最近耳にした二つの話。第2話。
お金にだらしがないB男はお金に困ると、母親を頼ってやって来る。仕事も満足に続かず、そのくせに金遣いは荒い。一人でやってやると出で行ったものの30過ぎても自立できてない。
「金が足りないんだ!助けてくれよ!!母親だろう?!」母親一人で一生懸命育てた一人息子だ。つい、言う事を聞いてしまう。「また、足りなくなってしまった!助けてくれ!!」とやって来る。「そんなにお金はないんだよ。」と言っても「あんた、親だろう?だったら子供を助けるのは義務だろう!?」と言われ、援助してしまう。「金がないんだよ!何とかしてくれよ!!俺は父親なしで不憫に育ったんだよ。そんな俺に援助するのは当然だ、罰は当たらねぇだろう!!」
そう、借金を作り、暴力が絶えない亭主とはB男が小学生の頃別れたのだ。B男は何度も何度もやってきては、母からお金を巻き上げていく。母は、一人で育てたという後ろめたさもあり、かなりの金額を援助してきた。しかし、ついにストレスで倒れる。「もう……無理……」それでも、やっては来たが、お金を取れないのがわかると「けっ!ババァ!何だよ!こっちだって借金があるんだよ!!」
B男はギャンブルで結構な借金を作っていた。「仕方ねぇ、自己破産でもするか……」しかし、世の中そんなに甘くはない。自己破産されたら相手は大損である。自己破産しようが相手は何とか少しでも回収しようとすることもあるのだ。相手も悪かったのだろう。その後、B男は姿を消した。
現在、日本では1時間当たり10人が行方不明となっている。勿論後ほど発見されるケースもあるが、それにしても意外な数字だ。これからの人には、自立して堂々として生きていってもらいたいものだ。それから、この二つの話でもわかるが、親の接し方で子供は大きく変わるのかも知れないのだ。
続けて載せた二つの話。少々極端だが、考えさせられるケースではある。
最近耳にした二つの話。第1話。
お互い老々介護である、老夫婦。一人娘のA子は自営業を営むB男家に嫁いで忙しい。全く両親の面倒を見ようとはしない。
あるとき、妻のK美は主人が倒れているのを発見する。一命は取り留めたものの入院となった。それでもA子は見舞いに来ることはなかった。入院中、ご主人は一通の手紙をK美に渡す。内容は全資産総額7900万円を全て相続して欲しい。娘には相続させないで欲しい。との内容。人を見る目はあったご主人からの願いにK美は戸惑った。
そんな中、ご主人は病院で息を引き取る。K美はA子に連絡をする。「お母さんはこれまで何でもやってきたんだから出来るでしょう!?」との返答。葬儀当日も「義理の母と一緒に夫婦で旅行に行く予定を前から立てていたの。今更中止には出来ないわ!」と父親との最後の別れにも参列しなかった。
葬儀当日の夜、A子から家族で、レジャーを楽しむ写真付きでLINEが来た。「葬儀に出られなくてごめんなさい。でも、お父さんの分まで楽しんでる。相続についても話し合わないとね」と言う内容だった。もう、何も考える必要は無かった。弁護士に相談して、5000万を困っている人たちに寄付し、残りは自分の老後資金にした。
レジャーから戻ったA子夫婦はお土産を持ってK美宅、つまりA子の実家を訪れた。そこで、遺産相続の話を切り出す。そこで、亡き父の手紙と、弁護士に作ってもらった書類を見せる。「酷い!私たち家族じゃない!!親子でしょう!!」と言うA子。それに対してK美も「どちらが酷いのかしら。よく考えて。」と静かに返答する。A子の旦那であるM男も「お母さん!あんまりだ!!」と言う。「私たち大変なの!話を聞いて!!」と言うA子。K美は「もう、あなたたちの居場所はここにはないの。終わりにしましょう」と静かに話す。
施設に5000万を寄付し、困っている子供たちに会うために足を運ぶ。これからは私の人生、と満ち足りた日々を送るK美。
後日、M男の会社が倒産する。そして、この夫婦は離婚する。M男から電話が入る。「A子はネットカフェで寝泊まりする毎日なんだ。話を聞いてやって欲しい。お願いです。会ってやって欲しい。」しかし、全く心は動かない。M男の母からも電話が入る。「あの時は私が誘ったから。本当にごめんなさい。A子さんに会ってあげて。」それでも心が動かない。
しばらくして、「お母さん、話がしたい。お願い。」とA子がやってきた。「中には入れないけれど、では玄関先で話を聞きましょう。」とK美が話すと、A子は小さく頷いた。「お母さん、もう一度やり直したい。人のために一生懸命働きたい。」とA子が切り出す。K美の目が細くなる。「では、ここで掃除でも何でも良いから、一生懸命に働いてみては?」と一枚の名刺を差し出す。それは、5000万を寄付した施設の理事長、K美の名刺だった。A子は懸命に働いた。それを見ていたK美はうれしそうだった。親子の関係ではない信頼関係が築かれていった。K美もA子も今は自立した、満足した日々を送っている。
熱い(暑い)参議院選挙も終わった。喜色満面の人、残念な結果となった人。しかし、喜んでいる場合ではない。これからは果てしなく厳しい、辛い状況が待っている、と政界に立つ人には伝えたい。
これから先の例え話だが、人数を10人集めたとする。高齢者は4人、生活保護或いは身体的・精神的自立支援を受けている人は1人、引きこもり1人、子供を含めまだ社会に出ていない若者1人、パート・バイトをする主婦1人、派遣社員などの非正規雇用者1人、正社員1人と言う社会構造が現実を帯び始めている。これは決して大げさではない。そして、すでに人口減少は始まっているが、高齢者人口がピークを迎えた今、これから先は人口が加速的に減少するはずだ。少子高齢化に加え、生活保護受給者や精神・心療内科領域の疾患は右肩上がりだ。貧困世帯も増加している。こんな状況で社会が成り立つのだろうか?貧困層に金を配るとか、子供のいる家庭に金を配るとか、そんなことをやっても、それはその場しのぎであり全く解決にはならない。何故なのか?根はもっと深いところにある。政治家には、よく考えてもらいたいところだ。
今、崩壊は色々なところで始まっている。個人の心身状態の崩壊、家族の崩壊、地域の繋がりの崩壊……。どんどん大きくなり、結果として、社会構造の崩壊に繋がることはあり得るのだ。
そして、自然環境の大きな変化。今の日本は北海道から沖縄まで、どこで巨大地震が起きても不思議ではない状況だ。そして巨大噴火を伴う可能性のある火山もあちこちにあり、多くの火山が警戒対象となっている。温暖化による環境異変も問題だ。もう、日本は温帯ではない。突然スコールのようにやって来る暴風雨や巨大竜巻、巨大台風。その上、マダニ、ツツガムシが勢いよく増えている。マダニ、ツツガムシからの感染症は極めて致死率が高い。
加えて世界規模の異変。環境異変は地球レベルだ。その上あちこちで戦争、紛争は勃発している。政情不安、国家間の緊張度は危険なレベルにある。
今、地球は死にかけている。そして、そこに生きる人類も死にかけている。国民も死にかけている。人間は、糖尿病のように末端から或いは小さいところから死に始めると、いずれ心臓も停止してしまう。国家を人に例えるなら、末端の一般庶民は疲れ、今にも死にそうな状態だ。個人企業は倒れ、そこそこの企業も危ない。このままでは国の中枢も倒れるだろう。これは決してあり得ない話ではない。
我々に出来る事、それは心身共に健康な状態でいること、少々の困難には打ち勝つ強さがあることだ。「心身の健康と強さ」を維持獲得する方法は、僕も何とか伝えたいと思っている。「心身の健康と強さ」が国を救うと言っても過言ではない。何故なら、個人の集合体が国家なのだから。
花粉症で悩まされる人は多く、僕も例外ではない。花粉症とは鼻炎や結膜炎などの総称であるが、それだけではなく、上気道炎や喘息も併発する。ついでに、そのストレスで頭痛、頭重、倦怠感まで出てくる。ピーク時は微熱も伴う。昔は耳のかゆみから中耳炎にもなった。なかなか派手に症状が出てくる。
このような時は、やはり漢方薬のお世話になる。合った漢方薬を使えば、即効的に良くなるのだ。と言うわけで、漢方薬は非常に重宝している。
時期が過ぎれば勿論症状が変わるので、花粉症で使用した漢方薬は不要だ。で、また、時期が来れば漢方薬のお世話になるのだ。出来る事なら、花粉症が出ないようにしたい。では、どうするか?当然、その時に使用する漢方薬はまた、変わってくるのだ。漢方的な考え方になるが、僕の場合は「水」が悪さをする。水があふれたように鼻水が出て、水っぽい痰が出て喘息になる。だから、「水」を控えることで症状は軽減する。なので、このような症状が出た場合は水はけを良くする漢方薬を使用する。これは大変よく効き、何度も助けられた。(*体質によっては「水」を摂った方が良い人もおります)
では、溜まりやすい「水」をなんとかすれば、花粉症に悩まされることもなくなるはずだ。そもそも何でこんなに水が溜まるのか?原因は「胃腸の弱さ」にあることはわかった。では、胃腸を丈夫にすれば良いのだ。実際、漢方の世界では花粉症や喘息に胃薬を使って治療するのは普通に行われており、先達が多くの実績を残されている。
ここで、花粉症が派手に出ているときに使った、漢方薬による治療は「標治」にあたり、花粉症が出なくなることを目的として使用した、漢方薬による治療は「本治」に当たる。つまり、表にあらわれた症状を取り除くのが「標治」であり、その根っこから変えていく、つまり原因を取り除くのが「本治」である。もちろん、「標治」は即効性が期待されるが、逆に「本治」はじっくり腰を据えて、症状が出たり出なかったり、と言う状態の中で、我慢強く続けていただく必要がある。多くの患者さんは「標治」で終わり、「本治」でじっくり、と言う人は少ない。何と言っても漢方薬は美味しくはないし、とりあえず症状が強く出ないなら様子を見ようという人は多いのだ。続ければ変えられるのに、と少々、もったいないような気もするが、その様な人たちの気持ちもよくわかる。
患者さんの状態では「標治」の為に使用した漢方薬を続けることで「本治」に繋がることもあり、つまり「本治薬」が「標治薬」となることもある。どこでどのような漢方薬を使うのが良いかは、個人個人でよく検討する必要があるのだ。
なお、運動療法、食事療法、音楽療法、個人に合ったストレス発散法などの「養生法」も「本治」に属する。
最近は仕事とが忙しくなかなか運動する時間がとれない。それでも身体を動かすことの大切さは知っているので、真夜中でも運動に出る。そんな中、不思議な天体現象を良く目にする。
いつだったかは、空でピカッと星が光ったように見えた。しかし、カメラのフラッシュのような一瞬の出来事、運動をしていた仲間も見ていた。
何でしょう?
イリジウム衛星は、ピカッではない。ピカッと光ってスーッと消える印象。カメラのフラッシュとは違うのだ。それに太陽光を反射するため日没後2時間くらいまでしか見られないはずだ。つまり、何だかわからない。
明るい木星以上の光が夜空に出現したこともある。あんな所にあれほど明るい星はない……と思い、見ているとその場で光度を落とし、スーッと消える。
何でしょう?
もちろん、何だかわからない。
また、ある時は金星以上の明るい光が現れ、ボワッ、ボワッ、ボワッと点滅する。ピカッと光ったわけではない。思わず「おい!何が言いたいんだ!!」と怒ったことがある。別に伝わるわけではないのだろうが、あまりにも度々色々な現象があると、つい口走りたくなる。一緒に運動していた仲間は、「怒ったから出てこなくなったではないか!」と言う。
そして、金星のような明るい物体が、やや揺れるようにジグザクに動き消えた現象。時間にして5秒ほどか。あのような動きはもちろん、人間の力では不可能だ。
これらは全く科学的には説明がつかない。これまでも多くの一般人とは違う能力を持った人と数多く出会い、不思議な写真を多く撮り、不思議な経験をしたりで、科学で説明できることより、説明できないことの方が遙かに多いことは知っている。それでも、この天体現象は不思議である。
宇宙に関しては、これまでに学問として天文学{宇宙物理学}をやりたかったこともあり、大体の星の配置や宇宙に関しての現象は知っているつもりだ。多くの人がUFOかと間違えるが、そうではないことも多い。例えば、まるで銀河鉄道のように連なって飛行するスターリング衛星、極めて明るい光を放つこともあるイリジウム衛星など。UFOと勘違いされる夜空の現象は数多い。しかし、人類の人智を超えたような現象が時々夜空で観察されることもあるのだ。しかし、不思議なことは数多くの目が夜空には向けらているはずなのに、全くこのような現象は話題に上らない、と言う事だ。もしかしたら、隠している何かがあるのでは?とも思ってしまう。
ところで、天文学を目指す者は「自分はどこから来て、どこへ行くのか?」との思いが根底にある、とある大学教授から聞いたことがある。
いや~ぁ、この湿度と暑さは身体に応える。下痢傾向になるなど、体調のバランスを崩したときには、これまでも漢方薬で立て直していた。その様な時は、職員も気を遣って煎じ薬を作ってくれる。
あるときいつもと同じように体調を崩したので、煎じ薬をいつものように、と思ったが、何しろ忙しい。煎じ薬を作る時間もなければ、煎じている暇もない。やむを得ずインスタント漢方薬であるエキス剤を服用した。その後、派手に下痢をした。腹痛も伴った。煎じ薬ではこのようなことはなかったのに……。煎じ薬に戻して服用したが、今度はお腹の調子も整って楽になった。
職員も体調を崩したときには煎じ薬を作ってはいるが、やはり、忙しい時にエキス剤で代用した。すると、服用直後、胃につかえる、煎じ薬ではその様なことはなかったのに、と言う。勿論同じ名称の漢方薬だ。エキス剤を飲んだ後胃につかえた感じはあったが、とりあえず効果はあったと言う。
このように、実は煎じ薬とエキス剤では効果の現れ方に違いがあることはよくある。ましてや、漢方薬によっては、煎じ薬とエキス剤、名前は同じでも全く別物、というものも存在する。その様なこともあり、なるべく煎じ薬をおすすめしている。
勿論、エキス剤は便利で利用価値はあるが、そのエキス剤もメーカーによって内容に違いがある。いわば、インスタントコーヒーだ。コーヒー通にとっては、本物のコーヒーとは全く違いを感じるだろうし、また、メーカーによってもインスタントコーヒーの質は変わる。漢方のエキス剤も同じなのだ。内容をきちんと吟味して選び、使用する必要がある。
武術の世界には「口伝」なるものが存在する。なぜなら、真の技法は書では表せないからだ。師からの教えのみではなく、実際に師の動きを見て、そこに内包された力、フィーリング、イメージをつかまなくてはならない。形は説明できるが、何かが違う、何が違うのか?を考えながら鍛錬することで、言葉では伝えられない境地に達することが出来る。ここで初めて真の武術家となることが出来る。一門の「型」は覚えることも大切だが、それで学んだ気になっている「なんちゃって武術家」も多い。最も本人が満足するならそれで良いが。
音楽でも同じような事が言える。例えば、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」。小澤征爾指揮のボストン交響楽団、ロリン・マゼール指揮のクリーブランド管弦楽団、シャルル・デュトワ指揮のNHK交響楽団、 パーヴォ・ヤルヴィ指揮のNHK交響楽団、朝比奈隆指揮の大阪フィルハーモニーなど名演は数多い。まして、指揮者がカラヤン、フルトベングラーなどまでとなると、実に多様な名演奏が楽しめる。楽譜は同じだが表現方法は違うのだ。どのように違うのか?言葉で表すのが難しいから、色々な言葉・形容詞をとって表そうとするのだ。そして実際は聴いてみるしかない。
さて、実は漢方薬もその目に見えない内包されたもの(フィーリング、イメージを含む)が重要だ。となると、どうやって、その漢方薬の効く人に内包されたもの(フィーリング、イメージを含む)を後の世の人たちに伝えたら良いだろうか?と、なんとか伝えようとして生まれたのが、陰陽、五行、表裏、虚実、寒熱、気・血・水などの漢方理論なのだ。「脾胃の気虚のため衛の気も虚した」「心下の蓄水の為に痞え心火のためにおきている」「病は未だ表位にあり、虚実間の状態で熱感を伴っている」など、何とか内包されたもの(フィーリング、イメージを含む)を伝えようとした。偉大な古人の知恵なのだ。なので、症状をパズルのように当てはめても難しい。解説書や添付文書で記載されていることを真に受けるわけにはいかないし、記載された症状をパズルのように当てはめても、うまくいかないことは多いのだ。葛根湯が効く人の内包されたもの(フィーリング、イメージを含む)を葛根湯証として表している。抑肝散が効く人の内包されたもの(フィーリング、イメージを含む)を抑肝散証として表している。そして、漢方理論で表現される内包されたもの(フィーリング、イメージを含む)を正確につかまなくてはならない。
何の世界もそうだが、文字だけで理解した気になっている、なんちゃって○○家、あるいは単なる「オタク」が実に多いのだ。
「漢方は、長く飲まないと効果は無い」と思われている人も多い。では、風邪症候群などの急性疾患に漢方を使う場合はどうなのか?勿論、即効性を期待されるケースだ。その時点で、その人に合った漢方薬を服用すると、30分~3時間で効果はわかる。追加して後1~3回服用すれば良い。「葛根湯を飲んでおかげさまで3日で風邪は治りました」と言っておられた方、葛根湯を飲まなくても3日で治っただろう。では、膠原病などの難治性疾患も即効的に治るのか?と言うとそうではない。症状の軽減は見られても「即効的に治る」と言う事については期待出来ない。続ける必要が出てくる。
ここで「頭痛して吐いてしまう事が頻繁にあるんです、と言う胃の弱い婦人」を例にとって考えてみたいと思う。これまでも紹介してきたが、漢方には流派がある。多くの漢方薬が考えられるが、こういったケースで有名な漢方薬には、古方派の「呉茱萸湯」後世方派の「半夏白朮天麻湯」がある。この二つを例に取ってみよう。この二つの漢方薬、単純に古方派は呉茱萸湯で、後世方派は半夏白朮天麻湯、と言うわけにはいかない。その中に内包されている「方意」が全く違う。同じではないのだ。例えば偏頭痛の様に強く症状がきて吐いている、などの時には半夏白朮天麻湯では効果が期待できない場合が多い。呉茱萸湯でうまくいったりする。しかし、では、呉茱萸湯で完全に頭痛が起こらなくなるか?と言うとそうではない場合も多いのだ。半夏白朮天麻湯の出番だ。何故そうなのか?漢方的な解釈は難しいので、ここでは省略するが、単純に表現すれば、呉茱萸湯を使い、その後で半夏白朮天麻湯を続けるというのは、とんでもなく、騒ぎまくる子供に「おとなしくせんか!!」と怒鳴りまくって鎮め、その後は「あなたは良い子。だからおとなしく落ち着いていられるはずですよ」と諭すような感じかも知れない。
このように漢方薬は奥が深い。古方派と後世方派は仲良くなかった時代もあった。しかし、漢方薬は心身の不調で困っている人たちのためにある。古方派と後世方派はいがみ合うことなく、手を取ってその能力を充分に発揮することが大切なのだ。そして、この考え方は漢方の世界以外でも言える。もう、互いに手を取り合い、力を合わせることが大切な時代なのだ。
さて、以前もこのコーナーで「音楽には心の動き、感情、時代背景など多くが内包されている」そして「漢方薬の世界も同じである」と書かせていただいた。つまり、漢方薬と西洋薬はその元になっている根拠が違うのだ。
今回上部に示した例では、西洋薬だと、ファモチジンなどのヒスタミン受容体拮抗薬かランソプラゾールなどのプロトンポンプインヒビターなどの制酸剤、胃粘膜保護剤としてレバミピドなど、そしてドンペリドンなどの制吐剤をこの二人には使う。しかし、漢方薬は違う。この二人とも全く違った漢方薬を使用するのだ。漢方的に考えれは当たり前だ。性格、体質、思考パターン、胃の状態を悪くするまでの課程、そしてその背景などが異なっている。このように二人とも全く違うタイプだから、同じ薬を使うわけには行かない。つまり、その二人に内包されている情報を読み取らなくてはならない。それを今度は漢方的理論で考えて漢方薬を決定するのだ。
西洋(科学)の理屈や根拠は数式や化学式という思想が元になっている。それが積み重なって出来上がったもの。対して漢方の理屈や根拠は陰陽五行や気血水という思想が元になっている。それが積み重なって出来上がったもの。そして、西洋医学は身体を閉鎖された組織、体系(クローズドシステム)。言い換えればロボットとして扱っている。対して東洋医学は身体を開放された組織、体系(オープンシステム)として捉える。当たり前だが、人は自然の一部として生きている。常に外と繋がっている。外的環境で身体の内的環境も変わる。皮膚呼吸もしている。この皮膚感覚が我々を自分と他者、或いは自然環境と分けてしまう。しかし、誰かの態度が自分の心、感情に左右することは誰もが経験するところ。そして、このような感情エネルギーは勿論、数式・化学式では表せない。しかし、東洋医学では「気」を始めとする理論で説明する。だから、症状をパズル合わせのようにして、漢方薬は決められるわけではないのだ。
人間は、ロボットではない。我々は外的環境とつながり変化していく生命だ。勿論、西洋医学がダメだといっているわけではない。数式、化学式を使った現代科学の理屈という思想は素晴らしいと思っている。そして、我々はその恩恵に与っている。だから、西洋思想も東洋思想も大切にして、うまく生かしていくことが大切だと思っている。
知人からの招待で地元交響楽団の演奏に行ってきたが、感想はスタッフの部屋でも書いたとおりだった。演奏された交響曲第5番「革命」、ショスタコーヴィチという名称も含め、クラシックになじみのない人は耳にしたことがないのでは?と思う。そして交響曲第5番といえばベートーヴェンの「運命」。こちらは冒頭の部分などは、多くの人がどこかで聞いているだろう。
交響曲第5番「運命」を作曲した頃はベートーヴェンは絶望のどん底にいた。聴覚を失いつつあったのだ。これは作曲家としては致命的だ。しかし、自然をこよなく愛したベートーヴェンは、その自然界から生きる力をもらった。それは、交響曲第5番「運命」交響曲第6番「田園」と立て続けに作曲した2つの交響曲にも現れている。苦難から立ち上がる「運命」と自然に対しての感謝の思い、自然賛歌「田園」である。「運命」からは、どんなに暗闇の世界にいようが、努力すれば必ず光あふれる世界がやって来る、という力強い思いが伝わってくる。この後、彼は数々の素晴らしい作品を作曲することになる。聴覚を失っての、まさに神業である。
これに対して、ショスタコーヴィチの交響曲第5番「革命」、これはソ連時代(現ロシア)、国民が極めて苦痛で窮屈な世界であった時代に作曲された音楽である。なので、音楽にも随所に重々しい雰囲気が流れている。いつかはこの窮屈な世界から出られるだろうと思って耐えはするが、その希望も無残に打ち砕かれる。しかし、それでも諦めない!と言うメッセージが強く伝わってくる。今、我々にはショスタコーヴィチの交響曲第5番「革命」から得られるメッセージがとても重要になってきている。
音楽の素晴らしいところは、時代やその人の背景、感情、心の動きが内包されているところである。そのため、名曲と言われるものはいつの時代になっても色あせないのだ。
音楽から背景、情景を考える、それは患者さんの状態から、漢方薬を想定するのと同じである。そして、優れた武術もその動きには、それに伴った心の動きや念が内包されている。
言霊の話を書かせていただいたが、呪文や言霊には多くが存在する。その中でも大変シンプルで実に有効な言霊を紹介しよう。それは「知っている」だ。人は身体の持つ五感の中で自分を見失ってしまい、自分の体が完全に自分のアイデンティティとなってしまった。つまり自分だと思い込んでしまったのだ。あまりにもこの現世という現象界に浸りきってしまったために、あなたは不安な人間、怖がる人間、傷つきやすい人間、死にゆく要素である人間というものになってしまった。それは、あなたが自分の内面のパワフルな本質を忘れてしまったから。このホームページの色々なところで書いているが、「架空のあなた」は大きすぎる「真のあなた」はつかめない。「真のあなた」が全ての現象を可能とする。だから本当はあなたは多くのことを「知っている」。
あなたが自分の創造性と人生を制限してしまう方法は、「わからない」と言うこと、あるいは自分にやってくる「知っている状態」を疑うこと。もっとも忌まわしい言葉が「わからない」という言葉。あなたは(あなたの)世界の創造主。あなたがもし、「わからない」と言えば、あなたが知ることは決してない。「できない」と言えば、あなたには決してできない。
今存在するものであれ、これから存在するものであれ、あなたにはそのすべてを知る力がある。あなたをその知識へと開いてくれる扉とは、単に「知っている」と言うこと。するとすぐにそれが実現する。数秒後かもしれないし、数日後かもしれないが、それはやって来る。必ずやって来る。なぜなら「知っている」という言葉は「絶対」であり、あなたの望みを「絶対のもの」へと変えるからである。
それを目覚めさせるには「知っている」とだけ言えば良い。「私はダメな人間だと言うことを知っている」はダメな人間への特急券だ。「私には、素晴らしいパワーが秘められていることを知っている。」は徐々にその素晴らしいパワーが実感出来るようになる。
まさにこの『知っている』という事を現実のものとして体験したとき、「この『知っている』という状態は、本当に結果をもたらすのだ」という実感が、確かなものとなる。そしてそれは、あなたがさらに一歩進み、もっと限りない思考へと足を踏み入れていく力を与えてくれるのである。
さて、「知っている状態」とは信念ではない。信念は確実なものではないが、「知っている状態」は絶対だ。「知っている状態」は、ただ知ることによってのみもたらされる。
あなたは本来「私には素晴らしい光、そして力が満ちあふれていることを知っている」のだ。
最後に、この世界は「今」の連続だから、願い事はあまり意味が無い。「……になりますように」は「今はなれていない」だからである。
人は、生まれてから教え、学びなどの経験を通して洗脳されてきた(色即是空にあたる)。環境が「あなた」を創造したとも言える。そして、時間の流れの中で、あなたの興味や執着エネルギーが、特定の出来事を拾い集めて「あなた」を創造した。そのように創造された「あなた」は「真のあなた」という土台が在って初めて存在可能となる。「真のあなた」の上で、「あなた」は環境により変化を続ける。全てを可能にするのが「真のあなた」。その様な意味では「縁」こそが「真のあなた」とも言える。「真のあなた」を感じるためにはまず、考えることを止めることが必須。つまり思考のストップ。その為にあなた方は滝に打たれ、火渡りなどの苦行をし、四国八十八ヶ所巡りなどの巡礼をするのだろう。
言い方を変えれば純粋不動の「真のあなた」の上で、移ろい変化する「架空のあなた」は踊っているのだ。どうせなら、楽しく美しく踊りたいもの。そして、ここでは言霊が大きな威力を発揮する。多くの人は自覚してないが、例えば、「あの人は私を嫌っているのではないか……」との思いは第三者に「あの人は私を嫌っている」と言ったことにより確信になる。だから言霊であり、言霊には思いを確信に固定する力がある。このホームページの「身の回りに起こる問題を解決する」でも書いたが、最重度の精神病院患者が待った正常になり全員が退院したという実話、これは、「ごめんなさい(I'm sorry.)」「許してください(Please forgive me.)」「ありがとう(Thank you.)」「愛しています(I love you.)」の四つの言葉だった。それだけの力が言霊にはある。
その人に会った漢方薬を使えば素晴らしい効果が期待できるが、その人に会った漢方薬とは何なのだろう?周りの環境に応じて心身は変化していく。大きく環境に左右されて不都合な状況を起こしやすい人には芯をしっかりさせるために、同じ漢方薬を続けると言う事はありだろう。しかし、そうとばかりは言っていられないことも多々ある。
今、地球環境の変化はますます大きくなりつつある。これに伴い、自然環境の一部である我々の心身も変化しやすい。例えば゛花粉の莫大な飛散という環境の変化に伴って現れる「花粉症」。桂枝麻黄各半湯や桂枝二越婢一湯、麻黄附子細辛湯、苓甘姜味辛夏仁湯、苓桂朮甘湯、桂枝湯、小青竜湯、そしてそれらの変法などを使用するが、時期が過ぎれば使う薬方も変わる。また、同じ人でも症状が変われば花粉症の時期でも、薬方を変えることもある。基本薬方だけでうまくいかないことも多々。その時は加える生薬(薬草)を小分け販売する。
そして、末期癌など、大きな変化を伴う状態の時。漢方薬を試したいというケースでは、西洋医学的にやれることはなくなり、緩和ケア、と言う段階で来られる人が多いが、専門的に言うと厥陰病、つまり六病位のありとあらゆる漢方薬を駆使して、患者さんの状態に対応するという方法をとらなくてはならない。これは、なかなか神経を使う。しかし、これが本来の漢方薬の使い方だと思っている。
武術(拳法)の習得の難しさは文字で表せないところにある。最初は全くわからなかった。例えば、手打三部、足打七部。これは拳の打ち方の極意だが、一般的には理解が難しい。「重く、早く、俊敏に動く」という事についても「重く、そして早く動けというのはどういう事か?」と質問したことがある。この言葉だけをとってもわからない。文字にするなら色々な表現方法で伝えるしかない。
漢方も同じだ。今の漢方薬には薬機法の関係もあり「添付文書」なるものが存在している。しかし、これは大きな意味が無い。と言うか正当な漢方薬を学ぶに当たっては無意味である。それでは、傷寒論や金匱要略などの漢方家の教科書を読めば本当に理解が出来て使えるようになるのか?と言えばそれも違う。このような教科書を読んだ人たちも大勢いると思うが、書いてある通りになんて行かないと本音では思っている人も多いだろう。記載された症状をパズルのように当てはめても全く使えないのだ。記載された状態や症状を通して、自分なりにその薬方「漢方薬」の方向性をつかまなくては意味が無い。形に囚われすぎたり書に囚われすぎたりすることで本質的なことを見失ってしまうこともあるのだ。
先達の願いは、書や型を通して本質的なことにたどり着いて欲しい、と言う事なのだろう。漢方も拳法も、「芸術だ」と言われる点はそこにある。
これまでに色々なご縁で、数多くのことを学ばせていただいた。まずは、漢方薬。流派は古法派として学び、さらには後世派や中医の理論を吸収しながら今日に至っている。今、この集大成を書として残すことを始めた。しかし、なかなか大変だ。膨大な量になるが、これも後に続くものに残したいという思いから始めたのだ。
そして、武術や気功、念や思いの使い方、言霊、眼力、現実創造、この世界の原理、固定観念からの脱出方法などを後に続くものに教え始めた。しかし、なかなか難しい。説明してもわからない領域だからだ。なぜなら、この領域では、説明できることは全てウソだからだ。本当のことを知りたければ、体感してもらうしかない。これが難しいのだ。以前、精神的に疲れてしまった患者さんたちを日帰り登山に連れて行った時に多くの人が「凄い!!」と感激した。何が凄いのだろう?との問いには、わからないけど、ただ、ただ、感動したと言うのだ。何に感動したのかわからない、何に感激したのかわからない、そう、説明できないことで感動、感激したのだ。そこにあるのは理由付けされない純粋な世界、それに触れたのだ。これは勿論説明できない。動いて、五感を通し、体で感じてもらう。その時に五感を超えた世界に入ることが出来るのだ。習得には大変だが、何とか後に残したいと思っている。
ADHD(注意欠如・多動症)は、脳機能の発達の遅れ・かたよりである発達障害の一つで、そして、基本的にADHDは「治る」ものではない、と言われている。そして、ADHDを始めとする発達障害は近年恐ろしい勢いで増えている。元々、以前からあったものに病名をくっつけたわけだから、勿論増えるわけだ。それにしても、その増え方は尋常でない。原因はいろいろと考えられ、最近はスマートフォン(スマホ)の使いすぎが問題視されている。スマホが脳機能に障害を与える、と言うのだ。確かに、出産後だろうが、ご両親からしてスマホから手が離せない、と言うご家庭は多いだろう。
さて、この異常に増加している発達障害だが、本当に大騒ぎするようなものなのだろうか?今の世の中、大したことでもないのに大騒ぎしたり、無理矢理枠に組み入れてしまう傾向がある。これは当人の問題と言うより周りの都合だ。ADHDの特徴としては「自己主張が強い」「いつでも注目を浴びていないと気が済まない」「先生の言うことを聞かない」「自分勝手に動き回る」などがあるが、これは子供だったら当たり前のことだろう。クラスメートにも、授業中に外で木登りやっていたり、登校時間がいい加減で、常に遅れて学校にやってきてその後教室で暴れたり、1日中それどころか1年中、はては小学校6年間無表情で言葉を発さないどころか泣きも笑いもしない完全な感情消失など、クラスには多彩な児童がいた。今だったら何らかの病名をくっつけられたかも知れないが、みんな立派な社会人、それもそれぞれの部署でリーダーとなって活躍しているのだ。
人間はある意味、みんな発達障害だ。この世界には完全・完璧なものなど無い。脳の機能の問題と言うが、それも個性の一つなのだろう。人間は誰にも長所・短所がある。そのでこぼこが多少大きいからと言って、すぐに問題視するのはどうなのだろう、とも思う。
そうはいっても気になるんです、と言う事になれば漢方薬を試すのも一つの方法。
食事を取らない、神経質で大切な行事があると頭が痛かったり、お腹が痛かったり……。活気無くおとなしい。おねしょがまだある……等は専門的にはなるが建中湯タイプ。
活発すぎてじっとしていられない、騒ぐ、落ち着きがない、神経質で風邪引きやすく、アレルギーもある……等は専門的には解毒証体質。
このような漢方で発達障害が改善する可能性は極めて高い。しかし、長期間の服用が必要である。そして飲めるかどうかの問題もある。
発達障害に漢方薬が何故効くか?となると科学的な視点から見れば「わからない」となる。だから、信用できない、と言うのも了見の狭い考え方だ。何故なら数式や化学式で現す「科学」という思想は不完全な人間の創造した「理屈」の積み重ね、つまり完全ではない。わからないことが多くあって当然だ。このように、西洋と東洋では判断の根拠となる理屈が違う、つまり土俵が違うのだ。勿論、どちらかが優れているというわけではない、不得意な部分をお互いに補い合えば良いのだ。
明け方目が覚めると、スマホの真っ黒い画面に3:56の大きなゴシック調の文字。外はうっすら明るくなっていたため、あれっ!?時計狂ったかな?と思い再度就寝。起きてスマホを見ると同じ状態。これは壊れたかと思ったが、電源入れると正常に動いた。スマホの誤動作か、それとも何かのメッセージなのか気にはなる。それに一般的にあり得ない、と言う事はいくらでも起こりえるのだ。
亡くなる前に、亡くなった後18:00にテレビで最後の挨拶するから、画面を見ているように、と関係者に遺言があり、見ているとその通りにテレビに現れたという話。
不味いから、といって手のひらの上で味を変えてしまうこと。
とある薬局、あまりにも色々なことが起こるので盛り塩をしたら調剤室を塩だらけにされたという話。
お店の釣り銭をあちこちいたずらで隠されるという話。
電池の入ってない猿のおもちゃのシンバルが突然鳴り出す。
ひっそりポケットに入り込む「君が忘れられない」という亡くなった人の筆跡で描かれた紙の切れ端。
家にある仏像が勝手に動くと動画を撮影して持ってきた人。
腕に刃物で切られたような強烈な痛み、もちろん出血しないが、傷跡が治るのに結構な時間がかかったこと。
手のひらが猛烈にただれていて、何とかして欲しいとやってきた患者さん、相談に乗っている30分程度の間に全く綺麗になり、ここに来ただけで良かったようです、でも悪いから、2日分買います、と言われた話。
1年に1度、7月30日か31日に緑色の汗をかく。
このホームページのコーナーでも時々紹介しているが、このようなよくわからない現象は普通にある。
そもそも、科学的に説明できないからあり得ない、という考えこそ論理的ではない。なぜなら、科学も思想なのだ。科学的根拠とは科学的理論。科学的な理論とは何か?というと、完全ではない人間の創造物。つまり、科学的な理論が絶対的な正しさを持っているわけではない。そうはいっても科学の発展は素晴らしいとは思うし、科学という学問を学ぶのは大好きだ。なので、このような現象は最新物理学・素粒子論の「不確定性原理」から説明できるかと思った。しかし、無理がありそうだ。
数式、化学式などを用いる科学という西洋思想、木・火・土・金・水・気・血・水など陰陽五行という東洋思想はどちらが優れているというわけではなく、どちらも素晴らしい。僕はどちらの学問も大好きだ。しかし、実際はそれでも説明できないことは多い。
「ベートーヴェンの音楽」でも少し触れたが、彼はこの頃、自殺を考えるほど絶望し、遺書まで書いた。そんな彼を立ち直らせたのは「家族」だ。「家族」と言ってもそれは、我々人類が住む地球であり自然だ。その偉大な「家族」が彼を救った。「家族」が癒やし、人の持つ可能性、安堵感を与え、気づくきっかけとチャンスを与えた。彼は自然の中に身を置くことで自然と一体化し、本能的に自分も自然の一部であること、自分の身体も自然であることに気づいた。そして彼の心身は不死鳥のようによみがえり、その後も懸命に作曲活動に専念し、多くの名曲を誕生させた。
故、筑波大学名誉教授である村上先生がおっしゃったように、精神状態や心のあり方が、遺伝子という設計図の読み方に影響を与え、体の作られ方に影響を及ぼすのだと思う。気功の原理もここにある。
皆さんにも是非「心」と「身体」が喜ぶ時間を少しでも作ることをおすすめしたい。特に自然界には「喜怒哀楽」の感情が存在しない。それらの感情の外側に行くことが出来る。その為に心身をリセットしやすいのだ。人間の作ったものでなく、純粋な自然界で「心」と「身体」が喜ぶとしたら、それはあなたに内蔵された光が自然と共鳴するからだ。単純に「喜ぶこと」をもらうのとは違う。例えようもない、説明できない、つまり物質世界レベルを取り巻く、物質世界を超えた何かが、あなたから引き出された結果だ。精神疲労が抜け、もやのかかった息苦しい世界が、霧が晴れたようにクリアーに見える。色々な感情を交えず「ありのまま」に見ることが出来るようになるのだ。
この世界が現象するためには、二極が必要だ。この間で変化するのが物理次元であるこの世界。全ては変化することで現象しているのだ。筋肉の動きから建築物まで、全てイオンエネルギーの変化や分子、結合様式の変化、細かく見れば原子の運動だ。原子の運動、動き、変化が現象を可能にする。そして、原子を構成するのは原子核と電子、原子核もさらに細かく陽子と中性子に分かれ、さらには素粒子という最小単位まで分けられる。ちなみに電子も素粒子だ。そしてこの素粒子、どこにどう存在するのかは確定されない。実にあやふやな存在形式を取っているのだ(不確定性原理)。
話は変わるが、二極の世界は善と悪、光と闇、上と下などがなければ成り立たない。そうでなければ、変化は起こらない。この間で振動しているのだ。これは人間についても言える。イオンの出入りによる変化がなければ、筋肉は動かない。我々の体は電気的変化がなければ存続不可能だ。そして、人間の世界には善と悪、光と闇、優劣などが存在するが、これは人間個人も同じなのだ。誰の心にも、善と悪、光と闇が存在する。
人間の心も「善と悪」「光と闇」の間を行ったり来たりしている。、今、大きな問題になっているのは人間の心の中の「悪」や「闇」が表面に出やすくなっている点だ。この変化とは波を意味する。以前このコーナーのどこかでも載せたが、波の性質はよく知られるように共鳴する。よく似た波形は共鳴する。ギターを二つ向かい合わせて、片方のギターを鳴らすと、ならさなかった方のギターも鳴り出す。バイオリンで試しても同じである。これが共鳴現象。思いも振動であれば、同じ思いが引き寄せられる。闇であれば相手の闇が、光であれば相手の光が引き出されるのだ。これが争いと平和の原理。この闇が共鳴し合いどんどん外に出ると大変なことになる。踏みとどまって冷静になる時が来ている。さもないと、このままエスカレートして大変な結果を招くこととなるのだ。ホームページ上のみんなの健康情報中「11月の市民講座~もし、ストレスがなかったら」で記載した動物実験ではないが、我々は今、岐路に立たされているのかも知れない。
少々変わった人を応対したときの話。この患者さんは、「自分の言うことに従わなかった人間は何故か、みんな死ぬんだよ。」と言う。確かにちょっと怪しい雰囲気は持っていた。長い時間相談に乗った。これはその日の夜の出来事。
午前3時40分頃、苦しくて目が覚める。胸焼けなのか何なのか、とにかく苦しい。お腹も張っている。どういうわけかカエルの腹、と言うより膨らんだフグのようにパンパンだ。苦しくて起き出しトイレに行った。ゲップが20発くらい出た。そして、その後下ったが、量は少しでほとんどはガスだ。何リットル出たんだ!と思うほどだった。腹は見事なほどしぼんだ。普通の体型になった。
人が訪れない、ある神社に行ったときの話。当時何人かの勘の鋭い人(一般的には超能力保持者と言われている)に「先生は是非、神社には行ってください!」と言われ、気が向いたら行くようにはしていた。しかし、人の行かない神社はどうも、訳のわからない存在のたまり場になっていることもあるらしい。帰る途中で大変喉が渇いた。スーパーでジュースを買い一気飲みした。喉が渇いたのは、暑い時期であり、移動手段は自転車だったからだと思った。おまけに80kmほど走っている。1時間後、猛烈な腹痛に襲われた。これほどの腹痛はあまり経験がない。起き上がれない。30分は苦しんだ、その後激しく下った。こんなに食べてない、と言うほど下った。その後は体が非常に軽くなった。猛烈にお腹がすいた。
何だかわからないが突然吐き気に見舞われることも何度か経験している。この前は、18時になると猛烈な吐き気が襲い、トイレに駆け込んだ。ゲェーゲェーやるが何も出ない。これが時間も全く同じで3日連続続いた。何が原因かは全く心当たりはない。しかし、何かを出そうとする防衛反応なのだろうとは思った。
どうも餓鬼(のような存在)は腸にしがみつくらしい。以前、除霊の場に立ち会ったとき、100以上の餓鬼に入られ、消化管からそれを引き離すのに顔がゆがむほどの苦痛を伴っていた人を思い出す。
トイレはそういったものを全て流してくれる浄化の場なのかも知れない。妙な存在の居場所にならぬよう綺麗にすることが大切なのだろう。
それにしても、大なり小なり誰もが見えない世界の影響は受けているのだろうが(紫外線、電磁波、赤外線、空気もそうだが)それにしても極端に体に出ると辛い。(超)能力のある人の中には、お会いした後に左目が真っ赤に充血したりする人もいる。それだけ強い「何か」を持っているのだろうが、別に辛くはない。しかし、周りからは「どうしたの?」と言われるので相手によっては返答に困るのだ。
誰だって「あの時、こうしておけば良かった」と思ったことはあるだろう。しかし、過去はもう無い。過去は他の人に見せることも出来ない。過去は実際にあったことを正しく表してはいない。なぜなら、過去は良くも悪くも、あなたの創造物だからだ、その創造物とは、あなたの興味だ。興味の無かったことは、忘却の彼方だ。だから、そんな過去に囚われる必要など無い。「あの時、こうしておけば良かった」と思ったら、今、やれば良い。もう、遅いと思うかも知れないが、いつの時代も「遅い」と言うことは無い。こんな年になって大学なんて……こんな年齢で格闘技が出来るのか……と思わず、チャレンジすれば良い。今更行っても……もう体力的に……と思うのは、それだけのこと。学費の元が取れない……こんな年齢で……と思ったらその程度のこと。だから、できる限りの事を損得勘定なしでやってみる、これがエゴ(自我)を満足させる。自己満足はとても大切だ。自己満足により、βエンドルフィンなどの幸せホルモンが、沢山出てくる。
だから「今」を大切にしよう。後悔するなら、実行しよう。だから、本当は年を重ねるとともにやることが多くなり、忙しくなるはずだ。特に、こんな人生……と思った人にとつては、一発逆転になるのだ。
皆さんの輝かしい人生を期待する。
武術や気功とは言っても、多くの流派があり、それぞれ独特な套路(型)、理論がある。僕のやってきた武術・気功は、北の流派である内家拳なので、ここでは内家拳について少し紹介しよう。内家拳に共通して言えることは(勿論、外家拳でもそうだと思うが)、どの流派でもその体系は宇宙の法則、自然の摂理を表している。
自然界のエネルギーの流れは、滞りなく綿々と流れている。それは、空を行く雲や流れる水のようだ。そして、そのエネルギー循環は始まりも終わりももない。突っかかるところ、途切れるところが無い。形で言えば「円」であり「球」だ。形を変えて「螺旋」になることもある。実は、これは内家拳のエッセンスなのだ。体は全て繋がり、一つの宇宙で在り、その体の表現は意識を使って全体性を表現する(以意行気:意識を使って気を巡らす)。円と言えば太極拳を思い起こす人も多いだろうが、始まりも終わりも無い。八卦掌は八卦理論を理としている。その動きは「円」と「螺旋」の組み合わせに見える。内家拳で独特の力の出し方、防御方法に「纏絲勁:てんしけい」があが、これは、螺旋のエネルギーは他からのエネルギーをはじき、また、相手方の奥深くまで威力を浸透させるという目的で使われる。また、東洋の重要な理論に「陰陽五行説」があるが、形意拳は、陰陽五行説を理とする五行拳(劈拳・崩拳・鑽拳・炮拳・横拳の五種類)を学ぶことになっている。このように、東洋の理論とは切っても切り離せないのだ。
我々は自分を含めた環境(=大自然)と共に変化を繰り返しながら生きている。自分自身(内)と大自然(外)の運動規則を調和していくことが武術・気功の目的でもある。生まれつきの体質には個人差がある。しかし生後、自分に合った食習慣・運動・考え方を実践することで発現する潜在能力もある。誰もがこれまで色々な環境を旅し、生を経験して今の精神-身体機構を創造したのだから。「私は○○な体質だから……」と決めつけてしまえば、そのようになるだろう。眠っている潜在能力も目覚めるチャンスを失ってしまう。なので体だけでなく、心も柔らかくしておくことが大変重要で在り、武術・気功はその事に気づかせてくれる。
武術や気功は自分本来の姿(ありのままの姿)に目覚めながら、自然と共に生きることを実践していく、とてもナチュラルで美しい生き方へのアプローチだ。武術・気功の実践により年を重ねるごとに経験を積み、ますます人間としての魅力を増していく。型を通して内面を磨き上げ、自然と一体となることを目指していくその練習方法は、一生現役、引退のない生命の自然美への追求なのだ。
武術では最初は「型」を学ぶが、その後で「型」を壊す事が必要となることがある。勿論、各流派伝統の「型」は重要だ。しかし、それは中身を入れるための筒のようなもの、筒のデザインが流派の特徴だと思えばよい。中身が完全に満たされれば、もう、筒はいらない。その満たされた自由自在のものこそ、「宇宙の法則」で在り「自然の摂理」だ。その動きこそが、自然と一体化した滞りの無い、いくらでも続けられるものなのだ。本来はそうであったように、自然に帰る方法であり、また、その事に気づく方法でもある。
最近はAIだのオンラインなどと言う言葉がもてはやされ、時代はその方向に向かっている。
インターネットと言う世界規模の情報通信網は、世界を大きく変えたと言っても過言ではないだろう。
そういう僕も、その恩恵に多少は与っている。しかし、便利なことは本当によいことなのだろうか?。
かなり昔、鉄道オタクだった頃の話。移動手段は各駅停車は遅すぎる。しかし、特別急行は速すぎる。急行がちょうどよいので、急行を利用することが多かった。もちろん経済的事情はあったが。特に早すぎるのはあっという間に着くので、旅行気分が味わえない。とにかく、早く着くのは嫌だったのだ。それに周りの景色もあっという間に過ぎ去る。
以前、東京に行ったときの帰り、知り合いのおじさんが、駅まで送ってくれると車に乗せてくれた。上野駅だとてっきり思っていたが、水戸駅まで送ってくれたのだ。かなり心中複雑、余計なことされたという思いが強かった。上野駅の雰囲気に始まり、車窓から見る光景の変化が楽しみだったのだ。
新幹線が登場して、便利になったが複雑だった。どんどん在来線の特急がなくなっていく。東北新幹線や山形新幹線の開業に合わせ、ひばり、やまびこ、はくつる、やまばとなどの在来特急が消滅した。蔵王、宮城、もりおか、十和田などの急行列車も当然無くなる。北海道なんて、夜行で行くからよいのだ。
今は、スマホに目的地を入れると簡単に検索できる時代。電車でも乗り換え、電車の時刻、到着時刻が簡単に調べられる。それはそれで便利だが、楽しみはない。僕は時刻表を見るのが大好きで、そのダイヤでどこで、各駅停車は優等列車に抜かれるのか?駅間距離と所要時間で推測も出来る。
高速道路も便利だ。しかし、それに伴う環境破壊も大きい。そして今、インターネット、AI、オンラインなどと言う世界に突入してきた。しかし、一番の問題は、こういったモノに人間が使われている、という事なのだ、オンラインは良いが、何かトラブルがあったらどうしようもない。仕事でも導入し始めているが、少しでも異常が出たら直せない。大騒ぎだ。知らないところで色々な処理が行われている。コンピューターに使われ、振り回されているのを実感する。本来、これではまずいのだ。インターネット、AI、オンライン、コンピューター、スマホ、ロボットなど本来は人間が使うモノだ。しかし、こういったモノが提供する色々な情報に踊らされ、振り回されている人が実に多い。こういったモノに使われ操られてしまっている。本来は我々が使うのだ。それも必要に応じて。ここに気づかないと我々は大変なことになる。ゆっくり旅行したければ、各駅停車で、仕事で忙しいときは航空機を使うなどの選択があって良いのだ。選択をするのは我々だ。
新年を迎えると、神社仏閣に初詣に行かれる人も多いだろう。これまでも触れてきたことではあるが、このような場所には、見えない存在がエネルギーを発していることは事実。それは、僕の所にやってくる、多くの人の証言や写真より明らかだ。問題は、その存在との相性だ。県内のパワースポットとして有名な仏閣を訪れ、「素晴らしいところです!こんな写真が撮れました!!」と喜んで、光の柱が天まで届きそうな写真を見せてくれた人がいる。しかし、「行ったら体調を崩しました。身体中が冷えて仕方がなかった。写真を撮ってビックリしました。」と行って見せてくれたのは骸骨だらけの写真。また、ある有名な神社に行ったが、身体中至るところに猛烈なかゆみが出て、全身血だらけになるほどかきむしった、きっと、自分(の中の神様)とそこの神社の神様が合わなかった、そこで別の神社に行ったらとても気持ちの良い存在が目の前にいて、触ったら涙があふれた、という話もある。相性の良いところ、すなわち行って気持ちよくなれるところを探しておくのも大切だろう。
また、こういう時ばかりでなく、本当は普段から時々訪れておくことが良いのだろう。つまり、その神社仏閣の存在と仲良くなる、と言う事。これがとても大切だ、と言う事は患者さんや医療関係者など薬局にやって来る人たちに教えてもらった。すでにいくつかは、ここのコーナーでも記載させている。「村の鎮守の神様の、今日はめでたいお祭り日……」と言う始まりの村祭りという歌でもわかるとおり、本来は神社はもっと身近な存在だったのだ。
話は変わるが、神社には鏡が置いてある。誰が写るのか?それは参拝者、つまり自分なのだ。つまり自分にお願いしている、という話もある。もう一つ鏡はかがみ、つまり、かみ(神)の間にが(我)が入っている。我とは、つまり自分だ。だから、絶対的に自分を信じるために置いてあるという話もある。本来のあなたという存在を目覚めさせるためだとも言える。そしてみんな、ともに同じ時代に存在する仲間でもあるのだ。
それから、お願いは~になれますように、ではなく~であることは知っております、お力添えお願いします、の方が良い。~になれますように、は裏を返せば、今はなってない、と言う事だからだ。「知っている」は魔法の呪文だ。あなたは「知る者」だからだ。
そして、もし願いが叶ったら、お礼参りも大切なので忘れずに。
人は一人でこの世に生まれ、一人で去って行く。この世を去るときも、大勢に囲まれれて幸せだと思うのか、一人で孤独だった、かわいそうだ、と思うのかは周りの見方や解釈なのだ。さて、英語に似かよった言葉で「alone」と「lonely」がある。アローン「alone」は「ひとりで」や「独りで」という意味を持つ形容詞、ただひとり,他とかけ離れて高い境地にいること。そこに寂しさや孤独感はない。日本語で言うと孤高が近いのだろう。対してロンリー「lonely」は仲間や身寄りがなく、ひとりぼっちであること。寂しくて孤独、かわいそうと言うニュアンスがある。孤独という言葉が、それに当たる。
さて、本来人間は一人なのだ。そして、決して孤独ではない。忘れてしまってはいるが、誰もが孤高の存在なのだ。人生に疲れ一人でいる人、外に出る勇気が無く一人籠もっている人は、本来は一人でいることを選択し、ありのままの存在としてそのことに気づくはずだった。しかし、自分には誰もいないとか、輪には入れない、仲間はずれ、などと嘆くのだ。そういった人たちの根底には、みんな仲良くまとまってやっているのに……と言う思いがあるからだ。そうではない。比較することは、不幸への特急便になることもある。比較してはいけない。あなたの目の前に広がる世界は喜怒哀楽の感情が織りなす世界、善と悪、光と闇が入り交じる世界。その現象のどこにあなたは焦点を合わせるのだろうか?それこそが世界(あなたの)なのだ。
そして、日々の生活に疲れた人、精神的に疲れた人に言いたい。一人になりなさい!と。一人になり、内にこもらず解放されなさい!と。そのためには、外に出なさい!広がりのあるところに行きなさい!自然の中に身を置きなさい!その時にはあなたは、すでに社会に対して死んでいる。本来の存在に戻っているはずだ。そして、再び社会に戻ってきた時は、霧が晴れたように視界が開け、周りが見えるだろう。雑多な思い込みが無くなった世界は、ありのままだ。実にクリアーだ。あなたは観察する人だ。それすら超えて観照者だ。洗濯機の中に落ちて一緒にもまれてしまっていたのが、外から洗濯機の中を見ているような状態に変わるのだ。思考、理屈、教えなどの思想や思い込みが重石となり、あなたのパワーは押し込められたままだった。そのあなたに秘められたパワフルなエネルギーはこの時に解放されるのだ。それがあなたをパワフルな人生、ポジティブな思考へと導くに違いない。どうか、気づいて欲しい。あなたは決して孤独ではない!孤高な存在である!!ということを。
第九と言えばベートーヴェンだが、彼は非常に波瀾万丈の人生を歩んだ、しかし、最も人間味あふれる生き方をした作曲家だ。性格は粗暴、頑固で短気、周りを気にせず自由に振る舞う、人間は嫌いだが自然をこよなく愛する。権力には屈せず、天の邪鬼。そんな彼の音楽も当時としてみれば斬新だった。
交響曲第3番変ホ長調作品「55」英雄、の初演は伯爵の宮殿だったが、ベートーヴェン率いる演奏家たちはビクビクしながら、しかし、堂々と胸を張れ!とベートーヴェンにカツを入れられながら、堂々と正門から入るベートーヴェンの後をついて入った。それまでは、裏門からコソコソと静かに入るのが当たり前だった。音楽は貴族を楽しませるだけのバックミュージック程度しか思われていなかった。晩餐会のバックミュージックだったのだ。初演を聞きに来たハイドンは第3番「英雄」が演奏されると「なんだ!この曲は……」と言葉を漏らしたという。貴族もビックリ、目をむいて驚いた。当時としてはいささか暴力的で、豪快過ぎる曲だったのだ。「オレの音楽を聴け~!!」と言うメッセージが入っている。それまでの曲が「如来」や「菩薩」であるなら、第3番「英雄」は「神」それも「鬼神」だ。第1楽章や第4楽章には独特の風格がある。
その後、彼は徐々に聴覚を失う。音楽家としては命綱である聴力の消失に絶望し、自殺まで考えて書いた「ハイリゲンシュタットの遺言」は有名である。しかし、彼は自然の中に身を置く事で過酷な自分の運命に立ち向かう事を決意した。そこで生まれたのが「闇の世界から光の世界へ」との内容ともとれる交響曲第5番ハ短調作品「67」運命、自然賛歌を高らかに歌い上げた交響曲第6番ヘ長調作品「68」田園、の二つの有名な交響曲だ。第5番は訪れる過酷な運命に屈せず、果敢に立ち向かう、そして最後には光の乱舞、壮麗な世界がやってくる、諦めなければ必ず闇から脱出できる、と言うメッセージが含まれている。第6番は大自然に囲まれ、自然に帰ることで、人の中にくすぶっている闇は消失すると言うメッセージが含まれる。どちらも最高傑作と言われている代表作だ。
そして晩年、交響曲第9番ニ短調作品「125」合唱付き、を作曲する。最終楽章に含まれる歌詞中の「ともに手を取り、幸せを分かち合おう!それが出来ない者は泣きながら立ち去るがよい」ともとれるメッセージは大きな人類愛を歌ったようでもある。第九を作曲した頃はもちろん、耳がほとんど聞こえない状態、そのためベートーヴェンはピアノに耳を当てながらその振動で作曲をする。まさに神業だ。初演は2人の指揮者を立てる。ベートーヴェンは耳が聞こえないためだ。終曲になっても気づかないベートーヴェンは懸命に指揮を振る。見かねたアルト歌手がベートーヴェンを聴衆の方に向けると、彼は初めて拍手を見ることができ、大成功だったことに気づくのだった。しかし、この曲のメッセージである人類愛、人間嫌いのベートーヴェンは最後に本当に必要なのは「人類の輪」であったと言う事に気づいたのかも知れない。知っていたが出来なかった、だから曲として残したかったのだろうとも思われる。神の領域とも言える音楽にたどり着いたときに、損得勘定の無い純粋な人の繋がりの大切さに気がついたのだろう。
その後、彼はもはや神の領域とも言える弦楽四重奏曲を作曲して人生の幕を閉じる。「諸君、喜劇は終わった」と言う言葉を残しながら。
なお、最近書きかけの交響曲第10番、最初の部分が発見されている。
彼は、気持ちの持ち方次第で不可能は可能に変わる!と言う事、そして人の輪の大切さとそれにより大きな素晴らしいエネルギーが発生すると言う事を、生き方を、音楽を通して教えてくれたような気がする。
言葉使い一つで、聞き手の印象はかなり変わる。今回は、これまでも色々なコーナーで書いてきたことを敬語でお伝えしてみようと思う。
みんな誰しも宗教(思考、理屈)を持っています。教育環境や見てきた事、経験で洗脳されました。いわば、マインドコントロールを受けてきたわけです。
しかし、教育上必要な理屈もあるわけで、それは絶対的な正しさではなくとも、その時点で必要な考え方であるわけです。私も、子供にはきちんと意見を言えるような、堂々と自己主張出来るようになりなさいと言いました。しかしある程度の年齢になったら、自己主張しなければ立ってられないような弱い人間にはなるな、と言います。
問題がある時に、考える事が発生しますが、問題ない時は発生しません。もし、いつも考えている、とすれば、問題を自分で作っているからなのでしょう。体も同じで、いつも体は存在しませんが、問題があると、頭が、お腹が、歯がなどと体が現れます。
ですので家族は、とか、夫婦とは、とか言い出した時点で、その家族も夫婦も崩壊しています。あるいはその危機にさらされている可能性があります。何の問題も考えられない時にそのような理屈はかえって邪魔です。
ですので、思考をストップさせる事は大変重要です。これが、リセット、あるいはヨガの世界ではニュートラルと呼ばれる状態です。
何も考えず、眼で風景を見て、肌で風を感じ、草木の臭いを嗅ぎ、
鳥の声を聞いてみて下さい。
何もない自由にふれてみて下さい。
あるがまま、です。これがあなたの本性です。
なぜなら、あなたは、あなたを捨てることが出来ないからです。
捨てることが出来るのは、後天的な創造物(想像物)です。
感動したら、何に感動したのか後で考えてみてもいいかも知れません。
物、ではないものに感動した事がわかるかも知れません。
そして、感動したもの以上のものがあなたに内在されていなければ、感動はしません。
ヨーロッパアルプスが荘厳だと感じるのは、それ以上にあなたが荘厳だからです。
思考を捨てた後に、自由で壮大なあなたの上に
何を顕現させて世界を創造するか、です。
それは世界の帝王であるあなたが鍵を握っています。
何を取り入れて世界を創造するのか、それは、あなたの興味の対象です。
ねばならないや無くてはならないようなものは必要最小限、
やりたいことは最大限にすることが理想です。
理想と現実は違う、と言われそうですけれどね。だから、理想です。
あなた無しで世界は存在しない事は、よく考えれば当たり前です。
きれい事や、一般常識の中には真実はありません。現実はありますが。
すべては相対的で流動的だからです。これもよく考えればわかることですね。
宗教の世界にも……どうなのでしょうね。
見えない世界の現象も、変化を感じているにすぎないのですから。
目が覚める、とは当たり前のことに気づく事です。
実際は、これまで教えられた事と
これまでに創造した思い込みが邪魔をして難しいのですけれどね。
世界を変えるためには、あなた自身が変わらなくてはいけません。
同じ思考・行動パターンでは、同じ世界が顕現されるでしょう。
キーポイントは、あなた自身にあります。
絶対的選択者であり、絶対的権限者であるあなたの中にあります。
最後に立派な卒業証書をもらえるくらい、すばらしい創造物を構築して下さい。
これまでも色々なところで書いてきた内容だが、印象はかなり違って感じられたのではないだろうか。このようなところが日本語の素晴らしいところでもある。
「原子」の大きさは1ミリメートルの1000万分の1ほど。原子は中心に核があり「原子核」の周囲には「素粒子」である電子が回っている。実際は位置と運動量さえ同時に特定出来ない電子なので、電子雲の状態で存在する。これは原子に束縛された電子の状態を雲に例えた呼び方。そして、原子核の大きさは原子にもよるが、水素の原子核で原子の約10万分の1程度。「陽子」や「中性子」は「素粒子」である「クオーク」からできている。「電子」や「クオーク」などの「素粒子」は実験的には最大でも陽子の1万分の1程度であることがわかっている。想像つかないと思うので、例えてみたのが上の図。
化学の世界では、s、p、d、f軌道やσ結合やπ結合などの理論があり、これらの原子が結びつき、分子を作り、さらに色々な結合様式をとりながら金属やアミノ酸、他諸々の物質が作られている、と説明されている。全ての物質はこれらで説明されるのだ。
しかし、本当にそうなのだろうか?もしかしたら、何かが違っている可能性がある。そもそも、素粒子の実態はつかめていない。原子を十四階だてのビルだとすると、原子核は塩の一粒の大きさになる。原子核は電子の数千倍の質量だから、原子核の周囲をまわっている電子は、こんなに倍率をあげでもほこりの粒ぐらいの大きさでしかない。高さ14階建てで横も同じ長さであるビルの真ん中に塩を一粒置き、そのビルの外側を回っているほこりの粒がある、と想像すると良い。原子以下のレベルの粒子たちはこんな尺度だ。そしてこんな領域では、ニュートン力学はあてはまらない。素粒子のふるまいを説明するのに量子力学が必要なのである。素粒子たちはほこりの粒のような「粒」ではない。両者の差は大きさだけではない。ほこりの粒はものであり物体である。素粒子はものでイメージできない。だから素粒子を物体として考えることは出来ない。電子も素粒子の仲間である。実際は位置と運動量さえ同時に特定出来ない電子が、共有結合などの結合様式をとり様々な物質を形作るなど、想像つかない事なのだ。そして、我々の身体はもちろん、全ての物質は、良くわからない素粒子で出来ているのだ。(原子核を構成する陽子や中性子も素粒子から出来ている。)拡大すると、我々の身体は空間だらけなのだ。と言うかほとんど実態は持たないと言っても良い。何しろ、塩粒と遠く離れた塵くらいの隙間だらけなのだから。
これと同じような事が宇宙にも言える。宇宙を極端に縮小すると、銀河の集まりはまるで、生き物の神経細胞だ(宇宙の大規模構造)。太陽系を例に取ると、惑星は太陽の引力で太陽の周りを回っている。海王星、冥王星というあんな遠くまで、太陽の力が届くとは驚きだ。そして、ほとんどは空間が占めている。我々の身体も同じなのである。塩粒が遠く離れた塵を捉えている力は本当のところなんなのだろうか?
宇宙も自然も我々の身体も、科学ではわからない「何か」であふれている。「ダークマター」「気」など科学では説明できない「モノ」なのだ。「気」に影響を与える大きな要因に「心」「念」「思い」「思考」などがあるが、現代の化学で行われる定量分析(量を調べる)定性分析(性質を調べる)は全く役に立たない。つまり、わかりようがないのだ。
物や音であふれているように思えるこの世界も、空間と静寂がベースにあって成り立っている。本当は我々は物質的要素を持たない空間なのかも知れない。しかし、間違いなく我々は存在するのだ。
基本的な人間の尊厳とは、生まれた時からもっている権利なのだろうし、本来はそうあるべきだろう。今この地球上で、生きるだけのために苦労している人、食べることすら困難な人が非常に沢山いる。元々、地球には全ての人に行き渡るだけの、充分なものがあったはずだ。我々が直面している問題の核心がここにある。問題解決のためには、全人類を平等にすることではなくて、すべての人に最低限の人間らしい暮らしを保障することにあると思う。その基本的な部分をしっかりさせ、それ以上に何を望むかで、個人個人が生き方を選択する、そしてその選択のチャンスを与える事が理想なのだ。最低水準以上のことを望むなら、例えばもっと多くの食べ物、もっと大きな住まい、もっとすばらしい衣服を望むなら、目的を達成しようと自分で努力すればいいだけの話だ。
話は横にそれたが、地球には何不自由なく暮らせる環境は用意されているはずだった。もちろん、成長・進化するために必要である適度なストレスを用意しながら。ところが人間は環境を破壊しておいて、いわゆる天災を神の残酷ないたずらだ、自然の厳しさだと言っている。しかし、自然にいたずらを仕掛けているのは他でもない人間自身で在り、残酷なのは我々人類のやり方だろう。自然ほど優しいものはほかにないはずた。そして、自然に対する人間の仕打ちほど残酷なものもほかにない。それなのに、人々は手をこまねいて、全責任を否定する。自分たちの過ちではないと人間は言うがもしれない。快適になるための方法だったと。それもそうなのだろう。薬で言えば、効果を求める余り、重大な副作用に気づかず、現在取り返しのつかない状態にあるというようなものだ。過ちではないとすれば、選択の問題と言うことになる。
「責任転嫁は人の仕事」とはよく言われるが、今、温暖化は急速に進み地球は死にかけている。秩序を元に戻そうと躍起になっている。人間にとってそれは災害だ。戦争なんかやっている場合ではない。早く気づかないと、もう、手遅れになる。
これは、長い間封印されていた、アインシュタインの娘への手紙。有名な科学者としての彼が、何を思っていたのか、愛娘には本音で伝えたようだ。少々難しい内容も含まれるが、紹介しようと思う。
1980年代の末、有名な天才アインシュタインの娘リーゼルは父から彼女に宛てられた1400通の手紙を、父親の死後20年間は内容を公開しないという指示を添えて、ヘブライ大学に寄贈した。これはリーゼル・アインシュタイン宛ての手紙の中の1通である。
「私が相対性理論を提案したとき、ごく少数の者しか私を理解しなかったが、私が人類に伝えるために今明かそうとしているものも、世界中の誤解と偏見にぶつかるだろう。
私はお前に、必要に応じて何年でも何十年でも、私が下に説明することを社会が受け容れられるほど進歩するまで、この手紙を守ってもらいたい。
現段階では、科学がその正式な説明を発見していないある極めて強力な力がある。それは他のすべてを含みかつ支配する力であり、宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、しかも私たちによってまだ特定されていない。この宇宙的な力は愛だ。
科学者たちが宇宙の統一理論を予期したとき、彼らはこの最も強力な見知らぬ力を忘れた。愛は光だ。それは愛を与えかつ受け取る者を啓発する。愛は引力だ、なぜならある人々が別の人々に惹きつけられるようにするからだ。愛は力だ、なぜならそれは私たちが持つ最善のものを増殖させ、人類が盲目の身勝手さのなかで絶滅するのを許さないからだ。愛は展開し、開示する。愛のために私たちは生き、また死ぬ。愛は神であり、神は愛だ。
この力はあらゆるものを説明し、生命に意味を与える。これこそが私たちがあまりにも長く無視してきた変数だ。それは恐らく、愛こそが人間が意志で駆動することを学んでいない宇宙の中の唯一のエネルギーであるため、私たちが愛を恐れているからろう。
愛に視認性を与えるため、私は自分の最も有名な方程式で単純な代用品を作った。「E = mc2」の代わりに、私たちは次のことを確認する。世界を癒すエネルギーは、光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、愛には限界がないため、愛こそが存在する最大の力であるという結論に至った、と。
私たちを裏切る結果に終わった宇宙の他の諸力の利用と制御に人類が失敗した今、私たちが他の種類のエネルギーで自分たちを養うのは急を要する。
もし私たちが自分たちの種の存続を望むなら、もし私たちが生命の意味を発見するつもりなら、もし私たちがこの世界とそこに居住するすべての知覚存在を救いたいのなら、愛こそが唯一のその答えだ。
恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、愛の爆弾を作る準備はできていない。
しかし、それぞれの個人は自分のなかに小さな、しかし強力な愛の発電機をもっており、そのエネルギーは解放されるのを待っている。
私たちがこの宇宙的エネルギーを与えかつ受け取ることを学ぶとき、愛しいリーゼル、私たちは愛がすべてに打ち勝ち、愛にはなにもかもすべてを超越する能力があることを確信しているだろう。
なぜなら愛こそが生命の神髄(クイントエッセンス)だからだ。
私は自分のハートの中にあるものを表現できなかったことを深く悔やんでおり、それが私の全人生を静かに打ちのめしてきた。恐らく謝罪するには遅すぎるが、時間は相対的なのだから、私がお前を愛しており、お前のお陰で私が究極の答えに到達したことを、お前に告げる必要があるのだ」
お前の父親
アルベルト・アインシュタイン
多くの人が、「自分の家族を愛している。」と言う。しかし、この「家族」は最も狭い世界だ。だから誰が家族かということについて、非常に限られた見方になってしまう。「武林是一家」は武術を学ぶものは皆兄弟と言う意味て、家族同然だと言うこと。「同じ釜の飯を食う」は生活を共にし、苦楽を分かち合った親しい間柄のたとえだ。もつと大きくすると「同じ環境に住む」「同じように空気を吸う」とどんどん広げていくことも出来る。しかし、多くの人は自分を人類という家族の一員と見ていない。だから、人類という家族の問題は自分の問題にならない。
地球上に戦争が起こるのは、だれかが持っているものを、持ってない者が欲しがるからだ。そのために相手がされたくないと思っていることをすることになる。すべての紛争は、間違った欲望から生じる。世界中で持続しうる唯一の平和は、内的な平和だ。自分は自分で他とは違う、しかし、他の人と同じように違った能力を持っている。そこに比較すること無く、そうすれば優劣も無くなる。そもそも、限られた土俵にみんなで乗ることは不可能だ。どんな土俵がいくつあっても良いのだ。
比較する、と言う事では最もやっかいな問題に「思想」「宗教」がある。これらは多くの争いごとの原因にもなっている。あの考え方はダメだ、とかあの宗教は邪教だ、とか、自分の信じるもの以外は認めないと言う姿勢に問題がある。武術を教えていた時に「最も強く優れた流派は我々ですよね」と言われたときに「他の流派は知らない。だから比較のしようが無いし、比較することに何の意味も無い。ひたすら自己鍛錬する人が強く、それを勧める流派は優れている。」と返答したことがある。あれは邪教だ、などとその教義を学んでもいないのに言うことは出来ない。何かで以下のような内容のことを読んだが、その通りなのだろう。
・あなた方は、神が何かを必要とすると信じている。
・あなた方は神が必要性を満たせないことがある、と信じている。
・あなた方は、自分たちが神から引き離された、なぜなら神に必要なものを与えなかったからだと信じている。
・あなた方は、神がいまでも必要なものを強く欲しているから、それを与えるよう引き離されたあなた方に要求していると信じている。
・あなた方は、神の要求に応じなければ、神に滅ぼされるだろうと信じている。
神に関するこの5つの誤解は、他のすべての信念をあわせたよりも、もっと多くの苦痛や破壊を日々もたらしてきた。
そして、もうひとつ。すべての人類は地球という大きな家に住む家族であった、と言うことを忘れたことが、争いや苦痛、破壊を招いたのだ。
・人間は互いにバラバラである。
・人間が幸せになるためには必要なものは、充分にはない。
・充分にないものを手に入れるためには、人間は互いに競争しなければならない。
・人間の中には、他より優れている者がいる。
・ほかの誤解によって生まれる大きな相違を解決するために、人間が殺しあうのが適切である。
この5つの誤解が大きな問題だ。このために連綿と過ちが続いてきたし、今この瞬間も続いている。その過ちが根深い怒りと、激しい暴力、恐るべき喪失、果てしない悲しみ、不断の恐怖の世界を生み出している。多くの人は、他人が恐怖の元だと考えているが、実は我々の信念も恐怖の元になっている可能性がある。だから平和に仲良く幸せに暮らせる世界、という夢を実現しようと思ったら、我々の持つ信念を変えなければいけない。怒りや暴力、喪失、悲しみ、恐怖の状況は、政治的手段や経済的手段では変えられないのだ。短い間だけ、何かを変えるとか、中断させるとかくらいならできるだろうが、それを一掃することは信念を変えない限りできないのだろう。地球を癒すことはできないのだ。
多くの人々が癒そうとしているのは、信念が生み出した傷、根深い信念が、傷をつくる行動を生み出している。人類にとって最大の欲求は平和だが、いまのような信念を持っていたのでは、平和は訪れない。
エゴ(低我)の世界でだけ、善に限りがあり愛に終わりがある。しかし、本来は同情心に限度はなく、愛に終わりはなく、善は限りがない。世界は無限なのだ。その世界こそがあなたなのだ。
元々あなたは無限であった、と言われても、何の話だ?!とほとんどの人は思うだろう。しかし、五感で認識できるごくわずかな現象のみがすべてで在り、その世界で生きる個体と思っている間は理解不可能だ。しかし、あなたの認識するすべての世界があなたの中にある、と言うことに気がつけば、無限が我々の本質であると言うことにもなるだろう。少々、話が飛躍したので理解に苦しむのは確かだ。文章で読むよりは「体験」がものを言う。「気功」と言う健康法は、このようなことを理解させてくれる。「気功」の実践は、今この瞬間、無限であると言う気づきをくれる。誰にも言えることだが、「自分はこんな人間である」という認識がそこにあるだけなのだ。自分を限定しているのは自分の思いだけ。あなたが「自分は無限である」と信じ切ったとき、あなたはそうなるのだろう。言い換えれば、もともと無限であった事を思い出すだけと言った方が正しいのかも知れない。
もともと無限であった者がルール(制限)を造りゲームを始めた。
それは地球と言う環境下で人間を演じるゲーム。
そして源へ還るゲーム。
つまり、意識の進化ゲーム。
身長150~200cmくらいの肉体をまとう。
脳細胞は数%だけ使用可能とする。
見える範囲は全振動領域の0.001%だけに制限。
平均プレイ時間は80年、ただし最高は120年まで。
ルールは厳しいがその範囲内では100%の自由が残された。
三次元の、超仮想現実ゲーム。
そしてあなたは現在このゲームをプレー中。
あなたは目下このゲームに夢中だ。「よくもこんな面白いゲームを考え出したものだ」と感嘆の声を上げながら……「誰がこんなくだらないゲーム、考えたんだ!」と嘆きながら……。80年でゲームを達成できなかった人は、何度でも再挑戦が可能。好きな時代を選び、好きな両親を選び、好きな環境を選んでゲームに再挑戦!。時には一挙に高得点をあげようと、多くの課題を持参したり、ボディーにハンディキャップを付けて挑戦するプレーヤーもいる。
この地球人類ゲームは少しルールが厳しすぎた事もあり、ゲームの制作者はとうとう業を煮やし、これまで、目、鼻、耳、口、体、の五感だけを使ってプレーしていたものを、希望者には、第三の目や、六感を使えるようにした模様。
いささか疲れるゲームだ。熱中すればするほど疲労度も増すのだ。だから、時々休息も必要だ。だから、観ているだけの「観察者」でいることも大切なのだ。それが、巻き込まれずに人生ゲームを楽しむ、と言う事にも繋がる。
生きるなら、「良い生き方」をしよう。何が「良い生き方」かは自分で探し、決めて欲しい。それもゲームだから。
誰だか忘れたが、賢者の言葉で「あなたはあなた自身のことを心底、絶対的に信頼できるかだ。そこには一点の曇りがあってもならない。これがすべてを変える究極の奥義だ。」とあった。今でも頭の隅に残っている。多くの人が難しいと感じるかも知れない。だから僕は少し柔らかく、「大丈夫!何の問題も無い!!」と言うことにしている。「何故大丈夫と言い切るのか?」と大体は言われる。「大丈夫ではない理由がないからだ。」「今、ここで話をしていて何か問題があるのか?今、には問題は無い。」「問題は負の過去を見て未来を空想するから発生する。」「問題は作らなければ無い。今、に生きなさい。」などと言うアドバイスは時々させてもらっている。もちろん、これも相手の状況での助言だ。
私にできない事など無いのだ、制限など無いのだ、限界など無いのだ、全ての現実を作り出しているのは自分なのだ。誰でも、素晴らしい現実を自らの手で生み出すことができるのだ。誰の手を借りることもなく、誰かを傷つけることもなく。そしてこの無限の力は、誰かには備わっているが誰かには無いという性質のものではない。全ての人に、平等に、初めから、備わっている力なのだ。その事に気付く旅、その事を思い出す旅、それが人生だとも言える。
こうして書いた文章は「大切な気づき」とも「洗脳」ともとれるがこれも人それぞれ。多くの苦しむ人にとって「気づくきっかけとチャンス」になっていただければ幸いである。
現象とは変化、すなわち+・-、上・下、善・悪、明・暗など二極の間での振動。つまり波動だ。電気信号の変化で我々の筋肉も心臓も動いている。この宇宙に存在する根源はバイブレーション(波動)であると言える。違いは波長、波形、周波数により起こってくる。全ての実在は、この根源の振動のバリエーションでしかない。人の違いも究極的にはこの波の違いに他ならないのだ。肉体の違いも、性格の違いもそうなる。素粒子の違いも、原子の違いもそうである。感情も、出来事も、時間も、空間も、そうなってくる。全てが根源の波形の変形でしかない。
そして波の性質はよく知られているように共鳴する。よく似た波形は共鳴する。ギターを二つ向かい合わせて、片方のギターを鳴らすと、ならさなかった方のギターも鳴り出す。バイオリンで試しても同じである。これが共鳴現象。思いも振動であれば、あなたが一番強く思ったものと同じ現実が、あなたの空間に表れて来るという事になる。最も単純な、誰でも知っている物理現象である。
ではこれまで、どうしてこんな単純な論理が人に理解できなかったのだろうかか?人は、見ようとするものしか見えないし、聞こうとすることしか聞こえない。こうしてその人固有の「世界」が誕生する。誰かの話を真剣に聞いている時は、音楽が聞こえてなかったりするのだ。それから見たものしか信じないという価値観。人はなかなか目に見えないものを信じようとはしない。そして自分の肉体の皮膚をいつも見ているが、我々の目ではそれを振動として捉えることができない。
この皮膚感覚が、自分という意識と他を分離させている。そして自分は小さな個体であると勘違いしてしまっている。客観的にこの物理世界である現象界を眺めると、「あなたの信じたものをあなたは見ている」というのが事実だということなのだ。
「自分の欲するものは誰の手を借りることもなく手にはいるのだ」と聞かされたとき、はたしてどのようにお感じになるだろうか?「あなたがこの現実の創造者」、こんな当たり前のことに気づかず、人は誰でも、ああでもない、校でもないと生きているのだ。自分のことを「世界の創造主」と気づかずに。以前、ここのコーナーで、「世界の中にあなたはあるのか、あなたの中に世界はあるのか」と言うコーナーでも書かせていただいたが、「世界は私の外でなく私の中にある」「世界の中心は私だ」と言う内容と同じ事なのだ。
今、あなたの目の前に展開している状況は、全てあなた自身が表現した現象。あなたの意識のこの物理世界への現れを現実と呼んでいる。例えば、大勢の人がいるスーパーの駐車場を想像してみよう。若いA君は「ここは可愛い女性が多いなぁ」年配のBさん「おやおや、小さな子供がおばあちゃんと手をつないでいる……お孫さんかなぁ……」主婦のCさんは沢山買い物をした人を見て「今日は何か安いのかなぁ」キャリアウーマンのDさん、閉店時間を見て「仕事帰りでも、なんとか間に合う!」面と向かって話をする人を見て、ある人は「あれっ!?喧嘩だ!」と思い、別の人は「仲良く大声で話しているなぁ」と言う。それがあなたの表面意識によるか、潜在意識によるかは別にして、あなたの見ている、そして感じている現状は、全てあなた自身の意識を原因として顕現されたものに他ならない。この現象世界とは、意識という原因による、結果の世界であるとも言える。
そう考えると「あなたの与えるものが、あなたの受け取るもの」と言うことも、そうだろうと思われてくる。あなたの与えた喜びが、あなたに喜びをもたらすように、心配事は、現実にその心配事を引きつける、もしかしたら皆さんにも思い当たる事はあるだろう。ほうら、やっぱり……と。喜びや心配事はあなたの興味が向きやすい、そして記憶に残りやすい、そして記憶がその様な世界を創造する、それがあなたの世界となるのだ。あなたの自信の無さが、そのまま、やっぱりダメだったという現実を生み出してくるし、そしてその困難な現実を、自分の思いが生み出した事を露ほども感じていないあなたは、自分の不安はやはり正しかったと自分の認識を強化してしまう。
人は見たものを信じ、体験したことを確信する。そしてその自分の体験は、実は自分の確信が生み出した経験であるがわからないのかも知れない。漢方薬をつくる時も、「○○さんにこの薬は絶対に効く」と言う想いを込めて作っている。非科学的だと思われそうたが、今ではその思いこそが非科学的なのかも知れないのだ。
市民講座でも触れたことがあるが、既に量子物理学の世界では、観察者と、観察物は分けることができないということがわかっている。難しい理屈だが、だとすると見る側と見られる側が一体であるという事になる。何かを観察しようとする時、非観察物は観察者の影響を受けるというもの。何を言っているんだかよくわからないと言われそうだが、よく考えれば、なるほど、とも思えるのだ。
自然、文明、風習などに興味を持った僕は旅行業務取扱主任者という資格も取り、旅行業界への就職も考えたことがある。そんな僕だが、旅行で行くことは出来ないが、とても興味のあるところがある。旅行どころか、いかなる理由でも行くことが出来ない場所。行くことが出来ないとなると、なおさら行ってみたくなるものだ。とある国にある島なのだが、そこに住む島民は、外界とは接触不能、島に上陸したら最後、生存は絶望。何十年か前に西洋人が果敢にも上陸したが、生きて帰ることはなかった。彼らの話す言葉?は理解不能。二人ほど、何とか島民を外に連れ出したが、感染症のために3日で亡くなった。もちろん、我々が島に上陸して交流を試みたとしても、彼らはすぐに感染して大変なことになるだろう。つまり、純粋培養された実験動物のようなものだが、彼らから見れば、我々は細菌だらけ、化学物質まみれの汚染物質と言うことになるのだろう。どこの国の話だ?と思われるだろうが、一応インドに属してはいる。しかし、インド政府も全くのお手上げ、統治不能である。一体どんな文化があるのだろう?何をしているのだろう?と興味がわいてくる。
話は変わるが、ここのコーナーでも始めの頃に書いたが、南の島国の酋長がヨーロッパを訪れたときの見聞録。再度紹介しよう。
「ヨーロッパにはたぶん、私たちの島のヤシの木よりもたくさんの人がいるが、彼らの顔は灰のように暗い。仕事が楽しくないから、職業が彼らのあらゆる喜びを食いつぶしてしまったから、仕事をしても、実どころか葉っぱ一枚作って喜ぶこともできないから。
それゆえ職業を持つ人びとの心には、憎しみの炎がめらめらと燃えている。この人たちの心の中には、鎖でしばられ、逃げようとしても逃げられない獣のような何かがある。そしてすべての人びとが、他人をうらやみ、他人に嫉妬しながら、お互いの職業を比べ合い、あの職業は尊いとか卑しいとか、しきりにごたくを並べている。
そうではなくて、すべての職業は、それだけでは不完全なものなのだ。なぜなら人間は手だけ、足だけでなく、頭だけでもない。みんなをいっしょにまとめていくのが人間なのだ。手も足も頭も、みんないっしょになりたがっている。からだの全部、心の全部がいっしょに働いて、はじめて人の心はすこやかな喜びを感じる。だが、人間の一部分だけが生きるのだとすれば、ほかのとことはみな、死んでしまうほかはない。こうなると人はめちゃめちゃになり、やけくそになり、そうでなければ病気になる。
彼ら(西洋人、文明人)の生き方は、職業のためにめちゃめちゃになっている。しかし、そのことに彼らは気がつこうとしない。そして私がこんなことを語っているのを聞いたら、まちがいなく、彼らは私を馬鹿だと言い切るだろう。自分でどんな職業についたこともなく、ヨーロッパ人のように仕事をしたこともないのだから、判断できるわけがないのに、裁判官になりたがっている、と言って。」
自然の中で身を置く人々は、バランスや繋がりを崩すことなく、自然の摂理の中で生きているのだろうと思う。
深夜、友人から電話があった。彼はとある薬局の管理薬剤師だ。その時のやりとりを思い出してみた。
「折り入って相談があります。薬局で奇っ怪な現象が起こるのです。」
「それは、どういう事だ?」
「朝、薬局を開けると、薬が隠されていたり、置いたはずの物が動いたりするんです。いわゆる、心霊現象というやつです。どうにかなりませんか?」
「何故、俺に相談しようと思った?」
「きっと何か知っていると思ったんです。そもそも誰にも相談できないですよ。」
「俺にはわからないよ。しかし、その筋のプロがいるから聞いてみるよ。」
……
「と言う事で、どうしたら良いかと。教えていただけますか?」
「あらあら、先生でも困ることがあるのね。でも、命の恩人だから、何でもやりますよ。」
「ありがとう。」
「では、粗塩を用意して。生成された塩はダメですよ。置き方は……」
と丁寧なアドバイスをもらう。早速連絡して方法を伝える。そして、数日後、
「大変です。怒らせたみたいで、釣り銭を隠されました。」
「う~ん……」別のプロに聞いてみる。
……
「と言ういきさつですが、何か間違ったんでしょうか?」
「それは大変ですね。清酒は使いましたか?」
「えっ!?使いませんでした。」
「では、清酒を粗塩と一緒に使いましょう。やり方を教えます。」
「わかりました。ありがとうございます。」
内容を早速友人に電話する。そしてまた数日が経ち
「大変です!。本当に怒らせたみたいです。開局したら、調剤室が塩だらけだ!!」
「一体何が起こっているのだ?また、聞いてはみるが……ものすごい怨念というか執着心というか、それが無ければ、そんな現象は起こらないぞ!」
数日後、再度電話がある。
「原因がわかりました。事務員の女の子です。」
採用した事務職の女性は、きちんと仕事をする真面目な子だった。真面目故、薬局で起こる怪奇現象の原因が自分にあることを話さずにはいられなかった。
「私には付き合っている彼氏がいました。ある時彼に親同士が決めた許嫁かいる事を知り、私は身を引くことにしました。彼からは、お願いだから別れないでくれ!!としがみつかれました。私はその人と幸せになって!!と振り切ったのです。しかし、親同士が勝手に決めただけだと、だからお願いだ!!と言ってきます。それでも私は、これ以上苦しめないで!!と泣き叫んだのです。そして、本当に幸せになってね!!。と優しく言いました。悲しそうに彼は去りました。」
「その後、私たちのことをよく知る友人から、彼は真剣だったよ、という助言ももらったのですが、それは受け入れられなかった。そして、その後の出来事を、私に教えてくれたのです。彼は彼女の実家で結納の宴を行っているところでした。その時、外ではキャーッと言う声が聞こえたりでやけに騒々しい。外に出ると通行人が見上げています。さの先には2階のベランダで首を吊った彼が……」
「奇っ怪な現象が起こるようになったのはこの頃からなんです。プレゼントでもらった彼からのアクセサリーが鞄に入っていたり……そして、紙に書いたメッセージがいつの間にか上着のポケットに入っていたり……そこには間違いなく彼の自筆で……いつまでも忘れない……と。捨てても捨てても何度でも舞い込むように入ってきます。」
この話を聞いて、
「坊さんは何と言っている?」と聞くと
「四十九日が過ぎれば落ち着くと……」
そして、四十九日が過ぎた。再度電話が入る。
「困った!落ち着かない!!」
「う~ん、またその筋のプロに聞いてみるよ。」
その後、連絡が入る。結局彼女は責任を感じて辞めました、と。この子はどうなるのだろう、これだけの強い執着エネルギーを外すのはちょっとやそっとのお祓いでは無理そうだ。強い思いや執着心が、色々な現象を引き起こすことは明らかだったが、手紙やメッセージとしてまで現象するというのは驚きだ。
自分の身体はもうダメだ、とか自分はダメな人間という思いはそういう方向に導くだろうし、こんな世界、無くなってしまえばいいんだ!!と言う思いが多ければ、そうなるのかも知れない(集合意識と言うらしい)気持ちの持ち方が想像以上に重要だと思われる。
不動の存在とか、色々なところで「不動」と言う言葉をよく耳にする。しかし、「不動」とは「無」であり「空」であることだ。動き、つまり変化が無ければ現象しない。音も無い。変化とともに時間が発生し現象するのだ。我々は五感で現象の一部を捉えているに過ぎない。現象させるためにはエネルギーが必要だ。このエネルギーとしては、想い、祈り、意識、感情、意志、思考、念、意思などがあげられる。
前にもあげたが、砂漠に飛行場があったとしたら、突然降ってわいたように飛行場は出来ない。飛行場を造りたい、だから飛行場を造ろうという意思があり、それが行動という変化を起こし飛行場が出来るわけだ。生命でもそうだ。誰が遺伝子のスイッチを押すのか?でも書いたが、遺伝子は持っていても発現しなければタダの設計図だ。伝子発現をするためにはプロモーターが欠かせないが、その前にプロモーターを刺激するシグナル伝達が必要だ。ではシグナル伝達のための微少蛋白はどのような事が原因となり伝達物質として働くのか?である。その様なこともあり、誰が遺伝子のスイッチを押すのか?と言う題名で市民講座を企画した。遺伝子発現に関しても、想い、祈り、意識、感情、意志、思考、念、意思などが大きく影響していると思われるのだ。
我々は五感でしか感じることの出来ない、現象界と言うとっても小さな世界を見ているに過ぎない。そして、「これが現実」と言う思い込みを持っている。だから、通常の現象世界以外が見えたり聞こえたりする人は大変だ。何と言っても入ってくる情報は何十倍にも何百倍にもなる。当然、神経の疲弊を起こしてしまう。下手をすると彼らの言っている事は幻聴や幻視として扱われ統合失調などという病気にされてしまったりする。入ってくる膨大な情報に惑わされ疲れてしまっているのが、統合失調という病気のために起きている症状と捉えられてしまうのだ。
一般の人が見えたり聞こえたりしないものが、見える、聞こえると言うことが、事実なのか、幻聴・幻視なのかは判断が難しい。最初は事実であったことが、幻聴・幻視となることも考えられる。膨大な情報量のために起きた神経の疲弊なのだろう。「私が見えたり聞こえたりする世界は多くの人にはわからないことだ」と処理ができ、見えたり聞こえたりすることに囚われず社会生活を普通に送っている人も非常に多い。もちろん、彼らは病気では無い。
我々の認識できる世界はとってもちっぽけで狭い世界。本当は我々は、ほんの少しばかりのことしかわかってないのかも知れないのだ。氷山の一角である氷は元は水だ。動きが無ければわからない。そして溶ければ、水になる。これは、我々の世界も同じなのかも知れない。
「人間の身勝手な行動」は色々なところで感じる。
この写真を撮った場所には、多くの「存在」が住んでいた。サクラの名所だが、妖艶な「気」を感じるところだ。写真を撮ると多くの「存在」が写る。これはその中の一部。
最初は電線か紐にストロボ光が反射したかと思ったが、違っていた。他の写真はもっとビックリ仰天なものだが、ここは整備され、綺麗な公園となってしまった。妖艶な「気」など感じない。シャッターを切っても何も写らない。
彼らはどこに行ったのだろう……。きっと怒っているだろうな……。
小学校の頃だったか、下校時に雀が車にぶつかって僕の所に飛んできた。手のひらにのせた。最初は少し動いていたが、すぐに息を引き取った。猛烈な怒りがこみ上げてきた。自動車なんて無くなれば良いと思った。その後で書かされた作文の内容はこんな感じだった。
いつも学校の先生には怒られてばかりだったが、このときは褒められたような記憶がある。
もちろん、大人になって自動車は使っている。
今年も何かと忙しいお盆であった。
全く休めてないお盆だったが、そんな中でも録りためた映画を見る時間は少しばかりあった。そんな中で周りの評価が高いと言う事もあり「鬼滅の刃」と言うアニメを見てみた。その中で驚いたこと、それは「柱」と言う言葉。
もう、30年近く前になるが、ある女性から言われたのが上の言葉。その時に「柱」という言葉ををかなり強調していたことを思い出す。
そして、彼女の言っていたことは確かに現実となっている。このように、的確な予言を残した者は多いが、その様な人たちは今、沈黙している。一体何を思っているのだろう、と気にはなる。
予言と言っても、少し考えれば当たり前のように想像はつくことではある。
何もない「無・空」の状態から、変化が始まり変化とともに時間が発生し、面積・体積などが測れる状況が発生する。数学で言う「微分」そして「積分」だが、これが現象だ。この現象界は良くも悪くも常に変化している。我々の心臓の動きや筋肉の動きも電気エネルギーによる変化、つまり体は多くの変化で成り立つ。変化がなくなれば、それが「死」だ。体の外も気圧、気温、人との関係、生活環境など常に変化している。この変化、無いのも問題だが、ありすぎも問題だ。
我々は、誕生とともに心身の変化を伴いながら、変化する地球環境、生活環境、社会環境、自然環境の中を生き抜くのだ。変化を良いように変えたいと思ったら、個人でもある程度可能だ。時間とともに現象する世界、の旅人、快適な旅を楽しみたい。
多くの人は「過去は変えられない」と言う思い込みを持っている。しかし、本当にそうだろうか?
過去が「今のその人」を作っているのは確かだ。フラッシュバックと言う突然嫌な過去が思い出されたり、PTSD(心的外傷後ストレス障害)で悩まれる人も多い、されは、ショッキングな過去による呪縛がいかに強力かを物語っている。このように、精神的苦痛を訴える人は何かしら過去に大きな問題を抱えている。この呪縛から逃れられるなら逃れたいと思うだろう。
しかし、これは実態のない「過去」と言う創造物に執着エネルギーを注いでいるにすぎない。このように言うと、そんなに単純ではない、と怒られそうだ。もちろんそれは、そうだろう。しかし、過去が苦痛の原因になっているのであれば、苦痛から脱出するためには、「記憶」や「執着心」、そして「興味」について理解することも大切だ。
昔、とても嫌なことがあって、それが私を苦しめる、と言われることがある。意地悪に思われるかも知れないが、その「過去」とやらを見せてくれ、と言うことがある。過ぎ去ったものをどうやって見せろというのか!と言われるが、その通りで今は実態はない。そこでさらに、「では、その嫌なことがあった日について、何時に起きて何を食べ何時に寝たか、など1日の流れを教えて欲しい」と聞くと、覚えているわけ無いでしょう!と言われる。そう、昨日のことですら、起床から就寝まで事細かに覚えてはいない。もちろん、そんな必要も無い。
では「過去」とは何か?それは「興味」だ。執着した事象なのだ。「そんなことに興味なんか無い!」と言われそうだが良くも悪くも興味なのだ。例えば、「ワイドショー」を見たりする人、人の不幸に興味は無いとは言うが、興味が無かったらそもそも見ないのだ。
そうは言っても、変えられないものは変えられない!!と言う人もいるだろう。そのような「過去」も実は少しずつ変化している。何故なら、「今」は瞬時に過去になるからだ。「今」が過去を変える。「今」に満足すれば、辛い過去でも、それがあったから今がある、と思える。逆に「今」に不満があれば、あのときの出来事のために、こうなってしまった!!となるのだ。「今」は過去をひっくり返す力を持っている。我々は流れゆく時間の中で常に「今」を経験する「時の旅人」なのだ。
どこかの偉い人が「責任転嫁は人の仕事」とか「人間のやっていることは羨望のまなざしと嫉妬心の獲得競争」とか言っていた。だから「今に在りなさい」なのだろう。それが心の傷を癒やす方法にも繋がる。続きはまた後で記載しようと思う。
色々と相談に乗っていると、よく出てくる言葉。「誰も私のことをわかってくれないんです。」その時に、僕は「では、あなたはあなたのことをよく知っているのか?」と聞き返すことが多い。
私は○○で、と名前を言われると、それはあなたの名前だ。私は○○でと仕事を言われると、それはあなたの仕事(持っている免許)だ。私は○○大学を卒業して、と言われれば、それはあなたの学歴だ。私は○○という性格で、と言われれば、それはあなたの性格、或いは習性だ。私は胃が弱くて、などと言われれば、それはあなたの体だ。私は○○という経験をしてきた、と言われれば、それはあなたの過去だ。と言うような会話になってくる。そのうちに「私って……」などとも言われるが、「あなたがわからないのに他の人がわかるだろうか?」と少々意地悪な返答をしたりする。
認識できるものや認識できることはすべてあなたでは無い。認識している方なのだ。あなたという存在は、すべての根拠だと言うことを忘れてはいけない。あなた無しでは存在不可能なのだ。
良くも悪くもとれる「老いたら子供に帰っていく」と言う言葉。これは単なる側面を表しているに過ぎない。子供は純真であるが、年を取ると千差万別だ。中には、素晴らしい卒業証書をもらえるよね、と言う生き方をされてきた人もいるが、そうではない人も多い。特に我欲にまみれ、自分が気持ちよくなるためには相手はどうでも良い、と言う思い込みを強く持っている人は悲惨な老後となる。理性が剥がれ落ちるためにやっかいだ。とても醜い終末期になることもある。終わり良ければすべて良し、ではないが、良き最後を迎えるためには、生き方、考え方の在りようが左右する。
時々、五感では捉えられない存在や現象の写真を撮ることがある。空に四角い白い光で角には竜のようなものがチョコンとある、青空に楕円の光、空間を漂う30cm程度のナマズ?のような半透明の存在、桜の木に絡まる長さ10m以上の存在、等々。僕はこれは普段は捉えられない現象や存在だと思っているが、これを「サクラの妖精だ」「龍神様だ」などと色づけすると宗教的になる。純粋に見ればタダの「存在」だ。当薬局には普通の人が持ち合わせていない能力を持った人たちが多いので、色々な写真を見せてくれる。風呂が勝手に波打つので写真を撮って見たときに写った存在を見て、家主は「龍神様」と言い他の人は「生き霊」と言う。ある神社の鳥居の写真、鳥居の左右に目と口らしきものがある火の玉みたいなのが、12個、鳥居の上には上から潰したような大きい顔、狐だか何だかよくわからない存在、その他諸々……。神社だからと言って、果たしてこれは神々なのだろうか……。つまり、わからない、が正当だ。しかし、確かに何かは存在する。理由付けしなければそれまでである。
このように、人間は何故か理由付けしたがる。こうだろう、ああだろう、きっとこうに違いない、等々。色々な理屈や理論も立てたがる。しかし、完璧でない人間の考えたもの、なのでそれが絶対的な正しさをを持つ訳ではない。だから、科学的に説明できることが正しいわけではない。
人間は色々な事を考え、色々な見方をし、そして感情を荒立てたりする。執着心が強くなったり、感情が乱れることで、まるで霧がかかったように、非常に見晴らしの悪い世界になってしまうのだ。水面は波立てば、透明度を失い良く見えないが、落ち着いていて波風立たなければ、澄んでおり良く見える。
人間は誰でも、「教えられたことと思い込み」を抱えて生きている。このような意味で人それぞれが「固有の宗教」を持っている、とも言えるだろう。その根拠のもとが「あなた」なのだ。あなたなしでは「教えられたことと思い込み」は存在できない。だから「教えられたことと思い込み」をどう変えようが、あなたの自由なのだ。考えてみれば、当たり前の事である。
あるがままに見る癖をつけると世界は見晴らし良く、美しくなるかも知れない。それを妨げるのは思考、感情、執着心といった曇りガラスなのだ。
心身ともに健康で問題ないときは、ほとんど何も考えていない。だから悟った人たちは言う。「考えるやつはバカだ!」と。何故なら「何か問題があるから考えるのだ。あなた方は何故、そんなに問題を造るのか?」少々不愉快な思いをしそうな言葉だが、今の時代は多大なストレスを感じ、不安感を持っておられる人も多い。そのような人々を救うための名言であるとも思える。今、何が問題なのだ?過去にあったことを未来に投影して不安を想像している、そこで回避するための問題を造っている、と言う事だろう。
だが、多くの人が教え込まれてきた「考えないやつはバカだ!」もその通りなのである。使わない機能は退化する、は自然の摂理だからだ。だから、何でもバランスの問題なのだ。
「家族って○○だよね?」「夫婦って○○でしょう?」と言いだしたら、その関係性は黄色信号だ。そもそも何の問題も無かったら、そんなことは考えないのだ。問題なく普通の生活を送れているはずだ。
身体も同様なことが言える。普段我々は身体を意識していない。つまり身体が存在しない状態だ。食事をしても、それが身体の中でどうなっているか、なんてわからない。身体は小宇宙だと言われているが、その小宇宙については全くわからないのだ。胃痛、頭痛などの異常が出て初めて存在がわかる。健康なときほど、自分の身体を意識することはないのだ。
話は変わるが、ヨガや密教の世界において性行為は聖なる行為とされている。何故なら、肉体という壁を取り去ったときに、お互いのエネルギーを意識することでの身体を超えた繋がりが実感でき、そして真実、幸せのある場所、つまり幸せは自分自身の存在だったと言う事が理解できるからだ。以前、これを知ったかぶりして悪用していた、とんでもない宗教が存在していた。そのようなエセ宗教は、まだまだたくさんあるから、興味を持ったりして下手に近づかないことだ。
このようなことを実感出来る方法はいくつかある。例えば、第三者と手と手を合わせ、目を閉じて静かに呼吸をしてみて欲しい。手が触れあっている境界線は消滅し、温かな共有エネルギーが実感出来るはずだ。仲の良い知人であれば、相手に胸に手を当ててもらい、互いに力を抜いてゆっくり呼吸をしてみる。胸部から心地よい温かさが広がることが実感出来る。胸部は中丹田に当たり、ヨガではハートのチャクラと呼ばれる。ストレスを受けると、この場所が詰まり苦しくなる。だから、「胸がときめく」「胸が痛い」などの感情に関係することわざが多い。これは経験に基づいているのだろうと思われる。ここを解放させることは快適に生きる上で重要だ。いずれの方法にせよ、力を抜いてリラックスしながら行わないとわからない。何故なら、普段多くのストレスにさらされている強固な壁を緩めなくてはならないからだ。
そして、一人でも体感できる方法がある。武術や気功の訓練法の中にそれがある。それは五感以上の感覚を目覚めさせ、研ぎ澄ます方法でもあるからだ。言葉では表せない「口伝」や「口訣」も多く存在するが、これは言葉で表現しにくいことが多いためである。機会があったら、言葉で表現できる範囲でその話を書こうと思っている。
想いや念、言霊を使った訓練がヨガや気功を始めとした東洋の修行法の一つとして存在する。多くは奥義であり、口伝でありやたらに伝えられるものではなかったりする。例えば、ヨガの一流派では○○○!と腹の底から口に出し、その言葉を吸い込むように大きく吸い込む、そしてその言葉をゴクンと飲み込むようにしてから息を吐く。これを繰り返す事で心身が変容していく。マントラもヨガの世界では秘法に属する。日本の宗教でも、般若心経や九字護身法など多くが存在する。西洋では賛美歌がこれに近いかも知れない。いずれにせよ、言葉に想いを乗せる事でその効果増強が現れる。
もちろん、その効果はうまくやれば絶大だが、悪く使えば負の効果も絶大だ。これは数式、化学式では表せるものではないが、ある種のエネルギーを持っているからだと思われる。怒り、喜び、悲しみなどは強いエネルギーを持っており、そのためにこのような感情を発した後は大変疲れるのだ。発したエネルギーは何かしらに反応して多くの変化をもたらす。他界された筑波大学の村上教授もおっしゃったように、喜びは遺伝子発現のスイッチを良い方向に行くように入れる。健全な心身がつくられるし、このようなエネルギーを発する人と一緒にいることは心地よく、周りも元気になるのだ。しかし、深い悲しみなどは遺伝子発現のスイッチを悪い方向に行くように入れる。そのため、疲労、倦怠感、無気力感、血行不良、温熱産生能力低下、内臓諸機能の低下など、不健康状態となる。一緒にいることで、周りもエネルギー回転(気の流れ)が悪くなったようになり、どんよりした感覚と重いけだるさが現れたりする。このように、数式や化学式で表すことは出来なくとも、明らかに多くの人が経験しているのだ。
不平・不満は知らずのうちに、少しずつかも知れないが、しかし確実に心身をむしばむ。それが深かったり強かったりすれば、周りにも影響を与える。特に、体質的に敏感な人たちも増えている今、この影響をもろに受けてしまう人もいるのだ。生きている人の思考、感情、記憶は俗に言う生き霊であり、亡くなられた人の思考、感情、記憶は死霊(幽霊とも言われる)だ。強ければ大なり小なり影響は受けてしまう。もろに影響がある人は、受けやすい人、などと表現されたりする。
何故か人間は、悲しみ、怒り、不平、不満などは強い感情を持ちやすい。しかし、逆の喜び、楽しみ、満足感、達成感は、あってもすぐ消えてしまう。このバランスの不均衡が不健康につながっているのだ。
そのようなこともあり、感情の発しない状態に入ろうと、仏教で言う「禅」の世界に入ろうとする人たちも多いのだろう。感情が疲れの原因になっていることを実感しているからなのだ。
講演会で「幸せって何ですか?」との質問を受けることがある。幸せの価値観は千差万別、十人十色だろうが基本的には「満足すること」だと思っている。自己満足、と言う言葉は良いように取られないことが多いが、誰もが「自己満足」を求めて生きているのだ。自己に満足できないから欲求不満となる。
話は変わるが、無理矢理大学に行かせてもらったこともあり、学生時代は仕送り5万程度。財布の中身は大体50円。まぁ、学食(学生食堂)の食券は持ってはいたが。
学食は貧乏学生の強い味方だ。おまけに他大学と比べても別格に安い。何しろ、かけうどん60円、カレーライス140円、定食は230円、豪華な定食で330円。近くの大学の1/3程度で食べられる。おまけに、漬物類はタダ。夜に行くと、ご飯タダでくれることもあり、タダ飯となる。もし、何か食べるにしても、余りそうなのがザースでついてくる。
友人から、「そこの喫茶店に入ろうよ」と言われても「50円しかないなぁ。」と財布の中身を見せる。彼は「仕方ないなぁ、おごってやるよ。」と、こんなことが何度もあった。そんなこんなで、5万での生活はギリギリだ。
大学から離れた17000円の幽霊屋敷に住んではいたが、アルバイトを始めた。サークル、授業、研究室などの合間(と言っても休日、夜間)に病院のバイトを入れる。深夜の薬局のバイトは夕食の残りをもらえるし、休日・祭日は9時~22時くらいまでの勤務なので1日のすべての食事が、病院でまかなえた。病院は破格の薄給だったが、食事の点では助かった。薄給は銀行振り込み。
ある時、やはりお金を使う必要があり、銀行に行く必要が出た。しかし、平日はほとんど大学から出られないので、平日、銀行の営業時間に行っている暇はない。遊びに来ていた高校時代の友人にお金を下ろしてほしいと頼んだ、そして、彼は暗証番号を3回間違ってくれた。これで、銀行から下ろすことは不可能になった。バイトの貯金は、かなり経ってから今の薬局の営業資金となる。
仕事を始めてからも、家賃こそは33000円に上がったが、ほとんどカネがかからない生活だった。服装もこだわらず、食事も食べられれば良い、という感じ。周りから見たら、「何という生活!」と思われたかもしれない。
そして今に至るが、「学生時代のような生活に戻れるか?」と聞かれたら「いくらでも戻れるよ。」と返答するだろう。何故なら、それなりに楽しんだし、充実していたからだ。満足していたのだ。これが不満たらたらで「あんな生活!」と思ったら戻れっこない。「周りは良い生活しているのに、なんで俺だけ……」なんて周りと比較し始めたらなおさらだろう。
比較したり競争したりすることは、良いことでも悪いことでもない。裏を返せば、良いことにも悪いことにもなるのだ。適度なストレスは心身の向上に役立つが、過度なストレスは心身を破綻させる。何でも、ホドホド、つまり、いい加減(良いあんばいに加減する)が大切なのだ。これは東洋医学(東洋思想)の陰陽五行説と同じ考え方なのである。是非、周りと比較しすぎることなく、自己を中心にすえ(自己中心)、いいあんばいに加減しつつ(いい加減)毎日に満足する生き方をしてほしいものだ。この延長線上に「幸せ」は待っている。そのうち「幸せのある場所」について話をしようと思う。幽霊屋敷についても紹介するかもしれないが……。
今はどうしているのだろう……と気になる人物がいる。彼はある日、突然やってきた。真面目な彼だったはずだが、リーゼントにアロハシャツ、そして真っ黒いサングラスだ。誰だっけ?と一瞬思うほどだった。特に仲が良かったわけではないが、彼の存在は知っていた。何故か会いたかったという。これまでの経緯を話し始める。
そこそこの成績だった彼だが、教職員だった彼の両親は、いわゆる上位校しか認めなかった。ましてや父親は頑固な校長だ。高校受験で浪人、ストレスもあり現役より成績が下がり、中堅の高校に進学。遅れての入学だったこともあり、中堅高校では周りから外されたりして、友人関係もうまくいかなかった。中退した。そして、闇の世界に足を踏み入れた。
「友人が奴らに殺された。報道ではデパートの屋上からの飛び降り自殺だった。俺は敵を討たなくてはならない。だから、殺人芸術とも言われるその技法を教えてくれ!!」と僕の隣の部屋に引っ越ししてきた。
「わかった。」徹底的に”しごく”’ことを考えた。音楽や運動に熱中することにより、執着心から解放されることはよくある。方法としては別に運動に限ったわけではないが、彼は運動をするためにやってきたのだ。時間も無いので、深夜の特訓だ、公園でしごきにしごきまくった。
「兄き~ぃ、しんどいです。」彼は僕の事を「兄貴」と呼ぶようになった。敬語で話すようになった。「おい、その呼び方はやめろ!敬語もだ!それにお前がやりたいと言うから、こっちも本気になったんじゃねぇか!!」そうは言っても、兄き~ぃと呼ぶのはやめなかったが……。
そして彼はエキストラのバイトを始めた。暇さえあれば、僕に「お供」するようになった。大学まで一緒に来ようとする。さすがに抵抗があったが、もしかしたら彼は変われるかもしれない、と大学の友人に事情を話し協力してもらうことにした。関わりたくない、と拒否する友人もいたが、渋々「お前の頼みなら仕方ない」と協力してくれる友人もいた。
彼には、リーゼント、パンチパーマはやめること、サングラスはかけるな、アロハシャツはなんとかしろ、兄き~ぃと呼ぶな!同い年なんだから敬語を使うな!などを条件に連れて行くことにした。そして、初日、やっぱり変だ。まず、服装、なんとかならないのかと聞いても、「兄貴!持ってないっす!!」仕方ない、行こう。
大学では……やっぱり浮いている……目立つ……。それに、敬語と「兄き~ぃ」はやめない。大学内ではニヤニヤしている。ここが兄貴の大学っすか!すごいっすねぇ……と言う。授業に出ては「これが兄貴の受けている授業っすか!」う~ん、やっぱり変だ。付き合ってくれる友人たちも顔が引きつっている。しかし、何度か連れて行くうちに少しずつ変わり始めた。「なんか、全然違う世界っすねぇ……。俺のいた世界はやるか、やられるかだったんすよ……」
僕は彼を連れてドライブに行く計画をした。さすがに友人はドン引きだ。それでも、付き合ってくれた友人はいた。女性もおり、レンタカーを借りて那須方面に出かけることにした。これが、彼を大きく変えた。あるとき「敵討ちなんて、馬鹿馬鹿しくなってしまいました。なんか、兄貴のいる世界は全然違うなぁ~。俺、間に合いますかねぇ~。大学受けてみようと思うんです。」と言い出す。大検だったか高卒認定だったか忘れたが、受けさせる。勉強を始め、合格した。大学受験の準備を始める。願書を出したりの手続きを手伝う。しかし、さすがに大学は受からなかった。それでも彼は、「なんとか仕事をしてみようと思います。良い思い出が出来た、別世界を見させてくれてありがとう。」
そういった彼とは、もう付き合いはない。一体どうしているのだろう。少々気にはなる。
ノーベル賞をはじめとした色々な賞があるが、それは、やっていた研究や行動がその時代に最も貢献出来る領域だった、あるいは、その時代に最も必要とされる行動だった、と言うことは大きい。職業も色々とあるが、塾や予備校に通わせてもらえる環境(金銭面や親の考え方など)にあるから、その職業に就くことが出来た、今の状況を創っているのは、環境と縁だとも言える。(架空の)あなたという存在は、周りと関係し合って色々な状態に変化するのだ。
武術・気功の根底には「意識、思考」があると前述したが、武術・気功では「念の使い方」や「思い込みのコントロール」が大変重要となる。空手やボクシングなどで、とっさに「打ち出す」事をやったり、あるいは車を運転したりするが、これは前提に突きを出そう、とか車を運転しようとかの意識が存在する。ここで、「どのように」を大変重要視するのが武術・気功だ。どのように、をそれぞれの流派のやり方で、徹底的に訓練する。西洋で言えば、イメージトレーニングや自律訓練法がこれに当たる。例えば、短距離走で素晴らしい結果を出したいときに、次のようなイメージトレーニングは有効だ。
私は短距離走者として、晴れの舞台に立った。いよいよ、競技が始まる。静かにスタートラインに立った。静かにクラウチングスタートの形を取る。今、私は静けさの中にいる。身体も動きはなく落ち着いている。スターターピストルの発射準備。そして、スターターピストルの音が鳴る。と同時に、身体に素晴らしい力がみなぎり、力強く足を蹴り出し気持ちよく開放感のあるスタートを切る。周りはどうでも良い。解放された身体は自由に動く。そうだ、自由だ!こんなに解放されて気持ちよいなんて!気持ちよく解放された走りのまま、ゴールのテープを切る。何という充実感!もう、順位は関係ない。素晴らしい充実した力、エネルギーが身体に満ちあふれているのだ!!
普段の練習に加えて、このイメージを徹底的にインプットする。身体は変化を起こすはずだ。成果も必ず出る。これは、思いや念が身体を変えると言う証拠でもある。薬局でやっている健康体操でも、「黄金功」という気功を時々取り入れる。これは、「黄金」という淡い色と暖かさを利用する気功で、身体を緩め、精神的緊張を取り、抵抗力を引き上げるのに有効だ。文章にするのは難しいので、簡単な思考の変え方、そしてそれにより心身に変化を起こさせる方法を紹介する。
①『私には無限の豊かさが流れている』とか『私は最高のパートナーと最高のタイミングで出会うことができる』とか『私は深く瞑想することができる』『私には○○する力がある』など、自分がこうありたいという思いを、願いではなく『ある』とか『できる』のような言葉を使って表現する。個人名や物欲は入れないこと。「~になりたい」とか「~でありたい」は、「今は~になれない」の現れで、なれないと言っているようなものだから注意すること。
②まず深呼吸をし、最大限に息を吸い込んだらしばらく息を止め、その言葉を繰り返しながら息を吐いていく。単なる言葉ではなく、強い思いを乗せることが重要。すると、言葉も自然と強く発するようになるので、自分の体力と相談しながら実施すること。
③そして①の思いを抱きつつ息を吸い込んでいく。その思いを飲み込む、あるいは吸収するような感じでやってみる。
これらのことを何回か繰り返す。日中気が散って出来ないと言うことであれば、寝る前にやってみても良いだろう。しかし、脳の活性化が起こり、眠れなくなることもあるので、息を吐く事に重点を置いた深呼吸でリラックスする必要が出るかもしれない。
呼吸もやり方によって心身を変えることは可能だが、詳しくはまた、別の機会で紹介するとして、ここでは簡単に取り上げさせていただく。
★息を吐く、は真のリラックスを獲得する上で重要。1、2、3で吸って4、5、6、7、8でゆっくりと力が抜けていくイメージを持って、ゆっくりと吐いていく。繰り返すことで、身体のあちこちにある壁が溶けていき、身体の全体性を感じられるようになる。
★息を吸う、は強さの獲得、抵抗力の増強、真の強さの獲得に重要。1、2、3、4、5で身体の中の汚れたものや嫌な思いを吐き出すイメージを持ちながら強目に息を吐ききり、6、7、8で自然界の強いエネルギー、新鮮できれいな空気を思いっきり吸い込む。眼光(眼力:眼を見開いたりする)も重要。
いずれにせよ、体調、体質、体力を考えながら無理せずに行うことが重要だ。
気功という健康法、武術(特に北派)の筋肉量に比例しない驚異的な威力など、どれをとっても西洋の医学、科学では全く説明のつかないことだが、その理由は、武術・気功の根底には「意識、思考」があるというところにある。また、武術・気功の世界では人間個体を地球、自然環境の一部として捉えていることも、今の科学での考え方では難解であることが多い理由だ。西洋の医学では人間の身体を一つの個体として捉えているので、この考え方では武術・気功を通しての現象は説明できない。故に、神秘的な力とか宗教的だ、などと言われてしまうが、特段、神秘的でも宗教的でもない。むしろ、単なる自然現象だ。むしろ、西洋の科学や医学が無理矢理数式や化学式により説明しようとしているため、閉鎖的な視点でしか捉えられなくなり、この大きな自然の力、自然の流れを捉えられなくなっているような気がする。そして、数式や化学式で説明できなくなると、「神秘的」「懐疑的」「宗教的」となる。
武術・気功の世界では、身体はすべてつながっている、足から頭、手指、すべては一体であるという考え方をする。力を発するときは、全体の集約した力を1カ所に集約する。手で打っているように見えても、足の力に寄ることが大きかったりする。身体の中に大きな波を起こして、その波の威力を利用したりする。だから、腹筋や腕立て伏せなど特定の部位のトレーニングはあまりやらない。むしろ禁止することもある。なぜなら、それらが身体の緊張を招き、全身くまなく流れる「気」というエネルギーの流通を止めてしまうからだ。そして、身体のパーツをバラバラにする。身体のパーツをつなぐためには、「リラックス」が大前提となる。
また、武術・気功のある流派には「爆発呼吸」や「震脚」と言う動作がある。筋力トレーニングはあまりやらないにもかかわらず、恐ろしい力を発揮させる方法だ。「爆発呼吸」は、呼吸により内なる力を四方八方に放出させる方法、「震脚」は地球の重力を使ったエネルギーの放出方法である。つまり、地球の力を借りている。人間は地球、宇宙を構成する存在であり、つながっているのである。健康維持や治療に地球や宇宙の力を借りない手はないのだ。逆を言えば、地球・自然が病めば我々も病むのだ。
最も身近な自然、それは「人体」であることを忘れてはいけない。
毎年恒例、初日の出練習。元旦には日の出とともに運動する習慣があった。1年の験担ぎも兼ねての運動、やらないと気持ち悪い。日の出前に自転車で出発するのだが、バリバリ路面凍結していたり、雪がうっすらと積もっていたりで、厳しい寒さに挫折しそうになる。しかし、今年はどうだ、ほどよい気温で全く苦痛ではなかった。このようなことは、初めてだ。やはり変だ、急激に環境は変わっているのが肌で実感できる。と同時に肌で危機感を実感した。戦争なんて、やっている場合ではない。そして「厳冬らしさ」が失われてしまった元旦、その日の夕方に能登地方で大震災が起きてしまった。翌日、新潟県の長岡にお住まいの患者さんたちに連絡を取った。ご高齢で介護2、あるいは認知症だったりで心配だ。
「薬や健康の心配をしていただけるのはありがたいが、みんな不安なのは薬が飲めなかったり、受診できなかったり、ということではないのです。もちろん、中には病院に行けなかったり薬がなくなったりする不安をお持ちの方はいらっしゃるでしょう。通院しなくてはならない人もいるでしょう。しかし、大多数は血圧やコレステロールの薬だったりです。別に飲まなくても死ぬわけじゃないし、受診しなくても大問題にはならないのです。それに永遠に薬を飲めないわけじゃないのですから。それより、とにかく不安です。昨晩は一睡も出来ませんでした。夜中いっぱい、数え切れないほどの揺れに襲われました。地震よ、来ないで!と言ってもそうはいかない。それはもう、この世の終わりを思わせました。ただ、ただ、不安です」
ちょっと離れた長岡でこの状態、現地にお住まいの方々の不安は、想像できないほどの大きさだろう。そして、このような大災害はどこで起こっても不思議ではなくなってしまった。能登も九州も北海道も関東もお隣だ。地球規模で言えば、すぐそこ。どこかで大災害が起これば、日本全国大なり小なりの影響は出る。おまけに、このちっぽけな島国は4つのプレート上に存在しており、世界屈指の地震の巣となっている。
今、日本は経済衰退国と呼ばれ、日本経済は目も当てられない状況だ。その日本にもかつて「高度成長期」とか「バブル期」などと呼ばれる時代があった。しかし、国民は裕福だったかというと、あながちそうでもない。実感がなかった人も多いはずだ。中学時代は地理分野が好きであったこともあり、「日本国勢図絵」を読む時間が多かった。なので、当時の日本や世界の主要都市の人口などは今でも頭に残っている。昭和の時代「国民総生産」はアメリカに次いで世界第2位となった。だから、メディアは「世界第2位の経済大国」と称した。しかし、どうだろう。一人あたりの国民所得は欧米やカナダの足下にも及ばない。中学時代、生意気に「一人あたりの所得では、欧米、カナダの足下にも及ばない、おまけに彼らは、仕事から早く上がり余暇を楽しみバカンスを楽しむ。それが、日本人は働き蜂のようにせっせと働いている、夜勤までしている。これで同じように大国で裕福だと言えるのか?」と教師に質問して怒られたことがある。もちろん、忙しく働いても毎日が充実して、夢があり、満足感の得られる時代だった。だから、昭和の良い時代だったのだ。
このようなこともあり、未だに「日本は経済大国」という思い込みを持っている人も多い。別に経済大国になる必要は無いのだろうが、衰退はやはり苦しむ人が多くなる。「思い込み」と「現実」のギャップも苦しみを増大させるからだ。
もし、このような状況下に「首都直下地震」が来たらどうなるのか?多分、再生には大変な困難を伴うはずだ。それでも、もう、元に戻れないかもしれない。今のこの時代でさえ「古き良き時代」になってしまう可能性があるのだ。「モノやカネに振り回されない」「極力モノやカネに頼らない生活」が必要な時代は、もう、そこまでやってきているのかもしれない。これからは「生きる知恵」が必要だ。
セラピストの関わりで重度精神障害患者さんが、どんどん回復し退院したという話がある。これは、アメリカ、ハワイ州にある重症精神患者さんの入院施設での実話。以下に一部を紹介する。
私は、1983年から1987年までの5年間、ハワイの州立病院の特別病棟に勤務していました。その特別病棟とは、殺人、レイプ、暴行、窃盗などの罪に問われ、なおかつ精神錯乱状態にあるとされた囚人患者が収容されている特別施設でした。施設内では患者同士、スタッフに対する暴力事件が頻発していたため、患者の多くが手錠や足かせをはめられていました。スタッフたちは背後から凶暴な患者に襲われないように、壁を背にして歩くことを習慣にしていたほどです。そのような恐怖の職場でしたので、スタッフの欠勤や遅刻も多く、勤務自体も長続きしないのが実体でした。患者の立場から見ると次のようなことになります。たとえば、自分の母親を殺した囚人がいるとします。その人は母親を殺して、今度は母親を殺したという自責の念にかられて自分が苦しみ、アルコール中毒になったり、精神病になったりして、心が病んでしまうのです。それで彼は特別施設に収容されることになります。そのような重症患者ばかりが集まっている収容施設なのです。そこでこの厳しい状態を打開するために、州政府は有能なセラピストを雇って施設に派遣するのですが、結局何の成果も出せないので、数ヶ月後にはクビにせざるを得ません。あるいはセラピスト自身が劣悪な職場環境に嫌気がさし、自ら退職してしまうのです。
さて、その問題の収容施設に私が派遣されることとなりました。私は、決して患者と会おうとはしませんでした。カウンセリングを実際に行うことは一切しなかったのです。ただ、患者のファイルを見ていただけなのです。なのに患者は立ち直り、次々と退院していきました。私はこの収容施設で何をしていたのでしょうか?私は、クリーニング=情報の浄化を毎日行いました。病院に行く前に家でまずクリーニングをします。病院にいる間もクリーニングをし続けました。そして、病院を出てからもクリーニングを続けていたのです。毎日平均して3、4回ぐらいは病院のなかで暴力的な事件が起きていました。ところが、私が病院に勤務するようになって2、3ヶ月後から暴力事件が減少し始めました。なぜなら、その暴力的なことというのは、私の中にあったのであって、犯罪者の中にあったのではないからなのです。私の中の情報に光が届き、その現象を起こしている私の情報が消去されたので、相手の情報も消去されたのです。こうして絶対に治らないと言われていた重症患者たちは、数ヶ月後もしくは数年後に退院していきました。
そのようなことがあるのだろうか?と思わせる出来事である。しかし、私とは誰か?と考えた時に「何でもない完璧な存在」と理解できたなら、それはそれで頷ける。何にもない、何でもない=完璧、だからだ。変化がないのだから当たり前と言えば当たり前の話である。このカウンセラーの行った「浄化」とは「何でもない、何にもない状態に在る」、と言うことなのだろう。
人が何かを話すとき、それを話しているのは誰なのか?それは「あなた」ではなく、あなたのなかの情報だ。あなたはどのような情報も得ることができ、それによって話をする。そして情報がいろいろ組み合わさり、色々な考えや感情が起こったりする。このセラピストは、頭の中にある精神病院に入院中の患者さんのデータを徹底的に排除し、先入観の全くない状態を作り上げたのだろうと思う。
責任転嫁は人の仕事、とはよく言われるが、人はどんなことでも他人や環境のせいに簡単にすることができる。これでは問題は解決しない。そこで、具体的な方法としてこのカウンセラーは次のように言う。これは潜在意識を良い方向に持って行く、具体的な変え方であろう。
問題を解決するための方法は非常にシンプルです。「ごめんなさい(I'm sorry.)」「許してください(Please forgive me.)」「ありがとう(Thank you.)」「愛しています(I love you.)」の四つの言葉をただ繰り返して言うだけで、すべての問題を解決することができます。「誰もが」「自分だけで」「簡単に」実践することができる問題解決法です。
現実創造にもつながる話。現実創造については、また、別の機会に紹介したいと思う。
図は北斗七星と南斗六星。それぞれおおぐま座といて座に属している春の星座と夏の星座。そして、昔の話になるが、この二つを題材にした格闘アニメが存在した。北の流派は体の内部から破壊することを極意とし、南の流派は外部からの力で体を殺傷する、という設定だったが、実は全くの作り話ではない。武術は大きく南と北に分かれるのだ。そして、南派拳法は木を打ったり、砂を突いたり。木を蹴ったりすることで拳を鍛え、指先を鍛え、足を鍛える。外部を鍛える(外功)ので。通称外家拳と呼ばれる。空手の源流とも言われている。南方の武術が沖縄に入り沖縄空手となり、それが本土に空手として伝わったと言われている。
北派拳法は見えない「気」の鍛錬を主体とする。つまり「気功」だ。正しい鍛錬法で得た力は、相手に触れただけ(そのくらいわずかな動き)で相手を殺傷したり、吹っ飛ばしたりすることができる(寸勁)。人の内部に秘めた力の開発でもあり、見えないエネルギーの鍛錬でもある。通称内家拳と言われている。また、経絡・経穴(漫画では経絡秘孔)を突き。相手を倒すという「点穴」と言う技法も存在する。
南派拳法には洪家拳やブルース・リーも学んだという詠春拳。南派小林拳などがある。
北派拳法には有名な内家三拳と言われる太極拳、形意拳、八卦掌、そして螳螂拳、八極拳、北派小林拳などがあり、それぞれ伝説的な強さを持つ武術家を排出している。内家拳は、特に呼吸法の鍛錬から始まり、全身が一体となった動きと呼吸を連動させる。さらに念、思い、祈り、イメージを乗せていく。これが神業とも呼べる 絶招(奥義)を生み出す。
もちろん、外家拳も内功の練習はするし、内家拳も外功の練習はする。
これから少しずつ、このような訓練を通しての自己変容法(誰にでも出来る)を紹介しようと思う。
ところで、日本の少林寺拳法は、南派小林拳や北派小林拳とは違っている。
以前から、精神的に問題を抱える方の相談は多かったが、最近は特に増えている。「不安で薬を沢山飲んだ」とか「先を考えると頭がいっぱいになり、自傷行為をやってしまう」「死にたい」「家から出られない」などのメールは、日常茶飯事となっている。ストレスから鬱になり、そのために頭痛、目眩などの体の症状として現れる身体表現性うつ病(仮面うつ病)では?と思われる人も多い。
学校薬剤師としてご父兄対象の講師をする事もあるが、年々参加されるご父兄は減少している。単純に「興味が無い」と言うことかも知れないが、共働き世帯や核家族化の影響もあり「そんな暇は無い」或いは「そんなところに出かけている場合では無い」と言うのが理由としてあるのかも知れないと思われるのだ。学校や熟、サークルまがせ、と言うご家庭も多いのだろう。このままでは子供達が、ストレスに弱い脆弱性を持った大人になってしまうのでは無いかと心配だ。人間はロボットでは無い。多様性を持って当たり前だ。金太郎飴のように同じ教育、同じ育て方をするほど変化に乏しい人材を多く出すだけのような気がする。
ここ2~3ヶ月で当薬局の患者さんでも生活保護受給者がビックリするほど増えた。また、精神障害者保健福祉手帳を申請される方も増えている。高齢者の増加が問題となっているが、その陰に隠れているこのようなケースの増加は近々深刻な問題となるだろう。
そして、引きこもりも爆発的に増加している。引きこもりになくても、多くの人が疲れているのだ。我々の時代は、欲しい車があり、そのために金を稼ごう!と言う人も多かった。みんな色々なことに興味があり、「月刊自家用車」「鉄道ファン」「武術」など多くの月刊誌が発行されていた。色々なイベントもあり、足を運ぶ人も多く活気があった。
現在は、と言うと研修会やイベントを実施しても、物質、金銭的に得になるようなことには足を運ぶかも知れないが、心の栄養になる芸術的な催しや健康維持に必要な知識の習得となる研修会には、みんな足を運ばなくなっている。背景には、気力が無い、興味が無い、生活に疲れている、などがある。
今や衰退途上国と言われている日本、僕が中学時代は世界第2位の経済大国と言われていた。しかし、これは国民総生産の話で、一人当たり国民所得は全く違っていた。これでは他の先進国のような裕福感は無いはずだ。だから世界第2位というのも無理矢理日本の作り上げたもので国民の生活レベルとは関係ないのでは?と、中学生の分際で教師にたてついたのを覚えている。
統計の取り方にもよるが、日本は経済の好調な時代には世界の大企業トップ10に7社くらいがランクインしていたと記憶している。しかし、今や10位はおろか50位以内にもランクインしていない。100位以内にかろうじて1社だ。もちろん、ランクインが全てでは無いが、確実に元気は無くなっている。この日本の元気のなさが、そのまま国民の元気のなさに繋がっているような気がする。
仕事も医療・介護が幅をきかせ、外食、観光産業は衰退している。やりたいことや楽しいことは減少し、やらなくてはならないことが多くなっていることの現れのように見える。
土台が脆弱なので、どんな手を打ってもその効果は線香花火のようにすぐに消える。日本の未来は、この土台をどうやってしっかりさせるか?にかかっているように思われるのだ。
-未来は変えられる-
この道を進む限り未来は……廃墟。これは避けられないのか。何をやっても無駄なのか。未来は変えられないのか?いや、そうではない。未来は変えられる。それには、この道を進むのをやめればいい。左右に、豊かな田園風景が見える。廃墟へと続くこのハイウェイから、田園に続く道におりればいい。スピ-ドを落とし、ハイウェイからおりればいい。足をアクセルからブレ-キに移し、ハンドルを切って横道に入ればいい。未来は、すべて決まっているわけではない。未来は現在につながっている。現在が変われば未来が変わる。
-生命は光-
生命とは何か。長い間追い求めていた問い。その答えが分かった。生命とは、光。生命は光の世界から来て光の世界に帰る。生命は一つ。光の世界では、すべての生命が溶け合って一つになる。それだけでなく、この世でも生命は一つにつながっている。生まれること~死ぬこと 光の世界とは、白い大きな雲のようなもの。生命は、光の世界から来て光の世界に帰る。雨粒が白い雲から降って来て、蒸発すれば白い雲に帰るように。生命は光の世界では一つになっている。雨粒は白い雲の中では一つになっているように。生命にはそれぞれの役割があり、その役割を果たすために生まれてくる。雨粒にそれぞれの働きがあるように。
-過去の記憶-
落ちて来た一つの雨粒に、「前世は何か」と尋ねると、その雨粒は困るだろう。一つの雨粒には、無数の分子が含まれ、その一つ一つに「過去=前世」があるからだ。世界のあちこちに降った雨が、世界の川や湖に流れ、海にそそぎ蒸発をし、一つの雲に帰る。そこで、すべての過去の記憶は一つになる。そこから降ってくる雨粒には無数の過去があり、その中の一つの過去=前世だけを論じることは出来ない。ガラス工場で溶かされたガラスから作られたビー玉にも無数の過去=前世があり、溶鉱炉で溶かされた鉄から作られた一本のクギにも無数の過去=前世があるのだ。誰にも無数の過去=前世があり、その一つだけを問題にする必要はないし、その一つに囚われたり縛られたりすることもない。特定の過去に囚われることはないし、特定の前世に縛られることもない。大切なのは現在なのだ。クギだって、現在、どの柱を支えているかということが大切なのであって、過去、そのクギの一部が鉄橋であったレ-ルであったということは問題ではない。
-無数の過去がある-
光の世界では、すべての生命が一つに溶け合っている。生まれるということは、光の世界からやってくる。その一つの生命には、無数の過去、無数の前世が含まれている。その中の一つにこだわることはない。「二百年前、あなたは前世で悪い事をした。そのカルマー業ー因果によって苦しまなければならない。だから病弱なのだ」というものではない。前世で悪いこともしたかもしれないが、いいこともしたはずだし、前世に悪い人生もあったかもしれないが、いい人生もあったはずだ。一つにこだわることはない。
<一つの生命には無数の過去の人生や記憶が含まれている>
あなたはキリストであり、ブッダであり、モ-ツァルト。あなたの中にはキリストもブッダもモ-ツァルトもピカソもいる。あなたの過去は多くの天才や偉人、素晴らしい人の生命も記憶も含んでいる。その中のどれに注目し、どれを意識するかで人生が変わる。自分にとって素晴らしい過去=前世を見つければいいのだ。「看護婦さんになりたい。私の中のナイチンゲ-ルがよみがえったのだ」「ピアノが習いたい。私の中のピアニストが目を覚ましたのだ」「絵が好きだ。私の中のミケランジェロが活動を始めたのだ」そう、あなたの中にはナイチンゲ-ルもミケランジェロもいる。あなたは素晴らしい可能性を秘めた人なのだ。
-無限の可能性がある-
あなたには無限の可能性がある。もし過去=前世があるとすれば、それは囚われたり呪われるためではなく、無限の可能性と大きなパワーを与えるためのものである。どこを意識し、どの可能性を大きく伸ばすかはそれはあなたの選択なのだ。誰にだって無限の可能性がある。特定の過去に囚われる必要はない。そもそも一つの過去前世に囚われた恵まれない人生などない。それに気づけば今からでも人生は変えられる。つまり過去は変えることが出来それによって現在を変えることが出来、未来を変えることも出来るのだ。過去は選択可能なものなのである。あなたには、無限の可能性があり、それは、あなた自身の選択なのである。
☆ 意識がもどる
遠くで誰かが呼んでいる。「高木さん、高木さん、聞こえますか。わかりますか。高木さん、高木さん」目の前で「光」が動く。「高木さん、高木さん、これ、見えますか。光が見えますか」゛光……光……光はたくさん見た。゛
~以下、略~
-地球環境-
* 地球環境の研究スタ-ト
これで社会復帰ができたので、地球環境について研究をスタ-トした。学会や研究会に参加、シンポジウム、委員会に出席した。国際会議などにも出席、情報やデ-タを収集した。オゾン層破壊、地球温暖化、森林破壊など環境破壊の極めて深刻な実態が国連や政府などの公表デ-タとしてはっきり示されている。そして、そのどれ一つをとっても世界の破局がはっきり示されているのだ。そして、この世界の将来は、人口爆発と貧困、食料不足、水不足、資源の枯渇、環境汚染と環境破壊、世界経済の崩壊、地球規模の生態系の崩壊……未来の記憶どおりだった。デ-タは揃った。地球環境の各項目について国連や各国の公式デ-タ、誰にでも分かるデ-タ、ショッキングなデ-タが揃った。ソビエト連邦はバラバラに崩壊し、アメリカ合衆国もバラバラに崩壊する。ショックだった。やはり始まったのだ。間違いではなかったのだ。このままでは世界が崩壊する。急がなくてはならない。
「臨死体験の時に見た未来とは」
・臨死体験から10年後、ソビエトの崩壊(1991年12月、ソビエト連邦が国家として解体)・臨死体験から20年後、アメリカの崩壊(9.11) ・臨死体験から30年後、日本の崩壊(3.11)そして40年後の2021年、世界の崩壊
☆高木さんは、破滅に向かってまっすぐに進む道から降りようと、NPO法人「地球村」を創設したのだろう。まさしく「天命」だといえる。
-光の世界-
ここには、何もない。物質的なものは、何もない。しかし ここにはすべてがある。過去・現在・未来・のすべてがある。未来永劫がある。永遠がある。めくるめく~光の波。無数の映像~無数のフラッシュ。自分の過去現在未来のフラッシュ。自分の未来。再生・地球環境・平和運動・そして死
-光の世界-
宇宙の過去現在未来のフラッシュ。宇宙には、はじめも終わりもない。銀河の誕生と死-無限の繰り返し、星々の誕生と死-無限の繰り返し。シリウス・ケンタウルス・太陽は兄弟星、三ツ星、生命の進化
単細胞ー多細胞ー固体中生命体ー液体中生命体ー気体中生命体ー精神生命体、精神生命体の進化。惑星レベルー恒星レベルー銀河レベルー全宇宙レベルー宇宙意識の合体ー地球の誕生ー海の誕生ー生命の誕生ー森の誕生ー生物の繁栄ー人類の誕生ー文明の誕生と死-無限の繰り返し。未来は決まっていない。未来は選択可能。滅亡も進化も選択可能。太陽の膨張ー地球の終焉ー太陽の死ー宇宙は永遠-精神生命体も永遠。すべては、一つ
-自分は死んだのだ-
そしてあの世 {光の世界}に来たのだ。物質的なものは何もない。ここには何もない。お花畑も河原も天国も地獄も無い。ここには、物質的なものは何も無い。宇宙のように何も無いのかと言えば、そうではなく、空間も無いのだ。ちょうど目をつむって何かを考えているような感じ。意識やイメ-ジはあるが、物質的なものは何も無い。
-あるのは意識だけ-
ここには、意識だけがある。ちょうど暗闇の中で考えているような感じ。自分の身体は無く、ただ意識だけがある。自分の意識とは別に、もう一つ巨大な意識がある。その意識は、すべての意識の集合体のようなもので、全体意識とよんでもいい。自分は、この全体意識の一部なのだ。全体意識には、すべてがある。全体意識には、過去現在未来のすべての出来事、すべての記憶がある。過去の記憶、現在の出来事だけでなく、未来の記憶もある。例えるならば、私はス-パ-コンピューターに接続されたパソコンのように、知りたいことは何でも知ることができる。むしろ、全体意識の中に、自分(自意識)があるといってもいい。
-時間は存在しない-
ここには、過去現在未来という時間の流れも無い。例えるならば、すべて現在である。時間は意識の中に認識としてだけ存在する。光の世界はゼロ次元である。ゼロ次元というのは、空間も時間も無いという意味である。光の世界には何も無い。あるのは、意識だけである。
-この世とつながっている-
光の世界は、ゼロ次元。ゼロ次元は、すべての次元に含まれている。光の世界は、この世のすべての場所、すべての時間に存在する。光の世界はこの世とつながり、この世のすべてを包んでいる。過去現在未来は一つのもの 過去現在未来は無く、全てが現在である。つまり、過去現在未来は一つにつながったものである。例えるならば、曼荼羅の絵のようなもの。過去現在未来は、同時にすべてを認識することが出来る。
-未来が見える-
未来は、同時にたくさん存在する。可能性の高い未来は、はっきり見え、可能性の低い未来は、ぼんやりと見える。最もはっきり見えるものが、最も可能性が高いもの。例えるならば、風景のようなもの。真正面には、はっきりした景色が見え、左右には、ぼんやりした遠景が見える。真正面に大きな道が続き、前方にいくつかの大きな分かれ道と、たくさんの小さな脇道があり、このまま進めば、真正面の未来が実現し、分かれ道や脇道にそれれば、左右の未来に到達することが出来る。真正面に見える未来が最も実現の可能性が高いもの。現在過去未来はこの道とこの風景に全て表されている。
前には未来が……後ろには過去が……そして、現在はどこでもかまわない。つまり、どの現在からも、過去現在未来は、一つの風景として見ることが出来る。
-未来の記憶-
真正面の景色は廃墟。1981年当時の臨死体験から真正面に最も強い可能性のある未来が見える。
・10年後ソビエト崩壊 ・20年後アメリカ崩壊 ・30年後日本の崩壊・ そして40年後に世界の崩壊
真正面の道を進むにつれて、経済の拡大、消費の拡大、人口の拡大、資源の枯渇、環境破壊、経済の崩壊、飢餓、貧困、戦争、廃墟。砂漠、わずかながら生き残り。さらに、その向こうには、文明の誕生と崩壊。~その繰り返し~
-文明の崩壊-
過去を眺めると、過去にも無数の文明の崩壊がある。エジプト文明、インダス文明、メソポタミア文明、など 巨大文明は、すべてみずから滅びた。アボリジニ、マサイ、ピグミ-、ブッシュマン、アイヌ、イヌイット、アメリカ先住民族など、小さな文明はすべて、みずから滅びていない。現在、世界文明は滅びた文明と同じ道を進んでいる。
-世界の崩壊-
崩壊は避けられないか。この道は、まっすぐ廃墟に続く。道に沿って廃墟への景色が延々と続く。都市の巨大化、自然の破壊、飢餓と貧困……戦争、廃墟。すべて過去の崩壊と同じ景色の繰り返し。より激しく、より大規模な破壊。前に進めば、廃墟は、はっきり見え、左右の田園風景はかすんでいく。後ろにさがれば、廃墟はぼやけ、左右の田園と緑豊かな遠景が鮮やかになる。さらに大きくバックすると真正面の廃墟は脇に移動し、緑豊かな風景が真正面に見えるようになる。しかし、世界は真正面の廃墟に向かってまっすぐ進んでいる。例えるならば、ハンドルは まっすぐアクセルを精一杯踏み込んで ハイウェイを突っ走っているようなもの。そして、このハイウェイは断崖絶壁に続いている。しかし、前方不注意のため、それに気がつかない。警告の道路標識をことごとく見過ごしている。
-私は今 河原に来ている-
身体はないが意識だけがある。ちょうど夢の中のような感じ。私は河原の上、地上2~3メ-トルの高さにいるようだ。ここはどこだろう。賽の河原???賽の河原ではない。すぐに分かった。ここは愛媛県松山市の郊外、横河原。重信川という大きな川の河原。よこがわら~この名前は、いつも私に何とも言えない気持ち、涙ぐむような感情を呼び覚ます。ここは、子供の頃、3歳から6歳を過ごした思い出の場所。子供の頃を思い出す時、田舎とかふるさと、という言葉を聞く時いつも思い浮かべるのは、この場所。私は大阪生まれだが、横河原は間違いなく、私のただ一つの「ふるさと」なのだ。
~中略~
今、ここに30年ぶりにやって来たのだ。しかし、景色は大きく違っていた。河原も重信川も見る影もない。広大な河原は、信じられないくらい狭くなっていた。雪すべりをした土手は、護岸工事でコンクリ-トに変わっていた。広い河原も河川敷の工事でコンクリ-トで何段にも塗り固められていた。わずかに残された河原の幅は数十メ-トル。そして、そこには一滴の水もない。コンクリ-トで埋められなかったわずかの川底に、やっと昔のままの石ころが残されていた。
゛川はどこに行ってしまったのだろう゛゛河原はどこに行ってしまったのだろう゛゛土手はどこに行ってしまったのだろう゛゛土手の赤松はどこに行ってしまったのだろう゛……呆然と見回す。
~中略~
駅舎は……横河原駅の駅舎は、ああ、あの時と同じ木造だ。小学校は……木造校舎は、見違えるように鉄筋に、そして、立派な体育館が。運動場はずいぶん小さくなってしまった。でも校門のシュロはあの頃のまま。思い出の場所を思いつく限り回った。
~中略~
…………思い出の場所をすべて回り終えた。まるで巡礼が札所を回るように。思い出の場所に別れを告げるように。゛そろそろ、行かなきゃ゛子供の頃、夕方の汽車の汽笛が聞こえると、゛もう帰らなきゃ゛と家に帰ったものだ。夕方のあの物悲しい感覚。もう 行かなきゃ゛…………すると徐々に自分が上昇し始めた。゛行かなきゃあ。でも行きたくない。でも行かなきゃあ゛そんな思いで手足をバタバタと動かしてもがいているような感覚。゛今、僕はあの病室で死んだのだ。゛この思いは、強烈だった。死ぬって、こんなことだったのか。激しいショックだった。しかし、やがてその事実を受け入れた。事実は、受け入れざるを得ない。
そして嵐が静まった。穏やかになった。もう何もしなくていいんだ。もう全てが終わったんだ゛そう思うと、不思議と気持ちが楽になった。苦しみが去り、私はなめらかに上昇し始めた。今までのもがきやもつれがなくなり、ス―ッとのぼっていく。私の人生は、今、終わった。したかったこともたくさんある。でも、出来なかったこともたくさんある。家族はどうなるんだろうか、仲間達はどうなるんだろうか?もっと優しくしておけばよかった。もっと仲良くしておけばよかった。ごめんね……でも 仕方がない。もう苦しむこともジタバタすることもない。あれこれ考えることもない。何もかもが終わったのだ。今、私は死んだのだ。゛さよなら。みんな、さよなら゛゛ありがとう。みんな、ありがとう゛
-宇宙へと-
地球が……。苦しみが無くなり、なめらかに上昇し始めた。次第に高度が増し、目の前の風景が遠くなる。河原の両岸が寄ってきて狭まり小さくなる。山々も集まってきて小さくなり……やがて、四国が見えて小さくなる。日本が小さくなり、そして、ついに目の前に地球が現れる。゛これが、地球なんだ。これが僕が生きた地球なんだ!゛強烈な衝撃!強烈な映像!その美しさ!その大きさ!その厳粛さ!その圧倒的な迫力!その偉大さ~その美しさに感動!!!幸せ・満足・充足・至福・の感覚。突然、激しいショックを感じた。それは、思い出した衝撃。長い間悩み続けた問いを思い出した衝撃。誰もが必ず考え、そして、答えが見つからず、やがて、あきらめてしまう 問い。゛自分とは何か~どこから来たのか……そして、どこへ行くのか ゛
-光の中へ-
今、目の前に巨大な地球。本物の地球~三次元の地球!立体の地球が圧倒的な迫力で語りかけてくる。それを見たとたん、激しい衝撃。゛生きている。地球は生きていたんだ。゛魂が揺すぶられる。感動の涙がこみあげてくる。今、自分が変わりつつあることがはっきり分かる。自分が、地球と宇宙とつながっていくような感覚。ついに分かった。一生問い続けた 問い。゛自分とは何か、どこから来たのか、そしてどこへ行くのか゛その答えをついに見つけたのだ。感動的な答え。それは、光。すべては、ひとつ。命は光であり、光の世界から来て光の世界に帰る。すべての生命は、一つにつながっている。ああ、分かった……これが分かればすべて分かる。何のために生まれてきたのかも分かる。どのように生きればいいのかも分かる。なぜ、こんな簡単な事が分からなかったのでろう。すべては一つ~すべてはつながっているのだ。すべての「謎」が解けた。すべて、分かった。もう 何もいらない。安心・安らぎ・満足・本望……もう、何もいらない。安心して、いくことができる。安心して、帰ることができる。もう、何も、いらない。もう、何も、いらない。
暗黒の宇宙の中で、地球だけが美しく輝いている。周りがゆっくりと明るくなり、音響が湧き上がってくる。光は、次第に輝きを増し、ハ-モニ-は強まってくる。やがて、激しい眩しさに何も見えなくなり……轟音に包まれて何も聞こえなくなる。ああ、今から光の世界に帰るのだ。自分の周りの強烈な光が、四方八方に飛び散っていく。光の世界に入って行く……。
……続く
これは、NPO法人「地球村」を立ち上げた高木さんの凄絶、しかし、強い宿命を感じさせる人生のお話。
1981年4月27日の日曜日
その日 昼寝から覚めると珍しくオ-トバイに乗りたくなった。そしてどこに行くでもなく国道一号線を京都に向かって走っていった。そして 気づいた時は遅かった。自動車がこちらに向かって走ってくる。
何なんだ!これは!!分離帯のある国道でクルマがこちらに走ってくることはあり得ない。あり得ないから夢に違いない。ともかくブレ-キをかけなければ。だが、到底間に合う距離ではない。急ブレ-キの音。スロ-モ-ションのようにクルマが近づく。ゆっくりと接近……そして、ガッシャ-ン。
゛ん?痛くない……゛゛゛。周りを見ると、オ-トバイが横転し、バウンドしながら横すべりしていく。自分の身体も吹っ飛び、道路に叩き付けられる。ヘルメットが壊れて、道路を転がっていく。それを見ている私。私は自分の交通事故を目撃しているのだ。ヘルメットは歩道を歩いている女の人の足元まで転がっていった。その人が振り向いた。゛あれは合唱団のSさんだ。おおい、僕だよ、僕だよ!゛Sさんはしばらく足を止めて事故現場を見ていたが、やがて行ってしまった。Sさんが゛大したことないみたい、私には関係ない……と考えているのがわかる。゛おいおい、ひどいよ、あれは僕だよ、関係はおおありだよ。゛
オ-トバイはガ-ドレ-ルに引っかかるようにして止まる。自分の身体も二度三度バウンドし、くの字にねじれて国道の片隅に横たわっている。それを上から眺める自分。゛少しも痛くない。痛くないということは、やはり夢なんだ゛。自分を眺めることが出来るということも夢以外にない。ああ驚いた。よかった、夢でよかった。人が集まってくる。口々に色んなことを話している。「歩道にあげないと危ない」「もう死んでる」「死体は動かしたらあかん」「まだ生きている」「現場は動かしたらあかん」「オ-トバイからガソリンがこぼれてる。危ない!」
場所は国道一号線、自分が勤務する松下本社の手前の交差点、ちょうど救急病院がある。すぐに担架が運び出されてきた。私は担架で病院の中に運ばれていく。その横を酸素マスクを持った看護婦さんが走る。それを天井の高さで、テレビカメラのように追う私。私は検査室の診察台の上でレントゲンをたくさん写されている。「ひどいなあ、これは。骨盤が砕けてる、足がはずれてる。おっと、首の骨もだめだよ。ほら、この手ぐしゃぐしゃ。ひどいもんだね、膝も肩も、全身骨折だよ」医者が看護婦と話しながら検査している。天井からその様子を眺めている。゛あんなにレントゲンを浴びて大丈夫なんだろうか゛右足は付け根から不自然に曲がり、首も不自然に曲がっている。首の骨が折れているか損傷しているのだろう。骨盤が割れて右足は付け根からはずれているのだろう。膝がねじれているから関節で折れているのだろう。
しかし一番ショックだったのは左手。ピアニストにとって、手は命と同じくらい大切。子供のときから指を大切にしてきた。遊ぶときも体操のときも、バレ―ボ―ルや柔道など突き指や指のケガの可能性のあるものは、ほとんど避けてきた。それほど大切にしてきたこの手が、突き指どころか、手が手首のところで折れ曲がり、手の甲が手首にくっついてしまっているのだ。
「これは無理ですね。うちでは。手の打ちようがない。」゛おいおい、それはないだろう 何とかしてよ゛結局、大学病院に転送された。初めて乗る救急車、サイレンが時々鳴る。゛そこどけそこどけ、僕が通る゛一夜あけて、手術が始まる。『天井からそれを見ている私。』
~中略~
-場面が転換-
妻が医者から説明を受けている。「やるだけのことはやりましたが……」
―妻が呼びかける-
『お父さん大丈夫!? お父さん、お父さん…………お―父―さ―ん!!! 』呼びかけは次第に大きな声になる。最後は絶叫。絶叫はたまらない-特に家族の絶叫は堪えられない。゛大丈夫!僕はここにいる。心配いらない、これは夢なんだ゛妻には聞こえていないようだ……伝わらない。『お父さん-お父さん-どうして!?……どーうーしーてー』゛聞こえているよ。何か変なんだ。大丈夫だ。心配いらないってば゛しかし通じない。伝わらない。もういい。もう見たくない。
-場面は転換-
待合室で脅えているわが子に一生懸命呼びかける。゛大丈夫!心配いらないよ。何か変なんだ。あれはお芝居なんだ。何かの間違いだからね。これはきっと夢なんだ。お父さんは大丈夫だよ、すぐ帰れるから。今日は、晩御飯は一緒に食べる日だからね、待ってるんだよ。゛ああ……やはり通じない。手応えが無い。映画「ゴ-スト」のような感じ。もういい~もう見たくない。
-また場面は転換-
ICUで寝ている自分。動かない。その横で妻がイスに座って見守っている。遺体が安置され、妻が不寝番をしているようにも見える。゛僕はまだ生きているんだろうか、もう死んでいるんだろうか??゛しかし、こうして自分が自分を見ているということは……もしも夢でないとしたら~僕は死んでいるということになる。゛まさか、そんな馬鹿な!!゛
……続く
これは、僕の宿命と運命に係わる話。
代々伝わる大きな農家に将来跡取りになるであろう長男が誕生した。早速親族が名前をつけるために一堂に会した。命名には長老が大きな権限を持っている。名前は「達哉」と決まる。早速父親は届け出のために役場に出かけた。届け出の時に、この父親は軽いめまいとボーッとした状態に陥ったと言うが、届け出た名前が全く違った。
これを知った親族は大騒ぎ、長老をはじめとして出された決定は、「このような気持ちの悪い子供は悪魔の化身だ、ここに置いたら将来どうなるかわからない。里子に出せ。そしてこのような気持ち悪い子供を産んだ嫁とは別れろ。」たった。しかし、この子の両親はそれが出来ない。当時は大家族で住んでいたが、母親はいじめに遭い、空腹で泣く子に母乳を与えようとすると、仕事をわざと押しつける。どうしても、子供は憎いらしい。口減らしだという。
ある時、子供は全く泣かなくなった。父親が慌てて病院に連れて行った。酷い栄養失調だった。「あと1日過ぎたら手遅れだ、それにもう、普通に育つかわからない。」と言われた。
「こんな子供と嫁を切れないなら出て行け!」と常日頃言われていたこともあり、この父親は、家を出る決心をした。
庭に放り出され、壊された家財道具の写真を持って、無一文、着の身着のままで家を出た。物置に住まわせてもらい、借金しながらの生活が始まった。この家族は流れ者、どこに行ってもよそ者扱い。もちろん、子供も仲間はずれ。そのようなこともあり、一人で遊ぶことを覚えた。それは自然の中で遊ぶことだった。
大学進学は、生物系、体育大、音大、物理系、旅行関連など志望はコロコロ変わり落ち着かなかったが、最終的には薬学系、せめてサークルでは音楽をやろうと、田舎で管弦楽団のある大学を志望。田舎では無かったが、管弦楽団はあった。しかし、色々とあり、何故か漢方研究部、と言うサークルに入る。大学の勉強よりハードだった。神経性胃炎になりそうだったが、何とか続けた。それでも非科学的な漢方は信じられなかった。
原因不明の発熱で、何週間も辛い思いをした。バイト先の病院で医師が代わるがわる診察してくれて、薬をもらうが全く良くならない。漢方学んでいるなら試してみれば?と病院薬剤師より言われ、信じては無かったが、服用した。すると、30分くらいで熱は下がり、耳の塞がる感じや頭重痛は全く取れた。
年に1度、7月30日に深緑色の汗をかいた。手師によっては8月上旬にもう一度、と言う事もあったが、さすがに、かき始めて3年目に受診した。女医だったが「ありえない」と言う返答。「あり得ない<、では無くてわからないだろう!」と思ったが、西洋医学の限界を知り、この頃から漢方を信じて真剣に学び始めた。
漢方を学び始めると、自分の身体がいかにボロボロかがわかる。このままでは50歳までは無理、恐らく46歳で人生の幕を閉じる、何とかしなければ、と思い、漢方と縁のある「気功」に興味が出始めた。運動も大切だし、と教室を探した。とにかく、追い立てられるような気分だった。遠かったが週2回練習日があるところを探すことが出来た。どちらかは参加できると思ったからだ。「武術・気功」だったが、少々短気だったこともあり、武術も学べば、それが歯止めになりおとなしくなるとも思った。
しかし、入門した先は、スポーツ等では無い。武術としては、目潰し、金てき蹴り、喉つき、肘法など、奥義と言われるものは、スポーツ界では全て反則技、つまり殺人芸術とも言えるものだった。人体の内部からの破壊を目的とするために気功を取り入れる内家拳「北派拳法」の一流派だった。
試合に出れば、連敗、つまり反則負け。癖で反則技が出てしまうのだ。しかし、これは心身が猛烈に活性化され、強く丈夫になることに気がついた。出会っていなければ、今、僕はもうここには居なかっただろう。
独立して薬局をやろうとするが、流行の調剤薬局には縁が無かった。病院側からの問い合わせ、お願いは多くあったが、何故かやらせてもらえない状況になる。それで今に至っている。その後、そんなに努力をした訳ではないのに、そこそこ上手く行っている。「これは危険だ、何かで埋め合わせをしよう。よし、気功を取り入れた体操教室をやって、本当の話をしよう。これで罰は当たらないはずだ。」というのが体操教室の始まりである。元々、勉強なんてあまりしなかったが、結構良い成績を残し、褒められたり表彰されたりした。しかし、どこからか「これは罠だ、喜んではいけない。」と言われているような気がして、あまり喜ぶことが出来なかった。努力を伴わないで得られるもので喜んではいけない、と言う感覚がどこかにあったのかも知れない。
なお、金融関係の話になるが、株やハイリスクハイリターン型の商品に手を出すと、全て大損になる。大もうけなど考えず、真面目にコツコツと、正当な仕事をやりなさいと言われているような気がしてならない。そして、強いレールがすでに敷かれているような感じもする。
これから何が起こり、何をするという事になるのか、人生を楽しみながら生きていこうと思っている。
「運命」とは人間の意志をこえて、人間に幸福や不幸を与える力のこと。あるいは、そうした力によってやってくる幸福や不幸、それの巡り合わせのこと。人間の努力や働きかけで変えることができる。
「宿命」とは生まれる前から定まっている運命。人間の力では避けることも変えることもできない生まれ持ったもの。これは「しゅくめい」と読んだ場合の意味だが、「しゅくみょう」という読み方もある。これは仏教用語で「前世における善悪・苦楽などの状態」のことを意味している。
「天命」とは、天の命令。天が人間に与えた使命。人の力で変えることのできない運命。宿命。天の定めた寿命は天寿と言われ、天の与える罰を天罰と言われたりする。。つまり、天から与えられたもので、人間の力ではどうすることも出来ない。宿命と似ているが、「天命」は「天から与えられた運命」であり「宿命」は特に誰からと決まってない。
似通った言葉で時々「karma(カルマ)」と言う言葉を目にする。カルマはサンスクリット語が語源。サンスクリットと言えばインド、そして仏教へとたどり着く。「宿命」は仏教用語でもあったので、宿命とkarmaはほぼ同じ事を意味するのだろうと思われる。
さて、よく使われる運命だが、前述したようにこれは自分で変えられる。wikipediaでは
運命とは、人の意思や想いをこえて人に幸・不幸を与える力を意味する。運命(さだめ)などとも言う。運命論では、人の幸福・不幸などは、人の力をこえたところであらかじめ決まっている、と考える。
と一見、変えられない、と思われる記載もある。
「運」とは運ぶ、である。何をか、と言うと「命」つまり「生命」だ。それで、誰が命を運ぶのだろう?と言うとそれはもちろん、あなたなのだ。どうやって運ぶのか?と言えば「身体」を使うのだ。なので、「運命」の決定権はあなたにある。「いや、生命自体が私だ」という見方もあり、それはその通りだ。難しい表現だが、「あなたが身体を使ってあなたを運ぶ」つまり、自動車と同じだと思って良い。
「宿命」を持って生まれ、色々な「使命」を全うし、最後に本来あなたがやるべき「天命」にたどり着く。この時に、これこそが、あなたの目的だった、と知ることが出来る。これが「あなたの真理」なのだ。
そして、運命は色々な経験、体験を通してその時点における「使命」を全うさせながら、人生の終着点まであなたを運んでくれる。
さて、ここで大きな問題となるのが「宿命」だ。男で生まれる人もいるし、女で生まれる人もいる。大きな身体に成長する人もいるし、小さめの身体になる人もいる。そして、自分の与えられた身体を途中で変えることはできない。こんな国に生まれたくなかった。こんな家に生まれたくなかった。こんな顔に生まれたくなかった。男に生まれたくなかった。女に生まれたくなかった。こんな性格に生まれたくなかった。こんな自分に生まれたくなかった……しかし、変えようがないのだ。では、どうするのか?簡単だ。受け入れれば良い。そして変えられない宿命の中で、生命(あなた)が身体を使って、多くの体験、経験を通して「使命」を全うさせる。つまり、「運命」を変えながら人生を歩む、という事で未来は変わる。
私はこういう「宿命」だから〇〇なのだ、、こういう親のもとに生まれたから△△だ、、と思っているうちは、その通りになる。決定者のあなたが、そう言うのだからそのようになるのだ。このあたりの事は、「陰陽五行説とガイア理論」と言う項目で書きたいと思っている。
「使命」とは、自分の役割であり、自分を取り巻く環境。「天命」とは本当にやりたい事。その先に「あなたの真理」があると言われている。
色々な雑誌でも良く「名医」と言う言葉を目にする事があるが、基準はわからない。しかし、この人はホンモノだ、と思った人物を知っている。彼は多くの病院にかかっても治らない、或いは治療方法がない、など難病、或いは治療抵抗性の疾患で苦しむ患者さんを多く治して来られた。噂は広がり、難病を治してもらうために、遠路はるばるやってくる人も多いという。駅前からタクシーを使う人も多いため、運転手はみんな知っているらしい。なので詳しく場所を説明する必要は無いという。元々、場所が良くないこともあり、土地の怨念を沈めるために修行をしながら、患者さん対応に当たっておられた。
知っている人の中にも通院している人が何人かいた。中には、「どこに行ってもダメだった。しかし、助けられた。命を救ってもらった。」という人も居る。保険治療で難病・奇病を治してもらえるのだから、患者さんも多いのは当然で、早朝から夜遅くまで患者さん対応に追われる。
猛烈な修行は仕事が終わってからだという。汗を流しながらの猛烈な行で畳は抜けたこともある、とも聞いた。元々、そこの場所が古墳だったかお墓だったかわからないが、少し掘ると人骨が出てくるらしい。なので、彼は、「この土地に呼ばれた、だからきちんと修行をしなくてはならない。」とおっしゃる。その力は凄まじく、患者さんの背中を、上から下へ親指でさすっただけで、どこに異常があるか見抜いた。どこに癌があるかまでわかるのだ。精神的に破綻した人も正常になる。
しかし、そんな彼も不死身ではない。ご高齢であり、体調を崩しがちになられる。そんな彼が、極めて危険な状態に陥られた時に、ある人の紹介で漢方薬を使ってみようと、僕のところまでやって来られた。一見穏やかそうだが迫力は感じた。会いたかった、と言われた。そして、「なるほど。あんたも、わしと同じじゃな」とおっしゃられた。「後はわしの運命、宿命が決める。」とも。それらの言葉は今でも気にかかっている。
そんな彼の身内親戚には医師も居た。漢方薬は持って行ったが、まずは、西洋の治療を試すことになる。しかし、状態は良くならず、漢方薬を飲むまでには至らず、僕と会って2日後、他界された。残念だった。治療をしながら猛烈な業を続けて来られたそのお姿、まさに、敬服の至り、である。
こんな話を聞いて、あり得ない、と思った人には、あり得ないし、できっこない、と言う人はできっこない。しかし、彼も我々と同じ人間である。僕は超能力など存在しないと思っている。つまり、彼のような能力は誰もが持っている。単に、多くの人には遺伝子発現していないだけなのだ。遺伝子発現するかしないか、それは、皆さん個人にかかっている。あなたが、「あり得ない」と思ったらもちろん、あなたの世界ではあり得ないし、遺伝子発現もしない。あなたが「できっこない」と思ったら、できっこないのだ。このあたりの詳しい理論は、当薬局主催市民講座での「陰陽五行説とガイア理論」でも説明している。そのうち、このあたりの話をホームページにも載せたいと思っている。
彼からもらった一冊の自費出版書。彼は、歴史も好きで、平家の落ち武者がどの辺でどのような経路をたどったか、それぞれの土地に残る色々な念を感じ取りながら、一冊の書物にしたのだ。多くの珍しい写真も見せてもらった。大切に保管している。
異世界と言うと、何か漫画や物語の世界と思われがちだが、並行世界と言うときちんとした学問。パラレルワールド、並行宇宙、並行時空とも呼ばれ一つの学問となるのだ。多元宇宙論またはマルチバースは、複数の宇宙の存在を仮定した理論物理学の説。
かなり昔の話だが、東京大学の宇宙物理学者である佐藤教授の講座に参加したことがある。その時に、「全くの無重力であるにもかかわらず、物が一定の方向に動く、はっきりしたことはわからないが、我々の宇宙の外側にも宇宙が存在し、その影響を受けているとも考えられる。」と話された事を覚えている。
前置きは長くなったが、小学校の時に不思議な経験をした。
運動会も終わり、下校しようとした時に、初めて会う男子から声をかけられた。👨「やぁ、久しぶり!元気だった?」と言われつい、👦「久しぶり!」と返答。誰だっけ?。そうは言えない。👨「運動会、見学したけど楽しかったよ。僕の居る小学校より賑やかだね。」👦「どこの小学校?」👨「○○小学校だよ」な~んだ、隣ではないか。それに規模も遙かに大きい。👦「○○小学校なら、ここより人は多いよね?何年生?」👨「何言ってんだよ。同い年だよ。」👦「中学校は同じだね。ごめん、久しぶりすぎて名前忘れた。同級生だよね。中学でも友達でいよう。」👨「やだな~あ、もう。アクツだよ。そう、同じ中学だ。今から、僕んちで少し遊ばない?」場所を聞いたら、僕の家と同じ方向だ。👦「では、ちょっと寄っていくね。」
なるほど、小学校の学区の境目に彼の家はあった。👦「境目だね。○○小学校までは遠いよね。」👨「ちょっと遠いかな。でも、君んところの方が遠いでしょ。やっぱり△△小学校学区の外れだから。」👦「えっ?俺んち知ってんの?」👨「もちろん、何でも知っているよ。」夕方まで庭で遊び、帰宅した。
翌年中学に入学。通学路は同じだ。一緒になるかも知れない。彼はいるのだろうか。自転車通学だが、登下校も会わない。部活動が違えば、帰りは一緒にならないか。しかし、学校でも全く見かけない。
過去に、新しい友達が出来て一緒に遊んだことを両親に話した。両親は仕事で集金や配達で回っている地域でもあり、彼の住まい周辺はよく知っている。
😉「アクツと言う名字は、あのあたりには無いな。」と言う。そんなバカな……と思い、場所を詳しく説明する。😉「□□さんちのことか。集金に行くから、よく知っているよ。以前はお子さんが居たのかどうか知らないが、そのくらいの子供は居なかったな。」と言う。ビックリした。確かに庭で遊んだ。彼は誰だったのか?どこから来て、どこへ行ったのか?結局は謎だ。
この事は今でも覚えているが、パラレルワールドからの訪問者なのか、とも思ってしまうのだ。
以前から感じてはいたが、我々の世界は非常に見通しの悪い世界だ。色々な思い込み、理屈、情報が交差して、見晴らしが悪すぎる。最も、我々の考えていることは、常識であれ非常識であれ「思い込み」だ。だから、「世界はあなたの中にある」「世界はあなただ」なのだろう。
話は横にそれたが、とても見通しの悪い時代だけに昔見た「夢」と昔聞いた「お告げ」は気になるところだ。
まずは、20年位前に見た夢の話。僕はどこかわからないが、戦地に居た。そこは、海沿いの街だった。中世ヨーロッパのような街並みだったかと思う。そこから避難して、小高い丘の上まで移動した。眼下には、燃える街が見下ろせた。すると、大空に、大きな水車のような物体がうっすらと現れた。水車のような、ではなく巨大水車だ。それが、ゆっくりと回転する。すると、回転に合わせて超巨大なミサイルが現れた。それは、ゆっくりと地表めがけて下降する。それを見ながら、これで、終わりだ……と思ったのをはっきりと覚えている。
もう一つは、ある「お告げ」。これまでも多くの人から沢山の「お告げ」を頂いたが、どれもこれも結構当たっている。この中で、やはり20年以上前に伝えられた、ある「お告げ」の話。ある女性が、バタバタと薬局にやって来た。この女性は不思議な夢を見ると、いつもその内容を伝えに来るのだ。
地球が何故かくすんでいます。汚れているみたい。しかし、その地球が痙攣するように震えるのです。すると、表面にひびが入り始めました。すると表面の「こけ」のような汚れがパリパリと剥がれ落ちるのです。あとには、と~っても綺麗な地球が残りました。その綺麗な地球を腕を組んでみている、黒い大男がいました。
どちらも当時は不思議だなぁ、と思っていたぐらいで、深くは考えていなかったが、今となってよく思い出される。
体調が冴えないと、憑依されているのか、と思ってしまう事がある。精神的に疲労が溜まると憑依されやすい、と言う事は多くの事例から知ってはいる。また、なかなか体調が回復しない人を、見える人が見た時に、ものすごい形相をした怨霊が馬乗りになって首を絞めている、恐くなった、と話も聞いた事がある。
そんな僕も若い頃は、科学的でない事はあまり信用してなかった。
そのような時代、T薬品のKさんとの会話は今でも忘れない。彼は僕とは相性が良いようで、仕事が終わった後でも一緒に食事をしたりと、仕事以外でもお付き合いした。とても人当たりの良い人だった。そんな彼が、ある時、嬉しそうに
「○○県に念願の一戸建てを買いました。中古で通勤には2時間近くかかるけれど、これで親孝行が出来ます。母一人子一人で暮らしてきて、心配をかけてきましたから。」
と言ってきた。
「そうですか。おめでとうございます。本当にお母さん孝行ですね。」と一緒に喜んだ。
「若い頃、沢山迷惑かけて、ずっと狭いところに住まわせてしまいましたから。今度は、田舎だけど、環境良いし家も広い。不便だけれど今より遙かに空気も良いですから。」
田舎、不便とは言うが、僕の生まれ育った県なんだけど……、それに僕の生まれ育ったところよりは遙かに都会だよ、とは別に言わなかったが。
2週間くらい経って、
「ちょっと相談があります。実は、夜な夜な女の人が出るんです。真っ白い服装です。部屋に毎晩現れます。」と言ってきた。
「まさか。慣れない土地だし疲れているのでは?Kさんも毎晩遅いし、得意先からは値引け!なんて言われてストレス溜まっているんだよ。」と返答はした。
1週間位して
「例の話ですが……白装束の女の人が、おまえが欲しい…と布団に入り込んできます。恐くて眠れない。」と真剣だ。
「Kさん、欲求不満だよ(^^)早く結婚しよう(^^)/」と、つい、茶化すように答えてしまった。
更に1週間くらいたち
「今度は、おまえが欲しい……その前におまえの母をもらう……というんです。どうしよう。」と切羽詰まった表情だ。
「そんな事無いよ。恐いと思うから恐いんだよ。」と少々困った顔をして返答した。
その後、しばらくKさんは姿を現さなくなった。他の従業員に聞くと、そう言えば、来ないねぇ、と会ってないらしい。
研修会で、業界関係者から情報が入った。何か、不幸が出来たらしい……と。まさか……。
しばらくして、Kさんは出勤、顔を出すようになった。
「Kさん、まさか……。」と小声で尋ねた。
「そうです。だから言ったじゃないですか。もう恐くて帰れない。○○の姉貴のところから通勤してます。」と悲しそうな顔で返答する。
「申し訳ない。本当にごめんなさい。」心の底から謝った。
しばらくして、
「その後、家はどうなったのですか?」と恐る恐る聞いてみた。
「調べたら、お墓の上に立てた家だったと言う事がわかりました。除霊してもらいました。それでも、もう、住みたくはなかった。売りに出しました。何とか売る事が出来ました。」との返答。
あの時は申し訳なかった、と言うと、いや、いいんです。恐らく、みんな信じないですよね。と言う。再度、ごめんなさい、と言うしかなかった。
今では、このような話は当たり前、日常茶飯事だが、当時はすぐには信用できなかった。今でも悪い事をしたと思っている。
いずれにせよ、常に精神状態を整えておく事は大切だろう。でないと、知らずのうちに訳のわからない存在たちの影響を受けてしまうかも知れないのだ。
ストレス社会も背景にあるのだろうが、心療内科・精神科領域の疾患は爆発的に増えているような気がする。相談も多い。
高校時代、同じ医療系に進んだ友人がいた。彼は僕とは違い真面目だった。学業も一生懸命だった。薬学の道に行き、薬剤師になった。そして、医師の免許も取ろうとした。見事医学部の編入試験に合格、しかし、これがまずかった。素行のよろしくない学生が多く、元々真面目だった彼は幻滅した。内情を聞くと、確かにとんでもない環境だ。もちろん、ここの大学に限っての事なんだろう(と思いたい)
精神的に参ってしまった彼は、通院しながらも頑張った。何とか、5年生までは持ったが、とうとう精神科に入院した。
ある時、私の就職先に彼は突然やって来た。それも裸足だ。病院から脱走したという。300km近くはあるだろうと思われる場所から、自分で車を運転してやって来たのだ。逃げ出したかったという。入学した瞬間から、人間関係で大変な思いをした事、教授の学生に対してのあまりにも馬鹿にした態度がストレスだった事、担当医からは、薬剤師の免許があるんだから無理しなくても良いのでは?と言われた事等を話し始めた。薬もかなりの量を服用している。
この後、近くに親族が居るというので、夕食を一緒に食べてから送り届けた。
そんな彼も、多少の薬は服用しているかも知れないが、今は立派な医療人として働いている。どんな状態でも、人間をロボットとしてみない限り回復可能な道はある、と思っている。
遠方の女性から、相談があった。今の住まいから、引っ越しをするとのこと。これまでも受診をしていたので住所地の近くに通院先が変わる、と言う。紹介状を見せて頂いた。そこに記載してある診断名を見て驚いた。「霊障」だった。もちろん、受診する医師は指定されている。話を聞く。
「私は結婚をして体調を崩しやすくなりました。主人からは病気を背負ってやって来た、と言われストレスでした。あまりにも体調を崩すので、知人からの紹介で力のある人に見てもらいました。一人目からはすぐに離婚しなさい、これはご主人側の因縁だ、離れなさい!と言われました。そう言われても簡単に離婚できない。別の人に見てもらいました。しかし、すぐに離婚しなさい!これはご主人側の問題だ!あなたはその全てを背負う事になる。ご主人にとっては良い事だが、あなたは大変な事になる、と言われたのです。とても悩みました。諦めきれず、三人目に見てもらいました。結果は、すぐ離婚しなさい!そうは言っても、なかなか離婚出来ないようだから、はっきり言おう。後1ヶ月後に重大な○○疾患になる。そのあと……と、どういう病気になるかまで言われました。結局離婚できず、その通りになりました。」
それを聞いて
「変える事の出来ない運命、と知っていて私のところに来たのですね?変えられない、治らないというなら、何故、私のところに来たのですか?」
「それは……何か変わるかな、と思ったのです。」との返答。
「生前から決まっている宿命は変えられないかも知れないが、運命は変える事が出来ます。では考え方を変えよう。あなたは、私のところに来る事になっていて、これを境に変わる事になっていたのです。」と答えた。
こういうケースはいくらでもあるし、不思議な医師も多く居る事を知っている。遠方の病院を受診しているKさんも医師より
「あれっ!?今日はまた、後ろにたくさん連れていて……どうしたの?」と言われた、とか
「背後の見方を教えるから、良く覚えるんだぞ。」とぞろぞろ回診に来た学生に教える医師とかの話も聞いた事はある。
「霊障にはやはり、リボトリールですか?」との話もあった。
それにしても、ご先祖様は大切にしなくてはいけない、と思うが、あまりにも無理難題を言われると、さすがにカチンとくる。「あなた方の子孫が大変な状態なんだよ!力を貸すのが当たり前だろ!文句ばかり言うな!こっちの世界が終わったら、そっちも終わるんだ!!共倒れになるんだよ!!」と言いたい。ご先祖様のおかげで今の私たちがある、のも事実だし、ご先祖様が、今さえ良ければ、と言う生き方をしたつけが子孫に回ってきている、と言うのも事実だろう。
夫婦間の相談も多いが、離婚するかしないかは、その人の光と闇のどちらに執着するかで決まるような気もする。バランスの問題はあるにせよ、人間は全て光と闇で出来ている。どんな仕打ちをされても、どんな未来が待っていようが離婚できないのは、闇の中に見いだした一筋の光明に執着しているからかも知れない。最も全ては決まっている、と言われればそれまでだが。
どこかでも書いたかも知れないが、ロボットは人間には絶対なり得ない。また、人間はロボットでは無い。ロボットはクローズドシステムだが、生命はオープンシステムだ。西洋医学は現象を数値化、すなわちクローズドシステム対応だ。それに対して漢方薬はオープンシステムに対応しているとも言える。
話はそれたが、この、開かれた状態が大きすぎるのも問題だ。これをどうにかして欲しい、と言う相談は結構ある。開かれすぎるとどうなるか?簡単に言えば乗られやすい(憑依されやすい)と言う事だ。ロボットだったら憑依されるはずは無い。家族から
「頻繁に乗られて寝込んでしまい、困っています。この前は同窓会に出席したのですが、突然、9人の同窓生の名前を言いだしたのです。その後、気を失ってしまったのです。その9人は結局欠席でした。それもビックリする事にその9人は全員他界。それも、首つりや農薬服薬などでの自殺なのです。」
「山形県の山寺に行きました。上まで登ろうとしたのですが、一人が突然気分悪いと言いだし、気を失いました。石碑に名前が彫ってあり、覚えるのに掌に名前を書いたのです。その後で変になりました。色々な旧跡に行っても、こういうことは時々あります。」
などの相談がある。
夜間の公園での運動も、特にこういう人たちが参加する時はかなり気を遣う。僕が大丈夫だと思った領域からは出ないように、と言っている。あるとき、一人が気分悪くなって倒れた。どうしたのか周りの者に聞いてみると、気分も良いので池の周りを軽くジョギングする、と言って離れたらしい。2日間寝込んで正常になったが、後から聞いてみると、池の前にある石碑を通った時に急に変になった、と言う。こういう人は、夜、流れの無い水回りに行ってはいけないのだ。ましてや種類にもよるが石碑はダメだ。流れの無い水、暗がり、石碑、とそろったら、過敏体質で無くても良い気はしないだろう。
極端な例を挙げたが、人間(生命)は開放系である。外の変化によって中(心身)も常に変化するのである。
思いや念には恐ろしく強い力がある事は、僕は経験から知っている。このコーナーのどこかでも書いたが、夢の中で相手を殴ったら、その人が青たん作って謝りに来たとか……。こんな話は別段不思議でも何でも無い。最近は政情も不安だ。倒したい相手がいたら、強力な「念」を使えば良い、と思うがどうもそうはいかない。
以前、自分の過敏性に振り回され、困っているという相談があった。彼は、やっかいな自分の体質を変えるために、僕のところにやって来た。
「とにかく酷い頭痛が突然襲います。外をバイクで走るのですが、突然激しい頭痛に襲われます。何でだろうと思いました。
後で、わかった事なのですが、事故死、自殺、などのあった場所で決まっておこるのです。このままでは、行動制限が出てしまいます。それだけではありません。最近は「人」でも酷い頭痛が出るのです。
焼き鳥を食べたいと飲み屋に行った事があるのですが、突然頭痛に襲われました。何でだろう、と思い店内を見渡しました。あっ、あいつが原因だ!と直感的にわかりました。すると、話しかけてくるんです!彼の背後にいる者が。おまえ、俺が見えるのか?と。居られずにすぐに焼き鳥屋から離れました。
旅行で旅館に泊まった時にも同じような事がありました。夕食を食べに行ったら、猛烈な頭痛。その時も、あっ、原因はあいつだ!とわかりました。もちろん、その場を離れれば、頭痛は治まります。だから、朝食の時は用心しました。見渡して、居ない事を確認。バイキング方式だったので、料理を取って席に着きました。すると、猛烈な頭痛に襲われたのです。何で!居ないはずなのに!!と思い再度確認しました。自分はホテルの太い柱横に座ったのですが、その反対側に居たのです。」
この事からもわかるとおり、背後に居る存在が問題だ。とんでもない者にはとんでもない奴が付いていると思われるのだ。呪詛には呪詛返しがあるのもこのような事が関係しているのだろう。
滝山病院という、とんでもない病院が大きくテレビ報道され、当薬局にも相談が舞い込み始めた。以下は返答内容の一部である。
厳し過ぎる規則は大体が保身のためにあります。また、精神科病棟も、グループホームなどの施設内もコロナ騒動で遮断され内情が把握できない、と言う事はあります。相手が、認知や精神障害があるとわかってはいても、職員が感情的になる事もある、と聞きます。実際、知人に精神病院やグループホーム関係者もいたりしますが、患者さん対応に対してはなかなかです。まさか……と言う話も聞きます。職員も人間ですから、仕方ないと言えばそれまでなのですが。残念ながら滝山病院は特殊な例では無いのかも知れません。
家族から相談を受けたある患者さんについてです。彼は精神科疾患を持っており、自立支援を受けながら就労支援施設に通所しておりました。あるとき、グループホーム先から、「お母さん、大変でしょ?私どもが面倒見るから」と入所を薦められました。本人は大変嫌がりました。案の定、グループホーム内ではなじめず、感情は不安定、他の利用者ととんでもないもめ事を起こし、施設長からキチガイ扱いで精神病院送り、退院してすぐに面倒見切れないと、自宅に帰されました。たった2週間で別人です。母一人子一人だったため、廃人のようになり、また、昼夜関係なく突然騒ぎまくり、部屋のあちこちで排尿してしまう有様に、お母さんは疲労困憊、精神的にも崩壊寸前です。涙ながらに行政に訴え、何とか精神科に入院。グループホームも、大きな問題ありと、裏では動き出しました。しかし、何事も無かったようです。
その後退院、変わり果てた彼と私は会いました。離れたグループホームに行くようです。お母さんはコロナだから、と会う事は出来ませんでした。私には「退院できて良かった。今は遠くに行ったけど、近くのグループホームに空きが出たら近くに来る、と言われています。ありがとうございました。」と感謝されました。しかし、それは叶わぬ夢、もう、廃人です。
これが現実です。残念なケースです。グループホーム入所さえなかったら、まだ、先のある若い男性でした。もう、私の手の届かないところに言ってしまいました。2ヶ月に1度「息子はきっと元気です。」と処方箋を持ってくるお母さんに会うと心が痛みます。
状況を変えるのは、なかなか大変だったりします。悲しい事ですが、人は基本的に自分が損をしたり、厄に巻き込まれるような事はしないでしょう。だから、権力のある方、力のある方、財力のある方に付く傾向があります。
裁判の相談もよく受けますが、勝たせてあげるから50万欲しい。相手方の弁護士にそれを渡せばすむから。と言われた、
とか
裁判、上手く行きそうで良かったですね。とお答えしたケースでも、突然ひっくり返ったり。理由を追及すると、相手方の後ろにいるのはかなりのくせ者、どうしようも無い事もあるんです、と言われた。
とか。
それでも私は泣き寝入りは嫌いです。
子宮頸がんワクチンでギランバレー症候群で動けなくなってしまった女性に、ワクチンが原因だ、と助言をした事があります。結果はそうでは無い、と言う事になりました。私は、そんな事は無い、徹底的に訴えろ!とアドバイスしました。諦めずに引き下がる事はしませんでした。ギランバレー症候群が子宮頸がんワクチンが原因で発症した、と認めてもらえたのは6ヶ月後でした。認めてもらえました、と嬉しそうに言ってきたのを覚えています。
悔いを残すようなことはしないことですね。誰にも言える事ですが、自分の面倒は自分で見る、自分の心身の面倒は自分で見る、と言う姿勢は大切になります。
何故か、本来の業務と関係ない相談も増えている。これも、社会にひずみの出ている証拠か、とも思ってしまう。
統合失調の、独特の世界を理解するのは一般的には不可能だと思います。統合失調に限らず、人は誰でも独自の世界を持っています。しかし、日常生活に支障を来す事はありません。また、その人個人のの世界を他の人はわかりません。だから、「誰も私の事をわかってくれないのです」という患者さんには「もちろんだ。誰もあなたの事はわからない。」と返答する事もあります。その後に「では、あなたはあなたが何者か知っているのか?」と聞いたりします。恐らく多くの人は本当の自分の事を知らないです。だから「あなたがわからないのに他人がわかるはずは無い」と答えたりもします。
話は横にそれましたが、この「独特の世界」のために日常生活に支障を来すと問題です。そして、それが有り余る状態となると、周りは関わる事をやめようとします。保身に回る訳です。医療従事者もそうだったりします。生物の本能、と言えば、そうなのですが。
現在の西洋医学には、病気を治す薬はほとんどありません。だから、中止すると元に戻ります。血圧の薬も糖尿病薬も高脂血症薬もそうです。解熱剤や鎮痛剤も治している訳では無く、症状を取っているだけです。だから、結局治すのは自分です。薬を使えば症状を抑えたり、数値をコントロールする事は出来ても治せない、だから、食事や運動、考え方など治す手段を提示して自己治癒に向かう方法を模索する必要があるのだと思います。
漢方薬、民間薬などの自然療法には「治す力」があるので私は取り入れています。
統合失調の場合は程度にも寄りますが、酷いと話にすらならない、と言う事は良くあります。また、とんでもない「暴言」を吐かれる事もあります。と言うかそのような事は日常茶飯事です。私の場合、日にちや時期を変えたりもします。それでも、なかなか大変な状態である人は多いです。
それでも、精神科系統の薬を20種くらい飲んでいた患者さんが全ての薬を中止して、現在、元気に正社員として働いている人もおります。これは医療常識としては「あり得ない」と言われるケースですが、あり得ない、と言う言葉は使うべきではないのです。「あり得ない」のでは無く、「わからない」のです。
ご本人が変わる「きっかけとチャンス」をどうやって探すが、その前に「気づき」をどうやって与えるか、ですね。
身体は普段存在しない、と言うと何を言っているのか?と思われるだろう。しかし、よく考えてみて欲しい。普段、頭を意識しているだろうか?胃を意識しているだろうか?つまり、そこで問題が無いときは意識されない。
あなたがもし、たった今この世界にやって来たとする。目が二つある妙な生き物が沢山いるが、その中に二本の足で動いているちょっと目立つ生き物がいる事に気がつき、驚くはずた。どうやって周りを見るのだろう?と不思議になる。そういう自分も同じだとは思わない、自分の胴体から上は、どんな状態かよくわからないが恐らく、首から上は何も無い、あるいは大きな一つの窓から観察しているような状態だと思い込んでいるからだろう。まさか、点のような二つの穴から、境の無い広大な景色を見るなんて思ってもいない。実際は、知識として、あるいは鏡を見て、自分の首から上の状態は知っている。しかし、普段は首から上は広大な空間だ。知識を捨て、この感覚を大切にする事は重要だ。
呼吸を整えて自分の身体の反応に耳を傾け、そっと動く。足や手の先から身体の中心まで、繋がっている事を実感しながら有機的に動く。指、手、足、頭などがバラバラに動く訳では無く、すべて繋がり有機的に動く。本来、身体は手足の指先から頭まで繋がっているが、普段は意識されない。意識を中に向けた時に変化が訪れる。その時にあなたは、すでにこの世界の外にいる。その時、あなたは世界の傍観者だ。世界の観照者だ。そして、世界の中にあなたがいるのでは無く、あなたの中に世界がある事に気がつく。これが私の世界だ!と言うように。
そっと手を動かせば幸せだ。幸せはそこにあった。それに気づくきっかけとチャンスを与えるのが、僕の教える運動だ。
地位、カネ、名声、モノ、名誉などに幸せを求める時代は終わりを告げようとしているようにも思える。最もそういったモノに本来意味は無い。意味づけしているのは個人であった、と言う事に気づく事が、これからを生き抜くためには大切になるかも知れない。そろそろ、意識の矛先を変える必要があるのでは、とも思われる。
たぐいまれなる能力をお持ちだが、時々精神状態に異変を来す患者さんがいらっしゃった。元々、その強い念は相手を傷つきかねない。この患者さん、訳のわからない行動を時々とるが、この前は刃物を持ってうろついた。兄弟も困り、頭から水をぶっかけた。すると正常に戻り、「私は何をしているの?」となったという。
この患者さんは時々、このような状態に陥る。ウロウロ謎の行動を取り始める。刃物を持ってうろつく事もある。訳のわからない事を言うこともある。正常になってくれない。
このような事を繰り返していたが、ある時から全くおこらなくなった。
「私は闇の中にいた。全く何も見えない。と、どこからか蜘蛛のようなモノが突然現れて、襲われそうになった。やっと逃げたかと思ったら、突然列車が走ってきて轢かれてしまった。恐かった。その後も例えようも無い生き物が出てくる。ここは地獄だと思った。何とか抜け出たいと思った。必死だった。その時に呼びかける声がした。その声は先生だった。どこからだ!?周りを見ると上の方に光が見えた。そこから、こっちだ!と声がしている。先生の声と光を目指して、必死に登った。出られた。ここで正気に戻った。」と聞かされた。
「おかげさまで、地獄から抜け出る事が出来ました。先生は命の恩人です。ありがとう。あの声がなかったら、出られなかった。これからも、先生が困ったら、力を貸します。協力します。」とも言ってくれた。
もちろん、僕は何かした訳ではないし覚えも無い。夢に出てくる、と言う話は色々な患者さんから言われるが、決まって体調が非常に悪いときだ。夢に出てくると回復する、と言われる。言われてありがたいが、もちろん、何かしている訳では無い。
この患者さんは、今は全く普通に生活している。そして、時々、元気にやってくる。
統合失調症は実はよくわかってない。科学的にはドパミンやセロトニンの脳内伝達物質の問題、あるいは遺伝子配列の変異などで説明されているが、もちろんそれですべて解明されている訳では無い。そもそも、脳内伝達物質の関係についても仮説だ。だから、薬による治療には限界がある。
このような例は実に多い。幻視、幻聴、幻覚なのか、たぐいまれなる能力なのか、見極めも難しいのだ。たぐいまれなる能力であるとすれば、入ってくる情報は平均的な人の何倍、何十倍、となる。神経疲労を起こすのは当然なのだ。だからといって、直ちに病気と結びつけ、薬を使用する事は、いかがなものかと思われる。
戦場から、時々状況の報告がある。無事に帰りたい、と。僕は、返信した。
なぜ、このような事がおこるのですか?でも、私も、大切なものを、大切な人を傷つけられたら、反撃するでしょう。人間はいつまで経っても成長しないのかも知れません。
私の知人に、何度も文明の終わりに転生した、と言う人間がいます。彼女は言います。
今の状況は過去に文明が消滅したときと同じだと。もう、すでに7回失敗している。今世では同じ過ちを繰り返してはならない。もう、我々人類にとって今回が最後のチャンスだから、失敗したらもう後は無い、と言ってました。
とにかく、無事に帰ってきて下さい。自分のための人生を送りましょう。ご自分の心が本当に喜ぶ事に巡り会えますように!!
日本だっていつ、こうなるかわからない。戦争の悲惨さは争っているうちは気づかない、後からその重大さに気づく。こんな過ちは、何としても避けなくてはならない。
新年を迎えると、多くの人が神社、仏閣に初詣に行く事だろう。今回は神社にまつわる不思議な話。
以前、薬局に出入りしていた製薬会社の人間に、変わった人物がいた。彼はいつも、車のフロントに「聖剣」を積んでいた。その「聖剣」が震えると決まって神社が近くにあるという。それも、あまり人の出入りが無い神社なのだそうだ。呼ばれた合図らしい。その時は気になるので必ず立ち寄る、と言う。そして、その神社の「神」と呼ばれる存在と会話する。
「僕を呼びましたか?」
「呼んだよ。よくわかったね。」
「あまり元気ないようだけれど、どうしたの?」
「もう、誰も来なくなってしまった。昔は神社の境内で子供たちね遊んでいたよ。嬉しかったし、そういう子供たちからもエネルギーもらっていたんだ。それに、今は秋祭りなどのお祭りもやらなくなってしまった。拝んでくれる事も無くなった。我々は人の思いや念で元気になっていたんだよ。それがもう、もらえない。だからもう、力は無くなった。このような姿で居座るしか無いのだ。」
神社におられる神と呼ばれる存在は、どうも人の出入りでエネルギーをもらうらしい。確かに秋祭りなどの賑わいはどんどん減少し、境内で子供たちが遊ぶ姿も、とうに見られなくなった。そのような事もあり、神々の力はどんどん減少し、我々は神々のその力の恩恵にあずかる事も無くなって来つつあるという。
神社を作ったのは良いが、後は放置。どうもこれは良くないらしい。
知り合いのMさんは、エネルギーの強い神社を教えてくれる。
「S神社は鳥居をくぐって左端の階段を上ると良いです。あそこは、気持ちよく強いエネルギーを感じる事が出来ます。」神社でのエネルギーが流れる方向を教えてくれる。
Kさん親子は、神社におられる存在を認識する事が出来る。
「娘がI神社の境内で涙を流して何かをさすっているんです。聞いてみると、何か人の形をした存在がいると言います。私も娘とその場を去ろうとしたのですが、背後からフワーッと温かなエネルギーが流れてくるんです。気のせいかと思い、反対を振り向いてみると、あきらかに前面で心地よいエネルギーを感じたんです。あきらかに何にかが心地よいエネルギーを放っているのがわかりました。」
Mさんは、合わない神社に行くと、全身をかきむしり血だらけになるという。一般的には有名な神社なのだが。
このコーナーのどこかでも書いたが、Aさんはパワースポットと呼ばれる神社に行ったらとても気持ちよかったという。で写真を撮ると光の柱が写っている。見せてもらったが、確かに見事な写真であった。
Cさんは同じ場所で不快な気分と肌寒さを感じた。写真を撮ると人骨だらけの写真だった。見せてもらったが、確かに「なんだ!これは!!」という写真だ。
やはりこのコーナーのどこかに書いたが、有名だが人の出入りの無い神社に行った知人の御一行から、旅行で○○神社に来ています、と写真が送られてきた。そこには訳のわからない物の怪が沢山写っている。その後、この御一行の一人の手が勝手に動き始めた、と言う。写真を撮った一行が、帰り際に再度写真を送ってきたが、今度は何も写ってない。
僕も「なるへく神社に行ってほしい」と言われていたので、サイクリングをしている時にあまり人の入らないだろう、と思われる神社に立ち寄った事がある。そして、その後派手な下痢をした。しかし、後はケロッとした。お腹がすいてしっかりご飯を食べた。あくまでも憶測だが、良くないものが身体に入り、防衛反応が働いたのかも知れない、とも思った。トイレは浄化の場、と聞いた事はあるが、確かにそうかも知れない。
神社も家もそうだが、人の出入りの無いところには、神社と言えども良くないものが住み着くらい。だから、部屋でも神社でも人の出入り、換気は大切なのだろう。気の流れが悪くなると、人は健康を害し、自然界では秩序が崩れるのだ。また、特殊な感性というか能力を持つ人たちの話を総合すると、神と呼ばれる存在と人は持ちつ持たれつ、と言う関係にあるような気がしてくる。人は神に助けられるが、神を助けるのは人間、と言う事になる。本当にこの世界は非常に興味深い事が多く、面白い世界だと思えてくる。
日本人は、一見問題なく日常を送られているように見える。しかし、それは多くの問題を抱えてない人に目が行っているだけで、目立たないが、大変な問題、あるいは沢山の問題を抱えている人たちには目がいかない、と言う事だと思われる。
日本は世界から見るとちっぽけな国、そして世界は広い。そして日本のような国は少なく、多くの国がもっと大問題を抱えている。
今、戦場にいる兵士とやりとりをしている。一部内容を紹介させて頂きます。
今、色々な国が多くの問題を抱えています。正直、まともな国を私は知らないし、そもそも、私には「まとも」と言う概念はありません。根本的には、アメリカもロシアも北朝鮮も中国も韓国もイエメンも、そして日本も同じなのだろうと思います。色々な国はありますが、表向きは良く見えても、やっている事は似ているような部分があるのでは無いかと思います。当たり前ですね。同じ人間ですから。
この世は二極の間で振動する世界、それが、現象として現れます。光は闇が無くてはわかりません。光は闇無しで存在する事は出来ませんね。自然界の一部である人間も同様で、善・悪、光・闇、美・汚れなどが含まれ成り立っていると思います。しかし、その中の悪い部分が最近は顕在化して来ているように思います。負の部分が顕在化すると周りの負の部分を引き出します。至る所でこの傾向がとても強くなっているような気がします。負の部分が強く顕在化すると、大問題になってきます。
あなたは本当に美しい人ですね。あなたのような人が多くなる事が、人類の未来を救うと思います。どうか、そのまま美しい心でいて欲しいと思っております。
私は、と言えば、本当は自然界の中でゆっくり過ごしたいのですが、仕事がそうはさせてくれません(^_^;)
今は収入には関係なく、仕事を通して、人間の善、美、光などの素晴らしい部分を引き出したいと思っています。なかなか上手く行きませんが………(^^;)
「誰も私の事は、わかってくれない」に対して「もちろんそうだ。では、あなたはあなたの事をわかっているのだろうか?」名前でも無ければ、性格でも無い。もちろん、身体でも無い。考え方でも無い。すべては、私の~であり、私では無い。それらの存在を可能にする根拠が私だ。だから「あなた自身があなたの事をわからないのに、他の人がわかる訳は無いのだ」と返答している。
大空を見れば、その空は広大だと言う。しかし、それを見る者、その目撃者はもっと大きい。でなければ、その空の広大さを見ることは出来ない。その人の意識がその大空よりも大きくなければ、空を見上げて広大さを感じる事は出来ないのだ。見る者は見られる対象より大きくなければならない。
アルプスやエベレストを見て、「壮大だ、荘厳だ」というあなたは、それより壮大で荘厳な存在だ。でなければ、アルプスやエベレストの壮大さ、荘厳さはわかるはずが無い。あなたはこれらを凌駕する存在だ。
人は時間を見ることができる。だから「今は朝だ。今は午後だ。今は夕方だ。一分が経った。一年が経った。ひとつの時代が過ぎ去った」と言う。この見ている者、この意識の方が、時間より大きいのだ。さもなければ、時間をそのような尺度で見ることは出来ないのだ。見ている者、意識している者は、見られる、意識される対象よりも大きくなければならない。
だから、10年ひと昔、というあなたは、10年などあっという間に感じる事が出来る、スケールの持ち主なのだ。
あなたは空間を見ることができる。あなたは時間を見ることができる。それなら、あなたの中にいるこの見る者は、その両方よりも大きいはずだ。あなたの前に広がるすべての現象はあなたが可能にしている。すべての星はあなたの中を巡り、世界はあなたから起こる。なぜなら、世界とはあなたの興味で出来ている。嫌な事にとらわれれば、世界は闇に包まれる。良い事にとらわれれば、バラ色の世界になるのだ。
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団と言う超一流の管弦楽団がある。ベルリンフィルの奏者は、何度自分の演奏を試みようと、結局は歴史あるベルリンフィルの音色、演奏になってしまうと聞いたことがある。長い間に歴代の奏者たちの思い(念)が宿り、強くそれが影響しているのだろうと思う。
また、類は友を呼ぶと言う諺がある。また、楽器の話になるが、部屋にバイオリンを離しておいて片方で音を出すと、もう片方のバイオリンも同じ弦が震えて同じ音を出す。音の波長は同じように弦を刺激するので当たり前なのだが、どうもこれは、思い・念にも当てはまるらしい。
ヒーリングスポットなるものが一次ブームになった。とあるヒーリングスポットを患者さんたちも訪れる訳だが、感想は色々だ。気持ちよい、と言う人もいれば、体調を崩した、と言う人もおられる。もちろん、ここまで強く感じるのは、特殊な能力を持つ人たちだ。ついでに、撮った写真を見せてもらうが、本当にびっくりする。写るものが全く違うのだ。気持ちよい、と言っていた人の撮った写真は穏やかで柔らかな光が写ったり、天にまっすぐに伸びる光の柱が写ったりする。しかし、体調を崩した人の撮った写真は物の怪か?と言うものが写ったり、沢山の骸骨が写っていたりする。同じ場所で、これだけ変わるのだ。恐らく、ご本人と繋がる対象が違うと言う事なのだろう。
話は少し違うが、帰宅した時に、何故か家がゆがんで見えた事がある。鍵を開け、リビングを開けるなり「一体、何をしている!?」と聞いた。家族は、ビックリした!!と言う。ホラー映画を見ていたらしい。みんなで、ゾクゾクしていたとの事。「ウヨウヨ寄ってきてるよ!だから、ゾワゾワ、薄ら寒く感じるんだよ!!」と話すと見るのをやめていたが。見る事に反対はしない。別に寄ってこられても、乗られ(憑依され)なければ構わない。
また、話は変わるが、旅行でとある神社を訪れた患者さんからメールで1枚の写真が送られてきた。見てびっくりした。なんだこれは?!と言うような物の怪たちが沢山写っている。鳥居の両側に目のある火の玉が4個ずつ、しめ縄の上には馬鹿でかい顔、あちこちに犬なのか狐なのか分からないもの、など……家族に見せたら、いつまでも持っているんじゃ無い!!と消去されてしまった。この患者さんたちも変わった能力の持ち主で、神社を訪れたうちの一人、腕が勝手に回り始めたという。何故か腕が勝手に回ります、と言うメールと同時にまた、神社の写真が送られてきたが、今度は何も写ってない。腕が勝手に回ったのは浄化なのかどうか分からないが……。人の出入りの無い神社には行くな、とアドバイスをもらった事はあるが、本当にそうなのかも知れない。
話はかなりそれたが、心の持ちようで、体調はかなり変わる、というのは「単なる気持ちの問題」だけでは無いのだ。気持ちの持ち方次第で、体調が左右されるのは色々な外的要因も働いている事が多い。マイナス思考はマイナスのエネルギーが反応するだろうし、どこかで書かせてもらったが、心が弱いと憑依される事もある。これから先、健全に生きていくためには、心の強さは必須である。
健康体操教室では、時々聴勁と言う言葉を使って患者さんたちに説明するが、これは本来、武術用語である。最初は手を触れてお互いの動きを読みながら動く訓練、その後は目隠しして同じような事をする。速い動きも察知して動けるようにする。このような訓練を積み、最終的には目隠しした状態で相手からの攻撃をかわす、と言う段階まで至る訓練である。五感以上の感覚を養う訓練だが、これは健康法としても生かす事が出来る。
身体は問題なければ自覚されない。問題があって初めて、胃や頭、関節などの存在を自覚する。では、問題ない身体はどうなのだろうか?
これを感じてもらうために、手足の先から頭のてっぺんまで、一体化して動く、と言う事を指導するが、すべてが一致して動く時はくつろぎ、安心感、心地良さを感じる。気を通す、と言う話もするが、力を抜き手の先まで意識する(しすぎない事が大切)、湯加減を見る手つきが重要で、この段階で「気を通す」と言う事が可能となる。
気の通った指先で全身を感じるように動く、この状態の表現に聴勁を使う。そっと聴くように動く、である。これを伝えるには、聴く、嗅ぐ、味わう、触れる、見るの五感の中では、「聴く」が最も適切なのだ。そっと「聴く」ように感じるのである。このような事を繰り返すうちに、眠っている身体の力が目覚めるのである。
「そ~っと聴くように感じる」そして動く事は、身体を目覚めさせる大切な方法なのである。
拳法には、打ち方によっては、触れただけで相手が吹っ飛ぶ寸勁と言う技法がある。相手も、見ている方も何が起こったのか?と思え、触れてないのに吹っ飛んだように見える事もある。秘伝、などと言われたりする。
ところで何故、秘伝にするのか?変に教えると危ないから、とか一門の宝だから、などと色々な理由があるが、一番大きな理由は「真似されるから」だろう。裏を返せば「誰にも出来る」事なのだ。真似出来ないような高度な事なら、秘伝にする必要は無いのである。そうは言っても、すぐに真似できるわけでは無い。ちょっとした動きで、爆発的な力、強大なエネルギーを発するためには、ある程度の訓練は必要であるが、理屈は簡単だ。
それは、身体全体の共同作業による力だ。見た目には、手で打っているように見えても、手で打っている訳では無い。踏み込み、重心移動、ひねり、反動、呼吸、イメージなどの多くの力のエッセンスが含まれる。それぞれのパーツを訓練し、最終的に一体化させる事で完成する。すべてのパーツが完全にまとまり、一つにならなければならないのだ。つまり、全体性が大事なのである。身体に対して頭から足先、指先まで一体性である事を教える。そして、全体性がしみ通った身体は、実に心地よい感覚に包まれるのだ。
この全体性の考え方は、健康にも生かす事が出来る。人間の身体には、どこか部分的に悪くても、全体のバランスを取る事で体調を整える力がある。たとえ機能しなくなったとしても、周りの機能が助け合い、少しでも不都合の無い方向に働く事が出来る。リハビリテーションなどは良い例だ。そのような身体の機能を十分に発揮する事が健康維持には必要になる。これが、病院や薬のお世話になるリスクを下げるし、なったとしても自己治療で済ませる事が出来るようになる秘訣だ。だから、サプリメントも含めてだが、そのようなモノに頼る前に自分の身体の隠された「秘密」を知り、引き出す事が大切なのだ。
この「全体性」から来る感覚は大変心地よい。身体も喜んでいる感覚だ。だから、これらを引き出す術を体操教室で教えている。もちろん、自分の身体の能力を引き出した上で、○○が心配だからちょっとサプリメント、△△の調子が悪いから薬を使う、などは仕方の無い事だし構わない。
この考え方は、社会全体でも必要だ。人には誰にも、色々な個性・能力があるが、どんなに優れた個性や能力があっても、色々な人がまとまった力には及ばない。だから、これからは全体性が益々重要になってくる。全体性から、はみ出たものは淘汰されてしまうのだ。
これからは、大変困難な時代に突入するかと思われる。だから、人同士の繋がり、ご近所同士の繋がり、同業種の繋がり、異業種同士の繋がり、社会全体としての繋がりが益々求められる。 恐らくやってくるであろう「困難」を克服するためには、この「全体性」の力が必要となるだろう。
これまでにも抗原検査キッドは販売されてはいたが、正式に一般用医薬品として登場する予定だという。しかし、これには大変な危険性が潜んでいる。
知人が無料PCR検査をやって欲しい、とやって来た。聞いてみると、
「所属しているサークルで一人陽性者が出たから心配だ。3日前にサークル活動をしており、その時のメンバー全員25人程度で本日、抗原検査を実施した。熱っぽい人も何人か居て心配だったが、全員陰性だった。しかし、以前に抗原検査は絶対的指標にならないと言われていたのを覚えていたし、それに人と接触する仕事、気にすると気になるもので、何となくエヘン虫っぽい。ちょっと不安だ。」
と言う。そういう彼も医療関係者である。抗原検査の手法には問題は無いと思われる。PCR検査を実施した。
結果は陽性だった。この結果を受け、同じサークルに所属している人も相談にやって来た。
「聞いてビックリした。抗原検査で陰性だったから安心していた。今朝、37.1℃だったが、布団の中だったからだと思い、再度測ったら36.5℃だった。それでも念のためにクリニック受診、抗原検査を実施してもらったら陰性だった。しかし、心配なのでPCRをやりたい。」と言う。彼も医療関係者であり、患者さんと接する機会も多いだろうから、念のため、PCR検査を実施した。
結果は陽性だった。その後、症状もしっかり出始めた。他にもその後発症し陽性となったケースが、続出した。結局、全員25名からが抗原検査陰性だったが、結果的に20名以上がコロナウイルスに感染していた。試験・研究用なら仕方ないが、医療用の抗原キッドを使用しているにもかかわらず、である。明らかに症状が出ていても陰性、医療従事者がいてやり方を指示したと思われるが陰性、と出てしまっている。検査のタイミングも問題なのだろうと思う。焦って早く検査しても出ない。検査するタイミングは非常に重要だと思われる。ましてや、一般の人は検査手法も不安がある。
当薬局でも検査キッドを購入する人が多いが、使い方によっては感染を増大させてしまいかねない。最近、購入者には
陰性と出ても、また、発熱無しでも普段と違い、体調が優れない時はあまり出歩かず、詳しい検査を受ける事。
をお願いしている。
ところで、試験研究用の抗原検査キッドだが、検査結果に問題が多いため、販売は自粛するよう厚生労働省から薬局には通達が来ている。僕のところでは無料検査を実施しており、元々、確実性のある医薬品しか扱ってはいなかったが、いまだに、試験研究用の抗原検査キッドが売られているようである。これは、論外である。
購入時は、薬剤師より、検査手法や検査のタイミング、検査結果の捉え方やその時点での症状、身体の状態、そして行動する上での注意点や、生活環境上での注意点をよく聞いて購入してもらいたい。
何の問題も無ければ、考えないし気にもしない。例えば、家族って○○じゃない!とか、夫婦って○○だろう!と言いだしたしたら、黄色信号だ。家族間や夫婦間で何か問題が発生しているのだ。問題なければ、そのような事は考えないだろう。
これは身体についても言える事だ。健康であれば身体は存在しない、とは極端だが、身体の存在は意識しない。胃の存在、腸の存在、目の存在を意識している時は、痛い、かすむ、などそこに問題が発生した時なのだ。つまり、何かのトラブルが存在を主張している。
何も問題の無い身体は普段、あまり意識される事は無い。そこを意識しながら体を動かそう、と言うのが僕の指導する健康法だ。何の問題も無い身体の反応は実に心地よい。正常なエネルギーに満ちあふれているからだ。正常な身体の反応を感じながら呼吸に合わせて体を動かす、この、すべてが一体感になったような感覚は多幸感を強くする。麻薬や覚醒剤の力を借りずに本当の自分のエネルギーで構成される世界だ。すべてが一体となる事で心や体のバランスが調整されるのだ。
現在、コロナウイルス感染症が蔓延している。感染したかどうかを知りたくて無料検査にやってくる人も大勢いらっしゃる。しかし、PCR検査にしろ抗原検査にしろ、絶対的指標にはならない。むしろ、自分の身体の反応の方が正確だ。特に脈の状態。自覚症状が無くとも、脈の状態で感染したかどうか解る。熱が出ても、脈の状態で、これから下がって治るだろう、と言う事も解るし、逆に解熱剤などで熱が下がっていても、全く治っておらず、薬が切れればまた、上がるだろう、という事も脈の状態で想像がつく。しかし残念な事に、感染したのは解るが、何に感染したかまでは解らない。インフルエンザウイルス感染でも細菌感染でもコロナウイルス感染でも同じ反応が出てしまうのだ。そのような難点はあるが、今の時期、感染した場合はかなりの確率でコロナウイルスだろうと思われる。
このような時期だからこそ、検査に来た人たちには、普段からご自分の脈を意識する事を薦めている。
休日だが、かかりつけの患者さんから呼び出され、薬局を開けることも多い。と同時に無料検査をして欲しいと多くの人がやって来る。休日は検査センターが休みでありPCR検査は休みとなる。抗原検査のみだが、、この抗原検査には注意が必要だ。
薬局での検査は無症状者が対象とは言え、熱がないだけでかなり怪しい人もいる。ところが抗原検査では陰性と出てしまう。実は感染していても、である。本人は「良かった!」となり、出歩いてしまうのだ。ましてやきちんとやらなければ、陰性となる。自分で検査しても、やり方によっては当てにならない。
ちなみに、抗原検査は、無症状者への使用は推奨されないこと(感染していないことを証明するものではないこと)となっている。陽性者が検出されない可能性は充分にあるのだ。
その様なこともあり、抗原検査をやって、怪しく思えるが陰性に出た場合、やむを得ず脈を取らせてもらうこともある。コロナウイルスとは限らないが、感染したかどうかは脈を取ればわかる。脈はウソをつかない。それで感染している、と思った場合はPCR検査をお願いしている。
これまで、発熱無し、抗原検査が陰性でも怪しく思え、PCR検査をお願いしたケースでは全員がPCR検査陽性となっている。逆にPCR検査陽性と出たため、受診をお願いしたケースで陰性と出た人も2例ほどあった。抗原検査出陽性だったがPCR検査で陰性となったケースも2例ほどあった。
ちなみに、体は正直だ。解熱剤で熱が下がっていても、脈で治ったかどうかわかる。普段から脈を意識してみるのも良いかも知れない。
かなり前だが、憑依された経験がある。
夜寝ている時に頭から入ってきたのは老婆だった。僕は、と言うとへその下の方(俗に言う丹田)に追いやられてしまった。ちょっと興味があったので、何を言うのか聞いていた。しかし、この老婆、何を言っているのか解らない。それも、僕の口を使ってブツブツと喋っている。
窮屈さを感じていた事もあり、出て行ってもらう事にした。大きく腹式の深呼吸をした。抜けた。周りで寝ていた物の話では、ブツブツと寝言を言っていたが、何を言っていたか解らない、との事。ばあさんに乗っ取られていたんだよ!と言ったが、単に寝言を言っているだけかと思ったという。
この経験談を、その筋のプロに聞いてみると、「先生に正面から堂々と入って来るなんて大したもの。普通は足下から入ってくるんだよ。」と言う。それは僕にはよく分からない事だが、ちょっと不思議な思いはした。結局何を言っているか解らなかったが。
夢は浅い睡眠状態で見るが、その時の不思議な話。
僕は森の中を馬に乗って走っていた。すると、訳のわからない魑魅魍魎が多数、斜め前方から襲ってきた。魑魅魍魎を見ると、僕の体を猛烈なエネルギーが包み、白い何かに変身していった。馬から離れて、魑魅魍魎に向かい猛烈な速射砲を放った。魑魅魍魎を全てぶち破った。と、また、馬に乗ってその場を立ち去った。
さて、この夢の中での体の変化は夢うつつながら布団の中でも実感出来た。布団の中の体が、猛烈なエネルギーに包まれた。本当に体が浮いたような気がした。この体の反応は大変気持ち良かった。
これ以来、験担ぎで夜の体操に連手砲動(速射砲)を取り入れている。最近はサボっているが。
テレビに出たり、雑誌で紹介されたり、教育用DVDや専門書を出したりして専門家として活躍している人物に会った事がある。本の著者紹介には素晴らしい経歴、○○博士などという称号までご丁寧に記載されている。
さて、会って専門的な内容を気楽に話をしたのだが、どうも、こちらからの質問に上手く返答が出来ない。もしかして、こいつ、シロウトか?と思い始めた。話をすればするほど、そのいい加減さが暴露される。「あなたとは、考え方は違うようだ」とは言っていたが、そうでは無く、「あなたはあまりにも知らなすぎた」と言いたかった。そうは言っても、彼を先生と呼ぶ信者は多い。同行してきた彼の教え子の手前、余計な事は言わない方が良いと思い、大人の会話はした。しかし、彼の適当さは多くの人間が知るところ。本なんて適当な知識でも簡単に出せるのである。
彼はその後も何冊も本を出している。別に何をしようが構わない。
この事でもわかるとおり、本を出した、雑誌に載った、テレビやラジオに出演したから、その道に秀でているとは限らない。
話は変わるが、健康雑誌の会社に勤めている友人に「タマネギの効用ってあるんですか?」と聞かれた事がある。特別な効果なんてある訳無いが、「どんな野菜でも効果はあるだろう。だから食べるんだよ。」と前置きをして、「○○と言う成分が入っているから、血液の……」などと話をした。彼は「俗に言う血液さらさらですね」と言う。
何日か経ち、その雑誌が書店で目についた。表紙に「驚くべきタマネギの効用」などと書かれている。まさか!?思い開けてビックリした。話した内容がそのまま記載されていた。しかし、執筆した人物は○○病院 医学博士 ○○○○となっている。すぐに友人に電話した。
「おい、どういうことだ!それも効いた、治った等の尾ひれまでつけて!!」彼は
「ごめんなさい。これも仕事なんです。」と言う。さらに
「あの○○病院 医学博士とは何者だ!」と聞くと
「すみません。名前を借りました。」と言う。
テレビでやっているから、雑誌に載っているから間違いない、本の著書だから素晴らしい人だ、等という誤った認識は洗脳に繋がる。情報には振り回されすぎず、冷静に立ち止まって見られるようになる必要がある。
武術修業時代、弟子に
「先生、最も優れた最強の武術は我々の門派ですよね?」と言われた事がある。
「最も優れた最強の人物は、ひたすら自己を信じて鍛錬することを続ける者だ。」
と返答した。彼は、
「何故表の世界に出ないのですか?」と言ってくる。
「表の世界に出る事に興味は無い。見栄をはるのも好きでは無い。表彰される事にも興味を持たず、勝負にも興味は無い。そのようなゲームには興味は無いのだよ。」と返答したが、さらに
「最初は最強の武術だから、と入門したのではないのですか?」と聞いてくる。
「縁だよ。縁があったからだ。俺は他の流派については練習した事もないし解らない。やってもいないのに他の流派をどうのこうの言えるはずは無いのだ。もし、そんな事を言っている師がいたら、あなたは他流派の拳法をきちんと練習した事があるのか?と聞いてみたい」と返答した。それでも若い彼は
「それだけの力があって何故、表に出ようとしないのか不思議です」と言ってくる。優れた自分たちの武術を世間に誇示したいらしい。しかし、人間界は面倒だ。下手をすると流派間の争いになる。
「比較には興味は無い」と返答した。
「何か、暗いですね。プライドもあまりないように見えます。」と言ってくる彼に
「俺はプライドが無ければ生きていけないほど、弱くは無い。しかし、世の中の動きに関係なく、高みに居る事は大切だ。観照者になりなさい。洗濯機の中を見ているのは構わないが、落ちて一緒になって翻弄されない事が大切だ」と返答したが、まだ、よく分からないようだ。最も、俺にはプライドなんて無い!と言うのもプライドかも知れないが。
まだ若い彼には難しいかも知れないが、今考えると、自分も武術を教えていた当時は若かった(20台後半)かと思う。今は運動しても「老い」を感じてしまう。これも自然の摂理だろう。
「佐賀のがばいばあちゃん」と言う漫画本を借りて読んだことがある。何巻だったか忘れたが、川縁でキャンプをした話があった。
夜、賑やかにカレーをを作っている時、若い女性が土手で座っているのに気がついた。寂しそうだったので、「一緒にカレーを食べよう」と誘った。うれしそうだった。しかし、断った。「こんなに優しい言葉をかけられて、みんなと楽しそうに過ごせて……そしたら、私も違っていたかな……」と言う。「みんなで楽しんでいるんだから、おいでよ!」と誘うが、寂しそうに笑うだけだった。
一夜明けると彼女はいない。朝食の準備をしていると駐在所の警察官が自転車で通りがかった。「あんたら、一晩ここで過ごしたのかい?よくいられたね。以前ここで若い女性が入水自殺したんだ。彼氏と上手くいかなかった事が原因らしいが、それから寂しそうにたたずんでいるのを何人も見ている。出る!と有名なんだよ。」
確か、このような内容だったかと思うが「佐賀のがばいばあちゃん」は実話だという。漫画とはいえちょっと彼女には同情した。しかし、この後が大変だった。
夜も遅いので漫画本を読み終え布団に入った。程なくして夢を見た。目の無い人形が近づいてきた。普通であれば、吹っ飛ばすのだが、何故かこの時は声をかけた。「どうしたのかな?本当はかわいらしい優しい顔をしていたはずだ」すると、目の無かった黒い空間に目が入り可愛らしい顔になって遠ざかっていった。
このあと、6~7時間の間、ひたすらトイレに通った。そんなに水分取ってないし、どこにこんなに水分があったのか、と思うほどだった。何度も我慢出来ずに起き、大量に出る!一体、どうした!?と思った。10回近くと記憶している。もちろん、寝不足だ。しかし、体は軽いし、寝不足という感じは無く、翌日も無事に1日仕事を終えた。
トイレは浄化の場、と聞いたことがあるが、この時は何となく納得してしまった。
武術を学ぶものは皆兄弟と言う意味。家族のようなもの。日常でも困った事があれば、助け合い、何かあれば飛んでくる。理想的である。
僕も、武術を教えていた頃は、教え子たちが毎週のようにやって来て一緒に食事をした。週末のたびに20人以上の猛者が、入れ替わり立ち替わりやって来る。会費は取っていたが、もらった会費はすべて、彼らの食事代になってしまった。
そしてマンションの駐車場はバイクや車でいっぱいになる。周りには、迷惑をかけてしまった。飲み会で帰れなくなった人間は泊めた。逆に娘を小学校に迎えに行ってもらったりもしたが、小学校の校庭までバイクで乗り込み「お嬢さん、迎えにあがりました」とバイクに乗せる。おかげて娘はみんなになついた。学校には迷惑をかけたが、良い思い出だ。
今、時代は大きく変わり、明らかに良くない方向に進んでいる。不安を抱える人も増大する事は想像に難くない。一人一人の強さも大切だが、人間同士が力を合わせる事もこれまで以上に重要になる。それが快適に不安も少なく生きる事に繋がってくる。
少子化も進み、どんどん孤立化も進む時代に突入するなか、これからは今まで以上に、家族、友人、親類等という垣根を越えて力を合わせる事が大切になってくるだろう。
呼吸と体調は切っても切れない関係がある。思い詰めていたり、考え事をしたり、緊張したりしている時は呼吸は浅い。武術・気功の世界では、この呼吸の仕方は重要視される。中でも爆発呼吸は健康維持という面から見ても凄まじい効果を発揮する。我々の流派では猛烈な踏み込みに呼吸を一致させて行う。
健康維持にも有用なので、健康体操でも取り入れている。とは言っても、そう単純に出来る訳では無い。まねごとに近いが、ある程度は有効だと思っている。そして、この爆発呼吸は悪霊、怨念、邪を吹っ飛ばすことも経験的に知っている。。
夜遅く、体調がひどく悪いとやって来た人、この人も体質的にとても敏感で、特殊能力(個性)の持ち主だ。話を聞いてみる。
「夜も8時過ぎ、友達の家に行く途中の事でした。右折場所を間違えてしまい、舗装が砂利道になったところで間違いに気がつきました。真っ暗な森の中で、慌ててUターン、戻ろうとしました。しかし、車のシフトは間違いなくDレンジに入っているのに、車は後退するのです。タイヤは前進、車はジリッ、ジリッとバックします。恐くなって友人に電話しました。そしたら、あんた、それは1本間違っているよ!その先はお墓だよ!!と言われ必死にアクセルを踏みました。何とか抜け出ましたが、それから非常に怠いんです。冷えます。体が氷のように冷たい。」
「他にどこかに行った記憶はあるか」
「森の中の沼地に行きました。」
「風通しは?」
「森に囲まれて静かです。流れの無い沼です」
あれほど、そんなところには行くな、と言ったのに……
「入られたのは自分でわかるだろう?」
「わかります。だから、抜いて欲しい」
「そうか。わかった。おとなしく出て行くならそれで良いが、出て行かないならこちらにも考えがある」
息を大きく吸い、爆発呼吸の準備をする…が
「やめてぇ~、痛い!」と気絶しそうになる。
「出て行きたくないと……」
「そうか。では今回はやらないが、あまりにも居座る時は力ずくで追い出すからな」
と言った経験がある。他にも、乗られてしまった(憑依された)人に対して知人から数珠を借りて爆発呼吸をしてしまったことがある。その時も
「やめてぇ~」と震え上がっていたが。
「問答無用!」
数珠はぶち切れて舞い飛んだ。
「地縛霊のように悪い人だけじゃ無い!息子が心配で……と言うおばあちゃんも居たのに!みんなどこかに吹っ飛んでしまった!!」
と言われた。少々反省したが、人の体を使って好き勝手やる連中は、僕はあまり好きでは無い。
また、体育館での健康体操の時に、
「あれ、やって!!みんな、こっちに来て輪になって。輪の真ん中でやって」とリクエストを受けたのは爆発呼吸。この人も特殊な能力を持っている。
「ドカーンと言う轟音とともに、無数の白い龍が足下から飛び出すの。それが体を抜ける時にすべてを消し去り、綺麗にしてくれるの」と言う。
もちろん、僕にはわからないが、期待に応じてやることはある。そして、みんなの体調が良くなる事を期待し、ちょっとアレンジして健康体操教室には取り入れている。
ありのままに生きる自然、の中に身を置く時間を増やすことである。また、芸術とよばれるものにそれを感じる事が出来る。
例えば音楽だが、楽譜はただの音符の羅列である。演奏者が命を吹き込むのである。どのような生命になるかは演奏者で違ってくる。
そもそも何故、学問で国語、数学、社会、理科、英語なるものが重要視され音楽、美術、技術家庭、保健体育が副教科とよばれるのか、甚だ疑問である。この4教科こそ、生きる基礎を作る大切な学問だ。感情表現、情緒、生きる力、物を創造する力、どれをとっても生きる土台である。主要5教科なる物はその上でしか踊れない。それはソロを奏でる楽器が、低音群などの土台が無ければ、魅力が無くなってしまうのと同じである。
今の教育は躍動する生命では無く、人間ロボットを作っているような気がしてならない。だから、精神的に病んでしまう人が多いのではないかと思われる。僕のところに精神的に病んでやってくる人は、多くが高学歴。何故か学歴とは無縁な仕事に就いている人は一人もいない。
これは大変難しい質問である。実は医学も薬学も生命を扱っている訳では無い。医学も薬学も学問としては結局物理、化学なのである。遺伝子にしろ心臓の動きにしろ、結局はイオンの動きや電気的エネルギー、化学物質の変化であり、物質の運動である。生きている=物質の運動、なのである。
何に感動したか教えて欲しい、と話をして登山教室を実施したことがあるが、返答はまちまちである。中でも、壮大な山々と一面に広がるお花畑、と言う返答が多い。では、その花を自宅の庭に植えてみたら同じように感動するのだろうか?花一つ一つの美しさはあるが、同じような感動を味わうことは出来ない。本来は、自然のバランスの中にこそ「生命」を感じることが出来るのだと思う。
地球は生きている、のである。生命とは、一言で言い表せないものであり、この、生命を感じる事が今の僕たちには減ってきてしまっているような気がする。それがまた、健康を害する一因になっているように思われるのである。
当たり前だが、どんな人工知能を積もうがロボットは人間にはなり得ない。確かに科学の進歩は素晴らしい。しかし、どうやっても人間にはなり得ないのだ。最も「生きている=物質の運動」であれば、人間もどき、みたいなのは造れるだろう。
生命は科学的理屈を超えているのである。科学では不可解な漢方薬もそうである。生命も漢方も「科学する」事は不可能なのである。科学的土俵ではすべて、物理、化学、薬用植物学、生薬学になってしまうからだ。
科学の進歩はめざましいものがある、と言う事は認めるが、人間は、まだまだ、多くの事を理解していない。驕り高ぶり、のぼせ上がり、うぬぼれは破滅への道に繋がる事もあるのだ。
最近は、ロボットがいつか人間のように、ではなく、人間がロボットに近づいているような気がしてならない。
あなたは、過去生で成し遂げられなかった、あるいは、今世でやるべき、やらなければやらない課題を持って生まれて来た。大変重い、あるいは膨大な量の課題を持参してきたために、辛い生を送られている人もおられる。
しかし、克服出来るはずだ!と計算して課題を背負い、この世界にやって来たのだ。だから、無事に満足出来る生涯を送れるはずだ。もちろん、わかっていたはずなのに、みんなそのようなことは忘れてしまっている。だから、今、苦しい思いをしている人たちに、切り札の言霊がある。それは
絶対大丈夫だ!私はすべてが上手くいくことを知っている!!
主体であるあなたが大丈夫だ!と言えば大丈夫なのだ。そうすれば、きっと満足のいく人生を送ることが出来る。
そして、過去生であなたのスケッチボードに上手くかけなかった絵画を今世で完成させるのだ。気に食わない作品ほど直すのは大変だが、満足のいく作品を現世で完成させようではないか!そして、現世からの旅立ちの時には、素晴らしい卒業証書をもらおうではないか。
人生には意味は無い。生まれてきた理由など無いのだ。前世のカルマ(業)を解決するとか、課題を解決するためなどと言うが、何故、それを覚えてないのだろう?覚えていた方が、解決出来るのに、忘れて転生しなくてはならない理由はどこにあるのだ?
人生には意味は無く、生まれてきた理由も無い。だから、あなたが意味・理由をつけるのだ。
私は人生の立役者!すべてに意味、理由をつけるのは私だ!!
はとても有効な言霊だ。
あなたは、真っ白なスケッチボードを持参して、この世に誕生した。どんな作品を書くのも自由だ。あなたが作品に題名をつけ、物語を造り、あなた自身の素晴らしい納得のいく、満足する絵物語を造るのだ!そして、現世からの旅立ちの時には、素晴らしい卒業証書がもらおうではないか。
憑依する方も問題だが、される方も問題だ。
神様だという人と会話している、と言う人物の話を聞いたことがある。
「何故、神様だと言っている存在と接触した?」と聞くと
「人間関係で、疲れ果ててた時に、もう、そんな偽りの世界に居ないで、こちらに来ないか?と声をかけられた。そこは黄金の世界だった。声をかけてきたのは黄金の光だった。ここはすべてから解放された、神々の世界。本来は選ばれたものだけが来られます。あなたは、真面目ですね。その真面目さ故に人間界の不条理で苦しみました。もう、良いでしょう。あなたはこの天界の楽園に入る資格があります。と言われたのが始まりだ」と言う。
しかし、食欲は落ちていくし、部屋にも、こもりっきり。外にも出ようとせず、この神様とやらと会話を楽しんでいるようだ。そもそも、神、の定義というものは僕には良くわからない。自称「神様」なんてのはどこにでも居る。自分で神だと思い込んだら神だし、悪魔だと思い込んだら悪魔なのだ。それにしても、あまりにも雰囲気が変なので、そちらに詳しい知人に見てもらうことにした。
知人は数珠を持って現れた。本人は震え上がった。強制連行された。
そこで、この神様とやらと対話が始まった。地縛霊だった。
「憑依した時に気分悪くなったはずだから、こいつも自覚しているはずだ。生前、不満だらけでやりきれなかった俺はバイクで無謀運転をして自爆死した。俺の前をたまたまこいつが通りがかった。元々、生前の俺と同じ感情を持っていたこいつが、俺らとの会話を望んだんだよ」と言う。
「いいから、早く出て行きなさい」と諭されると
「いいよ出て行くよ。でも、こいつの心の弱さではいつでもまた入られるぜ。別の奴らも入りたがっている。そもそも、心の脆弱な奴ほど乗っ取りやすいんだよ。それに、いつも不平、不満を言い、自分の非を棚に上げ、何でも責任転換する連中は、原因が自分にあったなんて認めない。そのくせ、俺らと接触すると自分は凄い、などと思いやがる。あいつらは自分の心の弱さを露呈しているようなもんだ。騙しやすいんだよ。ちょっと別世界を見せて俺は神だと言えばすぐに信じ込みやがるぜ。憑依されるのはテメェが悪いんだよ」
この話を目の当たりにしてから、このような存在は本当に嫌いになった。同情もしなくなった、と言うか毛嫌いするようになった。敵対するようになった。
このような存在に入り込まれると、一緒に餓鬼も入り込むようで、空腹でいつも満たされないためか、奴らはどうも腸にしがみつくらしい。この後、餓鬼を抜くのも大変だった。爪を立てて腸にくっついているためか、一匹抜くために顔が苦痛でゆがむ。気絶しそうになる。100体以上抜いたと言うが、これだけくっついていたら食欲もないし、いつも満腹状態だろう。
このように、寂しい、苦しい、満たされない、もっと、等の感情を持つ人間に入り込む連中は好きでは無い。しかし、それ以上に自分がしっかりしなくてはならないのだ。なかなか難しいが、そういった影響を必要最小限に抑えないと大変なことになる。必要最小限、と言ったのは、知らずの内に多くの人が、影響を受けているからである。同じ感情(波動)には似かよった存在が寄ってくる。類は友を呼ぶのだ。僕もこの時以来、できる限り不平・不満の言霊は落とさないようにしている。
現在、コロナウイルス感染防止のため、健康体操教室は休止中。再開を望む声は多い。
さて、その健康体操教室だが、ベースは気功。気功はれっきとした健康法だが、気功というと、何か勘違いしている人も多いので、健康体操教室としている。
その健康体操教室中に、体が勝手に動いてしまい、止まらなくなってしまう状態になる人が何人かいらっしゃる。意識があって、止めて~っと言う人も居いば、意識もどこかに行ってしまい、目を閉じたまま動いてしまう人も何人かおられる。1時間近くに渡り、好き勝手な動きをしてウロウロしたりする。しかし、不思議なことに目を閉じているにもかかわらず、ぶつからない、動かす手がものに当たりそう、と思えば当たる手前で動きを変える。見ていて本当に不思議である。トントンと肩をたたいても動きをやめないし、声をかけても届かない。参加者はみんな慣れたもので、このようなことが起こっても、体操を続けている。
当薬局には薬学部の学生も実習に来るが、多くの学生がこの名物健康体操に参加する。薬学生は、本当にビックリする。どうやって止めるか興味津々である。
「どうやって止めるんですか?」と聞いてくる薬学生。
私は「まぁ、見てなさい。」と言いながら、そっと止める。
「何をしたんですか!?」と薬学生。
思い(念)を使いながら、「終わりですよ」とそっと話した、と説明した。
さて、どのような世界に入り込んでいたかは興味津々、聞いてみると
「何も無い、何も見えず何も聞こえない、ただ、気持ちよい、いつまでも居たい」
「何かはあるのはわかるが、何だかわからない。しかし、そういうことも気にならず、本当にこれが至福だと思う」
等との感想。またこの境地に入りたい、と言う意見は全員一致だ。彼らは一体どこに居るのだろう。別世界であることには間違いないが。
僕は、と言うと明るく人の居る状態でこのようにはなれない。なっても、戻してくれる人が居ないのでそれも困るが。だから、人の居ない真夜中の公園で一人舞うことにしている。
コロナウイルス騒動が終わって、健康体操教室は早く再開したいものだ。
他の人とはちょっと違う能力(個性)があるから、と言って使ってはいけないこともある。その能力に振り回されると、とんでもない目に遭うのだ。
夜遅く、友人から電話が入った。
「年齢がまだ17歳、5日後に死ぬんだけれど、何とかしたいんだよ!大学病院の医療ミス、雑誌会社にスッパ抜かれそうになったけれど、もみ消された!この青年の寿命を延ばしたい!!」と言う。思わず、
「ハァ~ッ?バカな事言ってるんじゃないよ!!」と返答。すると、
「あんた、知ってるでしょう!?教えなさいよ!!」と言う。
「ふざけるな!!そんな事したらどんな事になるのか、わかっているのか!!」と返答するが、
「あんた、私の性格知っているでしょ!?教えなさいよ!!助けたいんだよ!!」
「……」勢いに押され、ちょっと沈黙。
「わかった。あんたの頭の中読ませてもらったから。ありがとう。」
「人の頭の中を勝手に覗くんじゃねぇ!!」
「もう、いいよ。わかったから」
「あっ、おい!、ちょっとま…」と言う間もなく電話を切られてしまった。
その後、確かに青年の寿命は延びた。しかし、引き換えに友人の体はボロボロ、住んでいるところでも色々な事があり、住む事が出来なくなってしまった。言わんこっちゃない。余計なことをするから。
しかし、このような事になるのも決まっており、これが本当の寿命だったのかも知れない。
誰だって幸せになりたい。みんな一生懸命見つけようとする。だから、できる限りのことは手伝うつもりだ。でも、見つからない事も多い。それはそうかも知れない。あなた自身が幸せなのだから。
しかし、不幸を探すのは上手だ。何故かみんな比較をしたがる。比較してもゲームとして楽しむなら良いが、時としてそれは地獄への特急便となる。比較することに意味は無い、意味づけするのは個人なのである。
職業でもそうだ。私の頭の中では、農家も医師も社長も薬剤師もデパートの店員も弁護士も料理人も同じだ。仕事に、上下・優劣はない。もちろん、やっていることは違うが、それ以上の違いをつけるとすれば、個人だ。どのような物差しで見ても良いが、意味はない。意味は自分で作っているのだ。自分はこのような仕事だから、凄い、等と思ってもそれは個人の勝手な思い込みで、周りがいつもそのような目で見ている訳ではない。いわゆる、自己満足の世界だ。もちろん、それは悪いことではないし、むしろ、自己が満足する事は最も重要だ。
人間の仕事は、嫉妬心と羨望のまなざしの獲得競争とも言われるが、行き過ぎると、自己破滅に繋がるから注意が必要だ。僕はそのような人を沢山見ている。
友人から、「明日夜、相談したいという人を連れて行くから時間取ってよ」という電話が入った。翌日、薬局業務が終わった頃にやって来て、おもむろにおにぎりを出し始めた。
「あんたも食べて。遅くなるからと思って作ってきたんだから。」と言う
「ありがとう。ところで、相談したい、と言う人は一緒ではなかったのかな?何時頃来るのかな?」と聞くと
「あんた、本当におめでたいわね。話をしたいのは私よ。あんたさぁ、昨晩、相談しに行ったら、肝心な話のところでどこかに行っちゃうんだから。ちゃんと聞きたかったのよ」
ちょっとムカッとして「はぁ?俺には何のことだかわからんが。」
「あんた、本当に覚えてないの?では、○…△…って事に対してどう思う?」
「う~ん、□…☆…とするのが良いのでは?」
「やっぱり、昨夜夢で会った時と同じ返答ね。でも、こうやって実物と話した方がわかりやすいわ」
僕には、夢で会った記憶などない。しかし、家族は夜中に寝ている僕以外に外出して戻ってくる姿は見ている。ビックリして布団を見ると寝ているらしい。もちろん、僕自身にもどこに行ってどこから帰って来るのか、何をやっているのかわからない。本当に不思議なことである。
人生を旅行に例えよう。生を東京、死を青森と仮定する。新幹線で行こうが、常磐線を使おうが、レンタカーを使おうが、それらをコラボさせれようが自由だ。あなたの好きなように計画し、楽しむが良い。終着の青森に着くまでに沢山の思い出を作ることだ。そして、どうせなら内容の濃い充実した旅行日記を完成させようではないか!色々と計画を立て、実行し、色々な感情を味わい経験しよう。
終着駅では色々とあったけど、すべては懐かしいと、きっと満足するはずだ。その時には素晴らしい卒業証書をもらえるだろう。
人生を旅行に例えよう。生を東京、死を青森と仮定する。しかし、経路はすでに決まっている。あなたに出来ることは何もない。だから、流れゆく光景・出来事を楽しむのだ。その時間の流れの中で、何に興味を示し、何に執着するかはあなた次第。しかし、興味を持とうが執着しようが、あなたには何も出来ないのだ。起こることは起こる。あなたに出来ることは、興味・執着の対象を選び、色々な思い込みを作ること。そして、どうせなら内容の濃い充実した旅行日記を完成させようではないか!
終着駅では色々と見てきたけれど、すべては懐かしいと、きっと満足するはずだ。その時には素晴らしい卒業証書をもらえるだろう。
ところで、計画されている旅行なら、計画した存在が居るはずだ。そして、旅行の添乗員を我々は「縁」と呼んでいる。もしかしたら、計画した存在こそ、「縁」こそが、あなた自身かも知れないよ。
年とともに1年が過ぎるのは早く感じる。今年も残すところ、あと少しだ。新年を迎え、初詣に行く人も多いだろう。そこで、神社での祈願だが効果的なやり方があるので、ここで話をしよう。どうせやるなら少しでも効果的な方が良い。
参道(産道)を通って(戻って)神社(生まれる前に居た場所)に行く。そこで祈願するわけだが、誰に祈願するのだろうか?神々をまつってはあるが、神社には何が置いてあるのだろうか?自宅の神棚も考えてみて欲しい。
そうだ、鏡だ。鏡は平仮名で「かがみ」。かみ(神)の間に「が」(我:私)が居ることを示している。そして、鏡が映すのは誰だろう。そうだ、あなただ。あなたはあなたに願い、力を与えているのだ。そして、あなたの周りには力を貸してくれる存在が居る。そんな、あなた自身を絶対的に信じることが大切だ。
そこで、肝心なお詣りのやり方だ。誰だって初対面では自己紹介をする。だから
「わたくし、○○県△△市……に住んでおります、○□ △○というものでございます。縁あって訪れさせて頂きました。」
そして、願い事だが多分、欲に駆られたようなことはかなわないだろう。○○になれますように、なども良くない。今はなってないと言うことを言っているようなものだ。だから、たとえうまくいって無くても
「○○市で□□業を営んでおります。今年も□□業を続けるつもりでございます。何かの折、お力添え頂ければ、ありがたく存じます」
などと、挨拶をするような感覚が良いのだろうと思う。そして、もし、あなたが力を貸してもらえたと思ったら、お礼には行っておいた方が良いだろう。
ここで僕が書いたのは「正しいこと」では無く「思っている」事だ。だから、これまで通り、強い思いで○○になりたい!!と祈願しても構わない。そして、思いが強いなら叶うかも知れない。しかし、その時はお礼は確実にした方が良さそうだ。
ここのところ、地震が頻発しているのが大変気になる。そこで思い出すのが、在る患者さんとの関わりである。
もう、20年近く前の話になるが、突然倒れ込むようにその人はやって来た。
「大丈夫ですか?」
顔を上げ「聞いたとおりの素晴らしいオーラです」
「えっ?!」(変な噂が立ってても困るが……)
「誰から聞いたのですか?」
「(指で上を指し)わからない、でも、ここへ行け、と言う」
「そうですか……しかし、体調悪そうですね。どうしたのですか?」
「実はこの世界はもう、先がないのです。何とか回避させようと努力したのですが、ちょっと体のバランスを崩しまして……病院に行っても原因なんてわからない。だから、漢方薬に頼ろうと思ったのです。」
「わかりました。いつからそのようなことをやっていたのですか?」
「海外生活が長く、最近日本に帰ってきました。日本ではこのような話は、変な宗教と間違われたり、変な人と思われるから出来ないけれど、海外では普通に話せます。」
「それで修行をして、何とかしようと思った訳ですね?」
「その通りです。私は、前世、全くこの今の地球、日本と同じような時代を生きていました。もう、滅びるのはわかっていたが、それでも何とかしようとしました。しかし、ダメだった。文明の滅びとともに私も終わりました。今回は何とかしたいのです、失敗はしたくない。」
「この世界が終わるというのですか?」
「そうです。これから先、大変な時代がやってくる。もう、絶望と思われる時代が。それでも、あなたは絶対に諦めてはならない。諦めないで欲しいのです。」
「そんなこと言われても、よくわからないです。」
突然、表情と言葉遣いが変わる
「何を言っている!あなたは、わかっているはずだ!!」
本当に怒っている……しかし、こっちは本当にわからない……
「とにかく私は上からの指示でここに来た。私は体調を整えなければならない。漢方薬を作ってほしい」
実はこのようなことを言ってきたのは、この人だけでは無い。自然災害が頻発する中、色々と思い出される、だからといって何か特別なことが出来る訳では無い。なんと言っても、僕はただの人間だから。
僕は元々強いアレルギーを持っていた。色々なものに反応するが、特に漆には強い反応を示した。キノコ狩りが好きで秋には決まって山に行くのだが、決まってひどい目に遭う。全身火ぶくれ状態、顔も腫れあがり、目は塞がり、至る所から汁が出る。ひどいと息苦しさや発熱も伴った。それでもキノコ狩りが好きで山に行き、毎年同じ目に遭う。
ある年、見かねた父親から、漆と仲良くなるために日本酒をあげてこい、と言われ家の近くにある漆の木に、触らないように注意しながら日本酒をかけた。
翌日、これまでには無い状態に体は、なってしまった。誰だかわからないほど、顔は変形した。小学校には行きたくなかったが、休みはしなかった。先生からは、どうした?!と言われた。特別視されるのが嫌だったが学校は休まなかった。
何日か経って良くはなったが、怒りは収まらない。体中に漆の白い液をつけながら、漆の木を片っ端からへし折った。
翌日、体は何ともなかった。それどころか、強力なアレルギーはそれからは全く収まってしまった。毎年、快適にキノコ狩りを楽しめるようになった。
こんなこと、みんなにまねをしろ、とはもちろん言えないが、そのようなとんでもない力が、人間にはあるのである。我々には、そのような隠された力があることを頭の片隅にでも良いから、入れておいて欲しいと思う。
「大変です!大切な人が命を落とそうとしています。間違いない、夢ではっきり見ました。」と血相を変えて知人が僕のところにやって来た。
「それは誰なのだ?何をしようとしている?」
「わからない。でもよく知っている大切な人です。もう、時間が無い!急いで!!」
何を言っているのか、よくわからない。
「どのような人なのだ?なぜ、そのようなことがわかったのだ?」
「霧の立込める森の中の湖。彼女はその真ん中で湖の上に立っていました。長身で痩せてます。白いドレスを着てました。本当に時間が無い!急いで!!」
まさか……
「伝えることは伝えました。お願いします」と知人は去って行った。
その夜、思い当たる人物の家族に電話する。家族は
「電話番号は誰にも教えるな、と言われてました。しかし、あなたにならお教えします」
早速電話してみる。出た。
「えっ、誰?まさか……」
「そのまさか、だよ。おまえ、一体何をしようとしている?」
「あんなに電話番号教えるな!と意っておいたのに。何でかけてきたの?!!バカ!!!」
と電話を切られてしまった。バカ!だと?人が心配して電話してやったのに。カチンときた。
月日が経ち、彼女が私のところにやって来た。
「この前はありがとう。あのとき、電話もらえなかったら私は死んでた。あと2~3日の命だった。バカッと言ってごめんなさい。でも、何でわかったの?」
「僕の周りには、君らみたいな変わった個性の持ち主は普通に居るよ。そのうちの一人が教えてくれたんだよ。ところで今回はどこに行ってた?」
「海外。人との接触を断つために山奥深く。」
「何しようとしていたかわからないが、余計なことするなよ!!」
まあ、このときは深くは聞かなかったが、査証の期限も切れたりで、帰国が大変だったらしい。
能力があるから、と言って余計なことをすると、自分自身に跳ね返ってくるから、注意するように!と忠告だけはしておいた。こうして文書にしてみると、まるでSF小説のようだが実話であり、こんな話は私の周りではいくらでもある。
それにしても、見えないところで繋がったり、見えない力が我々の周りに渦巻いているのは確かなようだ。見える世界だろうが見えない世界だろうが、良くない影響は最小限にして生きるためには、私は私だ!!と言う強さ、自己確立は大切なのだろう。
過去は変えられない、と多くの人は言うが本当だろうか?では、その過去とやらを見せて欲しい、と言ったところで何を言っているのか!?と言われてしまうだろう。しかし、よく考えてみて欲しい。そもそも過去とは何か?を。見せることが出来ないなら、実在しない想像上のものなのだろうか?もちろん実在はしない。
過去とは良くも悪くも個人の興味で出来ている。しかし、悪い記憶(興味)が過去に入り込み、過去を形成、何かというと過去のせいにする、と言うことをやっている人は多い。私がこうなってしまったのは、あの時のあれが原因、と言うように。責任転嫁も人の仕事だから仕方ないし、それは僕もやっている。
しかし、過去は「実在しない想像上のもの、あるいはその人個人の興味」ならいくらでも変えられるはずだ。なんと言っても「今」はすぐに過去になる。と言うことは 「今」が過去を変えるのだ。瞬間瞬間沢山の「今」が過去に流れていく。満足出来る「今」が流れ込めば、過去はどんどん塗り替えられる。
そして「今」に満足すれば、悪い過去は180度変化して良いものになる。辛い過去があったから、今、こうしていられる、と言うように。責任転嫁もこれはお勧めだ。
嫌な過去にいつまでも執着エネルギーを注ぐ必要は無い。興味を失い、執着エネルギーを注ぐのをやめれば少しずつ消滅していく。記憶はしがみつかなければ少しずつ失われる。
嫌な過去、恐怖を抱くような過去があると、もう二度とあんな思いはしたくない、などと未来の見方が変わる。過去が変わると未来の見方も変わる。そもそも、過去も未来もないのだ。あるのは「今」それ以外はあなたの創造物(想像物)だから、変えようと思えば変えられるし、過去を変えるなんて、無理だ!と言えばもちろん変えられない。創造主(想像主)がそう言うのだから。
講演会で、幸せとは何ですか?と質問を受けたことがある。「今に満足すること」と返答した。僕はその場その場で返答の仕方を変える。
「幸せは外にはない。あなたの中にある。」
「あなた方は、幸せの扉を開けるために、外に出て一生懸命扉を開ける鍵を探し回る。鍵が自分の部屋に置いてあることも忘れて」
「頂点を目指すのも悪くない。一生懸命頑張って頂上に立った時に、そこに何も無かった事に気づくために!」
ある患者さんと軽食を摂りながら相談に乗ったことがある。そこで
「ご飯を食べて下さい。」と話すと
「食べてます」と言う。僕は
「では、素材は何で、どのような味がしたかな?詳しく教えて欲しい」と聞くと
「なんとなく食べてました」と言う。
「いや、食べていたのはあなたの体だ!あなたが食べるのだよ!なのにあなたはどこに旅をしていたのだろう。過去か?未来か?いずれにせよ、余計なところに行かず、今、食事をしていることを楽しむのだ。舌で感じ、目で見て、香りを楽しみ、五感を働かせて素材を感じ、今、を徹底的に味わい尽くしてみなさい。」
今を楽しみ、今を味わい尽くす、それがあなた自身が幸せであったことに気づくきっかけとチャンスになるかもしれないのだ。だから「今とともに在りなさい」
僕が中学校などで授業をする時には、子供たちに「今」の大切さを伝えている。どこかで見た文章だが、なるほど、と思い引用している。
与えられた時間に最大限の投資をしましょう。そして、そこから健康、幸せ、成功のために最大の物を引き出しましょう。時計の針は走り続けてます。今日という日に最大限の物を作り出しましょう。
1年の価値を理解するには、落第した学生に聞いてみるといいでしょう。
1ヶ月の価値を理解するには、未熟児を産んだ母親に聞いてみるといいでしょう。
1週間の価値を理解するには、週刊誌の編集者に聞いてみるといいでしょう。
1時間の価値を理解するには、待ち合わせをしている恋人たちに聞いてみるといいでしょう。
1分の価値を理解するには、電車をちょうど乗り過ごした人に聞いてみるといいでしょう。
1秒の価値を理解するには、たった今、事故を避けることができた人に聞いてみるといいでしょう。
0.1秒の価値を理解するには、オリンピックで銀メダルに終わってしまった人に聞いてみるといいでしょう。
だから、あなたの持っている一瞬一瞬を大切にしましょう。そして、あなたはその時を誰か特別な人と過ごしているのだから、十分に大切にしましょう。その人は、あなたの時間を使うのに十分ふさわしい人でしょうから。
そして、時は誰も待ってくれないことを覚えましょう。昨日は、もう過ぎ去ってしまいました。明日は、まだわからないのです。今日は与えられるものです。だから、英語では今をプレゼント(=present)と言います。
だから僕は
大切なのは今だ!五感、あらゆる能力を精一杯使い「今」を味わい尽くせ!「今」を感じろ!!「今」とともに在りなさい!
と話をしている。
年に2~3度だが、一体何が起こったんだ、と言う光景に出会う事がある。
仕事の合間に外を見る。「何だ!これは!!」もちろん、車は普通に走り、人の往来も普通である。しかし、何かが違う。どんな考えも、ぶっ飛んでしまう。ある年に、わかりそうな患者さん何人かに電話して教えた。感想は「窓を開けたら、アルプスの少女、ハイジ」の世界が広がっていた、ビックリしたという。
深夜運動して帰宅途中、一体どうしたんだ!!という満点の星空。満天の星空は普通にあるが、それとは全く違う。すべてがぶっ飛び、無になる瞬間だ。うれしくなる。寒かったが、いくらでもそこに居たかった。
なぜだろう。もちろん理由はない。説明出来ることは人間の作り事である。なぜなら、根底には理屈があり、それは人間の作ったものだからだ。不完全な人間の作ったものに完全なものなど無いのかもしれない。
長い付き合いのある患者さん、との会話
隣の人が無断で留守中侵入したりします。嫌がらせも多い。物も盗まれる。本当に困っています。
私からそちらの警察に連絡しましょうか?
もう、届けてあります。
しばらくして、
解決不能なので他県に引っ越しします。薬はこれからそちらに送って下さい。
しかし、その後も
以前悪さしていた人がついて来て、相変わらず嫌がらせします。監視カメラには写らないが、反応します。毒ガスも蒔きます。空気清浄機が反応します。私の体が参ってしまう。防毒マスクを送って欲しい。それも特別に良い物を。
卸に発注したが、特別に良いものは防衛省の許可が必要だと言う。なので、ギリギリの物を手配しますと返答をもらった。卸曰く、防毒マスクを薬局に売ったのは初めてで、防毒マスク自体扱いはおそらく初めて、とのこと。
送ったのは良いが、夏だったこともあり、その後、
防毒マスク着用で寝ていたら、全身あせもだらけになってしまった。あせもの薬を大量に送って欲しい
と連絡が入った。
本当に、誰かが侵入して毒ガスを蒔いているのか確認したが、
この前、仏壇両側に菊の花をあげたが、30分しないうちに片方が溶けるんだよ。決まって片方、それも30分で溶ける。誰かが透明人間になって、毒ガスを蒔いているんだよ!そう言えば、誰かに言われたな。それは霊障だと。馬鹿馬鹿しい!私は東大を出てるんだぞ!!そんな非科学的なこと、信じられるか!
気の通りをよくしたいから、部屋の入り口に粗塩を盛ってみて欲しい、と話すとやってみるとの返答。
翌日、電話があった。
朝起きてその部屋に行ってみたら部屋中塩だらけだ!だから、言ったろう?誰かが薬を飲んで透明になって犯罪を犯しているんだよ!!霊でも何でも無い!そんな非科学的なこと、ある訳無い!!
どちらが非科学的なのだろう、この人は一体どんな学問を学んだのだろう、と思ってしまう。
自転車で帰宅途中でのことだったが、夕暮れ時南の空を見ると、あれはどう見ても龍の顔だろっ、という雲が出ていた。角度にして30度くらいの大きさ、気がついた人は多いのではと思ったが、あまり関心が無いのか、普段空を見ないのか誰からも話は出なかった。写真が撮りたくて、それ以来しばらくカメラを持ち歩いていた。
カメラというのは不思議な存在をも写すようである。みんな色々な写真を持ってくるが、気持ちの良いものではない事の方が多い。中には龍神様だと写真を持ってくる者もいる。確かに水の中にうろこのような蛇のようなものが写ってはいるが、他の者が見てみると、これは生き霊だ!!と言う。見た側の解釈で神にも仏にもなってしまう。正しくは水の中に居る太い蛇のような存在、である。
私も不思議な存在や光景の写真は撮るが、一番のお気に入りは、花咲く桜にまとわりつく10mを超える大きさの蛇?龍?の写真だ。桜の木に居る時は目立たないが、面白いことに人にくっつくと、ゴールドやシルバーの色を発する。悪い感じはしないので大切に保管してある。
登山した時の空に浮かぶ「龍のような首が出た四角形の光」や「楕円形の神々しい光」の写っている写真もお気に入りである。
しかし、中には気持ちのよろしくないような写真もある。まるで、天気の子というアニメに出ていた半透明の浮遊体のような写真。パソコンに入っているので、印刷してお焚き上げ、そしてパソコンから削除とも思ったが、せっかくの縁かと思い、何かしたら燃やす!と念を送り保管している。
このように、我々は見えない存在に囲まれて常に生活しているのである。本当は賑やかな世界、寂しいことなど全くないのである。
夕方自転車で買い物に出た時の話。南の空を見ると、半透明の菱形の物体が3個ほど浮いている。あれは何だろう?西洋のタコかな?等と考えつつ見ていたが、それにしては高度が高すぎる。何だろうと言われても想像すらつかないが、しばらくして消えてしまった。
また、深夜の体操中での話になるが、夜空に何だかわからない光が現れることはよくある。僕は天文学にも詳しいので1等星レベルの星の配列、惑星の動きは把握している。それが運動している最中に突然1等星が現れるのである。それどころか、木星並みの明るさだったりするから目立つ。
あんな明るい星があるはずは無い!観察していると、そのまま、あるいはゆっくり動きながらスーッと消えていく。もちろん、飛行機ではない、ではイリジウム衛星か?それにしては時間も現れ方も違う。やっぱりわからないが、空には多くの観測の目が向けられている。誰かの目には、留まっているはず、などと色々考えたりするが、やっぱりわからない。だからこそ、この世界は謎に満ちていて面白い。
思いにも力があり、おそらく遺伝子レベルでの変化を引き起こしている可能性はある、エンハンサー、プロモーターなど遺伝子調節領域に作用するとしか思えない事例は多くある。難しい言葉になるが学術的にはエピジェネティクス、エピゲノムの領域になる。
ここに紹介する映画は実話であり、主人公は元気で生活し好青年になって来日している。強い思いが奇跡的な遺伝子のスイッチを押したのかもしれないが、それだけでは説明がつかない。人間の身体は実に神秘的で多くの謎に包まれている。
変わった能力を持つ患者さん、椅子に座ると、少し前にいた方、大変な苦しみだったんですね、と話し出した。前の患者さんの相談内容を話してさぞ、辛かったでしょう、と同情してくれた。このようにすさまじい念は周りに影響を及ぼす。俗に言う生き霊である。逆に亡くなられた人の強い念や思いは死霊である。いずれにせよ、大なり小なり我々に影響を与えている可能性はある。
後輩の薬剤師から相談があった。薬局で心霊現象が出て、本当に参っている、どうにかならないかという。なぜ僕に聞くのか?と聞いても、何とかなると思ったとの返答。もちろん、わかるはずは無い。その手に詳しい人に聞いてみる。粗塩と日本酒を使え、と言う。言われたとおりに伝える。数日後、電話があった。粗塩は調剤室にぶちまれられ、釣り銭が思いも寄らないところに隠されていたという。どうも怒らせたみたいだ。
また後輩から電話があった。原因は事務職員の女の子らしい。彼女がエピソードを話してくれたという。
彼女には彼氏がいて、将来結婚の約束までした中だったという。しかし、彼にはどちらの両親も認める、幼なじみというか許嫁がいた。彼女は彼氏の彼女への強い思いを振り切り彼の元を去った。ある日、婚約をするために彼は許嫁の家に行った。宴会の最中ではあったが、焼けに外が騒々しかった。ベランダで彼が首をつっていたのだ。それからは異常な現象が始まった。彼の筆跡で、忘れない、愛してる、とか短文のメモが彼女のカバンに入り込んだりした。怒らせてしまった以上、僕にはどうしようも無い。坊さんはなんと言っているか?と聞くと四十九日過ぎれば収まると。しかし、収まらなかった。彼女は責任を感じて薬局を後にした。もちろんこの後はどうなったか、僕にはわからない。
生き霊にしろ死霊にしろ、色々な思い、念、記憶はその辺に転がっている。多少なりともわからないうちに影響は受けていたりするが、一番大切なことは、私は私だ!と言う堂々たる思いをいだく、あるいはいだけるようになることが大切だと思う。
僕の薬局では飲み薬や軟膏、点鼻薬などほとんどが手作りだ。効きますように!と思いを乗せて(念を入れて)作るからもちろん効き目は保証付き!と聞いてまさかと思うかもしれないが、事実、なぜかそうなのである。
さて、思いや念にもプラスとマイナスがあるが、雑草食のすすめ、でも書いたように私の友人はマイナスの思いを食べて吐き下しをした。と言うことはまた逆もあるのである。誰もが経験するところではあるが、丹精込めて作った、美味しく食べてもらいたくて作った料理はインスタント製品よりは遙かに美味しい。不満がある人と同じ部屋にいると、沈黙してしまうような重苦しい雰囲気を感じたりする。これは理屈では無い部分で感じ取れる、直感で感じる事の出来るある種のエネルギーなのである。
我々の流派(気功・武術)ではある程度のランクに行くと、この念を非常に重要視する。いわゆるイメージトレーニングが多くなる。例えば、黄金の光が足下から上に広がっていく、とか中丹田と下丹田に手のひらを当て、黄金の滝が流れるイメージをするなどである。それによって自分の身体を変えていくのである。負の怨念ばかり持っていると、悪い人相になってくる。
これらのことを科学的に解明しようとした学者に、筑波大学名誉教授の村上博士がいる。彼は遺伝子、特にエピゲノムと言われる遺伝子発現の研究者だが、思いや念が、遺伝子発現を変化させる、例えば良い白の遺伝子と悪い黒の遺伝子があったとすると、タバコを吸うとか妬み、やっかみ、等の良くない思いや行為は黒の遺伝子を発現させる、感謝の念や喜びなど良い思いや行為は白の遺伝子を発現させる、と言うのである。発現した遺伝子を元にタンパク質が作られ、身体はタンパク質で作られる。がん細胞もガン抑制タンパク質も遺伝子から作られるのだ。つまり、思いや行いが身体を変えると言うことになる。専門的には念や思いが、プロモーターを刺激して遺伝子を発現させる、と言うことになるが、だとすると思いや念もエネルギーという事になる。僕は武術・気功を通してこのことは実感している。
薬剤師の友人Mから、助けて欲しい、酷く体調が悪いと連絡があった。何も受け付けず、食べるとすさまじい嘔吐、下痢が始まる。病院を受診しても原因不明。出される薬は全く無効、服薬でも吐き下しが起こる。このままでは命の危険がある。いつからか聞いてみたが、人里に戻ってからだという。以前も体調崩した時に、人があまりいない所で生活するよう僕から助言をした事があり、人里に戻って来てかららしい。
食べ物で、もっと儲けよう、面倒くさい、少し誤魔化そうなど作った人の思いがわかり、食事をすることで一緒に念(思い)を食べてしまうために気持ち悪くなってしまうと言う。野菜ですらダメである。
危険な賭であるが、雑草を採って送ることにした。春だったこともあり、ハコベ、セリ、ミツバ、ハルノノゲシ、クレソン、タンポポ、クローバー、カンゾウ等食べられる野草を採取した。繊維質も多く消化が悪いので、一般的には今の体調時には禁止だが他に方法は無い。雑草なら人の念は入らない。
食べられた、と連絡が来た。何とか一命は取りとめた。安心した。力強い雑草の生命力を借り、生き返ったケースである。
アクションスターにならないか?というお誘いの手紙が届いたことがある。月給17万、それも良いかな……と思ったが、周りからはどうせやられ役、悪役だからと言われ諦めた。なぜお誘い?と思った。確かにある時は、バリバリの武術家だったり、音楽家だったり、旅行主任者だったり、薬剤師だったり……だから若い頃は「やくざいし」ではなく、「やくざ」と本当に思われていた。このように見る目は付き合い相手によって変わる、そして、あなたは誰かと言われた時「どれでも私であり、どれでも私では無い」と言うことになる。私は、何ものでも無いただの存在、だから立ち位置で変化する。人は本来そうなのだろう。だから、人は誰でも「なりたい存在になる」ことは可能だと思っている。
薬剤師でもある友人のMからメールが届いた。
友達と歩いている息子に、あんたの友達、明日10時40分に亡くなるよ、と言ったら、お母さん、何言ってるの?!と言われた。翌日、その時刻に亡くなったんだけど、息子が、お母さんは一体何なんだ!!と言うの。普通、人がいつ亡くなるか、死が近づいたらわかるよね。
と言う内容。普通はわからない!!と返答したが、そうなの?と相変わらずとぼけている。他にも多彩な他の人には無い能力を持っているが、使わないように!余計なことをするな!!等と助言するが、他の人にもある能力だ、と思っているからやっかいである。
そういえば、Tさんも、彼氏に会ってすぐに
今日の午前中に行ってきた海、綺麗だったね。と話したら、何も言ってないのに何でわかるんだ、と言われ結局別れてしまった。
どうしてわかるのか聞いてみると、目を見ればわかります。青い海が見えたから。という。それはみんながわかる訳ではないので、あまり言わないように、とアドバイスをしたことがある。
このような人たちは、普通に存在している。最初は超能力?と思ったが、どれも一つの個性であることに気がついた。、もちろん普通に生きている人たちである。しかし、色々なことがわかる反面、情報量が多すぎて体調を崩すことがあり、相談にやってくるのである。
最初から、あり得ない!はやってはいけないと思ってはいたが、つい、それをやってしまったことがある。それはH心療内科を受診したKさんだった。
薬を頂いたのですが、飲めません。
飲みたくないですか?理由はありますか?
全部吐いてしまうのです。
気持ち悪くなるのですか?
吐かせられます……
ん……!?
おまえには必要ないと言われます。
誰に?
わからない。吐かせられます。飲ませてもらえません。
そんな、あり得ないかと……
わかって頂けないですか?
では、別のところを受診しては……
紹介はしたが、いざ、行こうとすると足が動かない、そこは違うと言われているという。
数日後、血相変えてご主人がやってきた。
ウチの女房はどうかしたのでしょうか?
どうかしましたか?
昨日、DVDをレンタル屋に返し、その後M市の霊園に墓参りに寄った、途中I市のお店で銘菓を買いT県K市の叔母宅に行ったのです。帰宅後、妻にI市の銘菓、叔母さん喜んだでしょう?と言われて。行動は言ってなかったのに、およその時間まで全て当てられてしまったのです。
その後も
村長をやっていた、あなたのご先祖様が何か言ってるよ、と言われ、実家にご主人は電話したが、そのような人はいないと言われた。しかしその後、
敷地の奥の物置の中、角に上に重しが乗っている冊子が積み上がっている。その一番下に名簿があり、その中に私の名前が載っているはずだ、と言っているよ。
実家に行き、物置の中を探すと確かに角に冊子が積み上がっている。一番下にあったのは確かに名簿。開けてみたら、確かにその村長の名前が書いてあった、と言う。
これは幻視・幻聴では無かったのだと気がついた。改めて、きちんと相談に乗ろう、と思った。そのような心がけのためか、幻視・幻聴では無い例が大変多い。見極めがとても難しい。幻視・幻聴で無ければたぐいまれなる個性、となる。Kさんを初めとして、たぐいまれなる個性を持った人たちと長い付き合いをさせて頂いている。
若い頃、僕は年1回7月30か31日あたりに緑の汗をかいた。最初の年は合宿で東北本線に乗っている時だった。最初は座席が汚れていたのかと思った。しかし、宿泊先の松島の旅館での脱衣所での話だが、友人に下着が深緑に汚れている!と言われて気がついた。見ると、Tシャツは汚れているが、下着は深緑一色、これは体の中から出たものだった!とこの時に気がついた。
翌年は、部活のために行った部室で後輩から指摘された。額に何か着いてますよ!と。ティッシュで拭き取ると黄緑色の汗だった。時間がたつと深緑に変色した。そして、この年に限り8月に入ってもう1度緑の汗が出た。心配だったので帰省先の総合病院を受診した。女医さんだったが、あり得ない!との返答。実際に緑色なのだが、それでも、何かこぼしたんですよ!とか教科書に書いてない!とか言われただけで病院を後にした。
大学に戻り、バイト先のお医者さんに相談した。真面目に相談に乗ってくれたが、う~ん、わからないなぁ~……生体成分ではリボフラビンあたりが蛍光色を示すが、深緑には変色しないしなぁ~……、だった。この経験から、どのような相談でも、あり得ないと最初から否定するのはやめようと思った。
絶対的な正しさは存在するのか?
出来た物は壊れ、生まれた物は死ぬ。これは我々のいる現象界では当たり前で、創造と破壊、生と死も両極となり、現象を担っている。この世界で、これ以外に何か正しい事があるのだろうか?
実はどこを探しても見つからない。正しい、間違いの判断の根底には理屈がある。しかし、その理屈は不完全な人間の考えたこと。その上で成り立つ正誤は絶対的な指標を示すものではない。
となると、正誤の基準は「現時点の生活・環境で大多数に都合の良いこと」となるのかもしれない。1+1=2も絶対的に正しい訳で無く、これがブラックホールのような時間と空間を曲げてしまうようなところでは通用しないかもしれない。しかし、我々の生活で都合良く問題なければ、それで良いのであろう。
なので、絶対的な正しさを追い求め生活すると苦しくなってしまうのではないかな?と思ってしまう。それだけ真面目な人が多いのである。
それはあなたの中にある。私の周りには特殊な能力?のある人が何人もいて、次のようなことを話してくれた。「戦死した何人かと会話したんだけど、ある人は、私は国のために敵国の人間を大勢殺した、英雄だ!だからこうして天国いられるのだ、と言い、別の人は、私は戦とはいえ、人を一人殺めてしまった。だから罪を償うために地獄に落ちています。と言うんだよね」
これからもわかるとおり、正しい、間違いを決めるのはその人個人にある。当たり前だが、あなたが正しいと思った事は正しいし、間違っていると思っていることが間違いなのである。あなたはすべてを決める帝王なのである。
ところで特殊な能力、というのは存在しない。どんな能力も一つの個性であり、誰にでも起こりえることである。
体操教室で話をするこの言葉、多くの人は最初は何を言っているのだろう?と思ったり、世界の中に私は存在する、当たり前ではないか!と返答が帰ってきたりする。では、世界とは何か?と聞くと一呼吸おいて、それぞれまちまちな返答が帰ってくる。百科事典には共通の答えが書いてあるが、多くの人ははそんなことは意識せず生活している。つまり、世界とはその人固有のものである、とも言える。つまり世界とは個人の興味で出来ている。素晴らしい世界にするも、暗く生きにくい世界にするのもあなたが何に興味を示すかで決まる。つまり、あなた次第なのである。
世界の立役者である、あなた自身に自信が無ければ、世界はもろいものになるだろう。
どちらかというと好ましくなく受け取られるが、実はどれも当たり前のこの言葉。
自己中心、理由は単純、「あなた無しで世界は無い」からである。だから世界の中心であるあなたが世界を支えているのである。なので、しっかり立てるようにななら無いといけない。
いい加減、これほど良いことは無い。いい加減なやつ!いい加減にしろ!と言われるが、ここで言うのは後者の方。善悪、上下、優劣、正誤などの物さしにこだわりすぎると、実に苦痛な世界になってしまう。すべてこの両極の間で現象しているのである。
女性に男性と同じ仕事をさせろ!と言ったって無理がある。筋力も体格も違う。深夜遅く暗い夜道を帰る訳にも行かない。男性、女性それぞれの利点を生かす生き方がなぜ出来ないのか不思議でならない。家事仕事は女性が得意とするところ、子育て中の女性の家事仕事に対する給料は金額に換算すると40万円と何かで読んだことがあるが、それはそうだろうと思う。早朝から夜遅くまでの勤務である。多少休憩があってもそのくらいの給料にはなるだろう。金にならなければ評価されない、は大きな間違いである。本当に必要な仕事とは賃金が発生しなくてもやめられない仕事である。給料もらえないならやめる、等が出来る仕事は必要では無い仕事なのである。
1円でも大切なお金、だから大切にしなさい、と言ったかと思うと、たかが1千万!焼き芋も焼けねぇ~!と言うこともある。その時の条件で言うことは変わる。お金は沢山欲しい、買いたい物は沢山ある、と思ったら、是非、なぜ?と問いかけて欲しい。意外と理由が無くなったり、他人との比較だったりすることがある。あなたがお金を使うのであって、お金に使われたはならない。そういう私も、車は買うし、外食もする。しかし、高級料理も無ければ、庶民料理も無い。高級車も大衆車も無い。食べたいものを食べ、乗りたい車に乗るだけ。当たり前だが、買えなければ買わない。
丸い金属と重たい紙、彼らがお金と呼んでいるこれが文明人たちの本当の神さまだ。
職業というのが何か、説明するのは難しい。喜び勇んでしなくちゃならないが、たいていちっともやりたくない何か、それが職業というもののようである。
ヨーロッパにはたぶん、私たちの島のヤシの木よりもたくさんの人がいるが、彼らの顔は灰のように暗い。仕事が楽しくないから、職業が彼らのあらゆる喜びを食いつぶしてしまったから、仕事をしても、実どころか葉っぱ一枚作って喜ぶこともできないから。
それゆえ職業を持つ人びとの心には、憎しみの炎がめらめらと燃えている。この人たちの心の中には、鎖でしばられ、逃げようとしても逃げられない獣のような何かがある。そしてすべての人びとが、他人をうらやみ、他人に嫉妬しながら、お互いの職業を比べ合い、あの職業は尊いとか卑しいとか、しきりにごたくを並べている。
そうではなくて、すべての職業は、それだけでは不完全なものなのだ。なぜなら人間は手だけ、足だけでなく、頭だけでもない。みんなをいっしょにまとめていくのが人間なのだ。手も足も頭も、みんないっしょになりたがっている。からだの全部、心の全部がいっしょに働いて、はじめて人の心はすこやかな喜びを感じる。だが、人間の一部分だけが生きるのだとすれば、ほかのとことはみな、死んでしまうほかはない。こうなると人はめちゃめちゃになり、やけくそになり、そうでなければ病気になる。
文明人の生き方は、職業のためにめちゃめちゃになっている。しかし、そのことに彼らは気がつこうとしない。そして私がこんなことを語っているのを聞いたら、まちがいなく、彼らは私を馬鹿だと言い切るだろう。自分でどんな職業についたこともなく、ヨーロッパ人のように仕事をしたこともないのだから、判断できるわけがないのに、裁判官になりたがっている、と言って。
これは、南海の酋長がヨーロッパを訪れたときに書いた紀行文の一部である。全くその通りである。