平成21年刊 第36号

巻頭の 言葉

信鈴会会長 宇野女 健

温暖化・温暖化とニュースでよく聞きます。気候が狂っているかのよう。欧米でも季節はずれの大雪に見まわれ、地球の裏では巨大地震が発生して、我が国でも被害が出る恐ろしい事ばかりです。北信濃では昨年くれより雪に悩まされて寒い日の連続、ともすると狂ったかのように暖かく、高齢者には健康管理も大変と思います。三月に入りようやく春の訪れが来たと思うと又大雪になる、でも予報では桜の花は早いとの事、まちどおしい。

昨年九月、長野県信鈴会が第二三回日本喉摘者団体連合会東日本ブロック指導者養成研修会開催当番をお引き受けいたしました。それ以来県当局のご指導ご援助をいただきながら準備を日々進めています。大会日程も九月二八日~三十日の二泊三日の予定でご来賓のご出席を頂き開催の予定と同時に全国食道発声大会出場予選大会を開催いたします。

長野県信鈴会の特色を生かした大会にするべく事務局・当会理事で協議の上、六月末迄にプログラムを作成して一都九県十二支部の関係者に配布の予定です。約七十名~八十名位参加の仲間が和やかな雰囲気の中で闊達な議論をして大会の閉幕を願っています。信鈴会各教室の大勢のご参加をお待ちしています。

「やる気・元気・本気」を合言葉に仲間の皆さんが、信鈴会に入会して良かった、これからの長い人生を明るく楽しく生きる為には、再び声を取り戻す事が欠かす事の出来ない条件です。ご家族の為にも元気で頑張って下さい。

前向きな気力とたゆまぬ訓練で一層の自己努力を積み重ね成果を挙げたとき、社会参加に繋がり楽しい人生を、語り合う教室は心の拠り所として明るく元気を願っております。

平成22年刊 第37号

巻頭の言葉

長野県信鈴会会長 宇野女 健

 日本喉摘者団体連合会東日本ブロックの平成二十二年度発声指導者養成事業研修会が二十二年九月二十八日から三日間、長野市で開かれました。障害者の社会復帰促進を目指す本事業は、制度スタートの昭和六十三年以来、回を重ねて第二十三回目。参加団体は、東日本ブロック一都九県十二支部七十四名の仲間が、長野市七瀬メルパルク長野に集い、御来賓の皆様からはご丁重なご祝辞と激励のご挨拶を頂戴して研修会に華を添えて頂き、発声訓練指導者の指導技術向上に大きな成果を上げました。本事業は、社会参加促進のために有効な施策として、各県持ち回りで行っています。これにより各県の福祉行政担当の理解を深め、開催県の一般会員、医局関係の方などにも参観や交流の機会を多くしていただいていると思います。

 本年度は全国喉摘者発声大会の開催年度。第一日目(九月二十八日)は予選会も行われました。長野県信鈴会の出場者三名を含め、総勢各支部より食道発声十七名、EL発声四名の方が出場され、銀鈴会から食道発声六名、埼玉銀鈴会から食道発声一名、EL発声二名が全国大会出場権を獲得しました。東日本ブロック代表として、十一月十三日「第六回全国喉摘者発声大会」に出場されましたが、優勝者は、名声会の百合草栄次様・準優勝は、埼玉銀鈴会の上条光男様でした。

 信鈴会の三名の方は惜しくも全国大会出場権獲得に至りませんでしたが、出場された仲間の皆様は優劣つけ難い素晴らしいスピーチでした。

 第二日目(九月二十九日)は、信州大学医学部耳鼻咽喉科学講座教授・宇佐美真一先生の講演会が開かれました。演題は「耳鼻咽喉科医療の進歩と社会福祉」で、医療技術の進歩により治療できる範囲が飛躍的に広がったこと、それに伴い医療、行政、患者団体のより密接な連携が重要になっているというお話でした。

 今回の研修テーマは「原音発声から早期会話へ」と「体力に不安のある高齢者の指導」です。各会からの代表者からテーマに応じた発表があり、各グループ内でそれに対するディスカッションがあり、その内容をまた発表するという形で研修が進みました。まず原音発声について、誤発声にならない為には、しっかり原音が出るまでは筆記でコミュニケーションをとってもらうことが大切である。また原音が出た方に対する指導は、出やすい言葉を繰り返し、発声してもらい声を出す力を付けてもらうことが最も重要だとの意見が出されました。特に「高齢者だから食道発声は出来ない」ということはないこと。年齢ではなく、個々の状況に合わせて柔軟に対応すること。会員さんが何を望まれているか指導員がしっかり聞き取ることが重要である等の意見が出されました。

 宿泊による集中効果は大変大きく、各支部色々な事情、指導法、考え方がある中、お互いに学びあうことにより、一層の向上が得られたと思います。又、他の会の指導員と全員が大変明るく楽しく交流が出来たと思います。各地に戻り、今後の成長が楽しみです。特に地方の会では、会員さんと指導員の高齢化が深刻な問題になっていますが、幸い信鈴会では新旧の新陳代謝が上手く機能していることを確認することが出来ました。規模の大きな会・小さい会様々な状況ですが、高齢者が多く指導員委嘱がまま成らず、会の継続を断念せざるような支部もあるようです。信鈴会では比較的若い年齢の方がいらっしゃる利点を実感しました。しかし体力の衰えが理由で教室に通えなくなる会員さんに、どう対処していくか、車社会の現状等、これからの課題と思います。

 最後に研修会が成功裏に終了出来ました事は、行政、医局、そして仲間の皆様のご協力のたまものと感謝申し上げます。

支え合い共に生きる社会を目指して

長野県健康福祉部障害者支援課長 寺澤 博文

 日頃、貴会の皆さまにおかれましては、県の障害福祉行政の推進に御理解と御協力をいただき厚くお礼申し上げます。

 また、貴会の御協力により実施している「発声訓練事業」につきまして、関係各位の御尽力により県内各地において熱心に発声教室を開催していただき、深く感謝申し上げます。

 さて、平成十八年からスタートした障害者自立支援法は、就労による自立と地域で安心して暮らせる地域生活支援を目指していますが、施行当初より様々な課題が指摘されており、現在、国においては、障害者自立支援法に替わる新たな制度の検討を、多くの障害者の皆様の参加を得て進めているところです。障害者福祉制度の大きな転換期を迎えようとしているところであり、障害者の皆様にとってより良い制度となるよう県としても期待するものであります。

 本県では、平成十九年三月に策定をいたしました、「長野県障害者プラン後期計画」におきまして、障害のある人もない人も、誰もが社会の一員として、地域で安心して暮らすことができる社会づくりを目指し、各種障害福祉サービスの充実や自立生活への支援に取り組んでいるところです。

 また、平成二十三年度からは、障害のある方々に対する県民の理解を深め、障害のある方もない方も、誰もがお互いに尊厳を重んじて支え合い安心して暮らせる地域づくりのため、障害を理由とする差別を禁止する条例の制定に向けた検討を進めるなど、引き続き、皆様の地域生活と社会参加の支援に尽力してまいります。

 障害者福祉の充実には、行政だけではなく、個人、家族、地域社会において、お互いに理解し合い、支え合っていくことが大切と考えております。

 その意味でも、貴会における様々な活動は、会員の皆さま相互の交流や支え合い、それぞれの地域における理解につながるものとして、大変意義あるものと思います。

 今後とも、皆さまには、それぞれのお立場からの積極的な取組みを引き続きお願いいたしますとともに、貴会の活動が、今後も益々活発になることを期待しております。

 最後になりますが、貴会の益々の御発展と、会員の皆さまの御健勝を心から御祈念申し上げます。

障害者福祉の充実に向けて

長野県信鈴会特別顧問 県会議員 本郷 一彦

 混迷を深める日本の政治・経済状況の中、昨今の中東アフリカ問題は世界に新たなリスクが発生し原油の供給不足・高騰、更にユーロ圏の財政危機が深刻化してまいりました。 したがいまして日本の危機が迫る時、地方政治の果たす役割は一層増大をしております。

 二〇一一年を政治元年ととらえ地方主権の理念のもと、自立した経済基盤を確立し、財源・権限・人の移譲を中央より定着させ、真に豊かな長野県の確立を目指さなければなりません。

 とりわけ成長と分配の視点から、新たなる経済成長戦略をうちたて、同時に高齢者・障害者福祉・介護・医療の充実をいかに複合的にかつ適切に対応するかが政治の最重要課題であります。

 信鈴会におかれましては、県の障害福祉行政と密接な連携をとりながら、会の目的にそった事業計画を実施され着実なる成果をあげられていることに対し心から敬意を表します。

 また、昨年は東日本ブロック大会を長野市において開催され、宇野女会長をはじめ会員皆さまの大変なる努力により、大成功のうちに終了されましたことに対し心からお慶び申し上げます。

 県におきましても中期総合計画に基づき「障害者が自立して生活できる社会づくり」の実現に向けて事業推進されておりますが、私も県の重要施策と認識し、そのために全力を傾注する所存であります。

 有効求人倍率〇・六一、完全失業率五%、県民一人当たりの所得は二七二万円と十年前より四〇五円程低下するなど、県下の経済の疲弊は危機的環境にあります。そうした中、県民のための有効な財政出動を実施すべく二元代表制の議会の立場からその責任は極めて重いと痛感しております。

 少子高齢化が急速に進み、財政健全化における福祉行政のあり方が改めて問われるなか、社会保障制度の抜本的改革こそが福祉充実の基本であります。

 政治の求心力の低下する今日、ノーマライゼイションの理念を踏まえ、私も特別顧問として信鈴会の趣旨を自身の問題と位置づけ、今後とも県政を通じお役に立てるよう努力する所存であります。

睡眠と健康

信州大学名誉教授 田口 喜一郎

《睡眠は健康のもと》

 寝る子は育つといわれますが、成人にとっても睡眠は必要不可欠な生活の部分です。さて、どのような眠りが好ましいか考えたことがありますか? どんな人でも眠ります。平均して、人生の三分の一を占める睡眠は、健康にとって重要なことは明らかです。よく眠れない、眠っても十分休めた感じがしない、日中眠気が生じ仕事に支障がある、睡眠中に怖い夢を見る、足がむずむずして眠れない、などという睡眠にまつわる異常は、現代人に多い病気として理解され、治療の対象とされるようになって参りました。私も時々眠ろうとして努力しても眠れず、苦しむことが少なくありません。よい睡眠が健康に結び付けばそんなによいことはないでしょう。今回は、よい睡眠とはどういうものか、そして健康面からみた睡眠の意義を考えて見たいと思います。

《近年の睡眠研究の進歩》

 睡眠の研究は、今から八十年位前から熱心に行われるようになり、特に二十年位前から研究者が増えてきました。ここ十年間に全国の医科大学の中に新しく十くらいの睡眠学講座ができ、いろいろな研究が積極的に行われるようになりました。生活習慣病に関係する蛋白質が睡眠に関係していることや、睡眠に関係する遺伝子が明らかにされたことから睡眠が健康に及ぼす影響が分かってきたことが大きな成果でしょう。

《睡眠の特徴を知ろう》

 それではよい睡眠とはどんなものでしょう。一般的におとなは平均して七時間くらい眠ることができ、寝付きと寝起きがよく、起きた後頭も体もすっきりした状態で、日中眠気を生じることもなく、仕事がスムースにできることでしょう。以下睡眠に関するいくつかの重要なポイントを挙げ、最後によい睡眠を得るための対策を考えてみたいと思います。

 一 睡眠は年齢によって違う

 こどもの睡眠時間は長く、高齢者では短くなることは、よく知られております。高齢者は生活のリズムが不規則になりがちで、早朝覚醒、中途覚醒が多いことが理由の一つに挙げられています。私も現役を退いてから、生活のリズムが狂い始め、夜更かしや遅い就眠が多くなりましたので、朝の寝起きがよくないことがあります。対策として、前夜どんなに夜更かししようとも、朝決まった時間に起きて、日中の眠気対策は短時間の昼寝を持つごとによって、何とかリズムある生活を維持しようと努力しております。それではどうして年齢差が生じるのでしょうか?睡眠の深さは一定ではなく、人が眠るとすぐ深い睡眠に陥り、「深い眠り」から次第に「浅い眠り」になり、また深い眠りに戻るという繰り返しが行われるのです。この繰り返し(睡眠周期)はこどもでは八〜十回と多いのに対し、成人では減少し、老人では四〜五回となります。深い睡眠は体の休息で、この間に免疫や体の新陳代謝が盛んに行われ、脳も休養を取ることができます。これに対し浅い睡眠(「レム睡眠」と呼びます)では脳は活動しており、よく夢を見ます。このレム睡眠は、幼児では全睡眠時問の半分くらいを占めます。赤ちゃんが眠っている最中に笑ったり、声を出したりするのは、レム睡眠の最中です。楽しい夢を見ているかも知れません。赤ちゃんやこどもは、眠っている間も脳が発達を続けているためと考えられます。これに対し、老人ではレム睡眠が十五%程度に減少しますので、夢を見ることも少なくなり、脳の活性度も落ちているためではないかと推定されます。若いときにはよく夢を見たが、年を取ってから余り夢を見なくなったというのもこういった理由があるのです。しかし、これも個人差があり、年を取ってもよく夢を見るという人は脳が若い証拠かも知れませんね。 年を取るとよく眠れない、眠ってもすぐ目覚めると訴える人が多くなりましたが、睡眠効率は老人では著しく悪くなるが当然のことですので、あまり気にしないことです。眠れなければ、日中に必ず眠気がさす時間帯がありますので、その時眠ればよいのです。ただ余り長時間の昼寝はお勧めできません。昼間眠り過ぎると本来眠るべき夜間に眠れない原因になるからです。

 二 睡眠と生活習慣病は関係が深い

 眠らないと健康に悪影響があるのではないかというということは誰でも考えることでしょう。一晩や二晩は眠れなくてもそれだけで健康を害することはないということを申し上げました。しかし、職業上睡眠時間を削らなければならない人がおられます。こういう方々が注意すべきことが、最近いくつか分ってきました。 グレリンという胃から分泌されるペプチドホルモンがありますが、脳の下垂体に働き、食欲増進→肥満に導くことが分かっております。五時間睡眠の場合と八時間睡眠の場合を比べると、前者の方がグレリンの分泌量が多いことが報告されており(スタンフォード大学の睡眠学教室の研究)、肥満はいろいろな生活習慣病のもとになります。従って睡眠時間の短縮はできるだけ避けるべきです。

 また、特に深夜業勤務者にいえることですが、睡眠時問が少ないと太ることが証明されております。その理由は、睡眠時間が短くなるとレプチンというホルモンが減少し、肥満を生じるためです。レプチンは食事開始後二十〜三十分して血中に出てきて満腹感を知らせるホルモンです。睡眠時問が少ないとこのホルモンが欠乏して食べ過ぎるために、肥満になる可能性があります。従って、睡眠時間が少ないといわれる深夜業勤務者も一定の睡眠時間を確保することが必要です。 脳や体に一日のリズムを与える時計遺伝子というものがあります。その遺伝子の一つは夜の遅い食事で体を太らせる機能があり、特に午後十時過ぎに食事を取ると吸収率が高まり肥満になり易くなります。肥満は当然生活習慣病の一兆候ですので、できるだけ深夜の食事を避けた方がよいといえます。

三 理想的な睡眠とは

 良い睡眠を維持するためにはどうしたらよいか?原則的には次のようになります。

イ 早寝早起き

 これは、昔からいわれていることで、できれば理想的です。しかし、実際調べてみると、可能な人はごくわずかで、長時間労働や不規則労働の多い現代社会では、「できるだけそうしてください」というのが精一杯の場合も少なくありません。

ロ 朝起床時に光を浴びる

 朝できるだけ決めた時間に起きると同時に、窓のカーテンを開き外の光を入れると頭も体も目覚めることができます。冬季は夜が明けるのが遅く、早朝はまだ外が暗いので、室内の電気を点けるとよいです。

ハ 必ず朝食をとる

 朝食をとることにより、体内時計がスタートし、一日のリズムが快調に動き出します。朝食の量には問題ありません。食欲のないときは少しでも結構ですので、朝食は必ず取りましょう。

ニ 睡眠前のカフェイン飲料の制限

 コーヒー、紅茶、緑茶を含めてカフェインを含む飲料はなるべく控えるとよいのですが、これは人によって感受性が違いますので、各人睡眠に影響のない程度にしてください。

ホ 深酒を控える

 夜間の大量のアルコール摂取は、夜間頻尿の原因となり、睡眠を妨げます。また、リバウンド現象で、頭がさえて眠れなくなることもあります。

へ 睡眠時間と死亡率

 睡眠時間と死亡率の関係を調べた報告がありますが、死亡率は七時間前後が最少で、それより長くても短くても上昇することが示されております。極端に長かったり、短かかったりすることは避けた方がよさそうです。

ト 昼寝の推奨

 可能ならば昼寝をお勧めします。それは脳と体の両方の疲労回復と活性化に大変有効であることが証明されております。但し長時間の昼寝は、前に述べたように夜の睡眠の妨げになるから、三十分以内が望ましいとされています。

《まとめ》 今回は睡眠に関する基本的な部分のごく一部を挙げたに過ぎませんが、こういったものを参考にされまして、皆様におかれましては、各人ご自分の睡眠の取り方の現状を踏まえて、改善できる点は改善して頂き、健康保持のためによい睡眠を取るように努力して頂きたいと思います。

耳鼻咽喉科医療の進歩と社会福祉


信州大学医学部耳鼻咽喉科学講座 教授 宇佐美 真一

 平成二十二(二〇一〇)年九月に長野市で開催された日喉連東日本ブロック発声指導者養成研修会において「耳鼻咽喉科医療の進歩と社会福祉」というテーマで講演させていただきました。皆さん大変熱心に聞いていただき感謝しています。この講演では医療の進歩に対応して新しい福祉の枠組みが必要になってきたことをお話ししました。

         ◇   

 耳鼻咽喉科領域でこの十年画期的な進歩を遂げた医療として高度難聴に対する人工内耳治療があります。一昔前までは先天性の高度難聴児が聴覚を活用して言葉を獲得することは不可能でした。ところが最近ではこのような子供たちも人工内耳により言葉を獲得できるようになりました。この人工内耳の治療で重要なのは手術を行っただけではだめだということです。その子供に合ったリハビリテーションを行って始めて子供達の言葉が発達してきます。その部分が十分でなければせっかく手術で人工内耳を埋め込んでも十分言葉が伸びてきません。

 ところが我国ではこれらの施設が十分整備されていないのが現状です。要するに新しい医療に対応する療育システムが出来上がっていないのです。信州大学病院では平成十八年に人工内耳センターを開設し、トレーニングまで一環して出来るシステムを作り、そこまでを医療として行うように整備しました。

システムを作る際に障壁になったのはこういったトレーニングが医療として確立していないということでした。十分なスタッフを投入するためには医療として確立していなければ難しいのが現状です。現在も新しい方向性を模索しながらの毎日ですが、子供たちが人工内耳を使ってしゃべり始めるのを見ると、そういった苦労も忘れてしまうのも事実です。

食道発声にも同じようなことが言えるのではないでしょうか。現在、社会復帰までをリハビリテーション医療としてカバーできないかということを考えています。現在どこの施設でも食道発声教室というボランティアベースで行われていますが、食道発声教室で行っている内容はりっぱなリハビリテーションであると思います。喉頭摘出を行った患者さんに対してこのようなリハビリテーションを確立して行くことによって、患者さんに対してより確実な支援が提供できるようになっていくと思います。今後、全員がそれぞれに合った最適なリハビリテーションを受けながら社会復帰できるようにしていく方向性が模索できればと思っています。

 このように医療が日々進歩し、難聴も癌も克服できる時代になってきました。それに伴い新しい医療に対応した教育や福祉の枠組みが必要になってきています。今後医療、行政、患者団体がより密接に連携し、患者さんの社会復帰に向けて支援体制を作ることがより一層重要になってくるのではないかと思っています。

 患者さんの病気を治療する際に我々医療に携わっている者はともすると病気を治すことに集中してしまいがちです。もちろんそれは医師として当然でとても重要なことですが、考えてみると患者さんは退院後も、食道発声や電気喉頭などで声を取り戻すリハビリテーションを行い、それぞれに社会復帰を目指して頑張っています。年に一度、松本教室の発表会に出席させていただいていますが、それぞれ頑張って社会復帰されている様子を見ると、それぞれの患者さんには退院後長い人生があり、我々医療従事者も短期的に病気を診るだけでなく、トータルに見てお付き合いしていくことが大事だと改めて思っています。何故病気を治すのかと言えば、やはり社会に復帰し、職場に戻ったり、生活を楽しんでいただくために、治療をしていただくわけですので、我々もそこを十分考えながら医療に携わる必要があります。

 毎年、信鈴会の患者さんを始め何人かの患者さんに医学部学生の講義にお越しいただき自らの体験談をお話しいただいております。難聴の患者さんには聴覚が戻った感動を、喚覚障害や鼻閉の患者さんには嗅覚の素晴らしさや鼻で呼吸が出来る爽快さを、また喉頭摘出を行った患者さんからは声が戻った時の感動を実際の口から伝えてもらっています。そのような講義を通じて、病気のみを診る医師ではなく、患者を診るという姿勢で医療が行える医師が育っていくことを願っています。

信鈴会の皆様に出会って


信州大学医学部附属病院東2階病棟 看護師長 青柳 美恵子

 会誌「信鈴」の発刊おめでとうございます。私は平成二十二年二月に東2階病棟に配属となりました。信州大学病院は、看護学生の時代から今に至る、私の看護の学びの場となっております。看護師として三つの病棟を、看護師長として二つの部署を経験後、耳鼻咽喉科の患者様と関わらせていただいております。耳鼻咽喉科は学生実習以来で、新人と同じ気持ちでこの一年間を過ごしました。デイルームの入り口の表示により発声教室の存在は以前より知っておりましたが、実際に教室に参加させていただき、皆様の熱意や行動力に感激しました。同じ体験をされた方々が直接支援をされている会。知識や技術があっても医療者にはできない支援であり、それを患者様が主体で運営までされているすばらしい会だと知りました。また指導方法の向上にも努められており、この会がなくては、声を失った方々の社会復帰は、より困難になってしまうと感じました。

 以前に勤務していた病棟で、在宅酸素療法をされている患者様の会を企画運営しました。酸素濃縮器を自宅に設置し、小型ボンベを携帯すれば外出も可能になりました。しかし「酸素のチューブをつけて外に出るなんて」と、外出に戸惑う方がほとんどでした。家族以外の方々とふれあう機会をと考え患者様の会を開き、お茶や七宝焼きなどをしながらの情報交換の場を作りました。やはり同じ体験者からの励ましやアドバイスは、より実践的で心強いものなのだと感じました。入院し手術を受け辛さに直面されている方々に、同じ辛い体験を乗り越えて先を進まれている指導者の皆様の姿は、希望を芽生えさせて下さいます。また一生懸命練習をされている、すぐ先を歩まれている方々の姿は、勇気を与えて下さいます。信鈴会の皆様の活動は、声を取り戻した先に再び沢山の人との関わり合える日が待っていることを、夢ではなく現実に感じさせて下さっています。これからも微力ではありますが、皆様のすばらしい活動のお手伝いをさせていただけたらと思います。

また皆様からお聞きする体験やご意見により、私たち医療者も成長させていただいております。

 「臭いもわからず危険なこともある」、「すすることも難しい」。生活の様々な面で起こる変化、そしてそれを克服された経験をこれからも沢山教えていただき、今後の看護に活かしていきたいと考えております。ご指導をよろしくお願い致します。

信鈴会長野教室の皆様との出会い


長野赤十字病院E4病棟 看護師長 上沢 恵美子

 平成二十二年より耳鼻科病棟の看護師長として、信鈴会長野教室に参加させて頂いております。耳鼻科に勤めたことのない私は参加の初日、緊張しました。一歩教室に入ると、雰囲気が明るく、会員の皆様とすぐ話をすることができました。いつ参加しても、誰もが熱心に練習をされています。皆でやっていることが、力になっているように見えます。

 「一息一呼吸」だと教えられた食道発声。どれ位練習して発声ができるようになったのだろう…。げっぷを出そうと、やってみますが、できません。教室に来るたびに会員の皆様に頭の下がる思いです。

 今私が教室に参加する楽しみの一つに、病棟でお会いした方々と、発声教室で会えることです。辛かったであろう治療を乗り越え、元気に来てくれている方に会えるのが、本当にうれしいのです。

 これからも会員の皆様と一緒に、楽しんで教室に参加させて頂こうと思っています。よろしくお願い致します。

病棟看護師として


佐久総合病院3階西病棟 看護主任 結城 文子

 私の勤務する3階西病棟は、耳鼻咽喉科、眼科、婦人科の混合病棟です。咽頭摘出の患者様は年間2〜3名でしょうか。退院前にソーシャルワーカーを通して発声教室の紹介をさせていただき、参加をお勧めしています。しかし、私自身は一度も発声教室に参加させていただいた経験がなく、正直どのように行っていらっしゃるのかわからないままでした。今回、「会誌信鈴」第三十七号に寄稿の機会をいただき、前号までの数冊を改めて読み直しています。その中で、どのような思いで信鈴会を立ち上げられたのか、そして、現在皆様がいかに明るく積極的に社会に貢献されているのかが、手に取るように分かりました。

 私たちは、病棟勤務の中で、入院までは声を通してコミュニケーションをとっていらした患者様が病状の悪化で突然気管切開をし、声が出なくなってしまったことに戸惑う姿に何度も直面します。筆談で一生懸命意思を伝えようとしても看護師が読み取れず、2度、3度と確認をしなおす。看護師が自分の要求をなかなか理解してくれないことに腹を立て、ボールペンを投げ捨てる患者様もいました。患者様の苦悩はいかばかりと想像しつつ、正直、患者様とは最低限のコミュニケーションを行い、それ以外は足が遠のいてしまうこともありました。

 そんな至らない私自身も患者様から元気をいただくこともあります。長い入院生活の中で看護師とも少しずつ心が通い、退院の時感謝のお手紙を残してくださった気難しかった男性患者様。また、手先が器用で入院中常に編み物をされており、スタッフにもたくさんの手編みのプレゼントを残していって下さった女性患者様。大きな壁を乗り越えられた患者様の退院の時の表情には何ものにも負けない強さと全ての人を包み込むような優しさを感じます。これこそが信鈴会の皆様の原点と通じるものなのかと改めて思いました。

 今後は佐久という地域の中での信鈴会にまず参加させていただき、交流を深め皆様と共に活動が出来る様、努めていきたいと思っております。

 最後になりましたが、今後の信鈴会のご発展と皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。

言葉で伝えることの大切さ


長野市民病院4階東病棟 看護師長 藤澤 和子

 平成二十三年三月十一日(金)午後二時四十六分、東北地方太平洋沖地震が発生しました。その時、私は東京にいる娘の家に滞在していました。直後から携帯電話は通じず都心の交通機関はすべてストップしてしまいました。

 私の家族は、単身赴任の夫、それぞれ独立している娘たちと、長野で同居している義母以外は全員東京近辺に住んでいます。安否の確認は携帯電語のメールで出来たので安心しました。また、長野にいる義母にも全員の無事をメールで伝えました。義母も自分の携帯電話を持っています。しかし、メールは受信できても返信や送信の操作はできなかったので、そのメールが届いたかどうかは確認できませんでした。

 翌日午前四時三分に、今度は長野県北部で震度6強の地震が発生したという情報が入りました。病院のスタッフからは連絡が入りましたが、義母とは連絡がとれませんでした。周囲の人たちからの情報で大事には至っていないことが確認でき、多分無事であろうとは思っていましたが、やはり義母の声を聞くまでは安心できませんでした。何度も携帯電話からの通話を試みましたが、回線が混み合っていてつながらなかったため、公衆電話を使おうと最寄りの駅まで出かけました。同じ思いの人たちで、早朝にもかかわらず、数台の公衆電話に順番を待つ列が出来ていました。やっと順番がきて、義母の元気な声を聞いた時には、嬉しくて涙が出そうになりました。義母もまた、東京にいる家族の無事を直接聞くことが出来て安心した様でした。

 現代社会は携帯電話やパソコンで、手軽に自分の意思をメールで伝え合う事が出来ます。しかし、肝心な部分はお互いに言葉を交わす事が必要になると思います。

 病気で喉頭を摘出された皆様が、食道発声でご自分の声を取り戻し、言葉で相手に意思を伝えられるようになるために大変な努力をされた事を、昨年末に参加させていただいた信鈴会の納会でお聞きしました。そして、皆様に言葉で伝える事の大切さ、すばらしさを教えて頂きました。今回の体験で、その事を再認識し、何の努力もせずに自分の意思を言葉で伝える事ができることがいかに幸せな事なのかを痛感しました。皆様にお会いする機会を頂いたことをとても感謝しております。また、皆様とお会いして言葉を交わせる機会を楽しみにしております。そして、今後も皆様がお元気でご活躍されることを心よりお祈り申し上げます。

飯田発声教室の皆様とのふれあい


飯田市立病院5階西病棟 看護師 坂 巻 美穂子

 私は、耳鼻咽喉科外来に配属となってから飯田発声教室の皆様と関わらせて頂くようになり、六年が経ちます。今は、耳鼻咽喉科の患者さんが入院する病棟で、看護をさせて頂いています。

 飯田発声教室は、月に二回開催されており、私も、できる限り参加をさせて頂いています。和やかな雰囲気の中、冗談が飛び交い、お茶を飲みながらのひとときは、あっという間に時が過ぎていきます。『ここに来てみんなと話をして家に帰ると、上手になったって言われるんだよ。みんなの顔を見ると元気になるし、頑張らなきゃと思うんだよ。こんなに気楽な集まりはないよ。』と教室の方が話をしてくれました。そのお話が物語るように、初めて教室に参加した患者さん・ご家族も、いつの間にか、表情は笑顔になり、教室の方々から元気と勇気をもらっていることを実感します。

 喉頭全摘出術という大きな手術を乗り越えられ、新たな発声方法を習得する為に、前向きに過ごされている発声教室の皆様と関わらせて頂けていることは、看護師としての幅を広げてくれています。

 これからも寄り添った看護ができたらと思っております。

ずっと忘れられないあの日あの時のこと


長野県信鈴会相談役 今野 弘恵  

 国際障害者年記念第三回喉頭摘出者世界大会が一九八二年(昭和五十七年)七月五日から三日間、東京経団連会館で開かれました。

第一日目

 会場ステージにはこの日集まった世界二十四カ国の国旗がならび、喉摘者世界大会の歌がながれた。東京大会運営委員長の開会の挨拶から始まり、常陸宮様からお言葉を賜り、祝辞は厚生大臣、東京都知事、日本障害者リハビリ協会会長などにより、おごそかに盛大に開会。つづいて

 一、 喉頭がん治療の進歩(アメリカ)

 二、 食道発声に有利な喉頭摘出術(日本)

 三、 代用声門と代用食道発声(スイス)

 四、 古典的な食道発声と肺のささえを利用した

食道発声の基礎的及び臨床的測定の比較(アメリカ)

各国の医師、音声学者、リハビリテーション専門家などの講演が行われ、つづいてパネルディスカッション

第二日目『喉摘者の発声指導の指針』

 一、 喉頭摘出後の食道発声のしくみ(日本)

 二、 銀鈴会二十八年の統計的観察と成果(日本)

 三、 発声指導上の諸問題(日本)

 四、 メキシコの喉摘者の音声治療の現状

   (メキシコ)

 五、 喉摘者に対する術前術後の面接の時期に

    ついて(アメリカ)

 六、 中国における喉摘者の発声訓練の紹介(中国)

 七、 喉摘者の真の味方とは(ベネズエラ)

以上それぞれの資料、スライドなどにより報告され、つづいてパネルディスカッション「発声訓練の実際と成果について」。日本、ベルギー、アメリカ、西ドイツ、スペインなど活発な質疑応答がかわされた。

 『笛式人工喉頭ならびにエレクトロラリンクス使用と将来の展望』

 日本、イタリア、ノルウェー、オランダ、インド、デンマーク、フランスから貴重な発表があった。

第三日目 喉摘者のスピーチ発表

 日本、イギリス、カナダ、西ドイツ、スイス、アメリカ等二十八名代表によるスピーチには食道発声、人工笛、電気発声、形成法では浅井式、天津式などで、それぞれ、第二の音声を自分自身のものにしたよろこびや、苦労や、感動を力強く一生懸命発表され、素晴らしいスピーチ発表であった。この二十八名の発表者のなかには信鈴会の三瓶満昌さんの食道発声の発表があった。音量があり、言葉もはっきりききとれる素晴らしいスピーチだった。最後に順位の発表があり、三瓶さんは二位に選ばれ、日本にとっても信鈴会にとっても栄誉であり、私は会場にいっしょにオブザーバーとして参加した友達と手をとりあってよろこんだ。さすが三瓶さん。ほんとうにうれしかった。

 人種の差はあれ、声帯を失い第二の声を獲得する人たちの願い、求める気持は一つなんだ、世界は一つ・・・感動に胸があつくなる思いでした。私のもう一つの感動、この世界大会に出席した外国の女性達の堂々とした美しい姿、首に白い前掛けをしている人は誰もいなかった。襟元のあいた洋服に大きなペンダント等、実にファッショナブルな形に化けさせたものでおしゃれを工夫している姿に目を見張った。おしゃれは自信につながる。欧米諸国に比べると日本はまだまだ一歩も二歩も遅れているのではないか?心の中にある障害を身なりおしゃれによって明るく楽しくのりこえていかれるよう応援したい・・・看護の立場から責任を感じた。

 第三回喉頭摘出者世界大会には、信鈴会会長鳥羽源二さん、副会長義家敏さん、そして最終日にオブザーバーとして、NS野島節子さん・今野が参加させていただきました。大会の様子について信鈴会会報十三号に義家敏さんが一文を載せており、今回一部抜粋させてもらいました。

 あの日、あの時の感動は私のたから。

佐久教室だより


佐久教室 三瓶 満昌 

 平成二十二年度は、佐久の教室にも大きな変化がありました。その一つは、常勤の先生が耳鼻科に着任されて、久しぶりに喉摘手術が行われ、三人の入会者がありました事。昨年までの四人か、五人の出席でしたが今年は、九人の会員で賑わう程の盛況ぶりです。

 私もこの教室で三十年会員の皆さんの発声訓練のお手伝いをさせて貰っていますが、ふりかえりますと、いろいろな事が想い出されて感無量です。今野弘恵先生の熱い想いが、この佐久の地に喉摘者の声を再び取り戻せるリハビリの場を誕生させました。佐久病院には現在十一の患者会があります。その中で毎月何回かの活動をしているのは、この信鈴会の発声教室だけです。したがって、手術後の患者のケアを大切にするこの病院では、発声教室はよく面倒をみてくれますので、有難いと思って感謝しております。

 教室では、EL担当の岡部さん、古参の三浦さん、小松さんが中心ですが、新しい会員として、市川さんが田口峠を越えて出席します。同じ時期に喉摘された小林夏子さんは、大正生れで人生の大ベテランですが、私たち以上に元気で驚かされます。小諸の遠方から、お嫁さんの車で出席しますが、手芸がお得意で毛糸の手編みの帽子を編んで、会員の皆さんにプレゼントして喜ばれています。近さんは、岡部さんの近くに住んでいられて教室ではゲップの段階です。他に三井さん、松崎さんが同じように、ゲップを出す練習の段階です。

 食道発声ではこの段階がもっとも苦しく、いちばん辛棒を要する時期です。ここを乗り越えれば嘘のように楽になりますので、この胸突き八丁を何としても乗り越えて貰いたいと、祈るような気持ちで応援しています。私もこの段階で田舎の父に、泣きごとを書き送った事がありました。父の返事の手紙に、「峠越さずば里の灯見えず、頑張れ。」と励まされたことを想い出します。

 食道発声に成功しようとする人が必ず通る道に、いくら空気を呑んだつもりでも、そのような実感がなく、唖然とする時があります。やたらに口をパクパクして何とか呑もうとするのですが、空気は入っている筈ですから、焦らず思い切り吐き出すようにしてみたら、とアドバイスします。

 のれんに腕押しというのはこのような感覚を言うのでしょうか。

 この人たちはまだ働き盛りの若い活力を持っている人たちですから、先が楽しみです。きっと信鈴会の精神を理解して、発声教室を岡部さんと一緒に引っ張って行ってくれるものと思います。この教室では、三浦つる様、小松タケコ様の協力も見逃すことは出来ません。教室の円滑な運営には、この方たちボランティアの協力があってこそです。私はかねてから、野外発声訓練と称して、教室から出て、外で親睦を兼ねた集会ができないか、と考えておりました。そうして教室の皆さんが揃って体調の良いときを見計らっていましたが、仲々好機をつかめずにおりましたところ、この奥様方がせっせと忘年会の段取りを整えてしまいました。案ずるより産むが易しの譬えの通りでした。お蔭で久しぶりに、温泉に浸かり温まったところで百薬の長を楽しみ大変に盛り上がった一夜でした。佐久の皆さんも酒豪です。私は少し遠慮していたようで反省しきりでした。

 十二月の暮も近い頃松本教室の発表会がありました。今回で三回目ですが、私も参加させていただいております。信大の宇佐美教授、海沼先生、若い先生方や看護師さん、そうして会員の家族も出席して、私達喉摘者の発声に関わる学会の情報や、特殊な発声法についての説明等を聞くことが出来て、とても中身の濃いイベントで、一教室だけのものとしてしまうのはもったいないと思います。他教室からも参加して、交流されると良いと思いました。

 今年は、信鈴会の創設から現在に至る道程を、各教室の開設に関わった人達の活動や言葉をたどり、歴史の記録を綴って後世に残したいという思いから、信鈴史なるものの編纂をしようと、その作業に入った。その中心になっているのは、松本教室の上條副会長率いるグループの、横地さん大久保さん等です。

 私は佐久教室の開設から現在に至る主な出来事を思い起して書き送ることにしたが、その中で、この教室に声を求めてやって来た人達の数を調べた。驚くことにその数は、約百二十人に達した。その半数以上の人達が、堂々と社会復帰を果たした。佐久教室は過去に消滅の危機を招いた事があったが、改めて信鈴会という団体の活動の意義を痛感した次第です。

 私も信鈴会の先輩には大変お世話になりました。手術前、手術が厭で迷っている私のベッドに鳥羽会長が現れて、「さんぺいさん、手術をしても声は又出せるようになるよ。心配しないで今は病気を治すことを考えなさい」としっかりした声で諭され、その言葉で一遍に迷いは吹きとんでしまいました。お膳立ては、今野先生でした。信鈴会には、今野先生に生命をいただいたと先生を慕う人は少なくありません。先生は今なお、私たち喉摘者の自立を促す活動を続けていられます。

 先生に生命をいただいた一人として、先生の健康を祈っております。

 また、信鈴会に入会した当時から、桑原賢三先生にも大変お世話になりました。先生は当時、会の役員を勤めていられましたが、会務に不慣れな私をいろいろな場面で、それとなくやさしく導いて下さいました。先生の強固で高潔な人格は会員の尊敬を一身に集めていました。高齢とはいえ先輩と会えなくなるのは残念でなりません。今年も又新しい時を迎えます。佐久教室の皆さんと一緒に信鈴会の発展を願い乍ら頑張って、先輩たちの思いに応えたいと思います。

 おわりに、佐久病院の吉村剛先生、大塚裕子師長様、ケースワーカー渡辺剛史様にお世話になりましたお礼を申し上げ、又ご健康をお祈りしてペンを措きます。

飯田教室だより 

飯田教室 花田 平八郎 

 飯田教室平成二十二年度の経過を簡単に報告させていただきます。

 今村和行代表が亡くなられ早くも二年を経過し、月日の早さをつくづく感じます。現在四〜五名の会員が常時出席され、わいわい、ビービーと過ごしております。耳鼻科の看護師さんが交代で多忙の合間をさいて参加いただき、感謝しております。

 増田指導員さんが元気にELの指導をしたり、折りにふれては写真撮影で皆を楽しませてくれています。

 岡田指導員も面倒な記録を取りながら新会員の指導に当たっておりまして、皆チームワークよく発声の向上に努めています。

 六月十二日には信鈴会総会に三名出席しました。

 九月十二日東日本ブロック発声指導者研修会が長野市で開催されましたが飯田教室では都合がつかず欠席しました。信鈴会会長はじめ開催にご苦労された皆様に心よりお詫び申し上げます。

 飯田教室開設以来一〇〇回目が十一月二十五日に当たりました。耳鼻科の看護師さんがプラカードやケーキ等用意して下さり、会員と一緒に祝いました。皆一同感激いたしました。私は何も解らず夢中で過ごした一〇〇回目でした。

 二十三年を迎え砂払温泉で新年会を看護師さんも参加していただき楽しい一時を過ごしました。

今年も皆元気で発声教室を盛り上げ一人でも多くの方の発声向上に役立てれば本望と思っています。

以上、思いつくままに二十二年度の報告をさせていただきました。

 皆様の御健勝を心から祈念しおわります。

第二十三回日喉連東日本ブロック発声指導者研修会を振り返って


諏訪教室 守屋 一次 

 思えば二年前、会長と一緒に東日本研修会に参加したその時に次の開催県が長野県信鈴会に決定、それから準備が始まり忙しくなりました。

 第一に会場捜し。その前に役員会を開き、皆様に信鈴会全員で進めることを申し合わせ協力することを確認しました。会場となる場所は交通の便と会場の広さなどを考慮して選定し長野駅から近く収容人員も多く再オープンしたメルパルク長野に決定をし、東日本ブロック長との打ち合わせを当会場で行うことが出来ました。数回打ち合わせを行い、実施事項が決まって行き、当日に向けて信鈴会役員指導員が合同で打合せを実施後、参加者全員に役割分担を引受けてもらいました。長野県六ヶ所の教室より参加し信鈴会として特色ある研修会を行うために全員参加の司会及び会場係を決めました。

 参考までに案内係五名、会場受付三名、荷物置き場及び会場係四名、コンテスト係四名、司会係八名。以上二十四名にて打ち合せ三回、練習一回を行い当日本番を迎えました。

 スピーチコンテスト予選会には二十一名と多くの選手に参加をいただき、長野県のおいしい空気をいっぱい吸って日頃の練習の成果を皆様に聴いてもらい、実力を発揮出来たと思います。またグループ討議及びディスカッション等多くの意見をいただき、これからの研修会等に役立つと思います。

 会長より総合司会及び三日間の進行役をまかされ、夢中で過ぎてしまいましたが、終わって思うことは反省ばかりです。閉会の話の中でブロック長、専務理事、各県の会長様方から誉めことばをたくさんいただきただただ感激するばかりです。長野に多くの皆様をむかえ無事研修会を終えることが出来、ほんとうにありがとうございました。

(信鈴会副会長)

食道発声指導員の私

飯田教室 岡田 秀夫

 平成二十年六月、松本グリーンホテルで発声コンテストがあり、飯田教室からも「食道発声」に私が指名された。

 私は術後三年近く経ってはいたが、二音三音の発声もやっとの状態にもかかわらず、その場の空気にすべもなく受けてしまった。腹を絞りに絞って細く悲鳴にも似た声を出しながら数日間練習を重ね、何とかなるとの思いで本番に臨んだ。

 吹き出る汗にまみれた声は自分でも理解できない程のひどいものだった。

 会場に心配してきていた孫が家に帰ってから、「お爺ちゃんの話、分かったよ」 と言ってくれた。途切れ途切れの声を、一生懸命言葉で拾った孫の思いが、何かたまらなく胸にこたえた。

 次の年、私は食道発声の指導員を委嘱されて今日に至っています。

 まだ話すことが全く出来ない私がなぜお受けしたのか、私自身説明出来なくて困っています。

 今年度は発声機能を失った六名の方が看護師さんと一緒に順次教室に様子見に来られました。

 一通り会の説明をしますが、どの方も発声への関心が全てのようです。

 体調に比較的左右されないELが優先され、やがてそれに慣れて来ると教室への足は遠のきがちで、結局いつものメンバーに戻ることになりますが、「名ばかり指導員」 の負い目に悩む私にとっては誠に有難い事でもあります。

 出来ればこの間に少しでも話せるようになりたいとは思うのですが。

 ただ、色々な都合で教室に出られない方々との幅広い交流や親睦を考えることは、今後益々大事になると思います。

 幸い教室には看護師さんがいつも来られて、色々ケアをして下さるなど、耳鼻咽喉科の先生方や看護師さんたちの温かいご指導ご協力を頂けることは、私たちにとって何よりも心強く有難い事だと感謝しています。

 私が身の程をわきまえず、断る勇気もすべもなく素直にご返事した理由が、案外こんなところに在ったのかもしれません。

  平成二十三年三月十日

信鈴会の皆様健康で頑張りましょう

松本教室 塚本 三郎

 健康であることは、誰でも望むことですが、なかなか思うようにはいかないものです・・・・と信州大学名誉教授の田口喜一郎先生の、信鈴(第二十六号)への投稿記述にも有りましたが、本当ですね・・・・。

 私、昨年十一月後半から体調をくずしてしまい、又今年も寒くて雪の多い冬となり、病院通いとなり、会員又役員の皆様には大変ご迷惑をかけてしまって、現在も尚教室を何度となく休む回数が多くなってしまい、日頃健康だと過信してましたことを深く反省しています。

 去年は「第二十三回東日本ブロック発声指導者養成研修会」のあとでしたので、今思えば大変良かったと思いました。

 県下各信鈴会の皆様、又私も含めて私ども「喉摘者」は日頃から体調を整えて、毎日の生活にはげまなければと思います。

 月が変わればだんだんと暖かくなりますし又、桜の季節になりますが、「花冷え」の時もありますので体調には、くれぐれも気を付けて日頃の訓練に励んで下さい。皆々様お元気で・・・・・。

百二歳 母の介護

松本教室 横地 泰英

 平成二十年版会報「信鈴」に、「百歳母の看護」を書いた。その続編を書く。

 私の母はこの三月で百二歳になった。話すことも、寝返りもできず、ベッドで寝たきりだが、元気である。言葉とともに嚥下能力が失われた。食事は胃ろうによる経管栄養に頼っているが、肌はつやつや、顔色も良く、床ずれもまったくない。言語はなくても感情はある。快適な状態だと穏やかで豊かな表情。寒かったり、痰がのどにかかると眉にしわを寄せ、不快な顔つきになる。

 胃ろうの手術を受けたのは平成十六年(二〇〇四)春。二月四日に脳梗塞で入院し、二十日に主治医から説明があった。

 ㈰ 病名は脳梗塞。右半身麻痺、嚥下不全、言語障害。

 ㈪ 薬の内服とゼリー食を始めてみたが、うまく行かない。むせて吐いてしまう。

 ㈫ 食べることは人間らしさの証だが、きびしい。誤嚥性肺炎の恐れがある。

 ㈬ 食べることをあきらめる場合、管を入れるか、胃に穴をあけて直接注入することになる。たいした手術ではない。

 ㈭ いずれにしてもまだ急性期。状態が落ち着いたら、また相談する。

 その相談は、早かった。母は点滴の管をベッドで暴れて引きちぎり、血まみれになってしまうのだ。迷いなく胃ろう手術をお願いした。東京にいる兄妹四人のうち、二人は「いたずらな延命につながるのでは」と疑問を呈した。しかし母を預かっている僕には、強く反対できなかったようだ。

 僕は二〇〇二〜二〇〇三年に食道がん、喉頭がんと二回の手術を受け、長く点滴生活したばかりで、つらい記憶が生々しかった。針を刺せる血管が腕や手になくなって、ナースが困惑し、足にやってもらった。また、母の主治医は手術前、「胃ろうになっても、口から食べられるようになる人もいる」と気休めを言ってもくれた。

 高齢者の胃ろうによる生存は、三年がめどと言われる。妻の行き届いた介護を受けて、すでに七年間を越した。妻は肩や腕、腰の痛みがひどい。医者に訴えても「介護の職業病だよ」と驚かない。注射と飲み薬を処方してくれるだけだ。母は、一年の半分が病院か老健施設、半分は自宅療養である。介護の負担は、もろに妻にかかる。時間がかかる三食の経管栄養、おむつ、寝間着、寝具などの取替え、摘便…作業は果てしない。介護とは、終わりのないマラソンである。妻は睡眠と体力を引き換えにし、歩行は前かがみになり、日常姿勢も変わった。亭主のケア?も重い。

 諏訪中央病院の名誉院長、鎌田實さんのエッセイ「あきらめない」に、脳血管性痴呆とパーキンソン病の八十五歳、きよさんの話があった。経管栄養について改めて考えさせられた。

 なんとか家のなかをヨチヨチ歩いていたきよさんが歩けなくなって寝たきりになりかけたとき、ぼく(鎌田さん)は飛んでいった。入院をさせるべきか、迷った。家族の考えを聞いた。家族は入院を希望せず、家にいるのが好きなおばあちゃんだったので家で看てあげたい、自分の家の畳の上で死なせてあげたいと言われた。(中略)しばらく時が過ぎていった。きよさんは徐々に食事がとれなくなった。点滴することがきよさんのためになるのか、ぼくらは判断に苦しんだ。「ぼくが同じ立場なら、点滴なんかしてもらいたくない」自分の考え方を伝えた。「見るにしのびないので点滴だけはしてほしい」と家族から要望が出る。これでいいのだ。決めるのは医師ではない。それぞれの人生観があっていい。二週間がたち、県外からも子供たちが来てお別れのあいさつが終わると、話し合いを持った。本人が元気だったころ、どんなふうにしてもらいたいと思っていたか、みんなで思い出を探った。(中略)点滴は一日おきにすることにした。徐々に呼吸が弱まり、血圧が下がり、褥そうも作らず、穏やかな顔のまま、大好きな家で家族に見守られて人生の幕を閉じた。

 ハッとさせられた。点滴すら、「無理な延命」と考えるのだ。この話を知り合いの医師にしたら「医者の半分以上は『食べられなくなったら終わり』と思っていますよ」とうなずいた。しかし、ぼくはあの時「点滴できないなら、胃ろうにするしかない」と思い込んでいたのだ。

 その後、帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)という精神科医の小説家が書いたオランダの医療事情を読んで、目からうろこの思いをした。オランダでは痴呆患者に対する鼻腔栄養や胃ろう栄養に厳しい見方をしている。こうした人工的な栄養は、死の過程を引き延ばすだけであり、患者をベッド上のロボットと化し、治癒はもはや望むべくもなく、痴呆患者をさらに悲惨な状況に陥れるのみだと断定する。オランダでは死の四割に医師の手がかかわっているという。死のさじ加減は治療者にゆだねられている。患者の意志によらず医師が生命終結させる《非自発的積極的安楽死》が年間六千例、日本の人口で換算すると五万人、交通事故死の五倍である。(中略)こうした考え方の背景にはキリスト教がある。神だけが無限で、人間の生命はしょせん「有限」だとする思想だ

 母の胃ろう手術への僕の判断にオランダの考え方を重ねあわすと、りつぜんとせざるを得ない。また、「長寿国ニッポン」などという言葉が、そうとうに浅薄なものであることに気づく。母の主治医の胃ろう説明がかなりラフなものであることも、改めて再認識する。主治医説明の「食べることをあきらめる場合」の選択肢には、経管が「鼻腔か、胃か」だけで、点滴などの手段は示されていない。

 鎌田實ドクターとはその後、講演会講師を引き受けていただいた機会があり、母の介護について話した。「ぼくだったら、九十四歳で胃ろうという判断はたぶんしなかったろうな」と鎌田さんはぼそりつぶやいた。「選択肢なしに急な判断はできませんでした」と弁解したら、「ふだんから考えておかなきゃ、だめだよ」と、厳しかった。

先輩への手紙

松本教室 大久保 芳郎

 拝啓、明けましておめでとうございます。奥様ともども健やかな新年を迎えられたこととお喜び申し上げます。私たち夫婦もお蔭様で無事新しい年を迎えることができました。

 昨年は、国民不在の政治にうんざりさせられた一年でしたが、今年こそウサギにあやかって飛躍の年になってほしいものだと思います。

 ところで、先日、信濃毎日新聞の「私の声」で先輩の投稿文を拝見しました。つい懐かしさが募りお便りした次第です。突然で驚かれたことと思いますがご容赦ください。

 中学生の頃に兄弟で新聞配達をされたとのこと。私も高校生時代に一年間新聞配達の経験がありますので、当時を懐かしく思い出しながら読ませていただきました。そして、同じような境遇にあったことが、先輩に対し一層深い親しみを覚えました。

 それにしても、明瞭かつ要点を得た文章はさすがです。これからも先輩の投稿文を楽しみにしています。機会をみて是非投稿してください。

 先輩の文章を読みながら、ふと思ったことがありました。それは、近ごろ妙に昔のことが懐かしく思い出されることです。

 つい最近は、三歳から小学校一年生までの時代を過ごした松本市石芝町の付近を自転車で見て回りました。住んでいた市営住宅の場所には大きなマンションが建っていました。市営住宅の北側一帯は、当時芝浦タービンの広大な工場跡地だったのですが、現在は大半が自衛隊の松本駐屯地になっています。南側は自分の背丈以上もある大草原でした。キリギリスを捕まえようと、この草叢へ入り込み、元の場所へ戻れなくなったことが何度かありました。今は住宅が建ち並び当時の面影は全くありません。

 夏には、中学校の周辺(岡田町〜浅間温泉付近)を歩いて散策しました。学友と「でんぐり返し」をして遊んだ田んぼはすっかり宅地化されていました。校舎の位置は変わり、建物も鉄骨に建て替えられていました。「あの場所には音楽教室があった筈」「この小道は通学路で毎日通っていた道」などと当時を思い出しながら独り歩いていると、懐かしさのあまり込み上げてくるものがありました。年のせいで涙腺が少し緩くなっているのかもしれません・・・・・・。

 話は変わりますが、現在、私は地元紙「市民タイムス」の通信員を務めています。これは、常日頃の出来事や感じたことを三百字程度にまとめ、匿名で投稿するものです。

 すでに二年務めたのですが、先方からもう一年と頼まれ、今回(平成二十二年十月〜二十三年九月)も図々しく引き受けることにしました。拙い文章ですが、今までに一〇〇本ほどを掲載していただきました。折角ですから、通信員をやめた時点で掲載分を冊子にまとめようと考えています。完成した暁には、先輩にも一冊進呈したいと思っていますが、ズク無しの私のやることですから、あまり期待しないで待っていてください。

 もう一つ挑戦していることがあります。漢字検定最高峰の一級に合格することです。特段目的がある訳ではありません。学生時代、漢字テストでさんざん悔しい思いをしましたので、それを取り戻したいという変哲も無い動機から始めたものです。

 勉強を始めて三年になります。当初、問題集に取り組んだのですが手も足も出ません。そこで、国語辞典を最初のページから開き、読めない漢字・書けない漢字を全て拾い出し、学生時代に使った「英単語カード」に書き出しました。全部で、カードが七〇冊ほどになりましたが、この作業だけで一年を費やしました。一冊百枚の綴りですから、全部で七〇〇〇語になります。

 現在は、この七〇〇〇語の読み書きを繰り返しているところです。今年やっと三順目に入ったばかりで、まだ全く自信がありません。いっになったら受験の目途が立つのか見当も付かない状況です。でも、時間はまだ十分ありますので余り焦らずに、いつの日か受験できることを夢見て、このままのペースで続けようと思っています。

 そんなことで、原稿をかいたり、漢字の勉強をしたり、詰碁を研究したり、孫と遊んだりしながら毎日が何となく過ぎて行きますが、今の私には健康が第一です。大病を患っておきながら、健康を云々するのもおこがましいのですが、発声教室の指導員を一日でも長く続け、恩返しをしたいのです。

 私は、同じ病気をした先輩たちの親切な指導のお陰で、何とか第二の声を取り戻すことができました。昨年は、声帯を取られた仲間で構成している「長野県信鈴会」の理事にも選出されました。この会の執行部の一翼を担うことになり、責任も増した訳です。これからも、できる限り信鈴会の活動を優先させたいと考えています。

 会員は百八十人ほどですが、発声教室に出てくる仲間は半数程度です。私たちの病気は高齢での発病が多いため、ガンを克服したにも拘わらず、他の病気などで体調を崩し家に引き籠ってしまう仲間が結構多いのです。

 私も、以前医者から「中性脂肪が高い。メタボの兆候あり」と言われたことがあります。考えてみると、術後運動らしいことを何一つしていませんでした。五年ほど前から毎日一時間程度のウォーキングをして体調維持に努めています。恩返しをするためには兎に角健康でなければなりません。元気を保ち、仲間のために少しでも役に立ちたいと思っているところです。

 いろいろ取り留めのないことばかりを申し上げましたが、先輩の投稿文を拝見し、急に懐かしくなりお便りした次第です。また、機会をみて是非一献傾けたいと思います。

再会できる日を楽しみにしています。奥様によろしくお伝えください。お元気で。敬具

                       

  平成二十三年一月吉日

自発的な訓練を

松本教室 関 秀明

 喉頭の手術を受けてから、早くも二年が過ぎた。食道発声リハビリを開始したのは、術後二ヶ月位たっていたと思う。

 訓練には殆どマンツーマンで指導をして貰っている。そんな恵まれた環境の中にあって、今だ満足に発声が叶っていない。

 指導をして頂いている方々は、もっと早くに声を取り戻していると言う。

 自分に声を取り戻せないのは、偏に努力が足りない事が第一の要因に上げられる。毎週一回の訓練をした後、家で過ごしている時間、自発的に出そうとすることに欠けている。勿論教書に向かって基本的な訓練をしては見ているが、すぐに諦めてしまっている。ここはひとつ、目標を立てて向き合わなくてはならない。

 毎日一時間一生懸命訓練をして、本年度中にはそれなりの声が出せるようにしたい。それが毎週指導して頂いている方々に対して応える私の答えであると思っている。今後共、ご指導の程、宜しくお願いいたします。

気管食道シャント法手術(プロボックス留置術)と私          

松本教室 塩野崎 一秋

 信鈴会に参加して二年、喉頭摘出後二十八カ月、スタッフ及び看護師さんにはお世話になり、さほどのストレスも無く今日を順調に過ごさせて戴き、感謝しております。上条副会長からの要請もあり、初めて投稿させていただきます。

 シャント手術については、会報でもかなり記述されて、小笠原さんの公開授業もあり、その明瞭で太い発声は会席者に驚きと、感動を与えました。二例日であるとのことでありますが、患者であれば誰しも関心の高い分野に違いはありません。しかしながら、海沼医師は、施術について、個々の患者の気管と食道位置関係、健康状態等を重視して大変慎重に判断されています。失敗すれば声も出ない、食べる事も出来ない状態に陥ってしまい、対症療法として胃婁(ペグ)患者になってしまうからでしょう。この意味で、さまざまな不安に打ち勝った身近な先輩、勇者小笠原さんの存在はありがたく、能書きより、実事例の重要性を知りました。後追いながら皆さんに、あくまで私として、受術して良かったという参考となればと、書きすすめます。

《術後現在の生活》

 私は信大のシャント手術三例日の患者で、平成二十二年七月二十三日手術を受けました。平成二十年八月二十八日喉頭抽出して二年経過です。アイウエオの発声がシャント術後もすぐには出ず、呼吸の漏れのような、元大相撲の高見山が風邪を引いたような声でした。それでも『あ!わかるよ』と同室の患者さんや、看護師さんから言われ 嬉しく安堵しました。本当は直ぐにでも声がでると予備知識では思っていましたが〜。各人により効果は異なる事は知っていました。

 平成二十三年二月、その日の体調にもよりますが、気管孔プロテクターに手を当てて、レストランでも会話出来るようになり、相手は多少戸惑っていますが、交渉事もできます。食道発声のように息をためて意気込んで、話そうとするとうまくいかず、普通に話す事のほうがコツのように思われます。

 電磁発声器(EL)の声では、相手が驚き、周りの人から見られたりする事もあったのですが、今ではそんなことも無くなりました。まだ地声として安定しておらず、聞き取りにくいようで、聞き直しは結構あります。

 ほぼ一週間の入院費用は 九万六千円でした。気管孔の口径がやや狭いため、広げる手術と同時に、内視鏡でボイスプロテーゼを挿入となりました(プロボックス手術/留置型人工喉頭手術の意味)。

《医師からの退院後の注意》 

一、飲み物で水漏れがあれば、直ぐに病院に来るように

気管孔から水分などが漏れてくる事でわかります。気管への誤飲などで、肺炎を起こし危険な状態になってしまうからです。すぐ行ける病院の近くに住んでいるかは、重要な受術決断の要因です。私は、喉頭摘出手術の平二十年八月二十八日直前、娘から八月一日直前に、娘から八月十五日の読売新聞の医療と介護楯に載った気管食道シャント法を読み、都内在住の調理師さんの事例を知りました。施術している病院は、日本海総合病院(山形県)癌研有明病院(東京都)、神戸大病院(神戸市)の三病院だけでした。有明病院が近かった事が決断の要因であったそうです。この為、この術に取り組んでくれる信大の医師の出現を待ちました。術後のメンテナンスが重要だからです。

二、三カ月毎にプロテーゼ交換をします(四万円ぐらいですが保険適用になります。)なぜならカビがついてしまう為で、プロテーゼの弁が作動不能になるとのこと。カビとは、人の口や喉の中に普通に存在するカンジダ菌で健康には問題はなく、処方のウロキナーゼ(持田製薬)が効果ありました。また、ヨーグルトが交換時期を延ばしてくれるとアドバイスありました。

 不都合なことにこの菌は、酒、果実果汁が好きだと言うので、可愛くなく、厄介です。海沼医師は、酒は自分も好きなので、まあ適度にと慰めてくれましたが。

三、ブラッシングをよくするようにと、ブラシを戴きました。弁孔が埃などで汚れる為で、声がゴロゴロのようになり、自分でも自覚できますので、鏡を覗きブラッシングします。まわりが鼻汁で汚れている場合も多いので、ピンセットも常備品です。ブラシは一本六百円ですが一週間は洗って使っています。更に、ウロキナーゼを塗って使っています。

四、HME(人工鼻)は、気管孔の清潔さと、湿度の維持に有効だと奨められました。 三日くらいで交換しないと、痰で汚れて余計不衛生になります。貼り付けの為のオプチダームとセットであり価格は千円になります。一か月三万円になります。これを一生続けていくのは困ります。更に、私の場合、皮膚かぶれができてしまいました。為にパソコンから得た知識で、プロテクター上から押さえて発声することにしました。安上がりになります。幸い?かどうか、気管孔の口径が小さく、又、凹状の状態の為かなんとか発声出来、以降この方法にしており、痰を取る時も容易です。

五、一か月一度の経過観察をします。飲み薬については、甲状腺ホルモンの不足を補うチラージン錠、毎食後の乳酸カルシウム、ビタミンDの不足を補う、カルシウムの腸管吸収を良くするためのアルファロールカプセルです。

《生活環境と喉摘出手術・HMEとネット情報》

 六十二歳。咽頭癌で病没する人がいる中で生き残った訳ですが、声帯摘出のまま、まだ先は有りそうです。

 三十五年前に胃の全摘手術、五年前に上皮の口底癌 舌癌の手術、同時にPET検査で、ほんの点しかに見えない前立腺癌が発見されました。おりしも、昭和天皇がホルモン治療だというのでその選択をして現在も継続しています。歯茎も切除しインプラントしています。

 生活は、会社在職中に建設した、二棟十四所帯のアパートのあがりと、身障者特別支給年金と報酬比例年金です。年金支給該当年齢の六十歳になる四か月前の、バタバタした年金申請の顛末は市民タイムスに投稿しました。有賀記者が驚いて「こんなの其のまま載せていいか?」との電話をくれました。彼女は、発声教室に興味を持って取材に来てくれました。その後の記事等で時折、取り上げてくれ、少しは世間に信鈴会の存在をアピールできたかと思います。

 術後六カ月経過の現在、電話の受け応えについては、不動産屋など相手が聞いてくるので問題ないのですが、こちらからだと未だ億劫です。しかし日常生活では殆ど、支障がありません。小笠原さんは「今度はフリーハンドに挑戦するつもりだ」との事、使いこなすには やはり難しいらしいと聞いています。根治性という意味で、喉頭全摘の選択をせざるをえないのですが、早く喉頭温存治療法が開発されると善いなと切に思います。

《閑話休題》

 それで思い出した事です。「東京ど真ん中の病院よ」と看護師さんが言う港区の国際福祉医療大学三田病院で、喉頭摘出手術を受けました。妻の友人の強引な紹介でした。十四時間かかり、夜も更け、妻と娘は腹が減りビル街に出たのですが、レストランはすでに閉まっていた為、開いていた焼き肉屋で食べたというのです。後で私の、摘出された喉頭を見て二人は説明を受けたというのですから、”ゲ“に女は強いものだと知りました!

 さて、喉頭摘出術後のリハビリのメニューに、言語療法士による電磁機器(EL)を使っての発声訓練が組まれておりました。三笠宮殿下も喉頭摘出者だそうです。意外と早く、宇宙人のような声で意思を伝える事が出来、ストレスも少なかったように思います。HMEは装着していました。信鈴会で当初、ELに居たのはその流れです。しかし先に書いたとおり、やはり周りに違和感を与えておりました為 食遺発声のグループに入会しました。なかなか上手くならず、数カ月後 テープレコーダーで聴いてみて全く言語が判らず、がく然としました。

 娘からの気管食道シャント手術記事の切り抜きをもう一度読み、更にはプロボックスメーカーの宣伝で、インターネットの動画発信サイトYouTubeの検索に喉頭摘出”赤木先生の場合“というのがあり、何度も見ました。整形外科の医師が、食道発声出来る迄の時間が惜しいので、プロボックス手術をし、仕事に早く復帰できたと紹介され、また推奨していました。大勢の受術者も紹介されていました。また、札幌医大では七十歳以下であればシャント(プロボックス)手術をすすめているようです。

《教室への提言》

 私の病名は、下咽頭癌。頭頚部癌の中でも進行型が多く治療成績が特に不良で有名だそうです(頭部リンパ転移が六〇〜七〇%というデータ)。咽頭の下部や食道の上部を広範囲に切除したようです。この手術では、口から胃に至る食べ物の道が途切れてしまう為、自分の小腸の一部(遊離空腸)か前腕皮弁でそこを再建するのです。私は腸の方を選択したのですが、事例は少ないようです。

 食道発声教室に参加してみて観測した事があります。早くに成功した人がいたり、なかなか習得できない人もいます。どうやら二つの分類があり、喉頭だけをとる単純喉摘者と咽喉のほか咽頭と食道の一部をとる咽喉食摘者が居るということです。発声の習得率は、平均四〇%程と言われているそうですが、下咽頭癌の咽喉食摘者の患者では二〇%弱であると医学記事で知りました。何故なら食道再建者は、粘膜が震えにくいため、発声は困難な傾向であるとの故だそうです。早期に発語出来る人は、単純喉摘者でありましょうし、食道発声でよいのでしょう。

 程度の差もあるでしょうが、食道を一部切除している下咽頭癌では食道発声はかなり厳しく、習得のあても 心もとないものとなります。インストラクターには、其のことを熟知してもらう事で、教室参加者に食道発声、EL、気管食道シャント手術の選択があることの指導をしてやることが可能となります。発声習得率の、さらなる質の向上につながると思われます。是非検討下さい。また、医師には、課題として、シャント手術後の弁の取り換え等が、どこでもできるほどに標準化して欲しいものだと思います。並行して、このシャント手術が、障害者補助の対象になれば、その効果は大きく、自立支援法等での予算が有ってほしいものだと、考えています。

《エピローグ》

 自宅前の理髪店のおじさん(七十五歳)が、十五年前に喉頭摘出で、ELを使用しており、ELについては、私にはわりと身近で、『俺もなっちゃったヨ』というのが感想でした。一昨年、心臓病で病没したのですが、手には十五年使用したELが有りました。奥さんも息子も私のシャント手術後の発声に感動し、うちのとうちゃんも、その手術が出来ていたらと残念がりました。

 今後、年をとって身体が動かなくなった時、ELを使えばいいかなと良い方に考えています。 開けた穴はたいていの場合、自然に埋まると、プロボックスのメーカーは発表しており、これを信じています。昨年暮れの発表会で、横地氏からの情報で、老齢化すると筋肉が弱り、食道発声もきつくなるという話もあり、EL使用の発声練習は、必須科目でもあると知りました。

 私は、もう少し会話が上達したら、行政書士の資格を生かして『成年後見人』の分野で動いてみたいと思っています。更に、仕事上で過度の接待やゴルフを内心敬遠しながらやってきて引退後、病気にもなって離れました。昭和四十七年の準優勝トロフィーをみて、再度フェアーウェイに立ちたいと思うようになりました。多々の煩言、読みにくいかと思いますが、ご容赦賜わりたく。

四年目になる私の思い

長野教室 山本 文英智

 私の原点は手術を終えた三年前の入会の日です。声が出なくなって三ヶ月、意気消沈の想いを教室の圧倒的な雰囲気が吹き飛ばしてくれた、その瞬間でした。あの時の私の立ち直り『自分も頑張れば』という気持ちと、教室に参加されていた方たちへのあこがれ、そして日が経つにつれてだんだん強くなる希望を今日まで追い続けながら、三年間を過ごしてきました。

 そして今の私は、発声はようやく出来るようになったものの、なかなか思うように言葉を続けることが出来なかったりもします。家庭のなかでは何とか言葉と気持ちが伝わっていても、外出時など、あわててしまうと”つまる“ ”出ない“。普段は容易に言える『こんにちは』も、声に出せないことがしばしばあります。

 この様な状態のなか、昨年、会話に対する思いを強くした機会がありました。

 昨年六月柿崎指導員と出席した信鈴会発声コンテストでの、レベルの高い発声に入会した日に続く驚きを感じ、また各教室から参加された皆さんとの交流を通じて”広く強いつながり“を実感したことです。

 続いて、十年に一度長野会場で開催された九月の東日本研修会の発声コンテストに先輩と一緒に傍聴した時のことです。先の六月の大会で選出された信鈴会松本・諏訪教室の三名を含む各県代表二十数名の方たちの活気ある、また見事な発声表現に圧倒されました。この大会は私には遠い世界のような感じでしたが、それぞれの条件の中で努力することによって・・・という確かな現実が存在していました。

 自分への戒めとして、新たに心がけたことがあります。まず第一点は、人の前に出ること。声が出ないとどうしても引っ込み思案になりがちですが、仕事をされている若い方たちを見習わなければいけないということ。

 発声と発音、言葉がうまく繋がらないもどかしさから、声にだせても最小限の表現であったり、つい筆談に頼ったりすることをひかえ、相手と会話をするという意識を強く持って声を出す努力をかかさない様にすること、の二点です。

 幸い私の体調は良好で、特に異常もなく毎日を過ごすことができています。先日病院の定期検診で『年齢の割には』と先生から励まされました。教室のみなさんとの経験交流が大きな支えとなって、検診が近づくと出てくる不安も何とか乗り切り、交流の中からの安心感がどれだけ私の心身を前向きにさせてくれているかを改めて感謝しています。

 ここ一、二年は出席者が少なかったりした長野教室でしたが、昨年から大勢の皆さんが入会され、最近は元気がみなぎっています。

 春です。お互い希望を大きく持って頑張りたいものです。これからもどうぞよろしくお願いします。

平成23年刊 第38号

巻頭の言葉 

長野県信鈴会会長 宇野女 健

 昨年は、地震・津波・豪雨と、日本各地を大災害が襲った。一月には九州の新燃岳が噴火。三月十一日には東日本大震災が発生、日本列島を大きく、激しく揺さぶった。この地震による巨大な津波が太平洋岸を襲った映像は、想像を絶するものだった。その翌日には、長野県でも震度六強の地震が起こった。被害は莫大でまさに未曾有の大災害となった。長野県信鈴会も緊急三役会議を開き、日喉連にも義援金呼びかけ。信鈴会の仲間のご協力で、十数万円のご厚志を送ることが出来ました。そして七月頃よりゲリラ的豪雨と土砂災害に見舞われた。

 そんな大震災から一年が過ぎても、なお被災された方々の、心を癒す場所が定まらない日々が続いている。一日も早く元の生活に戻れることを願うばかりです。また今年の冬は年末より豪雪と大寒波。近年まれに見る寒さのなか、皆さん元気で発声訓練に励んでいる。入会されて約十三ケ月位の方、そろそろ八十路の嶺を越えられる年齢の方が、原音発声に成功!会話の出来るようになるまで、一日も発声教室を休んだことがない。頑張る仲間に感動しています。元気が一番。仲間とその元気を分かち合いたいものです。

 例年の合同新年会も今回は浅間温泉「錦の湯・地本屋」で盛会でした。ご来賓、会員、三二名の大勢で思い出を様々なかたちで演出して一夜を楽しむことができました。元気で再会を誓って帰宅の翌日、田中相談役の逝去の報せを受けました、お別れの席に副会長と参列して哀悼の真を奉げて、ご冥福をお祈り申し上げました。相談役は喉摘されて約三十年、その間、日喉連の理事・信鈴会会長を永年勤められ、優れた功績は現在の信鈴会に引き継がれております。信鈴会はこれからも全ての方が声を取り戻す為に元気で頑張ります。楽しい場所、みんなとの和、声を追い続ける私たちに、会の活動にご協力いただいている行政の方々、医療関係の先生方の更なるご指導をお願い申し上げます。

長野県信鈴会に届いた東日本大震災義援金の礼状


(原文)

日本喉適者団体連合会北日本ブロック 会長 高橋 學 

 拝啓

 新緑の美しい季節となりました。貴台におかれましては益々のご清栄のことと、お喜び申し上げます。この度は、東日本大震災に関しまして、多額の義援金をお贈り頂き、感謝すると共に心からお礼申し上げます。今回の被害は現在の所、岩手喉友会関係が死者三名、避難所生活者二名。立声会開係が死者二名、避難所生活者二十名、連絡が取れない方が十五名。福島声友会が家屋流失で親族の家に避難中一名、福声会が地震、津波被害の上、原発による避難指示区域の為県外避難者が二名、合計死者五名、避難者二十五名、連絡不通者十五名でございます。今回被災された方々の生活は、これから益々厳しくなると思われますが、我々北日本ブロックといたしましては頂いた義援金を有益に使わせて頂きながら、被災者を応援してまいります。今後共、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。皆様方の会が、益々発展されることを心からご祈念申し上げます。本当に有難うございました。

謹白

  平成二十三年四月三十日

共に生きる長野県を目指して

長野県健康福祉部障害者支援課長 佐藤 則之

 貴会の皆様方におかれましては、日頃から県の障害福祉行政の推進に御理解と御協力を腸り、心よりお礼申し上げます。また、貴会の御協力により実施している発声訓練事業につきましては、関係各位の御尽力により県内各地において熱心に発声教室を開催していただき、重ねて感謝申し上げます。本県の栄村をはじめ東日本各地に甚大な被害をもたらした、未曾有の大震災から一年が経過いたしました。県といたしましては、震災後に進めてきた地域防災計画の見直しの中で、今回の事例等を踏まえ、障害者や高齢者など、いわゆる災害弱者とされる皆様方への配慮を十分にしてまいりたいと考えております。平成二十四年度から六年間の計画として新たに策定する「長野県障害者プラン2012」では、障害のある人もない人も、お互いに尊重し支え合いながら、地域社会の一員として「居場所と出番」を見出すことのできる ”共に生きる県づくり“を目指すこととしております。そのため、障害者が地域で自立して生活するための支援、障害者が安心して暮らすことができる生活基盤の確保等の視点に基づいて、施策を推進してまいります。

 共生社会の実現には、行政だけではなく、個人や家族、地域社会において、お互いに理解を深め、協力していただくことが大切と考えております。その意味でも、貴会における様々な活動は、会員の皆様相互の交流や支え合い、それぞれの地域における障害に対する理解の促進などにつながるものとして、大変意義あるものと考えております。最後に、貴会の益々の御発展と、会員の皆様の御健勝を心から御祈念申し上げます。

障害者の皆様が自立して生活できる人間復権をめざして

長野県議会議員 本 郷 一彦

 信鈴会におかれましては、宇野女会長の高い志と情熱によりまして、全国を代表する喉摘者の団体として、内外ともに高い評価と実績を挙げられており、心から敬意を表します。とりわけ東日本ブロック指導者養成研修会の開催をはじめ、各般にわたりご活躍され誠に慶賀に堪えません。貴会における諸活動を通じ、会員相互の交流や親睦が社会に開かれた信鈴会として、地域コミュニティーの中でも大変幅広い信頼を得られており、その期待感は大なるものと思われます。

 混迷を深める我が国の政治経済情勢の中にあって、その最大テーマは経済成長戦略と社会保障制度の再考と構築に他なりません。そのような状況下、医療・介護・福祉をどのように持続可能とするかは政治の最大責務であり、「障害者が自立して生活できる社会」の実現は、その主要課題と認識しております。その中にあって、会員皆様が抱える問題につきましても、私は顧問の立場として県政を通じて全力を傾注する決意であります。信州大学の先生方、看護師の皆様のたゆまぬご協力のもと、発声訓練が着実に高度化され社会参加へと繋がり、真の人間復権と希望の持てる方向に進まれていることに対し、心からお慶び申し上げます。本年も皆様にとって幸福な一年であることを心から祈念いたします。

百歳を目指しての健康

信州大学名誉教授 田口 喜一郎

 日本人の平均寿命は、男性八十歳、女性八六歳と長くなりましたが、いくら長命でも寝たきりの期間が長くては価値がありません。是非健康で、少なくても自分の意志で物事を処理でき、身の回りのことは大体できるというレベルの状態で、はじめて人間としての尊厳が保たれるといえるでしょう。このような状態の生存期間を「健康寿命」といいますが、日本人では、平均寿命より約七年間短いとされています。つまり最後の七年間は寝たきりということになりますが、個人差が大きく、0日から数十年に及びます。家族や親族に迷惑をかけることになるので、誰でも長期間の寝たきりにはなりたくないと思いますが、それは天命でどうしようもないことです。われわれにできるのは、日頃から健康に留意することに尽きます。健康保持に関しては個人ごとに対策があると思いますが、今回は運動とか栄養とかいった問題と離れて、生きる意識について申し上げたいと思います。人は、ただ生きているのではありません。物心ついた頃から、人は何のために生きるか考えるようになりますが、年齢に関係なく生き甲斐が重要です。生き甲斐を持つためには、生きる目的を持つこと、長寿で活躍している方々をお手本にすることが大切です。

1 生きる目的を持つこと

 人は生きている限り、何か目的を持っている訳です。気が付かなくても目的があるから生きられるとも言えます。もし、やり甲斐のある、自分固有の仕事が続けられれば最高です。生涯現役を貫き通せれば、そんなによいことはありません。私の友人の医師Sは肺癌を患いながら、昨年末亡くなるその日の午前中まで患者診察を続けたそうです。まさに天職を全うした生涯でした。しかし、公務員を含め、自営業以外の労働者は定年があり、六十歳乃至六十五歳で仕事をやめねばなりません。農業や漁業は高齢者でも可能ですし、茶道、華道や日本の伝統的な技能は終生続けることができるかもしれません。個人的な趣味でもよいでしょう。手や足を使うこと自体が脳を活性化して長生きに通じることはよく言われております。現在九十四歳の家内の母親は毎日毛糸の編み物を続け、人に差し上げて喜ばれるのを楽しみにしておりますが、八十八歳と九十二歳の時二度に亘る左右の大腿骨骨折にも拘わらず、懸命なリハビリで現在歩行可能です。自宅に帰りたいという希望がリハビリに驚異的な努力を可能にし、常日頃の手足を動かす習慣がよい結果に結びついたと思われます。二月五日に没した、登山家で、画家の芳野満彦さんは、十七歳の時友人と二人で冬の八ヶ岳の主峰赤岳に挑んで遭難し、友人を失うとともに、本人も両足の前半分を失ったが、十二センチの山靴を履いて内外の大岩壁を征服し、前穂高岳第㈿峰正面壁の積雪期初登攀(一九五七年三月)、日本人として初めてのマッターホルンの北壁登攀(一九六五年)を果たし、新田次郎の小説「栄光の岩壁」のモデルとして有名です。失った友人への鎮魂と登山へのあくなき執着が、常人では考えられない成果を挙げたと言えるでしょう。岩壁への挑戦といった過酷な目標はともかく、趣味や職業としての詩吟、歌曲、手品などもよいでしょう。また、孫の成長を楽しみに、幼稚園の送迎や勉強の相手になることでも結構です。各人、少なくとも一つは常になすべき目的を持つことは必要でしょう。

2 長寿者に学ぶこと

 長寿にして活躍している先輩に学ぶことも大きな励みになります。日野原重明先生(聖路加国際病院理事長・同名誉院長)は百歳にして、現役の医師として、また政治や文化をはじめ、美術、音楽、芸術、哲学など広い範囲に趣味をお持ちで、毎日生かされていることに感謝して、自分のできることで社会に貢献したいと言っておられます。五年先までの講演依頼を受けておられるとは、先生の気力の凄さを感じるとともに、大きなパワーを頂く思いがします。百歳にして新しく「百歳」という詩集を刊行された柴田トヨさんには、驚きとともに現役の詩人としての活力を感じます。私の恩師鈴木徳郎先生は、常に超えるべき(仕事や研究の)山(目標)を持ち、一つ一つ克服しなさいと教え、ご自身も九○歳頃まで研究を続けておられました。

 私の生き甲斐は何か? 私の母は七十二歳でなくなりましたが、父は孤独に耐え、亡くなる三年前まで友人や近隣の人の世話をし、子供たちに面倒をかけたくないとの思いで努力をしておりました。最後は、突然の意識障害で、九十五歳の人生を静かに閉じた父の生き様は参考になります。現在、私は足腰の老化を予防するためにできるだけ歩くことを心がけております。寝たきりにならず、家族に負担をかけず、なるべく貴重な医療費や介護保険料を使わないように努め、何より残る人生を理想的に生きるためでもあります。人から望まれることがあれば優先し(昨年は東日本大震災被害者の電話健康相談に従事しました)、働く人のための健康に貢献し、東洋医学の道を究めるといったところです。どなたでも、すでに何か「終生の目標」や「生き甲斐」をお持ちと思いますが、再確認して頂ければ幸いです。そこから自己実現の機会が到来し、人生を更に豊かに有意義に過ごすことができます。健康寿命は自からついてくるでしょう。

 ここに前述の柴田トヨさん最近作の詩「貯金」を披露してこの稿を結ばせて頂きます。

     貯 金

   私ね 人から やさしさを貰ったら 

   心に貯金しておくの

   さびしくなった時は 

   それを引き出して 元気になる

   あなたも 今から 積んでおきなさい

   年金より いいわよ

遠い世界へ旅立たれた田中さん

長野県信鈴会相談役 今野 弘恵

 平成二十四年二月十二日恒例の新年会、浅間温泉地本湯での開催、田中さんの姿が見えない。宇野女会長さんが「田中さんはどうしておいでか?」と私にたずねた。昨年秋ごろから音信不通で私も十一月、十二月と何度か田中さんの自宅に伺ったが、その都度、玄関は鍵がかかっていて、入口西側に田中さんの車がおかれていた。気にしながら誰とも連絡できずにいた。そんな矢先二月十三日突然田中さんご逝去の報。ただただ呆然としていました。

 田中さんとの出会いは私が耳鼻科病棟にいた頃、昭和五十八年一月、田中さんは東京がんセンターで手術を受けられた。松本教室に姿を見せたのは四月、奥様と二人暮らしだった。それから間もない日、夜十一時近く、奥様からのお電話で、田中さんが気管孔のまわりからの出血があり心配、どうしたら良いか?と相談があった。多分咳や痰で気管孔の入口が刺激されての出血で、明日の受診でも大丈夫(私なりの判断)と考えた。しかし患者さんにとっては、診もしないで大丈夫と云われても、一晩中、不安で眠れないでいることだろう…私はすぐ主人の車で中條の田中さんの家へ伺った。案の定の状態で、「先生と連絡をとっておくから明日の朝で大丈夫。心配しないでゆっくりやすんでください」と申し上げた。このようなケースは田中さんばかりでなく、出来る限り患者さんのもとへ足を運ぶよう務めてきました。田中さんはその後しばらくたって気管孔が狭くなり拡大手術をしてもらい、以後は順調に経過された。田中さんは元、深志高校の同期の仲間、荻原さんと仲がよく、たまたま私も荻原さんとは親しくしていたので、城山の荻原さんの自宅にお花見に出かけ、いっしょにタラノメやフキをとりに行った楽しい思い出もあります。

 田中さんが信鈴会会長のとき、平成元年八月、県下に五つ目の教室を設置、諏訪赤十字病院内諏訪教室としました。高木範男先生、雨宮多喜子看護部長の協力を得て、当時信鈴会副会長小林政雄さんが指導員となり小池増晴さん、藤森輝夫さん達によって、支え合う、たのしい教室がスタートした。平成十年十月には「信鈴会創立三十周年」記念事業の一環として「日本喉摘者連合会東日本ブロック食道発声指導者研修会」を長野県が当番を担当し、浅間温泉みやま荘で盛大に開催。信鈴会の発展途上の段階でもあり、田中さんとは、県庁福祉課長、松本市長らを何度も尋ね信鈴会をピーアールした。又県会議員有賀正先生、深沢賢一郎先生の自宅へも勤務が終わって夕方田中さんと顔を出した。信鈴会を忘れないでいて欲しい思いから、ズクを惜しまずよく動いた。目標目的があったから…。

 月日のたつのはあっという間。平成十四年信鈴会会長を宇野女健さんに代替してから、気持ちがらくになったのか、発声教室へもあまり姿を見せなくなり、ここ数年はほとんど顔を見られなくなった。私は時折田中さんを自宅に訪問した。昨年夏には「足が痛くて車にはぜんぜん乗られない」とお腹から上を手でたたいてみせ、上半身は無事…と元気を見せていました。その後秋頃から玄関も戸がしまっていて暮れにも二度伺ってみたがやっぱり同じ。どうしたことか気にしながら、近くに息子さん夫婦がいて洗濯物、掃除はやってもらっていると田中さんから聞いてはいたものの、連絡さきは解らず、気がもめていた矢先、田中さんご逝去の報におどろき悲しいおもいで胸がつまります。

 さまざまな思い出をたどれば万感胸に迫り心もままなりません。信鈴会も今立派に独り立ちし各教室も足なみ揃えみんな仲良くやっています。どうか安心してやすらかにご永眠ください。   合掌

腫瘍外来から 最近の頭頸部癌の治療の傾向

信州大学耳鼻咽喉科 講師 海沼 和幸

 信州大学耳鼻咽喉科で腫瘍外来を担当している海沼です。現在、長野県では数少ない学会認定の頭頸部がん専門医です。専門医として最近の治療の傾向についてお話したいと思います。

 気管食道シャントはリスクを伴いますが、食道発声がうまくいかない方はぜひ検討していただきたい治療法です。リスクはいろいろありますが、種々の理由(うまく使えない、誤飲、感染等)で閉鎖撤退したくてもあけた穴が塞がらない、最悪、もっと大きくなって誤嚥する、胃ろう管理になり口から食べられない、手術前より生活の質が悪化する危険が少なからず伴います。手術を受ける側、手術する側ともに大きな覚悟が必要です。最近、頭頸部癌の治療は大きく変化しています。以前なら手術で摘出していた症例が、まずは放射線と化学療法を同時併用(CCRT)して根治機能温存を目指すことが多くなってきました。以前から放射線、化学療法は行ってきた治療法ですが、積極的に同時に行うようになったのはここ十年の話です。残念なことに全例が完治せず救済手術が必要になるケースがあります。この場合、手術は極めて難しく、高度な技量を求められます。運良く癌を摘出できても局所の状態は療痕が強く、咽頭は狭窄ぎみで、食道発声は難しい状態が考えられます。よって PROVOX の出番となるわけですが、このような方への PROVOX 留置手術は、同じ理由で、術後のトラブル、先程お話した最悪のトラブルを起こす可能性が高いです。CCRT を機能温存治療と言いますが、私の経験から全ての機能を温存しているとは思えません。声は枯れる、咽頭の狭窄から嚥下障害、唾液分泌低下に伴ういろいろな症状、最悪は、血流障害から癌の再発でなく、組織の壊死で喉頭を摘出しなければならないこともあります。そうは言っても自分自身が癌になり、治療法の選択を迫られたら、初期治療としてCCRT を選択すると思います。改善策として放射線を必要な場所にだけ当てる事が要求されてくると思います。その目的に開発された装置がIMRTです。鉛の塊がコンピュータ制御されて照射される領域を回転運動しながら常に最適変化させるハイテクマシーンです。信州大学にもまもなく導入される予定です。

 手術の領域では、光学機器の劇的な発達によって内視鏡下の咽頭喉頭の機能温存手術が盛んに行われるようになってきています。しかし内視鏡下で使用する長い鉗子には操作上いろいろな制限があります。どんなに才能があり、訓練しても人の手には震えがあり、行える操作の細かさには限界があります。最近はダビンチと言われるロボット手術が脚光を浴びています。心臓や脳の血管吻合に利用される機械ですが、頭頸部領域にも導入がすすんでいます。これを使うと手の震えがなく、人間の手の何十倍も細かい操作(極小の折り鶴を狭い空間内で折ることも)が可能になります。喉頭下咽頭癌手術へ導入すれば、喉頭温存症例が増える事が期待されています。このダビンチも信州大学に導入される予定です。

 喉頭温存の治療と共に、PROVOX を中心とした代用音声獲得のための手術をより安全に行えるように、また長野県のどの地区でも同様な治療が受けられるように信州大学が中心となり今までどうり整備をすすめていきたいと思います

日々の生活を取り戻すこと

信州大学医学部附属病院東2階病棟 看護師長 青柳 美恵子

 二十三年度は東日本大震災の医療支援に、当院の看護師も約三ヵ月にわたり参加させていただきました。震災から一年の間、様々なことを自分自身の日常や、日々の看護・医療と照らし合わせて考えることが多くありました。そのひとつを書かせていただきます。

 近年の医療の変化の中で、確実に短くなっているものが入院期間です。私が看護師駆け出しの頃と比べ、手術の前後とも入院期間は顕著に短くなっています。もちろん医療の進歩により手術に伴う身体への侵襲が軽減され、術後の回復が早くなった結果ではあります。しかし心や気持ちの回復には、それなりの「時間」というものが必要であると感じています。予期せぬ病との遭遇、命への不安、声を失う未知の世界。何もかもが想定外で経験のないこと。不安と恐怖で先など考えられない気持ち、体の回復に追いつかない思い。そんな複雑な患者様の心や気持ちの回復に、年々短くなる入院期間では十分な支援ができていないと感じる日々です。

 退院する患者様への支援を考えるスタッフに、まず病院を出るところ、家に着き車を降りる場面から患者様やご家族と一緒にイメージして、何に困るのかを考えるようにと指導します。しかし私たち看護師は同じ困難を実際には経験していないため、患者様のその後の生活を想像し、その時々の患者様の気持ちに近づくことしかできません。

 そこで何より心強いのは信鈴会の皆様のような、同じ経験をされている方々の体験からのお話です。病院を離れ社会に戻り、日常を少しずつ取り戻すことの難しさ。そして周囲の方々の支える力の大切さ。また支える方々も直面する辛さ。同じ困難を経験した方々が「同じだったよ」「辛いね」とかけて下さる言葉は、特別なものなのだと思います。震災にあつた方々も、「頑張れと言われても…」、「前に進めない」そんな弱さを言える場所がありがたいと話されていました。

 新たな声を獲得するには大変な努力が必要だと思います。その努力をしてみようとまず思え、そしてその努力を継続できるように、退院した患者様を信鈴会の皆様と共にもっとご支援できるような活動を考えていきたいと思います。

 「地震からの復興」、病気を克服しての「社会復帰」。それは日々の生活を取り戻すことだと思います。当たり前の生活の大切さと大変さを、改めて深く考えた一年でした。

発声教室に思うこと


長野赤十字病院E4病棟 看護師長 上沢 恵美子

 私は信鈴会長野教室に耳鼻科病棟の師長として参加しています。長野教室は平均十八名の方が毎回参加しています。月四回の教室は長野赤十字病院の患者会では開催回数が多く、継続できているのは宇野女会長をはじめとする会員の団結力のたまものと感心しています。私は発声教室では、血圧測定と健康相談(?)と言うよりは話しを聞かせていただくことしかしておりませんが、会員の皆様の元気な姿をみることを楽しみにして、参加しています。

 当病院では喉頭摘出手術を受ける方は年数名です。術前に医師から説明を受けていても実際に声の出ない現実にどなたもショックを受けているようにみえます。初めは文字盤を使い会話をしますが、時間がかかるのでイライラする方もいます。しかし、退院のころこの発声教室を見学し、新しい発声方法で会話されている会員の皆様を見て、前向きな気持ちになり退院されてゆきます。手術をされた全ての方が教室に参加はできていませんが、継続して参加できるように病院スタッフ全員で支援してゆきたいと思います。

 声を出すことはコミュニケーションの手段ですが、大きな声を出すことは、ストレス発散の効果もあります。これからも大きな声を出して、一緒に練習してゆきましょう。

信鈴会の歴史に学ぶ

佐久総合病院3階西病棟・耳鼻科外来 副師長 神津 梓

 私が、3階西病棟に配属になったのは十二年程前の事になります。当初、看護師二年目であり、耳鼻科看護とは何たるか?も分かっていない時に皆さまからお声を掛けていただき、初めて信鈴会に参加させていただいた時の驚きを今でも思い出します。病棟の喉頭摘出後の患者様は、発声が出来ない辛さと、痛みに毎日耐えている印象を持っていましたが、信鈴会の皆様は、首にはそれぞれお酒落なスカーフ、そして一様に笑顔で、とても朗らかな会でした。「発声できる」この事が人間にどれだけ笑顔を与えるのかを、改めて感じる事が出来ました。

 先日、「やはり声が出なくなるは嫌だ」と、手術を断念された患者様がいらっしやいます。治療の最終決定は患者様です。ですが、今は声を失う決断が辛く厳しい選択でも、信鈴会の皆さまのように、辛く苦しい時期を乗り越え、はつらつと過ごされている方々が沢山いらっしゃる事を、これから治療に臨む患者様に伝え道標の一つにしていただきたいと思っております。

 佐久総合病院耳鼻科外来は平成二十三年度より、手厚い看護の提供と、継続的な看護の実施を目指し、3階西病棟と耳鼻科外来の一元化を開始しております。しかし私自身、外来勤務が少ないため皆さまとお話できる機会もなく申し訳なく思っております。また病棟や外来看護師の顔ぶれもこの数年でほとんど変わっております。そのため、新しい看護師達に信鈴会の歴史ある活動を伝え受け継いでいってもらう事も、私共の大事な役目と考えております。

 最後になりましたが、信鈴会の益々のご発展と皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。

 今後とも宜しくお願いいたします。

信鈴会の皆様に出会って

長野市民病院4階東病棟 看護師長 嵐口 美穂

 会誌「信鈴」の発行おめでとうございます。私は平成二十二年七月より主任として4階東病棟へ配属され、十二月にはじめて信鈴会に出させていただきました。四月に師長となり一年になろうとしています。市民病院も耳鼻咽喉科の医師が二名体制となり、年間五名の喉頭摘出の患者様に携わらせていただきました。多くの患者様は手術の前日に入院され、あわただしく手術の準備を行い、深くかかわる前に当日を迎えています。医師から説明を受けていることもあり、患者様に動揺は見られませんが、不安でいっぱいで夜を迎えていたと思います。私自身発声教室に参加させていただいた経験がなく、どのように行っているのか、わからないままでした。しかし、以前信鈴会に参加させていただき、お酒をかわし、おしゃべりをし、自分自身が手術を終え発声教室のご案内だけをさせていただいていることへの不安が少し和らいだことを感じました。皆様の元気をたくさんもらい楽しい時間を過ごしました。

 病棟では手術の後からは声が出せなくなり、文字盤や筆談でコミュニケーションをとることになり、筆談が煩わしく、吐息、口の動きで私たちに話をしてくれる患者様がいます。どうしても一回では伝わらず、こちらも戸惑いの表情を隠せず、患者様のいらだちは増して、黙ってしまう患者様やペンを置いてしまう患者様もいます。患者様の言葉を理解しようと必死ですがお互いに必要最低限のコミュニケーションしかとらなくなっていく場合もあります。入院生活が長くなり、お互いのコミュニケーションがとれ退院されていくときには患者様に手術の前の不安な表情は消え、笑顔で退院されます。手紙に「声が出ないことは大変ですが、これからも命ある限り頑張っていきます」と書かれていました。大変な手術をされ、自身のあるがままを受け入れ退院される患者さまの表情は何ものにも負けない強さと人を大きく包み込む優しさが感じられます。信鈴会に参加し出席されている方々の姿がその患者様と重なって見えました。

 皆様にお会いする機会を頂いたことをとても感謝しております。また、皆様とお会いし言葉を交わせる機会を楽しみにしております。今後も、皆様がお元気でご活躍されることを心よりお祈り申し上げます。

発声教室の皆様と出会って


信州大学医学部附属病院耳鼻咽喉科外来 看護師 渡部 茂世

 会誌「信鈴」の発刊おめでとうございます。私が耳鼻科に携わる様になり、二年足らずの時が経ちました。その中で、発声教室に参加される皆さんと出会い、喉摘された方々の現状をお聞きするにつけ、社会復帰への難しさとコミュニケーションの大切さを痛感しました。

 経験も少なく、知識や技術も未熟な私にとっては、皆さんとの関わりは至難の業でした。こんな対応でいいのだろうかと自問自答しながら、半信半疑の毎日でした。そんな関わりの中、こんなお話をしてくれた方がいました。

 Aさんの話です。喉摘後なかなか声が出ず、家の中にこもりがちになってしまったそうです。その為、家族との会話も減り、ご近所との関係もうまくいかない時期もあった様です。でも、今は発声教室に参加し、人工喉頭という方法で声を取り戻そうと、切磋琢磨されています。そして、今の声をお孫さん達がAさんの声と認識し、普通に接してくれると喜んでいました。ご近所の方、更には色々な方々とも沢山お話がしてみたいと前向きになれたそうです。いずれは、仕事にも復帰したいと笑顔でお話して下さいました。

 Bさんの話です。ずっと発声教室の情報がないまま、喉摘後五年を経過されていました。今まで、自力での発声で生活されており、日常会話はほぼ筆談でされていたそうです。何か、声を出すための練習方法はないかと相談を受け、発声教室に参加されました。参加初日には、今日は本当に来て良かった。今までは、何もやる気が起きなくて…指導員の方から色んな話を聞いて、また外に出たくなった。手術を受けて長く経つけど、なかなか声もうまく出ないし、出来る事なら、自分で新しい喉を作りたいと思ってた。これから頑張ります。と、その後参加され、練習に励んでいらっしやいます。

 そして、発声教室には、こんな光景もあります。発声練習を始めてから、なかなか声が出ずに四苦八苦されている中、「あ」の一言が出た瞬間、教室のみんなから「やったね」「良かったね」と励ましの言葉が飛ぶのです。仲間の頑張りを周りのみんなで喜ぶ。それこそが、AさんやBさんや皆さんの支えであり、教室へ通う励みにもなっているのだと思いました。喉摘された方々、それぞれに相当のご苦労があったと思います。そんな方々の思いにふれ、社会復帰に至るまでの道のりの長さと難しさを、改めて知りました。更には、家族の支援、ご本人の意欲や心身ともの健康が、とても重要なのではないかとも感じました。

 発声には、母音の発音がとても重要だそうです。母音が出たら、ほぼ50%は発声出来たと言えるとお聞きした事があります。でも、その母音が出るまでには、かなりの時間を要する方もいます。だからこそ、皆さんにとっての一言一言はとても重要であり、時間がかかっても、相手の話をちやんと最後まで聞きとらなければいけないのだと痛感しました。

まずは、聞き上手になること。それが、何においても重要なんだと皆さんに教えて頂きました。まだまだ勉強不足な点が多々あります。今後とも、ご指導宜しくお願いします。最後になりましたが、今後の信鈴会のご発展と皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。

飯田教室平成二十三年度の歩み

信鈴会理事 飯田教室代表 花田 平八郎

 一年は早いものでもう二十四年に入り経過報告をしなければならない時が来ました。おかげ様で増田さん、岡田さん両指導員の協力、そして会員の協力で変わりなく教室の運営が続けられた事に感謝しております。飯田市立病院耳鼻科看護師さんの皆さんが交代で多忙の間をさいて教室へ出席下さり心強く有難く思います。四月二十八日は阿智村米川の花桃の名所へ会員家族十二名で見物に行きました。十月二日は、紅葉見物と温泉を楽しみに県最南端の天龍村へ飯田線を利用して集いました。まだ紅葉は早かったのですが囲りの山々を眺め天候に恵まれ楽しい一日でした。十二月末いつも教室を賑わせてくれていた平沢さんが急逝され皆悲嘆にくれました。新年を迎え一月二十一日飯田市の砂払温泉で新年会を市立病院看護師さん二名も出席頂き十名集まり看護師さんのお導きで「川の流れのように」を皆で楽しく合唱しました。三月十一日、東日本大震災一年の様々の現況・催しのテレビ報道を見て一層悲しみを深め私達も心いためました。いつ何の災害が降りかかるかも分かりませんので少しでも身辺を整理しておかねばと思いました。新年度も皆さんに応援を頂き健康で楽しい教室の続けられることを願っています。

退職後に感じた事

諏訪致室 伊 悦子

 今年(二十四年)は、厳しい寒さが続いた割に、雪の日が少なくて良かったと思っていた矢先の二月終わり、今日は大雪がやって来ました。

 よく降るなと窓から眺めながら、感じたままを、書き始めて見ました。

 退職して四年近くになります。初めの一カ月位は、時間に縛られる事なく、ノンビリ、この為に長年勤めたんだと、思っていましたが、段々、おやこれで良いのかな、退屈で時間を持て余す日々へと変わって来ました。

 自分でも感じては、いたのですが、姉達から電話の声が少し聞き取りにくくなった様な気がすると指摘されました。話す機会がぐっと減っていたし、同時に声が出なくなって居ました。怠け者で、頭では、分かって居たのですが、一人勉強は、長時間出来ません。いかに会社が声出しの大切な所だったんだと、懐かしんで居たとき、顔見知りの人に会ったので、話して見た所こんな会が有るから来てみたらと誘って頂き、思い切って入会致しました、体操の会です。

週一回一時間だけですが先生を、招いて行なっています。そこで、昨年こんなことが有りました。

 先輩が不幸にもクモ膜下出血で手術をしたのですが、その時 先生が、言った言葉を、お元気になって出て来たとき、話してくれました。とても印象に残りました。それは、術後しばらくして 何々さん何か運動していますか?とても回復が早いですよ。 と、言われたそうです。会の皆も喜びと共に、続ける大切さを思い知らされました。この言葉を励みにコツコツ長く続けようねと、話し合いました。

 発声も、まったく同じですね、続けること、話す勇気、少しずつでも毎日頑張ることが重要です。恥じたり、反省の一日でした。

 信鈴会各教室ともこれからも、優しく、厳しく、楽しく、明るく、あせらず、一人ひとりに合った方法を模索しながら、皆が話せる様な素晴らしい会になることを、祈念しております。

人生の節目 

伊那教室 中山 昇治

 私は昭和十四年九月生まれの七十二歳です。

 人生には幾つかの節目があったと思いますが、二十七歳で結婚して、子供が三人生まれたとか、四十歳の時父親、四十八歳の時母親の葬儀を行ったとか、六十歳で会社を定年退職したなど有りましたが、最大の節目は七十歳でリンパ節が腫れて生検の組織診断の結果は喉頭蓋舌面浸潤性癌で、Stage4で喉頭全摘、頚部郭清手術を二十二年二月十五日十二時間掛けて信州大学付属病院で行い大切な声を失いました。同じ頃 内視鏡で見つかった表在型食道癌と同時に手術後の放射線治療を七週間三十五回受けて九十二日間の入院で五月十日に退院することが出来ましたが身体障害者(二種三級)として生きて行く事になりました。

 入院中には毎週木曜日に信大付属病院の二階デイルームで行われていた松本発声教室を何回も見学させて頂きました。退院して一か月後頃に信鈴会、伊那発声教室へ入会させて頂き最初は食道発声をする予定でしたが三ヵ月程で放射線治療を受けた食道の途中へ空気を止めての食道発声は無理だと自分で判断して EL 器を使うことにしました。伊那発声教室は毎月第一、第三金曜日に練習を行いますが一年余が過ぎた今はゆっくり話せば、話していることを殆どの人が分かってくれるようになり、一人で買い物や歯科医院など、何処へでも出掛けられる様になり指導員の皆様に感謝しています。

 喉摘手術から二年が過ぎて、今のところ転移はなく毎月一回は信大病院へ行って診察を受けて、半年毎に CT や血液検査、_線、胃カメラ等まだまだ通院は続きますが、人生最大の節目は何とか乗り越えて今の状態を維持して行くように頑張りたいと思っています。

 この間、病院関係者はじめ多くの皆様に大変お世話になりありがとうございました。

佐久教室だより

指導員 三瓶 満昌

 平成二十三年度佐久教室の活動を報告します。一月十二日、長野から宇野女会長が駆け付けて下さり、付き添いの家族の皆さんを含め、十一名での新年初訓練です。この日、松崎さんが入って来られました。松崎さんには、手術の後遺症が治るのを待って、食道発声に入って貰うこととし、暫くは先輩の練習ぶりを見学して貰うことにしました。教室の日課は、全員で原音を発声することから始めます。原音が基本で、最も重要と考えるからです。初訓練のこの日は、宇野女会長が、一人一人の発声について、アドバイスし、会員は真剣な面持ちで、繰り返し点検していました。佐久では、食道再建術を受けられた人が、約半数を占めます。このような人達の食道発声は、単純喉摘者と比べて、少し多くの練習量が必要になります。食道再建術の中で、空腸移植という方法をとられた人は、移植した空腸が勝手に動き出す蠕動(ぜんどう)が起こる。この事は、度々発声練習を妨げます。厄介な事とうまく付き合って行かねばなりません。慣れるにも時間を要します。更に教室で教わったように音が出ない。この他、喉摘した事によって様々な不具合がありますが、佐久の皆さんはよく克服して頑張っています。近年佐久教室に幾人かの人が、喉摘して入って来ました。お気の毒にと内心思いながら迎え入れて、一緒に発声練習を行っていますが、教室の雰囲気は和やか、会員同士仲良くて親切、指導員も細やかに気を遣ってくれる。このような教室の空気を作り出しているつもりですが、食道発声は、この雰囲気とは裏腹で、きびしいものであり、辛いものです。空気を呑み込み、吐き出すときに音が出る迄は、人によっては、もどかしさに涙を流したり、自暴自棄に陥ることもあります。指導員として、目の前の初心者がこのようなことにならないように、注意深く対処せねばなりませんが、初心者ご本人は相当の決意をして発声訓練に臨むべきです。元来食道発声は、成功すれば素晴らしい発声法ですが、成功するには、それなりの訓練が必須条件で、特に原音という音を出せるようになる迄は、しっかりやって欲しいものです。教室の訓練は、本当にきびしく苦しいものです。何事も上達するには、他人の知らないところでの猛訓練があります。身近なところで、野球や格闘技の選手の例でも分かるように人知れず物凄い練習をしています。術後の予後の不安も取り払うことにも真剣に発声練習に取り組むことは有効だと考えます。教室の優しい雰囲気が発声訓練のすべてであろうと思ってはいけない事を私は思っているのです。しかし仲間同志のリクレーションでストレス解消、併せて喋る機会を作り出すということも重要な事と思います。

 九月にレクリエーションとして小諸市の、布引温泉で日帰りの会食をしました。小林夏子さんの提案でこの温泉を選びました。参加者は家族を含め十名でした。この温泉は浅間山を正面に見据え、くねって流れる緑の中の千曲川を見下ろす高台にあります。この日は小林さんの娘さんが初めて参加してくれました。奥様方ご自慢の料理や漬物を食べ四方山話に花が咲き話は尽きませんでした。温泉の湯舟からの眺望もよく、野天風呂も風情があって気持ち良い温泉です。アルコールは無いので酒豪の面々には物足りない集いだったかも知れませんが、楽しい一日でありました。帰り際には、もう忘年会の話が出て大笑いの中での開散でした。十一月の教室では早速、忘年会の相談です。十二月二十一日、佐久市のド真ん中のホテル一万里に決まりました。当日、いつも教室の皆さんが心配する峠の向こう側から、市川さんが元気な顔を見せて皆さんを安心させました。前の親睦会で布引温泉を紹介してくれた小林さんが、車椅子を娘さんが押して参加しました。小松さん三浦さん夫妻、岡部さん、近さん、三井さん、私の十一名の参加です。会場のホテルは、街の中心にありながら天然温泉が看板で湯量が豊富で多彩です。一泊ということで酒豪の皆さんも心置きなくビールを飲むことが出来ます。宴会になるとホテルの料理とビール、清酒が並びます。乾盃のあと早速ビールに手が伸び一杯目は一気に飲み干しました。女性の皆さんは飲めないとの事で、専ら料理に舌鼓を打ち話に盛り上がりを見せていました。佐久教室も女性の皆さんの協力が欠かせません。細々した事、特に湯茶の接待は有難いものです。三浦さんの奥様の手料理や漬物のサービスは教室には欠かせません。今では当たり前のようになっています。さて忘年会では、食べる程に、飲む程に盛り上がり、教室では喋れない人もここでは喋っています。感情の高揚がよいのかも知れません。我を忘れる事がよいのかも知れません。宴会もたけなわになりますとカラオケが始り歌手は歌っているつもりです。歌は古く懐かしい曲、歌っているご本人の心はその世代に戻っています。そうしているうちに、社交ダンスで結ばれたという小林さん夫妻のダンスが飛び出し軽やか(?)なステップを披露して仲睦まじいところをアピールしました。酒豪の皆さんは尽きるところ知れずの勢いでビールを飲んでいました。本当に楽しい仲間との一夜は尽きる事がなく続くようでした。苦しい発声訓練から開放されてこのような催しを行って、発声のきっかけにできれば一石二鳥ではありませんか。佐久教室の皆さんは元気です。今年は初めて総会に、三井さんが出席しました。今までは三瓶一人の出席で少し肩身の狭い思いもありました。新年の合同新年会には更に、近さんと三井さんが出席しました。私も心から喜んでいます。今、毎月二回教室を開いています。そのことは佐久総合病院のおかげです。耳鼻咽喉科の会田小百合先生、医療相談室の北村有由奈様に大変お世話になりました。心から御礼申上げます。

 新年度もよろしくお願い申し上げます。

 平成二十四年三月九日

不思議なこと・悲しいこと

松本教室 大久保 芳郎

1 不思議なこと

 昨年十一月、長男夫婦が第二子を授かりました。3. 600グラムの女の子で、私たち夫婦にとっては四番目の孫です。この孫の誕生に当たって不思議なことがありました。産まれた翌日、孫が救急車で豊科の子供病院に搬送されたのです。詳細は分かりませんが、産まれた病院で感染症にかかり、飲んだ乳を吐いてしまうとのことでした。私たち夫婦は、心配ですぐに子供病院へ駆けつけたのですが、産まれたばかりの孫の小さな手には太い点滴用の注射針が刺さっていました。痛ましいことこの上なく、とても直視できません。母親は出産した病院に入院していますので、搾った母乳を毎日子供病院まで届けなければなりませんでした。

 不安な思いを抱きながら数日を過ごしましたが、子供病院の適切な処置のお陰で孫は完治し、五日間の入院で母親と一緒の日に無事退院することができました。それでも、体重が産まれた時より200グラム減少していました。現在は、何の後遺症もなくスクスク元気に成長していますので、あどけない孫の笑顔を見ながらホッと安堵しているところです。

 ところが、この一件には後日談がありました。孫が誕生した病院で、同じ日に産まれた子供の母親たちが一堂に会しての昼食会があったそうです。この病院での恒例の行事で、子供誕生の「お祝い膳」のような催しだったのでしょう。孫が産まれて四日目のこの日、嫁を含め六人の母親が集まったそうです。席上、嫁が「私の子は救急車で子供病院に搬送され、現在も入院しています」と話したところ、周りの母親たちが怪訝そうな顔付きで、「私の子も」「私のところも」と次々に同じような発言があったのだそうです。

 全員の話を総合すると、この日に産まれた六人の赤ん坊のうち四人が救急車で子供病院に搬送され、残りの二人は搬送こそされなかったものの保育器に入れられているとのことでした。もちろん、病院側からは何の説明もなかったようです。

 以上は嫁から聞いた話ですが、同じ日に産まれた六人の赤ちやん全員に異常があったことが私にはどうしても納得できませんでした。病院側のミスではないかと思え、問いただしたい気持ちにもなりましたが、年寄りのジジ・ババが今更文句を言っても仕方ないと思い全てを若い者に任せました。長男夫婦も特別のことをしませんでしたが、嫁は出産した病院を全く信用せず、本来でしたらその病院で受診すべき孫の検査を全て子供病院で受けています。

 それにしてもまことに不思議な出来事で、未だにスッキリせず何とも腑に落ちない一件でした。でも元気になって良かったね、琳加!

2 悲しいこと

 昨年末、親戚の六歳の女の子が糖尿病で入院しました。小さな子供にも糖尿病があることを初めて知りました。数万人に一人の発症確率で、とても珍しい病気のようです。 ㈵型糖尿病といわれるもので、大人の糖尿とは違って一生涯インスリンの注射を打たなければならないそうです。血糖値を確認し、インスリンの投与量を調整しながら、日に四、五回の注射が必要とのことです。毎日のことですから、これらの作業を独りでできるようにならなければなりません。僅か六歳の子供にとっては余りにも過酷な作業で、これからのことを思うと悔しくて悲しくて言葉が見つかりません。

 血糖値は、手の指先や耳たぶから少量の血液を採取して測定するのですが、手間もかかりますし痛みもあります。インスリンは、足の腿やお腹へ注射して補給します。最近は注射針が細くなり、痛みが和らいだそうですが、それにしても大変なことだと思います。しかも、人前ではできないこの作業は生涯続くのです。

 それでも入院中の訓練のおかげで、この血糖検査からインスリンの補給までの−連の作業を、最近独りでできるようになったと聞きました。子供なりに覚悟ができたのかもしれません。

 今は、深く考えられずに医師や親の言われる通りに行動するでしょうが、もの心つく思春期の頃には、きっと思い悩むに違いありません。むしろ、その頃の方が心配です。

 今年の春には、小学校へ入学します。学校生活も、学友など周囲に気を使うことを余儀なくされるでしょう。とにかく、彼女に「強い女」になってほしいと思います。

 この病気は、ウイルスが原因だろうといわれていますが、発症したときにはウイルスが存在していませんので詳細は不明とのことです。それにしても「あんなに元気一杯の彼女が何故?」と思えてなりません。運が悪かったとしか言いようがありませんが、余りにも悲しすぎます。非力な私には黙って見守ることしかできませんが、血糖値の検査やインスリンの補給が、人前でも遠慮なくできるような簡便な方法が一日でも早く開発されることを願ってやみません。病気になんか負けるな、心愛!

さよなら、とくさん

横地 泰英

 一月三日朝、電話が鳴った。母が入院している病院の当直ナースからだった。「とくさんの様子がおかしい。五時半に診たときは何ともなかったのに、呼吸が不規則になっている。急いできてください。間に合わないかもしれない」。妻と二人、あわてて車で駆けつけた。すでに呼吸は止まっていた。表情はおだやかで、かすかに微笑んでいるよう。ひたいに触るとあたたかかった。死亡したときは「平成二十四年一月三日午前六時五十八分」。死因は「老衰」。当直の古川医師が僕らの前で死亡診断書を書いてくれた。

 母、横地とくは明治四十二年生まれ、百二歳と九カ月。八年前の平成十六年二月、脳梗塞で倒れ入院。そのまま寝たきりになり、胃ろうによる経管栄養で生きてきた。介護の主役は妻。その奮闘ぶりは昨年の会報信鈴三十七号、一昨年の三十六号にも書いた。締めくくり報告をお許し願いたい。

 兵庫県城崎郡日高町久斗の生まれ。日本海側の山村である。四月二日生まれを三月三十日と届けられ、出産と同時にいわば飛び級した。幼少時から勤勉な性格だったようで、高等小学校を出て、二十歳過ぎにおじを頼って上京。濱田産婆学校で学び、助産師の資格を取得。さらに東京看護婦学校に入り、看護師資格も得た。卒業記念写真帖は昭和八年五月となっているから、とくさんは二十五歳。講習生クラスにぽっちゃり色白、なかなか美人のとくさんが映っている。本科生・講習生の区別は、かつての正看・准看のようなものだろうか。

 

 とくさんは成績優秀だったようだ。看護婦学校卒業後、華族の田安徳川家の養育係に望まれて就職。その後、若くして東京・大田区で菓子店を経営していた横地英治と見合い結婚。三男三女に恵まれた。片田舎から出てきた若い女性の足どりとしては、かなりダイナミックといえる。強い意思、進取の気性の持ち主だった。

 時代は厳しさを増した。日中戦争で英治も昭和十四年ごろ、満州に応集された。戦傷で除隊したものの、太平洋戦争の戦禍は列島各地に広がり、一家は神奈川県二宮町の海岸に疎開した。とくさんは、幼い子どもたちを食べさせるため、身を粉にして働いた。戦後田園調布の店「あけぼの」を再開。とくさんの奮闘は七十歳代後半まで続いた。「おかみさんはいつ寝ているか分からない」と、お手伝いのひとりが言っていた。家族の健康には厳しいくせに、自分の健康管理にはいたって無頓着。血糖値は相当に高いのに、病院では薬の処方をしてもらうだけで、診察を受けていなかったようだ。脳梗塞も四〜五回やっていた形跡がある。診察が怖かったのかもしれない。

 そんなとくさんにとって、仕事を完全に離れた信州安曇野生活は、きっと楽園だったに違いない。すでに英治は亡くなっていた。椅子と兼用の手押し車で重文・松尾寺へ散歩。住職やご近所の方々とよもやま話を楽しんだ。胃ろうになったころは、まだ日常会話ができた。

 だんだん言語機能は失われ、平成二十年ごろから、ことばを失った。しかし、妻や僕には、とくさんの生きようとする意思がひしひしと伝わってきた。介護ベッドで姿勢を転換するとき、転がらないようにしっかり頑張る。伸びた髪をバリカンで刈るとき、半身で頭を宙に浮かす。相当な力がいるはず。言葉で伝えられなくても、眼に力があった。「痴呆」などと到底言えない。

 安曇野での葬儀・告別は家族葬とし、簡素に済ませた。親しい付き合いをしている松本市の住職が三日間読経にきてくださり、いっさいを仕切ってくれた。葬儀社は病院から自宅へ遺体を移したとき頼んだだけで、すべて手づくりのお葬式だった。本葬は三月二十五日、東京の菩提寺で納骨。全体としてかなりの ”節約葬儀 “だった。葬儀社をなるべく使わない手づくり葬儀はお勧めである。お寺、住職と日ごろからいい付き合いをしておく、簡素にやることを明確にすることが大切だ。

 とくさんは、苦笑まじりに、きっと喜んでくれていると思う。生前のご厚誼に感謝します。

前へ!

松本教室 塩野 崎一秋

 ラグビーの気合掛けの言葉です。スクラムを組み猛烈に押し合う。私は、明治大学OB。

 対抗する、早稲田大学との戦いでは、重戦車フォワードに重点を置き、押しまくる明治。ライン攻撃に重点を置き、走る早稲田。毎年、秩父宮グランドで繰り返される明早戦。野獣の様な身体を持った選手達だ。この言葉は、故人となられた北島監督の戦術でした。猛烈にスクラムを鍛え、相手にボールを触らせずにトライしろ。失敗も前に進むことで取り返せる。この言葉に、感動しました。自分の人生の座右の銘にしようと決めました。だから、癌になろうとも、後ろは向かないのです。

 もう一人 信州人の名物監督。故人の島岡野球部監督。彼は、応援団出身。野球では素人でした。六大学では異色の存在。チャンスの時もピンチの時も ”なんとかせい “との指示だったと聞きます。神宮球場の大スター星野投手と、ヒットメーカーの高田。法政のホームランバッター田淵や富田。明治は八年もの間、春秋の二回のシーズンがあっても優勝が無かったのです。島岡監督は辛かったでしょう。東大だって五位になって騒ぎになった事があります。この年、明治は東大に敗れていたのです。なんだか毎年苦戦しているように思います。

 ところで松商学園が、過去に全国優勝出来たのは、明治大学の指導であったようです。だから松商のユニフォームは今も、明治大学と同じだと私も後日聞き及びました。

 ところが、私が二年生のとき、明治は春の優勝をしたのです。クラス担任の教授は、「かつて先輩たちは、この学窓から学徒出陣し、神宮球場を雨中行進したのだ」。彼は「聞けわだつみの声」の出版協力をしていて、君ら七十年安保に関心を持てとアジっていました。その彼さえも「休講だ!優勝の応援に、神宮へ行け!」。なんと全校生かと思う、三万人が応援に来て球場を埋めた。優勝が決まった瞬間、私もフェンスを乗り越え、この時とばかり球場グランドをホームに向かい走りました。嬉しかった。どこの新聞も、おー明治!この歓喜はわかると評してくれていました。

 ただの思い出話になってしまいますが、私たち団塊の世代は、七十年安保闘争は忘れる事はできません。二年生の夜、銀座並木通りの喫茶店にアルバイトで居ました。今では高級レストラン末広も、スタンド食堂でした。銀座にも銭湯が有り、定食屋があり、そこは、俺達バイトも含めて、働く従業員の腹ごしらえの場でもありました。美しいホステスが、(お母さん、今日のお魚なあーに)等と会話していました。その中で、深志高校西穂遭難、三島由紀夫事件、三億円事件の発生を聴きました。日劇ミュージックホールでは、あんな綺麗な人が、おっぱいをみせて踊るのか?カルチャーショックでした。極右の赤尾敏さんが、北方領土を返せと、街宣しておりました。七十年安保闘争は映画監督に成りたい、岡本喜八OB監督に教わりたかった私の夢を奪いました。映画「三丁目の夕日」の山崎監督は、高校の後輩になります。私は映画研究部でした。道は外れましたが、穂高在住で(映画出前します)の著者であり、先日は映画「安曇野の水物語」を制作した川崎監督と知り合いになりました。全共闘の連中の命懸けの、機動隊との闘争の中にあって、私はノンポリ(無関心派)でした。学内で逃げ遅れた私達は、学内校舎のドーム屋上で観戦?機動隊は、わら納豆の形のような催涙ガス弾をくるくると回転させながら無数打ち込んで来ました。学生達はバケツの水をかけ、煙がでないようにしています。そこを、ヘリコプターが接近し写真を撮るのです。恐ろしい光景でした。

 松本支部で明治OB会、六大学会が例年開催されます。安保で逮捕されたOBの六年在籍の先輩がいます。卒業証書を貰えなかったのだと。四年になったら、相撲部などの人が、留年して側に座った。何故か私は体育会の人に好かれる。当時、日大相撲部の輪島はスターであったが、留年いや落第生の彼は、俺の方が本当は輪島より強いと言っていました。確かに明治は強かったようです。大スター高倉健は、相撲部の飯炊きで勉強しないので俺と同じ、監督が東映へ就職させたのさと言っておりました。その変な奴と今も付き合いがあります。

 三年になり、弟も私学入学と決まり、親父の負担はでかいと、箱根宮の下、冨士屋ホテルの前にあって、今は取り壊されてしまった渓雲荘ホテルでバイト。風呂、飯、余り酒。たいへんgood。ロマンスカーで渋谷、乗り換えて、御茶ノ水まで通いました。ここでのバイトは、当大学も最近上位に加わってきている正月の箱根大学駅伝マラソンのテレビ観戦に、大変な楽しみと、思い出を与えてくれます。アパートの生活では、前の部屋にあの超エリート東大法学部で司法試験を狙う、緑法会の鹿児島県人が居て、計画通りに五年で合格していきました。塩君もやれと気合をいれられました。一応法学部でしたが、狙う研究会のような所に所属していませんでした。

 神鋼コベルコ建機に、四十歳で転職しました。親会社の神戸製鋼とのラグビー日本一決定戦では、八年間神鋼がチャンピオンでありましたが、明治との全国一のチームを目指しての数度の戦いは、学生が社会人に勝つわけないと知っていても、その楽しさの立場をうらやましがられました。この会社では酒も飲み、煙草もヘビー、客だけでない身内の上司とのつきあいも有りました。世に言う官々接待です。社内で思うように自分の政策をする為の処世でもあります。思い切り金を使い、それだけの実績があれば誰も何も言わなかったのです。いけいけどんどんで、流石にやりすぎ叱られた人もいました。頭をまるめて出社してきたようですが、その後、彼に髪は戻らなかったと、伝説になりました。

 晴海、東京メッセ、有明ビッグサイトの展示会。思い出は尽きません。大手商社の連中との付き合いは世の中の勉強になりました。九州に出張し、日帰りし、残業し深夜タクシーです。どこでさんざん酒を飲もうが、新幹線での、ひと眠りで疲れが取れているというのです。流石、超エリートは違うのだ。塩ちゃんだって、慣れるよと言われても、脳や身体が慣れるのに三カ月かかりました。展示会では、設営の苦労に加わらずに、松本からバスで客を動員しトップの売りで、東京の連中に恨まれもしました。その帰りのある時、山一証券の倒産が伝えられました。帰りのバスの中で、左に山一のビルを観ながら、えらいことになるなと実感しました。

 オリンピックの年に、口底、舌、前立腺がん。また、四年後の五輪に、喉頭がんだ。何だこりゃ。平成二十四年の今年も五輪だ。看護師さんが、「運がいいわね、暇つぶしができて!」。そうかね〜?前回の入院では、ライトアップされた赤い東京タワーを観ていた。朝日放送の画面では常時映している。ここでも思い出が身近になっている。

「前へ!」は誰にも伝えたい。負けるか!こんな癌は治るのだ。

 医学の進歩は凄い。最近ではガンマーナイフ、サイバーナイフなどが脳腫瘍に使われ、喉頭がんのステージ4の患者が声帯を切除せずに話すTV放送をみた。しかし待っていられないのが病気であってタイミングもある。妻の姉が、七十五歳で肺がんで去った。殆どがんの治療はなかった。安らかな死に顔だった。眠るようだったと聞きおよびました。最近の本で「大往生したければ、医療に頼るな」というのを読みました。がん細胞をやっつけるための治療が、がんの反逆を誘い、辛い闘病生活になるのだと。私も今までの癌で、痛い思いは無かったのです。著者は書いている。貴方はもう生殖、繁殖能力は無い動物と、神が示したのだ。動物は皆、繁殖能力が無くなれば死ぬのだ。知らぬが仏で良いと言うのです。なるほどと思う。

 《私の現状》海沼先生のフォローも有り、水漏れも、プロヴォックス術後六ヶ月頃より無くなりました、落ち着いたのでしょうか。ほぼ一年経過です。いまはとにかく、言葉を発する事がトレーニングです。まじめなブラシと、カビとりのフロリードゲルの塗る事の大事さでしょう。

 カラオケで仲間に励まされ喉摘後歌った最初の歌 「東京の灯よいつまでも」。ママさん有難う。また歌うよ。仲間が、ラグビーの中継をファックスしてくれる。いつも「前へ!」なのだ。私は生涯楽しめる大学OBである事を、ありがたいと思っています。

 みなさんに、いつも「前へ!」を心がけてほしいとも思う。何時も辛いのが、世の常ですから。

 神に感謝と思っています。東日本大震災で、大勢の喉摘者が声も無く、津波にさらわれていったのではないかと思う時、本当にそう思います。TVで場面が放送される度、涙が溢れます。衷心よりご冥福をお祈り申しあげます。

合 掌

入学一年生

松本教室 黒田 勇栄

 小生、信州大学医学部付属病院に於て平成二十三年四月二十二日喉頭全摘出を行い五月三十一日に退院いたしました。医師と看護師の皆さんのご指導のもと生理的な変化も感じないまま、信鈴会発声教室に入学いたしました。六月二日でした。毎週木曜日、欠席遅刻しないよう努力しております。先輩諸兄が永年にわたり作って下さった温かく優しい教室がいつまでも元気で明るく楽しいものであります様に願うとともに多くの同胞と協力いたします。社会復帰を目指して「あゆみの箱」に参加して参ります。入学許可を頂き有難うございました。頑張ります。

平成24年刊 第39号

はじめに 

長野県信鈴会会長 上條 和男

 信鈴会の執行部が交代し、新たに会長を拝命致しました。

 その責任の重さに、身の引き締まる思いです。至らないところも、あろうかと存じますが、ご協力をよろしくお願い申し上げます。

 宇野女健前会長は二〇〇三年(平成十五年)就任以降、二〇〇五年に飯田教室開設に始まり、二〇一〇年、東日本発声指導員研修会を長野市で開催し成功に導くなど、その実行力とお人柄で九年の長きにわたり、会の発展に尽くしていただきました。心より御礼申し上げます。

 さて、二〇一三年(平成二十五年)より、信鈴会会長委嘱による「発声指導員」から、日本喉摘者団体連合会長認定の「発声訓練士」に資格変更になりました。今までと同じ活動内容ですが、その名称を全国統一にして、少しでも発信力を増し、喉摘者支援のため社会的認知の向上と、行政への働きかけをより強くしていきたい。より良い発声指導法を皆で共有できるようにしたい。そのような主旨ですので、会員のみなさま、そして訓練士のみなさまのご理解をお願いいたします。

 私たちは、一人でいれば、自分が喋れないということに何の不自由も感じることなく過ごしています。しかし、人の輪の中に入れば入るほど、孤独を感じ、寂しささえも味わされます。

 昨年、松本教室納会で「家族座談会」が開かれ、そのご家族の話を、自分が失声した当時を思い返しながら拝聴させていただきました。

 そのお話の中で、手術を受けた本人と同じように、連れ合いの方もどれほど悩み、不安を共有していたか、知らされました。静かに見つめ、本人の努力が実るのを心待ちにしている。どれだけ会話を待ち望んでいてくれたか。

 手術を受けた当時の私には、思いもつかなかったお話でした。すこし声が出た、ただそれだけで喜びを共有してくれる。失ったからこそ得られる極上の幸福でしょう。

 再び会話の輪の中に入って行かれることを祈っております。関係各位のみなさまのご協力に深く感謝申し上げます。

二〇一三年(平成二十五年)春

共に生きる長野県を目指して           

長野県健康福祉部障害者支援課長 佐藤 則之 

 平素より県の障害福祉行政に御理解と御協力を賜り、心より御礼申し上げます。

 また、貴会の御協力をいただき実施している発声訓練事業につきましては、関係の皆様の御尽力により県内各地で活発に発声教室が開催されていますことに、重ねて感謝申し上げます。

 さて、障害者施策の総合的な推進につきましては、平成二十三年の障害者基本法の一部改正や平成二十四年の障害者総合支援法成立など、国において各種の法制上の措置が講じられてきました。県におきましては、障害の有無にかかわらずお互いを尊重し合いながら共に生きる社会の実現に向けて、平成二十四年十一月に障害当事者や関係者で構成される研究会において検討結果が取りまとめられました。その中で提案された内容を具現化できるよう、県として対応を進めてまいります。

 また、平成二十五年度からは、県民が障害の特性や障害者への配慮の仕方等を理解し実践することで、お互いに支え合う社会を目指す「あいサポート運動」を新たに展開しながら、就労支援や障害を理由とする差別をなくす取組を推進してまいります。

 先ごろ、厚生労働省が公表した最新の統計によれば、男女ともに長野県が全国一位の長寿県となっています。これは高齢者の就業率が全国一高いことなど、県民が生きがいを持って暮らしていることも一つの要因と考えられております。そうした観点からも、喉頭摘出手術を受けて声を失った方々に対して、経験者としての立場から発声技術指導等を行うことで社会復帰を後押ししている貴会の活動は誠に意義深いものであります。

 共生社会を実現していくためには、行政の取組だけでなく、県民の皆様一人ひとりがお互いに理解を深めて協力していただくことが大切と考えております。皆様方の積極的な取組を引き続きお願いいたしますとともに、貴会の活動が今後更に発展されますことを期待しております。

 最後に、貴会の益々の御発展と会員の皆様方の御健勝を心より御祈念申し上げます。

真の障害者福祉の充実をめざして

長野県議会議員 本郷 一 彦 

 信鈴会におかれましては、上條会長の高い志と実行力によりまして、全国を代表する喉摘者の団体として、内外ともに高い評価を挙げられており、心から敬意を表します。

 長野県は平成二十五年から平成二十九年の政策体系の集約である総合五カ年計画を作成し、「確かな暮らしが営まれる美しい信州」を基本理念に、目標達成に向け各分野の実現に努力致します。

 とりわけ健康づくり医療充実プロジェクトはその柱であり、障害者福祉への対応も視野に入れ、取り入れていく所存であります。

 我が国の政治経済情勢の中にあって、その最大テーマはデフレの脱却であり、経済成長路線を軌道に乗せることであり、同時に持続可能な社会保障制度の構築に他なりません。医療・介護・福祉をどのように再考するかは政治の最大なる責務であり、「障害者が自立して生活できる社会」の実現は、その主要課題と認識しております。その中にあって、会員皆様が抱える問題解決につきましても、私は顧問の責務を自覚し県政を通じて全力を傾注する決意であります。

 信州大学の先生方、看護師の皆様、更には関係各位のたゆまぬご協力のもと、発声訓練が着実に進化し、結果社会参加へと繋がり希望の持てる方向に着実に進まれていることに対し、心からお慶び申し上げます。

 本年も皆様にとって幸福な一年であることを心から祈念いたします。

(長野県信鈴会 特別顧問)

老化と運動障害

信州大学名誉教授 田口 喜一郎

 二十年後に日本の人口の四十五%が六十五歳以上の構成になると予測されています。国は将来の労働力不足を補い、また年金の受給開始年齢が六十五歳になるのに伴い、最近「高齢者雇用安定法」という法律により定年が六十五歳に延長されることになりました。しかし、そこで大きな問題は六十五歳まで健康が維持できるかということです。日本人の平均寿命は男性で八十歳、女性で八十五歳で、年々延長していることは大変喜ばしいことですが、何歳まで働くことができるかは個人差が大きく、健康状態に左右されます。特に体が動けなくなったらと考えると働くどころではありません。そうなる原因として多くの病気がありますが、老化現象が大きな問題になっております。

 老化現象の一つで、生活に大きな影響を及ぼすものに「転倒」ということがあります。転倒とは「ころぶ」ことですが、早い人では五十歳ごろから「体がふらつく」、「安定して歩けない」そしてちょっとした障害物、例えば五センチメートルの段差につまずいて転んでしまう人が増えてきます。若いうちは坂道を登ったり、下ったりといった運動が無意識に平気でできたものが、ある年齢から少しずつ困難になり、特に階段を上り下りする時にふらついたり、足に力が入りにくいことを実感するようになります。こんなはずではなかったと思う間もなく、階段を踏み外して転げ落ちたという例は稀ではありません。その結果、体のあちこちの打撲や関節の脱臼、さらに手足の骨折や頭の骨折、そして打ちどころによっては脚、腕や手の麻痺、最悪の場合は命を失うことすらあるのです。こういった症状で治療や介護を必要とする患者さんは年々増加傾向にあるといわれております。家族や介護士のお世話にならなければならないのは、なんと残念なことでしょう。

 こういった障碍は、中高年になると、筋肉や靭帯、関節が弱くなり、同時に体のバランス維持に必要な内耳の機能、視覚や聴覚、そして歩くとき足の動きをコントロールする脳や深部知覚といった機能が少しずつ衰えてくるためであります。運動障害が生じて、介護の必要性が生じた状態を「ロコモティブ症候群」といいますが、整形外科の先生に聞くとそういった状態やその予備軍は四千七百万人(男性二千百万人、女性二千六百万人)もいるそうです。そういった状態を生じる大きな原因の一つに「骨粗鬆症(こつそしょうしょう)」があります。骨粗鬆症とは骨の形成より吸収の量が多いことにより骨の中が海綿状になってしまう病気で、女性に多く、特にカルシウムを食べる量が少ないと起こります。

 今回は、こういった骨粗鬆症とロコモティブ症候群の予防についてお話ししたいと思います。

 一、バランスのよい食事

 好き嫌いは誰でもあると思いますが、できるだけいろいろなものをバランスよく食べることが必要です。特に蛋白質とカルシウム、マグネシウム、ビタミンA、D、Eなどが重要です。糖分とビタミンEの摂り過ぎは骨粗鬆症を悪化させますし、普通の食事をとっている限りはビタミンEが不足することはないので、わざわざ高価なサプリメントで補充する必要はありません。高齢者は蛋白質が不足しがちですので、要注意です。

 カルシウムは不足しがちです。カルシウムが多く含まれるものとしては、植物性食品では、えんどう、凍み豆腐、あぶらげ、がんもどき、大豆、豆腐など。動物性食品では煮干し、たたみいわし、鮎、しらす干し。それに海藻のひじき、わかめ、昆布、青のりなど。乳製品のチーズ類、牛乳などです。

 ビタミンDは、植物性食品では、乾燥椎茸、酵母、小麦の麦芽、ほうれん草、キャベツなどに多く含まれ、動物性食品ではいわし、さんま、鰹、鯖、鮭、鰈、めかじき、すじこ、鰻、卵黄などに多く含まれます。活性化されたビタミンDは食べたカルシウムを腸から吸収しやすくします。

二、運動

 人間は二本足で立ち、移動します。これは重力に抵抗し、地上でバランスを取りながら動くことを意味します。したがって、そういった運動に適した骨、関節、筋肉がバランスよく動かせるように作られています。この構造は、日常動かすことによってスムースに動く精密機構を構成しているのです。日常立ち上がり、歩きながら頭の位置を変えたり、物を持ったり、自転車に乗ったり、座って手足を使って仕事をするという動作は、そういう機構によって順調に維持されており、歩行や体の運動を行うことによってよりスムースに行われるようになります。一方、筋肉も骨も関節も動かさないと衰えてしまいます。例えば、高齢者は一日二十四時間絶対安静を命じられ、寝たままでいると、若い人が三日から一週間寝続けたと同じくらい筋肉が衰えると言われます。

 運動は自分で意識的に心掛けないとできないものです。特に寒い季節・暑い季節には外出を控えたり、できなかったりしますが、家の中、室内でもできるだけ体を動かすようにしてください。六十五歳以上の高齢者では、できれば一日五千歩程度、週三日以上歩く積りで体を動かせば十分ですが、家事や身の回りの仕事を自分でやるだけでもかなりの運動量を得ることができます。

三、紫外線

 紫外線は、皮膚にあるビタミンDを活性化し、カルシウムの吸収を助けます。ビタミンDは食物から取り入れる量より紫外線にあたって皮膚で活性化する量のほうが多いともいわれます。最近は長時間紫外線に曝されますと皮膚の老化や癌の発生を起こすと嫌われがちですが、一日二十分程度日光に当たるだけで十分と言われております。

 人生を楽しく豊かに過ごすために、寝たきりにならないために、自分の努力で老化を予防しましょう。

信鈴三十九号に思いを馳せて

長野県信鈴会相談役 今野 弘恵

 新しい年を迎え、久しぶりにゆっくり炬燵にあたりながら箱根駅伝を見ていました(毎年これだけは逃さず)。選手たちがそれぞれたすきをかけ、一生懸命に走り、どんなに苦しくてもへこたれず、前へ前へ…ひたすら走り、母校のたすきを次へ渡していく。選手たちの強い絆!あの感動はたまらない…箱根駅伝には惚れ込んでいる。

 信鈴は昭和四十四年(一九六九年)創刊号。昨年は三十八号(平成二十三年刊)でした。永きを刻んできたものです。会報は皆さまの心の糧となり、希望の光となるものである。決して止まってはならない。次へ、次へと……前進を祈っています。

 県下に六つの発声教室。会長ほか役員、指導員の努力で指導体制も充実してきている。皆さまが一体となり、励まし合って明るく楽しい教室を目指していることに感謝、感謝です。

 教室では発声方法の選択も重要なポイントになる。手術を受ける患者さんの高齢化、置かれている環境、個人が求めている優先度…一人一人を大切に考えながらやって行く。声を失ったことにより社会から遮断され、小さな枠のなかに閉じこもってはならない。

 発声教室は同じ悩みを持つ人たちがともに励まし、力を出し、第二の声を得て、力強く社会参加をしていく大切な場である。

 毎週木曜日、発声教室に参加するだけでなく、常に一人一人の顔を見て、思い浮かべて、参加しない?できない?人たちへの働きかけをしてゆく…足がなくて来れない人、健康の状態、車椅子生活になって来れないひと…さまざま。元気でやっているか?困ったことはないか?

 信鈴会の役割は重い。みんなで力を合わせ、心を寄せあい、心のよりどころとなるよう、明るく前進を……信鈴会発声教室をあたたかく見守り、ご支援いただいている宇佐美教授、先生、看護師のみなさまに深く感謝申し上げます。

「信鈴会」を伝えて行くために

佐久総合病院耳鼻咽喉科外来看護師長 三石 雪枝

 会誌「信鈴」の発刊おめでとうございます。発声教室への参加がなかなかできず、佐久教室の皆さまには大変申し訳なく思っております。しかしながら、頭頸部腫瘍と診断され、手術を余儀なくされた患者さまとの出会い、外来であって、病棟でも関わりが持てるような連携となり、二年が過ぎようとしています。

 外来では、「体調を整えて、手術に来てください」とお声をかけると、皆、硬い表情で不安を抱えている様子です。

 そして、入院して来ると、「手術、いよいよですね、頑張りましょう」とお声をかけると、少し笑顔を見せてくれます。

 そして手術の日、「覚悟を決めた。後は、お任せするだけ」という患者さまとご家族。大きな手術を終えた患者さまご家族はほっとした表情。でもこれから先のもう一つの不安と向き合っていかなければならないという思い。

 そんな患者さまと多くの語らいをしてきました。若いスタッフは声を失ったあとの患者さまと関わる時、特に緊張しています。でもそんなことはないんだよ。と私は、一緒に会話をします。そして「発声教室」があることを伝えます。みんな、生き生きと一生懸命、楽しんで生活しているよ。そう伝えています。そして入院中から、患者さまへ発声教室の存在をお伝えしています。

 退院した患者さまが、外来受診に来ると、「元気でした」とOKサイン。満面の笑みをみせてくれます。私はそんな患者さまに、逆に力をもらっています。その力を入院中の患者さまにたくさん分けてあげられるよう看護していきたいと思うこと、これからも発声教室を伝えていくこと、そして、外来、病棟からも参加し支援できる体制づくりを行っていきたいと思っています。

 今後ともご指導をよろしくお願いします。最後になりましたが、今後の信鈴会のご発展と皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。

明るく 仲睦まじく

伊那中央病院外来 平澤 久子

 私の勤務する伊那中央病院の耳鼻咽喉科では、前任の深沢先生が退職されて以来、週三日の外来診療のみが行われております。伊那教室は、その外来日の月二回、院内の会議室にて活動されています。そのため診療時間と重なり、なかなか教室に参加できず、心苦しく思っております。しかし、会員の中には当院の耳鼻科を受診される方もおり、外来時の束の間のふれあいにはなりますが、上手にお話しされる様は、日々の努力の賜物だと感心しております。

 私が、耳鼻科外来に勤務し始めた頃は、古い病院でしたが、手術も年に何例か行われ、教室も大勢の方が参加されておりました。現在は飯田教室もでき、常勤の医師もいないため、新しい会員も少なくなりました。ですが、少人数のため皆様がとても和やかに活動されているように思います。

 このたび、投稿させていただく機会をいただき、伊那教室に通われている皆様に、日頃から私が感心させられていることを述べさせていただこうと思いました。まずはじめに、皆さんご苦労されてきたと思いますが、明るいこと。そして、ご夫婦の仲睦まじいことです。教室にご夫婦で通われたり、受診に付き添ったりしている姿を拝見しますと、患者さんは一人で病気に向き合ってきたんじゃない、家族が支え、お互いに頑張ってきたんだと思います。

 二つ目に、コミュニケーションは会話だけではないこと、以前、出会った患者様はとても物静かで、医師から病気を告げられた時も、私たちの前では動揺する身振りも見せず、手術に臨まれました。その方が、信鈴会に入会され、熱心に発声練習をされていました。それから程なく、私たちが新年会に参加させていただいた時のことでした。その物静かな患者様は、手振り身振りでお話しされ、満面の笑顔で談笑されている姿に、人は変わるんだなあと感心した次第でした。

 三つ目に、皆様の前向きの姿勢です。声が出なくなると分かって手術されたことは、どれほど辛かったでしょう。しかし、後ろを振り返るのではなく、前を向いて、また声を取り戻し、社会に復帰されたこと、また、指導者となって同じ障害をもった方を指導され、頑張っている皆様には頭が下がる思いです。

 今の病院体制には、大変不都合を感じられているとは思いますが、伊那教室が続いて行けますよう、微力ながら私たちの出来る限り協力していきたいと思います。

 信鈴会の益々のご発展、皆様のご健康をお祈り申し上げます。

祖父の声

2年4組 春日 優希

 みなさんの家族は、声を出して話していますか?

私の父方の祖父は六年前、病気でのどを手術し、声を失いました。

 私は、小さい頃から祖父母の家へ行き、よく遊んでもらっていました。しかし、当時の記憶はあまりありません。祖父の声を覚えていないのです。

 私や妹、いとこ達の名前を呼んでくれた声。

祖母や私達の父、母、近所の人達と楽しそうに話していた声。

 自分の声を失ったとき、祖父はどんな気持ちだったのでしょうか?

私は、まだ七歳だったため、祖父が手術をし、声を なくした、という意味もよく分からず、いつものように

 「おじいちゃん!」

と呼びました。でも、聞こえてきたのは祖父の声ではなく、まるで機械が話しているような、一定の音程を保った声でした。

 その機械音を聞いた当時の私が、どんな反応をしたかは分かりませんが、きっと悲しかったと思います。それは祖父の声が、もう聞けないと感じたからです。

 それでも祖父は、いつも笑っていました。駒ヶ根から飯田市立病院まで通い、少しでも話せるように、発声訓練を行っていました。私と妹は何回か、祖母に連れられて一緒に病院へ行っていました。

祖父は一生懸命でした。

 祖母は祖父の声を聞きとり、たのしそうに会話をしていました。でも私には祖父の声を聞きとることができませんでした。そんな時 祖父はいつも紙に伝えたいことを書いてくれました。

 決して、キレイとは言えない字でしたが、祖父の心づかいが嬉しくて、私は夢中になって祖父に話しかけました。早く、祖父の声が聞きとれるようになりたかったのです。

 それから何年か経ち、私や、父も母も祖父の声が分かるようになりました。

 祖父母の家に訪れるたびに聞こえてくる祖父の声は、だんだん機械音に思えなくなりました。ちゃんと、声として聞こえてくるようになったのです。

 それが、私達家族にとって一番願っていたことであり、一番嬉しいことでもありました。しかし妹はまだ完全には理解していないようでした。

 昨年、私は中学生になり、小学生の時より祖父母の家に行くことが少なくなりました。

 でも、声は聞くことができました。

 それは、家族の絆があったからこそなのかもしれません。

 去年の六月。今度は祖母が心臓の病気で入院しました。

 以前より、旅行などに行く回数は減りましたが、とても元気です。きっと祖父がずっと支えてくれていたからでしょう。

 私は「祖父の声」をきっかけに、改めて家族の大切さ、絆について感じました。何があってもどこにいても、家族は一つになれます。

 みなさんは絆について、どのように感じますか?家族や友人との絆は,つらい時、苦しい時、いつも自分を支えてくれるかけがえのないものです。

 みなさんも、改めて絆の大切さについて、考えてみてはいかがでしょうか。

      ◇

 長野県学校作文コンクールにて中学生の部で優秀賞に輝いた優希、優秀賞おめでとう そしてありがとう

 おじいちゃん おばあちゃんより 平成二十三年九月

成長と家族愛に感動

信鈴会飯田教室 花田 平八郎

 先日、会員の小川昇さんからお孫さんが書いた作文を預かり、一足先に読ませていただきました。

 優希君の幼い時から中学生への成長、そしておじいちゃんとのコミュニケーションと、二人の愛情が本当にうまく書かれていて感動しました。

 ご家族の絆、友人への絆の大切さを投げかけた文章に私も改めて教えられました。

 優希君、優秀賞おめでとう。ますます勉学にスポーツに頑張ってください。

 小川さんご夫妻、これからもお元気で、ご家族、信鈴会のためにご活躍ください。

アンズがいる電気店

長野教室 金子 功

 私は、町の電気店です。平成二十四年十一月で創業四十三年になりました。

 送信電波がデジタル化し、テレビの買い替え需要で忙しかった二十三年四月、喉に違和感を覚え、町の医院から日赤を紹介され、生まれて初めてPET、CT、MRIと検査を体験し、ステージ㈽の下咽頭癌と宣告されました。左のリンパにも転移しており、それから一年間、五回の入退院を繰り返し、二十四年三月、咽喉の全摘出手術を受け、声を失いました。

 あとで考えると、二十三年五月に全摘出を決断していれば、一年間苦しまなくて済んだのではないかと思う。しかし相田みつをさんも言うように「にんげん我欲のかたまり、にんげんのわたし」なのだ。私も声を失う恐怖と失いたくない欲望のはざま、二択の中の放射線治療を選んだ。

 いまの医療体制では、すべて患者に選択責任が預けられている感がある。患者が病気には全くの素人であることを鑑みれば、専門家や体験者の助言はおおいに必要と考えます。同じ悩みを抱える患者さんに明確な助言をできれば、と思う。私は商売の関係で多くの知人がお客様がおり、時期々々で適切なアドバイスをいただいた。妻はネットで同じ病気の方が発する情報を見つけてくれた。先々の不安で鬱状態になりかけながらも一年間を乗り越えた。

 手術後、経過観察をするなかで二十四年九月、主治医から「術後半年が過ぎたので再度PET検査をしよう」と指示を受けた。その結果、右のリンパに転移が認められた。パソコン画面に癌細胞活動を示す黄色と青光りする部位を見て、「またか!」と覚悟を決めた。念のため日赤でもCT、MRI、細胞切除をし、二週間がかりで確かめることになった。

 MRIを予約していた前日だった。店で飼っていた十三歳の柴犬アンズが妻の足元で「キャンキャン」と三度啼いて立ち上がった。ふらふらして目つきもおかしい。獣医につれて行き、採血など検査を受けて様子を見ている最中、原因が分からぬまま冷たくなってしまった。お客を迎えるとき、ちぎれるように尻尾を振って愛嬌を振りまき、評判になってテレビ出演までした愛犬とのお別れだった。

 MRIなどすべての検査を終え、十月上旬、最終結果を聞くため、妻と主治医を訪れた。診断結果は意外にも「何もなかった。癌細胞はなくなっています」。知人の数人から「あなたの病巣はアンズちゃんが持って行ってくれたんだよ」と言われ、妻と涙した。

 いま発声教室に通い、先輩から優しくも厳しい指導を受けている。電気店の現役で暮らす私は、とりあえずELで練習している。発声が上手になる先輩の姿に勇気づけられながら、見よう見まねで私もいつか食道発声できるよう参加しています。

 経過観察はこれからも続き、再発転移にひやひやする毎日ですが、積極的にどこへでも顔を出し、決してネガティブにならぬよう、気分転換して生活していきたいと考えております。

信鈴会 発声コンテストに参加して

長野教室 小林 毅

 私は昭和十三年一月の生まれです。今年の正月で満七十五歳になりました。

 過ぎ去った人生を振り返ってみますと、何度かの節目を通り過ぎてt来ましたが、老後ともいえる七十歳を目前にして突然、喉に異変を感じてから、この七年間は一言では言い尽くすことができない、大変な節目となりました。幸い単純喉摘手術でしたので、経過は順調でしたが、当然のことながら声は出ない、会話ができないという辛さを思い知らされました。

 発声教室での教えも思うようには行かず、焦りから誤発声に陥り、一年ほど原音が出なくて苦しみ続けたあげく、ようやく喉のあたりで響きのある「ア〜」が出るようになりました。それからは二音、三音の言葉が出ますと気持ちも安定して練習にも力が入りました。食道発声の上達法は根気強く毎日続けるという意味もよく分かるのですが、目標を失うと、つい怠ってしまいます。

 秋には長男の結婚式も決まっていて、父親として役目を果たすためにも、まず会話をしっかりできるようにせねばと思いながらも、日にちだけ過ぎてしまい、悩んでいました。

 そんな昨年(平成二十三年)、第六回信鈴会発声コンテストが六月に催されることになり、私にも出場要請があり、思い切って力試しに出場を決意しました。初めての経験で不安もあり、経験者の話を聞いたり、競技規定を確かめますと、課題曲は故郷の空と赤とんぼの二曲から一曲を選んでアカペラで歌い、スピーチは自作のもので原稿を見ずに五分以内に発表することとありました。私には少し難しすぎると思いましたが、なんとかやってみることを心に決め、文章は暗記しやすい体験談を基に発表することにしました。

 練習を重ねるたびに文章は作り変えました。発声は毎日一、二時間は欠かさず時間を測り、テープにとっては聞き、これを一カ月ほど繰り返し練習を重ねて、自分なりに納得して当日を迎えました。出場者はEL発声が四人、私たち食道発声が四人で、それぞれ努力の成果がうかがわれました。私は初めての上、一番目の発表。緊張も重なり、思うように行きませんでしたが、なんとかできて、大変良い経験をさせていただいたと思っています。コンテスト終了後いただいた記念品は私の宝になっています。

 秋には息子の結婚式も、おかげさまで無事に役目を果たすことができました。出席者から「挨拶がはっきり分かって感動したよ〜」と言われ、大変満足でした。これもコンテストへ向け練習を重ね、頑張った結果が自信となり、上達につながったことと感謝しています。今後も経験を生かしながら会のみなさまと楽しく励まし合ってゆこうと思います。

教室と家を利用して

長野教室 小林 今朝雄

 二度目の投稿となります。今年から長野教室の理事を拝命しました。理事と言っても名ばかりで、指導員も兼ねておりますが、果たして教室ではどれだけ会員の皆さんの力になっているか、とても心配です。

 教室にはなるべく都合をつけて出席し、皆さんが元気にドアを開ける姿を見ては嬉しく思っています。最近の長野教室は、会員登録人数にしては出席者が少ない感が致します。もちろん、会話ができるようになり、完全社会復帰した方もおります。また食道発声の基礎を習得し出席しない方もおることと思われます。

 しかし食道発声はそんな簡単なものではありません。長野教室は週一度しかも二時間弱の練習時間で、思うように結果を出すことはさすがに疑問を抱きます。でも教室に参加することで思わぬきっかけをつかむ場合もあり、大変貴重な場所だと思います。最初はかなり厳しい訓練です。絶対にあきらめず根気が大切だと思います。現に、時間はかかりましたがきれいな声を出す人もおります。教室で楽しく会話している方の多くは、みなさん避けて通れぬ道を苦労して通過したのだと思います。

 原音が出るようになりましたら、鼻と気管孔を最大に使い、空気を取り入れ、そこに腹筋を使用し、さらにきれいな声を出しましょう。絶対楽をして声を出そうとしないでください。誤発声の原因となりかねません。最初は面倒とか大変と思うでしょうが慣れればそれが普通と感じ、逆に楽しくなると思います。声を出すことに即効薬はないと思います。時間ぐすり、練習ぐすりが一番かと思います。ウォーミングアップをしっかりやり、毎日少しでも必ず練習することです。教室と家での練習を上手に利用したら「自分の声」を取り戻せます。

 頑張りましょうという言葉は、何回も聞いたことでしょうが、もう一度、頑張りましょうをお伝えします。最後になりますが、病院通いもなく、薬も飲まずに元気が一番です。十分ご自愛され、気分転換も忘れず、自分を信じ、希望を持って!

八十路のたわごと

長野教室 宇野女 健

 声帯のある健常者でも、いざ人前で何かお話しするとなると、なかなかそう簡単にはいかない。まして我々喉摘者にいたっては、肝心の発声自体に問題があるのだから、上手に話すどころか、相手に通じているとひとりよがりしていても、下手するとあまり通じていなかったりすることになりかねない。我々はまず相手に完全に理解してもらえることを目標に、正しい発声を心掛けなければならない。お互い他人の欠点はよく分かるものである。したがって教室では人の振り見て我が振りを治す精神を持って、自分に厳しく基本発声の練習を真剣に採り入れなければなりません。

 長野教室では毎週金曜日の発声教室では、代表者朝礼のあと、参加者全員が一週間の練習成果を発表しています。真剣に話し、聞くほうも真剣に聞く。順番に行っているが、結果は簡単ではない。でも、発声力、明瞭度、大勢の前で話すという基本的な目的意識が、漫然とした練習とは比較にならない訓練効果を上げています

 ただ、もともと人には話し上手とそうでない人がいるわけで、口下手な人に名スピーチを求めてもむりであろうが、聞く人の心を打つ話は決して不可能ではないと思います。信鈴会の隔年の定期総会の日に行うスピーチコンテスト参加者の参考になればと思います。食道発声の明瞭度、息継ぎ、はっきりした語尾。第二の人生の光明を食道発声で呼び込みたい。

 まずは健康第一.思考が明晰で力強いときは、思ったことがそのまますらすらと自然に流れ出て言葉になる。逆に思いが弱いと言葉にするのに多くの力みが入りすぎ、その結果言葉が不自然に陥りやすくなります。気張らず柔らかに筋道立てて人の共感を呼ぶように、日々教室でも創造性豊かに気持ちよく聞けるように話したいものです。日々の生活の中で真実を考え、話す。言葉が気持ちよく素直な感じに話せる人が、話し上手と言えると思います。外に向かって気張ると、話す人の内心が緊張し、相手も心がこわばってくる。長すぎる話や、難しい言葉をむやみに使うと、聞く人の印象を損ねることもあります。気持ちよく話す技術は、仲間から伝授され生まれるものであります。

 食道発声の泣き所である言葉の明瞭度、メリハリ、感情を込めた抑揚に注意して軽快に話すことです。明瞭に話せても雑音がある悪い癖、喋るための空気を喉の奥に注入するつど「グーグー」「コツンコツン」と音がする人がいます。会話の邪魔になりますし、自然でない。この癖は早いうちならば容易に治ります。

 来年も発声コンテストが開催されると思います。信鈴会の仲間全員が今から訓練に訓練を重ねて、明瞭度、音量、流暢さ、声の高低、強弱、長短などの変化があって、自然に会話の技術が身についたとき、だれからも、うまいなあと感心されます。自分の声を自分の耳で聞いている場合と自分の声を録音テープ(カセットテープ)で聞くのとは、かなり感じが違います。何回も何回も繰り返し自分の声を聞いていると、欠点がよく分かります。頑張りましょう。

 昨年までのご協力に感謝しながら、変わらないご指導をお願いしますとともに、仲間の発声向上のお手伝いが出来ればいいなあと考えています。よろしくお願いします。

歳を重ねて

長野教室 青木 繁子

 平成二十四年は、日本の新しい強さが見えたような年だったと思います。二十五年は健康で明るい幸多い年にしたいものです。ふだん筆不精の私ですが、何とか書いてみたいと思います。

 私も、はや手術後六年が過ぎました。検査で病院には一カ月ぐらい通院しました。病名は喉頭がん。喉頭摘出、胃も切除して吊り上げてあり、空気がもれます。いまでは三カ月に一回通院診察。肺がぽつぽつ白くなっている、腫瘍マーカーが高いと毎回同じ診断です。「少し様子を見る」とのこと。あまり気に留めず、わが身にむち打って生きて行こうと覚悟を決めています。そんな中で発声教室を紹介していただき、入会しました。

 落ち込んでいる場合でない、頑張ろうとは言ったものの、なかなか声は出ません。指導員さんのおかげで原音がやっと出て、会話はできたり、できなかったり。練習が足りないのですね。毎朝仏壇の前で練習していると、声の出具合が分かります。

 痰が多いので声が出にくくなり、水分もあまり摂れません。すこし休まないと逆流してくるのです。夜寝るときは安定剤を飲んで寝ます。しばらくすると、痰が出たり、胃液が逆流して、何回か目が覚める始末です。

この病気とは一生付き合っていかなくてはと前向きに思っている今日この頃です。我が身に言い聞かせながら、発声教室に参加させていただきます。役員さん、指導員さん、ご苦労様です。頑張ります。よろしくお願いします。

感動

長野教室 松山 滋

 昨年最も印象深かったのは、何といってもロンドンオリンピックです。バレーボール女子の部では二十八年ぶりにメダルを獲得し、また卓球女子ダブルスでも初のメダル。あの愛ちゃんの喜ぶ姿でした。そして水泳男子メドレーリレーでは、最後の選手を手招きし、早くゴールをと選手一同願っていた姿が忘れられません。

 過去最多の三十八個のメダルとともに、たくさんのドラマと心震わす感動を日本中に届けてくれました。

 競技後のインタビューに答える選手たちの言葉はどれも胸を打つもので、なかでも「北島康介さんを手ぶらで返すわけにはいかない」という競泳チームの『絆』を伝える言葉は、とても深く感じるものがあり、強く心に刻み込まれました。

良かれと思っていたことがご迷惑に


長野教室 山浦 重成

 私は父を戦争で亡くし、母一人子一人の少年期を過ごした。そのためか少年のころは猫を飼い、家庭を持ってからも家は小さな動物園と言われるぐらい、池に鯉、金魚、猫、犬、ウサギ、インコ、ニワトリ、チャボなどを飼いながら過ごしてきました。楽しい思い出も悲しい思い出もたくさんありました。庭の隅や畑のわきに穴を掘って冷たくなった彼らを埋め、線香を立てて…泣いたりして。

 体調を崩し声を無くし、動物も小鳥たちもいまはいなくなりました。わが家の周辺、冬場は雪が積もり、それこそ白一色の世界になります。そこで私は小さな餌場を作り、鶏の餌を撒き、パン、りんごを置いたりすると、雀はもとより、モズ、ヒヨドリ等が来て、賑やかに食事をします。窓辺からそれを眺めて楽しんでいました。多くの小鳥たちが「髭の爺さん、ありがとう」なんて小生に言ってるような気がして…。

 しかし、彼らは御礼のつもりか、屋根、バルコニー、洗濯場の物干しざおに白いものを置いて行きました。

 洗濯物も干せずに、汚れを清掃する人がいたことを知りました。申し訳なく思うことしきり。ご近所にも迷惑がかかった様子で…。

 直接小言を言われた訳ではないけれど、急いで餌場を撤去しました。二週間後一羽の小鳥も姿を見せなくなりました。五十〜百羽ほどの雀たちはどこで何を食べているのかしら?

 外は雪。老人の楽しみ、実は多大なご迷惑であることを知り、未熟を恥じながら迎えた古希の春を待つ近況を記しました。

              平成二十五年二月

飯田教室だより

代表 花田 平八郎

 東日本大震災の後、放映されるテレビを見ては胸を痛め、ああ俺は何もできないと思ったりした一年でした。

 今年入会された方は三名で、少しでも早く発声ができるように頑張っています。食道発声が一名、EL使用の方が二人で、大分上達されました。

 秋には今宮神社参拝のあと、〃今宮半平〃さんでもみじ狩り、五平餅を楽しみました。十二月十三日教室ではささやかにクリスマスをしました。年が明け二月の初教室では本当に幸せを感じました。

 これからも会員、家族、看護師さん一緒になって発声教室をもりあげなければと思っています。

佐久教室だより

佐久教室 三瓶 満昌

 佐久教室は平成二十四年一月十一日、出席した皆さんが一堂に会して、お互いの健康を喜び合いながら、元気に新年の第一声を上げました。ただいまの佐久教室は私を入れて十一人、この中には新人の内藤さん、清水さんが含まれています。普段の練習日は六人の奥様方が加わり、大変賑やかで活気があふれます。

 佐久では高齢者が多いので、楽しい教室を実現するため一年に一〜二回、屋外発声訓練と称して温泉での食事会等実施してます。緑に囲まれた日帰り温泉の湯に浸りながら、またごちそうが並んだ食卓を囲んでの談笑も楽しいです。年末は市内のホテルで一泊の忘年会をアルコールとともに楽しみました。

教室の日課は、全員で深呼吸を行って、その後食道発声を三浦さんが、ELを岡部さんが、それぞれ分かれて親切丁寧に指導に当たっています。練習の合間には、三浦さんがいつも持参する惣菜と、教室の皆さん差し入れのお菓子いただくお茶も楽しみで、思わず会話も弾みます。

 教室では、食道発声に取り組んできた三井さんが著しく上達しました。ELでは市川さんが分かりやすいはっきりした言葉で会話を広げています。市川さんはいつも有名な伝説が残る田口峠を越えて出席しています。小松さん、小林夏子さんは娘さんがエスコートして出席します。喉摘した人には家族のエスコートが必要な場合が多く、高齢者には特に必要です。今年も仲良く、しっかり練習に励みました。

 さて、信鈴会では今年役員改選があり、長期にわたって会の立て直しに尽力された宇野女健会長が勇退され、副会長として補佐してきた上條和男さんが会長に就任しました。それに伴い微力ながら私も副会長に補されました。しかし会務に就く前に体調に小さな異常が見つかり、休養を余儀なくされました。そのことで佐久教室の代表も辞めさせていただくことになりました。新しい代表には三井昇さんが就任しました。三井さんは粘り強く行動する人ですから私も安心して退くことができました。今後三井代表に絶大なご協力をお願いいたします。

 発声教室は喉摘手術で声を失った人たちに訓練を通して喉摘者同士の交流を深め、精神の支えにもなり、再び声が出るようにしてあげる場であります。運営に当たっては同じ境遇の喉摘者の先輩たちの善意で成り立っているものです。教室が効果的に活動して行くには病院の耳鼻咽喉科の先生との交流も必要不可欠です。教室の喉摘者の中に、時に気乗りしないような人がいます。がんという病気の再発、転移の不安から、教室まで来ても社会復帰の意欲が持てず、生活の目標も定まらない。この状態で声の獲得は難しい。不安を少しでも取り除いてあげるのに、先生方のアドバイスをいただければと常々思っています。

 日喉連の資料等調べてみたいと思いますが、信鈴会に患者の不安を軽減する方法の情報があれば、教務に長い経験をお持ちの守屋副会長の意見等も聞いて参考にしたいと思っています。

 発声教室の代表や指導員は自分の体調や家事のことなど調整して会務に当たっています。必要に応じて信大病院での会議で議案を審議したり、勉強会を開いて指導技術を研いだり、新しい医療知識を学んだりしています。また日喉連の認定制度が実施され、指導員は「発声訓練士」となります。資質向上が図られ、一層質の良いリハビリが提供されるものと思っています。

 しかし、リハビリの質向上は必要ですが、喉摘者の減少を願いたいものです。

 今年は教室も一歩前進して一年一度発表会が開かれるようになればと思います。松本教室の発表会を参考にしてはどうかと思ったりしています。

 佐久教室開設から三十四年。その間、病院の暖かいご協力をいただいて現在があります。このことに感謝しながら新しい年もしっかり喉摘者の社会復帰に貢献したい。病院の業務が繁忙を極める中、医療相談室の皆さま、耳鼻咽喉科外来および病棟の看護師の皆さまのご健康をお祈りしてこの稿を閉じます。

歩く 歩く

松本教室 横地 泰英

 六月に北イタリアに行き、ドロミテの岩峰に登る計画がある。ジュネーブにいる山岳部の先輩が山も旅もガイドしてくれるから心配ないのだが、気管孔による呼吸になって心肺機能がめっきりダウンした僕は、迷惑をかけるのが心配だ。近くの山で林道などを歩き、体をつくることにした。松の内が明けて、週四、五日は毎日一〜二時間、アノラックにオーバーズボン、スパッツ、山靴、両ストックを突いて、しっかり歩く。天候が悪い日は休む。冬の安曇野では除雪という労働も待っている。

 山散歩は四〜五つばかりコースがあり、その日の気分、体調で選ぶ。その一つ「有明神社周回コース」を紹介する。

 自宅を出て、リンゴ園わきの雪道を三百_ほど北上。国重要文化財の松尾寺の藤棚を横切る。五月には水芭蕉、そして牡丹が咲き乱れる。旧穂高町の郷土資料館、鐘の鳴る丘集会所わきの林道に入る。冬のいまは雪が積もり、足首から膝までのラッセル。ちょっとしんどい。トレーニングと考えれば苦にならない。だんだん傾斜が増す。ウサギやキツネ、ときにカモシカの足跡がある。標高差百_ほどで小さな峠につく。「美智子峠」と名付けた。前穂高岳重太郎新道の「紀美子平」にならって妻の名を付けさせていただいた。おこがましいが、むろん二人しか知らない。ここまで、家から四十分だ。

 峠を越えると、別荘地に入る。林道は舗装され、両側にログハウスなどの別荘が続く。軽井沢のようなお金をかけた豪勢なものはなく、ささやかだ。最近は東京などの本拠地を畳んで、年間を通して別荘住まいをする人が少しずつ増えてきた。単身で住むお父さんも多い。四駆のRV車、軽トラが標準装備。薪を積んでいる住人がいる。ほとんどの家に薪ストーブがあるようだ。

 別荘地をぬけるあたりの側溝に温泉が流れている。湯気を上げて、音を立てる。北ア燕岳の足元・中房温泉の湯が二十_ほど離れた安曇野に引かれ、穂高温泉郷や別荘地に供給されている。需要が供給を上回っているのだが、別荘地の使用量が少ないと余る。湯が流し捨てられるというもったいない景色が生まれる。大きな露天風呂ができる量のときもある。売り物の温泉を無料提供するわけにも行かないのだろう。中房川右岸の遊歩道は、地下に温泉パイプが通っているから、雪は解けて歩きやすい。左岸に渡る吊り橋は、温泉のサイフォンパイプでもある。冬の中房川は水量が減り巨岩は氷で覆われている。

 左岸は、別荘や温泉宿などが点在する。老人保健施設のわきを抜けると、有明神社の境内に入る。有明山二千三百_をご神体とする由緒ある社。旧有明村民の信仰を集めてきた。本殿で一家安全を祈る。山門を抜け、隣の正福寺の大杉わきから、手彫りの小さな仏像四十九体が並ぶ山道をトラバースする。神社から十分ほどで魏石鬼(ぎしき)の岩屋に着く。直径一_ものアカマツやナラに囲まれ、巨大な岩を積み重ねた縄文遺跡の古墳だ。神々しい静寂に包まれている。

 ここまで家から一時間半ほど。岩屋から県道中房線へ出て、ゆるい下り道の家路を急ぐ。歩きだしからちょうど二時間で帰宅。

      ◆

 もともと僕は勤勉でない。体操や腹筋運動などでこつこつ体づくりをするのは苦手だ。ダンベルなども購入したが、めんどくさい。登山のトレーニングは、山歩きが何より。高年齢者の運動も、散歩するのが一番とも言われる。できればご自宅の周囲に「我がコース」を持つことをお勧めしたい。

ハモニカ爺ちゃんのこと

松本教室 大久保 芳郎

 私が喉頭がんで信大病院に入院したのは、九年前の五十九歳のときです。数日遅れて同じ病室に入った石川のお爺ちゃんも私と全く同じ病気でした。

 お爺ちゃんは八十歳という高齢でしたが、音楽教室の先生をしていて、ハモニカの名手だったそうです。

 喉頭がんの手術は、声帯の周辺にできた腫瘍を声帯もろとも摘出し、同時に喉の下側に新しい呼吸孔をつくり気管(肺)と直結します。気道と食道が分離され、鼻や口では呼吸できなくなってしまいますから、当然ハモニカを吹くことはできません。

 お爺ちゃんは、「大好きなハモニカを吹けないのなら死んだほうがいい」と言って手術を拒みました。でも、腫瘍が大きくなれば気道閉塞もありうるため手術は避けられないのです。私は、自分に言い聞かせるように「生きてさえいれば、ハモニカを吹けなくても聴くことはできるよ」と言ってお爺ちゃんに手術を勧めました。私の説得がお爺ちゃんの気持ちを動かしたとは思っていませんが、最終的にお爺ちゃんは手術を受ける決心をしてくれました。そして、術後の経過も順調で、私たち二人は同じころ無事退院することができました。

 退院後は、お互い声を取り戻すために発声教室に通い、リハビリに精を出しました。声帯がありませんから、生来の声は出ませんが、食道の粘膜を振動させて声を出す方法や機械を喉に当てての発声法があります。私は食道発声に、お爺ちゃんはEL(機械)発声に挑戦しました。

 教室に通い始めてから一年ほど経った頃でしょうか。毎週元気に教室に来ていたお爺ちゃんの姿を急に見かけなくなりました。風邪でも引いたのかなと思っていたのですが、お爺ちゃんが亡くなったとの報に接したのは、それから数日後のことでした。がんが肺に転移したとのことです。余りにもあっけないお爺ちゃんの死でした。

 高齢のお爺ちゃんに手術を勧めたことが果たして良かったのかどうか。私は今でも答えを出すことができません。手術などせずに、最後までハモニカを吹いていたほうが幸せだったかもしれない。そんな思いにとらわれるのです。

 安曇野市のお宅へ線香をあげに行った折、奥様から、記念にと言ってお爺ちゃんのハモニカのCDをいただきました。お爺ちゃんが元気だったころ吹いていたハモニカ演奏のCDです。そのCDから流れる力強い演奏を聴くたびに、当時のお爺ちゃんのことが悲しく思い出されてなりません。

 今はただ、お爺ちゃんの冥福を祈るばかりです。

 合掌。

再び 前へ!(息抜き編)

松本教室 塩野崎 一秋

 箱根大学駅伝について前号で書いたところ、今野相談役からメモをいただいた。「富士屋ホテルに思い出がある」ということでした。しかしメモの本旨は「駅伝は襷(たすき)をつないでゆくことが大事ですね。信鈴会も襷が大事です。つないで行ってほしい」ということでした。この会を立ち上げて、現在八十余歳。その凄い信念、執念の檄でもありました。このとき私はそこに視点があるなど思いもしなかったのです。

 話は変わりますが、この駅伝出場選考会に信州大学が「信州大」のゼッケンをつけ、ちらっとテレビに映ったのです。なんだかうれしくて…今年の正月観戦でした。いつか往路復路の二日間映ってください。

 今年は寒いし、長い。犬の散歩にはマフラー、防寒着で出かけるのですが、肺活量一〇分の一と言われる喉摘者には呼吸が苦しくなります。気管孔や肺も寒さで収縮するのでしょうか? 酸素不足からか、だるくなって距離が歩けない。雪かきだって? とんでもねえ〜。

 言語療法士という国家資格ができた、専門学校の学生たちは術後患者の実情を知らない。食道発声の獲得には時間と不確実性がある。食道を切る下咽頭癌ではまず無理。だから彼らは、札幌医大の活躍でこの数年で国産になり、性能も格段と向上したELを患者指導で勧める。少しでも発声できれば、患者は安心する。開発と無関係ではないでしょう。この機械は首の周りの筋肉が柔らかくなれば、たぶん誰でも使えると経験上いえる。私も当初、ELで指導された。

 仲間のいる教室でELから始め、食道発声やシャント手術の練習順序が良いと思う。なぜなら、老いが進み筋肉が衰え、発声できなくなる時が来るかもしれない。シャントではメンテナンスできなくなるし、通院が苦痛でしょう。私案ですが、ELを基礎として学ぶべきだと私は思います。

 相談役とコーヒーを飲みながら筆談したおり、飲みに行きたいと言われるのです。信鈴会の新年会が浅間温泉でしたので、浅間のご自宅近くを念頭にしておいでのようでした。私は例によって駅前あたりのスナック、カラオケでもとの思惑。さすがに駅前には行きたくなかったようでした。

 お歳を考えなかった。思考方法が違い、またボタン掛け違い。失礼しました。難しいものです。

失意の日々…そしてELとの出会い

松本教室 中川 武

 二〇一二年九月六日(木)。初めてELを手にした日でした。指導員のELをお借りして練習したところ、この優れものは私の振動をとらえ、テレビアニメのようではありますが、〃声〃が出たのです。その日の帰り、指導員の自宅に東京・第一医科(株)から提供されたデモ機があるとのことで、車で安曇野市に寄り、山形村の自宅でさっそく披露。帰っていた孫たちも「おじいちゃん、分かるよ!」と言ってくれるし、家内が何より喜んでくれた思い出の一日でした。

 振り返ってみると、二〇一〇年五月の連休明け、予約してあったF耳鼻科医院へ開院一時間前に行き、一番に受診したところ、カメラを見たドクターは、「今日は一人で来ましたか?即紹介状を書くので、できたら奥さんとこの足で信大病院の耳鼻科外来へ行ってください」。

 そして六月、声を失い、鎖骨の下に卵大になったリンパ節に転移していた腫瘍をとり、八月には胃の四分の三を摘出。その後三十五回の放射線治療へと時間はどんどん過ぎて行き、悲しんでいる暇と余裕はなかった。

 今思えば、病院の中は同じ痛み、苦しみを共有している仲間たちだったし、見舞いに来る家族や知人たちも術後であることを知っていて来る。まして病棟の看護師さんやドクターは、我々の最も良き理解者であり、いわば温室のなかに半年間もどっぷり浸かっていたのです。言葉を失うということがどういうことなのか、また種々のがんの後遺症がどうなるのか、想像さえもできなかった。

 なんとかなるだろうと余りに軽く考えていたことが大誤算であったことが、退院してから次々にはっきりしてきた。

 ショック① 家族とは最初ボードで意思疎通していたが、慣れてくると皆いそがしいので、筆談に応じなくなってしまう。話し方教室(食道発声)も何とかなると思っていたが、胃を切徐して食道が伸びきっていると、発声が簡単でないことを知らされた。部分入れ歯は半年外していたので、村の歯医者さんに超特急治療を頼み、通い始めた。毎月の信大外来診療は、耳鼻科と消化器外科ドクター宛てに日記方式で一カ月の生活記録ノートを持参した。携帯電話を購入し、兄姉や家族とのメールやりとりを必死で身につけた。一年近く入院していたことを伏せていた小中学校の友人や高校軟式野球部の仲間たちには、正月を過ぎてからお詫びと近況を書きまくった。もちろん封書で。

 ショック② 三月は小中学校の同窓会だ!〃中川が来ないと面白くない〃と言われ、童心に帰り馬鹿みたいに大騒ぎして再会を喜び合い、健康を誓い合ってきた。その同窓の輪に、入れなくなってしまった。高校の同窓会には「とうぶん欠席」と連絡した。さびしい。ひとり蚊帳の外へはじき出された感じである。そして惨禍の3・11。テレビくぎ付けが続いた三月末、欠席した同窓会の級友たちから寄せ書きが届いた。二十名近い友のメッセージ。さっそくベッド正面の壁に飾った。だが、同封の名簿を見ると、親友の一人が亡くなっていた。ほかに三名がお別れ。親友A君は神奈川在住。小中高校一緒であり、共に父が戦死したこともあり、名前を呼び捨ての仲だった。私が出した便箋十七枚の手紙に返事がないのが不審だったが、結局弔辞となってしまった。寄せ書きへの御礼手紙を、一カ月かけて送った。返書が毎日のように届く。九十三歳の太田米子先生から〃武ちゃん〃で始まる暖かい贈り物や手紙…二十四の瞳、私の大石先生である。うれしさに〃泣き虫太郎〃。

 ショック③暑い夏の草取り、剪定も終わった。図書館に通い、人生論や生きがい論、宗教者の著作を読みふけった。自分の人生を振り返ってみると、実に小さく弱い人間であることが分かってきた。なぜこんな惨めな姿になってしまったのだろう?喋れないことは、いろんな場面で家庭内に影を落とす。

 次男は十二年前に障害者となり、いまは松本の旧宅に独居。同居している長男も四年前から病み、季節の変わり目は仕事をできない。疲れると暴言が飛び出し、家の中はめちゃめちゃになる。矛先は声を失った父親、ダメオヤジに向きがちだ。「言いすぎだよ!」小四と中一の孫が助け舟をだす始末。頼みの妻は、仕事との両立に疲れると、家事についての苦情、ストレスがたまりがちだ。「家にいるんだから」と、ときに厳しい苦言が私に向けられる。「ごもっともです」。この現実を理解できる方がおられるだろうか。「息子夫婦と同居なんてうらやましい」と知人はいう。とんでもない。同じ状況の同級生に聞くと「さんざん話し合った末、キッチンと食事は別々にすることにし、家を建て増しした。次男の家の修理に貯金を使ってしまった我が家にそんな余裕はない。

 ショック④ あれこれ考えていると頭が痛む。もう耐えられない状態だ。友人たちが呼んでいるのか。おふくろや私が生まれる八日前に戦死したおやじさんが呼んでいるのか。とうとう自分で抜け道がみつけられなくなり、七月末から入院。私自身に〃鬱〃の診断が下った。九月末、退院して安曇野に入所している次兄を見舞った。虫が知らせたのか、無言で微笑んだ。〃お前はもっと生きろよ〃と言いたかったに違いない。お互い声が出せない別れだった。

 二〇一二年が始まった。いつまでも悲しんでいられない。長男の義母(木曽在住)が再入院し、見舞いに行った長男たちは御嶽山に祈り、家の方角などあれこれと教えを受け、神棚を祭り、すべての部屋に札を貼った。私は今年こそアルバイトをと考え、ハローワークに通い始めた。障害者係が私の選んだ会社に紹介の電話をしてくれる。しかし、年齢と〃筆談〃という部分で断られてしまう。もうこれで十五社目だ! 六月、木曽のお母さんの訃報…。

 暑い夏だ!また草取りと剪定、アルバイト探し。そして九月に入りELとの出会い。毎日一万歩のジョギング、一から一〇〇まで五十回の発声が実を結んだのか、新聞、雑誌を読みこなせるところまで進んだ。息子も落ち着きを取り戻し、家内は寝る前に私の部屋に来て三十分ぐらい職場のできごとを話し、政局やニュースなどを私から聞くようになった。まだまだ頼りない専業主夫であるが、朝昼の食事、その前後のネブライザー、消毒管理。生ごみ、資源ごみの係、イヌの散歩、風呂係。家内から苦言のないように、洗濯や掃除をしなければならない。家内にはもう少し現役で頑張ってもらわないと困る。体調と向き合って働く長男にもこれ以上心の負担を掛けないように。〃病人じゃないんだから〃〃家にいるんだから〃へこたれず、新たな夢との出会いに期待して、前向きに生きて行きたい。

この二年、時の流れが速かった

松本教室 山岸 十民男

 平成二十二年十一月下旬入院、一回目の喉頭腫瘍手術、平成二十三年一月初旬に退院。その後二回目の右原発性腫瘍肺手術で平成二十三年二月中旬入院、三月初旬に退院。現在二年を過ぎました。

 喉頭手術前に発声教室を見学させていただきましたさい、「空気をのみこむ」というご指導を受けたので、口をパクパク…あとの発声がスムース?! 二回目の手術後、本格的に教室に参加、皆さまと楽しく練習させていただき、二十三年度の信鈴会総会にも参加させていただき、声を出すということに大変勇気づけられました。それから合同新年会、宇都宮で開かれた日喉連東日本ブロック指導者研修会にも出席させていただきました。

 この二年余は私の人生七十二年の中で最も時間の流れが速い年月だったように思います。歳をとると一年、一月、一日が短く感じるそうですが、特にそれを感じた二年数カ月でした。

 今後もしっかり練習したいと思います。

この二年、時の流れが速かった

松本教室 山岸 十民男

 平成二十二年十一月下旬入院、一回目の喉頭腫瘍手術、平成二十三年一月初旬に退院。その後二回目の右原発性腫瘍肺手術で平成二十三年二月中旬入院、三月初旬に退院。現在二年を過ぎました。

 喉頭手術前に発声教室を見学させていただきましたさい、「空気をのみこむ」というご指導を受けたので、口をパクパク…あとの発声がスムース?! 二回目の手術後、本格的に教室に参加、皆さまと楽しく練習させていただき、二十三年度の信鈴会総会にも参加させていただき、声を出すということに大変勇気づけられました。それから合同新年会、宇都宮で開かれた日喉連東日本ブロック指導者研修会にも出席させていただきました。

 この二年余は私の人生七十二年の中で最も時間の流れが速い年月だったように思います。歳をとると一年、一月、一日が短く感じるそうですが、特にそれを感じた二年数カ月でした。

 今後もしっかり練習したいと思います。

はてさて?いかがなものか!

松本教室 関 秀明

 声を失って、今年の九月が来れば丸五年になる。その間、発声指導員の方々には、言葉では言い尽くせないほどお世話になって今日に至っています。

 しかし誠に残念なことに、食道発声が依然あまり進歩していない。EL発声は少し様になっても、機器を使わない発声が何とか進歩できるように、平成二十三年発行の「信鈴」冊子にその決意を述べたが、言うは易く…とはよく言ったものである。もう格好の良いことは言わないでおくことにする。しかし努力だけはこの先も続けていく。

 我が輩の母ちゃん、この三〜四年前から言葉使いの悪さと気性の強さが全く尋常でないのが思いやられる。つまり、一言口を出すと、十言どころか、際限なく食い付いてくるのである。人の家のことと軽くあしらわず、ぜひ首を突っ込んで見ていただきたい。

 母ちゃんは長年、耳を患っている。病院を何度となく変えて、連れて行くのであるが、「あの先生は乱暴である」とか、別の病院へ連れて行くと、「この病院の先生は下手くそ…」であるとか、先生を味噌くそ批判して言いたい放題である。

 病は更に悪くなっている。完全に片方の耳は感知できていないのである。更に言うと、もう一方の耳は健常者に比べて一〜二レベル聴覚が落ちていると思う。我が家では、といっても母ちゃんと猫一匹の三人?だけの生活であるが、平均して週一度は、決まって低レベルの言い争いからバトルが始まる。こちらが無言になるまでは、永遠に続く……。

 母ちゃんが口から泡を飛ばして、ああでもなしこうでもないとヒートアップしている時、我が輩は、全く関係のない今までの人生の楽しかったことを、努めて考えるようにしている。その間は絶対母ちゃんの顔を見てはいけない。少し反論したい部分も耳に入ってくるが、決してその誘惑に負けて口を出してはならない。もう辟易(へきえき)してバトルをいい加減に終局にしたい時なのである。私としては。いったんその場所を離れて時間の猶予を置くことが必須条件なのである。

 我が輩の母ちゃんは、至って働き者である。当たり前のことではあるが、極めてよく動いてくれている。炊事洗濯、布団の上げ下ろし、飼い猫の世話、外の庭に居ついてしまった野良猫の餌やり、雪が降って積もれば雪掻き等々、極めて忙しいのである。そしてその精神力は強いのである。この全部の作業に当たって、我が輩の出る幕はないのである。雪掻きなど少ししただけで息が切れてしまい、すぐに母ちゃんが替わってくれるのである。本当に優しいんだよなあ〜〜(口さえ利かなければ)

 我が輩の母ちゃんは歌が好きなのである。それも演歌専門である。月に二度ぐらい愛好家が集まってカラオケ倶楽部へ出掛けて行くが、残念ながら少し音痴である。

 そこがまたそれで良いのである。TVで歌の番組があると、知っている歌は一緒になって輪唱しているが、先に述べた通り此処というところで、音程ははずれるのである。一目瞭然へたっぴ〜なのである。下手に突っ込むとまたひと悶着がおこる。ここはひとまず黙っておくのである。それでも月二〜三回はカラオケの友達同士で歌いに出掛けて行くのである。誠に勇気ある行為であり行動である。母ちゃんは何事にも負けないポジティブな気性なのである。

 こんな日が我が輩の一番リラックスできる時間である。このまま一生歌っていてくれればよいものを、しかし意に反して必ず時間には御帰還遊ばしてくれる。少しは調子を狂わしても、声を出して歌えるのがなによりである。

 

 こんな病気になりさえしなければ、我が輩も歌は好きで、音痴抜きで上手に歌っていたもんである。

なんだかんだと言っても、声が正常に出る人は本当に幸せである。食道発声を頑張らなくては、この先はないと思っています。

どうか私をカラオケに連れてって

すぐ役に立った難聴の講義

長野教室 柿崎 庸三

 平成二十四年十一月、信大医学部病院で長野県六地区の発声教室の指導員研修会があり、耳鼻咽喉科の海沼和幸先生による大変有意義な講義が約二時間ぐらい行われました。内容は難聴と補聴器、人工内耳等でした。

 ちょうど私は耳がよく聞こえなくなり始めていました。真剣になって聞きました。講義終了後、私は自分の状態を話し、先生にいくつか質問しました。そのとき「いまかかっている医師に聞いてみなさい」アドバイスされ、さっそく長野市内の病院に行き、海沼先生の話をしたところ、大変手間をかけて耳の検査をしてくれました。音の高低、周波数の変化など約一時間ぐらい検査して、補聴器会社にも電話してくださり、現在そこで作った補聴器を使っています。講義で学んだとおり、補聴器にもいろいろメーカーがあり、値段も数万円から数十万円とありますが、自分に合ったものを選ぶのが一番だと思います。

これから老化が進む人たちにおせっかいを述べました。私の現在一番の持病は心臓病で、かれこれ二十五年ぐらいになりますが、何とか生きております。皆さんも健康に気を付けて、長生きしてください。

平成25年刊 第40号

はじめに 

長野県信鈴会会長 上條 和男

 今年の冬は本当に厳しかった。そのおかげで桜は、心待ちした分だけ、いつもより美しく咲いたように感じました。

 花見の季節も過ぎ、誰も見上げもしなくなった葉桜は、グラウンドの土手で、少年野球やサッカーの応援をする父母に心地よい木陰をつくっています。

 

 私たちの信鈴会発足は一九六九年と記録に残っていますが、その六年前に既に活動が始まっていました。

 信大病院では鈴木教授、今野看護副部長、長野日赤病院では浅輪医師、岡部看護師長が、当時声を失った私たちの先輩と協力し、発声訓練の先進教室、東京銀鈴会へ見学に行き、まだ出たばかりのテープレコーダーを使って、喉摘者に第二の声を取り戻す活動に入っていました。その六年にわたる、胎動期の長い活動の上に、現在の信鈴会の土台があります。

 私たちは、そのエネルギーを受け継いでいかなければなりません。手術を受けた後、体力や気力、また地域的事情などにより、発声教室まで辿り着けない人を一人でも減らしていかなければなりません。伝えたいことがあるのに伝えられない、手術前の日常に戻りたいその願望を実現して行くのには、地道な訓練をひとつひとつ続けていかなければならない。これが、先輩たちから引き継いだ大きな責務だと肝に銘じております。

 体は「生き方」とつながっています。少し体を鍛えれば(私たちの場合は発声訓練でしょうか)周りにあまり迷惑を掛けず、気持ちよく生活できるはずです。

 人間はどれだけ医療の世話になっても、自力で生きるしかありません。いまから五十年も前から、その第二の声を取り戻す活動は、多くの人に支えられてきました。そのかたがたに深く御礼申し上げます。

 この会が初夏の桜の木陰のように、皆様にとって心地よい集いの場であることを祈っております。

 二〇一四年(平成二十六年)春

共に生きる長野県を目指して           

長野県健康福祉部障害者支援課長 清水 剛一

 貴会におかれましては、日頃から県の障害福祉行政の推進にご理解とご協力を賜り、心よりお礼申し上げます。

 また、貴会のご協力により実施している発声訓練事業につきましては、関係各位のご尽力により県内各地において熱心に発声教室を開催していただき、重ねて感謝申し上げます。

 さて、長野県では平成二十四年三月に策定した「長野県障害者プラン2012」に加え、平成二十五年四月にスタートさせた、新たな長野県総合五か年計画「しあわせ信州創造プラン」では、障害を理解し、障害者を応援する社会づくりや障害者が地域で自立して生活するための支援、安心して暮らせるための取り組みを主要施策に掲げました。

 具体的には、県民や企業・団体がサポーターとなり、障害に対する理解や障害者の日常生活への配慮などを深めてもらうための「信州あいサポート運動」障害者就労施設等からの物品等の優先調達などの施策を重点的に進めているところです。

 一方、平成二十五年四月からは障害者総合支援法が施行され、また、六月には「障害者差別解消法」が公布されるなど障害者施策を取り巻く状況は大きな変革期を迎えております。こうした中、障害福祉の充実には、行政だけではなく、個人や家族、地域社会において、お互いに理解を深め、協力していただくことが大切と考えております。

 その意味でも、貴会における様々な活動は、会員の皆様相互の交流や支え合い、それぞれの地域における障害に対する理解の促進につながるものとして、大変意義あるものと考えております。今後も引き続き積極的な取り組みをお願いいたします。

 最後に、貴会の益々のご発展と、会員の皆様のご健勝を心からご祈念申し上げます。

二十一世紀の障害者福祉の高度化をめざして

長野県議会議員 本郷 一彦

 信鈴会におかれましては、上條会長の高い志と理念のもと、情熱を持って行動し、全国を代表する喉摘者の団体として、内外ともに高い評価を挙げられており、心から敬意を表します。

 

 長野県は平成二十五年から平成二十九年の政策体系の集約である中期五カ年計画を作成し、本年はその二年目に入ります。「確かな暮らしが営まれる美しい信州」を基本理念に、目標達成に向け各分野の実現に努力致しますが、とりわけ健康づくり医療充実プロジェクトはその柱であり、重要施策として障害者福祉も位置づけております。

 我が国の政治経済情勢の中にあって、アベノミクスの成功は経済成長路線を軌道に乗せることであり、同時に持続可能な社会保障制度の構築にほかなりません。

 二十一世紀の医療・介護・福祉をどのように構想するかは政治の最大なる責務であり、「障害者が自立して生活できる社会」の実現は、その主要課題と認識しております。その中にあって、会員皆様が抱える問題解決につきましても、私は顧問の責務を充分に自覚し、県政を通じて全力を傾注する決意であります。

 

 信州大学の先生方、看護師の皆様、更には関係各位のたゆまぬご協力のもと、発声訓練が一層着実に進化し、結果社会参加へと繋がり希望の持てる方向に進まれていることに対し、心からお慶び申し上げます。

 本年も皆様にとって穏やかで安心のできる一年であることを心から祈念いたし、ご挨拶と致します。

健康こそ最高の幸せ

信州大学医学部名誉教授 田口 喜一郎

 信鈴会の皆さま、ご壮健にてお過ごしのこととお慶び申し上げます。生きている限り何歳になっても健康であることが最大の幸福であることはいうまでもないと思います。健康とは、自分の目で物を見、自分の足で歩き、行きたいところへ行け、少なくとも身の周りのことは自分でできることです。年をとれば、誰でも何らかの障害が体に生じます。手足の力が多少衰えたり、腰痛が生じたり、物忘れが多くなり、根気がなくなるということがあっても、あまり人の世話にならず生活できるという力は最小限維持したいものです。そこで健康を維持するために最低限必要な条件は何か、ご参考に供し、その一つでも実行に移していただければ幸甚です。

 一、食欲

 食欲は日常あるのが当然で、正常な味覚、臭覚、咀嚼力、嚥下力などが必要条件ですが、そういったものと無関係で、物を食べられなくなること、急に食べる量が減ることは重大な老衰のサインだといわれております。もし急な食欲減退とか、急に食べる量が減るようなことがあれば、心か体に何らかの異常をきたした可能性があります。私の父も急に食事量が落ちた後亡くなりました。脳梗塞が生じていたのでした。そのようなときはぜひ健康診断を受けるようにしてください。思わぬ病気が発見されることがあります。

 二、適度の運動(生活活動)

 よく退職後は楽をしたいといいますが、「上げ膳据え膳」はいけません。親孝行のつもりで母親に家事一切をさせなくなった途端、母親は弱り、寝たきりになった例をいくつか知っております。急に規則正しい生活を止めることは「健康寿命」の短縮につながります。健康寿命とは、寝たきりにならず生きられる期間のことです。少なくとも朝は一定の時間に起きて体を動かすように心がけましょう。

 最近の研究で、血管の傷を治し、動脈硬化を予防し、余分な脂肪酸を燃やして減らす作用がある「アディポネクチン」というホルモンが注目されるようになりました。このホルモンは正常な脂肪細胞からは大量に作られますが、お腹の中のポンポンに膨らんだ脂肪細胞からは余り作られません。適度の運動で脂肪細胞を太らせないことが必要なわけです。

 三、筋肉量の維持

 人間は年をとると年々筋肉量が減少し、やがて老衰の道をたどることが証明されております。サルコペニア(筋肉減少症)の改善には、適度の運動を続けること、食事に良質の蛋白質を十分摂る一方、過剰の脂肪や炭水化物の摂取による肥満を避ける努力が重要です。今年百二歳の日野原重明先生(聖路加国際病院理事長)も週二回はステーキを食べ、仕事を続けることによって、よい健康を維持しているといっておられます。

 四、快適な睡眠

 快適な睡眠とは、十分な睡眠時間を取ることではなく、熟眠感を得ることです。睡眠時間は年を取るとだんだん短くなります。睡眠中に脳と体の疲労回復、新陳代謝の改善、免疫機能の向上など重要な作業が行われます。過労時は十分な睡眠・休養を取りましょう。統計的にも生産年齢(十五歳以上六十五歳未満)の成人で、七時間睡眠をピークにそれより短くても長くても死亡率は高まることが証明されております。原因不明の睡眠不足が続くときは、できるだけ早く睡眠外来を訪れましょう。

 五、順調な便通

 規則的な便通は健康のバロメーターといわれます。便通は「胃大腸反射」といわれる反射により、食事を摂ることにより生じます。規則正しい食事特に朝食により毎朝トイレに行く習慣が重要ですね。食材に食物繊維を多く摂ること、牛乳などカルシュームの多い食事、リンゴのようなカリウムを多く含む果物は栄養学的にも重要ですが、便秘の予防にもなります。

 六、精神的な安定

 くよくよしない。性格によっては過去に起こったこと、起こしたことで自責の念に堪えられない人がおりますが、過去のことはやむを得ないときっぱり忘れるように努力し、周囲もサポートしてあげることが大切です。周囲に対して余り理想的な人間を続けようとすることは、逆に人を傷つけることもあり、また、自分に過度の緊張を強いて精神的によいことではありません。ある程度気軽に対処することは人生を楽しくし、周囲との融和を図るのに好ましいことなのです。

 七、未来志向(いつでも明るい目標を持つこと)

 猿楽(現在の能)の大成者、世阿弥の「風姿花伝」という書物があり、そこに「初心 忘るべからず」という言葉があります。初心は一つだけでなく、「是非の初心」、「時時の初心」、「老後の初心」の三つがあり、高齢者は「老後の初心」を目標にすることにより、人生を有意義にすることが可能とします。何かしよう、それを目標に生き続けようという意欲こそ健康のポイントです。信鈴会会員の皆さまが日夜発声のリハビリに努力しておられるのも、「是非の初心」であるとともに「老後の初心」であるともいえます。前述の日野原重明先生は健康で、国内外で活躍しておられますが、百十歳までの公演予定を立てておられるそうです。あの三浦雄一郎氏も八十歳にしてエベレストの頂上を極めることができましたが、さらにエベレストのスキーによる大滑降を目指して体力を鍛えているとのことです。可否はともかく、何歳になっても何か目標を持って、努力を続けることが生きがいを生じる源であるとともに、健康にも通じることになるのです。声のリハビリもその一つでしょう。

 八、嗜好品

 最後に、喫煙習慣のある方に禁煙のお願いです。タバコは健康保持にとって最も害のある嗜好品なのです。喉頭癌、気管支や肺の癌だけでなく、肝臓癌や大腸癌、近年は糖尿病、脳卒中や免疫機能の低下などの重大な障害にも関係していることが明らかにされております。それだけでなく「受動喫煙」といって、喫煙者本人と同居している家族の健康にも同じような健康障害が生じることが証明されております。最近のアメリカの論文では喫煙による死亡者は年間四十八万人に達するそうです。喫煙率がアメリカの約二倍である日本人にとっては、恐るべき数字が予測されます。

 末筆になりましたが、前信鈴会会長の宇野女健様が逝去されたことを悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます。宇野女さんが目指していた「常に進歩する信鈴会の育成」という理念が、今後も信鈴会会員の皆様に共通する目標の一つとして継承されることを祈念してやみません。

宇野女さん、ありがとう


信鈴会相談役 今野 弘恵

 平成二十五年十月六日、宇野女健前信鈴会会長がご逝去、あまりにも突然の訃報にただただ呆然としておりました。ご家族のお話では平成二十三年秋ごろから体調不良、二十四年信鈴会総会を以って会長職を退くことを決めていたと聞かされました。長野赤十字病院の根津先生も後でお知りになり、驚いておられました。

 宇野女さんは私に、会長は松本でなく長野でもよいのか?など種々相談してくださいました。気持の行き届いたやさしい人柄で、信鈴会のとりまとめ、統率に尽力されてきました。一時途絶えた会報を平成十四年第二十七、二十八、二十九合併号を出して継続するなど、懸命のご努力に思いは尽きません。

 宇野女さん、ありがとう。どうぞ安らかにお眠りください。

《信鈴会スタートのころ》会報四十号の区切りに、昭和四十四年の信鈴会発足のころを振り返ってみます。当時喉摘者の会成立に並々ならぬ努力をされてきた島成光、碓田清千、石村吉甫ら、多くの方々が記憶に浮かび、思いは尽きません。

 信州大学付属病院で手術を受けた人たちは県下全域にわたっている。第二の声を獲得するため、松本まで通うことは容易ではない。できるだけ近くに訓練の場がほしい。長野赤十字病院は昭和三十八年、浅輪勲先生が赴任して手術も可能となった。私は看護の立場から発声教室設置の順番を懸命に考えた。

 松本、長野の次は伊那教室(昭和五十三年)。諏訪・岡谷方面からは松本、伊那のどちらかを選ぶ、伊那は飯田方面を含む…。そして佐久教室(昭和五十六年)。

 諏訪教室(平成元年)が後回しになったのは、道のりを考えてのことだった。飯田教室(平成十七年)。会員からの要望で設置。実際に飯田へ行ってみて感じた。飯田・天竜から伊那まで足を運ぶのは容易ではない。もっと早く気付くべきだった。 

《県への陳情》発声教室は本来、公的になされるべきことであり、信州大学付属病院がバックに存在していることが認められ、発声教室運営を信鈴会に委託するという名目で補助金をいただけることになった。教室が増えれば交通費もかかる。委託金増額に夢中でなんども県庁福祉課に通い、課長に面接。課長さんは「今野さんは信鈴会のことばかり言っているが県下には障害を持つ人たちはいっぱいいる」。私は思わずむっとなって「声帯を失った人たちは訓練によって第二の声を取り戻し、立派に社会復帰できる」…課長さんは最後は「ごめんなさい」と言ってくださった。怖いもの知らずの私だった。

 昭和五十八年、日本看護協会発行の看護白書にもレポートを載せていただいた。継続看護、声を失った人たちへの援助、ナースの立場からできること。患者さんへの愛、知識、そして

”ズク“。看護の心は変わらない。

《家族に感謝》私が病院勤務のころ、退院した患者さんの家族から困って電話があると、お話を聞いて夜遅くても県内各地へ出かけていった。長野の中條村や立科、松本市内。患者さんの顔を見て確認、大丈夫…明日一番で病院に来なさい、受け持ちの先生につなげておくからね…今晩は心配しないでお休みくださいね…。家へ帰ると夜なか。私は車の運転はできない。主人がいつでも文句を言わず協力してくれた。感謝、感謝。

《信鈴会の足跡》平成二十四年、会誌信鈴に「信鈴会足跡」を載せていただき、ありがたく思っています。県内六つの発声教室、発声訓練士もさらに研修を積み重ね、声を取り戻す人たちの訓練の場を盛り上げてくださるよう祈っています。宇佐美真一教授はじめ各教室の先生、看護師の皆さまには並々ならぬご理解ご協力をいただき、心から感謝申し上げます。

信州大学医学部付属病院東二階病棟


看護師長 青柳 美恵子

 昨年末は大風邪をひき、二週間ほどは声も出ない日々を過ごしました。信鈴会の皆様の日々の思いには程遠いものの、スタッフや先生方と話すのも困難で、パソコンをたたいて会話をした日もありました。若かりし頃?は、風邪は二〜三日休めば治る年中行事のようなものでした。しかし、最近は一度ひくと、ほとんど全ての症状を網羅するまで体から抜け去らなくなり、免疫力の向上必至と、なんとかヨーグルトや生姜を食べて…などと過ごしてみたりしています。風邪は万病の元といわれますが、一度ひくと大事になりそうな気配を感じるこの頃は、うがい手洗いと予防にも気を使うのですが、スタッフを一巡してやってくる風邪は相当な抵抗力をつけたつわもので、年々磨り減る免疫力ではなかなか簡単には治らなくなってきました。

 本当に大切なものは失ったときに気づくとよく言われますが、「健康」こそまさにそうだと感じるようになってきました。多くの人は十代、二十代など、病気といっても風邪や虫歯など治療をすれば治る一過性のもので、健康であることすら意識しないで過ごしています。そして年を重ね、ある時、一生付き合っていく病気と出会う。そこで自分は健康ではなくなったことに気づき、そして健康のありがたみも初めて実感する。健康はそういうものなのかもしれません。

 大学病院は医学部の学生の教育の場でもあります。多くの学生は前述のように一時的な体調不良しか経験がないまま、医学や看護学の道を目指しています。健康のありがたさ、日々の生活の中で病気を意識して生活をしていく不便さや心細さの実際を知りません。私自身もそうでした。しかし経験がなくてもできる限りの想像力を働かせて、患者さんの気持ちを理解していくことが求められます。

 実習の前に各病棟の特徴を学生に説明する機会が何度かあります。私はその時に、信鈴会のみなさんから教えいただいた話をさせていただいています。「今日のお昼に麺類を食べた人は手を挙げて。すすりながら食べましたか?」「香りも味わいましたか?」「鼻をかみましたか?」。このような皆さんが何の意識もなく、何気なくしていることが、喉頭を摘出した患者さんはできなくなりますと話すと、多くの学生が「え?」という表情をします。そう、私が皆さんからはじめて教えていただいた時のように。そして続けて話をします。「隣の人に『ねえ』と、少し離れた人に『あの』と何気なく声をかけることも難しくなるのです。想像をしてみてください。明日からそのような生活になるとしたらどうですか。自分の思いを声に出してすぐ伝えられることのありがたさを考えてくださいと。

 再びそうなりたいと第二の声を獲得するための訓練を続けている皆さんの日々も伝えます。そしてそれを支えてくださっている方が同じ患者さんであるすばらしさも、もちろん話させていただいてます。

 信鈴会のすばらしさは、同じ経験をされている患者さん方が支えあう会だからだと思います。喉頭を摘出し声を失う不安や恐怖は、やはり同じ患者さんでなければ本当の意味で思いを共有できないと思います。私たちがいろんな話をするよりも、信鈴会の教室に行き、笑顔で話をされている皆さんと出会うことの方が、何倍もの勇気がわくのだと思います。

 木曜日。練習をされている皆さんの笑顔や、よう!と明るく手を振ってくださる様子に私も元気をいただいています。これからもこのすばらしい会がさらに充実されていかれるよう、サポーターとして応援させていただければと思っております。

発声教室を通して思うこと

信州大学医学部付属病院外来看護師 徳嵩 美香

 「会誌信鈴」第四十号の発刊おめでとうございます。

 新人の時に耳鼻科病棟で四年間勤務し、他部署や産休・育休を経て耳鼻科外来に配属になり、三月で四年になりました。最初の頃は訓練士の方から「どんどん話しかけて。それが練習になる」と言われ、家での様子をうかがったり、ご家族の話をしたり、楽しい時間を過ごさせて頂きました。しかし、腫瘍外来の診察介助に入り、患者さんの経過を見ていると、喉頭摘出した患者さんの中には発声教室に通っていない方や、知ってはいるが行きにくいなどの思いがあるのがわかるようになりました。看護師として、術後自宅に戻った患者さんにどうしたら発声教室に通ってもらえるか、外来ではどう関わっていけばよいのかと思うようになりました。発声教室に参加される方はだいたいメンバーが固定されており、長年参加されている方々で、時には他の御病気で治療や手術を受けられることもあります。新しいメンバーが入ってくれば活気も増え、お互い教えあいながら更なる広がりができるのではないかと思います。

 外来受診中に喉頭癌であることを告知され、入院・手術の日程が決まりますが、多くの患者さんの受診がある中で、手術する患者さんの不安や今後の生活など細かい部分まで関われないことがあります。以前先生から手術前の患者さんを発声教室に案内してほしいと言われたことがあります。患者さんは慣れない雰囲気で緊張した様子でしたが、奥様は熱心にお話を聞いておられて、「こんな会があるんですね、あんなに話せてすごい」とびっくりされていました。もともと術前から自分の気持ちを表に出される方ではなく、術前見学ではそれほど熱心にお話を聞く感じではありませんでしたが、退院後その患者さんは発声教室に毎回通われ、今も練習されています。

 今回のことで、入院前からの発声教室への参加は、退院後の生活のイメージを持て、失声への不安を少しでも軽減できるよう支援するためにも大切なものだと実感しました。今後は手術前から発声教室を知ってもらい、患者さんと退院後も充実した生活が送れるよう関わっていけたらと思います。

 しかしながら私は六月から他部署へ異動になります。最近では発声教室の日は午後も診察があり忙しく、参加できていないのが実情で、皆様にはご迷惑をおかけしています。異動にはなりますが、私が感じたことを引き継いで課題を伝え、実現できるよう取り組んでいければと思います。

孫に負けない

長野教室 山岸 國廣

 私は、唱歌「ふるさと」の作曲家高野辰之先生の生誕地中野市出身です。

 平成二十三年二月、喉に違和感を覚え、市内の病院から長野市民病院を紹介され、診察を受けました。

 下咽頭がんを宣告されました。声を失うのを恐れ、抗がん剤治療、放射線治療を選択しました。しかし根治までは至らず十一月に喉頭全摘手術を受け、声を失いました。

 翌二十四年二月から長野発声教室にお世話になり、早く発声したい一心からELに挑戦しました。先輩たちのすべらかなEL発声、食道発声に勇気づけられたものでした。

 どうにかELで会話できるようになった矢先でした。九月に「再発」の宣告を受け、再手術になってしまいました。古希を超える壁の厚さに唖然としてしまいました。

 二カ月余の入院の後、自宅療養を経て二十五年から発声教室の再出発でした。今度は食道発声に絞り、練習しています。

私には孫が内孫二人、外孫六人おり、内孫は五歳の男の子、三歳の女の子です。特に成長いちじるしい三歳の孫に負けまいと食道発声に精を出しています。これからも孫の成長を楽しむと同時に、私自身が会話を楽しめるよう一層の精進をしていきたいと思っています。

 「育てる喜び・仲間と前進・友と楽しむ」を日々の目標に! 分かりやすいでしょう!

感激そして喜び

松本教室 中村 芙美子

 平成二十五年三月四日、喉頭全摘手術。たくさんの先生方そしてスタッフの方々による十五時間に及ぶ施術でした。

集中治療室そして病室。初めて自分で顔を洗った時、水のここち良さに幸せを感じました。

院内を車を押して初めて歩いた時、嬉しくてうれしくて涙が止まりませんでした。

術後十日目、なんと常食です。そのおいしかったこと。写真を撮り、ほうぼうにメールをしました。

先生の歩け歩けの言葉に、院内、堤防、そして護国神社と一万歩。放射線も含め三カ月余りの入院生活も無事乗り切ることが出来ました。

八月、信鈴会に入会しました。その時、会長さんの「歌もうたえるし、電話もかけられるようになる」というお言葉にびっくり感激し、信じられない思いでした。

先輩方の「上手、じょうず」のほめ言葉に気を良くして、日々発声練習にとりくんでいます。家族、兄弟、友だち、そして発声教室の方々に支えられ、時には落ち込むこともありますが、多くの感激、喜びを感じた一年でもありました。

そして、今日もまた、一万歩に向かって「行ってきます!」。

 歩くことの喜びを感じながら……

 話すという目標に向かって!!

記録的大雪、何も出来ぬ悔しさ

佐久教室 三瓶 満昌

 二月十五日は、信鈴会の合同新年会で、久しぶりにお会いできる方々のお顔を思い浮かべ、楽しみにしていたが、直近になって体調が思わしくなく、やむを得ず欠席を伝えた。

 そのころ、テレビの天気予報は首都圏を巻き込んで甲信越から関東にかけて、大雪をもたらす低気圧が迫っていると伝えていた。

 欠席の連絡をした翌日の夜から久しく降らなかった雪が降り出した。粉雪である。

 「これはもしかすると、本降りになるな」と思いながら床に入った。

 「明日は七時から雪掻きに出てください」と集落の区長さんから言われていたが、朝には予想外の積雪で、外を眺めた息子は首をすくめた。やがて市の広報から「戸外に出ないように」とアナウンスがあって、雪掻きは中止になった。

 窓越しに外を眺めていると、みるみる雪が積もり、なだらかな起伏が視界一面白く連なり、車もすっかり埋まった。なお勢いよく降り続く。

 佐久地方はこのような大雪は初めてのことだ。行政の対応も、雪が休日に集中したため、鉄道も国道もその機能を失い、大幅に遅れた。

 佐久教室には高齢者の会員も、有名な山間集落に住む会員もいて、この雪ではじっとして助けを待つしかないだろう。無事を祈りながらテレビニュースを注視していた。高速道路に閉じ込められたトラックの数は,四百台とも五百台とも報じられた。物流は止まり、スーパーでは、新鮮な野菜、魚介類、冷凍食品やパンなどがすぐ品切れになった。

 閉じ込められたトラックの運転者らにトイレを貸したり、炊き出しをする人たちがあらわれ、助け合いのあたたかさにほっとする思いだった。お礼に除雪をして感謝のお答えをするという美談も伝わってきた。

 市長は自衛隊の出動を要請した。災害で活躍する自衛隊員の姿は頼もしい。五日目から道路の雪掻きも進み、車が動けるようになって、徐々に市民生活も動きだした。

 私は体調も十分でなく、歳も八〇を超し、今度の雪害に対しては何もできず、悔しい思いで道路やJRの開通を待った。

 テレビから公助、協助、自助と言う言葉が流れていた。東日本大災害2011から遠くない今度の雪害、わたしたちは自ら備える心構えとともに、大自然を師とする心を養うべきだろう。

早期発見の大切さ

長野教室 小林 今朝雄

 実は昨年の四月なかば、長野赤十字病院でペット(PET)の検査予定でした。ところが、その時期に急性肺炎になり、ペット検査を延期しました。肺炎も治り、当時は体調も普通の状態でしたので、気にもせず生活していました。猛暑、そして厳しい残暑も過ぎ、急に涼しくなった初秋、体全体にかゆみを生じ、数軒の皮膚科に診察を受けるも改善されませんでした。現在も治療中です。

 半年近くペット検査が遅れたので、予約して検査を受けることにしました。結果は、心配していた肺の状態に問題なく、予想していなかった大腸に「異常あり」と診断され、内視鏡検査をすすめられ、実施しました。

 大腸がんと言われました。喉頭がん手術後九年を経過し、自分はもうがんにはならないと信じ切っていましたので、文章では表現できないほど落ち込みました。

 でも現実を素直に受け止め、医師の指示に従うことになりました。

 その時つくづく思ったことは、春にペット検査を受診しておれば、もしかして手術でなく内視鏡で処置できたかもしれない…。後悔したものです。

 血液にも問題があり、血液の病気をある程度治してから、昨年十二月十七日に横行結腸がんの手術を受けました。現在は経過もよく、いろいろな面で不安を持ちながらの生活です。

 いま述べたいことは、よく言われる早期発見がどんなに大事かということです。今後は検査を定期的にし、生活習慣にも気を配り、毎日を大事にしたいです。早期発見は自分を精神的にも肉体的にも楽にします。

 昨年秋から入退院の繰り返し。家族のあたたかさ、ぬくもりを改めて感じました。

長野教室だより

長野教室 松山 滋

 長野教室は前会長の宇野女さんから引き継いで二年目です。会員は二十三名で、そのうち新会員三名です。発声教室の実施は毎週金曜日で一カ月四回行っているところです。そして訓練日には同伴の奥様方がお茶の準備から片付けまでやっていただき、感謝しております。

 なお大変驚いたことは、九月に柿崎庸三さん、十月に宇野女健さん、翌年一月に田中萬平さんがお亡くなりになりました。

 今こうやって思いますと、私が平成八年に入会、その後柿崎さん、宇野女さんが平成九年に入会され、十七年のお付き合いでした。ご冥福をお祈りいたします。

 またそのほか、お二人が病気療養のため訓練士を辞任したいとの申し出がありました。現在では五名の方が訓練士で、うち三名が食道発声を、二名がEL(電気式人工喉頭)で指導。同じ喉摘者同士が声を取り戻すためお互いに励まし合って、より充実した生活を切り開いて行くことを願っています。

 十二月には恒例になっている教室の納会を開催。日赤、市民病院の先生方、看護師さん、会員・家族がアルコール付きで楽しみました。

 長野教室開設から長きにわたり病院の暖かいご協力をいただき、感謝いたします。

宇野女健 前会長のこと

三瓶 満昌

 宇野女健前会長はよく佐久教室に激励に来られて、会員の発声練習を一人一人丁寧に指導された。前会長は気さくなお人柄で、誰にも気軽に声を掛けられて分け隔てがなく、誰からも親しみを持たれ、会長に相応しいひとであった。

  信鈴会の興亡を分けるような事が起きた時、宇野女さんは推されて会長に就任し、その問題の解決に尽力して、信鈴会の立て直しを行いました。また九年間の長期にわたり会の近代化に努め、幾多の新事業を起こして基礎を固めました。ただいま信鈴会は新しい執行部のもとで発展を続けております。私どもは宇野女健前会長の御意志を継承して参ります。

 生前、宇野女健会長に賜りましたご指導に感謝し、ご冥福をお祈り申し上げます。

 合掌

面白い話三題

松本教室 大久保 芳郎

【第一話:ヘルパーさんのこと】

 保育園に通っている四歳の孫の話です。

 先日、小雨の中、孫を助手席に乗せて保育園まで送っていきました。途中、孫が車の前方を指差しながら「ヘルパーさんが動いているよ」と言うのです。

 周囲に家などはなく、人が歩いているはずのない場所なのです。もちろん、それらしいものは何も見えません。私は不思議に思って「誰もいないし、何も動いてないよ」と答えると、孫はフロントガラスの方を指差し「ほら、ヘルパーさんがまた動いたよ」と言うのです。一瞬、私に見えないものが孫には何か見えているのではないかもしれないと思いました。

 再び身を乗り出すようにして「ほら動いたでしょう」と言う孫の指差す先を見て、ようやくその意味が分かりました。

 そうです。ヘルパーとはワイパーのことだったのです。孫は女の子ですから、物を「さん付け」で呼ぶことが多いのです。本当はワイパーさんと言いたかったのでした。

 その日は小雨が降っていたので、私は少し時間をおいてワイパーを作動させていました。孫にしてみれば、何もしてないのに時々動くワイパーが不思議に思えたのでしょう。

 それにしても、ヘルパーと言う難しい言葉を言える孫。パーが付く言葉を言い間違えても、恥ずかしがる様子もなく何の屈託のない顔つきの孫。何て可愛いいんでしょう。そんな孫が一層愛おしくてなりませんでした。

【第二話:ラブレターのこと】

 前話は長男の娘でしたが、今度は長女の息子で、やはり四歳になる孫の話です。

 同じ保育園に通う女の子の誕生日を祝うため、彼女宛てに手紙を書いたそうです。わずか四歳ですから文字など書けるはずがありません。それでも母親が書いた文字の形を真似て、子供なりに一生懸命書き写していたようです。

 この様子を見ていた父親が「ラブレターか?」と声をかけました。孫は「破れてないよ」と答えたそうです。

 父親の「ラブレター」が「やぶれたー(破れた)」に聞こえたようです。腹を抱えて大笑いしている両親を見ながら、孫はキョトンとしていたそうです。

 これは母親から聞いた話ですが、わたしにもその場の様子が手にとるようにわかり、とても微笑ましく思えた一件でした。

 孫が大きくなってラブレターの意味が分かるようになったころ、きっとこの話をしてやろうと思います。

【第三話:生年月日のこと】

 これは、長男夫婦の生年月日に関する「偶然」の話です。

 長男は会社勤めの傍ら地元消防団の分団長を務めています。

 あるとき、消防の業務で事務局に連絡しなければならないことがあり、市の担当者であるKさんにメールを打っていました。Kさんの名前を独り言のように呟きながらの作業だったそうです。

 その呟きを、嫁さんがたまたま耳にして「Kさんの下の名は○○さんと言わない?」と確認しました。嫁さんは中学時代の同級生ではないかと思ってのことだったようです。Kさんの名字が非常に珍しいものだったので、もしやと思って確認したとのことでした。結果的に、kさんは嫁さんの想像通り中学時代の同級生と分かったのですが、彼女いわく「Kさんと生年月日が同じだったから、よく覚えている」とのことでした。

 長男は、その後Kさんと会った席で、自分の連れ合いがKさんと中学の同級生であったことを伝えました。Kさんも「誕生日が同じであったので彼女のことをよく覚えている。世の中は狭い」と言って、当時のことをとても懐かしく語っていたそうです。

 ところが、話はこれで終わりではありませんでした。

 こんどは、Kさんの仕事中に偶然が起こったのです。Kさんが、市の事務局として消防団員の名簿を作成していたときのことでした。団員の名簿を作りながら、長男の生年月日を打ち込んでいたとき、それが自分の奥さんと全く同じことに気付いたのです。Kさんは余りの偶然に驚いて、その場ですぐに長男に連絡したい衝動に駆られたそうです。しかし、お互いが勤務中であることから、その場での連絡は我慢したと聞きました。

 長男は嫁さんより四歳年上ですから、Kさんは四歳年上の姉さん女房ということになります。

それにしても、二組の夫婦が、男女が逆であるものの、生年月日が全く同じという偶然に、私はある種の感動さえ覚えました。こんな夫婦は日本中でこの二組だけかもしれません。もし長男が消防団に入っていなかったら、もし嫁さんが長男のKさんへのメール時の呟きを聞いていなかったら、こんな偶然に遇うことはなかった筈です。

 他人事とはいえ、これほどの偶然が身近な家庭内で起こったのですから、なにかいいことが起こるような気がしてなりません。近いうちに一度宝くじを買ってみようと思っています。

幸せ道中

飯田教室 宮脇静江さん御子息 宮脇 学

 未熟児と向き合って、母親は医学用語「脳性まひ」を知った。「この子の将来は…」などと先を読んだろうか。

 「甲午・きのえうま」の目標を息子へ告げる。「声を出すよう、集中したい。前向きに生きる」。病気・コミュニケーションの支障をはね徐ける気迫に脱帽してしまう。

 手足のほか、言語障害も、おまけづきだけれど、落ち着けば、相手は聞きとってくれる。自身、言葉だけ見ても、恵まれた状態と感謝する。

 なのに、母の生活環境で、心が痛む。腫瘍および声帯摘出、さらに気道切開と、のど構成破壊となっている。正味六時間を要したオペが、ありさまを物語った。

 声を出す手段の一つが「食道発声」。飲みこんだ空気をおなかに力を入れ押し戻し、粘膜振動させる、トレーニングだ。根気がいる。

 不安は尽きない。「電話に出られないので、呼び出しベルに、ヒヤッとする」「耳鼻いんこう科を、あとにする日は、いつか?」。本人の嘆きは、ひとり息子へ直通である。

 ご先祖様から受け継いだ本宅前に、小さな家を建てた。ほぼ電気暮らしで段差のない、バリアフリー住宅の「仲間」だ。

 母は言う。「お前がステキな家、プレゼントしてくれた。気力で生きていくよ」。元気な笑みが、セカンドハウスを引き立てる日々…。親子はいま、幸せ道中を進む。

《宮脇 学さん》母親の静江さんは飯田教室へ三年前から通い、食道発声を習っています。学君は幼い時脳性まひを患い、会話もすらすらとはできませんが、ゆっくり聞けば分かります。手足も不自由なりに自分で前向きに活動しています。デジタルカメラ、パソコンをよく駆使する現代の若者です。今回会誌信鈴に投稿依頼がありましたので、よろしくお願いします。            (飯田教室 花田平八郎)

飯田教室だより

花田 平八郎

 平成二十五年度の報告と近況を書こうとペンを取ったのですが、ふと飯田教室が発足して何年になったのかと思い出し、「信鈴」を見て、早くも九年を経過したことが分かりました。これも市立病院の方々、教室の皆様方の御協力で今日まで続けて来れた事に感謝のほかありません。来年十周年を迎えることになりますが、これからも元気で皆様と一緒にこの教室を続けて行けたらと願っています。今年度も、無事手術を終えられこの教室に参加されるようになった方がある一方、都合が悪く教室に来られない方など、それぞれの人生を感じます。

 一月の新年会も皆元気で例年の砂払温泉で楽しく一日を過ごしました。そのあと二月十四、十五日の大雪には本当に驚きましたが、二月の終わりの教室には全員無事参加でき、何よりうれしく思いました。

 二十六年度の教室も一同無事前向きに歩んでゆきたいと願っています。 

東日本大震災に思うこと

諏訪教室 守屋 一次

 「もう三年もすぎたの?」

 「まだ三年しか経っていないの?」

 人それぞれ思いは違うと思うが、災害は事実発生した。本当に尊い命が失われ、涙の量は測りしれないと思います。

 あの日、私はまだ会社勤めをしていました。昼過ぎ忙しく仕事をしていると、突然、ゴ…という音とともに、めまいを起こしたほどの揺れに襲われ、すぐに外へ飛び出た。

 車はガタガタと激しく揺れ、電線はヒュウヒュウと鳴り、水槽の水もこぼれ、この光景はただごとでないことを感じた。

 しかし十五分もすると通常業務に戻っていた。家に帰り、テレビをつけると、画面から信じられない光景が映し出された。中継しているアナウンサーも声を失い、ただ光景だけが流れていた。自分もしばらく呆然とテレビを見ていたが、我に返り、

 どこで起きたんだ?親戚は?知人は?友人は?

 電話は通じず、安否確認ができないまま翌日を迎えた。テレビは巨大な被害を伝え、増える犠牲者数、町や港の消滅などをあわただしく放送していた。

 世界では、信じられない、想定もしなかった事件、事故、災害と伝えているが、まさか、日本でもだれが想像したでしょうか。

 人とは、国とか、社会とは、技術とは、こんなにも無力だったのかと私は思います。でもまだ三年しか経っていないんです。自分たちの仲間も尊い命を落としています。いま自分たちにできることを探し、ひとり一人が思いを一つに、東日本の人たちが一日も早く幸せな日々を過ごせるよう願っています。

 尊い命を失った方々のご冥福をお祈りいたします。

いま思う、守屋一次 七十歳

       ◇

宇野女健相談役 やすらかに

伊那教室だより

大平 洋康

 伊那教室は会員七名ですが、高齢、体調不良の理由で現在、二〜四名の小人数でEL、食道発声の訓練をしています。また平成二十四、二十五年と新たに入会される人がなく、これも小人数化の原因の一つだと思います。

 しかし、これからも新たに入会され、訓練される人たちのために、正しい訓練方法を勉強していきたいと考えています。

 また伊那中央病院、耳鼻咽喉科の看護師さんの暖かい支援に感謝しております

前へ (その三)

松本教室 塩野崎 一秋

 箱根駅伝! 東京箱根間大学駅伝競走。初春の国民的行事となっている。

今年は突出した実力校があり、わが明治は七位だった。それでもシード圏内で襷を繋ぐことができた。まあまあでしょう。この新春行事ファンらしい青柳師長さん、ビールも飲めずTV観戦とは大変な仕事ですね。頑張ってください。

暮れには伝統の明早戦の楽苦備(ラグビー)。この二校にしか、大学同士の定期戦使用が許されていない国立競技場。東京五輪決定で建て替えるために最後の定期戦となりました。両校学生総動員で満員の四万七千人の入場者に、選ばれし選手たちの攻防はすさまじく、相手のライン割れぎりぎりの攻防に、私もTV観戦ながら手に汗握り、あと一押しと最後まで力が入りました。本当に感動感激しました。

 六大学野球も珍しく春秋とも優勝し、今年の松本六大学会は、すこし威張れるかな?

 シャント発声の日常の話をします。

毎朝ブラシでメンテナンスし、ヨーグルトを飲みます。水漏れは多少あり、下着は汚れますが支障はなく、電話の応対をしています。新しく年配の上條正義さんがシャント手術を受けて入会してきました。すでに会話ができる状態でした。それがシャント手術です。

 一カ月一度の経過観察で海沼医師から「鼻から息をしてみてください」と言われました。アレー!少し呼吸ができる、匂いも何となく感じる。折しもSTAP細胞(万能!)が発見され、大々的ニュースとなりました。ひょっとしたら意外と再生技術の進歩が速く、自分の声で発声できる将来があるかなと期待してしまいます。

 にこにこ笑顔の鈴木医師も戻ってきた。私も足腰を鍛えておかなければと思う。徳嵩看護師にも注意されてしまった深酒をしないよう気を付けよう。スポーツ中継が深夜に多そうだからと心配してくださったのだ。

 訓練士として皆さんに、シャントも含めてELの併用ができるようにした方が良いと提唱してきました。だいぶ浸透してきたようです。私も食道発声にも挑戦していこうと決めてます。

いま若者たちの世界的活躍が目立つ。今年はスポーツイベントがたくさんあり、彼らは着実に力を付けてきている。活躍が楽しみだ。前へ進もう。東京五輪もあるしね。

楽しい木曜日

松本教室 黒田 勇栄

 長野県信鈴会発声教室に食道発声でお世話になり,三年を迎えました。

準備体操に始まり、整理体操で終わる一日です。

 ア、アー  イ、イー  ウ、ウー 

 エ、エー  オ、オー

と、少しずつですが声が出るようになりました。会話の言葉にはなりませんが、社会復帰に向かって頑張ります。

 上條会長さんはじめ、訓練士の皆さんありがとうございます。

 そして集い来る同僚の皆さんと一緒に、気持ちを合わせ、楽しい木曜日にします。

る。活躍が楽しみだ。前へ進もう。東京五輪もあるしね。

大雪の中、入院…下咽頭再手術

松本教室 中川 武

 二月十四日からの大雪を家族でなんとかして、私の車は埋もれたままにしての入院でした。手術は予定通り二月二十四日に行われ、十時間の予定でしたが、十二時間ジャストでした。前回、三年半前とは違って、余裕がありました。

 先週、鷲尾さん(発声教室)が見舞いに来てくださったそうですが、一人部屋の718号室で、点滴と下痢の繰り返し。ドレーンも抜き切れていない状態で、面会をお断りしてしまいました。ようやく一昨日より自由時間がとれるようになりました。鷲尾さんには、誠に申し訳なかった旨、お伝え頂ければ幸いです。

 いまは、214号室の四人部屋に移りました。私の場合、医師の話ですと、放射線治療をしてあるために、縫合した部分の付きが悪い!!そのため、「自然に付く方向、方針を選びました」ということで、朝夕に二人の先生が直接処置室にて治療してくださっており、よい方向に向かっているとのことですが、まだまだとても造影検査のめぼしは立ちません。焦らず、鼻からの注入による三食です。

好きなものが思うように食べられない、飲めないということは本当に苦しく切ないことだと改めて感じています。自然に付くのを待つとはいえ、心身ともに私自身が自分を鍛えて行かなければなりません。積極的に体を動かして、可能な限り院内散歩をと心掛けています。

 造影検査をパスするまでは、ELを当てる一番大事な部分に治療ガーゼがしっかり貼られていますので、話し方の練習は現在できません。が、ぼそぼそと声が出るということは、かなりの期待を私自身がしている…自信になっております。まだ両鼻口にチューブが入ったままですので、皆様へのご挨拶はしばらくできませんが、よろしくお伝えください。

 もう来月はお花見の時季ですよね。それまでには必ず退院する決意です。

 そうは言っても、214号室は北側ですので、ここ毎日のごとく、雪が降っています。皆様もお風邪、転倒などには十分ご注意ください。

 二〇一四年三月十日