昭和56年刊 第11号

巻頭言

義家敏

信鈴会が創立して十三年目を迎えました。

当時、鈴木先生、佐藤先生、田口先生、今野看護副部長さん方からの呼掛けにより、大先輩の島成光さん、故碓田清千さんの献身的努力により県内各地の喉摘者宅を訪問して、初めて会の発足ができたと、伝い聞いております。このご労苦に心から敬意を表する次第です。当時は県内喉摘者は、十数名だったようですが、会の発足以来、会員の親睦をはかり、失なわれた声を取戻すことひと筋に飽くまで努力をかたむけてきた成果は、発声技能、特に食道発声技能の向上により多くの食道発声の上達者が生まれてきました。

今や、信鈴会の会員は遺憾ながら百名を擁するにいたり、年間の入会者は、これまた遺憾ながら多い年は十名に達しております。

発声教室も、御承知の長野日赤、信大、伊那中央病院の三ヶ所の外、五十六年からは佐久総合病院の開設がきまり、これで県下四ヶ所に於て、各教室に係わる関係の皆様の絶大なる協力を戴きながら取組んで行こうとすることは、喉摘者に声なくしては、いかなる福祉もあり得ないとするからです。

幸いにして各病院の皆様からは、多大なる御配慮を心から感謝申しあげております。

さて今年は国際障害者年、われわれ障害者として何をやるべきか、いろいろ考えてみたいのであります。

国連の発議で世界各国が障害者の「完全参加と平等」のテーマで地球上四億五千万人と称する障害者のため適切な援護、訓練、治療及び指導を行い、障害者のリハビリテーションのため効果的な施策を推進することで、各国共力を入れているのであります。

また「第三回咽喉摘出者世界大会」(東京大会)が来年七月五日より七日まで(東京都千代田区大手町、経団連会館ホール)開催されることになりました。

全世界の喉摘者五十万人のため、参加予定国、二十六ケ国から代表が集まり、世界喉摘者のため共通の社会政策の樹立、喉摘者の再教育、喉摘者のリハビリテイション等々が議題となる予定であります。会員皆さんの一層の精進を期待します。

(一九八一、五 義家)

人工喉頭への私の夢

鈴木篤郎

喉摘者の言語獲得の手段として、食道発声への努力は現在は欠くことのできぬものでありますが、満足の行く程度に達しにくい場合も少なくないようです。そのようなことを見聞きするにつけ、私は現在ある人工咽喉よりもっと便利で精巧なものができないだろうかと考え続けて参りました。私の夢みている人工咽喉は、(一)小型で体に密着でき、手を一切使わずに操作できる、(二)声の強さと高さ(ピッチ)の調節が可能で、この調節は頸部の筋肉から発生する電気活動が自動的に行う、(三)発声の開始と終了は呼気圧の変化で自動的にコントロールする、の三つの条件を具えているものです。現在あらゆる方面で驚く程広く深く利用されているエレクトロニクス技術を駆使すれば、この程度の条件を人工咽喉に盛りこむことは、技術的には実は決して夢ではないと私は考えていま

す。

勿論その開発のためには多大の費用が必要で、大量生産のできないこのような品に多くの開発費を出す会社はないでしょう。しかし、ユーザーの声が強く、取組んでもよいというプロジェクトチームがあれば、解決の途はあります。私は医療福祉機器開発のためのある委員会に出席していますが、そこでは、人工心臓、人工肝臓、盲人用歩行補助装置、精密作業用電動車椅子など色々の機器の開発が審議されています。これらはいずれも数年の年月と、数億円の国費を使って開発される予定のものです。私はたとえ対象になる人数は限られるにせよ、エレクトロ二クスを利用した便利で精巧な人工咽喉の開発はこれらのテーマに劣らず重要ではないかと思っています。しかし何と云っても、そのようなものが欲しいという要求が喉摘者の中から大きくあがって、為政者の耳に入らなければ話しは進展しません。来年は世界喉摘者会議が東京で開催されるときいていますが、このようなことも一つのテーマになるのではないかと考え、雑文を草した次第です。

(四月廿三日)

発声教室によせてのおもい

長野日赤 浅輪勲

この折、忙がしさにまぎれて発声教室に全然顔を出さなくなっておりますので、大変気がひけて、信鈴の原稿も書きにくくてこまります。気がひけるのは手術のしっぱなしで後のことを余り考えていない反省もあって、それならそれで少し位は発声というリハビリテイションに力を入れなければと思うのですが、なかなか手がまわらないのが現状です。

発声教室に顔を出さないのは忙がしいということの他に、私にはもう一つの理由があります。それは発声教室に見えられる方々に対して、私は何か悪いことをしたような引け目を感じているからです。もっとはっきりいいますと、咽喉摘出という手術をして声の出ないような身体障害者にしてしまったのは、他でもないこの私だという気持です。同じ病気でも咽喉摘出をしないで治ってしまった方は病気が軽かったという点もあって、顔や名前さえ忘れてしまっている人が少なくありません。その反対に咽喉摘出という手術をされた方は、それぞれに苦労の思い出がありますのでいつまでも印象に残っています。一人一人の顔を思い出しながら、あの時何とか咽喉摘出をしないで病気が治せなかったものかという気持が、私が年を取るにつれて強くなってきています。咽喉摘出をうけた方々に対してこういうことをいうのは大変残酷な感じがして申し訳ありませんけれど、私にとっては非常に気になる問題です。

治療法が進歩してきて、何年か前には手術をしなければ到底治らないと考えていたような例でも、最近は咽喉摘出をしなくても治る例が大部多くなってきました。私達は今まで手術をせざるを得なかった方々一人一人の治療を、この上なく貴重な経験として、何とか手術をしないでも治る治療法へと進めていかなければならないと考えています。

すでに手術を受けられた方々には今さら関係のないことと思われるかも知れませんが、しゃべれない、うたえないという苦痛に対する文字通りの声なき叫びがこれからの治療を進歩させていくものと思います。

私達の今までの治療の後始末が、信鈴会の皆さんの人知れぬ努力によって何とかなされている現況をみるにつけ、リハビリテイションのお手伝いをろくにしていないことを本当に申し訳なく思います。

会員の数が増えることを会の発展というのならば、私は信鈴会がこれ以上発展しないようにできるだけの努力をしなければならないと思っています。

(昭和五十六年四月)

若者と我々と古きよき時代

信州大学 田口喜一郎

昨年の松本市医師会報九月号(第一四八号)に掲載された「古きよき時代」と題する小文に対して少なからぬ反響があった。その後日記を混じえて時代に対する一つの観方という点でその全文を紹介したいと思う。

中年・老年になると、よく古きよき時代を話題にすることがある。これは何も珍らしいことではなく、古くから「今どきの若い者は......」といった古い世代のきめつけと共に存在したといわれる。しかし実質的に古きよき時代があったか否かは、その人個人の置かれた環境と、過去および現在の身体的、精神的状態、社会的地位などを考慮せずに断定することはできない。現状が誰がみても不満である筈がない状況にあっても、本人はよしとせず、専ら郷愁の念にふけるという場合も多いのである。現代日本は極めて恵まれた状態にあり、金さえあれば欲しいものは何でも手に入り、生活基盤も随分便利で快適になっているのである。それには拘らず不満が生ずるのは、身体機能の低下や老化に伴う精神心理学的な変化が関与していることによるのであろう。こういった世代間のズレの問題は常に存在するものであり、また個人差も大きいため、おしなべて物をいうことは好ましいものではないだろう。

ここで比較的普遍性のある価値感の問題について述べてみたいと思う。それに先立って一見蛇足のような意見を述べたのは、これから書こうとしていることが懐旧的思想が基盤をなし、そのため決して若くはない筆者の老化現象の表現とお考え頂かない布石である。

昭和五十五年の八月初めに倉敷市で学会があり出かけた。倉敷を初めて訪れる機会であり、一、二の案内書などで調べ、「柳が影を落す堀割に、土蔵と倉屋敷が立ち並ぶ街」という表現に胸おどらせて倉敷の駅に着いた途端期待はずれの印象を受けた。それは駅前ビルと駅ビルの新築工事ということで、鉄板と板壁に囲まれた工事現場は訪問者の通路を邪魔するかの如く立ちはだかり、交通整理の警官の指示で兎に角街の中に入ることができた。折角の古きたたずまいへの期待は早くも裏切られたかの如き感があった。しかし美観地区として残された一帯はさすがに落着いた雰囲気を有し、とりわけ大原美術館からアイビースクエア(倉敷紡績の最初にできた工場(明治二十二年建設))を改造して再利用したホテルで、中に休養できる広場と記念館や大原美術館に関連した施設がある)にかけては一世紀前に立ち戻ったような観を呈している。早速大原美術館に入ってみる。ギリシャ神殿風の本館の入口には、ロダンの彫刻洗礼者ヨハネとカレーの市民が左右に立ち迎えてくれる。内部は二階建で、目玉のエルグレコの受胎告知、ルノアールの泉による女、ルオーの道化師の他多数の作品は一見に値するものばかりである。大原孫三郎が建立した当時、見学者は一日数人に過ぎず、将来大変なお荷物になると思われたのが、現在は平日で数千人、夏季や休日には一万人を越す見学者があるといわれる。目玉作品を一つ売却すれば現在と同規模の建物が簡単に建つということで、大原氏の先見の明には頭の下る思いであった。現在は分館も出来て、こちらは主として日本人現代作家の作品が展示されているが、外国の美術館を見なれた方には、規模と作品数から必ずしも満足のゆくものではなかろう。

今回はアイビースクエアホテルに宿泊したが、外壁は赤煉瓦の古風な構えでありながら、内部は外観とは別に近代的な部屋で、エアコンが利き快適であった。部屋の外は広場になっており、夜遅く迄そぞろ歩きをする人々が窓際から眺められ、さすが観光地だという感じと共にもしいわゆる「はたど」に宿泊できたら、更に風情を満喫できたのではないかと思ったりした。

それにつけても思い出すのはオランダのアムステルダムの景観である。アムステルダムでは一九七九年(昭和五十四年)六月国際姿勢学会が開かれ出席したが、その前年もバラニー学会の帰りに招かれて立ち寄っているので、二年間続けて訪れたことになる。学会や要務の合間にできるだけあちこち見て歩くことにしているので、その古きよさというものをいささか知ることができた積もりである。もしフランスのパリとアムステルダムの両方を訪れた方なら、両者が全く対照的な印象を与えることを知っているに違いない。パリは花の都というだけあって白を基調とした明るさが目につくが、アムステルダムは黒い色調のいかにも古都という印象の強い街である。前者はパリコンミューンや第二次世界大戦の復旧や改造が平気でなされ、またナポレオン三世の時代パリの都市改造計画で有名なオスマン男爵らの手により始められた都市計画が現在まで続いているからである。これに対しアムステルダムは原則として古い景観を残すことが義務づけられ、特別な場合を除いて改築する時も前の建物の不良部分を修理するに留めることが多いこと、また運河が張りめぐらされているので、大改造は地形的にも困難であることなどの理由により、パリとは全く異なった印象を与えることになっている。このため古い道路は狭いま、で残され、特に運河のほとりでは傾いたまゝの建物が如何に多いかに気付くであろう。アムステルダムには医学部を持つ総合大学が二つあるが、一つは市内の中心地にあるアムステル大学(市立)で、一八七七年の設立であるから、建物はかなり古く、外観だけ見ると一九世紀の面影が主体をなしている。しかし内部はかなり改装されており、病室や学生の講堂等も工夫されて改修されているが、手狭なのはやむを得ない。これに対し、国立の自由大学は郊外にあり、市内への交通は不便であるが、広大な土地を専有するように各学部が存在し、外観、内部共近代的で効果的に作られている。耳鼻咽喉科の研究室も信州大学の五倍はあろうというものだ。学会もこの大学内の講堂を使って行われたが、大小の立派な部屋が多数あり、ゆったりした気分で会合が持てるように工夫されていた。

つまりアムステルダムは古いものと新しいものが秩序立って配置され、新しいものが古いものを破壊侵入するという弊害は全くみられない。大学内の細かい点は不明であるが、それ程不満はないといわれる。ホテルに関しても、高級ホテルに属するマリオット、一級ホテルに属するカールトン、そして一般的なカサ四○○の三つに宿泊する機会を得たが、前二者は旧市街地にあり、等級相応に内容、サービス共に良好であり、後者はサービスの点でや、問題があったが、学会会場に近いという点からは有利で、何れも日本の高級ホテル並にスペースがとってあるのには感心した。

オランダはそれ程大国という訳ではないが、古いものに対する保存思想は勝れており、それに伴う土地利用の考え方はまず合格といえよう。勿論ロッテルダムやライデンは近代化された部分が多く、この点首都アムステルダムは過去の栄光を偲ぶ縁として大いなる遺産を残そうという、いわゆる民族的象徴と考えられるかも知れない。我が国でも奈良を始め古都や遺跡を残そうとする努力がなされているが、それに対する民衆の支持は遥かに及ばないように思われる。我が国の地価の高騰は異常であり、そのため残すべき遺跡も開発の波にさらわれつゝあるととは衆知の事実である。

美術館や博物館にしても外国のものは規模が大きい。パリのルーブルやニューヨークのメトロポリタンは別としても、すばらしいものが多い。前述の大原美術館は我が国では有名であるが、外国に出せば余りにも貧弱な感じがする。例えばアムステルダムの国立博物館は二五〇の部屋を有し、レンプラントを始め絵画だけでも五○○○点を数える。またこの博物館の近くにあるフィンセント・ファン・ゴッホ美術館も二三〇点の油絵、五○○点のデッサン及び七○○点もの書簡を一堂に集めている。この建物は一九七三年に開館したばかりであり、比較的新しいものでありながら、モネ、ゴーギャン、ロートレックなどゴッホと同時代の作品も集められているのである。大原美術館は日本における美術館の代表的なものの一つであり、一人の豪商と一人の画家との共同事業によるものであることを考慮すればすばらしいといわざるを得ないであろう。ただ今後国家的な援助も含めて、更に立派なものに育成して欲しいと願う次第である。我が国には、この他によい美術館、博物館はあるが、収集品やスケールの点から見劣りするし、わざわざ見学に行く気のするところが少ないのは残念である。

古きよき時代は常に作られつつあるものであり、我々の子孫がよかったと感じる世の中を作る努力をなすべきであろう。またそうすることによって始めて「今どきの若い者は......」といった発想ができる資格が得られ、益益老齢化する日本社会において、がんこ親父や頭の固い指導者がそれなりの存在理由を有するようになるであろう。そしてそのための具体的な方策は我々に委ねられているのである。

この文章を書いてから医師会の先生から賛否様々の御意見を頂いた。その代表的なものは、今どきの若者は「思考」という過程を経ずに直観的・体験的な面しかみていないので、この文章を共感をもって理解することなどはないだろうというものであり、他方真面目に生きようとする若者はどの時代にもいるのであり、派手な若者が目立つのに対して、こういった連中は広い底辺でひっそりと存在しているので、古きよき時代を求める層は永遠に存在するというものであった。

さて最近の情報によると、前述の倉敷駅前は工事が完了し、凡そ風致地区に似合わない近代的ビルが目立つに到ったとのことである。時代は常に我々の観念に先行し止ることを許さない。本年は国際障害者年であるが、障害者を愛する心は古きよき時代を愛する心に通ずるような気がする。

(一九八一・四・八)

苦しみの根源

信大 河原田和夫

この頃、仙台から友人が来たので、あずみの探索のかたわら、穂高町の有明高原寮を訪ねた。ここは少年の矯正施設で、私の兄が一昨年から勤務していたので、一度は行ってみたいと思っていた。

直接、そこの生徒と話をしたわけではないが、兄の説明から推測するに、更正あるいは改心するのに、強制ではなく、自主的になされ、そのために友人間の相互援助がいろいろの場面で活用されている。

私どもの医療の場において、医師と患者との関係は、教師と生徒以上に心が通いあっていなければならないが、一方では患者同志のつきあい、相互援助が重要である。その点、信鈴会組織は、そうした面で大きく貢献しうる。

私が医師になろうとしたきっかけは、闘病生活の中で、もっと相談にのってくれる医師、全人的な医師はいないものかと煩悶したことにある。しかし、現実はきびしかったか、力不足もあり、自分のめざした医師像とは、ほど遠く、毎日反省ばかりしている。一方では、信大病院においても人が減らされ、よい医療を目ざしてはいるものの後退しつある。座視しているわけにはいかないので、定員削減をくいとめたいのであるが、切歯扼腕と同じである。こんなはずじゃない、こんなはずじゃないと思いながら、しらずしらずのうちに患者さんへしわ寄せをしている。

今こそ、医師をはじめとする医療従事者と信鈴会の様な患者組織とが対等で話しあってみる必要があるような気がした。共通する苦しみの根源が何であるのか、話しあってみたい。そして一日も早く、それをとりのぞかねばならない。

(一九八一・四・二)

練習日のひとこま

看護部長 石田愛子

八月二十一日、十四時を少しまわる。今日こそ皆様方にお会いしたい。何ヶ月ぶりかしらと三階の研修室へいそぐ。(今野副看護部長さんがお電話下さった由、用事で部屋を留守にしていました。)ご熱心に練習の真最中、そおっとカーテンをあける。なつかしい顔、○○さん○○さん○○さん......アラあの方はおはじめて......と、皆様のイキイキした顔、目と目があう、うなずきとほほえみの一瞬。補助の長椅子のはしに座る。とたんに今野副看護部長さんが「こちらへどうぞ」と声をかけられる。ご迷惑をおかけしてはと思い、すぐに応じる。

「空気をのんで......ゲップを出すように......」

「あせらずに、今が一番苦しい時ですよ......」

「○○さんは、かかさず出席して一年と○月でこの通りです。」

「この席での練習だけでなく一日のうち時間を決めて必ず練習することが大切です......」

「自信をもつように...」

とはげまされていられます。又ご自分の声を再びテープで学習しご熱心な鳥羽様はじめ先生格の方々のご指導ぶりに時間のたつのも忘れます。このようにグループの支えは、他の方のお話を聞いて、自分がひとりぼっちでないこと。参加なさる方々に耐える力を与えられましょう。時間をかけて経過をとって自信をつけられますことを確信してもどってまいりました。このグループに出席なさるまでには病気、未知の病院生活。手術による変化について......深い深い悲しみの過程を経て......よくがんばってこられました。皆様方よりたくさんのことを学ぶことができます。これからも皆様に接する機会をもつようにつとめたいと思っております。今野副看護部長さんがお一人お一人に耳を傾け、やさしく暖かくお世話しておられ、安心しております。(昭和五十五年八月二十一日)

所感

北三階病棟看護婦長 西村典子

私は、昨年の十月看護部の方針によりまして、外科病棟より勤務交代して参りました。

早いもので六ヶ月になりますが、新しい分野での業務に夢中ですごしておりまして、発声教室には見学程度で積極的なお手伝いは、まだ出来ませんが、病いにおかされ、手術によって生れながらの大切な声を失ってしまわれました事は、どんなにか辛かった事でしょう。想像以上の苦しみがあったと思います。それを立派に克服され、発声練習によって、第二の新しい声を生み出すために、なみなみならぬご努力をされておられます、皆様方のお姿を拝見し、深く感銘をうけました。

食道発声にて更生し、お元気にいきいきとし、自主的に後継者のご指導に当っていらっしゃいます会長さん、副会長さん、又おたがいに助け合い、励まし合いの精神で練習に励んでおられます皆様方の暖かい心に触れ、私自身学ばせて頂く事が出来ました。それに此の会を運営されてこられました顧問の鈴木先生を始めとする、前任の今野婦長、関係者の方々のご努力は、なみたいていのものではなかったかと、ご推察致します。

どうか、焦らずに一生懸命頑張って一日も早くお話が出来るようになり、明るい希望のある人生をお送り頂きたいと願っております。決して、孤独感に陥ったり悲観することはありません。ご努力の結果が必ずみのりご自分のものとなります。

これからは、私も医療にたずさわる者として、微力ながらお手伝いさせていただきます。

身障者年に想う

長野日赤耳鼻科婦長 高村正

過日ケースワーカーのAさんから「Mさんが来ているけどちょっと時間をもらって来ませんか」と電話がかかって来た。今年の年賀状は大町の家からだったので、家で生活できるようになって本当に良かったと思っていた。

Mさんは中学を卒業して二年目に仕事中の事故で第五頸椎損傷で入院して来た人である。当初は生命の危険を心配されていた。Mさんの家は母子家庭で弟さんがまだ小さかったので付添は可愛いい妹さんがしていた。

10年近く整形外科病棟に入院して理学療法を受け乍ら残っている筋力と体のバランスを巧く使って一人でベッドから車椅子に乗り降りができるようになった。不自由な手に補装具を使用して食事をし、手首と肘の関節をフルに使って洗濯もしていた。日記をつけ乍ら字の練習を一年続けてハガキが書けるようになった。文化ししゅうは女性の患者さんから習い枠を組み立ててもらって、糸通しは口で吸気を利用してあとは一針一針さしていく。暑い夏はねじりハチ巻きで頑張っていた。最初はさした糸の間隔があいていたり、糸をカミソリで切る時に布まで切って穴があいていたりした。一番Mさんらしいフイトのある作品はなんと云っても虎で仕上がって額に入れると迫力があった。常に不可能に挑戦してゆくようMさんであったが、精神的葛藤もたえずあって死にたいと口走ったことも何回かあった。ケースワーカーのすゝめもあり、不安を感じ乍らリハビリセンターに入所していった。センターでは手の指の手術を受けて少し指が曲るようになってタイプを習い自動車の免許も取った。車を買ってお母さんを乗せてスピードを出したこと等ケースワーカーからきいていた。

急いで社会課に行くと相変らず前かゞみの姿勢で車椅子に乗り、スポーツウェアーをきていた。今日は愛車で相談に来たという。家に居ても暇で困るので長野に出て来て身障者住宅に住み、仕事をしたいと云っていた。大町の家はMさん、お母さん、弟さんの三人が力を合せて土地を買い家を作ったと聞いていた。車椅子で生活の出来る自分の部屋もあり、家族に囲まれての生活は幸のように考えていたが......貴重な自分の人生だから自分のしたい生き方を前向きですればいゝと思い乍ら話をきいていた。残された機能を最大限に生かして生活をすると一口に云うが本人の大変な努力と長い時間と多くの人々の支え、社会の受け入れ態勢が必要だとあらためて痛感した。

信鈴会を想う

顧問 島成光

人生の行路はさまざまで、親から産み育てられて教育を受け、お互いは希望を持ち、肉体的、精神的苦痛に打ち勝ち無事無難に過して来た。然し天は許さず、喉頭のわずらいにより社会人とし、人間としての声の発生源でである声帯を切除せざるを得ない運命となり、現在は食道発声及び人工笛により、自己の意志を対他に通じ得ることになった。発声音の有り難さを痛感する次第である。

さて今を去る十五年前、、国内各地を趣味と飼鳥輸出カナリヤの講演に廻り北海道で三時間の講演の最中、声帯を痛め声に支障をきたし、急きょ帰省し、東大及び信大病院耳鼻科に於て診察を乞い、鈴木教授の診察により喉頭腫瘍で手術を要することとなり、大切な大切な喉頭を切除せねばならぬ運命となった。社会人として生か、死か、失望した。

当時耳鼻科婦長今野さんの親心か真実が大なる力、生を与えて頂いた一言「今大阪で人工笛ができ、この笛を使えば何の話もできる」と申され、意を決して、手術をする気持になった。今野婦長さんは、私の生命の恩人であり、声の恩人であることは一日も忘れたことはない。

思い出せば去る十三年前、鈴木教授先生や、田口先生、当時の佐藤先生、今野婦長さんよりのすゝめで「全国各地域に斯道の喉摘者団体の会ができて居るので、私に長野県に作ってはどうか」と申され、北信の碓田氏と相談の上、二人が会の発起人創立者として『会の命名』に信州の信を取り、鈴木教授の鈴を取り信鈴会と命名して発足した。当時は県内十六人、南信、松本、諏訪、伊那、北信の各地を亡碓田氏と共に車で会員宅を廻ったものである。創立とは基礎となり、土台となるもので、若かりし当時は、実に創立の理念に燃えて熱心であったことを今さら思う次第である。

亡碓田氏と共に伊那市に行き、県議の長老溝上県議事務所を訪れ本会の創立と事業の一端を述べ御協力を得て初めて県から金五万円の委託金を支給さるるようになり会の運営に資する大切な金で、今なら五十万円程の重みと貴さがあった。

何ごとも初代会長石村先生宅に伺い同意を得て会の運営に当り、八十歳を越えんとする私は勇退して後進に事務を引継ぎ、会長と共に現在は鳥羽源二会長に会務のお骨折を願っている。十年一昔、会の運営も軌道にのって百名余りの会員もでき、県よりの委託金も多くなり、全国でも優位の会となった。

道は永遠なり。人類が生存する限り、病いは不滅である。諸氏よ、社会人として生きる限り、言語により楽しく楽しく暮そうではないか。信鈴会の諸氏よ、ありし日を回想して。(八十六歳)

迷い

松代 吉池茂雄

三月十二日、救急車で長野日赤病院へ入院してから丁度一年たった。あの時の、さしせまった恐怖感、もう駄目になるのかと思う絶望感、必死に息を吸いこもうとも.がいた事など、今でも生々しく思い出すことができる。あの時、私の入院中に、同じ症状の患者が来院したと聞いたが、その人が長野のM氏であったと後になってわかり、先日も発声教室で顔を合わせた時に、「もう一年になるね」と、当時の恐ろしかった事の思い出話を繰り返したのだった。

その時M氏が、体の調子が弱った時は、食道発声がうまくできないので、その時のために人工喉頭を習っておいたら......と思うがどうであろうかと云われた。この話は、松本へ行った時に、食道発声のベテランのT氏やK氏からも聞いたのだった。その時私は、「さあ、どういうものかなあ」と極めてあいまいな答をした。

それは、体調(体力)がピンチに陥った時のために、ピンチヒッターを用意しておくことは賢明な措置である。だが、そのようなピンチに人工喉頭がピンチヒッターの役目を果たせるかどうかだ。人工喉頭も体力の衰えた時には発声困難になる。食道発声の発声困難になる体力の衰弱程度と、人工喉頭の場合の衰弱程度との間に差があって、云いかえれば、食道発声で発声困難となる体力の衰弱程度で、人工喉頭がまだ発声可能であると云うならば、その間だけでもピンチヒッターが勤まるわけである。しかし、その辺の事は、果して両者の間に差があるかどうか私には判らない。でも、人工喉頭でも体調の悪い時は発声が困難になるという事は確かである。

信鈴会の生みの親であり、食道発声を習得して、私たちの発声教室の創始者である故碓田さんも、車の運転中に発病して倒れ、息を引きとられるまでの幾日間、ついに一言もものを云ってくれなかったと、ご家族の方々が嘆いておられたが、その時のご家族の胸中に、もし人工喉頭であったら話ができたのではないだろうか、というお気持がひそんでいたように私には思えた。しかし、これは少々無理な希望というものだろうと思う。発声機能障害のない一般人でも、このような症状になった時は、全く発声できない事を聞いている。今わのきわに、何か一言云ってほしいと願う家族の心情はよくわかるが、しょせんこれは無理な注文なのだ。たゞ両者の発声不能になる体力衰微の程度に、何程かの時間的ズレがあって、一分でも一秒でもよいからピンチヒッターを......というならば、また何をか云わんやである。

次に問題になるのは、今まで大変な苦労をして、やっと習得した食道発声が、人工喉頭を習うために停滞或は後退しないかという心配である。人工喉頭は原音が出るのだから、口に入れさえすれば話ができると思うだろうが、それほど簡単なものではない。人工喉頭で話ができるようになるには、或る程度練習しなければならない。うまく、すらすらと話せないにしても、用が足りればよいという程度でもそうなのだ。それに一番気になるのは、人工喉川の発声法は食道発声の場合と全然異っているという事である。即ち人工喉頭は肺呼吸によって発声するが、食道発声の場合は、肺呼吸を止めて発声する。この正反対というか、異った発声法にかわるために、今までに習得した食道発声が、何らかの支障を受けるのではないだろうか。

食道発声習得の途中で人工喉頭を使用した人が、人工喉頭が上達するにつれて、反対に食道発声が後退して、とうとう人工喉頭一本になってしまった例を私は知っている。またそれとは反対に、両者を併用していた人が、食道発声に集中的にとりくんだために、三、四年ぶりに会った時に、以前は聞きにくかった嚥下音がほとんどなくなって、大変なめらかな、感じのよい食道発声を聞かせてくれた例も知っている。

これらの事を考えると、人工喉頭のピンチヒッター起用の話は、私には何れとも云えないのである。たゞ、食道発声の事は何も判らない私であるが、大勢の喉摘者と交っていて考えさせられる事は、食道発声の呼吸法、発声の際の腹圧のかけ方、腹式呼吸の修練等で、この問題は解決とまではいかないにしても、或る程度前進するのではないだろうか、私はそんなふうに考えている。

迷うなとも云いたいし、又迷うだけ迷ってみろとも云いたい。しかし、せっかく習得したものをぶちこわしてもよいかどうか、私も迷っている。(一九八一・三・一二)

思いのままに

副会長 桑原賢三

先日テレビの小川宏ショーに出演された銀鈴会の幹部の方々の発声ぶりを拝見して自分の未熟さを痛感しました。早速ビデオにとり、何回も何回も再生して、何時かは自分もあの様にと練習に力が入りました。二月になって銀鈴会の重原会長及び中村先生にお会いし、お話をする機会を得ました。其の会話ぶりはさすがでした。先生方がこれ迄になるのには、並たいていの努力ではなかったことでしょう。特に中村先生の声は普通の声帯の声と全く同じで、言葉の区切りとつなぎがごく自然で、聞くものが何の抵抗も感じなく、私なども『普通の人と変わりないよ』などと言われますが、全く赤面の至りです。先日信大で宮本さんが、昨年一年かけて兎と亀の歌をうたうことに挑戦したがどうも一本調子で自分では節をつけているつもりだが、思う様に歌えずに年があけてしまったとか。私も今年は歌に挑戦し、来春は百人一首の読み手になって朗々と読みあげたい。そして、一オクターブの音程が必要とされる童謡の「お手々つないで野道をゆけば」これをマスターして、一オクターブに挑戦する。先輩や先生の上手な会話をお聞きするたびに、自分もあの様にと、聞くことに依り何よりの励みになります。

私も一度は、暗闇のどん底に落ち込んだ。まがりなりにもやっと明るい所へ這い出した所だ。これからは希望をもって兎と亀ではないが、亀の様に「あせらず、あわてず」たゆまぬ努力をして抵抗なく聞いてもらえる声と会話のテクニックをマスターしたい。

根性と努力

大町市 大橋玄晃

私が中村正司先生の指導を受けたく、横浜にある神奈川銀鈴会に入会して少したった昭和五十一年の春頃、食道発声練習をしておられる大勢の方の中で目についた一人の紳士がおりました。それは熱心に練習して居られる方々の中でも、その几帳面な練習態度にひかれたからです。それから一年たち二年経て、私も次第に横浜に行く回数が減り、年に二、三回となりましたが、行く度にその方と机を並べて練習いたしました。然し、その練習態度は最初と少しも変っていないのです。私達が一寸雑談している間でも、一人で熱心に練習の教本を読んで練習して居られました。

私達が少しうまく発声が出来なかったり、疲れたりすると休んで終うのとは違った其の真面目な、ひたむきな努力には本当に頭が下がる思いであります。家にあっての練習は勿論、旅行に行ってホテルに泊っても発声練習は欠かさないそうです。その人の名は中村史郎さんで、発声技術もどんどん上達され、現在は東京の銀鈴会と、横浜の神奈川銀鈴会の指導員をされています。久し振りに中村さんを想起して、吾々食道発声を志す者は中村さんの様に根性と真面目な精進、努力を見習って行かねばならぬと、つくづく考えさせられる次第でございます。

「国際障害者年」に思う

丸子町 吉池許由

鶏鳴暁を告げる、と云う言葉がありますが昔は夜の明ける頃になりますと、あっちからも、こっちからも、鶏の鳴き声が聞こえたものです。そして東天紅......夜が明けていく、のどかでいいものでした。昔は中国でもこの時を知らせてくれるのがこの鶏、あの函谷関の門の開くのが一番鶏の鳴く声によって開いたと言われています。それ前に着けばそれまで待たなくてはならなかった。あの孟嘗君一行が逃げのびて帰国の途次函谷関まで来たが夜明け前、まごまごしていて追手に追いつかれてはと云うので、鶏の鳴き声の真似をして門を開けさせて通ったと云う話はあまりにも有名であります。今年はその酉=鶏年、今はその鶏の鳴き声こそ聞かれませんが近年の幕明けはここから始まり、なんとなく縁起のよい年であるような気がします。特に今年は「国際障害者年」、誠に意義深く、世界各国は挙げて互いに身障者の身の上に思いを寄せられ、これを国際的に盛り上げていこうと云う有り難い御代に巡り合せた幸を痛感いたします。この年にあたり、会員の皆さんの御健勝と信鈴会の益々発展されますよう祈念いたします。この国際障害者年に当り、各界各層は福祉の面に、雇用の面に、施設の面に、又色々な行事などを積極的に推進される事と思います。例えば身障者に対する法律用語の改正を始め、世界身障者技能競技大会を十月東京で開催、これをオリンピック大会のように四年に一回開こうと云う計画とか、或は職場の雇用義務を拡大するとか、然し我々身障者は只この与えられた権利や思想の上に胡座をかいているとか、手をこまねいているとかでなく、その使命と責任を自覚して、持てる能力の発揮に努め、その活動を積極的に推進して社会に貢献し、以て国民の期待に応えなくてはならないと思います。

さて今年の国際障害者年に引き続き来年は喉摘者世界大会が東京に於て開催されるとの事、我が信鈴会の存在も愈々世界的に認られる時がやってきました。信鈴会をそれまでに築き上げて下さった先輩の方々、更にその輪を拡げ、発展させて現在に至らせている現役員の方々の御労苦に対して会員の一人として感謝せずには居られません。このように次々に我々の身近な問題について大変意義深い事が考えられたり、行われたりします。先にも申しましたように、この有り難い御代に巡り合わせた事を感謝すると共に、是非この年を本当に実のりのあるものにしたいものです。

野のほとけ

上越市 山崎武雄

命噴く 季の木草のささやきを きゝつゝ眠る 野のほとけたち (生方よしえ)

信濃の春は美しい。草木ことごとく命噴く季である。松本、伊那、佐久、善光寺、四つの平を中心に、緑の草は崩え、木々は淡黄に、濃緑に、或は赤く或は黄に芽をふき出す。そしてこぶし、梅、桃、櫻、杏、りんご等、百花一時に開く。清冽な川は流れ、野鳥は妙なる音を出してさえずる。冬の寒さが厳しく長いだけに、この美しい暖かい春を迎える喜びは、又格別である。

私は若い頃から、この信濃路の春の美しさ、喜びにひかれてよく歩いた。その時又、路傍、大樹の下などに野のほとけを拝した。一体の時も数体、数十体、集って立っておられる時もある。百年以上、いや数百年の長い歳月、冷たい風雪に耐えて来られたお姿、御眼、御鼻、御耳、御口、御手足など、どこか痛んで居られる。沈思、黙考型のお姿が多いが、時には笑顔をしていらっしゃる方もある。御身のどこかが痛んで居られるのに、拝む度に受ける感じは、意外に明るく、呼びかけて下さる様な心さえして全く有難い。

歌人生方女史は、瞑目された数体の野のほとけ様を見て、草木の春の喜び、話し声を聞き乍ら、心よく眠られるほとけと表現されたが、私は和やかに語り合い、「お元気ですか、春が来ましたね、さあ起ち上りましょう」など慰め合って居られる様な気がしてならない。-私は障害者になってから一層この野のほとけ様を拝む感じがちがって来た。崇高さと共に、何とも言われぬ親近感である。障害者の皆様なら、皆同じ感じを持たれるでしょう。

六年前から、信鈴会に特別入れて頂いて、皆様より慰められ、励まされ、教えられ、ほんとうに有難く、嬉しい。自分一人ではないのだ、皆でいたわり合い励まし合って起ち上がろう。今年は国際障害者年の年、大会もある。しかし広くなったとはいえ、まだまだ障害者の就く職域はハンディがあるだけせまい。それは仕方がないと思う。ただそれだけ一面障害者は、名利を離れて、その職に純粋に生きられるのではないでしょうか。私のせまい体験から言っても数々の役職など離れ、自分の道一筋に専念出来てよかったと思っている。

「今この処にしっかりといるのが一番いゝのだ」と野のほとけ様は無言でやさしく教えて下さる。迷うことなく起ち上がりましょう。

雪丈餘 野ぼとけいかゞ おわします

彼岸入り 野ぼとけ見えず 雪深く


国際障害者年に想ふ

安曇村 宮本音吉

私が身障者手帳を交付されたのは摘出手術が終ってから三月後の昭和五二年の九月でした。六十一歳になったばかりで、通常停年年齢とは云うもののふだんから健康を自負していた私はまだまだ当分は現役として充分行けると考えていた矢先の事です。手術により永久に天声との別れを余儀なくされ、一時は総てを諦め、闘病生活に専念するしかありませんでした。幸にして摘出者の先輩者達の組織する長野県信鈴会があり、松本信大、長野日赤、伊那中央各病院の協力を得て食道発声法、人工喉笛発声法の指導教室があり、早速入会致しました。親切なる指導のよろしきを得まして以来三年、どうやら日常会話もできるようになり、今年は一月早々より勤めに出られる様になりました。どうやら働ける様になってみますと言語機能そう失以外の諸々の点の不自由、不自然さの多い事に驚くばかりです。喉頭摘出による気管の口外前頸部への取り付けは、臭覚不能は勿論の事、呑み込む事食べる時等、呼吸以外に絶対に空気を必要とするからです。以下二、三を過去帳のように拾ってみます...。

○月○日手術後二回目の入浴である。充分注意の上にも注意しながら立ヒザのま、静かに体を湯舟に沈めて行く。いい気分である。本当に助かったと云ふ安心感からしばし回想にふける。突然、ゴボゴボの異音と共に飛び上がる。吸水してしまったのだ。さか立ちして苦しむ事しばし。

○月○日久し振りに友人宅をたずねる。昔話に花が咲く。早速熱い茶が出る。当地の山間部は何時どの家へ行っても必ず茶が出る。そして何杯かをがぶがぶと呑む。空気の乾燥の多い土地柄の生活の智恵かも知れない。盛んに熱い中にと進められるが、五十度以上ではどうする事も出来ない。茶ワンを手にしたり、置いたりして「茶の中へ佐吉は指を入れて見て」と古川柳を感心している間に、又二度目の茶がつがれる。仕方なしに事情を打ちあける。

○月○日某氏宅に招かれてご馳走になって、最後は当日目玉の松茸ご飯となる。秋の味覚の王者でもある。残念なことに臭覚を失った私には、只の味付ご飯である。切角のもてなしについ言い出す事も出来ず、以前を回想し、厚志を多謝して帰宅する。

○月○日久し振りに不可能かと思われていた登山をする。真夏の太陽に照り付けられながら、何んとも言い得ぬいい気分である。谷間の岩清水の味は格別、泉に口づけ「ゴクゴク」、矢張り失敗...、すくい水でチビチビ・・。

○月○日孫達を連れて縁日に出掛ける。昔懐しい夜店がずらり、せがまれるまゝに風船、ラッパやゴム風船、笛等買ってはみたものの、空気利用の玩具はどうにもならず、早々退散する...。

○月○日退院後間もなく結婚式に参列する。苦手の礼服着用のうえ、早朝から湯茶も多めに呑んだ。充分でないまでも会話も多くした。式場に参列の頃は、食物や会話に呑み込んだ空気が腹中一ぱいとなって、自然現象として下へ下へとさがっていく。最後は五臓六腑を駆けめぐり、あげくの果は他界する。仕方なく、機会を見て座をはずす。......発声初歩のうちは特に空気の呑み込みがうまくいかずに胃まで行ってしまう。

○月○日東京へ嫁いだ末娘一家が帰郷する。家族揃って外食に出掛ける。希望もあって寿司会と決定、少々気張るも結果は残念、私だけがワサビ抜きの特注寿司となる...気の抜けたこと此の上なし...。

日常生活におけるこうした多くの事柄は喉頭摘出された方々は誰しも経験される事でせう。いや、永久に付いて廻るかも知れません。こうした不自由さも年月と共に長い間の訓練や自らの創意工夫によって徐々に克服し、限りある余生を一日でも有意義に過す様、努力して行きたいと思っています。

長野県信鈴会がこうした多くの人達を一人でも多く、再起出来得る様にと希って、僅かな会費と補助金とにより、理事者の皆様がほとんど無体酬に近い奉仕で御指導下さり、又各関係の病院の皆様にも只々、感謝の念で一ぱいです。

国際障害者年を機会にこうした団体に対する深い理解をお願ひし、時宜に適した福祉の向上施策を願ってやみません。 56、3、10

リクレーションに参加して

長野市 義家敏

信大発声教室が中心となって行なったリクレーションは、毎年楽しく行なわれてきたのであるが、昨年は信鈴会が広く会員に呼びかけて行なったのは、はじめてであった。

九月十二~十三の一泊二日の日程であり、参加者は女性二人を含め、二十名になった。マイクロバス一台に丁度一杯であった。行先は、北安曇郡小谷村来馬温泉である。松本駅前を十一時に出発し、安曇平を北へ北へと走り続けた。安曇野は南北に長く、このころの安曇野は収穫前で、好天候に恵まれ、黄金の波が打続き、目にいたいほど映えて美しく、西に眺めるは中部山岳の諸連峰も見事な風景である。木崎湖畔で休憩し青木湖を過ぎて行く。車中は、また何の気がねもいらない仲間同志であり特に茶目気の多い若手連は、皆を笑わせてくれた。小谷村来馬温泉は姫川のほとりにできた村営の温泉であり、新しく建設されたものであるから何でも新品、新室で湯量も豊富、気分は満点上々である。

さて、みんなの待ちかねた夕食の宴会はバスの運転手さんも仲間に入り全員二十一名、先ず会長の挨拶、続いてみんなの元気を祝して乾杯から始まり、喉頭摘出者とはいえ、とても賑々しく盛大な宴会が始まったのである。私の驚きは、みんななかなかの酒豪揃いであり、その上紳士である。時間のたつのも忘れて楽しい宴会であった。最後にみんなの健康を祝して、年長者であり地元の松沢さんの音頭で万歳三唱をして夕食となった。

そして、翌十三日は朝寝に何とやらでまた楽しい朝食をすませ、バスは白馬山麓へと向かった。十時頃山麓に到着、一同白馬ケーブルにて兎平まで。この間二十分餘りの空中運行で兎平に到着した。兎平はまだ中腹であるが、時間がないのでそれ以上行けなかったことは、残念であったが、毎日の好天候に恵まれ、八方尾根の山々を眺めることができた。

みんな、おもいおもいの写真を撮り、記念にすることができたと思われる。

バスは再び青木湖、木崎湖を通り、黄金の波打つ安曇野を南へ南へと走り、松本駅に着いた。

みんな、楽しいリクレーションであった事を喜び合い、「また来年もね」と元気で別れた。こんな楽しいリクレーションに今年も多数の皆さんが参加されることを望んでおります。

あれから一年

小谷村 松沢喜栄

私は去年の二月、信鈴会に入会しました。そして同六月、喉摘者として身体障害者手帳の交附を受けました。それ以来発声練習には、其の都度は出席出来なくて御無礼しましたが、其の間信鈴会主催の総会一回、レクレイション一泊旅行会一回、今年の新年会一回等の催しに参加させて頂き、直接に亦、間接的に御指導やらき、大変に得る処大きく感謝の至りで、私に貴重出として忘れる事は出来ません。

食道発生練習には鳥羽会長さん並に今野婦長さん始め先輩の皆々様から御親切に慰め励まされ、良き御指導を賜はりました事、ほんとに有難くうれしく思います。数数の私に御寄せ下さいました御深情に対し、本紙上より厚く御礼を申し上げます。

食道発声の天才と呼ばれる中村正司氏は食道発声練習は、前進二歩、後退一歩を繰り返しつゝ進歩につながって行くと、教えて有ります。ほんとに上達へのかべは、如何に厚くけわしい事を痛感致します。私如き前進一歩後退一歩の情況かも知れない。しかし、私は今、此の様な中途でくじけないで頑張ってやりたいと思いますので皆々様、一層のよりよい御指導御鞭達を心から御願い申し上げます。

今年は国際障害者年で、新聞にも毎日様々な記事が報道されています。尚又、来年は第三回喉摘者世界大会が東京で開催される由、就中、日本喉摘者団体の活躍は、世界のトップレベルにあるとの事、此の様な大変意義深い時に際会して、私共は更に思いをあらたにし、食道発声練習にも一層奮起して其の成果をおさめ、多くの人が職場復帰、社会復帰の出来ます様にと祈念して止みません。終りに、信鈴会の更に前進を致し、且つ、皆々様の御健勝と御多幸を御祈り致します。

九年の道

須坂市 羽生田守夫

昭和四十六年発病、四十七年入院、そして喉摘手術。四十九歳の私は、停年を目前に控えて毎日ベットで復職のことを悩みつづけて居りました。音声そう失身障者になってしまったのだ、会社では再び私を使ってくれるだろう?もし使ってくれたとしても気管口の呼吸である、痰がいつもからみ息苦しい、これではとても労働仕事はむずかしい気がする。一層のこと退職してしまおうかと考える。両親を含め七人家族である、どうにか人並に生活出来るのも私が働いて居ればこそである。退職すれば生活が崩れることは明らかである。停年まであと七年、なんとしても勤めたい。停年後は「年金」が支給されるのでなんとかなるだろう。こんなことを考えつつ退院を迎えました。

復職、病みあがりの身体は勤めても相当体に応える。初めのうちは皆同情してくれるが、月日の経つにしたがって冷たくなってくる。人の常である。食道発声を始めた頃は自分では、わかっている様でも相手には通じないことが多い。上役との会話でも何言っているのかわからない、「紙へ書け」とよく言われた。しゃべれない悲哀が胸を突き刺す。早く食道発声が上手になりたいとつくづく思ふ。「練習」「努力」「根性」を己の胸に叩き込み、一生懸命練習した当時のことを思ひ出します。食道発声の道は遠い。私の食道発声も半分位の出来と思っている。後の半分はこれからである。体力の老化にともない、後の半分がどの位進むかは未知数である。

私は人工喉頭を一度も口にしたことはないが、人工笛で巧みに話をされる方がおられます。食道発声と違ひ、肺から出る空気を利用するせいか常人が喋っているやうに自然音に聞えます。食道発声より人工笛の方がよいのではないかと思ふことさへあります。人工笛でも上手になるには練習、努力の積み重ねの結果でしょう。食道発声に不向きの方は人工喉頭で進まれるのもよいのではないかと思ひます。私の場合は仕事の都合上、両手をいつも使っているので人工喉頭はだめだと思います。

再発の心配もなく無事五年も過ぎ、五十三年には念願の停年退職を迎えることが出来ました。過ぎ去った月日は短いと言うが、私にはこの七年は長かった。喉摘者は音声のそう失と共に気管口呼吸となり、おまけに手術による身体に不都合なことが色々とつきまとう。喉摘者はこれ等の苦痛と闘いながら生きて行かなければならない。

私は喉頭ガンになったにもかかわらず、職場復帰を無事果し、勤め人として終着駅までたどり着くことができました。遂にやったという満足感でいっぱいです。人の寿命も長くなり、私達の年齢は鼻たれ小僧と言われる時代になりました。第二の人生にいまひとふん張りと再就職をして九年の道を歩んでいる私です。

俳句

喉摘者となりて

空気腹かかへ九年の春迎ふ

新しきガーゼを喉に初詣

食道発声と人工笛で交す御慶かな

寒き日や食道発声の不気嫌に

食道発声習ふ放屁の責苦かな

ガス洩れや匂へぬ鼻を憐れとも

ネクタイに隠れて咳のいづるかな

ガン病めば気管口より洩るる白い息

妻なれや咳く気管口の痰を拭く

石の上にも三年と言うけれど

茅野市 小池増晴

みぞれ降る声と決別自覚の日この一句に総てを記して早二年、過ぎてしまえば早いもの、頑張ります。後一年。その間いろいろありました。しかし乍ら、でもお蔭様で、すっかりと感化されました。そうなんです。婦長さんの、又指導の先生方の熱心と真剣さに。私はこんな失礼な表現が本音のように想ってならないのです。サラリーマンの体験のないわが愛妻も「今日はお出勤ですか」位の、訓練に行くことを気軽く扱う快調子。親指と人差指が合うかなァと思う位チョッピリ安心している今の私です。木曜日は出勤日です。遠来の友が頸をそろえて待ってゝ呉れます。私達だけが特有する、会って、又話すことの楽しさは私は帰途に何時も何時も感じます。会って話せて、そのスカッと胸中に何ものもない、身も心も軽くなった想いを、そこで私はまだお見掛けしない会員のみなさんにこの様な想いを分ち合いたいと思います。こんなに楽しくも、又声以外の訓練にもなるかとも、此のようなことを言ってよかったかナァと反省してます。

無題

諏訪市 笠原よ志

世の中に目の見えなくなった哀れな話を聞いたり、実際に身近で見ても来ました。年を取ればみんな耳が遠くなって、周囲の人達に厄介にならねばならない事も知っておりました。

だが、声が失くなるなど全く、知らない事でしたし、それが我が身の上に起るとは、神ならぬ身の知る由もないといったところ。

初め声がかすれたのは、詩吟を習っていた時でしたのでポリープを取ればと簡単に考えていただけに、放射線も六○○○かけた後、声帯を取らなくてはという事で、ハ時間半の手術の後、すっかり声のない人間になってしまった訳です。

手術の後、唾の穴が開いて二ヶ月間、鼻から食事(ミキサーにかけてドロドロにした物)を取り、絶えず唾を機械で吸い取っていた。病いの苦しみは医師は勿論、看護婦さんは付いていたし、同じ病人も居て種々の面で助けられていました。間もなく、お正月になるからという事で唾の穴を一応、絆創膏を押えて退院しました。退院の時、婦長さんが「声のないハンデーで苦しむのは、普通の人許りの家へ帰る、これからですよ。行き詰った時は、同じ仲間が居るという事を思って、強く生きて下さい」との言葉通り、看護婦さんの様に手真似で解る人もないし、書いて話そうとすれば今の忙がしい世の中、面倒くさがって読みたがらないし、たまに読んでくれると思えば、此方の気持と全く違って広がって行く。音をさせて知らせ様としても、小さい音では通じないし、力強く叩いて音を出せば「そんなに気違いを起さなんでも解る」と、怒鳴られてしまう。自分をどう扱ってよいのか途方に暮れて泣くにも、涙も声も出ないのです。

呻き声一つ出ない為、どんなに苦しい時でも人に知らせて助けてもらう事は出来ません。早く発声練習をして声を出せる様になりたいものと、練習しようとすると、頭がクラクラして目まいがするのです。困っていると保健婦さんが来て、十年も前に声帯を取って人工笛を使っている平林さんを紹介してくれました。平林さんに人工笛を取り寄せてもらったり、調節してもらって、曲りなりにも話が出来る様になりました。まだまだ咳きこんで日に何度も痰が出るので、よくよく必要の事でないと喋らないで殆んど黙っていますと、自由に声の出る人の言わでもいい言葉の多いのに驚き、「禍いは口より出でて身を破る」とか、禍いの少くて済むのを有り難いと思う事さえあります。身障者は身障者なりに、精一杯許された能力を活かして残る余生を有意義に生きようと心掛けている此の頃です。

あたかも今年は国際障害者年、テレビ、ラジオに新聞記事に身障者の努力の結晶が、クローズアップされて世に問われています。満足の体の人が怠慢に陥り易いのに反し、何と真剣にそこなわれた体に鞭っての涙ぐましい努力の数々の場面でしょう。神も御照覧あれと言いたいところです。頑張りましょう。

二年を過ぎ希望にもえて

岡谷市 小林政雄

喉摘手術を受けてから二年を過ぎ、毎日楽しく暮して居ります。そして、喉摘前の普通の生活にもどりつつあります。

昨年は、私にとって最良の年でした。発声教室へ根気よく休む事なく毎週行く事ができて、通常の会話は出来るようになり、電話も自分から進んでかける事が出来、時々歌なども口ずさむようになりました。

九月の北小谷温泉の旅行は二十人もの人々と楽しく行く事ができて、生れて初めてのカラオケの練習もできて良い勉強になりました。

尚十月十日、東京でのオール日本食道発声コンテスト大会にも出場させていただき、自信はありませんでしたが、幾人もの人が一緒に行って下さって、自分で思っていたより発声がらくに出来て決勝まで出る事ができ、有名な太田先生や中村先生と同席ができて光栄でした。勿論これも発声教室で指導して下さった鳥羽先生、大橋先生、今野婦長さんや先輩、同僚の皆さんのおかげです。又、発声教室では幾人もの友人が出来て、皆さんとの会話が待遠しくて、伊那教室へも時々出席して御世話になって居ります。

今年は障害者年でもありますし、尚一層、発声を勉強して、今後益々喉摘者が増えてくるかと思いますが、お互いに助け合って発声教室が私達の生き甲斐となり、楽しく、自然と足が向いてゆくような所となるように会員の皆様と一諸に努力してゆきたいと思います。どうか皆様、今後共、御指導を御願いします。

無題

白馬村 松沢和子

あと二ヶ月あまりで、あの苦しかった手術の日がくる。月日のたつのは早いものである。手術前一年ばかしは、食事の時は喉が痛く、お粥ばかし。固い物はだめ。自分でも喉のガンと思い、大町、松本と医者に行くたびに聞くが違うとの事、今考えるにその頃みつけていれば、声帯まで取らずにすんだのではないかと残念でならない。昨年四月に東京虎ノ門に行き見てもらった所が、即入院あとは検査、コバルト。先生は気管に穴をあけるようになると話されたが、今までこの様な障害者に会った事がないので、どの様になるかわからず、かえってそれがよかったのかもしれません。これが、もしわかっていたらあのように簡単に手術をうける心境にふみきれたかどうかと思われます。

小林さんのように上手に話す方でも、普通にだれとでも話せ、又電話を思うように応対出来る事と思っておりましたら、まだまだだめですとの事。先日、新聞に米国で人工声帯を発明して、これから量産に入るとの事、電気発声器も米国製、日本は器用な国なのですから、もうすこし身障者の事に関心を持ってくれるとよいと思うのです。

発声に苦心談のなかった喉摘者の話

岡谷市 武内基

あと十日ばかりで、私は七十四歳になります。昭和五十五年三月二十一日に喉摘手術を受け、翌四月二十四日には何の苦労もなく声が出るようになりました。

私は警察と自動車学校に通算約五十年勤め、昭和五十四年四月に七十二歳で退職して老妻と二人暮しです。三人の男の子は独立他出しております。昭和五十五年正月に声がカスレるので、岡谷市営病院で診て貰ったところ信大付属病院に入院の仕度をして行く様に紹介状をいただき、一寸驚きましたが、すぐ私も年だな、親ゆずりの喘息だ、二日か三日も入院すれば退院して帰るつもりで一月三十一日に入院したのです。二月五日に呼吸を楽にしてやるとのことで気管に穴をあけられたで、同じ病棟におる患者を見て、これは大変なことになった、ポリープとか腫瘍とか、又の名をかねがね聞いておる恐ろしい癌と私は察したのであります。

それからはコバルト照射を二十回で四千ラードかけて三月二十一日に喉摘手術を受けました。私は平素の健康についての自信過剰もどこへやら消えうせ、折角親切に慰め励まして下さる先生や婦長さん、家族の言葉にも拘らず、最悪の事態をも覚悟して、手術当日は五時に起床して顔を剃り、浴場で体を洗い、丁字帯を新しく取替えて決心の臍を固め、手術台にのせられたのです。

翌朝、正気に戻ると首の包帯に手を触れ、手術の済んでおることを確めました。なんだ、痛くも痒くもなく知らないうちに済んだのだ。それにチャンと生きておるぞと、心の底から涌く様な生きる喜びを感じたのです。

そのうちに昨日の執刀手術をされた先生が来られて、元気の様だな、悪いところは全部とったという様なことを言われたので、急に昨日消え失せた筈の自信過剰が、又出て来て、先生も言ったぞ、私には悪いところはもう無い、治るぞ、治るぞと自分に言い聞かしたのです。

その様な訳で経過も順調で、手術後九日で個室から六人部屋に戻り、経管食も二十八日間で終りましたが、気管口のすぐ上の瘻孔に困り、少し遅れて五月十八日に退院できました。

それで発声のことですが、手術後十日ばかりで、婦長さんに銀鈴会発行の食道発声の手引と言う小冊子をいただき、三回程丁寧にベッドで読み返し、「空気を吸引する」「空気を飲む」なんてところにアンダーラインを引いて、ここを更に何回も繰り返し読んで、試みにベッドの上で空気を飲んでみようとしたが、全然出来ないので木曜日毎にある病院内の発声教室に二回見学に出席して先生や教習生の空気の呑み方を見習い、病室に帰ってほんの一寸自習したところ、何の苦もなくかすかではあるが、空気を飲んでゲップが出る様になったので、四月二十四日に私としては三回目の発声教室に自信をもって出席して先生や教習生の真似をしたところ、これまた何の苦もなく単語も出るし、お早う、今日は、ぐらいは発声でき苦心談なしの発声でした。

その後退院して十ヶ月にもなるが、喉に瘻孔があったのと、それ以上に悪かったのは、私の発声なんて簡単だと言う安易な心と慢心があったため、進歩上達がないことに気付きました。

幸い瘻孔は完全でないが、穴は極く小さくなり飲食物は勿論のこと唾も殆んど残らなくなったので、今後は一ケ月に必ず一回は発声教室に出席する。自宅でも信鈴会や日喉連の会報を熟読したり、自習も計測的に行い、もっともっと発声が上手にならなければいけない。それに私はまだまだ身心とも丈夫だぞ、誰にでも若干の欠陥や後遺症はあるものだ、私にはもう致命的な欠陥も後遺症もありゃしない。私ももっともっと、ふてぶてしさ、したたかさをもって生き抜かなければ、と自分に言い聞かせておる昨今です。

終りに、先生様方、看護婦様方、御蔭様で元気で生きており、自慢話を書くことが出来ました。ホントにお世話になりました。厚く、厚く御礼申し上げます。

(昭和五十五年三月十八日)

看護婦学習会に出席して

飯田市 林ちよ

早いもので、夫が手術を受けてからもう一年三ヶ月を過ぎました。

主治医先生から言われる様に定期検診を受けに通院しております。その都度、三階の病棟にお顔出しをして一方ならぬお世話様になりました看護婦さん方にお会いしたり、又誰方か知人で入院されて居られる方をお見舞したりしております。

その或る日、婦長さんが話があるから待って居る様にと看護婦さんに言われました。私はすぐに「夫の病状」についてではないかと予感がよぎりましたが、婦長さんはいつもの様にニコニコした様子で出て来られました。何を言われるかとひやひやして居りますと、実は看護婦さんの集りの所で、家庭に病人を持った看護者の立場から、病院へ、又看護婦さんに何でも気のついたこと、又希望したいこと、どんなことでもよいから少し言って呉れとのこと。私の思って居たことでなくてホッとしましたたが、これ又私にとってはその様なことは非常なことでもあり、又あの様に何不足のない看護婦さんにあの様なご厄介になり、お世話になり本当に感謝しておりますのに、これ以上希望だの、又何も全くありませんと一生懸命お断りいたしましたが、そんなに心配な大したことではないから是非にと、言われるま、お引き受けました。それはその二ケ月位前のことでございました。私は余りその様な経験を持ちませんので、当惑と大変な重荷でございました。

そして、その二ヶ月の過ぎ行きは忽でございました。その当日は十一月八日で、会場は信大病院の南隣の看護婦研修センターでございました。時間が来て所定の席に着きました。会場には見知らぬ方ばかりで、顔見知りの看護婦さんは誰も見えず、何だか心細くなって来ました。二番目が私の順番でございました。豫て原稿は用意して持っておりますものの「患者の立場から」を話された方がお上手で、又材料も豊富でしたので私は尻ごみするの態で何を言ったのか夢中でした。

最後に阿南病院長宇治先生に素晴しい助言をしていただきホッとした気持になり、ほんとうにうれしゅうござにいました。そして又、大勢の看護婦さんの集りのところへ出させて頂きましたことを大変に感謝しております。

流動食の注入するに不馴れなるわれ 隣ベッドのカーテン汚しき

全身麻酔のさめざる夫を呼びたりき 検査終りて帰りしベッドに

朝九時より午後五時まで八時間 喉頭摘出の手術受けし夫は

夫を看取りゐておそき電車に帰り来し時の 淋しさ今に忘れず

食道発声容易に叶わぬ夫なれば 何処へも従きて行かねばならぬ

思ひのまゝ

伊那市 伊藤良長

思へば六十一年間、大きな声でなに不自由なく過ごして来た私、酒も呑み、煙草も吸ふ。又旅行が大すきで一年に二度、三度と旅行を致し、一ぱい呑んでは歌ひ、面白くゆかいな生活でしたが、五十四年、どうも声がかすれて出ないので、伊那の中央病院の先生に診察していただいたところ、信大へ行って下さいと申され、続いて信大へ行きました。ところが入院をしなさいと申され、五十四月十二月末に入院、五十五年一月から三月五日迄、「コバルト」治療を致し、三月初旬に一應退院致しましたが、最終的には手術、摘出と云ふ事に成りました。

長い人生には、晴れた日、雨の日、又嵐の日が有る様に苦しい事、悩ましい事、悲しい事、此の事が現実に私に降りかゝって参りました。音声機能摘出、此の一言を先生から聞かされた時、人生破局が参ったのかと涙せずにはいられづ、過去元気で飛び廻った事が走馬燈の様に浮んで参りました。且て、学校で教鞭を執ったある日の事。又軍隊除隊後、警視庁警察学校で(教養課勤ム)生徒の教育に大きな声で一生懸命に過した事等々、数へきれない六十年間の生活。だが、なんと思いましても声帯は無い。人の一生は重荷を背負って遠き道を行くが如しとか、未だ未だ人生は長いと考へます故、多くの皆様と一緒に食道発声を訓練致し、人と会話の出来得る人間に成りたいと努力致して居る次第で有ります。

障害者、思ってもみなかった事です。然し今年は障害者の年とか、考へて見れば私達はまだまだよい方だと思ひます。重度の方々へ国又県でより以上暖い手をさしのべて頂く事を心より念願するものであります。

最后に信鈴会の会長さん並に副会長さん、又指導員の方々の御苦労を心から感謝致しますと共に信鈴会員皆様の御多幸を心から祈念致し筆を置きます。

闘病の記

丸子町 一柳善一

拙宅は春夏秋冬、南方に美ケ原を仰ぎ、北方に菅平高原を望む所に位置して居ります。

昭和五十三年八月三十日、信大病院に入院しますと遠望は一変し、美ヶ原高原は東北に聳え、南には雄大なアルプス連山と木曽の山脈が眺められ、全く別世界に来た感じでした。入院当時は毎日のように南病棟最上階の窓からこの美しい眺めを見て居りました。

入院して大方の患者の辿るように検査、検査と続き、やがて放射線室へ通うのが日課となりました。そして、九月、十月と過ぎ、愈々十一月の手術の日を迎えることになるのですが、段々と日数を重ね、種々の事が判明して来ると却って不安がつのるものです。婦長さん初め看護婦の皆さんの愛情溢れる看護態度に接して、心は和み感謝の念は深まり、少しでも不安を少くするよう心掛けました。十一月八日、喉摘手術を受けたのですが、経過が思わしくなく、長い闘病生活となりました。

翌年二月上旬、ようやく退院を許された次第です。厚い壁の病室から解放されて自宅に帰られた喜びは、何物にも喩えることの出来ないことで、この喜びは、この苦しみを味わった者のみが知る喜びではないでしょうか。心で大きく叫びました。私は昭和五十年、勤めをやめて家に居るようになり、昭和五十二年から趣味として俳句を作り始めました。まだ初歩で拙いものですが、心を和らげる為に努めて作るよう心掛けました。入院中に出来た句の中から二、三お目にかけて、平静に努めた私の心の内がお分り頂ければ誠に幸と存じます。

昭和五十三年九月 待望の秋雨しめり草木萌ゆ

病棟に秋蝉の声と絶えたり

十月 茜雲一時穂高に遊びけり

暁の秋雲光り鳩睦む

夕焼が消えて病舎に夜長し

十一月 風もなく音もなく舞ふ木葉かな

霜の朝銀杏にはかに散り初めて

十二月 竝びいし友の皆退き雪が舞ふ

冬枯れて山襞丸く麗かに

昭和五十四年一月 アルプスの真白き瘤に初日さし

仰ぎみる雪嶺の雲夕映えて

二月 冬の朝明星一瞬輝やけり

冬の夜の遠きネオンが霞をり

佐久教室開講に寄せて

臼田町 三瓶満昌

このたび東信地区喉摘者の発声教室が農村医学の殿堂佐久総合病院に開設されました。このことは地元臼田町に住む私にとりましてはこの上ない喜びであります。開設は信大病院の今野副部長、佐久病院の山浦医長先生のご盡力によるものです。今野副部長の喉摘者救済への情熱と佐久病院の山浦先生のご盡力によるものであることを思って感謝いたします。去る三月二十三日、教室開講のお願いの為に鳥羽会長、桑原副会長にお越しいただいたのですが、そのときすでに佐久病院では山彦会という親睦団体を結成されており、喉摘者の組織づくりに着手されておりました。これから始動という段階で会の役員をされていた高柳さんが一生懸命努力されている最中だったので信鈴会に迎合するのには良いタイミングだったと思います。高柳さんに佐久病院への連絡や会員の皆さんへの連絡やいろいろ御苦労していただき乍ら、開講式の準備をすすめ、四月二十一日の開講式を迎えることになりました。ふりかえってみますと開講式の前日、高柳さんと式場の確認に病院へ行きまして高梨婦長さんに案内していただきましたが、会場は立派なBホールで開講式には申し分ない会場でした。その時会場正面の天井に前日行なわれた会合の見出しがきれいなポスターカラIでつくられていました。思わず「明日の開講式にも欲しいなあ」と口にしてしまいました。それを聞きつけて婦長さんが「何とか頼んでみましょう、もう間に合わないかも知れませんが」と云われますので、私も高柳さんも、いいえ、とんでもありませんと恐縮して辞退しました。しかし翌日、準備のため少し早目に会場に来ると、すでにテーブルや椅子の配置がすっかり整っており、マイクも用意されていました。その上、昨日辞退した「祝佐久教室開講式」の垂れ幕が出来上がっていましたので驚きました。高柳さんに聞きますと婦長さんがご主人に頼んで作って下さったのだそうです。当日出席された方はお目に止まったと思いますが、正面天井に飾り付けられた見出しは高梨婦長のご主人の作品でした。この紙上をお借りしてお礼を申し述べたいと思います。本当に有難とうございました。それからもう一人のスタッフの方、白衣の若い男の方にお気付きでしたでしょうか?私も高柳さんも力仕事はきつくなり弱っていましたら、必要なものをどんどん運んで下さったり、会員の皆さんを会場へ案内して下さったり、重いテーブルクロスを片付けて下さったり大助かりでした。臼田町出身の井出さんで耳鼻科に勤務されています。有難とうを申し上げます。

さて開講式は佐久病院から船崎副院長先生、山浦医長先生、神戸、高梨両婦長さんを迎え、信大病院から今野副部長、信鈴会から鳥羽会長、桑原、義家両副会長、鈴木日赤指導員の皆さん、又信大教室から長岡、小池、小林、横沢さんの皆さんがお祝いに馳けつけて下さり、山彦会からの会員、移籍会員合せて三十名近い出席者で盛大に行なわれました。

鳥羽会長から力強い激励の言葉があり、船崎副院長先生、山浦医長先生、今野副部長から暖かい祝詞を贈られました。特に退職後も信大病院の近くに居を構えて喉摘者の皆さんのお世話をしたいと述べられた今野副部長の決意には出席者一同、深い感銘を受けました。出席された地元会員の皆さんも食道発声の素晴しさを目のあたりにして感慨はいかがだったでしょう。佐久の皆さんは高柳さんを除いて殆んどの方が人工喉笛発声ですので小林政男さんの体験を聞きまして、さらに自信を持たれたのではないかと思います。大勢の方の祝福を受けて開講されました佐久教室です。永遠に喉摘者のよりどころとして発展してゆけるよう頑張りたいと思います。みなさん、よろしくお願いいたします。役員は発声指導員の助手として津金育雄さん、高柳守吉さんと私(三瓶)です。尚教室の会計の方を角田さんにやって貰うように考えています。病院の方では山浦医長先生を講師に、神戸、高梨両婦長さんを相談役に迎えました。佐久教室の連絡先は次のとおりです。皆さんよろしくお願いいたします。

昭和57年刊 第12号

巻頭言

信鈴会々長 鳥羽源二

信鈴会が発足したのが昭和四十二年、その後松本市、信大付属病院内、長野市日赤病院内に発声教室が出来、私達喉頭摘出術によって、天性の声を失った者が、再び第二の声を取りもどし、社会人として活躍することが出来得たことは誠に有難いことであります。然しこの山国で、しかも広い長野県では僻地から発声教室へ通うことは容易な業ではありませんそこで先づ伊那地区になんとか発声教室が出来ないものかとの考えのもとに、信大耳鼻科今野婦長にお願して、伊那市伊那中央病院の矢田先生、粕谷婦長のご理解と、お骨折りによって、昭和五十三年伊那発声教室が開催され、伊那・諏訪地方の喉摘者の皆さんの訓練の場が出来たことは誠に会員一同の喜びでした。しかしまだまだ長野県の中には真空地帯とも言えるところがたくさんあります。そのもっとも大きなところが東信地区でありました。たまたま佐久郡臼田町より信大付属病院に入院手術された、三瓶満昌さんが退院後順調に食道発声の会話が上達されたのを期に、同地域に是非発声教室を設けたいと決り、今野副看護部長の熱心なご努力と、三瓶さんらのご協力により、佐久総合病院の耳鼻科の方と面接する機会を作って頂き、当日桑原副会長と自動車で行きました。松本を出て、長い三才山トンネルを抜け鹿教湯から丸子町を通り、又峠を越えて、なれぬ道ゆえ二時間近くかかって漸く目的地佐久総合病院に着いたときほんとに長野県の広さを再確認した次第です。病院内で地元の三瓶さん、高柳さんと合流、一室で山浦耳鼻科長先生、高梨、神戸両部長さんと会談致しました。信鈴会の実情、発声教室の実態など説明致しましたところ、誠に厚意をもってお受け下され、発声教室の開講にご賛同を頂きました。同院内には既に、喉頭摘出者仲間で山彦会という集いを作って活動に入られておりましたが、四月二十一日信鈴会佐久教室として改めて発足いたしました。佐久総合病院のまことに心のこもったご協力と地元の会員のお骨折りで素晴しい開講式が出来ましたこと感激の極でありました。ときあたかも「国際障害者年"この地域の言語音声を失った人達が、この佐久発声教室の発声訓練によって、再び会話を得、強く社会人として生き抜かれて行くことを心から祈る次第です。そして山浦先生はじめ病院の方々の深い御理解と、指導員をお願い致しました。三瓶満昌、高柳守吉、津金育男の皆さんのご活躍を信じております。

わが国には、信鈴会のほかにこのような団体が五十近くあります。しかし四ケ所も発声教室をもっているのは、おそらく信鈴会のみだと思います。会員の皆さんも是非積極的に発声教室に出席参加され正確な発声会話を得られるよう勉められると共に、精神面の向上を計っていただきたいと思います。

明るい顔

顧問 鈴木篤郎

四月の声とともに、あたりもすっかり春らしく成って参りました。私も退官して満三年、おかげ様で変りなく過しております。皆様におあいする機会も少なくなって来ておりますが、各発声教室連合の新年会では、久し振りになつかしい沢山の方々の元気なお姿に接しまして、心の和みを覚えると同時に、深い感銘を受けました。

私は、聴覚や言葉の障害を持つ子供と永い間かかわりを持って参りましたが、それらの障害児が将来どれだけ伸びるか、どれだけ障害を克服しうるかは、両親特に母親の心構え一つできまってしまうのだということを、いつも強く感じさせられて参りました。私の前に現われたときに、いつもメソメソしていて、迷いのとれないお母さんの場合は、結果はきまって良くなく、目を輝かして、「この子のためにやることなら何でも楽しい」というような気構えのありありと見えるような母親の場合に、例外なくお子さんは良く育って行ったようです。退官した後私は、難聴児や言語障害児ばかりでなく、その他の障害児の施設を訪ねる機会も多くなりましたが、そこでもこのような驚くほど明るいお母さん方に私はしばしば出会いました。そして、そのような重い障害を持つ子のお母さん方が、どうしてそんなに明るい顔でいられるのか、いつもあらためてびっくりし、尊敬の念を禁じ得ませんでした。

今年の新年会の時の皆様の明るいお顔を見ている時、私はふとあの「明るいお母さんたち」の表情と共通したものを見出してハッとすると同時に、何ともいえぬ感動を覚えたのでした。あれから二カ月、私は今でもあの時の皆様の明るい顔を想出しております。本当に、障害をこえ、苦しみをこえた所にある「明るさ」こそ本物の「明るさ」であり、大切な大切な「明るさ」だと思います。

春になり、厳しい冬の寒さから解放され、これからは身も心も浮立つような暖い季節に入りますが、どうぞ皆様健康に留意され、益々明るい毎日を過されますよう心から祈り上げます。

(信大名誉教授)

研究よもやま話

顧問 田口喜一郎

大学は患者さんの治療だけでなく、教育と研究も行う義務があり、従って我々が患者さんと相対していない時は、教育か研究に従事している訳です。診療の対象となる患者さんはいろいろの病気をお持ちですので、夫々の病気の治療方針を決めるために、種々の論文や参考書を読むことも必要ですし、そのための器械や薬品を揃えることも必要です。学生が来ている時は学生を対象とする講義や実習を担当し、残った時間は研究に従事します。誰でも一つ二つの研究テーマを持っておりますので、できるだけ短時間に仕事をまとめ、一つの結論を出し、それに関する報告書または論文を書くというのが我々に課せられた義務です。

研究といっても様々なものがあり、大きく分けて基礎的実験と臨床的実験とがあります。前者は動物やモデルを使った実騒で、薬や電気その他いろいろな刺激を使って、薬の効果や体の各部分の反応をみます。これに対して、臨床実験は直接患者さんに対して、薬を与えたり、種々の刺激を加えたりして、薬の効果をみたり、体の反応の仕方を調べるわけです。このようにして得られた成果は必ず学会や学術雑誌に発表されますので、勢い真剣にならざるを得ません。

大学病院のよいところは、患者さんをいつも研究対象として観察しているということです。こういうと、患者さんはいわゆるモルモットのように扱われるという気持になるかも知れませんが、決してそういうわけではなく、その患者さんで一番よい治療法は何であるか、それを探し出すにはどんな検査が必要であるかといったことを研究することになります。患者さんにはできるだけ負担や苦痛をかけずに多くの情報が得られるよう工夫するのですが、それでも何かと御述惑をおかけする可能性があります。その点是非御協力願いたいのです。

ある大学でがんの研究をしている時、ビタミンAを与えた人の方が薬の効果がよいのに気がつきました。それから放射線治療をやる時ビタミンAを一緒に使うとままめがよいことも分ってきました。現在は薬とビタミンAと放射線を一緒にやるのが常識になったのです。さるのこしかけやえのきだけががんに有効だという民間療法がきっかけになって、今ではその有効成分が実際に使われております。これらは瓢箪から駒の例えにも当てはまる例です。

我々の身辺にもこのようなことはよくあります。めまいを起す病気にメニエール病というものがありますが、これは内耳に水がたまり過ぎるためといわれております。さてそれでは腎炎や高血庄症に使われる利尿剤がよいのではないかと思い使ってみますと、確かにかなりの効果があり、最近では漢法薬でその種のものを使ってもやはり有効であることが分りました。漢方薬のことをいえば、何千年もの歴史を持つ漢方療法の科学的な見直しが行われ、中には西洋医学に劣らぬ驚異的な効果を持つものも発見されております。勿論その方面の大家にいわせると、「発見」という言葉は正しくなく、「再認識された」と申すべきだとのことです。

このように、日常診療の中でも物事を学問的に物を見、次の患者さんに有益な事実を少しでも発見しようと努力していることを御理解頂ければ幸いです。

我々はこの他にも多くの研究をやっており、その一つ一つが別々の意義を持っているのですが、全部が直接治療と結びつくものばかりとは限りません。しかし、例えば生体の一部の解剖や生理の研究であっても、それをつきつめれば学問の進歩という意味で社会に貢献するものであります。ただ金属の研究が社会の発展に貢献すると同時に、戦略物資として利用される危険性を持つように、医学研究も悪用される可能性がないとはいえず、この点警戒が必要です。例えば最近話題になっている核酸の研究では、これが生命現象の本質に迫るだけに、試験管の中で現在地球上に存在する全ての抗生物質が効かない細菌が誕生し、細菌兵器として使われるようなことになったら大変です。こういった危険性に対処するために、何重もの規制があり、研究室―大学―国と三重に管理監督されているのでまず大丈夫といえますが、最終的には研究者の良心に頼ることになります。近年医学部の入学試験に小論文や面接が加えられているのは、こういった面で大いに意義あるといえます。

大学の研究は皆様には何の関係もないように思われ勝ちですが、事実は深刻なかかわりあいを持つ面もあることを述べてみました。勿論研究の範囲と意義は短い文章では表現しきることは不可能です。しかし、我々の研究の目的と意義の一端でも皆様に理解して頂くことが、研究の進歩とその社会への還元のため是非必要であることは論を持たないのであります。

(信大耳鼻咽喉科教授)

所感

信大看護部長 石田愛子

信鈴会の皆様、ご健勝にてご活躍のことお慶び申し上げます。

皆様方が常に前向きの姿勢で勇気を持ってはげんでいられ敬服しております。又お役目の方々の日頃のお骨折りに感謝申し上げます。国際障害者年でうぶ声をあげたばかりです。

たくさんの問題をかかえております。環境と人間居住と申しますか人間性の尊重が重視され問い直されるのです。一人一人の人生観だけで対応できるものではありません。それぞれの立場のものが総合的に動くことが不可欠となります。看護界も諸外国の情報がたくさん入ってきます。そして外来語をそのままカタカナ語で頭文字だけ並べて略されたり、言葉のもつ意味や内容を吟味されないまま、すべてが解ったような気になってしまうことはとても危険なことと思います。プライマリ・ヘルス・ケアの対象は生活を営んでいる人であり、その中で病気を持った人やその家族の相談、指導あるいは生活環境の調整が主たる看護活動となります。

看護活動が期持されるのは病気中心から人間あるいは生活者を中心の座にすえた看護の実践なのです。概念のみでなく具体的にそなえることが今日要請されています。ふさわしく機能するには教育の追加や積み上げが必要となります。要するに疾病を持った人の看護に目を向けることでして、人々のニードに応え活躍しなければ専問職として自他共に認められないと思います。

幸い多くの看護婦は耳を傾けてくれます。日進月歩の医学におくれぬよう日々研鑽してチームの一員としてよい協力関係を保ち努力しています。豊かな人間性が基本となり、はじめてよい援助ができるのではないかと思います。私は教室へ顔を出すこともままなりませんが、今野副看護部長、西村婦長がお世話させていたゞいております。なんなりと申し出て下さいませ。

信鈴会の発展と皆様方のご健康を祈っております。

挨拶

源原田和夫

信鈴会の皆様お変りございませんか。

皆様とお会い致しますのは年一回の総会と新年会のときだけで何一つお役に立てないまゝに松本を離れることになり心苦しく思っております。この度六年間お世話になりました信大病院耳鼻咽喉科を四月十五日をもちまして退職することに相成りました。

皆様方が毎週行っている発声訓練は手術を受けられた方は勿論これから手術を受けられる方々へも自信と勇気を与え闘病意欲をかり立て、います。昨年は佐久総合病院の中にも発声教室が開設された由、佐久地区の皆様はさぞよろこんでおられることでありましょう。「長野県はかなり遠隔に散在し交通の便も悪い為発声教室に参加しにくい方々がまだまだたくさんある。その為にはもっと教室がほしいのだ」......とたえず今野さんから聞かされて居りました。どうぞ皆様が心をひとつにし、関系各所への働きかけによりその切なる声が実現の運びとなりますよう陰ながらお祈りいたします。私の勤務先は宮城県塩釜市錦町一六の五、宮城厚生協会坂総合病院耳鼻咽喉科でございますが、家族を長野市に残して参りますので、皆様にお会いする機会も得られるかも知れない等とたのしみにもしております。信鈴会の益々の発展を願ってど挨拶といたします。

私の体験

信大耳鼻咽喉科病棟婦長 西村典子

数年前、私自身が癌ではないかという境地に立ち、本当につらい日々を過しました。幸い良性のもので腫瘤摘出のみに終わりましたが、その腫瘤に気付き、診察、手術、結果のわかるまでの一連の日々......。今迄その様な患者さんに接し、どんなにか不安だろうかと思っていたものの、いざ実際に自分がその立場になってみると想像以上のもので、「もしかしたら癌ではなく、良性かもしれない。そうであって欲しい」と願ったり、「でもきっと癌だろう、もう覚悟を決めよう」等煩悶の日々でした。そしてその一日の長いこと。しかしその恐怖と悲しみの中で多勢の方々から受けた励しの言葉、思いやり、心使い、そのちょっとした働きかけがどんなにか私の胸に響き励みになったか、言葉には言い尽くせない程でした。今思い出しても涙が出る程嬉しく、「又頑張ろう。」と思ったものです。私の人生の上でも、看護婦として仕事をしていく上にも貴重な体験でした。

人というのは、病気になった時は本当に気が弱くなるものです。他の人のちょっとした言葉が非常に気になり、心のこもった言葉がどんなに嬉しいものか身をもって体験しました。精一杯病気と闘かおうと決意はしていても、診察時の「アッ、ある」というそれだけの言葉に、私は「アー、もうだめだ。」と目の前が暗くなる思いでした。良きにつけ悪きにつけ、言葉というものはこれ程迄に患者の心にピンピンと響くものかと、今更に驚かされ、言葉のもつ重大さを痛感したものです。

手術室では愛情細やかな看護を受け、手術は無事終了しましたが、永久標本の出来る迄の数日間はいたたまれず、夢中になって仕事をしていました。私の事を知った同僚が何気なく立ち寄って心配してくれ、決して安易な気休めは言わず、共に悩み励ましてくれました。看護部長は「最悪の事を考えて、身の回わりの整理をしておきなさい。そうすれば、良かった時の喜びは大きいですよ。」と心のこもった言葉を下さり、泣くまいと決意していた私ですが涙があふれ出てしまったのです。この部長のきびしさ、優しさがどんなに私を励ましてくれたかわかりません。

つらく悲しい中でも患者さんの立場に立った様々な看護は、どんなに心強いものであり、励ましになるか、この体験を通して感じとることが出来ました。この貴重な体験を生かして、皆さんから受けた心からの看護を少しづつでも患者さんに返して行きたいと努力しています。

私達も信鈴会の為に出来る限りの援助ができます様研鑽をしてまいります。

最後に信鈴会のますますの御発展を心からお祈りいたします。

信鈴会の皆様との出合い

佐久総合病院耳鼻科外来婦長 高梨増子

私が耳鼻咽喉科に配属されましたのが昭和五十四年の三月末でした。お世話になり始めてまだ日の浅い四月に、三F西病棟の角田さんのところに人工笛を持って山浦先生に連れて行かれたのがこの会のみなさんと仲良しになれた始まりでした。学生時代には喉頭全摘の患者さんを看護したことはあったのですが十年も前の事でしたのですっかり忘れてしまっていました。角田さんを見舞って三日程のちのこと、用事で病棟に行ったとき角田さんが人工笛を使って電話しているのに出合いました。そのときの驚きようは大変なものでした。それにもまして角田さんのいきいきとした顔をみて「話ができる、意志が通じる」ということがこんなにも感動的なものとはつい考えてもみませんでした。声が出ないということは本当に辛いものであることを実感しました。昭和五十五年五月の病院際には信鈴会の前身である山彦会が発足しました。山彦会の発足には須田延雄さん高柳さんが多大な努力をされました。それからしばらくして三瓶さんからこちらに発声教室はないかと問合せがあったように思います。それまでは山浦先生が人工笛の指導をされていたように思います。しばらくして信鈴会から会長さんが見えられて佐久教室開講の話をされ昭和五十六年四月二十一日開講の運びとなりました。月二回の教室には三瓶さん高柳さんの努力が実ります又会員の出席もよい方です。先日は初めての総会が開かれ教室の充実を図るためいろいろ話合いがされましたが私達もこの教室が喉摘者のみなさんの訓練の場としてまたいこいの場としてもますます発展されるよう祈ります。

昭和五十七年四月

耳鼻科病棟に勤務して

信大 百瀕領子

桜花はすでに散り季節は若葉の季節へと移りつつある。私が耳鼻咽喉科病棟に勤務するようになって三年が過ぎた。この間に何人もの方が喉頭摘出の手術を受け、食道発声や人工笛発声の仲間入りをされた。そして再び声をとりもどすために真剣に訓練に取り組んでおられる。指導者の方の体験から生まれた適切な指導と、仲間の方の暖かい励ましで誰もが声を出せるようになり、少しづつ会話ができるようになっていく。そんな姿にとても心うたれる。そして健康に恵まれている自分はもっと何かをしなければという思いにかられる。木曜日には必ず何人かの方が詰所に訪ずねて下さる。有難いなと思う。喉摘者の方々の真剣な生きざまにふれ、いつも学ぶことばかりで、何もお役に立てない自分を恥じている。信鈴会の皆様の御健康と増々の御発展をお祈り致します。

夜勤の折に詠みし短歌一首

白々と明けゆく空に郭公の 鳴くを聞きつつまどろみにけり

信鈴会を想う

松本 島成光

本会は昭和四十四年一月信州大学医学部附属病院に於て創立総会を行い、以来年々会員も増加し、此の間初代会長に亡石村吉甫、二代吉池茂雄、三代亡須沢徳正、四代塩原貢、五代現会長鳥羽源二の諸氏が本会の上に重責をもって其任にあたられ今日に致ったのであります。

其間会長の輔佐女房役と事務所をあつかり会の運営に努力して参りました。現在は現会長宅で会務を取扱って居ります。私しは当初より今日に致る十余年八十八歳老の身をかえりみず。会の上、人工笛の係りとして毎週第一木曜日信大の教室に出張して人工喉頭の笛の発声の指導をして本会の上に勤めて居ります。国内各地、台湾迄も行、笛の指導をしてとび廻って喉摘者救済の為に努力して参りました。現在は本会の人工笛責任者として笛の希望の会員に大阪、阪喉会より取り寄せた笛を取り扱い、修理等をして居り会員に嬉ばれて居ります。会員発声の困難を思う時、親心をもって子供を育てるが如く、親切に指導することこそ大切であります。

昔から「我が身をつねって人の痛さを知れ」と言われし如く、人の苦しみを救済して会員に嬉びを与えて、会員相互の嬉びにしたいものです。日と共に県内の喉頭摘出者も多くなり現在百五十人、年間十余人の喉頭摘出があり事務局兼会長としての現鳥羽会長さんも会社の重役である身の中、本会の上に御心労を賜わり感謝致して居ります。

創立者としての当時より今日に到る今野婦長さんの本会に対する、御厚意を本会を想う熱意は実に貴いものがあり会員一同感謝せざるを得ないものがあります。

私は今野婦長さんにより人工笛を使う道を教えて頂き笛を通じて声の恩人であります。

会員の皆さん、私達は声を失なっても食道発声、人工笛により健康である限り社会の為勤め働く義務があります。

現在信鈴会を想う時、人類の生存する限り。信鈴会は存続して行くのであります。信鈴会は声の道場であります。日々声を鍛て社会人の本分を果して参りたいことを望むものであります。

創立者 八十八才 島老人

亡き病友を偲ぶ

吉池茂雄

昨年、昭和五十六年中に、私は、心に残る病友を三人も失った。石村吉甫、山崎武雄、春日北雄の三氏であり、三人とも信鈴会の会員であった。

石村吉甫氏は信大の名誉教授で、私たち信鈴会の初代会長をつとめた人だ。信鈴会創立と同時に会長に推された。その当時は氏の発声はまだ思わしくなかったが、会長という立場上、しゃべらなければならないので猛練習をされ、どうやら話ができるようになられた。役員会の帰途、島さんのお宅から松本駅までの裏町通りを、二人とも人工笛の異様な声で議論しながら歩くのを、行き交う人々は振りかえって見ていた。

会長職を退かれてからは、総会にも全然顔を見せなくなったので、たまには出て来て、前のように議論しませんかと手紙を出したが、体の調子が悪いからと言って顔を見せてくれなかった。島さんの話では、石村先生の食事は、普通の我々のものとは違った特別な食事をされていたようである。それから何年たったか、去年の春、先生の奥様から先生が亡くなられて、奥様たち御遺族も埼玉県の方へ移られた由お手紙をいたゞいた。(五十六年四月十九日亡)

山崎さんと春日さんは共に上越市(高田)の人で、二人とも寺の住職で、寺も同じ寺町区にあった。

山崎さんは長野の練習会にもよく出席され発声訓練につとめられた。信州の空気が大変お好きな様子だった。併し手術後の状態があまりよくなくて、何度も入院加療を繰りかえされたという。信鈴へも何回も投稿されたので、私たちは山崎さんの人柄をうかゞう事ができる。その文章は何か私たちの心の底に浸みこむような力をもっていた。中でも、それが山崎さんの絶筆となったであろう信鈴十一号に投稿された「野のほとけ」は、氏が亡くなられる直前に書かれたものと思われる。どんな心境であの文を書かれたかと思うと、胸が痛くなる。身障の身で周囲のものに感謝しながら浄土に旅立たれた氏は、いかにも僧籍にある人らしく、その謙虚なお気持に頭の下がる思いがする。昨年の六月二日、急に思いたって、高田の浄国寺(山崎さんの寺)を訪問した。寺の入口に、ま新しい立札が立って、「中陰」と書いてあった。その時私は「中陰」の意味を知らなかったが、何となく異常な感を受けた。庫裏の玄関で案内を請うと、出て来られた奥様がびっくりして、どこで、どなたに聞いて来たのかと言われる。私は何の事かわからず山崎さん、いかがですかと聞くと、つい先日亡くなりました。信鈴会の皆様にはお知らせしていなかったのに、どうしてわかりましたかと言うわけである。私は全然知らずに、たゞ久しぶりにお会いして話したかったので来たのだと説明した。そして仏前に焼香させていただいた。「釈山崎武雄霊位」と白木に書かれた簡素な位牌が供えてあったのが、私には異様に感じられた。このことは次の春日さんの所でも同様であったので、宗派によってそうなのかと思ったが、私にはわからない。

ちなみに「中陰」とは、人の死後四十九日の間のことであるという。(五六年五月二十三日亡)

浄国寺を辞して、約百メートル先の春日さんの念妙寺を訪ねた。前の年に胃の手術をされ、その後、転んで腰を打って、ベットに寝たきりの状態だった。併し思ったより元気で、仰臥したま、ポツポツと話した。発声は以前よりずっと良くなったように感じた。

私が春日さんを初めて訪ねたのは何年位前の事か、それから何度も訪問して発声訓練のすゝめをした。春日さんはテープコーダーでお経を上げると言って、テープをかけて聞かせてくれたが、そんな機械のお経よりも住職の生の声で読んだお経の方が、檀家の人にとってはどんなにかありがたいのではないか、是非発声をものにしなさいと激励した。「春日さんは大の愛飲家で、私が訪ねた時は、私も好きな方なので、いつも酒の馳走があった。二人とも飲むほどに、不自由な口で、口が間に合わなくなると筆談で、身振り手振りのゼスチュアーで、談諭風発とまでは行かないが、あの事この事話しあったものだ。あの元気な春日さんが、それから一、二年の間に寝たきりになるなんて、誰が想像しただろうか。でも案外元気な様子なので、遠からず快方に向うだろうと励ましてお別れした。その年の暮に、私は春日さんに年賀状を出した。春日さんからも、切手の所に消印のない賀状が来た。それと相前後して、息子さんの名で春日さんが他界されたというお手紙が来た。私たちはどちらが本当なのかと迷った。

先日、春の彼岸のうちにと、二十三日に春日さんの念妙寺へ行って、仏前に花を供えて焼香した。その時奥様の話に、年賀状は十二月二十日までにという郵便局のPRに、間に合うようにと奥様をせき立てて代筆させたのだそうだ。そしてその十二月二十日に突然他界、往生の素懐をとげられたのだという。

前年の春、長野の発声教室の仲間で、高田城の桜の花見に出かけた。私は何か都合が悪くて参加できなかったが、地元の世話係というわけで、春日さんは大変な張り切りようでとりもたれたそうだ。その時の事を思いだされて奥様は、皆様をお迎えして大はしゃぎでしたと話して下さった。これも恬談として、しかも無邪気さのある春日さんの、ほゝえましい一面であると思う。

昨年の四月から十二月までの、一年足らずの間に、心に残る病友を三人も失った。生来のん気者の私だが、何か考えさせられるショックであった。

三人三様の故人に、身障の差別も偏見もない天上、浄土から、下界の私たちを見守ってくれるように祈って合掌いたします。

―五七・四・四―

所感

副会長 桑原賢三

昭和五十六年は国際障害者年として「完全参加と平等」をテーマーに社会参加を実現する等立派なスローガンをかかげた記念すべきこの年に、信鈴会の袋小路とも言われ飛地的存在であった佐久地区に佐久総合病院の絶大な御支援に依り佐久発声教室が誕生したことは同じ境遇にある仲間又現在増加しつつある喉摘者の実態を考える時誠に意義深いものがあります。私共発声障害をもつものにとって社会参加の前にどうしても乗り越えなければならない問題はどんな形にしろ自己発表の出来る自分の声をもつことである。此の訓練の場であり又心の寄りどころでもある発声教室が、松本、長野、伊那に続いて、今年は佐久教室と、地域の広い長野県としてはまだ充分とは言えませんが、全国でも、県下に、発声教室を四ヶ所もある県は長野県だけであります。これもそれぞれの病院を初め耳鼻科の先生、婦長さん、看護婦さん方の懸命な御力添えのお陰と、深く感謝申し上げるところです。

この様に全国一を誇る発声教室の布陣も一朝一夕に出来たものではありません。信鈴会が創立されて十有余年、それぞれその時の先輩各位の努力の積重ねが実を結んで来ているのであります。

声の出るものは、出ない人を、若い人は、年輩者を、体の丈夫な人は、弱い人を、それぞれ労り、力づけ、励まして、折角命長らえた余生を、共に明るく、楽しく、充実したものにしてゆこうではありませんか。先輩各位におかれましては、それぞれ地域の教室にお顔を見せて下さい。そして後輩を励まして下さい。会員の皆様今後共充分健康を管理されまして、一層の御精進を期待します。

発声上達への助言

大町市 大橋玄晃

私が喉頭摘出の手術を受けてこの六月で八年になります。本当に才月の流れは早いものです。それに引換えて食道発声の方は進歩の度合が遅々たるもので上達の道の険しさをひしひしと感じている今日この頃です。振返って見ますと何度練習の壁に突き当って立止まった事か、その度に日喉連会報中の中村正司先生の食道発声上達への助言や銀鈴誌や神奈川銀鈴会誌の先輩諸氏の助言を読み返す事によって励まされ練習して来ました。

日喉連会報は御手許に渡っていない方も多いと思いますのでこれからの発声練習に非常に参考になりますので中村先生の発声上達への助言の一部を転載いたします。発声練習の順序には次の三つの順序があります。

(一)原音発生迄の練習課程

(二)日常会話を主とする練習課程

(三)上級会話を主とする練習課程

今右の内(一)と(二)の練習の参考になる先生の助言を書きます。

原音の出し方は、①口を開ける、②口を閉じる、③空気を食道に呑み込む、④呑んだ空気を吐き出す、の四段階の方法で食道に空気を送り込み、直ちに腹圧を加えて一気に吐き出す事により食道入口部の隘部に振動が起きて原音が出るわけであります。今図解説明してお茶による原音の出し方を指導いたします。

(1)口にお茶を十分にふくみ(このとき口中の空気は飲んだお茶の後方にある)

(2)次にお茶を静かに飲み下すと空気はお茶に押され乍ら食道に向って下りる

(3)そのお茶が食道に向って落ちようとする時

(4)腹圧を加えてお茶を再び口中に押し戻す様な気持で一気に押し上げる。

(5)この時に。"ア"の原音が出る

(6)お茶を飲み込むと同時位いに腹圧を加え、空気を戻す事が大切である

(7)空気を戻すとき力を入れる部位は食道の上部上アゴのAの部位である

この方法でやりますと割合に楽に原音発生が出ますし又低音で悩んでいる人等に効果があります。

次に日常会話の段階では、日常用語として一番多く使われる四~六音の単語を集中的に練習する事と、一~十迄の号令を一度に十回~二十回と力を入れて何回となく反覆練習する事が肝要であります。これは会話に必要な吸入した空気の量と、声として出す空気の調整が体得できる事と、更に吸引法の完全な修得が出来るからです。

以上が助言の一部でありますが、食道発声の上達には各人で練習の目標を決めて、発声教室だけでなく自宅に於ての反覆練習が最も大切な事でありますから、お互に努力して行きましょう。

玉虫物語

岡谷市 武内基

朝日新聞の三月八日付に国民待望の一兆億円減税問題六日間の国会空転紛糾の結果遂に玉虫色に決着した旨報じた。つまり五十七年度の減税は実現は危いものだ。ことによると駄目だろうとの内容であった。私は心配する程税金を納めておる訳でないが、ただ玉虫色に決着したと言うこの玉虫色なる言葉そのものに異様の感心をもち、色々連想して私の発声なんかも玉虫色と言っても用話の使用上は誤りでないと考えたりして独り苦笑したのです。

ところがその後二三日して私は思いがけない所で昔の職場の友達A君に約二十数年ぶりで行会った。私は懐かしさから突差に久し振りだねと例の玉虫色の声をかけたが彼は平然として立っておるので、私は彼は耳が遠くて聞えないのだと察し、彼の肩をたたいて、並んで腰かけ、持っていた新聞の余白に元気のようですね、と書いて出したところ、見ようともせず、俺はもう耳も目も駄目で、人様と話は出来ないと言うので、私は彼が耳も目も玉虫色では詮方ないと思ったが、未練がましく独語の様に話しかけたが、何の応答も得られず、彼の連れのものは近くの店で買物でもしておるのを待っておるのだと判断してA君に別れを告げて歩きだしたが何となくA君のことが気がかりで、二十数年前には、まだお互に元気で柔剣道も、逮捕術も汗を流してやった。ときには水泳もやったこともある。それなのに今見た彼の淋しそうな姿に自分を重ねて考えて、やり切れない思いで歩いておるうちに目的の銀行についたが、いま話の通じない友達と別れて来たばかりで一寸気遅れしたが勇を鼓して受付の娘に年金のことについて、少し、くどくど尋ねた、ところ私の一言一句が残らず聞きとれたかの如く明快の返事をしてくれたので用件はすらすらと済んでしまった。そこで私は相手が若い人なら心配ない、私の声で充分通用するとやや意を強うして帰宅した。帰宅して炬燵に入って又、いま行会って来たA君のいかにも老衰した姿が思い出され、彼だけ年をとったのでない、私も玉虫色の声になったのが悪いのだ。折角久し振りで行会って何の話も出来ず、別れて来てしまったと思い、沈んで、ふと炬燵の傍らに置く辞書で玉虫のところを見ると昆虫で体長約四センチ楕円形で金緑色で二筋の金紫色の従線があるとあり、玉虫色のところを見ると染色又は織色が光線の具合や見る角度によって緑色や紫色に見えるとあり。結局玉虫色とは色々に見え何色とも一概に断定の出来ない色のことで物ごとが「あいまい」「さだかでない」「どっちつかづ」「不透明」「不確実」「抽象的」であることを表現する言葉で私の考えでは終戦後に一般につかわれだしたものと思います。

ここで私の連想が始まったのです。玉虫は別に税金などと関係ない昔の善良な庶民が重税に苦るしみ玉虫の乾したものを軒先に吊して減税を祈念したとか増税避けにしたと言う古事来歴はないのです。また日本が世界最古の木造建築の一つとして誇る正倉院の数ある御宝物の中にある玉虫厨子というのは玉虫の羽根をそのまま漆で塗り込んで造られた佛像の容器で別に減税の御利益のある佛像を安置した様なものでなく単に玉虫の荘重深淵な色彩が珍重されて用いられたものと思います。

次に懼れ多いことですが今日の日本が経済大国として世界に君臨する第一歩を踏み出したのは御承知の通り昭和二十年八月十五日の天皇陛下の終戦の御言葉と思います。この終戦なる言葉は、この時まで日本では全く使われていない耳新たらしいものでした。無論「戦後」とか「たたかいすんで」とか言われておりましたが突然に、天皇陛下の重大放送がラジオでおこなわれると言うので、全国民と同じに、私も職場の上司同僚約百人で聞き終って、その場で座談会をやりお互に話し合ったが、終戦なる言葉は皆な初耳で自信もって説明のできる者は一人もなく前後の御言葉の中にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」とか「国家の再建に力を致せ」と言う様な御言葉から推測して大東亜戦争は日本の一方的勝利とまでいかないが兎に角敗戦降伏という程のこともなく一応戦争が終ったと漠然と殆んどの国民は考えたでしょう。私はこの十五日の夜、国鉄軽井沢駅に行って駅前から構内に溢れ大混乱しておる群象の中の数人が外国人らしい発音で日本は戦争に敗けたのだと大勢の者に聞えよがしに大声で叫んでおるのを始めて聞きました。当時国民は「鬼畜米英撃滅」「一億一心火玉」「神州不滅聖戦完遂」「玉砕あるのみ互全を恥ず」なんて半狂乱なんてものでない全く狂乱状態の国民感情を考え軽率に「日本は敗戦遂に全面降伏の止むなきに致った」なんて率直な放送があれば火に油を注ぐ様なもので国民の混乱は極に達し遂には日本は自壊潰滅してしまうとの情勢判断から当時の日本で全く使われていない終戦なる言葉で先ず国民の虚を突き、ほんの一寸の間やんわり戸迷どわせ試行摸索反省自重を促したもので、この当時では全く玉虫色の終戦なるお言葉こそ今日の日本の再建繁栄の基礎であり原動力であった。人類史上にも類例のない珠玉の適切な名言であったと後世の歴史家が称えるであろうことを私は今ここに予言する。

以上の通りで私は本年七月東京で第三回喉摘者世界大会の行われることをふまえて何といっても喉摘者の一番の悩みは発声のことである。なにか発声上達の秘伝虎の巻公開でもと意気ごんではみたものの何も考え出せないまま自分の声から連想してこの一文をものにしました。

(四月一日)

初心にかへって頑張らう

安曇村 宮本音吉

一生忘れる事が出来ないだろうと思っていたあの喉頭摘出を宜告され手術後の不自由さと不安の日々の想い出でも、どうやら会話も出来る様になり、健康も回復し再就職も出来て自分なりに忙しい様な毎日に追れているといつしか忘れ勝になる此頃です。あの苦しかった悪夢であってほしいと想った体験は出来るものなら一日も早く忘れたい、然し大切な自分の健康管理までも平常の人達の様な気分になっては大変である。もともと苦しい体験も元をただせば自分の平常の健康を誤信し過ぎた結果に外かならないことを自分が一番よく知っているはづなのに。三月になって会報原稿の話しを聞くと都度はっとして我に帰る。手術に成功し退院当初は一日でも一時でも早く失った声を取り戻し社会復帰を夢見てあらゆる機会を利用して自分なりに頑張ったはづなのに、信鈴会の先生方の一方ならぬご指導によりどうやら会話が出来る様になったとは申せまだまだ半人前なのに最早当時の事も忘れ勝になるとは本当に申訳けない気持で一ぱいです。昨年六月会長先生のお供をして他の先生方と共に東京銀鈴会総会に出席する機会を得まして大勢の先生方の発声方法や発声競技会の各代表者三十名近い方々の発声を聞いて参りました。先生方は勿論ですが各代表者の皆さんも男女を問わずこれが喉摘者だろうかと思われる様な上手な話方の人達ばかりで本当に驚いて帰りました。若い方も年輩の方もお互に人知れぬ努力の積重ねであろうことは充分に察しがつきます。私しも当初のあの気持を持続して実行していたならばあれ程までの上達はなく共も現在よりは数段上の道を歩いているのではないかと考えられます。

昨年の国際障害者年に引続いて今年は第三回喉頭摘出者世界大会が東京で開かれ喉摘者の発声リハビリテーションに関する重要な問題対策が究明解決の方向づけする会議がなされるとの事で私達も本当にうれしいことです。是非共大会の成功を願ってやみません。

私しはたまたま三月未日にバイクの免許証の書替で四月二日に新交付された免許証の表紙に金文字で大きく「今一度初心にかえって安全運転」と書いてありました。私しも今年は丸五年目を迎えている発声訓練生ですが、此の標語の通り今一度初心に帰って懸命に出来るだけの努力をして見ようと心に誓いました。大会が成功され立派な施策が方向づけられても矢張り失った声をより良く取り戻すためには一にも二にも本人の努力より外に道はないと思います。頑張ります。皆様の一層のご指導をお願いします。 一九八二、四、五

思い出すまゝに

信州新町 西沢功一

権威有る先生方や看護部長さん、婦長さん、尚先輩各位の貴重なる原稿の中に私如き無学で殊更文章を認る事が苦手な者がと随分躊躇致しましたが、鳥羽会長さんの御要請ありましたもので過去の悪夢の様な出来事を走馬燈の如く思い出すまゝにペンを取りました。

扨歳月の流れは実に早いもので、手術を受けてから早や三年目に這入りました。廻顧すれば去る五十一年三月信大病院入院放射線治療七○○○ラード二ヶ月余りで退院此の時の嬉しさは言語に絶するもの、まあ良かった確認検査もパスし、此れで病気は全く終ったのだと仰頂天になり農作業に、林業に、夢中で働き一年半程経過した秋頃からどうも再び咽喉の調子が悪いので信大より地元新町病院に週一回出張治療の主治医の先生に相談しましたら、精密検査をやりましょう。信大の方へ来て下さいと言われ十一月初旬検査の結果は思いもよらぬ黒と出ました。今度は手術より仕方無いとの事に吃驚り仰天此の時の衝激は言語に絶し主治医の先生に自分はもう年齢的にも限界が近いし手術を受けずに死に度いと申上げたら先生はもっと高齢の人も手術を受けて立派に再起して居るからと悟され、尚今野副部長さんが手術の事やその後の発声等に付き極て懇切入念なお話を承り幾分気も落着いて帰宅、意を決して苦悩の中にも手術の為に入院日来たり近親に見送られて思出多い巨大な信大病院再度入院、個室に一人苦悩の日々でした。時恰もあの激務の中今野看護副部長さん再三訪れ種々語られ励まされ悟され。尚食道発声で成功された方々を遺して元気附けられのみならず六人部屋に転室まで御配慮頂きお部屋の皆さんもそれぞれ励まして戴いたので大変気分もまぎれ手術の日を迎え朝八時半からの手術も夕方無事終り以後経過も余り良好でなく三ケ月近い三月九日待望の退院となりましたが同病者が等しく経験の声無き帰宅で心から嬉びも湧きませんでした。

扨て何としても声を出さなくてはと今野看護副部長さんにお願いして長野日赤発声教室に照介して戴き義家さん鈴木さん両指導員の御熱意の御指導の賜で何んとか言葉が出る様になりましたが、まだ納得のいく発声にはなりません。考えれば全くの無から有への食道発声の道のりは、各人、各様に、異りまして人一倍無器用の自分は、今後一層頑張って、勉強し、人生残余、精一杯生き抜き度いと思いますもので、関係者皆様方の変らぬ御指導御交誼を只管お願申し上げます。

最後になりまして御礼でございますが主治医の河原田先生、今野看護副部長さん、看護婦御一同様在院中公私愛情溢る、格段の御世話様になりました事終世忘るゝ事は出来ません。衷心御礼申上ます。

尚七月開催の世界喉摘者東京大会の成功を祈念して終ります。御笑読戴ければ幸です。

振り返って見て

伊那教室 桑原賢三

先日教室同窓会の肝いりで私の開講十周年のお祝いをして頂いた。鈴木篤郎名誉教授を始め信大耳鼻咽喉科学教室の先輩諸賢、同級生、後輩、教室員、永田哲士医学部長始め教授会の同僚、今野弘恵副看護部長始め耳鼻咽喉科に関係のあった看護婦、百瀬領子婦長、関連病院の院長、副院長など多数の方々のご参集の下に、曽ての同級生井沢一義先生と私の特別公演と祝賀会が行なわれた。私にとってこれだけ多くの方々に祝福されるのは結婚式以来のことで、いささか緊張と冷汗の連続であった。その時ふと考えたことは、さて何のためのお祝いなのだろう、なぜ十年だろうかということであった。人は区切りを重んじ、年齢にも還暦、古稀、喜寿、米寿などがあるが、仕事の上でも十年、二十年の区切りがあってもよいということとは別の話であろう。仕事を始める時と辞める時はあってもおかしくない。理詰めで話しを進めることは必ずしもよくないが、私共にとって一番大事なことは年限でなく何をしたかということである。何もしないで十年、あるいは二十年経たから祝って貰うというのは大変有り難いことであるが、祝われる当事者にとってはむしろ迷惑なのではないかともいえよう。私の場合も七年目に祝ってくれるという話しがあったが、この時はただ記念会を開くだけの企画であったのでお断りした。そして十年目、今度は教室員が中心になって論文集を完成し、心から祝福を受ける気になった。論文集は我々の教室のほぼ2年分の仕事の内容に相当する三十二編の論文からなり、何より嬉しかったことは今まで一編も論文を書かなかった者が何人か書いてくれたことである。このような教室の行事に教室員が一丸となって打ち込むことは教室をまとめ、活性化する上に最も大切なことであり、それだけに私の喜びも大きかった。

信鈴会も年々組織を拡大し、その活躍の場を広げており、ご同慶の至である。そして会員誌「信鈴」は会員を結ぶ大きな絆であり、信鈴が続く限り、信鈴会も益々発展を続けることと確信している(平成二年十一月)。

発声教室開講

篠ノ井 鈴木ふさ

去年四月二十一日午后一時から佐久総合病院に発声教室が開講されました。私達言語障害者にとってはとても嬉しい事です。

病院側の多大な御配慮を頂きそれに高柳、三瓶さんの御苦労を思うとき唯々頭が下がりました。ありがとう御ざいました。

五十五年五月十八日親睦の会山彦の結成された時も参加させて頂きましたが、皆さんが、人口笛を使ってのお話声のきれいな事、上手なことに本当に驚きました。どんな方法でもいい、話せる事の尊さを思うとき苦労して努力して意志が通じた時に「ホッ」とした暖かいものを感じます。

今野副部長さんのお話の中にもありましたが発声教室に出席してみんなと病気の事や健康上の事を声が出ないで、イライラしたりいろいろな苦労話をしながらそれがみんな経験ずみの人達ばかりの集りなので、とても慰められ元気づけられして胸にホノボノとしたものを抱いて帰ります。

発声練習のとき声らしきものが出なくても時をおいて突然声が出て「アレッ」と自分を見直したりして。

発声教室とはそんなところです皆さん元気で頑張りましょう。

(五七年三月三一日)

入院前の苦るしみ

岡谷市 小林政雄

昭和五十二年五月次男の結婚式を済ませてホットしていた六月頃風邪を引いたのか声が嗄れてしまったのですが、毎年風邪を引いても二週間位過ぎれば声の嗄れは治ったものでしたが、今年は少しも治らず、夏が過ぎても駄目で九月に医師に見てもらったが、体力の減退もなく終戦後三十年、病気らしい事もなく体力には自信があったので大した事はないと思っておりましたが、時々喉から血が出る事もあり一寸悪い病気ではないかと思い通院していた医師に検査をして戴きましたが別に異状なしとの事、何ヶ月か過ぎ、一寸変な咳が出る事があり家内が喉をのぞいて見てくれて何かしめり気の無い田の面の土のひび割れの様な喉をしているよ、父さん耳鼻科に診察してもらったらと云われ、次の日医者に行くと木曜日に信大病院へ行く様に紹介状を書いて下さいました。其の時は家内と本當に不安で眠れませんでした。

不安を胸に信大へ行き、其の結果、左声帯反回神経麻ヒとの事で、今までの医師に診てもらう様に云われ内科と耳鼻科に通院していましたが、声嗄れだけでまだ体力に心配もなく、まあまあ位で、一日々と暮して居りましたが、今考へるとゾクゾクする事がおこりました。

五十三年三月十日夜床に付き三十分程した頃急に呼吸が苦しくなり顔面が青白くなり三十秒程呼吸が止まり、家内も私より青くなって背中をさすってくれたり、息子に電話するかと大さわぎになりました、しかし二、三分程過ぎると、やっと少しづ、楽になり、その后夜はそれで何となく休みました。

しかし其の後、呼吸一時的な停止は、三、四回ありました、其の時から私の病気との戦いが、始りました。

又苦しくなるのか、会社で、営業の関係上、車の中で若し呼吸が止まったら、どうしようかと心配の毎日でした。そうこうする内に、夏になり段々と食事がまづくなり、秋には御飯を見ても嫌やになり、カレーライスや、ラーメンなどを喉に流し込んでいました。しかし、其の頃百科辞典を見ると、声帯神経麻痺とは呼吸困難になり喉頭ガンの事もあると書いてありましたので、もう自分は助からないと思い込み、仕方がないから、生きれるだけ精一パイ一生懸命生きようと覚悟していました。しかし医者だけは通院していました。

五十三年十二月も一寸運動すれば呼吸が苦しくなる事が多く家族との暗い新年を迎へ、正月中は床の中で暮し四日より会社だと思い気をくばって無理に御飯を流し込み会社へ出勤しましたが、一日々が長く苦労でした。小正月が過ぎ、余り体の調子が悪いので、一月十八日医者へ行くと午后から岡谷病院へ行く様に云われ、これは大変な事になったと思い、息子を会社から呼び一緒に病院に行くと非常に危険な状態だから明日信大病院に行く様にと云われました。とうとう来る時がきたかと思い、一月二十日に信大へ行き診察の結果、もう其の時は呼吸困難の状態でした。それから二十二日に入院がきまり二十日二十一日の二晩は本當に苦しい夜でした。こんなに苦しいものを早く入院すれば良いのにと云われましたが、サラリーマンの私は入院に備へて会社へ行き事務の引き継を済ませ家に帰りました。二十一日の夜は大変でした。一寸楽だと思へば又苦しくなり、それでも夜中になると幸な事に眠ってしまいました。

朝、目をさますとあゝ父さん生きていたんだねと家内もホットした、と云っていました。本當にそばに居て聞いた人でなければ解らない呼吸音の様でした。家内は夜ほとんどねていなかった様でした。

昭和五十四年、一月二十二日信大病院の入院患者の下駄箱に来た時はこれで先生に渡したと思い、私の肩の荷が下りたと、家内が話してくれました。

午后気管口の手術を受け呼吸が、うその様に大変楽になり生きかへった様でした。

家内には一年半の長い間気の遠くなる様な苦労をかけた事は、私の一生の不覚でした。

入院した時から先生が色々教へて下されて私は全治する事を信じて、先生を信頼して入院生活に入りました。

天竜舟下り

飯田市 山下竹一

待望の信鈴会の、レクリーション、天竜舟下りが天候に恵まれた昨年九月二十三日、二十四日の二日間に互り行われました。

尚今回は今野副部長さんの参加により更にその意義を深くしました。

松本より貸切バスにて出発途中、伊那中央病院参加者合流して、更に飯田駅前にて三名乗車して午后四時、辨天港より待望の舟下り、皆で記念寫真を撮り、一同乗船、右側に飯田市の丘陵を眺め、左側に南アルプスの山々を眺め乍ら文字通りしぶきの飛び散る波間をナイロンにて防ぎ乍らの約一時間の舟下りを楽しみ、五時頃宿泊地、竜峡亭下の岩壁に横付け一同少しの緊張より漸く解放されて足取りも軽く竜峡亭の各部屋に落着き、夕暮迫る天竜峡の散策に、三、三、五、五、出掛け竜角峰、紅葉橋のつり橋、天竜峡公園、姑射橋を一回りして七時より大廣間にて懇親会が行われました。

天竜村の花田さん、地元飯島さんの奥さん、それに飯田よりかけつけて下さった林さんの奥さんを交へ竜峡亭の従業員の特別出演による竜峡小唄、伊那節と、次から次へと盛択山な歌に踊りに楽しい一時は忘られない思出になった事でありましょう。

天竜の流れを眼下に見下ろす寝室でしたが意外に静かなのには驚きました。各自、思ひ思ひの夢の中に一泊して翌日二十四日朝八時思ひ出多い竜峡亭ホテルを後にバスの中、途中自己紹介等し乍ら松川町の撰果直賣所にて名物二十世紀梨を求め一路養命酒駒ヶ根工場に到着

全工場近代的オートメ化した工場見学に移りました。先ず案内嬢の説明にて塩沢家と養命酒の生辛ちのスライドを見て工場見学に移りました流石各工程非常なる清潔なのには驚きました。

時間の遅れを気にし乍ら菅の台高原食堂にて各自昼食を取り最后の目的地光前寺に至り名物の光苔、樹齢何百年の大木の繁みの中に肌寒さを感じ乍ら名犬早太郎の説明を案内嬢より聞き何百月前の建築物を見学し午后の西日を背に帰りのバスに乗車楽しい、レクレーションも終りに近づきました。

途中駒ヶ根にて筆者は皆さんとお別れしましたが下車後遠ざかるバスを見送り乍らさめやらぬ楽しい思ひ出を胸の中に、どうか皆さん無事に御帰宅出来ますよう、そして何時の日か再び此の南信濃をお訪ね下されますよう祈りました。

山崎さんを偲ぶ

長野市 義家敏

山崎さんという人は、私達の病友で、八年前に高田中央病院で摘出手術をされ、五〇年四月から信鈴会々員となり長野日赤の発声教室に来られていた人であるが、昨年の春、会報に「野のほとけ」と題し投稿され、会報ができないうちに亡くなられてしまい、思いがけない事であり、残念でならないのである。

山崎さんは越後の高田、寺町の寺の住職で優しい和尚さんで、誰からも好かれる人であった、そしてなかなかの文筆家であり、俳人でもあったのである。

信鈴会に入会されて以来毎年の会報には何時も投稿され、格調高いもの、人情味深いものと私は読ませて戴いた、五〇年に出されたのが「生かされる喜び」と題し、生かされた喜びをしみじみと感じられた事、一ヶ月に二回通う長野への車窓から眺める風物も珍しく楽しく生かされた喜びを感じつゝ発声練習にいそしむと書かれてある。

五一年には「近時雑感」と題され、病友は「一見旧知の如し」の言葉通り語らずして親しさを覚え、病友とは嬉しいものである。

そしてその中で、生きる喜びを語り、若葉の頃の信濃の山野の美をたたえ、うしろ姿のしぐれてゆくさま、これも自然の姿である、年とったお蔭と病気をしたお蔭様で自分のうしろ姿が見える、私共は無理せず自然に素直に云云とある。

五三年の「近時雑感」と題されては、その中で、珠算の読上算で「ご破算で願いましては」と言われる言葉が妙に好きで、ガラガラッと珠を一切払って、又始めるのは気持がよい、一生の間に一切をご破算にして、又出直すということも、さっぱりしてうまく乗り切れたが、今度の摘出手術には、命は助けて頂いたが、発声不能、今までのご破算とは、全く異質である。

ところが幸運にも長野の食道発声に通ってよき病友に慰められ、励まされ、三年間教えられ、どうにか家族とは話が出来る、昨今ではお経も、短かいものを朝夕、仏前であげるようになったが、今は心静かに読みつゝ自分にきかせて頂いている、「仏教の教えをきいて、自分をわからせて頂くのです」と言われる先生のお言葉が漸く身に知らされた、声がよく出なくなって、始めてしっかり自分をみつめる事が出来た何よりの幸せで、いろいろの意味で、今回のご破算も有難い御縁となったと思うと書かれた、その中で「時期円熟」「コスモス」の二つが書かれてある、時期円熟では、生来不器用な小生でも、あきらめないで気長くつとめたなら、いまに時期が熟して上手に発声できるであろうと。

コスモスでは、山崎さん作「コスモスの倒れしままに咲きにけり」の名句である、やさしくなよなよと咲くコスモスの花、風雨の強い北国では支柱しても倒れてしまう、地面に倒れても、コスモスは、枯れることなく、やさしい緑の茎、葉の先先を上に向け、赤、白、紫など色とりどりの花を咲かせている、倒れしままに咲くコスモスの美しさ、この生命力というか、生かされる力といったものをしみじみと感じる、今後何年生かせて頂くか知れないが、人生の意味、喜びを感じて過したい、と結んである。

五四年には「この人も」と題されて、他作の句「この人も信ずるに足る春の雷」と高く評価され、人情、人柄などほゝえましく思い、ほのぼのとしたあたたかみを覚えるのであるが、現世は目を覆いたくなるような記事のみ見えると悲しまれ、ご自分は喉摘後五年目で昨年は又五月、十一月と二回も新らしく出来た喉頭甲状線の肉腫摘出手術の為入院してしまったが、不思議に生かせて頂き又長野の教室に通いたい、長野に行けば病友皆温情を感じ、発声は不自由でも、代りに人のあたゝかい情にふれて、生かされる喜びを感じる身の幸せを覚えるとある。

そして五五年には「野のほとけ」と題して、路傍、大樹の下などに野のほとけを拝するとき、長い歳月、冷たい風雪に耐えて来られたお姿、御身のどこかが痛んでおられるのに、拝む度に受ける感じは意外に明るく、呼びかけて下さる様な心さえして、さあ立ち上りましょう、と慰められる気がしてならない、六年前から信鈴会の皆様から慰められ、励まされ、教えられ本当に有難く、嬉しいと言われている、そして山崎さんは、高田から長野に来る車窓から眺める信濃の四季に心をひかれ、こよなく信濃を愛し好まれておられたのだ、この題の一節にも、信濃の春は美しい、草木ことごとく命ふく季である、緑の草は崩え、木々は淡黄に、濃緑に、或は赤く或は黄に芽をふき出す、そしてこぶし、梅、桃、桜、杏、りんご等百花一時に開く、清冽な川は流れ、野鳥は妙なる音を出してさえずる、この美しい暖かい春を迎える喜びは又格別であると、名文をもって信濃の春をほめたたえ、好まれていたのであった。

この山崎さんが、思いがけなくお亡なりになり残念でたまらない、今にして思えば、山崎さんが毎年書かれた時のお心が何となくわかるような気がして胸を突くものがある。

「コスモス」に感じ生きられ、「野のほとけ」に感じられて生きられた山崎さんに心から敬意を表するとともに安らかに御冥福をお祈りする次第である。

摘出後今日まで

伊那市 伊藤良長

摘出後一年五ヶ月、早い物で話せないまま月日だけは遠慮せずどんどん過ぎて仕舞ふ私は、伊那教室と松本教室両方に御世話様に成り諸先生方を始め看護婦さんはもとより同僚の皆様に大変御迷惑をおかけして居ります。

松本へは列車で通いますけれど列車の中では他人に話しかけられ無い様、何時も一人の座席を選び窓外を望めながら思ひは遂、過去の事ばかり、あの元気で大声で、生徒の教育を行って居た頃の事等、次々と回想されて参ります。もう声帯は無い一人で居ると又愚痴に成って来る。

然し信大へ着いて同じ摘出者の皆さんに會ふと「とたん」に元気が出て参ります。国際障害者年も終り、話題に成ることも少くなった折だけに、声体摘出者の皆さんにお會ひして片言交りに話すのが本当に楽しみの一つですので伊那と松本と両方に出向して居る訳です。

入浴しても肩をたっぷり「つかれ」ない悲しさ等々思へば涙の出る事ばかりですが内臓は誠に健康ですので今後はより一層発声練習に一生懸命に努力致し一日も早く人との会話が出来得ます様努める心算で御座居ます。そして肉体的、精神的にも負ける事無く頑張る心算です。

一緒に摘出術を行った藤沢さん共々それから今年も「リクレーション」研修旅行にすばらしい所を選んでお願ひ致します。

最後に鳥羽会長さん副会長さん今野副部長さん病棟の看護婦の皆さんに心から御礼を申して筆を置きます。

歌三つ

一 食道の発声に集ふ男の子等は 何時も明るくはればれとして

一 病棟の窓より見ゆる東山 湯煙りなびし浅間温泉

一 同僚に會ひ片言ながら話す時 我を忘れて一人微笑む

所感

小谷村 松沢喜栄

会報、信鈴、第十二号の発行に當ってはいつも乍ら信大並に長野日赤の本会顧門の諸先生、島成光顧門、今野看護副部長そして鳥羽会長以下役員の皆様方の並ならぬ御努力に対し深く感謝の意を表し厚く御礼申上げます。私は昭和五十四年四月入院して六月十五日に喉摘手術を受け、遂に生れ乍らの声と言葉を完全に喪失しました。月日の立つのはほんとに早いもの、あれから四年目、満三年となり、もうすぐ年令も七十九才の誕生を迎える日が近くなった。入院以来の思い出に、涙のにじむ様な事がある。當時耳鼻科の今野婦長さんから理をといての手術決意の急を勧告を受けた時、余りの突然に驚き、実に断腸の思いでした。併しあの時若しも手術を延ばしたり,等して居たなら、私は今頃此の世に存在しないであろう。思えば今野さんは生命の恩人、今亦、声の恩人として終生忘れる事は出来ない。術後は年の割合には経過が順調とんとん拍子で八月十五日には退院出来ました。けれ共、宿命的と云ふか、後遺症は数々ありますがせめて発声と会話がもっと良く出来る様にと願って居ります。発声教室の先生方や看護婦の方々そして先輩各位の皆々様いつも変らぬ御親切御指導と御愛情に頭がさがる思いで感謝して居ます。発声会は唯単に訓練だけでなく皆んなのなやみや、心配事など何でも気がねなく、気楽に話し合い解けあえる心のよりどころとなる様にと今野さんは信鈴十一号に書かれて居る。実に金言であり誠に有難い幸に思います。老令に加えて遠路意に任せず欠席勝で勉強不足の為、上達が出来なく御趣旨に添えない事をお詫びする次第です。それでも私も今は多くの信大で知ってる方にお会いしての言葉や近所の人々もおじいさん大変良くしゃべれる、上手になった、言う事みんなわかった、なんてほめて呉れます。そんな具合で筆談の必要もなく、これも一重に皆様方の御指導の賜ものと深く感謝する次第です。昨年は国際障害者年で各界各層それぞれの成果を上げて明記すべきものが多かった事と思います。身近に新聞記事其の欄は必ず目を通す。亦村の自治体も其の意義を深める為の催しを行い。参加させて貰いました。

我々身障者も其の趣意にこたえて人間としての自己の生命を尊重して強く生き伸びる様に努力すべきだと思います。尚亦本年は喉摘者世界大会が七月東京で開催の由。其の意義は極めて深く大なるものと思います。それは国内的にも世界的にも現状のままではいけないとの所以で大きな団結の力で開拓する事でせう。長野県信鈴会も力強く立ち上る様にと御期待致します。

次に末筆乍ら会員の皆様此の意義深い年度に際会して一層思いを新にし御健康で発声技能の向上の為に御精進下さいます様にと心から祈念して止みません。

(昭和五十七年四月)

個性豊な楽しい教室が出来た今!

茅野市 小池増晴

長野、佐久、伊那、松本と訓練の日程が違うように各教室それぞれユニュークなアイデァのもとに実に美顔の多い楽しい雰囲気での教室に出来上りましたネ。ありがとうございました。部長さん各教室の指導の大先輩亦大勢の皆さんには、本当に頭が下ります。私達の先輩には尊い血の出るような体験をされて頑張って居られる方が大勢居ります。声が資本の住職を術後も続けられて居る方、大勢の最先頭に立ち、きびしい時代の企業の経営者の要職で頑張って居られる其のど苦労は余りあるものと思って居りますが、でもお互に、大、小の差こそあれ皆同じ苦難の嶺を越した者同志です。三年目を過ぎて私は見て、聞いて、少し々は体験した処で今回の会報発行を機会にご家族の方々に思ひ切ってお願ひをして見ようと思ひます。私共喉摘者は本人は勿論のことお家族の方々も共々苦渋、苦労も大変である事は充分に承知して感謝して居ることだと思ひますが時には応援の度の多い事もあるとか聞いて居ります。

私共の発声訓練の過程では人それぞれ顔、形が違うように、同じ教室で、同じ訓練を始めても、努力の結果では、決して一様ではない!体質も変りました。物事に対処する考え方、姿勢も違って来ました。そのように心身共に変て、その上で、かつ声で毎日毎日を苦心をして居ります。喉摘者の声は出ることこそ不思議くらいの尊い声で尻をたたかれて簡単に出ると云う声では決してないとお理解して下さい。私達も絶えぬ努力と忍耐と勇気で頑張ってますのでご家族の方々も今一歩暖かく声援して下さい。そして私達に少しも遠慮する必要はありません。大きい唄声と笑声こそ私達には重要なストレスの解消剤なのです。思ひつきですがよろしくご声援を。終り

近況思いのまゝ

丸子町 西澤治宣

日の経つのは早いもの、喉頭を摘出してより九月で五年になる。

食べ物を鼻の穴から、押込んで貰い、食道を通るだけで味覺がない。斯んなことで負けてなるものか。と自分の心を励ましのうちにも、病気が病気だけに先行の不安が頭をよぎり、病気になると生への執着を強く感じるものである。

「顔色がよいし五年もたてば、もう大丈夫ですよ。」と人様が何を意味してか?言う。と言ってノドに開いた穴は塞がらない。やはり廃疾者として世間では扱われる。一人前の軀ではない。喉頭をとったのだから、食道の粘膜の振るえで微かに声になる程度で、到底常人の声のようにはゆかない。

テレビを見ては、健康な若者の唄う姿に羨ましさを感ずる。公衆の面前で大演説をした、あんなにすらすら喋れたのに、昨夜の夢は消え、孤独感に襲われる。人様が「解りますよ、話が上達しましたね。」と言ってくれるが、半信半疑、気分が重い。若い人達は耳がよいから聞き取ってくれるが、老人は耳が遠いし、書いても眼が見えないので、話にならない。九十才になる白内障の兄との対話には困る。眼は見えず、遠耳で聞えず、書いても会話にならない。家内を通訳に入れてこと足れりだ。

老人会の会合も、人の言うことを聞くだけ遠耳の老人達には言葉が通用しない。若い人でも筆談で書いてやると、耳も聞こえないと思ってか鉛筆をとって紙に書く、「耳は聞こえますよ。」と又書く。近頃はもう書かない。面倒なことは喋らない。必要なことだけゆっくり食道発声で話す。バス旅行でガイドの歯切れのよい、名勝旧跡の説明や、演歌を聞き、楽しみ、若かりし頃を偲び、行楽に浸る。

発声教室も二年程通い詰めた。焦りかさっぱり上達しない。「口腔囁語だ」と教師に言われたものだ。痰がしきりに出るので、人工口頭は非衛生的でもあり、婦長に「使わない方がよい。」と言う言葉を守り通した。山梨県から人工口頭を取寄せたこともある。衛生的でないし、金属音が気に入らないので、使うことをよした。それに人それぞれが喉摘形成が一様にゆかぬと思う。形成後の喉頭はそんなに甘々と発声するのに都合よいわけはないと思うし、焦らずとも四、五年位になると、苦るしみの積み重ねと、工夫で、一と通りの通用はできるようになる。

それより、寒い時期には気管口の中に痰が溜り、乾いてこわくなり、なかなか出てこない。詰って呼吸が苦しくなる。そんな時、信大薬局処方のキシロカイン・ゼリーをカニユウレイにたっぷり付けて、気管口に指し込む、そして吐き出せば、痰燥がとれて楽になる。乾いた痰に血の付いた痰コロが出てくることもある。

冬中三・四回は毎日繰返し掃除をする。京大式吸入器も時々使う。ボール水と痰を柔かくする薬は、近くの病院で処方して貰う。

この頃、気管口の穴がだんだん小さくなって、一〇号カニユウレイが苦労してやっと指し込む。と言っても、入れっぱなしでも邪摩になって、重苦しい。天候が雨降りの時は、呼吸も楽だ。暖房のそばは苦手だ。川のほとりや水気の有る所は又よい。温泉に浸って居ると、呼吸も楽で、気分もよい。湯気の潤ったノドは声もよく出るし、アルコールが入ると尚よい。

以上思いのままを書いたが、参考になれば幸甚です。同じ頃入院の友は、どうしているか、同病に苦しい者の消息をこそ知りたいものです。信鈴会に席の無い者も沢山居る。もう寒い、病気に怖い時季も終り、春です。健康で長生きしようではありませんか。

(五七年四月八日記す)

諏訪市 笠原よ志

身障者が特に取り上げられた国際障害者年、公に取り上げられて世に問われる年に私は身障者の仲間入りをして間もなくの事だったのでよい巡り合せと喜こんでもおりました。でも身障者の本当の幸せは大さわぎをする事ではなくて一人一人が日常の小さな事に心を配って人間の存在価値を認め合う事だと思うのです。一日に一度でいい、喉摘者のたどたどしい発音や、言葉を、落付いて聞いてくれる人があったらと小さい孫が「ばあちゃんの言うのを聞くのは面倒臭くて嫌だ」無邪気だからこそ単的に言い得たのですがこれが正直な誰もが持っている当然の気持ではないでしょうか。

先日思い余ってお仲間のFさんのお宅へ一時間許りと思ってお訪ねしたのに三時間も話しこんでしまいました。世の中が忙しいと言ってしまえばそれまでですが所詮は自由に話の出来る人にいろいろ求めるのはもともと無理な事で自分達仲間がそういう世間の中で何か強く楽しみを見出して生きて行くか、ひがんだら切りがないし惨めになる許り、何か世の中の為に人の為になれる事を創り出して行きたい。仲間同志連繋を取って心を温め合って行きたいね。何とかして集って語し合う機会を作りたいね等、話し合ってその後幾日も私の心はさわやかでした。国際障害者年は去り今年は喉摘者世界大会が催されるとの事、末端の一人一人洩れなく幸せを摑む事が出来ます様祈り乍ら。 以上

唐突に終濤の如き悲しみが声失き我を襲うことあり

声失って口より出づる禍いの勘き事を喜びとせむ

発声教室に想う

飯田市 林ちよ

今年の冬は割合雪が少なく過ぎて、彼岸も過ぎ、度々の寒の戻りの繰返しの中に、もう桜の花の季節となりました。今日このごろ夫は術後三年目に向って毎日を元気で過させて頂いております。月に二回伊那食道発声教室にお世話様になり、ご指導よろしき中に一回も休まず出席させて頂いて出来ないながらも良い雰囲気の教室に出る日を楽しみにして居るので、私もその席に加はらせて頂いております。声はぼつぼつ出るのですけれども、なかなか言葉にならず指導して下さる先生方に、ほんとうに申しわけなくハラハラして傍から見ております。

先日のことNHKの朝の放送劇「本日は晴天なり」の中にこんな言葉を聞きまして感動いたしました。人の一生は水の面に浮ぶ木つ端の様なもので、浮き上る時もあれば、又沈む時もある、私は心打たれました。私どもの今の心境そのものと思います。そのうちに夫も声が出る様になっておくればせながら皆様方とお話が出来る時を期待して、見守って行かねばと、思っております。幸にも体の方は異状なく月一回の定期検診を受けて安心しております。今後共皆様方のご指導の程をよろしくお願い致します。私も明日という窓に向って夫に協力しつ、頑張って行かねばと思っております。

声を失いし夫をいたわり過ぎて来し術後二年は束の間にして

雨晴れて空に聳ゆる安楽寺の八角三重の塔携へ来りて仰ぎ佇ちたり

四月九日記す

ショック

明科町 矢花久治

昭和五十五年はいつになく涼しい夏であり、凶作になるのではないだろうかと心配された。東北地方の稲作は随分ひどくやられたと報道されたが、当地方では僅かの減収で済んだ。

秋の収穫期を迎えた頃、何んとなく声に変調を感じ出し、日が過ぎるにつれて、妻にも変だよと、云われ、人にも風邪をひいたのか、等とも云われる様になり、次第にひどい、ガアガア声になってきました。信大病院の耳鼻科で診察を受けたのが、十二月の初め、主治医の先生の話では簡単な病気ではない由(癌などとはつゆ知らず)入院の必要があるからと云われ四、五日後に入院しました。治療は喉頭へインターフェロンの注射が行なわれました。そして一週間の沈黙が必要と云う事で手まね筆談の不自由な生活に入り、一週間で退院するも、一月に再度入院する様話がありました。家庭療養に移っても、病気への不安と焦燥にかられる毎日であり、かろうじて読書で気をまぎらわせて過ごしました。

年が明けて五十六年何回となく入退院を繰返したら注射ライナック放射線と治療が加えられたが、新に発生する腫瘍は押えられず遂に喉頭手術を受ける事となりました。主治医の先生にはこの四ヶ月の間何んとしても治すべくいろいろと努力して載いたが、望がかなえられず、妻や家族の願いも空しく消えた。声はなくとも生きてほしい、看護婦さんや、家族に励まされて、手術台に横たわる、美ケ原の峯々が春雨に煙る四月の或朝だった...。

あれから一年が無事過ぎました。私をとりまく全ての人々に助けられて、感謝しつゝ元気よく暮らして居ります。

回想

岡谷市 山田正典

今考えると認識不足と言うか、この病気を全々知らなかった。又親戚、知人にも知ってる人は、いなかったので、家の者も気付かずに、過ぎてしまった。自覚症状と言えば、風邪もひいていないのに声がかすれたり、又治ったりする程度なので平常丈夫で、御医者さんぎらいの方だから、大した事はないと思っていたのが、失敗のもとだった。

それから約半年位すぎて昨年六月頃より得意先より電話の声がきゝにくいと言われ、附近の御医者さんに診療を受け招介状をかいてもらい、信大にて七月七日入院して、おどろいた事に同病の患者の多い事でした。内客をきいて今更乍ら早期診断の大切さが痛感しました。

そして検査の為の手術を受け放射線を四千程掛けたがどうも思わしくないので声帯部分を除去しなければ治らないとのこと、しばらく外泊さしてもらい、家で相談したけれ先生の言う通りにするより方法なく、とうとう摘出の手術を受け一日半ばかりすぎ麻酔がきれ承知はしていたが、声がもう出なくなり、話の出来ない不自由、はがゆさで一時は谷間にでもつき落とされた様な、その感情をどうする事も出来なかった。

それから、食事、治療とくるしい毎日が続いた。そして口はきけなくも体の調子はだんだんよくなり其の間看護婦さん、先生の治療、はげましの言葉がこころからうれしく終生忘れる事は出来ない思い出になりました。

二ヶ月位すぎ、木曜日には院内にて発声練習があるので見学に行き、もう全快して以前に手術した、先輩の方々の話をきいてきれいに上手に話の出来るのを見てびっくりしました。努力は必要でしょうが毎日がなんとなく楽しく感じて来ました。そして年末も押迫った十二月末に退院する事が出来今、毎週一回練習に通い乍ら、くるった人生をもとへもどすように気がるに話も出来る様に頑張って余生を楽しくすごして行きたいと思ってます。

以上

昭和58年刊 第13号

巻頭言

信鈴会会長 鳥羽源二

信鈴会も、今年で第十五回の総会を迎えることになりました。比の間多くの先輩諸兄が、この広い山国の、そして交通の識に不自由な長野県の喉頭がん等により、喉頭摘出術を受けた私達をまとめて、大変なご苦労を重ねて今日に至りましたこと誠に感謝に堪えません。

一昨年は、「完全参加と平等」をテーマに、国際障害百年の催しがあり、私達の福祉とまた、より一層の社会への参加へと頑張りました。昨年は七月五日より七日まで、東京・大手町経団連会館に於て、世界二十数ヶ国の国旗の並列のもとに、第三回喉頭摘出者世界大会(東京大会)が常陸宮殿下、同妃殿下のご臨場を仰いで華やかなうちにも厳粛に行われました。言葉や皮膚の色は異っても、同じ悩みをもつものが、世界から一堂に会し真摯な討議発表・又関係医師の研究、実態発表等私達喉頭摘出者の前途に明るい希望が得られましたことは、誠に有意義であり、この上ない慶びでありました。

今年は世界コミュニュケーション年と云われております。長野県信鈴会には四ヶ所の発声教室があります。喉頭摘出者の皆さん、是非積極的に出席して、発声会話の向上に努めると共にふれあいの場として自己開発をして下さい。

楽しい生活への工夫

信州大学名誉教授 鈴木篤郎

昨年七月の喉頭者世界大会に出席された今野副部長さんが、私の所へやって来て、

「本当にびっくりしました。手術をされた方々の生活を、単に何とか人並みにというのではなく、積極的に楽しく、幸にしてやろうという工夫が、あんなに沢山やられていようとは、今まで考えても見ませんでした。例の首につけるガーゼの前掛けにしても、たしかに体裁は良くないけれど、患者さんなんだから、まあまあ仕方が無いんだとばかり思っていましたが、今度行って見ると、その前掛けを実にファッショナブルな形に化けさせたものが、いくつも展示されていて、これなら使う人もさぞ気持がよいだろうと思うと、どうしてこんなことに今まで気付かなかったのかと、全く眼の覚める思いでした」と話してくれました。この話を聞いて、私自身も「うーん」とうなってしまいました。と申しますのは、私自身そこまで考えを及ぼしたことが一度もなかったからです。昨今は、車椅子の人がそのまま集会の会場に入ったりするための施設や、眼の不自由な人が道路を間違いなく歩いたり、横断歩道を渡ったりするための工夫などが、色々と行なわれるようにはなりましたが、こうしたことに対する熱の入れ方は、欧米の諸国に比べると、わが国ではまだまだ一歩も二歩も遅れているということです。その原因の一つは、われわれ日本人の心の中にある障害者(あるいはもっと広く、不自由を強いられている人)に対する積極的な関心の薄さに関係があるものと思います。「患者さんなんだから多少は仕様がないんじゃない」とか、「まあまあ、そこまでやらなくとも、この辺でいいだろう」といった消極的な気持が、たしかにわれわれには有るようです。また一方、障害者自身の方にも、同じような気持が潜んでいて、「まあまあこの辺で我慢しよう」ということになりやすいのではないでしょうか。

昨年の喉頭摘出者世界大会をきっかけにして、今までのような「まあまあ」ではなく、身のまわりや日常生活が一層快く、楽しくなるための積極的な要求や、それに答える工夫の気分が盛上ってくれればよいなと思っております。もうすでに考えておられるかもしれませんが、「信鈴」の誌上にも「私の工夫」といった欄を設けて、たとえささやかな事でも発表しあうことも大切でしょうし、国内やさらには海外の喉頭関係の雑誌や刊行物に眼を通して、新しい工夫があれば早速紹介するというのも役立つのではないかと思います。

話はかわりますが、工業技術院では、毎年、医療福祉機器の新しい技術研究開発に対して億単位の補助をしています。昭和五十八年度の新規テーマの候補の一つとして、一昨年度私がここで「人工喉頭への夢」として述べたような自動人工喉頭が、かなりいい線まで行ったのでしたが、最終的には惜しくも採択になりませんでした。その理由の一つに、受益者が少ないということがあったようですが、この種の開発援助はどうしても受益者の多い肢体不自由とか、視聴覚障害の方に向きがちです。今回は駄目だったにしても、新しい人工喉頭、マイコンによって装着している人が自由に声を出せ、その強さや高さもある程度調節できるようなものは、技術的には開発可能な段階にありますので、多分遠からず世界のどこかから製品として発表されるものと思います。しかしたとえこのような便利な器械が将来でてくるとしても、自分の力だけで声の出せる発声訓練の重要性は、少くともここ当分の間は決して低くなることはないでしょう。そこで皆様には、それぞれの御事情に応じて益々発声能力の向上に力を注がれると同時に、生活をより一層快適にするために積極的に意欲を燃やされるよう、心から期待したいと思います。

喉頭摘出術におこる気管鋳型症について

長野日赤耳鼻咽喉科 浅輪勳

「信鈴」の第十号(昭和五十五年刊)の十二頁に吉池茂雄さんが「救急車に乗って」という文章を書いておられます。それは吉池さんが喉頭摘出術をうけて二十年したってから突然におこった呼吸困難とその経過についての大変貴重な報告です。気管の内腔に多量の痂皮(かさぶた)が附着して狭くなり空気を十分に肺まで吸い込いことができなくなったための呼吸困難ですが、それまで私はこのような状態を全くみたことがありませんでした。その後同じような状態で呼吸困難となり、救急車で来院される方が、四人にもなって、(四人とも喉頭摘出を"受けた方ばかりです)いささか心配になってきました。

いろいろと文献をしらべてみましたがこのような状態は全く報告されていません。気管に痂皮が鋳型のように附着する状態ですので一応「気管鋳型症」と呼ぶことにして今年の耳鼻咽喉科の地方部会に報告し、注意して頂くようお願いしました。

普通の人は鼻で呼吸をしています。鼻の中を空気が通ってのどに達するまでのごく短い時間内に粘膜の表面から熱をとり、外気の温度が○度以下であってものどに達する時には体温近く即ち三十六度位に加温された空気になっています。又同時に鼻の中に吸い込まれる外気の湿度が三〇%以下であっても、のどに達する時には九○%の湿度をもった空気になっています。このために鼻の中では一日に一リットル以上の水分が吸気の加湿のために消費されているといわれています。このように鼻から息を吸うというのは人間の防御作用であり、更に又空気中の塵埃を取り除くという浄化作用も行っている訳です。

喉頭摘出術を受けて気管に直接外気が入ってしまう場合には、鼻で行われている防御作用、浄化作用が全く失われているといって差しつかえありません。つめたい空気、乾いた空気、そしてほこりの多い空気がいきなり気管の内に入ってくる訳ですからいろいろな障害をおこしても少しも不思議ではありません。

喉頭摘出術をうけてから風邪をひかなくなった、それはのどがなくなったんだから普通の人より「のどかぜ」の分だけ少なくなったためだろうという話を聞いたことがありますけれど、ほこりが直接入るためか普通の人より痰が多いことは事実ですし又風邪をひかなくなったからといってそう安心してもいられないようです。

とにかくこの気管鋳型症は喉頭摘出術をうけた人に限って発生しています。発病から呼吸困難が始まるまでが二日か三日位というように非常に急速に悪くなりますので対応が遅れますと窒息の可能性も十分考えられます。喉頭摘出術をうけた方は特に冬は注意が必要です。つめたい空気、乾燥した空気そしてほこりには十分お気をつけ下さい。

旅の楽しさと悲しみ

信大附属病院耳鼻咽喉科教授 田口喜一郎

人生は旅に例えられ、苦楽と千変万化の出来事の織りなす模様は、予想できないものも多いだけに、憧憬とか期待の対象になる訳です。仕事に追いまわされ、電話が鳴り続ける毎日の生活から解放されたいと思うのは誰でも同じことだと思います。ある有名教授が外国に出かけると言葉のストレスはあるが、それ以上に解放感に浸れる喜びは大きいといわれたのは偽らざる心境と思われます。しかし逆に仕事のない生活が与えられたらどうかと考えると、これは殺人的な多忙さよりも始末におえないことではないでしょうか。人間は生きている限り何等かの役割を与えられ、あるいは自分で自分に目的を与えて、それをやりながら時々余暇の意味の旅を持つことこそ必要ではないでしょうか。限られた時間の間に得られる旅、その中には人生の機微に触れるものが充満し、遭遇と別れの楽しさと悲哀が心を打つことになるでしょう。

私にとって現在可能性のある旅は年に一~二度とれる休みを利用した家族サービスの旅行と学会など仕事の合間に行う旅行です。勿論学会も旅行の一種ではありますが、私共にとってこれは真剣勝負、とても旅を楽しむ余裕も権利もないのです。皆様もそれぞれ異った意味の旅行をお持ちであり、その中に一つや二つは思い出深いものがあると思います。私が経験した旅行の中で印象深い体験を思い出すままに書いて、旅は何であったか、どうあるべきか考えてみたいと思います。

私が一五年程前カナダのトロント大学に留学していた時の話です。トロントという街はオンタリオ湖の北岸にありますが、この湖水の中にトロント島という小さな島があり、夏にはこの島の周辺で泳いだり、島の中でキャンプをしたり、テニスやボートなどを楽しむ人々で賑います。夏休みのある日家内とこの島に出かけ、日光浴やボートを楽しんだ後食事をするためレストランの近くにきたときです。子供の悲鳴が聞えましたので跳んで行くと、大きな噴水の中で五~六歳の女の子が溺れかかっていました。突然体の大きな男の人が跳び込んで助け上げたのです。ところがその人が子供を噴水の外に助け出した瞬間倒れたまま動かなくなってしまいました。周囲に居た人がすぐ人工呼吸したりしましたが動きません。救急車にも来てもらい種々手当をしましたが結局助かりませんでした。その男の人の姉か妹か半狂乱になって泣いていました。私共は唯芒然としたままで慰めの言葉すらかける事ができませんでした。全く悲しい出来事で今でも時々思い出します。トロント島での楽しい思い出は全くありません。

ナイアガラの滝を見学に行った時です。中年の男が寄ってきて金を貸して欲しいと云いました。旅に来て財布を失くして困っているから、帰りの車代として二十ドル程貸して欲しいというのです。自分の宿泊しているホテル名やその電話番号まで教え、また私の住所も聞いて必ず一週間以内に返すからというのです。この手の詐欺行為がよくあることを聞いていましたが、相手が余りに真剣な態度ですので貸してあげることに致しました。しかし一年経って帰国する迄何の連絡もなく、いやな思い出と不信感だけが残りました。

パリでの事件です。何人かの日本人の学者とパリ市内の観光バスに乗りました。その終点はオペラ座前です。バスから降りた時ポラロイドカメラを構えた男が来て写真を撮ったから買って欲しいというのです。白黒のポラロイド写真ですが余り写りもよくないので一旦は断りましたが、数人の男が追いかけて来てどうしても買えといいます。面倒だから一枚買ってやろうと云うと一枚よこし、値段は百フラン(約四千円)というのです。馬鹿いうなと云いましたが、男共が囲んでいて離してくれないので己むを得ず支払いました。相手はプエルトルコ系の移民のようです。以後外国に行っても同じような顔をした男を見るとなるべく早く離れる習慣がついてしまいました。

以上は余り楽しくない思い出ばかりです。しかし旅には心温まる思い出も数多くあります。ハンガリーの主都ブタペストではハンガリー語しか通じません。しかし人々は大変親切で道を聞くと地図で確かめて、一キロ以上もある道をわざわざ連れて行ってくれるのです。僅か一週間の滞在中にこのようなことが四回もありました。誠に頭の下る思いで何かお礼に差し上げようとしても受け取りませんでした。素朴な人情が残っているお国柄だと学会会長のスリアン教授に御礼を申し上げて帰ってきました。

旅先で出会った人々は私共の人生に重大な影響を持つことがあります。私は何といっても仕事の合間の旅行が多いのですが、これが仕事の上で予期せぬプラスを与えてくれることがあります。現在やっている姿勢制御の研究はディヒガンズ、ドウィット、ナシュナー、キャプティン、ブレス、バロンそして福田精先生等の人々の研究の場を見せてもらったことで大いに役立っています。人との出合いを大事にし、その人々の懐の中に飛びこんで話し合う態度、これは外国人に限らず日本人同志でも重要なことだと思います。

現在信鈴会の皆様方がお互いに御自分達の体得されたコツを披瀝し合って、食道発声や人工笛の使用法を学び、一歩苑前進をしているお姿には頭が下る思いです。人生という長い旅の中には不快なことも楽しいことも沢山ある訳ですが、夫々私共の人生にとって何等かの意味を持ってくるものといえましょう。これらを豊かな気持で受け入れ、消化して各人の発展の糧とされんことを祈念しております。

(一九八三・四・十一)

信鈴会の皆様おかわりございませんか

信大病院看護部長 石田愛子

日ごとに色めき女鳥羽川のさざ波が白くきらめき春の声が待たれます。

日本病院学会の特別講演で作家の曽野綾子さんが「いま、求められる病院像」といくつかの貴重なテーマを語られておられます。

「病院」から連想される言葉は「愛」と「奉仕」だと本当の愛は敵を自分のように愛しなさいという意味で理性の愛です。本当の「奉仕」というのは下の世話をすることです。バザーでお金を寄付することやお花をもっていくというきれいごとではないわけです。

聖書についてのべておられます。又闘病生活について病をもったまま生きていくことは辛いものです。その辛さを軽減できる工夫があるはず、それは病院を家庭の延長として考えることなのではと、家庭の中でどのように過ごしているか思い起していただきたいのです。病院に来る人は肉体も魂もいっしょに連れてくる、病院に来てよかったといえるようになるためには魂を生かすこと、これで八〇%は治るのでは、ドクターやナースは病人を治すのではなく治させていただきますという気持、そして両者がそのような気持であれば病院に入ったとき、まことに見事に生をまっとうできた、と思うのではないでしょうかと、ご自分の闘病生活の中から体験的に感じられた提起も含めて語られております。「親切な医療、心あたたかな病院」がほしいの声がきかれます。昼間は検査や処置、お見舞いの方、ご家族の方で気がまぎれても、夜は自分の病気のこと、ご家族のことを考えて眠れない日もございましょう。病気だけをみるのでなく、病気の背後にはその方々の生活や人生があります。みな様方のさみしい、かなしい思いをどのように受けとめ配慮されているか、人間として成長しなくてはならないし謙虚にもっと素朴にと反省させられます。「優」やさしさという字はにんべんにうれいです。自分以外のものを愛し大切にするという生き方が、私共人様のお世話するうえに、思いやりの心を欠いてはなりません。

みんなよい看護婦になるよう婦長会議で話しをしました。皆様、ご家族の方々お仲間にはげまされ、一生懸命のお姿をおもい浮かべてかいております。頭の下るおもいです。教えられることばかりです。

今年は病院内の大工事で学習会にもさぞ音でやかましかったと思います。ご迷惑をおかけいたしました。皆様方のご健勝ご活躍を願っております。

(昭和五十八年三月二十二日)

信鈴会の発展を

信大耳鼻咽喉科助教授 山本香列

四月八日、京都で開かれた学会が終了して、桜の満開になった京都から里の雪が消え漸く蕾みもふくらんだ信州に戻ってきました。学会でも喉頭摘出者の音声言語の獲得は重要なテーマの一つです。私がこの音声言語のリハビリテーションに関心を持つようになってから十数年になります。その間の成果は本年六月にカナダで開催される国際形成外科学会でも発表する様準備しておりますが、この様な喉頭の代用を作る方法で発声できると言うことは大きな医学の進歩であると考えます。その他発声方法には人工喉頭、タピア笛など色々の手段がありそれぞれが一長一短をもっていますが、喉頭摘出者の発声方法の基本はやはり食道発声にあると思っています。自由に使いこなした時の食道発声は実に自然です。しかし自分に合った発声方法をまず獲得することが先決ですので、その上で食道発声を含む複数の発声方法を身につけ体の状態・年齢・周囲の状況などでこれを使い分けることが理想と思います。また信鈴会にはこの様な発声の面ばかりでなく大きな役割りがあると思っています。それは会の中でもたれる親睦であり、組織としての発展に協力することも大きな充実を残してくれるものと思っています。そんな意味合いから、これからは手術で発声できる様になる人が多くなってきますが、是非信鈴会に参加して食道発声を積極的にトレーニングする様薦めている次第です。時代と共に信鈴会のもつ性格も変ってきてはいますが、発声の面でも組織の面でも喉頭摘出者の基であり、これからの喉頭摘出者に大きな指針と拠り所を与えてくれるものと信じております。会の一層の発展をお祈りいたします。

今、とりくんでいること

塩釜市坂病院勤務 河原田和夫

脳出血は脳幹部に生じますと、意識障害となり、救命できたとしても、いわば植物人間になってしまいます。

私は、この一年間、こうした方々や家族と接する機会がありましたので、関連する問題について述べてみます。

輪状咽頭筋の処遇

輪状咽頭筋は、食道入口部にあり関門となっています。すなわち大きな物が入らないようにする、胃からの逆流(嘔吐)を防ぐという重要な役目を担っています。

喉頭を摘出する際には、輪状咽頭筋は、正中部(気管口上縁の皮下)で縫合しておくのが原則となっていますが、食道発声を容易に獲得するためには、縫合しないほうがよいのではないかという耳鼻科医もおります。

私自身の体験でも、輪状咽頭筋を真面目に縫合した方は、食道発声の上達が進まず、輪状咽頭筋の処遇に関しては気にもとめず行った方は上達している様な気がします。食道発声の機構そのものが不明な点をかかえていますので、皆さんの協力を頂いて正解を得たいと思います。

この輪状咽頭筋の処遇をめぐって、別の角度から考えておりました。この一年間、喉頭摘出術を行いましたのは二人の方だけでしたが、冒頭にあげました脳幹部出血の方六人に気管開窓術と輪状咽頭筋切断を行っています。こうした方は、輪状咽頭筋が異常に収縮しているために、食物摂取ができずに、気管に流れこむ状態―誤嚥が続きます。むせることもできず肺炎になってしまいます。こういう状態にならないような手だてを尽さねばなりません。そこで、食道入口の収縮を解除するため、その主要部分を構成する輪状咽頭筋を切断して摂食を可能にするわけです。そして運わるく誤嚥しても、すぐに対策がとれるようにと呼吸道(バイパス)を確保するため大気管開窓術(気管切開と同じですが、気管カニューレを使わなくてもよい)を行っておくわけです。

家庭での療養が安心して出来るようにと行っているわけですが、前者の手術が、理屈通りにいかず一人を除いて、依然として経管栄養に頼らねばなりません。訪問看護に行っている保健婦さんと連絡をとりながら、リズム、メロディ、振動など音楽的要素をとり入れ、一口でも自分の口からと、家族と一諸になって努力しています。

老人保健法による差別医療

こうした努力を続けている際に、老人保健法が実施されました。みなさんは、六五才から適応されますので、いっそう不愉快な経験をされ、身障者手帳など返上したいと思われた方もおられるでしょう。医療担当者である私も、何度か、いまいましい想いにかられましたが、今の老人保健法の悪い所は、早く改正してもらうか、廃棄してもらうよう、働きかけたいものです。

この一年間、こうした問題を解決しつつ、少しでもよい医療が、安心してなされるよう努力したいものです。

(一九八三・四・三十)

会報十三号によせて

信大病院耳鼻咽喉科婦長 西村典子

信鈴会会報も今年で十三号発刊。

ひと口で十三号と言われましても、これ迄に多くの方々の、なみなみならぬご尽力に頭が下がります。

皆様の手記を読ませていただき、血のにじみ出るようなご努力を重ね、困難を乗り越えられた方々のお言葉、お姿には、心を強く打たれます。

発声教室の折には、必ずどなたか病室を訪問し、患者さんを激励して下さいますが、それがどんなにか励みになりますことか、ほんとうに有難く感謝致しております。

人間は、形はちがえども、常につま突き悩みして成長していくものと思います。

自分の人生は、自分で努力し開拓していかなければなりません。

目標のないもの希望なし、希望のないもの夢なしと言われますが、私自身も、気が滅入った時、又困難な問題に遭遇した時などは、極力明るくふるまい、心がふさがないよう努力しています。

病気でいえば、早期発見に努めるとでも言えましょうか。

常に明るく、屈せず努力しておられます皆様方には、多くを教えられ、励まされております。私も共に努力を惜しまず、頑張る覚悟でございます。

信鈴会の益々のご発展を祈念致し、又皆様方のご健康を心よりお祈り申し上げます。

耳鼻科病棟から

佐久総合病院病棟婦長 神戸たけ子

今回第十三号編集にあたり原稿を、と会長さんよりご依頼があり耳鼻科病棟を代表し信鈴会の皆様方の暖かいご支援ご指導により待望の発声教室が開校でき、はや三年目に入ろうとしている現在、このことに感謝申し上げたく筆をとりました。治療経過の中で喉頭全摘をよぎな,くされる患者さんを看る私達にとりまして何とか佐久病院にも発声教室ができないものかと何年も考え続けてまいりましたが昭和五十五年、かつて患者さんであった高柳さんの大きな努力と仲間の皆さんの協力によって「山びこ会」が発足、翌年信鈴会よりお誘いをうけ病院の方からも了解を得ることができました。現在三瓶さんを中心に第一第三火曜日午後一時半から三時まで院長先生の健康相談室のあと開かれています。教室では先輩の方々の顔ぶれも決まってきていますが、入院してこれから手術にむかう患者さんも参加して見学し仲間の一員になるのかとの自覚と共に持っていた不安も少しずつ取除かれ励まされて手術を受け容れることが出来るようになったことを患者さんと共に喜んでおります。

また術後の回復意欲を高め第二の声を獲得してゆくテクニック、苦しみ喜びをわかりあえる仲間が大勢いることが心の大きな支えになっているのではないでしょうか。病棟に勤務しているとき「今日は発声教室の日」と思いつつもなかなか顔を出せないことが残念です。反面病棟に会いに来て下さる方もおり入院生活に思いを馳せ日常生活の様子を語り合うこともあります。このような場面で人と人との触れ合いを大切にして少しでも教室の方からご意見をうかがい仕事の中に生かせたらと思っております。今この教室がより発展してゆくことを願って筆をおきます。

信鈴会を想う

信大病院北三階 矢崎照子

信鈴会が発足してから満十四年、信鈴会報も今回で十三号に及び、今日迄の発展も会員皆々様方の御努力の賜で、私も耳鼻咽喉科病棟に勤務させていただいて十三年が経過致しました。その間多数の患者さん会員の方々に接し人間の日常生活に如何に声の重要性を知ったことか。声とは自分の意志を他人に伝えるものであり、声が出なかったら自分の思っている事、言いたい事が先方に伝わらないわけです。従って患者さんは日常生活に於て、又社会の一員として取り残されないよう日夜、発声訓練に御苦労されている事と思います。発声教室でお逢いする会員の皆様方の生き生きとしたお顔を拝見する度に、ああ良かった、と現在の仕事の満足感にひたっております。患者さんは常に気の弱いものです。一寸としたアドバイス、暖かい思いやりがどんなに嬉しいものであるかわかりません。これからも患者さんとの暖かい心の交流で信鈴会の輪を益々大きく拡げていくよう努力を重ねて参りたいと思っております。

信鈴会の皆様お身体を大切になさいまして発声に頑張って下さい。

発声教室

伊那中央病院外来 伊藤嘉夜子

私は、昨年の六月より外来勤務となりました。昭和五十三年より伊那に発声教室が開設されたということは聞いておりましたが、出席する機会がなく、勤務交代になり初めて発声教室に出席させていただいておりますが、見学程度で皆様のお役に立つことが何ひとつできず心苦しく思っております。皆様に初めてお会いした時から、桑原さんはじめ、皆様のたいへん明るい笑顔、それにいきいきとした生活ぶりに深く感銘をうけました。

大きな手術にたえ、毎日何不自由なく使っていた大切な声を失ってしまいどんなにつらかったことでしょう。それをのりこえ発声練習により新しい声を生み出すため努力されています。大きな試練をのりこえた。だからこそ充実感のある生活ができるのだと思います。未熟な私、学ぶことばかりです。

伊那教室では、桑原さん山下さん指導のもとに、皆さん熱心に訓練に励んでおられます。皆さんだんだん上達されてきています。

現在では矢田先生も開業のため病院をやめられ、常勤の先生がいらっしゃらない状態ですが、皆様と共にがんばりたいと思います。

力不足ですが少しでも皆様のお役にたてたらと思います。

第三回喉頭摘出者世界大会に参加して

長野市 義家敏

この大会が昨年七月五日から七日の(三日間)東京都経団連会館ホールにおいて開催されたことはご承知の通りであり、その詳細については、銀鈴会の特集号や、日本喉摘者団体連合会の世界大会報告書により既にご存知のことと思われるが、本会から鳥羽会長と、私が参加し、最終日には信大から今野看護副部長さんと、看護婦の野島さんが、遠路わざわざ見えられ、平素発声教室では献身的なご配慮をされておられるだけに、じっとしておられずに、この世界の情況を見にこられたと感激した次第である。

この大会参加者は、世界の二四カ国で、日本から五三六名、外国から一三〇名、計六六六名参加されたのである。

この大会は喉摘者のみでもなく、医学会でもない、喉摘者と医師と音声学者とリハビリテーションの専門家とを混じえての会合であって極めて意義の深いものであった。

会議の運営は非常にレベルの高いもので、また世界中の多数の専門家たちが活動している事を発表され、国際会議ならではの良さに感動された。

大会での用語は、日本語、英語、フランス語となっており、会場ではこれら三カ国語の同時通訳が行なわれて、参加は皆レシーバーを用いて聴取し、何となく国際会議であるという気分であった。

大会の概要を述べてみると、まず第一日目の開会式は、壇上には参加各国の国旗が立ち列び、当日披露される「世界大会の歌」の合唱団が整列し、曽根田会長の先導で、参加者全員起立のうちに、常陸宮、同妃両殿下がご着席つづいて大臣、知事等が着席せられて進められた。

合唱団によって「世界大会の歌」(下記)が披露され、満場の拍手、

第三回喉頭摘出者世界大会の歌

一、母の言葉はことなれど

もとめあう心はひとつ

国々の境をこえて

風うたい水はささやく

失いし咽喉の深みに

ひとすじの想いたたえて

いまここに我等はつどう

二、人の言葉はたらずとも

せめぎあう心をむすぶ

海原のへだてるかなた

子等さけび谺ひびかう

失いし咽喉の深みに

めくるめく言葉あふれる

よみがえれ声よふたたび

つづいて東京大会運営委員長の開会の挨拶から始められ、つぎに常陸宮様からのお言葉を賜わり、祝辞は厚生大臣、東京都知事、日本障害者リハビリテーション協会長により式典は終る。

これより会議に入ったのであるが、特別講演「障害者リハビリテーションの理念」に感銘を受け、次に参加国の紹介、海外来賓の挨拶が、アメリカ代表、フランス代表、中国代表、欧州代表からそれぞれ行なわれた。

つぎに「喉頭手術の医学的問題」としての講演が、

1喉頭がん治療の進歩(アメリカ)

2食道音声に有利な喉頭摘出術(日本)

3代用声門と代用食道音声(スイス)

4古典的な食道発声と肺のささえを利用した食道発声の基礎的及び臨床的測定の比較(アメリカ)

以上が行なわれ、つづいてパネルディスカッションでは、「喉頭形成術の現況と将来」で日本からは四名、イタリヤ二名、アメリカ一名、西ドイツ一名の専門医の先生方が、スライド、又は映画によって発表され、解りやすく説明があり実に感銘した次第である。

このパネルで「天津式T-Eシヤント」について述べられた天津睦郎先生(神戸大学医学部)の喉頭形成術の現況と将来のお話しの中では、患者の会話の様子、歌などを映画で見せてもらい、この素晴らしさには全く感嘆した次第である。

つづいて夜のウェルカム・パーティにも常陸宮ご夫妻のご臨席があり、宴席を回って親しくおことばを掛けて頂いたことは参加者にとって無上の光栄であり、感激であった。

第二日目は「喉摘者の発声指導の指針」について、つぎの専門家の講演があり、

1喉頭摘出後の食道音声のしくみ(日本)

2銀鈴会二八年間の統計的観察と成果(日本)

3発声指導上の諸問題(日本)

4メキシコの喉摘者の音声治療の現状(メキシコ)

5喉摘者に対する術前、術後の面接の時期について(アメリカ)

6中国における喉摘者の発声訓練の紹介(中国)

7喉摘者の真の味方とは(ベネズエラ)

以上がそれぞれのスライド、資料等により示され、つづいて、パネルディスカッションとなる。

「発声訓練の実際と成果」について日本から五名、ベルギー一名、アメリカ二名、西ドイツ一名、スペイン一名、からそれぞれ発表があり、質疑応答があった。

つづいてのパネルでは「笛式人工喉頭及びエレクトロラリンクス使用と将来の展望」について日本及びスイスからの発表があり、喉摘者の社会参加、喉摘者の社会復帰上の諸問題については、日本、イタリヤ、ノルウェーから講演があり、日本、イタリヤ、ノルウエー、オランダ、インド、デンマーク、フランスから貴重な発表があった。

最後の日程である三日目は、九時から喉摘者による、スピーチ発表会であり、日本をはじめイギリス、カナダ、西ドイツ、スイス、オランダ、アメリカ、等の代表二八名によりこれまた貴重な発表であった。

このスピーチ発表会は、参加国の喉摘者のわれわれ仲間の代表が、食道発声、人口笛、電気発声、形成法では、浅井式、天津式などで、それぞれ第二の音声を自分自身のものにしたよろこびや、苦労や、意見を力強く、一生懸命発表され、われわれに最も関心を持つものであり、素晴らしさに感激したのである。

つづいて「各国における喉摘者の現状と要望事項について」はデンマーク喉摘者連盟会長の挨拶に始まり、各国の喉摘者団代代表から発表があり終りとなったのである。

閉会式には大会のまとめ、大会決議及び宣言の採択があり、三日間の会期が多大な成果を得て有意義に終ったのである。

私はこの世界大会に参加して、世界の人達の願うことも、求めることも、そして喜びも悲しみもみんな一つなんだという印象を痛切に感じるとともに、世界は一つなんだ、人類は兄弟なんだと強く意識した次第である。


【世界大会決議文】

我々は、喉頭摘出者のリハビリテーション対策を確立するために、一九七八年の第二回喉頭摘出者世界大会において採択された決議事項を再確認するとともに、併せて次の諸事項を各国において法制化し実現されるよう望むものである。

一、喉頭摘出者の発声習得の機会を拡充するため次の諸制度を制定すること。

1喉頭摘出者が発声指導をうけることができる発声訓練教室を設けるとともに、専門の発声法指導員を養成確保し、その任に当たらせること。

2発声指導料を制定する等発声訓練教室の運営が円滑に行われるよう公的制度を設けること。

3人工喉頭等発声指導機関で必要と認めた、発声補助器及び衛生上必要とする補装具類を確実に入手できるような公的制度を設けること。

4喉頭摘出者の発声法習得期間における経済的補償を行うこと。

二、喉頭摘出者の受けている身体上の障害を適切に評価するとともに、それに伴う社会生活のハンディキャップを解消するため、次のような措置を行うこと。

1喉頭摘出者の雇用促進に関する制度を改善すること。

2喉頭摘出者の日常生活を容易にするために各種税制度を改善すること。

3喉頭摘出者の社会参加を促進するために、移動、交通に関する優遇措置を行うこと。

4その他喉頭摘出者に対する各種の福祉施策を改善充実すること。

一九八二年七月七日

国際障害者年記念第3回喉頭摘出者世界大会


【世界大会宣言文】

喉頭がん等による喉頭摘出者は世界的に年々増加しており、現在世界人口四〇億のうち一○、○○○人対一・五人の出現率といわれ、六〇万人に達していると推定される。

喉頭摘出者は音声言語機能を喪失したため、発声不能の状態に陥入った重度の障害者である。しかしながら、そのリハビリテーションは、条件が整えば必ずしも困難なものではない。既ち医療的処置(診療、手術、投薬等)は殆んど必要とせず適券な発声の指導が得られれば、極めて短期間のうちに会話の能力を回復し、続いて社会復帰が可能となるのである。したがって、喉頭摘出者のリハビリテーションは、高度の福祉事業であるとともに、経済的にも大きく国益につながるものである。このことの認識を広く社会に求めるとともに、世界機構並びに各国行政機関の各位に対し、喉頭摘出者のリハビリテーションのために必要な施策を法制化し、関係諸事業の推進を図られるよう望むものである。

一九八二年の東京大会に参加したわれわれは、リハビリテーションの早期実現を希う全世界の喉頭摘出者の意思を体し、目下国際連合において検討されている「障害者に関する世界行動計画」に本大会の決議事項を採り入れられるよう要望するとともに、これら決議事項の実現のために総力を結集して努力邁進することを誓うものである。

一九八二年七月七日

国際障害者年記念第3回喉頭摘出者世界大会

食道発声所感

大町市 大橋玄晃

食道発声の原音"ア"は特別な人は別として普通の方々は誰れしもその発声に苦労するものです。

そして日常会話、上級会話とその都度一つの壁にあたった事と思います。振返ってみますと私も何度壁に突きあたった事か、又これからもその連続であろうと思って居ります。私はその度毎に、会報日喉連の高藤先生のお言葉や、中村正司先生の食道発声上達への助言や諸先輩の書かれたものを読ませて頂いております。それがくじけそうになった、又怠け始めた私の心に発奮のエネルギI源として私に与えてくれました。

皆様にとっても非常に参考になると思いますので、各先生方の助言の中から少し要点を挙げてみますと、

一、初歩の段階ではあせらずに原音"ア"がいつでも出る様に、みっちり練習すること。原音が完全に出ない内にあせって、日常会話をしようとすると声とはならない許りか、却って会話の上達を妨げる結果になりますので、充分注意すること。先ずこの段階では会話は筆談でする事が望ましい。

二、食道発声は最初の内はのみこみ法で勉強しますが原音"ア"が充分出る様になったら吸引法にきりかえる事が必要である。吸引法に就いては食道発声の手引20頁に出ておりますが、具体的な説明として、

・高藤博士は口中に水をふくんだまま鼻から空気を吸いこんでガラガラとうがいを何回もやると自然に吸引法が出来る様になる。・山本武夫氏は静かな室内で気管口から一旦空気吐き出し横隔膜を上げて腹をへこませ、次に口を閉じ、鼻の奥も一旦閉ざして、空気を気管口から吸引し、胸部も拡げながら吸気の極限近くで鼻の奥を開くと、鼻の奥でプスット軽い音がして奥が涼しく感じます。この時点で空気が食道内に進入します。それが練習するにつれて深く肺吸気しなくても少し強めに吸うだけで食道内への空気が導入出来る様になる。これが吸引法のコツである。

・久永進氏は花の良いにおいを鼻でかぐ要領で鼻から空気を吸いこむ、これが吸引法である。と言われております。

三、原音発声が充分に出る様になったら、次に、"アー"と長く引っぱる練習、そして二音~六音位までの単音発声練習をするのですが、日常用語として一番多く使われる四~六音の単語を集中的に練習する様、心掛けること。又、ラジオ体操の号令を一度に十回、二十回と力をこめて何回となくする事が肝要です。(号令の度に空気を吸い発声する)これは会話に必要な吸入した空気の量と、声として出す空気の調整が体得でき、更に吸引法の修得が出来る様になる。そしてこの段階が食道発声の一番大切な時期であると中村先生が言われております。又この時期に"ア""ア"......と一息で五音以上連続発声出来る様に練習する事も上達への一方法であると言う先輩もあります。

四、上級会話に進むにつれ、特定の文章なり、歌等を反復練習する事が必要である。これをやらないとかなりの上達者でも声量に衰えを感じる様になる。

要は食道発声法を煎じ詰めると吸引法の完全実施と連続発声に必要な空気の調整法を修得することにある訳ですが、先生方が常に言って居られる、それにはどうしても発声するんだと云う強い意志と忍耐力、そして計画的な毎日毎日の練習の積み重ねが大切であり、慢心は上達を妨げる言葉を肝に命じ、とかく楽な方に傾きたくなる私達の心に鞭うちお互に頑張りましょう。

誕生日

松代 吉池茂雄

ついせんだって、私は七十三才の誕生日を迎えた。七十三年も、よく生きたものだ。人間のからだって不思議なものだ。七十年以上使っても、まだ動いている。時計や自動車だったら、もうとっくにスクラップになっているか、さもなければ博物館におさまっているだろう。

私がはじめて時計を持ったのは昭和のはじめだった。勿論自分で買ったのではなくて、親に買ってもらったものだ。その頃から今日まで、五十七、八年、世の中は随分変った。昭和のはじめ頃は、一昼夜に三分の誤差は、正確な時計だと認められていた。それが今日では、水晶時計なんてのが出来て、一ヶ月間に十秒以内の誤差なら許容されるというようになって来た。世の中の動きが、分単位から秒単位に変って来たのだ。

私が今までに持った時計は、懐中時計二ケを含めて、ちょうど十ケである。二つ目から自分の金で買った。昭和七、八年頃の事だった。この時計は動くというだけで、実に不正確だった。裏ぶたをあけて、プラスマイナスの調整に興味をもちだしたのは、この頃からだった。アンクルをいじってみたが、どうにもならない。とうとうかんしゃくをおこして、ヒゲゼンマイを引っぱり出してしまった。その時計を持って時計屋へ行き、こんな時計はだめだ。もっと正確な時計をくれとねじこんだ。時計屋が、それではこれなどいかがでしょうと出してくれたのが三つ目の時計だった。それはスイス製と云っても、別に高級品ではなくて、ごく普通の実用向きのものであったが、デザインがちょっと変っていたので私はとびついたのだ。昭和八年頃で十五円だった。当時月給五十円の私には、思い切った買物だったが、この時計はすばらしく正確だった。

その頃、ラジオがどこの家にもあると云う程普及していなかった時代だったが、私の下宿屋のおやじがラジオ狂で、屋号もラジオ屋と云ったほどで、自分で組立てた大きなラジオを、朝から晩まで続けざまに鳴らしていた。夜の九時半に時報があって、それに時計を合わせるのだ。合わせると云っても、針を動かすのでなくて、時報との誤差を見て記録をとるのだ。今のように中央三針でなくて、文字盤の六時の上に小さな秒針がついた時計なので、九時半に合わせるには都合が悪かったが、それでも何とか工夫して毎晩記録をとった。初め僅かずつ進んで四十秒まで進むと、今度は遅れだして○秒をすぎて四十秒まで遅れると又進みはじめる。プラスマイナス四十秒の波をうつのだ。この波の波長が幾日だったか忘れたのは残念だったが、とにかくプラスマイナス四十秒で、結局誤差○秒という結果が出たので、私にとっては、気味が悪い程満足だったのだ。

この正確さが二年位は続いたろうか。その後次第に誤差は大きくなったが、それでも終戦後の昭和二十三年頃まで使っていた。

その頃中央三針が出回って来て、秒針まで合わせるのが容易になった。私の調整癖が盛になったのもその頃からだった。

我が国の時計メーカーの一つ、セイコウ社の社長が云ったそうだ。『時計は一年、せいぜい二年で使い捨てにして新しい時計とかえる。その間は絶対に正確である。五年も十年も使われては、製造元が困る。』と。昔は高級時計は五十年も、それ以上もの保証期間があって、それを誇りとしていたものだが、今は違ってきた。時計はもはや備品ではなくて、消耗品となったのである。

水晶時計が出回るようになっても、私は何年もゼンマイ時計を愛用していた。金額の問題もあったが、調整の面白味にひかれていたのだ。進にせよ、遅れるにせよ、毎日の誤差がほぼ一定であれば調整は比較的容易である。その誤差が乱れて来ると、もうその時計はご臨終と云ってよい。調整がだんだん進んで誤差が少なくなると、調整は素人芸では間に合わなくなる。そこで時計屋へ持ちこむ。

市内の百貨店の時計売場の主任に知人が居る。私が一月に、二、三回も調整を頼みに行くので、何とうるさい客だろうと思ってか、売り娘たちは、私の顔を見ると二ヤニヤしながら、それでも商売用の『イラッシャイマセ』と云う。一昼夜に五秒だが頼むと云うと、何とかやってみましょうと、拡大鏡を目玉につけて、ピンセットで調整し、機械にかけてみて、これでしばらく使ってみて下さいと云う。一週間位して、一昼夜に二秒だが何とかならないかと持って行く。水晶時計でもこの位の誤差はあります。ゼンマイ時計ではもう限度ではないでしょうかと云う。あと二秒だから、これを○秒にしたいと思うが無理かなあとあきらめ切れないがあきらめた。

三年前に私は水晶時計を買った。成るほど水晶時計は正確だが、水晶時計でも誤差はある。その誤差が大変少ないというだけのことだ。

今私が使っているのは、五万円の腕時計と小型の懐中時計で、これは八千円の安物で、どちらも国産品である。腕時計は月間誤差十秒、懐中時計の方は月間二十秒の誤差である。今はデジタル時計が出回っているが、私はあまり好まない。デジタルは時刻が文字で示されるので、今何時何分かという事は一目ですぐ読みとれるが何時までに何時間何分あるかと云うような事になると、頭の中で暗算をしなければならないからめんどうくさい。時刻と時間の問題、点と長さの違いで、それぞれ一長一短があるのだ。

私はバイクの免許証を持っている。否、持っていた。昭和三十九年の夏、喉頭の手術をしてから、さて仕事をしようとして、そのために、五十四才でとったのだ。一回失敗して、二度目にやっと合格した。妻を後に乗せるようにと、二人乗りのできる五十五CCの車を買った。その頃の私の仕事の行動範囲は、かなり広かったので、五十五CCでは途中でエンジンがやけて、休んで冷やす事がたびたびあったので、二年後に七十CCに乗りかえた。これだと五十キロ位の走行が無理なくできた。三年間に一万キロ走った。一万キロと云うと、青森から国鉄で鹿児島までを二往復し、なお青森から名古屋の手前、蒲郡辺までの距離になる。アメリカまでにはほど遠いが、よく走ったものだ。その後体力も衰えたので、軽い車の五十CCのロードパルにかえた。この前の免許証書き替えの時、おまわりさんが『あなた、そろそろ免許証を返納しませんか。最近お年よりの事故死が急激に増えていますので......。』と云った。私は十分注意して事故を起こさないようにするから、書き替えてほしいと頼んだ。その頃から誕生日に書き替えるようになったのだ。私が乗り始めた頃は車の数も少なく、国道十八号でも平気で走れたのだが、交通事情は変って、国道など小さいバイクで走るのは、命がけの仕事である。私は免許書き替え後も一年間に数回しか乗らなかった。国道はもちろん、交通のはげしい所へは出なかったと云うより、恐ろしくて出られなかったのだ。そしてせんだっての誕生日の書き替えの時に、私は思いきって、書き替えの手続きをしなかった。自然的に失効となったわけである。用がある時はバスを使う。自転車もあるが、近い所、町内の用事はなるべく歩くことにした。ここ二年ばかり前から膝関節に痛みが来た事、体の平均がとれ難くなった事など、自覚症状(?)が出て来たからだ。歩いていてひかれたら、向うが悪いんだ。歩行者は強いんだと開き直っている。それに視力の異状である。元来私は乱視があった。それは最近はひどくなって、三メートル位から先が二重に見えるようになった。左右の眼の焦点が合わないのだ。眼鏡をかえても、しばらくするとだめになる。前方が二重に見えると、どちらへ行ったらよいかわからない。三、四回目ばたきをすると直るのだが、その二、三秒の間に、バイクは何メートル走るだろうか。恐ろしい事である。これが私が、免許証書き替えをしなかった一番の理由であったのだ。

生まれて七十三年、まだまだ動いてはいるが、体は次第に衰えて行くのだと、しみじみ感じている。この衰えつつある体を、生命を、今後いつまで持ちこたえるかが、これからの私の課題である。私の父は八十才で、祖母は八十二才でこの世を去った。私はそれまでには、まだかなりの時間があるのだが......。

(昭和五十八年四月五日)

近況雑感

辰野町 桑原賢三

月日の流れは早いもので絶望のどん底より立ち上がってより丸八年最近では発声も無理なく出来る様になり、電話応対も順調になるにしたがい今迄は声が出ないという事で御無沙汰であった色々の役を押し付けられ、それなりに忙しい日が続いて居ります。私にとっては集会に於ける発言や発声は何よりの訓練になり、よりよくわかってもらえる声をと頑張って居ります。

手術後まだ発声が思うに任せない頃に新潟へ嫁いだ娘の長男も四才になり電話料のかさむことなどおかまいなしに、しきりにかけてよこし、二言目にはおじいちゃんとかわれと言う。私とお話しをしないと気が済まぬらしく私の喋ることもわかる様ですが、どうも孫の会話の方が私より上手で、しっかりしないと孫に負けそうだ。

又、内孫も二才になり今の内は私の方が上手だがこれも私の発声にせまって来て、遠からず追つかれ又追越されることでしょう。

最近は出荷野菜の圃場整備、消毒、作付準備等、体を動かすことが多い為、至って健康です。手術を受けてから一年二年と其の年其の時に応じた目標と希望をかかげそれに向って努力し、楽しみや、よろこびを求めて来た。

これからは成長して行く孫達と発声会話の競走をしながら孫達に負けない様に、又白衣の皆様に助けられて命長らえた余生をよりみのりあるものとする様頑張る覚悟です。会員の皆様に於かれても非運に負けることなく健康に留意し希望をもって一層の御精進を期待します。

草津温泉旅行の思い出

小谷村 松沢喜栄

去年九月十七日私達は松本駅前集合、バスで草津温泉一泊の旅行。

幸い好天に恵まれ又、ガイドさんも身障者の慰安旅行と有って道中の案内説明も親切丁寧に尚合間には民謡に演歌に美声を披露するなど懸命ににぎわせてくれて旅の情緒を豊に楽しませて呉れた。

先ず思い出に残る事は佐久総合病院のひと時。有名な若月院長先生が貴重な時間を私共の為に笑顔で色々と励まし慰めて頂き又皆さんの質問に対しては極めて御親切に教え下さった、信鈴会の旅行によい機会を織り込んで頂き大変有意義だったと思います。

私も病気は早期発見早期治療で無ければ駄目との思いを一層あらたにした。予定の時間で皆さんに敬意を表してお別れする。此処から三瓶さんや近所の皆さんも同乗して草津温泉の方向に走らせた。

程なく鬼押出に到着。バスを降りて徒歩でひと巡りした。ガイドさんの説明だと此処は天明八年の浅間山の大噴火の痛ましい爪跡だと云う。併し今は観光地となって道路もあちこち開けて多くの観光客を楽しませる。尚此のあたりに其の時の大噴火で八十余戸の集落と神社佛閣などが一瞬にして埋没されたのだとも伝えられて

いる。

鬼押し出しから一路草津温泉にと予定の時間に旅館に到着した。先ず温泉には入って後。大広間での宴会夕食会は佐久総合病院の先生と看護婦お二人同行されて総員四十余名で盛会で有った。大町市の松田さんも大変お元気で今もパイプで流動食をとって居られる様だが笛式で自己紹介や会話など楽々とお上手に出来る。又小諸市の小林五月さん。実は私が信大で手術した直後に私の病室に寄ってくれて元気づけて貰った。其の頃気管発声の名人ですらすら話してくれた。以来いつ会っても心易く話しかけて下さる。旅館で酒くみかわしてお互い健在を祝福した。五月さんは今は食道発声の練習を佐久教室に通って励んで居るとの事だ。安曇村の宮本さん、生坂村の藤沢さんも同部屋で夕食後も色々と話しがつきない。

宮本さんから東京銀鈴会の発声コンクールに参加された時のお話しや色々の経験談を聞かせて貰って嬉しかった。鳥羽会長さんも私達の部屋に来られて四方山の話、今日の旅行の話しに花を咲かせた。明けて翌日も天気晴朗出発に先立って記念撮影をとって旅館を後にして白根山から志賀高原ルート湯田中を経て小布施町で昼食の予定。

白根山に向う途中にバスの中からリンドーやななかまどの実がそこかしこに眺める風景は実に良かった。バスを降りて遊歩道の散歩も意気抜きに楽しい。併し高原の風は身にしみた。さてとんとん拍子で栗の名高い小布施の竹風堂、ここで昼食の栗ご飯は格別うまかった。

お昼を済ませて北斎館を見学する。北斎は八十才を過ぎて天保十三年から弘化四年に至る六年間に江戸から四たび小布施に長期滞在して祭り屋台の天井絵をはじめ岩松院の天井絵など数々の名作を小布施に残したと云う。

北斎を偲んで絵はがきなど買い求めて車に乗り込んだ。小布施から長野へと真っしぐら。長野で義家さん鈴木さん達と別れを告げ松本駅に直行途中で藤沢さん生坂で下車。予定通り無事松本駅到着。会長さん予定のコース完了を宣し各自我が家の方向に別れた。会長さん初め役員の皆さん楽しい旅行、ほんとうに有りがとうございました。

尚佐久教室の当番とかで三瓶さんや御地の方々には格別の御配慮誠に御苦労様でした。

心も少々晴やかに成って

伊那市 伊藤良長

暖冬で過ごして参りました冬も終期に成っての寒さが身にこたえる此の頃でしたが、ようやく春めいて参り暮しよく成って参りました。

昭和四十四年、私が中坪区長当時より懸案で有りました環境基盤整備事業も完成致しまして外面的には立派な郷土と成りましたが、反面減反と云うきびしい条件の中で一年一年を生きぬいていかなければなりません。

増税、物価の値上り等々、こうしたいらだたしい時代にこそ互に助け合う和の心が大切ではないでしょうか。自分だけがと云う心がかえって自分の足をひっぱられることになりはしないでしょうか。

世界中の身障者の人達が手を取り合って、来る年来る年をたのしく幸せにせい一ぱい送りたいものです。私も早いもので摘出後、二年六ヶ月と成りました。これも家族の心からなる理解のたまものと心より家族に御礼を申して居ります。.

昨年此の原稿を筆記した時は未だほとんど話す事が出来ず毎日毎日が本当に淋しく悲しい思いでしたが、松本信大教室へ又伊那中央病院の教室へと発声に通い諸先生方又先輩諸代の心からなる親切と御教導のたまものと仲心より感謝致して居ります。又信大、中央病院共、摘出者の皆さんのお顔を拝顔するのが最大の生甲斐と又喜びと致して居ります。

先輩各位がすらすらと話すところを見ると一層頑張らなければと思い乍ら種々の会合等に出席、とくに宴会等の席で皆さん大声で唄い、おどって居る姿なぞ見るにつけ本当につらく悲しい思いで帰って来る。

そんな時こそ又昔を思い出し涙さえ出る事が、でも誰のせいでも無いと諦めるより外ありません。摘出の前、当時の今野婦長さんにさんざん進められましたが中々決心がつかずに居りましたが、此の心からなるおすすめのお陰で現在の私が有るのだと、あらためて今野さんにお礼を申し上げる次第で御座居ます。

此の為にわが発声技能の向上の為に精進致す所存で一生懸命に努力致し、御恩に報いる心算です。然も今後余生を本当にたのしく過して行きたいと思います。故、今年も佳き研修旅行を計画なされます事をお願い致します。

最後に鳥羽会長さんを始め役員の皆さん、今野副部長さん、耳鼻科看護婦の皆さんの心よりの御世話に対して仲心より御礼申し上げ筆をおきます。

思いのままに

・雪消えて桜花咲く伊那の谷 春の野に居る農婦ちらほら

・発声に日脚のびきて車窓より さわやかに見ゆ松本の野辺

・信濃路の春はうるはし今日も亦 裸にやさしく淡風ぞ吹く

・減反の田の面に立ちてふかぶかと 稔れる秋の稲穂浮べり

発声コンテストに参加して

安曇村 宮本音吉

昨年五月十五日第十八回銀鈴会總会が東京薬業保健会館で開催された恒例の発声コンテスト大会も合せて行なわれました。私も鳥羽会長先生、大橋先生に随行して明科の藤沢さんと共に参加する栄に浴しました。絶好の日和に恵まれた同日早朝特急あづさに便乗、車中大会について色々アドバイスを受けながらアット言う間に新宿着地下鉄利用で、かの大惨事のあったニュージャパンを目の下に見おろす高台にある会場へ、定刻間ぎわに着く事が出来ました。既に会場には大部分の方が集合されており、大会場は満席に近い有様でした。全会員一一○○余名中当日は約二百五十名近い参加者との事でした。定刻總会が開会され終了後直にコンテストに移りました。申込者三十二名中二十八名の方により競われる事となりました。持時間は三分以内との事でした。私は十五番目で初出場者としては非常に気分的に恵まれた出番でありました。午後三時半全員の発表が終了し、診査の間、高藤先生の講演があり終了後、十位までの入賞者の発表と賞品受与式があり午後四時三十分無事閉会となりました。

参加して驚いた事は発声上達者の方々が多く見られる事です。会場の広い関係もあって皆マイク使用ではありましたが、これが摘出者であろうかと思われる様な先生方もおりました。そして多くの高段者の中には僅か二・三年でなられた人達も多くいるとの事でした。

銀鈴会では年間教室内で何回かの発声コンテストを行い、診査を点数制により行い下は八級から上は十段までに別れておるとの事です。短期間で上達された方々の中には余りの猛練習の為、のどから血が出るまで続け、又休んでは続けられたとのお話しも聞いて参りました。やれば誰れしも出来るんだという事を教えられました。勿論大勢の中にはほんとうに初歩的な人達も多く見受けられました。

私の成績結果は今年の一月会報銀鈴に依って知りました。第十七位でした。まだまだ努力の足らない事を痛感しております。でもこの大会に参加出来て本当によかったと思っております。大勢の先生方に直接、接っする事が出来、又実際に此の目で見、この耳で聞いたあの雰囲気は決して忘れる事が出来ません。大会場で大衆の前に立って僅かな時間ではあっても自分なりの発表の出来た事は、今後の自信となって来た様な感じです。高藤先生の講評の中にも壇上に立っての度胸をつける事、落ち着いた自然の発声、マイク利用の注意、そして人前で堂々と話しの出来る練習が大切な事であるとの事です。参加により数多くの尊い教訓と経験となった事を喜んで居ります。入賞者の大半が出場三~四回となって居られるのを見てもなる程と感じられます。私達銀鈴会も総会等に依る四教室合同の折等を利用してこの様な大会を開いたら又異なった意味での上達者も出来る様な感じもします。簡単ではありますが参加報告を致します。

自己の健康を思う

岡谷市 武内基

四月一日は私の誕生日で満七十六才になりました。喉摘後三年です。昔から七十歳ぐらい花なら蕾とよく世上言われますが私はそれに加えて七十歳ぐらい鳥なら玉子と思うようにつとめておりましたが、昨年五十七年は大体病気の連続でした。顔頭部の皮膚炎をはげしく繰返し、その間歯痛をちょいちょいやる、急に体重が六キロも増えて顔面ふくれ赤く丸くなりのぼせる等、体調の不調が次から次へと続き、医師にも原因全く不明と言われ焦って見たもの詮方なく遂にこれも生きておるしるしとかんじ、寝たり起きたり、ぶらぶらしたりしてテレビを見ておる様なことを昨年十二月初めまでやっておりましたが突然心を入れ替えて、そんなに重態と言う程に悪いのではないと自分に言い聞かせ、午後は晴雨雪にかかわらず努めてわざと足取りも軽く散歩する、近くの温泉に入浴する等心身の鼓舞に自分から精進して、本年になってから体調も徐々に回復した様で最近はお陰様で大分良いと思っております。

か様な訳で、この一年間は喉摘後の定期検査も受けず信鈴会の諸行事にも欠席しました。本年の新年会には嬉こんで出席するなんて返事まで出して、歯が痛くなって急に欠席しました。無論伊那の発声教室も殆んど休んでしまいました。

それでも喉摘後三年になるが、割合に発声の上達の遅れておることを考えたり、心の安静を求めて朝夕は欠かさず食道発声で三十分から五十分ぐらい読経をしました。これは長野発声教室の鈴木先生の真似をしたものですが、お陰で空気の吸引音が大変改善されたと自讃しております。

所詮人生はその人にとっては長い長い旅だ。その旅を私は七十余年続けて来た。思い返せばその間失敗の連続であった。しかもなお、これからも更に長く長くこの旅を続けたいのが私の本音でこれで人並と思います。

それで私が人生の旅を更に続けるには心身の健康が先ず第一です。健康になる方法なんて一定のものはない、千差万別で人により違うと考えます。私としては現在では心の安静とか平常心、次に呼吸を整える姿勢を正すでないかと、この線にそって留意しております。それに健康は年月と共に変化してゆくもので、普通健康状態のものでは遅くも七十歳を過ぎると心身とも弱体化してゆくのが常道と言われております。いかに医学が進んだとは言ってもこの弱退化を完全にくい止めるのは現在は勿論相当遠い将来もまだまだ不可能である。

私どもは心身の少しの変化にも留意することは大切だが、徒らに神経質に潔癖すぎ僅かの良質の変化おも直ちに病気として一喜一憂すべきでない。

例えば私は昨年は次から次と病気をしたが長い人生だもの一寸した屈曲折があったぐらいのもので直ちに生命に関はる程重大なものでないと見逃し恐れず悔らず、それがたとえ原因不明であっても静かに時を経過すれば原因不明のことで改善立ちなほることが多くの場合必ずあるのです。医学にも限度がある原因不明、的確なる治療方法もない場合は当然ある。か様な時は自己の信頼する医師を信じ、桑りに素人判断で心労し、意気消沈するのは心身ともに自己を消耗するのみで得ることのない愚ろかしいことだと思います。又自己に好意をもつ周囲の人達をも徒らに焦せることになります。

以上のことを信条としてこれからも自己の健康の維持増進につとめるつもりです。

終りに本年はコミニケイションの年だから、更に食道発声練習に精進して交友を拡め交友を大切にして、いつの日か日喉連副会長中村正司先生の真似をして、朗々と「湯島の白梅」でも皆様の前で歌うのが私の夢です。皆様よろしく願い上げます。

所感

長野市 滝沢忠司

私は、国鉄に三十九年、石油会社に六年、通算四十五年間サラリーマンとして働いてまいりましたが、この間殆んど病気知らずで過ごすことができました。一昨年の十二月に退職して、現在は妻と二人だけで静かな余生を送っております。三人の子供はそれぞれ独立して長男は大阪に、二男は東京で、嫁に出た娘は広島と、いづれも遠隔の地に住んでいますが、家族みんなが健康に恵まれ幸福な生活を送っておりまして、この面からみれば、恵まれた老夫婦といえるかもしれません。

発病に気付いたのは五十三年の一月頃でした。声がカスレ、出しにくくなり、歌を歌うとき高音、低音が出なくなりました。近所の病院で診ていただいたところ、声帯ポリーブで、相当に範囲が広くひどい状態です。信大病院か日赤病院へと云われ長野の日赤病院へ参りました。初診は五十三年の二月で、以来五年間にわたりお世話になってまいりました。この間、ポリーブの切除手術、各種検査、コバルト照射治療、喉頭全摘出手術等、先生や看護婦さんをはじめ、病院の皆様方から親切にお世話していただいたおかげで、私が今日こうして元気のおられるわけです。本当に有難うございました。厚くお礼申しあげます。

月日のたつのは早いもので、あの断腸の思いで、悩みに悩んだ喉頭全摘出手術の時から一年三ヶ月、話せないまま、月日だけはどんどん過ぎてゆきます。浅輪先生から手術についての勧告と説明を受け、妻や子供、孫にまで励まされて、漸く決心を固め手術を受けたわけですが、今になってみれば本当に良かったと感謝しております。

手術後の経過は順調で、体調も頗るよく、年末二十八日に退院、正月を家族と共に楽しく迎えることができました。

退院後は、早速信鈴会に入会させていただき、発声教室では、義家様、鈴木様をはじめ多くの皆様から親切なご指導と適切なアドバイスをいただいて練習に励んでおりますが、食道発声法のむずかしさ、奥行の深さ、けわしく厚い壁の重みを身にしみて感じております。一時はさっぱり上達できないもどかしさから嫌気がさして教室をサボってしまいましたが、鈴木様、久保田様から手紙や電話で励ましていただき、また、心機一転、心を入れかえて練習に励んでいる今日この頃です。

指導員の皆様の訓えのとうり、辛棒強く、じっくりと腰を落着けて、あせらず、あわてず、根気良く、毎日、毎日の練習の積み重ねにより、いつの日にか会話が自由にできるようになり、欲をいえば歌の歌えるようになるまで、頑張り続けるつもりです。今後ともよろしくご指導の程お願い申し上げます。

末筆乍ら鳥羽会長様はじめ役員の皆様方の、なみなみならぬ御努力に対し深く感謝の意を表し厚くお礼申しあげます。

生きる

岡谷市 小林政雄

私は昭和五十四年信大病院に入院して侯摘手術を受け現在に到りましたが、病が進攻していて非常に危険な状態でしたが、先生、看護婦さん方の手厚い看護の為に此の世に生きて返る事が出来ました。

若い時には何も考えずにがむしゃらに働き、小供の生長を願い自分の事など考える事も無く過ぎてしまいました。

しかし現在は充分に人生の事も今後の事も大体見通しがつき、六十才を過ぎた今ようやく人生の楽しさが解る様な気になり充実した日々を送っています。

振り返ってみれば死線を越えた事は幾度かありました。

昭和十九年春十八の時、海軍戦斗機隊のパイロットとして、岩国海軍航空隊(現、広島市岩国米軍基地)で艦上戦斗機の着艦訓練中エンジンストップして飛行場に引返したが、着陸場所が無く格納庫前の狭い場所に着陸して、土手に激突して大破。気が付くと病院で一週間生死の境をさまよって、全身にギブスを巻かれて身動き一つできませんでしたが、しかし奇跡的に助かりこれが飛行機事故の一回目でした。

其の後段々と戦争がはげしくなり幾度か空中戦で不事着陸をして、入退院を繰り返し、最後は昭和二十年春南九州の種が島上空でのグラマン戦斗機六機との交戦中燃料タンクに被弾して、種が島基地に不事着陸して大破炎上したが、爆発寸前に脱出して軽傷で助かりました。

海軍へ入団した当時(昭和十七年)は戦死する事が最大の名誉とされていましたが、昭和十九年の終り頃から最大限生きる事を考えはじめました。

そしてその頃から自分自身の生きる事の大切さを、しみじみ解る事が出来る様になりました。あと二ヶ月戦争が続けば勿論生きては帰れなかったと思います。

現在は自分だけの都合で自殺したり、又他人を殺したりして命を粗末にする様な風調がありますが、私達運よく生き残った現実をしっかりとみつめて、一日一日を大切に生命の尊さを感じて、頑張って生きてゆきたいと思います。

私の青春四年間の記録より

信鈴随想

茅野市 小池増晴

(病床を生きよと菊が見据えおり)吹雪ふく入院の日から新緑の夏迄の長い六ヶ月でした。大勢の皆さん方に並並ならぬ御世話になっての今日があり、それより此の六月で四年です。現在では薄紙を剥ぐようにの古諺の通り、身心共に当時の苦悩からの界を脱しようとしておる折りですが、私は常に一生涯感謝の気持を忘れてはならぬと胆に命じております。(退院日医師の笑顔や若葉崩え)毎日を親切に明るく勇気付けてくれた皆さん方でした。困と不安、不安から焦りの連続の日々の後に、今ここに生きて帰れるという、現実には全く感激しました。(白衣の婦笑み去る廊下春うらら)長くて、そして苦難な毎日を友情に縋り愛情に浸り乍ら過すことが出来た当時は恵まれた、ほのぼのとしたものがありました。今でもそれが伝わって来ます。(点摘に窓辺の梅の色映る・点摘で目線は窓の花菖蒲)そして退院は出来たものの早速に困ったことは、何と言っても声でした。手術前のイメージが強くて、力ばかり異様に迄入って「あ」の一言も思うようには出て来ませんでしたネ(咽喉癒えて首が淋しく毛糸編む)それでも私には幸にもライバル小林、横沢両氏が居て救われました。何にかとお互いが切磋琢磨でした。それが現在の親友なんです。又それにも増して、精根をこめ真倹な先輩の指導宜敷きを得て楽しく練習が出来て、お陰様にて私なりに上達が出来たように思っております。ありがとうございます。(写経終え共に集いの雷の果)又藤森さんも当初はよく誘いに訪ねましたが、今では急上昇で、よきライバルとなりました。皆が楽しみ乍ら練習をし、又教室に来ることが楽しみのようですネ。看護副部長さん又大先輩方が、必死に築き育てあげた、温くもある教室ですので、一人でも多く誘い合い、此の貴い炎を消さぬように大切に私なりにつとめたいと。思っています。(癒えし者集い龍峡の紅葉映え)そして又秘峡の小谷に天龍峡での舟下り、又秋の草津ルートの散策への信鈴会の小旅行も又楽しく限りない思い出が溢れて来ます。癒える者同志の全く気兼のない、楽しい企画も好評で毎回参加者が培増です。今年もその日も順々に近くに迫って来て、なにやらそのコース等の楽しさを語り合う人も、ちらほらそんな昨今です。又、いつまでも変らぬ友情と皆さんの御多幸祈りつつ結びます。

おたよりに寄せて

茅野市 五味周一

皆様元気で御活躍のことと在じます。私もお陰様で元気で暮しております。手術後約七年が過ぎました。当初鳥羽先生、諸先生の発声教室では並々ならぬ暖い御指導をいただいたこと、生涯忘れることが出来ません。

私は約半年程喉頭発声を指導していただいたが、どうもうまく発声出来なく、日数が経つにつれあせりが出て来て何か心が萎縮して来ました。その頃仕事の事で時々上京しましたが、途中での会話は筆記でやっと通じていました。とても不便で泣きたい思いで過ごしました。何とかしなければと痛感し、銀鈴会の山田さんに手紙を書き電気発声器はどうゆうものか照会していただき、その後購入して使用しました。何としても教わる人もなく自分で工夫してやるより仕方がないと覚悟を決め、発声をテープにとって再生し、乍ら続けていました。最初は、ピーピーと言うキカイ音が強く出て、言葉より雑音が多く声にはなりません。相手の方に聞いてもらっても(ガーガー)と判りにくい批評でした。

電気発声器は電池と磁石で電流を調整して音の強弱を作って、更に指圧の調節を加へて言葉を出すことになります。一口に言えば簡単ですが仲々うまく出ません。一寸した短い言葉は比較的早く出来ますが、何と言ってもキカイの発声ですから言葉にしてもギコチなく相手に伝わる心には程遠く、味気ないものでした。

免に角意志を通ずることが目的だから努めて他人に話しかけ、旅行にも使用して歩きました。本を読んでテープ録音し再生してきき、乍らその文章の心情が多く出て来るようになればと思い乍ら続けております。

此の頃になってやっと周囲の人から私なりの会話が、判るようになったと言われるようになりましたが、これからが更に一段の努力と思います。電気発声器は今後改良されて小型・軽量になり、一寸えり元へ留めておけば使用出来る様なものになれば良いと。専門家の研究を進めていただければと、心からお願いする次第です。

いずれにしても各々の発声方法で何よりも尊い心と心の交流に励みましょう。

所感

下伊那郡天竜村 花田平八郎

昭和五十七年十二月は大きな節でした。私には手術後満五年を無事迎える事が出来、家内共々喜びを味わって越年をしました。

気管口が狭塞になったり、気管発声のパイプが細くなってしまい、形成手術等三回ばかりしましたが、幸い病気自体ではないので何と言っても気が楽でした。ただ気管発声は残念乍ら使えなくなってしまい、食道発声一本で、最近は落着きの日々を送っています。私は幸いにも割合、短期間に食道発声が出来るようになりました。ただ発声教室へ通へば、もっと上達すると思いますが、現況が未だ許されないので、いつの日か教室へ出て、皆様と話し合い等出来る日を楽しみにしています。

昨年は身障者の年で何かと賑やかな事でしたが、私個人的に考えたとき、何も特筆するものはありませんでした。唯テレビ等で私などより重症な人達が必死で生きようとしている姿を時折見ては感激しました。

補助マイクを買ってみましたが、実用な処へは、今一歩と言う感じでした。

宇宙を往復する現在、何故我々身障者の機能をカバーする器具など、もっと満足な物が出来ないのか。又、良い物は高価すぎて高嶺の花だったりして、せめて身障者の使用する器具位は、国等の機関で面倒を見ても良いのではないかと思います。

未だ現役で頑張らなければならず、顔は笑い乍らも胸中必死の思いで、家内と営業に取組んでいます。

いずれ発声教室で皆さんに逢えるのを心から楽しみにして、今回の寄稿を終りにします。

思い出のままに

下伊那郡上郷町 山田宗雄

五十六年一月頃の事です。何か口の中の下あごの辺がおかしな感じがして気になりだし、鏡に向って見ると何か「ペン先」位の小さな赤い穴が見つかり、周りが少しはれあがり何か恐しい気になりました。その後は仕事等に追われ、そんなにも気にもならず過ごしてしまいました。今から考えるとその時、すでに病気は相当に進行して居たのでしょう。三月末どうも気分がすぐれず、夜もろくろく寝れず、ぼぉうっとする日が続きました。今迄健康にて過ごして来たのでよけいに感じがひどくなり、当地の病院にて診察を受けました処、すぐに信大の耳鼻科を紹介して載き、何とも不安な気持にて来院、直ちに入院となり即日より放射線治療と言う事になりました。続いて計三○○○ラード放射を受ける。その後一週間休み再度三○○○ラード放射治療する。その間食事も入らず連日苦しい思いもありましたが、何とか気力で頑張って参りました。其の後二ヶ月余りたち自分では大分良好と思われ、すでに完治した心算でした。ところがこれからは耳鼻科にて本格的な検査をして、結果を見ないとわからないからとの事で転科となり、引続き検査をしてくださったのです。がやはり心部に細胞が残存していたのでした。先生からどうしても手術をして大きく取らねばだめと聞かされ本当にびっくりしました。何と今考えるとあの時の気持は全く何と言ったら良いか、唯体がふるえてふわふわと地につかない感じでした。十日位そんな気持が続き、七月二十二日癒々本手術になったのでした。舌全摘出・喉頭摘出・口腔底手術と形成手術等大変な手術でした。自分では何も知らない時間でしたが、十一時間もの間、手術室に入ったきりだったのでした。朝から病室にて待っていた家族の心配は本当に大変だった事のようでした。

それ以来もう声は全く出ず、あの鼻からの食事の注入等、毎日が初めての事許り唯々夢中にて過ごして来ました。三ヶ月余りの療養の間、主治医の先生方始め、婦長さん、全看護婦さん方、又家族、親類の方々それぞれから大変な御世話様になって、十一月始めどうにか退院出来、その後通院等にて唯今は幾らか気ままに畑作り等が出来る様になりました。今になって思うのですが、やはりあの時に一部だけの手術よりは思い切って一度に全部の手術にて取ってしまったのが良かったと思いました。

もうすぐ手術後二年になり、あと残ってはいないと確信して居ります。ただ毎食のミキサー食にはあきて来ます。一時はもう見るのもいやだと思ったりでしたが、家内が一生懸命こまめに毎食考えた食事を作ってくれますので、何とか飲み込んでおります。味もなく、本当にあっけない食事にて唯々腹が一杯になる感じしかないのが一番つらい事です。話しは出来なくても、普通の食事が取れればなあと思う事しばしばです。

しかし今ではこうしてでも毎日毎日生きて行けると言う事は本当に有難い事だと思います。たまにあの時の事を思い出しては、家内や息子から聞かれる事は、あのままでは今頃は此の世にはいないなあ等と聞かされ、唯々感無量と言う処です。自分乍ら此の様な体で良く生きられると思う時もあります。昔から舌を切って言々と言われる程大切な舌を全部取ってしまったのでと思う程しばしです。

亦今野副看護部長さん始め、皆様から発声の御指導をして載いて参りました。電器発声機にて何とかある程度の発声が出来ればと、色々と自分なりに考えて行なっておりますが、なかなかむづかしい事にて、はかばかしくいかず、まだまだ努力がたりないのだと思っております。

今後も出来るだけ発声訓練に参加して、頑張っていかなくてはと心に言いきかせております。今後ともよろしく御指導の程をお願い致し、感じたままにて終りとします。

無題

白馬村 松沢和子

今朝もあいうえおの練習で一日が始まった。四音、五音、六音、新聞などの文を続む。鳥羽先生にいつも注意を受けるので気をつけてきらない様心がける。手術後五月二十八日でまる三年、喉を取った人は一年で上手になるのに私は、皆さんにどんどんおいこされて行く。食後一時間位は声が出ない、こんな事なら手術せずに死んだ方がよかったと思ったり、又一方では、こんなことで負けてなるものか、きっと話が出来る様になって見せる。

あと三年もたてば近所の人達とも、話が通じるようになるものかどうか?

一番困るのは会合などで食事中自己紹介と指名を受けた時などは、食道を取って胃を引上げてあるせいか、どうしても声が出なくなってしまうのですが、これも月日のたつ内になおるものか心配です。上手な人達は一日の練習時間が四時間、五時間との事、私などは足もとにもおよばない。もっともっと肺活量を上げる様努力して、皆さんのあとからついて行くつもりです。今後共よろしくお願いします。

落書

信州新町 西沢功一

宇宙の万物生気発らつとして躍動する好李節が訪れて私達障害者に取りましては殊更待望のシーズンになりました。日毎に桜前線も北上し、山国信濃殊更雑木林の多い郷土に若い頃短歌欄でみかけた

「やわらかに楢の新芽の薄みどり 雨にぬるにてふくらみおるも」

此の素朴な歌がたまらなく心にしみついて、詩情限り無く、そうして憧れを持ちたまらなく郷愁を感じます。確実に春は巡って来ました。

扨て私達信鈴会も本年は十五周年とか、歳月の流れの速さに驚きます。此の間歴代会長さん、指導員役員の各位のなみなみならぬ御努力で教室の個所も増え、内容も充実して成果の効上みるべきに哀心より敬意と感謝を申し上げる次第でございます。私如きは入会まで四年目発声の方も意の如くに至らざるを反省するのでございます。

尚此れは私事で全く恐縮でございますが、昨年秋十月十五日、長野日赤教室にて突然倒れ意識不明となりましたが、幸にも高村婦長さんが同室されたもので直に迅速適切なご処置で緊急医の先生の加療にて意識を取り戻し以後緊急救令病棟にて二週間は二十四時間連続点摘注射その後一般病棟にて二ヶ月半程度治療、此の間高村婦長さん初め指導員の方や同寮の人達まで、再三来床載きまして、御厚志尚心からの励ましのお言葉を載きまして感涙の極でした。ここに改めて哀心幾重にもお礼申し上げます。

その後順調に推移いたしまして、一月初旬退院の運びとなりました。以後自動着護で殆ど復旧いたしましたので、四月新年度から教室にお世話になり、ブランクを取り戻したいと思いますので変らぬ御指導御鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

終りに会報信鈴の編集に毎年大変御苦労載きます会長さん、役員関係の方々に哀心感謝を申し上げまして拙文を終ります。

「寄稿する暇は有れども 才なくて稿貧しきをはずかしく」

更生

諏訪市 笠原よ志

手術をしてからもう四年目。人口笛を使っての生活に馴れるというよりは、日常生活の中で即座に返事の出来ない不便さに食道発声を習いたい。今年こそ、今年こそと思い乍ら仕事に追われたり、年々体力も衰え諏訪から松本まで行くのか憶劫になってしまって、虫のよい考えかも知れないが、近くで習えたら等思う事頻りです。

過日同級会に行って、人口笛を使って話せる私にみん。な大喜びして「いい道具があるもんだな、よかったよかった」と我が事の様に口々に言ってくれました。人とのふれあいに一番大切な言葉を失った悲哀から、新しい生き方の工夫をして一歩一歩生きる喜びを覚えてゆく事が自分の使命と思い、ともすれば沈み勝ちな心に鞭っています。

短歌二首

「同級会少女の思いの儘に居て 老のかんばせ並び写せる」

「学童の群の中より手を挙げて 我に合図す家の孫達」

近況

坂城町 塩入篤

月日の経つのは早いもので、手術をしてより五年半になんなんとしております。当初はカニューレを使いパイプ式で発声をしておりましたが、昨年の四月より現在の人工喉頭に切り替えて生活しております。

手術の方法も違い各人各様であり、私の体験が即皆様の御体験と合致し共感を呼ぶとも思いませんので、徒に自分の事に触れるのは憚り多いことでありますが、ただ「声が出ない」「喉頭を摘出した」という点では共通の体験を持っておりますので、同憂・同苦の者としての声として聞いていただけるのではないかと思い駄文を弄することに致しました。

パイプ式の手術は故上条明先生により執刀して頂きました。意欲的・独創的であられた先生が、信大としては初めての奈良医大方式によるカニューレを用いゴム管を人工のパイプに繋げて発声する法をとられました。この方法の長所は、即日しゃべれるということ、会話体で多少肉声とは音質を異にする程度で、全く自由にしゃべれるということでした。一対一で話す場合などでは殆んど不自由を感じませんでしたが、問題は大衆の中、街頭の騒音の中では相手にとって全く聞きとりにくかったこと、それに食べ物がゴム管に詰ると声が出なかったり、挿入したゴム管の太さがパイプの直径に合致しない為に起こるもれなど長所と裏腹に欠点もあったと思います。

同室の諸兄の中にも小生の手術を或る人は羨る或る人は食べた物がもれるのではと二の足を踏まれるなど各様でしたが、中には故人となられた方もあり、当時を想い感又ひとしおであります。

パイプ式を現在の人工喉頭に切り替えたのは、東京に就職しておる娘からの電話でした。昨年の正月、国際障害者記念の大会を前にして阪喉会長の某氏のインタビューがテレビの映像にのった時でした。突然の電話に出てみると娘からのもので、「今すぐテレビを見てこれこれこうだから」という性急なものでした。言われるまゝにチャンネルを捻ってみると全く常人と変らない程の声量で、その話し振りの堂々たる様、更に声の明瞭さ、正に一驚致しました。これだ、これなら人の中へ出ても通用すると確信にも似た気持に駆られ、これに切り替えようと決心致しました。四月信大を訪れた際に今野副部長さんに理由を説明し人工笛を手に入れました。その後東京の銀鈴会も訪れ笛を購入して参り、現在に到っております。

いろいろの場に即応し適宜な方法で何も、一つの方法から他の方法への転移も簡便に出来る方法があり併用出来ればこれに越したことはありません。人工喉頭にも短所があり、長所ばかりではありません。如何に欠点を克服するかに苦心しております。欲の深い話で原に食道発声も出来たらと時折は見己流でやっております。二兎を追う者は一兎を得ず、ましてや三兎とは欲の深い限りですが、希望だけは大にしております。目下町内の古文書の同好会にも出席しております。自らかって読み上げることもあります。多少聞き取りにくくとも積極的に行動しようとして努力しております。幸に囲碁という趣味もあり、時折は訪う人や碁会所へも行き闘志を湧かしております。「人間は考える葦」とも言われ又、日に三十人と逢わなければ脳細胞も退化するとも言われております。それぞれに候聴に値する言葉であり、ともすれば、自己逃避をしがちな喉頭摘出者にとっては、他山の石として聞きとり、発展の資にしたいと思います。それぞれの故人の早世など憶い残された人生にそれなりきの生きざまを持ち得るようにしたいものと思います。

所感

松本市 八木要司

人間は一人で生れて、生れた以上は、いつか一人で死んで行くのですが、五二年六月手街して下さった上条先生は若いのに亡くなりなされた、私如き、役にも立たん人間を助けて下さったのに、代われる物なら代ってあげたかった。多くの人の為にと思いまして、さて発声教室で私ごとき者でも親切にして励まして下されて、アの声を出せた時は私でもしゃべれるかと涙が出ました。丈夫で医者知らずの人間が三ケ月入院して先生方や看護婦さんの大へんなサービスに、あきらめた人生に灯がともるように思いました。残る人生を大切にしなくてはと皆様のご好意にむくいる意味でもと、一日一時を大切にして生きております。今野婦長さんではないが、面倒がってだまっていてはいけませんと、孫と話ができるようになり、孫も笑い顔を見せてくれます。でも中には嫌いな人にも会います。紙とペンを出される人もあるのですが、それを考えると看護婦さん方は本当に私の話しがわかって下さるのかと考える時もあります。有難い事です。だんだん上手になりましたと励ましてもくれます。教室にも出ようと思っておりますが、忙しくてつい足が遠のきますが悪く思わないでいて下さい。暇を見て出席いたしますから。信鈴会の発展を祈り拙文悪しからず。又会う時をたのしみに日々を大切に送っています。

昭和59年刊 第14号

巻頭言

信鈴会会長 鳥羽源二

昭和五十九年で、信鈴会も第十六回の総会を迎え、そして会報"信鈴"も第十四号を重ねることが出来ましたことは、誠に喜びに堪えません。また信鈴会生みの親である、島成光前事務局長が九十才になられると云うことは、私達の光明でもあります。

既に皆様ご存じの通り、信鈴会に四カ所に発声教室がありますが、信州大学附属病院では今野副看護部長が積極的に発声教室発展と喉摘者社会復帰のために尽されていることは誠に感激の極であります。又先生方看護婦の皆さんのよきご理解により、県の発声教室の中心として、まことに良い状態であることはほんとに有意義であります。

長野日赤病院も懸案の立派な病院が若里に新築移転、長野発声教室も病院正面玄関の右側に広い立派な教室を提供していたゞき、浅輪先生始め病院の皆さんのご協力の下に、発声教室の勉強に励んでおられることは嬉しいかぎりです。

また伊那中央病院に於ては、教室発足当時よりご足労をお願いし、又その後も伊那教室の心のよりどころとして親しんできた、矢田先生が開業され、その後任が欠けて暫く空白状態が続いたときは、一時途方にくれた事もありましたが、五十八年後期納谷先生が着任され、若い情熱をもってご協力下さることになり、加えて発足時よりお骨折りを願いました宮原婦長が総婦長に昇格されたことで、教室の一同も大いに明るい時間を過しておられます。

そして佐久教室は、発足時より山浦先生、神戸、高梨両婦長始め病院の皆さんのお力添えで、順調な進展を続けておりましたが、今年度から誠にご多忙の中を日向総婦長が諸行事にご参加下さるなどご指導ご協力いたゞきまして、これからの佐久教室の躍進が見ものであります。

以上信鈴会各教室の現況報告のようなことになりましたが、当会はほんとうに理解ある病院とその関係の皆さんに温く迎えられて、誠に幸なことであります。全国に同じような団体が数多くございますが、その点ほこり得ると云いましょうか、恵まれた喉摘者団体であると思います。

尚終りになり恐縮でございますが、教材用ビデオ・カメラ一式ご寄贈賜りました、耳鼻医会々長平林先生始めご協力下さいました皆様にこの紙上を借りまして厚く御礼申し上げます。と共に価値ある効果を上げるよう努力致す所存でございます。

白と黒

信大医学部 田口喜一郎

最近レンブラントの絵に興味を持っている。レンブラントは十七世紀にオランダが生んだ世界的画家であるが、その画風は必ずしも日本人に多くのファンを持っているとはいえない。それは彼の六十七年間の生涯に書かれた絵は少なくとも四百五十一点あるとされているのに、我が国にはブリヂストン美術館にある「聖ペテロの否認」一枚のみというのは、三世紀前の作者のものとはいえ、現在の我が国の経済力からみて頷けない点があるからである。

私がレンブラント(の絵)に出会ったのは僅か数年前のことである。アムステルダムで昭和五十四年六月に第五回国際姿勢学会が開かれ、この時アムステルダム国立美術館を訪れる機会を持った。そこには有名な大作「夜警」をはじめとして多数のレンブラント作品を見ることが出来た。彼の油絵は全般的に暗い色調のものが多く、宗教的色彩の濃いものがある一方、人間臭さのむき出しになったものもあり、特に人物像の生き生きとした描写には唯感銘を受けるのみであった。

若くして画才に恵まれたレンブラントは、両親の理解により、大学迄行きながらそれを中退し、多くの師について才能と名声を博し、多くの弟子を持つことが出来たとされるが、家庭的には愛する妻が三十才で先立ち、次々と子供も早世し、画業を継いだ息子も彼の死の前年に失う等、不運の中に生きた人である。これが逆に弟子を愛し、多くの人物像を正確に生を与えることが出来た由縁であるとする人もある。彼の遅筆は有名であり、現存する七通の手紙の中にもそれを思わせるものがある。しかしこの時期にも決して怯まず新境地の開拓を続けたのは偉大という他ない。彼の絵画の特色は銅版画の中にも表現されている。それを肖像画、奇妙な人間の行動をエッチングで表現していたが、この不幸な時期に「三本の木」という傑品を物にしている。これはオランダのありふれた農村風景の中にキリストと同時に処刑された二人の罪人を意味する三本の木が描かれ、その木の葉は白黒のみで恰も苦しみを表現するように動いて見える。平凡な風景が恐ろしさを意味する木と空模様と対比して我々に問いかける迫力がある。将にカラーでは表現出来ない白黒の偉力である。日本でも棟方志功の宗教画があるが、童顔であり、人の心を和ませるものがあるが、レンブラントのような感銘は与えてくれない。

現今写真といえばカラー写真が常識的になっているが、白黒で表現された山岳写真、人物像などに芸術性をより強く感じることがあろう。色温度を単に黒の濃度に変換する以上に、黒の魅力があるように思われる。対象物によってはより強いエロチシズムやリアリズムを感じるのは老若を問わないのではないかと思われるが如何。

複雑な情報処理に近年カラー表示が行われる。例えば一つの図表に沢山の情報をのせようとすると、色別に直線や記号を記載することは一法である。ところが同じ程度の情報を線の太さや形を工夫して表現することも可能である。もしその図表の中に一定の傾向を認識させようとするならば、後者の方が有効であると心理学者はいう。

レンブラントは遠近法を駆使し、また銅版画は勿論、油絵でも影をうまく使用して、基本的に白と黒の対比に、古今稀に見る才能を発揮した。視覚を聴覚に置き換えて考えるとき、皆様の食道発声や人工笛声が訓練により正常者声を凌駕する可能性は充分考えられるところである。一本の笛も奏者により音楽にも雑音にもなり得るのだから。

みなさま今日は

信大病院看護部長 石田愛子

十月三日、会報「信鈴」第十四号の編集についてご依頼いたゞく、第十六回定期総会はご盛会のよし、皆様方のおほねおりが目にみえるようです。人の和の尊さに頭が下ります。日頃手助けもせずはずかしく思っております。

いま病院の庭に見事な萩が風と睦みあいはばたき地を打ち一転してひるがえり笑いさざめくような又すました顔で立ちつゞけ花が語っているようにみえます。だいぶ前、山口へ旅行した折、家並に咲きつヾいてそれは見事な萩見でございました。

冬になってその枝でかご等作るとか伺い、昔の方々の智恵と物を大切にする心が伝わります。

萩の花言葉は「内気」だそうです。誠にお恥かしうございますが少々呟いてみます。

医療があまりにも多くの問題を抱えている現在むずかしい議論はともかく、人間が人間をみるのが医療の根本であろうと思います。「みる」と申しますが、私共も当然みられているわけです。看護を行う上での技術的なものは勿論不可欠ですが、看護の本質といったものはご病人との触れ合いでございますから「親切に」呼ばれたらすぐとんでいくこと、そして看護婦の「笑顔」が大切。ご病人の訴えから心の悩みまでさっするように。看護は観察ではじまるわけですが、何をもって「カンサツ」するかが問題です。自分が相手にどう写っているか「きづく」ことなしではありのまま見る事が出来ないわけになります。会話の行間と申しますか表情、苦痛のかげり、言葉をためらったりなど、私共は兎もするとあまりにも日常的すぎる故にいつのまにか大事なことを忘れさせてしまう可能性を持っています。自分で自分のことが出来ないでいられるイラダチ。悲しみ、怒り等ご病人の心の中に渦まいているその苦しみを察し援助させていたゞきますという気持。看護婦一人、一人の信念と申しますか愛着を持たなければ単なる仕事者となり目の前の片付け作業に終りひいては挫折するであろうと思います。

啄木の歌に


病みてあれば心も弱るらむ

さまざまの泣きたきことが胸にあつまる


会が大きくなるのは喜しいのですが、反面お一人お一人の気持がくみとれないことのないように。今野副看護部長さん、婦長さん、看護婦の皆様、今後ともよろしくお願いします。

先輩の皆様方の変らぬご指導、仲間づくりに頭の下る思いでございます。

自然がかもしだす美しい秋の風情にあれこれ思いつゝ失礼をお許し下さい。季節のさかい目でもありどうぞ健康に気をつけて下さいませ。やがて野沢菜漬。それぞれの秘伝がおありのことと存じます。物知りの皆様方いつまでもお元気でいらして下さい。

信鈴会の皆様 昭和五十九年十月五日

「眼鏡!早く来ないといっちゃうよ!」

佐久総合病院総婦長 日向幸子

御無さたいたしております。お元気で御活躍の由、高柳さんより漏れ承っています。

佐久発声教室の皆さま方による春の旅、菱野温泉行きのさいは、ごいっしょさせていただき、大変ありがとうございました。

鳥羽会長さんはじめ、信鈴会の皆さま方にお会いすることができ、私の人生にとりまして、又とないドラマであり仕合わせでございました。

たった二日間の小旅行なのに

ひなびた宿の酒盛

若い看護婦の唄う流行歌

BGMの流れに酔って踊ったブルース

田舎料理に舌鼓をうち

語り明かした、あの夜

生きることを再認識するために

あの夜の時間が与えられたような

一人びとりの笑顔が浮かび

また消える

今も私の胸がジンと痛みます

翌朝、見送りのマイクロバスが、玄関先に横づけされすでにエンジンの音が鳴りひびいているかのように、切羽つまった時でした。会員の一人が眼鏡がみつからないということで大さわぎとなりました。

一人、二人、三人と、隣りの部屋からも、又その隣りの部屋からも、皆さんそれぞれ手分けをして、洗面所からトイレ、浴室から食堂と、廊下の隅ずみはもちろん屑かごや各人のポケットの中まで

「こちらにはありませんよ!」

「そこも見ましたよ!」

あせればあせるほど、どうしようもないイラ立を感ずるばかり、なかばあきらめかけたとき、私は、ありったけの大声で、廊下の中央に立って叫びました。

「眼鏡!早く来ないといっちゃうよ!」と、ほら、最近よくやって来るではありませんか、焼きいも屋のおじいさんの調子です。

「焼きいもやー焼きいもーおいしい焼きいもだよー、早く来ないといっちゃうよ!」

なんと人間的なよびかけでしょう―どんな細い路地の中にも、入り込んで来て、マイクロホンのボリウムを最大限にあげ、どなるようにして宣伝する。その声を聞いた者は、大人も子供も、みんな、ザルや鍋を持って集まって来る。あの路地商法を思いついたのです。

さあ、そこで何が起ったかとお思いですか。皆さんが何回となく、さがし求めても見つからなかった眼鏡が、ついに発見出来たのです。それは、私が大声をあげて、ありったけ叫んでふと眼を一点に集中した瞬間でした。

「私はずーっと前から、ここにいたんですよ、あなたが、声をかけてくださるのを、待っていたんですよ」

と言わんばかりの状態で、流しの中央に置かれた洗面器のわきに、チカッ・チカッと静かに輝いていました。

眼鏡が無ければ、マイカーを運転して帰ることが出来ない会員の方の、心境を思えば、どんなことをしても捜し出して差しあげたいと、思う心はみな同じです。しかし、不思議なことは、物を言わない眼鏡のようなものにも、心があって、「置き去りにされたくない」と言う自己主張をする、ということです。それが、人間の心に通じるということです。

人のために真剣につくすことの大切さ、尊さを、取り戻すチャンスが与えられたことをうれしく思います。あのような小さな奇跡であっても、一つ、一つ捜し求め、路地の思想を再考し、あせらず生きて行きたいと思います。

信鈴会の発声教室を通じ、交流を深め、人間らしく生きて行きたいと思っています。また寒い冬がやって来ます。お体おいといくださいまして御活躍くださいませ。

医療改善へのとりくみ

河原田和夫

健康保険の取扱い変更による、社会保険本人の負担増で、医療機関の敷居が、更に高くなり、早期治療をおしすゝめている我々医療関係者にとって頭を痛めているこの頃です。何よりも皆さんにとって辛いことが重なってきたと同じで、定期的受診が阻害されなければと念じております。

こうした事態の中で、少しでも医療に関連したサービスに心をくだこうと、従来行っていた散発的な発声練習をもっと効果的かつ短期的に行うにはどうしたらよいかと医療スタッフが話し合った結果、「速成発声講座」と名ずけて、10日間連続のミニ発声教室を看護婦が中心になってやることになりました。信鈴会・銀鈴会の文献を参考にして、手術前の説明と手術後の練習内容(手術後20日目から10日間)について文章化し、自習を基礎に手術後一カ月で社会復帰できる課程をつくりました。八月から月一人の割合で三人の方が入講し、二人が課程を終了しました。信大病院で発声教室の初級とほゞ同じ程度かと思います。

こうした経験を通じて、医療スタッフの目の色もかわって来ました。医療の原点みたいなものを学びとったという満足感を味わいました。

(十一月三日)

体重の減量

信大耳鼻咽喉科助教授 山本香列

体重が気になり始めた。肥満は成人病の元凶の様に言われているが、現在が健康であってみると、仲々そのコントロールが難しい。私が体重の減量をしようとした直接の動機は、階段の昇りに「息切れ」をする様になったことである。一階にある医局から三階の病室まで一気に階段を歩いて昇ることは困難で、動悸がして一時休まないと昇れない始末であった。中年のシンボルたる腹部の肥満については、食欲との兼ね合いからすると、減量の直接の動機にはならなかった。突き出た腹は、自ら見ても気持の良い肥満振りではないが、ついつい食欲の方が優先されることとなる。

一念、体重減量作戦を敢行することとなったが、まず取りかかったのが、世の中で良く言われている方法で、運動をして減量しようとするものであった。運動をしてカロリーを消費し、その結果減量できると言うものである。この方法ならば、理論的で説得力もあり、健康にも良く、かつ食欲も満たせると考えたのである。朝のジョギングが数日を過ぎる頃より、肩凝りや腰痛が良くなり、体には健康感が満ちて来た。所が、本来の目標たる体重の減量にはいささか裏腹の結果がでてしまった。体を使うことによって食欲が増進されてしまったのである。次第に体重も増加し始めた。実はジョギングと言うのは、正確な数値は分らないが、30分行ってもアメ玉1個程度のカロリーを消費するだけの様で、ジョギングをして減量するためには、同時に食物のカロリーを少なくすることも必要とするらしい。そこで今度は、運動を続けながら食欲のコントロールをすることとなったのであるが、数日で挫折することとなった。ジョギングによって食欲を増進させ、その食欲を自らの意志でコントロールすることは大変なストレスであった。数回の試みの結果、ジョギングをする時間の取れないこともあって(実はジョギングを毎日続けること事態、困難となってくる)最も良い方法なのであろうが止めることとなってしまった。

残された減量の方法としては、カロリーをひたすら制限することであった。これは要するに美味しいものは食べないということであり、食欲は抑えに抑えられた。このやり方は効果的で、二カ月間に10Kg減量でき、標準体重になった。しかしこの間の健康状態は芳しいものではなく、「おでき」が一カ月間も治らないと言う状態であって、仕事をするのが大変であった。体験から言うと、この方法は若い人に向いており、中年以後には健康上不向きである。

食物がふんだんに食べられると言う現代の病いの中で、肥満を解消することの難しさを体験した。現在は軽くなった体で、運動性は大変改善し、快適に過ごしている。医局対抗の野球にも軽快な(?)フットワークが可能となった。しかし以前に比らべると、同じ仕事量でも、睡眠時間が長く必要になった様に思うが、これも逆に健康の為には良い事かも知れないと思っている。健康は自らの手で作り、管理するものであろうが、それは実行しようとすると難しい事であることを実感した。今は少なくとも、再度肥満となって又同じ苦労だけはしたくないと思っている。

恥かしながら傍観者

佐久総合病院耳鼻咽喉科医師 小松正彦

学生時代、と言うよりもついこの間まで、私は前頸部下方に穴の開いた人を見てあれは何だろうかと思っていました。喉頭摘出と言う言葉は知っていても、その正確な認識は全く持ち得ず、気管開口部を単に便宜的に作った呼吸口程度に考えていました。

ですから食道発声など見当もつきません。十年程前だろうか。学生運動が華やかなりし頃、テレビに度々登場した、エンプラ入港阻止闘争の中心地となった佐世保の市長が、何故あれほど苦労して聞き取りにくい声を出しているのか納得できたのは最近のことです。これ以上無知をさらけ出すと、会員の皆さんに、たとえ新米とはいえ、人格資質を更に問われそうなので止めておきます。

食道発声に取り組んでおられる方々に対し私は完全なる傍観者であります。術前の不安、緊張、術直后の苦痛、食道発声修得の苦労、何一つわかりません。二、三度発声教室に御邪魔しましたが、会長さんを中心として発声練習に取り組まれる姿は、当事者以外の存在を拒むが如き緊張を私に与えます。充分な声にならない声の集合は、失礼な言い方をさせて頂くなら、ある種の無気味な迫力を感じさせます。「頑張って下さい」なんて無責任な激励の言葉など口に出し難い雰囲気です。以上が私の正直な感想です。信鈴会と、会員の皆様の御発展を願うのみです。筆談や身振り手振りのもどかしさが、懐かしさに変わる日の到来を期待しています。新米が駄文で失礼致しました。

日頃思うこと

長野赤十字病院B4病棟 西沢喜代子

信鈴会の会員の皆様には、いかがお過ごしでしょうか。七月の総会の折皆様の真剣なお姿を拝見し、本当に感激致しましたし、頭の下がる思いでいっはいでした。病院へ帰りまして、私達看護婦も、皆様のお手伝いが出来るように、勉強しあおうと、話し会いました。その私達の病棟では約四名の方が喉頭摘出術を受けられました。このうち一名の方は、食道発声を行える段階には至っておりませんが、三名の方を対象に、腹式呼吸、ゲップの仕方、ストローふき、などの基礎訓練を中心に行っております。しかし、なかなか思う様にはいかず、原音の発声には至っておりません。退院までには何とか「こつ」をつかんで頂きたいものと、スタッフも努力をしていますが、患者さんと共に喜こびあうには、まだまだの道程です。この様な状態ですので退院後は、その人の自主的な訓練と、発声教室への参加という事になります。発声教室は月二回ですので、その間は一人だけの訓練となりますので、順調に行けば良いのですが、うまく行かない場合は、訓練をあきらめたり、放棄してしまうという結果にもなりかねません。そこで私達が今後課題としていかなければと考えていますのは、他教室の看護婦さん方との情報交換等の横の連絡を密にすること。退院患者さんで、特に原音が発声出来ないまま退院された方に対しては家庭での訓練状況を訪問等の方法で把握していくこと。発声教室の回数の検討などです。何事も一朝一夕で成し遂げる事は困難ですが私達も少しでもお役に立てるよう頑張りたいと思っています。先日、糖尿病の会で、三つの「き」を育てましょう。というお話をお聞きしました。一つ目は病は気からというけれど病気と斗うには「元気」という「き」が大切であること。二つ目は、ひっこみ思案にならずに「勇気」という「き」を持って行動すること。三つ目は「根気」という「き」で病気に対処すること。とのことでした。

「元気」で、「勇気」を出して、「根気」よく、頑張っていけば何事も成せるというような気持が湧いてきます。そういう気持を大切にしながら頑張っていきたいと思っております。

小学校の運動会に思う

信大病院北3階 百瀬領子

今年末の子が小学校に入学したせいか、運動会を見に行くのが楽しみであった。二学期が始まってからの一ヶ月間に練習した成果を発表するのであるから、先生方の御苦労も大変なものである。当日、組体操やリズムで失敗する児童や、かけっこで転倒する児童もいたが、皆にこにこはりきってやり、最後まで頑張る姿が見られ思わず涙ぐむ思いであった。最近は児童の主体性や創意工夫が重んじられるというが、見ていてもその事がよくうかがえる。近年になく天候に恵まれた運動会となり、子供達の生き生きした姿にふれ、家に居る時とは違った一面をみる事ができた一日であった。

・かけっこのゴール付近で母たちは今かいまかとカメラ構えん

・借りものの学生服に身をつつみし応援団に歓声あがる

私事の一端を御被露致しましたが、信鈴会の増々の御発展をお祈り致します。

食道発声に思う

長野日赤B4病棟 赤沢裕子

私は看護学生の時に、鈴木ふささんにお会いして、その頃から食道発声について知識を得る事が出来ました。

今回耳鼻科病棟に勤務して喉頭摘出手術を余儀なくされ、声を失う人達のお心の一端を拝見し、鈴木さんが今、スムーズに発声し、日常会話に支障ないお姿を見ていると改めて人知れない御苦労を感じます。

といいましても、当院発声教室は第一、第三金曜日(午前十時~十二時)でありまして十五年もの歴史がありますが食道発声を練習する人達にとっては、まだ時間が足りないように思えるのです。なにしろ毎日毎日が練習のつみ重ねですが、タイミング(原音を出すまでの)をつかまれるまでの御苦労はいかばかりかと思われます。それは練習量によっても個人差はあると思いますが。患者の皆様が手術を受け、退院にむけて看護婦は全体として、出来ることが少なかったこと。又ほとんど発声に関してはノータッチできたのではないか?と反省します。看護婦自身が患者の皆様の第二の発声についても、勉強不足な点が多く、共に発声の努力を行なえていたかと思うと恥かしい思いがします。

今は病棟では、発声されている方のアドバイスや本・ビデオなどで看護婦も勉強し、少しでもお役に立てればと働きかけをしています。しかしスムーズにタイミングをつかまれる方、なかなか埋解出来ないで苦しんでいられる方などあり働きかけの難しさを感じます。

それでも社会の中で、声のない事の辛さというのは皆様、その人でなければ倒底理解出来ないものと思います。ですから、私達看護婦も反省しながらもこれから手術を受け、食道発声をされる方達のアドバイザーの一人になれたらと、患者さんへの協力を実行し、看護婦が出来る事で一日も早く原音のタイミングをつかまれる事を期待しています。

今后、喉頭摘出の手術を受けられる方は少なくないと思いますが、前向きになって発声の努力を怠らず、練習に練習を重ねて、素晴らしい第二の発声を生み出して欲しいと思います。

発声教室によせて

佐久総合病院耳鼻科病棟 佐藤桂子

信鈴会の皆様、おかわりございませんか。

昭和5年に佐久病院に発声教室が開設されて以来、院内のいくつかの患者会の中でも一番活躍されているのが発声教室だと思っております。これも三瓶さん、高柳さんを中心とした皆様の御努力の賜で、ただただ頭の下がる思いです。

私も、最近ようやく発声教室に出席させていただいておりますが、知識不足を痛感させられ、何の役にも立てない自分を歯がゆく思っております。でもできるだけ教室に出席し皆様との触れあいを多く持つ中から、入院中の事、退院后の日常生活の事等、いろいろな御意見をお聞きしこれからの仕事に役立てたいと思っております。

手術前の患者さんに教室を見学して多くの仲間がはつらつと活躍している事を知ってもらったり、先輩の方々に手術后の患者さんを訪問し励ましていただいたりと徐々に活動しはじめましたが、これからもアンケートをとるなどして訪問看護にまで結びつけられたらと考えております。

また、県内には4カ所の発声教室がありますが、各々の教室ではどのような練習をされているのか。医療スタッフの皆さんはどのような関わり方をされているのかといった情報交換をし、教室の発展の為に頑張りたいと思っております。

信鈴会の御発展と、皆様の御健康をお祈り申し上げます。

発声教室の皆さんへ

信大病院北三階病棟 細田かず子

今年の信鈴会総会は、会員の皆さんのスピーチがおりこまれており、とても印象深いものでした。手術という大関門を乗りこえ、「第二の人生の始まり。]と自分自身に言い聞かせながらも、心の中は不安でいっはいのスタート。くり返しの訓練の後の食道発声による第一声が出たときの喜び。そして、社会復帰に向けて更に又、努力と葛藤の毎日。そんなスピーチの中の一言一言に本当に胸に迫る思いをしたり、また、心から拍手をお送りしたい気持でいっぱいになりました。病という苦労の経験もなく、与えられた健康の中でぬくぬくと生きている私にとっては、病という人生最大の困難を乗りこえ、自分自身の手でつかみとった健康の中で立派に社会復帰されて、毎日を大切に生きておられる姿が、大変大きく感じられます。心身共に病む人々と多く接する中で、時折発声教室に参加し、皆さんの明るい表情や、生き生きとした練習風景に触れることで、ポンと肩をたたかれ、激励されているような思いがしております。これからもどうぞ希望に満ち満ちた明るい発声教室であり続けますよう頑張って下さい。私も皆さんと共に頑張りたいと思います。

発声教室に参加して

長野赤十字病院B4病棟 安芸敬子

私たち、長野赤十字病院耳鼻科病棟においても、喉頭全摘出によりコミニケーションに欠くことのできない声を失なわなければならない患者さんが少なくありません。そのような状態の中で、食道発声により社会復帰をされている方々も数多くいます。当院の発声教室が開講され、15年の歴史があるにもかかわらず、スタッフの中でも食道発声に関する知識はとても少なく、信鈴会とのかかわりもほとんどなかった状態でした。第16回信鈴会総会に出席し、喉頭摘出をされた方々の生の声を聞き、苦労し声が出る様になったそんな姿をみて"私たちもおてつだいできることはないだろうか?"ということを強く感じました。今までは、喉頭摘出の患者さんに対しての指導といっても、発声教室の紹介程度で終わっていましたが、私たちスタッフも、もっと勉強し、"入院中にできることはないだろうか?"と考え、せめて退院までには、原音ができる様にということを目標に、患者の皆さんと接しています。しかし、まだまだ勉強不足で、患者さんと、試行錯誤の段階ではありますが、スタッフ間にも発声教室や食道発声に関心がではじめたことは事実です。このことを大切にし、これからも発声教室に参加される方々といっしょにがんばっていきたいと思います。

第十四号発刊によせて

信大病院北三階病棟 辻元博美

先日、発声会の過去の継看カルテ(発声会出席者の発声や身体の状態を記録した用紙)を振りかえり、整理する中で、今は指導者や上級者となられスムーズに会話されている方々も、昔は「ア」の一言が仲々出なかったり、一度の手術のみならず、二度、三度と繰り返し、辛い思いをされたり、改めて皆様の苦痛と困難、そしてそれを乗り越えられて来た力強さに心を打たれました。

私は、二十数年間特に大きな病気やケガもなく生きてきましたので、健康をあたりまえのように思っておりましたが、看護婦になって初めて健康の尊さを知ったように思います。普通に歩ける、見つめれる、聞ける、食べれる、話せる、一つ一つに感謝し生きてゆきたいと思います。そして信鈴会の皆様の健康を心より願い、少しでもお力になれるよう努力して行きたいと思います。今後ともよろしくお願い致します。

一茶のこと

長野市松代 吉池茂雄

去年の秋、一泊二日の日程で行われた信鈴会の研修旅行に参加した。信濃の俳人小林一茶(俳諧寺一茶、一七六三~一八二七)の故郷柏原から、川中島合戦の越後の勇将上杉謙信を偲んで春日山を回り、上越海岸の鵜の浜温泉に一泊した。題して「北信濃と上越の旅」と云った。

上越とは、新潟県を上中下の三区域に分けて、高田を中心とした上越、柏崎、長岡中心の中越、そして新潟方面を下越と云っている。県都の新潟市が上越でなくて下越と云われたのは、都が京都にあった頃、都に近い方から上中下とした為だろう。尚、国鉄の上越線は、上州と越後を結んだ上越であって、高田の上越とは範囲が違うので、念のため申し添えておく。

北信地方、殊に信越国境の地方を、北信濃とか奥信濃とか云っている。私はどちらかと云うと、『奥信濃』と云う云い方の方が好きだ。ずっと昔、あの太平洋戦争初期の頃、上田の隣村に勤務した事があった。村の老人が、「先生、おうちはどちらですか」と聞いた。私が「松代です」と答えると、「ああ、おくですか」と云う。私は馬鹿にされたような感で、いやな気持だった。併しそのうちに、上田と松代を往ったり来たりしていると、やっぱりこっちは奥なんだなあと感じるようになった。家から勤務地へ帰る時、上田の手前の坂城町へ入ると、空がばっと明るくなる事に気がついた。坂城から上田盆地にかけての地域は、日本有数の雨量の少ない地域で、あの瀬戸内地方と並んで数えられる所である。塩田平に、灌漑用水を一年中かかって確保しておくため池が多いのもそのためである。

絵のグループで、野尻湖畔へスケッチ旅行に行った事があった。指導者格の先輩が私の絵を見て、「......空が明るすぎるなァ。野尻の空は、もっとどんよりしているんだよ......」と助言してくれた。明るい空では、野尻の感が出ないと云うのだ。暗くたれこめた空が、雪国の空なのだ。一年のうちの半分近くが豪雪に埋もれている信越国境の地域は、まさに奥であるわけだ。『奥信濃』という言葉の内には、雪に埋もれた村落、寒冷の地の乏しい農耕、その中に、営々と生きる農夫たちの姿が偲ばれて、胸をしめつけられるような思いがする。一茶はそのような地に生まれたのだ。

近年町名が信濃町と改められ、国鉄の駅名も、柏原から黒姫に変えられたが、一茶は昔のまゝの、柏原の一茶でいてほしい。

宝歴一三年(今から二二一年前)の五月、母の実家の二之倉の宮沢家で、柏原の農、弥五兵衛の長男として生まれた。今でもそのような習わしが残っているが、昔は出産を実家でするのが普通であったようだ。宮沢家の屋敷の一隅に胞衣塚がのこされている。一茶本名は信之、通称弥太郎と云い、後に一茶と号した。寛政年間、二十八才の頃だと云う。

明和二年、三才の八月、生母くにが病死し同七年八才の時、父の後添として継母さつが嫁いで来た。そして安永元年十才の五月、異母弟仙六が生まれた。後に弥兵衛と云った。その頃から、まゝ子一茶の悲しい、淋しい生活が始まったのだ。その中で唯一の救いとなったのは、祖母かなの慈愛の手であった。しかし、その祖母も安永五年八月死去し、一茶の孤独の生活は決定的なものとなった。

継母と異母弟と一茶との間にはさまれた父親は、意を決して一茶を江戸に出すことにした。一茶十五才の三月であった。三月と云えば、柏原はまだ雪に埋もれていただろう。父は隣村牟礼まで送って行って、飲食に気をつけろ、腹をこわすなよと云いきかせて見送った。僅か十五才の少年の、江戸までの一人旅は、どんなにえらいものだったか、今の私には想像もできない事である。

江戸に出てからの一茶の生活は、残された文献もなくてつまびらかでないが、苦しい乏しい生活であったらしい。その中で俳句に趣味をもち、句作を通じて、同人もできていたらしい。その同人の間を回って歩けば、食うには困らなかったのだ。一茶自から「乞食一茶」と称していたようだ。しかしこの乞食は、故郷に、父の遺言による、遺産の二分の一の土地と家屋を持っている地主なのだから、おかしなものである。

寛政三年一茶二九才の春、夢見が悪く、父の身を案じた一茶は、三月中ばに江戸を立ち、五月の初めに、十四年ぶりに故郷へ帰った。

門の木も先つゝがなし夕涼

故郷の風物は、十四年前と変りなく一茶を迎えてくれたが、そこに住む人の心は冷たかった。「あの厄介者がまた......」という白い眼が、痛いほど一茶の背中へつきさゝるのだ。父の無事なのを見て一茶は、早々に故郷をあとにして江戸に戻った。

享和元年、三九才の春、父病篤しの報で、一茶は再び故郷へ帰り、父の病床に待った。

寝すがたの蠅追ふもけふかぎり哉

五月二一日父終焉。一茶は全くの天涯孤独の身となった。

故ありてさわらぬ木也夕涼み

どういう時に詠んだ句か、私にはわからないが、「故ありて......」何か気にかゝる句である。一茶四一才の作だという。

故郷やよるもさわるも茨の花

家なしも江戸の元日したりけり

ともに四八才の作、故郷を捨てた放浪の身ではあるが、それほど深刻には受けとめていない一茶の、あきらめにも似た気持が痛い。

文化九年五○才、江戸の生活を切りあげて、柏原に引退して借家住いをはじめた。生家には異母弟が入っていた。

是がまあついの栖か雪五尺

雪五尺は二メートル弱だ。柏原の雪は二メートルを優に越す。雪六尺では語呂が悪いので、雪五尺としたのであろう。放浪にも似た生活から、まがりなりにも故郷に定住した安心感と、その裏に滲み出すさびしさ、悲しさ、一茶のため息が聞こえるようだ。

そば時や月の信濃の善光寺

文化九年五○才の句である。因みにそばは高冷不毛の地に育つものと云われており、そばがよく出来るとか、水が清いとか云うのは、あまり自慢にならない自慢であると云う。昔から一茶の代表的な句だと云い伝えられている。

信濃では月と仏とおらがそば

は、後代の人が作ったもので、一茶の句帖の中には見当たらないという。

文化一○年五一才、菩提寺の明専寺住職の仲裁で、異母弟との遺産問題が解決し、生家を弟と二分して生活することゝなった。壁を隔てゝの生活の味気なさを詠んで

人来たら蛙となれよ冷し瓜

大の字に寝て涼しさよ淋しさよ

長年のしいたげられた生活の中で育って来た猜疑にも似た、素直にとけこめない一茶の気持がしみ出ている。

文化十一年五二才の四月、赤川(野尻湖北の県境の部落)の常田きく(28)と結婚した。初婚である。

やせ蛙まけるな一茶是にあり

一茶五二才の句で、この句は蛙が相撲をとっている様子だと、戯画風に解釈されているが、実はこの句には、武州竹の塚に蛙合戦を見に行ったという前書がついていて、これは蛙の生殖合戦を見て、弱い雄蛙に同情して応援している、もっと深刻な句なのである。

五五才で長女さとが誕生した。

這え笑え二つになるぞ今朝からは

蚤のあとかぞへながらに添乳哉

五六才の句で、はじめての児が、目に入れても痛くないほどの可愛さである。一茶の親子三人の生活は、何はともあれ幸福であった。

目出度さもちうくらいなりおらが春

頬ぺたにあてなどしたる真瓜かな

文政二年五七才、最愛の娘さとが、ほうそうで亡くなった。

露の世はつゆの世ながらさりながら

一茶の胸の中に、ぽっかりと穴があいたように、淋しさむなしさが一ぱいだった。その頃(五七才)の句

雀の子そこのけそこのけお馬が通る

我と来て遊べや親のない雀

親のない子はどこでも知れる 瓜をくはへて門に立つと子どもらに唄はるるも心細く、大かたの人交りもせずして、うらの畠に木萱など積みたる片陰にかゞまりて長の日をくらしぬ、我身ながらも哀れなりけり

と前書があり、幼い頃の淋しさを思いおこした句である。

故郷は蝿まで人をさしにけり

一茶の子どもが(四男一女)相次いで生まれ、そして次々に病死した。

長男混蔵 文化十二生 一カ月で死亡

次男千太郎々 文化十三生 間もなく死

長女さと 文化十四生 二年で死亡

三男石太郎

四男金三郎 相次いで生まれ、そして死亡

五九才の正月、鏡開きの餅祝に、三男石太郎を悼んで

もう一度せめて目をあけ雑煮膳

陽炎や目につきまとふ笑ひ顔

の句がある。

やれ打つな蝿が手をすり足をする

我が家に居る時の一茶は、身うちをなくした淋しさで一ぱいだった。

この頃、近郷近在に俳句の弟子がかなりできて、その弟子の所を巡り歩くことが何よりの楽しみであり慰みであった。訪ねて行くと、先生御入来というわけで歓待された。長沼(豊野町の隣村)へ行けば門人の素鏡は大地主、湯田中へ往けば弟子希杖は温泉宿(湯本旅館)の主人公であった。

座敷から湯に飛入るや初時雨

一とき心のうさを忘れて、湯治気分にひたっている、幸せな一茶である。

文政五年六○才の句に

つむほどは手前づかいのやぶ茶哉

がある。豪雪の地柏原に、暖地に育つ茶の木がある筈はない。これは甘茶のことだろう。甘茶は今でも柏原で栽培されている。製薬会社から委託されているのだそうだ。茶の木はツバキ科の常緑低木であるが、甘茶はユキノシタ科の落葉低木で、アジサイの一変種であり、草丈一メートル近くで、やぶ茶と云うにふさわしい姿だ。秋には刈りとられて根株だけが越冬し、翌春芽をふく多年草で

ある。

甘茶のことを「やぶ茶」と云うかどうか、柏原の農夫や、一茶記念館に居合わせた土地の古老の何人かに(と云っても四、五人にだが)聞いてみたが、「やぶ茶」という語は、今の柏原にはないようだった。この茶と、一茶の茶と何か関連があるのかどうか、私にはわからない。

文政六年六一才、二月妻きく発病し、五月死亡した。三七才だった。きくは気性の強い女で、時々一茶につっかかる事もあったが、又一茶によく仕えたと云う。

小言いふ相手もあらばけふの月

一周忌もすぎた翌六二才五月、飯山在の女、ユキ(38)と再婚したが、八月三日離婚した。結婚生活八四日でその八月一日一茶は中風再発し、半身不随、言語障害となった。そして二日後に妻ユキが離婚したとは、どんな事情があったのだろうか。

六四才、越後二俣の宮下やを(32)と結婚した。

おのれやれ今や五十の花の春

十四才もサバをよんでと笑うのは、あまりに不粋というものだ。人生五十の坂を越えて尚花の盛の春とうたっている心意気を買ってやりたい。

この頃、農家は不況だった。一茶も百姓だったのだ。

穀値段どかどか下るあつさ哉

日照が続き米は豊作でも、穀値段は下る一方で、農家は収入減に泣いた。

張りかぶせ張りかぶせたるうちわかな

破れうちわに張り紙をして使うほどの切りつめた生活...

六五才の六月一日、柏原の大火で類焼した。妻やをは半身不随の一茶を助けて、火をよけて逃げ回り、焼け残った土蔵に住んだ。一茶遺跡として、今では国の史跡に数えられている。

蛍火もあませばいやはやこれははや

焼けあとやほかりほかりと蚤騒ぐ

文政十年十一月十九日、中風悪化し、三人目の妻やをに看とられて、六五才の生涯を閉じた。(一五七年前のことである)

法名『釈一茶不退位』

翌文政十一年四月、五男やたが生まれた。前年十一月には、やをは既に一茶の子を身ごもっていたのだ。その子孫現在に続いているという。

一茶の遺体は、小丸山の小林家の墓に葬られており、命日の十一月十九日には、毎年村人をはじめ、全国から同好の人々が集って、一茶忌を盛大に営んでいる。

一茶の俳句は、俳聖松尾芭蕉の俳句のような、語句を選んで推敲し、風雅に作られたものと異なり、恥も外聞もかなぐり捨てゝ、心の中を、感情を、むき出しにさらけ出した野人の句である。そこには人間一茶の、ひたむきな、やりきれない気持が滲み出ていて、それが私の心を痛いほどしめつけるのだ。見るもの聞くもの感じたもの、身のまわりのすべてを俳句にしてしまう。俳句を作るために生きていたような一茶だった。「寛政句帖」「寛政紀行」「父の終焉日記」「享和句帖」「おらが春」「旅日記」「七番日記」など、いくつかの句集、日記風の俳句集をのこしている。一茶は庶民的な俳人であった。彼の一句一句の中に、喜びや悲しみが、心のうさが、ため息が、潮のように躍動している。それが何もいえない親近感となって、読む人の胸に迫ってくるのだ。

去年の十一月十七日の信濃毎日新聞に、藤沢周平氏(山形県出身の作家で、「一茶」という小説も著している)が、『一茶とその妻たち』と題して短文を書いていた。それによると、一茶の二人目の妻ユキは、飯山藩士の娘で、この結婚は最初から誤解があったらしく(武家と百姓と俳諧師)不釣合いな結婚だったと述べられていた。そう聞くと釈然とまではいかないが、病気で倒れた一茶を残して去って行ったユキの行動が、離婚したのかされたのか、そこまではわからないが、いくらかわかるような気がするので、こゝに書き加えておく。

これを書くに当って、荻原井泉水氏の『一茶俳句集』に教えられる所が非常に多かったこと、又年代の考証については、一茶記念館でいたゞいた「小林一茶略年譜」によったことを明記しおく。


あとがき

この旅行に、北信の一人として、何かお話する機会があったらと思って、心用意をして出かけたが、あの若い健気なバスガイドさん(木村和江さん)と張り合うのもいかがと思い、さしひかえた。しかしせっかく用意したのだから、あの旅行を思い出しながら、ご笑覧いたければ幸と思うわけです。今年の旅行の通知が来ました。今から楽しみにしています。―五九、九、一―

追憶

箕輪町 田中芳人

本会の創立に際し、島さんと共に東奔西走非常にご苦労をしていたゞき乍ら、惜しくも若くして他界された碓田清千さんと私は、日支事変で遠山部隊の機関銃隊に所属し、生死を共にした仲である。

先日終戦記念日を前後して地方新聞に二回程私の従軍中の拙文が掲載され、この折当時の日記、随筆等を四十年振りでひもといたところ、計らずもあの剛胆快活の碓田さんに関する一文を見出したので皆さんの御笑覧に供したい。

藪医者

昭和十三年一月河南省の梯家口子という小さな部落に駐屯して、こゝで最前線警備と治安工作を行っていた。此の小さい部落で原始的な生活をしている彼等の最も困っているのは病気であった。戸口調査等に歩いてみて、その病人の多いのには少なからず驚いた。頭の先から足の先まで、それこそあらゆる病気が此の村にはひそんでいた。私達は宣撫上これ等の病人の容態や病名を聞いては薬をやって歩いた。もっとも腹薬のクレオソート丸とか仁丹、目薬、傷薬等の我々の常備薬程度のものしか持ち合せていなかった。それで、神経痛だとか、中風だとかむづかしい病気になると手の下しようがなかった。然し、彼等は、何か薬をもらわなければ承知しないので仕方なく、首から下の病気はクレオソート丸とアスピリン錠を、首から上は仁丹で片づけた。

彼等はさも名薬をもらったようにそれを押しいたヾいて、用法や手当等を聞いてかえっていった。こんな罪な藪医者も余り度を越したようなことはしたくなかったが乞われてみれば止むを得なかった。然し彼等は生れて初めて呑んだ薬だったためか、或は病は気からとかで、そんな気が手伝ったためか、彼等の病気は不思議に治った。

彼等は毎日私達の宿舎の前に来ては病状を訴えて薬を乞うた。こんなことが主因になって宣撫工作は順調に進んだ。

「日本軍は正義の使徒であるから、善良なお前達を責任を持って保護してやる。お前達は安心して仕事をするがよい。困ることがあったら何でも云ってこい。我々はどんな面倒でもみてやる」と、そういってやった。

彼等は我々を心から尊敬してきた。しまいには夫婦喧嘩の仲裁にまで引張り出された。その代り彼等は我々のためには真剣に働いてくれた。

斯うして藪医者があらゆる方面に亘って繁昌し出した或日、困ったことが持ち上ってきた。それは住民が一人の病人を運んできて、「給我看病」(病気を診察してくれ)というのだった。一寸風邪をひいても直ぐ本隊の医務室までとんで行く我々が、いくら中国人の身体だとは云え、どこを叩いてもさわっても、みな同じ音と感じしかしなかった。「困ったなあ!」皆で困り果てゝいると、茶目っ気の碓田軍曹が「俺が診察してやろう」と云って顔を出した。病人は「謝々」と云うと彼を拝み上げた。彼は「宜し、すぐみてやる」そう云ってヒゲをねじってそり返った。(註碓田さんは立派なヒゲをたくわえていた。)暫らくすると彼は大きな図嚢を提げて自分の部屋から出てきた。寝台の上に病人をねかすと、病状等を聞き乍ら脇骨を叩いたり腹をさすったりして、時々「ウーム」とさも勿体らしくうなった。「発焼了」(熱がある)そう云うと彼は、図嚢を引寄せて、中から複写用の硝子筆を取出すと病人の脇の下へはさませた。それから巡察時に使う微光燈を取出した。「飲食怎麼着」(喰べものは如何ですか)そんなことを聞き乍ら腹の上へ微光燈のレンズを押しつけた。病人は「曖呀!」(アッ!)と頓狂な声を出すと腹の皮をグッとへこませた。「不要心」(心配はいらぬ)そう云うと彼はさもむづかしい様に首を傾けた。私達はとうとうこらえ切れずにドッと笑った。彼はタコの様な口をしてにらんだ。「看病完了、你們沒甚麼大病、不過是着涼」(診察は終りました。あなたは大した病気ではありません。風邪をひいたにすぎません)そう云ってそれぞれの道具を片付けた。「吃這薬就好了」(此の薬を呑めばすぐ良くなります)そう云って、「アスピリン錠」を三個やった。

それから三日程して碓田軍曹は、私達に卵を一個づ、呉れた。此の間の病人が全快祝に持ってきてくれたんだという。

斯くて藪医者も地元民に取っては大先生の貫録を示した。

「昭和拾参年3月弐四日済源にて」

十年を顧みて

副会長 大橋玄晃

昔の諺に"光陰は矢の如し"とありますが、月日のたつのは早いもので手術をしてはや十年目を迎えました。振り返って見ますと昭和四十八年の春頃から声の出がおかしくなり、七月に大町病院でポリープの手術を受け、悪性のものではないからと言われ、安心しておりましたが仲々良くなりませんでした。九月に入って北海道札幌市で会議があり妹のところに泊り四方山の話し中に、妹の主人(外科医)がその声はどうしても普通ではないと翌日会議終了后北海道大学の名誉教授中山先生のところへ連れて行かれ、診察を受けたところすぐ大きな病院に入院しなさいと言われました。帰宅後大町病院に行きその旨伝えましたが、そんな心配はない、と言う先生の御返事でした。私も丁度身体が忙しく又なんとなく恐ろしい様な心持ちも加ってとうとう年を越してしまいました。然し声の方は次第に悪くなる一方でした。四月に入りまして子供の大学入寮の為め上京いたしましたところ、東京に居る家内の弟が心配して良い先生に診て頂いた方がよいと友人を介して慶応大学の斉藤成司教授の診察を受けまして、即座に入院を言い渡されました。然し遠方の事でもありすぐ入院と言う訳にもゆかず、先生の御厚意で信州大学教授(現名誉教授)鈴木篤郎先生を紹介して頂き、四月十七日入院いたしました。六月迄放射線治療を受け同月十二日、鈴木教授、廣瀬助教授の両先生により喉頭全摘出の手術を受けました。放射線治療の最初の内は不安がつのる許りでしたが次第に腹がすわって来て必らず治るんだと言う決定心が出来てきました。加えて今野婦長(現看護副部長)さんから何度となく食道発声の話しをきかされ、又鳥羽源二さんと共に度々病室に来てはげましの言葉を頂きました。実際に発声可能な事を見聞出来えた事は更に大きな希望へとつながったのでした。

今想い出して見ると手術前后には色々な事がありました。笑い話しの様な事ですが、手術前に婦長さんから渡された,食道発声の手引』を読んで、食道発声の要領はゲップの出る時と同じであると知りのどに手をつっこんでゲップと同時に目を白黒させたり、手術后はいつになったら喉の穴がふさがるんですか等の愚問をする事が度々でした。然しお陰様で手術后は順調で二週間目位から発声教室に参り鳥羽さんから指導を受け、一回で原音"あ"が出ました。嬉しくて、それからは毎日廊下を歩いても外を散歩しても"あ""あ"の練習の練続でした。お陰様で七月十六日の退院の時には看護婦さん達に"アリガト"と挨拶し帰宅する事が出来ました。退院してからは毎週木曜日の発声教室通いが待ち遠しい程でした。それから食道発声練習教本を入手し、二字、三字~六字と教室は勿論、家にあっても練習をいたしました。然し十字頃から仲々思う様に進まず、はがゆいやら情けないやらでそこらの物を投げつけたい様な思いにかられた事も度々でした。又仕事の上でどうしても食道発声では無理なので、九月には電気発声器を、そして十月からは人口笛を使った事は、考えてみると食道発声の進歩を妨げた原因になったと思われます。

昭和五十年の春に鳥羽さんから始めて東京の銀鈴会の話しをきゝ、五月二十日の総会に連れて行って頂きました。そして司会をされた中村正司先生(日喉連副会長で吸引法の創始者)の声を聞いた時には余りのすばらしさに本当に驚きと羨望と、希望と本当にあんなに上手になれるかしらと言う不安との入り交った様な気持で一杯でした。直ちに入会をいたしまして銀鈴会の発声教室に通いました。そこで同じ期間位の方達でもはるかに上手な話し声をき、又々自信を失いかけた時に親切にはげまして下さった方が、今は亡き増田栄次さんで、中村先生が会長をしておられる神奈川銀鈴会の事も教えて頂きました。私もどうしても直接中村先生の御指導を受けたく十月に入会いたしました。朝七時に大町を出発、横浜の県立社会福祉会館内にある発声教室での練習を終えて自宅に帰るのが夜の九時でしたが、三年程は夢中で通いました。そこで中村先生から直接吸引法の教えを受けました。又当時横浜の教室には女性としての第一人者保野千代子さん(現在佐賀県在住)が指導員としておられ本当に懇切丁寧に吸引法発声の指導をして頂きました。その中で今でも頭に残っている事は、一息で"ア"ア"と連続発声を練習しなさい。今日は二つ、明日は三つと言う様に、次第に数を増してゆくのです。次に非常に苦しい時があると思いますが、そこを頑張ってやり通して下さい。そうすれば会話等は楽に出来る様になりますよ、と言われた事です。然し苦しくなるとどうしても一休止して終ってそこを我慢して乗り越えると云う事は仲々困難な事でした。ちなみに当時保野さんは一息で軽く三十回位の"ア"の連続発声が可能でした。私は今でも多くて十五回位しか出来ません。苦しい時にそれを乗りこえられた方との違いをしみじみ感じさせられる次第でございます。

吸引法に就いてですが、最初指導を受けた時は仲々思う様にゆかず燕下法と吸引法とがごっちゃになった発声でどうやら吸引法が出来る様になるのに二年近くもかゝりました。吸引法は最初から習得するのが一番よろしいのでしょうが、おそくとも原音"ア"が出る様になったら直ちに吸引法に切り換える事が上達の早道と思います。私は今でも時々中村先生の御指導を受けて居りますが発声についてのお話しの中で、

一、発声可能なまでの強い忍耐力を持つこと。

二、原音"ア"がいつでもきっちりと発声出来るまで練習する事。

三、原音がきっちり出る様になったらあせらずに自分に合ったスケジールを必らず立て、反覆練習する事。

が発声練習に対する心がまえの様です。そして五字六字の発声が充分可能な迄はなるべく会話に入らない方がよいのではないでしょうか。余り早く焦って会話に入ると一つ一つの言葉と語尾の明瞭さを欠く結果を招いた私の失敗経験からしてその様に思われます。そして年を重ねる毎に食道発声のむずかしさを痛感させられて居ります。昔から十年一昔との言葉の通り本年をひと区切りとして又初心に帰って精進努力をして行く存念でございます。

思えば現在の健康をとり戻し得たのも本当に名医と言われる先生方の診察、手術、治療のお陰であり、充分とは言えないもの、どうやら仕事をやって来られたのは、数多くの方々の御厚意とはげましと御指導の賜であると深く感謝し心から御礼を申上げる次第でございます。

伊那教室はいま

辰野町指導員 桑原賢三

最近の伊那教室の雰囲気は教室と言うより憩の場。心の寄り所と言う方がピタリとなって来ました。これと言うのも皆さんいずれも日常会話に事欠かない迄に発声が出来る様になった事と何より健康でありそれぞれ仕事をもち、家族に又地域社会に大なり小なりあてにされ必要とされているためでかつては声を失い生きる望みすら持てない様な悲しみの中を生きて来た人とは思えない活気があります。

二週間毎に開かれる二時間の教室で時間内にそれぞれの情報、近況、健康状態、それにお互いの仕事のことなど会話に花が咲き賑やかで、これが発声機能を喪失したもの、あつまりとは思えない程で病院の納谷先生も顔を出して下さってびっくりして居られる。

今年は納谷先生の常勤、宮原婦長さんの総婦長昇格と教室にとっては明るいことつづきで私としても本当に嬉しいことでした。特に宮原総婦長さんには信鈴会の総会にも御出席を頂き、信鈴会に深い御理解を戴いた事に感謝申し上げる所でございます。この様なことが教室へ参加する私共一同の足どりを軽くしているものと思います。お互いに悲しみのどんぞこから先生や看護婦さん、家族のお陰で取戻した余生であるので先づ失った声と健康をそれに仕事を戻すことを教室のモットーとして居ります。これには先づお互いの自覚が第一で其の都度気を配って居ります。今年は納谷先生が居られるので健康面では相談に乗って戴き教室の面では総婦長さんが居られると言うことで現在の伊那教室の運営には何も言う事はありません。特に運営に当りましては山下さんの指導助手としての気配りは大変なものでお蔭様で指導員としての私も無事に務めさしてもらっています。心から感謝する次第です。伊那教室へ参加されている人は皆さん六十才~七十才代と高令者のみですが、皆さん非常に元気で岡谷の竹内さんなどは最年長者ですが、常に話題のリーダーです。伊那市の伊藤さんは広い果樹園の手入れに、飯田の山下さん原さん林さん塩崎さんは、それぞれ農作業に懸命で其の都度収獲物の発表で話題がつきません。うでをまくり赤銅色を見せ合って元気一杯です。私も黄金色の田圃に立って稔りの秋を満喫しています。

これから稲刈りが初まり、エンドウ、ホーレン草の出荷と多忙の毎日が続きます。健康で何の不自由もなくトラクターを駆使して田に畑に活動出来る現在の自分を見る時、白衣の皆様の御恩に感謝申し上げる所で御座います。

五十九年九月記

伊那教室は昨年迄は毎月第一、第三水曜日でしたが、今年から毎月第一、第三金曜日となり、午後一時~三時迄と変更になりました。会員の皆様御都合差繰りお顔を見せて下さい。教室は伊那中央病院一階売店の横を右手に入り、リハビリテーション事務室の隣の一室を御借りして開催していますので是非御参加下さい。

古い時計

安曇村 宮本音吉

我が家では今古くなった柱時計の買替えについて話題となっている。何時も正位置にして週一回ネジ巻きが忘れ勝ちとなり面倒だと云うのが原因である。なる程最近ではすべての品物が全自動の時代であり家庭用品もボタン一つで思う様に働いてくれる。時計にいたっても、論外でなく電気、電池等、横になろうが倒れていても何年かはひとりで動いている。しかも価格も案外安く又自由に手にする事が出来るのになぜ話題になるだろう。

終戦直后長く使っていたベンベン時計が使用不能となり、苦労の末買い替えた此の時計も当時は物資も少なく特に田舎では思うにまかせず、すべての品物が物々交替が条件とされた頃である。丁度その頃名古屋で時計店をしていた方が疎開されて居り、苦労して何とか見付けて来てくれたものである。新品の振子時計で長短二本の真鋳棒が振子の横に下っており時報の度に二ケの鉄槌が交互に時間の数だけキーンコーンとたたく当時としてはめずらしい時計であった。幼なかった三人の子供達もオルゴールでも聞く様に音に合せて数えたり又、いろいろな言葉に替えたりしてよろこんだものであった。子供達も今ではそれぞれ片付き夫婦二人となって日常にも余り関心もなくなり、なるべく手数の掛からない様望むのだが私は自分の過去を振り返って見ると、私が喉頭摘出をして丸七年目になる。よく今まで生きてこられたと時々思う事がある。この間先生のその都度の言葉に従い定期検診を必ず受けて来た結果に外ならないと思う。

当時は自分でも不安な毎日であったが今ではすっかり安心しきって、人並同様な気持となり勝ちな時があり、手術前を考え身の毛がよだつ思いのする事が度々である。平常の健康を故なく過信し健康診断等はまるで人ごとの様に考えた結果が声との別れにも少なく共つながっているのではないかと思っている。何にはともあれ私はこれからの自分の健康維持を忘れない為にも、ともすれば忘れ勝となるネジ巻きを忘れずに,三十余年間正確に今もなお時を知らせてくれる時計と共に過して行きたいと思っている。

一九八四、九

所感

指導員岡谷市 小林政雄

食道発声を始めた頃は、声が出れば良い。又少しでも話が出来れば良いと思い頑張ってきたのですが、最近は実際に他人と話をしていると本当に私の気持ちが伝わっているのかと不安になります。それは私が喉摘者と知っている人はある程度話が通ずれば少し位のわかりにくい事があっても返事をしている事があると思います。一番大切な事は自分の意思を確実に他人に正しく伝える事だと思います。ですから今までの様な気持で食道発声をしていると進歩も無く退化してしまいます。ですから発声教室ではいつも基本に忠実に正確な発声を心掛けています。それでも日常会話の中では、まだまだ有声帯者の発声にくらべれば幼稚なものと思います。其の証拠にはテープで集録している時は割合にスムーズな良い発声になっているけれども、家内や友人と気楽に会話している時は、時々聞き返される事があります。ですから毎日毎日の会話の時こそ良い勉強になり、進歩してゆく事と思います。自分から進んで友人又は他人と会話の機会を作り、勉強の場にしたいと思い心掛けてい

ます。

五年過ぎた今になってつくづく食道発声の奥の深さ、むずかしさが身にしみる様になりました。今年から又初心にもどり第一歩から勉強のやり直しをしたいと、基本の発声に気をつけています。会員の皆様、今后ともよろしく御指導御願いします。

昭和五十九年九月

刻は走馬燈のように

茅野市 小池増晴

先頃の大地震に怯え大きな爪跡の生々しい疵も、未だ愈えぬ西信濃も、何事も無かったように朝から木曽おん岳は峰に鰯雲が長く長く横に引きち切ったように走り、諸々の溪谷は早くも黄と紅の薄紅葉した木樹が初秋を教えて呉れ、絶好のリクレーション日和となって一路車は飛騨路へのスタートを切った。

飛騨の秋灯る一戸に筬の音

此のコースは何回か訪れた人も居ったようですが、然し乍ら共通の痛みを知り尽した者同志の親密感と又格別な信鈴会々員の集いの気兼ねのない雰囲気を満喫された様子が大分車中でもコップが舞い歩いてそれぞれに話の花が咲き豊顔に満ちていました。飛騨一番の露天風呂、華麗なる山車、又宴席での山下さんの流暢な踊りに始りユーモラスなどじょう掬いなどの名人芸に大喝采が惜しみなく続いている中に、今年は念願通りの参加が出きた喜びに八木さんは終始全く弛みっぱなしの様が大変に印象に残りました。いろいろと回想して居ると「フット」脳裏に蘇えったこと、それは今回も参加をあれ程、楽しみに待っていて呉れた人、そうです小谷村の松沢さんです。白馬の裾の雪もそろそろ消え去ろうと云う頃でした。内々本年のコースは飛騨も良いだろうと会長よりの話もあった旨を伝えた折嬉しくて待ち切れぬような素振りでさぞ楽しみにしていたことを残念に思っています。

八十路越ゆ過疎の小谷に秋耕す

殊に先輩は高齢での喉摘の大手術をされた大老とは何一つ思わせない身のこなし、発声訓練の真剣に取組む姿勢が見事、何時の日も笑みの絶えない好老人、私達同病の御手本でもあったように思います。かっての信鈴十三号に「草津温泉旅行の思い出」と題し先輩の寄稿を何回も楽しく読ませて頂きました。今は残念の一言です。此の現実の非情さと人生のはかなさに深く心が痛みました。

噴く山の溶岩原果ての雲の峰

そうでした。草津行きも秋とは云っても、まだまだ残暑めいた夏の雲が湧いていました。北信濃の過疎の里に過酷なまでの風雪にも耐えに耐え培って来られた篤農の先輩は何時も雙蝶として輝きが満ちていました。

裏浅間天明の熔岩噴井して

鬼押し出しの散策中も年を忘れたまったく疲れの気配のない足早に歩を進める姿には、ひそかにあやかりたいものと無心に見ていたこともありました。

越隣る小谷の峡に木守柿

一歩を運べば越後の国、塩之道の奥信濃小谷の山村から一日がかりで揺らぐリックを背にぐんぐん帰る後姿はもう見ることも出来ない今は只まぼろしの人となり人の世の変遷と無念さを思うとき、誠に哀惜の念に耐えず、心から御冥福をお祈り申し上げます。又誌上をもって常日頃お世話になって居ります病院の皆さん、又信鈴会会員の皆さんの変らぬ御交誼とご健康と幸多きを願って結びます。

追而「誌」の友を募っております。将来短歌、俳句、川柳をもって「信鈴」の二字を御願いして小誌にまとめませんか。


当季詠

鑿請ぶる未完の像や秋深む

湖抱く浮城や一揆蝉しぐれ

山の宿ちちろ鳴く声廊渡る

昏るる瀬の岩を摑みて河鹿鳴く

水楢の芽吹きちかちか狩場跡

ひたひたと甕の実梅に井水くむ

ちかちかの水に帆影の水芭蕉

竜峡の小梅が伝ふ雨の音

価札さげ売られし山羊の麦の秋

蕎麦刈られ村引き寄せる八戸の灯

佐久教室もう一つの活動

指導員臼田町 三瓶満昌

佐久教室では佐久病院の病院祭に参加して発声教室のコーナーを設けPRを行なうことになりました。これは病院祭の三つの主要テーマの中の「ボランティア活動を地域の中に」というテーマの部に参加して行なうもので、ボランティア活動の実態を紹介するというものです。今年初めてのことで暗中模索の状態ですが回を重ねながら活動の方向づけをして行こうと思っていますが、参加する会員は少しでもお役に立てればと意気込んでいます。

このテーマの実行責任者は日向総婦長です。

注記病院祭は臼田町にある稲荷神社の祭礼を小満の日に行なう小満祭に合わせて行なうもので今年は第8回です。小満祭は佐久地方の代表的祭事で近在近郷から数万の人出があります。弐百数十店もの露天商の出店や上州からの植木市等有名です。工業展、文化展、竜岡藩士の北越出兵行列等数多くのイベントがあります。一度ご来町下さい。

駄文

信州新町 西澤功一

過日会長さんから会報に寄稿する様にとのお便りを頂戴しましたが、根っからの無学無能、加えて最近何となく老人ぼけが始まったらしく躊躇して居る内に〆切日が迫って来たので、えゝまゝよ一人位幼稚な駄稿が混じっても御笑読にして戴ければとペンを走らせました。

扨て今年は昨冬からの豪雪加えて寒波に依る低温続きに異常気象、対策本部が設置される程に大変凌ぎ難く待ち遠しい春でしたが四月半ば頃より急に暖かくなり、梅桜、桃、杏が一時に妍を競って萌え出る新緑の山にほの白く山桜が黙綴され、彼他此他に山吹きが黄金を振り撒いた様咲き盛り、やわらかい新緑は日毎に色を増し身も心も好季節の訪れにまあ良かったと嬉ぶ様になりました。然る内に真夏の訪れとなり暑い事暑い事、文字通り猛暑の連続、熱帯夜が二十八日もの記録的、更に加えて無降水日が二十四日も(長野地方)続き野菜類等枯死状態でしたが九月に入ると流石はシーズン到来、涼味日毎に加わり大変凌ぎ易くなりほっとしました。

人眠る鈴虫鳴いて秋之月

此れからは加速的深み行く秋。高冷地よりは紅葉が始まり初霜の便りも届く様になり歳月は人を待たずして過ぎて行く。然るに此れに追従出来ない自分の発声発音は焦慮を禁じ得無い。そして努力足らざるを敢て恥じるものでございます。然るに完全なまでの発声を取り戻し社会復帰して活躍して居られる方も有るを思えば「成せばなる成さねばならぬ何事も」の古い諺が新に甦ります。されど待てよ自己卑下もさる事乍ら喉頭摘出したが故に一命取り戻し現在の老齢まで生き延びられたのも手術の賜とお世話になった先生方や看護婦さんに改めて感謝の念が甦って参ります。そして摘出手術までの葛藤、術後の発声への苦闘(極めて安易に発声に成功された方もありますが)此等諸々の苦悩は肉身たりとも真の理解は及ばず信鈴会の皆様方でこそ心身の痛みが解る終生の友と確信し、発声教室にてお会いして不出来乍ら何かとお話を交すのが唯一の楽しみです。そして生有る限り発声は訓練しなくては成らぬと考えます。一層の御指導御交誼をお願い申し上げます。最後にぼけ老人の余りにも幼稚な句ですが御笑覧戴け

れば、

一、ひげ摩りてガーゼ取替さあ行くぞ

教室へと急ぐバス停

一、新装成った長野日赤

部屋明るくて発声はずむ

一、老眼の目鏡つけ認むる

稿貧し忘れし文字多く

以上

閑話

岡谷市 武内基

今年の四月一日で私は丁度七十七歳で喜寿というのだが、昨年から今日まで誰も祝ってくれないし私も祝ってもらうことなど考えてもみなかった。私の三人の子供は親は不老不死とでも考えておるのか何の音沙汰もない君等も又孝行したいときには親がいないと言うつもりだろう。私自身もそうであった。今更何おか言わんや、親に似ぬ子は鬼子だとも言う。

昔から親孝行なんてやった人は極めて少なかったのではないかな。たまにあれば庶民の鑑だなんて言われてお殿様から御褒美が出たりしたのでないかな。第一親孝行とはどんなことか時代により人により異なる親の希望はなんでもどんなことでも叶えてやれる様な打出の小槌なんか子供は持っておる訳ではない。親を背負ってお伊勢さん詣をすることも時代遅れだ。

そこで考えた。地球の南半球の「オーストラリヤ」は他の大陸と隔絶しておる関係か珍らしい動植物が多い。例えば「かものはし」とか「はりもぐら」は獣のくせに卵をうむそうだ。人間も卵からの孵化なら現在世界で問題になっておる人口抑制もおのずと今のものとは違う方法が考えられるだろう。又「オーストラリヤ」には「かんがる」や「はりもぐら」だけでなく種々の有袋動物がおるそうだが、どれも自分の子供を袋の中に入れてとんで歩いておるもので、自分の身動きも出来ない親を袋に入れてとんで歩いておる有袋動物なんか無いそうだ。

こんなことを考えると、動物には元来老いて弱った親動物を養育するという本能はないのがほんとうかな。

同じ動物である人間は、萬物の霊長だと自負しておるがどうかな。核家族だなんて老人だけの家が増えておるのも事実の様だし、今後はどうなって行くのかなあ。

いくら経済大国日本といっても大部分の日本人否な世界中の血気盛んな青壮年者は自分の子供の養育でせいいっぱいで親にまで手が廻らないのではないかな。私の家の子供なんかも悪るい気はない様だが、この点「カンガル」に一寸似ておると言っても大して間違いでないなあ。そうそう子供に期待しても駄目だから、社会福祉をきめ細かくなんて言うのもその間の事情を裏書きするのでないかなあ。

近頃は子供が親の年金を当てにして、自分の子供をつまり親からみれば孫を大学に入れたとか、家を新築したなんてことを聞くが斯様なことは親の持っておる年金と言う経済力を上手に運用して親の見果てぬ夢を叶えてやったことで一種の親孝行でないかなあ。

孝行についてはこんな考えかたもある。昔の人は「身体八膚これを父母に享く敢て毀傷せざるはこれ孝の始めなり」とこうなれば身辺にも孝行者は大部増える。私の子供なんかも三人とも全部この種の孝行者だ。

また言う「老いては子に従がえ」なんて言葉もある。年をとっても強気で我を通さなければ気が済まない様な者は日進月歩の社会の進展に逆行する者た。新時代に生きる子供や若い者の言うことに一歩退いて耳を傾け理解妥協する様に努めろと教えておるのだ。まだある。老人を誉る言葉に「年を取って段々角がとれてきた」この言葉も前の言葉同様老人は若い者の邪魔をしてはいけないと言っておるものだ。

「親の恩は海よりも深く山よりも高い」なんて言葉は最近あまり聞かないが、こんな言葉は親孝行の強要になるのではないかなあ。昔の為政者が自分達の苛斂誅求の失政悪政を棚にあげて、生活に苦るしむ良民を叱咤激励して世情の不安動揺を防ぐために使ったとすればとんでもないことであった。今日の為政者も心すべきことである。

この作文は八月末にここまで下書したその後、九月十五日の敬老の日には飯田市に世帯を持っておる長男に招かれて十四日に行き、一泊して四十数年前に私が約七年勤めておった南信濃村を中心とするいわゆる遠山六カ村を長男の運転する車で廻ってきたが、私が勤めていた当時は唯一最大の交通機関である二、三頭の犬と一人の人間で曳く「リヤーカー」は最早どこにもなく、坦々たる舗装道路で自動車がどこからどこまで行くようになり、私が若い血気のとき地下足袋で歩き廻ったことを考えて感無量夢の様であった。長男の家では栗飯を作って馳走してくれた。私の喜寿の祝としては県知事さん市長さんの名で金一万円に洋傘一本、みすゞ飴一箱をいたゞいたことを付記する。

無題

伊那市 伊藤良長

今年は私の余り覚えのない大雪と又今夏の暑さには誠に驚ろきました。信鈴会員の皆様、信大でお会いする皆様は元気で発声練習に努力致して居りますが、他の地区の皆様御元気ですか。お伺い申し上げます。

去る六月の総会の折の「スピーチ」の会に出場をと申されまして中央よりわざわざ御出席下さいました中村正司先生の前で今迄一生懸命に練習を致しました食道発声をと云う事で、一応正面の席に立ちましたが以前生徒の前で教壇に立った時は思う様に話し思う様に笑わせる事が出来たのに、今度の「スピーチ」の会には、十何人出席中の最下位だったと思います。一生懸命に教導下さいました先生方又先輩に唯申し訳無く存じます。私の後より摘出手術を受けた諸氏が、非常に上手にお話が出来たのに驚きました。

私の場合は吸引法と燕下法の両方がまぢって発声して居るため、話し中に何度か途切れが出る。これからは吸引法一筋に早く切換える事が必要だそうです。又句読点のところで「ハッキリ」区切るとよい朗読に成ると云う事ですので、尚一層頑張って勉強して大橋先生はもとより茅野の小池さんや横沢さんの様に話せる様努力致したいと思います。

「スピーチ」の会の時は声帯の摘出后初めて皆様の前で話すので声が出なければ困る困ると全身が、こわばってのどはかわく。声は出ない。又伊那の中央病院の総婦長さんも出席されて居る中でかたくなる一方で、誠に恥しい事でした。今后はどうすれば上達出来得るか?。人間はだれでも、やる気、根気はあると思います。私も其の気を出して頑張って行きたいと思います。又私の区の諸々の役を受けていても、会等では大声で話さなければ通用しません。信鈴会の旅行などは良いけれど、他の旅行等はまったくやるせない気持で、こんなみじめな病気にかかったのが今更乍ら泣けてきます。元気だったあの頃の人間(私の心)と今の私では人が異る程ちがいます。高血圧症や心臓病(心筋硬塞)や糖尿病は一部体質によるそうですが、喉頭腫瘍にはどうする事も出来ません。摘出者の皆さん、たまに会う「せ」を楽しみに力を合わせて頑張りましょう。私も泣いてばかり居れません。退職后植えたリンゴと、今は野菜の出荷を家内と二人で一生懸命にやって居ります。

最後に諸先生を始め看護婦さん方の幸多からん事を心から御祈り申し上げます。

六月 北海道を旅して

一、知床を舟でくだりて望む時

思ふはハボマイ、シュタンの人

一、知らぬ人知ってる人も同じバス

北海の地をひたすらに飛ぶ

一、おんぼろのバスの窓から右左

はてもなく続くぢゃがいもの畑

先日、山陰山陽方面を旅して

一、瀬戸内を望めてはしる観光の

バスのガイドに耳をかたむけ

一、雨の中出雲の社に初詣で

祈る我が家の無事と安全

一、よもすがら過去を偲びつ広島の

原爆のあと目にもとまらぬ

近況雑感

長野市箱清水 滝沢忠司

喉頭全摘出の手術を受けて声を失い、四十五年間のサラリーマン生活に別れを告げ、家に籠るようになってから二年余りになります。長かった勤めを終えて漸く暇ができ、六十代の手習いではあるが、何か社会勉強をしたいと考えていたところ、幸いにも県の老人大学で学ぶことができました。今年はまた、県の老人福祉学級、市の高令者学級、盆栽教室へも入学することができ喜んでおります。

講義の内容は、私達老人に関係の深い諸問題に重点がおかれ、健康、経済生活、社会活動、教育問題、一般教養等の広範囲に亘り、内容は具体的でしかもわかり易く心に響くものばかりで深い感銘を受けました。また、体力の増進や、健康保持のためのスポーツやレクリェーション、さらに創作実技では、それぞれ初歩から基礎的、重点的に教えていただき、理解を深めることができました。

また、この学校生活を通じて、北信地域の広範囲に居住しておられる方々とも面識ができ、何人かのお友達ができたことは、孤独に陥いりがちな私にとって、何よりの救いであり有難いことでした。

一年程前から私は、退屈凌ぎと健康増進にもよいと考え「早起き山歩き」を実行しています。五時頃から約二時間、犬を連れて附近の野山を歩き回り、その途路、杖にできる形の良い木を見つけるとこれを採集しておき、老人用の杖を作っています。約二百本位作りましたが、市内の老人ホームや知人にさし上げて喜ばれました。材質はアカザ、ネヅミサシ、サクラ、クワ、ケヤキ等いろいろです。素人の手作りですから市販の物とは異なり、不細工ですが軽くて丈夫で実用向きなことは請合です。御希望の方が御座いましたら御一報下さい。喜んでさし上げたいと思っています。

さて、肝心の発声、会話の方ですが、なかなか上達できずで、指導員の先生方に本当に申し訳けなく思っています。

この頃になって、やっと少しずつ喋れるようになってきました。落着いて、ゆっくりと発音すれば聞き取って貰えるようです。これを契機に一生けんめい練習するつもりです。

六十五才以上を高令者と呼んでいるようですが、近く私もその仲間に入ります。このごろ、痛感していることは、若い時代に、何か一つ、「生涯打込める物を身に付けておくべきだった」という「悔」いであります。書道、俳画、短歌、盆栽、碁、将棋、その他、何でもよいと思います。私はどれもこれもみな中途半端で、何一つ物になったものがありません。恥かしい限りです。一念発起してこれから勉強するとしても、可能性は「ゼロ」に等しいと思います。若し、万能の神がいて「一つだけ願いを叶えてやる」と云われたら、私は即座に、「人生のやり直しをお願いするでしょう。

せめて、子供や孫達が、私と全く同じ後悔を繰り返すことのないように、いまから折にふれて、次のことを話しておくつもりです。「 どんなに仕事が忙がしくとも、余暇を活用して、「何でもよいから、他人より秀れたものを持て、何か一つ、生涯を打込めるものを身に付けろ」と。

声の回想録

田中清

昭和五十七年十二月二十日午後一時半、この時が私の声帯からの声の最後であった。そして一年後声でない声が生れ、他人に自分の意志伝達が満足にできない声で、残された人生を送るのである。

考えて見ると若い時代から、随分声を酷使したものだ。その報いが、今還って来たのである。

元来私は父親ゆずりの悪声で、声量もあまりある方ではなかった。母親に似れば美声で生れて来たが。小学校四年の時担任の先生に「お前程声の悪い奴はいないなあ」と言われ首をかしげた。というのは不思議に歌がうまく、友人達の中でも評判だったからである。当時音楽の先生で横田「ポンチ」という先生がいた。「ポンチ」というのは勿論アダ名である。「チャップリン」に似たチンチクリンの先生であった。その「ポンチ」に教室で演歌を歌って子供の分際でと大分油をしぼられたことがある。題名が「忘れちゃいやよ」だからなおさらだ。当時学校の唱歌では物足らず、もっぱら演歌に興味をいだき、「酒は涙か溜息か」「緑の地平線」「国境の町」......等を良く歌ったものだった。六年生の七月、日支事変がぼっ発し、十一月陸軍病院へ学校代表でコーラスを歌って御見舞することになった。陸軍病院へ着いてさあ本番という時、「お前はでないでいい」と「ポンチ」に言われて代表から外された。どうもふだんの行動の仇討らしかった。

翌年中学へ行ったら、今度は「カブト虫」という音楽の先生にぶつかった。世は日支事変がたけなわで、巷には「露営の歌」「麦と兵隊」......等まさに軍歌の時代であり、又一方では「バンカラ風」が流行し、「寮歌」「デカンショ節」の時代でもあった。それなのにわけの分らぬ洋楽を教えて得意がっていた「カブト」先生に愛想をつかし、授業をさぼって蛮声を張り上げタカバで市内をのし歩いていた記憶もある。

この頃から軍事教練が活発化され、野外演習の行事には軍歌がつきものとなり、お前はうまいからとおだてられ、軍歌の音頭取りに選ばれ、友人の二倍、三倍の声の酷使を強いられた。昭和十九年上京し、二十年には数回にわたり空襲に遭遇し、火災の中で煙の洗礼を受け、砂塵とほこりの焼跡生活を送り、食糧難で栄養失調寸前に郷里に帰りドブロクとカストリで一息つき、岡晴夫の「啼くな小鳩よ」から演歌の波におぼれたのであった。昭和二十六年トンネル工事で、四ヶ月間モグラ生活を送り、終って出て来たら約半年間タンが真黒であった。そして三十二年あまり喉が痛むので信大の検診を受けたところ、このまゝにしておくと声がでなくなるすぐ入院しろと言われて、驚いて病院を逃げだし龍角散と浅田飴に喉をたくして数年を過した。それでも酒と演歌の生活は続いたが、ついに昭和三十八年北島三郎の「涙船」を最後に歌が歌えなくなり、あとはつぶれた声での「浪曲子守唄」しか歌えなくなった。

昭和四十七年十一月六日決定的なダメージを喉に受ける。死者三十人負傷者数百人という歴史に残る北陸トンネルの火災事故である。当時救援の責任者としてトンネルに入り、炭酸ガスと一酸化炭素の中を四時間にわたり救出活動をしたが、事故のひとくぎりのついた頃より喉の調子が悪くなり、四十八年にはついに発声不能となり、近くの町医者で半年間薬物吸引療法でなんとか声をつくっていた。

四十九年職場の部下が喉頭癌で死去、自分もモシヤと思う。五十一年東京へ転勤し、国立ガンセンターにいる息子に入院をすすめられるが、仕事が多忙でついに入院する機会を失してしまう。そして五十六年二十数年ぶりに郷里の松本へ帰り新鮮な空気を吸い一時は喉の調子を取り戻すが、それは最後の灯でついに運命の日が来たのである。

思えば喉の酷使の人生であったが、今カラオケ時代に明治、大正、昭和にわたって、レパートリ数千曲の歌の数々が歌えないのが残念である。

雑感

松本市 浅野青波

今年は暑い暑い夏が何時迄も長く続き、毎日三十度を越すと云う全く異常と申す他ない。一九八四年の中期であった。又秋分を過ぎて間もないのに、この頃の朝など本当に寒くて炬燵が必要な位の日々が続いている昨今であるのに、お米は近年にない上出来で、大豊作とテレビも新聞も報じている。あまりの異常さに今年は何かが起るかも知れぬと一人思考し想っていたら、木曽の大滝村の大地震が突然起った。震度も大きく、その被害も甚大である。死者や行方不明者も多く村民一同全く途方にくれている。松本自衛隊員や附近の消防団員等の復旧作業や、不明者の捜索に多数出動して、救助などに懸命努力参加しているが、悲しい死体が三体発見されたが、広大な場所とて、中々未発見が多く大変な大仕事である。国や県も被害状況を察知するための視察もさる事ながら、一日も早く、被害村民方の身心共に平常に立ち上る事は勿論物質両面の行政援助措置が必須である。早急な手段を講ずるよう切に希望するものである。テレビで見る惨状は自然暴力とは云え、全く言語に絶するものである。一日も早く村民各人の平和な日常の来るよう祈っている次第である。

毎月或る会合に出席勉強している会員も二十数名あり、たまに気の合う二、三人の人とコーヒーを呑み、病気の事など話し合っていた。或る時この会に少額な寄付をする会員が居るようだが我々はどんなものか?と相談したそんな事は止めましょうと右手を強く振って断わった。新会員故なんとかと考えたがそんな事でそのまますぎてしまった。私一人でやると友人を裏切る事になると思ったのにこの人は他の人と二人で寄付したと大分後になって知った。全くびっくりしたのである。社会人として生き抜くために手段を選ばぬ人も、中には一人位居る事もあるが、人は見かけによらぬものと、がっかりしている心情である。これも世の常か?.........。

家内に言わせると、家の人は全く困った人で、何回も入院し、手術をし、又入院と繰り返しておりました、と誇らし気に人に話すのである。全くその通りです。女房と結婚して昔の満州滝江省チチハル市に渡満し軍属のあと、チチハル市公署に勤務し、現地召集で軍隊に入隊しそのままソ連のシベリヤに捕虜として、転々と移動してました。冬期の事とて零下五、六十度も下がるシベリヤでの重労働で、同僚がバタバタと死んで行った。凍傷や栄養失調などであり、又伝染病も有った。医者も薬も皆無で無言の内に、目を閉じてしまったのである。こんな難行動の中を固い決心で自分で自分と斗って帰国したのは昭和二十五年である。この間五年を捕虜として、重労働に従事して、死ぬ思いでやっと帰国できたのである。六月に初めて、自治体の財源として固定資産税と言う税金が附加されて、その求人募集が新聞に出ていたので試験を受け、十五人中の一人として合格、やっと第二の社会人として出発しました。そして四十四年三月退職し目下年金生活者です。

この間の十八年の内に、急性腎臓炎、肝臓炎、脳軟化症等の手術、胃の摘去手術、自動車事故二回など、又最後に喉頭摘出手術等をして妻は全く身体の休む間もない位い苦労したのです。入院したら大体三カ月は掛かりました。妻に何んと言われても仕方ありません。現在私は毎週木曜日に信大に通って、諸先生方や先輩各氏の指導員の方々の指導で発声練習に通っております。この頃ようやく幾分小さいが声が出て参りました。おで他の人とも少し声は小さいが、話しが出来るようになりました。私の身辺は目下感謝の人達で一杯です。

近況報告

穂高町有明 清水清二

八月十五日で、満三十八才になりました。悩みに悩んだ、喉摘手術をしてから七カ月が過ぎました。退院後、諸先生方や、看護婦さんの熱心な発声教室へのおさそいをうれしく思いましたが、現況が許さず、自分なりに少しずつ練習したところ、少し声らしきものが出てきました。私の場合気管発声が残念ながら、使えなくなってしまい、食道発声一本でやっています。最近は、電話もかけられる様になり自分なりに落着いた日々を送っています。また、月二度の検診日には、病棟に行きお世話になった看護婦さんのお顔を拝顔するのを唯一の楽しみにしています。ただ発声教室へ通えばもっと上達するのにと思っていますが、現況が未だ許されないのでいつの日か教室へ出て、皆様と話し合い等できる日を楽しみにしています。今後ともよろしくご指導の程お願い致します。

食道発声に取り組んできて

長野市 越川啓文

昨年秋の手術後に食道発声練習を始め、ようやく何とか物が言えるようになった今年の四月、再入院手術となってしまった。幸いにも経過が良く七月退院することができたが、その間は治療回復に専念していたので、これまでの食道発声練習期間は通算約半年ぐらいとなるであろう。

覚悟はしていたが、声を失い言いたいことは筆談するしかないという手術後のせつなさやもどかしさは筆舌に尽くしがたく、「どんなに苦労してもよい。一日も早くしゃべれるようになりたい」としみじみ思った。そして手術後に戴いた「食道発声の手引」「信鈴・第十三号」を座右に置いて、それこそ毎日繰り返し読んでは練習に取り組んでみた。

「食道発声の手引」の「口中に空気を頬張り咽喉へ舌を使って送りこむ。そして直ちに下腹へ力を入れ、腹をすかせるようにして力むと、食道内の空気が逆流し原音が出る」という説明を頼りに、ベッドで暇さえあれば実習していた。一週間ぐらい試みているうちに短く原音らしき声が時々出るようになり、日増しに回数が多くなって、やがて原音発声の要領を会得することができた。自信と共に、相当の努力が要ることを覚えた。

「信鈴・第十三号」からは、先輩の方々の苦しさにもめげず強く生きようと頑張っておられる姿を知り、何度も読んでは自分の心の支えにしていた。

現在少したどたどしいけれど、日常生活は筆談なしで過ごせる段階までに至れた。これはすべて、きょうまでの私を励ましてくださり、適切な指導助言を寄せてくださった、多ぜいの皆様のおかげである。

日赤の医師の先生と看護婦さん方、食道発声への効果的なことを教えてくださったり、治療看護のたびに手間どりながら出す原音や母音に一生懸命耳を傾けて評価と励ましのことばを与えてくださった。聴くところによると、みんなで食道発声についての学習会を行ったり、文献などから手術後の生活のあり方などをまとめられ、毎日の看護助言にあたっておられる、ということである。

知己の方々も温かく励ましてくださったことは言うまでもないが、伝えきかれたという松本市の長岡さんが、面識のない私のことを心配して寒い中を友人と共に見舞激励に来てくださった。食道発声で自由に話せることを示され、それまでの過程を教えてくれた。

長野発声教室の鈴木さんの住居が近いのを幸いに、毎週通って個人指導をお願いした。「食道発声練習教本」の実習を通して、食道発声は成果が見えて嬉しい日と不安の日が交錯しながら上達していくこと、苦労に耐えて毎日継続しているといつの間にか発生機能が形成されてくること、など体験から得られた要点を話された。特に重点的に指導してくださったのは、吸引法である。のみ下し法に慣れたのを吸引法に変えることは容易でなかったが、「空気が回る」を感覚的に把えるまで教えてもらえたことが、現在のしゃべることにとても役立っている。

今、もっと鮮明で大きい声の発声にしていきたい。自然に近い声で流暢に話せるようになりたい、と願って日々練習をし、月二回の発声教室へ出席している。

出席される方々が回を重ねるごとに向上されていく様子から、学ぶことが多い。さらに頑張らねばというような意欲も、行くたびに感じてくる。

昭和60年刊 第15号

卷頭言

信鈴会会長 鳥羽源二

信鈴会の会報もお蔭をもちまして、第十五号の発刊となりました。会の諸行事もようやく軌道に乗って参りました。四ヶ所の発声教室も、指導員、参加者、病院関係三位一体となって順調に運営されていることはまことに喜びに堪えません。

昨年、即ち昭和五十九年の総会には、中央より中村正司先生(十段)をお迎えしてお立合いの下で、食道発声の発表会を行った際は、なかなか高レベルであると、お褒めの言葉を頂戴いたしました。

また昨年東京で行なわれた、第二回全国食道発声コンテストに於ては、佐久発声教室の三瓶満昌氏が、全国からの強豪並居るなかで、見事第二位銀賞の栄を勝ち得られました。これらは各教室の努力・研鑽が漸く順調の波に乗って来たように思える次第です。

それにつけても、年末、長野日赤病院の浅輪勲先生の急逝には、ただ呆然と声なしでした。長野日赤病院発声教室のみならず、信鈴会会員一同が心よりたよりにしていた先生でありました故に.........ひたすらご冥福をお祈り致します。

前述の通り、漸く各発声教室もそれぞれ順調に運営され、会員の発声研鑽の場所として日毎に充実されております。発声の向上と、そして情報の交換の場として、是非皆さん積極的に近くの発声教室へ、また信鈴会の諸行事へのご出席を願ってやみません。

老いの自戒

信大医学部名誉教授 鈴木篤郎

私は本を読むのが遅い方で、三百頁の本一冊を一日で読破するというような芸当は到底不可能である。その上どうしても自分の専門的興味のものが優先するので、それ以外の本に目を通す時間が益々少なくなる。若い時には忙しい時間を割いて小説などもよく読んだと思うのに、時間的余裕があるはずの今の方が却って読めないといのはどうも不思議でならない。それでも時にはいわゆ雑書の類に目を通していると、時にハッと心を突き抜るような思いをすることがある。

小島直記という人の「出世を急がぬ男たち」という新潮文庫の一冊を求めて来た。この人はかって純文学作家として芥川賞を石原慎太郎の「太陽の季節」と争った人だそうだ。「太陽の家」は新鮮で、戦後の新しい世界を描き出しており、その後「太陽族」というような人種の出現をもたらしたが、小島氏はこうした精神への模索を失った純文学に失望し、伝記文学に移って行ったという。

以上は余談であるが、この「出世を急がぬ男たち」は決してあせらずに時を待って大成したというような、いわゆる成功物語ではなく、勿論そのような話もあるが、主として明治・大正時代の人物についての人物論であって、賞賛だけではなく、痛烈な批判もある。なかでも明治の元勲といわれた井上馨についての文章はきびしい。井上は努力と実力によって明治の指導者の一人となり、大正四年教え八十一歳で死ぬ時は「従一位大勲位候爵」の栄誉に輝いたが、実は年をとるにつれ無能・増長・恥知らずが露骨となり、世間からは表面だけ奉られて、内心は侮蔑され、それを知らなかったのは本人だけだったという。

小島氏はこのことを人間最大の悲劇と観じ、「人間は年と共に肉体的衰弱は避くべくもないが、恐ろしいのは精神的衰弱であり、それ以上に恐ろしいのはそれに対する無自覚である」と述べている。このような現象は歴史上にも、また自分の周囲でも少なからず経験することだが、さて自分のこととなると甚だ心もとない。著者はこの文章の最後を、「トップマネージメントの第一頁は、(老年を見つめよ)という自戒のことばから始めるべきであろう」と結んでいる。私などは、勿論トップマネージメントとは何の関係もない隠遁者に過ぎぬが、それでも「老境」が「老害」をまき散らさないよういつも自戒していなければならぬと考えさせられた次第である。

(一九八五・十一・廿四)

情報化時代の日本人

信州大学医学部 田口喜一郎

世の中将に情報化時代、毎日耳から眼から入ってくる様々な情報は、好むと好まざるとに拘らず、氾濫している。テレビのスイッチを入れ、ば知らず知らず見てしまう。ラジオも聴き出すと知る必要のないものまで耳に入ってしまう。新聞は兎も角、一緒に送られてくる広告の類、毎日のように送られてくるダイレクト・メールの山には閉口してしまう。今や情報は限りなくやってくるので、自分の立場で取捨選択する力を養成しなければならない。

三浦事件、フランク永井事件などマスコミのあおり立てはすさまじいものがある。某テレビのやらせの発覚はその最たるもので、よい反省の機会にして欲しいと思う。

しかし、これは我国だけの問題ではない。海の向う側のアメリカでも、マリリン・モンローの自殺の原因や、フランクシナトラのマフィアとの関係といったショッキングな記事が示すように、刺激的な話題が興味をもって取上げられているようである。

ここで少し視点を変えて、日本語という点から日本人の特性を考えてみたいと思う。元来日本語は外国語の影響を受けない国語として有名であった。未開の国の言葉が影響を受けないのは当然であるが、日本程開かれた国では珍らしいとされている。もちろん外国語は情報源として、新しい技術や品物と一緒に入ってくるが、日本人はこれを独自に消化してそれに相当する日本語の訳造ったり、人名なども日本語として発音し易い形に直してしまう特技を示す。その原因の一つは海に囲まれた一民族の国ということもあるが、さらにその国民性もあるらしい。集団でなければ生活できない、あるいはグループを作り易いという特性である。外国に出てグループを作る三大民族として中国・イタリア・フランスが挙げられている。しかし、最近はフランスに代って日本が仲間入りをしたようである。中国人がグループを作り易いのは、サンフランシスコ・ロスアンゼルス・バンクーバーのチャイナタウンを始め、世界各地における中華街の発展をみれば分るし、イタリア人は一族を中心とするすさまじい集合体をなすのが有名で、マフィアはその代表的なものであると言ってもよいであろう。

では日本人はどのように集合体を作るのであろうか。日本人はどちらかというと、職業別の集合体を形成する傾向が強いといわれる。その証拠に、研究者のグループ・商人のグループ・技術者のグループといったものにはよくお目にかゝるが、これらを一体にした、ロスアンゼルスのリトル東京のようなものはむしろ稀である。各個の職業意識が強すぎてまとまり難い面もあろうが、どうも日本人の閉鎖性が一因をなしているとうかがえる面もある。日本人の孤立化志向は、江戸時代の階級制度に始まり、明治に入ってからの激しい職域制度により深まったとする見方が強い。

さて、今日みられる我国の受験戦争は、すでに中学生から個人単位の競争を生み、グループ意識は一部の部活動と高校以上の学閥にみられるに過ぎないとされる。よい意味の競争は大変結構であるが、一族挙げてのあおり立ては、本人に尊大な態度をとらせるか、劣等感を生ぜしめる結果を招きかねず、問題を残すであろう。高校中退者の激増、大学入学者にみられる無気力さもその一現象と考えられる。私の学校でも、受験戦争を勝ち抜いてきた者が全て医師としての適格者になり得るかというと、疑問を持たざるを得ない。問題のある学生を如何にして育てるかは我々に課せられた役割であるが、現に中途退学者も出ており、その責任は極めて重い。

このように、一方では情報の波が押し寄せるのに対し、他方では孤立化が進む我国では、情報の波に押し流される人間を多く生み出すのではないかと心配される。このような時代には、人々の心に迎合し易い情報は一挙に人々の心を捉え、日本民族を誤った方向へ導く可能性がある。その範囲は広く、軍国主義化の問題から風俗習慣に到るまで多岐に亘ると考えられる。

この事態を防止するにはどうしたらよいか。一概によい方法はみつからないであろう。我々に出来るのは、例えばアフリカ飢餓に対する救済とか緑化運動といった、可能な目的意識を持った善意の運動を育てることであろう。

信鈴会も一つのグループであり、その存在意義は大きい。このようにしっかりした目的意識を持った団体こそ、現在の我国に必要なものである。そこには学閥も職業の違いも関係ない、お互いが必要とする情報を交換し合う集団の活動がある。これこそグループの模範とされるべきものであり、このような集団が発展することは、最も望ましい社会条件を形成することになるであろう。

(これは私が以前書いた「情報の功罪」の一部を書き直したものです。)


信大病院前看護部長 石田愛子

ご無沙汰しております。今日は今野副部長さんにお目にかかれると思い、いそいそ出掛る。いつに変らぬさわやかなお人柄になぜか胸があつくなる。他の方々とのご挨拶もあり、ゆっくりお話しもせずに失礼の段お許し下さい。ご依頼の原稿の件気がひけます。

東京のある日、下町の郷愁にさそわれて歩きました。

「浅草から向島(隅田川)」へ、観音さまのお参りをすませ、ゆかりの名所史蹟が数多く残されている碑石をみてまわる。足をのばして言問橋を渡って向島の社へ、恵比寿・大黒天を祀る。白ギツネが現われ神像三回まわったということから三囲稲荷ともいわれる。御堂の右側に俳人基角ゆかりの雨乞いの句碑は有名。「遊うだち(夕立ち)や田を見めぐり(三囲)の神ならば)と得意の酒落をよんだところ翌日雨が降り里人を喜ばせたという。小唄には夏の風物「夕立ち」三下りがあります。「シャン 夕立ちや 田をみめぐりの チンチン かみならば ツンツントンツンテンチン かさい太郎が(川魚料理店) チンチン あらい鯉 テッツンチン ささがこうじてキツネけん ほんにぜんせがことじゃえ ツテン 堀の舟宿 チンシャン 竹屋のひと 竹屋のひとと呼ぶ チン ほどに チントンシャン」昔のうたをさらってみる。三囲さまの表側の道を北へ三〇〇メートル歩くと山門、本堂とも中国様式の弘福寺は布袋尊を祀る。本堂の右の小さな御堂に福よかな石像が二つある。これは咳のぢぢ・ばば(翁媼)でゼンソク・百日咳に霊験があると普段の日も参詣者が多い。弘福寺の北隣りの長命寺は七福神中紅一点の弁財天を祀る。江戸時代この地は雪見の名所として知られ「いざさらば雪見にころぶところまで」という芭蕉の句が碑に刻まれてある。境内から墨堤側に出て名物の長命寺桜餅でひと休み。道路の向い側に言問団子がある。長命寺から墨田川通りを北へいそぐ白鬚神社(寿老神)・向島百花園(福禄寿尊)、北へ約十五分歩くと草ぶきの山門のある多聞寺(毘沙門天)ここで隅田川七福神巡りを終る。かけ足でペンをすすめました。

庭の八ツ手の白い花、松本の青い空のもと、次に訪ねる下町に想いをはせている。

信鈴会の皆様、お元気でいて下さい。冬支度にお忙しくしていられることでしょう。皆様のお顔をおもい浮べております。

十一月十七日松本市横田にて

むせりと喉頭機能

河原田和夫

喉頭の大事なはたらきに、発声・呼吸のほかに、正常な嚥下運動が進行するための機能があります。喉頭の機能が不正常ですと、いわゆる「むせり(誤嚥)」となって苦しみます。咳こみますと、吸吐して胃液が気管の中に入り、嚥下性肺炎という重い病気になってしまうこともあります。機能不調の喉頭があるために死にいたることもあります。

この「むせり」の問題を、信大医学部の耳鼻科の講義のひとコマにとりあげ、こうした症状をかかえている患者さんの協力をもらい、医学生諸君と共に考えてみました。

たしかに喉頭をとってしまえば解決するかもしれませんが、喉頭機能を温存しつゝ病気の回復をまてないものであろうかということが問題の焦点となります。まず食事の内容・体位などの工夫に心がけてみるわけですが、どうもうまく行かないときには、手術となります。この手術の場合も、なるべく簡単な方法で、しかも確実に、そして症状が回復した段階では元にもどすことができるという原則にのっとります。

喉頭バイパス法という手術が行なわれるようになってきました。この方法は、喉頭そのものに病気があるのではなく、機能上調子が悪いだけですので、機能の正常化を前提にします。気管を切断して、肺側の気管を皆さんと同じように皮膚と縫合し、喉頭側は、気管軟骨を切除して、食道に通ずるような吻合を行います。これが完成しますと、間違って喉頭に入りこんだ飲食物は、再び食道に合流してきます。運よく喉頭が正常になった場合には、気管とつなぎあわせ、元の状態にすることができます。これまでの経験では、喉頭機能が回復したので、元に戻すことができたという幸運な人はいませんでしたが、必ずそのような人にめぐりあえるよう努力しようと思います。

(一九八五・十一・七)

肝炎で入院して

信大医学部耳鼻咽喉科助教授 山本香列

思いもかけず急性肝炎で入院したのは、今年の一月二十六日であった。三月二十六日の退院までの二ヶ月間は、殆どベット上の安静が要求され、歩き回ることを禁じられた、不安で単調な生活であった。この間、今野婦長さんや信鈴会の皆様方に、度々御見舞いをいただき、改めて深謝する次第です。現在は、肝臓の機能検査で、全く正常に戻りました。ただ、肝炎はしばしば再発の危険があるため、毎日の生活では努めて自戒しております。

昨年の十二月頃には、既に肝炎に罹患していたもので、潜伏期間の年末から正月・新年にかけては、強い疲労感がありながら、悪くなる一月中旬まで、検査もしないで放置してあり、やっと一月二十二日の検査結果から、入院を勧められると言う具合でした。常々、自分の健康には注意して、早期に対応すべきものと考えます。退院後は、しばらく自宅で療養していましたが、五月から勤務に入りました。退院した後しばらくは、自宅で寝たり起きたりで、体力的に回復して来るには、長い月日が必要でした。一つの病気を克服していくには、自らの努力と、周囲の人の協力とで、一つ一つ長い年月をかけて治していくしかないと思っています。

病気と言うものは、予測のつくこともありますが、全く思いもかけない時に罹患することも多く、しかも我が身に起こってみないと、その事が分らない所があります。常々、病気にかかる機会を避けることもさることながら、自分の健康には注意深くありたいものです。体の活動性を運動や頭を使うことによって維持する一方で、休養もまた忘れることのない様にと思っています。皆様の御健康をお祈り申し上げます。

玉磨かずば

松代 吉池茂雄

私たち喉摘者が、原音からはじめて、アイウエオ五十音が出せて、どうやら会話ができるようになった時の喜びは、誰もが体験した大きな感激だったと思う。これから俺も世間の仲間入りができるのだと、自分の世界が広くなったように感じた喜びである。

こゝまでは誰にも共通した体験だが、中には、もうしゃべれるようになったのだから、これで発声練習は終りだと思いこみ、それから後は、しゃべる事がうれしくて、しゃべることに夢中になってしまう人が、案外多いのではないだろうか。

こゝに大きな落し穴があって、それから後の発声の進歩を阻害する事になるのだと云うことを、忘れてはならないと思う。

私は今までの経験から、こんなふうに考えている。私は人工喉頭(笛)を使っているが、笛でも食道発声でも同じことだと思う。

会話ができるようになったということは、発声練習が完了した。もう練習はしなくてもよいということではなくて、これからいよいよ訓練が始まるのだということである。努力によってようやく出るようになった声、ことばは、それを例えるならば、山から切り出したゴツゴッした岩かけであって、これから好みの形にし、磨きをかけて、立派な美しい製品に作り上げるという作業があるのだ。これを忘れた発声は、山から出たまゝの、荒けずりの岩や石ころに終ってしまうだろう。

磨きをかけるということは、発声練習で云うとどういう事か。私はこう思う。

発声には、聞きにくい声(ことば)と、聞きよい、感じのよいものとがある。私たちがお互にことばを交わし、思っていることを相手に伝えるには、相手が喜んで聞いてくれるような声、ことばでなければならない。聞き手が耳をふさぎたくなるようでは、こちらの思うことが、相手に正確に伝わる筈はない。

声の強弱・長短・ことばの抑揚・明瞭な発音・話し方の速さ等、いくつかの要素があって、これらのすべてが適性に使いこなされてこそ、立派な気持よい会話ができるのだと思う。自分にわかるから、相手にもわかる筈だと思っているのか、いつ聞いても少しの進歩・反省もなく、聞きにくい声でしゃべり続けている人や、ことばと言葉の間に、エーとかアーウーなどと(まことに申しわけない事だが、故大平首相の演説を思い出して下さい)無意味な音が入って、雑音以外の何ものでもないというような人など、反省・改良の努力をしたら、もっとすばらしい発声になるだろうと思われる人が多い。

もう一つ大事なことは、順序よく、その一つ一つを確実に、丹念に、それが身につくまで練習することだと思う。

私は前に、食道発声で寝ごとを云う人のことを書いたが、寝ごとだから、何を云うか考えて、意識して云っているのではない。無意識で発声しているのである。これは身についたと云ってよい状態だと思う。

器用で薄っぺらな練習や、わかったと思って(できたとは違う)練習過程の一段・二段を飛びこしたりおろのいたりする思いあがりは大敵であって、それをやると必ず近い将来に思い知らされる穴に陥ることになるだろう。

ピアノなどの練習に教則本がある。一本一本の指の使い方から、練習の順序方法が、細かく厳しく示されていて、それに従って練習するのである。私は三十数年も教職に居て、歌曲だ音楽だなどと理屈を云ったり、時には器用でピアノをひいたりしたが、基本練習をしなかった為に、それ以上の上達はしなかった。うちの孫娘は今小学校六年生だが、四・五才の頃からピアノの練習をして(させられてか?)来たので、今では私などが見ると、目がくらみ、手も足も出ないような曲でも、数回の練習で何とかひき通すようである。教則本に忠実に従って来た結果だと思う。楽譜を見れば指が動くのだと思う。

発声練習にも発声練習手引がある。先輩が長い間の経験を基にして作った尊い教えである。

この手引には、いろいろな練習の仕方が示されているが、これは練習の仕方に、あゝ云うのもある、こういうのもあると、いろいろと並べた羅列ではなくて、練習の順序も示してあるのだから、その順序に従って、一段一段を丹念に練習して、ものにしてゆく事が大事だと思う。

藤本義一の小説「女橋」の中で、持明院藤村叡雲が云っている。

「『人間は何で生きているか』と問われたら『明日があるから生きている。明日は今日よりもよいと思うから生さていく』と答える」と。 私は前に、「明日はいくら待っても来ない。確実につかめるのは今日だけだ」と云った事を覚えているが、これとそれとの矛盾のようなものを、どう説明したらよいか、私は考える。

明日は今日よりもっとよくなるだろうと夢見て努力するが、明日は捕えることができない。できないが明日をよくするために今日の努力を続ける。私たちは永遠に捕えることのできない明日のために、命のあるかぎり今日の努力を続けるのだ。努力しなくてもよいということは死ぬという事だと思う。

この努力によって、僅かずつでも進歩すれば、明日はもっとよくなるだろう。

又、同じ小説の中で、谷口艸香(画家)が云っている。

『最近になってようやく作品というものは、自分一人で納得できるものではないとわかって来た。また自分の周囲の、ひとつまみの身びいき筋の賞め言葉だけで安心できるものでないということが、わかって来た。』

『自分が気に入ったから相手も気に入るだろうという思いあがりが、一番いけないということが、やっとわかって来た』

テレビニュースの中で、世界最年長(八十五才?)の現役コンダクター(指揮者)が云った。

『本当に上達するには、常に自分に対して批判を求めなければ......』

更に又、陸上競技日本選手権大会で、砲丸投げで、日本新記録を出して一位になった人(名前は忘れたが三十五才だという)がインタビューに答えて云った。

『若い頃は、たゞガムシャラに投げていたが、この頃は考えられるようになった。このことが、こんどの新記録につながったのだと思います』

これらの言葉は、それぞれの立場立場で云っているのだだが、これを私たちの発声練習におきかえてみても、全く同じことが云えると思う。

昔の人が申しました。

『玉磨かずば光なし』と。

どんな宝石でも、原石はそれほど美しくない。それを磨いて、磨きあげてこそ、美しい光を放つのだ。

私たちが苦労してかち得た声を、更に磨いて、美しい声にしたいものです。

尚、私たちに共通の難音だと云われるハ行(ハヒフヘホ)の発音は、ファフィフゥフェフォと外国語式に発音すると、はっきり発音できると云われているが、沖縄でこのファフィフゥフェフォの発音が今でも使われていて、これは日本の古代語で万葉時代の発音だと云うことが、いつだったか、テレビの一コマに出て来た。今まで外国語の発音の仕方を借りてしゃべっていたと思ったが、立派な日本の古代語だったことに、おかしな云い方だが、安心感を得たものです。

(昭和六〇・十一文化の日)

発声教室雑感

副会長 大橋玄晃

本県の喉頭摘出者も年々増加の傾向にあり、それに伴い長野日赤教室、信大松本教室、それに伊那教室、佐久教室と四教室となりました。

信鈴会が盛んになったと言えばそれ迄ですが、それ丈け病人が増えた事を思えば誠に複雑な気持ちであります。然し現況に於ては各教室の指導員の方々の熱心な指導により多大の成果を挙げております。殊に長野日赤教室、佐久教室は元来人口笛による発声が殆んどであったのが、最近では先生方・婦長さん・看護婦さん方々の理解と御協力により、伊那教室と共に食道発声の方が年々増加して来ている事は、食道発声指導員の一人として喜びに耐えません。

たしかに食道発声は根気と努力が必要で、天才的な人は論外として一般には仲々大変な事であります。然し自分の口で発声出来た時の喜びは他の発声の比ではない事は私も経験しております。食道発声の進歩の度合には個人差があって一様ではありません。同時期に練習を始めても早い人もあれば遅い人もあります。特別な病気の方や、早急に社会復帰を要する方は別として、自分の能力に合せて、あせらずに、新しい人生の一つの仕事と考えて、たゆまずに発声教室に参加、練習に取りくまれては如何でしょうか。私、時には東京銀鈴会・神奈川銀鈴会に参りますが、殆んどの方が食道発声に取り組まれており然かも七〇才以上と言う高令の方でもちゃんとマスターされ、又胃をつり上げる様な手術をされた御婦人が立派に食道発声を習得し、指導員をしておられます。殊に最近では三ヶ月と言わずに、それ以上の短期間に吸引法による日常会話の出来る方が増えている事を見聞し、驚きの一語につきて居ります。と共に私達指導員も更に勉強しなくてはと、痛感している昨今でございます。以上食道発声に就いて申し上げましたが、私は決して人口笛等による発声を否定する者ではございません。誰れしもが一日も早く日常会話が出来、社会復帰を願はない者は無いからです。私も嘗ては仕事の都合上、最初は電気発声器を、次に人口笛を使ったもので、現在でも仕事には人口笛を、会話には食道発声をと使い分けております。只、喉頭摘出手術を受けて十一年になりますが、食道発声の手引、中村正司先生の食道発声上達への助言を座右の銘として、毎日たとえ少しの時間でも発声練習をいたす様心掛けております。

私達、喉頭摘出者は特別な方は別として大多数の方は、食道発声・人工笛発声を問わず、一般社会に於ては、大なり、小なり、一般の人に比してひけ目を感ずる事は事実であると思います。為めにどうしても引込み思案となり勝ちであります。然し発声教室では何のひけ目もなく、何の遠慮もなく、又何でも話しが出来、聞いても貰えます。そして慰め合い、励まし合う場所でございます。それ等を考え合せますと、発声教室は発声練習と共にストレス解消の席でもあり健康の面からも意義があるのではないでしょうか。会員の皆さんどうか食道発声・人口笛等の別なく一人でも多くの方が教室に参加されん事を望んで止みません

かえりみて

副会長 義家敏

時の流れは早いものである。私は摘出手術を受けてから十年の歳月が過ぎたことを思うと実に感無量である。

この十年の過程の中には、悲しかったこと、苦しかったこと等、私達仲間以外の者には到底理解のできないいろいろの事が沢山あった。

心に残る事の中で先づ入院して、先生や婦長さんから手術のことについて、納得するまでお話をお聞きし、食道発声の指導員の方々や、先輩の人達の会話を聞いたり、指導の様子を見せてもらいして、よし、これなら自分の努力で、俺にもできる。元来何事も一生懸命やることや、努力することは他人には負けないんだという自信があるのだ、ということで決心して、手術を受けた訳であった。

私は術後の経過もよく、手術後二十日足らずにして退院したのであるが、勿論入院中に原音の発声も出たのであり、退院後は、木曜日の発声教室の日が待遠しく、或時は、祭日の休みも知らず出かけて行き、看護婦さんに同情された事もあった。私はただ一筋に誰よりも頑張って、早く上達して職場に復帰し、政界十五年の佐世保の辻市長さんのように、大学の教壇(化学工学)に復帰した池田教師のように、また或町の町会議員のように自分の努力によって築いた食道発声で何とか再起してみせるんだ。そして後にも続くであろう喉摘者の人々のためにも励ましにするんだ。と意気どんだ甲斐あってか最初は割合スムースに発音が出て、指導員の方からも一応評価はされていたのであるが、さて話し言葉に進んできた中で音声が低く、前に向って出てこないのである。一心に指導を受け、訓練を受けてきたのであるが未だに希望は成功せず、当初の願いはだんだん暗礁にのりあげて、恥かしい事ながら一人悲嘆にくれた次第である。また誰もそうであると思うが退院時には、家庭生活での諸事項について幾つかの注意と指導を戴いて、喜々として帰宅した訳であるが、私は退院三ケ月後に風邪で発熱したところ痰に混って出血を見たのである。

こんな嫌な事はないのである。驚きは大へんであった。誰からも聞いていなかったので、この驚きを、家内にも心配されるので話せず、さては、やられたと思い、早速先生に診てもらい手術を受けたのであるが、気管口の中が少しカサブタができたのであり、四、五日して治ったので先づは安心したのであるが、こんな嫌な気持は誰が知るであろう。その後風邪を引くとこんな現象をおこして心配するのである。

身体障害者である私達は、会話が不自由なため、ともすると社会の会合に出る事が億劫になるのであるが、私は関係のある会合・集会には努めて参加しているのであるが、一番困ることは咳が出る時である。これは電車の中でも、バスの中でもそうであるが、健常人と異った音がするので、まわりの人から不思議に思われる。けれど何とか痰を取らないと治まらない。取るには尚更人目につく、で本当に悩んだのであるが、私はこんな恥かしい様な思いも踏み越え、のり越えて諸会合には勇気を出して出席しているのである。そんな事で現在種々の団体で、参与とか、会長・副会長とか委員等に選任されて挨拶なども、マイクを持ってどうにか務めており、いろんな懇親会等にも人には劣らず頑張っており、人のため調法に似われている事は生き甲斐のある事であり幸せな事の一つと思っている。

ここに私の強調したいことは、みんな勇気を出して社会参加してゆくことである。ただ話せない、語れないという事で家にこもってしまうことは人生の悲劇に等しい事と思う。会話が不自由でも目がある、耳がある、そして足も手もある。如何に活用しようと自分のものである。幸せは降ってくるものではない。自からが求めるところに幸せは得られるのだと思う。高齢者の多い私達は、高齢だから、不自由だからと言って引っ込んでいては人生空しいものになってしまう。

適当に身体も、頭も働かせ、趣味の道もよし、何か考えてみることが大切ではないでしょうか。二十才位は若く考えて社会に参加し、人とのふれ合いをしてゆくところに何か幸せが得られるのではないでしょうか。少しでも楽しい事に出会うことができれば幸せではないでしょうか。

食道発声十年をかえり見て

伊那教室指導員 桑原賢三

信鈴も十五号の発刊となり、私も食道発声十年が過ぎました。生活への不安、自分との闘い、声との闘い、そして希望、安定、よろこび、幸せと、この十年間の経過は大変なものがありました。

最初の生活への不安の時代が一番苦しく、三人の子供の将来、特に末っ子の次男はまだ高校在学と長男・長女も社会へ出たばかりにて父親としての私をもっとも必要とする時代でした。一日も早く社会復帰して、生活の立て直しをとあせるばかりで発声の方は遅々として進まず、不安とあせりで苦しい毎日でした。心と自分との闘いのうち五十三年、長女の結婚と、翌年の初孫の誕生により、安定と希望に変わり孫の片言の発声に伴い、私の会話の相手は孫となり、この頃より私の発声も孫にもわかる様になり、これからがよろこびを伴った会話練習に変わって行きました。五十五年には長男も結婚して内孫も誕しよろこびと幸せをはだで感ずる毎日でした。此の時に長年勤めた会社も停年となり、終日孫を相手に農作業にあけ暮れる日が続き、孫の成長と倶に私の発声も当初は孫の執拗な聞き返しに対して判かる迄の発声が大変でした。然し孫も二人三人と多くなり、又保育園にも通う様になり、私の発声の成果も表れて聞き返しも少くなり、新潟の孫など電話料金を心配する程かけてきますが、ほとんど聞き返しせず納得する様子で、私の食道発声もこれで一人前かななどと自惚れている昨今です。

手術した年にはまだ高校在学だった次男も、十一月に結納も済ませ来春早々挙式と決まり、親の務めもこれで終りと言うことになり、一番心配していた大きな荷がおりた気持です。それにしても五体満足の時期に比べて食道発声になってからの月日の流れの早いのには吃驚します。一日も早く自分の声を、相手に判る声を、又孫にもわかる声をとのあせりから一日一日が短いと思います。

十年を振り返って見て、長男の結婚式に自分の声で御世話になった皆様に御礼の言葉が言えたこと、孫との会話に明け暮れたこと、又、十年健康であったことなど嬉しさが心に残ります。

私は今、幸せと張り合いのある毎日を過ごして居ります。この様な生活が出来るのも、当時迷いと苦しみの中御世話になった耳鼻科の今野婦長さん・看護婦さん・担当の先生方のお蔭と改めて心から感謝申し上げる所であります。

私は伊那中央病院で伊那発声教室の指導員として、耳鼻科の納谷先生・宮原総婦長さん・安藤婦長さん・山下さんの強力な御支援のもとで後輩の発声指導に当って居ります。

一生懸命努めることに依り、当時お世話になった皆様の御恩に報いたいと思って居ります。

私の食道発声十年をかえりみて、想いの侭を書いて見ました。喉頭摘出の手術を受けた方々もさぞ私と同じ想いで悩んだことだと思います。然し、この悩みも其の時其の時に自分なりの目標を定め、自分と闘い、自分の幸せを求めて努力すれば必らずよろこびの人生が待って居ります。どうか懸命な御精進により自分の幸せを摑んで下さい。

尚、伊那教室は毎月第一・第三金曜日午後一時より三時迄です。教室は耳鼻科で尋ねて下さればわかります。是非お顔を見せて下さい。お待ちして居ります。

(六〇・十一月)

食道発声コンテストに出場して

佐久教室指導員 三瓶満昌

十月十一日、東京信濃町の、東医健保会館で、オール日本食道発声コンテスト大会が開催されました。今大会は、第二回とのことです。私も信鈴会の代表の一人として出場いたしました。

朝早い受付でしたから、前日の夕方に新宿駅で会長一行と待合わせて、百人町に宿をとりました。

当日は生憎の雨でしたが乾燥した信州の空気で風邪を引いておりました私には幸ひいたしたようです。とても楽になりました。

定刻が近づいた信濃町の駅からは、出場者や関係者らしい人の波が会場の方へ向っていました。私達も対向する人の傘を気遣いながら急ぎました。会場に着くと銀鈴会の役員の方々が準備に大わらわでした。信鈴会の総会に来てくださった中村正司先生のお顔もみえました。

大会は、午前中に予選を行ない、午後は決勝ということになっておりましたが、午前の予選が長びき十二時をまわってしまいました。私も予選を通過し、小林さんと午後の決勝に出場することになりました。

その頃、信大病院の今野副看護部長が、忙しい業務の中、応援にかけつけてこられ予選通過を喜んでくれました。「決勝ではとにかく、リラックスして頑張ってネ」と激励されまして、私も「リラックス以外ないな」と自分に云いきかせて登壇しました。

課題曲の我は海の子を歌い終るとすぐにスピーチに入りましたが、五分間の持ち時間をオーバーして打切りのベルが鳴ってしまいました。歌はよいできではなかったな、と思いながら壇を降りましたが席につくとさすがに"終った"という気持でした。帰り仕度をはじめようとしている私に、第二位入賞の指名があって、仰天しましたが全くの幸運と思っております。

私の入賞は、信鈴会の入賞です。即ち、信鈴会の指導方針に基づく訓練の成果です。また、常に声を出せ、歩いていても目につく文字は声を出して読め、と、教えてこられた鳥羽会長の指導のおかげです。そしてこのような信鈴会を育てゝこられた鈴木名誉教授・田口教授・今野副部長の諸先生方のおかげです。紙面をおかりして、お礼申し上げます。

帰路の車中、手術から現在までの出来事を静かに想い浮べてまいりました。月日が経つにつれて想い出されるのは個室の想い出ですが、

手術後の苦痛がやわらいだ或る日、足元に一台のスライドが置いてありました。妻にスイッチを入れて貰うと、高藤先生が現われて食道発声の手ほどきを始めました。

私が食道発声と出逢ったのはこの日でした。また銀鈴会の中村先生との出逢いもこのスライドです。この機械は今野婦長(当時そう呼んでいた)が喉摘者のリハビリのために自費で購入したものだそうです。

今、同型機が佐久教室で大勢の人達のリハビリに役立っています。

佐久教室の先生方・婦長さん方、そして同僚の皆さんからの暖かいご声援に感謝いたします。また私も入賞を機に、自身の発声技術の向上と、後進の方々のお世話のために一層訓練に励み、ご支援くださっている多くの方々のご厚情に報いたいと思います。今後ともよろしくど指導ご鞭撻下さる様お願い致します。

(昭和五十九年十月二十五日)

‼地球も宇宙も人もみな炎えてます‼

茅野 小池増晴

地球や宇宙は今どこかで、ごうごうと音をたてているかも知れない。そのように想像してみることで、私たちは感傷をそそる。でもその音は私たちには聞こえまい。耳をそばだてて、注意深く微かな音をも逃すまいと探究する。そのように思ふことが、詩となり、歌ごころが育つのだと聞きました。私たちは喜び、悲しみのなかより、楽しさを知り、ものの哀れさを知りつつも、他の誰とも踏み込めぬ豊かな、恵まれた感情の持ち主であって、その喜・悲の均衡をかいたことが幸・不幸と云ふのだそうです。大分本筋より外れはしたものの、私も少しでも均衡を保つために、より良い声を求めて教室へ通うこと二年を過ぎた春、旧師を訪ねた折、生きられたことで満足に思ひ、無欲になって、趣味をもち、気楽に徹することで、又視野が展けてくるのだと、師は自らが同人でもある角川書店の「河」入会を奨めてくれ、入会。西も東も知らない私と俳句との出合で、真剣に勉強したこともあって、毎月句誌への投稿迄は順調で入選句の数が増すのを楽しんでいた折「河」の本部から句心があるから精進するように支部長に連絡をしてあるから早急に支部へ入会するようとの便りに、愈々チャンスが巡って来たと諏訪支部へ入会迄はよかったが、然し毎月の句会での応答で声の限界を痛切に感じ、切角皆さんの好意に縋ってとび込んだ句会も之れ以上迷惑をかけてはと一晩中悩んだのち、誤解のないように文面をそへて脱会届を留守中の支部長宅へ投函して来て、数日後「河」の本部から選者の先生二人を招いて諏訪湖周辺吟行句会で、前の晩先生方の宿泊先より支部長に呼ばれ、初対面の先生にひどくお叱りをうけ、思ひ直して吟行に参加。夕刻の句会に於て大先輩の大勢の中で、先づ特選句の発表、特選句二句がしんがりの私の句で、驚いて暫らくは夢心地でした。新人である私が紹介されて、自らも声が少々不自由である旨を強調して挨拶したことにより曲解もなくなって、ときには声の助けも得られ、理解ある先輩に恵まれて、今は脱会しなくて、自ら欠点も知って貰ってよかったと思ってます。

又、今年になって、六月に「河」同人会々長吉田鴻司先生の特選賞、NHK俳句友の会コンクールに於て九月飯田龍太先生より秀作賞、NHK生涯教育講座・俳句コンクールに於て金子兜太先生より秀作賞、十一月にNHK放送教育俳句入門に於て鷹羽狩行先生より特選句「殿中を土足で歩む菊師かな」のTV放映。そんなことがあって只今炎えて居ります。

句集が近々第二集が出来ますので、読んで頂ける方(無償)郵送しますのでハガキ下さい。

夢の声

信大教室指導員 小林政雄

先日新聞の投書に出ていた記事を見て、心をうたれました。何か私の今までの事を見ている様で転記してみました。これは私たちみんなの思ひではないかと思います。

「また同じ様な夢をみた。国道沿いに立った大きなみかげ石の門。外には通り掛かりの人々が足を止めて私の演説に聴き入っている。私の前には千人余の人々が直立の姿勢で耳を傾けている。マイクの代わりにボール紙で作ったメガホンを片手に私は大きな声を張りあげて、いつものように得意の弁舌を振っている。夢はいつものようにそこで覚めた。胸は大きく息をはき、心臓の鼓動が高く脈うっていた。また夢かとあえぐ様につぶやいた。もちろん声にはならない。続いて細く熱い涙が目尻を流れた。私にはもう声は出ないのである。かって多くの人々の前で時には請われて聴衆を前に語り名調子との讃辞を受けたこともある。その声はもう失われてしまったのである。「生命が大事か声が大事か」と宣告されて手術は成功したが、その日から私の身体から声という機能はなくなったのである。以前の私を知る人々は遠慮なく親しく声をかけてくる。私は出ない声を出そうとする。相手に通じるはずがない。止むを得ず手振り身振りの声の出ない仕草をしてみせる。相手はいぶかしそうな顔をして「一体どうしたんだ?」とだれも同じ質問をする。私はポケットからメモを取り出して声帯皆無の走り書きを出して相手に見せる。やっと納得してくれた。「たいへんな事だね」と同情してくれる。そんなとき、不覚にも涙を含まずにはいられなかった。ようやく馴れてきたから当時の経過を書き記した簡単なメモをつくってコピーしておき、必要に応じて相手に手渡すようにしている。しかし耳は確かで聞くことに不自由はないからと言う私を前にして、長々と話し込まれるのには困惑してしまうのであった。出ない声を出そうと懸命に相づちを打つので心身共に疲労を覚えるのである。乗物などで顔見知りに会った時など会釈のみで言葉も交わさないから「彼はこの頃横柄になった」と知人同志で話題になるとのことである。たまたまなかに事情を知っている者が弁護してくれるようなことがあっても、「それにしてもなんとかなりそうなものだ」と、以前の私を知り尽した者としては余りの変化に諦めきれない様であった。それもたぶん私への同情から発したものと考へなくてはならないとおもいます。そうしてこの頃はよく声の出た当時の夢をみるようになった。夢をみているしばらくの間だけでも大きな声を張りあげて聴衆を魅了する情景の中で身を沈めるのです。」

以上これが今年七○才になる人の投書の夢の声ですが、このようなことは私も幾度となく通り過ぎて来ましたが、今でも時々この様な夢をみます。しかしながら私は発声教室で、良い先輩・良い友達にめぐまれて、六年を過ぎた今あまり不自由もなく生活が出来、不安のない毎日を過して居ります。やはり一生懸命頑張り、仲間と手をつないでゆけば人生は開かれてゆく事が、段々と現実になりつつあることがわかる様な気がします。

あの声が出るまでの苦労は、私達のみが知る大変な事と思います。此の夢の声の投書を読み、今一度初心にかへって勉強してゆきたいと思います。

時期をみて投書の人に会ってはげましてやりたいと思います。

(十一月七日)

雑文

信州新町 西沢功一

貴重な会報を無知な雑文を寄せて大変お手数お掛けしまして恐縮です。

扨て、連山の紅葉が木枯に落葉し、日照が短かく日毎に加わる寒さ、後から駆け足で真冬が追い迫って来る。

「炭を買ふ信濃は長き冬ならば」

なんて句を思い出すが、現在は炭を買ふ人も売る人も殆ど無いのに

「吾の家現代に遅れの堀り炬燵」

と言ふ事になるが、所用で来られた方が、オヤ、此処では堀炬燵か珍らしい。此れは温かくて良いものだ。そして個性が有って等とお世辞を言ふが真意は何うか?

何処のご家庭でもスイッチ一つで冷暖房が自由自在の世の中。吾が国は豊かな先進国だと言ふが、実にその通りだ。だのに吾家では勿論冷房設備等無い。今年の様に記録的な猛暑の連続には実に閉口の外無い。扇風機を強にしても昼寝は暑さで堪え難い。長野気象台の知らせを聞けば、過去二十年間の最高の暑さの連続と言ふ。

然る内にも歳月は流れて、九月に入れば流石にシーズンだ。大変凌ぎ良くなり待望のリクレイション、旅行の時も来た。九月十三日、早朝出発、篠之井駅へ。老の身にもかすかなときめきを覚える。集合地の松本駅頭に降り立てば、既にデラックスな松電の貸切バスが待ち受けて居る。一同知り合いの顔顔。お早よう、ご苦労様と挨拶の中、今野看護副部長さんも特別ご参加頂いて吾等信鈴会に一段と花を添えて下され感銘の極みでした。

そして而も、名ガイドさんに恵まれ、道中楽しさ倍加。貸切バスのガイドと言ふお仕事、特種才能が無くてはと思った。時に応じ、期に臨み千変万化、ユーモアをたっぷり交えて歌と変りクイズとなり、又変る土地土地のガイド。訓練の積み重ねとは言え、まあ良くも流暢な言葉が出たものだと感歎し、加えて想ふ吾等発声の道も努力の積み重ねに依りては、指導員の先生方の様に出来るだろうかと。改めて自分の努力の足らざるを考へさせられる。やがて夜の宴会には、踊る歌ふ、此れが障害持った人の集ひかと想わしめた。今野婦長さんが全員の席を回られお酌をなされ乍ら種々語られ、改めて励まされ、名は性を表すと申しますが、弘く恵むのお名前こそ名実ともに弘く恵まれ、感激一入でした。

そして帰路は私一人、夕闇迫る松本駅ホームに待ち合せて居たら、長野市の小池さんが時間を態々遅らして、篠之井駅まで同乗して下さり、ほんとうに心温まる思い申訳無くお礼の言葉も出ない。篠之井駅に下車したら倅が迎えにホームに待って居て、乗車して吾家へ。

尚、長野日赤教室についても是非共追記申上度い。

発声練習日には、その度に当番看護婦さんが教室の整備をされ、そして一同集まるを待って血圧測定をして頂き、尚お茶の世話をして下さり、更に西沢婦長さんがおいそがしい中、寸暇をみては笑顔で一同に接して下さるのみならず、御厚志の牛乳等のプレゼントして下さる。感謝の極みです。西沢婦長さん、心温まるお心使い紙上をお借りしてお礼申し上げます。

扨て、日毎向寒の砌り会員各位のご自愛をお祈りして「拙ない文をご笑読下されば幸です。

一、ガン治療研究進むと放映され ガンにて切りたる吾を悲しむ

一、身障の悩みは言ふまいとせめて 日記に書き残そおか

一、老い故か言葉の発声にとまどいぬ 口ごもり手振りにてうなずく

古稀を迎えて

宮本音吉

今年の誕生日に、それぞれ片付いた三人の子供達から古稀の祝として夫婦一週間旅行をプレゼントされた。余り突然の事でもあり、驚くやらうれしいやら感無量の気持でした。早生れの私は来年と思っていたが、祝事は数え年でと云ふのが子供達の弁。「人生七十古来稀ナリ」とは唐の杜甫の曲江詩が語源だそうであるが、平均寿命八十才と云われる現在では当り前の年頃とも云えようが、当時は人生五十年と云ふのが通常であったからであろう。私は、十五才の時父を失っている。父は五十三才であった。当時はまだ人生五十年が幾分通用されていた頃である。戦前戦後と大分生活環境は変って来てはいるものの私にとっては、よくぞこれまでと思わずにはいられない。丁度あれから九年目になる。声帯に異常を感じ、昭和五十二年四月信大に入院。検査依頼結果は喉頭手術の必要を云われた時を忘れる事が出来ない。当時同室に飯田のC子さんと諏訪のMさんと私と三人は、毎日同じ治療を受けていた。同病相哀れみの言葉通りお互にはげまし合い、病いに打勝つ様誓い合っていた。Cさんは六十八才Mさんは七十一才であった。先づ第一に私が手術の必要を云い渡され、続いてCさんMさんも同じ事を相談されとの事であったが、二人の方は希望として治療のみで退院する事に決定した。理由は、七十才近くなっての声との別れは我慢出来ないと云ふのであった。それから三人それぞれ異った闘病生活となったのであるが、私は六月十五日手術。二人の方は放射線治療を続け間もなく元気で退院されました。私はこの元気な二人の方を見送りながら、早期決断で摘出したのが間違いではなかったかと不安の心で一ぱいでした。幸い手術の成功と共に身体の回復も以外に早く、術後一ヶ月余りして退院する事が出来ました。それからは失った声を少しでも早く取り戻したい一念で発声教室に通いました。六ヶ月後位して病室内を見舞って見ますと驚いた事に、あの元気そうに退院されたCさんMさん両人共再入院しているではありませんか。今度は是非を問わずに摘出手術が行われ、元気なく無言でベットに寝て居りました。それからは発声教室のある度毎に病室を見舞ふと何時もCさんは待っていたかの様にボールペンで長々と話しが始まるのです。その頃私は不自由ながらも話しが出来る様になっていました。

Cさんは会う都度くり返しくり返し私の早期手術の正しかったことを云い、自分の短慮を嘆いていました。そして自分もあの時宮本さんと同じに先生の言葉通りにしていれば今頃はあなたの様に元気になっていられたものを、悪化した今となってはと涙していました。私は少しでも早く回復し発声練習を始めませうと元気づけはしたものの、余りにも落胆された姿には続く言葉も出ませんでした。其の後御両人共完全回復されないまゝ家庭療養とかで退院され、間もなく家族の方から訃報が参りました。

それにしても、三人で闘病を誓い話し合った時、なぜ今少し勇気を持って現代医術を信じ先生の言葉通りに実行していれば三人揃って元気な顔をと思えば残念でなりません。結果は私だけが幸にして一年足らずして念願社会復帰する事が出来、第二の人生を出発する事が出来ました。以来七年間、昨年末離職するまで大過なく勤める事が出来た事を本当に有難く感謝して居ります。

勿論大過なくとは申しても無病息炎と云ふ訳には行きませんで、持病の肪胱内腫瘍手術を六回その都度入退院をくり返しながらもこうして元気で居られるのがむしろ不思議な位いです。

私には、文字通りの古稀であると思えます。これから第三の人生を出発しようとして居ります。一層元気に精一杯意義ある生活をめざして頑張って行かうと希って居ります。

(六○・十一・二〇)

長野市地附山の地滑りについて

長野教室 滝沢忠司

今年、昭和六十年の長野県は悲しい災害や事故が続きました。昨年九月の県西部地震の傷跡もいえぬうちに、正月には犀川でスキーバスが転落し二十五人の若い命が奪われ、また、七月には長野市地附山の大地滑りが平和な老人ホームと湯谷団地・望丘台団地を襲って、二十六人の命と多くのマイホームを飲み込んでしまいました。いづれも不運な災害であり、あまりにもむごい目を覆うばかりの気の毒な状況でありました。

私の家は地附山の山麓を曲りくねって走る戸隠有料道路バードラインの入口に程近い桜坂の上り口に位置しており、老人ホーム松寿荘から約八百メートル(徒歩五分).下った所です。

大災害は七月二十六日午後四時五十八分に発生しました。幅四百メートル、長さ三百五十メートル、総流出量五百万平方メートルに及ぶ大地滑りは、近くの老人ホーム松寿荘を飲み込み、下の湯谷団地に一気に襲いかかりました。逃げ切れずに生き埋めになったお年寄りの死者は二十六名、重軽傷者四名を数え、住宅全壊五十五棟、半壊十四棟。また、有料道路バードラインは約二千メートルが崩落してしまい、復旧不能の事態に陥り、飯綱・戸隠高原への観光は壊滅的な打撃を受けてしまいました。

私は上松で生れ育った関係上、被害の大きかった湯谷団地に親類や友人が多く、その応援・手伝い等を通じて被害の実態に直面し、あまりにもむごいお気の毒なことで心から御見舞い申しあげる次第です。新築一ヶ月の家が家財諸共流出してしまい、残ったのはローンだけという人達や、専業農家の人で、二千坪の果樹園と住宅・倉庫の一切を跡形もなく流出してしまい、今後の生活設計が全くたたなくなってしまった人、また、人のうらやむ円満な三世代家庭で、祖母は長女の嫁ぎ先へ、両親は県の仮設住宅へ、若夫婦と孫は市内のマンションを借りて、といった別れ別れの状態になってしまった。このような例が沢山ありました。

災害の発生以来、知事・市長をはじめ関係部局の方々の御苦労はそれこそ大変なものでした。行方不明者の捜索、被災者に対する避難・援護、二次災害防止のための緊急工事等、昼夜をわかたぬ戦場のようないそがしさが一ヶ月以上も続いていました。

悪夢のような大災害から約五ヶ月経過し、この間、国や県・市当局の懸命な努力により、その成果が次のように着々と現れてきています。

(被害状況、復旧作業状況の詳細は省略)


笠原よ志

此の頃書くことをしませんので出さないでとも思いましたが、乞われる時に少しでも書かせて頂くのが老いの身のためとペンを取りました。短歌もずっとやらないので歌にはなっておりません。思いつくま、を書いてみました。

声高に笑い交えてよく喋る姉を遠くの人と思えり

人工笛で話せば己が意通じ難く孤りを好みててまり刺すなり

吾が心曲解される苛立ちもいつしか薄れ祈る明け暮れ

いかほどの値うちがあらむ己が言の軽さを思い心安まる

逞しく生きる力を身障の仲間となりて知れるよろこび

盲人のコーラスよく揃う声音と笑顔が天に拡がる

亡き祖母の訓えの促にいまもなお物を大事に扱う誇り

ほんとうか

岡谷市 武内基

十一月十二日の中食後いつもの通り昼寝から二時ごろ目覚めて家内がつけておいたテレビを何となく途中から聞いたのだが何とか言う女性の二十七歳になる元バレーの選手がアナウンサーと対談しており話は終りに近いようであったが、アナウンサーが最後にその元バレーの女性選手に結婚の方はどうですかと聞くとその女性は、まだ全く相手は決まっていない、親達は心配しておるのは事実だ、選手の時は合宿でデートの時間なんかなく従って相手は欲しいがないのです。と言うので、私は好奇心から頭をあげて見ると体格のよい大柄の若い女性でした。

若し結婚の相手にするにはどんな男性を望みますかとの問に、答は、テレビの水戸黄門さんの「印籠」の様に何かゴチャゴチャ騒ぎがあってもピッタリ止めてくれる様な男と結婚したいと言うので、私はとんでもないことを言う娘だ、これから結婚するという若い男性に黄門さんの「印籠」の様な練達高名な男なんかある訳がない。事実そんなことを考えておるなら、娘に好意をもっておる両親や信頼できる先輩友人等に相談して研究して相手の男性を見極め、未完成でもその可能性を秘めておると認められる男性と結婚して、苦楽を共に分ちお互に人間を磨き、夫を黄門様の印籠のように造り上げるより方法はない。それでも黄門様の印籠にならない男性は多々あると思う。それで、昔から結婚は賭博のようなものだ、当たることも当たらないこともあると言はれておるのだ。

この娘の話から私は急に首題のほんとうかの一文を書くことを思いつきました。

先ず第一に、近くは世界の注目を浴びておる米ソの両首脳レーガン大統領とゴルバチョフ書記長の平和軍縮に関する会談が行はれるのは極く結構なことだが、そう簡単に米ソ両陣営が思っておる通りに会談が進行するなて誰も期待してはいない。テレビや新聞なんかは色々興味本位に伝えるかも知れないが、どうなろうと決して大したことはない。と言うのは、両陣営の会談を目前にして、会談なんかがスムーズにはこばないのが既に判かったかの如くに、日本では国防の充実が論議され、飛躍的に専守防衛に必要な適正良質の国防力を持つと難解の表現で、遂に世界最大の大海原である太平洋を掌中に収め、いざという時には太平洋を運航する総ての航空機艦艇に睨みをきかせるぞと壮大な計画となり、防衛費削減なんて言う弱小派閥も軍拡派閥に説き伏せられ影が薄い現況です。憲法第九条なにするものぞの権幕で、若し東西陣営の会談が萬々一決裂を重ね最悪の武器をもっての決戦ということになり、各々前々から医療費も老人福祉まで犠牲にして製造購入備蓄した原爆核兵器のありったけ使って人類史上かって経験したことのない大殺戮破壊戦を展開して、二・三年来テレビ新聞などで宣伝してお様な地球そのものが毀れて空間には浮遊粉塵が充満して昼も夜のように暗くなって冷却して人類だけでない動植物等すべての生物が死滅してしまうなんてことは真実かな。否決してそんなことはないと思う話は誇大すぎるよ。今の人智の程度ではそんなこと出来るもんか、誰かが何かの目的で吾々愚民をもっともらしいことを言って嚇しておるにすぎません。

次は癌だ。全人類待望の癌の治療予防について色々と朗報なるものが報道されるが、どれも竜頭蛇尾に終っておる。例えば、数年前インターフェロンが癌治療の最後の霊薬の大発見として報道され、但し高価希少で我々庶民には手の届かないものと言はれ大いに落胆させられたものだが、最近になってインターフェロンは安価に大量生産されるようになり、これは癌の中でも皮膚癌・脳腫瘍、又ある種のものに限り効力を発揮することもあり得ると訂正された。

次は北方四島問題だが、よく日本の責任ある偉い人が、日ソの平和交渉は北方四島問題が先ず解決しなければ考えられないことだなんて、交渉の始まらない先から気の小さい全く馬鹿と言うより外にない様なブチ毀しの言葉をだすが、こんな馬鹿の一つ憶えのようなことを言はないで何んとか話を始めるべきだ。

物には軽重緩急がある。小異を棄てゝ大同につくとも言う。話を更に進めると、話は序につくとも言う。始めから相手の嫌うことを持ち出していたんでは駄目だ。大体北方四島は日本固有の領土だなんて嘘でないかな。そんな証拠はどこにあるのかな。日本は明治まで二百年程鎖国で、それも段々厳しくなって遂にはオランダと僅かに通商交易しておったぐらいのもので、日本人の海外渡航も外国人の渡来も禁じ、外洋航海の出来る様な大型船舶の建造を一般には禁じ、甚だしいのは難破漂流の日本人が帰国して来るのも禁じたぐらいで、日本でも先覚者の間宮林蔵が間宮海峡を発見したり、浜田屋嘉兵衛の北海探険、大黒屋光太夫の北海での難破、カムチャッカ送り、露都ペトログラドに到り、時の女帝に拝謁し露国の日本研究に功績があったとして勲章を授与されて十年余にして帰国しても、外国事情を知る者は国民を迷はすと言うことで、幕府は大黒屋光太夫を殆んど終生軟禁状態にしておいたが、その間に露国は北海の領土拡張経営が

終り、オホーツク海北海を自分の庭先の様に駆け巡って

おり、遂にはベーリング海峡を渡ってアラスカに上陸、次第に南下して北米の中央部までも探険領有の手を伸ばし、後に露国領としてアラスカを米国に売却したのも歴史上の事実である。

もと、北海道並に属島はアイヌ人のもので、鎖国中は幕府の許可を得て僅かに日本人は函館並に付近を侵蝕しておったぐらいのもので、前記の間宮林蔵や浜田屋嘉兵衛の幕府への報告にも、既に北海道周辺の属島にまで露国は領有の手を伸ばし領土の標柱を立て、ある隙を見てその標柱を抜去して彼等との間に問題を起こしたとか、北海四島付近を航海中、露国の巡視艦艇に領土侵犯の疑いで厳重なる検問取調べを受けたとあり、取ったり取り還されたりの問題の島を日本固有の領土だなんて言っても仲々相手は納得しないだろう。世の中には不審疑問のことは沢山ある。慎重に行動しなければならない。例えば、慾に目が眩んで変な株券を職まされたり、言葉巧みなセールスに騙されて妙な化粧品を買って、美人どころかふくれ面に黴がはえた様になったり、毒入高級葡萄酒を愛飲して通人ぶっていて周章てるなんてこともある。ありもしない金を買ったりしない様にしなければならない。

変なことを書きましたが、御蔭様で私も元気でやっております。よろしく願上げます。

私の発病日誌

松沢和子

癌と云ふ病気は人間の弱い所に出てくる様な病気の様です。私は若い時から只の一度も大病で入院と云ふ経験がなく、只喉だけは弱く、一年に一度位は医者の診察を受ける様な状態でした。手術の二年位前から、食事の時ミカンはしみる、かたい物はのみこむと痛んで、一年位は自分専用の土鍋を買いお粥お粥の毎日で、医者は大町からはじまり、松本・東京、又はお灸・針、軽井沢の注射をして温泉に入る治療法がよいときいてそこにも行きましたが駄目。体重は十kgもへり、自分でも癌ではないかときくが違ふとの事。喉の神経が出て食事がその神経にさわるためとの事で、十日ばかりの入院で取ってもらいましたが、その後もかわらず再検査の結果、食道に腫瘍があるので手術との事。思いがけない方に展開してしまったのです。

今更悔やんでもどうにもならない事。あとは一生懸命「努力して、言葉を早くとりもどしたいと思ふのみです。

冬が嫌いになった

田中清

故郷の四季......

春は霞棚引き、アルプス山脈は微かな地肌を露し、落葉松の芽吹は目にいたく、卯の花は五月雨に煙り、あやめは池の面に紫を落す。

高原のつつじは赤い絨氈を敷き、緑陰に山鳩の声は花びしく、白樺は薫風に揺らぎ、あざみは足下に憂をささやく。あじさいは梅雨に打たれ、燈石に蔦光る頃夏木立に凉を融えば、岳の彼方より若人の希望の声が響く。這松の緑、山肌の灰、山砂の白のコントラストに雷鳥飛び交えば、故郷はまさに盛夏。七夕の星に祈り、銀河の黒き影に線香花火の小きさ光が散り、盆堤灯を揺する涼風に送り火の煙が空天にうすれ去る頃秋はひそやかにやって来る。颱風の禍は去り、澄み渡る中天の名月に亡を飾り、酒杯に月影を浮かす。山駅の萩を愛で、焼杭のコスモスの白さに郷愁を味い、小春日和に赤トンボを追い、山裾に紅葉を狩れば、木枯は一変してアルプス風となり、欅の葉は空に舞い、柏の葉は路上を走る。小川の水涸れて岸辺の野菊が彩を増す頃、冬の使者の箱は音もなく降りて雪氷の季となる。

門松に一年の夢を托し、大寒に障子越の雪見酒に酔い、卓上の紅梅を慈くしめば節分。立春は早速に去り、いつか川風はそよぎ水は弛み桜花の季節に還る。

私はかって故郷の四季のうち、晩秋から初冬の頃が一番好きであった。色褪せた大きなマントに身を包み、素足で高下駄を穿いて、あかぎれの痛みも忘れて歩いた青春。古ぼけたマフラーの襟をたて、木枯に追われてくぐる赤のれんの熱燗の味。吐息も白く小刻にふるえる裸身のまゝ飛び込む露天風呂で、湯の滝の水煙越に眺める万飾の紅葉等等......

詩あり夢ありロマンある冬が私は好きであった。

その冬が嫌になった。いや嫌いというより恐ろしいからである。病後の今冬は風が風邪を呼び、風邪が気管をいため苦しい毎年である。これに負けてはといろいろ工夫して気管支炎と斗っている。今年も又気管をいためて半月、忙しい仕事に追われて、血痰でつまる気管を庇い乍ら木枯の中をひたむきに通勤している。

それでも私は初冬は忘れられない。もう歌詞に自信のない小学校の歌にこんな歌があった。

田舎の冬

一、真白におく霜 峯の雪

静かにさめくる 村の朝

ホイホイホイホイ むら雀

刈田の案山子に 陽の光

二、日向につざるは 冬衣

軒にはたるひの 解ける音

ホイホイホイホイ 寒鳥

かど辺の枝には 柿二つ

私が初冬の好きなのはこんな子供の頃の思出や、独歩の武蔵野の影響があるのかも知れないが、今でも初冬の枯野を歩いて見たい衝動に駆られている。

さあ頑張って冬に負けない身体を作ろう。そしてもう一度冬が好きになりたい。

病気のこと

南安曇郡 中村家佐寿

早いものだ、手術をしてもう二年半が過ぎた。声がかすれだしたのが、昭和五十六年の始め頃からであった。その年の六月、全麻下にて病理組織検査の結果、ポリープ様声帯と診断された。色々と心配したが、一応安心し外来で診察に通っていた。ところが五十七年の九月頃より咽頭が痛くなり、なかなか治らなかった。そのために十二月に入院し検査の結果、喉頭腫瘍と診断された。

一月八日から二月廿五日迄放射線の照射を受ける。しかし腫瘍残存のため、その年(五十八年)の三月四日、喉頭全摘出手術を受ける。以上が私が手術を受ける迄の経過である。

先生に、声を捨て、命を拾へと言はれ、病気さえなおれば何もいらないと手術を受けました。手術は何の苦痛もなく無事にすんだ。流動食注入の時期も過ぎ、口から食物をたべられる様になった。その頃から声の出ないといふ事はこんなにも不便なものか。病院に居るうちはまだよい。看護婦さん達がそばに居てくれる。家へ帰ったらどうしよう。会社へもどって仕事は出来るだろうか。

先生・看護婦さんのお世話により、術後の経過はすばらしく順調で、おどろく程短期間の入院で無事退院する事が出来た。信鈴会に入会でき、発声教室の勉強に参加出来る様になった。初めのうちはなかなか声が出ず苦労した。何時の頃からか声が出始め、今では日常生活に於て大体不便を感じないまでになった。会社へもどり元気に仕事をしている。これも信鈴会があり、発声教室があり、先生方・看護婦さん、先輩の方々の温かい御指導のたまものと深く感謝しております。

思い出すまゝに駄文を書きました。次の機会には、発声について自分なりに感じた事、思い出を書きたいと思います。

喉頭摘出者になって一年

佐久教室 松田松枝

気がついた時には大きな気管カニューレーが胸元にどっしりと胡座をかいていました。

見守って下さる先生方に心の中で「有難うございました」と会釈をし、来るべき時が来たのだと又目をとぢました。

「口がきけないのよ、話し度い事があったらこれに書いて」と云って渡されたメモと鉛筆。現代の医学と先生方の御尽力に依って、私は生きることが出来たのです。何か不思議な感じでした。

口がきけなくとも、目が見える、耳が聞こえる。手足も動く。幼ない頃から口のきけない人から見れば、幸であると思ひました。

退院も近づいた日、発声教室にお伺い致し、今野先生より発声に就いてのお話を伺ひ、私に合った発声法として笛を頂きました。

会長さんより佐久教室の方へ連絡して下さるとの御言葉、何も分らない唖になった私にやさしい言葉をかけて頂き、親切な御指導を忘れることが出来ません。

一月、佐久病院の発声教室に伺ひました。丁度初会だったのです。指導員の三瓶さんを始め皆さんが、旧知の「友の様に迎へて下さいました。

のどの穴も開いた事、食道発声に挑戦してみました。何かと障害があって単語が出ても長く言葉が出ません。

六月、信鈴会の総会に出席させて頂きました。其の折、今野先生より「食道発声も無理しない様に」との教えを受け、八月より又笛にもどりました。

九月の旅行、体力がまだ充分とは云えませんでしたが誘わるゝまゝに参加させて頂きました。皆様のお元気な姿やお言葉を伺ひ、私もいつかお話が出来る様になれると信じました。

其の節は多勢の皆様よりお導きを頂きまして有難うございました。私にも出来ると云ふ自信も手伝ってか、最近は何かと仕事も出来る様になり、話す事も出来る様になって参りました。

手術後一年、こんなに再起出来るとは......

信鈴会の皆様、そして今日まで見守って下さった先生方に感謝の気持でいっぱいです。

再び生を受けた幸を大切に頑張って生きて行きます。

心のまゝに

西條八重子

十一月の始めに、会長様からの依頼で何か一言と言ふお手紙がとどきました日から毎日毎日考えて居りましたが、どうしたら良いやらと思ふばかりでした。いっぱい書きたい事はあるのですけれど上手に文章になりませんで困って居ります。とうとうしめきりの二十日もすぎて終いました。

とに角、手術後一年をすぎ様として居ります。本当に第二外科の先生方始めナースセンターの皆々様のおかげで元気になり無事退院出来ました事、お礼申上げます。一月末に退院、寒い寒い毎日でしたけれど何とか風邪もひかずに、四月の息子の結婚式と目まぐるしく月日がすぎて終いました。其の間に信大の発声教室に二・三回出席させて頂き、どうやら人工笛を使って日常の会話は何とか足りて居ります。心がやさしくてガンバリ屋さんの嫁と、こよなく酒を愛し一生懸命に働いてくれる息子との三人暮しでしずかな毎日を送って居ります。当り前の事ですけれど、手術前よりずっと体調もよく、ねこのひたい程のにわのおそうじに家の中のおそうじと......そんな時に、本当に生きられて良かったとしみじみ思ふ今日此の頃でございます。声は出なくともこれはこれで六十一才からの人生はそれなりにたのしく生きて行き度く思って居ります。心に念じ乍ら......

終りに信大の今野様に人工笛の御指導いただきました事を心から御礼申上げまして終りにさせて頂きます。

皆々様おすこやかにお暮し下さいませ。

随想

駒ヶ根市東伊那 木下禎三

中央アルプス連峯が薄化粧を始め初冬の感濃厚となりました。忘れもしない、五十九年厳寒の二月余儀なく手術を受けました。昭和伊南総合病院は新築したばかり、装備の整った病院でお蔭様に寒さ知らずでありました。手術に依り音声を失い、前途に光明を失った様で精神的な衝撃は大きく、今更乍ら声の尊さと重要さと家族の有難さを身に染みて感じました。

"身体髪膚これ父母に受く敢て毀傷せざるは孝の始め也"

健康な体であっても自分の意志を相手に伝へ理解を願ふ事は容易でないのに、先生より渡された笛と筆談により第二の人生航路が始まるのかと思うとつい平常心を失い総べて消極的となる。手術により今はこうして元気でおられる事が幸福であると思い、これから苦難を克服して行く為には修養と努力意外にないと心を新にしたのでした。病院では発声教室については教へて呉れなかった。又知っている先輩の方がいなかったので仕方がなかったのですが。丁度赤穂安楽寺が新築され落慶法要に東京世田谷大吉寺・寺内大吉きんの記念講演があり、その折入院中一緒だった故石田さんの奥さんも来ておられて、石田さんも一度伊那教室を訪れたが、思ふ様な発声練習が出来ない内に一生を終った事を話され、私に伊那教室行きをすゝめられ手良の伊藤さんを紹介して下さいました。加えてたまたま九月頃だったと思います。銀鈴会の全国大会が東京で開催され、その様子をテレビで家族が見聞いたし、立派に声の出るのに驚嘆し、発声練習により声の出ることを確信いたし、家族の積極的な協力により教室に行く心が決まりました。「人事を尽して天命を待つ」の心境で、十月妻と共に伊那教室を訪れ、伊藤さんの紹介でお世話になりました。桑原さん始め皆さん、思いやりの心情親切な方達で、特に自分の経験を生かした熱心な指導に心をうたれております。和やかな雰囲気の中で練習が出来る事を嬉しく思っております。私達無喉頭者の声は無より有を生ずる事で容易な業でありません。一朝一夕で上達するとは思いません。たゆまざる懸命な努力こそ実を結ぶと思い、益々の練習を積み重ねて行く覚悟でおります。

会員の皆様、今后ともよろしく御指導を御願い申上げます。

我が歩み

伊那教室 井原長男

会報、第十五号の原稿に寄せて、生れ乍らにして筆不精であり、いかなる文章を書いたら良いのか判断に苦しみ、躊躇して居るうちに〆切日が迫ってきてしまいました。唯思ひのままに筆を走らせることに致しました。

今年一月より皆様のお仲間に加へて頂くことになりました、伊那教室の一人であります。

中央道、恵那山トンネルも開通し、豊かなる自然環境の中に湧き出ずる湯の里、昼神温泉郷も次第に世に知られて来ました。阿智村にて農業に従事して居ましたが家庭の都合に依り三年前の五十八年、長年住み馴れた地を離れて、駒ヶ根市へ転出して来ました。私にとって、生れて初めての経験でありました。すこぶる勇気を要しました。老いたら子に従への諺の如く決断致しまして、駒ヶ根の某会社に就職致したのです。勤めて約一ヶ年程過ぎた頃、声音に異状が感じられて来ました。声もかすれ、さされ声に変り、音量も弱まり小さくなりました。話相手の誰もがその声はどうしたのか、風邪でも引いたのかと聞かれるようになりました。一度精密検査を受けるようすゝめられ受診する気になり、五十八年十月下旬、駒ケ根市昭和伊南総合病院にて受診いたしました。其の場で伊藤先生から早く入院するよう言はれて、本当に驚てしまいました。十月二十九日、午前十時同病院に入院し、検査検査の毎日が続きうんざり致しました。其の結果咽喉手術と成りました。私にして見れば、喉の中の「オデキ」程度に思って居りました。二ヶ月間の入院生活で声帯喪失と言ふ哀れな結末を迎えてしまいました。こんな事に成るとは、今が今迄、夢にも思ひませんでした。これで、永久に自分の声を聞くのは出来ないのだと思ふと、涙が止めどもなく流れ出て、病気の重さがひしひしと心にしみ込んで来る気が致しました。

六十余年と言ふ長い人生の中の一頁に残る軍隊生活をも経験しまして、発声教練等にては同期生に負けることなく、号令の声も大きく高く、喉の渇れる程の練習を続けて来た咽喉でありますが、今迄変化の兆候も見られず過して来ました。もっと注意すべきであったと思ひは残るが今となってはあとの祭であり、後悔しても始まらぬ。原因が解からないからとあきらめの気持です。退院後、毎日人工笛を使用して発声練習を重ねて来ましたが、いかにしても人工笛になじむことが出来ず、ついに放置してしまいました。自分の声で発声出来ないものかと考へ研究して居るうちに早くも一年が過ぎてしまいました。平常の生活に戻り、事ある如に発声出来ぬ不自由さに腹が立つこともありました。手術を受けたのが却って仇と思ふ気持が何度となく繰りかへされました。又、発声教室が伊那市中央病院にある事を伊藤先生も知らなかったようで一年も過ぎてしまったのです。六十年の新年を迎へ、一月の定期検診日に病院へ行き、伊藤先生が誰から聞いたのか、伊那市中央総合病院内に発声教室があると話してくれました。飛び上がらん程の喜びでした。先生の紹介で伊那中央病院に参り受診し、先生の連絡により入会させて頂きました。自己紹介後、県内各教室の現況等を聞きましたが、さてこれで練習していつの日に話が出来るように成れるのかと心から思いました。毎月第一・第三の金曜日、午後一から三時迄の短い時間ですが、憩の場とも言うべきか、楽しい、なごやかな雰囲気の中に包まれ、仲睦まじく語り合ひお互に過去の経験談や日常生活の事や職業の事等、種々雑多の面白い話も飛び出して来て、誰、彼となく話す姿をながめ、又真面目な顔で、俺は九十五才も百才迄も長生きして一花も、二花も咲かすのだと皆を笑わす人も居る。「ひょっ」として予言が的中して百才以上も長生きするのではないかと思ったりもしてしみじみ本人の顔を見つめる事もあるのでした。楽しく、などやかなこの教室の仲間の人達、皆障害と言う「ハンディ」を背負って居る人の会合とは思えない明るさが満ちて居ります。教室に参加して、その都度会長の桑原さん、副会長の山下さん、又教室の皆様方の指導及び助言で発声練習を受けて、早くも十ヶ月を過ぎてしまいました。空気は「こうして吸い込んで」、「こうしてはき出して」と、体全身を使い、ゼスチャーをまじえて指導して下さる。受講者としては本当に有難く感謝いたしております。一日も早く上手になり、恩返しを致し度く思っておりますが、なかなか上達しない。初めて声らしき音が出た時、孫達が、「おじいちゃん」の声が出たと大騒ぎ致しました。私自身長かったが練習の成果が現れて来たと思い、胸のつかえが一度に除去され、すがすがしい気分が致しました。発声の要領を忘れないようにと心に誓いました。先日故郷から電話がありました。孫が電話口に出ました処、大事な要件だからと呼びに来ました。まだ一度も電話に出たことも無く、困って居たが、勇気を出して受話器を取りました。先方より一方通行で要件を話すと申し、勝手に話し始めました。話を聞いて居る内に先方につられてつい返事をしてしまいました。すると先方から、話が出来るのか、良く聞えて来たと言はれ話をして見ました。初めての電話でしたが片言ながら通話出来まして要件が通じ、今迄心配して居たのが嘘のように思われました。これからは心配なく受話器を取ることに心掛けようと思います。自分の声はどんな声であったかな。思い出そうにも思い出せないあの声を、もう一度発声して見たい。

人前で大声張りあげて、唄も歌って見たい気持。元気であった頃の思いがこみあげて来るのです。誰、彼となく語る談話で、声も出ずやるせない気持がついに爆発し、手あたり次第に食台をも引っくり返した事もあると聞きましたが、その気持解るような気が致します。人一倍短気であった私ですが、気長に成り冷静に判断するようになった自分が不思議に思えて成りません。これからは余生を大事にして暮して行き度いと念願しております。


信大病院北三階病棟 百瀬領子

信鈴会の皆様いかがお過しでしょうか。

六月の総会の折には大勢の方々とお会いでき、大変なつかしく思いました。昨年から会員の皆様方のスピーチが行なわれるようになり、今年も素晴らしい発表でした。発表された皆さんは大変堂々として、そして生き生きとして見えました。私は、長野教室のある方の食道発声法によるスピーチを聞いて大変驚きました。本当に食道発声でお話ししているのかしらと思うほど、非常になめらかな発声でした。食道発声でここまでできるのかと改めて、食道発声法のすばらしさを知りました。また、ここまで上達するには、相当の訓練、苦労があったことと思い、心から拍手を送りました。食道発声をめざしている方々がすべてこの方のようになってほしいと心から願っています。

発表をされた方は、その事によって一段と自信がついたことと思います。一方発表されなかった方は、来年こそは自分も発表したいと目標がもてたことと思います。

私は今年、特に松本教室の方々には大変お世話になりました。ある入院患者さんが主治医から喉頭摘出の宣告を受け、御職業柄大変悩んでいらっしゃいました。私はどうしたらその患者さんのお役に立てるだろうかと考えましたが、自分の無力さを痛感するばかりでした。そこで同業の会員の方に面会をお願いしましたところ大変心よくひきうけて下さいました。そして、食道発声をしていらっしゃる方ですが、人工笛も使ってお話しして下さったので色々な方法で会話が可能なことを患者さんは実感として受けとめることができ、希望と勇気をもてるようになりました。

私は、日頃信鈴会の皆様と接する中で、こちらが与えるものよりも与えられることの方が多いと感じています。一方看護職に対する期待も大変大きいと感じています。看護職の将来の発展のためにも、もっと信鈴会の皆さんのお役に立てるよう努力してまいりたいと思います。今後ともよろしくお願い致します。皆様の今後の御健康と益々の御発展をお祈り致します。

信鈴会の皆様こんにちは

北三病棟 中村君枝

毎週木曜日には、どなたかゞ病棟を訪れて下さり、大変うれしく存じております。私は、四十六年六月より耳鼻科に勤務させていただき現在に至っておりますが、その間、数多くの失声の方々に接し、その苦痛の深さを痛切に感じて参りました。

発声教室での指導の方も、手術の苦しみ、又社会復帰されてからの数々の苦難を乗り越えられて、厳しい中にも温かな気持で御指導にあたっておられますが、実に頭の下る思いであり、皆様方には、多くを教えられております。

さて、先日浅間温泉で行なわれました懇親会に、鈴木名誉教授・今野副看護部長と共に出席させていたゞきましたが、教室での雰囲気とは異なり、皆様のゆったりした楽しそうな表情に接し、私の心はまるで春のような気分にひたりました。

歌ったりおどったり、又今迄聴く事の出来なかった人生観や体験談など......

「この会が一番楽しい......」とおっしゃるNさん。皆様の生々とした表情をみて、この会の必要性と共に、私共の使命感の様なものを深く感じました。又、御家族や医師・看護婦が出席し、気軽に話し合う事が出来れば、より意義あるものになると考えます。

今後も皆様方と共に考え乍らこれからの看護に生かしていきたいと思っております。会員の皆様方の御健康を祈念し、併せて信鈴会の益々の御発展をお祈り申し上げます。

励まされて

長野赤十字病院B棟四階 竹内麗子

初めて出席させていただいた信鈴会総会では、全県の教室で頑張っていらっしゃる皆様にお会いし、又会員の方々のスピーチにも大変感激しました。

今年は、発声教室になかなか出席する機会がなく、長野の教室の皆様にも久しく会えないでおりますが、時に、練習のあとなど病棟にも元気な顔を見せて下さいますのでとても心強く思い感謝しております。

先日研修がありまして、言葉や動作を規制された状態での集団作業を体験する中で、非言語的コミュニケーションの難しさを痛感しました。

今までを振り返ってみても、言葉の使えない患者さんとの私達のかかわり方は、患者さんの欲求に即したものではなく、意志疎通が図れないまま、半ばあきらめの気持ちを抱かせてしまったことが多々あったのではないかと反省しました。言葉を失ない、わずかな表現手段しか持ち得ていない患者さんとのかかわりに於いて、何か一つでも分けてあげたい。私達の持っている力を活かせて時間がかかっても必ず解決していきたいという思いで一杯になりました。

不運にも声を失われた方々が第二の発声に努力され、会員の皆様のように再び社会で生き生きと活躍されたり、又、まわりの人達との輪を更に広げられたら本当に素晴らしい事だと思います。-日頃、仕事をしている中で、患者さんから教えていただく事は多く、私自身いつも励まされております。その少しでも返してゆく事ができたらと、これからも会員の方々と共に頑張っていきたいと思います。

信鈴会の皆さんこんにちわ

佐久病院三F西 高見沢克子

木枯しの吹きすさぶ季節となり、いかがお過ごしでしょうか。佐久教室も発足され早や四年、三瓶さんをはじめ指導員の方々の懸命な御指導のおかげで、最近では短期間で発声を獲得される方も何人かみえ、皆様に感謝しております。私はこの教室に参加させていただき、いきいきとした皆さんの練習ぶりを見るのが楽しみです。特に他では得られない感動もあります。それは、全く声の出ない患者さんが練習の回を重ねる度毎に母音が出、いつしか「おはよう」「ありがとう」という言葉が話せる様になった時です。皆さんの中にはまだ思うように発声できない方がいらっしゃると思いますが、あきらめずに頑張って下さい。そして一人でも多くの方が声が出るという喜びを感じてほしいと思います。

私達も微力ですが協力させていただきます。

(一九八五年十一月十九日)

会報十五号によせて

信大病院北三階 小林直子

十二月に入ってまもなく、風邪とはここ数年間縁のなかった私でしたのに、急に頭痛と発熱・腰痛等におそわれ、平熱の低い私が、三七度五分から、計るごとに驚くほど熱発し、三八度九分、あゝ寒い、頭にひゞが入るかのごとく頭痛・関節痛・腰痛、どうしよう早く治さなければ、勤務を休ませて頂いていたので近くの病院に行き、点滴。楽を頂いたにもかゝわらず、一向に熱は下らない。とにかく自分に鞭打って自分との闘いでした。そんな時家族が心配し「どう、いくらか楽になったか」食欲の出るものをと気を使ってくれるが、何も話す事もいや、たゞひたすら寝ていたい。こんな時、あゝ私は患者さんに如何ですかと問いかけるが、気分の悪い病めている患者さんは笑顔を作って気を使っている。自分が風邪だけでこの様な騒ぎをしている私が恥かしく思え、自分に鞭打っているこの頃です。

毎週木曜日(発声教室)の日、遠方から時間になると北三階ナースセンターに困難を乗り越えられた方々が、元気よく、明るい表情で訪ねてくださる皆様、健康に留意し、希望を持って発声に頑張って下さい。信鈴会の益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。

今、思うこと

信大病院北三病棟 宮沢幾美

私は、看護婦一年目ですが、学生の時、研究発表として、喉頭全摘の方の精神的支えについて勉強しました。患者さんにお話をうかがってわかった事は、困難に直面した時、家庭・発声教室の仲間・医療従事者など、理解者の存在が重要だという事です。つまり、永久気管孔や失声などという一般の人には、ほとんど知られていないハンディーを患者さんがいかに克服してゆくかは、理解者がどれだけ気持ちを受け止め、共に悩み考えてくれるかにかかっているのです。

しかし、今、看護婦として病棟で働いていて思う事は、時間に追われ、検温もゆっくりと腰をすえて話ができず申し分けなく思い、果して私は良き理解者なのだろうかと考えさせられる面があります。理想と現実のギャップの中で、声を取り戻した患者さんを初めて見た時の、あの感動を忘れずに患者さんに接したいと思います。

喉頭全摘をされた方にとって、病院の中より社会に出た時の方が、精神的により辛い事が多いと思います。みなさん、体に気をつけて頑張って下さい。私も、少しでもよき理解者になれるよう努力したいと思います。