San Diego 留学前のおはなし(1)
大学院へ進学したM1の秋,U助教授(当時)がひょっこり居室に顔を出し,留学に行きませんか,といきなり声を掛けてきた.私の人生観の中では,博士課程修了後に海外へポスドクに行きたい気持ちはあったのだが,在学中の留学という選択肢は無く,この時初めて具体的に考えるようになった.留学を薦めた当のU助教授はM2の夏から1年間イギリスへ文部省国際交流派遣学生という制度で留学した経験があり,このシステムでの留学はなかなかよい,と薦めて回っていたのだった.ちなみに,この「文部省国際交流派遣学生」という制度,その後とある本の中で再び出会ってアッと思った.かの夏目漱石がロンドンに留学した時も同じ名前の制度だったのである.
M1の秋に英語の試験を受けて,それにパスすると学内推薦の学生として次年度の夏(留学先の新学期)から10ヶ月間留学する,というスケジュールになる.M2の夏から留学して,帰ってくると修士論文を修了しないといけないので,M2の夏に戻ることになる.つまり丸々1年のロスになるし,修士論文の研究も中途半端になりそうな気がした.その頃,私は博士進学をかなり真剣に考えていたので,もし留学するなら博士課程の間の方がいいと思って,その時はそのようにU教授に返事をした.
その後,数日してU助教授に呼ばれ,部屋に行くと「栗木君の留学先の件だけど,…」と切り出された.おやおや,私はいつ留学することに決まったんだ?と思ったが,続きを聞いていると,「San Diego の MacLeod 先生のところが良いと思うんだ.Boynton が現役だったら彼に頼むんだけど,引退するからねぇ….MacLeod さんとつながりができるのも良いことだと思うし.」と言われた.確かに,Boynton の引退記念学会が翌年の1月末に予定されていた.すると「Boynton の引退記念の学会がある U.C. Irvine は,San Diego に近いから,その学会に出て,ついでに MacLeod の研究室を訪問したらどうだろう」と提案された.M1の4月に視覚科学を研究し始めたばかりで、秋の時点で国際会議に出せるような成果はさすがに無かった.旅費は半分自腹で,純粋に見学のみ鞄持ちと運転手としてその学会に出席することになった.学会の後,研究室を見学したい,というお願いをしたら,MacLeod 教授は快く引き受けてくれた.San Diego 滞在の間に宿泊する宿はU助教授ご推薦の宿にした.
学会参加者はU助教授,N助手,D3のK氏,M1のS氏(いずれも今は立派な先生)と私の5人となった.大型のアメ車を1台レンタカーで手配した.アメ車はコラムシフトのATで,前席は3人掛けのできるベンチシートだった.5人が旅行用の鞄を持った状態だと,さすがのアメ車も荷物を載せ切れなかった.仕方が無いので,小さめのスーツケースを1つ,後席の間に載せて,前にU教授と私,S氏の3人が乗ってLAの空港からU.C.Irvine 近くのホテルへ向かった.私が地図を見てナビをしたのだが,交差点の信号機にぶら下がっている標識が通りの名前だと分かるのにしばらく時間がかかり,そのせいで迷走してしまった.
初めての国際会議では,英語が怒涛のように押し寄せてきた.一応,英国滞在経験もあるし,その後,父親が仕事の関係で自宅に連れてくるゲストとも英語で会話をした経験は散々あるし,英国に語学留学もしたし,それなりに自信はあったのだが,技術的な英語には全く免疫が無く,話の内容も半分わかれば良いほうだった.3時間で頭は飽和状態になり,後は聞いているのかいないのか,全く自覚すらできなかった.当時はまだPCによるプレゼンは無く,OHPかスライドだった.U.C. San Diego に居た Andrew Stockman はスライド・プロジェクター2台を使ういわゆるダブル・スライドを巧妙に使い,すばらしいプレゼンをしていたのが印象的だった.John Krauskopf は結果のスライドが1枚抜けており,ここはこういう横軸でこういう縦軸のグラフがあるはずなんだが忘れてしまった,と言って会場を笑わせていた.ちなみに,数年後の全く別の学会でも同じことをしていたので,これは Krauskopf 教授のネタだったのかもしれない.
この会議で初めて会った日本の方で非常に印象に残ったのが,O社からU.of Rochesterに留学していた(その後、P社でDMDプロジェクタの開発リーダをされていた)S氏と,M社からU.C. Irvineに留学されていた(その後もM社にご勤務)のO氏である.O氏は,我々ガキどもをご自宅に招待してくださったり,大学の近くの「勘違いジャパニーズ」レストランに連れて行ってくれたりした.「勘違いジャパニーズ(「太閤」という店名だったが,1995年時点では無くなっていた)」では,スシとフライドチキンが同じプレートに乗ってくるコンボなど,笑えるメニューが一杯だった.ここで,一番近くの席に座っていたのがS氏だった.食事の間に留学先の寮で鍵を盗まれた話など,大変興味深い話を聞いた.食事と言えば,一番最初に持って来たのが味噌汁だった.西洋のコース料理ではスープから始まるので,確かに日本食だと味噌汁がそれに相当するが,それを単独で飲む日本人はあまりあるまい.一口飲んで,長年日本を離れているS氏は一言「うめぇ~」とつぶやいた.日本から行った私と友人は「なんだコリャ」という反応だったが,それを聞いてS氏は自分の味覚の変化に衝撃を受けたていた.アメリカで生活すると,ここまで味覚が崩壊するのか,と私自身も衝撃を受けたのを記憶している.
この会議のあと,留学先としてU先生が選定したMacLeod教授をU.C.,San Diegoに訪問した.私自身は修士の1年目が終わろうとしていた頃で,研究テーマは決まっていたものの,まだ何も実験ができていない段階だった.装置の設計に凝り過ぎたのと,年度の途中で研究室の引越しがあったためだ.私以外の友人や先輩はそれぞれが学会で発表した内容を掲示し,私自身は非常に歯がゆい思いをしたのを覚えている.それ以来,手ぶら(発表無し)で学会に行くものではない,と痛感した.MacLeod教授は主として連絡を取った私が色覚の研究をしているのに興味を持ってくれたらしく,コンセプトだけは話を聞いてくれた.私の第一印象は,「切れ者」と呼ばれる割には穏やかな人当たりで,謙虚な人だったということだ.この先生のラボなら,留学先として不安はないと感じた.
これが後に私が留学するラボに行った最初の経験だった.この1年半後に私はこの研究室へ留学した.