(マタイによる福音書 6:9-13)
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい。天におられるわたしたちの父よ、御名(みな)が崇(あが)められますように。
10 御国(みくに)が来ますように。御心(みこころ)が天に行われるとおり、地にも行われますように。
11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
12 わたしたちに負債のある者をわたちが赦したように、わたしたちの負債をも赦してください。
13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪から救い出してください。(国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン)
御言葉を分かち合う前に、一つお願いがあります。教会員が少しずつ増えてきたこともあり、私たちの間でも慶弔事が多く生じています。今週の金曜日にはチ執事さんのご自宅のビジネスが開業し、結婚式もあり、葬儀もあり、これからそうなっていくでしょう… 満一歳の誕生日(トルチャンチ)などもあるでしょうね。
その都度、私は招待を受けて行くことになります。牧師が行って説教をしたりもしますよね? ですがその際、私たちは一つの良い伝統をしっかりと立てていきましょう。もし皆さんが、牧師が来たからといって、ガソリン代や車代として封筒にお金を入れて渡したりするなら、私はひどく怒るでしょう。
牧師は、その牧会! 牧羊をするために、神様によって立てられた人です。それをするためなのです! 行って葬儀があれば、弔事があれば共に悲しみ、喜び事があれば共に行って喜ぶ、そうするために教会からも生活費が支給されているのです。「いや、それでも時間を割いて来てくれたのだから、せめて車代くらいは出さなきゃ」 もしそうされるなら、皆さんは牧師を台無しにするのです。また一つ、いい加減な教会を作るのです。いい加減な伝統を作るのです。
どうせ、皆さんがそのようにくださったとしても、戻って教会に献金します。外部の集会に出て、賛美集会や復興会をして受けてきた謝礼金も、封筒ごとそのまま全部献金しています。そのまま! 何人もの手を経由させずに、ただ感謝してそのまま教会に献金してください。
私たちは同じ聖徒の立場で、お祝いしに行くのです。そのファンクション(function; 役割)上、私は説教をする者なので、行って説教をするだけのことです。そのように牧師にだけ手間賃を渡したいのなら、来た人全員に渡してください。何百ドルずつ、来てくれてありがとうと言わなければならないのです、道理として! 絶対にそのようなことは、新しく来られる方々にも必ず伝えておいてください。皆さん! そうでなければ私たちの教会も大変なことになります。牧師が怒ります。
青年たちは、私と一緒にご飯を食べていて、もし自分たちで代金を払ったりしたら、私にスプーンで叩かれます。といっても、大人の方々はある程度出してくださっても大丈夫です。私より生活に余裕があるから大丈夫ですが、牧師はそのように尊敬され崇められる存在ではありません。だから私はチ執事さんの開業式にプレゼントを買って行くつもりです。トイレットペーパーとかあるじゃないですか? 洗濯石鹸とか、そういうのを買って行くのが正解ですよね? ビジネスの開業の時に! そうやって行って説教してくるのであって、何を生意気な。葬儀に行って説教して金をもらう、そんなことがあってはならないということです。
さて、主の祈りの二回目です。私が賛美宣教を始めてから15年が過ぎました。15年を過ぎてみると、数百箇所の教会や集会に参加してきました。すでにアメリカだけでも100箇所以上の教会で集会を導きました。多くの牧師先生に会い、多くの教会員にも会います。その中で記憶に残る教会! 記憶に残る牧師先生! 記憶に残る聖徒たちが本当にたくさんいます。
ある教会では、一週間ずっと集会をしてきたこともあります。フロリダのある田舎にある、ジャクソンビルという町にある教会はですね。ただ海岸沿いにキャビン(cabin)を一つ借りておいて、外に出してくれません。そしてご飯を食べさせ、トイレに行かせ、寝かせ、一週間に11回説教し、3回賛美集会をして、そうやって過ごした教会もあります。どれほど渇望していれば、ということですよね。
エルパソにある教会は、メキシコ国境地帯にあります。集会を始めようと数白人が集まりました。「さあ、良いものを見よう!」と盛り上がっている時に、パッと電気が消えました。それで数時間、アコースティックギター一本持って、蝋燭を灯して。集まったのだからやらなければならないのです、そこでは! そのように集会をした、そんな教会もあります。
あのような田舎の教会に行くと、教会の庭で韓国の田舎のように、大きな釜の蓋を逆さまに置いて、エゴマ油を塗りながら、チヂミにイイダコのようなものをのせて焼くんです。お祭りです! 本当に! 「ここが本当にアメリカか?」と思うほど、そんな温かい教会があります。
その中でも最も印象に残っている教会は、ニュージャージーのある小さな教会でした。その教会は教員こそ数名しかいませんでしたが、本当に眼差しが生きている、そんな教会でした。その講壇の向かい側の壁、牧師が見える向かい側の壁に、何と筆文字で大きくこう書いてあるのです。「先生よ! わたしたちはイエスにお目にかかりたいのです!」 こう書いてありました。先生よ! わたしたちはイエスにお目にかかりたいのです!
私が集会を一生懸命やっている途中で、その一節をパッと見た瞬間! 全身が凍りつくような感じがしました。普通、賛美宣教をするとなると、リバイバリスト(復興師)たちも同様ですが、良い説教をいくつか、そして良い証しのネタをいくつか用意しておけば、10年は使い回せます。それぞれ違う教会に行きますからね。ところが「先生よ! わたしたちはイエスにお目にかかりたいのです!」という文字を見た時、「私は今、何の話をしているのか?」と考えました。
それなのに、もっともらしい話をしていますよね? 人々が泣いています。しかしそこで私は、謙遜や道徳、倫理で偽装された、そのように飾り立てられた、私自身の話ばかりをしていたのです。そのようにお互いにショーをしているのです。私は自分の話! 自分の自慢! をしており、会衆はそれに対して感動したふりをしなければならないからです。遠くから来られたのだから、どうしようもないですよね? 泣いてあげなきゃ! 本当に、韓国人は優しいです。そういうのを見ると!
しかし、私がその一節を見た時、体が凍りつきました。「先生よ! わたしたちはイエスにお目にかかりたいのです!」 ヨハネによる福音書12章21節の御言葉! その教会員たちが目をキラキラと輝かせて、私にそう言っているようでした。先生よ! 私たちはイエスにお目にかかりたいのに、あなた今、何の話をしているのですか? 先生よ! 私たちはイエスにお目にかかりたいのに、あなた今、なぜ道徳の話をし、倫理の話をしているのですか? ということです。
それ以来、私はどの教会、どの場所に行っても、あのイエスの話を始めました。そして、壇上に上がる時にはこう答えて上がります。「はい、皆さん! 今日も私は、皆さんがお目にかかりたいと願う、あのイエスの話をします。皆さん! 私は今日も、皆さんがお目にかかりたいと願う、イエスだけを語ります。」 そうし始めました。
ここへ上がる時も、私はいつもそのように、オフィスで祈ってから上がります。「神様! 私が今日も、私たちの聖徒たちがそれほどまでにお目にかかりたいと願う、あのイエスだけを伝えることができますように!」 キム・ドンギル教授がするような倫理的な講演ではなく、そのような学術セミナーではなく、キム・ヨンオクが語るような老子の道徳経や儒教の話ではなく、イエスの話をして降りてこられますように!
もし皆さんが、そのような道徳的、倫理的な話を求めておられるなら、良いビデオシリーズがたくさんあります。それをご紹介します。「正しい社会作り!」とか! 道徳的、倫理的に、善良に正しく生きる方法! なぜ礼拝堂でまで、そのような話を聞きたがるのですか? 礼拝堂ではイエスの話と、主が私たちに行われた恵みの話だけが、宣言されなければならないのです。ですから、皆さんの目からも、私はそのような話を読み取ります。「先生よ! わたしたちはイエスにお目にかかりたいのです!」
そうでしょう? そうです! 皆さん! 私たちのスミルナ教会は、そのような教会にならなければなりません。「先生、あなたは別の話をしていますか?」 もし私がいつの間にか別の話をしていたら、皆さん! 私にそう言ってくださるべきです。「先生よ! わたしたちはイエスにお目にかかりたいのです!」 ですから、私たちは主の祈りを学びながらも、イエスを発見し続けているのです。
先週、私たちは主の祈りの一回目で、「天におられるわたしたちの父」というそのフレーズをもって、あのイエスをそこで発見しました。あのイエス様は「パテール、アバ」というその単語を私たちに使うようにと言われ、その本質と本体が同じ三位一体の神様! その三方の神様が使っておられたその呼称を、私たちに使わせてくださったのです。パテール、アバ! 「あなたがたはこのように祈りなさい。あの方を父と呼びなさい!」 だから、私たちはあの方の子供になったというその感激から、祈りを始めることができるようになったのです。
今日は二回目として、三つの「Thou Petitions(あなたへの願い)」、その中の最初の祈りの課題である「御名(みな)が崇(あが)められますように」という一節に関する学びをいたします。皆さん! 神様はすでに、私たちとは関係なく聖なる方です。それなのに、あの方が「御名が崇められますように」というこのような祈りをしなさいと言われたのには、明らかに理由があるのです。一つ目は哲学的な面から説明し、二つ目は救済史的な面から説明します。
この哲学的な面からの説明は、このようなものです。私たちが神様のその聖なる御名に、創世前からすでに聖なるその御名に、何を加えればその御名が聖(きよ)められるというのでしょうか? 私たちがその聖なる御名に、より多くの献金を捧げ、より多くの奉仕をすれば、その御名は聖められるでしょうか? 私たちが神様に栄光を帰すという、その言葉からも推論してみましょう。
どうすれば、私たちが神様にさらなる栄光を帰すことができるのでしょうか? あの方はすでに栄光ある存在なのです。あの方の財産に、私たちがもう少し多くの財物を足して差し上げれば、あの方はより喜ばれ、あの方の生が栄光あるものになるのでしょうか? それとも、私たちがあの方の仕事をたくさん手伝えば、あの方は栄光を受けられるのでしょうか? どうすればあの方に、私たちが栄光を帰すことができるというのですか? 私たちが栄光の拍手をパチパチパチと送れば、あの方は栄光を受けるのでしょうか? 本当に、どうすればいいのですか? どうすればあの方の御名が聖められるのですか? 一体全体!
説明を分かりやすくするために、擬人法を使ってみます。ここに井戸があります。井戸! とても新鮮で、とても冷たく、それ自体としてあまりに、この世に二つとないような井戸です。そして、いくら汲んで飲んでも絶えず水が湧き出る、そんな井戸です。では、私たちがその井戸を喜ばせ、その井戸のためになれる道とは何でしょうか? 世界で一番冷たく、一番新鮮で、それ自体から絶え間なく水が湧き出るその井戸に、どうすれば私たちは栄光を帰すことができるというのでしょうか?
道はただ一つです。私たちがいくら水を他所から汲んできて注ぎ込みながら、「井戸よ! 私があなたにこんな水を足してあげているよ。嬉しい? 喜んでる?」と聞いたとして、その井戸が喜ぶでしょうか? すでに自らがあまりにも新鮮で、清らかで、美しく、自ら水を生産している井戸なのです。では、どうすればよいのですか?
その井戸に栄光を帰す方法はですね、水を汲んで飲むことです。飲んで、「ああ、冷たい! ああ、美味しい! 世の中にこんな井戸はない!」 そうやってその井戸を称賛することです。そして他の人のところへ行って、「あの井戸の水を飲んでみて! どれほど冷たいか知ってる? どれほど清らかか知ってる? 世界に二つとないよ! 行って飲んでみて! 私は飲んでみたよ」 唯一、その井戸に栄光を帰す方法はこれです。私たちが神様に栄光を帰し、神様の御名を聖めることができる方法は、それなのです。
神様が誰であるかを明確に知り、理解し、悟って、あの方が私たちに施されたその恵みが何であるかを、楽しむことです。そして他の人々に、その命の水を自慢することです。「あなたたち! 私たちにイエスが許してくださったこの命の水が何だか知ってる? 私は飲んでみた。本当に冷たい。本当に清らかだ。私はこれで生き返った。もう、何ものも私を惑わすことはできない」ということを自慢するのです。それが私たちが神様に栄光を帰す方法であり、あの方の御名を聖める方法です。哲学的な説明はこれです。
さて、救済史的な側面から、神様の御名を聖める(崇める)ということは、どういう意味か聖書から見てみましょう。「神様! あなたの御名が崇められますように」という言葉には、何が前提とされているかというと、あの方の御名が汚されたということです。神様のその聖なる御名が、どのようにして汚され得るのでしょうか? 本質的には汚されるはずがありませんよね?
しかし、神様が人間と契約を結ばれ、人間と関係を持ち始められました。それから、この世がその御名を汚し始めました。どのように汚したのか、聖書から探してみましょう。エゼキエル書36章16節から23節まで行きます。
(エゼキエル 36:16-23)
16 主の言葉がわたしに臨んだ。
17 「人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、その行いと業によって、その地を汚した。彼らの行いは、わたしの前には、月経中の女の汚れのようであった。
18 それで、彼らがその地に流した血のゆえに、また、偶像によってその地を汚したゆえに、わたしは憤りを彼らの上に注いだ。
19 わたしは彼らを諸国民の中に散らし、諸国に追い散らした。わたしは彼らの行いと業に従って彼らを裁いた。
20 彼らは行った先の諸国民の間で、わたしの聖なる名を汚した。人々が彼らについて、『彼らは主の民なのに、主の地から出された』と言ったからである。
21 わたしは、イスラエルの家が行った先の諸国民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。
22 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしが事を行うのは、お前たちのためではなく、お前たちが行った先の諸国民の間で汚したわたしの聖なる名のためである。
23 諸国民の間で汚されたわたしの大きな名、すなわち、お前たちが彼らの間で汚した名を、わたしは聖なるものとする。わたしが彼らの目の前でお前たちを通してわたしの聖なることを示すとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。」
主の言葉です。神様が直接今語っておられますが、「お前たちがわたしの名を汚した」ということです。お前たちのせいで、諸国民の中でわたしの名が汚されたが、その名を、わたしが再び聖なるものとする。誰がですか? わたしが! 神様が直接! その名を聖なるものとされるというのです。
ところが、イエス様は私たちに、「あなたがたはこう祈りなさい。天におられるわたしたちの父よ、御名(みな)が崇(あが)められますように」と祈れとおっしゃいます。しかし神様は、自分でするとおっしゃる。ご自身でするとおっしゃるのです。これを皆さんは明らかに理解して進まなければなりませんよね?
この話の背景は、神様が契約によって私の民としたあのイスラエルが、約束の地で罪を犯し続けます。神様は明らかにカナンに入る前に、イスラエルと契約を結ばれましたが、どのような契約を結ばれたかというと、「お前たちがカナンで、わたしとわたしの話を聞いて行えば、よく守れば、お前たちは祝福を受けて豊かに暮らすだろう。しかし、お前たちがわたしに聞き従わず、わたしの言葉を聞かず、守り行わないなら、お前たちはそのカナンから追い出される。お前たちがわたしの言葉を聞かないなら、お前たちは追い出される」とおっしゃったのです。
ところがイスラエルは、入るやいなや罪を犯し始めました。毎週金曜日に見ている士師記で、どれほど彼らが背信的だったでしょうか。神様が入れてくださるやいなや彼らがしたのは、偶像を拝むことでした。カナンの文化と文明を楽しむことでした。さらにはモレクという神に、自分の赤ちゃんを捧げたりもしました。赤ちゃんを! 自分の利益と幸福のためには、赤子まで捧げるのです。私たち人間がそのような存在であることを、聖書が説明しているのです。だから神様はカナンから彼らを追い出されました。バビロンを用いて! それでイスラエルは諸国に散らばってしまったのです。
すると諸国の人々がイスラエルに対して、このように言い始めました。「お前たちの神はどういう神なのだ? 私たちが信じているバアルは、私たちをこんなに豊かにしてくれるのに、お前たちが信じている神は一体どんな神だから、自分の民一人守れないのだ?」 そのように神様をあざけり始めました。
弱虫な神! 出来損ないの神! 自分の民に豊かさも与えられない神! 自分の民をむしろ、このように他の異邦民族を用いて打ち据える神! 彼らがそのように神様を罵り始めたのです。何が原因で起きたのですか? それはイスラエルの民が罪を犯したからであり、神様が彼らを教えるために、懲らしめるために手を下されたところ、諸国民が神様の御名をそのように汚したということです。私たちはどうでしょうか? 全く同じです!
世の人々は私たちにどう言いますか? 「おい! お前が信じている神! お前が信じているあのイエス! 全能の神だと言ってただろ? なのに、お前のビジネスはなぜいつもこうなんだ? なぜお前の体にはこんな病気があるんだ? お前の子供はなぜこんなに問題ばかりなんだ? お前が信じている神は全能だと言ってただろ?」 今日も神様は同様に侮辱されているのです。
しかし、その侮辱を、汚された神様の御名を、神様はどのようにして聖なるものとされるとおっしゃっていますか? 明らかに23節で、「諸国民の間で汚されたわたしの大きな名、すなわち、お前たちが彼らの間で汚した名を、わたしは聖なるものとする」とおっしゃっています。では、わたしがその名をどのように聖なるものとするのか、その下に説明がなされています。24節から。
(エゼキエル 36:24-28)
24 わたしはお前たちを諸国民の間から取り出し、あらゆる国々から集め、お前たちの土地に連れて行く。
25 わたしは清い水をあなたたちに振りかける。あなたたちはすべての汚れから清められ、わたしはあなたたちをすべての偶像から清める。
26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの内に新しい霊を置く。お前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
27 また、わたしの霊をお前たちの内に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの法を守り行わせる。
28 お前たちは、わたしがお前たちの先祖に与えた地に住み、お前たちはわたしの民となり、わたしはお前たちの神となる。
神様はどのようにしてご自分の御名を聖めるとおっしゃっていますか? 諸国に散らばっているご自分の民を救い出すことによって! そして諸国に散らばっていた民を引き出して、神様が約束されたあのカナンに再び入れられるというのです。
しかし、彼らには自らの能力がありません。だから神様は、「お前たちは自分の力では到底できないから、わたしが水で洗って、わたしが水で清めて、そしてお前たちの心の中を突き抜けて入り、お前たちの心の中に新しい霊を入れ、新しい心を心に刻む」というのです。神様が最初から最後まで全て行われるというのです。私たちの救いをです!
つまり、神様のご自身の御名が聖められる方法は、ただ一つの方法なのですが、世の人々から侮辱を受けたその理由は何ですか? イスラエルの民が諸国に散らばっていることです。神様が彼らを懲らしめられたのです。我が子にするために。だから世の人々が、「ヘッ、出来損ないの神! 弱虫な神!」とそのように御名を汚したその場所から、彼らを再び集め寄せてですね、「わたしがこの子たちをこのように懲らしめ、このように患難と迫害の中に置いたのが、本当にわたしがこの子たちを呪ってそうしたと思っているのか? わたしの我が子に仕立てて、永遠の国に連れて行って一緒に住みたかったからなのだ!」というその救いを、神様は必ず成し遂げられるというのです。それによってのみ神様の御名は再び聖められ得るのです。そのように汚されたからです!
ですから、神様の御名が聖められることと、私たちの救いとは、切り離すことのできない関係なのです。神様が水で洗われ、聖霊によって私たちの内に植え付けてくださるその新生! ニコデモに話された、「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない!」という、その新生を、私たちの胸にそのまま植え付けてくださるというのです。再創造をされるというのです。完全に新しい人間に! 「もはやお前たちは神様の言葉を聞かずにはいられない、そのような人間に! Able to sin(罪を犯し得る人間)から、Not able to sin(絶対に罪を犯し得ない人間)まで引き上げてくださるというのです。神様が! ご自身がされるというのです。それなのに!
皆さん! 私たちが「神様、神様の御名が聖められることを願います」という祈りをしながら、私たちは「神様! あの時エゼキエルに約束された、あの神の民の救いが、成し遂げられますように!」とそのように祈るのです。そのように祈りながら、皆さんが考えなければならないことは何ですか? その祈りをしていますが、私はどのようにその祈りをしていますか? 救いを受けたから、神様に祈りをしているではないですか? ならばその祈りは、すでに成し遂げられたのです。応答されたのです。
皆さんは救われたではないですか? だからここに来て、このように礼拝しているのではないですか? 「父よ!」と! あの御方をまた「父よ!」と呼んでいるではないですか? 「父の御名が崇められますように!」という、その祈りをする皆さんは、救いを受けたからではないですか? ですから皆さんはすでに、その祈りに対する応答を受けられた方々なのです。
さあ、私たちは救われました。どのような面で私たちは救われたと言うのでしょうか? 神様は全知全能の方なので、何を計画し目的されたとしても、絶対にあの方は失敗することがないため、私たちは救われたと言うのです。ですから私たちは、救われた者として、「神様の御名はすでに聖められた」と語るのです!
しかし、私たちは今この世を生きています。このように絶えず罪を犯しながら! 救われた人間がこれでは、どこへ行っても顔向けできません。私たちは! 生き方がめちゃくちゃだから! 私たちがあまりにもいい加減に生きているので、人々に顔向けできません。ですが私たちは救われたと言います。救われたというのは、その契約は確実に守られるという面で救われたということであり、私たちは今、救われつつあるではないですか? 少しずつ、少しずつ変えられていっているのです。
ですからその救いは、成し遂げられつつあるのです。結局最後になって、終局において、イエス・キリストが再び来られることによって救いは完成するでしょう。その時には! だから「私たちは救われるだろう」と語るのです。ですから「神様! あなたの御名が崇められますように!」というのは、「さあ、その日は必ず来ます。神様! 私はその約束を信じます」と祈りなさいということです。
私たちは祈りながら、「父なる神様! あなたの御名が、父の御名が崇められますように」と祈りつつ、「神様! 私はそのような存在なのですね。すでに救われたのですね。そして神様! あなたが約束されたその日は必ず来ます」と確信するのです。その祈りをしなさいということです。私たちが祈らなければそれが成し遂げられないということではなく、私たちのために祈りなさいということです。そのように祈るたびに、「お前たちは確認しろ! 確認しろ! お前たちは必ず天国に入る」 それを確認しなさいということです。その話です。
明らかに世の中は私たちに向かって後ろ指を指すでしょう。「イエスを信じる者がそれか? 信じる者はもっとよく暮らすべきじゃないのか? もっと健康であるべきじゃないのか? お前が願っているのになぜ聞き入れられないのだ?」と、世の中は私たちをあざけるかもしれませんが、神様は明らかにそれに対して答える日があるでしょう。「わたしが正しかった、お前たちが間違っていた、わたしの民の生き方が正しかった、お前たちは間違っていた!」と。
明らかに世の中は最後の日に、「あなたたちの生き方が正しかったのですね! あなたたちがその世で迫害され、患難を受け、そうしていたことが、神様があなたたちを我が子にするためにそうされたのだということを、私はようやく分かりました!」 世の中がその凄まじい地獄の苦しみの中で、私たちに吐露する日があるということなのです。
世の中は私たちをこのようにあざけるでしょう。詩編22編6節のように。
(詩編 22:6-8)
6 わたしは虫けら、人間ではない。人にそしられ、民にあざけられる。
7 わたしを見る人は皆、わたしをあざ笑い、唇を突き出し、頭を振って言う。
8 「主にまかせよ、救い出してくださるだろう。主のお気に入りなら、助け出されるだろう。」
イエスが受けたあざけりです。私たちが同様に受けるあざけりです。しかし神様は約束されます。「わたしはすぐに来る! 心配するな! 世の中がお前たちをあざける時、お前たちはわたしの約束を信じなさい! 『神様! あなたの御名が崇められる』その祈りをしながら。お前たちは確信しなさい! その日は必ず来る! すぐに来る!」 黙示録3章11節にあるように、「11 わたしは、すぐに来る。今持っているものをしっかり守っていなさい。」 すぐに来られるのです。すぐに! 今や罪人たち! あの世は、燃える地獄の火の中で、私たちに向かって語るでしょう。「あなたたちが正しかった! あなたたちが正しかった!」
その地獄の火は聖霊の火です。皆さん! その地獄を統治される方は神様なのです。ある人は、地獄はサタンが統治していると思っています。とんでもない! 神様が統治されるのです。その地獄は! ところが、その罪に対してそれほどまでに凄まじい聖霊の火が燃えている、その地獄から、皆さんはどのように救い出されたのですか? 何をしたというのですか? 何もしていないではないですか。だから「恵み」と言うのです。だから「プレゼント」と言うのです、それを!
つまり、その奇跡を体験した私は、そのように死ぬしかないのに、あの地獄で燃える聖霊の火によって、私は永遠の苦しみから抜け出せないような人間であったのに、私がどうしてここに座っているのですか? そしてその聖霊の火がどうして、私にとって恵みの火になってしまったのですか? 喜びの、感謝の火になってしまったのですか? 皆さん! そして私が救われることによって、その御名がいかに聖められたというのですか? 皆さんはそれほどまでに尊い存在なのです。黙示録22章20節を見ると。
(ヨハネの黙示録 22:20) これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」 アーメン、主イエスよ、来てください。
黙示録の最後です。私たちはこのような祈りをしなければならない人です。人生は長すぎますか? 「神様! 主イエスよ! 早く来てください! 私はあのイエスを知り、あの神様を知っています。あの天国を知っています。あの地獄の凄まじい苦しみを私は知っています。主イエスよ! 来てください! 私はその日だけを待ち望んでいます。ですから今日もこのように準備しています。私のこの性格? ぶつけたいけれど、今日も私は耐えています。神様がそうするなと言われたからです!」
皆さん! 本当にそのような生を準備しておられますか? 地獄を恐れておられますか? 明らかに、水が海を覆うように、世の全ての肉体と、その民族と言葉たちが、あの主の燃える炎の前で、「あなたたちが正しかった! あなたたちが正しかった! その道が正しかった! この世ではあなたたちがバカみたいにあざけられ、そのように一生を生きたけれど、そのように私たちがあなたたちをあざけったけれど、あなたたちの行く道が合っていました!」という、そのような告白を聞く日が必ず来るでしょう。
人生は長くありません。私たちはまもなくそこへ行くでしょう。皆さん! 私たちはそのようにその日を待つのです。キリスト者は! そしてすでに私たちに与えられた、あの神様の聖なる御名を楽しむのです。そして今日も「神様! 神様の御名が崇められますように!」とこう祈りながら、私たちの身分を確認するのです。「私は行くのだ」と!
先週、ある韓国の大きな教会の牧師先生が、東国大学校の仏教大学院最高位課程の特講で、そのような話をしました。「宗教間の相生(そうせい)! 仏教徒たちはキリスト教をどうこう言うべきではなく、キリスト教徒たちは仏教に対してどうこう言うべきではない。互いにその救いに関して認め合い、助け合うべきであって、どうしてお前たちは間違っていて自分たちだけが正しいと言えるだろうか? 救いは仏教にもあり、キリスト教にもある!」
とても大きな教会の牧師先生です。皆さん! どう思われますか? あの「聖」という「ハギアゾー」というギリシャ語の原語の意味は、「区別される」ということではないですか? 区別される! ハギアゾー、区別される! 「神様! あなただけが唯一の神!」という意味なのです。
それなのに、本当にこのポストモダニズムやニューエイジ! このような現代が進むその道をキリスト教も追いかけなければならないのですか? 「どうして真理に至る道が一つだけだろうか?」ということを私たちが追いかけなければならないのですか? ハギアゾー、聖! 「あなたの御名が崇められますように」というハギアゾー! その聖は、「神様! あなただけが神様です! そしてその聖なる御名は、イエス・キリストによってのみ聖められ得る」ということなのです。
私がインターネットに入って、その方が務める教会の週報をずっと探してみました。ところが、毎礼拝ごとに主の祈りを暗唱していました。その方はどのような心で、その主の祈りを暗唱されたのですか? 一体全体! 「あなたの御名が崇められ……」 呪文を唱えているのではないですか? 神様の御名はですね、イエス・キリストによってのみ聖められ得ます。皆さん! 皆さんの救いによってのみ、神様の御名は聖められ得ます。
その講義を聞いて、あの道詵寺(ドソンサ)の住職であるヘジャ僧侶が仏教新聞にこう書きました。「韓国保守教団の代表的な牧師が、相対宗教を認め、宗教間の和和合を語ることは、大変鼓舞されるべきことである。」 そのようにして称賛をたっぷりとしていました。新聞で! 自分たち同士で何だか示し合わせたような芝居ではなく、互いに褒め合っているのです。
そのようにして、本当に救いが来るでしょうか? 神様の御名がそのように聖められるでしょうか、そこで? 違います。皆さん! そのように行くのは、聖書が警告した、あの呪いの道へと転落する道です。皆さん! イエス以外にはありません。人々が私を指して、「おい! 時代がどんな時代だと思って、無知にまだイエスの話ばかりしているのか?」 大丈夫です! 無知だと言われても大丈夫です! 無知に死ぬ日まで私ができる話は、イエス・キリストしかありません。他の道はありません。「わたしは羊の門である」と語られたあのイエス・キリストという方以外に、私たちが救われる道はありません。皆さん! 使徒言行録4章12節に。
(使徒言行録 4:12) ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほかに、人間に与えられていないからです。……
他の名を与えられたことは一度もないということです。私はこの言葉を信じて行きます。神様の御名が聖められる方法は、この道です。「イエスだけが救いの道です、皆さん!」 信じて、立ち返らなければならないのです。
私はこんな冗談を聞きました。神様は今、地獄を補修工事しておられると。韓国のサウナ(チムジルバン)が熱すぎて、今や温度をもっと上げなければならないそうです。だから地獄を今、補修工事しておられるのだと。私はしばらく笑ってから、ふと考えました。
この時代の人々は、本当にあの地獄を知っているのだろうか? この時代のキリスト者という人々は、本当にあの地獄を知っているのだろうか? 本当にあの日天国を知っているのだろうか? あの死というものが、どれほど凄まじいものであるかを知っているのだろうか? あの滅びというものがどれほど凄まじいものであるかを知っているのだろうか? あの神様の怒りがどれほど恐ろしいものであるか、神であられるあのイエスでさえ恐れて震え上がったあの呪いが、どのようなものであるかを知っているのだろうか?
このように冗談の中に登場するようなもので、低級に取り扱われているのではないだろうか。あの燃える火! あの地獄から、皆さんはどのようにして救い出されたのですか? どうして皆さんがこの席に座っておられるのですか? それによって本当に感激しておられますか? でなければ偽物です。皆さん! 皆さんはイエスを信じる人ではありません。恵みを知らない人々です。恵みを知らなければ、私たちはその人をノンクリスチャンと言うのです。皆さん! その恵みの中へ隠れなければなりません。イエスの中へ隠れなければなりません。「父よ! あなたの御名が崇められますように……」と祈りながら、皆さんは皆さんの身分を確認してください!
そして、「私のような者が一人救われることが、何がそれほど神様の御名に聖められることに、その御名が聖められることになるとおっしゃるのですか? 神様、ありがとうございます!」と感激するのです。私たちが何者だというのですか! 私たちが救われることが、神様の御名が聖められることになるだなんて。
私たちをそのように尊い存在として扱ってくださるあの神様に感激するのです。そしてその日は必ず来ると確信して行くのです。それが皆さんの救いの確信です。神様の御名は、イエス・キリストによってのみ、そしてそれによる私たちの救いによってのみ、聖められ得るのです。お祈りいたします。
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주기도문강해 1 (눅11:1-4, 마6:9-13)
(누가복음 11:1-4)
1 예수께서 한 곳에서 기도하시고 마치시매 제자 중 하나가 여짜오되 주여 요한이 자기 제자들에게 기도를 가르친 것과 같이 우리에게도 가르쳐 주옵소서
2 예수께서 이르시되 너희는 기도할 때에 이렇게 하라 아버지여 이름이 거룩히 여김을 받으시오며 나라이 임하옵시며
3 우리에게 날마다 일용할 양식을 주옵시고
4 우리가 우리에게 죄 지은 모든 사람을 용서하오니 우리 죄도 사하여 주옵시고 우리를 시험에 들게 하지 마옵소서 하라
(마태복음 6:9-13)
9 그러므로 너희는 이렇게 기도하라 하늘에 계신 우리 아버지여 이름이 거룩히 여김을 받으시오며
10 나라이 임하옵시며 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다
11 오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고
12 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이 우리 죄를 사하여 주옵시고
13 우리를 시험에 들게 하지 마옵시고 다만 악에서 구하옵소서 (나라와 권세와 영광이 아버지께 영원히 있사옵나이다 아멘)
말씀을 같이 나누도록 하겠습니다. 지난주에 기도에 관해서 우리가 함께 살펴봤습니다. 기도란 무엇이냐? 기도가 정말, 내가 필요한 것을, 나보다 강한 어떤 존재에게 졸라서, 받아내는 행위냐? 그게 아니라는 것을 우리는 확인했죠? ‘나와, 하나님 아버지와의 관계의 그 확인에서부터, 그 기도는 시작되는 것이며, 내가 필요한 것이 채워지지 않더라도, 아버지의 그 의중과 그 분의 뜻을 헤아렸으면, 그것이 바로 기도의 응답이며, 올바로 드린 기도다.’라는 것을 우리가 결론으로 내렸죠.
지난주에 제가 새벽기도에 나오기 위해서 샤워를 하고 거울 앞에 섰습니다. 저는 매일 새벽 꽃단장을 하고 나오거든요. 새벽 3시 반에 일어나서, 샤워하고, 면도하고, 무스 바르고, 향수까지 뿌리고, 그리고 나온다고요. 왜냐하면? 제 처가, 어느 자리에서든지, 하여튼 말끔한 모습으로 서라고, 그렇게 간곡히 부탁한 바가 있어서, 좀 일찍 일어나서, 그렇게 다 단장을 하고 나온다고요.
그날도 역시, 면도를 다 하고, 로션을 바르고, 거울 앞에 딱 섰습니다. 너무나 피곤하더라고요. 그날은! 이렇게 매일 아침 죽을 때까지 해야 되나? 생각하니까 암담하더라고요. 그때에 스바냐의 말씀이 갑자기 제가 생각이 났어요. ‘내가 너로 인하여 기쁨을, 즐거움을 이기지 못하고, 내가 너의 이름을, ‘성수야!’라고, 너의 이름을 부르는 그 순간! 그 순간이 나에게는 즐거움이요. 기쁨이다!’라는 그 말씀이 떠오르더라고요.
그러면서 ‘아! 아버지! 아버지가 나를 이렇게 사랑하십니까?’ 이렇게 마음속에 그냥 따뜻한, 그런 따뜻한 마음이, 뭉글뭉글 솟아나는 거예요. 그러면서 제가 아버지에게 대답했습니다. ‘아버지! 나도 아버지를 그렇게 사랑합니다.’ 그러면서 이 교회까지 오는데요, 그 따뜻한 마음이 이 교회까지 이렇게 지속이 되더라고요. 그래서 제가 새벽기도 나오신 분들하고, 그 마음을 같이 나눴어요.
제가 한국에 있을 때는, 저의 아버님과, 우리 두 동생! 제가 아들 삼형제거든요. 그렇게 넷이서, 매주 주일날 새벽에, 목욕탕을 갔어요. 공동목욕탕! 한국에는 그런 목욕탕이 있잖아요? 그래서 가서 목욕을 다 하고 나오면, 저희 셋이서 거울 앞에서 물을 닦고 있잖아요? 그러면 아버님이 마른 수건을 가지고, 이렇게 등을, 아들 한 사람, 한 사람 등어리를, 이렇게 닦아 주시면서, ‘참 이쁘다! 내 아들들! 참 이쁘다!’ 이렇게 말씀해 주셨거든요. 저는 그 때가 굉장히 잊혀지지가 않아요. 그 아버지의 그 따뜻함 따뜻함이 느껴지더라고요. 하나님께로부터, 그런 따뜻함이 느껴지더라는 것이죠.
이렇게 아버지와 내가, 친 부자지간이다. 친 부녀지간이라는 것이 확인된 사람에게는, 기도의 내용이 바뀌게 되어 있어요. 그 친아버지에게! 여러분들이 어떻게 합니까? ‘어떻게 하면 내가 그 아버지를 기쁘게 해드릴까?’를 더 생각하게 된다고요. 이 관계 확인이 안 돼 있기 때문에, 그냥 이웃집 아저씨, 옆집 아저씨 같이 생각하니까, 어떻게 해서든지 그분을 이용해서, 우리가 뜯어 먹으려고만 한단 말이죠. 그러니까 기도가 전부 그렇게 점철되어 있다는 거예요.
제가 요즘 감기가 들어서 그렇게 힘들어하니까, 우리 둘째 아들이 말이죠? 오늘 아침에 나오면서, 앨범에서 주섬주섬 뭘 꺼내더라고요. 그리고 교회에 오더니, ‘아빠! 가위 주세요!’ 그러더라고요. ‘가위는 뭐할라 그러니?’ 그러니까 가위 달래요. 그래서 가위를 줬더니, 뭐 가져가서 뭘 오리고, 뭘 색칠하고 하더니, 이렇게 카드를 하나 만들어 주더라고요. ‘아빠 많이 아프죠? 아빠 씩(sick)한 거, 자기가 안다.’고 그러면서, 아빠 힘내라고 그렇게 카드를 만들어 주는 거예요. 설교하러 올라오기 전에! 이 사진이 제가 제일 좋아하는 사진이에요.
이거 애들 빡빡 깎아놓으면 귀엽잖아요? 그래서 옛날에 자주 깎았거든요. 요새는 저희들이 안 깎는다고 해서, 못 깎고 있는데, 그래서 이 사진으로 제가 보면서, ‘참 귀엽다!’ 그랬던 사진인데, 자기가 그걸 갖고 나온 거예요. 갖고 나와서 우리 아빠가 아프고 힘드니까, 힘을 주겠다고 그 어린아이도 이렇게 만들더라는 거죠.
하물며, 여러분들이 하나님의 자녀라는, 그런 관계가 확인이 된 사람들이라면, 하나님 앞에, ‘아버지!’ 하고 무릎 꿇고 앉았을 그 순간에, 먼저 그 아버지의 의중을 헤아리기 시작한다는 거예요. 기도는 거기서, 출발하는 것입니다.
여러분! 안중근 의사를 잘 아시죠? 우리가 매년 단기선교를 가는 그 하얼빈에서, 1909년에 이토 히로부미를 향해서, 세 발의 탄환을 명중시켜서 죽였던, 그 안중근 의사요! 그분이 그 옥중에서 쓴 책 중에, ‘동양평화론’이란 책이 있어요. 그 ‘동양평화론’이란 책을 읽어보면, 처음부터 끝까지, 전부, 그 사람의 소원이 쓰여 있는데, 그 소원은, 우리 대한민국의 자주독립이에요. 우리 대한민국의 독립! 조선의 독립! 그 독립이, 그분의 유일한 소원이더라는 거예요. 그래서 우리는 그분을 ‘독립투사’라고 이야기하는 겁니다.
그리고 짐 엘리엇이라는 사람을, 여러분 아십니까? 그 아내인 엘리자베스 엘리엇이, 아직도 간증을 하고 다니는데, 그 짐 엘리엇은, 남미에 있는, 에콰도르의 그 잔인한 ‘어카’족속에게, 복음을 전하기 위해서 갔다가, 온몸이 난자되어서 죽은 그러한 선교사입니다. 그 엘리자베스 엘리엇이, 그 짐 엘이엇의 19살 때 쓴 메모와 일기를, 공개를 한 적이 있는데, 그 안의 내용이 무슨 이야기냐 하면, 전부 다 ‘하나님! 아직도 그 귀한 하나님의 은혜와, 그 예수 그리스도의 사랑을 모르는, 이 땅의 그 많은 이들에게 내가 가서, 마른 장작처럼 태워져서, 그들을 위해 쓰여지게 하옵소서!’ 온통 처음부터 끝까지 다 그 얘기예요. 그래서 우리는, 그러한 소원을 가지고 있던 짐 엘리엇을 가리켜서, ‘선교사다!’라고 이야기하는 거예요. 여러분!
그리고 우리가 ‘백경(白鯨)’이라고 하는 소설에, 모비 딕(Moby-Dick)이라는 소설에서 나오는, 그 ‘에이헤브(Ahab)’라는 사람있죠? 아합이라는 사람! 그 사람의 평생소원은, 자기의 다리를 물어뜯은, 그 고래! 모비딕을 쫓아가서 죽이는 게, 그 사람의 유일한 소원이었어요. 그래서 결국은 태평양 바다에 나가서, 그 모비딕과 싸우다가, 바다에 빠져 죽습니다. 인생의 가장 깊은 소원이라고 하는 것이, 그 고래 하나 잡아 죽이는, 그러한 소원을 갖고 있었던 그 사람을 가리켜, 우리는 ‘정신 나간 사람’이라고 그러는 거예요
이렇게 그 사람이 선교사든, 독립투사든, 정신 나간 사람이든, 그 사람은 무엇으로 정의가 되느냐 하면, 그 사람이 어떤 소원을 갖고 있느냐에 따라서, 그 사람이 누구인가가 정의된다고요.
그 소원은 기도로 나오게 되어 있죠? 이렇게 우리가 가지고 있는 소원에 따라서, 우리가 정의가 되며, 우리가 갖고 있는, 우리가 하고 있는 기도에 의해서, 우리가 정의가 된다고 한다면, 예수님이 그리스도인들인 우리에게, ‘너희들은 이렇게 기도해라! 너희들은 이런 소원을 갖고 살아야 한다!’라고 가르쳐주신 그 주기도문! 그 주기도문을 정확히 우리가 파악하고 있고, 공부해 놓으면, 우리가 누구인지, 그리고 그 하나님이 우리에게 무엇을 바라시는지, 밝히 알 수 있겠죠? 그래서 우리는, 주기도문을 공부할 거예요.
주기도문은, 성경에 두 군데 나오고 있어요. 한 군데가, 우리가 읽었던 누가복음 11장! 그리고 한 군데가 마태복음 6장입니다. 우리는 마태복음 6장의 내용을 가지고, 이 주기도문을 살펴볼 것입니다. 그런데 누가복음 11장 1절에서 우리가 한 가지만 짚고 넘어가려고 그래요. 11장 1절을 한번 같이 읽도록 하겠습니다.
(누가복음 11:1)
1 … 제자 중 하나가 여짜오되 주여 요한이 자기 제자들에게 기도를 가르친 것과 같이 우리에게도 가르쳐 주옵소서
지금 예수님의 제자들이, 예수님에게 기도를 가르쳐 달라고 합니다. 그 제자들은 유대인들이었어요. 유대인들은, 기도를 이미 많이 하고 있었고, 그리고 기도가 무엇인지 잘 알고 있었던 사람이라고요. 그런데 지금 예수님께 기도를 가르쳐 달라고 이야기 한다고요.
그들에게는 ‘카디쉬’라는, 아주 짧은 기도문이 있었어요. 매일 두세 차례씩 외워서 해야 하는, 그 ‘카디쉬’라는 기도가 있었고, 18번 축복기도라고 불리는, ‘쉐모네 에스레’라고 하는 기도문이 있었다고요. 그래서 그 당시 유대인들은, 그 두 기도를 매일같이 외워서 드렸었다고요. 그리고 그들은 시편을 줄줄이 꿰고 있었던 사람들이에요. 시편 모두가 다 그 내용이 기도 아닙니까? 그들은 기도를 할 수 있었던 사람들이라고요.
그런데도 불구하고, 왜 그 유대인들이 예수님에게, ‘기도를 가르쳐 주십시오! 기도는 어떻게 해야 되는 것입니까?’라고 물어봤을까요? 거기에는 이런 배경이 있습니다.
당시의, 예수님이 오셨을 당시의 유대인들은요, ‘이제 곧 메시아가 오셔서, 하나님의 나라를 현실화시킬 것이다.’라고 그렇게 생각하고 있었던 사람들이에요. ‘이제 하나님의 나라가 곧 올 텐데, 메시아가 오셔서 하나님의 나라가 곧 올 텐데, 유대인들은 무엇을 준비해야 하느냐? 빨리 유대인들은 회개하고, 새롭게 헌신하고 순종하여, 그 메시아가 오심을 준비해야 한다!’라는 의식이 팽배하게 있었다고요.
그래서 유대인들은, 여러 가지 파벌을 만들어서, 부흥운동을 일으키고 있었어요. 바리새인들이 주도하던 ‘바리새운동’이 있었고요. 또 쿰란공동체라고 있죠? 사해 주변에서 동굴을 파고 살던, 쿰란공동체의 ‘에쎈파’라고 있었다고요. 그 사람들이 주도하던 경건운동이 있었어요. 그리고 세례요한이 주도하던 회개의 운동이 있었다고요. 회개와 심판의 운동! 그 메시지를 가지고 일으켰던 부흥운동이 있었다고요. 거기에 예수 그리스도가, 하나의 무리를 이루고 계셨다고요.
이 파벌들은, 자기들의 슬로건이나, 자기들의 신앙적인 노선! 자기들의 소망! 이상! 같은 것들을 담아서, 기도문을 만들어서, 우리는 무엇을 추구하고 있는가를, 제자들에게 가르치고 있었단 말이에요. 그래서 이젠 예수 그리스도의 제자들이 많아졌고, 그들이 한 무리를 이루었습니다. 그래서 그 제자들이, 예수님에게 부탁하는 거예요. ‘선생님! 우리의 슬로건은 뭡니까? 우리가 추구하는 바는 뭡니까?’ 그걸 가르쳐 달라고 하는 거예요. ‘우리도 기도문을 만들어서, 우리도 다른 사람들처럼, 다른 부흥운동 하는 사람들처럼, 우리도 기도문을 만들어서, 우리가 추구하는 바가 뭔지를 가르칩시다! 그래서 기도를 가르쳐주십시오!’라고 이야기 하는 거라고요.
그러니까 우리가 주기도문을 알면 뭘 알 수 있는 거예요? 예수 그리스도가, 그 그리스도인이라고 하는 이들과, 이루고자 하는, 추구하는 내용을, 우리가 알 수 있고요. 두 번째로는, 우리의 신분이 무엇인가를 확인할 수 있는 거예요. 그러니까 이 주기도문은 참 중요한 거죠.
우리가 뜻도 정확히 알지 못하고, 중얼 중얼 중얼 그냥 뭐 예배 때마다 하고, 구역예배 모여서 하고, 의미도 없이 그렇게 이 주기도문을 했다면, 여러분은 주문을 외우는 거예요. 마하반야바라밀다! 이것과 똑같은 거죠. 뭐! 마태복음 6장의 그 주기도문은, 산상수훈의 일부죠? 마태복음 5장부터 산상수훈이 나오지 않습니까? 그 산상수훈 가운데에 들어있는 기도문이, 바로 ‘주기도문’이라고요.
그러면 이 산상수훈이, 성경에서 어떠한 맥락에 있는가를, 우리가 확인하면, 더 이해하기가 쉬울 거라 말이죠. 우리가 마태복음뿐만이 아니라, 요즘 새벽에 살펴보고 있는 요한복음에도 그렇고, 누가복음! 마가복음! 이 4복음서에 나오는 예수 그리스도의 생애는, 바로 이스라엘의 출애굽사건을, 그대로 이야기하고 있다는 것을, 우리가 알았죠? 배웠지 않습니까?
마태복음 1장에, 예수님의 족보가 나오고, 예수 그리스도께서 마태복음 2장에서, 애굽으로 가신다고요. 그래서 애굽에서 이스라엘 백성이 출애굽하는 그 사건을, 그대로 완성시키면서 가시는 거예요. 애굽으로 가셔서, 예수님께서 홍해를 건너신다고요. 언제 홍해를 건넜다 그랬죠? 세례를 받으신 게, 홍해를 건넌 거라고 했잖아요? 고린도전서 10장 1절에!
그 애굽으로 예수님이 가셨을 때는, 어떤 때였습니까? 애기였을 때죠? 헤롯이 애기들을 다 죽이려고 하니까, 애굽으로 도망갔던 거 아니에요? 세례를 받은 건 언제예요? 공생애를 시작한 30세 때라고요! 그러니까 그 많은 시간차가 있음에도 불구하고, 2장, 3장에 그 이야기를 딱 붙여놓은 것은, 바로 이 이야기를 설명해주기 위한 거예요.
그래서 애굽에서 나오자마자, 세례(洗禮)를 받으신다고요. 홍해를 건너시고! 그러고 나서 바로 40일 동안 광야에서 시험을 받으신다 말이죠? 광야에서 시험을 받는다는 것은 뭐예요? 이스라엘이 신명기 8장에 보면, 이스라엘이 40년 동안, 왜 광야를 헤맸어야만 했느냐 하면, ‘너희들을 낮추시고, 시험하기 위해서, 내가 너희들에게 그랬다.’고 그러잖아요? 바로 그 시험을 완성하시는 거예요. 예수님이!
그들은, ‘사람이, 하나님의 말씀으로 살아야지, 떡으로만 사는 게 아니다’라는 것을 이해 못하고 실패했지만, 예수 그리스도는 그것을 시험에서 완성시키시잖아요? 완성시키시고, 예수님은 어디로 가십니까? 바로 이 산으로 가시는 거예요. 산에서, 우리 그리스도인들은, 그 가나안에서 어떻게 살아야 하는가를, 가르쳐 주시는 게, 바로 산상수훈이거든요?
그 이스라엘은 광야에서 어디로 갑니까? 시내산으로 가잖아요? 시내산에서 뭐하죠? 율법을 받잖아요? 율법(律法)! 그들이 가나안땅에 들어가서, 어떻게 살아야 하는가를 가르치는, 율법(律法)을 받으신다고요. 시내산에서! 그러니까 지금 구약에서는 이스라엘이 가나안에서 어떻게 살아야 하는가? 그러한 내용을 주신 것이, 율법을 주신 것이, 시내산 사건이라고 한다면, 신약에서의 지금 예수 그리스도가 완성시키고 가 계신, 그 여정에서의 이 산상수훈의 내용은, 우리가 이제 새 하늘과 새 땅에서, 어떻게 살아야 할 것인지, 우리에게 주시는, 천국백성에게 주시는, ‘행동지침(行動指針)’이라고요. 그 중에 이 주기도문(主祈禱文)이 들어있단 말입니다. 신명기 27장 9절로 가겠습니다.
(신명기 27:9-10, 15, 19)
9 모세가 레위 제사장들로 더불어 온 이스라엘에게 고하여 가로되 이스라엘아 잠잠히 들으라 오늘날 네가 네 하나님 여호와의 백성이 되었으니
10 그런즉 네 하나님 여호와의 말씀을 복종하여 내가 오늘날 네게 명하는 그 명령과 규례를 행할 지니라 15절.
15 장색의 손으로 조각하였거나 부어 만든 우상은 여호와께 가증하니 그것을 만들어 은밀히 세우는 자는 저주를 받을 것이라 할 것이요 모든 백성은 응답하여 아멘 할지니라 19절.
19 객이나 고아나 과부의 송사를 억울케 하는 자는 저주를 받을 것이라 할 것이요 모든 백성은 아멘할지니라
뭐로 끝나요 다? 하나님과 그 이스라엘 백성들의 언약이, 뭐로 끝나느냐고요? ‘저주를 받을 것이다. 아멘! 저주를 받을 것이라. 아멘!’ 이렇게 끝난다고요.
지금 이이야기는 뭐냐면, 구약의 하나님과 이스라엘 백성이, 언약을 맺으시는 클라이맥스 부분인데, 이스라엘이 요단을 건넌 후에 가나안에 들어가면, 에발산과 그리심산에 서서, 레위인들이 서서, ‘너희들은 그 이웃의 지계표를 옮기는 자는 저주를 받을 것이라!’ 하면, 이스라엘 백성들이 서서, ‘아멘!’ 이렇게 하라고 지금 가르치는 거예요. 구약의 언약은 이렇게 끝난다고요. 옛 언약! 율법은 그런다고요. ‘너희들이 못 지키면 다 죽인다!’ 이게 구약의 율법이란 말이에요.
그런데 신약에서는 똑같은 하나님의 언약이 어떻게 내려 오냐고요? 그 산에서 어떻게 내려옵니까? ‘심령이 가난한 자는, 복이 있나니!’로 바뀐단 말이에요. 예수 그리스도의 십자가가 서고 난 다음에는, 저주를 받을 것이다. 아멘! 저주를 받을 것이라 아멘! 우리는 그렇게 받아드릴 수 없는 존재였는데, 이제 예수 그리스도가 설명하는 그 천국 백성들은, 헬라어 원어의 뜻을 보면, ‘심령이 가난한 자는 복이 있나니’가 아니라, ‘복 있는 자여!’로 시작한다고요. ‘복 있는 자여! 그대는 심령이 가난한 자니라!’ 복 있는 자여! 예수 그리스도로 말미암아 복이 있게 된 자여! 너희들은 심령이 가난한 자이고, 너희들은 애통하는 자이며, 천국에서 너희는 어떻게 살아갈 것인가를 보여주는 게, 바로 이 산상수훈의 내용이라고요.
그러면서 신명기 31장에 보면, ‘그러므로 이제 너희는 이 노래를 써서, 이스라엘 자손에게 가르쳐서, 그 입으로 부르게 하여, 이 노래로 나를 위하여, 이스라엘 자손에게 증거가 되게 하라!’라고 하면서, 하나님께서, 모세에게 ‘한 노래를 적어서, 이스라엘 백성에게 외워서 부르게 하라!’라고 가르치세요. 무슨 증거가 되게 하라는 내용이냐 하면, 여러분이 가서 신명기를 쭉 읽어 보세요.
‘우리는 이렇게 불순종하고, 불가능한 존재입니다.’라는 내용을 노래로 써서, 외워서 부르게 만들었단 말이에요. 우리는 이런 존재입니다! 이렇게 불가능합니다! 그걸 외우게 만들었다니까요. 그 노래를 부르게 했어요.
그런데 신약에서는 무슨 노래를 부르게 했느냐? 주기도문을 부르게 한 거예요. 외워서! 그래서 여러분은 그 노래를 지금도 부르고 계신 거예요. ‘하늘에 계신 우리 아버지 … ’ 어떠한 차이가 있냐 말이에요? 옛 언약과 새 언약! 율법과 은혜의 사이에, 어떠한 차이가 있냐 말이에요? 이렇게 확연한 차이가 있단 말이에요.
예수 그리스도와, 그 십자가와, 그분의 보혈과 부활로 말미암아, 우리에게 주어진 게, 도대체 어떤 거냐 말이에요? 이 주기도문의 내용에는, 일곱 가지의 기도제목이 들어있어요. ‘하늘에 계신 우리아버지여!’라고, 아버지를 부르고 난 다음에, 첫 번째 기도제목을 올리는데,
첫 번째가, ‘이름이 거룩히 여김을 받으시오며,’
두 번째 기도제목이, ‘나라이 임하옵시며,’
세 번째가, ‘뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어 지이다!’
네 번째가, ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고,’
다섯 번째가, ‘우리가 우리에게 죄지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵시고,’
여섯 번째, ‘우리를 시험에 들게 하지 마옵시고,’
일곱 번째, ‘다만 악에서 구하옵소서!’
일곱이라는 숫자가 뭐예요? 성경에서? 완전수란 말이에요. 하나님은 우리에게 완전한 기도를 지금 가르치고 계신 거예요.
그런데 여러분! 내용을 한번 보면, 굉장히 이해 못할 부분이 많아요. ‘이름이 거룩히 여김을 받으시오며,’ 아니, 하나님이 우리가 기도하지 않아도, 그 분의 이름은 거룩해요. 그런데 우리가 꼭 기도해야 돼요? ‘이름이 거룩히 여김을 받으시오며,’ 이 기도 안 한다고, 그 이름이 거룩 안 해지나요? 그런데 왜 우리에게 굳이 이 기도를 하라고 하셨을까요?
그리고 ‘우리에게 일용할 양식을 주옵시고.’ 분명히 그 앞에서는 예수님이, ‘너희들 먹을 것, 입을 것, 마실 거를 기도하지 말아라!’라고 해놓고, ‘우리에게 일용할 양식을 주옵시고’ 또 이렇게 기도하라고 그래요. 앞으로 계속해서 이런 내용들을 설명을 해 드릴 거예요.
오늘은, ‘하늘에 계신 우리 아버지여!’ 그 내용이 무엇인지만, 간단하게 집고 넘어가지고요. 이 ‘아버지’란 단어는, ‘파테르’란 단어에요 파테르 헬라어 원어의 뜻은, 이 파테르라는 단어는, 요하킴 예레미아스에 따르면, 그 그리스도의 이전에 있었던 문서와, 그리스도 이후에 있었던 문서! 어느 문서에서도 쓰이지 않은 단어라고요. ‘파테르 아바’라는 단어거든요. 나의 본질과 본체가 동일한, 그런 아버지와 자식 사이에서만 쓰던 단어란 말이에요.
그 단어를, 예수님께서 지금 우리에게 쓰라고 하시는 거예요. ‘파테르 아바!’ ‘너는 그 하나님을 아버지라고 부르라!’라고 말씀하시는 거예요. 감격스럽지 않으십니까? 여러분? 본질과 본체가 같으신 삼위일체의 하나님! 그 하나님들 사이에서 있었던 그 대화에, 우리를 끌어들이시는 거예요. 그리니까 기도는, 창조자와 피조물과의 사이에서, 피조물이 창조주에게, ‘하나님! 나 이거 주세요!’라는 내용이 아니라, 창세전부터 예수 그리스도! 아들인 예수 그리스도와, 아버지인 하나님 사이에서 있었던 그 대화에, 그 안으로 우리를 초청하는 게 바로, 기도라는 거예요.
그래서 예수님은, ‘하늘에 계신 우리 아버지여!’라고 너희들은 기도해라!’라고 하는 거예요. 그 말은 뭐예요? 너희들도 그 하나님 아버지의 ‘친자식’이라는 거예요. 그래서 우리에게 ‘파테르 아바’라는 단어를 쓰라고 하시는 것입니다.
분명히 구약성경에는, 이렇게 하나님을, 아버지! 어머니! 이렇게 묘사, 상징적으로 묘사한 부분들이 있어요. 그런데 거기 쓰인 ‘아버지’란 단어도, 이 ‘파테르’란 말은 아니었단 말이에요. 그런데 예수님이 여기에서, 그 유대인들에게, ‘파테르’할 때, 이 유대인들이 놀란 거예요. ‘아니, 어떻게 그런 불경한 말을 쓸 수 있냐? 네가 하나님의 아들이란 말이냐?’ 이사야서 49장 15절을 보세요. 거기는 하나님을 그렇게, 어머니를 상징하는 단어를 써서, 하나님을 설명하고 있어요.
(이사야 49:15)
15 여인이 어찌 그 젖먹는 자식을 잊겠으며 자기 태에서 난 아들을 긍휼히 여기지 않겠느냐 그들은 혹시 잊을지라도 나는 너를 잊지 아니할 것이라
어머니와 같다는 표현을 쓰죠. 그리고 이사야서 64장 8절로 가보면,
(이사야 64:8)
8 그러나 여호와여 주는 우리 아버지시니이다 …
이렇게 아버지란 단어를 직접 쓰기도 해요. 그런데 구약에 쓰인 이 ‘아버지’란 단어들! 그리고 상징으로 가르쳐 주신 아버지, 어머니란 이 상징들은요, 우리들의 ‘창조자! 구원자’라는 의미로 쓰인 단어들이에요. 창조자! 구원자!
이렇게 예수님이 쓰신 ‘파테르’란 단어처럼, 그분이 내 본질과 본체가 같은 나의 아버지라고, 그들은 불경스러워서 한 번도 써본 적이 없어요. 그래서 ‘하나님’이라는 그런 단어가 책을 읽다가 나오면, 금방 ‘아도나이’라고 바꿔서 불렀다고요. 그들은! 하나님의 이름조차도 못 부른 자들인데, 예수님은 우리에게, ‘아버지’라고 부르라는 거예요. ‘아빠’라고 부르라는 거예요. 이 말을 들으면서 여러분! 감격의 눈물을 흘러야 되는데, 우리가 그분을 ‘아버지’라고 부를 수 있는 존재가 되었다는 거예요. 아버지!
예수 그리스도께서 이 땅에 내려오셔서, 밤이 맞도록, 여러 번 기도한 부분들이 있죠? 그 기도는 ‘내가 인간으로 이렇게 제한된 몸으로 왔기 때문에, 너무 힘듭니다. 아버지!’ 그 기도가 아니라, 바로 지금 우리가 확인한 것처럼, 창세전에 그 삼위일체 하나님이 대화를 나누셨던 ‘아버지!’ 그 대화를 끊임없이 하고 계셨던 거예요. 이 땅에서!
그 기도 안으로 우리를, 이렇게 저주받아 죽을 수밖에 없는, ‘저주를 받을 지어다! 아멘! 저주를 받을 지어다! 아멘!’ 그렇게 할 수밖에 없는 우리를, 그 아버지와 자녀의 그 대화 속으로 우리를 끌고 들어가시는 것이, 바로 ‘하늘에 계신 우리 아버지!’라는 거예요. 바로 그러한 창세전에 가졌던, 세 분 하나님의 친밀한 관계 속으로, 우리를 끌어당기시는 거예요. 그게 ‘하늘에 계신 우리 아버지!’의 의미인 것입니다.
그리고 아버지는 아버진데, 하늘에 계신 ‘우리 아버지’라 그런단 말이에요. 우리 아버지! 거기서 우리는 누구예요? 우리! 교회를 이야기 하는 거예요. 이런 무슨 서머나교회, 무슨 교회, 이런 교회 말고요. 무형의 교회! 창세전에 이름이 불려져서, 예수 그리스도께서 다시 재림하시는 날까지, 이 역사에 던져져서 살아가야 할, 하나님의 백성들! 그 전체를 가리켜서, ‘교회(敎會)다!’라고 이야기하잖아요?
‘하늘에 계신 우리 아버지’라고 시작하라고 하는 것은, 바로 우리! 이 교회의 소원을 아뢰라는 거예요. 교회의 소원이 뭐라 그랬어요? 지난주에? 우리 교회의 소원! 우리 공동체의 소원! 웨스터민스터 신앙고백 소요리 문답 1번! ‘하나님을 영화롭게 하고 그분을 즐기는 거’예요. 그러니까 모든 기도는, 그쪽으로 수렴되어져야 된다는 거예요.
분명히 우리의 필요를 따라서 기도해야죠. 우리가 얻고 싶은 것, 갖고 싶은 것, 기도하라고요. 제가 하라고 그랬잖아요? 간절히 기도하세요. 열심히 기도하세요. 하지만, 그게 들어지든 안 들어지든, 거기에서 머물지 마시고, 그 일을 통해서, 우리에게 하나님께서 알리고자 하시는 뜻과 의중까지 가시라는 거예요. 그게 바로 우리의 소원이잖아? 우리의 소원! 그 하나님의 뜻을 알아드리고, 그 의중을 헤아려드려서, 하나님의 소원이 우리의 삶을 통해서 이루어지는 것! 그게 기도란 말이에요. 그냥 어떻게 해서든지 그냥 졸라서, 그 하나님에게 받아내는 것! 그게 기도가 아니라는 거예요.
자, 마지막으로 기도라는 것은, 관계에서부터 시작되는 것이라는, 그 확인도장을 하나만 찍고 가자고요. 누가복음 11장 5절에서 13절까지 한번 보겠습니다.
(누가복음 11:5-13)
5 또 이르시되 너희 중에 누가 벗이 있는데 밤중에 그에게 가서 말하기를 벗이여 떡 세 덩이를 내게 빌리라
6 내 벗이 여행 중에 내게 왔으나 내가 먹일 것이 없노라 하면
7 저가 안에서 대답하여 이르되 나를 괴롭게 하지 말라 문이 이미 닫혔고 아이들이 나와 함께 침소에 누웠으니 일어나 네게 줄 수가 없노라 하겠느냐
8 내가 너희에게 말하노니 비록 벗됨을 인하여서는 일어나 주지 아니할지라도 그 강청함을 인하여 일어나 그 소용대로 주리라
9 내가 또 너희에게 이르노니 구하라 그러면 너희에게 주실 것이요 찾으라 그러면 찾을 것이요 문을 두드리라 그러면 너희에게 열릴 것이니
10 구하는 이마다 받을 것이요 찾는 이가 찾을 것이요 두드리는 이에게 열릴 것이니라
11 너희 중에 아비 된 자 누가 아들이 생선을 달라 하면 생선 대신에 뱀을 주며
12 알을 달라 하면 전갈을 주겠느냐
13 너희가 악할지라도 좋은 것을 자식에게 줄줄 알거든 하물며 너희 천부께서 구하는 자에게 성령을 주시지 않겠느냐 하시니라 아멘.
이 구절을 가지고, ‘강청기도를 하면, 우리는 반드시 얻어낼 수 있다!’ 그리로 가시면 안 되는 거예요. 여기에서 분명히 ‘강청함을 인하여 준다.’는 이야기가 있죠? 유대인들은요 이 친구 사이가, 아주 우리가 생각하는 것은, 상상을 초월하는 관계였어요. 유대인들이 친구라고 하면은, 그 친구는 밤 2시고, 3시고 가서, 문을 두들겨서, ‘내가 지금 우리 집에 물이 떨어졌는데, 물 한 바가지만 줘!’ 그러면 일어나서 줘야 되는 게 친구 사이에요. 유대인들 사이에서는! ‘친구 아이가!’ 이 얘기예요.
예, 지금 여기에 나오는 그 사람도, 멀리서 친구가 왔어요. 그런데 먹을 걸 줘야 되는데, 먹을 게 없는 거예요. 그러니까 떡 세 덩이를 빌리러 친구 집에 간 거예요. 가서 문을 두드리면서, ‘야! 내 친구가 멀리서 왔는데, 떡 세 덩이만 줘!’ 그랬더니 이 친구가, ‘야! 지금 애들도 다 자고, 우리가 지금 벌써 누웠다.’ 그러니까 ‘못 준다!’라고 누가 하겠느냐?’라고 그런 거예요. 그러니까 그런 사람! 없다는 거예요. 친구사이에는!
친구사이는 무조건 두드리면, 애가 자든, 말든, 내가 이미 잠자리에 들었던 간에, 일어나서 줘야 하는 게 친구사이라는 거예요. 그런데 혹 친구사이에서, 일어나서 안 주는 일이 혹 있을지도, 있을 수가 없는 일인데, 있을지도 모르지만, 그 강청함을 인하여, 일어나서 너에게 준다. 그래요.
강청함이라는 말은 뭐예요? 여기서! 헬라 원어의 뜻은, ‘아나이데이아’라는 뜻이거든요. 이 말은 막 끈질기게 졸라서, 그 조르는 행위를 나타나는 게 아니라, 여기에서 강청함은, ‘뻔뻔스러운 요구’라는 거예요. 뻔뻔스러운 요구! 막 졸라서 얻어내는 게 아니라, 뻔뻔스러운 요구!
아버지와 나와의 관계가 확인이 되어 있으면, ‘아버지! 이거 주세요!’ 이렇게 뻔뻔스럽게 요구할 수 있다는 거예요. 우리 아들이 자기가 우리 집 페이먼트(payment) 하는데, 단 1전도 안 보테면서, ‘우리 집 가자!’ 그러는 것처럼, 마치 자기 아버지 것이 다 내 것처럼, ‘아버지! 이거 주세요!’라고 요구할 수 있게 되는 거! 그 이야기 하는 거예요. 그러니까 먼저, 너와 그 아버지의 관계가 확인되어 있느냐? 확인 됐니? 확인됐으면, 뻔뻔스럽게 구하라는 거예요. 그럼 다 준다는 거예요.
그런데 지난주에 우리가 뭘 구한다, 그랬어요? 그런 자들은? 하나님과 나와의 관계가 확인된 자들은, 뭘 구한다 그래요? 영적인 것을 구하더라는 거예요. 그걸 다 준다는 거예요. 그거는 무조건 다준다는 거예요. 여러분들이 지금 기도제목이 많이 있었죠? 많이 기도했잖아요? 그런데 몇 개나 들어졌어요? 안 들어지잖아요? 잘! 그런데 성경에서는 누누이 이렇게 ‘구하라! 다 준다. 구하라! 다 준다.’ 그렇게 약속했단 말이에요.
그러면 하나님이 거짓말 한 거냐 말이에요? 거짓말이 아니라, 영적인 것! 그런 것을 구하면, 그건 다 준다는 거예요. 보세요. 13절을 한번 보시면,
13 생선을 달라 하면 뱀을 주겠느냐 알을 달라 하면 전갈을 주겠느냐 그렇게 너희가 악할지라도 좋은 것을 자식에게 줄줄 알거든, 하물며 너희 천부께서 구하는 자에게 성령을 주시지 않겠느냐
그러잖아요? 그러니까 고 앞에 어떤 단어가 생략되어 있느냐면, ‘성령을 구하는 자에게 성령을 주시지 않겠느냐? 하시니라’란 말이에요. 그러니까 ‘영적인 것을 구하는 자에게는, 반드시 준다!’ 그 이야기 하시는 거예요. 그러면 우리의 기도의 내용이 어떻게 바꿔야 되는 거예요?
이렇게 기도는, 하나님과 나와의 관계의 확인에서 시작되는 것입니다. 그리고 우리의 필요를 받아내는 것이라기보다는, 영원한 나라와 영원한 생명에 더 초점을 맞춰야 하는 거예요. 우리의 필요를 구하는 기도를 한다 하더라도, 거기서 하나님의 뜻과 의중을 헤아리는, 그러한 하나님의 자녀들만의 장막 안으로, 여러분은 들어가셔야 되는 거예요.
여러분의 필요를 따라서 기도하십시오. 열심히 기도하세요. 하지만 그것이, 거기에서 그치는 것이 아니라, ‘아버지! 아버지는 내 아버지였군요. 그러니까 그렇게 사랑하시는 나의 아버지! 나와 본질과 본체가 같으신 아버지!’ 여러분은 그런 사람들이라니까요. 예수 그리스도와 여러분은, 요만큼도 차이가 없이, 그런 수준으로 우리를 대접해 주신단 말이에요. 하나님이! 그러한 아들이라는 게, 그러한 딸이라는 게 확인된 사람들이, 도대체 무얼 구하고 있냐 말이에요? 지금!
(マタイによる福音書 6:9-13)
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい。天におられるわたしたちの父よ、御名(みな)が崇(あが)められますように。
10 御国(みくに)が来ますように。御心(みこころ)が天に行われるとおり、地にも行われますように。
11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
12 わたしたちに負債のある者をわたちが赦したように、わたしたちの負債をも赦してください。
13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪から救い出してください。(国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン)
御言葉を分かち合う前に、一つお願いがあります。教会員が少しずつ増えてきたこともあり、私たちの間でも慶弔事が多く生じています。今週の金曜日にはチ執事さんのご自宅のビジネスが開業し、結婚式もあり、葬儀もあり、これからそうなっていくでしょう… 満一歳の誕生日(トルチャンチ)などもあるでしょうね。
その都度、私は招待を受けて行くことになります。牧師が行って説教をしたりもしますよね? ですがその際、私たちは一つの良い伝統をしっかりと立てていきましょう。もし皆さんが、牧師が来たからといって、ガソリン代や車代として封筒にお金を入れて渡したりするなら、私はひどく怒るでしょう。
牧師は、その牧会! 牧羊をするために、神様によって立てられた人です。それをするためなのです! 行って葬儀があれば、弔事があれば共に悲しみ、喜び事があれば共に行って喜ぶ、そうするために教会からも生活費が支給されているのです。「いや、それでも時間を割いて来てくれたのだから、せめて車代くらいは出さなきゃ」 もしそうされるなら、皆さんは牧師を台無しにするのです。また一つ、いい加減な教会を作るのです。いい加減な伝統を作るのです。
どうせ、皆さんがそのようにくださったとしても、戻って教会に献金します。外部の集会に出て、賛美集会や復興会をして受けてきた謝礼金も、封筒ごとそのまま全部献金しています。そのまま! 何人もの手を経由させずに、ただ感謝してそのまま教会に献金してください。
私たちは同じ聖徒の立場で、お祝いしに行くのです。そのファンクション(function; 役割)上、私は説教をする者なので、行って説教をするだけのことです。そのように牧師にだけ手間賃を渡したいのなら、来た人全員に渡してください。何百ドルずつ、来てくれてありがとうと言わなければならないのです、道理として! 絶対にそのようなことは、新しく来られる方々にも必ず伝えておいてください。皆さん! そうでなければ私たちの教会も大変なことになります。牧師が怒ります。
青年たちは、私と一緒にご飯を食べていて、もし自分たちで代金を払ったりしたら、私にスプーンで叩かれます。といっても、大人の方々はある程度出してくださっても大丈夫です。私より生活に余裕があるから大丈夫ですが、牧師はそのように尊敬され崇められる存在ではありません。だから私はチ執事さんの開業式にプレゼントを買って行くつもりです。トイレットペーパーとかあるじゃないですか? 洗濯石鹸とか、そういうのを買って行くのが正解ですよね? ビジネスの開業の時に! そうやって行って説教してくるのであって、何を生意気な。葬儀に行って説教して金をもらう、そんなことがあってはならないということです。
さて、主の祈りの二回目です。私が賛美宣教を始めてから15年が過ぎました。15年を過ぎてみると、数百箇所の教会や集会に参加してきました。すでにアメリカだけでも100箇所以上の教会で集会を導きました。多くの牧師先生に会い、多くの教会員にも会います。その中で記憶に残る教会! 記憶に残る牧師先生! 記憶に残る聖徒たちが本当にたくさんいます。
ある教会では、一週間ずっと集会をしてきたこともあります。フロリダのある田舎にある、ジャクソンビルという町にある教会はですね。ただ海岸沿いにキャビン(cabin)を一つ借りておいて、外に出してくれません。そしてご飯を食べさせ、トイレに行かせ、寝かせ、一週間に11回説教し、3回賛美集会をして、そうやって過ごした教会もあります。どれほど渇望していれば、ということですよね。
エルパソにある教会は、メキシコ国境地帯にあります。集会を始めようと数白人が集まりました。「さあ、良いものを見よう!」と盛り上がっている時に、パッと電気が消えました。それで数時間、アコースティックギター一本持って、蝋燭を灯して。集まったのだからやらなければならないのです、そこでは! そのように集会をした、そんな教会もあります。
あのような田舎の教会に行くと、教会の庭で韓国の田舎のように、大きな釜の蓋を逆さまに置いて、エゴマ油を塗りながら、チヂミにイイダコのようなものをのせて焼くんです。お祭りです! 本当に! 「ここが本当にアメリカか?」と思うほど、そんな温かい教会があります。
その中でも最も印象に残っている教会は、ニュージャージーのある小さな教会でした。その教会は教員こそ数名しかいませんでしたが、本当に眼差しが生きている、そんな教会でした。その講壇の向かい側の壁、牧師が見える向かい側の壁に、何と筆文字で大きくこう書いてあるのです。「先生よ! わたしたちはイエスにお目にかかりたいのです!」 こう書いてありました。先生よ! わたしたちはイエスにお目にかかりたいのです!
私が集会を一生懸命やっている途中で、その一節をパッと見た瞬間! 全身が凍りつくような感じがしました。普通、賛美宣教をするとなると、リバイバリスト(復興師)たちも同様ですが、良い説教をいくつか、そして良い証しのネタをいくつか用意しておけば、10年は使い回せます。それぞれ違う教会に行きますからね。ところが「先生よ! わたしたちはイエスにお目にかかりたいのです!」という文字を見た時、「私は今、何の話をしているのか?」と考えました。
それなのに、もっともらしい話をしていますよね? 人々が泣いています。しかしそこで私は、謙遜や道徳、倫理で偽装された、そのように飾り立てられた、私自身の話ばかりをしていたのです。そのようにお互いにショーをしているのです。私は自分の話! 自分の自慢! をしており、会衆はそれに対して感動したふりをしなければならないからです。遠くから来られたのだから、どうしようもないですよね? 泣いてあげなきゃ! 本当に、韓国人は優しいです。そういうのを見ると!
しかし、私がその一節を見た時、体が凍りつきました。「先生よ! わたしたちはイエスにお目にかかりたいのです!」 ヨハネによる福音書12章21節の御言葉! その教会員たちが目をキラキラと輝かせて、私にそう言っているようでした。先生よ! 私たちはイエスにお目にかかりたいのに、あなた今、何の話をしているのですか? 先生よ! 私たちはイエスにお目にかかりたいのに、あなた今、なぜ道徳の話をし、倫理の話をしているのですか? ということです。
それ以来、私はどの教会、どの場所に行っても、あのイエスの話を始めました。そして、壇上に上がる時にはこう答えて上がります。「はい、皆さん! 今日も私は、皆さんがお目にかかりたいと願う、あのイエスの話をします。皆さん! 私は今日も、皆さんがお目にかかりたいと願う、イエスだけを語ります。」 そうし始めました。
ここへ上がる時も、私はいつもそのように、オフィスで祈ってから上がります。「神様! 私が今日も、私たちの聖徒たちがそれほどまでにお目にかかりたいと願う、あのイエスだけを伝えることができますように!」 キム・ドンギル教授がするような倫理的な講演ではなく、そのような学術セミナーではなく、キム・ヨンオクが語るような老子の道徳経や儒教の話ではなく、イエスの話をして降りてこられますように!
もし皆さんが、そのような道徳的、倫理的な話を求めておられるなら、良いビデオシリーズがたくさんあります。それをご紹介します。「正しい社会作り!」とか! 道徳的、倫理的に、善良に正しく生きる方法! なぜ礼拝堂でまで、そのような話を聞きたがるのですか? 礼拝堂ではイエスの話と、主が私たちに行われた恵みの話だけが、宣言されなければならないのです。ですから、皆さんの目からも、私はそのような話を読み取ります。「先生よ! わたしたちはイエスにお目にかかりたいのです!」
そうでしょう? そうです! 皆さん! 私たちのスミルナ教会は、そのような教会にならなければなりません。「先生、あなたは別の話をしていますか?」 もし私がいつの間にか別の話をしていたら、皆さん! 私にそう言ってくださるべきです。「先生よ! わたしたちはイエスにお目にかかりたいのです!」 ですから、私たちは主の祈りを学びながらも、イエスを発見し続けているのです。
先週、私たちは主の祈りの一回目で、「天におられるわたしたちの父」というそのフレーズをもって、あのイエスをそこで発見しました。あのイエス様は「パテール、アバ」というその単語を私たちに使うようにと言われ、その本質と本体が同じ三位一体の神様! その三方の神様が使っておられたその呼称を、私たちに使わせてくださったのです。パテール、アバ! 「あなたがたはこのように祈りなさい。あの方を父と呼びなさい!」 だから、私たちはあの方の子供になったというその感激から、祈りを始めることができるようになったのです。
今日は二回目として、三つの「Thou Petitions(あなたへの願い)」、その中の最初の祈りの課題である「御名(みな)が崇(あが)められますように」という一節に関する学びをいたします。皆さん! 神様はすでに、私たちとは関係なく聖なる方です。それなのに、あの方が「御名が崇められますように」というこのような祈りをしなさいと言われたのには、明らかに理由があるのです。一つ目は哲学的な面から説明し、二つ目は救済史的な面から説明します。
この哲学的な面からの説明は、このようなものです。私たちが神様のその聖なる御名に、創世前からすでに聖なるその御名に、何を加えればその御名が聖(きよ)められるというのでしょうか? 私たちがその聖なる御名に、より多くの献金を捧げ、より多くの奉仕をすれば、その御名は聖められるでしょうか? 私たちが神様に栄光を帰すという、その言葉からも推論してみましょう。
どうすれば、私たちが神様にさらなる栄光を帰すことができるのでしょうか? あの方はすでに栄光ある存在なのです。あの方の財産に、私たちがもう少し多くの財物を足して差し上げれば、あの方はより喜ばれ、あの方の生が栄光あるものになるのでしょうか? それとも、私たちがあの方の仕事をたくさん手伝えば、あの方は栄光を受けられるのでしょうか? どうすればあの方に、私たちが栄光を帰すことができるというのですか? 私たちが栄光の拍手をパチパチパチと送れば、あの方は栄光を受けるのでしょうか? 本当に、どうすればいいのですか? どうすればあの方の御名が聖められるのですか? 一体全体!
説明を分かりやすくするために、擬人法を使ってみます。ここに井戸があります。井戸! とても新鮮で、とても冷たく、それ自体としてあまりに、この世に二つとないような井戸です。そして、いくら汲んで飲んでも絶えず水が湧き出る、そんな井戸です。では、私たちがその井戸を喜ばせ、その井戸のためになれる道とは何でしょうか? 世界で一番冷たく、一番新鮮で、それ自体から絶え間なく水が湧き出るその井戸に、どうすれば私たちは栄光を帰すことができるというのでしょうか?
道はただ一つです。私たちがいくら水を他所から汲んできて注ぎ込みながら、「井戸よ! 私があなたにこんな水を足してあげているよ。嬉しい? 喜んでる?」と聞いたとして、その井戸が喜ぶでしょうか? すでに自らがあまりにも新鮮で、清らかで、美しく、自ら水を生産している井戸なのです。では、どうすればよいのですか?
その井戸に栄光を帰す方法はですね、水を汲んで飲むことです。飲んで、「ああ、冷たい! ああ、美味しい! 世の中にこんな井戸はない!」 そうやってその井戸を称賛することです。そして他の人のところへ行って、「あの井戸の水を飲んでみて! どれほど冷たいか知ってる? どれほど清らかか知ってる? 世界に二つとないよ! 行って飲んでみて! 私は飲んでみたよ」 唯一、その井戸に栄光を帰す方法はこれです。私たちが神様に栄光を帰し、神様の御名を聖めることができる方法は、それなのです。
神様が誰であるかを明確に知り、理解し、悟って、あの方が私たちに施されたその恵みが何であるかを、楽しむことです。そして他の人々に、その命の水を自慢することです。「あなたたち! 私たちにイエスが許してくださったこの命の水が何だか知ってる? 私は飲んでみた。本当に冷たい。本当に清らかだ。私はこれで生き返った。もう、何ものも私を惑わすことはできない」ということを自慢するのです。それが私たちが神様に栄光を帰す方法であり、あの方の御名を聖める方法です。哲学的な説明はこれです。
さて、救済史的な側面から、神様の御名を聖める(崇める)ということは、どういう意味か聖書から見てみましょう。「神様! あなたの御名が崇められますように」という言葉には、何が前提とされているかというと、あの方の御名が汚されたということです。神様のその聖なる御名が、どのようにして汚され得るのでしょうか? 本質的には汚されるはずがありませんよね?
しかし、神様が人間と契約を結ばれ、人間と関係を持ち始められました。それから、この世がその御名を汚し始めました。どのように汚したのか、聖書から探してみましょう。エゼキエル書36章16節から23節まで行きます。
(エゼキエル 36:16-23)
16 主の言葉がわたしに臨んだ。
17 「人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、その行いと業によって、その地を汚した。彼らの行いは、わたしの前には、月経中の女の汚れのようであった。
18 それで、彼らがその地に流した血のゆえに、また、偶像によってその地を汚したゆえに、わたしは憤りを彼らの上に注いだ。
19 わたしは彼らを諸国民の中に散らし、諸国に追い散らした。わたしは彼らの行いと業に従って彼らを裁いた。
20 彼らは行った先の諸国民の間で、わたしの聖なる名を汚した。人々が彼らについて、『彼らは主の民なのに、主の地から出された』と言ったからである。
21 わたしは、イスラエルの家が行った先の諸国民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。
22 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしが事を行うのは、お前たちのためではなく、お前たちが行った先の諸国民の間で汚したわたしの聖なる名のためである。
23 諸国民の間で汚されたわたしの大きな名、すなわち、お前たちが彼らの間で汚した名を、わたしは聖なるものとする。わたしが彼らの目の前でお前たちを通してわたしの聖なることを示すとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。」
主の言葉です。神様が直接今語っておられますが、「お前たちがわたしの名を汚した」ということです。お前たちのせいで、諸国民の中でわたしの名が汚されたが、その名を、わたしが再び聖なるものとする。誰がですか? わたしが! 神様が直接! その名を聖なるものとされるというのです。
ところが、イエス様は私たちに、「あなたがたはこう祈りなさい。天におられるわたしたちの父よ、御名(みな)が崇(あが)められますように」と祈れとおっしゃいます。しかし神様は、自分でするとおっしゃる。ご自身でするとおっしゃるのです。これを皆さんは明らかに理解して進まなければなりませんよね?
この話の背景は、神様が契約によって私の民としたあのイスラエルが、約束の地で罪を犯し続けます。神様は明らかにカナンに入る前に、イスラエルと契約を結ばれましたが、どのような契約を結ばれたかというと、「お前たちがカナンで、わたしとわたしの話を聞いて行えば、よく守れば、お前たちは祝福を受けて豊かに暮らすだろう。しかし、お前たちがわたしに聞き従わず、わたしの言葉を聞かず、守り行わないなら、お前たちはそのカナンから追い出される。お前たちがわたしの言葉を聞かないなら、お前たちは追い出される」とおっしゃったのです。
ところがイスラエルは、入るやいなや罪を犯し始めました。毎週金曜日に見ている士師記で、どれほど彼らが背信的だったでしょうか。神様が入れてくださるやいなや彼らがしたのは、偶像を拝むことでした。カナンの文化と文明を楽しむことでした。さらにはモレクという神に、自分の赤ちゃんを捧げたりもしました。赤ちゃんを! 自分の利益と幸福のためには、赤子まで捧げるのです。私たち人間がそのような存在であることを、聖書が説明しているのです。だから神様はカナンから彼らを追い出されました。バビロンを用いて! それでイスラエルは諸国に散らばってしまったのです。
すると諸国の人々がイスラエルに対して、このように言い始めました。「お前たちの神はどういう神なのだ? 私たちが信じているバアルは、私たちをこんなに豊かにしてくれるのに、お前たちが信じている神は一体どんな神だから、自分の民一人守れないのだ?」 そのように神様をあざけり始めました。
弱虫な神! 出来損ないの神! 自分の民に豊かさも与えられない神! 自分の民をむしろ、このように他の異邦民族を用いて打ち据える神! 彼らがそのように神様を罵り始めたのです。何が原因で起きたのですか? それはイスラエルの民が罪を犯したからであり、神様が彼らを教えるために、懲らしめるために手を下されたところ、諸国民が神様の御名をそのように汚したということです。私たちはどうでしょうか? 全く同じです!
世の人々は私たちにどう言いますか? 「おい! お前が信じている神! お前が信じているあのイエス! 全能の神だと言ってただろ? なのに、お前のビジネスはなぜいつもこうなんだ? なぜお前の体にはこんな病気があるんだ? お前の子供はなぜこんなに問題ばかりなんだ? お前が信じている神は全能だと言ってただろ?」 今日も神様は同様に侮辱されているのです。
しかし、その侮辱を、汚された神様の御名を、神様はどのようにして聖なるものとされるとおっしゃっていますか? 明らかに23節で、「諸国民の間で汚されたわたしの大きな名、すなわち、お前たちが彼らの間で汚した名を、わたしは聖なるものとする」とおっしゃっています。では、わたしがその名をどのように聖なるものとするのか、その下に説明がなされています。24節から。
(エゼキエル 36:24-28)
24 わたしはお前たちを諸国民の間から取り出し、あらゆる国々から集め、お前たちの土地に連れて行く。
25 わたしは清い水をあなたたちに振りかける。あなたたちはすべての汚れから清められ、わたしはあなたたちをすべての偶像から清める。
26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの内に新しい霊を置く。お前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
27 また、わたしの霊をお前たちの内に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの法を守り行わせる。
28 お前たちは、わたしがお前たちの先祖に与えた地に住み、お前たちはわたしの民となり、わたしはお前たちの神となる。
神様はどのようにしてご自分の御名を聖めるとおっしゃっていますか? 諸国に散らばっているご自分の民を救い出すことによって! そして諸国に散らばっていた民を引き出して、神様が約束されたあのカナンに再び入れられるというのです。
しかし、彼らには自らの能力がありません。だから神様は、「お前たちは自分の力では到底できないから、わたしが水で洗って、わたしが水で清めて、そしてお前たちの心の中を突き抜けて入り、お前たちの心の中に新しい霊を入れ、新しい心を心に刻む」というのです。神様が最初から最後まで全て行われるというのです。私たちの救いをです!
つまり、神様のご自身の御名が聖められる方法は、ただ一つの方法なのですが、世の人々から侮辱を受けたその理由は何ですか? イスラエルの民が諸国に散らばっていることです。神様が彼らを懲らしめられたのです。我が子にするために。だから世の人々が、「ヘッ、出来損ないの神! 弱虫な神!」とそのように御名を汚したその場所から、彼らを再び集め寄せてですね、「わたしがこの子たちをこのように懲らしめ、このように患難と迫害の中に置いたのが、本当にわたしがこの子たちを呪ってそうしたと思っているのか? わたしの我が子に仕立てて、永遠の国に連れて行って一緒に住みたかったからなのだ!」というその救いを、神様は必ず成し遂げられるというのです。それによってのみ神様の御名は再び聖められ得るのです。そのように汚されたからです!
ですから、神様の御名が聖められることと、私たちの救いとは、切り離すことのできない関係なのです。神様が水で洗われ、聖霊によって私たちの内に植え付けてくださるその新生! ニコデモに話された、「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない!」という、その新生を、私たちの胸にそのまま植え付けてくださるというのです。再創造をされるというのです。完全に新しい人間に! 「もはやお前たちは神様の言葉を聞かずにはいられない、そのような人間に! Able to sin(罪を犯し得る人間)から、Not able to sin(絶対に罪を犯し得ない人間)まで引き上げてくださるというのです。神様が! ご自身がされるというのです。それなのに!
皆さん! 私たちが「神様、神様の御名が聖められることを願います」という祈りをしながら、私たちは「神様! あの時エゼキエルに約束された、あの神の民の救いが、成し遂げられますように!」とそのように祈るのです。そのように祈りながら、皆さんが考えなければならないことは何ですか? その祈りをしていますが、私はどのようにその祈りをしていますか? 救いを受けたから、神様に祈りをしているではないですか? ならばその祈りは、すでに成し遂げられたのです。応答されたのです。
皆さんは救われたではないですか? だからここに来て、このように礼拝しているのではないですか? 「父よ!」と! あの御方をまた「父よ!」と呼んでいるではないですか? 「父の御名が崇められますように!」という、その祈りをする皆さんは、救いを受けたからではないですか? ですから皆さんはすでに、その祈りに対する応答を受けられた方々なのです。
さあ、私たちは救われました。どのような面で私たちは救われたと言うのでしょうか? 神様は全知全能の方なので、何を計画し目的されたとしても、絶対にあの方は失敗することがないため、私たちは救われたと言うのです。ですから私たちは、救われた者として、「神様の御名はすでに聖められた」と語るのです!
しかし、私たちは今この世を生きています。このように絶えず罪を犯しながら! 救われた人間がこれでは、どこへ行っても顔向けできません。私たちは! 生き方がめちゃくちゃだから! 私たちがあまりにもいい加減に生きているので、人々に顔向けできません。ですが私たちは救われたと言います。救われたというのは、その契約は確実に守られるという面で救われたということであり、私たちは今、救われつつあるではないですか? 少しずつ、少しずつ変えられていっているのです。
ですからその救いは、成し遂げられつつあるのです。結局最後になって、終局において、イエス・キリストが再び来られることによって救いは完成するでしょう。その時には! だから「私たちは救われるだろう」と語るのです。ですから「神様! あなたの御名が崇められますように!」というのは、「さあ、その日は必ず来ます。神様! 私はその約束を信じます」と祈りなさいということです。
私たちは祈りながら、「父なる神様! あなたの御名が、父の御名が崇められますように」と祈りつつ、「神様! 私はそのような存在なのですね。すでに救われたのですね。そして神様! あなたが約束されたその日は必ず来ます」と確信するのです。その祈りをしなさいということです。私たちが祈らなければそれが成し遂げられないということではなく、私たちのために祈りなさいということです。そのように祈るたびに、「お前たちは確認しろ! 確認しろ! お前たちは必ず天国に入る」 それを確認しなさいということです。その話です。
明らかに世の中は私たちに向かって後ろ指を指すでしょう。「イエスを信じる者がそれか? 信じる者はもっとよく暮らすべきじゃないのか? もっと健康であるべきじゃないのか? お前が願っているのになぜ聞き入れられないのだ?」と、世の中は私たちをあざけるかもしれませんが、神様は明らかにそれに対して答える日があるでしょう。「わたしが正しかった、お前たちが間違っていた、わたしの民の生き方が正しかった、お前たちは間違っていた!」と。
明らかに世の中は最後の日に、「あなたたちの生き方が正しかったのですね! あなたたちがその世で迫害され、患難を受け、そうしていたことが、神様があなたたちを我が子にするためにそうされたのだということを、私はようやく分かりました!」 世の中がその凄まじい地獄の苦しみの中で、私たちに吐露する日があるということなのです。
世の中は私たちをこのようにあざけるでしょう。詩編22編6節のように。
(詩編 22:6-8)
6 わたしは虫けら、人間ではない。人にそしられ、民にあざけられる。
7 わたしを見る人は皆、わたしをあざ笑い、唇を突き出し、頭を振って言う。
8 「主にまかせよ、救い出してくださるだろう。主のお気に入りなら、助け出されるだろう。」
イエスが受けたあざけりです。私たちが同様に受けるあざけりです。しかし神様は約束されます。「わたしはすぐに来る! 心配するな! 世の中がお前たちをあざける時、お前たちはわたしの約束を信じなさい! 『神様! あなたの御名が崇められる』その祈りをしながら。お前たちは確信しなさい! その日は必ず来る! すぐに来る!」 黙示録3章11節にあるように、「11 わたしは、すぐに来る。今持っているものをしっかり守っていなさい。」 すぐに来られるのです。すぐに! 今や罪人たち! あの世は、燃える地獄の火の中で、私たちに向かって語るでしょう。「あなたたちが正しかった! あなたたちが正しかった!」
その地獄の火は聖霊の火です。皆さん! その地獄を統治される方は神様なのです。ある人は、地獄はサタンが統治していると思っています。とんでもない! 神様が統治されるのです。その地獄は! ところが、その罪に対してそれほどまでに凄まじい聖霊の火が燃えている、その地獄から、皆さんはどのように救い出されたのですか? 何をしたというのですか? 何もしていないではないですか。だから「恵み」と言うのです。だから「プレゼント」と言うのです、それを!
つまり、その奇跡を体験した私は、そのように死ぬしかないのに、あの地獄で燃える聖霊の火によって、私は永遠の苦しみから抜け出せないような人間であったのに、私がどうしてここに座っているのですか? そしてその聖霊の火がどうして、私にとって恵みの火になってしまったのですか? 喜びの、感謝の火になってしまったのですか? 皆さん! そして私が救われることによって、その御名がいかに聖められたというのですか? 皆さんはそれほどまでに尊い存在なのです。黙示録22章20節を見ると。
(ヨハネの黙示録 22:20)
20 これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」 アーメン、主イエスよ、来てください。
黙示録の最後です。私たちはこのような祈りをしなければならない人です。人生は長すぎますか? 「神様! 主イエスよ! 早く来てください! 私はあのイエスを知り、あの神様を知っています。あの天国を知っています。あの地獄の凄まじい苦しみを私は知っています。主イエスよ! 来てください! 私はその日だけを待ち望んでいます。ですから今日もこのように準備しています。私のこの性格? ぶつけたいけれど、今日も私は耐えています。神様がそうするなと言われたからです!」
皆さん! 本当にそのような生を準備しておられますか? 地獄を恐れておられますか? 明らかに、水が海を覆うように、世の全ての肉体と、その民族と言葉たちが、あの主の燃える炎の前で、「あなたたちが正しかった! あなたたちが正しかった! その道が正しかった! この世ではあなたたちがバカみたいにあざけられ、そのように一生を生きたけれど、そのように私たちがあなたたちをあざけったけれど、あなたたちの行く道が合っていました!」という、そのような告白を聞く日が必ず来るでしょう。
人生は長くありません。私たちはまもなくそこへ行くでしょう。皆さん! 私たちはそのようにその日を待つのです。キリスト者は! そしてすでに私たちに与えられた、あの神様の聖なる御名を楽しむのです。そして今日も「神様! 神様の御名が崇められますように!」とこう祈りながら、私たちの身分を確認するのです。「私は行くのだ」と!
先週、ある韓国の大きな教会の牧師先生が、東国大学校の仏教大学院最高位課程の特講で、そのような話をしました。「宗教間の相生(そうせい)! 仏教徒たちはキリスト教をどうこう言うべきではなく、キリスト教徒たちは仏教に対してどうこう言うべきではない。互いにその救いに関して認め合い、助け合うべきであって、どうしてお前たちは間違っていて自分たちだけが正しいと言えるだろうか? 救いは仏教にもあり、キリスト教にもある!」
とても大きな教会の牧師先生です。皆さん! どう思われますか? あの「聖」という「ハギアゾー」というギリシャ語の原語の意味は、「区別される」ということではないですか? 区別される! ハギアゾー、区別される! 「神様! あなただけが唯一の神!」という意味なのです。
それなのに、本当にこのポストモダニズムやニューエイジ! このような現代が進むその道をキリスト教も追いかけなければならないのですか? 「どうして真理に至る道が一つだけだろうか?」ということを私たちが追いかけなければならないのですか? ハギアゾー、聖! 「あなたの御名が崇められますように」というハギアゾー! その聖は、「神様! あなただけが神様です! そしてその聖なる御名は、イエス・キリストによってのみ聖められ得る」ということなのです。
私がインターネットに入って、その方が務める教会の週報をずっと探してみました。ところが、毎礼拝ごとに主の祈りを暗唱していました。その方はどのような心で、その主の祈りを暗唱されたのですか? 一体全体! 「あなたの御名が崇められ……」 呪文を唱えているのではないですか? 神様の御名はですね、イエス・キリストによってのみ聖められ得ます。皆さん! 皆さんの救いによってのみ、神様の御名は聖められ得ます。
その講義を聞いて、あの道詵寺(ドソンサ)の住職であるヘジャ僧侶が仏教新聞にこう書きました。「韓国保守教団の代表的な牧師が、相対宗教を認め、宗教間の和和合を語ることは、大変鼓舞されるべきことである。」 そのようにして称賛をたっぷりとしていました。新聞で! 自分たち同士で何だか示し合わせたような芝居ではなく、互いに褒め合っているのです。
そのようにして、本当に救いが来るでしょうか? 神様の御名がそのように聖められるでしょうか、そこで? 違います。皆さん! そのように行くのは、聖書が警告した、あの呪いの道へと転落する道です。皆さん! イエス以外にはありません。人々が私を指して、「おい! 時代がどんな時代だと思って、無知にまだイエスの話ばかりしているのか?」 大丈夫です! 無知だと言われても大丈夫です! 無知に死ぬ日まで私ができる話は、イエス・キリストしかありません。他の道はありません。「わたしは羊の門である」と語られたあのイエス・キリストという方以外に、私たちが救われる道はありません。皆さん! 使徒言行録4章12節に。
(使徒言行録 4:12) ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほかに、人間に与えられていないからです。……
他の名を与えられたことは一度もないということです。私はこの言葉を信じて行きます。神様の御名が聖められる方法は、この道です。「イエスだけが救いの道です、皆さん!」 信じて、立ち返らなければならないのです。
私はこんな冗談を聞きました。神様は今、地獄を補修工事しておられると。韓国のサウナ(チムジルバン)が熱すぎて、今や温度をもっと上げなければならないそうです。だから地獄を今、補修工事しておられるのだと。私はしばらく笑ってから、ふと考えました。
この時代の人々は、本当にあの地獄を知っているのだろうか? この時代のキリスト者という人々は、本当にあの地獄を知っているのだろうか? 本当にあの日天国を知っているのだろうか? あの死というものが、どれほど凄まじいものであるかを知っているのだろうか? あの滅びというものがどれほど凄まじいものであるかを知っているのだろうか? あの神様の怒りがどれほど恐ろしいものであるか、神であられるあのイエスでさえ恐れて震え上がったあの呪いが、どのようなものであるかを知っているのだろうか?
このように冗談の中に登場するようなもので、低級に取り扱われているのではないだろうか。あの燃える火! あの地獄から、皆さんはどのようにして救い出されたのですか? どうして皆さんがこの席に座っておられるのですか? それによって本当に感激しておられますか? でなければ偽物です。皆さん! 皆さんはイエスを信じる人ではありません。恵みを知らない人々です。恵みを知らなければ、私たちはその人をノンクリスチャンと言うのです。皆さん! その恵みの中へ隠れなければなりません。イエスの中へ隠れなければなりません。「父よ! あなたの御名が崇められますように……」と祈りながら、皆さんは皆さんの身分を確認してください!
そして、「私のような者が一人救われることが、何がそれほど神様の御名に聖められることに、その御名が聖められることになるとおっしゃるのですか? 神様、ありがとうございます!」と感激するのです。私たちが何者だというのですか! 私たちが救われることが、神様の御名が聖められることになるだなんて。
私たちをそのように尊い存在として扱ってくださるあの神様に感激するのです。そしてその日は必ず来ると確信して行くのです。それが皆さんの救いの確信です。神様の御名は、イエス・キリストによってのみ、そしてそれによる私たちの救いによってのみ、聖められ得るのです。お祈りいたします。
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(07) - 주기도문강해 2 (마6:13-19)
(마태복음 6:9-13)
9 그러므로 너희는 이렇게 기도하라 하늘에 계신 우리 아버지여 이름이 거룩히 여김을 받으시오며
10 나라이 임하옵시며 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다
11 오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고
12 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이 우리 죄를 사하여 주옵시고
13 우리를 시험에 들게 하지 마옵시고 다만 악에서 구하옵소서 (나라와 권세와 영광이 아버지께 영원히 있사옵나이다 아멘)
말씀을 우리 나누기 전에, 한 가지 제가 부탁의 말씀이 있어요. 이제, 교인들이 조금 늘어나다보니깐요, 저희 교인들 가운데서도, 경조사가 많이 이제 생기고 있어요. 이제 우리 지집사님 댁 비즈니스가 요번 또 금요일 날 개업을 하시고, 결혼식도 있고, 장례식도 있고, 그렇게 될 텐데… 돌잔치도 있고 그러겠죠?
그때마다 이제 제가 초청을 받아서 간단 말이에요. 목사가 가서 뭐 설교도 하고 그런단 말이죠? 그런데 그 때에 우리가 좋은 전통을, 하나 잘 세워가자는 거예요. 만약에 여러분들이 목사가 갔다고 그래서 개스비라든지 거마비라고 해서, 봉투에다 이렇게 넣어주신다 거나 그러면은, 제가 무지하게 화를 낼 겁니다.
목사는 그 목회! 목양을 하라고, 하나님께서 세워주신 사람이에요. 그거 하라고요! 가서 장례식이 있으면, 조사가 있으면 함께 슬퍼해주고, 기쁜 일이 있으면, 함께 가서 기뻐해주고, 그러라고 교회에서도 생활비 주고 그러는 거라고요. ‘야! 그래도 시간 내서 와줬으니까, 차비라도 줘야 되겠다.’ 만약에 그러신다면 여러분은 목사를 망치는 거예요. 또 하나 엉터리 교회를 만드는 거예요. 엉터리 전통을 만드는 거예요.
어차피, 여러분들이 뭐 그렇게 주신다 그래도, 와서 교회 헌금한다고요. 외부에 집회 나가서, 찬양집회나 머 부흥회하고 와서, 사례비 받은 거 제 봉투체로 그냥 다 헌금하거든요. 그냥! 여러 사람 손 거치게 하지 마시고, 그냥 감사하게 그냥 교회에 헌금하세요.
우리가 같은 성도의 입장에서, 축하해주러 가는 거예요. 그 펑션(function; 역할)상 저는 설교를 하는 사람이니까, 가서 설교를 하는 거 뿐이고요. 그렇게 그 목사에게만 수고비를 주려면, 온 사람들 다 한테 주세요. 몇 백 불씩 와서 고맙다고 그러셔야 되는 거예요. 이치상! 절대 그런 거는 이제 새로 오시는 분들에게도 꼭 이야기 해주셔야 돼요. 여러분! 그래서 우리 교회도 그러면 큰일 납니다. 목사가 화냅니다.
우리 청년들은 저랑 같이 밥 먹다가 자기들이 혹시 밥값내면, 저한테 숟가락으로 매 맞아요. 그렇다고 어른들은 좀 내주셔도 괜찮아요. 저보다 생활이 좀 나으니까 괜찮은데, 목사는 그렇게 존경받고 추앙받는 존재 아니에요. 저 그래서 지집사님 개업식에 선물 사가지고 갈 거예요. 제가 휴지 이런 거 있잖아요? 빨래 비누 그런 거 사가지고 가는 거 맞죠? 비즈니스 개업할 때! 그렇게 가서 설교하고 오는 거지, 무슨 건방지게 말이죠? 가서 장례식에 가서 설교하고 돈 받고, 그게 무슨 그런 일이 있으면 안 된다는 것이죠.
자, 주기도문 두 번째 시간입니다. 제가 찬양사역을 한지 이제 15년이 이제 넘었어요. 15년이 넘다보니까, 뭐 수백 군데 교회를, 인제 집회를, 참석합니다. 그래서 벌써 미국에서만도 한 100여 군데가 넘는 교회에서, 인제 집회를 인도를 했습니다. 많은 목사님을 만나고, 많은 교인들을 또 만납니다. 그 중에서 기억 남는 교회! 기억 남는 목사님! 기억 남는 성도들이 참 많아요.
어떤 교회는 가서요, 일주일씩 집회를 하고 온 적도 있어요. 플로리다에 어떤 그 시골에 있는, 잭슨 빌이라는 마을에 있는 교회는요. 그냥 바닷가에다가 케빈(cabin)을 하나 얻어놓고, 나가지도 못하게 해요. 그리고 밥 먹이고, 화장실 가고, 자고, 일주일에 11번 설교하고, 세 번 찬양 집회하고, 그렇게 온 교회도 있어요. 얼마나 그냥 갈급하면 말이죠?
엘 파소에 있는 어떤 교회는, 멕시코 국경지대에 있거든요. 집회를 시작하려고 몇 백 명이 이제 왔어요. 막 모여서, ‘야! 좋은 거 한번 보자!’ 그러는데 불이 확 나갔어요. 그래서 몇 시간 동안 통기타 하나 가지고서, 촛불 켜놓고요, 모였으니까 해야 되는 거예요. 거기는! 그래서 그렇게 집회를 한, 그런 교회도 있어요.
저런 시골 교회 같은 데 가면요, 교회 마당에서 한국에 시골처럼 말이에요. 가마솥 뚜껑을 거꾸로 딱 올려놓고, 들기름 바르면서, 전에다가 주꾸미 같은 거를 붙이면서 말이에요. 잔치예요! 완전히 정말! 여기가 미국 맞나? 이렇게 생각될 정도로, 그렇게 따뜻한 교회가 있어요.
그중에서도 가장 인상에 남는 교회는, 뉴저지의 한 작은 교회였어요. 그 교회는 교인들은 몇 명 없었지만, 정말 눈빛들이 살아있는 그런 교회였습니다. 그 강대상 맞은 편 벽에, 목사가 볼 수 있는 맞은 편 벽에, 뭐라고 붓글씨로 크게 쓰여 있느냐면요, ‘선생이여! 우리가 예수를 뵈옵고자 하나이다!’ 이렇게 써놨어요. 선생이여! 우리가 예수를 뵈옵고자 하나이다!
제가 집회를 한창 하다가, 그 글귀를 딱 보는 순간! 온 몸이 그냥 쫙 얼어버리는 것 같더라고요. 보통 찬양사역을 한다 그러면요, 부흥사들도 마찬가지예요. 좋은 설교 몇 개, 그리고 좋은 간증거리 몇 개 해 놓으면, 10년을 써먹을 수 있어요. 각자 다른 교회 가니깐요. 그런데 ‘선생이여! 우리가 예수를 뵈옵고자 하나이다!’라는 글을 딱 보는데, 내가 지금 무슨 이야기를 하고 있나? 제가 거기서 생각했어요.
그런데 번드르르한 얘기 하고 있죠? 사람들이 막 울어요. 그런데 거기서 저는, 겸손과, 도덕과, 윤리로 위장된, 그렇게 치장된, 제 얘기만 하고 있었던 거예요. 그렇게 서로 쇼하고 있는 거예요. 저는 제 이야기! 제 자랑! 하고 있고, 회중들은 거기에 대해서 감동 받은 척 해야 되니깐요. 멀리서 오셨는데, 어떻게요? 울어라도 줘야지! 참! 우리 한국 사람들 착해요. 그런 거 보면!
그런데 제가 그 글귀를 딱 보면서, 몸이 쫙 얼더라구요. ‘선생이여! 우리가 예수를 뵈옵고자 하나이다!’ 요한복음 12장 21절 말씀! 그 교인들이 눈을 똘망, 똘망하게 뜨고, 저에게 그렇게 이야기 하는 거 같았어요. 선생이여! 우리가 예수를 뵈옵고자 하는데, 당신 지금 무슨 얘기 하고 있냐 말이죠? 선생이여! 우리가 예수를 뵈옵고자 하는데, 당신 지금 왜 도덕이야기 하고, 윤리이야기하고 있냐? 이 말이에요.
그 후부터 저는 어느 교회, 어느 자리에 가든, 그 예수 이야기를 하기 시작했어요. 그리고 올라갈 때 그렇게 대답하고 갑니다. 네, 여러분! 오늘도 제가, 여러분들이 뵈옵고자 원하는, 그 예수를 이야기 하겠습니다. 여러분! 제가 오늘도, 여러분들이 그 뵈옵고자 원하는, 예수만을 이야기하겠습니다. 그러기 시작했어요.
여기에 올라올 때도 저는 항상 그렇게, 사무실에서 기도하고 올라옵니다. ‘하나님! 내가 오늘도, 우리 성도들이 그렇게 뵈옵고자 원하는, 그 예수만을 전하게 해 주시옵소서!’ 김동길 교수가 하는 그런 윤리적인 강연 말고, 그런 학술세미나 말고, 김용옥이 이야기하는 그런 노자의 도덕경이나, 유교 이야기 말고, 예수 이야기하고 내려오게 해 주시옵소서!
여러분이 혹시 그런 도덕적인, 윤리적인 이야기를 원하신다면, 제가 좋은 비디오 시리즈 많아요. 그거 제가 소개해 드릴게요. ‘바른 사회 만들기!’ 뭐 이런 거! 도덕적이고 윤리적으로 착하게 잘 살기! 왜 예배당에서까지 그런 이야기를 여러분이 듣고 싶어 하십니까? 예배당에서는 예수의 이야기와, 그분이 우리에게 행하신 은혜의 이야기만, 선포되어져야 하는 것입니다. 그래서 여러분들의 눈에서도 저는, 그런 이야기를 읽습니다. ‘선생이여! 우리가 예수를 뵈옵고자 하나이다!’
맞죠? 맞습니다! 여러분! 우리 서머나 교회는 그런 교회되야 됩니다. ‘선생이여! 당신은 딴 얘기 하고 있습니까?’ 제가 혹시 어느 순간 딴 얘기를 하고 있으면, 여러분! 저에게 그렇게 이야기 해주셔야 돼요. 선생이여! 우리가 예수를 뵈옵고자 하나이다! 그래서 우리는 주기도문을 공부하면서도, 예수를 발견해 가고 있습니다.
지난주에 우리는 주기도문 첫 번째 시간에서, ‘하늘에 계신 우리 아버지’라는 그 구절을 가지고, 그 예수를 거기에서 발견해 냈습니다. 그 예수님은 ‘파테르, 아바’라는 그 단어를, 우리에게 쓰라고 말씀해 주시면서, 그 본질과 본체가 같으신 삼위일체 하나님! 그 세분 하나님이 쓰시던 그 호칭을 우리에게 쓰게 해주셨단 말이에요. 파테르, 아바! ‘너희들은 이렇게 기도해라! 그 분 보고 아버지라고 불러라!’ 그래서 우리는 그분의 자녀가 되어졌다는 그 감격으로부터, 우리는 기도를 시작할 수 있게 되었죠.
오늘은 두 번째 시간으로, 세 개의 다우 피티션(thou petition)! 그 중에 첫 번째 기도제목인, ‘이름이 거룩히 여김을 받으시오며,’ 그 구절에 관한, 공부를 하도록 하겠습니다. 여러분! 하나님은 이미 우리와 상관없이 거룩하신 분이에요. 그런데 그 분이, ‘이름이 거룩히 여김을 받으시오며’라는 이런 기도를 하라고 한 데는, 분명히 이유가 있단 말이에요. 첫 번째, 제가 철학적인 면에 있어서 설명을 해드릴 거고, 두 번째는, 구원의 역사적인 면에 있어서 설명을 해드릴 거예요.
이 철학적인 면에 있어서의 설명은, 이런 것입니다. 우리가 하나님의 그 거룩한 이름에, 창세전부터 이미 거룩한 그 이름에, 우리가 무엇을 보태야 그 이름이 거룩해 질 수 있습니까? 우리가 그 거룩하신 이름에, 헌금을 더 갖다 낸다고 해서, 더 많은 봉사를 한다고 해서, 그 이름이 거룩해질까요? 우리가 하나님께 영광을 돌린다고 하는 그 말로부터도, 한번 추론해 보자고요.
어떻게 우리가 하나님께 영광을 더 돌릴 수 있습니까? 그분은 이미 영광스러운 존재인데요. 그분의 재산에, 우리가 좀 더 많은 재물을 보태드리면, 그분이 더 기뻐하시고, 그분의 삶이 영광스러워 지실까요? 아니면, 우리가 그 분의 일을 좀 많이 도와드리면, 그분이 영광스러워 지실까요? 어떻게 해야 그분에게, 우리가 영광을 돌릴 수 있냐 말이에요? 우리가 영광의 박수! 짝짝짝 올리면, 그분이 영광스러워 질까요? 정말 어떻게 해야 되는 거예요? 어떻게 해야 그분의 이름이 거룩해 지는 거예요? 도대체!
제가 설명을 좀 쉽게 하기 위해서, 의인법을 한번 쓰겠습니다. 여기 우물이 있어요. 우물! 아주 신선하고, 아주 시원하고, 그 자체로서 너무, 너무나 세상에 둘도 없는, 그런 우물이에요. 그리고 아무리 떠먹어도 계속 물이 솟아나는 그런 우물입니다. 그런데 우리가 그 우물을 기쁘게 해줄 수 있는, 그 우물을 위할 수 있는 길이 뭘까요? 세상에서 제일 시원하고, 제일 신선하고, 그 자체 내에서 끊임없이 물이 솟아나는 그 우물을, 어떻게 해야 우리가 그 우물에게 영광을 돌릴 수 있냐 말이에요?
길은 딱 한 가지예요. 우리가 아무리 물을 갖다가, 딴 데서 길어다가 부어주면서, ‘우물아! 내가 너에게 이런 물을 보태주고 있다. 너 좋니? 기쁘니?’라고 물어보면, 그 우물이 기쁘겠느냐고요? 이미 스스로 너무 신선하고, 맑고, 깨끗하고, 스스로 물을 생산해 내고 있는 우물이라고요. 어떻게 해야 돼요? 그러면?
그 우물에게 영광을 돌릴 수 있는 방법은요, 물을 떠서 마시는 거예요. 마시고, ‘야! 시원하다! 야! 시원하다! 세상에 이런 우물은 없어!’ 그렇게 그 우물을 칭찬하는 거예요. 그리고 다른 사람에게 가서, ‘우물 한번 떠 먹어봐! 얼마나 시원한줄 알아? 얼마나 맑은 줄 알아? 세상에 둘도 없어! 가서 한번 먹어봐! 나는 먹어 봤어.’ 유일하게 그 우물에게 영광을 돌릴 수 있는 방법은 그것입니다. 우리가 하나님께 영광을 돌리고, 하나님의 이름을 거룩하게 할 수 있는 방법은, 그거예요.
하나님이 누군지 명확히 알고, 이해하고 깨달아서, 그분이 우리에게 하신 그 은혜가 무엇인지를, 즐기는 거예요. 그리고 다른 사람들에게, 그 생명수를 자랑하는 거예요. ‘당신들! 우리에게 예수께서 허락하신 이 생명수가 뭔지 알아? 나는 먹어봤어. 너무 시원해요. 너무 맑아요. 난 살 것 같아요. 이제! 무엇도 나를 이제 미혹할 수 없어요.’라는 것을 자랑하는 거예요. 그게 우리가 하나님께 영광을 돌릴 수 있는 방법이고, 그분의 이름을 거룩하게 할 수 있는 방법입니다. 철학적인 설명은 이거구요.
이제 구원 역사적인 측면에서, 하나님의 이름을 거룩하게 한다는 것은, 무슨 뜻인지 한번 살펴보자고요. 성경에서! ‘하나님! 당신의 이름이 거룩히 여김을 받으시오며.’라는 데에는 뭐가 전제되어 있냐 하면, 그분의 이름이 더럽혀졌다는 거예요. 하나님의 그 거룩한 이름이, 어떻게 더럽혀 질 수 있어요? 본질상은 더럽혀 질 수 없죠?
한데 하나님께서 인간과 언약을 맺으시고요, 인간과 관계를 하기 시작하셨단 말이에요. 그리고 나서 이 세상이 그 이름을, 더럽히기 시작했어요. 어떻게 더럽혔는지, 성경에서 한번 찾아보자고요. 에스겔서 36장 16절로 가겠습니다. 23절까지요.
(에스겔 36:16-23)
16 여호와의 말씀이 또 내게 임하여 가라사대
17 인자야 이스라엘 족속이 그 고토에 거할 때에 그 행위로 그 땅을 더럽혔나니 나 보기에 그 소위가 월경 중에 있는 여인의 부정함과 같았느니라
18 그들이 땅 위에 피를 쏟았으며 그 우상들로 더럽혔으므로 내가 분노를 그들의 위에 쏟아
19 그들을 그 행위대로 심판하여 각국에 흩으며 열방에 헤쳤더니
20 그들의 이른바 그 열국에서 내 거룩한 이름이 그들로 인하여 더러워졌나니 곧 사람들이 그들을 가리켜 이르기를 이들은 여호와의 백성이라도 여호와의 땅에서 떠난 자라 하였음이니라
21 그러나 이스라엘 족속이 들어간 그 열국에서 더럽힌 내 거룩한 이름을 내가 아꼈노라
22 그러므로 너는 이스라엘 족속에게 이르기를 주 여호와의 말씀에 이스라엘 족속아 내가 이렇게 행함은 너희를 위함이 아니요 너희가 들어간 그 열국에서 더럽힌 나의 거룩한 이름을 위함이라
23 열국 가운데서 더럽힘을 받은 이름 곧 너희가 그들 중에서 더럽힌 나의 큰 이름을 내가 거룩하게 할지라 내가 그들의 목전에서 너희로 인하여 나의 거룩함을 나타내리니 열국 사람이 나를 여호와인줄 알리라 나 주 여호와의 말이니라 아멘!
여호와의 말씀입니다. 하나님이 직접 지금 말씀하고 계신데, ‘너희들이 내 이름을 더렵혔다.’라는 거예요. 너희들 때문에, 열국 가운데서 내 이름이 더렵혀졌는데, 그 이름을, 내가 다시 거룩하게 하겠다는 거예요. 누가요? 내가! 하나님이 직접! 그 이름을 거룩하게 하시겠다는 거예요.
그런데 우리에게 예수님은, ‘너희는 이렇게 기도해라. 하늘에 계신 우리아버지여! 아버지의 이름이 거룩히 여김을 받으시오며.’라고 기도하라고 그런다고요. 그런데 하나님은 자기가 하시겠대요. 본인이 하시겠다는 거예요. 이것을 여러분이 밝히 이해하고 넘어가셔야 되잖아요?
이이야기의 배경은, 하나님께서 언약으로 내 백성으로 하셨던 그 이스라엘이, 약속의 땅에서 계속해서 죄를 짓습니다. 하나님은 분명히 가나안 땅에 들어가기 전에, 이스라엘과 언약을 맺으셨는데, 뭐라고 언약을 맺으셨느냐 하면, ‘너희들이 가나안에서, 나와 내 이야기를 듣고 행하면, 잘 지키면, 너희는 복을 받고 잘 살게 될 것이다. 그러나 너희들이 나를 듣지 않고, 내 말을 듣지 않고, 지켜 행하지 않으면, 너희들은 그 가나안에서 쫓겨난다. 너희들이 내 말 안 들으면, 너희들은 쫓겨난다.’ 그랬단 말이에요.
그런데 이스라엘이 들어가자마자, 죄 짓기 시작했어요. 우리 금요일마다 살펴보는 사사기에서, 얼마나 그들이 패역했습니까? 하나님이 들여보내자마자 그들이 한 게, 우상 섬기는 거예요. 가나안의 문화와 문명을 즐기는 거였어요. 심지어는 몰록이라는 신에게, 자기 아기를 막 갖다 바쳤어요. 아기를! 자기의 유익과 행복을 위해서는, 애기까지 갖다 바치는 거예요. 우리 인간이 그런 존재라는 것을, 성경이 설명해 주는 거예요. 그러니까 하나님이 가나안에서 이들을 쫓아내버리셨어요. 바벨론을 들어서! 그래서 열방에 이스라엘이 다 흩어져버렸다고요.
그랬더니 열방 사람들이 이스라엘에게, 이렇게 이야기를 하기 시작했습니다. ‘너희 하나님은 어떻게 된 하나님이냐? 우리가 믿는 바알은, 우리를 이렇게 풍요롭게 해주는데, 너희가 믿는 하나님은 도대체 어떤 하나님이기에, 자기 백성 하나 못 지키고 있냐?’ 그렇게 하나님을 조롱하기 시작했어요.
약골 하나님! 못난 하나님! 자기 백성에게 풍요도 안주는 하나님! 자기 백성을 오히려 이렇게 다른 이방 민족을 들어서 패는 하나님! 그들이 그렇게 하나님을 욕하기 시작했다고요. 뭐 때문에 일어난 거예요? 그게 이스라엘 백성이 죄를 지었기 때문에, 하나님이 그들을 가르치기 위해서, 징계하시기 위해서, 그들에게 손을 대셨더니, 열방이 하나님의 이름을 그렇게 더럽혔다는 것입니다. 우리는 어떠냐구요? 똑같아요!
우리에게 세상 사람들이 어떻게 이야기를 합니까? ‘야! 너희, 네가 믿는 하나님! 네가 믿는 그 예수! 전능의 하나님이라면서? 그런데 너는 비즈니스가 왜 이래? 늘! 너는 그런데 왜 몸에 이렇게 병이 있어? 네 아이는 왜 이렇게 말썽이야? 네가 믿는 하나님은 전능하다면서?’ 오늘날도 하나님은 동일하게 모욕당하고 계시다고요.
그런데 그 모욕을, 그 더러워진 하나님의 이름을, 하나님이 어떻게 거룩하게 하시겠다고 하냐고요? 분명히 23절에서, ‘열국가운데서 더럽힘을 받은 이름! 곧 너희가 그들 중에서 더럽힌 나의 큰 이름을, 내가 거룩하게 할지라.’라고 그런다구요. 그런데 내가 그 이름을 어떻게 거룩하게 하는지, 밑에다 설명을 해 놓으시는데, 24절부터,
(에스겔 36:24-28)
24 내가 너희를 열국 중에서 취하여 내고 열국 중에서 모아 데리고 (그) 고토에 들어가서
25 맑은 물로 너희에게 뿌려서 너희로 정결케 하되 곧 너희 모든 더러운 것에서와 모든 우상을 섬김에서 너희를 정결케 할 것이며
26 또 새 영을 너희 속에 두고 새 마음을 너희에게 주되 너희 육신에서 굳은 마음을 제하고 부드러운 마음을 줄 것이며
27 또 내 신을 너희 속에 두어 너희로 내 율례를 행하게 하리니 너희가 내 규례를 지켜 행할지라
28 내가 너희 열조에게 준 땅에 너희가 거하여 내 백성이 되고 나는 너희 하나님이 되리라
하나님이 어떻게 자기 이름을 거룩하게 하시겠다고 그러십니까? 열국에 흩어져 있는 자기의 백성을 구원하심으로! 그리고 열국에 흩어져있던 백성들을 끄집어내어서, 하나님이 약속하신 그 가나안 땅으로 다시 집어넣으시겠다는 거예요.
그런데 그들은 스스로 능력이 없어요. 그렇기 때문에 하나님이, ‘너희는 너희 힘으로 도저히 그게 안 되니까, 내가 물로 씻어서, 내가 물로 깨끗케 해서, 그리고 너희 마음속을 뚫고 들어가서, 너희 마음속에 새 영을 집어넣고, 새 마음을 너희 마음 판에 새기겠다.’는 거예요. 하나님이 처음부터 끝까지 다 하시겠다는 거예요. 우리의 구원을요!
그러니까 하나님의 자기 이름이 거룩히 되는 방법은, 단 한 가지 방법인데, 세상 사람들로 인해서 모욕을 받은 그 이유가 뭐죠? 이스라엘 백성들이 열국에 흩어져 있는 거예요. 하나님이 그들을 징계하셨다구요. 자식을 만들기 위해서 그러니까 세상 사람들이, ‘에이 못난 하나님! 약골 하나님!’ 그렇게 자기의 이름을 더럽힌 그 곳에서, 그들을 다시 모아들여서 말이죠, ‘내가 얘네들을 이렇게 징계하고, 이렇게 환란과 핍박 속에 놔두는 것이, 정말 내가 이 아이들을 저주해서 그러는 줄 아냐? 내가 내 새끼 만들어서, 영원한 나라에 데리고 가서 살고 싶어서 그런 거야!’라는 그 구원을, 하나님이 반드시 이루시겠다는 거예요. 그것으로만 하나님의 이름은 다시 거룩해 질 수 있는 거예요. 그렇게 더럽혀 졌기 때문에!
그러니까 하나님의 이름이 거룩히 되는 그것과, 우리의 구원과는, 뗄래야 뗄 수 없는 그러한 관계라고요. 하나님이 물로 씻으시고, 성령으로 우리 안에 심어주시는 그 거듭남! 니고데모에게 이야기하신, ‘그 물과 성령으로 거듭나지 않으면, 너희들은 천국에 들어갈 수 없다!’라고 하는, 그 거듭남을, 우리에게 그냥 가슴팍에 심어주시겠다는 거예요. 재창조를 하시겠다는 거예요. 완전히 새로운 인간으로! ‘이제 너희는 하나님의 말을 안 들을래야 안 들을 수 없는 그런 인간으로! 에이블 투 씬(able to sin), 죄를 지을 수 있는 인간에서, 낫 에이블 투 씬(not able to sin), 절대 죄를 지을 수 없는 인간까지 끌고 가시겠다는 거예요. 하나님이! 본인이 하시겠다는 거예요. 그런데!
여러분! 우리가 ‘하나님 하나님의 이름이 거룩하게 되기를 소원합니다.’라는 기도를 하면서, 우리는 ‘하나님! 그 때 에스겔에게 약속하신, 그 하나님의 백성의 구원이, 이루어지게 하옵소서!’ 그렇게 기도하는 거예요. 그렇게 기도하면서, 여러분이 생각하셔야 될게 뭡니까? 그 기도를 하는데, 나는 어떻게 그 기도를 하고 있어요? 구원을 받았으니까, 하나님께 기도를 하고 있잖아요? 그러면 그 기도는, 이미 이루어 진거죠. 응답이 된 거예요.
여러분은 구원을 받았잖아요? 그러니까 여기 와서 이렇게 예배하고 있는 거 아닙니까? ‘아버지여!’라고! 그 분을 또 ‘아버지여!’라고 부르는 거 아닙니까? ‘아버지의 이름이 거룩히 여김을 받으시옵소서!’라는 게, 그 기도를 하는 여러분은, 구원을 받았기 때문 아니에요? 그러니까 여러분은 이미, 그 기도에 대한 응답을 받으신 분들이에요.
자, 우리는 구원을 받았어요. 어떤 면에서 우리는 구원을 받았다고 하는 거죠? 하나님이 전지전능하신 분이기 때문에, 뭘 계획하고 목적하셨다는 것은, 절대 그분은 실패할 수 없기 때문에, 우리는 구원을 받았다는 거예요. 그렇기 때문에 우리는, 구원 받은 자로서, ‘하나님의 이름은 이미 거룩해 졌다.’고 이야기 하는 것이고!
우리는, 그런데 지금 이 세상을 살아가고 있어요. 이렇게 끊임없이 범죄 하면서! 구원받은 인간들이 뭐 이래요? 어디 가서 명함도 못 내밀어요. 우리는! 그 사는 게 개판이라! 우리가 너무 엉터리로 살고 있으니까, 사람들에게 명함을 못 내밀어요. 그런데 우리는 구원받았대요. 구원을 받았다고 하는 것은, 그 언약은 확실히 지켜질 것이라는 면에서, 구원을 받았다는 것이고, 우리는 지금 구원을 받고 있잖아요? 조금씩, 조금씩 변화되어져 가고 있다고요.
그러니까 그 구원은, 이루어져가고 있는 거예요. 결국에 나중에 가서, 종국에 가서, 예수 그리스도가 다시 오심으로 해서 구원은 완성이 될 거라고요. 그 때는! 그래서 ‘우리는 구원을 받을 것이다.’라고 이야기 하는 거예요. 그래서 ‘하나님! 당신의 이름이 거룩히 여김을 받으시옵소서!’라는 것은, ‘이제 그 날은 반드시 올 것입니다. 하나님! 나는 그 약속을 믿습니다.’라고 기도하라는 거예요.
우리는 기도를 하면서, ‘하나님 아버지! 당신의 이름이, 아버지의 이름이 거룩히 여김을 받으시오며’ 라고 기도하면서, ‘하나님! 나는 그런 존재군요. 이미 구원을 받았군요. 그리고 하나님! 당신이 약속하신 그 날은 반드시 올 것입니다.’라고 확신하는 거예요. 그 기도 하라는 거예요. 우리가 기도 안하면, 그게 이루어지지 않는다는 것이 아니라, 우리를 위해서 기도하라는 거예요. 그렇게 기도할 때 마다, ‘너희는 확인해라! 확인해라! 너희는 반드시 천국에 들어간다.’ 그거 확인하라는 거예요. 그 얘기예요.
분명히 세상은 우리를 향해서 손가락질 할 겁니다. ‘예수 믿는 자가 그게 뭐냐? 예수 믿는 자는 더 잘 살아야 되는 거 아니냐? 더 건강해야 되는 거 아니야? 네가 원하는데 왜 이렇게 안 들어지냐?’라고, 세상은 우리를 조롱할지 모르겠지만, 하나님 분명히 거기에 대해서 대답하실 날이 있을 겁니다. ‘내가 옳았다고, 너희들이 틀렸다고, 내 백성이 사는 방법이 옳았다고, 너희들은 틀렸다고!’
분명히 세상은 마지막 날에, ‘당신들이 사는 방법이 옳았군요! 당신들이 그 세상에서 핍박받고, 환란 받고 그랬던 것이, 하나님이 당신들을 자식 만들기 위해서 그랬다는 것을, 내가 이제야 알겠군요!’ 세상이 그렇게 그 어마어마한 지옥의 고통 속에서 우리에게 내뱉을 날이 있을 것이라는 것입니다.
세상은 우리에게 이렇게 조롱하겠죠? 시편 22편 6절처럼,
(시편 22:6-8)
6 나는 벌래요 사람이 아니라 사람의 훼방거리요 백성의 조롱거리니이다
7 나를 보는 자는 다 비웃으며 입술을 삐쭉이고 머리를 흔들며 말하되
8 저가 여호와께 의탁하니 구원하실 걸 저를 기뻐하시니 건지실 걸 하나이다
예수가 받은 조롱이라고요. 우리가 동일하게 받는 조롱입니다. 그런데 하나님은 약속하십니다. ‘내가 속히 오리라! 걱정하지 말아라! 세상이 너희를 조롱할 때, 너희는 내 약속을 믿어라! ‘하나님! 당신의 이름이 거룩히 여김을 받는’ 그 기도를 하면서. 너희들은 확신해라! 그날은 반드시 온다! 속히 온다!’ 계시록 3장 11절에서처럼, ‘11 내가 속히 임하리니 네가 가진 것을 굳게 잡아라. 속히 오신다. 속히!’ 이제 죄인들! 그 세상은, 타는 지옥의 불속에서, 우리를 향해 이야기할 것이다. ‘당신들이 옳았습니다! 당신들이 옳았습니다!’
그 지옥의 불은 성령의 불입니다. 여러분! 그 지옥을 다스리는 분은 하나님이시라고요. 어떤 사람은 그 지옥은, 사탄이 다스리는 줄 알아요. 천만에요! 하나님이 다스리는 거예요. 그 지옥은! 그런데 그 죄에 대해서 그렇게 무시무시한 성령의 불이 타고 있는, 그 지옥에서, 여러분은 어떻게 건져지셨나 말이에요? 뭘 했다고? 아무것도 한 것 없잖아요? 그래서 ‘은혜’라고 하는 거예요. 그래서 ‘선물’이라고 하는 거예요. 그것을!
그러니까 그 기적을 체험한 나는, 그렇게 죽을 수밖에 없는데, 그 지옥에서 그 타는 성령의 불로, 나는 영원한 고통에서 헤어 나올 수 없는 그런 인간이었는데, 내가 어떻게 여기 와있냐 말이에요? 그리고 그 성령의 불이 어떻게, 나에게 은혜의 불이 되어버렸냐 말이에요? 기쁨의, 감사의 불이 되어버렸냐 말이에요? 여러분! 그리고 내가 구원을 받음으로 해서, 그 이름이 어떻게 거룩해 졌냐 말이에요? 여러분은 그렇게 존귀한 존재란 말이에요. 계시록 22장 20절에 보면,
(요한계시록 22장 20)
20 이것들을 증거하신 이가 가라사대 내가 진실로 속히 오리라 (속히 오리라!) 하시거늘 아멘 주예수여 오시옵소서
계시록의 마지막이에요. 우리는 이런 기도를 해야 하는 사람이에요. 인생은 너무 길어요? ‘하나님! 주예수여! 어서 오시옵소서! 내가 그 예수를 알고 그 하나님을 압니다, 그 천국을 압니다, 그 지옥의 무시무시한 고통을 내가 압니다, 주 예수여! 오시옵소서! 나는 그 날만을 소망하고 있습니다. 그래서 오늘도 이렇게 준비하고 있습니다. 내 성질? 부리고 싶은데, 오늘도 난 참고 있습니다. 하나님이 그렇게 하지 말라 그랬으니까요!’
여러분! 정말 그런 삶을 준비하고 계신 거예요? 지옥을 두려워하고 계신 것입니까? 분명 물이 바다를 덮음 같이, 세상 모든 육체와 그 민족과 방언들이, 그 여호와의 타는 불꽃 앞에서, ‘당신들이 옳았습니다! 당신들이 옳았습니다! 그 길이 옳았습니다! 이 세상에서는 여러분들이 바보같이 조롱받고, 그렇게 한 평생을 살았는데, 그렇게 우리가 당신들을 그렇게 조롱했는데, 당신들이 가는 길이 맞았습니다!’라는, 그런 고백을 들을 날이 분명히 올 것입니다.
인생은 길지 않아요. 우리는 곧 그곳으로 갈 것입니다. 여러분! 우리는 그렇게 그날을 기다리는 거예요. 그리스도인들은! 그리고 이미 우리에게 주어진, 그 하나님의 거룩한 이름을 즐기는 것입니다. 그리고 오늘도 ‘하나님! 하나님의 이름이 거룩히 여김을 받으시옵소서!’ 이렇게 기도하면서, 우리의 신분을 확인하는 거예요. 나는 간다. 말이야!
지난주에 어떤 한국의 큰 교회 목사님이, 동국대학교 그 불교대학원 최고위과정 특강에서, 그런 이야기를 했어요. ‘종교 간의 상생(相生)! 불교인들은 기독교를 뭐라고 하면 안 되고, 기독교인들은 불교에 대해서 뭐라 그러면 안 된다. 서로 서로 그 구원에 관해서 인정해주고, 서로서로 도와야지, 어떻게 너희들은 잘못했고, 우리만 옳다고 이야기 할 수 있냐? 구원은 불교에도 있고, 기독교에도 있다!’
아주 큰 교회 목사님이세요. 여러분! 어떻게 생각하십니까? 그 ‘거룩’이라는 ‘하기아조’라는 그 헬라어 원어의 뜻은, ‘구별된다’라는 거 아니에요? 구별된다! 하기아조, 구별된다! ‘하나님! 당신만이 유일한 하나님!’이라는 뜻이라고요.
그런데 정말 이 포스트모더니즘이나, 뉴에이지! 이러한 이 현대가 가는 그 길을 기독교도 쫓아가야 되냐고요? ‘어떻게 진리의 이르는 길이, 한 길 뿐이겠느냐?’라는 것을 우리가 쫓아가야 되는 것입니까? 하기아조 거룩! ‘당신의 이름이 거룩히 여김을 받으시옵소서!’라는 하기아조! 그 거룩은, ‘하나님! 당신만이 하나님이십니다! 그리고 그 거룩한 그 이름은, 예수 그리스도로만 거룩해 질 수 있다.’라는 거예요.
제가 인터넷에 들어가서, 그분이 시무하는 교회의 주보를 쭉 찾아봤어요. 그런데 매 예배 때마다 주기도문을 암송하더라고요. 그분은 어떠한 마음으로 그 주기도문을 암송하신 겁니까? 도대체! ‘당신의 이름이 거룩히 여김을 받으시오며…’ 주문을 외우는 거 아니에요? 하나님의 이름은요, 예수 그리스도로만 거룩하게 될 수 있어요. 여러분! 여러분의 구원으로만, 하나님의 이름은 거룩하게 될 수 있어요.
그 강의를 듣고요, 그 도선사 주지스님인 혜자 스님이 불교신문에다 이렇게 적었더라고요. ‘한국 보수교단의 대표적인 목사가, 상대종교를 인정하고, 종교 간의 화합을 말하는 것은, 무척 고무적인 일이다.’ 그렇게 해서 칭찬을 그냥 한 바가지를 해놨더라고요. 신문에다! 저희들끼리 그냥 무슨 짜고 치는 고스톱도 아니고, 서로 칭찬해 주는 거예요.
그렇게 해서 정말 구원이 올까요? 하나님의 이름이 그렇게 거룩해 질까요? 거기에서? 아닙니다. 여러분! 그렇게 가는 것은, 성경이 경고한, 그 저주의 길로 떨어지는 길이에요. 여러분! 예수 이외에는 없어요. 사람들이 저를 가리켜서, ‘야! 시대가 어떤 시댄데, 무식하게 아직도 예수 이야기만 하고 있냐?’ 괜찮아요! 무식하다 그래도 괜찮아요! 무식하게 죽는 날까지 제가 할 수 있는 이야기는, 예수 그리스도 밖에 없어요. 다른 길은 없습니다. ‘내가 곧 양의 문’이라고 이야기하신 그 예수 그리스도라는 분밖에, 우리가 구원받을 길은 없어요. 여러분! 사도행전 4장 12절에,
(사도행전 4:12)
12 다른 이로써는 구원을 얻을 수 없나니 천하 인간에 구원을 얻을 만한 다른 이름을 우리에게 주신 일이 없음이니라 …
다른 이름을 주신 적이 한 번도 없다는 거예요. 저는 이 말을 믿고 가요. 하나님의 이름이 거룩하게 되는 방법은, 이 길이에요. ‘예수만이 구원의 길입니다. 여러분!’ 믿고, 돌아오셔야 되는 거예요.
저 이런 농담을 들었습니다. 하나님은 지금 지옥을, 보수공사하고 계시다고요. 한국에 찜질방이 너무 뜨거워서, 이제는 온도를 좀 높여야 된대요. 그래서 지옥을 지금 보수공사하고 계시대요. 제가 한참을 웃다가, 그런 생각을 했습니다.
이 시대의 사람들이 정말 그 지옥을 알고 있는 것일까? 이시대의 기독교인이라는 사람들이, 정말 그 지옥을 알고 있는 것일까? 정말 그 천국을 알고 있는 것일까? 그 죽음이라는 것이, 얼마나 무시무시한 것인지, 알고 있는 것일까? 그 사망이라는 것이 얼마나 무시무시한 것인지, 알고 있는 것일까? 그 하나님의 진노가 얼마나 두려운 것인지, 하나님이신 그 예수조차도 두려워 벌벌 떨던 그 저주가, 어떤 것인지 알고 있는 것일까?
이렇게 농담에서나 등장하는, 그런 것으로, 저급하게 취급되어지고 있는 거나 아닌가 말이죠? 그 타는 불! 그 지옥에서, 여러분은 어떻게 건져 내어지신 거예요? 어떻게 여러분이 이 자리에 앉아 계시냐 말이에요? 그것으로 정말 감격하고 계시냐 말이에요? 아니면 가짜입니다. 여러분! 여러분 예수 믿는 사람 아닙니다. 은혜 모르는 사람들이에요. 은혜를 모르면, 우리는 그 사람을 논크리스찬이라고 하는 거예요. 여러분! 그 은혜 안으로 숨으셔야 돼요. 예수 안으로 숨으셔야 돼요. ‘아버지여! 당신의 이름이 거룩히 여김을 받으시오며…’라고 기도하시면서, 여러분은 여러분의 신분을 확인하십시오!
그리고 ‘나 같은 거 하나 구원 받는 게, 뭐가 그렇게 하나님 이름에 거룩하게 된다고, 그 이름이 거룩하게 된다고 말씀하십니까? 하나님 감사합니다!’라고 감격하는 거예요. 우리가 뭔데! 우리가 구원받는 게 하나님의 이름이 거룩히 되냐 말이에요?
우리를 그렇게 존귀한 존재로 취급해 주시는 그 하나님께 감격하는 거예요. 그리고 그날은 반드시 올 것이라고 확신하고 가는 거예요. 그것이 여러분의 구원의 확신입니다. 하나님의 이름은, 예수 그리스도로만, 그리고 그로 말미암은 우리의 구원으로만, 거룩해 질 수 있는 것입니다 기도하겠습니다.
3.主の祈り (マタイ 6:9-13)
御言葉を分かち合いたいと思います。本日はマタイによる福音書6章9節から13節までの御言葉です。「主の祈り」の第3回目。見つけられましたら、共にお読みしましょう。
(マタイによる福音書 6:9-13)
9 ですから、あなたがたは、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
11 私たちの今日の日ごとの糧をお与えください。
12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、自分に負い目のある人たちを赦しました。
13 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄光は、とこしえにあなたのものだからです。
先週は「御名があがめられますように(神の御名が聖とされますように)」について御言葉を分かち合いました。神の御名が聖とされる唯一の方法は、神の民の救いを通してのみ可能であることを共に確認しました。今週は、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」という、残りの「あなたへの願い(thou petition)」について学んでいきましょう。
「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」は、同じ文脈から辿ることができます。「御国が来ますように(ナライ・イマオプシミョ)」という言葉は、「国が臨むようにしてください」という意味です。これは(韓国では)朝鮮時代に翻訳されたものなので、助詞も非常に独特なものが付いていますね。「国が(ナライ)」という風に付いています。
ところで、その国とはどのような国でしょうか。ギリシャ語の原典を見ると、「エルテト・ヘ・バシレイア・ス(ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου)」となっています。「バシレイア(βασιλεία)」、王国です。「ス(σου)」、所有代名詞が付いていますね。「Thy kingdom come(御国が来ますように)」です。ですから、その国は私たちが作る国ではなく、「神の国」なのです。「キングダム(kingdom)」だということです。「リパブリック(republic:共和国)」ではなく、「キングダム」なのです。
王である神が治め、その民が統治に従う国だということです。その神の統治に従う心がない者は、入ることができません。ですから、その神の国は、民衆が主人となり、民主主義が通用するような場所ではなく、王が治め、民はその王の統治に従う、その国を指しているのです。ゆえに、神の統治に従う心がない者は、絶対に入ることのできない国こそが、神の国なのです。
皆さん、李舜臣(イ・スンシン)将軍の『乱中日記』を読まれたことはありますか。文禄・慶長の役(壬辰倭乱)当時、李舜臣将軍が書いた日記をまとめた本です。そこに、皆さんもよくご存知の次のような詩があります。「閑山島の月明かりの夜、守楼に独り座り、大きな刀を腰に差し、深い憂いに沈んでいる時、どこからか聞こえる一筋の笛の音が、私の断腸の思いを誘う」という詩がありますね。
今でも慶尚南道の統営(トンヨン)に行けば、李舜臣将軍がその詩を詠んだ制勝堂(チェスンダン)の跡があります。月が煌々と明るい夜、南海の海を見下ろす守楼で、深い憂いに沈んでいる李舜臣将軍を想像してみてください。さらに、その夜に、どこからか一筋の笛の音が聞こえてくると考えてみてください。そこで李舜臣将軍は、はらわたがちぎれるような(断腸の)思いを感じたと言いますが、将軍の心をそれほどまでに苦しめたものは何だったのでしょうか。一般に知られているように、戦争による心配だったのでしょうか。彼の心を抉ったその悩みは何だったのか。それはまさに、人生に対する問いでした。「私は一体どこから来てどこへ行くのか。なぜこの地を、このように選択の余地なく生きていかなければならないのか」という問いでした。『乱中日記』をよく見ると、李舜臣将軍は戦争をむしろ感謝すべきことと考えていました。絶えず人生に対する問いが湧き上がってくるのですが、李舜臣将軍はその問いを忘れさせてくれる戦争を、ある意味で楽しんでいた人なのです。
朝鮮最高の天才と言われる梅月堂(メウォルタン)・金時習(キム・シスプ)をご存知ですか。3歳で既に字をすべて覚え、小學をマスターし、韓国最初の小説『金鰲新話(クモシナ)』を書いた生六臣の一人です。おそらく朝鮮最高の天才と称された人物でしょう。その人が晩年にこのような詩を書きました。「狂ったように古人に問う。私は一体どこから来てどこへ行くのか。なぜ誰も私に答えてくれないのか。狂ったように古人に問う。私は小學を読み、大学を読み、論語を読み、孔子を読み、孟子を読み、老子・荘子を読み、仏経を読んだが、そこではなぜ誰もこの人生に対する問いに答えてくれないのか」という内容です。そして彼は、そのように苦しみながら死んでいきました。
このように真理を求めて去っていった先祖たちがたくさんいます。このようなケースを見ながら、血気盛んで疑い深い人々が、こんな質問をします。「そういう人たちにイエスがもう少し早く伝わっていれば、彼らもすぐに真理を悟って、天国に行けただろうに……!」アンフェア(unfair)だと言うのです。本当にアンフェアなのでしょうか。イエス様が再び彼らの生きた時代に来られたとしたら、彼らは果たしてイエスを信じることができたでしょうか。彼らがそれほど努力して真理を探し、熱心に求めたからといって、彼らは真理を発見できたでしょうか。
皆さん、ルソーのような人はですね、真理を求めて彷徨いながら、聖書を100回通読した人です。そのような偉大な思想家が、元々はキリスト教徒だったのです。彼は聖書を創世記から黙示録まで100回読んだ人です。この場にいらっしゃる方の中で、聖書を最初から最後まで一度でもまともに読んだ方が何人いらっしゃいますか。彼は100回読みました。そうして100回読み、彼が下した結論は、『社会契約論』や『Why I am not a Christian(なぜ私はキリスト教徒ではないのか)』といった著書の中で、キリスト者と、キリスト教と、イエス・キリストを痛烈に批判して死んでいったのです。
ベンジャミン・フランクリンという人は、アメリカの偉大な思想家であり、避雷針を発見した科学者です。彼もまた真理を求めて彷徨いました。そして当時「黄金の口」と広く知られていたジョージ・ホウィットフィールドの集会に参加しました。そして彼は真理についてジョージ・ホウィットフィールドと議論し始めました。ジョージ・ホウィットフィールドは、そのように真理を求めて彷徨うベンジャミン・フランクリンと、何日も共に過ごし、寝食を共にして、イエスを語り聖書を語りました。あの偉大なリバイバリストであり説教家であったジョージ・ホウィットフィールドが、イエスを説明し聖書を説明したにもかかわらず、ベンジャミン・フランクリンはイエスに出会うことなく、死んでいったのです。
私の大学の先輩に金芝河(キム・ジハ)という詩人がいます。その大学の先輩は以前、「五賊(オジョク)」「燃える喉の渇きで」といった詩を書いて、人生の半分をほぼ監獄で過ごしたような先輩です。人々がその先輩を思い浮かべる時、民衆抗争、民主化闘争、といったイメージを抱くのですが、その方がいざ酒の席で打ち明けた悩みは、人生に対する、真理に対する問題でした。「一体、真理とは何なのか。一体、私はなぜこの地をこのように生きていかなければならないのか」という問いでした。彼はカトリック教徒で、洗礼(領洗)を受けた人でした。ですから監獄にいた時間の大部分を、理念的な書籍を読むのではなく、聖書、仏経、そういった宗教書を読むことに多くの時間を費やしたそうです。
そのように真理を求めて彷徨った先輩が、最近『仏教評論』という雑誌で、編集主幹である高麗大の趙聖澤(チョ・ソンテク)教授と対談を行いました。「私は東学党だ。そして私のルーツは仏教である」と言っています。そして「律呂(ユルリョ)思想・生命運動・ヨギサール」という概念に傾倒しています。「ヨギサール」という概念は、内面に平和を維持しながら、外へと社会的変化を追求するような運動です。そうした概念で頭がいっぱいなのです。
このように、真理を熱心に探し求めたからといって、彼ら全員が真理を発見できるわけではないのです。重要なのは、そのような当代の天才たちが、あれほど熱心に真理を求めて彷徨ったにもかかわらず、イエスを知ることができないのに、私にはそのイエスが今信じられているということです。皆さんはこの場にどのようにして座っておられますか。皆さんは彼らよりも熱心に真理を求めて彷徨いましたか。皆さんは彼らよりも努力して、人生について悩みましたか。皆さんが何か、彼らより優れたことをしたことがありますか。それなのに、皆さんはどうやってこの場に来て、イエスを信じているのですか。
誰がイエスを受け入れることができますか。創世の前に神がその名を呼んだ者たち以外には、絶対にイエスを知ることもできず、イエスを理解することもできないのです。李舜臣将軍の時代に、金時習の時代に、姜増山(カン・ジュンサン)の時代に、イエス・キリストが再び降臨されたとしても、創世の前に選ばれなかった人間たちは、イエスを知ることはできないのです。
私たちは、地獄に行く人々について、彼らは地獄に行きたくないのに、私たちが怠慢で福音を伝えなかったから、彼らが福音を聞けなかったせいで地獄に行くのだと考えがちです。違います、皆さん。罪人は、地獄に行きたくて行くのです。「そんな馬鹿な。地獄に行きたい人なんてどこにいるのか」と、心の中で問いかけている方もいらっしゃるでしょう。
皆さん、罪とは何ですか。罪とは、神の統治を嫌って、神を神の座から引きずり下ろし、自分がその神の座に座って、「自分の人生は自分で責任を持つ!」とすることから始まるのではありませんか。ですから罪人たちは、あの天国で神の統治を受け、神が正しいと言うことを正しいと認め、神が誤っていると言うことを誤っていると認める、そんな天国で暮らすのが嫌なのです。いっそ地獄に行って、たとえ苦痛を受けたとしても、自分の思い通りに、自分の意のままに生きたいと願うのが罪人なのです。神が私たちの目を開かせ、私たちを新しい人として再創造してくださらなければ、私たちは絶対にその神の統治に順従することができない者たちなのです。ですから、私たちは皆、その地獄に行きたくて行くのです。
ところが私たちは、恵みによって、このようにこの場に座って、イエスを信じているのです。神の統治がある場所。神が治められる場所。神が王である場所。そこを私たちは「神の国」と呼び、「天国」と呼ぶのです。
皆さん、誤解されているのは、天国といえば、ただあまりにも美しくて、片腕を上げれば500年、片足を上げれば200年(というほど素晴らしい時間が流れる)、といった場所だとばかり思っていますが、そうではありません。そこで皆さんは賛美をしなければならず、祈りをしなければならず、そこでは労働をしなければならないかもしれません。天国とは、まさに神の統治がある場所です。神が治められる場所。その恵みの神、その愛の神と共にいる場所を、私たちは天国と呼ぶのです。民主主義共和国ではない場所です。民衆が主人となり、民主主義によって動かされる国ではないのです。神が治め、神が統治される場所。そこを私たちは「天国」と言うのです。ですから、私たちが「御国が来ますように」と祈ることは、その神の統治が私たちの間に臨むことを祈ることなのです。
しかし皆さん、礼拝堂の中で自分の願いだけを、自分の思いだけを、固執する人々がいますよね。皆さんはどうですか。「神様、私のポケットはなぜこんなに空っぽなのですか。神様、私の体はなぜこんなに病んでいるのですか。神様、なぜ私の家庭に、このような不幸があるのですか」と問う前に、「神様、一体正気なのですか、どうなのですか。私のポケットはこんなに空です。私はこんなに熱心に信仰生活をしているのに、神様、今何をしているのですか。私のポケットを早く満たしてください! 私の病気を早く治してください! 私たちの家庭を早く回復させてください!」そのように自分の思いと自分の願いだけを主張する人々。
神の国で生きることができる神の民とは、どのような人だと言いましたか。神の統治に順従し、神の支配に順従する者です。では、自分の思いだけを固執する者とは、誰ですか。地獄に行きたくて努力している者たちです。
皆さん、もしそのような方がいらっしゃったら、この地上でもただよく食べてよく暮らし、ただ善良によく暮らし、この地上でただお金をたくさん稼いでよく食べてよく暮らし、やりたいことを全部やってから、そのように去ってください。そのような方は絶対に天国に行けません。この地上でもやりたいことができず、地獄まで行ったら、どれほど不幸ですか、皆さん。
キリスト者。神の民。あの神の国に住むことができる神の民は、神のみこころと神の統治に順従する者たちだということです。その神の国は、全面的に神によって作られた国を指します。天から降ってくる、神によって建設された国を指すのです。神から生まれた者たちだけが、その国の民になることができます。ヨハネの福音書1章12節にいきます。
(ヨハネの福音書 1:12-13)
12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでもなく、人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
どこから生まれたと? 「神によって生まれた者」です。ただ神によって生まれた者たちだということです。私たちが真理を探そうと努力し、力を尽くしたからといって、見つかるものではないのです。神が創世の前に選んだ者たち以外には、その真理を悟ることはできず、神から生まれた者でなければ、彼らは神の民にはなれないのです。
皆さん、マタイの福音書には最後の系図が出てきます。アブラハムからダビデまで14代。ダビデからバビロン捕囚まで14代。バビロン捕囚からイエス様まで14代と記されています。14は7が二つですね。7・7、7・7、7・7。7が六つあります。
神の完全な安息の数字である7。それが満たされるためには、もう一つの世代が来なければなりません。さて、このイエス・キリストが、人間の肉の系図の最後の人となられました。イエス様はまさに、この人間の系図、肉の系図の終わりなのです。そしてイエス様がターニングポイント(turning point)となられ、最後のあの安息の世代、七番目の世代の始まりとなられますが、その方はどのようにお生まれになりましたか。聖霊によってお生まれになったのです!
残りのその七番目の世代の人々は、皆、聖霊によって生まれなければ、その世代に属することはできないということです。最後のその七番目の世代は、天から生まれた者たちだけが、その七番目の世代になれるのです。「アノーテン(ἄνωθεν)」、上から新しく生まれなければ、絶対に彼らは神の民にはなれません。ですから、その国は私たちが発展させて作れるものではなく、天から臨まなければならない国なのです。
皆さんと私は新しく生まれた者として、あの天から臨んだ天国の民です。ですから、私たちはこの地上を旅人として、寄留者としてしか生きることができません。私たちは天の民であるため、この地の原理で生きることができる者たちではないのです。その天国に属する天国の民が、願うべきことはどのようなものであるべきでしょうか。天に属する人々が、世俗的なものにばかり執着しているとしたら、これほど滑稽な話があるでしょうか、皆さん。
私たちはそのように天国の人々であるため、この地上のものをどれほど享受しているかによって、私たちの真価を示すことはできないのです。私たちがどれほど神の真実な民であるかは、私たちがどれほど成功裏にこの地上を生きているかによって、評価されてはなりません。私たちは神の国の民ですから、どれほどイエス・キリストの形に似ていっているかによって評価されるべきなのです。
それにもかかわらず、礼拝堂の中でも、そのような世俗的なものでキリスト者の真価を測定し、評価する人々がいかに多いことでしょうか。私たちが、もし家庭が不幸になったり、ビジネスが苦しくなったりすると、どうしてその人々に向かって指を指すのですか。「あの人は神様の前で何か、解決されていないことがあるのかもしれない。あの人の信仰には何か、足りないところがあるのかもしれない。信仰が幼いから苦難に遭っているのだろう」と考える人々が意外と多いのです。
いいえ。キリスト者はですね、彼らがどれほど成功裏にかっこよく、他人の前で立派に生きているかによって、彼らの真価が現れるのではありません。彼が神の真実な民であるかないかは、彼がいかにイエス・キリストの形に似ていっているかによって評価されなければならないのです。私たちが属する王国が、この世にあれば、私たちの真価は当然、この世のもので現れるのが正解です。しかし、私たちが属する王国は、天にある天国です。ですから、私たちの実(結実)は、天国のものとして現れなければならないのです。
それなのに、どうして私たちは、あともう少しすればすべて置いていき、壊して上がらなければならない、この地上の自分の業績や自分の財産にばかり、それほど関心を持つことができるのでしょうか。そのような人は、まだ天国が何であるか、自分が天の王国の民であることを正確に認識できていない人々です。私たちは神の王国の民として、その国が来るように祈らなければならない者たちです。しかし、聖書はその国が「既に臨んだ」と言っています。マルコの福音書1章15節にいきます。
(マルコの福音書 1:15)
15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
ここで「近くなった」というギリシャ語原典の「エンギゾー(ἐγγίζω)」はですね、マタイの福音書26章にそのまま使われています。「立ちなさい。さあ、行くのだ。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ている(エンギゾー)。」ここで「近くに来ている」とは、ユダが来たということです。ですから、この「エンギゾー」、神の国は既にこの地上に来ているのです。
しかし、どのように、いつ、どこに来ていますか。皆さん、見えますか、今。神の国はどこにありますか、今。ルカの福音書17章20節にいきます。
(ルカの福音書 17:20)
20 さて、神の国はいつ来るのかとパリサイ人たちに問われたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で捉えられるような形で来るものではありません。
21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものでもありません。神の国は、あなたがたのただ中(内)にあるのです。」
神の国はどこにありますか。「あなたがたのただ中(内)にある」というのです。皆さん、国家の三要素は何ですか。国民、主権、領土ではありませんか。国民は? 神の民、皆さんがいます。主権は? 神の統治です。皆さんは神によって再創造されたので、今は神の統治に従わざるを得ない者たちになっていますね。ですから、神の統治が皆さんの中にあります。その統治があり、神の民がいて、神がいらっしゃる場所が、神の領土ではないでしょうか。ですから、まさに皆さん自身が「神の国」なのです。皆さんの中にその神の国は、既にきているのです。
私は、この「主の祈り」をギリシャ語で読んでいて、ふと面白いものを一つ発見しました。主の祈りの中に使われている動さが、すべて過去時制(アオリスト)なのです。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」も過去ですし、「御国が来ますように」も過去、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」も過去、「今日の日ごとの糧をお与えください」も過去です。全部過去なのです。
ギリシャ語には、「アオリスト」という不定過去の時制があります。その不定過去は、過去の特定の、例外的な出来事を指す時によく使われます。ところが、この「アオリスト」が命令形(imperative)で使われる時には、非常に重要な意味があることがわかりました。
そこで、私はこの面白い発見をして、私の心の同志たち、数少ない、熱心に勉強されている牧師仲間たちに電話をしました。そして「非常に面白いことを発見した。主の祈りをギリシャ語で読んでみたか? そこに使われている動詞がすべて過去だ」と言いました。すると向こうで「お、本当だ。実に面白い」と言うのです。これはどういう意味だろうか。私たちは一日中調べました。モルトンの文法書(Grammar)まで全部ひっくり返しながら!
一体これがどういう意味なのか。なぜここで過去の時制が使われているのかを探しました。そうしながら、私たちはこんな話をしました。冗談まじりに「なあ、私たちが単語一つを持ってこうして一日中悩んでいることを、信徒たちは知っているかな?」皆さん、ご存知ですか。皆さんも。私たちがそのようにアオリスト命令法で使われた動詞を聖書からずっと探してみたところ、そのアオリスト命令法の動詞はすべて、過去の意味と、現在の意味と、エスカトロジカル・ミーニング(eschatological meaning)、つまり未来の意味までの、三つの意味をすべて内包しているというのです。
ですから、私たちが今「御国が来ますように」と祈るその単語一つには、過去にその国は既に臨み、今私の人生の中でその国は成し遂げられていっており、未来にその国は必ず来るだろうという、「Already, not yet(既に、いまだ)」の教理が、その単語一つにすべて入っているのです。
私たちは、その国が来るように祈りながら、自分たちの身分を確認するのです。「そうだ。私たちはその国の民だ。そしてその国は既に臨んでおり、必ず来るものであり、今私の人生の中で成し遂げられていっている」と。あの神の統治を心底嫌っていた私の人生の中に、その統治に従う者として、少しずつ、少しずつ自分が変えられていっていることを確認するのです。
皆さん、私たちはこの地上で天国を生きなければならない、天の原理で生きなければならない者たちであるため、患難や苦難が当然私たちに訪れます。なぜ患難や苦難が来るのでしょうか。この世の原理は、右の頬を叩かれたら、その屈辱感が消えるまで、相手を殴り倒すのが、この世の原理です。この世の原理は力(パワー)ですよね? 財力、学歴、外見、名誉。その力以外には、この世で誰が優秀な者であるかを判別することはできません。それを力で相手を制圧しなければなりません。
しかし、天の原理はですね、右の頬を叩かれたら、左の頬も向け差し出すのが天の原理です。このように、私たちは霊的な面で、世の中は肉的な面で、異なる次元、異なる原理で生きなければならない者たちであるため、世の中とぶつかるしかないのです。自分のすべての望みがこの世での面目にあれば、どうして頬を叩かれて黙っていられますか。その面目を保つためにでも、行って殴り倒してやらなければならないでしょう。自分が臆病者ではないことを見せなければならないのです。そのように認められてこそ満足できます。
しかし、自分のすべての望みが、あの天国にあるならば、「そんな面目くらい、少し潰れても大丈夫だ」と言って行くのです。私たちはあの天国のもので満足できる者であり、それゆえその国に与った者ですから、私たちはこの地上で患難や、迫害や、苦難に遭っても大丈夫だ! そんな実力者にならなければならないのです。皆さん、私たちの天国の民は、天のもので満足して生きなければならない者たちです。
なぜ人々はお酒、タバコ、ギャンブル、麻薬をするのでしょうか。その心の中に満たされない、満足できない空虚を埋めるためではありませんか。その寂しさを埋めるためなのです。その心の中にぽっかりと開いた空虚を何を持ってしても埋めることができないため、人々は何かを熱心にします。恋愛をしたり、勉強をしたり、熱心にお金を稼いだりします。それでも埋められないのです。
私たちキリスト者は、金曜日に確認したじゃないですか。あのファミリー・ナイト・パーティーで、私たちはお酒を飲まず、タバコを吸わず、他の世俗的なものを動員しなくても、いくらでも楽しく生きていけるということを如実に示してきたではありませんか。
皆さん、恵みに酔えば、この世の他のものに酔うのとは比較できない喜び(喜悦)があります。恵みに酔っているのに、なぜギャンブルの場に行くでしょうか。恵みに酔っているのに、なぜ酒の席に行って寂しさを紛らわすでしょうか。ですから、私たちに患難や窮乏、苦難や迫害が来ても、大丈夫だということです。私たちはまもなくあの天国に行くのですから、「その程度なら大丈夫だ。私は耐えられる」として行くのです。ですから、聖書にこのように記録されています。黙示録1章9節。
(ヨハネの黙示録 1:9)
9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、イエスにある患難と御国と忍耐とに、あなたがたとともにあずかっている者であって……。
「イエスの患難と御国と忍耐とにあずかっている者だ」と記録されています。患難と御国と忍耐は「イコール(等式)」です。皆さん。イエスの患難とイエスの御国とその忍耐は、同時に私たちに訪れるということです。神の国にあずかった神の民は、あの天の原理で生きなければならないため、この地上で患難に遭うようになっているのです。このジレンマを解決できるのが、忍耐です。耐えること。
ですから、イエスの御国と、忍耐と、患難は、同時に私たちに来るのです。「あなたがたは今、患難に遭っているが、あなたがたはその神の国を信仰によって見たのだから、耐えなさい!」 神は私たちにそう仰っているのです。「しかし、必ず来る。世界のすべての民族と国語と国々が、いやサタンまでもが、神の御名を聖なるものと認める日は必ず来る。だから、もう少しだけ耐えなさい!」 そのために、私たちは「御国が来ますように」という祈りをしながら、確認し、確信し、力を得るのです。その国は必ず来る。そして既に私に臨んでいる! それを確認するのです。
併せて、それと同じ脈絡で、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈ります。神のみこころとは何でしょうか。神が、神の民と永遠に共に住む神の国を成し遂げることが、まさに神のみこころではありませんか。そのみこころは、既に私たちが確認したように、成し遂げられています。そして成し遂げられるでしょう。
では、神のそのみこころは、どうせ神が成し遂げられるというのに、私たちがその神のみこころが成し遂げられるように祈らなければならない理由は何ですか。C.S.ルイスは、この世には二種類の人々がいると言います。一種類の人々は、神に「あなたのみこころが行われますように(Thy will be done)」と祈る人々であり、もう一種類の人々は、神が彼らに「おまえのみこころが行われるように(Your will be done)」と放置しておく人々だというのです。「Your will be done。おまえの好きに生きろ。そう、おまえの思い通りに生きろ。よし、サタンよ、あいつの望む通りに行って手助けしてやれ。自分の思い通り、自分の気の済むように生きさせてやれ」と。
神が人間を最も残酷に呪う方法が何かご存知ですか。その思い通りに、その願い通りに生きるように放置しておくこと。それこそが、神が人間を最も残酷に呪う方法です。ローマ人への手紙1章24節にいきます。
(ローマ人への手紙 1:24, 28-32)
24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのために、彼らは互いに自分のからだをはずかしめるようになりました。
(心の欲望のままに汚れに放置されたので、自ら自分の体を恥ずかしめるようになったのです。28節にいきます。)
28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを、良くないことをするような、不適当な心に引き渡されました。
29 彼らは、あらゆる不義、悪徳、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪だくみにあふれ、陰口を叩く者、
30 誹謗する者、神を忌み嫌う者、不遜な者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事を企てる者、親に逆らう者、
31 分別のない者、約束を破る者、情のない者、慈悲のない者です。
32 彼らは、そのようなことを行っている者たちが死に値するという神の定めを知っていながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちを是認しているのです。
神が、その欲望のままに引き渡されたので、放置されたので、彼らの思い通りに生きるように放っておかれたので、まさにこのように死を受けて当然の人間たちになったというのです。皆さん。親がですね、子供を育てながら、ある瞬間諦める時があります。朝、学校にも行かず、毎日ゲームセンターに行き、10時になっても11時になっても寝てばかりいるような子供を、皆さん、黙って見ていられますか。水を浴びせかけてでも、叩き直すでしょう。
しかし、何度やっても、やっても、やってもダメな時、最後はどうしますか。「わかった、お前の好きなように生きなさい。お前の人生、お前が生きるものであって、私が生きるものか。そう、お前の思い通りに生きなさい。眠りたいだけ好きなだけ眠り、学校に行きたくなければ行かなくていい」 これは、本当にその親がその子供をあまりにも愛しているから、その子供の望む通りにしてあげているのでしょうか。それはその親が、その子供を諦めることなのです、皆さん。
私が演壇(講壇)で声を張り上げるからといって、後ろでこそこそ言わないでください。「うちの牧師さんは、なぜあんなに声を張り上げるのか」と。皆さん、正しく生きられていないではないですか。キリスト者として、まともに生きておられますか。生きておられないから! 私も同じです。私もまともに生きられていないからこそ、神の言葉が宣言される時に、声を張り上げるしかないのです。「正しく生きましょう! 神のみこころ通りに生きましょう! 聖書が語る通りに生きましょう!」と。
ある日私が、声を潜めて、魅力的な低音で、「皆さん、生きるなんてそんなものですよ。まあ、お金をたくさん稼いで、よく食べてよく暮らし、善良に生きて、そうして去っていきましょう。それから、月給は遅れずにしっかりくださいね」 いつか私が、この上でそのように説教をし始めたら、この教会は終わりです。
私は、演壇の上でボソボソと(上品に)説教する人は、皆偽物だと思っている人間です。どうして自分が愛する人々が、あの崖っぷちへ、暗闇へと向かっているのに、声を上げないでいられますか。どうして、いたたまれない思いがないことがあり得ましょうか、皆さん。
神様が、私たちがやりたい放題にするのを放置しておかれたら、私たちにできる唯一のことは、罪だけです。罪人ができる唯一のことは何でしょうか。罪しかないのです。ですから私たちは、神様が放置されたら、私たちはそのまま底知れぬ所(無底坑)へ落ちるしかない者たちなのです。ですから神は、ホセア書で語られているように、自分が愛する神の民の行く手には、垣をめぐらし、茨で塞いで、彼らが良からぬ道へ行くのを神様が防がれるのです。
ですから皆さん、もし夫のビジネスが苦しくなり、行く手が塞がれているように思えたら、「どうして私はあんな能力のない疫病神に出会って、こんな苦労をするのか」と言うのではなく、「あ、神様が私たちの家庭に、とても細やかに、精密に介入しておられるのだな!」 そのように理解することはできませんか。
私たちは神の民です。ですから、私たちの思いが成し遂げられるように祈るのではなく、神のみこころが成し遂げられるように、祈る者たちです。Thy will be done! Thy will be done! 「神様、あなたのみこころが行われますように!」
イエス様がゲッセマネでどのような祈りをなさいましたか。「父よ、私はこの杯が嫌です。この杯が私に来ないでほしいのです。しかし、わたしの願いどおりではなく、あなたのみこころ(御意)のとおりにしてください」 父のみこころは何でしたか。十字架を背負って死に、神の民を救い出すこと! そうして神の王国を、神の国を成し遂げること! それではありませんでしたか。イエス・キリストは、「神様、私の思い通りではなく、あなたのみこころ通りにしてください!」と祈られました。
皆さん。私たちはどのように救われましたか。イエス・キリストが私たちを胸に抱き、生まれて八日目に割礼を受けられたことを皮切りに、全生涯を通して律法を完璧に守り、神に喜ばれる人生を全うされ、それを私たちに転嫁(転嫁)してくださったのです。そして、私たちのこのボロ雑巾のような、デタラメな人生をイエス様が受け取ってくださり、その人生を背負って十字架で死んでしまわれたのです。だから私たちが救われたのではないですか。ユニオン・クライスト(Union Christ)、イエス・キリストとの連合(連合)! そのイエス・キリストの人生が私の人生となり、私の人生はイエス・キリストの人生となったため、私たちはこのようにデタラメな人生を送っているにもかかわらず、救われた者なのです。
では皆さん。イエス様が十字架にかかられた時、皆さんはどこにおられましたか。十字架におられたのです。イエス様が復活された時、皆さんはどこにおられましたか。そのイエス・キリストと共に復活したのではないですか。では、イエス・キリストがゲッセマネで祈られた時、皆さんはどこにおられましたか。皆さんはそのイエス・キリストの内におられた方々なのです。
私たちがイエス・キリストの死と、イエス・キリストの復活に連合して、救いを受けたのだと言うのなら、それゆえ私たちも、そのイエス・キリストが背負っていかれた、あの十字架の人生に似ていこうと努力すべきであるなら、イエス・キリストがゲッセマネでなさったこの祈りにも、私たちは連合されるべきではないですか! 「父よ、わたしの思いではなく、あなたのみこころを行わせてください」 その人生を、その祈りを、私たちは今や追っていくべきではないですか。
イエス様は私たちの身代わりに、そのように神が喜ばれる完璧な人生を全うされました。その人生が私たちのものとなりました。ですから、私たちはその人生を追う者とならなければならない。それこそが、キリスト者なのです。では、私たちはどのような祈りをすべきでしょうか。
「神様、あなたのみこころが成し遂げられますように。神様、私の願い通りではなく、私の思い通りではなく、私が望むのはこれですが、私はこれがとてもとても好きですが、神様、あなたのみこころ通りにしてください! 私のポケットが空っぽなのがあなたのみこころなら、それによって、神様、私の人生で壊すべきものがあり、私の人生で作り上げるべきものがあるのなら、そのようになさってください! 神様、この病を通して私の人生で打ち砕くべきものがあるなら、そのようになさってください! あなたのみこころが私の人生において成し遂げられますように!」 そのように祈る者にならなければならないのではありませんか、皆さん。
私たちは、この世で自分が望むものを放棄しなければならないとしても、それが神のみこころなら、果敢に放棄できる信仰人にならなければなりません。そして、この地上での生に執着せず、神のみこころのためなら、十字架さえ厭わないことこそが、「みこころが行われますように」という祈りなのです。神のみこころが成し遂げられるなら、この世での富貴も命までも投げ出して、喜んでそのみこころに従おうと立ち上がる者が、キリスト者なのです。
なんとかしてあの神を利用して、自分の分を確保するのがキリスト教ではなく、十字架の前に絶えず自分のものを手放し、神の元へ行くこと! 神お一人を握るために、自分のすべてを手放し、すべてを捨て、自分の命までも投げ出すこと! それこそが聖徒の死、ではありませんか。
皆さん。私がしきりに「あ、神様に会いに行きたい」と語るのも、このような意味で申し上げているのです。「神様、私は今、自分の欲望と自分の欲のせいで、毎日毎日頭がズキズキと痛みます。神様、私はいつになったら、神様が要求される水準に到達できるでしょうか。神様、一日も早く神様が望まれる、神様が喜ばれる、そのような神の民として作り替えてください!」
皆さん、その時が来なければ、私たちは神様に会いに行くことはできません。そのような存在にならなければ、神様にお会いできません。ですから皆さん、心配しないでください。この中で、すぐに死んで神様に会いに行ける人なんて、一人もいません。皆さん。皆さんは卒業単位をまだ取得できていない方々です。だから心配しないでください。私も行けません。こんな姿でどこに行けるでしょうか、皆さん。
ですから私たちは、毎日毎日「神様、神の国が来ますように、神のみこころが行われますように! 私の中で神の統治をそのように素直に、喜んで受け入れられる、そのような神の国が臨み、神のみこころが成し遂げられる、そのような神の民にならせてください!」と祈ること。それが、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈ることなのです。
神のみこころが成し遂げられるなら、この世での富貴も命までも投げ出して、喜んでそのみこころに従おうと立ち上がるのがキリスト者です。神のみこころは、私たちが天のものを享受し享受することにあり、この世のものを掴んで哀願することにはありません。
キリスト者の死は、私たちの信仰の勝利の時なのです。キリスト者の死は、神お一人を握るために、この地上のすべてを置くこと。それこそがキリスト者の死なのです。自分が愛する家族、自分が愛したこの世のすべてを、神に似るためにすべて手放すことを「信者の死」と言います。ですから、神様が「聖徒の死を尊いと見なされる」と仰っているのです。
私たちはこの地上でそのように毎日毎日、世に対して死ななければなりません。そして最後には、自分の命を置かなければならない時、惜しみなく、喜んで旅立つ準備をしなければならないのです。ですから、毎日毎日私たちはその十字架の前に、自分が持っているもの、自分が望んでいるもの、自分が喜んでいるもの、すべてを下ろさなければならないのです。詩篇116篇15節にいきます。
(詩篇 116:15) 15 主の聖徒たちの死は、主の目に尊い。
皆さん。本当に天国を慕っていますか。本当にそこに行きたいですか。それとも、ここの方が良いですか。ここで享受していた多くのものをすべて置いて、喜んで行けるほどに、あの神の国を知っていますか、皆さん。神の国は既に臨んでおり、必ず臨むものであり、神のみこころも既に成し遂げられており、必ず成し遂げられるでしょう。私たちは患難と窮乏の中でも、その国を、そのみこころを、信仰によって十分に打ち勝って生きる者であり、死までも厭わず神のみこころに従うべきキリスト者なのです。
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3.주기도문강해 (마6:9-13)
말씀을 같이 나누도록 하겠습니다. 오늘은 마태복음 6장 9절에서 13절까지의 말씀입니다. 주기도문 세 번째 시간. 찾으셨으면 함께 읽겠습니다.
(마태복음 6:9-13)
9 그러므로 너희는 이렇게 기도하라 하늘에 계신 우리 아버지여 이름이 거룩히 여김을 받으시오며
10 나라이 임하옵시며 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다
11 오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고
12 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이 우리 죄를 사하여 주옵시고
13 우리를 시험에 들게 하지 마옵시고 다만 악에서 구하옵소서 (나라와 권세와 영광이 아버지께 영원히 있사옵나이다 아멘)
지난주에는 ‘하나님의 이름이 거룩히 여김을 받으시오며’에 관해서 우리가 말씀을 나누었습니다. 하나님의 이름이 거룩하게 되는 유일한 방법은, 하나님의 백성들의 구원으로만, 말미암는다는 것을 함께 확인했습니다. 이번 주에는, ‘나라이 임하옵시며, 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다.’ 이 나머지 다우 피티션(thou petition)에 대해서 공부하도록 하겠습니다.
‘나라이 임하옵시며, 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다,’는 같은 맥락에서 추적을 해볼 수가 있습니다. ‘나라이 임하옵시며’라는 말은, ‘나라가 임하게 하시오며’의 뜻입니다. 이것이 조선시대 때 번역이 된 거라서, 조사(助詞)도 굉장히 엉뚱한 게 붙어 있죠. ‘나라이 임하옵시며’ 이렇게 붙어 있습니다.
그런데 그 나라는 어떤 나라입니까? 헬라어 원어에 보면, ‘에셋토 헤 바실레이아 수’라고 되어 있습니다. 에셋토 헤 바실레이아 왕국! 수 소유대명사가 붙어 있죠? 다이 킹덤 컴(thy kingdom come)!입니다. 그래서 그 나라는 우리가 만드는 나라가 아니라, ‘하나님나라’라는 것입니다. 킹덤(kingdom)이라는 것이죠. 리퍼블릭(republic)이 아니라, 킹덤(kingdom)이라는 것입니다.
왕이신 하나님이 다스리고, 그 백성들이 통치에 순종하는 나라라는 것입니다. 그 하나님의 통치에 순종할 마음이 없는 자들은, 못 들어갑니다. 그래서 그 하나님의 나라는, 민중이 주인이 되고, 민주주의가 통용이 되는, 그런 곳이 아니라, 왕이 다스리고, 백성은 그 왕의 통치에 순종하는, 그 나라를 가리키는 것입니다. 그래서 하나님의 통치에 순종할 마음이 없는 자들은, 절대 못 들어가는 그런 나라가 바로, 하나님나랍니다.
여러분! 이순신 장군의 ‘난중일기’를 읽어보신 적 있으십니까? 임진왜란 당시 이순신 장군이 쓴 일기를 모아놓은 책입니다. 거기에 여러분이 잘 아는 이런 시가 있습니다. ‘한산섬 달 밝은 밤에, 수루에 홀로 앉아, 큰칼 옆에 차고 깊은 시름 하는 차에, 어디서 일성호가는 남의 애를 끊나니’ 이런 시가 있죠?
지금도 통영에 가면, 아직 이순신 장군이 그 시를 읽던, 제승당 자리가 있습니다. 달이 휘영청 밝은 밤에, 남해 앞바다가 내려다보이는 수루에서, 깊은 시름을 하고 있는 이순신 장군을, 한번 생각해 보십시오. 거기다가 그 밤에, 어디서 한 줄기 피리소리가 들려온다고 생각해 보십시오. 거기서 이순신 장군은, 애가 끊어지는 듯한 느낌을 받았다고 하는데, 그 장군의 애를 끊게 한 것이 무엇이겠습니까? 알려진 바대로 전쟁으로 인한 근심이었겠습니까? 그의 애를 끊게 했던 그 고민은, 무엇이었을까요? 바로 삶에 대한 질문이었습니다. ‘나는 도대체 어디서 왔다가 어디로 가는 것이며, 왜 이 땅을, 이렇게 선택 없이 살아가야 하는가?’에 대한 질문이었습니다. 난중일기를 잘 보면, 이순신 장군은 전쟁을 오히려 감사하게 생각했습니다. 끊임없이 인생에 대한 질문이 끓어오르고 있는데, 이순신 장군은 그 질문을 잊게 해주는, 그 전쟁을 즐겼던 사람입니다.
조선 최고의 천재라는 매월당 김시습을 아십니까? 세살 때 이미 글을 다 깨우쳤고, 소학을 통달하고, 최초의 소설인 금오신화를 썼던 생육신의 한 사람입니다. 아마 조선 최고의 천재라고 일컬음을 받던 그런 사람입니다. 그 사람이 말년에 이런 시를 썼습니다. ‘미친 듯이 옛 사람에게 물어본다. 나는 도대체 어디서 와서 어디로 가는 것인가? 왜 아무도 나에게 대답하지 않는가? 미친 듯이 옛 사람에게 물어본다. 나는 소학을 읽고, 대학을 읽고, 논어를 읽고, 공자를 읽고, 맹자를 읽고, 노자 장자를 읽고, 불경을 읽었는데, 그곳에서는 왜 아무도 이 인생에 대한 질문을 대답해주지 않는가?’라는 이야기입니다. 그리고 그는, 그렇게 괴로워하다가 죽어가고 말았습니다.
이렇게 진리를 찾다 간 우리 조상들이 많이 있습니다. 이런 경우를 보면서, 혈기 왕성하고, 의심 많은 사람들이, 이런 질문을 합니다. ‘그런 사람들에게 예수가 조금 일찍 전해졌으면, 그들도 곧 진리를 깨닫고, 천국에 갔을 텐데…!’ 언페어(unfair)하다는 것입니다. 정말 언페어한 걸까요? 예수님이 다시 그들의 살던 시대에 오셨다면, 그들이 과연 예수를 믿을 수 있었을까요? 그들이 그렇게 애써서 진리를 찾고, 열심히 진리를 찾았기 때문에, 그들은 진리를 발견할 수 있었을까요?
여러분! 루소 같은 사람은요, 진리를 찾아 헤매면서 성경을 100독을 한 사람입니다. 그런 위대한 사상가가, 원래 기독교인이었던 사람이에요. 그는 성경을 창세기부터 계시록가지 100번을 읽었던 사람입니다. 이 자리에 계신 분 중에, 성경을 처음부터 끝까지 한 번이라도 제대로 읽은 분들이 몇 분이나 계십니까? 그는 100번을 읽었습니다. 그렇게 100번을 읽고, 그가 내린 결론은, ‘사회계약론’이라든지, ‘와이 엠 아이 낫 어 크리스찬(Why am I not a Christian)?’이라는 책에서, 그리스도인과, 그리스도교와, 예수 그리스도를 신랄하고 비판하고 죽었습니다.
벤자민 프랭클린이라는 사람은요, 미국의 위대한 사상가이며, 그는 피뢰침을 발견한 과학자입니다. 그도 역시 진리를 찾아 헤맸습니다. 그래서 당시에 ‘황금의 입’이라고, 널리 알려져 있던, 조지 휘필드의 집회에 참석했습니다. 그리고 그는 진리에 대해서 조지 휘필드와 논의하기 시작했습니다. 조지 휘필드는, 그렇게 진리를 찾아 헤매는 벤자민 프랭클린과, 여러 날을 함께 보내며, 먹고 자며, 예수를 이야기하고 성경을 이야기했었습니다. 그 위대한 부흥사요, 설교가였던 조지 휘필드가, 예수를 설명하고 성경을 설명했는데도 불구하고, 벤자민 플랭클린은 예수를 만나지 못하고, 죽었던 것입니다.
저희 대학 선배 중에 김지하라는 시인이 있습니다. 그 대학 선배가 예전에, ‘오적(五賊), 타는 목마름으로’ 이런 시를 써서, 인생의 반은 거의 감옥에서 보낸 그런 선뱁니다. 사람들이 그 선배를 생각할 때에 떠오르는 이미지가, 민중항쟁! 민주화투쟁! 이런 것을 떠올리는데, 그분이 정작 술자리에서 털어놓은 그분의 고민은, 인생에 대한, 진리에 대한 문제였습니다. ‘도대체 진리가 무엇이냐? 도대체 나는 왜 이 땅을 이렇게 살아가야 하는가?’에 대한 질문이었습니다. 그는 천주교인이었고, 영세를 받았던 사람이었습니다. 그래서 감옥에서 있던 시간의 대부분을, 이념서적을 읽은 것이 아니라, 그는 성경! 불경! 그런 종교서적을 읽는 데, 많은 시간을 보냈다고 합니다.
그렇게 진리를 찾아 헤매던 선배가, 최근에 ‘불교평론’이라는 그러한 잡지에, 불교평론 주간인 고려대 조성택교수와 이런 대담을 했습니다. ‘나는 동학당이다. 그리고 나의 뿌리는, 불교이다. 장구벌 이하와 중생! 이렇게 ’율려사상 생명운동 요기싸르‘라는 개념에 심취해 있습니다. ’요기싸르‘라는 개념은, 내면에 평화를 유지하면서, 밖으로 사회적 변화를 추구하는 그런 운동이에요. 그런 개념에 아주 꽉 차있다구요.
이렇게 진리를 열심히 찾아 헤맨다고 해서, 그들이 모두 진리를 발견할 수 있는 것은 아닌 것입니다. 중요한 것은, 그러한 당대의 천재들이, 그렇게 열심히 진리를 찾아 헤맸음에도 불구하고, 예수를 알지 못하는데, 나에겐 그 예수가 지금 믿겨진다는 것입니다. 여러분이 이 자리에 어떻게 앉아계십니까? 여러분이 그들보다 더 열심히 진리를 찾아 헤매셨나요? 여러분이 그들보다 더 애쓰면서, 인생에 대해서 고민을 하셨나요? 여러분이 뭘 그들보다 더 많이 한 것이 있습니까? 그런데 여러분은 어떻게 이 자리에 와서 예수를 믿고 계시는 것입니까?
누가 예수를 받아들일 수 있습니까? 창세전에 하나님께서 그 이름을 부른 자들 이외에는, 절대 예수를 알 수도 없고, 예수를 이해할 수도 없는 것입니다. 이순신 장군의 시대에, 김시습의 시대에, 강증산의 시대에, 예수 그리스도께서 다시 내려오셨다 할지라도, 창세전에 택함을 받지 못한 인간들은, 예수를 알지 못하는 것입니다.
우리는 자꾸, 지옥에 가는 사람들이, 그들은 지옥에 가기 싫은데, 우리가 게을러서, 복음을 안전했기 때문에, 그들이 복음을 못 들어서 지옥에 간 것이라고 생각하고 있습니다. 아닙니다! 여러분! 죄인들은 지옥에 가고 싶어서 가는 것입니다. ‘그런 말이 어디 있습니까? 지옥에 가고 싶은 사람이 어디 있습니까?’ 이렇게 혹시 마음속에 질문하는 분들 계시죠?
여러분! 죄가 뭡니까? 죄는요, 하나님의 통치가 싫어서, 하나님을 하나님의 자리에서 끌어내려 놓고, 내가 그 하나님의 자리에 앉아서, ‘내 인생은 내가 책임지겠다!’라고 하는 데서, 죄가 출발하는 거 아닙니까? 그래서 죄인들은요, 그 천국에서 하나님의 통치를 받고, 하나님이 옳다고 하는 것은 옳다고 인정하며, 하나님이 그르다고 하는 것을 그르다고 인정하는, 그 천국에서 살기가 싫은 것입니다. 차라리 지옥에 가서, 그렇게 고통을 당한다 할지라도, 내 마음대로, 내 뜻대로, 살고 싶어 하는 게, 죄인들인 것입니다. 하나님이 우리의 눈을 뜨게 해주셔서, 우리를 새 사람으로 재창조 해놓지 않으면, 우리는 절대 그 하나님의 통치에 순종할 수 없는 자들인 것입니다. 그래서 우리는 모두가 다 그 지옥으로 가고 싶어서 가는 것입니다.
그런데 우리는 은혜로 말미암아, 이렇게 이 자리에 앉아서, 예수를 믿고 있는 것입니다. 하나님의 통치가 있는 곳! 하나님이 다스리시는 곳! 하나님이 왕이신 곳! 그곳을 우리는 ‘하나님나라’라고 하고, ‘천국(天國)’이라고 하는 것입니다.
여러분! 잘못 생각하고 있는 것이, 천국 그러면, 그냥 너무나 아름답고 팔 한 짝 올리면, 500년! 다리 한 짝 올리고 200년! 그런 곳으로만 알고 계신데, 아니에요. 거기서 여러분은 찬양을 해야 하, 기도를 해야 하며, 여러분은 거기서 노동을 해야 할지도 모릅니다. 천국이라는 것은, 바로 하나님의 통치가 있는 곳입니다. 하나님이 다스리시는 곳! 그 은혜의 하나님, 그 사랑의 하나님과 함께 있는 곳을, 우리는 천국이라고 하는 것입니다. 민주주의 공화국이 아닌 곳입니다. 민중이 주인이 되고, 민주주의에 의해서 움직여지는 나라가, 아니라는 것입니다. 하나님이 다스리시고, 하나님이 통치하시는 곳! 그곳을 우리는, ‘천국(天國)’이라고 하는 것입니다. 그래서 우리가, ‘나라이 임하옵시며’라고 기도하는 것은, 그 하나님의 통치가 우리 가운데 임하기를 기도하는 것입니다.
그런데 여러분! 예배당 안에서 자기의 소원만을, 자기의 뜻만을, 고집하는 자들이 있죠? 여러분은 어떠십니까? ‘하나님! 내 주머니가 왜 이렇게 지금 비어 있습니까? 하나님! 내 몸에 왜 이렇게 병이 있는 것입니까? 하나님! 왜 우리 가정에, 이런 불행이 있습니까? 하나님! 도대체 하나님의 뜻이 무엇입니까?’라고 물어보기 전에, ‘하나님! 도대체 정신이 있는 거냐? 없는 거냐? 말이죠. 내 주머니가 이렇게 비었다. 내가 이렇게 열심히 신앙생활을 하고 있는데, 하나님 지금 뭐하고 있는 거냐? 내 주머니를 빨리 채워라! 내 병을 빨리 낫게 해달라! 우리 가정을 빨리 회복시켜 달라!’ 그렇게 자기의 뜻과 자기의 소원만을 주장하는 사람들!
하나님나라에서 살 수 있는, 하나님의 백성은 어떤 사람들이라 그랬죠? 하나님의 통치에 순종하며, 하나님의 다스림에 순종하는 자! 그러면요 자기의 뜻만을 고집하는 자들은, 누구입니까? 지옥에 가고 싶어서 애쓰는 자들입니다.
여러분! 혹시 그런 분들 계시다면, 이 땅에서도 그냥 잘 먹고 잘 살다가, 그냥 착하게 잘 살다가, 이 땅에서 그냥 돈 많이 벌고 잘 먹고 잘 살다가, 하고 싶은 것 다 하시다가, 그렇게 가십시오. 그런 분들은 절대 천국 못갑니다. 이 땅에서도 해볼 것 못해보고, 지옥까지 가면, 얼마나 불행합니까? 여러분!
그리스도인! 하나님의 백성! 그 하나님의 나라에 살 수 있는 하나님의 백성들은, 하나님의 뜻과, 하나님의 통치에 순종하는 자들이라는 것입니다. 그 하나님나라는, 전적으로 하나님에 의해서 만들어진 나라를 말합니다. 하늘로부터 내려오는, 하나님에 의해서 건설된, 나라를 말하는 것이죠. 하나님께로서 난 자들만이, 그 나라의 백성이 될 수 있습니다. 요한복음 1장 12절로 갑니다.
(요한복음 1:12-13)
12 영접하는 자 곧 그 이름을 믿는 자들에게는 하나님의 자녀가 되는 권세를 주셨으니
13 이는 혈통으로나 육정으로나 사람의 뜻으로 나지 아니하고 오직 하나님께로서 난 자들이니라
어디로부터 났다고요? 하나님께로서 난 자들! 오직 하나님께로서 난 자들이라는 것입니다. 우리가 진리를 찾으려고 노력하고 애쓴다고 해서, 찾아지는 게 아니라는 것입니다. 하나님께서 창세전에 택한 자들 이외에는, 그 진리를 깨달을 수 없고, 하나님께로서 난 자들 아니면, 그들은 하나님의 백성이 될 수 없다는 것이죠.
여러분! 마태복음에는 마지막 족보가 나옵니다. 아브라함에서 다윗까지 14대요. 다윗에서 바벨론 유수까지 14대요. 바벨론 유수에서 예수님까지 14대라고 적혀 있습니다. 14는 7이 두 개죠? 7 7! 7 7! 7 7! 칠이 여섯 갭니다.
하나님의 완전한 안식의 숫자인, 7! 그것이 채워지려면, 한 세대가 더 와야 하죠? 자, 이 예수 그리스도께서, 인간의 육신의 족보의 마지막 사람이 되셨습니다. 예수님께서는 바로 이 인간의 족보! 육신의 족보에 마지막이십니다. 그리고 예수님이 터닝 포인트(turning point)가 되셔서, 마지막 그 안식의 세대! 일곱 번째 세대의 시작이 되시는데, 그분이 어떻게 나셨습니까? 성령으로 태어나셨다고요!
나머지 그 일곱 번째 세대들은, 모두 성령으로 태어나야만, 그 세대에 속할 수 있다는 것입니다. 마지막 그 일곱 번째 세대는, 하늘로부터 태어난 자들만이, 그 일곱 번째 세대가 될 수 있다는 것입니다. 아노덴! 위로부터 거듭나지 않으면, 절대 그들은 하나님의 백성이 될 수 없다는 것입니다. 그래서 그 나라는, 우리가 발전시켜서 만들 수 있는 것이 아니고, 하늘로부터 임해야 하는 나라입니다.
여러분과 저는 거듭난 자로서, 그 하늘로부터 임한 하늘나라의 백성입니다. 그래서 우리는 이 땅을 나그네로, 이방인으로 밖에 살 수 없습니다. 우리는 하늘의 백성이기 때문에, 이 땅의 원리로 살 수 있는 자들이 아닌 것입니다. 그 하늘나라에 속한 하늘나라 사람들이, 소원하는 것이 어떤 것이어야 되겠어요? 하늘에 속한 사람들이, 속된 것에만 목을 매고 있다면, 그 같은 코미디가 어디 있습니까? 여러분!
우리는 그렇게 하늘나라 사람들이기 때문에, 이 땅의 것들을 얼마나 누리고 있는가로, 우리의 진가를 나타낼 수 없는 것입니다. 우리가 얼마나 하나님의 신실한 백성인가는, 우리가 얼마나 성공적으로 이 땅에서 살아가느냐로, 평가 되어서는 안 되는 것입니다. 우리는 하나님나라 백성이므로, 얼마나 예수 그리스도의 형상을 닮아가고 있는가로 평가되어져야 하는 것입니다.
그럼에도 불구하고 예배당 안에서도, 그런 세상의 것으로, 그리스도인의 진가를 측정하고, 평가하는 사람들이 얼마나 많이 있습니까? 우리가, 가정이 혹시 불행해지고, 비즈니스가 어려워지고 하면은 ,어떻게 그 사람들을 향해서 손가락질을 합니까? ‘저 사람은 하나님 앞에서 뭔가, 해결되어지지 못한 것이 있을지 몰라! 저 사람의 신앙은 뭔가, 부족한 것이 있을지 몰라! 신앙이 어리기 때문에 어려움을 당하는 걸 거야!’라고 생각하는 사람들이 의외로 많다는 것이죠.
아니에요! 그리스도인들은요, 그들이 얼마만큼 성공적으로 폼 잡고, 남들 앞에서 훌륭하게 살아가는가로 그들의 진가가 나타나지 않는다는 것입니다. 그가 하나님의 신실한 백성인가 아닌가는, 그가 얼마만큼 예수 그리스도의 형상을 닮아가고 있는 가로 평가되어져야 하는 것입니다. 우리가 속한 왕국이, 이 세상에 있으면, 우리의 진가는 당연히 이 세상 것들로 나타나는 게 맞습니다. 그러나 우리가 속한 왕국은, 하늘에 있는 하늘나라입니다. 그렇기 때문에, 우리의 열매는, 하늘나라의 것으로 나타나야 하는 것이죠.
그런데 어떻게 우리는 이제 얼마 있다가 다 내려놓고, 부수고 올라가야할, 이 땅의 나의 업적과, 나의 재물에만, 그렇게 관심이 있을 수 있는 것입니까? 그런 사람은 아직 하늘나라가 뭔지, 자기가 하늘 왕국의 백성인지, 정확히 인식하지 못하고 있는 사람들입니다. 우리는 하나님 왕국의 백성으로서, 그 나라가 임하기를 기도해야 하는 자들입니다. 그런데요 성경은, 그 나라가 ‘이미 임했다’라고 말씀하고 있습니다. 마가복음 1장 15절로 가겠습니다.
(마가복음 1:15)
15 가라사대 때가 찼고 하나님 나라가 가까웠으니 회개하고 복음을 믿으로 하시더라
여기서 ‘가까이 왔다’의 ‘엥기조’라는 헬라어 원어는요, 마태복음 26장에 그대로 쓰여 있습니다. ‘일어나라 함께 가자! 보라 나를 파는 자가 가까이 왔느니라.’ 여기서 ‘가까이 왔느니라.’ 유다가 왔다는 것입니다. 그래서 이 ‘엥기죠!’ 하나님나라는 이미 이 땅에 와 있다는 것입니다.
그런데 어떻게, 언제, 어디에 와 있습니까? 여러분 보입니까? 지금? 하나님나라 어디 있어요? 지금! 누가복음 17장 20절로 가겠습니다.
(누가복음 17:20)
20 바리새인들이 하나님의 나라가 어느 때에 임하나이까 묻거늘 예수께서 대답하여 가라사대 하나님의 나라는 볼 수 있게 임하는 것이 아니요
21 또 여기 있다 저기 있다고도 못하리니 하나님의 나라는 너희 안에 있느니라
하나님나라가 어디 있습니까? ‘여러분 안에 있다’는 것입니다. 여러분 국가의 3대 요소가 뭡니까? 국민! 주권! 영토! 아닙니까? 국민? 하나님의 백성! 여러분들이 있고요. 주권? 하나님의 통치! 여러분은 하나님에 의해서 재창조되었기 때문에, 이제 하나님의 통치에 순종할 수밖에 없는 자들이 되어 있죠. 그래서 하나님의 통치가 여러분 안에 있습니다. 그 통치가 있고, 하나님의 백성이 있고, 하나님이 계신 곳이, 하나님의 영토이지 않습니까? 그래서 바로 여러분 자체가, ‘하나님의 나라’라는 것입니다. 여러분 안에 그 하나님나라는, 이미 와 있다는 것이죠.
제가요 이 주기도문을 헬라어로 읽다가, 문득 재미있는 것을 하나 발견했습니다. 주기도문 안에 쓰여진 동사가 전부 과거시제예요. ‘하늘에 계신 우리아버지여! 이름이 거룩히 여김을 받으시오며’도 과거고요. ‘나라이 임하옵시며’도 과거고요. ‘뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다’도 과거고요. ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고’도 과거고요. 다 과거예요.
헬라어에는, ‘에오리스트’라는 ‘부정과거’라는 과거시제가 있어요. 그 부정과거는, 과거에 스페시픽(specific)한 이례적인 사건 가리킬 때 많이 쓰이거든요. 그런데 이 ‘에오리스트’가 임페러티브(imperitive)가 사역동사 명령형으로 쓰일 때는, 아주 중요한 의미가 있더라고요.
그래서 제가 이 재미있는 것을 발견해서, 제 마음의 동지들! 그 몇 안 되는, 공부 열심히 하시는 우리 목사님들에게 전화를 했어요. 그래서 ‘참 재미있는 것을 발견했다. 주기도문을 헬라어로 읽어 봤냐? 거기에 쓰인 동사가 전부 과거다.’ 그러니까 그쪽에서, ‘어? 그러네. 정말 재미있다.’ 이게 의미가 뭘까? 우리가 하루 종일 찾아봤습니다. 몰튼의 그래머(grammar)까지 다 뒤져가면서!
도대체 이게 무슨 뜻일까? 왜 여기에서 과거의 시제가 쓰여 있는 것일까를 찾아 봤어요 .그러면서 저희들이 그런 얘기했습니다. 우스개소리로, ‘야! 우리가 단어 하나 가지고 이렇게 하루 종일 고민하는 거를, 우리 교인들이 알까?’ 여러분! 아십니까? 여러분! 저희들이 그렇게 에오리스트 임페러티브로 쓰여진 그 동사들을 쭉 성경에서 찾아보니까요. 그 에오리스트 임페러티브로 쓰여진 그 동사들은 전부, 과거의 의미와, 현재의 의미와, 에스커털러지컬 미닝(eschatological meaning)이 있는, 미래의 의미까지, 세 의미를 다 내포하고 있더라는 거예요.
그래서 우리가 지금, ‘나라이 임하옵시며’라고 기도하는 그 단어 하나에는, 과거에, 그 나라는 이미 임했고, 지금 내 삶속에서, 그 나라는 이루어져가고 있고, 미래에, 그 나라는 반드시 올 것이라는, 올레디 낫엣(already not yet)의 교리가, 그 단어 하나에 다 들어가 있는 거예요.
우리가, 그 나라가 임하기를 기도하면서, 우리는 우리의 신분을 확인하는 것입니다. ‘맞다! 우리는 그 나라 백성이다. 그리고 그 나라는 이미 임했으며, 반드시 올 것이며, 지금 내 삶속에서 이루어져가고 있다.’ 그 하나님의 통치를 지긋지긋하게 싫어하는 내 삶속에, 그 통치에 순종하는 자로, 조금씩, 조금씩 내가, 변화되어져 가고 있다는 것을 확인하는 거라고요.
여러분! 우리는 이 땅에서 하늘나라를 살아야 하는, 하늘의 원리로 살아야 하는 자들이기 때문에, 환란과 고난이, 우리에게 당연히 오게 됩니다. 왜 환란과 고난이 옵니까? 이 세상의 원리는, 오른 뺨을 한대 맞으면, 그 모욕감이 없어질 때까지, 상대방을 패주는 게, 이 땅의 원리입니다. 이 땅의 원리는 힘이죠? 재력! 학력! 외모! 명예! 그 힘 이외에는 이 땅에서 누가 우수한 자인지를, 가려낼 수 없습니다. 그것을 힘으로 상대를 제압해야 합니다.
그렇지만, 하늘의 원리는요, 오른 뺨을 맞으면, 왼 뺨을 돌려 대주는 것이, 하늘의 원리입니다. 이렇게 우리는 영적인 면으로, 세상은 육적인 면으로, 다른 차원 다른 원리로 살아야 하는 자들이기 때문에, 세상과 부딪칠 수밖에 없는 거예요. 자기의 모든 소망이 이 세상에서의 체면에 있으면, 어떻게 뺨을 맞고 가만히 있습니까? 그 체면을 유지하기 위해서라도, 가서 두들겨 패줘야죠? 자기가 겁쟁이가 아니라는 것을 보여줘야 하는 것입니다. 그렇게 인정을 받아야 만족할 수 있어요.
그러나 자기의 모든 소망이, 저 하늘나라에 있다면, 그까짓 체면쯤 조금 구겨져도 괜찮다. 그러고 가는 것입니다. 우리는 저 천국의 것으로 만족을 할 수 있는 자이기 때문에, 그래서 그 나라에 동참한 자이기 때문에, 우리는 이 땅에서 환란과, 핍박과, 고난을 당해도 괜찮다! 그런 실력자가 되어야 하는 것입니다. 여러분! 우리 하늘나라 백성들은, 하늘의 것으로 만족하며 살아야 하는 자들입니다.
왜 사람들이 술, 담배, 도박, 마약을 합니까? 그 마음속에 채워지지 않는, 만족할 수 없는, 그 공허를 채우기 위해서 그러는 거 아닙니까? 그 심심함을 채우기 위해서 그런 거라고요. 그 마음속에 뻥 뚫려 있는 그 공허를 무엇으로도 메울 수 없기 때문에, 사람들은 뭔가 열심히 합니다. 사랑을 하기도 하고, 공부를 하기도 하고, 열심히 돈을 벌기도 합니다. 그럼에도 불구하고 메워지지 않는다고요.
우리 그리스도인들은요, 우리 금요일 날 확인했잖아요? 그 페밀리 나잇 파티에서, 우리는 술 안 먹고, 담배 안 피고, 다른 것 세상 것들 동원하지 않아도, 얼마든지 즐겁게 살아갈 수 있다는 것을 여실히 보여주고 오지 않았습니까?
여러분! 은혜에 취하면요, 세상 다른 것에 취하는 것과는 비교할 수 없는, 희열(喜悅)이 있습니다. 은혜에 취해서 왜 도박하는 자리에 가겠습니까? 은혜에 취해서 왜 술자리에 가서, 심심함을 달래겠습니까? 그래서 우리에게 환란과 궁핍과, 고난과 핍박이 와도, 괜찮다는 것입니다. 우리는 곧 저 하늘나라 갈 것이기 때문에, ‘그 정도 괜찮다. 나는 참을 수 있다.’로 가는 거예요. 그래서 성경에 이렇게 기록되어 있습니다. 계시록 1장 9절에,
(요한계시록 1:9)
9 나 요한은 너희 형제요 예수의 환란과 나라와 참음에 동참하는 자라 …
‘예수의 환란과 나라와 참음에 동참하는 자다!’ 이렇게 기록되어 있습니다. 환란과 나라와 참음은, ‘이퀘이젼’입니다. 여러분! 예수의 환란과 예수의 나라와 그 참음은, 동시에 우리에게 온다는 것입니다. 하나님의 나라에 동참한 하나님의 백성들은, 그 하늘의 원리로 살아야 하기 때문에, 이 땅에서 환란을 당하게 되어 있다는 것입니다. 이 딜레마를 해결할 수 있는 것이, 인내(忍耐)라는 거예요. 참음!
그래서 예수의 나라와, 참음과, 환란은, 동시에 우리에게 온다는 것입니다. ‘너희들은 지금 환란을 당하지만, 너희는 그 하나님나라를 믿음으로 보았음으로, 참아라!’ 하나님은 우리에게 그렇게 말씀하시는 것입니다. ‘그러나 반드시 온다! 세상 모든 민족과 방언과 나라가, 아니 사탄까지도, 하나님의 이름을 거룩하게 인정하게 되는 날은, 반드시 온다! 그러니까 조금만 참아라!’ 그러기에 우리는 ‘하나님의 나라가 임하게 하옵소서’라는 기도를 하면서, 확인하고, 확신하고, 힘을 얻는 것입니다. 그 나라는 반드시 온다! 그리고 이미 나에게 임해있다! 그것을 확인하는 것입니다.
아울러 그와 맥락을 같이 해서, ‘뜻이 하늘에서 이룬 것 같이, 땅에서도 이루어 지이다’라고 기도를 합니다. 하나님의 뜻이 무엇입니까? 하나님께서, 하나님의 백성들과 영원히 함께 사는, 하나님나라를 이루는 것이, 바로 하나님의 뜻 아닙니까? 그 뜻은, 이미 우리가 살펴본 것처럼, 이뤄져 있습니다. 그리고 이뤄질 겁니다.
그러면 하나님의 그 뜻은 어차피 하나님께서 이루실 텐데, 우리가 그 하나님의 뜻이 이루어지기를 기도해야 하는 이유가 뭡니까? 씨 에스 루이스(C. S. Lewis)는, 이 세상에는 두 종류의 사람들이 있다고 합니다. 그 한 종류의 사람은, 하나님에게, ‘당신의 뜻이 이루어지이다! 다이 윌 비 던(thy will be done)!’이라고 기도하는 사람들이고, 다른 한 종류의 사람은, 하나님이 그들에게, 유어 윌 비 던(your will be done)이라고 방치해두는 사람들이 있다는 거예요. ‘유어 윌 비 던(your will be done), 네 마음대로 살아라! 그래, 네 뜻대로 살아라! 그래, 사탄아! 쟤가 원하는 대로 그냥 가서 좀 도와줘라! 자기 뜻대로, 자기 마음대로 살게!’
하나님이 인간을 가장 잔인하게 저주하는 방법이 뭔지 아십니까? 그 뜻대로, 그 소원대로, 살게끔 방치해 두는 것! 그것이 바로, 하나님이 인간을 가장 잔인하게 저주하는 방법입니다. 로마서 1장 24절로 가겠습니다.
(로마서 1:24, 28-32)
24 그러므로 하나님께서 저희를 마음의 정욕대로 더러움에 내어 버려두사 저희 몸을 서로 욕되게 하셨으니 (마음의 정욕대로, 더러움에 내 버려두니까, 스스로 저희 몸을 욕되게 하더라는 거예요. 28절로 가겠습니다.)
28 또한 저희가 마음에 하나님 두기를 싫어하매 하나님께서 저희를 그 상실한 마음대로 내어 버려두사 합당치 못한 일을 하게 하셨으니
29 곧 모든 불의, 추악, 탐욕, 악의가 가득한 자요 시기, 살인, 분쟁, 사기, 악독이 가득한 자요 수근수근 하는 자요
30 비방하는 자요 하나님의 미워하시는 자요 능욕하는 자요 교만한 자요 자랑하는 자요 악을 도모하는 자요 부모를 거역하는 자요
31 우매한 자요 배약하는 자요 무정한 자요 무자비한 자라
32 저희가 이 같은 일을 행하는 자는 사형에 해당하다고 하나님의 정하심을 알고도 자기들만 행할 뿐 아니라 또한 그 일을 행하는 자를 옳다 하느니라
하나님이, 그 정욕대로 그대로 내어 버려두시니까, 방치해 두시니까, 그들의 뜻대로 살게 놔두시니까, 바로 이렇게 사형을 받아 마땅한 인간들이 되더라는 거예요. 여러분! 부모가요, 자식을 키우면서, 어느 순간 포기를 할 때가 있습니다. 아침에 학교도 안가고, 맨날 오락실에 가구요. 10시가 되도, 11시가 되도 잠만 자는 그런 자식을, 여러분! 가만 놔두시겠습니까? 물을 갖다가 확 뿌리는 한이 있더라도, 벌써 고쳐놓죠.
그러나 해도, 해도, 해도 안 될 때, 나중에 어떻게 하십니까? ‘그래, 네 마음대로 살아라! 네 인생 네가 사는 거지 뭐, 내가 사는 거냐? 그래, 네 마음대로 살아라! 네 원하는 대로 잠자고 싶은 대로 실컷 자고, 학교 가기 싫으면 가지 마라!’ 이게 정말 그 부모가 그 자식을 너무 너무나 사랑해서, 그 자식이 원하는 대로 해주는 걸까요? 그것은 그 부모가, 그 자식을 포기하는 것입니다. 여러분!
제가 강대상에서 소리 지른다고, 자꾸 뒤에서 소근 거리지 마세요. ‘우리 목사님! 왜 이렇게 소리를 지르는가?’ 여러분! 잘 못 사시잖아요? 그리스도인으로서 제대로 살고 계십니까? 못 사시기 때문에! 저도 마찬가지예요. 저도 제대로 잘 못살고 있기 때문에, 하나님의 말씀이 선포되어질 때에, 소리를 지를 수밖에 없는 것입니다. ‘잘 삽시다! 하나님의 뜻대로 사십시다! 성경이 말하는 대로 사십시다!’
어느 날 제가, 목소리를 쫙 깔고, 매력적인 저음으로, ‘여러분! 사는 게 다 그건 거지요. 뭐, 돈 많이 버시고, 잘 먹고 잘 살다가, 착하게 잘 살다가, 그렇게 가십시다! 그리고 월급이나 밀리지 말고 꼬박꼬박 주세요.’ 언젠가 제가, 이 위에서 그렇게 설교를 하기 시작하면, 이 교회는 끝난 것입니다.
저는 강대상 위에서 조용조용 설교하는 사람은, 다 가짜라고 생각하는 사람이에요. 어떻게 자기 사랑하는 사람들이, 저 낭떠러지로, 어둠으로 가고 있는데, 어떻게 소리를 안 지릅니까? 어떻게 안타까운 마음이 없겠습니까? 여러분!
하나님께서 우리가 하고 싶은 대로 우리를 방치해 놓으시면, 우리가 할 수 있는 유일한 것은, 죄밖에 없습니다. 죄인이 할 수 있는 유일한 게 뭐겠어요? 죄밖에 없다고요. 그렇기 때문에 우리는, 하나님께서 방치해 놓으시면, 우리는 그대로 무저갱으로 떨어질 수밖에 없는 자들인 것입니다. 그래서 하나님은 호세아서에서 말씀하신 것처럼, 자기가 사랑하는 하나님의 백성들 앞길에는, 담으로 막고, 가시로 막고, 그들이 엉뚱한 길로 가는 것을, 하나님께서 막으시는 것입니다.
그래서 여러분! 혹시 남편의 비즈니스기 어려워지고, 앞길이 자꾸 막히는 것 같다고 생각하면, ‘어떻게 내가 저렇게 능력 없는 웬수를 만나서, 이 고생을 하나?’라고 이야기하지 마시고, ‘아! 하나님이 우리 가정에, 아주 세심하게, 세밀하게 간섭을 하고 계시는구나!’ 그렇게 이해를 좀 하실 수는 없나요?
우리는 하나님의 백성입니다. 그래서 우리의 뜻이 이루어지기를 기도하는 것이 아니라, 하나님의 뜻이 이루어지기를, 기도하는 자들입니다. 다이 윌 비 던(thy will be done)! 다이 윌 비 던(thy will be done)! ‘하나님! 당신의 뜻이 이루어지게 하옵소서!’
예수님이 겟세마네에서 어떤 기도를 하고 가셨습니까? ‘하나님! 나는 이 잔이 싫습니다. 나는 이 잔이 내게 오지 않았으면 좋겠습니다. 그러나 내 뜻대로 마옵시고, 아버지의 뜻대로 하옵소서.’ 아버지의 뜻은 뭐였습니까? 십자가를 지고 죽어서, 하나님의 백성들을 살려 내라는 것! 그래서 하나님의 왕국을, 하나님의 나라를 이루어 내라는 것! 그것 아니었습니까? 예수 그리스도는, ‘하나님! 나의 뜻대로 마옵시고, 당신의 뜻대로 하옵소서!’라고 기도하고 가셨습니다.
여러분! 우리가 어떻게 구원을 받았습니까? 예수 그리스도께서 우리를 품에 안고, 난지 팔 일만에 할례를 받으신 것을 시작으로, 온 생애동안 율법을 완벽하게 지키셔서, 하나님께 흡족한 삶을 살아내셔서, 그것을 우리에게 전가(轉嫁)시켜 주셨다고요. 그리고 우리의 이 걸레 같고, 엉터리 같은 삶을 예수께서 가져가셔서, 그 삶을 가지고 십자가에서 죽어 버리신 거예요. 그래서 우리가 구원 받은 것 아닙니까? 유니온 크라이스트(Union Christ)! 예수 그리스도와의 연합(聯合)! 그 예수 그리스도의 삶이 나의 삶이 되었고, 나의 삶은 예수 그리스도의 삶이 되었기 때문에, 우리는 이렇게 엉터리 삶을 살고 있음에도 불구하고, 구원을 받은 자입니다.
그러면 여러분! 우리가, 십자가에서 예수님이 달리셨을 때, 여러분 어디 계셨습니까? 십자가에 계신 거예요. 예수님이 부활하셨을 때에, 여러분이 어디 계셨습니까? 그 예수 그리스도와 함께 부활하신 거 아닙니까? 그러면 예수 그리스도께서, 겟세마네에서 기도하실 때에 여러분은 어디 계셨습니까? 여러분은 그 예수 그리스도 안에 계셨던 분들이에요.
우리가 예수 그리스도의 죽음과, 예수 그리스도의 부활에 연합되어서, 구원을 받은 것이라고 한다면, 그래서 우리도, 그 예수 그리스도가 지고 가신, 그 십자가의 삶을 닮아 가려고 노력해야 하는 것이라면, 예수 그리스도께서 겟세마네에서 해 놓으신 이 기도에도, 우리는 연합되어져야 되는 것 아닙니까! ‘아버지! 내 뜻대로 마옵시고, 당신의 뜻대로 하옵소서!’ 그 삶을, 그 기도를, 우리는 이제 좇아가야 하는 것 아닙니까?
예수님은 우리를 대신해서, 그렇게 하나님이 기뻐하시는 완벽한 삶을 살아내고 가셨습니다. 그 삶이 우리 것이 되었습니다. 그래서 우리는 그 삶을 좇아가는 자들이 되어야 하는 것이 바로, 그리스도 인들인 것입니다. 그러면 우리는 어떤 기도를 해야 하는 것입니까?
‘하나님! 당신의 뜻이 이루어지게 하옵소서. 하나님! 내 소원대로 말고, 내 뜻대로 말고, 내가 원하는 것은 이것이지만, 나는 이게 너무 너무나 좋지만, 하나님! 당신의 뜻대로 하옵소서! 내 주머니가 빈 것이 당신의 뜻이라면, 그 것으로 인해서, 하나님! 내 삶에 깰 것이 계시고, 내 삶에 만들어갈 것이 계시다면, 그렇게 하옵소서! 하나님! 이 병을 통해서 내 삶에 부셔버릴 것이 있다면, 그렇게 하옵소서! 당신의 뜻이 내 삶에 이루어지게 하옵소서!’라고 기도하는 자들이 되어야 하는 것 아닙니까? 여러분!
우리는요, 이 세상에서 내가 원하는 것들을 포기해야 한다고 할지라도, 그것이 하나님의 뜻이라면, 과감히 포기할 수 있는, 신앙인이 되어야 하는 것입니다. 그리고 이 땅에서의 삶에 연연하지 않으면서, 하나님의 뜻을 위해서는, 십자가라도 마다하지 않는 것이 바로, ‘하나님의 뜻이 이루어지게 하옵소서!’라는 기도인 것입니다. 하나님의 뜻이 이루어진다면, 이 세상에서의 부귀와 생명까지도 내려놓고, 기쁘게 그 뜻에 따르겠다고 나서는 자들이, 그리스도인들인 것입니다.
어떻게 해서든지 그 하나님을 이용해서, 내 것을 챙기는 것이 기독교가 아니라, 십자가 앞에 자꾸 내 것을 내려놓고, 하나님 앞으로 가는 것! 하나님 한분을 붙들기 위해서, 내 모든 것을 다 내려놓고, 다 버리고, 내 생명까지도 내려놓는 것! 그것이 바로 성도의 죽음! 아니겠습니까?
여러분! 제가 자꾸 ‘아! 하나님 만나러 가고 싶다.’라고 이야기하는 것이, 이런 의미에서 말씀드리는 거예요. ‘하나님! 저는 지금 제 욕망과 제 욕심 때문에, 매일 매일 머리가 지끈 지끈 아픕니다. 하나님! 저는 언제나 하나님이 요구하시는 수준에 도달할 수 있을까요? 하나님! 하루 속히 하나님이 원하시는, 하나님이 기뻐하시는, 그러한 하나님의 백성으로 만들어 주옵소서!’
여러분! 그 때가 되지 않으면, 우리는 하나님 만나러 가지 못합니다. 그러한 존재가 되지 않으면, 하나님 만나지 못해요. 그래서 여러분! 걱정하지 마세요. 이 중에 곧 죽어서 하나님 만나러 갈 수 있을 사람? 아무도 없어요. 여러분! 그 졸업학점 아직 채우지 못하신 분 들입니다. 그러니까 걱정하지 마세요. 저도 못갑니다. 이 꼴로 어딜 가겠습니까? 여러분!
그래서 우리는, 매일 매일 ‘하나님! 하나님의 나라가 임하게 하옵시며, 하나님의 뜻이 이루어지게 하옵소서! 내 안에서 하나님의 통치를 그렇게 순순히, 기쁘게 받아들일 수 있는, 그러한 하나님의 나라가 임하고, 하나님의 뜻이 이루어지는, 그러한 하나님의 백성이 되게 해 주옵소서!’라고 기도하는 것이, ‘하나님의 나라가 임하옵시며, 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이, 땅에서도 이루어지이다.’라고 기도하는 것입니다.
하나님의 뜻이 이루어진다면, 이 세상에서의 부귀와 생명까지도 내려놓고, 기쁘게 그 뜻에 따르겠다고 나서는 자들이, 그리스도인들이에요. 하나님의 뜻은, 우리가 하늘의 것을 영위하고 누리는 데 있지, 이 세상의 것들을 붙들고 애걸하는 데 있지 않습니다.
그리스도인의 죽음은, 우리 믿음의 승리의 시간인 것입니다. 그리스도인의 죽음은, 하나님 한 분만을 붙들기 위해, 이 땅의 모든 것을 놓는 것이 바로, 그리스도인의 죽음인 것입니다. 내가 사랑하는 가족! 내가 사랑했던 이 세상의 모든 것을, 하나님을 닮기 위해 모두 놓는 것을, ‘신자의 죽음’이라고 이야기 합니다. 그래서 하나님께서 ‘성도의 죽음을 귀하게 여긴다.’고 말씀하고 계신 것입니다.
우리는 이 땅에서 그렇게 매일 매일 세상에 대해서 죽어야 합니다. 그리고 결국에 우리의 목숨을 놓아야 할 때, 아쉬움 없이, 기쁘게 떠날 준비를 해야 하는 것입니다. 그래서 매일 매일 우리는 그 십자가 앞에, 우리가 갖고 있고, 우리가 원하는 것들! 우리가 기뻐하는 것들! 다 내려놓아야 하는 것입니다. 시편 116편 15절로 가겠습니다.
(시편 116:15)
15 성도의 죽는 것을 여호와께서 귀중히 보시는도다 (성도의 죽는 것을, 여호와께서 귀중히 보시는도다!)
여러분! 정말 천국을 사모하십니까? 정말 그 곳에 가고 싶으십니까? 아니면 이곳이 더 좋으십니까? 이곳에서 누리던 많은 것들을 다 놓고, 기쁘게 갈 수 있을 만큼, 그 하나님나라를 아십니까, 여러분? 하나님나라는 이미 임했고, 반드시 임할 것이며, 하나님의 뜻도 이미 이루어져 있고, 반드시 이루어 질 것입니다. 우리는 환란과 궁핍 속에서도, 그 나라를, 그 뜻을, 믿음으로 넉넉히 이기며 사는 자들이고, 죽음까지도 불사하며, 하나님의 뜻을 좇아야 하는, 그리스도인인 것입니다.
(マタイによる福音書 6:9-13)
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい。天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
10 御国が来ますように。御心が行われるように、天にあるように地の上にも。
11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。(国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
人類の歴史上、最も大きな実験は、おそらく共産主義のイデオロギーでしょう。共産主義!マルクスとエンゲルスがですね、「共産党宣言」で、「すべての人が能力に応じて働き、すべての人が必要に応じて使う、プロレタリアのユートピアが、必ずこの地にやってくる。そして、私たちが必ずそのプロレタリア・ユートピアをこの地に作るのだ」と豪語しました。
しかし、その70〜80年の間、共産主義がこの地に残したものは、彼らが実験して残したものは、大惨事だけです。彼らが見落としたのは、人間がいかなる存在であるかということでした。人間は「トータル・デプラビティ(total depravity)」、すなわち完全な、全的な堕落をした罪人であるにもかかわらず、彼らは人間がいかなる存在であるかを知らなかったため、この地にユートピアを作ることができると考えたのです。それで、私たちの中にあるこの内在された力で、この地に平和と、幸福と、安寧を成し遂げることができると、彼らは誤解し、錯覚していたのです。
皆さん!私たちの力で地上楽園を、キリストの青い季節を、成し遂げることはできません。ですから、私たちはこの地のものではない、天のもの、その神の国を求めながら、この地のユートピアではない、あの天のユートピア、あの天国を望みながら生きるしかない、そのような存在なのです。ですから、私たちが先に見てきた主の祈りの多くの祈りが、すべて天の国のもの、天国的な内容だったのではないでしょうか。
ところが、今日の祈りの内容を見ると、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください……」となっているわけです。あたかも「この地のものを求めなさい」と言っているかのように、私たちが誤解する余地のある一節です。この一節を見て、「よし、これだ!まさにこれを待っていたんだ!今日わたしたちに日用の糧を与えてください!神様がいよいよ、この地のものを求めよという箇所を出された!うちの牧師がずっと叫び続けている主張とは違う内容が出てきたが、これをどう解決するのか」と思うかもしれません。
皆さん!もしこの内容が、私たちが理解するように、この地で私たちが必要なものを求める内容であるならば、聖書は聖書自体の中に矛盾を抱えていることになります。すぐその下、下の節を見ますと、マタイによる福音書6章25節にはこうあります。
(マタイによる福音書 6:25)
25 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(と言うのです。)
まさに同じ章で、このような矛盾した話をしています。しかし、聖書が矛盾を語るはずがないではありませんか。ならば、この一節には何か深遠な意味があるということです。ですから、今日はその深遠な意味を一緒に明かしてみようと思います。私たちは毎週深遠ですよね。でしょう?
さて、皆さん!その聖書をよく見てください。マタイ6章を見ると、「日用の糧を与えてください」の横に、数字や記号がついているはずです。そしてその下に、もしや「明日の糧」と書かれているかもしれません。
なぜこのような注釈がその言葉についているのかというと、「日用の糧」というこの「日用の」にあたるギリシャ語「エピウシオン」という意味が、いくつかの意味を持っているからです。そして、この「エピウシオン」という単語は、ギリシャ語のいかなる文献にも使われていません。この単語は!そして聖書にも、まさにここ一箇所だけです。そしてルカによる福音書にもう一度使われますが、そのルカにある主の祈りに、たった一度だけ使われた単語なのです。
ですから、この時代の言語学者や聖書学者たちは、その単語がどのように使われているのかを、推論できずにいるのです。それで、三つの見解がありますが……。
第一の見解が、「エピウシオン」という単語が「エピ」と「ウシア」の合成語だと見るものです。それで、生活に必要な糧、日用の糧を「生活に必要な糧」と見る見解があります。第二に、「その日のための、当日のための糧」、日用の糧を当日のための糧と見る見解があります。そして第三が、まさに最も多くの支持を受けている、「来るべき日、翌日」と見る見解です。来るべき日、翌日、明日!来るべき日の糧、翌日の糧、明日の糧。そう見るのです。
なぜこのような見解を多くの人が支持し、私もなぜこの見解を支持するのかというと、イエス・キリストが宣教当時使っていた言語は何ですか?アラム語です。「パッション(Passion of the Christ)」に出てくるあの言語、アラム語です。このアラム語はバビロンの言語です。
紀元前586年に、南ユダがバビロンに滅ぼされ、70年間、紀元前516年に神殿が再建されるまで、彼らはバビロンの捕囚としていたではないですか。その間、彼らは自分たちの言語をすべて忘れてしまいました。そしてアラム語を使い始めました。アラム語とギリシャ語が彼らの公用語だったのです。
むしろヘブライ語は、聖書を研究するような人々以外には、よく知られていませんでした。読み書きができなかったのです。ですから、当時使われていたそのアラム語、そのアラム語の主の祈りには、「明日の糧、マヘルという明日の糧」とそう書かれているのです。そして「明日の糧」という見解を聖書が支持しています。私たちの改革派神学、リフォームド神学の基本は、「聖書は聖書によって解くべきだ」というものです。聖書は聖書で解く。この言葉はどういう意味かというと、例えば、善いサマリア人の話がありますよね?
ある人がエルサレムからサマリアへ行く途中で、強盗に遭い、死ぬほど打ち叩かれます。誰もが通り過ぎていくだけなのに、善いサマリア人が通りかかり、彼を見て傷口にぶどう酒と油を注ぎ、包帯をして、宿屋へ連れて行きます。そしてそこで、宿屋の主人に任せながらコイン二枚を渡します。そして「私がまた戻ってくる」と言って去ります。
この話を、ある人はこのように解釈する人々がいます。非常にそれらしいのです。「通りすがりの人、強盗に遭った人はまさに私たちのことであり、エルサレムは天国、サマリアは世の中だ。強盗はサタンだ。強盗に散々叩かれて私たちが倒れているところに、善いサマリア人であるイエスが来られて、ぶどう酒と油を注ぐ。ぶどう酒は宝血、油は聖霊!油を注いで、彼を宿屋へ連れて行く。宿屋は教会。教会に預けるのだ。宿屋の主人は牧師。ああ、いいですね。牧師に預け、コイン二枚を渡すが、それは旧約と新約だ」と。そして「私がまた戻ってくる」と言ったのは「イエスの再臨」を語っているのだと。
それらしいでしょう?しかし、聖書のどこにもその話を裏付けるものはありません。この話の真意は、律法の専門家がイエスに尋ねるところにあります。「どうすれば永遠の命を得られますか?」すると「律法には何と書いてあるか」。「心を尽くし、命を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛し、隣人を自分のように愛せよ。そう書いてあります」。「では、あなたも行ってそのようにしなさい。そうすれば命を得られる」。
すると律法の専門家は「では、私の隣人とは誰ですか。誰を愛すべきなのですか」と聞きます。そこでこの例えを挙げられ、どのような結論を結ばれたのかというと、「あなたの隣人が誰なのか、あなたが隣人を選ぼうとするのではなく、あなたが先に隣人になってあげなさい」ということなのです。ですから、全く違う話なのです。いくら良い意味であっても、聖書が語るその真意を把握できなければ、それは非常に危険です。聖書を勝手に解釈する者は呪われるべし!
では、聖書がどのようにその「明日の糧」を支持しているのか、一度探してみましょう。旧約聖書で、神様がその明日の糧を今日与えられたことがありました。いつですか?マナです!六日目に、七日目の糧を与えられました。なぜ七日目の糧を六日目に与えたのですか。七日目は安息日だからです。
安息日は何をする日ですか。神様のあの完全な創造、あの完全な創造を楽しみ、記念し、享受する日です。そしてその安息日を守ることによって、終末に私たちに訪れるあの永遠の安息を待ち望む日が安息日なのです。ですから、六日目にその七日目の糧をしっかり所有していることで、どうなりますか。安息日に食べる糧が目の前にあります。すると、その安息日は必ず来るということを確認するわけです。
そしてその糧を持ちながら、七日目にすでに参与するのです。あたかも私たちが子供の頃、遠足の前日、お母さんがリュックサックに七星サイダーとチョコレートを全部入れてくれてですね、海苔巻きの材料を台所に積んでおいた時、私たちは遠足が明日であるにもかかわらず、今日すでに胸がドキドキし始めるのと同じです。その明日を、今日すでにときめく心で生きるのです。一日に十二回も窓を開けて見るでしょう?雨が降るか降らないか。その期待!それこそが、六日目に七日目の糧を与えた理由なのです。
ところで、このアラム語の主の祈りを見ると、その「マヘル」という単語は、明日の糧の「明日」という意味は、24時間後の明日ではなく、「今日とは違う日」を意味するものなのです。つまり、今日とは違う、来たるべき明日を意味するのです。終末的な意味があるのです。
ですから、私たちが「明日の糧を与えてください」と今祈るということは、その来たるべき終末、新しい天と新しい地、あの天国は必ず来る!そして私たちはその国の糧で生きるべき者たちだ!そして私たちは今、この終末を生きている。まさに、もうすぐその国は来るのだが、この六日目を私たちは生きているのです。ですから、その国の糧を求めることで、私たちはその国を今享受するのです。その国を楽しむのです。つまり、終末的な信仰を告白しているのです。
終末的な信仰とは何でしょうか。私が大学生の時、軍隊を除隊して復学し、教養体育の時間にゴルフをしました。ゴルフクラスを受けたのですが、私には勝負根性がありましてね。私の友人、今は法官として活躍している友人が同期にいたのですが、彼と一緒にその教養体育を聞いたのですが、彼も非常に勝負根性のある友人でした。それで、果川の競馬場の、一番安い練習場に行って、毎日練習したのです。
ところが、二箱くらい打つと限界です。当時、始めたばかりの学生ですから。しかし、打ってから翌日に試験を受けなければならないのに、彼は帰りました。彼を送り出して、「私も帰るよ」と車に乗るふりをして、また戻って二箱もっと打ちました。ところが、そこで肋骨にヒビが入ったのです。二本も!あまりに激しく運動しすぎて、非常に苦しくて病院へ行ったのですが、レントゲンを撮ったらヒビが入っていました。
ところが、そのヒビが入った肋骨の間に、こんなに大きな塊が三つ見えるのです。レントゲンに!そしてその藪医者が、あろうことか「ガンかもしれない」と言うのです、これが!そして、これほど大きなガンなら、非常に危篤だと言うのです、私に。なんてことだ!まるで全身の力が抜けてですね。組織検査をして、結果が出るその日まで待つのですが、何も手につきませんでした。「もうすぐ死ぬんだな」という考えが私を支配したからです。
私は当時、大学歌謡祭の大賞を受けて、それほど経っていない時でした。だから、どれほど夢が多かったことでしょう。ところが、あんなことこんなこと何も思い出せず、ただ私の周りの人々、その方々にこれまでよくできなかったこと、そんなことが思い出されました。心の中で恩義のある方々に恩返ししたい、周りの人に親切にしたい、そうなったのです。他の欲心は何ひとつありません。「明日行って試験をどう受けるか」なんて考え、微塵も浮かびませんでした。
後で結果が出たのですが、ただ筋肉が固まっただけだと言われて)、私はその人の手を握って、30分間「ありがとうございます!」と言いました。その人が何かしてくれたわけでもないのに。ただ誤診しただけなのに、「先生、ありがとうございます!」。その人が白いガウンを着ていることさえ、感謝したくなったのです。それが終末的な信仰です。「明日この地に終末が来るなら、今日私たちはどう生きるか」ということです。
私たちは明日の糧、明日の糧を今求めることで、「神様、その通りです。あの日(終末の日)は必ず来るでしょう。私はあの日を準備しながら生きる人間です」という告白をするのが、「今日、私たちに明日の糧を与えてください」と祈ることなのです。
では、その天の糧とは何ですか。何で食べて生きるのですか。ヨハネによる福音書6章27節へ行きましょう。
(ヨハネによる福音書 6:27-35)
27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。
28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
30 そこで彼らは言った。「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
32 イエスは言われた。「はっきり言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのはモーセではない。わたしたちの父が天からのまことのパンをあなたがたに与えてくださるのである。
33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 34 そこで、彼らが「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
そのパンは何ですか。イエス様だということです。あの天の糧、明日の糧は、イエス様だということです。どのようなイエスですか。そのイエスは天の王ではないですか。天の王なのに、この地の王ではないために、この地に降りてきて、あらゆる艱難と、迫害と、苦難を受けたあのイエス!そのパンを私は今、求めているのです。私もその人生に参与したいということです。「神様、今日、明日の糧、そのイエスを私に与えてください」と祈ることは、「私はそのイエス・キリストの人生に参与して生きます」という信仰告白なのです。「今日必要な私のパンをください」という話ではなく!
では、この苦難を甘受し、この迫害を甘受して、「神様、明日の糧、そのイエスを私に与えてください」と祈れる人は、どのような人ですか。その栄光を見た人々以外には祈れません。その迫害をどうやって甘受して行けますか。行けません。その栄光を見た者たちだけが、その祈りを捧げることができます。「今日、私たちに明日の糧を与えてください」と祈れるのです。コリントの信徒への手紙二、4章17節を見てみましょう。
(コリントの信徒への手紙二 4:17-18)
17 わたしたちの一時の軽い苦難は、比べものにならないほど重くて永遠の栄光をもたらしてくれます。
18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠に続くからです。
その艱難を、「軽いもの」だと語っているのです。しかし、本当に軽いですか。皆さん、私たちがこの地を生きながら、私たちに艱難が訪れるではないですか。皆さん、誰もが一度や二度は経験したことがあるでしょう。それが本当に軽かったですか。そうではありません。ある時は本当に涙が出ないほど、その艱難が苦しい時があります。ある時は外へ出て自ら首を吊って死にたいと思うほど、その艱難が苦しく、苦痛なのです。艱難はそれほど甘いものではありません。
しかし、使徒パウロはここで「軽いもの」だと言います。そして、その苦痛は「一時的」だと言います。何と比較して?その苦痛がそれほど大きいのに、それを軽いものだと言える理由は、あれほど大きな苦痛も、あの天の栄光を見た後では、何でもなかったというのです。
ですから、その栄光を見た者たちは、このように祈れるというのです。私は遭うべきことは全部遭ってきた!四十に一つ足りない鞭で死ぬほど打たれたこともあるし、ことあるごとに牢獄に入れられてあのように侮辱され、苦しく生活をしたにもかかわらず、私があの天の栄光を見た後では、この艱難は軽いものだというのです。何でもなかった!
ですから、皆さんはその天の栄光を味わい、天の栄光を悟った者たちなのです。神様によって!だからこそ、私たちはこのような祈りを捧げることができるのです。「神様、私がそのイエス・キリストの人生に参与させてください。あの明日の糧を今日、私に与えてください。私はこの地を、その糧イエス・キリストだけで生きます」と告白するのがまさに、この主の祈りの内容なのです。それがキリスト教です。
誰かが言うような、三拍子の救い!三拍子の祝福!そんなものはキリスト教にはありません。ヨハネの手紙三にある、「愛する者よ、あなたの魂が幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健やかであるようにと祈ります」という話が、何か「あなたのすることが全部うまくいけばいい」という話だと思われますか。とんでもない。「すべての点(凡事)」とは何ですか。聖書が語る凡事!コリントの信徒への手紙に出てくるではないですか。「絶えず喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と言うでしょう?
私たちクリスチャンの凡事とは何ですか。神様が私たちの目を開かせてくださり、この地に私たちを放置せず、私たちの人生に介入して、私たちを導いていかれるその旅路で生じるすべての出来事を「凡事」と言うのです。その凡事がうまくいくとはどういうことですか。神様が私たちを叩いてでも、ここへ引き連れていくその働きのことです。それがうまくいくということです。それを「亨通(こうつう:物事が思い通りに運ぶこと)」と言うのです。
ヨセフは牢獄に閉じ込められていますが、神様が彼を造り上げようとするその道にヨセフがいるため、「彼の人生は亨通であった」と聖書が語るのです。ですから、あなたの魂が幸いを得ているように、あなたの魂が幸いを得たように、あなたの凡事が幸いであるようにと祈る言葉は何ですか。私たちの魂が幸いを得たとは何ですか。死んでいた魂が、神の統治、その主権の中に入ってきたということではありませんか。それが私たちの魂が幸いを得たということではありませんか。
それと同じように、あなたの凡事、あなたの人生も、神の主権、その統治の中に入るようになりますようにと祈っているのです。神の約束でもなく、ただ使徒パウロが祈ったのです。それを神の約束だとして、三拍子の祝福だと言えるのでしょうか。
一体、神の統治の中に入るとはどういうことですか。自分の思い通りに一つもならなくても神の御心が、自分の願いが一つも叶わなくても神の御心が成し遂げられることを、「凡事において幸いである」と言うのです。それが非常に大きく大切なものであるため、私が理解できない出来事がそれほどたくさん起きても、私は感謝するしかないのです。その出来事は、あの永遠の新しい天と新しい地のために、私に起きていることだからです。だから凡事に感謝しなさいということなのです。それがキリスト教なのです。
そのように天の糧、明日の糧、イエス・キリストを、迫害を甘受しながら求められる者だけが、隣人を愛することができます。なぜ私たちは隣人を赦せないのでしょうか。なぜ隣人を愛せないのでしょうか。神様はアダムにどのような呪いを与えられましたか。彼が罪を犯した時!「お前は自分の力で地を耕し、畑を耕し、そこから出る実りでお前の命を維持しなければならない」とそう呪われました。汗を流さなければ、お前は食べられない、と言われました。
ですから、その呪いの下にいる人々は、自分が汗を流して食べていかなければならないため、村中の人が皆、自分の競争相手なのです。だから、隣の家の子が勉強がよくできると、お腹が痛くなるのです。うちの子の競争相手だから!私が全く同じビジネスをしているのに、隣の店が自分より儲かっていると、気分が悪いのです。呪いの下にいる者は皆そうです。
しかし、神様の恵みを知り、あの天のものが何であるかを知り、その栄光を味わった人々は?天に志を置いて生きる人々は?無駄に彼らと競争しません。そうして右の頬を打たれた時、「いいよ、左の頬ももう一回打てよ。お前の気が済むなら、左の頬ももう一発打て」と言いながら、その相手を赦せる境地まで行くということです。そのように成長していけるのです。その栄光を見た者だけが、打った者に「もう一回打て」と赦しながら、「神様、私たちが自分に負い目のある人を赦しましたように、わたしたちの負い目を赦してください」と祈れるのです、その人が!
ところで内容をよく見ると、「私たちが自分に負い目のある人を赦したように、神様、あなたも、私がしたことを見て、そのように赦してください」と聞こえますよね。「わたしたちが自分に負い目のある人を赦しましたように、わたしたちの負い目を赦してください」と言うでしょう?あたかも私たちが神様の見本に先になるように聞こえますよね。ところが「わたしたちの負い目を赦してください」の箇所は、完了形で書かれているのです。
「アフェーカメン」という単語を使いましたが、このセム族の言語を最もよく研究したのが、ヨアキム・エレミアスです。そのヨアキム・エレミアスが一体この意味は何だろうかと研究しているうちに、この時制をそのままアラム語に移しました。それで「アラム語でイエス様がこの話をされた時は、どのような意味があったのか」とアラム語に移してみると、そのアラム語のこの完了形時制には、同時的な意味があるのです。同時的な意味!再びそのアラム語に訳してみると、「神様、私たちの罪を赦してください!それと同時に」同時多発的に起きるのです。「同時に私たちも、私たちに罪を犯した者を赦します」という内容なのです。
では、よく聞いてください。「神様、私たちの罪を赦してください!私たちも私たちに罪を犯した者を赦します」。同時に起きるのです。あなたが私を赦してくれたら赦す、ということではなく!ならば「神様、私の罪を赦してください」と言いながら、「あの人間だけはどうしても赦せない」と誰かを赦せていないとしたら、その祈りをどうやって捧げられますか。「神様、私の罪をすべて赦してください。ただ、この人間に対してだけは赦せません。だから、この罪だけ除いて、他の罪は赦してください」ということになります。神様にでたらめな祈りをすることになるのです。
「神様、私の罪を赦してください、ただしこれは少し目をつぶってください。これは私が最後まであいつの、とにかくあいつが破滅する姿を見てから、その後に神様の前によく行きますから、これはちょっと見逃して、残りは全部赦してください」という意味になるではありませんか。神様に「私の罪を赦してください」と言うためには、すべて神様の前に降ろして、それから祈らなければならないにもかかわらず!
できませんよね。だから聖書では、「あなたが隣人を赦さずに来るなら、神もあなたを赦さない」と言うのです。大変なことです。ならば私たちは神様に祈ることができません。そうでしょう?皆さんの心の中に、赦せていない人がたくさんいるでしょう。ならば私たちはこの祈りができない者たちです。マタイによる福音書6章14節を見ましょう。
(マタイによる福音書 6:14-15)
14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 15 もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。(と言うのです。)
大変ですね。マタイによる福音書18章35節に同じ話が書かれています。
赦さないというのです。どのような話の結論として与えられたものですか、これは。私たちがよく知る、一万タラントの借金がある家来の例えですよね。王が自分に一万タラントの借金がある家来を連れてきて「返せ」と言ったら、「返す能力がありません」と言いました。一万タラントは、当時として凄まじい大金です。当時、ペレアとガリラヤの人々がローマに納めていた一年分の税金が200タラントでしたから、一万タラントは個人にとってはとてつもない大金です。ですから、到底返せないことを象徴しているのです、一万タラントは!
一万タラントの借金がある家来を王は赦してあげました。ところが、外へ出ると自分に借金がある一人の仲間に出会ったのですが、100デナリオンの借金がある者です。胸ぐらを掴んで「なぜ返さない、この野郎!」と言って、牢屋にぶち込んでしまいました。すると王がその知らせを聞いて、彼を呼び戻し、「私はお前にあんなに大きな借金を赦してやったのに、お前はあいつ一人赦せないのか。こいつがこれを全部返すまで」一万タラントは人間には返せない金だと言いましたよね。「これを全部返すまで牢に入れろ」と言ったのです。
その話は何ですか。永遠の牢屋に入れたということです。地獄に行ったということです。だから、赦しを受けた者が誰かを赦せなかったとしたら、それは地獄に行くということです。神様は到底その人を赦さないということなのです。大変なことになりました。ますます。ね?雪上加霜です。ならば私たちは一体どうなるのですか。
今、ここで「ユニオン・クライスト(Union Christ)」、キリストとの連合がまた動員されるのです。皆さんはイエスの死に参与した者であり、イエスのあの復活に参与した者であり、イエスの33年の人生が皆さんの人生になった人々です。そうでしょう?ですから私たちは、その復活と、死と、あのゲッセマネの祈りにまで、参与した者となりました。ですから私たちは「御心が天で行われるように、地でも行われますように」という祈りを、「神様、あなたの御心のままになさってください。私の思いではなく、あなたの御心のままに」という、イエス・キリストのあの祈りに連合することによって、私たちはそのような祈りを捧げられる者になったと語ったではありませんか。
ならば、十字架の上でイエス様が、「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです。彼らを赦してください」と祈られた時、皆さんはどこにおられたのですか。そのイエス・キリストの内におられる方々です、皆さんは。皆さんは赦した者たちなのです。これが筋が通る話ですか。一体。私たちのような人間が、あのイエス・キリストの人生に参与して、あの十字架で世を赦してしまったあの赦しに参与した者になったということが、あり得ますか。ところが、神様が私たちをそのように扱ってくださるというのです。だから、赦した者となったのです。
ですから私たちは神様の前に堂々と赦しを乞える者になったのです。「神様、私が世を赦したように、あなたも私を赦してください」と堂々と祈れる者になったということなのです。この事実の前に、皆さんは他にまた何を求めようというのですか。このとてつもない奇跡の前に。私たちは赦した者になってしまいました。そして、堂々と赦しを求められる者になってしまいました。
だからこそ、私たちがそのイエス・キリストの人生に参与しながら、隣人を実際にこの人生の中で赦しながら生きるのです。赦さなければならなくなったのです。キリストの人生が私の人生になったからです。お分かりですか。私が赦したから神様が私を可愛がってくださるのではなく、私を「称義(ディカィオスネー:義と認めること)、ノット・ギルティ(not guilty)、お前は正しい」としてくださったから、「すでにお前は赦した者だ」と言ってくださったから、私たちは赦しながら行くのです。似たような言葉に聞こえますが、全く違うのです。いいですか。私たちは赦した者になったのです。そのように!だから神様の前に、主の祈りを捧げられる者になったのです。
神様はこのようにはっきりと、「あなたの兄弟を赦せなければ、お前は天国に行けない」と語られましたが、私たちは赦したのです。これが理解できる人は、本当に新しく生まれた人です。皆さん。それが「キリストとの連合」なのです。ですから私たちの人生の中で、そのような赦しをしながら私たちは生きるべきなのですが、その赦しを一度二度してみるとですね、その赦しがいかに私たちを自由にしてくれるか、皆さんは知ることができます。
「パピヨン」という映画をご覧になると、最後の方にどのようなシーンが出てきますか。スティーブ・マックイーン!ボート代わりの浮き袋のようなものを投げて、ダスティン・ホフマンと二人で立ちますよね。「一緒に行こう」見下ろすと怖いです。「お前一人で行け」。スティーブ・マックイーンの九度目の挑戦です。それが九度目の挑戦。お盆カラオケ(※韓国のバラエティ番組ネタ)ではなく、九度目の挑戦で、スティーブ・マックイーンがあの絶壁の下へ飛び込みますよね。飛び込んで潮流を利用して、脱出に成功します。そうして「わあ!」と勝利の歓喜のポーズをします。手を振ります。ダスティン・ホフマンに。
するとダスティン・ホフマンが言いますよね。見下ろしながら、「お前がいくらこの悪魔の島を脱出したとしても、お前が自分の心の中にあるお前の牢獄から脱出できないなら、お前は永遠に牢獄の中にいるんだぞ」という名言を残すのです。ご覧になっていないのですか、この名画を。教養必須なのに!そうして「パピヨン」は終わります。
これは実話です。パピヨンの!このパピヨンは、アンリ・シャリエールというフランス人ですが、1930年の20歳の時ですか、彼が!とにかくパリ市内で酒を飲んでいたところ、殺人事件が起きたのですが、ある検事が自分の有能さを示すために、この人をただハメたのです。それでパリ中が、フランス中がこの検事に焦点を合わせました。「おお、有能な検事だ」と。
ところが、この検事はアンリ・シャリエールが犯人ではないことを知っています。それにもかかわらず、自分が有能な検事であることを立証するために、他の不良たちを証人として動員し、彼を殺人犯に仕立て上げ、1941年に死刑宣告を下してしまいます。そしてあの悪魔の島へ送ってしまったのです。だからスティーブ・マックイーンがあのように死にそうになり、ボコボコにされながらも脱出しようとするのです。悔しいからです!
アンリ・シャリエールが脱出した後、「バンコ」という小説を書きました。自伝的小説、自分の自叙伝ですね。そこでそのように語っているのです。そこから脱出して、この人は南米に行きました。アルゼンチンをはじめとして、とにかく南米を転々としながら、お金をものすごく稼ぎました。それで60歳か61歳にフランスへ戻ります。時効が終わったからです。なぜ戻るか分かりますか。その人たちを捕まえて殺すために行きます。復讐の刃を研いで。あの検事と、偽証をして自分を死刑宣告に追い込んだあの不良を、全員殺しに行くのです。
行ったのですが、8日間、自分の子供の頃の街を歩いてみたり、愛する人たちのところへ行って遠くから彼らの生活を見たりしながら、彼はその復讐を諦めます。彼らを赦します。そして何と「バンコ」という本に書き記したか分かりますか。「私は神様にこのように祈った。私が復讐を諦めた代償として、二度とこのような悲劇が起きないようにしてほしいと神様に祈った。そして自分自身にささやいた。お前の勝ちだ、友よ。お前は自由で、愛される未来の主人公としてここにいる。この件に関わったすべての人のうち、お前が最も自由で、最も幸せな人間だ。友よ」と自分に語るのです。
そして、自分は自由を得たというのです。それまではお金もたくさん稼ぎ、一生懸命生きましたが、唯一の目的は復讐でした。しかし、彼らを赦した後、彼はついにパピヨンになったのです。パピヨンは蝶という意味ですから。いよいよひらひらと、ようやく飛べるようになったのです。赦した後に!赦しは私たちに利益になるのです。だから神様は「赦しなさい」とおっしゃるのです。
皆さん!私たちが主の祈りを学びながら忘れてはならないこと。私たちが神様に請願する祈りの内容です。「神の国が来ますように。その御心が成し遂げられますように。赦してください」。請願する内容ですが、この主の祈りの内容は同時に誓約なのです。
神様、神の国が来ますように。その意味は何ですか。「私はその国が来れば、その御心に従います」という誓約です。あなたの御心が行われますように。「私はその御心に身を任せます」という誓約です。赦してください。「私も隣人を赦します」という誓約なのです。そうです、皆さんは主の祈りを唱えながら、絶えず皆さんはそのような神様の前での誓約を捧げているのです。
皆さん。アダムの罪によって、私たちは自分の命を、自ら維持しながら生きるようになりました。農業を営み、汗を流し、その汗の実りである糧で生きるようになっています。しかし、イエスによって、その呪いから解かれた者たちは、神様がくださる天の糧で今日を生きられるようになりました。そして、そのように生きなければならないのです。
私たちは終末を生きる、明日を待つクリスチャンなのです。あの新しい天と新しい地を待つクリスチャンです。ですから私たちはこの地の糧で生きるのではなく、あの新しい天と新しい地、あの明日の糧をくださいと、あのイエス・キリストだけで生きさせてくださいと、神様の前で祈りをするのです。
ですから私たちはそれで満足して生きられる者たちなので、隣人を赦すのです。妬まないのです。嫉妬しないのです。彼らを愛することができるのです。それがクリスチャンの人生です。だから、「私もこのように赦す者となったので、私の罪も確かに赦されたことを私は確信します、神様」と神様の前に信仰告白をするのが、まさにこの主の祈りなのです。
ですから、「今日、わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈りながら、私たちは自分たちの身分をもう一度確認するのです。そして「明日の糧であるイエスがこのように私の内にいるため、あの日(終わりの日)は速やかに来る。必ず来る。そして私は、その明日を生きる者だ。私はこの地の寄留者だ。この地を生きる者ではなく、天国を生きる者だ」と確信し、確認しながら、そのように天国を楽しみ、享受しながら生きていくのです。それが主の祈りを捧げる真意なのです。
非常に難しい話のようでしたが、何とか引っ張られてきたら、結論がここまで来ました。でしょう?先週、ある学生が私に、「非常に難しい内容のようですが、牧師の説教を聞いていると、最後までついて行ってみれば、そこまで来ている。しっかり腑に落ちたようだ」と言われました。私にただ「分かりやすくうまく説明しますね」と言えばいいのに、何をあんなに難しく言うのか。それですよ。
「今日、わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。この真意はまさにそれです。
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4.주기도문강해 (마6:9-13)
마태복음 6장 9절에서 13절까지를 함께 봉독하도록 하겠습니다.
(마태복음 6:9-13)
9 그러므로 너희는 이렇게 기도하라 하늘에 계신 우리 아버지여 이름이 거룩히 여김을 받으시오며
10 나라이 임하옵시며 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다
11 오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고
12 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이 우리 죄를 사하여 주옵시고
13 우리를 시험에 들게 하지 마옵시고 다만 악에서 구하옵소서 (나라와 권세와 영광이 아버지께 영원히 있사옵나이다 아멘)
인류의 역사상 가장 큰 실험은, 아마 공산주의 이데올로기일 것입니다. 공산주의! 마르크스와 엥겔스가요, ‘공산당선언’에서, ‘모든 사람들이 능력껏 일하고, 모든 사람들이 필요껏 쓰는, 프롤레타리아 유토피아가, 반드시 이 땅에 온다. 그리고 우리가 반드시 그 프롤레타리아 유토피아를 이 땅에 만들 것이다.’라고 호언장담을 했습니다.
그런데 그 7-80년 동안, 공산주의가 이 땅에 남긴 것은, 그들이 실험하여 남긴 것은, 대재앙뿐입니다. 그들이 놓친 것은, 인간이 어떤 존재인가를 놓친 거예요. 인간은 토럴 디프로버티(total depravity)! 완전한, 전적인 타락을 한 죄인임에도 불구하고 그들은, 인간이 어떠한 존재인지를 알지 못했기 때문에, 그들은 이 땅에 유토피아를 만들 수 있다고 생각했어요. 그래서 우리 안에 있는 이 내재된 힘으로, 이 땅에 평화와, 행복과, 안녕을 이룰 수 있다고 그들은 오해하고, 착각했던 것입니다.
여러분! 우리의 힘으로 지상낙원을, 그리스도의 푸른 계절을, 이루어 낼 수 없습니다. 그래서 우리는 이 땅의 것이 아닌, 하늘의 것! 그 하늘나라를 구하면서, 이 땅의 유토피아가 아닌, 그 하늘의 유토피아! 그 천국을 바라면서, 살 수밖에 없는 그러한 존재들이라는 거예요. 그래서 우리가 앞서 살펴본 주기도문의 많은 기도들이, 다 하늘나라의 것! 천국적인 내용 아니었습니까?
그런데 오늘 기도의 내용을 보면은, ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고…’ 이렇게 되어 있다고요. 마치 ‘이 땅의 것을 구하라!’라고 이야기 하는 것처럼, 우리가 오해할 소지가 있는 구절입니다. 이 구절을 보면서, ‘야 좋다! 바로 이거야 기다렸어! 내가! 오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고! 하나님께서 이제 드디어, 이 땅의 것을 구하라고 하는 그 대목이 나왔다! 우리 목사가 계속 외치는 주장하는 그 내용이 아닌, 다른 내용이 나왔는데, 이걸 어떻게 해결할 것인가?’
여러분! 만약에 이 내용이 우리가 이해하는 것처럼 ,이 땅에서 우리가 필요한 것을 구하는 내용이라면, 성경은 성경 자체에서 모순을 갖고 있는 거예요. 바로 고 밑에, 밑의 구절을 보면요, 마태복음 6장 25절을 보면,
(마태복음 6:25)
25 그러므로 내가 너희에게 이르노니 목숨을 위하여 무엇을 먹을까 무엇을 마실까 몸을 위하여 무엇을 입을까 염려하지 말라 (그런다고요.)
바로 같은 장에서, 이런 모순된 이야기를 하고 있다고요. 그런데 성경이 모순을 이야기할 일은 없지 않습니까? 그렇다면, 이 구절에는 뭔가 심오한 뜻이 있다는 거예요. 그러니까 오늘 그 심오한 뜻을 한번 같이 밝혀 보는 것입니다. 저희는 매주 심오해요. 그죠?
자, 여러분! 그 성경을 한 번 잘 보세요. 마태복음 6장에 보시면, ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고’ 고 옆에, 일용할 양식 옆에, 숫자나 기역(ㄱ)! 이렇게 붙어 있을 거예요. 그러고서 그 아래에, 혹 ‘내일의 양식’ 이렇게 쓰여 있을 겁니다.
왜 이런 관주가 그 말에 붙어 있냐면, ‘일용할 양식’이라고 하는 이 ‘일용할’이라는 이 ‘에피우지온’이라는 헬라어의 뜻이, 여러 가지의 뜻이 있기 때문에 그래요. 그리고 이 ‘에피우지온’이라는 단어는, 헬라어의 어느 문헌에도 쓰여 있지 않아요. 이 단어는! 그리고 성경책에도 딱 요기 한 군데 있어요. 그리고 누가복음에 한 번 더 쓰이는데, 그 누가복음에 나오는 그 주기도문에, 딱 한번 쓰인 단어거든요.
그러니까 이 시대의 그 언어학자들이나, 성경학자들이, 그 단어가 어떻게 쓰여 있는지를, 추론을 못하고 있는 거예요. 그래서 세 가지 견해가 있는데…,
첫 번째 견해가, ‘에피우지온’이라는 이 단어가, ‘에피’와 ‘우지아’의 합성어로 보는 거예요. 그래서 삶에 필요한 양식! 일용할 양식을, ‘삶에 필요한 양식!’ 이렇게 보는 견해가 있고요. 두 번째가 ‘그 날을 위한, 당일을 위한 양식!’ 일용할 양식을 당일을 위한 양식! 이렇게 보는 견해가 있어요. 그리고 세 번째가 바로, 가장 많은 지지를 받고 있는, ‘오는 날! 다음 날’로 보는 견해입니다. 오는 날, 다음 날, 내일! 오는 날의 양식! 다음 날의 양식! 내일의 양식! 그렇게 보는 거예요.
왜 이런 견해를 많은 사람들이 지지하고, 저도 왜 이 견해를 지지하냐 하면은, 예수 그리스도께서 사역 당시에 쓰던 언어가 뭐죠? 아람어라고요. ‘패션 오프 더 크라이스트(Passion of the Christ)’에서 나오는 그 언어? 아람어거든요. 이 아람어는 바벨론의 언어예요.
BC 586년에, 남유대가 바벨론에게 망하면서, 70년 동안, BC 516년에 성전이 재건될 때까지, 70년 동안 그들이 바벨론의 포로로 있었잖아요? 그동안 이들이 그들의 언어를 다 잊어 버렸다고요. 그리고 아람어를 쓰기 시작했어요. 아람어와 헬라어가 그들의 통용어였었다고요.
오히려 히브리어는, 성경을 연구하는 그러한 사람들 이외에는, 히브리어를 잘 알지 못했어요. 읽고 쓰지를 못했다고요. 그래서 그 당시에 쓰였던 그 아람어! 그 아람어 주기도문에는, ‘내일의 양식! ‘마헬’이라는 내일의 양식!’이라고 그렇게 써 있다고요. 그리고 ‘내일의 양식’이라는 견해를 성경이 지지해 주고 있다고요. 그 우리의 개혁신학! 리폼드 개혁신학의 기본은, ‘성경은 성경으로 풀어야 한다.’라는 거거든요. 성경은 성경으로 풀어야 한다. 이 말이 무슨 말이야 하면은? 예를 들어서, 선한 사마리아인의 이야기 있죠?
어떤 한 사람이, 예루살렘으로부터 사마리아로 가는 도중에, 강도를 만나서 거반 죽게 두들겨 맞습니다. 다들 그냥 지나가는데, 선한 사마리아인이 지나가다가 그를 보고서, 상처에다가 포도주와 기름을 붓고, 싸매고, 데리고 가서 여관으로 가죠? 그리고 거기에서 그 여관 주인에게 맡기면서, 동전 두 잎을 준다고요. 그리고 ‘내가 다시 돌아온다!’ 그리고 간다고요.
이 이야기를 혹자가 이렇게 해석을 하는 사람들이 있어요. 굉장히 그럴 듯 하다고요. ‘지나가던 사람! 강도 만난 사람은, 바로 우리를 이야기하는 것이고, 예루살렘은 천국이고, 사마리아는 세상이다. 강도는 사탄이다. 강도한테 실컷 두들겨 맞고 우리가 있는데, 선한 사마리아인! 예수가 오셔서, 포도주와 기름을 붓고, 포도주는 보혈! 기름은 성령! 기름을 붓고, 그를 여관으로 데리고 간다. 여관은 교회! 교회에다 맡기는 거예요. 여관주인은 목사! 아이 좋죠? 목사에게 맡기고, 동전 두 잎을 주는데, 그게 구약과 신약이다!’ 이렇게 이야기 한다고요. 그리고 ‘내가 다시 돌아온다.’라고 한 건, ‘예수님의 재림’을 이야기하는 거다.
그럴 듯 하죠? 그런데 성경 어디에서도 그 이야기를 뒷받침해주지 않아요. 이 이야기의 진위(眞僞)는요, 율법사가 예수님에게 물어봅니다. ‘어떻게 해야 우리가 영생을 얻을 수 있습니까?’ 그랬더니, ‘율법에 뭐라고 쓰여 있냐?’ ‘네 마음을 다하고, 목숨을 다하고, 뜻을 다하고, 힘을 다하여, 주 너의 하나님을 사랑하고, 네 이웃을 네 몸과 같이 사랑하라! 그렇게 쓰여 있습니다.’ 그러니까 ‘그럼 너도 가서 그렇게 행하라! 그럼 영생 얻을 수 있다.’ 그래요.
그러니까 율법사가, ‘그럼 누가 내 이웃입니까? 누구를 가서 사랑해야 하는 겁니까?’ 그러니까 이 비유를 들어 주시면서, 뭐라고 결론을 지으시는 거냐 하면은, ‘네 이웃이 누구인지? 네가 그 이웃을 고르려고 하지 말고, 네가 먼저 이웃이 되어주라!’라는 거예요. 그러니까 완전히 다른 이야기라고요. 아무리 좋은 뜻이라고 할지라도, 성경이 말하는 그 진의를 파악해 내지 못하면, 그건 굉장히 위험하다고요. 성경을 임의로 해석하면, 저주를 받을 지어다!
그러면 성경이 어떻게 그 ‘내일의 양식’을 지지하고 있는지를, 한번 찾아보도록 하겠습니다. 구약성경에, 하나님께서 그 내일의 양식을, 오늘 주신 적이 있었어요. 언젭니까? 만나! 여섯째 날에, 일곱째 날의 양식을 주셨단 말이에요. 왜 일곱째 날 양식을, 여섯째 날 주셨습니까? 일곱째 날은 안식일이기 때문에 그렇죠.
안식일은 뭐하는 날이에요? 하나님의 그 온전한 창조! 그 완전한 창조를 즐기며, 기념하며, 누리는 날이죠. 그리고 그 안식일을 지킴으로 해서, 종말에 우리에게 올 그 영원한 안식을, 고대하는 날이 안식일이란 말이에요. 그래서 여섯째 날, 그 일곱째 날의 양식을 딱 소유하고 있음으로 해서, 어떻게 해요? 그 안식일에 먹을 양식이 내 눈앞에 있어요. 그러면 그 안식일은 반드시 온다는 것을 확인하는 것이지요.
그리고 그 양식을 갖고 있으면서, 그 일곱째 날에 벌써 참여하는 거예요. 마치 우리가 어린 시절 소풍가기 전 날, 엄마가 배낭에다, 니쿠사쿠에다가, 칠성사이다 하고 초콜릿 하고 다 넣어주시고 말이에요? 김밥! 쌀 재료들을 부엌에다가 쌓아 놨을 때, 우리는 소풍이 내일인데도 불구하고, 오늘 벌써 가슴이 벌렁벌렁 뛰기 시작한다고요. 그 내일을, 오늘 벌써 두근거리는 마음으로 살아가는 거라고요. 하루에도 열두 번씩 창문 열어보잖아요? 혹시 비가 오나 안 오나? 그 기대! 그게 바로 여섯째 날, 일곱째 날의 양식을 준 이유라고요.
그런데 이 아람어 주기도문에 보면, 그 ‘마헤르’란 단어는, 그 내일의 양식의 그 ‘내일’이라는 뜻은, 24시간 후의 내일이 아니라, ‘오늘과는 다른 날’을 뜻하는 거거든요. 그러니까 오늘과는 다른, 다가올 내일을 뜻하는 거예요. 종말적인 의미가 있는 거거든요.
그리니까 우리가 ‘내일의 양식을 주옵시고,’라고 지금 기도를 한다는 것은, 그 다가올 종말! 새 하늘과 새 땅! 그 천국은 반드시 온다! 그리고 우리는 그 나라의 양식으로 살아야 할 자들이다! 그리고 우리는 지금 이 종말을 살아가고 있다. 바로 이제 곧 속히 그 나라는 올 것인데, 이 여섯째 날을 우리가 살아가고 있는 거예요. 그래서 그 나라의 양식을 구함으로 해서, 우리는 그 나라를 지금 누리는 거예요. 그 나라를 즐기는 거라고요. 그러니까 종말적 신앙을 고백하는 거라고요.
종말적 신앙이라는 게 뭐예요? 제가 그 대학교 때, 군대 제대하고 복학하고서, 교양 체육시간에, 골프를 했어요. 골프클래스를 했는데, 제가 이 승부근성이 있어서 말이죠? 제 친구! 지금 인제 법관으로 아주 잘나가는 친구가 있는데, 동기였는데, 그 친구랑 같이 그 교양체육을 들었는데, 이 친구도 굉장히 승부근성이 있는 친구예요. 그래서 과천의 그 경마장에, 제일 싼 데 가서, 우리가 인제 매일 연습을 했거든요.
그런데 한 두 박스씩 치면, 맥시멈 치는 거예요. 그때 처음 시작하는 학생들이니까! 그런데 치구서 그 다음 날 인제 시험을 봐야 되는데, 애가 갔어요. 가서 제가 걔 보내고, ‘나도 집에 갈 거야!’ 그러면서 차타는 척 하다가, 다시 들어가서 두 박스를 더 쳤어요. 그런데 거기에서 이 갈비에 금이 간 거예요. 두 대에! 너무 심하게 운동을 해서, 굉장히 괴로워서 병원에 갔는데, 엑스레이를 찍었더니, 금이 갔더라고요.
그런데 그 금 간 고 갈비 사이에, 이렇게 커다란 혹 세 개가 보이는 거예요. 엑스레이에! 그러면서 그 돌파리가, 글쎄 암일지 모른다는 거예요. 이게! 그리고 이렇게 큰 암이면, 굉장히 위중하다는 거예요. 저한테! 세상에! 마치 온몸에 힘이 쫙 빠지면서 말이죠? 조직검사 하고, 다 하고선 이제 결과가 나오는 그 날까지 기다리는데, 아무 것도 못하겠더라고요. ‘이제 곧 죽는구나!’ 이런 생각이 저를 확 사로잡으니까 말이죠.
제가 그때 대학가요제 대상을 받고, 얼마 안 있었을 때거든요. 그러니까 얼마나 꿈이 많았겠어요? 그런데 그런 거 저런 거 아무 생각도 안 나고, 그냥 제 주변에 있는 분들! 그 분들에게 내가 그동안 잘 못했던 거! 뭐 이런 거 생각나고요. 내 마음속으로 빚진 분들에게, 그거 갚고 싶고, 주변사람들에게 잘 해주고 싶고, 그렇게 되더라는 거예요. 다른 욕심 아무 것도 없어요. 어떻게 내일 가서 시험을 잘 볼까? 이런 생각, 그런 생각 아무 것도 안 들더라고요.
나중에 결과가 나왔는데, 그냥 그 근육이 뭉친 거라 그래서, (하하하하) 제가 그 분 손을 잡고, 한 30분을, ‘감사합니다!’ 그 사람이 뭐 해준 게 있다고요? 그냥 오진 한 건데, ‘감사합니다. 선생님!’ 그 분이 하얀 가운 입고 있는 것도, 막 감사하더라고요. 그게 종말적 신앙이에요. ‘내일 이 땅에 종말이 온다면, 오늘 우리는 어떻게 살 것인가?’ 말이에요?
우리는 내일의 양식! 내일의 양식을 지금 구함으로 해서, ‘하나님! 맞습니다. 그날은 반드시 올 것이고, 나는 그날을 준비하며 살아가는 사람입니다.’라는 고백을 하는 게, ‘오늘날 우리에게, 내일의 양식을 주옵시고’라고 기도하는 거예요.
그럼 그 하늘의 양식은 뭐예요? 뭐로 먹고 사는 겁니까? 우린 요한복음 6장 27절로 가겠습니다.
(요한복음 6:27-35)
27 썩는 양식을 위하여 일하지 말고 영생하도록 있는 양식을 위하여 하라 이 양식은 인자가 너희에게 주리니 인자는 아버지 하나님의 인치신 자니라
28 저희가 묻되 우리가 어떻게 하여야 하나님의 일을 하오리까
29 예수께서 대답하여 가라사대 하나님의 보내신 자를 믿는 것이 하나님의 일이니라 하시니
30 저희가 묻되 그러면 우리를 보고 당신을 믿게 행하시는 표적이 무엇이니이까 하시는 일이 무엇이니이까
31 기록된바 하늘에서 저희에게 떡을 주어 먹게 하였다 함과 같이 우리 조상들은 광야에서 만나를 먹었나이다
32 예수께서 이르시되 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 하늘에서 내린 떡은 모세가 준 것이 아니라 오직 내 아버지가 하늘에서 내린 참 떡을 너희에게 주시나니
33 하나님의 떡은 하늘에서 내려 세상에게 생명을 주는 것이니라
34 저희가 가로되 주여 이 떡을 항상 우리에게 주소서
35 예수께서 가라사대 내가 곧 생명의 떡이니 내게 오는 자는 결코 주리지 아니할 터이요 나를 믿는 자는 영원히 목마르지 아니하리라
그 떡이 뭐라고요? 예수님이라는 거예요. 그 하늘의 양식! 내일의 양식은, 예수님이라는 거예요. 어떤 예수예요? 그 예수는 하늘의 왕이잖아요? 하늘의 왕인데, 이 땅의 왕이 아니기 때문에, 이 땅에 내려와서, 온갖 환란과, 핍박과, 고난을 받은 그 예수! 그 떡을 내가 지금 원하는 거예요. 나도 그 삶에 동참하겠다는 거예요. ‘하나님! 오늘날 내일의 양식! 그 예수를 나에게 주옵소서.’라고 기도하는 것은, ‘나는 그 예수 그리스도의 삶에 동참하여, 살겠습니다.’라는 신앙고백인 거예요. ‘오늘 필요한 내 양식 주세요!’ 그 얘기가 아니라!
그러면 이 고난을 감수하고, 이 핍박을 감수하고, ‘하나님! 내일의 양식! 그 예수를 나에게 주옵소서!’라고 기도할 수 있는 사람은, 어떤 사람들이 기도할 수 있습니까? 그 영광을 본 사람들 이외에는 기도 못해요. 그 핍박을 어떻게 감수하고 가요? 못 간다고요. 그 영광을 본 자들만이, 그 기도를 할 수 있어요. ‘오늘날 우리에게 내일의 양식을 주옵소서!’라고 기도할 수 있다고요. 고린도후서 4장 17절을 한번 보겠습니다.
(고린도후서 4:17-18)
17 우리의 잠시 받는 환란의 경한 것이 지극히 크고 영원한 영광의 중한 것을 우리에게 이루게 함이니
18 우리의 돌아보는 것은 보이는 것이 아니요 보이지 않는 것이니 보이는 것은 잠깐이요 보이지 않는 것은 영원함이니라 아멘.
그 환란을? 경(輕)한 것이라고 얘기한다고요. 그런데 정말 경합니까? 여러분! 우리가 이 땅을 살아가면서, 우리에게 환란이 오잖아요? 여러분! 다 한두 번씩은 겪어 봤잖아요? 그것이 정말 경하던가요? 안 그래요. 어떨 때는 정말 눈물이 안 나올 만큼, 그 환란이 괴로울 때가 있어요. 어떨 때는 나가서 스스로 내가 목을 콱 메달아 죽고 싶은 마음이 들 만큼, 그 환란이 괴롭고 고통스럽다고요. 환란이 그렇게 만만하지 않아요.
그런데 사도바울은 여기서 ‘경한 것’이라고 그래요. 그리고 그 고통은 ‘잠시’라고 얘기해요. 뭐와 비교해서? 그 고통이 그렇게 큰데, 그것을 경한 것이라고 이야기 할 수 있는 이유는, 그렇게 큰 고통도, 그 하늘의 영광을 내가 보고나니까, 아무 것도 아니더라는 거예요.
그렇기 때문에, 그 영광을 본 자들은, 이렇게 기도할 수 있다는 거예요. 내가 당할 만큼 당해봤다! 내가 40에 하나 감한 매를 죽도록 맞아보기도 하고, 걸핏하면 감옥에 들어가서 그렇게 모욕당하고 힘들게 생활을 했는데도 불구하고, 내가 그 하늘의 영광을 보고 나니까, 이 환란은 경한 것이라는 거예요. 아무것도 아니더라!
그래서 여러분은 그 하늘의 영광을 맛보고, 하늘의 영광을 깨달은 자들이란 말이에요. 하나님에 의해서! 그렇기 때문에 우리는 이런 기도를 드릴 수 있는 거예요. ‘하나님! 내가 그 예수 그리스도의 삶에 동참하게 해 주옵소서! 그 내일의 양식을 오늘날 나에게 주옵소서! 나는 이 땅을 그 양식 예수 그리스도로만 살겠습니다!’라고 고백하는 게 바로, 이 주기도문의 이 기도의 내용이란 말이에요. 그것이 기독교예요.
누가 이야기하는 것처럼, 3박자 구원! 3박자 축복! 이런 것은 기독교에 없어요. 요한3서에 나오는, ‘사랑하는 자여! 내 영혼이 잘 됨 같이 범사에 잘 되고, 네가 강건하기를 내가 간구하노라.’ 그 이야기가 뭐 ‘네 하는 일이 다 잘 됐으면 좋겠다.’ 그 얘긴 줄 아십니까? 천만에요 ‘범사(凡事)’라는 게 뭐죠? 성경에 말하는 범사! 고린도전서에 나오잖아요? ‘범사에 감사하라! 항상 기뻐하라! 쉬지 말고 기도하라! 이는 그리스도 예수 안에서 너희를 향한 하나님의 뜻이라.’ 그러죠?
우리 그리스도인들의 범사라는 게 뭐죠? 하나님이 우리의 눈을 떼어주시고, 이 땅에다가 우리를 방치해 놓지 않으시고, 우리의 삶에 간섭하셔서, 우리를 끌고 가시는 그 여정에서 생기는 모든 일들을, 범사(凡事)라고 그러는 거거든요 그 범사가 잘 된다는 건 뭐에요? 하나님이 우리를 패서라도, 여기로 끌고 가는 그 일이에요. 그게 잘 된다는 거예요. 그거를 형통(亨通)이라고 그러는 거예요.
요셉이 감옥에 갇혀 있지만, 하나님이 그를 만들어 가시고자 하는 그 길에, 요셉이 있기 때문에, ‘그의 삶이 형통하였더라!’라고 성경이 이야기하는 거예요. 그래서 네 영혼이 잘됨 같이, 네 영혼이 잘된 것처럼, 네 범사가 잘되기를 내가 기원한다는 말은 뭐예요? 우리의 영혼이 잘 됐다는 게 뭐죠? 죽어있던 영혼이, 하나님의 통치! 그 주권 안으로 들어왔다는 거 아니에요? 그게 우리의 영혼이 잘 됐다는 거 아니에요?
그것처럼 너희의 범사! 너희의 삶도, 하나님의 주권 그 통치 안으로 들어오게 되기를, 내가 간구하노라! 하나님이 약속도 아니고, 그냥 사도바울이 기도한 거예요. 그렇게 그걸 가지고 하나님의 약속이라고 그래서, 3박자 축복이라고 얘기 할수 있는 거예요?
도대체 하나님의 통치 안으로 들어간다는 건 뭡니까? 내 뜻대로 하나도 되지 않아도, 하나님의 뜻이, 나의 소원을 하나도 이루어지지 않아도, 하나님의 뜻이, 이루어지는 걸 범사에 잘 된다는 거예요. 그것이 너무나 크고 소중한 것이기 때문에, 내가 이해할 수 없는 일들이 그렇게 많이 일어나도, 나는 감사할 수밖에 없는 거예요. 그 일은, 그 영원한 새 하늘과 새 땅을 위해서, 나에게 일어나는 일이기 때문에! 그래서 범사에 감사하라는 거란 말이에요. 그게 기독교란 말이에요.
그렇게 하늘의 양식! 내일의 양식! 예수 그리스도를, 핍박을 감수하면서, 구할 수 있는 자들만이 이웃을 사랑할 수 있어요. 우리가 왜 이웃을 용서하지 못하죠? 왜 이웃을 사랑하지 못합니까? 하나님께서 아담에게 어떤 저주를 내리셨어요? 그가 범죄 했을 때! ‘네가 네 힘으로 땅 갈아서, 밭 갈아서, 거기에 나오는 열매로 네 생명 유지해야 된다.’ 그렇게 저주하셨다고요. 땀 흘리지 않으면, 너 못 먹는다. 그랬어요.
그러니까 그 저주 아래에 있는 사람들은, 자기가 땀 흘려서 먹고 살아야 되기 때문에, 온 동네 사람이 다 자기의 경쟁상대예요. 그러니까 옆집 애가 공부를 좀 잘한다. 그러면은 배가 아픈 거예요. 우리 아이의 경쟁상대기 때문에! 내가 비즈니스 똑 같은 거 하는데 저 옆집이 나보다 더 돈 잘 벌면, 기분 나쁜 거예요. 저주 아래 있는 자들은 다 그렇다고요.
그런데 하나님의 은혜를 알고, 그 하늘의 것이 무엇인지를 알고, 그 영광을 맛본 사람들은요? 하늘의 뜻을 두고 사는 사람들은? 쓸데없이 그들과 경쟁하지 않아요. 그러면서 오른뺨을 맞았을 때, ‘그래, 왼뺨도 한 대 더 쳐! 네가 화가 풀린다면 왼뺨 한 대 더 쳐!’ 그러면서 그 상대방을 용서할 수 있는 경지까지 간다는 거예요. 그렇게 자라갈 수 있다는 거예요. 그 영광을 본 자만, 때린 자에게, ‘한 대 더 때려!’라고 용서하면서, ‘하나님! 우리가 우리에게 죄지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵소서!’라고 기도할 수 있는 거예요. 그 사람이!
그런데 내용을 잘 보면, ‘우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 하나님 당신! 내가 한 것 보고, 그렇게 사하여 주옵소서.’ 그렇게 들리죠? ‘우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵소서!’ 그러잖아요? 마치 우리가 하나님의 모범이 먼저 되는 것처럼, 그렇게 들리잖아요? ‘우리의 죄를 사하여 주옵시고!’ 거기에는 완료형으로 쓰여 있거든요.
‘아팩카멘’이라는 그 단어를 썼는데, 이 셈족의 언어를 가장 잘 연구해 놓은 사람이, 바로 요아킴 예레미아스예요. 그 요하킴 예레미아스가 도대체 이 뜻이 무엇일까를 연구하다가, 이 시제를 그대로 아람어로 옮겼어요. 그래서 ‘아람어로 예수님이 이 이야기를 하셨을 때는, 어떤 뜻이 있었을까?’하고 아람어로 옮겨 보니까, 그 아람어에 이 완료형시제는, 동시적인 의미가 있는 거예요. 동시적인 의미! 다시 그 아람어로 변역을 해보니까, ‘하나님! 우리의 죄를 용서하여 주옵소서! 그와 동시에,’ 동시다발로 일어나는 거예요. ‘동시에 우리도, 우리에게 죄지은 자를 사하여 주겠습니다.’라는 내용이라고요.
그러면 여러분 잘 들어보세요. ‘하나님! 우리의 죄를 용서하여 주옵소서! 우리도 우리에게 죄 지은 자를 용서하겠나이다.’ 동시에 일어나는 거예요. 당신이 나를 용서해 주시면, 용서하겠다는 게 아니라! 그러면 ‘하나님! 나의 죄를 용서해 주옵소서!’라고 하면서, ‘내가 저 인간은 용서 도저히 못해!’라고 누구를 용서하고 있지 못하다면, 그 기도를 어떻게 드릴 수 있어요? ‘하나님! 나의 죄를 다 용서해 주시옵소서! 그런데 내가 요 인간에게 만큼은, 용서 못하겠습니다!’ 그러니까 ‘요 죄만 빼 놓고, 딴 죄는 용서해 주시옵소서!’ 그렇게 되는 거죠. 하나님께 엉터리 기도를 하게 되는 거예요.
‘하나님! 내 죄를 용서해 주시되. 요거는 잠깐 눈감아 주세요! 요거는 그냥 내가 끝까지 조거, 하여튼 조거 망하는 꼴 내가 보고, 그 다음에 내가 하나님 앞에 자주 갈 테니까, 요거는 잠깐 눈감아주시고, 나머지 꺼는 다 용서해 주세요!’ 그 뜻이 되잖아요? ‘하나님! 내 죄를 용서해주세요!’ 하려면, 다 하나님 앞에 내려놓고, 그리고 기도를 해야 되는데도 불구하고!
안 되죠? 그러니까 성경에서는, ‘네가 네 이웃을 용서하지 않고 오면, 하나님도 너를 용서하지 않는다.’ 그런다고요. 큰일 났어요. 그러면 우리는 하나님께 기도할 수 없어요. 그렇죠? 여러분 마음속에 용서 안 된 사람들 너무 많죠? 그러면 우리는 이 기도 할 수 없는 자들이에요. 마태복음 6장 14절 보겠습니다.
(마태복음 6:14-15)
14 너희가 사람의 과실을 용서하면 너희 천부께서도 너희 과실을 용서하시려니와
15 너희가 사람의 과실을 용서하지 아니하면 너희 아버지께서도 너희 과실을 용서하지 아니하시리라 (그래요.)
큰일 났죠? 마태복음 18장 35절에 동일한 이야기를 써 놓고 있습니다.
(마태복음 18:35)
35 너희가 각각 중심으로 형제를 용서하지 아니하면 내 천부께서도 너희에게 이와 같이 하시리라
용서하지 않겠다는 거예요. 어떠한 이야기의 결론으로 주어진 것입니까, 이게? 우리가 잘 아는 일만 달란트 빚진 자의 비유죠? 왕이 자기에게 일만 달란트 빚진 자를 데리고 와서, ‘갚아라!’ 그랬더니, ‘갚을 능력이 없습니다.’ 그랬어요. 일만 달란트는 어마어마한 돈이에요. 당시에! 그 베뢰아와 갈릴리 사람들이 로마에게 받쳤던 1년치 세금이 200달란트였거든요. 그러니까 일만 달란트는 한 개인에게는 어마어마한 돈이에요. 그러니까 도저히 갚을 수 없는 것을 상징하는 거예요. 일만 달란트!
일만 달란트 빚진 자를 왕이 용서해주었어요. 그랬더니, 나가다가 자기에게 빚진 한 동관을 만났는데, 200데나리온 빚진 자예요. 멱살을 잡고, ‘왜 안 갚아? 이놈아!’ 그래놓고, 옥에다가 갔다 처넣어 버렸어요. 그랬더니 그 왕이 그 소식을 듣고, 걔를 다시 불러서, ‘넌 내가 그렇게 큰 걸 용서해 주었는데, 너는 쟤도 하나 용서 못하냐? 얘가 이거 다 갚을 때까지,’ 일만 달란트! 인간이 갚을 수 없는 돈이라 그랬죠? ‘이거 다 갚을 때까지 옥에다 넣으라.’ 그랬다고요.
그 이야기는 뭐예요? 영원한 감옥에다 넣었다는 거예요. 지옥에 갔다는 거예요. 그래서 용서를 받은 자가, 누구를 용서를 못했다고 한다면, 그건 지옥에 간다는 거예요. 하나님은 도저히 그 사람! 용서 안 한다는 거거든요. 큰일 났어요. 점점! 예? 설상가상이에요. 그러면 우리는 어떻게 되는 거예요? 도대체?
지금 여기에서 유니온 크라이스트(Union Christ)가 또 동원이 되는 거예요. 그리스도와의 연합! 여러분은 예수님의 죽음에 동참한 자이고, 예수님의 그 부활에 그 동참한 자이고, 예수님의 33년의 삶이, 여러분의 삶이 된 사람들이에요. 그렇죠? 그래서 우리는 그 부활과, 죽음과, 그 겟세마네의 기도에까지, 동참한 자들이 되었죠? 그래서 우리는 ‘뜻이 하늘에서 이룬 것 같이, 땅에서도 이루어지이다.’라는 기도를, ‘하나님! 당신의 뜻대로 하옵소서! 내 뜻대로 마옵시고, 당신의 뜻대로 하옵소서!’라는, 예수 그리스도의 그 기도에 연합되므로 해서, 우리는 그런 기도로 드릴 수 있는 자가 되었다고 이야기했지 않습니까?
그러면 십자가 위에서 예수님께서, ‘하나님 아버지! 저들을 용서하소서! 저들이 지금 자기들이 하는 일이 뭔지를 알지 못합니다. 저들을 용서하옵소서!’라고 기도하실 때, 여러분은 어디 계신 거예요? 그 예수 그리스도 안에 계신 분들이에요. 여러분은? 용서를 하신 분들이라고요. 이게 말이 되는 거예요? 도대체! 이런 우리 이런 인간들이, 그 예수 그리스도의 삶에 동참해서, 그 십자가에서 세상을 용서해 버린, 그 용서에 동참을 한 자가 되었다는 게 말이 되냐고요? 그런데 하나님이 우리를 그렇게 취급해 주신다니까요. 그래서 용서를 한 자가 되었어요.
그래서 우리는 하나님 앞에 당당히 용서를 구할 수 있는 자게 된 거예요. ‘하나님! 내가 세상을 용서한 것처럼, 당신도 나를 용서해 주시옵소서.’라고 당당하게 기도할 수 있는 자가 된 거란 말이에요. 이 사실 앞에, 여러분들이 다른 뭘 또 구하겠다고 지금 그러는 거라 말이에요? 이 어마어마한 기적 앞에 말이에요? 우리는 용서한 자가 되어버렸어요. 그리고 당당하게 용서를 구할 수 있는 자가 되어 버렸어요.
그렇기 때문에 우리가 그 예수 그리스도의 삶에 동참하면서, 이웃을 실제로 이 삶 속에서 용서를 하면서, 살아가는 거예요. 용서를 이제 해야만 되는 거예요. 그리스도의 삶이 내 삶이 되었기 때문에! 아시겠습니까? 내가 용서를 해서, 하나님이 나를 예쁘게 봐주시는 게 아니라, 나를 ‘칭의(稱義)! 낫 길티(not guilty)! 너는 의롭다!’라고 해주셨기 때문에, ‘이미 너는 용서한 자다.’라고 이야기해주셨기 때문에, 우리는 용서를 하면서 가는 거예요. 비슷한말 같지만, 완전히 다른 거예요. 아시겠죠? 우리는 용서한 자가 된 거예요. 그렇게! 그래서 하나님 앞에, 주기도문을 드릴 수 있는 자가 된 거예요.
하나님은 이렇게 분명히, ‘네 형제 용서하지 못하면, 너 천국 못가!’ 그렇게 이야기했는데, 우리는 용서를 했다니깐요. 이것이 이해가 가는 사람은, 정말 거듭난 사람입니다. 여러분! 그게 ‘그리스도와의 연합’이라는 거예요. 그래서 우리의 삶 속에, 그런 용서를 하면서, 우리는 살아야 하는데, 그 용서를 한 번 두 번 해보다 보면요, 그 용서가 얼마만큼 우리를 자유롭게 해주는지, 여러분 알 수 있어요.
‘빠삐용’이라는 영화 보시면, 맨 마지막 장면에 어떤 장면이 나옵니까? 스티브 맥퀸! 팍 그 부표 같은 걸 던지고서, 더스틴 호프만하고 둘이 딱 서잖아요? ‘같이 가자!’ 내려다보니까 무서워요. ‘너 혼자 가!’ 스티브 맥퀸이 아홉 번째 시도예요. 그게 아홉 번째 시도! 쟁반 노래방이 아니라, 아홉 번째 시도에, 스티브 맥퀸이 그 절벽 아래로 딱 뛰어 내리잖아요. 내리면서 조류를 이용해서, 탈출에 성공을 해요. 그러면서 와! 승리의 그 환의의 손짓을 하죠. 막 손을 흔들죠. 더스틴 호프만한테!
그러니까 더스틴 호프만이 그러죠? 내려다보면서, ‘네가 아무리 이 악마의 섬을 탈출한다고 할지라도, 네가 네 마음속에 있는 너의 감옥으로부터 탈출하지 못한다면, 너는 영원히 감옥 속에 있는 거야!’ 그 명언(名言)을 남긴다고요. 안 보신 거예요? 이 명화를? 교양 필순데! 그러면서 이 ‘빠삐용’은 끝나죠.
이게 실화예요. 빠삐용이! 이 빠삐용이! ‘앙리 사리에리’라는 프랑스 사람인데요, 1930년에 20살 땐가 이 사람이! 하여튼 파리 시내에서 술을 마시고 있다가, 살인사건이 났는데, 한 검사가 자기의 유능함을 나타내기 위해서, 이 사람을 그냥 걸어버린 거예요. 그래서 온 빠리가, 프랑스가 이 검사에게 초점이 맞춰졌어요. ‘야! 유능한 검사다!’
그런데 이 검사가 앙리 사르에르가 범인이 아니라는 것을 알아요. 그럼에도 불구하고 자기가 유능한 검사라는 것을 입증하기 위해서. 다른 불량배등을 증인으로 동원해서, 이를 살인범으로 만들어서, 1941년에 사형선고를 내려버려요. 그리고서는 그 악마의 섬으로 보내버리는 거예요. 그러니까 스티브 맥퀸이 그렇게 계속 죽어가고 터지면서도 탈출하려고 하는 거예요. 억울하니까!
앙리 사르에르가 탈출한 다음에, ‘방코’라는 소설을 썼어요. 자전적 소설! 자기의 자서전이죠. 거기에서 그렇게 이야기 한다고요. 거기에서 탈출해서, 이 사람이 남미로 갔어요. 아르헨티나를 비롯해서 하여튼 남미를 전전하면서, 돈을 엄청 벌었어요. 그래서 60살인가 61살에, 프랑스로 돌아간다고요. 공소시효가 끝나니까! 왜 돌아가는 줄 아세요? 그 사람들 잡아 죽이려고 가요. 복수의 칼을 갈아서요. 그 검사하고, 거짓증언을 해서 자기를 사형선고를 받게 한 그 불량배를 다 죽이러 간다고요.
갔는데, 8일 동안 이제 자기의 어린 시절의 거리도 다녀보고, 사랑하는 사람들 가서 멀찍이서 그들의 삶을 보고 하면서, 그가 그 복수를 포기합니다. 그들을 용서해요. 그러면서 뭐라고? ‘방코’라는 책에다 써 넣은 지 아십니까? ‘나는 하나님께 이렇게 기도했다. 내가 복수를 포기한 대가로, 다시는 이런 비극이 생기지 않도록 해달라고 하나님께 기도했다. 그리고 나 자신에게 나는 속삭였다. 너는 이겼다! 친구여! 너는 자유롭고 사랑받는 미래의 주인공으로 여기 있다. 이 일에 관계된 모든 사람 중에, 네가 가장 자유롭고 가장 행복한 사람이다. 친구여!’ 그렇게 자기에게 이야기한다고요.
그리고는 자기는 자유함을 얻었대요. 그때까지는 돈도 많이 벌고, 열심히 살았는데, 유일한 목적은 복수였어요. 그런데 그들을 용서하고 나니까, 이제 그가 드디어 빠삐용이 된 거예요. 빠삐용은 나비란 뜻이거든요. 이제 훨훨 비로소 날게 된 거예요. 용서를 하고 나니까! 용서는 우리에게 유익이 되는 거예요. 하나님이 그래서 ‘용서를 하라!’ 그러는 거예요.
여러분! 우리가 주기도문을 공부하면서 잊지 말아야 할 것! 우리가 하나님께 청원하는 기도의 내용이에요. ‘하나님 나라가 임하게 해주옵소서! 그 뜻이 이루어지게 해 주시옵소서! 용서해주시옵소서!’ 청원하는 내용이지만, 이 주기도문의 내용은 동시에 서약이라고요.
하나님! 하나님나라가 임하게 해주시옵소서! 그 뜻은 뭐예요? ‘내가 그 나라가 임하면, 그 뜻에 순종하겠습니다.’라는 서약이에요. 당신의 뜻이 이루어지게 하옵소서! ‘나는 그 뜻에 내 몸을 맡기겠습니다!’라는 서약이라고요. 용서해 주옵소서! ‘나도 이웃을 용서하겠습니다!’라는 서약이란 말이에요. 그래, 여러분은 주기도문을 하면서, 계속해서 여러분은 그런 하나님 앞에, 서약을 드리는 거예요.
여러분! 아담의 범죄로 말미암아, 우리는 우리의 생명을, 스스로 유지하면서 살게 되었어요. 농사를 짓고, 땀을 흘려서, 그 땀의 열매인 양식으로 살게 되어 있습니다. 그러나 예수로 말미암아, 그 저주에서 풀려난 자들은, 하나님께서 주시는 하늘의 양식으로, 오늘을 살 수 있게 되었어요. 그리고 그렇게 살아야 하는 것입니다.
우리는 종말(終末)을 살아가는, 내일을 기다리는, 그리스도인인 것입니다. 그 새 하늘과 새 땅을 기다리는, 그리스도인이에요. 그래서 우리는 이 땅의 양식으로 사는 것이 아니라, 그 새 하늘과 새 땅! 그 내일의 양식을 달라고, 그 예수 그리스도로만 살게 해달라고 하나님 앞에, 기도를 하는 거예요.
그래서 우리는 그것으로 만족하며 살 수 있는 자들이기 때문에, 우리는 이웃을 용서하는 거예요. 시기하지 않는 거예요. 질투하지 않는 거예요. 그들을 사랑할 수 있는 거예요. 그게 그리스도인의 삶이에요. 그래서 ‘나도 이렇게 용서하는 자가 되었으니, 내 죄도 확실히 용서가 된 것을 나는 확신합니다. 하나님!’ 그렇게 하나님 앞에 신앙고백을 하는 것이, 바로 이 주기도문의 기도인 것입니다.
그러므로 ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고, 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵시고,’라고 기도하면서, 우리는 우리의 신분을 다시 한 번 확인하는 거예요. 그리고 ‘내일의 양식인 예수가 이렇게 내 안에 있기 때문에, 그 날은 속히 온다. 반드시 온다. 그리고 나는, 그 내일을 사는 자다! 나는 이 땅의 이방인이다! 이 땅을 살아가는 자 아니고, 천국을 살아가는 자다!’라고 확신하면서, 확인하면서, 그렇게 천국을 즐기고 누리면서 살아가는 거예요. 그게 주기도문을 하는 진의(眞意)라고요.
굉장히 어려운 것 같았는데, 어떻게 끌려오다 보니까, 결론이 여기까지 왔어요. 그죠? 지난주에 어떤 학생이 저한테, ‘굉장히 어려운거 같은데, 목사님 설교 듣고 있으면, 끝까지 따라가다 보면, 거기까지 와있대요. 확 걸린 것 같대요.’ 저한테 그냥 ‘이해하기 쉽게 잘 설명한다.’ 그러면 되는 거지, 뭘 그렇게 어렵게 얘기 해? 그거예요.
‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고, 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵소서!’ 이 진의는 바로 그것입니다.
試みにあわせず、悪からお救いください
御言葉を共に奉독(ほうどく)いたします。
(マタイによる福音書 6:9-13)
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい。天にまします我らの父よ。願わくは、み名をあがめさせたまえ。
10 み国をきたらせたまえ。みこころの天に成るごとく、地にもなさせたまえ。
11 我らの日用の糧を、今日もお与えください。
12 我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
13 我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。(国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン)
今日、主の祈りの最後!「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という添言(そげん)について学んでみたいと思います。ここで私たちは「試み(試験)」という言葉をよく定
義して進まなければならないようです。
皆さん!聖書ではその「試み」という言葉が、二つの意味で使われていますよね?どのような意味で使われていますか?第一に、一つは「サタンの誘惑(ゆうわく)」という意味で、試みと
いう言葉が使われます。第二に、「神様の試練(テスト)」という意味で、その言葉が使われるのです。そこで使われている「ペイラゾー」というギリシャ語の原語が、この「サタンの誘惑」
と「神様の試練!」この二つに混用されて使われているため、私たちは時々そのように混同することがあるのです。
例えば、神様は私たちを試されます。そうですよね?どこで試されましたか?
創世記22章1節を見てみましょう。
(創世記 22:1)
1 これらの事の後、神はアブラハムを試みようとして、彼を呼んで、「アブラハムよ」と言われた。彼は言った、
「ここにおります」。
確かに神様がアブラハムを試みられた、と言っています。そして申命記8章2節へ行きます。
(申命記 8:2-3)
2 あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えなければならない。それはあなたを低くして、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命
令を守るか否かを知るためであった。
3 それで主はあなたを低くし、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを、あなたに食べさせられた。人はパンだけでは生きず、主の口から出るすべ
ての言葉によって生きることを、あなたに知らせるためであった。
神様は確かにこのように私たちを試される、と言います。しかしその試みは、私たちを、私たちの信仰を確認させ、私たちの信仰を教育するためにする試験なのです。ところが聖書で
はまた別の場所で「神様は私たちを試みない」と言っています。ヤコブの手紙1章に行きます。13節。
(ヤコブの手紙 1:13-15)
13 誰も試練に会うとき、「私は神から試みられている」と言ってはならない。神は悪に試みられるような方ではなく、また、自ら誰も試みることはなさらない。
14 人が試みに会うのは、それぞれ自分の欲に引かれ、そそのかされるからである。 15 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生むのである。(と言っています。)
ここでは明らかに「神様は私たちを試みない」と言っています。一方では、神様は私たちを試みる。もう一方では、神様は私たちを試みない。と言うわけです。このヤコブの手紙で神様
が私たちを試みないというこの試験は、まさにあのサタンの誘惑と同じ類(たぐい)の試験を話しているのです。つまり、ヘブライ語で「ナッサ」という言葉と、この「ペイラゾー」という
言葉が、「サタンの誘惑」と「神様の試練!」この二つの言葉に混用されて使われたため、私たちがそのように今、混乱しているのです。
このヤコブの手紙で語られているこの試験は、私たちが私たちの周辺で、ある人々を見るとき、本当に信仰生活をよく送っていたのに、あ!この人が突然昔のあのような悪習に、悪い
習慣に再び陥り、そのような罪悪に陥るとき、私たちが彼を見て「あの人、試験(試み)に落ちたよ!」とそのように話しますよね?「あの人、試験にかかった!」このように話しません
か?その時、その試験!サタンの誘惑!罪を犯させるその試験!神様は、そのようなサタンの誘惑のような罪を犯させるその試験は、なさらないということなのです。
しかし、その子供のためにエジプトからイスラエルの民を連れ出されるとき、どのように試されましたか?荒野で、彼らを水のない場所へ、食べ物のない場所へ、食べるものがない場所
へと連れて行かれながら、食べるものを与え、飲むものを与えることによって、彼らがどのような存在なのか、「お前たちが、私がこのように食べ物、飲み物を与えれば、私を正しく奉
仕する(仕える)というのか?よし、一度仕えてみろ!」と言いながら与えたのですが、どうなりましたか?仕えなかったでしょう?むしろ偶像を崇拝し、神様に向かって恨みの手を向
けたわけです。
ですから、「お前たちが誰であるか、どうか分かってくれ!そして人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉によって生きるのだ!」ということを教えるために、神の民とす
るために、神様が彼らを試みられたのです。そのような試験は、私たちに必ずあるのです。そのような類の試験は、私たちにとってむしろ有益なものではないでしょうか?その試験は
むしろ私たちにとって祝福なのです。
ならば私たちが「神様!私たちを試みにあわせず」と祈ることは、神様の教育!神様の私たちの信仰の確信のような、そのような類の試験ではありません。そうですよね?では、どのよ
うな試験を私たちは拒否するのですか?どのような試験を?私たちは「その試みにあわせないでください!」と祈るのでしょう?「サタンの誘惑!罪に陥らせるそのような試験には、
あわせないでください!」と祈るのです。
さらには、その「我らを試みにあわせず」の次に出てくる「ただ悪からお救いください!」という言葉のその「悪」という「トゥ・ポネルー」という原語は、男性属格なのです。ですから、その
単語の正確な意味は「悪しき者」という意味です。「神様!あのサタンの勢力!あの悪しき者の勢力から私たちを救い出してください!」という意味なのです。
皆さん!アダム的な実存を持っているそのような罪人たちは、どのような状態ですか?そのまま神様が放置しておかれれば、私たちがローマ人への手紙1章で調べたじゃないですか。
彼らは、死刑に処せられるべき者として、自然に進んでいく者たちが、まさにそのアダム的な実存を持っている罪人たちなのです。そのような罪人たちの間で、ある一つの群れを、神
様が救い出されました。そして彼らの人生に、干渉をし始められたのです。茨で塞ぎ、垣で塞ぎながら、彼らが別の道へ行こうとすれば、その道を塞ぎ始められました。神様が!その
ように神様がそのまま放置しておけば、その罪人たちは最後には、神様に向かって剣を抜き、戦争を布告するのです。神様に!聖書でその内容が明確に出ています。
私たちは元々そのような者たちでした。しかし私たちはそこで救い出されました。私たちが「我らを試みにあわせず」と祈ることは、「神様!私たちがその悪の勢力、あのサタンの試みに
陥って、私たちが彼らの側に立たないようにしてください!」という意味なのです。最後の日、ハルマゲドンの戦いの時に、私たちが彼らの側に立つことになれば、私たちは大変なこと
になるということを、私たちは聖書を通して知っているため、「神様!私たちは、彼らの側に立たないようにしてください!」というその祈りなのです。
もし神様が私たちの人生に干渉をなさらず、放っておかれたらどうなるか、聖書から一度引き出してみましょう。出エジプト記で、イスラエルをエジプトの手から救い出されるとき、
パロ(ファラオ)に神様はこのように言われます。
「あなたは私の初子(ういご)である、私の民を去らせなさい!」
モーセを通してそのように話をされますよね?しかし、パロが去らせないのです。ところが、そのパロの心を「神様が頑な(かたくな)にされた」という言葉を使うわけです。
確かに出エジプト記4章で!神様はエジプトの初子たちをすべて殺す計画を立てておられます。モーセに行って「パロよ!お前が私の初子であるイスラエルを去らせなかったので、私は
お前の初子をすべて殺す」と言ってこい、と言われます。
では神様はすでに彼らの初子をすべて殺す計画を持っておられたのに、ならばそのようにパッと結論を出してしまえばいいのに、九つの災いをその前につけ加えられるわけです。最初
から初子を全部殺してしまえば、そのまま出ることもできたのに、その各災いごとに神様が何と付言(ふげん)説明をされるかというと、「主はパロの心を頑なにされたので、彼はイス
ラエルを去らせなかった」と言います。
「去らせる」と言っておきながら、「主が彼の心を頑なにされたので、彼はイスラエルを去らせなかった」と言うのです。頑なにしたというのはどういう意味でしょうか?ただの優しい人!
去らせようとしていた人!神様が何度も心をただ、毒々しくさせて、去らせないようにしたということでしょうか?頑なにしたということは、神様が彼らの情欲のままに、彼らの罪性
のままに、そのまま放っておかれたということです。
神様はこの罪人たち!罪人たちのその罪性が極に達するのを防ぐために、コモン・グレース(common grace:一般的恩恵)!社会法や良心のようなもので抑えておられます。今!あ
る目的のために今、抑えておられるのです。一日に何度も「ああ!あの人間は本当に一発殴ってやりたい!」そして時々「ああ!あの人間、本当にそのままぶち殺してしまいたい!」とい
う人々がいますよね?皆さんに!しかしなぜ殺せないのですか?なぜ行って殴れないのですか?法(ほう)があるじゃないですか。そして私の良心(りょうしん)が何度も「それは悪
しきことだ!」と内で声を出すのです。
なぜ神様がそのように抑えておられるのですか?最後に、ある一つの事件のために、神様は今、その罪人たちのその罪性が極に達するのを防いでおられるのです。しかしある日、神様
がそれをすべて解き放たれる日があるでしょう。神様がパロの心を頑なにされたというのは、そのまま彼の罪性のままに放っておかれたということです。
今、なぜそのように九つの災いを、初子たちを殺す災いの前に足されるのかというと、第一の理由はそれです。彼らは多神教を信じていました。太陽も神であり、水も神であり、カエル
も神であり、何というか岩も神であり、すべてが神でした。ですから「違う!天地を司り、自然を司る者は、神だ!」ということを示すために、彼らに災いを許されたのであり!
第二に!非常に重要な理由です。これが!人間は、神様がそのように自分の情欲のままに放っておけば、どこまで悪くなるかを見せてくださるのです。そのまま彼らの情欲のままに放
置(ほうち)しておけば、神様が明らかに生きておられるという証拠が、そのように彼らの目の前に繰り広げられるのに、彼らは神様に向かって剣を抜くということなのです。川が
血に変わり、悪性の腫物や家畜の疫病、いなごや雹が降って、わあわあ人を殴り殺してしまったりしてですね。太陽が光を失ったりするのに、最後まで神様に向かって剣を抜くという
のです。初子たちがすべて死んだのに、どうでしょうか?追ってきます。そこまで!それが罪人たちの属性なのです。「神様!私と一丁やってみましょう!」というのです。今!そして
火の柱と雲の柱が、イスラエルの前になったり後ろになったりしながら、保護して行くのに、最後まで追いかけて行きます。
一度常識的に考えてみましょう。私たちの目の前で川がワーッと血に変わります。太陽が光を失います。なのにそこを追いかけて行きます。私の目の前で海が分かれて、ああ!彼らの
神があの人たちのために海を分けたということが目の前に見えるのに、そこを追って入って行きますか?神様がただそのまま放置しておかれれば、人間はそのようにまで神様に向かっ
て、神様の首を絞めるために、剣を抜くということなのです。その恐ろしい罪から、私たちは救い出されたのです。神様がそのように罪人の罪性をそのまま放置しておいてしまわれるのです。
コモン・グレース(common grace)を収めてしまわれれば、どのようなことが発生しますか?エゼキエル書38章に、その終わりの時に起こるその内容が、正確に描写されています。
エゼキエル書38章1節へ行きます。
(エゼキエル書 38:1-6, 15-17)
1 次のような主の言葉が私に臨んだ。
2 「人の子よ。メシェクとトバルの大首長である、マゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言して、
3 言え。神である主はこう仰せられる。メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。今、私はあなたに立ち向かう。
4 私はあなたを引き回し、あなたのあごに鉤(かぎ)をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を引き出す。それはみな完全に武装した馬と騎兵、大盾と小盾を持ち、みな剣を執る大集団だ。
5 ペルシアとクシュとプテも彼らとともにおり、みな盾とかぶとを着けている。
6 ゴメルとそのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマとそのすべての軍隊、彼らとともに多くの民がいる。あなたとともに彼らを引き出す。
15 あなたは、北の果てのあなたの国から、多くの民を連れて来る。彼らはみな馬に乗る大集団、強力な軍勢だ。
16 あなたは、雲が地を覆うように、私の民イスラエルに攻め寄せる。ゴグよ、終わりの日に、私はあなたを私の地に攻め寄せさせる。それは、私があなたのうちにご聖潔(せいけつ)
を現し、諸国の民が私の前で私を知るためだ。
17 神である主はこう仰せられる。あなたは、私が昔、私のしもべイスラエルの預言者たちを通して語った、その者ではないか。彼らはその当時、何年にもわたって、私があなたを彼ら
に攻め寄せさせると預言したではないか。」
このようにエゼキエル書やダニエル書、ゼカリヤ書、ヨハネの黙示録のような、この終わりの時に起こる事柄について説明されている聖書を読むとき、私は本当に鳥肌が立つほど感動
します。あまりにも嬉しくて!「その日は必ず来る!間違いなく来る!このように正確に記録されているのだから、必ず来る!敵の前で私の前に膳を整えてくださる日が必ず来る!そ
うだ、今は金持ちになり、大きくリバイバルしたと威張って私たちを指差しているが、彼らが間違っており私たちが正しかったという、その日は必ず来るんだ!」
このお話はですね、終わりの時に私たちに起こる「ハルマゲドンの戦い」について語っている「ゴグとマゴグの戦い」という部分です。ハルマゲドンの戦いというのは、終わりの時に私た
ちが戦い抜かなければならない霊的な戦争なのです。今、私たちは深刻な霊적戦争をしています。そうですよね?この霊的戦争の結論部分のような場所なのです、ハルマゲドンの戦
いというのは!
今は神様がコモン・グレース(common grace:一般的恩恵)によって、社会法や良心のようなもの、倫理道徳で私たちを抑えておられますが、いつか神様がそれをパッと解き放たれ
るとき、塞き止められていたダムをパッと開放されるとき、もはや人間たちがどれほど悪くなるのか。彼らが群れをなし、軍隊を作って、神様に向かって剣を抜くでしょうが……
私たちに向かっても共に剣を抜くのです。私たちが神様の味方だからです!
ところが、そこに何と書かれているかというと、神様が「私はあなたのその勢力たちを、鉤(かぎ)であごを貫いて引き出す」というのです。戦争をさせるために!そうすると、まるで
神様がわざと戦争を誘導されているように見えますよね?ここで「私が鉤であごを貫いて引き出す」というお話が、パロの心を頑なにされたという言葉と同じ意味なのです。
放っておけば、人間はそうなってしまうということなのです。
皆さん!そのように神様が抑えておられたコモン・グレースを放してしまわれる日を、聖書では「サタンが底知れぬ所(無底の淵)から解き放たれる日だ」と言います。聖書は!黙示録
をよく読んでみれば、今はサタンが底知れぬ所に閉じ込められている時だと言っています。
でも、そうではないでしょう?皆さんの人生では、絶えずサタンが試練を与えているじゃないですか、今!ところが聖書は、サタンが今は底知れぬ所に閉じ込められている時期だと言
います。しかし、ある日そのサタンが解き放たれる日があると語っているのです。それはどういう意味でしょうか?
今、私たちが「底知れぬ所(無底の淵)」と言うと、どうしても場所的な概念としてそれを理解しようとするから、聖書が理解できないのです。サタンが底知れぬ所に閉じ込められてい
るというその言葉は、サタンは天から私たちに向かって讒訴(ざんそ:訴え)していたのです。「神様!あいつは有罪です。あいつには罪があります。あいつは死ななければなりませ
ん」と。ところが十字架によって、そのように讒訴できなくなってしまいました。神様がイエス・キリストを通して、私たちの罪をすべて塗り消してしまわれたので、もはや讒訴できなく
なったのですね。
それでサタンは追い出されたのです。ですからこの地上で、もはや私たちの永遠の命に関与することはできません。影響を及ぼすことはできないのですが、最後まで追いかけ回しなが
ら私たちを迫害し、苦しめているその状態!しかし永遠の命には影響を及ぼすことができないその状態を、サタンが(사탄이)底知れぬ所に閉じ込められていると言うのです。ヘブル
人への手紙2章14節を見てください。
(ヘブル人への手紙 2:14)
14 子たちは血と肉とに共に属しているので、イエスもまた同様に、それらを備えられました。それは、死によって、死の勢力を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼし、 悪魔を滅ぼされた
そうです。イエス様が死ぬことによって、その死を飲み込んでしまい、無くしてしまわれたのです。悪魔を無くされた(無力化された)というので
す。「デス・オブ・デス・イン・デス・オブ・クライスト(death of death in death of Christ:キリストの死における死の死)!」という言葉がありますよね?そのイエス様の死によって、究
極的に私たちに来るはずだったあの死が、なくなってしまったということです。その死が死んでしまったのです。キリストの死における死の死!それによって、あの悪魔が、無きもの
とされた(武装解除された)のです。コロサイ人への手紙2章15節を見れば、
(コロサイ人への手紙 2:15)
15 支配と権威の武装を解除して、それらをさらしものとし、十字架によって勝利されました。
なぜですか?十字架のその勝利が、まさに「ハビング・ディスアームド・ザ・パワーズ・アンド・オーソリティーズ(having disarmed the powers and authorities)」!ハビング・ディスア
ームド(having disarmed)!武装解除させてしまったというのです。サタンは今、武装解除されたのです。私たちの永遠の命に、もはや影響を及ぼすことができない存在になってし
まったということですね。
ユダの手紙1章6節を見れば、
(ユダの手紙 1:6)
6 また、自分たちの領分を守らず、自分の住まいを捨てた天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で繋いで、暗闇の中に閉じ込められました。
(というわけです。彼らは閉じ込められています。そういう意味なのです。)
ですから皆さん!今、もし金縛りにあったり、幽霊を見たりする人々がいますか?「私になぜあのようなものが現れるのか」と考える前に、まず確認すべきことがあります。皆さんの中
に聖霊がおられるかから確認してください。
もし皆さんの内に聖霊がおられ、イエス・キリストの子供であるという確信があるならば、皆さんは今、騙されているのです。聖霊が私の内におられるのに、雑霊(ざつれい)が私に
近づき、犯すことができますか?福音書で何度も見たではありませんか。悪霊がいる場所にイエス様が近づくと、「一体なぜ今来て、もうすでに私を苦しめるのか」と悪霊がみな逃げて
しまうのです。なのに皆さんは何を見ているのですか?三年前になくなった叔母さんがパッと現れました。それで一緒に行こう!と。
神様の御手と神様の目から離れて、あの炎のような目から離れて、この九天(地獄と天国の間の迷える場所)を彷徨える魂が一人でもいますか?いません!死ねば地獄か天国へ行くの
です。この九天を彷徨う魂は一つもありません。神様をそんなにいい加減に見ておられるのですか?サタンの勢力である雑霊が現れて、皆さんを誘惑し惑わすことはあるかもしれませ
ん。ならばその時、皆さんが堂々と「私の内に聖霊がおられる、私はイエス・キリストを信じる者だ」と、何を恐れる必要があるというのですか?
悪霊が最高に私たちを苦しめる方法、それは何ですか?私たちの肉体の命を絶つことです。ヨブの子供たちをサタンが殺します。神様の許しを得て!そのような能力までも持っていま
す。その時、私たちキリスト者は、私を殺せば私はどこへ行くのですか?天国へ行くのです。「勝手にしてみろ!そうだ!私はすでに永遠の(영원한)命を約束された者だ。好きにし
ろ!」そのような堂々とした態度でその前に立てば、なぜ彼らが現れるでしょうか、皆さん!
私の内にイエスがいると言うのでしょう?聖霊がいると言うのでしょう?なのにその悪霊を怖がるのですか?それは「私は今、イエスを信じていない人です」と言っているのと同じで
す。騙されないでください。すべては欺きです、皆さん!サタンができることは、ディスアームド(disarmed:武装解除)されたため、騙す方法しかありません。私たちがこの聖書
(성서)をあまりにも知らないから、あのイエスをあまりにも知らないから、私たちは騙され続けるのです。騙されるがままに、ただ何度も引っかかるのです。あの方がどれほど凄ま
じい方なのかを知らないから!
神様が今、このサタンの(사탄의)勢力を抑えておられますが、ある日パッと解き放たれます。底知れぬ所から彼らが解き放たれる日がありますが、その時がハルマゲドンの戦いとい
う時なのです。神様が彼らを、あごを、鉤で貫いて引き出し、私の子供たちと戦争をさせるのです。そうすると、私たちが論理的に考えれば、その時私たちは共に剣を抜き、聖霊の剣
を抜いて戦い、すべてを殺して「勝利!」して千年王国が来るように思えるじゃないですか。ところが聖書は、「私たちがみな死ぬ」と言っています。彼らの手によって!
ご存知ですか?私たちはこの地上で格好をつけて、繁栄を享受しながら生きるように作られた神の民ではありません。私たちはこの地上で死ぬことになっています。
その戦争で!ヨハネの(요한의)黙示録11章7節へ行きます。
(ヨハネの黙示録 11:7-10)
7 彼らがその証しを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう。
8 彼らの死体は、霊的な意味でソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。それは、彼らの主も十字架につけられた場所である。(そこで私たちは死ぬのです。)
9 もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺め、その死体を墓に葬ることを許さない。
10 この二人の預言者が地に住む者たちを苦しめたので、地に住む者たちは彼らの死を喜び祝って、互いに贈り物を交わす。
その悪しき勢力は私たちを殺します。そのような力も持っているのです。私たちは、あのイエス・キリストの十字架が立ったその場所で、私たちも共に死ななければならないということ
です。私たち、この教会が存在すること自体が、神の民が存在すること自体が、世の中にとっては苦痛なのです。「一体あいつらのせいで、心置きなく罪を犯すことができない」と。私
たちが生きていること自体が、世の人々にとっては定罪(さばき)になるのです。
だから彼らは何と言っていますか?10節に!「二人の預言者が地に住む者たちを苦しめた」というのです。私たちが(우리가)彼らを苦しめたというのです。私たちの存在自体が彼らを
苦しめるのです。だから彼らは私たちの死を見て、拍手するのです。楽しみ、喜びながら、互いに贈り物を分かち合うのです。「ついに死んだ!」と。私たちはその道に向かって行くので
す。この地上の教会は、まさにその殉教に向かって行くのです。
皆さん!なぜイエス様が、イスラエルの歩みをこの地で繰り返しながら生きられたかご知存ですか?ホセア書でのあの預言を成し遂げるために、イエス様はわざとエジプトに入られた
でしょう?そこで、エジプトから、紅海を渡って出てこられるのです。洗礼を受けられますね?コリント人への手紙第一10章にある、洗礼を受けること!それがまさに紅海を渡ったこ
となのです。そして40日!荒野で試みを受けられ、そして青銅の蛇となって十字架にかかり、復活されたのです。そのようにイスラエルの歩みを生き抜かれたのです。
その言葉は、この「イスラエル」は何を意味しますか?「教会」を意味しますよね?この教会は、このイエス・キリストの歩みを、そのまま生き抜かなければならない存在だということで
す。私たち一人一人が皆、そのイエス・キリストの歩みをそのまま生き抜かなければならないのです。ならば、私たちの教会共同体は、どのように生きるべきでしょうか?あのイエス
様の歩みを、私たちはそのまま生き抜かなければならないのです。
では、イエス様はどうなりましたか?イエス様は苦難を受け、迫害され、裏切られ、最後に十字架でバカのように死なれたのです。私たちはその歩みを生き抜かなければならない人々
だということです。教会はこの地で格好をつけて、リバイバルし、自慢しながら生きるように、そのようになるために作られた共同体ではないということです。私たちはその殉教に向
かって、一歩、一歩歩んでいく、そのような者たちなのです。
皆さん!私たちはそのように死にます。ハルマゲドンの戦いはそれを語っているのです。何を期待されているのですか?皆さん、イエスを信じて?「だんだん良くなるだろう!いつかは
格好よく生きていけるだろう!」それを期待していますか?イエスを信じて?私たちが本当に神の子供であるならば、その日は私たちに来ません。私たちはそのように殉教に向かって
歩まなければならない者たちです。しかし、神様はそれを「勝利だ!」と語られるのです。
聖書で最大の勝利は何でしたか?十字架で、イエス・キリストが死なれたあの事件でした。私たちがイエス・キリストの十字架が立ったその場所で死ぬこと、それが「私たちにとって最大
の勝利だ!」と語られるのです。そうしてから、私たちに希望のメッセージをくださるのですが、「私が、あなたがたが死んだその場所で、あの罪人たちの勢力に向かって、疫病と、雹
(ひょう)と、火と、硫黄を降らせて、すべて焼き殺してしまおう」と仰るのです。
「私たちはそのようにこの地で一度死に、再び新しい人として生まれるのだが……その場所で私の敵!私の対抗者たちは、火と硫黄と疫病と雹で、私がすべて焼き殺してやる!敵の前
で、私は必ずあなたがたに祝宴の膳を整えてやる!」と語られているのです。私たちはそれを見つめて行く者たちです。この地で、神様から「祝宴の膳を受けさせてください!」と祈る者
ではありません。この地で、僧侶たちにまで拍手を受けながら、そのように生きる者ではないのです。
世の中は私たちに向かって嘲笑するでしょう。私たちはそのように死んでいくのです。「お前たちが真の福音を持っているだと?イエス・キリストを正しく伝えているだと?なのにお前
たちはいつも何であんな姿なんだ?なぜ教会員は増えずに、だんだん減っていくのか?お前たちの財政はどうなっているんだ?お前たちの教会にはどうしてエアコン一つないのか?
数百億、数千億ウォンをかけて、私たちはこんなに大きな礼拝堂を建てているではないか。それなのにお前たちが正しい道を行っているだと?神が共におられるのに、お前たちがそん
な風に行くというのか?」
しかし、私たちはそんなことにお構いなしです。私たちは殉教に向かって行く者だからです!それが教会の行く道です。皆さんが、この教会の行く道に従いたくないとおっしゃるな
ら、皆さんはここにいる資格のない方々です。いくらでも良い親睦会はたくさんありますから、そちらへ行ってください!私たちは他の話をして差し上げることはできません。あのイ
エスと共に死ぬ、クリスチャンの歩み以外に、私たちには語るべきことがありません。
では、この恐ろしい霊的戦争を、私たちはなぜこれほど認識できずにいるのでしょうか?なぜ実感できていないのでしょうか?私たちが神の御言葉通りに生きていないからです。
礼拝堂に通っているから、教会に通っているから、イエスを信じているという者たちが、そのまま放っておいても大丈夫なほどに、サタンが(사탄이)安心するほどに、そのように生
きているのに、サタンがわざわざ手を出す必要がありますか?そこに、なぜ力を使いますか?
「なぜ私たちが霊的戦いを感じられずにいるか、ご存知ですか? 엉터리(いい加減)に生きているからですよ。キリスト者としての生を生きていないから、そうなのです。だから、
サタンがそのまま放っておいているのです。」
「おい!あいつは放っておいても、まあ俺が期待しているよりもっとデタラメに生きている。放っておけ!」 「そこに一体どんな戦いがあるっていうんですか?」
私たちが神の御言葉通りに、クリスチャンの歩みを正しく生き抜くならば、私たちの人生には血飛沫の舞う戦争があるようになっているのです。なぜ神様が、私たちに、あの北朝鮮や
このような共産圏にいる、あの迫害されているキリスト教徒たちを私たちの目に見せてくださるのか分かりますか?なぜイスラム圏にいる人々が腕を切り落とされ、皮を剥がれる姿
を、今のこの時代にも私たちに見せてくださるのか分かりますか?
教会とは何ですか?「一つの体」だと言うでしょう?一つの頭(かしら)を持った「一つの体」だと言うでしょう?彼らの苦痛は誰の苦痛ですか?私たちの苦痛です。それが私たちのもの
なのです。「お前たちが今経験している霊적戦争の現場は、まさにこのような姿なのだ」ということを目に見せてくださっているのです。「私たちはアメリカという豊穣の地!アメリカ
にいるから安全だ!」お前たちが経験している霊的戦争が(영적 전쟁이)、まさにそれだということを見せているのです。「神様!感謝します。私たちはどうしてこんなに豊穣の地に
生まれたのでしょうか?」これではないのです!
その時、そのような霊的戦争を(영적 전쟁을)経験している時、私たちが唯一動員できる武器は何ですか?「祈り」です。それが祈りなのです。唯一それを使うようにと私たちに与え
られたのです。霊적戦争の現場で、神様と緊密に疎通する手段!「神様!今、砲弾が飛んできています。神様!彼らの剣が私たちの喉を狙って飛んできています。神様!援軍を送って
ください、神様!防いでください!」と、戦場で使われる通信兵が(통신병이)持っている「ウォーキートーキー(無線機)」なのです、祈りは!
ところが、私たちは祈りをどう使っていますか?ただ家で使うインターホンです。「お父さん!ご飯ちょうだい!お父さんお小遣いちょうだい!足りないよ」そのようなものですか、祈り
が?祈りは戦場で使うウォーキートーキーなのです。皆さん!私たちはそのような霊的戦闘の現場で祈りながら、「神様!私たちは当然、あの滅びゆく者!あちら側に立っているべき
者なのに、私たちはどうやって救われ、ここにこうして来ているのですか?」と感激するのです。
第二に、「はぁ!今はまさにあのハルマゲドンの戦いへと向かう霊的戦争の延長線上にある、まさにこのような危急な時なのだな!」と現実を自覚するのです。「今こそがまさにあの末
世!あの終わりの時なのだ!だから私たちは、あの明日の糧である、イエスを求めなければならない、まさにその時なのだ!」それを知るのです。
そして第三に、「私たちはこのように試みられ、苦しみを受け、彼らに指を差されるが、必ず神様が雹と疫病と火と硫黄で、彼らを打ち殺す日が、必ず来る!」それを確認するのです、祈
りながら!そして喜ぶのです、「その日は来る!」と。
どうして喜ぶことができますか?私たちは毎日毎日、今、試みにあっていますし、毎日毎日!正直になりましょう。倒れるじゃないですか、その試みに!皆さん、その試みに勝ちます
か?毎日毎日毎日毎日倒れますよね?なのにどうして喜ぶことができますか?
ここで、私たちが祈りに対するデフィニション(definition:定義)を、改めて下していくのです。私たちが「イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」と祈るそこ
には、どのような意味があるのでしょうか?「イエス・キリストの御名によって祈る!」どんな祈りでも全部しておいて、イエスの名前さえ付けておけば、ただ神様がすべてお聞きになる
のですか?「イエス・キリストの御名によってお祈りいたします!」と祈るそこには、どのような意味があるのでしょうか?あなたがたが神の(신의)民であり、イエス・キリストの兄弟で
あり、神の子供であるならば、あなたがたはあのイエスが捧げるあの祈りの水準まで上がってきて祈りなさいということです。あのイエスの御心がどのようなものであるか、見極めて
祈りなさいということです.
ですから、イエスの名前で祈りが神様の前にパッと捧げられると、神様が「Qマーク」をパッと付けられるのです。「イエスの名で上がってくるこの祈りは、私が聞かなくても正当な祈り
であることを知っている」その水準まであなたがたが上がりなさいということです。ですからイエスの名で、神様の前にシャキッと捧げられる祈りは、「品質保証」です!ハンドバッグと
いえば、プラダ!ラーメンといえば、農心辛ラーメン!そのようなものです。化粧品といえば、コリアナ!私たちのファン・ムヨク執事様がコリアナで働いておられるのに、どうして私
がアモーレだと言えますか?コリアナ!あぁ、そのように「品質保証」!それが「イエス様の御名によってお祈りします」という意味なのです.
ある牧師様がこのような例え話をされていました。説教の時に、自分はアパートにすごく長く住んでいたそうです。そして、とても有名な牧師様です。ですから自分の家族までも、そ
のアパートの前にある、あの小さな店の主人が皆知っているということですね。ところがある日、自分の息子がその店主のところへ行って、「おじさん!うちの父さんが焼酎一本くれっ
て言ってます」と言ったら、その店のおじさんはくれるでしょうか?「お前が飲もうとしてるんだろ?」と言うのです。父親が誰であるか知っているのに、その父親の名前で行って「焼酎
一本ください!」と言えば、その店のおじさんでさえゲンコツを食らわせるということですね。
ところが、私たちは「イエス様の御名によってお祈りします」と言っておきながら、全部「焼酎(俗世の欲望)」をくれと言っているのです、行って!神様の御前に行って!皆さんが捧げ
ている祈りは何なのですか?それを確認してみてください、ということです。イエス様の御名によって祈れということは、「イエス様ならば、どのような御心と、どのような水準で祈ら
れるだろうか?」と私たちが推し量りながら、そのような祈りをせよということなのです。
では、イエス様が今、直接教えてくださったこの「主の祈り」は、イエス様が直接私たちに教えてくださった祈りであるなら、どうでしょうか?直接祈りを「こう、こう, こう、こうしなさ
い!」と教えてくださったその主の祈りであるなら、その主の祈りはイエス様の願い(祈願)ですよね?イエス様はどなたですか?神様です。神様が願われることが成し遂げられるで
しょうか、成し遂げられないでしょうか?成し遂げられますよね?
ならば、「私たちを試みにあわせないでください!」という、あのイエス様の祈りは、聞き入れられたのですか、聞き入れられなかったのですか?聞き入れられました!ここでまた「オー
ルレディ・ノット・イェット(already not yet:既に、しかし未だ)」が出てくるのです。その祈りは聞き入れられた祈りです。前でも見てみましたが、「御国が来ますように、御心が天
で行われるように地でも行われ、私たちに明日の糧!あのイエスを送ってください!私たちが私たちの罪を赦したように、私たちの罪も(죄도)赦してください!」これらはすべて成し
遂げられた祈りだと見てきたではありませんか。
ならば、「私たちを試みにあわせず、ただ悪からお救いください」というあの祈りも、すでに成し遂げられたのです。荒野で、イエス・キリストがサタンから試みを受けられながら、どのよ
うに勝たれましたか?「あなたの神である主を試みてはならない!人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのだ!」と言われながら、終わらせられた
のです。その試みに完全に勝利されました。
アダムはどうしましたか?プロベーション(probation:試用期間・試験)が来た時、どうしましたか?「善悪の知識の木の実を食べてはならない!」と言われたのに、食べたのです。
だから天使が、彼らを追い出してしまいました。イエス様がその試みに勝たれた時、どのようなことが起こりましたか?「御使いたちが仕えた」と言うのです。そして、その試みに勝たれ
た現場に、ルカの福音書によれば、「野の獣と共にいた」と言われています。その言葉は何をヒントにしているかというと、「エデンが回復された」ということです。
アダムはエデンから追い出されて、呪いの地である荒野に行きましたが、呪いの地!荒野におられるイエス様は、その試みに勝つことで、今やエデンを回復されたのです。ここで皆さん
が誤解してはならないのが、「私たちが後で行くべき場所が、エデンを回復させるそのような場所に行くことなのだな」と語る人もいます。それは違います.
エデンについては、アダムは罪のない者として生まれましたが、そこにはまだ試みがある場所です。善悪の知識の木がある場所ですね。私たちが行く場所は?ヨハネの黙示録で、新し
い天と新しい地には、命の木がありますよね?川もありますね?全部あります。でも何がないですか?善悪の知識の木がない場所です。プロベーション(probation)がない場所で
す。そこは、イエス様が荒野でこの試みに完全にすべて勝っておかれたので、善悪の木がないのです。根こそぎ抜かれて、なくなってしまった場所なのです。私たちはそこを生きてい
る人であり、そこを待ち望んでいる人々ではありませんか?
人々はしきりに「エデンへ、エデンへ帰ろう!」というスローガンまであります。そう言いながらヌーディスト(nudist)たちがですね、服を全部脱いでですね、「私たちはエデンでその
ように創造された。私たちはエデンに帰る者たちだから、聖書的に服を脱いで生きるのが正しい!」正しいですか?本当にそれが?
私たちはエデンに帰るのではありません。裸で創造されたあのエデンから、新しい天と新しい地で、義の白い亜麻布を着る者たちへと、どのように神様が作り変えていかれるかを見せ
てくださるのが、聖書なのです。それが救いの歴史であり、救済史(구속사)だということです。それを!ですから私たちは「義の白い衣を着た者たち」へと作り上げられていくので
す。ここが目的なのです。
神様はこれを目的として、裸のアダムとエバを創造しておかれたのです。彼らが「エイブル・トゥ・シン(able to sin:罪を犯しうる状態)」、罪を犯すことができる状態!無罪な者でし
たが、「エイブル・トゥ・シン」罪を犯しうる状態から、「ノット・エイブル・トゥ・シン(not able to sin:罪を犯しえない状態)」へとどのように行くのかを、私たちに説明してくれようと
しているのが、まさに聖書なのです.
どうしても罪を犯そうにも犯せないような者に、どのように作り上げていかれるのか?十字架です。それが!聖書はその話をしています。
およそ罪を犯そうにも犯しようのない、そのような者に、いかにして造り替えていかれるのでしょうか? 十字架です。それが! 聖書はその話をしています。イエスと十字架以外には、
何の話もしていません。その話以外には! 主に私たちは礼拝堂でそれを学ぶのです。ですから、ヌーディストたちに会ったら、「それは違う、服を買って着なさい」と伝えてあげてくだ
さい。どうか!
皆さん! 私たちが、イエス様が荒野で誘惑に打ち勝たれた時、私たちはどこにいましたか? その中にいたのです。十字架で亡くなられた時、私たちがその中にいたように、あの荒野で
イエス様が誘惑に完全に打ち勝たれた時、私たちは皆その中にいたわけです。では、そのようにすべて誘惑に勝ち、完全に最後の日、その祈りに応えられるのであれば、なぜ私たちは祈
らなければならないのでしょうか? なぜ祈る必要があるのですか、私たちは? 「試みにあわせず、悪から救い出したまえ」と? やはり、私たちのためにそうするのです。私たちのため
に! 神様が、私たちが祈らなければ何もしないということではなく、私たちのために祈れということです。
私たちは毎日このように誘惑に負けながら、「いいえ、神様! 私はこのような存在なのに、神様が私をこのまま放っておかれたら、毎日このように誘惑に負けて、あのサタンの側、ハル
マゲドンの戦いであのサタンの側にいるはずの存在なのに、どうして私がここで今、神様にこのような祈りを捧げているのでしょうか?」と、時々そのように感じるではありませんか。
私たちは神様の側で、味方ではなく敵軍であるかのように思いませんか? 時にはそのような実存を見つめながら、「神様! どうしてこのような人間に、満点だと言ってくださるのです
か? どうしてこのような人間に向かって、『お前は満点だ!』と言ってくださるのですか?」と言いながら、感謝するのです。
その感謝が溢れ出しながら、私の人生が少しずつ変化していくのです。「そうだ、そういうことなら、あのように神様が御子を、こんな人間のために死なせられたのなら、これくらい一
度勝ってみよう!」そうして誘惑を一つ、また一つと勝ち抜いていくことになるのです。それが私たちクリスチャンの人生なのです。それに勝ち抜いていくことが簡単でしょうか?
自分の身を削り、骨を削るような思いでしょう。それを殉教(じゅんきょう)と言うのです。私たちはその場所へと行くのです。
自分がビジネスで損をすることが、簡単だと思いますか? 他の人から後ろ指を指されながら、正しく生きるという、その人生が簡単だと思いますか? それを私たちは「殉教」と言うので
す。サタンは私たちをそのように、じわじわと深刻に殺していくでしょう。しかし、それは私たちにとって恵み(めぐみ)であり、祝福(しゅくふく)だということです。この逆説が
、少しでも皆さんに理解していただければ幸いです。私たちはそのようにして、神の子へと造り替えられていくのです。
サタンはこのように私たちを熱心に攻撃しています。以前は、サタンが私たちを剣や銃で脅しながら試しました。「イエスを信じれば死ぬぞ!」最近はどうでしょうか? 科学と文明、
そして私たちのこの薄っぺらな理性(りせい)! このようなものを用いて、私たちを試すのです。
私には工学博士の友人が一人いますが、その友人が私に、アインシュタインの相対性理論、それを持って私に質問してきたのです。私は先週、その相対性理論を勉強するために丸一日
を費やしました。アインシュタインの相対性理論に従えば、その公式に当てはめると、質量のある物体は光の速さまで行くことができません。光の速さで動くことはできないのです。
その光の速さで一年間走る距離が1光年ですが、私たちの近くにあるアンドロメダ星雲は、200万光年離れている星雲です。そこまでは、光の速さで走っても200万年かかります。そう
でしょう!
イエス様は肉体を持って復活されました。すると、彼が考えるには、彼はキリスト教徒ですが、イエスには質量があるというのです。質量がある物体は、アインシュタインの相対性理
論の公式に当てはめると、この運動質量が無限大になるため、不可能だというのです。だからイエス様は今、光の速さまでは行けず、それに近い速度で絶え間なく走り続けているとい
うのです。どこへ? 三層天(さんそうてん)へ! 私たちは一層、二層、三層天と話しますよね? 一層天は大気圏! 二層天は宇宙! 見えない宇宙です! 三層天はパウロが行ってき
た、ビヨンド・コスモス(beyond cosmos)でしょう? つまり、イエス様は今まだ2000年しか経っていないから、光の速さで行ったとしても、今は2000光年までしか行けていな
い。だからあそこにいるんだ、どこか辺りに!
それで私は、「君は神が天地を創造されたことを信じているか?」と聞きました。信じているそうです。「神が、この宇宙を動かすその秩序を作られた方であることを信じているか?」信じ
ているそうです。「そのイエス・キリストによらなければ、この地に創造されたものは一つもない、ということを君は信じているか?」信じているそうです。ならば、なぜイエス様がアイ
ンシュタインの相対性理論に従って、その公式に代入して走らなければならないのか? イエス様は、私の知るイエス様は、思考の速度で動くことができる方だ。
科学を持って人々は神を証明しようとします。科学で! その神が証明できますか? 科学と文明は私たちを豊かにしましたか、本当に? 科学と文明とは何ですか? カインの末裔(ま
つえい)たちが、自分たちの力で生きていかなければならないために、城を築き、文明を造り、科学を発展させてきたものです。
昔は稲妻が走り、雷が鳴れば、神の前で人々は謙虚になりました。「もしかして神様、私が何か罪を犯したのでしょうか?」と行きました。今は避雷針をピシッと立てて、「私たちは安全
だ!」と言っています。洪水が起きれば、「神様! 神様が助けてくださらなければ、私たちは食べていけません。どうすればいいですか? どうか雨を止ませてください!」と言っていま
したが、最近はダムを築くのです。堤防を築き、神を不要な存在にしてしまっています。それが科学の行く道です。私たちをむしろ永遠の死へと引きずり込んでいるのが、まさに科学
なのです。
理性が作り出したものは何ですか? 「なあ、どうして神がイエスとしてだけ来られただろうか? 釈迦としても来られ、仏としても来られ、孔子、孟子、老子、荘子、ソクラテスとして
も来られただろう。」私たちのこの理性は、その限界の中ではそのようにしか考えられないのでしょう。そのように科学と文明と理性、これらが作り出したものがそれです。
人間の理性が不可能であることは、第二次世界大戦の時にすでに明らかになったではありませんか。「理性を教育して、地上天国を作ってみよう!」としてルネサンスを起こし、文芸復
興を起こしましたが、いや、一人の人間が現れると、あれほど教育したにもかかわらず、互いに殴り合い殺し合い、600万人を虐殺したというのです。「ああ、人間の理性ではダメなん
だ。教育させてはダメなんだ」と分かったではないですか。その時、人間の理性は死んだのです。
ところが最近、またもくもくと沸き上がっています。マルクーゼやハーバーマスのよう、宋斗律(ソン・ドゥユル)教授の師匠ですね? ハーバーマスのような社会学者が、「弁証法的理
性」だ何だと言って、最近また持ち出しています。
私たちの理性を教育すれば、地上天国、地上の楽園が成し遂げられるでしょうか? サタンはそのように科学と文明と理性で、私たちを絶え間なく試しているのです。私たちの罪性を刺
激しているのです。私たちの古き人を刺激しているのです。「おい、どうして神ばかりを追って生きるんだ? お前たちの力でもできるぞ!」それを刺激しているわけです。その時に祈る
のです、私たちが! 「神様! 私はその神様によってのみ生きます。私を試みにあわせず、この悪しき勢力の誘惑から、この試練から救い出してください!」その祈りは、私たちのすべて
の人生に適用されなければならないのです、祈りは!
私が運転をする時、私は運転を少しゆっくりする方です。時速65マイル、制限速度が65マイルなら、きっちり65マイルで行きます。時速50マイルなら、50マイルで行きます。牧師だ
からそうしているのではなく、昔、大きな事故を起こしてから、怖くて出せないのです。そうやって行くと、後ろから来る人たちが追い越しながら、挨拶をして行きます。挨拶をこう
(普通に)してもいいし、こう(会釈)してもいいのに、必ず中指を立てながら(ハハハ)「なぜ遅いんだ?」と言わんばかりに。すると私の心の中に、「あいつを追いかけて復讐してや
ろうか?」という心が植え付けられるのです。そのような誘惑が来ます。その時に祈れということです。「神様! 御国(みくに)が来ますように!」
その国が来れば、私は神の統治に従って生きるという誓約でしょう? 「神の統治が私の人生を導いてくださいますように! 私の思い通りではなく、私は追いかけて一発お見舞いしてや
りたいけれど、私の思い通りではなく、神の御心(みこころ)のままになさってください。神の御心! 許せというその許しが、私の人生から現れますように。それで、私が隣人を許し
たように、私も神の前で堂々と『私を許してください!』と告白できるような者にならせてください!」 この主の祈りの中に、すべて含まれているのです。私たちが試練に直面した時、捧
げることができる祈り? それが主の祈りだということです。
このように私たちが主の祈りを見つめた結果、主の祈りのすべての内容は、神の国に関することでした。そうでしょう? 神の国! この地での私たちの人生! この地での私たちの人生
の豊かさと繁栄! それについては一言も語っていません。イエス様が私たちにこのように祈りなさいと教えてくださったあの祈りの中には、この地での私たちの人生に関するものは
何もありません。神の国です。すべて神の国! それ以外には何もありません。
私たちは祈りの最初の時間に学びました。人々が自分の心の中に絶えず沸き起こる願い、祈り! その祈りを通して、人間は自分の身分とアイデンティティが決定されるのだと学びま
したね? ですから、「私の願いは宣教だ!」という人を、私たちは宣教者と呼ぶと言いました。ジム・エリオットのような人! 「私はこうして苦労して稼いだ金だから、節約しなければな
らない!」という人を、私たちは守銭奴と呼ぶと言いました。「スクルージ」だと。
どのような願いを持っているかによって、どのようなことを祈るかによって、その人のアイデンティティが決定されるのであれば、イエス様が私たちにこのように祈れと言われた、こ
の全体の内容は何でしたか? 神の国に関することだったではないですか。ならば、私たちは神の国の民だということです。私たちはそれほど高貴な存在だということです。私たちは
そのような些細なことではなく、神の国のために祈ることができる、そのような存在だということです。それを私たちは今、確認することになったのです。「私たちはそのような存在
だ! 私は神の国を祈る者であり、神の国の到来を熱望する者だ!」それを私たちは確認するのです。
私たちは主の祈りを学びながら、私たち神の民は、この地のものに縛られて生きる者ではなく、神の国を待ち望みながら生きていくべき者であることを自覚するのです。そして、私た
ちを取り巻いているその現実に屈服せず、そこに膝を屈することなく、勇ましく堂々と走るべき道を走らなければならないという、そのような確信に至るのです。
皆さん! 主の祈りの中に、そのようなすべての祈りの答えが入っています。私たちクリスチャンは、まさにその祈りをすべき者たちです。その祈願と誓約の中に、私たちクリスチャン
がいかに生きるべきか、何を願い、何を望んで生きるべきか、すべて入っているのです。その中で、皆さんの祈りが行われなければなりません。
イエス様の願いであるその祈り! そして、イエスがすべて成し遂げられたその祈り! それが主の祈りです。ですから、私たちは主の祈りを一言で要約するとしたら、「イエス様! あり
がとう!」それ以外にはありません。主の祈りを一言で要約せよと言われたら、「イエス様! ありがとう!」それ以外に言うことはないのです。
毎日毎日、私たちはそのように神の民として、主の祈りを思い出しながら、私たちの祈るべきことが何であるか、もう一度確認するのです。そして天国の民としてのその身分を確認し
ながら、感激し、感謝しながら、歩むのです。
さあ、皆さん! 主の祈りの真意をすべて知ったのですから、私たちは今や主の祈りを捧げられる者となりました。ですから、今日の礼拝を、主の祈りを共に唱えながら、終えたいと思います。
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주기도문강해 5 (마6:9-13)
말씀을 함께 봉독하도록 하겠습니다.
(마태복음 6:9-13)
9 그러므로 너희는 이렇게 기도하라 하늘에 계신 우리 아버지여 이름이 거룩히 여김을 받으시오며
10 나라이 임하옵시며 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다
11 오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고
12 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이 우리 죄를 사하여 주옵시고
13 우리를 시험에 들게 하지 마옵시고 다만 악에서 구하옵소서 (나라와 권세와 영광이 아버지께 영원히 있사옵나이다 아멘)
오늘 주기도문의 마지막! ‘우리를 시험에 들게 하지 마옵소서. 다만 악에서 구하옵소서.’라는 첨언(添言)을 공부해 보도록 하겠습니다. 여기서 우리가 ‘시험’이라는 말을 잘 정의하고 넘어가야 될 것 같아요.
여러분! 성경에서는 그 시험이라는 말이, 두 가지 의미로 쓰이죠? 어떤 의미로 쓰이죠? 첫 번째, 하나는 ‘사탄의 유혹(誘惑)’이라는 말로, 시험이라는 말이 쓰입니다. 두 번째로는 ‘하나님의 시험’이라는 말로, 그 말이 쓰인다고요. 거기서 쓰인 그 ‘페이라죠’라는 그 헬라어 원어가, 이 ‘사탄의 유혹’과 ‘하나님의 시험!’ 이 두 가지에 혼용되어서 쓰이기 때문에, 우리가 가끔 그렇게 혼동할 수 있다고요.
예를 들어서, 하나님은 우리를 시험하십니다. 그죠? 어디서 시험하셨죠? 창세기 22장 1절로 가보겠습니다.
(창세기 22:1)
1 그 일 후에 하나님이 아브라함을 시험하시려고 그를 부르시되 아브라함아 하시니 그가 가로되 내가 여기 있나이다
분명히 하나님이 아브라함을 시험하셨다. 그런다고요. 그리고 신명기 8장 2절로 갑니다.
(신명기 8:2-3)
2 내 하나님 여호와께서 이 사십년 동안에 너로 광야의 길을 걷게 하신 것을 기억하라 이는 너를 낮추시며 너를 시험하사 네 마음이 어떠한지 그 명령을 지키는지 아니 지키는지 알려 하심이라
3 너를 낮추시며 너로 주리게 하시며 또 너도 알지 못하며 내 열조도 알지 못하던 만나를 네게 먹이신 것은 사람이 떡으로만 사는 것이 아니요 여호와의 입에서 나오는 모든 말씀으로 사는 줄을 너로 알게 하려 하심이니라
하나님은 분명히 이렇게 우리를 시험하신다. 그래요. 그런데 그 시험은, 우리를, 우리의 믿음을 확인시키고, 우리의 믿음을 교육하기 위해서 하는 시험이라고요. 그런데 성경에서는 또 다른 곳에서 ‘하나님은 우리를 시험하지 않는다.’ 그런다고요. 야고보서 1장으로 갑니다. 13절.
(야고보서 1:13-15)
13 사람이 시험을 받을 때에 내가 하나님께 시험을 받는다 하지 말지니 하나님은 악에게 시험을 받지도 아니하시고 친히 아무도 시험하지 아니 하시느니라
14 오직 각 사람이 시험을 받는 것은 자기 욕심에 끌려 미혹됨이니
15 욕심이 잉태한즉 죄를 낳고 죄가 장성한즉 사망을 낳느니라 (그런다고요.)
여기서는 분명히 ‘하나님은 우리를 시험하지 않는다.’ 그런다고요. 한쪽에서는, 하나님은 우리를 시험한다. 한쪽에서는, 하나님은 우리를 시험하지 않는다. 그런단 말이죠? 이 야고보서에서 하나님이 우리를 시험하지 않는다는 이 시험은, 바로 그 사탄의 유혹과 같은 유(類)의 시험을 이야기 하는 거예요. 그러니까 히브리어에서 ‘나싸’ ‘나싸’라는 말과 이 ‘페이라죠’라는 이 말이, ‘사탄의 유혹’과 ‘하나님의 시험!’ 이 두 말에 혼용되어서 쓰였기 때문에, 우리가 그렇게 지금 헷갈리는 거예요.
이 야고보서에서 말씀하는 이 시험은, 우리가 우리 주변에서, 어떤 사람들을 볼 때, 참 신앙생활을 잘 하다가, 아! 이 사람이 갑자기 옛날의 그런 악습에, 악한 습관에 다시 빠져들고, 그런 죄악에 빠져들 때, 우리가 그를 보고, ‘저 사람 시험 들었어!’ 그렇게 이야기 하죠? ‘저 사람 시험에 들었어!’ 이렇게 이야기 하지 않습니까? 그 때, 그 시험! 사탄의 유혹! 죄를 짓게 하는 그 시험! 하나님은 그러한 사탄의 유혹 같은 죄를 짓게 하는 그 시험은, 하지 않으신다는 거예요.
하지만, 그 자녀를 위해서 애굽에서 그 이스라엘 백성들을 데리고 나오실 때, 어떻게 시험하셨죠? 광야에서, 그들을 물이 없는 곳으로, 음식이 없는 곳으로, 먹을 것이 없는 곳으로 데리고 가시다가, 먹을 것을 주시고, 마실 것을 주심으로 해서, 그들이 어떠한 존재인지, ‘너희들이 내가 이렇게 먹을 것 마실 것 주면은, 나를 제대로 섬긴다고? 그래 한번 섬겨봐라!’ 그러면서 주었는데, 어떻게 됐습니까? 안 섬겼죠? 오히려 우상을 섬기고, 하나님을 향해서 원망의 손짓을 했단 말이죠.
그러니까 ‘너희들이 누구인지 제발 알아먹어라! 그리고 사람은 떡으로만 사는 게 아니라, 하나님의 입에서 나오는 말씀으로 사는 것이다!’라는 것을 가르치기 위해서, 하나님의 백성으로 만들기 위해서, 하나님이 그들을 시험했단 말이죠. 그런 시험은, 우리에게 반드시 있단 말이에요. 그런 류의 시험은, 우리에게 오히려 유익한 거잖아요? 그 시험은 오히려 우리에게 축복이란 말이에요.
그러면 우리가, ‘하나님! 우리를 시험에 들게 하지 마옵소서.’라고 기도하는 것은, 하나님의 교육! 하나님의 우리의 믿음의 확신 같은, 그런 류의 시험은 아니에요. 그죠? 그러면 어떠한 시험을 우리는 거부하는 것입니까? 어떤 시험을? 우리는 ‘그 시험을 들게 하지 마옵소서!’라고 기도하는 거죠? ‘사탄의 유혹! 죄에 빠지게 하는 그러한 시험은, 들게 하지 마옵소서!’라고 기도하는 거예요.
더더군다나 그 ‘우리를 시험에 들게 하지 마옵시고,’ 다음에 나오는, ‘다만 악에서 구하옵소서!’라는 말의 그 ‘악’이라는 ‘투 포네로우’라는 그 원어는, 남성 속격이란 말이에요. 그래서 그 단어의 정확한 뜻은, ‘악한 자’라는 뜻이에요. ‘하나님! 그 사탄의 세력! 그 악한 자의 세력에서 우리를 건져주옵소서!’라는 뜻이에요.
여러분! 아담적 실존을 갖고 있는 그러한 죄인들은, 어떠한 상태입니까? 그대로 하나님이 방치해 두시면, 우리가 로마서 1장에서 살펴봤잖아요? 그들은, 사형에 처할 그런 자들로, 자연스럽게 가는 자들이, 바로 그 아담적 실존을 갖고 있는 죄인들이란 말이에요. 그런 죄인들 사이에서, 어떠한 한 무리를, 하나님이 건져 내셨어요. 그래서 그들의 삶에, 간섭을 하시기 시작했다고요. 가시로 막고, 담으로 막으면서, 그들이 다른 길로 가려고 하면, 그 길을 막기 시작했다고요. 하나님이! 그렇게 하나님이 그대로 방치해 놔두면, 그 죄인들은 끝내는, 하나님을 향해 칼을 뽑아들고, 전쟁을 선포한다고요. 하나님께! 성경에서 그 내용이 명확하게 나와 있어요.
우리는 원래 그런 자들이었어요. 그런데 우리는 거기서 건져졌어요. 우리가 ‘우리를 시험에 들게 하지 마옵소서!’라고 기도하는 것은, ‘하나님! 우리가 그 악한 세력 그 사탄의 시험에 빠져서; 우리가 그들 편에 서지 않게 해 주옵소서!’라는 뜻이에요. 마지막 날에, 아마겟돈 전쟁 때에, 우리가 그들의 편에 서게 되면, 우리는 큰일 나게 되는 것을, 우리는 성경을 통해서 알고 있기 때문에, ‘하나님! 우리는, 그들 편에 서지 않게 해 주시옵소서!’라는 그 기도거든요.
만일 하나님이 우리의 삶에 간섭을 안 하시고 가만 놔두시면, 어떻게 되는지, 성경에서 한번 우리가 꺼내 보자고요. 출애굽기에서, 이스라엘을 애굽의 손에서 건지실 때, 바로에게 하나님께서 이렇게 이야기 하십니다. ‘너는 내 맏아들인, 내 백성들을 놓아주라!’ 모세를 통해서 그렇게 이야기를 하시죠? 그런데 바로가 안 놓아준다고요. 그런데 그 바로의 마음을, ‘하나님이 강퍅하게 하셨다.’라는 말을 쓴단 말이에요.
분명히 출애굽기 4장에서! 하나님은 애굽의 맏이들을 다 죽일 계획을 하고 계신다고요. 모세에게 가서, ‘바로야! 네가 내 맏아들인 이스라엘을 놓아주지 않았으니, 내가 네 맏이들을 다 죽일 것이다.’라고 가서 이야기 하라고 이야기 한다고요. 그러면 하나님은 이미 그들의 맏이들을 다 죽일 계획을 갖고 계셨는데, 그럼 그렇게 딱 결론을 지어버리시지, 아홉 가지 재앙을 그 앞에다가 더하신다 말이죠? 처음부터 맏이들 싹 죽여 버렸으면, 그냥 나갈 수도 있었는데, 그 각 재앙마다 하나님이 뭐라고 부연설명을 하시냐면, ‘하나님께서 바로의 마음을 강퍅하게 하사, 그가 이스라엘을 놓아주지 않더라.’ 그래요.
‘놓아준다.’ 그랬다가, ‘하나님이 그의 마음을 강퍅하게 하사, 그가 이스라엘을 놓아주지 않더라.’ 그런단 말이에요. 강퍅하게 했다는 게 무슨 말일까요? 그냥 착한 사람! 놓아주려고 했던 사람! 하나님이 자꾸 마음을 그냥, 독하게 만들어서, 놓아주지 않게 만들었다는 걸까요? 강퍅하게 했다는 것은, 하나님이 그들의 정욕대로, 그들의 죄성 대로, 그대로 내버려두었다는 거예요.
하나님은 이 죄인들! 죄인들의 그 죄성이 극에 달하는 것을 막기 위해서, 커먼 그래이스(common grace)! 사회법이나 양심 같은 걸로 누르고 계세요. 지금! 어떠한 목적을 위해서 지금 누르고 계시다고요. 하루에도 몇 번씩 ‘야! 저인간은 정말 한대 패줬으면 좋겠다!’ 그리고 가끔씩, ‘아! 저 인간 정말 그냥 확 죽여 버렸으면 좋겠다!’라는 사람들이 있죠? 여러분들에게! 그런데 왜 못 죽여요? 가서 왜 못 때립니까? 법(法)이 있잖아요? 그리고 내 양심(良心)이 자꾸, ‘그것은 악한 일이야!’라고 안에서 소리를 친다고요.
왜 하나님이 그렇게 누르고 계십니까? 마지막에 어떠한 한 사건을 위해서, 하나님은 지금 그 죄인들의 그 죄성이 극에 달하는 것을 막고 계시다고요. 그런데 어느 날, 하나님이 그걸 다 풀어놔버리는 날이 있을 거예요. 하나님께서 바로의 마음을 강퍅하게 하셨다는 것은, 그대로 그의 죄성 대로 놔두셨다는 거예요.
지금 왜 그렇게 아홉 가지의 재앙을, 맏이들을 죽이는 재앙 앞에다가 보태시느냐 하면은, 첫 번째 이유는 그거예요. 그들은 다신교를 믿고 있었다고요. 태양도 신이고, 물도 신이고, 개구리도 신이고, 무슨 뭐 바위도 신이고, 다 신이었어요. 그러니까 ‘아니다! 천지를 주관하고, 자연을 주관하는 이는, 하나님이다!’라는 것을 보여주기 위해서, 그들에게 재앙을 허락하신 것이고!
두 번째! 아주 중요한 이유죠? 이것이! 인간들은 하나님이 그렇게 자기의 정욕대로 놔두면, 어디까지 악해지는가를 보여주시는 거예요. 그대로 그들의 정욕대로 방치(放置)해 놓으면, 하나님이 분명히 살아 계시다는 증거가 그렇게 그들의 눈앞에 펼쳐지는데도, 그들은 하나님을 향해서 칼을 뽑아든다는 거예요. 강이 피로 변하고, 독종과 수역과 황충과 우박이 내려서, 막 사람을 다 때려죽이고 말이죠? 태양이 빛을 잃고 하는데도, 끝까지 하나님을 향해서 칼을 뽑아들더라는 거예요. 맏이들이 다 죽었는데도, 어떻겠습니까? 쫓아와요. 거기를! 그게 죄인들의 속성이라고요. ‘하나님! 나랑 한번 붙어 봅시다!’라는 거예요. 지금! 그리고 불기둥과 구름기둥이, 이스라엘을 앞서거나 뒤서거나 하면서, 보호하면서 가는데도, 끝까지 쫓아가요.
한번 상식적으로 생각해 보자고요. 우리 눈앞에 강이 막 피로 변해요. 태양이 빛을 잃어요. 그런데 거길 쫓아가요. 내 눈앞에서 바다가 갈라져서, 야! 그들의 하나님이 저들을 위해서 바다를 갈랐다는 것을 눈앞에 보이는데, 거길 쫓아 들어가요? 하나님이 그냥 그대로 방치해 놔두시면, 인간은 그렇게까지 하나님을 향해서, 하나님의 목을 조르기 위해, 칼을 뽑아 든다는 거예요. 그 무시무시한 죄에서 우리는 건져 진거예요. 하나님이 그렇게 죄인의 죄성을 그대로 방치해 놔둬버리신다고요.
커먼 그레이스(common grace)를 거둬버리시면, 어떤 일이 발생합니까? 에스겔서 38장에, 그 마지막 때에 일어날 그 내용이, 정확하게 묘사가 되어 있다고요. 에스겔서 38장 1절로 갑니다.
(에스겔 38:1-6, 15-17)
1 여호와의 말씀이 내게 임하여 가라사대
2 인자야 너는 마곡 땅에 있는 곡 곧 로스와 메섹과 두발 왕에게로 얼굴을 향하고 그를 쳐서 예언하여
3 이르기를 주 여호와의 말씀에 로스와 메섹과 두발 왕 곡아 내가 너를 대적하여
4 너를 돌이켜 갈고리로 네 아가리를 꿰고 너와 말과 기병 곧 네 온 군대를 끌어내되 완전한 갑옷을 입고 큰 방패와 작은 방패를 가지며 칼을 잡은 큰 무리와
5 그들과 함께 한바 방패와 투구를 갖춘 바사와 구스와 붓과
6 고멜과 그 모든 떼와 극한 북방의 도갈마 족속과 그 모든 떼 곧 많은 백성의 무리를 너와 함께 끌어 내리라
15 네가 네 고토 극한 북방에서 많은 백성 곧 다 말을 탄 큰 떼와 능한 군대와 함께 오되
16 구름이 땅에 덮임 같이 내 백성 이스라엘을 치러 오리라 곡아 끝날에 내가 너를 이끌어다가 내 땅을 치게 하리니 이는 내가 너로 말미암아 이방 사람의 목전에서 내 거룩함을 나타내어 그들로 다 나를 알게 하려 함이니라
17 나 주 여호와가 말하노라 내가 옛적에 내 종 이스라엘 선지자들을 빙자하여 말한 사람이 네가 아니냐 그들이 그 때에 여러 해 동안 예언하기를 내가 너를 이끌어다가 그들을 치게 하리라 하였느니라 하셨다 하라
이렇게 에스겔서나, 다니엘서나, 스가랴나, 요한계시록 같은, 이 마지막 때에 일어날 일에 대해서, 이렇게 설명해 놓은 성경을 읽을 때, 정말 저는 소름이 막 돋아요. 너무 좋아서! ‘그날은 꼭 올 거야! 반드시 올 거야! 이렇게 정확하게 기록이 되어 있는데, 꼭 올 거야! 원수의 목전에서 내 앞에 상(床)을 베풀 날이 꼭 올 거야! 그래, 지금은 뭐 부자 되고, 크게 부흥한다고 떵떵거리면서, 우리를 손가락질 하지만, 그들이 잘못되고 우리가 옳았다는 그날은 반드시 올 거야!’
이 이야기는요, 마지막 때에, 우리에게 일어날, 아마겟돈 전쟁을 이야기하는, ‘곡과 마곡의 전쟁’이라는 부분이에요. 아마겟돈 전쟁이라는 것은, 마지막 때, 우리가 치러내야 할 영적 전쟁이거든요. 지금 우리는 심각한 영적 전쟁을 하고 있어요. 그죠? 이 영적 전쟁의 결론 부분 같은 곳이에요. 아마겟돈 전쟁이라는 것은!
지금은 하나님께서 커먼 그레이스(common grace)로, 사회법이나, 양심 같은 것! 윤리 도덕으로, 우리를 막고 계시는데, 언젠가 하나님은 탁 풀어 놓을 때, 막힌 댐을 탁 풀어 놓을 때, 이제 인간들이 얼마나 악해 질 것인지, 그들이 떼를 지어서, 군대를 만들어서, 하나님을 향해 칼을 뽑을 텐데… 우리를 향해서 함께 칼을 뽑는 거예요. 우리가 하나님의 편이니까요!
그런데 거기에 뭐라고 이야기 되어 있냐면, 하나님이 ‘내가 너희의 그 세력들을, 갈고리로, 아가리를 꿰어서 끌고 나온다.’라는 거예요. 전쟁을 하게! 그러면 마치 하나님이 일부러 전쟁을 유도하시는 것 같죠? 여기에서 ‘내가 갈고리로 네 아가리를 꿰어서 나오는’ 그 이야기가, 바로의 마음을 강퍅하게 하셨다는 말과 같은 의미란 말이에요. 그냥 놔두시면, 인간들은 그렇게 된다는 거예요.
여러분! 그렇게 하나님께서 누르고 계시던, 그런 커먼 그레이스(common grace)를 놓아버리시는 날을, 우리가 성경에서는, ‘사탄이 무저갱에서 놓이는 날이다.’라고 이야기하거든요. 성경은! 계시록을 잘 읽어 보시면, 지금 사탄이 무저갱에 갇혀 있는 때라고 이야기한다고요.
그런데 아니잖아요? 여러분들의 삶에서는, 끊임없이 사탄이 시험을 하고 있잖아요? 지금! 그런데 성경은 사탄이 지금 무저갱에 갇혀 있는 시기라고 그래요. 그런데 어느 날 그 사탄이 풀려날 날이 있다고 이야기 한다고요. 그건 무슨 말이냐?
지금 우리가 무저갱하면은, 자꾸 장소적인 개념으로 그 무저갱을 이해하려고 하니까, 성경이 이해가 안가는 거예요. 사탄이 무저갱에 갇혀 있다는 그 말은, 사탄은 하늘에서 우리를 향해서 참소(讒訴)하고 있었다고요. ‘하나님! 쟤 유죄예요. 쟤는 죄 있습니다. 쟤는 죽어야 돼요.’ 그런데 십자가로 말미암아, 그렇게 참소할 수 없게 되어버렸어요. 하나님께서 예수 그리스도를 통해서, 우리의 죄를 다 도말해 버리셨기 때문에, 이제 더 이상 참소할 수 없게 되었죠.
그래서 사단이 쫓겨났다고요. 그래서 이 땅에서 더 이상, 우리의 영원한 생명에는 관여를 할 수 없어요. 영향을 끼칠 수 없는데, 끝까지 쫓아다니면서, 우리를 핍박하고, 괴롭히고 있는 그 상태! 하지만 영원한 생명에는 영향을 미칠 수 없는 그 상태를, 사탄이 무저갱에 갇혀 있다고 이야기 한다고요. 히브리서 2장 14절을 보세요.
(히브리서 2:14)
14 자녀들은 혈육에 함께 속하였으매 그도 또한 한 모양으로 혈육에 함께 속하심은 사망으로 말미암아 사망의 세력을 잡은 자 곧 마귀를 없이 하시며
마귀를 없이 하셨대요. 예수님이 죽음으로 말미암아, 그 죽음을 먹어버려서, 없이 하셨대요. 마귀를 없이 하셨대는 거예요. ‘데스 오브 데스 인 데스 오브 크라이스트(death of death in death of Christ)!’라는 말이 있죠? 그 예수님의 죽음으로 말미암아, 우리가 궁극적으로 우리에게 올 그 죽음이, 없어져 버렸다는 거예요. 그 죽음이 죽어버렸다는 거예요. 데스 오브 데스 인 데스 오브 크라이스트(death of death in death of Christ)! 그로 말미암아 그 마귀가, 없이 되어졌다는 거예요. 골로새서 2장 15절 보면,
(골로새서 2:15)
15 정사와 권세를 벗어버려 밝히 드러내시고 십자가로 승리하셨느니라
왜요? 십자가의 그 승리가, 바로 해빙 디스 암드 더 파월스 엔 어써러티스(having disarmed the powers and authorities)! 해빙 디스 암드(haveing disarmed)! 무장해제 시켜버렸다는 거예요. 사탄은 지금 무장 해제됐다는 거예요. 우리의 영원한 생명에, 더 이상 영향을 미칠 수 없는 존재가 되 버렸다는 것이죠. 유다서 1장 6절을 보시면,
(유다 1:6)
6 또 자기 지위를 지키지 아니하고 자기 처소를 떠난 천사들을 큰 날의 심판까지 영원한 결박으로 흑암에 가두셨으며 (그런단 말이에요. 그들은 갇혀 있어요. 그 뜻이란 말이에요.)
그래서 여러분! 지금 혹시 가위를 눌린다든지, 귀신을 본다든지, 하는 사람들 있죠? ‘나에게 왜 그런 것들이 나타날까?’ 생각하시기 전에, 먼저 확인하실 게 있어요. 여러분들 안에 성령이 계신가부터 확인하시란 말이에요.
만약에 여러분 안에 성령이 계시고, 예수 그리스도의 자녀라는, 여러분의 확신이 있으시다면, 여러분 지금 속고 있는 거예요. 성령이 내 안에 계신데, 잡귀가 나에게 가까이 범접할 수 있어요? 복음서에서 누누이 우리가 보았지 않습니까? 귀신이 있는 곳에, 예수가 가까이 가니까, ‘도대체 왜 지금 와서, 벌써부터 와서 날 괴롭히냐?’라고 귀신이 다 도망가 버린다고요. 그런데 여러분은 뭘 보고 있는 거예요? 삼년 전에 죽은 작은 엄마가 막 나타났어요. 그래서 같이 가자!
하나님의 손길과 하나님의 눈을 떠나서, 그 불꽃같은 눈을 떠나서, 이 구천을 해맬 수 있는 영혼이 한 명이라도 있습니까? 없어요! 죽으면 지옥 아니면, 천국으로 가는 거예요. 이 구천을 떠도는 영혼은 하나도 없어요. 하나님을 그렇게 허술하게 보시는 거예요? 사탄의 세력인, 이 잡귀가 나타나서, 여러분을 유혹하고 미혹할 수는 있죠. 그러면 그때, 여러분이 당당하게, ‘내 안에 성령이 계신데, 내가 예수 그리스도를 믿는 잔데,’ 뭘 두려워하냐 말이에요?
귀신이 아주 최고로 우리를 괴롭히는 방법 그게 뭐죠? 우리의 육신의 목숨을 끊어 가는 거예요. 욥의 자녀들을 사탄이 죽여요. 하나님의 허락을 받아서! 그렇 수 있는 능력까지도 있어요. 그럴 때, 우리 그리스도인들은, 나를 죽이면, 나는 어디 가는 겁니까? 천국 가는 거예요. ‘맘대로 해봐라! 그래! 나는 이미 영원한 생명 약속받은 자다. 마음대로 해봐라!’ 그러한 당당함으로 그 앞에 서면, 왜 걔들이 나타나겠습니까? 여러분!
내 안에 예수가 있다면서요? 성령이 있다면서요? 그런데 그 귀신을 겁내는 거예요? 그건 ‘나는 지금 예수 안 믿고 있는 사람이에요.’라는 말이에요. 속지 마세요. 다 속이는 거예요. 여러분! 사단이 할 수 있는 건, 디스암드(disarmed) 됐기 때문에, 속이는 방법 밖에 없어요. 우리가 이 성경을 너무 모르니까, 그 예수를 너무 모르니까, 우리는 계속 속는 거예요. 속이는 대로 그냥 계속 넘어가는 거예요. 그분이 얼마나 어마어마한 분인지 모르니까!
하나님이 지금 이 사탄의 세력을 누르고 계신데, 어느 날 탁 풀어 놓으신다고요. 무저갱에서 그들이 풀리는 날이 있는데, 그 때가 아마겟돈 전쟁이라는 그 때라고요. 하나님이 그들을, 아가리를, 갈고리를 꿰어서, 끄집어내어서, 내 자녀들과 전쟁을 시킨단 말이에요. 그러면 우리가 논리상 따져 보면, 그때 우리는 함께 칼을 뽑아들고, 성령의 검을 뽑아들고, 싸워서, 다 죽이고, ‘승리!’ 해서 천년왕국이 올 거 같잖아요? 그런데 성경은, ‘우리가 다 죽는다.’ 그래요. 그들의 손에!
아십니까? 우리는 이 땅에서 폼 잡고, 번영을 누리면서, 살게끔 만들어진 하나님의 백성이 아니에요. 우리는 이 땅에서 죽게 되어 있어요. 그 전쟁에서! 요한계시록 11장 7절로 갑니다.
(요한계시록 11:7-10)
7 저희가 그 증거를 마칠 때에 무저갱으로부터 올라오는 짐승이 저희로 더불어 전쟁을 일으켜 저희를 이기고 저희를 죽일 터인즉
8 저희 시체가 큰 성 길에 있으리니 그 성은 영적으로 하면 소돔이라고도 하고 애굽이라고도 하니 곧 저희 주께서 십자가에 못 박히신 곳이니라 (거기서 우리는 죽는 거예요.)
9 백성들과 족속과 방언과 나라 중에서 사람들이 그 시체를 사흘 반 동안을 목도하며 무덤에 장사하지 못하게 하리로다
10 이 두 선지자가 땅에 거하는 자들을 괴롭게 한고로 땅에 거하는 자들이 저희의 죽음을 즐거워하고 기뻐하여 서로 예물을 보내리라 하더라
그 악한 세력은 우리를 죽여요. 그런 힘도 가지고 있다고요. 우리는 그 예수 그리스도의 십자가가 선 그곳에서, 우리도 함께 죽어야 된다는 거예요. 우리 이 교회가 존재하는 그 자체만으로, 하나님의 백성이 존재하는 그 자체만으로, 세상은 괴롭다고요. ‘도대체 저 인간들 때문에, 내가 마음 놓고 죄를 지을 수가 없어요.’ 우리가 살아있는 것 자체가, 세상 사람들에게는 정죄가 된다고요.
그렇기 때문에 그들이 뭐라 그럽니까? 10절에! ‘두 선지자가 땅에 거하는 자들을 괴롭게 했다’는 거예요. 우리가 그들을 괴롭게 했다는 거예요. 우리의 존재 자체가 그들을 괴롭게 하는 거예요. 그러니까 그들이 우리의 죽음을 보고, 박수 치는 거예요. 즐거워하면서, 기뻐하면서, 서로 예물을 막 나누더라는 거예요. ‘드디어 죽었다!’ 우리는 그 길을 향해서 가는 거예요. 이 땅의 교회는, 바로 그 순교를 향해서 가는 거예요.
여러분! 왜 예수님이, 이스라엘의 삶을, 이 땅에서 반복하면서 살았는지 아십니까? 호세아에서의 그 예언을 이루시기 위해서, 예수님이 일부러 애굽으로 들어가시잖아요? 거기에서, 애굽에서, 홍해를 건너서 나오신다고요. 세례를 받으시죠? 고린도전서 10장에, 세례를 받으시는 것! 그것이 바로 홍해를 건넌 거란 말이죠. 그리고 40일! 광야에서 시험을 받으시고, 그리고 놋뱀이 되셔서, 십자가에 달리시고 부활하신다고요. 그렇게 이스라엘의 삶을 살아내신다고요.
그 말은, 이 이스라엘은 뭘 의미합니까? 교회를 의미하죠? 이 교회는, 이 예수 그리스도의 삶을, 그대로 살아내야 하는 존재라는 거예요. 우리 한 사람, 한 사람이 다, 그 예수 그리스도의 삶을 그대로 살아내야 하는 거예요. 그렇다면 우리 교회 공동체는, 어떻게 살아야 하는 거죠? 그 예수님의 삶을 우리는 그대로 살아내야 하는 거예요.
그러면 예수님이 어떻게 되셨습니까? 예수님은 고난 받고, 핍박 받고, 배신당하고, 마지막에 십자가에서 바보같이 죽으셨단 말이에요. 우리는 그 삶을 살아내야 하는 사람들이라고요. 교회는 이 땅에서 폼 잡고, 부흥하며, 자랑하면서 살게, 그렇게 되게끔 만들어진 공동체가 아니라는 거예요. 우리는 그 순교를 향해서, 한 발, 한 발 걸어가는, 그런 자들이란 말입니다.
여러분! 우리는 그렇게 죽어요. 아마겟돈 전쟁은 그걸 이야기 하는 거예요. 무얼 기대하시는 거예요? 여러분! 예수 믿고? ‘점점 나아질 거야! 언젠가는 폼 한번 잡고 살아볼 수 있을 거야!’ 그거 기대하십니까? 예수 믿고요? 우리가 정말 하나님의 자녀 맞으면, 그 날은 우리에게 오지 않습니다. 우리는 그렇게 순교를 향해서 걸어가야 하는 자들이에요. 하지만, 하나님은 그것을 ‘승리다!’ 이야기하는 것입니다.
성경에서 가장 큰 승리가 뭐였어요? 십자가에서, 예수 그리스도가 죽은 그 사건이었어요. 우리가 예수 그리스도의 십자가가 선 그곳에서 죽는 그것이, ‘우리에게 가장 큰 승리다!’ 이야기하신다고요. 그러고 나서 우리에게 소망의 메시지를 주시는데, ‘내가, 너희가 죽은 그 자리에서, 그 죄인들의 세력을 향해, 온역과, 우박과, 불과, 유황을 내려 다 태워 죽여 버리겠다.’ 그런다고요.
‘우리는 그렇게 이 땅에서 한번 죽고, 다시 새사람으로 태어날 텐데…, 그 자리에서 나의 원수! 나의 대적들은, 불과 유황과 온역과 우박으로, 내가 다 태워 죽여 버릴 거다! 원수의 목전에서 내가 반드시 너희들에게 잔칫상을 베풀 것이다.’라고 이야기한다 말이에요. 우리는 그걸 바라보고 가는 자들이에요. 이 땅에서, 하나님으로부터, ‘잔칫상 받게 해주십시오!’ 기도하는 자들 아닙니다. 이 땅에서 중들에게까지 박수 받으면서, 그렇게 살아가는 자 아니에요.
세상은 우리를 향해 조롱할 겁니다. 우리는 그렇게 죽어갈 거예요. ‘너희들이 참 복음을 가지고 있다고? 예수 그리스도를 바로 전하고 있다고? 그런데 너희들은 항상 어떻게 그 모양이냐? 어떻게 교인들이 늘어나지 않고, 점점 줄어드니? 너희들 재정은 왜 그러냐? 너희들 교회는 어떻게 에어컨도 하나 없냐? 수백억 수천억 원을 들여서, 우리는 이렇게 큰 예배당 짓고 있지 않느냐? 그런데 너희들이 바로 가는 길이라고? 하나님이 함께 계신데, 너희들이 그렇게 간다고?’
하지만, 우리는 거기 아랑곳하지 않습니다. 우리는 순교를 향해 가는 자들이기 때문에! 그게 교회가 가는 길이에요. 여러분이 이 교회가 가는 길을 따라 가기 싫다고 하신다면, 여러분은 여기 있을 자격 없는 분들이에요. 얼마든지 좋은 친목계들 많으니까, 거기로 가십시오! 우리는 다른 이야기해드릴 수 없어요. 그 예수와 함께 죽는, 그리스도인의 삶 이외에는 우리는, 이야기할 게 없습니다.
그러면 이 무시무시한 영적 전쟁을, 우리는 왜 이렇게 인식하지 못하고 있는 것입니까? 왜 체감하고 있지 못하죠? 우리가 하나님의 말씀대로 살고 있지 않게 때문에 그래요. 예배당 다닌다고, 교회 다닌다고, 예수 믿는다고 하는 자들이, 그냥 놔둬도 괜찮을 만큼, 사탄이 안심할 만큼, 그렇게 살고 있는데, 사탄이 뭐 하러 건드려요? 거기다가 왜 힘씁니까?
왜 우리가 영적 전쟁을 못 느끼고 있는지 아십니까? 엉터리로 살고 있기 때문에 그래요. 그리스도인의 삶을 살고 있지 않기 때문에, 그러는 거예요. 그러니까 사탄이 그냥 놔두는 거예요. ‘야! 쟤는 놔둬도, 뭐 내가 기대하는 것보다 더 엉터리로 살고 있다. 그냥 놔둬라!’ 그런데 거기에 무슨 전쟁이 있어요?
우리가 하나님의 말씀대로, 그리스도인의 삶을 제대로 살아낸다면, 우리의 삶에는 피 튀기는 전쟁이 있게 돼 있다고요. 왜 하나님이, 우리에게, 그 북한이나 이런 공산권에 있는, 그 핍박받는 기독교인들을 우리의 눈으로 보게 해주시는 줄 아십니까? 왜 회교권에 있는 사람들이 팔뚝이 잘려나가고, 껍질이 벗겨지는 모습을, 지금 이 시대에도 우리에게 보여주는 줄 아십니까?
교회는 뭐예요? 한 몸이라면서요? 한 머리를 한 ‘한 몸’이라면서요? 그들의 고통은 누구의 고통이에요? 우리의 고통이에요. 그게 우리 꺼라고요. 니들이 지금 겪고 있는 영적 전쟁의 현장은 바로 저러한 모습이라는 것을 눈으로 보게 해 주시는 거예요. ‘우리는 미국이 풍요의 땅! 미국에 있기 때문에, 안전해!’ 너희들이 겪고 있는 영적 전쟁이, 바로 저거라는 거 보여주는 거예요. ‘하나님! 감사합니다. 우리는 어떻게 이렇게 풍요의 땅에 태어났을까요?’ 이거 아니라니까요!
그때에, 그런 영적 전쟁을 겪고 있을 때에, 우리가 유일하게 동원할 수 있는 무기가 뭐예요? 기도란 말이에요. 그게 기도예요. 유일하게 그거로 쓰라고 우리에게 주신 거예요. 영적 전쟁의 현장에서, 하나님과 긴밀하게 교통하는 수단! ‘하나님! 지금 포탄이 날아오고 있습니다. 하나님! 그들의 칼이 우리의 목을 향해 날아오고 있습니다. 하나님! 지원군을 보내주시고, 하나님! 막아주십시오!’라고, 전쟁터에 쓰이는 무전병이 들고 있는 워키토키란 말이에요. 기도는!
그런데 우리는 기도를 어떻게 쓰고 있어요? 그냥 집에서 쓰는 인터콤이에요. ‘아버지! 밥 줘! 아버지 용돈 줘! 모자라.’ 그런 거예요. 기도가? 기도는 전쟁터에서 쓰는 워키토키인 것입니다. 여러분! 우리 그런 영적전투의 현장에서 기도하면서, ‘하나님! 우리는 당연하게 저 멸망 받을 자! 저들의 편에 서있어야 할 자들인데, 우리는 어떻게 구원받고 여기에 이렇게 와있는 겁니까?’ 감격하는 거예요.
두 번째로, ‘하! 지금은 바로 그 아마겟돈 전쟁으로 향하는 그 영적 전쟁의 연장선상에 있는 바로 그런 위급한 때이구나!’라고 현실을 자각하는 거예요. ‘지금이 바로 그 말세! 그 마지막 때이구나! 그래서 우리는 그 내일의 양식인, 예수를 구해야 하는, 바로 그 때이구나!’ 그거 아는 거예요.
그리고 세 번째로, ‘우리는 이렇게 시험당하고, 고통당하고, 그들에게 손가락질 당하지만, 반드시 하나님께서 우박과 온역과 불과 유황으로, 그들을 쳐 죽일 날이, 반드시 온다!’ 그거 확인하는 거예요. 기도하면서! 그리고 기뻐하는 거예요. 그 날은 온다!
어떻게 기뻐할 수 있어요? 우리는 매일 매일 지금 시험당하고 있고, 매일 매일! 좀 솔직해지자고요. 쓰러지잖아요? 그 시험에! 여러분! 그 시험 이기십니까? 매일 매일 매일 매일 쓰러지죠? 그런데 어떻게 기뻐할 수 있어요?
여기에서 우리가 기도에 대한 데피니션(definition)을, 다시 내리고 가는 거예요. 우리가 ‘예수 그리스도의 이름으로 기도하옵나이다. 아멘.’하고 기도하는 거기에는, 어떤 뜻이 있는 것입니까? ‘예수 그리스도의 이름으로 기도한다!’ 아무 기도나 다 해놓고, 예수의 이름만 붙여 놓으면, 그냥 하나님이 다 들으시는 거예요? ‘예수 그리스도의 이름으로 기도하옵나이다!’라고 기도하는 거기에는 어떤 뜻이 있는 것입니까? 너희가 하나님의 백성이고, 예수 그리스도의 형제이며, 하나님의 자녀라면, 너희는 그 예수가 드리는 그 기도의 수준까지 올라와서 기도하라는 거예요. 그 예수의 뜻이 어떤 것인지, 분별해서 기도하라는 거예요.
그러니까 예수의 이름으로 기도가 하나님 앞에 딱 드려지면, 하나님이 큐 마크를 딱 찍으시는 거예요. ‘예수의 이름으로 올라오는 이 기도는, 내가 안 들어도 정당한 기도라는 것을 안다.’ 그 수준까지 너희가 올라오라는 거예요. 그래서 예수의 이름으로, 하나님 앞에 척 드려지는 기도는, 품질보증! 핸드백 그러면, 프라다! 라면 하면, 농심 신라면! 그런 거예요. 화장품 하면, 코리아나! 우리 황무역 집사님이 코리아나에서 일하시는데, 어떻게 제가 아모레라 그러겠어요? 코리아나! 아, 그렇게 품질보증! 그게 ‘예수님의 이름으로 기도합니다.’라는 뜻이란 말이에요.
그러니까 어떤 목사님이 그런 예화를 드시더라고요. 설교 때 자기가 아파트에서 굉장히 오래 살았대요. 그리고 굉장히 유명한 목사님이에요. 그러니까 자기의 식구까지도, 그 아파트 앞에 있는, 그 구멍가게 주인이 다 안다는 것이죠. 그런데 어느 날 자기 아들이 그 구멍가게 주인에게 가서, ‘아저씨! 우리아버지가 소주 한 병 달래요.’ 그러면은, 그 구멍가게 아저씨가 주겠냐는 거예요? ‘네가 먹으려고 그러지?’ 그런다는 거예요. 아버지가 누구인지 아는데, 그 아버지의 이름으로 가서, ‘소주 한 병 주세요!’ 그러면은, 그 구멍가게 아저씨조차도 꿀밤을 때린다는 것이죠.
그런데 우리가 ‘예수님의 이름으로 기도합니다.’ 해놓고, 전부 쇠주 달라고 그러는 거예요. 가서! 하나님 앞에 가서! 여러분 드리는 기도가 뭐냐 말이에요? 그거 확인해 보시라는 거예요. 예수님의 이름으로 기도하라는 것은, 예수님이라면, 어떠한 뜻과, 어떠한 수준으로 기도할 것인가? 우리가 헤아리면서, 그런 기도하라는 거거든요.
그러면 예수님이 지금 직접 가르쳐주신 이 주기도문은, 예수님이 직접 우리에게 가르쳐주신 기도라면, 그러면 어떻겠어요? 직접 기도를 ‘이렇게, 이렇게, 이렇게, 이렇게 해라!’라고 가르쳐주신 그 주기도문이라면, 그 주기도문은 예수님의 소원이죠? 예수님은 누구십니까? 하나님이에요. 하나님이 소원하시는 바가 이루어지겠습니까? 안 이루어지겠습니까? 이루어지죠?
그러면 ‘우리를 시험에 들게 하지 마옵소서!’라는, 그 예수님의 기도는, 들어진 거예요? 안 들어 진거예요? 들어졌어요! 여기에서 또 올레디 낫 엣(already not yet)이 나오는 거예요. 그 기도는 들어진 기도예요. 우리가 앞에서도 살펴봤지만, ‘나라가 임하옵시며, 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지고, 우리에게 내일의 양식! 그 예수를 보내주옵소서! 우리가 우리의 죄를 용서한 것처럼, 우리의 죄도 용서하여 주옵소서!’ 이건 다 이루어진 기도라고 우리가 살펴봤잖아요?
그러면 ‘우리를 시험이 들게 하지 마옵시고, 다만 악에서 구하옵소서!’라는 그 기도도, 이미 이루어 졌단 말이에요. 광야에서, 예수 그리스도께서, 사단에게 시험을 받으시면서, 어떻게 이기셨죠? ‘주 너의 하나님을 시험하지 말라! 사람이 떡으로만 사는 게 아니라, 하나님의 말씀으로 사는 것이다!’라고 하시면서, 끝내셨단 말이에요. 그 시험을 완전히 이기셨어요.
아담은 어떻게 했습니까? 프로베이션(probation)이 왔을 때, 어떻게 했어요? ‘선악과 따먹지 말아라!’ 했는데, 먹었단 말이에요. 그러니까 천사가, 그들을 쫓아내버렸어요. 예수님이 그 시험을 이겼을 땐, 어떤 일이 일어났죠? ‘천사가 수종을 들더라!’ 그런단 말이에요. 그리고 그 시험을 이기신 현장에, 누가복음에 보면, ‘짐승들이 와서 함께 거하더라.’ 그런다고요. 그 말은 뭘 힌트 하는 거냐면, 에덴이 회복되었다는 거예요.
아담은 에덴에서 쫓겨나서, 저주의 땅 광야로 갔지만, 저주의 땅! 광야에 있는 예수님은, 그 시험을 이김으로, 이제 에덴을 회복하셨다는 거예요. 여기에서 여러분이 오해하시면 안 되는 것이, ‘우리가 나중에 가야 할 곳이, 에덴을 회복케 하는 그런 곳에 가는 것인가 보다.’ 이렇게 이야기하는 사람도 있어요. 그건 아니에요.
에덴동산은, 아담이 죄 없는 것으로 태어났지만, 거기에는 아직까지 시험이 있는 곳이에요. 선악과가 있는 곳이죠. 우리가 갈 곳은요? 요한 계시록에, 새 하늘과 새 땅에는, 생명나무 있죠? 강도 있죠? 다 있어요. 헌대 뭐가 없어요? 선악과가 없는 곳이에요. 프로베이션(probation)이 없는 곳이에요. 거기는, 예수님이 광야에서 이 시험을 완전히 다 이겨놓으셨기 때문에, 선악과가 없는 거예요. 뿌리 채 뽑혀서, 없어져 버린 곳이에요. 우리는 거기를 살고 있는 사람이고, 거기를 소망하고 있는 사람들 아닙니까?
사람들은 자꾸 ‘에덴으로, 에덴으로 돌아가자!’ 그런 구호까지 있어요. 그러면서 누디스트(nudist)들이 말이죠? 옷을 다 벗고 말이죠? ‘우리는 에덴에서 그렇게 창조되었다. 우리는 에덴으로 돌아갈 자들이기 때문에, 성경적으로 옷 벗고 사는 게 맞다!’ 맞아요? 정말 그게?
우리는 에덴으로 돌아가는 거 아니에요. 벌거벗고 창조된 그 에덴에서, 새 하늘과 새 땅에서, 의의 흰 세마포를 입을 자들로, 어떻게 하나님이 만들어 가시는가를 보여주시는 것이, 성경이라고요. 그것이 구원의 역사이고, 구속사라는 거예요. 그것을! 그래서 우리는 의(義)의 흰옷을 입은 자들로 만들어져가는 거예요. 여기가 목적이라고요.
하나님은 이것을 목적으로 해서, 벌거벗은 아담과 하와를 창조해 놓으신 거예요. 이들이 에이블 투 신(able to sin), 죄를 지을 수 있는 상태! 무죄한 자였지만, ‘에이블 투 신(able to sin),’ 죄를 지을 수 있는 상태에서, ‘낫 에이블 투 신(not able to sin)’으로 어떻게 가는지를, 우리에게 설명해 주시고자 하는 것이, 바로 성경이란 말이에요.
도저히 죄를 지을래야 지을 수 없는 그런 자로, 어떻게 만들어 가실 것인가? 십자가예요. 그게! 성경은 그 이야기 하고 있는 거예요. 예수와 십자가 이외에는, 아무 얘기도 안하고 있어요. 그 이야기 이외에는! 주로 우리는 예배당에서 그거 배우는 거예요. 그러니까 누디스트들 만나면, 그거 아니라고, 옷 사서 입으라고 얘기 해주세요. 제발!
여러분! 우리가 예수님이 광야에서 시험을 이기실 때, 우리가 어디 있었어요? 그 안에 있었던 거예요. 십자가에서 돌아가실 때, 우리가 그 안에 있었던 것처럼, 그 광야에서 예수님이 시험을 완벽하게 다 이겨내실 때, 우리가 다 그 안에 있었단 말이에요. 그러면 그렇게 다 시험을 이겼고, 완전히 다 마지막 날에, 그 기도를 응답하실 것이라면, 우리가 왜 기도해야 하냐 말이에요? 왜 기도해야 해요? 우리가? ‘시험에 들지 말게 하옵시고, 악에서 구해달라!’고? 역시 우리를 위해서 그러는 거예요. 우리를 위해서! 하나님이 우리가 기도 안하면 안하시겠다는 게 아니라, 우리를 위해서 기도하라는 것이죠.
우리는 매일 이렇게 시험에 지면서, ‘아니, 하나님! 내가 이러한 존잰데, 나는 이렇게 하나님이 놔두시면, 매일 이렇게 시험에 져서, 저 사탄의 편에, 아마겟돈 전쟁에 저 사탄의 편에 있어야 할 존잰데, 어떻게 내가 여기에서 지금 하나님께 이런 기도를 드리고 있습니까?’ 우리 때때로 그렇게 느끼잖아요? 우리는, 하나님 편에서, 아군이 아니라, 적군인 것 같지 않아요? 때로는 그런 실존을 보면서, ‘하나님! 어떻게 이런 인간을, 백점이라고 이야기 해주십니까? 어떻게 이런 인간을 향해서, ‘너는 백점이다!’라고 이야기 해주십니까?’라면서, 감사하는 거예요.
그 감사가 흘러넘치면서, 내 삶이 조금씩 변화되어져 가는 거예요. ‘그래, 그런 것이라면, 그렇게 하나님이 그 아들을, 이런 인간을 위해서 죽이셨다면, 내가 이정도 쯤 한번 이겨보자!’ 그러고 시험을 하나, 하나 이겨나가게 되는 거예요. 그것이 우리 그리스도인들의 삶이라고요. 그걸 이겨나가는 게 쉽겠습니까? 내 살과 뼈를 깎아 내는 것 같을 거라고요. 그게 순교(殉敎)라고 하는 거예요. 우리는 그 자리로 가는 거예요.
내가 비즈니스에서 손해 보는 게, 쉬울 것 같아요? 다른 사람들에게 손가락질 받으면서, 바르게 산다고 하는, 그 삶이 쉬울 것 같습니까? 그것을 우리는 ‘순교(殉敎)’라고 하는 거예요. 사탄은 우리를 그렇게, 점점점점 심각하게 죽여 갈 것입니다. 하지만, 그것은 우리에게 은혜(恩惠)이며, 축복(祝福)이라는 것입니다. 이 역설이 좀 여러분들에게 이해가 갔으면 좋겠네요. 우리는 그렇게 하나님의 자녀로 만들어져가는 거예요.
사탄은 이렇게 우리를 열심히 공격하고 있습니다. 예전에는 사탄이 우리를 칼과 총으로 위협하면서 우리를 시험했어요. ‘예수 믿으면 죽어!’ 요즘은요? 과학과, 문명과, 우리의 이 얄팍한 이성(理性)! 이런 것을 가지고서, 우리를 시험한다고요.
제가 그 공학박사 친구가 하나 있는데, 그 친구가 저에게, 그 아인슈타인의 상대성이론! 그걸 가지고서 저에게 질문을 하더라고요. 제가 지난주에 그 상대성이론 공부하느라고 한 하루를 다 보냈어요. 아인슈타인의 상대성이론을 따르면, 그 공식에다가 넣으면요, 질량이 있는 물체는, 빛의 속도까지 갈 수가 없어요. 빛의 속도로 움직일 수가 없어요. 그 빛의 속도로 1년을 달리는 거리가, 1광년이거든요. 우리가 가까이에 있는 그 안드로메다 성운이, 200만 광년이 떨어져 있는 그 성운이에요, 거기까지는, 빛의 속도로 달리면, 200만년을 가야 돼요. 그죠!
예수님은 육신을 갖고 부활하셨어요. 그러면 자기가 생각하기에는, 기독교인이에요. 예수는 질량이 있다는 거예요. 질량이 있는 물체는, 아인슈타인의 상대성이론 공식에다 딱 갖다 넣으면, 이 운동질량이 무한대가 되기 때문에, 안 된다는 거예요. 그래서 예수님은 지금 빛의 속도까지는 못가고, 근접한 속도로, 끊임없이 달려가고 있다는 거예요. 어디로요? 3층천! 우리가 1층, 2층, 3층천 이야기하잖아요? 1층천은 대기권! 2층천은 우주! 보이지 않는 우주요! 3층천은 바울이 갔다 온, 비욘드 코스모스(beyond cosmos)죠? 그러니까 예수님은 지금 아직까지, 2000년 밖에 안됐으니까, 빛의 속도로 갔다 할지라도, 지금 2000년 광년까지 밖에 못간 거예요. 그러니까 저기 있는 거예요. 어디쯤에! 하하하
그래서 제가, ‘너는 하나님이 천지를 창조하신 것을 믿느냐?’라고 물어봤어요. 믿는대요. ‘하나님이, 이 우주를 움직이는, 그 질서를 만드신 분이라는 것을 믿느냐?’ 믿는대요. ‘그 예수 그리스도로 말미암지 않고는, 이 땅에 창조된 것이 하나도 없다,’라는 것을 너는 믿느냐?’ 믿는대요. 그러면 왜 예수님이, 그 아인슈타인의 상대성이론을 따라서, 그 공식에 대입해서 달려가야 되냐? 예수님은, 내가 아는 예수님은, 생각의 속도로 움직이실 수 있는 분이다.
과학을 가지고 사람들이 그 하나님을 증명하려고 해요. 과학으로! 그 하나님이 증명될 수 있습니까? 과학과 문명이 우리를 부유하게 했어요, 정말로? 과학과 문명은 뭐죠? 가인의 후예들이요, 우리의 힘으로 우리가 살아가야 하기 때문에, 성을 쌓고, 문명을 만들고, 과학을 발전시켜 놓은 것이죠.
옛날에는 번개가 치고, 우뢰가 내리면, 하나님 앞에 사람들이 겸손해졌다고요. ‘혹시 하나님! 내가 뭔가 죄진 게 있습니까?’라고 갔어요. 이제는 피뢰침 딱 꽂아놓고, ‘우리는 안전해!’ 그러고 있다고요. 홍수가 나면요, ‘하나님! 하나님이 도와주지 않으면, 우리 못 먹어요. 어떻게 해요? 비 좀 그치게 해주세요!’ 그랬는데, 요즘은 댐을 쌓는 거예요. 둑을 쌓고, 하나님을 불필요한 존재로 만들어 버리고 있다고요. 그게 과학이 가는 길이에요. 우리를 오히려 영원한 죽음으로 끌고 가고 있는 것이 바로, 과학이라는 것입니다.
이성이 만들어 놓은 것이 뭡니까? ‘야! 어떻게 하나님이 예수로만 왔겠냐? 석가로도 오고, 부처로도 오고, 뭐 공자로도 오고, 맹자로도 오고, 노자로도 오고, 장자로도 오고, 소크라테스로도 왔을 것이다.’ 우리의 이 이성은, 그 한계로는 그렇게 밖에 생각할 수 없겠죠. 그렇게 과학과 문명과 이성! 이런 것들이 만들어 놓은 것이, 그거예요.
인간의 이성이 불가능하다는 것은, 2차 대전 때 이미 밝혀졌잖아요? ‘이성을 교육해서, 우리가 지상 천국 만들어 보자!’ 해서, 르네상스 일으키고, 문예부흥 일으켰는데, 아니, 어떤 한 인간이 나오더니, 그렇게 교육을 했는데도 불구하고, 서로 자기들끼리 치고 박고 죽이는데, 600만 명을 막 학살하더라는 거예요. ‘아! 인간의 이성은 안 되나보다. 교육시켜서는 안 되나보다’라고 알았잖아요? 그 때 인간의 이성은 죽은 거예요.
그런데 요즘 또다시, 뭉글 뭉글 올라오고 있어요. 뭐 마르크젠이나, 하버마스 같은, 송두율 교수의 스승이죠? 하버마스 같은 그런 사회학자들이, ‘변증법적 이성’이다 뭐다 해서, 요즘 다시 또 갖고 나오고 있어요.
우리 이성을 교육하면, 지상천국! 지상의 낙원이 이루어질까요? 사탄은 그렇게 과학과 문명과 이성으로 우리를 끊임없이 시험하고 있다고요. 우리의 죄성을 자극하고 있다고요. 우리의 옛사람을 자극하고 있다고요. ‘야! 어떻게 하나님만 좇아 사냐? 너희들 힘으로도 할 수 있어!’ 그것을 자극하고 있단 말이에요. 그때에 기도하는 거예요. 우리가! ‘하나님! 나는 그 하나님만으로만 살겠습니다. 나를 시험에 들게 하지 마옵시며, 이 악한 세력의 유혹에서, 이 시험에서 건져내 주옵소서!’ 그 기도는 우리의 모든 삶에 적용이 되어져야 되는 거예요. 기도는!
제가 운전을 할 때, 저는 운전을 좀 천천히 하는 편이에요. 시속 65마일, 제한속도 65마일이면, 65마일로 딱 가요. 시속 50마일 그러면, 50마일로 딱 가요. 목사라서 그러는 게 아니라, 옛날에 사고를 한번 크게 치고 나니까, 무서워서 못가요. 그렇게 가면 뒤에서 오는 사람들이 앞장서 가면서, 인사를 하고 가요. 뭐 인사를 이렇게 해도 되고, 이렇게 해도 되는데, 꼭 가운데 손가락으로 올리면서, (하하하) ‘왜 늦게 가냐?’ 그럼 제 마음속에, ‘저거 쫓아가서 확 복수를 해?’ 이런 마음을 딱 심는다고요. 그런 시험이 오죠. 그럴 때 기도하라는 거예요. ‘하나님! 당신의 나라가 임하게 해주옵소서!’
그 나라가 임하면, 나는 하나님의 통치대로 산다는 서약이죠? ‘하나님의 통치가 내 삶을 이끌어가게 하옵소서! 내 뜻대로 마옵시고, 나는 쫓아가서 한번 해주고 싶은데, 내 뜻대로 마옵시고, 하나님의 뜻대로 하옵소서. 하나님의 뜻! 용서하라는 그 용서가, 내 삶이 나오게 하옵소서. 그래서 내가 내 이웃을 용서한 것처럼, 나도 하나님 앞에 이렇게 당당하게, ‘나를 용서해 주시옵소서!’ 라고 고백할 수 있게 하는 그런 자가 되게 해 주옵소서!’ 이 주기도문 안에 다 걸리는 거예요. 우리가 우리에게 시험이 닥칠 때, 드릴 수 있는 기도? 주기도문이라는 것입니다.
이렇게 우리가 주기도문을 살펴본 결과, 주기도문에 모든 내용은 다, 하나님나라에 관한 거였어요. 그렇죠? 하나님나라! 이 땅의 우리의 삶! 이 땅의 우리의 삶의 풍요와 번영! 거기에 대해서는 한 마디도 하고 있지 않아요. 예수님은, 우리에게 기도를 이렇게 해라고 가르쳐 준 그 기도 안에는, 이 땅의 우리의 삶에 대한 건, 아무것도 없어요. 하나님나라예요. 다 하나님나라! 그것 이외엔 아무것도 없죠.
우리는 기도의 첫 시간에 살펴봤습니다. 사람들이 자기의 마음속에 끊임없이 솟아나오는 소원! 기도! 그 기도를 통해서, 인간들은, 자기의 신분과, 자기의 정체성이 결정된다고 우리 살펴봤죠? 그래서 ‘내 소원은 선교야!’ 그 사람을 우리는 선교사라 부른다고 했습니다. 짐 엘리어트 같은 사람! ‘나는 이 어떻게 해서 번 돈인데, 아껴야 돼!’ 그 사람을 우리는 구두쇠라 그런다, 그랬습니다. ‘스쿠루지’라고요.
어떠한 소원을 갖고 있느냐에 따라서, 어떠한 것을 기도하느냐에 따라서, 그 사람의 정체성이 결정된다면, 예수님이 우리에게 이렇게 기도해라고 이야기한, 이 전체의 내용이 뭐였어요? 하나님나라에 관한 것이었잖아요? 그러면 우리는, 하나님나라의 백성이라는 거예요. 우리는 그렇게 고급한 존재라는 거예요. 우리는 그런 사소한 것이 아니라, 하나님나라를 놓고 기도할 수 있는, 그런 존재라는 거예요. 그걸 우리는 인제 확인하게 된 거예요. ‘우리는 그런 존재다! 나는 하나님나라를 기도하는 자이고, 하나님나라의 도래를 소망하는 자다!’ 그것을 우리는 확인하는 것입니다.
우리는 주기도문을 배우면서, 우리 하나님의 백성들은, 이 땅의 것에 매여 사는 자들이 아닌, 하나님나라를 바라면서 살아가야 하는 자들임을, 자각하는 거예요. 그리고 우리를 둘러싸고 있는 그 현실에 굴복하지 않고, 거기에 무릎 꿇지 않고, 씩씩하고 당당하게 달려갈 길을 달려가야 하는, 그런 확신에 이르는 거예요.
여러분! 주기도문 안에, 그런 모든 기도의 해답이 들어있습니다. 우리 그리스도인은 바로 그 기도를 해야 하는 자들입니다. 그 청원과 서약 안에, 우리 그리스도인들이 어떻게 살아야 할지, 무엇을 소원하며 소망하며 살아야 할지, 다 들어있는 거예요. 그 안에서 여러분의 기도가 행해져야 하는 것입니다.
예수님의 소원인 그 기도! 그리고 예수가 다 이루어놓으신 그 기도! 그것이 주기도문이에요. 그래서 우리는 주기도문을 한마디로 요약하라 한다면, ‘예수님! 고맙습니다!’ 그것 말고는 없어요. 주기도문을 한마디로 요약해라 그러면, ‘예수님! 고맙습니다!’ 그것 말고 할 말 없는 거예요.
매일 매일 우리는 그렇게 하나님의 백성으로서, 주기도문을 떠올리면서, 우리의 기도할 바가 무엇인지, 다시 한 번 확인하는 거예요. 그리고 천국백성으로서의 그 신분을 확인하면서, 감격하면서, 감사하면서, 가는 것입니다.
이제 여러분! 주기도문의 그 진의를 다 아셨으니까, 우리는 이제 주기도문을 할 수 있는 자들이 되었습니다.