平成26年刊 第41号

はじめに 

長野県信鈴会会長 上條 和男

 「先は長い。生活の質を落とさないために頑張ろう」。元気なお年寄りが多くなったような気がします。

 世間は、介護だ医療だと高齢者福祉問題でにぎやかですが、三十〜四十年前と比べるとたしかに元気で、達者な皆さんが多いように感じます。喜ばしいことですが、一方で、「お年寄りが増えて昔のようには目立たなくなっただけだよ」というさめた声も聞こえてきます。

 私たち信鈴会会員の皆さんも、やはり高齢になってきました。日常会話の相手も、家族あるいは親族から、隣り近所へ広がり、そして看護師、介護士、ケースワーカーなど、いろいろな人たちと話す機会が増してきているのも事実です。コミュニケーション「力」の必要性が、より求められているのです。

 南木曽町の水害、白馬村の地震、御嶽の噴火。昨年、県内の三カ所で大きな自然災害がありました。そして阪神淡路大震災、東日本大災害を見ても、障害者であっても自身を守る自立の必要性が叫ばれています。社会から孤立せず、関わりあうためにも、代用音声の習得は、本人自身の幸福に加え、社会からもいままで以上に求められているのではないかと思われます。

 しかし、喉頭摘出した人の、四人に三人は、音声獲得のリハビリ教室に未加入のままです。

身体的に頑張りたくても頑張れない人が多いのも事実ですが、でも、「ほんの少し頑張れば、第二の声を獲得できるのになー」。そんな人たちを時たまお見かけします。あとちょっと勇気を出せば、会話を楽しめるのに。残念な思いをする時です。

 信鈴会では、長野県障がい者支援課に働きかけ、「喉を切ってもしゃべれる」新たな啓発活動に昨年から取り組み始めました。まだ緒についたばかりですが、一歩一歩地道に進めて行きたいと考えております。一人でも多くの喉頭摘出者に、医療、看護、リハビリ、公的支援制度など、最新情報を届けられるようにして行かなければならない。あらゆる手段を工夫し、喉摘者の代用音声習得に、一層の効果を上げ、社会復帰に寄与できるよう努めてゆきたいと思います。

 行政、医療の皆様、会員の皆様、これからもよろしく、ご指導ご協力をお願い申し上げます。

 二十七年三月

信毎「斜面」に_信鈴会_

    脚光を浴びた食道発声

 二〇一五年四月八日、信濃毎日新聞朝刊を広げた信鈴会の会員は、きっと驚いたに違いない。一面下段のコラム「斜面」の冒頭にいきなり「上條和男」と信鈴会会長名が目に飛び込み、次いで喉頭がん、声帯摘出、食道発声などなど、私たち喉摘者にはなじみだが、一般にはまず見慣れない言葉が並んでいるではないか。一面といえば、新聞の「顔」である。

 この日、食道発声が脚光を浴びたのには、もちろん理由がある。人気バンド「シャ乱Q」のボーカルでプロデューサーも務めるつんく♂さんが、喉頭がん手術で声を失ったことを公表したからだ。いずれにしてもわたしたち信鈴会が紹介されたことは大変ありがたいことである。ここに再録したい。

斜面 塩尻市の上條和男さんは17年前、喉頭がんの手術で声帯を摘出し、声を失った。当時55歳。自分の声で言葉を伝えられない。つらい現実にショックを受けたが、退院してすぐ「食道発声」の訓練に通い始めた◆声帯を含む喉頭を摘出すると肺への空気は前頸部に開けた気管孔から取り入れる。声を出すにはこれと別に空気を食道から取り込み、それを逆流させ食道入り口の粘膜を振動させる。げっぷの要領だ。唇や舌などの調音器官で言葉を発するのは変わりない。◆空気を取り入れるコツなどの習得には体力や根気がいる。上條さんは訓練を欠かさず、やがて声を取り戻した。ドライブイン経営の傍ら、訓練の指導員になり、いまは声帯を摘出した人でつくる「長野県信鈴会」の会長を務める。講演の機会も多く、20分ほど話し続けることができる◆バンド「シャ乱Q」のボーカルで音楽プロデューサーつんく♂さんが喉頭がん手術で声帯を摘出した。母校の近畿大の入学式で公表。「一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選びました」。モニターに文字を映し出し、入学生に無言のエールを送った◆県内で喉頭摘出を受ける年間40〜50人のうち入会は10人前後と上條さん。訓練で8割の人が声を取り戻すが、会を知らず最初から諦める人も多い。つんく♂さんも食道発声に挑んでいる。成功すれば希望になる。上條さんの願いでもある。

(全体まとめ‖信鈴会松本発声教室)

音声機能を取戻し可能性に挑戦 共に生きる長野県を目指して

長野県健康福祉部障がい者支援課長 岸田 守

 貴会におかれましては、日頃から県の障がい福祉行政の推進に御理解と御協力を賜り、心より御礼申し上げます。

 また、貴会の御協力により実施している発声訓練事業につきましては、関係各位の御尽力により県内各地において熱心に発声教室を開催していただき、重ねて感謝申し上げます。

 さて、昨今の障がい者を取り巻く状況については、平成二十五年六月に「障害者差別解消法」が公布され、昨年一月には「障害者権利条約」が批准されるなど、大きな変革期を迎えております。

 本県では、誰もが等しく社会からその存在が認められ、自分の可能性に挑戦できる「誰にでも居場所と出番がある信州」を目指し、障がいに対する理解や障がいのある方々への配慮を深めてもらうための「信州あいサポート運動」や障がい者の社会参加促進に係わる施策などを重点的に進めているところです。

 こうした中、貴会における研修会や発表会などの様々な活動は、音声機能障がいのある方々の自立や社会参加とともに、周囲の皆様の障がいに対する理解の促進につながる大変意義あるものでございます。 

 今後も引き続き、本県の障がい福祉の向上にご支援をお願い申し上げます。

 終わりに、貴会の益々のご発展と、会員の皆様のご健勝を心から御祈念申し上げます。

新しい睡眠のガイドラインから

  「良い眠り」を考える           

信州大学名誉教授 田口 喜一郎

 「ねむる」ということは、人生の三分の一から四分の一を占め、健康にとって不可欠なものです。「最近睡眠時間が短くなった」、「よく眠れない」「熟眠できない」という声を良く聞くようになりました。私の周囲の友人や仕事仲間は皆毎年一つずつ歳を取り、年齢を重ねるほど睡眠時間が短くなり、その質も悪くなる傾向があるからです。これは生理的な現象で、誰でも二十歳の時に比べて、六十歳以上では、睡眠時間は一時間から三時間も短くなるのが当然なのです。一方、中学生や高校生の頃、朝起きるのが辛く、両親に叩き起こされた経験のある人は少なくないでしょう。

 若い人と同居する高齢者が朝早く起き苦情を言われるということがあるということはよく耳にします。そこで老人は、夏なら起きたら散歩に出かけるとか、冬なら静かに新聞や本を読み、あるいはラジオをイヤホンで聴くなど、若い人の迷惑にならないように工夫をする必要がありそうです。

 厚生労働省は昨年(二〇一四年)三月に「健康づくりのための睡眠指針二〇一四」なるものを発表しました。これは新しい研究結果に基づいて、よい睡眠のあり方を示すものです。今回は信鈴会の皆様にその内容の概略をお知らせし、良い睡眠と健康保持を考える上に、少しでもお役に立てれば幸いと思います。

一、睡眠十二箇条

 健康保持に必要な十二箇条で、基本的に必要な睡眠のあり方です。

その一、良い睡眠でからだもこころも健康に。

睡眠は浅い眠りから深い眠りまでそして浅い眠りへと、サイクルを繰り返しますが、このサイクルは子供では多く(七〜八回)、しかも一つずつのサイクルの時間が長い。老人ではサイクル数が少ない(四〜五回)と同時に、一つずつのサイクルが短いのです。眠ることにより、からだ全体が休まると同時に、脳が休まることにより、結果的にこころも休まり、元気が出るという訳です。睡眠時間が短い、熟眠できないと感じている人が「うつ病」になりやすいことが知られております。

その二、適度な運動、しっかり朝食、ねむりとめざめのメリハリを。

 人間は本来、二本の足で歩く動物です。一日中座ったままでいるとか、横になっていてよいわけがありません。健康を保持するために体を重力に抵抗して動かす時間が必要です。そういった運動によって血流をよくし、筋肉を鍛え、体の代謝を促すことこそ健康の基本です。そのためには、まずしっかり朝食をとることが大切です。なぜなら目覚めたあとの朝食により頭と体の体内時計をスタートさせる役割を持っているからです。脳の細胞にエネルギーをあたえ、活動をさせることができるのは朝食に含まれるブドウ糖だけです。朝食を抜くと脳の働きは遅く、朝食を摂らない学童や学生の午前中の学業成績が格段に悪いことが実証されているのです。運動とともにきちんと朝食を食べることが充実した一日を支え、良いねむりとめざめに直結するのです。

その三、良い睡眠は生活習慣病予防につながります。

 良い睡眠がとれれば、自律神経機能が順調に働き、血圧が安定し、高血圧や糖尿病、高脂血症といった「生活習慣病」を予防することはよく知られております。

その四、睡眠による休養感はこころの健康に重要です。

 良い睡眠が得られれば、心にも体にも余裕ができ、仕事をやる気が出ますし、心も豊かになり、こころの病に陥ることは少なくなることは容易に理解できます。睡眠不足でいらいらしている時に人と人との関係がぎくしゃくし、予想できないトラブルが生じる可能性を、逆の立場から見た状態を意味します。

その五、年齢や気候に応じて、ひるまの眠気で困らない程度の睡眠を。

 文字通りに、年齢に応じた睡眠時間(こどもは長く、老人は短く)、そして季節に応じた睡眠時間(疲れやすい夏季は長めに)をとることが大切です。日中眠気が生じるのは睡眠が不足している証拠です。

その六、良い睡眠のためには環境づくりも重要です。

 眠るときは、静かで適温適湿の快適な環境で、照明を消してゆっくりと休むとよいことは当然です。

その七、若年世代は夜更かしを避けて、体内時計のリズムを保つ。

その八、勤労世代の疲労回復・能率アップに、毎日十分な睡眠を。

その九、熟年世代は朝晩メリハリ、ひるまに適度な運動で良い睡眠。

その十、眠くなってから寝床に入り、起きる時刻は遅らせない。

 眠くなってベッドに入っても、眠れないことは間々ありますが、眠る時間だからといって無理にベッドに入るのではなく、起きたまま少し難しい本を読むなどして、眠気が生じてからベッドに入るのが望ましいとしています。寝る時間が遅くなっても、リズムある生活のために、起きる時間は遅らせてはいけません。

その十一、いつもと違う睡眠には、要注意。

 この項目は本人より、パートナーや家族に対する重点事項でもあります。まわりにいる人が当事者の睡眠の異常(不規則な睡眠、たとえば長すぎる睡眠、短すぎる睡眠、中途覚醒、睡眠中の呼吸や体動の異常など)に気づいた場合、医療を含めて早急に対処しないと、取り返しのつかない事態を生じる可能性があります。重大な心や体の障害に直結する証拠であるのに、放置して重大な病気の見落としや自殺といった予想しない事態が生じた事例が報告されております。

その十二、眠れない。その苦しみを抱えずに、専門家に相談を。

二、今回のガイドラインのポイント

 一番大切なことは、自分が朝起きた時、よく眠れて頭や体がすがすがしい状態が、よい眠りがとれた状態であると理解することです。眠れない辛さが幾日も続く場合は、何か原因があるはずです。

 眠れない辛さは殊の外大きいことは私自身も何回か経験しております。成人してから何回か、昔経験した受験や怖い夢を見て夜半に目覚め、朝まで眠れなかったことが思い出されます。近親や知人の不幸、身辺に生じた難問題、病院勤務中は重篤な患者さんや大きな手術後の患者さんのことで、一睡もできず病院に泊まり込んだこともあります。人それぞれ様々な理由で十分な睡眠を取れないことはあるものです。原因が明白で一時的なものは、時間が解決してくれるでしょう。しかし、それが深刻な体調の異常を生じるようでしたら、速やかに対策を講じる必要があります。睡眠障害に詳しい医師に相談することも大切です。時には睡眠剤を処方してもらい、服用することがよいこともあります。しかし、睡眠剤の種類は多く、中には強すぎるもの、習慣性が生じてやめられなくなるものもあります。的確な医師の指導が重要です。特にお願いしたいことは家族や近所に睡眠障害で悩む人がいたら、相談に乗ってあげるか、専門医の受診を勧めることです。睡眠の専門医はかかりつけの医師に紹介していただくのが望ましいのですが、分からないときは地域の医師会や保健所で相談されるとよいでしょう。

三、理想的な睡眠を求めて

 さて「理想的な睡眠」とはどんなものでしょうか。答えは様々です。少なくとも一日一日の生活が充実したものであれば、その人の睡眠は良いことが多いのです。自分自身固有の生活目標を持ち、それを一日一日やり遂げたという満足感を得ることが良い睡眠をもたらすと理解することです。長い人生の中で、そこに派生する難しい人間関係、対応し難い環境の変化、様々な悩みや困難、病気などを経験しながら、各人固有の良い睡眠は形成されてゆくのです。今回示された、新しいガイドラインの十二箇条を参考に、皆さまがご自身の理想的な睡眠を想定し、実現して頂ければ幸いです。眠れないことを独りで悩むことは、よい睡眠の最大の敵なのです。

思い出あれこれ

信鈴会相談役 今野 弘恵

 一年(平成二十六年)があっという間に終わろうとしています。

 喉頭摘出手術を受けられた人たちへのかかわりも五十年あまり、忘れない思い出…種々脳裏に浮かんできます。

 信鈴会報にもいく度か載せてきましたが、昭和四十年に手術を受けられた堀内正一さんは、ホテルの支配人(現在ホテル手羽崎)として働いてきました。術後、まだ十分に発声ができないまま、経済的理由から復職。話すことができない堀内さんに与えられた仕事は、熱帯魚の飼育と遊技場の管理であった。

 生存競争の激しい社会情勢のなかで、まだ成人しない子どもたちを抱え、一家の生計を支えなければならない堀内さんは、それがどんなに悔しく腹立たしい事であっても、家族ともども生きるためにはと、苦悩の中で受け入れざるを得なかった。どこへもぶつけようもない憤りと葛藤の中で、週一回の発声訓練には何としても参加し、話してきた…。

 教室に集まる仲間の中には、当時往復五時間余りの時間を費やし、一度も休まず訓練に通っている人もいた。堀内さんは、その真剣さと、苦境の中で懸命に生きようと努力している姿に強く心を打たれた。

 苦しいのは自分だけではない…。負けないぞ…。

 長年勤めてきたのにと、会社の冷たい扱いに初めは恨みを持っていたが、訓練の仲間たちと触れあうなかで考えも変わってきた。熱帯魚を相手の仕事は、だれに気を遣うこともなく、思い切ってゲップも出せる。よし、がんばろう。いまに会話ができるように、支配人の仕事も可能にしてみせる…。

 堀内さんは、何度も挫折しながらも、発声訓練の仲間たちと支え合いながら、頑張った…堀内さんのことは今も忘れない思い出の一つである。私が病棟にいた当時の患者さん、とくに喉頭摘出を受けられた人たちのことは、誰がどの部屋にいたか、ベッドの位置まで覚えている。思いは尽きない。

 発声教室は、自分の体験を後輩に伝える、声の出ない苦しみを共感し支える大きな役割を果たしている大切な場である。県下六つの教室も発声訓練士の努力で、それぞれ第二の声を得るために前進しています。

 いつも発声教室をあたたかく見守り、ご指導いただいている宇佐美真一教授、医局の先生、看護師の皆様には心から感謝申し上げております。

生きることを繋ぐことへの感動

長野赤十字病院がん相談支援センター 中村 妙子

 「信鈴」第四十一号発行おめでとうございます。信鈴会発足は四十六年前、その何年も前から活動されていたとお聞きします。長き活動、心から敬意を表します。

 医療技術や治療は日々進歩しています。長野赤十字病院は、地域がん診療拠点病院として、治療だけでなく、日常生活をその人らしく生き抜けるように、入院から在宅医療におけるシームレスな支援体制を整えています。最近は、チーム医療、多職種との連携が地域を含めて進んできていると実感しています。

 長野赤十字病院は、がん診療拠点病院として、「私たちは、がん患者さんをチームでサポートします」をモットーにしています。チームの一員である私たちがん支援センターのメンバーも、がんのあらゆる相談に、ご本人やご家族、当院の通院有無、関係なくお受けしています。電話のご相談にも乗っています。辛い時、不安な時、誰かに話を聞いてらいたい、治療や日常生活について相談したいことなど、さまざまなご相談に乗っています。一緒に考え、その時には解決しないこともありますが、解決の糸口が見つかるように、相談に来て良かったと思って頂けるように、日々研鑽しております。これからも、皆様にがん相談支援センターを活用して頂けるように頑張っていきたいと思います。

 また、当院には五つのがん患者会があります。がん支援センターが窓口になり、各患者会のご紹介、パンフレット作成、情報誌で催しのお知らせなどをしています。がん相談員も、患者会の総会や相談会などに出席させて頂いております。

 信鈴会長野教室では、毎週金曜日に、がん相談員が健康相談ということで出席しております。

私、感動しました。

長野教室代表松山さんを中心に、お一人おひとりの挨拶から始まり、発声練習、終了の挨拶、解散と約一時間という短い活動時間ですが、とても充実しています。グループごと、訓練士を中心に、喉摘者同士が、声を取り戻すために励まし合い、練習している姿は、私に感動と、「努力は実を結ぶ」という勇気をあたえてくれます。お互いの存在が生きる希望に繋がっていることを実感します。

 年度の初めに会に参加された方も、いまはELを使用して声を取り戻しています。「声が出るようになりましたね」と声を掛けると、満面の笑みでした。私までうれしくなりました。ここまでくるには、ご苦労がたくさんあったと思います。ご本人の努力や家族の支え、そして、この会の存在が大きかったのではないかと思います。

 信鈴会長野教室には、ご家族の方も参加しています。会場準備、片づけなど、会員の方と一緒に行いながら会員を優しく見守っていらっしゃいます。その姿にも、私は感動しています。ご家族の方の苦労や不安も大きかったことと思います。いまも続いている方もおいでになるでしょう。ご家族の方が用意してくださる訓練用のお茶と飴を私たちも頂きます。心あたたまる美味しいお茶と飴です。いつもありがとうございます。

 松山様、皆様、これからも新しく会に入る方とご家族のためにいつまでも元気で活躍してくださることを期待しております。私たちもいままで同様に支援させて頂きたいと考えております。これからもよろしくお願い致します。

怒るな・奢るな・怠るな

長野教室 山岸 國廣

 数年前から新年を迎え、自己流の書き初めを始めた。前年の反省であったり、新年にあたっての目標、生活信条めいたもの、思いつくままである。

 それも、現役をリタイアして、正月に時間を持て余すようになったからだと思っている。

 今年は「怒るな・奢るな・怠るな」を書いた。

 特に今年は羊年。私の生まれ年である。七回目の年男。一月末には七十二歳を迎えた。

 この年になって「怒るな」でもないが、自分の発声の悪さを棚の上げ、妻に何回も聞き直されると、つい厳つい顔になるらしい。まして意見のくい違いも度々だ。そのつど心したいものである。

 「奢るな」。咽頭の病になってからは、人に随分心配をかけたので奢ることは少ないと思うのだが、他人はどう見ているか?。ゴルフ精神のように常に謙虚でありたい。

 「怠るな」は、古希を過ぎると、何をするにも億劫になる。「ヅク(方言)」がなくなる。特に今冬のような豪雪になると、なんとも春が待ち遠しい。

 年男、新たな出発の年に、今年も桃、リンゴ栽培に「ヅク」を出したい。毎年秋の実りの季節には、埼玉、新潟の遠方から買い出しに来てくれる顔を思い浮かべつつ…。

”サアー週一回の発声教室。今日もヅク出して出かけよう“

老後の生きがい

長野教室 小林 毅

 声を失って今年で八年。あっという間に過ぎてしまった気がします。誕生日が一月ですので、正月は喜寿(七十七歳)を迎え、家族そろって誕生会と合わせてお祝いしてもらいました。感謝、喜びの半面、内心は体調の衰え等を考えると、余り歳を取るのは嬉しくないのが本心です。

現代の病の多くはストレスが原因の場合が多いようです。私は、ストレスを貯めないよう絶えず心掛けています。解消法は人それぞれと思いますが、私はできるだけ気持ちが高ぶるようなことに興味を持って、毎日に希望が持てる生活が送れるように心掛けて行きたい。

若かりし中学生時代に吹奏楽部で管弦楽器を学び、演奏経験したこともあって、時々文化ホールへ吹奏楽を聴きに行きます。特に県警察官、自衛官、消防署の各音楽隊の定期演奏会が楽しみで、毎年欠かさず出かけます。迫力ある演奏の素晴らしさに圧倒され、いつまでも余韻が心に残り、心地よさが堪りません。

 また、私は草花を育てています。今は半ば冬眠中で余り手はかかりませんが、花によっては寒さに気を抜けません。声を失って気持ちが沈んでいたころ、友人が山野草の苗を持ってきて、育て方を教えてくれました。それが始まりとなって、今は雪解けと同時に金色に咲き誇る福寿草から始まって、四季折々の草花を育て楽しんでいます。春先に若芽が顔を出した時の感動から始まって、葉が繁り可憐な花を咲かせ、いつのまにか散り落ちて来年に備える、その過程が堪らなく、手を掛けてやると、その分生育も目覚ましく、辛い時など心が癒されます。同じ趣味同士の交流もあり、苗の交換や自慢話にも花を咲かせ合うのが楽しみの一つでもあります。

発声教室では指導員に命ぜられて以来、五年になります。週一回の僅かな時間の練習ですが、自分も年老い、発声に難が出て来ますので、自身の練習を兼ねる貴重な時間となっています。合間には日頃の生活ぶりや気になる点など、ELや筆談も交えて何でも語り合い、その交流が互いの励みになっています。

 しかし最近の教室は、以前と比べ寂しさを感じる時があります。高齢による身体不調で休みがちになるのは仕方ないにしても、せっかく第二の声を求めて入会しても、何時の間にか理由も聞かされず諦めてか来なくなってしまう人には残念でたまりません。

 また、以前は指導員として会には重要な存在の方々が、病の発症で入退院を繰り返され、教室欠席を余儀なくされています。どうか希望を持って再帰されますよう願ってやみません。

節分の日、思いっきり大きな声で「鬼は外、福は内」と豆をまきました。鬼に届いたかどうか。

今年も会員さんとともに老体に鞭打って頑張って行こうと思っています。

長野教室だより

長野教室 松山 滋

 発声教室に入会して十九年、会員の皆さんと一緒に声を取り戻すために、発声訓練を頑張ってまいりました。振り返りますと、故宇野女前会長のもとで、信鈴会の会計、また教室での会計を(我思うに)長期にわたりお手伝いしてきました。これもみなさんの御協力があってのことと感謝しております。来年は二十周年を迎えることになります。元気で参加できればと願っております。

 さて教室の現状ですが、年々会員数が減少しています。入会されても、高齢、体調おもわしくないため、参加できない方々がおります。

 以前の参加人数は多い時は二十名近く参加しておりました。今は十二名ほどで小人数ですが、食道発声、EL発声を指導員五名で頑張っています。一人でも多くの会員皆さんの発声向上にと努めていきます。

 最後に、日赤病院、E四病棟、がん相談センターの看護師様の暖かいご支援に感謝しております。

妻との永久の別れ


諏訪教室 中野 安幸 

 四十五年もの長い間、苦楽を共にしてきた我妻が、病気には勝てず、とうとうこの世を去ってしまった。

 平成二十六年三月十日、春とは名ばかりで日陰には雪が残るまだまだ寒い諏訪の地のことである。

 ここ二、三年前から体調が優れず、入退院をしていたが、何の病気なのかもわからず悪化するばかり、まわりではどうしてやることも出来ず、医者頼みで快復を祈念していたが、残念、無念、とうとう力尽きてしまった。享年六十九歳だった。

 今の平均寿命からみれば早めの逝去かもしれないが、妻の場合若い頃から健康が優れず、特に晩年は医者通いで好きなことも出来ず不幸の人生であり、生前に書いたメモに「頑張って精いっぱい生きて来た。延命治療は望まない。…………等々」とあり、没後半年ほど経過した頃には、これで良かったんだと思えるようになった。

 しかし、妻との永久の別れに直面し、その落胆の大きさは七十年間の我が人生で最大のものであった。呆然自失、数カ月間は妻が逝ってしまったなんて信じられず、そのうちに帰ってくるだろうと思って、寝て起きると仏壇の遺影に現実を思い知らされ、悲嘆に暮れる日々であった。 

 夫婦は一心同体と申しますが、この意味を妻を亡くしてみて本当に理解できたと思います。一般的に高齢の夫婦(八十過ぎ)の場合、どちらかが先立つと、比較的短期間で後を追うように亡くなると言われていますが、私もそんな心境に数カ月間は陥りました。妻に先立たれるとは考えてもいなかったし、癌の治療中で当然自分が先に逝くだろうと決めていたので、この先一人で生きて行けるのかと気弱になっていたし、生きる気力も失っていました。そんな中でまわりの人から、そろそろ立ち直れ、妻の分も生きろと励まされ、だんだん生きる気力が出てきたのです。

 この信鈴が発行される頃は、一周忌(三月十日)も終え、マレットゴルフを生き甲斐に、妻の分も長生きしようと頑張っていることでしょう。

年明けて 曾祖母に

諏訪教室 伊藤 悦子 

 声を失って、今年の秋で二十年です。これまで他の病気もなく元気で過ごせ、決して上手ではありませんが、自分の声で少しでもコミュニケーションをとれるようになったことは、信鈴会、各教室の方々の指導のおかげです。感謝すると同時に、嬉しい限りです。

 昨年結婚した孫娘が、一月十四日に可愛い女の子を授かり、私は曾祖母になりました。自分の子育ては、半世紀近くも前のことで、すっかり忘れていましたが、孫たち母子が里帰りしていた一カ月ほどは、一喜一憂、賑やかく楽しい日々の連続で、自分が無我夢中で子育てした頃のことを、懐かしく思い出しました。

 しかし孫たちが帰り、大人三人の生活に戻った途端、家の中が火の消えたように静かになってしまい、今度はいつ来てくれるのかと、今から首を長くして彼女たちの来る日を心待ちにしている毎日です。そして、曾孫の健やかな成長を祈るばかりです。

 ところで、七十二歳にして、余り嬉しくない話ですが、”デビュー“したことがあります。二月中旬から鼻水が出て鼻声になってきました。三月の定期検診の折に、先生に相談し検査したところ、風邪ではなく花粉症と診断されました。

まさかこの年になって花粉症でもあるまいと思っていたのですが、「そういう人も結構いるんです」と言われ、看護師さんたちと「七十二歳のデビューとは、遅咲きのお笑いぐさだね」と話して帰ってきました。・・苦笑です。

趣味悠遊

諏訪教室 守屋 一次 

 平成二十七年二月十日火曜日。今朝はとても寒く、五時に目が覚めた。布団の中にいても顔が冷たく、またもぐりこんでしまった。

 ふと気がつくと六時を五分ほど過ぎて、あ、いけねえ、体操だ。あわてて飛び起きて下に行くと、妻は体操の準備をしていた。

 そうなんです。実は正月に約束をしたんです。元気で美味しい食事がいつも食べられるようにと。まずは手はじめに、テレビ体操を頑張ろう。

 私は密かに目標を立てたんです。これから話すことは退屈だと思いますが、ちょっとお付き合いください。

 私が長野県に移住したのは、会社の事情で三十六歳の時でした。諏訪の企業は各社景気が良く、町は仕事に遊びにと活気づいていました。そんな時、上司から今度の日曜日、メンバーが一人足りないからゴルフに行ってよと、誘いがありまして、気軽に、分かりました、お供しましょう、てな事に。

 あんな止まっている球を打つなんて簡単。友人からクラブを借りて、コース初デビューです。

当日約束の時間にゴルフ場に行き、バッグを下ろしクラブハウスに入ると、受付の女性がテキパキ対応する姿を見たときは、

オイオイ、此処はホテルかい?

軽いカルチャーショックを受けた。ロッカーで着替えを済ませ、ゴルフシューズを履き、上司とともに練習グリーンでパッティングをして、まあこんなものかと…。

 スタート時間が来たので、カートに乗り、ティーグラウンドに着くと、コース全景が見え、あれー、ちょっと広いね、グリーンはどこ? えーあんなに遠いのー?

 そうなんです。説明がありました。まず1番ウッドで思い切り遠くへ飛ばしてください。分かりました。次に距離が残ったら、フェアウエーウッドやアイアンで打ち、うまくグリーンに乗ればナイスオン。手前の時は短いクラブで乗せましょう。次はパターでカップに入ればホールアウト。さあ、始めましょう!

 1番のコースはパー4で、380ヤード。平坦なので楽に行けますよと、まず一人目がティーアップして打ちました。パッチーンといい音がして飛んで行き、はるか前方に白くボールが見え、「ナイスショット!」の声。続いて二人が打ち、私の番です。あれ〜、なんかキンチョーシテキタヨ〜。

変ですねー今までこんな気分になったことは、記憶にありませーん。ドキドキしながら白いボールをにらんで、エイーッ、大きく振りました。

アレ〜音がしません、見るとボールがあります。なんと空振りです。横で見ていた三人がこけています。気を取り直してエーイ、今度は当たり、180ヤードぐらい飛んで右ラフに、三人からオーケー、オーケー、上出来だ。

 カートに乗り、ボールのところへ。キャディーさんからアドバイス、まだ200ヤードありますから7番アイアンで近くまで打ちましょう。方向を見て構えてエイとクラブを振り下ろすと、なんと! いい音がしてグリーン方向へ飛んだ。よし、ここで打数の確認。初め空振り、2打目ドライバー、3打目アイアン、次4打目。さあ、グリーンにのせるぞ〜。残り70ヤード、方向を見てピッチングウェッジを構えてエイ、ドス。なんとクラブが芝に突き刺さっています。

 おおだふり。気を取り直してやさしくポン。なんと手前からコロコロとグリーンに乗りました。5オンです。キャディーさんからパターを受け取り、ラインを教わり、構えてポン。白いボールがするすると転がり、カップに向かっています。見ているみんなも、オイオイ入るか、そんなに甘くないよ〜。カップの横を通り30_オーバー、気を取り直してカップイン、7打でホールアウト。上司から筋がいいね、と。気分良くして18ホールを回り計算機で足し算。アウト78、イン75、合計153。私のゴルフ人生の始まりです。

 六十歳定年を迎えるまでのゴルフは、付き合い程度の月一、たまに練習場、その後専門職として七年勤務、家のローンも完済し本格的にゴルフに。まずハンディキャップの取得、第一回目ハンディ20、月例に数回参戦、ハンディ12、月例数年六十九歳でハンディ11になり、ことし平成二十七年七十歳を超え、グランドシニアとしてゴールドマークでプレーする権利をいただきました。

 今年の目標は長野県シニア選手権に参加して上位に入ること。次に月例に出場してハンディキャップを一桁にする。

 私がいま、こんな大きな目標を立てられるのは、五十歳を迎える時、大きなアクシデントのため家族に心配を掛けながら、でもいつも前向きに生きてきた自分自身の心だと思います。その心を教育してくれたのが銀鈴会であり信鈴会の先輩田中清氏、小林政雄氏、三瓶満昌氏、宇野女健氏、そして今野弘恵女史……。

 常に感謝の心を忘れず前進すること。

 この言葉を忘れずに歳を重ねていきたいと思います。

忘れまい 先人の労苦

 私の手術と食道発声

佐久教室 三瓶 満昌 

 私が喉摘手術を受けたのは、昭和五十三年十月でした。手術を終えて病室に戻り、麻酔から覚めて何か言おうとして、声が出ないことに気付いた。そのとき四十六歳、働き盛りで一家の大黒柱だった。家族の先行きや、独立をめざしてかなえた夢をどうするか。得体のしれない不安に襲われました。

 企業を立ち上げるに際して多額の借り入れも起こしていた。やがて私が落ち着くのを待っていたかのように、大勢の関係者が顔を見せた。見舞いにはそのような一面があることを知った。

 私は、手術をなかなか決められないでいた。同室の先輩二人は放射線治療を選択していた。とりあえず私も一緒に受けることになり、そろって放射線科に出かけたこともあった。手術を決断できない私を心配した今野弘恵師長(当時)が励ましてくれた。「三瓶さん、手術は成功しますよ、訓練で声も出ますよ、安心して手術を受けましょう」。今野さんは、松本教室で発声指導をしていた鳥羽源二・信鈴会長に案内してくださり、実際の食道発声を見せてくれた。

 鳥羽会長は私のそばに寄って、「三瓶さん、私も手術をして一時は声を失ったのですよ。訓練で出せるようになったのです。手術して早く元気になってください。教室で待っていますよ。」励ましの言葉を残して帰って行かれた。

 やがて私は入院して二カ月ほどの準備期間を置き、気持ちの整理も付け、手術を受けた。結果はこの上ない成功で、術後三十八年の今も、再発はありません。

 私は術後すぐ、ドクターの許可を得て、直ちに教室の仲間に交じって食道発声の手ほどきを受け、原音発声に取り組んだ。佐久市から松本教室への往復の車の中、自宅でも暇さえあれば「ゲッ、ゲッ、アッ、アッ、アッ」の毎日でした。私ばかりでなく、喉摘者全員を分け隔てなく面倒を見てくださる今野看護副部長の目が私たちの強い味方であり、それは私たちの発声技術の上達が証明していました。

 昭和五十九年十月、東京・信濃町で第二回オール日本食道発声コンテスト大会が、銀鈴会三十周年記念行事と合わせて開かれました。銀鈴会は、発声訓練が毎日あり、指導システムもスタッフも充実し、会員の発声力の高さがうかがえました。その中で信鈴会は三人が参加。「ダークホース」と言わしめた好成績でした。翌年は岡谷の小林政雄さんが二位を勝ち取り、水準の高さをアピールしました。

 小林さんは熱心に練習する人で、七段の段位を贈られています。「食道発声に近道はない。地味な練習を積み重ねるだけだ」。指導者のひとりの言葉です。どうか練習の糧にしてください。また、「手術は嫌だ。どうしてもと言うなら、屋上から飛び降りる」と泣き叫んで看護師さんを困らせた女性もいました。懸命になだめながら、師長さんは一緒に泣いていました。

 いろいろな出来事がありました。長野県信鈴会も、先人の思いがみのって、まもなく発足半世紀。時はそれらを一括りにして、呑みこんでしまいます。

 どうぞ、先人の想いを忘れないでください。

(平成二十七年三月一日)

心に残った「また声を」

伊那教室 小池 弘光 

 寒さを感じる十一月のことでした。いつものスタイル、仕事の車で通勤中、軽めのストレッチをしている彼の姿を目にしました。あわててフォーンを短く鳴らし、左のウィンカーを出して車を降りました。

「やあ、元気なようでよく精が出ていいですね」

「体調はまずまずだけれど、家にいるとこもりがちなので、気分転換を含めながらやってますよ」

 彼は十数年前に胃がんで摘出手術をしたのでした。私より一回りぐらい若い方で、当時は建設関係の会社勤めだったので元気も良く、吸う、飲むとなかなか達者でした。

 大きな手術の後は「家に入り、体をいたわりながら家や農地を守りながらやってます…」

「私(小池)もなんとか頑張って相変わらずの石材業をやってます。」一所懸命伝えたのでした。道路端の立ち話ですから、「じゃあお互いに…。」

車に戻ろうとすると、

「また声を掛けてください。」

寂しそうな姿を見て、考えさせられました。いま思い出してみても、彼の言葉の率直さ、優しさが忘れられません。

 人と人との交わりが薄くなっている今日を寂しく思っているのでしょう。

 私たちはこうして県下各地に教室があり、信鈴会あり、日喉連あり、さらに医療機関、行政からも心あたたかな援助を頂き、大きなハンディを背負いながらも希望を持って楽しく毎日を過ごせることに誇りを感じています。

 皆さん、お互いに仲間同士、励まし合いながら歩んでいきましょう。

喉頭がんを乗りこえて

飯田教室 阪本 和子(治浩氏夫人) 

 主人の体に異状を感じたのは、数カ月前から咳と痰が頻繁に出て、飲食のたびに喉のあたりが「チクッ」とすると言い出したからでした。中津川市民病院から愛知がんセンターを紹介されて「喉頭癌、 ステージ3」と診断されました。

忘れもしない平成二十五年十月三十日。手術を受け、声帯を失いました、今までに経験したことのない衝撃でした。

 平常心を装う主人は、入院していた病院から深夜から早朝にかけて、数人の友だちと私のところへメールを送ってきたりしました。やはり相当に動揺していることが、分かりました。孫息子二人から「おじいちゃん、しゃべれなくてもコンタクトできるから…」などとメールが入りました。

 その頃、NHK夕方の番組「ゆうどき」の中で、話せない人の様子が放映されていると、横浜に住む娘からの電話があり、発声教室の存在を知りました。信鈴会、長野、松本教室に電話連絡を取り、家から一番近い飯田教室の電話番号を教えていただきました。

 藁をもつかむ思いで、電話をしました。代表の花田さんとお話しできました。また、すぐにご丁寧なお手紙を下さり、「まずは新年会がありますから」と出席を勧めていただきました。当日は冷たい風の吹く中で、花田さんは私たちの到着を待っていてくださり、感激しました。

 同じ苦しみを味わった人たちとお会いし、言葉に表せないほどの安堵を覚えました。いまは器械(EL)で練習をしています。親切にしてくださり、励ましていただいています。これからも皆様にお会いするのを楽しみに出かけて行きたいと思います。

 この組織、発声教室に救われました。信鈴会が末長く続いてくださることを心から念じてやみません。

みなさま本当に有難うございました。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。

飯田教室だより

飯田教室 花田 平八郎 

 早くも二十七年三月に入り「会誌」への原稿を送らねばと、久しぶりにペンをとりました。前年の暮れに南木曽町の阪本さんの奥様から電話を頂き、ご主人の治浩さんが早速飯田教室に入会してくださいました。昨年も三名ぐらいの方が手術後教室に見学に来られましたが、それぞれの事情により入会まで至っておりません。また、教室に来れば簡単に発声ができるようになると思っている方もあるように思えます。

 私事ですが、昨年九月二十四日から三日間、横浜市にて東日本発声訓練士研修会があり、参加させて頂きました。信鈴会から上條会長、伊那教室小池訓練士、松本教室の手塚さんとご一緒でお世話になりました。小池さんも手塚さんも大勢の前で立派にスピーチをされました。また上條会長はユーモアたっぷりの閉会の挨拶で会の終了となりました。

 信鈴会飯田教室は平成十七年十一月に発足しました。信鈴会本部より宇野女会長、今野相談役らが参加、飯田市立病院から塚本耳鼻科医長、矢沢看護部長、今村看護師長、その他大勢の方の出席を頂き、今村和行初代教室代表の進行で開会式。以来今日まで十年の月日が流れる中、多くの入退会、また亡くなられた方など、いろいろ思い出されます。今村初代代表は二十一年に他界されました。

 教室はその後も熱心なメンバーに支えられ、現在に至りました。増田長老を筆頭に岡田、小川、林、阪本夫妻、宮脇さん方のレギュラーメンバーで頑張っています。市立病院からも常に協力いただき、感謝しております。本年は何か記念行事を計画したいと思っていますので、皆様からもアイデアを出していただきたいと思います。これからも明るく前向きに歩んでゆきたいと思いますので、よろしくご協力をお願いします。

教材に川柳を活用

松本教室 大久保 芳郎 

 松本教室の発声訓練士、山岸十民男さんが、川柳を集めた小冊子を作ってくれました。我々と同じシルバー世代の人たちの作品80句ほどが掲載されています。

 川柳には全く素養がない私ですが、素人にもわかり易い作品が多く、思わず笑ってしまいます。同世代ですから容易に作品の場の情景を頭に浮かべることができ、作者の気持ちにも大いに共感できるのです。掲載されている作品の中から、私の気に入っている幾つかを紹介しましょう。

 「誕生日 ローソク吹いて 立ちくらみ」

 「改札を 通れずよく見りゃ 診察券」

 「目覚ましの ベルはまだかと 起きて待つ」

 「忘れ物 口で唱えて 取りに行き」

 「湯加減を しょっちゅう聞くな 

  わしゃ無事だ」

 「少ないが 満額払う 散髪代」

 「飲み代が 酒から薬に かわる年」

 「なあお前 はいてるパンツ 俺のだが」

 「立ち上がり 用事忘れて また座る」

 「深刻は 情報漏れより 尿の漏れ」

 「定年だ 今日から黒を 黒という」

 「恋かなと 思っていたら 不整脈」

 「目薬を さすのになぜか 口を開け」

 「手をつなぐ 昔はデート 今介護」

 皆さんはどうですか。思い当たることはありませんか。共感できる句が幾つかあるのではないでしょうか。

 ところで、川柳には「滑稽さ」の向こう側に「悲しさ」があるような気がします。こちら側から句の情景を想像すると面白く滑稽ですが、作品に登場する人物の立場に立ったとき、笑ってばかりもいられない何かを感じるのです。

 「目覚ましの ベルはまだかと 起きて待つ」

 早起きは年寄りの性です。夜具の上に座り、夜明け前の暗がりの中で目覚ましのベルが鳴るのをじっと待っている姿を想像すると少し悲しい気持ちになります。

 同じ屋根の下に住む家族を気遣ってのことでしょうか。自分が朝早くから動き回って家族を起こしてはいけないという思いなのでしょう。もしかすると二人暮らしで、隣に寝ている怖い奥さんを恐れてのことかもしれません。・・・

 「恋かなと 思っていたら 不整脈」

 私には今さら恋をする気力も勇気もありません(機会もありません)が、時々世間で耳にする「老いらくの恋」の話でしょうか。最近素敵な女性(お婆ちゃん?)との出会いがあった。彼女のことを思うと妙に胸がドキドキしてしまう。これは恋かも?そんな折、医者から「不整脈に気を付けるように」と言われる。恋どころではありません。心臓病が心配です。ああっ!悲しい恋の物語。でも、年をとってからあまり興奮するのは体に毒ですよ。・・・

 そんな想像を巡らせながら、フト思うのです。「平穏な毎日だからこそ川柳を楽しむことができるのだ」と。もし、自分が闘病生活を余儀なくされたり、心配事を抱えている状況であれば決して笑ってはいられないでしょう。

 しかし、健康面でいえば、私たちはいつ体調を崩しても不思議ではない年齢で、病気と隣り合わせの毎日と言っても過言ではありません。まさに登場人物と紙一重の状況にあるのです。

特段の不都合もなく、健康で気楽に生活できる現在の幸せに、そして川柳を面白いと思える幸せに、改めて感謝したいと思います。・・・・・

 実は、松本教室ではこの川柳冊子を発声訓練の教材として使っています。メンバーで読みあわせをしながら、発声練習をしています。面白すぎてつい笑ってしまい、練習を中断することもしばしばで、場を和ませてくれる効果もあるようです。

 山岸さんは現在「童謡歌集」を作っているそうです。できあがったら、これも歌の練習の教材として活用させてもらおうと思っています。

発声練習がマンネリ化しないように、いろいろ工夫していただいています。教室全員の冊子を作るのは結構大変だと思いますが、このような教材が楽しい教室づくりに役立っていることは間違いありません。山岸さん、本当にありがとう!

 最後に、過去に出会った川柳の中で私が最も気に入っている作品を一句。

 「屁をたれて 可笑しくもなし 独り者」

            (詠み人知らず)

※教材小冊子の川柳は、社団法人全国有料老人ホーム協会、ポプラ社編集部編の「シルバー川柳」二〇一三年版から収録させて頂きました。ここに御礼申し上げます。

【追記:一過性健忘症に襲われる】昨年(平成二十六年)十一月十五日、信鈴会の訓練士研修の日のことです。信大病院研修室での会議でした。私は一過性の健忘症に襲われました。当日の記憶は全くありませんので、以下の話は周囲の皆さんから聞いた内容です。午前中の会議が終わって昼休み中に事件(?)は起こったようです。私は、自分の注文した食事が分からなかったとのことです。そして、自分は何故ここにいるのかというようなことを繰り返し聞いていたそうです。

 たまたまその場に居合わせた鬼頭先生(当日午後の講演をお願いしてありました)の判断もあって、松本教室の太田さんが車椅子で私を救急外来まで連れて行ってくれたようです。その後、MRIやCTの検査を受けたそうですが、結果的に異常はなかったと聞きました。

 当日どうやって信大まで来たのか、会議で何を話したのか、誰が出席していたのか、全く記憶がありません。もちろん救急外来に行ったことも、検査を受けたことも記憶がありません。夕方、妻や子どもたちがベッド(当日一晩入院しましたので、病院のベッドです)の脇にいたこと以降のことは覚えていますので、当日の朝から夕方までの記憶が飛んでしまったようです。

 記憶喪失などはテレビドラマの世界の話だと思っていたのですが、まさか自分が襲われるとは・・・・。

 医師からは「一過性の健忘症」と言われましたが、原因は不明とのことでした。ただ、パソコンなど根を詰めて作業を続けたような場合、ときどきこのようなことが起こるそうです。インターネットで調べてみると、脳の「海馬」への血流が不足したとき発症するとありました。

 結果的に信大病院に一泊して翌朝退院となりましたが、大勢の方にご迷惑とご心配をかけることになってしまいました。誌面を借りてお詫びとお礼を申し上げます。

 健康には比較的自信があったのですが、今回のことをきっかけに少し気を付けなければと反省させられました。

 まさに突然の「脳の回線切れ」です。再発もあり得ますし、認知症や脳梗塞にも注意が必要とのことです。一度、専門医に相談してみようと思っています。

 いまはただ、再発しないことを祈るばかりです。現在、信鈴会の「会計」を担当していますので、万一会計業務の引継ぎができないような事態になっては大変です。それが心配でなりません。大方のことはパソコンに入っていますが、やはり口頭での引継ぎはかかせないでしょう。・・・

 それにしても、発症したのが病院にいるときだったのは幸いでした。今後は余り根を詰めることがないように、安全第一の行動に心掛けようと思います。

【追々記】本年(平成二十七年)一月、信大とは別の脳神経外科病院で再検査していただきました。特段の異常は認められず、心配することはないようです。先生から、年齢の割には若い脳だとおだてられ、一安心したところです。認知症の検査も受けましたが、これも問題なしとのことでした。これからも、定期的に脳ドックを受診しようと思っています。

信鈴に寄せて

松本教室 黒田 勇栄 

 「信鈴」の字は、恰好が良くて奥ゆかしくて大好きです。

 天高く澄みきった信州の空に響き輝く鈴の音が聞こえてきます。

 信鈴会松本発声教室は、開校より半世紀。信大病院を基盤に、多数の先生や看護師の方々、諸先輩の御理解、ご協力を戴き、今日があることを感じております。

思いやりが深く明るい楽しい教室です。

声が出なくて会話ができないなんて忘れてます。上條会長さんはじめ、訓練士方々のご指導の賜物です。

 五十年も歴史のある教室の四年生ですが、信鈴の名を汚さず、先輩を尊敬し、後輩を指導します。

 信鈴会が永遠でありますように。

前へ!(その四)

松本教室 塩野崎 一秋 

 箱根大学駅伝は、国民の新春への期待と重なる。選手のあの若さのエネルギーを享受して、新しい年が始まる。襷を必死でつなぎ終えて、走り来た路に万感の思いで深くお辞儀する。その姿に人生を映してしまう。彼ら体育会はクラブではない。各大学の広告塔でもあり、優秀な学生獲得に特別待遇するところもある。一九二〇年、いまの筑波、明治、早稲田、慶応の四校で発足したそうだが、テレビ中継以来参加校が多くなり、古豪母校の優勝は遠くなった。体育会学生は自分の将来人生を含めて日本を代表する競技者であることも求められる厳しい世界でもある。

 今年受け取った年賀状には「前へ」の書き込みが多数あった。百余年の伝統ラグビー用語だけでなく、挨拶として、寄る高齢化の気力高揚に、友人たちにも分かってきてもらえている気がした。

 最近、終活という単語が目につく。高齢者も七百万人に達する見通しで単身生活者も沢山いるという。近隣にお付き合いがなく、数カ月も発見されない孤独死なんてのもある。周りの人はどうすればよいか、本当に困るという。

〈ひとり死〉というのをテレビで観た。孤独死とは別の考え方であった。老後の身体上の病気等で動けなくなった状態。介護、認知症などの終末期、葬儀。財産上のリスクや死後のこと。社会的な届出等を考えて生前に準備し、市民後見人やNPO法人に委託契約しておくことが、老後の不安を安らげるという。孤独死とはここが違う。

 この番組では、身寄りのない人も越してくるという大型団地が舞台。終活ノートがつくられていて、グループで互いにアドバイスしながら、作成していた。夫婦であろうともどちらがどうなるか解らない。現に私も、妻がいないと細かいこと、収納場所など解らない。妻も同じだった。まして私は声の出ない老人になっている。真剣に検討しなければならない。いまでは核家族が多数のため、このようなグループに高齢者夫婦の申し込みが増加しているという。パソコンで調べると満杯であった。信鈴会は高齢者が多い。こんな情報も参考になればうれしい。

 シャント手術後2年目になる。術後すぐに発声できるので、ストレスがありません。3カ月に一度器具交換が必要ですが、毎朝の洗顔時にインプラントの歯磨き、シャントに良いとの指導でヨーグルトを飲み、鏡をのぞき、ブラシで痰の汚れを取るメンテをする。プロテクターを替える。就寝にはタオルを首に巻き、乾燥を防ぐ。これが私の日課です。欠くと声が出にくいのです。面倒ですがルーティングワークにしています。

 水漏れが少しありました。かわいいお姉さんでもいれば、努力を続けて不活発症(目標がないために無気力になる症状)にならないのになど考えるこのごろ、認知症の手前か、懐古的にもなってきたな〜。

 人工鼻のプロボックスのメーカーの主催で与謝野元衆議院議員の講演があった。テーマは「声を選ぶ 生き方を選ぶ 声を失った政治家として」が内容。欠席したのでDVDをくださいとお願いすると、無償で送ってくれるという。県下6教室分、3月に届くそうです。みなさんの知識の一助になればと思います。健康を保ち、東京五輪ぐらいは観戦に行きたいものですね。

術後四年目

松本教室 山岸 十民男

 まさかと思っていたが、正真正銘の「喉頭腫瘍」と診断を受け、二〇一〇年十二月に手術。引き続き二〇一一年二月に「右原発性肺がん」の手術。

 早いもので、術後四年が経過しました。

 二年前に百二歳で死亡した母親には、心配を掛けないようにと思い、手術のことは話しておらず、何か心残りの気持です。でも、母は知っていたかも…。

 私が天国(?)へ行って、いろいろ話をしようと思います。

 昨年四月より、食道発声訓練士の役割を委嘱されました。柄ではないと思いつつ、毎回の教室に参加して、どれだけ皆様のお役に立てているのか、自信がありません。

 でも本人は教室の日、いつもより声が少し良く出ているような気がしています。皆様から教えられているのです。

 発声教室で、テキスト三文字〜五文字の反復練習が効果をあげたり、また私が教室に参加するのは、訓練士として皆様のお役に立つというより、自分のためになることなのです。

これからも、皆様が楽しく教室に参加されるように、川柳本とか歌集本(未完成)など、いろいろ考えて作っていこうと思っています。

これからもがんばります!!

感謝の毎日

松本教室 中村 芙美子

 最近、大学病院での腹腔鏡による手術の医療ミス、術前の説明責任などが問われています。画面を見ながらの遠隔操作なので、高度な技術と熟練が必要といいます。

 術後の症状への対処にも問題があり、狭い部署で、少人数での対応で、外からの目が届かないことなど、さまざまな問題があったようです。

 私は二年前に喉頭全摘出、小腸による再生手術を受けました。術前には耳鼻科、消化器外科、内科、放射線科、麻酔科と説明を受け、各々数枚ずつのプリント資料をいただきました。十人近い先生方による十五時間余りの手術、そして病室では細かいところにも気を遣ってくださった看護師の皆様、朝夕顔を出してくださった先生方により、安心して入院生活を送ることができました。

 今は一カ月に一回の通院です。執刀の先生でなく、別の先生が診察してくださり、これは慢性化を防ぐためだそうです。私の体も順調に回復し、普通の生活が送れています。ありがたいことです。

 感謝、感謝の毎日です。

酒よ、さらば

松本教室 横地 泰英 

 平成二十六年九月一日から十二月二十五日まで、四か月に及ぶ長い入院をした。扁桃腺の脇にできた中咽頭がん。一九九〇年に喉頭がん、二〇〇二年に食道摘出、二〇〇三年に喉頭摘出をしている僕には四度目のがん。食道と胃管の接合部に狭窄があり、ひごろ食べ物がつかえがちなので発見が遅れ、「ステージ4以上」(鬼頭主治医)と大きくなっていた。

 すでに食道と喉頭を摘出しているので、このうえの手術は複雑・微妙になることが予想され、たとえば皮弁がつくか、心もとない。「イチオシの対応がない」状況の中で、これまで僕には経験がない「化学療法プラス放射線照射」をやってみることになった。

 毎日三〜四時間に及ぶ点滴による抗がん剤治療が始まった。ポタリポタリ、数秒に一滴、点滴台から静脈に薬剤が入って行く。ベッドに横たわって注視し、止まればナースコールを押す。ひたすら単調な毎日が過ぎて行く。午後は比較的空き時間があるので、病院周囲の女鳥羽川堤防を散歩したりした。

 抗がん剤診療は、食欲減退による体重減少が心配される。病室で記入していたデータによると、入院時の体重は五五_。九月下旬になると少し増えて五六〜五七_。病院食はおいしいとは言えないが、「ファイトで食べてます」と回診医に報告した。

 しかし、十一月に入り、本命の抗がん剤「アービタックス」の点滴とともに、放射線照射も始まった。急速に味覚が失われ、十一月中旬ごろから体重が減りだした。十二月に入ると五五_を割り、五四_台が常態になった。

 このころには味覚はほとんど消滅。砂糖の甘さ、醤油の塩味が感じない。肉や魚など蛋白源や脂肪のうまさも分からない。病院食すべて「砂をかむよう」である。「やせてはいけない」と妻は毎日僕の好きな料理を一品タッパウェアに詰めて差し入れてくれたが、それすらうまくない。無理して詰め込むか、ひそかに捨てた。知床・羅臼港の友人が送ってくれたマスやカニの料理、羅臼昆布の出汁を効かせた煮物などが、悲しく消えた。それでも一_程度の体重減少で済んだのは特別食のお蔭だったかもしれない。十二月二十五日、退院。

 そのクリスマスの夕食では、もちろん、軽く祝杯を挙げた。残念ながら味覚音痴は続いており、酒もさほどうまくない。ちいさな徳利一本で眠くなり、ダウン。元旦は毎年、近所に一人住まいの友人と日本酒一本を空ける習わしなのだが、早々とほっぽらかして寝てしまった。それでも一月下旬まで晩酌一合を続けたが、ある晩なんとなく「お酒、やめようか?」と妻がいう。自然な成り行きで僕は「ウン」とうなずいた。いらい酒には手を付けていない。ドクターに「酒はやめました」と報告すると「それがいいね」。

 自慢じゃないが、僕の飲酒キャリアは長い。ざっと五十年、毎晩飲んできた。学生時代は年一回のコンパで飲むだけだったが、卒業と同時に南米・ペルーアンデスを登り、帰路二か月がかりの船旅で帰国した。外航船のウイスキーやワインは免税だから、あほみたいに安い。船長や事務長と毎晩、ボトル単位で飲んだ。帰国後は新人の記者生活。金はなかったが、不思議なことに?酒は続いた。定年後、やめようとしたが、できなかった。

 アルコール依存と格闘して断酒したわけではない。味覚音痴は徐々に回復しており、砂糖や醤油の味はだんだん戻ってきた。皮膚のガサガサ乾燥や指先のひび割れ、皮膚炎などもほぼ完治した。アルコールも、飲めばうまさが戻ってくるかもしれないが、しらふでも熟睡できるし、酒を全く意識しない生活は代えがたい。やめてみると、気分は二十四時間すっきり、酒に呑まれていた五十年だったことがわかってきた。

 「酒よ、さらば」。このまま続けようと思う。

平成27年刊 第42号

はじめに

長野県信鈴会会長 上條 和男

 私達の住んでいる長野県は、元気で長生きの出来る所だと知られています。

 高齢者の就業率、公民館数や博物館、特にボランティァ活動への参加が全て全国で上位だそうです。つまり自分が必要とされる場所が有ること、そして人との触れ合い、これこそが 「いきがい」なのではないのでしょうか。

 信鈴会への入会者は、このところ年々少なくなってきております。以前は六十歳代前半だった摘出手術の年齢が、いまは七十歳を超えているそうです。放射線や抗がん剤、医療技術の進歩により、喉頭を温存しながら治療できるようになり 、又喫煙者が減少しているなどが挙げられています。

 それは喜ばしいことではありますが、一方で、県内の病院で喉摘手術を受けた方の信鈴会への入会をされた人は、二十%にも達していません。

 入会されなかった、又は出来なかった人達の、その後の人生はどのように送られているのでしょうか。信鈴会の活動を知らずに過ごしているのであれば、とて も残念な事です。

 声を失うという、大きな不自由を体験したからこそ得られる会話の大切さ、言葉の暴力の滑稽さ。喪失の悲しみを経験したからこそ感じられる人生は、何と生きるに値するのでしょ う。

  声帯が無くても声を出すことができるようになります

  「発声訓練教室の案内書」について

 音声機能障がい者発声訓練事業として長野県障がい者支援課様より発声訓練教室の紹介パンフレットを作成して頂きました。発声教室が設置されている県内六病院で、手術後退院時の人、又定期健診に来院する喉摘者の方々へ配布して頂く事になりました。医療支援、税金、保険、年金、そして行政からの助成制度などが載せて有ります。会員以外の喉摘者の人達へも多くの情報を提供して行ければと願っているところです。大きな障害を持っても、せっかく元気で長生き出来るところに住んでいるのですから。再び会話が出来ると云うことも含めて、生きていく楽しさを、伝えて行かなければならない。いくら頑張っても声が出ない、その人達とも同じ喉摘者同士情報を共有しながら、会員皆様と一緒に歩んで行きたいと考えております。

 多くの方々のご協力に深く感謝を申し上げるとともに、会員皆様のご健康を願っております。

二十八年春

共に生きる長野県を目指して

長野県健康福祉部障がい者支援課長 岸田

 貴会におかれましては、日頃から県の障がい福祉行政の推進に御理解と御協力を賜り、心よりお礼申し上げます。

 また、貴会の御協力により実施している発声 訓練事業につきましては、関係各位の御尽力により県内各地において熱心に発声教室を開催していただき、重ねて感謝申し上げます。


 さて、本県では、長野県総合五か年計画「しあわせ信州創造プラン」において「誰にでも居場所と出番がある信州」の実現を目指し、県民誰もが障がいを理解し、障がいのある方を応援する社会づくりや、障がいのある方が地域で自立して生活するための支援を推進しているところです。

 昨年十月には、障がい者の情報保障や、コミ ュニケーション支援等のあり方を研究することを目的として、「長野県情報保障・コミュニケーション支援研究会」を発足したところであり、 貴会の参加もいただきながら、障がい者が円滑に情報を取得又は利用できる環境整備等について検討を進めているところです。


 一方、平成二十八年四月には「障害者差別解消法」が施行され、障がいのある方への差別的取扱いの禁止や合理的配慮の提供など、障がいの有無に関わらず、お互いに人格と個性を尊重 し、支え合う共生社会の実現に向けた環境づくりが、さらに一歩進むこととなります。


 こうした中、貴会における研修会や発表会などの様々な活動は、音声機能障がいのある方々 の自立や社会参加とともに、周囲の皆様の障がいに対する理解の促進につな がる大変意義のあるものでございます。

今後も引き続き、本県の障がい福祉の向上に御支援をお願い申し上げます。

 終わりに、貴会の益々の御発展と、会員の皆様の御健勝を心から御祈念 申し上げます。

健康保持のための食事を考えましょう

(その一:炭水化物)

信州大学名誉教授 田口 喜一郎

 皆様、食事は普通一日三回摂ることになっております。しかし、きちんと食事を三回摂れる人は多くはないことが分っております。小学生から高齢者まで朝食を欠く者は少なくありません。朝食はどのような意義があるか、そして常習的に朝食を摂らないことによる健康障害はあるのか、調べてみたいと思います。

 平成二十四年の国民健康・栄養調査の結果によると、 朝食の欠食率は、二十〜二十九歳の群が男性二十五、九%、女性二十二、一%ですが、 年齢と共に減少し、七十歳以上では男性三、九 %、女性三、六%であります。年齢差は生産年齢(十五歳以上〜六十五歳未満)で活動的多忙な年代では朝食を摂る時間的余裕が少ないことが大きな原因の一つに考えられます。朝食を摂らないための健康の問題点は、いくつか挙げられていますが、朝食の欠食が児童・生徒の学習能力の低下に関連するという統計があります。 二十歳〜六十歳の働き盛りの人々にとって朝食抜きの食生活は体内時計の働きを悪くし作業能率に悪影響を及ぼすことが分っております。一方近年は「食べ過ぎ」そして「肥満」の問題が重要視されております。各人が自分の生活にあった食事量を知りなるべくそれに近い食事を摂る努力は健康保持に繋がると考えられます。

 食事は、当然ことでありますが、基本的に炭水化物、脂質、蛋白質からなりこれに加えてミネラル、ビタミン、植物繊維などから構成されております。今回から少しずつ各栄養素について解説していきたいと思います。

一、炭水化物

 炭水化物は、主として主食といわれるものに含まれ、そのため日常最も多く食べているものです。米飯、麺類、各種のパスタ。パン、オートミールなどで、各家庭で習慣的に違った食べ方をしていると思います。食事の構成は、炭水化物、脂質、蛋白質の三大栄養素に加えて、食物繊維、ビタミン、ミネラルなどが主要なものです。今回は、炭水化物について適正な摂り方を考えてみたいと思います。

 炭水化物は、最も速く使われる栄養素で、その必要量は体格、運動量そして日常生活の内容などです。身長・体重の大きいほど、運動量が大きいほど、そしてカロリー需要の多い生活様式の場合は、炭水化物の需要は増大します。

 必要なエネルギー 毎日必要なエネルギーを知るためには、各人が自分の標準体重を知り普段の活動量(運動量)に応じて計算することができます。標準体重は身長(メートル)×身長 (メートル×二十二(理想値)で表します。例えば身長一メートル六十センチメートルの人の標準体重は、一、六の二乗×二十二で五六、三二キログラムとなります。そして活動量は「軽い」(デスクワーク、主婦)、「中等度」(立ち仕事の多い職業)、「重い」(力仕事の多い職業)と三段階に分ければ、それぞれ二十五〜三十、三十〜三十五、三十五〜四十(単位はキロカロリー) となります。仕事や労働の強さに応じ、適当な値を標準体重に掛け合わせたものが、「必要なエネルギー」の目安です。実際の体重は標準体重を上下しますので、実際摂るエネルギー量は加減します。実際に食べる食事量はカロリー計算が困難なので、「食品交換表」による概算方式が便利です。例えば、日本糖尿病学会が作っているものは、時々改定しており新しい食品も追加されますし、一単位八十キロカロリーとして計算しやすいからです。それは、日本人が日常食べる量が八十キロカロリーの倍数になっているからです。主なものの一単位は、ごはんはご飯茶碗軽く一杯(百グラム)が二単位、食パン一斤六枚切りの一枚(六十グラム)が二単位、うどんは、干しうどんは二十グラム、ゆでうどんが八十グラムがそれぞれ一単位としてとして分りやすくなっております。

 一日の必要エネルギーは、炭水化物の他に、 蛋白質、脂質、果物、野菜などいろいろな組み合わせで構成されますが、全て八十キロカロリー単位で計算できますので、いろいろなものの組み合わせで必要エネルギーが充当できればよいわけです。実際に食べる量は、「標準体重」を基準にして、肥満の人は少なめにするなど加減が必要です。できれば一度栄養士に相談して「基準食メニュー」を作って頂くことをお納め致します。

 私自身は、大まかに計算した必要エネルギーの五パーセント減を目標にしています。なかなか成功という訳に行きませんが、夕食のごはん量を大幅に減らし、運動と併せて肥満改善に役立てることができているように思われます。

一年を振り返って

信鈴会相談役 今野 弘恵

 今年もお正月は箱根駅伝をみながら、ありし日の故塩野崎一秋さん、横地泰英さんを思い出 している。塩野崎さんは昨年信鈴会平成二十六年刊に載せた箱根駅伝等々、そして、東京五輪 ぐらいは観戦したい?…と選手の若いエネルギーを享受して新しい年が始まると書かれていた。

 私も箱根駅伝に惚れている、正月は必ずテレ ビにかじりついて観ている。選手たちがタスキを肩に全力で前へ前へと走るあの情熱、根性に魅せられて、そして自分のタスキを次へ渡す。 自分だけが一生懸命走るだけでなく次へつなげていく継続させる。

 いけ花の会も同様自分の門下を後へつなげていく、発展させていく、継続がいかに大切か…を話しています。塩野崎さんも箱根駅伝に惚れていたと思っている。

 塩野崎さんが六月幾度か発声教室に姿を見せない、どうしてかな?と思っていたら六月十六日新聞で他界さ れた事を知りました。発声教室 (六月二十五日)皆さんも謹んでご冥福をお祈り しました。

 平成二十四年信鈴会、会長上條和男さん役員大久保芳郎さん、横地泰英さんが務める事にな り兼ねてより私が生きている中に信鈴会の歴史をまとめて欲しい。たっての願でした。

 会長は私の意思をくみ大久保さん横地さんた ちと共に資料を集め、特に横地さんは元朝日新聞の記者であったこともあり、信鈴会初代伊那教室担当桑原賢三さんをお尋ねするなど、あちこち労を惜しまず足跡作成に力を入れて下さった。信鈴会四十号、平成二十五年刊より信鈴会の足跡を載せていただき、心からよろこんで居 ります。横地さんとはいろいろおしゃべりしま したが、私が小谷で、育った子供の頃の事、看護をめざし病院時代の事云々。横地 さんはある日突然私に故郷小谷の事を書いたら…と横地さんはいつか私の生い立ちをまとめてやりたいと思っていた事でしょう。

 横地さんが退院後、早速故郷小谷(その一)。 夏は姫川のほとりで泳ぎ冬はスキーで滑り雪深い小谷は車は通らない。大人達は毎朝カンジキで雪をふみしめ通路を作ってくれた。通路は二階の窓と同位、一階の玄関へは雪をかためて階段を作って入る…きびしい小谷のなかで、育った。

 互いに励まし合い、仲良くやってこれた…他、 まとめて横地さんが退院後自宅へ送った故郷小谷(その一)はそのまま…後で奥様におききしたら、横地さんが読んで下さったとの事、せめても横地さんとの約束が果たせたかなと思っている。

 十月二十九日発声教室、横地さんの他界を悼み写真を前に皆さんでご冥福をお祈りしました。 やすらかにお眠り下さい。遠い空か ら発声教室を見守って下さい。

 今年もうれしい事、悲しい事、悲喜交交六月四日には長野県知事表彰をいただきました。私はNsとして当たり前の事をやってきていると思っているのに…信鈴会会長の上條和男さんのあたたかいご配慮があっての事と感謝申し上げま す。十一月三十日は社会貢献者表彰式典(東京帝国ホテル)。社会貢献支援財団表彰は七十一年前から続いている…今年は脚本家の内館牧子 さん他三名が選考委員を務め百四十五件の中か ら四十九件、個人、団体を選び信鈴会も功績を認められ表彰されました。式典には三笠宮瑤子女王殿下をお迎えして会長安部昭恵様(内閣総理大臣夫人)より表彰状授与、信鈴会では今野弘恵、つづいて受賞者挨拶 信鈴会会長上條和男さんが選ばれ声を失った人達の第二の声の獲得に精一杯尽くしている…上條和男さんは会場の台上に立ち食道発声で堂々と挨拶されました。思わず涙が出てとまらなかった。本当にうれしかった。信鈴会副会長、守屋一次さんも同席感動のひとときでした。

 今回の表彰をよろこんで下さった信州大学附属病院、院長 本郷一博先生、耳鼻咽喉科教授 宇佐美眞一先生に心から感謝申し上げます。宇佐見教授には常々発声教室をあたたかく見守っていただき又、先生、看護師の皆さんにもご支援いただき有難く思っております。今後ともよろしくお願い申しあげます。

喉頭全摘出術を受けた患者の食事に対する思い

長野赤十字病院 宮坂 阿由実

 Ⅰ研究目的

 喉頭摘出術後(以下喉摘と略す)の患者の食事に対しての困難さと対処を明らかにした研究は報告されているが、食事の思いに焦点を当てたものは見当たらない。本研究では味覚、嗅覚、嚥下が障害された状況での食事における辛さ、困難さ、楽しみなど、食事に対する思いを明らかにすることを目的とした。

 Ⅱ研究方法

 一、対象は(一)喉摘を受けた患者(二)日常生活が軌道に乗り、食生活が安定している、退院後一年以上経過している患者(三)味覚、嗅覚、嚥下など食事摂取に対する障害のある患者(四)食道発声または電気喉頭使用にて会話ができる患者

 二、データ収集・分析方法は半構成面接にて 「食べることについての思い」などインタビューガイドに基づき面接した。逐語録から文章を要約しコード化した。類似性、相似性を確認しながらサブカテゴリー、カテゴリーにまとめた。

 Ⅲ倫理的配慮

 研究への参加は自由意思であり、研究の目的と方法、インタビューの内容は、個人が特定で きないこと、インタビューはいつでも辞退できること、研究協力を拒否しても受ける医療や看護に不利益が生じないことを文書と口頭で説明し、同意を得た。希望があれば逐語録を確認できること、研究終了後録音を消去することを合わせて説明した。また発表・公表についても文 書と口頭で説明し同意を得た。本研究は長野赤十字病院看護部倫理審査会の認証を得て実施し た。

 Ⅳ結果

 対象者は五名で手術後四〜七年、年代は七十〜九十歳代、味覚障害のある人は〇人、嗅覚障害のある人は五人、嚥下障害のある人は三人であった。

 一《食べることの喜び》

 手術後、経管栄養から経口摂取に移行し食事を口にしたという喜びと生きる活力を感じた事 を示す。【食べるということは生きる力が湧く】 では、「食べられるということは生きる力を感じた。」という語りがあった。【食べられることが嬉しい】では、「初めての食事の時は、思わず写真撮ったよ。」という喜びが語られた。

 二《食事で、つまることが怖い》

 手術後、固形物を飲み込んだ時のつまった恐怖感を示す。【食事でつまることが怖い】では、「窒息なんかしないけど、嫌な気持ちだよね。」という食事がつまった体験から恐怖心が根底にあることが語られた。

 三《何かしらの不便がある》

 手術前にはできていたことが手術後、器質的障害により食生活の変化が生じ、現在も何らか の不便さを感じている事を示す。【手術前とは食べ方が変わった】は、「汁を飲むと鼻から出る。」

という手術前と比較し、食べ方に何らかの変化があると認識していることが語られた。【におい が分からなくてつまらない】は、「おいしい物もにおわないからつまらない」と食事の楽しみが 減った部分もあると感じていることが語られた。

 四《普通の人と同じ食生活ができる》

 器質的障害があっても、工夫や気持ち次第で普通の人と同じ食事ができているという思いを 示す。【においが分からないことは受け止めている】は、「手術前に言われていたから覚悟していた」という、手術後においがわからないことは受容ができていることが語られた。【手術後も普通の人と同じ食生活ができると感じる】は、「そんなに苦労してないよ。」という食生活に対して困難を感じていないことが語られた。

 Ⅴ考察

 手術という脅威を乗り越え初めての食事は患者にとって大きな喜びになったと考える。患者は食べるこ との不便さを感じ、つかえる事への不安を感じながらも、自分も他の健康な人と変 わらない食生活を送りたいという思いや食事を楽しみたいという思いを持ち続けた。そして、 食事摂取の中で失敗を繰り返すことで耐えず修正し、自分で対処できるようになっていった。 この経過をたどることで、喉摘患者自身が障害を持っているという現実を少しずつ受け入れ克 服し、現実に適応していったと考えられる。今回は五事例と少なく、また味覚障害のある対象者がいなかった。今後は対象者を増やし研究の信憑性を高める必要がある。

 Ⅵ結論

 一、患者の食事に対する思いは《食べることの喜び》《食事がつまることが怖い》《何かしらの不便がある》《普通の人と同じ食生活ができる》 が抽出された。二、患者は不便さを抱え失敗を繰り返しながら修正し、日常生活に適応していった。看護師は患者自身の力を信じ、体験を共有しながら支援していくことが重要である。

 Ⅶ参考文献

 一、名取佐知子、宮澤一恵、辻加永子、他:喉頭摘出術を受けた患者の日常生活困難さと対処方法ー患者と家族の比較ー:Yamanashi Nursing Journal, Vol,5 No,1:49-55,2006

 謝辞

 平成二十六年度、長野赤十字病院E4病棟の看護研究班です。昨年度は長野日赤信鈴会の皆様のご協力をいただき、看護研究をさせていただきました。研究での学びを日々の看護に活かしていきたいと思っております。今後ともよろしくお願い致します。

心打たれる発声教室

長野赤十字病院がん相談支援センター 宮澤 弘美

 初めて信鈴会長野教室に参加させていただいたのは、ちょうど二年前になります。療養・健康相談として相談員が発声練習に参加しておりましたが、私はその頃、がん相談支援センターに配属になったばかりで、患者さんの相談にどのようにお応えしたらいいのかと日々悩んでいた時期でもありました。熱心に指導される訓練士の方、懸命に練習されるみなさんを拝見し、本当に素晴らしく感動いたしました。私も前向きに頑張ろうと励まされた気持ちになったことを思い出します。

 会に参加する中で、喉頭を摘出し声を失ったつらさや、生活の大きな変化を知りました。発声練習だけでなく、悩みやつらさを共有し励まし、お互いに支え合える場となっていることを実感します。やはり、同じ経験をした患者さん同士だからこそ思いを共有できるのだと思います。時には趣味についてやご旅行の話しをお聞きし、和やかな雰囲気とみなさんの笑顔に私も元気をいただいてお ります。

 訓練士の方が「声を出していないと出なくなる。」とおっしゃっていました。声が出ても練習を継続していくことが大切なことなのですね。 そして毎週、会を励みに来られる方もいらっしゃいます。みなさんがお元気で充実した会を続けられますよう、少しでもお手伝いさせていただければと思っています。これか らもよろしくお願いいたします。

信鈴会の皆様との出会い

信州大学医学部附属病院東 2 階病棟看護師長 竹村 滋子

 暖冬、暖冬といわれたこの冬ですが、二月に入ってからの厳しい冷え込み、そして積雪は信州の冬を甘く見てはいけないこと思い知らせて くれました。

 会誌「信鈴」第四十二号の発刊おめでとうございます。

四十年という長きに渡りこの会誌の発刊が継続されていること、また発声教室の活動もそれ以上の歴史とともに歩まれ、今日まで存続されていることに驚きを隠せません。私は、昨年二月から東2階病棟に配属になり、そこで発声教室の存在を知ると共に、信鈴会 松本教室の皆さんと出会いました。平成二十七年二月十九日でした。私としては緊張してデイルームのドアを開けたことを記憶しています。ドアを開け「よろ しくお願いします」「こんにちは」の声に皆さんが笑顔で、返して頂いたことで緊張がほぐれま した。

 実際、どのように練習をしていらっしゃるか未知な状態でしたので流暢に話されている皆さんに驚きました。このようになるまでの努力や苦労は計り知れませんが、皆さんが同じ目的を持つ方々の集まりで、お互いが切磋琢磨しながら毎週練習に励んでいることの成果だと感じました。また練習用の教材を拝見しましたところ、訓練士の方がご自身で考えたという文章を拝見し、楽しみながら練習を継続できるような工夫もされている事に感心しました。

 この病棟勤務も一年が経ち、喉頭を摘出する手術を受ける患者さんには手術前から発声教室のご案内をさせていただき、教室での皆さんの練習を拝見する事や同じ体験をされた経験豊富な皆さんからのお話は、看護師が説明するより も心強い体験になっていると感じています。

 最近は、 退院された患者さんが発声教室で練習に励んでいる姿を拝見し、週を追うごとに聞き取れる言葉が増えている事に喜んでいます。 また、退院されると病棟看護師は患者さんと会 う機会が少なくなってしまいますが、この発声教室が退院された愚者さんとお会いできる場と なっていることに感謝し信鈴会のますますのご活躍を陰ながら応援させていた だきたいと思います。これからもよろしくお願いいたします。

発声教室を通して思う事

信州大学医学部附属病院外来看護師 渡部 茂世

 会誌「信鈴」の発刊おめでとうございます。

「一期一会」とは…広辞苑によると、生涯にただ 一度まみえる事とありました。発声教室での皆さまとの出会いも、この言葉に通じるものがあるのではないだろうか。そんな風に思いながら、教室に参加させて頂いています。

 参加当初は、経験も少なく、喉頭癌や喉頭摘出後の生活についての知識も未熟な私にとっ て、こんな対応でいいのだろうかと自問自答しながらの参加でした。発声練習をされている中、どのように関わったらいいのか…コミュニケーシ ョンをとることの難しさを痛感し、練習の合間合間で話しかけるのが、至難の業でした。そんな私が、最近、ふとこんな事を思うのでした。

 私は、週に一回、今野先生から生け花を習ってます。始める前は、「生け花なんて誰でもすぐに出来る」と簡単に考え、軽い気持ちで教室へ伺いました。ところが、そうは問屋が卸しません。見様見真似で生けてみるものの、全くバラ ンスが取れず、惨憺たる出来栄えでした。「こんなはずじゃなかった」「もっと上手に出来ると思ったのに…」と落胆し、自信喪失する事となったのです。自分のセンスのなさを痛感し、一気にやる気を失ってしまった私に、何に対しでも基本が大切だという事、また、日々の積み重ねが大事だという事を、今野先生から教えて頂きました。生け花以外にも、たくさんの得る事があり、毎週楽しみにしています。今では、ダメ出し九割・お褒めの言葉一割を頂くまで、上達?しています。もしかしたら、術後の発声訓練に対してのイメージを、私同様に抱いている方もおられるのでは?と時折感じる事があります。

 外来では、様々な方が受診し検査を受け、結果をお伝えする場面が多くあります。その中、 喉頭癌により喉頭摘出し、声を失ってしまう事をお伝えする事も少なくありません。声を失ってしまう事に相当なショックを受けられると思います。手術前には、病状と治療内容を理解する事で精いっぱいかもしれません。ましてや、喉頭摘出後の生活について、考える余地もないかもしれません。そんな時、「訓練すれば、また話せるようになる」と聞いたら、どんな風に考えるのでしょうか。以前、私の様に、「すぐに発声できる」と思ってた方がいました。しかし、訓練は容易ではなく、習得にも時間を要します。その為、やる気を失ってしまい、「何で声が出ないんだ」と苛立つ日々が続いていました。そんなある日、指導員の方に褒められたと喜び、「声、わかる?」と、相手に伝わる事が嬉しそうでした。この時、発声方法獲得も勿論ですが、精神 的支えも重要と思いました。自分を認め、支えてくれた、今野先生はじめ、指導員の方々及び教室の方々の存在は大きく、励まされながら 日々頑張れているのではないでしょうか。そんな様子を目の当たりにし、私自身、発声教室の皆さまにお会い出来たことに感謝し、大切にしたいと思っています。頼りない私ですが、現在教室に通われていない方を含め、社会生活がよりよく過ごせる様、取り組んでいきたいと思います。今後とも、よろし くお願いいたします。

 最後になりましたが、信鈴会の益々のご発展と皆さまのご多幸を、心よりお祈り申し上げます。

長野教室だより

長野教室 松山 滋

 長野教室は、現在教室で訓練中の会員は、十六名で内女性二名在籍しています。その他北信地方に在住の会員のうち社会復帰・体調不良等のため出席できない会員は、四名、不参加十四名で所属会員は三十四名になります。

 毎月第一、第二、第三、第四の金曜日の教室での訓練は食道発声、訓練士二名と、EL(電器)発声、訓練士二名で前記十六名が意欲的に取り組んでいるところです。

 一昨年は長野赤十字病院内に「がん相談支援センター」が開設され、長野教室と連携したいとのことです。又、情報誌に発行するため「会」「長野教室」の発足等について伺いたい、とのことでしたので「信鈴の足跡」により回答しました。

◎質問一、信鈴会の発足、発声教室のはじまりはいつから

◎回答 

 一九六四年(昭和三九年)長野赤十字病院岡部はま子看護婦長と浅輪勲医師(信大から赴任)の協力を得て、看護婦一名、患者二名を伴って銀鈴会の練習状況を見学しました。

 この年、同病院内に「銀鈴会長野支部」が開設されました。

 一九六六年(昭和四一年)現今野相談役の働きかけで長野、松本の両教室が連携し「信鈴会」発足に向けて尽力しました。

 一九六九年(昭和四四年)長野教室所属変更

◎どんなことをしてますか

◎回答

 私たちは喉頭摘出という手術により声を失い、その声を取りもどすためおたがいに励ましあって、より充実した毎日の生活を望んでいます。食道発声訓練士は先人たちの助言や指導と共に実施してきました。

 「空気を飲み込む」(お茶飲み法)すなわち、食道に入った空気を逆流させた時に声が出る。それが「ゲップ」(原音)でありこれを声にするため、更にこの繰り返しにより言葉にできる訓練です。

 みなさん頑張ってます。

東日本ブロック発声訓練士研修会に参加して

長野教室 山岸 國廣

 私は発声訓練士一年生、長野教室の代表、信鈴会会長さんの推挙をいただき標記研修会に参加することができました。開催地は山梨県で九月末三日間の日程です。信鈴会から会長以下五名の参加で全体では一都十県六十一名の参加でした。

 開会行事に続いての記念講演では山梨県障害者福祉協会竹内理事長のテーマ「可能性への熱い戦い」サブタイトル「最重度の障害者を育てた三人の母」の中で

 ・ 障害を悲観しない

 ・ 障害をバネとする

 ・ 障害を特別視しない

 ・ 障害を隠すことしない

母親の深い愛情と強い信念から生まれた言葉に大きな感銘を受けました。

 研修テーマの「食道再建者への指導法」では私自身まだまだ暗中模索していることでありこの上ない勉強の機会となりました。

 主な研修内容について記してみたいと思います。テーマ㈰食道再建者への指導法では

 ・ 手術部位、手術方法の確認

 ・ 再建手術内容の違いによる発声方法の指導

    (空腸移植、胃管吊り上げ、皮膚移植)

 ・ 頸部を押えて指に振動を感じなければ正しい発声でない

 ・ 呑み込み法、注入法から吸引法への切り替え

 ・ 早期発声、早期会話には自宅練習が不可欠である

 テーマ㈪会員減少対策では

 ○ 新規加入者対策として

  ・入会案内、入会のしおり等の作成、配布

  ・マスコミ対策への積極的姿勢

 ○ 退会者対策として

  ・会の運営、指導方法の改善で魅力ある教室づくり

  ・仲間意識のある楽しい教室づくり

 信鈴会より事例発表した会員減少対策については、「喉摘者向け案内書」作成を「県に働きかけ実現することが出来た」取り組みに、参加した各団体から高い評価をいただきました。

 大会の全体運営について役割分担を各団体に割り振り当番団体に過度な負担を避けた運営には大変感心しました。加えて最終日の全体会議では当教室の先輩が総合司会を担当され明朗でスムースな進行には敬服しました。

 最後にこれを機会に自からの技術向上と魅力ある、楽しい教室づくりに会員皆さんと一緒に頑張っていきたいと思います。

 共に会話できる喜びを夢見て!!

出逢い

佐久教室 清水 猛雄

 私は平成二二年の年に声に変化ありましたので、放射線治療で治す事に望みをかけ、その時は声は出るし大丈夫と自信がありました。それから一年九ヵ月後、検査の結果ガン再発となり喉頭摘出で声を完全に失ないました。声が出ないと言う事で悩んでいる時に病院のスタッフの方が月の第一、第三水曜日に発声教室と言う教室があるからと言われ連れて行ってもらいました。

 教室で食道発声、EL発声を聞き、先輩の指導員の方でEL発声が大変うまい方がおられて、とてもなめらかに話をするのできっと自分も発声出来るようになるかもしれないと思い、大変勇気づけられ意欲がわきました。

 ELを持って散歩していると「こんにちわ」と言われてあわててELを取り出すが、喋る時には相手の方が先の方に行ってしまいます。即、声が出るのは食道発声なので「おはよう」「こんにちわ」ぐらいが言えるように食道発声が出来たらいいなあと思いました。

 新聞を読んでいたらこんな記事が出ていました。

 その時の出逢いがその人の人生を根底から変えることがある。

 出逢いが人間を感動させ、感動が人間を動す。人間を根底から変えてゆくもの、人間を本当に動かしてゆくもの、それは人と人との出逢いである。

 御互いに触れ合い、話をして、良き出逢を望みます。

精一杯生きよう

佐久教室 市川 正彦

 平成二十八年に入り春三月になります。

こんな病になり、早くも約七年になりますが今だに声が思うように出ません。毎朝毎朝練習と言うか、訓練はしているんですが?

三瓶さんが亡くなった話を聞いて、呆然としてしまいました。

 人間いつかは死を迎えるんですが、まさか?

人生続く限り生きるような強靭な人でした。どんな丈夫な人でも病気には勝てません。御冥福をお祈り申し上げます。

 今年も又、松本、浅間温泉で、信鈴会で楽しい一時を過ごさせて頂きました。

 人生、明日はどうなるか分りませんので精々毎日毎日精一杯、生ある限り生きて行こうと思っています。

毎年、会合の度に会う顔触れが少なくなって来るような気がします。

毎日毎日精一杯、生きて、一日でも長生き出来る様に協力をしましょう。皆様、毎日毎日精一杯生きて頑張りましょう。

八ヶ岳の風に抱かれて

諏訪教室 守屋 一次

 東に八ヶ岳 西に諏訪湖を望み、眼下に宮川を、そして坂室バイパスでは通勤で行き交う車の列。窓の外には、小鳥がさえずり、ツツジの小枝が風になびいて木々の芽吹きを感じ、そよ風に包まれた、居間から見えるいつもの風景の中で、大自然が織りなす、四季の素晴らしさや、恐ろしさ、これから起きるであろう災害について、少しでも被害を最小限にする為に。

第一 水害

 地理形状から見ると問題なし

 巾五百メートル程の高台と片側、林が五十メートルほど下りにつながりその先に宮川

 備え 特に対策準備なし

第二 火災

 林が隣接している事から山林火災が起きれば心配

 備え 雨水タンク二百リットル用設置

第三 噴火

 八ヶ岳噴火しなければ

 備え 特に対策準備なし

第四 地震

 糸魚川、静岡構造線の断層地帯

 備え 非常事態に備えて、ヘルメット、ロープ12ミリ、ライト、予備用乾電池、携帯コンロ、ガスボンベ、鍋、やかん非常食として 米、塩、餅、醤油、水、飴玉 等

以上、災害が起きてもあわてず心の準備と備えを。

自然の贈り物、四季の移り変わり

 冬 海抜八百メートル十二月から三月までの平均気温マイナス七度

 良質の寒天の産地 

 雪景色がすばらしい

 春 木々の色 赤みをおびて芽吹き の知らせ

 カラマツ林 黄色かな、緑かな、

 遠くに見える、春の知らせ

 山桜 赤茶色の蕾が大きく膨らみ

 白く顔をだす春ですよ

 足元に目をやると、フキノトウ、水仙、土筆、

 もち草、山に入ると、タラの芽、コシアブラ、

 山菜がいっぱい

 夏 キジの声、山鳩の声、郭公の声、

 セキレイのダンス カワセミが魚を、

 山桜に紅い実が成り、ヒヨドリが

 秋 庭の紅葉が黄金色に、菊桃の葉も赤く

 染まり、すばらしい、 自然の贈り物です

 昨年、信鈴会と今野弘恵相談役が社会貢献財団の表彰式に立会同席を頂き、数多くの方々の発表を聞き多くの感動を頂きました。

 信鈴会発足に尽力、五十余年の長きにわたり会員の先生、時には母となり、なやみ、励まし、力ずけてくれたこと、これからも良き教えをお願いします。

 七十歳をすぎ、先輩、友人等苦楽を共に分かちあった方々との別れを思い、今生きている幸せと感謝を思いつつ三瓶満昌 様、ありがとう。安らかに。

伊那教室の今日

伊那教室 小池 弘光

 飯田教室の皆さんと別れて十年になります。

元々伊那教室は、多いときでも四〜五人の出席でやっていました。会員の中にもそれぞれの体調の状態で欠席される方、又何らかの都合で脱会された方もおられ、ここ数年は二〜三人でやって来たのでした。そんな中で昨年十一月の教室のときでした。十四年間も一緒にやって来られた大平さんから「自身の体調に変化が生じて来てこれから新たに二科の医師の診察を受け、その結果を見ていかなければならない……」

又、奥さんからも「こうした主人の行動を見たり、手助けをしたり、自分も高齢と成りつつあり体の疲れが来ているから……」と話され「暫く教室を休会させてもらいますからよろしくお願いします……」と話されたのでした。私も暫く考えさせられたのです。

 人間である以上加齢されれば誰でも生ずることかと思い、残念だけれど致し方ないことでしょう……と心に秘め、大平さんとは長い間お互いに励まし合いながら教室を盛り上げ、教室の代表者又信鈴会、伊那中央病院との接点をしっかりと保って来られた。

大平さんに改めて

「大変におせわ様になりました……」。

と惜別の思いでお別れをしたのです。

 当教室には現在五〜六人の会員の方はおられますが、それぞれ皆さん高齢であったり体調の都合で、出られない皆さんで、こうした中で昨年五月から「笠原」さんと言う女性の方ですが新しく入会されて大歓迎でした。笠原さんもお家の御都合で欠席されることもありますが、教室へ来られたときには、一生懸命に発声訓練されています。

 何はともあれ接、私は三十八年前に伊那教室が開設されて以来大勢の先輩諸氏が励まし合いながらやってこられた教室を守り続けて行かなければならない責任を感じて居るところなのです。

現在最小限の人数でやっていますが、近い将来にはきっと戻って来られる方、又新しく入会される方で賑かな教室となり皆さんに御報告できることを待っています。そのためにも信鈴会、会員の皆さんの心暖かなご声援とお力をお願いしたいのです。

 私として今のこうした状態をどうしても皆さんにお伝えしないと次に進めないところなのです。

 どうぞよろしくお願いします。

教 室

松本教室 黒田 勇栄

 私の六十年前の木曜日の教室は四十名で、元気で、仲良く、リズム良く、大声でした。

『木刀腰にサースデー』と中学時代の英語の教室です。七曜日の唄です。

  お日さまニコニコおはようサンデー

  月桂冠を望マンデー

  火に水かけてチューズデー

  水田に苗を ウエンズデー

  木刀腰に サースデー

  金髪料理はフライデー

  お土産もらって御無サタデー

 楽しい信鈴会の木曜日の教室は二十名で発声訓練です。声が出ない、匂がわからない。同じ悩みの仲間です。「木刀腰に差す」様に、武士道を守り、礼節を学び、発声と会話の完成を目標に向って努力してます。

 大学病院はもとより大勢の方々のご理解とご援助に感謝申し上げます。ありがとうございます。

 仲間といっしょに頑張ります。

時の心境

 

松本教室 岩渕 貞幸

 思い返せばあの時、いよいよ手術、悔んでも悔みきれなかった事は事実でありこの現実から逃げる事は出来ない事を理解し覚悟をし、自分の定めと思い諦めざるを得なかった。世間には重度な障害の有る幼い子ら等沢山おられる事を考えると自分はまだ軽い方であると考え悲観しては駄目だとも思ったが、やはり今迄声で表現していたのにそれが出来なくなる切なさ悔しさは本当の気持ちであった。術後声が出せない以外五体満足な自分がどういう気持ちになるのか残念だが楽しみであった。

 声の無い自分の体に馴れるよう心掛け、知りもしなかった食道発声を頑張ってみようと思ったが本心は「駄目でもともと」と覚悟はした。

そんな当初から既に半年が過ぎた。

 退院しすぐに信鈴会に入会し発声教室に通って五ヶ月過ぎた。残念であるが今だ進展無し。やはり丁度十年前放射線治療を受けた影響なのか、不器用な上努力が足りないのが一番の理由なのか、それともそれなりの歳のせいなのか、等々マイナス思考が脳裏を走り回る日々である。

何れ良い結果は出るだろうと期待し、教室の先輩方々の指導を素直に受け、声を出す事が出来る明るい目標に向かっている今日である。その暁にはご無沙汰しているネオン街に繰り出し挨拶回りをしたい願望の日々の心境であるが果たしてどうなる事やら?

雑 感

松本教室 中村 芙美子

 日常的な諸事をこなし、ほっ!と一息。コーヒーをいれテーブルに新聞を広げ ぱらぱらと見出しを目で追う。夕べのニュースで見た内容だ。 次に投稿欄の約一ページ、読みやすい個所を音読する発声練習だ。静かな時間が流れる。ここ二年以上続く習慣だ。気になった事、気に入った言葉など書き写す。それが終ると河川敷をウォーキング、約四十五分コースに出掛ける。

 春には川のせせらぎ、柳の芽吹き、小鳥のさえずり、大きい鳥から小さい鳥まで結構種類が多い。今度野鳥の本を持って行こう!!山桜があちこちで咲き乱れる。

 夏は早めに家を出るのだけど汗が流れる。背中にタオルを入れて歩く。

野苺が真赤に熟し甘ずっぱく子供の頃を思いだす。孫にあげても喜ばない。

 秋には野菊・母子草が咲き乱れすすきが風にゆれる。対岸の小山が錦を織なす。

 冬には雪の上に小動物の足跡がいくつもある。しばし足を止めうさぎか?きつねか?イノシシらしき足跡もある。目で追いこの雪の中どうしているのか?食べ物は?と思いをはせる。時には予期せぬキツネとの遭遇もありびっくりする。

四時には孫三姉妹が帰ってくる。一変して賑やかになる

 自分の時間が充分にあり、余り会話のないジージとの静かな時間が至福の時である。

 さて今年は七十歳。よくもまあここまでと思い子供の年齢を重ね合せ過ぎた年月の長さを感じる。七十代何が待ち受けているのか? 楽しみでも有りゾクゾク感もある。

 楽しい思い出を沢山作り穏やかな日々をゆったりと過せたらいいと思う今日今頃である。

孫からの作文寄稿

松本教室 山岸 十民男

障害について

福島中学校 二年二組 齋藤なるみ

 私の祖父には障害があります。その障害は「声が出せない障害」で、一昨年に声帯に癌が見つかり、声帯をすべて摘出してしまったからです。

 手術後、会った時には祖父は声が出せなかったので筆談で会話しました。日常でも全て筆談でコミニュケーションをとっていました。

 その後、祖父は胃に空気を入れてはき出す、という方法で声を出す練習をしていました。今は身内での会話はこの方法でコミニュケーションができるようになりました。

聞く所によると胃で発声する方法は難しく、個人差もありますが、二年から三年はかかると言われるそうですが、祖父は人より何倍も練習をし、手術をしてから半年後、声が出せるようになり、一年後には人との会話ができるようになりました。発声を指導している先生も、これには大変驚いたようです。

 しかし、ここまで会話ができるようになるには私には想像できないほどの苦労があったと思います。

 それは祖父に、「声を出したい」という強い思いと、あきらめないで練習を続けた忍耐力があったからだと私は思います。

 もし自分が祖父の様に声が出せなくなってしまったとしたら、不安や淋しさなど、辛い思いでいっぱいになり、祖父の様になれるかどうかは分かりません。

 しかし、どんなことも成し得るには、強い信念が必要なのだと祖父の姿に教わりました。

 ある時、祖父は私にこう話してくれました。自分ではゲップと同じ感覚で話しているからしっかり話せているのかは分からない、

 と言う不安をかかえていました。

だから何の言葉を言っているのか分からないときは、しっかり「分からないよ」と言ってほしい、

 と言われました。

 私は言葉が分からなかった時は、曖昧な返事をするのではなく、普通に「分からないよ」と言って会話をしています。

 障害者の人と接する時は、普段の人とかわらず接していきたいと思っています。

 それを「思いやり」と言うのではないのでしょうか。

妻の入院

松本教室 大久保 芳郎

 昨年、妻が変形性膝関節症(いわゆるO脚と言われている病気)で、両膝手術(骨切術)のため三月ほど入院しました。数年前から膝の痛みを訴えるようになり、ときどきミズを抜くこ とで対処していたのですが、その場限りの処置のため痛みも限界となり、思い切って手術に踏み切った経緯にあります。

 普段は妻と二人きりですので、今回の彼女の入院により、私一人での「単身生活」を余儀なくされたという訳です。

 実は私、サラリーマン現役時代、十五年ほどの単身赴任の経験があります。毎週、月曜日の朝出勤し、金曜日の夕方帰宅するという「金帰月来」の生活でした。

 会社の独身寮に入っていましたので、朝晩の食事は寮母さんが作ってくれます。しかし、部屋の掃除や下着の洗濯は全て自分でやりました。寮には、共用の掃除機や洗濯機が備え付けてありましたので、特段困ったような記憶はありません。

 そんな経験から、今回の単身生活もあまり苦になりませんでした。妻の入院中、むしろ、久 し振りに一人だけの自由きままな生活を楽しんだとも言えます。

 食事は、事前に妻から炊飯器の使い方を教えてもらっていましたし、オカズは出来合いのものをコンビニやスーパーで手軽に購入できます。掃除は、自動の掃除機がほとんどやってくれます。

 ただ、洗濯では、少し戸惑ったことがありま した。病院から持ち帰った妻の下着を自宅で洗濯したのですが、さすがに女性のパンツやブラジャーを洗濯したのは、長い人生の中でも初めてのことでした。最初のうちは、洗躍した下着をハンガーに吊るして外に乾していたのですが、途中で、家の中で乾すようにと妻から叱られま した。きっと、でかいパンツを見られるのが恥ずかしかったのでしょう。……

 手術は、最初に左ひざを、二週間後に右ひざを行いました。その後一週間ほどしてからリハビリが始まりました。痛みに耐えながらの歩行訓練です。連日の頑張りが功を奏し、術後七十日ほど(入院後三ヶ月)で無事退院することができました。

 退院当初は松葉杖でしたが、今はステッキ風の一本杖を使って歩いています。O脚だった体型もまっすぐになりました。ただ、膝には固定器具が埋め込まれていますので、まだ少し痛みがあるようです。今年四月、この固定器具を取り外す手術を予定していますが、二週間ほどの再入院が必要とのことです。(この二週間の単身生活を、今から密かに楽しみにしています。)

 この手術が終ってしばらくすると、正座や走ることも可能になるそうですが、目の前の妻を見ている限りではとても信じられません。いずれにしても、一日も早い回復を願ってやみません。……

 ところで、一昨年は、私が一過性の健忘症で信大病院に緊急入院しました。そして、去年は妻が膝の手術で入院。まさに、二年連続でのジジ・ババ老夫婦の入院でした。

 年を重ねると本当にいろいろのことが起こります。このようなことは、防ぎようがないのかもしれません。かといって、心配ばかりしていても仕方ありません。

 あまり考え過ぎず、これからの人生を前向きな気持ちで楽しもうと思っています。楽しむといっても、海外旅行や豪勢な食事など、大それた贅沢をしようなんてつもりは毛頭ありません。(もちろん、そんな余裕もありませんが…)

 子供や孫たちに固まれての家族の団欒があれば、それで十分です。そんな、当たり前の日常ができるだけ長く続いてほしいのです。

 そのためには、健康でなければなりません。これからも、妻ともども、元気で長生き・ピン ピンコロリを目指して、余生を謳歌したいと思っています。

 【参考:骨切術とは】

 膝の痛みを解消するためには、人工関節に取り換える手術が一般的のようです。妻の手術は 「骨切術」といって、膝下の骨に内側から切り込みを入れ、その切込みへ楔形の人工骨をはめ込み、O脚を矯正するというものです。膝そのものには手をつけず、O脚を真っすぐに矯正することにより痛みを除去する手術です。

 人工関節手術に比較し、時間がかかることが難点ですが、手術費用も安価で訓練次第で正座や走ることもできるようになるそうです。参考にしていただければ幸いです。

平成28年刊 第43号

はじめに

長野県信鈴会会長 上條 和男

かぞえてみて、いまさらながら、その年数の過ぎる速さにおどろいています。声帯を失ってから、もう二十年近く経っていました。その頃は外出しても、もちろん一言も喋れず、自室に戻り、我慢のあとの、緊張からとき放された、安らぎを得ていたような、そんな記憶が蘇って来ました。

さて、昨年(二〇一六)四月から私達障害者にとって大きな節目の年に成りました。それは「障害者差別解消法」の施行です。この法律は二〇一五年二月発効の国際法「障害者権利条約」の国内法として成立したものです。国や地方公共団体、民間業者が障害者を正当な理由なく、サービスを拒否したり、制限したり、条件を付ける行為を禁止しています。大雑把に言えば、障害の有る人も、無い人も、分け隔て無く暮らして行きましょう。という法律です。

わざわざ法律や、国際基準を作らなければならない、世の中に(おおらか)さが、失われてしまったのかもしれません。そうは言っても私自身、相当な年齢に成るまで、何も感じず、あまり考えることもせず、生きて来たのも事実です。

人は皆、人生の問題を抱へ、自尊心を失いがちで、完璧を求める社会ではなんとなく、息苦しいような、そんな思いを大勢の人達が感じるようになっていたのかもしれません。会話があまり出来なくても、緊張をしなくてもいい、安心して外出できる、そんな世間になって行くように願っています。ただ私達にとっても、受身でいるだけではなく、やはり安心を提供するという、心構えが必要である事はもちろんでしょう。

高齢者や幼い子供、そして色々な障害を持った人達が平和に暮らせる場所は、健常な人達にとっても、 ここち良い社会だと思います。

多くの皆様のご協力に深く感謝を申し上げるとともに、会員、そして御家族の皆様が、平穏な日々を過ごされる事をお祈りします。

                            平成二十九年   春

共に生きる長野県を目指して

長野県健康福祉部障がい者支援課長 岸田 守

貴会におかれましては、日頃から県の障がい福祉行政の推進に御理解と御協力をいただき、心よりお礼申し上げます。

また昨年度、新たに作成した音声機能障がいに関するリーフレットによる啓発や県内各地で開催している発声訓練事業の実施において、貴会関係各位に御尽力賜りましたことに、重ねて感謝申し上げます。


県では確かな暮らしが営まれる美しい信州を基本目標とする「しあわせ信州創造プラン」のもと、「長野県障害者プラン2012」により、障がいのある人もない人も、お互いに個性を尊重し、支え合いながら、一人ひとりが地域社会の一員として「居場所と出番」を見出すことのできる_共に生きる長野県_の実現を目指した取り組みを進めております。「信州あいサポート運動」では既に四万四千人余の県民の方々があいサポーターとなり、様々な障がいの特性等を理解し、日々の生活の中で障がいのある人への必要な配慮を実践していただいております。

また、障がいのある人が地域で安心して暮らしていけるよう福祉サービスの提供体制を整備するとともに、相談支援や就労支援、スポーツの振興などを通じて社会参加の促進を図っているところです。


共に生きる社会を実現するためには、県民一人ひとりの意識はもとより、学校や会社、地域社会において、お互いの理解と協力が大切であり、貴会における研修会や発表会などの様々な活動は、音声機能障がいのある方々の自立や社会参加とともに、周囲の皆様の障がいに対する理解の促進につながる大変意義のあるものでございます。

今後も引き続き、本県の障がい福祉の向上にお力添えを賜りますようお願い申し上げます。


終わりに、貴会の益々の御発展と、会員の皆様の御健勝を心から御祈念申し上げます。

信鈴会会員の皆様へ

長野赤十字病院長 吉岡 二郎

長野赤十字病院の吉岡でございます。信鈴会会員の皆様方には日々健康に留意され恙なくお過ごしのことと存じます。さて、このたび寄稿のお誘いがありましたので一言ご挨拶申し上げます。

当院の耳鼻咽喉科は根津部長はじめ医師四名で診療にあたっています。北信地域における耳鼻咽喉科診療の基幹施設として、新しい診療技術を取り入れ「診療の質の向上」に日々努めております。最近九年間に当院で喉頭全摘を受けられた患者さんは五十四名とのことです。高齢化が進み発声教室に参加できない患者さんが増えている状況も聞き及んでおります。声を失うことは大変悲しいことですが、食道発声などの発声訓練で声を取り戻すことが可能ですので、辛い経験は是非前向きに乗り越えていただきたいと思っております。当院第二会議室で開催されている発声教室を時々お見かけしていますが、長野教室の活動については、役員の小林さん・山岸さん・松山さんからご報告があることでしょう。

当院では昨年高精度放射線治療センターを開設しました。二台のライナック整備により頭頚部がんに対してもより多様な治療の選択が可能となっています。また、地域がん診療連携拠点病院としてがん相談支援センタースタッフを中心に皆様方のご努力にでき得る限りご支援をさせていただくよう心掛けてまいります。お気づきのことがあれば何なりとご相談いただければ幸いです。

二人に一人ががんに罹患する時代です。「一病息災」・「多病息災」、「辛い時こそユーモア」の精神で明るく日々をおくられることを願っております。

        平成二十九年二月

頭頸部がんの再建手術について

信州大学医学部附属病院形成外科 柳澤 大輔

平成二十八年八月二十日に信鈴会訓練士会議で頭頸部がん治療において形成外科が担っている、再建手術についてお話させていただきました。以下にその概要を記します。


形成外科は対象となる特定の臓器を持たず、先天的に組織が欠損していたり、外傷やがんによる切除などで組織が失われたりした状態を改善する診療科です。切除後に再建が必要となるがんはいろいろありますが、今回は頭頸部がんを切除した後の再建手術についてお話します。

頭頸部は頭から首のことを指し、頭頸部がんには口腔がん(舌癌や下顎歯肉癌など)、咽頭がん、喉頭がん、上顎がん、唾液腺がんなどがあります。頭頸部には呼吸、食事、会話、表情といった生活に必要な機能が集中しているため、この場所が切除により失われると、たとえがんが完全に切除できても、元の生活に戻ることが難しくなります。そのため、再建手術が重要となります。

再建手術は組織の欠損を改善させるために、体の別の場所から組織を移動させなければいけません。しかし、当然私たちが生きるためには血の巡りが必要ですので、ただ組織を別の場所から切り取って移動させただけではその組織は死んでしまいます。そこで、血流を保ったまま移動させる組織移植(皮弁術)を行うことになります。血流を保ったままということがポイントなわけですが、現在では、太ももなどから血管付きで組織を採取し、一旦血管を切り離した後で、首などの血管に縫い直すことで血流を保つ方法(遊離皮弁術)が主に行われます。この方法ですと、頭頸部から離れた場所から組織を採取して再建手術を行うことが可能になりますので、欠損の組織の大きさ、厚さに応じて採取する場所を選ぶことができます。そして、この遊離皮弁術を可能にしているのが、マイクロサージャリーという手技です。マイクロサージャリーは顕微鏡を見ながら細い血管やリンパ管、神経などを縫う手技のことですが、頭頸部がん切除後の再建では1から3ミリメートルほどの血管を縫います。このマイクロサージャリーの手技を用いて遊離皮弁術が可能になり、それにより様々ながん切除後の再建術を行うことができます。ここでは具体的に舌がん、下顎歯肉がん、下咽頭がんの治療についてお話します。

舌がんは舌が半分まで切除された状態と半分以上切除された状態では再建の方法が異なります。半分までの切除ですと、舌の機能が残りますので、残った舌の動きを邪魔しないように、できるだけ薄くしなやかな組織を移植します。そのため、前腕や太ももの組織を採取して移植します。半分以上舌が欠損した場合は舌の大きな動きが無くなるだけではなく、口の中に食べ物をとどめることができなくなり、のどに直接食べ物がなだれ込んでしまいます。すると気管へ食べ物が入ってしまうことによる肺炎(嚥下性肺炎)が起こってしまいます。これを防ぐために、舌のあった場所に厚い組織が盛り上がった状態になるように再建します。そのためには、厚い組織が採取できる腹部から遊離皮弁術を行うことが多いです。

下顎歯肉がんは下あごの歯茎のがんですが、これを切除すると下顎の骨を含めて切除することがあります。それに対して膝の下にある二本の骨のうち、細い腓骨という骨を血管付きで採取して下顎の形に加工して移植することがあります。

下咽頭がんは食べ物が通るのどの部分にできたがんですが、これを切除するためには咽頭と喉頭を切除する必要があります。そのため、のどの食べ物が通る場所と息をするための空気が通る場所の両方を再建する必要があります。空気が通る場所は鼻や口から息を吸い込むのではなく、のどから直接呼吸するために永久気管口という穴を作成します。食べ物の通り道は舌の根元くらいから食道までの間を小腸の一部である空腸という組織を血管付きで採取して移植することで再建します(遊離空腸移植術といいます)。術後、飲み込むのに少し慣れが必要ではありますが、練習することで治療前と同じ食事を食べられる患者さんもいらっしゃいます。


以上がお話させていただいた内容です。ただ、再建手術は患者さん一人一人の条件に合わせて行う、いわばオーダーメイドな治療です。述べさせていただいた方法が全てではありませんので、もし再建手術を受ける必要が生じた際は、担当医によく話を聞いてから手術を受けていただくのが良いと思います。拙い文章で恐縮ではありますが、少しでも参考になれば幸いです。

健康保持のための食事を考えましょう(その二:脂肪)


信州大学名誉教授 田口 喜一郎

信鈴会の皆様は、二〇一七年をどのような年とお考えでしょうか。日本の出生率は減り続け、総人口に占める高齢者の割合は増える傾向は変わりありませんので、安倍首相は一億総活躍運動を展開しようというキャンペーンを続けています。しかし、実際に社会に有意義な仕事を続けるためには、まず、「健康」でなければなりません。自分が病身だったり、動けなかったりしたら、働くどころか、家族や他人の介護が必要になるか、よくて自分の身の回りのことをやるだけで精一杯ということになるでしょう。

前回は人の活動(運動)のために必要な直接のエネルギーとなる炭水化物についてお話ししました。炭水化物の中のブドウ糖は脳の活動に必要なものですが、摂りすぎると肥満や糖尿病の原因になる可能性があり、「食べ過ぎに注意!」ということでした。今回は脂肪ですが、多くの人は「あぶらの摂り過ぎ」は動脈硬化や高血圧の原因として好ましくないということで、極端に脂肪の多い食品を避ける傾向があります。しかし、脂肪は、体内で幾つかの重要な役割を演じております。主な役割は、エネルギーの貯蓄、体の幾つかの部分の形成、そしてホルモンなどの形成です。

(一)エネルギー 脂肪は体内に生じた余ったエネルギーを体内にためて置き、エネルギーの不足や飢餓状態に陥った時、糖の形に変換してエネルギーを造ってくれます。体内にある脂肪は内臓脂肪と皮下脂肪に大きく分けられますが、肥満で問題になる内臓脂肪はややきつい運動をしたり、速足で歩いたり、ジョギングといった有酸素運動(酸素を多く必要とする体の運動)をすることによって使われます。体調が悪く食物が食べられなかったり、ダイエットしたりする時も体内の脂肪は使われます。

(二)体の保護 物理的にはクッションの役割をして皮下の器官や臓器を外力や障害から守ってくれています。運動や転倒などで外から大きな力が体に加えられる時、脂肪がなければ骨や筋肉を傷め、内臓の破壊や出血といった影響を受けるかもしれません。また、脂肪は熱伝導率が悪いため、特に皮下脂肪が体温の維持に役立っている点も見逃すことができません。

(三)重要な機能成分の製造 脂肪は、人の重要な体成分の構成に必要なものです。例えば、体の重要なホルモン(ステロイドホルモンなど)の原料となり、蛋白質とともに生体膜を作ります。その他脂溶性のビタミン(脂溶性ビタミン=ビタミンA・D・E・K)の吸収に必要なものです。

(四)体の中にたまって健康によくない、余分な脂肪はなるべく増やさないために守るべき条件 具体的には、主にエネルギーとして利用される「飽和脂肪酸」と呼ばれるものを少なくし、人間の体内では作れない「不飽和脂肪酸」と呼ばれるものを必要量摂ることです。言葉では簡単ですが、実際に食事の内容として選ぶ場合は難しい面があります。おおよその見当を覚えていればよいと思います。量としては、一日五十グラムの動物性脂肪を少し多めの野菜(サラダや味噌汁の具)として食べればよいのです。脂肪を多めに食べた時はやはり身体をよく動かす「有酸素運動」を多めにすればよいのです。例えば、すき焼きの時は肉と野菜を入れて料理しますが、この時、ネギなどの野菜やキノコ類はあぶらを多く吸い込んで大変美味しいので食べ過ぎる傾向があります。高齢者や血圧の高い人は肉以外の物は若い人に任せ、あぶら分の抜けた肉を多めに食べればよいのです。脂肪は食品の「うまみ」に関係してきますので、脂身を好きな人は少なくありませんが、概ね七十歳以上の方は、、脂肪分は少なめが望ましいということになります。ただ、脂肪を全く敬遠するのはよくありません。動物性の脂肪はコレステロールが増えるからよくないといって極端に排除すると、血管の丈夫さを損ない、脳出血などの危険性を増すことになるといわれますので、血液検査でコレステロールや悪玉脂肪が極端に多い人以外はある程度の量を食べる必要があります。健康維持のためには、体の中で作れない不飽和脂肪酸の摂取は是非必要で、植物性の脂肪の摂取が有効です。中でもポリフェノールを多く含み、酸化されにくく保存のきくオレイン酸を多く含むオリーブ油が奨められます。現在百五歳の日野原重明先生(聖路加病院名誉院長)は、健康維持の目的で、毎朝オリーブ油を少しずつパンに付けてたべておられるそうです。やや値段が高いのが難点ですが、オレイン酸は飽和脂肪酸のステアリン酸からも体内合成されますので、ごく少量の摂取で間に合います。健康保持には血中の中性脂肪値が極端に高いことは望ましくありませんが、糖尿病や脂肪肝の方では著しく増加していることがあり、稀には体質性・遺伝性のものもあって、いくら運動しても、食事内容に注意しても減少しない場合があります。このような場合は、一度病院で検査を受けて頂くことをお勧め致します。

(五)食事上の注意事項 食事量全体として考えますと、日本人は一般に夕食に一番カロリーの多い食事を摂る傾向がありますが、夕食の量はなるべく減らすことが望ましいのです。食事の後すぐ寝るのは、昼食後の短時間の昼寝以外は好ましくなく、特に夕食が豪勢な時はすぐ休まず、家族で歓談したり、軽い散歩などすることが望ましいと思います。特に午後十時以降の食事では、脂肪の多い食事や米飯など炭水化物の量は可及的に減らすことをお勧めします。何故なら、大量の食事後の睡眠は栄養の吸収をよくし肥満の原因になるからです。午後十時以降の食事では、過量の炭水化物は中性脂肪になって内臓脂肪を増やすことになることになり、食後にすぐ就寝するような生活を続けると、この時間帯には睡眠の遺伝子が内臓脂肪を沢山蓄えるように活躍することが証明されているからです。アルコールを多く飲む人は、そういった傾向が強く表れます。夕食は炭水化物であるご飯量を減らすために、生野菜の摂取が望ましいのですが、生野菜を一度に多く食べることは意外に難しいので、キャベツなど葉物野菜を煮たり蒸したりして熱を加えた温野菜にすると結構大量の野菜の摂取が可能であるばかりでなく、満腹感も得やすいので、脂肪や炭水化物の摂取量を減らす対策にもなります。脂肪は食品の「うまさ」を増す味覚への作用がありますので、兎角無意識のうちに大量に摂取することになりやすいようです。すき焼きやステーキなどの肉料理の場合は、脂身の部分をなるべくはずして食べることが望ましいと思います。脂肪は人間の生命維持や免疫機能の維持に必要な成分でありますので、前にも記したように、あぶら(脂肪)の全てがよくないということではなく、人体の中で合成できない不飽和脂肪酸の中には植物性の脂肪から得られる可能性も含めて、食事の中で、一定量の脂肪を摂取する必要性は忘れないでください。

(六)摂りすぎに注意すべきあぶらの含有量の多い食品には次のようなものがあります。

 油脂:ドレッシング、ゴマ油、ショートニング、バター、マーガリン、マヨネーズなど

 種実:ごま、アーモンド、ピーナッツ、くるみなど

 多脂性食品:クリームチーズ、生クリーム、あんこうのきも、牛のばら肉(カルビ)、豚ばら肉、ベーコン、リブロース(牛肉)、レバーソーセージ、レバーペースト、ドライソーセージ(サラミ)など

松本発声教室の経過


信鈴会相談役 今野 弘恵

松本発声教室も平成二十九年で五十四年目を迎えました。昭和三十八年当時耳鼻咽喉科鈴木篤郎教授の同意を得て外来診療室の一角で発声教室を始め、教材は東京銀鈴会発行のビデオテープなどを利用しながら四苦八苦、松本教室は看護婦主体になって訓練に参加している人達一人一人の記録、カルテ作成、発声教室を設置した他の病院の看護婦たちとの交流を考えてやってきました。新年会は松本教室が行い鈴木教授、医師、看護部長、石田愛子さん、看護婦、看護学生達も参加し花笠音頭などを踊り精一杯盛り上げてきました。平成四年から信鈴会が主体となって行っています。会長田中清さん、場所も信大ではなく他で行ってきました。当時耳鼻科に勤務した皆さんは楽しかったあの頃を思い出しています。そして木曜日は午前中総廻診、仕事の手順を考えて毎回鈴木教授が教室に顔を見せて「頑張れよ…」と言ってくれました。今も木曜日午後は発声教室、継続は力、有難く思っております。現在信鈴会会長七代目上條和男さんは県行政への支援など意欲的に活動して下さり発声教室は訓練士たちも研修を重ね訓練の場では互いに励まし合い楽しくやっております。

常に信鈴会発声教室をあたたかく見守りご支援下さっている宇佐美真一教授、先生方、看護師の皆さまに心から感謝申し上げます。

三瓶満昌さんとの忘れられない思い出


信鈴会相談役 今野 弘恵

平成二十八年二月十一日三瓶さん御家族から一月二十八日三瓶満昌さま病気療養中永眠なされた御通知がとどきました。只々悲しく涙がとまりません。

昭和五十三年十月喉頭全摘出を告げられた三瓶さん(四十六才)の事は忘れもされない私の心の中にあります。手術に至る迄の心の変化、悩み、苦しみ、一度は手術を拒否しその時会社の事務員(女性)から私宛に手紙がとどき三瓶さんは私達の社長さん、大事な人です。声を失っても元気でいて下さることを祈っております。どうか病気が治るよう考えて下さい…そんな内容の文面でした。当時は毎週木曜日医師、看護婦合同のカンファレンス受け持ち患者さんの治療方針などをお聞きして看護計画を考える貴重な時間です。

三瓶さんの受け持ち医は河原田先生、検査結果、多くの情報の中で、三瓶さんの病気を治すためにはどのような方法をとったらよいか?喉頭摘出手術にするか?資料をもとに医師たちが考えた結果…根治手術をやって癌を摘出しなければ治らない…と云う結論でした。私はNSの立場から手術を拒否した三瓶さんに第二の声を取り戻すことが出来る、安心して手術を受ける事をすすめてきました。

手術の結果は思い通り良好でした。三瓶さんも術后第二の声を得るために全身で向かっていました。

昭和五十八年七月五日~七日「第三回喉頭摘出者世界大会」東京都経団連合会館ホールにて開催。世界二十四ヶ国日本、アメリカ、カナダ、イタリア、ノルウェイ、オランダ、インド、デンマーク、ドイツ、スイス等々約七百名他に喉摘出者のみでなく医師、音声学者、リハビリテーションの専門も参加、日本語、英語、フランス語の通訳が行なわれ非常にレベルの高い大会でした。発声コンテスト食道発声の部で長野県信鈴会発表者三瓶満昌さん当時の会長鳥羽源二、副会長義家敏、病棟NS今野、野島も同席させていただきました。会場の皆さんがみつめる中で壇上に立った三瓶さんは堂々とした態度、声も大きく、はっきり胸うつスピーチでした。

コンテスト食道発声の部では見事に二位に選ばれました。思わず同席した信鈴会々長他肩をよせ合ってよろこび感動しました。本当にうれしかった。三瓶さんありがとう…。

昭和五十六年佐久教室設置の折は三瓶さんに指導者として多くの仲間たちを導いていただいております。数年前から病気と闘っている様子何度も便りでわかっていましたがご家族様からのお知らせで平成二十八年一月二十八日他界なされた事を知り、おいおいと声を出して泣いてしまいました。

三瓶さん本当にありがとう、どうか安らかにお眠りください。

遠い空から信鈴会を見守って下さい。

一年を振り返って


信大附属病院東 2 階病棟看護師長 竹村 滋子

会誌「信鈴」第四十三号 発刊おめでとうございます。

早速、私事で失礼しますが、生まれて初めてインフルエンザに罹りました。体力には自信があって、毎年インフルエンザが流行している時期にも乗り越えてきたのですが、今年はそうはいきませんでした。その時期に病院全体もアウトブレイクで病棟入り口に「面会制限中」の大きな看板を掲げ警戒体制でした。患者さんやご家族もびっくりされたことでしょう。そんな中、発声教室を開催しても良いものかと、今野さんや上條会長さんに相談をと悩みましたが、教室の開催当日になってしまい予定通り会は行われました。その後体調が悪くなった方もいず安心しております。

最近の発声教室は活気があります。デイルームの机が溢れんばかりの方で埋め尽くされ、机のあちらこちらで声が聞こえてきます。

この病棟に配属となり二年。喉頭全摘術を受けた患者さんが退院し、生活をするにあたって、退院後の生活について看護師が行った説明でご理解いただけているのかとか、実際困っている事や、入院中にもう少し説明しておいてもらえたら良かった、と感じている事があるのではと、何人かの方に、退院して入院中にもっと説明してほしかった事はありますかと伺いましたが、何とかやっていますとのお返事でした。

これから信鈴会の皆様と同じ手術を受ける方が安心して生活できるように、退院して実際生活していく中で、入院中にこんな事を伝えて欲しかった、など皆様の生の声をお聞かせいただけたらと思っています。

病棟の看護師は経験年数が若い看護師も多く、手術を受けた患者さんの退院後の生活のイメージがつきにくい看護師もいます。そんな看護師の為にもぜひ、率直なご意見をいただけたら幸いです。今後ともよろしくお願いいたします。

発声教室の皆様に出会って思ったこと


信大附属病院東 2 階病棟副看護師長 大澤 薫

会誌「信鈴」の発刊おめでとうございます。

私は、東2階病棟(耳鼻いんこう科 形成外科)に配属になり、五年目になります。

五年前、初めて、発声教室に伺い、皆様に出会ったときの驚きは今でもはっきり覚えております。食道発声・EL(電器)発声というのがあるということを、聞いたことはありましたが、実際見たことはなく、このように発声教室を毎週行われているというのも、病院に働いておりながら知りませんでした。はっきりしたわかりやすい言葉を初めてお聞きしたとき、生きていくエネルギーを感じて、胸が熱くなったことを覚えております。以後、いつお会いしても笑顔で迎えてくださり、みんなで、はげましながら明るくプラス思考で取り組んでおられる姿にいつも感動しています。

この五年間、喉頭を切除しなければならない何人かの方々に出会ってきました。入院中は身振り手振りか筆談でコミュニケーションをとるしかありません。なかなか私たちが患者様の言いたいことがわからなかったり、筆談するのに時間がかかったりで、もっと言いたいことがあるかもしれないけれど、最低限の会話ですませてしまっているということがないとはいえないと思われます。「自分の言いたいことが相手に伝わらない。伝えるのに時間がかかる」ということは、本当にストレスな事と思います。発声ということは、ものごころついた頃より、当たり前のことと生活してきた私には、自分の思いを伝えるのに時間がかかるという事実をわかろうとするしかできませんが、その発声を身につけるために、毎週毎週時間をかけて努力を続けていく精神力はすばらしいです。以前入院していた方が、訓練士をされており、本当に積み重ねの重要性を感じます。

社会では、いろんな事がおこっています。世界情勢もなにやら喜ばしいことが少ないように思えます。このような社会の中で、信鈴会を通して発声を獲得するために努力している、または、指導している信鈴会の皆様とこれからも微力ながら、一緒に活動して学んでいきたいと思っています。これからもよろしくお願いいたします。

「コミュニケーション」


信大附属病院耳鼻いんこう科外来看護師 渡部 茂世

会誌「信鈴」の発刊おめでとうございます。

近年、新しい物がどんどん開発され、便利な世の中になってきました。ぼーっとしていると、あっという間に時代に乗り遅れ、いつしか「浦島太郎」になってしまいそうです。そして、今やコミュニケーションツールにも、めまぐるしい変化があります。

私が所属しているフロアでは、二十名弱のスタッフがいます。お昼休憩には、みんなスマートフォン片手に、黙々と何かしています。その何かとは、ゲームだったり、LINEだったり・・・様々です。「LINE・・・?」未だに、ガラケーを使っている私には、何のことやら・・・。もう、すでに、時代の波に乗り遅れております。しかし、色々な機能が備わりとても便利に思えますが、「コミュニケーション」の視点から考えると、誤解を招いてしまう恐れも少なくありません。以前、こんな場面を目撃したことがあります。

ある飲食店に行った時、あるカップルを目にしました。その二人は、お店に入ってきた時から目を合わせる事もなく、会話することもなく・・・ひたすら、スマートフォン片手に何かをしていました。様子をみていたところ、どうやらLINEで会話をしていたのでした。おそらく、その二人にとっては当たり前のコミュニケーションなのかもしれませんが、とても違和感を感じ、寂しく思いました。

文字だけでは、相手の感情が読み取れません。喜怒哀楽が伝わりにくいからこそ、絵文字などのアイテムを使っているのかもしれません。「コミュニケーション」の基本として送り手と受け手がいます。お互いが、相手の表情や仕草、身振り手振りなど様々な情報を得ながら言語を用いて会話する事により、より良い関係が生まれるのではないでしょうか。その「言語」=「声」で、コミュニケーションを図る事の重要性を、発声教室の皆さんから学びました。喉頭摘出をされた方は、声を失うという喪失体験を乗り越えて、残存機能を有効に活用し、社会生活に適応していかなければなりません。そんな中、皆さんの頑張りに触れる事で、今後のコミュニケーション方法に対する現実的な展望をもたらし、新たな発声法を習得しようという動機を受けているのだと思います。

先日参加させて頂いた新年会の席で、こんなお話を伺いました。その方は、「あ」の一言が出るまで、一年半位かかり辛かったそうです。しかし、その発声のコツを掴んでしまうと、声を出す事が楽しくなって、「もっと出したい」「もっと話したい」と気持ちが前向きになり、頑張れたそうです。

発声には個人差があります。途中、挫折しそうな時もあるかと思いますが、諦めないで欲しいです。同じ経験を乗り越えてきた発声教室の皆さんの支えは、何万馬力にもなります。私も、少しはお役に立ちたいと思ってますので、今後とも宜しくお願い致します。

さて、話は変わりますが・・・今野先生から習っている生け花ですが、今も頑張ってやっています。最近は、お褒めの言葉を頂くことが多くなり、自信につながっています。内容は違いますが、皆さんと一緒に上達していけたらと思っています。

物忘れ


長野教室 松山 滋

家内が最近テレビを見ていて福祉相撲に出ていた日馬富士の絵のうまさに驚いて私に話して来たのですが、私はその相撲さんの名と顔が思い出せません。「え、日馬富士、そんな相撲さんいたかや。」暫く思い出せません。

家内いわく「横綱、四人の内一人いるじゃないですか。」あっそうか、いたいた、ようやく思い出しました。

傘寿も過ぎた一人だが、物忘れが多くなったのも自覚するようになった。顔を見たが名前が出てこない。又、名前を聞いても顔が浮かんでこないことが、しばしば。単なる物忘れと違うので歯がゆくて仕方がない。年のせいと考えるが、認知症の初めではないだろうか。そこで大事なものは決めた場所に大事なことは「メモ」とういうことで大事に至らないよう自分に言い聞かせ日々を送りたいと思います。

元気頂く


長野教室 山岸 國廣

昨年はブラジル、リオ・デ・ジャネイロオリンピックにおいて県内出身アスリートの銅メダリストの誕生、相撲界では御嶽海の年間通じての活躍に心がおどりました。新年初場所十一勝四敗二つの金星による技能賞獲得は長野県民こぞっての喜びでした。更には十九年振り日本人横綱誕生は日本全体を元気付けました。

また、新年早々の全国都道府県対抗男子駅伝長野県チームの優勝です。県民の多くがアンカーの走りを映し出すテレビ中継にクギ付けとなりました。優勝の瞬間大きな感動と希望に元気を頂きました。

私事ですが我が家の半世紀にわたる年末の餅搗きイベントです。搗き手はかつては私の親父と自分の時代、息子、甥の時代を経て今は高校一年生の孫が加わり続いています。更に男の孫小学五年生、小学二年生が控えていますので当分続きそうです。続いてほしいです。准高齢者もうひと踏ん張り餅を伸ばす役割があるうちは孫たちに元気を貰い頑張りたいと思うこのごろです。

愛犬と子猫の思い出


長野教室 小林 毅

雪が無く楽な正月を迎えられたと思っていたが一月も半ばを過ぎた頃、大雪に見舞われ片づけに追われてた、その二日ほど後の日曜日でした。息子から嫁さんの実家で家族も同様に可愛がっていた柴犬の(秀)が家族の留守中、庭の柵を乗り越え道路へ飛び出して車に跳ねられて死んでしまい、家族の悲しみを思うと辛いと知らせが有った。私が四年前に初めて秀と出会った時アレッと思いました、それは以前、私の家で飼っていた柴犬(リック)に余りにもよく似ていたからです。今から八年前の雪降りの朝、眠る様に亡くなっていたリックを思い出したので書く事にしました。私は愛犬リックが亡くなる二年前に喉摘手術を受ける為に一ケ月ほど家を留守にしてしまい家に帰り直ぐ気に成っていたリックに会う為、小屋へ行って久し振りに頭を撫でてやったが 言葉を発し無い私を不安そうな目付きで見ていた事を思い出します。我が家では皆、犬が好きでしたのでリックが亡くなる迄は犬の居ない時は有りませんでした。その中でもリックは特に懐いていて良く一粁ほど離れてる千曲川まで散歩に出掛けて河川敷を走り回ったり夏は水浴びをしたり、私も仕事で疲れた時や運動不足の解消には最高の気分転換にも成り助かっていました。所で、このリックを飼う様に成った理由ですが、以前にも(ゴロー)と言う名の柴犬を飼っていて、近くに嫁いだ娘の子供達も遊びに来る度に ゴローと近くの堤防まで散歩に行ったり庭で一緒に遊んだ思い出の多い犬でしたが、十歳位の時に流行っていた蚊が媒介する フィラリヤと言う病に感染してしまい 肝臓まで侵されて最後は腹水も溜まってしまい抜いて貰ったり種々と獣医も手を尽くしてくれましたが、その甲斐も無く残念にも死んでしまいました。

その後は、犬を飼う事はもう止めようと心に決めていましたが丁度その頃、近所で建設会社を営んでいた大工さんが柴犬の子供を飼い始めていたが、仕事に追われていて世話を余り出来ず、散歩も怠って犬は何時も放し飼い状態なので我が家へ来ていました。居心地も良かったのか飼い主の所へ帰らず困ってしまい話し合いで私が譲り受けてリックは我が家で飼う様に成ったと言う訳です。 話は戻りますが、私が声を失ってリックと接するように成って1ケ月ほど過ぎた頃、犬小屋へ行って見て驚く事に小さな黒い生き物を抱いて座っているので、雄犬が子供を産む訳がない?と思いながら半信半疑で取り出して見ると産まれて間もない、それは(子猫)でした。しかも足には怪我をして赤肌に成ってる痛々しい子猫でしたので傷の手当を施してやり、そのままリックと猫は親子の様に1ケ月ほど過ごしました。子猫の成長は早く怪我もすっかり回復し、昼間はリックとじゃれ合って遊び、夜も抱かって眠むるという日が続きました。間もなく子猫は庭に出て走り回る様に成り、人が来ると誰とでも愛嬌を振りまいて遊ぶ可愛い子猫に成りましたが、家では飼えず悩んでいた所、親戚で引き受けてくれて助かりましたが後で話を聞いて驚きでした。

子猫は子供達と仲良しに成り登校の際、何度か小学校まで付いて行った様です。ある日の帰り道で事故に遭い、残念にも亡くなった様で私には想像も付かない哀れな出来事に成っていました。その後、私は少し声を掛けれる様に成りましたがリックは一年後に老衰に依り視力も落ちて散歩も難しく成ってしまい、その翌年に16年の生涯でした。孫達にも知らせ寒い雪の中でしたが皆んなで梅の木の下に穴を掘り涙ながら別れを惜しみ埋葬を済ませました。

月日の過ぎるのは早いもので、私は今年七十九才と成り地声を失って十年が過ぎましたが、この間は長野教室で先輩より食道発声により声を出す事を教えて頂き、まがり成りにもお陰様でマスター出来て同じ悩みを持つ仲間との出会いに依り多くの感動も有り生き甲斐とも成って今日を迎えられたと感謝に堪えません。体力の減退や身体の機能も低下し何かと不便な事も多く成りましたが、週一回の発声教室には出席して会員の皆さんと交流する事により元気を貰っています、訓練士としても恥じぬよう努力を重ねながら今後も会員の皆さんと共に頑張って行こうと思っています。

趣味悠遊 その2


諏訪教室 守屋 一次

信鈴 第四十一号で自分の決意として書きましたが、七十歳を超えて自分の体は健康なのか、信鈴会、車の運転、運動、その他、二十八年五月 諏訪日赤にて一泊二日の人間ドックを受診、上から下まで細かく診察、検査を行い、医師より検査結果の報告を受けました。再検査項目が四か所程ありますので六ヵ月経ちましたら、検査受診をして下さいとの指示でした。

やはり心配したことが。仕事をやめ三年体を動かすことと言えばゴルフだけ。やはり何か体を動かす事を、趣味と実益を兼ねた仕事を探さなければと思い、シルバー人材センターに入会、手続きを済ませ、こんな仕事なら出来ますと希望を伝え説明をきいた。

運よく直ぐに依頼が、茅野市の運動公園の管理業務の仕事です。内容は施設の周りの草刈り、枯れ木、枯れ枝、落ち葉、の処理。冬は雪かきの作業や融雪の作業が主な仕事です。

一、二、三、四、十二月は午前中 五月から十一月までは三時三十分まで。一ケ月二十日を二人で十日ずつ勤務。何と望んでいた仕事が来て驚き、一つ二つ三つ返事で喜んで引き受け、再検査項目のクリアー目指して、六ケ月。その間には、長野県グランドシニアゴルフ大会や所属ゴルフ場の大会等でスコア—も良くなり、優勝する事も出来、又アマチュアゴルファーの夢であるシングルプレイヤーにあと一歩と近づくことが出来たのも、環境の良い公園で、春には桜の花が、野球場では若い人たちが元気良く飛び回り、木々の緑が公園をジョギングする人たちの心を和らげ、私に声をかけてくる。お疲れ様、ありがとう、私も、無理しないで、ゆっくりね、と声を返す。皆さん立ち止まる。爺さんの顔を見て、風邪ひいたのー、無理しないでね、有難う。実はね これこれしかじか 声の訳を説明すると 頑張ったね、気をつけてねと 走り出していく。この公園には、日本リスが生息していて毎日カメラマンが可愛いリスのしぐさをカメラに収め、時には写真展などを開いている。

人とのふれあいを楽しみつつ六ケ月が過ぎ、病院で再検査。「血糖値 LDLコレステロール 血圧 その他まあまあ良しとしますが 一つだけ コレステロールを下げること。食事の量をちょっと減らし塩分控えて、次回は三ヶ月後ですね。」と。七十歳を過ぎればそれなりに悪いところが出てきますが仲良く適当に体を動かし心とからだが健康ならば、現在の生活が維持出来ると安心し、次の目標を立て進んで行きたいと思いました。

伊那教室の今後


伊那教室 小池 弘光

最近の伊那教室の内容、運営、状況等については信鈴会の会誌、役員会等々機会ある毎にその様子はお知らせしてきた通りです。

昨年末上條会長さんと内々の話し合いを何回かさせていただいて、今の状態では存続していけない、私も疲れてしまうから…。という内容で、例えば在籍されている会員さん、体の様子や体調の様子、状態で出られないこともあったかとは思いますが、私が教室でのやり方、進め方が悪いのか…。と何回か書面でお聞きしてもなかなか返事が得られず心配をしてきた中です。但し会員さん宅まで出向くとか電話をかけて都合を聞くまではしなかったのですが、年度当初には年間教室の計画書を作成して各人に届けてあるのですから、私は毎回教室に行っては、朝までに連絡をいただけなかった会員さん、今日はどなたか見られるか…と思いをくり返しくり返し心待ちをする毎日でした。こうした状態で半年以上も連続で、私としても一定時間内の孤独にも耐えられない気持ちになってしまった。こうした状況を上條会長さんに聞いてもらったのです。

以降、会の三役会・理事会などで討議、研究をしてもらい、年度内に伊那中央病院内で教室担当の平沢看護師さん信大病院の鬼頭医師、信鈴会の三役で話を進めてもらうということに決まり、過日伊那中央病院で鬼頭先生、平沢看護師さん、信鈴会の三者で各皆さんからお考えを出していただき、その結果、次の三点を確認していただいたのでした。

 ○ 当面、期限を決めず新年度当初から休講とする。

 ○ 今後、各方面を担当される方々、又私達会員の皆さんも新しく喉摘者を見受けられたら連絡を取り合って行く。

 ○ 伊那教室の代表者は年間計画書等を作成していつでも教室を再開できるようにしておくこと。

以上のような最終決定を決めていただき、これに向かって今後は進みます。

ふり返ってみますと一九七八年(昭和五十三年)十月に信鈴会で第三番目の教室として、伊那中央病院内に開設され、当病院の矢田医師、東原総婦長さんのお力、そして開設当時の先人の方々には開設されて三十九年目にして大きな節目を迎えてしまって、一定期間進路が変わりますが、必ず元に戻ってきて伊那教室を再開しますから…と御報告をするものです。

最後に県全体を見ましてもどこの教室も会員減少の傾向があるようですが、これだけは物質的なものでやり取りを求めるものではないからどうしようもない。喉摘者自体が少なくなっているということは、身の回りの環境の変化、医学の進歩も当然のことです。

この度の伊那教室のことで県をはじめ関係するすべての機関の方々、そして信鈴会の皆さんに対しまして伊那教室の代表者として、心から重ねてお礼を申し上げます。尚、私も当面飯田教室にお世話になります。飯田教室の皆さんよろしくお願い申し上げます。

飯田教室だより


飯田教室 花田 平八郎

今年も早や三月を迎へ天龍河畔の梅林も満開となりました。

信鈴会飯田教室の二十八年度の報告をはじめますが、本年度は女性二名が入会されましたが、高令の男性二名が亡くなられ、とても残念です。

一番大きな事業として、飯田教室開設以来二百回目の教室暦となり市立病院の教室で記念祝賀会を五月二十六日に行いました。耳鼻咽喉科の塚本先生、看護師長今村さん、下平看護師さん、病院福祉課の係長さん方のご出席をいただき、盛大に楽しい祝賀会が行なわれました。これも病院側の御協力と会員の変らぬ熱意のあらわれと感謝いたしております。

この頃よくテレビでツンクさんのコマーシャルや東京銀鈴会の様子など見かける様になり喉摘手術を受けた私達には一般社会に少しでも理解していただけるいいチャンスではないかと思っています。

九月の教室からラジオ体操をはじめました。南木曽町の阪本さんのアイディアでCDカセットを持って来て下さり 五分位ですが体がほぐれて大変よいことをはじめたと思っています。二十九年度はどんな活動をしたらよいかと考へていますが、NHK_おんな城主直虎_亀之丞の縁のお寺が飯田の近くにあるので皆さんで見学に行ってみようかと思っています。二十九年度も会員一同元気で発声練習に励み少しでも社会に貢献したいと思っています。

会員の皆様どうか元気で新年度も頑張って下さい。

教室


松本教室 黒田 勇栄

信鈴会に入会し早いもので既に一年三ヶ月お世話になった、有り難う御座います。

進歩状況は残念ではあるが、かんばしくない恥ずかしいが、今だ習得の遅さにガッカリしている、が気分的には何となく発声の基本を身体が覚えてきたような感である。

今迄は早く習得したい気が薄かったんだと改めて気がついた、それは、発声出来ない自分に馴れたら不便ではあるが、会話無くもそれなりに生活出来ている事に気がついた。

但し、残念であるが必然と行動範囲は狭くなっていた事は事実である。それでは駄目、訓練士言わく『酒ばかり飲んでいないでもっと努力せよ』との叱責をいただいている。まさにその通りと頭が下がる、いずれにせよ今後もお世話になり努力する心構です。

焦らず長旅であっても目標に向かって進む気構えですので宜しくお願い致します。

ペットを飼う


松本教室 関 秀 明

人は、癒しを求めてペットを飼うのには、大方犬か猫と決まっている。稀には爬虫類を飼っている人も知っている。

猫は余り賢くないが、可愛がるとそれなりに人に懐き擦り寄ってくるのである。猫贔屓には、この仕草がたまらないのである。

ひと昔前には、頻繁に家の中に住み着くネズミを駆除するのに都合のよい動物として、大方の家では飼われていた。近年では屋敷に住み着くネズミも少なく、それを駆除する役目もなく、今ではペットとしてだけ飼われているのである。ただ放し飼いとしている猫はある日、何匹かの子猫を連れて帰ってくるのである。これに閉口した飼い主は、何匹かを野山に放置してしまうのである。この猫たちが、野山から里に出て来て野良猫として忌み嫌われてしまうのである。

犬も同じであるが、捨てられる数は猫の比ではないものの、それなりに捨て犬、迷い犬はいるのである。ただ犬は狂犬病の接種をしなくては、危険な動物とみなされ、都道府県の保健所で捕獲され、何日かの猶予を経て貰い手がない犬は殺処分とされてしまうのである。保健所の檻に閉じこめられた犬の瞳は哀れである。何かにすがりたい表情が悲しい。

随分と以前に私も犬を飼っていた。最初は結婚して間もない頃である。妻が友人から、是非貰ってほしいと懇願され、白い雑種の子犬を飼うことになった。体長は三十センチ程のまだ親から引き離すのには、忍びがたいほどの子犬であった。名前をルルと付けてやった。

外で飼うのにはいささか抵抗を覚えて、家の中で飼うことにした。当然油断すると、排泄は家の中でされて随分と閉口した。

それからは、私達夫婦も犬共々学習して、排泄と餌やりは決まったところでするように仕付けた。かなり厳しい飼育をした。それなりに私達飼い主の言う事を理解するようになっていた。

事故はルルを二年程育て、既に成犬となっていた時分に起きた。

当時、私のまわりには飲み友達も多く、ほぼ毎日飲み歩いていた。その日も遅くまで深酒をして帰宅した。突然胃の痛みを覚えて、大騒ぎとなってしまった。初めて胃痙攣を発症してしまったのである。そんな姿を見たルルは、一緒になって泣き叫び、たまらなくなった妻は外へ出してしまった。

私は日頃ルルと共に、およそ六キロ程離れた実家へ散歩がてらに度々連れて行っていた。

実家へ行くのには近道をするために、入ってはならない鉄道の線路に入って行っていた。

途中五十メートル程の長い鉄橋を越えていかなければならなかった。線路をはずれ左側にあ保線区の人達が歩く一メートル程の巾のある板梁の通路が備わっていた。線路の真ん中にも人一人が歩ける五十センチほどのやはり板梁の通路が敷かれていた。滅多のことでは、線路の真ん中に踏み込むことはせず、何時も安全な左側をルルに歩かせていた。ルルもこのルートを良く承知していた筈である。

昨夜は町医者に頼んで処置してもらい、朝には元気を取り戻していた。

夜中に外へ出してしまったルルの姿が見えないのが気掛かりでいた矢先に、四人兄弟の一番下の弟が、何時も高校へ通うにやはり急ぐ時は線路を近道として利用していた。

「鉄橋の上で死んでいるのはルルではないか…」と知らせてくれた。私は支度をするのももどかしく、自宅から三キロ離れた鉄橋に向かった。「どうか、ルルではないように」と祈った。そんな儚い願いも空しく、そこには紛れもない、ルルの姿があった。よりによって線路の中央を歩いていたようである。いつもあんなに用心して左側の安全な場所を教えて歩かせていたのに死体を抱きしめて無念さと哀れさを痛感した。同じに昨夜の自分の醜態を呪った。

私が引き起こした出来事が、可愛がっていたペットの命と引き換えになったことに余りにも哀れで切なく、とめどなく泣けてしまった。

ただ抱き上げたルルの体のどこからも、血の一滴も流れていなかった。

想像妥にすることは、暗闇の中で一心に実家の誰かに知らせようとした焦りが、引き起こしたのではないかと思われる。そこに運悪く列車が近づいて来たのである。おそらく貨物列車ではなかったかと思われる。

線路の真ん中で身をすくめている自分の体の上を、鉄の車輪は鉄の線路を軋めて、轟音となって、絶えまなく恐ろしさが続き、忍耐の限界を遥かに超えてショック死に至らしめられたを考えずにはいられなし。

今ある私の命は、けなげな忠犬ルルにたすけられたと思わずにはいられない。

その後は己の身体の無謀さを諫めて、少し飲酒を控えた。断酒とまではいけなかった。残念無念。勿論丁寧に埋葬してあげた。

今でも白い犬を見ると、ルルを思い出してしまう。もう半世紀前の出来事である。

流石に生き物は金輪際飼わないと心に誓ったものの、性懲りもなく、その後も犬二匹と猫一匹を飼育して全部死なれてしまっている。その度に心優しい我が輩は泣かされた、

ただ、しかしである。我が家には、あっちこっちが痒いと言っては、事有る毎に、文句を言っている、ひとり元気で鎮座ましましているお局さんがいるのである。

この偉い人を先に逝かせる分けには行かない。我が輩は家のことは何にも分かっていないのである。

夫婦共々、元気でもう少し生きていかなければならない。

春を迎えて、つらつらそんなことを思う、今日この頃である。

一年を振り返り


松本教室 松本 四郎

手術前日の夜、病室から最後の留守電メッセージを妻の携帯に入れて自分の声を残し、当日覚悟を決めて手術室に向い、気が付いたら病室でした。あの日から言葉を失い、口パクと筆談と身振り手振りの生活になり、これからどんな人生を送る事になるのかと一人考えておりましたが、女房の強い支えと、家族の優しい気持ちで前向きに進む事が出来る様になりました。約、一ヶ月の入院の間、看護師さんの献身的な仕事に本当に頭が下がります。有難う御座いました。お世話になった事は生涯忘れる事は無いでしょう。この場をお借りして御礼申し上げます。

二月末 声帯を病院に捨てて退院、まだ寒さが残る日々の中、シャバの空気を思い切り楽しみながら誰も居ない散歩道に、あ、い、う。一言、一言の声出しの練習を毎日の日課にして、十日もすると今度は二文字の発音練習に、こつをつかむと三文字五文字とだんだんに話す言葉が増えてきました。やがて北海道から九州までの県名を言えるまでになりました。早く女房 家族と言葉で会話がしたいとの思いに教室に通い、一生懸命に練習をして五月の大型連休には会話が出来る様になりました。良し、やったー。ある晩は、いつの間にか女房と二人で三時間近くも話し込んでしまった事も有りました。まさかこんなに早く言葉で会話が出来る様になるとは思いませんでした。本当に嬉しかったです。この頃教室の西村さん丸山さん小笠原さん同じ病気の仲間とのゴルフを楽しむ迄に復活する事が出来ました。春の山菜採りから秋の茸と紅葉狩り、家庭菜園の草取り、又年間を通じてゴルフにと忙しい日々を送っております。現在は女房と二人 互いの健康を気使いながら生きています。

手術から一年が過ぎ、月一度の検診と毎週木曜日の発声練習で徐々に声が出る様になる皆さんの姿を見ながら後少し、もうチョイだと応援しながら楽しく通っております。又、教室へ来て身体の調子など何時も気に掛けて下さる今野さん、血圧測定など患者生徒の心配をして下さる看護師の渡部さん、有難う御座います。

まだまだ寒さが厳しい中、風邪など引かない様に、皆様方の健康を祈ります。

平成二十九年二月一日 記

妻の入院(続編)


松本教室 大久 保芳郎

前号(信鈴四十二号)で、妻の膝の手術について記載しました。今回は、その後について報告させていただきます。

妻は、一昨年の六月両膝の骨切り術を、そして、その十カ月後の昨年四月、骨切り術時に取り付けた固定器具の除去手術を行いました。この一連の手術で、膝の痛みが無くなる筈でした。ところが、O脚は修正できたのですが、肝心の痛みが取れません。固定器具の除去後、痛みを堪えて半年ほど通院したのですが、一向に改善される気配がありません。

手術した病院には申し訳ないと思いましたが、周囲の勧めもあって、他の何軒かの病院で診てもらいました。その結果、痛みは両膝の軟骨が擦り減っているためで「人工関節手術」以外に方法が無いとの結論に達したのです。最終的に、骨切り術を行った病院とは別の病院で人工関節手術を実施することにしました。

人工関節手術は、生来の膝関節を人工の関節に取り換える手術です。手術前に、筋肉強化のリハビリや手術時の輸血用自己血の採血のため二カ月ほど通院し、昨年十二月入院・手術の運びとなりました。手術は無事終わり、術後三日目からリハビリが始まりました。

膝が痛いと、おのずと歩くこと(運動量)が少なくなります。このため、動かさなかった筋肉は収縮してしまいます。術後のリハビリは、術前に収縮してしまった筋肉を動かす(伸縮させる)作業で、相当の痛みが伴うようです。

妻は「痛い、痛い」と言いながらも、重い体を動かしながら一生懸命リハビリに取り組んでいました。医師の話によると、痛みが消えるまでに術後半年ほどかかるとのことです。それでも、経過は順調で四十七日間の入院生活を終え、今年二月初めに無事退院することができました。現在は、自宅内や近くの道路で、筋肉強化の歩行訓練に精を出しています。

人工関節の素材はチタンだと教えられました。人工関節にすると、正座はできません。また、走ることも困難です。このため、椅子とベッドの生活を余儀なくされます。

床に腰を下ろすと立ち上がることができません。ですから、コタツには椅子に腰かけて入っています。また、入浴時は湯船の中に椅子を入れ、その椅子に腰かけて浴槽に入るといった具合です。身体を沈めてしまうと立ち上がれないのです。

. ついこの間は「トイレにも手摺をつけてほしい」と言われました。便座から立ち上がるのさえ辛いようです。まことに歯がゆい限りですが、これも万やむを得ません。

正座や走ることはできなくても、小旅行ができる程度に回復してくれればと期待をしているところです。

ところで、二度の手術をしたことで、最初に実施した骨切り術が失敗したかのように思われたかもしれませんが、そうではありません。どうも、膝の軟骨の減り具合によって回復程度に違いが生じるようです。軟骨がある程度残っている早い時期に手術すれば、痛みは取れ、O脚も治ります。現に、妻と同時期に骨切り術で手術したご婦人は、今では普通の人と全く変わることなくスタスタ歩いています。どんな病気でも、早いうちに手を打つことが肝要のようです。

以上のように、二人きりの我が家はこの三年間、妻の膝で何かと苦しい思いをさせられましたが、これからはのんびりとした老後を楽しめるようにと、心から願っているところです。

年を重ねるといろいろありますが、何といっても身体が第一です。健康であってこその老後です。

今年の初詣は、お賽銭を少し奮発しました。近いうちに二人で小旅行できることを夢見てのことです。私たちのささやかな願いが必ずや神様に届くことを信じ、一日も早い回復を祈っている昨今です。

妻との別れ


松本教室 山岸 十民男

この信鈴(四十三号)が、発刊される頃には、妻の三回忌(二年)になります。やっと気持ちの整理が出来た様な気がして、一筆書くことにしました。

妻の母も三十年前頃、同じ胃癌で亡くなりました。妻も妻の母も二人とも掛かり付けの開業医に診察を受けていたのに、何を診ていたのか、体調変化で総合病院(安曇野日赤)で診てもらった時には、手遅れだったようで、親子して同じような目に合うとは不思議に思いながら腹立たしく怒りを禁じえません。その母が、我々二人を引き合わせてくれ、夫婦になれたのです。

母の一時帰宅では、我が家で過ごしていただき、再入院からは兄弟姉妹交代で看護をしました。

妻のことを書くつもりが亡き義母のことが先になりました。と言うのは余りにも似たような状況で亡くなったので不思議に思ったからです。妻とは四十六年の長い付き合いでした。これがまだまだ続くと思っていたのに寂しい限りです。

私は家に人を呼ぶのが好きでちょくちょくしてました。が、妻は嫌な顔一つせず素早く料理を作り持て成しをしてくれた、私には過ぎた女房でした。喧嘩もしたけれども九州地方・山陽山陰地方・東北地方・北海道、大体日本全国は旅行をしました。

しかしながら今一番印象に残っているのは、四国八十八霊場・別格二十霊場・信濃三十三観音・恵那三十三観音・秩父三十四霊場・中部四十九薬師などの霊場巡りで、一心不乱に念仏を唱えている姿が思い出されます。私の喉頭手術・肺手術、毎日毎日朝から晩まで、一日も休みなく通ってきてくれました。あの頃は、元気良かったのに、霊場巡りで一生懸命に、願いを込めて、お願いをしていたのは

私の為だったのかなと今は思われます。

人の一生と言うのは、はかないものだと思われますが、まだまだ一緒に居てほしかった。

息子夫婦が同居し孫との四人家族で暮らしていますので、寂しさは幾分免れています。直腸手術の時は、息子の嫁が妻同様に毎日顔を出してもらい、大変に助かりました。結構皆は面倒を見てくれますので、助かっています。

後何年でお迎えが来るかな?元気でいる内は、発声教室に出席して楽しく練習を続けていこうと思っています。

千葉京葉喉友会からのお礼の手紙


千葉京葉喉友会 伊藤 京子

早いもので研修会から一ヶ月経ちましたね。

皆様のご協力のお陰で無事に研修会が終わり、ほっとしています。

またスナップ写真を沢山送っていただき本当にありがとうございます。モデルがいいのか(?)どれも素敵に写っていてうれしいです。さっそく皆様にお配りしました。皆さんとても喜んでいました。本当にありがとうございました。

肺機能リハビリテーション

~人工鼻(HME)について~


株式会社アトスメデイカルジャパン 看護師 坂 由紀

株式会社アトスメデイカルジャパンで勤務しております看護師の坂(さか)由紀と申します。弊社は、咽頭を摘出された方をサポートする製品を製造・販売している医療機器メーカーです。

二〇一六年七月、長野県信鈴会様で講演の機会を頂戴し、多くの方にご参加いただきました。このたび上條会長からの御推薦を受けまして寄稿させて頂くこととなりましたので、是非ご一読いただきご意見をお寄せください。


人工鼻(HME)について

人工鼻は直径3cm、高さ1.5cmほどの丸い形状をしていて、皆様の永久気管孔へ取り付けて使用します。皆様が息を吐くときに息が人工鼻を通りますと、温かさ(熱)と湿り気(水分)が人工鼻にため込まれます。そして皆様が息を吸うときに、今後は逆方向に空気が人工鼻を通りますので、先ほどため込まれた温かさ熱)と湿り気(水分)が加わった空気が皆様の体内に入っていくという仕組みになっています。

この仕組み自体は元々鼻がもっている機能で、なかなか普段は意識されづらいものと思いますが、その機能を補完する役割をもっているため人工鼻と呼ばれています。人工鼻をHMEと呼ぶ理由ですが、それぞれの頭文字をとってHMEと呼んでいます。

H=Heat(加温)、M=Moisture(加湿)、E=Exchanger(交換)


鼻の機能について

鼻の機能は①「加温」、②「加湿」、③異物(ほこり、ちり)が体内に入らないようにする「防塵」。そして④においを感知する「嗅覚」、の四つです。いずれも皆様の健康そして生活の質を保つためには大変重要な機能ですが、喉頭摘出後は、喉元に開いた永久気管孔から呼吸をするため、普段の呼吸で鼻に空気がほとんど通らなくなります。すると、鼻のもつ本来の機能が使われず、失われている状態になります。①~③は普段の生活では意識されずらい機能ですが、気管や肺に痰などの汚れが排出されずに溜まり、咳が増えたり痰が粘度の高いものになてしまうため、症状がひどくなると、肺炎などの合併症を引き起こしかねません。HMEを使い始めると①~③の機能が回復し、一ヶ月前後で痰や咳が減ったと実感される方が多いようです。その他に、気管孔の掃除が楽になる、よく眠れる、息切れが減る、ネブライザー・加湿器の使用が減る、などの声も寄せられています。④の「嗅覚」だけはHMEでの補完ができませんが、実は訓練で改善が可能になります。


肺機能の向上

永久気管孔から呼吸していると、鼻からの抵抗をうけないために肺が膨らみきらず、浅く早い呼吸になりがちです。一方でHMEは適度な呼吸抵抗がありますので、喉頭摘出前に近い呼吸(深く落ち着いた呼吸)への改善が期待されます。


HMEの保険適用について

このたび信州大学附属病院においてHMEの保険適応が認められ、従来の金額の一割(1500円)または3割(4500円)で購入可能になりました(月に一度の外来)。

また、自費負担分の関連製品については「障害者日常生活用具給付」対象として自治体が購入費用を助成している場合があります。


嗅覚訓練について

喉頭摘出前は嗅覚に問題がなかった方が喉頭摘出後に「におい」をかぐことが出来なくなった場合、鼻への空気の流入がほとんど無くなったことが原因です。喉頭摘出後に「におい」をかぐためには意識的に鼻に空気を通すことが必要で、弊社では「上品なあくび」という訓練方法をご紹介しています。唇を閉じたままあくびをする動作に近いのですが、簡単な訓練により身につけることが出来ます。


喉頭摘出後も「人工鼻」と「上品あくび」で鼻の機能を回復させ、喉頭摘出前の生活を取り戻しましょう!HMEについて、その後ご質問や不安に思っていること等がございましたら弊社へお気軽にお問い合わせ下さい。言語聴覚士、看護師がおりますので個別の無料カウンセリングにも対応可能です。

フリーダイヤル:0120・937・432

平成29年刊 第44号

はじめに


長野県信鈴会会長 上條 和男

信鈴会が発足して、今年で四十九年になります。来年は五十年の節目を迎えます。メールやファックスなど無い時代に、声の無い者同士が信鈴会の設立に向けて奔走しました。電話では思いが伝わらないため、電車やバスを乗り継いで直接会って話すことが必要でした。筆談で会話を交わし、「声帯が無くても喋ることが出来るらしい、第二の声を取り戻すための教室を作ろう。」それが始まりでした。声の出ない者にとっては、気の遠くなるほどの粘り強さと根気のいる仕事だったに違いありません。長野日赤病院、信大病院の協力をいただいてもなお、準備の期間が実に六年もの長い年月を要したのです。先輩たちの奮闘する姿が瞼に浮かんでまいります。

会員の皆さんは、現実を直視し、覚悟を決め、体の不自由を受け入れ、積極的に生活しています。生き方として、実に明るく前向きだと思います。皆さんは苦しい体験を味方に出来た方々です。

しかし反対に苦しい経験が人生を後ろ向きにしてしまうのも現実です。声を取り戻すことを諦めて、または止めてしまった人達も大勢いるのです。

食道発声や電気発声は、失敗の繰り返しの中から、僅かな成功例を長い時間をかけて拾い集めた技術です。各教室では、その成功例を示し教習していますが、自力での習得は非常に難しい面があります。

県内には八百人以上の喉頭摘出者がいると聞いています。信鈴会の会員は現在百人余りです。前述のとおり、独力での声の再生は困難を極めますので、会員以外の七百人余りの人達が声を失ったままではないかと考えられます。

いろいろな事情で入会出来なかったり、入会しなかった人達は、会話の出来ない不便さや精神的なダメージを感じているに違いありません。家庭内でも孤立し易く、コミュニケーション力の弱い人達に、如何に情報を伝えて行くべきか。電気発声機の目覚ましい改良、人工鼻の登場、行政による支援制度の充実などの新しい情報が、信鈴会の存在を知っているかを含め、未加入の人達やそのご家族に届いていることを願うばかりです。

信鈴会は半世紀に及ぶ活動を続けてまいりました。これからも世間や福祉社会からの信頼と期待に応えていかなければなりません。この活動を継続していくためには、会員一人ひとりの前向きな志が不可欠です。そして、医療機関や行政機関の更なるご支援・ご指導を切にお願い申し上げる次第です。

                             平成三十年 春

共に生きる長野県を目指して


長野県健康福祉部障がい者支援課長 守屋 正造

貴会におかれましては、日頃から障がい福祉行政の推進に御理解と御協力をいただき、心よりお礼申し上げます。

また貴会の御協力により実施している発声訓練事業につきましては、関係各位の御尽力により県内各地において熱心に発声教室を開催していただき、重ねて感謝申し上げます。


人生の途中で突然、病気等により喉頭を摘出し、声を失い、それまでの生活が変わってしまうことで、自信をなくしてしまう多くの音声機能障がい者の方々に対し、貴会は心強い存在であり、また貴会の実施している発声訓練教室は、音声の獲得に加え、声の再生により希望を与え、社会参加を促す大変意義のあるものであります。


県では平成三十年度から六年間の障がい者施策を定めた「長野県障害者プラン2018」を策定し、障がいのある人もない人も、地域社会の一員として学びを通じてお互いの理解を深め、自治の力を活かして支え合うことで、誰もが人格と個性を尊重され「居場所と出番」のある「共に生きる長野県」を目指すこととしております。


共に生きる社会の実現には、行政だけでなく、個人や家族、地域社会において、お互いに理解を深め、交流を図ることで、誰もが地域で安心して暮らせるようにしていくことが大切と考えております。その意味でも、貴会の様々な活動は、会員の皆様相互の交流や支え合い、それぞれの地域における障がいに対する理解の促進などにつながるものとして大変意義深いものであります。

今後も引き続き、本県の障がい福祉の向上にお力添えを賜りますようお願い申し上げます。


最後に、貴会の益々の御発展と、会員の皆様の御健勝を心から御祈念申し上げます。

健康保持のための食事を考えましょう

(その三:蛋白質)


信州大学名誉教授 田口 喜一郎

さて食事の三大栄養素の一つ、蛋白質について考えてみましょう。蛋白質はアミノ酸から構成されており、アミノ酸は二十種類あるが、アミノ酸だけからなる単純蛋白質とリン酸・核酸・脂質・糖・金属を含む複合蛋白質とがあり、筋肉をはじめ体の大部分を構成する重要な成分であり、生体の化学反応の触媒・ホルモン・免疫・抗体などを構成する。一般に高齢者は蛋白質の摂取量が少な過ぎる傾向があるので、食事の中で占める蛋白質の割合に注目する必要がある。昨年七月百五歳で亡くなられた国際聖路加病院名誉院長の日野原重明先生は、特に蛋白質に留意され、週二回はステーキを摂って居られた由である。先生が食事内容に留意されておられたことが、晩年までお元気で活躍された大きな要因の一つであったことは間違いない。私が七年前に東京で日野原先生とある会で同席した際に、たまたま同じテーブルについて食事する機会があったが、先生はよく話しをされながら、蛋白質中心の食事を楽しんでおられ、またその声量の大きさに驚かされました。先生はその時満百十歳までの海外講演の予定を持っておられると言っておられ、その時は本当にその可能性を信じて疑わなかったほどお元気でした。当時先生が、朝日新聞に「百歳の証あるがまま行く」という題で連載を掲載しておられたのですが、その中で先生の日常の食事のことを書いておられますので、ご参考までにそれを引用してみます。

(日野原重明先生の百歳頃の食事内容(朝日新聞平成二十三年八月四日朝刊))

朝食:

・琳ジュースにオリーブ油をテーブルスプーン一杯を加えたもの

・牛乳一カップ+レシチン顆粒(大豆)ティースプーン一杯

・バナナ一本

注:大豆レシチンは「脳活性効果」があるとされています。

昼食:

・クッキー二〜三個+牛乳一パック

朝食と昼食で合計約四百キロカロリーと計算されています。

夕食:

・多量の生野菜(ブロッコリーを三〜四片)

・魚料理(週二回はヒレ肉九十グラム)

・ご飯は女性用お茶の茶碗に半杯

(夕食は約八百キロカロリー)

 私の妻の母親は、満百歳を迎え、大変元気で、現在老健施設に入所しておりますが、日常の食事の量は日野原先生の半分程度。特に魚や肉類は好まず、そのためか過去に大腿骨頸部骨折を二回起こしており、最近は少しずつ痩せる傾向があるために、ゆで卵などを食べさせるように持ち込んでおり、今のところげんきでおります。近年の研究では、高齢者の健康度が筋肉量に関与しており、筋肉の減少は生命力の低下の指標であるとする研究結果が発表されております。筋肉量は日常の運動量にも関与しますが、栄養摂取時に蛋白質の摂取に関係することも事実であり、中にはサプリメントの服用が必要であるという研究論文も見られます。質の良い蛋白質をある程度摂ることが必要で、日本人には豆腐のような食物も蛋白質源として日常摂取することは大変効果的と思われます。その他牛乳やチーズといったものを一緒に食べることは望ましいことです。

 何よりいろいろな食品を適量摂取するとともに、身体を動かすことが健康保持の基本であることは論を待たない真実でありましょう。皆様が食べて動いて「より良い人生を楽しんで頂ける」ことを心より切望しております。

がん診療における告知について


信大附属病院耳鼻咽喉科 岩佐 洋一郎 安川 梨香

・がんの統計情報

厚生労働省の「最近のがんに関する統計データ」によれば、疾病による死因のトップが「がん」で28%強の比率を占める。また一生のうち「がん」と診断される人は、男性が二人に一人、女性で三人に一人。

一方全がんに占める頭頸部がんの比率は5%(喉頭癌3%下咽頭癌1%中咽頭癌1%)とそれほど多くはない。患者数で言うと喉頭癌は10万人あたり3人くらい。

・がん告知の昔と今

以前は、患者にがんであることを知らせるべきではないという考え方が一般的であった。がんが不治の病であり、それを告知することは患者にとって精神的ダメージが大きいからというのが理由である。患者には別の病名(例えば肺炎)を告げ、家族には真実を伝えるなどのケースもあった。

しかし、医療の進歩により必ずしもがんが不治の病ではなくなった現在、患者と医師のフランクな関係を築き、家族とともにがんと闘う状態を構築する為にも告知することが一般的になっている。

一九九六年と五年後の二〇〇一年で肺がん患者の病名告知に対する意識がどのように変わったのかという調査では、

「病状を詳細に知りたい」という回答が46%から70%へ、「本当の病名を知りたい」が66%から90%以上へと増加している。

とは言え、例えば日本人の場合20%のがん患者が余命を知りたくないと思っているなどすべての患者がすべての情報を知りたいと考えているわけではないので、医療現場においては「患者自身が自分の病状についてなんとなく察しているだろう」と考えて診療にあたるケースが多い。

・告知後の患者の心情変化

第1層:初期反応期(告知から一週間)患者が告知内容を信じようとしない、否認する。(告知日に説明された内容を理解できていない事もあるので注意が必要。)

第2層:苦悩・不安の時期(一週間〜二週間)苦悩、不安、抑うつ、不眠、集中力低下などの症状が現れる時期。

第3層:適応の時期(二週間〜三ヶ月)適応の時期。現実に対峙し新しい事態に適応していく時期。ショックの程度や立ち直りに要する時間は個人差があり病状によっても異なる。早期がんだったから早く立ち直るというものでもない。頭頸部がん患者ではうつの割合が高いと言われているが、これは治療後の容貌の変化、失声、嗅覚低下、飲み込みにくさなど日常生活に直結する症状が出てくるためためと思われる。

・どのように告知を行うか?

患者にがん告知を行うには、「告げ方」と「告げた後のフォロー」の技術が必要であり、これを学ぶことなく患者にがん告知することは、メスやハサミの使い方、術後管理を知らない医師が手術の執刀医になるのと同じである、とまで言われるほど重要である。

がん告知に当たっていつも以下のような事を思っている。

 ・悪い知らせを伝えなければいけないのは気が重い

 ・少ない時間の中で必要な情報を解ってもらえるように伝えられるだろうか

コミュニケーションにおいて、話し手が相手に与える影響を要素に分けると、表情・姿勢・身振りなどと声の調子を合わせた非言語コミュニケーション要素が90%以上を占め、言語が占める割合は7%と低い。これは医療の現場においても同様であり患者と思いを共有する姿勢が必要。

国立がんセンター東病院がまとめた「悪い事を知らせるためのマニュアル」によれば

起:面談事前準備と面談開始

プライバシーが保てる場所と十分な時間を確保し身だしなみや時間遵守など基本的態度に留意。いきなり告知に入るのではなく気持ちを和らげるような言葉をかけ、これまでの経過を振り返り病気の認識を確認する。

承:悪い知らせを伝える

患者が心の準備ができるような言葉をかけてから解りやすく明確に伝える。途中、患者の理解度を確かめながら、区切りにおいては質問が無いか確認しながら話を進める。がんであるという事ははっきり言う。途中「沈黙の時間」がある場合も、あえて話をせず患者の気持ちの整理を待つ。

転:治療を含め今後のことについて話し合う

今後の治療方針を伝える。「治ることが難しい場合」でも、できる事をしっかり伝える。

結:面談をまとめる

要点をまとめてレビューする。確実に伝えるため説明に用いた紙を渡す。責任をもって診療に当たり患者を支えることを伝えて終わる。

・告知の際に受ける具体的な質問例

「余命は?」余命の定義は生存期間中央値(百人いたら五十番目の人の生存期間)であるが、実際にはケースにより大きく異なり正確な予測は困難。医師の余命予測は70%外れると言われている。

「自分のがんは治るのか?」治療内容、持病、年齢等で異なるため、一般的には五年生存率で答えている。

・まとめ

正確な病状を伝えることが基本である。

自分としては、「正確な知識」を持って、「十分な時間をとって」、「誠実に」伝えることを心がけている。

平成二十九年八月十二日

人工鼻のアンケート結果


信大附属病院耳鼻咽喉科 岩佐 洋一郎

・咽頭摘出等によって永久気管孔になった場合、咳がひどくなったり痰の量が増えるといったデメリットが出てくる。これは永久気管孔から直接呼吸をするときには加温加湿されない外気を直接吸い込むことによる。

一般的に使われているエプロン(プロテクター)によってもある程度の加温加湿はされるが、人工鼻(HME)の実際の効果や使用感について使用者のアンケート調査を行った。

アンケートは信鈴会会員二十四人に回答してもらった。十四人が人工鼻使用者十人が人工鼻不使用者である。アンケートは二枚構成で一枚目は二十四人全員に、二枚目は使用者十四人を対象とし、率直な意見をいただくため無記名で行った。

アンケートの内容は、咳の頻度や程度・痰の量などについて十段階で回答してもらう形式である。全体として全項目において人工鼻(HME)使用の効果が認められる結果となった。

具体的な効果の代表的なものとして以下のような回答が見られた。

・咳き込む頻度が減った。(五人)

・痰の量が減った。(九人)

・強い咳き込みが減った。(六人)

・血混じりの痰が出る頻度が減った。(八人)

また、使用するHMEカセットはフィルターメッシュが粗いエクストラフロータイプの使用者が多く、装着時間についてはほとんど一日着けているという回答が十一人と多かった。

以上が信鈴会会員のアンケート調査結果であるが、人工鼻の販売会社による国外での調査結果とほぼ同じ傾向であった。

今回自由意見として以下のような回答があり、全体的には良好な意見が多く人工鼻(HME)の使用は効果があることが解った。

一方ネガティブな項目もあり、今後も実使用した場合の情報をいただきながら状況を見守っていきたい。

・シャワーがしやすい、肩まで湯に浸かれる等入浴面でのメリット

・カセットに痰が付着し目詰まりする、ベースの接着に関してかぶれ等の皮膚トラブルといったデメリット            以上

平成二十九年十二月十六日

新入会員に対するオリエンテーション


公益社団法人 銀鈴会 秋元 洋一

信鈴会上條会長の要請により本日参上しました。このような場を作っていただきありがたく思います。

本日お配りした資料に沿って話を進めてまいります。

日喉連全体の重要な課題として新入会員の減少があげられます。このような状況の中で喉頭摘出前から、術後の社会復帰を支援してくれる会があるんだということを知っていただくことが大切です。

日喉連摘出者の喉摘後の生活の質向上を支援するための大変重要な会(集まり)であり、手術後喋れない事で外にも出られない状況に陥りがちな新入会員が再び社会に戻れるように支援する大切な役割を担っていると思います。

まず手術前ですが、患者さんは手術で喉頭を摘出する必要がある事を告知され、不安に陥り、何とか手術しないで(声を失わないで)済む方法について自分でいろいろ調べたり、別の医療機関にセカンドオピニオンを聞きにいったりします。

このような状況の中で、同じ病で声を失った仲間がいる、喉頭を摘出した後でも再び話すことができるようになる、支えてくれる喉摘会があるということを手術前の患者さんに対しては、このような役割を持っています。このためには、病院(医療機関)と喉摘会が日ごろから連携をとっておく必要があると思います。

例えば、東京在住の喉摘者で銀鈴会の存在を知らなかったために術後ずっと筆談ですごし、十三年目に初めてご家族の方から問い合わせがあると言うようなこともありました。

このように、喉摘会の存在を広く知っていただくための活動は大切だと思います。信鈴会においてもこれから喉摘手術を受けるという人たちのために、会の存在を知ってもらうようリーフレットを作って長野県域で医療機関を通じた広報をされたということをお聞きしておりますがこういったことが大変重要であると思います。

また、日喉連では喉摘者に向けた新たにDVDを千枚作成し全国の医療機関や喉摘会に提供しました。このDVDを患者さんに情報提供するツールとして活用していただきたいと思います。

術後に喉摘会を見学に訪れ入会された会員には、食道発声やELによる代用音声獲得の支援を行い、社会復帰をサポートする二つ目の役割もあります。

入会され最初に会でおいでになったときにオリエンテーションを行うわけですが、内容的にはお配りした資料に記載のとおりですが、一番大切なことは説明を担当する人を決めておき、できれば二人で説明をするということです。これはどの新入会員に対しても統一した内容を説明する必要があるからです。銀鈴会では、会長/副会長、その他選任された人がこれを担当することになっています。

最後に最近の喉摘会を取り巻く環境の変化についてですが、喉摘会への新規入会者数が減少しています。例えば、銀鈴会の新入会員数は平成十四年度は二百人以上でしたが平成二十八年度は八十人程度であり新規会員数の減少は顕著です。

患者数はそれほど減少しているわけではなく、喉摘者が半減しているという状況です。この理由は、医学の進歩や医療環境変化にあるようです。検診が充実したことで早期発見が可能になり、放射線や化学療法を組み合わせることで部分切除にとどめ、発声機能を温存することが可能になってきたということでしょうか。

また、現在の銀鈴会の会員の代用音声別比率ですが、食道発声80%EL15%シャント5%です。昔使う人が結構いらっしゃったタピア式はほとんどいらっしゃらないと言ったように、代用音声の方法も時代とともに変わってきています。早期に話せるようになるEL法は増加傾向にありますし、若い人にはシャント法を薦めたりといった変化です。我々指導員も食道発声だけでなくELやシャント発声法についても勉強し対応して行く必要も出てきております。

                   以上

古里小谷村


信鈴会相談役 今野 弘恵

「白馬近き谷あいに、流れる水は清くして、その名やさしき姫川の、岸辺にそえるわが故郷は、うるわしきかな小谷村」

昭和十九年 作詞曲 田中庄左衛門

 

昔の恩師田中先生、私は悲しいとき、うれしいとき、この歌を口ずさんでいる。生まれ育った我が家は小谷駅の近く姫川の川沿いに学校、役場、郵便局も近く、小谷のなかでは銀座通り。

 

夏は姫川でメダカをすくったりカジカをとったり水泳をしたり、仲好三人組といつも一緒…。

鉄道列車は中土駅止まり。冬は県道には車が通らず二メートル、三メートルの積雪。道路の高さは二階の窓と同じくらい。玄関へ入るには雪で段々はしごをつくって入る。一階の窓の外には陽が差し込めるように雪よけ支え棒がしてあった。屋根雪は何度も落とさなければ家がつぶれる。大人たちは早朝から道路の雪かき。カンジキでふみしめ道路を作ってくれた。裏庭には屋根雪のおかげでスキー場が出来、子どもの頃はソリにのって遊んだ。学校の行き帰り必ず友達と一緒。転倒しないように声かけ、たすけ合って…。

厳しい環境の中で育った為か自分なりに我慢、忍耐、少しでも前へ、前へ、と考えられるようになったかな?と思っています。


小谷の友達、とくに仲好三人組とは強い絆でむすばれている。

私は小谷が大好き…。

小谷に生まれた事を幸せに思っている。

思い出あれこれ


信鈴会相談役 今野 弘恵

松本教室設置から五十四年、忘れもしない昭和三十八年、私の長男が生まれた年。

患者さんとの心に残る思い出は数々、今迄も何度も会報信鈴に載せた。

今日は昭和五十一年十二月入院の小林五月さんの事にふれてみたい。

医師に喉頭摘出をすすめられ、手術の日も近づいた夜の事でした。

夜勤のNSが病室を見回り小林さんがベッドに見えない?トイレに行った様子もない?私はその日は研修会があり病棟へ戻ったのが夜八時、消灯時間も近くNSから小林さんが見えない事を聞いて、おそい時間に院内散歩?そんな事はない?私はあちこち廻って探した七階の廊下階段で小林さんの姿をみてホットして…どうしたの?消灯時間だからお部屋に戻りましょう。

私の顔を見るなり小林さんは涙ぐんで…手術をやれば声が出なくなる、声がなくなれば歌も歌えない、話しもできない、生きていても仕方ない…思いつめ七階の窓から飛びおりよう…小林さんは切羽詰まり、悩み苦しみ、私に寄りかかって泣いた。私も一緒に泣いた。

小林さん苦しいね、悲しいね。

でもがんばって手術を受けて下さい。

声は出なくなるけど自分の努力で第二の声を出す事が出来る、お話も出来るようになる、発声教室の事を伝えた。


小林さんは苦しい過程を乗り越え手術を受けた。術後は順調に快復…退院後も時々手紙を下さった。


昭和五十六年佐久教室が開設されてからは三瓶さんたちといっしょに電気式人工喉頭を使用しながら訓練。明るく元気に過ごしていた。しかし数年前から便りもなく佐久教室へも顔を見せなくなったと三瓶さんより伺った。

一昨年五月中旬思い切って次男の車で小林さんを(小諸市柏木)訪ねた。小林さんはベッドの上で横になり思いがけない私の顔を見て泣いた。元気を出してね。励まし別れを告げた。

昨年(平成二十九年十二月)ご家族より穏やかに眠るように旅立ちました…と知らせがありました。小林さんさようなら。良くがんばったね。やすらかにお眠りください。

心の中で手を合わせた。

宇佐美真一教授には常に発声教室をあたたかく見守り援助していただき、医局の先生、看護師の皆さん共々同様力を与えて下さり心から御礼申し上げております。

信鈴会の皆様との関わりと病棟の看護


信大附属病院東2階病棟看護師 青木 悠有

会誌「信鈴」の発刊おめでとうございます。

東2階病棟に異動して七年の月日が経過しました。その間に何度も、教室や新年会、勉強会などでご一緒させていただき、皆様の人生に少しでも関わらせて頂くことが出来ました。特に新年会では、病棟では見ることの出来ない、社会生活を送っている普段の皆様と関わらせて頂くため、初めて参加させて頂いた時には衝撃でした。病院ではお酒が出ないのが大きな違いの一つだと理解できたのもこの会に参加したからだと思います。

松本教室の活動日である木曜の勤務の日には、出来るだけ教室の前を通る仕事を探し、無くても作り、皆様の元気な姿を拝見することで、私自身も大きな力を皆様から頂いております。退院後の皆様の、非常に活動的で元気な姿を拝見すると、病棟で過ごす数か月は、皆様の人生においてほんの一時であり、しかし、非常に大きな決断と重要な節目に関わらせて頂いているという事を、年々深く考える事が出来るようになってきました。

病棟看護師の役割として、喉頭を摘出する患者様に何が出来るのか、重要であると思っている事があります。それは、声の喪失を経験される方々に対して、社会的に孤立させないようにするにはどのような役割を担えば良いのかという事です。声の喪失があっても、取り戻す手段があり、社会復帰を目指す事が出来る事を知っていただく事が重要であると考えます。そのために、病棟看護師としては、患者様の入院中から信鈴会の活動を知っていただき、社会にこのように復帰していくんだという事を伝え広げていくことが重要であると考えています。その他にも、信鈴会に参加して頂くにはどのようなアプローチ方法が有効であるのか、その模索を今後も続けていきたいと思っております。

上條会長の「声出して笑う練習をする」という言葉が胸に残っております。私の笑い声は上品でも美しくもないですが、喉頭摘出の手術を受けた患者様の、すぐには出せない笑い声を、少しでも代わりに出し、共に笑って生きていく看護師でありたいと思っております。

結びに、私事ではございますが、二年間頭頸部癌の勉強のため信大病院を離れる事になりました。そこで看護の質を高める勉強をしながら、信鈴会のような会と病院がどのように関わっているか学び、戻ってきた時に信州の地に還元できるよう励んでくる所存です。

二年後、皆様と再会できることを楽しみにしております。

信鈴会の皆様へ


信大附属病院耳鼻いんこう科外来看護師 渡部 茂世

会誌「信鈴」の発刊おめでとうございます。

先に行われた平昌オリンピックの日本選手団の活躍に、日本中がテレビの前に釘付けとなり、エールを送り歓喜に沸いたのは記憶に新しい出来事です。先日、参加させて頂いた新年会でも、諏訪教室の守屋さんの一声で、スピードスケートの小平奈緒選手へ参加者みんなでエールを送りました。無事、金メダル獲得出来たのも、本人の実力はもちろん、皆さんの声が届いたのだと信じています。

信鈴会の皆さんも、選手達の活躍に興奮し、一喜一憂したのではないでしょうか。そんな時、声を出し応援したいと思った方も多いと思います。喉頭摘出後は、失った声を取り戻すため、日々努力を重ね闘っておられます。思う様に発声出来ず、辛い時期を乗り越えなければなりません。しかし、平昌オリンピックでの選手達の活躍を目にし、「努力は報われる!」と言うことを実感しました。皆さんの努力している姿やご家族の支えている姿を、私は知っています。だから、いつか必ず獲得出来る声を目指し、諦めずに金メダル(声)を取って欲しいと願っています。

普段は松本教室に参加させて頂いていますが、年に何回かお会い出来る他の教室の方々にも声をかけて頂き、本当に楽しく学びの多い時間でした。

毎年、カラオケで一緒に「ふるさと」を歌わせて頂いた長野教室の山岸さん。一年に一度位しかお会いできませんでしたが、先日お会いして、会話がスムーズで、言葉がはっきり聞こえてきた事覚えています。諏訪教室の守屋さん、一緒にゴルフに行けなかったのが残念です。松本教室の御子柴さん、食道発声を頑張っておられましたが、ELでの発声に驚かされました。松本教室の黒田さん、今までの経過をずっと記録しておられ、感心したのを覚えています。黒田さんの「あ」の発声が聞けて良かったです。他にも、たくさんの出来事があり、書き切れず残念です。たくさんの皆様の変化を目にする事が出来、本当に嬉しかったです。

新年会での上條会長さんの言葉が印象的でした。

「喉摘すると笑えなくなる。家族は、笑い声を一番待っている!」

私も、皆さんと大声で笑える日を楽しみにしています。

私事ではありますが、この四月から異動が決まりました。信鈴会の皆さんには本当にお世話になり感謝しています。もっともっと、皆さんと一緒に過ごしたかったのですが、とても寂しいのです。今後も、ずっと皆さんにエールを送りたいと思っています。頑張って下さい。

追伸、今野先生に教えて頂いている「生け花」。だめだしも多くありますが、着実に進歩しています。その成果を、皆さんにお見せ出来ないのは残念ですが、これについては、またの機会に…。

長い間、ありがとうございました。

信鈴会の活動に寄せて


信大附属病院耳鼻いんこう科外来看護師 大和 由紀

会誌「信鈴」の発刊おめでとうございます。

今年の冬は、韓国での平昌オリンピックが開催され、日本は過去最高の十三個のメダルを獲得し、大いに盛り上がりました。メダリストの中には、多くの長野県関係者がおり、二十年前にオリンピックを経験した者として、とても親近感が湧く大会であったような気がします。

さて私は十二月十六日に開催された松本教室の発表会に、初めて参加させていただきました。とても緊張する会ではありましたが、皆さまの明るく、温かく、そして一生懸命な姿に接し、「あっ」という間の時間を過ごさせていただきました。

一度声をなくし、そこから新たな声を出すことは、並大抵の努力ではないと思います。発声練習を繰り返し、少しずつ声を出せるようになっている皆さまの前向きな姿に、私は大きな感動も覚えました。

また、自分のためだけでなく、大切な家族や支えてくれている周りの人たちのため、ひたむきに頑張る姿には、人としての素晴らしさも垣間見ることができました。そして、皆さまを心から応援されているご家族の温かさにも、たくさん触れさせていただきました。

今回の発表会では、会に関わる皆さまの温かさに数多く触れられただけでなく、日常生活で困っていることを具体的に聞かせていただき、色々と考える機会になりました、

私は現在、外来で勤務しています。その中で、これから皆さまが歩んできた道と同じような道を歩む方と、お行き会いすることもあると思います。その時は、皆さまから学ばせていただいたことを生かし、適切なご案内ができるよう、日々努力していきたいと思います。

結びに、これからの信鈴会のますますのご発展とご活躍をご祈念申し上げますとともに、皆さまとまたお会いできる日を、今から楽しみにしております。

一回りの散歩


長野教室 松山 滋

これから温かい陽気になると「善光寺さん一回りしてくるよ」と、家内に告げ散歩に出かける。早朝は気持が良いものである。

日本仏教の源として古くから宗派の別なく参拝できる極楽浄土の門として親しまれている善光寺は、不思議と素朴であたたかい。

人はよく善光寺のお膝元に住み、何時もお参り出来ることは、幸せなことであると言っていた。

温かい日差しを受けてお参りする春の善光寺、夏祭りが行われる頃の暑い日の善光寺、そして涼しい風を受けながら色付いた木々の中でお参りする善光寺。やがて木枯らしが吹き一面の白い雪におおわれた冬の善光寺参り。いつも変わりなく迎えてくれた善光寺は、心のなかでは善光寺さんと呼びかけられる身近な存在でもある。

早朝本堂に出仕される時とお下がりの時のお上人様からお数珠をいただけた時には何とも言えない有りがたい思いになります。

今でも仏縁を深めようと列をつくりお数珠をいただく姿は続いています。一日一回のみ仏の前で手を合わせ自らかえりみる生活こそ、今の時代に大切なことかと思うこのごろである。

まずは健康で人生やれることにありがたく感謝いたしております。

後期高齢者の仲間入り


長野教室 山岸 國廣

今年の一月七十五歳となり後期高齢者の仲間入りをしました。喉摘手術から七年目を迎えます。

昨年は区切りよく市主催の金婚式によばれ祝っていただくことが出来ました。今後は認知症予防に努めながら、教養(今日の用事を作り)を高め教育(今日行く所を作り)に励みたいと思います。

孫には、幸い内孫二人外孫六人にめぐまれ、すでに上二人は成人し社会人です。内孫の上の子は昨年から地元チビッコ野球に加入し、三年生でレギュラー入りし張り切っています。予選リーグ戦は毎回かけつけ、出ない声をふりしぼって応援しています。(大きい声が出ないのが残念)今年は既に二月からトレーニング開始。一層の活躍を期待しています。

これからもわずかなリンゴ、桃栽培と月一〜二回のゴルフを体調と相談しながら、スコアにこだわらず楽しみたいと思います。もちろん週一の発声教室で仲間の皆さんと成長を実感し合えるよう頑張りたいと思います。

人工鼻使用の感想


長野教室 三浦 邦彦

二〇一六年七月、長野県信鈴会で株式会社アトスメディカルジャパンの看護師の坂様から、人工鼻についての講演、そしてアドヒーシブとHMEの永久気管孔への貼り付けを拝見してサンプルを頂きましたが、使用することもなく過ぎました。

その後信鈴会の会議で人工鼻使用中の理事、そして訓練士の方にも話を聞き、とても良いとの事でしたが、それでも直ぐに試す気になれませんでした。

二〇一七年七月、長野教室で坂様が再び講演、そしてアドヒーシブとHMEを永久気管孔へ簡単に貼り付けていただきました。十年も首を絞めていましたので、大変すっきり楽になりましたのが第一印象でした。

一年間、大事に保管していましたサンプルと、今回あらたにサンプルバックを頂きましたので、翌日から貼り付けますと上手くいきました。

県市町村への陳情に際しましては、特に会長上條和男様、理事大久保芳郎様、理事山岸十民男様の皆さまには大変ご尽力いただきまして、誠に有難く存じました。

私の住んでいる市にも陳情していただきましたので、早く助成実施される様になってほしいものです。

○ 利点 サンプルバック付属の携帯ケースを持って四日間旅行に行った時、また入院した時はプロテクターを自分で洗濯しなくて大変助かりました。冠婚葬祭でネクタイをする時首回りがスッキリし、痰を拭くときネクタイを外さなくても出来ました。寝る時首を締めつけられる事も無く大変楽です。入浴中シャワーエイドを使用する事により、頭から存分にシャワーを浴びても水滴が永久気管孔に入りませんので、爽快感を味わうことができました。

○ 問題点 痰が多いので中まで良く拭けず、底に溜まってしまいますので、吸引器がほしいです。

これはあくまでもサンプルバックを一時使用した私の感想でありますので、ご了解頂きたく存じます。

訓練士として


諏訪教室 守屋 一次

平成五年九月、無事手術が終わり声を失った。その年の十二月、教室を見学。五、六名で練習を。一人が本を読み、皆が声を出す。テーブルにはコップが。少し声を出すとコップを口へ。そんな様子を見ながら、看護師の説明とスケジュールを聞き、食道発声訓練を開始しました。

三ヶ月四ヶ月、お茶飲んでゲー、お茶飲んでゲー。進展がないまま帰りの車で運転中、驚くほどに長いゲップ、ゲップ。これだ。吸ってゲップ、吸ってゲップ。吸って「あ」吸って「い」吸って「う」。訓練、訓練、訓練。平成十年、信鈴会のスピーチコンテストに出場。皆さんの前で食道発声が、自分の言葉で伝わる。感激と、今まで指導や世話になった方々への感謝で胸が熱くなりました。入会する皆さんに少しでもお役にたてればと、現在まで二十数年訓練士として、多くの会員に指導をしてきましたが、手術年齢が上がり、教室への参加者が減少傾向にあります。在宅での発声練習のヒントになることを願い、文字にして見ました。参考にして下さい。


《食道発声法の基本練習》

食道発声とは、食道の途中に空気を入れ、口から出る空気で音を作り、声にする事です。

食事のあとゲップが出ることがありますよね。そのゲップが食道発声の原語です。

では、食道に空気を溜めるには、どうすればよいか説明します。誰でもご存知のラジオ体操です。腕を前から上げて背伸びの運動。この動作の中には必ず深呼吸をしますね。口、鼻から空気を吸います。気管口で吸った空気は肺へ、口、鼻で吸った空気は食道へ。その空気をゲップにして出すと原音となるのです。

口を開け深呼吸する時、舌の付け根を下げると食道の入り口が開き、空気が入りやすくなります。ゲップをするには舌の付け根を上げ、入った空気を口から、両手でお腹を押すタイミングでゲーと出す。この一連の動作を覚えることが食道発声練習の基本となります。

焦らず、急がず。無いものは求めず、有るものを活かす。_頑張れば夢は叶う_を励みに!

我が人生雑感


諏訪教室 中野 安幸

妻が突然逝ってこの三月で四年が過ぎた。月日の経つのは早いものだ。

ようやく寡夫(やもめ)の生活にも慣れ、独身時代の気分を味わっている近頃である。

ただしこの状態になるのに長い時間がかかったが……というのは、失意のどん底にいた一〜二年間を支えてくれたのは、生涯のスポーツとして取り組んでいるマレットゴルフでした。毎日毎日夜明けを待ってマレット場に出かけコースを廻りました。この二〜三時間はマレットで頭がいっぱいです。少なくてもこのマレットの三時間は、悲しみや寂しさを忘れられる訳です。毎日マレットに取り付かれたようにやっている私を見て「マレット気ちがい」という人も現れ、苦笑してしまいました。

そんなこんなでようやく心身ともに立ち直ったこの頃です。マレットゴルフに対する考え方が、以前は大会で上位入賞をめざし、ガツガツしていたが、最近は、楽しんでやろう、気楽にやろう、成績は気にしないというように変わってきたのである。

このことは、深い悲しみや寂しさを乗り越えてきた結果、気持ちが変わったのではないかと思う。今後は足・腰が動くかぎりマレットゴルフを楽しみ元気よく余生を送りたいと思います。

二十九年度 伊那・飯田教室活動報告


飯田教室 花田 平八郎

きびしい冬もやっと過ぎ、いくらか春の陽気になりました。南信のこの地方も今年の冬は毎朝零下5℃の連続でしたから、中信北信の皆様は大変だったと推察いたしました。

伊那教室の小池さんも飯田教室へ来て下さり、皆と楽しく指導して下さりよかったと思っております。本年は、新加入の方三名で、一名の方は遠方へ移動しました。

新人の皆さんは、食道発声よりEL発声の方が取扱いがよい様で、ELを習っております。最近は、インフルエンザの流行と、個人情報の公開きびしく、病室の出入は遠ざかっています。

教室以外の行事では、五月十一日、花桃見物に阿智村へドライブに行きました。

十一月二十三日は忘年会を兼ねて飯田市の松乃木鮨本店で会食し、好天気に恵まれ楽しい一時を過ごしました。一月二十日、市内、砂払温泉で新年会を、皆元気で祝いました。この日だけは、冬の好天気に恵まれ助かりました。

新年度は、信鈴会創立五〇周年の記念式典があり、様々な行事が展開されますので、会長さんはじめ会員一同忙しい年になると思います。教室の皆様一同、健康に留意して、新年度を頑張りたいと願っています。

喫煙者の宿命


飯田教室 木下 實

病も心の投影であるとは少々酷すぎる言葉ですが、私の心当たりは、タバコの喫煙を止めよと皆んなから注意されているうちが華であったと、今さら反省もあるまいに、禁煙から逃げようとする心、その私の心の弱さが災いを呼び込んだのではないか、それが衆生凡人の心の弱さの悲しさであり、天罰が下ったのだ。一昨年、頭頸部の癌により、喉頭摘出手術を飯田市立病院の塚本先生はじめ、看護師の皆さんに大変お世話になりました。

自声を失ったときの、喪失感は壮絶なもので、これで私の人生も終焉かと思いました。会話のない世界とは、こんなに不都合な狭い世界かと、一時は人間の忌避、喜怒哀楽を、そのまま人に伝えることの出来ぬ煩わしさに、自暴自棄に陥った事もありました。

発声教室に入会出来ました事は、入院中より種々心配し、励まして下さった花田平八郎御夫妻の温かい進めのおかげにより、世のなかそう心配したことはなく、多くの仲間の励ましにより、元気付けられました。

昨今は電気式発声機の助けを借り、どうにか一人前の会話もまがりなりにも可能となり、電話の応答も時には少々出来るようになり、今日に至っております。

この間多くの方々のご支援や励まし、又、家族全員の温かい援助の上に、日々元気を取り戻し、生活しております。

飯田教室で感じたこと


伊那教室 小池 弘光

諸般の状勢によって、伊那教室を休講して、私一人、新年度四月から、飯田教室にお世話になって居ます。

人間誰でも、場所など、周囲の環境が変わったり、会員同志であっても教室が変わると緊張する、固くなる。そんなことを改めて体験して居る状況です。

県南の飯田・下伊那地区内の十数名の会員さんと御同伴の方々が見えられ、教室代表の花田さんの元に結集され、それを盛り上げておられる現実を見せていただいた時には、頭が下がる思いでした。

EL発声、食道発声のグループに別れて、訓練士の方の説明があったり、会発行の教本に基づいての練習…等々で、訓練時間も一時間強くらいです。そしてこの前後の時間が互いの交流の場となって、有意義なひとときを過ごしています。

こうして、それぞれ指導される方も、受けられる方も、一生懸命になって、額から汗が出るくらい頑張ってやっています。

皆さんが、本当に努力され、一日でも早く声を取り戻し、健常者の中へ割り込んで会話をしたい…。そんな気持ちが表れています。

また、新年会、忘年会、花見会などの行事があり、会員同志の交流の場を設けています。日頃の気分転換にもなっていて発展的な考え方で教室を盛り上げてくれているリーダーの花田さんに感謝しています。

最初に記しましたが、伊那教室も、今の段階では、再開の見通しはつきませんが、伊那中央病院の平澤看護師さんとは、情報を交換させてもらっています。

私としては、早い将来に再開できることを願っているところです。

このような状態ですので、飯田教室の皆さん、新年度もお世話様になりますが、どうぞ宜しくお願いします。

趣味悠々(自己満足を目指して)


松本教室 大久保 芳郎

声帯摘出手術を受け、それまで勤めていた会社を辞めたのは、平成十六年三月、満六十歳の時でした。会社人間であった私にとって、退職してあり余る時間をどう使うべきか、当初は随分戸惑いましたが、今では、自由な時間を持てる幸せを感じながら、マイペースで幾つかの趣味に興じています。

(一)囲碁

会社勤めをしていた頃、昼休みに囲碁を楽しんでいる同僚を横目で眺めながら羨ましく思ったものでした。頭を使う面白そうなゲームだ。私もいつか時間ができたら覚えてみたいと常々考えていたのです。

退職後早速、通信教育を受講しました。教本を勉強し、出題される問題の解答を送るという方式を一年ほど続けた結果、二段の免状を取ることができました。

その後は、月刊誌の購読による勉強に切り替えました。その月刊誌が主催する昇段試験に挑戦したところ、日本棋院の六段に合格しました。百六十点満点のところ百四十八点という高得点を取ることができたのです。これは全くのマグレでしたが、今後決してこのようなマグレはありえないと思い、大金二十万円支払って免状をいただきました。マグレで貰った六段ですが、真の実力は初段そこそこといったところです。

今は、同じ会社に勤めていた親しい先輩と月一回の対局を愉しんでいます。対局場はお互いの自宅です。戦績はほぼ互角。もう十年以上も続いていますが、これも互角の勝負ができるからこそと思っています。

月刊誌による勉強は現在も続けています。熱いコーヒーを飲みながらのんびりと石を並べる一人碁も結構いいものです。

また、毎週日曜日に放映される囲碁対局の観戦や、二週間に一度の信濃毎日新聞の懸賞詰碁への挑戦など、囲碁は今の私にとって愉しい趣味の一つとなっています。

(二)卓球

ある卓球同好会に所属し、月四回の卓球でいい汗を流しています。私と同年代の男女二十名がメンバーです。強くなることや公式戦へ出ることが目的ではなく、文字通り親睦と運動不足の解消を目的としている高齢者の同好サークルです。年に数回、メンバーでの食事会や懇親会も行われています。

サラリーマン現役時代、私は会社の卓球部に所属し、実業団の卓球大会へ何度か出場した経験があります。私個人は弱かったのですが、仲間に強い者がいたおかげで団体戦では、県大会を勝ち抜き県代表として何回か全国大会へ出場し、北海道や静岡・新潟など各地へ連れて行ってもらいました。

当時は、旅費はもちろん日当まで会社が負担してくれました。仕事で出張するのと同じ扱いだったのです。自分の好きなことをしていながら、只であちこち旅行ができるなんて、今ではとても考えられないことです。

そんなことから、多少卓球の経験がありましたので、現在の同好会のメンバーの中では負けることはほとんどありません。同好会入会後、サークル内の個人戦で、二回連続優勝をしました。現在、ハンディーが「5点」付けられ「5対0」からのゲーム開始が条件となっています。

個人戦ばかりでなく、ダブルスのゲームも行っています。わたしは、ダブルスが大好きです。ペアでやるゲームですから、勝てば喜びが倍増し、負けても悔しさは半減します。いくら遊びとはいっても、勝つと皆さん気分がいいようです。やはり勝負に対するこだわりがあるのでしょう。皆で大騒ぎしながら、和気あいあいで愉しんでいます。

ダブルスではわたしはチャンスボールがきても、あえて強打しません。強打すればポイントを取ることはできますが、それでは面白さが半減してしまいます。ですから、コースを突いたつなぎのボールを返すように心がけています。ダブルスの醍醐味は、何と行ってもラリーですから。……

同好会に入って三年ほどになりますが、適度な運動になり、精神衛生上もいいようです。卓球でいい汗を流した後の数日間はとても気分爽快になれるのです。これからも、気のいい仲間たちと愉しく続けたいと思っています。

(三)漢字パズル

退職後、通信教育で漢字の勉強をしました。平成十八年七月、日本漢字能力検定協会の試験を受け、二級に合格しました。

そんな折、長男の嫁さんから漢字パズルの雑誌をもらいました。実は彼女が友人からもらったものを「ジジは漢字の勉強をしているから」といって私にくれたのです。

暇に任せて、このパズルに取り組んだのですが、これがまことに面白い。私は、すっかりハマってしまいました。その後、同じようなパズル誌を購入し挑戦しましたが、夢中になって、気が付いたら夜明け近くなっていたことが何度かありました。

今では、月に二冊ほどの漢字パズル誌を購入しチャレンジしています。難問に苦戦することもしばしばですが、辞書と首っ引きで何とか回答を導き出しています。通信教育で勉強した四字熟語などが大いに役立っています。

過去に、懸賞金最高額の三万円が当たったことがありました。その他、布団クリーナーや図書券・切手シートなど幾つかの景品をゲットしました。

脳トレと実益を兼ね、漢字パズルは、私の趣味の一つとしてすっかり定着しています。

(四)ウォーキング・マレットゴルフ・その他

体力維持にと、二日に一度のペースでウォーキングをしています。これもすっかり定着しました。退職後はなにもせずブラブラしていたのですが、町の保健指導員から「メタボ予備軍」と指摘されたことをきっかけにウォーキングを始めました。もう十年以上になりますが、お陰様で町内の道路は、人が通れるだけの細い小路を含め全て踏破しました。

町内だけでは飽き足らず、今では初めての場所へ車で乗り付け、カメラ片手に近辺を探検歩きすることもしています。知らない土地を歩くのは、周辺の景色や建物のたたずまい・路傍の野仏など全てが新鮮で、思っている以上に愉しいものです。皆さんも是非試してみてください。 

最近、マレットゴルフを始めました。親しい友人に誘われ、安売りの道具一式を購入し、生まれて初めてのラウンドに出かけました。

この初ラウンドでの初コースで奇跡が起こりました。私は36のコースを28で回ったのです。現役時代、普通のゴルフをやっていましたので、このスコアのすごさは良くわかります。仲間から「絶対初めてではない。」と大いに冷やかされました。その日は4コース回ったのですが、後の3コースのスコアはさんざんでした。結局、八人中、六位という成績での筆下ろしでした。

月一回のペースで開催されていますが、私はこれまで三回参加しただけの駆け出し者です。メンバーが気の置けない連中でもあることから結構愉しく、一日4コースのラウンドで、いい運動にもなります。私の趣味に新たに加えられたマレットゴルフですが、これからも長く続けたいと願っています。

この他、ときどき「俳句」・「絵手紙」・「サイクリング」などにも挑戦しています。

趣味には、強制や義務がありません。何事にも束縛されない、自己満足の世界です。当事者に愉しさや充実感があればそれでいいのです。

これからも自己満足を目指して、力まず、欲張らず、悠々たる気持ちで趣味を満喫しようと思っています。

平成30年刊 第45号

はじめに


長野県信鈴会会長 上條 和男

信鈴会が発足してから、五十年、半世紀になりました。

その当時テレビからは、「コント55号の欽ちゃん・二郎ちゃん」、そして「あしたのジョー」を見たくて家路に急いで帰った記憶がよみがえります。

その当時、すでに信鈴会が設立され、活動が始まっていたのだと思うとその歴史の長さ、営々と引き継がれて来た意味深さ、先輩達の熱意に思いがいきます。

先輩会員の頑張りは当然ですが、病院・行政、そして何よりも家族の理解・協力が有ってこそ継続が出来たのだと思います。

五十年の間には、食道発声技術の開拓、電気発声機の進歩、シャント手術の広がりなどがありました。まさに、発声教室は、喉摘者にとって、声を取り戻す為の技術が結集された、道場とも言える場所です。

そして、多くの先輩たちが、声を取り戻すことをはじめ、情報の発信、行政への支援要請など、幅広い活動を続けてまいりました。

私たち信鈴会は、この半世紀に亘る活動を祝い、本年6月、記念式典を開催することとしました。多くの皆様の参加を期待しているところです。

ところで、信鈴会は、食道発声を行っている団体と思われがちですが、高齢者には電気式発声を、また、社会復帰を急ぐ人にはシャント発声を推奨・訓練しています。喉摘者の発声法は、食道発声のみでないことを病院の関係者や患者家族に広く周知する事も大事な活動であると考えています。

また、発声以外にも、術後の身体の保護方法などについても情報交換を行っています。特に最近は、永久気管口への人工鼻の装着により多くのトラブルが避けられるようになってきました。このような情報が、会員以外の喉摘者にも届いてほしいと、心から願っているところです。

今後とも私たち喉摘者が、質を落とすことなく生活できるような活動を、会員の皆様ともども続けて参りたいと思って

います。

                              2019年 春

共に生きる長野県を目指して


長野県健康福祉部障がい者支援課長 浅岡 龍光

貴会におかれましては、日頃から障がい福祉行政の推進に御理解と御協力をいただき、心よりお礼申し上げます。

また、貴会の御協力により実施している発声訓練事業につきましては、関係各位の御尽力により県内各地において熱心に発声教室を開催していただき、重ねて感謝申し上げます。


貴会は、昭和四十四年に設立され、社会・経済情勢の著しい進展、変化の中、五十年の永きにわたり一貫して音声機能障がい者の福祉の向上や社会参加の推進などに取り組まれてきており、特に発声訓練につきましては、人生の途中で突然、病気等により声を失い、それまでの生活が変わってしまうことで、自信をなくしてしまう音声機能障がい者に対し、音声の獲得に加え、声の再生により希望と勇気を与え、社会参加を促す大変意義のあるもので敬意を表するところであります。


さて、県では、長野県総合5か年計画「しあわせ信州創造プラン20」の下、「長野県障害者プラン2018」の基本理念である障がいのある人もない人も、地域社会の一員として、学びを通じてお互いの理解を深め、自治の力を活かして支え合う、誰もが人格と個性が尊重され、「居場所と出番」のある「共に生きる長野県」を目指し、障がい者に対する理解促進のための「ヘルプマーク」の普及や「信州あいサポート運動」などに取り組んでおります。


さらに、県の目指す真の共生社会の実現のため、障がい特性の理解や障がい者に対する必要な配慮に関する県として実施すべき役割や施策などにつきまして、障がい者の皆様からのご意見を十分にお伺いしながら条例化などを含め検討を進めてまいります。


こうした中、貴会における研修会などの様々な活動は、音声機能障がいのある皆様の自立や社会参加とともにそれぞれの地域における障がい者理解の促進につながる大変意義深いものであります。


今後も引き続き、本県の障がい福祉の向上にお力添えを賜りますようお願い申し上げます。


最後に、貴会の益々の御発展と、会員の皆様の御健勝を心より御祈念申し上げます。

信鈴会創立と五十周年


信州大学名誉教授 田口 喜一郎

信鈴会が創立五十周年を迎えるに当たり、私自身の医師としての経歴と併せて感無量です。信鈴会の発展の歴史は私の人生の重要な部分と重なるところがあるからです。

その発端は島成光さんという患者さんとの関係から始まります。島さんは、松本市の東部の埋橋に住んでおられた方ですが、私が受け持った患者さんの一人で、昭和三八年のある日声が出難くなったということで信州大学医学部附属病院の耳鼻咽喉科外来を訪れたのでありますが、診断の結果、「喉頭」に腫瘍があることが分り、私が主治医ということになりました。声帯を大きく蔽うように腫瘍が発生しており、治療法は喉頭を全部摘出しなければならない状態でした。

島さんは当時カナリヤのブリーダーとして有名で、家に沢山のカナリヤを飼っておられました。またカナリヤの声のコンテスト(注1)で優秀な賞を取る常連として知られ、カナリヤ飼育を生き甲斐にしておられ、ご自身も全国の各地で講演もされておられましたので、声を失うことに大きな失望と抵抗を感じ、手術を全面的に拒否されたのです。やむを得ず放射線治療を致しましたが効果は少なく、間もなく呼吸困難を生じることになりました。しかし、喉頭を失いたくないという意思は固く、困ってしまいました。

当時、喉頭や咽頭の腫瘍、甲状腺の腫瘍で喉頭の摘出を受けた患者さんのリハビリを目的とする会が大阪と東京にあり、それぞれ阪喉会と銀鈴会という名称で多くの会員を擁し、声を復活するリハビリを相互に指導するとともに、やむを得ず喉頭を摘出しなければならない患者さんに術後の希望を与え、励ます運動をしておりました。私達医師や看護師さん達のパラメディカルの方々の説得と共に、これらの会の紹介を兼ねて声のリハビリの方法の存在などをお話ししているうちに、呼吸も苦しくなった島さんは「声のリハビリ」に希望を託し、手術を納得され、無事喉頭摘出術を行うことができました。この辺の事情は、今野さん(相談役)の著書に記載されております(注2)。

私は当時留学中で、詳細は分りませんが、このようなエピソードが発端となって、長野県にも喉頭摘出などで声を失った人々のために、リハビリや相互の励ましを行う集まりが必要ということになり、今野さんや島さんが中心になり、「信鈴会」という会が発足したと聞いております。因みに信鈴会の「信」は「信州」を意味し、「鈴」は鈴木篤郎教授の「鈴」を意味するものであると聞いております。私が留学から帰国した年の翌年(一九七〇年)に会誌「信鈴」の創刊号が発刊されました。私も何か書くようにと依頼され、「カナダにおける医療制度の実態」について書いたことを覚えております。当時、島さんは食道発声の習得が成功せず、やむなく「人工笛」を使用しておられました。「人工笛」は当時「人工喉頭」と呼ぶ人もいましたが、元は「タピアの笛」(注3)と呼ばれたもので、島さんはこれを上手に操り、会話を十分こなす術を身につけられ、その後食道発声に成功しない方に教えておられたことを思い出します。


今や信鈴会も大きく発展し、本年は五十周年をお祝いすることになったのは、大変喜ばしいことでありますが、これには、歴代の会長さんや声のリハビリに努力されてこられた指導者の方々、そして常にアイデアと情熱を込めてアドバイスを続けてこられた今野さんをはじめ、顧問の方々の絶大な貢献があって初めて成し得た成果であると敬意を込めて感謝したいと思います。何より大切なのは、信鈴会を構成され、自らの声の再生に努力され、一日一日の進歩のために努力された会員の皆様のお力の結集の結果こそが、会の底力として今日の信鈴会を幹の太い大木に育て上げて来られた事実でありましょう。


医学の進歩は予想できない速度で進歩しておりますが、人はいつかは老いて死を迎えるという宿命は避けることができません。そして人を襲う病気は常に生きる人々を苦しめ、特に今は二人に一人は「癌(がん)」に罹患することは統計が示すところであります。そして、残念ながらコミュニケーションの手段として大切な「声」を失う人も発生いたします。信鈴会の役割は今後益々重要性を増すと思われます。関係する皆様方が常に健康に留意され、この会の発展に貢献されますことを心より祈っております。


注1 カナリアコンテスト:「歌節」という鳴き声が九種類あって、これがちゃんと歌えるかどうかがポイントとなる。

注2 今野弘恵:「当事者に学ぶ」退院患者さんに寄り添って 「信鈴会」発声教室とともに四十一年.看護教育45(5), p302〜304, 2004(5), 医学書院、東京。


注3 「タピアの笛」:全長二十〜三十センチメートルのゴムチューブの一端に気管からの呼気を受け取る皿状のプラスチックをはめ、他の端は音を出す弁状構造を内蔵する短い筒状のものから構成されており、この部分を口にくわえる構造物を持ち、呼気で創り出された音を口の中で構音して言葉にする器機。後に発信音(バイブレーター)を顎下部に当て、口の中で構音する「電気喉頭」に変わった。



信鈴会相談役 今野 弘恵

私が昔病棟勤務の頃、喉摘を受けられた患者さんが退院され、夜になってから「具合が悪い?」「気管孔から血液の混じった痰がでる?」…など、少しでも気になるときは医師に相談する前に家族から私のところへ連絡がくる。お話しを伺い大丈夫と思っても、患者さんの身になれば顔も見ないで大丈夫といわれても不安で一晩中休まれない事を思い、夜中でも主人のクルマで(私は運転できない)長野、茅野、立科、大町、岡谷…まで家庭訪問。患者さんの顔を見て、「明日、受け持ちの先生に話しておくから受診してください…」。長い間には何度もこのような事がありました。患者さんの心に寄り添う当然の事と思っていました。今にして思えば主人にも感謝しています。


医療は日進月歩、患者さんの身になり心により添って、常々力を与えて下さる宇佐美真一教授、鬼頭良輔先生他、医師、柳沢美保看護師長他看護師の皆様に心から感謝申し上げております。



以下、病棟勤務の頃を思い出しながら、私が日本看護協会から依頼されて看護白書(昭和五十八年度版)に掲載された文書を載せました。


 声をとりもどして社会生活へ復帰


 1 きびしい発声機能喪失者の現実


人間が社会生活を営んでいくうえに言葉のはたす役割は大きく限りないものがある。喉頭癌などにより発声機能の喪失を余儀なくされる患者は後をたたない。声を失ったことにより話せない、不具者として社会から遮断され、まだ定年まで間がありながらやむなく職場からはなれ、社会人としての引退をしいられている人、そして福祉行政のみを頼りに暮らしている人、このような現実は患者のみでなくその家族をも不幸にまきこんでいる。

ホテルで支配人として働いていたHさんは、術後6か月、まだ十分に発声がえられないまま経済的理由から復職。話すことのできないHさんに与えられた仕事は、熱帯魚の飼育と遊技場の管理であった。生存競争のはげしい社会情勢のなかで、まだ成人しない娘2人をかかえ、一家の生計を支えなければならないHさんには、それがどんなに悔しく腹立たしいことであっても、家族ともども生きるためにはと、苦悩のなかで受けいれざるをえなかった。

どこへもぶつけようのない憤りと葛藤のなかで、家に帰れば酒を飲み、あたりちらすなど、家族の生活をも重苦しいものにしていた。会社の了解をえて、週1回の発声訓練にはなんとしても参加するように働きかけた。発声教室に集まる仲間のなかには、往復5時間余りもの時間を費やし一度も休むことなく訓練に通っている人もあり、Hさんはその真剣さと、苦境のなかで一生懸命に生きようと努力している姿に強く心をうたれた。「苦しいのは自分だけではない。負けないぞ。」初めは長年勤めてきたのにと、会社の冷たい扱いに恨みをもっていたが、仲間たちとふれあうなかで、熱帯魚を相手の仕事はだれにも気をつかうことなく思い切ってゲップが出せる、訓練には幸いの場であると思えるようになった。そんなある日、Hさんは「最近魚たちまで俺に似て陽気になってダンスを踊っているようだ」と筆談している。復職後1年3か月、「もう少し声にボリュームがつけば以前の仕事もやれそうだ」と明るさをとり戻しつつある。

一方、声を失ったことで自分から社会生活に隔壁をつくり、家に閉じこもり、付添なしではどこへも出られない人がいることも事実である。

声を失うということは、いままでのその人の社会的な身分や生活をも奪い、規制された枠のなかに閉じ込められ、生き方をも変えさせてしまう。しかし再び声がえられるならば、職場復帰も社会参加も可能となる。訓練によってえた声は、患者自身に勇気と希望をもたせ、生きるよろこびを与える。


 2 発声教室設置とその後の経過


喉頭摘出者(以下喉摘者という)が手術前と同じように会話を通して他者と意思の疎通ができるか否かは、手術直後からはじまる発声機能回復のためのリハビリテーションにかかっている。


昭和三十八年のことである。医師より喉頭全摘の宣告を受けたSさんは「声が出なくなるなら手術は絶対にいやだ、このまま放置し1年でも2年でも声のつづくかぎり好きなカナリヤの講演(Sさんはカナリヤの飼育業)をしておわっても悔いない」と言って手術を拒否し困らせた。Sさんには大阪に患者会「阪喉会」の発声教室があることを説明し、人工喉頭を用いれば再び会話も可能であることを伝え、ようやく納得してもらい手術にふみきった。当時は手術例も少なく、声を失うための援助はしていても、声をとり戻すための援助はなにひとつなしえていなかったため、Sさんにも安心して手術を受けるよう自信をもってすすめることができず悲しい思いをした。このままではいけない、安心して手術が受けられるよう援助するためには、術後すべての患者がなんらかの方法によって、会話がえられなければならない、なんとかして発声訓練の場を設けたい。Sさんとの出会いが発声教室設置の動機であったといえる。

当時、東京には喉摘者の患者会「銀鈴会」が発声教室を設けていた。そこで、手術を受けた何人かの喉摘者によびかけ、一緒にそれに参加してみることとした。そしてそこで学んできた発声法を他の患者に伝えることをほそぼそとはじめ、四十四年になってようやく病院の一室で定期的に発声教室を開催するところまでこぎつけることができた。

当院で手術を受ける患者は長野県下全域にわたっている。手術後の患者が当院まで通うのは容易なことではない。そこで患者ともども他病院の看護婦や医師等に働きかけ、四十四年松本(当院)と同時に長野に、五十三年伊那に、五十六年佐久にも教室が開かれることとなった。それでもまだ通えない患者がいるため、あと2か所開設したいと働きかけをつづけている。

当初数人の患者とともにはじめた発声教室は、いまや訓練の結果声が出るようになった人、訓練中の人を含め150人を超えている。術後、経口摂取可能な状態を創治癒の目途とし、失われた機能の回復をまたず退院を迎えねばならない患者にとって、発声教室は欠くことのできない唯一のリハビリの場であり、継続看護の場でもある。障害をもちながら生きつづけるうえでの心の支えともなっている。


 3 発声教室の運営


発声教室は当初より患者会「信鈴会」の主催という形をとって今日にいたっているが、この患者会はいわば発声教室を運営するために発足したものである。いまでは、レクリエーションなどの仕事も行なっているが、発声教室の開催がいまも会の中心行事である。

松本の発声教室は、当院の一室で毎週木曜日の午後(1〜3時)開かれる。訓練は、声の出るようになった患者(指導員と呼んでいる)と看護婦とですすめ、必要に応じて医師にもきてもらっている。看護婦が耳鼻咽喉科病棟から2〜3人毎回参加している。

発声教室の運営は、松本教室は私が中心になってすすめ、他の3つの教室は患者が運営責任者となっている。そして4つの教室の指導員が当院に集まり、教室間の交流を深め、情報交換をし、たがいに訓練の内容の充実をはかるようつとめている。

発声訓練に関しては、社会保険診療の扱いができないため、病院にとっては収入のともなわない活動である。発声教室の財政的な側面については、先輩患者(指導員)のボランティア活動と病院スタッフの勤務のやりくり、また病院から場所、教材、ビデオなどの器材の無償提供で成り立っているといえる。

交通、通信費などの運営費については、現在県と共同募金から年四十万円の助成を受けている。これは、県へ陳情した結果、教室の開催は本来公的になされるべきことと認められ、それを患者会へ委託するという名目で、四十七年に五万円、以後徐々に増額されたものである。

なお、発声教室の意義を理解してくれる医師たちのカンパによりビデオカメラ(発声の動作を写しチェックするために使う)を購入することができた。理解し合える人の輪がひろがって教室が充実していくのは大変うれしいことである。

しかしながら、発声教室は、なんといっても声を失い話せないがための不自由さ、孤独に苦しむ患者の、「なんとしても声をとり戻したい」という熱い期待と切なる希いによって支えられているといえる。私もまた、患者とともに歩んできたように思う。


 4 発声機能回復の援助


発声機能回復のためのリハビリは、喉頭形成術による発声法を除いては、どの方法をとっても、個人差はあれ一朝一夕には成果はえられない。かなりの努力と長期の訓練を要する。

この過程で、訓練の結果が出るようになった人たちが、自分の体験を後輩に伝える、声が出ない苦しみを共感し支えるなど、大きな役割をはたしている。しかし訓練を効果的に行なうためにはそれだけでは不十分であり、あわせて専門的な立場からの援助が不可欠である。というのは発声法の選択など専門的な知識が必要であること、患者の身体的状況、社会的・家族的背景などは個々に異なり、ある患者の経験はそのまま他の患者にはあてはまらないこと、進歩の速さ、落ち込む時期なども個々に異なり、それらを客観的に把握し支える必要のあること、などによる。看護婦は専門的立場から、患者を総合的にとらえ、継続的に援助するのにふさわしい職種であると思う。

そこで、看護婦として発声機能回復にむけてどのような援助をしているかを述べてみたい。

教室では、初めは発声の原理についてビデオテープの「発声への手ほどき」や手引書を活用し、わかりやすく説明、理解させる。術前から発声の効果を高めるため腹筋運動も指導しておく。空気の飲み込み法から原音発声、つづいて母音・子音の発声へとすすめる。額に汗を流しての空気の飲み込みの訓練のなかで、いつ声が出るのか、本当に出るようになれるだろうか、不安と緊張がつづき、なんども挫折しそうになる。訓練にたちむかえるよう援助するために、家族の理解と協力をえながら、一喜一憂を共にし励ましていく。教室のなかでの先輩の体験談、また直接具体的なアドバイスなどは、これから手術を受ける患者に手術への決断と勇気を与える。

個人を理解し、レベルにあった援助を行ない訓練の効果をあげるため、患者のもつ問題を明確にし、その日の発声の状態、訓練の内容、病状の変化を継続看護カルテに記録し、次への援助の資料としている。また教室では、定期的に血圧測定を行ない、疾病の予防、健康の保持・増進をはかるうえでの足がかりとしている。

患者によっては教室のなかだけの援助では不十分である。気になる患者、教室にこなくなってしまう患者などについては電話で家族と連絡をとり、時には家庭訪問をし患者のもつ問題をより明確にし、援助の計画をたてなおす。教室にくるだけの体力がないときには家庭で訓練の指導をすることもある。また、挫折しそうな患者には、他の患者に励ましの声をかけてもらうようそれとなく促す。ややもすると、くじけそうになる気持を互いに励まし合いながら訓練をつづけるなかで、次第に声を得、会話をとり戻していくとき、患者は同時にたくましさ、強さをも身につけていく。このような過程のなかで、それぞれの段階ごとに患者の身体的・精神的状況をふまえた看護婦の適切な判断と積極的な援助が、発声の効果を高める一助となっている。


 5 看護職相互の連携


発声機能回復のための援助は、術直後からときには術前からはじまる。手術を拒否する患者に発声教室を見学してもらうこともある。したがって、耳鼻咽喉科病棟の看護と発声教室での援助は継続したものでなければならない。その間にかかわる看護婦は複数であることから、看護の一貫性を保つために、また変化する問題状況に応じた適切な援助を実施するために、継続看護カルテを活用している。

継続看護カルテは、患者が退院するとき作成され、発声教室に保管される。カルテ作成にあたってはカンファレンスがもたれ、患者の退院時の問題点、リハビリの目標、その目標にむけての対策と援助すべき内容が明らかにされ、記入される。それが発声教室に引き継がれ、その後の経過が記入される。

病院間の看護職相互の連携も大きな課題である。当院で手術を受ける患者のなかには、退院後、自宅に近い他の発声教室に通うことになる患者も多い。そのさいは「患者連絡票」を書き送り、援助が継続されるよう配慮している。他県の病院で手術を受けて当院の発声教室にくることになる患者については、いまのところ看護職間の連携はないが、今後の課題と考えている。


 6 問題解決への援助のプロセス

   —Aさんの場合


次にAさんの場合を通して具体的に喉摘者のかかえる問題状況と、問題解決への援助のプロセスについて述べてみたい。

 Aさん、五十四歳、主婦。夫と二人暮らし。下咽頭腫瘍。

 入院経過:昭和五十六年十月、喉頭全摘出ならびに頸部淋巴腺廓清、食道再建術を受ける。術後栄養状態悪く、食道再建部に瘻孔形成、一部瘢痕狭窄を残し治癒。五十七年三月初め退院となる。

退院時の状態:食事はミキサー食を経管カテーテルにて注入。発声機能喪失、食道再建術施行のため食道発声は困難と判断。人工喉頭による発声法を選択。会話するまでにはいたっていない。淋巴腺廓清による拘縮が強い。

退院時のカンファレンスの結果、次のような退院時の問題点が明らかにされ、継続看護の計画が立てられた。

 (1)人工喉頭を用いての発声に積極的でない。笛を使うと咳が出る。気管口の周囲が痛い。

 (2)淋巴腺廓清術のため右腕の前方挙上困難がある。

 (3)気管口が縮小傾向にあり気管カニューレがはずせない。

このため看護目標を、㈰発声による意思の伝達が早期にえられるようにする、㈪日常生活の拡大をはかる、㈫気管口縮小による窒息を予防する、とし、次の対策ならびに援助を行なうこととした。

 (1)人工喉頭に改良を加え、気管口周囲の刺激をさける。(ラッパ部分にスポンジを接着する)発声教室への参加を容易にするため、訓練日に定期受診(経管カテーテル交換)が受けられるよう医師との連携をはかる。

 (2)淋巴腺廓清による障害の程度をチェック表にもとづき調査、運動プログラムを作成、具体的な方法を紹介し実施させる。

 (3)気管カニューレが自分で管理できるように指導する。ネブライザー使用により痰の喀出を容易にする。

以上のような看護計画のもとにつづけられた援助の経過と成果は次のようであった。

週一回の定期検診日にあわせ計画した発声教室への参加は退院後一回のみで、一か月を経過した。他の人との交流もなく、夫との会話は筆談、ゼスチャーにたよっている。退院後まだ日も浅く十分な基礎体力がえられないため、一定のスケジュールにそった発声教室での訓練は、Aさんにとって負担が大きいのではと判断、夫と話し合った結果、週一回(土曜日午後)訪問を計画、実施することとした。

訪問してみて、次のようなことがわかった。夫はAさんの一挙一動に神経を配り、すべてを読みとろうとしている。Aさんは、夫と一緒でなければ一歩も外に出られない。食事の世話、家事一切は夫が行なっている。

発声に対して、「発声教室には仲間がいない。男性ばかりだ」となかなか積極的になれないでいる。五十歳を過ぎたばかりのAさんは、外見や音に違和感のある人工喉頭を用いての発声にためらいがあるようだった。何回かの訪問のなかで、自分の努力によりえた声は、たとえ人工喉頭によるものであっても、だれにも負けない尊い声であると話し、長男のところに初孫が生まれるということもあって、孫の名前が呼べるようになりたいなどと、少しずつ発声への関心が高まってきた。人工喉頭のパイプの長さを調節し、ラッパ部分にスポンジを接着させたことにより、気管口のまわりの痛みが軽減し、空気のもれが除かれ使用しやすくなったことも効を奏し、ついに声が出るようになった。一語一語ではあるが、「あ、り、が、と、う」と発声、そばで見守っていた夫も涙を流しながらよろこぶ。まだたどたどしい会話ではあるが、人工喉頭を用いての発声に勇気と自信がもてるようになり、訪問日には待ちかまえていたように人工喉頭をとりだし、一生懸命に話しかけてくるようになった。

退院後三か月たって、教室へも一週おきに参加できるようになり、会話も積極的になった。教室では大勢の仲間たちに励まされ、人工喉頭の扱いも身についてきた。いままで夫まかせであった食事の準備やカテーテルでの注入も、腕の運動と関連づけ、積極的に行なえるようになった。

Aさんは、このころから経口摂取を強く希望するようになった。なんとかAさんの願いをかなえてやれないものか医師と相談の結果、狭窄拡張の目的もあり挿入している鼻腔カテーテルを食事のつど抜き、再挿入してみることとした。これらの操作が自分でできれば経口摂取も不可能ではないと判断、訓練終了後、抜管・挿入の注意点とテクニックについて指導した。はじめは緊張のあまり手がふるえたが、身体の力を抜けば比較的スムーズに入ることがわかり、なかばあきらめていた経口摂取が可能となった。現在はミキサーにかけた食事を口から味わえるよろこびをかみしめている。日常の買い物も一人で用事がたせるようになり、入院から1年3か月を経て、Aさんの介護のため退職した夫も再びパートで再就職が決まり、ともに第二の人生への新しい道を力強く歩みはじめようとしている。


 7 今後に向けて


医療技術の進歩にともない咽頭癌患者の生存の可能性は拡大した。しかし、声を失い話せないがため、いままでの職場を去らなければならない人、社会的にひとつの隔壁のようなものを感じながら、せまい枠のなかでの生活をしいられている人など、喉摘者の苦しみは言葉につくせないものがある。これらの人たちが、家族や社会の一員として復帰できるか否かは、再び声と言葉がとり戻せるか否かにかかっているといっても過言ではない。

喉摘者が発声機能を回復するためには、術前術後を通し患者のもつ問題点を明確にし、身体的、精神的状況をもふまえた積極的なかかわりが必要である。

喉摘者のリハビリの場として発声教室を開設し、その運営もなんとか軌道にのってきた。しかし発声機能の回復のためには、さきに述べたように、教室のみならず、もっと幅ひろい援助体制が必要である。Aさんのような、教室に参加できない患者への援助については、いまは少数の、その意思のある看護婦のボランティア活動にまかされている。

他方、教室そのものも、もっと患者が通いやすいよう、各地に設けられることがのぞましい。そのためには、指導員および発声機能回復に習熟した看護婦の確保が必要となる。

今後これらの実態を、もっとひろく行政ならびに各領域へ伝え、そのための施策と実施を看護の立場からも強く要請していく必要があろう。

また、看護婦の間でも、もっと機能回復の援助の重要性を理解しあい、所属を超えた相互連携、看護の継続が進展することをねがってやまない。

医療技術の発達により救命の代償に大きな障害を負って生きていく人は、喉摘者にかぎらず、どんどん増えていくものと思われる。私たち看護職は、これらの人々が、ハンディキャップをもちながらも、どうあれば前向きに生きていけるか、そのために私たちになにができるかに、もっともっと目を向けていく必要があると思う。


(信州大学医学部附属病院・今野弘恵)

発声教室の見学を通して


信大附属病院東2階病棟看護師 横内 和

 会誌「信鈴」の発刊おめでとうございます。

東2階病棟へ配属になり、二年が経とうとしています。二年の間に、喉頭摘出術を受けられた患者様と接する機会は何度もありました。患者様の術前から術後、退院までの入院生活をサポートしていく中で、患者様の様々な姿を拝見しました。

 手術直前、「これで話せるのは最後だから、今のうちに奥さんといっぱいしゃべっておくんだ。」と笑顔で話された方。手術後、慣れない筆談や相手に思いが伝わらないことに葛藤された方。退院前、ネブライザーの使用方法を一生懸命練習している方。どの患者様の姿も印象的でしたが、やはり笑顔でご家族と一緒に退院されていく患者様の姿は特に印象的なものでした。

 入院中の患者様の生活についてはたくさん知ることができましたが、退院後の生活については未知の状態でした。退院後はどのような生活を送っているのだろうか、退院時の笑顔は今も変わらずあるだろうかと疑問に思っていました。

 退院された方が参加しているという「発声教室」の存在は一年目の時から知っていました。しかし見学させて頂く機会になかなか合わず、勤務中は発声教室が開催されている部屋の前を通るたびに、扉の向こう側ではどんなことが行われているのだろうと、とても興味がありました。

 昨年初めて発声教室を見学させて頂く機会がありました。参加している方の中には病棟で関わらせて頂いた患者様が懸命に発声練習を行っている元気な姿があり、とても嬉しく感じました。また発声の指導をしている訓練士の方が、同じ手術を受けた方だと知りとても驚きました。違和感なく話をされる姿を見て、手術を受けた方だとは全く気が付きませんでした。そして参加されている方々のお話を聴くと、「ネブライザーを使っているからなのか、退院してから一度も風邪を引かないんだよ」と教えてくださったり、「まだまだこれからだけどいつか声を出せるように頑張るよ」と力強く握手をしてくださったりと、今まで私が知らなかった退院後の皆様の生活についてたくさん知ることができました。そこには退院時のような笑顔あふれる皆様の姿がありました。

 発声教室の参加を通して学ばせて頂いたことをより多くの方々に知ってもらえるよう、入院中の患者様に、扉の向こう側は笑顔であふれているんだということを伝え、患者様の力添えができるようこれからもサポートしていきたいと思います。

 結びに、信鈴会のますますのご発展とご活躍を心よりお祈り申し上げます。

患者さんとの関わりを通して


信大附属病院東2階病棟看護師 池田 真弓

 このたびは、信鈴会創立五十周年を迎えられましたこと、心よりお祝い申し上げます。

この大きな節目を迎えるには、信鈴会の礎を築き、今日まで活動を継続して来られた会員の皆さまの沢山のご苦労と努力があったことと存じます。

 私は東2階病棟で勤務して四年になりますが、この四年間で喉頭摘出術を受けられた患者さんと数多く出会い、看護に携わらせて頂きました。大きな手術を乗り越え、失声という現実と立ち向かおうとする患者さんの心の強さを感じるとともに、私には計り知れない喪失感や苦労があるのだろうと思うと心苦しくもありました。それと同時に、声が出て話ができるということ、料理の匂いを嗅いで美味しいと食べられること、そんな当たり前だと思っていたことが、かけがえのないことであると気づかされました。当たり前に生活できる毎日に感謝しなくてはならないと思えるようになったことは私にとっての大きな学びです。

 患者さんにとって、退院はゴールではなくスタートです。安心して退院を迎えられるように、退院後の生活の中でどんなことに困るだろうか、どんな準備が必要だろうかなど、一人一人の生活背景を考えながら退院後の生活に向けての支援を考えておりますが、退院後、実際に患者さんがどんな風に生活されているのか、困っていることはないか、私たちの支援は十分だっただろうか、と心配になることが多々あります。そんな中、信鈴会は私たち看護師にとって、退院後の様子を伺うことのできる貴重な場であると感じております。病棟から退院された患者さんが、信鈴会に元気に参加しておられるお姿を拝見できますことは、私にとっての励みにもなっています。昨年末には発表会にも参加させていただきました。入院中、担当させて頂いた患者さんに久しぶりにお会いでき、入院中とは違った生き生きとされたお顔を拝見できた喜びとともに、前向きに日々努力されてきた成果を強く感じられ、心からの嬉しさと称賛の気持ちを抱きました。

 このように、患者さんとの関わりを振り返ってみると、看護師として、患者さんの支えになりたいと思いつつも、逆に、患者さんから学ばせて頂くこと、励まされることのほうが多く、今の私があるのは、たくさんの患者さんに支えてきて頂いたからこそであると思います。様々な人との出会いや日々の生活に感謝を忘れずに、これからも微力ではありますが、看護師として患者さんのためにできることを考えていきたいと思います。

 結びに、信鈴会の益々のご発展と皆様のご活躍を心よりお祈り申し上げます。

食道発声教室に参加して


信大附属病院東2階病棟看護師 勝野 瑠莉

 信鈴会創立五十周年おめでとうございます。


 先日、発声教室に参加させていただく機会があり、お邪魔させて頂きました。皆さんとは、廊下でたまにすれちがったり、病棟でお会いする機会もありましたが、実際に練習している姿を見るのはとても久しぶりで、私の知っている頃より、皆さん上手に発声をしていてとても驚きました。皆さん気さくに私に話しかけてくださり、現在の生活の様子や近況などを知る事ができ、とても楽しい時間を過ごさせて頂きました。

 私は二年生の時に初めて中咽頭癌・下咽頭癌の患者さんを受け持ちました。大きい手術であった事もあり、先輩のサポートを受けながら看護をさせてもらいました。術後のケア・患者さんの生活に合わせた退院支援など、多くの事を学ばさせて頂きました。そこで学ばさせて頂いた経験を今活かす事が出来ているなと感じます。

 退院後も、病棟に来て下さり、「仕事に復帰して働くことが出来ています。大丈夫ですよ。」と笑顔で話され、元気そうな姿をみれて本当に嬉しかったのを覚えています。今も仕事を続けて発声教室で練習をされていて、私も頑張らなきゃな、とパワーをもらっています。

 また、参加させていただけたらと思っているので、皆様よろしくお願いいたします。

思い出深い平成最後の一年


長野教室 山岸 國廣

  平成最後の一年、感動と喜び新たな課題を振り返ってみたいと思います。

 最初の感動は二月の平昌冬季五輪女子五〇〇メートルの小平奈緒選手の金メダル獲得から始じまりました。七月には大相撲名古屋場所で御嶽海十三勝二敗の初優勝、九月には兄弟旅行で末弟の手配により秋場所両国国技館の大相撲観戦が実現しました。三日目の玉鷲戦、熱戦の後取り直し御嶽海の勝利得した気分に浸りました。今年こそ大関取りの足がかりを築いてほしいと思います。

 この他松本山雅J2初優勝、J1昇格、四月からプロに転向するバドミントンの奥原希望選手、陸上男子五十キロ競歩の荒井広宙選手の活躍、男子マラソン大迫傑選手の日本記録更新いづれも長野県民を元気づけてくれました。

 次に私事ですが、私には二人の野球好きの孫がいます。一人は高校三年生の外孫です。第一〇〇回全国高等学校野球選手権記念長野大会にレギュラーとして出場しました。決して強豪チームではありませんが、四回戦まで残りベスト十六に入りました。試合のたびに長野オリンピックスタジアムまで車を飛し孫たちの活躍を目蓋に焼きつけることができました。高校野球ともなるとレベルも高く楽しむことができました。

 もう一人の孫は小学校四年生の内孫です。昨年から地元のチビッ子野球に加入しいきなりレギュラー入り外野手として頑張っています。我地域のチビッ子野球は十三チームが二ブロックに別れリーグ戦を戦い上位四チームが決勝トーナメントに進みます。孫のチームは四勝二敗で決勝トーナメントに進みました。トーナメントは一回戦九対十一で逆転敗け、目標にしていた優勝はできませんでしたが毎試合駈け付け、出ない声をふりしぼり応援しました。来季はチームが再編されやる気満々なので更にたくましくなって楽しませてくれそうです。

 私に課せられた課題は、長野教室で長く代表を務めていただいた先輩が家庭の事情で勇退され、はからずも私が代表に選出されました。加えて秋の信鈴会緊急役員会では一部役員改選が行われ私が副会長に指名され暫定ではありますが引き受ける形となったことです。新年度は信鈴会創立五十周年記念事業、東日本ブロック研修会の開催等大きなイベントを控えています。足を引っ張らないよう新たな元号のもとで更に精進していきたいと思います。

声帯を無くして十二年


長野教室 小林 毅

 人生には人それぞれ何度かの節目が有ると思います。私も何度か有りましたが、地域での役も氏神様の役を最後に、後は老人会で楽しく過ごして行けば良いばかりと気持ちも楽に成っていた頃のことでした。老後は、長い間培って来た仕事の一部を趣味も兼ねて気ままに続けて行ければ、私の人生は多難では有りましたが先ず先ずだと思っていた所です。年齢は六十七歳の時でした。例によって気の合った仲間と飲食店でカラオケに耽って居た時でした。私に唄の番が回って来たので、得意としていた石原裕次郎の歌を気分良く唄い始めましたが、何故か何時もとは違って高い声が上手く出ず戸惑っていました所、友人に透かさず「早目に病院へ行って検査を受けた方が良いのでは」と言われたのです。後日、耳鼻科で検査を受けました所、声帯にポリープが有るので切除して検査をしなければと言われて、成すがままでした。結果は悪性と分かり、その後は放射線治療や検査のための入退院で大変な日々の連続でした。結局は声帯摘出手術を余儀なくされてしまい、当然声が出なくなる事での心の葛藤の日々が続きましたが、命の存続を優先する事の外は考えられず、長野日赤病院の根津先生により摘出手術をして頂く事となりました。経過は単純喉頭摘出で済んだのですが、今思いますには発見と処置が早かった事が功を奏したのでは無かったかと感謝しています。お陰様で二十日間程の入院で済みましたが、何と言っても今迄は当たり前に出ていた声が出ず、話が出来ない事が大変な辛い思いでした。この時が、私にとって何度か有った中でも最悪の節目で有ったと思います。入院生活では、看護師さんや家族の温かな献身的な看護には感謝仕切れない思いでいっぱいでした。又、退院の時には耳鼻科の紹介で長野教室を訪れて、今は亡き宇野女会長さんの喉摘者とは思えない分り易い声で、食道発声により必ず声は出るとの励ましの言葉を頂き、「よし、私も頑張るぞ」と思って入会させて頂きました。指導員さんの下で、アーアーと下腹に力を入れて、喉で響く声を出す練習の日々が続きましたが、中々思う様な声は出ず苦しい日々が続きました。半年ほど過ぎた頃、入浴中にアーという声が出た時は、本当に嬉しくて何度か繰り返して大丈夫だと思い元気が出ました。その後は順調に2音3音と、言葉に成ると練習にも熱が入って頑張る事が出来ました。登校中の子供達にも挨拶をされて、以前はただ黙って手を振ったり頭を下げるだけで挨拶は情け無い思いでしたが、おはよう〜の挨拶が出来た時の喜びは今も忘れられません。教室に於ては、入会後三年目頃には会話も大分出来る様に成り、五年目には訓練士に任命されました。新入会員さんの指導では、自分の辛かった経験を思い出して、出来るだけ新人さんを思いやる気持ちと時には厳しくをモットーに指導を心掛けて来ました。年に何回かの訓練士会にも出席し、県内にある六教室の皆さんが障害を克服されて前向きに生きてる姿には元気と力を頂きました。又、発声コンテストに挑戦した事も大きな自信と成っています。丁度その頃、息子が結婚する事と成り、父親としての責任は勿論ですが披露宴での挨拶では、皆さんに「感動したよ」と言われて大変満足したものでした。翌年は頼りにしていた弟に先立たれてしまい、告別式のお斎の席で、喪主の代理として挨拶も出来たので良かったな〜と思っています。時の過ぎるのは早いもので手術後十二年となり、昨年より私は八十路を歩み始め、体力の衰えと共に食道発声も難儀となり、思う様な会話が出来ず、家ではELを使って話す事が多く成っています。その上、耳の聞こえも悪くなってしまい相手の言葉が良く聞き取れない事が多くなって寂しさを感じているところです。今年は信鈴会が創立五十周年を迎える事となり、喜ばしい限りです。先輩の皆様の並々成らぬ努力の積み重ねの賜と感謝に耐ません。私も式典に参加出来ます事を心より嬉しく思っています。今後も体の続く限り、感謝の気持ちを込めて訓練士として会のみなさんと頑張って行きたいと思っていますので宜しくお願い申し上げます。

健康維持の生活


長野教室 三浦 邦彦

十二年前下咽頭がんで、声帯摘出手術をしました。担当医から、「今後は、よく笑い、好きな事をして免疫を付けるようにして下さい」と言われました。再発、転移の早期発見を心がけ人間ドック、大腸内視鏡検査、胃カメラ検査は毎年受けて、他のがんが見つかり手術をしたこともあります。検診の大切さが良くわかりました。

 日常の生活は以下の通りです。

一 食事

 三食きちんと好き嫌いなく食べるようにし、特に朝食時は、にんじんと葉物の野菜ジュースを飲み、サラダを先に(サキベジ)食べて、果物は冬の間はりんごを、卵もゆで卵にして毎日食べています。

 アルコール類は、ストレス解消、精神的な疲労回復に効果があるといわれていますので、体と相談して夕食時に時々飲んでいます。

 血圧が高いので食塩のとりすぎにも注意しています。

二 睡眠、昼寝

 下咽頭がんで三ヶ月入院、その後他の病気で四回の入退院を繰り返しました。その時の習慣で、朝六時三〇分起床、夜は十時就寝、昼食後は眠くなるのでたとえ一〇分でも昼寝をしています。昼寝後の疲労回復スッキリ感は何とも言えません。

三 日記

 勤めていた頃に、一年間必ずつけようと一念発起して始めましたが、残業、飲み会等で、空白の日々が多くとても日記とは言えませんでした。

 退職後、下咽頭がんの手術をしてからは、仕事として現在まで、起床時間・就寝時間・体温測定・血圧測定(朝、夜)・排便・天気を毎日記入し、入院中の生活習慣を参考に記述しています。(旅行等で出掛けた時はカット)

四 笑う事

 勤めていた時は、今考えると仕事中は笑うことはほとんどありませんでした。現在はテレビを観ては笑い、家族との会話で笑って楽しんでいます。

五 好きな事

 家庭菜園で、ジャガイモ・トマト・キュウリ・大根・白菜・玉ねぎ等の野菜を栽培し、収穫が多い時は喜び、また失敗もあり一喜一憂し元気を頂いています。

 テレビでは、スポーツは高校野球・プロ野球・マラソン・高校駅伝・大学駅伝・実業団駅伝・大相撲等を観ています。また、ドラマでは、朝ドラ・大河・時代ものの韓国ドラマを熱くなって観ています。好きな事をやって気分転換、ストレス解消して免疫力を高めるようにしております。

-悠々-第二の人生


長野教室 深美 勝夫

 早いもので声帯摘出手術から七年が過ぎようとしてます。病気の前は会社経営で毎日が仕事におわれ、無我夢中ですごしてきました。

 仕事から離れた今は、妻と2人で近くの堤防公園を歩き、冬は真白な北アルプスを、春は満開の桜並木、夏は涼しい木陰の中を野鳥の声を聞きながらの一時間ほどのウォーキングは誠に爽快で気持がいいものです。 

 病気で声を無くしてしまうと、とかく家に閉じ込もりがちになり、寂しい人生を送ってしまう事が多いと聞いています。発声教室でEL発声での会話が出来る様になり大勢の人達と変わらずのお付合いをさせていただいています。又、趣味の釣、ゴルフ(スコアーより健康)、盆栽、絵画等の仲間とも失語のハンディも感じず、毎日が楽しく日々を過ごしています。

 盆栽は毎年長野市芸術館で展示会を開催し大変好評です。絵画は二十歳の頃に少しばかりかじった油絵を四十五年ぶりに描き始めて四年余りになり、中央の展覧会等にも出品しいくつかの賞をいただく様になりました。今年も五月の東京都美術館での展覧会への出展に向けて、作品を製作中です。

 今日まで支えてくれた、家族及び信鈴会の皆様始め、多くの人達に感謝し、

 第二の人生健康で悠々と!

畑仕事をしています


長野教室 増田 満男

この二月で術後一年が過ぎました。先日一年目の検査をしていただき、先生からは、今のところ大丈夫と言われ安心し、家族ともども、ほっとし、親せきなどにも知らせました。

 顧みれば、昨年の暮頃から喉に違和感があり、病院の診断で悪性だと言われ、まさか自分がこんな病気になるとは夢にも思っていなかったので大変ショックを受けました。

 その後、画像診断など検査の結果、先生から「手術をすることはできるが残念ながら声は失なうことになる」と告げられました。しかし術後、努力すれば発声できる器具もあると知らされ、希望をもちました。今は、落ち込んでいるときではなく、病気をなおすことが一番だと思い、手術を受けました。入院中一か月程、先生・看護師の方々に、手厚く看護していただき、体力も日増しに付き、退院することができました。

 退院時に、発声教室が長野日赤病院にあると紹介され、家族の運転で参加するようになりました。教室の皆さんの指導のもとで筆談からELを使っての発声が可能となり、今では電話での会話もできるようになりました。教室の皆さんの指導に感謝の気持ちでいっぱいです。

 今は雪も消え、春らしくなってきましたので少しばかりのリンゴ畑で剪定作業にはげんでいます。秋には赤いりんごが収穫できるよう願っています。

 また、小さな畑で自家用野菜のナス・キュウリなどが植付できるよう床の準備や趣味でやっている花・シャコバサボテンなどの手入れなどもあるので体に気をつけながらやっていきたいと思っています。

 発声教室の皆さんには、これからも大変お世話になりますが、引き続き御指導くださるようお願いいたします。

長野県信鈴会創立五十周年を迎えて


諏訪教室 守屋 一次

 信州大学医学部附属病院に看護師として勤務し、喉頭がん咽頭がんにより声帯を摘出した患者に、「もう一度、第2の声を」と親身に寄り添う、そんな人柄の今野女史が長野県の病院を奔走し、食道発声教室として産声を上げたのが長野県信鈴会です。

 私が今野相談役と出合ったのは、平成6年の信鈴会総会に出席した時でした。来賓の挨拶が終わり司会者が今野弘恵様を指名、私は役員席に目を移して驚きました。何と淑やかななんと、小柄な。挨拶の中で、「皆さん、教室に来て下さいね」「声が出なくても諦めてはだめですよ 粘り強く、根気よく皆で頑張りましょう」と、優しく語りかけると、会場の皆さんが大きく頷いた。私は、人から信頼される事の大切さを改めて思いました。車を運転中に必死に発声訓練を重ね、妻に声が伝わるほどに上達、今は亡き諏訪教室の宮坂公正氏、曽根義徳氏と共に総会へ。田中さん、井出さん、桑原さん、三瓶さん、などが紹介を受け、緊張の中での総会そして懇親会へと進み、小林政雄指導員から諏訪教室の紹介がありました。その中で「食道発声訓練者を代表して、守屋君に練習の成果を披露してもらいましょう。」私は、立ち上がり一礼をし大きく空気を吸い、ゆっくりと、「す、わ、きょう、し、つ、の、も、り、や、です。」と皆さんに伝わり大きな拍手を、一年頑張った、自分の声として、食道発声法の声を聞いて頂きました。今野さんから、おめでとうの言葉を頂き、次に3音、5音の声を作る為に基本を忠実に実行すれば必ず、会話が出来る。そんな大きな目標を立て、必死に駆け抜け、今訓練士としての勲章を胸に 日々食道発声の訓練を会員と共に自分自身の上達も目指し活動しています。

 私たち喉摘者が一度はぶつかる壁があります。声がでて会話が可能になると、初めは、「良かったね、声がでたね。」そして同情のうなずき。もういいよ、苦しそうだからと、話が終わる。声をだそうとして、空気を吸う。そのしぐさが、相手に苦痛を与えているのです。そのことに、速く、きづく事が大切です。肩の力が抜けた、相手にプレッシャーをかけない会話を楽しむことが出来るようになるでしょう。

 長野県信鈴会を、五十年の長きにわたり継続をして下さいました歴代の会長及び役員の皆様、そして多くの会員、家族の方々への感謝、有難うございました。そしてご苦労様でした。今、私たちが先代より受け継いだ信鈴会の未来図を描く時、県外の方々との交流を多く行い、現状視察、意見交換、先進医療情報、等を参考に役員はじめ会員の皆様と共に次の五十年に向けて常に向上心を持ち信鈴会を盛り上げていきたいと思いますので御見守り下さい。

平成三十一年 吉日

信鈴会発足五十周年への思い


諏訪教室 中野 安幸

 今年は信鈴会が発足して五十周年を迎える。

半世紀の長さに渡って、発声活動に取りくんできたことになる。

 この間、幾多の声を無くした会員が、声を取り戻し社会復帰したことでしょう。私もその一人ですが、入会時から今まで発声へ取り組んできた種々の思いを記すことにします。

 私は声を失ってこの三月で十五年半になります。手術後、声が出ない事実に大ショック。これで人生終りと思い絶望と悲嘆に暮れた日々でした。

 そんな時、ドクターから「声はまた出せるようになるよ」と発声教室の存在を教えて頂いた。入院中であったが早速教室へ。驚いたことは指導員の方の発声です。ほとんど普通の人の声と変りませんでした。練習すれば声は取り戻せるということでした。それからは、もどかしさと悔しさを味わいながら希望に燃えて発声練習に取り組んできました。

 そして、少し声が出るようになると夫婦喧嘩で言い返せない、電話では不審者と思われ切られてしまう、会議等ではマイクが無いと発言できない等など障害者だと意識せざるを得ない思いと苦い経験をかてに、更なる自己研鑽に励むことができました。

 今日在るのは、信鈴会(発声教室)の存在のお陰であると思う。だからこそ今後も声を失った会員の拠り所として教室の存続と充実を図っていかなければならないと思います。

-信鈴会-ありがとう


諏訪教室 伊藤 悦子

 信鈴会発足五十年おめでとうございます。

 私は会に入れて頂き二十三年が過ぎました。

 皆様に一から教えて頂き 一歩一歩前進する事が出来ました。紙上をお借りして感謝申し上げます。

 今も声は小さく、相手に聞き取りにくいところも有ろうと思いますが、何とか、ゆっくりでも通じる様に成り、気晴しの一つに役立っております。曾孫とのやり取りが出来て、とってもうれしいです。

 役員の皆様には、今後もお世話に成ります。

よろしく お願い申し上げます



諏訪教室 長田喜美雄

創立五十周年

 おめでとうございます

平成最後の一年


飯田教室 花田 平八郎

 現在十名前後の会員で教室を続けております。

平成十七年、飯田教室設立の時以来の会員の方々が今日迄頑張って居られます。

 平成二十八年五月には教室二百回を迎へ、ささやか乍ら飯田市立病院耳鼻科の先生・看護師さんに御出席戴いて記念パーティーを致しました。

三十年秋には、木曽の馬篭へ一日旅行をしました。好天気に恵まれ昔の宿場の街道を皆で散策し秋の一日を楽しみ、よい思い出でした。地元の阪本さん御夫妻には大変お世話になりました。

 三十一年一月十九日は砂払温泉で新年会を開き元気な皆様の初顔合せにて、家族同伴で十九名の楽しい集いでした。

 今年退位される天皇陛下は私より一級上ですが面白い話しがあります。私の村には陛下とお誕生日が同じ方がおり、小学校の時でしたか宮中からどんなお菓子か忘れましたが送られて来ました。

 今年四十五号「信鈴」が出版される頃は何と言う年号に変るのか心待ちしております。

 本年は信鈴会設立五十周年記念大会を予定している係の皆様は御苦労様だと察しております。

どうか盛大に無事挙行されます様祈り上げます。

 本年も元気で一同発声教室が続けられる様祈念して終りとさせて戴きます。

信鈴会創立五十年に寄せ 漢詩一題


飯田教室 木下 實

 憶創立記念      読みくだし


 創開定礎努先賢  創開定礎先賢に努め


 如矢光陰五十年  光陰矢のごとく五十年


 障害心喉今尚有  心喉障害今なおあり


 同僚聚集励聲研  同僚しゅう集聲研にはげむ


漢詩の意味


 信鈴会の開設の礎は先人のつとめにより

 (努力により)

 会の発足してより早五十年の歳月がすぎ


 咽喉の障害も今猶いやされず


 同僚あいつどい一緒に発声練習にはげむ



伊那教室再開にあたって


伊那教室 小池 弘光

  伊那中央病院、耳鼻科看護師で私達、信鈴会の窓口担当で、おせわになっている、平澤さんから、「喉頭摘出された方で、発声指導を受けて自分の声を出したい……。という方が、おられますが……。」と言う一報を頂き、即刻OKの返事をしたのでした。上伊那の中部地区の方が飯田教室迄は可成り距離的に遠いので、私は休講中だった伊那教室を再開し、指導していくことにしたのでした。

 十一月九日にその方(有賀さん)と始めて面会して、有賀さんのそのときまでの経過をお聞きしたり、私達、信鈴会の様子を説明する中で私達と同じ会員に入ってもらって共に発声訓練を重ねていくと……言う点で一致できました。ただ十一月二回、十二月一回教室を開催したのですが、その後冬休みに入ってしまいました。実は十一月〜十二月にかけて、私は眼科で白内障の手術(両眼)を受けたのです。(この病は、身の辺りにも手術された方結構います)

 それはよかったのですが、年末の十二月二十七日、朝刊の新聞を見ていて、突然に倒れ込んでしまったのでした。女房は私を発見して慌てて、あちこち連絡をとり長男に連絡して救急車の手配までしたとかで……。自分が気が付いたときは、救急車の中でした。失神状態だったので、何がどうなのかわからなかった。十五分位いで駒ケ根市内の昭和伊南病院の救急診察で、脳外科医の受診を受け、続いて整形外科医の診察で、右肩から、止血した血液を取り除く、と言ってそれなりの処置をして下さって後、しばらく休息して帰宅となった。医師から、特別に転倒したとか、強い打撲を受けたことは…?と聞かれたが、そうした自覚もない、全然記憶もない。

 こうした中でも、体のどこかが自覚なしに変化していく……。これも高齢化が進む中であり得ることなのだ……。と改めて感じたのでした。後遺症回復のため、リハビリに通って居る今日です。

 昨秋、入会された有賀さんも、新年一月中旬からやはり、白内障手術(両眼)で入院されるとの事でして、一月は教室は開けなかったのでした。

 次に又新年に入って、以前から信鈴会には入会されていた、宮田村内の林寛さんが二月から伊那教室におせわになるから……。と言う一報を頂いて、二月一日に、新年初の教室が、開かれたのでした。一年余、休講していた教室も、皆さんの御協力を頂いて、再開出来ました。

 再開したとは言え、三者、三様の状態での出発ですが、慌てることなく、じっくり足元をみて、地道な発声訓練を重ねて行く決意です。

 会の顧問の先生方、会の役員の方々、そして会員の皆さんの、今後の御支援、御協力を切に、お願い申し上げ、教室再開の挨拶とさせていただきます。

会計の仕事


松本教室 大久保 芳郎

  長野教室の松山滋先輩から、信鈴会の「会計」業務を引き継いで七年になります。

 信鈴会の会則によりますと、第八条4項で「会計は事務および会計を担当する」と定められています。

 ただ、私の7年間の経験から申し上げますと、「会計」とは名ばかりで、「事務に関する業務」の方が圧倒的に多く、全体業務の8割以上を占めているような気がします。

 一つの「会議」を例にとってみますと、日時の決定・会場の確保・議題の設定・会議開催文書の作成と送付、会議資料の作成、場合によっては会議の結果報告書の作成・送付、そして、それらの内容についての会長との事前打ち合わせなど、すべてが会計の業務です。

 私が、実際に行っている「会計業務」の内容を簡単にご紹介しましょう。


 【4月の役員会議】

 この会議では、監事による前年度の会計監査が行われ、その結果が報告されます。会計担当は監査を受ける側です。監査を担当するお二人の監事に、帳簿・領収書・通帳・現金など全ての関係書類を確認していただいています。

 また、6月の定期総会に向けて、前年度事業報告・会計報告・翌年度の事業計画・予算について審議されます。翌年度の事業計画や予算は、会長と事前に調整しています。

 そして、その内容について、役員の皆さんに審議していただきます。

 また、総会の進め方や役割分担についての確認がされます。

 もちろん、会議開催通知の発送や当日の審議資料などの作成は全て会計の仕事です。


 【6月の定期総会】

 4月の役員会議で承諾を得た「総会資料」を、印刷会社に4月中旬ごろ印刷発注します。総会の1ヶ月前に、全会員および病院や行政の関係者に「総会開催通知」を発送します。このとき、会員には、会誌「信鈴」と「年会費の振込用紙」を同封しています。

 会場は、会長と調整し半年前ぐらいには予約しておきます。

 総会間近になると、返信用ハガキで出席者数を把握し会場のホテル側と、総会のレイアウトや総会後の昼食懇親会など詳細について調整を行います。

 調整に当たっては、先方と直接面談し、内容については必ず文書で確認しています。これは、声が十分出ない我々の意思が伝わらないことを想定しての対策です。

 総会当日の会計報告・予算提案は、もちろん会計の仕事です。

 また、総会を欠席した全会員に、総会終了後、「全議案とも可決・承認された」旨の文書を添え「総会資料」を送付しています。

 なお、懇親会に出席した会員へは、会計報告書を作成し、各教室の代表経由で送付しています。


 【8月の訓練士会議】

 会議の1ヶ月前に、訓練士宛てに会議開催の通知文書を作成・送付します。文書は、効率化の観点から、訓練士個人宛てではなく各教室の代表に送付し、代表から訓練士各人に配布してもらう方法をとっています。

 議題は、毎年9月に実施される東日本ブロックの訓練士養成研修会・年会費の納入状況報告・新訓練士の申請などです。会議資料の作成は、もちろん会計の仕事です。

 その年の4月に就任された新訓練士の方は、この会議から参加してもらっています。


 【11月の訓練士会議】

 会場の確保や通知文書の作成・発送、会議資料の作成はいつもの会議と同様です。

 この会議では、東日本ブロック訓練士研修会の報告が主体です。

 各教室から、活動状況の報告や課題などが提起されることもあります。また、時には講師を招いて講演会を実施することもあります。


 【年賀状の作成・発送】

 文案について事前に会長に了承をいただき、全会員および病院や行政の関係者・日喉連の団体長などに発送します。

 文章が苦手な私にとっては、この文案作成が悩みの種の一つになっています。

 パソコンを使ってのハガキ印刷が12月上旬。元日に届くようにと、毎年、中旬には投函しています。


 【2月の新年会】

 毎年、事前に会長の承諾をいただいたうえで、3〜4カ月前には会場の予約をしています。正月早々、会員および関係者宛に新年会の案内通知(出欠返信ハガキ同封)を作成・発送します。

 ただ、いつもお世話になっている信大病院の先生や看護師さんには、直接お会いし、手渡し方式で連絡しています。

 出欠の返信ハガキと信大病院さんの出欠表を集約し、出席人数が固まったところで、会場のホテルに飲食の注文や宿泊者の部屋割りなどを確認し、当日配布する「参加者一覧表」を作成しています。

 翌日は、役員会議が開催され、各教室における当年度の参加者の集約のお願い・会誌「信鈴」への投稿の要請・当年度の収支見込報告などを行っています。

 一年間の教室の開催数や参加者数の集約は、県への実績報告および総会資料作成に必要で、毎年、各教室代表の方に協力をしてもらっています。

 新年会の会計報告は、定期総会のときと同様に、教室の代表に送付し出席者への配布や回覧をお願いしています。

 当日の資料作成は、当然会計の仕事です。


 【会誌「信鈴」の寄稿依頼・

  印刷発注・校正・確認・発送】

 寄稿依頼については、会員へは新年会通知の中でお願いし、病院関係者など外部の方には、別に要請文書を作成し1月中・下旬頃に発送しています。

 会計としては、「会員名簿」や「信鈴かわら版」をはじめ、昨年度実績・今年度の事業計画や予算など、寄稿文以外の箇所を最新のものに修正します。

 そして、3月末までに集まった原稿と会計で修正した最新版を、印刷会社に発注。仮印刷の校正を、編集責任者の山岸十民男理事を中心に、松本教室の役員で数度に亘って行っています。

 出来上がりが、5月上旬。直後に、会員には、総会通知や年会費振込用紙を同封して発送しています。会員以外の関係者の皆さんには、寄稿のお礼文を同封し同時期に発送しています。この発送業務は、もちろん会計の仕事です。

 発送部数は、約160部ほどですが、この袋詰めが結構大変です。また、近くの郵便局へ持ち込むのですが、重量と嵩で全部を一度に運べません。二度に分けての持込となります。

 そんな苦労もありますが、『会誌「信鈴」は会員の心のよりどころ』と思いながら頑張っています。


 【県健康福祉部障がい者支援課への書類提出】

 県とは、毎年、県知事と信鈴会会長との間で「障がい者社会参加促進事業に関する委託契約」を締結しています。

 4月上旬、前年度の「委託料清算書」「事業実施報告書」および当年度の「委託契約書」を提出しています。

 また、6月上旬、当年度の「見積書」「委託金請求書」を作成し、県の障がい者支援課へ送付しています。

 ちなみに、委託金は、前払い方式で、6月・9月・12月の3回に分けて振り込んでいただいています。


 【会員名簿・年賀状・宛名シールの管理】

 会員名簿をはじめ年賀状の住所録・宛名シールは、全てパソコンに登録してあります。

 新規に入会された会員・退会した会員など、変更が生じた場合の登録や抹消は発生の都度行っています。

 また、会員以外の病院や行政の関係者、他県の会長などが人事異動でかわることがあります。毎年、11月の訓練士会議の折「宛名シール」によって変更の有無を確認していますが、各教室の代表・会長から連絡があった場合は、即修正しています。


 【年会費の管理】

 年会費は、毎年5月上旬〜中旬、「払込取扱票」を、定期総会の通知・会誌「信鈴」といっしょに送付し、郵便局へ振り込んでもらっています。

 8月の訓練士会議で納入状況を報告しています。未払いの会員には8月下旬「督促状」を送付し、入金を促しています。

 ちなみに、毎年の入金率は90パーセントほどです。

 最高時(平成2年)には200名を超えていた会員が、現在100名と半減し、会員の減少に伴い、会費収入も大幅に落ち込んでいます。

 会員の減少は、信鈴会に限らず全国的な傾向と聞いていますが、人材確保(役員や訓練士)の面からも、大きな課題となっています。

 そんな中、会則で「3年以上の会費未納者は会員の資格を失う」ことが定められており、残念ながら3年の会費未納により、毎年2〜3名の会員が退会しているのも事実です。


 【訓練士の新規・変更・辞退の申請作業】

 訓練士は、信鈴会会長が推薦し、日喉連会長が認定する仕組みになっています。

 信鈴会としては、一人でも多くの訓練士を選任し、発声技能の継承を図りたいと考えています。会員減少という悩みを抱える中で、組織強化の観点からも必要なことです。

 毎年、各教室からの推薦者を会長に報告し、10月ごろ「訓練士認定申請書」を作成し、東日本ブロック長経由で日喉連会長宛に送付しています。訓練士制度が導入されて6年になりますが、これまでに推薦された訓練士は全員が認定されています。

 また、不慮の事故や病気で亡くなられた訓練士については、「辞退申請書」を作成・送付しています。


 【訓練士の旅費・報償費の計算と支払い】

 年に数回、役員会や訓練士会議が開催されますが、出席した訓練士には交通費実費を支払っています。もちろん、障がい者割引を適用した金額です。

 訓練士の皆さんには、各教室の中心となって活動していただいていますが、事前の会場(教室)準備など結構大変です。教室の運営は、訓練士の肩にかかっていると言っても過言ではありません。そんな観点から、ご苦労いただいている訓練士の皆さんには、一日400円の報償費を支払っています。

 旅費・報償費とも、一年間の実績を集約し、4月の役員会の席で一括払い方式で支払いを行っています。

 事前に、銀行で現金を引き下ろすのですが、訓練士全員の旅費・報償費を10円単位まで袋詰めするのは、結構な大変な仕事です。


 【事業計画の策定と予算編成】

 毎年2月ごろ、会長と「翌年度の事業計画(案)」を相談します。そして、事業計画にのっとった「予算(案)」を策定します。

 何か目新しいものをといろいろ考えますが、あまり変わり映えはしません。最も信鈴会の活動の第一の目標は「声を取り戻すこと」ですから、変わり映えしないのは当然なことなのかもしれません。

 その年に、少し力を入れようと思う事項を提案し、4月の役員会で審議してもらっています。

 予算は、前年度の実績と翌年の事業計画を考慮して策定し、提案しています。


 【突発的作業】

 〇 赤い羽根共同募金会への会誌「信鈴」

   作成費用の助成申請と実施報告

 〇 今野相談役の県知事表彰の申請

 〇 社会貢献支援財団への社会貢献団体の

   申請

 〇 人工鼻の市町村への助成陳情活動

 〇 銀鈴会主催の代用音声巡回研修

 〇 信鈴会創立五十周年記念式典

 〇 日喉連東日本ブロック訓練士養成研修会

  (令和元年度は信鈴会が当番幹事)

 これらの業務は定例業務ではありません。一時的に発生した仕事ですが、それだけに余計気を使います。

 全てが初めてのことなので、資料(タタキ台)作りが大変です。

 申請書や報告書など様式が定められているものは、先方の文書を熟読し作成しています。しかし、それ以外のものは自分で考えて作らなければなりません。

 全体の流れを想像し、場面場面での事象を推測しながら、やっとの思いで作っています。

 突発的に発生する事案はいろいろあり、私の範疇でできるものばかりではありません。各教室での意見や数値の集約が必要な事案も発生します。これらの事案は、教室代表の手を借りなければなりません。各教室の集約結果を報告してもらい、信鈴会としての集約を会計の私が行っています。

 教室代表に手数をかけてしまうことは心苦しいのですが、これだけは如何ともやむを得ません。何分のご理解をいただきたく思います。・・・・・

 以上が、私自身が行っている会計業務の概要です。

 私は、会計の仕事は気遣いが大変だと感じています。人に対する気遣いではなく、行事(会議や研修・式典などのイベント)に対する気遣いです。

 「何か忘れていることは無いか?」「準備に漏れはないか?」「あれは手配したか?」「これは大丈夫か?」

 常に、そんなことを心配しながらやっているのです。ボランティア活動とはいえ、組織の歯車の一つとしての責任があります。万一ミスがあれば、多くの皆さんに迷惑をかけることになります。

 いろいろ不安を抱えながらの会計担当ですが、信鈴会の事務局として、「もうひと踏ん張りしよう」という思いと「早く誰かに引き継がなければ」という思いが交錯している昨今です。・・・・・


 ところで、話は変わります。今年は、信鈴会が創立満50年を迎えました。

 この50年の間に、信鈴会で声を取り戻すことができた多くの先輩たちがいると思います。そして、第二の声を取り戻した先輩たちの中から、後輩患者さんに発声法を継承しようと信鈴会にとどまり、訓練士(指導員)として活動してきた会員が大勢います。

 この訓練士の皆さんの根底にあるものは「感謝と恩返し」の気持ちに他なりません。「私は、先輩たちの指導のおかげで、何とか声を出せるようになった。本当にありがたいことだ。」「後輩患者さんにも是非声を取り戻してほしい。」「信鈴会のために少しでも役に立つのであればお手伝いしたい。」多くの先輩訓練士が、そんな「感謝と恩返し」の気持ちで頑張ってくれて来た筈です。

 その思いは、現在でも変わりありません。各教室の運営は、訓練士の双肩にかかっています。新しい患者さんの受け皿として、発声教室を存続させることは信鈴会の責務です。そして、そのためには後継者の育成が不可欠です。

 これからも、私たち訓練士は「感謝と恩返し」の初心を忘れずに、発声法の継承と同時に後継者の育成にも力を注いでまいりたいと思います。


以上

五〇周年の年にあたり


松本教室 手塚 清三

 私は、今年で喉頭摘出して、六年目となります。定年と言う年での手術でした。営業畑できた私は、声がなくなってしまうと言う恐怖から不安だらけの毎日を過ごしていました。しかし、発声教室という場所が有り、訓練をすれば、また声が出るという事を聞き、大きな励みになりました。その人が今の会長である、上條会長でした。私はすぐ信鈴会に、入会して、発声訓練を行ないました。

 三ヶ月位で声が出初めて、かなり早い期間で声が出たので、非常にうれしく職場復帰を考えましたが、世の中はそんなに甘いものではなかったのです。人間にとって「目」「耳」「声」がないと言う事はとても大きなことだと痛感しました。

 でも私は声が出るようになったのです。食道発声という事を学んだからです。人間生活していく上で、ことばがしゃべれないと言う事は、非常につらい事だと思います。他にもELやシャントというのもあります。人としゃべるということの「大事さ」を感じています。私も三年目にして訓練士と言うものを、いただき、みなさんと一緒になって発声練習をやらせていただいています。会員にはなったものの、出席されていない方がたくさんいますが、皆さんと一緒に頑張っていきたいと思います。

 また各教室6ヶ所あるわけですが、何かもう少し、コミュニュケーションをとれることが出来れば良いと思います。

 昨年は役員にもなり、頑張っていかなくては、と思います。

 今年は信鈴会「五〇周年」の節目の年でもあり、行事もたくさん控えています。

 三役さんを筆頭に、手伝いをしながら、この年の行事を成功裡にしたいと考えています。