このページでは、豊津国の歴史(周辺国の情勢を含む)を記述します。
このページに記述されている事柄は全てフィクションであり、実在する人物・団体・地名・企業・組織等とは関係ないことをご了承ください。
1~2万年前は惑星全体が寒冷化しており、従って海面も現在より低下していた。現在の豊津国へは、海面低下に伴い今よりも島伝いでの移動が容易だった時期に、西北三島を経て流入したグループと吹越諸島伝いに北東から流入して来たグループに二分され、稀に南の海域から漂着したグループもいた。
おおよそ5000~8000年前までは石器を主とした文明が根付いており、前後して稲作も流入した。2000~5000年前の期間は石器に代わって食料の保存・調理が可能な土器が誕生し文明がさらに発達している。土器時代は焼成温度が低く分厚い土器が主流だった旧土器時代と、焼成温度が高く厚みが薄い土器が主流となった新土器時代に二分化される。しかし大陸部で学術知識や初期政治制度が生まれていくつかの大規模な国家が勃興したのに対し、豊津国やその周辺諸島では牧歌的な農耕・狩猟生活が続いていたものとみられる。
2000年前からは文明の発達によって人口が増加し、その間に僅かながらも大陸部から渡来した人々によって技術・政治制度が流入し、小規模なムラからクニへの発展を遂げて行く。当時の豊津国で最も文化が発達していた地域は豊津本州の東西両端部であり、他地域では多くて推定100人に満たない程度のムラが小規模に分立していたのに対し、豊津本州の両端部では印慈系・エウポリー系大陸国家の史書にも複数回記述されるような大規模な人口を抱えるクニ(小国家)が複数存在したことを考古学的にも確認出来る。なお豊津人は固有の文字を持たず、文字の流入は1世紀から2世紀にかけて起こったものと推測されている。
豊津国内で比較的進んだ地域だった豊津本州の両端部では、農耕技術の発達により人口が爆発的に増加した。人口の増加は更なる技術革新を促したが一方で食糧の不足をもたらし、食糧の獲得・収奪を主目的に武器を用いてのクニ・ムラ間での戦争も頻発した。
豊津本州東端部、後に畿内と呼ばれる地域では隆城国・飛賀国・日津国にまたがって13のクニが成立し、1世紀以上に渡って戦乱が絶えなかったと印慈系国家の史書にはある。これを「上古の大乱」と呼ぶ。これら13のクニは合従連衡を繰り返し、大陸国家への通商・権威獲得を求めながら次第に淘汰・統合され、257年に現在の皇室に連なる山門(やまと)国の王・カミヨヤマト(221~263)が畿内周辺を統一。カミヨヤマトは畿内統一後に「大和神央皇帝(だいわじんおうこうてい)」を称し国号を「大和(だいわ、やまと)」と定め、大陸国家と強力な外交関係を結ぶことにも成功した。
豊津本州西端部でも複数のクニが興ったが、西端部では上古の大乱のような長期間の戦争は起こらず、3世紀末までには磐座国を中心とした「伊備祢(いびね)国」が成立した。その他の大東幹島、大西幹島、大南幹島は依然としてまとまったクニは生まれず、辺境の島嶼部では吹越諸島が印慈系国家の、西北三島はエウポリー系諸国の強い影響を受けており、当然現在の「豊津国」に連なる意識はなかった。
大和の初代君主である神央大帝はカリスマ性の強かった人物であることが、印慈系国家の史記より明らかになっている。神央大帝の存命時は彼ひとりを頂点とした、いわば「絶対王政」を展開していたが、263年の神央大帝没後は大和の王位継承や国の在り方を巡って混乱が生じた。
神央大帝の子で跡を継いだ2代継成大皇(240~289)は、大和傘下諸豪族の争いを鎮めて権威と権力を固めた。在来の土着豪族にはこれまで通り土地の支配権を認め、新たに職能によって取り立てた職能豪族を官僚として組み込み、大皇家の家政とともに政権運営を任せた。この体制の創始をもって、豊津国における朝廷の初期体制が整った。また継成大皇の治世は25年超に及び、その間に足場を固め国力を富ませたことが次代での外征に結びついている。
継成大皇の没後に跡を継いだ3代武謙大皇(257~296)は武勇に優れ、また人口増加による食糧の不足もあって外征事業に力を入れる。この頃になると国家としての体裁が整ったことを印慈系国家に認められて本格的な外交関係が始まっており、その交易の副産物として手に入れた最新の技術や戦術を駆使して瞬く間に版図を拡大した。武謙大皇が崩御した296年の時点で、豊津本州のおおよそ東半分と八州島の大部分を版図として組み込んだと推定されている。
一方で伊備祢は主に戦役に拠らず、エウポリー系諸国との交易で得た利で徐々に勢力を浸透させていった。大きな戦争もなく繁栄を謳歌していた伊備祢は、エウポリー系諸国の史記をして「地上の天国」と言わしめた。
武謙大皇崩御に際し、遺児は幼い娘が1人いただけで後を継ぐべき者が不在だったため、武謙の従弟にあたる瑛垂大皇(248~298)が中継ぎとして4代大皇に即位した。瑛垂大皇は軍事的な才能に乏しかったため、彼の時代に大和が目立った軍事侵攻を行うことはなかったが、その間に戦役続きで疲弊していた国力が回復。印慈系国家との貿易はこの間も絶えず行われていたため、結果的には国力を蓄えることとなった。
瑛垂大皇の跡を継いだ5代倫智大皇(270~315)は、磐舟志摩(いわふね の しま、264~311)・土師部小足(はじべ の おたり、260~305)・機織部赤尾(はとりべ の あかお、270~315)という、後世「倫智三賢臣」と称される3人の有能な豪族に支えられ、外征事業を再開。3世紀末には伊備祢との勢力圏に接し、299年に起こった御坂野の戦いを端緒として大和と伊備祢は戦争へ突入していく(伊備祢戦役)。
伊備祢は大和の侵攻を比較的早い段階で把握していたと推定されるが、戦争の経験が少なかったために軍事力は低かった。大和の侵攻が本格化すると伊備祢は交易で結びついていたエウポリー系諸国に援助を求めるが、遠方の僻地であることと、折悪しくエウポリー系諸国が宗教対立に端を発する後継者争いで分裂・内紛を起こしていたこともあり、強力な国軍を投入することが出来なかった。貿易による利権を維持したいエウポリー系諸国の商人が武器の融通と私兵集団の派遣を散発的に行ったものの十分な数ではなかったために、徐々に悪化する戦況を覆すには至らなかった。やがて313年に伊備祢の宮都が陥落し、時の伊備祢王・西帝伊呂弁(さいてい いろべ、281~313)は自殺。ここに伊備祢は滅亡し、大和が豊津本州を統一した。この時に大和は印慈系国家で採用されていた元号を制定し、豊津本州統一をもって「建元」を定めた。
しかし伊備祢の残党の一部は北西の大西幹島に逃げ込み、そこで西帝伊呂弁の叔父にあたる青帝己連(せいてい/しょうてい これ、273~318)を擁立し抵抗。倫智大皇と機織部赤尾は存命中に伊備祢残党の駆逐を行わず占領地の内政を固めることを選び、伊備祢残党はその間に足場を固めて新たに大西幹島で「後備(ごび)」の建国を宣言。やがて315年(建元3年)に倫智大皇が崩御し、機織部赤尾が後を追って殉死すると(豊津国における資料上最初の殉死)、有力な指導者を失った大和と伊備祢復興を掲げる後備が、海峡を隔てて1世紀以上に渡って睨み合う事態となった。
倫智大皇と機織部赤尾が伊備祢を滅亡させたあとその残党を追撃しなかったのは、想定以上の性急さで占領地を拡大したことが最大の理由だった。それを理解していた2人は内政を固める選択をしたのだが、伊備祢滅亡の2年後に2人が相次いで亡くなったことでその不安は的中することとなる。6代霊紀大皇(293~319)の即位直後、大和の統治に反発した一部の豪族が豊津本州内で反乱を起こすと、戦火が瞬く間に拡大する。大和の本拠から遠い西方で勃発したために対応が遅れ、その間に反大和でまとまった旧伊備祢領の豪族が結束して反抗した。大和は有力な指導者を欠いていたこともあって容易に反乱を鎮圧できず、霊紀大皇が319年(建元7年)に崩御すると反乱の勢いはピークに達する。
しかし、霊紀大皇の弟である7代仁智大皇(297~358)はこの反乱を果断に対応。遠隔地との連絡のために最初期の駅伝制を整備し、反乱鎮圧の最前線には征西都督府を320年(建元8年)設置して従兄にあたる磐比子王(いわひこおう、295~346)と磐舟志摩の子・磐舟金(いわふね の かね、287~320)を派遣。同年に磐舟金は戦死してしまうが、後任に機織部赤尾の子・機織部鮪(はとりべ の しび、288~335)と佐那臣宍人(さなのおみ の ししひと、299~345)を派遣して反乱の鎮圧にあたらせた。
反乱を起こした豪族は伊備祢の復興を目指す者、自身が新たな統治者となって君臨しようとする者などに分かれ、意思の統一はなされていなかった。大和はその点を突き、懐柔策と武力を用いた殲滅戦を使い分けて再占領していく。並行して支配地域には中央から派遣された国宰(くにのみこともち)と、在地豪族のうち有能で大和への忠誠心のある者を任命した国造(くにのみやっこ)・県造(あがたのみやっこ)の二頭体制による統治を進めた。剛柔両方の施策で支配体制を盤石なものにした大和は、仁智大皇晩年の355年(慶宝6年・建国元年)に反乱を完全に鎮圧。足かけ35年に渡った伊備祢の乱を経て、大和は結果的に豊津本州と八州島の統治体制を固めた。また伊備祢の乱と並行して大東幹島・大南幹島の沿岸部へも侵攻して支配下に収めた大和は、貿易拠点も数多く掌握したことで仁智大皇以降の豊津統一へ大きな足掛かりを築いた。
仁智大皇の崩御後、子である8代献道大皇(311~360)が即位。献道は仁智の路線を継承しようとしたものの、即位時既に47歳だった献道は間もなく病に倒れ、即位からわずか1年半後の360年(建国6年・瑞元元年)に崩御。
当時はまだ大皇の権威・権力が個人の資質に委ねられていて未成熟であり、有力な豪族の連合による推戴の色が濃いものだった。また皇位継承においては当時「幼君」の概念がなかったため、献道には2人の男子がいたが2人とも10代で豪族の一部からは懐疑的な目が向けられていた。一方で他に皇位継承の可能性がある仁智の近親には献道の又従兄弟(倫智の弟の孫、磐比子王の子)にあたる磯長王(しながおう、318~362)もいたが、磯長王は年齢こそ申し分ないものの器量に欠け、豪族の多くは彼の能力を不安視していた。献道の崩御が突然であったためひとまずは慣例に従って磯長王が即位し9代弘允大皇となったが、弘允は事前に危惧されていた通り統治者としての能力がなく、弘允の寵臣である渟部綱田(ぬべ の つなだ、325~362)が朝政を壟断。渟部綱田は好色でもあった弘允に美貌で知られた妹を送り込み(当時は一夫一妻制で、皇統に連なる女性だけが大皇の嫡妻になれた)、自身も自らの支配する土地に苛政を敷き、収奪した富を弘允に貢いで歓心を得ようとした。やがて弘允と渟部綱田へ反発が強まり、まず渟部綱田の支配する土地で搾取された部民(その土地で支配を受ける住民)が反乱を起こした。この反乱は一度鎮圧されたものの渟部綱田が苛政を改めなかったため2度目の反乱が勃発し、これが長期化した。
これとは別に、渟部綱田の国政壟断に反発する豪族たちが連合を組んで対抗の姿勢を見せる。中心となったのは磐舟鞍止磨利(いわふね の くらとばり、磐舟金の孫、326~362)・豊城部磐津(とよきべ の いわつ、337~372)・笠小弓(かさ の おゆみ、330~380)らで、武人の家系である磐舟鞍止磨利は国土支配における軍事権の裁量と差配を巡って当初から対立が深かった。これに朝廷の財政を担い弘允・渟部綱田による浪費に反感を持っていて、また渟部綱田と仲が悪かった笠小弓と、勢力圏が隣接し渟部綱田が敷く苛政の煽りに中央政治における政治路線の対立が加わった豊城部磐津が連携し、弘允の廃位と渟部綱田の排除を計画する。3人が計画を始めた段階で渟部綱田が支配する土地での反乱が発生し、2度目の反乱が起こった時には支援して打倒を目指した。その過程で3人による支援を知った渟部綱田は怒り、磐舟鞍止磨利を謀反の廉で謀殺。さらに隣接する豊城部磐津の領地へ攻め込み、本人は留守にしていたため取り逃がしたものの、豊城部磐津の姉と妹、従姉妹の3人を渟部綱田とその側近達で強姦した後に見せしめとして殺害、軍勢も部民を襲い強姦・虐殺・略奪の限りを尽くした。しかし感情に任せて軍を起こした渟部綱田の暴挙は弘允も庇いきれず、復仇に燃える豊城部磐津による渟部綱田誅伐の進言を受け入れざるを得なかった。362年(瑞元3年)3月1日に豊城部磐津は磐舟鞍止磨利の子・磐舟河造(いわふね の かわつくり、344~386)を伴って渟部綱田を攻め、一日のうちにこれを死に追い込んだ。翌日には弘允も首を吊って自殺し、空位になった大皇位には8代献道の長男である10代顕文大皇(343~369)を推戴した。この一連の政争・戦争と皇位継承争いを瑞元の変という。
瑞元の変によって即位した顕文大皇は病弱で、また政務を取る能力に欠けていた。そのため瑞元の変において指導者の役割を果たしていた豊城部磐津、磐舟河造、笠小弓らが重臣として国政を率いた。彼らは制度として豪族を中央官僚に相当する大臣(おおおみ)・臣(おみ)、地方官僚に相当する大連(おおむらじ)・連(むらじ)と階層を分けてその地位を確立・保証し、有能な豪族らの合議制によって混乱した国政を立て直そうとした。しかし顕文の晩年には磐舟河造と笠小弓が激しく対立し、政争の結果笠小弓は西へ出奔する。
瑞元の変の地方への波及として、大和の権威と権力は著しく低下していた。地方の問題に対処できなくなった大和に対し独立路線を取った地方の国宰・国造・県造や、かつて大和によって征服された地の人々は、瑞元の変で大和の統治が行き届かなくなった機を逃さず蜂起した。大和に近い地域の反乱は鎮圧したものの、「吉彦(きみこ)」の号を定めて大和からの独立を図った木梨円(きなし の つぶら、328~379)の蜂起は広範囲に波及し、豊津本州中西部に半独立勢力を築き上げた。笠小弓がこれに合流すると吉彦は完全に独立路線を取ることとなり、一度は統一された豊津本州は二国に分裂した。
369年(神応8年・神護元年)に顕文が崩御すると、その弟である11代顕武大皇(345~380)が即位する。顕武は病弱な兄とは対照的に戦争を好み、性格は好戦的とされている。自ら親征して吉彦を滅ぼそうとする顕武を豊城部磐津は度々諫めたが、磐舟河造が吉彦征伐の任を負いながらはかばかしい戦果を挙げられないことに業を煮やし、371年(神護3年)に親征を宣言。親征軍は勇猛でもあった顕武自身の活躍もあって各地で勝利を収めたが、かつて大和の中枢にいた笠小弓は顕武の存在を知るや一計を案じ、翌372年(神護4年)に阿児宇良の戦いで顕武を挑発し単騎突出させたところでこれを襲い、親征軍を窮地に追い込んだ。しかし異変に気付いた豊城部磐津が敵中に少数の兵を率いたのみで飛び込み、彼らが身代わりとなって顕武を救出。吉彦は顕武を逃がしてしまい、決定的な戦果を挙げるには至らなかった。豊城部磐津の生命を賭した忠節に心を入れ替えた顕武は、一度は更迭した磐舟河造を再び吉彦征伐の最高指揮官に戻して強力な権限を与え、豊城部磐津の遺児である豊城部赤人(とよきべ の あかひと、364~412)への厚遇を宣言して大和の人心をまとめた。
しかし吉彦は木梨円や笠小弓を中心に有能な人材を登用して揃え、大和による平定は困難を極めた。吉彦はエウポリー系諸国や後備と連携し、貿易によって得た富や技術を内政に活かすことで地盤を固めた。徐々に国家としての実力を蓄える吉彦を見た大和の大臣らは長期戦を覚悟し、顕武も無理な征討を戒めたことで積極的な外征は次第に行われなくなる。かくして4世紀後半からしばらくの間、豊津本州に東の大和と西の吉武が並立する和吉時代を迎えた。
豊津本州が和吉時代に至った4世紀中盤、大西幹島では後備がエウポリー系諸国と交易を深めながら独自の発展を遂げていた。後備建国に擁立された青帝己連の嫡子・始帝可牟礼(してい かむれ、294~336)は伊備祢の乱を扇動して大和の軍事力を豊津本州に押し込め、その間に大西幹島における支配権力の拡充に務めた。さらにエウポリー系諸国から様々な技術や文化を取り入れて後備の発展に大きく貢献して、後備の最盛期を演出している。しかし始帝可牟礼の死後、彼の子である玄帝諏俱李(げんてい すぐり、320~351)・僭候那佐伎(せんこう なさぎ、322~368)・恵帝阿礼(けいてい あれ、326~363)の三兄弟による後継者争いが勃発し、玄帝諏俱李は351年に僭候那佐伎の手の者によって弑逆されてしまう。僭候那佐伎は直後に王位継承を宣言したものの、正当な手段ではない簒奪とみなされたため正統性を担保できず、弟の恵帝阿礼を擁する勢力によって352年に「廃位」させられた。しかし僭候那佐伎は大西幹島から西北三島に亡命して「北備(ほくび)」の国号を定めて独立を宣言、エウポリー系諸国との交易路の中間を抑えることで後備の圧迫を図った。その間に後備が扇動していた伊備祢の乱は大和によって鎮圧され、豊津本州への侵攻を強行しようとした恵帝阿礼も群臣の反発を買い、359年に実権を奪われ幽閉されてしまった。恵帝阿礼を幽閉した後備の群臣はしかし、推戴する王を欠いたこともあり国家の方針が定まらず、エウポリー系諸国や北備の度重なる介入を受けて弱体化。群臣らは玄帝諏俱李の子・雄計王(おけおう、348~401)と恵帝阿礼の子・乎麻琉(こまる、348~380)を擁立して二分し、前者は大西幹島北西部を抑えて「楊(よう)」を、後者は大西幹島南東部を占有し引き続き「後備」の国号を、それぞれ名乗って分立した。
大東幹島は大和の中心地に近い地理的条件もあり、特に西部は大きな障害もなく自然と大和の支配地域となっていった。一方で中部・東部は集落以上のクニの建設の動きは起こらず、印慈系国家との交易路としての発展はあったが引き続き牧歌的な狩猟採集生活が続いていた。大和としても4世紀当時は豊津本州統一を主題としており、大東幹島の領土化に関心を示さなかった。一方で現在の豊津国の北東端にあたる吹越諸島は、印慈系国家の戦乱・内乱で敗れた勢力の亡命地として機能し、時には彼らが旧勢力の再興を掲げて亡命政府を樹立することが度々あった。彼らの亡命政府は時の印慈系国家による度重なる侵攻を受け勃興・滅亡・再度の定着を繰り返しながら、4世紀に至る頃には印慈系国家の文化の土壌が根付いている。
大南幹島は温暖な気候のために農耕文化が発展していたものの、技術や文化の流入という点に関しては「どん詰まり」のような地政学的条件により、ここでも大規模なクニの成立は遅れた。豊津本州に近い北部沿岸部では様々な理由により新天地を求めた豊津本州の人々が入植し、大和もこれを利用して段階的に大南幹島へも影響力を広げていったが、やはり本格的な侵攻の対象とはならず積極的な経営を図ることはなかった。大東幹島の中部以東や大南幹島に大和の支配が及ぶには、この後さらに1世紀ほどの時間を要することとなる。
豊津本州では吉彦と膠着状態に陥った大和は、新たな領土の獲得先を大東幹島へと切り替えた。顕武による治世の後半は軍事行動を大東幹島へシフトし、これまで緩やかに支配していた西部を確固たる領土として組み込んで国宰や国造を設置すると、彼らの軍事力を活用して大東幹島統一を進めた。顕武が380年(鶴雲8年・鶴応元年)に崩御すると、その子謙成大皇(360~405)が遺志を引き継ぎ、4世紀末頃には土師部山前(はじべ の やまさき、323~379)・佐那臣阿保(さなのおみ の あお、333~381)・磐舟菟厨彦(いわふね の うずひこ、327~375)ら群臣の活躍もあって大東幹島の統一を概ね成し遂げた。大東幹島を領土としたことは印慈系国家との交易を有利に進められる効果をももたらし、大陸からの文化・技術・物資をこれまで以上に導入することに成功した大和は、続く5世紀の急激な版図拡大への基礎を築いていた。
同時期に豊津本州の西部をその版図として大和と睨み合っていた吉彦は、建国者の木梨円が379年に、大和から亡命してナンバー2の地位を占めた笠小弓が380年に相次いで亡くなった。王位を継いだ円の子・木梨小大樹(きなし の おおき、小大樹王とも。352~402)と、笠小弓の長子・笠塩海(かさ の しぶみ、352~388)は当初協力関係にあり、親に負けず劣らず有能であった2人は一時期大和の侵攻を防ぎ、逆に大和の領内へ度々攻め込むなどの戦果を挙げていた。しかし些細なことから笠塩海に木梨小大樹への嫉妬と王位簒奪の野心が芽生え、間髪を置かずに木梨小大樹の寵姫を巡る対立が発生して2人の関係は崩壊する。木梨小大樹は笠塩海を「自身の暗殺計画を立てた」とでっちあげて388年に謀殺し、弟の笠小杵(かさ の おぎ、358~406)を側近に挿げ替えて君主権力の強化を図った。木梨小大樹は有能な人物ではあったが猜疑心が人並み外れて強く、笠塩海以外にも何人もの群臣を些細な理由をつけて誅していた。そんな木梨小大樹の圧政に反発した吉彦の群臣の一部は笠塩海の子・根児櫨模(ね の ころも、371~415)を擁して小大樹に対抗した。
大西幹島に割拠する後備は木梨小大樹を支援し、一方で大和は積極的な介入こそ避けたものの裏で根児櫨模を支援。二者の対立もまた膠着状態に陥り、402年に木梨小大樹が亡くなるまで吉彦は実質的に二分された状態となっていた。吉彦王を継いだ子の木梨佐比古(きなし の さひこ、佐比古王とも。378~431)は父に続いて笠小杵を、笠小杵の死後はその子・笠伊吉綯(かさ の いきな、383~428)を腹心に据えて根児櫨模一派と渡り合い、415年に根児櫨模を敗死させて吉彦を再統一した。木梨佐比古は431年に亡くなるまでに大和との関係も一応の修復まで導き、内乱で混乱していた吉彦を立て直した古代史上屈指の名君として評価されており、それを支えた笠伊吉綯も古代史上屈指の忠臣として、現在の大皇家に繋がらないいわば「敵国」の君臣ながら後世に名を残している。事実として木梨佐比古の存命中は大和も吉彦へ手を出すことが出来ず、反対に侵攻を許すことさえあった。
しかし木梨佐比古の跡を継いだ子の木梨於祇蘇(きなし の おきそ、404~441)は国家を統治する力量に乏しく、群臣にも笠伊吉綯亡き後に王を補佐しうる人物を欠いた。やがて吉彦は力を失っていき、大和の侵攻を許すことになる。
大和では405年(霊宝10年・大建元年)に謙成大皇が崩御した。跡を継いだ13代霊篤大皇(383~408)は25歳の若さで立て続けに崩御してしまうが、14代大皇に即位した亨始大皇(384~432)は人臣の登用に長けた人物として後世名が知られる。土師部岐閉(はじべ の きへ、土師部山前の孫、369~420)、機織部布都久留(はとりべ の ふつくる、機織部鮪の曽孫、360~404)とその子・機織部多波(はとりべ の たば、378~426)、佐那臣大鳥(さなのおみ の おおとり、佐那臣阿保の孫、379~410)とその弟・佐那臣小鳥(さなのおみ の おとり、382~443)、豊城部赤人とその子・豊城部小熊(とよきべ の おくま、388~424)、磐舟鳥取(いわふね の ととり、磐舟河造の子、364~432)や那良猿(なら の さる、磐舟菟厨彦の甥、362~411)などといった従来からの重臣の家系の人物を登用する一方、武人部大浜(むとべ の おおはま、385~432)・武人部小浜(むとべ の おはま、386~426)兄弟や刀利臣弓束(とりのおみ の ゆづか、390~443)ら新興勢力・地方豪族からも広く有能な臣を集めた。
吉彦で431年に木梨佐比古が亡くなるまでは大和の群臣も自重を強いられたが、その没後に吉彦侵攻が本格化する。431年の時点で亨始大皇が重用した群臣のいくらかは既に亡くなっていたが、存命の群臣では佐那臣小鳥・磐舟鳥取・武人部大浜・刀利臣弓束が朝廷内部で重きを成した。侵攻の最前線では若手世代である土師部田狭(はじべ の たさ、土師部岐閉の子、393~446)、機織部磐(はとりべ の いわ、機織部多波の子、403~468)・機織部杙(はとりべ の くい、409~459)兄弟、佐那臣糠手(さなのおみ の ぬかて、佐那臣大鳥の子、402~449)、佐那臣建雄於志(さなのおみの たけおの おし、佐那臣小鳥の子、406~460)、豊城部音穂(とよきべ の おとほ、豊城部小熊の子、410~450)・豊城部真人(とよきべ の まひと、414~482)・豊城部賀麻(とよきべ の かま、416~469)兄弟、磐舟黒田(いわふね の くろだ、387~435)・磐舟伊礼波(いわふねのいれなみ、400~452)父子、武人部大楯(むとべ の おおたて、武人部大浜の子、403~438)・武人部小楯(むとべ の おたて、404~463)兄弟、刀利臣武日(とりのおみ の たけひ、刀利臣弓束の子、412~457)といった群臣が軍事を司って侵攻を本格化させる。432年(祥雲6年・鶴応元年)の亨始大皇崩御によって一時的に停止したが、喪が明けて15代恭祥大皇(391~465)が即位すると著しい進展を見せる。
吉彦は大和の侵攻に対し抵抗を見せたが、434年(鶴応3年)大和は加武良岐の戦い・渋河口の戦い・大磐の戦いと短期間で吉彦に対し相次いで大勝を収める。3ヶ所とものちの英賀国(現在の大宮県)で起こったために後世「英賀戦役」と呼称された3つの会戦で大勝を収めた大和は、この英賀戦役で勢いづいて吉彦の本拠を一気に攻め、翌435年(鶴応4年・大慶元年)に吉彦の宮都があった木梨宮(吉中国、現在の福地県)を陥落させることに成功。しかし吉彦王の木梨於祇蘇を取り逃がしたため、この時は吉彦を滅ぼすまでに至っていない。逃げ延びた木梨於祇蘇は吉彦の残存勢力を糾合して抵抗を図り、勢力を削られながらも組織的な抵抗を続けたが、最終的には441年(大慶7年・祥鶴元年)に豊津本州の西端・葦足の地(磐座国葦足郡、現在の岩本県)で臣下の裏切りに遭って殺害される。この木梨於祇蘇の死によって吉彦は実質的に滅亡し、その後も吉彦の残党勢力による散発的な組織的抵抗は続いたが、ここに大和による豊津本州再統一が完了した。
441年に吉彦が滅亡した段階で、豊津国の版図は豊津本州のほぼ全域に加え、八州島とその周辺島嶼と大東幹島の西半分、そして大南幹島の北部沿岸部まで広がっていた。この後も版図拡大を意図した軍事行動は散発的に続いたものの、恭祥大皇を始めとする大和は441年以降に内政へと力を入れることになる。
中央ではこれまで大皇の宮城のみを定めて自然発生的な町が並ぶだけだった王都を改め、印慈系国家の王城を参考に「宮都」として宮城とその周りの街を建設する。豊津国史上初の本格的な首都となった玉津宮(たまのつのみや)は、以降数世紀に渡って宮都建設の手本となった。地方ではこれまで曖昧なものだった行政区画の制定に着手し、のちの令制国に繋がる最初期の国を定めた。当時は単に「国」と呼ばれ後代に便宜上「初期令制国」と呼ばれるこの地方行政区分は、4世紀中盤に定められた国造・県造の勢力範囲をそのまま採用したものであり、世襲制の色合いが濃く中央からの統治という点では不安定なものだった。それでも中央からの承認を得て自らの支配を保証された国造や県造は概ねこれを歓迎し、穏当なうちに制度が浸透していく。その後国造や県造を構成した豪族は支配の実権を失って祭祀のみを司る存在となっていき、多くはのち郡司層への転換を図り、一部は中央に上って下級貴族となったが、やがて自然消滅していった。
なお世界的に見て、体系的法典としての律令制が確立されたのは印慈王朝と豊津国のみである。そしてこの当時においては印慈王朝も豊津国も、単行の法令を必要に応じて積み重ねたものを後代総称しているに過ぎない代物ではあった。しかし律令制の影響は印慈王朝とその冊封を受ける周辺地域と広くはあったが、元々律令を定めることが出来たのは歴代印慈皇帝のみとされている(冊封国の王には許されてないなかった)。豊津国の場合は印慈文化圏の範囲内には位置していたものの、地理的には概して遠く海を越える必要があったためその影響力は限られていた。情報・知識のみが貿易の副産物として流入した豊津国はそれを存分に吸収し、周辺国家とは異なり独自に律令制を制定し施行できたと今日では評価されている。
恭祥大皇、そしてその後の16代檀徽大皇(439~472)までは内政に力を入れる時期が続き、恭祥・檀徽の代での外征は国家事業としてではなく、周縁部の豪族がいわば切り取り次第で行っていた。そのため小規模ながらも国家の基盤が確立していた大西幹島への軍事行動は見られないが、大東幹島と大南幹島についてはフロンティアを求めた豪族が次々と侵攻してその支配下に収め、かつその土地を形式的ながらも国家や大皇に献上する形で支配の正当性を保証された。檀徽大皇崩御時の472年(慶和8年・天貞元年)には概ね大東幹島と大南幹島が豊津国の支配が及ぶ版図となっており、これらの地域にも初期令制国が築かれていった。
4世紀後半の段階で、大西幹島は南東部に後備、北西部に楊、西北三島に北備がそれぞれ分立していた。このうち最もハルクシュタットに近い北備は368年に那佐岐が崩御して以降は後継者争いが勃発したことに加え、当時ハルクシュタット地域を統治していたトゥードリク朝バクハイゼン王国の皇帝セデリック1世(339~387)が推し進めた外征事業の標的となったことで、度々その侵攻に悩まされることとなった。人的資源に乏しい北備は楊と結んで対抗しようとしたが足並みがそろわず、370年に北備は滅亡しバクハイゼン王国領となった。セデリック1世はさらに楊への侵攻を企図したが、この時は楊の雄計王が巧みな戦略・戦術を見せて撃退している。しかしこれでバクハイゼン王国の脅威が消え去ったわけではなく、とりわけ後備と対立している楊は二正面作戦を強いられ苦しい状況に追い込まれることとなる。
後備は380年に乎麻流王が崩御した後、その後を継いだ沙沙岐王(ささぎおう、371~395)は幼君であり群臣の補佐を受けたが、後継者争いと群臣の派閥争いで国力を落とした。沙沙岐王が395年に崩御すると、沙沙岐王の弟・志良王(しらおう、373~421)と唯一の子・於安支王(おあしおう、394~444)をそれぞれ擁立する勢力が対立。特に於安支王の母にあたる沙沙岐王の嫡妻・播汰(はた、373~422)が志良王の即位に強硬な反対姿勢を示し、大和・楊と結んで大西幹島からバクハイゼン王国と、当時健在だった吉彦の影響力を排除しようとした。それに対して志良王はバクハイゼン王国・吉彦と協調関係を結び、楊へ侵攻して大西幹島を単一勢力で統一しようとした。要因としては他にも群臣の派閥争いが志良王・播汰をそれぞれ担ぎ上げたもの、また志良王と播汰が個人的に非常に険悪な間柄であったことも理由とされているが、ともあれ後備の後継者争いは楊が介入できなかったこともあり泥沼の様相を呈した。
この間に豊津本州を支配していた大和は、後備・楊に対しては間接的な影響力を行使するに留め、直接の軍事侵攻は行わなかった。一方で西北三島を支配したバクハイゼン王国はセデリック1世の死後に国内で多少の混乱が起こったものの、国内の混乱を鎮めたセデリック3世(393~448)は積極的な外征事業を行った。その対象のひとつとして大西幹島にも目を向け、方面指揮官として派遣したコンスタンス(セデリック3世の従弟、403~447)の巧みな采配もあってまずは楊の領土を蚕食した。楊は401年に雄計王が亡くなった後、跡を継いだ子の吾茅王(あちおう、373~412)はバクハイゼン王国の侵攻を凌いだが、412年に国内の権力闘争の末に暗殺される。この時は弟の奈久王(なくおう、376~433)が素早く混乱を収めたが、吾茅王暗殺の混乱を突いて侵攻度合いを強めるバクハイゼン王国の攻勢を跳ね返すことは出来ず、433年にコンスタンスが方面指揮官として本格的な侵攻を開始したのと楊で奈久王が亡くなったタイミングが重なって均衡が崩れる。楊は奈久王の死後に孫娘の那伽姫(なかひめ、413~435)を推戴して抵抗したが、圧倒的な軍事力と技術を誇るバクハイゼン王国の攻勢を跳ね返せず、435年に宮都が陥落。楊の群臣に推戴されていた那伽姫は一度助命されコンスタンスの妻妾として迎え入れられたものの、コンスタンス暗殺を企図し失敗したため処刑され、名実ともに楊は滅亡した。
コンスタンスは次いで後備への侵攻も企図する。435年に楊が滅亡した段階で、後備の内紛は於安支王と志良王の子・意富蘇王(おふそ、398~444)の従兄弟2人の争いに姿を変え、事実上分裂していた。意富蘇王一派が於安支王の母・播汰を422年に殺害していたこともあって両派の争いが鎮まる様子はなく、その間隙を突いたコンスタンス軍は両派をもろとも圧倒して444年までに於安支王・意富蘇王を滅ぼし、大西幹島のほぼ全域を制圧。後備そのものも消滅し、大西幹島もバクハイゼン王国の版図となった。コンスタンスは一時豊津本州への侵攻も企てたが、大和自体の勢力の強さ、補給線の限界で本国から制止されたこと、そしてコンスタンス自身の死もあって頓挫している。
大西幹島の全島占領が完了した444年あたりから、バクハイゼン王国によって当地は「東方辺境島嶼領」、のち「コンスタンス侯領東方辺境島嶼」と呼ばれ、統治された。コンスタンスの死後は方面指揮官軍の部下のひとりであるクローヴィン(404~452)が一時的に統治を引き継ぎ、バクハイゼン王家の意向もあってクローヴィンの死後はコンスタンスの子であるテオドルス辺境侯(430~487)が大西幹島を治めた。楊や後備の残存勢力による小規模な反乱も散発的に発生していたが、コンスタンスの武力やクローヴィンの懐柔策、そしてテオドルス辺境侯の懐柔と分断を使い分ける巧みな統治によってそのほとんどはすぐに鎮圧された。大西幹島からバクハイゼン王国の影響が除かれ、かつ大和(豊津国)の支配が及ぶようになるには6世紀以降まで待つこととなる。
大和が472年までに豊津本州と大東幹島・大南幹島の大半を支配するようになると、檀徽大皇の崩御を受け同年即位した17代興国大皇(442~483)は内政改革に取り組んだ。支配領域を畿内6ヶ国と東陽・東陰・南島・南陽・西陸・西島・北洋の7道に分け(のち大西幹島が版図に加わると北島道を設置)、六畿七道(北島道設置後は六畿八道)の広域行政区域を設置。地方行政を司る按察使と非常時に諸国から召集された軍団を統括する節度使を豪族の中から任命し、各国の国造・県造とともに治安維持や租税徴収にあたらせた。中央では大臣を置き、その当時の中央における有力豪族のうちさらに有力な者を選んで任命し、国政にあたらせた。史上最初の大臣任命者は磐舟真根(いわふね の まね、428~481)とされている。その他にも興国大皇は内政統治を推し進め、古代史上有数の「中興の名君」として後世まで名が残った。
483年(朱銅6年・天観元年)に興国大皇が崩御すると、興国の娘婿にあたる18代威道大皇(463~488)が即位した。しかし威道大皇は粗暴で人望が薄く、治世中先代の遺臣として朝廷に貢献していた土師部葛子(はじべ の くずこ、436~485)や豊城部木蓮子(とよきべのいたび、434~486)といった有力な豪族を次々と誅滅したり失脚させた。その威道大皇が488年(天観6年・延徳元年)に突然崩御してしまうと、群臣を巻き込んだ皇位継承争いの末に威道の又従兄弟・義兄にあたり興国の子にあたる19代功岳大皇(464~493)が即位した。功岳大皇は父・興国を範として大和の統治にあたろうとしたが、威道系の系統を推戴せんとする一部豪族の不信と離反を招き、493年(鳳雲2年)に暗殺されてしまう。急遽功岳の皇后で威道の妹にあたる鍛師皇女(きたしのひめみこ)が即位して豊津国史上初の女帝となる20代廉明大皇(466~515)が皇位に就いたが、即位の経緯から廉明大皇は主体的な権力行使が出来ず、表立っての抗争こそ減ったものの威道系と興国系それぞれの皇族を推戴する豪族同士の対立が続いた。やがてお飾りに過ぎない大皇位に嫌気がさした廉明が502年(白鹿5年・喜徳元年)に譲位を宣言すると、21代には功岳・廉明の嫡子である衆紀大皇(488~508)が即位したが、即位時数えで15歳の幼君だった衆紀大皇にも実権はなく、さらに508年(喜徳6年・成長元年)に衆紀が21歳の若さで崩御。衆紀ののちは弟にあたる22代安策大皇(491~519)が即位。安策の治世後半には大皇権力の強化に成功して一時の小康状態を得たものの、安策もまた519年(建中7年・治安元年)に28歳の若さで崩御すると、威道系の23代斉紀大皇(487~523)、興国系の24代烈楚大皇(503~524)と短命の大皇が続き、烈楚大皇の崩御をもって2系統とも子孫が絶えてしまった。事ここに至っては大皇家の権威によって自らの権益を維持してきた側面を持つ多くの豪族は干戈を収め、若生国(現在の篠井県)に下っていた15代恭祥大皇の5世孫・大彦王(おおひこおう)を迎えて推戴し、25代継国大皇(496~554)として即位させた。継国はおよそ30年近くに渡る大和や大皇家の混乱を鎮め、権力と権威を立て直して朝廷による支配を貫徹させ、そして530年(建和7年・孝文元年)にはそれまで「大和」としていた国号を「豊津国」と改める。抽象的な国号であった大和から、自国の地理的特徴を取り入れアイデンティティをくすぐる名称への変更をもって、内外ともに体制の一新をアピールしたのだった。
継国大皇の在世中、内政ではこれまで大臣のみを置いていた官制を漸次的に変革。継国大皇即位までは功臣・能臣に対して論功行賞的に与えられていた大臣位に定員(継国末期には太政大臣・左大臣・右大臣の3人で定着)を設け、その下に大夫(のち御史大夫と改名。定員3人)を置いて大皇親政を補佐せしめた。また印慈王朝との交易が続く中で新たな政治体制の知識も流入し、これを取り入れた一例として諸豪族に官位を定めて国家・朝廷・大皇への功績を誰の目にも理解できる形で示された。初期は印慈大陸の五行思想にあやかって五位の制と呼称された官位制度は、その後の官位令や官位相当制へと発展していく。
内政に辣腕を振るい豊津国の基礎を固めた継国大皇は554年(孝明6年・永慶元年)に崩御。子の26代檀祖大皇(523~562、在位554~562)が跡を継いだがその間の559年(延慶6年)、檀祖と時の大臣(太政大臣磐舟稲持(いわふね の いなもち、518~573)・左大臣豊城部佐彦(とよきべ の さひこ、503~561)・右大臣機織部赤目子(はとりべ の あかめこ、504~568))による政治に不満を持つ御史大夫が檀祖の長子・鞍皇子(くらのみこ、548~576)を唆して政権転覆を企てた延慶の政変が勃発。未然の密告により計画が漏れ、御史大夫佐那臣武雄駒(さなのおみ の たけお の こま、521~559)・刀利臣竹合(とりのおみ の たかわせ、523~559)・土師部尾代(はじべ の おしろ、528~559)の3人全員が誅殺された。延慶の政変は太政大臣磐舟稲持を筆頭とする保守派の重臣とそれに反発する御史大夫を中心とした改革派若手豪族の対立の結果でもあり、政変は3人の死後磐舟稲持が御史大夫を欠員にしたまま政治を行ったことでさらなる対立の激化を招いた。御史大夫の欠員は561年(延慶8年)に豊城部佐彦が亡くなった際、左大臣に機織部赤目子が昇進したが代わりの右大臣を任命できなくなったことでさらなる混乱を惹起した。結局磐舟稲持は延慶の政変における失政を認めざるを得ず、誅殺された3人の子であるうちのひとり佐那臣武雄国見(さなのおみ の たけお の くにみ、543~590)を若干18歳ながら御史大夫に任命。刀利臣男人(とりのおみ の おひと、548~587)と土師部荒山(はじべ の あらやま、548~581)にも将来の御史大夫任命を約束することで改革派若手豪族の不満を抑えた。政変で旗印に担がれた鞍皇子は当時皇太子の地位にあったが御史大夫3人から政権転覆の企てを打ち明けられた際に玉虫色の返答をしており、父の檀祖と太政大臣の磐舟稲持は死一等を減じたものの計画を即座に断らず報告しなかった咎で皇太子の地位を廃された。さらに辺境へ下って朝廷に従わない人々を征伐するように命じられ、中央から遠ざけられることとなった。
562年(延慶9年・建慶元年)に檀祖大皇が崩御すると、弟の27代豊理大皇(532~594、在位562~594)が即位。甥にあたる鞍皇子に征西鎮護大将軍の地位を与えて名誉を回復するとともに、大きな権限を与えて征討事業を託した。鞍皇子は576年の薨去までに豊津本島全てを朝廷の版図に加え、さらに大西幹島侵攻への足掛かりを得ている。580年代以降は豊理の子である稲文皇子(いなぶみのみこ、569~623)が征西鎮護大将軍の地位を引き継ぎ、同じく豊理の子である巨勢皇子(こせのみこ、571~631)が征南鎮護大将軍・征東鎮護大将軍として豊津国の版図を押し広げた。当時「バクハイゼン王国コンスタンス侯領東方辺境島嶼」として統治されていた大西幹島は、テオドルス辺境侯以降も数代に渡ってバクハイゼン王国の辺境領として豊津国の影響が及ばない地域となっていたが、591年に当時の辺境侯クロタール(543~591)が亡くなった後の後継者争いに端を発する内紛に付け込む形で豊津国が侵攻を開始。595年に大西幹島全土を版図に収めてコンスタンス侯領東方辺境島嶼を消滅させ、600年に西北三島を掌握。時を前後して大南幹島・大東幹島も掌握し、吹越諸島を除いて現在の豊津国の版図のほとんどを領土に加えた。
また豊理は官位制度を引き続き改革するとともに、朝廷に仕える豪族の氏姓制度にも変革を加えた。官位制度は継国の代に制定された五位の制からさらに位階を増やし(五位十階→五位十五階→五位二十階→六冠四十八階)、のちの位階令へと繋がる。これは位階のランクを増やすことでより細やかな運用を目指すとともに、時代が下るにつれ増えていく豪族同士の立ち位置を分かりやすく示せるメリットも持っていた。
氏姓制度はこれまでカバネと個人名のみ、また官職や役職によって慣習的に大臣や大連、また国宰や国造・県造などといった名称を入れて名乗っていたものを、上位から順に公・大臣・臣・大連・連と名乗るよう正式に通達した。後世に豊理五姓と称されたこの氏姓制度は、制定時点では上位の豪族のみを対象にしたもので下位の豪族に対する優越性を示しただけのものに過ぎなかったが、これも後に対象をほぼ全ての豪族に適用して豊津八姓に繋がる。……