昭和50年刊 第6号

巻頭のことば

島成光

自然の運行は一時もやまぬ。現在は再び来らず。現在の現状と健康を喜び、自然と社会に感謝し明日への希 望を、そして勇気こそ我々身障者として大切なことである。

魂も肉体も、吾が精神によって左右さるるものであるが故に、希望を失ってはならぬ。人は信念により強く 生きられるものであって、私達喉頭摘出者は予期せざる声を喪失せしも体軀は健在である以上、社会人として社会に奉仕せねばならぬ義務がある。身体障害者として社会の恩恵に浴して毎日をいたずらに過してはならぬものがある。

発声の技能を修得し希望をもって生きんが為めの勤労精神を常に怠ることなく、生きがいのある日々を過ごされんことを切に会員諸彦に望む次第であります。

会報は我々の心の糧となり修身として愛読されんことを

以上


健康 の あり が た さ

現在のありがたさ

感謝の生活こそ貴きものである


挨拶

信大医学部 教授 鈴木篤郎

風薫る五月、信濃路に一年中で一番清々しい季節がやって来ました。本会が早くも創立七周年を迎え、会報も六号になるということで、年月のたつのが早いのに驚くばかりです。その間単なる親睦や慰安の集りだけでなくお互に発声法の研究や、社会復帰に知恵を出し合い自らの力でかちとった健康を将来長く保持するための努力をしあう会として、順調な歩みをして来たことを心から喜びたいと思います。さらに最近では、「声が出なくなるぐらいなら死んだ方がましだ」などといって手術を拒む患者さんが、会員のどなたかの訪問によって慰めと励しを受け、明るい希望を持って一日も早く病気根治の手術を受けようという気持に変られた例も一、二に止まりません。このような会員の方々の先達としての積極的な役目も、これからは益々大きくなって行くものと思われます。先日久し振りに食道発声練習の会に出席させていたゞき、指導する方もされる方も文字通り渾然一体となって練習に没頭されている様子を拝見し、単なる一つの技術練習会という枠をはるかに越えた人間交流の場とでもいうべきムードに強い感激を覚え、教えられる所が多大でした。今後も、単に局所への注意のみならず、全身管理に充分留意されて、それぞれの天寿を全うされるよう、そして皆様が身障者としての受身的な立場を脱し、社会に対して与える立場の者として御活躍になりますよう祈ってやみません。

(昭和五十年五月九日)

信州人

信大附属病院耳鼻咽喉科 田口喜一郎

長い信州の冬があけ、春が急ぎ足に通り過ぎると、うっとうしい梅雨が来る。梅雨が上ると暑い夏が花火のように現われ、間もなく美しい秋に移る。この信州独特の気候にはぐくまれ、信州人の気質もつきつめた、徹底した、妥協しない、朴納な特徴を持つ。

信州人が多いわが信大耳鼻咽喉科も患者さんにとっては仲々近づきがたい雰囲気を持っているのではないでしょうか。又我々の方からは発声教室もベテランの先輩患者さんにまかせきりで大変心苦しいのですが、これも信州人の性格によるのかも知れません。然し裏を返せば発声教育といった特殊な仕事はやはり身にしみて発声のために努力され、幾多の研究を通して「コツ」を体得された方にお願いするのが理想的であり、その点において 我々は素人でありますので、直接は関係出来ないというのが事実です。

患者さんの方から、発声に限らず、何かと医師に相談したいが気楽に聞くことが出来ないという声も一部にあります。この点はそんなに遠慮される必要はないのですが、むしろ文書や手紙でどんどん質問して頂ければよいのではないかと思います。 文書や手紙ですと、我々もわからないことは充分調べ、都合のよい時に御返事出来るので大変好都合です。公表しても差支えない問題で、多くの皆様にお役に立つようなものは、「信鈴」に少し頁を割いて頂いて、一括してのせて頂ければ、同じ問題に悩む方々に一つの方向を示すものとなるでしょう。

信鈴会も大きくなり、その活動も発展の一途を辿っていることは大変喜ばしい次第です。唯もう一つ欲をいわせて頂くならば、喉頭切除術を行う前の患者さんに対する御理解も願いたいということです。こんなこともありました。信鈴会の会員の一人の方が気管口が狭くなったので、その拡張手術のため入院したことがありました。 会員の方々がお見舞に来られ、いろいろ話をされた折、 近く喉頭切除術を受ける予定の患者さんかその話を聞いていて大変精神的ショックを受けたことがありました。その話の内容は手術法とか再発とかいった問題のようでした。

一般的にいって手術前の患者さんが、自分の病気やその手術に関する話を、既に同じ手術を受けている患者さんに聞いた時、その反応に二つあります。一つは喉頭切除術を受けてもこんなに元気になるの なら嬉しいと安心するタイプで、これは問題がありません。ところがもう一つ、その話を聞いていて、自分の声が永久に失われることに恐怖と落胆を味わう方が少なからずあります。特にその話の内容が病気の再発とか悪化した会員の事に及ぶ時は居ても立ってもいられない状態となり、不安のため食事ものどに通らなくなる場合もあります。又同じ理由で、こういう方の前では気管分泌物の喀出や呼出を行なわない方がよいし、気管口の周囲は特に清潔に保って欲しいと思います。

大変お気に触るようなことも述べましたが、これも患者さんの多くが信州人であって、前述したようなことを大いに気に病む人が多いことと結びつくものであり、失礼の段はお許し下さい。

最後に信鈴会では喉頭を失ってもリハビリテーションに努力され、社会復帰して居られる会員の方々が何人も居られ、これ等の方々は特に全会員の模範ともいうべき方々であることを強調したい。これ等の方々は信州人気質の代表的人物であって、喉頭摘出後の患者さんに会って頂き、大いに激励して頂きたいと思います。人生の大きな転機を迎え、悲嘆にくれている患者さんにとって、これ程元気づけるものはないでしょう。

私は最初信州の気候と信州人の気質、そこから生じた独特な文化について述べようとしましたが、いつの間にか理屈っぽい雑文になってしまいました。信鈴会会員の皆様の御健康と益々の御発展を祈って筆を擱きます。

近頃思い付くこと

松本市 石村吉甫

昭和四十四年春会員三十人たらずで発足した信鈴会も年を経るにしたかって会員数も増えて今年は七十人になんなんとするという。会員数の増加は会としては発展したことになり、悦ばしいことであるに はちがいないが翻って考えてみると、そんなにこの病気の人が増え手術後音声を失うのかと思うとむしろ気の毒な思いにかられる。特に働きざかりの若い方も居られると聞いては同情の念を禁じ得ないのである。

さればこそ信鈴会の活動分野もここにあると思われ、 信大病院と長野日赤病院の食道発声教室は着々効果を上げ、次々に指導的な役割をはたす人が生れ所謂後輩の指導に当られているのは、まことに心強い限りである。それに引替え人工喉頭の方は希望者には笛を頒ち、熱心な方々は驚く程上手に発声されているが、個人差、即ち肺活量の違いからゴムの厚狭や幅の大小が異ったり、笛の型式によっても又異なる等些細な点で違いが生ずるので人工喉頭使用は食道発声程困難ではないが、さればといってすぐには中々発声出来ない。食道発声教室のように 毎週とはいわなくても或る機会に話合う必要があると思 う。というのは笛の頒布を受けた方が、その後の使用に相当疑問があるように思われるからである。口内型と口外型ではおのずから使用方法、注意すべき点も異なるので、同型式を使っている人に種々指導を受ける必要があると思われるからである。私は口外型を使っているが、金属製とプラステック製では共鳴が違うように思われる。それは次の経験から感じたのである。ある日食堂で食事をしていた時隣のボックスの若い女性が笛(金属製)で話す度に振向くので、恐らく異様な声に振向いたものと思われたが、後日プラステック製で同じ場所で試みたと ころ誰一人振向く者はいなかった。 この点ではプラステ ックの方が自然に近かったのではないかと思う。駅等雑踏中で試みたが、これはどちらも同じであった。 こういう経験やら使用上の注意などを話合う場もまた必要ではないかと近頃感ずる次第である。

しゃべる(その三)

松代 吉池茂雄

信鈴第五号で私は、食道発声は人工喉頭より容易であると解されるような屁理屈を述べたが、それは、「人工喉頭はらくに発声できる」と云われている事に対する反撥と、明瞭で、聞き手に快感を与えるような発声の困難なことを云いたかったのだ。そんな気持があのような屁 理屈になったのだ。真実は、食道発声は人工喉頭に比べて、大変むずかしいものであると思う。こう云うと、「なんだお前は、らくだと云ったり、むずかしいと云ったり、お前の云う事は支離滅裂だ。一体どちらが本当なのか 」と詰問されるだろうが、まあちょっと待ってください。物事は、いろいろな見る(考える)角度によって、 白くもなれば黒くもなる。一つの事に対して答は必ずし も一つとは限らない場合があるのです。そこで食道発声がどうしてむずかしいかを、今度はまじめに考えてみよう。

人間の発声は常人(健康体)であれば、肺から出す呼気で声帯を振動させて音を出すのだが、声帯を摘除された私たちは、食道発声の場合、一旦食道にのみこんだ空気を逆に吐き出して、食道の上部を振動させて発声するわけである。したがって食道発声では、健康体の発声とは全然異なったコースをとるので、一度肺呼吸による人間本来の発声法を習得した私たちにとって、これは健康時には考えてもみなかった大変な事なのだ。これは健康体の発声から見れば、極めて不自然な発声法と云ってもよいだろう。不自然な発声をするのだからむずかしいわけである。

これに対して人工喉頭の発声は、たゞ声帯が人工物になっているだけで、健康体の発声法をそのまゝ、肺からの呼気で発声するのであるから、自然な発声法であり、この点が食道発声に比べてらくだと云える所であろう。

さて私は、一応声を出すまでの過程で、食道発声と人工喉頭との難易を比較したが、そのようにして出た声をできるだけ明瞭な、快よく聞こえる声にまで引き上げるには、前にも述べたが、なみ並ならぬ困難が伴なうのである。この難関をのり越えてゆかなければ、立派な(喉摘者の発声で)発声にはならないのである。

私たちの会話で大切な事は、発声の明瞭さと、快よいひゞきであると思う。食道発声でも、人工喉頭でも、また健康体でも同様だが、この点を無視しては、せっかくの努力の発声も、騒音同様の不明瞭な聞きにくい響になって、聞く人は耳をおおいたくなってしまう。そこで明瞭な発音と快よい発声について、私が気付いている事を少し述べてみよう。

食道発声は私にはできないので、指導の面では何も云えないが、聞き手の側から気になっている点を述べて、練習の参考にしていただければと思う。食道発声を聞いて、気になる点がいくつかある。

1.発声と同時に呼吸孔(私たちにだけある首の孔である)から呼気の出る音が邪魔になる。

2.食道にのみこんだ空気で発声するために、ことばが短くコマギレになる。

3.そのコマギレの間々に、空気をのみこむクンという音が入る。

4.コクンという音と同時に、こみこむ動作が見えて、 耳だけでなく目の邪魔にもなる。

「コクン今日は、コクンよい、コクンお天気、コクンですね」という具合で、しかもコクンとのみこむ動作まで加っては、聞く方もらくではない。どうも悪口みたいになってしまって恐縮だが、実際そうなんだ。だからあなた方の研究と努力で、これらの点を改良していたゞけ れば、快よい発声になると思う。

食道発声するのだという事を、云いかえれば空気をのみこむ事を意識しないで食道発声ができれば、これらの欠点がかなり除去されるのではないだろうか。

或る奥様が云われた。「うちの主人は、食道発声で寝言を云うのですよ」と。ここまでくれば、食道発声も堂に入ったものだと思う。

尚、食道発声は声が小さいので、騒音のある所では聞きとりにくいと云われるが、これも練習と努力とで、ある程度大きくする事もできるのではないだろうか。それには体力も大いに影響すると思うのだが。

明瞭な発音は、健康人でも同じことだが、口を大きく動かす事だ。唇だけでなく、アゴも大きく開閉する事である。健康人でも唇だけで発声している人があるが、その人のことばが不明瞭なことは、よく見受ける事である。 私たちの発声でも同じ事である。いろは四十八文字を発音するには、四十八通りの口型(口の形)がある。この四十八通りの口型を作らないと明瞭な四十八音は出てこないのである。

口を(アゴまで含めて)十分に開閉するために、阪喉会の人工喉頭で、口ゴムのつけ根で直角に曲っているのは、大きな、重要な意味がある。直角の所が奥歯にひっかかって、人工喉頭の先端を固定するから、口を大きく開いても管がすべり出す心配がない。 口ゴムの先は、できるだけ口腔の奥へ入れた方が、発音が明瞭になる。片手で笛を呼吸孔にあて、もう片方の手で、すべり出すのをおさえていたのでは、両手がふさがってしまって、話すこと以外何もできない。 口ゴムが直角に曲っているので、その方の手があくのだ。このあいた手で、電話の受話器を持つ事もできるし、又話しながら筆記する事もできるのである。笛に両手をとられてしまって「おお、神様、私に手をもう一本ください」などと、悲壮な歎願をしなくても、生れながらにいただいている二本の手だけで間に合うのである。

声を大きくすることは大事だが、だからと云って、どなったり、わめいたりの大声ではいけない。どこまでも爽やかで、相手に快感を与えるような声でなければならない。爽やかな澄んだ発声なら、どならなくても遠くまで聞こえる筈だ。

最近の流行歌手の中には、異様な声をはり上げたり、 歌詞や曲想とは無関係な大げさな身振りをしたり、又ボディアクションとか云って、アクロバットのように舞台であばれ回って喝采を受けているものがあるが、それは歌のうまさに対する賞賛の拍手ではなくて、異様な声や 動作に対する冷笑にも似た拍手だと気がつかないのだろうか。「舞台と客席が一体となって......」などとおだてられて、きょう声をはり上げるなど、全く狂気のさたと云うか、世の中が狂っているのだ。商店の売出し宣伝、 映画館、パチンコホール、選挙の街頭演説などで、 スピーカーのボリウムを一ぱいに上げた放送が、聞き手にど れほど不快感を与えているかに気付かないで、たゞ強くさえすれば相手によく聞こえると思っている頭の弱い連中なのだ。私たちの耳に快よく聞こえる音の強さは、科学的に研究立証されている。それがどの位であるかは、 私は不勉強で知らないが、そういう事にも関心をもつ必要があると思う。話すことは、相手に聞かせる、聞いてもらうことなんだから、相手に不快感を与えるようではいけないのだ。誰であったか「安心して聞ける」という表現をした人があったが、本当に安心して気持よく聞ける発声になりたいものである。

そのために、一応声が出るようになってからの練習と研究の努力が必要なのだ。これを忘れると、雑音、騒音程度の発声で終ってしまう。私が前から何度も云っている「むずかしい」と云うのは、この事を云っているのである。でも何とかして、この「むずかしさ」を克服したいと思っている。

そして、明瞭で快よい、安心して聞くことのできる発声ができれば、発声の方法にこだわって、他の方法をひぼうするような排他的な考え方をする必要もなくなるのではないだろうか。

人工喉頭で快よい発声をするには、いくつかの注意しなければならない点がある。私が気付いて、常に注意している所をあげてみよう。

・振動ゴムは健在か。(クタビレていたら交換する。)

・その張りかげんはどうか。

・口ゴム(口の中へ入れる一番先端のゴム)の切口がどちらを向いている時が一番調子がよいか(向きを変えて比較研究する)

・発音部がゴミやカスでよごれていないか。(汚れていたら水で洗う)

・空気もれはしないか、管や発音部にもれる所があったら取りかえる。

・口ゴムの長さは適当か、先端が舌根の中心部にあるのがよろしい。

・人工喉頭は口に入れるものだから、衛生上から云っても、又機能の上からも、常に清潔にしておかなくてはいけない。

・しゃべる速さと強さは、どの位が最もよろしいか、テープにとるか、誰かに聞いてもらって批評してもらうのがよい。自分の発声のよし悪しは、自分の耳ではわからないのである。だから機械に頼るか、他人の耳によるかで、客観的な評価が必要なのである。私の経験では、これは食道発声でも同様だと思うが、ゆっくり一音一音をていねいに、あまり気負って強くしないうに発音発声するのがよいと思う。 以上気付くままに順序もなく並べてみたが、これらの事(他にもまだ注意点があると思うが)は常に注意して人工喉頭の機能が十分に生かされるようにしなければならないと思う。

器具を使うには、その器具になれること、器具を使いこなすことが大切である。習うことはなれることである。 相手の性質をよく知る事である。器具の性質をよく知っ て、はじめてその器具を使いこなすことができるのであ る。人工喉頭の振動ゴムは薄いゴム片であるから、口腔内の熱と湿気で変質する事など、第一に知っておかなければならない事と思う。こんな事を知らないで、いくら練習しても、その練習は実を結ばないだろう。 口ゴムに柔かいゴムを使っているのも、音を柔かく明 瞭にするのに役立っているのではないだろうか。

私は長年人工喉頭と共に生活して来たが、私がまだ知らない、気付かない事が たくさんあると思う。ここではとりあえず、私が平素気付いている事を並べて、ご参考になればと思って書きました。

―一九七五・四・二〇―

私の体験

塩尻市 塩原貢

我が信鈴会も会報第六号の作成に当り、事務局より原稿送附せよとの要求を受けましたので、私の四年間の体験と思い出を会報の一頁に加えて貰う可くペンを取らせて戴きます。私も 四十六年の五月に手術を受けまして早くも満四ヶ年を経過しました 今日先ず病気については年明となりまして再発の心配はないものと一安心して居りますが、我々喉頭摘出手術を受けた者の共通の悩みは 発声についての事だと思いますが、私も手術後此の四年間声が過去の如く自由に発声出来たらなあと何時もそれのみが頭から忘れ去る事の出来ない一つであり明くれ過去の声帯から自然に出て来た声の有難さに感謝し乍ら、 其の声を帰らぬ愚痴と思い乍ら恋しさのあまり家庭で話の中に出て来るのですが、これは只一人私のみでなく、声を失なった我等仲間は皆同じであろうと思います。日夜声の事が頭にあるので、時折夢を見て夢の中で大声を上げて話し、ああこんなに声が出るようになり嬉しい事だと思い乍ら目を覚し、ああなんだ夢であったかとがっかりする事があります。それは常に頭の中で過去の声を忘れ得ぬからであると思います。だがしかし、如何に過去を返り見たとて二度とは過去には戻れぬ体であります。過去を忘れお互に頑張りましょう。自身より不幸な人が沢山ある事を思いなおし我身の幸福である事を喜ばねばならぬと思います。声を失なった我々の目標は一日も早く新しい声を求めなければ社会復帰が出来ません。新しい声とは食道発声又は人工喉頭でありますが、其声を求めるには、私が今申上げる迄もなく自身の努力以外の何者でもありません。外に電気発声器があるようですが現に使用して居る人も御座いますがあまり結構な道具であるとは云えないように思います。食道発声、人工笛共に何れも練習に専念して努力の結晶が新しい二度目の声になって現れます。発声は食道発声や又は人工笛に於ても是れは個人の自由意志に依って決定し練習に先立ち、何れかを選んで迷わぬことだと思います。是れは私が四年間の経験ですが、私ははじめ先生の御指導を受けて食道発声を習い、途中で人工笛を使いはじめて迷った為、今日では食道発声も笛の方も双方満足ではありませんので 初めから一方を選び二道掛けぬ事が大切だと思います。 是れは四年間の体験の一部ですから一寸書かせて貰いました。御参考までに申上げておきます。

次に、愚文続きで大変恐縮して居りますが、あともう少し書かせて貰いますが、去る五月十七日に東京の銀鈴会の総会にすすめられ、私は会員ではありませんが其の会に出席して見て参りましたが、目下銀鈴会々員は約一千名位の由ですが、当日の出席者は二百五十名位であったかと思いますが、総会議事終了後食道発声の競技会が行われ、出場者二十名ありまして、二十名の内人工笛は一人であと全員が食道発声者でありましたが、東京の会は熱心に指導されているだけに其の発声の上手な事に私は非常に感心しましたが、其の中に一名二十代と思われる若い女性が出場しましたが、挨拶の中に手術後父を失ない、又母も後を追う様に続いて他界したと不幸続きの自分であるが、手術後銀鈴会に入会し諸先生の御指導を受け、今日では何不自由なく社会復帰をしているが、今後出来る限り声を失なった人の為に尽したいと挨拶を閉じましたが、自分は声を失ない続いて両親が他界したと 云う不幸続きの中に何の不安さえも見止められず感謝の気持ちがあふれている感じさえ受けました。今だ二十代の若い身である女性がこんなに元気で社会に立って居るのに、自分は其の女性の三倍に当る六十余年を自分の持って生れた声で話し続けてこられたことを本当に幸運者であると感謝せねばならぬのに、愚痴など以っての外であると東京の総会に出席した事が実に有意義であったと元気づけられて帰郷しました。

以上が手術後四年間の私の体験ですが、声を失なった方々並に自分の体の障害の為に孤独になって居られる方の御参考になればと思い、つじつまのあわぬ文章ですがペンを取りました。

発声の喜びと感謝

大町市 大橋玄晃

私は昨年六月十二日に全摘出の手術を受け、七月四日から食道発声の練習を始めました。幸いにも第一回の発声練習で、原音″ア″が出ました。それは手術前に婦長さんから渡された食道発声の手引をよく読み、げっぷの練習に努力した事と、鳥羽指導員さんの御親切なる度々の慰問とはげましを受け、必ず声は出るものだと言う確信を持った為と考えます。それからは病室でも廊下でも表を散歩しても″ア・ア " の練習丈けに打込みました。 お蔭で七月十七日に退院する時には片言乍ら″ありがと" と挨拶する事が出来ました。その後指導員の皆さんの熱心な御指導により発声の方も順調に進み、又毎週の練習日木曜日が待遠しい位でした。筆談は二週間位でやめ、 食道発声で用を足す様に心がけ、十月末には 食道発声練習教本をどうやら読めるようになりました。ところが十一月 に入ると非常に忙しく家にいる時間が少なく、心のゆるみも重なって、今迄三時間から四時間位練習していたの が一時間も出来ず、又教室へも行けませんでした。十二月に入ってからあわてて又拍車をかけましたが一向に上達いたしません。古人の諺"すべてのもの は一ヶ所に留る事はない。進むか退くかのいづれかである"と言う言葉を痛切に感じた次第であります。又空気の取入れ方も嚥下法から吸引法(食道発声の手引二〇頁)にかえ、阪 大教授佐藤博士の食道発声法を読んで吸気注入法に更めて練習をしたりして色々迷って終い、人からはだんだん話す言葉がはっきりして来たと言われても自分としては 少しも進歩が感じられない。あせりと自信喪失に陥入って終いました。

ここで思い切って三月十五日に大阪大学病院の食道発声教室の見学に出かけました。矢頭指導員さんの紹介により三十名からの皆さんの暖かい歓迎をうけ佐藤博士並に奥村会長さんにもお会いいたし、一寸した会話のテストを受け別に注意を要する事はない、八ヶ月位でそれ丈け話せれば上等である。是れからは只々練習丈けだと おほめの言葉を頂いて、やっと自信を取戻した次第でした。今ここにその見学させて頂き学んだ一端をのべ方の参考にして頂ければ幸甚と存じます。練習時間は一時間で教える人も教わる人も汗だくだくで、自分の今迄の練習態度を深く反省させられました。第一段階では徹底して原音 "ア"の発声練習で、空気の取り入れ方は佐藤博士と指導員さんの指導により吸気注入法乃至は吸引法でした。第二段階では原音"ア"が完全に出る様になってからア・イ・ウ・エ・オの五十音、濁音、半濁音、拗音等百音節をしっかりと練習し、次に一回の吸引した空気でア、ア、ア、アと云う連続音と、アー、アーと長く引っぱる長音の練習。第三段階では基礎会話で四音位から十二音位までの練習。 第四段階では句、短文等テープを使って朗読の練習。

右の段階は各グループで各指導員によってテストの上順々に進んで行く訳です。

注意事項としては

1.長音の練習は会話の時に語尾が消えない基礎練習であるからきっちり行うこと。

2.気管口から雑音が出る場合は指で気管口を軽くおさえてア、ア、アと発声し雑音がない声になったら静かに指をはなしてア、ア、アと続けて発声すること。

3.七音節位から一回の吸引した空気を初めの方の言葉には少しずつ出し、最後の言葉に残った空気を全部出し切って終うこと。これは言葉の語尾をはっきりさせる事と胃に空気を入れない為である。最初は仲々むずかしいが練習により出来る様になる。

又、会話上達法としては、七・八音位出来る様になっ たら小学校一年生の国語の教科書を読み、完全に読めるようになったら二年、三年、四年と六年生の本が読める様になったら一人前で、その際必ず句、読点まで一息で読む様練習する事と教えて頂いた。

私も仲々思う様に進歩はいたしませんが、今は先づ百音の発声、連続音、長音から始めて一年生の国語の朗読を一日三時間位やって居ります。殊に銀鈴会の中村先生の指導中、のどの上部を振動させる事によって、より発声音が澄んで高く出ると言う点に注意して、鏡を見乍ら練習して居ります。食道発声は何と言っても不断の練習の積み重ねと、どの先輩からも言われ、先づ自分自身に克つ事であるとつくづく考えさせられます。そして現在の心境は話はまだまだ不充分でも歩く事も出来るのだし見る事も聞く事も出来るのだと言う事に感謝し、今後更に精進して行きたいと思って居る次第でございます。

ある日の私

松本市 須沢德正

何でそうなるの!テレビの萩本欽ちゃんのセリフではないが、何でそうなるのとしみじみ考える時がある。

私が舞踊をはじめて十年近くになるだろうか、そして今年もまた花の本葵先生(実は私の小学校の同級生)の還暦祝の発表会が、五月十一日に催されるので賛助出演することになった。名取りのかた書もない 平の私が、主催者の花の本寿宗家夫人になった以知子さんと共演するのである。「春こうろう」の題名で、荒城の月の舞踊を琴曲によってやるのである。城主の姫君役の以知子さんの相手として若武者になって踊る自分を想像すると、何とかっこうの良い事ではないかと思うものの、一寸自信がない。一昨年は光源氏をやってそれでもどうやら二枚目にばけられたが、今後はどんなようにやれるかと心配になる。

毎晩の晩酌をつつしみ練習をして、参考に光源氏を踊った時の八ミリを写し乍ら考えて見るもののやはり不安だ。

歌詞はだれもが知っていてわかり易いだけにごまかしがきかないし、舞台度胸も一向に駄目。初めて第一回の発表会の時には素踊りの白扇を五人組で踊ったが、すっかり上った私は一まわり回る場面で皆とは反対に回って家内に笑われたものだった。「おじいちゃん、あれはおじいちゃんだけ別の回り方をするんだったのね」と孫娘に冷やかされて苦笑したものだ。今度はそんな訳にはいかない。一流の名取り連中のそろっている中で、東京の歌舞伎の面々が応援参加の中で間違ったら事だ。それこそ大変だ。 何でそうなるの、かと又思う。

しかし、はじめたからにはうまくやりたい。成功させたい。声帯のない私とは無関係だ。六十才を過ぎた年令とも勿論関係のないことだ。関係のあるのは意気だ。信念だ。健康だ。その私が若い者には負けないぞ。頑張るんだぞ、と自分に云いきかせて今大いに張り切って、成功の意欲をもやして居る次第。

それが現在の私の心境なのだ。

『声の恩師を想う』

大町市 武井邦一

私は喉頭を摘出手術をして七年になります。八十才に近い老いの身でありますが、おかげさまで、今日では体の調子も良く毎日をいそがしく働かせて頂いて居ります。 長野日赤病院に於て、故人となった碓田さんより毎週親切に食道発声の指導をして頂き、努力のかいあって日常の生活に不自由なく、毎日を一家の者と楽しく過して社会のお役に立って居ります。

もし、長野県に信鈴会がなく、発声の指導者がなかったら、発声不能で筆談で不自由の暗い日々を過して居たことと思います。昔から親の恩は海よりも深く、山よりも高しと申されて居りますが、声の恩師のおかげで今日不自由なく過せることの有難さを感じる時、故人となられた碓田さんが真実に私を導いて頂いたおかげであることを深く感じます。

信鈴会も創立七年を迎え、会の運営も軌道にのって、会員も多くなりましたので、これからの発声指導される方々も社会福祉の為、我々喉頭摘出者の為に御骨折り下され、真実をもって御指導下さいますよう、故人となりし声の恩師を想う一念で寸言を書かせて頂きました。

喉頭剔出者の生活の智恵

上田市 北沢兎一郎

声をなくして八年を過し、ようやく第二の人生の生活の知恵が自然身に着いて来た。私の退院は昭和四十二年六月二十一日で暑さに向うころで胸元を合せて着るようなものは、とくに息苦しくて汗になるので夏ものらしいものを着るとグロテスクな気管口はそのまま出てくる。

手術前医師の宣告にも、喉頭癌の手術をすれば気管も声帯を切除するので声は全然出なくなりますと、そればかりが悩みでしたが、食道発声の方はいくら苦しんでも上達せず、今度はこの穴はよく考えてみると死んでも開いている、開きっぱなしの穴だ......。今さらあわてている様な次第で、人間の欲望にはきりがないのか、社会生活が身近になってくると日常生活にも湯に入るにも気管口の方が苦になって、なんで、こんな場所もあろうに、こんな大きな穴を開けてくれたかと悩みたくなります。 盛夏裸でいる時などガーゼの前だれ......石の地蔵様そっくりで、浴衣を着ても着物のポイントはなんと言っても 衿元で、その衿元に白いガーゼの前だれを首にしめて居ったのでは、夏懐炉を抱かされている様なもので、呼吸口から出る息で体の中へ暖房を送り込んでいるようなもので、汗だくで気のきかないことこの上もない......自分の自尊心ゆるさないのだ......そんなわけで、私ここ八年間ガーゼの前だれ は寝る時と、寒い冬の日など血痰をみるのでしばらく掛けるが、あとはおそらく掛けたことがありません。

素人考えかしれませんが 自信のようなものがあって、自然に抵抗力が付いてくれば外菌も防げるような気がして居ります。以前私達で町内有志の方々をあつめて造った旅行会で、毎月掛金をして五月皆で行くところを決 めて行く楽しい旅行会で、昨年南紀方面行きは入院中で私ついに行けませんでした。今年は四国めぐりに決ったのです。私喉剔者となって替った新しい幹部の方が来て、此の旅行会も北沢さん達が造られて今年で十三年目になります。今まで長い間観光の心配から会計の心配までさんざ苦労されてこられ、今度は私達がお連れしますからぜひにとすすめられ、自分でも考え込みました退院後は妻を決にして温泉やバス旅行をした経験はありますが、友人と言っても他人なので、なんだか気おくれし て、ここ何時も休んで居った。さて行くとなるといち先に心配なのは、また呼吸口のことで、お湯に入る時のこと、旅館に着いて浴衣に着替えること、社会へ出た時はしみじみと感じます。気管口をあけられたことが喋ベることか出来ないよりつらいです......。禅の教えではこういう時、「締めろ」と言うでしょう。あきらめられるでしょうか。二十世紀の悩み! こんな時考えました。 まず旅館へ着いての浴衣は洋服の場合なら、くだけたオープンシャツ...これなら人並に浴衣を着た感じになれる。用意したオープンのいちばん上のボタンを掛けると、丁度穴はかくれる。湯上りに着替えのオープンこれで良い。 ガーゼの前だれも寝る時は浴衣に着替えた時、掛けないとー同じ部屋で泊る友人にこういうグロなものは、みせないようー掛けて寝ますと旅館の蒲団のホコリもよけますので一石二鳥......。

いつだったか同業の方達と旅行の折、列車の中でも皆おもしろい話しをきかせてくれるので、表情でおかえししているのですが、それでもけっこう話しかけてくれるのでありがたい。

中には錯覚をおこし、私がワイシャツにネクタイですまして居ると、穴の開いていることも喋べれないこともうっかりして「あなたも唄いませんか」と話しかける人もあります。宿に着いて温泉に入る時がいちばん抵抗を感じます。脱衣場で裸になるにも、あたりに気兼ねして、何も悪いことをして居るわけではないのに、あごの下にタオルを当てて手早く湯に浸るのですが、人は見ないような顔して見て居ります。こんなグロテスクな穴は見落すわけがありません。奇形には違いないので、なるべくみなさんに背を向けて徐々に沈み、胸のあたりまでで、出ると手早く胸から下に石鹸を塗って洗い流してその時の状況で注目が多ければ、そのまま上り二回入れれば上等です。昔のようにのんびりと肩までつかって醍潮味にひたると言うわけにはゆきません。そこへゆくと家の風呂ですと安心して自由がききます。 たまには無理をして穴に水を入れむせることもありますが、風呂の縁にあお向けに頭をのせ、しづかに沈むと何んとか肩まで入れます。人のいる風呂ではそうゆきません。そんな具合で上るとすぐ持って来たォープンシャツに着替えるのです(浴衣替りの) その時はじめてホッとします。 暫くして宴会となり、酒は世帯を持った頃より晩酌はやっておりますから人並みに呑めるので困りませんでした。

此の頃風邪をひいたか体の熱が三十八度で具合いが悪いので医師に診てもらいました。診察の折、私の体の肌にいくらか黄味があるとて、背中をレントゲンで撮り血液も取って調べた結果、風邪の熱ではなく肝硬変と決り毎日注射して居りますが、黄疸にならぬうち近いうちまた入院だそうです。 好きなお酒とも一生お別れです。

生かされる喜び

上越市 山崎武雄

喉頭の甲状腺に肉腫ができ、昨年九月末高田中央病院に入院、諸検査の後十月二日摘出手術を受けた。命にかかわるむずかしいものでしたので心配したのですが手術も無事終り二ヶ月半の入院治療の経過もよく再び我が家に帰る事が出来ました。

自分の力で生きたのではない。生かされた喜びを感じ しみじみと吉野秀雄氏の歌を思いました。

何となく生くるより生かされているを実感す 無碍光かこれ

手術前に医師より宣告された通り声は全然出ませんでしたが、幸いすぐ近くに七年前手術され今長野へ発声練習に通って御出でになる春日北雄さんが入院中より度々見舞に来て下され、身体が回復したら長野へ一緒に行く様にすゝめて下さいました。

四月の第一金曜日から通いはじめました。来て見て何より驚いた事は同病者の多い事でした。

併しどの方も明るく中には清水さん、吉池さん、鈴木さん、羽入田さんの様に全く普通人と変らぬ発声をして楽しく話をして居られる姿を見た時はいつか自分もあの様になれるかと希望と不安が一杯でした。二度、三度と通う中不器用な私は未だよく発声出来ませんが、「絶対やけをおこすな」「希望を持て」「一にも二にも練習第一」「アイウエオの基本発声をしっかり」と教えられ 先輩の方々の助言は何よりの力でした。毎朝二人の孫たちが「おじいちゃんおはよう」というのに前は笑ってを上げるばかりでしたが、今は「おはよう」と言葉をかえされ、孫等の「声が出た出た」と喜ぶ顔も見られるようになりました。 これも皆様の御指導のおかげです。 一ヶ月に二回通う長野への車窓から眺める風物も珍しく楽しく生かされた喜びを感じつつ、発声練習にいそしむ今日この頃でございます。

笛を手に一年

中野市 永池広唯

前号の信鈴第五号には食道発声法ではどうもうまくいかないと云う事で人工笛を用いるようになって丁度一年余り、成程笛ですから呼吸さえしている者ならいたって簡単に原音だけ出ることは間違いない。さて而し言葉として対他人に聞き取って貰えるか誠にもっておぼつかない。良くできたと思う事も時にはある。 まあ一進一退なんとか一年間過ぎてしまいました。

でも御蔭げ様でしゃべれたと云う事実の中に色々なことがありました。その内の一つを書き度いと思いますから御笑読下さい。私の市では昨年の七月と十一月に市長及市会議員の改選の年でありまして、その市議候補の一人に色々なことで応援をすることになったのです。と申しますことは非常に理解の深い誠に人柄のよい人だったからです。扨て終盤戦追込ともなり総決起大会が地元公会堂で開かれ応援弁士として演壇に立つはめになった訳です。驚いたのは二百に近い会場の皆様だと思います。笛をくわえて五、六分私なりきにしゃべりまくったことは確かです。会場は静として声無く、降壇した私は今何んとも書く事の出来ない程複雑な気持でしたことにはまちがいありません。

それから三日目、愈々当日開票その夜十時大体の得票は判明、我が候補者は定員三〇名中上位二番目の得票を以って当選事務所の皆様の喜びは大声の萬歳となる。而し私には声は出ない心の中で、ああよかったなあと只々思うだけ。でもお祝いの一杯の酒の美味であった事には間違いない。

以上本当につまらぬ話しでしたが、そこで私達喉摘者がつくづく思うことは喜びも悲しみもみんな声を出し話す事から始まるのです。どうか皆様声を立て話そうでは ありませんか。

手記

辰野町 桑原賢三

昭和四十七年年末頃シャガレ声となるも痛みもなく気にもとめず、風邪引きのためかと思っていた。しかし宴会などで歌をうたえなくなったことを考えると、その当時から発病していたのではなかったかと思われる。昭和四十八年十二月より発声に無理が生じ聞く人も異状を認める状態となった。痛みが伴わないので医者にかゝるのがおっくうになり、四十九年になり二月四日初めて町営病院へ行き診断を受ける。その結果は別に異状なしとのことであったが、声のシャガレはひどくなるばかりなので、四月十六日岡谷病院にて診断を受ける。五月、六月と二ヶ月治療を受けるもよくならないので、七月は一ヶ月通院を休んだ。八月十八日喉頭の組織を摘出して信大病院へ送り検査を行う。八月二十八日結果判明、悪性なるものと診断された。翌二十九日(土曜日)岡谷病院武井先生の紹介に依り信大病院にて診察を受ける。当日緊急入院の手配を行い、九月九日入院となる。

九月十日、精密診断喉頭造影を行い放射線治療に必要な照射位置の設定を行う。十二日より放射線治療を受ける。一日量二七〇、四千単位かけて結果を見ることになった。主治医の島田先生の所見は多分放射線にて焼けば喉頭摘出の手術はせずともよいかも知れぬとのこと。 この時初めて手術とは声帯摘出を行い言葉の発声が出来なくなることだと説明され、今迄自分が考えていた手術とは悪い所を切りとれば、それで治り発声は同じ様に出来ることと思っていた。それが根底からひっくりかえった。これからが手術に対する恐怖おそろしさとの戦いが初まった。手術をすればシャベレなくなる。永久に言葉がな くなる。この様になる自分の将来を想う時、言葉に表せない不安、悲しさ、淋しさ、みじめさ、失望、とほぐれない糸のカラミの中にも放射線だけで治るのだ。放射線で治ればシャベレるのだと自分の都合の良い方へと考えて気持を落ちつかせて来た。十月二十三日放射線四三二〇単位にて喉頭組織検査手術を行う。一週間の発声禁止。 生れて初めて一週間に亘る発声禁止、総べて筆談、シャベレないことがこんなに苦痛であるものとは思わなかった。十月二十九日一日目の検査結果判明、放射線だけでは焼ききれず癌細胞が残っているとのこと、後一五○○単位かけて出来得れば手術をせずに治したいとの先生の 所見に依り、再度放射線治療にかかる十一月十三日、二回目の検査手術 五六七〇単位再び一週間の発声禁止。今度の検査結果も良くない。ここに至り不安は拡大し三日三晚一睡も出来ず婦長さんより睡眠剤の投与を受けるも効果なし、今後の治療は最後に一五○○かけて七二〇〇にして検査を行い、これで駄目ならもう手術しかない照射量も限度一杯とのこと、これが最後だ、自分としても三割位の可能性を信じ気持ちを落ちつける。十二月五日、最後の治療終る。今後の検査に依り治癒か手術か、十二月九日、第三回目の検査手術実施、これが最後だ。この検討結果如何に依り自分の将来人生が大きく変る。そう 思うと再びねむれぬ夜が続く十二月十三日、結果判明。 夜先生が呼びに来た。結果は黒。手術することに決定。 最悪の事態となった。頭の上から足の爪足迄真黒い雲が押つつんでゆくのがわかる。島田先生も私の心を推察したのか言葉少い。何としても落ちつかなくてはと思っても 落ちつかぬ。今後は放射線に依る体力消耗を快復させ、一月中旬に手術をすることに打合せを行い十二月十四日一時退院する。

想像していた最悪の事態となり、これからの生活、子供の将来、社会復帰、二十五年間積み上げて来た会社等考えれば考える程不安となりもつれた糸はほぐし様もない。自分のみじめさ、悲しさ、人の顔を見ればただ涙が出てくる。夜になり周囲が静かになればなる程不安の荒波に押流される自分より不幸な人が大勢いるのだと自分に言い聞かせても理解はしても荒波の防波堤とはならない。人間の弱さもろさをつくづく感ずる。

正月になっても新春を寿ぐ気にもなれず、ただ子供に囲まれている内だけが心のなごみを感ずる正月であった。 一月九日、手術前の検査のため病院へ行く健康状態は順調に快復しているので十八日に入院、二十二日に手術と日程が決る。ここに至り自分なりきの覚悟も決り、この上は一日も早く全快して発声練習に努力し、一日も早く社会復帰をすることが御世話になった会社又大勢の皆様の御厚志に報いる道と思っている。昭和五十年一月十五 日、五十三年に亘る自分の声と別れるにあたり、手記する。一月二十二日、手術実施結果良好二十七日一部抜糸経過良好、二十八日ドレン管抜取り、肉が盛過ぎて抜取り困難、同日個室より大部屋移動三十一日食事注入管取出し、水をのんで見るも漏洩なし、夕食より経口流動食となる。口よりのむ水のうまさ忘れられない。二月五日 入浴許可、二月六日発声練習教室見学、みなさん仲々発声が出来ず苦労しているのを目の前に見て不安となる。 手術前の決心もいまさらに重大に感ずる。然しやらねばならない。 二月八日退院、手術後十八日である。経過良好。二月十三日初めて発声教室出席、訓練開始する。何としても会話の出来る様になりたい、声なくして職場復帰はあり得ない、これは自分が一番良くわかっている。心あせるも大きなかべにつき当って不安は増大する。一にも練習 二にも練習。頭がぼーっとして倒れたことも何回か回を重ねて出席、鳥羽先生の指導、婦長さん の力づよい助言 大橋、平沢、浅輪の諸先輩のおかげで一ヶ月日に片言ながら、会話らしいことが出来た。この嬉しさ、手術前の悲しさが大きかっただけにこの喜びは大きい。指導された皆様に心から感謝する次第です。

自分の職場復帰の声には、まだまだ道のりはあるが一層の努力をする。

昭和五十年四月十五日 手記

随想

木曾郡 伊藤太郎吉

長い間の寒さにとじこめられて居た木曾の谷にも陽春がおとずれて参りました。それでも駒ヶ岳の中腹には残雪がきらめいて春をまっているのです。あの雪がとけて流れる頃には私共の仕事はいそがしくなります。

又、今年もあの山へ行って山菜採集に出掛けるのだと、それと同時に健康と云う事はすばらしい又最大の幸せと感謝の念でいっばいです。

子供達もそれぞれ生長し、孫も四人になり今ではぢいさんで、ある時は二才になる孫娘におじいちゃんのくびには穴があいて居る。私にはあいて居ないと不思議そうな顔で、私のガーゼをめくってじっと見つめて聞いて居るので、病気で穴があいてしまったのだよと云ったもののちょっぴり悲しい事ではあるけれど、考えて見ればこうして元気で生活出来るだけでも幸せです。子供からは無理せぬ様、あまり酒を飲まぬ様と注意されますが、其の矢先に山荘の仲間達が来て今日は休演日だから一っぱいやろうぢゃないかと集り酒盛りが始まるのです。年のせいかお互いに同じ事をくり返しくどくなるので女房が又始まったと笑うのです。ほどよく酔い、ねむりからさめてまどから外を見ると、二羽の小鳥が仲良く遊んでいるのを思わず空気をのんで発声を上げた。小鳥がびっくりして立って行ってしまった。ああ悪い事をしたと小鳥にわびて其のみかえりにえさをまいてあげて気持がすっきりしました。其の時、駒ヶ岳の方をながめると夕日が残雪にいっぱい きらめき、まぶしい程です。明日は天気だなーとつぶやき明日へ望みを大きくもって家へ帰って来ました。

病床にて

小布施町 持田元

私は四十八年八月六日、喉頭の摘出手術をしたのです。その後食道を悪くして日赤に未だ入院生活をして居ます。

四十八年三月頃より声が出なくなり、風邪のせいかと思って居ましたが次第に出なくかすれてきてしまってようやく変だと感じ須坂市のK耳鼻医院に一ヶ月程治療を受けたけれど少しも快方にならずK医師重症らしいから日赤の耳鼻科で診察を受けなさいと紹介状を書いてくれました。六月になって日赤の耳鼻科の診察を受けました。 声帯が化濃して居る入院を要すとのことでした。時にベットが空いて居ないからそれ迄待てと六月中通院し、七月二日ベットが空いたので入院しました。

私はそれ迄健康で入院したのは始めてです。始めての経験で病院生活は味気ない淋しいものでしたが、病の為で止むを得ない事です。その後七月中治療を受けコバルトにかゝり、下旬になったら声がよく出るようになりこれで手術しなくても大丈夫と思って喜んで居りました。

病室にのどの下に穴を開けた人三人もあり声の出ない人です。それを見て居るとお気の毒で自分はそのようになりたくないと思って居りました。然し、月末になって主治医の先生から八月になって喉頭摘出の手術をすると宣告されました。さあ大変です。無論声帯も無くなってしまう唖になるのです。 ほっておけば息ができなくなって死を待つより仕方ないと云うことです。家族を招いて種々相談し迷いましたが結局主治医の先生にお任せすることにあきらめました。

八月になって輸血やレントゲン等準備をし、いよいよ八月六日午後手術室へ入りました。自分では覚えてないですが五時間位かゝり無事終ったようです。これで自分の声とは完全にお別れです。手術後の経過順調で十日程したら普通食となり体力も順に快復してきました。さて声ですが全然出ません。にわか唖でメモとボールペンを用意し筆談です。そのもどかしさ云うに云われません。先生や看護婦にものを聞くにもメモをもっていって用を足す始末です。声の出る人の羨やましく声のあると云うことの喜び有難さを声を無くしてみてつくづく感じました。

日赤にも信鈴会の支部があって、月二回金曜日に集って 食道発声を練習して居ます。私も入会して練習しましたが仲々難しく最初はアもでませんでした。

やがて傷も直り体力も快復して十月十六日退院の許可が 出ました。三ヶ月半程日赤に居た訳です。喜んで退院しましたが全く声が出なく筆談です。後になって考えてみると、この退院が早過ぎたようです。せめて十月いっぱいも入院していればよかったと悔まれます。

家へ帰ってから風邪を引き、胃を悪くし日赤へ毎日通院です。そのうちにのど傷が化濃してきました。主治医の先生は再入院せよとのこと。四十八年十一月五日再入院し、以来今日迄病院に居る始末です。

治療は続けて居たのですが、食道の傷次第に悪化してきて四十九年四月頃から食べても飲んでも逆流してきて胃の中へ入らなくなってしまい鼻からゴム管を入れて流動食を注入するようになり、それが今日迄続いて居るのです。口から食べる事もかむことも忘れてしまったようです。食べる楽しみがありません。人生これ程味気ない事はありません。食道のねんまくが一糎程片側が切れて居ます。一度縫ったのですが離れてしまったのです。そして時を待って又縫うのだそうです。そんな食生活を続けて居るのに体重は減少せず、今の処五四キロ程ありますので、まあまあです。そんな訳で食道に穴があるので食道発声はできないので、タピアで声を出すことに昨年四月から吉池副会長さんの指導を得て始めました。これも仲々むずかしいのですが、一生懸命に練習し簡単な声ならでるようになり家族となら話ができるようになり喜んでおります。今後尚練習し退院する迄に自由に話をするようになりたいと思っております。

約二ヶ年に渡る入院生活ですが、なれた故余り退くつを感じなくなり日課として先づ朝体操と院内の散歩と治療と折をみてタピアの練習と読書で日を過ごして居ります。

徒然なるに昨年の秋から短歌を作る事を始めました。 若い時青年時代少しやりましたので昔を思い出して何うやらやって居ます。毎日二、三首作って居ます。今後の 余生歌によって声にしようと、明るい希望楽しみをもっ て生きょうと考えています。

今後共よろしく先輩各位の、会員諸兄の御指導を願って止みません。

先ずは病状御知らせと入会の御挨拶まで。

次に拙作の短歌御覧下さい。

短歌

―病床にて―

持田元

声帯は除去せられたり古希を経て声無き余生如何に生きるか

看護婦の白衣にふれて甘えたく妻の如くに吾娘のごとく

病院で歌作らむと歌の本書店あさりて嫁の買いくる

病室のガラス通して梅咲きぬ一足先に春はきにけり

病室のカーテンくると暁の片割れ月の淡く見ゆるも

病室の梅散り過ぎぬおそき春北信濃路にもくるらしくして

信濃路に春はきたるもまだまだに消える遠く雪多くして

病める身の楽しみなきのこの余生歌一路に歩まむ思う

健康は何よりの宝

松本市 島成光

健康なくして、生存の喜びは味わえない。健康は金銭や資産、物資より貴き宝ものであり、健康を保続して行くところに生がいがあり、日々の楽しさがあるものである。精神力に左右さるる私達は心すべきことである 思う。

喉頭を摘出して言語が不自由であっても、社会人として明日への希望をもって生きぬく精神力こそ大切である。

私は八十才になるが、常に生きぬく精神力と、健康を護る動力、社会の上に奉仕する働くことのできる今日を

感謝して日々多事多端の仕事をして居り、年中のプランをたてて、全国的に飛び廻って居るものであり、歳を忘れ て自家の事業の に精進して居る。

「私はローラーカナリヤの飼育指導員であり、審査員であり、現在五○○羽余りのカナリヤを飼育して日本全土、台湾までも作出した鳥を分譲して居る」

「趣味は人生の徳、趣味なき人生は枯木の如し」と云いつたわるが如く。

さきざきの趣味を持ち、小形鶏を二十羽余り世話をし小盆栽百鉢余りの手入をして楽しい余生を過して居るもので十一月、十二月、一月は各地のカナリヤ品評会審査に出向いて居る。

人は三度の食事をして生存するからには、心身共に労を惜まぬところに健康であり安らぎがあり、喜びとなり感謝の生活ができるものである。

食道発声及び人工喉頭により自己の意志を他人に通ずることのできる喜びと感謝をもって、日常生活の上に社会人として精進して頂くことを希望する次第であります。

『健康は自からの心と体の動力により護らるるものである』 以上

大町市 大橋幸子

手術後に 目ざむれば顔色をみつ 語りかければ 口許淋し 声のなき今

食道発声練習をききて 吾が夫の部屋よりもれる発声に 耳かたむけて ひととせすぎぬ

ア、イ、ウ、エ、オ 昨日あわれに 今日 晴ればれと はや一年の食道発声

随想

島成光

本信鈴会も早や五十年は七周年を迎えるのであるか、 創立当時十数名であった信州医大の鈴木教授先生や、田口先生、佐藤育蔵先生、特に今野婦長さん方の絶大なる御援助により、いとも盛大なる創立総会を信州医大の医 学部会議室で催しましたのも昨日の如く思うのでありま す。然し年と共に会の内容も充実して、県の助成金も小額ではありますが交付され、現在六十余名の会員が和をもって本会の上に協力して頂いて居ることは慶びとするところであります。

現在長野日赤病院、信州医大病院に於て、毎週発声の教室を催し、都度参加も多く、指導員は熱心に指導せられ、短期間で対話のできる会員も、遠地より熱心に参加せらるる会員もあり、午後一時より三時まで、二時間の練習は実に貴いものがあります。 食道発声を台とし、老人や発声不能の会員には人工笛により指導して居る。

社会人として毎日を楽しく過して居る会員も多く、発声の喜びと、貴とさは我々喉頭摘出者のみが知ることであります。 健康は何よりの宝であり、我は声のみが不自由とは思われるが、発声法により食道発声あり。人工喉頭笛あり、自己の意を人に通ずることができ、対話が可能であることを強く信じ、発声の意欲を怠ることなく精進して頂きたいものです。

私は術後十年、八十才になりますが現在健康で好きな趣味で日本全国を飛び廻って居ります。本会の創立者であり長老ではありますが、常に社会福祉の上に役立たせて頂きたき信念をもって日々を過しております。

会員の諸彦よ、生きぬく精神力と明日への希望を持ち病いに屈することなく養気を我が心としてお通りあらんことを切に希います。

編集後記

会報第六号は四十九年四月一日より五十年三月末までの記事を登載して、第七号は明五十一年発刊するのであります。年一回の発行ですが、皆さんの御都合で原稿の到着が不同で七月いっぱいまでお待ちしました。八月は印刷の都合で、つい今日になりましたことをお許し下さるよう。

編集子は、写真版に、原稿の校正に幾日も日を費やしここに信鈴第六号の発刊をすることになりました。

会員の皆様よりの心あたたまる原稿をお寄せ頂き御礼申しあげるとともに、今後共本会の為何分の御配慮と御協力を御願いして信鈴第六号の後記といたします。 以上

昭和51年刊 第7号

巻頭のことば

光陰矢の如く本信鈴会も、早や八年を迎えるに至った、昭和四十四年一月信州医大会議室に於て、創立総会を開催し、鈴木教授先生、田口喜一郎先生。特に今野婦長さん方の絶大なる御支援により、県内十余名の喉頭摘出者が参集して、いとも盛大なる発会式が催されたのである。

以来年毎に喉頭疾患により、放射線による治療後、喉頭を摘出し、天与の声を失ない、 人生の、はかない運命を感じた私達である。

我々は生ある限り希望を失なってはならぬ。ここに我信鈴会は会則第二条により 『本会は会員の発声訓練をして、社会復帰に資すると共に身体障害者としての、健康保持と会員相互の親睦をはかることを以て目的とする。』 とある如く会員福祉の上に貢献して、発声指導を長野日赤病院、第一、第三金曜日、松本信州医大病院耳鼻科に於て毎週木曜日午後一時より三時まで指導員による、発声教室を催し各地域よりの参加多く其実績をあげて居る。私達は常に希望を失うことなく発声の意欲 高め、努力されんことを願う次第である。

(会報は我々の心の糧となり、希望の光りとなるものである)

再読されんことを

生きるよろこび

信州大学教授 鈴木篤郎

このたびの信鈴会総会には、何年ぶりかで出席させていただき、本当にうれしく思いました。何度か出席を怠っていた私に、幹事さんが業をにやして(?)、私個人のために開催日を調節していただいた由にて、申訳なく存じております。その節、銀鈴会の中村正司理事のお話をうかがい、その完成された食道音声の見事さもさることながら、喉摘者のため日夜奮闘されながら、立派な企業会社の社長として、八面六臂ともいうべき活躍をなさっているその積極的な生き方に全く驚いてしまいました。私はこの方のお話しを伺いながら、この方にとって喉摘手術は生活のブレーキではなく、むしろ生活のエンジンにさえなっているのではないかと思われたほどでした。この方から発散される強烈な「生」の息吹きは、私にとりましては本当に圧倒的な、感動的なものでした。「生きるよろこび」の感じがひしひしと身に迫って参るのでした。 ある早朝、まだ周囲がひっそりと寝静っていて物音一つなく、しかも朝の明るさがただよい出した頃庭に出て見ました。露に濡れた樹木や草花がこの時間には特に生き生きと息づいているように思われます。縦の大木も、せい一ぱい枝をひろげて花をつけている紫陽花も、また足元の短かい雑草も、それぞれ実際に呼吸し、「生きて いますよ」と云っているようで、その健気さに打たれ、素直な気持で生のよろこびにひたることができました。

中村さんと庭の草木とは妙なとり合わせですが、日常生活のなかから毎日の生きるよろこびを手繰り出し、心も身体も健康で、豊かな生活を享受されますようお祈りして筆をおきます。

メッセージ祝詞

日喉連会長 銀鈴会会長 重原勇治

本日、長野県信鈴会の年次総会にお招きを頂き、ご挨拶を申述ます機会を得ましたことは誠に光栄の至りに存じます。

近来、喉頭摘出者は年々増加しております。昭和四十五年日喉連が設立せられました時は、全国に二六団体で所属会員が約三、五〇〇名でありました。この団体全部が参加の下で日喉連が誕生したのであります。

それが現在では三九団体、所属会員数は約五、〇〇〇名と推定せられます。

当時は参加団体二六団体の中、会員に対し発声指導を行っていたのは四~五団体に過ぎませんでした。それが今日では各地の殆んどの会が発声教室を開設するとか、発声練習会を設ける等、各々発声の指導に努めておられますことは誠に喜ばしい次第でご座居ます。

特に信鈴会におかれましては、長野市、松本市のニケ所に於て発声指導を行っておられまして、このように複数の発声教室を持たれている会は他にございません。従って会員の方々は多数第二の声を獲得せられ、社会復帰を実現しておられるのであります。この事は各地団体の模範的事実と存じておるものであります。

過去長期間喉摘者団体の発声指導は、その殆んどが有志会員の奉仕と援助によって行われておりましたが、日喉連が設置されまして政府機関その他と種々接衝致しましたこともあって、三年前から各会の発声指導に対し、若干の政府予算が計上せられることとなり、各団体に助成せられるようになり、続いて地方の自治体からも助成を受くることとなりました。併し乍ら我等喉摘者団体の 福祉事業の遂行には程遠いのが実情であります。この点に対しましては日喉連としまして、更により以上の助成の獲得に努めなければならないと存じておる処で座居ます。

ただこの両三年来喉摘者団体の福祉活動に対し、広く深い関心と、高く評価せられる傾向となって参りました。何と申しましても喉頭手術によって発声不能となり、途端に社会活動の一線から後退せざるを得ない喉摘者が、所属団体の発声教室に於て、発声の訓練を受くることによって極めて短期間の中に社会復帰を達成する事は、他のいかなる身障者にも見ることの出来ない、又考えることの出来ない事実であります。

私はこの事実が広く社会の注意と関心を呼び起すに至ったものと存ずる処でご座居ます。

勿論、喉摘者団体の発声訓練の効果は、現在はなお万全とは申されません。併し乍ら各団体にたゆまざる努力の積み重ねによって、今後発声法は着々と改善せられますし、又会員各位の発声努力によって、発声技術は更に向上し、喉摘者の大方の人々が社会復帰を実現せられる日が来るものと信じております。又その日の一日も早やからん事を心から念ずるものであります。 ここに喉摘者団体の重要な意義と使命が存在するものと存じます。

我々喉摘者団体の福祉事業に従事する者として、この使命のため一段と努めなければならないと存じまする。信鈴会の役員の皆様が長期に涉り会の育成に奉仕せられ 多大の成果を収められました。特に島代表理事殿には信鈴会の複数教室の経営の外、日喉連の役員をも兼任され ご老体にも拘りませず東奔西走のご尽力に対し深甚なる敬意を表する処でございます。今後役員の皆様方には、ご自愛下さいまして長野県信鈴会を通じ喉摘者の福祉のため一層のご貢献を致されますことをお祈りしまして、ご挨拶と致します。

昭和五抬年四月拾八日

喉摘者の苦痛

信大附属病院 耳鼻咽喉科 田口 喜一郎

信鈴も第七号を迎え、その内容も益々充実してきていることは会員の皆様と編集の労を惜しまない島さんの御努力の賜と慶賀に耐えません。これ迄私も何回か紙面を拙文で汚して参りましたが、今回は皆様やこれから入会される方のお役に立つようなことを書いてみたいと思い私が受持った患者さんの経験から、「喉摘者の苦痛」と いったものを考えてみました。

一、喉摘者の最大の苦痛は外言語(発声による意志の表現)の消失であり、喉頭全摘の手術前に患者さんを説得する上に一番困る点であります。この点については、手術後の代用音声 (食道発声法、人工喉頭の使用、電気喉 頭の使用など)があることを説明し納得してもらってお りますが、何よりも大切なことは医師、看護婦、家族、 友人が情緒的に接し、その心理をよく理解することが必要であります。

手術後の無喉頭者は思っていることを充分表現出来ないために、怒り、不安、欲求不満、抑うつなどに落ち入り易く、特に手術が無事終了して死への恐怖がとれた頃からその傾向が見られますので、その対策は最も重要な課題と云えましょう。最初は身振り言語でも充分代償出来ますので、周囲の方の理解さえあれば、 音声言語の喪失のショックから立上れて顔面の表情は以前より豊かになり、よく笑うようになるのを見ることが出来ます。ただ七十才以上の老人になると自己中心的保守的で融通性がないので、仲々環境にとけこめず問題が残ります。適当な指導者(同年配の人がよい)、積極的に発声教室に行かせるとと、友人を作ること、家族の過保護をなくすことが必要となります。手術後二週目位に発声出来る喉摘者の訪問は大きな自信を作ることになることが多いので、皆様の御協力をお願い致します。

二、喉摘者には手術前と違った症状が出て、その大部分は心配ないものでありますが、その為に病気の再発ではないか、別の病気が出たのではないかと恐れ悩んでいる方が多いようです。これ等については受持の医師に遠慮なく質問して頂ければよいが、仲々言い出せないのでノイローゼになる方も居ります。主なものを挙げてみましょう。

イ・猫舌、ワサビが食べにくい。

口・嗅覚障害、味覚の低下。

ハ・ガスが出やすい、腹部膨満感がある。

ニ・どうき、息切れ、重い物が持てない。

ホ・肩運動障害、手が肩に上らない。

ヘ・入浴のトラブル、首までつかれない。

ト・スープや味噌汁がすすりにくい。

チ・気管出血、気管口にかさぶたがつく。

リ・じんま疹、特に寒冷霧麻疹状が出る。

ヌ・咳、痰が多い。風邪をひき易い。

ル・鼻をかみにくい、鼻汁がたれ易い。

以上は全て呼吸運動の道筋が気管→鼻腔→外気から直接気管→外気に変ったことと、手術による影響に他ならないので必配する必要がありません。一番いけないのは 以上のような症状を基に家庭医学書などを参考にして別の病気が発生したのではないかと考え、そのような心配からもうだめだと悲感されることです。ドン・キホーテは騎士道物語を読み過ぎて遂にそれを自ら実行しましたが、病気の場合は喜劇でなしに悲劇になりかねませんので、独り思い悩むことだけは止めて下さい。

私どもの会

吉池茂雄

私どもの信鈴会も創設以来八年目を迎えました。社会生活に大切な要素である言語発声機能に障害をもった私どもが、その障害を克服して、再び社会に復帰しようと 相集まって、お互に励ましあい、助けあって参りました。創設当時は三十数名の集まりで、お互に気心も知りあった集まりでしたが、今は七十名の大家族となりました。お互同志の気持のふれあいも以前のように親密にゆかない事もあるでしょう。年令の隔りもあるでしょう。ともすると会員の気持のズレが見えないでもありません。しかし、静かに思うに、私どもは年令の差があっても、又職業に違いがあっても、喉頭摘出者であること、発声機能障害者である事に変りはありません。そして第二の発 声を身につけて、社会復帰しようと努力している点では何の差別もありません。

信鈴会は私ども会員の会です。同じ境遇で同じ目的をもって生きて行く者同志の会です。誰かにやってもらう会ではなくて、自分たちが、自分が育ててゆく会なのです。

昔の人が申されました。「創業は易く、保成は難し」 と。信鈴会も今は保成の時代に入ったようです。八年前に本会を創設された先人の御苦労と熱意とを想いながら更に新しい気持で、この会を、私どもの信鈴会を、大事に育てて行きたいと念願しております。

希望

島成光

世想は刻々変化し希望と理想は高揚して人心の安定は得られぬ今日である。然し理想と現実とは裏腹で、現在世想をさわがせたロッキード問題により今国会は武器なき争闘で国民の不安も日と共に深く諸物価高で、一家の経済事情も悩の種となって居る今日である。然し我々は心を倒してはならぬ。何事も善処し、自個を反省して、個人の健康と一家の和を求め、生活の安定と働きがいのある幸福の生活こそ我々の望むところである。

健康である可き私達は思はざる喉頭疾患により、天与の声を失ない、社会人として寸時も欠くことのできない用語の必要を痛感したのである。

日本各地に第二の声を救導する発声教室があり、本信鈴会の門を訪ね食道発声に、又人工笛により、先達者である指導員が毎曜発声の指導をして現在では日常の対話に不自由なく、社会人として日々勇んで勤め働らいている会員も多く発声訓練に努力して第二の声を修得して頂きたい。健康は何よりの宝である以上何ごとにも負けず明日えの希望を失うことなく、発声に努力されんことを切に乞希う次第であります。

カナダ旅行で

須沢徳正

六月下旬より七月にかけて十日間の予定でカナダへ行って来ました。遊び半分の観光族行であるから別に何の用意もなく気ままに羽田を午後二十時に出発し、機内にて日付変更線を経て翌朝四時頃バンクーバーの空港に到着しました。 日本の約二十数倍の広さをもっていると云われる土地、先づ実に雄大な自然美でした。ロッキー山脈をぬって行けども行けども山また山、車窓より見る山はだは半分で特別仕立の天蓋のような、ガラス張りの天井より望める山なみの美しさは、何ともたとえようもない素晴しさでした。バンクーバーよりクレイクルイーズ、バンフと国立公園だけあって日本とは比較にならないものです。平原も氷岩も北海道の何十倍もの大きさで、全く地の果にいるような気分になりました。カナダの人達は大陸育ちとでも云うのか、一般にはのんびりした感じで言葉は勿論通じないものの仕極おだやかに見られました。バスや汽車を待つ人達が何時もおくれ勝の時間を一向気にもとめづいる田園風景も至るところで見られ、対岸の見えない程の広い河では、つり天国で終日過ごした人達もいました。自分もこうして遠く日本を離れてカナダにいるのだと思うと、あゝ健康でいたからだナと思い有りがたさを感じました。

丁度今年で十年め、四十一年に手術して現在直やはり色々な事があり精神的にもまた肉体的にも困難を感じ、それを一生懸命克服してきた私は幸せ者だと思います。たとえ肉声が出なくても食道発声で話をし、どこへでも行き多くの人達に接して行動を共にしました。今では食道発声が地声になり寝言を云うと笑われたものです。今回のカナダ旅行でも普通の人と少しも変りなく行って来ました。又機会をえて海外旅行をしたいものです。何事も常に積極的で自分の健康を大切にして進む信念こそ第一条件です。

最近手術をなさった方々も決して悲感等しないで強い心をもっていってほしいと思います。カナダ旅行によせて私の考えをしるしました。

過去の思い出

塩原貢

私は手術を受けて丁度今年の五月で満五ヶ年を迎え、先ず病気の方は大丈夫であるとほっとして居ります。そして声を失しなった当時を思い浮べ乍らペンを走らせております。

手術後二十日で退院命令が出ました。家に帰ってほっとし、又嬉しかったが何を一つ話すにも筆談である。心の中で求めるものは失なった声、一日も早く取り戻し発 声する事が私達喉摘者の大きな望みであり必要な第一条件である。其当時も毎週木曜日に発声訓練が行なわれておりましたが、当時は二名か三名で 毎週顔を合わせる者は同じ人でありました。何事も頭になく只一日も早く声が出るようになりたい話しが出来るようになりたいと思うのみで何も外に考える余有はありませんでした。

当時は指導を受ける者が僅かでありましたので広い場所も必要でなかったが信大の都合であったかは不明でありますが、外来の診察が済んでから診察室の一部で指導を受けました。週一回の訓練が待ちどおしく一生懸命通い、家に帰っても何も手につかずアイウエオの繰返しで練習に専念しました。そのうちに段々と片事まじりに話しが出来るようになり、家庭に於ては周囲の者も段々私が伝えようと思う事を聞き取ってくれるようになって来ましたが、家人以外の他人には中々通じぬ事が多く、それでも私は他人に会えば一生懸命練習の心算で話し掛けた。しかし執念に聞いて呉れる人と、何を語っているかわからぬが返事だけしてやれと云う様な人といろいろであった。それでも私自身は一生懸命に人との会話を求めた。そのうちに家の者から此の頃よく話しがわかる様になったと云われるので、それを信じてこれで他人と話してる自分の意志は伝わるようになったと思い込んで人と話せば、何んですか? 何んですか?と何回も聞きなお される。まだ聞き直してくれる人は何度も話しているうちに話しが通じるか人によっては私本人が話している事とまるで節違いの返事が返ってくる。さて其の時は彼は私の話しが理解出来ずに返事をしていると思うとたまらなく腹が立って来る。此の野郎自分を片輪者と思って馬鹿にしていると益々腹が立ってくるのを我慢した事数知れず。然し、それは不自由な者のひがみで今日になって当時の事我帰り見れば私本人が他人と会話の出来る程のきれいな発声が出来ていなかったと思います。只家の者がよく話しがわかるようになったという事はそばにいて毎日聞き馴れていたというのに過ぎなかったのです。不十分な発声である事を忘れていて人をうらみ腹を立てていらいらし続けた過去が何か顔の赤くなる思いです。只今の私は人工笛を使用しているので食道発声はまったく駄目ですが、話しに不自由は感じませんので以前のようないらいらはまったくなくなりました。私は特に気短かな性格なので手術後から他人と話しが出来るまでは我れ乍ら自分をあわれに思う程いらいらして苦しい毎日が続きました。

声を失なった人は性格によって各人違いはあってる一時は苦しい毎日が続いた人、続いている人がおありだと思いますが何卒手術を受けられた方は一時も早く新しい声を求められて力強く頑張って下さい。今年の総会に御出席になられた方は御存じの通り東京の銀鈴会から我等信鈴会の総会に御出席下さった中村さんのあの清らかな発声、あれが声帯を失しなった人の食道発声であろうか と我耳をうたぐる程のきれいな発声でした。私共に発声の方法を御指導下さったお言葉の中に新聞の社説を一通り声を上げて読み下せば大部よい声が出る様になるからそうしなさいと言を結びましたが、社説を読めということは毎日訓練を忘れるなと云う事であると思いましたが食道発声の皆様執念に練習を続けられ中村さんの様な発声の出来る事をお祈りしてペンを置きます。

二年間を振り返って更に精進を誓う

大橋玄晃

早いもので、手術をして早や二年になろうとしています。その間を振返って見て、夢中で過して来たと言うのが実感で、ただ一日も早く食道発声をマスターしたい、それだけが中心ですぎた様な様がいたします。少し良く声が出たと言っては喜び、どうもうまくしゃべれないと言っては悲感する。そして又考え直しては練習する。然も遅々として進歩しない。でも、何としても自分のものにしなければいけない。昨年五月東京銀鈴会の総会に初めて出席し中村正司先生の声を聞いた時の感動が、私をして更にその決意を強くした。中村先生の声に魅了させられた私は、直ちに六・七月と銀鈴会の発声教室を訪れた。然し仲々中村先生にと言うわけにはいかなかった。そして八月は練習休みであった。そうこうしている内に神奈川銀鈴会で先生が会長をして毎週火曜日に発声教室が開かれていることを知り、よろこんで十月七日に参観に出かけました。相憎先生は急用の為め欠席されておりましたが、そこで思いがけない私の知人熊崎氏にお会いいたしました。彼は神奈川銀鈴会発足当初から先生に特に乞われて指導に当っていたのでした。本当に不思議な緑だと考えさせられました。殊にその日は現在女性ナンバーワンの保野千代子さんと初めてお会いしたにもかかわらず、手をとり微に入り細に亘って本当に懇切丁寧に吸引法を教えて頂きました。それは本で読み私が行って来た吸引法とは全く別であった事にはおどろきました。それからは同会にも入会し、月に一度乃至二度位づつ発声教室に日帰りで参加する様になりました。往復所用時間が十二時間、そして練習時間は一時間半、それでも皆さんから暖かく迎えられ、数多くの優秀なしかも熱心な指導員の方々、殊に月に一回なされるカンファランスの折の中村先生の発声、空気の吸い方、発声時の口の開け方、のどの振動等、見て研究出来る丈けでも大きな収穫と思っております。この会では比較的短期間で上達される方の多いのには全くおどろきました。それはいつでも先生が発声の上達には必らず目標をきめて計画をたて、着実に練習を重ねること、目標のない練習、ただ漫然と時間をかけるだけでは駄目だ。その練習は本当に苦しいものだ。然しそれを乗りこえてこそはじめて自分の声が作り出されるのだ。と指導されて居られる結果であろう。

優秀な指導員の方々のお話しを聞いても本当に血の出る様な練習の連続によって生み出されるものだと・・私達声帯をなくした者は声が出るのでなく作り出すのだと言われた事は正に当を得た言葉だと言えましょう。然し、仲々道は遠い様だ。大学へ行っている息子が春休みに来ていて休みも大分終りに近づいて少し早いけれどもと言って東京へ帰る時、私に"お父さん、この本を読んでおくといいよ"と言って一冊の単行本をテレビの上に置いて行った。四月六日横浜の練習に出発の朝、フト思い出してその本を持って車中の人となった。"ひとみに涙が光っていたら"これが本の題名である。表紙をめくると

氏名 北川ひとみ 昭和三十年十一月十五日生

病名 重症筋無力症 阪大病院

と書いてあった。彼女は幼少の頃ゼンソクを患ったが、 成長するにつれ元気な子供に育ってバレーの選手にまでなった。そんな彼女が、昭和四十五年十二月 城陽中学三年の時、下校して間もなくものが言いにくくなり、そして日がたつにつれて身体がだるくなり、食べ物も飲み込めなくなって阪大病院に入院、筋無力症と言う病名をつけられた。一時良くなって退院目出度く金蘭高校にも合格した。然しその喜びもつかの間再発入院、そして胸腺摘出手術、それによる突然の呼吸困難、遂に気管切開がなされた。歩行困難、曲げた手をのばす事も、しゃべる事も出来なくなって終った。原因不明。根本療法未開発。そして入退院の繰り返し、いつ起るか分らない発作(呼吸困難)に怯え、悲しみと絶望の連続で、その間同病の親しき友は次々に死んで行った。彼女にとっては本当に筆舌に言い表せない苦しみの五年間であった。然し御両 親、お姉さん、おばあちゃんの暖かい限りなき愛情、はげましと共に絶望の五年間の中から見出した一つの力、それが血のにじむ様な努力となって遂にどうやらしゃベ れる様になり、そして不安の中にも日常生活が自分でやれる様になった。その五年間の日誌がこの単行本であった。本人の苦悩、それを見つめる御両親、家族の方々の心。私は涙なしでは読む事が出来ませんでした。倅がどう言う意味で私にこの本を読めと言っておいて行ったかは分らない。この様なうら若い女性ですら絶望の中から一つの光を見出し病に打ち克とうと努力したんだ。親父も病気なんかに負けるなと思ったのか? この様な中から苦労の末、しゃべれるようになったんだ。親父もどこまでも精進して食道発声をものにせよとの暗示だったのか分らない。然しいづれにせよ。親父頑張れと無言でこの本によりはげましてくれたのに相違ない。私は車中で、"お父さんも負けずに頑張るよ"とそっとつぶやいた そして可愛想な"ひとみちゃん"も是れからの長いそして望み少ない人生と雖ども頑張って頂戴、そしてどうか この子に少しでも幸を与えて下さいと祈りつゞけて帰路についた。 皆様もどうかこの娘に負けない様頑張って下さい。 昭和五十一年五月一日

喉摘者となりて

羽生田守夫

手術をして気管口の世話になって四年目をむかえる。 自分ながらよく生きていられるものとつくづく考えることがある。気管口では呼吸は鼻の呼吸と違い息苦しさが何時もつきまとう。鼻はもう何の役もしないのだろうかと思うと淋しくなることがある。最初は鼻汁もかむことは出来なかったが最近になって出来るようになった。匂の方も大分わかるようになってきた。手術前と比較すれば及びもつかないが少しでも快復して来たことはうれしい。又、喉摘者なら誰も経験することがあるのが気管口の存在です。自分で見てさえ不気味に思うのだから他人が見たらなお更のことと思う。気管口には保護のためガーゼが必要である。幼児の前ダレにも似たガーゼは他人の眼を引き易い。私はのどの手術をしましたと言っているようなものです。人様は好寄的な眼で見てくれる。身障者になったという自分を見られているようで淋しい気持になってくる。気管口の存在は不可欠なものかせ知れないが喉摘者にとっては精神的な苦痛が大きい。出来れば手術法など研究してもらい病気快復後は気管口など塞いで貰ってもとの鼻をなんとか利用していただけたらと夢の様なことを考えている現今です。

(俳句)

喉摘者となりて

手術への恐怖は高し雲の峰

寒月に失声の涙こぼしけり

うがい水鳴らす喉無し鰯雲

食道声ひびく障子に豆を撤く

食道声蜜柑の買へる嬉しさに

喉摘の頭蓋重たく髪洗ふ

気管口に湯気の渦巻く初湯かな

食道声しゃべれしゃべれと啼くひばり

扁平ののどに汗這ふ残暑かな

食道声まじる職場の日向ぼこ

食道声で返り咲きたる市長かな

気管口隠せば隠すほど暑き

食道声に闘志を燃す枯木かな

気管口咳もて小虫叱りけり

食道声を得て復職得て愉し炬燵かな

話せることのしあわせ

鈴木ふさ

八月に入って長野まで出かけた。ある店によると、そこの専務さん(あとで判る)という人に

「おや、甲状腺ですか、声帯ですか」

私「声帯です」

「よく判りますね、声を出すのに大変なんだってね」

私「判りますか」

「よく判りますよ。唯声が違うでね。でもよくそこま で頑張りましたね。私の知っている人にもいるんですよ 何年になります 」

私「十一月で八年になります」 私は大変気をよくして 帰りました。

去年の九月、主人が急に全く急に他界しましたとき、私は全身の力で呼びました。無中で呼んだんですが、帰 ってはくれませんでした。

六月には友達が入院して手術のあと、いろいろと言うのです。それにも話せて、世話も出来て、ほんとうによかったと感謝してます。

時々、これが話せなかったらどんなに切ないだろう、はがゆいだろうと思うのです。話せることはしあわせです。

近時雑感

山崎武雄

「病友」

徒然草の作者吉田兼好は友として嫌いなもの七つの中に「病なく身つよき人」と言っている。一度も病した事なく身体も心も強い人は、人としてやさしい思いやりの心にかけ、友として親しめないと言うのでしょう。喉頭をとってから長野日赤へ発声練習に通い、又松本の総会に出て、そこで会った病友は「一見旧知の如し」の言葉通り語らずして親しさを覚えた。病友とは嬉しいものである。

「生きる喜び」

去る四月十八日、信鈴会の総会に松本へ行った。その節、信大病院の鈴木先生、銀鈴会本部よりの中村先生を始め、多数の会員の皆様に御会いし有益なお話をき、有難かった。中村先生の懇切な御指導の後、宴会になった時鈴木先生が隣席の中村先生に「中村先生を始め無喉頭の方々は一般の人に比べてかえって生き生きとして御出でになる。どの方も生きる喜びを感じられている。生きるという事に真面目に必死に考えて居られるからではないだろうか。この方々に私も会えてほんとうに嬉しい」と。中村先生もだまってうなづいて居られた。病気を縁に生きるというより生かされるという実感さえ持ち得た喜びは言葉につくせない。

「滴翠」

若葉の頃の信濃の山野は格別美しい

若葉して御目の雫ぬぐははゞや

俳聖芭蕉が奈良の唐招提寺へ詣って鑑真私上を偲んでつくった句である。鑑真は唐土に生れ日本に新らしい正しい経釈を伝えるため「天平の甍」にもある通り多年辛労を重ね、ついに盲目となり乍らも日本に渡り奈良に唐招提寺を建立して仏供の流布につとめた。若葉の雫と盲目の聖者を偲ぶ俳聖、若葉を見ると思い出す句である。 滴翠とは何とよい言葉だろう。美しい緑の中に暮らせる幸せをしみじみと思う。

「うしろ姿」

うしろ姿のしぐれてゆくか

これはさすらいの俳人山頭火の句である。しぐれてゆく道を肩を落して一人ゆく人の寂しさ誰だろう。山頭火自身かも知れない。いくら頑張って見ても年はあらそえない。うしろ姿のしぐれてゆくさまが見える。これも自然の姿である。年とったお蔭と病気をしたお蔭様で自分のうしろ姿が見える。私共は無理せず自然に素直に発声練習にいそしみ、生かせて頂きましょう。

日赤病棟に三ヶ年

持田元

喉頭摘出手術以来約三ヶ年の病院生活を送っています。 同病の人でも大凡は三・四ヶ月で退院して行くのに、私だけは食道を傷つけて、長びいているのです。四十九年四月より胃管を鼻から入れて、流動食を流入して命をつなぎ二ヶ年余になります。その間口から食べず、米食べず、やせもせず、よく命が保ったものだと思います。口から思う存分飯を食べたいと夢にまで見ました。

去る四月中旬食道の傷防ぐべく手術しましたが、うまくいかなく完全にふさがらなく、近いうちに又手術することになっています。近代医学と主治医の先生にすべてお任せして、時期を待つより仕方ないと思って居ります。まだまだ病院生活が続くと思います。馴れたからあまり退屈は感じません。然しあといくばくもない余生を病院でむなしく過す事は惜しまれてなりません。一日一日が大切なのであるが故にです。然し焦ってもどうにもなりません。何事も運命でありますから。

私の在院中何人の人が亡くなったか数えきれません。 耳鼻科の病棟で、私と同じく喉頭摘出した人でも五・六人は亡くなっています。私は命あるだけ運のいい方だと思っています。目下の処毎日ガーゼ交換治療、点滴等しています。その他の時間は読書やテレビを見、短歌等作って時間を過ごし毎日楽しく送っています。発声の方も月二回講習会があり、タピアで吉池会長さんはじめ先輩各位の御指導によりまして進歩し筆談しなくてもいいようになり、喜んでいます。この練習を怠ずやっています。一日も早く食道が癒 え、口から食べられるようになり、社会復帰を祈ってやみません。今は病棟で一番古い患者になってしまいました。簡単ですが近況をお知らせ致します。

一九七六、六、一〇日

短歌

主治医来水曜日手術と云い渡されてハッとするなり

弐歳余待ちに待ちたる手術に喜びと不安と交さくせるも

進歩せる近代医学と先生を信頼しつつ神に祈るも

レントゲン胸の写真と心電図手術の前の準備ならむか

手術日朝昼食をぬきにして時を待つ間の重々しさよ

時間きて寝台車に乗せられて大手術室へ運ばれたり

術台に手足ゆはいて乗せられし覚悟はせしも心おののく

まな板の鯉の如く思いしが麻酔きききて覚えなくなる

気がつけば病院ベッド寝て居れり命ありけり手術終りぬ

手術後十日程動けずにベッドの上は人形のごと

社会復帰と云うことば

永池広唯

よく言われる月日の過ぎるは早いもので、私も手術して声が出なくなって最早三ヶ年近くになります。此の間私は私なりに色々な体験をしました。声の出ない苦しさその間に亦色々な災難もふりかかり大変な毎日が続きました。でも今では、先輩の皆様の御親切で人工笛による発声でなんとか会話も出来るようになり、苦しかった頃を思い出しよろこんでおります。而し、この人工笛の音質とかあらゆる面で上達の過程に至っては誠にデリケートで一口にかようにすればよいと云う訳にはまいりません。まあ私は私なりに間に合わせている程度です。

扨て、今回私の寄稿の題名としました社会復帰と云うことばに付いてこれから気付いたことを書かせて戴きますが宜しくお願いします。私共入院中や退院後も先生方や看護婦さん達からよく聞く言葉の中にこの社会復帰という言葉がよく使われるのですが、どうも私はこの言葉を良い意味に聞きとれぬからです。と申しますのは、私達は生涯を左右する様な病に侵され身心共に悲しみの最中にある時ともすればこの言葉の裏を返して受取るからです。努力次第で第二の声が出ると聞かされていても、若し思わしくなければ現代社会からとり残される情ない運命にもなりかねないイメージをさえ与えられる気がしてならないからです。

以上でございますが、先づ第一に身も心も健となり、言語はそれ程上手にならなくも立派に社会人として生きる事は出来る筈です。尚、術前会社等に勤務なされていた方は励んで努力なされ一日も早く発声、そして会話に上達なされ、それこそ社会復帰ならぬ会社復職なされんことを祈ります。

昭和五十一年六月十九日記

孫に教えられる

吉池茂雄

孫が生まれた。私の家では私の妹以来五十年ぶりの女の子なので、物珍らしい気持と何かとまどった気持とが入りまじった変な気持である。日増しに成長して、ぼつぽつしゃべり始める頃、私に一種の不安な気持が生じて来た。それは私の人工喉頭を使った発声が、これから言葉を覚えようとする孫に悪い影響を与えるのではないかという心配である。そこで私は、孫の前ではなるべくし ゃべらないようにした。

ところがある日、孫が私の部屋をのぞきに来た。私が手招きして、おいでおいでをすると、孫は不安げな顔でおずおずと入って来たが、側の机の上にあった私の人工喉頭を見ると、それを取って私につきつけた。それを使ってしゃべれ、手招きなどでなく、声を出せと云うのである。私は脳天をなぐられたような感じにうたれた。

今まで私は、しゃべる事の重要性、必要性を観念的に考えて、いろいろと意見を述べて来たが、孫のこの態度によって、その必要性を実感としてつかむことができたのだ。自分ではまだ満足にしゃべれない幼児でも、相手の声を、言葉を求めているのである。しゃべる事によって、そしてそれを聞くことによって人間相互の心の交流ができるのだ。

その後、孫の言葉の発達に注意していると面白い事がわかってきた。

裏の家に犬がいる。この犬の鳴き声を覚えてまねている。大人の我々は観念的に、ワンワンと鳴くから、犬は「ワン」、猫は「ニャゴ 」と云うが、孫の場合は少し違っている。犬は『ワゥーン』と長く引っぱって訴えるように、猫は『ニャーォ』と甘ったれ声で云うのだ。これは孫が耳で覚えた言葉であって、頭で覚えた言葉ではないのだ。だから実感が出ている。犬、猫の気持が感じられるのだ。

このように相手の心を耳で受けとめるからには、こちらは声で対応しなければならないわけである。

又々、理屈っぽくなってきたが、言葉(しゃべること)は私たち人間相互の心の交流に欠くことのできない重要な要素であると思う。人生半ばで、心ならずも声を失った私たちは、何とかして、何等かの方法で、声を取り戻さなければならない事

を痛感している。

孫はだんだん言葉を覚えて来て、絵本を見て捨い読みをしたり、母親が台所で仕事をしている時など、自分の部屋で一人で大声でしゃべっている。『オジイタン、パパ、ママ、ミホタン』と。ミホ(未帆)は孫の名前である。「チャン」と口がまわらないので「タン」と云っている。それでも序列ができているのがうれしくなる。親バカでなくてジジバカかも知れない。そこで私が「ミホタン」と呼ぶとおしゃべりがやんで、しばらく間をおいてから『ハーイ』と返事が返って来る。呼ばれたら返事をするのだと教えられた事を思い出したのだろう。

孫は今では大分言葉を覚えて、おぼつかないながら、私と話もできるようになった。そして私の人工喉頭の声が、両親やまわりの人の声と違う事にも何等不審を感じていないようである。私が人工喉頭を口にする事が、自然であるかのような様子である。そこで私も今では孫の前で公然と人工喉頭を使って話している。 一九七六・六

信大食道発声教室から

鳥羽源二

その一

全摘出の手術をしたのが四十七年十月だから、もう三年十ヶ月になります。そして四十八年リンパ腺転移で四月に手術を受けた後、今日まで信州大学医学部附属病院 の食道発声教室に通って発声会話の勉強をしております。教室には松本周辺の方々は無論のこと、大町、長野、上田、飯田の方々も遠路いとはず出席されて懸命に正確な会話が出来るように勉強、努力しています。発声教室は幸い信大医学部耳鼻科の暖かい理解に依り、毎週木曜日の午後を定日として集り、発声の訓練をしながらいろいろとお互の情報の交換をし、そして励し合って私達喉摘者の社交場ともなっております。また昨年九月には、食道発声仲間同志で、マイクロバスを借切り、松本―長野―バードライン―戸隠―山の内温泉(泊)―志賀高原―白根山―鬼押出し―松本と一泊二日の旅をこころみました。幸い好天に恵まれ、誠に楽しい二日間を過ごし参加者の皆さんはほんとうに喜んで呉れました。これからもその様なリクレーションを新年会と共に毎年行事にしたいものだと思います。

その二

私達が生活する上に於て、社会に甘えてはいけないと常日頃心しているのですが、やはり思うように意志の伝達が出来ない時は己がミジメさを思い知らされるものです。それにつけても信大医学部附属病院耳鼻科の今野婦長さんの積極的な発声教室への御協力は本当に有難いと思っております。喉頭摘出者への心よりの思いやりでしょうが、多忙極めるお仕事の中をほとんど毎回発声教室に同席下され、発声訓練に励んでいる人達に暖い心で元気づけ、そしてやさしくアドバイスされる。そのはげましに依て、多くの人が第二の声を得て社会復帰しております。そしてまた発声訓練に必要な器機類をいろいろ調えて下され、尚、昨年までは夏の暑い日には汗をふきふき懸命の訓練でしたが、今年は大きな扇風器の下で楽しい勉強が出来、そして年頭の楽しい新年会も皆婦長さんのお骨折りの賜で、深く感謝しております。前にも記した様に甘える訳ではありませんが、やはり良き理解を得ることは私達の生活に自信を持つ最大の糧であるこ とは事実です。

その三

一昨年「信鈴」に寄せた私の"喉摘者でない人えのグチ噺"の文を読まれて、阪喉会の理事であられる矢頭さんから、早速御指導のお手紙とわざわざ真夜中に朗読、歌、その他を録音されたテープを頂戴しました。当時私は末だ食道発声は始めて数ヶ月の頃で何回もきかせて頂き、勉強の有難い師となりました。私達にはやはり食道発声に自信をもった先輩が常に身近に居て指導して下さることが最も効果が上るものだと思います。教室の皆さんとも何回も相聴し、貴重な教材として信大食道発声教室に活用させていただいております。

発声練習に大事なこと

吉池茂雄

四月十八日、おなじみの美ヶ原温泉みゆき荘で本年度の総会が開かれた。役員会で多数の希望があったので、東京から中村正司氏を招いて、御指導を受けた。中村氏はご承知のように、食道発声の権威者である。当日出席できなかった会員も多数あったので、中村氏のお話の要点を摘出して、ご参考に供したい。

食道発声に上達する為の練習重点は次のような点であ る。

1.吸入法を正確にやる。のみこみでは上達しない。

2.指導者の選定を適切にして、正しい指導を受ける。自己流の練習ではいけない。

3.集中的に練習する。やったりやめたりではだめである。はじめたら上達するまで徹底的にやる。

4.計画的に目標を立てて練習する。練習順序(段階)を守る。これが出来たから次はこれと云うように、順序をふんで一段一段進む。先へばかり進みたがって、段階を飛びこしてはいけない。

5.自分のペースに合わせて練習する。各自の生活情況から、一日の中で最も練習に都合のよい時間帯をえらんで毎日練習する。

中村氏の談話の要点は大体このような事であって、至極ごもっともな事ばかりである。続いて中村氏は、次のような人は上達がおくれる、上達しないと云われた。

1.素直でない人、強情な人は上達しない。これは指導者の云うことを素直に聞き入れないで、

2.自己流に、がむしゃらにやるから上達しないのである。

3.怠だの人、お天気やで、やったり止めたりする人、長続きしない人は上達しない。

最後に、大勢集まって練習する事が、大変大事な事であると結ばれた。

何れも、なるほどとうなづけるお話である。そして、これらの事は、食道発声だけでなく、人工喉頭でも、又その他の発声法でも云える事で、極めて大事な事と思う。 今発声練習に励んで居る方々は、ご自分の練習法をふりかえってみて、とのお話を取り入れて、正しい練習をして、一日も早く発声をものにして、会話ができるようにご精進いただきたいと願っています。

声のありがたさ

島成光

暗やみは一寸先が見えぬ不安である。然し声により闇の中から一つの光明を見出し、不安感が去り行先が明らかになり、声の有難さを感じる。交通事情のはげしい道路にはトラックやオートバイやハイヤーが仕切なしに通る。実に危険である。事故の少ないのはブーブーと云うクラクションの音でありサイレンの音声であり、音声により人の危険をまぬがるることができるのである。音声の有難さを感じる。親が我子に諭す言葉を信じなかったならば、学校で先生の言語を信じなかったならば、我子の行く末を親は安じ不安感を持つものである。

私達喉頭摘出は食道よりの発声又は人工笛により意のあるところを他に通じ以って社会人として日常の業務に励んで居るのであるが、不幸にして発声不能であれば手まね、身ぶり、筆談等で他人の用件に対応しなければならない。音声の有難さをひしひしと感じる。毎日テレビ、ラジオで画面と共に音声の調和により楽しく終日のテレビ番組を見ることができるのも音声の調和である。実に音声は有難さを感じる。

川の流れの音も、鈴虫の音色も、親の子に対する慈愛の音声も皆発声が起因となるもので、声の大切であり、声に感謝し、生ある限り私達喉摘者は第二の天与の声を信じ今日を明るく明日への希望を失うことなく無限に発声のありがたさを感謝して通られんことを望む次第であります。 昭和五十一年の盛夏

編集後記

昔から桃栗三年柿八年と申され、種の発芽から結実までは年月を要し、人に愛食されるものです。物の完成には日を要し苦労がともない出来た物は一冊の会報でありますが、此中に記されている会員諸氏の涙の出るような発声体験や、社会復帰の喜びや、実に貴重な原稿を以て編集されて居ります。

編集子は一年を通じて常に忘るることなく心を使い、写真版に原稿の校正に幾日もの日を費やして、ここに信鈴第七号の発刊をすることになりました。

会員の皆さんよりの心あたたまるような真実の原稿をお寄せ頂きましたことを御礼申しあげます。

今後共本会の上に何分の御協力を賜りますようお願致し信鈴第七号の後記といたします。 以上

昭和53年刊 第8号

巻頭言

鳥羽源二

人生に於て声を失い会話のない生活が、いかに悲しいつらいものであるか、吾々は身をもって体験した訳です。喉頭ガン等に依り、喉頭摘出の手術をうけ、声を失った人々に対し、今一度発声、会話の術を得、そして社会に復帰し、より楽しい人生を全うするべく、此の長野県信鈴会が誕生してよりはや十歳近くになります。

此の間信州大学医学部耳鼻咽喉科鈴木教授、今野婦長、長野日赤耳鼻咽喉科浅輪部長、高村婦長等の皆様の絶大なる御協力により、長野日赤、松本信大に於て発声教室を運営、指導員の御苦労により多くの皆さんが再び社会の第一線で活躍されていることは誠に尊いことであります。

天与の声を失っても尚人生に負けることなく、克己と信念に燃えて第二の発声(会話)を得、本会を通じてより楽しく活きぬかれることを念願して止みません。

尚中島県会議員、県社会部障害福祉課、県社会福祉協議会等よりの吾々喉頭摘出者の更生に関しての御助成には深く感謝の意を表する次第であります。 (鳥羽)

会員の皆様に

信州大学医学部教授 鈴木篤郎

今年は昨年と違って比較的暖かい日が多いようですが、やはり「大寒」のさなかでは何となく寒さが身にしみるような 気がします。

しかし庭にでて見ると、樹々のつぼみは固いながらも春に向っての準備を完了しており、ひたすら春を待つその姿には 季節の運行の確実さをしみじみと感じさせるものがあります。

信鈴会も発足以来もうすぐ十年を迎えようとしていることと思いますが、新しい態勢をととのえ、これまでの創設期か らいよいよ第二の充実期に向っての意気ごみが感ぜられ、大変うれしく思っております。ただ須沢徳正前会長が思いもか けぬ病魔のため、まだまだこれからというお年でなくなられたことは、かえすがえすも残念でなりません。前会長さんの 御冥福を深くお祈りするとともに、信鈴会の発展のために注がれた同氏の情熱を生かして行くようにしたいものと思いま

す。

最近キューブラ・ロスというアメリカの精神科の女医さんが「死」のことを書いた本のなかに、「難かしいのは死ぬことではない。死ぬまで生きることだ」という言葉がありました。簡単な言葉ですが、鋭く真実をついていると思い、感銘を受けました。われわれは一人残らず誰かに定められた残り時間というものを持っております。問題はこの時間を無駄に 費やしてしまうか、最後まで真に充分に豊かに生きて意義あらしめるかの選択にあると思います。明日や明後日のことを思いわずらうことなく、今日ただ今を楽しく豊かに充分に生きることに心を使うことが、結局いちばんよく人生を生き抜いたということになるのではないでしょうか。

皆様の御健康を祈り上げます。 (一月二十八日)

信鈴会の御盛会を祝す

信大 河原田和夫

一昨年松本に来てから、信鈴会や発声会の活動を知ることが出来ましたが、皆さんの会の運営に敬意を表します。

私も、前にいた病院で五人の喉友会員がおりましたので、それなりに経験をもっていたつもりですが、皆さんの目をみ はる様な活動に、たいへん勉強になりました。

言語活動を、再開するときに、くじけないで、背水の陣でやってみる必要があることは、言うまでもありませんが、私 の口から言うよりは、若いY君の体験を通して知ったことを紹介してみたいと思います。

Y君は当時二十六歳、独身、フィアンセらしい人もいた様です。嗄声があり、呼吸が苦しいということで診察しましたが、手術しなければならないと説明し、社会復帰のこともふくめ、ていねいに話をしましたが、本人は、とにかく苦しいので手術をしてくれと、簡単に了解しました。それまでは、大学病院や国立病院を手術拒否で逃げ出して来たような方ばかりだ ったので、私もあっけにとられました。本当にいいのかと、念をおしたほどです。

Y君の手術は、順調に行き、食道発声も、先輩会員に二、三ならっただけで、三ケ月後には職場復帰し、従来のセールス活動で、自動車で走りまわるほどになりました。 「呼吸は楽だし、声も前よりいい声が出る。重い物ももてる」と道であって、逆に肩をたたかれる仕末。医者冥利につきるというものです。「昨年結婚しました」といううれしい便りもありました。

生き生きと生活している姿ほどうれしいものはありません 皆さんの御健康を祈ります。 (二・二)

持田元さんをしのんで

松代 吉池茂雄

私が持田さんとはじめて会ったのは、たしか四十九年の春だったと思う。日赤病院耳鼻科外来の待合室だった。当時は そこをお借りして発声訓練をしていたのだった。持田さんは流動食を注入するゾンデを鼻孔から入れていた。

持田さんは四十八年七月、日赤病院に入院された。同年の三月頃から声が出なくなったそうだ。 八月に手術をして十月一旦退院されたが、のどの傷が化膿したので十一月再度入院し四十九年四月頃からゾンデで流動食をとるようになった。

持田さんには食道発声は無理だというので、浅輪先生の御指示もあって、私がタピアの指導を受持った。

持田さんは七十歳を越した老齢であったが、熱心に練習していた。口中型のタピアがうまく口に入らないので、浅輪先 生の助言により口外型に作りかえてあげた。はじめは発声と呼吸とのタイミングが合わなくて、随分苦しんだようだが、 そのタイミングも次第に習得された。毎日朝から晩まで発声練習をしていたという。同室の患者が迷惑するだろうと、廊 下に出てやったが、他の病室からうるさいと苦情が出たので屋上へ上って練習した。しかしこれも隣の病棟から苦情が出 たらしい。しかし持田さんは毎日の練習は欠かさず続けたという。その熱心さには全く頭の下がる思いであった。

初め持田さんはタピアを前歯の所でくわえていたので、奥歯の横から口腔へ入れるように指導したが、どうしても入ら ないというので、口中型から口外型にかえたのだ。口ゴムがうまく奥歯の間から入るように、総入歯の奥の一本を取り除 いてもらうように指示した所、持田さんはさっそく歯科医で取ってもらった。所がタピアの使用法を全く知らなかった為 と思うが、歯科医はタピアがうまく入るようにと、奥の三本を取ってしまった。一本の欠歯の所に口ゴムがひっかかって固定されるので発声が明瞭になるタピアが、三本も欠歯が出来たので、口ゴムが前方へすべり出してしまい、そのために発音が不明瞭になってしまう。そこで口ゴムを出来るだけ奥へ押しこむようにと指導したが、なかなかうまく行かない。

持田さんは時々私に、振動ゴムの張り具合はよろしいかと 質問していた。笛は調子よくいい音を出しているからそのま までよいと答えると、安心したように又練習を続けるのだが明瞭さはいつまでも進歩しなかった。でも家族の人や、いつ も接している看護婦には日常会話は大部ききとれる様子であった。

私は何とかして明瞭な発声が出来るようにと思い、いろいろ、時にはお気の毒な位きびしく助言指導したがうまく行か ない。それは持田さんの口が、下あごが十分に動かない、口があかないという事に気がついた。のどの手術のためか、長 い間ゾンデの食事をしていたので、口で物をかむという習慣を忘れてしまったのか、口が開かないのだ。口をいっぱいに あけてごらんと言っても、上下の前歯の間が、やっと一センチ位しか開かないのだ。これでは誰がやっても明瞭な発声は 出来ないわけである。

時々持田さんは、しゃべったあと、私にわかりますかと聞く。実際は二割位しかききとれないのだが、大負けに負けて 半分位しかわからないと答えると、困ったような顔をするがあきらめもせずまた練習を続ける人だった。口さえ開くよう になれば、もっと明瞭になりますから、口を動かす練習を続けなさいと言うと、口が動くようになればわかるようになる のですねと、前進に希望をもった様子であった。持田さんの口が自由に動くようになるかどうか、私には先のことはわか らないのだが、そう励ますより仕方がなかった。

こうして持田さんは、足掛け五年(四年と十ケ月)の入院闘病生活を続けた末、日赤病院で七十四歳の生涯に終止符をうたれた。時に昭和五十二年四月二十七日だった。死因というか最終の病名は頸動脈出血だという。

持田さんは入院中、練習の合い間に、読書と作歌を続けておられた。持田さんが生前信鈴に投稿された和歌の中から数 首を再録させていただいて、その心境をしのびたいと思います。 合掌


進歩せる近代医学と先生を信頼しつゝ神に祈るも

術台に手足ゆはいて乗せられし覚悟はせしも心おののく

声帯は除去せられたり古稀を経て声なき余生如何に生きる

看護婦の白衣にふれて甘えたく妻の如くに吾娘のごとくに

病める身の楽しみなきのこの余生歌一路に歩まむと思う。


一九七七・一〇・二○

生甲斐

茅野市 上條行雄

喉廃い手術してより十八年まだ生きている老の仕合せ

手術して頸にうがてる気管口たよりに息して十八年になる

喉廃い況して跛の身をいとい生きながらえて十八年になる

わが老いて好きな畑に日毎来る畑作るが老の養生

喉廃いもの言えぬわれ畑に来て終日黙しいるが楽しき

齢八十畑作りを程々に約めむ相談はすぐにまとまる

老らくのわが楽しみの畑作りやめんと決めぬる

八十年愚痴をつつしみ生き来り大いなる愚痴言いて死にたし

喉廃い定かならぬ声ふりしぼり歌あげつらい人を惑わす

草に木に歌に遊びて八十八無慾に生きて命長くこそ

脚のみど欠陥の身を長らえて八十一才の齢重て侘びし明けくれ

新しくなりしわが部屋目交に百日紅の花今を盛れる

部屋部屋の模様がえして暮よきこの部屋に老いて命終らむ

八十となれば命が勿体なし身をいとい独り慎しまむのみ

旅行かぬわれは家にて酒を飲む心の旅をすると思いて

好きな酒は三日に一度と決めて飲む淑き友を迎え楽しむは別

ながらえて今年のくれには八十二可惜身命不惜身命

雑感

丸子町 吉池許由

「奢れる者久しからず」とか「治に居て乱を忘れず」とか戒めの言葉として残っていますが、実際にはなかなか守れないもの。「平家にあらざる者は人にあらず」とまで豪語した平家がどうしてあの哀れな滅び方をしなければならなかった事を、予想した事でしょう。

健康で居る者には、なかなか健康の有り難味や病気の事など考えられない。病気になってみて始めて、あの時こうすればよかった、ああすればこんなに苦しまなくてよかったと後悔するもの。そこでよく一病息災と言う事を言われますが、即ち一つの病気を持っている者はいつも自分は病気で弱いから健康に留意して居なければならないと言う事が頭に有るから、案外長生きをするという意でありますが、一面の真理があると思います。

私はよくNHKのテレビ番組「お達者ですか」の番組を見ますが、ここへ出るお年寄りの方の健康法や長寿法をお聞きして居ると、よく「腹を立てない事」だと教えてくれます。 先日も百歳になられる方が、「私はかつて一度も腹をたてた事はない」と申されましたことを聞きました。実に立派なそして又尊い言葉であり、本当に立派な方だと思いました。「腹を立てない」僅か七字ばかりの事ですが、誰にでも真似の出来ると言う事ではありません。その温顔を拝見していますと、こういう人こそ本当の立派な人であると言えると思います。百歳と言うと明治初年に生まれた方で、この頃は学制は布かれていても、まだまだ教育と言うような事は今のように進んで居りませんし、義務教育も小学校四年までで現在のように九〇パーセント以上が高校教育を受けている時代とは雲泥の差です。そこで私は、立派な人間と言う事は高度の学校教育を受けた人と言う事でなくて、俗に言う「人間のできた人」と言う事になると思います。教育憲法とも言われる教育基本法に「教育は人格の完成を目ざして行われなくては......云々」とあります。人格を磨く事が勉強であり、人間性を高める事が学問で、敢て学校を出なくても自分の修養を積んだり、自分との厳しい闘いに打ち勝った、いわゆる「人間の出来た人」と言う事が立派な人と言う事にもなると思います。私も余生をたゞ面白く自分だけよければと言うような生き方でなくて、神から受けた生命の尊さを思い、長寿の方にあやかってなんとか生き甲斐があり、そして遅ればせながら立派な人になりたいと言う努力をしなくてはいけないのではないか......などと考える今日此の頃です。手術してから七年、七十五歳、年寄りのたわごととお笑い下さい。


尾本乾

食道発声教室で、何か書いてくれと言われても、私より皆さん上手で、私など色々言う余地は有りません。手術してより五年になりますが、自分で電話で話したり、人様とおぼつかなく話せる程度です。

初め一、二年は一生懸命稽古しました。少し話せる様になったら、これは練習さえすれば声が出て話は出来ると、確信するようになり、そうなったら練習の方がおろそかになりました。いつでも声は出せるものと思ったからです。御存じの通りです。全く進みません。でも大体は話が出来て通じます。皆様とくらべて、お恥ずかしい次第です。

東京の銀鈴会の総会には三年続けて行きますが、本当に上手な人は数少ない様です。全国から集って居るのですが、信 鈴会の人々と大した変りは有りません。今年は、長野県信鈴会から五、六人行きましたが、平沢さんは五位に入選しました。其の程度の人が最高の人々と思います。これから私も心を入れかえて、一生懸命練習します。 教えて下さる皆さん、又婦長さんなどに極力の御尽力戴いて居り、こんな事では申訳け有りません。特に熱心に御協力戴いて居る今野婦長さんには厚く御礼申し上げます。

今年は、農協の役員をしたり、又、書道を初めたものです から、忙しくて、御無沙汰勝です。

長野赤十字発声教室より

永池広唯

信鈴会の本年度総会が五月二十九日に松本市はやし会館に於いて行われ、私も始めて出席致しまして大勢の方々とお会いすることが出来大変嬉しく思いました。

今年は役員の改選の年であると言うことでその選出に当り委員の一人として地域的分布等考え北信中信南信という様に 配慮を重ね選んでいただいた訳ですが、その内に北信の中の一人として私も入っていたわけですが、後家でよく考えてみましたのですけれど理事などという大役の任ではないと思ってならないのですが、而し私も喉摘手術後約四ヶ年今だに食道発声はものになりませんが人工笛にて、何んとか日常生活もさして不自由なく過して居り、これも先輩の方々のおかげであると思う時、感謝の意味からもここはなんとか次期の改選の日まで少しでも同病の体験を持つ皆様方と共にそして心と心のふれ合いを大切におてつだいをしてゆきたいと思って居ります。よろしくお願い申し上げます。

さて首題に致しました発声教室のことについて申しのべます。 長野市近々の皆に協力をお願い申し上げる訳ですが、去 る九月の第三金曜日に日赤の教室へうかがって時間中お待ちしたのですけれどお一人もお見えにならず何か淋しい空虚な気持で我家へ戻ってきました。切角、病院の先生方の御好意とそれに看護婦の皆様のお世話をいただいて三階の会議室をお借りしてあるのですから、どうかその日はお都合なされて一人でも多く出席され発声の上達をなさって下さる様に願っている次第です。

待ち時間のとき、ちらっと信大病院の発声教室の事を思いうかべ、大勢の皆様がなごやかな中に真剣に発声に努力なされている姿を思い浮べて本当にうらやましく思いました。

とり止めのない事を列べ書きましたが、とにかく北信近辺の皆様、長野教室へ集まりましょう。そして発声は下手でも会話の上達は小さくともそれ以上に心のつながり、人との和は大きく育つことはたしかです。集まりましょう、会の皆様。

イタミの無い病気の恐しさ

和田艶太郎

善光寺から一里程山手の高等小学校を卒業、十五歳で村の若い衆の仲間に入り、そして祭や村の行事に出る様になりました。村では何か行事の後は酒が出て、その時は北信流と言えば必ず謡曲が出ます。上手下手にかかわらず酒の席の者は知って居りました。自分も四、五人のグループと共に村の先生について習いました。その内一人欠け二人欠け自分一人になりましたが、二、三年の中に謡のよさが分り、戦前観世音流宗家より免状をいただき、NHKへも三回程出演しました自分には唯一の特技として誇を感じて居りましたところが、四十六年頃から声の出が悪くなり、町医も二、三診てもらいましたが嗽薬くらいの事で病原をつきとめてもらえず、今考えると実にたよりないものでした。

イタミが無いのと食事に何の支障もないのでずるずる過ごして居る内に益々声の出が悪くなるばかり。方々人にたずね たところ吉田の朶という先生に診てもらえと言われ早速診てもらったところ紹介状を書いてあげるから信大へ行きなさいと言われ、すぐ信大へ参ったところ早速入院せよとすぐ入院 手続きをとり帰ると四、五日で入院できました。

放射線でも治るとの事、しばらく放射線をかけて居る内に次第に声の出が良くなり喜んで居りました。同室の病友と病院の脇を流れる女鳥羽川に散歩に出たり皆でお茶を飲んだりテレビを楽しんだりしました。病院の裏に盲学校があり十五、六歳の若い学生が手を取り合い楽しそうに語り合っているのを見て俺はまだ幸せだと思いました。七十歳近く迄満足に生活して来られたのにこれから長い人生を思うと気の毒でした。放射線もある限度迄とか主治医に呼ばれ手術と聞かされた時は何とも言われない気持でした。自分の命を喉頭がかわってくれたと思って手術を受けました。

イタミの無い病気の恐しさと最初の医者が早く病原を見つけてくれたら放射線位で治ったと思うと残念です。

信鈴会の皆様御元気で。

近時雑感

山崎武雄

◆御破算

子供の頃から、珠算は得意でなかったが、読上げ算で「御破算で願いましては」と言われる「御破算」の言葉が妙に好きだった。

ガラガラッと珠を一切払って、又始めるのは気持がよい。一生の間に一切を御破算にして、又出直すという場面にも、何回かあったが、不思議に、生来甘く出来て居るのか知れないが、かえってさっぱりしてうまく乗り切って来られた。

併し今度の喉頭に出来た肉腫摘出手術には参った。御蔭様で、命は助けて頂いたが、声帯をとったので発声不能。今までの御破算とは、全く異質のものである。

ところが又幸運にも救われた。すぐ近くに春日北雄さんという、同じ手術をされ、長野の食道発声に通って居られる方がお出でになり、よき病友として、慰められ、励まされ、教えて頂いた。以来長野の会に、なるべく休まず三年間通わせて頂き、よき先輩の方々に教えられ、どうにか家族とは、筆談でなしに話が出来るまでになった。

家業は寺だが、住職の小生が勤まらぬとなると、妻、長男、嫁はもとより、檀家の方々も協力して、ひとりひとりの信心 の確立、寺の護持につとめて下さった。

昨今お経も、短い嘆仏偈だけ、朝夕、仏前であげるのだが今まではお経はやはり、声高に、いつか人に聴いて頂いている事を、意識して読んだものだが、今は心静かに、読みつつ自分にきかせて頂いている。

「仏教を学ぶのではない。仏教に学ぶのだ」「仏教がわかるのではない。教をきいて、自分をわからせて頂くのです」と言われる先生のお言葉が、漸く身に知らされた。これは声がよく出なくなって、始めてしっかり自分をみつめる事が出来た何よりの幸せである。

いろいろの意味で、今回の御破算も有り難い御縁となったと思う。

◆時期円熟

稔りの秋を迎え、今年は好天に恵まれ、庭には柿は真赤に鈴なりとなり、栗の実も毎朝沢山落ちる。「桃栗三年、柿八 年、柚は九年の花ざかり」と古くからいわれるが、家の庭でも桃栗梨柿はよくなるが、どうも袖は駄目である。盆栽でよ く実のついたのを買って来ても次の年からならない。ある地方では「桃栗三年、梨柿八年、柚のバカは十八年」というそ うだから、その中なるかも知れない。

木が大きく伸びたり、花が咲いたり、実がなったりするのは、全く時期が来ぬと駄目の様な気がする。すっかりあきら めていると、急にぐんぐん伸びたり、花がびっしりついたり実がなったりする。不思議な位である。

発声練習もこんなものではないでしょうか。 生来不器用な小生など、柚のたぐい。

なかなかうまく出来ない。併しあきらめないで、気長くつとめたいと思う。長年よく発声出来なかった人が、次にお会いした時急に上手に発声され、ぴっくりする事がある。先日も三年間一緒に学んだ和田さんが急に上手に発声され、驚嘆した。時期円熟したのであろう。

◆コスモス

コスモスの倒れしままに咲きにけり

若い頃、高浜虚子先生が高田へお出での節句会に出た。その時先生が賞められた句である。やさしくなよなよと咲くコ スモスの花。

風雨の強い北国では、倒れぬ様に、竹の支柱などよくしてやるのだが、やっぱり倒れて仕舞う。併し地面に倒れても、コスモスは、枯れることなく、そのやさしい緑の茎、葉の先先を上に向け、赤、白、紫など色とりどりの花を咲かせている。倒れしままに咲くコスモスの美しさ。肌寒い北国の秋の美しい一風物詩ともいえよう。生命力というか、生かされる力といったものをしみじみと感じる。今後何年生かせて頂くか知れないが、人生の意味、喜びを感じて過したい。

歩み

塩崎正一

前後二回で七年余ケ月の軍隊生活や其の後の三十年近くも丈夫の方で過ぎましたが、五十年二月頃から咽がおかしくてぜんそくの気があるかな、と思い乍ら近所のお医者さんに診ていただき、うがいをしており、結局六月二十六日信大病院に入院致し、放射線を三、八○○照射して八月八日左右両頸淋巴腺を大きくとり喉頭摘出手術を受けました。入院中に心臓が少し悪く、第二内科にかかり始めまして、九月十三日に退院出来ました。それより毎月二回、往復百五十キロを(午後の発声教室だけに出る) 山下竹一さんと六時の急行に乗り信大病院へ参ります。内科は毎回、耳鼻科は月に一回ですが待時間が長く忙がしいのです。山下さんは次の受付や料金払を折々やって下さいますが、昼食の時間の少ない時もあります。良きお連れで有難さをつくづく感じ、心中感謝しております。家に着くのは十九時少し過ぎです。

五十一年二、三月頃家で夜半にめまいを起こし、地元のお医者さんに三回程かかりました。又その五月右頸に大豆大の淋巴腺が三個出来、入院手術を致し二個取れましたが、一個残って居りますが、大きくもならず、軟らかいので、特別心配は無いとのことです。(固いと要注意の様です) 五十一年の冬は特別寒くて心不全等の為か折々朝短い時間ですが胸が痛む事がありました。五十二年四~五月は痰に少しずつ血が混じる事が度々あり、心配でしたがお蔭様と喰物はおいしくて安定して嬉しく思っております。鳥羽さん、平沢さん、大橋さん、桑原さんと長い月日をご指導頂きながら、右折左折して発声の方は、大変おくれておりますが、一生懸命励みたいと思っておりますので、長い目でご指導いただきたくお願い申し上げます。

此の冬は皆様共々変った事が無い様祈っております。

私の会話

茅野市 五味周一

信鈴会の皆様お元気で御活躍のことと存じます。私もお蔭 様で元気でおります。

私は丁度二年前の六月に手術をしてその後信大病院の発声教室にて先生方から御指導していただきました。それでも仲 仲発声出来ず、もう少しと言って続けておりましたが、二月半年と経ってしまい他の方々はそろそろ発声が出来る様になったのですが私はどうもうまくゆかなくて悲しくなりました。私の仲間の会などが時々あるので筆記で会話をしていたので すがどうしようもなくなり電気発声器はどんなものか兎に角会話が出来ればと考えて器具を購入して一人で練習を始めました。自己流でやっているので話し相手はがあがあして判らないよと言われテープコーダーを利用して音を加減したり、相手と話すつもりで吹込んで聞いたりして三ヶ月程経ちました。ようやく相手にも判るようになったと言われ、まず意思は伝えられることでうれしくなりました。

昨年でしたか先生方と旅行した時にそれで会話が判るようになったのだからそれを続けたらと言って励まして下さいました。私も食道発声は理想であり最良の発声と思いますが、この器具の発声で、会合、旅行等やってみました。この秋九月二十五日から一週間北海道旅行をしましたが、バスの中でのマイクの話し合い、宿泊ホテルでの会話等少しも差支えなく皆さんと通じて楽しい旅が出来ました。私は只不便は何と言っても器具をいつも携帯しなければならないことです。でも私のような老人ではこの位の不自由は仕方なく、ありがたいものと考えておる次第です。

私は時々外出先で話していると、それはどういうもので、どこで購入出来ますかなどと聞かれることがしばしばありました。御親せきの方が同じようななやみをもたれているとききました。私はとにかく会話をしましょうと東京の銀鈴会を紹介しております。

今考えると信大教室で先生方の御指導をいただいた発声練習がこの器具発声でもどの位役立ったかと心から感謝している次第です。

先生方ありがとうございました。これからもがん張って行きたいと思います。皆々様と時々お会いすることを楽しみにしております。では又お会いしましょう。さようなら。

(五二・一〇・二〇記)

私を助けて下され 守って下された皆々様に

大川利雄

私は今から五年前に声がかすれてというのは昭和五十一年十一月松本の信大へ入院する前のことです。私は根が丈夫だったものですからあまり気にもせず当時少年から青年になるのに声変りがするのと同じく五十歳過ぎると声がしゃがれてくるのだとばかり思いこんで働いて居りましたが、声がかすれはじめて一年位たってから旅行あるいは婚礼によばれても高い声が出ないので自分でもよく歌が上手に歌えずだんだん旅行などに行くのがいやになり、入院する三年前に上田市内の医者に一ケ月ほど治療してもらいましたが、さっぱりよくならず、又仕事に追われて病院に行くのもやめて五十一年の夏を迎えましたところ、ますますのどが悪化致し少しやけぎみになり酒も、今まで晩酌だけなのを昼も一合か二合飲み、たばこもしばらくやめておりましたが、何んとなく気持が荒れてよけいに飲み、吸いもしたのが今思えば自分で自分の身体を痛めつけておったことでした。五十一年信大へ入院した時はほとんど声が出ず、せつなかった。

でも放射線を二千程かけ始めてから少しずつ声が出て嬉しくああよかった、これで声帯を取らないですむと思い、三〇五号室の窓ぎわのベットの向い合いに飯田の内山さんも私と同じくのどの病にて入院しており、このおじいさんは七十三歳で私より十三歳も上のお年寄りでした。この方は病気が軽かったのか放射線ですっかり治り退院を待つばかりでした。天理教を御信仰しており、私にも大手術を受けずに治るよう朝 タ、天理さんに軽くすむよう私のためにお祈りして下さいました。私も放射線台の上に乗るたびに神仏にどうぞ声帯を取らずにすみますように、と祈りお願いしました。

忘れもいたしません。五十一年一二月二十日の治療の時、 担任の上条先生に声帯を取らなければだめだと言われた時の悲しさ、その時、神も仏もないとつくづく感じたことはありませんでした。ああこれで私もとうとうかたわになるかと思い急に力がぬけ、病室へ帰るのに足の力がぬけ地につかず、しばらく病室で休み、おかあさんに電話したら、私の話を聞く前に、ああおとうさん声がよく出るでないの、よかったですねと言われたときは、実は声帯を取るのですとはすぐ言えませんでした。でもいつまでもだまっておれず、実は今日上条先生に一月手術を受けて下さいと言われました、と言いましたら、おかあさんがそんなに声が出ておるのにどうしてでしょうかと不思議がりましたが、手術を受けるのはもう決っまったのですから致し方なく、それに私達がおもっているよりのどがひどかったことと思います。

ただ私は自分で自分の病気のようたいもわからず、あまりにも病気の恐ろしさに関心がなさすぎたことを今くやみます。その時おおげさに言うと天の助けか今は亡くなった飯山の高橋さんが息子さんのお嫁さん共々力づけて下され、それに内山さん、今は亡き中屋さん、皆んなに元気づけられて手術を受ける覚悟を決めました。皆んな周囲の人々の親切からです。私は一生感謝の気持を忘れません。今はなかなかおもうように発声練習も上達しませんが、先生又諸先輩の教えで少しずつ発声が出来るようになってきました。これも皆様のおかげです。嬉しいです。

手術も順調にすみ、その後の経過も誠に良好でした。あまり早く元気になり周囲の患者さんがただたまげておりました。先生の言われるのにはあとあとのためにコバルトを五千程をかけなさいとのことでしたので放射線をかけました。五千程 かけ終り一月十四日に手術を受け三月十四日無事退院しました。でもその後コバルトをかけた穴のまわりのやけどがいた く、それにカニューレを入れるのがむずかしく泣きました。二ヶ月の苦しみは人に話してもわからないと思います。ひりひりと穴のまわりが痛み、夜少しねただけで痛さで目がさめ昼は昼で何かをやって気をまぎらわさないといたたまれず、いったい今後どうなるのかと不安で心配でしたが、二ヶ月過ぎたら薄紙をはがすようによくなり、今はあの時のことが昔のことになってしまいました。

私の今一番悲しいことは、たばこが吸えなくなったことです。吸って吸えないことはありませんが、吸ってみてもぜん ぜん味がなく、ただ口の中でいぶすだけ、たばこの味のないのと、すぐむせるのは手術をしたせいでしょう。害になっても良にならず酒もたばこも二ヶ月前からやめました。何んとも毎日手持ちぶさたでおります。それにたえず咳をする度に痰というか鼻水がでるのが困ります。特に車の運転中に出るのが一番困ります。ですから他の物は忘れてもちり紙だけは絶対忘れる事が出来ません。誠に不都合な病気です。他に不服はありませんが酒の飲めない事とたばこの吸えないの、これだけがつまらない人生だなあと思っております。でもまたなにか生きがいをさがして元気に暮します。

特に私の生命を守って下された最高の医術と最高の看護にたいし松本信大の諸先生、また特に広瀬先生、担任の上条先生、婦長さんをはじめ看護婦の皆様に心より感謝致し居ります。人ひとりの命を守るのに皆様はいかに御苦労して下されて居られるかつくづく身にしみておもい知りました。ありがとうございました。

入会にあたって

宮本音吉

私は、今年の六月喉頭全摘出手術を受けて、この度新しく本会へ入会させていただいた宮本です。仲間入りよろしくお願い致します。

平常の健康を過信し、これ程までの病状とは夢にも考えて見なかったことである。結果的には、十年位前から除々に声帯が、病におかされていた様である。

今年の一月職場を退職し、非常勤ではあるが、地方の役職のみをつづけていたのですが、退職を機会に役柄絶体必要とする対話(声)の完全治療を考え、精密検査を信大病院に依頼入院しました。今迄にも人間ドック入り或は専問医の診察も受けたが、当時は異常なし、又は四、五日の治療で快復していたので、本当に安易な気持でしたが、結果は喉頭摘出手術を宣告されました。最悪の場合についての覚悟はしていたようなものの実際に、声を失う程とは考えても見なかった事です。 私共が社会生活をして行くうえに果す役割の重大さ....声なきは実際に社会の総ての関係をも失う事にもなる。

私は、小さな山村生れで、六十一年余を過ぎた今日に至るまで、何人かの喉頭或は口内腫瘍の人達を見ているが、結果は必ずしも良とは言えない。勿論昔と今と違う事は言をまたないが、どうせ駄目ならこのまま帰宅して天命のつきるまでと幾度考えたか知れない。

然し都度、主治医の先生、婦長さん達からも現代医学と医術についての説明があり其の信頼性を推められた。

こうして六月十五日手術を受けました。結果は良好。自分でも驚く程の順調に快復に向い、それに加えて当初予期しなかった、人工喉頭移植手術がなされてありましたので、手術直後抜糸と同時に練習なくして声が出ました。其の時の喜びは口では言いあらわす事の出来ないうれしさでした。本当によかった、これで助かったの念で一ばいでした。次来順調に七月末退院する事ができました。

正直いって九死に一生を得たと言う感じです。其の間勿論最新医学と医術に恵まれた事と加えて看護に当っていただいた大勢の皆さんの精神面での幾多の心強い声援と声帯摘出された先輩の皆さんの再発声の姿が、悩みのどん底にあった私を、どれだけ強く希望にふるい揚げさせてくれ快復を早目てくれた事でしょう。只々感謝の念で一ぱいです。

現在まだ通院を定期的に致して居りますが、幸にして従前通りの健康な姿になりつつある此頃です。今後は一日も早く失った声を取り戻し第二の人生として明るく過す事こそ、ご声援下さった皆様に対する御礼と心がけております。

五十二年度 発声会のあしあと

今野弘恵

五十二年度初めての発声訓練と発声会新年会を一月十六日信大病院第三会議室にて開催。この日は二十三名の参加があり、昨年迄の会場では場所もせまく、第三会議室へ変更。

新しい年を迎え発声会の発展を祝うのにふさわしいスタートである。日頃は忙しさにまぎれ、語り合う機会も少ない医局の先生や看護婦、又それこそ、めったにお顔を合せることの出来ない鈴木教授や石田看護部長とも親しく、ひざをまじえて語り合うことが出来、心をひとつに楽しいひとときを過しました。 寒いさむい冬の間も皆元気に一生懸命訓練を休むことなくつづけました。一人一人の元気なお顔がみられるのがどんなにうれしく、張り合いであることか、そして今年は早々から小林五月さん、大川利雄さんが新しく仲間入りしました。男の人達の中に紅一点、小林さんの入会は他の人達にも大いに 励ましを与え奮起へのよい機会となったように思います。

三月に入り陽ざしも日毎にあたたかく、あちこちで花の便りも聞えるよい季節になりました。喉摘をした人達にとっては、しのぎにくい、きびしい冬だっただけに、春の訪れは待ち遠しかったことでしょう。此の頃、NHKより発声訓練の場の取材依頼があり、三月二十四日には皆の協力を得てテレビ録画、四月十八日午後六時四十分より放送の運びとなりました。日頃の発声訓練の実態をテレビを通し広く多くの方々に知っていただくよい機会となりました。

五月二十九日には五十二年度信鈴会総会を、今年は趣を変えて、はやしや会館にて開催。任期満了にともなう役員の交代等が話し合われ、新規一変いたしました。

信鈴会誕生の親でもある島さんには、長年に亘り会の発展に骨身惜しまないご活躍をいただき、私達発声訓練の場のお手伝いをさせていただいている側からも心から感謝申し上げお礼を申し上げます。現職から辞された後も、新しい役員の方々から相談があったときはどうか先輩として、よき指導者としてお力添え下さるようよろしくお願いします。尚新役員の方々は須沢会長さんを筆頭に皆んなのよりどころとなるような明るく楽しい力強い会を育てて下さるよう心をひとつにがんばって下さい。

総会のあとの懇親会の席では、中島県会議員が祝辞をのベられ、深く信鈴会への関心を示し、今後も会の発展のため大いに力になりたいと、助成金増額問題について明るい展望を示されました。

九月に入ってからもきびしい暑さがつづいていましたが、 皆、元気な顔をみせて下さり、いよいよ指導を担当する鳥羽 さん、平沢さんの負担が大きく、折々大橋さん、桑原さんの協力を得ながら、段階別に指導も充実してきています。研修ルームも補助椅子をもち込む等、参加率が大へんよくなっています。発声会の場を通しお互いが心から理解し合い、はげみになる、よい雰囲気作りのためにこれからも一層努力し、発声会の皆さんといっしょに歩みつゞけたいと思っています。

手術後二ヶ年を省みて

山下竹一

昭和五十年六月四日信大附属病院耳鼻科へ入院、放射線四○○○照射の上七月二十一日手術しました。

日頃健康が只一つの取柄にして来た私の自信が完全に崩れて病床に臥すこと二ヶ月、その間先生を始め看護婦の皆さんの御親切に心からなる感謝をし乍ら八月四日退院出来ました。

さて五十余年何の不自由なく使い続けた己の声を失い、夢にも思わなかった声のない生活が始まり事毎に書かなければ相手に意志の通じないもどかしさに悩まされる毎日が続きました。九月早速発声教室に入会させて頂き熱心な指導の先生方に基本を教えて頂きましたが一向に教えられる成果が得られず果して皆様の様な発声が可能なのか不安の中で一生懸命教えられる方法で繰り返す中に一ヶ月過ぎた頃どうやら発声の兆が見えて参りましたのでそれに励まされ練習を重ねて参りましたが、仲々その後意の如く進歩もなく既に二ヶ年を過ぎて仕舞いました。その後、術後の経過にはお蔭様で恵まれて居りますが健康状態には異状な程神経を使っております。

しかし発声の方は一向に上達せず一進一退の繰返しでありますが、この発声教室へ出席することにより皆様との連帯感を強く感じ家庭にあってはともすれば引込み勝になる我が身に大きく勇気づけて呉れますので今後共出来る限り出席して発声に努力したいと思って居ります。

何率皆様不幸にして一度は声を失いましたが、一日も早く声をとり戻し健康には十二分の御留意の上、楽しい人生を末長く送りましょう。

声との闘い(その一)

桑原賢三

昭和五十年一月二十二日朝七時三十分麻酔薬服用、いよいよ自分の声と別れる時が来た。然し意外に冷静でいられた。こうなった以上は一日も早く健康をとりもどし発声練習をしなければ、これから別れる声を取りもどすことが出来ない。親からもらった声を失ったままでは、こんな想いが段々遠くなり意識が薄らいでいった。手術が終り意識がもどったのは個室であった。まだぼんやりする頭の中で一番先に浮かんだのは手術前に先生や婦長さんの言葉であった。それは手術するには放射線の量を三干か三十五百位が最も良く、多くかける程手術後の治りが悪いとのこと、自分は七千五百もかけてある体を動かせば創がはなれる。治りが遅い、動かないことだ。それから四日間自分との闘いが続いた。二十六日歩行許可がでてほっとした。二十七日に抜糸が初まった。これで自分との闘いは一段落した。手術して一週間目、個室より三号室へ移動した。順調に快復してきたが未だ流動食注入のため発声練習は出来ない。早く退院して発声練習しなければとあせる。二月八日、待望の退院となる。手術をして十七日目であった。食道発声訓練はこの日から初まった。家庭ではこの年の三月次男が高校卒業し、東京の専門学校へ行くため自宅待期していた。退院してから次男と二人で向い合っていても会話がない。終日会話のない親子、この時の次男の切ない様な顔が今になってもはっきり瞼に浮ぶ。一日も早くせめて子供の名前でも呼べる様にならねばと練習に熱が入った。三月の終り、東京へ旅立つ次男の名前を呼び会話が出来たのは出発の三日前であった。この時の嬉しさ、特に子供の顔があかるかったのが印象に残る。

子供が東京へ行き、長男と妻がそれぞれ会社へ出ると家に残るのは自分一人。次男がいる内は私のために家をあけることがなかったが、これからは会話の出来ない自分一人、会話の出来ないことを知っている人々は気の毒と思うのか?可愛想と思うのか昼間は寄りつかない。以前はだれとなく気軽るに寄りこむ、にぎやかな笑いのたえない我が家であった。それが今はこの様に訪ずれる人もないのか? やはり会話のな い生活は電灯の消えた家の様なものだと思った。何としても会話の出来る声を自分のものにしなければと、週一回の発声教室が毎日になれば良いなあと思ったのもこの時期であった。

この時期は練習につぐ練習で体中に力を入れるため肩が痛くなったり、背中が痛くなったり、それでも練習量は増々多くなった。暗くなった我が家に電灯をともすためにも。

四月になり陽気も暖くなり、発声の方も練習効果が表われて来た。片言ながら会話が出来る様になり、友人も会社の同僚も近所の方も次第に訪れてくれる様になり、我が家にも電灯とはゆかなくてもローソクの灯位いのあかりはともってきた。

会社へ御世話になった礼に行き、社長に言われた言葉は「管理職として通用する声をもって出社する様に」とのことだった。この言葉は今までの「片ことでも会話が出来る様になれば」との心がまえは当然今度は、会社で通用する声を作らねばと変ってきた。それでも毎週発声教室にて指導員の皆様の熱心な御指導のお蔭でひと月ひと月と自分でも発声の効果が表われてきたのが判る様になりました。この時期の発声は練習量の多少があとの成果に極端に表われてきました。 指導員の先生方がその都度、力説された肩の力を抜き、腹圧をかける。然しこの通りにならず、どうしても肩から背中に力が入り、発声練習が重労働となり短時間の練習に終ってしまう。今になって思うに力を抜いて発声するコツを早くつかめば練習時間も長くできて上達も早まるのではないかと思われる。不充分乍ら会話が出来る様になった時でも家族との会話は非常に少なく、他人が相手の場合は懸命に発声するので非常に有効な練習となった。家族だと重労働のため会話が億劫となり声を出さずに手まねをして意志を伝える様なことが多かった。

それで他流試合ではないが他所の家へ出かけたり兄弟の家、近所の家と行って会話をする。又近所の人にきてもらい会話 の相手になってもらうなど家族以外の人との張り切って発声するので長時間会話をして帰られた後、グッタリしてしまう様なことも再々でした。入浴なども当初は注意していたのが馴れてきた八月頃でしたか?いきなり湯桶一杯の湯を頭からかぶり気管口から相当量の湯が流入してむせかえり、せき込み大変でした。これがあったおかげで、その後はこの様なことは二年たった今日までありません。九月、十月頃になり不充分乍ら会話ができると言うことが会社内に知れ、それからは仲間や部下の方々が入れ替り訪れてくれ、とにかく沈み勝ちの私を力づけてくれ、会話の相手になって発声練習の成果を上げてくれた。やはり他人相手の会話が一番の練習になります。 私の経験から得た最高の練習です。家族相手では自分のわがままが先にたち、練習はどうしても不充分です。発声教室に指導を受けてより十ケ月、手術後初めての年末を(昭和五十年)迎えた。思えば昨年(昭和四十九年)の年末は手術を宣告され、覚悟はしたとは言え悲嘆のどん底にいて人を見るたびに涙し、暗い年越しをしたのに比べれば、声こそ食道発声にて不充分なれども家庭のため、子供のため会社へ行くためにも一日も早く自分の声をと泣いてはいられない。前進と希望の年越しであり、来年こそはと明るい気持で松かざりを取りつけ、年末で帰宅した次男とも会話ができ、声のありがたみをしみじみと感じた。

食道発声法について

大橋玄晃

喉頭全摘出の手術を受けて早いものではや三年を経過いたしました。その間一日も念頭から離れない事は如何にしたら食道発声が上達して苦しみなく、スムーズに話が出来るか、どうしたら普通の人に近い声でしゃべれるかの一点であった。 私はお蔭様で発声練習の第一回で原音~ア"が出た。それはまだ入院中のことで~シメタ"と思った。以来銀鈴会発行の食道発声練習教本で練習を重ね二ケ月位には一寸した話しが片言乍ら出来る様になった。然しその後は一進一退で少し声を出すとすぐ苦しくなってしまう。情けないやら、泣きたいやら、しゃくにさわるやらの気持で一杯でした。丁度十ヶ月目頃でした、鳥羽さんから東京銀鈴会の総会に行って見ないかと誘われ、出席して、そこで中村正司先生の司会の声を聞いて驚いてしまった。あの声が声帯をとってしまった人の声なのであろうかと目をうたぐった位であった。そして私に大きな希望を与えてくれたのでした。それは忘れもしない昭和五十年五月十七日でした。それからは何とかして中村先生の指導を受けたいと六月には銀鈴会を、更に十月には先生が会長をして居られる横浜の神奈川銀鈴会を訪れました。そこで女性の第一人者である保野千代子さんに始めてお会いし、食道発声の上達は吸引法でなければ望めないと手をとって指導頂いた。それから二年たった現在、まだまだ思う様ではないが、どうやら吸引法の門だけはくぐった様な気がする。私は最初のすべり出しが順調だった為、却って基礎発声が少々おろそかだったと反省をしている。保野さんも徹底して五十音は自分のものにし、次にアー、イー、ウー、エー、オーと言う様に長音を、又アア、アアア、アアアアと言う様に一息で連続音の発声練習は苦しくとも実行することは会話の為の最も大切な基礎練習となるのであると言われました。

皆様も既にご存知の如く食道発声法にはいくつもの方法があると言われて居りますが、その初歩的なものが嚥下法(のみ下し法)で高等な発声法が吸引法と言われております。嚥下法は比較的楽に会得出来る反面、連続発声がむづかしく、相当上達した方でも続けて会話の折には空気を呑み込む"ゴクン"と言う音がする。中村先生は現在発声訓練の最初からこの点を指摘して吸引法を指導して居られる。

今、この吸引法に就いて中村先生、銀鈴会の久永進氏、山本武夫氏の話されたことを書きますが、皆様の練習の参考になれば望外の喜びと存じます。中村先生は口と鼻から同時に空気を吸い込み、喉の奥の上部に押しあて腹圧を加えてその空気をしぼる様な積りで出す。久永進氏は風邪を引いた時、鼻水が落ちそうになる。その鼻水をすすり上げる、その折、時々鼻孔の奥から喉をまわって口へ鼻水が出てしまう。この鼻孔の奥からのどへ鼻水を回す要領が吸引法に似ている。この鼻水をのどに回すのと同様に空気をのどに回す、口はとじたままにして、のどへ回った空気を鼻孔へ戻して見る。その時少し勢いをつけてヒーンと鼻の中でひゞく様に音を出してみる。この要領が吸引法である。山本武夫氏は煙草を吸ってその煙によって吸引法のヒントを得たそうである。普通の呼吸程度の吸引では口からでる煙に勢いがないが深呼吸式に深ぶかと吸引すると出る煙に力があってプーッとふきつける事が出来た。この原理はつまり普通の呼吸程度の吸引では煙は全く食道内に入らないが深々と吸引すると肺が満タン近くな るにつれて口腔内の煙は食道へも進入すると言う訳である。この場合腹圧を加えて呼気に勢いをつけると発声が出来る。

次に煙を強く短切(すばやく)に吸って吐き出すと深呼吸式の時と同じ様に煙に勢いがあって食道内に煙が入ったことが分ります。この強い短切な吸気こそ話し方の根幹となる、極めて重要且つ価値ある方法なのである。

以上吸気を試す為の喫煙なので口から吸引せざるを得なかったが、空気の場合は口からよりも鼻から吸引する方がはるかに楽だし、合理的であると思います。試みに静かな室内で鼻から空気を吸引して行くと肺が気管口からの空気で満タンに近づくにつれて鼻腔の奥で~プスン"と軽い音がして、とたんに鼻の奥が涼しく感ずるのが分ります。この時点が空気の食道内に進入し始める吸引点で、次に鼻腔の奥を閉じて腹圧を加え口から吐き出して発声する訳です。然し一々深呼吸していては話にならないから言葉と言葉のつなぎに前記の強い短切呼気を行って話しが間延びしない様にする。これは鼻水をすばやく吸い込んで口から出す要領で練習するとよい。そして話の合間が充分ある時は深い吸引でもよいが合い間が短い普通の会話では絶えず合い間に短切吸気を行い、それが極めて自然に、無意識、反射的に出来る様になるまで練習を繰り返さなければなりません。と言われて居ります。

更に中村先生は四字か五字位話せる様になったら歌をうたうとよい。童謡、軍歌、唱歌等簡単なもので、それの練習により会話が非常に楽に出来る様になる。それは完全な吸引法の習得につながる。一息で多量に空気を吸入出来、又胃の中に空気が入らなくなるからである。と言われて居ります。

然し仲々一足飛びには出来るものでなく、苦しくとも、あきても毎日毎日に一つずつ目標を置いて練習を積み重ねる事である。私も仲々無意識に吸引と言う訳にはゆかないけれども、常に自分に言いきかせてはこれからも練習を怠らないで行く決意でおります。

雑感

義家敏

早いもので喉頭摘出手術を受けてから本月で二年になります。あの当時の私は二年もしたら社会で不自由なく話もできる事を夢みて信大の食道発声教室にでき得る限り出席して指導を受けてきました。

指導員の鳥羽先生はじめ先輩の皆様の親切な教えと励ましにより当初は原音の発声から次は母音、子音の発声等は比較的順調に進み、鳥羽先生からも、この分だとお正月には新年の挨拶ができますよ、なんて励まされてとても嬉しく、お正月になったら友人、知人を吃驚させてやろうと頑張ってきました。

やがてお正月を迎え、術後三カ月です。どうやら言葉として「お目出度う」と言う事ができ暗夜に光明とはこのこと、私の六十年の人生に味わうことのできなかった喜びでした。 たゞ悲しい事は言葉になるとまるで低い声になってしまうことと、準備をしてかからないと声が出てこないのです。これでは本当の用はたせないので役には立たない。先生方からはもっと空気をのみ込んでと言われるのだけれど、自分では充分のんでいるつもりであるが言葉になるとうまく出てこないのです。そのような事で或る時は笛にしようかとも考えたり 悲観したりしましたが、あの人も、この人もできるのに私だけできない筈はない。まだまだ練習が足りないのだと発奮したりしました。家で一人部屋で原音から始め、県歌信濃の国、千曲川旅情の歌、雨ニモ負ケズの詩等を繰り返し朗誦するのですが練習中にだんだん調子が出てきてとても声がよく出てくるので、これならもう大丈夫だ、明日からは悲観せずともよいと胸を撫でおろしホッとすることも度々あるのです。ところがこのような練習の時はよいのであるが、いざ本番の時はどうしてもうまくできない事を繰り返しているのが今の私の実体であって、人の前に出る時はよほど心を落ち着かせてかからないと話ができないのです。知人とは電話での通話はどうにかやれますが、つい先日は大きな悲哀を感じた訳です。 と申す事はH銀行から金を払戻す用が出来てバスの時間を見たら出た後なので次のに乗ると少し時間が過ぎてしまう。 仕方ないから電話で遅れることを頼んでおいて行こうとダイヤルを廻したのです。初め電話に出た職員は私の声がよく解せないためモシモシ声が遠いです。何方さんですか、モシモシを言っている。変に思ったのか他の人に代ってまたモシモシを言っている。私は何とかして用件を言おうと必死になって言うのだが焦れば焦るほどついに声とならず切られてしまった。 落ち着いてやればできるのだからと水をグッと飲みもう一度 ダイヤルを廻した。女子職員が出た。よし、こんどこそ何とか通じようとしたがまた失敗してしまった。焦りがあってどうにも声が出ずに切られてしまい用件は頼めずに終った。 痛いほど我身の切なさを感じた。事が終って後で用件を一人言に言って見ればできるのだが本番にできないのでは何もならない。まだまだ私は練習が足りないのだ。もっともっと練習しなければならないことを深く自覚した訳です。

いまふりかえってみれば信大の今野婦長さんはいつも私達のためにお世話したり励まして戴いて感謝しつつご期待に添えるまで上達する覚悟でやっております。

過去の思い出

塩原貢

五十二年度の会報作製に当って私の失敗に付いて少し書いて見たいと思います。無知な私の歩みを皆様お笑いになるやも存じませんが、他人の失敗を知り自己の幸につながる場合も有り得る事ですから何かの御参考になればと存じ思い切ってペンをとる事にしました。

私は、昭和四十六年に手術を受けて声を失しないましたが此の病気と知らずに喉が変だと自覚したのは四十五年の六月でした。痰が喉の所にからむ様になり取れなくなりツバを飲み込めば痛むと言う程ではないが軽い痛みの様なものを感じる様になりまして、熱もなく気分も別に悪いとは思わぬが、何んとなく変なので内科の罹り付けの先生を訪ねて診察をして貰った所、痰のからむのは扁桃腺が少し腫れて赤くなっているから、うがい薬を出すから一日数回うがいをして服薬していれば治るから心配はいらぬとの診断で先生を信じておりましたので、言われるままにうがいをして服薬して居ります内に通院する事五ケ月経過しましたが、一向に喉の方はすっきりしませんし喉に感じる軽い痛みも取れないし、先生に悪いと思い乍ら、初診以来一向に薬効もないので医者を変えて見て貰おうと思い他の内科へ行き診察を受けて見ました所、又同じ様な診断であったが薬も異い診察も異うし加えて注射もしてくれるので今度はよいかと其の先生を信じて通院する事、遂に四ヶ月。一向に快方に向わず痰が以前より以上から む様になって来て声がかすれ初めたので益々不安になって来たが、自分が手術を受けるまで、病名も知らず此の病に罹って苦しんだ人に逢いたいと思う事もなく此の病に付いては、何んの知識もないので不安の中にも本人はそれ程気にもせずどうしてこんなに治らぬのだろう位にしか思っていなかった。そうしている内に自覚してから十ヶ月が経過してしまった。時は四十六年二月になっていた。そうしている内に今度は喰った物の下りが悪くなってきたので無知な自己判断で食道癌ではないかと思い初めたら一層不安になり初めに見て貰った先生の所へ相談に行き、最近の容態を話し不安でならぬと話した所、そんなに不安であったら一度耳鼻科の先生から診て貰えと言われ、私は其の時初めてあそうかとうなづく様に心の中でなぜ今迄耳鼻科と言う事に気付かなかったか馬鹿めと自分をしかる様につぶやいた。それを感じた時は一時も待てないような気持で帰途耳鼻科の先生から診察時間は数分間で終った。先生の口から、是れは僕の所は医療器が揃っていないから紹介状を書いてやるから、信大へ行って診察を受け ろ、と言われ其の時自分は普通の病気ではないと直感した。先生は直ちに紹介状を書いて私に渡して、信大耳鼻科に電話を入れて診察日を聞いてくれて、次の火曜日に行きなさいと伝えられた。私は自分の病気が重いと感じている為、色々とくどく尋ねた所、先生曰く何もそんなに心配する事はない。 僕の所には信大の様に医療器がないから、紹介したのみで君の病気が心配になる程の病気ではないから心配はいらぬが、少し入院しなければならぬと思うから、先生を信頼して先生の指示にしたがう様にさとされた。私は声を失ったが此の先生の御蔭で命を拾った今尚、此の先生に感謝し続けております。それから一日千秋の思いで待った火曜日が来たので早朝に松本に下り、信大にて診察をして貰った所、悪い部分を取り検査して見なければ今日の所は不明であるから次の火曜日に来る様にと言われ、次の火曜日を待って見て貰い其の場で入院の手続きをして行けと言われ、家にあって入院の早かららん事を祈り乍ら通知のあるのを遅しと待った。半月程して入院の通知を受けて入院。手術を受けて声帯を失なってから 初めて、喉が変だと思った時なぜ内科へ行かずに耳鼻科へ行って見て貰わなかったかと深く悔いた。自覚した時耳鼻科へ行き診察を受けていたら、声帯を失なわずに病気を治す事が出来ただろうと、今日に至るも悔いが残り忘れる事が出来ない失敗でありました。右が私の無知の一年間の体験でありますが、自覚があれば何病でないか位の軽い知識は身につけておきたいものです。以上が私の体験です。


鳥羽源二

信大医学部附属病院耳鼻咽喉科の後援のもとに食道発声教室が置かれたのは何時頃か良く知りませんが、私が喉頭摘出の手術を受けて、初めて参加したのは昭和四十七年の十二月 でした。当初は出席したものの全く発声が出来ず、ほんとに不安の毎日だったことを今でも思い出します。しかし、これから生きて行く上には、どうしても会話の必要を感じ、体調の整うを待って懸命に訓練を励み、四十八年二月漸く発声が順調になって、声は小さいが会話が出来るようになり、六月には武井先生の案内で東京の銀鈴会を尋ねました。ここで始めて高藤次夫先生のカンフェランスに接し、指命される儘に皆さんの前で住所、氏名を答えました。その折きき返しをされず納得頂いた時はとても嬉しく思ったが、それにもまして嬉しかったのは中村正司先生の発声をきいた事でした。最後に、"昨夜は一寸飲みすぎて、調子が悪いけれど"と前置き して、"同期の桜"を歌って呉れましたが、その声を聞いて何とも言えない感慨と闘志を身体一杯に感じて帰松しました。それから五月大町木崎湖畔での信鈴会総会のあと指導員を命ぜられて今日に至っております。

私が発声教室で学んだ頃は数人の出席者で教室も広々しておりましたが、その後逐次に参加者が増え、現在では教室が一杯で、時折は他から椅子を持ち込まないと間に合わないこともある程で、指導員も平沢先生に次で昨年より大橋、桑原両先生が加われて、漸く現況に応じられる態勢になって喜んでおります。そして参加人員の多いこともあって発声の方も皆さん非常に早く、然も上手になったように感じます。それにつけても信大耳鼻咽喉科の今野婦長の積極的な御指導、御協力にはたゞ感謝の念で一杯です。婦長の骨折で、鈴木教授始め諸先生方に御多忙の中を発声教室までお出願って話会いの機会を得たことなど、まだまだ何となく自分の身体や生活に不安を持っている私達大きなプラスでありました。

たしかに食道発声は相当の努力とテクニックが必要であることは事実ですが、何よりも大切なのは自信であると思います。私も共々勉強中ですが、何時でも必要な時に必要な会話が出来ることが目標です。

今教室にはミカミ式オートスライド発声指導器が信鈴会から壱台と信大耳鼻科から壱台の都合二台、ソニーのジャンボなカセットラジオ壱台 (信大耳鼻科)、看護部長と西沢道義殿より贈られたワイヤレスマイク二本、それに耳鼻科から買って頂いたものと亡られた高橋殿から贈られた電気発声器 (エレクトロラリンクス)それにカセットテープ若干があります。まだまだ教材としては乏しいものですが、皆で手を取り合って一人前の社会人として生きて行く為に頑張っている姿はほんとうにたのもしい様であります。

又此の教室へ信大附属病院の看護部長も時折顔を見せて下さいますが、これからも先生方、看護婦さんの温い協援を得て、皆で価値ある発声教室にし、喉頭摘出者が勇気を持って社会人として生きて行ける場になって行きたいと思っているものです。

日喉連の総会に出席して

鳥羽源二

昭和五十二年の日喉連総会の通知が須沢会長宛郵送され、会長が事務局迄わざわざ持参下されたので相談の結果取り敢ず正副会長三名で出席することに決めましたが、総会の数日前に会長が急に病に倒れ入院されて了ったので、十月二十二日塩原副会長と私二名で八時の特急"あづさ"で出発、一時三十分より開会の九段会館桐の間で催された日本喉摘者連合会の総会に出席しました。

定刻を多少廻って、中和専務理事の司会で始まり重原会長挨拶、関係官庁の方々の祝辞、続いて事務局より五十一年度決算、事業報告、五十二年度予算案など定例の議事運営がありました。その折今迄長い間御苦労願いました島成光理事に替りまして、今度の総会で信鈴会会長須沢徳正氏が新理事に推薦されました。

続いて各会からの発言があり、その主たるものを報告します。

一、指導員の問題 資格とか選任方法など各地区によってマチマチでありましたが、中には県の嘱託と言う形でやっている会が二、三有りました。大勢としては是非全部県の嘱託に統一して欲しいとの要望でした。

一、自動車税等地方税の減免 此の問題は数年前から私も会に提案して参りましたが、現在大分此の恩恵に浴して居る会が多くなっているようです。神奈川、大阪、富山、宮城 等々

一、身体障害等級に就て 皆さん御存知のように私達の身体障害者手帖の等級表による級別三級になっていますが、音声機能そう失した者が三級と言うのは変で、当然二級であるべきだ。日喉連として然るべく対策を立て運動して欲しい。

一、日喉連と各支部 もっと各支部との連りを深くして、各支部へ積極的に発声指導に当るべきではないか。

一、その他 市町村によっては、喉頭摘出者に地方自治体から身体障害福祉金が出ている処もあり、その他発声指導員の認定、報酬等々

昨年、島事務局長に連れられて初めて参加して見ましたが その折は食道発声と人口喉頭の問題で銀鈴会の中村専務理事と阪喉会の奥和会長が代表になって対論などが有って仲々参考になりましたが、今度は何か焦点がボケていたように思えた。切角全国各地から時間と費用を掛けて総会に出席するのだからそれなりの価値が欲しかった。誠に簡単ですが日喉連総会に出席した状況を報告します。

編集後記


昨年の総会後の役員会で、事務局を命ぜられましたが、前任者と引継ぎが遅れまして九月下旬となり、加えて前会長須沢徳正氏の十二月急逝に接し、尚初めての経験のため編集の段取りが悪く予定より大変発行が遅れましたこと此紙上をお借りしまして深くお詫び申し上げます。

尚原稿の依頼に対しまして、早速立派な中味あるものをお寄せ下さいましたこと、深く感謝致しております。

次回も是非皆さん貴重な体験、発声に対する勉強法、社会復帰の嬉び等々、是非お寄せ下さることをお願い致します。

会報の発行が遅れましたことをお詫びすると共に、今後共本会の上に何分の御協力賜りますようお願い致しまして信鈴第八号の後記と致します。

昭和54年刊 第9号

卷頭言

会長 塩原貢

この度会報第九号発行に当り我々会員は先づ信鈴会がどんな形で創立されたか紹介したいと思いそのことから書いてみたいのです。しかし、私は昭和四十六年に喉摘の手術を受けたので信鈴会創立後第三回目の総会に初めて会員として出席したもので当時先輩からあらましの話を聞いていたのみで創立以来の事は知らないので、大先輩島成光さんの宅を訪ねて信鈴会創立当時の話しを詳しく聞かせて貰い当時の事を知る事が出来た訳です。

この会の創立は昭和四十四年一月信州大学病院内に於て創立発会式を行い信鈴会として発足し、当時県内の喉摘者は十名内外であったとの事であります。そこで或日全国各府県に喉摘者の会があるが長野県に於ても会を創立してはどうかと鈴木教授先生、佐藤先生、田口先生、今野婦長さん方から強く呼掛けられて、そこで島成光氏と北信の碓田清千氏御問人の献身的な努力が初まり県内各地の喉摘者の宅を訪問して会の趣旨をつたえて協力を要請して廻りかくして発会の運びとなり初代会長に石村先生、副会長兼事務担当に島成光氏同じく副会長に碓田清千氏をして信鈴会の発足を見たものであり昭年四十四年四月に第一回の総会を山辺温泉にて開催し各会員御夫妻同伴で出席され盛会に初総会の幕が開かれ当時は春秋二回の総会を開いたのであるが四十七年からは年一回に定められたが会員は遂次増えてきたのであるがこれまでに至る先輩及び諸先生、今野婦長さん方の御労苦に対し我等会員は心から感謝の意を表さねばならない。

又、初代指導員の方々は県内に発声教室がない為はるばる東京の銀鈴会に出向き発声訓練の基本を習得なされて信鈴会の後輩会員に発声の方法を指導されたのであります。其の御指導の御蔭で私共は今日再度声を求めて社会復帰が出来ました事を心から感謝し今後共に本会の発展の為に努力をおし進めてゆかねばならぬと思う者であります。次に信大病院で手術を受けた喉摘者は異体同心であると思いますが、入院から退院発声訓練を受け他人との会話が出来る迄の長期にわたり今野婦長さんは御多忙の中でも寸暇をさいて私共に色々とアドバイス又お力添え下され発声会の都度必ず出席されて何かと御指導を賜わる熱意あふれる御協力には只々頭の下が

る思いを深くするものであります。又外部に於ては中島県会議員殿のお骨折りで県当局の委託

費も年々増額を戴き、発声指導の内容も充実して来ましたので今野婦長さん、鈴木先生方の御協力を得まして伊那市中央病院に南信地区の人達を中心に発声教室の開設をお願い申しあげたところ快諾を得まして院長先生。矢田先生、粕谷婦長さん方の御協力が願えて昭和五十三年十月十八日暖い歓迎の許に発会式が挙行出来十一月から毎月第一第三水曜日を訓練日と定め発足出来ました事は誠に嬉しい限りであります。申し上げる迄もなくこれで県内に三ヶ所の発声教

室が開設されました。特に南信の奥地の喉摘者の方々には伊那の教室は出席なさるに好都合な

場所になったと思いますので進んで御出席になられ一日も早く発声の基本を習得なさって社会復帰をして御活躍の程心からお祈り申し上げます。

以上が創立十一周年を迎えた信鈴会の実況であります。

信鈴会発展の源

信大医学部附属病院 田口喜一郎

信鈴会会報も第九号の歴史を誇るように成長したことは、大変意義深いことと思います。一つは信鈴会を創立された先輩の努力が実り、その趣旨が生かされているということを意味し、また別の見方からすれば、喉頭癌手術により非常によく直り、それだけ会員数が増したとになるからです。信鈴会がこれだけ立派な発展を遂げている背景は、いうまでもなく、会員の皆様方が同じ悩みを持つ会員に発声法の基本を習得させるために、努力を惜しみなく与えられていることにあります。人間の意志の疎通に最も大切な声を失ったことに対する反応は人様々ですが、手術を前にした患者さんにとって、諸先輩がその困難を克服して社会に復帰しておられる姿ほど、励みになるものはないのです。

人間誰でも健康であるにこしたことはありません。健康は貴重な宝であり、健康に恵まれた人は、そのことに感謝し、できるだけそれを保つように努めなければなりません。しかし病気もまた、大きな幸福であり得るわけです。すなわち一つの浄化であり、また健康な時には考えられなかったような、高い人生観への飛躍であり得る(ヒルライ)という言葉は含蓄があるといえます。私の母は凡婦であったが、死の病床にあり、一時意識を回復した時不自由な言葉を通して私に与えた教訓は今も忘れることが出来ない。その内容は、人類愛を説き、患者として人が病床で医師や看護婦に治療されることより、家族に看護される時の幸福は死への苦痛をなくすという意味のことでありました。病院に勤務する者として、時として人の死と対決することは避けられないことであるが、その瞬間まで家族に囲まれていた人の死に顔のいかに安らかなことか、過去の例を幾つか思い浮かべることが出来ます。

幸いにして喉頭癌は直る病気になりました。声の異常に気づき来院されます患者さんの中の何パーセントかが悪性のものですが、現在の顕微鏡を利用して喉頭のすみずみ迄見ることが出来るため、極めて早期の癌も発見できるのであります。この方法で、小さな初期の癌なら全部摘出し、声に影響を与えないということも可能な訳です。そして例え腫瘍が取り切れなくても、放射線や抗癌剤、あるいは進歩した手術法で完全に直すことが可能です。もし病室で喉頭癌の患者さんを見舞うことがあったら、この点を強調してください。医師や看護婦より現に病気を克服された皆様の一言一句の方が、患者さんの胸を打ち、明るい希望と力を与えるでしょう。そして、これが明日の信鈴会の発展を約束する原動力となると思われます。

皆様の御健康と御発展を祈ります。

医療改善への一里塚

信大医学部附属病院 河原田和夫

「昔はなあ、病気になった上に、金まで出さなければ治療してもらえなかっただよ」と孫に話をしている老医を夢みているこの頃ですが、それにしても、今の医療は、患者さんにとっては享受しにくいし、医療関係者にとってもやりにくい面がたくさんあります。

大多数の納得と合意の上で、改善されることにはちがいありませんが、上からの強制でなく、各関係者の自主的な動きに支えられたものでなくてはなりません。

そういう意味で、患者団体としての信鈴会の果す役割は大きいものがあります。こうした自主的組織が、会の方針を実現するために生き生きと活動していることが、これからの医療を支えるポイントのひとつになっています。

病気という不幸の上に、金まで出さなければという「常識」をうちやぶって、病気の人、身体障害児者には、安心して療養してもらい、社会復帰してもらうための費用をもっと出せるようにしたいものです。

「昔は、そんなひどい時代だったの」と幼い子どもらの実感をうけとめるまでに、何十年とかかるかもしれませんが、もう「一里塚」がそこにみえているのですから、正夢にしたいものです。

(一九七九・四・七記)

会員の皆様に

信大看護部長 石田愛子

信鈴会の皆様お元気でいらっしゃいますか。暖かい日、肌寒い日がくりかえされて太陽のめぐみを感謝しております。

さてご依頼のお手紙拝見いたし恐縮しております。皆様のお顔をお一人おひとり思い浮べております。余儀なく入院生活を過されその上大きな手術を受けられ、その間のお苦しみ、驚き、恐れ、こわさ、戸惑い、つらさ様様の不安をのりこえられて立ち向っていらっしゃるお姿にただ頭が下ります。胸がキューと痛くなる思いです。又ご家族の皆様のご協力があればこそです。本当にご苦労様でございます。どうぞこの上ともがんばって下さいませ。お一人おひとりの力を信じております。そして先きに手術なされた方々が立派にお話し出来るようになり、後輩の方々に今度は先生となってご指導にあたられていらっしゃる。なんと尊いことでありましょう。今の世の中にとかく欠けがちな信、愛と申しましょうか、なかなか出来ることではありません。人様のためにお役に立つという生き方にたゞ教えられることばかりでございます。松本ばかりでなく地区、地区へ拡大しそのご活躍に敬服しております。定例の勉強会もそれはご熱心で多くの方が出席なさいます。三階の看護研修室でもたれます。病院の中ですのにお伺いするのが思うようにまいりません。新年会にはすばらしいお仲間にあえますのを楽しみにしております。私共は果してど病人の身になって本当に看護しているだろうか反省させられます。ともすれば仕事の流れの速度にまきこまれてお一人おひとりにはっきり答えられずに過ごしているのではなかろうか、サリヴァンという方が「関与しながら観察」といっておられます。看護の仕事に観察は大切な任務ですが、それよりもっと大切なのは関与することでありましょう、役に立つ関係を築くよう多くの看護婦は答えていこう。元気を出してがんばっていこうとこれらの人々に支えられております。信鈴会のご繁栄と皆様の健康を祈って、ご挨拶といたします。

昭和五十四年三月十日

信鈴会を想う

創立者 島成光

昭和四十四年一月、信州医大病院会議室に於いて、本会の創立総会を開催してより本年は十一年となり。今日の盛会を見るに到り衷心より、鈴木教授、佐藤先生、田口先生、今野婦長さんに感謝の意を表します。

本会の基礎を造りました発声の親、亡碓田清千氏、大町市の武井邦一氏、不肖私しは健在で人工笛により毎第一木曜日に信大教室で人工笛による発声の指導をして居ります。私達会員は不幸にして喉頭の手術を致し発声の不能となり、社会人としては日々勤労するには声が如何に必要であるかを痛切に感ずるものであります。

本会は各病院の厚意により会場を与へていただいて、毎週木曜日発声の指導訓練を催して居り、日と共に発声が上達して社会人として活動されて居らるる会員が多くなり慶びにたえません。

現在本長野県には八十余名の喉頭摘出者がある長野日赤病院。松本信大病院、伊那病院等で指導員が熱心に指導して居りますので私達会員は互助の精神を以って発声の育成に本会の運営の上にも御協力賜りたいことを念願する次第であります。

私はまだ生きている

松代 吉池茂雄

正月のある酒の席だった。久しく会わなかったA君が、「ヤアヤア、しばらく」と杯を差し出して来た。私が、「おう、あなたまだ生きてたの.........」と云うと、「ひでえこと云うな」とA君は笑った。私は云ってしまってハッとした。「あゝ、またやってしまった」と。ことば足らずで思わぬ誤解をまねいたことが何度もある私は、「まだ生きていたの、おめでとう」と云うつもりの所を、終りの「おめでとう」を略してしまったのだ。笑ってはいたがA君は、私の云いたかった気持を理解してくれただろうか。

「門松はめい土の旅の一里塚......」と昔の名僧が云われたそうだが、これは生い先の短くなるのを嘆く悲観的な考え方だと思う。

昔は大みそかを「お年とり」と云って、夕食のぜんに我が子の生長を願って、出世魚のブリをつけて祝ったものだが、満才で数えるようになったこの頃は、年とりの考え方も大分変って来た。この一年を無事に過して今日の日を迎えた自分をみつめて感謝する気持が、中年を過ぎた私たちには強いのではないだろうか。

私は小学校卒業の時に、担任の先生が最後に話してくれた話を、今でもおぼえている。

幼い女の子が母親に聞いた。「おかあさん、あしたって何?」母親は、「お前が今晩おとなしくねんねして、元気よくお目々をさましたらあしたですよ」翌朝女の子は元気よく起き出して、「おかあさん、あしただね」と聞いた。母親は「いいえ、今日ですよ」女の子は合点のゆかぬ顔で、「ではあしたって何?」ときく。母親は「今晩おりこうにねんねして、元気よくお目々をさますとあしたですよ」女の子はまた眠った。翌朝張り切って起きると「おかあさん、あしただね」母親は「いいえ、今日ですよ」女の子はとうとう泣きだしてしまった......と。

「あした」はいつまで待っても来ないのだ。私たちが自分の手で、心で、確実につかめるのは「今日」だけなのだ。その今日を大事にしなければいけない。これが私たちの先生が卒業してゆく私たちに、はなむけしてくれた話だった。

あれよあれよという間に、前頭筆頭にまでのし上って来た若冠朝汐が、衆望をになって大阪春場所の土俵に上ったが、どうしたことか六連敗、昨夜はさぞかし「あしたこそは......」と、こぶしをにぎりしめたことだろう。そして一夜明けた七日目の今日、彼はまだ「あしたこそは」と考えているだろうか。「今日こそは」と、今日の一番に全力をかけてもらいたい。今日あることに感謝し、今日の自分に誇りをもち、今日の自分に生きがいを感じることこそ、私たちの生きるみちではないだろうか。

少年時代に読んだ小説、作者は忘れてしまったが、題はたしか「一枚のつたの葉」だったと思う。

一人の娘が、胸を病んで病床にいた。娘は自分の病気が不治の病であることを知っていて、残り少ない人生を悲しんでいた。娘の病床から見える向かいの家の壁に、つたがからみついていた。秋になったつたは真紅に紅葉し、娘はその美しいつたを見るのを楽しみにしていた。秋も終りになると木枯らしが吹きだして、美しいつたの葉は、一枚一枚と吹きとばされてさびしくなってゆく。もう五、六枚しか残っていない。娘は「あのつたの葉が、一枚一枚と散って、最後の一枚が散った時に、私の命も散るのだ」と悲しい思いで跳めていた。

最後の一枚になった。娘は「あゝ私の命はあの一枚とともに散るのだ」と目をつぶって神に祈った。

このことを知った隣家の青年画家が、残った一枚のつたの葉をちぎって、そのあとに絵具で美しいつたの葉を描いた。

娘は朝目をさまして、今日はあの一枚が散ってしまったのではないかと、恐る恐る窓から見ると、つたの葉は一枚だけ残っていた。「あゝまだ残っていた。でも、あしたはもうだめでしょう」と泣いた。

翌朝見ると、つたの葉はまだ美しく残っていた。娘は、「私はまだ生きているのだ」と神に感謝した。翌朝も、またその翌朝も、壁に残った一枚のつたの葉は、いつまでも散らなかった。そしてまだ生きている自分を神に感謝しながら、娘の病気は次第に快方に向っていった......という。

このままではあと三ケ月か半年と云われて手術を受けてから十八年、私はまだ生きている。

―一九七九・三・十七―

食道発声の研究

大橋玄晃

食道発声は御存知の通り、食道へ取入れた空気の逆流圧をエネルギー源として、食道入口部の仮声門(手術前に喉頭があった所)を振動させて原音を作り、これを口型、舌位、鼻孔等によって声にする訳であるが、エネルギー源としての吐気の量が少なく、一回量の最大で約一五〇ミリリットルに過ぎなく、有喉頭者の肺呼吸では肺活量が三〇〇〇ミリリットル、安静時一回換気量五〇〇ミリリットル、発声時二〇〇〇ミリリットルに比べて極めて少ないのである。そこで吾々は導入した空気をより効率良く構音しなければならない。

発声の都度、気管孔の前掛けが吹き上ったり、大きな排気雑音等が出る様では明らかに出しすぎで、これでは空気は忽ち乱費されて終って、思う何分の一の声にもならない。更に空気の呑み方が足りないのではないかと考へて、空気導入に専念する結果、食道内空気は超満杯となり、胃にまで下がって発声エネルギーとして使へなくなるばかりか膨張感で苦しくなって終う。つまり空気のとりすぎである。要は必要な最少量の空気を導入して、少しづつセーブ、コントロールし乍ら発声しなければらないのである。それを体得するには訓練によってのみ身につける事が出来るものであるが、神奈川銀鈴会の山本武夫氏は次の様に言はれて居られる。

摂取した空気を少しの無駄もなく有効に使うには、

(1)腹圧の強化

(2)高感度ののど造り

が最も大切な事である。

(1)腹圧の強化には

A、短切発音―下腹に力を入れ腹圧を短かく区切って、小出しにすることによって音声を区切り「あ、あ、あ...」と少なくとも五音以上を一息で出来るよう練習する。これは訓練を重ねるにつれ十音以上も可能となる。―と息を出来るだけ長く保持して小出しにする腹圧調節訓練である。更に各音を同一音階ではなく、上げ下げする訓練に持ってゆく。即ち五音を「ドミソミド」の音階で発音、更に七音を「ドミソミソミド」「ドミソドソミド」と一オクターブのド迄持って行く。又上げ下げが的確に判るようすべて「あ」の発音で行う。音階が高くなる程強い腹圧が要求されるので、それに従って腹圧の強度を適宜調節しなければならない。

B、長音発音―腹圧を平均に保持し、押し上げる食道呼気の流れを一定に保ち「あー」と音声を痙攣的でなく、すんなりと平均的に伸ばさなければならない。これも「ドミソド」の三音階が出来るよう練習する。

(2)高感度ののど造り

如何に腹圧調節がうまく出来ても、食道呼気を受けて音声にする所謂のどが重く鈍くては、これを振動させるのに多量の空気が必要となるので、結局空気の不足になって終う。そこでこの低感度ののどを少しでも振動し易い状態にし、食道呼気に対し敏感に反応出来るよう訓練しなければならない。それには練習以外に秘訣はないが、これだけは云へると思う。例えば水道ホースで水を出す場合、ホースの口を押さえて細くすれば水圧は増して遠く迄放水出来ると同様、食道も入口部吐気流の出口で急に細くなれば、吐気流に対し抵抗が大となり、空気圧を増して振動を促進する。この理屈を念頭におき、のどを細める様な気持で軽く力を加え、食道からの吐気流をのどで受け止めるようにして発声すること。これは大切なことであるから特に留意したい。この要領で練習すると、食道入口部が括約的作用でノズル状になり、抵抗を高めて音声が出易く、且つ長持ちする感じが実感として体得出来る。

又中村正司先生は食道発声練習課程を

(一)原音発声迄の練習課程

(二)日常会話を主とする練習課程

(三)上級会話を主とする練習課程

の三つに分けておられます。

(一)は皆様も御承知の通り原音「あ」を出すまでゞこの段階では原音を繰返し、いつでも容易に発声出来る迄根気よく続け、発声は必ず出来るとの信念を持つようになることが大切である。

(二)日常会話の段階では原音の発声が出来ると、続いて二音~六音位までの単音の発声練習を順次習いますが、日常用語として一番多く使われる四~六音の単語を集中的に練習すると日常会話がよくできる様になる。又この単語発声の時期に入ったら嚥下法を吸引法に切換ることが必要である。しかしこの様に書くと誠に簡単ですが、実際にはこの段階が一番大切な時期であるわけです。そこでラジオ体操の一~八の数字言葉を何回でも繰り返し発声することを提唱したい。この頃になると発声がかなり出来るので、ラジオ体操の号令や四~六音の単語を話すことはさして苦労がなく、二~三回程度の号令なら難なくできるのでもうよいと考えて止めますが、これを毎日続けてしかも一度に十回~二十回と力をこめて何回となくすることが肝要なのであります。これは会話に必要な吸入した空気の量と、声として出す空気の調整が体得出来ることになるからであります。もしも吸引法が未熟か或いはできていない場合には、この号令発声は長く続かないのみならず、だんだんと声が細くなって逐には出なくなることに気がつきます。ところが、この簡単な連続発声の練習を軽視するのみならず、唯々前に進むことのみに走って、基本的な発声法に意を向けない傾向が多く見られることは心すべきことである。又この号令発声に注意すべきことは一息に一、二、三、四と発声するのでなく一、二、三とその号令の都度空気を吸入しては号令発声の練習することである。

(三)上級会話の段階ではいわゆる上級会話と歌を含めての練習で、この段階でも特定の文章なり歌などを、反復練習することが必要であって、これを怠るとかなり進んだ人でも発声が不十分となり、声量におとろえを感じるようになります。要するにそれぞれの段階で計画を立て、反復練習することこそ上達への道であると申されて居ります。私もこのお話しにより本当によいヒントとなりました。皆様もこの二先生の助言をたより更に更に努力され一層の上達を念じて止みません。

ある挑戦

辰野町 桑原賢三

昨年の十月頃でしたか身障者の動向アンケートの用紙と一緒に配布されたパンフレットの中に能力再開発訓練のため短期訓練校が開設されることが掲載されていた。

今迄発声不自由を理由に何かと人前に出るのが億劫となり勝ちであった自分にとって実社会への再出発の第一歩を此の訓練校へ通学することに依り踏みしめて見ようと決心し志願手続きをとった。科目は経理事務科で珠算三級と簿記三級が目標の科目であった。十二月中旬に選考テストがありどうにか入校出来る様になりました。一応は決心して見たものの不安はつのった。又同じクラスのほとんどが女性で年齢も十九才から二十八才位迄と自分の子供の様な娘さん達で選考日に一足先に会場にいた私を先生と間違えて丁寧な挨拶をする方も何人かあり後で話題になり笑ったものでした。

一月十日より通学が始まり学校の規則で車は許可にならず通学定期を買って電車にて通学しました。電車の中では知人も多く話しかけられることも思いの外多くこのため朝は今迄より早く起きて発声練習を行い同じ電車に乗る方との会話に備えなければならなくなり尚電車の中では騒音に悩まされ会話もとどこおり勝ちになります。これで又、高音化の練習をせまられることになりました。一日一日と学校へ行く内に仲間達は私の発声に関心をもつ様になり、又親子程差のある年齢も加って遠慮もとれ会話練習にはもってこいの場所となった。然し病気のため四年五年も頭を使わなかったから勉強の方が大変で若い皆さんについて行くのが精一杯でした。先生も私を身障者としては扱わず問題の回答も質問もどんどんされる、これで教室の後部の人達にも判る様に返答するには力一杯の発声をしなければならず、最初の一ヶ月ほんとに落伍を考えたことも何度かありクラス中でも落伍者四名程いました。何としても勉強がきびしく、先生も卒業迄に珠算三級、簿記三級迄は引上げなければならず、懸命だったと思います。然し珠算は三級以上の者が半数以上いました。六級から初めたのは私位のものだった朝一時間位はどうにも指先が動かず年齢を感じる毎日でした。二ヶ月目位から電車の中でも会話がとぎれることもなく何かと明るい気持になり通学が楽しくなりました。私の様な発声不充分なものでも気持のもち様で人生は明るくなります、同じ病気で同じ様な気持ちの方々に言いたいのは自分の気持で自分の力で社会を切開いて自分から飛び込んで行けば必らず道は開けるものだと言うことです。

学校では当番も掃除も週番も交替です特に週番はクラス全員に聞こえる様に各時間の初めと終りに「起立」「礼」「着席」と号礼をかけるそれ故学科の練習はもとより発声練習もおろそかに出来ない科目となりました。

第一と第三水曜日は午前中は学科で午後は中央病院での発声訓練これは学校の好意で許可になり当日は食事をする間もなく病院へ駆けつけるという状態でした。

それでも何かと充実した毎日であり三月二十二日は卒業を迎えることが出来ました。

子供の様な年齢の同級生、私も気若かくなりました。卒業式の後担任の先生が私に申されるには、私がいつ落伍するかそれが心配であった由、私のひたむきな執念が先生にも通じていたのだなあとつくづく感じました。

学科は決して優秀な成績とは言えず珠算は四級、簿記は三級然し発声法はこの短期間に憂秀な伸びを示したことは最高の嬉びであった(これは自己採点)

昨年迄は声への挑戦であり今年からは実社会への挑戦である。

昭和五十四月三月三十日記

再就職に挑戦

羽生田守夫

昨年の四月停年退職を迎えた。想へば七年前長野日赤へ入院し喉摘の手術を受けた。当時は会社への復職が一番心配でした。四ヶ月程病院生活を送り退院し、十日程家で休養をとり出社した訳ですが、まだ喋れなかったので筆談でした。私の仕事のことで配置替も話題になったようですが結局今までの部所ということで復職した次第です。気管口の呼吸も慣れないせいか苦しくこれで作業が出来るのかと自分ながら不安の日を送ったことが思い出されます。上司同僚部下の理解のもとに勤務できた次第です。高度成長から低成長へと企業も合理化を余儀なくされ私達の仕事も六人から停年時には二人になってしまったやうな現状で身障の身故甘くはない日々でした。発声の方も復職半年位から喋れるようになりほとんど会話には不自由を感じなく過しています。これも会社に勤務し必要に迫られ必死になって発声練習をしたお蔭と今になってよかったと思っています。

新聞やテレビで最近停年退職後の就職の事や中高年者の雇用問題が毎日のように話題になっています。停年を迎へた私も人ごとではありませんでした。妻や小供も長く勤めたのだからゆっくり休養して適職があったら勤めればよいといってくれますが、永年の勤め人根生というか毎日朝になると落ちつきませんでした。

職安に通うこと四ヶ月係の人から某製作所に仕事の斡旋を受け工作機械と取組んでいます。若い者と違い始めは覚えるのに大変でしたが、発声練習と同じくやれば出来るという信念を持って練習勉強した結果、六ヶ月を過した今日自信を持って操作出来る様になりました。これからは健康には充分注意しながら働けるうちは仕事をつづけたいと思っています。

皆さん喉頭ガン等には負けずに頑張って生き抜きましよう。

もうすぐ三年生に

宮本音吉

今年は例年にない暖冬とか、寒さの特に厳しい信州の山村で二月下旬梅の開花が随所に見られる事は近年の記憶にない暖い毎日であった様に思ふ、二度目の冬を迎えて冬季休職をしてそなえた喉摘者の私にとっては願ってもない有難い冬でした。信鈴会え入会して頂き丸二年になろうとしている「光陰矢の如し」文字通り過ぎて行った様な気がする。

喉摘せずにあのままいたら.........先生にいわれた通り今頃は丁度......「ゾット」する......想い出さずには居られない、よかった......助った......手術後健康の回復に専念余念なかったものの矢張りやや健康に自信が出てくると発声の必要が必至となってくる。そして今一度なんとかして社会の仲間入りがしたいと思わずにはいられない。

私は初め人工形成手術がなされていたから、其の点非常に恵まれていたと思いました。二週間たたずして抜糸と同時に母音が出て練習もせず労する事なくして話しをする事が出来たからです摘出者の皆さんが誰しも味ふ苦しい二、三ヶ月を体験しなかったのです。

通院する様になっても一人でどうやら用事を足す事が出来ました。然し健康が従前通りに回復するにつれ三ヶ月目頃より次第に声が出にくくなり五ヶ月頃には母音も自由には出せなくなって来ました。

勿論其の間主治医の先生には特別に種々な治療方法をして頂き大変お骨折りをして頂いた訳ですが、私が強度のケロイド性体質の為意の如くならず、結果的には使用不可能となり先生から知らされたのが六ヶ月目に入ってからの事でした。でも幸なことに入院中に食道発声教室に参加させて頂き発声法の指導を時折り受けておりましたので、此の時点で母音はどうやら出せるまでになっていましたので助りました。それからは以前にも増して声に専念することが出来ました。冬が終る頃には単語位話せる様になり四月の中旬頃よりある会社の勧めもあって勤める事になりました。まだ不自由ではあったが、自分からも進んで社会人としての仲間入りがしたかったからです。

退院九ヶ月目の事でした。以後も毎月一回以上は発声教室の先生方に指導を受けて参りました。形成発音で六ケ月、切り替えて食道発声に専念無我無中の一年余して今丸二年目を迎え様としています。充分とはいかなくとも自分なりきにこんなに早く社会復帰の第一歩がふみ出せるとは思っても見ませんでした。どうやら一人旅行も出来る一般の会合にも出席して一家の代表役も果せる様になった。自から大事をとって冬季休業はしたものの仕事も出来る様になった。有難い事である。第二の声を取り戻す事が幾分でも出来たからである。そして想ふ信鈴会がなかったら......直接指導して下さる先生がいなかったら......私も今頃は廃人同様な毎日を生きるすべなき孤独なさみしい毎日だったと思ふ。有難い事に親身になって心配下さる信大の先生方都度出席して熱心に個人指導までして下さる鳥羽先生をはじめ、大橋、手沢先生先輩の皆さん、お互に励し合ってくれる同僚の皆さん、いつも笑顔で親切に蔭の力となって世話をして下さる今野婦長さんをはじめ看護の皆さんのあたたかい指導の賜ものとただただ感謝の念で一ぱいです。

もうすぐ三年生になります。今年も精一ぱい頑張って一言一句でも多く声が出せる様になりたいと願って居ります。 (五四・三・七)

「希望」

松本市 島成光

人は生ある限り、希望を失ってはならぬ

希望あるが故に、生がいを求め苦難の道程も、未来の希望達成と幸福を目標として今日まで過して来たのであるが。運命のいたずらか、中途にして喉頭の病いで摘出せざるを得ない病状となり、やむなく病院に於て喉頭切除、摘出を致し、今日に到る吾人である。然し希望は失ってはならぬ。私は八十四才であるが六十八才で喉頭の摘出の手術をしてより十四年になるが、天与の人工笛使用により、何不自由なく社会人として事業の上日本各地をとび廻って居り健康で、衣食住に恵れ日々を感謝の生活をして居ります。

過去創立当時を想えば四十三年同病の亡北信、更埴市の碓田清千氏と私が発起人となり信州医大病院の鈴木教授先生と当地の佐藤先生、田中先生等の御協力と、なみなみならぬ、今野婦長さんの本会創立当時より今日に到る。

本会に対する、御後援は実に実に感謝せざるを得ないものがあります。本信鈴会も日と共に内容が充実して参り嬉しく思う次第であります。

社会人としての吾人は、自己の意を他に通ずる。発声を、より一そう習得して、以て健康に留意して社会の上に貢献して日々勇んで通られんことを会報を通じて希望する次第であります。言一句でも多く声が出せる様になりたいと願って居ります。 (五四・三・七)

頑張ります

牟礼村 鈴木ふさ

機関紙、銀鈴や信鈴のお仲間になってからの原稿を今も読み返している私です。

手術を受けた四十三年十一月六日、屹度生涯忘れないだろと思っていたのにおかげ様でいつの間にか忘れ去り想い出した時はもう七日も十日も過ぎている健康でそして皆さんといつでも話せるようになりました。

月二回の発声教室の練習にもなるべく出席を心がけております

今の私の練習は床に入ってから歌の練習です。身体を横にしている時はなんとか歌に聞えますが、上を向いて天井を見つめての練習のときは嚥下音が気になって全然駄目で歌を読むといった方が適当でしょう。身体を横にしたり天井を見つめての練習を何回も続け乍ら自分の耳で確めます。

そして空気の使い方にはいつも気をつけてます。いつになれば歌えるやら、とにかくねる前の発声練習は翌朝の発声にとても役立ちます。それにテレビなどでながれてくる歌など知ってさえいればなんでも口笛で合せます。なんといっても大事な事は空気の使い方だと思っております。

発声教室でる舌の使い方と空気の使い方、いつもそんな事が話題になってます。

話言葉をほんとに自分のものにするにはまだまだ道遠しの感じです。頑張ります。

五四・三・一

この人も

山崎武雄

この人も信ずるに足る春の雷

これは先に朝日新聞の俳壇で、選者中村草田男氏が、巻頭に推された句であります。

「あの人はいい人だなあ」「いやあの人も立派だ」「いやいやこの人も信ずるに足る好人物」と人情、人柄などほほえましく思っていた時、春の雷がごろごろと鳴る。雷の音さへなんだかやさしく響く、ほのぼのとしたあたたかみを覚える句です。この頃は汚職、殺人、強盗、自殺など、目を覆いたくなるような記事のみ見えます。地方選も始まりましたが、候補者も運動員も自分に票を入れぬ人は皆愚人、悪人に見えるらしく、口ぎたなくののしり、自派の者でも運動に力を入れぬ者は、生気地なし、弱人と思いこみます。人を愚人、悪人、弱人と見るなどこんな様子を見ると、選挙もつくづくいやになります。

四十九年十月喉頭の手術を受けて、発声不自由になってから五年目、折角長野信鈴会に入れて頂いて、少しは発声も出来る様になり喜んで居りましたのに、昨年は又五月、十一月と二回も新らしく出来た喉頭甲状線の肉腫摘出手術の為入院、又よく発声出来なくなりました。

併し不思議に生かせて頂き、又達者になりましたので、四月から長野へ通いたいと思って居ります。集る人は所謂発声不自由な人たちで常人から見れば、弱い人たちですが、お顔を見ただけで温情を感じます。

御親切な御指導で、力が湧き、その日から又発声練習にはげみます。その上車中から眺める杏、こぶし、りんごの花など咲く信濃の春は大好きで、思はず、信濃の国は十州に境連なる国にしての歌など出ぬ声で口ずさむ事もあります。

発声は不自由になったが、代りに人のあたゝかい情にふれさせて頂き、生かされる喜びを感じる身の幸を覚える今日この頃でございます。

食道発声落第生の記

西沢寛

私は昭和三十九年に東京の国立ガンセンターで甲状腺腫瘍の手術を受け、甲状線、喉頭を摘出して発声不能となりましたので、喉摘者としてはかなり古手です。手術後、銀鈴会の重原会長からのお勧めやで指導を受け、食道発声を練習しましたが、性来の無器用や何回も手術を受けたこともあってか一向に上達しないまゝ帰信しました。

その後も勤めなどの関係もあり、佐久病院、信大でリンパ腺などの手術を受けました。その間、佐久病院の佐々木先生、信大の山本先生、今野婦長さん、長野日赤の先生、婦長さんや島成光氏、亡くなられた碓田氏などの方々から懇切なご指示やで指導を賜りましたが、食道発声の要領を十分会得するに至りませんでした。それは私が無精であり、十分努力をしなかったこと、多弁より物を書いたりすることを好む性格が災いしたかも知れません。器具なども使用しましたが、いろいろな事情でやめてしまいました。

社会生活復帰後、県職員として物を書く仕事(労働関係の本の編集など)に専念し、家庭ではそく音(?、音声の伴わない言葉)で用を足し、外では筆談などで用を足しております。然しそく音(?)は飽くまで邪道であり、心易い人でないと話が通じません。電話と、道で知人と会ったときの挨拶に一番困るのです。だから、食道発声による正しい発声法が一番良いものであることは十分承知しており、銀鈴会の重原会長、中村正司氏、それに亡くなられた信鈴会の碓田氏などの諸先輩には人一倍敬意を払ってきました。

幸い私には仕事があり、中国関係のライフワーク(昨秋、従軍記、江南・江北の記を東京から出版しました)や囲碁、将棋、読書、散歩、酒など余り話をしないですむ趣味がありますが、趣味は趣味として私のような高年者でもまだ仕事をしないわけにはいきません。また、人間は周囲の人たちと仲良く交際すべきであると思います。そのためには十分会話ができないということは大きな障害となります。それにはやはり食道発声は大いに練習すべきです。

幸い、県内には中央に比して何等遜色のない公共的な医療機関と、優れた、親切に諸先生や看護の方々が各地におり、一方では信鈴会の支部を松本、長野に次いで伊那にも発足することと承っており、熱心な活動が続けられております。罹病者にとって本県は非常に恵まれていると思います。私も長期の落第生で大変お恥しい次第ですが、仕事が一段落したらまた復学させて頂き、せめて電話位まともにかけられるよう努力したいと思っております。

御指導を賜った諸先生始め皆様の御厚情に感謝するとともに、喉摘者の皆様が一日も早く発声をマスターされ、健康な社会復帰をされますようお祈り致します

私のノドと闘病生活

丸子町 西沢治宣

喉頭摘出術をしてより、早や一年半、退院後も未だ闘病生活の連続である。発声教室へ通うが、なかなか声がよく出ない。私には、人様のように、どうして、音声が軽く出ないのだろう。下手なのか、不器用なのか、ノドの形成が悪いのか、どうしても声にならない。

アが出れば六十% 肩の力を抜いて軽く、飲み込んだ息をア、とタイミングよく、腹圧で吐き出す、その時に声になる。と教えらるるが、要領が悪いのか、空気を一ぱい飲み込んで吐けば、気管口でシュー、シューと空気音がなる、そのうち疲れてしまう、健康の時のように声がどうして出ないのか、声が欲しい!!痛切に声の必要性を感ずるようになった。

抑えらるるような呼吸の困しみに、カニューレから繰返し、繰返し、吸引器でタンを引出したり、鼻の穴からゾンデというゴム管を二本も入れて、悪血を採る容器や、小便を採る管を着けて、ベットに寝ていた不気味な恰好を追想して今更戦慄となって、衿元に寒気を誘う。「悪い患部は奇麗に全部とったから、もう安心」と励まされた時に声がない、とうとう廃人となってしまったのだ。人知れず、涙がほほを伝わった。鼻の穴からゾンデの管を通して食事を注入し、点滴に明け暮れた病床も、同病患者の誰もが一応通る過程ではあったが、ゾンデを抜き去り流動食になってからも、食べ物が気管に流れ込んでむせて苦しかった。その時指でノドの気管口を抑えて発声する方法だと聞かされた。左手拇指で抑えてみたが吐く息が洩れて、うまくゆかぬ、右手中指で抑えてみた、その方がいくらかよかった。いっぱい力を入れて「アイウエオ」と吐いてみた、辛じて一応声にはなった。先生も「出るではないか」と喜んでくれた。病室に帰っても同室の人達にやってみせた。食道発声とは異る、ゾンデを抜いた穴を気管口からの吐く息の仮声帯の振動で声になる方法だ。翌日の診察時やってみた。気管口の穴に指をあて抑えて、昨日と同じようにやるのだが、こんどは出なくなってしまった。先生はネラトンと言うゴム管を7号からだんだん号を替えて、何遍もゾンデの入っていた穴に、差込んだり抜いたりして「出る訳けだがなあ」とつぶやきながら経過を診た。ネラトンを差込んだまま三時間五時間も、長い時は夜通し、私は苦しんだ。ネラトンは折曲げて、片方を左耳下首のところへテープでとめてくれた。ネラトンのゴム管は、気管口の蓋になって呼吸が苦しかった。ネラトンは唾液と呼吸の困しみで、時々抜けてしまった。自分で見当をつけて差込んだ。牛乳を飲むと気管口に流れ込み、むせる、咳払いと一緒にゴム管を通して耳の辺へ吹出したりした。その度、手古摺った。それ以来、牛乳は飲めなかった。食事は配食された1/3位時間をかけて食べた。そんな苦しみが、幾日も続いた。声も欲しいが、先づ健康でありたい。先生に話して指で気管口を抑えて発声する方法を諦めた。食道発声に切り換えた。こんな病気に負けてなるものかと、自分を励ましながら、毎朝病棟の階段を下りて、裏庭に出て、軽微な体操もした。食道発声には歯も治療しなければならなかった。手術直前、むし歯で痛みつけられ、苦しんだが、手術後、けろり痛みがどこかへ行ってしまった。退院後一ヶ月位してから又々、痛み出し治療や抜歯で半年も歯科医へ通った。気管口が縮小気味なので、カニューレを手術後、七ヶ月入れていた。落着きをみてだんだん外すことにした。

入院時より、前立線肥大症で泌尿器科の手当も、何回も受けた。東京方面へ旅行の途次、救急病院のお世話になったこともある。病気が重なって苦しんだ。

本年は一月、寒気でノドが乾燥して、気管口より出血し、二月まで苦しみ、次から次と病気続きで、子供のところへ出京中、近くの外科医に応急手当をして貰ったりした。二月になって、信大耳鼻科の定期検診を受け、その後も、近くの耳鼻科医院で診て貰い、漸くその域は脱したこの頃である。このような状態で、食道発声も旨くゆかず、悩みの連続である。入院中は諸先生方又婦長さん始め看護婦の皆さんに、行届いた、懇切なる看護手当に、心からお礼を申上げます。

何卒同病の皆様方、頑張って闘病に打ち勝ち、社会復帰の一日も早やからんこと、豊かに、円満に、明朗に、愉快に、然かも健康で働くことができますよう、心からお祈り申上げます。

第三の人生

松本市 寺村安則

人間食事がとれない事は何によりもつらい事それは生きられない事だから。

五十三年春頃から食事が思う様に通らなくなったので、信大から国立へ移ったばかりの上条先生に診てもらいました処、東京虎ノ門病院消化器外科へ行けと、照会状を手にして旅立ったのは初夏の五月でどんな事になるやら不安の限りでした。虎ノ門へは速刻入院は出来ずすぐ前での川瀬病院に入院して、順番を待ちました、その間放射線で食道の癒着分を東大分院に通院治療を受けました。一ヶ月程して入院となり、大きな手術を受け長い時間かかったそうです頭を二つ程たたかれ我に返った時、腹の痛さで(タンノウの手術も受けたので)どうにもならず苦痛を訴へるにも声にならず、これでは死んだ方がましだ自分の意志が相手に伝はらない人間になってしまった、どんなに悲しい淋しい世界だろうと思った。主治医の先生は盲よりましだ筆談も出来るしと言ってくれた言葉が忘れられない、先生と看護婦さんの一体となって一命を救ってもらった事を何より感謝し感涙した、高層霞ヶ関の見える病床から毎朝旭が窓ガラスに反射し映える姿が思い出となった八月退院帰郷となりました。信大に信鈴会のある事を教られて来ました。食道発声がとても出来ず遂に発声器を島さんの指導を受け今野さんに御世話を戴き話が出来る様になりました。暗かった人生も一つの光明を得て楽しく人様の御役に立ちたい念願のもとに日日を送りたいと思っています。

闘病雜記

南佐久郡臼田町 三瓶満昌

声がかすれてだんだん出なくなる。私の病気は、そのような症状から始まりました。私はかぜを引くといつも声が枯れたので今度もかぜだと思っていました。私は二十年程前に肺炎を患ってから非常にかぜを引きやすくなり、毎年二回位は割合重い風邪に悩まされました。約一ヶ月間も過ぎてまだ治らないかすれ声に疑問を持ちようやく町の医者に診せました。舌根扁桃線炎と診断され暫くの間、咽喉内の洗浄や鼻の洗浄、時折注射等をまぜた治療を約六ヶ月間受けたのですが、一向に好転しませんでした。声はだんだん悪くなり会話にも不自由を感じ始めた頃、知人のすすめもあってこの信大病院へ来たのです。この病院へ来て、先生方が多いので感心しました。大学病院だから先生の多いのは当然かも知れませんが、患者にしてみれば心強いものです。先生が多い分だけよく診て貰えるだろうと思うからです。診察は思ったとおり、いろいろな器具を使って何度も咽喉の奥の方をのぞき実に丁寧に診てくれました。その結果、私の場合は咽喉のおく、声帯の片側にポリープができており、片方には凹みがあるとのことでした。先生の話では凹みの方が気懸りだとのこと、入院してもっと詳しく調べましょう、と云ってくれました。その日は先生の言葉に従って入院の予約をして帰えりましたが、今はいろいろな治療法があるので心配はいりませんよ、と云ってくれましたのでだいぶ気が楽になりました。それに検査の結果によっては二週間程で退院できる可能性もあるとのことでしたから私は本当に気を休めたものでした。入院のための準備を済ませ約二十日ばかり待機していると入院してもよいとの連絡があり直ちに入院しました。病院では主治医の先生も決まっていて、すぐ紹介されました。病院内での生活については看護婦さんが面倒をみてくれますので全く心配はありませんでした。入院して約一週間位の間、念入りな検査が行なわれ患者の状態を把握してから手術にのぞむのだそうですが、私も一通り検査を済ませ待機することになりました。全身麻酔は初めてのことなので緊張しましたが実際にその場になりますと安定剤を投与されたり注射を打ってくれたり、患者の緊張をやわらげる手を打ってくれますので心配は不要でした。私も不安感もないままに看護婦さんの手によって手術室へ運ばれました。手術室の看護婦さんも、丁寧に自己紹介をしたり、「これから私がお世話いたしますが心配はありませんからご安心下さい。」というようなことを云って不安を取り除く気遺いをみせてくれました。そうしているうちにいつの間にか手術室へ運び込まれ、手術台にのせられたことは覚えていましたが、大きな声で呼び起されるまでは、何があったのか全然わかりませんでした。こう云う状態で大手術も行なわれるとしたら患者もずいぶん楽になったものだ、と感心しました。結果的に私の場合は悪性の腫瘍でしたから放射線治療の後に手術を受けることになるのですが、私は最初自分の病気を楽観していたものですから決心つくまでは大変苦しい思いをしました。二度検査を受け三度目は本番の手術になったのですが、検査の度びに結果についてはっきりした説明がなく、つも私の方から聞きました。そうすると家族の方が来

た時にお話しましょう、と云われることが多く本人に直接話をするということはあまりなかったように思います。こういうことは患者に不安を与えたり、いらだたせたりすることになるので検査等が終り結果がわかったら、できるだけすみやかに先生の方から話をして貰えたら患者の気持はとてもすっきりするだろうと思います。私の場合は病気についても、あまりはっきりしたことは云われず、念の為の治療と説明されていたので手術の為の放射線治療とは考えていなかったのです。そのようなわけで手術をする事になる迄は何となく楽観していたのです。それが二度目の検査の結果で放射線を、まだ倍ぐらいかけてみるか?、手術をして患部を切除してしまうか?どちらかを選ばなければ成らないことになってしまいました。或る程度予期していたことではありましたが元通りの体に戻ることは出来ないことを納得するまでは大変苦しい思いをしました。手術によって機能を失なうと云うことは生きる為に、ではありますが非常にきびしい決断を迫られるものです。私達が見聞した一般の手術は、殆どが機能を損なうことのないものでしたので私の様な手術は拒否する人もいると聞いてわかるような気がしました。私は悩んだ末に手術を選んだのですが結果的にはそれが一番良かったと思っております。私が手術を決心するまでは先生をはじめ、看護婦さん、とりわけ婦長さんの熱心な説得があってのことですが、当時は随分残酷な宣言を聞く思いでした。しかし約一ヶ月で退院を許され食道発声の方も先輩の方々の適切な指導のお蔭で一ケ月程の練習で会話が出来るようになると、仕事の面でも家庭内でも非常に楽になりました。一度失った声が甦えり、自分の意志を自分の声で伝えられるという事は大きな自信をもたせてくれるものです。最近では人前に出て話をしたり又人混みの中でも他人の目が気にならなくなりました。私には、まだやるべき仕事が山積しておりますし、やりたいこともたくさんあります。ですから今迄以上に元気いっぱいに生きたいと思います。そして精一杯働き、又学び充実した日々を送りたいと思います。

昭和五十四年四月

食道発声の研修会に出席して

義家敏

本年二月十七日東京都の障害者福祉会館において銀鈴会と日本喉摘者団体連合会の主催で関東地区指導員研修会が開催されて信鈴会の長野日赤教室からも誰か一人は出席するようにと言われ結局私が勉強のため出席したところ非常に得るところがあったので、その概要を次のようにお知らせします。

丁度当日は、銀鈴会の発声教室の日でもあって四十~五十名の者に対しての指導状況の見学から始まった訳です。初心組には四名くらいに対して一人の指導員が相対して個人指導をしている状況から、また中級クラスは多数が並んで指導員の指揮で歌や、詩吟をやっての集団的指導をやる状況等、やはり銀鈴会ならではと、感じ入りました。

指導者は、重原会長陣頭に立ち、外の先生方も皆上着など抜いでの力の入れようであり、又指導を受ける皆様も汗しての熱心さであり、私の心を強く打つものがありました。続いて高藤先生が、居並ぶ人の中から指名されて何人かの方に発声させて指導するなど厳しい所もありました。

最近は上達が早く、大体三ヶ月程度で会話もできる人が増えている傾向にあると話されました。また昨年喉摘者世界会議に出席してみても、今や各国とも食道発声を取り入れており、人工笛を使う人は一人もおらないのが現状である。そして笛の方は衛生的にもよくない、若し食道発声がどうしても、できない場合は電気式発声器を使うことがよいのではないかと言われました。

高藤先生が指名し、紹介されたAさんは食道を摘出してしまい、胃袋を食道口までつり上げてあり食道というものは無いのだそうだが、この人が簡単な挨拶をされ、会話発声をされた事は全く驚くべきことであった。

高藤先生は、一にも二にも自分の努力次第で食道発声は上達すると強調されておりました。

以上のような有意義な見学やお話の後、各講師の先生から順次講話がありました。

先づ最初が高藤先生講話

1原音の出し方

2母音

3子音

4単語の練習

5簡単な会話語

6アクセント

7歌や童謡

8上達のコツ

ア一生懸命勉強すること

イ中途で諦めないこと

ウ進歩が遅くもあせらないこと

エしっかりと基本を習うこと

重原会長講師

主題、初心者に対する発声手ほどき

手術後は何となく不安な気持であるから、これを早く取り除いてやることが大切であり食道発声は、誰でもやればできるのだということの観念を植えつけてやることが大切である。以下「銀鈴」一八四頁を主体としたお話であった。

中村講師

主題、初心者指導の注意事項

中村先生は本年の七月で喉摘二十年となる。

1初心者に、あなたは声が出せるということを意識づける。

2単音―二―三音―会話

3吸引法に切替えること

4中級者からは連続発声でする、家に帰ればテレビでは駄目で、勉強すること

5発声は人がしてくれるのでなく、自分でやることだ

菊池講師

主題、アクセントについて

アクセントについて注意してほしい

イ、エ、シ、等について

太田講師

主題、指導員としての心構えについて

1食道発声は誰にもできる

2食道発声の道は、その人の努力によってのみできる

山田講師

主題、電気発声器の使用法について

現在は世界的に見て殆どは食道発声であり人工笛を使う人はない。どうしても食道発声ができない場合は電気発声器を使用することが最もよいと話されて、山田先生は実に素晴しい使用、実演をされた。

折下講師

主題、発声練習時の姿勢及び悪癖について

1脊髄をのばして目は前方を向いてやる

2入歯はキチンと整備してやる

3肩に力を入れるとか、のみこむとき一回ですむものを、二回も三回るパクパクやることがある

(手引十九頁の四項参照)

4ノドの音をたてる人

久永講師

主題、喉摘者の笑い声について

銀鈴会では一番笑いの上手な人と中村先生から紹介される。

素晴しい笑いをしてくれる

概要は以上のようでありましたが、中村先生をはじめ各先生方は、これまでには人知れない努力をされた事が推察できました。

声なき人生は悲劇であります。私達の声は自分自身の努力によってのみできることを痛感し、自分の今日までの足らざるを悔い、これからの努力を心にきめた次第です。

伊那発声教室開設について

山下竹一

五十三年十月伊那発声教室が開設の運びとなりました。開設に当り伊那中央病院の矢田先生、粕谷婦長さんを始め病院長、耳鼻科の看護婦の皆様の深い御理解と御協力があったことは言を待ちません。

尚開設迄の課程に御尽力下さった信大の鈴木先生、今野婦長さん塩原会長、鳥羽副会長の限りないお力があったことは言ふ迄もありません。こうして各方面よりの温い御支援に支へられて開設した発声教室がありますのでその意義は大きいと思われます。

只今は出席者も四、五名とまだ多くはありませんが諏訪、上下伊那方面の人達の積極的な参加が大切なことと思われます。

なおまだ信鈴会に未加入の人達もまだまだ居ることと思われますので、成可その人達に呼びかけ一人でも多くこの教室により再び自己の声を取り戻し幸をつかんで頂きたいと存じます。

伊那教室情報

担当指導員 桑原賢三

昨年十月十八日伊那中央病院耳鼻科に信鈴会の食道発声伊那教室が開設されて毎月第一水曜と第三水曜日発声訓練を続けてもう半年余りになります。

伊那教室担当の指導員として果して順調に行くかどうか?其の後の経過が非常に心配でした。病院の矢田先生、粕谷婦長さん、中西さん等皆さんとても親切に面到を見て戴きこの皆さんに対してもと、訓練日が近ずくと伊那、諏訪方面へ電話で教室への出席を促し、又補助員の山下さんや高遠の北原さん等先輩の皆さんの御協力を御願いして日を増す毎に教室も明るくなりました。其の都度かかさず教室へ顔を出して私共の悩みを聞いてくれたり相談にのっていただいたり正月には私費で新年の集会を開いて下さったり、矢田先生の御厚意を私共は無にしてはならないと思います。このことはとりもなほさず発声の成果を上げて先生に嬉んでいただくことと思います。

最近になり下伊那より原さん(愛知ガンセンターにて手術)、早川さん等が加わり人員も増しにぎやかになりました。会員の皆さん訓練日は前に述べた様に第一・三水曜日午後一時から三時迄です時間を作り御顔を見せて下さい。

編集後記


会報第九号発行に当り、原稿の依頼を致しましたところ、信大の先生はじめ、会員皆様から早速貴重な原稿をお寄せくださって、心から感謝申しあげます。

原稿は、何れも皆さんの体験上の発声に対する勉強法、等々貴重なものばかりで、深く敬意を表します。私今回編集のお手伝をしましたが、何分にも馴れないため、写真の不備、会員名簿の不整理等、その他にも手落があろうかと思いますが、深くお詫びすると共に、今後においても充実した会報発行ができますよう何分の御協力を賜りますようお願い致しまして信鈴第九号の後記と致します。

昭和55年刊 第10号

巻頭言

信鈴会々長 鳥羽源二

信鈴会々報「信鈴」第十号の発行にあたり、昨年の定期総会に於て、塩原会長が引退され、その後の理事会の席で 長野県信鈴会の会長を命ぜられ、私には未だ適任ではないのではないかと思いましたが、非力のところは皆さんのご協力を得ることにして、お引受け致しました。 宜敷お願い致します。

信鈴会も創立十二周年目を迎えたわけでありますが、会員も年々増え、発声教室も松本市の信州大学附属病院内、長野市の長野日赤病院内、そして一昨年より伊那市の伊那中央病院内に設立させて載き、広い長野県であります故、未だ十分とはいえませんが、先輩並に関係の皆さんの偉大な努力によって築かれた、長野県信鈴会を、会員皆さんの協力と、 役員、指導員の努力と、そして病院の先生、看護婦の皆さんの理解ある御指導により、より充実させ、そして後輩の 皆さんに一日も早く発声の術を得て社会復帰され、強く社会人として生き抜いて頂き、益々信鈴会の価値を高めて頂 きたいと願っております。

喉頭摘出の手術を受けると、発声機能は完全に喪失して全く声は出なくなり、のどに孔をあけられ、この気管孔に よって呼吸するので、鼻を空気が通らない、よって嗅覚を失い、物の匂いがわからなくなる、即ち、発声機能喪失と 嗅覚機能喪失の二重障害になる訳で、日本喉摘者団体連合会の総会の席でも、しばしば提案されているが、身体障害者等級表による級別を三級を是非二級にして頂きたいと願望して止みません。尚、他県では私共のような喉頭摘出者に対して、自動車税の減免等の恩典を与へられているところが大分ありますが、これらについても是非努力して行き たいと思います。

最後になりましたが、各発声教室に関係される先生方、看護婦さん、この紙上を借りまして、厚く感謝の意を表させていたゞきます。又、指導員の皆さん、まことに御苦労さまでご座居ます。皆さんの努力によって、最近は発声教室の発声会話の度合がとても早くなったことは、誠に喜しいことで御座居ます。

会報発行に当り原稿をいたゞきましたこと厚く御礼申し上げます。

挨拶にかえて

信州大学名誉教授 鈴木篤郎

四月の声をきくと、さすがに風もやわらかく、陽の光も暖かさを増して参ります。信鈴会の皆様もそれぞれ充実した毎日を過ごされていることと思いますが如何でしょうか。

私も信大を定年で退官してから一年、第二の人生といった気負いもなく、さりとてそれほど退屈もせず、程よく忙しく、程よく暇で、私なりに得るところの多かった一年だったと思っています。

庭へ出て見ますと、芝はまだ黄色のままですが、雑草の青さが眼につきます。庭の樹木を一本一本ゆっくり眺めて行きますと、常緑樹の葉の色は艶かさを増しているようですし、また花樹はその花芽を大事に育てており、それぞれの中の生命の躍動がよくわかります。そして樹も私も共々に生きているのだなあという生命のよろこびをしみじみと感ずるのです。人間が最も強く生きがいを感じ、生きていてよかったなあと思う場合の一つに、自然の美しさに打たれた時というのがあげられていますがそれは、自然の美しさのなかに何か大きいものの摂理を感じ、自分も自然と共々その「何か」によって生かされているのだという謙虚な宗教心が働くからだと思います。

これからよい季節に入りますが、一日一日が皆様にとってよき日でありますよう祈り上げまして挨拶に代えたいと思います。

(一九八〇年四月五日)

信鈴第十号によせて

信州大学医学部 田口喜一郎

信鈴会が発足してから満十一年を迎え、皆様の会報「信鈴」も第十号の発刊を算えることになりましたことは、会の順調な発展を物語るものとしてお慶び申し上げ ます。

誰でも一度は病気にかかるわけですので、そういった方を対象にした親睦団体はそれだけでも意義があります。しかし、信鈴会は単なる親睦団体ではなく、信鈴会会則にもあるように、発声訓練による社会復帰も目的とするもので、その運営が会員の手によってきわめてうまくいってる点から、理想的な会であるといえましょう。

近年喉頭の手術も単なる摘出だけでなく、手術後すぐ発声できるよう、喉頭形成という手術を併せ行う場合が多くなりましたが、会員のなかにはこういった方々も含めて頂いているのは大変有難いことだと思います。同じ病気に苦しむ患者さんが、喉頭摘出を受けねばならないと宣告されたとき、このような会の中でお互いに援け合い、親しくしている光景をみることは、手術後もこれから先に歩む人生が決して暗いものではないと分り、将に生きがいを見出すことになるからであります。

こういった背景を持って、信鈴の内容も各人の体験談や現況報告から始まって、発声のコツや各地区における発声教室の活動状況まで盛り沢山で、毎年発行を待ち望んでおられる方が多いと思います。

ここまで会を発展させて頂いた会員の皆様方、特に役員の方々の御努力に深く感謝し、さらに明るい明日に向って御精進の程をお願い申し上げます。

ふたつの卒業式

信大医学部 河原田和夫

卒業式というのは、学校関係につきものですが、自分の卒業式以外は疎遠でした。どういうわけか、今年はふたつの卒業式に参列し、いささか感概ひとしおという気分になりました。

ひとつは三月十九日に行われた松本養護学校の卒業式でしたが、長女が小学校を卒業しますので、家族あげて出席しました。他校に通学している弟妹も、学校を休ませてもらい、姉娘の式に一緒に参加しました。何才まで生きられるのか不明な心臓奇形と精神発達遅滞をもった長女ですが、自らの手で卒業証書を受けとる姿を家族全部で喜びました。

医学部の卒業式が二十日にあり、はじめて参列してみました。私が松本に来た年に、医学部専門課程に進級した人達であり、耳鼻科あるいは形成外科に入ろうと希望している人が五名もいるというので、何かにつけ想い出になると考えたからです。発声教室を見学していて、医師の何たるかを少しでもわかっている人たちだけに、双手をあげて歓迎しているところでもあります。

日頃熱心に開かれている発声教室でも、卒業式に相当するものがあれば、また励みになるような気がしますが如何がなものでしょうか。先達者の御苦労も大変と思いますが、一区切りをみんなでつけるためにも、進級式か終了式を是非やってみたらどうでしょう。

(三月二十一日)

会員の皆様へ

信大看護部長 石田愛子

四月の時期は各職場とも人が多数替わり、お互い気持ちを新たにするときでもあります。新たな出合いと申しましょうか。信鈴会の皆様方との輪が大きく大きくひろがっています。

お役に立つことが何ひとつ出来ずに心苦しく思っております。皆様方とのふれあいの中で、たくさん学ばせていただいております。苦しみを共に、そして頑張るお姿にただ頭が下ります。どんなにつらかったでありましょう。或いは悔しかろう、イライラしたでありましょう、不安、葛藤を乗りこえなさった。よくぞ乗りこえなさっ た・・・・・感激でいっぱいです。私達の直面する問題やストレス等ほんの一部分にしか過ぎません。はずかしく思います。ヨーロッパでいわれておりますが、ワインの味を識るためのみに年をとるのであっても・・・・・ 人間は成長発展をとげつづけている。皆様方がなによりの人生訓です。大学病院にふさわしい職員になるよう、おもいやり、親切、やさしく接してこそ看護婦であり、ご病人がどのように感じていられるか「きづくこと」だと思います。婦長、看護婦とも質の高いお世話をしようと努力しております。個人の価値観、信条、知識は常に成長発展しつづけているのだと思います。このような機会を与えられましたことを光栄に思います。どうぞ皆様健康にはくれぐれもお気をつけ下さいますよう、また、この上とも後輩の方々のよきよりどころとなって下さいますよう心からお願い申し上げます。

信鈴会のご繁栄を祈っております。

お目にかかる日をたのしみにしております。

発声教室

長野日赤耳鼻科婦長 高村正

私が、発声教室に参加されている方々と、お目にかかったのは二年前の六月からです。

鈴木さんが、お茶の道具を持ちにいらっしゃった時に始めて、食道発声の方と話しをしました。耳鼻科の病棟に勤務して病気のために喉頭を摘出された患者さんと接して、言葉によって自分の意志を伝えることができないもどかしさのようなものがこちらに伝って来るような気がします。Mさんは、発病前は謡を長年習っていらっしゃった方ですが、以前に時々電車でお目にかかり、耳鼻科に通院していると云っていました。私が耳鼻科病棟に勤務交替した頃は、もう喉頭摘出されていました。専ら筆談、メモ用紙と鉛筆何本かゞ、いつもベットの傍においてあり、お早ようございます。と云い乍ら病室に入って行くと、すぐ、大きな字で細々と、その日の病状をかかれたり、家も比較的近くのせいか、長年謡を一緒に習 っていた、元気の良い義母のことまで書かれ一緒に笑ったりもしました。Mさんの病室での生活には一つのパターンがあって、ほとんど、このパターンをくずすことなく、せかせか気短に行動していました。看護婦のチームカンファレンスのなかで、度々Mさんのことが問題になり、みんなで発声教室に出席をすゝめることになりました。出席をすゝめる度になんとなく逃げられてしまいました。

教室に集まる方々と接するだけでも勉強になりますよ、とすゝめ教室の始まる時間には声をかけることにしました。しぶしぶと出席するようになってから、タピアの人口喉頭のコツは、先生よりも体験者の人から教わった方が解りやすく良かったと書いてみせて下さいました。

この頃から、気短かな動作が少しづつ変り、一日一回屋上で練習をされるようになりました。少しづつ会話ができるようになって「お早ようございます」「ありがとう御座居ます」と明るい顔で云われた時は、本当に良かったと思ったものです。言葉で表現できる大切さをしみじみ感じました。

時々、発声教室に患者さんと一緒に伺い、教えていただいたり、アドバイスを受けたりします。

皆さんの明るい表情やなごやかな雰囲気のなかで、コツコツと練習をされる様子をみて、本当に人生の勉強をさせて頂いているような気がします。

お目にかかる日をたのしみにしております。

幸せを求めて

副会長 桑原賢三

昭和五十年一月二十二日、此の日は私にとって生涯忘れることの出来ない日です。此の世に生を受けて五十余年間、私の存在を周囲に認めてもらい、又一家の生活の糧を得るための声との別れの日である。

この日を境に私の新しい人生がはじまった。幸に体力の方は小柄ではあるが、若い時から鍛練の積重ねのためか心配はなかったが、声を主とする仕事であった為、これを失うことの精神的打撃は大きかった。当時三人の子供は長男二十四才、長女二十一才、次男十八才、私はこの時この手術がもう十年先であったなら、せめて五年でもよい、子供の一人でも二人でも片付けてからにと・・

然し現実は重く暗く一家の上にのしかかってしまった。私は自分一人のために家中がこんなに暗く、又近所の方々も足音を忍ばせる様な気をつかう、こんな事では家中が不幸になる、なんとか家中が幸せになる様精一杯の努力をしなければと決心をしました。

幸せへの挑戦、何が何でも声を出そう、喋べろう、そうして子供たちのため、又苦労をかけつづけて来た妻のために声を取りもどし幸せをつかもうとこれからが幸せを求めてあらゆるものに機会をとらえて挑戦をして来ました。婦長さん、鳥羽先生、平沢、大橋両先輩の先生、この方々が私の挑戦に側面より応援をして下さいました。

そして、努力を重ねて一年、二年と過ぎる内に家の中に明るさがもどって来た。初めて幸せを感じたのは手術後二年目の三月、次男の就職について先方へ行き子供の将来のことなど自分の声でお話ができ、子供に安心感を与え、父さんのことは心配せず自分の道をしっかり歩けと言い切れたこと。又、その年から長女の縁談があり先方との話合いも自分の声で充分出来、翌五十三年には挙式と事が順調に運び、声の有難さを痛感し、この声が嫁ぐ娘への最大のプレゼントとなった。安心して晴れ晴れした顔で嫁いだ娘の顔が瞼に浮ぶ。又昨年はこの年をして若い娘さん達と一緒に経理簿記の学校へ三ヶ月も通学し、久しぶりの学校生活を楽しく過しました。これも自分の声のお蔭で、こんな幸せもありました。最高の幸せは嫁いだ娘の長男が昨年十一月生れ、大輝と名づけられ先日里帰りして来ました。私のこんな声でもあやせば大輝は一生懸命お話をする涙の出る程嬉しさを感ずる。

長男の嫁も決り、今年三月十六日、二八〇人もの方々の祝福を受け挙式を行い被露宴に移り、両家の謝辞に新郎の父として私が大勢の皆様に御挨拶を申し上げることになり、家族や身内の人々の不安な眼差背に受け、中央に進みマイクを手にする。上手に喋れるかどうか?自分もマイクを手にする迄は不安であったが、一度マイクを握ると開き直った気持になり場内を一通り見廻す余裕が出て落ついて御挨拶が出来た。家族、とりわけ正面の新郎の席にいた長男はさぞ安堵したことだろう。式も終り家に帰り、家族の者に、父さん立派な御挨拶が出来て良かったねと口々に言われ、自分でもほっとする。親の責任を果せたよろこびを噛みしめる。

声帯が無くても大勢の人前でお話しが出来ることを、 二八〇人のお客様に訳って載いたこの喜びがひしひしと胸を打った。

自分で作る声により世の中が明るくなり次から次へ幸せが訪れてくれる。これからも幸せを求めて食道発声の練習を重ね、努力してゆく覚悟です。

同じ病気で声帯を失い悩んでおられる方々に望みたいことは、自分の努力で自分の声をとりもどし、自分で幸せを摑むことです。

私たちの幸せは、求めてつかむものと信じています。

どうか、皆さんも幸せを摑む努力をして下さり私の経験したいくつかの幸せを申し上げて、みなさんの励みの一助ともなれば幸甚の至りです。

昭 五十五年四月記

発声教室

大橋玄晃

発声教室、それは私達声を失った者にとってなくてはならない重要な役割を果してくれるところであり、それだけに責任者は教室内容に就いてより研究して行かねばならないでしょう。

ある人が私に発声教室は私達声なき者が、声を作る場所である事は勿論ですが、家族的な雰囲気の中に訓練と技量向上に直接刺激を与えてくれる大切なところであると共に、同病者として気心も判り、気楽に語り合い、励まし合う、会員相互のコミニューケーションの場として活用され、このひと時が私達にとって本当に一番気が休まる時のような気がします。出席するだけでもプラス面が多いと思います。と話してくれましたが、正にその通りだと思います。

私が他の教室でも勉強させて頂く様になった動機は、手術一年後の昭和五十年五月に東京の銀鈴会の総会に始めて出席して専務理事の中村正司氏の司会の余りのすばらしい声に感動した事に始まります。十月から銀鈴会の教室に参加し、更に中村氏が会長をしている神奈川銀鈴会(横浜市)に入会させて頂きました。又所用があって大阪に参りました折には阪喉会(阪大病院)を見学させて頂きました。銀鈴会と阪喉会に数える程しか参りませんでしたが、神奈川銀鈴会には今でも時どき参加勉強させて頂いて居ります。

喉頭腫瘍、この病気は欧州でも日本と同様、大学病院その他の大病院で喉頭摘出手術が行われている。然し異るところは日本では声帯切除後、体力が回復すれば退院となり、声の後遺症は喉摘団体にまかされ、発声指導を行っているが、欧州では手術后患部が回復すると、同じ病院で後遺症である発声不能者となった患者の為に、言語障害科に移し、科の専門医により発声指導を行い、或る程度声が出る様になって初めて病気全快で退院となる点だと言われて居ります。このような日本の現状の中で 銀鈴会では高藤次夫博士、阪喉会では佐藤武男博士 (小生が参加した折は)が卒先して会長と共に発声指導に当って居られた事は誠に特筆すべき事であると思います。

銀鈴会、阪喉会、神奈川銀鈴会の発声教室で、共通して行われていることは、

1.先ず食道発声の手引を与え熟読して発声に対する予備知識と心がまえを持たせる。

2.発声指導に当っては食道発声練習教本を渡して教室練習更に自宅練習に供している。教室参加者は必らずこの教本を持参して、教室には備付教本はおかない。

3.上級者には更に会の特色を生かし、工夫してテキストを用意し指導に当っている。

4.大体三段階の組に編成され、指導員が誰と誰を受け持って指導するかはっきり区分されている。

5.一年を三学期に分けて学期の前後には必らず指導員会議が開かれ、各組の指導内容の打合せ、組の編成がえ(進級)等協議される。

6.事務時間軽減のため参加者は各自備付ノートに住所氏名を記載する。

発声練習時間はどの会でも大体一時間から一時間半であるが、練習成果をより上げる為の種々研究されている事が参加する度にひしひしと身に感ぜられ、責任者の労苦に頭が下る次第である。

信鈴会も信大、日赤長野、伊那中央各病院と分れているので会員参加者は他の会と比して少ないけれ共、他の会に見られない程、信大の今野婦長さんを始めとして各病院の婦長さんが積極的に協力して下さっているのを見るにつけ、それなりに教室の内容充実に意を注がなければならないと思う。

◎私が始めて中村正司氏から食道発声指導を受けたとき言われた言葉

"どんなによき指導を受けても自宅の計画的練習の積み重ねがない限り上達はありえない"

附記

高藤次夫 博士(元東京厚生年金病院耳鼻咽喉部長 現戸田中央総合病院耳鼻咽喉部長)

食道発声の手引の著者、食道発声練習教本の共著者で銀鈴会創立者の一人

佐藤武男 博士 (元大阪大学助教授、現九州大学教授)

食道発声法の著者で吸気注入法の提唱者

救急車に乗って

松代 吉池茂雄

ピーポー、ピーポー、ピーポーが近づくと両側の車の列がサッと路端に分かれて徐行する。その中央を六〇km位の速度でノン・ストップで進む。大名行列の殿様のような気分で、誠に結構である。交叉点や信号に近づくと指差して安全を確認し、前方安全、左右安全を呼唱するから安心して任せられる。乗り心地は、クッションもスプリングも固くてトラック並で、あまり快適とは言えないが、篠ノ井から国道18号をひた走りに走って長野日赤へすべり込んだ。

三日前から風邪で発熱したので、家族が心配して町医者を頼んだ。気軽に往診してくれるので時には都合がよい。二日分の薬が終る頃、熱は平熱に下ったが、どうもタンが切れない。いつも風邪をひくとタンが出て、時には血が混じる事もあったが、強くセキをするとタンが出てあとはすっきりするのだが、今度は少し様子が違うようだ。強くセキをしてもタンが切れない。そして吸う息 が半分も吸わないのに何かフタをされたように吸えなくなってしまう。吸う息が少ないから、はく息も弱くなる。胸が苦しくなる。手鏡に映して見ると、ノドの呼吸口の入口に何か黒い小豆大のものが着いている。こいつが空気の入るのを邪魔しているのだな、よしこの邪魔物を取ってやろうと、鏡をみながらピンセットで黒い固まりをつまむが取れない。何度も試してみるが取れない。だんだん気持があせるためか呼吸が苦しくなる。浅く弱い呼吸が急ピッチで続く。このままで行ったら窒息するのではないだろうか?ふっとそんな予感が頭の中をかすめた。 さあ、えらいことになったぞ。何とかしなければいけない。おれはまだ死にたくない。住宅公庫の借金がまだ四年半残っている。これがある間は死ねない。医者を呼ばなければ・・・・・。日赤の浅輪先生が頭に浮んだ。先生は松本信大病院以来、また日赤の発声教室でもお世話になっている。しかし、日赤は午後手術があるからお忙しいだろう。こちらは分秒を争うのだ。すぐ診て処置してもらわなければ困るのだ。のんびり待ってなんか居られないんだ。だとすると荻場医院か。荻場先生も信大病院入院中お世話になった方で、その後篠ノ井に開業された頃に一度お目にかかったきりなので、覚えていて下さ るかどうか、でも荻場先生ならどうにかして下さるだろう。浅輪先生への連絡もつくし・・・・・。文章に書けば長たらしくなるが、これだけの事が一秒か二秒の間に頭の中をかけめぐって、方針はきまった。家族はみな用事で外出中なので、自分で番号簿をさがして、荻場医院へ電話する。幸に荻場先生の声がでた。こちらの症状を話して診ていただきたい旨を伝えるのだが、気がせいている上に呼吸が乱れているのでうまく通じないらしい。二、三度云いなおしてようやく話は通じた。今から予防接種に出かけるが三時までには帰るから、その頃においでなさいとの事。今から仕度して行けば丁度いい時間なのでやれやれと思う。仕度をし、戸締りをして、ハイヤーを呼ぶ。篠ノ井まで十分足らず、荻場医院へ着いたのが二時半頃だった。車の中でも、二、三回呼吸が苦しくなって、深く息を吸うのだが途中で吸いこめなくなる。このままで終りになるのかと、必死に息を吸いこんだ。

しばらく待つと荻場先生が帰って来られた。十数年もお目にかからない間に、少し若くなられたような気がした。

さっそく診ていただく。呼吸口の邪魔物の事をお話しすると、どれどれとおでこの反射鏡を合わせて「ハハー・・・だな」と云ってピンセットでつまんで取ってくれた。幾つか取れた。取る度に呼吸が少しずつらくになる。「私の所ではここまでで、これから先は取れないので、日赤の浅輪先生に電話するから日赤へ行って下さい。」と云って、救急車に「呼吸困難の患者だから日赤の耳鼻科へお願いします。電話で連絡ずみですから」というわけで、救急車に乗せられたという次第である。日赤へ着いたのが四時少し前だった。

日赤では、手術がすんだ浅輪先生と若い先生が待っていて下さった。すぐ手術室へ移される。その前に胸部レントゲンを、正面と側面の二枚取った。これはきれいだということがあとでわかった。着ているものは全部脱がされ、自前のものは中身だけという姿で病院の手術着に着替えさせられて手術台に横になった。右腕に麻酔を打たれて気管の付着物を取り除く作業が始った。荻場医院でずい分取ってもらったのだが、まだ取れる取れる。四つ折にしたガーゼで看護婦が受けているのだが、白いガーゼが見る見る黒くなる。ピンセットでとどかなくなってファイバースコープを使う。便利なもので、これでのぞくと気管支の奥まで見えて、しかも写真撮影までできるのだ。付着物を管の先の電灯で捜しながら写真をとって、同時に強い吸引で吸い取ってしまう。若い先生がとうとう悲鳴をあげて、「浅輪先生、代って下さい」と云う。浅輪先生が、どれどれと代ってのぞきながら、「おお、あるある。おっと逃げたな。それつかまえた。」などと独り言を云いながら取っている。どの位の時間取ったか、ずい分長い時間かかった。一つ取れる度に呼吸がらくになり、つめたい空気が胸の中に流れこむのがわかる。都会の人が信州に来て空気がうまいと云うが、特にうまいとは思わないが、空気がこんなにさわやかなものとは知らなかった。何度も何度も、胸一っぱいに吸い込んだ。

風邪で気管支に炎症が起き、セキで毛細管が破れて血液が気管の内壁に固着して、呼吸を妨げたのだと云う。気管の八、九分通りがカサブタになっていたと云うから、 窒息の寸前だったのだ。ピーポーに乗って、殿様気分でいい気になっていたが、事態はそれどころではなかったのだ。

カサブタを全部取ってしまったが、その後の状態を見るために今晩は入院するようにとの話、ちょっと処置してもらえばすむと思って荻場先生の所へ行ったので、入院の用意など何もしていない。息子の勤務先へ電話してその旨を伝えてもらう。外来受付の久保田さんも前から知っているので、何かと都合よく入院手続きも全部してもらった。突然の入院なのでベットがない。やっと捜して北病棟の女部屋へ入れられた。

翌日の診察では、昨日きれいに取ったカサブタが、また全部固まって気管をふさいでいるとのことで、また手術台にのせられた。この分ではあとが心配なので退院はしばらく延びるとの事。息子にその旨を伝えて入院に入用な品物の調達や、折から月末、年度末を控えてのいろいろな仕事の処理など代行してもらうよう手配した。

二日目に本館の病室に移されたが、酸素の設備がないと云うので又眼科の病室へ移され、五日目にやっと四回目の移転で耳鼻科の病室へ入れた。

気管の内はだんだんきれいになって呼吸もらくになったが、まだ血タンが出るので、酸素のテントの中へ頭をつっ込んで湿度を保っている。乾燥すると血液が固まるので、それを防ぐためだと云う。

五日目の日曜日、診察も治療もなかった日の午前に、またタンがつまって苦しくなった。看護婦を呼ぶがなかなか来てくれない。やっと来て、車椅子で治療室へはこばれ、折よく来ていられた浅輪先生と若い横田先生(主治医になっていただいた)に診てもらう。浅輪先生が診て、写真だ、写真だと大騒ぎ、何事だろうと思っていると続けざまに五、六枚とった。そして吸引でタンを吸いとった。ピンポン玉位のタンが気管をふさいでいたのだった。

毎日の診察で、きれいになったと云われる。入院した時は血液の付着で気管が真赤だったが、大分きれいになって来たと。この分では退院も近いと云われた。しかし酸素のテントはまだ続く。乾燥しないように二十四時間続けているのだ。私たち喉摘者がノドの呼吸口の前に垂れているガーゼは、ホコリを防いだり、外観のためだけではなく、気管内の湿度の保持という大事な役目を果しているのだと云う事を知った。

横田主治医が「もう、こんな事はこりごりだ。二度と風邪をひかないようにして下さい。」と云う。酸素テントが夜間だけになり、昼間はネブライザーで吸入する。

十日目に病室から発声教室へ顔を出す。皆が驚いて、どうしたのだと問いかける。事の次第を話すと、自分たちにはそういう危険もあるのかと恐ろしさを知らされた。

浅輪先生に喉摘者でない普通の人がこんな症状になれば、どうなるかとお聞きしたら、死んでしまうねと云われた。ノドの穴がないから処置のしようがないのだ。私たちは、ノドの穴があるので処置が出来るのだ、喉摘者にも何か良い事もあるのだなあと思った。

十二日目だったか、浅輪先生が、吉池さんと全く同じ患者さんが来たよと云われた。気候のせいでこんな患者が出るのかなあと云う。乾燥するために風邪ひきが多くなるからだろうか。

入退院の交代がはげしく、一人が退院すると待ちかねたように、すぐ代りの人が入って来る。三月の学年末休みのためか子どもの入院が目立つ。元気な身体になって新学年を迎えようと云うのだ。

突然の思いもかけなかった飛びこみ入院から、ちょうど十五日で退院することになった。今度はピーポーでなくて、昼休みに勤務先から迎えに来た息子の車で家に帰った。信号待ちは多いが、普通車の方が乗心地がいい。ピーポーの殿様気分は一度だけで、もうたくさんだ。 S55.3.26

ヨーガと私たち

信州大学医学部 田口喜一郎

最近はヨガブームらしい。正しくは「ヨーガ」という のだそうだ。日本人にこんなに持てる理由は、それが禅と相通じるところがあるからだといわれる。元来流行に敏感な日本人が、生来の禅ずきからヨーガにとびついてもおかしくない。両者は似ているが、違う点が一つある。それは、ヨーガが整身、整息、整心を目標としているのに対し、禅は整息、整心を目標とし、整身は持たない点である。ヨーガにある整身は、いわゆる体操である。ヨーガは体操だけだと誤解している人が多いが、一面それは、日本人的解釈として通用しているといえよう。

ここでヨーガのことを述べたのは、ヨーガが他の体操と違ってリズムがゆっくりしているので、老人や病弱の人にもできることである。しかも、反復何回やっても疲労は少なく、次第に進歩を示すというところから、手術を受けた患者さんのリハビリテーションの第一歩として理想的と思われる。きわめて簡単な基本型は四つだけであり、こういった体操も無念無想で行っていれば、精神 的な安立(安心立命)が得られる。

私も少しやってみたが、体が硬くて思うように曲らな かった。子供はゆうゆうとやるので、見ているとうらや ましくなる。しかし、できる範囲でやるのは決して悪いことではない。あとで爽快な気分になるし、やった直後は姿勢がよくなったような気分になる。

ラジオ体操のような比較的激しい運動の無理な方は、朝の一時を、気持を落着けるようにヨーガをやってみられたら如何でしょうか。

手術後、首や肩のはる方には特によいと思われる。

遅すぎた三年目の誓い

宮本音吉

三回目の新年を元気に迎えることが出来た。好天に恵まれた元日、例年通り氏神神社の初参りに出掛ける。終戦後一回も欠かすことなく、こうして元気に参拝出来る 事はうれしい。社前の長い石段を一段一段登りながら、 いつも、いつも早く声が出る様、上手になる様にと勝手のいい願い事の連続であったが、今年は、日頃感じている小さな目的の達成を神前に誓って額突く、三年前の手術後の声に対する愛着、不自由さ、其の必要性をいやと云う程痛切に感じ一日、いや一時間でも早く取り戻したいと自分でも異常と思う程の熱心さで発声法に余念がな かった。

その甲斐あってか、幾月ならずしてどうやら単語ぐらいは話せる様になった。この分なら日ならずして上達も 容易なことであるかの様に思えたのに、どうだろう丸三年を迎えんとしている現在も余り当時と変らない様な発声です。容易であるかの様に考えた僅かな安心感と、心のおどりからだろう。近隣の人達や知人からも大分上手になった。解る様になった、月日がたてばもっと良くなるだろうなどと、はげましの言葉も返って甘やかしとなってしまった。

声帯を失った患者が何如に日がたち健康回復しても、自然と声が出るはずがないと知りながらも恥しい事だ。先輩の指導して下さる先生方は、当時遠く東京銀鈴会まで態々出向いて発声法を修業されたとの事、並々ならぬ努力の積重ねが実って現在に致っていると聞く。其の点私は非常に恵まれている。松本教室は近いし、指導の先生も大勢いて熱心に教えて下さる。健康については、手術 当時の先生が何時でも親切に診て下さる。これで上達出 来なければ不思議である。矢張努力が足らないだろう。 入院当時の病名は同じでも手術方法や健康状態は人それぞれ多少の異いは考えられるが回復した現在では、大同少異、誰しも大差はないはず。恵まれた環境の甘えに他ならない。孫がこの三月に一才三ケ月になる今まではつ たない単語の発声でもどうやら守りも出来たのに、最近では、乳幼児用の童謡や絵本位は読む事が出来ぬとあっては、乳児のお守りも満足に出来ない有様となりつつある。

昨年は、前立腺肥大と座骨神経痛で丸三ヶ月歩行困難等で大分悩まされはしたが、2-3年間は元気でいたから発声訓練には不自由しなかったはずであったが、これではいけない、今年こそ初心に返って年頭に誓った。来年新年会までには童謡、兎と亀を必ず歌える様になるまで頑張る考えです。此んな考えの矢先、今年は氏神神社のお守り役に推選された。名実共に社会復帰が出来るか否か試練の年でもある。通常会話位は出来る様になりたい。

遅すぎた三年目の誓いであるが、大切に守って目的達成に懸命の努力を続けたいものです。

よろしく御指導の程をお願い致します。

―五五・三・一〇―

偶感

吉池許由

教員生活三十六年、責任ある仕事に就いて居ると毎日毎日が緊張の連続であり、言う事も行う事も総て人から後指をさゝれるようではいけない。よく言われる「先生だって人間だ」などと甘えた事は許されないような気がしていた。この仕事をやめて本当に自由な身になれるのだ。これから自分の趣味(盆栽いじり、囲碁、釣等) の生活が出来るのだ、と思うと、退職を決意するとホッと した気持になれた。・・・・・それも束の間、ほていやの前社長が私の退職を知って、「先生、やめたら是非ほていやへ来て自分の仕事を手伝ってくれ」(社長の心の中には東信に正規のデパートは一つもない現在従業員六十名ばかりの個人店だが、これを従業員三百人ぐらいの正規(百貨店法による)のデパートにしたいと云う事で仕事を進めていた)との事で、一晩料亭で話を受けまし た。私には全然相像もつかない事で吃驚しました。当然一応お断わりいたしました。若しそんな事をすれば社長の迷惑ばかりか店にも多大な損失をかける事になるから固くお断りしようと思って、第二回の会談をいたしました処、社長は役員会でも賛成を得て居るし、今更そんな事を言われても困る、一応来てくれて若しいけなかったら一月でやめてくれても、二月でやめてくれてもいいか らと・・・・・。

そもそも私は社長とは一面識もない間柄、それだのに余り言われますので、その礼に報いるためにも、それではもう一度考えさせてもらいたいと云う事で別れましたが、社長は既に決めこんで居りましたので、どういう事になるか解らないが兎に角行ってやって見ようと私も決心いたしましたが、商売と云う事も取り引先の問屋なるものも、役員にも、従業員にも、総てに亘って無であり ます。それを有に変えていかなくてはならない。私の心 配は大変なものでした。三十三年三月三十一日で退職、 村内の挨拶廻りを早急に済ませ、五日に学校、教育委員会の皆さんに送ってもらって、午後出社諸打ち合わせ、六日に出勤すると教育部長と云う名刺を渡されました。 後で知った事ですが、部長と云うのは店の最高幹部、私を入れて五人、直ちにデパート要員の新入社員二十二名を連れて、東京駅八重洲口に在るデパート大丸東京店に自分の勉強も兼ねて実習見学に行きました。私はデパー ト等に入ったのはこれが始めて、何が何だか全然解りません。毎日毎日が雲をつかむような気持、配置された実習生の売場を廻って様子を見たり、課長や係長に話を聞くのも、その売場まで行くのに幾度迷って行ったか、その間、自分の仕事の方針も立て、その勉強もしなければ ならないし、田舎者二十二人を連れての往復(電車で約 二十分) 帰っての反省会等々、全くやせました。それでも約一ヶ月の実習を了えて無事に帰る事が出来ました。又私としての今後の社員の教育目標は、立派な人間性の高い店員を養成する事だ。昔の川柳にあるように「商人は嘘と愛嬌で蔵を建て」など言われるようでは、その頃の身分制度でも明らかのように、士、農、工、商と商人は最下位の身分に置かれていた。例え財産はいくら有っ ても、又武士や殿様に金を貸す程の財があっても町人と云って卑しめられていた。これではいけない。真のサー ビスと云う事も、立派な人間であって始めて出来る事、 「あの人は商人であるから信用出来る」と云われるようになって始めて店の信用も高まり、言うところの信用が最大の資本と言う事にもなる。そこで、剣道の極意であ る「心正しからざれば剣又正しからず、剣を学ばんとする者先づ己が心を磨け」と社員も商売を勉強するのでな くて、商業道を学ばせるのである。これなら三十六年の教育経験を生かして、少しはなんとかなるかなとも思い、この結論を以って東京での一ヶ月の実習報告旁々今後の教育方針について社長に話をしました処、それでいいからやってもらいたい。私(社長)の先生に望む所もその点で、始めから算盤や販売の手伝いなどして貰おうとは 思っていないと云うような事で、兎に角カリキュラムを編みながら出発しましたが、まるで無中を辿る心地でし た。次から次へと色々の問題が起きてきました。三十四年九月に懸案の百貨店法による正規の百貨店の認可、十二月第一期工事完成、従業員も六十人を二百五十人に増大して開店、三十五年二月から第二期工事に着手八月現在の店舗地上五階、地下一階が完成、従業員三百人に増加、開店、この時には既に人事部長となり人事一切を担当、人集めから、新規採用者の教育等おおわらわでした。 そんなこんなをしている中に六十才の停年(この頃既に就業規則で満六十才を以って停年とすると規定)に達したので否応なしに退職しなければならないのでその事を申し出ると、まだやめられては困る、役員になってもう暫らく続けてやってもらいたいと云う事で株主総会で役員に推薦され、引き続いて勤める事になりました。最初精々一年か長くても二年ぐらいかと思っていましたのに、何んと十五年勤続遂に病気のため退職しなければな らなくなりました。病気に関係のない前置きが長くなりましたが、漸く本論に入ります。

さて、私の病気の原因については、これと言って思い当る事はありません。強いて言えば、私の家の前を県道が通って居り、これがいつまでも舗装されないで、車が増えるに従って砂埃が家の中に入る事が多くなり、又通勤にもこの砂埃をかぶって、ハンケチで鼻をおおって、 「いやだなあ」と思いながら通勤しました。こんな事が多少影響したでしょうか?最初喉がえがらっぽいような 気がしましたので、地方の耳鼻咽喉科で診てもらって、吸入などを続けていましたが、少しもよくなる気配がありませんので、佐久病院で診断を受けました処、喉頭部に腫瘍が出来ているが詳しい事は入院して精密検査をした結果でないと言えないとの事でしたので、十月入院精密検査を行い、最初ベータートロンの照射で暫く治療をしてみようと云う事になりました。(若しそれでいけな い場合は手術をする) 今まで一度も病院生活などした事の無い者にはとてもたまらない気持、それに照射によって食事はまづくなる・・・・・併し病気になったからには何んとしてもこれを治さなければと思って努めて食事もとり、点摘を受けたり、散歩をしたりして治療を受けました。其の中に病院生活にも次第に馴れて来たり、友達も出来たり、それのみか治療の効果も上って暮までに大体規定以上の照射を了え、自覚症状的なものも全然無 くなりました。暮の三十一日には外泊の許可をもらって年取りから正月三日まで家に帰り、四日に再び病院に戻り、体の調整や体力をつけたりして一月三十日に退院し ました。病気が病気であるだけにこの時の嬉しさ何にも例えようがありませんでした。ベータートロンにまで感謝する気持になりベータートロン様様でした。

二月、三月は無事でしたが、四月中頃から又喉が変になって来ましたので、再び佐久病院で診察を受け五月六日に再度入院しました。更にベータートロンの照射を受けようと思って。ところが、この前規定以上にかけてあるので、これ以上かける事は出来ない、結局手術をしなければならないと云う事になりました。手術はどうしてもいやだと思っていましたが、先生は手術をしても食道発声法による方法もあり、器具を使う方法もあって、いくらでも喋れる、日赤でその訓練講習もして居り、皆それによって対話も出来、電話もかけられる、そんなに心配する事はない、命が大切かそれとも声の方が大事か、などと色々説得されて、到頭手術をする事に決心しましたが、これ又会って一度も手術をした経験もなく、そればかりか人の手術に立ち合う事も出来ない性格、決心はしたものの何だか心配でなりませんでした。六月三日が手術の日と決まりました。輸血が必要との事で店の若い者が七、八人来てくれて口々に血液などいくらでも提供するから心配する事はないとか、元気を出しな、頑張りな、などと励まされたり、元気づけられたりして、手術 を受けました。幸結果はよく私の心配していた手術後の痛みも、苦痛も殆んどなく、唯声が出ないだけ。其の後の経過も至極順調で七月三十日無事に退院する事が出来ました。それ以来、もう十年になります。現在無言で対話の出来る盆栽いじりを楽しんで居ります。盆栽は水の欲しい時には萎れて見せますし、栄養が欲しい時には葉の色が悪くなったり、無言で私に話しかけてくれます。これからの芽吹き、朝夕の葉水を与えた時の心のすがすがしさ、本当に心が和みます。又色々な花を見せてくれ ますし秋には美しい実を見せてくれます。四季折々に私の目を楽しませてくれ、心を慰めてくれます。

正月に咲かせた五鉢の紅白の梅も今だに眺めて楽しんでいます。

五五年三月記す

回想

山下竹一

国鉄三十年の在職を無事終へ人生第二の社会生活を日本通運飯田支店に求め勤めてより一年足らずの昭和五十年三月の下旬頃より声がしゃがれたのに気付きはしたものの当時そうした風邪が流行していたので、そんな事と思い近所の内科医に診察を仰ぎ治療をしましたが、一向に快方に向うどころか益々声が出なくなりました。

医師の奨めもあり市内の耳鼻科医へ行き診断を受けたところ、十日も通院すれば治るとのことを信じ、通院しましたが、矢張り快方に向わないので一寸焦り出しました。たまたま友人の奨めもあり東京新宿の国鉄中央病院へ行き診察を受け即日入院しましたが、中央病院より信大の耳鼻科宛の紹介状をくれ、これを持参信大へ行くように言われ即日退院、信大の耳鼻科の外来を訪ね診断を受けました。病室ベットが空き次第連絡して下さるとのことを約束して帰宅しましたが、二、三日過ぎた六月一日に電話にて六月四日入院するようにと連絡して下さいました。

その頃になると悠々声は出なくなり息苦しくさへなりましたので、待ち遠しいような気持で信大耳鼻科へ入院翌日より早速検査に入り六月十五日より放射線の照射を始め七月十五日頃迄に約四○○○照射しました。その結果手術をすることになりましたが、先生よりそのことを云われた時は気も顛倒する位でしたが、当時鳥羽先生が病室を訪ねて下さって手術してもこのように声が出るからと励ましてくれましたので漸くその気になり七月十八日に手術を受けました。その間茅野の五味さんが色々経験を書いて教へて載きましたので、手術の当時は大分気も楽になりました。

手術の経過も至って良好でしたが、何分にも声の出ない世界での生活に入って何事も不安で一杯でしたが、最初発声教室へ出席、皆さんの元気な発声訓練の様子を見て何としても一日も早く皆さんと同じように声で自己の意志を伝えることが出来たらと希小こと一入でした。耳鼻科の先生方発声指導の先生方、今野婦長さん等の献身的な努力には唯々頭が下る思いで一杯でした。

五十年秋の信鈴会の戸隠神社、湯田中のバス旅行に参加し、戸隠神社では只管声の出ることを祈りました。

指導の先生方のお陰にて二、三ヶ月にてどうやら発声が出来るようになりました時は本当に天に上る心境でしたが、その頃よりだんだん訓練をおろそかにするようになり一進一退の繰返しでしたが、一ヶ年を過ぎる頃より 一般の人との対話もいくらか出来る様になり電話の応対 も可能となりました。それ迄は電話のベルが鳴ると思わず受話器を取ってから声の出ないことに気付き相手の人 に傷つけたことが何度もありました。

今年七月にて手術後五ヶ年になりますが、発声は仲々進まず伊那中央病院の御厚意による伊那教室へ行き、同じ病気にて発声に努力して居る人達と顔を合せ励まし合いながらお互いの健康を確め合うことの大切さをしみじみ感じる今日此の頃であります。どうか皆さん発声は一生の練習に盡きると思います。頑張りましょう。

明日に向って

空気の使い方について

牟礼 鈴木ふさ

発声練習のときいつも思う事があります。それは空気の使い方です。私もやっと少しは話せるようになって、 日常生活にはまだ、ぎこちなさや不満を抱きながらなんとか生意気に、とは思いますが、少しお目を貸して下さい。

えんか音が、苦になるナと思いながら聞いてますが、なんとかとれないか、どうすればなくなるのか考えます。 「ゴクン」と音を立てないでお茶や水を呑めれば、その要領で、空気を呑めば、と自分でやってみました。静かに静かにといいきかせ乍ら度重ねて練習するうちに音な しで呑めるようになりました。只私の場合一度や二度、三度では駄目で、その都度気をつけます。そして呼吸のとき一緒に空気を呑み喉頭のところで空気をとめ、すぐ言葉にして空気をもどします。

この練習は夕食後仏壇に向ってお経を上ます。まだ経本を見て三十分はかかりますが、本を見ることによって、のんだ空気はおさえられて声もうまく出ません。胸は緊張し痛くなりますが挑戦してます。一時間位たってからだと声もきれいになり、自分乍ら今夜はよかったナァな んて思ったりします。始めて半年になりました。見たいテレビの時は三十分がながく感じ、気があせったり、勝手なものです。寝る前にも一度お経を上ます。まだ手術後間もない頃でしたが、勤務先へ通うバスの中で覚えた 般若心経です。すっかり覚えたので、顔も真直ぐ向いてますので声に無理がありません。とにかく暗唱出気ることは強身です。お経を上げ乍ら呼吸と空気の呑みを一緒にする事により、話す時にそれが役に立つと思ってます。 時にはうまくいかない事も度々あります。

去年六月から大正琴を習い始めました。学校当時オルガンを少しやっていたので、お琴の方はなんとかなんですが時には楽譜を読まされ「ハッ」とするときがありま す。そんな時は声がカスれています。早く歌もうたえると、もっと毎日がたのしくなるのにナァなんて思ったり しています。

五五・三月・二五

夫に付き添って

飯田市 林ちよ

去年一月六日佐々木先生の紹介状と共に夫に付き添って信大病院に参りました。

思えば、昭和十六年十二月、中支へ出発する弟を送りに来た松本五十聯隊、それが今の信大病院とすっかり変って驚きました。

始めて来た信大病院の広いこと、又患者さんの多いこと、何もかも皆驚きでした。

長いこと待った上診察を受けることが出来ました。結果は入院ということで、一応家に帰り一日置いて八日より入院いたしました。始めは手術を前提とした放射線照射を一日置きに受けて居りました。二月半ばの検査の結果、全快ということでしたが、その後も放射線照射を受けて四月二十六日退院いたしました。退院後も一週間置きに診察を受けに通院しました。十月始め退院後六ヶ月の検査のため一週間の予定で入院、その結果は手術しなければとのこと。何時かは来るものが来たと思い、目の前が真暗になった様な気がしました。

先生、婦長さんの仰言ることをおききすれば当然そうするより仕方ないと云うことになりました。

「手術受くる日の近づきし夫の傍に何をなすなくぼんやりとある」

十一月二日手術を受けました。親戚の人達に送られて手術室へ行く夫、親からもらった声が今日からなくなるのだと思うと何ともやり切れない気持でした。親戚の人達が大勢待機していて呉れて代るがわる病室と手術室の間を行ったり来たり皆落ち着きません。手術は八時間半位かkり手術室を出て来る最後でした。

術後の経過は非常に良好でした。傷の治り具合もよく ミキサーにかけた食事を注入すること僅か十二日、その後は口から食事が頂ける様になり、ほんとうにうれしうございました。

「手術受けし夫を看取りて病室にゆるく流るる雲を見てゐる」

そして十一月二十四日退院許可が出て家に帰ることが出来ました。年内には帰れるかどうかと思いながら入院 いたしましたのに、意外に早い退院にて皆大よろこびで ございました。

これも偏に先生はじめ婦長さん、看護婦さんのお蔭と感謝しております。家へ帰っても心配は消えません。気管口より血液の様なものは折々出るし、腫れものにさわる思いでした。月二回づつ信大病院、伊那中央病院の発声教室に出席させて頂き、先輩の皆様の体験などきかせて頂いて知識も深まり、安心も出来、又発声の方も蟻の歩みの様ながらその度ごとにいくらかづつの進歩を見る 様な気がして参りました。会長さんはじめ皆様がお上手に話されるのを見て早く皆様について行く様になれる事を一日千秋の思いで見守って行きたいと思っております。

三月十四日 記す

十三年前をかえりみて

上田市 北沢兎一郎

想い出せば、十三年前それまでは私は健康でした。 五十九才の春、首のあたりに、しこりの様なものが出来て近所の内科で診てもらいましたら、先生は診るとすぐ ああこれは喉頭癌だから専門医に診てもらい早く手術を受けなさいと云われ、町続きの耳鼻咽喉科の緑ケ丘医院へ行き話しましたら、石塚先生は松本信大医学部耳鼻科へ入院して手術を受けなさい。丁度私も明后日行くので一緒に行き手続きしてあげますからと言われ、「癌は早い方が良い」と云う事が頭にあったので、無我無中で先生に御願いして昭和四十二年五月松本信大医学部耳鼻科へ入院致しました。入院して約一週間位念入りな検査が行なわれ、手術によって機能を失うと言う事はあらかじ め覚悟はして居りました。手術室へ運ばれ「心配はあり ませんから御案心下さい」と言われ、手術台にのせられ た事は覚えて居りますが、フト目を覚し、喉摘手術は終って居りました。私は夢の様でした。案外大手術が楽に 終ってホッと致しました。

其の後間もなく退院を許され、退院いたしました。当時、島さん、碓田さんより信鈴会創立のお話しと人工笛発声のお話しもありましたが、何しろ私は上田市で遠隔の地でもありますので、其の儘退院してしまいました。

家へ帰ってはじめて発声不能となり声が如何に必要であるかを痛切に感じられました。

然し、生きる為に・・・・・非常に淋しい気持になりました。それから老化がひどく引き続き高血圧で目がまわり、また上田病院へ入院となりました。続いて肝臓炎と永い入院生活となり、信鈴会へもすっかり御無沙汰致 してしまいました。幸い一命はとり止めました。此れからは健康に気を付けて余生を楽しく送りたいと思います。

今、あらためて松本信大医学部へ入院中は当時の先生や皆様方、今野婦長様の一方ならぬ御世話に相成りました事心から厚く御礼申し上げます。

再度入院して

寺村安則

今年の新年会に出席して皆様の健康な姿に接し色々の御話を賜る事も出来ず欠席した事を残念に思って居ります。五十三年夏大手術の後貴君はもう病人でないと心強い言葉を得て退院しました。信州の秋、食欲の秋、体力もいくらか回復しました。何よりの悩みは発声でした。 幸、信大の信鈴会に入会させて載いて、笛に依って、あいうえおを島さんから教えてもらって喋べる事が出来た 時は、この世の最上の嬉びでした。その年も終り、寒中になって気管口から僅少の血が出たのを気にしましたが いつしか癒りました。やはり信州特有の寒さと乾燥がこの病気にはいけません。それから春から夏にかけ自信を得て庭の手入、畑等をやりました。人からよくやる、自分もよく出来ると、あれ程の大手術をしたのにと思いま した。

秋九月になったら僅かな食べ物ですら喉へ通らなくなり始めました。全く、又人生の暗さをさ迷い始めました。 十月中旬、信大放射線で診察を受けました。速刻入院をすすめられ、再度入院となりました。コバルト照射と点摘、流動食三十三日続きました。六階の病棟から松本平を眺め、暁に朝日、夕は晴天に雨の日、 夜景と、どんなにか慰ぐさめられました。又今野婦長さんに時折激励の 言葉にともすれば沈みきった気持ちを思い直しました。 そして去年の年末に退院出来ました。今は家で静養、療養をしながら週一回位い通院してます。放射線の後遺症も出ます。病と闘ってます。只思うに体の調子がよいからと言って働き過ぎは絶対いけない事に気付ました。二三年は様子をみながらです。発声の勉強に出席出来る様になるのが何よりの願望です。只々皆様のお世話になる のみで申澤なく思って感謝してます。

一年を過ぎた今

岡谷市 小林政雄

喉頭手術を受けてから一年を過ぎました。

入院する前は喉頭癌に対する知識が全々なかったからもう私は駄目だと思いこんで一日一日を苦しい思いでおりましたが、妻の強いすすめで信大で診察を受け即日入院が決まり、入院した日に気管口の手術を受けましたが呼吸が大変楽になり、あの苦しかった一ヶ月前が夢の様な気がします。助かった、本当に助かった、生れかわった様な気持です。

其の後、先生から喉頭手術の話があり、手術をすれば全治するとの事で何か世の中が明るくなる思いでした。 又同室の花田さんや幾人もの人たちから色々の話を聞き安心して手術が出来る気持になり、又発声教室の見学及び婦長さん、看護婦さんの親切な指導があって声も出る様になる事がわかり手術の日が待ち遠しくなりました。

あとはもう先生を信じていればよかった。

手術が終り六月に退院して毎週発声教室にかよい一ケ月位で簡単な会話が出来る様になりました。

鳥羽、大橋両先生、同時期に入院手術した小池さん、其の他先輩方の御指導よろしく今では何の不自由もなく話が出来る様になりました。発声教室へ行くのが楽しみです。そして今希望にもえて暮して居ります。 本当に先生、婦長さん、看護婦さん、先輩、同僚の皆さんの御蔭と感謝の念で一ぱいです。

私も今后、発声教室に行く時には必ず病室へ行き喉頭の患者さんを力づけてやるつもりです。今年も精一ぱい頑張って、もっと、もっと発声が上達する様に努力するつもりです。 皆さん、よろしく御指導を御願いします。

がんばれと たがいに声をかけ合って 手術に 向う友をはげます

消えかかる 我が命をば手をつくし 助けて くれし美しき人

発声教室一年生

食道発声と形成発声

花田平八郎

四十八年頃より発声に異常を感じ、四十九年放射線治療、一旦退院。

五十二年秋、いよいよ調子が悪く十二月、主治医より手術を言い渡された。田舎で少しばかりの商売をしている私でも、多忙な十二月に手術など思い掛けず、せめて一月迄延したかったが、生命にかけがいもなく、十二月十六日、手術室に入った。恐怖心や苦しみなど余り気にもせず手術にのぞんだ。

之も前回入院の時、何人かの手術を見、又数ヶ月後には食道発声で完全とは言われなくとも社会復帰している先輩の姿を見、多少予備知識があったおかげと思いました。

丁度今、発声教室で指導している大橋先生の手術前後の様子を見ていた私は、大変印象的で良い手本になっていた。

形成発声ですが声帯摘出の手術の際、自分の皮膚や肉で、気管口より食道へパイプを作って下さった。指で気管口を軽くふさぎ、空気を食道へ送り発声する方法ですが、私は大変調子が良く感謝しています。食道発声と比べてやはり長所もあり又短所あり、両刀使いが理想でしょうが、仲々うまくゆきません。相当長く言葉が続き、 又、空気の通りのよい時は、割と大声が出せます。知らない人は、風邪を引いた位に感じよく言われます。

苦労する点と言えば、飲食物がパイプを伝って気管へ出て来る(特に流動物)、どうかしてパイプがつまって空気が通らない時、勿論声は出ない、場合は牛乳等含んで通します。両手がふさがっている時は声が出せない。 ネクタイは用なし。又「はひふへほ」が上手に出ない。

だがそれ以上に会話が出来ると云う事は有難いです。 医術の進歩とそれぞれ御世話になった諸先生、又看護婦さん一同に感謝しています。食道発声の教室をせっかく伊那へ作って下さったのですが、現在欠席ばかりで心苦 しく思っています。

食道発声をマスターした時、二刀流で会話出来るのを将来楽しみにしています。

現在、マイペースで仕事をしていますが、折にふれ生きる有難さを感じています。

運悪く他界した病院での顔見知りの方々の御冥福を祈り乍らも、自分自身、一年一年無事送れる事を願っています。

声帯の手術を回顧して

松沢喜栄

私は去年の四月十日に信州大学医学部附属病院に入院して喉頭摘出検査の後放射線科の治療を続けましたが、最終的には六月十五日を期して、声帯の摘出手術をする事を宣告されました。私には実に予想もしなかった事でしたが是が最善の処置であるとの見解ですので、即時決断して手術に踏み切りました。 手術後五十五日間は口で食事が食べられないので流動食で鼻から胃袋へ直注入を続けました。八月十四日に退院しましたが、入院中の長い間先生や看護婦さんの皆さんが私達患者の病気治療の為に専念、献身的に奉仕して下さる御芳志に有難く心か ら感謝の外ありません。あの感激は今も、そして尚終生忘れる事は出来ません。そして鼻からゴム管を取って口から固形物を直接摂取出来る様に成った時の嬉しさは亦格別でした。ほんとうに生まれ返ったと思う気持ちでし た。併し退院して六ヶ月経過した現在、後遺症は尚数々あります。せめて発声と会話が良く出来たらとつくづく 思います。私は去る二月末の木曜日に食道発声の指導教室に行って見ました。 東京の銀鈴会の食道発声の手引を読みそして長野県信鈴会に入会を申し込み、席上の皆様に宣敷く御願い申し上げました。御出席の皆様方、御指導下さる方、そして指導を受ける方々の練習の熱心さには誠に感激の外ありません。私も共々勉強して、その成果を早め食道発声によって楽に会話が出来る様になりたいと思います。

多くの人が食道発声練習によって職場復帰、社会復帰の速に出来ます事を只管念願して止みません。

昭和五十五年三月

早春

南佐久郡臼田町 三瓶満昌

先日、ある保険会社の支社長さんが、定年で退職しますので、と挨拶にみえた。笑うと目がなくなるような人なつこい感じの人だった。長身で体つきはキリッとしていたので、そうですか。でも、まだそんなお年じゃないのじゃありませんか?私はつい、そんな事を云ってしまった。支社長さんは笑顔で、うちはよそさまより定年が少し早いのです。うちの会社では殆んどの者が定年後も働かせて貰っていますが、あまり年をとると新しい仕事に慣れるのに非常にキツイ思いをしなければなりません。ですからいくらか若さの残っているうちに新しい仕事につけるようにという会社の思いやりなのですよ。私も今度田舎の小さな町で保険のセールスをやらせて貰うことになっています。この仕事には若い頃のいろいろな思い出がありますので、また若い頃に戻れるような気がして今からわくわくしているんですよ・・・・・。

初対面の支社長さんでしたが、話をしているうちにだんだん古い知人だったような気がしてまいりました。それから、支社長さんは、若い頃胸を患って三年程療養した事、当時結核という病気は不治病で誰からも嫌われ、 隠れるように療養生活を送ったこと、これで死んでしま うのかなあ等と本気で考えた日々だったこと等も話してくれました。そして、帰り際になって、でも三年間の療養生活、絶望の日々でもあったのですが、私にはプラスでしたなあ、と当時を偲ぶようなまなざしで云ったあと、 まあとにかく働けると云うことは有難いものですねえ、 いくつになっても仕事があると云うことは幸せですよ。 と繰り返し、帰って行かれました。私の胸の中に「良人に会ったなあ」というほのぼのとしたぬくもりが拡がってゆくのを感じました。

昭和五十五年 早春

暗黒な無気味な遠い永い道から脱出が出来て今想うこと

小池増晴

入院、声も押し出す様に、食も通りにくく、床から飛び起き途切れた呼吸を「フウ」と大きくとりもどすことも二、三度、悪い、しかし冷細な自営の主はつらい、妻の心配顔にも忠告にも、心にもない強がりを言い乍ら何時とも入院を決断する事も出来なかった。病状は神も仏もない、是以上寸分の猶予も与えてはくれなかった。暫らくのベット待ちで入院出来たことで、当の私よりは妻の方が大きく安心した様に想えた。次の夜「ガバッ」と 夢中でベットからとびおり、急、急、呼吸ができないことを先輩も当直の看護婦さんも急を知り、先生も非常召集で病棟処置室に総動員、何のことも解らぬ中に気管口の切開、ああ、これで昨日入院していなかったら、今、 それに忘れることもできない当直は堀金さんだった。今見る限りでは、やさしいその大きい目も「キラッ」と異様に光った、を見た。

療養、鼻からゴム管を引出し、首にガーゼの前掛スタ イルの患者が廊下を行通う様を生まれて歯医者へ行ったこと位しか余り縁のない私には形容のしようのない異様で無気味としか思なかった。

毎日の生活もやがては自分にも?婦長さんが手術台の人となることに安心するべく予備知識を時ある毎に話し説明してくれ、よく胸にもおき、納得もするが、話し終るすぐ裏では早くも複雑な不安と心配の荒波が、それから六時間半の長い手術は終ったのは、入院して一ヶ月目位だった。喉頭形成をしたためか、放射線か、それとも体質的に回復しないのか、後の人がお先にで、心は少しはやった。昨今珍らしい様な大雪となったが、日差しも強くなり雪も消え、向いの山裾の若みどりが広がるのを窓越しに見るのも日課、庭の多くの梅と桜の花が前後して余り差もない中に散り去り、花見のことなど同輩と話 し合ったことも、桜もすっかり葉桜となり、暖房もない。当初、無気味に思ったスタイルも今は自分も余り気にしない様に、管をつけ、流動食の病身を鞭打ち、 体力づくりの散歩に専念、それでも「お早よう」位は声らしきものが出ないかなあと歩調をとり歩くうちに、ア、 驚意、「お」が声となって出た。よし出た、自分で自分に出たんだよナ、言い聞かせた。よし今日からは体力と発声と二本建練習となった。今思へば、不完全だったと思うが「お早よう」が出た。

翌朝は少し早く起きて土手にのぼって、お早ようを繰り返し繰り返し確めるように、よしよしと、声も出ない事を知り乍ら頭をうなづき乍ら、忘れぬ中にと思い、準備の忙がしい処置室へ行って当直の野島さんに思い切っ て、お早ようを切り出してみたが、何とか、お早ように 聞えたか、「出るんじゃない」と言われて年がいもなく 恥かしいやら、嬉しいやら、数日後退院の許可も出て、まだいる同輩に心を引かれ乍らも、多少不安乍ら、五ケ月余、待ちに待った退院であった。気持程に言葉にならないもどかしい思いの中味は、声にはならない「皆さん 本当に有難とうございました」だった。

最後に兎もすると孤独になり勝ち、だから私はまず同輩だけに解る共通で対等の悩みと話題をさけ、「うん」 も「スゥ」も出ない赤マークの初心者と向い会い、私用に優先して真剣に訓練にかける姿勢の指導の先生方、婦長さんの、今日も待ってくれる教室へ万障を排して行き ます。

その事が私に今出来る随一のお返しと思うと、何となく目頭があつくなります。 どうぞ、宣敷くお願いします。

今年こそは

義家敏

食道発声を始めて、今年こそは、今年こそは、もっと もっと高い声になって上手に会話ができるようにと心がけてきましたが、時は流水の如く、四年が過ぎてしまいました。

当初、母音発声等は良好で、何時も親身となって心配してくれる今野婦長様や、鳥羽指導員様方にも大へん喜こんでいただき、この調子だと三ヶ月もすれば挨拶ぐらいできますよ等と、激励していただき、天与の声を失った私には、それこそ生涯にない喜びの言葉でした。

その後、四ヶ月たって言葉がポツポツ言えるようになってからが問題で、母音発声の調子はよいのだが、会話となると全く低くなってしまい、これでは役に立たな い、指導員の先生はじめ先輩の方も、あなたは空気の呑み込みが少ないのだ、もっと、たくさん呑んで下腹に力を入れなさい。そんな事で声が固まってしまえば駄目だなんて何時も指導、激励されてきたのです。

私自身にしてみれば、空気もできるだけ呑み込んだ心算であり、下腹にも力を入れておる心算であり、どう考えても解らない。

時としては調子のよい時があって、他の人から上達しましたねえ、なんて言われて、そんな時ついその気になって、あゝ、これで壁を破ることができ、明日からは調子よくゆけるのでは、と、一人喜こんで翌日を迎えて発声してみる。ところが、また元に戻ってしまって昨日の調子は取り戻せない。というような事が幾度かあり、そ の都度落胆してきたのです。

或る先輩は言う、食道発声なんて、それほど難かしいものではないのだ、空気を呑んだら出せばよいのだ。なんて冗談まぎれを言われた事があるが、その通りの事と思うが、さてなかなか微妙で私には何としても会話となると低い声になってしまう。

発声教本に「人によって、はやい遅いがあり、他人のそれとくらべて遅い場合でも焦らないで自分に適したペースですすんで下さい」とあります事が、私にはせめても慰めの言葉であり、支えでもあって、今年こそは頑張って、何としても自由に会話のできる仲間入りをしたいと心に決めておりながら、何時となく一年、一年が過ぎ去ること三度、何と惰ない事でしょう。

最近の喉摘者をみますと、食道発声の上達が早く、目を見張るものがあり、この道の後輩であるこの人達には心から祝福せずにはおられません。

と同時に私は、今年こそは、本当に自分の行き着く所まで頑張って練習する覚悟です。

本当に、今年こそは、と思っています。

編集後記


会報第十号発行に当り、原稿の依頼を致しましたところ、信大の先生はじめ、関係の皆様、会員の皆様から、早速貴重な原稿をお寄せくださって、心から感謝申し上 げます。

原稿は、皆さんの御厚情や発声に対する勉強法をはじめ、食道発声への努力と成功の嬉しい話、同床者が持つ苦い体験記等々貴重なものばかりで、深く敬意を表します。私はこの編集のお手伝をしましたが、何分にも馴れ ないため、写真の不備やら、会員名簿の不整理等、その他にも手落ちがあろうかと思いますが、諸事情御了承のうえお許し願うと共に、今後において充実した会報の発 行ができますよう、新しく会員になられた方も、どしどし御寄稿を願い何分とも御協力を賜りますようお願いします。

どうか、私達身体障害者は、常に身心の管理に留意し明るく楽しい第二の人生を過すよう努力しようではありませんか。終りに皆々様の御多幸と御健康をお祈り申し上げて信鈴第十号の後記と致します。 義家