令和元年刊 第46号

はじめに 

長野県信鈴会会長 上條和男 

「跳ぶ前は高かったけど、跳んでみたら低かった」(東邦出版、園児の名言)より引用。

 声を再生する訓練も、同じように練習していたら出せるようになれるか。六歳の育ち盛りの子供と違って、私達は高齢者である故に、柔軟性や新しい事に挑むエネルギーが少しずつ減って来ているのも事実でしょう。時間が掛るのも仕方のないところです。生きて行く上で、思い通りにいかない事が大部分ですし、簡単に事は成就しない事も経験上知ってしまっている。だからこそ逆に楽しむくらいの気持ちや余裕を持てれば、と思ったりします。

 昨年、信鈴会が発足五十年を迎えました。記念式典には多くの会員の皆様、そして、喉頭摘出者を支援、助成していただいている医療関係や行政の皆様、また、半世紀前に信鈴会立上げに多大な力添えをして頂いた方々にも参列して頂きました。この会を立ち上げ、引き継いで来られた多くの先輩方々に思いを馳せた時でした。

 「声を失った喉摘者が声を取り戻し、気後れすることなく社会復帰してほしい」との先人達の熱い思いをこれからも伝えていきたい。そんな思いを改めて強くした記念式典でした。

 信鈴会の五十年にわたる活動を、信濃毎日新聞社が評価をして下さり「信毎賞」を受賞させて頂きました。私たちのような小さな団体に大きな光を当てて貰ったことに深く感謝をいたします。

表彰理由は「五十年の長きにわたり、県内に於いて1000名以上の喉摘者の声の再生と生活の質の向上に寄与した。」とのことです。

私達の活動が社会的に認められていると、実感させて貰った時でした。

 9月には「日喉連東日本ブロック訓練士研修会」が、当会が当番幹事として開催されました。関東・甲信越、11団体70名の訓練士が「入会前の患者さんに対するオリエンテーション」についてグループワークを行い、喉頭摘出後の不安を払拭し、声の再生が出来ることを、いかに正確に伝えられるかについての研修でした。

 当会も含め、各県の団体が抱える問題、地域間の違いや、未加入者の情報不足、いろいろな問題提起があり、貴重な勉強をさせてもらう機会となりました。今後の活動に生かしていきたいと思っています。

 今年は信鈴会発足51年目です。新たな気持ちでスタートします。会の円滑な運営、そして皆様ともども発展出来ますように、ご指導ご鞭撻をよろしくお願い致します。

 

2020年 春

共に生きる長野県を目指して

長野県健康福祉部障がい者支援課長  髙池武史 

 貴会におかれましては、日頃から障がい福祉行政の推進に御理解と御協力をいただき、心よりお礼申し上げます。

 また、貴会の御協力により実施している発声訓練事業につきましては、関係各位の御尽力により県内各地において熱心に発声教室を開催していただき、重ねて感謝申し上げます。

 

 昨年創立50周年を迎えられました貴会は、昭和44年の設立以降、社会・経済情勢の著しい進展、変化の中、半世紀の永きにわたり一貫して音声機能障がい者の福祉の向上や社会参加の推進などに取り組まれてこられました。特に発声訓練につきましては、人生の途中で突然、病気等により声を失い、それまでの生活が変わってしまうことで、自信をなくしてしまう音声機能障がい者に対し、音声の獲得に加え、声の再生により希望と勇気を与え、社会参加を促す大変意義のあるもので、心より敬意を表するところであります。

 

 さて、県では、「長野県障がい者プラン2018」の基本理念である障がいのある人もない人も、地域社会の一員として、学びを通じてお互いの理解を深め、自治の力を活かして支え合う、誰もが人格と個性が尊重され、「居場所と出番」のある「共に生きる長野県」を目指す取組を進めております。障がい者に対する理解促進のための「ヘルプマーク」の普及や「信州あいサポート運動」などもその一環です。

 

 さらに、障がいのある方が現実に感じておられる生きづらさを解消するとともに、障がいのある人もない人も共に支え合いながら、誰もが暮らしやすい共生社会を目指すための新たな条例の策定に向けて、検討をしているところです。

 

 人生100年時代の到来が見込まれる中、長野県では、高齢者の就業率が全国で最も高いなど、多くの方が現役で活躍されていらっしゃいます。

 学びや地域でのボランティア活動、お仕事など、様々な社会参加を通じて活躍されることは、生きがいと健康の増進につながり、健やかで充実した人生の実現につながります。

 そうした観点からも、貴会の活動は、発声機能の再生により、患者の皆様に希望と勇気を与え、社会参加を促す大変意義あるものと認識しております。

 今後も引き続き、本県の障がい福祉の向上にお力添えを賜りますようお願い申し上げます。

 最後に、貴会の益々の御発展と、会員の皆様の御健勝を心より御祈念申し上げます。

障害者福祉の一層の充実をめざして

 

長野県議会議員 信鈴会特別顧問 本郷一彦  

 信鈴会におかれましては、上條会長の高い志と理念のもと情熱を持って行動し、全国を代表する喉摘者の団体として、内外ともに高い評価を挙げられております。

 長野県は「しあわせ信州創造プラン2・0」を作成し、2018年度から五年間の取り組みがスタートして本年は新たなフェーズに入りますが「確かな暮らしが営まれる美しい信州」を基本理念に、目標達成に向け各分野の実現に努力してまいります。

 政府においては、地方創生を最大なるテーマとして位置づけ、一昨年十月に長野県地方創生総合戦略を内閣府に提出し、全国的にも高い評価を頂きました。本年はそれに基づき政策を実現する二年目の重要な年であり、人口減少に歯止めをかけ、真に成熟した社会像造形にむけて、全力を傾注する所存であります。

 我が国の主要テーマは、二十年に渡るデフレ脱却に向け経済成長路線を軌道に乗せることであり、同時に持続可能な社会保障制度の構築に他なりません。SDGsの理念は国連サミットで採択された十七の目標のもと、二十一世紀の医療・介護・福祉・子育てをどのように実現するかは政治の重要な責務であり、「障害者が自立して生活できる社会」の形成は、その中心課題と認識しております。その中にあって、会員皆様が抱える問題解決につきましても、私は顧問の責務を充分に自覚し、県政を通じてお役に立てるべく頑張る所存であります。

 信州大学の先生方、看護師の皆様、更には関係各位のご協力のもと、発声訓練が一層着実に進化し、結果社会参加へと繋がり、夢と希望の持てる方向に進まれていることに対し、心から敬意を申し上げます。

 本年も皆様にとって幸福な一年であることを心から祈念いたし、ご挨拶と致します。 

国民総労働時代の高齢者の健康(その一)

 

信州大学名誉教授・信鈴会顧問 田口喜一郎

  

 私共日本人の平均寿命が年々伸びるとともに、出生数の減少と死亡者数の増加により毎年四十万~五十万人の人口減をもたらし、安定した経済社会を維持するために必要な人の数(生産人口)が大幅に減少しております。そのために、高齢者がその穴埋めをしなければならない時代を迎えております。従来の定年を過ぎても働き続けるためには、健康を保持しなければなりませんが、そのために何が必要か考えてみたいと思います。

 私の提案は、日常の生活習慣と定期的な健康診断受診の二つです。

一 日常の生活習慣

 ①食べる

 人は毎日生きるエネルギーを得るために食べることです。きわめて単純なことですが、年を取るときちんと食事を取らない人が多くなります。ましてや決まった仕事をしなくなると、その傾向は強くなります。一応決まった時間にある程度の食事を取ることは生命維持に必要なだけでなく、生体時計を順調に動かすことに必要なことです。

 ②動く

 人類は二本足で動く動物です。人の体は長い歴史を経て、立って二本足で歩くことが可能となり、手を自由に使えるように進化しました。そしてすべての体の器官や臓器は立ったり座ったりすることで順調に機能するようにできております。毎日少なくとも五千歩程度歩くことで身体機能は順調に維持できるようにできております。よく歩く人は姿勢もよく健康を維持する基本条件を満たしているといえます。

 ③会話する(声を出す)

 高齢者が人と話す時間を持たなくなると、認知症の程度が進んだり、精神的にうつ状態になったりし、身体機能も衰えやすいといわれております。家族に話し相手がない人は、外に出て隣人や友人と会話や趣味を共有する時間を取る必要があります。歌や詩吟でも結構です。

 声を使うことは、頭と体力を使うことになり、若さを維持する一因になります。敬老苑でデイサービスを受けている人も、苑内で受益者同志や職員を相手に話し、一緒に歌うことをしない人は、認知症になり易く、また認知症の進行が速いといわれております。

 ④眠る

 厚生労働省や五年毎に行われるNHKの国民生活調査で、年々睡眠時間が短くなっているとのデータがあります。また睡眠時間と死亡率との関係を調べた調査結果に、六時間半位の長さ良い睡眠(熟眠)をとる人の死亡率が一番小さいというデータがあります。

二 健康診断

 健康診断は、社会人として活躍しておられる人では、事業場やグループ単位の健康診断がありますし、小さい子供から大学生までは決められた年齢毎に行われる健診や学校健診が実施されます。高齢者や一人親方には「特定健診」として、毎年健康診断を受けるように通知が来ます。しかし、高齢者では、折角の健康診断を受けず、重い病気を放置してしまうことが多いといわれます。毎年人間ドックで精密検査ができれば理想的ですが、最低限の検査は受けて、安心して毎日を過ごすようにしましょう。

 私は十年前、便の潜血反応が陽性に出ましたので、それから二年続けて大腸の内視鏡検査を受けました。一年目には異状ないとされましたが、翌年大腸がんが発見され手術を受けました。一年目の検査では、内視鏡検査の盲点といわれる部分にできていたものが見逃されていたことが後でわかりました。ベテランの医師でもそのようなことがあり得るということですので、潜血反応が陽性に出る時は、徹底的にその原因を調べることが必要なのです。お陰様で私は今まで元気に過ごすことが出来ております。手遅れは後悔以外の何も残せません。

(次回から、健康保持に関する情報をお示ししたいと思います。)

アッ!と云う間の五十年

 

信鈴会相談役 今野弘恵

 昭和三十八年、私が信大病院耳鼻科に勤務していた時のことである。

 喉頭摘出を余儀なくされた患者さんの看護援助はしていても、失った声を取り戻すための援助は何一つなし得ていなかった。このままでは患者さんを幸せにはしてやれない。全ての患者さんが何らかの方法で会話が得られなければ・・・。私は悩んだ。

 鈴木教授に私の気持ちを伝えた。そして、鈴木教授の同意を得て、外来の診察室の一角に発声練習の場を設けた。教材は、銀鈴会からのテープレコーダーなど試行錯誤しながら始めたのが松本教室の起こりである。

 昭和三十九年、長野教室は、前年に長野日赤へ赴任された浅輪勲先生が、看護師の岡部はま子さんに、喉摘された人たちのリハビリや信大病院の状況を話したことがきっかけ。岡部さんは、東京銀鈴会を見学し、銀鈴会長野支部として発声教室を始めた。

 昭和五十三年、伊那教室の開設は、伊那中央病院へ赴任された矢田剛先生、看護師の東原定子さんにお願いした。諏訪・岡谷方面の患者さんが伊那・松本両方面へ出向くことを考えたからである。

 昭和五十六年、佐久教室開設。厚生連佐久病院に赴任された山浦一男先生が、やまびこ会(発声教室)の設立を考えていた矢先のことであった。

 平成元年、諏訪教室開設。諏訪日赤病院の高木範男先生、看護師の雨宮多喜子さんにお願いした。諏訪教室を後回しにしたのは先に述べた考えからである。

 これまでの教室は、私の考えである「喉摘者が一日も早く声を取り戻すための訓練が受けられるように」との思いからの開設であった。

 平成十七年、飯田教室開設。飯田市立病院の塚本耕二先生、看護師の松嶋玲子さんに依頼。飯田教室は、信鈴会の会員さんの希望によって設置された初めての教室であった。私も、飯田市立病院へ出向いてみて、伊那教室への参加は遠距離で厳しく容易でないと感じた。

 このようにして各地に発声教室が設置されてきたが、各病院の院長や看護部長さんには駐車場の件なども含め、きめ細かい配慮をしてもらうよう働きかけてきた。

 

「昭和四十四年信鈴会の創立について」

 島成光さん、碓田清千さんのご尽力に感謝しています。県内には喉頭摘出された患者さんが散在している。島さん、碓田さんは、手弁当で同じ仲間に呼びかけ信鈴会設立に力を入れた。島さん(松本市埋橋)は、足しげく私の所に相談に訪れた。私の子供が、島さんを笛のおじさんと呼んでいた。島さんは、当時タピアを使用していたからである。

 初代会長を、石村吉甫さんにお願いした。(石村さんは信大人文学部の教授)信鈴会の設立は、島さん、碓田さんの尽力によるものである。

 私は、松本市在住の鳥羽源二会長・田中清会長の時代になってから「信鈴会を充実させるためには何としてもお金が必要」と考え、島さんたちと県庁社会福祉課へ陳情にあがった。続いて、今度は増額のお願い。県会議員の有賀先生にお力添えをいただき、信鈴会の会長を伴って県庁社会福祉課長と面談した。

 あるときの課長さんとの面談の折、課長さんから「今野さんは信鈴会のことばかり言うが、県内にはもっと大勢の障がい者がいるんだ」との発言。私は、この課長さんの言葉を聞いてキッとなり、「信鈴会の人たちは喉頭摘出で声を失ったが、第二の声を獲得するために並々ならぬ努力を重ね、発声教室で訓練し、社会参加を果たしているのです。」と反論。課長さんは「分かった。ごめんなさい。」と言ってくれました。当時は怖いもの知らずだったのです。

 

「その他」

 もと信大病院にいた耳鼻科の開業医の先生や松本市の市長さんにも援助金のお願いにまわったこともあった。県庁へ行った帰りは、長野日赤へ寄って、浅輪先生や岡部看護師さんたちと情報交換をした。ズクを惜しまず、本当によく動いた。

 

 以上、昔の思い出の一端を述べてきました。

 昭和三十八年~平成十年頃までの信鈴会のあゆみを知っている人は少ない。現在、会誌「信鈴」には、役員の尽力により「信鈴会の足跡」を載せていただいた。

 上條会長は、声を失った人たちが一人残らず第二の声を獲得し、社会参加ができるようにと意欲的に行動し、行政へ働きかけ、信鈴会の充実を図っていてくださる。本当に頼もしい限りです。

 信鈴会を見守り、常に応援していただいている信大病院の宇佐美教授、鬼頭先生ほか医局の先生方、そして柳沢師長はじめ看護師の皆様に心から感謝申し上げます。

信鈴会長野教室と共に

 

長野赤十字病院院長 和田秀一

 信鈴会が発足して昨年で五十周年を迎えたと伺っています。平成三十年刊の「信鈴」を拝見しましたところ、「信鈴会の足跡」にその歴史が書かれており、そこでは信鈴会発足に先行する1964年(昭和三十九年)、長野赤十字病院内に「銀鈴会長野支部」が発足したとありました。当時の岡部はま子看護師長(その後看護部長)と浅輪 勲先生(その後耳鼻咽喉科部長)の協力を得て、看護師と患者お二人が、東京の「銀鈴会」の練習風景を見学に行き、同長野支部の発足に至ったようです。1969年に松本の教室と連携し、鈴木篤郎教授のアドバイスのもとに信鈴会が発足し、当院の教室は信鈴会長野教室となったと理解しています。したがって、長野教室の歴史は五十六年が経過したということになります。

 現在、金曜日の午前に長野赤十字病院の第二会議室で教室が開かれています。会員の方々と直接お話ししたことはないのですが、いつもきちんと開催され、長い歴史を刻んでいることに敬意を表します。現在当院では根津公教医師が耳鼻咽喉科部長を務めており、信鈴会の顧問になっています。年に数名の方が喉頭全摘を受けると聞いています。

 長野教室が脈々と歴史を刻み、困難な病気に立ち向かう皆様が、毎日を元気に楽しく過ごされる力になっていると確信しております。今後の更なるご発展を祈念致します。

再生医学と喉頭

 

佐久総合病院・佐久医療センター 耳鼻咽喉科部長・信鈴会顧問 清水雄太

 平成二十六年三月に佐久総合病院の再構築により、佐久医療センターが開院して約六年が経ちました。令和二年一月現在、当院ではこの間に十二名の方が喉頭全摘を施行されました。佐久総合病院が昭和十九年に開設され、また、信鈴会佐久教室が昭和五十六年に開設されて、これまでに多くの患者さんが信鈴会に入られ、リハビリに励み、また、会員相互の親睦・互助を深められてきたことと存じます。

 ここに寄稿の機会を頂き、佐久医療センターにて喉頭全摘された患者さん十二名について振り返りますと、男性九名、女性三名、平均年齢七十四歳(六十三~八十五歳)でした。高齢になられてから音声を喪失し、新たに人工喉頭や食道発声により音声を獲得していくことの困難は、もとより尋常ではありません。代用音声の問題だけではなく、喉頭を摘出したことにより生じる症状や生活上の問題に直面する患者さんたちにとり、信鈴会の存在が大いなる助けとなっていることは疑う余地もありません。

 喉頭全摘を始めとして、臓器喪失に対する治療として、近年再生医学についての研究が数多く行われています。平成五年にマウスの背中に人の耳の形をした軟骨を再生した研究が発表されて以来、国内外で様々な試行錯誤が積み重ねられ、現在臨床に到達した分野としては、皮膚・骨・軟骨・歯周組織・血管・末梢神経・角膜・網膜・食道粘膜・気管などが挙げられます。その中で、我が国で薬事承認されたものには、関節軟骨治療・皮膚欠損治療・重症心不全治療がありますが、まだ再生医学の臨床応用は限定的なのが現状です。

 喉頭の再生については、長期的に形態が維持される軟骨の枠組み・声帯の隆起の形成・声帯を動かす神経の再生など課題が多くあり、3Dプリンターを用いた試みなども行われていますが、未だ有効な手法は開発されていません。しかし、端緒となる気管の再生については、部分欠損に対してですが、既に臨床応用の段階に到達しており、今後喉頭の再生についても実現が期待されるところです。

 再生医学を実際の治療として用いる事が出来るようになるには、まだまだ年月がかかりそうですが、いつか喉頭全摘をした際に、予めその患者さんの細胞を培養して作り出しておいた新喉頭を移植出来るような日が来る事を夢見つつ、日々安全で着実な診療を行って参りたいと思います。

発声教室に参加して

 

信州大学医学部附属病院 東2階病棟看護師長 柳沢美保

 今年は暖冬で雪も少なく、冷え症の私にとっては過ごしやすい冬でした。皆様はいかがお過ごしだったでしょうか。

 私が東2階病棟に配属となってから2年が経とうとしています。発声教室があることは知っていましたが、恥ずかしながら同じ病院に勤めていても詳しいことは何も知りませんでした。初めて参加させて頂いた時、デイルームに発声練習をする声が響いていました。練習の合間には日々の出来事を互いに語り合い、とても和やかな雰囲気でした。上條会長さんより食道発声の方法は、「空気を飲み込んでゲップを出し声に変える」と教えて頂き、私もやってみましたがなかなかゲップが出ません。簡単なことではないなと痛感しました。同時に練習を重ね発声法を獲得した方は普通に会話している姿を見て、日々の努力と人の体が秘めている力を感じたのを覚えています。

 初級コースの練習を拝見し、「あ」の一語を出すにも音にならず苦労されていた方が何度か参加させて頂くうちに「あ」の音が出せ、次は「あめ」と二文字を声に出せるようになっていき嬉しい気持ちになりました。また、「継続は力なり」根気強く続けることの大切さを学ばさせてもらいました。最近は、私が配属されてから手術を受けられた患者さんが発声教室に通ってこられるようになり、頑張っている姿を見ると元気をもらいます。私も病棟において、入院早期から患者さんの退院後の生活を見据えて看護を提供できるよう頑張りたいと思います。

 昨年の6月には信鈴会創立50周年の記念式典にご招待頂きありがとうございました。患者さんに声を取り戻すという強い思いで会を立ち上げた当時の医療従事者の方々、現在まで継続してこられた患者会の皆さんのご苦労は計り知れず、なかなかできることではないと思いました。人生100年時代。創立100周年を迎えられるようこの会が継続されることを祈っております。そして、微力ながら何らかのお手伝いができればと思っております。今は発声教室の日に顔を出し、参加している皆さんのお顔を拝見することしかできていませんが、自分に何ができるのか、会にとって何が必要かを考えてともに歩んでいけたらと思います。是非、信鈴会の皆さんの普段の生活の様子やお困りのことなどお話を聞かせて頂き、ご意見を頂けたらと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

喉頭摘出患者さんとの関わりを通して

 

信州大学医学部附属病院 耳鼻咽喉科外来看護師 雫田幸路 

 私は二年半前の部署異動で耳鼻科外来に配属となりました。産休に入る看護師の代わりに突然異動となったのですが、私にとってとても嬉しい人事異動になったと思えます。半年間、毎週木曜日は眼科勤務だったため、残念ながら発声教室参加の機会を持ち得なかったのですが、今回、外来で喉頭摘出患者さんとの関わりを通して、発声教室参加や信鈴会の皆さんとのつながりを持てたことで、前向きな課題がたくさん見えてきて、本当に世界が広がっていき、成長する機会となりました。

 喉頭摘出後、今まで当たり前にできていた仕事や趣味ができなくなった喪失感や、コミュニケーションへの不安を抱え、人付き合いに消極的となったり、外出が苦痛になり家にこもりがちとなったりという方々もいます。そういった思いを聞きながら、つらさを少しでも和らげる方法がないか、本来のその方らしい生活や楽しみを少しでも取り戻していただくために、何かできることはないか考え、いい方法を一緒に探していくことは、看護師としてできるサポートだと考えます。

 また、喉頭摘出患者さんにとって、患者会である信鈴会とのつながりを作れることは、同じ障害を持ち、同じ苦痛や悩みを持つ仲間に出会い思いを分かち合う経験が患者さんの支えになると考えます。精神的苦痛の緩和により、社会生活への不安が徐々に変化し、気持ちが前向きになり、他者との交流や外出が増えたり、社会生活への意欲向上につながることを学びました。そして、発声法の習得は会話ができる楽しさや自信、励み、喜びにつながることを学びました。実際に会話をすることが一番の練習法であり、会話の機会を増やすことで、普段の会話においても筆談なしのコミュニケーションが可能となり、「筆談より簡単で、表情を見ながら会話ができて楽しい」と笑顔が増えた方もいました。さらに、電話通話も可能となり、生活の質の向上につながりました。発声訓練教室は、発声練習だけでなく、患者仲間との交流や情報交換の場にもなり、様々なメリットがあると考えます。

 医療者として、患者さんの苦痛を軽減するために、どういうケアが必要か考え、ケアを検討し提案しながら働きかけていくことで、すべての苦痛を取り除けるわけではないですが、患者さんの意識の変化や意欲を引き出し、障害受容過程を支えることを学びました。患者さんが苦痛を乗り越え障害とともに歩めるよう、サポート体制を整える必要があると考えます。また、社会生活への不安に対し安心や自信を与えるため、支援体制を整え、新たな生活に踏みだせるような関わりが重要と考え、そのような姿勢を大切に心がけたいと思いました。

 耳鼻科外来の仕事そのものにやりがいを感じ、経験を積むことによってスキルアップを図りたいと考えていましたが、今回、私事で恐縮ですが、出産・育児のため休職させていただくこととなりました。産休までは通常通り勤務する予定ですが、外来には耳鼻科病棟勤務経験者の看護師も所属していますので、現在の業務を引き継ぎ、知識やスキルを発揮してもらえることをお願いしております。休暇明けに患者会参加の機会に恵まれた際には、皆さんとの交流や、皆さんの笑顔が見られることを楽しみにしています。

令和元年私の三大ニュース

 

長野教室 山岸國廣 

 その一は元号も新しくなった五月三日、二十七年振りの再会です。北海道のSさんが、今回奥さん同伴で訪ねてくれました。

 彼との付き合いの始じまりは埼玉県戸田市において三週間にわたる研修会で同部屋したときからでした。年月を重ねて勤めも互いにリタイヤとなり、私は家業の果樹農家を引継ぎ年末にはリンゴを送り新年の挨拶状の交換を続けてきました。

 元号が変わる四月二十七日から五月六日の長期休日に奥さんと二人、車で長野善光寺を訪れ、五月二日に善光寺宿坊に宿り、翌三日に小布施町ミュージアムで落合い「友、遠方より来たる」感激の再会でした。名物の栗おこわで昼食をとり、北斎館・岩松院を案内し、夕方には中野市内の飲食店で久しく一献をかたむけあい、なつかしく楽しい一夜を過すことができました。翌日はホテルへ迎えに行き私のリンゴ園を案内。リンゴの花が満開で見頃でした。午後は飯山菜の花公園へ。にぎやかに菜の花祭が行われており大盛況でした。彼らも楽しんでくれたようです。帰りは新潟直江津港カーへリーの出発時間に合せ見送り、楽しい二日間を過すことができました。

 その二は長野県信鈴会創立五十周年記念にまつわる各種記念事業です。始めは令和元年度総会に続いて行われた記念式典です。表彰式では顧問・相談役のみなさんに感謝状の授与、歴代の理事・監事のみなさんに表彰状が授与され、五十年の歴史の深さ、重みを感じました。七月には信鈴会が歴史ある信毎賞受与の栄誉に輝き贈呈式に出席することができました。長野県知事を始め、各界の著名人が出席されており貴重な経験でした。

 秋九月には東日本ブロック訓練士養成研修会が三日間にわたり、ホテルメルパルクを会場に、長野県信鈴会が当番で開催、十一団体より七十名の参加がありました。善光寺参拝も好評でした。長野教室からは、五名の訓練士が参加し、レベル向上に努めることが出来ました。役員になって日の浅い私には印象深く忘れることのできない催しでした。

 その三は私の地域の小学校統合による閉校です。小学校は明治六年設立、いく度かの変遷を経て昭和四十二年に統合小学校が開校しました。平成十三年度に、北陸新幹線の建設に伴い現在位置に移転新築されました。その後の少子高齢化の波にさからえず、北部地区四校の統合が、令和二年度開校で決定されました。私は現校舎の南側にリンゴ畑がある関係から、平成十八年より小学校三年生の体験学習の一環としてリンゴ栽培教室を学校から依頼され担当してきました。年間六回程各作業毎に開催し、秋の収穫後は各クラスと教職員にもリンゴを配りよろこんでいただきました。平成二十四年に喉頭摘出後も、女房に助けられながら続けてきました。私の高齢化もありますが、学校移転により今年度最後となりました。毎年感謝会を開催してもらい子供たちのリンゴを加工しての持て成しには感激でした。私も会の最後に出ない声をふりしぼり精一杯のお礼の挨拶をしました。

 以上三つが私の令和元年最初の年の忘れることが出来ないニュースです。

自己紹介

 

諏訪教室 守屋一次 

 「出生地」 山梨県北巨摩郡穴山村伊藤久保

       字宮の久保4701番地

 「生年月日」昭和十九年九月二日 土曜日

 「体重」  2600g

 「身長」 53センチ 身体 異状なし

 「父」 守屋 安一

 「母」  〃  千代子

 「専業農家」8人兄弟の3男

       (男4人・女4人)

 「家畜」  馬1頭、牛1頭、豚2頭、

       ヤギ2頭 うさぎ8匹 鶏20羽

 「養蚕」年 6回

 以上のような農家に生まれ5歳頃には家畜の世話などに追われる日を過ごしていた。

  馬の世話:稲藁を馬小屋の中に敷くこと

  牛の世話:サツマイモを切り食べさせること

  豚の世話:ジャガイモを四角に切り、

       米ぬかと混ぜて食べさせること

  ヤギの世話:野草、根菜等をあげる

        乳しぼり

  うさぎの世話:サツマイモ・ジャガイモ等の

         餌やり

         アンゴラうさぎなので1年に

         1度毛を売ることが出来る

  鶏の世話:毎日たまごを15個か20個生む、

       貴重な現金収入である

 美味い卵を産ませるようにと、麦・トウモロコシ、野菜などを、堅い殻になるようにと、貝殻・壊れた茶碗など細かくして食べさせた。

10歳頃になると力仕事が出来る様になり、蚕の餌となる桑の葉を摘みに父と畑へ。蚕が大きくなり繭を掻けると家族総出の作業で繭を摘み、供出をする。この作業を1年に6度繰り返す。又夏になると、ホップと言う植物の収穫。ビールの製造に必要とのこと。

 以上の作業を米作り・野菜作りに合わせてする。 

 成長するに伴い父親との会話も増え、家畜や道具を使い作業が出来ると、誇らしく大人びた思いがした。

 

 「家の所在地と家屋」

  西に須玉インター東に釜無川、七里岩大地の中央部に八畳間、6部屋、台所16畳ほど。玄関を入ると左に馬屋。このような家が平屋で、冬には大変寒い思いでした。

 

 以上、私の成長した環境です。

 「性格」

 9月2日生まれの人は、虚飾が大嫌い。インチキを嫌い仕事や行動について、言い訳をする事がありません。

  長所:公正を重んじる。正直で控え目。

  短所:決して譲らない。気分や 気性が

     激しい。

 

 良き同僚 良きパートナーと成りますがリーダー向きでは在りません。

 

 以上、私の自己紹介でした、今後とも仲良く

お付き合いのほどよろしくお願いします。

 尚、個人情報ですので取り扱いにご注意下さい、なんて……。

令和二年を迎へて

 

飯田教室 花田平八郎 

 信鈴会は、昨年六月、創立五十周年の祝賀を松本市で盛大に開催しました。又九月には、長野市で東日本ブロック発声訓練士研修会が開催され、会長・スタッフ又会員一同努力・御苦労されたこと、感謝しております。

 飯田教室の昨年の様子を思いつくままに記してみました。

 昨年は三名の方が入会され、それぞれに今頑張っております。

十一月天龍峡大橋が完成し「そらさんぽ」と言う名称の遊歩道が出来ました。そこで私達一同集合し、風が強く寒かったのですが散策し_今田かっぽう_で昼食をとり、それぞれに楽しく談笑し、よいもみじ狩が出来ました。

 新年一月十八日は、前回好評でしたので、_今田かっぽう_にて新年会を催し、多数参加して楽しみました。

 令和二年は、いかに効率よく発声が出来るか意見を出しあい乍ら楽しい教室にしてゆきたいと思っております。

 何より健康に留意して一同頑張ることを希望しております。

諺あれこれ

 

飯田教室 木下實 

呆け防止の参考になればと諺をひろってみました。

○明日ありと思う心の仇桜

人間も明日の身はわからぬ無情。

○一文惜しみの百知らず

先々を考へた金使いの戒しめ。

○井に坐して天を見る

井の中の蛙大海を知らず。

○有為転変は世の中の習い

世の中の事象は移り変り変化する。

○上に交りて諂らわず、下に交りて驕らず   

身分の上におべっか、下の者にはいばらず。

○傍目八目

第三者の方が利害得失がわかる。

○斧を研いで針にする

忍耐努力を重ねてこそ、針にすることが出来る。

○臥薪嘗胆

目的完遂の為に、長期にわたり苦労を重ねること。

○肝胆相照らす

お互いに心の底から話し合うこと。

○君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず

つまらぬ人間はやたら賛同するが、利害相反するとすぐに離れてしまう。

創立50周年に思う

 

長野教室 小林毅 

 年号が変わったばかりの昨年の6月、信鈴会の創立50周年記念式典が松本のホテルで、信鈴会の事務局を始め関係する役員の努力に寄りまして盛大に挙行されました。私も、及ばずながら実行委員の1人としてお手伝いを致しましたので、過去を振り返りながら感想を記して見たいと思います。

 信鈴会の発足については「信鈴会の足跡」にも記されている様に、当時信大病院で看護師長をされていて、現在も信鈴会の相談役として会の為に親身に成って尽くされている、今野弘恵様のご努力によりまして、手術により声を失い苦しむ患者さんたちの気持ちを病院の先生方に伝え、同意を得て開設に至った事を知り、凄く感銘を受けました。また、今回の創立50周年を期に、信毎賞の受賞と共に信鈴会の活動ぶりが新聞報道された事も素晴らしい事だったと思っております。

 私事ですが、会が発足した年と長男の生まれ年が同じなので覚え易くて嬉しい事です。

 私が入会した年代は、確か信鈴会が発足して三十八年目で、七十歳を目前にした平成十九年の五月でした。長野日赤の根津先生により、ガンに侵されていた喉頭を摘出して頂き、当然ですが声を失う事と成って長野発声教室を紹介され見学に行きました。

 当時の会長であった宇野女さんの説明を受けて大変、驚きました。とても喉摘者とは思えない程の鮮明な語り口には、不思議にさえ思えて、自分にも出来るのかな~と思いながら元気を頂いて来た事が忘れられません。

 私は今年の一月に八十二歳の高齢と成りましたが、お陰さまで先輩の温かい指導によりまして第2の声を得る事が出来て大変満足すると同時に、ご指導を頂いた皆さんに感謝をしております。また、永きに渡り信鈴会を支えて来て頂いた役員さんの方々にも感謝に耐えません。

 私は手術してから十三年に成り、八年程前より訓練士として新人さんの指導を行って来ていますが、相手によっては難しい事も多々有ります。でも、自分の勉強にも成るし、初めて原音が出た時は、共に喜び、やりがいを感じる一時です。年々会員が減少ぎみで寂しさを感じますが、会員との発声練習は勿論ですが、お互いに支え合って楽しみを作り、人生を謳歌する事も考えていくことも大事ではないかなと思っています。

 今後も、今迄の恩返しのつもりで、体の続く限り、声を失い悩める会員さんの力に成れる様に頑張って行こうと思っています。

新年会の開催

 

長野教室 三浦邦彦

 長野県信鈴会50周年を記念として、長野教室も何かを行おうということで、山岸代表、訓練士四名で考えた結果、六年程前に納会を行っただけで、その後なにもしておりませんでしたので、一月二十五日(土)に新年会を開催することにしました。

 日頃お世話になっている、長野赤十字病院副院長岩澤幹直様、E棟四階看護師長唐沢節子様、長野市民病院耳鼻咽喉科部長大塚明弘様の三名の方を来賓としてお招きし、会員八名計十一名で開催しました。

 来賓の皆さまから、「食道発声、EL(人工喉頭)を使用し、お酒も飲み、コミュニケーションを図る事ができ、皆さまの頑張りは素晴らしいです。」「音楽プロデューサーのつんく♂さんが食道発声、LINEを使用しての活動をしている」「食道発声の方が、診察で来院のたびに上手になって行くのが大変嬉しく思います。」「毎週発声教室で、食道発声、ELで声を出す努力は素晴らしいです。」との、ご挨拶が有りました。

 お酒が進むほどに、来賓の皆さまと会員の和やかな歓談があり宴は大変盛り上がりました。

 来賓の皆さまから、次回開催の時は又是非呼んで頂きたいとのお言葉も頂戴しました。

 少人数で開催しましたが、今後はもっと多勢の参加を募って、会員同志の交流の機会を設けていきたいと思っております。

伊那教室から

 

伊那教室 小池弘光 

 平成三十年秋に伊那中央病院、そして病院で私達を直接支援して下さる平澤看護師さん始め大勢の皆さんのお力で、休講していた伊那教室が再開されました。改めて感謝申し上げます。

 現在、会員は五名ですが、三十一年九月に入会された方は、二~三回教室へ来られたが、十月頃から喉の治療を受けたり、他の部位にも診察治療を受けなければ……と言って、信大病院で入院治療を受けるため欠席しています。その後は、体調の整えに入っており、四月頃からは教室へ戻ってくれると思っています。

 こうした中で、現在は四人でやっています。皆さん「失った声をとり戻す。」を基本に、会員同志の親ぼくも含めて、食道発声を中心に訓練を始めました。しかし、体力的にも、体を使っての発声は難しく、困難だ……と言う意見があり、EL機械を使っての発声訓練に切り換えたのでした。

 ところが私(小池)は、最初から食道発声を教えてもらって、それ一辺倒で来たので、EL発声は、指導することは出来ません。

 以降、どのようにして教室をまとめ、少しでも、成果を上げるためにはどうすれば良いかと考えることが多くなりました。時には皆で、飯田教室へ出掛けて指導を受けたり、また飯田教室の指導員に伊那教室へ来ていただいたりしながらやってきましたが、いろいろな事情から途中で指導員が来れなくなってしまいました。

 私も、立場上責任があるし……と思い、信鈴会の会議で現状を報告し、また、会長にも「伊那教室へEL発声の訓練士をまわしてもらうことは出来ないか?」と相談しました。もちろん、地理的な問題、年齢的な問題等いろいろな問題があることは承知しているつもりです。

 こうした中で、二月の合同新年会のとき、会長さんから「現在松本教室でEL発声で効果を上げて居る方がいる。その方に伊那教室へ支援に行ってもらえそうだから……。」という話をいただきました。

 有難い、有難いのくり返しで、大きな期待を持たせてもらって居るところです。今回、簡単に伊那教室の現状を報告させていただきます。どうぞ今後共、宜しくお願いします。

信鈴会ホームページの開設

 

松本教室 太田勉  

 「声を失った人達に発声教室の存在を知って欲しい、そして一緒に発声法を学び、再び会話によるコミュニケーションが取れるようになっていただきたい。」そんな思いから、長野県のご協力で広報パンフレットを作り県内の主要な医療機関を通じて手術された方への広報などが信鈴会幹部の努力で進められてきています。

 しかしながら、「もっと時代にマッチしたより多くの人たちへの広報の仕方はないものだろうか?」との思いから信鈴会のホームページ公開が検討され、本年一月信鈴会役員会の決定によりホームページ開設のゴーサインが出されました。

 昨年末にテストページが出来上がり、松本教室を中心とする一部の方々へ先行公開を致しました。反響はイマイチでありましたが、ページ作成をする為に会報「信鈴」に掲載された皆様の寄稿文を創刊号から読ませていただきました。読んでみて「これを埋もれさせるのは勿体ない。時間がかかっても電子化情報として公開し、そして残し、容易に多くの人たちが読むことができる状態にしたい」という気持ちになりました。時間はかかりますが、少しずつ作業を進めますのでご期待ください。

雑 記

 

飯田教室 岡田秀夫

 飯田教室では年に3回家族同伴で懇親会をしてきた。また例会には必ず2、3組の同伴者がいたように思う。

 患者は男性が主で、同伴者は女性がほとんど。ご主人の病状や世間話など情報交換が活発で、教室はいつも賑やかに保たれている。最近の教室は、彼女たち抜きではELの機械的な響きで、雰囲気が変わっているかもしれない。

 奥様方は、ご自身の体の不調なども話題にしながらも、平常通り談笑等をされている。教室のリハビリに付き添う際にも、現状に従う奥様方の気持ちの強さには本当に頭が下がる。

 

 私は、定年退職後十年近く経った夏声帯を失くしたが、幸運にも同年の秋に信鈴会の飯田教室が開設された。不安でいっぱいだった私にとっては本当に有難かった。以来今日まで、教室はリハビリや情報などを通して日常生活に安心と希望を与えてくれた。

 それから今日まで5年毎に、胆石、大動脈弁狭窄、白内障など重なる不安の中で手術などをして来たが、お医者さん看護師さんなど多くの方々に助けられて、幸いに今日まで無事にやって来られた。これもこの間の教室で得られた心の支えがあったればこそだと思う。

 私は2年ぐらいで漸く片言の発声が出来るようになった。四、五年経った頃ELを買ってみたが雑音が勝り実用にならず持ち歩くだけで、普段は片言や、身振りで済ましていた。

 しかし、最近入会した方々がELを上手く使いこなしているのを見て、私も昨年ELを買い替えた。言葉もはっきりして使いやすくなっていた。

 今はただ、持ち歩くことが面倒で、外出で必要なとき以外は、相変わらず片言の会話で済ましている。今は、妻も私の凡その言葉は解ってくれるようになった。

 

 新型コロナウイルスによって肺炎の拡大が続く中、特に肺機能、糖尿病など持病のある老人は重症化し易いと言われ、私たちは、外出、手洗い、マスク、消毒などを通して、感染には十分注意せよとのことだ。

 個人情報の保護や社会的影響などの思惑から感染者や感染経路、対策などの情報も不十分を極める中で、私たちの発声教室も、不特定多数の人が集まる病院の中にあり、感染が大変心配だ。

 また、パラリンピックも控え、リハビリ用具の開発や進歩、アスリートたちの体力向上や健康管理等にも大変関心が寄せられている。これを機に、発声のリハビリ用具等の更なる改善開発なども望まれる時だけに、一刻も早く収まって欲しいと思う。

令和二年二月

近況報告

 

飯田教室 阪本治浩

 早いもので、信鈴会飯田教室でお世話になって、七年目に入りました。花田代表のもとで、月二回集まって、ラジオ体操をし、練習をしています。困ったことを話し合ったり、雑談をし、なごやかな時間は楽しみです。

昨年五月、気の弛みでしょうか。吸入を怠っていて、呼吸困難になり夜間でしたので断わられ、翌日、手術をしていただいた病院へ行き、一週間入院しました。病名は、気管炎とのこと。誠にはずかしいことでした。

其の後は、吸入を朝夕二回行ない、大嫌いだったマスクをつけるようになり、又よい状態の痰が出ていることを確かめて、暮しています。

 お世話になった先生から「もう来なくて、大丈夫」と言われるまで通おうかと思いましたが、高齢になり、無理と感じています。

 これからも よろしく お願い申しあげます。

新聞への投稿文から

 

松本教室 大久保芳郎

 ときどき、新聞への投稿をしています。

 過去に掲載されたものの中から、信鈴会に関係する投稿文を紹介させていただきます。

 読み返してみると、当時のことが思い出され、自分ながら懐かしい気持ちになります。

 

 【少しでも恩返しを】 

      平成二十二年六月 市民タイムス

      「口差点」掲載

 喉頭ガンや咽頭ガンなどの手術で声帯を摘出され、声を失った県内在住の患者さんたち170名ほどで構成されている組織があります。活動の主目的は失った声を取り戻すことで、私も会員の一人です。先輩たちから、「この会は信州の『信』と、もう一度『鈴』のような声が出せるようにとの思いから『信鈴会』と名付けられた」と聴きました。

 私たちは声帯がありませんから生来の声を出すことはできませんが、食道の粘膜を振動させて声にする方法や、喉に器械を当てて声を出す方法があります。

 県内六箇所で開かれている教室で、多くの会員が発声練習に取り組んでいます。どこの教室でも、指導員・受講生とも同じ病気をした人で声帯がありません。ですから、同じ苦しみを体験した者同士、気持ちはすぐに分かり合えます。これが、この会のすばらしいところです。

 私も七年前、手術後に入会し、地元の教室へ通って食道発声の練習を始めました。先輩たちの親切な指導のお陰で、半年たったころから少しずつ声が出るようになり、一年後には電話で話せる程になりました。それまでは、妻と一緒でなければできなかった買い物も一人で行けるようになったのです。その時の喜びは、とても言葉では表現することはできません。

 そして、3年前に地元教室の指導員に任命され、現在は同じ教室の仲間たちと週一回の発声練習に精を出しています。

 そんな折、先日開催された定期総会で、私は役員に選任されました。とても役員などという器ではないのですが、今までお世話になった分、元気なうちに少しでも恩返しをしようとの思いから重責の一端を担う決心をしました。

 これからは、先輩役員の指導をいただきながら、一人でも多くの会員が声を取り戻し、入会して良かったといわれるような活動をしていこうと気持ちを新たにしたところです。

 ○ 私は、現在信鈴会の会計を担当しています。

   会員数の減少など、会としていろいろな問題を抱えていますが、先人たちの思いを後世に引継ぎ、少しでも会員の役に立つ活動を続けたいと思っています。

 

 【仲間の声を再び、指導員で恩返し】 

   平成二十三年一月 信毎「建設標」掲載

 喉頭ガンなどで声帯を摘出された人たちが、第二の声を取り戻そうと県内六箇所の発声教室でリハビリに励んでいます。生徒はもちろん、先生も同じ病気をした人で声帯がありません。

 私も八年前に声を失ったのですが、先輩たちの指導のお陰で、食道発声という方法で何とか声が出るようになりました。現在は、指導員という立場で週一回開催される教室で仲間たちと発声練習に励んでいます。

 私たちの病気は高齢での発病が多いため、術後の体調管理には人一倍気を配らなければなりません。ガンを克服したにもかかわらず、他の病気で体調を崩し家に閉じこもりきりになってしまう仲間もいます。

 第二の声を手に入れることができた私は、恩返しのつもりで指導員をつとめています。この恩返しを少しでも長く続けるためには健康でなければなりません。私は、五年ほど前からウォーキングを始め、健康維持に努めています。

 新年を迎えるにあたり、一人でも多くの仲間に声を取り戻してもらえるように、決意を新たに頑張ろうと考えています。

 ○ 新年を迎えるに当たっての、「新たな気持ち」がテーマの投稿でした。

   現在は、ウォーキングに加え「卓球」・「マレットゴルフ」などで身体を動かして体調管理につとめています。

 

 【直ったパソコン、持つべきは友達】

   平成二十三年十月 信毎「建設標」掲載

 現在のパソコンを使い始めて八年ほどになります。インターネットには接続しておらず、友人への便りを作成したり、ゲームを楽しむ程度です。

 ところが、最近長時間使用していると、突然画面が真っ黒になってしまうようになりました。起動ボタンを押すとまた立ち上がるのですが、保存してあるデータが消えてしまわないかと少々心配になりました。そろそろ買い替えの時期かもしれませんが、できれば手馴れた今のパソコンを使いたいと思い、パソコンに詳しい友人に診てもらいました。

 初めて知ったのですが、パソコンには自ら不具合を直す機能があるようです。友人は幾つかの点検項目を確認しながら、その修理システムを作動してくれました。お陰さまで、その後一ヶ月たちますが全く問題ありません。

 友人にとってはごく当たり前のことなのでしょうが、器械に疎い私にとっては神業としか言いようがありません。余計な出費をせずに済み、友人に感謝の気持ちでいっぱいです。「持つべきものは友達」を実感した一件でした。

 ○ 友人は、信鈴会松本教室の太田勉さんです。

   このパソコン、修理してもらってから一年半ほど順調に使っていたのですが、私の不注意で物理的にキズを付け、使用不能になってしまいました。現在は中古のノートパソコンを入手し使っています。

 

 【香りを感じない生活も前向きに】 

   平成二十四年十月 信毎「建設標」掲載

 庭の金木犀が満開です。妻が「玄関を出ると甘い香りが辺り一面に漂っている」と言って喜んでいます。ところが、私にはこの香りを全く感じることができません。

 九年前、喉頭ガンを患い、喉の下へ呼吸孔を開け肺と直結する手術を受けました。つまり、鼻や口で息をすることができないのです。鼻腔を空気が通りませんから匂いを感じることがありません。

 芳しい香りを感じられないのは残念ですが、反面嫌な匂いを嗅がなくてすむという利点もあります。車での走行中、妻は畑に撒かれた堆肥の臭いに閉口し、慌てて窓を閉めることがありますが、私は平気です。

 時々、子供の頃の汗の匂いや草いきれなどを懐かしく思い出し、チョッピリ悔しくなることもありますが、あまり苦にすることなく、これからも前向きな気持ちで「臭い物にも蓋をしない」生活を謳歌していきたいと思います。

 ○ 訓練すると匂いが分かるようになるそうですが、私は余り苦にしません。でも、ガスには注意が必要です。君子危うきに近寄らず・・・で。


令和2年刊 第47