべてつながるのです、そのように聖書は。
そのイエスによって、私たちはそのように、もう聖なる都に入ることになりました。ところがヘブル人の記者は何と言っているかというと、「死の恐怖のゆえに一生涯奴隷となっていた者たちを救い出すために、イエスが死なれた」と言うではないですか。
さて、私たちはなぜこのように日常生活の中で、苦しく、非常に疲れ果てて生きているのでしょうか。死ぬほど大変でしょう。私たちの子供たちが昨日勉強しているのを見たら、家にいながら、いや、死ぬほど大変そうにしています、あんな幼い子たちが。数学の問題を解いているのを見たら、まあ、本当によくもあんなに綺麗さっぱり忘れられるものか。私は一つも分かりません。教えてくれと次男が持ってきたのですが、中学生なのに。あの中学校の数学を自分が忘れているなんて想像もしていませんでした。
見てください。あんなに全部忘れてしまうものを。私は英語と数学は高校を卒業するまで一問も間違えたことがありません。それほど一生懸命勉強したのに、今、中学生の子が持ってきたのを見たら、一つも分かりません。分からないとも言えず、「ああ、パパ頭が痛い。ママのところに行きなさい」と言って終わらせましたが。
分かりません。でも一体何のために、皆さんは日常生活を送りながら微分、積分、関数、確率なんてものを使ったことがありますか?それなのに、なぜあんなことをしなければならないのですか。一体何のために。皆さん。人々は何のためにあんなに一生懸命お金を稼ぎ、あんなに度を越してダブルワーク、トリプルワークをこなし、わざわざそうしなくてもいいのに、主日の礼拝まで休んで。「うちの牧師が主日に教会に来なくてもいいと言った。CDで聞けばいいと言った」と。わざわざ主日に働く職業まで選んで、一体なぜあんなふうに生きなければならないのですか。お金を数百ドル余計にもらえるからといって、なぜあんなに疲れ果てなければならないのですか。
「死」を恐れているからです。違いますか?死というものが恐ろしいから、死の「症状」が怖くなるのです。「貧しくなったらどうしよう?飢え死にしたらどうしよう?人に見下されたらどうしよう?」これが死の症状なのです。
ところが、イエス様の十字架において、一束が生き返り、日常に縛られているその奴隷の状態から解放されたと言うのですよ。揺り動かされて目覚めたのです。だから、パッと目を開けて「生きるということは、これではないのだな」と目覚めたというのに、なぜ目覚めた人々が眠っている人と同じように生きるのですか。違いますか?なぜ目覚めているという人々が、眠っている人々と同じように生きるのですか。
私は昨日の朝から、精神病院に行ってくるのに一日中行ったり来たりしましたが、うちの教会員の中に、とても勉強ができる子がいます。SATもほとんどいつも満点を取っていた子で、良い大学に行きました。優しくて誠実で。ところが青天の霹靂です。子が精神病院にいると電話が来たのです。しかしもっと切ないのは、子がそこから「出たくない」と言っているというのです、本人が。
そこに入っていると、この熾烈な競争、この社会。その中でどうにかして一番になろうとしていた、あのような人生を忘れることができるというのです。そして薬をくれるので、それを飲めば、そこに行けばいつも寝ているわけです。睡眠も取れるし、ご飯も出る。勉強もしなくていい。
明後日が期末テストだというのに、子が出てこないというので。それで親が訪ねて行って連れ出そうとしたのですが、18歳以上なら本人が出ないと言えば、親であっても、祖父であっても連れ出せないと言うのです。それで「パスター(牧師)が行って、カウンセリングをするから出してくれと言えば、ひょっとして出してくれるかもしれないから、行ってほしい」と言われて……出ないそうです。
皆さん、あんなふうに子供を追い詰めて、どこで使うつもりですか。あんなに自分の「自慢の種」にしたくて、そうしているのでしょう?あんなふうに叩き直して一番にさせて、自分の自慢にして、いや、わが子を精神病者にしてまで、そこまでしなければなりませんか。子供には、子供の年齢で経験すべきことがあり、また彼らが生き抜かなければならない人生があるのですよ。
それなのに一日に塾を三つも四つも行かせ、学校に行けばまた同じように、ただ無限競争の中でそのように生きなければならない。子供たちがどうして狂わずにいられますか。だからほとんど精神病者になって弁護士や医者になるから、世の中がめちゃくちゃになるのです。みんな精神病者になって、専門職に就いて。だから世の中がどうすれば人を騙せるか。法曹界の人たちを見てください、まともな人間を一度でも見たことがありますか。
皆さん、よりによってキリスト教書店に行ったら、私に「領収書を差し上げましょうか?」と言うので「ください」と言ったら、「金額を書き込みましょうか、やめましょうか?」と言うのですよ。私が牧師だと知りながら!「それはなぜ聞くのですか?」と言ったら、領収書を持って行って、金額を自分で書いて、お金を余計に受け取る人間たちがいるわけです。だからキリスト教書店で「金額を書きましょうか、やめましょうか」と言うのです。泥棒同然の人たちが、何とかして自分の利益と高地の占領のために、勉強も一生懸命し、仕事も死ぬほどして。
私はKOSTA(コスタ)の講師として行く際、そこの幹事の若者たちがいますが、その幹事たちは全員、このアメリカで博士号を取った子たちがやっています。だから「高地論(成功して高い地位に就くべきという考え)」が出てこないわけがありません。その中で、幹事の子たちの中で……。私が最近コスタに行かない理由が、その子たちが、自分たちが高地を占領するためにアメリカに来て、本当に高地を占領した子たちだから、私が話していることが正しいと思いつつも、ずっと騙されているのです、他の人たちに。キム・ドンホ牧師も連れてきて、チョン・ビョンウクも連れてきて、そのようにして「取捨選択させよう」と。それなら君たちだけで勝手にやりなさいと言って行かないのですが。
その中で何人かが理解して、コスタから離脱した子がいます。その中でメリーランドに住むある幹事、ソン幹事という子がいますが、彼は博士号をほとんど終えて、あとは論文を書くだけでした。すでに講義もしており、あんなに勉強を、毎晩徹夜して実験し、結果を書いて、もうほとんど終わっていて、論文さえ出せば博士号をもらえるのですが。自分が家庭を顧みなかったために、奥さんが何度も流産を繰り返していたのです。一人で家で、その仕事をすべてやっていたので。
今日の未明に来たら、「先生、あとは論文だけなのですが、本当に狂ったことを一度しました。昨日、教授に言って、もうこれを辞めると言い、完全になかったことにしました」と言うのです。そうすれば、それまでの7〜8年の勉強がすべて無駄になるわけです。それで「なぜそんなことをしたのか?」と聞いたら、これのために、これまで一人息子、幼い子が一人いますが、息子と妻と、私の周りにいるすべての人が、私が得ようとしているこれのために、どれほどの犠牲を払ったかを、数回の流産を通じて、神様が自分に語ってくださったというのです。
見てください。あのような決断が起こるのですよ、神の御言葉が入れば。そうでなくても、自分が重要なのは、また論文を書くとなれば半年か一年、また彼らを疎外しなければならない。自分は今も講義をしていて、食べていけるのだから、この程度で、これからは人を大切にすると踏み出したのです。
周りは「狂った」と言い、馬鹿だと言いますが、私は一人で褒めてあげました。「君は本当に福音を正しく悟った人だ。神様が君に感動をくださった通りにしなさい。博士号なんてものが何だ。君が汗を流して手に入れれば、人々にもう少し尊敬され、認められ、月給が少し増えるかもしれないが、その間の君のその仕事のために、君のその福を求める傾向のために、君の周りで死んでいく人々が生き返ると思えば、それは価値あることだ。よくやった!」
皆さん、生きるということは何ですか?高地の頂上に登ることを、私たちは生きることだと言いますか?神様が任せられた役割、その役割の中で、ただ自分の分相応に生き抜けばいいのです。ええ、わざわざそこまでして、何をするつもりですか。自分の人生をすべて、その時間の間、自分がその間に生きるべき、本当に生き抜くべき人生を、何かに執着して、そのためにすべて逃しているのではないですか。そんな馬鹿なことをなぜするのですか。
私はだから家に帰れば、子供たちと絶対に遊びます。「宿題が多いんです」と言えば「後でやりなさい」と言って、あるものは宿題をやっていかなくて「F」を取ったりもしました。それを持ってきて、わざわざ丸をつけて「これはあの時パパが遊ぼうと言ったからFになったんだ」。「大丈夫だ。パパと遊んで、あの時おまえとパパは楽しかったじゃないか。そっちの方が価値があるんだ。この場所に『A』があるのと、あの時私たちが楽しかったのと、どちらが価値があるか?」
それで、我が家にいる、ある人! 私が「ある人」と言えば、いつもそのある人は子供たちをみんな台無しにすると、いつも私に。何が台無しにすることなのですか。何とかして社会で成功し、親の自慢になってくれれば、それが子供を立派に育てたことですか?子供をよく育てたということは、天国に行って初めて判明することです。わが子が天国で私と一緒に暮らしていれば、よく育てたということであり、この世で金持ちにし、有名にし、素晴らしい者に仕立て上げたとしても、天国で私とその子が一緒にいなければ、その子を殺したのです、一生の間!
ところが意外にも、人々はそれに関心がありません。「どこかに出かけて座ってさえいれば、事故も起こさず、私の顔に泥を塗らなければそれでいい」と。それで、どんな異端宗派に行って座っていても、「それでも教会には行っているじゃないか」と言っています。そこに行けば事故は起こさないですから。ええ、事故も起こさず地獄に行きます。
しかし、意外にも親たちが「子供を愛している」と言いながら、「おまえたちのために私は何でもできる」と言いながら、これは完全な詐欺です。そう言いながら、子供の信仰、その子の救いに関しては全く無関心です。だから愛というのは、すべて詐欺です。嘘です。何の愛ですか、それが。すべて自分のための偽りの行動なのです。
本当に皆さんが愛そうとするなら、その人の永遠の命を心配してあげてください。それが愛です。それ以外の他のことはすべて詐欺です。イエス様と共に、皆さんは初実節の日に揺り動かされて目覚めた人々です。そのような人々が事実なら、これからは世の中とは少し異なる志向性を持って生きなければならないではありませんか。いつまでこのように自分の快楽、自分の楽しみ、自分の喜び、自分の価値、自分の栄光のためだけに生きますか。
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(04) - 초실절 (레23:9-14)
자, 레위기 23장! 초실절(初實節)에 대해서 공부할 차례죠? 초실절부터! 초실절에 대한 이야기는, 9절부터 나옵니다. 9절부터! 자 14절까지 봉독합니다.
(레위기 23:9-14)
9 여호와께서 모세에게 말씀하여 이르시되
10 이스라엘 자손에게 말하여 이르라 너희는 내가 너희에게 주는 땅에 들어가서 너희의 곡물을 거둘 때에 너희의 곡물의 첫 이삭 한 단을 제사장에게로 가져갈 것이요
11 제사장은 너희를 위하여 그 단을 여호와 앞에 기쁘게 받으심이 되도록 흔들되 안식일 이튿날에 흔들 것이며
12 너희가 그 단을 흔드는 날에 일 년 되고 흠 없는 숫양을 여호와께 번제로 드리고
13 그 소제로는 기름 섞은 고운 가루 십분의 이 에바를 여호와께 드려 화제로 삼아 향기로운 냄새가 되게 하고 전제로는 포도주 사분의 일 힌을 쓸 것이며
14 너희는 너희 하나님께 예물을 가져오는 그 날까지 떡이든지 볶은 곡식이든지 생 이삭이든지 먹지 말지니 이는 너희가 거주하는 각처에서 대대로 지킬 영원한 규례니라
자, 초실절(初實節)! 초실절은, 안식일 다음날 지키는 절기죠? 다시 한 번 이스라엘 달력을 말씀드리면, 이스라엘 사람들이 애굽에서 쓰던 달력은, 민력이라고 그랬죠? 민력이고! 또 그 히브리사람들이 이제, 유월절 명명 그 이후에, ‘유월절이 있는 달을 그달 그해 첫 달이 되게 하라’고 해서, 하나님께서 달력을 다시 주시잖아요? 그래서 그 유월절이 있는 달을, 아빕월을, 정월이라 그러죠? 예 그래서 성경에서 뭐 정월! 그러면은, 뭐 정월 초하루 생각하시면, 우리 양력인 1월 생각하시면 안 돼요. 히브리 사람들 달력의 정월입니다. 아빕월을 이야기하는 거예요.
그 다음에 양력! 로마 사람들이 이제 쓰는 거니까! 그래서 그 히브리 사람들이, 그 로마에 영향을 받으면서, 로마의 국교가 기독교로 되면서, 양력을 쓴 거예요. 유대교는 아직도 이제 그 성력을 씁니다. 그래서 음 에 이 양력 1월이 1월이 아니라, 그러니까 성력 1월이, 정월이, 민력 7월이고, 어 또 양력으로는, 한 3월, 4월 고 사이죠. 봄! 봄!
고 봄에, 하나님이 인제, 그 절기를 허락하시는데, 유월절, 무교절, 초실절, 이게 봄 절기라 그랬죠? 예? 그래서 정월에 시작하는 거예요. 그래서 유월절은? 아빕월 14일이죠. 정월 14일! 목요일! 보통 그러는데, 요일 같은 것도 여러분이 뭐 너무 거기에 이렇게 묶이지 않아도 돼요.
그래서 제임스보이스랑 뭐, 로이드존스랑 이제 물론 친구들도 많이 막 그 논쟁을 하고 그러는데, 목요일이다, 금요일이다, 제임스 보이스는, 예수님이 돌아가신 날을 목요일로 주장하기 위해서, 몇 년을 연구를 해서, 이만한 책을 하나 써놨어요. 다 헛 거예요. 그 인간하고 괜히 그냥 고생만 했는데, 고 히브리사람들의 요일이라는 건, 저녁부터 그 다음날 저녁이기 때문에, 우리가 생각할 때 목요일! 그러면은 목요일 저녁부터 그 다음날 금요일! 우리가 생각하는 금요일 저녁때 까지가, 목요일이거든요. 그러니까 이걸 목요일이라 그래야 돼요? 금요일이라 그래야 돼요? 예?
그러니까 예수님께서, 뭐 사람들이 이제 성금요일 그래서, 금요일 날 돌아가셨다. 그것도 맞구요. 목요일날 돌아가셨다. 그래도 맞아요. 유월절이 목요일! 목요일이였거든요. 그 뭐 본질도 아닌 거를 그 갖고 그냥 뭐, 그렇게 논쟁도 하고, 뭐 그러기도 하는데, 다 필요 없어요. 쓸데없는 거고! 항상 신학생 애들이 그런 거를 저한테 질문을 이메일로 해서, 목요일이 맞습니까? 금요일이 맞습니까? 뭐 그러는데, 너 맘대로 생각해! 그냥 그렇게 그거 답을 언제 다 써주고 앉아 있어? 그렇게 생각하라고 그랬다고. 상관없어요.
아, 금요일 이렇게 생각하시면 돼요. 왜냐면은, 지금 우리가 주일을, 안식 후 첫날로 생각하고 있으니까! 그래서 금요일 날 유월절이라고 생각하시면 되고! 인제 금요일 그 밤부터, 예수님이 그 십자가에서, 어린 양이 그 해질 무렵! 그게 저녁과 저녁 사이라 그랬죠? 오후 세시입니다. 딱 어린양의 목이 날아가는 순간부터, 그때부터가 무교절이에요. 예?
그러니까 무교절은, 일주일간 지켜야 되는 거거든요. 그러니까 봄 절기! 유월절, 무교절, 초실절, 전체를 그냥 무교절이라고 이야기를 해요. 왜냐면은 무교절 기간 내에. 그 세 개가 다 들어가 있거든요. 그래서 그 무교절이 시작되면, 뭐 쓴 나물도 먹고, 누룩이 들어가 있는 떡을 먹지 못하게 하고, 제가 그거 주일날 한번 잘 설명을 해드리려고 그러는데, 인간의 죄와, 아마 내일 사사기에서도 조금 나올지도 몰라요. 다 똑같은 이야기들이기 때문에, 어느 본문을 잡아도, 다 예수로 결론이 나야 되기 때문에! 이 절기가 다 예수잖아요? 그죠?
골로새서 2장 18절, 19절 이렇게 보시면, 이 절기와 월삭 모든 거, 이건 다 그림자고, 실체! 몸은 뭐다? 그리스도다! 그러니까 이게 절기가 그리스도에 삶에서, 역사 속에서, 실제로 일어나지 않으면, 다 가짜 되는 거예요. 예? 그래서 유월절 날 예수님이 돌아가시고, 양이 잡히는 그날! 예수님이 죽는 거예요. 실제로!
그래서 빌라도가 팍 놓아주려고 했는데도, 예수님이, ‘아니야 하나님이 너에게 권세준 거야! 그러니까 빨리 죽여!’ 예수님이 그러는 거예요. ‘네가 아무리 놔주려고 해도, 하나님의 시나리오에 써 놨기 때문에, 너는 ‘본디오 빌라도에게 고난을 받으사’ 고 자리에, 네가 역할을 맡고 온 거기 때문에, 넌 날 죽여야 되!’라고 말씀하시는 거예요. 그래서 ‘하늘이 너에게 권세를 주지 않았으면, 네가 나를 죽일 권세도 없고, 살릴 권세도 없다.’라고 이야기한 게, 하나님이 너 시켰다는 얘기에요.
그래서 일부러, 그리고 그 전에도 나사로를 살렸을 때도 그렇고, 그들이 막 죽이려고 모의하죠? 그런데 못 죽여요. 그러고 가서 잡아오라고 종들을 보냈더니, 종들이 예수님이 말하는 거에 반해가지고 어히 여태까지 그렇게 말하는 사람은 못 봤다는 둥, 이러고 또 돌아오고 그러죠? 왜냐면은 고 날을 맞춰야 되거든요.
그런데 나중에는, 예수님께서 이 유월절이 되자, 유다에게 떡을 찍어주면서, ‘야! 빨리 네가 할 거 해라!’라고 하면서, 죽음을 자초해요. 그날 죽으셔야 되기 때문에! 그리고는 보통 사람은 십자가에다 달면, 짧으면 하루, 길면 사흘까지 살아있다, 그래요. 금방 안 죽어요. 그런데 예수님은 아침에 달리셔서, 오후 3시에 돌아가셨어요. 그래 오죽하면은 ‘벌써 죽었니?’ 그러죠? 빌라도가! ‘벌써 죽었어?’ 그래 무릎을 꺾어서! 왜냐면은, 안식일이 시작되면, 그 시체를 저주받은 나무에다 매달아 놓으면 안 돼요. 부정한 것이기 때문에! 그래서 빨리 죽여 달라고! 어 유대인들이 이제 이야기를 해서, 해머를 갖고 그러면은 무릎을 쳐서 꺾어 버려요.
그러면 이 사람이 이렇게 십자가에 달리면, 이 고통보다도 이게 몸이 늘어지면서. 횡경막이 위를 압박을 해가지고요, 폐를 압박해서, 호흡곤란으로 대부분 죽습니다. 그러니까 다리가 아무리 못에 박혀 있어도, 헐떡헐떡 대면은, 무릎을 세워서 숨을 쉰다구요. 그런데 무릎을 꺾어 버리면 그게 안 되는 거예요. 그게 죽이는 거거든요. 무릎을 꺾어서!
그런데 예수님 보니까 벌써 죽었어요. 그런데 어떻게 예수님이 죽었냐 하면, 예수님이, ‘다 이루었다. 테탈레스타이!’ 하신 다음에, 세시에, 고개를 숙이죠. 예수님이 죽은 거예요. 뭐라 그래요? 돌아가시기 전에? ‘나는 내 목숨을 얻을 권세도 있고, 버릴 권세도 있다’라고 굳이 말씀하시거든요. ‘내가 너희를 위하여, 고 시간에, 구약의 그림자로 예표 된 고 시간에, 죽을 거다.’라는 그런 뜻이거든요. 그걸 하나님이 죽였다고도 하고, 예수님이 스스로 죽으셨다고 해도 무방해요.
‘아 그렇게 죽으셨어요? 유월절에! 그리고는 초실절! 이제 저 무교절이 오죠? 무교절에는 뭐하는 거라, 뭐하는 날이라 그랬어요? 누룩 없는 떡을, 죄 없는 거예요. 그거! 자기에 의가 없는 떡을, 땅에다가 사흘을 묻어 둔다, 그랬죠? 그리고 사흘째 되는 날! 꺼내서 먹는 거죠. 그게 죄 없는 이 제물인, 예수! 세상에 떡으로 오신 예수가, 무덤에 사흘간 묻혀 있는 걸! 보여주는 거죠.
그 다음에 오는 게, 이제 초실절이에요. 그러니까 무교절에는, 15일! 유월절에는, 14일! 초실절은 안식 후 첫날이니까, 16일이 되는 거죠? 예, 그러면은, 예수님은 금, 토, 일 새벽에 부활하셔야 되는 거예요.
자, 초실절이 왜 부활을 이야기하는 거냐하면? 여러분 보시다시피, 안식 후 첫날에, 첫 맏물! 첫 이삭이죠? 그러니까 봄에, 3, 4월에, 밀이 수확이 된다고 그러죠? 왜냐면은 이렇게 켈리포니아 날씨하고 똑같기 때문에, 잘만하면 얼마든지, 뭐 2모작 3모작도 할 수 있는 곳이, 팔레스타인이란 말이죠. 그래서 밀! 그러니까 맥추절은, 보리를 거두는 날이니까! 보리 맥(麥)이니까, 고게 가을이라고 칠칠절! 그러니까 맥추절이라고 하잖아요?
그러니까 봄에 첫 이삭을 드리는 날이, 초실절은, 이제 밀이나 아니면 그 밖에 하여튼, 첫 이삭! 첫 그 땅에서 나온 첫 것! 맏물이라 그래요. 그거를, 그걸 갖다가 하나님 앞에 흔들라 그러죠? 그러니까 맏이, 맏이가 요제(搖祭)라고 하는데, 그 요제는 이렇게 흔들어서 드리는 제사를 얘기하는데, 흔든다는 건, 잠들어 있는 자를 흔들어 깨운다는 뜻인 거예요.
그래서 안식 후 첫 날 요제(搖祭)를 맏물로 드리는 건, 그렇게 흔들어서 살아나는 첫 번째 맏아들이, 그 날 이제 생겨날 것이라는 것을 보여주는 거라 말입니다. 그래서 바울이 고린도서에서, 그거 이야기를 할 때, 데살로니가 전서에서도 그렇고, 첫 것! 맏물이, 첫 열매가, 죽음에서 이렇게 살아나면서, 그 뒤에 줄줄이 동생들이 살아날 것이라는 것을 얘기를 하죠. 고린도전서 15장에, 예, 15장을 한번 쭉 읽어 보세요. 고 이야기 하는 거예요. 그래서 고렇게 살아나는 거죠. 고 시각에!
그거 보세요. 정확하게 예수님에 생애나, 레위기에 법 안에 다 들어가 있죠? 그대로 단 한 치의 오차도 없어요. 시간까지도 정확해요. 그러니까 성경을 공부하면 할수록, 하나님이 안 계시다, 혹은 뭐, 예수 그리스도에 십자가가, 왜 꼭 우리의 구원의 조건이여야 되느냐? 이런 질문은 할 수가 없어요. 그냥 성경을 표피적으로 읽어본 얼치기들이, 도올 김용옥 같은 그런 인간들이, 인제, ‘아니다!’ 이야기 하는 거죠. 이외수 같은 그런 웬수들이 이름도 잘 지었어요. 아주 웬수 같은! 성경은 무지 많이 읽은 사람들이에요. 그 사람들은!
전 이외수씨 유명해지기 전부터 알거든요. 제가 대학교 때, 그 문인들하고 이렇게 교제하고 할 때부터 알았는데, 그 사람은 이상하게 그 이렇게, 그 예수님에 대해서, 아주 그냥 나면서부터 무슨 웬수를 졌는지, 아 술만 먹으면 그렇게 그냥 쌍욕을 하면서, 예수를 부정하고, 예 지금까지도 그래요. 그러면서도 얼마나 그 뭔 일이 있을 때마다, 웹상이나 신문이나 뭐 이런데 잘난 척들을 합니까? 그냥 흐 정의가 어떻고 저떻고, 그러면서 매일 술독에 빠져갖고 그렇게 살고 있고, 그게 무슨 정의입니까? 그게? 응?
그러니까 성경을, 이렇게 예수 그리스도와 십자가를 꼭 붙들고, 그걸 통하여 성경을 풀어내지 못하면, 성경은 다 그렇게, 그냥 못 믿을 것이 되는 거예요. 응? 그래 도올 김용옥이 지금 신학교에서 구약학을 가리키고 있어요. 한신대학교에서! 그 난 아주 한심해 죽겠어요. 아주 그 한신대 정말! 거기 자유주의 신학이 태동이 된 곳이, 한신대학교인데, 지금도 그래요. 그러니까 뭐 김정재 뭐 문익환 하여튼 이 개혁파들이 좋아하는 급진 개혁파들이 좋아하는 목사들은, 전부 거기! 그러니까 사회참여니 뭐니!
그러니까 한신대가 예전에 서울대보다 더 과격하게 데모를 했어요. 우리 때는! 그래서 한신대 애들이 나온다, 그러면, 그냥 막 크 다들 그냥 격앙이 되어서, 야 오늘 한번 멋지게 싸워보자! 쨍 짱돌도 제일 잘 던지고. 그냥 신학교에 그거 연습하는지? 그러니까 사회에 참여해서, 우리가 뭔가 인간들이 살기 좋은 어떤 곳을 만들자고 하다 보니까, 그게 인본주의 아니에요? 휴머니즘! 그들이 그렇게 주장하는 휴머니즘!
그러면 예수가 그 현장에서 계속 맞아죽게 된다니깐요. 예수님이 해놓으신 일은 뭐냐고요? 그러면? 인간들이 이 세상에서 지금 그 일을 돕겠다고 나서게 되면 말이에요. 허! 누구보다 선봉에 섰던 사람이 할 말은 없지만, 잘못된 거예요. 그거는요! 얼마나 시간이 아까운지 모르겠어요.
예수님이 완전히 다 완료해 놓으신 그 일을, 우리가 거기에 거듦으로, 그게 불완전한 것으로 떨어지게 돼요. 그게 사사기 마지막 장이에요. 그래서 열한 지파가 왕창 법이 되어서 일어나니까, 결국, 한 지파가 완전히 몰살이 돼요. 없어져 버려요. 불완전이 된다니깐요. 그러니까 예수님이 그걸 채우시는 거예요. 굉장히 어려운 내용이에요. 사사기 내용이! 사실은요! 그런데 성경 전체가 바로 그 이야기인데, 우리는 자꾸 어떤 인간의 가치와, 유용함을 챙기려고 하니까, 성경을 그렇게 못 보는 거죠.
그런데 10절을 보시면요, ‘곡물의 첫 이삭 한단을 제사장에게로 가져가라!’ 그러죠? 여기서 한 단이라는 게, 중요한 거예요. 하나가 아니에요. 이삭 하나가 아니라, 한 단이 요제로 흔들리는 거예요. 그러면 한 단이라는 건, 지금 맏! 첫! 이 한 단! 그러니까 이 첫 이삭 중에도, 가장 처음 베어지는 게 있을 거 아니에요? 그런데 그거뿐만이 아니라, 한 단이 함께 흔들려서 깨어나는 거예요.
예수님께서 사람들을, 그 구약의 성도들을, 자꾸 잠자는 자! 잠자는 자! 이렇게 부르죠? 나사로도 잔다, 그랬잖아요? 그러니까 흔들어 깨워 일어날 자들! 하여튼 뭐 예수 안 믿는 자들, 자옥 갈 자도 자는 거예요. 왜냐면은, 흔들려 나중에 지옥에서 깨거든요. 그러니까 잔다고 이야기한다고요.
마태복음 27장에 가면, 예수님이 초실절! 첫 이삭으로 살아날 때, 어떤 일이 일어나죠. 무덤 안에 있던 성도들이 부활하여, 살아나서, 어디로 들어간다, 그래요? 거룩한 성으로 들어간다, 그러잖아요? 그게 다 하나의 모형이란 말입니다.
저는 그렇게 아주 철저한 회의론자였지만, 예수님이 부활하셨을 때, 무덤이 열리고, 죽은 자들이 살아났다는 게, 역사적 사실이라는 걸 믿습니다. 어떻게 애써 믿으려고 한 게 아니라, 그냥 믿어져요. 저는 하나님이 교회를 위하여, 무슨 일을 못하시겠어요? 그래서 수많은 사람들에게, 그들이 보였다, 그래요. 200년 전에 돌아가신 증조할아버지가, 갑자기 살아나시더니, ‘애야! 나 왔다. 밥 좀 다오!’ 이렇게 온 거예요. 실제로!
그게 다 뭐냐면? 바로 예수님의 이 부활이, 성도들 전체! 예수님을 머리로 한, 첫 열매를, 맏이를, 머리로 한, 전체의 부활을 모형하고 있다라는 거! 이 레위기 23장 10절이, 마태복음 27장에서 실제로 일어나 버리는 거예요. 흔들려 깨어나더라는 것입니다. 그래서 우리가 거룩한 성으로, 그때 이미 들어가는 거예요.
그래서 히브리서로 가면, 예수님께서 구원하심으로 말미암아, 휘장이 찢어지고, 우리가 어디로 들어갈 수 있게 됐다 그래요? 거룩한 성전으로 들어갈 수 있게 됐다 그래요. 성소로 들어갈 수 있게 됐다 그러죠? 다 연결되는 거예요. 그렇게 성경은요!
그 예수로 말미암아, 우리는 그렇게, 이제 거룩한 성으로 들어가게 됐어요. 그런데 히브리서 기자가 뭐라 그러냐면? ‘일생에 매여 죽기를 두려워하여, 일생에 매여 종노릇 하는 자들을 살려 내기 위해, 예수가 죽었다!’ 그러잖아요?
자, 우리가 왜 이렇게 이 일상 속에서 고통스럽게 아주 고단하게 이렇게 삽니까? 힘들어 죽겠죠? 아주! 우리 아이들 어저께 공부하는 거 요렇게 보니까, 집에 있으면서, 아니 힘들어 죽을라 그래요. 그냥 그 어린애들이! 어휴! 가서 수학 문제 뭐, 이렇게 푸는 거 보니까, 야! 정말 그렇게 새까맣게 다 잊어버릴 수 있어요? 세상에 난 하나도 모르겠어요. 정말 뭐 가르쳐달라고 둘째 애가 갖고 왔는데, 중학생인데, 아니 그 중학교 수학을 제가 잊어 버렸으리라고는 상상도 못했는데!
보세요. 그렇게 다 잊어버릴 걸, 저는 영어, 수학은 고등학교 졸업할 때까지 단 한 문제도 틀려본 적이 없어요. 그런데 그렇게 열심히 공부를 했는데, 지금 중학생 애가 갖고 온 거를 이렇게 봤더니, 하나도 모르겠어요. 그 모른다고도 못하고…, ‘아! 아빠 머리 아파! 엄마한테 가!’ 그러고 말았는데.
모르겠어요. 그런데 도대체 뭣 때문에 여러분이 일상생활하면서, 미분, 적분, 뭐 함수, 확률 이런 거 쓰는 써 본적 있어요? 그런데 왜 그렇게 해야 돼요? 그런 거를! 도대체 뭣 때문에? 여러분! 사람들이 뭣 때문에 그렇게 열심히 돈을 벌고, 그렇게 도에 지나게 투 잡, 쓰리 잡 뛰면서, 굳이 안 그래도 되는데! 주일날 예배까지 빼 먹으면서! ‘흐 우리 목사님이 주일날 교회 안 나와도 된다.’ 그랬다고! 씨디로만 듣고 하면 된다, 그랬다고! 굳이 주일날 일하는 직업까지 택하면서, 도대체 왜 그렇게 살아야 되냐고요? 돈 몇 백 불 더 준다고! 왜 그렇게 고단하고 피곤해야 되죠?
죽기를 두려워해서 그래요. 아닙니까? 사망이라는 게 두려우니까, 사망에 증상들이 겁나는 거예요. ‘가난해 지면 어떡하지? 굶어 죽으면 어떡하지? 사람들이 날 얕보면 어떡하지?’ 이게 사망의 증상들이거든요?
그런데 예수님의 십자가에서, 한 단이 살아나서, 일상에 매어 있는, 그 종노릇하는 것에서 풀려났다 그러거든요. 흔들려서 깨었단 말이에요. 그러니까 눈을 번쩍 뜨니까, ‘사는 게, 이거 아니구나!’ 하고 깼다는데, 왜 깬 사람들이 잠자는 사람하고 똑같이 사냐고요? 아니에요? 왜 깨어있다는 사람들이 잠자는 사람들하고 똑같이 사냐고요?
제가 어제 아침부터, 정신병원에를 갖다 오느라고, 그냥 하루 종일을 이제 왔다 갔다 했는데, 우리 교인 중에, 한 아이가 공부를 굉장히 잘하는 애예요. SAT를 거의 뭐 맨날 만점 받고 했던 애인데, 좋은 대학 갔어요. 하 착하고 성실하고! 그런데 청천벽력이죠. 애가 정신병원에 있다고 전화가 온 거예요. 그런데 더 안타까운 건, 애가 거기서 안 나오겠다고 한다는 거예요. 본인이!
거기 들어가 있으니까, 이 치열한 경쟁! 이 사회! 그 속에서 어떻게 해서든지 일등이 되려고 했던, 그런 삶을 잊을 수가 있더라는 거예요. 그리고 약을 주니까, 그걸 먹으면, 뭐 거기가면 늘 자는 거지요. 뭐 잠도 자! 밥도 줘! 공부 안 해도 돼!
내일 모래 기말고사라는데, 애가 안 나오겠다는데, 그래서 부모님이 찾아가서 애를 데리고 나오려고 그랬더니 열여덟 살 이상이면, 또 본인이 안 나가겠다면, 부모가, 부모가 아니라 할아비가 가도, 못 데리고 나간다. 그러죠. 그래서 패스터(pastor)가 가서, 패스터가 가서, 상담을 해주고, 뭐 카운슬링(counselling)을 할 테니까, 내보내 달라고 하면 혹시 보내줄지 모르니까, 가달라 그래서… …. 안 나온대요.
여러분 그렇게, 그렇게 애, 애들 만들어서, 그 어디에 쓰시려고? 그렇게 내 자랑삼아 삼고 싶어서, 그런 거죠? 그거 다 그 족쳐가지고 그냥 해서 일등 되고, 내 자랑이 되고, 아니 자식을 정신병자로 만들면서까지, 그렇게 까지 해야 돼요? 아니 애들은, 애들 나이에 겪어야 할 게 있고, 또 그들이 살아내야 할 삶이 있다니깐요.
그런데 하루에, 과외도 서너 개씩 해야 돼! 학교가면, 학교에서 또 똑같이 그냥, 그냥 무한경쟁 속에서 그렇게 또 살아야 돼! 애들이 어떻게 안 미칩니까? 그러니까 거의 정신병자들이 되어서, 변호사하고 의사되고 이러니까, 아주 지랄들을 떠는 거예요. 세상이! 다 그 정신병자들이 되어서, 어떤 전문 인력이 되어서! 그러니까 세상이 어떻게 하면 남을 등을 쳐 먹을까? 응? 법조인들 보세요. 제대로 된 인간들 한번이라도 보셨어요?
여러분, 아니, 어떡하면 기독교 서점에 갔더니, 저한테, ‘영수증 드릴까요?’ 그래서 ‘ 주세요.’ 그랬더니 ‘금액을 써드릴까요? 말까요?’ 이러는 거예요. 내가 목사인줄 알면서! ‘그래 그건 왜 물어 보세요?’ 그랬더니 그걸, 영수증을 가져가서, 금액을 자기가 써서, 돈을 더 받아 내는 인간들이 있는 거죠. 그러니까 기독교 서점에서, ‘금액을 써드릴까요, 말까요?’를 얘기하는 거예요. 그냥 순 도둑놈들이, 그냥 어떻게 해서든지, 내 유익과 내 고지 점령을 위해, 공부도 열심히 하고, 일도 죽어라고 하고!
제가 그 코스타 강사로 가면서, 거기 그 간사 아이들이 있는데, 그 간사 아이들이 전부, 이 미국에서 박사학위를 딴 아이들이 간사를 해요. 그러니까 고지론이 안 나올 수가 없어요. 거기서! 그런데 그 중에, 간사 아이들 중에, 그래서 제가 요즘 코스타를 안 가는 이유가, 그 아이들이, 자기들이 고지를 점령하기 위해 미국에 와서, 진짜 고지를 점령한 아이들이기 때문에, 이걸 갖다가, 제가 이야기하는 게 맞는 거 같은 데도, 계속 속는 거예요. 다른 사람들! 김동호 목사도 데려오고, 전병욱이도 데려오고, 이렇게 해서! 그러면서 그렇게 취사선택을 하게 만들어 주자! 그럴 거면 너희들끼리 그냥 알아서 해! 그러고 안 가는 건데!
그 중에 몇 명이 알아듣고, 코스타에서 빠져나온 애들이 있어요. 그런데 그 중에, 메릴랜드에 사는 한 간사! 손간사라는 아이가 있는데, 걔는 박사학위를 거의 다 끝내고, 이제 논문만 쓰면 돼요. 그래서 벌써 강의도 하고 있고 한데, 그렇게 공부를, 자기가 그 매일 밤을 새워서, 실험하고 결과를 쓰고 해서, 이제 거의 다 이제 돼 있고, 논문만 써 내면, 박사학위를 받는데, 자기가 가정에 신경을 못 쓰니까, 와이프가 계속 유산을 하는 거예요. 혼자 집에서, 그 일을 다 하고 그러니까!
오늘 새벽에 왔더니, ‘목사님! 이제 논문만 쓰면 되는데, 제가 정말 미친 짓 한번 했습니다. 어저께 교수님한테 말해서, 나 이제 이거 그만둔다.’고 하고, 완전히 없던 걸로 해버렸대요. 그러면 그 동안 공부한 거, 7-8년 공부한 거, 다 헛 거 되는 거거든요. 그런데 ‘왜 그랬냐?’ 그랬더니, 이걸 위해서 내가 그 동안 우리 아들내미 하나! 어린애 하나 있는데, 아들과 그 내 아내와, 내 주변에 있는 모든 사람들이, 내가 얻으려고 하는 이거 때문에, 얼마나 많은 희생을 치렀는지를, 몇 번의 유산을 통하여, 하나님이 자기에게 말씀해 주셨다는 거죠.
보세요. 그런 결단들이 일어난다니깐요. 하나님의 말씀이 들어가면! 그게 아니더라도, 내가 중요한 건, 또 논문을 쓰려면, 이게 6개월이고, 1년이고, 또 이들을 또 소외시켜야 될 텐데! 내가 지금도 강의를 하고 있고, 먹고 살 수 있으니까! 이 정도에서, 이제는 사람을 챙기겠다고 나서는 거죠.
남들이 ‘다 미쳤다!’ 그러고 바보라고 하는데, 제가 혼자 칭찬해줬어요. ‘너는 진짜 복음을 올바로 깨달은 사람 맞구나! 하나님이 너에게 감동주신대로, 그대로 해! 박사학위 그까짓 거 그게 뭐냐? 네가 그걸 땀으로 해서, 사람들에게 조금 더 존경받고, 인정받고, 월급을 좀 더 받을 수는 있겠지만, 그 동안에 너의 그 일 때문에, 너의 그 구복지향성 때문에, 네 주변에서 죽어갈 사람들이 살아난다는 걸 생각하면, 그거 값진 일이야! 잘했어!’
여러분! 사는 게 뭐에요? 고지 꼭대기에 올라가는 걸, 우리가 사는 거라 그래요? 하나님이 맡긴 역할! 그 역할 속에서, 그냥 그, 자신의 분량 만큼만큼만 살아 내면 돼요. 예, 굳이 그렇게 까지 해가지고, 그 뭐하는 거예요? 자기의 인생을 다, 그 시간 동안에, 자기가 그 동안에 살아야 할, 진짜 그 살아내야 할 인생을, 뭔가에 하나 이렇게 집착을 해서, 그거 때문에 다 놓치는 거 아니에요? 그런 바보 같은 짓을 왜 하냐고요?
저는 그래서 집에 가면 애들하고 무조건 놀아요. ‘숙제 많은데요.’ 그러면 ‘다음에 해!’ 그러고 어떤 건 숙제 안 해갖고 막 에프(F)도 맞았어! 그래서 가져와서 굳이 똥그라미 쳐서, ‘요건 그때 아빠가 놀자! 그래서 에프 맞은 거야!’ ‘괜찮아! 아빠랑 놀아서, 그때 너하고 아빠하고 즐거웠잖아? 그게 더 가치 있는 거야! 요 자리에 에이(A) 있는 거와 그때 우리가 즐거웠던 거와 뭐가 더 가치 있냐?’
그래서 우리 집에 있는 그 혹자(或者)! 제가 혹자라고 하면, 항상 그 혹자는 애들 다 망친다고, 맨날 저한테! 뭐가 망치는 거냐고요? 예? 어떻게 해서든지 사회에서 성공하여, 부모의 자랑이 되어주면, 그게 자식 잘 키운 겁니까? 자식을 잘 키웠다는 건, 천국에 가서야 비로소 판가름 나는 거예요. 내 자식 천국에, 나와 함께 같이 살고 있으면, 자식 잘 키운 거고! 이 세상에서 부자 만들고, 유명한 자 만들고, 굉장한 자 만들었으나, 천국에서 나와 함께 그 아이 함께 있지 않으면, 그 아이 죽인 거예요! 평생 동안!
그런데 의외로 사람들이 거기에 대해서 관심이 없어요. 그냥 어디 나가서 앉아 있기만 하면, ‘야! 사고나 안치고, 내 얼굴에 먹칠만 안하면, 그냥 괜찮은 거’로! 그래서 어 무슨 뭐 이단종파에 가서 앉아 있어도, ‘그래도 교회는 가잖아요?’ 이러고 앉아 있어요. 거기에 가면 사고는 안 친다니깐요. 예, 사고 안치고 지옥가요.
그런데 의외로 부모들이 자식을 사랑한다 그러면서, 너희를 위해서 나는 뭐든지 다 할 수 있다고 하면서, 이건 순 사기에요. 그러면서, 아이의 신앙! 그 아이의 구원에 관해서는 전혀 무관심해요. 그러니까 사랑이라는 건, 다 사기에요. 거짓말이에요. 무슨 사랑이에요? 그게? 다 나를 위한 거짓행동인거지!
진짜 여러분이 사랑을 하시려면, 그 사람의 영원한 생명을 걱정해 주세요. 그게 사랑이에요. 그 이외에 다른 건 다, 사기입니다. 예수님과 함께 여러분은, 초실절날, 흔들려 깨어난 사람들이에요. 그런 사람들이 맞다면, 이제는 세상과는 좀, 다른 지향성을 갖고 살아야 되잖아요? 언제까지 이렇게 나의 쾌락! 나의 재미! 나에 기쁨! 나에 가치! 나에 영광만 위해 살겠습니까?
15 あなたがたは、安息日の翌日、すなわち奉納物の束をささげた日から、満七週間を数える。
16 七番目の安息日の翌日まで五十日を数え、新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。
17 あなたがたの住まいから、奉納物としてパン二個を持って来なさい。それはエファの十分の二の小麦粉に酵母を入れて焼いたもので、主への初物である
18 そのパンと共に、一歳の傷のない雄の子羊七頭、若い雄牛一頭、雄羊二頭をささげなさい。これらを、穀物のささげ物および献酒と共に、主への焼き尽
くすささげ物としてささげる。これは主になだめの方香を放つ火によるささげ物である。
19 また、雄山羊一頭を罪の清めのささげ物として、一歳の雄の子羊二頭を和解のささげ物としてささげなさい。
20 祭司はこれらを、初物のパンおよび二頭の子羊と共に、奉納物として主の前で揺り動かさなければならない。これらは主に対する聖なるものであり、祭司のものとなる。
21 その同じ日に、聖なる集会を宣言しなさい。いかなる労働もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠の定めである。
22 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。また、収穫の落ち穂を拾ってはならない。貧しい者や寄留者のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
さて、今この部分は「七週の祭り(七七節)」といわれる、新約では「五旬節(ペンテコステ)」と呼ぶ箇所ですね。
五旬の「五」は数字の五、「旬」は十を意味するので、五旬節、つまり五十日!英語では「ペンテコステ(Pentecost)」と言いますが、ここからペンテコステ派という教団も生まれました。
聖霊運動をする人々が、五旬節の日に聖霊が降臨したことにあやかって自分たちをそう呼んでいるのですが、その実態を見ると、デタラメな聖霊運動をして
いるケースが多いです。自分たちだけが熱い霊的体験をしているかのように錯覚していますが、それは大きな間違いです。
ペンテコステとは、そのような意味ではありません。
この七週の祭り、五旬節の時期を改めて説明すると、春の祭りは過越の祭(正月14日)から始まります。
15日は無効祭(種入れぬパンの祝い)で、安息日です。その日から7日間、無効祭を守り、その次の16日が「初穂の祭り」です。
最初の穂を捧げる日です。
過越の日にイエス様が亡くなり、無効祭は種入れぬパンを三日間地に埋めて食べる時期ですから、これはイエス・キリストの死と墓への埋葬を象徴していま
す。そして初穂の祭り、安息日の翌日、三日目にイエス様が蘇られます。
その時、初穂として神様に捧げられたでしょう?神様が初穂を受け取られたということは、「残りのものもすべて私が受け取る」という意味なのです。
初穂に含まれているすべての実が神様に捧げられる日が初穂の祭りです。
神様に初穂を捧げるということは、「これ以降に来る残りのものはすべてあなたのものです」という告白なのです。
「献金」とはまさにそのようなものです。什一献金も同じです。什一献金とは何でしたか?「初物」です。
レビ人がイスラエルの初子の代わりになったでしょう?神様が「初子はすべて私のものだから私に捧げよ」と言われた時、他の部族の初子の代わりにレビ部族
が捧げられました。
つまり「あなたたちが私の代わりに捧げられたので、私自身をあなたに捧げます」という贖い金として捧げたのが什一献金だったのです。
ですから、什一献金そのものが「初物(初子)」であり、自分が捧げられるべき場所に代わりに捧げられた者への贖い金なのです。
つまり、什一献金は完璧にイエス・キリストを象徴しているのです。
旧約聖書を見ると、レビ人の生活費としての什一、イスラエルの男子が年に三回エルサレムに上るための経費としての什一、そして三年に一度、孤児や寡婦
を養うための什一があります。学者たちはこれらが同じものだとか別物だとか議論しますが、それは大した問題ではありません。
とにかく、什一献金自体が「初物」であるイエス・キリストを象徴しており、孤児や寡婦を助けること自体が、死ぬべき者たちを神様が救うことを象徴してい
るため、什一献金とは、死ぬべき者を救いに来られたイエス・キリストを指し示しているのです。
ですから、イエスの十字架以降に再び什一献金を(律法として)強調すること自体、実は「異端」なのです。
しかし、愚かな人々はそのことを知らず、聖経に書いてあるからと主張します。聖経のどこに書いてありますか?
イエス様が亡くなる前に「ハッカやイノンドの什一は捧げながら、律法の中のより重要な正義や慈しみは捨てている。
これ(什一)も行い、あちらも捨ててはならない」と言われたのは、イエス様が律法の下に来られたからです。
十字架を背負うまでは、イエス様はすべての律法を守らなければなりませんでした。つまり、その時までは旧約時代なのです。
だから当然「什一を捧げよ」とおっしゃいます。
その後、イエス様が自ら什一(初物)となって神様に捧げられたので、もはや(律法としての)什一献金は存在しません。
しかし、私たちが今も献金や什一を捧げるのは、神様が「初子は私のものだ」とおっしゃったことに対し、「神様、私は私自身を捧げます。
私はあなたのものです」と告白するためなのです。
ですから、皆さんが献金する時はそのような心で行うのです。
十の一ではなく、十の十を捧げても構いません。自分の信仰の深さに応じて行うのです。
自分が本当に神様に捧げられた者であるという告白として、やもめの二レプタのように生活費のすべてを出すこともあり得ます。
「神様が責任を持ってください、私はあなたのものですから」という告白なのです。
「牧師の給料も必要だし、教会の財政が豊かでないと家賃も払えないだろうから、私が出してやる」という考えなら、持って帰ってください。
そんなお金は教会には必要ありません。
献金とは、自分がどれほど神様に献身しているかを現し、示すものです。献金は「捨てる」ものだと考えてください。
神様の前で自分のものを捨てる訓練をするのです。
「私は世の力を頼りに生きません」と告白し、神様は「そうだ、だから私があなたを導くのだ」と、その人の人生を導いてくださるのです。
献金をいくらすれば天の倉庫に積み立てられるといった話ではありません。
「天に宝を積め」というのは、献金をたくさんして貯金しろという意味ではありません。
それなら、この世で貧しく生きる人は天国に行っても通帳に何もないことになります。
そんな話がどこにありますか?天に宝を積むとは、「あなたの関心がある場所、それこそが宝だ」という意味です。
私たちが天に集中して生きれば天が宝になり、この世のものを宝として生きればそれが宝になるのです。
しかし、人の心は目が向いている場所にあります。この世の宝はいずれすべて焼けてしまいます。
その時、その人の心も一緒に焼けるのです。それを地獄と言います。だから、たくさん捨てて、手放す訓練をするのです。
そのようにして、初穂の祭りにイエス様の復活が説明されます。昨日見たように、その時は「奉納物(揺り動かす捧げ物、揺祭)」を捧げます。
揺り動かして捧げる祭儀です。少し奇妙に思えませんか?
祭儀の形式、切り分け方、揺らすもの、砕くもの、血の塗り方、誰が食べていいか悪いか……
これらはすべてイエスの中で成就されることだから定義されているのであって、無意味に決められたのではありません。
「揺らす」というのは、眠っている者を揺り起こすという意味だと言いました。
ですから、イエス様が初穂の祭り(安息日の翌日)に復活されることを象徴しているのです。
そして、一束の穂が揺り動かして捧げられたのは、イエスと共に一つに結ばれた教会が共に生き返ることを象徴しています。
マタイ21章でイエス様が復活された時、眠っていた聖徒たちが一斉に起き上がったのは、教会に見せるための模型だったのです。
このように、皆さんは神様にとって尊い存在なのです。神様は自然の法則さえ無視してまで、皆さんに何かを教えるためにこのような予兆(タイプ)を作ら
れたのです。何百年も前に死んだ祖父母が蘇って孫の家を訪ねるような、そんな出来事さえ起こされたのです。
それから五十日後。「安息日の翌日から七つの安息日を数えよ」とあります。7×7で「七七節(しちしちせつ)」です。
その翌日まで合わせて50日なので「五旬節」と言います。ちょうど麦を収穫する時期なので「麦秋節」とも呼ばれます
。その時に、本当の「収穫」が始まります。
この五旬節(七七節)は、紀元前586年(南ユダがバビロンに滅ぼされエルサレム神殿が破壊された年)以前までは出エジプトを記念する祭りとして守られ
てきましたが、それ以降は「シナイ山で律法を授かったこと」を記念する祭りとして守られるようになりました。
これは非常に重要です。イスラエルはいつ出エジプトをしましたか?
正月14日の過越の日です。そこから出発し、出エジプト記19章を見ると「三か月目(三つ目の月)」にシナイの荒野に到着したとあります。
三か月目の1日、2日は身を清め、3日目を待てと言われ、そこで律法が授けられます。
計算してみましょう。正月14日に出ました。1月は残り17日(30日換算)。
2月は30日。合わせて47日。3か月目の3日目を足すと、正確に50日です!
聖経は寸分の狂いもなく、旧約で予標したことを歴史の中で実現させていきます。
その日、シナイ山で律法が授けられました。しかし、その山の麓では何が起きていましたか?金の子牛を作っていましたね。
旧約の五旬節に律法が降下し、その律法が民に届いた時、罪人である彼らの実態が暴かれました。
律法が罪人と向き合った時、何が起きましたか?三千人が殺されました。
「レビ人よ、剣を抜いて出てこい!目につく者を皆殺しにせよ!」とモーセが命じ、三千人が死んだのです。
では新約に行ってみましょう。
イエス様は過越の日に亡くなり、初穂の祭り(安息日の翌日)に復活されました。
そして40日間人々に姿を見せ、天に昇られました。
その後、何日かして「五旬節の日がきて……(使徒言行録2:1)」とあります。
五旬節の日に炎のような聖霊が降りました。シナイ山では律法が与えられましたが、新約の五旬節では「恵みの聖霊」が降ったのです。
旧約と同じく、死ぬべき罪人たちの上に聖霊が降り、ペテロが説教をしたところ、何人が救われましたか?三千人が生かされたのです!
正確に一致します。
イエスの十字架を真ん中に置いて、この十字架が何を成就するのかを見せているのがまさにこれなのです。
五旬節に聖霊が来られたのは、十字架の意味と血の意味を明確に説明し、「私たちはイエスのおかげで生きるのだ、決して律法で生きるのではない」というこ
とを教えるためです。
ですから、イエス様の血と十字架以外のことを語る者は、本当に聖霊を受けた者だと言えるでしょうか?違います。
自分が何か熱い体験をしなければならないとか、泡を吹いて倒れなければならないとか、「聖霊が来られたから皆で一緒に笑いましょう」といった運動は滑稽
です。
誰かが笑い出したら皆が笑い、誰かが踊り出したら皆が踊る。それは「裸の王様」と同じです。
「自分だけ何もしないと偽物だと思われるのではないか」という不安から、恥ずかしがり屋の人まで無理をして合わせている。
そんなことで「自分は救われた、信仰が深い」と証明しようとする人々は、申し訳ないが聖霊を受けていない人々です。
五旬節に聖霊が来られたのは、本来なら神の山に近づけば撃ち殺されるはずだった私たちが、イエス・キリストの十字架のゆえに、神の山(ヘブル書にあるシ
オンの山)に到達できるようになったことを証しするためです。
聖霊が来られれば、その方が「私(イエス)について証しする」とおっしゃいました。
イエスの血、イエスの十字架を知る者には、もはや(神秘的な)体験など必要ありません。
そんな時間がもったいないです。自分が何を祈っているかも分からず四時間祈り、「ああ、四時間も経った。他の人が遊んでいる間に私はこんなに祈った、
感謝だ」などと言うのは、時間を無駄にしているのです。
神様は、正気(しらふ)の民と関係を持ちたいのであって、正気を失った者と話したいわけではありません。
正気で神様に出会ってください。神秘体験なら他の宗教でもやっています。ヨガの行者なら深い瞑想で十数時間座り続けます
。腹式呼吸や丹田呼吸をしっかりやるだけでも、不思議な現象はいくらでも経験できるのです。
アルプスやチベットの修道士や僧侶たちは、零下20度の極寒の中で薄着、あるいは裸で座っています。
冷たい水に浸した布を体に巻いても、彼らが呼吸を整えれば体から湯気が立ち上り、布が乾いてしまいます。
呼吸法一つでそのような奇跡は起こるのです。脳に酸素が行かなくなれば、人は見たこともないような幻想を見始めます。
幻影や幻覚、奇跡の体験などは、脳に少し刺激を与えるだけで誰でも経験できることです。
麻酔薬を一本打つだけでも、どこか遠い場所に行ってきたような感覚になります。
聖徒がなぜそんなものを追い求める必要があるのですか?「信仰は、見えない事実を確認すること(ヘブル11:1)」ではありませんか。
それなのに、なぜ何かを見せてくれと言うのですか。それは本当の聖霊の働きではありません。
その意味で、今日の(極端な)ペンテコステ運動はすべて偽物です。五旬節が何かも分かっていないのです。
それなのに、今や皆が一つになって「家族」になろうとしています。
長老教会の指導者がペンテコステ派の教会で集会をし、その逆も然り。
「あなたも私も皆偽物だ」と言っているようなものです。永遠の命に対して真剣ではないのです。なんと恐ろしいことでしょうか。
バベルの塔の現場で、神様が塔を壊さず人々を散らされた理由を知っていますか?
人間は団結すると、常に神様に敵対するからです。カインもエデンから追放され、さ迷う者となりました。
しかし、カインは追放されるやいなや街を築き、「集まれ」と言いました。
神様に敵対する者たちは必ず一つになります。ピラト、ヘロデ、パリサイ人、サドカイ人……普段は敵同士なのに、イエス一人を殺すために結託しました。
今日、宗教が連合すると言いますが、連合して何をするつもりですか?本当のキリスト教を壊すつもりですか。
そこにカトリックも入り、神の名を呼ぶ者たちが集まっていますが、連合することが常に良いわけではありません。
私たちはイエスの中で、キリストによって連合すべきなのです。
今日の本文を見ると、七週の祭りには新しい穀物で二つのパンを作り、揺り動かして捧げよとあります。
聖霊が来られると、エペソ2章にあるように、ユダヤ人と異邦人の隔ての壁が壊され、新しい一つの民が創造されるという意味です。
イエス・キリストの中で、十字架と血によって一つにならなければなりません。
各教会で教える「イエス」がバラバラなのに、ただ神の名を呼べば礼拝になるのでしょうか?そうではありません。
皆さんはそのような動きに惑わされないでください。
人々は自分の信仰が揺らぐので、大勢で集まって「皆で行けば怖くない、自分も正しいはずだ」と慰めを得ようとします。
大勢が向かう場所が真実だと思わないでください。
有名な牧師や著者が言うことがすべて正しいと思わないでください。
聖経がどう言っているかを見るべきです。
レビ記の一章を見るだけでも、イエスの血以外はすべて「もみ殻」のように思えませんか?
どんなに立派な話でも、イエスの話以外は聖経に一節も書かれていません。
七週の祭りに二つのパンを捧げるのは、神様が新しい時代、恵みによってすべてを一つにまとめられたことを示しています。
聖霊が来られるのは、イエスの恵みを証しするためです。
それなのに、聖霊が来られて「銀歯を金歯に変える」とか「金粉を降らせる」とか、そんなことがあり得ますか?
「金を愛することは悪の根」とおっしゃった神様が、なぜ悪(金)を降らせるのですか。
神様がくださった自分の歯が、最も貴い歯です。それを金に変えるのが奇跡ですか?
目を覚まして考えてください。不思議な現象を追いかけないでください。それは他の宗教の方がもっと多いのです。
これからUFOの文書が公開されたり、宇宙人の写真が出てきたりすれば、イエスや聖経はさらに隅に追いやられるでしょう。
「宇宙人こそが神だったんだ」という主張も出てくるでしょう。
しかし、そんなことがあっても何が不思議ですか?皆さんの中にある聖霊が、そのような誘惑から皆さんを守れないのであれば、それは本物ではありません。
聖経が書かれる1500年前のバビロン神話に似た内容があるからといって、聖経は盗作だという主張もあります。
私はむしろ、そのような紛らわしいものがもっと増えればいいと思っています。
神様は、誰が本当の自分の民かを選り分けるために、そのような「惑わし」を許されるのです。
本当に聖霊を受けた人は、どんなに似たものが来ても、どんなに立派な人物が十字架を否定しても、揺らぎません。
「私が生きる道はこれ(イエス)しかない」と知っているからです。
私はあらゆる勉強をし、あらゆる方法を探しましたが、イエスを信じる以外に救われる道を見つけられませんでした。
聖霊を受けた者は、ただイエスだけが命であり、真理であり、道であることを握りしめ、イエスにだけすがるのです。
他のことをしないでください。聖経を通じて、それを学んでください。
そして主日の説教を通じて、皆さんはただイエスの話だけを聞かなければなりません。
他の話を期待しないでください。良い話なら本を読めばいいのです。
教会では、イエスの話だけをすべきなのです。
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(레위기 23:15-22)
15 안식일 이튿날 곧 너희가 요제로 곡식단을 가져온 날부터 세어서 일곱 안식일의 수효를 채우고
16 일곱 안식일 이튿날까지 합하여 오십 일을 계수하여 새 소제를 여호와께 드리되
17 너희의 처소에서 십분의 이 에바로 만든 떡 두 개를 가져다가 흔들지니 이는 고운 가루에 누룩을 넣어서 구운 것이요 이는 첫 요제로 여호와께 드리는 것이며
18 너희는 또 이 떡과 함께 일 년 된 흠 없는 어린 양 일곱 마리와 어린 수소 한 마리와 숫양 두 마리를 드리되 이것들을 그 소제와 그 전제제물과 함께 여호와께 드려서 번제로 삼을지니 이는 화제라 여호와께 향기로운 냄새며
19 또 숫염소 하나로 속죄제를 드리며 일 년 된 어린 숫양 두 마리를 화목제물로 드릴 것이요
20 제사장은 그 첫 이삭의 떡과 함께 그 두 마리 어린 양을 여호와 앞에 흔들어서 요제를 삼을 것이요 이것들은 여호와께 드리는 성물이니 제사장에게 돌릴 것이며
21 이 날에 너희는 너희 중에 성회를 공포하고 어떤 노동도 하지 말지니 이는 너희가 그 거주하는 각처에서 대대로 지킬 영원한 규례니라
22 너희 땅의 곡물을 벨 때에 밭모퉁이까지 다 베지 말며 떨어진 것을 줍지 말고 그것을 가난한 자와 거류민을 위하여 남겨두라 나는 너희의 하나님 여호와이니라
자, 지금 이 부분은 칠칠절이라고 하는, 원래 신약의 오순절이라고 부르죠? 예, 그래서 오순이 다섯 오(五) 또 십 열 순(旬)자, 그래서 오순절! 그러면 오십 일! 아, 그거를 이제 영어로, 펜티코스트(Pentecost)라고들 그러는데, 여기서 펜티코스트 무슨 교단이 생기고 그랬죠? 그것은 이제 성령운동을 하는 사람들이, 오순절 날! 성령이 임한 것을 가지고서, 이제 펜티코스트라고 자기들 그렇게 가리키는 건데, 그때 그런 펜티코스트를 보면은, 그냥 엉터리 성령운동들을 이제 하죠. 그래서 뭐 그냥 자기들만 아주, 그냥 뜨거운 어떤 영적체험과 경험을 하고 있는 것처럼 착각하는데, 아, 그건 굉장히 잘못 된 겁니다.
펜티코스트는, 그런 말이 아닙니다. 이, 그 칠칠절! 오순절! 다시 한 번 절기를 말씀드리면, 봄 절기가 이제 유월절부터 시작해서, 1월 14일! 정월 14일! 또 15일이 무교절이라 그랬죠? 안식일이구요. 그날이! 그날로부터 7일 동안 무교절을 지키고, 그 다음에 16일이, 초실절이라 그랬죠? 첫 이삭 드리는 날! 초실절!
아, 그래서 초실절 날! 유월절 날! 예수님 돌아가시고, 무교절은, 무교병을 삼 일간 땅에 묻었다가 먹는 그런 절기니까, 무교절은, 예수 그리스도의 죽음! 무덤에서 장사지낸바 된 그것을 모형하는 거고, 초실절! 안식 후 첫날! 사흘째 되는 날, 예수님이 이제 살아나시죠.
그러니까 그때 이제 첫 열매로 하나님께 드려지잖아요? 그래서 하나님이 첫 열매를 받으시므로, 이제 나머진 내가 다 받겠다. 이런 뜻이잖아요? 그래서 그 첫 열매가 품고 있는 열매들이, 하나님 앞에 다 바쳐지는 그 날이 초실절이에요. 그래서 하나님 앞에 첫 열매를 드린다는 건, ‘이 이후에 오는 나머지 것이 다 당신 겁니다.’ 고백이거든요.
헌금(獻金)이라는 게 바로 그런 거죠. 그래서 뭐 십일조도 마찬가지에요. 십일조가 뭐였어요? 맏물! 레위인이, 이스라엘의 맏이들을 대신한 거잖아요? 그 맏물! ‘맏물은 다 내 꺼니까 나한테 드려라!’ 그랬을 때, 나대신 맏이! 이스라엘의 다른 지파의 맏이 대신에, 레위 지파가 드려졌잖아요?
그러니까 당신들이 나 대신에 드려졌으므로, 나를, 당신에게 드린다고 속전으로 주는 게 십일조였잖아요? 그죠? 그래서 그러니까 그 십일조라는 거 자체가, 맏물! 맏이라는 거죠. 그리고 내가 드려져야 할 자리에 드려진, 어떤 자에 대한 속전! 그러니까 십일조라는 건, 예수 그리스도를 모형하는 거예요. 완벽하게!
뭐 십일조를, 그 구약에 보면, 그 레위인들의 그 생활비로 십일조를 드리고, 또 이스라엘이, 그 남자들이, 일 년에 세 번! 꼭 반드시, 출애굽기에 보면, 반드시 예루살렘에 올라가야 되죠? 거기에 쓸 경비로 또 십일조를 한번 또 드리고, 그 다음에 3년에 한 번씩, 고아와 과부를 그들을 공궤하기 위해서, 또 삼 년에 한 번씩 또 드리는 십일조가 있어요. 그래서 뭐 학자들이 이 세 개가 다 같은 거다. 아니면 뭐 앞에 두개 같은 거고, 뒤에 껀 틀린 거다. 뭐 이렇게들 막 이야기들을 하는데, 그건 아무 문제가 안 돼요.
하여튼, 그 십일조라는 거 자체가, 예수 그리스도 맏물! 절기 자체가 또 그 예수를 모형하는 거고, 고아와 과부를 살리는 거 자체가, 하나님이, 죽어야 할 자들! 그렇게 처참하게 죽어야 할 자들을 살리는 것을 모형하는 거기 때문에, 십일조라는 거 자체가, 예수 그리스도! 그런 그 죽어야할 자들을 살리러 오신 예수 그리스도를 모형하는 거라 말입니다.
그래서 그 예수! 십자가 이후에, 십일조를 또 이야기하는 거 자체가, 사실은 그게 이단(異端)이에요. 예, 그런데 이 바보들이 그걸 모르고, 어 그냥 성경에 나와 있다고, 언제 성경 어디에 나와 있어요? 우리 예수님께서 뭐 돌아가시기 전에, ‘박하와 근채와 뭐 너희들은 이미 신은 버리고, 그런 엉터리 십일조만 한다. 그러니까 십일조를 다 해라!’ 그건 예수님이 율법 아래 오셨기 때문에, 십자가 지시기 전까진, 예수님이 모든 율법을 다 지켜야 된다 말이에요. 그러니까 구약이란 말입니다. 그때까지는! 그러니까 당연히 십일조 내라 그러죠.
그 이후에는, 예수님이 십일조가 되셔서, 하나님께 바쳐졌기 때문에, 이제는 더 이상 십일조가 없어요. 그러나 우리가 그 헌금을 하고, 또 뭐 십일조를 지금 뭐 한다고 하는데, 할 때, 예수님은 맏물! 맏이를, 내 꺼라고 말씀하셨잖아요? 그런데 거기에 대한 것으로 십일조를 드렸던 거니까! ‘하나님! 저는, 저를 드립니다. 제가 바로 당신 겁니다!’라는 고백이죠. 헌금이!
그러니까 여러분은 헌금하실 때, 바로 그런 마음으로 헌금을 하시는 거예요. 그러니까 십에 일조가 아니라, 뭐 십에 십조를 해도 돼요. 그러나 그 자기의 신앙의 깊이만큼 하는 거예요. 그 헌금은! 그래서 내가 하나님 앞에, ‘아! 정말 드려진 자가 맞구나!’라는, 그런 의미는 과부에 두 렙돈처럼, 생활비 전체를 다 내 놓을 수도 있는 거예요. ‘하나님이 책임지세요! 저는 하나님 꺼니까!’라고 이렇게 고백으로 드리는 거지! ‘아! 목사 월급도 필요하고, 교회의 뭐 재정이 좀 풍부해야, 뭐 렌트비도 내고 그러니까, 내가 내 준다!’ 그럼 도로 가져가세요! 그런 거는요, 교회에 필요 없어요. 그런 돈은!
그러니까 헌금은, 자기가 하나님 앞에, 얼마나 헌신 됐는지를 드러내고 보여주는 거예요. 그러니까 헌금은 버린다고 생각하시면 돼요. 하나님 앞에 내 껄 그냥 버리는 훈련을 하는 거예요. 버리는 연습을! 그러면서 ‘나는 세상의 힘을, 힘 삼아 살지 않습니다!’라는 고백을 하는 거고, 하나님은 ‘그래, 그래서 내가 너희를 이끌어 주는 거야!’라고 그의 삶을 이끌어 주는 거지! 헌금은 뭐 얼마큼 하면, 하나님께서 뭐 하나님나라에다가, 내 창고에다가 얼마만큼 쌓아주고….
하나님나라에 보물 쌓으라는 건, 헌금 많이 해서, 거기다 저금하라는 거 아니에요. 그럼 이 세상에서 가난하게 사는 사람은, 천국가도 개뿔도, 아무거나 통장에 아무것도 없겠네요. 어디서 그런 말이 있어요? 하늘에다 보물을 쌓으라는 건, ‘너희들이 관심 있는 그게 바로 보물이다!’라는 그런 뜻이에요. 우리가 하늘에, 하늘을, 우리가 하늘에 집중하여 살면, 우리가 하늘을 보물 삼아 산다는 뜻이고, 이 세상 것들을 보물 삼아 살면, 그게 보물인거죠.
그런데 그의 마음은, 그의 눈이 가 있는 곳에 가있다고 했으니까! 이 세상의 보물들은 언젠가 다 탈거 아니에요? 그때 그의 마음은 같이 타는 거예요. 그걸 지옥이라 그래요. 그러니까 많이 버리고, 터는 훈련을 하는 거예요. 연습을 하는 거죠.
그렇게 이제 초실절 날! 예수님의 이제 부활이 설명이 되죠. 그래서 어제 우리가 살펴본 것처럼, 그때는 요제를 드리죠? 요제라는 건, 흔들어 드리는 제사예요. 어떻게 보면 되게 우습지 않아요? 여러분! 그런 것들 갖다 하나로 모으고, 이렇게 보면 제사의 형식이라는 게 말이죠. 그 뭐 각을 뜨는, 각기 다 다르고, 요건 뭐 흔들었다가, 뭐 빻았다가, 피는 뭐 어떻게 칠하고, 뭐 어떤 거는 누가 먹고, 어떤 건 먹으면 안 되고, 이런 게 다 예수 안에서, 다 성취될 그 것들이기 때문에, 그런 거지, 그런 거 괜히 그렇게 정의해 놓은 거 아니란 말입니다.
그래서 흔든다는 건, 잠자는 자를 흔들어 깨운다는 뜻이라 그랬잖아요? 그래서 예수님께서, 그 초실절 날! 안식 후 첫날! 부활하시는 거를 모형하는 거고. 그때 이제 한 단으로 요제가 드려졌다라는 건, 예수와 함께 하나로 묶이는 교회가 함께 인제 살아나는 거를 모형하는 거죠. 그래서 마태복음 27장에서, 예수님이 부활하셨을 때, 잠자던 성도들이, 같이 확 일어나 버리는 모형이에요. 교회에게 보여주기 위한 모형!
그렇게 여러분은 존귀하게 하나님에게 취급되는 분들이란 말입니다. 하나님께서 그런 모든 어떤 자연의 법칙 같은 걸 갖다가 다 무시하시면서까지, 여러분에게 어떤 걸 가르쳐 주기 위해, 예표를 이렇게 만들어 놓으신 거라 말이에요. 그래서 몇 백년 전에 죽은 할아버지, 할머니가 막 살아나서, 손자 집에 찾아가고, 그런 일이 생기게 만든 거라 말입니다.
그러고 나서, 이제 그로부터 50일 이후! 그러니까 칠! 그 안! 거기 보면 안식일 이튿날! 그게 예수님 부활하신 초실절이죠? 안식일 이튿날부터 일곱 안식일을 계수하라! 그래서 7 곱하기 7이죠? 그죠? 그러니까 칠칠절이에요. 그래서! 여러분, 그 다음날까지 해서, 50일이라, 오순절이라고 하는 거예요. 그런데 그 때 딱, 그 보리를 추수하는 고런 절기기 때문에, 맥추절이라고도 이야기 하는 거죠. 그래서 고 때에 어떤 것들이 진짜, 인제 추수되기 시작하는 거죠.
그런데 칠칠이 49! 보면 여러분들! 그 이 오순절이, 칠칠절이, BC 586년! 586년이 무슨 해예요? 남 유대가 바벨론에게 망하고, 예루살렘 성전이 파괴되는 해입니다. 고 이전까지는, 이제 그 애굽에서, 그들이 이제 출애굽을 하게 된 것들을 기념하는, 고런 절기로 지켰는데, BC 586년 이후로는, 그 칠칠절! 오순절을, 시내 산에서 율법을 받은 것을 기념하는 절기로 지켰어요.
이거는 아주 중요한 건데! 왜냐면은? 아! 여러분 그 이스라엘이 언제 출애굽을 했어요? 유월절 정월 14일이요! 예, 그때 장자들이 다 죽고, 바로가 ‘나가라!’ 그러잖아요? 그때 나가서 출애굽기 19장에 보면, 아 세 달째, 셋째 달에 이르렀다, 그러죠? 그들이 이제 광야를 열심히 이제 달려서, 셋째 달에 이르렀어요. 그런데 셋째 달, 첫째 날, 둘째 날은, 정결예식을 행하고, 몸을 잘 씻고, 그 다음에, 셋째 날을 기다려라 그러죠? 그리고는 율법이 떨어진다 말이죠?
그러면 한번 계산을 해보세요. 에굽에서 정월 14일 날 나왔습니다. 그러면 1월 달 며칠이 남아요? 30일로 치면, 17일 남죠. 그리고 그 다음 달! 둘째 달 30일 더하면 47! 이 새벽에 이거, 그 다음에 셋째 달 3일 더하면, 얼마에요? 정확히 50일이죠?
그러니까 성경은 정확하게 단 한 치의 오차도 없이, 구약에서 모형한 걸, 역사 속에서 그대로 실현해 나가요. 그래서 그날! 이제 시내산에서, 시내산에 그렇게 도착을 하는데, 시내산에서, 하나님이 율법을 주시죠? 율법을 주시는데, 그래서 이제 오순절을 기념하는 거예요. 그래 율법을 주시는데, 그 밑에서 무슨 일이 일어났어요? 율법 아래에서? 금송아지 만들잖아요?
그래서 그 구약의 칠칠절 오순절에 율법이 떨어지고, 그 율법이, 백성들에게 내려가니까, 죄인인 그들이, 죄인으로 확 폭로가 되죠? 율법에 의해서! 그래서 그 율법이, 죄인들을 맞닥뜨렸을 때, 어떤 일이 일어나요? 3천명이 도륙을 당하죠? ‘자, 레위지파 칼 뽑아들고 다 나와라!’ 그런 다음에 ‘애고 어른이고 다 죽여! 눈에 보이는 거 다 죽여라!’ 그랬어요. 모세가! 그래서 3천명 죽였습니다.
신약으로 가볼까요? 그러면 자 예수님께서 유월절날 돌아가시죠? 그래 초실절 날 부활하십니다. 안식 후 첫날! 그리고는 40일간 사람들에게 보였다, 그러죠? 적어도 40일 이상 계신 거예요. 그러고 나서 하늘로 올라 가셨어요. 그 다음에 며칠 후에, 그때가 언제라 그래요? 사도행전 2장 1절 보면, ‘오순절 날이 이르매…’ 그러잖아요? 응?
그러니까 오순절 날이 이르매, 불에 혀 같은 성령이 내려오시죠? 그러니까 시내산에서는 율법이 주어지는데, 신약에 오순절에서는, 이제 은혜의 성령이 내려오셔서, 역시 똑같이 죽어야 할 자들이에요. 다! 응? 그런데 똑같이 죽어야 할 자들에게, 오순절 날 성령이 오심으로 말미암아, 베드로가 그 자리에서 설교를 했더니, 몇 명이 살아나요? 3천명이 살아나잖아요? 예, 정확하게!
이제 예수의 십자가를 가운데 딱 두고, 이 십자가가 무엇을 성취해 내는가를 보여주는 게, 바로 그거란 말이에요. 예, 그래서 오순절! 그 오순절은, 이제 성령이 우리에게 오셔서, 예수 그리스도의 그 십자가의 의미를, 그리고 그 피의 의미를, 이제 명확히 설명해 주셔서, ‘아! 우리는 예수 때문에 살아나는 거구나! 절대 우리는 율법으로 살아가는 게 아니구나!’를 가르쳐 주시는 거라 말입니다.
그러니까 예수님의 그 피와 예수님의 그 십자가 이외의 다른 걸 이야기하는 자들은, 진짜 성령 받은 자가 맞아요? 아니에요? 아니란 말입니다. 그냥 내가 뭔가를 이렇게 막 뜨겁게 경험해야 하고, 뭐 거품 물고 몇 번 쓰러졌다 일어나야 하고, 뭐 성령이 오셨으니까 우리 다 함께 같이 우습시다.
그러면 여기서 부터 그냥 쫙 하고 웃으면서 갔다가, 저 뒤에서부터 누가 하나 춤추고 나오면, 또 이 전체가 다 춤추고, 이거 완전히 벌거벗은 임금님이죠? ‘어, 나 안 하면은, 이거 완전히 나만 이거, 무슨, 응 가짜 되는 거 아니야?’ 그래서 하 그 부끄러움 많은 사람들도 그 상황이 되니까, 다 하더라는 거예요. 그걸! 가짜 되기 싫은 거예요. 그러니까 그런 걸로 ‘내가 구원받은 자다! 내가 신앙이 깊은 자다!’라는 걸 증명하려고 하는 이들은, 다 뭐에요? 성령 못 받은 사람들이에요. 죄송하지만!
오순절 날 성령이 오신 건, 예수 그리스도의 십자가로 말미암아, 너희들이 그렇게 하나님의 전에, 하나님의 산에 이르지 못하는 그런 자들이, 자들이었는데, 올라오면 돌격해서 죽여 버렸잖아요? 그럼에도 불구하고, 너희들이 이제 여호와의 산에 올라, 히브리서에 나오죠? 너희들이 당도한 곳은 어디라 그래요? 산! 불붙는 산! 하나님의 산! 어떻게 우리가 거기에 들어가게 됐냐고요? 예수님 때문에! 십자가 때문에! 십자가에 보혈로 말미암아 우리가 그렇게 된 거예요.
그래서 성령이 오시면, 그가 바로 나에 대해 증거할 거라 그러잖아요? 예수에 대하여! 그러니까 예수의 피! 예수에 십자가! 그걸 아는 이들은, 더 이상 체험이 필요 없어요. 왜 필요해요? 그게 걸리적거리지. 그 시간이 얼마나 아깝습니까? 여러분! 정신없이 자기가 뭐라고 기도하는지도 모르고, 한 네 시간 기도하고. 그게 그렇게 중요해요? 그래놓고 일어나서, ‘어구 벌써 네 시간이나 흘렀네! 야! 딴 사람들 딴 일할 때, 내가 기도를 이렇게 많이 했단 말이야? 감사하다!’ 하, 참 죄송하지만, 그 시간 허투로 쓴 거예요.
여러분! 하나님은, 맨 정신인 당신 백성과 관계하시기를 원하지, 정신 나간 놈들하고 얘기하고 싶어 하지 않아요. 맨 정신으로 하나님을 만나시라니깐요. 그건 다른 종교애들도 다 하는 거예요. 심지어 요가 하는 사람들도, 깊은 명상에 빠지면, 열여섯 시간, 열여덟 시간을 앉아 있어요. 그냥! 그 자리에서! 아니 요가니 뭐니 이런 거 다 떠나서, 여러분 복식호흡! 그리고 단전호흡만 잘 하고 앉아 있어도요, 여러분이 신비한 거 많이 경험할 수 있어요.
제가 그 알프스하고 티벳에 가서, 알프스에서, 그 수도사들이나 티벳에 있는 그 라마 승려들 있죠? 그런 사람들이, 이거 홑껍데기 하나 입고 다니거든요. 여러분, 라마승들은요, 무슨 잠바, 오바, 오리털 파카, 이런 거 안 입고 다녀요. 영하 20도 되고 막 이러는데, 히말라야 아래에서 웃통 다 벗고요. 영하 20도 되는 데에서, 찬물을 딱 갖다 놓고! 그냥 앉아 있어도 얼어 죽어요. 그 상태에선! 그런데 찬물에다가, 이렇게 큰 천을 푹 담가서, 몸에 이렇게 둥그렇게 둘러 앉아 가지고, 몸 위에다가 그 찬 천을 팍 둘러버려요. 다! 그러면 금방 얼어요. 그게 다!
그런데, 조금만 있으면요, 이 사람들이 딱 앉아 가지고, 중얼 중얼 하다가 하면은, 여기서 김이 모락모락 나기 시작해서, 이게 다 말라요. 천이! 딴 거 없어요. 그 사람들 그냥 호흡하는 거거든요 단전호흡만 해도, 그런 기적들이 눈앞에 일어난다 말입니다. 안 얼어 죽어요. 사명대사가 무슨 뭐, 저 저 뜨거운 방에다가, 일본 사람들이 놓고 막 불을 땠는데. 나중에 가보니까, 고드름이 막 생겼다고 하는데. 고건 가짜고! 고드름은 무슨 고드름이 생겨요? 그런데 살아있었다니깐요. 호흡만 해도! 사람들은 그 호흡법 하나만 가지고도요, 엄청난 기적들을 경험할 수 있어요.
알프스에 있는 그 수도승! 그 수도사들도, 바로 그 호흡법 갖고, 그거 하나 갖고, 여러 가지 기적들을 체험해요. 호흡을 하다가 잠시 호흡을 멈추면, 사람이요 뇌에 산소가 안 들어가기 시작하면, 그때부터, 자기가 상상할 수도 없는 것들을 보는 거 알아요? 여러분, 예전에 그 쿵후 영화의 그 주인공이었던 그 사람이 얼마 전에 무슨 동남아에서 목 메달아 죽었죠? 목매달아서 자살한 게 아니라, 이 호흡을 자기가 이렇게 막아서, 짧은 시간이지만, 마라톤 하는 사람들이 그런 거, 엑스타시를 경험해서 마라톤을 하는 거예요.
어느 순간 심장이 터질 거 같이 아프고, 막 호흡이 안 될 때, 사람들이 이렇게 환각 속으로 확 빨려 들어가게 돼요. 그래서 이 이게 육신에 쾌락을 위해서 말이죠. 사람들이 목에다가 이렇게, 저걸 걸어놓고, 마치 목매달아 죽는 거처럼, 싹 당겨서, 환각을 보려고 그렇게 하는 거예요. 그러다가 죽는 거예요. 뇌에서 몇 초만 산소가 올라가지 않아도, 사람이 정신을 잃게 되면, 그 다음부터는 그냥 이렇게 툭 떨어지면 죽는 거예요. 그런데 자기는 살아, 그 상태에서, 벗어날 수 있을 거라고 생각하고, 사람들이 자꾸 이제 그러는데, 그래서 목매달아 자살을 했다 하는 사람들 중에, 그냥 그렇게 죽으려고 그랬다 그러지 않았는데, 그냥 어떻게 죽은 사람들이 있어요. 응?
그러니까 보세요. 환상이라든지 환각이라든지, 아니면 뭐, 우리가 겪는 기적의 체험이라든지, 이런 거는, 여기에서 조금만 무슨 어떤 명령을 잘못 내려도, 그냥 누구나 다 경험하는 거예요. 그런 건! 그 수면 마취제 있죠? 그거요? 프로포폴인가? 그거 한방만 맞아도, 그냥 어디 먼데 이렇게 갖다 온대요. 다! 그러니까 아프지도 않는데, 그냥 병원에 찾아다니면서, 아프다고 그거 막 놔 달라고!
성도가 왜 그걸 경험해야 돼요? 믿음이 있다며? 내 안에 성령이 들어오셨다면서요? 그런데 왜 뭘 봐야 돼요? 믿음은 보지 못하는 것들이 증거라면서요? 그런데 왜 뭔 가를 계속 보여 달라고 그러냐구요? 그거는 진짜 성령 받은 거 아니에요. 그런 면에서 오늘날 팬티코스트(Pentecost)는 전부 가짜예요. 오순절이 뭔지도 모르는 거예요. 그 사람들은!
그런데 온통 다 하나가 돼서, 한 식구가 됐어요. 인제! 그래서 막 장로교회서도 그 지도자를 데려다가 막 부흥회 하고, 또 장로교 목사가 또 팬티코스트 교회 가서 또 부흥회하고, 야! 너나 나나 다 가짜란 뜻이에요. 그러니까 진지하지 않다는 거예요. 영원한 생명에 대해서! 그 얼마나 무섭습니까?
그러니까 영원한 생명에 대해서 진지하지 않고, 예수에 대해서, 하나님 나라에 대해서 진지하지 않으니까, 그냥 자기들끼리 그냥, 열심히 잔치벌이는 거예요. 교회에서! 어제 보니까, 부활절 연합예배 한다고, 우리교회 참여하라고, 공문이 왔더라고요. 아니 연합? 연합으로 무슨 예배 어떻게 하자는 거예요? 도대체가 무슨 연합을 하자는 거예요?
여러분, 하나님이, 왜 그 바벨탑의 현장에서, 바벨탑을 안 부수고 사람들을 흩으셨는지를 아세요? 사람들은 그렇게 연합을 해서, 항상 하나님을 대적한다니깐요. 그래서 가인한테도, 흩으신 거예요. 에덴에서! 유리방황하는 자가 된다. 그랬죠? 그게 뭐냐면? 흩으신다는 뜻이에요. 그런데 가인이 나가자마자 뭐 했어요? 성 쌓고, ‘모여라!’ 그랬다니깐요.
어때요? 하나님을 대적하는 자들에게서는, 하나님이 흩으신 자들이, 꼭 하나가 되죠? 빌라도! 헤롯! 바리새인! 사두개인! 이 사람들 평소에 다 원수들이거든요. 그런데 예수님 하나 죽이자고, 다 한편이 되잖아요? 오늘날 종교가 연합한다 그러는데, 연합해서 뭐하자는 거예요? 진짜 기독교 깨자는 거예요. 그런데 거기에 기독교가 들어가 있다니깐요. 천주교가 들어가 있다니깐요. 거기에! 하나님에 이름을 부르는 자들이잖아요? 여러분 연합하는 게 좋은 거 아니에요. 우리는 예수 안에서, 그리스도로 연합해야 돼요. 거기에서 이루어지는 한 몸!
여기에 보면, 칠칠절에는 새것으로 떡 만들어서 요제로 흔들어라 그래요. 무슨 말이냐면? 성령이 그렇게 오시게 되면, 고린도 후서의 그 말씀처럼, 이제 새로운 피조물들이 생기는데, 그때에는, 육적 어떤 조건이라든지, 아니면, 그들의 어떤 됨됨이나 열심과 자격! 이런 것들이 전혀 배제가 되고, 하나님에 은혜로만, 성령을 부으심으로만, 새로운 피조물이 되는 어떤 무리가 생긴다는 뜻이에요.
그래서 칠칠절에 보면, 오순절에, 가루를 갖고 와서, 떡을 두개를 만들라 그래요. 그리고 떡을 같이 흔들라고 그래요. 그 말은. 로마서에 나오는 이방인과 유대인이 인제 하나가 되어. 새로운 무엇인가가, 하나님의 새로운 백성이 창조가 된다는 뜻이란 말이에요. 그렇게 예수 그리스도 안에서 하나가 되어야 되는 거예요. 성도는요! 무엇으로? 십자가로 말미암아! 피로 말미암아!
모여서, 무슨 뭐, 전부 다른 예수를 믿고 있는 사람들이 그렇잖아요? 각 교회에서 가르치는 예수가 다 달라 그죠? 그런 사람들이 모여서, 그냥 예수님, 하나님 이름만 부르면 예배입니까? 그것이? 아니란 말입니다. 여러분! 그런 거에 부화뇌동하지 마세요. 사람들은 자기 홀로 있으면, 왜냐면? 그 안에 있는 신앙이, 자기에게 이렇게 터무니없이 흔들리니까, 자꾸 모여서, ‘야! 우리는 이렇게 다 같이 가는 거구나! 그러니까 나도 맞는 거겠지?’ 이렇게 추측하여 위로를 얻으려고 하는 거예요.
많은 무리가 함께 한 곳으로 갔다고, 그게 진짜라고 생각하지 마세요. 뭐 유명한 목사! 유명한 뭐 저술가! 이런 사람들이 이야기하는 건 다 맞을 거야! 생각하지 마세요. 성경이 그렇게 이야기하고 있나를 보시라니깐요 다른 거 보시면 안 돼요.
여러분 이런 레위기 한 장만 봐도, 예수 이외에, 그 피 이외에, 다른 것들이 전부, 그냥 씨나락 같지 않아요? 바람에 날리는 쌀겨! 아이 뭐 훌륭한 이야기를 할지라도, 예수 이야기 이외에는, 성경에 단 한절도 적혀 있지 않아요.
그래서 칠칠절에는, 염소를 두 마리 드리고, 떡도 두개 드리고, 하나님이 두 개를 같이 받으신다는 건, 이제 에베소서 2장에 말씀처럼, 너희들은 인제 하나가 됐다. 막힌 담이 헐렸다. 율법과 뭐 제사! 그것으로 내 백성 구별하는 시대가 끝나고, 은혜로, 하나님께서 이제 다 하나로 묶었다. 이거를 보여주시는 거예요. 그래서 성령이 오시는 거라니깐요. 예수님의 은혜 증거하려고!
그런데 성령이 오셔서, 엉뚱한 무슨 뭐 은이빨, 금이빨 만들어 주고, 뭐 금가루를 떨어뜨려 주고, 뭔 놈의 금가루를 떨어뜨려 줘요? 하나님이 아니 ‘돈을 사랑하는 자가 일만 악에 근본’이라고 하신 분이, 그걸 막 부어줘요? 악을 부어줘요? 와서? 도대체 금이빨은 그건 가치 있는 것이라고 누가 얘기해 줬냐고요, 예? 하나님이 주신, 여러분 가진 그 이(齒)가, 가장 귀한 이예요.
겉멋들은 흑인 애들처럼, 그거 뽑아 놓고, 거기다가 금니 박는 건 비열한 짓이라니깐요. 그런데 하나님이 오셔서 고작 그따위 일을 해 주시겠냐고요? 정신을 차리시고 생각들을 하세요. 신기하다! 신기하다! 신기해 보이는 거, 그런 거 쫓아다니지 마시고, 그건 다른 종교에 더 많다니깐요. 더 많아요.
여러분 이제 보십시오. 곧 이제, 뭐 유에프오니 요즘 인제 FBI나 무슨 CIA에서 문서들을 하나. 하나 공개하면서, UFO 사진이나 무슨 뭐 ET들 사진들! 이런 것들 막 나올 텐데, 인제 보세요. 그런 것들을 갖고 이제 성경! 그리고 예수는, 더욱 더 초라하게, 저 구석자리로 밀려날 겁니다. ‘아 외계인들이, 진짜 하나님이셨구나! 그 외계인들이 이 지구에 문명을 창조한 거구나!’ 이제 뭐 그리로 갈 건데, 그건 벌써, 라일리안교의 끌로드 보릴롱이 벌써, 몇 년 전부터, 이야기 했던 것들이거든요.
여러분, 그런 게 있으면 어때요? 그게 왜 신기합니까? 여러분? 아니 그러면 문어대가리 같은 뭐 ET 같은 게 뭘 타고 와서, 여기서 무슨 뭐 추락을 했다, 뭐 그러면 어때요? 여러분에 안에 있는 그 하나님! 성령이 하시는 일이, 그러한 어떤 미혹거리들로부터도 여러분을 지키지 못한다면, 그건 가짜예요.
무슨 다른 경전에, 그리고 뭐 바벨론 설화! 성경이 쓰여지기 1,500년 전에 있었던 그런 설화에, 성경의 내용이 그대로 기록된, 기록되어 있더라. 그래서 성경은 이런 모조품이고 그냥 짜깁기 해 놓은 하나의 사람들의 창작물이다. 그런 걸 뭐, 유투브 이런데 들어가 보면, 뭐 증거까지 다 대가지고, 아주 조목조목 이렇게 반박을 해 놨어. 성경을!
나는 그런 게 더 많아 져야 된다고 생각해요. 저는 더 많아져야 되고, 좀 더 더 비슷한 게 나와도 괜찮아요. 아주 성경하고 단어 한 여섯 개만 틀린 무슨 책 이런 거 하나 나왔으면 좋겠어요. 그런데 거기에 예수만 빠진 거! 다 똑같은데, 지향점이 예수가 아니면 가짜에요. 그래서 하나님이 내 백성 건져내기 위해서, 누가 진짜 내 백성인지, 가려내기 위해, 그런 것들을 많이 주시는 거예요. 우리에게! 그래서 아닌 놈들! 빨리 나가라고!
진짜 성령이 임한 사람은, 그 어떤 비슷한 게 와서, 우리를 미혹한다 하더라도, 법화경! 불경! 아무리 그게 성경과 비슷해도, 고 안에 예수는 없다니깐요. 그래서 아닌 거예요. 그걸 아는 이가, 성령 받은 자예요. 그런데 ‘야! 이렇게 비슷한데, 그럼 그렇지! 하나님은 없는 거야!’ 그런 자들 빨리 잘라내기 위해, 하나님이 여러분에게 그런 것들을 주시는 거예요. 미혹거리들을! 그래서 속지 마세요.
여러분 진짜 성령 받으신 분이 맞다면, 그 어떤 것에도 흔들리지 않아요. 그 어떤 훌륭한 인물이, 뭐 굉장한 증거들을 들이대면서, 아무리 예수를, 십자가를, 부정하려고 해도, 내가 살길은 그거 밖에 없는데 어떻게? 이 자리로 간다니깐요. 아니 저는 다 해봤어요. 무슨 별의 별 방법 다 써 봐도, 별걸 다 공부해 봤는데, 나는 방법이 없어요. 예수 믿는 방법 이외에, 내가 천국 갈 수 있는 방법이 없어요. 못 찾았어요. 그거를! 그래서 저는 예수 믿어요. 그 어떤 방법으로도, 나를 구원해낼 수 있는 방법이 없어요.
성령 받은 이들은, 바로 그 예수만, 이 예수만이 생명이요, 진리요, 길이라는 걸, 꼭 붙들고, 예수에게만 매달리는 거예요. 다른 거 하지 마시기 바랍니다. 성경을 통하여, 그거 배우시는 거예요. 그리고 주일날 강대상에서 설교를 통하여 여러분은, 바로 그 예수만 들으셔야 돼요. 다른 이야기 기대하지도 마세요. 좋은 책들 사서 보세요. 그런 건! 교회에서는 예수의 이야기만 해야 돼요.
(祈り)
父なる神様!神様の守りの中に、その神様の盾によって、
私たちに与えられた神様の御言葉이、この朝も私たちに着せられ、世の中で、
神の民らしさを維持し、握りしめることができるよう助けてください。
イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
さあ、レビ記23章21節から22節。
(レビ記 23:21-22)
21 この日に、あなたがたは聖なる会合をふれ広めなければならない。これにはどんな労働の仕事もしてはならない。
これは、あなたがたが住むすべての場所で、代々守るべき永遠の掟である。
22 あなたがたの土地の作物を収穫するとき、畑の隅々まで刈り取ってはならない。また収穫の落ち穂を拾ってはならない。
貧しい者と寄留者のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
さて、初穂の祭りに、種入れぬパンの祝いに、あのパンを、パン種(酵母)の入っていないパンを、三日間、地の中に入れておいてから取り出して食べ、
初穂の祭りに、最初の収穫(初物)を神様に捧げますよね? それが復活だと言いました。そしてその後、49日が過ぎ、50日目になる日を、
七週の祭り(七七節)!五旬節(ペンテコステ)と言いましたよね? その時にいよいよ聖霊が臨むのです。
ですから新約の、使徒の働き2章のまさにあの五旬節!七週の祭りに、今やその聖霊が臨むのです。
聖霊が臨み、秋に、7月1日が今度はラッパ節なのです。勝利のラッパが鳴り響くような節気なのですが、その時はもう終わりなのです。
そうすると収穫がなされ、いよいよ7月15日!収蔵節(とり入れの祭り)です。収蔵節は、今や永遠に神様のものが、すべて収穫されて、神の家、神の倉に納めるような、今や安息の始まりとなる時点が、収蔵節です。ですから仮庵の祭り(仮庵祭)とも言います。
神の家に、私たちがみな入り、永遠に共に住む場所であるため、実際に仮庵の祭りとも言うのですが!
その七週の祭りとラッパ節の間に、4ヶ月間の、四ヶ月という期間が空きます。あ、その時までは何をしているのでしょうか?
考えてみてください。四ヶ月の間、何を?
聖霊が臨み、いよいよラッパを吹けば、完全に終わりです。収穫されるのです。では、聖霊が臨んでから、ラッパが吹かれるまでがいつですか?
2000年前にイエス様が来られた時から、イエス様が再臨される時までですよね? その期間を何と言いますか? 末世(終末の時代)と言うではないですか。なぜなら、イエス様が来られながら、すでに裁きが終結したじゃないですか。ええ、イエス様の十字架の中に入っている者と、
そうでない者が今や分かれたではないですか。はっきりと! アルミニウス主義者たちが言うように、「あの時死んでおいて、歴史の間中ずっと信じてあげて、受け入れる者は救い、信じない者は脱落させる」とか、そういうことではなく、すでにあの十字架ですべて決着がついたのです。
黙示(啓示の世界)は!
それでは、あの十字架で完了したあの裁きの完了性!つまり完全にもうそこで、すでに黙示においては末世が、終末が来たのです。
ええ、ですから「終末が救いに先行する」という言葉があるのです。ええ、「エスカトロジー・プリーシーズ・ソテリオロジー(Eschatology precedes soteriology)」という言葉です。ええ、終末が救いに先行する。なぜなら、神様はすべてを計画される方だからです!
ですからすでに、終末が歴史の中に突き抜けて入ってきたことを、十字架と言います。
ですから十字架から、イエス様が再び来られる再臨の時までを、何と言いますか? 最後、いつ来られるか分からないから、明日来られるのか?
十字架を背負われた翌日に終わるのか分かりません。それでも構いません。救いはすべて決定しているのですから!ですから十字架以降のすべての期間は、
末世と言います。
いよいよ聖霊が来られました。来られて今や、あの十字架でイエス様が抱きかかえた者たちに、わーっとすべて入られたのです。
一時に!ですから教会に聖霊が臨むのです。一時にすべて臨んで、すでにもう彼らこそが収穫の対象でしょう? 皆さん、収穫する時、何というか、私が収穫
しようとする穀物以外に、田舎では「ピサリ(雑草抜き)」のようなことをするでしょう? あの「ピ」というのは雑草(ヒエ)なのです。稲とよく似ています。
ですがそれを全部やって、それも一緒に食べる人がいますか? いないでしょう。ですから良い麦(アルゴク)だけを後で、収穫して、倉に納めるわけです。
それでは、すでに収穫すべきものは十字架ですべてすでに収穫されたのでしょう? それが黙示です。歴史の中ではその時に、すでに黙示の中で、
十字架で、収穫された者たちが、歴史の中で、神様が植えたその良い麦たちが、歴史の中で、教会の役割によって収穫されたのです。
ですから四ヶ月休むのです。この四ヶ月に関する内容をイエス様が直接お話しされたことがあるのですが……。ヨハネの福音書に行ってみてください、
4章35절を見てください。
(ヨハネの福音書 4:35-38)
35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四ヶ月ある』と言っていませんか。
しかし、わたしはあなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
36 刈り入れる者はすでに報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈り入れる者がともに喜ぶためです。
37 『ひとりが蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということわざは、本当です。
38 わたしは、あなたがたが自分で労苦しなかったものを刈り入れるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実にあずかっているのです。
これが正確にあの七週の祭りと、ラッパ節の間の4ヶ月間の話ですよね? イエス様は正確にここで話されているのです。
やあ! こんなに重要なことを話しているのに、早天祈祷に出ないなんて! もう話さないですよ、これ!
とにかく見れば、ではこの時が今いつなのかが分かります。サマリアの女のもとにイエス様が急いで駆けつけられたあの時が、五旬節なのです。
あの時が七週の祭りです。だからイエス様がおっしゃるのです。「四ヶ月経てば、いよいよ収穫の時が来る」と話されているのです。
つまり五旬節が臨めば、教会にどのようなことが起こるか? 救いが臨みます。聖霊が下りてきて、救いが臨むということです。
しかし「四ヶ月経たなければ収穫できない」というのは、歴史の中で外見的にこのように見た時は、「あれ、まだ収穫の時じゃないみたいだけど……」という
風に見えるという意味です。皆さんがみなそう見えるじゃないですか、今。そうじゃないふりをして座っていますが! ここで収穫に値するような姿を持って
いる人が誰かいますか? 誰もいないでしょう! ところが四ヶ月経てば収穫されるのですが、それが終末なのです。収穫とはすなわち終末です。
聖書で終末と言えば、三つのことを皆さんは理解しなければならないのですが、一つは、歴史が終わる歴史の終末! 二つ目は、人生が終わり、
皆さんが死んだら終末です。直ちに! 人生が終わる人生の終末! 三つ目、皆さんにイエス様が訪ねて来られることによって、肉的な自己が死に、
新しい人として新しく生まれるその時が、人生の終末なのです。人間の終末!
今イエス様がサマリアの地! あのユダヤ人たちが最も嫌っていた、異邦人よりも嫌っていたのがサマリア人です。同じ民族であったにもかかわらず!
ところが、あえてイエス様が、あの汚れた地! 呪いの地! サマリアに行かれ、あのサマリアで最も蔑まれている、唯一たった一人! 人々がみな眠っている時
にしか出て来られないあの女! サマリアの地で最大の罪人! 自他共に認める罪人に、神様が訪ねて行かれ、彼女を収穫してしまうのです。
その上で何とおっしゃいますか? イエス様が弟子たちを遣わしながら、「見よ! 収穫の時が、お前たちは四ヶ月残っていると言うが、
すでに私が今ここで収穫をしているではないか? お前たちは一人が蒔いたもの、私が蒔いたものを、お前たちはこれから歴史の中で!」 すでに収穫はすべて
終わったのです、イエス様の言葉においては! 創世前の契約の中で! 「しかし歴史の中で、お前たちが収穫する者として遣わされるのだ」という意味です。
ですから、「ただ聖霊が臨めば、あなたがたは力を受け、エルサレムと、ユダヤの全土、サマリア、さらには地の果てまで、わたしの証人となる!」という言葉が、まさにこの話をしているのです。
では見てください。サマリアの女は、そのように、イエス様が収穫をされた後に。弟子たちが来て、食べ物を買いに行きましたよね。
ですから聖書は、このように深く、深く入ってみれば、これは本当にもう口があんぐり開くほどすべて合致しています。
ただ! まるでカミソリの刃一枚入る隙もないほど完璧に、神様のシナリオが組まれているのです。
なぜわざわざ食べ物を買いに行ったのでしょうか? あの人たちが! イエス様が今、収穫の話をしようとして、それらがすべて神様のシナリオの中に入って
いるのです。収穫の話をされながら、収穫はなぜするのですか? 食べるためにするのでしょう? 「お食事をどうぞ」と言ったら、「わたしには、あなたがたの知
らない食べ物がある」 何ですか? 「私、収穫したよ」という意味です。収穫して、今私は食べ物を食べているが、その食べ物は何かというと?
「わたしを遣わされた父のみこころを行い、そのわざを成し遂げることだ」と言うではないですか、ここで! これヨハネの福音書を全部勉強したのに……。
全部忘れちゃいましたね。本を読んでください。
「私は今、お前たちが私に食べろと言うけれど……」 神の食べ物は、神様が収穫される者たちを、神の倉に納めることが、神の食べ物なのです。
だから、神であられるイエス様が、おっしゃるのです。「私、今収穫した!」と。
しかし歴史はまだ4ヶ月残っています。これが歴史です。ですからこの歴史の間、神様がその選ばれた者たちが、まるで「あいつは収穫されてはならないはず
なのに……」というような姿として暴露され、発覚されながら、神様の恵みと憐れみを、そしてその方の栄光を現す者として生きるのです、ここで!
ですからローマ人への手紙11章に行くと、「なあ、あのユダヤ人たちがなぜあんなに今、みんな見捨てられたように、まるで元のオリーブの木から切り取られ
たように、あんな風に生きているのか知っているか?」 パウロが言うではないですか。そうしながら「あなたがた! 異邦人を救い出すために!」 つまりユダヤ
人がなぜ切り取られたかと言えば、律法を守ると言ったから切り取られたのではないですか? 従順(順応)すると! 神様は「不従順の中に閉じ込めた」と言
われます。4ヶ月の間! 歴史の中で!
よく考えてみてください。教会で「従おう! 従おう!」と言うのが、何ですか? そういうことが。結局、神様の御言葉に逆らうことでしょう? 神様は「不従
順の中に、歴史の中で、人間たちを不従順の中に閉じ込めておいた」とおっしゃるのに、教会では「従おう! 従おう!」と言っています。これが律法主義で
す。これがユダヤ人でした。ユダヤ主義だということです。
ですから神様は、それではないと、歴史の中で少しの間、このイスラエル! ユダヤ人を切り取ったのです。そして、サマリアの女のように、
律法なんてこれっぽっちも、何一つ守ったことのない、そんな、サマリアの犬の中の犬に訪ねて行って、彼女を収穫してしまうことによって、ユダヤ人全体
を、すべて否定してしまうのです。律法主義を!
さあ、見てください。七週の祭りを話しつつ、なぜ今日私がこの本文を読んだかというと、こういうのはただ素通りしてしまいます!
どんな注釈書にも書かれたことがありません、これ! こういうことが! しかし、なぜ七週の祭りを話しているのに、収穫が、収穫の話が出てきて、
あの時は収穫の時ではないじゃないですか。初穂の祭りでもなく! かと言って秋の収蔵節でもないのに! 中途半端な七週の祭り! 五旬節の時、収穫の話を
しながら、「隅(角)を残せ」と話しているわけです。それがローマ人への手紙11章に繋がるのです。
犬のような女が、異邦人の女が来てイエス様に、「イエス様! 私を治してください!」と言いますよね? それでイエス様が何とおっしゃるかというと、
「この犬め!」と言うではないですか。「私は犬に与える食べ物はない!」 非常に、本当に冷酷に話をされているのではないですか? 「犬」と言います。
自分を訪ねてきた女に! ところがその女が、「そうです。私は犬です」と言うのです。自分が犬であることを知っている人! その人が救いの対象です。
そうしながら「パン屑でも、犬のような私に投げてください! 犬も主人の食卓から落ちるパン屑を食べるではありませんか?」
これがまさにローマ人への手紙11章の、元のオリーブの木から除かれた異邦人たちの救いを話しているのです。
それをレビ記23章で、ここで、さりげなくヒントを提示しているわけです。「残しておけ!」 なぜ残しておけと言うのですか、それを?
それで、昔、キム・ドンホ牧師もこの一節だけをパッと貼り付けて、「落ち穂拾い! だからそれで、不遇の隣人を助けましょう!」
適用は非常によくできましたが、聖書はそんな話をしているのではありません。かわいそうで貧しい人々が食べるために、収穫の時少し残して収穫しなさ
い! そんな教訓の書物ではないのです。救いの話だと言ったじゃないですか。あのイエス様の話!
ですから、聖書の中から何か世渡りの方法のようなものを皆さんが探そうとしてはいけません。聖書は、この世の中でどうすれば善く生きられるか?
まあ、そんなことが書かれているのではないのです。あのマルコム・グラッドウェルという人が書いた、あの『アウトライヤー』という本が韓国語でも翻訳され
て出ていましたが、これは経営学の本なんですね。
「アウトライヤー」とは何かというと、普遍的なデータ以外に、その、別に存在している……。これは新語なので英語辞書にも載っていません……特別な、
ですから、まあ特別な人々を研究してみれば、「ああ! その人々が、一つのそのことを、一万回以上練習したところ、できた!」 だから「あなたたちも、
ある部分で最高になるためには、少なくとも一万回、一万回はそのようにしてみなければならない」。まあ、こういう式です。
ところがそれがベストセラーになって、韓国語で翻訳されたりしたのですが。聖書をそのように見るのです。
ところが私はびっくりしたのが、先週の日曜日に私が例に挙げた、ある牧師さん! 私は、味方だと思っていました。ええ、あまりにも私に、「なあ! 今の時代
の教会を批判して、また以前は、まあ自分が福音をよく伝えた」というのです。他の人もそうだったから! それで、何かと言えば私に電話してきて、
「なあ! 説教を聴いたが、なあ! 今の時代に牧師さんのような人がいなければならない」という風に言うものだから、「なあ、この人、本当に味方なんだな!」
それで、少し引っかかっていたのが、昔どんな話を聞いたかというと、あの人がまあ青瓦台(大統領府)にいるYM(ワイエム)の、
あの預言者たちを呼んできて預言させたりした、と言っていたのですよ、人々に。それはまたどういうことなのか?
私はこのようにうまく繋がらなかったのです。ところが先週、私が説教をしたところ、ある方がCDを一枚送ってくれました、私に。
その人がここへ来て、来てすぐに説教したものを!
いや、ところが最初の説教で、なんと! あの『アウトライヤー』の本を引用しながら、「ああ! 聖書というのはですよ。
そのように一万回、このようにすれば専門家になるように、敬虔な生活や、聖書の話や、こういうことがすべて一万回くらい読まなければならない」 だから
人々はそういうものに惑わされるのです。私が聴いてみれば、あ、半分はまた英語なんですよ。はあ、初めて聴きました。
あの、生半可な1.5世の英語! あれを持って半分は英語で、半分は韓国、韓国語で話すのですが、イエスについての内容はなく、「どうすればお前たちが敬虔
に生きられるか」、「どうすれば聖書を身近にできるか」。皆さん! 聖書は一万回読むからといって、専門家になるようなそんな本ではありません。
ルソーが100回読んだと言ったじゃないですか。なのに結局書いた本が、『私はなぜキリスト教徒ではないのか』だったのですよ。
その論理で行けば、一日に祈りを四時間ずつする人と、毎日! そして、本当に神様と対面して、一日に5分祈った人と、一日に4時間ずつただデタラメな祈り
をしたこの人が、祈りをたくさんしたことになりますね。それを祈りと言いますか? 本当に? ぶつぶつ座って、自分が何を言っているのかも分からずにやっているような、そんなそれが祈りと言えますか? びっくりしました、私は、本当に!
ところが、あの人が来て百人増えたそうです、教会員が! だから人々はそういうのが好きなのです。はあ、ちょっと合間に「聖書はそれほど重要なもので
す。聖書を全部食べてください。聖書に『キスしろ!』と言って、アプリで(咳をして?)二回ずつみんな聖書にキスしなさい」。そうして、まあ「復唱しなさい」
と言って、「手を挙げなさい」と言って。好きな、好きなんでしょう、そういうのが! 皆さん、聖書は、そのようにして分かってくるものではありません。
いや、「イエス・キリストを説明してあげなさい!」と言ったでしょう、いつ? ほんと、私は理解できません。
あの東部で、私たちの教会の説教を熱心に聴いているある教会の牧師さんがいらっしゃるとのことで、東部にいる私たちのインターネット教会員たちが、
私にメールを送ってきながら、すごくエキサイティングして、「ああ! いよいよあの牧師さん! 私たちの牧師さんが、私たちがCDをずっと差し上げたとこ
ろ、牧師さんの説教を聴き始めた」と。どうして分かるかというと?
私の説教をほとんど引用して、まあ身を少し付け加えて(肉付けして)、説教し始めたそうです。それで、あまりにも、あまりにも嬉しくて、
私に、「牧師さん、このように実りがありました、私たちの牧師さんが変わりました!」と言いながらメールを送ってきました。ところがその人々はみんな許し
てあげているのです。「ああ! あの方が、あのキム・ソンス牧師の説教をそのまま写しているけれど、それでもそれがすべて理解できるし、あのようにしてい
るのだから、私たちは本当に恵まれた人だ。私たちはスミルナ教会の説教も聴き、またここでも再放送も聴いて、本当にいい!」と思っていたのに……。
突然、説教の時間に私の悪口を言ったというのです。それで「なぜ? なぜそんなことを?」と言ったところ、「あの人は御言葉だけを説明して、
アプリケーション(適用)について教えない」というのです。そうしながら、まあ「聴くな」と言うそうです。もっと写そうとしているのか?
なぜ? 自分が写している本文を(他の人が)聴いているから、まずいでしょう? そうなると! そうしながら私に、あ、あの方がすごく腹を立てて私に
メールが来ました。
皆さん、牧師は説教をする時、適用までいじってはいけません。タルビ(?)も言いましたよね。「牧師たちよ! 御言葉に仕事をさせなさい!」 神様の御言葉
が皆さんに中に入って、皆さんをひっくり返さなければならないのです! 牧師がアプリケーションを投げ始めたらですね、御言葉はすべて忘れてしまい、「そ
うだ! うちの牧師さんが今度から愛して生きようと言ったから、愛さなきゃ!」 これを律法主義と言います。
ユダヤ人たちが聖書を持っていたじゃないですか。旧約聖書をみんなそのように見ているのです。神様がこれをすべて守れとおっしゃっているのだと思い込
み、その中に入っているイエス様を取り出すことができずに、これを守ると言って立ち上がったところ、神様が切り取ってしまったのですよ。なのに適用を
どうすればいいのか? 適用は、私たちがするのではなく、神様の御言葉が入ってきて、私たちを引っ張っていく場所へ引きずられていくこと! それを聖徒の
信仰生活と言います。
ところがそこに関心がないから、ただ「どうやって生きようか? どうすれば? どうやって生きようか?」 よく考えてみてください。「なぜ、どうやって生きよ
うか?」を悩みますか? 世の中に出て、「私」という存在のプライド! つまり恥をかきたくないからそうしているのです。神様の栄光のためではなく、自分が
恥をかきたくないからそうするのですよ。だから「善く生きなさい!」と言います……人々はですね。それで何かをしようとするのですよ。対応もしたりし
て!
皆さん、聖書はそれを罪(つみ)と言います。ですから、神様が歴史の中で、そのように生きようとした者たちを……ユダヤ人たちを見てください。
国家の独立を勝ち取るために熱心党(ゼーロータイ)! 敬虔に生きようとハシディズム運動の共同体、パリサイ人! 「なあ、どうやってこの世の中で敬虔を
維持するんだ? 俺たちは結婚もせず、行って聖書だけを研究しながら生きよう」エッセネ派! 神様が彼らをすべて切り取ってしまったのですよ。
イエス様が来られた時にいたユダヤ人たちは、この人々ではないですか。そうしたら、突拍子もなく取税人や娼婦たちだけを連れて行かれたではないでか。
病人たちだけを!
ですから、私は時々そんな気がします。今日も、何とか改革主義だとか、純福音何とか主義! 何とかバプテスト、メソジスト! 派閥があまりにも多いです。
イエス様が来られた時の、まさにあの状況です、今! ところが、この人々がまったく予想もしなかった、この人々が汚れた者たちだと陣営の外に追い出した
あの人々だけを、さっと連れて上がって行ってしまいました。イエス様が! そんな考えもよぎります。時々、イエス様が後で再臨されて、お坊さんたちだけ
を連れて上がって行ったらどうしよう?
いや、そうじゃないですか。今、イエスの名前を呼びながら熱心に戦っていますが、私が見るには、みんな間違っています。
ですから、まあキム・サムファン(金三煥)のような人! 連れてきて、LAがただ騒がしくなるほど、ただリバイバル集会! 連合リバイバル集会をすると!
そこを見てみれば、改革派教会という教会もあり、完全にあの純福音教会もあり、彼らがみんな連合されています。趙鏞基(チョ・ヨンギ)牧師を連れてき
て、愛の教会がリバイバル集会をし、玉漢欽(オク・ハンフム)牧師が趙鏞基牧師の教会に行って、またリバイバル集会をし! すべてが完全にビビンバ(混
ぜこぜ)になってしまって!
皆さん、こんな時代に皆さんは正気でいなければ大変なことになります。ですから、むしろこのようにビビンバみたいだから、異端たちが本物みたいに見え
るのです。なぜ人々がこのように異端に陥るか知っていますか? 彼らは少なくとも、少なくとも、聖書の言葉を話すのですよ。イエス様! あのエホバの証
人! 救済派(クオンパ)! 新天地(シンチョンジ)! 彼らを見てください。
うちの教会にも、新天地に陥ってから来た人、救済派に陥ってから来た人、エホバの証人に陥ってから来た人、結構いますよ。聞いてみればみんな、
この教会! 今の時代の教会に嫌気がさして! 「これが教会か?」という時に、御言葉を持って訪ねてきて話をするから、「ああ! これが本物なんだな!」 みん
なそれで(異端へ)行くのです。それでもあるエホバの証人にいたという人が、「うわあ! あそこの御言葉と牧師さんの御言葉が、すごく似ていますね」と。
突然(私を異端の側に)ドーンと送ってしまいそうになるんですよ。何が似ているんですか。ほんとに、呆れてしまいます!
ただ、御言葉を何かこのように、少し研究して話せば、ただまあ……似ていません! それは完全に、人を異端にしてしまって、そんな人々が出たり入ったり
しているのですよ。後で分かったら、エホバの証人だった、あの人! ですからただ世界中が……私がまあ、ある時は、こんなキム・ソンス! ある時は、あんな
キム・ソンスがあちこちをただ漂っています。
この時代は、御言葉を捨てました。私が見るには、イエスを捨てたのですよ。だから何か処世術や、敬虔に生きる方法や、まあこういうことだけを学ぼうとす
るのですね、聖書から!
ですから「落ち穂拾いをしよう!」、「何とかしよう!」 だから「誰かを助けよう!」 そんなことをするなということではなくて! そういうことはしなさい。
熱心にしなさい。自分の自慢にならなくなるまでしなさい。死ぬ日までしながら、「なあ、どうして私はこのように死ぬ日までこれが自分の自慢になるんだろ
う?」 構いません。そのためにするのです、そういうことを!
ある日ふと、「あ! どうして私はこのようにしておきながら……以前だったらただこれを自慢したくて、口がムズムズしただろうに……。
なあ! それでもどうしてこれが、私の記憶からも消えるほど、私のものではないものになったのだろう?」 その時に「本当にイエス様が私を引っ張っていって
くださっているんだな!」 このように経験するのです。ここで何かを学んで、「どうすれば敬虔で清く生きられるか?」 これは相変わらず、「私の人生には何か
価値があるもので、神様の前で、カウントされるものだ」という前提を置いているわけでしょう? その人がパリサイ人です。
皆さん、絶対に用心しなければなりません。そういうのが「別の福音」なのです。他のものが別の福音ではありません。パウロが言うじゃないですか。
「末世に人々がどのようなことをするかというと、自分を喜ばせてくれる師を探して、突拍子もないことを言う者たちを師とする」と言うでしょう?
テモテへの手紙で言っているではないですか。「自分の耳を楽しませてくれるような者たちを探して去っていく」というのです、人々が!
ですから見てください。「あなた方はですよ、この世で成功した人々がみな一つのことに、四十回ずつ(あるいは長期間)熱心に練習して投資したように、
そのようにすれば敬虔な人になれます」。こう、こう言ってしまうと、人々は自分ができもしないことだと分かっていながらも、
「なあ! 私に何か可能性があるということを、あの人は認めてくれるんだな!」と思って喜ぶのです。
本当に! 私が心さえ冷酷に、一度悪く持てば(決心すれば)、私は世界で一番大きな教会を一度作ることだってできます。
今では本当に、どうすれば人々が集まるかというのが分かるような気がします。非常に知恵深くできると思います。ある日私がカナダに行って、
ものすごく大きな教会をやっていたら、そうだと思ってください。
人々はそういうのが好きなのです。プライドを立ててあげて! プライドを立ててあげるのが、まあただできもしない甘言(おべっか)で立ててあげるのでは
なく、彼らのその律法主義的、人本主義的な本性を少し煽ってあげれば、人々は意気揚々とし始めます。
ところがそれさえも打ち砕いてしまえば、耐えて、耐えて、ついに飛び出して行きます。「到底いられない!」と。あるいは、居眠りをするか!
水曜日に、ある方が居眠りをしておられたので、「居眠りしている人がいる」と言ったところ、へそを曲げちゃってね、後で礼拝が終わって。
居眠りした自分が悪いのに、いや、毎回居眠りするんです、あの人は! 癖ですよ、癖! あるいは、私のトーンが、あの人にとって子守唄の周波数と合ってい
るのか、あるいは、二つのうちの一つでしょう。一体、あの声を聞いてどうやって眠れるでしょうか? こんなに声を張り上げているのに……わーっと!
なぜ(居眠りしているのが)分かるかというと、目を閉じてこのように……あるいは、もしかして、ただこのように、よく聴こうとして目を閉じている人も
いるじゃないですか。私は信じませんが! 大抵、その人々は別のことを考えています。私は分かります。それもでなく、あまりにも眠くてどうしようもない
という、そんな目がありますよね。もう、もう閉じまいとしているのに、目が自然に閉じてしまう。だから説教しながらパッと驚いて、「なあ、本当に大変だ
な、あの人!」 だから(言葉が)出てこないのです。突然説教しながら!
ですから私は、人々に説教しながら、人々の顔をあまり見ないようにしているのが、腹が立って、もっと大声を出すようになるからです、顔を見ると!
だから私は、いっそ虚空(空)を見て説教しようと! ところが必ず、そんな人たちが「アイコンタクトをしましょう!」と言うのです。
後で会議の時間に行くと! 「牧師さんが説教する時、アイコンタクトをしてほしい」と。それで私は心の中で、「お前を見て腹が立つからだよ!」とは言えませ
んが! そうして、こっくりこっくり居眠りをする。聴きたくないのです。ただ車に乗ってさっと出て行きたかったそうです、説教の途中で! 一体、私が何
を言ったから? あんなに説教を聴きながら車に乗ってさっと行ってしまいたかったのでしょうか? 私が何か悪口を言いましたか? 何と言いましたか?
言っても「ジラル(でたらめ)」、これくらいしかないのに……。プライドが傷つくのです。「私は何だ? 私は何だ?」
私もそのようにして、人のプライドを傷つけないように努めてみればですね、人々が、イエスを、つまり自分の本来の姿を直視しようとせず、
そうなるとイエス様を掴もうとしなくなります。しきりに自分を称賛し、賛美する者へと変えます。大変なことになるのですよ、それは!
皆さんは神様の御言葉が下る時、「なぜイエス様が来られて、この地でこのように死ぬしかなかったのか」、「本当に、なぜ私がイエスを殺した者で合っている
のか」、御言葉の中で皆さんが悟らなければならないのですよ。そしたら痛くなければならないでしょう、それは! どうして御言葉の中で痛くないのですか?
皆さん、もっと真剣にならなければなりません。
「この末世に、嘲る者たちが現れて、『なあ、イエス様はいつ来られるんだ?』」 私が見るには、すぐ来られます。なぜ? この時代の教会が、また再びイエス様
が来られた時のように、また再び、行為を掴み始めたのです。それも、今や「健康で健全な教会」だと自他共に認めるような教会までも! 人本主義的な、そん
な人間たちの行為を掴み始めたということです。
そうなれば、イエス様の憐れみはどこにも落ちる場所がありません。私たちがうまく生きているのに、憐れみがなぜ落ちなければならないのですか?
なぜ必要ですか? その時、イエス様が火の剣を持って現れるのです。イエス様の初臨の時がそうだったじゃないですか。「到底見ていられない。
お前たちが何をすると。今、私に仕えていると言いながら、他の人々まであんなに勝手に犬扱いしてそのように生きているが、お前たちではない!」 だからそ
こでユダヤ人が、本当のオリーブの木から罪を犯した(切り取られた)のでしょう?
同様です。今「本当のオリーブの木」だと言って、今や異邦人たちが……私たちみんな異邦人でしょう? 今、イスラエル人がいますか、ここに? いないじゃな
いですか。みんな異邦人なのに、異邦人たちをそう数えているうちに、彼らが本当のイスラエル教会だと勘違いしながら、自分たちがまた再び「異邦人!
あのユダヤ人のあの行事」をしているのですね。それを教えてあげようと今、神様が歴史を四ヶ月の間、運行しておられるのです。
ならばその中にある神の民は、その現実を見なければならないでしょう? 見ることができなければならないでしょう?
それでこそ教会ではありませんか、それが! ところがそこに関心がないから、食って行くことだけにひたすら集中しているから、
時代の現実を見られないのです。ああ、本当に理解できません。少し食べるものが少なくても大丈夫です。
生について悩んでください。信仰について、福音について、悩んでくださいと言うのです。イエス様はすぐ来られます。その時に慌てないで!
その時皆さんが、「見たか? 私が行くのが、私の生きるのが合っているだろう?」 このように言える人にならなければなりません。
そのためには、今、痛くなければならないのです。しかし忍耐しながらよく耐える、そのようにして生きなければなりません。
他にありません。今が四ヶ月の収穫期間です。皆さんはすでにイエスの十字架の下で収穫された方であることを忘れないでください。
なのに、何が私たちの行為が、なぜイエス様の前にまた再び何かが「上達(受け入れ)」されなければならないと考えるのですか? 違います!
「えっ、じゃあ適当に(自堕落に)生きてもいいんですか?」 違います!
イエス様が皆さんを、皆さんがそのように福音を正しく恵みの中で理解できるようになられた時、
イエス様が本当に皆さんの人生をどのように導いて行かれるか見てください。
世界観と価値観が完全に変わることになります。いい加減には生きられません。
それがローマ人への手紙全体の内容です。
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절기강해 (06) - 칠칠절과 나팔절 (레23:21-22)
(기도)
아버지 하나님! 하나님 보호하심에, 그 하나님의 방패로, 우리에게 주신 하나님의 말씀이,
이 아침에도 우리에게 덧입혀져, 세상 속에서, 하나님에 백성다움을 유지하고 붙들 수 있게 도와주옵소서.
예수님에 이름으로 기도합니다. 아멘.
자, 레위기 23장 21절에서 22절.
(레위기 23:21-22)
21 이 날에 너희는 너희 중에 성회를 공포하고 어떤 노동도 하지 말지니 이는 너희가 그 거주하는 각처에서 대대로 지킬 영원한 규례니라
22 너희 땅의 곡물을 벨 때에 밭 모퉁이까지 다 베지 말며 떨어진 것을 줍지 말고 그것을 가난한 자와 거류민을 위하여 남겨두라 나는 너희의 하나님 여호와이니라
자, 초실절에, 무교절에, 그 떡을, 누룩 들어가지 않은 떡을, 사흘간, 땅 속에 넣었다가 꺼내서 먹고, 초실절에, 맏물을 하나님께 드리죠? 부활이라 그랬습니다. 그리고 그 이후, 49일이 지나고, 50일째 되는 날을, 칠칠절! 오순절이라 그랬죠? 그때 인제 성령이 임하는 거죠. 그래서 신약에, 사도행전 2장의 바로 그 오순절! 칠칠절에, 이제 그 성령이 임하는 거예요
성령이 임하고, 가을에, 7월 1일이 이제 나팔절이거든요. 승리의 나팔이 울려 퍼지는 그런 절기인데, 그때는 이제 끝나는 거예요. 그러면 추수가 되고, 이제 7월 15일! 수장절이죠. 수장절은, 이제 영원히 하나님의 것들이, 다 추수가 되어서, 하나님에 집, 하나님의 창고에 드리는 그런, 이제 안식(安息)의 시작이 되는 시점이, 수장절이에요. 그래서 초막절이라고도 하죠. 하나님의 집에, 우리가 다 들어가서, 영원히 함께 거하는 곳이기 때문에, 실제 초막절이라고도 하는데!
그 칠칠절과 나팔절 사이에, 4개월간의, 넉 달 동안의 기간이 비죠. 어, 그때까지는 뭐하는 걸까요? 생각해 보세요. 넉 달 동안에?
성령이 임하고, 이제 나팔 불면 완전히 끝이에요. 추수되는 거예요. 그러면 성령이 임하고, 나팔이 불 때까지가 언제예요? 2000년 전에 예수가 오셨을 때부터, 예수님이 재림할 때까지죠? 그 기간을 뭐라 그러죠? 말세(末世)라고 하잖아요? 왜냐면, 예수님이 오시면서, 이미 심판이 종결이 됐잖아요? 예, 예수님 십자가 안에 들어가 있는 자와, 그렇지 못한 자가 이제 나눠졌잖아요? 확연하게! 알미니안주의자들이 이야기하는 것처럼, 그때 죽어 놓고, 역사 동안에 계속 믿어주고, 받아들이는 이는 구원하고, 안 믿어 주는 이들은 탈락시키고 그런다. 그게 아니라, 이미 그 십자가에서 다 결판났단 말이에요. 묵시는!
그러면 그 십자가에서 완료된 그 심판의 그 완료성! 그러니까 완전히 이제 거기에서, 이미 묵시에서는 말세가, 종말이 온 거죠. 예, 그래서 ‘종말이 구원을 앞선다.’라고 하는 말이 있는 거죠. 응, 에스카톨로지 프리시즈 소테리올로지(Eschatology precedes soteriology)란 말이에요. 예, 종말이 구원을 앞선다. 왜냐면은? 하나님은 모든 걸 다 계획하시는 분이니까! 그러니까 이미, 종말이 역사 속에 뚫고 들어온 걸, 십자가라고 하죠.
그러니까 십자가부터, 예수님이 다시 오시는 재림 때까지를, 뭐라 그래요? 마지막에 언제 오실지 모르니까, 내일에 오실지? 십자가 지신 다음날 끝날지 몰라요. 그래도 상관없어요. 구원은 다 결정이 났으니까! 그래서 십자가 이후의 모든 기간은, 말세(末世)라고 해요.
이제 성령이 오셨어요. 오셔가지고 이제, 그 십자가에서 예수님이 품어 안은 자들에게, 쫙 다 들어간 거예요. 일시에! 그래서 교회에 성령이 임하는 거예요. 일시에 다 임해서, 이미 그러면 그들이 바로 추수의 대상이죠? 여러분 추수할 때, 뭐 그 내가 추수하고자 하는 곡식 말고, 뭐 시골에선 피살이 같은 거 하죠? 그 피라는 게 잡초거든요. 비슷하게 생겼어요. 벼하고! 그런데 그거 다 해가지고, 그것도 다 같이 먹는 사람이 있어요? 없다 말이죠. 그래서 알곡만 나중에, 이제 추수 다 해가지고, 창고에 드리는 거라 말입니다.
그러면 그 이미 추수할 것은 십자가에서 다 이미 추수된 거죠? 그게 묵시(默示)에요. 역사 속에서는 그때에, 이미 묵시 속에서, 십자가에서, 추수된 자들이, 역사 속에서, 하나님이 심은 그 알곡들이 역사 속에서, 교회의 역할로 말미암아 추수된 거죠. 그래서 넉 달을 쉬는 거예요. 이 넉 달에 관한 내용을 예수님이 직접 말씀해 주신 적이 있는데…. 요한복음으로 한번 가보세요 4장 35절 보세요.
(요한복음 4:35-38)
35 너희가 넉 달이 지나야 추수할 때가 이르겠다 하지 아니하느냐 (그러나) 내가 너희에게 이르노니 눈을 들어 밭을 보라 희어져 추수하게 되었도다
36 거두는 자가 이미 삯도 받고 영생에 이르는 열매를 모으나니 이는 뿌리는 자와 거두는 자가 함께 즐거워하게 하려 함이니라
37 그런즉 한 사람이 심고 다른 사람이 거둔다 하는 말이 옳도다
38 내가 너희로 노력지 아니한 것을 거두러 보내었노니 다른 사람들은 노력하였고 너희는 그들의 노력한 것에 참예하였느니라
이게 정확히 그 칠칠절과, 나팔절 사이의 4개월간의 이야기죠? 예수님이 정확히 여기서 하시는 거예요. 야! 이 중요한 걸 하는데, 새벽기도를 안 나오다니! 안 할 건데. 이거!
하여튼 보시면은, 그럼 요 때가 지금 언제라는 걸 알 수 있어요? 사마리아 여인에게 예수님이 황급히 달려간 그때가, 오순절이란 말입니다. 그때가 칠칠절이에요. 그러니까 예수님이 그러는 거예요. 넉 달이 지나면, 이제 추수할 때가 온다고 얘기하는 거예요. 그러니까 오순절이 임하면, 교회에게 어떤 일이 일어난다고요? 구원이 임하죠. 성령이 내려와서 구원이 임한다는 말이에요.
그런데 넉 달이 지나야 추수한다는 건, 역사 속에서 외양으로 이렇게 봤을 때는, ‘저거 아직 추수할 때 안 된 거 같은데…,’ 이렇게 보인다는 뜻이에요. 여러분이 다 그렇게 보이잖아요? 지금? 아닌 거처럼 앉아 있지만! 뭐 여기에서 추수할만한 그 모습을 갖고 있는 사람 누가 있어요? 아무도 없지! 그런데 네 달이 있어야 추수가 되는데, 그게 인제 종말이에요. 추수는 곧 종말이죠.
성경에서 종말 그러면, 세 가지를 여러분이 이해를 하셔야 되는데, 하나는, 역사가 끝나는 역사의 종말! 두 번째는, 인생이 끝나, 여러분이 죽으면 종말이에요. 바로! 인생이 끝나는 인생의 종말! 세 번째, 여러분에게 예수가 찾아옴으로 말미암아, 육적 자아가 죽고, 새 사람으로 거듭나는 고 때가, 인생의 종말이에요. 인간의 종말!
지금 예수님께서 사마리아 땅! 그 유대인들이 가장 싫어했던 게, 이방인보다 더 싫어했던 게, 사마리아 사람이에요. 같은 민족이었음에도 불구하고! 그런데 유독 예수님이, 그 부정한 땅! 저주의 땅! 사마리아에 가셔서, 그 사마리아에서 제일 천대받는, 유일하게 딱 한명! 사람들이 다 잘 때 나올 수밖에 없는 그 여자! 사마리아 땅에서 가장 죄인! 자타가 공인하는 죄인에게, 하나님이 찾아가셔서, 그를 추수해 버리는 거죠.
그래놓고 뭐라 그래요? 예수님께서 제자들을 보내면서, ‘보라! 추수할 때가 너희들은 네 달이 남았다고 하지만, 이미 내가 지금 여기서 추수를 하고 있지 않니? 너희들은 한 사람이 심은 거, 내가 심은걸, 너희들은 이제 역사 속에서!’ 이미 추수는 다 끝난 거예요. 예수님 말에서! 창세전 언약 속에서! ‘그러나 역사 속에서 너희들이 추수하는 자로 보내질 거’라는 뜻이에요. 그래서 ‘오직 성령이 임하면, 너희들이 권능을 받고, 예루살렘과 온 유대와 사마리아와 땅 끝까지 이르러, 내 증인이 되리라!’라는 말이, 바로 요 이야기를 하는 거예요.
그럼 보세요. 사마리아 여인은, 그렇게, 예수님께서 추수를 하신 다음에. 제자들이 와서 먹을 것을 사러 갔죠. 그러니까 성경은 이렇게 깊이, 깊이 이렇게 들어가 보면, 이건 정말 입이 그냥 딱 벌어질 정도로 다 맞아요. 그냥! 너무 면도칼 하나 들어갈 틈이 없이 완벽하게, 하나님의 시나리오가 짜져 있는 거예요.
왜 하필 먹을 걸 사러 갔겠어요? 그 사람들이! 예수님이 지금 추수 이야기를 하려고 지금, 그것들이 다 하나님에 시나리오 속에 들어가 있는 거예요. 추수 이야기를 하시면서, 추수는 왜 하는 거예요? 먹으려고 하는 거죠? ‘식사하세요.’ 그랬더니, ‘나에게는 너희들이 모르는 양식이 있다.’ 뭐예요? ‘나 추수했다’는 뜻이에요. 추수해서 지금 내가 양식을 먹는데, 그 양식이 뭐냐 하면? 내, 나를 보내신 아버지의 뜻을 행하는 것이다. 그러잖아요? 여기에서! 이거 요한복음 다 공부했는데…. 다 잊어 버리셨죠? 책 좀 읽으세요.
‘내가 지금 너희들이 나한테 먹으라고 하는데…,’ 하나님의 양식은, 하나님이 추수하시는 자들을, 하나님의 곳간을 들이는 게, 하나님의 양식이에요. 그래서 하나님이신 예수님이, 그러는 거예요. ‘나 지금 추수했다고!’
그런데 역사는 아직 4개월이 남아 있어요. 이게 역사예요. 그러니까 이 역사 동안에, 하나님이 그 택하신 자들이, 마치 ‘저 놈은 추수가 안 돼야 되는데….’라는 이런 모습들로 폭로당하고, 발각당하면서, 하나님의 은혜와 긍휼을, 그리고 그분의 영광을 드러내는 자로 사는 거예요. 여기에서!
그래서 로마서 11장에 가면, ‘야! 그 유대인들이 왜 그렇게 지금, 다 버려진 것처럼, 마치 원 감람나무에서 잘려진 거처럼, 그렇게 사는지 아니?’ 바울이 그러잖아요? 그러면서 ‘너희들! 이방인들을 구원해 내기 위해서!’ 그러니까 유대인들이 왜 잘렸느냐 하면, 율법 지키겠다고 해서 잘린 거 아니에요? 순종하겠다고! 하나님은 순종치 못함에 가두었다 그래요. 4개월 동안! 역사 속에서!
잘 생각해 보세요. 교회에서 ‘순종하자! 순종하자!’ 하는 게, 뭐예요? 그러는 게? 결국 하나님의 말씀을 거스르는 거죠? 하나님은 순종치 못함에, 역사 속에서, 인간들을 순종치 못함에 가두어 뒀다, 그러는데, 교회에서는 ‘순종하자! 순종하자!’ 그러고 있어요. 이게 율법주의에요. 이게 유대인이었어요. 유대주의란 말입니다.
그래서 하나님은 그거 아니라고, 역사 속에서 잠깐, 이 이스라엘! 유대인을 잘라낸 거예요. 그리고는, 사마리아 여인처럼, 율법이라는 건 개뿔이나, 아무것도 지킨 적이 없는, 그런, 사마리아 개 중의 개에게 찾아가서, 그를 추수해 버림으로 말미암아, 유대인들 전체를, 다 부정해 버리는 거죠. 율법주의!
자, 보세요. 칠칠절을 이야기하면서, 왜 오늘 제가 이 본문 여기를 읽었냐면, 이런 거는 그냥 다 넘어가버려! 어떤 주석서에도 나와 있는 적이 없어요. 이거! 이런 게! 그런데 왜 칠칠절을 이야기하는데, 추수를, 추수 이야기가 나오고, 그때는 추수할 때가 아니잖아요? 초실절도 아니고! 그렇다고 해서 가을의 수장절도 아닌데! 어중간한 칠칠절! 오순절 때, 추수 이야기를 하면서, 귀퉁이를 남겨라고 이야기한다 말이에요. 그게 로마서 11장으로 연결이 되는 거예요.
개 같은 여인이, 이방여인이 와서 예수님에게, ‘예수님! 저 좀 고쳐주세요!’ 그러죠? 그래 예수님이 뭐라 그러냐면, ‘이 개야!’ 그러잖아요? ‘나는 개에게 줄 양식 없어!’ 아주 참 너무, 그 매몰차게 이야기를 하는 거 아니에요? 개라 그래요. 자기를 찾아온 여자에게! 그런데 그 여인이, ‘맞습니다. 저 갭니다.’ 이야기를 하죠. 자기가 개인 줄 아는 사람! 그 사람이 구원의 대상이에요. 그러면서 ‘부스러기라도, 개 같은 나에게 던져주세요! 개도 주인의 상에서 떨어지는 부스러기 먹지 않습니까?’
요게 바로 로마서 11장의, 원 감람나무에서 제해진 이방인들의 구원을 이야기하는 거예요. 그걸 레위기 23장에서, 여기에서, 살짝 힌트하고 가는 거라 말입니다. ‘남겨둬라!’ 왜 남겨둬라 그래요? 그걸?
그래서 뭐 옛날에, 김동호 목사도 이거 요 구절하나 딱 붙여 놓고, 이삭줍기! 그래 갖고, 그걸로 불우한 이웃을 도웁시다! 아주 적용은 잘했지만, 성경은 그런 얘기하는 게 아니에요. 불쌍하고 가난한 사람들 먹으라고, 추수할 때 좀 남겨두고 추수해라! 이런 그런 교훈 서적이 아니라니깐요. 구원의 이야기라 그랬잖아요? 그 예수님 이야기!
그러니까 성경 속에서 어떤 처세의 방법 같은 거를 여러분이 찾으려고 하면 안 돼요. 성경은, 이 세상 속에서 어떻게 하면 착하게 살 수 있는가? 뭐 이런, 그런 게 쓰여 있는 것이 아니에요. 그 말콤 레드윌이라는 쓴, 사람이 쓴, 그런 ‘아웃 라이어’라는 책이 한국어도 번역이 되서 나왔던데, 이게 경영학 책이거든요.
아웃 라이어가 뭐나면? 보편적인 데이터 외에, 그 따로 이제, 독립적으로 존재하는, 이건 뭐 신조어라 영어사전에도 안 나와요 특별한, 그래서 뭐 특별한 사람들을 연구해 보면, 아! 그 사람들이 어 한 가지의 그 일을, 한 만 번 이상 연습을 했더니, 되더라! 그러니까 당신들도 어떤 부분에서 그 최고가 되기 위해선, 적어도 만 번, 만 번은 그렇게 해봐야 된다. 뭐 이런 식이에요. 그런데 그게 베스트셀러가 되가지고, 한국어로 번역이 되곤 했는데. 성경을 그렇게들 봐요.
그런데 나는 깜짝 놀란 게, 지난 주일날 제가 예로 들었던, 어떤 목사님! 전 우리 편인 줄 알았어요. 예, 하도 저한테, ‘야! 이 시대의 교회를 비판하고, 또 예전엔 뭐 자기가 복음을 잘 전했다.’는 거예요. 딴 사람도 그랬으니까! 그러고 뭐 걸핏하면, 저한테 전화해가지고, ‘야! 설교를 들었는데, 야! 이 시대에 목사님 같은 사람이 있어야 된다.’는 둥 뭐 이러길래, ‘야, 이 사람 정말 우리 편이구나!’
그래 조금 거림직 했던 게, 옛날에 어떤 소리를 들었냐 하면? 그 사람이 뭐 청와대에 있는 와이엠에, 그 예언자들을 불러다가 예언 받게 했고, 그랬다 하더라고요. 사람들한테! 그거는 또 어떻게 된 건가? 저는 이렇게 잘 연결이 안 되었어요. 그런데 지난주에 제가 설교를 했더니, 어떤 분이 씨디를 한 장 보내줬어요. 저한테! 그 분이 여기서 이제 오자마자 설교한 것들을!
아니 그런데 첫 번째 설교에서, 세상에! 그 아웃 라이어 책을 인용하면서, ‘아! 성경은 말이에요. 그렇게 만 번을, 이렇게, 하면은 전문가가 되는 것처럼, 경건한 삶이나, 성경의 얘기나, 이런 것이 다 만 번 정도 읽어야 된다.’ 그러니까 사람들은 그런 거에 이제 혹해요. 제가 들어보니까, 어 반은 또 영어더군요. 허 첨 들어봤어요.
그 어줍지 않은 1.5세 영어! 그거 가지고 반은 영어고, 반은 한국 한국말로 하는데, 예수에 대한 내용은 없고, 어떻게 하면 너희들이 경건하게 살 수 있고, 어떻게 하면 성경을 가까이 할 수 있냐? 여러분! 성경은 만 번 읽는다고, 전문가 되는 그런 책 아니에요. 루소가 100번 읽었다니깐요. 그런데 결국 쓴 책이, ‘나는 왜 그리스도인이 아닌가?’였단 말입니다.
그 논리대로 하면, 하루에 기도 네 시간씩 하는 사람과, 매일! 그리고, 진짜 하나님과 대면하여, 하루에 5분 기도한 사람과, 하루에 4시간씩 그냥 엉터리 같은 기도한 이 사람이, 기도 많이 한 게 되죠? 그걸 기도라 그래요? 진짜? 중얼 중얼 앉아서 자기가 무슨 말하는지도 모르면서 하는, 그런 그게 기도라고 합니까? 깜짝 놀랐어요. 나는 아주!
그런데 그 사람이 오고 백 명이 늘었대요. 교인이! 그러니까 사람들이 그런 걸 좋아하는 거예요. 하 쫌 중간에 성경은 그렇게 중요한 겁니다. 성경을 다 드세요. 성경에 ‘키스하라!’ 그러고. 어플로 기침하고 두 번씩 다 성경에다가 키스하래요. 그러더니 뭐 따라하라 그러고. 손들라 그러고. 좋아한 좋은가봐 그런 게! 여러분 성경은, 그렇게 해서 알아지는 게 아니에요. 아니, ‘예수 그리스도를 설명해 주라!’ 그랬지, 언제? 참 나 이해가 안 가요.
그 동부에서, 그 저희 교회 설교를 열심히 듣는 어떤 교회 목사님이 계시다 그래서, 동부에 있는 그 저희 인터넷 교인들이, 저에게 이메일을 보내주면서, 막 익사이팅 해서, ‘아! 이제 그 목사님! 우리 목사님이, 저희들이 CD를 계속 드렸더니, 목사님 설교 듣기 시작했다.’고. 어떻게 아냐면?
제 설교를 거의 인용을 잘해서, 이제 살만 조금 붙여서, 설교하기 시작했대요. 그래서 막 너무 너무 기뻐서, 저한테, ‘목사님 이렇게 열매가 있다고, 우리 목사님이 변했어요!’ 막 이러면서 메일을 보냈어요. 그런데 그 사람들은 다 용서해 주는 거예요. ‘아! 저분이 그 김성수 목사 설교를 그대로 베끼고 있는데, 그래도 그게 다 이해가 가고, 저렇게 하는 거니까, 우리는 참 복 받은 사람이다. 우리는 서머나교회 설교도 듣고, 또 여기서도 재방송도 듣고, 참 좋다!’ 그랬는데….
갑자기 설교시간에 제 욕을 하더라는 거예요. 그래서 ‘왜? 왜 그러냐?’ 그랬더니, ‘그 사람은 말씀만 설명하지, 어플리케이션! 적용에 대해서 가르치지 않는다.’는 거예요. 그러면서 뭐 그냥, 듣지 말라고 그런대요. 더 베끼려고 그러는지? 왜? 자기가 베끼고 있는 본문을 듣고 있으니까, 안 되잖아요? 그러면! 그러면서 저한테, 어 그분이 막 화가 나서 저한테 메일이 왔어요.
여러분 목사는 설교를 할 때, 적용까지 건드리면 안 돼요. 탈비도 그랬죠. ‘목사들아! 말씀이 일을 하게 하라!’ 하나님의 말씀이 여러분한테 들어가서, 여러분을 뒤집어야지! 목사가 어플리케이션을 던지기 시작하면요. 말씀은 다 잊어버리고. ‘그래! 우리 목사님이 이제 사랑하며 살자! 그랬으니까 사랑해야지!’ 요걸 율법주의라 그래요.
유대인들이 성경이 있었잖아요? 구약 성경을 다 그렇게 보는 거예요. 하나님이 이걸 다 지키라고 하는 줄 알고, 그 안에 들어있는 예수를 꺼내지 못하고, 이걸 지키겠다고 나섰더니, 하나님이 잘라 버렸다니깐요. 그런데 적용을 어떻게 해야 되는지? 적용은, 우리가 하는 게 아니라, 하나님에 말씀이 들어와서, 우리를 끌고 가는 데로 끌려가는 거를! 그걸 성도의 신앙생활이라 그래요.
그런데 거기에 관심들이 없으니까, 그냥 어떻게 살까? 어떻게 하면? 어떻게 살까? 잘 생각해 보세요. ‘왜 어떻게 살까?’를 고민해요? 세상에 나와서, ‘나’라는 존재의 자존심! 그러니까 쪽팔리기 싫어서 그러는 거예요. 하나님에 영광을 위해서가 아니라, 나 쪽팔리기 싫어서 그런다니깐요. 그래서 ‘착하게 살라!’ 그래요.. 사람들은요. 그래서 뭔가 하려고 그런다니깐요. 대응도 하고 뭐!
여러분, 성경은 그걸 죄(罪)라고 그래요. 그래서 하나님이 역사 속에서, 그렇게 살려고 했던 자들을, 유대인들 보세요. 국가의 독립을 쟁취하기 위해, 열심당원! 경건하게 살겠다고, 하시딤 운동의 공동체, 바리새인! ‘야, 어떻게 이 세상 속에서 경건을 유지하냐? 우리 결혼도 하지 말고, 가서 성경만 연구하면서 살자, 에세네파! 하나님이 이들을 다 잘라 버렸다니깐요. 예수님이 오셨을 때 있었던 유대인들이 이 사람들 아닙니까? 그러더니 엉뚱하게 세리와 창녀들만 끼고 가셨단 말입니다. 병자들만!
그러니까 저는 가끔 그런 생각이 들어요. 오늘날도 무슨 개혁주의니, 순복음 뭐 무슨 주의! 무슨 뭐 침례교, 감리교! 파벌이 너무 많아요. 예수님이 오셨을 때의 바로 그 상황이에요. 지금! 그런데 이 사람들이 전혀 얘기치 못했던, 이 사람들이 부정한 자들이라고 진 밖으로 밀어냈던 그 사람들만, 바싹 데려서 올라가 버렸어요. 예수님이! 그런 생각도 들어요. 가끔 예수님이 나중에 재림하셔서, 중들만 데리고 올라가면 어떡하나? 응?
아니 그렇잖아요? 지금 예수의 이름을 부르면서 열심히 싸우고 있는데, 내가 보기엔 다 틀렸어요. 그러니까 뭐 김삼환 같은 사람! 데려다가, LA가 그냥 떠들썩하게 그냥 부흥회! 연합부흥회 한다고! 거기 보니까, 개혁교회라는 교회도 있고, 완전히 그 순복음 교회도 있고, 그들이 다 연합이 되어 있어요. 조용기목사 데려다가, 사랑의 교회가 부흥회 하고, 옥한흠목사가 조용기목사 교회 가서, 또 부흥회 하고! 전부 완전히 비빔밥이 되어 버려서!
여러분 이런 시대에 여러분 정신 똑바로 안 차리면 큰일 납니다. 그러니까 오히려 이렇게 막 비빔밥 같으니까, 이단들이 진짜 같은 거예요. 왜 사람들이 이렇게 이단에 빠지는 줄 아세요? 그들은 적어도, 적어도, 성경 말씀을 이야기한다니깐요. 예수님! 저 여호와의 증인! 구원파! 신천지! 걔네들 보세요.
우리 교회도ㅅㅊㅈ에 빠졌다 온 사람들,ㄱㅇㅍ에 빠졌다 온 사람들, 여호와의 증인에 빠졌다 온 사람들, 꽤 있거든요. 물어보면 전부, 이 교회! 이 시대교회에 신물이 나서! ‘이게 뭐 교회냐?’ 이럴 때에, 말씀을 갖고 찾아와서 이야기를 하니까, ‘아! 이게 진짜구나!’ 다 그래서 가는 거예요. 그래도 어떤 여호와의 증인에 있다 온 사람이, ‘어휴! 거기 말씀이랑 목사님 말씀이, 너무 비슷하대.’ 갑자기 갖다 확 보내버리더라고요. 사람을 뭐가 비슷해요? 참 나 기가 막혀서!
그냥 말씀을 뭘 이렇게, 조금 연구해서 이야기하면, 그냥 뭐…, 안 비슷해요! 그거 완전히, 사람 이단 만들어 갖고, 그런 사람들이 나가고 들어오고 그런 거라구요. 알고 봤더니, 여호와의 증인이더라. 그 사람! 그러니까 그냥 온 세상이, 제가 뭐 어떨 때는, 이런 김성수! 어떨 땐, 저런 김성수가 여기저기 막 떠돌아 다녀요.
이 시대는 말씀을 버렸어요. 내가 보기엔, 예수를 버렸다니깐요. 그러니까 어떤 처세술이나, 경건하게 사는 방법이나, 뭐 이런 것들만 배우려고 하는 거죠. 성경에서!
그러니까 이삭줍기를 하자! 뭐하자! 그래서 누굴 돕자! 그런 거 하지 말라는 게 아니라! 그런 거 하세요. 열심히 하세요. 내 자랑이 안 될 때까지 하세요. 죽는 날까지 하면서, ‘야, 어떻게 나는 이렇게 죽는 날까지 이게 내 자랑이 되냐?’ 괜찮아요. 그러기 위해서 하는 거예요. 그런 것들을!
어느 날 문득, ‘어! 어떻게 내가 이렇게 하고도…? 예전 같았으면 그냥 이걸 자랑하고 싶어서, 입이 근질근질할 텐데…. 야! 그러고도 어떻게 이게, 내 기억속에서도 지워질 만큼, 내 꺼가 아닌 게 되지?’ 그럴 때 ‘진짜 예수님이 나를 끌고 가고 계시는구나!’ 이렇게 경험하는 거지. 여기에서 뭘 배워가지고, ‘어떻게 하면 경건하고 깨끗하게 살까?’ 이거는 여전히, 내 삶은 어떤 가치가 있는 거고, 하나님 앞에서, 카운트가 되는 것이라는 전제를 하고 있는 거잖아요? 그 사람이 바리새인이에요.
여러분 절대, 조심하셔야 돼요. 그런 게 다른 복음이에요. 딴 게 다른복음 아니에요. 바울이 그러잖아요? 말세에 사람들이 어떤 일을 하냐면? 자기를 기쁘게 해주는 선생을 찾아서, 엉뚱한 말을 하는 이들을 선생으로 삼는다. 그러죠? 디모데서에서 그러잖아요? 자기 귀를 즐겁게 해주는 그런 자들을 찾아 떠나더라는 거예요. 사람들이요!
그러니까 보세요. 당신들은요, 이 세상에 성공한 사람들이 다 한 가지 일에, 마흔 번씩 열심히 연습하고 투자한 것처럼 그렇게 하면, 경건한 사람 될 수 있어요. 이래 이래버리면, 사람들이 자기가 하지도 못할 거 뻔히 알면서도, ‘야! 나에게 어떤 가능성이 있다는 걸, 저 사람은 인정해 주는구나!’ 하고 해서 좋아해요.
진짜! 제가 마음만 독하게 한번 잘못 먹으면, 난 세상에서 제일 큰 교회 한번 할 수 있어요. 이제는 진짜 사람들이 어떻게 하면 모인다는 것을 알 수 있을 거 같아요. 아주 지혜롭게 할 수 있을 거 같아요. 어느 날 제가 캐나다 가서, 굉장히 큰 교회를 하고 있으면 그런 줄 아세요.
사람들은 그런 거 좋아해요. 자존심을 살려주고! 자존심을 살려주는 게, 뭐 그냥 되지도 않는 감언이설로 살려주는 게 아니라, 그들의 그 율법주의적, 인본주의적 본성을 살짝 부채질 해주면, 사람들이 기고만장하기 시작해져요. 그런데 그거마저 부수어 버리면, 견디다, 견디다 막 뛰쳐나가요. 도저히 못 있겠다고! 아니면 졸든가!
수요일 날 어떤 분이 졸고 계시기에, 조는 사람이 있다고 그랬더니, 삐쳐가지고 말이야, 나중에 예배 끝나고. 존 자기가 잘못이지, 아니 매번 졸아요. 그 사람은! 버릇이에요. 버릇! 아니면, 제 톤이 이게 그 사람에게, 자장가 주파수하고 맞는다든가 아니면, 둘 중에 하나죠. 어이 어떻게 그 소리를 듣고 잘까요? 그래 소리소리 지르고 있는데…. 막!
그 어떻게 아냐면? 눈을 감고 이렇게, 아니면, 혹 그것도 그 그냥 이렇게 잘 들으려고 눈감고 있는 사람도 있잖아요? 전 믿지 않지만! 대부분 그 사람들 딴 생각하고 있어요. 전 알아요. 그것도 아니고, 너무 졸려서 어쩔 줄을 모르는 그런 눈이 있죠. 막, 막 안 감으려 그러는데, 눈이 저절로 감겨요. 그러니까 설교하다가 확 놀라가지고, 야 참 힘들겠다. 저 사람! 그러니까 생각이 안 나요. 갑자기 설교하다!
그래서 제가, 사람들을 설교하면서, 사람들 얼굴을 잘 안 보는 게, 화가 나서, 막 소리를 더 지르게 돼요. 얼굴을 보면! 그래서 제가 차라리 허공보고 내가 설교를 하지! 그런데 꼭 그런 사람들이 아이컨택을 하자! 그래요. 나중에 회의 시간에 가면! 목사님 설교할 때에 아이컨택을 해 달래요. 그래서 제가 속으로, 내가 너보고 화나서 그래! 허허 말을 못하지만! 그러고 꼬박꼬박 졸아요. 듣기 싫은 거예요. 그냥 차타고 확 나가버리고 싶었대요. 설교 중간에! 글쎄 내가 무슨 말을 했기에? 그렇게 설교를 듣다가 차타고 그냥 확 가버리고 싶었을까? 내가 무슨 욕을 했어요? 뭐라 그랬어요? 해봐야 지랄 뭐 이거밖에 없는데…. 자존심이 상하는 거예요. ‘나는 뭐냐? 나는 뭐냐?
저도 그렇게 해서, 사람의 자존심 긁지 않으려고 애쓰다 보면요, 사람들이, 예수를, 그러니까 자기의 본래의 모습을 이렇게 즉시하려고 하지 않고, 그렇게 되면 예수를 붙들려고 하지 않죠. 자꾸 자기를 칭찬하고 찬양하는 자로 바꿔요. 큰일 나는 거예요. 그 게요!
여러분은 하나님 말씀이 떨어질 때, 왜 예수가 와서 이 땅에서 이렇게 죽으실 수밖에 없었는지, 진짜 왜 내가 예수 죽인 자가 맞아야 되는지, 말씀 속에서 여러분이 깨달아져야 된다니깐요. 그러면 아파야죠? 그게! 어떻게 말씀 속에서 안 아파요? 여러분 더 진지해지셔야 돼요.
‘이 말세에 기롱하는 자들이 나타나서, 야 예수님이 언제 오시냐?’ 제가 보기에는 곧 오세요. 왜? 이 시대의 교회가, 또 다시 예수님 오셨을 때처럼, 또 다시, 행위를 붙들기 시작했다구요. 그것도, 이제 건강하고 건전한 교회라고, 자타가 공인하는 그런 교회들마저도! 인본주의적, 그런 인간들의 행위를 붙들기 시작했다 말이죠.
그러면 예수님의 긍휼은 어디 떨어질 데가 없어요. 우리가 잘 살고 있는데, 긍휼이 왜 떨어져야 돼요? 왜 필요해요? 그때 예수님이 불칼 들고 나타나는 거예요. 예수님의 초림 때가 그랬잖아요? ‘도저히 못 보겠다. 너희들이 뭘 한다고, 지금 나를 섬긴다고, 다른 이들까지 그렇게 함부로 개 취급하면서 그렇게 살고 있는데, 너희들이 아니야!’ 그래서 거기서 유대인이, 참 감람나무에서 죄지은 거잖아?
마찬가지에요. 지금 참 감람나무라고, 이제 이방인들이 우리 다 이방인이죠? 지금 이스라엘인이 있어요? 여기? 없잖아요? 다 이방인인데, 이방인들을 그렇게 세더니, 이들이 진짜 이스라엘 교회라고 착각하면서, 자기들이 또 다시 이방인! 저 유대인의 그 행사를 하고 있는 거죠. 그거 가르쳐주려고 지금, 하나님이 역사를 네 달 동안, 운행하고 계시는 거예요.
그러면 그 속에 있는 하나님의 백성들은, 그 현실을 봐야죠? 볼 수 있어야죠? 그래야 교회 아닙니까? 그게! 그런데 거기에 관심 없으니까, 먹고 사는 것에만 온통 집중하여 있으니까, 시대의 현실을 못 보는 거예요. 아 참 이해가 안가요. 좀 덜 먹고 살아도 괜찮아요. 삶에 대해서 고민하세요. 신앙에 대해서, 복음에 대해서, 고민하시라니깐요. 예수님은 곧 오세요. 그때에 당황하시 마시고!
그때 여러분이, ‘봤지? 내가 가는 게, 내가 사는 게 맞지?’ 이렇게 얘기할 수 있는 사람이 되셔야 돼요. 그러기 위해선 지금 아파야 되는 거예요. 그러나 인내하면서 잘 견디는, 그러면서 사셔야 됩니다. 다른 거 없어요. 지금이 넉 달 추수기간이에요. 여러분은 이미 예수의 십자가 아래서 추수된 분임을 잊지 마시고. 그런데 뭘 우리의 행위가, 왜 예수님 앞에 또 다시 뭐 상달이 돼야 된다고 생각하세요? 아니에요! ‘어, 그럼 막살아도 됩니까?’ 아녜요!
예수님께서 여러분을, 여러분이 그렇게 복음을 올바로 은혜 안에서 이해할 수 있게 되었을 때, 예수님이 진짜 여러분의 삶을 어떻게 이끌어 가시는지 보세요. 세계관과 가치관이 완전히 바뀌게 돼요. 막 못 살아요. 그게 로마서 전체의 내용이에요.
(祈り)
ああ!このように夜明けを呼び覚まし、神が啓示された意味を知らさせてくださり、
私たちの疲れ果てた体を起こし立てて、このように礼拝堂へと向かうことができる心まで与えてくださったことに感謝します。
神よ、そのようにまたこの朝、あなたが準備されたあなたの民に、天の、あなたの、御言葉を語ってください。
イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
レビ記23章23節から読みます。今日はラッパ節についてお話しします。
(レビ記 23:23-25)
23 主はモーセに告げて仰せられた。
24 「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。
25 あなたがたは、どんな労働の仕事もしてはならない。火による捧げ物を主に捧げなさい。」
さあ、いよいよ秋の祭礼へと移ってきました。春の祭礼は何だと言いましたか?過越の祭から始まりますね?
過越!その次に、その過越の翌日が、種入れぬパンの祝い!そしてその安息日の翌日が、初穂の祭りだと言いましたね?
ですからアビブの月!正月14、15、16とこのように春の祭礼が続きます。
それはすべてイエス・キリストの十字架の死!葬り!そして復活までを説明するものだと言いましたよね?ですから正確に、その安息日の翌日から数え始め
て、五十日目が五旬節(ペンテコステ)です。そして五旬節は、七七が四十九!49日が過ぎた時点の日だということで、七週の祭り(七七節)と言うのだと
言いました。
ですから、その時に聖霊が来られるのです。ええ、聖霊が来られて、今や本当の神の民を収穫し出すのです。初穂の祭りの日に捧げられた、
イエスの中に入っているそのような!ですから初穂の祭りの日に神に捧げるいけにえは、奉納物(揺り動かす捧げ物)でした。
しかし奉納物は一束で捧げられると言いましたよね?一粒の落ち穂ではなく、麦の穂のようなもの!一束は、初穂として捧げられるイエスと共に、
一束に結ばれる、一つの体に結ばれる教会が今や捧げられることなのだ、と言いました。
それで七週の祭りになると、そこから始めて4ヶ月休みますね?休むのではなく、農作業をするのでしょう?そこから!それで4ヶ月間、一生懸命に農作業を
して、その後に七月一日!いよいよラッパ節になるわけです。では4ヶ月は何だと言いましたか?ヨハネの福音書4章で探しましたよね?そこを見ると、
イエス様が正確に、収穫の話をしながら「四ヶ月」の話をされていますよね?それでその四ヶ月!収穫の時が来たのに、
お前たちは今「収穫になるにはあと四ヶ月ある」と言っているが、私は今収穫した、とおっしゃるわけでしょう?
弟子たちは理解できないのです。「何、何の収穫をしたというのですか?」収穫とは食べ物を収めることじゃないですか。
ですから直後に続いて、弟子たちが「あ!お食事はなさらないのですか?」と言ったら、「私にはあなたがたの知らない食べ物がある!」と続くのです。
ええ、聖書は面白いものです。ところが人々が愚かにも、倫理の本、道徳の本として見るから…。
ですから、そのようにしてサマリアの女の救いが、まさにレビ記23章のあの四ヶ月の農作業の部分をイエス様が話しておられるのだということを、
昨日見たわけです。
そのようにして四ヶ月が過ぎれば、ラッパ節になるわけですね?7月1日です。これはヘブライ暦です。神様がヘブライの人々に、神の民にカレンダーを別に
与えられました。過越の祭を与えながら「過越のこの月を、あなたがたの最初の月としなさい」とおっしゃいました。それで、それを彼らがエジプトで使ってい
た民間暦!民暦では7月でしたし、私たちが使っている今のこの陽暦!ローマ人が使っていた太陽暦では、3月から4月の間だったわけです。「それをあなたが
たの1月にしなさい!」ですから聖書には正月、1月と出てきますが、ある時はそれが陽暦で語られたり、ある時はヘブライ暦で語られたりするため、皆さんが
よく区別して見なければならないのです。
それで私たちの教会に数学を専攻された方がいて、聖書を非常にそのように分析して見る方がいらっしゃいます。
そのような方が、いつもこのように計算してきて私に質問するのです。「えー、正月だし、ここでは正月だし、あそこでは…」
それで説明して差し上げたら、「数学だの何だの、全部必要ないことだったんですね」ええ、聖書はそのような知識で見るように見るのではなく、
十字架を通してこのように見るのです。
ですから、いよいよラッパ節になると、皆さん、そのラッパ節!と言えば何を思い出しますか?その民暦の7月1日が、今はラッパ節です。
7月1日!ラッパ節から始まって、今や「安息の季節」が始まるのです。あ、この時からもう冬になるので、すべて収穫をして、ラッパ節の次に、
10日後に贖罪の日!その次に、その5日後に仮庵の祭り!そして、安息に入るわけです。食べ物を豊かに仮庵に満たしておいて。
ですから、それを収蔵節(とり入れの祭り)とも言うじゃないですか。
つまり、その7月1日になると、いよいよ最後になるのです。安息へと入る最後!それでラッパ節なのですが。7月1日なら!見てください。
ここにまた創造の数字が入るのです。ですから、あえてここでは7月と言うのです。つまり神様がアビブの月!過越を1月にされたのは、
まさにこのような仕掛けを緻密に計算しておかれたからなのです。つまり創造!七日目!安息に入りますよね?
ここも見ると、今、ラッパ節で始まって、いよいよ安息に入ります。皆さん、聖書を見ると、神様が、今イエス様が、再び再臨される時、
いつも登場するのは何ですか?賛美したじゃないですか、今!「ラッパ吹く時」、ラッパの音と共に来られるでしょう?神様は!黙示録もそうですし、
常にラッパが入っています。あ、ですからそのラッパというのは、ただ私たちが今持っているようなトランペットや、チョン・ギョンジュが上手に吹くサック
スや、あんなものではなく…。ずいぶん上達したかな。分かりませんが。わざわざこの明け方に…。
最初にうちの教会に来た時は一日も欠かさず早天祈祷に来ていたんですよ。ところが、あのアホがいつからか、アーバインからLAまで毎日来ていたの
に…。
とにかく、このそのラッパは、そのラッパではありません。私たちが考えるような概念を、しきりに聖書をそのように考えてはいけません。
だからラッパの音が鳴り響きながら神様が来られるというから、「何、トランペットを吹いて来られるのか?サックスを吹いて来られるのか?」
このようにしきりにそのラッパを、あるいは『ベン・ハー』とかで見かけるあんな長いラッパではなく、そんなものではありません。
天国に「ガラスの海」があるというから、「え、ガラスでできた海もあるんですか?」と言いますが、そんな海の話をしているのではありません。
「もはや海はなくなり…」だから天国には海もなくて、海が好きな人たちはどうすればいいのか?行けば海は全部あります。
心配しないでください。そんな海がないという話ではなく、海で象徴されていた、聖書の記者が(もちろん聖霊様ですが)海で象徴したそのような呪いの現
実が消え去るという意味であって、なぜ海がないなんてことがあるでしょう?行って釣りをしましょうよ。私たちが行けば全部あるはずです。
そういうもの!明らかにこの世界との連続性があります。ええ、ですからそのようなことを、私は明日から山上垂訓を講義しますが、
山上垂訓とは何かというと、神の国についての話なのです。
人々が神の国をあまりにも誤解していて。ただ!なぜその神の国を、自分たちが期待し描いているあんなものだと考えてしまうのか分かりません。
だから「神の国がすでに来た」という言葉が理解できないのです。神の国というのは天国なのです。
皆さん、今生きているのが天国で、天国で合っていますか?死ぬほど辛いでしょう?
本当にこんなのが!このように永遠に生きろと言われたら生きられますか?なのに、天国が皆さんの内に来たと言うではないですか。
それにもかかわらず、天国をただ漠然と、自分の望むものがすべてあり、そして、あー、何の心配も悩みもないそんな場所だと考えています。
山上垂訓が、今天国を生きている人々の現実なのです。そこに皆さんが好きなものが、いくつ入っていますか?
「イエスのために迫害される者は幸いである」と言いますが、それ、永遠にそうしていたいですか?迫害は好きですか?
「心の貧しい者は幸いである」好きですか?「左の頬を打つ者に右の頬も向けなさい!」山上垂訓じゃないですか。
天国です。そのように生きたいですか?本当に?違うでしょう?なのに神様はそれを天国だと言うのです。
だから、神の国が、このように誤解されているのです。この人間たちが、人本主義的な観点を脱しきれずに神の国を待っているから、
皆さん、後でこの人間たちが、神が地獄に送るから行くのではありません。ここで天国を正確に学べなかった人たちは、後で本当に天国に来た時に、
「え!これ何?これ、私の望んでいた場所はここじゃない!」と言って自分の望む場所へ行くのですが、そこが地獄なのです。
ですから今の時代のキリスト教は何か大きな勘違いをしているのです。つまり、相変わらず脱ぎ捨てられなかった旧い自己の観点で、
自分の望む何かを今もずっと待ち続けていて、自分の望むその誰かを神として捏造して、その神にしがみついているのです。本当に歯がゆいです。
皆さん、神の国というのは「統治」だと言いましたね?「バシレイア!」ん?神の国!統治!誰かの統治の中に私が完全に入るということは、
私の自己がなくなることです。それを「神の国」と言います。ところが、自分が神になりたがっている肉的な自己が自分にそのままあるこの状態で、
神の国が自分に臨んだと考えてみてください。そこでは当然衝突が起こりますよね?自分が神になりたがっているすべての人間たちに、
神の統治が下りてきて、その肉的な自己を殺してしまおうという、それが神の国なのですから!それが統治でしょう?バシレイア!
なのに、どうしてそれが幸福と喜びとして現れますか?神の国を生きることが!だから、みんな自分がどれほど霊性が深く信仰が良いかを演じているものだ
から、「私はイエスを信じて一度も悲しんだことがありません」「私はいつも喜んでいました。
なのに、なぜあの人はいつも苦難の話ばかりして回るの?」と言っていたのに、結局は出て行きました。最後に言っていましたよ。本当にいつも嬉しいですか?そんなにいつも幸せですか?
神の御言葉が皆さんのその肉的な自己との接点にピタッと触れた時、その時一瞬生じる望みを喜びと言うのであって、
それ以外に皆さんはこの肉体の中に閉じ込められているため、この状態では神の国が皆さんに臨む時は、左右に両刃の剣が、
麻酔なしで皆さんを切り刻むと思えばいいのです。本当の神の民の生活の中で起こる出来事です。それが!それが神の国を生きるということなのですよ。
なのに各自、「はぁ〜私はイエスを信じて、なぜこんなに不幸なの?なぜこんなに憂鬱なの?」当たり前です。
自分が死んでいくのが神の国なのですから。それで、自分が王、自分が王となって生きようとするこの肉的な自己が消え去り、神が完全に神に絶対服従できるその体を与えてくださった時の天国は、それこそ、今やあの方が私を完全に掌握する場所なので、「神の国」と言うのです。
それが統治だ!ん?
なのに、みんなただ突拍子もないこの希望を「平安だ、平安だ!」と言って!今、希望を植え付けてくれるおかげで、はぁ、この世で少し歯を食いしばってよく
耐えれば、すぐ良い世の中が来るぞ!すぐ!ふふっ、その人、その状態で天国へ行けば、その人はそこが地獄です。自分の思い通りにできることが何もない
場所が天国なのに、どうして自分の望むものを待っているのかと。やぁ!もう本当に理解しろと言っているのか、ははは!混乱させようと言っているのか分かりませんが!
少し考えてみてください、皆さん!ただ自分勝手にその自分のその旧い自己の中だけで、神と神の国を分析しようとしないで、そうなってみると、皆さん、
あの創世記のようなものが自然に理解できます。そして善悪の知識の木と命の木ということ自体が、十字架を説明するための緻密な設計図なのです。
この歴史と人生ということ自体が、神の緻密な設計の中で、創造され、進行していくのです。一度よく考えてみてください。
禁止命令と許可命令!二つがエデンの園で下されました。それは神の国の雛形です。原始的な模型がエデンじゃないですか。神と共に住む場所!
そこが神の国ですから!さて、禁止命令が下りました。「善悪の知識の実を食べるな!」そして許可命令も下りましたね?「園のすべての木の実を食べてよ
い!」その中に命の木が入っています。
しかし、見てください。なぜ神様が禁止命令というものを与えたか分かりますか?最初からそんなものを作らなければいいじゃないですか。
「するな!」と神様が線を引かれたこと!その向こうにあるものを最初から作っておかずに、ただ禁止命令なしに「全部していいよ!」と最初から作っておけばい
いじゃないですか。聖書の読者は誰ですか?教会ですね?聖徒!皆さんに何か話したいことがあって、そうされているのです。
人間というある存在はですね、存在は禁止命令が下ると必ず、自分の主体を独立的に確保しようとします。なぜ?禁止命令を下したその存在に、
禁止命令ということ自体が、禁止命令を私に下したその存在に反抗できる根拠を用意してくれるのです。ええ、するとこの禁止命令が下った時、
この存在が自分に存在を確保してしまえばですね、今や対立の現象が起こるわけでしょう?そこで各々に存在が存在性を持つようになれば、
ここで「私はなぜあなたの言うことばかり聞かなければならないのですか?私のしたいことをなぜしてはいけないのですか?」というこの存在性が確保されれ
ば、この状態を「必ず死ぬ!」の状態と言うのです。神様は教会にそれを教えておられるのです。
禁止命令!律法ということ自体が、私のその律法が今私たちに下っていて、聖書に数多くの「せよ!するな!」の命令が私たちに下っていますよね?
それを私たちに、なぜ与えられたのだと言いましたか?そんな命令が下れば、人間たちはすぐに反発するようになっています。
存在ということ自体が、自分の存在を区別して、確保しようとするでしょう?その状態がまさに死んだ状態だということを知らせるためだと言うのです。
しかし、命の木の実を見てください。「食べなさい!」と言われた時は、この存在があえて私にその命令をくださった方と対立する理由がなくなります。
そうでしょう?それでその許可命令の中で、その許可をしたこのその存在と、私が命令を受けた私が、連合されるわけです。
ところが禁止命令が下った時に、私たちが「必ず死ぬ!」になりますね?すると「死ぬ!」となった時、この現実がどのようなものであるかを教えてあげるため
に、あの命の木の実が遮断されるのです。それでエデンを、閉ざすわけなのです。ですから皆さんは、この世であの遮られた、閉ざされたエデンの園の現実を
経験すること、それがこの世で、歴史の中での神の国を生きることなのだと言うのです。
ですから、そのようなある神の「せよ!するな!」のそのような命令!そのような命令の中で、私が神とこのように対立構造で生きていきながら、
これがいかに疲れ果て、疲れることなのかを、皆さんはこの世の中で凄絶に経験するのです。
それで結局のところ、「このように私が、私の望む何かがあった時、私の存在と主体性を確立しようとした時、これが地獄なんだな!」ということを知るその者
が、ここで、あの神の国を生きる者であり、その人々が完全にそのような肉的な自己のこの死亡!この状態で神の下で、神がさせられる仕事をただ「この世で
のその経験と、この世でのその実効としての知識!それは違うんだな!」ということを持って、完全にその方に平伏し、その方のその愛と恵みの中で連合さ
れて生きていくことを、天国と言うのだ、と言うのです。
なのに、みんなこの地でも、自分の望む、捏造しておいたそんな天国像を、この世でも少し先取りして、「もっとください!」だから「病気を治してください!
金持ちにしてください!何の悩みも苦労もないようにしてください!」と言うのではないですか?「平等な世界を作らせてください!」いや、神の国はですね、
神がこの世で歴史の中に繰り広げられる神の国を経験せよと、この国をくださったのであり、歴史を与えたのであって、人間たちが一生懸命に改革して、
住みよい場所を作れと与えたのではないのです。
だから、こんなただ教会、イエスを信じると言う人々!特に、ただあのリベラル(進歩派)の方にいる人々が、それこそ青筋を立てて、大騒ぎをしますよ
ね。「じゃあ、私たちは何なんだ?人生は何なんだ?歴史は何なんだ?」何って何ですか。神様が十字架を、イエスを説明するために設計された、ただの暫定的
なモデルハウスなのだから!ここが!だから、ここで何か勝負をつけようとするから疲れるのです。疲れ果てるのです。大変なのです。「幸せな家庭作り!」
「円満な夫婦関係!」これを教会の中で教えるような時代になったわけです。
私が結婚式の主礼(司式)をするたびに言う話が、「皆さん、幸せな家庭を夢見ないでください」と言います。そうするとその家の親たちが赤くなったり青く
なったりして、「あいつは今、呪いをしているのか?主礼をしているのか?」ええ、先週の土曜日にも行って、私が、イエスを信じていないという人々がずらっ
と座っているところで、みんな、牧師が主礼をしているのに、ワインを飲まずに座っているんですよ!その前で喉を鳴らして!ふふふ、もう本当に腹が立っ
てですね。そこに向かって「結婚の目的は幸せな家庭ではありません。幸せな家庭を夢見ることになれば、必ず相手の首に牙を立て、自分の幸せを追求するよ
うになるからだ!」そうでありませんか?
結婚生活の目的が幸せな家庭になれば、その相手に必ず要求することが生じるようになります。そこから不幸が来るのです。皆さん!そうではなく、結婚は
ただイエスを知っていく、神様が私たちに許してくださった恵みの場ですから、そこで凄絶に自分の悪魔性を暴露され、そしてなぜ私たちにイエスがいなけ
ればならないのか?このように私たちは一日に12回も、あいつをどうやって殺そうかと考えているのに…。私のことをそのように誤解しないでくださいね。
つまり、どうして、それとは比較することもできない醜悪な私を、私の新郎はあんなにずっと好きだと言って追いかけてくださるのか?これを学ぶのが結婚
生活なのに!ただそれぞれ、幸せな家庭生活のためには夫は何を我慢しなければならないか、これ!主礼がみんなこれじゃないですか。私はだから、あまりそ
んな所に行きたくないのです。あの、結婚式の主礼なんて!1歳の誕生日会(トルジャンチ)も同様です。
いや、赤ちゃん!この険しい人生を今からどうやって?そして私はもうすぐ50年来たけれど、お前は大変なことになった。
これ!この話を伝えてあげなければならないのです。行って!なのに、1歳の誕生日会に行って、何の呪いをするんですか?
あー、私はそんな所に呼ばないでほしいです。結婚式!なぜなら、そこに集まった者たちが教会であるなら、私は十分に説明をしてあげます。
ところが大部分が、「あー!これ早く終わらせて帰ろう」という状態で、そこで私が本当にまっとうな、あの聖書の御言葉を伝えたら、その宴会が急に、ただの
葬儀場になるじゃないですか。その、よその家の宴会を台無しにする理由もないし、どうせ遊びに来た人々、楽しく遊んで帰ればいいのに、なぜ私のような
人間を呼ぶんですか。なぜしきりに私を?そこそこの私たちの青年たちも、良いことを言ってくれるあんな主礼を探してください。私にしきりに頼まない
で。ちょっと、お願いです。私のこと、100日祝い、1歳の誕生日会、こんな所に呼ばないでください。後で食べ物が余ったら、少し包んで持ってきて!
皆さん、私たちの人生の目的は、この世をいかに住みよい場所に変えて、ここでよく食べてよく生きるかではありません。
神が鉄の杖を持って私の人生に訪ねてこられ、神の国の、その統治に、適した者へと造り替えていくのが、この歴史と人生なのです。
ですから、その神の御手に自分を任せるのです。神様が叩いて、私を殺していく時、そこに投げ出して、ただ、しなやかにもう、きゅうりの漬物になっていく
のです。ここに塩をパッパッと振りかけるのです。神様が私たちに!
ところが、それを、この肉的な自己が、私の、「私は最後まで、私は神のように生きるんだ!」と言った時、神が彼らを統治しようとするそれこそが、
地獄なのです。それが神の国です。だから神が地獄で、塩が振りかけられると言うのです。ならば、その地獄から脱するためには、皆さんが、
この世でまさに、その塩を振りかけるように落ちてくる神の鉄の杖を、ここで受け止めなければならないと言うのです。
そして、ここで死んでこそ、あそこでそのような神の統治が塩のように振りかけられる時、それが嬉しいのです。そこを天国と言います。
皆さん、私たちのその天国観、地獄観がすべて、仏教の極楽と無間地獄!これと混ざってしまって、私たちのキリスト教が今期待しており、
またキリスト教が今描いている天国と地獄!これは全部、他の宗教から来たものなのですよ。すべての宗教がみな天国を語ります。
ところが、そのすべての宗教で語られる天国観が、今、キリスト教が描く天国観と同じなのですよ。そうではない、と言うのです。
だから、このプライドのせいで、「私は天国へ行っても絶対に、神様の言う通りにだけは生きないぞ!」このように!エデンのアダムのように、
そのように生きたい方々は、早く他へ行ってください。ここにいちゃダメです。ここでも苦労して、神の国へ行っても苦労して!地獄の統治者は神です。
誰が地獄を悪魔が建てたと言いますか?それも仏教から出ているものです。あの教典に!悪魔たちが三叉槍を持って立っているの、
舌を抜いてただ、リボンにしたりするのは、全部、仏教!仏教の教典に出てくるものです。
なのに、全部そんな地獄を描く!描きながら、皆さん、それが何がそんなに辛いですか?辛いですか?舌を抜かれたことがないので分かりませんが、
それよりも今生きていることの方が苦痛ではありませんか?「あぁ、いっそ皮を一、二回剥がされる方がマシだ、いや、このように生きることは、
これは本当に、やぁ!どうして『私』という人間!この体を引きずって生きるのが、これほど辛いことがあるだろうか?どうしてこの体!これほど言うことを
聞かないのか?」その時、それが皆さんの目玉を抜かれ、舌を抜かれることよりも辛くなければ、皆さん!まだこの人生をまともに分かっていないのです。
歳をどれほど重ねていても、それは無駄に生きているのです。
聖霊が臨んだ人には、この人生と歴史の実体がはっきりと見えるようになっています。ですから、時間が経つにつれて「ここから早く出たい。あちらへ行か
なければならない」。そうでなければ、ここが住むに値する場所になるから、みんな何か病気にかかったりすると、死にたくなくて、ただ、糞を垂らし、
尿を漏らし、力を入れてですね。行かないと言うのです。それは嫌なのです。「なぜ私がまた誰かの下に入って、なぜ私の主体性と存在性をすべて剥奪された
まま、そのように生きなければならないのか?私はそうすることはできない!」死なないと言うのでしょう?皆さんはそのような意味で、この世で必ず地獄を
生きなければなりません。
このラッパについての句を数え切れないほど探したのですが、一つも話せずに。まぁ、探してみてください、家に帰って!旧約と新約に、神様がラッパを吹
き鳴らしながら降りてこられるあの日!数え切れないほど記録されています。ヨエル書!イザヤ書!詩篇!ヨハネの黙示録!テサロニケの手紙!皆さん、
そのラッパ!鳴り響くあの日を待っておられますか?本当に?ね?神のラッパが鳴り響けば、ペテロは言いますよね。「あの日、完全に粉々に砕け散る日だ」
と。マラキもそうだし。
ところが、あの日を待っている人々がいるじゃないですか。黙示録でもそうです。第七の御使いがラッパを吹く時、粉砕される!と言うのです。
ところがその時に、白い衣を着た神の民が、また、血を浴びた衣を着たある人に従い、一生懸命に賛美しながら行進をします。ならばラッパが吹き鳴らされる
時、この二つにカチッと分かれるはずですが、本当に皆さんがそのラッパを吹くラッパ節を待っておられるのですか?それが安息!その安息の数である7月
の最初の日だというのは、もう新しい日が始まるという意味なのですよ。安息日の翌日(初日)じゃないですか。七が!あちらが!
ですからその日に、ヨベルの時も同じようにラッパを吹きましたが、すべての存在がもうみんな奴隷から解放されて、神の元のあの場所へ戻るのがヨベルで
しょう?その時ラッパを吹くじゃないですか。だから本当にその中に聖霊が入って、「私はイエスの血によってのみ、このように存在することができ、その時
初めてそれを認める時、最も幸せになれる」という、それを知る者たちが、すでにラッパ節を生きているのです。皆さん!
ところがラッパが吹き鳴らされれば、旧いアダムたちがすべて死に、新しい人々だけがいよいよ楽しい国が来るのですが、そのラッパが皆さんの人生にも今
吹いているのなら、その二つが同様に現れなければならないのですよ。皆さんの旧い自己が今死んでいてこそ、ラッパ節を生きる人なのです。
なのに、そんなことはすべて免れさせてくれと言うのが、どうしてキリスト教信仰ですか。
だから、真剣に悩まずに、ただ適当に、ただ礼拝堂に出てきて、献金でも少しして、キムチを漬けに行く時はただキムチでも漬けに来ていれば、だいたい天
国へ行けるだろう…。そんな式の信仰生活は、そうですね、それを信仰生活と言えるのか…。皆さん、信仰生活は凄絶でなければなりません。皆さんの人生
の中で毎瞬、血がドクドクと流れなければならないのです。イエスの血が!なのに、これはただの文化生活の一つです。宗教というものは!
まぁ、外の何も知らない人々が、最近「カリフォルニアで流行っている教会が、スミルナ教会だ!」と人々の噂を聞いてわっと来たりしますが、来ればただぶ
っ刺され、血がドクドクと流れること!心配しないでください、数名しか残らないでしょう。それを最後まで耐え抜くことができる人は聖徒しかいません。
人間たちは絶対に「お前ではない!お前は死ななければならない!」というそれを、最後まで甘受することはできません。人をたくさん集めるのが良くて、
そのような鋭い剣の刃をすべて取り除いてしまい、「正しく仲良く生きましょう!そうすれば後で報いもたくさん受けます!」現世利益主義!神秘主義!
あんなの、ええい、それは、いや、これが改革主義!今日の改革主義が妥協して格好良く作り上げた改革主義信仰ですよ。これ!これが、それが本当の毒だと
いうことを皆さんは知らなければなりません。皆さんは必ず天国へ行かなければなりません。この世で神の国を必ず生きなければなりません。
その言葉は、皆さんの人生がもう「幸せは終わり、苦労の始まり」だという意味です。あまりこの地で幸せに生きようとしないでください。
幸せとは何ですか、一体!その喜びとは何ですか。生きていてそんなすべての定義が、今やあまりにも曖昧になりませんか?一体、幸せとは何か?
何が快楽なのか。昔あんなに良かったものが、今は、それが本当に絶対的なものなら、そのように変わってはいけないじゃないですか。
なのに随時変わるようなものを、私たちがどうやって掴んで「これが幸せだ!これが喜びだ!」と言うのかと。
人間たちが「良いもの」として定義しておいたすべてのことは、すべて自分にとってただ楽であれば良いことなのです。そうでしょう?
それがすべて打ち砕かれてこそ信仰生活なのですよ。そのように自分にすべて有益に来るこれがすべて、本当の毒であり、これがすべて殺すものなんだな!
これをどうやってこの自然人が理解できますか。聖霊を受けた者だけが理解できるのですよ。
ですから、このように実に奥深く深い信仰の世界!神の国!これが自分にこのように鮮明に迫ってこない時、祈りなさいという。
その時!祈りはいつしろと与えられているのですか、一体!問題が起きた時、皆さんのその問題を解決する方法や道具として与えられたのが、
祈りではないのです。知りたい、神の国は秘密だと言うけれど知りたい。もっと、さらにはっきりそこに浸りたいのに、自分が分からなくて、
もうもどかしくてたまらないじゃないですか。ん!
最近、私はもうそんなもどかしさがひどくなって、ただ息もうまくできません。
息を吸い込もうと苦しくてたまらないのに、もう歌をどうすればいいのか分かりません。
もどかしくなければなりません。それで結局のところ「神様!私を助けてください」。だから神様にしっかりしがみついて行かなければなりません。
それが信仰生活だと言うのです。だから「絶対に、平穏な聖徒の人生はない!」ということをしっかり覚えておいて、
今日も皆さんの人生に降りかかるそのような出来事を、御言葉を通してよく解釈してください。
そして生きていればいいのです。
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절기강해 (07) - 나팔절 (레23:23-25)
(기도)
아! 이렇게 새벽을 깨우며, 그 하나님 계시하신 의미 알게 하시고,
저희들의 고단한 몸을 일으켜 세워, 이렇게 예배당으로 향할 수 있는 마음까지 주심에 감사합니다.
하나님 그렇게 또 이 아침에 당신께서 준비하신 당신의 백성들에게, 하늘의, 당신의, 말씀을 해주옵소서.
예수님에 이름으로 기도합니다. 아멘.
레위기 23장 23절부터 읽겠습니다. 오늘은 나팔절에 대해서 말씀드리겠습니다.
(레위기 23:23-25)
23 여호와께서 모세에게 말씀하여 이르시되
24 이스라엘 자손에게 말하여 이르라 일곱째 달 곧 그 달 첫 날은 너희에게 쉬는 날이 될지니 이는 나팔을 불어 기념할 날이요 성회라
25 어떤 노동도 하지 말고 여호와께 화제를 드릴지니라
자, 이제 가을 절기로 넘어왔습니다. 봄 절기가 뭐라 그랬죠? 유월절부터 시작하죠? 유월절! 그 다음에, 그 유월절 그 다음날이, 무교절! 그리고 고 안식 후 첫날이, 초실절 그랬죠? 그래서 아빕월! 정월 14, 15, 16 이렇게 봄 절기가 이어집니다. 그것은 전부 예수 그리스도의 십자가의 죽음! 장사지냄! 그리고 인제 부활까지를, 이제 설명하는 거라 그랬죠? 그래서 정확히, 고 안식 후 첫날부터 시작을 해서, 오십일 째 되는 날이, 오순절입니다. 그리고 오순절은, 아 칠칠이 49! 49일이 지난 그 시점의 날이라 해서, 칠칠절이라고 한다. 그랬습니다.
그래서 고 때에 성령이 오시는 거죠. 예, 성령이 오셔서, 이제 진짜 하나님의 백성들을 추수해 내는 거죠. 초실절날 드려졌던, 예수 안에 들어있는 그런! 그래서 초실절날 하나님께 드리는 제사는, 요제였어요. 그런데 요제는 한 단으로 드려진다 그랬죠? 한 나락이 아니라, 이삭 같은 거! 한 단은 첫 열매로 드려지는 예수와 함께, 한 단으로 묶이는, 한 몸으로 묶이는, 교회가 이제 드려지는 거다, 그랬습니다.
그래서 이제 칠칠절이 되면, 그때부터 시작해서 4개월을 쉬죠? 쉬는 게 아니라, 농사를 짓죠? 그때부터! 그래서 4개월간 농사를 열심히 짓고, 그 다음에 칠월 1일 날! 인제 나팔절이 되는 거예요. 그래서 4개월은 뭐라 그랬어요? 요한복음 4장에서 찾아봤죠? 거기에 보면, 예수님이 정확하게, 추수 이야기를 하시면서, 넉 달 얘기를 하죠? 그래서 그 넉 달! 추수할 때가 되었는데, 너희들은 지금 추수가 되려면, 넉 달이 남았다고 하는데, 난 지금 추수했다. 그러시는 거죠?
그 제자들은 못 알아먹는 거죠. 뭐 무슨 추수를 했다는 겁니까? 추수는 양식을 거두는 거잖아요? 그래서 곧바로 이어서, 제자들이, ‘아! 식사 안 하세요?’ 그랬더니 ‘나는 너희들이 모르는 양식이 있다!’고 이어지는 거예요. 예, 성경은 재미나는 겁니다. 그런데 사람들이 미련하게, 윤리책 도덕책으로 보니까, 그러니까, 그렇게 해서 사마리아 여인의 구원이, 바로, 레위기 23장의 그 넉 달 농사의 그 부분을 예수님께서 이야기를 하고 있다는 것을, 우리 어제 본거죠.
그렇게 인제 넉 달이 지나면, 나팔절이 되는 거죠? 7월 1일이죠. 이거는 히브리력이에요. 하나님께서 히브리사람들에게, 하나님의 백성들에게 달력을 따로 주셨죠. 유월절을 주시면서 유월절 요 달을, 너희들이 첫 달이 되게 해 그랬어요. 그래서 고걸 그들이 애굽에서 쓰던 민간력! 민력에 7월 달이었고, 그리고 우리가 쓰던 지금 이 양력! 로마 사람들이 쓰던 태양력에, 3월에서 4월 사이였단 말이죠? 고걸 인제 너희들 1월로 해! 그래서 성경에는 정월, 1월 이렇게 나오는데, 어떤 때는 그게 양력으로 이야기하기도 하고, 어떤 때는 인제 히브리력으로 이야기하기도 하기 때문에, 여러분이 잘 구별해서 보셔야 되는 거예요.
그래서 우리교회에 수학전공하신 어떤 분이, 성경을 아주 그렇게 좀 분석해서 보는 분이 계세요. 고런 분이, 항상 이렇게 계산을 해갖고 와서, 저한테 질문하더라고요. ‘아이, 정월이고 여기서는 정월이고 저기서는….’ 그래서 설명을 해 드렸더니, ‘수학이고 나발이고 다 필요 없는 거군요.’ 예, 성경은 그런 지식으로 보게 보는 게 아니라, 십자가를 통하여 이렇게 보는 거예요.
그러니까 이제 나팔절이 되면, 여러분, 그 나팔절! 그러면은 뭐가 생각나세요? 그 민력에 7월 1일이 이제 나팔절이에요. 7월 1일! 나팔절부터 시작해서 이제, 안식의 계절이 시작되는 거예요. 어, 이때부터 이제 겨울이기 때문에, 다 추수를 해서, 나팔절 다음에 이제 열흘 후에, 속죄일! 그 다음에 그 닷새 후에, 초막절! 그리고 인제 안식에 들어가는 거죠. 양식을 풍성하게, 초막에다가 채워놓고, 그래서 그걸 수장절이라고도 하잖아요?
음 그러니까 그 7월 1일이 되면, 이제 마지막이 되는 거예요. 안식으로 들어가는 마지막! 그래서 나팔절인데. 7월 1일이면! 보세요. 여기에 이제 창조에 숫자가 또 들어가는 거예요. 그래서 일부러 여기선 7월이라고 하는 거예요. 그러니까 하나님께서 아빕월! 유월절을 1월로 만들어 내신 건, 만들어 놓으신 건, 바로 요런 장치를 치밀하게 계산해 놓은 거라 말이죠. 그러니까 창조! 일곱째 날! 안식에 들어가잖아요?
여기도 보면 이제 나팔절로 시작을 해서, 이제 안식에 들어가요. 여러분 성경에 보면, 하나님께서, 이제 예수님께서, 다시 재림하실 때, 항상 등장하는 게 뭐에요? 찬송했잖아요? 지금! 나팔 불 때, 나팔소리와 함께 오시죠? 하나님은! 계시록에도 그렇고, 항상 나팔이 들어가 있어요. 어, 그래서 그 나팔이라는 건, 그냥 우리가 이렇게, 우리가 지금 갖고 있는 무슨 트럼펫이나, 정경주가 잘 부르는 색소폰이나 이런 게 아니라, 많이 좀 늘었나. 모르겠네요. 괜히 이 새벽에, 처음에 우리 교회 왔을 때는 하루도 안 빠지고 새벽기도 왔었거든요. 그런데 저 웬수가 언제 부턴가, 얼바인에서 LA까지 매일 왔었는데….
아무튼 이 그 나팔은 그 나팔이 아니에요. 우리가 생각하는 그런 개념을. 자꾸 성경을. 그렇게 생각하시면 안 돼요. 그러니까 나팔소리 불면서 하나님이 오신다니까, 무슨 뭐 트럼펫을 불고 오시는 거예요? 색소폰 불고 오시는 거예요? 이렇게 자꾸 그 나팔을 아니면, 무슨 뭐 벤허나 이런데서 보는 그런 긴 나팔이 아니라, 그런 거 아니에요.
뭐 천국에 유리바다가 있다니까, ‘어, 유리로 된 바다도 있어요?’ 이렇게 얘기하는데, 그런 바다 이야기하는 거 아니에요. ‘다시 바다가 있지 않겠고….’ 그러니까 천국에는, 바다도 없어서, 바다 좋아하는 사람들은 어떡하나? 가시면 바다 다 있어요. 걱정하지 마세요. 그런 바다 없다는 이야기가 아니라, 바다로 상징되었던, 성경에서 성경기자가 물론 성령님이죠?
바다로 상징했던 그러한 저주의 현실들이, 사라진다는 뜻이지, 무슨 바다가 없긴 왜 없어요? 가서 낚시하자고요. 우리 가서 다 있을 거예요. 그런 거! 분명히 이 세상과 연속성이 있어요. 예, 그러니까 그런 거를, 제가 내일부터 그 산상수훈을 강해할 텐데…, 산상수훈이 뭐냐면? 하나님나라에 대한 이야기거든요.
사람들이 하나님나라를, 너무 오해를 해서 말이죠. 그냥! 왜 그 하나님나라를, 자기들에 기대하고 그려놓은 그걸로 생각을 하는지 모르겠어요. 그러니까 하나님나라가 이미 왔다는 말이 이해가 안 가는 거예요. 하나님나라라는 게 천국이거든요. 여러분 지금 사는 게 천국이, 천국이 맞아요? 죽겠죠? 아주 이런 게! 이렇게 영원히 살라 그러면은 사시겠냐구요? 그런데 천국이 여러분 안에 왔다잖아요? 그런데도 불구하고 천국을 그냥 막연히 자기가 원하는 게 다 있고, 그리고 아, 뭐 걱정과 근심도 없는 그런 곳으로 생각하고 있어요.
산상수훈이, 지금 천국을 사는 사람들의 현실이거든요. 거기에 여러분이 좋아하는 게, 몇 가지나 들어가 있어요? ‘예수님을 위하여 핍박받는 자 복이 있다.’ 그러는데, 그거 영원히 그렇게 하고 싶으세요? 핍박 좋아요? ‘심령이 가난한자 복이 있다.’ 좋습니까? ‘왼편 뺨을 때리는 놈에게 오른편 뺨을 대주라!’ 산상수훈이잖아요? 천국이에요. 그렇게 살고 싶으세요? 진짜? 아니잖아요? 그런데 하나님은 그걸 천국이라고 그런다 말입니다.
그러니까 하나님나라가, 이렇게 오해되고 있는 거예요. 이 인간들이, 인본주의적 관점을 벗어나지 못하고 하나님나라를 기다리니까, 여러분 나중에, 이 인간들이, 하나님이 지옥을 보내서 가는 거 아니에요. 여기에서 천국을 정확히 못 배운 사람들은, 나중에 진짜 천국에 왔을 때, ‘어! 이거 뭐야? 이거 내가 바라던 데가 여기가 아닌데!’ 그러고 자기가 원하는 데로 가는데, 거기가 지옥이에요. 그러니까 이 시대 기독교는 뭔가 크게 착각을 하고 있다니깐요. 그러니까 여전히 벗어나지 못한 옛 자아의 관점으로, 자기가 원하는 어떤 것들을 지금 계속 기다리고 있고, 자기가 원하는 그 어떤 분을 하나님으로 조작해서, 그 하나님을 붙들고 있는 거예요. 참 답답합니다.
여러분, 하나님의 나라라는 건 통치라 그랬죠? ‘바실레이아!’ 응? 하나님나라! 통치! 누군가의 통치 안으로 내가 완전하게 들어간다는 건, 내 자아가 없어지는 거예요. 그걸 ‘하나님나라’라 그래요. 그런데 내가 하나님이 되고 싶어 하는 육적 자아가 나에게 그대로 있는 이 상태에서, 하나님나라가 나에게 임했다고 생각해 보세요. 거기선 당연히 충돌이 일어나죠? 내가 하나님이 되고 싶어 하는 모든 인간들에게, 하나님의 통치가 내려와서, 그 육적 자아를 죽여 버리겠다고 하는 그게, 하나님나라니까! 그게 통치잖아요? 바실레이아!
그런데 어떻게 그게 행복과 기쁨으로 나옵니까? 하나님나라를 사는 게! 그러니까 전부 자기들이 얼마나 영성이 깊고 신앙이 좋은가를 연극을 하다보니까, ‘나는 예수 믿고 한 번도 슬퍼본 적이 없어요.’ ‘나는 항상 기뻤어요. 그런데 왜 그 사람이 늘 고난을 이야기하고 다녀?’ 그러더니 결국은 나갔죠. 마지막에 그러대요. 진짜로 늘 기뻐요? 그렇게 늘 행복하십니까?
하나님의 말씀이 여러분의 그 육적자아에 접촉점으로 딱 닿았을 때, 그때 잠깐 생기는 소망을 기쁨이라고 하는 거지. 그 이외에 여러분은 이 육신 안에 갇혀 있기 때문에, 이 상태에는 하나님의 나라가 여러분에게 임할 때는, 좌우에 양날 선 검이, 마취제 없이 여러분을 포를 뜬다고 생각하시면 돼요. 진짜 하나님의 백성들의 삶 속에서 일어나는 일이에요. 그것이! 그게 하나님나라 사는 거라니깐요.
그런데 저마다, ‘하 ~ 나는 예수 믿고 왜 이렇게 불행해? 왜 이렇게 우울해?’ 당연하죠. 내가 죽어가는 게 하나님나란데, 그래서 내가 왕, 내가 왕이 되어 살려고 하는 이 육적자아가 사라지고, 하나님이 완전히 하나님께 절대 순종할 수 있는 그 몸을 주셨을 때의 천국은, 그야말로, 이제 그 분이 나를 완전히 장악하는 곳이라, ‘하나님나라’라고 하는 거예요. 그게 통치다! 응?
그런데 전부들 그냥 엉뚱한 이 희망을, ‘평안하다, 평안하다!’ 이러고! 이제 희망을 심어주는 바람에, 허 이 세상에서 좀 이를 악물고 잘 참으면, 곧 좋은 세상이 올 거야! 곧! 흐흐 그 사람 그 상태로 천국가면 그 사람은 거기가 지옥이에요. 내 맘대로 할 수 있는 게 아무것도 없는 곳이 천국인데, 어떻게 내가 원하는 걸 기다리고 있냐고요? 야! 뭐 진짜 이해를 하라고 얘기하는 건지 허허허! 막 헷갈리라고 이야기하는지 모르겠지만!
생각을 좀 해보세요. 여러분! 그냥 자꾸 그 자기의 그 옛 자아 안에서만, 하나님과 하나님나라를 분석하려고 하지 마시고, 그렇게 되다 보면, 여러분, 그 창세기 같은 것들이 저절로 이해가 돼요. 그리고 선악과와 생명나무라는 거 자체가, 십자가를 설명하기 위한 치밀한 설계도거든요. 이 역사와 인생이라는 거 자체가, 하나님에 치밀한 설계 속에서, 창조됐고, 진행되어져 가는 거예요. 한번 잘 생각해 보세요.
금지명령과 허용명령! 두 가지가 에덴동산에서 떨어졌어요. 그거 하나님나라에 모형입니다. 원시 모형이 에덴이잖아요? 하나님과 함께 거하는 곳! 거기가 하나님나라니까! 자, 금지명령이 떨어졌어요. ‘선악과 먹지 마!’ 그리고 허용명령이 또 떨어졌죠? ‘모든 동산의 실과는 다 먹어라!’ 그 안에 생명나무가 들어 있습니다.
그런데 보세요. 왜 하나님이 금지명령이라는 걸 줬는지 아세요? 아예 그런 거 안 만들면 되잖아요? ‘하지 마!’라고 하나님께서 금 그어 놓은 거! 그 너머에 있는 것을 아예 만들어 놓지 말고, 그냥 금지명령 없이, ‘다 해!’ 그렇게 애초부터 만들어 놓으면 되잖아요? 성경의 독자는 누구다? 교회죠? 성도! 여러분에게 뭔가 하고 싶은 이야기가 있어서 그러는 거예요
인간이란 어떤 존재는요, 존재는 금지명령이 떨어지면 반드시, 자기의 주체를 독립적으로 확보하려고 해요. 왜? 금지명령을 한 그 존재에게, 금지명령이라는 거 자체가, 금지명령을 한 나에게 내린 그 존재에게 반항을 할 수 있는 근거를 마련해 주는 거예요. 예, 그러면 이 금지명령이 떨어졌을 때, 이 존재가 자기에 존재를 확보를 해버리면요, 이제 대입의 현상이 일어나는 거죠? 거기에서 각자에 존재가 존재성을 갖게 되면, 여기에서, ‘나는 왜 내가 당신에 말만 들어야 돼요? 내가 하고 싶은 걸 왜 하지 말아야 돼요?’라는 이 존재성이 확보가 되면, 요 상태를 ‘정녕 죽으리라!’의 상태라고 하는 거예요. 하나님이 교회에게 그걸 가르치시는 거예요.
금지명령! 율법이라는 거 자체가, 내 그 율법이 우리에게 지금 떨어져 있고, 성경에 수많은 ‘하라! 하지 말라!’의 명령이 우리에게 떨어져 있죠? 그걸 우리에게 왜 주신 거라고요? 그런 명령이 떨어지면, 인간들은 곧 반발하게 되어 있어요. 존재라는 거 자체가, 자기 존재를 구별하여, 확보하려고 한다 말이죠? 그 상태가 바로 죽은 상태라는 걸 알려주기 위함이라고요.
그러나 생명나무 실과 보세요. ‘먹어라!’라고 했을 때는, 이 존재가 굳이 나에게 그 명령을 주신 분과 대립을 할 이유가 없어져요. 그렇죠? 그래서 그 허용명령 안에서, 그 허용을 한 이 그 존재와, 내가 명령을 받은 내가, 연합이 되는 거죠. 그런데 금지명령이 떨어졌을 때에, 우리가 ‘정녕 죽으리라!’가 되죠? 그러면은 ‘죽으리라!’가 되었을 때, 이 현실이 어떤 것인지를 가르쳐 주기 위해서, 그 생명나무 실과가 차단이 되는 거예요. 그래서 에덴을, 닫아거는 거거든요. 그래서 여러분은 이 세상에서 그 걸려진, 닫아 걸려진, 에덴동산의 현실을 경험하는 게, 그게 이 세상에서 역사 속에서의 하나님나라를 사는 거라 말입니다.
그래서 그러한 어떤 하나님의 ‘하라! 하지 말라!’의 그런 명령! 그런 명령 속에서, 내가 하나님과 이렇게 대립구도로 살아가면서, 이게 얼마나 고단하고 피곤한 일인지를, 여러분은 이 세상 속에서 처절하게 경험하는 거예요.
그래서 결국에는, ‘이렇게 내가, 내가 원하는 무언가가 있었을 때, 내 존재와 주체성을 확립하려고 했을 때, 이게 지옥이구나!’를 아는 그 자가, 여기에서 저 하나님나라를 사는 거고, 그 사람들이 완전히 그런 육적자아의 이 사망! 이 상태로 하나님 밑에서, 하나님이 시키시는 일을 그저, ‘이 세상에서 그 경험과, 이 세상에서의 그 실효로 된 지식! 그건 아니구나!’라는 걸 갖고, 완전히 그분께 납작 엎드려, 그분의 그 사랑과 은혜 속에서 연합이 되어 살아가는 걸, 천국이라고 한다 말입니다.
그런데 전부 이 땅에서도, 자기가 원하는, 조작해 놓은 그런 천국 상을, 이 세상에서도 조금 미리 당겨서, ‘더 주세요!’ 그러니까 ‘병고쳐주세요! 부자 되게 해주세요! 아무 걱정근심 없게 해주세요!’ 이러는 거 아녜요? ‘평등한 세상을 만들게 해주세요!’ 아니 하나님나라는요, 하나님이 이 세상에서 역사 속에 펼쳐지는 하나님나라를 경험하라고, 이 나라를 주신 거지, 역사를 준거지, 인간들이 열심히 개혁해서, 살기 좋은 곳 만들라고 주는 거 아니란 말입니다.
그러니까 이런 그냥 교회, 예수 믿는다고 하는 사람들! 특히 그냥 그 진보 쪽에 있는 사람들이, 아주 그냥 핏대를 세우고, 아주 난리를 치죠? ‘그럼 우린 뭐냐? 인생은 뭐냐? 역사는 뭐냐?’ 뭐긴 뭐예요? 하나님께서 십자가를 예수를 설명하기 위해, 설계해 놓은 그냥 잠시 모델하우스라니깐요! 여기가! 그래 여기서 뭔가 승부를 내려고들 하니까 피곤한 거죠. 고단한 거죠. 힘든 거예요. 행복한 가정 만들기! 원만한 부부관계! 이거를 교회 안에서 가르치는 그런 시대가 된 거죠.
제가 결혼식 주례할 때마다 하는 얘기가, ‘여러분 행복한 가정을 꿈꾸지 마세요.’라고 얘기를 해요. 그러면 그 집 부모들이 울그락 불그락 해서, ‘저게 지금 저주를 하는 거야? 주례를 하는 거야?’ 예, 지난 토요일에도 가서, 제가 예수 안 믿는다는 사람들 쭉 앉아 있는데, 전부, 목사가 주례를 하고 있는데, 포도주들을 안마시고 앉아 있더라고! 그 앞에서 침 넘어가게! 흐흐흐 아주 정말 열받아가지고 말이죠? 거기다 대놓고, 결혼의 목적은 행복한 가정이 아닙니다. 행복한 가정을 꿈꾸게 되면, 반드시 상대방의 목에 이빨을 꽃아, 나의 행복을 추구하게 되어 있으니까! 안 그래요?
결혼생활의 목적이 행복한 가정이 되면, 그 상대방에게 반드시 요구하는 게 생기게 돼요. 거기서 불행이 오는 거예요. 여러분! 그게 아니라, 결혼은 그냥 예수를 알아가는, 하나님께서 우리에게 허락하신 은혜의 장이니까, 거기에서 처절하게 자기의 악마성을 폭로당하고, 그리고 왜 우리에게 예수 없으면 안 되는가? 이렇게 우리는 하루에도 열두 번씩, 저걸 그냥 어떻게 죽일까를 생각하는데…, 저를 그렇게 오해하지 마시구요.
그러니까 어떻게, 그것과는 비교할 수도 없는 추악한 나를, 내 신랑은 계속 그렇게 좋다고 쫓아다니실까? 이거 배우는 게 결혼 생활인데! 그냥 저마다 행복한 가정생활을 위해서는, 남편은 뭘 참아야 되고, 이거! 주례가 다 이거잖아요? 난 그래서 별로 그런데 가고 싶지가 않아요. 저 결혼식 주례 이런 거! 돌잔치 이런 데도 마찬가지에요.
아니 애기! 이 험난한 인생을 이제 어떻게? 그리고 나는 이제 거의 50년 왔는데, 넌 큰일 났다. 이게! 이 얘기 해줘야 되거든요. 가서! 그런데 돌잔치에 가서, 야 무슨 저주할 일이 있어요? 아 난 그런 데 좀 부르지 말았으면 좋겠어요. 결혼식! 왜냐면 그게 다 거기 모인 이들이 교회라면, 내가 충분히 설명을 해주겠어요.
그런데 대부분이, ‘아! 저거 빨리 끝내고 가지,’ 이런 상태에서, 거기에서 내가 진짜 똑바로 된 그 성경의 말씀을 전하면, 그 잔치가 그냥 갑자기, 그냥 초상집 되는 거잖아요? 그 남의 집 잔치 망칠 이유도 없고, 어차피 놀러온 사람들 재미있게 놀다 가지, 왜 나 같은 사람을 부르냐고요? 왜 자꾸 저를? 웬만한 우리 청년들도, 좋은 말 해주는 그런 주례를 찾으세요. 저한테 자꾸 부탁하지 말고. 좀 부탁이에요. 저 백일잔치 돌잔치 이런데 부르지 마세요. 나중에 음식 남으면 좀 싸다주고!
여러분, 우리의 인생의 목적은, 이 세상을 어떻게 살기 좋은 곳으로 만들어서, 여기서 잘 먹고 잘 사느냐가 아니에요. 하나님이 철장을 갖고 내 인생에 찾아오셔서, 하나님의 나라에, 그 통치에, 적합한 자로 만들어 가는 게, 이 역사와 인생이란 말입니다. 그러니까 그 하나님의 손길에 나를 맡기는 거예요. 하나님이 두들겨 패서, 나를 죽여 갈 때, 거기다 내 맡겨서, 그냥 아주 나긋나긋하게 그냥, 오이지가 되가는 거죠. 여기에 소금 쫙쫙 뿌리는 거예요. 하나님이 우리에게!
그런데 그걸, 이 육적 자아가, 나의, ‘나는 끝까지, 나는 하나님처럼 살 거야!’라고 했을 때, 하나님이 그들을 통치하려고 하는 그게, 지옥이거든요. 그게 하나님나라에요. 그래서 하나님이 지옥에서, 소금이 뿌려진다고 하는 거예요. 그러면 그 지옥에서 벗어나기 위해선, 여러분이, 이 세상에서 바로, 그 소금 치듯 떨어지는 하나님의 철장을 여기서 받아내셔야 된다니깐요. 그리고 여기서 죽어야, 거기에서 그러한 하나님에 통치가 소금처럼 뿌려질 때, 그게 기쁜 거예요. 거길 천국이라고 해요.
여러분, 우리에 그 천국관, 지옥관이 전부, 불교의 극락과 무간지옥! 이거와 섞여 가지고, 우리 기독교가 지금 기대하고 있고, 또 기독교가 지금 그려놓고 있는 천국과 지옥! 이건 다 다른 종교에서 온 거거든요. 모든 종교가 다 천국을 이야기해요. 그런데 그 모든 종교에서 이야기하는 천국관이, 지금 기독교가 그리는 천국관과 똑같다니깐요. 그거 아니란 말입니다.
그러니까 이 자존심 때문에, ‘나는 천국 가서도 절대, 하나님이 시키는 대로만 살지는 않을 거야!’ 이렇게! 에덴의 아담처럼, 그렇게 살고 싶은 분들은, 빨리 딴 데로 가세요. 여기 있으면 안 돼요. 여기서도 고생하고, 하나님나라 가서도 고생하고! 지옥의 통치자는 하나님이에요. 누가 지옥을 마귀가 세웠다 그래요? 그것도 불교에서 나오는 거예요. 그 경전에! 마귀들이 삼지창 들고 서있는 거, 혓바닥 뽑아갖고 막 그냥, 리본 만들고 그러는 거는, 다 불교! 불교경전에 나오는 거예요.
그런데 전부 그런 지옥을 그려! 그리면서, 여러분 그게 뭐가 그렇게 힘듭니까? 힘들어요? 혓바닥을 뽑혀보지 않아서 모르겠지만, 그거보다 지금 사는 게 더 고통스럽지 않아요? ‘아이 차라리 그냥 껍질 한두 번 벗기는 게 낫지, 아니 이렇게 사는 건, 이건 정말 야! 어떻게 ‘나’라는 인간! 이 몸뚱이를 이렇게 달고 사는 게, 이렇게 힘들 수가 있냐? 어떻게 이 몸뚱이! 이렇게 말을 안 들을까?’ 그럴 때, 그게 여러분의 눈알 뽑히고, 혀가 뽑히는 거보다 더 힘들지 않으면, 여러분들! 아직 이 인생을 제대로 모르는 거예요. 나이가 아무리 많아도 그건 헛사는 거예요.
성령이 임한 사람에게는, 이 인생과 역사의 실체가 분명히 보이게 되어 있어요. 그래서 시간이 갈수록 여기서 빨리 나가고 싶다. 이리로 가야 돼요 그렇지 않으니까, 여기가 살만한 곳이 되니까, 전부 무슨 병이 걸리고 이러면, 죽기 싫어가지고 그렇게 그냥, 똥 싸고, 오줌 싸고, 힘줘가지고 말이죠? 안가겠다는 거죠. 그건 싫은 거예요. ‘왜 내가 또 누군가에 밑으로 들어가서, 왜 나의 주체성과 존재성을 다 박탈당한 채, 그렇게 살아야 돼? 나는 그럴 수 없어!’ 안 죽겠다는 거죠? 여러분은 그런 의미에서, 이 세상에서 반드시 지옥을 사셔야 돼요
이 나팔에 대한 구절을 수 없이 찾았는데, 하나도 말을 못하고, 뭐 찾아보세요. 집에 가서! 구약과 신약에, 하나님이 나팔 부시면서 내려오는 그 날! 수도 없이 기록되어 있어요. 요엘서! 이사야서! 시편! 요한계시록! 데살로니가서! 여러분, 그 나팔! 울려 퍼지는 그 날을 기다리고 계십니까? 진짜? 네? 하나님에 나팔이 울려 퍼지면, 베드로는 그러죠? 그날 완전히 작살나는 날이다. 그래요. 말라기도 그러고.
그런데 그 날을 기다리는 이들이 있잖아요? 계시록에도 그래요. 일곱째 천사가 나팔 불 때, 박살난다! 그런다고요. 그런데 그 때에 흰옷 입은 하나님의 백성들이, 또, 피 뿌린 옷을 입은 어떤 이를 쫓아서, 열심히 찬송하며 행진을 해요. 그러면 나팔이 불려올 때, 이 둘로 이제 확 갈려질 텐데, 진짜 여러분이 그 나팔 부는 나팔절을 기다리고 계시냐고요? 그게 안식! 그 안식의 수인 7월 첫째 날이라는 건, 이제 새날이 시작된다는 뜻이거든요. 안식 후 첫날이잖아요? 일곱! 저기가!
그러니까 그 날에, 희년 때도 똑같이 나팔을 불었는데, 모든 존재들이 이제 다 종에서 풀려나서, 하나님의 원래의 그 자리로 돌아가는 게, 희년이죠? 그때 나팔 불잖아요? 그러니까 진짜 그 안에 성령이 들어가서, ‘나는 예수에 피에 의해서만, 이렇게 존재할 수 있고, 그때 비로소 그걸 인정할 때, 가장 행복할 수 있다’라는, 그걸 아는 이들이, 이미 나팔절을 살고 있는 거예요. 여러분!
그런데 나팔이 불려오면, 옛 아담들이 다 죽고, 새 사람들만 이제 신나는 나라가 오는데, 그 나팔이 여러분에 인생에도 지금 불리고 있으면, 그 둘이 동일하게 나타나야 된다니깐요. 여러분의 옛 자아가 지금 죽고 있어야, 나팔절을 사는 사람이에요. 그런데 그런 거는 다 모면하게 해달라고 하는 게, 어떻게 기독교 신앙입니까?
그러니까 진지하게 고민하지 않고, 그냥 대충 대충 뭐 이렇게, 그냥 예배당에 나와서, 헌금이나 좀 해주고, 김치 담그러 갈 땐, 그냥 김치나 담그러 오고 이러면, 대충 천국 가겠지…. 이런 식의 신앙생활은 글쎄요? 그건 신앙생활이라 할 수 있는지…. 여러분, 신앙생활은 처절해야 돼요. 여러분에 인생 속에서 매순간 피가 철철 흘러야 되는 겁니다. 예수의 피가! 그런데 이거는 그냥 문화생활의 하나예요. 종교라는 건!
뭐 밖에 알지도 못하는 사람들이, 요즘 뭐, ‘캘리포니아에서 뜨고 있는 교회가, 서머나 교회다!’라고 사람들이 소문 듣고 막 오고 그러는데, 오니까 그냥 막 찔러, 피가 철철 흐르는 거! 걱정 마세요 몇 명 안 남을 거예요. 그걸 끝까지 견뎌낼 수 있는 사람은 성도밖에 없어요.
인간들은 절대로, ‘넌 아니다! 넌 죽어야 된다!’라는 그걸, 끝까지 감내해낼 수가 없어요. 사람 많이 모으는 거 좋아서, 그러한 날선 검의 날을 다 제해 버리고, ‘착하게 잘 삽시다! 그래서 나중에 상도 많이 받고!’ 기복주의! 신비주의! 이런 거 뭐 에이 그거는 아니, 이게 개혁주의! 오늘날 개혁주의가 타협하여 근사하게 만들어 놓은 개혁주의 신앙이죠. 이거! 이것이 그게 진짜 독이라는 걸 여러분이 아셔야 돼요. 여러분은 꼭 천국 가셔야 돼요. 이 세상에서 하나님나라를 꼭 사셔야 돼요.
그 말은 여러분 인생이 이제 행복 끝, 고생시작이란 뜻입니다. 너무 이 땅에서 행복하게 살려고 하지 마세요. 행복이라는 게 뭐에요? 도대체가! 그 기쁨이라는 게 뭡니까? 살면서 그런 모든 정의들이 인제 너무 모호해지지 않아요? 확 도대체 행복인지 뭐지? 뭐가 쾌락인지? 옛날에 아 그렇게 좋던 것들이 지금은, 그게 진짜 절대적인 거라면 그렇게 변하면 안 되잖아요? 그런데 수시로 변하는 그런 것들을, 우리가 어떻게 붙들고, ‘이게 행복이야! 이게 기쁨이야!’ 그러겠느냐고요?
인간들이 좋은 걸로 정의해 놓은 모든 건, 다 자기에게 그냥 편하면 좋은 거예요. 그렇죠? 그게 다 부수어져야 신앙생활이라니깐요. 그렇게 나에게 다 유익하게 오는 이게 다, 진짜 독이고! 이게 다 죽이는 거구나! 이거를 어떻게 이 자연인이 알아먹어요? 성령 받은 자만 알아먹는다니깐요.
그러니까 이렇게 참 오묘하고 깊은 신앙의 세계! 하나님나라! 이게 나에게 이렇게 확연하게 다가오지 않을 때, 기도하시란 말이에요. 그때! 기도는 언제 하라고 주는 거예요? 도대체가! 문제 생겼을 때, 여러분의 그 문제 해결하는 방법과 도구로 준 게, 기도 아니라니깐요. 알고 싶고, 하나님나라는 비밀이라고 하는데, 알고 싶고. 더욱 더 분명히 거기에 빠지고 싶고 한데, 내가 몰라서 막 답답해 죽겠잖아요? 응!
요즘 저는 아주 그냥 그런 답답증이 더 심해져서 그냥 숨도 잘 안 쉬어져요. 숨을 몰아쉬려고 힘들어 죽겠는데, 막 노래를 어떻게 해야 될지 모르겠어요. 답답해야 돼요 그래서 결국에는 ‘하나님! 나 좀 도와주세요.’ 그러니까 하나님을 꼭 붙들고 가야 돼요. 그게 신앙생활이라 말입니다. 그러니까 ‘절대로, 편안한 성도의 인생은 없다!’라는 거 꼭 기억하시고, 오늘도 여러분 인생에 닥치는 그런 일들을, 말씀을 통해서 잘 해석하세요. 그리고 살아있으시면 돼요.
(祈り)
神様、恵みを感謝いたします。
私たちの罪がすべて赦され、消し去られたというその現実が、時に実感できないことがあります。
それだけ、私たち自身の実体を見る目が明るくされたということでしょう。
神様、それにもかかわらず、神の恵みがそのすべてを覆い、完全に消し去ったというその現実が、御言葉を受けるこの瞬間だけでも、
私たちに喜びと希望として迫って来るようにしてください。
そしてただイエス・キリストの恵みだけが賛美される今日一日の私たちの歩みとなるようにしてください。
イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
レビ記23章、今日は贖罪日を見ていきます。26節から見ましょう。
(レビ記23:26-32)
26 主はモーセに告げて言われた。
27 「第七の月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖なる集会を開き、自らを苦しめ、主に火によるささげ物をささげなければならない。a
28 この日には、いっさいの仕事をしてはならない。あなたがたの神、主の前で、あなたがたのために贖いをする贖罪の日であるからである。
29 この日に自らを苦しめない者は、その民の中から断ち切られる。
30 この日に、いかなる仕事でもする者は、わたしがその民の中から滅ぼす。
31 あなたがたはいっさいの仕事をしてはならない。これは、あなたがたが住むすべての所で、代々にわたって守るべき永遠の定めである。
32 これはあなたがたのための安息の日であり、あなたがたは自らを苦しめなければならない。この月の九日の夕方から、すなわちその夕方から翌日の夕方まで、安息を守らなければならない。」
さて、贖罪日!ラッパの祭りから贖罪日、そして仮庵の祭りまではすべて第七の月です。第七の月は安息の月だと言いました。
このヘブライ暦は神の緻密な設計によって人に与えられたものです。過越の祭りから収穫の祭りまで、人類の歴史全体がそこに含まれています。
そしてその後には黙示の世界が展開されるのです。
昨日学んだラッパの祭りはキリストの再臨を示しています。神が臨在されるときには常にラッパの音が鳴ります。
イスラエルには角笛と銀のラッパがあり、角笛は民を集めるとき、銀のラッパは戦いのときに使われます。しかしギデオンの戦いのように、勝利のときに角
笛が吹かれるのは、その戦いが主の戦いであることを示しているのです。
黙示録でもイエス様はラッパの音とともに来られます。第七の御使いがラッパを吹くとすべてが崩れ、神の民は白い衣を着て神のもとへ行きます。
そしてその十日後が贖罪日です。この日はイスラエル全体の罪が贖われる日です。
だからそのアサセルの山羊を荒野に連れて行き、その山羊の頭に按手をします。罪をすべてその山羊に転嫁するのです。そして荒野へ追い出し、
イスラエルから見えなくなるところまで追いやります。そのアサセルの山羊は荒野で獣に引き裂かれて死ぬのです。それが贖罪日に行われることです。
これは、私たちの罪のゆえに、私たちの罪を負わされて荒野へ出て行き、ゴルゴタで悪魔に引き裂かれて死なれたイエスを指し示す型なのです。
それによって私たちは生きるようになったのです。
ですからイスラエルの罪がすべてアサセルに転嫁されたので、イスラエルから見えないところへ行くというのは、東が西から遠く離れているように、
また濃い雲の中に消えるように、私たちのすべての罪が神の目には「ないもの」と見なされるという意味です。
そうして救われ、そうして贖われるのです。ですから私たちは、そのようにただ罪人としてこの世で暴かれながら、神の前では結局、神の恵みだけをしっかり
握る者として完成されていくのです。それ以外に特別なものはありません。
この世で大きな成功をしなくてもいいし、人々から大きな尊敬を受けるような人にならなくても大丈夫です。
最近、ある教会の前で、私たちのスミルナ聖書勉強会が正式に発足し、チーム長たちが昨日メールを送ってきて、「OOスミルナが始まりました」と言ってき
ました。
これまで彼らが学んできたのは、17年間ずっと煽動され続けてきたため、この世で成功し、金持ちになり、高いところに上ることが正解だと教えられてきた
のです。しかし今、その洗脳されていたところに鉄槌が下されたような感覚なのです。すべてが崩れる、自分自身が完全に砕かれるような感覚です。
「それが成功だと思っていた、それが神の御業だと思っていた、そうしてこそ神に用いられると思っていた」というのです。
チョン・ビョンウク牧師の説教の多くがそうですよね?高いところに上って神に用いられよう、謙遜とは多く持っている者ができることであり、
持っていない者や学んでいない者は謙遜なのではなく、ただ劣っているだけだ、と。これはコスタで実際に語られた説教です。
キム・ドンホ牧師やチョン・ビョンウク牧師が実際に語った内容です。
私はそれを聞いて本当に驚きました。どうして謙遜をそんなふうに説明できるのか。貧しい者や学のない者は謙遜できないのですか?
金持ちだけが謙遜できるのですか?そんなはずはありません。しかし若者たちはそのような説教を聞くと興奮してしまいます。
そして「さあ高いところへ上ろう!」となるのです。能力もないのに、とにかく上へ上がり、「犬のように稼いで大臣のように使おう」といった考えが真理のよう
に受け入れられてしまうのです。
皆さん、聖書は、犬のように稼いだものは決して立派に使うことはできないと言っています。そうやって得たものを教会に持ち込んではならない、
これが聖書の教えです。神はそのようなものを用いられません。しかしそういう教えが周りの若者たちを一掃してしまい、いわゆる「神の王国」ができるので
すが、それは何かというと「成功主義の王国」なのです。
若者2万人が「成功しよう!」と叫びます。しかしその中で「これは違う」と気づいた若者たちがひっくり返され、24〜25歳の若者たちが毎日何本も説教を聞い
ています。勉強する前に毎日聞いて、すでに私がその教会で語った説教を半分以上聞いたと言うのです。そして学びながら出した結論が「これが正しい」とい
うものです。
ある漫画家の男の子と女の子が、アメリカに来ると言っています。そういう無謀な若者を見ると、本当に何の準備もなく、ビザもなく、ただアメリカに来て
教会に通いたいと言うのです。それでメールが来ました。私は来ないように返信しようと思いましたが、そのような世の教えは教会の教えではありませ
ん。
私たちはこの世の価値で神を見つけることは決してできません。それはあまりにも魅力的で甘いからです。それを手にすると、見えない神が私たちの渇望の
対象にはなり得ないのです。だから神はそれを打ち砕かれるのです。どこをですか?恵みの座の下にある十戒の石の板、マナの壺、それによって私たちを暴
かれるのです。
十戒の石の板とは何ですか?山に登って神が律法を与えられましたよね。しかしその前に何があったかというと、「私たちは主のすべての言葉を守り行いま
す」と誓ったのです。イスラエルが!そして出エジプト記19章で、モーセがその民に血を振りかけました。
それはどういう意味かというと、「あなたがたは今誓ったのだから、守らなければ死ぬのだ。分かったな?」と確認しながら血を振りかけたのです。
契約の血です。
ところが「守る」と言って律法を受け取って降りてきたら、どうでしたか?彼らは金の子牛を作って宴会をしていたのです。
そのとき三千人が殺されましたよね。本来なら全員死ぬべきなのです。しかしモーセが仲介者として立って、「彼らを赦してください!」と取りなしました。
「むしろ私の名をいのちの書から消してください。もし彼らを皆殺すなら、なぜここまで導き出したのですか?」これがイエスの型です。
それで石の板をもう一度与えられました。それが今、箱の中に入っているのです。
ではイスラエルはその石の板を見るたびに、何を思うべきでしょうか?「ああ、私たちは本来すべて死ぬべき者だったが、モーセのおかげで生かされたのだ」と
思うべきなのです。同じです。私たちも本来は死ぬべき者だったが、イエスによって生かされたのです。
ところがその人たちが、今はイエスを助けようとしているのです。もちろん神が用いるときには道具として用いられることはあります。
しかし私たちがどうして高慢になって「私は神に用いられる資格があります」と言えるでしょうか。
それにもかかわらず、青年集会などでは「神に献身する人は前に出てきなさい」と言えば何百人も出てきます。私もそういう集会に行くと、
主催者が必ず「コーリングをしてください」と頼むのです。宣教師として献身させるために、あるいは「今日イエスを信じる決心をした人は立ちなさい」と
言わせるために、前に出させてほしいと言うのです。
しかし私はコスタのとき、それを正式に断りました。閉会説教のときに最後に人を前に呼んでほしいと言われましたが、それは私のすることではない。
それはチャールズ・フィニーという人がキリスト教界に残した大きな悪しき型であり、間違いだと言いました。
どうして「私がイエスを信じます」と決断できるのでしょうか?福音は私に侵入してくるものであって、私がそれを握って「信じます」と言えるものではありませ
ん。また「宣教師になります!献身します!」と誓って、その後罪悪感に苦しみ、精神的に壊れてしまう人がどれほど多いことか。
国家機関でも同じようにコーリングを求められたことがありますが、「冗談じゃない」と言って断りました。
私たちがどうして神に仕えると名乗り出ることができるでしょうか?神が用いるときに、ただ従って用いられればよいのです。
そして「昔、献身すると誓ったけど、その約束を守らなければ神に罰せられるのではないか」と心配する人がいますが、心配しないでください。神はそんなもの
聞いていません。まるで自分の言葉を神がすべて聞いているかのように思い込んでいるのです。
そんなことは気にせず聞き流してください。「約束したのだから守るべきではないか?」と言いますが、私たちは約束を守れない存在だからこそ、イエスの死が
私たちを覆っているのです。
神は約束を破ったイスラエルをどうやって救われましたか?十字架の恵みによってです。それがペンテコステです。律法が下ったとき三千人が死にました
が、十字架が立った後、同じ御言葉が語られたとき三千人が生かされました(使徒の働き2章)。
同じ話なのです。
ですからイスラエルがシナイ山に到着したのは第三の月の三日目ですよね?過越の祭りから数えるとちょうど五旬節になります。
ですから皆さんは、世の道徳的・倫理的な教えに心を奪われてはいけません。
また自分自身について潔癖になりすぎないでください。そうすると人は必ず自分を偽るようになります。「自分はこうあるべきだ」と見せようとするのです。
そうではなく、「自分はこういう存在だが、神がどのように造り変えていくのか見ていこう」と進むべきです。
そうやって「自分はこういう人間として見られなければならない」となると、それはうまくいきません。OOOという人が、私たちのインターネット教会の信徒
だと言って説教を聞いていると聞いたとき、「これはどう理解すればいいのだろうか」と思いました。
ところが少し前にその人からメールをもらい、「ああ、この人は本当に神がこのように触れておられるのだな」と感じました。
皆さんにお話しできないような個人的な相談でしたが、その人の性的な傾向などについても書かれていて、私は本当に驚きました。
これは大ニュースのよう
な内容でした。しかしその人がどれほど苦しみの中で悩み、葛藤しているのか、「自分にはイエス・キリストの恵み以外に頼るものがない」と痛切に感じている
のです。
もしそのままにしていたら、今でも皆さんもご存じのように、大学教授や社会的地位のある人たちの中には学歴詐称をしている人がたくさんいます。
その人も、もし政治的に問題視されなければ、おそらく韓国の上位何パーセントかに入り、立派に生きていたことでしょう。
OOOのような人たちがやったことは事実です。
しかし神はその人を完全に底に引きずり下ろし、今では全世界から嘲られるような存在にしてしまいました。
新聞にヌード写真まで載るほどです。記者たちは狂っています。
どれほどスクープが重要でも、一人の人間、それも女性のヌード写真を新聞に載せるでしょうか。
その人はアメリカにいたとき、私たちの教会に来たかったそうですが、人々がそのヌード写真で自分を見るのではないかと思い、
来ることができなかったのです。
しかしその出来事を「世の中が自分を攻撃し、侮辱した」と受け取るのではなく、「これが自分の実体だ」と受け止めているのです。
そして幼い頃からの話をずっと語ってくれましたが、それは本当に凄惨な人生でした。
そのような人が高いところに上りたいと思うのは当然ではありませんか?「OO大学の博士」と呼ばれたくなかったはずがないでしょう。
しかも手を伸ばせば何でも手に入る状況です。偽造もしてくれる、論文も代わりに書いてくれる。そのような状況で人間がそれをしないでしょうか?
しかし神がすべてを暴かれると、一瞬で最底辺に落ちるのです。そしてその状態で、ある友人がCDを渡してくれたとき、アメリカに逃げていたその時に、
その御言葉が聞こえるようになったのです。
その人は以前からクリスチャンでした。週に三、四回、一日に二時間も祈っていたそうです。
しかしそのときの神は「自分の成功と利益のための神」でした。献金すればするほど神が助けてくれるという信仰だったのです。ところが完全に底まで引き下
ろされたとき、御言葉が聞こえるようになったのです。
しかしなぜまたそのような本を書いたのか、それは私には分かりません。
皆さん、私たちはどれほど変わると思いますか?私たちの本質がどれほど変わると思いますか?
ヤコブが言っていますよね。百のうち一つでも守らなければ、最初からやり直しだと。そうであれば、私たちは死ぬ日まで、やり直してはまたやり直し、
結局最初の場所から動けないのです。
死ぬ瞬間に「神様、痛いです。どうしてここまで痛まなければならないのですか」と言ったら、それですべて終わりです。
では変化とは何でしょうか?変化とは過去があり、その上で進歩した現在があるはずですが、神は常に私たちを最初の場所に引き戻されます。
そこにどんな変化があるのでしょうか?
それは、神が私たちの人生に介入されるときに現れる「イエスの働き」を、私たちが変化と呼んでいるのです。
その経験が増え、御言葉により深くとらえられるとき、「成熟した」と言われるのであって、私たち自身が変わったわけではありません。
ですから潔癖になりすぎず、人をさばかないでください。他人を引き下げて自分を高めようとしないでください。
一番聞きたくないのは、人の噂話や悪口です。目を開ければ人の話ばかりする人がいます。なぜ他人の話をするのですか?自分の話をしなさい。
「私はこの世で最も汚れた罪人のかしらです!」と告白しなさい。
しかし神はそのような私たちを覆い、神が喜ばれる衣を着せて御前に導いてくださるのです。
ただ恥じながら進めばいいのです。その道を毎日歩んでください。神を愛してください。
それが私たちの生き方です。神と和解し、必ず神を愛するようになります。
その方だけを愛してください。他のところでその愛を探そうとしてはいけません。
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절기강해 (08) - 속죄일 (레23:26-32)
(기도) 하나님! 은혜를 감사합니다. 우리의 죄가 모두 다 사해지고 도말됐다는 그 현실이, 정말 때때로 느껴지지 않을 때가 있습니다.
그만큼 우리의 실체를 바라보는 우리의 눈이, 밝아졌다는 뜻일 것입니다.
하나님! 그럼에도 불구하고, 하나님의 은혜가 그 모든 것을 덮어 다 도말했다는 그 현실이, 하나님의 말씀 받는 이 순간만큼은,
우리에게 기쁨과 소망으로 다가오게 하여 주옵소서.
그리하여 오직 예수 그리스도의 은혜만이 찬송되는 오늘 하루의, 우리의 삶이 되게 하여 주옵소서. 예수님에 이름으로 기도합니다. 아멘.
레위기 23장 오늘 속죄일 하겠습니다. 26절부터 보죠.
(레위기 23:26-32)
26 여호와께서 모세에게 말씀하여 이르시되
27 일곱째 달 열흘날은 속죄일이니 너희는 성회를 열고 스스로 괴롭게 하며 여호와께 화제를 드리고
28 이 날에는 어떤 일도 하지 말 것은 너희를 위하여 너희 하나님 여호와 앞에 속죄할 속죄일이 됨이니라
29 이 날에 스스로 괴롭게 하지 아니하는 자는 그 백성 중에서 끊어질 것이라
30 이 날에 누구든지 어떤 일이라도 하는 자는 내가 그의 백성 중에서 멸절시키리니
31 너희는 아무 일도 하지 말라 이는 너희가 거주하는 각처에서 대대로 지킬 영원한 규례니라
32 이는 너희가 쉴 안식일이라 너희는 스스로 괴롭게 하고 이 달 아흐렛날 저녁 곧 그 저녁부터 이튿날 저녁까지 안식을 지킬지니라
자, 속죄일! 아 나팔절부터 속죄일, 수장절까지, 초막절까지는 다, 7월이에요. 7월은 안식일이라 그랬죠? 그래서 이 히브리력이 이렇게, 이제 하나님의 치밀한 설계도에 의해서, 다시, 우리 사람들에게 주어진 거라 그랬죠? 유월절부터 시작해서 수장절까지, 나팔절로 시작되는 가을의 절기인 수장절까지, 이제 쭉 ~ 그 이 인류의 역사가 다 들어있는 거예요. 그래서 수장절 이후로는 묵시의 세계가 펼쳐지는 겁니다. 그래서 고 안에 모든 그 하나님에 구속사역이 다 들어있는 거라 그랬어요.
예, 어제 우리가 공부한 나팔절 같은 경우는, 이제, 어 하나님의, 그 승리의 나팔이 불리는 재림의 이야기죠. 예, 그리스도의 재림의 이야기! 그래서 성경에 보면, 항상 우리 하나님이 임재할 때, 시내산부터 그래요. 그 나팔소리가 납니다. 그 이스라엘에 그 나팔은 양각나팔과 은나팔! 이 두개가 있는데, 양각나팔은, 그 이스라엘을 이렇게 불러 모을 때 부르던 나팔이에요.
그리고 이스라엘이 이제 하나님 앞에 어 나올 때, 부르던 모여라 할 때, 이제 부는 나팔이 양각나팔이고 은나팔은 이제 전쟁 때 쓰던 나팔인데, 그런데 이제 여리고성에서, 그리고 또 우리 기드온에 사사기에서, 인제 기드온의 이야기에서 배웠죠? 기드온도 나팔을 불죠. 전쟁에서 승리를 할 때 나팔을 부는데, 그때 양각나팔을 불거든요. 은나팔을 불지 않고! 그건 인제 이 전쟁은 여호와의 전쟁이다! 이걸 이제 내 앞에서 이제 나에 뜻만을 위하라라는 뜻에서 양각 나팔을 분거죠.
그래서 인제 그렇게 나팔을 갖고 설명하다가, 요한계시록에서 이제 예수님이 재림하실 때, 예수님이 나팔소리와 함께 온다. 일곱째 천사가 나팔을 불매 다 무너지죠. 다 무너지고, 하나님의 백성들이 흰 옷을 입고 이제 하나님께로 가는 그런 공식이 나오죠. 그게 이제 나팔절에서 설명이 되는 거고, 그 열흘 후에 7월 10일이 이스라엘의 속죄일이에요. 이 대 속죄일은 여러분이 아시다시피, 이스라엘의 민족적 죄가 속해지는 그런 절기입니다. 다!
그 이스라엘은 제사를 매일 아침저녁으로 두 번씩 드리게 되어 있었구나. 그걸 상번제라 그러죠. 그거는 이스라엘의 그 삶 자체가, 죄라는 것을 하나님이 가르쳐주시기 위한, 그래서 아침저녁으로 계속 제물을 잡아서 태워야 돼요. 그러니까 이스라엘에서 태어나는 가축들은, 전부 불쌍한 거예요. 하루에, 그냥 미니멈 두 마리 포를 떠서, 그냥 아주 태워버렸으니까. 거기다가 계속해서 이제 무슨 뭐, 정결예식 행하고, 뭐 또 죄지을 때마다, 소 끌고, 양 끌고, 염소 끌고 와, 계속 태우는 거예요.
그러니까 제사장들은 거의 푸줏간 주인 수준으로, 그냥 덥석 덥석 짤라 내는 거죠. 그래서 사사기에서도, 레위인이 자기 첩이 죽었을 때, 열두 토막으로 단번에 짤라 내는 거죠. 그래서 이 그 대속죄일에는, 상번제를 아침저녁으로 드리고, 늘 절기 때마다 제사를 드리고, 또 뭐 수시로 제사를 드렸지만, 이때는 그건 다 이 개인적인 속죄의 부분이고, 요때는 인제 이스라엘의 민족적 죄가 속해지는 거죠.
그러니까 여러분이 교회를 집합적으로 이렇게 보고, 그리고 완료된 그 하나의 그 집합체로 보셔야지, 교회를 이렇게 하나, 하나 구원되어 모여진 무리라고 생각하시면 안 돼요. 하나님은 창세전에 교회를 구원하세요. 에클레시아! 그러니까 당신이 어떤 무리에서 건져내고자 하는 한 무리를, ‘에크, 밖으로, 아우트,’ 끌어내는 걸 교회라고 해요. 그러니까 하나님은 교회를 구원하시는데, 그 안에 내가 들어있는 거예요.
그런 의미에서, 이 세상에서 인간들의 어떤 행위나 업적이나 조건이나 자격! 이런 것으로 인해서, 사람들이 구원받기도 하고 탈락하기도 하고, 뭐 한다는 이건 말이 안 되는 거예요. 왜냐면? 교회는 집단적으로 구원 받거든요. 그러니까 교회라는 하나님의 백성이 구원받는 거예요. 그 안에 들어있는 것들이 어떻게 빠져요? 그래서 교회는, 하나님의, 예수 그리스도의 충만! 충만이란 말이죠?
여기서 예수님의 그 교회 자체가, 그냥 이미 충만이 되어 있고, 그게 예수님에게 척 끼워지면, 마치 아담에게서 빠진 갈비뼈가, 다시 아담에 갈비뼈로 착 끼워지는 것처럼, 연합이 되는 거거든요. 그 이야기가 인제 구원의 이야긴데, 그걸 갖다가 인제 개인에게 적용시켜서, 그건, 인간의 자존심을 챙기겠다고 하는 인본주의적 발상인 거예요. 인간들은! 아 개인적인 어떤 그런 업적이나 공로로, 절대로 구원에 어떤 영향을 미칠 수가 없어요.
이 대속죄일에는, 대제사장이 이스라엘! 그 성막의 구조! 성전의 구조를 보면, 성전 마당이 있죠? 이방인의 뜰! 여인에 뜰! 남자의 뜰! 그 다음에 성전 앞마당! 그래서 앞마당에는 뭐가 있냐면은? 들어가자마자, 성전에는 번제단, 물두멍, 성소가 있죠. 성소에서 그 촛대! 아 떡상! 향단이 있어요. 그게 다 예수 그리스도를 상징하는 거죠. 불기둥, 구름기둥이요.
그리고 이제 그 휘장을 열고 들어가면, 거기에 속죄소가 있잖아요? 그 속죄소! 시은좌는, 법궤 전체를 가리키는 게 아니라, 법궤 위에 그 뚜껑 부분 있죠? 거기만 시은좌(施恩座)예요. 속죄소! 내가, 하나님이 그러잖아요? 내가 거기 임한다, 그래요. 그래서 거기에 인제 피가 부어지는 게 뭐냐면? 그 속죄소 밑에 뭐가 있어요? 법궤가! 저 십계명 돌판이 있죠? 계명! 고게 고 아론에 싹난 지팡이도 있고! 아니면 하나님이 주셨지만 나중에는 이제 계명! 돌판만 남아요. 그 대표적인 거죠.
그랬을 때 뭐냐면? 하나님의 은혜에 대한 인간들의 그릇된 반응! 지금 죄를 모형 하는 거죠. 그 죄가 하나님이 내려다보았을 때, 진멸하여 죽어야 할 죄가, 피에 의해 가려져서 용서가 안 된 자리! 그 자리로 가요. 그래서 그 대 제사장이 일 년에 한번 염소에 피를 갖고 들어가요. 그때는 염소의 피를 갖고 들어가서, 그 속죄소에 뿌리는 거죠. 대 제사장이 그 옷술에다가 방울을 달고 들어가고, 발목에 끈을 매고 들어가요. 끈은 밖에다 두고 들어갑니다.
왜냐면은? 하나님 앞에 점이 있고 흠이 있는 것이, 이렇게 거룩하지 않은 것이, 들어갔을 때, 곧 죽음이거든요. 그게! 그래서 대제사장이 말하는 정결예식을 제대로 행하지 않았거나, 그리고 뭐 그 피가 하나님에 흡족할 만한 그런 재물의 피가 아니었을 때, 대 제사장이 바로 즉사합니다. 거기서!
그런데 그걸 또 가지러 들어가면, 시체를 가지러 들어가면, 그 사람이 죽으니까, 밖에서 방울소리 안 나면, 끈을 끌어당겨서 시체를 빼내고 했던, 그냥 하나님 앞에 서는 게 얼마나 힘든 거예요? 그 저도 이제 산상수훈 공부할 텐데, 그 산상수훈의 내용이 그런 거거든요. 도덕이니, 윤리니, 이런 거는 아니에요.
여러분, 제가 그 산상수훈을 설교하기 위해서, 책들과 논문들을 한 30권 정도를 사서, 틈나는 대로 죽 몇 개월 동안 읽어 왔는데, 어제 제가 보니까 한 27권 이 정도 제가 읽었더라고요. 한 세권이 남았는데, 헤르만 니델 보스하고, 아브라힘 파이퍼 꺼, 이렇게 남았는데, 볼 필요가 없을 거 같아요. 오늘까지 다 볼 수도 없었을 없을 뿐만 아니라, 그냥 쭉 훑어보니까 다 똑같아요. 한 30권이!
그런데 ‘과연 그럴까?’라는 생각이 어제 점심에 문득 들었습니다. 이 산상수훈이 고작 그런 내용일까? 그래서 한번 다시 뒤집어엎어서 한번 해보려고 그러는데, 그 또 이거 여기서 누가 산상수훈을 설교를 하는 바람에, 그것도 그랬더니 뭐 허허 산상수훈은 그런 내용 아닙니다. 착각들 하지 마세요.
그 ‘하나님나라’라는 건, 이 땅에 펼쳐진 하나님나라라는 건, 어 우리가 그렇게 어떻게 포착하여 그 상식적으로 해석할 수 있는 게 아니에요. 그냥 여러분이 듣기 좋은 감정에 이렇게 호소하여 이렇게 삽시다! 저렇게 삽시다! 그러면은, 그냥 좋아가지고, 살지도 못하면서, ‘야! 저 사람은 마치 내가 이렇게 살 수 있을 거처럼, 나를 위대하게 봐주는구나! 그래서 그냥 사람들이 감동해요. 그렇게 삽시다! 그렇게 삽시다! 그러면!
절대 그런 얘기 아닙니다. 성경에는 그런 얘기 단 한마디도 없어요. 흠흠 하나님의 나라는, 그 구조가 뭐냐면? 하나님나라의 모형! 어, 히브리서에서 나오잖아요? 그러니까 성막은 바로 하늘에 있는 실체의 모형이다. 그러죠? 히브리서 기자가! 그러면 성막 자체가 하나님나라를 모형하고 있고, 그 성막을 꽉꽉 짜서, 엑기스를 쫙 뽑아내면, 그게 지성소란 말이에요. 그리고 그 지성소를 더 꽉꽉 짜버리면, 나중에 하나 남는 게 시은좌에요. 그게 하나님나랍니다.
그러니까 ‘하나님나라’라는 건 뭐냐면, 하나님에 의해, 절대 주권자이신 하나님에 의해, 어떤 피조물이, 하나님과 함께 동거하기로 작정된 피조물이, 지속적으로 그분에 은혜를 받는 곳! 생명력으로, 하나님의 생명력으로 끊임없이 부어져서, ‘나는 이거 끊어지면 큰일 나는구나!’라는 요 관계가 맺어진, 고 상태를 하나님나라라! 그래요.
그러니까 하나님나라는, 모든 존재가 다 하나님 앞에서 완전히 죽은 자로 사는 게, 하나님나라예요. 겸손(謙遜)이라는 히브리어의 그 원어가 뭔지 아세요? 많이 가지고 있는데, 없는 자처럼 사는 거! 많이 배웠는데, 그냥 나는 별로 아는 게 없어요. 이런 태도로 사는 거 아녜요. 겸손은, 정확히 직역을 하면, 하나님 앞에 서다란 뜻이에요. 그러니까 하나님 앞에 서면, 겸손은 그 우리가 자꾸 국어사전의 개념들이 머릿속에 들어있어서, 그런 게 자꾸 이해가 안 가는데…!
여러분, 피조물이 하나님 앞에 서면, 그냥 먼지가 되는 거예요. 하나님이 나를 살리면 사는 거고, 아니면 죽는 거예요. 그 상태를 겸손이라 그래요. 음음. 그러니까 그런 하나님나라의 구조를, 이제 완성된 하나님나라에 구조를, 속죄일에서 다시 한 번 이렇게 확인시켜 주는 거예요. 7월 10일 날!
그래서 대 제사장이 들어가서 어 염소의 피를 쫙 뿌려서, ‘이게 바로 하나님나라다!’를 보여준 다음에, 염소를 한 마리 더 가지고 데리고, 그 아사셀이라고 그러죠? 아사셀이라고 아사셀이라는 단어 뜻이 뭔지 아세요? 아사셀! 아사셀! 많이 한다고요. 악령이란 뜻이에요. 사탄! 그러니까 아사셀 염소라는 뜻은, 아사셀에게 바쳐진 염소란 뜻이에요.
그 아사셀 염소를 끌고 광야에 가서, 그 아사셀의, 염소의 머리에다가 안수를 하죠. 죄를 다 전가시키는 거예요. 염소에다가! 그리고는 광야로 몰아내서, 이스라엘이 안 보이는 곳까지 몰아내요. 그래서 그 아사셀 염소가 광야에 나가서 맹수에게 물어 뜯겨 죽는 거예요. 그게 속죄일에 행하는 일이거든요. 그건, 그 아사셀 염소는, 우리의 죄 때문에, 우리의 죄로 전가 받아 광야로 나가, 골고다에서 마귀에게 물려 뜯겨 죽은 예수를 모형 하는 거예요. 그러므로 말미암아 우리가 살게 됐다.
그래서 이스라엘이, 이스라엘의 죄가, 지금 아사셀에게 다 전가돼으니까, 그런데 이스라엘이 안 보이는 곳까지 간다는 건, 동이 서에서 먼 것처럼, 또 빽빽한 구름에 사라짐 같이, 우리의 모든 죄가 하나님에 눈에는, 없는 것으로 여겨진다는 뜻이죠. 그렇게 해서 구원받고, 그렇게 해서 속죄 받는 거예요. 그러니까 우리는 그렇게 그냥 죄인으로 이 세상에서 폭로되다가, 하나님 앞에서, 결국 하나님의 은혜만 꼭 붙드는 자로 그렇게 완성 되가는 거죠. 그거 이외에 뭐 다른 거 별거 없어요.
뭐 이 세상에서 크게, 무슨 뭐 성공을 안 해도 되고, 사람들이 큰 존경받는 그런 사람 안 되도 괜찮아요. 최근에 인제 그 OO교회 앞에서, 우리 서머나 성경공부 모임이 정식으로 발족을 해서, 그 팀장 몇 명이 저 어제 이메일을 해서, 저희가 이렇게 OO 서머나 모임을, 허허 이름 하나만 쓰던지 하지 무슨 OO 서머나 시작했다고 이야기를 하더라고요.
그런데 그 동안에 자기들이 배워온 거는, 끊임없는 17년간 선동을 당해왔기 때문에, 이 세상에서 그냥 잘되고, 부자 되고, 높은데 올라가야 그게 정답이라고 배웠는데, 이제 그 세뇌되었던 그곳에 철퇴 같은 게 떨어지는 그런 느낌이에요. 다 부서지는 거! 자기한테 몸이 완전히 부서지는 느낌이에요. 저는요! 그게 아니라 그게 성공인줄 알았고, 그게 하나님에 일인 줄 알았고, 그렇게 해야 하나님이 쓰시는 줄 알았다는 거죠.
전병욱 목사님 설교가 대부분 그거죠? 그죠? 고지로 올라가서 하나님께 쓰임받자! 겸손은 많이 가진 자가, 떨 수 있는 거지, 못 가지고 못 배운 자들은, 겸손한 게 아니라, 못난 거다. 이게 코스타에서 한 설교에요. 김동호목사, 전병욱목사가 실제로 한 설교들이거든요. 그래서 제가 그걸 듣고 깜짝 놀랐어요. 어떻게 그걸, 겸손을, 그렇게 설명을 하나? 아주 못 배우고 못가진 자와 가난한 자들은, 겸손도 못해요? 응 뭐 부자만 겸손할 수 있는 거예요? 말도 안 되는 거예요. 그런데 청년 아이들이 그런 설교를 들으면, 다 광분해져! 그래서 또 부대로 나가자! 능력도 없으면서. 어떻게 해서든지 높은데 올라가서, 개같이 벌어서 정승같이 쓰자! 이런 게 완전히 그냥 진리처럼 받아들여지죠.
여러분 성경은, 개 같이 번 건, 절대 정승처럼 쓸 수 없다고 그래요. 개 같이 번 거는, 교회에 절대 들이지 마라! 이게 성경이 말하는 바지! 개같이 벌어서 정승처럼 하나님이 써주지 않아요. 그런데 그런 것들이, 그런 것이 하여튼, 그냥 그 주변의 청년들을 싹쓸이 해가지고, 그냥 하나님 왕국이 되는데, 그 왕국이 뭐냐 하면? 고지론의 왕국이에요.
응, 청년들 2만 명이 그냥 잘되자! 잘되자! 그러고, 근데 그 중에 어떤 아이들이 ‘어 그거 아니네!’라고 다 확 뒤집어진 사람 뒤집어 져서 이제 24 - 25살 아이들이 매일 설교를 몇 편씩 듣는대요. 자기들이 공부하기 전에 그걸 매일 매일 들어서 벌써 제가 그 OO교회가서 설교한 게 뭐 얼마 되지도 않았는데, 반 이상을 다 들었다 그래요. 그러더라고요. 설교를 반 이상을 다 듣고, 어 그리고 공부하면서 자기들이 내린 결론이, 이게 맞다는 거예요.
그런 뭐 만화가! 만화를 그린다는 어떤 그 남자애랑 여자애가, 뭐 미국으로 인제 아예 오기로 했다 그러고. 아 그런 무모한 애들 보면, 참 정말 아예 그냥 아무런 대책도 없이, 무슨 비자도 없이, 그냥 뭐 미국에 와서 자기는 교회에 다니고 싶어 하는 거예요. 그러면서 이메일이 왔어요. 제가 오지 말라고 하려고 답장 해줄라 그러는데, 그런 그 세상의 가르침을, 그건 교회에 가르침이 아니에요.
우리는 절대로 그 이 세상 속에서 세상이 가치라고 정해놓은 것을 가지고서, 하나님을 절대 못 찾게 되어 있어요. 이게 얼마나 매력적인지, 이게 얼마나 이 달콤한지, 이걸 손에 쥐면, 절대 하나님, 보이지 않는 하나님이, 우리에게 이 갈망의 대상이 될 수가 없다니깐요. 그래서 하나님이 부수시는 거예요 어디를? 시은좌 밑에 그 십계명 돌판, 맛나 항아리의 모습으로 우리를 폭로시킨다니깐요.
십계명 돌판이라는 게 뭐에요? 산에 올라가서 하나님이 법! 저 법을 주셨잖아요? 그런데 그 전에 무슨 일이 있었냐면, ‘우리가 하나님의 말씀을 다 지켜 준행하겠나이다!’라고 맹세했단 말이에요. 이스라엘이! 그래놓고 출애굽기 19장에서, 모세가 피를 뿌렸다니깐요. 백성에게! 그 말은 무슨 말이냐 하면? 그래놓고 언약이라는 이야기를 하죠. ‘너희들이 지금 맹세를 했으니까, 지키지 않으면 다 죽는 거야! 알았지?’ 그러고 확인하면서, 피를 쫙 뿌린 거란 말이에요. 언약에 피!
그런데 자기들이 지키겠다고 그래서, 이제 법을 받아서 내려왔어요. 내려왔더니, 이걸 지켜야 된다라고 얘기하러 가봤더니, 금송아지를 만들어 놓고 잔치를 벌이는 거예요. 그때 3천명이 도륙 당했죠? 다 죽어야 되는 거예요. 그런데 모세가 중보자로 나서서 ‘살려주세요!’ 그래요. ‘차라리 내 이름을 생명책에서 지우세요. 이렇게 다 죽이려면 뭐 하러 끌고 나오셨어요?’ 이게 예수의 모형입니다. 그래서 돌판 하나 또 줬죠? 그게 지금 들어가 있는 거거든요.
그러면 이스라엘이 그 돌판을 볼 때마다, 어떤 생각을 해야 돼요? ‘하 우리는 원래 다 죽어야 되는 자들인데, 모세 때문에 산거야!’ 이리로 가야 되죠? 마찬가지에요. 우리는 다 죽어야 될 자들인데, 예수님 때문에 산거야! 이렇게 살아야 되는 건데…. 그 자들이 예수님을 돕겠다고 지금 나서는 중인 거예요. 예수님이 쓰실 때, 방법과 도구로 사용될 수 있지만, 여러분, 우리가 어떻게 기고만장하여, ‘나는 하나님께 쓰임받는 자격이 있습니다.’ 이리로 어떻게 갑니까?
그런데도 불구하고 무슨 청년집회 같은 거만 하면은, 그냥 뭐 하나님께서 헌신할 사람 나오세요. 그러면 몇 백 명씩 나오고! 제가 여러분 청년집회 가면 코스타 때도 그렇고, OOO 연합청년집회 때도 그렇고, 꼭 주최 측에서 그렇게 콜링(calling)을 해 달래요. 사람들, 뭐 선교사로 헌신하게끔! 아니면 뭐 오늘 예수 믿기로 결단하신 분 일어나라고! 그래서 앞으로 다 끌어 내달라는 거예요. 그래서 제가 코스타 때는 정식으로 거절했어요.
제가 그 폐회설교를 할 때, 마지막으로 다 불러 달라 그래서, 그거는 내가 할일이 아니고, 그거는 찰스 피니라는 사람이, 아주 이 기독교 교계에 너무 그 지대한 그 악한 모형을 하나 만들어 놓고 간 건데, 그건 찰스 피니가 잘못한 거다. 그런데 왜 그걸 지금까지 이 코스타라는 데서까지 그걸 해야 되냐? 그 침례교회에서는 그거 많이 하죠. 그런데 그거는 여러분, ‘어떻게 내가 예수 믿겠습니다!’ 하고 내가 어떻게 결단을 해요? 복음은 나를 침노해 들어오는 것이지, 나에게 소유되어서 내가 그걸 붙들고, 내가 믿을게요! 이게 되는 게 아니라니깐요.
그리고 ‘선교사 되겠어요! 헌신하겠습니다!’ 그렇게 헌신해 놓고 죄책감에 시달려서, 정신병 걸린 사람이 한두 명이 아니에요. 그랬더니 뭐 국가기관 갔더니, 거기서도 뭐 초청을 좀 해달라고 콜링을 해 달라. 그래서 ‘아이고 웃기지 좀 말어라!’ 그리고 안 해버렸는데.
어떻게 여러분 우리가 하나님을 뭐 섬기겠다고 나서요? 감히! 하나님이 사용하실 때, 쓰실 때, 그냥 순종하면서 사용당하시면 돼요. 그리고 뭐 ‘옛날에 나 헌신하겠다고 서원했는데…. 어 그 약속 안 지키면, 하나님 나한테 해코지 하지 않을까?’ 걱정하지 마세요. 하나님 그거 듣지도 않았으니까! 그런 걱정도 좀 하지 마세요! 마치 내가 한건 하나님 다 들으시는 것처럼 착각들 하고 앉아 있어요. 죽은 흙들이! 하나님은 안 들었어요. 그런 거는요!
아이고, 제 또 헛소리 하는구나! 나중에 얼마나 후회하려고…. 그러고 한 귀로 듣고 한 귀로 흘리세요. 그런 거는 허 내 약속했는데, 그거 지켜야 되지 않느냐? 우리는 약속을 지킬 수 없기에, 예수의 죽음이 우리를 덮은 것이라는 것을 알고 가는 거지, 나는 약속했으니까, 하나님께 약속 다 지킬 거야!
이거 아니란 말입니다. 그래서 약속을 어긴 이스라엘을 하나님이 살려준 거예요. 어떻게 살려줬어요? 십자가 은혜로! 그게 오순절이잖아요? 법이 내려와서 3천명을 죽여 버렸는데, 십자가가 중간에 딱 서니까, 똑같이 법이 전해지는데, 하나님 말씀이 전해지는데, 3천명이 살아올라왔잖아요? 사도행전 2장에서! 그 똑같은 이야기란 말입니다.
그래서 이스라엘이 시내산에 도착한 그때가 셋째 달 사흘째라 그러죠? 딱 맞잖아요? 아빕월 14일에 출발했으니까, 17일 30일! 그래서 다 합치면 오순절이 되는 거예요. 그러니까 여러분들은 그 너무 엉뚱한 그 저 사람들의 그 도덕적 윤리적 가르침! 이런 거에 너무 마음 뺏기면 안 되는 거예요.
그리고 자기 자신에 대해서, 그거 또 아무 그 결벽증 이런 거 갖지 마세요. 그렇게 되면 항상 인간들은 자기를 위조하고 위장하게 되어 있어요. 절대로 그냥 이런 존재인데, 하나님께서 나를 어떻게 만들어 가시는가? 지켜보겠다. 그렇게 가셔야지 나는 너무 뭐 사람들 앞에서 나는 이렇게 살아야 되고 저렇게 살아야 되고, 이런 사람으로 보여야 돼! 이렇게 되면 그거 안 돼요. 그 OOO씨라는 사람이 우리 인터넷 교인이라고 하면서 설교를 듣는다고 했을 때, ‘야! 이거 참 정말 이거, 어떻게 이해를 해야 되나?’ 응 그런데 얼마 전에 어 그런 그 메일을 받았는데, 아 이 사람은 진짜 하나님이 이렇게 만져 가시는 분이구나! 이런 생각이 들었어요.
그 여러분께 뭐 얘기드릴 수 없는 개인적인 상담을 해놓은 터라 본인의 어떤 그런 성적 취향이라든지 뭐 이런 것들에 대해서 뭐 전 깜짝 놀랐어요. 아니 이거 특종인데 그런데 그런 걸요. 이 사람이 얼마나 그 고통 속에서 고민하고 고뇌하고 하는지! 그래서 나에게는 그 예수 그리스도의 은혜가 아니면 안 된다는 걸, 자기는 처절하게 느낀다. 그래요. 그냥 놔뒀으면요, 지금도요, 여러분도 그 대학교수들이나 뭐 이런 사람들 한국에서 사는 사람들 중에, 학력위조해서 해먹는 사람들! 아주 부지기수에요.
그 사람도 정치권 사람들에게 미운털만 안 박혔으면, 지금 아마 대한민국 상위 몇 프로 안에 들어서, 근사하게 해먹고 있었을 거예요. 뭐 OOO이나 이런 사람들이, 한 건 다 사실이에요. 그런데 하나님이 그런 사람을 완전히 밑바닥으로 끌어 내려가지고, 지금 온 세상이 이렇게 고민하는 창녀가 되어 버렸어요. 그죠? 오죽하면 일간지에 누드사진이 다 나왔겠어요? 그건 미친놈이죠. 그 기자들은요, 아무리 그 특종, 특종, 특종이 좋지만, 어떤 한 사람의, 그것도 여자의 누드사진을 일간지에다가 모자이크를 해 냅니까?
그래 그러니 온 세상이, 그 사람이 여기 미국에 있을 때, 우리 교회에 오고 싶었는데, 사람들이 자기를, 그 누드사진으로 볼까 봐 못 왔다는 것입니다. 그런데 그러한 것들이, 그냥 세상이 나를 어떻게 이렇게 공격하고 폄훼했는지, 이러한 거로 느껴지기 보다는, 자기에 실체라는 거예요.
그러면서 본인의 그 어렸을 때부터 얘기를 쭉 하는데, 이건 정말 참 처절하다고 표현합니까? 처참하다 표현합니까? 인생이 처참하다! 그래 그런 사람이 높은 데 올라가고 싶은 건 당연한 거 아닙니까? 여기 OO대 박사라는 소리 안 듣고 싶었겠어요? 그런데 손만 내밀면 다 해줘! 뭐든지! 응 위조도 해주고, 논문도 대신 써주고, 아니 그 상황이 그렇게 열리는데 어떻게 안 하냐고요? 인간이!
그런데 하나님이 완전히 확 벗겨버리니까, 일순간에 저 밑바닥으로 뚝 떨어진 거예요. 그 밑바닥으로 뚝 떨어진 상태에서, 그분 그냥 친한 친구가 무슨 CD를 딱 줬더니, 미국에 도망와 있을 때, 그때, 그게 들리더라는 거예요. 그 전에도 그 사람은 크리스찬이었어요. 일 주일에 세 번, 네 번을, 하루에 두 시간씩 기도했대요. 그 바쁜데.
그런데 그때는 하나님은 나의 출세와 나의 유익을 위해 존재하는 분! 그래서 내가 매달리고 헌금을 하는 만큼, 하나님은 나를 도우실 거라는 그런 신앙을 갖고 있었는데, 완전히 밑바닥으로 쭉 끌어 내려서, 거의 창녀처럼 하나님이 밀어내리니까, 그때 말씀이 들리더라는 겁니다. 그런데 왜 또 가서 그런 책을 썼는지 그건 난 모르겠지만, 여러분 우리가 어떻게 얼마만큼 변화될 거 같으세요? 예? 우리의 이 본질이 얼마만큼 변화될 거 같으세요?
야고보가 그러잖아요? 100개 지키다가 하나 안 지키면, 처음부터 다시 두 개나 세 개만 까는 게 아니라, 처음부터 다시래요. 그러면 죽는 날까지, 우리는 처음부터 다시 갔다, 또 처음부터 다시 갔다, 그냥 처음 자리에서 끝나는 거예요. 예, 죽는 순간에, ‘어! 하나님 아파요. 왜 이렇게까지 아파야 돼요?’ 이러면 다 말아먹는 거예요. 평생!
그러니 도대체 변화라는 게 뭐냐고요? 변화라는 건, 나의 과거가 있고 나의 과거에서 출발하여 뭔가 진보된 현재가 있어야 되는데, 하나님은 늘 우리를 처음자리로 끌어 내리시는데, 도대체 무슨 변화가 있겠냐고요? 그게요? 하나님이 우리 삶에 개입하실 때, 드러내시는 예수의 행사를, 우리가 변화라고 하는 거지! 그래서 그걸 좀 더 많이 경험하고, 말씀 속에서, 좀 더 많이 붙들게 될 때, 우리는 성숙했다는 소리를 듣는 거지, 우리 자신이 변화한 게 아니란 말이에요.
왜 다른 거에 너무 그렇게 결벽증! 이런 거 갖지 마시고. 그리고 남이 뭐 어떻게 보이든, 그 사람 뭐 욕하지 말아요. 여러분 그거 너무 그 나를 드러내기 위해서, 다른 사람 끌어내리려고 하시지 마세요. 그러니까 제일 듣기 싫은 게, 남 얘기! 남 욕! 눈만 뜨면 남 얘기하는 인간들이 있어요. 제 가까운 곳에도 하나가 있는데, 아주 무엇들을 하는 거예요? 그게 왜 남 얘기를 해요? 자기 얘기를 하자니깐요.
‘내가 이 세상에서 가장 더러운 죄인 중에 괴수입니다!’ 그걸 우리 하나님이 지금 잘 덮어서 이렇게, 그냥 하나님이 기뻐하실만한 옷 입혀서, 하나님 앞으로 끌고 가주니까, 그냥 면목 없이 가! 그러면 하늘로 가야돼요. 매일 매일 그길 가세요. 하나님을 사랑하세요. 그거 우리가 하고 가는 거예요. 하나님과 화목하고 반드시 사랑하게 되어 있어요. 그분만 여러분 사랑해야 돼요. 다른 데서 그 사랑 찾으려고 하시지 마세요.
(お祈り)
神様の恵みが私たちの内に満ちあふれ、この世に神様の御言葉が語られましたこと、これほど美しいことはありません。
存在する神様の御言葉のそのあまりの大きさに、私たちは十分に浸ることができずにいます。
ですから、世の中がいつも憂鬱で、孤独で、苦しい時、神様は私たちの内の御言葉をより一層確固たるものとして深く根付かせ、神様と共に歩むこの世が、
どのような環境や状況の中にあっても美しく、歩むほどに幸せな黙示となるようにしてください。
イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
レビ記23章33節からお読みいたします。
(レビ記 23:33-44)
33 主はモーセに告げて言われた。
34 「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。第七の月の十五日は主の仮庵の祭りであり、七日間にわたって祝う。
35 第一日は聖なる集会の日であり、いかなる労働もしてはならない。
36 七日間、あなたがたは火による捧げ物を主に捧げる。第八日はあなたがたにとって聖なる集会の日であり、火による捧げ物を主に捧げる。これは祝会であ
り、いかなる労働もしてはならない。
37 以上が主の祝祭日であり、あなたがたは聖なる集会を布告して、焼き尽くす捧げ物、穀物の捧げ物、いけにえ、献酒など、それぞれの日に定められた火に
よる捧げ物を主に捧げなければならない。
38 これらは主の安息日に加えるものであり、またあなたがたの捧げ物、すべての誓いの捧げ物、およびあなたがたが主にささげるすべての随意の捧げ物に加
えるものである。
39 あなたがたが地の収穫を終えた第七の月の十五日から、七日間、主の祭りを祝う。第一日は安息の日であり、第八日も安息の日である。
40 第一日に、あなたがたは立派な木の実、なつめやしの枝、茂った木の枝、川辺の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜び祝う。 41 毎年七日間、
主の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠の定めであり、第七の月にこれを祝わなければならない。
42 あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者は皆、仮庵に住む。
43 これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出した時、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの代々の者が知るためである。わたし
はあなたがたの神、主である。」
44 モーセはこのように、主の祝祭日についてイスラエルの人々に告げた。
最後の節気が「仮庵の祭り(かりいおのまつり)」、春の祭りから始まる「過越(すぎこし)」!「除酵祭(じょこうさい)」!
その次に「初穂の祭り」!これらが春の祭りだと言いましたね。
そうです、イエス様の死!十字架の死!そして墓の中の現実!また復活だと言いましたが、これが春の祭りで、45日後、つまり50日目になる日!「五旬節(ペ
ンテコステ)」の日に聖霊が来られるのです。
聖霊が来られ、4ヶ月間一生懸命に農作業をします。その4ヶ月の間に神の民が収穫(刈り入れ)されるのです。
収穫され、その次に秋の祭りで「ラッパの祭り」「贖罪日(しょくざいび)」「仮庵の祭り」!これで終わるのです。
ここで人類の歴史が終わります。はい、終わり、神の国の永遠の安息が訪れるのです。
ですから、仮庵の祭りの節気を見ると、「喜びなさい!」と言っています。命令として、導かれるままに喜びなさい!
神様の命令は常に神様の意志の表現です。「私は喜んで受け取る!」だから神の国に行けば、皆さんは大いに喜ぶことでしょう。
ところが、この世で皆さんは「神の国を生きている」と言うでしょう?しかし、この世でイエスを信じるということが、ふと、私があまりにも「この世で死ななけ
ればならない、死ななければならない」と言うものだから、まるで「喜んではいけない」かのように!喜びが湧き上がってくると無理やり口を塞いで、「ダメだ!
苦しまなきゃ!」などとしていますが、違います。嬉しいのです。現実を見つめる時は、ああ、苦しいですよ。しかしその最中に、神様が私を救ってくださっ
たというその現実が、自分に感知される時があるじゃないですか。そうでしょう?
私は今日、2時ごろに出てきたのですが、出てきて、じっと座っていました。じっと座って、祈りという祈り!私はそのように祈るのですが、ただ座って神様
のことを考えます。それが祈りです。他に何の祈りがありますか?ただじっと座って、「わあ、どうしてこのように牧師になって、神様の御言葉を伝える者に
なったのだろうか?」と考えながら、そして、その死ということ自体が……。
昨日、チャン・ウォンチョン執事さんが病院を手配してくださって、それは幸いなのですが、そこで何か、非常に良くない結果が出ても大丈夫だという思いがふ
と過りました。なぜなら、死が全く怖くないからです。そして一方では、こんな思いもしたのです。「ああ、何であれ初期に発見されては困るのに。年金をもら
う前に一気に逝きたいのに、初期に発見されて、心労を重ね、周りの人に苦労をかけたらどうしよう?」と思いながら、「どうして私は死を恐れない者になれ
たのだろうか?」と考えると、わあっと嬉しくなるのです。
このように毎朝、ゴスペルソングを流していました。私は雀の声で目が覚めるのではなく、雀を夜明けから出て待っているじゃないですか。待っていて、あ
る瞬間になると鳥たちがこの屋根に、トタン屋根に来てパッと座って……「早起きした鳥が早く虫を食べる」と言うけれど、あの子たちは寝坊、かなりの寝坊
のようです。朝5時半ごろからでしょうか。6時ごろに来て、ペチャクチャと鳴いて……。すると私は以前は腹が立ちました。「ああ!私は何の罪を犯したか
ら、毎日鳥を待つような人生を生きなければならないのか?雀の声に起こされる人生を生きるべきなのに!人間に生まれて、どうして毎日鳥を待つ者として
生きなければならないのか?これは本当に疲れる!」
しかし、神の国を考えれば、この世でのそのような少し辛く苦労することくらい!いや、乗り越えられるという夢をくださったのです。そのような喜びが、
この歴史を生きながら、天国を生きる人々には間違いなくあります。あるのですが、そのように神様が私たちを掌握される時、そのようなことが希望とな
り、本当に嬉しいのですが、そうでない時の方がはるかに多いのです、私たちには!
ですから、神様が私たちにそのようなことを許されたのは、本当に神の国がどれほど大切なものであるかを私たちに教えるためなのです。だから私たちは天
国に行っても、おそらくこの世での皆さんの人生の何らかの連続性の上で天国を生きるでしょう。ですから、この世の人生が何の意味もないわけではありま
せん。たくさん経験し、たくさん学ばなければならないのです。
ですから、私のこの肉体ですべて経験できないことを、私たちは本や映画、このようなもので経験するのですが、だから私は子供たちにも映画をたくさん見
なさいと言いますし、最近うちの子供たちに韓国語を教えようとしても全く一週間持たないものですから、ドラマを見せました、言葉を覚えろと!すると子
供たちがドラマ中毒になって、家に帰ると『シークレット・ガーデン』を見ていて、「おい!勉強しなきゃ!ドラマばかり見てどうするんだ?」と言うと、「お父さ
んが見ろって言ったじゃん……」と。もう子供たちを台無しにしていますが……。それでも、そのようなものを見ながら、間接経験をさせることは私は悪く
ないと思います。だから漫画本も私は買ってあげます。子供たちは漫画を見てはいけないと言われますが、私は漫画を見ながら非常に多くのことを学びまし
た、昔!漫画本を見たらどうですか?漫画の中にも私たちが間接経験できるものがたくさんあります。
しかし、人々が悪意を持って、人々の末梢神経だけを刺激して作るドラマや映画や漫画、そういうものがあるからそれが悪いのであって、そのようにして
様々な経験をして、「わあ、世の中とは本当にこのような場所なのだな!だから神様の恵みが私たちに介入しなければ、私たちは本当に大変なことになる存
在なのだな!」とよく学ぶなら、皆さん、何が悪いのでしょうか?
ですから聖書も「神が造られたものはすべて良いもので……」と言うでしょう?だから感謝して受け取れば、悪いものは一つもないということなのですが、私
たちが絶えず自分の有益と快楽のためだけにそれを利用するから悪いのです。だから、良い鎮痛剤も過用し、誤用するから麻薬になり……このように!人
間は良いものを神様がくださると、いつも自分の腹(欲望)のために使うから、すべて自分を傷つける凶器になるのですが!神様が聖霊の掌握の下に創造さ
れるすべてのものに、どうして悪いものがあるでしょうか。
しかし、私たちの中にあるこの悪魔がそれを誤って使うから、そのようになるのです。ですから私たちは、この世の中で必ずその天国の尊さをはっきりと学
ばなければなりません。そうでなければ、あそこに行って、ああ、私たちが望む何かがあるからではなく、また、私が望むすべてのことができる場所だからで
はなく、本当に神様が私を統治されるその場所!ああ、そこが本当に幸せであり、それが本当に価値あることなのだということを学び、あそこで本当に幸せ
に生きるのです。
ですから皆さんは、この世の中で神様の言うことを聞かなかった時に経験するような苦痛と悩み!このようなことをたくさん経験して行かなければなりま
せん。たくさん経験し、またたくさん悩んで行き、行かなければならないのですが、このような聖書にある、私たちが喜びに完全に掌握されるような句を見
れば、「おお!私たちには希望というものがあるではないか!」と。これ(現実)に勝てと、このように!たまに私たちにこのような天国の現実を見せてくだ
さるのです。
ですからヨハネの黙示録のようなものを見ると、胸が躍るじゃないですか。いつか「ほら、見たか?この世界!」と人々に、「私の生き方が合っていたのだとい
うこと、分かっただろう?」というその日が間違いなく来るということを、その黙示録を見れば確固として知ることができるじゃないですか。だから現実を
乗り越えて生きることができるのです。
ですから仮庵の祭りというのは、仮庵の祭り!イエス様が仮庵の祭りにあの神殿に上って行かれて語られた有名な講話がありますね。ヨハネによる福音書7
章でしょうか。それを見ると、「渇いている者は皆、わたしのところに来て飲みなさい!」はい、見ると、「あなたがたの内に生きた水が溢れ出るであろう!」こ
れは聖書がすべて繋がっているのですが、仮庵の祭りには「水と火の祭り」が繰り広げられます。
ですから夜には巨大なろうそくを立て、また家ごとに7つのろうそくを立てなければなりません。そうして明るく照らすのです。照らして、昼には、あの日陰
(小川)に行って川の水を汲んできて……ギホン(ガラムモッ)でしょうか?その川の水を汲んできて、神殿の祭壇に撒き、水の祭りを繰り広げます。昼に
はウォーターショー、夜にはファイアーショーが繰り広げられるのです。
ところで、この水に関する話は聖書のあちこちに出てきますが、このイエス様が水を聖霊だと言われたのは、まさに仮庵の祭りに注がれる水を指しているの
です。しかし、これ(エゼキエル書など)を見ると、神殿から今、水が流れ出て、おお!その話がどこで出てくるかというと、予標されるのが列王記で、エリ
ヤがバアルとアシュラの預言者と共にカルメル山で戦いますね。その時、エリヤが祭壇に水を注ぎます。ギデオンも同じです。
なぜ祭壇に水を注ぐのか?それは、つまりあのカルメル山で、あの異邦の預言者が、実は異邦の預言者と言いますが、彼らが皆イスラエルの預言者であったこ
とを忘れてはいけません。皆さん!彼らは皆、神様の祭司たちでした。預言者たちだったのですが、バアルとアシュラとただ名前を付けただけで、イスラエル
の預言者は神様の預言者なのに、彼らが神様を自分たちで操作し、歪曲した……私が言う、人間の欲望が投影された、人間が作り出した神を神として仕えた
という意味でバアルとアシュラの預言者と言うのです。皆イスラエルのアハブ王の預言者たちだったのです。
ですから今日(こんにち)も全く同じなのです。つまり、私を助けてくれ、この地での私の腹を満たしてくれるのを助けてくれる、そのような神を「神」と呼ん
でいた!だからエリヤは何と言いますか?「おい!お前たちが呼ぶ神と、私が呼ぶ神!二つのうち祭壇の供え物を火で焼く方が、まことの神だ」と言いますね。
つまりバアルとアシュラの預言者たちが何を拝んでいたというのですか?神様を拝んでいたのです。偽物の神様を!
「お前たちがしきりに神だ!神だ!と呼んでいるが、この祭壇のこの供え物をカッと焼くその神こそが本物の神だ!」と言うのです。そして水を注ぎます。これ
は何の仕業ですか?火を、今火を待っている者が水を注ぐとは!これが!そうしてエリヤは何と言うかというと、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼びま
す。バアルとアシュラの預言者たちはあそこで何をしましたか?人間の行為!宗教的行為!熱心を振るいますね。一生懸命に歌を歌い、踊りを踊り、自傷行
為をしたりします。
これがすべて何ですか?今日のキリスト教会の礼拝堂に行けば、その仕業を皆やっているじゃないですか。ところが、あたかもそれが何というか、霊性が深
くて、ああもう私はこのように一生懸命に神様を賛美しているということを「ショーオフ(見せびらかし)」しているのです。ペンテコステ派の教会が皆その
ようにやるじゃないですか。あるいは、教会に一度行ってみてください。この人たちはイエスや神様について本当に話をしてみると、これっぽっちも知りま
せん。これっぽっちも!
しかし、あんなに幸せそうに賛美するのですが、私はそれをナイトクラブに行って人間がある種のエクスタシーを求めて狂奔するのと何ら変わりがないと思
うのです。踊り、歌い、宗教行事に熱心に励み、自傷行為をするというのは、人々が奉仕し、断食し、これが自傷行為です。実は、それをすることで人間は
「私が何かをした」と快感を感じるのです。これが今、神様に仕えると言っている今日の歪んだ宗教人たちの姿をそのまま見せているのです。それがバアルと
アシュラに仕えることなのです。
熱心を振るうのですが、神の預言者であるエリヤは冷や水をパッとかけると、アブラハム、イサク、ヤコブの神を呼びます。アブラハム、イサク、ヤコブの神
とは何ですか?アブラハム、イサク、ヤコブに神様がされたことは何ですか?契約をくださったじゃないですか。約束をくださったじゃないですか。約束の
神!人間の熱心や行為を見て、応答をされる神ではなく、ご自身がされた約束を守る、守られる神を呼んでいるのです。彼が神様にまことに仕えているので
す。すると神様がその祭壇に応答されるのです。火を燃やされる!
ですから、水というのは何かというと、祭壇に撒かれる水というのは何かというと、「神様の約束を信じます。私は自分のいかなる行為や、自分の出来栄え、
成熟の度合い!これを持って神様の前に出るのではなく、私は神様の約束を信じます」ということを告白することなのです。だから祭壇に水を撒くのです。
ところが、あの天!イエス様が何とおっしゃるかというと、「わたしが聖霊をあなたがたに水が注がれるように注いであげ、あなたがたが二度と渇かないよう
にしてあげる」と言われますが、まさにそのように聖霊が私の内に入って来られることによって、私たちが今、神の住まい(処所)となること!だから「仮庵
の祭り」です。「長幕の祭り(幕屋の祭り)」!
ここで何と言っていますか?なぜ仮庵の祭りを守れと言うかというと、「わたしがあなたがたを荒野で、つまりエジプトから引き出し、荒野であなたがたを助
けたではないか?それを記念せよ」と、今、仮庵の祭りを記念せよと言っていますね。しかし荒野で死ぬほど苦労したじゃないですか。皆さん、イスラエルの
荒野は二つの意味を抱いています。つまりエジプトと比較すれば、エジプトから出たという意味で荒野は天国です。
しかし約束の地、カナンの地!あのカナンと比較すれば、まだこの世です。だから荒野を私たちのこの歴史、人生と言うのです。ところが、ここに天国がこの
ように覆いかぶさってくるのです。それは荒野の人生です。それがイスラエルの荒野をまさに私たちの人生と対比させるのが、そういうことなのです。
それは荒野の人生です。ところで、あの荒野でイスラエルがしたことは何ですか?自分がどれほどの罪人であるか暴露され!それにもかかわらず、天から糧が
絶え間なく降って、彼らを養ったでしょう?
しかし結局、彼らの肉的な自己である第一世代は皆死んでしまい、恵みの第二世代が……何かが少しマシになったからではなく、マシになったのではなく、
ただ恵みの第二世代なのです。彼らがイエス様の恵みによってヨシュアを先頭に立ててカナンに入るのです。だから、私たちのこの人生の天国を、この世で
生きる私たちは、この世でたった一つ何をするかというと「死ぬ」ことです。そうでなければ天国に入ることができません。なぜなら神の国、統治というのは、
水曜日にもお話ししましたが、神の国という概念自体が「バシレイア、統治」ということであり、神の統治に完全に掌握された者たちが住む場所が、神への絶
対依存者が住む天国じゃないですか。
ですから聖徒がこの世で天国、神の国を生きるというのは、自分の思い通りに、自分がしたいように自分を統治しながら生きるその人生から、すべて引きずり
降ろされて、神の統治の中で私が自分のこの欲望を否定されながら生きることを「神の国を生きる」と言います。ですから、これを誤解するから、人間は神の国
をどのように描いているかというと、冒頭でお話ししたように、自分が望むものがすべてあり、それをすべて成就することができ、自分の好きなものがすべて
備わっている場所を神の国だと思っているから!「なぜ?私はこの世で神の国を生きられていないのか」このように言うのです。
しかし、皆さんは必ずそのような悩みをしてみなければなりません。「本当に神の国とは何か?」しかし、自分の思い通りに生きた時、皆さんは本当にそれが
幸せだったのでしょうか?自分の思い通りに生きて!皆さんは本当に人間としての幸せ、快楽を得ることはできますが、「幸福」に到達することはできませ
ん。聖徒は聖霊がその内に入って、それが本当の幸せではないということを必ず悟らせてくださいます。違うのだということです。だから聖徒はこの世で死
に続けるのです。
見てください。この仮庵の祭り、長幕の祭りがヨハネの黙示録を見れば、今、神様が21章で、幕屋が降りてきて私たちを覆うじゃないですか。その話を言っ
ているのですが、あえて「仮庵」を建てて出て行けと言います。だから最近もユダヤ人たちは、この仮庵の祭りになると、裏庭にテントを張り、そこで一週間過
ごします。見てください。天国を象徴するあの場所!あの節期になぜ仮庵を建ててそこに入って住めと言うのでしょうか。皆さん、そこが天国なのです。
私が望む広大な屋敷が、完全に私が望むもので備えられているような、そんなマンションが用意されている天国ではなく、私はこれを望まないのに、神様が
私と共に幕屋におられ、私を覆い私と共にいてくださることによって私を掌握され、私が望まないことが真に楽しく嬉しくなる場所が天国だというわけです。ああ、難しいですね。本当に、世の中でその簡単な話を難しくする三人のうちの一人なのですが、一人はパク・ヨンソン、一人は私、もう一人は誰だか知り
ません。それが天国だというわけです。だから私たちは見当違いなものを期待しているのです。今日のキリスト教はですね!
ですから、これを知り、これを伝えれば、一体誰が理解するでしょうか?さらにはこの世でまでも幸せを、自分たちが望むあの幸せを手に入れようとするそん
な人々が、神の国においてまでも自分たちが望むそんな天国を望んでいるのですから、そうでしょう?
皆さん!私たちがなぜこの罪の中に投げ込まれるか分かりますか?私たちがしたすべてのことが罪です。これは罪ということ自体がデフィニション(定義)
が、人々が社会法や道徳法、倫理、それを根拠にして禁止することをすること!これを皆「罪」だと言いますが、罪は「神の栄光のために生きないすべてのこと」
が罪です。被造物が神の栄光のために生きないすべてのことが罪なのです。
ところが聖書は「食べるにしろ飲むにしろ、神の栄光のために生きなさい」と言っています。そんなことまでも!ところが私たちは食べるにしろ飲むにしろで
はなく、すべてのことを「自分の栄光のために」生きるじゃないですか。この罪の中に神様が私たちを投げ込んでくださっては、「それは本当に幸せか?」と問
われるのです。皆さん、人生の中で。ところが、私たちの人生はそれがとても良いのです。そうでしょう?だから神様が私たちの人生に介入されるのです。
それを「パイデイア、懲らしめ(教育)」と言います。神様の介入を!
そう、懲らしめというのは単に罰を与えて叩く、これではなく、「子供作り」という意味です。それはですね、「幼子、パイディオン」から来た単語なのです。
だから、神様が私たちを「子供」にするために私たちの人生にただ介入されるのを「懲らしめ」と翻訳しておいたのですが、つまり神様が介入される人生は物事
がうまくいきません。とんでもない場所に引きずられて行ったり、このようになるわけです。
ですからそれを、つまりいつか私たちはそのようなものからこのように超越される日が間違いなく来るでしょう。私がこのように今日の夜明けのように、
いつも、ああ、主が……ただ一つも怖くなくこうですが、危急な状況になれば、必ず自分が助かる方向にハンドルを切るのです。
皆さん、奥さんが隣に乗ったのに、車が突然止まったから、こちらに回しました。すると「今、私に死ねってこと?」いや、自然にこちら(自分の方)へ行くの
ですよ。そう、フフッ!そしてパニックアタック(恐慌発作)というのがたまに訪れるじゃないですか。すると、ああ、これ非常に怖いです。恐ろしいです。
それは何ですか?死を恐れているという意味です、依然として!
うちの子が水に落ちた時、その子を助けに行くのですが、慌ててしまったので、私は水泳が非常に得意な人間なのです、島までも行き来したのですが、子が落
ちると、体がカチカチに固まって、私が先に沈んだのです。行く途中で沈みました、私は!それで、その状況でする考えは何かというと、「ああ、あの子を助け
なきゃ。そして私は助からなきゃ……」という疑問が湧いたのです、その心情が!
そうしながらこれに気づいたのです。ではその時に抱いた「死も怖くない」というのは、それは何か、神様が共におられた時、まさに私たちがその状態になると
いうことです。経験するのです。そして残りは歴史の中で私たちがどれほどか弱く、醜悪な存在であるかを学ぶのです。その話以外にありません。
だから私たちはただイエスの中で神の恵みによって、神様が完成させてくださり、「小さなイエス」たちにしてくださわなければならないのだな!ということ
を、この制限的で、この有限なこの肉体を着て学ぶのです。皆さん!あのイエス様が食事の席でもそうですし、ヨハネによる福音書!ヨハネによる福音書17
章でもそうですし、しきりに「完全な体、一つの体」という話をされますね。
そうしながら「キリスト・イエス、神がわたしの内に、わたしが神の内に、そしてあなたがたがわたしの内に」、非常に紛らわしいことをおっしゃるじゃないで
すか。それは何かというと、「父がわたしの内に、わたしが父の内に」、これは神様とイエス様が同じ方だという意味でしょう?「父がわたしの内に、わたしが
父の内に」、そして「あなたがたがわたしの内にいる」と言われます。
はい、では一度見てください。イエスの中に私が入っているのに、その私の中にまたイエスが入っています。そうでしょう?ガラテヤの信徒への手紙を見れ
ば、「キリストの内にある者たち」、彼らが聖徒だと言うじゃないですか。だから、イエスの中に私が入っているのに、私の中にまたイエスが入っていて、その
イエスは神様です。すると「私」という存在は、内も外もイエスで包まれた、包まれてしまった、包囲された存在!それを聖徒と言います。はい、それが「完全
な体」です。
私は内も外もすべて罪なので、イエスが外から取り囲み、内から突き進んで「私」になるのです。これが神の国、民の存在だというわけです。そうでなければ、
どこでも、内でも外でも「私」という存在が露わになれば、これは不完全な存在になるのです。
ですからイエス様があのように何度も繰り返して、「わたしが父の内に、父がわたしの内に、その方式でわたしがあなたがたを世に遣わし、あなたがたの内に
入り、わたしはあなたがたを包むのだ!」というふうに言うのですね。世の中で何をしろと?イエス様がこの世で神様を抱いて来られてされたことは何です
か?世の中がなぜ神様の恵みでなければ、すべて悪魔たちの世の中にならざるを得ないのかを、パッと暴露されたことでしょう?そうでしょう?
ですから聖徒がこの世で、今や「統一された体」として神様と連合した統一された体として、完全なそのような統一された体として存在するその目的は何かと
いうと、この世がすべて悪であり、なぜ神様がすべて地獄の火に投げ込んでも何の文句も言えない場所なのかを明らかにすることです。だから聖徒は「恵みだ
けを誇る者」にならなければならないのです。
だからこの聖徒が何というか、「わあ、私がこのようにイエスを信じてこんなに素晴らしい人になりましたね!こんなに影響力のある者になりましたね!」これ
を誇り始めれば、その人自身が「世の中」になるのです。すると皆さんはイエス様の恵みだけを誇り、イエス様の恵みだけを現せばいいのです。それが聖徒で
す。
皆さん、今週の日曜日にローマの信徒への手紙を講義するために、1章の後ろの部分を講義するために、もう長い間閉じておいた『論語』『孟子』『老子』、このよう
なものを再び取り出して読んでいますが、本当に驚くべきことです。大した人たちですよ、その人たちは!今見てみると、なぜ聖書が、神様が、その聖書であ
のようなことを記録しておかれたのか、昔、私は最初に勉強した時は分かりませんでした。
しかし今は分かります。人間がどこまで登って行こうとしているのかが分かる気がします。本当に神に勝るとも劣らない言葉を並べているのですよ。私は
『論語』を見ながらびっくりしたのが、「わあ、この人は本当に『天』を知っていると思って行ったのだな!」と。鳥肌がゾーッと立ちました。
ところが孔子や、この世に今あるこの教会が話していることと同じですよ。私はびっくりしました。今日の教会の姿を、孔子がすでにイエス様以前にすべて
書き残していたのですよ、あそこに!そして孔子も「天」を話します。「天」、自然を動かす「道(タオ)」を「天」と言うのですよ。孔子が天を知っていたというの
です、自分は!
だから孔子は何と言っていますか?「五十にして天命を知る(知天命)」!天の意志を知っているというのです、自分は!ところが今日、天の意志を知っている
という人々が、孔子のように「仁・義・礼・智・信」!これだけを教会が追求すべきこととして握りしめているのです。「人がどのようにすれば道徳的に変わり成熟
するのか、どのように世の中に対して非常に素晴らしい人に見えるか?」
私が先週の説教で、同性愛についてのこと、離婚した人についての話、このようなことを擁護したら、あちこちで知ったかぶりをする非常に賢い人が本当に
多いです。あのブログに、ああ!キム・ソンス、ついに頭がおかしくなった!とか、このようにまた上がってきた!「だからパニック障害のような病気にもかか
るのだ!」などと言いながら、「どうして人が、離婚した人、同性愛者、こんな人たちを牧師が擁護できるのか?」と言って、袋叩きにまた一昨日(おととい)あ
たり、ものすごく遭って!
私は本当にありがたいのが、IDやIPをこのように追跡してみると、ある一人の人が、どうやって見つけるのか、その場所に行って必ず私を弁護してくれる人
がちょうど一人います。うちの教会員のようですが、「あなたたちがその牧師さんの真意をどうして分かってこのように勝手に!説教一本でこのように評価
するのか?」と、ああ、その人が誰なのか是非知りたいのですが。IP追跡をして、まさにあのタイプ!あの人!一人います。さらにはYouTubeのようなところ
でも、誰かがこのように見当違いなコメントを付けておくと、その下に行って、必ずそんなコメントを付けてくれる人がいるのですが、もしかしたらこの中に
いらっしゃるかもしれませんが、感謝します。
皆さん、道徳と倫理とは何ですか?一体?それはイエスを信じない人たちも皆やっていることじゃないですか。それなのにキリスト教のその目的と核心がそ
れでしょうか?それを「するな」というのではなく、「それだけ」を私たちの目的にすれば、イエス・キリストの栄光とその方の恵みと功績を、私たちはいつ受け
取ったのか?これを振り返ってみようと話しているのです。それは当然することです、人間であれば!
そしてまた、何とか(OOO)神父様、私は名前も言っていませんが、それを話したと言って、そんな追随者たちがまたあれですが、事実なのですよ。あの方
は亡くなる前までそうでした。「私はほぼ完全に聖化(せいか)されたので、ああ、罪を犯すことの方が、罪を犯さないことより難しい!」といつもおっしゃっ
ていました。本当に不思議でした。そうしたらまた、後には原罪がないのだとしきりに言われて!しかし改革主義陣営の首長でいらっしゃるじゃないです
か。ああ、だから危険だ!
講義にまたどれほどたくさん通われますか?熱心に通われるのですが、その話を持って「聖化の話!原罪の話!」をあちこちに広めて歩いておられますが、
神様が東南アジア旅行に行かれてこのスノーケリング中に溺死されました(※註:皮肉な表現)。防いでおられるのです、この方を!
聖化というのは、自分がどれほど罪人であるかを悟っていくことであり、そこから始まるあの神様の恵みにすがる者の人生から「撃発(げきはつ)」されたも
のを「聖化」と言うのであって、世の中の人も皆できる道徳と倫理が皆さんの中でよく守られ施行されるなら、孔子が最高でしょう?神の国に行けば、あそこの
イエス様の隣に孔子が座っていなければなりません。あの人はすべて守りました。だからこそ「知天命」という言葉を言ったのでしょう?「私は天の意志を知っ
ている!」
キリスト教の追求点はそこではありません。「イエス!十字架」なのです。ですから皆さん、この世の中で「仮庵」を建てて住まわせるのです。「それでも、お前は
わたしだけにすがれるか?それでも、お前はわたしを愛せるか?」と問われるのです、その仮庵の中で!「そうです。それでも私は、私を愛してくれる神様だけ
を愛します」このように学んで行くのです。私たちは他のことはありません。そして神様が「体」を変えてくださるのですよ。
変えてくれれば、この世で皆さんがいくら向上させ、成熟させておいたその肉体はすべて消え去り、否定されるのです。変えてくれれば!皆さんがそのよう
に作り上げ、成熟させ、立派に、誇らしく作り上げたその肉体!それは比較することもできない完璧な「小さなイエス」になるのです、それを変えてくれるとい
うことで、新しい体に!
なのに、なぜ自分が努力をしてそこに登って行こうとするのでしょうか?イエスの恵みを知り、「そうです、イエス様、変えていただかなければなりません
ね!これではありませんね」とこちら(降伏)へ行けと言ったのに、「自己啓発」をして自ら天に届こうとするのではないですか?それがバベルの塔です。
他のことはありません。ただイエス様のあの恵みと愛!それを学んでください。そしてそこに浸ってください。
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절기강해 (09) - 초막절 (레23:33-44)
(기도) 하나님의 은혜가 우리 안에 가득하시고, 이 세상에 하나님의 말씀께서 말씀하셨사오니 그렇게 아름다울 수가 없습니다. 존재하는 그러한 그 하나님의 말씀에 그토록 크심에 저희가 그렇게 길게 들어가 있질 못합니다. 그래서 늘 세상이 우울하고 외롭고, 고통스러울 때 하나님은 우리 안의 말씀이 더욱 더 확고하고 깊게 자리 잡아, 하나님과 함께 하는 이 세상이 그 어떤 환경과 상황 속에서도 아름답고, 들어가면서 행복한 묵시되게 하여 주옵소서. 예수님의 이름으로 기도합니다. 아멘.
레위기 23장 33절부터 읽어드리겠습니다.
(레위기 23:33-44)
33 여호와께서 모세에게 말씀하여 이르시되
34 이스라엘 자손에게 말하여 이르라 일곱째 달 열닷샛날은 초막절이니 여호와를 위하여 이레 동안 지킬 것이라
35 첫 날에는 성회로 모일지니 너희는 아무 노동도 하지 말지며
36 이레 동안에 너희는 여호와께 화제를 드릴 것이요 여덟째 날에도 너희는 성회로 모여서 여호와께 화제를 드릴지니 이는 거룩한 대회라 너희는 어떤 노동도 하지 말지니라
37 이것들은 여호와의 절기라 너희는 공포하여 성회를 열고 여호와께 화제를 드릴지니 번제와 소제와 희생제물과 전제를 각각 그 날에 드릴지니
38 이는 여호와의 안식일 외에, 너희의 헌물 외에, 너희의 모든 서원제물 외에 또 너희의 모든 자원제물 외에 너희가 여호와께 드리는 것이니라
39 너희가 토지 소산 거두기를 마치거든 일곱째 달 열닷샛날부터 이레 동안 여호와의 절기를 지키되 첫 날에도 안식하고 여덟째 날에도 안식할 것이요
40 첫 날에는 너희가 아름다운 나무실과와 종려나무 가지와 무성한 나무 가지와 시내 버들을 취하여 너희의 하나님 여호와 앞에서 이레 동안 즐거워할 것이라
41 너희는 매년 이레 동안 여호와께 이 절기를 지킬지니 너희 대대의 영원한 규례라 너희는 일곱째 달에 이를 지킬지니라
42 너희는 이레 동안 초막에 거주하되 이스라엘에서 난 자는 다 초막에 거주할지니
43 이는 내가 이스라엘 자손을 애굽 땅에서 인도하여 내던 때에 초막에 거주하게 한 줄을 너희 대대로 알게 함이니라 나는 너희의 하나님 여호와이니라
44 모세는 이와 같이 여호와의 절기를 이스라엘 자손에게 공포하였더라
마지막 절기가 초막절, 봄절기부터 시작하는 유월절! 무교절! 그 다음에 초실절! 봄절기라 그랬죠? 예, 예수님의 죽으심! 십자가의 죽음! 그리고 무덤 속의 현실! 또 부활이라 그랬는데, 봄절기고, 45일 후에, 그러니까 50일째 되는 날! 오순절날! 성령이 오시는 거고요. 성령이 오시고, 4개월 동안 열심히 농사를 짓죠. 그래서 넉 달 동안 하나님의 백성들이 추수가 되는 거죠. 그래서 추수가 되고, 그 다음에 이제 가을 절기에서 나팔절, 속죄일, 초막절! 그래서 끝나는 거예요. 여기서 인류의 역사가 끝납니다. 예, 끝나고 하나님나라의 영원한 안식이 찾아오는 거죠.
그래서 초막절 절기를 보면, 기뻐해라! 그래요. 명령으로 인도하는 대로 기뻐해라! 하나님의 명령은 항상 하나님의 의지의 표현입니다. 나는 기뻐 받을 거야! 그래서 하나님나라에 가면, 여러분이 많이 기쁠 거예요. 그런데 이 세상에서 여러분이 하나님 나라를 산다고 그러잖아요? 그런데 이 세상에서 그 예수를 믿는 것이, 문득 문득 제가 인제 하도 너무 그 세상에서 죽어야 된다, 죽어야 된다 그러니까, 마치 기뻐하면 안 되는 것처럼! 기쁨이 넘쳐오면 막 억지로 입을 틀어막고, ‘안 돼! 아파야 돼!’ 이러고 그러는데, 아녜요. 기뻐요. 현실을 바라볼 때는, 하 고통스럽죠. 그런데 그 와중에 하나님이 나를 구원하셨다는 그 현실이 나에게 감지될 때가 있잖아요? 그죠?
저 오늘 이제 한 두 시쯤 나왔는데, 나와서, 이렇게 가만히 앉아 있어요. 가만히 앉아서, 뭐 기도라는 기도! 저는 기도를 그렇게 하는데, 그냥 앉아서 하나님 생각을 해요. 그게 기도죠. 뭐 딴게 무슨 기도 있겠어요? 그냥 가만히 앉아서, ‘야! 어떻게 이렇게 목사가 되어서, 하나님의 그 말씀을 전하는 사람이 되었지?’ 이렇게 생각하면서, 어, 그리고 그 죽음이라는 거 자체가….
어제 뭐, 장원천 집사님 병원을 잡아주셔서, 그런 거는 다행인데 뭐, 거기에서 뭐가, 뭐 굉장히 그 안 좋은 결과가 나와도 괜찮을 것 같다는 생각이 문득 들고, 왜냐하면? 죽음이 너무 두렵지 않으니깐요. 그리고 또 한편으로는 이런 생각도 들더라고요. 아이 뭐가 됐던 이거 초기에 발견되면 안 되는데, 이 연금부터 받기에 제가 한방에 갔는데, 초기에 발견이 되어서, 마음고생을 하고, 딴 사람들 고생을 시키면 어떡하지? 이러고 그러면서, 어 어떻게 제가 이 죽음을 두렵지 않아 하는 사람이 됐을까? 이렇게 생각하니까 막 기쁜 거예요.
이렇게 아침마다 가스펠 송 제가 했거든요. 저는 참새소리에 잠을 깨는 게 아니라, 참새를 새벽부터 나와서 기다리잖아요? 기다렸다가, 어느 순간이 되면 새들이 요 지붕에, 양철지붕에 와서 쫙 앉아서, 뭐 일찍 일어나는 새가 무슨 벌레를 일찍 먹는다, 그러더니 얘네는 늦잠, 굉장히 늦잠 자는 거 같아요. 인제 다섯 시 반쯤부턴가요? 그 여섯 시나 와서, 그 재잘재잘 대고…! 그러면 제가 막 화가 났어요. ‘야! 내가 무슨 죄를 졌길래 맨날 새들을 기다리는 이런 삶을 살아야 되나? 참새 소리에 깨는 이런 삶을 살아야지! 아니 인간으로 태어나서 이렇게 맨날 이렇게 새를 기다리는 자로 살아야 되나? 이거 참 고단하다!’
그런데 그 하나님나라를 생각하면, 뭐 이 세상에서 그런 좀 어렵고 고단한 일들 쯤이야! 아니 이겨낼 수 있다는 그런 꿈을 주시더라고요. 그러한 기쁨들이 이 역사를 살아가면서, 천국을 사는 사람들에게 분명히 있어요. 음 있는데, 그렇게 이제 하나님께서 우리를 장악하실 때, 그런 것들이 이제 소망으로, 참 기쁜데, 그렇지 못할 때가 훨씬 많은 거예요. 우리에게!
그래서 그 하나님께서 우리에게 그런 걸 허락하신 건, 정말 하나님나라가 얼마나 소중한 것인지를 우리에게 가르치시기 위한 거거든요. 그래서 우리는 천국에 가서도 아마 이 세상에서의 여러분의 그 삶에 그 어떤 연속성 상에서 천국을 사실 거예요. 그래서 이 세상의 삶이 아무런 가치가 없는 게 아녜요. 많이 경험하시고, 많이 배우시고 그러셔야 되는 거예요.
그래서 내 이 육신으로 다 경험하지 못하는 걸, 우리는 책이나 영화나, 이런 것을 이제 경험을 하는 건데, 그래서 저는 아이들에게도 영화를 많이 보라고 그러고, 요즘 우리 아이들에게 그 한국말을 가르치려고 도무지 일 주일을 안 가더라고 말이죠. 이 드라마를 보게 했어요. 말을 배우라고! 그랬더니 애들이 드라마에 중독이 되어서, 집으로 가면 씨크릿가든 보고 있고, 그래서 ‘야! 공부를 해야지! 드라마만 보면 어떻게 하냐?’ 그랬더니, 아빠가 보라고 그랬다고…. 아주 그냥 애들을 망치고 있는데…. 그럼에도, 그런 것들을 보면서, 이제 간접경험들을 하게 하는 게 저는 괜찮다고 봐요. 그래서 뭐 만화책도 저는 사줘요. 애들은 뭐 만화는 보면 안 된다 그러는데, 저는 만화 보면서 굉장히 많은 걸 배웠거든요. 예전에! 만화책 보면 어때요? 만화 안에도 우리가 간접 경험할 수 있는 그런 것들이 많아요.
그런데 사람들이 악한 의도를 갖고, 그 사람들에게 그 말초신경만을 자극하여 만드는 드라마나 영화나 만화, 이런 게 있으니까, 그게 나쁜 거지 뭐, 그렇게 해서 여러 가지 경험을 해서, ‘야! 세상이 참 이런 곳이구나! 그래서 하나님의 은혜가 우리에게 가입하지 않으면 우리는 참 큰일 나는 그런 존재들이구나!’를 잘 배운다면, 여러분 뭐가 나쁘겠어요?
그래서 성경도 ‘하나님이 주신 모든 것이 선함에…’ 그러죠? 그래서 감사함으로 받으면 나쁜 게 하나도 없다는 건데, 우리가 자꾸 나의 유익과 쾌락만을 위해서 그런 거를 이용하니까, 나쁜 거죠. 그래서 뭐 이제 좋은 진통제가 과용을 하고, 오용을 하니까, 마약이 되고…. 뭐, 뭐 이렇게! 그 인간들은 좋은 거를 하나님이 주시면, 항상 자기의 배를 위해서 사용하니까, 이제 다 자기를 해치는 흉기들이 되는 거지만! 하나님이 성령의 장중 하에 창조되는 모든 게 어떻게 나쁜 게 있겠어요?
그런데 우리가 우리 안에 있는 이 마귀가 그걸 잘못 사용하니까, 그렇게 되는 거죠. 그래서 우리는 이 세상 속에서 반드시 그 천국의 그 소중함을 분명히 배워야 돼요. 그래야 그곳에 가서, 아, 우리가 원하는 어떤 것이 있어서가 아니라, 그리고 내가 원하는 모든 걸 할 수 있는 곳이어서가 아니라, 정말 하나님이 나를 통치하시는 그 곳! 아 그 곳이 정말 행복이며, 그것이 정말 가치 있는 것이구나를 배우고, 거기서 진짜 행복하게 사는 거죠.
그래서 여러분은 이 세상 속에서 하나님의 말을 안 들었을 때 겪는 그런 고통과 고민! 이런 것들을 많이 하고 가셔야 돼요. 많이 경험하고, 또 많이 고민하고 가시고, 가셔야 되는데, 이런 성경에 이렇게 우리가 이제 즐거움에 완전히 이제 장악되는 이런 구절들을 이렇게 보면, 어! 우리에게 소망이라는 게 있잖아요? 이거 이기라고 이렇게! 이제 간혹 우리에게 이런 천국의 현실을 보여주시는 거죠.
그래서 요한계시록 같은 거, 이렇게 보면, 막 가슴이 뛰잖아요? 언젠가 ‘이제 봤지? 이 세계!’ 이렇게 사람들에게, ‘내가 사는 게 맞는, 맞았다는 거! 이제 알았지?’라는 요날이 분명히 온다는 것을 그 계시록을 보면 확고히 알 수 있잖아요? 그러니까 현실을 이기고 살 수 있는 거죠.
그래서 초막절이라는 건, 초막절! 예수님께서 초막절에 그 성전에 올라가셔서 한 유명한 그런 강화가 있죠? 요한복음 7장인가요? 그거 보면은 ‘목마른 자들아 다 내게로 와서 마셔라!’ 예, 보면, ‘너희 안에 생수가 흘러넘칠 것이다!’ 이건 성경이 이제 다 연결이 되어 있는 건데, 초막절에는 물과 불의 잔치가 벌어져요.
그래서 밤에는 거대한 초를 세우고, 그리고 집집마다 일곱 개의 촛불을 세워야 돼요. 그래서 밝히는 거예요. 밝히고, 낮에는, 이제 그 시내에 나가서 시냇물을 퍼다가, 가르못인가요? 그 시내물을 퍼다가, 성전 제단에다가 뿌리고 물잔치를 벌입니다. 낮에는 물 쇼, 밤에는 불 쇼가 벌어지는 거죠.
그런데 이 물에 관한 이야기는 그 성경 여러 곳에서 나오지만, 이 예수님께서 물을 성령이라고 이야기를 하신 건, 바로 이제 초막절에 부어지는 물을 가리키는 거거든요. 그런데 이거 에스겔서 같은 데 보면, 성전에서 지금 물이 흘러나오고, 어! 그 이야기가 어디서 나오느냐 하면, 예표되는 게, 열왕기서에 보면, 엘리야가 그 바알과 아세라 선지자와 함께 갈멜산에서 싸우죠? 그때 엘리야가 단에다가 물을 붓습니다. 기드온도 마찬가지예요.
왜 제단에 물을 붓는가? 그건 그러니까 그 갈멜산에서 그 이방의 그 선지자가 사실, 이방 선지자라고 하지만, 그들이 다 이스라엘의 선지자라는 걸 잊으면 안 돼요. 여러분! 그들이 다 하나님의 제사장들이었어요. 선지자들이었는데, 바알과 아세라라고 그냥 이름을 붙여놓은 거지, 이스라엘의 선지자는 하나님의 선지자인데, 그들이 하나님을 자기들이 조작하고, 왜곡한, 제가 인간의 욕망이 투사된, 인간이 만들어낸 하나님을 하나님으로 섬겼다는 의미에서 바알과 아세라 선지자라고 하는 거예요. 다 이스라엘의 아합왕의 선지자들이었단 말입니다.
그러니까 오늘날도 똑같은 거죠. 그러니까 나를 도와주고, 이 땅에서의 그 내 배를 채워주는 데, 도움을 주는 그런 하나님을 하나님이라고 불렀던! 그래서 엘리야가 뭐라 그래요? ‘야! 누가 너희들이 부르는 신과 내가 부르는 신! 둘 중에 제단의 그 제물을 불로 태우는 게 참 하나님이다’라고 그러죠? 그러니까 바알과 아세라 선지자들이 무얼 섬겼다는 거예요? 하나님을 섬겼다는 거예요. 가짜 하나님을!
‘너희들이 자꾸 하나님이다! 신이다! 부르는데, 이 제단의 이 제물을 확 태우는 그 하나님이 진짜 하나님이다!’ 그런다고요. 그리고는 물을 부어요. 이건 무슨 뭔 짓이에요? 불을 지금 불을 기다리는 자가 물을 붓다니요? 이게! 그러면서 엘리야가 뭐라 그러느냐 하면, 아브라함과 이삭과 야곱의 하나님이라고 부르죠. 바알과 아세라 선지자들은 뭘 했어요? 거기서? 인간들의 행위! 종교적 행위! 열심을 부리죠. 열심히 노래를 부르고, 춤을 주고, 자해를 하고 그래요.
이게 다 뭐예요? 오늘날 교회 예배당에 가면 그 짓들 다 하죠? 그런데 마치 그게 무슨 뭐, 영성이 깊어서 아주 그냥, 나는 이렇게 열심히 하나님을 찬양한다는 걸 쇼 오프(show off)하는 거죠. 오순절 교회들이 다 그렇게 하잖아요? 혹은 교회 한 번 가보세요. 이 사람들은 예수나 하나님에 대해서 정말 이야기를 해보면, 요만큼도 몰라요. 요만큼도!
그런데 그렇게 행복하게 찬양을 하는데, 나는 그걸 나이트클럽에 가서 인간들이 그 어떤 엑스타시를 원해서 발광하는 거나 다를 바가 하나도 없는 거예요. 춤추며 노래하며 종교행위를 열심히 하고요. 자해를 한다는 건, 사람들이 이제 봉사하고, 금식하고, 이게 자해행위예요. 사실은 그걸 함으로써 인간들은요, 내가 뭘 했다고 쾌감을 느끼거든요. 이게 지금 하나님을 섬긴다고 하는 오늘날의 왜곡된 종교인들의 모습을 그대로 보여주는 거예요. 그게 바알과 아세라 섬기는 거거든요.
열심을 부리는데, 하나님의 선지자인 엘리야는 찬물을 쫙 끼얹더니 아브라함과 이삭과 야곱의 하나님을 불러요. 아브라함과 이삭과 야곱의 하나님이 뭐예요? 아브라함과 이삭과 야곱에게 하나님이 하신 게 뭐죠? 언약을 주셨잖아요? 약속을 주셨잖아요? 약속의 하나님! 인간들의 열심과 행위를 보아서, 응답을 하시는 하나님이 아니라, 자신이 하신 약속을 지킨, 지키시는 하나님을 부르는 거라고요. 그가 하나님을 참으로 섬기는 거예요. 그랬더니 하나님이 그 제단에 응답을 하시는 거죠. 불을 태우시는!
그러니까 물이라는 것은 뭐냐 하면, 제단에 뿌려지는 물이라는 것은 뭐냐 하면, ‘하나님의 약속을 믿습니다. 나는 내 어떤 행위나, 나의 됨됨이나, 성숙의 정도! 이걸 갖고 하나님 앞에 가는 것이 아니라, 저는 하나님의 약속을 믿습니다.’라는 것을 고백하는 거예요. 그래서 제단에 물을 뿌리는 거죠. 그런데 그 하늘! 예수님께서 뭐라 그러느냐 하면, 내가 성령을 너희들에게 물 붓듯 부어주어서 너희들이 다시는 목마르지 않게 하겠다고 이야기를 하는데, 바로 그렇게 성령이 내 안에 들어오심으로 말미암아, 우리가 이제 하나님의 처소가 되는 거! 그래서 초막절이에요. 장막절!
여기서 뭐라 그래요? 왜 초막절을 지키라고 하느냐 하면, 내가 너희들을 광야에서, 그러니까 애굽에서, 끌어내어 광야에서 너희를 도왔지 않니? 그걸 기념하라고, 지금 초막절을 기념하라고. 그러죠. 그런데 광야에서 죽도록 고생했잖아요? 여러분, 이스라엘의 광야는 두 가지 의미를 품고 있어요. 그러니까 애굽과 비교를 하면 애굽에서 나왔다라는 의미에서 광야는 천국이죠.
그런데 약속의 땅, 가나안! 그 가나안과 비교를 하면, 아직 세상이죠. 그래서 광야를 우리의 이 역사, 인생이라고 하는 거예요. 그런데 여기에 천국이 이렇게 덥쳐 오는 거죠. 그건 광야의 인생이에요. 그건 이스라엘의 광야를 바로 우리의 인생과 대비하는 게, 그런 거거든요. 그건 광야의 인생이에요. 그런데 그 광야에서 이스라엘이 한 게 뭐예요? 자기가 얼마나 죄인인지 폭로가 되고! 그럼에도 불구하고, 하늘에서 양식이 끊임없이 내려서, 그들을 먹이죠?
그러나 결국 그들의 육적 자아가 1세대가 다 죽어버리고, 은혜의 2세대가 뭐가 좀 나아지지, 나아진 게 아니라, 그냥 은혜의 2세대예요. 그들이 예수님의 은혜로 여호수아를 앞세워서 가나안에 들어가는 거예요. 그러니까 우리의 이 인생 천국을, 이 세상에서 사는 우리는 이 세상에서 딱 한 가지 하는 게 뭐냐면? 죽는 거예요. 그래야 천국에 들어갈 수 잇어요. 왜냐면? 하나님나라, 통치라는 게, 수요일에도 말씀드렸지만, 하나님나라라는 개념 자체가 ‘바실레이아, 통치’라는 거 자체가, 하나님의 통치에 완전히 장악된 자들이 사는 곳이 하나님 절대 의존자가 사는 천국이잖아요?
그러니까 성도가 이 세상에서 천국! 하나님나라를 산다는 건, 내 마음대로 내가 하고 싶은대로 내가 나를 통치하면서 사는 그 삶에서 전부 빌려 내려가서, 하나님의 통치 속에서 내가 나의 이 욕망을 부정당하며 사는 걸 하나님나라를 산다, 그래요. 그러니까 이것을 오해를 하니까, 인간들은 하나님나라를 어떻게 그리고 있냐면, 서두에 말씀드린 것처럼 자기가 원하는 게 다 있고, 그걸 다 성취할 수 있으며, 자기가 좋아하는 것들이 모두 구비가 되는 곳을 하나님나라라고 여기니까! 왜? 내가 이 세상에서 하나님나라를 못 살고 있죠. 이렇게 얘기를 하는 거예요.
그런데 여러분이 반드시 그런 고민을 해보셔야 돼요. 진짜 하나님나라가 뭔가? 그런데 내 마음대로 살았을 때, 여러분이 정말 그게 행복하더냐고요? 내 마음대로 살아서! 여러분이 진짜 그 인간에 행복! 쾌락을 얻을 수 있지만, 행복에 도달할 수는 없어요. 성도는 성령이 그 안에 들어와서 그게 참 행복이 아니라는 걸, 반드시 깨우쳐주세요. 아니라는 거죠. 그래서 성도는 이 세상에서 계속 죽는 거예요
보세요. 이 초막절, 장막절이 요한계시록을 보면, 이제 하나님께서 21장에 보면, 장막이 내려와서 우리를 덮잖아요? 그 이야기들을 하는 건데, 굳이 초막을 짓고 나가라 그래요. 그래서 요즘도 유대인들은요, 이 초막절이 되면, 뒤뜰에다가 텐트를 치고, 거기서 일주일을 살아요. 보세요. 천국을 모형하는 그곳! 그 절기에 왜 초막을 짓고 거기서 들어가서 살라 그러느냐고요? 여러분, 그게 천국이라니깐요.
내가 원하는 고대광실이 완전히 내가 원하는 것들로 구비되어 있는 그런 맨션이 준비되어 있는 천국이 아니라, 나는 이걸 원치 않는데, 하나님이 나와 장막에 계셔서, 나를 덮도 나와 함께 하심으로 말미암아 나를 장악하셔서 내가 원치 않는 것이 참으로 즐겁고 기쁘게 되는 곳이 천국이다 말이에요. 아이고 어렵네. 참, 세상에 그 쉬운 말을 어렵게 하는 세 사람 중에 하난데, 한 사람은 박영선 한 사람은, 저 한 사람은 누군지 몰라요. 그게 천국이란 말이에요. 그러니까 우리는 엉뚱한 것들을 기대하고 있는 거예요. 오늘날 기독교는 말이에요!
그러니까 이걸 알고, 이걸 전하면 도대체 누가 알아먹겠냐고요? 심지어는 이 세상에서까지도 행복을, 자기들이 원하는 그 행복을 챙기려고 하는 그런 이들이 하나님나라에서까지도 자기들이 원하는 그런 천국을 원하고 있으니, 그거 아녜요?
여러분! 우리가 왜 이 죄 속에 던져지는지 아세요? 우리가 한 모든 게 죄죠. 이건 뭐 죄라는 거 자체가 데퍼니션(definition)이 뭐 사람들이 사회법이나 도덕법 윤리로 그걸 근거로 하여 금지하는 어떤 것들을 하는 것! 이걸 다들 죄라고 하는데, 죄는 하나님의 영광을 위해서 살지 않는 모든 게 죄예요. 피조물이 하나님의 영광을 위해서 살지 않는 모든 게, 죄라고요.
그런데 성경은 먹든지 마시든지 하나님의 영광을 위해 살래요. 그거까지도! 그런데 우리는 먹든지 마시든지가 아니라, 모든 일을 나의 영광을 위해서 살잖아요? 이 죄 속에 하나님이 우리를 던져주시고는 그게 진짜 행복하더냐? 물으시는 겁니다. 여러분, 인생 속에서, 그런데 우리의 인생은 그게 참 좋아요. 그죠? 그래서 하나님이 우리의 인생에 개입하시는 거예요. 그걸 ‘파이데이아, 징계’라 그래요. 하나님의 개입을!
그래, 징계는 막 벌주고 때리고, 이게 아니라, 자식 만들기란 뜻이에요. 그건요. ‘어린아이, 파이디온’에서 나온 단어거든요. 그러니까 하나님이 우리를 자식 만들기 위해서 우리의 삶에 그냥 개입하시는 그걸, 징계라 그러지, 번역을 해놨는데, 그러니까 하나님이 개입하시는 인생은 일이 잘 안 돼요. 막 엉뚱한 곳으로 끌려가게 되고, 이렇게 된다 말입니다.
그러니까 그거를, 그러니까 언젠가 우리는 그런 것에서 이렇게 초월되는 날이 분명히 올 거예요. 제가 뭐 이렇게 오늘 새벽처럼, 늘 아, 주님이 그냥 하나도 두렵지 않고 이렇지만, 위급한 상황이 되면, 꼭 자기 사는 방향으로 핸들을 꺾더라고요.
여러분, 와이프가 옆에 탔는데, 차가 갑자기 서버리니까, 이리로 돌았어요. 그랬더니, ‘지금 나 죽으라는 거지?’아니 자연스럽게 이리로 가더라고요. 그렇게 흐흐! 그리고 패닉어택이라는 게 가끔 찾아오잖아요? 그러면 어, 야, 이거 굉장히 두려워요. 공포스러워요. 그게 뭐예요? 죽음을 두려워하고 있다는 뜻이에요. 여전히!
우리 아이가 물에 빠졌을 때, 그 아이를 구하러 가는데 당황이 되니깐, 제가 수영을 굉장히 잘 하는 사람이거든요. 섬까지도 왔다 갔다 했는데, 애가 빠지니까, 몸이 뻣뻣하게 굳어져서, 제가 먼저 빠지더라고요. 가다가 빠졌어요. 저는요! 그랬는데, 그 상황에서 드는 생각이 뭐냐면, ‘어 쟤 살려야 돼. 그리고 나 살아나야 되는데, 의문이 들더라고요. 그 심정이!
그러면서 이거 깨달은 거예요. 그러면 그 때 들었던 그 죽음도 두렵지 않은 건, 그건 뭔가 하나님이 함께 하셨을 때, 바로 우리가 그 상태가 된다는 거예요. 경험하는 거예요. 그리고 나머지는 역사 속에서 우리가 얼마나 연약하고 추악한 존재인지를 배우는 거예요. 그 말 말고 딴 거 없어요.
그래서 우리는 그냥 예수 안에서 하나님의 은혜로 하나님이 완성하셔서, 작은 예수들로 만들어주지 않으면 안 되는구나!를 이 제한적이고, 이 유한한 이 육신을 입고서 배우는 거예요. 여러분! 그 예수님께서 식사자리에서도 그렇고, 요한복음! 요한복음 17장에서도 그렇고, 자꾸 온전한 몸! 한 몸! 이런 이야기들을 하시죠?
그러면서 그리스도 예수, 하나님이 내 안에, 내가 하나님 안에, 그리고 너희가 내 안에, 굉장히 헷갈리는 말씀을 하시잖아요? 그게 뭐냐면? 아버지가 내 안에, 내가 아버지 안에, 이건 하나님과 예수님이 같은 분이라는 뜻이죠? 아버지가 내 안에, 내가 아버지 안에, 그리고 너희가 내 안에 있다 그래요.
응, 그러면 한번 보세요. 예수 안에 내가 들어 있는데, 그 내 안에 또 예수가 들어있어요. 그죠? 갈라디아서를 보면, 그리스도 안에 있는 자들! 그들이 성도라고 얘기하잖아요? 그러니까 예수 안에 내가 들어 있는데, 내 안에 또 예수가 들어 있고, 그 예수는 하나님이에요. 그러면 ‘나’라는 존재는 안과 밖이 예수로 싸인, 싸여버린, 포위당한 존재! 그걸 성도라고 하죠. 예, 그게 온전한 몸이에요.
나는 안팎이 다 죄기 때문에, 예수가 밖에서 두르고, 안에서 치고 와서 ‘나’가 되는 거예요. 이게 하나님나라 백성의 존재라는 거예요. 그러지 않으면 어디서나, 안이나 밖이나, ‘나’라는 존재가 드러나면, 이건 불완전한 존재가 되는 거예요.
그래서 예수님께서 그렇게 여러 번 반복해서, 내가 아버지 안에, 아버지가 내 안에, 그 방식으로 내가 너희들을 세상에 보내며, 너희들 안으로 들어갈 거고, 나는 너희를 감쌀 거야! 이런 식으로 얘기하는 거죠. 세상에서 뭐 뭐 하라고요? 예수님이 이 세상에서 하나님을 품고 오셔서 하신 일이 뭡니까? 세상이 왜 하나님의 은혜가 아니면, 전부 마귀들의 세상일 수밖에 없는가를 확 폭로하신 거잖아요? 그러죠?
그러니까 성도가 이 세상에서 이제 통일체로서 하나님과 연합된 통일체로서 온전한 그런 통일체로서 존재를 하는 그 목적이 뭐냐면, 이 세상이 전부 다 악이며, 왜 하나님이 다 지옥불에 던져도 아무런 할 말이 없는 곳인지를 드러내는 거예요. 그래서 성도는 은혜만 자랑하는 자가 되어야 된다니깐요.
그러니까 이 성도가 무슨, ‘뭐 내가 뭐 이렇게 예수 믿고 이렇게 훌륭한 사람이 됐네요! 뭐 이렇게 영향력 있는 자가 되었네요!’ 이걸 자랑하기 시작하면, 그 사람 자체가 세상이 되는 거예요. 그럼 여러분은 예수님의 은혜만 자랑하고, 예수님의 은혜만 드러내시면 돼요. 그게 성도예요.
여러분, 이번 주일날 로마서를 강해하기 위해서 그 1장 뒷부분 강의하기 위해서 이제 오랫동안 덮어놨던 논어, 맹자, 노자 이런 걸 다시 꺼내서 읽어보고 있는데, 참 기가 막혀요. 난사람들이에요. 그 사람들은! 이제 보내까! 왜 성경이, 하나님이, 그 성경에서 그런 것들을 기록해놨는지 예전에 저는 처음에 공부할 때는 몰랐어요.
그런데 이젠 알겠어요. 인간들이 어디까지 올라가려고 하는지를 알거 같아요. 정말 하나님과 버금가는 말들을 막 해놓는다니까요. 제가 논어를 보면서 깜짝 놀란 게, 야 이 사람은 진짜 하늘을 안다고 생각하고 갔구나! 어 소름이 쫙 기치더라고요.
그런데 공자나 이 세상에 지금 있는 이 교회가 이야기하고 있는 거나 똑같아요. 난 깜짝 놀랐어요. 오늘날 교회의 모습을 공자가 이미 예수님 이전에 다 써놨다니깐요. 거기다가! 그리고 공자도 하늘을 이야기해요. 천(天), 자연을 움직이는 도(道)를 천이라고 한다니깐요. 공자가 하늘을 알았다는 거예요. 자기는요!
그래서 공자가 뭐라 그래요? 지천명(知天命)! 하늘의 뜻을 안다는 거예요. 자기는! 그런데 오늘날 하늘의 뜻을 안다고 하는 이들이, 공자처럼 인의예지신(仁義禮智信)! 이것만을 교회가 추구해야 하는 것으로 붙들고 있는 거예요. 사람이 어떻게 하면 도덕적으로 변하고 성숙될 것이며, 어떻게 세상에게 아주 훌륭한 사람으로 비춰질 것인가?
제가 지난주 설교에서 뭐 동성애에 대한 거, 뭐 이혼한 사람에 대한 이야기! 이런 걸 막 옹호했더니, 뭐 여기저기 잘난 척하는 굉장히 똑똑한 사람 참 많아요. 그 블로그에 어! 김성수 드디어 맛이 가다! 뭐 이렇게 또 올라왔어! 그러니까 공황장애 같은 병도 걸리지! 이러면서 어떻게 사람이 응, 막 뭐 이혼한 사람! 뭐 동성애자! 이런 사람들을 목사가 옹호할 수 있냐고? 그러면서 그냥 뭇매를 또 어지 그제 엄청 맞아서!
난 참 감사한 게, 아이디나 아이피를 이렇게 추적해보면 어떤 한 사람이요, 어떻게 찾는지, 그 자리에 가서 꼭 저를 변호해주는 사람이 딱 한 사람 있어요. 우리 교인인 것 같은데, ‘당신들이 그 목사님의 진의를 어떻게 안다고 이렇게 함부로! 설교 한 편을 갖고 이렇게 평가를 하냐?’고 그냥, 어, 그 사람 누군지 꼭 알고 싶은데 말이에요. 음 아이피 추적을 해서, 꼭 그 사람 고런 타입! 고 사람! 한 사람 있어요. 심지어 유튜브 같은 데다가도 뭐 이렇게 누가 이렇게 엉뚱한 댓글을 달아놓으면, 고 밑에 찾아가서, 꼭 그런 댓글을 달어주는 사람이 있느데, 아마 이 중에 계실지도 모르는데 감사해요.
여러분 도덕과 윤리가 뭐예요? 도대체가? 그건 예수 안 믿는 사람들도 다 하는 거잖아요? 그런데 기독교의 그 목적과 핵심이 그거겠냐고요? 그거 하지 말자는 게 아니라, 그것만을 우리의 목적으로 삼으면, 예수 그리스도의 영광과 그분의 은혜와 공로는, 우리가 언제 챙겨갖나? 이거 우리 돌아보자고 이야기하는 거예요. 그건 당연히 하는 거죠. 사람이면!
그리고 또 뭐 OOO 신부님 난 이름도 얘기 안 했는데, 그 뭐 얘기했다고, 그런 추종자들이 또 그런데, 사실이거든요. 그분 돌아가시기 전까지 그랬어요. ‘나는 거의 완전히 성화가 되었기 때문에, 아이, 죄짓는 게, 죄 안 짓는 거보다 더 힘들어!’ 늘 그러셨거든요. 참 의아했어요. 그러더니 또 뭐 나중에는 원죄가 없는 거라고 자꾸 그러셔서! 그런데 개혁주의 진영의 수장이시잖아요? 어 그래서 위험하다!
강의를 또 얼마나 많이 다녀요? 열심히 다니시는지, 그 이야기를 갖고, 성화의 이야기! 원죄 이야기를 막 퍼뜨리고 다니시는데, 하나님이 뭐 동남아 여행가셨다가 이 스노우클링하다가 익사하셨어요. 막으시는 거예요. 이분을!
성화라는 건요, 내가 얼마나 죄인인지를 깨달아가는 거지, 그리고 거기에서 비롯되는 그 하나님의 은혜를 붙드는 자의 삶에서 격발된 걸 성화라고 하지, 세상 사람들도 다 할 수 있는 도덕과 윤리가 여러분 안에서 잘 지켜지고 시행되는, 그럼 공자가 최고이게요? 하나님나라 가면, 거기 예수님 옆에 공자 앉아 있어야 돼요. 그 사람은 다 지켰어요. 그러니까 오죽하면 지천명이란 말을 했겠어요? ‘난 하늘의 뜻 알아!’
기독교의 추구점은 거기가 아녜요. 예수! 십자가인 거예요. 그래서 여러분, 이 세상 속에서 초막 짓고 살게 하시는 거예요. ‘그래도 너 나만 붙들 수 있어? 그래도 너 나 사랑할 수 있어?’ 물으시는 거예요. 그 초막 속에서! ‘맞아요. 그래도 저는 저를 사랑해주는 하나님만 사랑할 거예요.’ 이렇게 배우고 가는 거예요. 우리는 딴 거 없어요. 그리고는 하나님이 몸을 바꿔준다니깐요.
바꿔 주면, 이 세상에서 여러분이 아무리 항상 시켜놓고, 성숙시켜 놓은 그 육신은 다 사라지는, 부정되는 거예요. 바꿔주면! 여러분 그렇게 만들어놓은, 성숙시켜 놓은, 근사하게, 자랑스럽게 만들어 놓은 그 육신! 그거는 비교할 수도 없는 완벽한 작은 예수가 되는 거예요. 그걸 바꿔준다고 해서 새 몸으로!
그런데 왜 자기가 노력을 해서 거기에 올라가려고 하냐고요? 예수의 은혜를 알고, ‘그래요. 예수님 바꿔주셔야 되겠네요! 이건 아니네요.’ 이리로 가라 그랬더니, 자기 계발을 하여 스스로 하늘에 닿으려고 하는 거 아녜요? 그게 바벨탑이에요. 딴 거 없어요. 그냥 예수님의 그 은혜와 사랑! 그걸 배우세요. 그리고 거기에 젖으시란 말이에요.