中央線・中央線快速・青梅・五日市線
Chuo Line (+Rapid), Ome-Itsukaichi Line
中央線快速:
中央線快速では、1979年8月20日に試作車の営業運転が開始された。1981年8月より量産車の導入が開始され、昭和55年度第1次債務で50両(4両編成5本・6両編成5本)、昭和55年度第2次債務で50両(4両編成3本・6両編成3本・10両編成2本)、昭和55年度第3次債務で100両(10両編成10本)の計200両が落成し、三鷹電車区・豊田電車区(現・豊田車両センター)に配置された。車体塗装色はオレンジバーミリオンである。これにより103系と101系の置き換えが進められ、中央線快速の103系は中央・総武緩行線や南武線の101系置き換えに転用され、1983年3月3日に中央線快速での運転を終了した。101系は1985年3月14日改正で201系への置き換えを完了し、中央線快速の201系統一が完了した。快速系列車と早朝・夜間の東京駅発着各駅停車で運用された。2008年3月14日までは富士急行大月線・河口湖線にも乗り入れていた。富士急行線の地上設備側の制約により、6両編成+4両編成による10両編成中の4両付属編成のみ乗り入れが乗り入れていた。2010年までに営業運転を終了した。10両単独の編成(T編成)と6両+4両の分割可能編成(H編成)の2種類の編成があり、青梅線・五日市線・八高線(拝島駅 - 高麗川駅間)と富士急行線への乗り入れの関係で運用が分かれていた。2008年1月にT編成が、2010年10月にH編成が営業運転を終了した。2004年3月までの武蔵小金井電車区所属編成は、分割可能編成・10両単独編成とも白地赤文字の編成札を使用していたが、豊田電車区(現・豊田車両センター)への移籍時に10両単独編成は黄緑地白文字の編成札に交換した。狭小限界トンネルのある中央本線高尾以西の乗り入れに対応するため、1984年に武蔵小金井電車区のモハ201-161 - 163にパンタグラフに折り畳み高さの小さい試作型のPS918形が装備され、3月5日から7日にかけて甲府駅までの入線試運転を行っている。翌1985年10月から臨時列車で大月駅への乗り入れが開始された。国鉄末期の1986年11月1日のダイヤ改正より、定期列車としてへの大月駅への乗り入れが開始された。高尾以西への乗り入れに備えて、分割対応編成のパンタグラフがPS21形からPS24形(PS918形の量産版)に換装された。当初は高尾駅で分割併合の上で基本6両編成のみが大月に乗り入れていたが、後年になって高尾駅での分割併合は行われなくなっている。JR化後の1988年12月1日のダイヤ改正により、青梅線の青梅駅まで乗り入れる「青梅特快」が設定され、従来の高尾方面の特別快速が「中央特快」となった。1990年3月10日のダイヤ改正では、大月から富士急行に乗り入れ、河口湖駅までの直通運転が開始された。1993年4月10日のダイヤ改正より、朝ラッシュ時に途中の国分寺 - 新宿間をノンストップで運転する「通勤特快」が新設された。1992年より、中央線用編成の先頭車に停車駅通過防止装置の設置が行われた。停車駅のホームに接近すると、表示灯が点灯しアラームが鳴る。1996年3月16日のダイヤ改正で八高線の八王子 - 高麗川間が電化され、中央線快速の201系による拝島 - 高麗川間への直通運転が開始されたラッシュ時に東京 - 拝島間で五日市線直通列車と併結し、拝島での分割併合により付属編成が高麗川へ乗り入れた。1997年10月12日に発生した大月駅列車衝突事故では、大月駅を通過中の特急「スーパーあずさ」13号(E351系)に入換中の201系6両編成が衝突し、両方の車両が脱線した。201系はクハ200-116が復旧まで長期間使用できなくなり、車両不足を補うため三鷹電車区の中央・総武緩行線用201系の1編成が武蔵小金井電車区に貸し出され、オレンジに塗装変更の上で使用されていた。1997年12月のダイヤ改正で高尾 - 大月間の初発電車に201系が使用されることとなり、武蔵小金井電車区の分割編成の8号車モハ201形の後位寄りに霜取り用パンタグラフが増設された。当初はモハ201-24・87・179・185・206の6両が対象で、菱形のPS24形が増設された2001年度に追加で改造されたモハ201-90は、シングルアーム式のPS35C形が増設されており、1両に菱形とシングルアーム式の両方が搭載される唯一の車両となった。 T編成のPS21形パンタグラフは、降雪によるパンタグラフ降下対策として2000年よりシングルアーム式のPS35C形に換装された。これは、関東で大雪となった1998年1月8日にダイヤの乱れで列車が長時間停車した際に、雪の重みでパンタグラフが上がらなくなった車両が続出したことを受けてへの対策である。このPS35C形への換装により、中央快速線の201系全編成で高尾以西への乗り入れが可能となった。当初は101・103系と同様に、先頭車に「特別快速」などの大型種別表示板を掲出していたが、中央線快速の201系統一完了により方向幕での種別表示が完備されたことから1986年3月改正で種別表示板の使用を廃止した。1987年5月からは差し込み式の種別表示板が復活し、先頭車にヘッドマーク受けが設置された。1992年からは1・10号車は電動幕式の種別表示器へと交換された。同年11月からはATSの車上子を保護する目的でスカートの設置も開始されている。分割可能編成の連結部に組成される先頭車には差し込み式の種別表示枠が設置されており、自動解結装置が装備されている。クハ200-87は大月駅列車衝突事故の被災車の代車として10両編成の先頭に立っていた時期があり、中間先頭車で唯一電動幕式大型列車種別表示器が装備された。2005年以降、6+4編成(H編成)の4・5号車の列車種別表示枠が撤去された編成があった。2004年3月13日のダイヤ改正より、武蔵小金井電車区の201系が豊田電車区に移管され、中央線快速の201系の配置は青梅・五日市線用も含めて豊田電車区に集約された。豊田電車区は2007年に豊田車両センターに改称されている。2004年12月から2005年3月までにドアステッカー下部に「ひらくドアにちゅうい」ステッカーが貼付された。中央線快速運用では東京都から山梨県にまたがる長距離高速運転や抑速ブレーキなしで小仏峠を超える運用も多く、累積走行キロの伸びや機器などの老朽化が進むとともに、電機子チョッパ制御の保守部品の調達も困難になった。中央快速線では2006年(平成18年)よりE233系が投入されることになり、同年12月26日よりE233系の営業運転が開始された。これに伴って運用を離脱した201系は、主に中央本線・篠ノ井線経由で編成単位の自力回送により長野総合車両センターへの廃車回送が行われた。201系は付属4両編成が東京方なのに対し、E233系は高尾方に組成された。2007年3月18日のダイヤ改正によるE233系の分割運用の開始に伴い、共通運用となる201系の分割編成の一部で付属編成を高尾方とする編成替えが行われ、H編成7本を6+4から4+6に組み替えた。これらの編成は、3月下旬までにH1編成を除いて編成番号が振り直された。組替対象外のH編成はダイヤ改正をもって分割不可能編成となり、3月下旬までにT編成に編入された。貫通編成の編成番号も順次改称され、大半の編成が元の番号+100とされた(例・T1→T101)。10両貫通のT32(クハ201-58以下10両)・T130(クハ201-56以下10両)の2編成は、京葉線への転用により京葉車両センターへ転出した。T110「2代目」編成(クハ201-117以下10両)は、2007年8月末に一旦長野へ回送後、翌9月1日の全国新作花火競技大会での臨時列車に使用され、豊田へ戻らずに廃車回送された。T116編成(クハ201-54以下10両)は、サハ201-55を抜いた9両編成で2007年9月に廃車回送され、抜かれたサハ201-55は209系サハ209-901・113系モハ113-1085とともに脱線試験に使用された。2007年11月に回送されたT133編成(クハ201-60以下10両)は、故障を起こした2両(モハ201-141+モハ200-141)が青70編成(クハ201-152以下6両)とともに先に回送され、残る8両は後日回送された。2008年1月17日のT112編成の廃車回送をもって、中央快速線の10両貫通編成が消滅した。H1編成(クハ201-1以下10両)は運用離脱後に組替え、2008年1月31日にトップナンバーを含まない6両編成で廃車回送された。2008年6月19日、H1編成で残った4両のうちクハ201-1を除く3両が、青梅・五日市線用編成で最後まで残った青3編成に組み込まれ、7両編成で廃車回送された。三鷹駅 - 立川駅間の連続立体化工事中は、武蔵小金井駅でのホームでの折返しが不可能になったため、一時的に運用本数を増やす必要が生じた。これに伴う予備車を確保するため、E233系の投入完了後もH4(クハ201-107以下10両)・H7(クハ201-128以下10両)の2編成が残存した。両編成とも6+4の10両編成であるが、分割せずに10両固定運用で使用された。JR東日本八王子支社では、2010年2月1日を「201系の日」とし、同日より「中央線201系・愛されて30年」キャンペーンが開催された。キャンペーンは同年3月31日まで展開され、期間中は残存するH4・H7編成の先頭部に「愛されて30年」の記念ヘッドシールが貼り付けられた。残存編成も工事が終了する2009年秋に中央線での営業運転を終了する予定であると東京新聞で報道されていたが、最終的に2010年6月20日にH4編成が、10月17日にH7編成が、それぞれ長野総合車両センターへの廃車回送を兼ねて中央本線豊田発篠ノ井線松本行きのさよなら運転を行い、本系列の運用を終了した。
青梅・五日市線:
青梅線・五日市線では201系による中央線快速からの直通列車が運行されたほか、武蔵野線との共通運用等により線内運用の一部に201系が充当されていた。青梅・五日市線内用としては2000年より中央・総武緩行線の201系が転入し、E233系に置き換えられる2008年まで運用された。中央線快速より直通の201系も2010年の運用終了まで乗り入れていた。1986年3月3日のダイヤ改正より、豊田電車区の6両編成が青梅・五日市線と武蔵野線の共通運用となり、中央線快速から武蔵野線に転用された201系も青梅・五日市線の運用に入った。1996年の武蔵野線の全列車8両編成化と中央・総武緩行線への転用により6両編成は撤退したが、武蔵小金井電車区のクハ201-134を含む4両編成が青梅線の青梅 - 奥多摩間の一部運用に投入された。中央・総武緩行線で運用されていた201系はE231系の投入に伴い撤退し、京葉線への転用のほか青梅・五日市線用103系の置き換えに転用された。軽装車を含めて中央線快速と同じ豊田電車区に配置され、塗色もカナリアイエローからオレンジバーミリオンに変更された。車体塗装はオレンジバーミリオンとなり、助士席側と乗務員室出入口の窓下に「青梅・五日市線」と表記したステッカーが貼り付けられ、中央線快速の編成と識別された。転入時に編成組換を行い、総武線時代の基本編成の電動車1ユニットを付属編成側に入れ換え、基本6両編成と付属4両編成の組成順序を逆にした。青梅線青梅駅 - 奥多摩駅間は地上設備(ホーム有効長)の制約から、各駅停車の運用は付属4両編成に限られる。大型列車種別表示器は装備されず、列車選別装置・停車駅誤通過防止装置は未装備となった。パンタグラフが小断面トンネル通過に対応していないため、高尾以西は走行不可である。車内扉横の座席には、防寒用の風除けが設置された。付属編成の各乗降扉には、軍畑駅(左側のみ)・川井駅(右側のみ)・奥多摩駅では電車とホームの間が広く開いている旨を表記するステッカーが貼付られた。一部の6両基本編成では、武蔵五日市駅での折り返し長時間停車時に虫の侵入を防止する観点から、6号車の蛍光灯が青白いタイプのもの(昼光色)に交換された。編成略号は「青○○編成」と呼称される。編成札は数字のみの表記であり、「60」から「69」が青色に白のゴナに近い字体(武蔵野線でも同様)、「70」から「72」が水色に赤の丸みを帯びた字体(H・T編成のものに近い)である(いずれも立川寄り6両固定編成において)。 クハ201-134を含む4両編成は、武蔵小金井電車区から豊田電車区に転属し同区の訓練車となったが、2001年に展望電車「四季彩」に改造された。E233系の投入に伴う青梅線・五日市線用201系の置き換えは、2007年11月から2008年3月までに行われたが、4両編成の置き換えは2008年2月19日に一斉に行われた。展望型電車「四季彩」はその後も残存したが、2009年6月28日をもって青梅線での定期運用を終了した。長野総合車両センターへの廃車回送は当初の青66(クハ201-144以下6両)・青69(クハ201-150以下6両)・青70(クハ201-154以下6両)の3編成は、EF64形の牽引による上越線経由での配給回送が行われたが、2007年12月27日に廃車回送された青61編成以降では、中央本線高尾以西の小断面トンネル通過対策として回送前にパンタグラフをシングルアーム式に換装して自走での回送が実施されている。最後まで残った青3編成は、中央快速線のH1編成のうち3両を組み込んだ7両編成で2008年6月19日に廃車回送された。
中央・総武線 Chuo-Sobu Line
中央・総武緩行線に投入された201系は、国鉄時代当時の中野電車区に配置され、1982年8月14日から営業運転を開始した。車体色はカナリアイエローとなった。10両編成として使用されていたが、検修設備の関係から6両+4両の分割編成が配置された。1982年11月から1983年3月にかけて、中央線快速用の201系貫通10両編成6本が三鷹電車区に投入され、これにより三鷹電車区より転出した分割可能編成の一部が中野電車区に転属し、中央・総武緩行線に転用された。転属当初はオレンジのままで、塗装変更までは「総武・中央線各駅停車」と書かれた誤乗防止ステッカーが貼られて運用された。1986年3月3日のダイヤ改正による車両基地の統合により、三鷹電車区の中央線快速用車両が武蔵小金井電車区に転属し、中野電車区の中央・総武緩行線用車両が三鷹電車区に全車転属した。これにより中野電車区は車両の配置がなくなっている。試作車の10両は、三鷹電車区所属のまま快速線から緩行線に転用された。JR東日本化後の1988年12月5日に発生した東中野駅列車追突事故では、東中野駅に停車中の103系10両編成に201系10両編成が追突し、追突した201系は最後尾のクハ201-3を除く9両が廃車となった。2000年以降、三鷹電車区へのE231系0番台の投入に伴い置き換えが進められ2001年11月をもって中央・総武緩行線からは引退した。なお、最終的に残っていた10両編成(6+4両編成)19本(190両)は120両が青梅・五日市線用として転用され、残りは京葉線に転用された。東中野事故で唯一残存したクハ201-3はその後も三鷹電車区に留置され、最後まで残ったカナリアイエローの201系となっていたが、2005年12月に大宮総合車両センターへ廃車回送され、同年12月22日付で廃車となった。
京葉線 Keiyo Line
京葉線用として京葉車両センターに配置された編成は、青梅・五日市線内運用編成と同様に中央・総武緩行線で使用されていた車両で、同時期転入の205系とともに京葉線の103系を置き換えた。2000年8月27日から運用を開始した。塗色はカナリアイエロー(黄5号)からスカイブルーに変更され、先頭車は停車駅通過防止装置を京葉線仕様に交換、運転台横に大型時刻表差しの取付が行われた。車内非常通報用ボタンは丸型から角型へ変更、尾灯はLED化、運行番号表示器と側灯もLED化(一部除く)されている。先頭車正面の方向幕は、転入時は白地・黒文字となっていた(山手線からの205系転入車も同様)。これは幕を発注する際に「103系と同じ幕を作ってほしい」というJR東日本側の意図を製作会社が「内容が同じ」ではなく「意匠が同じ」と取り違え、白地・黒文字のものを製造したためである。その後、2005年秋頃から順次黒地・白文字に交換すると共に側面も上部に「京葉線」を表記するものに交換し、フォントも新しくなった。2000年から2001年にかけて転入した10両編成7本は中間に先頭車が挟まった4両+6両で構成されていた。そのうち4本(K1 - K4 + 51 - 54編成)は自動解結装置を取り付けて4両+6両に分割併合を行う運用に、残り3本(71 - 73編成)は同装置を取り付けず分割併合がない運用に投入された。72・73編成は中間に試作車(900番台)を組み込んでいた。分割併合編成は基本編成が外房線の勝浦まで、付属編成が東金線の成東まで乗り入れ、外房線の誉田駅で分割併合が行われた。山手線からの205系転入に伴い、201系の試作車900番台10両が老朽化により2005年10月に運用を離脱し、同年11月2日付で廃車となった。クハ201-902・モハ201-903は2005年10月14日に大宮総合車両センターで「地震での脱線想定負傷者救出訓練」に使用された。900番台と組んでいた72・73編成の量産車は1編成に統合され、72編成(クハ201-104以下10両)となった。2007年2月 - 3月には中央線快速で使用されていた10両貫通編成2編成が転入したこれは、武蔵野線直通列車の増発ならびに埼京線用205系の踏切事故による不足補充分として京葉線205系2編成が転用されたためである。編成番号はトタT32編成(クハ201-58以下10両)・トタT130編成(クハ201-56以下10両)がそれぞれ70編成・74編成となった。塗装はオレンジからスカイブルーに変更され、前面の種別表示器は撤去された。編成は分割編成のクハの組成位置に合わせて変更が行われ、サハ201形2両連続で連結された。非常通報装置の取付は行われていない。パンタグラフは中央線快速時代と同じシングルアームのPS35C形である。京浜東北・根岸線へのE233系1000番台投入により捻出された209系500番台の転入に伴い、2008年12月4日に74編成(元・中央快速線T130編成)が、12月11日に70編成(元・中央快速線T32編成)が新習志野から長野総合車両センターへ廃車回送された。これにより201系の10両貫通編成が消滅し、JR東日本のサハ201形は消滅となった。71・72編成はパンタグラフがシングルアーム式のPS35C形に換装され、2009年1月22日に71編成(クハ201-7以下10両)が新習志野から武蔵野線・中央本線経由で、2009年2月5日に72編成(クハ201-36以下10両)が疎開回送先の幕張車両センターから総武本線・中央本線経由で廃車回送された。これにより201系の分割非対応編成の置き換えが完了した。なお、廃車に先立つ2008年6月に、K1+51編成のクハ201-37・クハ200-36と72編成のクハ201-103・クハ200-104が入れ替えられ、旧72編成が新K1+51編成(クハ201-104以下10両)に、旧K1+51編成が新72編成となった。この編成替えで比較的古い車両が中心となった新72編成が廃車回送されている。JR東日本の201系は、廃車まで新製時の編成を崩さなかったものが多く、この様な組換えは珍しい。連結・切り離しが関係する運用の置き換えは209系500番台で行えず、残存する4編成(K1 - K4 + 51 - 54編成)にはデジタル無線装置が2008年に搭載された。2011年からはE233系5000番台が京葉線に導入され、分割編成が営業を開始した同年3月以降、京葉線に残っていた4編成の廃車が始まった。K3+53編成(クハ201-111以下10両)が4月5日、K2+52編成(クハ201-109以下10両)が4月26日K1+51編成(クハ201-104以下10両)が5月17日に長野総合車両センターへそれぞれ廃車回送された。同年6月時点での残存車は、6両編成1本(54編成、クハ201-114以下6両)と4両編成1本(K4、クハ201-113以下4両)の併結による10両編成1本となった。同年6月10日から同月20日までヘッドマークを掲出して運行され、同月20日の81運用で定期営業運転を終了し、JR東日本での201系の営業運転が終了した。同23日に長野総合車両センターへ廃車回送された。
武蔵野線 Musashino Line
武蔵野線での201系の運用は1986年3月3日のダイヤ改正より開始され、豊田電車区に配置された6両編成3本が転用投入された。塗装はオレンジバーミリオンである。このダイヤ改正では武蔵野線と青梅・五日市線の6両編成が共通運用とされており、その日の運用により201系も両線に乗り入れていた。JR化後の1988年12月1日のダイヤ改正により、京葉線の新木場 - 南船橋・西船橋間が開業し、武蔵野線の車両が西船橋から京葉線の新木場・南船橋まで乗り入れるようになった。京葉線では保安装置にATS-PがJRで初めて本格採用されており、武蔵野線用の201系にもATS-Pが順次設置されている。このダイヤ改正では中央線快速の増発も行われ、武蔵野線の201系3編成のうち1編成が中央線快速に復帰している。1990年3月10日のダイヤ改正では京葉線の東京 - 蘇我間が全通し、武蔵野線用の201系も東京まで乗り入れるようになった。1996年12月のダイヤ改正で武蔵野線が全編成8両編成となることに伴い、201系は転属のため1996年10月20日をもって武蔵野線から撤退した。
関西地方:京阪神緩行線
Kansai Region: Keihanshin Local Line
関西初の201系の投入線区は東海道・山陽本線の緩行線(京阪神緩行線)となり、国鉄時代の1983年2月21日から京都駅 - 西明石駅間で営業運転を開始した編成は103系と同じ7両編成で、車体塗装色はスカイブルー(青22号)となった。昭和56年度第3次債務で56両(7両編成8本)、昭和57年度本予算で14両(7両編成2本)の計10編成70両は高槻電車区に、昭和57年度第1次債務で42両(7両編成6本)、昭和57年度第4次債務で42両(7両編成6本)、昭和58年度本予算で7両(7両編成1本)の計13編成91両が明石電車区に、昭和58年度第2次債務で63両(7両編成9本)は明石電車区に配置され、32編成224両の陣容となった。201系の投入により余剰となった103系は他区所に転属し、101系など老朽車両の置き換えがなされた。1985年3月14日ダイヤ改正では運用区間を草津駅 - 加古川駅間に拡大するとともに、昼間の普通列車の運転区間を京都駅までから高槻駅までに短縮し、快速列車が高槻駅 - 京都駅間で各駅停車となった。これにより、昼間の普通列車は増備車を導入せずにすべて201系で運行されるようになった。1986年3月3日のダイヤ改正では、高槻電車区の201系が明石電車区に転属し、京阪神地区の201系は明石電車区に集中配置されることになった。1986年11月1日のダイヤ改正では、京都駅・高槻駅 - 西明石駅・加古川駅間の直通系統に加えて甲子園口駅と吹田駅で折り返す系統を運行する「串刺しダイヤ」が解消され、日中の高槻駅 - 神戸駅間が増発された。この時の増備車は201系ではなく、205系の7両編成4本となった。JR西日本発足以来、明石電車区所属の103系・205系とともに東海道・山陽本線の各駅停車で運用されていたが、1994年3月1日ダイヤ改正から207系1000番台(吹田工場高槻派出所所属)が運用を開始し、103系を完全に置き換えた。これによる本系列の廃車は発生していないが、103系の運用を持ち替える形で湖西線系統(京都駅・山科駅 - 堅田駅間)での運用が追加された。1996年7月20日のダイヤ改正では、日中の神戸駅折返し列車が須磨駅発着に延長された。1997年3月7日のダイヤ改正ではJR東西線が開業した。東西線関連を中心に207系が運用を拡大し、201系・205系は日中は高槻駅 - 須磨駅間の運用となった。1997年9月1日ダイヤ改正でJR宝塚線新三田駅発着系統と京都線が一体化し、201系も新三田駅まで乗り入れを開始した。1998年10月3日のダイヤ改正では、日中の須磨駅折返し列車がすべて西明石駅発着に統一され、時間帯により大久保駅で折り返す列車も設定された。2000年4月1日付の組織改編に伴い、鷹取工場と網干電車区が統合されて網干総合車両所となり、明石電車区の検修部門も網干総合車両所明石支所となった。2000年4月28日より、夜間の湖西線の混雑緩和策として、113系4両編成で運転されていた京都 - 永原間1往復で平日のみ201系(ほか205系・207系)の投入が行われた。201系による永原乗り入れは同年9月22日まで行われ、9月23日のダイヤ修正以降は113系4両編成2本併結の8両編成により運転された。スカート(簡易排障器)は1991年度にJR東日本とは異なるタイプが、2004年から従来型より大型で鉄板を厚くしたタイプが設置された。1998年から、座席モケットが207系に準じたシーマンブルーに変更され、ATS-Pの搭載が1998年8月から2001年3月までに全編成に対して行われた。座席モケットの交換及びATS-Pの搭載は網干電車区と鷹取工場で行われた。2001年7月1日に和田岬線が電化され、明石支所に103系の6両編成が投入されたが、1編成しかないため検査時等は201系・207系による代走が行われるようになった。201系が代走に入る場合、7両編成からサハ201形を外した6両編成で運用されていた。弱冷車サボ受けが全車の片側2か所に設置された。施工時期によってビス止めタイプと溶接タイプがあったが、転属に前後して撤去され、2002年以降には雨水の侵入により屋根の腐食の原因となる屋根上のベンチレーター(通風器)の撤去がC4編成(クハ201-64以下7連)から順次行われ、2005年以降は体質改善工事施工車に限り同時施工された。2003年11月からは、大阪環状線などの103系体質改善40N工事車に倣った「体質改善工事」(30N)が開始された。また体質改善工事施行前から、側面方向幕を国鉄形式の白地黒文字からJR形式の黒地白文字のものに交換した車両もある。交換は編成単位ではなく、編成内で幕が違うものも見られた。前面方向幕の「高槻」のローマ字表記は、ほとんどが「TAKATSUKI」(ヘボン式)だが、一部の車両では「TAKATUKI」(訓令式)も存在した。2004年3月13日ダイヤ改正時点では、東海道・山陽本線の西明石駅 - 京都駅間を主体に運用されており、201系と205系、207系試作車と共通運用とされた。加古川駅へは平日朝ラッシュの3往復、草津駅への乗り入れは1往復(平日朝夕ラッシュ)のみが乗り入れた。福知山線では朝晩のみ尼崎駅 - 新三田駅間で運用され、大阪駅発着列車は東西線開通前と同じく外側線経由で塚本駅を通過していた。湖西線へは平日朝ラッシュのみ1往復が堅田駅まで乗り入れた。2004年6月1日、網干総合車両所明石支所は網干総合車両所明石品質管理センターに改称された。2005年12月1日から2006年12月にかけて321系が273両(7両編成39本)投入されたため、2007年3月18日のダイヤ改正をもって定期運用を離脱し、大阪環状線と関西本線(大和路線)に転用された。1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)によって、東海道・山陽本線の大阪駅 - 姫路駅間が不通、山陽新幹線や並行私鉄も甚大な被害を受けた。発生翌日から徐々に復旧区間を伸ばしていき、30日には他私鉄に先駆け、西側(姫路方面)からの神戸駅乗り入れ、2月20日には灘駅乗り入れを再開した。東側(大阪方面)は芦屋駅まで復旧されており、代行バスを利用した阪神地区直通需要や、振替輸送などによる乗客の相当数の増加が予想され、ラッシュ時における1列車あたりの輸送力を増加させるために編成組み換えを行った。201系の7両編成8本を用意し、そのうち4編成から1両(サハ201形)を抜き取り6両編成に、残り4編成に抜き取ったサハ201形を組み込み8両編成とした。これによって6両編成4本、8両編成4本に組み替えられ、6両編成は2本連結した12両編成として運用することで輸送力の大幅な増加を図った。2月20日の灘乗り入れ再開にあわせて、西側の灘 - 西明石間で201系による12両編成での運用を開始した。12両編成(6+6の編成・TcMM'MM'Tc'+TcMM'MM'Tc')は本系列では最長となる。鷹取・塩屋・舞子・朝霧の各駅はホームの長さが8両分しかなかったが、朝ラッシュ時の上り列車に比べて下り列車は乗客が少ないため、12両編成化にあわせて上りホームのみ有効長延長が行われた。12両非対応ホームのある駅を通る下り列車では、快速運用にも投入された。最後まで不通であった灘 - 住吉間も4月1日に復旧し、全線が開通した。201系の変則編成は3月31日運用終了後に解消され、元の7両編成(TcMM'TMM'Tc')に復元された。321系の投入によって余剰となった201系224両(7両編成32本)は車齢が20年程度であったことから、車齢の高い103系のうち体質改善工事を施工していない車両の置き換え用として転用した。201系転用前における103系在籍数を右に示す。転用候補先では7両編成は存在しないことから8・6・4両編成に組み替えるパターンも考案された。しかし、4両編成は通勤時間帯に2編成連結した8両での運用が存在し、制御方式の違いから103系と201系は併結できず、共通運用ができないことから、8両編成16本と6両編成2本を森ノ宮電車区に、6両編成14本を奈良電車区に転配する計画とした。その後の計画変更により6両編成は奈良電車区に集約されることとなり、2007年度に車両転配が完了した。2017年10月1日時点で森ノ宮電車区に128両(8両編成16本)、奈良電車区に96両(6両編成16本)が配属されていた。
関西地方:大阪環状線
Kansai Region: Osaka Loop Line
大阪環状線の103系8両編成を置き換える目的で、京阪神緩行線からの転用車が2005年12月から森ノ宮電車区に順次配属された。まずクハ201-62以下7連(旧C2編成)にサハ201-96(旧C28編成)を組み込んだ8両編成が、検査周期の都合からスカイブルー塗装のまま、2005年12月15日から営業運転を開始した続いて、オレンジバーミリオンに塗装変更されたクハ201-64以下6連(旧C4編成のサハ以外)と旧C25編成のクハ201-136・クハ200-136を組み合わせた4+4の8両編成が登場した。中間にクハを組み込んだ編成は暫定的であり、奈良電車区への転配が開始されると解消された。転用にあたり、「弱冷車」表記札の差し込み枠が撤去され、ステッカー表記に変更された。方向幕は、JR西日本の標準である黒地白文字のものに交換された。本系列の転入により、103系は廃車または奈良電車区および日根野電車区(現:吹田総合車両所日根野支所)へ転出した。一部の編成はスカイブルーのまま運用を開始したが、その後クハ201-137以下をはじめとしてオレンジバーミリオンに塗り替えられ、2009年に最後まで残ったクハ201-62以下8連が塗り替えられて関西圏からスカイブルー塗装の201系は消滅した。転入当初残されていたスカートの車両番号表記は消去され、代わって前面の車体左側黒い部分にヘルベチカで車両番号が表示され、その後2007年以降定期検査に合わせて冷房装置をAU75系からWAU709に換装し、全車が施工済みとなった。2012年11月にはLB8編成(クハ201-93以下8両)の行先表示器がLED式のものに更新されたのをはじめとして他の編成にも施工が進み、全編成の更新が完了した。運用は基本的に大阪環状線・桜島線(JRゆめ咲線)である。ラッシュ時には関西本線(大和路線)でも快速・区間快速としても使用されたが、2016年9月をもって大和路線の快速運用から撤退した。適時ラッピング広告編成となって運用されている。最初は201・103系に施されていたが、2006年8月以降は201系のみが対象とされている。4号車のサハ201形は女性専用車。当初は平日朝夕ラッシュ時に設定されていたが、2011年4月18日からは終日設定されている。2012年6月の組織改組により、森ノ宮電車区は吹田総合車両所森ノ宮支所となった。2012年からは、103系に代わり201系がユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)のラッピング車となった。
2012年10月17日より「ユニバーサル・ワンダーランド(Universal Wonderland)号」が、2013年2月1日からは「ハリー・ポッター(Harry Potter)」ラッピング車が営業運転を開始している。2013年度にスタートした「大阪環状線改造プロジェクト」の目玉として、新製車両の投入が決定した。将来のホームドア設置を見据えて、大阪環状線を運行する車両を特急など一部を除いて3扉車に統一することとなり、2016年度より3扉車323系が新製投入され、本系列の置き換えが進められた。2017年11月3日付でLB8編成が、2017年12月28日付でLB10編成が、2018年2月7日付でLB7編成が、それぞれ付随車2両を抜いた6両編成となり奈良支所へ転出。余剰となった付随車とLB5編成の計14両が2018年3月31日付で廃車された。2018年6月27日付でLB11編成が、同年10月13日付でLB12編成が、2019年1月22日付でLB13編成が、それぞれ6両編成となり奈良支所へ転出。2018年6月1日付でLB1編成とLB11編成の付随車2両が廃車、同年8月31日付でLB12編成の付随車2両が廃車、同年12月11日付でLB2編成が廃車、同年12月13日付でLB13編成の付随車2両が廃車、2019年1月15日付でLB4編成が廃車、2018年12月27日付と2019年3月31日付でLB16編成が廃車された。USJラッピング車は同年6月1日に運行が終了。同年6月7日をもって(LB9編成で運用)大阪環状線・桜島線(JRゆめ咲線)での201系運行が終了した。同年6月3日付でLB3編成とLB14編成が廃車、同年7月1日付でLB9編成とLB15編成が廃車、同年8月1日付で最後まで残ったLB6編成が廃車された。これに伴いサハ201は形式消滅している。
関西地方:大和路線・奈良線・おおさか東線
Kansai Region: Yamatoji Line, Nara Line, Osaka-Higashi Line
関西本線(大和路線)で運用される103系6両編成を置き換える目的で、京阪神緩行線からの転用車が2006年12月より奈良電車区に順次配属された。塗色は201系では初となるウグイス色で、103系に引き続き先頭車の前面には白色の警戒帯が配されている。編成は明石時代の編成からサハを外したものである。103系は偶数向き先頭車がJR難波寄り先頭だが、本系列は奇数向き先頭車(クハ201形)がJR難波寄り先頭となっている。最初の編成は同年12月11日に8両編成で構内試運転、翌12日に本線試運転を実施し、翌13日に6両編成で吹田工場を出場、奈良区に回送された。同月20日から同じく奈良区所属の103系6両編成と共通運用で営業運転を開始した。最終的には置き換え前の103系より2本多い16本96両となったが、2017年10月時点では103系6両編成3本が残存していた。2008年3月15日におおさか東線の久宝寺駅 - 放出駅間が部分開業し、201系が投入された。2012年6月の組織改組により、奈良電車区は吹田総合車両所奈良支所となった。2017年11月から2018年2月にかけて、森ノ宮支所の8両編成3本が6両に減車のうえウグイス色に塗装変更されて転入し、残存していた103系6両編成3本をすべて置き換えた。さらに、おおさか東線放出駅 - 新大阪駅間延伸開業に伴う車両増備のため、2018年6月から2019年1月にかけて森ノ宮支所の8両編成3本が同様に6両化されて転入し、延伸区間での試運転にも使用された。2020年4月時点では6両編成22本が奈良支所に配置されていた。運用は基本的に大和路線・おおさか東線の普通列車であるが、朝夕には大和路線の快速、和歌山線の王寺駅 - 高田駅間、桜井線(万葉まほろば線)でも運用されていた。3号車のモハ201形は女性専用車であり、大和路線JR難波駅 - 奈良駅間・おおさか東線・和歌山線王寺駅 - 高田駅間で設定されている。森ノ宮支所配置編成同様、定期検査に合わせて冷房装置をAU75系からWAU709に換装した。全車両の行先表示器がLED式に変更された。2019年8月の検査出場車から、床下機器の塗装が黒色から灰色に変更されている。2020年度(令和2年度)から2023年度(令和5年度)にかけて、225系電車144両を新製投入し、JR京都線・JR神戸線の快速運用に充当されている221系電車を捻出して大和路線の201系を置き換え、2024年度(令和6年度)中にJR西日本所属の201系全車の運用を終了する予定となっている。2022年3月12日のダイヤ改正で、おおさか東線での運用と和歌山線と桜井線での定期運用を終了した。2020年5月29日付でND603編成が奈良支所の201系で初の廃車となり、2021年9月30日付でND618編成が、同年10月20日付でND619編成が、同年11月5日付でND620編成が、同年12月9日付でND608編成が、2022年1月14日付でND617編成が、それぞれ廃車された。2022年4月28日付でND610編成が、同年6月24日付でND621編成が、同年7月7日付でND609編成が、同年12月13日付でND622編成が、2023年1月12日付でND611編成が、同年5月10日付でND613編成ががそれぞれ廃車された。2024年3月16日のダイヤ改正では定期快速運用が終了した。2024年12月17日現在、吹田総合車両所奈良支所に所属している6両編成4本、ND602、ND604、ND606、ND607編成が大和路線運用に就いている。