平成16年刊 第31号

巻頭の言葉

会長 宇野女健

「災」の字で表され暮れた昨年、国内各地への度重なる台風の襲来、長雨と風水害、加えて中越地震、暮れも押し迫ったある日、まるで駄目おしのようにスマトラ沖大地震による津波の発生など自然災害の猛威を知らされた年でありました。

幸いにして当会では被災された会員もなく、ほっとしているところです。新潟県美鈴会では集中豪雨・地震災害・豪雪災害に遭遇された仲間達もおられました。所属している日本喉摘者団体連合会東日本ブロック団体は、一日も早く元気を取り戻して下さる様にお見舞い申し上げました。今年は無災害で明るいニュースの多い年にしたいものです。信鈴会も昨年はスピーチコンテスト・東日本指導者研修会参加・十一月に第一回信鈴会指導者研修会を浅間温泉みやま荘で、一泊二日で開催しました。発声技能を習得した先輩が同病の仲間に発声の指導援助をして、社会参加の手助けをする、いわゆる自助努力型のボランティア活動として、一人の発声への努力を仲間で支えあい、助け合い、声が出れば吾が事のように喜び仲間から称賛される。教室の和の中で支援に力を得て、発声練習に弾みがついて社会参加につながるもとの信じております。この会の主目的である食道発声の訓練は、日々の努力や根気を必要としますが、その獲得は人・其々・で術後の経過と体力によってなかなか上手くいきませんし、もどかしい事も多いのです。しかし、人間良い意味でのアキラメを決め込むことも大切な事だと感じたとき、道が開きます。駄目でもともと何でも挑戦です。信鈴会は同病者による同病者の為の会ですから、誰が先生でも生徒でもないのです。喉摘者の先輩が、自分の経験を取り入れ、仲間に伝授して、少しでも早く声が出ること(EL)を願っているのです。信鈴会は、発声訓練の場であると同時に、お互い何でも気軽に話し合い、励ましあえる交流の場、教室が仲間の心のオアシス(信鈴会)でありたいと私は願っております。早く声を出したいという希望で入会される仲間の皆さんは、二月中旬松本教室で入院中のお二人、次の日、長野教室でも入院中のお二人の方が入会されましたが、この会の存在に期待されているものと思います。術後は筆談で意思の疎通を始めると、相手も筆談する場面に遭遇する・過度な親切心が思わぬ・笑いに・発展することもあります。このような仲間の皆さんの家族の方々の期待と声の出る願いを、大切に・親切と・優しさを、信鈴会の合言葉として日々の励みにしたいと思います。声を失った境遇の一方で、目に見えない何かを得たはずです。それは家族や肉親、友人との心の触れ合いであったり、周囲の人の愛情や思いやりです。同じ苦しみを分かち合える仲間です。お茶呑み法で原音の「あ」が出たら、鬼に金棒。毎日毎日の練習が決め手です。後は自分との戦いです。教室は自分の上達度を試す絶好の場所です。遠慮することなくマイクを握り、大きく口を開け声を出してみましょう。自分の肉声を耳にする事は自信に繋がる筈です。そして幸せを分かち合える、信鈴会の道を歩みたいと念願致します。

支え合い、共に生きる明るい社会を目指して

長野県社会部障害福祉課長 三村保

日頃、長野県信鈴会におかれましては、発声訓練や会員のニーズに応えた各種事業を展開され、県の障害者福祉施策の推進に多大なご協力をいただき感謝申し上げます。

さて、昨今の障害者を取り巻く環境を見ますと、障害の重度化、重複化及び障害者の増加、高齢化が進む中で、障害者が安心して地域で生活できるための施策が求められています。

こうした中、長野県では、昨年度から「優しさ」「確かさ」「美しさ」の視点から、新たな長野県の創造に向けた「信州モデル創造枠」事業を実施し、福祉、医療、環境、教育の分野に重点を置いた施策を展開しております。

また、障害の有無に拘らず、共に支えあいながら地域社会の中で一人ひとりが「自らの生き方を自分らしく実現できる社会」を創るため、「長野県障害者プラン」に沿って施策を推進しております。

発声機能障害のある方々に対する施策といたしすしては、疾病等により喉頭を摘出、音声機能を喪失された方のための発声訓練と、発声訓練指導に当たる指導者を養成する事業を、長野県信鈴会の皆さまに御協力をいただきながら実施しているところであります。

障害者福祉を推進するためには、公的なサービスの充実とともに、個人、家族、地域が皆で理解しあい、支え合うことが大切です。私は、音声機能障害のある皆さまが、元気よく勇気をもって、社会に出て活躍していただくことを強く望みます。そのためには、行政も皆さんとともに、明るい未来を創造していく努力をしていかなければならないと考えます。

そして、性別や年齢、肩書きや経歴、国籍や障害の有無に拘らず、生きる意欲を有する人々を分け隔てなく迎え入れ、公正なチャンスが一人ひとりに開かれている社会を皆さまとともに形づくってまいたいと考えております。

最後に、長野県信鈴会の益々の御発展と、会員の皆さまの御健勝・御繁栄を心から御祈念申し上げます。

中高年者の健康

信大医学部名誉教授 田口喜一郎

長野県人は、極めて健康的で、長生きすることで有名ですが、何より健康寿命が長いことが特徴です。いくら長生きしても、寝たきりでは、折角の人生を有意義に過ごすことはできません。「健康寿命」とは、寝たきりでなく、健康で生きられる年数をいい、是非皆様には、健康寿命をできるだけ長く持っていただきたいと考えております。そのためにはどうしたらよいか。最近、私は「中高年者の健康管理」に関する研修会の講師を依頼されることがあります。そこで、何をお話しすべきか大変悩みます。先ず、対象がどのような方かということを参考に致します。一定の職種の方の集まりなら比較的容易ですが、職業、年齢層などいろいろな方が来られますと、話題を絞ることが難しくなります。そういった時、どんな方でも「老化現象」のことをお話しすると、真剣に聴いて頂けることが分りました。若い人にもやがて老化はきますし、それがどういったもので、どうしたら防止できるかといった話題には興味を持っていただけます。そういった講演会でお話しすることの一端をここで書いて、皆様のお役に立てばよいと考える次第です。講演の主旨は次の三段階からなります。

一、健康で長生きするということ

日本では、今は世界に冠たる「長寿高齢化社会」を迎えております。このことは、大変すばらしいことであり、日本の衛生状態、医療の進歩、そして生活内容(衣食住)が良くなったことを示すものなのです。健康で長生きすれば、それだけ社会に貢献できるわけです。一方、日本は世界一の少子社会を迎えております。団塊の世代といわれた、昭和二〇年代前半の一時期に生まれた方は、一年間に二五〇万人前後でしたが、ここ二~三年は一一○万人前後で、半数以下になっております。亡くなる方は一○○万人を超え、日本人の人口増加は数万人に過ぎなくなり、間もなく日本の人口が減少に転ずるのは明らかであります。晩婚化や三〇~五〇歳で未婚の男女が三〇%を超すという異常な事態がその傾向を増大しております。すでに日本人口の将来の推計値が計算されておりまして、現在(二〇〇五年)約一億二七六九万人の人口が二〇年後の平成三七年(二〇二五年)には一億二一四〇万人で減少に転じ、四五年後の平成六二年(二〇五〇年)には一億六〇万人、今世紀末には今の約半分の六千万人に激減してしまいます。これは江戸時代中頃の人口であります。隣の中国は現在すでに十三億人に達し、今世紀末には十六億人を超す勢いです。人口は国力を示す指標の一つであり、人口減が起こりますと、政治や産業に大きな影響が生じるばかりでなく、必ず日本に入ってくる外国人が増え、混血が増え、純日本人は衰退する運命になります。少子化改善の特効薬はありませんので、日本人は長生きして、人口減に少しでも役立てていただきたいのです。

二、老いても何か(仕事を)するということ

中高年者層がただ長生きするだけでなく、仕事の面でも減少する若年者層の分を補って頂きたいのです。そうしないと国力は益々衰えるばかりで、今の豊かな日本社会を維持できなくなります。定年延長で現役として仕事が続けられたら一番よいのですが、引退や退職してもご自分の専門の仕事、得意な仕事で何らかの貢献ができればよいのです。それができなくても、例えば、家事の手伝いは同居者を援けることになりますし、若い夫婦の子育ての援助などは少子化の改善に役立ちます。どんな仕事でも結構ですから、何か仕事をして頂きたいのです。信州大学医学部附属病院ではボランティアの方が外来や病棟でお手伝いをしておられますが、北欧(スェーデン)の病院ではもっと多くの定年退職者がボランティアとして働いておられるのをみて驚いたことがあります。膨大化する医療費節減とマンパワーの増大に大いに役立ち、本人も生き甲斐を感じることができて、大変すばらしいことです。

三、健康であるためには

健康で仕事をすることができることは理想的ですが、たとえ仕事がなくとも、健康であって、介護を受けなければならない期間を短くするだけでも、その分経費の節約になります。長野県では、国内で一番医療費が安いこと、殊に老人医療費が少ないことで際立っております。是非この実態を続けて頂きたいのです。そのためには、次のような点でご留意頂ければ幸いです。

①体力低下を防ぐこと

年をとると、当然体力の低下が起こります。それをできるだけ少なくしようという訳です。そのためには、できるだけ体を動かすことです。農業や家業があって体を動かす機会があればよいのですが、退職したからといって楽隠居せず、少なくとも一日七千歩程度の歩行(ウォーキング)を続けてください。足を使うことは体に活力を与え、肥満を予防してくれます。特にお願いしたいのは、できるだけ速く歩くことです。可能ならば、一○歳位年下の人の歩調に合わせて歩くと理想的です。

②氣力・精神力が充実

中高年者の方がよく「年だから」といって尻込みしたり遠慮したりすることがありますが、これは大きな間違いです。生活年齢は必ずしも体力や氣力とは関係ありません。若々しい気持ちで毎日を過ごして頂きたいのです。毎日を楽しく生きるように心がけてください。もし、努力しても、どうしても頑張れなくなった時は病気かも知れません。いわゆる「うつ病」とか「燃え尽き症候群」といわれるものかも知れません。その時はできるだけ早く病院に行ってください。中高年者の自殺の原因となることがあるのです。

③食事を重要視すること

人は食べなければなりませんが、食ベすぎも禁物です。一応の目安として、体重(キログラム単位)を身長(メートル単位)の二乗で割った値が18~25までの範囲からはみ出さないように心掛けてください。食事はバラエティに富むものをバランスよく頂くことが大切です。力仕事や汗をかく仕事をするのでなければ、食塩は少なめ(一日量10g以下、理想は7g)にしてください。朝食と昼食をしっかり摂って、夕食を軽くするのが理想的です。

④健康診断

年1~2度健康診断を受けましょう。癌、高血圧、糖尿病、男性では大腸癌、前立腺癌、前立腺肥大など、女性では乳癌や子宮癌が重要です。喫煙者は肺癌や喉頭癌、慢性の肺の障害になる確率が高くなります。中高年の女性は骨粗しょう症に注意しましょう。日頃から運動し、毎日少しずつ日光を浴びること、必要があれば活性型のビタミンDを摂ることも必要です。

⑤コミュニケーションを大切に

人は一人では生きられない動物です。人には人や社会とのコミュニケーションが大切です。積極的に社会に顔を出しましょう。信鈴会の会合はもちろん、いろいろな友人や地域の会合や趣味の会、催し物などに参加することは、肉体にも精神にも若さとよい結果をもたらします。

以上、ごく簡単に要点のみ書いてみました。信鈴会の皆様には、いつまでも若さを保ってお元気でありますよう祈っております。

雑感

信大病院看護副部長 松本あつ子

会誌「信鈴」の発刊おめでとうございます。役員理事の皆様、本当にお疲れ様でございます。

私は三〇年近く信大病院で働いておりますが、主に産婦人科にお世話になっておりましたので、病院に居りましてもなかなか皆様の活動を知る機会がありませんでした。ただ「信鈴会」というものがあることは今野元副部長から聞いており、長い歴史があるということも知っておりました。現在の副看護部長という役割を得て初めて信鈴会の皆様とお話をさせていただくことになり、会員の皆様の活動を目の当たりにさせていただいたわけです。各地域ごとに教室を開催し発声練習をされていることも知りました。そんな中、皆様の成果発表会にお招き頂き、すばらしいお話を伺うことができ本当に感激しました。発表をしてくださった方のご苦労が拝察され、更にその家族の方の支えがあったことが本当によく伝わってくる内容でした。日常生活を送る中で人とのコミュニケーション手段である声を失うということはどれほどの痛みでしょう。我々の想像をはるかに越えた悲嘆を感じられたことと思います。それでも、皆さん本当に明るく自分の人生を語り、前向きに生きることの大切さを改めて感じさせていただきました。皆様の会を通じて同じ仲間のいることの大切さも感じました。ご自分達が経験したからこそ分かり合える仲間、これらのことを考えると本当にこの信鈴会の活動はすばらしい価値あるものだと思います。一方医療者として、患者を体験した皆様の言葉に真摯に向き合うことの大切さも学ばせていただきました。皆様の痛みを教えていただくことで我々医療現場にいる者は成長させていただけるのです。是非、いろいろな場で皆様の活躍をそれこそ声を大にして伝えていただきたいと思います。何のお手伝いもできませんが、皆様のサポーターとして応援させていただきます。今後の皆様のご活躍を心からお祈り申し上げます。

病院機能評価を受けて思うこと

信大病院東2階病棟看護師長 丸山貴美子

会誌「信鈴」第三十一号発刊おめでとうございます。この会誌の発刊は、そのまま信鈴会の歴史であると改めて感じています。

さて信大病院は、昨年十一月に日本医療機能評価機構による病院機能評価を受審し、無事認定を受けることができました。今回の受審において重要視されたことは、「患者の権利と安全の確保」「療養環境と患者サービス」の領域に関するものでした。この課題を達成するために約三ヶ月の短い期間でしたが、病院全体で取り組みました。医師も看護師も事務職もあらゆる職員が取り組んだのです。こんなに職員の気持ちを一つにすることができるものかと、感動にも似た気持ちでした。多少費用がかかったようですが、この認定を受けることで患者さん方に選ばる病院、信頼される病院になれば、高くなかったのではないでしょうか。

「患者の権利と安全の確保」においては、各種マニュアル・ガイドラインの整備、院内感染管理などが問われます。廃棄物の分別処理を徹底させ、ごみ箱も新しくしました。

「療養環境と患者サービス」においては、わかりやすい案内、プライバシーの確保、療養環境の整備などが挙げられます。病院の中の様々な案内板の増設や掲示物の整理をし、すっきりときれいになりました。

プライバシーの確保では、この四月に個人情報保護法の執行により、改めて病院としての取り組みが課題となっています。新聞でも様々な病院の取り組みが紹介されており、当院でも急ピッチで検討中で

す。

療養環境についてはどうでしょうか。これは入院患者さんだけでなく外来患者さんやこの食道発声教室など、この病院を利用するすべての方にとって快適であるべきだと思っています。そのためには私たち職員の自己満足で終わるのではなく、皆さんの偽りない声をぜひ聞かせていただき、取り入れていきたいと思っています。

私が心苦しく思っていることは、松本教室の皆さんに、占有で使用していただく部屋が確保できないことです。現在使っていただいている食堂・休憩室は、病棟入院中の患者さんが教室に参加しやすい良い場所であると思っています。しかし入院患者さんのために用意された場所であるので、教室の時間中も他の患者さん方と一緒に使っていただかなくてはなりません。教室の邪魔にならないように入院患者さんにも協力していただけるよう、私たちも配慮していきたいと思います。

五年後には再び病院機能評価を受審し、認定を更新していかなくてはなりません。外来棟も新しくなります。そのような状況ですが、病院を良くしていくのは皆さんの声だと思っています。最近は以前に比べ、患者さん方の意識も高くなり、様々な意見をいただくようになりました。そのすべてに対応することはできないかもしれませんが、よく吟味してより良い方向で解決できるようにしていきたいと思います。何より患者さん方の評価が、より良い病院にしていくために一番重要であると思います。どうぞ、気がついたことがありましたら声をかけご指導ください。

地域医療の進展に取り組んでいます

伊那中央病院事務部総務課 樋代正吉

先日は、信鈴会伊那教室の新年会へお招きいただきまして感謝申し上げます。信鈴会の皆様と初めてお会いし、お話ができましたことを嬉しく思ってい

ます。

_ 旧市営伊那中央病院では、会員の皆様が別棟の会議室で熱心に発声練習されていたことを思い出します。当時は、常勤の耳鼻咽喉科医師がいて診療体制が整っていましたが、現在の新しい病院には耳鼻咽喉科の常勤医師がいません。信州大学医学部からパート医師をお願いし月曜日、火曜日、金曜日の午後に外来診療を行なっています。一日も早く当院に常勤の耳鼻咽喉科医師を招聘し充実した診療を行わなければなりませんが、耳鼻咽喉科医師の不足と卒後研修医制度により実現が困難な状況にあります。今後も院長から信大の耳鼻咽喉科医局へお願いして早期実現に向けて取り組んでまいります。

信鈴会の皆様は人の和を尊びながらお互いを高めていく方向に進んでいきたいとの目標を掲げ、県下五教室で食道発声練習に励んでおられ、障害者の社会参加の促進に大いに寄与されています。毎月二~三回県下各地にて発声教室を開催し食道発声訓練や人工咽頭による発声訓練等を行い音声機能障害者の指導に理解と情熱をもってご尽力されています。声帯を失われた方々にとって救いの手を差しのばしていただき大変ありがたいことであります。当院は、上伊那地域の基幹病院としてまた、がん診療中核病院として地域医療の進展に取り組んでいます。当院にて信鈴会の皆様による発声教室の活動が行われていますことは、声を失った方々に希望と生きる力を与えてくださいます。今後も信鈴会のボランティア活動により多くの患者さんが救われますよう念じますとともに、会員の皆様のご健康と信鈴会のご発展を心からお祈りいたします。

Hさんによせて信会相談役

松本教室 今野弘恵

今年は新しい年が明けてから二度も翔峰(元美ヶ原温泉ヘルスセンター)を訪れた。窓辺に立って白銀にかがやくアルプス連峰を眺めながら、私はもとヘルスセンターで働いていたHさんのことを思い出す。Hさんは術前はここの支配人だったと聞いてる。喉頭全摘を余儀なくされ、術後まだ十分に声が得られないまま、経済的な理由から復職。しかし話すことが出来ないHさんに与えられた仕事は、熱帯魚の飼育と遊技場の管理であった。生存競争が激しい社会情勢のなかでまだ成人しない娘二人をかかえ、一家の生計を支えなければならないHさんは、それが悲しく腹立たしいことであっても、家族ともども生きるためにはと、苦悩のなかで受け入れざるを得なかった。どこへもぶつけようのない憤りと、葛藤のなか、家に帰れば酒を飲み、あたりちらすなど、家族の生活をも重苦しいものにしていた。会社の了解を得て、毎木曜日の発声訓練には何としても参加するように働きかけた。発声教室に集まる仲間のなかには往復五時間(飯田方面)もの時間を費やし一度も休むことなく訓練に通ってくる人もあり、Hさんはその真剣さと苦境のなかで一生懸命生きようと努力している仲間の姿に強く心をうたれた。「苦しいのは自分だけではない、負けないぞ」

初めは長年勤めてきたのに......と会社の冷たい扱いに恨みをもっていたが、教室の仲間たちとふれあうなかで、熱帯魚を相手の仕事は、誰にも気をつかうことなく、思い切ってゲップが出せる。訓練には幸の場であると思えるようになった。そんなある日、Hさんは「最近は魚たちまで俺に似て陽気になってダンスを踊っているようだ」と筆談。復職後一年三ヶ月、もう少し声にボリュームがつけば以前(支配人)の仕事もやれそうだ......といきいきと明るさを取り戻しつつあった。

遠く凛々とつらなるアルプスをながめながら在りし日のHさんとのかかわり。声を失うということは、いままでのその人の社会的な身分や生き方も変えてしまう。しかし、再び声が得られるならば職場復帰も社会参加も可能となる。訓練によって得た声は、勇気と希望をもたせ、生きるよろこびを与える。

信鈴会の発足は発声教室運営のためのものであり、いわば会の中心行事である。申すまでもなく各医療機関の医師、看護師、行政、その他のご支援はもとより、教室の運営がとどこおる事のないよう会員もそれぞれが役割意識をもって充実させていくことが必須である。

一歩一歩元気が出る会に育てていきましょう。

発声教室に参加して

長野赤十字病院 坂口史子

二〇〇五年もすでに三ヶ月が経ち、また新しい年度を迎えようとしております。子供のころは、一年がとても長いと思っておりましたが、近頃は時の過ぎるのがとても早いとつくづく感じます。

私が発声教室に関わらせていただくようになってから、丸二年になりました。この二年の間にも喉頭摘出の手術を受け、新たに発声教室に参加するようになられた会員さんが大勢いらっしゃいます。教室に参加し始め、指導員さんにマンツーマンで、発声の方法を教わり、「あっ」に一言が出る瞬間に立ち会うことができる事、さらに日々努力され、教室の度に上達していく様子を見せていただくことができる事など、私自身も教室に参加するのをとても楽しみ-にしております。

昨年は、私自身も公私とも、様々なことがあり、落ち込むことが多々ありましたが、病気に立ち向かい、さらに新しい発声方法を身に付けようとしている皆さんの熱心な姿を見ていると、逆に励まされるようです。

信鈴会の総会に参加させていただく機会があり、同時に行なわれたスピーチ大会での発表を聞くことができました。長野県内のそれぞれの教室を代表してスピーチをされた方々は、自身の病気の体験などを、表情豊かに話されていました。病院には、発声教室のほかにも多くの患者会がありますが、信鈴会のように全国組織が活発に活動している会は数が少なく、日ごろの活動には頭が下がる思いです。

手術が終了し、発声教室に参加するまでの期間は、計り知れない不安な思いでいっぱいだと思います。会員さんには、そんな患者さんの訪問をして、質問に答えていただくなどの機会を持っております。今後もぜひご協力いただければと思っております。

いまや健康ブームで、テレビや新聞報道で健康食品、健康づくりなどの話題を、多く取り上げています。私自身はあまり興味がなく過ごしておりましたが、昨年、家族が病気をして入院したことをきっかけに、いろいろと試してみようと思うようになりました。

「病は気から」とよく言います。しかし病気を体験すると、気分が落ち込んだり、ちょっとした人の言動が気になったりと、いつも前向きにとはいきません。そんなときの私の対処法は、ゆっくり散歩することです。仕事、家事などに追われている日々ですが、休みのときや、夜、特に目的もなく、ゆっくり歩きます。普段気づかなかった、景色、植物などいろいろなことに気づかされます。一時間、二時間、時には汗をかくほどに一生懸命歩いたり、ある時は、ゆっくり歩いたり。家についたときは、もやもやした気分がいつの間にか晴れているような気がします。冬の間は、冬眠状態でしたが、そろそろ暖かくなってきましたのでまた再開しようと思っているところです。皆さんもそれぞれに健康法をお持ちだと思います。発声教室でお会いする時に、またいろいろ教えてください。

最後になりますが、信鈴会と各教室に参加されている皆様の更なるご活躍を祈念しております。今後ともよろしくお願いいたします。

蝋梅の花によせて

長野市民病院4東病棟 内山詞惠

私が耳鼻科を含む混合病棟に勤務し、皆様にお会いするようになり、四年が過ぎようとしています。折りあるごとに病棟にお元気な顔をみせてくださり、又手術を迎える患者様、手術をすまされた患者様のことを気にかけてくださり大変感謝しております。

蝋梅の花をご存知ですか?雪の降っている一月~二月頃咲く、香り高い黄色の花です。(この冬は暖かかったためか、我が家の庭の蝋梅は年前に咲いてまいましたが・・・)蝋細工の様な黄色の花に少し雪がつもり、そこに太陽の光がキラキラしているその様子が私は好きです。この花を見ると私はいろいろなことを教えてくれた、たくさんの患者様のことを思い出し、フッと背筋が伸びる思いがします。皆様が多くの思いをひとつひとつ乗り越えられ、自分の生き方に向かいあわれる厳しさは容易なことではないと思います。ある本に「患者を救うのは患者」と書かれていました。私たち看護師は患者様に寄り添えたら、と思っていますが、説明しなくても目が合っただけで分かり合える仲間というのは、とても大きな心の支えだと思います。当院では昨年に比べ喉頭摘出の患者様が増えました。又お力添えお願いします。信鈴会を大切にし、皆様がお元気でご活躍されることを期待いたします。

最後になりましたが、昨年度は看護研究のアンケートに貴重なご意見をいただきありがとうございました。無事、長野県看護研究学会に発表できました。今後の看護に活かしていきたいと考えています。

発声方法のあれこれ

信鈴会相談役 田中清

松本教室で、最近EL発声の二人の人が、食道発声法を教えて欲しいと言って来た。もちろん二人はEL発声をマスターした人達である。

そのうちの一人がELで「故郷」を歌ってくれた。実に素晴らしい音程で私は驚いた。その時私は平成九年に亡くなられた岡谷の宮坂さんの顔が浮かんだ。氏は諏訪教室開設時の立役者であった。氏が松本教室で、私が指導した時既にELを持っており、院内で勉強していたようだった。従って食道発声を教えても無理だった。その後氏とは会の旅行で常に一緒で、私の妻と氏の奥様とは本当に懇意になった。その氏が会の総会のあとの懇親会の時、各国のELを分解して自分で作ったELで、三橋美智也の「古城」を歌った。実に素晴らしいハーモニーであった。氏が送ってくれた長野教室・伊那教室のビデオデッキは教室で活躍してるであろう。前々会長の鳥羽さんの時代、副会長をしていた大橋さんは、僧侶でしたため、喉摘後大阪のタピヤを勉強し、お経をあげることにしました。しかし鳥羽さんのすすめで、東京の銀鈴会で食道発声を勉強することとなり、早期大町から松本経由で東京の銀鈴会で頑張り、一週三回の勉強を一回も休むことなく、銀鈴会の八段になりました。ちなみに当時銀鈴会で勉強した人は、長野で鈴木ふささん、佐久で三瓶さん、諏訪で小林政雄さんでした。いずれも四段以上で、小林さんは七段を貰っています。

さて信鈴会松本教室の例ですが、初心者は別ですが、食道発声の指導で、一年間教本の二音から十二音までで終っています。これは食道発声の過程であって、全部マスターしても食道発声の完成には遠いものです。ことばには、音の高低・強弱・長短などの変化によって抑揚が生じます。ことばのつながりがスムーズな調子を流暢さといいますが、それには短文・詩・短歌等の朗読及び、歌を歌う練習が必要です。又ことばがスムーズになるまではビバボイを使用しない方がいいと思います。使うと自分の声の流暢さが分りません。(家庭内は別)

ELの皆さんも詩を読むとき単調にならず、少しでも抑揚をつける練習をして下さい。又さらに早口言葉などもいい勉強になります。

発声を覚えるということは、喉摘者にとって大変苦痛なこととは思いますが、繰り返し繰り返しの根気を出して頑張って下さい。最後に教室の修了時に皆んなで「信濃の国」を歌いましょう

信鈴会との関わり

伊那教室 桑原賢三

私の書棚に信鈴の第五号から三十号迄納められて居り信鈴会との関わりの長さと深さを今更に実感します。

私が昭和五十年に会員になってから会の会長さんは石村さん、吉池さん、塩原さん、鳥羽さん、田中さんと五人の会長さんに関わって参りました。中でも一番関わりの深かったのは副会長として共に会の運営にたずさわっていた鳥羽会長でした。会員も私の入会した昭和五十年には石村会長以下五十三名でした。五十一年は、若干増加しまして七十七名となり五十五年になって一○○名となり、此の時期、喉摘の手術はほとんど信大病院で実施されました。長野日赤、松本国立などで、六、七名程手術を受け入会して参りました。

此の時期信大耳鼻科の医局の先生は数多く又手術を受ける患者も急増して五十八年には会員数一四二名と増加して参り、発声法も東京銀鈴会の影響もあって食道発声が主流でした。器具に依る会員もおりましたが、現在の様な優れ優れたものはなく、当時は器具を口腔内に入れ、器官口から呼気を送り込み発声するという器具でしたから、これも使いこなすには大変でした。又東京の銀鈴会の指導もあり、教本や指導要領など銀鈴会から購入して会員に配布して指導を行なってきました。

当時、関東は銀鈴会が主体で食道発声、愛知の愛友会、関西の阪喉会などは人工笛が主体で、同じ喉摘者でも手術をした病院に依り最初から発声法なっていました。信鈴会では最初から食道発声が主体でした。私も昭和五十年二月より当然の様に食道発声に取り組みました。退院当時はまだ高校在学の子供も居り一日も早く会社へ戻り、生活の立て直しに必死に練習しました。

当時より会誌、信鈴への寄稿が始まり昭和五十年の信鈴六号より現在迄二十七回を数えます。私が最初に寄稿したとき「信鈴」は、三十七頁の薄いものでした。昭和五十三年に理事に選出され五十四年鳥羽さんが会長に選出されると同時に、長野教室の義家さんと私が副会長に選出されました。発声の方も認められて指導員となり、五十三年には伊那教室が開設され担当指導員として配置され、松本教室と掛けもちでした。五十五年以降は伊那教室専任となりました。

信鈴会への入会者増加に従い、「信鈴」への寄稿も増加して一〇〇頁を超す程になりました。

昭和六十二年伊那中央病院耳鼻科の納谷先生の交替に山本先生と深沢先生が赴任して来てから、中央病院でも喉摘手術が可能となり次々と手術が行なわれ、又駒ヶ根の阿南病院でも手術が行なわれて、発声指導を中央病院を通じて依頼があり入会者も増加し必然的に伊那教室への参加が増加して参り、伊那教室の実情を「信鈴」に掲載する寄稿も多くなりました。

平成五年になり今度は私自身が食道ガンに依り食道の移植手術を伊那中央病院にて深沢先生の執刀のもとで行なわれ、再び声を失いました。然し食道を移植しても長年の食道発声のお蔭で、術後五年間は声の質が若干落ちるが食道で発声が出来て、会話の不自由はありませんでした。其の後総会に出席した折り今野さん(五十年喉摘の手術時、北三病棟の婦長さん)に移植食道での発声は全国的にも珍しくほとんど発声出来ないのが普通だとのことで、私の発声を誉めて戴いたことを覚えて居ります。

然し平成十年以来、三回に亘り移植した食道の修正手術に依り食べ物が通過出来なくなり、平成十二年九月十九日信大病院の耳鼻科にて診察を受けるも手の施し様なしと、第一外科を紹介され取り敢えず予約をとり九月二十五日受診するもやはり駄目で、今度は形成外科を紹介されやっと手術の予約をとり十二月六日手術となり、翌十三年二月退院となりました。以後食道発声に見放され器具に依る発声となり、現在大阪の阪喉会で取り扱っている「セルボックス」を使用して、最近は器具にも馴れ会話も充分となりました。然し、今度は十六年四月気管口の収縮に依りこれが拡張手術を行い、発声教室への参加は又中断していたが、伊那教室の新年会の案内状が届き早速参加出席し、其の席で宇野女新会長さんとも親しくお話をさせて戴き、新しい会の運営の抱負などお聞きし、久しぶりの教室参加が意義あるものとなりました。唯中央病院に耳鼻科の先生が不在とのことで一抹の淋しさも感じました。

私も年齢八十三歳、喉を切ること五回、あと何年生きられるか?然し、一年でも永く発声教室や信鈴会に係わっていきたいと思います。 (平成十七年二月記)

発声教室での五年間

伊那教室 大平洋康

以前の原稿にも載せた事がありましたが、私も平成十二年に伊那教室へ入会して、すぐに責任者として推薦され、当初は何もわからず迷惑をかけながら、先輩の皆さんの力を借りて何とか五年間運営して来ました。最近では自分の力不足と限界を感じて来ています。伊那教室には二つの問題があります。

先ずは食道発声訓練指導不足の問題。私自身も訓練で食道発声でなく、仕事の関係で機械発声を選んでしまった事で、私が食道発声訓練で教える立場でない事のもどかしさを感じています。指導員の指導力不足の慢性化が続いています。伊那教室自体のやるべき事として行動する事が本来の事と考えますが、緊急的な行動として他教室の訓練への参加、難しさはあると考えますが、他教室から指導員の派遣をしてもらえる事が出来たらと考えています。伊那教室も自立できるよう努力をして行きたいと思います。

次には、地域的な範囲の問題。上伊那地方では辰野町、伊那市、駒ヶ根市、中川村と、下伊那地は飯田市、南信濃村、阿南町、根羽村等、愛知県隣接する地域迄であります。現在教室は、伊那市の伊那中央病院で行なわれていますが、特に下伊那地方から教室に通うには、車で三時間程度かかり負担が大きく、冬期間は訓練を中止せざるを得ない現状です。他の交通手段も不可能と考えざるを得ません。やはり、飯田市と下伊那地方、伊那市と上伊那地方と教室を分割して進める事が負担を少なくする重要な事と考えます。

役員の活性化。これも伊那教室の問題として浮かび上がっています。役員として、与えられた役目は何かを自覚し、何をすべきかをもう一度確認し反省し、名ばかりの役員であっては、と考えます。とにかく参加を、会員の皆さんは、少しでも良い会にしようと一生懸命に活動をしています。

俳句と川柳

佐久教室 佐藤武男

過日は、吉田君より俳句会で九票を得て次点となったという句を送って来た。題が大根で、「大根も大事な役者鍋の中」という句で、句会では川柳まがと皆に誉められたり笑われたりしたという。川柳まがいとは何か?切れ字の無い為か?大根を大根役者にかけた為か?私には佳作の川柳に思えた。

佐藤狂六は、近頃俳句は川柳に似て来たとか、川柳が俳句に似て来たといわれているが、私はどちらでも良いと思う、と言っている。これに対し、寺山修司は、俳句と川柳は質が違うと述べている。切れ字や有季など川柳は俳句の真似をするのを止めて、川柳独自の問題を探すべきと言い切っている。

しかし修司の句にも川柳とすべき句もある。

地主の巨き南瓜を蹴って、なぐさむ

又修司には他の人の句をもとにしたものが多いと言われている。例えば

葬式におくれて来て葱見て帰る

大根もて来しが看経を見て帰る(作者不詳)

似ているが読経のさまたげになってはと、黙って大根をおいて帰った純朴な百姓の姿が見え、後の川柳の方が私は良いと思う。

一茶には俳句というより川柳とした方がと思われる句が多い。例えば、

小便の滝見せうぞ鳴く蛙

真直じな小便穴や門の雪

原爆で亡くなった丸山定夫には、語呂合わせの次の川柳がある。

久びさに國に帰れば桔梗かな

どうじや、ちとわしの墓にも金せん花

君がため水瓜も辞せず食いにけり

又似てはいるが俳句と川柳の違いのある句としては

大根引き大根で道を教へけり(一茶)

ひんぬいた大根で道を教えられ(柳多留)

「けり」でしめくくる俳句。五七五以外制約無しの軽妙洒脱な川柳、私個人は後者が好きだ。

江國滋は「ルールは厳しい程面白い、有季・定型・切れ字一個などのルールが必要」としている。

草田男の

降る雪や明治は遠くなりにけり

には、句切れ二個あるが、草田男は、はじめ「雪は降り」としたがピッタリしないので鉄則を破ったとのことであるが、名句である。

内田百聞は川柳を馬鹿にするな。良い川柳は下手な俳句より、はるかに良いとしている。

長い塀つい小便がしたくなり(百鬼園)

これは川柳の例と思いますが、私は百開の見解に賛同します。

雑草の花も顔を覗かせ生命力の強さを

佐久教室 伊藤元夫

私の病気は平成十四年より始まり佐久総合病院で耳鼻科の小松先生に診てもらい喉頭ガンも悪性と言われ放射線と抗がん剤治療を行なうしかないとの事で四十五日間入院しました。其の後小諸厚生病院で田中先生に時々診療して頂きましたが三月頃又再発しているとの事。松本の信大病院か長野日赤病院しかないとの話で有り、其の前に転移していないか診てもらう為に、松本の相沢病院に電話しPET陽電子放射断層検査を行なう連絡をして下さり、検査当日病院へ行きました。検査の為の紹介状資料を持参して受付に出し、待っていると呼ばれ着替えをし検査説明、問診約一〇分、検査薬注射一○分、安静待機排尿約六〇分、撮影検査約三〇分、休憩二〇分、着替え面談約一〇分で今日の検査修了、約四時間の手順と所要時間でした。其の後小諸厚生病院に行き、検査結果は転移してないとの事で、田中先生の所で焼付手術を行なう事になり、手術の結果が良いので五回の入院で退院し、月に三回位診てもらっていましたが、三~四ヶ月後に又ガンが再発し、どうでも切って取らなければだめだという事で、松本か長野かと色々に悩んだ結果、長野日赤病院の方が交通の便が良いし、妻が病院に通うにも楽だという事で、結局長野日赤病院で喉頭ガン全摘手術をお願いしようと話がきまり紹介状と資料を持参し、日赤病院の根津先生に面談し手術を行なってもらう事になりました。先生より又相沢病院でPET検査をした方が良いとの話があり、前回と同じ検査の手順と所要時間の目安検査で受診が終わり、二日後長野日赤病院で先生より検査結果の話が有り、手術を予定し、循環器内科、呼吸器胸部レントゲン、心電図、超音波の検査も終わり手術日まで待つ事になり、十一月十日に無事手術が終わり現在三ヶ月が過ぎました。音声無しでこれからは大変だと思うと同時に、食道発声に頑張ろうと思っています。又信鈴会を紹介され行ったところ、皆さん同じ悩みを持つ人達で親切にして下さり、自分も一生懸命練習をして一日も早く自立出来る様、一日も長く生命のある限り楽しい人生を送りたいと思って頑張っております。

『あともう少しの辛抱だ』

松本教室 上條和男

「ア~」一年目。『あと、もう少しの辛抱だ』

声が出たような気がした。

単なる息なのか、声なのか?

家族は「声が、出たよ」と言ってくれた。自分では定かではない。


「ア~、ア~」二年目。『あと、もう少しの辛抱だ』自分が喋れなくなったからこそ、いろいろな事が理解できる様になった。あの人のあの温かい笑顔の中には、人には見せない、どれ程の涙が隠れているのだろう。


「ア~、ア~、ア~」三年目。『あと、もう少しの辛抱だ』

人間関係は、つまるところ言葉に始まり、言葉に終わるものと思っていた。しかし、こうなってから深く考えてみたら、本当の会話ってものは言葉を必要としないかも知れない。でも、私達だからこそ喋る事の楽しさ、重要さ、素晴らしさを理解できるだろうと思います。


「ア~、ア~、ア~、ア~」四年目。『あと、もう少しの辛抱だ』

人生って、やっぱり思い通りには、行かないですね...。しかし、《良い結果を夢みる》そのことが、とても身体にも大事な事だと思います。


七年目。『あと、もう少しの辛抱だ』

幸運にも、再発もなく七年目が過ぎました。いろいろな事を経験した自分達だからこそ、情報を発信する為に喋るという事に執着しようと思います。

自由に喋れないがために、つい、会話が鋭角的になり、穏やかな会話ができず、感情が先走る事例を見聞きする度に悲しい思いをしています。人生って短いようで、結構、長そうです。

穏やかな会話を楽しむ為に、あと、もう少し励んでみましょう。

「あと、もう少しの辛抱だ」

第十七回日喉連東日本ブロック大会に参加して

松本教室 塚本三郎

信鈴会松本教室を代表して去る十月四・五・六日の三日間、千葉市の会場で行なわれた研修と食道発声発表に参加できた事大変勉強になりました。宇野女信鈴会会長を始め他の方々には色々とお世話になりました。首都圏近くの大会であり、私達地方の教室とは様々と勉強の仕方が違っているのかと思っていましたが、各発表会など聞いてさすが銀鈴会のお膝元、少しは良い勉強をしているなーーと感じました。交通の便、又銀鈴会のベテラン講師など大勢いるせいか、など実際感じました。私達長野県の皆さんは、交通の問題又教室の遠さも有り、不利な事ではしかたないなあと思います。本年度も又研修会が有ると思われますが、多くの会員が研修に参加出来ます事を希望します。

私も術後三年過ぎましたが、週一回の勉強会ですが、先輩の皆様のもと努力してきましたが、いまだ声を出す事ままなりません。けれど毎回楽しんで教室に参加しております。声を出す事の不自由な私達は、どうしても自宅にこもりがちですが、私はなるべく教室の勉強会には積極的に出る事にしております。おぼつかないけれど電話にも出るようにしています。体調のすぐれない時も有りますが、気を取りなおして教本の「あいうえお」・・・などをくり返す事もあります。又お風呂で声を出すとか、車の中で歌などと・・・、なかなか簡単にはできません。・・・

十二月~二月の現在、今は一番寒く乾燥する季節です。外出時はつめたい空気をさけて、飴などなめながら、互いに頑張りましょう。

病院の先生方、又看護師の皆様には献身的なご協力に心より感謝しております。たまたま私は木曽の県立病院で大学病院の先生方にもお世話になっております。先生方には勝手ですが教室の勉強や訓練などもアドバイスしていただければ幸いに存じます。声を出せなくなって日頃発声勉強をするに当たり、今まで健康で有りながら、わがままにあしらって来た体を今一度大切にしなければと思う毎日です

笑ってますか?

松本教室 横地泰英

「横地さん、最近笑ってますか?」。急に訊ねられて困惑し、「えっ?」と問い直した。「笑いですよ、笑うこと。はっ、はっ、はっ」。

そういえば、記憶がない。笑いを意識したこともない。手術以来一年になるが、ずっとこんな状態だったような気がする。

僕に訊いたのは、信鈴会松本教室のインストラクター上條和男さんだ。癖のないきれいな食道音で話す。「笑うのは大切なことです。意識して、わざと、大きな声で笑う。はっ、はっ、はっ、とね。」

胸をつかれた。僕は、笑いを忘れた男だったのだろうか。女房は、やりきれまい。周囲の人は、つまらないだろう。自分の殻にこもって、人の気持ちを考えていなかったのではないか。平成十六年秋、九月頃のことだ。

以来、笑うことを意識するようになった。といっても食道から笑い声が出てくるわけもないし、遅れて「はっ、はっ、はっ」とやるのもわざとらしい。身振りや表情で、楽しいこと、愉快なことを伝えるようにしている。日々の気持ちの持ち方が少しずつ変わった。楽しく明るくさわやかに......。

平成十七年。テレビの正月番組で、上方漫才の「やすきよ」をビデオ編集した回顧ものがあった。故横山やすし懐かしさで見始めた。驚嘆した。とにかく面白い。展開の早さ、意表をつくアドリブ。切れ味の鋭さ、動作の大きさ、激しさ。腹を抱えて笑う。声にならないが、横隔膜が震える。手術以来一年半ぶりの抱腹絶倒であった。

喉摘手術前の十五年七月、信大病院のカンファレンス・ルームで、ドクターから手術について説明があったことを思い出す。僕はその一年半前に食道を全摘する手術を受けていた。「食道に比べて、喉頭摘出のQOLはどうでしょうか。影響は大きいですか」と訊いた。「はるかに大きい。声が出なくなるだけじゃない。嚥下能力は低下し、ごっくんと飲めなくなる。嗅覚が失われる。味覚も落ちる。QOLの落ち方は比べものにならない。」食道手術に乗り切ったのだから、喉頭手術は超えられる。そんな自負みたいなものがあった。しかし、ドクターの言うとおりだった。

いろいろな機能が失われ、低下した。決定打が音声喪失。正直言って、かなりつらい状況だ。その結果が、冒頭の「笑いの忘却」だった。「能力の喪失を嘆くよりも、残存している能力を喜べ。」数多いがん闘病記の中には、そんな記述もある。しかし、喉頭摘出の場合、影響が多岐にわたるし、やってみた本人でなければ分らないことが多い。医師や看護師の説明も十分とはいえない。あまり詳細に説明すれば、患者が希望を失ってしまう恐れもあり、アバウトにならざるを得ないのかもしれない。僕を担当したドクターは「生き方を変えるのもいいと思います。これまでのやり方で癌になったのだから、そうじゃないようにするんです。」ごもっとも。しかし、来し方を否定されたようで、寂しかった。

そんな僕にとって、発声教室という組織があったことは、有難いことだった。同病の仲間がいる。週に一度会える。自分が抱えている症状が、特別のものではないことが分かる。再発や転移は嫌なものだが、恐れているばかりでは始まらないこと。喉頭摘出の影響は、共通する症状があると同時に、千差万別なこと、発声教室の仲間を知るにつれ、分かるようになった。僕の場合、喉頭のほかに、舌の根元も切断し、その前に食道を摘出していたぶん、ハンディは大きいようだ。ざっと現状をまとめると、......。

まず摂食量が減った。胃袋がない。貯められない。ラーメン一杯で満タン。入院時の食事指導で、一日五~六食に分けて食べることを教わったが、そう何度も食べたくない。一食を三十分~一時間ぐらいかけて、よく噛んで食べる。少ない量でバランスよく食べるためには、妻の手料理が中心になる。外食は減る。体重はいま五十六キロ。手術前、ヒマラヤを登っていたころは六十五キロあったから、約一○キロ減った。体力は半分以下という感じだ。畑仕事や重いものを運ぶような仕事は続けられない。

心肺能力、酸素供給が落ちている。手術説明のとき、形成外科のドクターが「血行が悪くなり、冬、手足が冷たくなる」といい、僕が登山を続けられるように、植皮の皮膚を腕からでなく太ももにしてくれた。「登山は僕の趣味、ロマンみたいなものですから、こだわりません」といったのだが、ドクターは「ロマンは大切です」と大腿部にしてくれた。しかし、手足はたしかに冷える。朝、愛犬と散歩に行くと、厚い手袋をしていても、第二関節から先は氷のようになってしまう。

ヒマラヤを登るとき、「口すぼめ呼吸」を教わった。鼻から息を吸い、唇をすぼめ、音をたてて吐き出す。加圧することで、肺胞の先まで酸素を送り込む。優れた登山家は、筋力より心肺能力の強さに秘密がある。残念ながら気管孔で「口すぼめ」できない。普通の呼吸を比較しても摂取酸素量は少ないと思う。

嗅覚はほとんどない。トイレも、おならも匂わない。マツタケごはんは、意味がない。味はすれども香りがなく、何がマツタケなのか分からない。味覚は十分あり、食欲はあるが、いかんせん量が入らない。そのうえ、のどに狭さく部があり、五ミリ以下でないと詰まってしまう。いままで四度ほど、詰まった食物がとれず、内視鏡ではさみ取ってもらった。こんにゃく、アジの干物の皮、肉などだ。

狭さくを和らげるには「バルーン拡張」という簡単な手術がある。内視鏡と一緒に風船が付いていて、狭さく部でふくらます。物理的に広げるのだ。いままで四回ほどやってもらった。術後は具合よい。しかし一ヵ月ぐらいで元へ戻ってしまう。やはり注意して噛み砕くしかない。

旅先、とくに外国旅行のとき、内視鏡医を探す不安がある。六月に二週間ほどヨーロッパに行く予定だが、自分の身体について説明した英文カードを携行しようと思う。どなたか、ご教示していただければ幸いです。

喉頭摘出に伴う身体状況については、三十号で田中清さんらも書いていらっしゃるので、これ位にとどめたい。ただ、多くの摘出者にとって最大の問題は「生きがいの創出」ではないだろうか。喉頭がんの患者は、年配の男性が圧倒的に多い。リタイヤし、年金生活を始めるころに、「五年生存率五○%」と告知される。長年の仕事を離れ、会社を辞め、対応が難しい時に、追い討ちをかけられる。声を失った状態で、むなしい毎日と向き合わなければならない。仕事があり、やるべき作業があれば、毎日の目的になるが、それがない。発声教室でも、上達が目覚しい人たちは、仕事を持ち、現役で働いている人、あるいは成長期の子どもを持っている人が多いようだ。声の必要度の高さと、発声の習熟度は正比例する。声を取り戻す困難さは、ここにあると思う。

最後に、退院時、発声や気管孔関係の機材を購入することについて付記しておきたい。身障者手帳交付前でもあり、業者への支払いは先方から見積書を居住地の市町村窓口に送ってもらい、支払いは自治体・業者間で決済する。補助内容は自治体によって多少異なるようだ。中信地方の場合、取り扱い業者は、

◇中日本メディカルリンク(株)第一営業所

〒39918204南安曇郡豊科町高家2287-3

TEL0263(71)3030

FAX0263(71)3033

また、気管孔を覆うガーゼをとめるリングは病院売店で売っている。ガーゼは「ホームガーゼ大学30枚入り」がよい。エプロンのようなネルの「ウィンプロン」(商品名)は、東京の銀鈴会を通じて購入する。Faxすれば、品物を送ってくれる。代金は振り込む。材質はいまいちだが、リングより使用感はよい。

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東京都港区新橋5-7-13

TEL03(3436)1820

FAX03(3436)3497

「友人への手紙...その時の思い」

松本教室 大久保芳郎

前略、このたびの私の入院・手術につきましては、大変ご心配をおかけし申し訳ありませんでした。

平成十五年九月一日入院、九月二十二日手術、十二月二十四日退院。約四ヶ月の入院生活でした。入院・手術を宣言された時の、あの気持ち・思いというものには、何とも言えない悔しいものがありました。不意打ちにあったような、今でも何がなんだかよくわからず、「そんなのありかよ」という感じです。

突然、「入院だ、検査だ、ガンだ、手術だ。」と言われ、痛くも痒くもない身体を切り刻まれ、しかも,声帯まで取られ、声を出すことさえできなくなってしまいました。また、ノドに呼吸専用の「孔」を開け、この孔と肺を直結し、呼吸することになりました。鼻や口から息をすることができない身体になってしまったのです。

自分の油断とはいえ、「医者だって心配ないと言っていたのに何故?」という、悔しい気持ちでいっぱいです。元来、私は医者嫌いで、余程のことがないかぎり医者へ行くことはありませんが、今回については、声がカスレ気味だったこともあり、過去二軒の町医者から診てもらいました。

最初は、三年ほど前。医者から「喉頭ガンを心配して来たか。悪性ではないから心配ない。薬で治そう。」と言われ、半年ほど通いましたが、改善しないため、やめてしまいました。

二軒目は、一年ほど前。「声帯ポリープができている。ポリープがたくさんあって手術はむずかしい。悪性ではないから、薬で治そう。」と言われ、やはり二、三ヶ月通いましたが、一向によくならないため、これもやめてしまいました。

少なくとも、この時医者から「放置すると悪性化してガンになる。」とか「大きな病院を紹介するから、精密検査を受けろ。」とか言ってほしかったと思います。自分では、「悪性ではない」と信じているので、まさか悪くなるとは全く思っていませんでした。今の医療システムでは、信大のような大きな病院での受診は、町医者の紹介が原則のようです。もっとも、高い受診料を払えばできるとのことで、私も一度信大へ直接電話したことがありますが、やはり町医者の紹介状がほしいような対応でしたので、受診を諦めてしまいました。いずれにしても、町医者は少しでも儲けたいから、簡単に大きな病院を紹介するようなことはせず、自分の患者として長く診ていたい。病状が余程悪いか、自分の手におえない時になって、やっと大病院を紹介する。そんな状況のようです。

私は、このような仕組みに埋もれてしまったのかもしれません。そう思うと、悔しい気持ちでいっぱいになり、町医者を訴えたい思いに駆られます。入院直前に、家内からさんざん言われ、医者嫌いの私も重い腰をあげ、三軒目の医者へ行きました。

今回の悪夢は、この三軒目の医者から始まったのです。これが、平成十五年八月二十八日(木)。この医者から信大を紹介され、翌日二十九日(金)に信大で受診。即入院を宣告されました。信大の指示で、翌三〇日(土)丸子病院でM・R・Iの検査を実施。九月一日(月)信大入院。九月三日(水)気道確保の手術。そして、九月二十二日(月)朝八時から夜一○時までの十四時間にもおよぶガン摘出の本格手術を実施。

今でも信じられない。「夢なら早く覚めろ。」と何度願ったことか。・・入院して三日目の九月三日に、気道確保の手術を行ないましたが、これはノドの腫瘍が大きくなることによる、気道の閉塞を防ぐための手術でした。もし、気道が塞がれば三分で天国行きとのこと。医者は、これを一番心配し、入院即手術を行ったようです。

今になって思うことは、ちょっとした作業のあと息苦しさが続き、呼吸が整うまでに時間がかかったのは、腫瘍で気道が細くなり、空気を十分吸収できなかったためと理解できます。

信大へ入院した日、息を吐く検査を行いました。検査に立ち会った看護婦から「ノドに何か詰まっていないか。」と言われました。まさに、腫瘍が大きくなりノドに詰まっている状況です。信大の看護婦はこれを見事に言い当てました。

入院五ヶ月前の四月、○○病院で人間ドックを受けました。このときも、息を吐く検査を行いましたが、この検査では「ノドに何か詰まっている」とは言ってくれませんでした。(ただ、満足な結果が出ないため、何度もやり直しはさせられましたが・・・)医師との面談でも、「声がかすれるので、町医者に行ったが治らない」旨を訴えましたが、「別の医者へ行ってみたら」と言う程度でした。信大とは、技術に差があること、ドックはあまり当てにならないことを実感しました。それにしても、家内からさんざんいわれたために、今回の入院・手術となりましたが、考えてみれば家内は「命の恩人」であったのかもしれません。もし、三軒目の医者に行っていなければ、ノドの閉塞で、今頃私はこの世にいなかったかも?・・・

入院中いろいろな検査を受けましたが、退院直前時点では、他への転移や再発の兆候はなかったようです。また、医者から「術後の経過は順調」とも言われました。放射線治療を三十五回(日)実施しました。これは、目に見えないガン細胞をやっつけるための治療とのことで、この治療により再発率がグンと低くなるようです。手術した「ノド」の周辺組織に、一日一回、約一分(土・日は休み)の照射を行いました。「皮膚がタダレル」とか、「味覚がなくなる」「ノドが乾く」「口内炎ができる」等の副作用が出るようですが、私の場合は、お蔭様で何の副作用もありませんでした。放射線治療完了後、約一週間様子を見ましたが、前述のとおり「異常なし」とのことで、平成十五年十二月二十四日退院しました。

しかし、退院したとはいっても、今後当分の間「二週間に一回の通院」および「向こう約五年間の薬の服用(一日三回)」が必要とのことです。しかも、声は出ません。どう考えても、会社勤めは不可能です。これ以上、会社や会社の仲間に迷惑をかける訳にはいきません。三月末で退職するつもりです。会社をやめた後、これといったアテはありませんが、あまりあわてずユッタリ・ノンビリしたいと思います。こんなカタチで退職するのは、無念ではありますが、自分として「やるだけのことはやってきた」という思いはあります。「一生分しゃべったし、仕事もした。あまり嘆くな。」そんなふうに、自分に言い聞かせています。退職することによって、「仲間と疎遠になる」という寂しさ・怖さはありますが、やはり組織人なのでしょうか。・・・まだ、両親が健在ですし、子供達も片付いていません。つまり、長男として、父親としてやり残しがありますので、まだ簡単に死ぬ訳にはいかない状況です。残された人生、長男として、父親としての責任を果たすことは当然ですが、反面自分の人生(時間)も、しっかり大切にしたいと思います。

今回の件につきましては、本当に大勢の皆様方にご心配・ご迷惑をおかけしました。お正月の挨拶は、年賀状ですませたつもりですので省略いたします。悪しからず。近いうちに一度お伺いしてご尊顔を拝したいと思っています。貴兄の今後のご健勝を祈念しつつ、とりあえずのお礼とさせていただきます。本当にいろいろありがとうございました。

喉頭手術・雑感記

佐久教室 笹辺力

いつかはこの時がくる、とある程度の覚悟はしていたのですが、昨年(平成十六年)二月佐久病院内視鏡の先生より「喉頭ガン」の旨説明を受け、「国立ガンセンター」に行くよう「紹介状」「CT」「X線写真」をいただき訪問したのがつい昨日のように思い起こされます。一ヶ月以上待たねば入院出来ない場合がある由。幸い二十五日位で入院通知を受け即入院、空腸十cmを食道に移植すると説明を受け手術を受けました。それ迄佐久病院にて「食道の内視鏡手術」二回、国立長野病院にて「喉頭の放射線治療」を体験しほぼ完治していたのですが、その後喉に痛みを覚え食事もとりにくい状態が続き、検査を重ねて潰瘍が出来ているとの事で「CT」「MRI」「組織検査」二回を約四ヶ月に渡って実施していただきましたが「ガン」は検出されず一安心しておりました。内視鏡の先生の執念とも思える疑問から三度目の麻酔をかけての組織検査にて幸いにも「ガン」を早期に発見していただきました。従って「喉頭手術」についての予備知識はほとんどありませんでした。入院待ちの間にいろいろ調査はしてみたのですが、何か術後も大変な病気とうすうす知りました。実際に自分の事として体験しますと、すべて新しいことの出会いであり気管口が外に出されることによって体の仕組みの大きな変化を思い知らされました。一つ一つがすべて新しい体験であり、体調そのもの、例えば「濃淡の鼻水が出て止まらない」「器官口より血痰が出て硬くなってしまう」「空咳がよく出る」「お腹が張る」「便秘と下痢の繰り返し」「半年振りで経口食がとれるようになってもソバがのどにつかえる」「すこしリキムと胃より液体が逆流してくる」「顔首の張れ」等の現象が異常なのか、「手術自体に伴う恒久的な変化」なのか、「正常で時間と共に解決」するのか、又は「訓練によって改善されるのか」不安の中に日々を過ごすことになりました。

本来目的の摘出手術の方は順調に終了。顔首の張れのすごいまま入院後一ヵ月後退院ということで確認として「CT検査」をしていただきましたところ、「移植空腸」に何か細菌がつき化膿しているとの事で膿除去用の管の挿入手術を急遽受けました。又悪い事は重なるのもで、手術穴と口の中が「X線バリューム検査」にて検出不可能の孔により流通、退院お預けばかりでなく一ヵ月振りにとれるようになった食事も「経管流動食」に逆戻りせざるをえなくなりました。自分の顔が無くなる様に顔と首廻りの張れがすごい中、毎日「ドレーン管」より膿の自然流出と更なる化膿防止のための消毒の日が続きました。安全回復をみないまま近くの医院に通院ということで経管食のまま、流動食の扱い方を家内が教わり入院より約二ヶ月半振りに退院となりました。その後は毎日自宅より近くの外科医院へ通院生活を送りました。その間に大便の通じが悪くなり浣腸もしていただいたのですが思わしくなく、「流動食用の管ともども胃の中のものを数回に渡り戻してしまう事態に遭遇し急遽佐久病院にて「CT検査」の結果、腸閉塞の疑いとの事で一ヵ月の入院を余儀なくされました。予期せぬ事の連続で食事も約半年間「経管による流動食」しかとれない日々を送りました。手術より半年後ドレーン管もやっと抜けるようになり「経口食」もとれるようになりましたが、ドレーン管を抜いた穴をうめるに更に三ヶ月の通院となりました。何といっても運動不足も手伝い体力が衰え、特に「太モモ」の筋力の落ちが激しく歩行も困難な状態が続いている中、更に追い討ちをかけるように「貧血症」。又本年(平成十七年)に入って一月四日新年早々に食道に従来より発症している「多発ガン」が大きくなったという事で電気による「焼灼治療」を受けました。入院より約一年を経過しようとしているのですが、よく次から次へといろいろの事が続いてくれるものです。やはり「ガン」は部分の病気でなく全身の病なのかもしれません。一つの治療により体力が衰えると次の弱いところに何かが表れる。従って体力の必要性、「健康第一」をしみじみ考えさせられます。いずれにしましても、おかげ様で二病院二医院の諸先生方、関連の皆様よき方々に恵まれ何とか元気を取り戻しました。心配していた大きな手術は順調に無我夢中の間に回復したのですが、小事と考えた事が仲々思うにまかせず時間を費やしてしまいました。決しておろそかにした思いはないのですが、小事と考えたどこかに隙があったのかもしれません。小事と思える事への取り組みの大切さも、今回病気になっての教訓の一つです。一年間を闘病生活、私以上に家内の涙ぐましい努力、そして身内の方々、関係諸氏の温かい支援により生かされて来ました。無我夢中と不安の中の一年であり貴重な時間を浪費してしまった感もありますが、今冷静に振り返ってみますと、今迄の六十余年に劣らない体験、新しい出会いがあり、むしろ充実した一年であったかもしれません。唯私の家内より、経済的負担はもとより、個人的な趣味の時間から仕事に至るあらゆる取り返しのつかない貴重な時間を奪ってしまった事が悔やまれます。

此の一年間立派な医師先生方、看護師さん達に恵まれ色々な事を教わり、又その仕事の大切さ、大変さも眼の当たりにしました。特に毎日接している看護師さんに例をとりましても、二十四時間三百六十五日文字通り年中無休の勤務体系でかつ組織の「規律」「マニュアル」に縛られながら、千差万別の患者に接しているだけでも並大抵の仕事ではありません。専門的臨床的知識は当然必要とされることと思いますがその体力、「人間的側面」「病変に対応するスピーディな落ち着いた行動」「忍耐力」等が要求されます。大変な仕事と感じながらも毎日を我がままに入院生活を送らせていただきました。感謝の念に絶えません。

二病院約三ヶ月半の入院生活でしたが、その間残念でならないのが四人の看護師さん達の、そして退院後外来で通院時、家内が「ナースステーション」を訪問したのですが、私の担当看護師さんも退職の由、都合五人の方が退職しております。非常に淋しく感じました。退職理由そのものは各人異なると思いますが、激務も原因の一つではないかと想像もされます。それと同時に四月の入院生活という事もあって大勢の新人の看護師さん達にもおめにかかれました。希望に満ち溢れてのスタートと思いますが、そういう人達のよき先輩指導者としても退職は惜しまれてなりません。毎日の体調管理につきましてはほとんどお願いしてお世話になりました。意識もうろうの「ICU」の三日間をスタートに体調回復するなりに我がままを言って助けていただきました。思い出に残る事は沢山ありますが、その中で今も鮮明に思い起こす事は「ICU」で又「毎朝夕」丁度入院中二度の「地震」にあいましたが、すぐにかけつけてくれた看護師さん、「退院」時にとそれぞれ時に応じて温かい笑顔で接していただいた事です。笑顔が想像以上に私に安心感を植えつけてくれておりました。余計な事かもしれませんが患者に対する「ケア」はいろいろ論議もされ改善の方向に前進しつつあるように感じます。願わくば患者に一番身近にそして長時間接する看護師さん達が毎日笑顔を持って経験を積んでいける環境施策等も合わせて考慮していただければと思っております。此の様に今迄あまり経験の無い職務とその行動を見せていただきました。又一方、六十四年の人生に於いて見えかくれしていた人間関係につきましても病気になる前には決して見えなかった事の真偽も浮きぼりにされて来ま

した。

今後の新機構をどう育成していくか不安に毎日を明け暮れしておりましたが、又も幸いに佐久病院入院中、「信鈴会の佐久教室」を紹介していただきたい医院後訪問入会させていただきました。会長さん始め教室の皆様の積極的な行動、そして陰で尽力されている奥様達の笑顔に接する事が出来「発声」「対病」「他」諸体験をお聞きしたり貴重な諸資料をいただ,き読ませていただいたり出来まして、何か今迄と違った生きがいと生命力が芽生えて来ております。発声も当然のことながら新しい経験のない人体の仕組み習慣を生み出していかなければと思っております。此の一年を振り返ってみますと何か「大いなるもの」「天地自然の恵み」と「周囲の皆様方の努力」「目をみはるばかりの医療関連諸技術の発展」それ等の「複雑多岐にわたる紙一重の縁」によって生かされている感があります。入院生活一つをとらえても「医師」「看護師」「栄養士」「薬剤師」「麻酔師」「諸施設の保全管理士」他数え切れない皆様方の努力連携によって無事治療を受けられます。それぞれの方々に対して具体的恩返しは無理と思われますし、感謝の言葉もかけられません。それらの全智全能をもってしてみても、生み出すことはもとより「再生」させる事の不可能な今、与えられている「生命」をより「大切に生き抜く」否「生かしていただく」努力が感謝の気持ちをこめた、せめてもの恩返しの一つかと思います。一つの病は本人の苦しみ、不安はもとより、家内はじめ諸関係の方々に多大な心配・迷惑をおかけする事も痛感しております。さすがの我が女房殿も看病はじめ一人何役をもこなし疲労の色が見えかくれして来ました。その中でもおかげ様で毎日笑顔で接してくれております。此の笑顔に何度も助けられました。これからは私も笑顔を持って体力の回復、病気の再発や余病の予防に全力を挙げねばと決心しております。信鈴会の会長様はじめ指導者の皆様方、そして陰でお力添えして下さっている先生方、大変な事とは存じますが、発声の指導はもとより、よりよい生きがいの動機づけの場として会を発展していただき、御指導をお願いします。会の発展と皆様方の御健康を祈念しております。

ものを教える。

長野教室 竹前俊宏

ひとにものを教えるということは、もう何十年も前、船乗りを生業として数年、船での仕事にもなれ、なにをやってもほぼ一人前、貨物船タンカーいずれでもござれ、あとから入っている新米の船員たちに、いっぱしの古参風を吹かせつつ仕事の段取りやコツをコーチした時のことで、はるか思い出のかなたになってしまっており、それ以来はしたことがありません。

船という職場も、人件費切り詰めのための人員合理化、どんどん乗組員の数をへらしてその分機械による自動化を進めていたときで、しかし、人数の減っただけ一人当たりの仕事量は増える一方。しっかりと、早く教え込まないとたちまち自分のところに負担増というツケが降りかかる、ですからかなり強引なところもありましたが教えるのに力が入ったものでした。何を隠そう、自分が楽をするためにそれが一番でしたので。

昨年から長野日赤の発声教室へときどき参加させてもらって、「号令、1・2・3......」などとお手伝いをしているうち、信鈴会の会長、教室のリーダーである宇野女さんから、ここも最近手術をして入会してくる人が増えているのに指導員が足りなくて困っている、つねに指導員全員の出席が得られるとも限らず、教えるのを協力してくれぬか、とお願いを受けました。

私がこんにち何とか会話に不自由せず、暮らしを維持していけているのは、この発声教室のシンボルでもある鈴木ふさ先生、義家先生その他のコーチの方々、仲間や先輩の懇切ていねいなご指導のおかげと感謝しておりますので、せっぱつまった事情を聞いて、ちょっと安請け合いかなと思ったり、自分にうまく出来るものか心配しましたが、さんざんお世話になった恩返しに、やってみるかと二年間の約束で引き受けました。ちゃんとした「辞令」までてもう後へは引けない。

五月から教室内で五つに分かれたグループのうちの一つを受け持って初級クラスの二人、入門段階の方三人と一緒に声を出す練習をしております。

が、船で、ワイヤロープや繊維索のハンドリング、ウインチ(揚貨機)やクレーンの運転、入港出航の際のスタンバイ作業の要領(船を港の岸壁に着岸、離岸させる)といったことを教え込むのとは違って、食道発声をコーチするのは思ったよりも難しいことだと最近よく思います。- 松本市の指導員研修会で教わった、東京銀鈴会が作成してくださったマニュアルなどを踏まえて、オリエンテーションから声を出す実際までをやっているのですが、「ゲップを出すためにはどうするか」と聞かれても、これがうまく口では説明できないのですね。はて、私はどのようにして会得したのであったか、思い返してみても心もとない。いろいろな方法があるはずだと、手引き書に写真つきで出ているのを試してもらったり、「先ず、口を『あ』の形に大きく開き、口一杯に空気をため込んですぐ閉じる。そう、金魚の口のようなかたち。その瞬間に溜めた空気を舌の根っこの部分で奥へ押し込みながら腹をへこます。それで空気が喉の奥、食道の方へと取り込まれる感じになりませんか」なんて言っていますが、説明があまりうまくないせいか、すぐには駄です。しかたがない、たいていの人はある程度の間がかかるものですといって、へこたれずに何べんもトライしてみるように勧めております。

私のテーブルでは朝、出席者がそろった時に一人ずつ「今朝あなたは朝食に何を食べてきましたか」と質問し、前回は「ごは...」としか出なかった方が「ご飯と...」「みそしる」、はっきりと聞こえる音になっていたりすると嬉しいものです。

自分の教え方が大したものでないことを棚に上げて私は自分で思っている「声にするための王道(一番ラクな方法)」というのを皆さんに申しあげて「これでいってみましょう」と当面やっておりますが、それはこんなことです。

①練習を継続させる②繰り返す。あきらめない③口を正しく形づくる。④無理しない、疲れたら休む。といったことです。

その後「げっぷ」を出すことを感じとして分かってきたならば、一度に吸入した空気を節約、効率よく使って数文字を続けて出せるようにするのです、というわけですが、これに慣れるのは人により早い遅いがあっても仕方ないでしょう。

出口のないトンネル、朝の来ない夜、止まない雨なんてないわけですから、希望はつねにあって、先の四つの自己流の「王道」の中でも①の「継続」が決め手であると私は思っております。止まってしまった列車はトンネル出口には至りません。

私と一緒に練習している方の中に「家ではほとんど字で会話しないですんでいる」と言われる人が三人おります。これは楽しみですね。そのうちコツが分かって、進歩の度合いも加速され、毎日の生活がそのままトレーニングになる、という段階になってきます。そうしたら外へどんどん出て、地域の人々と会話をするような前向きな姿勢になっていただきたいと思います。物おじしたり、引っ込み思案になることはいけません。

自分の至らないことはさておいて、好き勝手をいうことはなかなか勇気の要ることです。学習にもつと効果があがる方法はないか、手探りですが研究してみます。 (平成十七年三月)

「原稿書いてくれたかい」

長野教室 鈴木ふさ

毎回の発声教室には迎えに来て頂いて出席させて頂いています。今年は発声教室が発足して三十五年になるのでと、宇野女さんからお聞きしているので、唯申し訳なく恐縮してました。

日赤長野病院で手術を受けて、半年ぐらい過ぎた頃、浅輪先生から女性では初めての患者さんなので発声練習には協力してねとの事でした。出来るお手伝いはなんでも話して下さいといって、次回からの教室出席の気持は今までより緊張したように覚えて

ます。

東京の銀鈴会へ見学、そして入会してからは月三回の練習にも参加させて頂きました。そして総会にも出席して競技会にも参加、二等賞の花びんを頂きました。その当時の事は時々思い出します。おかげ様で元気になり出来る事はなんでもお手伝いさせて頂いてます。

老後社会に貢献出来ることは何か考えた

長野教室 柿崎庸三

私は六十五歳の時に癌を患い、幸い一命を取り留めました。この時を境にして仕事を廃業致しました。その後体力が回復するにつれて毎日朝から家に居てテレビにかじりついて、ごろごろして居ることが苦痛になってきました。そこで何か仕事ではなくボランティア的な事ができないかと思っておりました。しかしながら私には十五年来の狭心症の持病があり、体力を使う作業は息切れして出来ません。それでたまたま頭に浮かんだのが二酸化炭素を削減する太陽光発電でありました。さてここで二、三の会社をあたってみましたが大体似たようなものでした。太陽光発電の採算性について調べてみますと、大体やらない方がいいという結果でした。初期投資を年間の電気料で割ってみると約二〇年を経たないと元が取れません。こんな事をしてもしょうがないと思っていました。その後しばらく何もしないで居りました処、地球温暖化が盛んに叫ばれて参りました。その最大の原因は大気中の二酸化炭素の量が増える事にあると言われています。とにかく二十世紀以降人類は爆発的に化石燃料を消費し大量の二酸化炭素を大気中に放出して参りました。その結果大気の温度がだんだんと上昇してきてしまいました。そこで数年前、世界各国が京都に集い二酸化炭素の排出削減のいわゆる京都会議による京都議定書を作成して各国に削減のノルマの義務付けを致しました。しかしながら最大の排出国であるアメリカが脱退してしまいましたが納得がいきません。

それはさておいて、ある程度リスクはあるけれど、太陽光発電を使う事によってその分だけ二酸化炭素出さないという大義名分を自分勝手に考えて、私は家の屋根に太陽光電池を取り付けました。以下に現在の使用状況を記します。

次表の発電量を、二酸化炭素の排出量に換算すると削減されたCO2の量は、平成十五年は3609kwhx0.2=721.82kg、十六年は3638kwhx0.2==727.62kgとなります。ちなみに、我が家の電気使用量が、十五年は3789kwh、十六年は4309kwh。太陽光による電気のまかない率は十五年が95%、十六年が84%となります。

「健常者から見て」

長野教室 竹前照代

ながい冬が終り、春がそこまできています。スペシャルオリンピックも終って、新しい時代の到来を感じます。昔の障害者は悲惨でした。それが子供ごころにも焼きついています。貧しい国の障害者をみると、「日本もかつてはそうだった」と思い出します。日本の経済の発展とさまざまな人の尽力、私達の意識の変化が、今の障害者の為になっていると思うのです。三つのオリンピックを長野で行った事は、人々がいだいていた障害者に対する無知や偏見の意識を変えていくための大きなきっかけになったと思います。「この美しい人はだれ」と回りの人に聞いた後で、「細川加代子」さんと知りました。「長野県の人々の温かい心と協力に感謝する。苦労も多かったがそれは吹き飛んだ」「毎年この長野で国内のスペシャルオリンピックを開催したい......」とも。財政界の人々の働きは大きな力を発揮する。私達は今よりも世の中をひとの住みよいところにしたいという意識を持ち、常にそのような気持ちでその達成を求めてゆくことが大事だと思う。優れた構想と強い意思と激しい情熱が実現の原動力となることを示しています。私の夫も声を失った障害者です。その苦しみは、勿論本人にしか分からないが、努力し訓練して(全員ではないけれど)、声が出せるようになればやがて会話も出来るようになり、健常者と同じような生活ができるようになる。素晴らしいではありませんか。十四年振りに教室を訪れ、思わず指導員を申し出て、このような形になりました。癒しの場所、訓練の場所がある、この教室をもっと良い方向へと考えています。

環境をはじめ地球規模で人びとが協力していく時代になってきています。私達一人ひとりが、弱い人びとの立場を思いやり、共存していくことが豊か社会を創りだせるものと信じています。

平成17年刊 第32号

巻頭の言葉

信鈴会会長 宇野女健

「愛」の字で暮れた昨年・「愛」地球博・さまざまに「愛」の言葉に潤い・優しさを感じました。私達仲間の基本理念も「愛」であります。仲間の希望を実現するように、常日頃より、長野県信鈴会日々の活動について、会員はじめ役員・指導員の皆様・ご家族の皆様並びに行政・医療関係者の温かいご支援・ご協力を頂いて活力ある事業が進めていけます事に心より深く感謝と御礼を申し上げます。

平成十七年十一月七日・私共身近な福祉の一環として飯田市立病院内に長野県信鈴会六番目の発声教室が発足いたしました。この教室発足に伴い今野相談役のご努力、飯田市立病院の受け入れご協力に心より感謝申し上げます。幸いな事に、飯伊地域には大先輩の仲間が居られ他の教室と同じく、教室の和の中で支援に力を得て、発声練習に弾みがついて社会参加につながるものと信じております。この会の主目的である食道発声の訓練は、日々の努力や根気を必要としますが、その獲得は人、其々で、術後の経過と体力によってなかなか上手くいきませんが、信鈴会は同病者による同病者の為の会ですから、誰が先生でも生徒でもないのです。喉摘者の先輩が、自分の経験を取り入れ、仲間に伝授して、少しでも早く声が出ること(EL)を願っているのです。信鈴会の事業の一環として合同新年会も回を重ねる事今年で四回でしたが新人の方、又四・五年ぶりにお会いできた人、積もる話に花も咲き、時の過ぎた一夜でした。このような仲間の皆さんの家族の方々の期待と声の出る願いを、大切に・親切と・優しさを。信鈴会の合言葉として日々励みにしたいと思います。仲間の皆さんが元気で信鈴会の事業に参加できますよう念願いたします。

支え合い共に生きる社会を目指して

長野県社会部障害福祉課長 竹花秀雄

日頃、貴会におかれましては、県の障害者福祉施策の推進に多大な御協力をいただき厚くお礼申し上げます。

昨年十月末に成立しました障害者自立支援法は、今年四月から順次施行されるところであり、障害者福祉は大きな転換の時期を迎えています。

この障害者自立支援法では、これまで障害種別ごとに異なる法律に基づいて行われていた福祉サービスや公費負担医療などを共通の制度とし、より公平で効率的なサービスを提供することを目指しています。

また、国の財政負担の責任を明確化するとともに、利用したサービスの量や所得に応じて、利用される皆様にも費用を御負担いただくことで、共に支え合いながら、安定的かつ継続的な制度運営を図るものです。

さて、音声機能障害のある方々への施策としましては、音声機能を喪失された方のための発声訓練と、発声訓練指導に当たる指導者を養成する事業を、これまでにも貴会の御協力を得て実施してまいりました。

これらの事業につきましては、障害者自立支援法でも、県の事業として位置づけられており、新年度におきましても引き続き積極的に取り組んでまいりたいと考えているところです。

発声訓練を始め、貴会が実施されておられる様々な活動は、会員の皆様の交流の機会でもあり、お互いを支え合う重要な役割を担っていることと思います。

今後とも皆様には、それぞれのお立場で、積極的な活動を継続していただきますようお願いいたします。

最後になりますが、貴会の益々の御発展と、会員の皆様の御健勝を心から御祈念申し上げます。

心身ともに健康に

信大医学部名誉教授 田口喜一郎

二〇〇六年を迎えて、皆様新しい年への抱負に胸を膨らませておられることと拝察申し上げます。

さて、私の健康維持法はどうかと聞かれますと、少なくとも二つのことを実施していると答えます。それは誰にでもできる簡単なことです。すなわち、

一、できるだけ体を動かすこと、二、体重を気にする事です。その他も何方にもできることばかりです。

一、体を動かすこと

体を動かすことに関しては、専ら歩くことにしております。寒い日は完全防備をして出掛けます。天候によっては家でストレッチなどしますが、歩くのが一番手っ取り早く、運動量としても十分達成できるのです。特に、歩行計(万歩計)をつけて歩くと、歩数、歩行距離や消費カロリーなどが分かり、励みになります。理想的には歩行だけで一日三百キロカロリーを消費するのが望ましいといわれますが、これは私の体形からすると一万三千歩位になり、達成するのはなかなか難しいと思われますが、実際やってみると、週三~四日ならそう難しくないことが分かって参りました。距離は六~八キロで、時間的には一時間二〇〜三〇分位で達成できます。最初の一カ月を何とか頑張れば誰でも可能になりますので、是非やってみてください。最初は一日三千歩位から始め、少しずつ増やしていくのがコツです。

二、体重を気にすること

体重は毎日徐々に変動しますので、世の中過食で肥満者は増える一方です。毎日一定の時間に、排便後体重測定をすることを心がけると、自制心が働いて何とかしなければという気持ちになるから不思議です。一番よいのは、朝食前とされております。体重が必要以上に増加することは、動脈硬化や糖尿病などの生活習慣病に結びつくので、注意しなければなりません。今や日本人は十人に一人が糖尿病乃至その予備軍とされ、特に中高年に多いのが問題です。私も退職してから、自宅に居る時は間食の機会が多くなりまして肥満になり勝ちですので、専ら歩く機会を多くして肥満予防をしております。さて、皆様は暇な時間をどのようにお過ごしでしょうか。何か趣味を生かすのが一番ですが、何もないからといって、テレビにばかり齧りつくのは感心できません。

三、社会にでること

家庭に引きこもることは老化を早めます。できるだけ人と交流を持つことです。一般に女性は社会適応がよく、友人ができやすいが、男性はその点孤独になり勝ちです。職を退くと時間を持て余し不健康になりやすいので、積極的にやるべきことを探して頂きたいのです。家族や友人とのスポーツや旅行もよいでしょう。思いつくものがなければ、今は多くのボランティア活動の機会がありますので、そういったものに関与するのも一法でしょう。信鈴会の会員の皆様方の集まりは、本当に意義深いものなのです。

今年度から介護保険法が改正され、その主眼が障害の介助から健康増進、体力の保持・増進に方向伝換されました。受益者負担料が増す一方、健康保持のための企画が様々用意されるとされております。具体的なものは今後いろいろと計画されますので、個人でもよいが、グループで利用することができれば効果的でしょう。信鈴会の皆様が介護保険を利用できる方向を探ることが必要になります。行政の支援で利用することをお考えください。

四、苦しいときこそ笑いを

世の中嫌なことが多発しております。近年日本人は笑いを忘れたのではないかとさえ言われております。いわゆる「切れやすい日本人」が増え、多くの不快の社会問題や犯罪を誘発しております。人生には意に副わないことは少なくないのですが、今まで順調な生活を送って来られた人には、些細なことが不満の種になりかねません。これは教育の問題とか環境の悪化とかいわれておりますが、要は各人が我慢し苦難に耐える力を獲得することが必要です。社会不適応者や子供は周りの人々の協力が欠かせません。物事をできるだけよい方向に解釈し、気持ちに余裕の持てる家族や隣人を育成するために、自ら笑顔を持って人に接するよう心掛けることです。

近年の研究では、笑いをもたらすような生活は免疫機能を高め、例え重症な癌のある方にも延命効果があるとされております。笑いは人生を豊かにするばかりでなく、健康にも貢献するのです。五、最後は自己管理

以上いろいろ挙げて参りましたが、健康保持の基本は自己管理なのです。例えば、喫煙はよくないことが分かっていても止められない人は、喫煙による障害を避けることはできません。喫煙で各種の癌が発生しやすいことはよく知られておりますが、慢性閉塞性肝機能障害を生じ、年をとってから喘息のような症状に悩まされる事が知られて参りました。また、受動喫煙といって、タバコを吸う人は、家族にも健康障害を生じることが知られ、特に発癌性は本人より一緒にいる家族により強く働くことが分かりました。喫煙者は、是非家族のためにも禁煙・減煙に努めてください。アルコールや甘いものなどについても同じことがいえます。自己管理の重要性は、何事にもいえることです。

笑いの効用

伊那中央病院院長 小川秋實

古くから笑いが健康によいことが知られていて、各地に「笑いの道場」、「笑いの教室」などがあります。最近は「日本笑い学会」、「笑いと健康学会」などで学問的にも研究され、また療養環境に笑いをもたらそうと、「癒しの環境研究会」も設立されています。

笑うと副交感神経の働きが活発になり、リラックスし心地よさを感じます。また、脳が刺激されて、免疫機能を活性化する物質を分泌し、ガン細胞やウイルスを殺すNK細胞の働きを高めます。さらに、脳がベータ・エンドルフィンという物質を分泌し、快感や鎮静作用を起こします。

落語を聞いて笑うと脳の血流が増えることは、脳の血流を画像で示す検査装置を使って証明されています。また、笑った後は、リラックス時に出る脳波と思考時に出る脳波が共に増えていて、脳が元気になっています(中央群馬脳神経外科病院・中島英雄医師)。

筑波大・村上和雄名誉教授は、糖尿病患者に漫才を見せ、その後に血糖を調べたところ、血糖値が驚くほど低下していました。血糖値をコントロールする遺伝子の働きを笑いが変えたのだといっています。

リウマチで関節の痛みがひどい人に落語を聞いてもらった後で血液を調べてみると、関節の炎症が悪化すると増える物質が明らかに減っていました。それと同時に、痛みも軽くなっていました。この実験をした日本医大の吉野槇一教授の話では、薬でこれほどの効果があるものはないとのことです。この笑いの効果はアメリカの医学雑誌にも取り上げられています。

誰でも一日約三千から五千個のガン細胞が生れます。これらのガン細胞を破壊するのがNK細胞で、この働きが弱まるとガンが発病します。落語を聞いた後にNK細胞の働きが活発になることが証明されました。

ノーマン・カズンズという有名なアメリカのジャーナリストは、強直性脊椎炎という治療法がない難病に罹り、治る確率は五百万分の一といわれました。痛みに耐えながらもベッドの上で大笑いをしたら、数時間安眠できました。大笑いを続けたところ奇跡的に病気が完治しました。彼はこの経験を著書で出版し、カリフォルニア大学に精神と免疫に関わる研究所を設立しています。

日本医大・高柳和江助教授の話では、友人の小児科医が悪性リンパ腫に罹り、生存率二十五パーセントといわれたので、「一日五回笑って、五回感動して」という処方箋を送ったところ、その小児科医はその処方を実践し、一年後検査で悪性リンパ腫が消えたとのことです。

これらの事例は例外的なことかもしれませんが、笑いが病気の改善に有効な働きをすることは間違いありません。外国からも、笑いでガン患者の生存期間が延びたという報告や不眠症の患者が笑うことで睡眠薬なしで眠れるようになったという報告が出ています。

笑いは良いことだらけです。笑いが苦手だという人は訓練すればよいでしょう。鏡を見て笑顔を作る。声を出さなくても、効果があります。心の底から楽しく笑うほうがよいでしょうが、つくり笑いや愛想笑いでも効果があるといわれています。

とにかく、「笑う門には福来たる」です。大いに笑うようにしましょう。

信鈴会飯田教室開室にあたって

飯田市立病院耳鼻咽喉科 塚本耕二

伊那中央病院で喉頭全摘の手術を行わなくなって約七年が経ちました。飯田市立病院では十年以上前から喉頭全摘の手術を行なっています。

しかしながら、手術後のリハビリテーションとして、また同じ苦労を分かち合う仲間が知り合う場所として重要な役割を果たしている発声教室が存在していませんでした。また、飯田下伊那地区の喉頭全摘を行なった方は、伊那中央病院の発声教室まで三〇km以上もの距離を通院しなければならない状態でした。

このような状況は改善しなければいけないのではないかと考えていた時に、患者さん、看護師からも当院への発声教室の開室の要望が持ち上がりました。

私自身は大したことは出来ませんし、行なってもいませんが、病棟や外来の看護師が伊那中央病院などへ見学に行ったり、今野さんがわざわざ飯田市立病院へ足を運んで頂いたりと、多くの方々の努力のお陰で開室することができました。このことは飯田市立病院にとっても、地域の中核病院としての役割を果たせて、名誉なことではないかと考えています。

今後は喉頭全摘を行なければならない患者さんがみえた時に、発声教室を見学してもらって、手術を受ける勇気を与えてくれるような教室に発展していってほしいと願っています。

微力ですが、その発展の一助になれれば嬉しく思います。

信大病院の六十周年を思う

信大病院副看護部長 松本あつ子

会誌「信鈴」の発刊おめでとうございます。役員理事の皆様、本当にお疲れ様でございます。

信州大学医学部附属病院は六十年の歴史を重ねてきたのだそうです。昨年十一月「六十周年記念式典」が催されました。今の土地に来る前は開智小学校の付近にあり、火事に遭遇したこともあったそうです。国立松本病院と隣同士で診療をしていたとも聞きました。医療は、月並みな表現ですが日進月歩で発展しております。身体にとって侵襲の少ない治療法も多く開発され、私が看護師を始めた頃(六十年には程遠いですが・・・)とはかなりの差で退院までの日数が短くなっています。看護師は目まぐるしく変化する日々の業務に追われる事になり、ゆっくりと患者さんとお話する時間もないという状況になっています。私はこれまでも多くの患者さんを看させていただくと同時に、患者さんから育てていただきました。例えば採血や点滴の針を抜くとき、出血しないように針孔に当てた綿を押さえながら抜いていました。しかし、直接針を押さえるために痛いのだそうです。「抜くときは押さえないで、抜き終わると同時に押さえると痛くないのよ」と教わりました。これは患者さんのベッドサイドでじっくりと話をしながら「あなたに教えてあげる」と言って教えてもらったことです。他にも背中や腰のさすり方、絆創膏の貼り方、剥し方等たくさんあります。

このように患者さんから育てていただいたという思いは非常に強くありますが、現在のように目まぐるしく変化する現場で、どれほど患者さんとじっくり話す時間がとれるのでしょうか。ギスギスせず、温かく患者さんに接することができる、そして成長したと感ずることのできる看護師を、今の世の中だからこそ育てたいものです。

さて、六十年を刻んだ歴史の中で建物も再開発で新しい建物に変わっています。先ず、古い病棟から新しい病棟へ変わりましたが、それでも既に十年が経過しました。その後は中央診療棟(救急救命センター、レントゲンなど)を建てかえ、そのたびにきれいになるのですが人の動線が複雑になり、距離も伸びています。ある患者さんから「元気でないと病院に来られない」と言われたことがあります。確かに、検査のたびにあちらこちらへ移動していただくわけですから本当に大変だと思います。

今年、最後に残った最も大変な外来棟の工事が始まります。工事に伴って現在廊下として使用している中病棟(旧レントゲン撮影室の建物)が取り壊され、今以上に動線が長くなり、ますます分かりにくい状況になります。再開発が終了するまでの今後四年間をいかに安全に、そして快適に過ごすかが課題となります。少しでも良い病院になれるように、職員もさることながら建物の充実を図る必要があると思っています。

NST(栄養サポートチーム)の立ち上げ

信大病院東2階病棟師長 丸山貴美子

「会誌・信鈴」第三十二号の発刊おめでとうございます。今年度は飯田教室も開設され、長野県信鈴会のますますの発展をお喜び申し上げます。

最近の医療界では、チーム医療という言葉が浸透してきました。患者様の医療を行うにあたって、医師、看護師、その他の医療スタッフが、それぞれ個別に計画を立てて支援するのではなく、お互いに患者様の情報を共有しながら意見を出し合い、治療、療養、リハビリテーションなどに関わることを目的としています。さらに様々な職種から人選された専門性をもったチームを作り、診療科の区別なく全患者様を対象に活動することも日常的になってきました。感染対策チーム、褥瘡(床ずれ)対策チームなどが当病院では機能しています。

そのような背景の中で最近話題になっており、厚生労働省も診療報酬のなかで活動を評価し、加算対象に加えようとしているのがNST(栄養サポートチーム)です。患者さまが治療をし、療養し、リハビリテーションをするにあたって、重要なのが栄養状態です。しかし、手術に伴う絶食、薬剤の副作用による食思不振、経管栄養剤による下痢など、患者様の栄養状態を低下させる条件はいっぱいあります。そのような栄養障害をチームで関わり、その患者様にとって最良の栄養摂取方法を検討し主治医と共に考えるのがNSTの役割です。

実はこのNSTの活動がうまく機能し、患者様方の栄養状態が改善することのメリットは大きなものがあります。栄養状態の改善は、免疫力の向上につながり、感染予防、創治癒促進、褥瘡予防、活動の向上につながっていきます。患者様が病気と向き合うための力の基本となるものです。またこのことは入院期間の短縮、医療材料や薬剤の節約にもつながり、病院経営という点からもメリットが大きいと言えます。

当病院でも、先日病院スタッフ全員を対象とした説明会を開き、三月から活動を開始する運びとなりました。NSTを構成するメンバーは、医師、看護師、管理栄養士、薬剤師、言語療法士、臨床検査技師など様々です。当病院では規模が大きくなってしまうため、小回りの利く関わりが難しくなります。そこで各病棟単位でNST活動を行い、対応に苦慮する症例を中央のNSTで検討するという体制を考えています。

しかし、全病棟でこうした新しい活動をするチームを充分に機能させることは、並大抵のことではありません。そこで重点的に活動を行い、他のモデルとなるべき病棟がいくつか選ばれ、当病棟もその中に入っています。当病棟が選ばれた理由は、耳鼻咽喉科という頭頚部の疾患による食事制限のある患者様が多く、医師の指示の下、患者様の希望を考慮しながら管理栄養士と相談し、流動食や食事形態を考えてきた実績があったからです。信鈴会会員の皆様も、術後口から食べられるようになるまで、経管栄養を行っていた覚えがおありでしょう。

NSTの活動の評価では、記録を残すことが重要になってきます。当面、当病棟では今まで行ってきたことを新たな患者様を対象に、医師、看護師、管理栄養士、薬剤師、言語療法士とチームを組んで検討し、評価していこうと思っています。患者様の栄養状態の評価、検討、対策、結果、再評価をきちんとした形で記録に残すことは、今までの活動の評価にもつながり、意味のあることだと思っています。

これから始まる活動ですので、色々模索しながら行なうことも多いと思います。そんな時にはぜひ信鈴会会員の皆様の生の声を聞かせていただけたらと思っています。術後こうだったよ、口から食べることができるようになった時はこんなことに苦労したよ、こんな食事はだめだったよというようなご意見がありましたら、お聞かせください。今後ともよろしくお願い致します。

新しい教室の開校

飯田市立病院看護部長 松島令子

平成十七年十一月十七日、信鈴会発声教室が飯田市立病院に開校いたしました。皆様方のご支援・ご協力に、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

平成十七年度、看護部合同師長主任会の席上で、耳鼻科病棟を担当する看護師長から、発声教室の話を聞きました。飯田市で発声教室を開催することができれば、南信地域の患者さんにとって、通院は容易になります。さらに、患者さん同志の支援は、新しい自分の声を作り出すと共に、生きがいにつながります。この提案に大賛成しました。早速、伊那中央病院の教室を見学させていただき、準備に入りました。

開校の話が決まりました時、信鈴会相談役の今野さんの訪問を受けました。二十数年ぶりに今野さんとお話し致しました。信大病院勤務時代から現在まで、信鈴会に温かなご支援を続けられていることに、深く感動いたしました。

本日、発声教室に同席させていただきました。今日は少ないということで、五人の方が参加されていました。三十年という長い年月をかけて磨かれた、食道からの発声や器械を使用して発声。私の耳に届く声や速度に、違和感はありませんでした。先輩から後輩へのアドバイスは、「話すこと」でした。外出が億劫になるようですが、月二回の発声教室に参加し、お互いの元気パワーを充電されていました。病と闘いながら、自立の道を歩く方々にとって、ご家族と仲間の支援が大きな力になると実感致しました。医療者ができることは、わずかなものですが、私たちにもお手伝いさせていただければうれしいです。

長野県信鈴会の益々のご発展と会員の皆様方のご健勝を、心からお祈り申し上げます。

発声教室の皆様との一年間

佐久総合病院耳鼻科外来師長 飯島良子

平成十七年度四月、脳外科病棟で八年間師長として病棟勤務をしてきましたが、前任の外来師長の後、外来の勤務になりました。外来の様子が良く分からずに戸惑いばかりでしたが、月一回の発声教室の参加もしていることを申し送られました。

私は何をしたら良いのだろうかと心配でしたが、何回か会に参加することにより、顔見知りになり、皆さんのお互い同士の情報交換の場になっていることと、合同練習がいかに一人ひとりに役立っているかが分かってきました。一人で努力することも必要ですが、指導者に発声の仕方・テクニック・コツを教えていただくことの効果を目のあたりにして、この会の意義が分かりました。応援する私たちの参加の意義も、少し分かってきました。十二月には忘年会をし、耳鼻科の医師も参加してくださり、今後機会があったらまた参加させてくださいとのことでした。また今年度はケースワーカーに事務局をお願いしたら快く引き受けていただき、連絡もスムースに取れるようになりました。

少しずつ会員さんの発声の上達が分かりうれしく思います。最近は会員さんが「信濃の歌」を歌う機会も作ってくださり、皆で合唱します。

今後も微力ですが皆さんの応援をしたいと思っています。

ネブライザーを軽んじていませんか

信鈴会相談役 今野弘恵

気管孔からの呼吸を余儀無くされた皆様が日々の健康管理を適切に、快適にすごすために、ネブライザーをやっていますか?やって下さい…と機会あるごとにお話をしておりますが、退院後久しくネブライザーはやっていない、それ程支障を感じていない…と云う人が間々いらっしゃることを知り、再度ネブライザーの必要性について紹介させていただきます。

信鈴第十三号(昭和五十八年刊)当時長野赤十字病院耳鼻咽喉科部長故浅輪勲先生「喉頭摘出術におこる気管鋳型症について」原文の一部をそのままお伝えします。

「気管鋳型症」とは

気管の内腔に多量の痂皮(かさぶた)が付着した状態であって、気管の内腔がせまくなり、空気を十分に肺まで吸い込むことが出来なくなり、突然呼吸困難となり、救急車で運ばれた患者さんが四人もあり、四人とも喉頭摘出術を受けた方ばかりであった。

普通の人は鼻で呼吸をしています。鼻の中を空気が通ってのどに達する迄のごく短い時間内に粘膜の表面から熱をとり、外気の温度が零度以下であっても、のどに達する時には体温近く即ち三十六度位に加温された空気になっています。又同時に鼻の中に吸い込まれる外気の湿度が三〇%以下であっても、のどに達する時には九〇%の湿度をもった空気になっています。このために鼻の中では一日に一リットル以上の水分が吸気の加湿のために消費されているといわれています。このように鼻から息を吸うというのは人間の防御作用であり、更に又空気中の塵埃を取り除くという浄化作用も行っているわけです。

喉頭摘出術を受けて気管に直接外気が入ってしまう場合には、鼻で行われている防御作用、浄化作用が全く失われているといって差し支えありません。冷たい空気、乾いた空気、そしてほこりの多い空気がいきなり気管の内に入ってくる訳ですから、いろいろな障害を起こしても少しも不思議ではありません。

とに角気管鋳型症は喉頭摘出術を受けた人に限って発生しています。発病から呼吸困難が始まるまでが二日か三日位というように、非常に急速に悪くなりますので、対応が遅れますと窒息の可能性も十分考えられます。喉頭摘出術をうけた方は特に冬は注意が必要です。冷たい空気、乾燥した空気、そしてほこりには十分お気をつけ下さい。

以上先生のメッセージでした。

手術前後の身体のしくみの違いをよく理解し、手術の前鼻から呼吸をしていたときの状態に近い状態を保つためにはネブライザーは必須です。どうぞ面倒がらず続けて快適にお過ごしください。

喉頭摘出者の会「長野県信鈴会」

信鈴会相談役 今野弘恵

信鈴の由来は?三瓶さんに尋ねられて信鈴会の生みの親と云っても過言ではない故島成光さん(昭和三十八年手術)自分と同じ悩みをもつ人達が相互に連絡をとりあえ、励ましあうことができる患者会の設立を強く望み、同じ頃に手術を受けた碓田清干さん、石村吉甫さんらを巻き込み、手弁当で自転車に乗って、県内至るところにいる同病者を訪問し賛同を得、そしてついには行政を動かし「長野県信鈴会」を誕生させた(昭和四十四年一月於信州大学附属病院会議室)。発会式で島さんが語ったことば、信鈴会の命名について


信は信州の「信」

鈴は発会にむけお力添えをいただいた鈴木篤郎先生(当時信州大学耳鼻咽喉科教授)の「鈴」

鈴のような第二の声を取り戻したい。

喉摘者の声なき声、…切なる願望であると…

斯くして生まれた信鈴会である。


信鈴会誕生から三十七年、必ずしも平坦な道のりではなかった。県会議員、市長、県への請願、手間ひま苦労をいとわずはしってきた。併し現在は長野、松本、伊那、佐久、諏訪、飯田、六つの教室が指導員研修をもとによく連携しあい発声訓練の向上をめざし、励まし合い支えあえる力強い会になってきていることを実感している。宇野女会長の意を汲み役員の皆様が一丸となっての活力のおかげとうれしい限りです。又関係機関の協力、医局、看護部門のあたたかいご支援のおかげと心から感謝、お礼を申し上げます。

皆さん日頃笑っていますか

長野市民病院四階東病棟看護主任 小澤彩子

会誌「信鈴」第三十二号発刊おめでとうございます。記録的な大雪に見舞われたこの冬も、そろそろ終わりを告げ、季節はゆっくり春へと移り変わっています。

長野市民病院も開院十周年を迎え、現在、病院の増改築工事が進んでいます。私は耳鼻咽喉科を含む四東病棟に勤務し丸二年が経ちました。信鈴会の皆様には咽頭摘出患者様を訪問していただき、発声の指導や手術前後のアドバイス、不安軽減にご尽力頂いており、患者様や御家族ばかりでなく私たち看護師にとっても頼もしい限りです。この場をお借りし御礼申し上げます。-平成十六年の納会に参加させて頂いた際、信鈴会の皆様そして御家族のお元気な姿を拝見し、明るい笑顔や笑い声に心なごまされ、あっという間に時間が経ち、とても楽しいひとときを過ごさせて頂きました。ユーモアと笑いが心とからだの健康に役立つことは、多くの研究によって実証されています。

愛と希望と信頼の気持ちを常に持ち続けること、そしてよく笑うことで、病気が回復する。とりわけ笑いはやっかいな痛みを和らげる強力な鎮痛剤であり、一○分間腹を抱えて笑うと、少なくとも二時間は痛みを感じないでよく眠れたという体験談もあります。人間は笑うことのできる唯一の生物です。皆さん日頃笑っていますか?確かに自分も含め「仕事」や「病気」により、次第に心の底から笑うゆとりを失いつつあるように見えます。めまぐるしく変動する状況に、ゆとりがなくなり、ユーモアと笑いの創造的な意義も忘れられてしまう。

しかし、そのような時であればこそ、私たちはユーモアと笑いの積極的な役割を存分に活用しようではありませんか。無用な思いわずらいによって失っている多くのものを取り戻すためにも......。

折しも世の中はお笑いブームです。若手お笑い芸人のテンポについていけないところもありますが、笑点の大喜利、綾小路きみまろの漫談で一緒に笑ってみませんか...。

飯田市立病院教室が開所しました

飯田市立病院地域医療部医療福祉係患者会担当 中村京子

昨年十一月、飯田市立病院に長野県信鈴会飯田市立病院教室が誕生しました。従来、飯田下伊那地域には喉頭摘出等により声を失った方々の音声発声教室がなく、伊那中央病院伊那教室まで出かけていました。しかし、飯田下伊那地域から伊那まで通うのになかなか継続できず、あきらめてしまう方も多く、当地域に是非発声教室を開設して欲しいという要望がありました。そこで、長野県信鈴会会長宇野女健さんを始め今村和行さん、花田平八郎さん、その他多くの方々のご尽力により飯田市立病院に音声発声教室を開所することができました。「患者会は患者さんにとって情報交換の場であったり、同じ悩みを共感できる仲間だったりします。病院としても患者会は重要な組織です。今後、患者会が長く継続し、魅力ある患者会作りのため、会員一人一人が会の運営に協力していくことが大切ではないかと思います。

最後に、飯田市立病院飯田教室、また長野県信鈴会が今後益々会員皆さんのために、末永く活動されることを期待とともにご祈念申し上げます。

発声教室に寄せる思い

信大病院耳鼻咽喉科外来看護師 堀内和枝

耳鼻咽喉科外来勤務となり二年半あまり、毎週一回の発声教室及び年一回の発表会に参加させていただき、多くの感動や勇気そしてエネルギーを一杯いただきました。

病名を告げられ、入院、手術というだけでも心身ともに大変な事だと思うなか、同時に声まで失うという試練。日常、コミュニケーションの一つの手段としてあたりまえに使っていた声を失うことは、経験のない私たち看護師や医師には到底解りえない多くの苦しみ、つらさがあったことと察します。その現実を克服、声を取り戻したいという情熱でこの教室に参加されている皆さんには頭が下がる思いで一杯です。

教室の光景には、発声への思いばかりが先行し、肩に力が入りすぎてしまい汗をかいている姿、日々の努力あって最初の「あ」の一声がでた場面、課題をもって練習している姿等々、いつも一生懸命さと感動、同じ経験を乗り越えてきた皆様のあたたかさが満ちています。こんな体験を身近に感じられたことに感謝です。

そして、何より発声教室の素晴らしさは、発声のリハビリの指導員が同じ経験を持つ先輩方であるということではないでしょうか。同じ体験を乗り越え声を取り戻した先輩方の姿はどんなに励みとなり希望をあたえることか、相手の気持ちが自身の体験としてわかる指導員の方々の指導は、他のリハビリにない貴重なものだと思います。

これからも、喉頭全摘により声を失った方々に希望を与え、また、支えて下さっているご家族の皆様に応えられる教室であることを願い、私達もその一助を担っていけたらと思っています。

発声教室に参加して

信大病院耳鼻咽喉科外来看護師 大久保敏子

会誌「信鈴」の発刊おめでとうございます。私は、昨年十一月に耳鼻咽喉科外来に配属となりました。週一回の発声教室で皆様にお会いできることを楽しみに、毎回参加させていただいております。

手術前の不安で険しい表情をした患者さんに対して、指導員の方が「必ず、話せるようになります。電話も使えるようになります。ただ、自己流では駄目だから、医師から許可がでてから一緒に訓練していきましょう。」と励ましていらっしゃいました。

お互い握手をし合い、涙ぐむ手術前の患者さんに肩をやさしく叩き頷き合う場面を見て、「頑張れよ。」「その時はまたよろしくお願いします。」といった、お互いの強い絆のようなものを感じました。同じ体験をした仲間であり、同じ気持ちが分かり合えるからこそできる、心強い励ましと大きな支えが感じられ、手術前に発声教室の皆様に関わっていただく大切さを痛感しました。

また、発声教室の中では、指導員の方にマンツーマンで発声の方法を教わり、最初の「あっ」の一言が出る瞬間に立ち会えることができたり、それぞれのレベルに合わせた熱心な訓練で、声が前に出るようになったり、言葉が長く続いたり、その成長の変化を共に喜び合うことができました。私自身が多くの感動や学びを得て、皆様からエネルギーをもらっています。皆さんの熱心な姿には頭が下がる思いでいっぱいです。昨年の発声教室の発表会では、ご自身の病気の体験や、ヒマラヤ登山の体験談、歌など、皆さんお一人おひとりが個性あふれる発表、そして堂々と凛とした発表をされ、とても感動し忘れられない心に残る一日でした。

発表する前の教室の中で、「私たちは、喉頭摘出をし、コミュニケーションがとりにくいために、引っ込み思案になりがちであり、一歩外に踏み出す必要があります。日常家庭の中で会話ができるということ以上に、人前で声をだして発表するというのは、自分を外に出す、一歩踏み出すためにも意義のあることです。ですから、発表会には皆で参加できるようにしましょう。」と指導員の方が声をかけておられました。発表当日は、多くの方が参加され、日頃の成果を見事に発表できたと思います。これも、ご家族の支え、教室の仲間・指導員からの良き指導や支え、それから何よりご本人の根気と努力があってからこそと思いました。

発声教室に参加されている皆さんは、発声方法を身につけ、笑顔もみられ明るさを取り戻しつつあるように感じます。

しかし、何か楽しんでますか?と尋ねたところ、「一人暮らしで、日頃しゃべることがないからつまらないねえ。」と話された方もおられました。この教室が楽しいおしゃべりをしたり、安らいだり、元気を取り戻したりできる場であって欲しいと思います。他の方からも「咽頭摘出患者は、健常者より一〇倍も会話を待っています。そして、会話の中でわからない時、適当に返事せず、わかるまで聞いて欲しい。」と話されました。

私も、皆さんに寄り添いながら、より幅広い視野で関わることができるよう頑張りたいと思います。今後もよろしくお願い致します。

末筆になりますが、皆様が心も体も復帰され、社会参加され、更なる活躍をされますことを心から祈念しております。

長野県信鈴会会報に寄せて

佐久総合病院医療相談室 木次志眞子

現在、佐久総合病院の医療相談室で、耳鼻科の担当ケースワーカーとして佐久発声教室に参加させていただいております。月一回の定例会には皆さん、遠方から参加されて熱心に練習されている姿には毎回感銘を受けておりました。

今後、食道発声法が普及し信鈴会の皆さんの、益々のご発展、ご健勝をお祈り致します。

喉頭がんと食道発声について

信鈴会相談役 田中清

現在世界においてがん患者は約一一○○万人、そのうち死亡者は約七○○万人といわれています。その原因は食べ物が約三五%、タバコ約三○%、ウイルスー○%、その他となっています。参考にアルコールは約三%です。しかし最近は、アスベストなど物理的なものも増加してきている状況です。食べ物には偏食が多く、特に肉類が多く、野菜との調和が少ないのでしょうか。同じ蛋白質なら肉より青みの魚の方がいいということは一般に知られています。

さて、喉頭ガンは「タバコ原因の約三〇%のうち一位で、二位は肺ガン、その他口腔、咽頭、食道、胃、等いろいろありますが、喉頭がんが過半数を占めています。喉頭がんが殆ど男性であることで証明されています。最近、町で若い女の子がタバコを吸っているのを見ると、嘆かわしいと思います。今後は女性患者も増えていくことでしょう。

さて、喉頭がんは戦前戦後は不治の病でしたが、昭和二十五年頃から日本にペニシリンが入ってきてから手術が可能となり、喉頭がんは必ずなおる病気であるということが確証されました。ただ手術後いろいろな欠陥があることは前号で申し上げました。参考にして下さい。

さて、喉摘者の発声方法については、パイプ式人工喉頭、電気式人工喉頭、食道発声、シャント発声の四つの方法があります。いろいろ欠陥があって、食道発声が最も優れていると考えられています。現在日本全体で約八〇%の喉摘者が食道発声を習得しています。ただ食道発声の欠陥は発声が出来るまで時間がかかるということです。早い人で三ヶ月、遅い人は一年以上という人もいます。何故これだけ違うか、教本をしっかり読めば分かります。私は関係の諸先生方がやってはいけないサイダー方式を初心者には勧めています。サイダーを多量に飲めばゲップが出ます。ゲップの力で声を出すのです。

しかしある程度声が出るようになったら飲込法、吸引法と順次変えていくのです。わたしは現在は注入法で話していますが、喉から空気を吸うと自然に鼻から食道に空気が入るのですから声の切れ間はありません。飲込法の時代は口笛もハーモニカも吹けましたが今は殆ど出来ません。或る程度声が出るようになったら次の段階で発声の部位を確かめて下さい。第二の声門と言われる食道の発声門は食道の最上部つまり上あご奥のところです。仮声門を上部にすると口腔内の共鳴効果が加わり声も大きくなり、かつはっきりした声になります。自分で喉に手をあてて、発声の部位を確認しもう一度上へ上へとあげるようにしてみて下さい。その位置に思い切り腹圧をかけてぶつけて下さい。これが練習方法の一つです。最後に発声の練習は、

①腹式呼吸を十分に行なうこと、

②背筋を伸ばし正しい姿勢を取ること、

③肩の力を抜いてリラックスすること、

④時々部位を確かめること、

⑤決して上達をあせらないこと。

これが初心者の原則です。

変わった話ですが、古い話ですが、信鈴「二十一号」平成五年に佐世保市長辻さんのことを伊那教室の桑原さんが書かれています。辻さんは昭和三十八年から十六年間市長をつとめましたが、昭和四十年に喉頭がんで全摘手術をされ、東京銀鈴会で現日喉連名誉会長中村先生から食道発声の指導を受け三ヶ月でマスターして、その後米国原子力空母入港問題で有名になった人です。

ちなみに喉頭がんで亡くなられた有名人では日本海大会戦の東郷元帥、浪花節の廣沢寅造、もはや戦後ではないの有名セリフを言った池田首相、等が居ります。

どうか皆様方御元気で御勉強して下さい。

スピーチ

松本教室 上條和男

ある有名な奉仕団体から、あなたは声帯を摘出したのに普通に喋っておられる。それは、どういう努力と、又、サポートがあったのか、我々に、教えてもらえないか・・と云う講演の要請がありました。私も、通常、何不自由なく生活している人たちに、何処まで理解してもらえるか、又、喉摘者の理解者を一人でも増やせれば・・と思い、引き受けた次第です。その内容の抜粋を、銀鈴に載せて頂きました。


「こんばんは」返事「こんばんは」

私、今日、お招き頂きました上條です。宜しく、お願いします。

今日、私のプロフィールの中に「障害を越えて」とありましたが、これは、私は「障害について」と、事務局の方にお伝えしましたが、やはり、私の言葉は、間違えやすいですね~。「つ」が「こ」に伝わっておりました。喉頭摘出という私の負った障害は、身体的に、絶対に越えられないものなのです。平成十年に摘出しましたので何しろ、もう有りませんからね、精神的には障害を越えたと自負しております。事務局の方、さすがにお目が高いですね。

今、こうして、失って本当は無いはずの声で喋っておりますが、これは、我々の先輩、喉頭摘出者が、後輩の喉頭摘出者を指導する、英語で言いますと『PureCare(ピュア・ケア)』同病の者が、同病者を指導すると云う、皆様方と同じ奉仕の心で指導を受け、教育されて、このような声を取り戻した次第です。私も、その先輩たちの後を続けている所でございます。

人間は、百八つ(ヒャクヤッツ)の煩悩と四百四病(シシャクシビョウ)をもって生まれてくると、死んだジイ様から聞いた事がありました。私も、その中の一つ、喉頭ガンと云う病が表に出てきたようです。その声を再生するために、長野県内には、六つの教室があります。それだけ声を失う人が多いのか、又、ある意味では体制が整っているのか・・(オーバーですね。)しかし、リハビリ教室へ、来る人全てが声を取り戻すわけではありません。我慢強い人、心のしなやかな人、俺は喋るぞ!と云う強い意識を持った人、こういう人が、ほとんど声を取り戻していきます。残念ながら、途中であきらめる人も、結構おります。地理的な条件。長野県は広いですからね・・経済的な理由、高齢の方、病身である方々、こういう人達に対しては、出来るかぎりの範囲でサポートを心掛けておりますが、結構、それ以外の理由で喋ることを諦めしまう人も、かなり多いですね。

太い強そうな枝は、雪に弱い。細くても、しなやかな枝は、大雪にもじっと耐え、春になれば、ピンと伸びる。これは、金沢兼六園の庭師さんから、お聞きしました。自分は強いと思っていた人程、こういう障害には弱気を出してしまいがちのようです。ここに列席の皆様には、心しなやかな人達ばかりですから、例え、どんな事になっても立ち直れると思います。目が、ちょっと弱くなった。耳が、遠くなった。歯も、もう自分の歯は半分も無い。そういう方は、もう、障害者の内ですね。そのような兆候の無い方、本日のドネイション(この会の寄付金の呼び方)は、いつもより多く出しておいてください(笑い)。私、今、こうしてチョット変わった声で皆様方の前に立ち、堂々と喋っています。いや、いるつもりです(拍手)

今から十三年前、平成五年の六月。それまでの人生の中で、又、自分が障害に立ち向かう上で、貴重な体験をさせてもらったことを皆様に披露させて頂きます。会津磐梯山のふもとに、磐梯学園という心身障害児の大きな学園がありまして、多分、千人以上と園長からお聞きしました。福島県内や、その周囲の子供たちが生活していました。その子供達と「一緒に遊ぼう」と云う。当時、大人気の映画「トラック野郎一番星」のスタッフから誘いがあって、参加した時のことです。いろいろな「遊び」「ゲーム」「焼肉」の一番最後に「ソフトボール」をしようと云うことになり、元気のよい、比較的、軽度の障害の子供達と試合をした時のことです。

最後のバッターは、私。菅原文太審判長、声高らかに、ストライク!バッターアウト!試合終了~八対五。磐梯学園の勝ち!その時です。磐梯学園のピッチャー君、私に握手を求めてきたのです。私も右手を出しました。ところがビックリ!彼の指は三本。心の中で、手を引っ込める感情が走ったことを覚えています。それでも、彼の笑顔と無邪気な仕草・・思わず、両手で、彼の三本指の右手を握りました。彼も、その上に左手を乗せてくれました。その指は、何と二本合わせて五本。わたしの十本と合わせて、二人で、十五本の指の握手でした。

あの時の、彼の堂々と差し出した手のぬくもりを、今も感じることが出来ます。その時、手を引っ込めようとした自分が何と小さく思えた事か・・私は、声を失ってから、少しずつ声を取り戻していく途中で、どんな時でも、「ちゃんと、やっていけるよ。」と、彼に、いつも励まされているような気がします。

勝ち組み、負け組みと嫌な言葉が、まかり通る世の中ですが。自分より、「弱いものを見下す事によって、自分自身の心のバランスを保とうとする、このばかばかしい差別の連鎖を断ち切ることに尽きると思います。皆様方のような、奉仕の心を持った方々は、絶対に、心の負け組みにはならないと信しております。

本日、つたない話でしたが、最後まで、お聞き下さり、誠に有難うございました。(会場の方々より、盛大な拍手を頂きました)又、どういうわけか、握手を求められることが非常の多かったように感じました。しっかり、話が伝わった事と確信できました。

平成十八年三月二日

聴衆八十余名

場所塩尻市ホテル中村屋にて

私の大好きなおじいちゃん

伊那教室北林定男一孫 木下麻美

私のおじいちゃんは今年で八十二歳になる。私が赤ちゃんのときから、いつも面倒をみてかわいがってくれた。一昨年、そんなおじいちゃんが喉頭癌を宣告された。検査の後、個室に呼ばれ、先生から悪性です。といわれたとき、私はなんと言葉をかえせばよいか解らなかった。

しばらく外の空気を吸った後、平気なふりをしておじいちゃんのところに戻った。その時点でとった治療法は、放射線治療。年齢を考えて、本人が出した結論だった。その治療後、少しおじいちゃんの声が甦り、半年後、再発。レーザー治療でまた入院。私は、最後の最後まで、声を残したいという本人の希望を応援した。

しかし、その治療の半年後、またも再発。今度は喉頭全摘出を受け入れるしかなかった。癌を宣告されてからちょうど一年だった。それからおじいちゃんはいろいろなことに対して、後ろ向きになってしまった。

今現在、おじいちゃんはとても元気だ。この半年、見違えるほど、笑顔が溢れるようになった。それは、伊那教室で、信鈴会の皆さんと出会えたからだ。いつも一緒にいる家族でも、同じ境遇にあった仲間にしか理解しあえないことが沢山あると思う。

今は、器械を使って話をしているが、体力をつけて、食道発声に挑戦したいと言っている。今までお世話になったぶん、ずっとおじいちゃんのそばで、応援していきたい。

いつまでも、明るく元気なおじいちゃんでいてね!信鈴会の皆様、これからも、どうぞ宜しくお願い致します。

元気がもらえる絆の場飯田市立病院教室が発足

飯田教室代表 今村和行

「がんなどの発症で喉頭摘出手術を受け、発声機能を失った人々が組織する喉頭摘出者福祉団体の長野県信鈴会(宇野女健会長)は十七日、食道や器具を使った発声を学ぶ、食道発声教室を飯田市八幡町の同市立病院内に開設した。飯田下伊那地方では初めての教室。発声訓練、情報共有などに期待が寄せられている。」

これは、「飯田市立病院教室(以下飯田教室)」の発足を告げた地元新聞南信州の記事のリード部分です。この地にも、もう一つの地元紙である信州日報と信濃毎日新聞の地域版にも大きく取り上げられました。

平成十七年十一月十七日、飯田市立病院講堂において開所式を行い飯田教室が船出をいたしました。当日は、長野県信鈴会から宇野女会長、守屋、上條両副会長、大平伊那教室代表が参加し、来賓として当飯田教室開設の立役者今野相談役をはじめ、飯田市立病院松下副院長、塚本耳鼻咽喉科医長、矢沢看護副部長等が花を添えて下さいました。

肝心の会員につきましては、伊那教室のメンバーに病院側把握の方を加えた対象者十九名中十五名が出席いたしました。この他、耳鼻咽喉科小林医師、看護師、同病院のスタッフに同伴者を含めますと総勢四十名という大盛況でした。

開所式は、耳鼻咽喉科の今村看護師長の絶妙な司会で進行されました。守屋副会長の「開会のことば」に続いて、宇野女会長から、信鈴会の果たしてきた歴史的役割と飯田教室開設の意義に触れられた格調高い「会長あいさつ」が行われました。次いで松下副院長から信鈴会の活動に敬意を表すると共に飯伊の喉頭摘出者の機能回復に寄与されることを期待する旨の「院長あいさつ」がありました。

続いて「来賓祝辞」に入り、最初に今野相談役から、当教室が開設の運びになれた関係者の協力に感謝を述べられた後「同じ悩みを持つ人たちが元気をもらう絆の場に育ててほしい」旨の経過報告と要望を交えたお祝いの言葉がありました。塚本医長からは、「上達のばらつきがあっても、楽しいから参加する教室になってほしい」、矢沢看護副部長からは「患者の皆さんが同じ痛みを分かち合えるオアシス的な場であってほしい」と、それぞれ期待を込めたお祝いの言葉を述べられました。

飯田教室開設のもう一人の立役者、大平伊那教室代表から当教室開設に至る経過報告がなされました。その中で、「伊那教室を守り育ててきた諸先輩の思いや教室の果たしてきた役割に思いを致しつつも、伊那谷の地理的条件により教室に参加できない方たちの存在をいかにすべきか」という苦しみの中から当初の模索が始まったことなどをたんたんと報告されました。「教室の運営等について」と題し、今村から代表に就任した経緯、教室運営の基本的事項等について説明した他、「この教室の目的は不幸にして声を失った仲間が、みんなで助け合って声を取り戻すことにあり、楽しく進めたい」と表明しました。

続いて「指導員紹介」として花田、今村両指導員を紹介、花田指導員から「焦らず根気よく食道発声に取り組みましょう」との、自己紹介を交えたあいさつがありました。そして最後に、守屋副会長の閉会の言葉で開所式が無事終了いたしました。

引き続いて、同じ場所で宇野女会長以下全員が見守る中で第一回の教室を開催、守屋、上條両副会長からも体験談を交えたアドバイスをいただくなど有意義な一時を過ごすことができました。いささか長くなりましたが、最後に飯田教室の開設に至るまでの経過のあらましをご参考までに紹介しておきたいと思います。

前述のとおり、伊那教室の大平代表が悩み解決策を模索する中、平成十七年六月十七日、飯田市立病院の今村看護師長他二名が伊那教室を見学のため来訪、その際、同病院でこの秋にも教室を開設したい意向を表明、これに対し大平代表から長野県信鈴会に図って結論を出したい旨回答いたしました。

宇野女会長より要請を受けた今野相談役が、八月三十日、単独飯田市立病院を訪問、病院長、塚本医長等と面談、概ねの骨格を合意し、その結果を即日会長宛報告されました。

これらの経過を踏まえ、九月十六日、伊那教室において、会長、両副会長が参加される中で会員の意見も聴取して対処方針を協議した結果、「飯田教室として独立させる」「テリトリーは原則として上下伊那とするが、本人の希望を尊重する」等々の具体的方針を定め、飯田市立病院と最終的な打ち合わせを行うこととしました。

十月二十日に行われた飯田市立病院側との最終打ち合わせには、信鈴会から宇野女会長、守屋、上條両副会長、大平伊那教室代表、花田、今村指導員が参加、病院側から今村看護師長と事務方の中村さん他が出席されました。信鈴会側からの具体的要望と病院側の意向などを刷りあわせ微調整の結果、開所式を十一月十七日に行うことなどを決定、いよいよ発足に向けて具体的準備段階に入ったのでありました。

以上報告を終ります。

ゴルフと出会って

諏訪教室 守屋一次

皆さんはゴルフというスポーツを知っていますか。今ではほとんど人が知っている、又は見た事や、プレーしたことがあると思います。私がゴルフという競技を知ったのは、二十五歳頃だと思います。埼玉に住んでいた頃、荒川の河川敷コースが近くにあり休日ともなるとゴルフバックを担いで早朝からコースに出て行く人達でいっぱいでした。そんな風景を見ているうちに興味を持ったのでしょう。競技をする人達を見るようになり、ゴルフの歴史を知りたくなりました。

ゴルフ発祥の地はイギリスで、羊飼い達が始めた遊びから考えたスポーツで、道具は羊飼い達の杖がゴルフクラブになって、ボールは牧羊犬の訓練に使った布製の小さい玉だということだそうです。場所は大きな高原の牧場、現在に至るまでに何年が経っているか?不明ですがとても歴史が古く、世界共通のルールで競技が行われています。話を元に戻しますが、その頃私が夢中になっていたスポーツは野球でした。テレビ観戦はもとより後楽園球場に行ったり、職場の同僚とチームを作って野球を楽しんでいました。それから再びゴルフと出合ったのが、会社の都合で諏訪の地に来てからです。諏訪湖の周りをゴルフ場が取り囲んでいる様に、社内でも年二回のゴルフコンペが開かれ、市内でも幾つかの大会の案内が有って、まさにゴルフをする環境が整っておりました。そんなわけで私も皆に誘われて始めた次第ですが、まずは道具(クラブ)を町のスポーツ店へ行って見ればとても高価で手が出ない。同僚に借りて練習場へ行って打ってみたが当たらない、前に飛ばない、そんな状態を続けて三ヶ月ほど、なんとか前へ飛ぶようになった所で、ハーフセットを買い求めコースに出ました。

伊那市にあるコースですがテレビで見るコースと実際とは大違い、コースやセンターは芝であるが、両サイドは山林で一日悪戦苦闘して、スコアは百六十打、皆のスコアは九十台と、野球のようには行かずストレスが大いに溜まって帰って来ました。スタートホールに立ち順番を待ち、皆の球は二百ヤード前に飛び出し、さあ自分の番だ、ティーにボールを載せてクラブを構えて何か変です。身体が動きまん。いつもの練習場の気分と違います。緊張しています。そんな状態の中でボールを打つわけですから、まっすぐ飛ぶはずがありません。ボールは見事に右に向かってスライスして行き、林の中で木に当たって鳥たちを驚かせていました。ドライバーショットが曲がれば、次に打つアイアンも力が入り過ぎてダフッたり、チョロッたりを繰り返しながらグリーンに乗ってきた。グリーンに乗ればカップが見える。一直線にボールはカップを狙う。見事に外れとんでもない方向に行ってしまう。カバーをしようと又打つ。こんどはショートでまだ遠い等々繰り返してやっとカップイン。この音を聞くと良い気分、一日悪戦苦闘してスコアは百六十、皆のスコアは九十台、ゴルフというスポーツは、何故こんなにストレスが溜まるのか。又まぐれでまっすぐ打てたときの気分の良さは何なのか。自分の心の中でゴルフに対する挑戦の気持が湧いてきた。

ゴルフとはプレーをする人の気持が表れるスポーツである。第一に平常心(遠くへ飛ばそう、近くヘ寄せよう)の心が力みを起こす。先ず練習、ドライバーショットは度胸、アイアンショットは決断力、そしてパターは頭脳、複雑なアンジュレーションを読む記憶力とパターに伝える力のバランス、以上が備わった時にスコアは限りなく良くなってくることを信じて。今、六十一歳にして自分に健康をプレゼントしてくれた多くの方々に感謝をし、自分が出合ったゴルフを一生涯のスポーツとして続けていきたいと思います。

私のきもち

長野教室 芋川妙子

喉頭手術を受けたのは、平成十六年三月十日でした。それは三十八年間、働き続けた職場を退職する月のことでした。先に退職していた主人は、この時を待って二人でフルムーン旅行に出かけるのを楽しみに計画していたはずでしたが、私の退職を待たずに一ヶ月の看病もむなしく、平成十五年十二月に急死いたしました。その悲しみの中、私は再発しとうとう声を失うことになってしまいました。

手術の少し前、先生にすすめられて信鈴会長野教室に顔を出させて頂いた時のことは忘れることができません。私の悲しみはだれにも解ってもらえないと打ち沈んでおりましたが、明るく温かく迎え入れて下さった会の皆さんの笑顔、みんな苦しみを乗り越えてきた人達だから、他人(ひと)の苦しみがわかる人たちなんだと、心から安らぐ思いでした。勇気づけて下さったやさしい先生、看護師さん、医療スタッフの皆さんはじめ、会の皆さんに心から感謝しています。

そして手術後二・三ヶ月して教室に参加するようになりました。上手に会話される皆さんを見て、私も早くそうなりたいと思い意気込みましたが、練習しようとするとすぐ咳き込んで、とても苦しいため練習が進みませんでした。そんな中、なんとか家族には言いたいことが通じ、近くに嫁いでいる娘とは電話もできるようになり、一時はもうこれでいい、家族にさえ通じればと半ば諦めかけた時もありましたが、一年半経過した昨年の秋頃から咳き込みが少なくなり、練習に励めるようになってきました。ある日、短い単語を声を出してみました。そばにいた孫が「あ!おばあちゃんがしゃべった」と手をたたいて喜んでくれ、まだまだ会話にはなりませんが頑張ってみようという気持が湧いてきました。とは言え出たり、出なかったり不安もあります。いつも心配し勇気づけてくださる皆さん、本当にありがとうございます。歩みののろい私ですがこれからもどうかよろしくお願いいたします。

信鈴会飯田発声教室発足に寄せて

飯田教室 花田平八郎

幸い好天気に恵まれ平成十七年十一月十七日待望の発会式が飯田市立病院内で多数の来賓又長野県信鈴会の役員、飯田、上伊那、下伊那の会員出席のもとに盛大に行われました。発会経過等は今村代表が明細に書かれていますので省略します。

図らずも私が食道発声の指導員に推薦されましたが、自己流で食道発声を使っていた私には戸惑いがありました。同じお仲間という思いと、少しでも役に立つことがあればと思いお引き受けしました。今村代表共々よろしくご指導ご協力をお願い申しあげます。

第一回からの教室の様子、感想など少し書かせていただきます。初回は長野、松本教室の先輩指導員のお話を聞き大変参考になりました。平成十八年新年を迎え気持を新に用意されたみかんを頂きながら練習をしました。今村婦長さんのアイディアで理学の先生に腹筋の向上を目的のストレッチの指導を受けました。身体がほぐれ爽やかな気分になりました。

発声練習で感じたことは空気を吸い込む時、気管口と同時に鼻からも吸い込むことを努力してマスターすればと思いました。二月はビデオ見学の後、市販のカルタを使い奥さん方に読み上げてもらい、同じ言葉を復習しながら拾うゲームをしました。楽しみながら発声の練習になりました。多忙だったり体調、天候等で都合の悪い時もあると思いますが、一人でも多く出席していただき発声の向上と親睦を深めたいと思います。

信鈴会飯田教室を末永く続けることが出来ます様、皆様のご声援とご指導を心からお願いし、お互い健康維持を第一に前向きに進みたいと思います。

人生仕切り直し

長野教室 塩沢堅吉

全く気楽なもので癌を宣告されるこの歳まで自分の残存年齢を意識したこともなかった。人生振り返ることが嫌いで、反省もなくいつも前ばかり見て生きてきた。気が小さいからだろうか。それがどうだ、癌の宣告を受けてから手術までの二十日間そして入院期間中、昔のことが次から次と思い出されて、世に言う走馬燈のごとくである。

七十年も人間やってりゃたしかに思い出なんざあいくらでもある。おだてられりゃ木にも登った。具体的にあげれば己の場合きりがない、今時の悪童どもでも想像もつかねえ事を平気でこなしてきた。自分の過ごしてきた昔を懐かしがり、結構そのころ時代の先端で文明とともに過ごしたくせに今の時代の利便さ、ものの豊かさを批判し「日本人は贅沢だ」と文句をいい「若い野郎は礼儀知らず」であり「自分一人じゃ何もできねえ」「常識知らず」「親を大切にしねえ」「今の教師はなってねえ」といい自分の事は棚にあげて現代を批判し、時には否定して自分と現代のギャップを埋め不安を除こうとする。

「人間も他の動物と同じように自然と一緒に暮らしたいはずなのに、暮らせないならせいぜい人が暮らせるだけの文明にとどめるようにしたらいいのに」と思うのは年寄りが現代の仕組みについていなくなった挙句の愚痴なのか。自分の思い出に現代の批判が重なると世間ではそれを愚痴という。ならば前向きに二十一世紀を読み予想しようと思うが、自分のことも満足にわからないのに世の中が判るわけがない、現に考えてもみなかった癌に罹り、もし手遅れで一年の命ですといわれりゃこれで終わり、震度十がおいでになればハイおしまい、南、北極の氷が溶け出したらどうする、隣の国の馬鹿野郎が日本に核爆弾をぶち込めば・・・・・ハイそれまでよ。

詰まるところ一寸先は真っ暗闇、そんなこたァない大丈夫だよって前提をつくって自分を納得してからでないと不安で予想も立てられない。もう何年も以前から二十世紀を生き抜けたら、二十一世紀に生きる分は余禄なんだと肝に銘じてきたから気楽なもんだ。

実は俺、医者から末期癌であることを知らされた時点で家内と娘に打ち明け、翌日息子を呼んで葬儀、告別式の段取りをし身辺整理に入った、そして手術後自分の顔を鏡でしげしげ見て感じたことは「病じや人は死なないんだ、人は寿命で死ぬんだよ、今、鏡に映っている俺の顔はとても寿命が来たような顔じゃない」と直感。

「しめた、これであと五年はいけるかな」その後はいい方向へしっかり予定が狂っちゃった。人生改めて歩み始めたようなもんだ。そりゃあそうだろう、偶然とは言え手術の日は俺の誕生日だった。

男の多くは仕事の関係から職場を中心とした文化から一歩も出られないのが当たり前だから、仕事から手を引くと金魚の糞みてぇに毎日かみさんのケツについているしか能がねぇんだ。その点、俺は若い頃から一歩も二歩も踏み出して生きてきたので、生き甲斐には事欠かない。

老人とは便宜上六十五歳からを指すらしい。どうりでこの頃物忘れが激しいはずだ。今年七十となればそれらしき雰囲気も必要かな。専門家の話で、人工頭脳をつくる上で一番ネックになるのは「コンピユーターは決して忘れない」事だそうだ。コンピューターの致命的弱点は「忘れない」事だと言う。それみろ、何が自信になるかわからねえ。

善光寺のお膝元で生まれて、善光寺の町で育った、終の棲家も此処だろう。一昨年の十一月にたまたま善光寺の小松玄澄貫主に誘われてゴルフしていたときに「塩沢さん声がちょっとおかしいよ」って言われて翌日医者へ行って癌発見、命を落とさずにすんだ、人との出会いと、善光寺さんに助けてもらったようなもんだ。感謝。

住み慣れたところとは家屋ではない、その地域・人・自然・そして一番の財産である「つきあい」であろう。「誰からも当てにされない」くらい惨めなものはないだろう。自分を頼る人や知る人がいない世界など考えたくもない。住み慣れた土地に堂々と住んでその地に係わり合いを持ち、地域の歴史つくりに参加してこそ生き甲斐ってもんだろう。

二十一世紀になったときは日本中が予想屋になった感があった。今年も世の中あんまり変わらないし大した出来事もないだろう。若者や革新、文化人と称するものが「世の中流れを変えて・・・・」とほざいている、「冗談じゃねぇこの結構な世の中、流れを変えられてたまるか」どうせ連中変わりッこないことを知っているから甘ったれて変えようというのだろう。変えれば良くなるってもんでもなかろうに。

IT革命は産業革命に匹敵するそうだが、なぜか技術と設備が最先端を行く日本が世界に遅れをとっているのは政府が国民より電話会社を大事にしているからだろう。国会議員が己の都合を捨て、国会が国会議員のためのものでなくなった時、やっと世界に追いつくよ。武器を持ったが故に国が滅び、その教訓からこんどは武器を持たずして国が滅ぶことがないよう心配だな。このくらいにしとこうかい、ちょっと健康が回復してくると調子に乗って、命の残存年数が読めてきたら未来を語る資格はないもんね。


希望

佐久教室 三浦政男

信鈴会の会員となり、佐久総合病院の発声教室で会長様はじめ指導員方の訓練により、初歩の会話ができるようになりました。心より感謝しています。これからもなお一層上達するよう頑張っていきます。

私は十五年十二月に痰が出るのでかかりつけの病院に行き薬を出して頂きましたが、おさまることなく十六年一月には声がかすれてきました。友達に恋の病かと、からかわれリュウカクサンを飲んでみたらといわれ、飲みましたが直らず、二月に佐久総合病院の人間ドックで診察を受けましたところ、耳鼻咽喉科に行って診察するように言われ、小松先生の診察を受け入院することになりました。先生は、うん、うん、首は保障しますと言われ、私は大したことないんだと思い安心しました。

入院して二週間点滴をしました。その間に、リンパ腺が大きくなってきて、先生にリンパ腺が大きくなってきたと私が言うと、診察して取る手術をしました。次に放射線治療をすることになり一日二回家から通って受け、最終日に放射線の先生から耳鼻科へいくように言われ、診察の結果千葉の国立がんセンターへ紹介状を持って行ってくださいとのことでした。国立がんセンターに行き受付をしたところ、病室がいっぱいで一ヶ月待って下さいとのことでした。一ヶ月経っても連絡がこないので電話で催促しました。その一週間後に入院の電話がきました。

入院して清野先生の説明があり、喉頭を摘出して小腸を付けるとの事でした。声帯を取るので声を失いますとの説明があり、手術をしないと二ヶ月しか持ちません。手術をすると二年はいいでしょう。二年持てば五年はいいと言われ、このとき長くは生きられないと絶望と焦りの気持になりました。

手術が済み退院して佐久総合病院の発声教室に入って、同じ障害を持つ人達が二十年、三十年元気に頑張っていることを知り安堵しました。

無我夢中

長野教室 羽柴良信

私は小諸市の羽柴と申します。日頃信鈴会の皆様にはご指導・お力添えをいただき、ありがとうございます。この場をお借りしましてお礼申し上げます。

これまで自分としては、生まれつき丈夫で、寝込んだこともなく、食事も運動も飲酒も喫煙も思うまま気楽の人生でした。それが、定年少し前から深酒をすると、次の日に声が出にくくなり一日たつと直る状態が続きました。病院へ行っても異常はないが、気管が変形しているので手術しますかといわれましたが、手術は「いやだ」と断っておりました。

再就職後も同じ状態が続き医者を替えて診ていただいたが「ガン」とは言われなく過ごしていました。もちろんタバコとお酒は毎日続けておりました。ところが、二年前の三月に仲間とゴルフに行った時、いつものとおり土手に打ち込んで急な坂を登っていたら息が荒くなり、喉がヒューヒューと変な音がしてびっくりしました。それから一週間ぐらい経った時、夜中に息苦しくなりびっくりして次に日近くの病院に行ったところ、ガンで手遅れだからうちでは処置できない、長野日赤さんか、信大病院のどちらかへ紹介すると言われました。私は、直る可能性はあるのかと聞いたら、あまりいい返事はありませんでした。それからは無我夢中でショックを感じていられませんでしたが、傍らから見れば精神的におかしくはなっていたと思います。

その足で車を運転して長野日赤さんへ受診し同じようなことを言われました。その後各種検査をして四月二十八日に手術をしていただきました。手術後は二日寝ておりましたが三日目からはトイレも歩いて行かれました。寝たきりで一番苦しかったのは元々腰痛もちのため、たった二日でも大変でした。又おしっこがある程度溜まってから、出るときがあってその時は、抵抗があり苦しかった。看護婦さんとけんかしたが取り合ってくれなかったので、付き添いに管を真っ直ぐに伸ばしてもらったこともあった。

その後順調に経過し五月二十日無事退院しましたが、それからが大変でした。私は咽頭からリンパに転移しており三十回の放射線治療がありました。最初十分ほどの放射線治療を受けて帰ってから、午後、田んぼの草刈をして、放射線で傷んだ皮膚が剥けてしまい今でも傷になっております。又最後の一週間は放射線の量が増えて皮膚が真っ黒になってしまいました。それでも、一ヵ月半無事通院でき、普通食を食べていられたのは幸いでした。只、治療が終わりに近づいてくるに従い声の出ないのが苦痛になってきました。先生に発声訓練をしても良いか聞いたところ、喉が傷ついているからしばらく待つように言われました。放射線治療が終ってしばらく経って七月末から発声練習にお世話になっておりますが、発声にも波があって、家でよくマイクを持つとだめになり、特に人ごみの中などではぜんぜん話ができません。大きい声でしゃべろうとすると、なおさらしゃべれなくなります。さいわい私は抗がん剤の使用も無く、今のところガンの再発もないようですが、一般の皆様の社会生活とは少し違ったような気がします。先が短いような気がして無我夢中で過ごした一年十ヶ月でした。これからは、少し落着いてゆっくりした人生を歩もうと思います。今後ともよろしくお願いします。

最後に信鈴会の発展と会員皆様のご健勝、長野日赤様のご発展を祈念し、まとまりませんが闘病記といたします。

十年一昔

長野教室 小林栄

「十年一昔」という言葉が言われます。私は平成七年十月三日、東京築地の国立がんセンターで喉頭がんの手術を受け、声を失ってからもう十年が過ぎました。声を失うことは前もって言われていましたので覚悟はできていましたが、最大のショックは食ベ物が喉を通らないことでした。おもゆ食事から、かゆに変えた途端、喉を通らずに鼻と口から逆流してしまいました。

それは私は患部が大きく、自分の小腸を切って十センチくらい喉に移植し、喉と食道をつないだからです。小腸は体の内部にあるとき二十四時間絶えず活動して食べ物を消化しております。だから移植されても以前のように活動することがあるのです。

先生か看護婦さんに前もって話してもらっていれば、心の準備もできていたのでしょうが、何にもいわれてないので大きなショックでした。僅かづつ食べて、気持を落着けて飲み下していくより仕方ありません。だからしばらくパン食に切り換えちぎって食べていました。それでも人に声をかけられたりするともう駄目、一度逆流が始まると三十分から一時間はジッと座っているより仕方ありません。横にはならず、ずっとベットに座っていました。

一番困るのは食事時の見舞い客があったときです。声は出ないし、口と鼻から食べ物は噴き出るは、どうにも仕方ありません。一ヶ月で退院できましたが、腸の活動も次第に治まってきました。だが今も食べ物をすすることはできませんし、カツ丼、天丼など熱いものを喉には直接入れられません。三、四ヶ月に一度位、まだ移植した腸が動き出す気配があり、食事をストップして静まるのを待っています。

発声練習は三年目頃から始めましたが、母音は出るのですが、それ以上続きません。市民病院の野村先生から普通の発声は無理だ。サーボックス補声器を使うよう教わり、一昨年から使い始め、やっと声が出るようになりました。

しかし長い会話は聞き取ってもらえません。十年過ぎて八十歳も近くなり体力の衰えを感じる昨今です。

英文メモ頼りの外国旅行

松本教室 横地泰英

二〇〇五年六月、山仲間と三週間のヨーロッパ旅行をした。フランス、スイス観光だが、主目的はアルプス・トレッキング。シャモニ、ツェルマット、グリンデルワルトと山麓を周遊し、できれば四○○○メートル峰に登りたかった。

会社リタイアと平行して二年連続ヒマラヤ登山。八○○○メートル峰を目指していたが、二〇〇二年食道がん、○三年喉頭がん。胃と食道は「胃管」になり、喉頭全摘で声を失った。摂食量は三分の一、体力は半減した。山は遠のいた。

週一回の教室通いで食道発声を教わり、少しずつ生き方に積極性が出てきたとはいえ、三週間の外国旅行となると、それなり覚悟と最低限の準備が必要だ。喉の狭窄部に食物が詰まらないか。旅先で十分食べられるか。僕の食道発声では、とても英会話は出来ない。迷っていても仕方ない。まず僕が気管孔で呼吸していること、音声を失ったことなど、体の状況を説明した短い英文注意書きを作ってみた。ヒマラヤの先輩が英語屋さんなので、添削を頼んだ。食道がん主治医のドクターに医学用語を補っていただいた。別掲の注意書きができた。

嚥下しやすくするため、喉の狭窄部をバルーン拡張してもらった。十分かめるよう、義歯を調節した。唐松岳、常念岳、燕岳と残雪の山々を日帰りで登り、筋力をつけた。

飛行機や列車内で英文注意書きを同行者に配り、病状や体調を説明した。同行する仲間も知ることで安心でき、心配が減ったようだ。結局、この旅行は天候に恵まれ、大成功。

アクシデントはなく、ブライトホルン、メンヒと四○○○メートル級の二峰に登ることができた。フランスもスイスもホスピタリティー豊な国で(物価は高いが)人々は皆親切だった。持参した和英電子辞書をひきながら筆談で何処でもOKだった。ヨーロッパにも音声不自由な人はいくらでもいるわけで、メモを見せれば、不審な表情は見せず、笑顔で受け答えしてくれる。英語が通じない人は少ない。正しい英文かどうかなぞ、気にすることはない。面倒なら単語だけだって構わない。観光地には街角ATMがある。一度教わればいつでも引き出せる。タクシーはなるべく使わず、バスや電車・汽車を利用した。街の息遣い、人情が肌に伝わってくる。レストランの朝食は、どこもバイキング方式。全体に日本食よりカロリーが高い。僕には好都合だった。

ソーセージ、スクランブルエッグ、サラダ、ジュース、ヨーグルト、牛乳、コーヒー。定番メニューは数種のパン、バターチーズ、ジャム、ロースハム、五つ星ホテルも星なしロッジも大差ない。昼食用にサンドイッチをつくっても構わない。帰国時の体重は、全く同じだった。

今夏は台湾の最高峰・玉山 三九〇〇メートルに登りたい。法隆寺の修復に使われた樹齢千年を超すヒノキ巨木群を訪ねたい。

今度は漢字メモか。

発声教室先輩に感謝

長野教室 松林良雄

喉摘手術を受けて丁度一年になります。昨年今頃は手術日(一月二十六日)が決まり「これで俺の声とはおオサラバ」覚悟はしても不安な毎日でした。

病院の計らいで同病者の訪問を受け話を聞くこと出来ました(一月二十四日)。本人のかっての体験を健常者に遜色ない上手な発声で話をされて妻と二人とても驚きました。訓練をすることで誰でもこれくらい喋る事が出来るようになれる話を聞き勇気付けて頂き、希望をもって手術を受けることが出来ました。

一年たった今、声を出すこつがつかめ、なんとか日常会話が出来る様になりました。ここまでになれたのも月三回長野発声教室と週一回仲間の練習日に、先輩方々に温かくご指導と激励を頂いたお陰です。心から感謝致します。

私の場合第一声はまだ入院中でした。退院が決まり先生から発生の許可が下りた二月二十一日午後二時頃、竹前さん(同病者で私より一週間前に手術十九日退院)と先輩の二人病室に来訪、初めての発声訓練を受けました。お茶飲み法約一時間教えて下さいました。ゴックン「アッ」何回やっても出るのは気孔からの空気音「シャーシャー」ばかりで原音「ア」の音はついに出ませんでした。竹前さんは母音ア~オが出てビックリ、すこし羨ましく思いましたが頑張る勇気が出ました。夕方お風呂に入り昼間教えて頂いた要領で、気孔に手ぬぐいを当てゴックン「ア」一瞬我が耳を疑いもう一度、ゴックン「ア」偶然にも声が!はっきりと聞こえました。そのときの嬉しかったこと、今でも忘れることが出来ません。早速家族にメールを送りました。それからは夜中ラウンジで毎日約一時間練習を続け、なんとか声が出るようになりました。退院後は目標を設定し、毎日朝夕同じことを反復練習して来ました。

また先輩から教えて頂いた比較的声の出やすい言葉として三音→京都四音→東京五音→今日は、練習方法として散歩をしながら常に発声をしています。体のことなどまだまだ不安と不自由ではありますが、これからの思考で楽しく顔晴(ガンバッ)て行きたいと思います。これからもよろしくお願い致します。

自分史の発刊によせて

松本教室 大久保芳郎

昨年(平成十七年)十一月、自分史を発刊した。そのときの「思い」を市民タイムスに投稿し、口差点欄に掲載していただいた。以下は、その投稿文である

【市民タイムスへの投稿文:自分史が完成(十七.十二.十三掲載)】

自分史を書き上げた。以前、友人の一人から「自分史を書いてみたい」という話を聞き、退職により時間ができたことも手伝い、「私も書いてみよう」と思いたって始めたものである。「気の向いたときに書く」というノンビリ気分で始めたため、昨年の秋から丸一年かかったがどうにか書き上げた。

折角だから製本をしたいと思い、友人にいろいろ調べてもらったところ、これが結構費用がかかるのである。特にカラー印刷が高いとのことであった。ある印刷会社から「自分で印刷したらどうか。綴じ込みと表紙付けのみであれば安く出来る」とのアドバイスをいただいた。

早速、自分でパソコン印刷に挑戦した。しかし、両面印刷をするとどうしても文字が透き通ってしまう。アドバイスいただいた印刷会社から、数種の用紙を世話してもらい何回か試し刷りをし、すこし厚手の用紙を使うことで何とか印刷できる見通しを得た。紙詰まりやインクのかすれなどの失敗を繰り返しながら、とりあえず十冊を印刷した。念のためと思い読み返したところ、今度は誤字、脱字が見つかった。コピーではないから、該当するページは両面とも十冊分、再度印刷をしなければならない。そんな段取りの悪さもあって、試行錯誤の繰り返しであったが、ようやくの思いで三十冊を印刷することができた。この三十冊を印刷会社にお願いし、きれいに綴じ込みと表紙付けをしていただいた。内容や文章のまずさはともかく、友人や印刷会社の方々にお世話になりながら、悪戦苦闘の末完成した自分史である。それだけに、感慨もひとしおだ。書き上げたことと、なんとか印刷し無事発刊できたことに大いなる自己満足を覚えているところである。親しい友人にでも目を通していただけたらありがたい。

人生・明るく前向きに

長野教室 滝沢太三雄

平成十年二月、私は声が掠れて出にくくなり検査のため長野赤十字病院に入院しました。検査の結果は悪性腫瘍とのことで、かなり動揺しましたが「放射線治療で五年間発病しなければ完治したことである」と伺い一ヵ月半入院し治療を受けました。

幸い五年間再発することもなく過ぎ安心していましたが、平成十五年の九月頃から咳が出始め、内科で受診したところ肺には異常がないとのことでしたが咳は止まらず、十一月から長野赤十字病院の耳鼻科へ通院し治療を受けていました。翌年三月になって細胞の検査の結果「喉頭癌が再発しているので一日も早く手術を」と先生から告げられた時は、声を失うという現実について考える余裕はありませんでした。

四月七日の手術の前に発声教室を見学させていただき、食道発声の練習をすることで会話が容易に出来ることを知り、皆さんが上手に話されている様子を拝見して驚き、自分も訓練によって声が出ることに希望を持ち気持が軽くなりました。六月教室に入会し、指導員の方から発声の仕方を親切にご指導いただき、家でもテキストやビデオを見て一日に三時間とは行きませんが必死に練習しました。しかし空気の吸引法のコツがつかめずお茶を飲みながら悪戦苦闘の毎日でした。

三年前に直腸癌で開腹手術をしているので腹筋も弱く、腹圧を高める事が出来ない状態で思うように声が出なく気ばかり焦っていたとき、先輩の方が「いつか必ず声が出るようになるから焦らないで」と云って下さる言葉に励まされ頑張る力を頂きました。

半年が過ぎ多小ながら声が出始めたとき、今度は腎臓に癌が出来ていることが判り、手術するに当たって、入院中声が出ないため不測の事態に備えて器具を購入することにしました。購入当初は器具の使用を控え食道発声の練習を優先するよう努力しました。然し苦労しないでも会話が自由に出来る便利な器具があればどうしても発声練習の方は疎かになり、だんだんと声が出にくくなってきました。腎細胞癌の手術は翌年三月に行い、転移もなく順調に回復しましたが、手術の傷が大きく発声練習をすると腹部が痛くなるのでつい手加減してしまう状態です。

声を失って四月で丸二年になります。会話は日常ほとんど器具に頼っていますが、自分の声が出ることに望みを持って食道発声の練習は続けて行きます。五年間に三回の癌手術を受けながらも、今は健康でいられることに感謝し、新たに癌の発症のないことを願い、声の出ない障害を抱えながら、残された人生を明るく前向きに生きて行きたいと思っている今日この頃です。(平成十八年二月)

入院生活沢山の微笑ありがとう

佐久教室 笹辺力

新年を家内と病院で迎えました。年末年始ホテルより通院毎日を過ごしてくれ、お陰で安心しての病院生活でした。普段何かとせわしい病院も私の部屋も一人となり、静まり返っています。その中、通常と変わることなく勤めておられる「病院関係者への感謝の念」「生かされている有難さ」を考えさせられる一時を与えていただきました。

一昨年「喉頭摘出手術」を受け、発声が不可能となりましたが、「信鈴会」佐久教室にお世話になり、温かい笑顔に満ちたご指導のもと、発声もあと一息という矢先のことです。手術後一年以上を経て、ある日突然と首より食事が流出して来ました。近くの医院、病院で診察を受けましたが、なかなか的を射ません。急遽、千葉の病院に出向き診察を受け即「経管食」に切り替えられ、しばらく様子を見ておりましたが、夜半に「口より出血」、家内より問い合せ「大動脈より出血」の可能性もあるとのことで、不安の中、年末入院となりました。今回は、「ガンの再発」「大動脈よりの出血」又「手術も一度では無理」かもしれない。という不確定要素の中での手術でした。先生方の努力により、幸運にも現在退院させていただき、原稿を書かせていただいております。

病気になりますと、普段にも増して多くの方々にお世話になります。しめりがちな「入院生活」その中で折に触れ様々な皆様から、沢山の「微笑」をいただき、心から「癒され」「安堵」させていただきました。私にとりましては本当に「どんな薬にも勝る妙薬」です。自分に笑いが足りないことを省みながら、入院生活を通じて皆様にいただいた笑顔を思い浮かべ、記憶に定めたいと思います。

当病院では、性質上全国から患者さんが集まっていると思われ、見舞いの方々も比較的少ないようですが、私の入院病棟がときたま、同階に「手術棟」「ICU」もあり、「ロビー」「面会控室」は連日沢山の方が見えております。私も「ロビー」をよく散歩しましたが、皆様方の表情は「千差万別」です。暗い雰囲気になりがちな病院へ尚「悲しさ」を持ち込んだような表情の方、中には温かい雰囲気を醸している方にお目にかかります。無関係な私でさえ「安堵」させられる「一こま」です。

病室の付き添いの方々につきましても、大勢の方が手術を受け退院されていきます。身内の方が付き添いをされておられます。「大きな手術」をしたにも拘らず、常に笑顔を絶やさない奥さん、顔を合わせても「笑顔」で挨拶いただきます。有難いことに、私までが励まされます。患者さんたちの表情はといいますと、仲々よい「笑顔」にお目にかかることが出来ません。中年から年配の方が多い事も確かですが、「世の中の不幸を全部背負っているような顔」を皆様されています。「ガン」になる人は何か共通点があるのかと考えさせられます。冷静に自分を見ますとなかでも「下」の方に位置づけられることは確かのようです。家内にも常にもっと「明るい顔」をと促されるゆえんです。!

「妻」「妹」「従弟」「甥」に見守られ手術室へと向かったわけですが、そのときの皆の「微笑」が、なによりの勇気付けとなりました。「左胸の激痛」と「圧迫感」で「マスイ」から眼が覚めたようです。「回復室」で最初にお目にかかるのは、手術室担当の看護師さんです。懸命に痛みを訴えるのですが、悲しいかな声になりません。二人の看護師さんが、顔をのぞかせて、一人の方が気の毒そうに「痛いですか」「痛いですか」と私の意を汲んだように問いかけてくれ、「痛み止め」を入れますからと声をかけていただき安心しました。他の一人は落着いた「笑顔」を終始見せて、「手術はうまくいきました」と語りかけているようで、落ち着きを取り戻したようです。必要な処置をしていただき、回復室を出ましたが、皆様方出迎えていただきました。残念ながら、私のから「ありがとう」の一声も出ません。皆の心配そうな顔に混じって家内の「ニコヤカ」な「笑み」が大きく目に入りどんなにうれしかったことか!

今回の手術は、課題を以って臨んだだけに、手術そのものの成功とは別に、結果の良し悪しが気掛りでしたが、笑顔に接し、結果「オーライ」と直感しました。急に眠気にさそわれ、どんな「痛み止め」より効いたようです。

先生方におかれましては、手術をしていただくにしても、当然そのものの「知識」「技術」「技能」に優れて欲しいことは確かですが、今回の入院で特に感じたこと、事に応じて与えていただいた何気ない「笑顔」を忘れることは出来ません。手術内容の説明も、解り易さもさる事ながら笑顔で自信を持って説明される温かい顔。「異様な雰囲気の手術室」チームの皆様勢ぞろいの中に「マスイ」に入る直前不安気な私に、笑顔で応じて下さった、執刀医の先生、手術後穏やかに病室を訪れていただいた先生、手術の成功を無言で伝えていただいているようで私には何ものにも変えられない妙薬でした。

毎日、四六時中お世話になり、何かにつけて我がままを聞いてくださった看護師さん、皆様それぞれもち味で時に応じて笑顔を見せていただきました。懇切丁寧な直接看護もさることながら、過酷な勤務体系の中にも常に明るく、私の体調に応じ、我がことのように喜び笑顔を振舞ってくださった皆様方のご努力、厚志は一生忘れることはないでしょう。これもまぎれもなく、何よりの「妙薬」であったことは確かです。ほんとうに「ありがとう」賄いの方、「笹辺さん食事ですよ」とほがらかな声で、食事を届けてくれます。毎日、単調な同じ「経管流動食」です。なんの変化も味気もない食事に、食欲を植え付けていただきました。いつまでもお元気で、患者さんの「食事」に花を添えてください。美味しい食事ありがとう。

以上のように入院生活を想い起こすにつけ、私より先輩で「大きな手術」をされた方々が沢山おります。日夜頑張っておられる患者さん、その付き添いのご家族のご努力、様々な闘病の姿にお目にかかれますことも、発奮の動機付けとなり励ましになった事も事実ですが、より強く「癒し」「励み」を授けていただいたのは、随所にお目にかかった様々な「笑顔」です。

本当に『沢山の笑顔ありがとう!』手術をし発声が不可能になり、自分の意思を表情で伝えようと、「痛さかげん」「不快感」「その他」を表現しようとしてきましたが、大きな間違いであったようです。結果的には、皆様方に「誤解」を招き「不快感」を与えただけでなく、自分に対しても悪影響を及ぼしていたのかも知れません。皆様ごめんなさい!皆様方から授かった沢山の「笑顔」、自分でも又お返しが出きるようにならねばと思います。囲碁も「一万局」打てば初段とどこかで見ました。私が面倒をおかけした「看護師」さん達は「微笑」の立派な有段者であることに間違いありません。私の家内も、毎日苦労を表にせず、なにかにつけて「笑顔」で無言の励ましをいただきました。「ありがとう」、まぎれもなく「微笑」の有段者です。私も今年は負けずに、よき手本が身近におります。感謝しながら、初段を目指したいと思います。そして今原稿を書いておりますが、発声教室も三ヶ月失礼しました。又「あせらず」自分のペースで頑張りたいと思います。手術後も、退院時にもお世話になった皆様方に「ありがとう」の一声が言えない無念さを味わってきました。なんとか「ありがとう」の有段者も目指したいものです。又「佐久教室」の明るい、元気な皆様方に、お逢い出来ることを楽しみにしております。よろしくご指導ください。

今年の病床での元旦、「笑顔の初段」「ありがとうの初段」を目指す。ささやかな、しかし、私にとっては大変大きなお願いをさせていただきました。!本当に沢山の微笑ありがとう!

「あゝ上野駅」

佐久教室 三瓶満昌

先ごろ、知人のKさんから手紙をいただいた。Kさんは友人という関係の人であったが、紹介してくれた友人と二人で、年に一度夏の夜、ビールを飲みながら語り合う仲になった。

Kさんは、私よりずっと若いが、実績を買われて、以前私がお世話になっていたS社に、コンサルタントとして迎えられた人である。三人共、普段は会うこともないのに、飲むと、毎日顔を合わせてきたような親しみが湧いて、遅くまで飲んで唄った。そのKさんとのお付き合いはその後三年ほど続いたが、Kさんが退職されて帰省されてから五年程は、月並みな年賀状のやり取りだけのお付き合いが続いていた。そのKさんから丁寧なお手紙をいただくことになったキッカケは、今年の年賀状に、工場を閉鎖したことを知らせたことへの返信のようなものである。Kさんからの手紙の内容は、次のようなものであった。Kさんからお許しはいただいていないが紹介したいと思います。

前略、お葉書を拝見するまでは存じ上げませんでしたが、創業から長い年月、手塩にかけてこられた工場の閉鎖は、さぞかしご無念のことと、お心の内お察しもうしあげます。諸々の整理が一段落されたとのことですが、それに至るまで、さぞご苦労が多かったこととお察します。

小生も在職中に、日々金策に追われ、N市まで日参した時期があり、眠れぬ夜が続いたことを思い出します。またM氏の倒産のときは、小生も立場上、会社整理のお手伝いをさせていただきましたが、ご貴殿の好意は本当に有難く感じ入りました。細かなことには触れずすべて承知の上で、手をさしのべていただいた温かいお気持ちには感じ入っていました。(ご発声が苦痛と勝手に決めつけていたため、ご貴殿とお互いの心に触れるような複雑な会話を避けていたことを悔やんでいます)。同封いたしましたのは、平成十五年七月、上野駅に(あゝ上野駅)の歌碑が設立されたということを聞きまして、これは是非、ご貴殿にお目にかけなければと、その年の十月になって写真を撮りました。出来の悪い写真ですがお手元に届ける機会がなく、今日に至ったものであります。何回か同席させていただいたカラオケで、決まってこの歌を、一緒に唄っておられたのを覚えています。

いただいたお葉書に(私の人生は倒産しませんので・・・・)とございましたが、誠にその通りで、僭越な言いまわしをお許しいただけるならば、半世紀まえ上野駅に降り立ったときの原点に立ち返って、新たな挑戦を試みてください。月並みの励ましですが、お元気で頑張ってください。また、機会があれば、ご一緒に(あゝ上野駅)を唄えるよう埼玉の地より願っています。平成十八年二月二日大安 K拝


「あゝ上野駅」

詞関口義明作曲荒井英一唄井沢八郎

一、どこかに故郷の香りを乗せて

入る列車のなつかしさ

上野はおいらの心の駅だ

くじけちゃならない人生が

あの日ここから始まった

三、ホームの時計を見つめていたら

母の笑顔になってきた

上野はおいらの心の駅だ

お店の仕事は辛いけど

胸にゃでっかい夢がある


【歌碑の由来】

高度成長期昭和三十~四十年代、金の卵と呼ばれた若者達が、地方から就職列車に乗って上野駅に降り立った。戦後、日本経済大繁栄の原動力となったのが、この集団就職者といっても過言ではない。親元を離れ、夢と不安を胸に抱きながら必死に生きていた少年、少女達、彼らを支えた心の応援歌「あゝ上野駅」は、昭和三十九年に発表され多くの人々に感動と勇気を与え、以後も綿々と唄い継がれている。この歌の心を末永く大切にしたいとの思いから、また、東京台東区の地域活性化、都市再生プログラムの一環として、ゆかりの此の地に「あ>上野駅」の歌碑を設立するものである。

平成十五年(二〇〇三年)七月六日歌碑設立委員会・発起人総括責任者深澤寿一


Kさん、勇気をありがとうございます。

ぜいたく

長野教室 新享

アフリカにスーダンという政情不安定な国があり、常に政府軍と反政府が激突している状況の中に、六歳になる少年の父親が反政府軍に殺害される。その少年が八才の時に軍隊に入隊、そして十一才の時敵の攻撃を受け下半身が不自由となり軍隊退役、その少年に君の宝物はなんですかとマイクを向けると「今生きていることだ」あっ声が出ても言葉にならない。それにひきかえ生きていることがあたりまえ、声が出る。言葉が発せられる。当たり前と信じて疑わなかった自分が、声帯を切除しなければならなくなり、言語障害に、なぜだ。これからの余生をどう生きればいいのか。宿業をうらやむ七十才のオッサン、かたや今生きていることが宝だという十一才の少年。オッサンと少年の違いはなんだろう。

ここで、アメリカであった話を紹介しよう。百年も前の事です。アメリカ大陸のインディアン居留地に、アメリカ大統領が土地を売ってほしいとインディアン首長に声をかける。この大地は聖なる母だ。親を売ったり買ったりするものではないと拒否。狩猟民族の我々の生命(いのち)を養ってくれる別の生命(いのち)「狩猟される動物」に感謝の念を忘れない、食する分しか狩猟しないが白人は動物を生け捕り又殺りくをし、散乱させたまま放置、このように嘆いているインディアン族、まさしく生命の尊厳を重くとらえているインディアン族と十一才のスーダンの少年と重ね合うところを感じます。ある仏典に衆生の恩、国王の恩という文句があり、この度我々は治療にあたってくださったドクター又看護にあたって下さった看護師さん等々、衆生の恩にあたり国の保護を安心して受けられる国王の恩に浴している。我々の六十年七十年と生きてきた証。人生の財産を後継の人「子供達」に又社会に還元していかば忘恩の人生で終ってしまうのではないか。アメリカは障害のある方を「挑戦すべきことを与えられ人々」という意味で『チャレンジド』と呼ぶそうです。このチャレンジドの精神で、福祉の啓発に未来の宝「子供達」にいろいろ語り目を向けてあげたい。それには一日でも早く言葉を交わせるよう発声練習に力を入れ社会活動へ出発したいと念願しております。内容を集約すればスーダンの少年は感謝、日本のオッサンはぜいたく。あ~恥ずかしい日本のオッサン、スーダンの少年に学ベー。

声を失くして

諏訪教室 中野安幸

声が出せなくなったのは平成十五年十一月七日である。この日諏訪日赤で診察した結果気道が腫れて塞がりそうになっているということで、信大病院へ即行くよう指示されタクシーで松本へ、病院では待ち構えており直ちに手術、気道確保(永久気管孔)を図った。その時から私の声は永久に失われた。手術したばかりなので喋ってはいけないと言われていた事もあり、初めのうちは声が出ない実感がわからなかった。ボードに字を書いて(筆談)話を始めた。

日が経つにつれもどかしさを感じてきた。喋れない辛さが分かり始めたのである。

そんな時発声教室を見学、指導員の方から食道発声の仕方等説明を受けた。この教室に参加している人は全員声を失った人で再声をめざし練習をしているとのことで指導員は勿論皆さん単語の発声をしているのには大変驚きまた感心した。指導員から練習すれば必ず発声できますとの説明で言葉を失した絶望感に食道発声法を習得し、希望のある人生をもう一度再現しようと決意しました。

それから病院のベットの上で毎日「あいうえお」と発声練習を始めました。喋れない辛さを味わったのは、電話をかけた時でした。ある程度喋れるようになり、電話をかける方はやっていたので、会議の出席を電話しようとダイヤルしたところ「もしもし○○ですが」と相手(おばさん)が応答、「中野ですが」相手「・・・・」私は必死で呼びかけるが、とうとう「ガチャン」と切られてしまった。いたずら電話と思ったのでしょう!!!初めて味わった悲しみでした。

またある時、孫(五才の男の子)が風邪を引き高熱で寝ていたが、とうとうひきつけを起こし救急車を妻が呼んだ。その時私は別室にいたが、呼ばれて孫を見た瞬間「大丈夫か」と叫んだが声が出ない、口をぱくぱくしているだけ、しばらく経ってから普通に喋れないことに気付いた。哀しいかな空気を吸い込んでいなかったのである。声帯をとる前、夢の中でうなされ叫ぼうとしても声が出ないで目がさめる、その状態と同様であった。また妻と言い合い(喧嘩)をした時も、口をぱくぱくしていうだけで言葉にならず、悔しいやら情けないやらで声を失した悲哀をしみじみと味わされた。

しかし近頃は発声教室へ参加し、発声練習をしているので大分喋れるようになり、声の出ないショックから立ち直りつつある。もっともっと練習し、好きなカラオケをやれる日がくるのを楽しみに・・・・

寒さ暑さの今昔について思った事

長野教室 柿崎庸三

今年の冬は昨年末以来大雪に見舞われかなりの寒さが続きました。飯山市や栄村など県北部の地域や新潟県では家屋が潰れたり、屋根の雪降ろしの時に下に落ちて死んだり、怪我をしたりして大変な年でありました。

近年地球温暖化が大変な問題になっております時に、寒波が襲来したのはどうしてか良く分かりませんが、多少人間の活動が影響しているのかとも思います。現在は寒い冬でも屋内にいれば、色々な暖房設備が完備していて不自由することはありません。また夏は夏で冷房設備が完備していて、ほとんど困ることはありません。

しかしながらこれらを維持するためには多大のエネルギーを消費するわけであります。このエネルギー消費が問題であります。私共が子供の頃は家屋の構造はほとんどの家が木造であり、戸締りも不完全で誠に風通しがよく、室内もコタツだけで回りは障子で、コタツにあたっていても、背中が寒いことが当たり前でありました。コタツに入れる炭はへっついや風呂のオキや焚き火の後に残った消し炭を年間ためておいて冬に使っておりました。足りない分は堅炭や豆炭やタドンなどを使っておりました。まさに環境にやさしい状態であったと思います。

今はほとんどの家で炭など使っておりません。石油、ガス、電気がほとんどだと思います。夏はウチワで我慢しておりました。

この戦後数十年の間の大変化には本当に驚かされます。人間は一度贅沢をすると中々元に戻すことは難しいと思います。

「家族として」

長野教室 竹前照代

今年の冬は例年よりもことさら寒く、雪も多くて困りました。春の訪れを待ち望んでいる姿が浮かんできます。もう少しで花が咲き乱れる季節がやってきます。

私達が教室を十四年振りに訪れて、平成十四年から会員の方がぐっと増えたのが目にとまり、指導員を申し出て今日の姿になりましたが、それから二年たち四人の方が新しく指導員になられると思います。二、三人だったのが八人で指導に当たることになりそうでうれしいですね。

毎回一人ぐらい新しい人が来られます。不安な表情とその心境は皆様経験されたことと思います。私達もあれから十八年経過し、二度目の中咽頭癌も八年前にやり、横林先生、後藤先生には特別にお世話になりました。又保険と高度医療の恩恵を充分に受け有難さが身にしみました。現在指導員として一人でも多くの人の声を取り戻して健常者と同じ生活ができるようにしてやりたいと願ってやっております。

一年でなんとか、二年でまあまあを目標にしていますがこの教室も一年で三人、二年で一人となかなか早い人が出てきまして、この人達が加わって戦力となります。社会復帰する人、又、亡くなる人もおられますので、増えてくる人達に対応できる態勢作りをしておけば心強いですね。

その一つがマンツーマン方式です。八人、九人が一人か二人受け持って指導すれば、指導員が先細りする心配が少ないと思うのですが、それと同時に相性というのもあります。六ヶ月やって効果がなければ、別の指導員に教えてもらう、ということを、ごく自然に当たり前として受け入れる(教える側)、そういう雰囲気を持つことも大事なことと考えます。「新しい人は、指導員について努力すれば、声は出るという期待を持って教室に来られます。指導員もまた、出来るだけ早くそうなってほしいと思っています。幸い長野教室はマンモスではありませんので、やりやすく、結果も早く出そうな気がします。一年やってみてダメならまた、別の方法を考える。十人いれば十人の知恵、皆様方がいい方法を考案して試してみるのもよいと思います。この教室が私達の社会復帰の出発点でした。一人でも多くの人に声を、目標にして、家族の人達もこれからもずっと側面から支えてやっていただきたいと思います。

みんなで楽しくなごやかいっぱい飯田教室

飯田教室 今村和行

発足したばかりの飯田教室では、楽しくなごやかにをモットーに教室を運営しています。この一月からは、花田指導員の発案により「カルタ」をとり入れ、同伴者や看護師さんも巻き込んで、楽しみながらの発声訓練にいそしんでいます。

やり方はいたって簡単、読み上げた絵札を取るのですが、その際その人の能力に応じ、最初の一文字や最初の一節を発声してからとることに決めています。もちろん、取れなかった人も、同じように声を出してみるのです。なんだか子供に戻ったような気分で楽しいですよ。それから、良いと思われることには、何でもチャレンジしてみようということで、今村看護師長のアイディアにより、この一月の第一回の教室では飯田市立病院の理学療法士の先生の協力を得て、腹式呼吸法の実技の指導をいただきました。なるほどとうなずけるところがありましたが、日常生活にも生かせるよう、あと何回かの実技指導をお願いしようと考えています。

平成18年刊 第33号

平成19年刊 第34号

平成20年刊 第35号