私の考える2つの理由
[ そのわけ 1 ]
大学入試では 全ての学部で英語は必修です。それは大学の授業で英語が必要だからではありません。では、なぜなのか考えてみたことはありますか?
競争試験に勝ち残るための振るいにかける手段だからでしょうか? その一面もあるかもしれませんが、大学側が求める本当の理由はそうではないと私は思います。
日本に、まだ大学が数少なく、大学進学を希望する高校生も少なかった時代、大学を卒業した学生は『学士様』と呼ばれて尊敬されていました。それは、学士と呼ばれる人材だけが世界と渡り合える高度な専門知識を有する逸材だったからです。狭い国内の知識、情報だけでは解決できない、或いは発展を遂げることができない現状を突破するために、海外の優れた知識や技術を英語を使って取り入れる必要がありました。つまり、英語を使える者だけが世界の最先端の知識や技術を知ることができた時代があったのです。この意味において英語はそれ自体を学問とみなすのではなく、道具、或いは表現手段として学士にとっては必須の教養だったのです。
今では、医学や科学技術の世界で、これまでに知られてこなかった研究論文をパソコンで簡単に検索することができるようになりました。使われている言語はもちろん英語です。昔も今も英語さえできれば世界と繋がることができるのです。大学で高度な専門知識を学んでも、それを膨らませるためには世界の最先端から知識や情報を英語で読み取って吸収したり、英語で質問したり、英語で発信できるようになることが理想です。その理想を実現するために、人材を育成することこそ大学の使命なのです。
現実に、そのような卒業生が何パーセント生まれるかはわかりませんが、少なくともその可能性に向かって大学は存在しています。そして、そのためには高校を卒業するまでに英語の基礎力がどうしても必要です。
[ そのわけ 2 ]
英語の成績を見れば、その生徒がこれまでどういう学生生活を送ってきたか一目瞭然です。英語は後天的な知識の蓄積です。誰でも身につけられる知識です。英語を話せない英米人はいません。それは起きている間いつも英語に接しているからです。つまり時間さえかければ誰だって英語は使えるようになります。ちょうど車の運転技能と似ていますね。人によって時間はかかるかもしれませんが、最終的には誰でも運転免許は取得できますよね。英語も同じです。但し、どんな学習でもトレーニングに耐える我慢は必要です。ドレミの運指を知らないでショパンを弾けるようにはならないでしょう。
大学がその受験生の合否を判断するとき、その受験生がこれから大学で学ぶ専門課程を理解と知的忍耐心を持って学ぶことができるメンタリティ( 精神 ) を持っているのかどうかを英語の試験を通して見極めようとしているのです。
ある一時期、例えば半年間ぐらいならどんなに面倒な訓練にも耐えられるとは思いますが、6年間ずっとコツコツと知識を積み重ねて蓄えるトレーニングに耐えるのは決して易しいことではありません。しかも英語学習の場合はその過程においてほとんど楽しみが無いのです。スポーツのトレーニングは厳しくとも試合に勝てば嬉しいでしょうし、楽器の習得ではお気に入りの曲が弾けるようになれば、次の曲に向かうエネルギーも沸いてくるでしょう。それに比べて英語のトレーニングは面白みに欠けるのです。辞書無しで小説を読んで楽しめるようになったり、外国人と英語で話したりできるようになるまでには最低でも5年は必要だと思われます。『石の上にも3年』と言う諺もありますが、英語学習の場合はそれが5年なのです。
大学はその受験生が日頃の学習でコツコツと知識を積み上げる学習習慣を身につけてきたのかどうかを試したいのです。その学習習慣を身に付けている者でなければ、大学での専門教育には耐えられないと判断するのです。英語の成績はその学習姿勢とメンタリティを測るのにふさわしい尺度ということが言えます。
英語学習に特別な才能は全く必要としません。数学の難問を解くときに必要とされる 『数学的センス』などといったものは、英語学習において要求されたりはしないのです。この意味において、受験生の能力を測るとてもフェアーなバロメーターと言えるでしょう。
以上が私の考える 『大学入試ではなぜ全ての学部で英語は必修なのか?』の問いに対する見解です。昨年度合格した生徒が受験した 『横浜国立大学経営学部』の二次試験問題は英語一科目だけでした。英語だけで、大学のアカデミックトレーニングに耐えられる適性を判断できると考えているからでしょう。
旭川の高校生に足りない英語学習とは?
旭川で長年英語を教えてきて、伸びない生徒の共通点もわかっています。それは、単語・熟語・相関語句の暗記ができていないことです。英文は英単語、や熟語・相関語句から成り立っています。その意味を曖昧にしか覚えていなければ、英文全体の意味、筆者の主張などといったものがわかる筈がありません。『その単語、見たことはあります』のレベルで学習が終わっているのです。中学時代に習う英単語・熟語などは、英米人の小学生が習うレベルのものですから一度聞いただけですぐに覚えられたかもしれません。さしたる努力もせずに簡単に覚えられたものですから、高校英語でもその学習習慣が続いてしまうのです。
私は以前に東京で暮らす高校生も教えましたし、現在も札幌南高に通う生徒を教えていて、彼らが高校でやっている小テストの過酷さを聞いています。旭川の高校生とは桁違いの厳しいテストです。旭川の高校では、高1の時点で英語に対し、苦手意識を持つ生徒を増やすまいとする温かな教育方針なのでしょうが、結局のところ後から高校生に大変な重荷を背負わせることになってしまうのです。大都市圏の高校の先生の意識は半分の生徒がついて来れればそれでいいとするものです。生徒に対して妥協するような姿勢は一切見せません。
英語学習には時間がかかります。デジタルの文化に慣れきった高校生には一度覚えたことはスマホやパソコンに入力した情報と同じように二度と忘れることはないと錯覚してしまうものです。人間の記憶力とは、そんなデジタル式に働くものではありません。忘れては覚え直し、何度も何度もその作業を繰り返すうちに、やがては忘れることのない知識を身につけていくものです。簡単ではありません。時間もかかります。
『こんなに苦労して覚えた筈の単語の意味を又忘れてしまった! 中学時代はあんなに簡単に覚えられた筈なのに! 』という経験をし、今まで持っていた自信も揺らぎ、プライドもズタズタにされてしまう情けなさを私も経験してきました。私は英語を一度も苦手にしたことがないような英語エリートではありません。幾度も挫折を味わってきました。だから高校生たちが何をわかっていないのかが手に取るようにわかるのです。そして遠回りにならない合理的な学習を伝える経験があります。
当教室からたくさんの生徒が自分の志望する大学へと旅立っていきました。その生徒たちに共通する学習姿勢は『自分に対して謙虚であること』、そして『先生の指導を疑うことなく我慢して従う』精神の柔らかさかもしれません。記憶力のすぐれた生徒( いわゆる頭の良い生徒 ) だけが成し遂げた合格ではありません。英語は誰でも得意にすることができます! 但し、自分の途を切り拓くためには我慢してください。何がなんでも突破してみせるという強い意志も必要です。
面倒な英語学習の経験が、次の挑戦への原動力ともなるのです。『あのとき乗り越えられたのだから、今度も必ず乗り越えられる!』という自信につながるのです。根性を鍛えるものがスポーツばかりではありません。英語学習は、『現実的な知的克己心』を育ててくれます。
好きではない面倒なトレーニングを通じて、私はそうした精神を生徒たちに英語学習を通して養ってもらいたい一心で今まで教えてまいりましたし、これからも教え続けたいと思っています。今年も意欲あふれる生徒との出会いを夢見て電話の向こうで待っています。
最後に、『意志あるところに途は拓ける』という言葉は真理です。あなたも強い意志をもって学習に取りくんでください。そうすればあなたの途も必ず拓けます!