平成11年刊 第26号

巻頭言

会長 田中清

平成十年九月末から三日間、日喉連東ブロック主催の食道発声指導員研修会が、松本市浅間温泉で開催されました。参加団体十一、参加者六十名、見学者八名、来賓等六名、合計七四名の盛会となりました。開催に当り長野県及び松本市に多大な御援助を賜り厚く御礼申し上げます。特に有賀松本市市長の御丁重な御祝辞と、信大田口教授、県障害者福祉課花輪補佐より御講演を賜り、一段と会に華を添えていただきました。なお研修会の詳細については巻中井出副会長の報告をご覧下さい。

最近企業の不況から、大卒者の就職志向が変化して来ました。従来の会社志望から公務員志望に変化し、しかもお役所的なものでなく、自分の力で出来る職種が好まれています。

特に医療関係では医薬分離以来、リハビリ・家庭介護等各種の専門職が出てきました。「言語聴覚士」もその一つで厚生大臣免許による医療職種で、国家試験の合格を必要とします。おそらく大卒の若い人がこの資格試験に殺到してくることでしょう。そうなった場合今からその対策を進めることが急務です。日喉連では独自カリキュラムによる自主認定の体制を作り、法案発効を待って「日本音声言語医学会」と打合わせて進めて行く考えでありますが、難しい問題が残されています。

平成十一年度は、いよいよ発声補助装置の使用の年であります。目標は九月頃配頒布開始と計画されて居るようですが、この装置の開発により幾多の人が社会参加が出来るか、今から楽しみであります。使用前もう一度食道発声の原点に返って誤発声は早期矯正し、自分の発声を録音機等でもう一度見直し、発声の明瞭化に努力して下さい。いずれにしても食道発声は教室へ参加して肩を張らずに、気楽に勉強することが大切です。会員の皆さん教室で新しい発声法を勉強いたしましょう。

老いのかたこと私の日記帳

顧問 信大医学部名誉教授 鈴木篤郎

「老いのかたこと」などと、勿体ぶった標題をつけたが、要するに、昨今著しく乏しくなった私の記憶力を補ってくれるばかりでなく、自分の人生に種々の楽しみを与えてくれている日記帳のことを書こうとしているのに過ぎない。

今のような形で日記を書き出したのは、昭和十五年一月からだから、今年は丁度六十年目にあたる。

もっともそれ以前に、昭和十一年四月から約一年間「私感雑記」と題して書き続けたことはある。しかしその時期は、私が結核性腰椎カリエスで病床にあった三年間の最後の一年に当たっていて、内容も、病床の若者が感じた稚い人生論が大部分を占めており、一種の随想録で、日記とは言えないものであった。

今言ったように、私は昭和九年、大学入試への合格発表直後に発病し、丸三年間休学して、病床生活をした。昭和十二年に復学し、大学生としての生活を始めたが、日記めいたものは、その後昭和十五年になるまでは、全く書いていなかった。

十五年の一月十四日に、私は新しく買ってきたノートの冒頭に、次のような文章を書き付けた。

「自分はここに再び、一個の人間の成長を日記の形式で書くことにする。この形式はこれから約一ヵ年続けてゆくつもりである云々」

つまり私は、この三年間学業の忙しさにかまけて人生への思索を忘れていたことを反省し、もう一度だけ「私感雑記」のような随想録を書くつもりでいたのである。しかし半年も経たないうちに、記述内容の大部分がその日の出来事や自分の行動に限られるようになってしまい、人生への思索など自己の心情を吐露した文章はほとんど姿を消してしまっていた。

こうして、六十年後の今日まで続いている現在の日記の形式が出来上がった訳だが、それは、日付のある日記帳の枠内に毎日きちんと書くのではなく、書きたいことがある日に好きなだけ書くというもので、書きたいことがなければ、何日も空欄が続くことになる。世間で自由日記と言われているものと同じ形かもしれない。

最初は原稿用紙を綴った市販のノートを使っていたが、体裁が一冊ごとに異なり、年がたって冊数が増すにつれ、不揃いで煩わしくなってきた。ある年、今から二十数年前に、博文館で出している「文芸日記」というハードカバーの冊子形ノートを使ったら、使い勝手がとてもよかったので、それからはこの冊子だけを使用している。一冊で二年から三年使えるので、今書いているのは九冊目になる。

この日記には海外旅行中の記録はない。「何月何日出発、何月何日帰宅」の文字があるだけである。最初に海外に出た時の方式がずっと継続しているからである。

最初の海外旅行は、昭和三十三年の九月から十二月まで四ヵ月間、文部省海外出張命令によるヨーロッパ、アメリカへの研修旅行だったが、研修旅行だということもあって、詳細に記録をつけようと意気込んでいたようだ。忙しい旅程だったが、夜床につく前や、朝食前の僅かな時間をやり繰りして、その日の私の行動や、その日の出来事などを丹念に書き付けた。その記録は横書きノート三冊にびっしり書き込まれて、今も書棚の一隅にある。

その後何度か海外にでたが、最初の経験が癖になったのか、必ずノートに旅日記を書く習慣がついてしまい、前記三冊を加えると、現在まで計十冊になっている。

国内旅行の場合は、海外旅行の場合と異なって、旅の模様が日記帳に記載されている。日記帳を持参して旅行するのではなく、ごく薄いメモ帳を一冊カバンに入れておき、旅程や出費、ホテルの予約なども含め、旅行中の必要事項や出来事は、一切それにメモしておいて、帰宅してから、適当にアレンジして日記帳に書き写すのである。メモ帳は同形のものを一度に何冊も買って置き、使用後も捨てずに机の引き出しの内にしまっておくことにしている。

こうして、ほぼ固まった形式での日記の記載を、長年続けてきたわけだが、だんだん年がたって、日記帳への記載内容が増えてくると、昔の出来事を日記帳から拾い出すことの困難さを感ずるようになってきた。

十年前に小型のワープロを買い、面白がって色々打ち込んでいるうちに、ふと、日記の索引のようなものを作ったらどうだろうという発想が浮かんだ。しかし本格的な索引を作るのは、作業が大変だと考え、結局日記帳に記載された内容から、後日必要になりそうなものだけを抜き出し、簡潔な文章にしてワープロに打ち、それを綴っておこうということになった。これなら、暇をみて少しづつやれば、なんとかなりそうに思われた。

九年前から少しづつやりだした。A4大の用紙一頁に、四十字三十三行の文章を打ち込み、その一頁乃至二頁で、日記の一年分が入るように按配した。最初のうちは年によって記述に粗密があり、書き直したこともあったが、作業の半ばを過ぎる頃からは、慣れもあって、大体一様の密度で書くことができるようになった。

五十年分といっても、本気でやれば一ヵ月もかかるまいと思っていたが、実際には、思い出しては時々やっていたせいで、そんなに早くは行かず、満五年後の平成七年の一月になって、やっと前年分の抄録を作り終えた時にはほっとした。それからは、年一回前年分を纏めるだけで今日に至っているが、昨年までの分で六十九頁になり、表紙に「日記抄録・昭和十五年より」の表書のある厚手のファイルに綴ってある。

これを見るようになってから、日記帳から過去の出来事などを探し出すのが非常に楽になった。なにしろ六十年の私の過去が、七十頁に圧縮されているのだから、記載漏れでないかぎり、あっという間に探しだせるという次第で、大変重宝である。

「日記は単なる備忘録ではない」ということは、前から知ってはいたが、若い時には、毎日の生活に忙しく、そのことをあまり気にかけていなかったようだ。七十も半ばを過ぎ老いの閑境に入ってから、初めて自分の日記を読み返す楽しみが分かるようになった。何かに疲れた時など、書棚から日記帳を一冊引き出して頁を繰ると、過去の(若かったころの)私が、眼前に浮かんできて興が湧き、思わず時を過ごしてしまうことが多い。あの頃はどうしてあんなに忙しく動きまわったものかと不思議に思うこともある。

そう言えば、「日記抄録」を作り出したのもその頃、昔の日記を読み返す楽しみを覚えかけていた頃であり、そのことが、抄録を作る一つのヒントになったのかもしれない。

最近になって、偶然ワープロで打った「日記抄録」を読み通してみたところ、意外に面白いことが分かった。記載が淡々としていて、時が早く経過し、何十年もの私の人生が、一度に読み通せるので、日記の原本を読む時とは、また一味違う清々しい感興に浸ることができて、とても嬉しかった。

(一九九九・二・一八)

信州の空に魅せられて

顧問 信大医学部耳鼻咽喉科 田口喜一郎

信州は私の生まれ故郷であり、生活の場であり、そして骨を埋めるであろう場所である。これまで生きてきた的年の歳月のうち外国留学の2年間と3ヵ月を除けば、綿々として信州の土地にしがみついていたことになる。経済的理由から地元の学校に終始し、何とか専門分野で一人前の仕事に専念できたことは、多くの方々の温かいご指導とこ厚情によるものであり、改めて御礼申し上げたい。

信州に長く住んで一番誇りに思うのは、何といっても「空」である。志賀高原のスキー場からみた空、白馬、御岳、赤岳(八ヶ岳)の頂上からみた雲海に飾られた空は印象深い。子供の頃短期間であるが、食料難のため、父親が城山にあった桑畑を耕地にした土地を、島内の赤穂さんという方から借受け、馬鈴薯や葱を作っていたことがある。そこで芋堀りを手伝ったあと、仰向けに寝転んで、信州の空の美しさ、雄大さに感激し、特に夕焼けの茜色は山々に反映して、この美しさは如何なる画家にも描けないだろうと思った。夏は畑の回りに残された桑の実を、唇を紫に染めながら頬張り、自然の恵みに感謝しながら味わったことは淡い思い出の一つである。成人してから、美ヶ原高原から日没の瞬間に西の日本アルプスの夕映えとその上の空の対比は、人と宇宙の関係に似て、そこに生み出される青春のエネルギーを髣髴した。自然画家といわれる人は、このような感激が常に沸上がる人ではないかと想像したことを思い出す。

一九八六年米国オレゴン州ポートランドで単身勉強していた時、休日には小高い丘の上にあるワシントンパークに上り、南の端麗なフッド山を眺める時、公園と山を懸ける空が信州の空、松本の空に似ているのではないかと感じた。その明るさ、カラーフィルムでいう色温度の高さ、空気が澄んで無限に引き込まれるような空、そこではヒトは無力であり、無に期す存在感の喪失を体験した。2ヵ月余りの滞在中この公園に10回は登ったであろうか。宿泊していたホテルからジョギングで3分程度と程よい距離で、公園内には日本庭園、テニスコート、動物園、植物園などみるべき対象が多く、特にバラ園は有名で、数百種の名花が咲き誇り、ここで毎年バラのコンテストが世界的な規模で行われ、優勝したバラが植えられているので見飽きることはない。公園の芝生には暖かい日当たりの中で、私と同様に仰向けになって、空を飽かずに眺めている人が多いのに驚いた。彼らは何を考えているのだろうかという疑問を質す機会は持てなかった。

_もう30年前の話になるが、カナダのトロント大学に留学中、春になるとアパートの庭や市内の大きな公園で多くの人が肌をさらして体一杯に陽光を浴びているのを見た。これは勿論冬の日差しの不足を補うものであろうが、真似してみようという気は全く起こらなかった。アパートの20階の部屋からは近くオンタリオ湖が望まれ、展望が利いたが、景色に感激が沸かなかった。当時その理由は分らなかったが、帰国してから空の違いにあると感じた。トロントの空はインディアンサマー(小春日和)といわれる秋の一時期を除いて濁っていることが多く、夏でも寒さを運んでくる危険を秘めている。信州の空、そこには北欧の極光やオーロラはないが、無限の可能性を示唆してくれる空であり、この母なる空の下で生涯を過ごせる幸福、これは老人の単なる感傷ではなく、もう一仕事しようという活力を与えてくれる源泉と理解している。

(一九九九年二月)

『祝999』

北長野病院院長 河原田和夫

本年は『999年』、仏教界やおとなりの中国では、この数字「九」を大切にしているようです。おめでたい吉が三つ連なっております。皆さまにとっても、今年はよい年だと思います。私もあやからせていただきます。

皆さまとお会いして23年。ただ今は、長野市北部で開業医療に従事しております。火曜日を休診にしていることから、「出前」の医療福祉の仕事をすることもございます。

県庁社会部の嘱託医として、長野県厚生相談所判定医・社会福祉審議会身体障害者福祉専門文科会委員などの仕事を通じ、皆様のお役に立てるよう努力しております。

国際高齢者年でもあります。力に応じて歴史の一ページをめくろうではございませんか。よろしくお願い致します。

(平成十一年三月十二日)

指導員二十年を顧みて(信鈴第25号に続いて)

伊那教室 桑原賢三

昭和も終りに近付き、平成の年明けも間近になった頃中央病院や伊南病院にて全摘手術が始められ、その員数も増加し、女性の方も二名程中央病院で手術される等、食道発声では無理な方も増えて来ました。よって人口笛をマスターした伊那市の名和さん、飯田市の林さん等、笛の先輩者が良き指導者となり、教室も、伊那中央病院及び駒ヶ根の伊南病院で手術をした方々が増加し、又教室日には中村婦長さん、又は田畑婦長さんが、その都度お顔を出して戴き賑やかな教室となって参りました。特に今は亡き林尚武さんが笛の弁調節を受持って下さって食道と笛の両面の教室となり、笛の患者も多くなるのを見越して、私も笛の原理等を勉強して、自宅で練習をしている孫達に不思議がられたりしました。指導員なるが故に人工笛の指導にも心掛けたのでありました。然し音程の異なる笛と食道では、一室での指導は少なからず無理が生じます。たまたま教室が廣い会議室又は隣の第一会議室のため、両端に分かれての指導が出来ましたので・指導に不便はありませんでした。

こんな時総婦長さんは定年で、又婦長さんは職場が変わり、それぞれ代わりましたが、教室では桑原・山下・伊藤の三者は相変わらず教室の維持に懸命でした。

然し教室への参加者の増加が何よりの張り合いで、又年を経るに従い先輩格の皆さんが協力して指導に当り、この時期は新しい会員も増え、十三名~十四名となり、それぞれ奥様方が付添いで参加されるので、教室は一段と賑やかになり、同じ悩みを持つ奥さん同志の交流も親密になり、春先になればお花見の事、年の瀬が近付けば忘年会の事等、家族ぐるみの教室となり、中央病院での患者が増すと、家族と看護婦さんの交流が深くなり、教室も一段と明るくなりました。よって私も教室日の前日には終日予習の発声練習に力を入れ、教室にての指導に万全を期しました。

然し耳鼻科の外来患者の増加に伴い、外来担当看護婦さんの山崎さん、浦野さん、平沢さんそして先生も午後二時から三時になっても、外来患者の対応で、教室の時間帯には、教室への出席は出来ず、今になっても此の状態は続いております。

平成三年度の総会には、先生始め総婦長さん、金子看護婦さん、そして会員の家族を含め十余名が参加され、伊那教室の面目躍如たるものがありました。平成三年、四年と順調に指導効果も上がり、指導に張合いが出てまいり自信もついて来ました。

平成五年六月の総会に私は元気で出席し、伊那教室からの参加者も多く、ホッとしていた処、八月になり食道発声の声帯部分に腫瘍ができ、検査の結果ガンと診断されて一日も早い処置が必要となって、深沢先生に相談しました処、今度の手術は切除した食道の代わりに、背部の皮膚にて食道を形成するため、この食道での発声は不可能とのことでありました。

そこで指導員のことをどうするか?悩みました。九月になり手術が実施され二ヶ月余りの入院となりました。入院中教室日には、皆さん代わる代わるお見舞い戴き、一日も早く退院して教室への出席を、と励まされた。然し発声不可能と言われている自分にとっては、果して指導出来る声が出るか?心に暗い思いを抱き乍ら、十一月退院することになりましたが、この闘病期については信鈴の二十二号・二十三号に寄稿した通りです。

然し案外声の出が良く、指導にはそう不安は残らなかったが、この声がくせものであった事はその時点では判りませんでした。移植した食道と自分の食道との縫い合わせ部分の肉盛りで発声しており、これが声帯となり発声がたまたまよくなっていたものでした。然し平成七年になり、この肉盛りのため、食道が狭くなり食べ物が通らなくなり、日に何回か詰まってしまい、翌年八月一日再び喉を切開して縫目を切取り、縫い直しの手術を受けて、一ヶ月余りの入院で再び声を失うことなりました。

二月の後半に教室へ戻り指導に取り組みますが、自分が納得できる声は取り戻す事は出来ず、よって平成九年六月の役員会において、長年勤めた参りました信鈴会の理事及び指導員の辞任を申し出て了解を取付け、翌十年七月の総会に於いて、会長より長年に亘る役職に対して慰労のことばと、記念品を戴き、希望と苦難の思い出多き指導員に別れを告げました。

この二十年のうち、四年間は松本教室とかけもちでしたが、伊那教室での指導は十八年と長きに亘り、伊那中央病院との関わりの深さをしみじみと感じます。此の長い間お世話になりました総婦長さんは、宮原さん、唐沢さん、林さん、そして現在の鈴木さんの四代、病棟の婦長さんは現在の伊藤婦長さんまで七代に亘り、関わって戴いた看護婦さんは数知れず、病院の大勢の皆さんのご協力に対し、深く感謝申し上げるところであります。

一方、此の長い間に伊那教室の会員で他界された方々'は二十九名と多く、何れも声との関わりを今になっても思い出されて参り、ご冥福をお祈り致すのみであります。

伊那教室の皆さんには大変お世話になりました。時として、指導とは言え、心に無いような言動も数多くあった事と思います。ここで深くお詫びを申し上げます。

平成九年度の納会には、謝恩会を開いて戴き、身に余る感謝状及び記念品まで戴きまして、私の伊那教室最後の食道発声指導に花を添えて戴きました。

喉頭ガン・食道ガン・肉盛りの切除等三回も喉の切開手術を行い、なお生命を保って来られたのは、苦楽を伴った二十年に亘る指導員としての責任感と、皆様のご支援があったからこその事と感謝申し上げる処でございます。これからは、教室の一員として出来得る事から関わって参りたいと存じます。

共に教室の運営に手助け戴き、共に苦労を背負ってご協力を戴いた山下さん、伊藤さんに改めて御礼を申し上げる処でございます。

これから指導員として、伊那教室を担当される矢崎明さん、藤本幸作さん、御苦労多い事と存じますが、何卒頑張ってください。

最後に信鈴会の皆様の御健康と御精進を祈念申し上げる共とに、今後とも伊那教室を宜しく御支援の程お願い申し上げまして筆を擱きます。 平成十年十月 記

今年を振り返って

松本・諏訪教室 小林政雄

今年は気候の変動、景気の低迷と大変苦労の多い年でしたが、国民は何とか頑張ってリストラや失業等大きな試練にも負けずにやってきたと思います。

私達信鈴会も創立三十周年を迎えて記念すべき年となりました。この為に先ず六月の定期総会には、銀鈴会の中村会長をお迎えして盛大に開催されました。そして役員の長期に亙り御尽力された功労者に対して、田中会長から謝意と共に記念品が贈呈されました。

次には九月三十日・十月一・二日と三日間、第十一回日喉連による東日本ブロック指導者研修会が、田中会長のお骨折りにより、松本浅間温泉にて開催されました。日喉連の中村会長、松本有賀市長、長野県花岡社会部長の御挨拶があり、又信州大学医学博士田口教授の『医学における常識』と題して|健康で長生きするために|の講演があり、大変に良かったと思いました。その他長野県社会部障害福祉課花輪の『介護保険制度について』の講演があり、大変勉強になりました。

研修会の参加者は関東甲信越の各県の指導員が六十名程でしたが、非常に良い成績を得まして、特に信鈴会のモデルによるデモンストレーションでは、信鈴会の発声教室が良く理解され、特に田中会長の誤発声に関する指導については、口腔囁語を的確に聞き取り、早い段階での矯正により原音発声の基本に立ち戻り、最初からの指導に移る重要性を、信鈴会のデモの例を含めて、再認識が出来たと銀鈴会の指導員から話がありました。その様に今回の研修会は私達信鈴会の良さが、各県の指導員の方々にアピールが出来た研修会であったと思います。

さて、今年の発声教室は、各教室共に新入会員の皆さんの熱心な出席により、良い結果を出していると思います。特に長野教室では、会員が多くなり、役員の方々の努力により非常に良い結果を出していると聞きました。特に新入会員の皆様は熱心に教室へ出席され、家族の方も同席されて勉強していますので、明るい楽しい場所となっています。原音発声及び二、三音の発声が出来るようになり、来春には会話が出来るようになる、と期待しています。それも一重に家族の皆様の力強いご協力によるものと感謝しています。又諏訪・伊那教室に忘年会の出席で、多数の家族の方々及び先生、看護婦の皆様が出席されて盛大に行われました。これも今後の教室発展の為に良い事だと思います。どうか皆様宜しく発声教室を守って下さい。

以上今年の思い出としての数々を列記して見ました。今後とも宜しく発声教室をお願い致します。 (平成十年十二月記)

私の病歴と闘病の思い出

伊那教室 関島秀夫

「あなた、ならどうする?」

長野教室 山浦重成

皆々様が苦労して信鈴会を開設されて早くも三十年余にもなり、日本喉摘者団体連合会、全国のリーダーシップで苦労なされ今日があります。日赤御当局を始め歴代会長さん又指導者の苦労に対し感謝致しております。私達も一日も早く食道発声猛訓練して、会話が出来ることがみんなの願いであります。私も冬期間教室へ休まず出席して、発声訓練に励み皆様のように成りたいです。朝教室に入って皆様の元気な顔を見ると懐かしいやら嬉しい気持になってホッとします。自分なりに練習し若干話が出来るようになり、近所の商店などに用に行くと、大分声が出るようになったといわれると、「よし、頑張ろう」と思います。私は元より筆談ばかりやりすぎて、発声を遅らせたことをいまさら思い、筆記用具を持たないことにして、食道発声に全力を尽くすことにし今練習中です。

〇咽頭ガン第三期との病状を宣告される

私は平成四年十月二十九日東京国立ガンセンターで喉頭ガンと宣告され、全摘出手術を受けて今年の十月二十九日で満六年を迎えたので、この機会に当時を振り返って思い出の一端を綴ってみました。

当時私は市議会のあるポストを担当しており、毎日が会議や委員会等々で忙しい毎日でした。然し半年前頃より声帯に異常を感じ、当時新築中の市立病院建設の委員も拝命していた関係で、市立病院での診察は受けて居りましたが、あまり判然としない状態で困っておりました。 たまたま九月定例市議会で一般質問に立ち、一時間余の質疑を致しましたが、前半どうしても声が出なくて苦労し、後半になって漸く正常の声に戻り終了する事が出来ました。終って同僚各位より「関島君どうしたのだ、その声は心配だで至急病院で診察を受けなさい」との言葉を戴き、早速診察を受けた結果入院する事になり、即検査々々の連続で、入院一週間精密検査の末病名も判然とせず「あまりたちのよくない喉の病気だで放射線治療を二十回投与し、様子を見て更に二十回の投与をする」との担当の医師に言われ、家内共々驚いて早速院長立会いの上、種々対策を話し合った結果、一時投与を保留して戴く事にしました。私は友人(郵政省郵便局の全国会長を勤めた方)の叔父が、国立ガンセンターの重要な地位におられる事を、以前お聴きしておりましたので、その足で友人に相談申し上げた処、早速取り計らって戴き即座にお引受け下さって『十月二十日に診察するから上京しなさい』とのご連絡を戴いて上京し、診断の結果は「はっきりと喉頭ガンであり、病状も第三期の極めて楽観出来ない状態である」旨を担当して戴いた先生から宣告されました。(この間時間的には僅か三分と掛からなかった)診察に立ち会った私の身内の者の驚きは、今もって決して忘れません。『あっー!!』と言った事を覚えています。その後手術まで何回か診察と検査を重ねる中で、先生のお人柄も判って来た処、私に「関島さんは長野県ですね。信州大学には私の同期(東大)の幕内先生がおられますが、彼は肝臓の専攻で、私は癌専攻と袂を分かち合った間柄です」とのお話しをして戴き、先生に対する信頼感が、心の底から高まって参りました。こうした経過を辿って入院致しました。喉頭癌の宣告を受け声を失う事は私にとって致命的痛手で、とても言葉にならない悲しみのどん底でした。然し今日の医学の進歩、又手術技術の向上、そして手術後における第二の声を取り戻す銀鈴会における食道発声法など事前に充分お聴きして、心より信頼申し上げており、詳しい説明等で、益々信頼が高まり、私も最終決断をし、総てを担当して下さる先生に一任、後は神に祈るのみでした。愈々声を無くす日時が迫った時、病院の最上階の十三階の無人部屋で、持参のテープコーダーに最後の生の声を振り絞って収めました。私を取り巻く総ての事柄等、約二十分間に亘って収録する事に成功しました。やれやれこれで一先ず安心だ。後は愈々明日の手術を待つのみと思ったら、何だか心も落ち着いて来て、その晩は本当に心配無くグッスリと眠る事が出来ました。

翌二十九日は早朝、担当の看護婦さんにより寝台車で手術室に、もう此処まで来れば総てを任せて祈るのみでした。「関島さんしっかり頑張ってネ」との声だけは、はっきり聴きとりましたが、麻酔が効いてきて後は判りませんでした。手術が何時間かかったのか麻酔が切れて見舞いに来て下さった皆さんの顔がはっきりと目に映り「コクン」と礼をしたつもりであったが‼勿論声は出ないで、後は深い眠りに入ってしまいました。

○過去の闘病体験を喉摘病床中に思い出す

私は昭和五十八年九月一日腎臓病のため、左腎臓全摘出手術をしました。此の年は、丁度鼎町が飯田市へ合併する前年で、当時私は鼎町の議員を拝命致しておりました。この手術を担当して戴いた先生は、公立病院の腎臓専門の先生でした。先生は日頃患者に対して「何でも克つ事である。負けてはならない。特に病気に対しては、強い意思をもって必ず病を克服してみせるとの強い信念を持ちなさい」と、又「運動する事が一日も早く健康を取り戻す秘訣でもありますよ」と、患者に言っておられました。したがつて患者は、皆朗らかで明るい気持ちでした。私も先生の執刀により、左腎臓全摘出の手術で、体には十六針の大きな傷痕があります。手術後私は深い眠りに入りましたが、夜中に酸素吸入器の故障により、吸入出来ず苦しい一夜を過ごす事になりました。この苦しみも忘れる事は出来ません。然し翌朝八時三十分に目が覚め、昨日の事を思い浮かべながら、先生の申された事を再度復習しながら「ヨーシ、やって見るせぞ!」との意気込みで起床しようとするのですが、仲々起き上がる事が出来ません。何とか数回の努力の末、やっと起き上がる事ができ、昨日の傷をかかえ、オシッコ袋を肩に病室を抜けて、ナースセンターへ昨日の御礼と朝の挨拶にお伺いした処、看護婦さんが「先生関島さんが来られましたニー」と申し上げた処、先生は明るく笑って「それでいいんですよ。よく歩けましたね」と褒めてくれました。

又、九月の定例議会が開催中で、九月十日の最終日だけは、どうしても出席しなければと先生のお許しを戴き出席した処、皆さんから大丈夫か?と声をかけられましたが、考えてみたら手術して未だ十日目でした。お蔭様で無事退院、明けて十月十日は『体育の日』恒例の体育祭りが各所で開かれ、同様に議会と自治会とのソフトボール大会も開催される事に決まっており、当時選手として試合にも参加して居りました。たまたま手術した後でしたが、担当の係より出場要請を受け、断る訳にもゆかず、先生に相談した処、「特に心配無いから傷痕を晒で巻いてやりなさい」との事でしたので出場致しました。これも手術後四十日目の事であり、病床中での思い出の一こまでした。

○運動と食事の美味しさ

さて、喉頭摘出後の深い眠りから覚めた後、どうすればいいのか、今の処付添いもない唯一人なのに、前述の過ぎ去った事等を想い浮かべながら、とにかく起き上がろうとするんですが、仲々力が出ません。数回繰り返している中に、やっと立ち上がる事に成功しましたが、でもフラフラです。然し闘病‼、戦わなくては‼、よし散歩でもしてみるか‼、と病室を出て廊下を歩いてみました。苦しいが歩く事が出来る。それではということで、病院の中を一周してみました。ガンセンターの建物は正方形で平均十階建で一周すると約二百mあります。私は手術の翌日やっと一周で終りましたが、二日目からは朝飯前七時頃より三周、昼食と夕食前同様三周、その後回数を増しながら、退院する迄の二十四日間絶やさず実行しました。患者さんの邪魔にならないよう、又安眠妨害をしないよう充分配慮を重ねなからやってみました。

暫くすると、病院の中に広がり『散歩の関島さん』とニックネームを頂戴し、廊下であう皆さんと挨拶を交わす程心易くなりました。こうして二週間目に先生から、連絡を戴き、「明日レントゲン室へ来るように」と言われ、当日診断の結果は大変経過が良く、現在鼻から管を通しての流動食は今日限りで「明日から普通食に切り換えます」と言われ感激致しました。愈々食道を通して食事が出来るんだ‼この喜びは本当に嬉しく、明日からの食事への期待感で一杯でした。早速家へも連絡、この喜びを分かちあえました。忘れもしない十一月十六日、長かった鼻からの管を抜取り、すっきりした感じでの食事です。ふるえる様な喜びで、一口一口噛んで感触を味わいながら、少しづつ呑み込む。美味しい‼本当に美味しい。何となく体中に栄養が充満する様な感じで一杯です。愈々普通食が毎日食べられると言う喜びで、期待感が体中に広がりました。毎日三回の病院内の散歩も回数を増やすようになったため、体力を少しでも消耗するから、毎日の食事が待ち遠しく、体力もめきめき充実してくる感じで一杯です。回診に来られた先生から「良かったね、最初診断の折は少々心配でしたがね!」と、又一緒に回診に来られる看護婦さんも、私が元気になったのを喜んで冗談を飛ばしたり、又「出身地私は新潟よ、とか私は一人です、よろしくね」等々と蛇懇の間柄になり、お陰で大変楽しい毎日を過ごす事が出来ました。

○病院での戦友(病友)の存在

こうした経過を辿りましたが、入院中又退院後今日まで交誼を戴いている方がおります。偶然にも私の入院と同時で病室も隣同志で、手術の前に食事時又休憩室等でお会いしているうちに昵懇となり、色々と四方山話をする仲になりました。この方は女性で、アメリカ在住が長く、ニューヨークのハイスクールを卒業後、翻訳の仕事に携わり数カ国語に長け、国際感覚豊かな方で、どういう訳かすっかり仲良しになりました。彼女は都内の方でご主人は日産自動車KKの重要ポストについておりました。

彼女は舌ガン私は喉頭ガン、相憐れむ立場でお互いが命を賭けた立場から、病友?と言うか共に闘う意味から『戦友と言った方が適切かなあー』と言いながら、今でも交際を続けております。又手術が同じ日の同じ時刻に行われました。そんな訳で戦友としての存在が、当時の私にとって、お互いに病には絶対克って健康を取り戻すんだ‼と誓い合ったのも、私を勇気付けて呉れた一因でもありましたし、同様彼女もそうであったと思います。舌ガンと喉頭ガンの違い、彼女は舌を半分の余切りとっておりましたが、声帯は残っているので、発声は稍詰まったような処もありましたが、綺麗な発声が出来て居りました。唯食事するに呑み込みが充分で無く、不自由をしているようでした。病院内の戦友である彼女の存在は私には恵まれた条件の一つでありました。

○銀鈴会田町教室を訪ね入会を勧められる。

私は手術後は『ハァー』とも『スー』とも声が出ない状態でしたが、病院の勧めもあり又私自身何としても一日も早く声が出ればと入院中の後期に、銀鈴会田町教室を訪ね、当時の矢崎事務長さんの紹介で、中村会長さんにお会いし、発声教室皆さん方の初級・中級・上級等、各教室での発声訓練の現状等を案内戴きました。色々と説明を戴く中で、是非入会をと会長さんに勧められて、入会する約束も取り交わし、役員の皆さん又発声指導の先生方とも面接してお願いを致して来ました。

年が明けて一月十日約束通り、田町教室入会のため上京し、二月十日までの短い期間ではありましたが、教室の雰囲気に浸り、誰にも負けずに努力致しました。その結果入会十日目で、会長さんより発声初級合格証を交付されましてその喜びと、やらなければ!との意思を固めた次第でありました。

〇ガンセンターの退院

平成四年十月二十日入院、手術等の経過を辿り、御蔭様で順調に進み、三十日目に先生から「関島さん調子がいいから何時退院されても結構ですよ。自宅療養なさったら」とのお言葉でしたので、いきなり退院という訳にも参りませんので、早速家とも連絡をとった結果、二日後は大安吉日という佳い日であるからと言う事で、十一月二十四日と決めて、先生のお許しも戴きました。

入院してからの三十数日に及ぶ病院生活は、私にとって尊い人生の一ページを飾ってくれました。此処までさんざん苦労と心配を掛けて来た家内と家族には、心の底から感謝と礼を述べながら、又私をとりまく多くの皆様に対して、紙面の上ではありますが、心より感謝とお礼を申し上げます。

丁度三十五日間病院にお世話になり、後は先般お約束してある前述の銀鈴会田町教室の入会が一月十日でしたので、この間専ら自宅療養に専念し体力をつける事に努力致しました。

長い闘病の思い出を綴ってみましたが、一番励みになったのは、負けてはならない克つと言う変わらぬ強い意思と信念であったと思います。佐世保市長の辻一三さんの如く、市長二年目で喉頭ガンをやり、その後三期の市長職を勤められと言う本当に見習うべきよい事例、又病院内の戦友の存在も私には恵まれた条件がありました。

喉頭摘出後丸六年、若干遠い昔の思い出でありますが病歴について、私なりに綴ってみました。どうぞ後笑読の程を。 (平成十年十一月記)

雑感

長野教室 古澤實

今朝もまだ雪が降り続いている。大雪警報が出されて三日目、朝六時前に起きて雪の降りしきる中、除雪の準備。まだ外は暗い。昨夜より更に約四十cm~五十cm位積もったようだ。除雪機のエンジンを駆けてから先ず庭、そして県道寄りの取付け口を除雪する。更に車庫の前は朝三時頃より県道を除雪車で除雪して押しつけられた雪で固まっている。これをスコップで取り除く。これで漸く朝飯前の雪片付けが終了する。

今年は一度に三~四日間纏まって降るので量が多くなる年だ。二月までに3回大雪警報が出て一m半位積もった。私の知っている大雪は、昭和二十年二月十八日だと思うが、新潟県境の栄村に森宮野原と言う飯山線の駅があるが、そこでの最大積雪量は七m八十五cmという積雪で、雪の無い時に見ると、よくもまぁ積もったものだと思う。記念に七m八十五cmの柱が立っているが、一度ご覧になったら如何でしょう。鉄道の通っている場所としては日本一の積雪量との事である。

雪下ろしについて一言。私の飯山の方では一番雪の量が少ない所だが、一度は必ず雪下ろしをするる何年に一度と言う大雪の時でもせいぜい二度位だ。これが雪の多い所では一冬に5~6回位の雪下ろしをしなければならない。そういう処では、「雪下ろし」ではなく「雪堀」と呼んでいる。昭和五十二年頃だったと思うが、正月の年始参りに行った時、電線が雪の中に埋まって、その上を歩いて行ったことを覚えている。

少し小降りになったり天気が良い日は、各家庭では皆屋根に上がって雪下ろしを始めます。若い時は一人で二日も雪下ろしをすれば終わったものだが、七十歳を越える年になると体力は落ちてなかなか大変である。息子の手助けでやっているのが実情である。

雪下ろしをした後の雪の始末も又大変で、家の前等は山のようになり、除雪機で二時間位、雪を遠くへ飛ばして片付けるが、飛ばされた雪は又そこで山となって、春までそのままである。昔は雪下ろしをした雪はそのままで、山のような雪の上に道をつけて歩いていたものである。また道路は昔は"道踏み"当番と言うのがあって、隣組が交代で"道踏み"をしたものであった。昭和二十五年頃からと思いが、今スキー場にあるキャタビラーの付いた圧雪車のようなものが出来て、県道を通る様になり、"道踏み"もなくなり大変楽になった。

現在は、排土板の付いたブルトーザーで往復雪掻きをすれば、綺麗に片づいてしまう。大雪の時など一日2~3回もブルトーザーでやられると、道付の家では大変である。入り口の雪を漸く片付けたと思う間もなく、二~三時間も経つと又入り口に山のような雪を置いて行くので目も当てられない。

今思う事は、冬の雪の無いところで住み、雪が消えたなら、又戻って来られるような生活をしてみたいなあ、等とつい思ってしまう。しかし又雪を活用して何か出来ないものか等と考えながら筆を擱くこととする。

匿名、犯罪、そしてイメージ

長野教室 村田俊雄

文字通りの世紀末、一九九九年はどんな一年になるのだろうか。相変わらず景気は悪く、生活は苦しい。とりわけ高齢化時代を迎えて、お年寄りや年金生活者にとって冬の時代は長く厳しく、とにかく腹立たしいことが多いのも事実。こうしたなかで、とりわけ犯罪などによる理不尽な人の死には激しい怒りを覚えるし、友人知人の訃報は悲しい。

七月に和歌山市で起きた毒入りカレー事件は、なんともやりきれない犯罪だ。新興住宅街のコミュニティ活動の中で、なぜあのような陰惨な事件が発声したのか。保険金詐欺事件とのかかわりの中で、同じ地域に住む主婦が起訴されて、一応事件に決着がついているが、この事件の後遺症ともいうべき、類似の毒物混入事件が全国的に発生、多くは未解決のままだ。特に須坂市内のスーパーでの毒入りウーロン缶では、買って飲んだ人が死亡している。こうした事件では、なぜ真似をする犯罪者が出てくるのだろう。以前にも自販機での毒入りコーラ事件のあと、類似の事件が相次いだし、列車などでの爆弾事件というと、「爆弾を仕掛けた」といった電話がきたりする。それだけではない。何らかの事件にかかわったりすると、加害者(家族も含めて)だけでなく、被害者側にも、嫌がらせや脅迫めいた電話、手紙の類が集中することが多いという。時には投石、汚物やペンキなどの投入といったことまで起きる。

一般人、ごく普通の庶民、といった人の、匿名に隠れた陰険な行為というべきか。本番の事件以上に、その後に発生するこの匿名による,犯罪行為。には腹が立つことがある。

そこで思い出すのは、ひところ周期的に流行した「幸福の手紙」と称するものだ。これはある日突然送られてくる。ハガキにゴチャゴチャ書かれ、最後に「これと同じ手紙を一週間(十日)以内に十通出さないと、あなたは不幸になります」といったことが記されているのが共通しているようだ。むろん差出人など書かれていない。さて、こんなものを貰った人はどうするか。ハナで笑って破り捨てる人も多いだろうが、中にはやはり気持が悪いから―と、友人知人の誰かやら、電話帳その他色々な名簿から引っ張り出した人に同様の手紙を書く人もいる。そうしてネズミ算式に拡がることになる。

私自身はこんなものをもらったことはないのだが、北関東のある市にいた時に知人から「こんなものが来た」と、見せられたことがある。知人は相談というよりも、ニュースのネタを提供してくれたのだと思うが、私はその禍禍しいハガキを写真に撮り、「陰湿な匿名犯罪」といったテーマーでコラムに書いた。その後三、四人から「同じようなハガキが来たが破り捨てた」という電話をもらって、この手紙はこの辺で終結したと思い、ほっとしたことを覚えている。

だが、最近発覚したソルトレークシティー五輪買収疑惑に絡み、長野五輪招致委員会も取り沙汰されてきて、ふと疑問を感じた。例の招致騒ぎの中で、IOC委員に対する種々の攻勢は、関係者にとっては公然の秘密で、私も運動部記者等から吐き出すような口調で批判を聞いたものだ。そして市民団体等から招致委の二十数億円という金(税金)の使途を追及された県や長野市などは、予算関係の書類などすでに廃棄処分にしている、ということで、そうした疑惑はすべて闇の中だ。でたらめな使途を隠蔽するために、意図的に焼却したとする見方も出てきている。ソルトレークシティー五輪買収疑惑はFBIも操作に乗り出し、IOC委員が辞任したりして大問題に発展している。このからみで長野五輪がどんな形で出てくるか、今の時点でははっきりしないが、ただ貴重な税金を使った招致委の行為について、『くさいものにふた。式にその記録や証拠をさっさと廃棄処分にしたやり方は、わからないように、知られないように、秘密に、という,匿名犯罪.と同一線上に、同じレベルの精神構造から発生しているように思えてならない。

こうしたことを考えていると、やはり情報公開ということが大切だと思う。例えば国民の生活とか環境とかにかかわる問題になると、国や地方自治体だけでなく、団体や企業等も隠し事が多くなる。原子炉問題でとんでもない嘘をついたりして事業所本体が組織変えした事業団のことなど、記憶に新しい。とりわけ原子力発電とか原子炉などの事になると、秘密の壁が如何に厚いことか、そうした施設の集中する地域では、今も変わっていないと思う。

長野県の情報公開度は、全国的には中位のようだ。企庁の出している、あの馬鹿馬鹿しい「豊かさ指標」(新国民生活指標)だと、結構いいところへ位置づけられているが、これは甲信越地方が北陸と同じように評価されるためらしい。だが、長野の評価も例えば「働く」などでは、五輪投資のピークが過ぎてからは低くなってきたし、総合点でもジリ貧気味だ。いずれにせよ、こうした指標を経企庁も見直すと言っているし、そう気にすることもないことと思う。だが、豊かな自然と先人が培ってきた信州のイメージは、やはり大切に引き継いでいきたいものだ。 (一九九九年一月記)

私は何故喉頭摘出する羽目になったのか?

長野教室 井出義祐

私は生来声には多少自信があり、特に俗曲『佐渡おけさ』等は好きな唄で気分に乗せられ唄ったものでした。お歳で現役もおわり、第二の勤めも後2年となった昭和61年の春、声がかすれはじめ診断結果は、右喉頭腫瘍と言う事で、取り敢えず「コバルト」施術を受け、担当先生のお世話になり、治療に因る激しい痛みもとれ綺麗な声に戻って退院できました。しかし2年後に再び声がかすれはじめ、咽頭摘出止むなしと言う事で、そのショックは大きく手術日の朝0度という発熱により、2週間も遅滞させるようなハプニングを経てから漸く摘出され、手術は成功したのですが、皮膚の患部回復に手間取り、ついに形成の先生に食道一部再建を含む再手術のお世話になったが、それまでの苦悶は想像以上で、走馬灯の如くに種々の思い出が脳裏を去来し、もうこれですべての終わりか?等と思ったりした。しかし先生は「必ず完全に治癒します。もうひと踏ん張りですな」と、強い自信に満ちたこの言葉は、さまに地獄に仏であり、生涯忘れる事の出来ない力強い言葉と共に、執刀いただき起死回生したのでした。

私はそれまで喉頭摘出した人を見たことも無いし、又食道発声の人とも出会った事がない無関心な者でした。しかし、今考えるとその昔昭和30年頃、上司のA様が退職される頃『喉に毛が生えたので云々』として長欠のまま退職され、暫くして他界されましたが、今考えますと喉頭腫瘍では無かったのかなあ?と思い出されます。私はこの手術の年(昭和63年)の1月4日、現在整形外科病棟の渡邉婦長様に発声教室に導かれ参加し、鈴木さん・義家さん各先輩方のご指導のもと食道発声に取組み、多少喋れるようになりました。しかし又2年後に今度は口蓋垂切除を行う事となり、結果は食道発声は到底無理でしょう、という中、担当先生の特殊手術により、空気が鼻に逃げなくなり、どうやら喋れる状態になって今日に至っておる次第です。私はつくづく考えました。一体何が原因で喉頭摘出をするような羽目になったのかなぁ?、やはり現役時代のC02関係であったのかなぁ?等とその時は思いました。

私の現役は国鉄のSL乗務でした。昭和1年から戦前戦中、戦後の信越線・篠ノ井線等が完全電化するまでの約3年余り乗務の繰り返しでした。(この間兵役は約2年)特に戦後の燃料不足の中にあって、石炭不足に伴う列車の運転休止があったなら、他に乗物が無い当時の事ですから、『国民に大混乱が発生するか否かは国の動脈を預かる機関士の双肩にあり、決して汽車は止めるな』を合言葉に、満身創痍のSLと共に走り抜き、戦災復興の一翼を担って参りました。勿論北海道の炭鉱へ石炭採掘に派遣され苦労された仲間も大勢おりました。

しかしご承知のように篠ノ井線の上り列車姥捨~冠着間の冠着トンネル(二六五六m)の上り勾配、そして下り列車明科~西条間の第2白坂トンネル(二0九四m)の上り勾配は何れもトンネル距離が長く、しかも千分の25と言う最急勾配です。重量貨物列車をD51機関車1台で貨物三三0トン余り牽引し、空転防止のために動輪とレール間に砂を吹きつけ撒き散らしながら、喘ぎ喘ぎ這い上がります。従って空転も発生します。煙突から出る排煙は容赦無く運転室内いっぱいに入りこんで来ます。高温の摂氏80度を超える排気ガス(CO2)には、酸素は皆無なので呼吸が出来ません。マスクを着用していても関係無いです。よって石炭掬い口のこれから投ずる石炭の中に、機関士・機関助士は交互に顔を突っ込んで、石炭と石炭の中の僅かな隙間の空気を吸い込みながら、運転を続けたのですが、今考えると、『よくもまあ、あの様な事ができたものだなあ』とつくづく思います。戦後の物資のない時ですから酸素ボンベ等は勿論ありません。次の駅に到着してから、深呼吸を繰り返しているうちに漸く正常状態に戻ったのでありました。

そのように篠ノ井線を運転する時には、常にCO2が長年にわたり喉元を通過したのは事実でありました。しかしながら、同じ仕事をしてきたにも係わらず、健康な方も居ることを思えば、自らの体質のせいであろうか?折角生き永らえた生命ですので、今後は精々保健に留意し、教室の会員皆様方と共に楽しくそして愉快に発声訓練に努力して参りたいと考えます。 (平成十一年二月記)

平成苦年六十五歳の秋

長野教室 宇野女健

平成九年八月七日は暑い日であった。女房と娘に執拗に騒がれて、厚生連篠ノ井病院へ行く。たまたま義弟の嫁が看護婦さんで勤務していたので予約が出来ていた。「耳鼻咽喉科の診察を」と言われ、此処に来てからには診察を受けない訳にもいかず覚悟を決める。不安がよぎる。汗がジワジワと沸いてきた。外来の看護婦さんが、「コップの水で時間をかけて、うがいをするように」と言われて観念する。問診の後、内視鏡で......ゲーゲーの連発であった。先生の言う事には、「当院では......との事で、他の病院へ紹介状を書くから、すぐに行くように電話もしておきますから」と親切丁寧に説明して戴き、感謝と言うのか?何か複雑な気持ちで、自分で決めなくてはいけないが?仕事の予定もあるし、このままでも......と思い気持ちで複雑に悩み、誤診だってあるんだから?と願い、八月十一日に長野市民病院に行く。先生から「入院して精密検査を......」と言われ、やっぱり駄目かと身体の力が一度に抜ける思いであった。「早い方が良い。十五日にどうか?」と言われるも、仕事の段取りもあるし、ゴルフの日程もあるし、まあ色々とあったが、取り巻きの者が心配してくれて、入院は二十五日の大安吉日と決まった。

入院後の検査の結果は、放射線治療で二十五回行う事となり、その間週末は外泊しては仕事の打合せをして、何とか放射線治療の二十五回が終了したが、結果はやはり喉頭摘出する事になってしまい、毎日々々が不安でたまらず、この六十五年間不自由無く過ごして来たが、これから声を失う事となれば、腕の1本?、足の片方位い?と、手術をやめるか・やるか?と決めるまでが何日も家の庭を見ながらボッーとしていた。後何年で声が出る様になるのか?或いはこのまま声が出なくなり、そまれでか?と悩んで悩んで、家族と取り巻きに早くやった方がいいと勧められ、漸く先生にお願いしたのであった。

苦年十月二十二日摘出手術を受ける。手術前説明で、「術後は食道発声で声が出るようになるよ」と聞かされるも、その時は何だ何だか、チンプンカンプンで、術後の苦しみも、悲しみも、喉頭摘出者だけが知るところであると思うが、寝たきりで書いて話をするもどかしさ?布団をかぶり涙を流した日々。取り巻きが来てくれて、前垂れを取って気管孔を見て、『暫くすると孔は塞がるのでしょう?』等と慰めて貰い、返す言葉も無い日々であった。

自分は一日も早く退院して食道発声をと思っていた。ある日先生がビデオを持って来てくれて、初めて見る発声練習の様子を、看護婦さんと見た。今の長野日赤教室と変わらぬ映像であった。そして苦年の十二月十二日の入会の前夜、明日はいよいよ入会をするんだと思うと、不安と声の出る期待感で夜が長く感じられた。女房と娘の三人で長野日赤の4階発声教室を訪れ、直ちに入会手続をして、会長さんから会員皆様方に紹介をして戴き、仲間入りが出来てほっとしたが、慌ただしい年末であった。気分の晴れぬ正月を迎えるも、苦年が過ぎて新しい年になったので、やがては光明が指すのではないかと思う日もあって、夜中でも目が醒めると、アアアとやる。

しかしそれは未だ声にならず、複式呼吸の練習をする。空気を吸って声を出そうとしても音にならず、出るのは涙と、女房がびっくりする程の下腹のガスの音だけだ。

入会後約一ヶ月、『アー』でもなく『ガァ』ともつかぬ声が出た。頑張れ頑張れと己にハッパをかける。たまたま二月と三月は、世紀のオリンピック祭典のための交通渋滞緩和協力で休みが多く自宅訓練で経過した。

三月二十日発声教室へ出席し、先輩そして同じ仲間と顔が会うのが久し振り、近況やら練習の成果は、等と何とかかんとか、話ができた嬉しさで一杯、又来週会える楽しみがお互いに出来てきて楽しくなって来た。

お蔭様で信鈴会の行事に参加する事が楽しく、又南信東信と広く先輩方々のお話を聞かせて頂けるので、発声練習の効果もあると思う。昨年は日喉連東ブロック発声指導員養成研修会に、一般会員のオブザーバーとして参加させて戴いたが、この人達も同じ喉摘者なのか?と驚いた次第であった。十月一日午前八時半から十時迄の信鈴会会長さんと松本教室の指導員さんにより、模範指導のモデルによるデモンストレーションの見学。続いて十時からのパネル・デスカッションで、初心者から上級者指導までの実際を、五人のパネラーの方がタクト持っての講義で、持ち時間をフルに使っての熱弁に感動して聞.いていたが、指導する方の熱意と気迫がひしひしと感じられた。

これらの感想は?と言われると、凄いの一言である。「こんな様に話が出来たらいいねぇ!」と先輩西山寛夫さんと顔を見合わせるばかり、本当に素晴らしかった。小雨の浅間温泉を後にしながら、,健康でいる今の喜びを何時までも、と願い、又会員皆様の万福を祈りながら帰途についた。 (平成十一年二月十九日記)

雑感

長野教室 柿崎庸三

○こんにちはあいさつ受けるも返事出ず (補声器忘れた)

○食べられるつもりで食べたが、食べられず (胃を切除)

○年金も先の見通し暗くなる

○政界も子分にゆずった自民党

○プロ野球大騒ぎする松坂君

○北朝鮮、天気のいいのはテポドンだ

○サマランチおのれの錆びを人に着せ

○知事市長うまく逃げたよ灰の中

○どうなった灰になったよ二十億

病床吟

長野教室 田原博

〇ヒューヒューとのど笛鳴らして目覚めをり喉摘吾は朝毎に啼く

○新しき生命と思わん作られし気管孔もて息する吾は

○人工の器管作りて生き続く七十五年の命いとしむ

○筆談で答え筆談で問うことに慣れゆくものと今日も過ぎゆく

○食道発声の日を夢見つつ今はただ筆談のみがコミュニケーション

○もの言わぬひとり暮らしの果てにしてもの言えずなりし事の可笑しさ

信鈴会草津の旅

佐久教室 佐藤武男

10月8~9日の草津温泉一泊の旅は、佐久が当番。何しろ小さい教室なので心配でしたが、他教室の皆様の応援を得、何とか無事に終えて世話係の一員としてホッとしました。

当初三十名位を目安として計画したのですが、十八名位ということで、大型バスを中型に変えました。その後四名の追加参加をいただき、二十二名となりました。中型なのでバスガイドも付かず、色々ご不満もあった事と思います。又旅行日の設定を日月としましたが、日曜日は旅行者が多くて、小布施の竹風堂での昼食予定が、通りの大混雑で栗おこわ弁当を車内に持ち込んでの昼食となってしまいました。又月曜日は病院の一番多忙な日なので、看護婦さんの参加も得られずこれも失敗でした。

見学箇所については、会員の方には相当お年寄りの方が多いので歩く距離の長いのは無理で、野猿公園は選択ミスでした。対岸の駐車場まで車が入るので其処からは近いと思っていたら、其処は乗用車のみで、バスの乗り入れのできない事は知らなかったのです。更に白根山も失敗でした。野猿公園で歩き疲れた上に、白根の展望台まで登ることは無理ですし、十月末は寒くて特に午後四時近くは外を歩く気になりません。旅は従来通り九月末から十月始めまでとすべきと思いました。

しかし怪我の功名と申しますか、予定時刻より相当早くホテル東急に到着、当初宴会は午後七時位になるのでそれでは遅すぎると心配していたのが、六時開宴となりました。ホテルでは発声不自由な客であることを知らなくて、マイクの準備も無かったので、早速カラオケの準備をして貰いもして、皮切りに拙作信鈴会草津旅をドンパン節で唄いました。日本で初めて開発された発声器のユアトーンのカラオケを使ってのものでしたが、未だこの電器に慣れていなかったのと、マイクの調子が良くなくて、下手なものでした。

然しその後次から次へと皆さんが唄って下さって大変盛り上がった宴となりました。

拙作の歌詞は次のものですが、ご笑覧下さい。

恋の病にゃ 程遠いが

酒の量では 負けはせぬ

唄い踊って 盛り上げろ

信鈴会の 草津旅

宴会で私の横の席の、諏訪教室から唯一の参加者である守屋さんが、一番若いのに殆ど呑み食いをされないので「どんどん呑みなさいよ」と言ったら、「食べものが入ると良い発声ができないから」と言われました。カラオケに自慢の声を披露する予定だなと、その意気込みに感心致しました。田中会長さんも会を盛り上げんと、何曲か唄われ、長野教室の柿崎庸三さんは、ドイツ製の発声器を使って唄われましたが、歌唱力の素晴らしいのに皆驚嘆しました。佐久では、佐藤常尾さんと油井さんが仲居さんとデュエットで何曲か唄い、そのあと小林五月さんの日本舞踊で宴の雰囲気は最高潮に達しました。

午後八時がカラオケの最終で、その近くになり、若いからと遠慮していた守屋一次さんが唄われました。お若いことと、努力されたためでしょうか、実に発声は素晴らしく、唄が上手いと盛大な拍手でした。さすが飲み喰いを我慢された甲斐があったと大変嬉しく思いました。

参加者の中で最長老の長野教室の義家さんも軍歌を披露されて、雙鑠振りに驚嘆致しました。又私の妻は義家さんからプロテクターについて、色々ご教示を戴いたと感謝していました。

宴も終わり、部屋で寛いでいたところ、小松先生(佐久病院耳鼻咽喉科医長)のポケベルが鳴り、入院中の患者が危篤とのことで、慌てて帰院されました。医者と言う仕事は大変だなあ『医者の不養生』と言うけれど、これでは止むを得ないと痛感致しました。

翌日は町営の鬼押し出し、西部の鬼押し出し、白糸の滝と回り、小諸の茸園で昼食後、一路帰りのバスとなりました。佐久の近くに来て、田中会長のご挨拶、続いて次回の当番として、長野の義家さんが挨拶されて佐久病院に到着しました。私たち佐久教室の会員と家族は此処で降車し、皆様にお別れしました。

田中会長様はじめ皆々様のお力添えで、曲がりなりにも旅行が無事終えましたことを感謝致しております。

例によって、何時もの拙い川柳もどきを記し、駄文を終わりとします。

茸園にて

雑きのこばかり出てきた茸園

野猿公園

湯煙に猿はノンビリこちらヘトヘト

白根山

寒くっておかまなんかはしらねえよ

宴会

五月さん年をば見せぬ裾さばき

(平成十一年三月記)

平成14年刊 第27・28・29合併号

巻頭言

会長 田中清

「歳月は人を待たず」月日の経つのは早いもので、長野県信鈴会が昭和四十四年一月二十三日当時の鈴木教授、今野婦長さん等の御指導のもと信大教授であられた石村先生が会長になられ創立されました。翌四十五年に日本喉摘者団体連合会が創立され、信鈴会代表として八年間東に西に活躍されたのが島成光さんでした。創立当時の発声方法は殆どがタピヤでしたが、昭和二十九年頃食道発声法を会得し、東京銀鈴会で指導された中村名誉会長のもとへ長野教室の鈴木ふささん等数名の方が指導を受けに行かれ、信鈴会も食道発声の傾向になりました。昭和五十四年信鈴会会長に鳥羽源二さんがなられまして平成五年まで日喉連の役員と共に十四年間は大偉業だったと思っています。その間長野では鈴木さん・義家さん、松本では大橋さん・小林さん、伊那では桑原さん・山下さん、佐久では三瓶さん等が役員として指導員として活躍されました。

時代はかわり平成五年七月から各役員の希望により私が六代目の会長に推挙され、日喉連の役員も同時に引き受けることになりました。先ず信鈴会をこれからどうしようかと考えました。新しく施行したことは次のとおりです。

一、会則の白紙改正

一、信鈴会基金の充実

一、歩みの箱の実施

一、指導員の研修参加と質の向上

一、会員の現況整理

一、諏訪教室の新設

一、各教室参加者の増加対策

この中で諏訪教室の新設時は新聞社がこのような教室が初めてできたものと思って大々的に新聞に出たのには今でも驚いている。日赤の関係者会員等を入れて約二十数名の教室であった。平成十年に食道発声指導員研修会を松本浅間温泉教職員センターで実施した。東日本ブロックの主催であるが、信鈴会の三十周年イベントとして開催県になったもので、松本市長に御出席いただき、県障害課補佐と信大田口教授の講話を受けた。十二年からは全日本食道発声コンテストの予選会が研修会と併行して行われ松本教室・飯田、諏訪教室・守屋の両氏が出場したが予選通過がならなかった。十四年度には長野・直江、松本・上条の両氏が出場し、直江氏が予選六位で本選へ出場したが決勝で入賞できなかったのは残念であった。

今後の課題は皆が会話できる教室にすることが大切である。それには指導員は先ずオリエンテーリングをしっかり初心者にして気楽な気分で勉強することが大切である。各教室の指導員の皆様御願いしつつ、擱筆します。

続 私の読書遍歴 「死」と「老い」をめぐって

信大名誉教授 鈴木篤郎

私は以前「私の読書遍歴」と題するエッセイを書いたことがある(教室年報第四二輯、一九九二、拙著「四季の眺め、一九九八」にも採録、以下「前報」と略称)。

そのなかで私は、中年以後の自分の読書趣味の変遷について触れ、四十代の後半から、読書の興味がフィクションからノンフィクションへ急旋回したことを述べた。小説を全く読まなくなったわけではなかったが、小説を読んでもその多くは歴史上の人物を主題にしたいわゆる伝記小説で、ある人物の生きざまを追求したものであった。

この急旋回について私は、「人は誰でも四十代の半ば頃に人生の峠にさしかかり、そこから眺めた遥か彼方の道の先に、自己の終着駅(死)のあるのを、初めて実感する」と書いたが、今考えても、「生きることと死ぬこと」を、自己の問題として関心を持ちだしたのは、その頃からだったような気がする。

しかしその当時は、死を正面きって論ずることは、まだタブーとされていたらしく、出版されたものも、その多くはガンで死亡した人の魂の遍歴を綴った闘病記や、故人への追悼記に類するもので、いわば死を側面から描いたものであった。

私の書棚には、その頃読んだガン患者の闘病記が何冊か並べてあるが、そのなかで今も深く心に残っているのは、東大教授で宗教学者であった岸本英夫博士の「死を見つめる心」(講談社、一九六四年八月第一刷)である。この本は、著者が自己のガンと対峙した十年間に書かれた「死」に関する論説を中心にまとめられたもので、たんなる闘病記にはみられない重い内容から受けた感動は今も忘れがたい。

「死」をテーマにした本に最初に触れたのは、実はそれより十年も前のことで、その表題と著者名にひかれて偶然手にしたものである。それはジョン・ガンサーの著わした「死よ驕るなかれ」(岩波新書、一九五〇年七月発行)という本で、この本を何時買って読んだのか正確には覚えていないが、何しろ四十前のまだ若々しい時代であったことには間違いない。この本の内容について、私は前報でこう書いている。

「著者のジョン・ガンサーは、アメリカの著名なジャーナリストで、戦前から戦中、戦後にかけて、世界的視野からの『内幕』ものを次々と発表し、センセーションを巻き起こした人である。しかし、この本はその類ではなく、脳腫瘍のためわずか十七歳で命を閉じた最愛の息子ジョン・ガンサー・ジュニア(愛称ジョニー)の闘病と、彼への鎮魂の書である」

書棚の一隅に眠っているこの本を引き出して拾い読みをしてみると、闘病の日々のジョニーの姿が活写されていて、非常に面白い。しかし、当時私がこの本を読んだのは、「人の死」を意識してのことではなく、ただそれが面白そうな読み物だったからであろう。その証拠には、心引かれる文章の傍らには必ず引かれていた筈の鉛筆書きの傍線が、この本には一ヶ所もない。

一九七五年の秋、六一歳の私は、一冊の本に遭遇して強烈なショックを受けた。それはエリザベス・キューブラー・ロスの書「死ぬ瞬間」(川口正吉訳、読売新聞社、一九七一年初刷、一九七五年第二三刷)であった。私にとって、「死」を真っ正面から見据えて取り組んだ本に遭遇したのは、これが最初であった。私が買い求めた時すでに十万部以上売れていたというから、かなり評判になっていたものと見える。この本に対する私の前報の記載はこうだ。

「私が驚愕したのは、ごくありふれた平均的な人間が、自分が末期のガンであると告げられ、最初は否認、怒り、取り引き、抑鬱の時期を経るけれども、やがて運命を受容する時期が必ずやってきて、彼女のインタビューに応じた殆どすべての患者が、静かで、解脫的な死を迎えたという信じがたい事実を、ひとつの実証的データとして発表している点であった。私はこの本を読んで、まず激しいショックを受け、次に新しい視野が開かれたような気がし、そして最後に、読むのが遅すぎたと後悔した。」

キューブラー・ロスのこの本に触発されてか、それとも時代の気運がそうさせたのか、その頃からわが国でも死に対する関心が急激に高まってきて、死をテーマとした本も、それまで主流であったガン患者の闘病記以外に、生命倫理、安楽死(尊厳死)、死の準備教育など、「死」を正面から取り上げた本も続々と刊行された。人間の「生と死」を考える会が各地に組織されはじめたのもこの頃である。

一方、医療の方面でも、死の臨床、終末医療、ホスピス運動などへの関心の高まりから、それらに関する本が多数出版され、実際にホスピスを建設しようとする気運も生まれていた。私はこれらの本を次々に買ってきては熱心に読んだ。乱読したといってもよい。読み出したころは、私はまだ大学の現役だったので、末期ガン患者の診療に役立てようとする意図があったようだったが、間もなく退官して医療の現場から離れたこともあって、いつの間にか、末期患者のケアということから、「死」を自分自身の「死」という立場で考えるようになっていったらしい。

私の日記帳には、巻末に読書欄を設けてある。そこには、その年に読んだ本の、読み始め~読了の日付、著者名、表題、発行所名が記載されてあるので、私が何時どんな本を読んだかは、これを見れば一目瞭然である。

この欄を設けたのは一九八七年で、それから現在まで続いているが、この欄を利用してちょっとした計算をやってみた。まず、今から十年前の一九八七年から八九年までの三年間では、読書数は計八三冊、その内「死」に関する本は二五冊で、全体の三分の一弱を占めており、死に対する私の関心がその頃まではまだまだ高く保持されていたことが分かる。しかしその間老いに関する本はまだわずか三冊しか読んでいない。これは私がその当時まだ自分の老いを感じていなかったためであろう。

これに対し、九七年から九九年十月までの、最近の約三年間では、まず読書数が計一四三冊と十年前の倍ちかくに伸びてるのが目に付くが、これは自の高齢化に伴って余暇がふえ、読書時間が増加したことが主因である。その中で「死」に関する本は二九冊と、全体の約二割で、割合は十年前にくらべてかなり減っている。それに反し、老いに関する本は二八冊と、十年前とは比較にならぬ程の増加ぶりである。これは明らかに、この十年の間に自分の老いを繰り返し実感したためであり、その分死への関心が多少薄れていったのかもしれない。

私が今一番関心を持っているのは、「高齢者福祉・介護」の問題である。十年前には、自分が老人になりつつあることは認識していたが、「福祉や介護」については、自分のこととしても、他人のことについても、全く関心がなく、一冊も読んだ気配がない。

私がこの問題に関心を持つようになったのは、一つのきっかけがあった。それは一昨年九月、家内と上京しての帰り、新宿駅前の書店に立ち寄った際に店の書棚で目についた一連の新書版である。

それは岡本祐三「高齢者医療と福祉」(岩波新書、一九九六年八月第一刷)、山井和則「世界の高齢者福祉」(岩波新書、一九九一年九月第一刷)、山井和則、斉藤弥生「日本の高齢者福祉」(岩波新書、一九九四年九月第一刷)、水野肇「医療・保険・福祉改革のヒント」(中公新書、一九九七年八月第一刷)などである。

これらの本は、買い求めてから何度も読み返し、その度に感動を新たにした。そのうちに、わが国の介護保険制度案も具体化され、専門的な解説書を近所の図書館から借りて読んだこともある。

たまたま先日(十一月十四日)の信毎朝刊で、「介護保険定着したドイツ」という記事を読んだ。ベルリン共同通信の報告によると、日本より一足早く一九九五年に始まったドイツの介護保険制度は、種々の課題を乗り越えて順調に経過し、今や不可欠の社会保障制度になっているということである。勿論ドイツと日本では、制度の細部には多くの相違があるが、順調に経過している先輩がいるということは、数カ月後に実施を迎える後続国日本にとっての、一つの朗報であるといってよいであろう。

(一九九九・十一・十八)

カナダの自然・日本の自然

信大名誉教授 田口喜一郎

平成十一年七月十日から一週間第十四回国際姿勢学会に出席した。カナダの一番よい所は自然が十分に残されているという点である。学会はウォータールーというところであり、そこにある大学が主催校になって行なわれた。ところでウォータールーはどこにあるか調べたところ、北米ではアメリカとカナダにあり、前者は地図にあるが、後者はない。インターネットで場所を示しているところは普通の地図にないのである。いろいろな地図を調べ、昔買ったライフの大きな世界地図帳によってトロントとナイアガラを一辺とする三角形の頂点に当るところに存在する町で、一般的にキッチナー・ウォータールー地区と呼ばれる広大な工場と農場地区であることが分かった。日本からは成田からジェット機でトロント国際空港まで行き、そこから学会場までは学会に申し込めば有料バスの便があるとのこと、取り敢えずそのバスを申し込んだ。トロント国際航空で聞くと、間もなくバスがくるから待てという。三十分程待つと、十人乗り位のマイクロバスがやってきて、約二時間ハイウエイから国道、県道そして最後は農道を通って目的とするホテル(ウォータールーイン)に着いた。キッチナー・ウォータールー間には電車

通っているが、駅はホテルから遠く、ウォータールーは松本市位の面積はあるが、何の公共交通機関もなく、バスでキッチナーへ行き、そこからタクシーに乗るか、レンタカーが必要という地域なのである。私は国際免許を取っていかなかったので、ホテルと学会の間(約五キロメートル)はホテルのシャトルバスを利用した。地図をみるとレストラン、スーパーなど何でもあるようにみえるが、すべて車で十分以上離れており、時恰も真夏、歩くにはとても耐えられない距離である。医局の佐々木修先生も留学先のパリから来たが、初日会場からホテルまで歩いたら一時間近くかかり、疲れてがっくりしてしまいったという。何しろ広大なのである。

そのような所に住むと人も極めて呑気になるらしく、学会に一番乗りするのは日本人ばかり、会場も準備がされていないので、心配し発表の原稿を読んでいるうちに揃って、大体時間通りに始まるという訳である。そのうち、慣れたら日本人もゆっくり出るようになり、最終日は終わりもぴったりということになった。考えてみると、日本の学界は時間厳守だが発表時間が短すぎ、一寸議論が長引くと時間オーバーになってしまう。演題を何でもかんでもという調子で詰込み、結局討論の少ない不消化なものになりやすい。今回最初のプログラムでは二題のシンポジウムに二時間ということであったので、その時間割で準備して行き、現地でプログラムをみたところ一題毎に二時間の割り当てで各々別会場が与えられることになっていることが分かったので、私たちの四人構成のシンポジウムでは皆いいたいことをいい、なお会場からの質問を受けても十分余裕があるということになった。考えてみれば相手の連絡ミスであるが、そんなことを余り気にしない大陸的気質が養われる場所であるといえないこともない。

学会の観光はナイアガラ瀑布であるが、折りしも観光シーズン、そこへもってきて集合が一時間も遅れ(勿論遅れの犯人は日本人以外)、またバスも全員揃うまでゆっくり待つという姿勢で、結局ナイアガラでは時間がなくなり、楽しみにしていた滝壷の下に入るツア(これも一時間待ち)、観光船「霧の乙女号」でカナダ滝を下から眺める計画も駄目になり、夜十時過ぎ疲れ果てて帰還となった。

最終日はトロント泊ということにして学会終了後直ちにトロントに行き、昔住んだラッシュローム道路三二三番地のアパートを訪ねた。周囲は開発により変わっていたが、トロント大学の研究所に通った地下鉄のオッシングトン駅と共に懐かしい風物はそのまま残されていた。アパート近くの雑貨屋は三十年前の昔と同じく、菓子、果物、小物を雑然と並べ、教会も古びた蔭を落としていた。

クイーンズパークと議事堂、半弧型の二棟が特異な建造物をなす市役所、繁華街ヤングストリートなど、世界一高い展望台CNタワー以外昔と変わらぬ風景である。二年間住み、青春を研究に打ち込んだ都市は人口増は激しいが、基本的には何一つ変わっていないようにみえた。特に郊外の風景は、帰りの飛行機から眺めると、延々と続く畑と原野そして所々にみえる小さな集落、今や日本には求められない古きよき時代の武蔵野を空から眺めているような気分に浸った。

今や、わが国は、オゾン層の減少、放射線障害の恐怖、そして財政赤字(国家予算の四十四%も国債に依存)、一年後には銀行預金一千万円しか保証されない、高齢化社会で介護保険に期待できないのではないかなど多くの悩みを抱えている。こういったことを一々考えていたら頭が痛くなり、うっかりすると生きる望みも失う時代である。わが国にはカナダのような広大な自然はないが、幸い信州にはまだまだ素晴らしい自然があり、私共の心をそして魂を慰めてくれる。残された自然を守り、子孫にそれを残すことは私共の義務と考える。

先日黒姫高原に居を構えるCWニコルという方の講演を聴いた。ニコルさんはもともと南ウェール出身のケルト人であり、カナダ大使館勤務時の捕鯨を擁護し、日本文化を愛して現在は日本国籍を取得し、陶器を作り、作家、講演そして自然保護運動に活躍しておられる有名な方である。彼は真の祖国あるいは故郷というものは自分が長く住み、一番愛した所、すなわち日本であるといっている。日本の自然を守るために日本で稼いだ金で土地を買い、自然の中で動物と共に過ごす日々を送っておられる。外国の人さえ愛する価値のある自然、日本人が日本の自然のよさを知り、汚染されたり荒廃しないように維持することは私共の義務ではないでしょうか。

長野県の障害者福祉施策について

長野県社会部障害福祉課長 鈴木良知

日頃より信鈴会会員の皆様におかれましては、発声訓練や会員のそれぞれのニーズに応えた各種の事業を展開され、県の障害者福祉施策の推進にも多大の御協力をいただいておりますことに対しまして、深く敬意を表しますとともに感謝申し上げます。

さて、本格的な少子・高齢社会を迎える中で、介護保険制度への対応をはじめ、教育・就労・住宅・交通など生活関連分野との調整をとりつつ、保健・医療・福祉サービスの一層の充実を図り、誰もが住み慣れた家庭や地域で、健やかで生きがいを持ち、心豊かに生き生きと暮らすことができる福祉社会を築いていくことが重要な課題となっております。

このため、国におきましては、二十一世紀において国民の期待に応えることのできる社会福祉の共通的な基盤を整備することを目的とした社会福祉基礎構造改革を行うため、「措置から利用者の選択による利用制度への変更」、「身体障害者の相談支援事業、生活訓練事業等について社会福祉事業法の中での明文化」、「地方分権に伴う、県から市町村への権限委譲」等を内容とする社会福祉事業法等の法律改正を予定しており、障害者福祉制度は大きく変革されようとしております。

県といたしましては、平成九年に策定いたしました「長野県障害者計画―さわやか信州障害者プラン後期計画―」に基づきまして、リハビリテーションとノーマライゼーションの理念の定着を図りつつ、「障害が重くても地域で当たり前の生活ができる社会」づくりを基本理念として、障害のある人もない人も「一人ひとりが輝く社会」をめざして、障害者施策を推進しているところでございます。

今年度実施している主な事業といたしましては、介護保険制度の対象とならない若年障害者に対し、介護保険と遜色のないサービス提供ができる支援体制を整えるための事業、「障害者介護等支援サービス体制整備推進事業」を新たに実施しております。

また、障害者自らが相談に応じたり、社会資源を活用するための支援や情報提供を行う「身体障害者等自立生活支援センター」を新たに一か所整備し、合計三か所といたしております。

以下、この二事業について紹介いたします。

○障害者介護等支援サービス体制整備推進事業

一 目的 在宅の障害者に対し、その障害の程度に応じてサービスを総合的に利用することを支援する体制の整備や障害者介護等支援専門員の養成等を行い、障害者の自立と社会参加の促進を図る。

二 実施主体 県(市町村へ委託して行う。)

三 利用対象者 在宅の六十五才未満の障害者(各障害二十名程度)

四 事業内容

(一)障害者介護等支援専門員の養成(事業を委託する市において、各障害五名程度)

(二)支援事業の実施

①障害者のニーズ把握

②障害者ケア計画の作成

③サービスの提供依頼・調整

④事後評価

五 委託先 上田市(市は、施設に再委託) 再委託先 身体障害者...上田しいのみ園、知的障害者...宝池慈光園

六 職員配置

①常勤障害者介護等支援専門員(ケアマネージャー)一名(各障害)

②非常勤障害者介護等支援専門員(ケアマネージャー)四名(各障害)

○身体障害者等自立生活支援センター運営事業

一 目的 在宅の身体障害者に対し、社会生活力を高めるための支援や相談援助等を総合的に行うことにより、身体障害者

等の自立と社会参加の促進を図る。

二 実施主体市町村(障害者団体へ委託して行う。)

三 利用対象者 地域で自立生活を営もうとする身体障害者及びその家族

四 事業内容

(一)ソーシャルワーカー等による自立生活講座(家事管理・社会体験等)の開催

(ニ)ピアカウンセリング(障害者がカウンセラーとなって、経験に基づき行う個別的相談援助)

(三)市町村など行政機関との連絡調整

(四)職員配置

①常勤職員 (一名専従)障害者の相談・援助業務経験のあるソーシャルワーカー

②非常勤職員 障害者スタッフ、ピアカウンセラー等

五 実施市町村 上田市・長野市・松本市

六 整備計画 平成十三年度末 五か所

以上のとおり障害のある方の地域での生活を支援することを主眼とした事業を紹介いたしましたが、引き続き、障害のある方が地域で当たり前に暮らしていける社会づくりをめざし、「長野県障害者計画」の昔実な推進に努めるとともに、施策の一層の充実に取り組んでまいります。

さて、平成十年四月にオープンいたしました「長野県障害者福祉センター(サンアップル)」は、予想を上回るご利用をいただきまして、平成十一年末には利用者数が二十万人を突破したところでございます。これは、平成十年に開催されました「長野パラリンピック冬季競技大会」を契機に、障害者自身の社会参加意欲が高まってきていることのあらわれだと感じております。

今後もなお一層、この施設が、障害者のスポーツ・文化活動や情報拠点施設として、積極的に活用されることを期待しているところでございます。

最後に、長野県信鈴会の益々の御発展と、会員の皆様方の御健康を祈念申し上げます。

新年を迎えて

諏訪日赤 牛山洋子

二〇〇〇年を迎え、何やらすべてが変っていく年のように思えます。○が三つも並ぶ年は千年に一回だけ、ゼロから出発する年、又丸が三つ重なるよい年というようにもとれます。さらに二〇世紀最後の年、まさに世紀末、二十一世紀に向けての準備の年、いろいろの意味をもつ二○○○年。こうして、同時代に生を受け、世紀をまたいで生きる私たち、何かしらふしぎな縁を感じます。どんなに生きても一○○年、自分の意志でこの時を選んだわけでもないのい、みんな一緒の世に生きている。関係ないなんて思えない。この頃DNAが徐々に明らかになり、今まで想像もできなかった沢山の情報が各々の細胞の中に組み込まれていることが分かってきました。六十兆という細胞一つ一つに数億の情報をもっているといわれる私たちの身体、私たちの意識よりもっともっと深いところでの約束や経験から、今日の出会いになっているのでしょう。考えれば考えるほど、不思議で未知なるすべての現象、出会い、経験。それが単発ではなく皆つながっている。影響し合っている。生きとし生きた何千年何万年のすべての情報としてDNAがもっているといわれる。又、生きている間の情報も落さず拾い整理しているとのこと。そして今ある情報のもとに胎児の成長が始まる。そして常にDNAはその力を発揮しながら、新たな情報を得てゆく。こんなふうに考えてくると、私たちの今の一時一時が大へん重要で、みんな大切な情報として後世へ受け継がれてゆく...。すごい!よくは解らないけれど、少しは分かります。そして「今」が自分ばかりでなく、子孫にとっても大切だということがわかります。

そこで、原点にもどり、欲得の基準ではなく、すべてを動かす天の法則、人間としての役割を全うできるよう、学んでいきたいと思います。今年の末には丸を三つ自分に与えることができる生き方をしたいと思います。

食道発声教室に参加して

伊那中央総合病院看護婦 伊藤嘉夜子

私が初めて食道発声教室に参加させていただいたのは今から十六年程前でした。

突然耳鼻科外来勤務となり、総婦長より信鈴会の方にも参加するように言われました。食道発声とはどんな発声なのか、会話が聞き取れなかったらどうしようなど、経験不足の私は不安でいっぱいでした。十数名の方たちが、明るい和やかな雰囲気で発声練習をされており、指導者の一人の方は私の父と、以前職場で同僚だったとのこと、とても懐かしく他人とは思えなく嬉しかったことを思い出します。

三年前より耳鼻科病棟勤務となり、信鈴会に参加させていただいています。桑原さん、山下さんをはじめ皆様のハツラツとした姿を見るにつけ私が励まされております。

病棟勤務となり感じたことは、入院され放射線治療を受け、咽頭摘出術を受けるまでの心の葛藤、手術後の精神的身体的苦痛、声を失い意志の伝わらないもどかしさ、食道発声の習得と困難を乗り越えてこられた皆様には強い精神力を感じます。また御家族の方の愛情ある看護、支えがあったからこそと思います。

信鈴会の皆様のお互いの励まし、思いやり、強いきずなをみるにつけ、私も相手を思いやる気持ちを教えられました。

皆さん、何時までも、お元気で発声訓練がんばって下さい。 (平成十一年十二月記)

ふたたび失声、多屁を??

坪井冽

私は、何年か前に、本誌に、「失声、多屈」と云う一文を投稿した。喉摘手術後十二年、かつて術後二年位の頃「日喉連」誌にあった記事の体験記を読み自分の状態に比べて多くのうなづけることが有り、力づけられたことを記憶している。そこでこの十二年弱の経験を述ベ少しでも参考になればと思いペンをとった。前の投稿でも書いたが、声を失い、発声教室の御世話になって、食道発声を習い、いくらか声らしきものが出るようになった。その頃からガス(放屁)が多くなった。理論的な説明は全然無知だが奇妙にガスが良く出る。夜など隣にねている妻は、夜中に大きな音に目を覚ます事がしばしば有ると、苦情を云う始末。然し奇妙な事にあまり臭わないのがせめてもの救いだと云う。

食道発声による吸気の一部が胃腸にたまりガスになるのかなあーと思ったりした。これの解明は医師の先生方にお願いするより仕方のない事と思う。

また会話ではいまだに「ハ行」「パ行」はどうしても相手にうまく通じない。したがって回りくどくなっても「ハ行」「パ行」の十文字を使わないように心がける。

電話や、マイクを使用する時は、送話口を唇に当てるようにそばに寄せる、健常時代のくせで、ついつい離したままで話をすると、相手には全く通じなくて失敗する事が多いので充分注意することが大切ではないかと思う。

いままでの経験を思いつくままに書いたが、私もあと六ヶ月程で喜寿を迎える。六十三歳で手術して十二年。自信過剰なのかも知れないが、アルコール分はまだ人並以上にいけるし、歩く事も元気、ただ煙草だけは一日二十本位を半年前にピタリとやめた。当分は達者で、まだまだ長生きしたいもんだと思っている今日この頃です。 (一九九九年十二月記)

近頃思うこと

松本教室 上條和男

何が気に入らぬと云って自分の顔ほど気に入らぬものはない。六十年近く生きて来たけれど、鏡の前を通る時など自分の顔が写るのを見て耐えられないほどである。キムタクとは云わないがせめて寅さん位の温もりのある顔であってほしかった。そして又不覚にも四年前に喉に通気口まで開けてしまい、益々特長のある風貌になってしまった。風呂上がりに写る上半身はなるほど変わった体である。思いかえせば平成十年一月、自分の病気に対する不安と後悔を主治医にぶつけていました。ドクター曰く、「俺で気に入らなければ名医を紹介しよう、でもこの手術をしなければ君は助からないのだ。」痛いのと声を無くす、という不安で頭も心もしっかり狂っていたのでしょう。しかし一変、「先生マテーに切って下さい」と相成った次第です。さんざんの抵抗のあと、コロっと変わる心の葛藤がいかにも自分らしく人生への執着だったかもしれません。

マテーに切り取ってもらったかい有って二月下旬無事退院のはこびとなりました。その時ハタと強い不安に気が付いたのであります。プロ集団である病院内では保護されていても家庭内ではともかく、一歩外へ出れば世間はものすごく「こわい」ものだと思えてきたのです。ただただうろたえての退院でした。はたしてもの云えぬ自分がやっていけるのか。そして一ヶ月後、主治医に勧められた信大発声教室へ向かいました。そこには同病の先輩達が喋っていたではありませんか。田中会長、小林指導員、皆さんワイワイと語っていました。そして小チャな笑顔の素敵な今野さんが新米さんいらっしゃい、そんな感じで教室へ迎え入れてくれました。俺も頑張れば喋れるのかナー。やれば喋れる、もうその一念でヒマさえ有ればアーウー、練習すれば話ができる。

そういえば退院のおりに、主治医国立松本病院耳鼻科医長後藤医師は、「私もいろいろな患者を診てきたがあなたのような気性の人は絶対に喋れるようになる。」そう云ってはなむけの言葉で送り出してくれました。自分がどんな気性なのか今もってはっきり理解していませんが、それはとも角、ヒマさえあればアーウー、相手に伝わったかどうかは解らないけど、又同病の人達に気楽に話をする為に教室へ通いました。やっとその頃世間に対する不安が少しず柔らいでいくのを感じました。

失ったものを取り戻す為に無い者同志が分かち合いながらの練習です。もう喋れないからと過ごすのも人生でしょう。でもチョッとした事で(教室へ来てみる)女房殿へ自分の声で「苦労かけたナー」と云えたらなんと素晴らしい事だと思いませんか。

今小生新米の指導員になりましたが、自分が健常者で有った頃、障害を持った人達に対してあまりにも希薄な感情しか持ちえなかった過去の自分に気付き、この先の人生を少しでも充実して過ごすチャンスだろうと考えるようになりました。

医学の発達した現在に生かされてその恩恵に浴し、生かされている事に感謝しつつ、失ったものを取り戻しに教室へ来ませんか。

―術後満四年を迎えて―

私の病歴

長野教室 柿崎庸三

今ここで申し上げるのは、手術して入院した病気のみを書きますが、風邪などは省略します。先ず最初に入院したのは二十一歳の時虫垂炎になりました。これは皆様ご承知の通り大過なく一○日ばかりで退院しました。その後身体は誠に健康で五十七歳まで仕事に精をだしよく働き、身体の要求するままに飲み食いをして参りました。その生活がいけなかったか、どうかある日、急いで小走りに歩いて居ると、左胸が痛くなりました。そんな事を数回繰り返した後、病院へ行って診察して貰ったところ、多分狭心症ではないかとの診断でした。さてそれでは何処の病院が良いかと考えた結果(昭和六十三年)、岩槻の国立東長野病院が心臓病を得意としていると聞いていたので早速駆けつけ入院しました。そこでカテーテル検査の結果、冠状動脈の一本が九○%詰まっているとの結果がでました。後日PTCA(俗に風船)を行い一旦治ったのですが(約一〇日の入院)、三ヶ月後の検査の時に又最狭窄があるといわれ、またまた再度PTCAを行いました。そして又三ヶ月後検査をしました処こんどは完全に治っていると言われ、この病気から解放されました。その後平成五年頃腹が痛くなり更埴中央病院で診察して貰った処、胆嚢に石が何個かあると言われ取った方が良いよいということになり、思い切って手術する事にしました。そして胆嚢を摘出しました処十一個の石が出て来ました。このときは六日間の入院でした。その後健康になり普通に暮らして居りましたところ、平成八年九月に喉の奥がどうもおかしく食事がうまく飲み込めなくなってきました。そして更埴中央病院に行って看て貰ったが、治らないので、厚生連篠ノ井病院の耳鼻科へ行って看て貰っていましたがなかなか治りませんでしたので、また今度は長野日赤の耳鼻科へ行き診て貰ったところ、大したことはないといわれました。しかしながらどうしても、食事が喉につかえて通りません。そんなことをしている時、知人より安茂里の五十嵐先生に診て貰ったらどうかとアドバイスを受けました。早速五十嵐耳鼻咽喉科へ行き診て貰った処、これは喉ではなくその奥の食道の上部にがんが出来ている可能性が高いと言うことになり、精密検査ができる病院を紹介するからと言われて、伊勢宮胃腸外科を紹介して頂きました。ここでようやく癌であることが判明しました。喉がおかしくなってから実に五ヶ月を経過して居りました。伊勢宮胃腸外科の神村先生に翌日丸一日かけて検査をして貰って、今度はこのデータを持って篠ノ井病院の市川先生の処に行って手術をして貰いなさい、と言われたので、翌日市川先生の処へ行きました。ところがデータを見てこれは大変むずかしい手術になるので、この病院では出来ないと言われ、長野県では信大病院しか出来ないので、信大を紹介するからといわれ第一外科の杉山先生を紹介して頂きました。そして翌日早速松本へ行き杉山先生を訪ね入院の手続きを執りました。翌日家族全員を呼んで懇切丁寧な手術の説明を受けました。その説明を聞いて私は生きる希望がわいてきました。信大病院には約二ヶ月入院の後、退院しました。その後のアフターケアは安茂里の伊勢宮胃腸外科にお世話になって居ります。その後約一年半ばかりしたとき、忘れていた狭心症の痛みが出てきました。又困った事になったと思いながらも東長野病院へ診察に行ったところやはり狭心症のようだ、という事になり平成一〇年の秋に三回目のPTCAを行いました(約一週間入院しました)。それからは頻繁に狭心症が発症するようになり、十一年に三回、十二年に実に七回、十三年は現在九月ですが三回入院しました。そして又近々に入院の予定で居ります。全く家と病院とをピストンのように行ったり来たりして居りますが、なぜかそれ程悪くはなりません。大体一週間ぐらいの入院ですんで居ます。しかしこんな事は早く打ち止めにしたいものです。これも大病をした結果ではないかと思って居ります。この間まだ他にも老化現象のせいか、白内障の手術をしたり又前立腺肥大になったり、腰痛により歩けなくなったり、本当に色々と病気が発症致しました。そろそろこの辺で打ち止めにしたいものだと思って居ります。現在医者通いは大変なもので六ヶ所となっており、うっかりすると、忘れて行かなかったりする事もあります。医者通いが日課の毎日です。 以上

私の病歴

長野教室 柿崎庸三

今ここで申し上げるのは、手術して入院した病気のみを書きますが、風邪などは省略します。先ず最初に入院したのは二十一歳の時虫垂炎になりました。これは皆様ご承知の通り大過なく一○日ばかりで退院しました。その後身体は誠に健康で五十七歳まで仕事に精をだしよく働き、身体の要求するままに飲み食いをして参りました。その生活がいけなかったか、どうかある日、急いで小走りに歩いて居ると、左胸が痛くなりました。そんな事を数回繰り返した後、病院へ行って診察して貰ったところ、多分狭心症ではないかとの診断でした。さてそれでは何処の病院が良いかと考えた結果(昭和六十三年)、岩槻の国立東長野病院が心臓病を得意としていると聞いていたので早速駆けつけ入院しました。そこでカテーテル検査の結果、冠状動脈の一本が九○%詰まっているとの結果がでました。後日PTCA(俗に風船)を行い一旦治ったのですが(約一〇日の入院)、三ヶ月後の検査の時に又最狭窄があるといわれ、またまた再度PTCAを行いました。そして又三ヶ月後検査をしました処こんどは完全に治っていると言われ、この病気から解放されました。その後平成五年頃腹が痛くなり更埴中央病院で診察して貰った処、胆嚢に石が何個かあると言われ取った方が良いよいということになり、思い切って手術する事にしました。そして胆嚢を摘出しました処十一個の石が出て来ました。このときは六日間の入院でした。その後健康になり普通に暮らして居りましたところ、平成八年九月に喉の奥がどうもおかしく食事がうまく飲み込めなくなってきました。そして更埴中央病院に行って看て貰ったが、治らないので、厚生連篠ノ井病院の耳鼻科へ行って看て貰っていましたがなかなか治りませんでしたので、また今度は長野日赤の耳鼻科へ行き診て貰ったところ、大したことはないといわれました。しかしながらどうしても、食事が喉につかえて通りません。そんなことをしている時、知人より安茂里の五十嵐先生に診て貰ったらどうかとアドバイスを受けました。早速五十嵐耳鼻咽喉科へ行き診て貰った処、これは喉ではなくその奥の食道の上部にがんが出来ている可能性が高いと言うことになり、精密検査ができる病院を紹介するからと言われて、伊勢宮胃腸外科を紹介して頂きました。ここでようやく癌であることが判明しました。喉がおかしくなってから実に五ヶ月を経過して居りました。伊勢宮胃腸外科の神村先生に翌日丸一日かけて検査をして貰って、今度はこのデータを持って篠ノ井病院の市川先生の処に行って手術をして貰いなさい、と言われたので、翌日市川先生の処へ行きました。ところがデータを見てこれは大変むずかしい手術になるので、この病院では出来ないと言われ、長野県では信大病院しか出来ないので、信大を紹介するからといわれ第一外科の杉山先生を紹介して頂きました。そして翌日早速松本へ行き杉山先生を訪ね入院の手続きを執りました。翌日家族全員を呼んで懇切丁寧な手術の説明を受けました。その説明を聞いて私は生きる希望がわいてきました。信大病院には約二ヶ月入院の後、退院しました。その後のアフターケアは安茂里の伊勢宮胃腸外科にお世話になって居ります。その後約一年半ばかりしたとき、忘れていた狭心症の痛みが出てきました。又困った事になったと思いながらも東長野病院へ診察に行ったところやはり狭心症のようだ、という事になり平成一〇年の秋に三回目のPTCAを行いました(約一週間入院しました)。それからは頻繁に狭心症が発症するようになり、十一年に三回、十二年に実に七回、十三年は現在九月ですが三回入院しました。そして又近々に入院の予定で居ります。全く家と病院とをピストンのように行ったり来たりして居りますが、なぜかそれ程悪くはなりません。大体一週間ぐらいの入院ですんで居ます。しかしこんな事は早く打ち止めにしたいものです。これも大病をした結果ではないかと思って居ります。この間まだ他にも老化現象のせいか、白内障の手術をしたり又前立腺肥大になったり、腰痛により歩けなくなったり、本当に色々と病気が発症致しました。そろそろこの辺で打ち止めにしたいものだと思って居ります。現在医者通いは大変なもので六ヶ所となっており、うっかりすると、忘れて行かなかったりする事もあります。医者通いが日課の毎日です。 以上

趣味入門

諏訪教室 守屋一次

私は釣りが好きである。暇が出来ると川に居る。信州の川を知ってから。

釣ってる魚は渓流魚の王様と呼ばれている岩魚(いわな)、女王と呼ばれている山女(やまめ)です。渓流魚に出会ったのは今から二十五年前、出張で諏訪を訪れた時の事です。その日は諏訪地方の企業が集って毎年行なっているメーデーの日でした。会社で行進の準備をしていたが会場となる野球場が前日から降った雨のため利用できずにその日は中止、当日の予定がポッカリあいた穴を埋めるため同僚たちと遊びの相談です。仲間のひとりから『今から奈良井川へ釣りに行きましょう』と話が持ち上がり都合の良い三人で釣りに行く事が決まりました。

各家をまわり準備が出来たので釣具屋で餌のミミズを買いながら主人に情報を聴いた所あまり期待しない方が良いですよ、と言われながら店を後にした。

車は一路十九号線を走り奈良井川に着いたのは十時をちょっとまわった頃でした。場所は今ではダムが完成している上流で、その頃は工事中で川の両側には重機など機材が積まれ川の中も荒れていた。川は前日の雨でかなりの濁りであった。数回この川に来た事のある友人も不安そうに川の状態を見ていた。

仕掛は○・八号のハリス、針は○・七号の岩魚(いわな)針。オモリはガンダマの○・三号。目印は赤と黄色のプラスチックの板。仕掛の長さは二メートル、竿は三・六メートルのグラスファイバー製。さあ準備は出来た。上流に向かいポイントを見つけてミミズを針につけ静かに餌を沈める。水が渦をまいている所を流すと目印が止まり小さくコツコツと当り次に目印がスーと水中に、注意深く竿を立てると手元にググーと引きが来た。岩魚(いわな)だ!二十三センチぐらいの天然物、朱色の斑点が美しく光った。手に取ると流線形のたくましい魚体が跳ねた。

そんな感動を幾度か味わい、気が付いて見るとビクの中には十匹ほどの岩魚が入っていた。釣歴十五年のベテランでも今日の様に条件がそろった事はあまり出合った事がないとの話です。

では、その条件を書いてみましょう。

一山吹の咲く頃 四月五月六月は魚の動きが活発になる。

二笹濁り 水中に人の影が映らない

三先入者がいない 岩魚(いわな)、山女(やまめ)は敏感な魚のため人影や物音で石の間に隠れてしまい餌を追わない。

四朝まずめ夕まずめ 太陽が出る前一時間太陽が沈んで一時間以上の条件が魚が釣れる一般的な事です。皆様も参考にして下さい。

と言うわけで私も釣歴二十五年のベテランになりましたので自慢話を一つ二つ

新潟県轟川山女三十八センチ

長野県未川岩魚四十六センチ

富士見町立場川岩魚四十三センチ

等々季節ごとのすばらしい自然の中で趣味と実益を兼ねて釣りを楽しんでいます。

「すばらしい信州の自然よいつまでも」 釣人 守屋一次

半世紀を顧みて、

長野教室 相澤守正

戦前は、徴兵検査即ち兵隊の検査が二十歳で必ず受けなければならない事に成っていた。その位なら早く受験する事で、国民学校高等科で受験し十七年九月横須賀海兵団へ海軍四等整備兵にて入団以来三年間終戦時一等整備兵曹になる。

海兵団約一ヶ月教育隊に入団したが三ヶ月位は班長余りうるさい事を云わなかったが三ヶ月位で制度が変わり一等兵に即ち階級章付きになった途端全員整列で注意うるさく軍人精神注入棒(野球バット用)で受けた。僕は、痛くて立っていられなかった事を思う。又、十九年末高等科練習生を卒業し上着左手わきに八重桜を付けたので他の人より三円多く月給をもらった。同年兵で長野市近辺に七人居り皆元気でたまには会える事がある。

帰還後、長野工業の夜間へ編入し在学中に真島役場へ勤務し村長の理解により夕方学校へ通った。村の統合合併により更北村から長野市となり、最後は、更北支所長で助役より、後進へ道を譲るようにと、声があり三七年余りの公務員を退職し市等の依頼により又、四年ほど勤務して家に入る事にしました。

もともと咽の具合は良くなく病院に通っていましたが、昨年春に先生より入院するように言われ入院して放射線で治療などをし二ヶ月の入院で退院したが半年位外来で毎月通院したが、本年一月検査し手術入院に成り一ヶ月間お世話になりました。手術後信鈴会の話を聞きました。一日も早く話が出来るように努力します。

静かなること林のごとく

長野教室 小林栄

小腸を切って食道に移植する食道再建手術を受けた人の、発声成功率は二十五パーセントと言われます。長野教室に通って五年になりますが、食道再建手術を受けた私は未だに声が出ません。アエイオウの単母音は出るのですが、二音の発声がどうしてもできません。一日に四、五十分から九十分も練習を続けたこともありましたが、もともと体力のない、しかも古稀を過ぎた体には耐えることができませんでした。

電池式発声器を買って使ってみましたが、機械に弱い私にはどうしても使いこなせん。声が割れてしまって「ガアガア」言うだけで聞きとってもらえないのです。

結局声を出すことを諦めました。しかし良いこともあります。第一に電話がかかってこないこと。初めはベルが鳴ると受話器を取って聞きましたが、今はどんなに鳴っても取らないことにしています。だって必要な電話なんてそれ程かかってくるものではありません。妻の電話を聞いていてもほとんど世間の無駄話だけですから。第二に訪問者もなくなりました。来ても筆談で返事をするから、まだるこくって、つい話しかけにくくなるからでしょう。人付き合いの苦手な私にはもっけの幸いというものです。

静かなること林のごとき日々が過せる。空いた時間は読書にあてています。今は朝三十分歩いて行きつけのコーヒーショップに行き、コーヒーを飲みながらゆっくりと好きな中国現代小説を読んでいます。アメリカンコーヒーに砂糖とミルク入りと決まっているので、顔を見るとだまっていても入れてくれるようになりました。ペンを片手に読みながら要点をメモして、翻訳してみる値打ちがあるかどうか、ストーリーを追って考えています。午後は家にいて辞書を引きながら中国現代小説を続ける毎日。過去に翻訳書を六冊発刊したことがあるので、それ程苦労はなく出来ます。今年末には投稿した小説が活字になるのを楽しみに待っていて、次の翻訳をし続けています。雑音のはいらないのもいいもので、電話はかからず人も訪ねてこないから、自由に考える時間がとれ、書き物をするには良い環境がつくられたと喜んでいる昨今です。(了)二〇〇一年九月十一日

発声教室と指導者

長野教室 石川貞信

平成九年七月、私が五十六歳の夏でした。仕事と云えば建設資材卸売会社の営業を担当していました。長野赤十字病院の主治医より喉頭摘出の手術をしますと宣告された時、何で私がこんな喉頭癌なんていう病気になったのか。もし神が居たならば怨みもしました。目の前が真っ暗になり、もはや何をする事もいやになり、自暴自棄になっていた折、病院の中に発声教室があると聞き、どんなものなのかと看護婦さんに連れていっていただきました。すると長野教室代表の井出義祐氏(故人)が、とても発声がうまく、教室の全員に発声の指導をしてくれていました。なるほど、食道発声法で、これだけ、声帯を失った人達を指導し、教室全体の活気ある、声の出る、望みのある教室にしていてくれる人だなと感じました。そして私も十一月より会員として教室に毎週通うようになりました。そしてリハビリに専念しました。が、教室では井出氏一人が孤軍奮闘、他の会員の人もけっこう発声の出来る人も多く居ましたが、指導をしてくれる人はあまりありませんでした。私もあまり上達せず現在に至っております。これは努力もせず、こんなぐらい発声出来ればいいだろうと思っていたのが運の尽き。私もこれではいけないと思い、健康には自信がありますので、もっと努力をし、長野教室もあまり歓迎出来ませんが、会員の人が増えています。

活気のある、また発声に望みのある教室にしようと現代表の宇野女さんと協力をし、指導態勢を整えようと思っております。

僕の朝の日課

長野教室 金子芳一

僕は手術をしてから、朝早く起きることができなくなり、朝の六時以降であるが、家内は僕の分まで農作業に精を出しているのに、何もしない訳にはいかないと思っていた。

その頃、家内が朝早くから野良に出ていき、りんごの手入れ、野菜の種まきと忙しい毎日であるにもかかわらず、朝食の準備から洗濯、家の拭き掃除をするのでくたくたになり、時折り愚痴を言うようになる。これを聞く方も嬉しくはないが、一応承知はしているものの、言葉がでない、頭の中では解っている。

そんなある日、家内に運動のつもりで廊下や板の間を棒モップでふいてほしいと言われ、やってみることとし、やり出したがなかなか疲れる。時折り休みながら行っていた......。これも半年位行った。だんだん体調が良くなるにつれ、今では一階、二階の廊下、板の間までやるようになり、次第にほこりのたまりそうな所まで、手付きモップで高い所をふくようになり、今では窓枠や板のドアのでこぼこの所まで手を広げるようになった。それも右側の腕を動かし肩より高い所まであがるように努力して、回復を図っている(手術の時先生からリンパ腺までガンが入っているため、腕があがらなくなる旨、言われていたため)。

もう一つは朝起きて、洗顔をしてからお勝手で、弁当に入れる湯卵を十五分位でゆでて冷水に入れる。次にお湯を沸かしポットに入れる。その次は味噌汁を作る。茄子の実の時は家内が早く起きるので、切って水につけておいてくれるので「あく」がぬけている。それに馬鈴薯と玉ねぎの皮をむいて入れて作る。これも掃除をしながら時間を見ながら順序よくこなすと、約三十分位で終る。続いて玄関のタイルを布モップで洗い、植木に水をやる頃には家内も野良から帰ってくる。

今日の朝の日課も終ることとなり、きれいにすることは気持ちよく、一日が始まった感じがする。今日は紅玉のりんごの葉つみを終らせたいものだ。

不自由を常と思えば

須坂市 直江兼弘

「人の一生は、重き荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば、不足無し。」(徳川家康)この言葉が、今の私に生きる勇気を与えてくれております。私にとりましては、振り返ることは、ただ、人生の悲劇に涙することだけであり、気持ちの切り替えこそが前に進むことである!と自分に言い聞かせているのであります。とは言っても、自分が額に汗して話をしても、相手は、言っていることがわからないからか?話の腰を砕くこと愚か、「はい、はい」と空返事をして席をたってしまうことは日常茶飯事であります。

このような不快感を味あわないためには、一日も早く、音声での言語活動を可能にすることだと思って目下、必死に「食道発声」を猛訓中であります。

本来、声帯を震わせて音声での言語活動する人間の「声帯」がなくなり食道を声帯に代えて「声」を出そうとするのですから並大抵のことではありません。

この訓練場所が、「信鈴会」であり、日本赤十字病院のご支援のもとに毎週金曜日に練習会が行われております。

喉摘により、同じ悩みを持つ人達で集うだけでも意味がありますが、本来の目的は、「食道発声」により音声会話を取り戻すための訓練道場である筈であります。

その点では、やや、物足らないものがあり、それは、指導員不足に起因すると思っております。東京の「銀鈴会」では、三十人ぐらいの指導員がマンツーマンで指導してくれます。だから、八十歳以上の高齢者でも音声での会話が可能になっております。私も既に六十数回通い、大きな進歩をしており、感謝しております。

指導員の養成は、現在の信鈴会の会員が、それなりの指導員研修を受講し、真に声をだせるよう指導要領を具備することが大切であります。

そして、身障者は、身障者になってしまった悲劇

に泣いていたり、我慢しているだけでは、駄目だと思います。少しでも健常者に負けないように強い意志を持たねばならないと思います。

また、その環境を作るべく、行政も病院などの支援を期待いたしております。

現在、毎回毎回、発声練習の場に臨席願って、バイタルチェックや激励を下さっている長野日赤の堀内婦長さんには感謝感謝であります。

さあ、きょうも「食道発声練習」にがんばって精を出そう!

四国八十八ヶ所を歩いて 日記より

松本教室 長岡幸弘

平成十二年二月二十七日(日曜日)いよいよ計画していた四国八十八ヶ所歩き遍路に出発の日、七時十分松本発高速バス大阪行に乗車、これから五十日近く歳を取って、声の出ない者が言葉が通じるか?歩き通せるか不安と心細さが一杯、松本を出る時は晴れていたが名神高速道関が原の辺は雪で五十キロの速度制限で大阪梅田着が心配だが予定通り着く。十三時発大阪梅田~徳島行特急バスで鳴門公園下車、公園から鳴門大橋を見学(この橋も私が四月二十日に八十八ヶ所を結願して霊山寺に満願の、お礼参り、立ち寄った時に渦の道として橋の桁の下に橋を架けて鳴門の渦の上まで歩いて行ける様になった)してまだこの辺は観光旅行のつもり、タクシーを拾って「民宿阿波」へ、この宿は一番札所霊山寺で世話をされたところ、(松本に居るときに電話で三日間泊まれる宿を予約した一ヶ所)明日から使う遍路用品の買いもの、白衣、菅笠、納経帳、頭陀袋(いちめい乞食袋)・・・線香、ローソクにいたるまで購入して宿に帰れば、横須賀から来た土田さんという方と相部屋に(結局この方とは高知県の三十一番竹林寺まで一緒に歩くことになる)

二月二十八日(月曜日)

昨日購入した白衣を着て乞食袋に経本・納経帳・納札・線香・ローソク・その他を詰め、背中のリック・サックには薬一式・下着・雨具他を詰めて俺も立派なお遍路姿、宿の払いを済ませ旅立ちの寺『一番札所霊山寺』へ。見よう見真似で本堂へ、ローソクを灯し、線香を上げ、お賽銭と納札を上げ般若心経を唱え、太師堂へ。太師堂も本堂と同じように、ローソクを灯し、線香を上げ、お賽銭と納札を上げ般若心経を唱え、納経所へ納経帳に『記帳御朱印』(三百円払い)を頂きこれで一廻り三十分以上掛る。(これを八十八の寺でやらなければと考えれば気が遠くなる)寺のノートに二月二十八日松本市松原七三十二五長岡幸弘と記帳。何十日かかって結願のお札参りが出来ることか。今日の予定は「八番札所熊谷寺」まで二十二キロ、土田さんと元気よく遍路への道を踏みだす。『二番札所極楽寺』樹齢一二〇〇年の長寿杉に手を触れて長命を祈る。『三番札所金泉寺』には弁慶の力石がある。『四番札所大日寺』は四国八十八ヶ所のうちに大日寺が三ヶ所有りその一ヶ所。『五番札所地蔵寺』には樹齢八○○年の大イチョウ。奥の院には五百羅漢堂があり参拝、歩き始めると黒塗りのタクシーが二人の前に止まり奥様らしい人が下りてきてバナナをくれた。(これが四国で言われるお接待の事らしい)初めての接待には驚きだった。ぼつぼつ昼時、疲れも出てくるし昼食も食べなければと相手の顔を見る。相手も同じでやっと食事にありつく。民宿寿食道で名物のたらいウドンで満腹。昼過ぎからは雨模様、早く宿にと思うが後八キロも有り傘を差し『六番札所安楽寺』へ。ここの宿坊は薬湯が有り遍路の疲れを癒してくれる。たいが

い一日目はここ迄だが横目で見て俺達は予約の宿までひと踏ん張り。『七番札所十楽寺』は、目に不自由の人に霊験あらたかだとゆうお地蔵さんが祀られている。今日最後の寺『八番札所熊谷寺』まで約五キロ、近くには高速道路が出来ている。はるかかなたを見れば畑の真中に大きな建物。近づけば寺の山門だ。山門をこぐり坂道を上ったところにお寺が有り記帳を済ませ宿へ。宿は山門下の『民宿たみや旅館』着。奥さんが出てきて杖を水道の水で洗い玄関の横に立て掛けてくれた。風呂に入り夕食が終わり、土田さんは下着・靴下の洗濯、私は足に実った豆の収穫、明日は宿の都合で相棒と別れて一人歩き、行き逢うのは二日先の宿『民宿ちば』だ。

二月二十九日(火曜日)

七時、皆さんより一足はやく『たみや旅館』を一人で出発、間もなく後ろで奥さんの呼ぶ声、大切な杖を忘れる。持ちつけない物は......失敗失敗。『九番札所法輪寺』は田圃の中の一軒屋。山門前の小さな茶店でお茶を接待される。まだ歩き出して一時間もたたないのでお礼をいい次の寺を目指す。道は平らで間もなく『十番札所切幡寺』に到着。数えてはみないが三三三段の石段を登り参拝を済ませ下ってくれば、後から出発した土田さんと行き違う。先を急がなければ。やがて大川「吉野川」に出る。川の中には川中島が有り懐かい名だ。潜水橋の川島橋を渡る(増水の時水中に沈む橋を潜水橋という、現在十一橋ある、欄干がなく直ぐ下には川が流れる)。昼も過ぎお腹も空いたので食堂を探しているうちに『十一番札所藤井寺』に到着。山門をくぐりお参り。納経所で記帳・御朱印を済ませた所にバスで団体さん、団体さんの後になれば御朱印を頂くまでに三十分以上待たなければ、良かmった良かった。これから四国一番の難所、遍路ころ・がしの道、ところが道の入り口が分からず山門まで戻り売店の叔母さんに道を聞く。店に並べてあるふかし芋を食べろとくれる。お金を払おうとしたら接待だよ、お礼をいって歩き出すと後ろから呼ぶ声。また杖を忘れたかと手を見れば杖は有るし......売店の伯父さんがお菓子を沢山持ってきて、歩きながら食べて行けと接待された。伯父さんも八十八ヶ所一番の難所だ、気をつけて行けと本堂横まで送ってくれた。自分にも本当の遍路が歩く道と言い聞かせミカン畑の山の中へ。明日から三月だとゆうのに畑にはミカンが黄色に実っている。勝手に取って接待と決めて一休み。小高い山から今日歩いて来た吉野川が一望、座っていても誰も連れて行ってくれない、頑張って一歩一歩。上りは弱く誰かの唄にあったように三歩進んで二歩下がる。地図で見れば尾根だけを歩くように思っていたが海抜六○○メートルぐらいの山を一気に登り一気に下る山道には、まだ雪が残っていてスッテンコロリン。慌てて立ち上がり辺りを見回しても誰も居る訳がない。頑張って歩き、山の中の中間点に長戸庵がある。着くと昨夜宿は違ったが藤井さんが食事を終えて出かけるところ。今夜は柳水庵で逢うので先に立つ俺も売店で頂いたふかし芋とお菓子を食べ、宿まで後一息、上を見れば岩山、下を見れば千尋の谷、昼なお暗き、後四キロの坂道を歩き柳水庵に到着。藤井さんは、すでに風呂から上がりコタツでテレビを見てのんびり、俺もさっそく風呂へ。驚き驚き、昔懐かしい五右衛門風呂、ゆっくり湯船で手足を伸ばそうにも漬物樽に入ったようで、板の隙間から熱い湯が、湯から上がれば寒いし、入れば熱いし、猫のように背中をまるめてなんとか入った(マイッタマイッタ)。夕食は山の中なので期待はしていなかったが、おどけたことに割烹旅館なみ。今夜の泊りは藤井さん・名前を聞かなかったが夫婦と俺の四人。宿の主人に話を聞けば「以前は庵の二階も使って多くの人が泊まれるようにしていたが、今は下の部屋に入れる三人だけにしている。二人も年を取ってしまって二階の世話までは出来ないし、ここに居ると色々な人が通る。最近は若い人も多く、女の子も来るし、でも私達が体が動かなくなったら、ここも終わりだね」と、寂しそうに話してくれた。

三月一日(水曜日)

今日は、かあちゃんの誕生日、心の中でおめでとう。七時柳水庵を皆と一緒に出発。登りに弱い俺は直ぐに遅れて一人旅。二キロ先の一本杉庵まで登りだ。雪に足を取られ二度三度と尻餅をつく。焼山寺はまだまだ先だ、ここからは少しずつ下り坂になり少し楽になる。藤井寺から焼山寺まで約十三キロ、藤井寺は標高一四〇メートル、泊まった柳水庵が六三〇メートル、焼山寺は標高七○○メートル、いかにも遍路ころがしの道だ。『十二番札所焼山寺』はうっそうとした杉林の中の立派な寺。焼山寺を出ると急な下り坂、止まろうにも止まらないくらい急な坂、あっとゆう間に杖杉庵(ここは大師の姿を求めて歩いた衛門三郎が二十二回目の遍路でようやく大師に巡り合え、そのまま息絶えた場所)少し下って鍋岩の村。この村は大型バスでお遍路さんが来てマイクロバスに乗り換えて焼山寺へ行く所で賑わうらしい。昼には早いが田中食堂に入りうどんをお願いした。食べ終わり、勘定を払おうとしたらお接待しますと、ありがたいがわるい気持ちもあり複雑だ。ここから次の寺までは約二〇キロあり、すでに九キロも歩いているし、宿は宿坊を予約してあるバスは夕方まで無いし、歩けるだけ歩いてみようと思い十キロくらい歩いたが、坂瀬橋のバス停がありここからバスに乗る。これに乗らなければ『十三番大日寺』の宿坊には夜中だ。心の中で良かったなー。宿坊に着き洗濯機に下着・靴下を入れて俺も風呂に。部屋は三畳、暖房は電気ストーブ。部屋中にロープを張り洗濯物を干す。夕食時に、朝のお勤めをしたい方は朝六時に本堂にお集まり下さい。今日の反省は地図だけで予定をたてて行動したこと。道にはタクシーの看板が出ているので心配はないが......。これで松本で予約してきた宿も終わり、明日からは自分で宿を探さなければ、声に自信を持ってガンバロー。

三月二日(木曜日)

生まれて初めて宿坊に泊り、朝六時、これも初めてのお勤め。七時朝食団体さんと一緒、賑やかなこと。大日寺を出発、今日の道程は二十六キロ『十四番札所常楽寺・十五番国分寺・十六番観音寺・十七番井戸寺』までは約八キロ、平らな道で歩き良くお参りも早く済み、これから次の寺まで十八キロ、車の多い国道をてくてく歩く。今夜は二日前に別れた土田さんと『民宿ちば』で落ち合う約束をしてあので、どうしても着かなければ。途中で駄目になればタクシーもあるし、行けるところまで長い長いアスファルトの道は足にこたえる。足の豆が潰れて痛いこと。空き地を見つけ傷の手当。向こうの歩道を見れば藤井さんが木陰でほかほか亭かセブンイレブンの弁当を広げて食べているが、声を掛けたくてもダメ。車が多くて横断も出来ず、俺もラーメン屋で食事、足の痛みも落ちついたので歩き始める。バスに乗るのは車道を横断して反対側に行かなければやめて歩く。それでも五時前には『民宿ちば』に到着。明日のことを考えて『十八番恩山寺』にお参り、納経を済ませる。(今の八十八ヶ所のお寺は、会社と同じで記帳は朝七時から五時までと決まっていて時間になれば戸を閉めて帰ってしまう)夕食時に土田さんと三日ぶりに行き逢う。また明日から一緒に歩く。何だか知らないが土田・藤井・俺とビールで乾杯。

三月三日(金曜日)

昨夜、宿にお願いしておいたおにぎりをリックに入れて七時に土田さん・藤井さんと『民宿ちばを出発。今日はまた山道二十五キロを歩かなければと思っただけで足の豆が痛みだす。宿から『十九番立江寺』まで四キロは町の中を歩く。お寺では一日目に歩いた宮城県の佐藤さん夫婦と愛知県の足立さんと逢い道中話に花を咲かせる。藤さんは先に出発し、ここからはまた坂道。登りは全然駄目で、土田さんいわく、登りの土田で、下りの長岡なんて言って笑われる。だんだん遅れて心細いよ一人旅。やっと『二十番鶴林寺』に着けば土田さんは次の寺に出発するところ、先に出てもらう。お参り済ませ『二十一番太龍寺』へ。鶴林寺から太龍寺までは四、五キロは下り下り、この下りは長岡の足もガクガク、また登り、やっと太龍寺に着く。苦労して登れば、バスで来たお遍路さんはロープウエーで楽に上がってくる。お寺も一人や二人の遍路さんより団体さんの方が嬉しいわけだ。日も大分西に傾いてきた。あと宿まで二キロ、ここからまた下り坂、途中で雷様の音、空を見れば雲はあるが青空もあり、念のため雨具の用意をしたが雨の様子もない。歩きながら辺りを見れば山を崩すためのダイナマイトの音(四国は高速道路を造る真っ最中で出会うのはダンプカーばかり)やれやれ。『民宿龍山荘』に着く。前に出た人たちは風呂に入り明日の準備、仲間がいても何時でも一人旅。

三月四日(土曜日)

龍山荘六時起床、小雨、四国に来て初めて雨カッパを着てのお遍路、これも宿命だ。『二十二番平等寺』まで十二キロ、何しろ一歩でも前に進むこと皆黙って前に前に。思ったより早く平等寺に到着。ここより『二十三番薬王寺』まで三十キロあり皆で相談、今まで雨の中を十二キロ歩きこれから三十キロは無理と決まりJR阿波福井駅から日和佐駅まで電車で、日和佐駅を降りたときには雨も上がり一時近く着ていたカッパを脱ぐ。楽にはなったが下着は汗でベットリ。薬王寺宿坊へ電話で宿泊予約をお願い、OKの返事。宿には寄らずに『二十三番薬王寺』に重いリックを背中に苦労して石段を登りお参り、宿坊に着く、汗で濡れた下着、靴下と汚れ物を洗濯機へ。自分もお風呂でのんびり。(家を出るとき八十八ヶ所を満願しそれが願いで来た。駄目なら徳島県二十三のお寺を回って帰るつもりで家にも話してきたが)皆はここ迄きたのでせめて高知県の特別別格札所鯖大師をお参りして、考えようと眠りに付く。

結局、高知県・愛媛県・香川県と満願した。

今回は徳島県だけを書いてみました、機会が有れば後を書きます。

亡き井出義祐さんを偲ぶ

長野教室 宇野女健

平成九年十二月十三日長野教室入会の日に、初めてお会いしました。暖かい励ましの言葉「一緒に頑張りましょう」と言われてハッと息を呑みました。声を失い、手術直後の絶望と孤独感が自分の脳裏から吹き飛びました。努力すれば声も出るという確信がもてたのです。親切で適切な指導、信鈴会の事業には、十年度十一年度の二回のレクリエーションをご一緒させていただきましたが、シガラキ焼きと琵琶湖温泉の旅が最後の思い出となりました。其の後体調を崩され、十二年一月急逝の報せを受け、あまりにも短いお付き合いで我が耳を疑いました。

思えば発声向上と、親睦を兼ねてのお花見会、納会を兼ねた忘年会など井出さんに声をかけていただいたときは、いつもご一緒させていただきました。平成十年の会報を最後に有能な士の、活字の消えたことは信鈴会にも教室にも一抹の不安を感じています。第三○回信鈴会定期総会の概要の頁に日喉連会・長の中村先生の挨拶の中に

第一点は食道発声のレベルを上げよう、指導員の指導員数を増やしましょう。

第二点日喉連の社会的地位のレベルアップ。

第三点補助装置のお話でありました。

中村先生のお話の通り、指導員が長野教室では足りません。長野教室の要望を申し上げますが、各教室で指導員を推薦いたしますから、信鈴会より委嘱状を戴きたいと思います。

これも亡き先輩への恩返しとも思います。お蔭様で私も少し、お話の出来るまでになりました。自分の喉がいかに大切であったか、一度失ったものをいつまでも嘆いているわけでもないが、残った食道で再出発、お互い声のない大勢の仲間同士で目的達成の為に健康第一、発声は第二で気軽にやっていく事が、発声向上と信鈴会相互の親睦に多大なる貢献をされた井出義祐さんのご指導を無にしないことではないでしょうか。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。 平成十二年八月二十三日

平成15年刊 第30号

巻頭の言葉

会長 宇野女健

会員の皆様におかれましては益々ご健勝のことと心からお慶びもうしあげます。信鈴には昭和・四十四年一月二十三日は信州大学医学部第三会議室に於いて信鈴会の創立式典が開催された喜びの第一日であったと記録されております。当時の会員が四十二名、県内の教室は長野日赤・信大"附属病院二箇所だけでした。先人のご苦労された道しるべ、会報でありますが、創刊号より三十

号となりました。現在では会員数が百五十名を超えるまでになりました。喉頭を摘出した我々に対する食道発声法や電器発声法などを通じて、発声訓練の実施や、指導者の養成・普及啓発に取り組まれ、多くの成果を挙げてくだされました、又医療機関と連携し摘出手術を受ける患者さんに対しての、カウンセリングを行い、術後の障害に立ち向かう勇気と、発声訓練への動機付けをされるなど、先人の皆様が献身的かつ積極的に活動されました積み重ねに、心から敬意を表します。

平成十五年七月二十二日第三十五回総会で田中前会長の後任として会長職をお引き受けいたしましたが、もとより浅学非才の身でありますし、信鈴会に入会して日も浅く、関係機関の皆様か"ら何時に変わらぬ叱咤激励のお言葉を戴き、行政のご指導・関係医局の方々・会員の皆様の絶大-なご協力・ご鞭撻を戴きながら、この大役を務めていきたいと思っております。

さいわい信鈴会の所属している日本喉摘者団体連合会・東日本ブロック発声指導員研修会が毎年行なわれております。当会も積極的に参加しておりますが、県下五ヶ所共通の指導書もありません。当会の指導員研修会・共通した指導要領など、担当役員さんにお願いして、教室が皆様方の心の拠り所としたいものです。昨年度より新たに指導員委嘱状を申し上げたところです。又新

役員には業務分担をお願いしました。各教室での和と友情・信鈴会での和と友情・それぞれの立-場で積極的なご指導ご協力をお願い申し上げております。当会の会員は比較的高年齢で、健康的に不安を抱えている方が多く、発声教室に通うのが大変であるのが実情であると思いますが、教室は発声訓練はもとより、喉摘者としての日常の健康管理や、不自由な言語の中でも、会員同士が自由な意思の疎通を図り、同じ喉摘者として、声を失った精神的苦しみから一日でも早く脱却"して、家庭に・社会に早く溶け込めるよう、親切・適切に対応するように頑張って参りたいと考えております。交通事情・高齢・教室に出掛けたいと思うが、其れもままならない、「会報」が何よりの励みになるから、続けてほしいとの言葉をお聞きします。頑張ってゆきます会員の輪が何時も美しい花でありますように願っております。

しかしながら、我々を取り巻く環境は、皆様方が触れられておりますように、出口の見えない長引く不況、イラク・北朝鮮問題等、国内外共に混迷の度合いを強め、我々の生活にも少なからぬ影響を与え、将来への不安を高めています。こうした大きなうねりに対しては、此処にはどうする事も出来ませんが、地道に日々努力を重ね、第二の声を取り戻し嵐が去るを待ちましょう。

なお会員の皆様には健康に留意されて元気な生活・元気な声を聴かせて下さい。今年も各教室の親睦を図りに出かけます。又元気なご指導をよろしくお願い申し上げます。

共に支えあう地域社会を目指して

長野県社会部障害福祉課長 大月良則

日頃より信鈴会会員の皆様には、障害者福祉施策の推進に御協力をいただき感謝申し上げます。

さて、障害の重度・重複化、高齢化が進み障害者を取り巻く環境が大きく変化し、地域社会においても、障害者が地域の中で生活することは自然なことというノーマライゼーションの考え方が浸透しつつある中で、障害者が安心して生活できるための施策が求められております。

こうした中、長野県では、障害の有無に拘わらず共に支えあいながら地域社会の中で一人ひとりが、「自らの生き方を自分らしく実現できる社会」を創ることを基本理念とした「長野県障害者プラン」を策定し、この計画の沿って施策を推進しております。

音声機能障害者の方々に対する施策としましては、発声訓練・指導者養成事業を「社会生活の充実」として位置付け。信鈴会の皆様に御協力をいただきながら実施しているところであります。

引き続き皆様には、福祉の受け手であり、担い手でもあるという意識のもとに、それぞれのお立場で、自主的、積極的な活動を行われますことをお願い申し上げます。

最後に、長野県信鈴会の益々の御発展と、会員の皆様方の御健康を祈念申し上げます。

信鈴会の発展を祈って

顧問 信大医学部元教授 田口喜一郎

昭和四十三年に島成光氏、今野弘恵さんなどのご尽力で発足した信鈴会も三十六年も経過し、発声教室を中心に、会員の皆様のご尽力により順調な発展を遂げて来られたことを嬉しく思います。三十年前、会の小旅行に愚息と参加させて頂いたことも懐かしい思い出になっております。

歴代会長さんが大変な努力をされて来られ、先発の銀鈴会や阪喉会に負けない結束を誇っているのも素晴らしいことです。会誌「信鈴」も定期的に刊行されておりますので、会の歴史を物語るものとして、そこにかかれている文章は貴重な財産です。会員の交流も新年会、夏の総会、そして小旅行や忘年会と行われておりましたが、発声教室も幾つかのブロックに分れて行われるようになってから、新年会と総会が全会員の集りの場として重要性が増しております。私もいつもお招きを頂き、参加させていただくことを楽しみにしておりますが、現在やっている仕事が産業医の研修会等医療関係者を対象にしている関係上、病院や診療所の休日に当る土曜日が多く、また関係している学会も土曜日の開催が多いので、このところ余り参加出来ず、申し訳なく思っております。

今私が勤務している職場は、一言でいえば産業保健という仕事に関係しております。近年、わが国の経済状態が思わしくなく、働く人の心身の健康障害が増加傾向にあります。以前は「職業病」という名前で呼ばれた疾患が沢山ありました。炭坑やトンネル工事で細かい石炭や鉱物などの溶けにくい粉じんを吸込んで、呼吸が困難になる「じん肺症」や、いろいろな化学物質や放射線による健康障害や癌の発生、重い物を扱って起こす腰痛症などです。こういったものは、作業方法や作業環境の改善により極めて少なくなりましたが、精神的なストレスによるうつ病や自殺、心臓や血管の病気はどんどん増えております。私共はそういった病気の労働者を救うために、相談やカウンセリング、治療の勧めなど、臨時の健康診断のための補助金給付の手続き、そして職場で直接労働者を対象に指導・観察などを行う産業医や保健師・看護師といった人々を教育したり、支援する業務を行っております。わが国ではここ四年間は年間の自殺者が三万人を越えておりますが、うつ病や職場の長期欠勤者、アルコール中毒者などが随分多くなり、多くの職場で困っております。人員削減の結果、残された少ない人員で同じ量の仕事を行うために、過重労働やサービス残業といった形で心身とも疲弊し切ってしまい、精神病や心臓・血管系の病気になる人が増えております。また、生活習慣病といって、食事や運動不足、睡眠不足、ストレスなどから、糖尿病、高血圧症、高脂血症、肥満、肝臓の障害などが起こります。皆様の中にもそういった病気でお悩みの方が居られるかも知れませんが、原因となる悪い生活習慣やストレスを除かない限り健康回復は望めませんので、働いて居られる方業医や職場の衛生管理者、保健師、看護師などに相談してください。また、退職された方はかかりつけの医師にご相談ください。

最近は、年金問題が大きく取上げられ、年金額の削減、保険料の引き上げなどが課題になっており、皆様の中で年金生活をされておられる方には深刻です。老後の生活設計に年金は欠くことの出来ないものですから、会員の皆様の障害者年金の問題で相談を受けることもあります。この問題は、市町村の福祉関係の窓口が扱っておりますが、労災関係の問題は私共の所で労働法令の専門家がおりご相談をお受けしております。

最後にお願いを込めて申し上げたいことは、最近喉頭摘出の手術を受けた方が電器喉頭等を使っておられ、食道発声を熱心にされないということを耳にしましたが、可能な方には是非食道発声をお勧め頂きたいということです。電器喉頭を使うにせよ、食道発声は手を使わず何処でも出来る優れた方法ですが、訓練期間が長く、熱意がないと上達しないので、途中で諦める方が出てきます。その際信鈴会の方で食道発声のできる方がお手本を示して頂けるとやる気が出て参ります。また発声教室の訓練に出てくること自体が人とのコミュニケーションの手段となり、新しい世界が開けて益々やる気が増すといった効果があります。私の大学在職中には、発声教室の日に特にお願いして手術前後の患者さんに発声教室を見学して頂き、本人にとっても、私共治療する立場の者にとっても大変良かった経験がありました。現在もやっておられるかと思いますが、そのような入院中の患者さんがおられましたら、発声教室の日にでも、少し時間を割いてご説明頂けることが可能ならば有難いことです。そして、そのことはご退院後に信鈴会の輪を広げることに繋がるでしょう。

人の社会は一人では生きられないものですし、また何等かの集団に属することが健康寿命を延ばすコツでもあります。趣味の世界、仕事の世界、家族、友人、いろいろな世界を経験することは人生を豊かにします。私も今の仕事はいろいろな職場の方々とお付き合いできる新しい世界でしたので、新しい視野が開け、またそういった方々から大変多くの未知のものを吸収させて頂いており、私の人生の豊かさを増したと感じております。信鈴会もそういった意味で、単なる訓練の場としてだけでなく、人間関係を豊かにする要素を含んでおり、そういった人間関係こそが会の発展を高める重要な原動力になると信じております。

今 年度は、会長職が大変ご苦労頂いてきた田中清氏から宇野女健氏に交替になりましたが、「和・訓練・評価」の会の精神を生かし、新会長の下に、会員の皆様の福祉向上と共に、信鈴会が益々発展されることを祈っております。

赴任してから五年が経ちました

信大医学部耳鼻咽喉科教授 宇佐美真一

信州大学病院に赴任してから早いもので五年が経ちました。幸いにも赴任以来多くの新入医局員を迎えることが出来、活気のある医局になってきました。手がけた患者さんや手術の数も増え、ようやく信州に来てからの診療成績が出せるまでになってきました。信鈴会の皆様には発声教室の合間に時々お目にかかっておりますが元気でリハビリに励んでおられる姿を見て日頃から嬉しく思っています。我々医師はもちろん毎日病気の治療に携わっているわけですが、ともすると忙しい日常診療の中で病気そのものだけに目が行って、患者さん全体を診ていないのではないか、と反省させられる時があります。たとえば喉頭全摘を受けられた患者さんは手術創が治れば治癒として退院するわけですが、決してそれで終わりになるわけではありません。声を取り戻し社会復帰してはじめて治ったことになるという当たり前のことが、ともすれば忘れがちになります。耳鼻咽喉科は感覚器を取り扱う診療科として「聴こえ」や「声」といったコミュニケーションに重要な機能を受け持つ科であります。こういった機能は普段は気にも留めず使っているわけですが、これが一旦いろいろな病気で失われたときの苦しみは想像できないくらい大きなものと思います。我々が現在進めている高度難聴者に対する人工内耳治療もこの五年間で標準的な治療法としてすっかり定着し、患者さんには予想以上の満足が得られております。患者さんの音が戻る瞬間の感動に立ち会う度に、やはり人間にとって「聴こえ」というものが如何に重要であるかを毎回再確認させられています。それと同時に発声教室で初めて声が出たときの嬉しそうな顔を見るにつれ「声」が如何に大事なものであるかということを再認識させられています。先日信鈴会のスピーチコンテストにお招きいただきましたが、それぞれに素晴らしいリハビリの成果で、その話の内容とともに感動させられるものでした。臨床実習の学生には毎週食道発声教室を見学してもらっていますが、トータルな意味で病気を治していく、あるいは患者さんをサポートしていくということをぜひ臨床実習、研修で学んでもらいたいと思っています。信鈴会は今年創立三十周年を迎えるということで、今野さんをはじめとして信鈴会をこれまでに育て上げてこられた多くの方々に御礼を申し上げるとともに、今後とも患者さんの心を支えていく会としてますます成長していくことをお祈りします。我々も常により良い治療法の確立を目指して診療していきたいと思っています。


松本教室 今野弘恵

声を失ったことで社会生活から遮断されることのないように、再び第二の声をとり戻す事が出来れば職場復帰、社会参加も可能となる。筆談にたよらず会話を通して他者との意志の疎通が出来るように、......一日も早く、出来るだけ近くで訓練が受けられるように、信鈴会へのかかわり、医療職としての使命、そんな思いからつくった県内五ヶ所の教室は、各々の医療機関の担当者の並々ならぬ理解・協力のもとに積み重ねられ、時を経るごとにそれぞれのカラーをかもし出し今日にいたっている。松本教室(信大病院)も長い間の道のりの中で、思い起こせば必ずしも平坦なものではなかったように思う。

教室の始まりは、患者さんが外来受診のあと個々にかかわっていたが、昭和四十四年信鈴会発足を機に木曜日を訓練日と定め、診察室の一隅を使用していた。昭和四十六年病棟研修室に移転し、平成七年現在の新病棟改築後も研修室を毎木曜十三時~十五時に使用させていただいてきた。訓練のある日には、参加者は教室が始まる前に入院中の同病者を訪れ、励まし支え合う力になっていた。教室へは長野、伊那、佐久、諏訪方面の患者さんも受診日にあわせ参加し交流の場でもあった。併し院内の勤務異動に伴い、平成九年、十年は今までの管理体制が一変するような事態が生じた。研修室は発声教室として使用してはいけない、ということになり、空いている会議室等を交渉し院内を転々、毎回会場が変わる教室に不安をもち参加者も減り、入院中の患者さんは退院後でなければ発声教室へは参加できない、継続医療が途絶えたとも思える許し難い状態となってしまった。当時、信鈴会会長であった田中さんと共に悩み、一時発生教室の場を院外へ移す手段をも考えた。そんななか再三看護部へ足を運び、ようやくリハビリテーション部棟の一室を借りられる事になりほっとした。併し、外界から遮断された狭い部屋はグループ編成もままならず訓練の場の条件には程遠いものでした。でも我慢、我慢、毎週転々としていた教室の事を考えれば有難いよね、田中さんともそう話し、言い聞かせてやってきました。この間、一番つらい不安と不自由を強いられたのは入院中の患者さんであったと今でも心がいたむ。幸い、平成十一年、宇佐美教授が就任、病棟も新しい婦長を迎え、これ迄の閉鎖された状況からすべて一気に改善された。十一年九月には宇佐美教授、関係看護師をまじえ、田中さん、私を含む話し合いの場を設けていただき、相互の理解を深めることが出来た。十月から教室もリハビリ棟から現在の耳鼻科病棟隣接の談話室を使用させていただく事になり、困っている問題に積極的に力を貸していただいた。閉鎖状態であった病棟とのパイプの流通が正常化し、術前、術後を通し意図的に教室への見学、参加をすすめて下さる医師、看護師。教室も今までと違い、グループ編成が十分にできる。ゆったりとしたスペースをもち、明るく静かなよい環境となり、教室への参加者は毎回看護師による健康管理(血圧測定)を受け、一日も早く、第二の声を......と頑張ってもらっている。

食道発声、電気発声器使用、いずれの方法にせよ、自分に適した方法により一日も早く会話ができるようになる、このことをモットーに、規制された枠のなかに閉じ込められた状態をつくってはいけない、皆で励まし、支え、支えられて、後をふりむかない、明るく前へ、前へつなげていく、そんな気持ちで一回一回の教室を大切にしながらやっている。

宇佐美教授はじめ医師、看護師のあたたかいご支援あっての松本教室と感謝している。

長野教室に参加して

長野日赤B4病棟看護師長 坂口史子

当院では、今年度、病棟の診療科再編成がありました。若里の地に病院が移転して以来、二十年、B4病棟は、眼科、耳鼻科、形成外科、口腔外科の4科の病棟でしたが、神経内科が加わり、形成外科、口腔外科が隣のE4病棟に移りました。私もそれに伴い、四月からB4病棟に勤務することになり、発声教室に初めて参加させていただきました。

かつて、北石堂町に病院があった時には、私はまだ看護学生でした。当時の本館会議室で、発声教室に参加されている方々の様子を垣間見ることはありました。しかし、食道発声についての知識はほとんどなく、教室でどのような事が行われているか知りませんでした。今までに手術室の勤務経験があり、喉頭摘出の手術に立ち会うことが何度かありました。手術前の患者さんとお話しする機会はありましたが、手術後の患者さんや、ご家族の方とかかわらせていただいたことは長い看護師経験の中で今年になって初めてでした。

教室への初参加の時には、皆さん初めてお会いする方ばかりでしたが、とても明るく、快く迎えてくださり嬉しく思いました。一生懸命発声の練習をされたり、会場の準備をされ、奥様方にはお茶を入れていただいたりと、それぞれが御自身の役割や、教室にかける思いは異なるのでしょうが、教室を盛り上げようと努力されている姿に感動いたしました。四月当初から、新会員さんも増え、より一層練習に熱が入っていると感じています。

発声教室には、時々実習中の看護学生も参加させていただいています。会員の皆様の、がんばっている姿を見ることが、何よりの勉強になると思います。また、会員さんも、若い学生が加わることで、会話も弾むようです。

ここで、ある日の学生の感想をご紹介したいと思います。「今日は臨床講義で、発声教室に参加して、会員の方たちと話をしました。最初、教室の中に入って、会員の方たちが話しているのを聞いて、とても驚きました。初めて耳にするその発声の仕方はどうなっているのかビデオを見ました。実際やってみると声が出なくて苦しい感じでした。会員の方は、みんなとても元気で明るく、冗談なんかも言い合っていたので、楽しく過ごすことができました。時々、言葉が理解しづらく、二、三回聞き返すこともありましたが、いやな顔もせず話してくれ、理解することができました。また、小腸を切除して、食道につなげたという方ともお話ししました。その方は食道発声を八年間練習しているが、母音しか出ないそうです。それでも教室に通うのは、練習もあるけれども、同じ境遇の方たちと接することができるからかなあ、と思いました。短い時間でしたが、食道発声しているかたがたと初めて接することができ充実した時間になりました。」(看護学生二年)

本当に学生の率直な気持ちが書かれていると思います。私も何回か参加させていただいているうちに、皆さんから、元気をいただいている、と思うようになりました。手術して四十年以上経過している方から、退院して間もない方、職場復帰してがんばっていらっしゃる方、畑で取れた野菜をたくさん届けてくださる方、そのほかにも、いろいろな病歴の方がいらっしゃいます。病気と向き合い、第二の声を獲得しようと、努力されている姿には心を打たれます。私たちは、皆さんの会の運営に協力する立場ですが、逆に教えられることがたくさんあります。今後も微力ではありますが、参加させていただき、何らかのお手伝いができればと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

耳鼻咽喉科病棟勤務で思うこと

信大病院東二階看護師長 丸山貴美子

私は平成十五年四月一日より新任の看護師長として今の病棟に配属され、この信鈴会と関わりを持つことになりました。このような会誌に寄稿することも初めてですので、少し自分のことを述べたいと思います。

私は昭和五十五年に就職し旧中病棟六階に配属されました。この病棟は放射線科、第一内科、第二内科の混合病棟でした。その頃は今のように看護部内で外来部門が独立していなかったので、病棟看護師が交代で外来勤務もしていました。私は放射線科の外来勤務をしたわけですが、ご存知の通り耳鼻咽喉科の患者さん方も診察治療にみえていました。耳鼻咽喉科特有の器械類もこの頃覚えました。

平成元年になり旧中病棟五階に異動しました。ここは第一外科、整形外科、歯科口腔外科の混合病棟でした。歯科口腔外科では耳鼻咽喉科と同じような疾患の患者さん方もいらっしゃったので診察治療に共通する部分もありました。

平成五年には中央手術室に異動し、そこでは耳鼻咽喉科の係を担当したため皆様方の行った同じ手術にも随分立ち会いをしました。この頃現宇佐美教授が就任されて、手術方法も随分変わりました。

平成十三年には集中治療部へ異動し、そして今回の異動となったわけです。思えば耳鼻咽喉科とはまったく無縁できたわけではないなと感じている此の頃です。

このように多少なりとも知識があってこの病棟に着任したつもりでしたが、やはり見ると聞くとでは大違いだということを実感しています。耳鼻咽喉科領域は人とコミュニケーションをとるために必要な機能をもつ領域であり、また外界からの危険を回避するための器官としても非常に重要な領域です。そして何より外見的にも音声的にも一目瞭然であるということです。喉頭摘出にしても、ただ単に病気になったから悪いところを手術して取ると一言ではいえない思いをきっと皆様方は持っていらっしゃるのではないかと思います。それだけに手術前の患者さん方はどうしてもっと早く病院へこなかったんだろう、もっと早く病気がわかっていたらと後悔の念を持ち非常に落ち込まれている方が多いような気がします。

このようなときに食道発声教室を見学にいかれた方の表情を見ますと、ぜんぜん違って見えます。病気や手術、その後の生活等に対して非常に前向きになっていらっしゃいます。それが手術後の目覚しい回復力に現れてきます。今野さんもよくおっしゃっていますが、声は失っても話すことを失うわけではないと実感されるのではないでしょうか。手術後放射線治療を行う方もいらっしゃいますが、長期にわたる治療の間も毎週外泊に生き生きとして出かけていく姿を拝見すると人として生きることのすばらしさを感じています。この教室には何か不思議な力があるような気がします。そのような信鈴会が三十五年という長い間活動を続けてきたということに改めて感動します。

毎日毎日が患者さんや皆様方から教えていただくことばかりです。本当に未熟で頼りない私ですが、継続看護での関わりとしても信鈴会とのつながりを大切にし、何かお手伝いできることがあればと考えています。これからも御指導をよろしくお願い致します。

信鈴会の皆様にお会いして日頃思うこと

伊那中央病院耳鼻咽喉科看護師 平沢久子

私が信鈴会の皆様と出会うようになり早や八年。教室活動には、ほとんど参加せず年に一度の納会に参加させていただく程度で、大変申しわけなく思っております。そんな中でも、時より外来を受診される患者様や廊下でお会いする方々に気軽に声をかけていただくと、大変嬉しく思います。

さて、日頃信鈴会の皆様と接して、常々感心させられることが多々あります。

まず第一に、手術を決断された勇気。声を失うことがどれ程大変なことなのかは想像を絶するものがあると思います。ある方に伺いましたら、病気を宣告された時は病院の屋上から飛び降りようと思った程ショックだったとか。しかし、息子さんに命と声とどっちが大切かと言われ、手術を決心されたとのこと。家族の支えは大きいですね。

つぎに皆様の努力。なかなか発声が出来なかったKさん。二年間かかってとうとう話せるようになりました。まだ驚くことに、その二年間、通うのに二時間近くかかる道のりを一回も欠席されたことがないとのこと。すごいですね。Tさんもなかなか話せず、外来に来られたときは筆談でしたのに、久しぶりにお会いしたら上手に発声器を使われ、もともと行動的だったTさんはこの間一人で東京へ行って来たとのこと。息子さんに、目も見える、耳も聴こえる、話もできるから行けるだろうと言われて、行って来たとのこと。どんどん出掛けてほしいです。そうすることが会員の皆様にもきっとよい影響を与えることができるでしょうね。

最後に皆様、夫婦仲、家族仲の良ろしいこと。コミュニケーションの手段は話すだけではありません。表情や行動からすばやく察している様子は、いつも一緒にいて「あうん」の呼吸の通じる夫婦の関係や家族のあり方だと思います。私も家庭を持つ身。考えさせられます。

これからも皆様、どうぞ仲良く、助け合って教室を続けていただき、より一層ご活躍されることを期待しております。

元気な信鈴会に感謝

長野市民病院4階東病棟看護師長 五十嵐君子

「会誌・信鈴、第三十号」発刊おめでとうございます。信鈴会の皆様には、いつもお世話になり、心より御礼申し上げます。

当院耳鼻科も開院以降六年が経過いたしました。多くの患者様が、信鈴会の皆様のご支援を受け、新たな「声」と共にお元気にご活躍されていること、大変うれしく思います。入院中の患者様も、同じ経験を通しての共感や、仲間がいることが大きな励みになっていることと思います。はじめは個室で過ごされることが多く、他の人とのコミュニケーションに消極的になってしまいがちですが、会員の皆様とのふれあいが、次に踏み出す大きな支えになっています。

当病棟では、現在、喉頭摘出術を受けた患者様の看護に生かすために看護研究を行っています。多くの会員の皆様にもアンケートにご協力をいただきました。本当にありがとうございました。少しでも患者様に喜んでもらえる看護を提供できるよう努めたいと思います。今後とも、ご支援よろしくお願いいたします。信鈴会のますますのご発展を祈念いたします。

ふたたび喉摘者の日常生活について

松本教室 田中清

かつて平成五年刊第二十一号の「信鈴」で、食道発声がいかに日常生活に役立っているかということを記述しました。喉摘者の発声方法は、最近電気式人工喉頭者が増加し、十年前の食道発声は約五パーセント減っています。日喉連の顧問であり大阪府立成人病センターの名誉総長の佐藤武男先生が、五年前大阪阪喉会創立五十周年記念出版で「喉頭がんはここまで治る」というガイドブックを書かれております。その中で喉摘者は複合障害をもっていると言われ現在の身体障害者三級を一級認定が相当だと考えられ、各種の団体会議等で力説され関係機へも説明されました。私が「信鈴二十一号」で書いた喉摘者の身体の欠陥は音声言語機能の喪失以外に次のことを書きました。

一 鼻がかめない

二 味覚が低下する

三 熱い物、汁物、麺類等を食べるに困難

四 気管孔が冷い、汚い、乾燥する

五 風邪を引き易い(重度の場合気管支炎)

六 入浴が困難である

七 気管孔が収縮する

八 ガス(屁)が溜まり易い

九 便秘になり易い(りきめない)

十 重い物が持てない

さて、最近新しい入会者が各教室とも増えています。各教室の指導員の皆様も大変であろうと思いますが、私は長い体験から新入会員に、まず日常生活のことを一人ひとりに聞きます。もちろん筆記用具で応えてくれますが、私は前述の項目「八」以外は食道発声以外では解決できませんと、皆さんにお話しします。「八」については私の場合は手術後体調が良かったせいか、摘出跡の肉が盛り上って次第に縮小してきてカニューレを無理やり挿入し血だらけになって息苦しさを防いでいましたが、最後は直径三ミリ程度となり、信大にて拡巾手術をしました。二月末松本教室で入会したものの、この為発声練習も一年近くできませんでした。拡巾後は順調でしたが、本体の喉摘手術が約一ヶ月半に対し、拡巾手術は二ヶ月以上かかりました。こういう現象は誰にでもあるとおもいます。が早めに病院で手術を受けた方がいいと思います。あとの問題は食道発声の吸引法を覚えることによって順次解消されてきます。参考に私は外出時には、夏でも必ずネクタイを締めます。これは外煙を防ぐためです。信大の場合入口の北側にタバコの喫煙場所がありますが、寒い北風の吹く時は歩くにも喉を押さえて息を殺して這入ります。それだけ煙草の煙は私共にとってつらいものです。いろいろ話した

いことはありますが省略して風呂について申ます。風呂はを洗ってシャワーを使っても絶対喉に水が入ることはありません。参考に私の入浴写真を掲載します。あとは喉摘者の吸引する空気の量は八〇ccといわれていますが、なんとか量を増加したいものです。最後になりましたが、声を再生させるには決して他力本願でなく自助努力で頑張りましょう。書きたいことはいろいろありますが会誌の都合上省略させていただきます。

第十六回東日本ブロック発声指導者研修会参加報告

諏訪教室 守屋一次

信鈴会年間事業の中に指導者養成教育と研修会への参加がありますが、近年同会においても指導者不足の問題が各教室より報告されております。私も今会参加のチャンスに恵まれまして研修会に参加する事が出来ましたのでここに報告したいと思います。

・平成十五年十月八日~十月十日

・横浜市職員会館いせやま会館

・主催 日喉連東日本ブロック

・当番主催 横浜市港笛会

・東日本ブロック参加県名 長野県信鈴会 山梨県喉会 新潟県美鈴会 神奈川県銀鈴会 横浜市港笛会 群馬県群鈴会 埼玉県銀鈴会 千葉県京葉喉友会 茨城県甦声会 栃木県小山発声友の会 東京都銀鈴会 一都九県合計四十九名参加

三日間に分けて講演、シンポジウム、フォーラムディスカッション、グループ討議、グループ発表、港笛会によるアイディアコーナー、東京銀鈴会ニュー指導員の意見発表などがプログラムによって進行しました。

パネルディスカッション

「正しい発声指導の為の工夫と努力について」「お茶のみ法から吸引法まで理解と実際の指導の確立は」以上のテーマについて二日目に四名の代表者が十五分の受持ちにより発表を行いました。私も信鈴会を代表して長野県の各教室の現状を話し、現在指導している様子をスピーチしましたので発表します。

長野県は全国で四番目に広い面積を有し教室も五ヶ所有ります。松本、伊那、佐久、長野、諏訪。松本信州大学附属病院を中心に各活動を行なっておりますが、長野教室においては、三ヶ所以上の病院より会員が生れ月三回長野教室へ遠くは二時間以上かけて通っています。また伊那教室においても、南北に地域が長く教室への参加に数時間かけて通っており、各教室も交通事情及び年齢等を考えると教室の増設や発声指導の方法を考えなければいけない時期に来ていると思います。

次に指導者育成の問題ですが、各教室合わせて十二名おりますが、平均年齢が高く各教室の活動も思うにまかせない状況です。

以上の説明で長野信鈴会の現状が見えて来たと思います。

それでは指導方法の手順を少し話してみます。

初めに会員の方が教室に入って来た時にはまず明るく「こんにちは」と声をかけます。その声を聞いた会員の方は必ず相手の顔を見る事でしょう。そしてあなたも練習をすれば声が出る様になりますよと言いながら説明を始めます。

第一にゲップを出す事を覚えてもらいます。その方法についてはお茶をのむ方法又はリンゴを食べる事キュウリモミを食べる事などそれは食道へ空気をためる訓練をすれば良いのです。そうする事でおなかに空気がたまり上か下に空気が出るはずです。

ゲップが出る様になれば次に続けてゲップを二回三回と出してみる事「吸引法」それが出切ればもう初心者は卒業です。次にゲップを声に変える事を行います。-ゲップのゲを長く言います。ゲーゲー、この方法を繰り返し行なうとゲーからエが生まれます。するとこうなります。ゲーエーエの時に少し力をいれてゲーエッゲーエッゲーエッ練習を続けましょう。数日・数週間・数ヶ月、練習を続けましょう。自由にいつでもゲーエッゲーエッが出せる様になったら次はアイウエオの練習に入ります。アーアーアーイーイーイー

この様に初心者と共に練習を重ね、一人でも多くの人に声を取りもどして明るい人生とするためには、指導者及び会員一人ひとりが「諦めない」「負けるものか」「やる気」を失う事なく頑張りましょう。

以上の説明で発表を行ない、研修会で感じたことは一人ひとり手術の状態が異なれば発声方法及び指導方法も違い、病院との情報交換を密に行なう事が必要である事を感じました。

発声教室二十年の思い出

諏訪教室 小林政雄

私は昭和五十四年信大病院で喉頭ガンの手術を受けましたが、一月から六月まで長い間の長い間の入院でした。病室の近くに食道発声教室が有り見学が許可されましたので度々見学に行きましたが、声帯が無くても教室の皆さんは良く声が出ていまして本当に驚きました。ですから私は退院したならば必ず声が出る様になると思い安心して入院する事が出来ました。しかし、私は非常に悪い状態で手遅れの為に、先生の三回の手術の結果、約五ヶ月の入院で退院することができました。私の大切な命を守って下さった先生に深く感謝しています。退院して直ぐ信鈴会に入会して一日も休まず教室に出席して一生懸命に勉強して割合早く発声が出来る様になりました。指導員の皆さんの熱心な教え方の為だと思います。そして翌年第一回オール日本食道発声コンテスト大会が東京の銀鈴会で行なわれる事になり私は会長から指名されて出場しました。予選では合格しましたが、決勝戦では十位の中には入りませんでしたが非常に良い大会でした。そのお蔭で第三回の大会では第二位と入賞して表彰状と銀メダル及び賞金を戴きました。そして、私は第一回の出場の後に松本教室の指導員となり会員の皆さんと一緒に勉強して食道発声で充分世間に通用する様になり何か前途が明るくなってきました。そして、松本教室で皆さんと一緒に勉強して二十年間病気もせず健康でした。その後諏訪教室が出来て十年が過ぎました。両教室の指導員として会員の皆さんと共に勉強して居ります。諏訪教室は月に二回、第一と第三火曜日ですが、私は平成十三年から松本教室を身体の都合でやめて諏訪教室だけに出席して勉強して居りますが、皆さん熱心に毎回集ってくれて良い発声教室になって居ります。私達にはこの食道発声が唯一の発声でして世間に立派に通用しますし、不自由はありません。しかし、その陰には病院の先生及び看護師さんの皆様の協力に依り成り立っております。諏訪教室の一番良いところは高木先生の発声ビデオで発声の原理を説明して下さり、さらに色々の発声の話をして下さいます。初めて教室へ参加した会員の皆さんから発声の出来る会員がおりまして、話を聞くと先生がビデオを見せて説明をして下さったお蔭である程度のことが解り発声が出来る様になったと話してくれました。ですから、諏訪教室の会員は平均に発声が早い様な気がします。退院前の一番大切な時期に大事な事を指導して下さり、本当に先生に感謝しています。現在の諏訪教室は会員皆様本当に良い教室で勉強が出来ると思います。今年も更に良い教室になる様に頑張ってゆきます。今私が思う事は、私達の様に声を無くした者が家庭でも職場でも気持ちよく生活が出来る事が人一倍の努力と気持ちにあると思います。少々発声が上手でなくとも諦める事なく元気で生活する事が大切だと思います。そのうち必ず発声が出来る様に信じて生活をしてゆけば必ず良い結果になると思います。会員の皆様どうか今年も頑張って無理をしない様に良い年になる様にして下さい。私も出来得る限り頑張って教室を守ってゆきたいと思います。

伊那教室での三年間

伊那教室 大平洋泰

信大病院を平成十二年五月に退院し、伊那教室に入会して早や三年を経過しようとしています。入会当時、藤本・矢崎指導員での食道発声訓練が行なわれていました。食道発声の基本、訓練の連続性への根気と努力の必要性をたっぷり指導を受けましたが、なかなか訓練での成果が出ず、発声が出来なかった事を、反面、会社を運営していましたので、得意先との関係、従業員との意志の疎通が出来ず、とにもかくにも発声出来る事が第一と、まず、器械発声でと、短時間の訓練で発声出来てほっとした事を思い出します。その後この器械での発声で会社の運営が順調に維持できたのも過言ではないと思います。私が入会して一年後、教室の責任者であった藤本さんが年齢を理由に辞めて、後任に私がやむを得ず引き受ける事になり二年を過ぎましたが、この間に器械発声の重要性を感じて現在では出席者七~十名で、本人の希望により、食道発声の指導を恵下先輩で、器械発声を渡辺指導員で行なっています。ただ基本的には食道発声が我々の本来の発声であるのではと考え、器械発声訓練後も本人の条件が整い次第、食道発声の訓練に重点を入れて行きたいと考えます。

又、昨年五月に、伊那中央病院が新築移転し、病院の配慮により新病院での教室で訓練が出来ます事を会員三十名感謝すると共に、あらためて御礼申し上げます。

上小楽今日喉友会

佐久教室 佐藤武男

臼田の佐久発声教室が遠いとか、発声中心の会が苦手という方も何人か居られて、発声教室の参加者も次第に少なくなってきました。

そこで、上小地区の会をもってはと、表記の会を一昨年発足し、今までに上田市のささらの湯、武石村の美しの湯、立科町の権現の湯で行ないました。会員は、喉摘者は十名、その奥さんが六名で、会の参加はだいたい九名位です。

会の目的は、親睦一日一日を楽しく、生きる力を互いに養うことであり、会員は上小地区を主とし、会の目的に賛成する喉摘者とその家族。役員は無しとし、又会費も無しで、各行事ごとに実費を割勘とする。年二~三回の日帰り温泉などで会合するとしています。

今年の三月下旬四回目を計画中です。会の名前は、私の郷里の富山県に細入村というラッキョウの名産地があり、そこにある村営の温泉楽今日館よりつけました。

残念なことに、会員でいつも参加いただいた和田村の田中さんが昨年八月に亡くなられ、私も九月喉部の癌孔の奥より大出血、場所悪く手術不可能で、輸血、点滴一ヶ月、辛うじて一命をとり止めました。今は出血もせず、ほっとして居ますが、静養中です。まだまだ目の玉が黒いうちは何とか楽今日会を続け度いと念じて居ます。

この会は、佐久発声教室とは無関係ですが会員のなかで佐久の方にも出かけようという方が居られたら良いと思っています。会員のなかで佐久発声教室の会員は五人居られます。

とにかく皆老年となり、遠出が難しくなってきましたが、何とか頑張り度いものです。

うれしい日記

信大教室 上條和男

寒風の中をつき差す春のかすかな暖かな太陽の光をあと何回味わうことが出来るのか、一年一年が早く廻るように感じる齢になりました。

世の中不景気で暗い話ばかりの世相ですが、せめ!て自分自身一日に一つ位は「うれしいこと」が探せば有るのではなかろうか、そう思いたち、生まれて初めて日記帖なるものを買い求めた次第です。「うれしい事日記」をつける決心をしたのです。

昨年の正月元旦、記念すべき第一日目は私と息子、そして孫の三人で祖先の墓へ初詣が出来て良かった。二日目は天気が良くてうれしかった。三日は暖かい日でうれしかった。四日目以後はもう白紙が続います。三日坊主とはよく言ったものです。それもギリギリ続いてあとはもう食い物のことばかり。隣の家の漬物が旨かった、又偶然入った食堂のソバがことのほか旨くてうれしかった、だのほとんどが食い物のことです。それでも良くしたもので、朝顔のツボミがふくらんだことや、六月に自分が育てた胡瓜が夏のニオイがしてうれしかったり、ヒマワリとコスモスの移り替わりを感じてよろこんでいたりしました。

そして昨年一年を通じて一番うれしかったことを記します。十一月の寒い日、小生鼻の手術を受けたときのことです。国立松本病院の手術室はバックミュージックが流れていることを初めて知りました。軽い手術だそうですので、局所麻酔で受けました。麻酔薬の付いたガーゼを鼻の中へ次々をつめ込み、Dr.曰く、「麻酔が効くまで俺チョット、ションベンしてくるわ。」しばらくして手術が始まり、メスが鼻の中をかけめぐり、ゴリゴリ、ガリガリと切り取る音が頭中をかけめぐりました。それこそ恐怖で小便をチビリそうになりました。そして術後三十分もしないうちに麻酔が切れ痛さが顔面中をかけめぐりました。その時、一粒の痛み止め薬がすっかり痛みを取り去ってくれた。そのうれしかったこと、一年を通して一番だと思いました。

極度の痛みと極度のビンボーは人格までも変えかねません。この不自由な身でいかに自身へ仕えてみようか、この身でも他者へ何か与えられるだろうか。一年の日記に自分自身の感情がギッシリつまっていました。

けっこう、うれしい事は有るものです。今年も飛び飛びですが続けております。来年も信鈴に出稿出来たらうれしいな~。

閑人日記

諏訪教室 山本藤雄

某月某日_咽喉ガンの宣告

春先から喉に異常を感じ美声も枯れ気味!おかしいぞと開業医の門を叩くと即紹介状を渡され素直に紹介先に行くと更に紹介されたのが信州大学附属病院耳鼻咽喉科外来。約一時間余りの検査の結果を女房と共に伺うと「よくぞ此処まで放っておいたものですね、声帯の周辺にガンがあります。一日も早く除去しないといけませんね。放射線の照射や抗がん剤の投与では責任が持てません。」との宣告。「声帯はどうなりますか?」「切除する事になります。」「やっぱり大変なことになったが覚悟するしかないか!」「原因はなんですか?」「酒とタバコです。」「参ったな、これで酒もタバコもおさらばか、つらいが自業自得諦めるしかないな!」といった具合で入院が決まり声を失うハンデを背負う事に決心した。

某月某日_手術!

いよいよ手術というのに何とも緊張感が生まれてこない。不思議だ!事前のブリーフィングのせいか全てお任せの心境、家族が呆れている。手術室に入るまでは覚えているが気が付いたら個室のベッドの上、その間四~五時間も経過しただろうか、傍らにいる女房に「今何時だ?」と声をかけて気が付いた。全く声が出ない「アアそうかと...」それにしても麻酔が切れても余り痛みを感じないし「それより腹が減った!」と手真似したら看護婦さんも家族も大笑いしていた。「手術は完全に成功したし、後は先生や看護婦さんの指示に素直に従って大人しくしなさい!」女房の一言が妙にきつい一日。

某月某日年越し

微かに夢見ていた我が家での新年はあっさりと却下され実にわびしい年越しになる。十八歳のころ虫垂炎(盲腸炎)で入院した事があるが、以来病気らしい病気をした覚えのない人間にとって何とも形容しようのない寂しさだ!それでも「経過はすこぶる順調でこの分だとそう長くは病院での生活は必要ないと思って結構です。」とのお話を聞けて「まあ仕方が無いか!退院後に改めて新年を祝おう」と、それにしても紅白も除夜の鐘も何時もとは全く違った感覚で耳にし目にした。

元旦!初詣にも行けず終日ベッドで過ごす。入院の身にとっては当たり前の事と割り切ったつもりだがやっぱり寂しい!

某月某日

「三日後に退院ですよ!」看護師さんの明るい声。一瞬「え...」と耳を疑ってしまう。術後の経過はすこぶる順調で退院の日が近い事は承知していたもののこんなに早くその日が来るとは、正直言って青天の霹靂、心の中で万歳を叫ぶ。誰もいなければ病室中を飛び回りベッドの上で喚声を上げたい気分だ。早速、女房はじめ家族に報告すべくFAXを送る。退院後の生活指導や経過観察の通院のこと等こまかなブリーフィングを受け「あと三日、あと三日」と声無き声で叫びながら身の回りの整理に入る。

退院の朝、看護師の皆さん、病室の皆さんにお礼の挨拶を済ませ病棟を後にする。何か後ろ髪を引かれる様な妙な気分!残った人達の一日も早い回復を願いながら家路につく。夕刻、祝いの膳を前に家族に心底からありがとうと感謝し健康であることの幸せを噛み締める。「サア!明日からリハビリだ!発声練習だ!頑張ろう!」

某月某日_IT講習

市のパソコン初級講習の募集に応募し以前から興味のあったパソコンに手をつけることになる。「デスクトップ」「マウス」聞いた事のない言葉が飛び交いチンプンカンプンのスタートから徐々に理解を深め何とか初歩の操作やその内容を確認できるようになるに従い、更にその先にあるものを身につけようと今はすっかりパソコンの魅力の虜となってしまった次第。勿論、発声の勉強が何より大切な事は百も承知ですが...?

某月某日

私の若い頃の仲間は全国に散在していますが、齢七〇を過ぎて今尚年に一度の同期会を開いています。今年は、その仲間に賀状としてパソコンでメールを送ったところ何とほぼ全員からメールで返事が来て驚くと同時に以前に増して交流が深まったような気分です。(因みに同期生は四七人が今尚健在です)

また、日頃から迷惑ばかり掛けている女房の為に家計簿の整理を引き受けたのもパソコンのお陰、パソコンの前に座ってキーボードを叩きマウスを操作していると時の経つのを忘れてしまう事も珍しくないこの頃です。今はもう一歩進んだ「表計算」の勉強をしていますが、さてどうなる事やら?

諏訪の発声教室のお世話になって三年余り、途中で体調の異常等が有ったとはいえ、全然進歩の無い不肖の生徒で先輩の皆さんの親切なご指導に報い事が出来ず心底から申し訳なく思っておりますが、今年こそは「発声練習第一、パソコン二の次」と「兎に角発声に努力を傾注して」と考えております。(虚言に終らねばいいんですが?)

健康維持のために、今はスキーを楽しんでいますが間もなく緑の絨毯の季節がやってきます。七十の手習いで発声もパソコンもスキーもゴルフもと欲の深い人間ですが、これからも宜しくご指導の程をと願っている昨今です。

支え合う心

諏訪教室 岩波博昭

こんにちは諏訪の岩波でございます。

この度は原稿提出を機会に紙上をお借りしまして、お世話になりました先生方、看護師の皆様に心からお礼を申し上げます。

お陰様で私は病気らしい病気一つせず今まだ現役で頑張っております。病気の事など忘れ無我夢中の日々、気が付いてみればあの悪夢から九年が過ぎておりました。私には大勢の仲間がいます。そう自分に言い聞かせながら月二度のリハビリ教室に参加させて戴いております。人間ですから誰しも落ち込む事もあるでしょう。私も仲間から何度助けて戴いたことでしょうか。声も出ず途方に暮れている時など色々アドバイスをいただき、勇気と希望を与えてくれた仲間先輩の皆さんには心からお礼を申し上げま

す。

そんな楽しい中、お世話になった先輩の明りが一ツ消え二ツ消えてまいります。九年間短いようで長い九年間、一緒に歩んだ道程でした。心からご冥福をお祈り申し上げますと同時にこの世の無情を感じます。そんな中、新しい仲間が教室を訪れてまいります。私も先輩の皆様のご指導を思い浮かべながら、仲間を大切にリハビリ教室が本当に楽しい、そんな雰囲気つくりに和と協調性の精神に徹し仲間と頑張ってまいりたいと思います。

同じ仲間でも早く声が出る人、なかなか声が出ず苦労している人、また、声が出ても小さく聞きずらい人、病気手術等でさまざまです。途中嫌気がさし、又病気がちで教室から遠ざかっていく人、そんな時言い知れない侘しさ寂しさを覚えます。この病気にはまだまだ数え切れない茨の道があると思います。仲間の皆さん、今一度初心に返り、あの時あの頃を忘れることなく、助け合いながら頑張ってまいりましょう。

各教室が盛り上がれば自ずから信鈴会もより以上の活気、盛り上がりが生まれる筈です。私達はそれぞれ手術後、健康も、生き方、生活、道も違います。また、公私共に忙しい時間であれば尚更のことリハビリ教室の時間を大切にしたいものです。諏訪では優れている日赤の先生を始め看護師の皆さん、素晴らしいスタッフに囲まれ、日々頑張っております。

最後に信鈴会も前会長の後、新しい役員の皆さんも色々と大変だと思いますが、自信を持って会の道導を捩りつけると共にくれぐれもご自愛なされご活躍下さい。 それでは又会える日まで

過ぎし日々を振り返って

長野教室指導員 小林正一

新しい年を迎えて、今年も一年間自分も頑張り、教室の皆様との交流も、一生懸命勉強していきたいと思います。最初の頃は、なかなか思うように声も出ず苦労しました。人に指導するということの難しさも日々痛感しております。同じことの繰り返しを何度もなんども、回数を重ねて頑張ってきました。自分の好きな言葉は「努力」この二文字です。今後も初心を忘れず、教室の皆様と一生懸命頑張って行きたいと思います。

年輪

長野教室 鈴木ふさ

声を無くしてもう三十年になるのか、なんて時々思う今日この頃です。なんで声が出ないの、都合が悪いナ、ノドだって痛いわけでもないのに都合が悪いナ、自然と声が出なくなってしまった。

終戦になって満州から兄達家族が引き上げてきて、その後も姉達そしてもう一人の兄達も引き上げてきて、とにかく多勢になって食べ物も不足だけどタキモノにも困ってしまった。毎日三度づつタキモノ集めに山へ行ってきた。買っておいたマキもすぐに終ってしまう。引き上げてくるものも引き受ける方も本当に真剣だった。

長野日赤の浅輪先生から全国の看護婦さん達の集会があるのでとのお話があって、お手伝いする事に、といっても結局は自分のことなので、毎日の発声練習もチカラが入っていた。ある朝突然「ア」の原音が出たとき「これが声?」「自分を見つめる思い」だった。「つづけて出るか」と、思いのほかなかなか出ない、何度も繰り返しても思うようにはいかない。でも止めたら「オッチ」になってしまう、いろいろなことを思いながら、でも練習しなくては駄目。

三年後の懇談会に出席して、二等賞を頂いた時は全く思いもよらない出来事でした。今、思い出してみても三十年以上も昔のことです。私の出来ることなら何でもと、月三回の教室に参加させていただいています。 (十二月十六日)

病歴回顧

長野教室 宮島厚

喉摘出手術を受けたのは、平成九年の五月二十一日ですから、もう六年半を経過したことになります。声を失う手術を受ける前にも様々なことがありました。その三年前になりますか、菩提寺の御施餓鬼に参加するために便乗した車の中で、親戚のものから「風邪ひいているの」と声をかけられ、自覚症状も何もないから「どうして」と問い直すと「声がおかしいよ、枯れた感じだよ」と言われましたが、苦にもしないで幾日も過ぎましたが声の状態は変化ありません。

そんな状態の中で何気なく、一度耳鼻科の診察を受けておこうかと考えたのが、以後三年を越す闘病の始まりでした。町の耳鼻科では少し荒れているから洗浄すればといわれ、週二回のベースで一ヵ月半通院しましたが、声の調子は変わりません。

その頃友人から上田の国寮に毎水曜日、信大の耳鼻科の先生が診察すると聞き翌週出掛けました。国寮では何回も口を開けさせられ診察されましたが、最後に取れない、小諸の厚生病院に連絡しておくからと言われ終わりました。

小諸の厚生病院に行ったのはその年の十二月半ばでした。一通りの診察が終ったところで女医さん、一月始め三泊四日入院の準備でお出掛けください。年が改まって四日に入院、初日はなにを検査されたのかわかりませんが、二日め上半身裸で診察室へ、肩に何か刺されたような感じでしたか、あとは何もわからず病室のベッドで気づきました。「十七日に来てくれる、検査結果がわかるから。」と言われ退院しましたが、正月以来断酒後の酒の味も一味落ちる感じでした。愈々十七日家族と共に病院に、診察室で待つ三人に女医さんはニコニコ顔しながら、「僅かにあることはわかったわ。せっかくわかったのだからこの際取ってしまったら、臼田でも長野でも紹介するわ」その笑顔と声に誘われ「ハイ長野にお願いします」。

紹介された日赤長野病院に行ったのは平成七年一月十九日その日、来週月曜日に入院するよう申し渡され、断層写真やら心電図、そして放射線のための防護面作り等あって帰りました。次の週二十三日から入院、月曜から金曜日までコバルト六十の放射治療を、土日は休み都合三十三回かけて病症は消えて退院しました。唯二ヶ月に一度診察が条件でした。当初考えたより痛い思いもせず、日数のかかったことを除けば、そんな思いが心配をかけた家内に隠れて、たまには喫煙する不届きな行為につながったのかも知れません。それでも退院後一年は旅行もせずにおりましたが、それを越えると遊び心ぼつぼつ、一泊二日程度からJRのお座敷列車で関東などに出掛け、おだてられカラオケで絶唱したこともありましたが、

丸二年目の診察でアウトの宣告、こんどは放射線治療はダメ、切除以外の方法なし、覚悟を決めました。手術に向かう朝、家内と息子たちが「いやに落着いているではないか」などと言ったことを思い出します。落着いているのではなく、諦めきった気持がそんな風に見えたのでしょう。これで冒頭の手術になりますが、声を失う前にも発声教室に伺ったことがあります。手術前ですから声は当然出ます。その声を聞かれて「それだけ出れば手術は要らないではないか」などと教室の中から言われました。

その後声を失い健常者と専ら筆談、その内に面倒になって、健常者との会話を避けるようになりましたが、同じ立場の教室の仲間に教えられ積極的に会話のなかに入るように努力しています。尤も喜寿を越え歳に不足はありません。声がまともでなくて笑われても痛痒を感じませんもの。

筆談を一切やめて

長野教室 小林昭一郎

皆々様が苦労して信鈴会を開設されて早くも三十年余にもなり、日本喉摘者団体連合会、全国のリーダーシップで苦労なされ今日があります。日赤御当局を始め歴代会長さん又指導者の苦労に対し感謝致しております。私達も一日も早く食道発声猛訓練して、会話が出来ることがみんなの願いであります。私も冬期間教室へ休まず出席して、発声訓練に励み皆様のように成りたいです。朝教室に入って皆様の元気な顔を見ると懐かしいやら嬉しい気持になってホッとします。自分なりに練習し若干話が出来るようになり、近所の商店などに用に行くと、大分声が出るようになったといわれると、「よし、頑張ろう」と思います。私は元より筆談ばかりやりすぎて、発声を遅らせたことをいまさら思い、筆記用具を持たないことにして、食道発声に全力を尽くすことにし今練習中です。

「あなた、ならどうする?」

長野教室 山浦重成

師走、息子夫婦は出張で孫二人と共に留守、毎日のことだけど、少々お酒をいただいてゴロリとテレビなど見ていたら、TELコール・・・友達からの誘いかも・・?「出たら」女性の声...良子チャン居ますか?同じ歳ぐらいと思われる彼女は盛んに声を張り上げて・・。"居ません"この声が届かない・・・!代わってくださいと言う。実は私の妻良子は平成三年五月に子供達三人にそれぞれ遺言を残し、夫の小生にはゴメンナサイ、言い残してこの世を逝ってしまった人です。大学生の長男と社会人一年生、高校生の男ばっかり・・・忘れていたことを想い出した。妻は居ませんの一言が通じないことの悔しさで何故俺は・・・。マイナス志向かしら・・・? 今日本の国はイラクへ自衛隊をどうするこうするやっている。派遣することになっても皆さんの無事を祈る。二才の時だと聞いている。俺の親父は二次世界大戦で戦死。母二十九才、一人息子の俺は又出来の悪い子で、高校生、タバコ吸って親が学校へ呼ばれたり・・・!社会人になれば国鉄職員、二十年ほど頑張ったら民営化の嵐・・・退職して土建屋へ就職、長男、次男が結婚して・・・そろそろ還暦。三月末退職、四月一日手術、味覚も香覚も...面白くも何とも無い。発声教室へ通うけどいい声出ないで。何か趣味などと思ってパチンコ通い、連日負けて・・・これもまたストレス。それでもネ月に一度位一人旅・..温泉に行って絵手紙書いて、気に入った皆さんへ届けるの・・・お世辞を言われてその気になって・・・これもまた人生、どっこい生きて行く。

北京の天安門広場

長野教室 小林栄

一九八四年(昭和五十九年)四月二十八日午後二時頃、中国北京市の中心、天安門広場には折からの弱い西風をうけて、雲一つない青空に二、三十枚の「たこ」が揚がっていました。日本と違って四角な「たこ」や「奴だこ」はなく、半分は羽根を広げた鳥をかたどったもの、黒い大鷲、黄色なカナリヤに似た姿など、中には風に乗って「ピイ、ピイ」「チイ、チイ」と音を立てるものもあります。あとの半分は龍の姿をして、頭を緑色にして角をはやし、長い緑色の尾を風にひらめかしていました。揚げる人は糸を操って「ドイタ、ドイタ」と叫んで風を受けて右に左に移動する。北に天安門、西に人民大会堂など、周囲に高い建物がない広場は格好のたこ揚げ場所、晴れていても風がない日は駄目だそうで、私たちはしばらく人混みの中に入って眺めていました。揚げているのは六、七十歳の定年退職したらしい青い詰襟服を着たおじいさんばかり、平日でしたから若者はいませんでした。めずらしくゆっくり青空を見上げてみました。

一九九一年(平成三年)九月三十日午後七時過ぎ、広い天安門広場は何十万の人で埋めつくさていました。天安門は明るい光をあびて浮き上がっています。建物は周囲のすべてがイルミネーションで飾られて輝いていました。私達は広場の西からマイクロバスで入りましたが、東西二車線だけは交通整理の警備員によって確保されていましたが、バスはすべてストップ。国慶節の前夜祭ですが何も行事は行われません。ただこの光の交錯する景色だけを見に来るのです。腕を組んだ若いカップル、ガーデントラクターで父さんが運転し、荷台にじいちゃん、ばあちゃん、母さんに子供を乗せた一家、中学生らしい男女数十人のグループなどなど、皆早口におしゃべりしながら人混みの中をただ動いていました。明日は休日なので皆華やいで平和を楽しんでいる様子です。私たちはイルミネーションに彩られた北京飯店でユーターンして、もう一回長安街を通ってゆっくりと北京の夜を楽しみました。

一九九五年(平成七年)もう一度秋に北京を訪れる予約をしたときに、喉頭がんで手術になり三回目の北京行きはキャンセル、入院になってしまいました。二〇〇三年十一月二十八日

第二の人生の始まり

長野教室 大久保一成

この歳になるまで入院したことも手術を受けたこともないのが自慢だったが、平成十五年六月声がかすれたり食べ物の通りが悪いといった症状が出てきたので、最初は風邪かなと思ったりしたが、とりあえずかかりつけの病院(内科)へ行って診察してもらったところ、耳鼻科へ行って診てもらいなさいと言われ、長野日赤の耳鼻科へさっそく駆けつけ診断した結果すぐ入院、超音波、CT、MRI、細胞診などの精密検査をし、後日家族が呼び出され告知された。まさか俺が?悪性腫瘍のガン?「頭の中が真っ白」になり、運命の一寸先が真っ暗と成りました。俺だけはガンになるはずない、と高をくくったのですが・・・。主治医の話では治療は手術で声帯を取って、放射線による治療も行うと言いました。声帯を取ったら声が出ない、社会生活、職場への復帰も出来なくなる。誰しもが喉頭摘出手術を勧められても決心のつくものではありません。声が出ないなんて今まで考えたことがなかったものですから、不安な気持どこかへ逃げ出したい心境でした。そんなある日、空気を飲み込んで食道に溜め、胸や腹の筋肉を使って声を出す食道発声や、人工喉頭という電気振動で声を出す方法があるので、訓練すれば大丈夫だと説得されました。そして病院の中に発声教室があるので、ちょうどその日が訓練日ということで看護婦さんに連れて行っていただきました。皆様の発声訓練の様子を見学し勇気づけられ決心した次第です。十月の中旬から会員として教室に毎週金曜日に参加させていただいていますが、一日も早く食道発声法を習得し第二の声を取り戻し、これからの人生を楽しく過ごしたいと思っています。新しい年、今までになく心は奮い立つ。一度はあきらめかけていた小生に、第二の人生が始まっている。

病気になって・・家族、病院、先輩たちと私

長野教室 小林勤

平成十四年十月、左首にしこりができ、かかりつけの医院から北信病院耳鼻咽喉科へ紹介され、下部咽頭癌及びリンパへの転移と告知され、今年の一月に長野日赤で手術を受けました。手術後北信病院に戻り放射線治療をして今にいたっています。小さくなった食道のため時間がかかる食事と、声の出ない辛さは日々身にしみています。でもそんな中、娘の高校入試の朝、激励の電話をしたとき最初は切られたが、二回目に娘が「さっきの電話、おとう?」(今日、がんばれ!)「うん!わかった!頑張るよ」の声が聞こえた時の嬉しさは忘れられません。新潟に住む長男夫婦からも励ましをもらいます。北信病院の先生、看護師さん、手術をしてくださった長野日赤の先生、看護師さん、そして何よりも発声教室のみなさんから、たくさんの元気をいただいて頑張ることができました。励ましてくれる宇野女さん、温かく見守ってくれる鈴木さん、直江さん、元気をくれる宮下さんご夫妻、内山さんご夫妻、発声教室の全員の皆さんに支えられこれからも、ゆっくり少しずつ進みたいと思います。ありがとう皆さん。

信鈴会長野教室の皆様に

長野教室 荒井茂

私は信鈴会長野教室の皆さんに、お世話になったのは平成十三年度からです。それから現在にいたっております。会長さん始め会員の皆様には、大変に色々と面倒をおかけして誠に申し訳なかったですが、よくやってもらいましてありがとうございました。それから実は入院中退院近くに、発声教室を見学させてもらいました。その後千曲市の故石川さんが病室へ見舞いにきていただいて、退院したら教室へ出席して頑張って発声練習をやれば、きっと食道発声ができる様になるから(俺も頑張って練習したかいがあって、食道発声が出来るようになったのだから)。荒井さんも頑張ってやれば早ければ六ヶ月くらいで、おそくても一年五ヶ月ぐらいで片言の会話が出来るようになるからと、教えていただいたので、頑張りと根性でやりましたが、頑張りがたりなかったので器具に頼るような姿になりましたのが、残念ですが仕方ありません。皆様は根性と頑張りで食道発声が出来る様になることをお祈り申し上げます。頑張りと根性できっと発声が出来るようになることと思います。私は色々の関係で器具で会話をしていますが大変不便だと思います。器具は現在の会計さんの松山さんに相談して、市役所の障害福祉課で色々と世話をしてもらって手続きをしてもらい買いました。色々と困ることは、敬老会などの役員をやっているので器具を買いました。それでも器具を使用して会話ができるので、最近市役所に用があって行きましたが、お蔭様で(器具ゼロボックス)だけで用が足りました。本当に嬉しかったです。これからも長野教室の発展と成功をお祈り申し上げます。内容は整っておりませんがよろしくお願い申しあげます。皆様も体に気をつけて頑張ってください。よろしく

多少の不自由あれども「いまの健康」に感謝!

長野教室指導員 直江兼弘

喉摘出後三年を経年。家族をはじめ多勢の方のお力添えのお陰で、まだ多少の不自由はあれども、日常生活上の障害負担は思ったより軽症で健常者に近い生活をしている。思えば退院直後、音声での言語活動の出来なかったことはもちろんのこと、食生活も熱いもの(摂氏六十度以上)そして胡椒、唐辛子やわさびなどの刺激性のもの、食パンなどパサついたものなど食せなかった。また大好物の麺類はツルツルとすすり込むことはできず、スパゲティのようにフォークの先に丸め絡めてしか食べれなく、麺類を食べている実感は湧かなかったものだった。服装は首根に開いた気管孔を気にしながら、ネクタイをしたりスタンドカラーの襟付きシャツに変えたり、入浴は浴槽に全身を沈めることが出来なくなり、洗髪でも常に気管孔に水が入らないように心がけ、又ゴルフ場の風呂のように大衆と一緒の利用は躊躇する等のほか、軽い運動でもすぐ動悸や息切れするなど、声を失った喪失感、負担感は筆舌できない辛いものだった。

この苦難からの脱出は、何はともあれ代用音声(食道発声など)を得ることであり、このために腹筋を強くし腹式呼吸を会得することから始めた。その後、手術個所の皮膚が強くなってから「お茶のみ法」「注入法」等による食道発声に挑戦。それも楽しくやろうとシャボン玉(あまり良い方法でないようだ)、ハーモニカを吹いたり、又女房のハーモニカの伴奏やカラオケのビデオを買って毎晩歌いながらの練習のほか、一人ホテルに泊まりこんで徹底的に発声練習してみた。

好きなラーメンを美味しくしかもすすりこむ音を立てて食べて見たく、コップに水を入れストローで吸い込んだり、息を吐きながら泡を作ることなどを一日数百回を一ヶ月続け、今では健常者と変わりなくツルツル食べれるようになった。まだ軽い運動での動悸切れ、熱いものを食すること、少し雑音のある中での会話などで思うに任せないときもありますが、まずまず健康で人生をやれることにありがたく感謝致しております。 喉摘を余儀なくされた仲間の皆さん、皆で協力励ましあって代用音声を早く会得し、毎日が楽しく過ごせるように頑張りましょう。

仁之倉の昔語りの一考察

長野教室 小林昭一郎

昔から口伝、寝物語、書物などによって、後世に語り継がれてきたことは申し上げるまでもない。元禄時代について若干まとめて見ました。信濃の国は十州と唄にありますように、松本藩主、水野忠直。松代藩主、真田伊豆守。飯山藩主、松平遠江守。上田藩主、仙石越前守の四大名が中南信方面、高井、水内は松代、飯山の両藩主が自領に近いところから受け持つようになった。徳川幕府は諸大名の領地を監督、基幹を合わせ天領、いわゆる幕府直轄の領地、全国には有名な御天領が数多くあります。飛騨の高山とか能登の輪島などは大観光地であります。旧柏原は規模は小さいが天領であります。信濃町には大字は旧村々で十村位あります。

三~四百年も前のことですが、大庄屋の努力があって、その条件に合致した仁之倉の大穀倉地があり、昔から米一升、金一升とか又小泉総理が引用した米百俵とか、当時は米が生活の中心であった。因に戸数は八十四戸位で、T字型の集落で、寺もあり鳥居川という造り酒屋があって住み良い集落でした。幕府は天領地である中野に代官屋敷、陣屋を置き当時の代官は鈴木源内氏であった。当地へ中野から見分に参り、庄屋、村役人らと会議を重ね政治を執ったことでありましょう。明和元年(一七六四年)中野代官が村々を回って十四か条にわたる布令を申し渡した。「荒地の復興、新開できる場所や可能地は早速願い出よ。検地後の農地の開発を隠さず報告すれば去年までの年貢は免除しとがめない。手代を派遣し見分吟味させる。また蚕を飼わない村には蚕を飼え。草履、草鞋そのほか、相応のものを商いして生活の助けとせよ」他に山林の維持管理など幕府は農政に力を入れていたようであります。特に新開地を隠し、お上の土地に隠し作りなど再度検地を受け又年貢を納める布令を申し渡しました。

宝暦五年(一七五一年)二五〇年年前幕府領の中野代官、天野助次郎は支配村々に切り開き地の調査報告書を督促しています。荷乃蔵の(現在の仁之倉)由来は壱乃蔵は越後の国にあるのではと思考していますが、尚旧消防ポンプ置き場のところに公札所があった。中野代官からの伝達事項が掲示された。現在の石田考氏の屋敷が川をコの字型に回し、更に石垣を積み恰も堀のように見せかけ郷倉を造り年貢米を貯蔵した。享保年間に冷害と凶作が続いた時など救援米として放出して役立てたのですが、中町通りの大火で焼失したものと思われます。

仁之倉神社は享保年間に創建され、栗、欅の硬木で建築された大きな社殿作りで、二八〇年前の御天領の神社であるがゆえに、現在の町においても一番大きい社殿を創建され今日に至っているわけであります。なお神社創建と同じく奉納された大燈篭は、越後の宮大工が冬仕事に民家に泊まりこんで彫んたと思われます。そのセガ板が四十年前頃、屋敷裏から見つかって、当時の大工職の中村恒夫さんの材料の鑑定済みで、大木のサシはケンプの木、柱は・と槐であり、獅子頭もケンプと思われる。大燈篭の最高の彫物である獅子頭が二個と切り妻の装飾鶴の彫物の破風二枚が、何者かによって三十年前頃盗まれてしまいました。仁之倉の宝物であって誠に残念至極であります。

さて話を天領地に戻します。例えば飯山藩内で罪を犯して天領内に犯人が逃げ込んだ場合、藩の役人が天領地内に入り捜査することができないほど、天領の恩恵がありました。文久二年(一八六二年)いまから百四十年前の仁之倉の石高は四百二十五石六斗七升八合で家数は八十四軒、「御検地帳茂当組限所持仕候」と記してあります。ただ今NHKの大河ドラマ加賀百万石の物語り、利家とまつが放映されておりますが、江戸時代諸国の大名が原則として二年に一回、参勤交代で江戸に出府して幕府に勤務する制度がありますが、これは大名に金を多く使わせ反幕府を押さえる政策でありましたが、加賀百万石の一行は人馬総勢二百五十人あまりの大行列で、柏原宿を中心に野尻宿、古間宿に分宿しました。特に大行列を支援するために、仁之倉から、御伝馬として、人足十八人、馬十五頭の多分なる人馬を差し出し協力した事が、古文書に記載されてあります。因に柏原新田惣石高一千三百石余と記してあります。

おもいだしてみました

松本教室 長岡幸弘

私は信鈴会に入会して三十年になります。思い出して書くことですから間違いだらけですがお許しください。

私が手術を受けたのが昭和四十九年の暮れも迫った十二月中頃でした。それから四ヶ月近くの入院、退院して初めて声の大切さが分かりました。四十二歳で生きていくことのほうも心配で、やはり言葉がなくてはダメと気がつき信大発声教室に行き、声の出るものなら何でもよいと思い人工喉頭(ふえのこと)を教えてもらいました。

この時には発声教室は信大病院だけと思って通っていました。発声教室の場所は何度か変わりました。木曜日には飯田から伊那、諏訪、木曽、長野と県下から一日かけて集まり賑やかでした。

今ではその方々も一線から退き陰から後輩を指導しています。私より先の手術した人が皆指導員に見えて、誰のところへ行けば教えてもらえるのか戸惑いました(今も戸惑っています)。この頃は何としても自分で声を出さなければどうにもならない時代でした。

そんな時に島さん(カナリヤの専門家)と出会い、困るようならこれで話してごらんと言われ(人工喉頭、笛)を進められ、少しの練習でコンニチワと音になり、これなら誰とも話ができると喜んで話をしたが、相手もめずらしい間は聞いてくれたが、ロボットのような音では人の心には何も通じないことが分かり、笛を教わりながら須澤、鳥羽、大橋の先輩方から苦労して声作りを教えていただき、今の自分があるように思います。

今では教室には上手く話す方々が沢山います。私が言いたいことは自分で話したことがすべて相手に分かっているのか、通じているか確かめておくことも大切です。私たちは障害者です。仲間同士なら何とかなりますが・・・・

松本教室に遊びにきてください。毎週木曜日午後一時~。

四国八十八ヶ所を歩いて(前回の続き) 高知編―遍路旅―

松本教室 長岡幸弘

前回は徳島県(阿波の国)二十三寺院まで書きました。今回は高知県(土佐の国)十六寺院です。朝薬王寺~最御崎寺まで八十五キロ、昨夜四人で話し合って鯖大師まで行き後は着いた時に決めることで、七時出発、天気は良いし海岸線で景色は上々、肝心の足が重く、

(徳島県で力一尽きた感じ)昼過ぎにやっと鯖大師到着(鯖大師は八十八ヶ所札所の中にはなく、別格二十番霊場の一ヶ所で別格四番札所、八坂山鯖大師本坊といい、鯖を持った弘法大師像が祀られている)お参りを済ませて遅い昼食、宿に入るには早いし行ける所まで行き宿を決めれば、八十五キロひく二十キロ残り六十五キロ、今日中には最御崎寺には着かない。宿を探しながら歩くが海岸線で景色は最高、民家もなく心細いこと、やっと見つけたJRの無人駅、そこに一人(今思い出せば弘法大師だ)来てくれてヨカッタ・・・・宿の話をしたら、この近くの民宿は寒いときは休んでいて、泊まるところはなし、それに今度の汽車が最終列車、野宿はまだ寒いしどうせなら室戸まで汽車で行くことに決めて、弘法大師さんと話しているうちに、汽車は途中までで甲浦駅が終点で、そこからバスに乗り換えて室戸に行くしかないと言われたが、この時間では最終バスも出た後でしょうと言われ、甲浦で宿を探すことに決める。汽車が来て乗り長いような、短いような時が過ぎ駅に着く。降りてビックリ、駅の広場には切符売り場兼喫茶店があるだけでバスは出た後、喫茶店で宿をお願いしても無い。仕方なくタクシーを呼んでもらい、やっとの思いで高知県の最初のお寺、最御崎寺に着く、タクシー代一万二千円割る四人で一人三千円なり。ここのお寺は観光地で宿坊はユースホステルで風呂はきれいで食事も宿屋なみ、今日は大変な一日でした。朝食事中に仙台の主婦Sさんは足が痛むので様子を見ながら出発とのこと、俺と横須賀のTさんと歩くことになり、二十四番札所最御崎寺→二十五番津照寺まで約七キロ、昨日は懲りて地図を見ながら美しい海岸線を見て九時には、百二十段の階段を登り津照寺に着く(高知県は海にしろ町にしろすべてが観光地)。今回は観光でなく、お寺参り巡礼の旅、次のお寺は金剛頂寺、津照寺→二十六番金剛頂寺、四キロ約一時間のコース、国道~遍路道へ海岸線も山道から見れば又変わった景色だ。昼近く金剛頂寺に、いつもどおり線香をあげローソクをあげて般若心経を唱え、昼食、昨日と違い港町が多く人も多く感じる。金剛頂寺から二十七番寺まで三十キロ、昨日は宿で苦労をしたので昨夜のうちに宿を決めたが、これから三十キロは歩けないし、行ける所まで行って車を呼べば(歩き遍路もこれでは)、松並木越しに海を見ながら歩く。人間一度楽をすればそれがあたりまえになる。よくしたものでバスが来る。運転手さんにお願いして神峯寺近くで降ろしてもらい、今日の宿浜吉屋へ、時間は二時過ぎこれから二十七番神峯寺へ登ることに決める。宿から片道四キロ以上、海から一気に六百メーターの登り、何とか行って来れた。四日かかるところを二日で回る。文明の力は凄い。歩かない割りには足の豆が潰れる、カットバンのお世話になる。明日は四十キロの行程だ。寝がけにTさんと話をして、Tさんは仕事の関係で横須賀に帰るので、三十一番竹林寺で別れる話をして眠る。今日は朝からバス停に立っていると、くたびれたトヨタクラウンが停まる。話を聞けば一人千円で二十八番大日寺まで送るとのこと。千円掛ける二人イコール二千円。いわゆる白タクで四十キロを二千円で安いが「そこらの林で身包み剥がれて捨てられる覚悟で乗った」がそんなスリルも無く九時三十分に二十八番大日寺でお参りを済ませて。

大日寺の予定は五日目の夕方お参りが、三日目の朝着いてしまい心を入れ替え、元の歩き遍路に戻り九キロ先の二十九番国分寺へ、楽をした後は背中の荷物が重く調子が出ない。二時間かけて国分寺に着く、まだ昼前だ。ここには「ひとこと地蔵」があって、(一心に祈れば一つだけ願いを叶えてくれる地蔵さんに、宝籤の大当たりをお願いしたがいまだにダメダ)。腹ごしらえをして三十番善楽寺へ、行程は七キロ、しばらくは国道を歩き、国道はバイパスと旧道に分かれる。旧道に入れば何となくのんびりし遍路道の雰囲気もある。このあたりの道は平坦で歩きやすい。楽をしながらここまで来たが、明日からは本当の一人旅になる。元気を出してTさんと三十一番竹林寺へ出発。ここから七キロ半は少しキツイが話す言葉も少なく、このあたりまで来ると高知の市街地、何処を見ても白衣を着た巡礼は目に付かず、人に道を聞いても何本もあるので?歩いているうちに「坊さんカンザシ買うの見た」のはりまやま橋に出てしまい、バスで行く五台山は観光の山、そこに竹林寺があり私はお参りを済ませたが、Tさんは竹林寺で区切り打ちの為に、お寺に金剛杖を預け山を下り、はりまやま橋近くの飲み屋さん、再会を誓いTさんは七時の高知発の飛行機で東京へ、俺は宿の心配をしなくては。ここは高知のど真ん中、お金さえ出せば宿はいくらでもあるが、遍路旅のこと町の中の奥まったところに宿があり、声をかければおばさんが、何事も無く部屋に入る。十一日間寝起きをした友も今夜はいない。何か寂しさも沸いてくる。さあ明日からは「一人歩き同行二人」弘法大師と。

七時出発三十二番禅師峰寺まで六キロ、橋の多いこと、川は流れ流れて桂浜へ、町の中は案内板もあまり無く何とか到着。一人旅は気持は楽でも落着かないもの、三十三番雪渓寺へ、浦戸大橋を渡り出た所は桂浜、方向音痴は困ったもの、三十四番種間寺への道中は日本中から観光に来るので人の多いこと、白衣を着て歩いていれば観光客に話し掛けられ、お賽銭を戴き少し自分が恥ずかしかった。それもつかの間家並みは無くなりとぼとぼ一人歩き、お参りを済ませ宿の心配、この辺には宿屋は無く高知に戻るか次の寺まで行くか、次の寺まで十キロ、今日歩いた距離は二十三キロ、バスで三十五番清滝寺へ向かう。バス停から寺まで一時間、往復で二時間と考えたが、寺に着いても五時を過ぎれば記帳してもらえないし、先に宿を決めて考えることにした。宿はバス停の近くに喜久屋旅館があり泊ることにして、洗濯をし風呂に入り食事をして休む。

いつもどおり七時に出発、昨日行けなかった三十五番清滝寺へ同じ道を戻り、十五キロ先の三十六番青龍寺へ、朝から海からの風も強く雨も降り出し最悪、車を呼んで青龍寺へ、運転手さんが昔この辺りは山が険しくお遍路さんの難所だったが、今ではトンネルが開き横波スカイラインの観光道路もできて、客も多くなって良くなった、そんな話から青龍寺の奥の院を見て高岡に戻り、バス乗り場から須崎までバスの旅、(歩き遍路が汽車に乗りバスに乗りタクシーで、予定も時間も考えず着いた所で決めていくしかない)須崎で降りたのは「別格五番札所大善寺」をお参りし駅の戻り時間を見る、二時過ぎ、ここから三十七番岩本寺まで三十キロは歩けない。JR土讃線窪川駅まで行っても宿が?駅のほうに窪川駅近く岩本寺にも近い久保屋旅館を予約してもらい汽車に乗る。駅から寺に行く道に「伊豫屋」と、このような凄い字の昔ながらの看板がぶら下がっていた。宿に声をかけると宿に似合いのおばーさんが出てくる。鬼婆あー(失礼)。夕食は外で明日も朝食なし宿賃四千五百円前払い、三十七番岩本寺にお参り、周りにメシや、らしきものもなし、明かりを目当てにバーだかメシヤだかあり、やっと食事にありつける。明日を考えれば三十七番岩本寺~三十八番金剛福寺まで百キロ以上あり、寝ながら明日は土佐くろしお鉄道とバスで足摺岬までと決め、駅でもらった時刻表を見ると六時三十分窪川発、中村行きがありこれに決めて眠る。

五時三十分起床、六時出発窪川駅で土佐くろしお鉄道に乗り一時間少しで中村駅に着く。売店のおにぎりで腹ごしらえ、九時のバスで足摺岬へ十一時、三十八番金剛福寺をお参り(歩けば三日掛かる所を半日で)、阿波の国は「発心の道場」、土佐の国は「修行の道場」、伊予の国は「菩提の道場」、讃岐の国は「涅槃の道場」分かれている。私には土佐の国は「KANKOU」の道場になってしまった。今日一日は気休め骨休めで観光名所周り、足摺の灯台下を見れば黒潮がぶつかり引き込まれそう。少し足をのばして弘法大師も見残したと言う、竜串、見残しを見学、グラスボートで珊瑚の林を見る。足摺に帰りホテルで夕食、一人でも名物ミニ皿鉢料理が出てくる。明日は高知県、最後の寺三十九番延光寺まで七十五キロ、バスに決めて休む。

八時頃のバスで延光寺へ、海岸線から山道まで入るきれいな海も見納めでバスの人になる。十時には延光寺に着く。お参りを済ませ記帳も終わり、高知十六寺院を思い出しながら伊予の国へ。思い出せば遍路転がしの道、柳水庵の五右衛門風呂、宿坊の朝のお勤め、吉野川の潜水橋のこと、観光で見たところも歩いてみれば変わってしまう不思議な世界でした。機会があれば続きを書きます。