巻頭言
会長 田中清
会誌「信鈴」が第二十号以来暫く休刊をしていましたのは、過去の発刊に大変御努力いただきました吉池・鳥羽の大先輩が、相ついで他界され、会誌の発刊ばかりでなく、信鈴会の運営も窮地に立たされたためであります。しかし何とか信鈴会を盛上げようと、残された役員皆様の推薦で昨年七月私が前鳥羽会長の後任として会長職を引受けることになりました。もとより浅学非才の身でありますので、会員皆様の絶大な協力を得て、この大役を果していたきいと思っております。
ふりかえって信鈴会の現状は、昨年八月二十四日かねてからの念願であった諏訪教室が、諏訪日赤の高木先生、雨宮看護部長、今野相談役その他関係の皆様の御協力により開室いたしました。茅野・諏訪・岡谷市方面の会員の方々は是非参加するよう希望いたします。
これで信鈴会は五教室となり、発声練習はますます活発化されて参りましたが、指導法については各教室で異なる傾向があります。さいわい信鈴会が所属している日本喉摘者団体連合会では、昭和六十一年より開催されている発声指導員研修会の経過をふまえ、各ブロックの意見等を参考として、全国共通の信しい指導書を作成中であります。信鈴会としても平成七年度中にはこの指導書を軸として、新しいカリキュラムを作成し発声の統一指導をしたいと思います。指導員の皆様にも、東ブロック発声指導員研修会に積極的に参加されて、よりよい教室作りを御願いいたします。
最後に本紙名簿の末尾の訃報欄に最近他界された二十九名の会員名が載って居ります。物故者に心から冥福をお祈り申し上げるとともに、会員の皆様には健康に留意されて、ますます御発展の程をお祈り申し上げます。
現代学生気質
信大医学部耳鼻咽喉科 田口喜一郎
信鈴会の皆様御元気でしょうか。早春の候を迎え、梅の花が咲き出しました。4月も間近になると、膚寒い気候も日一日と日差しが強まり、早朝の空気が美味しく感じられるようになります。この時期は私共の後継者であり、信州の医療の将来を担う信州大学医学部にも新しい学生が入学してくる季節でもあります。ところが、心弾ませ、新しい希望に燃えて入学した学生がこんな筈ではなかったという事態に当面する時期でもあります。例えば、早速医学の勉強ができると思っていたのが、先ず教養課程で不得手な物理や数学を勉強させられ、新しい科目のドイツ語や倫理学に戸惑うことになる。いわゆる5月病が始まり授業を無断欠席したり、勉強が手につかなくなる。こういった態度では先生の覚えがよいはずがなく、学生とは名ばかりの存在になり、何をしたらよいか分らなくなる。
ざっとこんな状況に陥る学生が少なくないと教養部の先生がおっしゃいます。人の命を預かる医師の卵がこんな状態では困るのではないかと悩むのは私共だけではないでしょう。一番心配なのは私共のやっている入学試験の方法がまずいのではないかという点であり、毎年反省がなされているが決定的な対策がないのが実情です。考えてみると、入学試験とは元々そういったもので、どの様な試験にせよ入学させたからには立派な医師になるように育てる責任があるということは間違いない事実であります。そこで教育とは何かということに話しが進むことになりますが、教育論というのは、また一つ難物で結論を出すまで大きな論理の展開が必要になり、その道の学者以外には興味ある内容とは言えなくなりそうです。
そこで、こういった受験をパスしてきた学生の印象といったものを考えてみたいと思います。一口に言って、現在の学生は幸せ過ぎて現在の目標を絞れないのが特徴ではないかと思います。8歳という年齢は大人と子供の中間的存在であり、この年齢で一生の職業を決めるべき試験があるため、大学とは何をなすべき所かの自覚が出来ていないのです。今から20年程前までは、医学部には2年間の大学の教養課程を終えた学生が入学試験を再度受けて入って来る制度でした。そのため、大学とはどういう所か、医学とは何かということを考え、自分がそのような職業に就く自信があるかなど考える時間が与えられたのです。現在はひたすら受験勉強に追われ、そのような概念を持つ時間もなく、自分が医学に適性があるかどうかの自覚もなく、ただ学業の成績がよいとか、周囲に医師の親戚がいるとか、不透明な憧れのようなものによって志望することになります。入学してから医学に適性がないことが分り、他の学部を受け直す者や、医学に興味を持てず徒に留年を繰返す者が少なからず出て参ります。
しかし、長所もない訳でもありません。一番目立つのは素直であるという点です。勉強でも実習でも方針を立ててやれば文句を言わず、一生懸命やってくれます。これは裏返せば与えられたことは十分やれるということになりますが、自分から進んで何かを作り出してゆこうという面の不得手さも意味するようです。
私は今学年担任なるものをさせて頂いておりますが、以前は年に2回位クラスの会合を持つように言っておきますと、クラスの代表が予め予定を作って相談に来たものですが、最近は私の方から働きかけないとやってくれません。授業も熱心に聞いてくれますが、質問は殆どなく、誠に寂しい気がします。
一般に平和な時代には学生はエネルギーが余り、何かに捌け口を求めるものです。またそれが若さの現れともいうべきものだと思います。しかし大学紛争もなく、専ら勉強とクラブ活動に明け暮れさえすればよい時代の学生ですが、余りにも無気力のように見えます。その原因は家庭での甘やかしや、経済的に恵まれ過ぎた環境、テレビやパソコンを中心とする個人的な遊びの流行など挙げられていますが、私には彼等が惰性でベルトコンベアに乗った人生を歩んでいるようで、反応のない彼等に私共は何を求めたらよいか悩んでおります。
こんな背景の下で、最近私共の大学の中で自らを点検、評価する機運が高まってきております。すなわち毎日大学で何をしているか、その成果は一年毎の業績としてどのような形に表現されてきたか、自ら評価し、公表するべきであるという風潮です。その中には診療、研究の他に教育も含まれ、唯単に学生の人気取りというだけでなしに、真に学生を学問的にも、技術的にも、人間的にも理想に近づける努力が要求される時期が到来しつつあります。新しい時代の学生像をも一度見直し、現代の学生気質に相応しい指導と教育がなされるべき時が来ているようです。
皆様は如何お考えでしょうか。
(平成4年3月5日)
信州行脚(県内ドサ廻り)で考えた
佐久総合病院耳鼻科 小松正彦
うちの病院には健康管理部という健康診断を専門に扱う施設が併設されていて、ほとんどの医師が月に一回は県内のどこかに出張している。この検診旅行は日常の業務から開放され、また信州をあちこち見て回れるので面白い。北は豊野町、西は山形村、南は木曽や根羽村あたりまで出かける。豊野や牟礼で春に食べた味噌汁の中の小さなタケノコ(何ていったっけ?)はうまかったし、夏の終わりの山形村の畑に転がっていた時季はずれのスイカはもったいなかった。鬼無里や小川のオヤキを看護婦嬢に買っていったらしばらく愛想がよかったし、冬の伊那谷の干し柿も結構。大鹿の鹿鍋は旅館に着くまでに車に酔ってしまいほとんど食えなかった。また飯田は飲み屋がたくさんあって夜が退屈しない。
真面目な医学上の話をすれば、特に僕は昔から上の病気が商売なので話は限局されるが、例えば鬼無里や戸隠等の北信の山間僻地に甲状腺腫が多い。女性の十人に一人ないしはそれ以上に見つかる。昔なら海産物が口に入らぬ山間に低ヨードを原因とする甲状腺の過形成が多い理屈もわかるが交通の発達した今日にも見られるのはなぜか。興味深い。同じ山奥でも伊那谷には甲状腺腫は多くない。信大の外科教室が南信にも甲状腺腫が多いと以前に報告された由だが僕にはそうは思えない。
また果樹栽培が盛んな伊那谷ではリンゴや梨の木々の中に農家が点在しているのだが、あれを遠くから眺めていると、花粉症を起こしてくださいと周囲にお願いしながら生活しているようで耳鼻科医としては少々恐ろしくなる。佐久でも菊のアレルギーがある。もはやアレルギーは都市部住民の問題ではなく農夫症の範疇にはいる。
県内を歩き回ってみると、どこが一番住みよいかと聞かれることがある。地域への個々人の愛着もあり、また時に地域差別になりかねないことなので慎重に言わせていただくけど、例えば警察や教育関係の家族の方々に聞いたことだが、飯山や木曽、阿南などに転勤の辞令がでると奥さん達はがっかりするそうで、逆に善光寺平や松本、上田なら赴任が待ち遠しいそうである。世捨て人ならまだしも普通の人ならば平坦で人口の多いところの方が安心なのだろう。子供の教育や医療のことも大切だし。
さてこの先は県内のどこがおすすめか。僕は手前味噌ながら佐久の平を強く推す。なぜならば土地が安く水質も良好で適当に人も居るがゴミゴミしていない。医療機関も総合病院が二つと恵まれている。加えて来年には高速道が開通し五年後には新幹線もやってくる。東京まで一時間十分は在来線では平塚や熊谷に相当する。子供達が東京の学校に新幹線通学することも可能となる。僕が就職した十年前は医局で佐久に家を建てる人なぞまれで昭和五十九年に借金して家を建てたときは変人扱いされたのに最近は医局の中では自宅の新築ラッシュである。佐久の将来性を皆薄々感じているのだ。長野や松本の郊外の崩れそうな(実際崩れたこともあるけど)造成地に多額のローンを組んでマイホームを考えておられる人は思い切って佐久にいらしたらいかがでしょう。お待ちしてます。諏訪出身の僕がいいますけど佐久は本当にいいところですよ。
人生は四苦八苦
日赤病院B4病棟 越勝江
「花の生命は短くて苦しきことのみ多かりき」と、ある詩人が嘆いていた。
「生、老、病、死」これを釈尊は「四苦」と呼んでいる。
この「四苦」に、さらに次の「四苦」を加えた。「愛別離苦」、字のごとく、愛する者との生別、死別の苦。「怨憎会苦」、怨み憎む者との出会う苦。「求不得苦」求めるものが得られない苦。「五取滋苦」精神・肉体を持った人間存在そのものの苦。
全部合わせて「八苦」である。
これを「四苦八苦」と仏教では言われている。人間であれば、いやおうなしに全部を経験するであろう。人生とはこのように「四苦八苦」することばかりであるとすれば、人生は苦しくて当り前と開き直る他はないようである。
ちなみに自分は花と思って良いのだろうか。
ありがとう
信州大学北三病棟 吉澤志珠子
少し色落ちしたジーンズが、駅の階段を降りてくる。顔は十人並み以前だけれど、センスは悪い方がなかったね...と思い直すと、少し日射しが明るくなった気がした。「今日は何度だ?」「えーとね。えーと十五度。」「私は十三度だと思うな。」そう言ってすぐにビルの電光掲示板を見上げると、だいたい私の方が正解だった。
服と音楽と読書が好きな彼の後ろにくっついていると、街の中を三角に歩いていくことになる。服と音楽と読書が好き、というと月並みだけれど、彼のは内容が普通じゃないから。例えば音楽は沢田研二、パルコの中古レコード市。公園通りから大名町通りに抜けて服を探す。
片方が買ったら、もう片方も欲しくなって、大抵ふたり共大きな紙袋を抱えながら歩くことになって、スキップしたい気分になる。
駅前の「無伴奏」がお気に入りで通った。私は日毎、気分で変えていたけれど、彼はいつもマンデリンとチーズケーキを注文していた。マスターは武骨なヤカンで手厚くコーヒーを立てている。私がそれを見て、「高価な鶴口のポットなんて要らないんだね。ホラ、ヤカンで充分」と言うと、銅製の鶴口ポットが欲しい見栄坊の彼は、「何?」とか何とか言ってゴマ化した。
もうすぐで、この松本ともお別れです。
皆様、お元気で。頑張って食道発声の練習をして下さい。
旅
副会長 義家敏
私は数年前まで知人の誘いで若い頃の夢だった、東南アジア数カ国を楽しく観光旅行ができて本当に幸わせと思っていた。ところが数年前、国の内外ともあの痛ましい飛行機の事故が起こり多数の人命を失った。
それまで気にしなかった飛行機の事故の怖さを痛感し、以来飛行機は乗らないことにしたのである。それは年のせいで臆病になったのでしょうか。
電車が一番安心と思い、その後は国内の小さな旅で名勝、旧跡を楽しんできた。
昨年十一月は、世界に誇るとされている瀬戸大橋を是非見てきたいと計画を立ててみた。以前四国の旅はしていたが琴平には行っていないので、瀬戸大橋を渡れば近くには琴平がある。帰路は大阪で、大阪には一昨年の世界花博にも行ってはおるが、大阪城は眺めておっただけなので、今度は城内に入って、ゆっくり見たいという二つの計画にした。
ところがこの計画を実行するには相当歩行が可能でなければならない事が予想されるが、三年程前に腰痛があった事が気がかりである。昨年の春、友人が琴平に行ってきたので様子を聞いたところ、段々が長くて大変だが、行ったら上展望台まで行かなければ価値がない、カゴもあるから上まで行かなければと話してくれた。
足腰に自信がないので、ガイドブックを求めてよく調べたところ、御本宮まで七百八十五段、それから奥社まで五百八十三段で合せると千三百六十八の石段であることが解った。カゴは御本宮の中途までしか行かないのであるが、意を決して行くことにした。
とに角自分の力で行ける所、できるところまで行く、ひとり旅なので気づかいされる事も、することもない、だから気楽な行先勝負とした。したがって琴平でも大阪でもホテルの予約もできない訳だ。乗車券も往復特急券と名古屋までの指定券を買って乗り込んだのである。
指定された時間でないので、まことに気楽である。姫路城なども快晴でよく見え、車中あれこれと撮り、瀬戸大橋、これはでかい、車内アナウンサーによると九・四kmとか、これはほんとにでかい。そして橋下に見る小さな島々はみな工場地帯なのに驚いた。幾つかの島々は見事な景観であった。
琴平駅案内でホテルをすぐ呼んでくれたので車が迎えにきて何の苦もなく投宿できた。
明朝はいよいよ琴平参り、持物はみなホテルに預け、ステッキ一つと写真機を首にかけての出発、参道に向かった。参道は縁日のような人ざかりにびっくり、一つ一つの石段を踏みしめて御本宮に着いた。賑やかである。見晴台で讃岐平野を眺めて殆どの人は下りて行ってしまう。私に話してくれた友人もここから先の奥社のことは解らず下りたらしい。
これから先の六百余段を登って奥社がある。道は横に長い境内の右側に入って行くので、一寸解りにくい感じがした。奥社までの行き帰りの人は何人かであったが、元気のよい挨拶が交わされた。一歩一歩足を踏みしめて奥社へ到着した。
帰りの石段は、一つ踏みそこなうとそれこそ大怪我となる。私は眼鏡をポケットに収め登ってきたより一層の注意を払い無事戻ってきたことに大きく感謝したのである。
さて、第二の目的は大阪城にある。大阪城公園前で下車すれば一番よいと思い、下車して頭をめぐらせて見たところ、城は西方に高く遠く見えるのである。細かな交通機関が解らないので、仕方なく歩く外ない、車の入口と思うが「大阪城の菊の祭典」と大書した看板があった。この中を行けば城内に入ると思ったが、城にまっすぐ行く道はない。広い広い公園の中に広い歩道がまっすぐ南方にのびておる。両側の木々は黄葉に素晴らしく、美しい。歩いて歩いてステッキをたよりに漸く南の門をくぐる事ができたのである。
大きな石積、特に菊の祭典は素晴らしい、という外に言葉がない。日光に照らされた城は高々と美しい。見物客も賑わうよい季節、あちらこちらと記念写真も撮った。天候に恵まれたので大阪空港の飛行機も幾つか遠くの空を飛んで行った。ほっとした時に足のフクラハギが痛くなっていて、歩いた疲れを物語っていた。しかし身の構えによって計画通り遂行できた事は、自分の体力に大きく自信がついた事で、最善のよろこびとする事ができたのである。
折を見ては適当な計画のもとで、これからも気がねのない旅をしようと考えている私である。
辻さんのこと
理事 桑原賢三
平成四年一月二十六日付けの新聞に原子力船「むつ」が最後の「ゼロ出力試験」を終り、解体されるとの記事が載っていました。
この原子力船にかかわった一人の喉摘者で、私の尊敬する辻一三さんのことを想い起こし筆をとります。
一度も面識の機会もなく、唯新聞、テレビなどの報道に依ってその業績を知り得たものです。辻さんは、戦前の軍港で名高い佐世保市の市長を、昭和三十八年から四期十六年間務め、市長になった翌年十一月、米国海軍の原子力潜水艦シードラゴンの佐世保港への寄港を、日本で初めて受入れを容認した。当時、反対派住民の抗議は物凄く、連日新聞紙上を賑わし全国民の注目は佐世保に集まった。
然し、私の辻さんに対する尊敬の念はそのことのあとから始まるのである。辻さんは、この事件の翌年喉頭癌のため東京で全摘の手術を受け、声を失い銀鈴会の中村先生の指導を受け食道発声を三ヶ月でマスターして、佐世保に帰り市長職に戻った。市長当選二年目にして声を失い、声なき市長として任期をつとめ、其の後三期市長をつとめ十六年のうち十四年間は「声なき市長」「原潜市長」として、全国にその名を知らされた。
特に声を失って四年目の一月、佐世保港に原子力空母「エンタープライズ」の日本初寄港を受入れた。当時も反対派住民及び学生と機動隊が激しく衝突し、約六○○人の負傷者が出るなど佐世保港は大混乱を来たした。
当時、辻市長と首相や政府要人との交渉話し合いの場面が、再々テレビに登場した。当時、私はまだ手術前で関心も薄かったが、昭和五十年一月に同じ様に声帯を失い、初めて辻さんの偉大さが判った。食道発声での話し合いは、さぞ大変なことであったでしょう。
それにその後原子力船「むつ」の修理の受入れの際は、全国でつまはじきされ受入れ手のないこの件でも、当時の三木首相と食道発声で堂々と相対で交渉する辻さんの姿も、「テレビ」で再々報道された。おなじ喉摘者でも自分と比較して、いかに自分が未熟であるかを思い知りました。
私はその時の辻さんの会話をテープにとり、再生して何度も何度も聞き、励みにしたものです。声をなくして問題の多い混乱した当時の佐世保の市長として、長年務め上げたその気構えと、精神力、これは到底真似の出来るものではないが、せめてこれからの精進の糧としたいものである。
辻さんも二年程前に八十六才の天寿を全うして御亡くなりになりました。
声を失った私共にとって、人前に出て喋ることの「不安」「とまどい」、それが折角出ている声を出なくしてしまう。辻さんは、喉摘後三ヶ月で市長職に戻ったと聞きました。三ヶ月では決して完璧ではなかったと思います。喉摘後も長い間市長職につき、次々と難しい問題と取り組み、立派にその職を成し遂げた。このことは、同じ喉摘者として見習うべきだと思います。
私達は、もう少し自分の声に自信をもつべきで、辻さんの様に食道発声で一国の総理大臣とわたり合う位の気構えがほしいものです。私も指導する立場から見て、教室では立派に会話が出来るのに、人前では実力の半分も出ない会話になる。自分の声に自信をもっていないからで、辻さんの様に相手がだれであろうと自信をもって対応することが大切だと思います。
私にとって偉大な先輩、今は亡き辻さんを忍び、冥福をお祈りして筆を置く。
寄稿するに当り、若干の記憶違いもあると思いますが御寛容の程を。 平成四年二月記
思い出すままに
理事 小林政雄
私が喉摘者になったのは一昔前の事ですが、勿論これには伏線があった様な気がします。それは、昭和十八年当時茨城県の海軍航空隊で、練習機の飛行教員をしていた頃の事ですが、飛行機の前席に練習生を乗せ、後席に自分が乗り、其の会話は伝声管でやりとりをするのですが、飛行機にはカバーがなく空中では相当大きな声を出さないと聞こえません。それに一日六人の生徒を受け持ち、午前中はほとんど休む事が出来ず、大声を出しての毎日が続きました。其の頃丁度運が悪く風邪をこじらせてしまい、一寸無理をしてしまった為に扁桃腺を傷めて高熱を出してしまい、二週間程意識不明になり入院して完治しないまま、現場へ復帰した為に喉を慢性的に傷めてしまいました。それ以後少し調子がわるいとすぐ声が優れてしまうようになり、現在にいたりました。しかし年齢を取り体力の低下した時期に発病したと思います。勿論体力に過剰な自信があった為に、身体の管理が悪かった為ですが、或る日突然、呼吸困難になり信大へ入院しました。其の頃佐久の三瓶さんが一時入院して居まして、何くれとなく心配して下さり、特に食道発声のを示して下さり、大変心強く思いました。そして其のお蔭で私は禍転じて福となすではないが、第二の人生が開けてきました。世の中の弱者の気持が良く解る様になり、今まで見えなかったものが良く見える様になってきて、又新しい友人が沢山出来て今になって生き甲斐が出来てきました。毎日が充実して楽しく、七十才近くなって本当の人生の様な気がします。私にとって一番嬉しい事は病院の先生及び看護婦さん、又関係者の皆さんの心温まる指導及び協力が、私達声を失った者の生きる力を支えてくれたからだと思います。
嬉しいことは、仲間同志が助け合って発声教室へ集まり、失った声の再生に努力している姿です。私は其の仲のの一人として教室へ出席して、共に勉強して少しでも仲間の皆さんが失った声を取り戻して、毎日楽しい生活が出来る様に少しでも力を貸してやりたいと思います。現在の発声教室は非常に充実していて、教室と言うより友人同志の楽しい話し合い或いは世間話の場所として、お互い気がね無く話の出来る所で、まだ発声の出来ない人は筆談でも気にならないと思います。ですからあせる事なく、気長に健康に注意して、お互いに今後も気楽に発声教室を心の拠り所として集合してくれます様に祈っています。思い出すままに色々書きました。 二月十八日
食道発声と日常生活の相関性について
理事 田中清
現在日本全国の喉摘者の発声方法は、食道発声が八十五パーセントを占めている。その理由は食道発声以外の発声は単一的な音声であり、器具を使うため、人前の体裁、費用、咄嗟の発声等に問題があり、又自動車(自転車)の運転時、電話使用時にも問題がある。その点食道発声は問題がないが、音声の高さ、長さ、大きさ、アクセント(歌唱も含む)、明瞭度等をマスターするには相当の練習が必要である。
しかし私は何故食道発声が他の発声より優っているかということを別の角度から申し上げてみたい。喉摘手術を受けた人々の話を聞くと、誰もが声のない人生についての話ばかりである。しかし喉摘後の日常生活は声以外にいろいろ不都合なことが生じている。それは喉摘後順次自から体験する肉体の欠陥である。医師も手術前に失声について話はするが、その他の話は細部まで話して呉れないので患者には分らないのである。
ではその欠陥の主なるものを身体の上部から並べて見ると次のようなものがある。
一、鼻がかめない。
二、嗅覚が低下する。
三、味覚が低下する。
四、熱い物、汁物、麺類等を食べるに困難。
五、気管孔が冷たい、汚い、乾燥する。
六、風邪を引き易い(気管支炎)。
七、入浴が困難である。
八、気管孔が収縮する。
九、ガス(屁)が溜り易い。
十、便秘になり易い(りきめない)。
十一、重い物が持てない。
これらの欠陥を対処別に整理してみると、(a)空気の作用によるもの、(b)身体の体感で処置できるもの、(c)医師の処置によらねばならぬものの三つに分類される。即ち(b)は五、六、七で、(c)は八だけで他はすべて(a)である。
さてこれらの欠陥をどうすれば克服できるか。まず(a)についてであるが、食道発声の吸引法以外に方法がない吸引法をマスターすると鼻からの空気の吸出が可能となり、嗅覚、味覚が殆ど常人とかわらなくなる。又鼻汁も一旦気管孔の痰を取ってから普通にかめば練習によって可能となる。熱い物等は元来の猫舌等があって一概に言えないが、ある程度は息で冷やして食べられる。次にガスの問題であるが、食道発声時に胃の中へ空気を入れないことが大切で、空気を浅く吸う練習が必要である。ただしこれは口でいう程易しくないが練習次第である。便秘等は食道発声が上手になればりきみができるようになり順次解消される。
次に(b)の問題であるが、気管孔から冬期冷たい空気を急激に吸ったり、煙なども吸うと、気管支をいためやすいが、これは体感で分るので、防護法としてはプロテクターの枚数を増したり、外出時はネクタイを締めることが良い。元来風邪の原因であるウイルスは、鼻、喉にはつき易いが、気管孔につきにくいのが普通であるから、油断をしなければ大丈夫である。したがって喉摘者は風邪にかかりにくくなったという人が圧倒的に多い。最後入浴の件であるが、肩まですっぽりはいること、頭を洗うことの二点が問題となってくるが、肩まではいるには頭に枕をして気管孔を水平にすればできる。この場合波のないことが条件であるので、温泉等へ行った時は注意する必要がある。気管孔と湯の位置は最初は手鏡で定めるが、段々と経験しているうちに膚がその位置を知るようになる。頭の洗う「コツ」は、シャンプー後気管孔をしめて一気に手桶で湯をかければ湯が気管にはいることはない。その後の練習でシャワーも可能となってくる。
以上喉摘者の身体的欠陥と解消法を私なりに述べて見たが、まだより良い方法があると思う。食道発声研修会等でグループディスカッションをやって、いろいろの人の意見を聞いてみるが、最後は食道発声によって鼻、口からいかに大量の空気が吸えるかが勝負であるという、皆の結論である。もし仮に一リットルの空気が吸えたとしたら、それこそ常人となり得るのである。
さあ我等喉摘者は食道発声の練習を重ねて一リットルの千分の一でもより多く空気が吸えるよう努力しようではないか
お弥彦詣で
長野教室 井出義祐
信鈴会平成三年度のレクリエーションの旅は、長野教室が当番でした。先ず、最遠の伊那教室及び佐久教室の皆様の時間的ロスや連休を除いた日等々を勘案し、義言え副会長さんの発案により、九月十七日・十八日弥彦温泉一泊を企画申請し、第二十三回定期総会での決定を見ました。当日は前日までの連休中の天候不順に比し、爽やかな秋日和に恵まれ、翌日は台風十八号の前兆の少ない中に帰着出来たことは幸いでありました。一行は会長様以下三十八名で、特に日赤の看護婦長渡辺様には、救護担当として御同行をいただき心強い限りでありました。
又、大先輩吉池茂雄様には出発、到着共に東急デパートまでわざわざ出て来られて送迎をしていただき、更にガイドブック等も購入して旅への御協力を戴いたことに改めてここに感謝致します。
坂田運転手の操縦する観光バスは定刻に松本・伊那の皆様を乗せて到着、東急横の長野大通りで添乗員土屋さん、ガイド望月さんの誘導で佐久の皆さんと共に乗車して長野を出発した。アップルラインで西島さんが乗り全員が揃ったところで会長鳥羽様、副会長義家様のご挨拶があり、国道十八号をひたすら野尻湖に向って進む。
野尻湖は、標高六百五十四mの高地にある湖で、周囲約十六郷の出入りの多い変化に富んだ湖岸線から芙蓉湖とも呼んでいます。ナウマンゾウの発掘で一躍有名になり、今回の調査では多数の石器や化石が出土し、野尻湖文化は三万年前より更に古く、野尻湖人が旧人である可能性が強まったとのことです。昼食後十三時出発、一路新潟へ向かう。
上越ICから十三時五十分に北陸HWに乗った。晴天に恵まれ珍しく本島から佐渡ヶ島が一望出来て、皆様大喜びであった。米山SAにトイレ停車のため十四時十分に到着した。
望月ガイドさんの長野出発後の挨拶から、米山到着迄の案内放送をここで参考までに記述しますと、
一、上越市に入りました。(十八号での案内はなし)
二、北陸ハイウェイに入ります。
三、左手に佐渡ヶ島が見えます。
四、次の米山サービスエリヤはトイレ停車です。
五、左手に原発の煙突が見えます。
六、(到着)ハイ、それでは十四時二十分の発車です。
と言うことで、私は最近テレビ慣れで感覚が狂ってしまったのか、一寸、真面目で簡単明瞭過ぎたキライがあってガッカリでしたが、以後は唄等をサービスしていただき一生懸命?に努力していただいた。米山、弥彦山を車中から遠望し北陸眠を十五時十分に新潟ICで降り定刻の十六時に北方文化博物館に到着した。
豪農の館、伊藤文吉邸は昭和二十一年遺構保存の為寄付され、北方文化博物館として建物、庭園が公開されたとのことである。総欅造りの玄関を始め、大広間の廊下には二十間近い見事な梁が構えられており絵画、彫刻、書、陶磁器など歴代当主の美術コレクション、考古学の資料、地主時代の文献等貴重なもの多数が集められ陳列されていた。明治に入ってから次第に農地の集積を計り、所有田畑一,三七二町歩、山林一,〇〇〇町歩であったとのこと。ちなみに、この敷地は六,○○○坪、建坪が一,二〇〇坪とのことであった。定刻一七時に弥彦に向かう。
日本一の大鳥居をくぐり弥彦に入る。ホテルみのやへ一八時定刻到着した。収容三○○名、客室五〇室、宴会場二室、料亭五室と言うホテルで、展望大浴場は最上階八階にあり見事な展望が出来た。一九時を回った頃からいよいよ楽しみな一夜が始まった。場所が変わった旅先等では、目に映る総てのものが新鮮さを増し、お互いに心から楽しみが湧く。小林さんの「北国の春」等は一段と声に張りが増したように感じられた。又、田中御夫妻を始め渡辺婦長さんは特に御熱心に会を盛り立てていただき、大変有り難うございました。お陰様で盛大にそして心に暖か味の残る素敵なコミュニケができました。余韻を刻みながら寝に就く。
翌朝は定刻に出発し弥彦神社に参詣した。鬱蒼としたすぎの古木に囲まれ森閑とした境内で、神武天皇から越ノ国の開発を命じられた天香山命(あまのがぐやまのみこと)が祭られているとのことである。又境内には、天然記念物特殊日本鶏(長鳴鶏)が、競って特徴ある鳴き声を披露してくれていた。その表札に曰く
「鶏は『庭鳥』で人の家に飼われた鳥である。日本人と鶏との付き合いは大変古く、稲造りを始めた頃から鶏を飼い始めたと言うから大昔からのことである。この永い間に我等祖先は何代もかかって種々苦労の末、美しい良い鶏を作り出して可愛がってきた。殊に江戸時代には多くの種類が出来た。然るに、明治以来輸入された洋種に押されて、祖先以来の生きた文化財が年毎に減少して行った。そこで国家から重要文化財中の天然記念物としてその保存を要求し、指定された鶏が一七種類あるが、既にその一種は絶滅し、二~三種は絶滅寸前にあると言う。此の鶏園には、その大部分を飼育しており全国的にも貴重なものとなっている。我々は祖先の優れた苦心の作品を十分鑑賞し保存して永くこれを子孫に伝えたいものである。」
と、記されていた。しかし、我慢に我慢を重ねての長鳴鶏の美しい発声は、厳しい励ましの言葉に聞こえ、思わず、「ハイ発声訓練頑張るヨ」と答えてバスに向かう。
お弥彦様を九時に出発、魚のアメ横寺泊に向かう。魚ショッピングは九時半頃から約四十五分の予定であった。新鮮な魚介類サケ、カニ、イカが市価より安く並んでおり、皆さんはそれぞれに沢山お土産を購入してバスの車体に預ける。醤油のタレをつけた焼き立てのイカの浜焼きを松沢さんは美味しそうにカブリついていたのが印象的であった。
寺泊を定時に出発し西山氏から北陸郎に乗った。望月ガイドさんの音頭により、全員で「北国の春」及び替唄「信濃路の四季」を合唱しながら楽しく帰路に向かう。越後平野に拓れた広い田園の中を、北陸自動車道や又上越新幹線が開通し、高速で走行する車両や車両列を車窓から見る時、まったく昔日の面影は無く、よくぞ発展したものだ等と感銘しながら、戦後の情景などをしばし描いている中に何時しか、まどろんでしまった。
昼食停車、と言うので直江津かな?と思って窓から見ると、妙高高原駅前によく似ていたので不思議に思ったが、やはりそうであった。駅前の桜屋食堂であった。早いものだ。何時しか上越ICで北陸HWから降りて国道一八号に入って妙高高原に来てしまった。しかし台風一八号の前兆の雨が降り出していた。
可及的早目に松本へ帰着したいとのことで、昼食後の一服を見計らって出発した。柏原、牟礼と通過してアップルラインに近づいた頃、会長さんからのご挨拶を戴いた。今回の旅の時間関係、観光コース、ホテルサービス、無事故対策等に対する評価もされた。十四時若干前、無事に長野駅前着、佐久、長野教室の皆さんは別れを惜しみながら、それぞれに大量の鮮魚のお土産を下ろした後、バスは松本、伊那教室の皆さんを乗せたまま、国道一九号を松本に向け帰路についた。
この度のレクリエーションも、無事終了できました事は何よりの事でありまして、又、会長様からは御丁重なる評価のお言葉を戴きまして恐縮です。ここに改めて、鳥羽会長様はじめ会員皆様の御協力に対しまして本紙上をお借りして、当番一度厚くお礼を申し上げます。 (一九九一年十月記)
味見
松代 吉池茂雄
発声教室で、Оさんと話していた。「おうちで、お料理作るでしょう。」「はい、作ります。」「その時、途中で、味見をするでしょう。」「はい、します。」「誰かと、話している時には、味見をしますか。」「?」私はОさんと話していて、深く考えずに「味見」と言ってしまったが、こんな言葉があったかしらと不安になった。
「男子厨房に入るべからず」ではないが、料理のことでは、全く無知な私は、味見という語句があったかどうか、通用するかどうか意識しないで使ったのだった。
家へ帰って、辞書をひいてみた。あった。その意味も大体私の思っていたのと一致していたので、「よかった」と安心した。
自分のしゃべっていることが、正しく相手に伝わったかどうか、味見をするのだ。これをやらないと、独りよがりのおしゃべりになってしまうのではないでしょうか。
郵便受を見ると、特徴のある字のハガキが入っていた。
「あ、寺の住職が、例の誕生祝をくれたのだな」と合点した。
三月三十日おたんじょう日どのようにお迎えでございましょうか
目がさめてみたら生きていました
死なずに生きていました
生きることの一切の努力をなげすてて
ねむりこけていたのに
目がさめたら生きていました
三途の川は、なかなか渡れないのだなと、思いました。 (平成四・四・四 八十二才)
第二のハードル
長野教室 西沢功一
寒暖を繰返し日毎春光輝きを増す今日此頃、老の身の春待つ心は殊更に乳児が母親の乳房を待つ憧憬に似たものを覚える。長い籠り日から開放され、春風の中近隣を散策中、ふと寒風に耐えて咲き誇る老梅を見て自分自身を振り返って見る。丁度鳥羽会長から御理解と御協力という原稿依頼のメッセージを受けて、何年ぶりに親睦を覚え筆を取って見ることにした。
長い間寄稿もせず、研修旅行にも参加せず、その上発声教室への顔を出さず、信鈴会とも大分疎遠になってしまったが、「喉元過ぎれば熱さ忘るる」の格言のとおりこれではいかぬと気が付き旧年を回顧して見る。
昭和五十四年十二月主治医から喉頭摘出手術を宣告された時、己が心の衝撃葛藤は筆舌に尽すというもので無かった。そして手術順調で一応全快の運びとなったが、喜びの沸かない無声の退院であった。ペットの犬や猫でさえ声をたてて主人を迎えるのに、傷心の自分には悲しみが一杯であった。しかしどうしてもやらねばならぬことは、発声という第二のハードルを越えることであった。生来不器用な自分には大変なことでしたが、指導員の義家さん、鈴木さんの御熱心な指導のもと原音から二三音に進んだ時の喜びは又格別のものでした。その折節のドクター、ナース、指導員そして発声教室の先輩同僚の皆様方の絆を永遠に心のカメラに収めて、余生の残灯を大切に燃したいと思っています。皆様御身体を大切に。
私の近況
塩入篤
寒い冬は元来が苦手の方で、早く春が来ればと念じているこの頃です。特に咽喉を手術してからは、この傾向が強く、ただでさえ快適とはいい難い気管が、冬になると粘膜が破れ、血を出すなど面白くない日々が続いております。
一昨年の三月末には、ちょっとした無理をしたのと孫達二組の来訪で、夫婦二人きりの生活のリズムが崩れ、これに風邪をひくなどのアクシデントが重なって、到頭救急車のお世話になってしまいました。日赤へ入院すること二週間、耳鼻科の先生方や大勢の看護婦さん方に大変お世話になりました。その折、渡辺婦長さんに心配して頂いて、超音波式吸入器を購入し、目下日に数回使うことによって、痰がからまぬよう用心しています。
冬はどうしても家に籠りがちであり、健康上はもとより、気力の上からも用心か肝要かと思っています。特にこの二年間は、町の碑文の調査があり、私も文化財保護審議員の立場からこれに参画し、その衝に当って来ましたので、辞書を引くやら既刊の出版物を繙くなど日々が充実しておりました。その仕事も完了し出版の運びとなり、今冬はややもすれば退屈しがちでありますので、ワープロに取り組むことにしました。七十三才、今更の感もありますが、大宮在住の息子に秋葉原まで行かせて購入、それを娘に持たせてにこさせ、練習を始めました。指の運動や老の防止には何よりだと人にも勧められ張り切ることにしました。目下独学のため試行錯誤の連続で、遅々としておりますが、早くマスターしたいと意気こんでいます。
町には現在二つの古文書の研究会があります。その一つは公民館主催の教室であり、他の一つは全く自主的な運営を続けているもので、これはかれこれ二十年余の歴史を持つ同好の会です。私はこの二つの研究会に参加し、古い資料に取り組み喜びを感じています。
人の勧めもあって、これを解読、解読を加えて一冊に纏め上げようと既に手書の原稿百枚程仕上げました。公民館の名前で出すように話がついておりますが、急にワープロで打って仕上げたら体裁も良いし、読む人にとっても読み易いだろうと欲気を出すようになりました。
他にも年来書こう書こうと思いながら逡巡していたシベリヤ抑留記も、ワープロで仕上げたら体裁も良くなり、親しい友人や子ども達にも呼んで貰えるだろうという事も手伝いこれに取り組むことにしました。
それにしても昨秋の衝撃的なニュースが、抑留記を早くという衝動に駆らせました。そには「ソ連邦の崩壊、共和国成立」というものでした。一瞬信じられないような驚きを感じましたが、同時に来るものが来たと心から快哉を叫ばずにはいられませんでした。抑留の後遺症は精神的にも肉体的にも私達を蝕んで来ましたが、それにしてもその三年間は、確に私の人生の一ページでありますので、当時の生活や思い出を書き残して置くのも意義のある事だと思います。
ワープロを強調し過ぎた感じですが、やって見ぬうちから期待感の虜となっています。
最近の風潮として、高齢者が自叙伝的なものに取り組む傾向が多く見られるようになりました。それは実によいことで、潜に私もそれにあやかりたいと思っていますが、格別な人生歴もなく平々凡々のうちに七十有余年を過して来ましたので、些か自身がありません。それ故、先ず身近な所から手をつけようと思い出し、その表現の手段としてワープロをと考え始め出しました。一日が早く終るこの頃です。近況を報告し、原稿の責に替えたいと思います。
「人間万事塞翁が馬」
松本教室 宮本音吉
会報信鈴第二十一号刊行について原稿依頼を受けました。毎度の事とは申せ本当に御苦労様でございます。会報発行により希望を失った人達にとって医療関係の先生方や実際に体験された諸先輩の報告、アドバイス等はどんなにか悲嘆のどん底に居られる人達の発起源となる事でしょう。感謝の念で一ぱいです。思えば私も昭和五十二年摘出手術を受け今年で十五年目を迎えました。天与の声を失い人間にとって声の無い人生は廃人も同様と思い込み六十二年間の歩みにも終止符を打ちすべてを諦め職場は勿論のことすべての役職も放棄してしまいました。入院当時(信大)同部屋に同じ患者が四人居り放射線治療の毎日でした。病状の如何にかかわらず声帯摘出は行わないと言うのが四名の持論でした。当時はまだ多少の不自由は感じていても自由に対話も出来、私は痛みなどは全然なくかすれた声の山人院位の軽い気持ちでした。後程わかった事ですが、凡そ「ガン」と名のつく病状の初期はこれはと言った自覚症状もなく痛み等が感じられる頃は第三期とも言われる病状とのことでした。
結果は二人は先生の指示通り四○○○単位で手術、二人は七○○○単位で退院する事になりました。当時元気に見えて退院する二人を見送りながら、我が決意に間違っていたかの様に思われ不安の気持ちでした。手術は精巧、予想外の好結果にて従来の健康回復に近づき第二の声を求めて毎週の木曜日、発声教室で指導を受ける様になりどうやら対話を出来る様になった。約六ヶ月後退院された二人の方が再入院されて来ました。退院当時の元気は何処へやら病状も相当悪化されて居られた様で、早速手術をなされた様ですが、当初の様には行かず本人も大分力落しをしていました。毎木曜日の都度、元気付けにと部屋を訪れると私の手をしっかりにぎり涙ながらに筆談にて宮本さん、あの時に先生や婦長さんの勧めて下さった通りにしていれば皆さんの様に元気でいたものと悲しまれ、返す言葉も出来なかったあの時の姿が今でも忘れることが出来ません。今なら言えることですが、なぜ私が手術に同意した時点で同じ患者の皆さんに現代医学や医術を信じ上治医の先生の指示通りの治療を受けようとすすめる事が出来なかったのかと、残念に思います。私は松本教室にて指導を受け、次第に声を取戻すに従って前記に述べた考えを心機一転、第二の声で第二の人生を今一度やり直そうと決心するに至りました。発声練習にも一段と熱気を帯びて参りました。東京銀鈴会の声の祭典にも二回参加の機会を得ましたが、結果は三十名中の第十三位と余り期待の出来る成績ではなかった訳ですが、三、四回位までに入賞をと念願していたのですが、三、四回目は不運にも身内近親者の不幸等と重なりつい参加の機会を逸してしまい「鉄は熱い内に打て」の諺にも反した結果になってしまいました。
長い間健全な体の持主と信じていた本人が、突然にも思われる僅かな短い日月の内に天与の声を失い、一時は諦めた人生を第二の声と共に再び蘇生し、此れを期として己が健康管理には異常なまでに忠実となり、以来十五年間中念頭の職も老齢に至る六年間大過なく勤めることが出来ました。
「人間万事塞翁が馬」との諺がある。
大病を得ることに寄って諺の事が理解出来る様になり私にとっては此の大変事が災い転じて福となす好い機会でもあった様に思います。過去十五年間を通じて従前通りの健康で通すことの出来るのも、陰に陽に御尽力下さった関係各位皆様のお蔭と感謝しながら、現在は身障者協会の一員として少しでも皆さんの力になることが出来たらと老体に鞭打ちながら頑張って居ります。(一九九二、二、二八)
思い出
松本教室 横沢酒造次
友よ!小池増晴さん、誰もが思い出す懐かしい名前だ。
思えば昭和五十四年、岡谷の小林政雄さん、茅野の小池増晴さんと私の三人は、同じ病気で四月頃入院し、九月末まで約六ヶ月の入院生活で、同じ頃喉頭摘出手術をし同じ頃退院した。お互いに声が無く筆談ばかりの仲間だった。ゴム管で鼻からの食事、毎日の点滴、長い看護で母ちゃん達も話し合うようになり、退院後は小林さんの世話で諏訪湖の温泉で一泊し六人で語りあったこともあった。
退院後の発声教室は、小池さんは南、私は北から松本で出逢い、一緒に食事をし一緒に教室へ通った。彼氏の思い出はいろいろあるが、少しばかり書いてみよう。酒好きの彼氏は何時かの新年会の時、写真機をどこかへ置き忘れ、「探して呉れ」とのことで後で探したら脚を付けたまま柱の陰にあった。又、第一八回総会で松本城バックの写真は、彼氏の最後の撮影であった。理事で何かと世話好きな彼氏は、秋の旅行時にはいつもバスの前の座席から、誰彼となく世話をして呉れた。
酒のせいかどうか知らないが、彼が肝臓を悪くし諏訪日赤へ入院した頃、日曜毎に見舞いに行ったが、最初はいろいろ会話ができたが、その後は疲れたといって筆談に変わった。彼が亡くなる前年の暮れは一旦帰宅が許されたが、新年を迎え再び病院の個室にはいった頃は、書く事もできなくなり、一月八日遂に永遠の眠りについてしまった。
今彼は茅野の墓地公園の一番高い所で眠っている。年に五、六回は彼の好きだったワンカップを持って逢いに行く。
友よ!安らかに眠れ。
好奇心から命拾いした話
伊那教室 武内基
元来私は好奇心の強い方だと思っております。珍しいものを見たり聞いたり喰べたりと、所謂珍しもの好みは八十四才の今日も変りないと思っております。
輸入牛肉が来たと言はれれば買って来る。記念硬貨が出れば三時起きして並んで交換す。金貨が出れば無理しても手に入れたいのです。昔のことですが、確か大正六年ごろ今で言う戦車が新潟県高田市の当時の十三師団に初めて来た時には、私はまだ子供であったが、家人に話せば止めさせられるので家人に黙って弁当を自分で作って一人で歩いて十数キロも遠い師団の練兵場に、当時はタンクと行った戦車を見に行って来たことがあります。夏休みの暑い一日かかったもので、家では朝から居らない私を捜して大騒ぎをしたこともあります。
そんな訳で昨年平成三年のお盆に、新潟県に勤めている子供が帰省した時、冷やしたビールと西瓜を飲み喰いしすぎて、胃を傷めた。何十年も、それこそ腹が痛いの胃が痛いのってことがないので、その日のうちに、近く
の開業医に行ったところ「冷たいものの喰べすぎだすぐ治る」と言われて薬をもらって来て飲んだが、翌朝には何となく「胃カメラ」と言うことを聞いていたので、どうして何十年も胃が痛いなんてことのない私が冷たいビールや西瓜を飲み喰いしたぐらいで、どうして胃をこわし、一寸した薬を飲んだぐらいで直ぐ治るなんてはずがないと思い、「胃カメラ」で診て貰いたいと急に考えついたら、何でもかんでも診てもらいたくて、すぐ近くの開業医に行って紹介状を書いて貰いE病院に行き「胃カメラ」を撮って貰ったところ、胃の幽門付近が赤黒く潰瘍になっており早く手術して切除した方が良いと言はれ、昨平成三年十一月十一日に入院して同十四日に家内及び長男の付添で胃の三分の二ぐらいを切除してもらい、集中治療室に六日間入れられ、同十一月十九日に四人入りの大部屋に移され、経過良好で本年(平成四年)二月一日に八十三日振りで退院帰宅した。二月二十五日現在はもう全く完治した様で食欲があり、食欲を我慢して喰べすぎにならない様にするに苦労する程です。
此様な訳で一寸胃鈍痛があり一晩で治ったが、「胃カメラ」に対する好奇心から早期発見、早期手術で癌を全治したものと私は確信しております。
お陰で私も元気になったので、時々は発声練習教室にも行きたいと思っておりますから、よろしくお願い申し上げます。 平成四年二月二十五日
地獄を一緒に連れてきた男
松本教室 長岡幸弘
この作文は、今年の学校の文集に載せたものです。
皆さんはどんな、極楽・地獄を診てきましたか?
私も声をなくして二十年近くなりますが、よくも今まで生徒たちと話をしてこれたものと感心しています。これも発声教室の先生方のおかげと喜んでいます。
二十年前、突然閻魔大王の呼び出しがきて、天国だか地獄だか知らないが旅に出ることになった。
旅は好きだがこの旅は飛行機も新幹線もバスも車も無く、一人でただただ黄色の世界をとぼとぼとうつむいて、三途の河へ向かった。途中で見る人は、頭には三角の布を付け白の着物を着て杖をもち、わらじをはいて同じようにとぼとぼと歩いている。
三途の河の近くまで来たが凄い人だかり、三途の河の渡し舟の順番を待つ人、渡し舟に乗る手続きをする人。
手続きの窓口は○才~六十四才まであって六十五才以上は無審査で、三途の河を渡れるが、後は鬼の事務員がいて「何でここに来たのか」と厳しく書類をチェックしている(きっとここからきた言葉だと思う鬼のような人)
○才の窓口には水子の列、一才から十二、三才までの窓口は割合空いていたが十五才~二十五才位までは凄いこみようだ、頭のつぶれたの、手の無いの、足のぶるさがったの、腹の飛び出したの。三十才代~六十才代は成人病となかなか賑やかだ。四十才~五十才代の中には借金、会社倒産と金銭の絡んできた人もいる。
俺も四十才の窓口の列に並んだが順番の来るのはいつのことか、暇に任せて遠く、閻魔大王の方を見れば天国の入口は赤・青・ピンクのネオンの中へきれいなねいちゃんに手をひかれて行く人、違う方は真っ暗なトンネルがあって鬼さんに尻をヤリでつつかれて入って行く人が見える。
俺はどちらか思っていたか、案内係の鬼さんが来て、「お前は、書類の間違いで、シャバに帰れ」だって。
「その代わり何か代わりに置いていけ」と言う。そこで俺は、大事な声を置いてきてしまったので今でも話ができない。
中には、手を置いてきた人、足を置いてきた人たちを町の中で見かけますね。
シャバに帰れば地獄が一緒に付いてきて苦労します。この次にお呼びがかかれば、きっときれいなねえちゃんがまっている天国だと思う。
おらー死じまっただ おらー死じまっただ 雲の階段を 何かこんな唄がはやった頃のことさ
亡き夫に捧ぐ
松本教室 笠原よ志
蒼白き亡き骸よわが夫は 赫く柔和な百姓なるに
とむらいはそらごとなれど頑なに 白衣の夫に眼をそらしたり
ダビの場に臨まぬ吾れに骨と化す 現は遠き夢であれかし
石の如き骨壺を抱けば今生の 別れに軽き締めの湧く
離れゆく別れに非ず在りし日を 越えて絆は強く結ばる
語らいの無き病床の日々なりき 思い出深く胸に残れり
人らみな我のみとりを讚めくれど 荒き振舞数々ありぬ
おくつきに新らしき墓標の幾片か 盛られし土に建ち並びおり
うつしえに向ひて独り香をたけば 淋しき思い温みくるなり
楽しかりし思い出勘く扶け合いの たつきは宿の保の道程
生命を大切に
伊那教室 井原長男
平成三年十二月の初めに、平成四年度の年賀状を書こうと住所録を繰っていたところ、見知らぬ名前の人から喪中につき云々と賀状が届いた。調べて見ると戦友の子息であった。ああ又一人仲間が減ったのかと、淋しい思いで心が痛む。
私の住んでいる町でも二月の某日若い人妻が亡くなった。四十九才と聞いた。その人は「若妻会」のレクリエーションに参加する身支度中急に吐血し、御主人に抱かれ救急車で病院へ行く途中行きを引き取った。十数年前私の妻も同じように若くして急死しているので、余計に胸を打たれました。夫は先妻は後の世のならいであるのに。
最近新聞紙上やニュースで連日身の毛もよだつような事件が報道されています。我が子を手にかける親、親を殺す子、自ら生命を絶つ若者等、全く生命の尊さを知らない人の多い世の中でしょう。それでなくても交通事故のように、一寸先は闇でいつどんな目に遇うか分らない現在であるのに。
数十年前あの恐ろしい戦争で、好むと好まざるにかかわらず戦場に狩り出され、多くの若者が異国の地で尊い生命を亡くしたことが思い出されてならない。私も過去の戦場で今度が最後か、今度が最後かと死に直面したことを何回も体験したが、その瞬間は自失状態となりましたが、それが過ぎると又死の恐ろしさが頭をかすめ、生と死の繰り返しを重ねていました。そして数多くの戦友の死を目の前に見て、まだ生きているという自覚と喜びを感じたものでした。
最近ある老人施設へ見舞いに行きました。時間的に夕食も終り各々が各部屋に帰るところでした。比較的元気な老人は車椅子の患者の手伝いをし、仲良く語らいながら帰って行きます。しかし中にはいくらかボケ老人もいて、自分の部屋も忘れてうろうろしています。可哀相に思い尋ねると、「私の部屋は決まっていない」といいます。係員が来て連れて行きますが、大変なことと思いました。患者さんの病状はみんな違っていますが、長生きしたいという一念は皆同じであるとある患者さんが話をしていました。テレビで放映されているきんさんぎんさんと施設の皆さんとは比較にならないが、目はどうしてもそこへ行く。人間には欲があり百才生きたきんさんぎんさんでも、きっともう少し生きようと思っていることでしょう。
私は昭和五十八年不幸にも喉頭摘出手術をしました。その後発声練習をし平常な生活を送ることが出来るようになり、一日でも長生きをしなければと思うように成りました。皆様も御体に気を付け長生きをする努力をしましょう。
郷土料理(ザザ虫)
伊那教室 内山一二三
信州人は「イカモノ食い」、と他県の人が申しますが、確かに長野県で食用にする昆虫類は全国一で、一七種類だという調査があるそうです。
今も信州の昆虫食としてハチの子、ザザ虫、蚕のサナギ、イナゴやセミ、蚕のガなどが取り上げられます。しかしこのように古くから昆虫や野性動物を動物性タンパク源とし利用したのは、山国の住人ならではの生活の知恵であったと言えましょう。
さて、珍味の筆頭格ザザ虫捕りは、寒風の吹き荒れる天竜川で、例年ですと今真っ盛りのはずですが、昨年秋以降の天候不順や増水のためか、全く捕れないようで、「幻の珍味」になってしまうのではないかと心配しています。
「ザザ虫って変な名ですが?」と問いますと土地の古老は、即座に天竜川のザザで捕れる川虫だから、と答えが返ります。
ザザとは早瀬で水がザーザー流れる所を指します。昔はザザの川石の下にたくさん虫が居たのでだれも勝手に捕って来てつくだ煮にしたそうです。ザザ虫をよく食べるのは辰野町から伊那市、駒ヶ根市辺りまででしょうか。
さて、ザザ虫の正体は?これは成虫になると川辺を主に飛び回るカワゲラやトビケラ類、それにヘビトンボの幼虫などの混合物です。ヘビトンボの幼虫はマゴタロウ虫といって昔から子どもの螺(かん)の虫に効くとされました。他の幼虫と違い頭でっかちなので見分けがすぐつきます。また、カワゲラとトビケラに多いそうですが護岸工事や水質汚染が進んで幼虫類の住環境が変わったせいか、以前はほとんどカワゲラ類だったのに今は大部分トビケラになりました。量も減りましたので、今は漁業組合の鑑札を受けて捕り、ほとんど全部、業者の加工用に売れるそうです。
捕るにはジョレンなどで川石を底からかき動かし、流れた虫を四つ手網に流れ込ませます。ザザ虫の味はヒジキと油揚げの煮しめのようだと古老は申します。確かにつくだ煮は細く、黒ッぽく、ツヤがあり、口当たりはシコシコとしており、ヒジキと油揚げの煮しめとはうまい表現だと思います。食通はザザ虫のつくだ煮は酒のさかなに一番、と申しますが、値段もハチの子とともに一番高価です。
さて私ごとですが、私も職業柄と好奇心でイカモノもいろいろ食べますが、ザザ虫は苦手です。というのは、戦後間もなくザザ虫の話しをラジオですることになりましたので、伊那市から生きているのを買ってきまして、早速、水分、灰分、志望、タンパク質の定量分析をしました。結果的には栄養面はまあまあ、でした。しかし生きているザザ虫は太いのやら大きいのやら大小さまざま、ムカデのように脚がいっぱいあったり、色も黒っぽいの、褐色のもの、緑色のものなどでそれらがモソモソとはい回るのを見てしまいますと(缶詰のは生よりぐっと細く、丈も短く、脚もすっかり縮んでいる)、どうもというわけです。
ザザ虫は栄養品というより信州の珍味がよく似合うと思います。
近況―折節におもうこと
長野教室 竹前俊宏
「一人でも多くの人が発声教室で学んで一人でも多く社会に、職場に復帰されること」のみが願うことであると長野日赤教室の義家先生が書いておられた。松本、伊那、佐久その他の教室で指導される方々も同様の思いであられることでしょう。
信鈴会の会報の巻末、会員名簿をながめますと会社員、公務員、農業、販売業、それに各種自営業など、多くの方々がさまざまな仕事に就いておられ、会員に発声を指導して下さる方々の願いが大きく実っていることを示しています。
先生方の、このことに対する情熱と使命感、並々ならぬ努力に対し私たち会員は感謝、尊敬の念を抱くことは当然としても、もうひとつ、教室に通い発声を勉強する、仲間との親ぼくを図り、指導員の方々のこの「願い」をかなえるべく、努力をすることは私達の義務であるといっていいでしょう。いく通りかある発声法のいずれでも、いったんは駄目になってしまった声をとり戻し、めげる心に打ち克って自立再生することが、教えて下さる方々への一番の恩返しといえましょう。
須坂病院の大峡先生に手術をしていただいてから、全く、早いものでまもなく四年になります。四年前の六月十二日、どうやって書いたのか日記に「集中治療室から四人部屋に戻る。首も動かせず口は唖になり、鼻は匂いを嗅げなくなっての生還だ。流動食で寝たきり、挨拶もできなくなった。」などと書いてあり、手術前から覚悟はできていた筈なのに、さすがに、口を動かしてもまるきり声にならなかったあの時の淋しさ、先ゆきの不安な気持ちは今でもありありとよみ返ってきます。
手術のあと、退院する前から長野日赤の教室の仲間に入れていただきました。義家先生、鈴木先生などのしゃベりっぷりは、私にはまるきり普通の人たちと変わらぬもののように聞こえ、また若い先輩で二人、これもみごとに話せる方がおられて、大げさでなく生き返る気がしました。百聞は一見に如かず。全く勇気づけられました。
三十年ほどやった船乗り生活も退くことを余儀なくされ、しかしこの年齢で子供二人が小学生と中学生で、障害者になったからといって社会生活から逃げて家の中に引っ込んでおれる状態ではありません。何をするにも声が出なくては文字どおりお話になりませんが、先ずはこれの解消をと、日赤教室へは休まず通い、指導員の方々の熱心な教えに応えるべく自分で言うのも何ですが、頑張りました。食道発声練習教本の母音、子音の単音から二音、三音そして童話の朗読まで、家ではこれらのおさらいのほか、アサヒのあ、イロハのい、ウエノのう、などというのも日課として自分に義務づけて朝と晩一回ずつやりました。教室に通うあいだに信鈴会の親ぼくバス旅行にも二回参加させていただき、その最初のとき、鳥羽会長に紹介されたので挨拶をしましたら会長が、「ほー。キミはいい声しとるなあ」といわれ、これは本当に嬉しかった。よその教室からの参加者の中にも立派に話のできる方が何人もおられて、よし、自分もその気で続ければあの人たちぐらいまでは行けるだろうという気が湧いてきました。この旅行は他の教室の方々とも親ぼくを深め発声によりよい効果のひつとであります。
日赤教室へは約一年二カ月ほど通いました。ご指導下さった先生方の熱意と愛情、同じ勉強をしている人々の励ましによって今私は日常会話にほとんど支障ない程度まで話せるようになり、軽トラックでの運送を自営としています。この仕事、ゆく先々で色んな人々と話をすることが必要ですし、配達先の場所がわからなければ電話で聞いて届けなければなりません。手術により声帯を取ってしまった私がなんとかこのようなことができるということは、全くありがたいことだと、よく思います。このように外をとび歩く仕事をしていますと、世の中は広いようで狭いもので、私と同じような手術をした人が家族、親せき、知り合いにいる、という人と何人も会います。ただ残念なことに、発声教室へ出かけて発声のトレーニングをしているかどうか聞くと、これがほとんど行ってないと言うんです。もったいないことだと思って発声教室へ顔を出すようにと勧めております。
現在、このような仕事をし、又家庭生活でも普通に喋っていますが、私の会話はこれで良しというわけでは勿論ありませんで今後も訓練の連続です。いつも相手にはっきりわかる話し方、大きい声を出すこと、ひと息でなるべく長くしゃべること、などいくらでも勉強することはありますが、でもこれからは生活、仕事そのものが訓練を兼ねており、この辺りまで来るのが一つの段階といえましょう。
仕事の都合で、月に二回の金曜日、日赤教室へはさっぱり顔を出せず、ずっと欠礼を続けていまして申し訳なく思います。私が顔を出さなくなってから数人の新しい方が入会され、中に私より年齢の若い方もおられますが、「なんで俺だけこんな目に遇わなきゃならんのだ」とすねていないで、発声の先生方の「願い」を叶えるべく頑張っていただきたいと思います。それが結局自分のためだし、早ければ早いほど利益は大きい、と私は言い切る
ことができます。
以前から日赤教室に在籍の皆さん、バス旅行で知り合いになりました皆さん、私は達者で働いております。次回お目にかかれるまで皆さんもお元気でお過し下さい。
より良い環境づくりを目指して
松本教室 原田行雄
私も声を失ってから、早くも丸二年が経過しました。おかげさまで体の方は九分通り回復し、大変お世話になった耳鼻科病棟の先生方や看護婦さん、そして親愛なる信鈴回の皆さんに、心から感謝しながら、元気に一日一日を大事に過ごしております。
発声教室もできるだけがんばって出席していますが、何分老年ですので、どうも腹圧が弱いせいか、中々伸び悩んでいるところです。でも今のところ、健康が第一に大事であると思い、練習日には、先輩各位や同僚の皆さんとお会いできるのを唯一の楽しみとして、三才峠を越えて、信大通いをしています。
さて一昨年、私が退院して二ヶ月程経った通院のある日、診察して下さった主治医の先生から「いかがですか、その後環境に慣れましたか?」と聞かれました。その時私は勿論しゃべれませんし、質問の本当の意味もよく波みとれないまま、ただ頭をコックリと下げて、その場は終わったんですが、その後だんだん日が経つにつれ、この「環境」という言葉がなぜか気になり出し、そして又とても大事な意味をもっていることに気づいてきました。
たしか私達は今回の手術で、口惜しいかな体の一部分が変り、一応別人に生れ変ったことは事実です。第一にしゃべる声を失ったこと、第二に胸の上部に気管孔があけられ、呼吸のし方が変ったこと、第三に鼻の機能がなくなり、ほとんど臭覚を失ったこと、第四にそばやうどん類を、音をたててすすったり、又ゴム風せんをふくらませることができなくなったこと等です。
でもこのような悪条件を見事に克服し、色々と工夫をこらしながら、自分の生活環境をよりよく改善してこられた先輩各位の姿を、信鈴会を通して発見でき、大変心強く、これからのお手本にしてゆきたいと思っています。発声教室に出ると、練習の合間に、いろいろな体験談や苦心談を聞かせてもらえるので、とてもよい勉強になります。この頃も私達の教室の田中先生は、今「口笛の練習」に挑戦しているとのことで、私達の前で一寸吹いてみせましたが、中々お上手で羨ましい限りでした。私も早くそんな風になりたいものだと希望を持っています。
吹くことと言えば、私も小さい頃からハーモニカが大好きで、結婚式によばれた時など、簡単に持って行けるので、軽くポケットから取り出し、お得意の古賀メロディの一曲を演奏し、拍手をいただいたものですが、今となっては、昔の思い出話となってしまいました。十本以上集まったハーモニカは、かわいそうに机の引き出しの中で眠っています。
でも私は「なつメロ」が好きなので、こんどはアコーディオンに切り替えて、老後の慰めにしたいと、自己流に楽しんでいます。自分が落ち込んでいると、家の中が暗くなっていけないので、つとめて明るい環境づくりに心掛けています。気管孔での呼吸は、身体構造上やむを得ないことですが、何と言っても生命保持の上から一番大事な窓口ですから、充分に気をつかってゆかねばなりません。水が入ったら大変で、入浴・洗顔・頭髪洗いには、最初とても苦労しましたが、近頃では大変スムーズにできるようになり、トレードマークのガーゼの洗濯も、今では毎日の日課としてこまめにやっています。そのためにも入浴は毎日続けております。今まで風邪ひきの名人だった自分が、去年も今年も、不思議と風邪をひかずにきており、何より喜んでおります。私達の体は肺炎になり易いので、風邪は大敵です。お互いに充二分に注意してゆきましょう。.
次に困ったことの筆頭は、水泳ができなくなったことですが、その反面眠っていて「いびき」をかかなくなったことです。かかなくなったと言うより「かけなくなった」と言う方が妥当だと思いますが、これは一大得点で
す。
私も老人大学の忘年会には、思いきって、去年も今年も出席しましたが、一泊ですので、同じ部屋の皆さんが、夜眠るときに、「いびき」のことを夫々に大変心配して、「私はご迷惑をかけますので...」と気に病んでいましたが、私は涼しい顔で、「これはうれしい得点だね」と、こっそりほくそえんだ次第です。
さておわりに、自分をとりまく外部との環境づくりですが、退院当初は、ともかくしゃべれないので、他人に会うのがとてもこわくて、専ら家の中にとじ込もり勝でしたが、家内にも発破をかけられ、勇気を出し、思い切って大勢の皆さんの中にとび込まなければいけないと、気持を切り替える方向に努力しました。私は声を失う前に、丸子町ゲートボール連盟の事務局長を引き受けて、町内外の多くの皆さんと親しく交流していたんですが、今回の入院を機会に、止むなく辞退させてもらい、もうゲートボールとは縁切れだと思っていましたが、もともと運動好きで、全国大会にも出場した経験もあるので、こんどは地区の一選手として、思い切って顔を出したんです。そしたら町内の大勢の皆さんから、夫々に温かい慰めと激励の声がかけられ、涙の出る程うれしかったです。「やっぱり、勇気を出してでてよかった」と胸をなでおろしております。それからは練習や試合に追い回され、おかげで体の調子もよく、食欲もでるし、夜もぐっすり眠れるので、朝も自然と早く起き、毎朝六時半のラジオ体操は楽しく続けております。
これからどこまでがんばれるかわかりませんが、助けられた命を大切にし、よい環境づくりを目指して生活してゆきたいと思います。
私の食道発声二年目
伊那教室 石田祐一
一九九一年を迎えた。今年は身体を十分気を付けて、大病などせず通したいものと初詣に祈願する。
昨年は四月に喉頭癌手術、同月銀鈴会、五月に神奈川銀鈴会入会、発声教室に週五日御世話になり、銀鈴会では六月十四日初級、七月五日中級、九月十三日上級と認定された。神奈川銀鈴会では七月十六日青組、十二月十ん日白組と認定される。この間十月一日帰郷し十月五日長い野県信鈴会に入会させて頂いた。全く此の一年は病気と
仲良くつきあい、食道発声にあけくれた年であった。その間八月には先号で投稿させて頂いた通り次男の結婚式と忙しい思いをいたしました。自分なりに一生懸命教室に通い、何とか社会復帰をしたいものと努力をいたしました。ただ声が小さいので人ごみでは通用せず、相手方に何度か聞き直される始末でありました。その都度マイクをもって話をするわけにいかず、閉口しました。
信鈴会に入会、教室で桑原指導員先生に真先に注意された、声の小ささが直ちになおらず苦労しておりました。九一年には何とか大きな声にしたいと目標を樹てました。一月七日、二月九日と孫が生まれ私としては新しい息吹を感じ良い年になるぞと自分に言い聞かせて確信をもちました。ところが二月二五日、癌研付属病院で三ヶ月毎の血液検査、レントゲン検査で、写真の胸部に十円玉位のカゲリがあるとの由。頭頸科で呼吸器科へ行くよう指示を受け、呼吸器科の中川部長先生より写真による説明で、80%間違いなく肺腫瘍と判断され、引き続き精密検査を受けるよう指示される。血液が逆流する思いで目の前が真っくらになった。何と魔の二月かと脳裏を駆けめぐる。先の喉頭癌の宣告も二月だった。"肺癌だ"と頭の中は墨色で一杯、転移かも知れないと思う気持ちが先走る。先生は原発性のものだと思うと言ってくれたが、気休めの言葉だろうと受け付けなかった。ああ愈々おしまいだ。脳の中にいろいろの思いを乗せて特急列車で一応重い足をひきずって帰宅した。同月二十六日よりレントゲンその他の検査が始まる。入院手続きを済まし、四月三日に検査、四月十二日入院、検査結果で四月二十二日右肺上葉部摘出手術、五月十日退院する。右乳下よりわきの下を通って右肩迄の切開は、丁度袈裟かけに切られたようだった。この間手術後全く腹圧がかからず、筆記によるしかなかった。肺が少しないだけなのに息切れがひどいのには閉口した。特に身体の運動がきつい場合、階段の昇降には苦しくなる状態である。闘病日誌によると手術後肺部に二本の管がはいって折り、腹圧がかけれないので専ら先生、看護婦さんには筆記で応答していた。全管がとれて身軽になった時、腹圧をかけたが管をとった穴から空気が洩れるような気がして力がはいらず、右肺がふくらんでいたみを感じ、ついつい身をかばってしまいおしゃべりを遠ざける習慣がついてしまった。退院後暫く家にいて療養生活をする。六月二十九日、信鈴会の総会に出席、以後教室に再び出席して発声訓練にとりかかる。どうしても傷口をかばい乍ら腹圧をかけるせいか、弱い発声が手術後更に一段と弱くなったのが自分でもわかり、術前より術後の方が下手になったと思いました。特に傷口の疼痛は、秋から冬にかけますます強くなり、地元病院の先生に診察を受けて尋ねますと「どうしても寒いときは疼痛があります。だんだん年月を経ますと和らぎますから」と後遺症とのことでした。この様なことで山下指導員先生に「どうすれば良いのか」と相談したところ、「私もおなかの手術を受けたことが在ります。無理をせず発声練習をして下さい。肺の方の手術もきっと年を経れば傷口もおさまると思います。そうすれば前のように発声出来ますから。」といわれました。せつなくて賀状を差し出した銀鈴会及び神奈川銀鈴会の先生方に現状を訴え何か良い方法があったら教えて下さいと、御指導をお願いいたしました。早速御返事を頂ました。内容は大別すると、①あせらず病気養生、療養を第一に考え決して無理をしない事。その上でゆっくりと発声練習をするように。。②今、電気式発声器の良い機械があるから、それを勉強して話しをするようにして下さい。あくまでもむりをしないで体調を整えて下さい。両方使いわけ出来ることも決して無駄にはならないと思います。と以上の御指導でありました。いろいろと発声について苦しんでいました時、昨年十一月と記憶していますが、日喉連会報に中村会長先生の補声器云々の文が掲載された事でした。私は悩んでいた時でしたので、一条の光明をみい出した思いでした。早速会長先生宛文章によって大変力強さを覚えたと御手紙を差し出し、一日も早い実現と会長先生のこれからの御苦労に対し感謝の意味の内容だったと覚えて居ります。先生からは昨年十一月二十五日、そして本年二月九日付けの御返事を頂き感謝いたして居ります。就中二月の御手紙によりますと、東芝の鈴木社長の自宅で趣旨説明、東大医学部教授が日本発声言語学の会長さんをされているので、説明して音声機器メーカーでは名門である(株)リオンの担当部長を紹介された由。その結果基礎研究等に莫大な金がかかると言うことで、容易に手を出そうと言ってくれなかった。そこで先生が考えた事は、国のお金を出して頂く方法しかないと早速通産省の工業技術院を訪ねる。担当課長さん方に説明したところよく判っていただき、兎に角書類で正式に申し込むことになり漸く方向だけは見定めることが出来たと申されて居ります。基礎研究から実現迄には億単位のお金がかかること、又期間も一ヶ年以上かかると記されて居ります。先生には八面六臂の御活躍、その実現と御健康であられるよう御祈念申し上げる次第であります。喉摘者としてはそれは心強い限りと存じます。特に私のように肺機能の低下して者には何ともありがたい事だと思います。信鈴会の集まりは喉摘者には心の支えの団体であると存じます。会員御一同様の健康を御祈念申し上げつたないペンをおきます。
私の入院から退院迄
佐久教室 堀内幾太郎
平素私は仕事が好きで、その年の寒中も山の木をチェーンソーで伐採しておりました。その頃一寸風邪をひきましたが、頑固な私は一向にかまわずに仕事を続けていました。その中に咽喉に何かひっかかる様な感じになり、これはおかしいと思い近くの耳鼻科に行きました処、早速佐久病院へ行く様紹介され、小松先生を訪れたのが平成二年二月十五日でざいました。先生は診察した結果、家族の者に「堀内さんは煙草の吸いすぎで声が出なくなるかも知れません」とおっしゃったそうです。それから私の入院生活が始まり、咽喉に放射線治療を暫く続けましたが、中々良くなる気配はありません。関係の三人の先生方に放射線治療で治るでしょうか?とお聞きしましても、どの先生方も首を縦に振ってくれませんでした。毎日が重苦しい日々で先が真っ暗になり、夜も眠ろうと思っても中々心配で眠れませんでした。これ以上放射線治療を続けると、皮膚が痛むとお聞きし二つに一つを選ばなければと、家族の者と相談を致し切々たる思いで手術して頂く様に決断し、四月十一日に喉頭摘出手術をして頂きました。常日頃しゃべる事の好きだった私の事故声の出ない事には非常に抵抗がありました。しかし手術後は小松先生始め看護婦さん方の懸命な治療に当たって頂き、又良い学生さんに付いて頂いて常に励まされたり慰められたりして体もしっかりして参りました。体力がつくと何等かの形で声が出せる様になると言う事をお聞きし、それのみを一途の望みをかけて治療致しました。漸く退院間近のある日の事です。小松先生がお話がありますと言われ、お聞きしました処、「肺に腫瘍が出来ています。今の中なら初期ですから肺の手術もしましょう」と言われました。その時のショックは大なるものでした。精密検査をして頂き、体力の付くのを待って五月十六日に再び肺の手術を外科の西沢先生にやって頂きました。暫く救命救急センターにお世話になってから病室に戻りましたが、何しろ口のきけない患者でしたので、先生及び看護婦さんには大変御迷惑をおかけ致しました。肺炎になった時は先生は非常に心配して下さり、毎日お部屋へをのぞいては手厚い治療に当たって下さったり、看護婦さんは夜を徹して痰を取って頂いた時は、白衣の天使とはこの方々の事かと頭の下がる思いでした。約四ヶ月の闘病生活も、先生や看護婦さんのお蔭で快方に向かい退院の日取も決まりました。待望の発声練習の出来る日も参りました。再び耳鼻科の小松先生の指導のもとで、タピアの発声練習を致し、そして発声教室にも入会させて頂き、教室の皆様の温かい御指導と御鞭撻を頂きまして、今ではタピアも大変上達致しました。ありがとうございました。
しかし退院直後は人にお逢いしましても、ただ頭を下げるだけの自分が情け無く思ったり、親しい友人ともすらすら会話が出来ずいらいらしたり、社会復帰も中々出来ず、落ち込んでしまったり、何とか立ち直らなければと思う気持ちが行ったり来たりで暫く辛い日々が続きました。退院後一年八ヶ月が経ちますが、今ここに発声教室の皆様とお話し出来ます事も、わずか乍も仕事が出来る様になりましたのも、諸先生方、そしてやさしく親切にして下さった看護婦さんのお陰と、心から感謝申し上げます。今後は発声教室の皆様方と共に前向き姿勢でかんばって行きたいと思っています。どうふぞ宜しくお願い致します。
貴重な体験をして
松本教室 内藤久子
時のたつのは早いもの。病気を発見していただき検査入院したのが昭和六十一年一月初め、検査の結果放射線に決まる。苦しい、気持ち悪い三ヶ月が続いた。四月には嬉しい退院となるが、束の間、八月には再入院となる。検査の日々が続き十月に手術が決まった。予期はしていたものの決断する時が来たかと思った。先ず家族の事が頭に浮かぶ。一男二女は成人していたので、なんとか生活は出来るが、主人の事が一番気掛かりだった。近親者に心配を掛ける事になる。次から次と頭に浮かぶが、先ず自分に負けず元気に退院出来れば、心配事が一つずつ解決すると自分に言いきかせた。
八ヶ月の長い入院生活。苦しさのあまり「亡き父母に逝え頼むと弱音はき」こんな時もあった。快方に向かい、「野蕗の葉もこの位と手をかざし」まもなく退院ですよとドクターに励まされた。六十二年四月待望の退院が決まった。多くの先生方、婦長さん始め看護婦さん、近親者、家族に感謝して退院した。
「庭の木々春の木立で待ちわびて」、愛犬が体中で喜びを表わしてくれた。タローただいま、留守の間ありがとう。なんと包丁の重たい事、切れ味の悪い事と思うが、自分の筋力の衰えに驚く。
家中を歩いて、洗たくを始めた。少しずつ体力をつけ日常生活に慣れた。自転車にも乗れた。電車にも、バスにもタクシーにも、一人で出掛ける事にも慣れた。十数年来の家庭菜園にも、家族の協力で楽しく出来る。春の種まき、植えつけ、夏の収穫、秋の取り入れ......。JR大糸線の中で「朝シャンの子等でいっぱいローカル線」若さあふれる若者、車窓より北アルプスの残雪の美しさが目に入る。
長女結婚、続いて次女結婚、一年の内二人が家を離れた。急に家の中が広く、静かで物足りない日々、娘の存在の大きさを知った。「娘等の想い出数えヒナ飾る」。主人と長男との生活にも慣れて来た。初孫誕生し、嬉しく感動した。三ヶ月後二人目の孫誕生と、忙しく賑やかな日々を過ごす。「寝ぐせ言う初孫に、てこずり庭に出る」「初孫のどれを撮っても宝物」、孫の成長は早いもの、言葉が出る、歩く、一つ一つの仕草が愛らしい。公園でのブランコ、シーソー、すべり台と、後をたたない。
鼻中栄養の私の管を指さし「ばあちゃんの御飯のとこよだいじだいじ」、色々と判断し理解できるようになる、楽しい会話。
主人と、一泊二日で高山村山田温泉へ行った。静かな山々の風景を楽しみ、帰り小布施の町、善光寺と寄り、楽しく満ち足りた二日間をすごせた。高山村から見た北アルプスの残雪の美しさは今でも鮮明に残っている。
「甥姪の子等生まれたと賀状届き」、皆それぞれ忙しく子育てし元気でいて嬉しく思う。
術後五年、三番目、四番目の孫誕生した。それぞれ一ヶ月程家に居て婚家へ帰った。昼食を持参して長い入院生活を看病してくれた義姉には、孫をこの手で抱き世話出来たことに心より感謝した。数年来育てている洋ラン、シクラメンも、毎年花を咲かせて、喜ばせてくれている。子供を育てるように、これからも大切に大切に育てていこうと思う。洋ランの育て方、私流にテレビを見たり本を読んだりの育て方です。先ず四月下旬頃より戸外の日の当たる庭に出す。毎日水をやり、週一度の千倍にうすめる肥料をやり、一ヶ月に一度の粒の肥料をやる。入梅時は根がくさるといけないので、軒先に鉢を入れる。肥料は九月に終わりにして、十月下旬頃家の中に入れる。日に当てて、水やりだけ、鉢が乾いたらやる。寒くなる十一月頃よりいつも人の居る室に置く。私は居間に置いている。一週間に一度の水やりは必ずする。廊下に出し日光に当ててやる。毎日の管理が大変でもあり楽しくもある。これでは良く分らない点もあります。皆さんにお見せ出来ないのが残念です。そして平成四年、自分が障害を持っている事を忘れて、生活している日の方が多く、日常生活の上、それ程困る事も無く生活しています。
「ハンテン着ておどけて見せてハイポーズ」
「庭の愛犬はく息白く春を待つ」
多くの方々に感謝して、現在の生活を維持して前向きに行きたい。皆々様の御健康と御多幸をお祈りしています。
一年たって...
松本教室 小澤今朝利
平成三年三月十六日。私も家族も、何がどうなったのかわからないうちに、入院生活がはじまりました。
三十五年間家族が一度も入院した事のない生活を送れた事が、今ながら幸せに思われました。
病気に対する心構えが出来ていないために、必要以上に心配して、その度に看護婦さんに話を聞いて頂き、心安まり、又話を聞いて頂くの繰り返しの日々が続いた四ヶ月でした。
七月に入ったある日、,退院。という言葉を先生からお聞きし、その時は、大きな声を出して、喜びたかったのですが、同室の方々の事が、頭にうかび妻と二人、静かに喜びを感じました。また、家族と同じ屋根の下で生活できる事が、とても幸せな事だと感じながら、皆様に感謝した事でした。これも、先生をはじめ看護婦さん、知人、親戚、家族の方々に支えられたおかげだと深く思いました。
最後に私達家族の深いお願いが聞いてもらえるとしたら、これだけ医学が進歩して来ているのですから、是非とも人工声帯ができる事を願っています。先生、看護婦さんには、これからも宜しくご指導をお願い致します。
信鈴会に入会させて頂き、一日一日、私の言う事が、家族に伝える事が出来るようになり、希望の光で見えてきました。これからも宜しくご指導お願い致します。
皆さん、頑張りましょう。頑張って下さい。
私の病気と発声
長野教室 松沢勝三
一寸変だなあ、いや大分変だよ。喉がおかしい。そんなことであっちこっちの病院を廻る。そして診断されたのは甲状腺異常バセドー氏病。しかしどうも分らない。
平成三年一月四日、日赤で診察を受ける。一月十日喉頭ガンと判明、十六日に入院する。早急に手術の要はあるが、甲状腺の異常が激しいのでコバルト照射をし、三月十三日手術と決定した。入院時に婦長さんから、竹内久雄さんを紹介される。「竹内さんは同じ病気だから心配事があったら何でも相談しなさい」といわれた。少し声の音程が変だが何となく安心する。入院中毎日のお付き合いになる。竹内さん、諸先生方、婦長さんから毎日タバコをやめるよう勧められる。何とか一月中にやめることができた。手術後会社へ復帰するには声が出ないといけないから、手術前に発声教室にでるよう婦長さんに言われ、出席して見た。北信病院を退院したばかりの人が二人ほどいた。
皆さん努力しているのを見て、自分はもっと楽に声が出せると信じて手術を行った。手術後一人で練習するが中々出ない。人前では全く出ず、ショックは大きかった。これでは筆談より他に方法がないが、書くにも字が分らない。ひらがなやカタカナでは中々意思が通じない。ともかく出ない声で説明するより方法がないので、手真似をかねて話す。なんと看護婦さん達は分って呉れた。その後も発声勉強を重ねているうちに日頃接している人にはいくらか分かるようになった。退院時にお礼の言葉を言いたかったが、人前では全くだめでした。
四月二十九日の退院後、七月六日気管孔拡大手術で再び入院し、七月八日手術十八日退院しましたが、この時はお礼の言葉が言えました。これも先生方、看護婦さんのお世話で体力が回復したことと、発声教室の指導員の皆様の熱心な指導の賜と思っています。いやな辛いことはすっかり忘れて一歩一歩頑張りたいと思います。どうかこれからもよろしく御指導を願います。
陽春雜感
松本教室 井上龍一
いつしか陽差しも濃く草花も芽吹く春近しを思わせます。
吹雪の年の暮に手術をし、翌一月信大へ転院、十五時間の手術の結果声を失いました。
しかし両親から授かった尊い生命の存続を得ました。幸せ者と思います。何気なく話していた今迄は気がつきませんでしたが、声を失うことは覚悟していたこととはいえ、考えていた以上苦痛であり辛く悲しいことでした。
しかし病を得て健康な頃は見えなかったものが見える様になり、人の心の痛みも少しは理解できる様になりました。半年に及ぶ入院生活を糧として、過去を振り返らずこれからの人生を強く逞しく意義あるものとして実らせたいと思います。
この人生のアクシデントも武道で培った気力が支えてくれ、それにもまして温かく包んでくれた家族の愛、友情が私を前向きに生きる活力を与えてくれました。
筆談・・・声を失ったもどかしさ、苛立ち、そんな時私に大きなひかりと希望を燦然と照らし導いてくれた信鈴会!鳥羽会長はじめ諸先輩のみな様の、厳しくも心温まるご指導をいただき、片言が話せた時のあの感動は到底筆舌につくせません。ただ感謝あるのみです。ありがとうございました。
これからは発声のリハビリに精を出し、一日も早く社会へ、そして業務への復帰を目指します。
私事で恐縮ですが、十数年前アイメイト協会(東京盲導犬協会)の塩屋理事長の崇高な人間愛に打たれ、視覚に障害を持つ方々がアイメイト(盲導犬)を得て共にトレーニングに励む明るい姿に接し、協会の委嘱を受け盲導犬のブリードを始めた時、少しでもお役に立てばとアイバンクに、数年前腎バンクに登録をすませました。またこの一月には政府もやっと重い腰を挙げ、脳死臨調の最終答申で脳死容認の方向でまとまり、苦しむ方々にどれ程の光を投げかけた事か。私もぜひ参画して、ふたたび授かった尊い生命が役立てばと心に決め、弾む気持ちで道場に立つ今日この頃です。
冬きたりなば春遠からじ
松本教室 下山俠
平成二年八月頃より喉に異常があらわれはじめ、声がかすれ、これはおかしいなと思い、早速町の医者に診て貰いましたところ、医者から「たいした心配も要らない、少し通院してみたら」とのこと。暫く通院しておりましたが、その内ずるずると止めてしまいました。冬に入りあいかわらず声はかすれていましたが、寒いからだと思っていました。翌年四月になっても一向に治らないので、これはおかしいと思い、かかりつけの内科医の先生より紹介状を書いていただき、豊科日赤に連休明けに検査入院をしました。結果はもっと精密検査をするようにと。五月二十一日信大病院耳鼻科にお世話になりました。入院後放射線治療を続けました。実は内心ではこれで良くなるのかと思っていましたが、何回も続けているうちに先生より摘出手術の宣告をされ、七月十五日と決定しました。ある程度覚悟はしていたものの、いよいより大変なことになったなあと思いました。でも今死ぬわけにはいかないので、術後のこともあれこれ考え、手術をする決意をし摘出手術を受けました。術後順調に行き、四十日目に無事退院することが出来ました。主治医の先生はじめ看護婦の皆さんのおかげです。本当にありがとうございました。やっと私にも春がおとずれたのかなあと思いきや、現実の社会や自分の回りが、音声喪失者には何ときびしいものかと、いやというほど知らされました。こちらから何の意志の伝達もできず、電話のベルが鳴っても出ることも出来ず、失望することの多い毎日でした。そんなことだから家にとじこもって、訪れてくれた人々に会うことも臆病になってしまいました。退院後二ヶ月位目になって、だんだんおなかが張って痛くなってきました。主治医の石山先生に診察を仰ぎ、先生と相談し、穂高町柏原クリニック内科医院に入院しました。検査診察の結果、肝臓と胃が消化不良、胆のうもあれて腸への通過が悪く、十二指腸潰瘍と診断され、毎日二本の点滴を続けること九十日、やっと完治し退院することが出来ました。これからは勇気を出して信鈴会の発生教室にも出席させていただき、せんぱいの皆さんの御指導により声をとり戻せる様努力し、社会に復帰したいと願っております。そして明るい春の訪れを待ちます。皆様の御指導をよろしくお願いします。
心に残る人
伊那教室 小沢守
平成二年五月三日、近くの果樹園から「ブドウ」の木を頂き棚作りをした。次の日の朝、耳の横がはれて来た。家の人達は肩がこったのだと言うが、違う様な気がして五月六日伊那昭和総合病院へ行き、耳鼻科の横山先生に診察を受ける。それから数日通院致し、検査検査の連続で病名が決まったのは六月十六日で、十九日より長い入院生活が始まる。毎日、検査と週三十二本の点滴を受けて、七月二十三日先生より今迄の検査、写真の説明があり、八月二十三日手術と決まった。先生は手術すれば残念ですが声は出なくなるが、伊那の中央病院でリハビリを受ければ心配なく話しは出来るので安心して手術をする様にとの事でした。病名が決まった時から頭の中では、最悪の場合声帯摘出手術をしなければならないと思っておりましたが、「ショック」は大きかった。夕方妻に話し手術をすることにした。
丁度其の頃伊那から唐沢さんと飯島さん、北沢さんが入院してきた。唐沢さんは食道、北沢さんは胃と腎臓手術をする重病な方ばかりでしたが私の手術には大変に心配し励ましてくれた。二人は六週間位で退院していった。北沢さんは体調も良く元気でしたが、唐沢さんは食事が思うようにできないが、盆も近いという事で一寸不安な退院でした。盆も終わり手術の前日、唐沢さんより励ましの手紙が届いた。其の中に、「長い間だ待たされましたね、小沢さんを知る人総てが、明日の手術の成功を願っています。安心して医者を信じ成功を信じて下さい。「雲外蒼天」困難を乗り越え克服すれば必ずや快い青天が望めます。八月二十二日」とあった。入院以来六十八日、手術の日が来た。朝早くから子供、兄妹が励ましに来てくれ、有り難く目頭が熱くなった。八時半頃手術着に着替える。九時から約七時間の予定と聞いて手術室に向かう。終わって出て来たのは夜の十時三十分、なんと十三時間余、家族の人達にこんな長い一日は初めてだと聞かされる。麻酔から覚めたときから一週間、こんなに看護婦さんに御世話になるとは夢にも思っていませんでした。口には唾、喉には痰、看護婦さんに五分置き位に取ってもらう。取らなければすぐ苦しくなる。いやな顔一つしないでやって呉れる。此の苦しみを手術をした人皆が通りすぎたかと思うと、頑張らなければいけない。九月一日、唐沢さんが見舞いに来て手紙を置いて行く。「十三時間の長時間よく頑張りました。ほんとうに御苦労様でした。手術は大成功との事、心からお慶び申し上げます。今度は先生の指示に従いあせらず気長に養生なさって下さい。私の恩師は次の様に教えて下さいました。『手術も人生』『病むも人生』この現実をふまえ、それをのり越えて行く、『これも人生』と考えると気持ちが楽になる。」と書いてありました。その後も唐沢さんは退院迄週一回は病室へ見舞いに来てくれました。ほんとうに有り難く感謝を申し上げました。
其の後順調に体も回復して九月二十六日に退院した。放射線治療のため伊那中央病院へ転院と決まった。ふりかえって病室から外を見ると、入院した時は植えたばかりの水田が今は黄金色に色づいた穂波となり、いかに入院の長かった事かと感じた。大変に御世話になった四病棟の白鳥婦長外大勢の看護婦さんに御礼を申し上げ、今度来る時はお土産に「声」を持って来ますと言って退院した。九月二十八日伊那中央病院へ転院し、深沢先生の診察を受け放射線週五回で約二ヶ月の入院生活が始まった。入院が長いので日曜日には家へ帰ってもよいと言われ、それからは毎週家に帰っていたので、病院の生活が短く感じた。十月二日有賀婦長さんより毎月第一、第三金曜日に発声教室があるので、行く様進めがあり、お願いし五日に婦長さんと一緒に教室へ行った。桑原、山下先生より信鈴回の御話しを聞き、入会をしました。教室には石田建設(株)の会長さん、又内山さん、藤島さんと皆駒ヶ根の知人で安心して教室へ通う様になりましたが、入院中喉が痛いので皆さんの話しを聞いて病室へ帰るだけでした。十月十二日先生の診察が終わって病室へ帰ると、同室の小笠原さんが同じ病気で十五日に信大転院との事、置き手紙があった。「重病について本人の気の持ちかた、先生を信頼する事など色々力をつけて下され、有り難うございました。十五日信大へ転院治療を受ける事に本日決まりました。何れ、お互い元気で中央病院でお会い出来るかと思っております。益々元気になる様祈っております。東春近下殿島区小笠原勝男」とありました。小笠原さんも大変に悩んでおられ、同じ病気の人でなければ悩みはわからないと思い、励ましたあげたが、その時はこれが最後の別れになるとは思っていなかった。「又中央病院でお会いしましょう」の言葉が今も頭の中にはっきりと残る。お冥福を祈る。
放射線治療も終わり、退院したのは十一月二十三日。入院以来六ヶ月、深沢先生を始め唐沢総婦長さん、有賀病棟婦長さん、外来の金子看護婦さんに、ほんとうに御世話になりました。又信鈴回へ来ますのでよろしくと病院を出る。平成二年も終わり、三年の一月二十五日、又夢にも思わなかった事がおこりました。朝、伊那日報を診てびっくり、病後頼りにしていた唐沢さんが、二十三日に逝去、本日二十五日箕輪町松島の明音寺で一時より葬儀との事。妻を呼び二人で駅まで行ったが、思う時間の電車が無く急いでハイヤーで松島へ飛ぶ。教育功労者として文部大臣から表彰を受けた人だけに、立派な葬儀でした。又一人残念でたまらない。後日線香を立てに行った時、奥さんのお話で、小沢さんと最初にお逢いした時から「至心」を感じました。この出会いに感謝して他界される数日前に書いて下さった「尚政」という色紙を奥さんからいただきました。何時迄と頭の下がる思いがしました。
手術後一年、思うがままに書きましたが、良い一年とは言えない事ばかりでした。私はこれからは楽しみながら信鈴会に通い、第二の人生を築いて行きたいと思う。六十五年前と変わった喉の構造を思う時、体に合った生涯をする事が最も大切だと思っております。医者の治療を信じ人々の愛情に感謝し、あせらずのんびり養生をする事がよいのではないかと思う。最後に伊那の信鈴会で指導して下さる桑原、山下先生、会員の皆様、片言くらい声が出る様になりました。今後よろしく御願い申し上げます。皆さんと同じ様に話しが出来る日を楽しみに通います。
思うがままに
松本教室 白澤武人
光陰矢の如しと申しますが、本当に歳月の流れは早く、私も此の二月二十一日で退院して満一年を迎えることが出来ました。お陰様に此の一年異状なく過ごす事が出来てほっとして居ります。私は日頃健康で今までお医者さんのお世話になった事はかぞえる程しかないのに遂に、人生五十九年目にして大病に取り付かれ本当に大きなショックでした。私は此の病院で手術をすれば声を失うと言う事を一番恐れていました。入院生活四ヶ月の間もそんな事を考える日が多く、どうしても落ち込んでしまいました。看護婦さんに、元気を出しなさいと励まされる日々が続きました。私の場合は入院時期も悪く、年末年始は病院で迎えなくてはならなくなり、女房は特別許可を頂き、わたしの部屋は他に一人の患者さんと三人で年末年始を迎えました。淋しい大晦日でした。新しい年は私の還暦と言う人生の節目の年でもありました。年末年始も終わって仲間の人達が部屋に帰って来て何時ものにぎやかさになり元気が出ました。
そんないろいろな想い出が、昨日の事の様に感じられる、今日此頃です。私も今までは健康だったので健康なんてあたりまえ位に考えて居りました。今度こそ健康でなくてはとつくづく感じました。健康は自分に贈る最高のプレゼントと申しますが、健康なくして幸せはありません。私が今日この様に健康になれたのも主治医の先生、諸先生、看護婦さんのお陰と深く感謝して居ります。今は月に二回の定期診察を受けて居りますが、今の所は異状なく順調です。
昨年の二月に信鈴会に入会させて頂き、三月より教室に通って居ります。会長先生、諸先輩の御親切な御指導をして頂き感謝して居ります。又会長先生からは食道発声の原理の講義をして下さる。又時には先生の体験談を話して下さりとてもよい参考になります。又一週間振りに逢う仲間、又先輩の方々とお互いの健康を確認し合い、元気だと言う言葉を聞いて安心をします。私も今の所は教室へは皆勤して居ります。その割合に上達せず、悪戦苦闘をして居ります。でも今となっては自分のペースで根気よく頑張りますから、会長先生、諸先生、会員の皆様よろしく御指導の程お願いします。
平成三年二月二十一日退院記念日に記す
怠者
佐久教室 今井たつ江
信鈴会の皆様には、お変わりなくお過ごしでしょうか。私が、この会に入会して十ヶ月が過ぎようとしています。昨年は、入会早々に新潟県の寺泊へ連れて行っていただき、本当に楽しい想い出が出来ました。実をいうと、恥ずかしながら青々と広がった日本海を見るのもはじめてだったので、とても感激した事を覚えています。それにも増して嬉しかったのは、大勢の会員の皆様とお逢い出来、体験談や、経験話各々の苦しかった事、つらかった事等々お聞きし、「やはり自分一人だけでなく、大勢の仲間がいるんだ」と心から励みになった事です。
当時、皆様のお話をお聞きした時には、「ヨーシ、自分も頑張るぞ!」そして次回お逢い出来る時にはきっとお話し出来るようになろう」と心に誓ったものでした。
ところがドッコイ怠者なのか、不器用なのか、今だ声にならない状態です。昨年秋頃漸く少しずつ発声出来るようになった時点で、今度は肺の調子が悪く、十一月に再々度(といいますのは、前回三度も喉頭手術を受けている)入院し検査しました。その時投与した薬で頭髪がすっかり抜けてしまい、すごくショックを受けました。結果は手術をする程のものではないので、時々CT検査を受け様子をみていきましょう、という事で現在通院中
です。
発声練習もその間全然しなかったというより、する気力もなかったので、声の方もすっかり引込んでしまい、出発点に戻った状態です。それに一生懸命練習すると、喉の筋肉が張って痛くなるし、呼吸は苦しくなってくるしで、中途半端な状態です。電話が来た時や、外出した時など、「早く声を出したいなー」と思う反面、言えに居る時はつい面倒になってしまい口腔囁語で話してしまのが癖になっているのがかえって発声のさまたげになっているみたいです。子供たちもやれ結婚だ、進学だという時期に来ていますので、結構あわただしい毎日を送っている為、つい練習の方を疎かになってしまうのが実状です。
普段何気なく生活しているのに、こうしてペンを走らせていると会員の方々の顔が浮かんで来て「あー、やっぱりがんばらなければ・・・」と思う気持ちでいっぱいです。
四月に娘の結婚式と息子の進学が済んで落ち着いたら、又、教室へ新たな一年生として出席させていただくつもりですので、その節はよろしく御指導お願い致します。
突然に原稿を依頼され途方にくれた私ですが、近況報告といいますか雑感をしたため、貴重な一ページを遣わせていただいた事、申し訳なく思っています。ありがとうございました。
又、皆々様にお逢い出来る日を楽しみに筆を置きます。
私の闘病生活
長野教室 吉池伴近
最初に私の当時の健康状態などに就いて少しふれておきます。風邪気味であってもネギ味噌か玉子酒をどんぶり一杯呑めば、翌朝は元気で会社へ行けます。タバコはやりませんが酒が一合か二合ぐらいで、カラオケが楽しみの一ツで、休みで家に居ても動く事が好きで庭木、盆栽と一日遊んでいるような、比較的丈夫な体と私なりに自慢でした。私の勤務先はH銀行H支店で、仕事の助っ人は季節を問わず一心同体で走り続けてくれた50ccのバイクでした。仕事の内容は、朝は市内の商店、医者、車屋、大型店、夕方は官公庁回りとその他でした。平成元年四月上旬頃、忙しかった税務署通いのせいか一寸声がかすれてきましたが、玉子酒など呑んで勤めを二ヶ月余り続けていました。六月中旬頃、午前中は良いが午後になると次第に声が出ず、苦しくなりました。そんな状態でしたので、集金の途中に町医者へ行き診察を初めて受け、レントゲンの結果蓄膿症の診断で、それなりの治療で、毎日吸入を続けていましたが、ぜんぜん変化がないので紹介状をいただいて北信総合病院の耳鼻咽喉科医長の横田先生に診察していただきました。内視鏡検査の結果、七月十九日に検査結果は良性と言う事でしたが、今の内に手術をした方が良いとの事で、七月二十九日に全身麻酔で口の中へパイプ挿入し声門の炎症部分をケズリ取る手術を、五時間かかって実施しました。その後、沈黙治療二週間、放射線治療三十日間続けた後、十月四日に退院しました。十月十五日、銀行からの要請で少し早いと思いましたが、職場復帰をし、気を付けながら皆さんに励まされ、平成二年七月上旬まで勤めました。しかし、やはりまだ無理だったようで、声門の所が疲れて来るとはれ上り、気管が細くなり銀行の階段を登り切った時は、笛を吹いて居るかのようにヒョウヒョウと鳴り、息苦しくなりました。休養届を出し、又横田先生に相談すると、今度は摘出しないとどんどん悪くなるので家族でよく相談して早目に返事を下さい、と言われました。息苦しいながらも二週間以上は悩みました。一生音声喪失者になる悲しさを考える時に、ふと涙したものでしたが、仕方なく摘出手術の返事をしました。七月二十九日入院し、八月一日に五時間かけて遂に唖者になってしまいました。ICU四日、個室四日、流動食二週間で重湯になり、徐々に食事も普通に戻り二十四日に退院しました。先生の紹介で努力次第で声が出るようになるとの事で、長野日赤の発声教室へ行きました。今、義家副会長様、鈴木理事様始め多くの皆さんの親切な御指導により月三回の教室を楽しみに頑張っております。その後、入院退院のくり返しの今日此の頃ですが、平成四年二月二十三日病院のベッドにて書きました。
巻頭言
会長 田中清
信鈴会の古い記録の中に、鳥羽前会長が会員に連絡した第三回喉頭摘出者世界大会の募金の依頼文がありました。会員にはその意味が良く理解されなかったのか、募金は役員によって殆ど処理されていました。
この大会では、喉摘者に対するリハビリテーションを確立するための諸制度を、世界各国において法制化されるよう実現希望が決議されました。
爾来十数年、大会決議の要望事項は、我が国においては殆ど法制化され、また一部は厚生省等の指導要綱等で処理されました。ただ第一項にある専門の発声法指導員の養成確保と任命の件及び発声指導料の公的制度については、完全解決に至っていない状況であります。
当信鈴会は現在発声教室の指導員の大半が大正生まれであり、昭和生まれの指導員を育成するのが急務でありますが、ここに一つの壁が存在しているのであります。それは人生八十年と言われ六十五歳定年制が叫ばれている今日、当会におきましても六十歳を過ぎてなお現職で活躍されている人が多く、この人達が勤務の制約を受けて発声教室に参加出来ないからであります。世界大会ではこの点を特に重要視して、指導員の養成確保と資格者の任命の法制化を希望したものであります。現在信鈴会は、五教室で発声訓練を県の委託事業で実施していますが、発声指導員は九名であります。何んとか十数名にしたいと考えていますが、前記の理由で困難を極めております。
山梨県では、この問題の対策として、県・病院関係者・身体障害者厚生相談所・県喉会等で、発声技能指導員認定委員会を設置して認定基準・審査要領等を定め、年一回認定審査を実施し、合格者を一種・二種に分け認定委員長より認定証を交付しています。当県でもできれば此の制度を実現化し、県の斡旋により企業等のボランティア活動の一環の中で、指導員認定者に対して、発声教室開催日等、月数回の勤務緩和の配慮をお願いしたいものと思っております。
昭和年代会員の皆さんは、自分が声を失した苦しい時代を思い起こし同病者の未来の幸福のため、積極的に日喉連の発声研修会に参加していただき、認定制度ができた時には之に合格し、指導員として信鈴会を盛り上げ、その活動を一層充実発展させて欲しいものと、痛切に感じるところであります。指導員の養成確保は、信鈴会の興廃にかかる焦眉の問題であるため、関係者皆様の絶大なるご支援とご協力をお願い致しまして擱筆とします。
障害者福祉施策における最近の動向について
長野県社会部障害福祉課長 瀬在秀雄
信鈴会におかれましては、日頃より、音声機能そう失者に対する発声訓練を中心に会員のそれぞれのニーズに応えた各種の事業を展開され、県の障害者福祉行政の推進にも多大の御協力をいただいておりますことに対しまして、深く敬意を表しますとともに感謝を申し上げます。
特に、県からの委託事業である発声訓練事業につきましては、これまでの長野教室・松本教室・伊那教室・作教室に加え、昨年から新たに諏訪教室を開講していただきました。重ねて御礼を申し上げる次第でございます。
昨年は障害者福祉にとりまして、非常に重要な年でありました。「アジア太平洋障害者の十年」が始まりますとともに、三月には国の「障害者対策に関する新長期計画」が策定され、十二月には「障害者基本法」が改正され「完全参加と平等」に向けて内容の充実が図られるなど、今後の障害者福祉の基本的方向が示されました。
県といたしましては、「さわやか信州障害者プラン」を基本としつつ、これらの動向を踏まえまして、総合的な障害者福祉の向上に努めているところでございます。
平成六年度の具体的な施策につきましては、従来から実施しております身体障害者の生活訓練や各種の相談事業、県民集会等の啓発事業などを引き続き実施しておりますほか、補装具、日常生活用具の対象品目の拡大や、短期保護事業の対象を本年十月から中軽度の身体障害児にまで拡大をしたところでございます。
有料道路の割引につきましては、これまで肢体不自由者が自ら運転する場合に限られていましたが、本年十月から身体障害者手帳をもつ方全員に拡大されるとともに、重度の身体障害者が乗車する自動車を介護者が運転する場合も適用されることとなりました。
長野県身体障害者リハビリテーションセンターの施設棟の整備につきましては、来年四月のオープンをめざし工事中であり、完成後は、事業内容についても一層の充実を図る予定でございます。
また、この改築移転跡地に建設予定の長野県障害者福祉センターにつきましては、障害者のスポーツ、レクリエーション、文化活動、各種研修等の場としての機能のほか、宿泊機能も備えた多目的・総合的な施設として、平成九年秋のオープンをめざしております。
障害者や高齢者にやさしいまちづくりにつきましては、平成四年度から「やさしいまちづくり推進連絡協議会」を設置し検討願ってまいりましたが、今年九月に提言がなされましたので、今後の施策に反映させるとともに、やさしいまちづくり条例につきましても、国に施策の状況等をみながら鋭意検討しているところでございます。
このほか、平成十年三月に開催される長野パラリンピック冬季競技大会につきましては、パラリンピック組織委員会や障害福祉課内に新設したパラリンピック室等において、大会の成功にむけて準備を進めております。
また、本年の四月には、長野県障害者スポーツ協会が設立され、障害者スポーツの振興とパラリンピックへ向けた選手の育成・強化等を推進しているところでございます。
なお、これらの事業を推進するためには、信鈴会をはじめ障害者団体やその会員各位のお力添えが是非とも必要でございますので、一層の連係と御理解・御協力をお願い申し上げる次第でございます。
最後になりましたが、長野県信鈴会の御発展と、会員の皆様方の御健勝を祈念申し上げますとともに、寄稿の機会をいただきましたことに御礼を申し上げます。
(平成六年十月)
住民の住民による住民のためのしあわせ
長野県社会福祉協議会地域福祉課長 金子照國
社会福祉協議会とは、おぼろげながら社会福祉を推進している団体であるくらいの認識はあっても、何をするところか、どんな役割を担っているのか、明解に説明できる人がどのくらいいるだろうか。
社会福祉協議会は、県下12市町村全てに設置されており、最近の傾向として小地域のネットワークづくりを目標に掲げて、○○地区社会福祉協議会とか、○○支部社会福祉協議会が、自治会単位あるいは旧村落単位等に設置されることが多くなっている。
社会福祉協議会は、一般的に地域福祉推進の中核的役割を担う団体として存在していると、よく言われているが、これではっきりしたとは思われない。この中で使われている「地域福祉」という言葉が判りにくくしているのではないか、簡単に明瞭に、言い表す言葉が他にないか。
「福祉」を辞書でひくと「幸福」とあり、「福」をひいても「しあわせ」、「祉」をひいても「しあわせ」とある。○○福祉のような福祉がつく言葉をいくらもある。例えば、老人福祉、児童福祉、障害者福祉、母子福祉、父子福祉、在宅福祉等......これらの事から自ずと、老人福祉とは老人のしあわせを推進することであり、児童福祉とは児童のしあわせを考えることであることは容易に推察できる。
同様に、地域福祉は地域のしあわせとなる。しかしながら具体的には何を意味するのか、未だ判然としない。私の考えでは、地域福祉は地域住民福祉から住民2文字が除かれた言葉ではないかと思う。2文字を除いて4字成句にするなら地域の2文字を除いた住民福祉として、住民のしあわせを願いその事業を推進することである、とした方がわかりやすい。
地域福祉が住民のしあわせを考えるということであるなら、社会福祉協議会は住民のしあわせを考えて活動する中心的な役割を担う団体であると言い換えることができる。行政機関である市役所、町村役場は、仕事として住民のしあわせを考えているのが当然であり、行政機関も地域福祉の推進機関であると言うことができる。
社会福祉協議会と行政は、共に地域福祉を推進していることになるのであれば、両者の違いはどこにあるのか、違いが無いとすれば敢えて民間団体として社会福祉協議会、更には○○地区社会福祉協議会、○○支部社会福祉協議会を設置する必要がなくなることになる。
社会福祉協議会で推進する地域福祉は民間で推進する福祉活動であることから、住民自らが住民のしあわせを願う活動であると言える。これらのことから、私は「地域福祉」とは何かと聞かれたとき、アメリカの16代大統領エイブラハム・リンカーンの有名な言葉を引用して
"住民の住民による住民のためのしあわせ"と応えることにしている。つまり、地域福祉とは自分たちが住んでいる地域の福祉課題(不幸なこと、不便なこと、不測の事態)を自分たちで解決しようとする活動である。この活動を中心になって推進するのが社会福祉協議会の役割と考えるがいかがなものか。
(平成六年10月)
大江さんのこと
長野県県議会議員 深澤賢一郎
大江健三郎さんのノーベル文学賞受賞のニュースを、皆様はどんなお気持でお聞きになりましたか。私は大江さんとほぼ同世代ですし、その作家活動につねづね畏敬の念をいただいてきた一人として、大変うれしく感じました。大江さん、本当におめでとうございます。
日本の文学が、世界の文学に伍して高い評価をうける状況になろうとは、いまから三~四十念前には想像もつかぬことでした。その頃、人並みに文学少年だった私は、日本の文学はその言語の特殊性ばかりでなく、思想の深さ・構想力・叙述力からいって、世界文学には及ばないなどと評論家諸氏が言っているのを聞いてきたのです。それが川端康成さんに続いて大江さんもノーベル文学賞を受章したのですから、現代日本文学の水準の高さは折紙つきとなりました。とくに今回の大江さんの受章は、日本の美への伝統回帰をめざした川端さんとちがって、あくまで現代の社会状況にかかわり、現代人の生き方(論理性)を追求している点で、世界的同時性のなかでの評価として大きな意義があると言われております。
さて、我が身をおいている政治の分野から大江さんの文学をみると、そこに重い二つのテーマがあることに気付きます。一つは、核兵器の存在する世界にどう立ち向うかという「巨大テーマ」であり、もう一つは、障害をもつ子供(大江さんの長男)が誕生したことによる家庭生活の危機にいかに対処してゆくかという「日常生活テーマ」であります。
前者にたいする大江さんの取り組みは、日本が世界最初の被爆国であるがゆえに、人類共通の宿命をになって、この問題と四ツに組んで格闘しておられる姿は、政治家顔まけであります。
後者における大江さんの創作活動は、父親と作家という二つの面を合一してゆく工夫のなかで、思索と創作を通じて魂の浄化・生命の救済にいたるという稀有な大江文学を誕生させました。「福祉」といってしまえば簡単ですが、障害をもつ子供さんとの二十数年間にわたる家庭人としての生きざまを通じて、やはり政府の根源的な命題にふれています。
私が大江さんの作品を読んで最も感動する点は、作中に現われる父親としての大江さんが考えられるかぎり誠実であることです。
身体に障害をもつ子供が生まれてしまった、この衝撃的な事実に直面し、若い作家として出発したばかりの大江健三郎さんも一時は頭をかかえてしまったでしょう。しかし大江さんは、この事実から逃げませんでした。いや、そういう気持になりがちな自分を叱咤激励し、むしろ作家としても厳粛な事実に積極的にかかわり合うことで、イーヨーと名づけた(小説のなかの名前)障害をもつ子供さんと家族との苦難にみちた歳月のむこうに、ついに普遍的な生命の再発見に導かれるのです。
このことは現代に生きる私たちに、大きな勇気を与えてくれます。大江さんのような有力な作家でさえ、誠実に地道にねばり強く努力しつづけることによって、新しい道に到達するのだと。
ご承知のように、この大江さんのご長男、光(ひかる)さんは、いま作曲家として注目されています。作曲家、といっていいのか、その作曲作品が話題になっているのです。私もCD二枚を買って聴いてみました。大変きれいな、素直な音楽です。純粋な音楽そのものといった透明感の高い曲です。心が洗われるような、という表現は適当でなくて、むしろ素直な心がそのまま音楽のよろこびとなったような曲です。
光さんは言葉は不自由な様子なので、音楽によって自分の気持を表わしているのでしょう、そういう意味のことを父親の健三郎さんは言っています。「音楽によって光は考える」と。
たとえ言葉は不自由でも、神様を人の心から想いまで奪ったのではありません。その想い、感情がある限り、必ず伝達は可能だと信じたいものです。大江光さんの曲を聴きながら、そんな風に考えています。
(平成六年十月)
「いいお医者さん」について
顧問 信大医学部名誉教授 鈴木篤郎
三年前の「信鈴」に「いいお医者さん」という拙文を載せていただいた。その中で私は、医者と患者のコミュニケーション不足が患者の不満の大部分だというデータのあることを引用し、医療というものは、単に医学の社会的応用といった一方通行的のものではなく、医者と患者という一人の人間と人間との触れ合いのなかから生まれてくる極めて人間的なものであってほしいというのが患者の願望であると述べた。雑誌が来てから、この文章をコピーにとって、日頃文通のある二、三のクラスメートに送ったところ、そのうちの一人から返事がきた。この男は東北地方のある都市で内科、小児科を開業し、若い時はかなり忙しかったらしいが、この頃は主な仕事は長男に譲り、自分は日に数人を診ているだけだという。
その手紙の趣旨は、「貴兄のエッセイとても興味深く拝見した。お説まことにごもっともで、医者と患者の関係が今のままで良いとは、心ある医者なら誰も考えてはいまい。我々が医者になった頃は、ヒポクラテスの誓いが良医の規範であり、全身全霊の力をつくして病気を治すことに専念すればよいと教えられてきた。今の世の中、それだけで十分でないことはよく分かる。しかし患者とのコミュニケーションのことが医療の本質論としてあまりに強調され過ぎると、口先ばかりのムンテラ医者の跋
につながりはしないか。機体もエンジンも乗りごこちもよいのが理想的な車であることは云うまでもないが、一つを欠くとすれば、多少乗りごこちは悪くとも、機体やエンジンのしっかりしている方が安心ではないか」といったようなことであった。私はこの手紙を前にして「なるほど」と考えこんでしまった。
この手紙には多少の注釈が必要かもしれない。まずヒポクラテスの誓いだが、二千年以上も前のギリシャの哲学者で医者の元祖ともいうべきヒポクラテスが述べたもので、医療はすべて患者の福祉のためにのみ行なうとか治療の機会に見聞したことや他人の私生活については他言しないというようなことが誓いの形でしるされており、後世の医者の職業的規範となったものである。それからムンテラ医者のムンテラというのは、恐らく和製ドイツ語のムント・テラピー(直訳すれば口先での治療とでもなるか)の略で、患者に病状や治療法などを説明あるいは説得するというような場合に、隠語のニュアンスで医者仲間によく使われている符丁的用語である。
従ってムンテラ医者といえば、話が上手なので患者さんの評判がよく、大繁盛はしているが、診療の実力には問題のある医者のことを指し、非難と軽蔑と、ちょっぴりジェラシーの意味がこめられている。患者にしてやらねばならぬことは、その人の病気を正しく診断し、一日も早く治してやることで、そのために全力をつくし、患者にたいする口舌でのサービスなどはむしろ無くもがなというのが我々の時代の医者の共通した意識であった。この男の手紙のなかにもその気持ちがにじみでている。たしかにこの男のいうような「ムンテラ医者」は以前は皆無ではなかったようだ。正義感の強かったこの男にしてみれば、そのようないい加減な医者の評判が意外によく、患者がわんさと集まってくるのを見れば憤りを感じ、化けの皮をはいでやろうという気になったこともあったに違いない。私の文章を読んであのような懸念を覚えたのも当然だろうし、またその懸念が全くの杞憂であるともいえぬ。
しかし医者の能力の問題とこれとはまた別の次元の問題であると私は思う。以前は日本ばかりではなく、世界中のどの医者も「病気のことは専門家の私にまかせて、だまって私の云うようにしてくれればよい」という態度であった。このような態度を一家の長たる父親の家族に対する態度になぞらえて「家父長的態度」と云うのだそうだが、医者のこの家父長的態度に疑問が持たれだしたのはそう古いことではない。ここからは全くの受け売りだが、一九六〇年代の後半から七〇年にかけて、アメリカを中心として患者の側から「医療の中心は医者ではなく患者であった、医者は患者に病状や治療法についての情報を正しく伝え、患者の価値観や判断をふまえ、その了承を得た上で医療を行なわねばならない」という、いわゆる「患者の自己決定権」の運動が盛んになり、現在ではそれが日常診療の常識になっているという。一方わが国では、今でも状況はあまり以前と変わっていないようだ。医療の主役は相変わらず医者であり、患者は従属的に扱われ、「知らしむべからず、由らしむべし」の風潮は以前のままで、医者のいうことには反対はできず、異論を差し挟めば「素人がなにをいうか」と無視され、いやならその医者に診てもらうのをやめるしか方法はな
い。
しかし数年前から変化が現われ始めているのも事実である。その一つのあらわれが、いま医者の間でよく使われている「インフォームド・コンセント」という言葉である。いや医者の間でこの言葉がひとり歩きしているといったほうがよいかもしれない。「インフォームド・コンセント」は日本語では「説明と同意」と訳すことになっているが、内容的には、三〇年前にアメリカなどで始まった「監視後の自己決定権」の運動の流れが海を渡ってやっとわが国に入り込み、それも肝心の患者からの主張としてではなく、医者のほうから唱えだされているというのが実情である。お医者さんにその話をきくと、「これからの医療では、ただ医者に任せておけという態度ではなく、医者は患者に医療の内容について十分な説明をし、また患者と対等に十分な話あいもし、その結果患者の理解と同意を得た上で医療を行なわねばならない」とおっしゃる。大変結構な話で、一日も早くこのような光景がとの診療室でも見られることを期待したいが、実際はそう簡単に医者の態度が変わることはないであろう。
さらに、「インフォームド・コンセント」が日常的になるためには、患者の方の意識も変わってこなければいけない。せっかく医者の方で、十分説明し、さて「どうしますか」と尋ねたとしても、患者の方が「万事おまかせします」とあい変わらず医者一任の態度から抜け出せずにおるとするならば、両者の間の対話は深まらず、医療における患者の従属的状況はなくならない。医療の現場の状況は千差万別で、一概にはいえぬが、日本人の正確などを考えると、誓い将来一挙にアメリカのようになるとは考えられない。しかし時代の流れとういものは逆らえぬもので、それが世界の風潮だとすれば、これからのわが国の医療も、ゆっくりではあろうが「インフォームド・コンセント」の流れに沿った形になって行くのではあるまいか。そのためには、患者も医者との間により主体性を持った話ができ、どういう医療サービスを受けたいかをある程度自分で考え、選択できるようになっていなければいけないと思う。
私は三年前のこの欄で、「いい医者とは、患者の不安や苦情をよく聞いてくるれ医者」であるとアンケート結果を紹介し、今回は「インフォームド・コンセント」や患者の自己決定権の思想がわが国の医者の間にも少しずつ広まりつつあり、患者の方でも病気になったら万事医者任せの時代から、医療をある程度自分で考えなければならない時代が近づきつつあることについて述べた。勿論両者の視点は異なるが、共通しているのは医者と患者という一人の人間と人間との触れ合いが医療のなかに非常に大きいウェートを占めているということである。「いいお医者さん」と「いい患者さん」との「いい人間関係」から、わが国における新しい医療の形が生まれてくることを期待したい。
国際学会を主催して
顧問 信大医学部耳鼻咽喉科教授 田口喜一郎
皆様の会誌「信鈴」も二十二号を迎えることになり、会としての機構と機能が十分に発揮されていることに敬意を表します。秋の夜長に皆様のお顔を思い浮かべながら過ぎし年月の思い出に耽けっております。私共の関係は最早患者と医師との関係ではなく、知人いや友人の関係に近いものと感じられます。短い方とは数ヶ月、長い方とは二十年を越す長いお付き合いということになります。日本人は兎角恥ずかしがり家で、なかなか打ち解けない所がありますが、日本は今や国際的に重要な位置を占めるに至り、そんなことを云っておられない時代を迎えております。
この十月の初めに「第十二会国際姿勢学会」という学会を主催することになりました。これまで大きな学会をやったことのない私共にとって、いきなり国際会議をお世話することは大変な仕事でありますが、教室員やボランティアの方々の御努力もあって首尾よく実行することができました。しかし、ここで会いたいことは学会の内容ではなく、学会中の外国人の動静であります。百名にならんとする多くの外国人が、多くが初めての日本訪問であり、しかも、全ての参加者にとって松本は最初の土地である訳ですから、彼等にとって私共の、また松本の印象が如何なるなのかは極めて興味ある関心事であり、他方彼等の行動は私共にとって注目を引く対象となった訳であります。
外国からのお客様を大切にしなければならないのは当然のことであり、如何にしたら外国の皆様が喜んで松本の滞在を過して頂けるか心を配りました。例えば、成田の新東京国際空港から松本に来るのは容易でないと考え、最初成田松本間のチャーターバスを用意することに致しましたが、生憎到着する時間が大きく分れ、バスを頻回に出すことが予算的に許されない事情もあり、己むなく成田に案内デスクを設け、そこで列車やリムジンバスの乗車する方法の案内をしてもらいました。このことは大変役立ち、共産圏から来た学者は電車に乗る運賃も侭ならぬという実情にも対処できることになりました。私自身二十七年前留学に際し、国外持出し制限額の二百ドルを懐に渡航し、一日約二十ドルのホテル住いに音を上げ、週十四ドルの安アパートを探したことを思い出し、同情した結果でもあります。
松本における彼等の行動の積極さは際立ったものでした。昼間は熱心に講演を聴く一方寸暇を惜しんで市内見物や観光に出かける。松本城程度は会場(ホテルブエナビスタ)から徒歩で行ってくる。ドイツのブラント教授夫妻は朝早く出かけ、京都で4つのお寺を拝観して来たといった調子です。また、何かと云うとすぐタクシーを使ってしまう私共にとって、公共の交通を利用しようという態度には感心しました。例えば、浅間温泉に行き、日本の温泉につかりたいという方にタクシーを用意しようとしたところ、バスで行きたいから乗車場所を教えて欲しいと云われたのには驚きました。これは、一つは経済的理由も関係しているかも知れませんが、豊かさに慣れてしまった私共が学ばねばならない点でしょう。会長として著名な学者を食事に招待した時、二つのエピソードが印象に残りました。一つはイタリアの生理学者ポンペイーノ教授ですが、明日講演があるから、そのおさらいをするので、今夜の宴席は遠慮するということでした。私なら、折角の招待だからといって出席したかも知れません。発表内容に最後まで責任を持とうとする態度は立派と云わざるを得ないかも知れません。またカナダのパトラ教授は奥様が観光に出てまだ帰ってこないので、残念ながら出席できないと云われました。さすがレディファーストのお国柄、そのような事まで気を使うのかと複雑な心境になりました。ある中国からの参加者は、ポスターの発表に慣れていないのか、発表直前まで展示してなく、行き先を探しても分からないので困ってしまいました。十五分前にやっとホテルのフロントで捕まえることができました。すぐ展示をするようにというと、原稿用紙僅か三枚を並べただけ、私としてはただ呆気にとられてしまいました。ましてや発表言語である英語も十分できる人であり、予め展示は発表の二日前と云うことを知っていた筈ですし、お金がないというので旅費やホテル代まで援助した人がこのような態度では以後考えねばならないという思いを深くしました。一方ロシアやブルガリアからの参加者は、経費を節約するために、朝食は殆どとららなかったということを後で聞きました。若干の滞在費の援助をして上げましたので、朝食位は当然とっているだろうと思っていましたので意外に感じました。学会中の昼食と三日間の夕食は無料で差上げたのですが、朝食は自己負担ということにしてありました。今考えると、最近のロシア貨幣ルーブルの暴落で、日本円の1万円はロシアのホテルでは2ヵ月分の朝食代に相当すると聞けば朝食を節約する気持はよく分かる気が致しました。占領軍のために働いた、終戦後の日本の親たちは子供のために同じようなことをやっていたと聞いたことを思い出しました。何十年か後に日本の経済状態が今のロシアと同じにならないという保証はありません。貧しい時代を経験した昭和一桁生れの私共は十分耐えられると思いますが、贅沢に慣れた若い人達は如何でしょうか。そう云えば、この学会の会費を現在の2年間二十ドルから三十ドルに上げようと云う案が出された時、ブルガリアガンチェフ教授は、「二十ドルでも私の給料(月給)の五分の一を占めるのにこれ以上上げられてはかなわない。物価にスライドしてアメリカ貨幣の二十ドルに相当する額だけ収めればよい規約にして欲しい」といっていたのは理解できるように思われます。豊かな国の一つ、フランスのある教授が夫妻で来られていましたが、唯一有料とした四日目の懇親会費の一万円が高過ぎるから出席しないと云われたのにはショックでした。同教授が主催したマルセーユの学会の時は確か五千円相当であり、内容的には私共の料理の方が遙かに上だと自負出来たのですが、外国人には全てが高い日本の物価が強く応えたのでしょう。同じ人が松本駅で日本のそば(日本蕎麦)を食べて大変美味しかったと話しておりました。歓迎会や音楽会の後の野外パーティーの御馳走にそばは外国人に向かないと思ってはずしたのは間違いだったと感じました。今やてんぷらや寿司は国際的な日本食になりましたが、さしみやそばを食べられない人が殆ど居なくなったということは、日本が国際的になったと同時に、その食事も案内書などで広く紹介され、食べてみたいと思われるようになったということです。最終日には全員で美ヶ原高原美術館の散策とお別れパーティーで最後の日本料理を味わって頂きました。富士山も望める最高の天候に恵まれ、地元の赤ワインが大変好評でした。
松本は美しい所であり、空気も食べ物も美味しいと四年前から宣伝しておいたことが、現実に認識され、学会の内容と共に十分満足して頂けたことに誇りを感ずるものであります。
(平成六年十月三十一日)
慢性疲勞症候群
顧問 長野赤十字病院耳鼻咽喉科部長 菊川正人
長野日赤に赴任して一年が過ぎようとしているが、どうも体調が良くない。私は特にこれと言った病気を患った事はないのであるが、たまに夜更しの酒を飲むと、その後二、三日ふらふらしていたり、疲労がたまると扁桃が痛くなり微熱があったりする。腰痛が長い手術中に出て来たり、どうも環境が合わないのか、四十代に入って男の厄に近づいて来たからであろうか、単に運動不足で体重が増えてきた事が原因なのか良く判らない。
男の厄は本来二十五歳の厄で終わりだったらしい。四十二歳は厄ではなくお祝いしたものらしい。めでたい事に四十二歳まで生きたと言うことだろうか。
父も兄も、それぞれ心筋梗塞、狭心症で薬を離せない状態が長く続いている。この体調の悪さは、循環器によるものかも知れない。心電図の検査でも受けた方が良いということか。
本来人間は、二十代、三十代で原始時代には死んでいたと推測される。カマキリもサケも女達に子供を生ませると死ぬではないか。
人間も四十代で江戸時代は隠居をしていたらしい。ところがおかしな事に昨今の人間社会では四十に入ると、いきなり課長だ、部長だと何の前触れもなく管理職に就かされる。否も応もないのである。人や仕事を管理する能力など、それこそ千人に一人有るか無いかの稀有な才能である。徳が必要である。徳などと言うものは、赤十字のボランティアなどを余程若い頃から従事して、自分を無にして研鑽につぐ研鑽を重ねないと生まれるものではない。
自分の拙い経験でも組織の中の仕事は、組織の秩序維持だけに、無用のエネルギーを浪費し、組織の中の人々を無用の倦怠感にのみ追い込んでいる。よほど徳のある上司を得ないかぎり、創造的な仕事など出来るものではない。主任・係長クラスでも、そういう意味で余程優れた才能と溢れる人徳を持っている必要がある。
どうも私の不定愁訴は、年功序列社会に生きて徳を造る暇もなく、いきなり部長と言う重職に就かせられた事に原因があるらしい。
以上のように考えてみると、日本社会で四十代を生きると言うことは、余程大変な事らしい。
右も左もいっしょになる
顧問 佐久総合病院 小松正彦
長野県から初の宰相と思いきや、羽田内閣は二ヶ月で総辞職してしまいました。それはそれで仕方がないとして、村山内閣の誕生には心底ぶったまげました。
国会の首班指名選挙をじっとテレビで見ていました。いくら自民勢力が小沢一郎さんと仲が悪いとはいえ、まさか大挙して事もあろうに社会党の党首を推すとは夢にも思いませんでした。
旧連立側が海部元総理を担ぎ出したとき、小沢さんの手練手管に感心しましたが、まあここは温和な海部さんで自民の一部を取りこんで決まり、とてっきり思ったからです。
掟破りの政策協定といいますか、政策協定などなく、単に権力を握りたいがための数合わせと思いますが、国会で村山さんがお辞儀しているその横で、社会党の護憲派と自民党の改憲タカ派が手をとりあって大喜びをしている様子がテレビに映し出された時、私は妙に混乱して、頭が痛くなってしまいました。
権力闘争の凄まじさを見せつけられた気がしましたが、もうひとつ、何年も前にある先生がおっしゃったことが急に現実のものとして浮かんできました。
私が中学二年生の時です。昭和四十四年ですから今から二十五年前になります。社会科を担当されていた矢崎典光先生が授業中にこう話されました。当時はベトナム戦争真っ只中で、原子力空母の横須賀や佐世保寄港を巡って世間が騒然としている時代でした。
「君たちね、今は自民党とか社会党、共産党といってお互いけんかばかりしているけれど、そのうちに、右も左も歩み寄って一緒になるものだよ。」
その時は半信半疑で、荒唐無稽なことを言う先生だと思いながらも、その言葉がやけに印象的でずっと脳裏にありました。先生の慧眼に敬意を表します。
もちろんこのような保革融合が起こった背景は、あまりに日本が豊かになりすぎて、保守も革新も現状維持がベストとの思想が働いていることは事実ですが、加えて日本人は根底で思想心情を超越した結合力と言うか同族意識が働いているように思えます。
世界に目をむけると、アジア人の我々から見れば顔からちの似た民族同志が、たかが宗教や有史以前の争いがもとで何と無益な殺し合いをしていることでしょうか。適当なところでお互い妥協して共生すればよいのに。
とくに宗教問題など日本人の無宗教的発想から言えば人がどんな神さまを信じようと自由で、なにもケンカの種にはなりえないものです。
世界の紛争地帯は増えこそすれ減りそうにありません。歴史的若いの中東も雲行きはまだ楽観できません。
勝手にやってろと言いたいところですが、平和産業優位の輸出大国日本としては、世界が安定しているほうが有難いのですから、PKOやFやむなしでしょう。
再び日本に目を転じます。村山内閣も発足三ヶ月で、社会党の公約を次々と捨て去り、最初は呆れて見ていましたが、次第になんだか潔くなって支持率も上昇中です。
去年、コロンビアから佐久病院に視察に来た女医さんと話しをする機会がありました。
私は下手な英語に身振り手振りと筆談をまじえながら彼女と医療から社会問題まで話をしたのですが、彼女はその中でこう言いました。
「私は母国の医療水準の向上を目的に日本に視察に来たけれど、社会の安定が先決ですね。日本のような国は世界では例外の部類に入るんですよ。」
耳鼻科の病室によると、九十二歳の癌患者が個室で最後の時を待っていました。昔なら納屋に放っておかれていたでしょう。アメリカの医療は世界一、北欧の福祉に学べとマスコミは騒ぎますが、日本人は一日の入院費三十万、あるいは給料の半分が税金といった事態を受け入れるでしょうか。
極端な福祉でも営利至上主義でもない日本独自の社会体制が適当に国民の日常生活の緊張を強いて結果として世界に冠たる長寿国家を成したと思います。右と左の政策が癒合した結果です。もちろん国民の勤勉さも必須の条件でした。信鈴会の大先輩の皆さまが長年ご苦労された賜物です。
もっと教室をもっと資金を...と
信鈴会相談役 今野弘恵
史上稀にみる炎暑日が続いた夏もとうに過ぎ、何時の間にか紅葉の季節となりました。
今は亡き前会長の鳥羽さんと共にあるいた日々の事がつい昨日のように思い出されます。鳥羽さんが会長に就任され信鈴会の現状、将来展望などいろいろ話し合いました。『何時の日か信鈴会館が建てられるようになりたいね......等』しかし先ずは県内各地に存在する喉摘者を把握し信鈴会への加入を勧めること、そして一人残らず声を取り戻す為の訓練が受けられるようにしましょうと。当時松本教室へは飯田から来ている方も居て、午後一時三十分からの教室に参加するために朝早く出て、途中電車を乗換え、松本まで3時間余りもかかり、しかも本人だけでなく御家族にとっても容易なことではありませんでした。更に佐久、大町方面の人達も同様です。これらの人達が出来るだけ近くで訓練が受けられるようにならないものだろうか?何としても発生教室の増設が必須であります。しかし教室増設に伴う財源の確保が無ければ実現は出来ません。
信鈴会誕生(S四十四年一月)以前に始まった長野教室(長野赤十字病院耳鼻科)、S四十四年五月開設の松本教室(信大病院耳鼻科)、これ等教室運営助成金は、石村会長、島・碓田副会長と今野で県に請願し、S四十四年度分五万円、以降毎年の請願によりS四十七年度分から十万円となりましたが、『新たに教室を設置するには、指導員の養成と資金増が急務、手を広げて待っていてもお金は湧いて来ない。自らが行動する事で行政を動かしていこう。請願書、陳情書もさることながら、訓練の場をつぶさに見てもらい、じかに接してもらう事で声を失った人達の障害や、悩みを理解してもらう事が肝要』と考えまして、S五十二年二月及び五十六年四月に当時の県会議員中島先生、有賀先生に直接松本教室を見学していただきました。『百聞は一見に如かず』この事は文字通り議員の先生方の行政を動かす大きな説得力となりまして、委託金のアップにつなげる事が出来ました。
S五十三年十月待望の伊那教室(市立伊那中央総合病院耳鼻科)開設の運びに漕ぎつけました。勿論教室の開設には矢田剛先生(当時伊那中央病院耳鼻科医長)東原総看護婦長(当時総婦長)のご理解とご尽力をいただいた事は言うまでも有りません。現在伊那教室は深沢先生、唐沢八江子総婦長、担当NSの皆様のご支援をいただきながら、桑原さん山下さん等の指導員により、伊那方面の人達の訓練の場として、又心の拠りどころとして充実した教室運営が継承されています。
続いてS五十六年四月に佐久発声教室(佐久総合病院耳鼻科)が誕生しましたが、佐久総合病院は山浦一男先生(当時佐久総合病院耳鼻科医長)が術後のリハビリに積極的に取り組んでおられまして、佐久総合病院内に独自の発声教室を発足させる考えで着々と準備が進められ、発会式を待つばかりに至っていました。たまたま信鈴会の事業として、佐久教室開設のご相談を申し上げましたところ、快く受け入れて下さり、佐久総合病院で手術を受けた人のみで無く、広く佐久方面の人達を対象とした信鈴会佐久教室の開設としてスタートしました。
山浦先生の積極的な行動力、患者さんを中心とした説得力が病院全体を動かし、発会式には小林政雄さん、小池増晴さん、鳥羽さんと私が出席しました。病院側から副院長並びに担当者皆様の出席を得まして、心強いスタートでありました。鳥羽さんと松本へ帰る車の中で、目標を掲げての積み重ねの大切さ、一生懸命やれば必ず実現の方向に近づく事が出来る...等々話合ったのを思い出します。三瓶満昌さんには開設の準備段階から発会式に至る迄、山浦先生、病院側との重要なパイプ役としてお骨折りいただき、以来今日まで持前の包容力と指導力で佐久教室を担当していただいております。
信鈴会事業のネックである発声訓練の指導員の方々には、交通費の一部を差し上げるのが精一杯で、他はすべてボランティアでお願いしているのが実体であり、年会費と県からの委託金だけでは事業の拡大は困難でありました。会員の増加や、教室の増設を機にS五十六年五月松本市長(当時和合市長)訪問、じかに面談し松本市在住会員の状況を示し、市からの補助をお願いしました。しかし市の予算に計上することは出来ない、と言う結果に終りましたが、その際寄付金の一部を教室に役立てる様にと五万円戴きました。S五十九年十月有賀先生に同行していただき県へ陳情し鳥羽会長、義家副会長と私の三人で信鈴会の事業内容、会員の分布状況、教室の実態等々説明し委託金増の必要性を訴えました。この時の県のお役人とのやりとりは、今でも鮮明に心に残っております。「県内には皆さんより重度の障害をもった方が大勢居ます。皆さんは未だ人手を借りなくとも、手足が動くのだから......」と委託金の増額に難色を示された、お役人の言葉に、障害をもった人達をどの様に支援するのか、の基本的な考え方の相違を感じ、一瞬ムッとしましたが、すかさず『咽頭を失った人達は訓練によって声を取り戻す事が可能なのです。音声を獲得出来れば今まで通り、いえ今まで以上に社会へ貢献出来るのです。だからこそ訓練の場をもっと提供出来る様に考えて欲しいのです』とお役人に食いつき、漸く翌S六十年度予算に十万円増額を約束して戴きました。足どりも軽く長野赤十字病院に立ち寄り、浅輪先生にその成果を報告(浅輪先生とはこれが最後の別れとなってしまいました)後、篠ノ井の草間外科入院中の上条さん(信大病院第二外科で手術され訓練に数回お見えになったきりになっていた)を見舞って一路松本へ......鳥羽さんとは何度も県へ市へと足を運びましたが、有賀先生は私共の一生懸命さに精一杯応えて下さいました。残念ながらS六十二年六月県会議員を辞すことになり、深沢県会議員に引き継いでいただき、平成元年の増額にこぎつけ、県の委託金は現在に至っております。
一方S四十四年十月信鈴創刊号以来、続いている会報は鈴木名誉教授(当時信大耳鼻科教授)のお力添えを得て、信大病院信和会がS五十年より印刷費を全面的にバックアップしてくれております。
創設期から昭和の終り迄の信鈴会のあゆみの全貌を知る人が少なくなりましたが、今日まで実に多くの方々の有形無形のあたたかいご支援とご協力に支えられながら今あることを、......特に鳥羽さんと一緒に歩んだ期間の一部を、ここに思いつくままに記してみました。信鈴会の歴史の一端を知る上で参考になれば幸いです。
前向きに
信大病院東二階病棟 胡桃恵
私は就職して六年、学生の頃から数えると九年間、看護に携わってきました。私が看護婦になるなんて、私も周囲の人達も思ってもみなかった事でした。
何故、看護婦になろうと思ったか...何か人の役に立ちたいという気持ちからでした。私自身や家族の入院経験があったわけではなく、ただ漠然と看護婦人の役に立つ仕事と考えての進路決定でした。医療の現場というものを全く知らずにいたので、病棟の実習などでは驚かされる事がしばしばでした。
そんな中で看護婦という仕事を選んで良かったと思えたのは、多くの患者さん達に接する中での、その病気と闘う姿勢から与えられる感動があるからでした。中でも、皆さんの前向きに生きる姿勢に感動し、それが私の看護観にとても影響を与えています。
上手く言葉で表わせませんが、人に治してもらうのではなく、「自分の力で治してやるぞ」という気持ちを持たせる事ができたら、そんな看護をしていきたいと思っています。
まだまだ未熟で、理想にはほど遠い私ですが、これからも皆さんに教わっていきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
あけび
信大病院東二階病棟 百瀬悦子
ある秋の日、ある患者さんのお部屋を検温で訪ねましたら、床頭台の上にパックリと口を開けたあけびが置かれていました。それはお盆の上にザクロやクリと一緒に置かれていました。その方の奥様が自宅から持って来られたものでした。私は思わず懐かしさで一杯になりまし
た。
"あけび"とは「木通」「通草」と書き,開け実。からきているのだそうです。私の実家にも子供の頃、この木が一本ありました。かわいい紫の色調の花は、子供だった私達のママごと遊びのごはんの材料になったり、髪飾りになったり、また時にはピストルの玉になって投げ合いっこをした記憶があります。その木は植えられてどの位たっていたのでしょうか。私の記憶にある十数年の間に実をつけたのは二、三回ほどで、それもその木が若かったせいなのか、一回に付ける実の数は二、三個というものでした。なんて種ばかりで食べる所のない果物なんだろう。でも果肉自体はトロッとしていて、何とも言えない舌ざわりとほんのりとした甘みは今も忘れられません。こんな事をお話しましたら、東北の方達はあけびは実ばかりでなく、花やつる、また皮の部分も食べるのだと奥様にお聞きし、そのお料理方法を教えて戴いたので、ご紹介したいと思います。皮は苦味が強いのだそうですが、乙な味だと言う事でした。
あけびのつる
①塩ゆでにして、そのまま三時間位置く。
②一~二時間冷水につけてあくを抜く。
③小鉢にもり、中心にうずらの卵を入れ、しょうゆ味やみそマヨネーズで食べる。
あけびの花
①散る前の花だけ摘んで、さっと洗う。
②塩漬けにする。(塩は多目に)
③水にもどして食べる。
④そのままでも風味があっておいしい。ゆでこぼしても良いが色が少し逃げる。桜湯の様にしても美しい。
あけびの皮
①皮だけを千切りにして油みそにして食べる。苦味があって酒のつまみに良い。また、皮の間にねぎみそをはさんで、天ぷら又は油で両面を焼く。
いかがでしょうか。私も一度食べてみたい、と思っています。あけびはつるでかごなど作ったり、茎の木の部分は生薬にしたり、また実ばかりでなく皮や花も食卓にのせるなど、人とあけびとの深い結びつきを感じさせてくれます。
こんなことを思い出させてくれた実家のあけびの木は、今は切られてありませんが、この患者さんのお宅では、今年も沢山実をつけたのだそうです。この実がつるのあちこちにぶらさがっている様を浮かべると微笑ましくなります。
この患者さんは食事練習が始まったばかりで、それを召し上がるわけにはいきませんでしたが、季節を感じ、お宅を懐かしく思われた事でしょう。この方はその後元気になられて退院されて行きましたが、今でもあけびのかわいい形と一緒にご夫婦の笑顔が思い出されます。
電気発声器についての所感
諏訪教室 宮坂公正
教室に於ける教科書には、電気発声器を使う時のやり方その他がありません。勿論食道発声が発声訓練の基本ですが、食道発声は、エネルギーが沢山必要と思われますので、体の弱い方や食道の手術結果発声の出来ない方、又商売上早期に対話の必要性のある方等は、電気発声器を習う事をお薦めします。
私は教室に通って五年になりますが、電気発声器を先に使った為に、未だ食道発声が出来ません。よって電気発声器は後から習った方が良い様です。私は食道発声での話が出来ないので、皆さんには申し訳ないが、私の気持ち意見を述べる時は、誰にも気兼ね無く電気発声器を使いますが、これは皆さんに気持ちをハッキリと判って戴くためです。しかし、私も漸く幾分か私なりに食道発声も話せる様になりかけております。この原稿が会誌となってお手許に届く頃までには、頑張って食道発声で皆さんに、聞き取れる様にしたいと思っております。したがってそれまでお願いします。
さて、電気発声器に付いて、今出回っているのは、ドイッ産、アメリカ産、私の使っている中島尚誠堂で扱っているのが有ります。アメリカ産はこの頃出ましたので私は未だ見ておりませんが、ドイツ産の発声器は、音が細かく女性的に聞えます。ただ電池が特殊かと思われます。勉強不足でわかりません。私の『エゴ』かも知れませんが、音は荒いが中島尚誠堂扱いのをお薦めします。充電できるのがナショナル、サンヨー等で出しております。電池の値は二千二百円です。アルカリ電池は五百円、普通電池は百八十円位です。
私は旅に出る時には、壊れては楽しさが台無しなので電気発声器を二つ持って行きます。旅に出ても、仲間と話せない事程つまらない事はありません。先日も仲間十人で三日間の京都へのバス旅行をしましたが、話は弾んで、楽しい旅でした。しかし、電気発声器で困ることは静かな所で、小さな音を出しても遠くまで響いてしまう事です。又、飲み会等で飲む前は私の話が聞こえる様ですが、飲み始めてから暫くすると、どんなにパワーを高くしても、聞いて貰えない事です。これも身障者と言うことで止むを得ない事でしょうか。いずれに致しましても、これらを総で満足されるような、開発された新式の発声補助器が待たれるところです。
国際咽頭摘出者協会IAL世界大会に出席して
伊那教室 関島秀夫
この度アメリカで開催の表題による世界大会に参加、出席して参りました。本年は銀鈴会創立四十周年の記念事業として行われました。日本からの参加者は、銀鈴会の会員が主体でした。北は北海道から南は沖縄を含む各地からの三十三名で、七月十九日から二十九日迄の十一日間の日程でした。大会は勿論視察観光も兼ねて行われました。私も五月十六日横浜市で開催の第二十一回神奈川県銀鈴回総会に出席した折、この大会の開催日程が配られ、役員各位からもこの大会参加についてお勧めを戴き、又私からも参加資格は如何かと伺いまして、色々と検討の結果、参加と決定された訳であります。
このIALとは、略して非政府、非営利のボランティア団体で、喉摘者のトータル的なリハビリテーションに寄与している喉摘者に対して、発声指導又病院のプログラムの構築、指導員の登録養成、総会の開催及び発声研究会の開催等を行っており、各クラブの活動を纏める必要性に対応し、一九五二年に設立され、現在全米三○○の地域クラブと、日本の銀鈴会を中心にカナダ、ヨーロッパを含む十ヶ国二十五クラブで構成されている団体であります。我々日本から参加の三十三名は、成田空港の第二ターミナルビル本館三階に、七月十九日午前十時に集結しました。私は名古屋空港からの行程でしたので少々早く到着、未だ皆さんの顔が見えず心配しておりましたが、時間が経過するに従って、懐かしい役員の方々や東京田町教室で習った同僚の方々、又教示して戴いた先生の面々、更には笑みを湛えた中村会長さんもお見えになり、会員の集結が完了し、予定の時間に従って日本航空のジャンボジェットに搭乗が始まりました。
この四十周年記念事業での大会への参加は、又アメリカ、カナダの観光視察の旅でもあるデラックスな旅行でもありました。従って本大会参加の内容は、それぞれの分野での分科会等も行われ、その大会の全容と言う訳にはまいりませんが、その内容の一部、又初めて見、聴くアメリカ、カナダでもありますので、旅での珍しかった事や、又味わえない点等を、紀行文としました。御笑読下さい。
愈々搭乗も終り、予定通りにジャンボは成田を後に一路シカゴに向けて直行、十一日間の旅が始まりました。行程は日本本土の太平洋岸を北上し、北海道、アリューシャン列島、カムチャツカと行けども行けども海又海の連続、カムチャツカを過ぎてカナダ領アラスカ、又アメリカ本土ロッキー山脈を越え、これも山又山で下界にはアメリカ本土の広大な原野が展開して来ました。成田出発後一旦夕暮れを迎えたが、時差の関係で、地球の自転で又朝を迎え、シカゴへの到着が十九日の午前九時四十分でした。この日の一日の長かったこと、私は朝五時に起床して名古屋空港廻りでしたので、シカゴの一日を含めこの日は昼時間が何んと四十時間に及ぶ一日でした。皆さんも同様です。
第一日目シカゴ到着、ホテルニッコーシカゴで旅装を解く間もなく直ちに視察観光に出発。シカゴの人口は約三○○万、近郊を含めると八○○万の人口を擁する全米でも屈指の経済圏を構成する都市であります。学校で昔習ったシカゴは、今はその跡も余り見受けられず、素晴らしい発達を遂げ、私達は市内最高のビル、これは世界で五番目の高さと聞きましたが、高さ四二〇米一一二階建で、九十五階の展望食堂で昼食を共にしました。この高さでの眺望は素晴らしかったです。
第二日目ナイヤガラ瀑布の見学シカゴ空港よりジェット飛行機でバッファローへ約一時間、早速バスにはナイヤガラへ、目の当たりに見る瀑布の巨大さに驚く。カナダ滝はアメリカ滝に比し遙かに規模が大きく約二倍で、流れ落ちる水量の響き、高さ五十米からの吹き上げる水飛沫は、観光船に乗ってビニール服を着ていても下半身ずぶ濡れの状態でした。又この五湖合わせた面積が、日本の面積の六十六%との事でした。夜は、滝より三○○米しか離れて居ない宿泊ホテルの十五階の部屋から眺める夜景は、照明に映えて水飛沫を上げる景観は見事そのものでした。
第三日目ナイヤガラ瀑布観光は、本日は滝の内部へ入っての観光で付近を散策した後、バスにて一路トロントへ、一時間半のバス旅でした。カナダ領トロントは人口三二〇万の都市で特に変わっているのは、建築物の高さ制限で、七五階建て以上の建築は認めないと言うことです。日本と比較したら!日本には未だ七五階のビルは存在しておりません。しかし此のトロントには有名な超高層建造物があるのです。
第四日目トロント市内観光で、最初に超高層建造物で昼食をとりました。此の建物つまり塔は、CNタワーと言って高さが五五三米で、展望台が高さ四四七米に在り回転レストランは同じく三五六米に在って、一回の食事は三五〇人が出来る広さがあり、食事をしながら一時間十二分で一回転、この一回転をする間食事をとり下界を眺めました。又エレベーターもジェット機の上昇速度と同じ早さとか言っておりました。(出来たばかりの横浜のランドマスターも同様素晴らしいですね)そして夜はスカイドーム(東京の後楽園球場と同じ)で、プロ野球のテキサスレジャー対ファイターズの対戦を、ギッシリと詰まった球場で、ビールを呑みながら観戦をして参りました。
第五日目トロントを後にニューヨークへ。世界最大規模を誇る都市ニューヨーク。車内ガイドさんより、再度にわたりニューヨークの恐ろしさをたたき込まれ、それなりに用心はしている心算でも、目の前に展開されている街の姿は、黒人、白人、有色人、又アジア人それぞれの人種が思い思いの服装で、又それぞれの言葉で交り合っている本当の国際都市であります。このニューヨークには七十種類の人種が混在しているとの説明でした。我々は街を歩くにも注意のあったとおり、ハンドバックは胸に抱きかかえ盗難に合わないよう細心の注意を払う始末でした。
此の街での有名なエンパイヤステートビルは、既に建築後七十年を経過しており、百二十階にある展望台で市内展望。この展望台には異人種が入り乱れ人種展覧の様子のようで一ぱいでした。此処から眺める下界の市内景観はとても東京都庁で眺める下界の比ではなく壮大でした。アメリカ、カナダ観光は高い所から眺めたりの観光が主の様で、これを記事にした私を大変高い所が好きでして、馬と鹿を合わせた様ですね。ハハハ......
アメリカは日本に比べると、半世紀近く前から発展した国であり、その経済機構と言い、又産業構造と言い、実に桁外れの巨大さを誇って居るが、今日、日本の急速な発展がアメリカを圧倒する程レベルが上がって来ており、アメリカの長い歴史が残す様に、既に見てきた都市そのものの建造物等を含めて、総てが古びた施設と変って来ている現状は、私の見た目に間違いはないと思う。半世紀も前に造られている巨大橋梁等が非常に老齢化しており、此の再建或いは架け替えには巨額な費用が掛かるとニューヨーク市当局でも困って居ると言っておりました。省みて日本にもこんな時代が到来したら、大変な事と思案しました。夜はハドソン河をクルーザーでの夕食会、船上で様々の人種が乗り込んでおり、お酒を呑みカラオケも出る始末でした。踊り狂うアメリカ人の屈託の無さが見られ、ハドソン河の船遊覧も楽しみの一つで・ありました。
第六日目本日はワシントン視察です。一時間の予定でワシントン空港へ到着しました。ワシントンはアメリカの首都としての技能を具備し、あらゆる行政機関が集中、外国公館もぎっしり、実に整然と整備された都市で、それぞれの機関施設等の視察をして参りました。独立記念館、国会議事堂、ワシントン記念館、宇宙博物館、リンカーン記念館、アーリントン国立墓地等々でした。宇宙博物館には、月面着陸の宇宙船、又太平洋戦で大活躍の日本の零戦闘機が展示され、昔の面影を残しており、ホワイトハウスは文字通り白い建物で、先般も軽飛行機が墜落したが大事に至らなかったようでした。更にアーリントン国立墓地は説明に拠ると、現在各種戦争で、命を国に捧げた兵士約二十三万人が眠って居るとの事、敷地も一千町歩にも及ぶと言っておりました。此の広大な墓地は、緩やかな丘陵地に広がる見渡す限り整然と白い墓標が並んでいる光景は厳粛そのものでした。首都ワシントンは私の見る限りでは、他の都市(ニューヨーク又シカゴ)等と比べ、若さ、整然さ、清潔さを感じました。視察を終えてニューヨークへ帰着。
第七日目ニューヨークに二泊、午前中は五番街にある名店マキを始め、それぞれの店でショッピングを楽しむ。又イーストパーク傍にある玩具の専門店で、皆さんそれぞれ孫、子供、親戚への土産物を買い、終了後愈々TAL大会の開催されるフィラデルフィヤへバスにて二時間の予定で出発、六車線の広大なハイウェイを時速百キロで吹っ飛ばして、フィラデルフィヤのホテルファイアットチェリーへ到着、三日間の大会が始まりました。
早速夜七時よりIAL大会の前夜祭で、通訳を交えての役員との交歓夕食会。人種を超越しての交歓は、言葉こそ通じ無いが心は一つ、お互いが握手し合って歓談をし本当に楽しい一時を過ごしました。一旦は声を失ったお互い同志であり、心は一つ、言わずと通じ合い親しみを感じました。こうした私達共通の立場にある仲間については、世界は一つと言った深い印象を受けました。中村会長も言っておりましたが、世界には喉摘者が推計で約六十万人いるとの事です。本当に楽しい一夜でした。今でもその時の写真を見ながら当時を偲んで振り返っております。
第八日目午前九時よりIAL世界大会に全員出席、前段で述べた通りアメリカ、カナダ、ヨーロッパよりの参加者多数の出席を得て盛大に大会が開催された。儀礼的なセレモニーが終って、午後はフィラデルフィヤ市内のカジノへ車を走らす。アトランタシティのカジノは、ラスベガスに次ぐ遊戯場で、その規模の大きさには我々日本人は只驚くばかり。何千人もの遊人が霞む程広い遊戯場で、執念を燃やして博打に打ち込んでいるその目は、真剣そのものであり、とても日本のパチンコの比ではありません。私も戯れに、はじめ十ドルでアメリカ化へ津二十五セントの硬貨四十個を買ってはじめたところ、アット言う間に終わり更に十ドル又十ドルと買ってやっていた処、三回目から二十五セントの硬貨が、出るは出るはで皆さんにも一握り又二握りと分け与えながらやっていましたが、不思議と入れれば出るわ!でも丁度時間で、早速両替をした処、一○九ドルの現金貨幣に替える事が出来、都合七九ドルの儲けとなり、バスの中で話題になりました。帰着後、IAL役員とのレセプション、日本側全員の三十三名も役員との和やかな時を過ごしました。
第九日目午前中は観光で、コロンブスの上陸地点の記念碑の前で記念写真、他独立記念館等を視察後、午後から中村会長のスピーチが行われました。全世界から参集の喉摘者を前に三十分に亘る熱演は大きな反響を呼びました。参会の数百名は、演説の区切り毎に通訳が翻訳する内容に聞き入っておりました。その内容は、銀鈴会の四十年に及ぶ歴史を振り返りながら、年々後を絶たない喉頭摘出者に対する発声の指導、又それを教育する指導員の養成、更にはアジア地域に於ける発声指導、特に銀鈴会の発声指導は食道発声で指導している実体の発表がありました。まだ一部にも、都合上ラリンクス使用者の例も申し述べました。日本を除くIAL大会に出席参加した外国の皆さんの殆どが、ラリンクス使用が多く、ホテル内でもこの製品の販売が沢山店を並べて売って居りました。外国人の之等の会話を聴いて居る中で、言葉が通じない面もさる事ながら機械を通じて聴くに、明瞭度が無く聴き難い面が感じられました。日本での食道発声は、この指導する先生と、これを受ける側とが、教教わる立場を通じ、人間的な本当の心のつながりが出来る温かい人間愛が基本となり、通じ合うと言うメリットが深く、又聴く人に対し聴き難いきらいがあるとも言っておりました。
一般的に機械に頼る発声方法は、どうしても手が塞がる可能性が強く、電話その他で不便を感じるきらいがあるが、食道発声はそのままの発声であるので、何ら不自由は感じられない点があるのは事実であります。何れにしても、現在通産省で研究をし、近く完成すると言われております手を使わない機械は何んとしても期待される機械であって欲しいところです。
中村会長のスピーチ終了後、市内の日本のお店で日本食を済ませ、午後八時より本大会に参加しました。喉摘者全員に依るレセプションと交歓会で、いよいよ大会も全日程が終了を迎える最後の催しとなり色とりどりに着飾った服装でお国自慢のショウにダンスに歌にそれぞれの芸の発表があり、手を握り合って、次回再会を約し合って別れました。緒課題に気の合った同志で写真を撮り合ったりフォークダンスに興じました。
第十日目長かった視察観光並びにIAL大会も、愈々最後の日を迎える事になり、全日程を終了し日本に帰る準備に追われる。八時五十分集合、九時ニューヨークケネディ航空に向けて出発。到着後早速搭乗手続きも終え、十三時搭乗開始、愈々アメリカを後に日本に向けて出発と言う直前管制塔より、上空に強力な雷雲が発生、出発を見合わせる旨の放送があり、約二時間機内待機の後、アメリカ時間で十六時やっとフライング、十三時間に亘る飛行の末、二十九日の午後五時過ぎ成田到着、成田で解散してそれぞれわが家やの帰路を急ぎました。
今回この大会に参加して大変学ぶべき点が多く、特に銀鈴会を中心とした食道発声の良さと言うのを改めて感じました。又こうした大会を開催する事に依って、参集する関係者が国際社会の平和へ貢献する一面を、垣間見る事が出来ました。又日本からの参加者三十三名の中に、長野県出身者が私達を含めて六名が参加されており、旅行の間お国自慢話しに花が咲いて大変楽しく過ごす事ができました。なお、次回開催地はアメリカのロスアンゼルスとの事で、参加された皆さんと是非機会を得て、できれば又の再会を誓い合って別れて来ました。以上長い旅行記を終わります。御笑読の程を。
(平成六年十月二十五日)
八十路を越えて
長野教室 義家敏
私は公務員として定年の五十五才まで無事務めて退職することができました。続いて外郭団体で六年務めて居た矢先、昭和五十年九月喉摘手術を受ける事になってしまいました。誰もがそうであった様に、私の人生最大の悲しみとなってしまったのであります。
術後四日程したある日病室に見えられた方が、今は亡き鳥羽さんと、私より八ヶ月程前に手術をされたと言う上伊那の桑原さんとお二人で激励して下さって、「努力して頑張れば声は出るんだよ」「やる気が有れば大丈夫だよ」と有名な市長さんの事、大学の先生等の事を話して下さって、初めてお会いした喉摘者の声にびっくりしたのです。指導訓練を受け努力次第で声を出せる事を目前に見て、『よーし、俺も頑張ってやるんだ』と食道発声教室には、信大教室、長野日赤教室と一生懸命やった心算だったが、私の職場復帰は無理と悟り、私の務めは最後の退職となりました。
信鈴会発声教室では、今は故人となられた鳥羽様、大橋様、平沢様等から指導、鞭撻を受けてきたのでありますが、期待されたきた様な上達は出来ずに今日になってしまいました。
昭和五十二年信鈴会副会長に、昭和五十四年から食道発声指導員に嘱されて今日まで過ぎて参りました。それこそ束の間に来てしまったようですが、数えて見れば喉摘後十八年となり、私の年齢も八十路を越えてしまっています。樹木なら枝も張り葉も繁ってさぞかし見事な成木でありましょうが、人生には生死ありで、よく此処まで来られたものと痛感します。生きてきた道は厳しく、楽しい事は勿論あったが、辛かった事、悲しかった事等の幾つかを超えてきた事が忘れられません。
最近、しばしば考えたきた事でありますが、信鈴会副会長も、指導員も解任していただく様に、お願いしてきましたところ、やっと了解を得られる事ができまして、肩の荷がおりた様な身軽さを感じます。
私は多くの知人、友人は居りますが、喉摘者となって出会った人達は、何故か心に結び付いて忘れられない皆良い人達で、私は喉摘者になった事で、こんな良い人達と友人になれた様に思えるのです。信鈴会の総会に、そして恒例の一泊の旅等実に楽しく懐かしく会う事が出来、元気で居る度に喜び合う事が出来るのです。私はこれからも発声教室には気軽な気持ちで出席して、後輩の人達の為に少しでも発声の為にお手伝いをして行きたいと思います。過去十有余年発声指導した中には、幾人かの人が立派に社会に、職場に、復帰されて、元気で一家の中心となって頑張っておられる事を見て、こんな嬉しさを感じる事はありません。
私は今迄の一日一日を、一年一年を何となく過ごして来たような気もしますが、人生八十路を越えて改めて振り返って見ますと、数え切れない沢山なあの事、この事等が脳裏を去来するのであります。太平洋戦争で戦地に送られて、便り一つもできない戦況の中、よくも生きて還られた事、そして復職しての最後に西駒郷に在職中、昭和四十四年八月に、今の天皇様が皇太子時代に妃殿下と行啓された時、私が御先導申し上げた折構内の沿道大勢の人々が並んで歓迎して居るのをご覧になられ、両陛下が私の耳近く寄られまして、この人達の関係をお尋ねになり、私は「職員と入所者の父兄です」とお答えしましたところ、お二人で直ぐにその列の前に近付かれて「御苦労様です」とご挨拶された時、皇太子殿下ご夫妻のお人柄に、『いいなあー、いい方だなあー』と私は胸がジーンと熱くなった事が、今でも昨日の様に甦って来るのです。
私の人生にも色々ありまして、やりたい事もありますが、喉摘者となっては不可能な現実もあり、悔しいけれど出来ない事は諦めるより外にないけれど、出来る事はまだ幾らでもあると思います。人から喜んで貰えるような事、人の為になる様な事に、生き甲斐を持ちたいのであります。或る食道発声の先駆者が言ったように、人は理想を持てば年を重ねても老いては行かないと、私達には食道発声と言う声を出そうとする理想を持っております。これからも発声上達の為頑張って行きたいと思います。信鈴会の会員こそお互いに同じ痛みを知り合った中での言ってみれば盟友なのであります。皆さん理想を持ち、趣味をもってはげんでやってまいりましょう。
それに致しましても今は故人となれらた平沢様、大橋様、そして鳥羽様には大変お世話になり、良き指導者でもありましたので、残念だ堪まりません。今はただ御冥福をお祈りする外ないのであります。
八十路を越えた今、できれば『来し方の記』でも綴って見たいものと思う次第であります。
居合道と私
松本教室 井上龍一
武道 それは何と耳に響きのいいことばであろう。
居合とは
人に斬られず人斬らず
己をせめて平らかな道
その起因は今から四百数十年前、奥州出羽の国(現在山形県村山市)の林崎甚助重信が始祖といわれる。重信は幼名を民治丸と呼ばれ武術を好んだ。
六才の時、父が殺され、林崎神明に千日の祈願を重ね念願叶って神から技刀術の技を授かり、永禄四年、民治丸十八の折、見事仇討ちを果たしたとつたえられ、刀は信国城州来光弥五郎。
武道は、すべて礼に始まって礼に終わる。幼い頃、父に連れられ、度々警察の道場へ通ったことを記憶している。(現大名町、八十二銀行)柔道と剣道が同一の稽古場で、畳と板に分けられ、時々勢い余ってお互いの稽古場へとび込んだりしたが、当時のお巡りさんの荒っぽいこと。今と違って、子供でも容赦なく打ちすえる。口惜しいから小さいのを利して、相手の弁慶の泣き所を思い切り叩いたものだ。
汗臭さと、竹刀の音だけが記憶にある。稽古の後は、つるの湯の入湯券を買い父と朝風呂に入って帰る。土用稽古は未だ良いが、寒稽古の辛かったこと。未明、父が足元から布団をひっぱがす。次に敷布団を強く引っ張る。当然畳にゴロリ。セントラルヒーティングなど思いもよ
らぬ時代だから、室内は零下二度ぐらいだろうか。こうなったら早く道場へ行って稽古で汗をかくしかない。考えれば、昔の人は利口だったと感心する。
袴がはきたくてたまらず、よく伊勢町の芳賀武道具店の前で立止まったものである。父にせがんでも、未だ早いと一向に耳を貸さない。しかし、後になって居合道に入り、金森師匠にその話をした時、師匠は、「お父さんは偉い。袴をはくと足の運びが隠れる。」と言われた時、亡き父の愛を、又思い知らされた思いであった。
次に、武道が呼吸法と気を通す(入れる)事の大切さは、言う迄も無い。中国武術には、古来、足心と言う呼吸法がある。勿論、肺で息を吸うのは当然だが、意識を足の裏から吸い上げ、膝、腰を通して丹田に納め、更に背筋から頭、花、口、咽頭を下ろし、再び丹田に返して静かに吐く。荘子も、「真人の息は踵を以てし、衆人の息は喉を以てす」と言っている。
さて、今や武道はその神髄を忘れかけ、勝負する事にのみ走るようになったと思われてならない。勿論勝つ事は望ましいが、その技に心が、又気がみなぎっていなければ、手のみ斬り、腰で斬ることができない。
いくら練習しても、道は遠く奥行きが深いのが武道である。度々壁に突き当たる己が情けなくなる程。技が冴えず嫌になる。しかし、これを破り少しでも先に進むには、ただたゆまぬ稽古しかない。稽古で又光がさす。
制定居合(全日本剣道連盟居合)が制定されてから、古流を学ぶ人が少なくなって来ているのは、淋しい限りである。制定居合には、当然古流(九流派)の長所がすべて包含されているが、時折、師匠の方々の古流を拝見すると、味もあるし私も修練したいと念じている。
又、武道を修業中の人には不思議とゴルフと縁のない人が多い。無論例外もあるだろうが、少なくとも私の周辺には一人もいない。私も含めて。何故だろうか。武具はすべて自分でたたみ、持ち、洗い、手入れをする。これが武道を修業する人の礼儀であり、したがって他人にバックを担がせ選ばせる事に抵抗があるのだろうか。
次に、現在の特定の問題児達に教えたなら、おそらくいじめ、足腰のひ弱さは解消され、逞しい日本人に成長するだろう。道場で稽古に汗する子供達は皆明るく、活発、礼儀正しく、そしてしっかりした日本語を話している。私は、武道に励む人々が、その種類を問わず、一堂に会して現在の子供達の事を真剣に考え、そうした何かを始める時期に来ていると思う。
益々国が豊かになり飽食の時代が続き、自分の事しか考えないエゴイズム、対外的にはエコノミックアニマルと動物呼ばれされ、嫌われ続けるならば、今に日本は、心が崩壊するような気がしてならない。一日も早く心の立て直しをしなければと危惧を抱きながら、流汗鍛練の日々である。
信鈴会の一員として、田中会長、小林副会長にご懇切な御教導を頂き、発声リハビリに努めております事を感謝致しております。又信鈴会の楽しい仲間の方々と共に励んでおります。これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。
「心こそ心迷わす心なれ 心に心、心ゆるすな」
不動智より
平成六年十月記
新たな挑戦
伊那教室 桑原賢三
昭和五十年一月、五十二才で喉頭摘出の手術を受けまして、親からもらった声を失い、その後夢中で食道発声に取組み、当時は呑込み式の発声法で、先生は今は亡き鳥羽さん、大橋さん、平沢さんでした。三年目には伊那教室の開設に伴い、担当指導員として教室をあずかる迄になり、手術以来二十年に亘り食道発声で、何の不自由も感ずる事も無く社会復帰を果して、声ある幸せを満喫して参りました処、平成五年七月突然大きな落し穴が私の人生の行く手を遮ったのであります。
それは食道発声の声帯の部分に、外部から触って僅か感じる程度の腫れを見つけましたが、発声には差支え無く苦にもしなかったのですが、八月十五日に親類の新盆のお義理に三軒程お伺いした処、そのお家の方から「声が悪くなりましたね風邪でも引いた?」と尋ねられ、それも二軒のお家の方からでした。帰宅たてから、やはりこの腫れが原因ではないかと苦になり、九月三日伊那中央病院で深澤先生の診察を受けました。先生も私の病歴を承知しておられるので、その場で腫瘍ヶ所の検体を摘出して信大病院へ送り結果待ちとなり、九月七日に再度CTとエコーの検査を行いました。丁度九月七日人気アナウンサーの逸見政孝さんの癌告知記者会見があり、同じ癌の再発に脅える自分にとっては大変なショックでありました。その後連日この報道でテレビはもちきりで大変でありました。テレビを見ながら逸見さんの落着いた態度に、自分もこの様な気持ちで居られる様にと、又検査結果の無事である事を念じながら結果を待ちました。
九月十一日に中央病院から電話があって、最悪の事態で九月十三日に入院の準備をして来院する様にとの事、又か?とショックは隠し切れず入院の準備に追われました。九月十三日に入院して、結局食道を摘出して、横腹の皮膚を移植して食道を造る手術を行うとのことで、この為連日立て続けに諸検査が始まりました。ここで放射線治療を行う処だが、前回に量多くかけてあるのでこの治療はできないので、替わって十七日より抗癌剤の投与が始まり二十四時間連続点滴となりました。先生より抗癌剤の副作用が始まるから要注意との事でした。たまたま十七日は伊那教室の教室日であり、山下さん始め大勢の皆さんが見舞いに立ち寄って戴き、特に山下さんには留守中の教室の運営をお願いしました。
二日目からもう副作用が出始めました。喉の渇き、胃のむかつき、食欲不振、何時も胃の中に鉛が入っている様でした。二十二日抗癌剤の投与が終り二十九日に手術と決まり、それ迄に体力の回復をと外泊が許可されました。そして二十七日に帰院して手術の準備、この時先生より「今回の手術は左側背中の皮膚を移植して食道を造る故、今後の食道発声は不可能となるので声は諦めること」と宣告されました。前回声を失ったのは五十二才でしたので極端な落ち込みでしたが、今回は七十二才で子供達も皆片付き、孫も内、外と六人も出来て何の心配もない環境であり、前回手術の際、手術をすれば十年は持つ、と言われた寿命が二十年も生き長らえて、食道発声もマスターして何の不自由もなく社会復帰が出来たのだから、今回声がなくなると言われても不安は有りませんでした。
九月二十九日十時から手術実施、後日家内から手術時間は十一時間掛かったと言われました。この日を境に声の無い生活が始まりました。前回は、手術後十八日で退院出来ましたが、今回はその様な訳には行きませんで長い入院生活が始まり、先生や看護婦さん、見舞い客の皆さん等との会話は総て筆談となりました。教室の藤本さんが早速ノートとポールペンを用意してくれ有り難い事でした。毎日先生の回診迄に病状及び体調を筆記して報告、やはり声の無い生活は不自由です。しかし何故か不安はありません。点滴の瓶と二十四時間の付き合い、何処へ行くにも点滴の二人連れとなりました。五十日後振りにやっと口から流動食が入る様になりました。
十一月二十七日退院となり、これからが声との闘いが始まりました。駄目だと言われた声、どうしても、もう一度声を!と、二十年も声を出してきた食道では無く、移植した食道で果して声が出るだろうか?声の無い師走も暮れ、明けて一月早々抗癌剤投与の為入院しました。三月になり二回目の抗癌剤投与の入院となり、従って発声練習も退院後からとなるが、抗癌剤の副作用が残りまして、苛々しながら日を送り、四月から漸く本格的な練習が始まりました。
移植した食道で会話が出来るだろうか?音は出るが声になりません。前の発声部位では声が掠れて会話になりません。発声部位を少し下げてみました。やはり先生の言った様に会話は無理か?癌に負けてたまるか!移植した食道でも、発声会話が出来る事を自分で証明しなければと、抗癌剤で痛め付けられた体に鞭打って、練習に頑張り努力した結果、漸く近頃家庭内での会話は不自由なく出来る様になりました。然調子の良い時と悪い時の差があります。
親からもらった声帯も、又苦労して創った食道声帯もとられましたので、今度は先生からもらった食道でしっかり発声して、一日も早く社会復帰する事が、お世話になった先生や看護婦さん、そして教室の皆さんに報いる事であると考えまして、一層の努力をする覚悟です。今後とも宜しくお願い申し上げます。
(平成六年十月記)
短歌
伊那教室 内山一二三
咲き盛る白百合の花に黒掃羽 羽根ふるわせて蜜吸ひ巡る
草を刈るビーバーの音聞こえきぬ 梅雨の晴間の日曜の朝
黄色なる稲田つづける畦道に 赤々と咲くサルビアの花
梅雨晴の日差ねくとき庭芝を 素足にふめばやわき感触
寝息たて眠流息子見れば越しがつつ ベットに覚めて時間すごしつつ
動くべし医師の言葉に病院の 長き廊下を杖つき歩く
紺青晴わたり美和ダムの 静もる水面に秋陽きららぐ
バイクにて旅に出掛けし孫の身を つつがなかれとわれは祈れり
甲府までバイクにのって行きしとう 孫日焼けしてその様語る
花菖蒲きれいよと嫁の誘なえる 庭には白き蝶も舞いいる
むくむく土盛り上ぐる土竜等の うごきが春の我が庭に見ゆ
ひなげしの色鮮やかに咲く庭に 冷たき梅雨は一と日降り次ぐ
寄せ植えのさつきの中より伸び出して どくだみの花白々と咲く
ブルベリーの熟へし実を摘む朝の野に 郭公は我が家のアンテナに鳴く
良くやるねと畑の我に声掛けし 見知らぬ女に親しさおぼゆ
蜩鳴き梅雨明け間近かと思いしも 戻り梅雨にて夏は過ぎ行く
雨多く日照り不足に悩む夏 出穂の遅れし稲作気掛る
野沢菜を蒔き居る近く突然に 此のなつ聞かぬみんみん蝉が
秋深み清らに咲きしサフランの 三本の雌しべおしみて摘みぬ
盆月を迎えて
辰野町 井原長男
平成六年三月、住み慣れた桜の里高遠を後に私達家族は辰野町に移住する事となった。転出をすれば誰しも苦悩な体験に遭遇するが、先ず東西南北探索に走り回る日々となり、又書簡などは一切付箋付記達で『転出先を差出人にお知らせ云々』と朱筆書きで転送される事は転勤家族の悲哀であり、前局の皆様にはお手数を掛けて申し訳ないと思う。八月初旬『信鈴』第二十一号が、やはり付箋付で配達され、開封して頁を繰る中我が名前が目に入り、寄稿等忘れて居たので驚いた。
先輩各位の鳥羽名誉会長の追悼記を拝読し、その偉大なる功績を残された天性を初めて知り、永遠の別れが誠に残念に思い、思わず涙ぐみ合掌し御冥福をお祈り申し上げた次第である。前会長他界後は、田中会長始め先輩諸氏の献身的努力にて、運営諸事全般の向上に尽力されている業績を深く感謝申し上げる次第である。
盆月を迎え、義理は世の常、生有る者の義務である。特に本年我が家は、東は静岡県沼津市、西は愛知県豊田市と何れも遠隔地への新盆見舞いであり、体の車に身を任せ高速道を走り、途中トイレ休憩でサービスエリアに立ち寄る人、人、人でごった返しの人出、又車の吸うにも驚くばかり、此の車の数では渋滞免れないと思った。前方に聳える富士の雄姿から、夕日に生える美観を夢想し、心安らぎて新盆宅に無事到着し、御挨拶を申し上げた。毅然とした遺影、真新しい位牌が飾られた仏壇に目が向き、茄子、瓜の牛馬、野菜供物を見て新盆家庭で戸主を亡くされた淋しさが想感された。御当家も我が家の仏式同様と思い、重ねて焼香して暫し頭を垂れていた。
沼津にて一泊、翌十三日豊田市に向かう。途中時々俄雨でワイパーはフル回転なれど、車外の遠望出来ず、退屈して腰の疲れが増すばかりで、冷汗が流れ出て困り果てた。同時刻アナウンサーの声が耳に入る。浜松豊橋間約五キロメートルの渋滞との放送、始まったからと思い時間が心配になったが、走行中何事も無く若干遅れて豊田に着く事が出来た。
豊田での焼香を済ませて帰りを急ぐため、挨拶もそこそこに辰野町へトンボ帰りして、御先祖様の位牌等を持ち阿智村の実家へ向かう。到着が夕暮時となる。一服してから仏壇を造り、法軸を飾り、迎え火焚きして一通りの供養をする事が出来た。秒針を追う様な今日一日であったが、静かに暮れて行きホット一息。
翌日近村廻りを済ませて心配した盆の三ヶ日が無事終了した。しばらく振りの実家の床であり、気楽に安めると思ったが疲れが手伝ってか、寝苦しくて寝付きが悪くて困った一夜であった。私の帰宅を知ってか部落の寺世話人某氏来宅し伝言を受けたが、わが家も檀家である常久寺住職他界の悲報に吃驚仰天した。翌朝早速寺を訪れ家人と面接しお悔み申し上げ焼香して帰る。癌にて他界と聞き人の命の果敢なさを知らさる。生前は読経の声良く透り、元気で何らの気配もなく、法要時での酒宴を好む良き住職だったがやはり病気には勝てないのか!二度と説教が聞けないと思うと、生前の姿を偲び感無量となり、胸に込み上げ淋しさ一段と増し、一人呟いていた私であった。(思いのままを綴る一九九四年十月)
思いだすままに
長野教室 鈴木ふさ
食道発声の生活になってから随分ながい月日が経ったものだ、なんて時々振り返っております。
昭和四十三年十一月六日手術が終わって個室に戻った夜、大分遅い時間でしたが、浅輪先生(晩年は日赤長野病院副院長)が顔を出して下さいました。「冷えたなぁ、大きなバケツにお湯を汲んで持って来て」と一緒に来られた看護婦さんに頼んで、間もなくだんだん暖かなぬくもりが...眠れないまま夢の中にいるようで、それでいて不安な夜、明るくなる迄とても長かった。
思っていること、頼みたいことがあるのに、声が出ないもどかしさ、悔しさがいっぱい頭に詰まった入院生活が始まりました。私の一日も早い発声の習得をして復職したいと言う願いと、病院側の絶大な御厚志により、1ヵ月過ぎた十二月七日、看護婦さん二人と先輩の更埴の碓田清千さん(信鈴会初代副会長)と、私と同じ頃に手術を受けた須坂の山岸國治さんの五人で、東京銀鈴会へ行きましたが、その途中でお寿司屋さんへ寄りました。寿司の山葵のきびしかった事、如何に喉にいけないかと言う事など時折当時を思い出します。銀鈴会での『ア』が帰るまでに、漸く二度出ただけでした。帰り際、身体障害者と言う言葉を聞かされた途端に泣けて来て、長野へ帰り着くまで大声?で泣いて来ました。思いっきり泣いて両親に親不孝を詫び、そして諦めました。
発声練習には毎日碓田さんに来ていただき空気の呑み込み、腹圧そして腹式呼吸と難しいことの連続で、いささか疲れました。『ア』の原音が出て『サザナミサラサラサシスセソ』が言えるようになって、その実績をテープに残して二月二十五日退院しました。(碓田さん不慮の病で早世されました)
四月職場に復帰するまでは、毎日一度に十五分の発声練習と十分の休憩を相互に五回繰り返して、それを一日何度も繰り返し練習しました。その十五分間の長かった事、時計と首っ引きでしたが、その頃の事を時々教室でも経験として話しております。
お終いの『ン』が言えないと言ったので『デンキ・デンワ・ミカン・レンコン』など『ン』の字を中に挟んで練習する様にその場で一緒に練習したり、時には思いもよらない質問を受けた時は、すぐに私自身でやって見まして、答えの出た後はお互いに笑顔です。試験台になって、判って貰って解決出来ればそれに越した事はありません。話して居て呼吸をすると次の話がすぐに続かないとか、又奥さんから『タ』がはっきりしていないと指摘されたとか話して呉れますので、その事についてその時々によって、本人とお互いに練習したりしています。「 これから段々寒くなって来る今の季節は、部屋の空気の乾燥に特に気をつけます。今までと違って風邪を引くと鼻水や咳、そして痰に苦労します。
私の経験が少しでも皆さんのお役にたてられれば、幸せと思いながら、発声練習に取り組んでおります。
(平成六年十二月記)
老いを一日一日新しく
諏訪教室 笠原よ志
戦後間もなくのことでしたが、被爆者の永井隆と言う著者の作品で『ロザリオの銷』という本の中で「もう永くない生命と思うから一冊でも多く読んでおくんだ」と、子供に言い聞かせる一節が心に深く刻まれていて、向こう短し思う此の頃一層鮮やかに甦ってきます。
声を失くしてから話合う事が少なく、自然を見つめて生命の尊さを味わう様になってきている故か、一日一日を無駄にしてはならないと、先ず人に喜ばれる事を第一に考えて、一日の出発をします。人の笑顔、自分の歓び、いろいろで汚れている社会の中で、声のない自分の出来る小さな幸せの中で、老いの身を楽しく過ごさせています。
松田松枝さんのこと
佐久発声教室指導員 三瓶満昌
松田松枝さんは痩身でいつも笑みを絶やさない温和で明るい人でした。日田町に住む妹さんと一緒に、教室に来られたのがつい昨日のような気が致します。
手術後間もない初心者にはガーゼの当て方から喉頭笛の掃除に至るまでよく面倒をみてくれていました。その姿を見ていますと他人の世話が楽しくてしょうがない、という感じでありました。
教室はどうしてもお年の方が多くなりますから気軽に誰彼の区別なく世話をしてくるれ人が居ますと本当に助かります。
教室の中はいつも松田さんの笑顔で明るくなったものでした。
旅行や総会などの信鈴会の行事には必ず参加して、例の明るさから誰にでも気軽に声をかけ人の輪に入って行ける人でしたから、お知合いも多かったことと思います
その松田さんが二年程前でしょうか、教室で団欒の中で「わたしね、肺にガンがあるんです、先生に診て貰ったときに、病状をハッキリおっしゃって下さい、と云って教えていただいたのですが、そのとき一年くらいかなあですって」聞いてきた私は、一瞬声が出ませんでした。つづけて松田さんは「その一年がとっくに過ぎて今は儲けの人生なんです」と云いながら人なつこい笑顔を向けるのでした。
妹さんは「姉は気丈な女で、子供の頃から痛いとか、困ったとか弱音を吐いたことがなかった。今度の病気も相当苦しかったでしょう」と呟くように述懐されていました。
妹さんがおっしゃるように、看護学校出身の松田さんは、ご自分の病気は最初から知っておられてじっと耐えておられたのでしょうか? 最後の時が近づいていた頃、見舞いに来ていたお友達が帰りぎわに「また来るね」と云いましたら、静かな笑みを浮べて小さく手を振っていたそうです。
その頃の松田さんは殆ど会話ができなくなっていたそうですが、生命力の尽きるまで生き抜いた、本当に立派:な生き方を示して下さった人だったと思います。
今は天国に昇られた松田松枝さんを偲んでペンを摑きます。 合掌
信鈴会の旅行に参加して
佐久教室 大池吉久
平成六年九月十日~十一日の土日の両日にかけて、私達佐久教室を始め長野、松本、伊那、諏訪各教室の皆さん、佐久病院小松先生のご家族、半田婦長さん他四名の看護婦の皆さん方にも参加して戴き、天候にも恵まれまして楽しい旅行が出来ましたこと心から感謝しております。今年当番の佐久教室三瓶会長始め役員、婦長さんの御尽力に依り、長電観光バスの運行で倉島ガイドさんの新設丁寧な行き届いた案内により、一行三十五名の水上温泉一泊の旅行が楽しく実行されたのであります。
九月十日定刻十時に松本駅前を出発したバスは十二時佐久病院前で全員が集結され、佐久インターから上信越道、関越道を倉島名ガイドさんの案内で山川を眺望しながらグラスアート美術館に到着、見学後次は近代文化を誇る水上のトリック美術館を見学しました。最近の光学的進歩発展の目覚ましさにはただ驚くばかり、正に夢の世界とも言える美術の向上は目を見張るものばかりでありました。
見学後、予定どおり水上温泉ひがきホテルへ安着し、豊富な温泉に身を沈めた後大宴会場へ集り、三瓶会長さんの進行係挨拶に続いて田中信鈴会長さんの力強い励ましの挨拶と共に、会場は段々と盛り上がりをみせて、唄に踊りに旅の疲れも忘れ、特に看護婦さん全員の演出振りに結ばれ合って、夜を徹して非常に楽しい思い出の旅となりました。『人生とは思い出の累積である』とある学者は答えておりますが、一生を通じて忘れられない良い思い出となりました。
来年は長野教室の当番とか、引き続きより以上の旅を計画実施されますよう願って止みません。
終りに、私佐久教室の一年生ですが、各教室の関係役員の皆さんの御労苦に対して心から敬意と感謝を申し上げ、楽しかった旅行の一幕と致します。ほんとうに、ほんとうに有り難うございました。
余生の目標
長野教室 伊藤保
人間誰しも古希を過ぎますと、己が歩んで来た道をしばしば振り返ることがあります。よく云われることばに『人生は小説のようだ』と云われますが、個々の人々が皆それぞれに自分史を持って居ります。我々同世代の者達は、激動の大正、昭和の戦前、戦中、戦後を生きながらえた者には、大なり小なりみなその時の時勢に翻弄され、波瀾にとんだ人生を送る結果となりました。
私の場合も数え三才(大正十二年)のおり、東京で関東大震災に遇い、命からがら母の里の大阪に逃げ延びましたが、時代は不景気を通り越して恐慌と云われた昭和初期で、今でも語り草に『大学は出たけれど』のことばが流行しましたが、学歴あっても職は無く、巷には失業した労働者が溢れ、東北の農家では娘を身売りしなければ暮らして生きられない時代でありました。私達一家も満州に渡り満州事変、支那事変を現地で体験し、太平洋戦争の時は、己が出征することとなり、サイパン・沖縄戦線こそ免れましたが、ソ連軍の侵攻の時は満ソ国境の守備隊でソ連軍と交戦、このときも不思議にも、かすりきず一つ負うことなく、やがて終戦、そしてソ連領に抑留、その抑留もシベリヤを経てウラルの山脈を横断、ボルガ河の流域モスコーの東南四五〇kmの収容所で、劣悪な環境の中にありながら神の御加護か、それとも運が良かったのか、無事日本へ帰還する事が出来ました。
帰国後も転々流転落ち着くまでは、不遇な時期もありましたが、幸い地域の公共施設に長らく勤めることが出来ました。
しかしながら退職間際になって『喉頭がん』を患い、一命はとりとめたものの声帯を失う結果となり、小生にとっては如何ともし難く残り少ない人生に大きなショックでありました。
私はかねがね退職したなら、余生は何か福祉に関係した仕事のお手伝いを、と閑雅手いましたが、この度の声帯喪失は形勢一変私は忽ち社会的に弱者になりました。しかし何時までも悲しんでばかりおられません。何とか早く食道発声を会得して、健常者と伍して仕事が出来るまでは、と発声教室で頑張る積りです。
この世に生をうけて七十余年、幾多の生死を彷徨っても、未だに生きて居られるのは神仏の御加護であると感謝しつつ、早く障害をもつ人々のお役にたちたいと思うこの頃です。
余生の目標
長野教室 伊藤保
人間誰しも古希を過ぎますと、己が歩んで来た道をしばしば振り返ることがあります。よく云われることばに『人生は小説のようだ』と云われますが、個々の人々が皆それぞれに自分史を持って居ります。我々同世代の者達は、激動の大正、昭和の戦前、戦中、戦後を生きながらえた者には、大なり小なりみなその時の時勢に翻弄され、波瀾にとんだ人生を送る結果となりました。
私の場合も数え三才(大正十二年)のおり、東京で関東大震災に遇い、命からがら母の里の大阪に逃げ延びましたが、時代は不景気を通り越して恐慌と云われた昭和初期で、今でも語り草に『大学は出たけれど』のことばが流行しましたが、学歴あっても職は無く、巷には失業した労働者が溢れ、東北の農家では娘を身売りしなければ暮らして生きられない時代でありました。私達一家も満州に渡り満州事変、支那事変を現地で体験し、太平洋戦争の時は、己が出征することとなり、サイパン・沖縄戦線こそ免れましたが、ソ連軍の侵攻の時は満ソ国境の守備隊でソ連軍と交戦、このときも不思議にも、かすりきず一つ負うことなく、やがて終戦、そしてソ連領に抑留、その抑留もシベリヤを経てウラルの山脈を横断、ボルガ河の流域モスコーの東南四五〇kmの収容所で、劣悪な環境の中にありながら神の御加護か、それとも運が良かったのか、無事日本へ帰還する事が出来ました。
帰国後も転々流転落ち着くまでは、不遇な時期もありましたが、幸い地域の公共施設に長らく勤めることが出来ました。
しかしながら退職間際になって『喉頭がん』を患い、一命はとりとめたものの声帯を失う結果となり、小生にとっては如何ともし難く残り少ない人生に大きなショックでありました。
私はかねがね退職したなら、余生は何か福祉に関係した仕事のお手伝いを、と閑雅手いましたが、この度の声帯喪失は形勢一変私は忽ち社会的に弱者になりました。しかし何時までも悲しんでばかりおられません。何とか早く食道発声を会得して、健常者と伍して仕事が出来るまでは、と発声教室で頑張る積りです。
この世に生をうけて七十余年、幾多の生死を彷徨っても、未だに生きて居られるのは神仏の御加護であると感謝しつつ、早く障害をもつ人々のお役にたちたいと思うこの頃です。
近況・雑感
長野教室 坪井冽
一九八八年三月、六十五才で喉摘手術を受けた。以来間もなく七年の歳月が経過する。胃腸、血圧、腰や膝等々何処も悪いところは無く、どうやら元気で過ごして来た。声の出ない苦しみも発声教室のおかげで、日常一般の用件は、なんとか間に合うようになった。だが昔から好きだった『わさび』のよく効いた寿司や、さしみ、『芥子』の効かした『おでん』等は、それぞれ辛味の極く少ない子供向けのようで無ければ駄目。大好物であったコーヒーも香りが判らず、舌ざわりで味わうのみで、銘柄も何も無し、で何とも淋しい限りだ。だが、不思議な事に、七味や青唐芥子はいくら辛くとも苦にならない。人が驚く程辛いのを、平気で食べられるのには、我ながら驚いている。 ウイスキーやブランデーも香りが判らず、上物と安物の区別が判らない。そんなこんなで、最近は専ら焼酎の麦茶かウーロン茶割りを愛用している。幸い量の方は昔と余り変わらずいける。この頃はほんの僅かながら鼻をかむことが出来る様になった。もう少し訓練すれば香りも判る様になるのではないか?と淡い希望をもっている今日この頃である。
(一九九四年十一月記)
若き日を思い出して
松本教室 小林政雄
昨年の八月十五日終戦記念日に、当時の頃を思い出して、戦争中使っていて持ち帰り、動かなくなった海軍飛行時計を、思い切って修理をしてみようと思いました。埃だらけになって一部は錆びているところもありましたが、三日間かけて分解掃除をしてみる事にしました。ところが結果は内部の機械が思ったより綺麗になり、新品同様になりました。おもむろに注油し震える手で竜頭を巻いてみると、コチコチとあの懐かしいセコンドの音がしてきました。時間も正確です。何だか夢の様でした。今迄に何個もの時計を分解しましたが、一度も直ったものは有りませんでした。しかも此の時計には、戦友の生死を賭けた大切な思い出があります。それは昭和二十年四月、先輩が海軍特別攻撃隊で出撃する時に、『俺はもう生きては帰らないから』と、私に呉れたものです。『お守り代わりにしろよ!』としっかりと手を握って行ってしまいました。そして四月十日に戦死され、遺品となってしまったのです。コチコチとセコンドの音を聞いていると、何か奇蹟的に動いたのは、「先輩の魂が宿っているからなのだ」と言う気がしてなりません。又その音を聞いていると、昭和十八年当時の海軍戦闘機練習生を卒業した九十六名の同期生の顔が次々と浮かび上がってきました。その後二年間ヒリッピン、ラバウル、ダバオその他南方戦線で、戦闘機隊のパイロットとして、お互いに生死の境を彷徨って戦争が終わり、現在に至っておりますが、昨年までは同期生の消息は沓として知れませんでした。ところが図らずも五十年振りに、昨年十月靖国神社で生存者六名と再会することが出来て、もう嬉しくて涙を流して抱き合って歓び合いました。靖国神社で亡き友の慰霊祭を行い、九段会館で一晩中語り明かしました。そして再会を約して別れましたが、その時手に入れた戦友名簿を見れば、同期生の九割が戦死しているのには愕然としました。私は此の戦友に守られて生き残ったものと思います。
僅か四年間の軍隊生活でしたが、その強烈な生死を越えた体験は、以後の長い生活に大きな影響を与えて呉れまして、復員後は本当に生活が大変でしたけれども、何事があっても元気で希望を持って生きて来られました。特に喉頭癌の時にもさほど心配せず、声を失っても短い期間で発声が出来る様になり、毎日の生活が充実しています。前述のように、之も皆亡き戦友が守って呉れたものと思います。今後もその気持ちを忘れずに頑張って生きたいと思います。
お守りの飛行時計は今でも正確に刻み続けています。一生大切にして参ります。これからも亡き戦友の守護に報いる為に、今まで続けている発声教室の勉強をして、会員皆様の為に、より良き信鈴会になるよう、又新しく会員になる方々の為に、共に協力して頑張りたいと思い
ます。
半世紀前の思い出話でした。今後共皆様よろしくお願い致します。
思い出
松本教室 御子柴嘉久三
私は平成二年六月信大病院に入院しました。その年はもの凄く暑い夏でした。三階病棟の三〇五号室でした。
入院する前の病状は、声が何となく日増しに変わった声となってきたからでしたが、その様な時、市民タイムスの新聞に、広丘の診療所の先生が、耳鼻咽喉科の先生である事が大きく記載されていました。早速家の者には何も言わずに行きました。未だ時間が早い為か、誰も見えませんでした。やがて看護婦さんが見えて玄関の戸が開きました。一番に先生から診て頂きましたが、直ちに「紹介状を書いてやるから信大病院に行くように」と言われました。その時の信大の先生が後藤先生でした。「二、三日の内に電話をするから入院の用意をしておく様に」との事でした。そして、病院から電話があり、明日入院と言う事になりました。その時先生に「実は、知人六人で北海道旅行を計画しているが、入院はその後ではいけませんか?」とお伺いしたところ、先生は「病気を治してから行く方が、楽しい旅行ができるではないかね」と言われ、北海道行きを諦め冒頭の入院となったのであります。
入院二日目から早速放射線治療が始まりましたが、私は未だ何の病気なのか知りませんでした。先生の話では放射線治療は一日一回で三○回するとの事でした。看護婦さんが、朝夕熱を測り、食事はどうですか、喉に異常
人で病院の中を八階迄上がり、松本市内の夜景を眺め、朝は五時頃より信大の外を隅から隅迄毎日歩いておりました。万歩計を見ると一日八千歩乃至一万歩は歩きました。その友人は、手術も終わって一ヵ月位で退院して行きました。三病棟は、喉摘手術をした人、耳を手術した人、顎の辺りを手術した人が多く、私の部屋には、喉摘の方一人を含めて六人でした。放射線も二0回位済んだ頃から、首の周りが痒くなり、夜知らず知らずのうちに搔き、皮が剥がれ爛れて、三○回目になれば首が腐ってしまうのではないかとさえ思いました。予定の三〇回も終わり、一日に二回位薬を替えて頂きまして、一週間後に退院しました。薬を貰って家に帰り薬をつけている中に、傷も日増しに快くなり、八月下旬には綺麗に治りました。週一回は診察に行きました。先生から「又、連絡するが、十月になったら一週間位の入院をすることになる」と言われまして、十月予定通りの入院生活を又一週間やりました。退院の時、今度入院する時は多分首に穴を開けられて、悪い所を執り去る手術となるんだと直感しました。これで人生六十八年の声も最後かと思えば、何か熱いものが流れました。
しかし、考えて見れば、昭和十八年現役にて海軍に征き、すぐに乗艦することになり、そして香港・マニラ・フィリッピン・廣東・上海・アモイ・シンガポール・沖縄と、それぞれの戦いで、飛行機の機銃掃射、魚雷攻撃等を受けたが、この時戦死したと思えば、気も心も強くなり、こんな病気に負けるものかと、あの時信号兵として、弾の飛び散る中でマストに上がっての手旗信号、そしてモールス信号を打ち続けながらの戦いであったが、無事日本に帰る事の出来た事を思えば、今この場で死んでも、何の悔いもないとさえ思いました。先生もまた言いました。「大正生まれの軍人はどこかが違う」と。
私が海軍に征くときに、病の床からある女性が「御子柴さんの御無事を祈る。男らしく頑張って来るように」と元気付け励ましてくれました。私も「南国の空より一廣も早く元気な体になる様に祈っているよ」と別れたのでした。別れ際に一枚の布を取り出し墨をすり筆字で
『若桜散って在りし日の笑顔を見せて』と書いて呉れました。私よりたしか二つ年上の女性でした。この私を弟の様に可愛がって呉れました。戦争終結して、昭和二十年十二月三十一日復員した時、元気でおるかと思い、尋ねました。お互いに顔を見るなり、二人共何にも言えずに、ただただ泣き合うばかりでした。それから間もなくその女性はこの世を去りました。私の帰りを待っていてくれた様なものでした。
喉摘者の皆さん、つたない事を書きましたが、今の私は、声も出るし、話も出来る様になりました。皆さん、元気を出して全員頑張りましょう。必ず声も出、話も出来る様になります。私は確信をもっております。
先生、婦長さん、看護婦の皆さん、そして信鈴会会長さん、副会長さん、同志の皆さん、本当に有り難うございました。
懐かしき思い出
長野教室 井出義祐
近くに嫁いでいる娘から『おじいちゃん、SLの汽笛が聞こえるよ』との電話がありました。JR東日本長野支社の秋の誘客イベント蒸気機関車『SLアップル号』の運転が十月二十九日、三十日の運転に続き、十一月三日~六日の四日間信越線長野~黒姫間で、二十四年ブリに運転されたのであります。私も予め知っており、一度見ると連日見ないと落ち着かないので最終日に行こうと思っていました処、私を知る娘の連絡で、燕進するSLの勇壮な響きを思い出すと、矢も楯もたまらず、カメラを持って飛び出しました。
思いはその昔にかえります。SLを始めとして近代化による動力車との関わりを、現職から退職後の第二の職場を通じ、SL→ディーゼル機関車→電気機関車→電車と半世紀近く携わり、尽きない苦楽の思い出がありますが、SLとの関わりの一端をご紹介したいと思います。
一九四一年(昭和一六年)第2次世界大戦の勃発した年の九月下旬、国鉄から当時の南満州鉄道へ助勤を命ぜられ出向した事があります。牡丹江駅と一面波駅の中間に位置する横道河子駅に在る機関区でした。(現中国東北部黒竜江省)満州は、聞いたように確かに一望千里で、赤い太陽が地平線から出て地平線に入って行く、と言うような無限に広がる広野でしたが、そこに敷かれた二条の広軌鉄路(註、線間一四三五粍の国際標準軌道)の上を、ミカイ型式の大型SLで走行しました。牡丹江を起点とするこの線路はハルピン、満州里を経て、シベリア鉄道と交わり、遠くモスクワに通じる鉄道でした。同乗の機関車乗務員は勿論中国人(旧満人)でした。
私共日本からの助勤者達は、赴任の時期が十月中旬となり、約半月程実務練習の後、乗務しましたが、ショベルも大型ショベルでないと、五平方米程の火床全面には石炭が届きません。当時の看板列車『超特急アジア号』の牽引機関車「パシナ」型は、自動噴火装置で、しかも撫順から出るカロリー最高の石炭を使っていたのと比較して、一般普通列車は褐炭の最低カロリーの石炭で重労働そのものでした。其処で最初に乗務したのが、十二月八日○時三十分発の貨物列車でしたが、たまたま真珠湾攻撃の日とラップした事が思い出されてきます。さて、SLは零下三十度の中を走行するので、石炭は凍えて固まって仕舞って炭水車から出なくなります。止むなく石炭車に登って、ツルハシで砕いては掻き寄せ落とすのですが、機関助士二人はフルに動き回らないと圧力は下がって列車は停止してしまいます。又悪炭の為、火床は見る間に厚くなりますが、駅通過が多くて火床生理は勿論出来ません。止むをえず臨時停車の上、火床生理をして出発すると言う遅延が度々であり随分悩まされました。
しかし又楽しい事もありました。少年達が列車での通学途上SLに添乗するのが楽しみで機関車の鐘の音を交代に鳴らしながら、石炭掻寄せ等を喜んで手伝ってくれた事です。彼等少年達は憧れのSLであったので、競って乗り、火勢やボイラーの威力に感じ入っていました。狭い日本の鉄道と異なり、頭上には何も障害物がないから危険は有りません。もう機関士も心得ており、通過駅でもちゃっかり止めて乗せたり、降ろしたりしていました。あれからもう五三年、あの時の少年達は今何をしているだろうか?ボイラーマンになるのが夢だと言っていたが、果してなったのであろうか?少年達の逞しい姿が今でもハッキリと思い出されて来ます。
次は篠ノ井線の難所、冠着トンネルと明科~西条間の第二白板トンネル内の通過作業でした。特に過重列車の時など、難関の冠着トンネル(篠ノ井線、姥捨~冠着間、二六五六米)又は、第二白板トンネル(二〇三四米)の急勾配では、時々大空転が続発し、このため運転室内は真っ黒な黒煙と、約八〇度Cの熱い熱排気が充満して酸欠状態となって呼吸困難となるため、止むを得ず石炭開口箇所の濡れた石炭の中へ、機関士と機関助士二人して顔を埋めて呼吸を凌ぐと言う地獄の苦渋にも、度々遭遇しました。(酸素ボンベも関係の駅には用意してありましたが、洗面すると真っ黒の鼻汁が出ました)
又、機関助士当時は、過重貨物を牽引して、前途に急勾配を控えた麓の駅から出発する時の、緊張の高まりは凄まじく、冷え切ってょく火室内の火勢を旺盛にし、その勢いで焚火を続けなければならないので、万一にも焚き損なって圧力低下により、前進不能でバックすると言う事故の無いようにと、SLと共に神に祈るばかりの気持ちで秒刻みで迫る出発時刻を待ったときもありました。しかし、このような難関を乗り切った時程、爽快感がSLと共に深く味わえるものでした。この様な深い関わりを持ったので、忘れ去ることなく蒸気機関車が脳裏に閃くのでありましょう。
一九四五年八月敗戦による虚脱感と混迷の続く中、資材不足で十分な加修手当のできなかった傷だらけの、惨憺たるSLではあったが『機関車の火だけは消すな!足を止めるな!』を合言葉に、その必要とする足の確保を、満身創痍のSLの力強きドラフトの響きと共に運行休止をしないで走り続け、想定される混乱を最小限に抑える事が出来たのは、外ならぬSL機関車の力であったものと信じます。以後SL全盛時代が二十年余続き国鉄の動力車近代化により、ヂーゼル化、電化と目まぐるしく移り変わりまして、一九七〇年(昭和四五年)二月二二日、篠ノ井線、長野~塩尻間での「ちくま二号」による『さようならSL列車』のお別れ運転で、D五一五四九号に職務添乗して、SLがその雄姿を消し去るのを私はこの目でしっかりと見届けたのでありました。
なお、D五一五四九号は現在長野市後町小学校に展示保存されています。又この時二台のSLでしたが、その機関車はD五一八二四号でした。
次は年度が前後しますが、忘れられない懐かしく愉快な思い出の一つに、中央西線昼間準急列車の処女運転で浅間のキレイどころ四十人余りの祝福をうけた思い出で
す。
戦後の混乱期も下火となり、世をあげて企業の回復、進出に躍起となっていた一九五〇年(昭和二十五年)七月、期待を集めていた長野~名古屋間に戦後初めての昼間準急が走る事になりました。このための練習運転も滞り無く済んで、七月十一日の本番を迎えました。長野駅五番線に八両編成で据え付けまして、出発を待つプラットホームには、林県知事代理の宮田出納長、下平県観光課長が見えられ、国鉄側では奥中部総支配人、木俣長鉄局長、渋沢運輸部長等が見え、初運転と言うことでミス市役所原山照子嬢から花束を贈られまして『蛍の光』のメロディと、見送る人達の祝福の言葉のうちに定刻十一時三十分処女列車は滑り出しました。
途中は篠ノ井駅で三十秒停車し、あとは松本駅までノンストップ。姥捨山の急勾配も時速三十軒と言う快適快調さ。(と申しましても、作業量は毎時八の水を蒸発させ得る石炭を焚火する作業量ですから大変です)しかし、長野、名古屋間五時間三十分で走る自慢の売り込み列車だけに、機関助士M・K君と意気を合わせて頑張りました。下り購買、平坦線は許容速度一ぱいの時速七十五汁で飛んで松本駅一番線に滑り込みました。
停止位置を合致して停まった瞬間、運転室窓から浅間のキレイどころの姐さんから花束を贈られ感激してしまいました。続いて五色のテープをそれぞれの芸妓さんから渡されビックリ!ホームを見たら約四十人ぐらいの芸妓さんたちがいましたので二度ビックリ!松岡松本市長さんの粋な計らいに、当方あがったりさがったりの慌ただしい二分停車でありました。彼女たは、黒光りのSLの雄姿と、金ピカに磨かれた操縦機器を見て口々に『綺麗ね!』と言っておりました。さぞかしSLに魅力を感じて呉れた事でしょう。地元の方々の期待を双肩に、左手に花束と五色のテープを握り、右手でハンドルを操作しながらホームいっぱいの皆さんの、万歳の祝福を受けながら静かに滑り出し、やがてテープの波を断ち切って一路塩尻駅を目指して再び突進しました。
此の処女列車運転の快挙をはじめ、厳粛なお召列車の運転等々終生忘れ得ぬ思い出が、沢山ありますが、これもSLに因縁があったからこそ恵まれたものでは無いかと、私は心からこの文明開花をもたらした貴重な動力源「黒ダイヤ」によるSL運転との素晴らしい出会いに感謝しつつ、残された余生を教室の皆さんと共に発声訓練に努力し、楽しく、そして愉快に、信鈴会発展の為尽くして参りたいと思います。教室大先輩の義家さんの言葉をかりれば、『発生訓練は自分だけの為だけで無く、人の為になるように生き甲斐を持ちたい』この理念こそ、私達喉摘者としての長命への秘訣ではないでしょうか。
(平成六年十一月記)
鳥羽さんの思い出
伊那教室 桑原賢三
鳥羽さんとの出会いは、昭和四十九年十一月信大病院北三病棟二号室であった。放射線治療が終わったが、声帯片側の腫瘍が消えず、喉頭摘出手術を宣告されて声を失う事の恐ろしさと、生活への不安で手術をする気にならず、先生と今野婦長さんに「手術をしないと一年の命だから手術をする様に」と説得されていた時であった。鳥羽さんが病室に見えて、「声帯を摘出しても食道で発声して会話が出来る。この声は食道から出している声で、現在何の不自由も無く会社で仕事をしている。だから先生方の言われる様に手術をして、一日も早く発声教室で練習した方が良いと思う」と手術を勧められた。その時初めて鳥羽さんに接してその声を聞き、この声ならば社会復帰が出来ると思い手術をする決心がついた。
当時鳥羽さんは手術後丸二年で、松本教室の発声指導員であった。私も昭和五十年三月から鳥羽先生について食道発声の指導を受けた。信鈴会の最初の一泊旅行も鳥羽さんの発案で、先生の言うのには声を失うと旅行どころでなく、何処へも出ない殻の中に閉じ籠もってしまう。声を失った者同志なら、気易く旅が出来るのではないか。と言う事で五十年の十月、初めての一泊旅行で、戸隠・志賀高原・山ノ内温泉方面であった。これが泊付旅行の草分けとなり、その後毎年実施され現在の慰安旅行となった。
昭和五十三年十月十八日、伊那中央病院に伊那教室が開設され、五十四年に鳥羽さんが会長に就任され、同時に義家さんと私が副会長として就任して以来、鳥羽さんとの関わり合いが深くなり、伊那教室の諸々の行事には必ず参加していただき花を添えて下さった。
私の会計兼任と同時に県から十万円の助成金があり毎年四月県の会計監査があって、鳥羽さんと二人で県へ出頭し、たった十万円のことであったが、県係長の厳しい監査にあい二人して十万円でこんなに絞られるとはと、その都度帰りの列車内いでこぼしたものであった。
昭和五十六年三月佐久教室の開設を依頼に、鳥羽さんと二人で、佐久病院へお願いに参上した時の帰り道、丸子町へ出る道を間違えて二十分程まごまごして、後日二人して思い出しては苦笑したものであった。その後佐久教室も四月二十一日に開講式を迎える事が出来た。
会計監査が近づくと、鳥羽さんの自宅(奥様の経営するみどりや料理店)で帳簿の整理報告書の作成等行い、奥様には大変なお世話をかけたものであった。鳥羽さんも義家さんが県の要職にあった事を重視して、それを足掛かりに三人で県庁へ赴き陳情も行い、本当に会のために尽くす熱意は大変なものであった。当時鳥羽さんは会社の専務と言う立場で、行動は比較的自由であった事も幸いして、発想は常に行動的であった。
二十年間に亘るお付き合いは、私にとっては人生の師でもあり想い出は果てる事はない。誠に心の廣い大きな人であった。鳥羽さん及び奥様の御病気の最中は、折悪しく私も食道癌にて入院中で何も知らず不義理をしてしまい、山下さんからの連絡により初めて御夫妻の御逝去を知り、告別式に間に合うのがやっとの事であった。
長い間の御指導を感謝申し上げ心からお二人の御冥福をお祈り申し上げる次第である。
(平成六年十月記)
鳥羽源二前会長の思い出
佐久教室 三瓶満昌
私が鳥羽前会長に初めてお会いしたのは、信大病院三○一号室のベッドの上であります。その頃、私は手術の決心がつかずに悶々の日を送っておりました。誰もが一度は経験することですが、私にも辛い日々でありました。その様なとき、今野婦長さんがニコニコしながら病院に来られて「三瓶さん、今日はとても良い方をお連れしましたよ」と紹介して下さった方が鳥羽さんでありました。
鳥羽さんは手術を躊躇している私のことを聞いて、励ましやら説得に来て下さったのでした。鳥羽さんの、あの独特の太い声、ガッシリした体格は私を説得するに充分で、はっきりした口調で、手術をしないと再発の危険があること。手術をしても会話ができる様になること等を熱っぽく話して下さったものです。私は鳥羽さんの言葉を聞いてすっかり安心してしまって、体中の緊張がほぐれ体中が痛かった事を記憶しております。
鳥羽さんが私に手術を受ける気にさせたと言っても加減ではありません。その夜、私は早速故郷の母に電話して、手術することを伝えたのでした。
私が手術後の回復も順調で、約一ヶ月で退院でき、現在まで満十六年間無事で生きていられるのは、今野婦長さんと共に熱心に手術を勧めて下さった鳥羽さんのお陰と心から感謝しております。
発声教室でも鳥羽さんには特別に指導していただき、「最初から沢山の言葉を喋ることをせず、空気を沢山呑み込むこと」また「大きい声を出せる様になること」を指導され、それが後にオール日本発声コンテストで二位を獲得出来たのも、人込みの中でも会話が出来るようになったのも、そこにあったものと思います。
鳥羽さんは会長として大勢の会員に多くのことを残されたことと思いますが、沢山の業績の中から特に挙げたい事に、地元の者として佐久教室の開講があると思います。「長野県は広い割りに山が多く、何処へ行くにも峠越えと言う地理的条件があって、昔から交通の便が悪い。だから喉摘者のリハビリの場を方々に必要だ」と会合のある度に鳥羽さんは言っておられた。その一つが昭和五十六年四月佐久に開花し、佐久総合病院の中に発声教室が開講の運びとなったのであります。
当日は佐久総合病院のご好意により、盛大な佐久発声教室の開講祝賀会が催うされ、信鈴会四番目のリハビリセンターとして上田、小県から南北佐久一円の喉摘者の拠り所となり、現在四十五名の会員を擁するまでになりました。
私共佐久教室の会員は、幾度か訪ねて下さった鳥羽会長のご遺志を継承して行かなければならないものと思い
ます。
終りに鳥羽さんが病身であったにも関わらず、奥様の看病、会社の社長職を引受けられたことを思い、心から御苦労様でしたと申し上げます。 合掌
諏訪教室が開設されて
諏訪日赤耳鼻咽喉科外来婦長 宮坂りう子
平成五年八月二十四日信鈴会諏訪教室が開設されました。皆が待ち望んだ教室の開設でした。皆さんの『諏訪の地にも発声教室を』と言う気持ちが、高木せんせい動かし、此の諏訪の地で、食道発声の練習が出来るようになりました。高木先生は、開講式に際し「発声練習は勿論の事ですが、仲間が集まって和気藹々とした親睦の会にして下さい」とおっしゃいました。
一年経って、『本当に教室が出来て良かった』と思っています。信大まで行かずに近くで発声教室に参加出来るので、大変助かるとの声もよく聞きます。当初七名の会員が今は九名となり、頑張っております。一年間の成果を見ますと、発声が一人一人皆巧くなって来ておりまして、努力のあとが伺われます。指導員の小林先生は、熱心に一回も休まず来院してくれます。思ったより大切なのは、皆で顔を合わせて話をし、仲間同志で励まし合って行くことでした。
月二回(第一、第三火曜日)の練習日は、殆どの人が出席します。会社勤めの人達も都合をつけて出席しています。出席出来ない時は「今日は欠席です」と連絡が入る時もあります。外来受診も、前日予約をして置けば、発声教室の一時間前に診察を受ける事が出来るようになります。又、都合のつく日は発声教室に高木先生も出席して戴き、外来看護婦一名が出席します。看護婦はただついているだけで、未だ何もお手伝いは出来ません。
『あっ』という間の一年間で、未だヨチヨチ歩き始めたばかりの会です。これから、みんなの手で育てて行かなくてはなりません。信鈴会の皆さん、諏訪教室を宜しく御指導下さい。何卒お願い致します。
信鈴会の行事に参加して
佐久総合病院耳鼻科看護婦長 半田とも子
今年は信鈴会の総会に初めて参加させていただきました。田中会長さんはじめ役員の皆様本当にご苦労さまでした。田口教授他信大医局の先生方、看護婦の皆様にあらためて敬意を表します。特に今野元婦長さんの発声に対する熱心さにはただ頭が下がる思いがしました。私達看護のスタッフに「もっと一所懸命でやらなければだめよ」と教えられ、なんだか叱られた気分でした。それにしても喉頭摘出者は術後のアフターケアばかりでなく、発声のリハビリが大切と、医師はじめ看護婦に提唱している今野元婦長さんのお話を聞き、あらためて自分達の仕事の姿勢が、ただ毎日忙しさに追われてばかりではいけないと心から反省させられました。総会後の懇親会で、「皆さんお上手ですね」と声をかけると、「先輩がきびしいから」という返事が返って来ました。矢張指導がしっかりしている教室は、食道発声の上達も早いんだなあと思いました。
九月十日、十一日の信鈴会の研修旅行の「水上温泉の旅」に参加させていただき、皆様のおかげで、大変楽しい二日間でした。旅館では発声についての苦労話や、家族の方達の思いやり話等をお聞きし、本当に勉強になりました。又集合出発時間、旅館内の統制等とても喉摘者と思えない行動は、各教室の集いとは思えませんでした。そして和気あいあいとした団体旅行はとても印象的で、只々見習うことばかりでした。
喉頭摘出は皆様の人生の中で大変ショックな事だったと思います。しかし皆様はこれを克服して前向きに明るく生きられています。どうかこれから声を失う人達の先輩として、進んで下さい。そして今後益々信鈴会の発展のため、ご尽力をお願いいたします
「食道発声教室」に参加して
信大病院東二階病棟 福田美穂子
私は、看護婦になって二年目です。そして、耳鼻咽喉科の配属になり、働いて二年目になります。
今となっては、喉頭を切除されて、食道発声をされている人に逢っても、何の躊躇することもなく、接する事が出来ます。しかし、この病棟に配属されるまで私は、喉頭を切除されて、食道発声をされている人に、出会ったことがありませんでした。看護学生のときに、耳鼻科の看護学の授業を、百瀬婦長さんに講義して頂いたのですが、百瀬婦長さんに講義してもらった!ということしか、覚えていないのです。こんなことを書いたら、授業を真面目に受けていなかったかのようですが、今となっては、定かではありませんが(笑)。
毎週木曜日に行われている食道発声教室に初めて参加させて頂いたときは、本当に驚いたものでした。皆さんは、声を失ってしまったにも関わらず、とても明るい方たちが多いのです。そして、冗談を言ったりしながら、仲間の方たちと一緒に、発声のリハビリに励んでいました。もちろん、なかなか思うように発声が出来ない方も、いらっしゃいますが、一生懸命リハビリをしている姿は、素敵ですね。そうして、確実に毎週少しずつ進歩しているではありませんか。,すごいの一言につきます。
食道発声教室は、喉頭を切除された方たちのリハビリの場でもあり、仲間たちとの憩いの場でもあると思います。もっともっと発声のリハビリをして、自信をつけてもらいたいと思います。そして、もっと社会に復帰してもらいたいです。残念ながら私は、病院以外で、喉頭を切除された方を、見かけたことがありません(ただ単に私が気付かないだけかもしれませんが)。そして、皆さんに負けないように、私もいろんなことを一生懸命頑張ろうと思います。
巻頭言
会長 田中清
喉摘者の最大の悲願は、言語障害を克服して社会参加が出来ることであります。社会参加には各種の仕事・交際・教育等あらゆる分野の集団に参画することを意味します。社会参加には会話を必要とするもの、左程必要としないものに二分されますが、最終的には集団の中で対等に近い会話が出来ることが条件であります。
現在喉摘者の発声方法は食道発声と電子喉頭が主体であります。しかし両方の発声ともそれなりに欠点があります。電子喉頭は人が話すのでなく、人の意思を機械的に代弁するものであるため、オクターブの幅が小さく、又感情や抑揚を表すことが極めて困難であります。食道発声はその点については一般の人と遜色はないが、何んといっても大声が出ないのが最大の悩みであります。
日喉連では、この悩みの解消には食道発声の音声拡大が社会参加への大きな鍵であるとし、厚生省・言語学会・音響関係者等へ陳情・依頼等を繰り返し、幾多の努力の結果、昨年度末発声補助装置の開発に国家予算六億円がつき、通産省工業技術院で開発する事に決定致しました。この開発は三年間とし、第一年目の平成七年度は喉摘者の実声収集をし、言語学者・音響関係者・中村日咲連会長の三者構成による開発委員会を四回開催し、開発研究の基礎データー等を集約しました。二年目の平成八年度は、更に必要なデーターを収集し試作品一号を得て基礎マニュアルを研究し、北里大小林教授が発声指導書を年度内に作成することになりました。最終年の平成九年度には試作品の第二号・三号と変化する事態を予測しつつマニュアルを修正し最終完成にもっていく方針であります。
この発声補助装置の制作にあたっては、従来の食道発声を順次発声指導書によって修正していく必要があります。しかし現時点では指導書が出来ていないため、如何にするか五里霧中でありますが、基本的にはソフトな発声と、一息十音程度の練習を重ねる必要があります。そのため各教室では練習の中へ朗読を取入れ、言葉のつなぎがスムーズになるよう練習しておく必要があります。又各指導員も今後はこの発声補助装置の経過を見て、常に対応できる体制を取っておく必要があります。
何れに致しましても発声補助装置の完成は喉摘者に一大朗報であり、悲願であった完全社会参加の夢が実現されれば歴史的な快挙と言えましょう。
私はより良い装置の完成を心から願い、会員の皆様と又一歩これに対応できる発声に精進したいと思いますので、関係各位の絶大なるご支援とご協力をお願い致します。
福祉のまちづくりの推進について
長野県社会部障害福祉課長 村山武夫
日頃より信鈴会の皆様におかれましては、音声機能そう失者に対する発声訓練を中心に会員のそれぞれのニーズに応えた各種の事業を展開され、県の障害者福祉行政の推進にも多大な御協力をいただいておりますことに対しまして、深く敬意を表しますとともに感謝を申し上げ
ます。
さて、総理府がまとめた平成7年版の障害者白書では、「バリアフリー社会をめざして」というサブタイトルが付けられ、福祉のまちづくりの全国的な広まりやさまざまな取り組みの状況について大きく掲載されています。当県におきましても、平成四年に策定した「さわやか信州障害者プラン」において、まちづくりの部門を設け、障害者や高齢者にやさしいまちづくりの精進に努めてまいりました。
このプランに基づき設置された「長野県やさしいまちづくり推進連絡協議会」におきましては、社会福祉団体、経済団体、学識経験者、行政機関などの委員の方々に御協力をいただき、平成六年九月に、当県におけるやさしいまちづくりの推進方策について、多方面にわたり貴重な提言をいただきました。昨年三月には、この提言や障害者基本法の趣旨を踏まえ、「長野県福祉のまちづくり条例」が制定され、十月からは、不特定多数の者が利用する施設(特定施設)の新築等に際して、その内容をチェックし、基準に基づいた指導・助言を行う届出制が開始され、全面施行されました。
条例では行政、県民、事業者の連携と協力により福祉のまちづくりの推進するため、各主体の責務や、福祉のまちづくりのための施策の基本方針を規定し、また、建築物や道路、公園などの特定施設のバリアフリー化を図るため、設備基準を定め、その新築・増改築等を行う場合に基準に適合するよう努力義務を課しています。
この条例を制定した背景には、世界に類を見ない急速な高齢化の進展、障害者や高齢者の自立と社会参加志向の高まり、国際障害者年から国連・障害者の十年を経て障害者基本法の制定に至る障害者対策の動向などがあります。また、人々の意識がこれまでの経済活動中心、効率優先の考え方から、すべての人が共に暮らす、ゆとりやうるおいのある生活重視の考え方へ転換してきている状況があります。
障害者等のハンディキャップを持つ方々に配慮したまちづくりを進めることは、すべての人にとって望ましいまちづくりを進めることでもあり、現在若い方や健康な方であっても、必然的に老いを迎え、場合によっては障害を持つこともあるという考えに立って、障害者等への配慮が社会全体でなされるようになることが必要です。このため、県としましては、昨年、社会福祉団体、事業者団体等にも御参加いただき、県福祉のまちづくり推進協議会及び各地方事務所を単位とした地域の推進協議会を設置し、相互の連絡調整や事業所を単位とした地域の.推進方法の検討などを行うこととしたほか、福祉教育や啓発事業により県民の理解促進を図っていくこととしています。
障害者白書では、「街に慣れる、街が慣れる」という言葉を紹介しています。これは、障害者が積極的に街に出て街に慣れ、その結果、街に住む人々の意識を含め街全体が障害者がいることを当然の前提とした社会になっていくことを表していますが、福祉のまちづくりの推進を通じ、障害者に対する理解が更に深まり、ノーマライゼーションの理念を実現するために今後とも一層の施策の充実に努めてまいります。
最後に、長野県信鈴会の御発展と、会員の皆様方の御健勝を祈念申し上げますとともに、寄稿の機会をいただきましたことに御礼を申し上げ終わりとします。
地球時代の知恵のくにを目指して
長野県県議会議員 本郷一彦
昨年四月の県議選におきましては、信鈴会の会員皆様の心暖まる御支援、御協力をいただきまして、厳しい戦いではありましたが、初当選させていただきました。
私は福祉、教育、街づくりを私自身の政治的な三大テーマとして運動を展開して参りましたので、議会活動は障害者や高齢者にやさしい地域づくりと関係の深い社会衛生委員会に所属致しました。
国におきましても、昨年の十二月障害者対策推進本部(本部長村山富市首相)は、障害者の自立と社会参加を目指すこめの長期計画(障害者プラン『ノーマライゼーション7ヶ年戦略』一九九六年度~二〇〇二年度)を決定致しました。同プランは、障害の種類によって違った障害者対策を統合し、新たな数値目標を設け、国や地方自治体の責任を明確にするものです。障害者プランの決定で、『高齢者保護福祉推進十ヶ年戦略(新ゴールドプラン)』『子育て支援総合計画(エンゼルプラン)』と合わせて、政府の三大社会福祉政策が出揃いました。
長野県におきましても、平成八年度におきましては、①障害者や高齢者にやさしい町づくりの推進②障害者プランの策定③障害者の社会参加の促進④障害者スポーツの振興を柱に障害者のための施策の積極的推進であります。そうした社会のトレンドの中で、信鈴会におかれましては、音声機能回復の為にキメの細かな多様な事業を進められ、特に県内各地域における発声訓練の為の教育を関係者の大変な御努力のもと、着実に実績を上げられ、心から敬意を表するものであります。
長野県は未来に向けて、例えば高速交通網の整備については、松本空港の新たな路運開発、北陸新幹線の完成への順調な進展、上信越自動車道の須坂長野東、信州中野インター間の開通、中部縦貫自動車道の安房トンネルの貫通等、極めてスムーズに計画が進捗しております。
二十一世紀を間近に控え、長野県は二〇一〇年を展望した長期構想『地球時代の知恵のくにを目指して』を策定致しました。此の長期構想実現の為、平成八年度を初年度とする新五ヶ年計画を策定し、希望のもてる質の高い県民生活の実現の為に努力中であります。昨年度は戦後五十年と言う節目の年の如く、政治、経済、教育、福祉等社会にとって大変な激動の年でありました。そうした意味で平成八年度は、新しい時代に向けての前進の年に思えてなりません。
中央集権から地方の時代へ、企業社会から市民社会へと、社会の価値観が大きく変化する中、私も県会議員としての責任と使命を充分に自覚し、地域社会に密着した心豊かな地方政治実現の為に、全力を傾注する決意であります。
最後に、信鈴会の御発展と会員各位の御健勝を心から祈念致し、御挨拶と致します。
気になる言葉
顧問 信大医学部名誉教授 鈴木篤郎
本を読んでいて、これはと思う文章に遭遇するほどうれしいことはない。「読書は本当に出会いなんだなあ」としみじみ思うのはこのような時だ。以前はこのような時、本のその文章に傍線を引いて、その時の自分の気持ちを表現してきた。それはそれでよかったのだが、だんだん年をとってくると、記憶力が衰えてきたのか、あとでその言葉を探そうとしても、どの本のどの辺にあったのか思い出せず、見つけられないことが多くなってきた。とくになにか文章を書いていて、引用したいと思ったときに探しだせず、大変苦労したことが少なくなかった。ある年の正月、ふと思いついて、後まで覚えておきたいような文章に出会った時には、本に傍線をひくかわりに、それを一冊のノートに書き抜いておくことにした。ノートの表紙には、一寸気取って「気になる言葉」と題字を書いた。
このやりかたが性にあったとみえ、それから四年近く過ぎた今日までまだ続いており、書きためた文章の数も二百になろうとしている。そこでこの機会に、そのいくつかを抜粋してみようと決心した。いささか他力本願のきらいはあるが、ある人が「読書というものはもともと著者と読者の対決であり、読者の心のなかにあったものが、たまたま著者の書いた文章に触れて火花を散らす、真剣勝負のようなものだ」と書いているように、他人の書いた言葉の方が自分で書くより正確により華麗に自分の気持ちを表してくれている場合が少なくないものだ。
さてここに抜粋されているいくつかの文章を読みかえしてみて感じたことは、やはり老・病・生・死に関するものが圧倒的に多いということと、そのわりには宗教的な記載、特に信仰や来世といった内容の文章がほとんど見当たらないということである。老病生死についての記載の多いことは、自分の年令や環境から考えて当然だと思うが、宗教にふみこんだ文章のないのは、私の心のなかに、「神」の存在は素直に信じられても、ある特定の宗教への信仰やその来世観への帰依の気持ちが熟しておらず、「人は死んだらゴミになる」というような生臭さが残っている証拠であろう。引用した文章には、末尾に作者の氏名だけを記し、私が勝手に短い題をつけた。
『出会い』
「出会い」によって、もし新しい世界が開けたり、存在の実態が見えてくるならば、それは、これまで自分のうちにありながら気づかずにいたものが引っ張りだされた、ということでもある。その意味では、人や本や自然と精神的出会いを体験した人は、真の自分自身に出会ったのだと言ってよかろう。
「出会い」がもし私たちに何かをもたらしてくれるとするなら、それは他者との「出会い」を通じて自分が見えてくるという、「自分との出会い」が実現されることであろう(小林司)。
『一病息災』
人は人である以上病むことからは逃れられない。そして苦しむ。ひたすら一人で耐え忍ぶ。しかしである。病は一方で、人間が人間である深い苦悩の中から、英知を「人間」に悟らせることがある。病むことなしに人は自らの「本質」にさえ気づかない。自らの中にあるいくばくかの「病める心」に気づき、かかえこむことなしには人は人であり得ないのではなかろうか。日本には「一病息災」という言葉がある。「老い」はどこかに「病」をもっているほうが心安らかなのかもしれない(浜田晋)。
『一日だけ』
今日一日だけ生きられればいい。一日だけ楽しければいい。明日からのことは誰にだってわからないのだから。死ぬかも生きるかもわからない。もし生きているなら、勝手に朝の方がやってくる(水上勉)。
『青春』
青春は人生の一時期ではなく、
心のもちかただ。
青春は臆病をしりぞける勇気
安きにつく心をふり切る冒険心
ときに二十歳より六十歳の人に青春がある。
としを重ねただけではない。
理想を失ったときはじめて人は老いる。
(サミュエル・ウルマン)
『人間ノツトメ』
人間ノタッタ一ツノツトメハ、生キルコトデアルカラ、ソノツトメヲハタセ(竹内浩三)。
『土に還る』
「土から生まれて、土に還る」というとき、この"土"とは大地のことだろう。大地とは大自然の事だろう。そして大自然とは宇宙生命のことだろう。「死」というものが、虚無の暗黒の中へ無限に落下してゆくものでなく、万物のいのちがそこから生まれた根源の場へ還ってゆくことなのだとすれば、何か安らぎに似た感じがする。死とは,逝く:ものではなく、,還る。ものなのだ。これは大いなる母体回帰である(八木義徳)。
『死刑囚の言葉』
死刑をいい渡された人びとのなかに、「僕はこの頃ますます僕の受けた異常な環境を貴いものに感じてきた」とか、「言い過ぎみたいだが、"心"ってものだけは社会の人より恵まれたものを与えられたと思う」などと、一般の人びと以上に、人間として深みを身につけて死ぬ人が少なくないことが、この記録によって感じられます。
多くの人びとは、われわれのなかにこういう澄み渡った高い心境の隠されていることに気づかずに、あわただしく生き、あわただしく死んでゆくのだと思います(佐藤浩治)。
『私の神』
私の神は来世になどいない。この世におられると思っている。そして前にもいった通り、私は病気の発見に心を遣わないから、いつも限りなく健康である。またかりに私に病気があったとしても、このような楽しさがあれば、癒る病気ならどんどん癒るであろう。それでもなお重くなるというなら、それはもはや天命というよりほかはない(曽野綾子)。
『それでも明日はくる』
そうした中にあって、私が絶望しないで生きてくることができたのは、「それでも明日はくる」という希望があったからだ。それがどんな明日であるかはわからぬにしても、とにかく神が私に与えてくれる明日なのだ。そう思うと勇気が出た(三浦綾子)
『老いは自然にやってくる』
かつて、老いは自然にやって来るものだった。春がきて花が咲き、やがて実を結び、そうしていつか葉を落として枯れ朽ちて土に戻るように、自然の廻りに従って人は老いに入っていった。特別の身構えも覚悟もいらなかった。それが人間の自然であるということを誰もが一様に知っていて、それに従った。長寿がめでたいのは、長く生きたことによって自然に枯木になって死んでいけるからであろう(佐藤愛子)。
『死は自然の営み』
人々は死を、日常のことと切り離された不自然な出来ごと、異常な状態、怒りの対象としてとらえる。死は、病気か暴力かの避けられない理由だけで起こるものと考える。しかし死は、すべての人に、「自然の営みの順序」として起こることなのである。これは厳然とした事実であり、神話や幻影によってまげられてはならない。
死にゆく状態を、人間存在という旅程の一部として受け入れるなら、死の接近を一つの開放、「神秘とユニークさに満ちた、無限の時と空間への旅立ち」として考えられるのである(サンドル・ストダート)。
『何かが』
何かが働いているのです。
自分の力をこえた、目に見えないなにかが。
一人の人間の能力をこえた。
生命のリズムのようなもの。
それにまかせるという感覚を。
ぼくは少しずつ開発してゆきたいと思っています(五木寛之)。
加齢と腰痛
顧問 信大医学部耳鼻咽喉科教授 田口喜一郎
昨年十二月十四日朝から右の腰痛が生じたが、当日は総回診ということで、間もなく治るだろうと思って出勤した。ところが、回診が終る頃になって、患者さんのベッドの横に立ったところが、腰が曲げられず、お辞儀もできなくなり、部屋に帰るのがやっとで、椅子に座るのにも強い腰痛が生じ、少しずつしか出来ない。また一旦座ると立つのが容易でないということになった。いわゆるギックリ腰の症状である。以前も数回こういうことがあったが、今回は特にひどい。取り敢えず鎮痛剤の座薬を使ってみたが、横になるのも痛く、起き上がることさえ困難になった。トイレへ行く時等どうやったら容易に立てるか考えなければならない。そこで高齢の父が晩年よくやっていた立ち方を思い出し、実行した。その方法は畳の間を敷居まで這って行き、そこで近くに置いてもらった椅子に手をかけて、腕の力だけで、腰になるべく力を入れないようにして身体全体を起こすのである。一旦立ち上がることが出来れば歩行はゆっくりだが可能である。それでも腰は約三十度ほど前傾したまま、まさに老人独特の歩行の状態である。お辞儀は出来ない。
翌日は午後重要な会議があったので、午前中寝ていて昼頃出勤してみたが、老人性歩行は変らず、教室や病室では同情される始末、じっくりと老人性の悲哀を味わうことになった。当日の会議を終えると早々に帰宅させて頂き、当日の教室・病棟の忘年会、翌日の出張や長野市における会議も欠席せざるを得なかった。
幸い約一週間ほどで腰痛は軽くなったが、年末・年始を控え、まだ若干の痛みがあり、立ち居振る舞いには慎重にならざるを得ないという状態が続いている。一番不都合なのは人に出会った時の挨拶である。挨拶はすべからず腰を曲げてすべしという考えで、若い教室員や学生が声だけの挨拶をするのを、いつも不愉快に思っている身にすれば、心ならずも不謹慎という感じがする。余裕があれば、相手にその理由を説明させて貰うが、余り同情は買いたくないという意識もある。
こんなことを書いたのは、次のような理由による。信鈴会の会員の皆様には私より高齢の方が少なくなく、お会いした時御挨拶を頂くが、大変鄭重で恐縮することが多い。中には明らかに腰痛に悩まされている方もお見受けするので、大変御無理をなさっているのではないかという危惧である。どうぞこれからは御無理なさらないようにして頂たい。ましてや私より人生体験の長い方が多いのであるから、不埒な学生式の頭を下げない挨拶でも、有難くお受け致しますので、結構ですといいたい。そして、日本人の宿命ともいうべき腰痛体験から、父を始め腰痛に悩む方々の苦衷に思いを致し、何等かの方法で、来るべき高齢者時代に若い方々の理解を求める必要があると感じたからである。高齢者に対する思いやりの精神がともすると途絶えがちな現在、同病相哀れむのではなく、率先して老人に見られる数々のハンディキャップが明日の我が身にも起り得ることを、特に若い方々にも知って貰いたいと思ったからである。そして、何より今まで高齢者に大して持っていた偏見について自ら反省していることは当然である。
新幹線を待ち焦がれて
顧問 佐久総合病院 小松正彦
世間は長野オリンピックの開催を心待ちしているようだが、ここ佐久の地では皆が新幹線の開通(九七年秋)を待ち望んでいる。
高速道路は三年前に開通したが、車を走らせてみると、坂はきついし、トンネルや体面通行が多くて、ベンツかボルボにでも乗っていなければゆったり運転できたものではない。更に梅雨時は霧で通行不能日が時々ある。極めつけは練馬出口の渋滞で休日の午後は恐ろしい。平日でも所沢を過ぎると車の流れはぐっと悪くなる。佐久総合病院前を朝の七時五十分に出る池袋行きの高速バスは、池袋着が三十分は必ず遅れる。私もバスは数回利用したが復路は列車を選んだ。いくら安くとも往復ともバスに乗りたいとは思わない。
となると、やっぱり旅は列車に限る。食いたい時に食い、寝たい時に寝て、用を足したい時にトイレに行けるのは列車だけである。三千円ほど奮発してグリーン車に乗れば、気分はすっかりエグゼクティブ。ゆったりシートに身を埋め、駅弁を食べながらビールでも飲めばもう最高。学会の講演内容なぞ帰路にはすっかり忘れてしまっている。
さて話を元に戻すが、佐久にできる新幹線の駅名は断固として『佐久』であって、間違っても『佐久小諸』や『浅間高原』であってはならない。新駅の場所は佐久市岩村田であるから『新岩村田』でも結構である。駅名は場所を正確に反映しなければならない。有名観光地に関連させて、御代田を西軽井沢と改名しようとしたり、現に群馬の嬬恋村南部を、北軽井沢と呼ばせているような品の無いことをしてはいけない。『東京』国際空港が千葉県成田市にあるから、利用客は都心から遠いと怒るのであって、『千葉』国際空港と最初から開き直れば何の問題も起きなかったのである。
新幹線が開通すれば佐久は時間的に中央線の八王子と同等になろう。臼田はさしずめ高尾あたりか。週末には八重洲のブックセンターや秋葉原のパソコン街が自分のテリトリーになると思えば大いに楽しみである。
かつての上京風景を思い浮かべれば、若人の進学か浪人に際しての不安と期待と悲愴感を合わせた感慨があったが、もう我が子の時代には都内への受験も通学も自宅から十分可能な時代になっていくのである。親と一緒に布団を荷造りして駅までリヤカーで運び、鉄道小荷物で送った時代が笑い話になっていくのだ。何だかワクワクしてしまう。こんな心境も裏返せば現在とんでもない田舎に住んでいることへの反動であろう。もう佐久は信州のチベットではなく、東京の一地域なのである。
所感
長野教室 義家敏
私は喉摘者になって二十年になりますが、今まで多くの悩みごと、心配ごと等これは喉摘者共通の苦悩でありますが、乗り越え踏み越えて来ました。その中であまり語られて居ない気管口を保護する手立てでありますが、参考になればと思い申し述べます。
初歩的な事でありますが、気管口の前垂れ(ガーゼ)は入院中は室内温度も調節されているから、一枚のガーゼで差し障りもないが、退院後は二枚にした方が良いと言われています。
入院中何の知識も無い私は、術後は日が経るにつれて気管口の中は、段々鼻孔のようになってきて、ガーゼは使わなくてもよいようになると思った事もありました。
娑婆の空気は、塵埃を避けては通れませんので、色々苦難の結果、これを保護していくには二枚にして、冬期間は更に一枚加えて三枚のガーゼを使う事にしました。
寒気や寒風そして風邪を引きますと、私はよく気管口の毛細管が冒されて、咳をすると痰に血が付着して出る事があって、こんな嫌な思いはありません。又、痰と固まり、カサフタが大きくなって、呼吸障害を起こして救急車で入院した人もありました。これを防ぐ一つの方法として、前述のように気管口の前垂れを冬期間は三枚使って保護する事が自分のできる一番の手立てであることに気づき実行しております。
健康の時は鼻孔や口腔を通った空気を吸って生きて来たのでありますが、喉摘となれば、直接気管口に吸い込む事になるので、充分注意しなければならない事を痛感したので、私は冬期間は何時も三枚使って養生しています。毎日三枚の外側の一枚は外し、内側に一枚加えて三枚にします。
又、空気の乾燥している時や、寒い夜はタオルを縦に二つ折りにして長いまま顎の上に横に掛けて休むと、痰も咳も出ないので快適です。
ついでに申し添えますが、毎日取替えたガーゼは洗い桶等にためて、多めに洗剤を入れ一昼夜以上よく浸してから洗濯機で洗えば痰も落とせます。
気管口は大切な処ですから気掛かりの時は、先ず先生に診てもらう事ですが、日常の管理は自分でやる事で有り、私は体験してきた大切な事として『転ばぬ先の杖』として述べました。
次に気管口の前垂れが気になって、人前を避けたい気持ちはよく判ります。一つの工夫として気付いたのは、以前昭和五十七年に東京で第三回の喉摘者世界大会が銀鈴会と日本喉摘者団体の共催で行われ、世界二十四ヶ国の関係者代表者が集まり、本県から今は亡き鳥羽会長さんと三ヶ日間参加したが、その時外国の婦人達は、マフラー等上手に使って、とても素敵でお洒落に見えた事が思い出されます。色々と工夫はあるものですね。しかし一方前垂れがチラット見える事によって、旅の道中で行きずりの人に親しみを感じ「ヤアッ」と思わず手を挙げて挨拶ができた事も有りました。前垂れは私達には一生付き合うものでありますから、自分の好みを工夫する事だと思います。
以上私の気になった事を蛇足かも知れませんが、老婆心ながら申し述べた次第であります。
闘病記
伊那教室 桑原賢三
平成五年九月食道ガンにて、今まで十八年かけて作ってきた食道発声の声帯を切断し、背中の皮膚を移植して新しく食道を作る手術を行い、三ヶ月余りの入院で年末に退院し、声の無い平成六年度を迎えた。そして間も無い一月の九日、抗ガン剤に依る治療のために再入院となり、当日から直ちに諸検査が始まり、十一日から抗ガン剤投与が始まった。朝食後九時から二十四時間点滴を開始、八本目終了が翌朝の八時であった。それから副作用が始まり、胃が重くなって食事は受け付けず、無理して食べても吐気が強く、結局栄養剤の点滴に頼ることになる。どうにか第一回目の治療が終わり一月十九日に退院した。第二回目の治療のため体力作りにかかり、三月十三日再入院となり、再び抗ガン剤の副作用との闘いが始まった。かくして二回目の抗ガン剤治療も何とか乗り越え、三月二十三日退院となった。
これからが声との闘いである。然し発声部位が以前の様に喉元では声にならず、五cm位下がって移植した食道の下の継ぎ目からの発声であるため、どうしてもダミ声となり、音質が嗄れて会話にならない。手術前に先生が心配していた様に、もう発声は無理かも知れない?と一抹の不安が脳裏をよぎり、落ち込む日が続く。それでももう一度自分の声を...と練習を続け、六月の役員会にはダミ声なるも、どうにか会話が出来る様になり会に出席した。久し振りに役員の皆様とお会いが出来、懐かしい時間を過ごす。皆さんに激励され帰ってからの練習にも一段と熱が入った。声も次第に良くなり、六年度の納会には閉会の挨拶も出来るまでになり、来賓の田中会長にも褒められ、次第に自信を持てる様になった。
然し好事魔多しと言うが、再度落し穴が待っていた。それは、食べ物が食道に詰まって通らなくなって仕舞った事だ。早速先生の診察を受ける。その結果は、移植した食道下部の接続部の縫合部分が、肉盛りして細くなって通りが悪くなったので、もう一度縫合のやり直し手術をすると言うことで、折角発声に希望がもてる様になった声帯を切り取られる事になり、手術も新年度(平成七年)の一月二十日と決定した。移植手術から四度目の入院で又声を失う事になった喉も三度目の切開となる。
当日は十一時三十分にオペ室に入るも、先生のご都合で一時間位オペ室にて待たされる。
○オペ室の待合い時間長ければ 労苦の声の未練残るる
○一年(ひととせ)の短き声もオペ室の 音楽(おと)と共に酔(ねむ)り宿(き)へ行く
手術も順調にて三時間足らずで終ったとの事を後で家内より聞く。四回も入退院の繰り返しにて、病棟の看護婦さんや先生には本当に御世話になった。
○うつろにて右に左に白き人 励ましくれるも声は出もせず
○よこたえて三たびの声を失いて 四たびの声に希望(のぞみ)もちつつ
○入れ代わり励ましてくれる白き顔 馴染みも深く眩(まぶし)くもあり
○重き石負いたる如く気も重く 教え得る声出るか否か
教室の指定日には、誰彼と無く見舞いに顔を出して励ましを戴き、一日も早く教室へと気持ちは焦るばかりで有った。二十年に亘る食道発声が脳裏にあり、必ず自分の声で喋って見せると決意を新たにする。
四度目の声を取得し、折角先生が作って呉れた食道だから、今一度自由に喋って、先生や看護に当たって下さった皆様に酬いたいと思う。
六月の信鈴会の総会迄には、何とか会話の出来る様にと、総会を目標に苦しい練習が続いた。その結果、どうにか会話が出来る様になり、声らしい発声が出来る様になった。そして総会では司会者から、閉会のご挨拶の指名を受けマイクを握った。
然し指導員と言う名が重くのしかかる。自分で納得の行く声にはまだまだ程遠く、今年の納会迄には何とか皆さんに、聞いて貰える声にしたいものと連日の練習に熱が入る。
移植した食道は嚥下能力が無いので、呑込む能力が有るからと言って、呑込んでも食道の下の継目の所で詰まって仕舞う。物を食べる時は下の継目の通過を待って、呑込む様に心掛ける。又嚥下機能が無いため逆流も防止出来ず、食べたり飲んだりした後上体を前倒しすると、食べたものが逆流して来る。水ものは特にいけない。又横になって飲み食いは出来ない。新しい食道は落差で自分の食道まで送ると言う不便は日常つきまとう。新しい食道には弾力性が無いので、無理して呑み込んでも詰まって仕舞う。馴れるまでが大変である。
七年度の新年会は入院中で参加出来ず残念であった。来年度の新年会には参加して、『移植した食道でも声は出るんだ』と、皆さんに聞いてもらえる声にしたいものだと練習に励み努力しているところである。
食道ガンの手術をしてから二年間、ガンと、声と、自分との闘いの連続であった。
(平成七年九月記)
戦後五十年の思い出
松本教室 小林政雄
私は昭和二十年八月十五日、京都の福知山基地で終戦を迎えましたが、最後の御奉公として残っていた戦闘機六機の整備を漸く済ませて、復員の命令を待って居りました処、急に八月二十四日になって、「戦闘機を姫路航空隊へ空輸せよ」との命令によりまして出発する事になりました。
然し当時の戦闘機は大分使用していて、整備をしても完全にはなりません。要するに戦争に使用出来ない予備機で、飛行するのがやっとの状態でしたが、命令には仕方が有りません。滑走路に出ましたが、此の基地は田園の上に太い鉄の網をかぶせた只滑走路だけの場所です。
不安をよそに出発です。エンジン全開発進しました。力不足の為に滑走路を一杯に使って漸く上昇しました。どうやらエンジンは大丈夫の様です。ところが車輪を引き上げる段になると、左車輪が入りません。仕方無く曲返り反転と種々試みましたが、どうにもなりません。やむを得ず左車輪を出した儘の飛行続行で、片車輪での着陸をしなければなりません。然し日本に飛行機は、材質がジュラルミンが主体の為に、地面に接地した場合に摩擦に因る発火が起きる事が多いのです。片車輪着陸のこの場合には右の翼が地面に接地する事になります。しかし『万が一の事が有っても、戦死した友の後を追うだけ』と覚悟を決めた為に、却って気持が軽くなり、そして姫路飛行基地に向かったのであります。
やがて目的地に近づきました。都合の良い事に、風の強い日であった為、滑走路を外して芝生の上に車輪の出ていない右側から風を受け横風着陸する事にしました。こうすれば飛行機の右翼の接地が大分遅れる計算になります。此の飛行場は廣いので、着陸速度をなるべく早くして、右翼からの強い風を受けながら着陸して行きました。結果は予想より良い結果があらわれ、速度が無くなると同時に翼が接地し、旋回転覆はしましたが、発火も無く只転覆だけで助かりました。私はこの様な着陸は初めての事でしたが、最後の着陸が命懸けだったとは、何とも言えない飛行経験の最後でした。その時念頭に蘇ってきたのは、無くなった戦友の加護の御陰と、今でも信じて居ます。若し死んでいたら、二十二歳の命でありました。
昨年四月靖国神社で終戦五十周年記念の戦友会を開きまして、昇殿参拝して亡き友の冥福を祈念しましたが、その時残って居た同期の戦闘機隊員は僅か六名となっており、戦闘機練習生の九十六名中九十名が戦死してしまいました。きっと残った六名は亡き友に守られて生きているものと思います。一生此の同期生の冥福を祈ってゆきます。そして二度と再びこの様な戦争のない事を信じてまいりたいと思います。此の時代の流れに命を賭けた青春時代の思い出は、私にとって決して忘れる事の出来ない事です。
終戦以来、国からは何の通知もありませんでしたが、漸く今年八月、内閣総理大臣より『あなたの先の大戦における旧軍人としての御労苦に大して衷心より慰労します。』との書状と銀杯を戴きましたので、漸く私の戦後も終った様な感が致します。我を忘れ一心に命を賭けた四年六ヶ月の戦争体験は、戦後五十年の今何か夢の様な気持ちでも有ります。
発声教室について思うこと
諏訪教室 下川渡義雄
発声教室というのは私にとって、とても楽しいところであり、同時に人生の妙味というか、人生の醍醐味を満喫させてくれる貴重なところでもある。
私達喉摘者は健常者との会話では、ある程度のコンプレックスを感じないわけにはゆかない。元来、図太い神経の持主の私でも、健常者との会話では、大抵の場合、必要な用件だけ話し冗長な形容は極力少なくし、冗談等喋ることは殆どない。その点発声教室の仲間とでは昔からの友人のように、何の遠慮もなく、ジョークを交えた会話を楽しむことができる。
教室の特長としていえることは、序列とか差別が一切無いことである。過去、現在を問わず、社会的地位、経済的地位、年齢の老若、発声上達の度合いなど、総てに序列が無いことが、教室の空気を和やかにして、会員は何ら負担を感ぜず、精神的な拠り所として出席しているのが諏訪教室の現状である。
私達は喉頭癌という共通の敵と命懸けで戦い、傷つき言わば戦友会であり会員は戦友である。共に生死の境を切り抜け、障害をもつという連帯感をもって、互いに励まし合い、労わり合いながら共通する人生観と、生きている喜びを噛みしめて生き続ける集団でもあるわけであ
私は名古屋教室でも(名古屋から転居したため)諏訪教室でも、健常時には得られなかった共通の人生観をもった信頼できる友人を多くもつことができたことを感謝している。
要するに発声教室は発声法の上達もさることながら、教室で得た友人を経て、共通した人生観を高め合うことによって副次的に発声の上達にも通じるというのが私の逆説論でもある。
思いつくまま
長野教室 竹前俊宏
昭和六十三年六月二十六日
『他人から親切にしてもらう。又よくして呉れた人が退院していく。そんな時お礼というものが言えず、ほとほと困る。見舞に来ていただく人々への筆談では、ろくに話題が拡げられず、見舞の品物、お金の包みなど出されても「回復も順調だし精神的にも落ち込んでいない。左様なお心遣いはどうぞ御無用に願いたい」旨を述べることが出来ずに、仕方なく我ながら浅ましく、ただ頭を下げるだけ。如何にも病人病人した顔付になっているだろう。この情け無さから抜け出すにはただ一つ、早く話が出来る様になる事、そして早く社会復帰を果たし生活の基盤を確立させる事より他に無い。・・・』
須坂病院の病室でそんな意味の事を日記に書いています。,
喉に出来た腫瘍の手術を受けた結果、声を出せなくなったはのは、昭和最後の年の六月、今は平成八年二月の初めですから、あれから七年半が経った事になります。
信鈴会長野日赤教室の仲間に入れていただき、先生方の親身なご指導と、同じ教室で発声を習う方々からの励ましとのお蔭で、何とか声を出す事が出来るまでにリハビリが進み、この事に何時も感謝しながら仕事を続けている事。又日赤教室の皆様始めバス旅行で知り合いになりました方々には、御世話になりっ放しのまま、仕事にかこつけて御無沙汰を致しており、心苦しい。という様なことを以前この会誌に投稿した事があります。
最初一年ほど電気関係の組立工場に勤めた後、軽トラックを買い、営業免許をとって運送業を自営してきました。長野で貨物を積込み、東部町・丸子町・小諸市・御代田町・軽井沢そして真田町等の主に会社・商店へ配送するというのを二年半ばかり、その後は佐川急便の宅配業務の請負、これは皆様御存知の、一軒一軒荷物を届けて回るあれです。これを三年と少しやりました。
言葉が不自由な上に体力だって手術前とは比較にならぬ程低下しているに違いなく、初めの心積もりは、『どこまで出来るやら不安だが、とにかく始めてみよう。駄目ならその時また考えればよい。出来るだけ頑張って生活を安定させ、まわりで心配してくれる人達を安心させねばならぬ。それにもう資本も注ぎ込んでしまったことだし・・・』と、今考えますとかなり漠然としたものでした。
ところが、歳をとったせいか、光陰矢の如しで、同じテレビ番組はしょっちゅう見ている様に思えたり、『あれ?もう相撲始まったのか』等と感じているうちに、街にはジンベルベルと言う時期が、何回か繰り返され、気が付くと髪はえらく白くなって、めっきり皺顔になり読み書きには老眼鏡が必須となって、私が仕事に復帰した年に中学校に入学した下の娘は高校を終えて就職し、今年が二年目と言う具合で、あれからもうこんなに時が流れたのかと感慨は小さくありません。それにしても身体がよくもったものだと有り難く思います。
隣に住んでいた八十二歳の父親を、昨年九月末に亡くした事とも関連しますが、平成七年いっぱいで今までの運送業を止めました。
父が死亡したのは老衰がもとであり、これは致し方無く、仕事を止めたのはこの事が直接の原因ではありません。実は去年の夏頃から妙な気掛かりがずっとありました。『いったい自分はずっとこのこの仕事を続けていって良いのだろうか』と。
傍目には、元気で仕事がやってゆけて、生計を維持してゆけるだけの収入にもなっているし、何も不満は無かろうに、と映るかも知れませんが、『自分はずっと仕事だけしかしていないなあ』という事に、ある時ふと気付いたのです。例えば宅配をする様になってからですと、朝七時半に家を出ます。この仕事に慣れない初めの頃には、まず佐川のターミナルに出向き、自分がその日に配達する分を選り分け、どのお宅へ届けるのか地図を見て配る順序を決める。その順番の逆に奥からトラックに積み込んで出発し、予定の所を全部廻り終えると荷台は空となって終了、と言う手順で、一日に三十軒そこそこをこなすのがやっと、日が暮れて仕舞ってからの帰宅、と言う有り様でした。勿論一個百八十円の配達料で、こんな事では話になりません。慣れてくるに従って今日より明日と言う様に、個数を増やしてゆきますから、朝七時半に出庫、そして暗くなってくるともっと多く、と欲も出てきて、終わる時間は更に遅くなりがちでした。
去年の十二月、仕事を止める最後の月ですが、この一ヶ月間には四○○○個近い配達数量となりました。休みは一日も取らず、深夜近くまで仕事をしている日も何日かあって、他の事に関わっている暇等はとてもありませんでした。
御歳暮の貨物がどっと出る十二月の様な特殊な時は、さておいても、この仕事をしている間中、自由時間が欠乏している状態が常となり、読書いや新聞さえ熟読する余裕も滅多に無い日々です。『このままで良いのか?』と言うのが、何時も頭から離れませんでした。
高齢となった上に、近年二度大きな手術を受けて弱っていた父の体調が、五月頃からどんどん下降気味で、これを看病する母は父より年上の八十八歳、血圧の高いのを薬で抑えて、必死に看護するのを見ては、このまま自分が仕事に関わっていて、隣の状況をないがしろにするのは罪な事であるとはっきりわかり、佐川急便との契約は一年毎になっていましたので、これを潮時に契約解消を申し出たわけです。しかるに年内いっぱいは何とか保って貰いたいとの願いは叶えられず、父は九月の終わりに、呆気無い感じで亡くなりました。
父親の葬儀から四十九日の法要に至る間の様々な用事で、数日間は稼働出来ず、佐川急便には大変迷惑を掛けましたが、一番の繁忙期の十一・十二月を頑張る事で勘弁してもらい、円満退職(と言ってよいですかね)しました。
仕事を止めてどうするか、は良く考えないと、とんだ失敗となる大事なところですが、この線でゆこうという明確な方向付けが特にある訳で無く、『仕事以外には何も出来ない』と言う状態は止めて、もっと時間的、気分的にゆとりの有る生活に一先ず入って見ようと言うことで、『ちょっと甘きに過ぎるかな』という思いと『まあ何とかなるであろう』と出たとこ勝負敵な考えとで、やや『揺れ』を感じますね。無論まるっきり仕事をせずに生活出来てゆく程世の中は甘くありません。来年からか、もっと先か、何か始めねば駄目でしょうが、その場合でも今迄の様な仕事一本槍と言うのは避けたいですね。
幸いにも母は「連れ合いの死は老衰のためで避けられぬ事であった」と、特に気落ちが酷い様子では無く元気であって助かります。しかし、何しろトシですから、この傍に居て様子を見守り乍ら、春には父の遺した狭い荒れ放題の畑を再生させるやら、倒れ掛かっている葡萄棚の建て直し、庭の手入れと、当面やる事はいくらでもあります。その合間に、今年いっぱいかけて何か一つ、重点的に習い、技術を身に付けたいと考えています。これから先の人生に役立つ何かを!
一月十二日、今年第一回目の発声教室を出席し、義家さん、鈴木さん始め飯山の古澤さん、井出副会長ほか懐しい方々とお会いできました。先生方の熱心なご指導、生徒さん方の声を取り戻す事への懸命な取組み、私が恩世話になっていた頃と少しも変わらぬ熱意と和気に満ちた雰囲気でした。私が「サボッテ」いる間に、長野日赤の会員のうち何人かの方は不帰の人となられ、かなりの数の方々が入会しておられます。私の顔馴染みの人よりも、知らない人の方が多く、随分長いこと顔を出さなかったものだと後ろめたい気分になりました。
仕事から退いた事を後悔しない様に、充実した暮らしをするよう努力する責任がありますが、今年は時間のやりくりは、大分楽でしょうから教室への極力顔を出す様にして、皆さんと共に勉強出来ればと思っております。
松本、伊那、佐久、諏訪の各教室の皆さん健康に気を付けられて、今年も声を取り戻す為の技術を向上させ、更には会話の完成にまでと目標を高く持って、勉強と訓練に励んで参りましょう。
(平成八年二月)
北陸名所東尋坊芦原温泉の旅
松本教室 長岡幸弘
九月の終りに信鈴会恒例の親睦・研修旅行に初めて参加しましたが、大変楽しい旅でした。
何しろ生まれて初めての旅、言葉が通じるか心配でした。
松本駅前のバスの乗場へ。バスには何人か乗っていて皆さんの来るのを今や遅しと待っていました。俺もガイドさんに一言、「日本一静かな旅行ですが宜しくお願いしますヨ」とバスの中へ乗り込みました。
旅はいいものですね。まるで養老の滝の様に、後から後からお酒でもビールでも好きなものが出てきて、こんなに良いものなら止められなくなってしまいそう。
お酒が入れば、日本一静かな旅行も積もる話に花が咲き、唄が出て賑やかなこと。海の見える食堂で、昼を食べ、高速道路を走り、東尋坊へ。夕日が眩しく美しい事このうえなし。青い海、白い波、綺麗な東尋坊に『さよなら』して北陸随一の芦原温泉『芦原国際ホテル美松』へ。宿泊宴会。
翌日は緑の芝政・地下博物館見学して、富山の『鱒寿司本店』で昼食を摂り、直江津から長野、松本着『サヨナラー』では面白くも何ともないので、これから先輩から聞いた話を少し・・・・
『美松』の宴会では皆さんカラオケはもちろん、看護婦さんと仲良くデュエット、仲居さんとダンス(チークダンス)等凄いこと。俺は疲れたよ。部屋に帰って寝ていたら仲居さんが来て、先輩達を連れて何処かへ出て行った。宿の前にはマイクロバスが来ていて皆が乗って何処へやら・・・・
タンタカタンタカタッタッタッ
『ハァーーッ!』タンタタ タンタタ
『サッ!』タッ タタ タッ
『イイゾォーーッ!』
『モットヨク見セロォーーッ!』
音楽も忘れた。踊りも忘れた。
ただ、煙草の煙と、いろいろ混じった様な匂い。舞台を照らす赤・青・黄色の光の下で、チャラチャラ、腰蓑だか、羽衣の着物みたいな物に包まれた白い物体が舞台のせりだしの板の間に見え隠れ・・・のり出して動く頭、頭、頭、先輩達もそれぞれ腰掛けてただ一点を.まばたきも無く。
やがて雑音の様なレコードが鳴り、踊り子がクネクネと腰を振りながらスケスケの布(絹は高いので多分ナイロンだと思う)口をあんぐり開けて舞台にのり出している人、舞台に頭をのせて何処かもノゾク人、口に手を当てて何やら叫んでいる人!!!
あの舞台の上で彼女達(踊り子さん)は女王である。
芦原温泉の夜の街のネオンは何となくロマンチックではあった。ところがロマンチックもこれまで。部屋の鍵が開かずフロントにお願いして合鍵で開けてもらい中へ入った。今は良くできていて鍵が開いても、中は真っ暗。仕方がないので暗い中で寝ようと話していたら、突然闇の中に、会長さんの怖い顔があらわれ、『おとしよりを一人置いてでかけるとは何事だ』と怒られ、お仕置に酒を夜明けまで飲まされ散々な一泊二日の旅でした。
(これだけ先輩の話を思い出して書くと言う事は大変な事ですよ。次回の時には一緒にお願い致します。)
信鈴会『北陸芦原温泉の旅』に参加して
長野赤十字病院B4棟
金本美佐・田中陽子・湯田明美
平成七年九月二十八~二十九日にかけて、私達看護婦三人は、信鈴会の一泊二日のレクリエーションに参加させていただく機会を得ました。この年の夏長野北部を襲った集中豪雨による水害のため、当初計画されていたコースとは少し変更されたそうですが、北陸の厳選された名所を巡る旅でした。
私達は長野と佐久教室の皆さんと一緒に、長野駅前にて合流し、バスの到着を待ちましたが、松本や伊那・諏訪教室の方々は朝早くからの出発で、大変の事だったと思います。その日はやや風が強かったものの、やがて太陽が顔を見せ良い天気に恵まれました。
車中では前回の旅行のビデオを見たり、とても明るく話題の豊富なガイドさんのジョークや、次々と回ってくるお菓子等で楽しく過ごしているうちに気がつくと、もう右手に日本海の白波が見えてきました。
目的地のひとつ東尋坊に着いたのは夕方の事でした。ただでさえ足がすくむ様な、断崖絶壁の景色、だから名所なのでしょうが、時間帯も遅く、ひと気も少ないせいでスリルは倍増されました。三人のうち一人は高所恐怖症であったため、皆さんが折角写真を撮って下さったのに、ちょっと顔がこわばって居たかも知れません。
此の日の宿は芦原温泉『美松』でした。大浴場でゆっくり疲れをとった後は、新鮮な海の幸と美味しい御飯が私達を待って居ました。豪華なお料理を前に、皆さんとてもくつろいでカラオケやダンス等、普段は見ることのできない面ものぞいたように思います。アルコールも適度(?)に入って満足した私達でしたが、皆さん方にはそうでも無かった様な方もおりました。そして次の日の帰りの車中でも景気よく配られるお酒の缶を見て、こちらはびっくりしてしまいました。お互いに久方振りの再会の事とは言え皆さん本当に酒豪揃いで・・・。でも通常はほどほどにしてくださいね。
今回の旅行の企画は、長野教室のお当番でおやりになったとの事ですが、集中豪雨での計画変更等で苦労が多かったのでは無いでしょうか?。しかしその甲斐があって、この二日間何方にも大きな怪我・病気も無く楽しく過ごす事ができたのだと思います。
私達は看護婦として、病院の中においてだけ皆様と関わっている訳ですが、こうして一緒に旅に出て、皆様と同じ絶景を眺め、同じ時間を過ごして、感動や尽きない楽しさを共有できた事を嬉しく思います。このような得難い体験をさせて頂いた皆様にこの誌上をお借りして、心から御礼申し上げます。
本当に有り難うございました。何時までもお元気で発声訓練に頑張って下さい。
我家の近所に
信大病院東二階病棟 市川みち江
我家の近所に八十四歳の元音楽教師と、その夫人が住んでおられる。老人の二人暮しと聞けば、如何にもひっそりとし、周囲が手を差し延ばさずには居られない雰囲気の有るものだが、このお二人はちょっと違う。八十二歳の夫人が適度な甲状腺機能亢進症で、物凄い働き者なのである。早朝から暗くなるまで、夫を叱咤激励して農作業に励んでおられる。真夏の日中は暑くてかなわないからと、朝食前から耕運機の爆音を響かせ、ビーバーを振り回し、夕方は星が出るまで畑の手入れをしており、冬を除いた春夏秋、二人は声を掛け合いながら、しかも生き生きと働いている。
そんなに働いてどうするのかと何方でも不思議に感ずると思うが、収穫物の大半は宅急便で東京にいる二人の子供に送られるのだ。嫁に行った長女はまだしも、長男と言っても既に六十歳を超え、大きな結婚式場を経営している所へも、茄子や胡瓜は送られる。近くのスーパーで、姿良くきちんとパックされた野菜が、必要な時必要なだけ手に入ると言う時代なのにと、つい余計なお節介を言いたくなるが、『新鮮なものにはかなわないからねぇ』と一蹴されてしまう。しかし、カボチャを20ヶ長女の家に送ったと聞いた時は、思わず送り先に同情せずにはいられなかった。よそからのお裾分けのいただき物でも、送れる物なら即、東京へ送ってしまう。幾つになっても子供の事は心配で可愛いものなのだと教えられる。ダンボールをオートバイの荷台に括り付けたおじいさんが、道路を走っているのがしばしば見受けられる。こんなに良く働く二人なので、畑は何時も整然とし雑草等見る事もなかった。
そのお婆さんが今年の六月眩暈で倒れた。1ヵ月位入院していただろうか。梅雨から真夏の季節だったので畑の雑草は、何物にも邪魔されずに大いに手足を延ばし、あの美しかった畑は瞬く間に草原と化し、秋を迎える頃はそれぞれの草はびっしりと実をつけ、尼大な数の種を四方にばら蒔き、春にはもっと頑張るぞと囁き合っている様であった。
退院したお婆さんは、その畑を見て気の毒な程がっかりし、夫の怠惰を詰ったが、詰られる夫もおん年八十四歳、無理というものであろう。「今年だけは諦めろ」という近所の者や、遠くから黒塗りの高級車で駆けつけた子供達の意見を聞かばこそ、調子が少しでも良いと、ガラガラと『かっさび』を引きづって、お婆さんは畑に出てくる。腰をこごめて荒れた畑に見入る老婆の姿は寂蓼そのものである。今、暮れも押し迫りお菜漬にならなかった野沢菜が茶色くなって木枯らしにふかされている。
この新しい野原にすすきの穂波が出き、どんぐりの木が伸びて来るのも時間の問題であろう。この家に限らず働き手が無くなって原野と化した田畑が、我家の周りには何軒分を拡がっている。これ等が総て、かつて農地開放で今は亡き祖父母の手から離れた土地だと思うと、時代の流れを知ると共に、一抹の悲しさを覚える。「良い畑は人様に貸し、作り難い所ばっかり残して置いたからね」という祖母の口癖が耳元で聞こえて来るようだ。
それはさておき、件のお婆さんにしても、甲状腺の興奮だけで、あんなに一生懸命働いたのでは決してないであろう。採れた野菜を子供達に送る喜び、ものを植え育て刈り取る喜び、太陽と話し雨と語る緊張感にやりがいを感じていたのであろう。病気では仕方がないが、このやりがいのある仕事を続ける方法はないものだろうか。若い人達が街へ出るのが当然の様になってから、こうして畑がしだいしだいに原野と化してゆくのを見るのは本当に辛いものである。
さて、話しは変わりますが私が信大に御世話になってーからもう数え切れない程の患者さんにお会いしました。
お一人お一人に、沢山の貴重な教え戴いた事を深く感謝しております。耳鼻科に参りましてからは特に信鈴会の皆様の真摯なお姿にとても元気付けられました。人生の折り返し点を過ぎた私ですが、まだまだ昨日より今日、今日からまた明日へ伸びてゆけるという可能性を信じる事が出来、もっと頑張らなくては、と背中を押される気持ちがします。本当に有難い事だと思います。
おみくじ
信大病院東二階病棟 堀内公子
昨年の元旦のこと、深夜明けでそのまま一緒に新年を迎えた同僚と神社へ初詣でに行きました。楽しみなのはおみくじで、ちなみにその時ひいたおみくじは"中吉"でした。しかし私はあまり"大吉"は好きではありません。"大吉”が出たからと言ってバーンと思いっきり大喜びできる出来事があったら、どんなにか人生楽しいだろう、としばしば思いは致しますが...。九五年は私にとって、おみくじで言えば最「凶」の年でした。(親には.「まだまだ人生は辛い事なんて沢山あるんだからね」とクギをさされましたが...)でも、その時ひいたおみくじの裏に書かれてあった『神の教え』の言葉が印象的で、何時もは木に結んで置くおみくじを持ち帰りました。其処に書かれてあった言葉は『声は消えても、心の底にきいた言葉が生き残る。強く打てば大きく響き、弱く打てば小さく響く。した事、言うた事、思った事、善いも悪いも、ことごとく皆、何物かに影響して、永遠にあとを残す。慎むべきは、その思い、その行い、その言葉、恐るべきはその影響、その反発』と書いてありました。
声の出なくなった方の事を言っているのではないと思うのですが、私は何故か、ふと喉摘された方達の事を思い出しました。"声は消えても心の底に聴いた言葉がき残る"言った言葉はその場で消えるけれど、その時聴いた言葉、言われた言葉が心の中にしみ渡ると、それはいつまでも消える事なく生き続ける。そして、大きくも小さくも影響する。そんな心に生き残っている言葉は、誰でも心の中にあるものだと思います。声は失っても、耳できく。心できく。やはり話すことより、聞くことの方が難しく、大切と言うことでしょうか。そして自分がどのようにその言葉を受け止め、自分にとってどのように言動、思いが変化するか、影響するか、その方がむしろ重要と言うことでしょうか。
神様は今頃、「そんな事、いってるんじゃないのに...全くわかっとらん。」なんて思っているかも知れません。私も耳鼻科につとめていなかったら、又違った解釈をしたのかも知れませんが、私は私の勝手な解釈で、納得しておこうと思います。信鈴会の皆さんにとっても、この『神の教え』の言葉が心の中にしみわたりますように...そして、これからもその前向きな姿勢でご活躍されますようお祈りし期待しております。
"月と私と"
信大病院東二階病棟 矢嶋美雪
満月の数日前、上半分が欠けた月を『上弦の月』というのだと小説の中で知り、頭の片隅においた。十二月の寒い夜出勤しようと車に乗ると、目の前に「これがそうか」と記憶の片隅から呼び起こされる程手の届きそうな『上弦の月』があった。
月も星も冬の空は空気が澄んで綺麗に見える。しばらくボンヤリ眺めていると、昔母がしてくれた話を思い出した。「お前小さい頃、あのお月様つかまえてって言ったのよ」。
走る車の中から見える月は、まるで追いかけて来る様に何処まで走っても同じ位置にいて、子供心につかまえてみたいと思ったのだろうか。今ではそんな純粋な気持ちは何処かに吹きっ飛び、月をしみじみ見上げるのも本当に久し振りで「この月はつかまえてぇと言ったあの月と同じか」と思うと、月は変わっていないのに、自分だけ齢を重ねて居るのは、ずるいような不思議な気分になった。
上弦の月とは逆に、下半分が欠けた月を下弦の月と言うらしい。これは辞書で知った言葉だが、上弦、下弦どちらも弦を張った弓や楽器に譬えるあたり日本人の情緒を感じてしまう。
子供の頃大の医者嫌いだった私が、看護婦になりたいと家族に初めて話した時、家族はもちろん担任の教師や叔父、叔母にまで「思いとどまれ」と止められた。理数系が弱かったせいもあるが、医者に限らず白い服を着た人を見ると泣き出し、注射を怖がった私であったからである。看護婦になって七年、娘は本当に働いているんだろうか、と母は職場にまで見に来たこともある。
怖がる側から、怖がられる側になった今は、月を愛でる気持ちを忘れたかの様に、日常の仕事に流されて齢ばかり重ねる自分が、悲しくなる。上弦の月を見ながら、ふと頭に浮かんだ想でもある。
終戦時の思い出
佐久教室 佐藤常尾
戦後は既に五十年を経過しましたが、当時の思い出が悪夢のように時々思い出されてまいります。その戦争が始まったのは昭和十六年の十二月八日でした。その頃私はまだ高等小学校に通学していた頃でした。卒業後十六歳の時に海軍志願の募集がありまして、これに志願して合格はしたのですが、その当時は仲々採用通知が来なかったので、学校の勧めで、その頃千葉の小高い丘にありました日本建鉄株式会社に入社しました。当時工場では『○戦』の組立をやっており、話によれば群馬県の中島飛行機製作所の下請けをしているのだと聴きました。ここで3ヶ月間の講習を受けて、各工場に配属されるのですが、私は主翼の組立に廻されましたので、昭和十八年八月に東京の千住にありました日本紡績に、主張員としての3ヶ月間の任務を果たして、船橋に帰りました。
次には神奈川県の高座郡にあります高座海軍工廠に、『雷電』の仕事をするため軍属として派遣されました。厚木飛行場の近くにあったその工場に通うのに、片道が三十分かかり、しかも物資は無くなっておりますので、履物も靴ではなくて下駄履きでした。雨や雪の降る時は裸足で飛んで歩いた事もあり、そんな時の通勤は大変なことでした。
しかしその頃、遠く離れてお国の為だからとして、働きに来ていた台湾の人達が、大勢工場に通っていたのが思い出されます。
昭和二十年三月の或る夜、B29の大爆撃に遭遇し、東京は焼け野ヶ原に変わりはて、その後は連日の如く昼間は小型戦闘機、夜はB29の飛来でした。小型機は機銃と空中爆撃ですが、爆発する時の音響は凄く、約二十糎位"の立木が爆弾でブッタ切られて、あちらこちらに人が倒れて死んでいる無残な光景を、度々見るような状態となり、又一方飛行場に目をやると、黒煙が立ち上り機体が燃え、凄まじい限りでありました。
私は予め八月には実家へ帰る計画がありましたので、八月十日の朝トランク一つ持って七時頃に出発し、普段は小田急で新宿へ出て、上野から信越線に乗って帰るのですが、一帯は焼野ヶ原となっているので、八高線で高崎に出て信越線に乗換て帰ってきた事が、思い出されます。
又、戦中戦後は食糧事情が悪く、米食等ほとんど摂らない日が多く、もちろん娯楽施設当何もありませんでした。昨今では全く考えられないことであり、あの頃の酷しかったことや苦しかったこと等想像も出来ないと思います。現在は欲しいものは金さえあれば何でも手にする事ができる世の中となりました。しかしあのような苦しい経験があったので、私は平和の有り難さが特に身に滲みてまいります。
失声八年 多屁
長野教室 坪井冽
昭和六十三年三月、北信総合病院で喉摘手術を受けて声帯を失ない早や八年、声の出ない苦痛も発声教室の指導を受けて、不自由ながら或る程度の会話は可能になった。特に電話による会話はほとんど不自由しない様になった。然送話口を少し離すとチンプンカンプンになる。又、近くの友人や、老人クラブ等では耳の遠い人が多く、仲々会話が通じないで苦労する。いきおい筆記具が欠かせない。又、私は寒くなると、鼻水が多くなり閉口している。漸く少しは鼻をかむ事ができる様になったが、健常者の様には完全にはいかないので、何回も拭き取らなければならない。時には鼻水を垂らしている何ともいただけない姿を晒す事になる。
この外誠に恥ずかしい話であるが、ガス(放屁)が多く発生する。多分、口や鼻からの吸気蓄積のせいと思うが、医学的にどういう事か判らない。手術前に比べ非常に多い。それも極めて大きいのが連続して発するので、人さまのいる所では、何とも赤面する事がある。しかし家族の話では、匂いは殆ど無いとの事で、せめてもの救いだと思っている。
身障者となっても結構な世の中で、老人医療証に加え身障者に対する色々の保護に対し感謝しつつ、すべての事を明るい方に考え、一年でも、一日でも長生きするベく、毎日を過ごしている今日この頃である。
『外から見た信州』より
長野教室 井出義祐
昨年五月NHK長野放送局の佐藤喜八アナウンサーの『外から見た信州』と題する講演を聴く機会があり、氏から見た信州並びに信州人を見る目に映じたものは何かを考え、やがて冬季オリンピック開催で他県人はもとより、外国人が大勢来るので多少なりとも勉強になればと思い、記憶の定かの内にと書き留めて置いたものです。氏は北海道生まれで、信州に来て四年になりますが、土曜日の朝七時半からの『お早う信州』を担当しておりました。NHKでは一般に九回の転勤が常識となっているとの事で、各地に転勤され取材を通じて現地の方と接する機会が多く、外からはよく見えるので、率直に感じた事をお話したいと言う事で、以下のお話がありました。
長野は、盛岡や又外国等と競って長野開催が獲得できた。札幌の冬季オリンピック大会は昭和仰年に開催されたが、国立公園の山中の森の木を伐採して滑降コースにした。その爪痕は現在もその儘で、昔の姿に戻るには多分何百年もかかるだろう。然し開催する以上は、どうしても極く一部の自然破壊は避けられない。自然破壊については、私自身学生の頃から関心があり、長野も冬スキー・夏の合宿等で時々来て山に登った。その時こんな奥までスキー場を造る必要があるのかなあーと思ったが、今はまだその奥まで入ってしまっている。その頃の県民は自然に対して恵まれ過ぎて感じる事が出来なく、それ.よりスキー場が出来て結構ではないか等と言っていた頃である。志賀高原等は一本道であり今はまだいいが、例とえば四年前猛吹雪で一台の車がスリップして横向きになっただけで、立往生してどうにもならなくなってしまった。気象条件に恵まれて、この三年間何事も無いが、その様なスキー場を見ていると、一度遭遇した者は、二度と来ないだろうと思った。長野に転勤してきて昔尋ねた処が随分変わっている。しかし野尻湖畔は変わっていなかった。昔の旅館がその儘であり嬉しかった。
信州のあちこちを尋ねたが、日本広しと言えども、山の近い迫力は信州にしかない。北海道は広い大地の彼方に山があると言う感じだが、信州は山から山だから、山から向かい側の山が見える。その景色は私の転勤した中では信州しか無いと言う感じである。他所へ行けばこんなに山が近くに見える所は無い。信州は刻々と車窓でも景色が変って行く。私はたまたま仕事で白馬岳へも行き又一週間常念の小屋での生活もしたが、三年前の五月下旬の頃、向側が穂高槍ヶ岳等三千メートル級の山の雪が融け始め、その雪型が色々の形に見えて来る。見る人によって色々に見えると言うのがよい。北アルプスに限って言えば、山小屋へ登っても、食事も冷えたビールでも四五〇円~五○○円であり、又弁当も造ってくれる。
信州の山には、信州人にしか判らないと言う場所が沢山在る。その秘密の場所が、最近秘密では無くなって来ている。非常によい所に人が入ってきてしまって居る。自分達の宝と思って心に留め、旅行会社の記者等には知らさないで、信州の人にだけ知って貰う様に、とっておきの信州をもっと大切にして欲しい。例えばアルプスを見るのに、小川村、大岡村には実に良い場所がある。皆さんは既に御存知と思うが?
栂池湿原等昨年から車の乗り入れを禁止したのは良いが、ロープウェイに乗るのに一〜二時間待たされる。物凄い数の観光客で湿原では無くなって仕舞う。五年位でどんどん変わって行くのが一番心配だ。歩くところの整備、客の制限等何等かの手を打たないと湿原は無くなって仕舞い、大変なことになってしまうと思う。
信州の自然についてお話をして来たが、これからは厳しい眼でみて、開発する処との線引きをキチッとしていかなければ、知らない間に崩れ去ってしまうだろう。
次に住んでいる人達はどうかと言うと、信州の自然は大変結構であるが、信州人は理屈っぽい。長野駅東口の再開発で公聴会を聞いた時、二千人以上の人が「俺にも一言言わせろ」と言うことで、三日間かかったとか。普通は町内会で纏めて、会長が申請して意見を述べるのが一般である。皆さんには耳痛いと思うが、とにかく理屈っぽい。俺にも一言言わせろが非常に多い。例えばNHKに対する注文の電話が一番厳しい。殆ど個人に対しての全人格を否定する様な内容であり、本人には聞かせられない様な内容となる。世の中をもう少し批判する時は少し遠慮するのが常識である。又信州人は仲間意識が狭いと言うが・・・例えば御柱の画面を見て、「丸太に跨がって死ぬ目に逢う様なお祭り騒ぎをしている」と言うのは、塩嶺峠を越えて塩尻に来ると、もう聞かれる他所の人の言う言葉である。総て信濃の国は四ツの平の国で長野県一つにはならない。他所の人だからと思うから、足の引っ張り合いばかり、やはり俺にも一言となって仕舞う。その様な意識は言葉だけかと言うと、さにあらず。自分さえ良ければ・・・ですね。例えば信号の無い交差点で通りに出ようとしても並み大抵の事ではない。先方の信号が赤になっても入れてくれない。こちらの方の後は車がズラリと並んでもお構い無し。全く交通マナーが悪いネ。自分の事しか考えない。譲り合えの精神に欠ける点があると感じたが、之等も分析すると、都市計画の後れているのも、この自分の事しか考えないと言う事からでは無いかと思って仕舞うが?
オリンピックの開催に当っては、峠の向こうは他所の国の自分の事しか考えない、と言うのでは外国人を受け入れる訳にはいかないのではないだろうか?同じ日本人の場合ならば多少は県民性として許されるが、外国の人は容赦しないので、その点外国の人に対しては、国際問題であるから充分心掛けなければならないと思う。外国語が出来る出来ない事とは別。外国人の方に自分の国の判断でやっていては通じない。外国語が出来なくても、是非日本語で話し掛ける事が大切である。日本人はニコニコするが話し掛けないと言われている。判らない事はよく教えてあげる事である。
例えば、中国では、道路に自転車を置くと捨てたものと判断する。従って貰って行く。日本人は之は公共の場所だから泥棒と判断する。中国人としては泥棒の意識は全く無い。教えてやらないとわからない。又街のゴミの収集にしても間違える事も有るがよく教えてやること。日本語で良いからよく言って教える事である。この流れは敏感に外国にも繋がる。皆さんは既に俺にも一言でよいけれど、子供さんやお孫さんには注意すべき事をよく言って教えてやる事。外から見ると信州人が非常に目につくので、気持ちを新たにもっとよく笑って、笑顔で大きな信州人となるよう期待しています。
以上でお話は終りますが、佐藤アナウンサーは、昨年六月十日のNHK朝の七時三十分からの『お早う信州』を最後に、東京へ転勤されました。信州人と対しての率直なご意見として受け止め、精々つとめて参りたいと思います。しかし思いますに私が若し健常者であれば、素直に納得出来ない処があったと思いますが、私達信鈴会会員は、不幸中の幸いと申しますか、お互いにあの喉摘時の苦しい体験を経ており、更に障害の克服に専念している間柄でもあります。したがって四つの平ではあっても、勿論一つの平になっているものと私は信じます。又私は『既に俺にも一言』の年輩でありますので、迷惑にならない様よく之等を選択し、とにかく気楽に、共に励まし労わり合いながら、健康管理に心がけ、友愛を更に深め、美しい山脈の映えるわが信州で、唯一纏まりのある我等信鈴会の、更なる進展に微力ながら尽して参りたい所存であります。皆様発声克服に頑張りましょう。
(平成八年二月記)
人生数え歌
伊那教室 内山一二三
一つとやあ 人は誰でも年を取る 豊かな老後を考えよ
二つとやあ 不老長寿の妙薬は くよくよしないで暮らすこと
三つとやあ 身なり肌着は小奇麗に 不精不潔じゃもてやせぬ
四つとやあ 嫁と姑は助け合い 譲る心にとげはない
五つとやあ 医者の指示に従って 健康管理を怠るな
六つとやあ 昔話もよいけれど 今の時代もよく知ろう
七つとやあ 何か一つ趣味をもて 明日に希望が湧いてくる
八つとやあ やって見ようと何事も 臆せずこまめに根気よく
九つとやあ 恋を語って悪くない 若い心をいつまでも
十つとやあ 共に皆んなで話し合い 一人ぼっちはふけるもと
「あなたのは、癌です」
長野教室 駒村正二
「駒村さん声が変だよ」と勤めて居る病院の患者さんが不思議そうな表情で言う。自分でも風邪をひいていないのに声が出難いのを感じていた。たまたまその年は、地区の責任有る役に就いていたので、なかなか専門医に診て貰う機会が無かった。その会合の席「声が変わっている。診て貰った方がいいよ」と再三勧められる。癌かなあ?痛みも無いし、そんな事は有りっこないよ。と自分に言い聞かせている。顎部に触れても何のシコリもない。平成五年三月十六日声帯の左側に腫瘤が有ると診断を受け「組織を切除して検査をしましょう」と、四月二十日切除するため入院『もし悪性なものであったら......もし癌であったら......そんな事はないよ......』考え始めると胸がしめつけられる。
左仮声帯偏平上皮癌、メモ用紙にドクターが書き込んでいく。「あなたのは、癌です。」「切除するか、電気(コバルト)治療するかですね。今の状態なら電気治療で綺麗に取れると思うから心配ないですよ」ドクターの説明が続く。『何で癌なんだ。』目の前が真っ暗になった。否定して来た考えが現実になり、ドクターの説明に対し、返答が出来ない。「癌ですかぁ、コバルト治療で治るんですかぁ」やっと言えた言葉であった。これからどうなるんだろう。家の事、嫁ぐ時期に来ている子等達の事、家中に苦労を掛ける事など胸倉をえぐられる様なじっとしていられない気持ち。家内にはどう説明したらいいだろうか......。「先生、コバルト治療をお願いします」漸くにして、やっと言えた返事であった。
治療が始まった。ピーピーピー照射を受けている間の悶々とした気持ち。『これで治るんだ』自分に言い聞かせる。途中咽頭火傷で中止もした。「綺麗にとれていますよ」と、ファイバースコープで患部を見ながらドクターの説明。「先生、治りましたか、本当ですか、治りましたか」「良く取れてますよ、良く頑張ったね」この一声で気持ちが明るくなった。
折しも地区の祭礼の準備が始まる。神社の総代長として色々な役付きの人との折衝が続くが苦にならない。病院の診察に行くにも「もう、俺は治ったんだから」と。
_「どうも左頸部にシコリが有るんです。CTとエコーで診ましょう」左転移性頸部腫瘍。「早い方がいいですよ」「先生実は祭礼をやらなければならないんです。直ぐと言われても......」賑わう祭礼とは裏腹に気持ちが沈む。感情を出してはいけない。他の人に迷惑を掛けてはいけない。漸く長い祭礼(七日間)も終わる。平成五年八月二十四日、左根本的頸部郭手術を受ける。九月十二日退院。秋祭りの準備、諏訪大社参拝等続く。治療を続けて十一月より勤めに出る。「良かったねー」患者さんが寄って来ては喜んで呉れる。ドクター、ナースからも喜ばれ、又自分でも病状に対しての説明もする。
年が明けてしばらくすると咳が出始めた。体には何の異常も感じないのにその咳が長く続く。他のナース達も心配して呉れる。MRIのネガを見乍ら「どうも声帯左側が気になりますね。細胞検査をしましょう」「お願いします」と、平成六年三月十六日切除検査を受けた。その結果は「喉頭腫瘍です。場合によっては声帯は三分の一位は残したいが、状態によっては全摘出になり、声は出なくなります」「手術しなければ、どうなりますか」「食道は最初に冒され、場合によっては肺に転移しないとも限らないですよ」と、そして手術の日も決定され、いよいよ来るべきものが来た。当日、術後気が付き声を出そうにも、喉より空気が漏れてしまい声にならない。枕元には家内と子等達が心配そうに覗いてくれている。手術は無事済んだのだ。一雫の熱いものが流れ落ちた。
妻の願い
長野教室 西山寬夫
それは喉摘手術の三日前、平成七年七月三日の出来事であります。私にとっては実にいい思い出深い日であります。この年齢になっても未だ残っている強い印象は、生涯忘れることは無いと思います。
即ち七月三日は、たまたま私の誕生日でしたが、妻の計らいのまま、行く先も知らず乗り込んだ私に、雨上がりの国道十八号を北へ上越廻りで、日本海を見せてくれたのです。
蕩々たる日本海の荒波が、突き出た黒い岩に、白銀色にザサッと散る雄大なさま、その響き、盛り上がり、何処までも、何処までも続く紫紺の水平線、その水平線の上を足早に、滑る様に駆け抜ける灰色の雲、私はその豪快な大自然と向い合って、しばし我を忘れ、その雄大さに感泣し、夢中で力一杯に『砂山』を繰り返し、繰り返し唄いました。『ああ!これが歌い納めかぁ』と切ない思いが込み上げ、思わず涙してそれでも続けました。
そして、つい時間を過ごし一時過ぎとなり、糸魚川の小母さん達三人で楽しく営業している小さな食堂の暖簾を潜りました。時間が遅かった故か客は私共の他老人一人だけでした。そして妻は食欲も無く蕎麦でしたが、私は即座にカツ丼を注文し、二人の間に初めて笑顔が戻りました。
この機に臨んでのやけ喰いか、いやそうではなく、受験生が好んで求めるのに似た心境であったのです。それで、ゆっくり噛みしめて味わい茶を啜って、手を合わせたい気持ちで食べ終わりました。ふと気付くと、妻は先程からジット見ていたらしく、目が合うと、満足そうに笑い掛けました。
それから帰路は、再びお互いに口数も少なく、深緑の姫川筋を静かに蛇行しながら遡り、白馬駅の手前で左折し、白馬の峰々を背に、能生海海岸の荒波のリズムを耳奥に感じ乍ら、更に左折して愈々懐かしの裾花峡に入りま
した。
そっと指折り数えて七年振りで、通い慣れた川沿いの杉林の道を通り抜け、橋を渡って大きくカーブした眼前に、さっと眩しい程の午後の陽に輝き、暗い谷間に『でん』と座り込み、両手を拡げて満々と恵みを湛えている巨大なコンクリートの塊に対面しました。
その力強い直線、曲線のひとつひとつに往時を偲び、その地肌に手をして、心行くまで語り合う事が出来まし
た。
かくして得られた爽やかな夏の日の体験は、大変満ち足りた気持ちにして呉れました。海の『動』とダムの『静』、脳裏に強烈に焼きついた対照的な二つの偉大なまでの自然、そして、その周辺に強く生きる人々の温かい励ましに、大きな力を得て、三日後の平成七年七月六日午後、五時間半に及ぶ喉頭全摘手術も、全く不安無く、落ちついた気持ちで受ける事が出来たのであります。
本来なら誰にも告げずそして語らず、そっと秘めて置くべき思い出でありますが、何故か手術後無事半年を経た今、皆様にお話をしたい気持ちに駆られ、拙文も省みず敢えて記しました。そして題名も最初は『三日前の日』でしたが、少しばかり感謝の気持ちを込めて『妻の願い』とした次第です。
食道発声教室に参加して
諏訪赤十字病院耳鼻科外来 荒井靖子
耳鼻科外来勤務となり二年が経とうとしております。
私はそれまで、食道発声をされている方に出会う事なく過ぎてきました。耳鼻科に配属となり、初めて発声教室に参加させていただいた時、正直言って驚きました。それは、初めて耳にした聞き慣れぬ食道発声の声、そして又お一人お一人が皆失った声を自ら食道発声と言う方法で、取り戻そうとしている懸命な姿に感動しました。
当初、皆さんの声が聞き取れず、困ってしまった事もありました。あれから二年近く経ち、皆さんの上達に伴い、私も聞き取り上手になってきました。毎月第一第三火曜日の二回の教室ですが、ある日参加させていただいた時のこと、「今日は、声の出が良くない。」「家の中では、話さなくても済むからね。」の何気なく言われた言葉に、はっとさせられました。時間にすれば約二時間程度の教室ではあるけれど、それなりの練習効果は確実にあり、教室では会話も楽しく弾む様子から、練習の場であると同時に仲間との憩いの場で有ることを感じました。
帰り際には、「今度は何日に」と言って帰られる姿を見送らせていただく時、どんなに辛い事があろうとも自分を大切に、前向きに頑張ることの大切さを教えていただいているような気がしています。
北陸名所 芦原温泉の旅
長野教室 井出義祐
平成七年度は長野教室の当番でありましたが、計画の段階で七月一一日からの県北部を襲った集中豪雨による大災害の続出で、計画も寸断されまして、二ヶ月後の八月五日に漸く計画が固まった様な次第でしたが、会員皆様には大変ご心配をお掛け致し、且つ路線変更等で止むを得ない計画変更等にも関わらず会員皆様の御協力を戴き、特に飯田以南の方には早暁からの御協力を戴きまして有り難うございました。御陰様で松本出発が早められまして、多少なりとも余裕をもっての行程となりました事、改めて御礼申し上げます。
なお、田中会長さんにはご当地はお詳しく、適切なアドバイスを戴き併せて感謝致します。
又、長野日赤橘田婦長さんのお計らいにより、B4病棟から宮本、田中、湯田お三方の看護婦さんの御協力を戴き、安心しての旅が出来ました事御礼申し上げます。
当日の九月二八日は天候に恵まれての上天気となりまして、車はアルピコグループで松電観光バスの勝野運転手、寺沢ガイド、太陽旅行の池田部長同行で、各教室参加者男性二十七名、女性が七名計三十四名の旅となりま
した。
松本東急イン前から中南信の皆さん乗車して定刻の八時三十分出発、長野も略定刻の出発となり、途中直江津鮮魚センターにて昼食(12時30分~13時15分)を摂り、立谷浜代から北陸道に乗り金津ICで降りて、天然記念物名勝東尋坊に向かいました。
16時45分東尋坊に到着しました。通路の一角に次の案内板が目に入りました。
【案内板記載内容:天然記念物名勝東尋坊 九頭竜川河口三国港から雄島を経て梶浦に至る間の海岸は其の基盤が第三紀層より成り柱状節理を成せる種々の火山岩が之を貫いている。その中東尋坊岬に近く露出しているのは直立粗大なる柱状節理を呈せる複輝石安山岩でその海に面した絶壁の部分を東尋坊といっている雄島は一種の撤欖輝石安山岩で其の柱状節理は斜走して豪快なる波景を呈し其の東崎梶の海海岸には美麗な柱状節理をした玄武岩規制安山岩の大小の岩礁散在し所々に波蝕による幾多の洞窟石門を呈し奇景を極めている昭和四十三年三月 管理団体 三国町】
案内板にある様に40m余りの高さで、岩柱を束ねて突き立てた様な柱状節理の張り出した岸壁の見事な奇勝、これに深い藍色の日本海の荒波が、その岩礁を打ち砕く豪快なこの眺めは誠に見事でありました。よって記念にと足元に十分注意しながら最先端まで擦り進み、会長さん等数名の方と一枚撮り合いました。7時30分出発。
今日は信州松本から、越後、越中、越前の国々五県を跨ぎ約四百軒の長距離を無事に走って、芦原温泉国際ホテル『美松』に所定時刻(17時50分)に到着し、それぞれ割り当てられた部屋に落ちつきました。
一風呂浴びての楽しい懇親会に移り、(18時50分)会長の挨拶、池田部長の明日の計画、続いて小林副会長の乾杯音頭で始まり、田中会長・小林副会長・山下様・長野日赤の金本さん・田中さん・湯田さんのカラオケが最高潮に達し、時の過ぎるのも忘れる位でしたが、大先輩義家様の万歳の音頭で締め括りまして21時一寸前に散会となりました。皆様充分に楽しんで戴けたでしょうか?
翌二十九日は朝湯を浴びて朝食を摂り、7時50分にホテルを出発して緑の芝政・博物館見学に向かいました。(8時20分~9時30分)
芝政八五周年を数え、約一世紀にわたって蒐集されて来たと言う世界の至宝六千点が一挙公開してあると言うことですが、よくぞ蒐集され得たものと驚嘆致すばかりでした。紙面上内容は略しますが、機会あったらもう一度ゆっくりと見たい至宝ばかりでした。観覧を終えコーヒーを戴いて、入館の前に撮った記念写真が逆行となった為、今度は場所を替え美しく藍色に映えた日本海、そして『人として人の人なる子に生まれ、人に恥ない人にこそなれ。芝政創設者初代社長前川政一、明治弐拾五年四月拾八日生れ、昭和参拾七年六月七日没』と刻まれた碑をバックにして記念写真の撮り直しを行い、一路帰りの途につきました。
金津ICから高速にて富山ICで降り、富山市の『源』で美味しい名物鱒寿司での昼食を摂り、11時30分再び富山ICから上越ICまで高速で、以下18号国道で長野に向かい豊野のアップルライン通りに出ましたので、会長さんからの挨拶を戴き、来年度当面に発表されました松本教室の竹原恒夫さんに引継ぎ、野村証券前で長野・佐久の皆さんは、中南信の皆様に別れを惜しみながら再会を期し降車しました。
松本への定刻無事到着を確認し、今回のレクリエーションが、参加者皆様の御協力により、態なく楽しく過す事が出来ましたことを心の内で感謝致しました。ここに誌上をもって厚く御礼申し上げます。皆さん有り難うございました。又、勝野運転手さんの安全運転、寺沢ガイドさんの飽きない為の種々のサービス振り誠にご苦労様でした。(平成七年十月記)
巻頭言
会長 田中清
本年は平成七年度から日喉連が計画した別記の「新体制三ヶ年計画」の最終年の年であります。この計画の一つの食道発声初心者の指導のあり方について、各ブロックの発声指導者研修会で討議した結果、役員会で初心者向きの指導書を作ることを決めております。確かに地方では指導者側にも責任はありますが、初心者の食道発声に対する取組方が問題です。
信大の看護部長の森田先生のお話しの中で、『現在は老齢化・少子化の時代で、疾病構造も多様に変化し、先進化する医療に対する医療施設・機能の充実が目立っている。しかし患者に対して言えば、安全で間違いの無い施設と医療は勿論であるが、患者の満足を得るには、看護側のアメニティーが大切である』と強調されています。しかし最近の患者側は快適な入院看護に馴れて、少し甘えが強いのではないでしょうか。特に喉頭癌患者は手術により音声機能喪失という予期しない障害者に変り、意気消沈して自分を見失う人がいます。しかし何時までも落胆していては、折角の看護側の努力が無駄になります。私は喉摘者はここで気を取り直して、リハビリにより音声障害を克服しようという強い意思を持って欲しいと思います。同じ同病者がマスターしている食道発声を、自分も必ず出来るんだと心に決めて練習を重ねることが大切です。
昨年十月国際交流食道発声大会が中国の北京で開催されました。私がこの大会に参加して感じた事は、中国の皆さんが老若を問わず、甘えも迷いもなく、目的のために絶対に諦めない姿勢で、明るく食道発声に取り組んでいるということでした。実際スピーチを聞いてみて、言葉は分からないが、発声が軽く聞き易い話方でした。又中国ばかりでなく、今アジア各国でも食道発声は普及されています。
信鈴会は来年創立三十周年を迎えます。その記念事業で色々イベントを計画したいと思いますが、現在決っているのは、東ブロック食道発声指導者研修会を長野県で開催するということです。東京都を始め十県から多数参加します。当日は各分野の先生方・日喉連会長等の講演等も計画しています。会員の皆様には、良い勉強の機会でもありますので、多数参加を期待しています。終りに信鈴会関係各位には、三十周年記念事業が、円滑に成功するようご指導御協力をお願い致します。
またまた「いいお医者さん」について
顧問 信大医学部名誉教授 鈴木篤郎
私はこれまで二回「いいお医者さんについて」と題する拙文を「信鈴」に載せていただいたが、その中で私は、医者と患者という一人の人間との触れ合い、「いい人間関係」が、医療のなかの非常に大きいウエートを占めていることについて述べた。今回は極限状態における患者と医者の関係について触れてみたい。
最近「終末期医療」という言葉がマスコミの間でも時々見られるようになった。この言葉は読んで字のごとく、人生の最後が迫った患者に対する広義の医療を意味する。しかし、どこから終末期というのか、また「医療」とは一体どこまでを指すのか、いまいちはっきりしない面もある。「終末期医療」という本の著者大井氏によると、このような状況下での医療について、大きい問題が三つあるという。その第一は患者に事実を告げるかどうかということ、第二は延命措置をやるかやらないのか、あるいはどこまでやるのかということ、そして第三は、これは前項と関連するのだが、患者の終の場所を何処にするのか、病院か自宅か、ということである。しかしこれら三つの問題のうち、総ての根底をなし、最も重大なのは、患者に事実を告げるかどうかということであるという。
このことについて日本の医者のとる態度は今日でも三十年前とあまり変っていないように思われる。答えは家人には「告げる」が患者には「告げない」ということで
ある。医者の心中には、正直に知らせると患者は悲嘆や-恐怖におちいって、それまでの病状を急激に悪くしたり、
なかには自分の命を断つようなことも起こりかねない。それでは可哀そうだ。そんな目には合わせたくない。それよりは事実は知らせず、最後まで「自分は治る」とい
う希望のもとに生きていて貰ったほうがよいという気持。ちがあり、このような態度に出ると思われる。また真実
を告げられた家人の方も、患者にこのことを秘めておくことに同意し、「万事お任せいたしますから、一日でも長く生きられるようよろしくお願いします」という態度に出ることが多いであろう。つまり患者自身だけをつんぼ桟敷においたままでの医療が開始されるわけである。
三十年前には欧米でもいまの日本と同じように真実を告げないのが医者の普通の態度であった。それが現在特にアメリカにおいては、少なくとも自己決定のできる患者にたいしては殆ど百パーセント告げられているという。この大きい違いは一体どこから出てきたのだろうか。その理由の主なものは、既に前回も述べたように、アメリカで一九七〇年頃から生じた「医療の主体は患者にある」という患者の自己決定権意識の高まりが、今日市民の間に当然の権利として定着し、また法的にも承認されているためと思われる。それなのに、日本ではアメリカのような変化は生まれてこず、依然として、医者は通例、患者に真実を告げることはしない。その後も象徴的な例として前記大井氏は、昭和天皇の最後のご病気における侍医団の取った対応をあげている。少し長くなるが、ここに同氏の文章を引用させていただく。
昭和天皇は癌であるのに侍医団により「慢性膵炎」と告げられた。長期大量輸血がなされたが、その扱いは基本的に、「無力な老爺」に対するものである。
激動の昭和期、国の存亡を賭けた意思決定を行ってきた彼の頭脳に衰えは窺われなかった。昭和二〇年九月二七日、連合軍最高司令官ダクラス・マッカーサーに、臣下の身代わりに自分を罰せよと迫った時は死をも決したであろう。決定的瞬間に決定的な発言をする勇気もある人だった。
もし手術時に告知されていたら短い余生で彼は何を行なっただろうか。大戦末期その人口の三分の一を失った沖縄に対する特別の想いもあったと伝え聞く。彼は病身に鞭打って沖縄を訪れただろうか。県民に何かを詫びたであろうか。「慈悲ある欺瞞」はそのような可能性を歴史の彼方に葬り去った。人はその行為によってのみ歴史に残る。一見優しい思いやり風の嘘が、故天皇に対する尊敬を甚だしく欠くと考える理由である。
大井氏は、昭和天皇に対する侍医団の態度は「無力な老爺」に対する態度に等しく、彼らのとった「慈悲ある欺瞞」行為は天皇に対する尊敬を著しく欠いたものだったと非難している。私もそう思う。いい医者の第一条件は、患者の人間としての尊厳を重視し、患者の意思を十分に確かめた上で、患者との間によい人間関係、信頼関係を保ちつつ医療を行なうということである。それならば、たといどのような極限状態の下にあっても、医療における患者の意思、その自己決定権を無視し、信頼関係を損なうような態度はとるべきでないと考える。医者が患者に偽りを告げれば、その瞬間から両者間の正しいコミュニケーションは断ち切られる。患者はいつか医者の言うことに疑いを抱くようになるだろう。情報過多の今日、患者は間もなく医者の偽りを知るに至る可能性も大きい。一方医者の方も偽りの態度で患者と接することが段々煩わしくなり、患者との接触を避けるようになる。こうして両者の信頼関係は壊されて行くのである。患者とその家人との間にも似たような変化が生まれてくるのであろう。
医者や家人が患者に真実を告げたがらないのは、前にも述べたように、患者にたいする優しい思いやりによるものであろう。真実を告げられた患者の気持ちの落ち込みを察すると、どうしても告げる気にならないという医者や家人の心情はよく分かる。分かるが、それだからといって、医者が患者に嘘をいって、両者の信頼関係を自から壊してよいということにはならないと思う。さらに重大なことがある。一旦患者に偽りの報告をすれば、その後に医療も医者の作った虚偽の状況下のものが患者に報告され、医療における患者の意思は完全に無視されてしまう。前に述べた「終末期医療」における第二、第三の問題についても、患者に真実が伝えられていなければ、患者の意思に基づく正しい選択は当然のことながら不可能である。
医者が患者に真実を告げるとしても、その告げ方に慎重な配慮が要ることはいうまでもない。特に、告げた後の患者の心の動揺を敏感に察知し、優しいコミュニケーションを絶やさぬことが大切である。告げっぱなしの冷たい態度では、患者の気持ちを大きく傷つけてしまうことが多い。勿論医者だけでなく、その医療スタッフと緊密に協力してケアを続けて行く必要があり、そうすれば真実を告げることの患者へのメリットはそのデメリットを遙かに越すものとなるであろう。
この問題は難しい。医者が「患者さんが可哀そう」という心情論にたつか、それとも患者の人間としての尊厳をなによりも尊重する立場にたつかによって、その態度、行動は百八十度違ったものになってしまう。最近の報告によると、患者さんに真実を告げるお医者さんの数が増えはじめているという。こうなると問題は患者さんの方に移る。いつまでも「万事おまかせします」という態度ではもう「いい患者さん」とは言えなくなっている。真実を告げられても感情に溺れることなく、冷静に今後予想される事態にたいして自分の意向を伝え、このような極限状態においても医療の主体は患者にあるということを示さなくてはならない。前編の繰り返しのようになるが、「真面目なお医者さん」と「しっかりした患者さん」との「温かい人間関係」がこの終末期医療においても最も大切な条件になるものと思われる。
【一九九六・一〇・二二】
老いてのパートナー
顧問 信大医学部耳鼻咽喉科教授 田口喜一郎
二十一世紀を迎えると、我が国人口の四人に一人を六十五歳以上の高齢者が占めるような人口構造になるという。高齢者の医療や介護に関しては、介護保健制度を始め様々な提案がなされているが、各個人が如何に過ごすべきかについての提言は乏しいように思われる。
私の父は九十五歳まで健康で生きたが、多分よきパートナーに恵まれたからだと思う。七十歳までは商人として活躍し、母と円満な家庭を築き、その後不幸にして母に先立たれ十七年間は一歳年下の父の妹と相援けあって生きてきた。歩行が不自由な妹を励まし、毎日の生活を計画するその姿は生き生きとしていた。その妹(私の叔母)は五年前全く歩行不能となったので、己むなく私共夫婦の家に二人で同居することになったが、二人の中の良さは変わりなかった。平成五年に叔母が亡くなると、父に急激な衰えが生じ、最後は食事を拒否するようになり、昨秋老衰の状態で亡くなった。いわば責任を取らねばならないと感じていた妹の死により、人生の目標を失うと共に生への執着が消え去ったのであろう。解剖学者で随筆家でもある養老孟司氏の御母堂は九十歳を過ぎても、雙パとして医師を勤め上げたというが、尊敬される医師としての特殊な立場において、患者の存在がよきパートナーとして役立ち、生への活力を生み出していたものとかんがえられる。
人生には多かれ少かれ人との交流が必要である。何等かの形でよきパートナーを求め、よき関係を維持することが死に至るまで充実した日々を送ることに繋がる。
近年パソコンが老化防止に役立つといわれ、実際そのような効果は望めるようである。しかし、一日中部屋に籠ってキーボードを叩いたり、マウスを動かしている姿は健康的と言えない。世にコンピューター人間といわれ、人間関係に疎い偏屈な性格を増強するように思われる。やはり生身の人間と交流を保ち、日常の喜怒哀楽の生活に身を置くのが望ましい姿であろう。若い人々の心を解しながら、自らも積極的に交流を求める心掛けが必要と考えている。
私自身、退職後どのような生活設計が理想的か考えているが、現実の問題となった時、果たして可能であろうかとの疑問の中に埋もれる。相手あっての人生であるから、相手の身になっても考えねばならず、最終案は何時も先送りになる。
皆様はどのような老後のパートナーをお考えでしょうか。
喉頭癌治療の昔といま
顧問 佐久総合病院 小松正彦
信鈴会の皆様にはあまり関係のない話をまずは一席ご勘弁を。当院に耳鼻科が開設されて今年で四十二年になる。一昨年は開設四十周年の記念式典を挙行した。これを機に耳鼻科の患者統計をまとめようと思ったが古いカルテがほとんどない。これが噂に聞く当院のカルテ管理のいい加減さかと、激しく衝撃を受けた私は、せめて自分の関係した分だけでも記録に残したい、とあれこれ患者記録をもとめてみた。腫瘍関係の患者数では喉頭癌が群を抜く。細かい数値や専門的事項は省くが、信鈴会の皆さんに参考になりそうなことを幾つか報告する。
過去十五年間で喉頭癌を当院では百十五人治療した。そのうち五年以上の追跡可能だった患者が六十八人、現在生存の確認されているヒトが四十九人、喉頭癌が原因で死亡したヒトは九人、他病死が十人である。他病死には高齢の方が多いため老衰が主であるが、喉頭癌になるヒトは過去に酒、タバコの影響が大きく、後に肺癌、肝臓癌、食道癌、胃癌を併発されて亡くなる方がある。よって喉頭癌治療後の経過観察期間中は年に一度の胸部写真、胃内視鏡、腹部超音波検査、血液検査を心がけている。
高齢化社会を反映して、喉頭癌が治療しても喉頭の別の場所に癌が発生して、再度治療を受けた患者さんが二人いた。またかつては喉頭摘出の手術を受ける人の年齢が六十から七十代前半であったものが、最近は十年ほど高齢化したため、手術後にスムーズに食道発声に移行できず電気式喉頭すら使えない超高齢者が多く、医療の根本的な意義を問われるような病例も多い。手術患者の半分も信鈴会にお世話になっているだろうか。皆さんのお仲間になる人は優秀な患者さん達である。
喉頭の癌になっても最大限の治療をすれば八十五%以上のヒトは五年以上生存する。死亡例の大半は肺や頸部のリンパ節への転移が原因で、正直移転の可能性については従来の医学レベルでは、皆目見当のつかないのが現状である。但し生命予後的には喉頭癌は他の癌に比べて良好である。治療成績は早期胃癌に匹敵する。
さて最近の喉頭癌治療の目標は、如何に喉頭の摘出を避けるかに重点がおかれている。当院での最近五年間の喉頭保存率は七十%を超える。昭和六十年前後は五十%位だったから確実に成績は向上している。但し喉頭摘出の数は変化が少ない。喉頭癌の発生自体は近年漸増傾向にあるから、喉頭の保存率が上昇しても喉頭摘出の数には変化がないのだろう。喉頭の保存と生存率との関係は未だ良くわからない。
かつては、ある程度進行した喉頭癌に対しては、問答無用で手術が施行されていた。患者さんもみな素直に医師の指示に従ってくれた。このことは一見、治療成績の面では有利であるが、患者の社会生活を考えれば誉められた事ではない。やはり喉頭の保存は最大限尊重されるべきものである。但し最近では患者さんの意思が尊重されるあまりに、呼吸困難を起こす段になっても、まだ手術を拒否されるヒトがいて困惑することもある。
喉頭癌に対して一部の耳鼻科医が手術偏重主義であると、慶応大学の近藤誠氏が著書「患者よ癌と闘うな」で述べられているが事実である。話が横道にそれるが、同書で癌検診、治療について氏が論じられたことに一部専門医から猛烈な反論が寄せられているが私に言わせれば氏の指摘はかなり当を得ていると思う。詳細は省くが、癌は自覚病状が出た段階で治療して直らなければ、それは進行の速い癌で早期発見は始めから無理だったこと、癌検診(胃のバリウムや胸部間接撮影)は見落としが多いこと、進行癌に対する拡大手術はほとんど無益なこと(逸見さんの例)、抗癌剤は一部の癌以外無効なこと、など、けっこう痛いところを付いている。
実は私、もう四十二歳になるが癌検診は受けた事がない。胃カメラなんてあんな苦しそうなもの飲むはおろか間近で見たこともない。私は酒もタバコもやらないし美食家でもないし。その他特に不摂生もしていないので、これで私が癌にかかったらそれは遺伝子レベルでの自分の運命と思っているからである。
話を元に戻そう。近年の喉頭癌治療の進歩は放射線の分割照射であろう。少量の放射線を一日二回に分けて照射する方法である。かつての一日一回照射よりも線量の低下と治療日数の短縮が得られている。治療成績も従来法よりも劣らない。分割照射法を始めてから患者の入院期間の短縮が得られた。以前最低二ヵ月要した放射線の治療期間が最近は一ヵ月で可能となった。
抗癌剤では確かに腫瘍が縮小する薬剤は登場した。しかし癌が治ると断言できる薬剤はまだない。放射線との相乗効果や生存率の向上に有益か結論は出ていない。
進行した喉頭癌をいかに治療するか昔からの問題が依然未解決である。頸部に転移した癌が頸動脈をしっかり巻き込んで頭蓋底に続くとメスもほどほどにして後は放射線に任せる他はない。再発すれば目もあてられない。不定愁訴のご婦人が病院にあふれる時代に本当の病人はなにゆえ早く来てくれないのかとグチの一つも言いたくなる。進行癌の割合は昔も今も変化がない。癌は遺伝子のレベルで治療しなければ完全な治療は無理ではないかと場末の臨床医は考えている。
(一九九六年十一月記)
善光寺さん
長野日赤看護部長 松尾文子
日本仏教の源であり、古くから宗派の別なく参詣できる極楽浄土の門として親しまれている善光寺は、荘厳でありながら不思議と素朴であたたかい。
私は母と一緒に参詣する善光寺参りが、なによりの楽しみであった。
母はよく善光寺のお膝元に住み、何時も御参り出来ることは、幸せなことであると言っていた。
温かい日差しを受けてお参りする春の善光寺、夏祭りが行われる頃の暑い日の善光寺、そして涼しい風を受けながら色付いた木々の中でお参りする善光寺、やがて木枯しが吹き一面真っ白い雪に覆われた冬の善光寺参り、いつも変りなく迎えてくれた善光寺は、私の心のなかでは「善光寺さん」と呼びかけられる身近な存在である。
早朝本堂に出仕されるお上人様から頭にお数珠をいただけた時には、何とも言えない有りがたい思いになり、何時までもその感触は忘れられないのであった。
今でも仏縁を深めようと長い列をつくり、お数珠をいただく姿は続いている。
お上人様の白く透けるようなお顔に、優しい笑みを湛えたご様子は、あたりを払うような気品を湛えており、善光寺の品格と親しみ易さをつくっている。
人間はいつの時代でもひとりで生きおおせるものではない。
仏様の教える「おかげさま」の心を忘れないで生きて行きたい。
一日一回み仏のみ前で手を合わせ、自らを顧みる生活こそ、今の時代に大切な事かと思うこの頃である。
お上人様のあの美しいお肌は毎朝ぬるま湯で、なでられるだけとか、やはりお心の輝きこそ、そのままあらわれるのでしょうか。一歩でも二歩でも近づく心がけこそが大切かなと思える年になりました。
(平成八年八月十四日)
Sさんからの便り
元信大病院副看護部長 相談役 今野弘恵
久しく絶えて音沙汰の無かった上田市にお住まいのSさんからの便りです。Sさんは食道にできた腫瘍をとり除くために、止むなく喉頭をも犠牲にせざるを得ない手術を信大病院第二外科で、受けられた患者さんでした。当時発声教室にも何度かお見えになられ。人口喉頭を使用されて意思の疎通が十分できる迄に上達され、退院後も時々外来受診の折、お元気なお顔を見せて下さっていましたが次第に遠のき、以来そのままになっていた患者さんでした。あれから十数年も経た今、Sさんからのお便りを、懐かしさと何かあったのかしら?と思いながら急いで開封しました。
便りの内容は、手術して十五年余りも経って突然発生した呼吸困難の体験と処置について記されたものでした。他に何ら自覚症状が無いのに急に息苦しさを感じ、近くの内科で診察を受けお薬を貰って服用したが、一向によくならず、息苦しさは増すばかり、信大病院にいかなければだめか、どうしよう、気持ちはあせるばかり、その時、発声教室に参加した折に今野さんから言われた「風邪を引いた覚えもないのに、息苦しさを感じたら、先ずネブライザーを充分にやってみなさい。痰が出てもらくにならなかったら第二外科で診てもらうこと」を思い出し、押入れにしまい込んであったネブライザーの器具を取り出し、十分位づつ数回繰り返しおこなったところ、ピンセットで摘まなければとり難い程固まった痰が、おそろしい程たくさん出て、漸く呼吸がらくになって『九死に一生を得た』おもいでした。以後ネブライザーは毎日欠かさずやっています。今は孫たちに囲まれ賑やかに、幸せに過ごしております。おかげ様でした。と言うお便りだったのです。
信鈴第十三号(昭和五十八年刊)に、当時長野赤十字病院耳鼻咽喉科部長だった故浅輪勲先生が『喉頭摘出術におこる気管鋳型症について』と題して載せられた一部をそのままお伝えし、ぜひ皆様の教訓として戴きたいと思います。
『気管鋳型症』とは、気管の内腔に多量の痂皮(かさぶた)が付着した状態であって、気管の内腔がせまくなり、空気を十分に肺まで吸い込むことが出来なくなり、突然呼吸困難となり、救急車で運ばれた患者さんが四人もあり四人とも喉頭摘出術を受けた方ばかりであった。
普通の人は鼻で呼吸をしています。鼻の中を空気が通ってのどに達するまでのごく短い時間内に粘膜の表面から熱をとり、外気の温度が0度以下であっても、のどに達する時には体温近く即ち三十六度位に加温された空気になっています。又同時に鼻の中に吸い込まれる外気の湿度が三〇%以下であっても、のどに達する時には九〇%の湿度をもった空気になっています。このために鼻の中では一日に一リットル以上の水分が吸気の加湿のために消費されているといわれています。このように鼻から息を吸うというのは人間の防御作用であり、更に又空気中の塵埃を取り除くという浄化作用も行っているわけです。
喉頭摘出術を受けて気管に直接外気が入ってしまう場合には、鼻で行われている防御作用、浄化作用が全く失われているといって差し支えありません。冷たい空気、乾いた空気、そしてほこりの多い空気がいきなり気管の内に入ってくる訳ですから、いろいろな障害をおこしても少しも不思議ではありません。
とにかく気管鋳型症は喉頭摘出術を受けた人に限って発生しています。発病から呼吸困難が始まるまでが二日か三日位というように、非常に急速に悪くなりますので対応が遅れますと窒息の可能性も十分考えられます。咽頭摘出術をうけた方は特に冬は注意が必要です。冷たい空気、乾燥した空気、そしてほこりには十分お気をつけ下さい。
以上先生のメッセージでした。Sさんの便りを読んでまさに気管鋳型症の状態にあったのではないかと思われます。ネブライザーで気管の内腔をせまくしていた痰を取り除くことができ、らくに呼吸ができるようになったのです。手術の前に鼻から呼吸をしていた時の状態に近い状態を保つためにはネブライザーは必須です。面倒がらず是非続けられることをお勧め致します。Sさんの貴重な体験のお便りを無駄にしないよう、機会あるごとに皆様にお伝えするようつとめております。
捻挫の体験から
長野教室 義家敏
今年九月二十八日朝のこと。突然「親父、稲刈りやっちゃうか?」と息子が言い出したのである。土曜、日曜となるし、天気の長期予報は来週の土曜、日曜は良くないと報じていた。
私は稲穂の適期であるか?どうか?が気になったので一寸見て来ようと田圃に行って見た。枯れかけた畔草が朝露を含んで傾いているところを、何気無しに歩き始めたところ、足が草に引っ掛かり、『キクン』と足首を曲げてしまったのである。一瞬の出来事であった。未だ私はヨボヨボと歩いていた訳ではないので、痛イッ!と思ったのだが気にしないように歩いてみた。しかしどうも痛みが増すので、履物の上から触ってみたら吃驚するほど足首のところが腫れ上がってきていた。これは困った事になったぞと思い、先ず手当をと、急いで?帰宅した。
家族も驚いて取り敢えずマムシ酒を塗ったり、炎症の湿布を貼ったりで大変であった。朝食後稲刈りはやる事にしたが、私には医者に行って手当をした方が良いと言う。それはその通りと思うが、医者に行っても包帯するしか無いだろうと思い、家に有り合わせの湿布をして、あまり動かなければ、一~二週間もすれば治るだろうと自分で決め込んでしまった。その馬鹿さ加減も何もあったものではない。
バインダーで刈り採っても、はぜ架けなど後の作業が色々あるので、無理をしないようにさえすれば良いだろうと手伝った。又、動いていてもあまり痛みは感じられなかった。その日は早風呂を浴びて早寝をした。
まあ一~二週間もすれば治るだろうと思い込んだのであるが、翌朝みるとこれはよくない。昨日より腫れもあり、皮膚が青紫色に変わって来ている。これでは、今日は医者に診て貰った方が良いと決めたのであるが、不運にも日曜日である。さて困ったなぁと思ったが、仕方が無いので、昨日の続きで患部を湿布して、軽く包帯し、まあ命には別状は無いだろう、と言うことであまり動かないようにして二日目が過ぎた。
三日目になっての思案は、病状は悪化しているようでも無いし、今日になっては医者にも生き難いので、家で出来る手当をやって置こうという事にした。翌日にもどうしようかと思案したが、今更医者に診て貰って、実は......なんて恥ずかしくて言えない。
そんなことで一週間は過ぎたが、まだ腫れも青紫色で残っている。思う様に治らない。やっぱり医者に診てもらうか?又迷ったのであるが、結局今更行って馬鹿さに笑われてしまうだろうと思案を繰り返し、一ヵ月を過ぎたのであるが、全治とは思えない。何となく立居振る舞いには、慎重にならざるを得ないのである。
私はここで大きな反省をしなければならない事を痛感したのである。先ず、私は何と言っても高齢になっている。若者ではない。歩行時の足は上がっていないから、何でも足にからがり易い。前ばかりに気をとられ、足元に気を付けない。だから世間の話に聞くように、家の中で座蒲団に躓いて骨折したという話は、他人事とは思えなくなった。この頃「長生き健康法」を読んだがその中に、「高齢者の捻挫は、骨折の場合も、又軽症の場合でも専門医の検査を〕を熟読したのである。余りにも自分の軽率さに呆れて、深く恥じ入り反省している次第である。
移植食道に依る発声
伊那教室 桑原賢三
一言で移植食道と申しましても、その手術内容は種々様々であり、ここに私の食道移植についての推移を記して、正常食道に依る発声との違いを述べ、正常食道発声にも参考になれば幸甚と思います。
さて、私の手術の内容ですが、その部位は喉と食道の継目にあたり、其処は今までの食道発声の声帯ケ所で二十年の長きに亘り何一つ不自由無く発声し、まがりなりにも指導者として、声を失い同じ悲しみ、苦しみを余儀なくされた皆さんの発声訓練の手助けをしてまいりました。この声帯部分の腫瘍でしたので、食道の付け根からの切除で、約十糎位の腫瘍でした。手術に当り深沢先生から、「この手術は外部からの皮膚移植であるから、術後の食道発声は不可能である」旨通告され、家族も自分も承知し、今度こそ命と声の選択でした。
二十年前の全摘手術の時は、まだ食道発声と言う一縷の望みを託しての手術でしたが、今回はその望みの無い声との別れの手術でした。それでも前回は、五十二歳、今回は七十二歳と人生の終末に近い年代でしたので、心の動揺は無く手術は行われ三ヵ月後退院となりました。
さて宣告を受けた術後の状態ですが、先生のきついお達示により、発声部位が縫合部位に当たるため発声練習は厳禁との事でした。然し術後一ヵ月程過ぎたある日、声への未練か密かに空気の逆流動作をしてみました。やはり先生の言われたとおり空気は素通りして『アー』とも『カー』とも出ません。やはり駄目か?それでも声への未練は隠せませんでした。
手術後四十日程過ぎたある日、孫の美香が親達と一緒に来院してベットの横に立ちました。その時何か言おうとしたのか突然「ミカ!」と聞き取れる程度の声が出たのです。孫もびっくりしたが、私自身が尚更びっくりしました。出た!、声が出た!。これからが私の心の中に再度発声への希望が湧いて来たのであります。
発声教室指定の日は必ず何方かが見舞いに寄ってくれて、一日も早い教室への復帰を、と言ってくれました。然し声のない発声指導員では復帰への躊躇が先にたちました。教室へ戻るには、『先ず発声だ』と看護婦さんの見えない時を狙って発声練習をしてみる。漸く僅かながら声らしき音が出る様になりました。
入院から三ヶ月程過ぎて退院となり、先生の許可を得て、発声練習に励む様になりますが、『急激な発声は気をつける様に』との先生の注意もあり、帰宅後それなりの練習に入るが、食道発声の声帯の部位が今までの喉元ではスカスカと空気が素通りして声も丁度に出ません。声は移植した食道の下部の縫目部分であります。今までは喉の入口、つまり口腔と食道の境目であり、発声指導もなるべく食道の口腔に近い所で出す様にと心掛けてきました。然し今は気管孔の裏側より下で、喉元より十糎近く下になったのです。そこで音が出ても、拡声器である口腔までの間を素通りして来て初めて声となるので、会話に際しても、ダミ声:となり、聞き取り難い声となってしまいます。出口で力を入れてみても、移植した食道では絞りが効きません。又、発声部位(声帯)が下がった事により、当然発声に使う空気量が少なくなってしまいます。
今までの空気量は食道一杯に保留した場合200cc~250cc、コップ一杯と少しの量であります。食道発声の場合はこの量を目一杯使用します。そこでどうすればこの量を使い切る事が出来るでしょうか?一般に呑み込んで又は吸い込んで腹圧をかけ、逆流させる迄の時間が遅すぎる感じがします。折角入れた空気を遅いがために、一部胃まで下がってしまいます。これを全量発声に使うためには、飲み込んだ或いは吸い込んだなら直ちに腹圧をかけて逆流させる時間を一秒から一,五秒と指導しています。
然し現在私の場合一杯に空気を呼び込んでもタンクが小さくなっているため、1503位であります。これは移植した食道ではタンクにならないからです。このため少しも粗末に出来ません。それ故胃まで落とさないために、腹圧をかけるタイミングを一秒以内と極力短くします。又使ったら直ちに補給する。だからどうしても、補給は吸引式でなければ間に合いません。よって移植食道(場合にもよるが)での発声は吸引式でなければ、音は出ても声とするには問題があります。
先日診察の折り、深沢先生に「食道移植の場合、喉元の部分を二糎でも三糎でも残してもらえば、術後の食道発声には大きな差が出ると思いますから、若し今後私の様な患者が出たらその様にお願い致します。私の場合も少し残してもらいたかった。」と申し上げた処、先生は「食道の付け根にできていて残すところなく全摘止むなし」とのことでした。二十年間食道発声にて、過ごして来た私でも移植食道での発声は、戸惑いを感じ、今までの声帯部位に力が入り、却ってマイナス面が生じます。音が出て声になる所迄が素通りとなるためにダミ声となります。今までの声が未だ脳裏にあるため、どうしても喉元への力が入ってしまいます。
発声練習も前回の倍以上の時間をかけるが、意の如くならず、焦りを感ずる昨今であります。それでも一時は声を諦めた事を思えば、現在の声でも充分納得して練習に力を入れなければと思っております。移植食道でも練習により発声し会話が出来るんだ。この事を自分で証明したかったのです。
今一度自分の声を取り戻し 黄泉への道を 尋ね参らじ
移植食道に依る発声について書いて見ましたが、移植食道で生活するには、この外数多くの不都合が生じて来ます。新しい声帯が、気管孔の裏側少し下部に当たり、当然気管と紙一重というところですので、発声の都度気管を刺激するので、咳き込みと痰の出が多くなります。手術前は終日喋っていても、殆ど咳き込みも痰も出なかったが、手術後はこれが発声の邪魔をします。
判り難いことを長々と書いて参りましたが、指導員なるが故に、追い詰められる心境にて、毎日の発声練習に努力しております。御世話になりました先生始めナースの皆様に改めてここに御礼を申しあげ、皆様の御多幸を記念し筆を掬きます。
(平成八年十月記)
電気発声器についての所感(2)
諏訪教室 宮坂公正
今年はどういうわけか、毎月のように本(信鈴四号)を読んだと言う電話が、家族の方々から有ります。私は平成六年刊行の第四号に書いたのみです。だが嬉しい事に皆様のお手伝いが出来ればと思いながら、第一木曜日に信大教室に来る様にと話しております。私は教えるなんて事は出来ません。まして教本も無いのですから......只私が、『何処へ当てて、どの様に話して居るか』を熱心な皆様によく見ていただき一日も早く話せる様になっていただくよう出席しています。
電気発声器は、信鈴会の皆様が使って居る機器に二種類あります。一つはイタリヤのアンプリコード社製、これは私が使い初めて二つ目で、製品も三回目の手直しがされ、今では指で押さえなくても当てるだけで、声になる様になっております。もう一つはドイツ製セルボックスです。音の高低の調整が出来、男女それぞれの声の高さに合わす事が出来ます。振動は前者に比べて細かいです。私は、後でセルボックスを持ったので、出来るだけアンプリコードに近づけてあります。アメリカ製ピポナ社ニューボイスが有りますが、見た事は有りません。今はドイツ製を持って居る方が多くなって参りました。この前に電池の事を書きましたが、ドイツ製の方がはるかに長持ちするようです。
この頃では、手術を受ける方の大半は持っているようです。先生の証明を受け役場の福祉課へ持って行くと所得に応じ安く手に入ります。
これからの機器は技術が進歩しているので、カラオケのできる発声器所謂『歌える人工喉頭』が、来年度中には発売される予定と新聞に記載されており、又テレビに依ると『今では電話で喉頭ガンが判るようになった』等と報道されております。最近は手術の先生方の技術も向上されて来ており、食道発声の為の教材ビデオや指導員皆様の御熱心なお骨折りで、退院後一ヶ月か二ヶ月位で発声可能の人が多くなり誠に喜ばしい事です。小さな声でも何も持たず、自分で話せるなんてどんなにか素晴らしい事でしょう。今は行合う人に声を掛けられポケットから取り出し話せる様になる間に、その人は遠くを歩いて居ると言う不自由が有ります。どちらに致しても、とにかく早く話が出来る様に頑張って下さい。
(平成八年十月記)
ボケない小唄(お座敷小唄調で)
伊那教室 内山一二三
一、なにもしないで、ボンヤリと
テレビばかりを、見ていると
のんなきようでも、年をとり
十年はやく、ボケますよー
二、仲間はずれで、ただ一人
何もやること、ない人は
夢も希望も、逃げてゆき
年もとらずに、ボケますよー
三、酒もタバコも、のまないで
唄もおどりも、やらないで
ひとのアラなど、さがす人
人の三倍、ボケますよー
四、ゴルフ、カラオケ、グランドゴルフ
趣味のない人、味もない
異性に関心、持たぬ人
友達ない人、ボケますよー
五、カゼをひかずに、よく食べて
足腰きたえて、早寝して
頭使って、おしゃれして
根性持たなきゃ、ボケますよー
六、年をとっても、しらがでも
しわがふえても、若い気で
恋を忘れた、ヤボな人
色気ださなきゃ、ボケますよー
中国を旅して
長野教室 古澤實
以前より一度中国へ行って見たいと思っていました。「万里の長城」「天安門」「故宮博物館」「シルクロードの出発点」「兵馬俑」等、中国五千年の歴史の後を辿って来ました。それは平成五年四月三日から四月十日の北京三泊・西安二泊・上海一泊で六泊八日の旅でした。
JA飯山みゆきセンター主催で夜十時に農協本所へ集合、総員十八名に添乗員一名で、一路成田空港第二ターミナルへ向い、午前十時発日本航空にて北京へ飛び立ちました。所要時間は約三時間強で、昼食は機内食の寿司で、午後一時三十分頃に到着し中国の土を踏みました。中国のガイド汪さんが出迎えてくれまして、バスにてホテル「長富宮飯店」へ到着し、荷物を置いて小憩後万里の長城へ行きました。
見学出来るのは、八達嶺付近の長城です。見て驚いたのは、山の尾根伝いに築いてある事でした。幅約十米、高さ八米位の城壁です。全部煉瓦を積重ねたものです。全長は日本の北海道から九州の距離の二倍半の長さ(約六千km)があるとの事で只驚くばかりでした。長城の中には百五十米位の間をおいて、見張所の様な建物が出来ていて、其処で監視しているようでした。長城の中は世界各国の人達が大勢観光に来ておりました。
夕方ホテルへ帰り、部屋割りは二人部屋で仲々良い部屋で十畳位の広さがあり、バス・トイレ付でした。風呂に入ってくつろいでおりました。やはりドアーの外は公道として、外へ出る時には必ず正装して、スリッパや寝巻姿やステテコ姿での外出は固く禁じられていました。又、注意として中国の水は鉱物質が多く含まれて居るので生水は絶対に飲まない様に、各部屋に電気ポットが有るので、水を沸かしてお湯なり、お茶を飲む様に話がありました。生水を飲むと下痢をして仕舞うので、特に気を付ける様に注意がありました。
夕食は例の丸テーブルでくるくると回る様になっており、お好きなものを採って食べられる様になっていました。料理は脂物でとても食べ切れない程ありました。初めての夕食の時、名物「北京ダック」でしたが、アヒルの丸焼きで、どうやって食べてよいのか判らないので、側にいた世話をするホテル従業員に聴きましたら、すぐにナイフとホークで切って呉れました。全部食べるのでは無く、回りの皮の部分だけそいで皮だけ食べるとの事です。中の肉はそのままです。余り美味いとは思いませんでしたが、他に料理が沢山あるので、満足でした。ビールも飲むとすぐに従業員が注いで呉れました。しかし油の使った料理ばかりで困りました。やはり日本人は生野菜とか漬物が無いと困りますので、梅漬け等を持って行った方が良いと思いました。
二日目は、明の十三人の皇帝の墓、十三陵の見学でした。一つの墓は直径一軒位の山の形の墓で、日本では考えられぬ程の大きさでした。
十三陵を後にして天安門広場へとバスで行きました。道路は幅30米位ありますが、その路上を長蛇の自転車群が満杯状態で走り、この間を縫うように自動車が走っており、よく事故が起きないものと思いました。又信号機は有るが全部無視され、赤になっても平気で進んでおります。中には歩道を走って追い越して行く車も有りま
した。
中国は今急ピッチで各種の工事が進んでおります。道路に面した所はビルが立ち並び立派ですが、一歩横道へ入ると昔ながらの、土で築いた建物で生活をしておりました。途中日本の国会議事堂に相当する人民大会堂があり、すぐ近くに天安門広場がありました。広場の大きさは東京ドームの十倍の広さがあると言われております。又、天安門の中央にはテレビ画面で時々映じられる毛沢東の大きな肖像画が飾られておりました。
すぐ近くに故宮(明・清の時代紫禁城と呼ばれた宮城)博物院があり、見学しました。城内には中国の伝統的宮城制度を現在に伝える貴重な資料が沢山展示されており、また中国五千年の歴史を物語る貴重な美術品が、沢山展示されていました。建物は赤・白・金等の原色の強い色彩で、日本の日光東照宮や、京都の平安神宮のように綺麗になっており、皇帝の御座所等は言うに言われぬ程の立派さで、その豪壮華麗さは往時の皇帝権力の強大さを物語っている様でした。台湾の故宮博物館の展示品は、此処から大分持ち去られたものであるとの事です。
天壇公園を見学しましたが、公園の中で老人が大勢して太極拳をのんびりとやっておりました。公園も整備している最中で、土堀りをしたり、木を植えたりしていましたが、人夫の人達は、柄の長いスコップでのんびりと土を掬い上げている姿は、日本では考えられない程のおおらかさです。やはり大陸的とでも申せましょうか。
もう一つ珍しい事がありました。それは公園の公共厠所(公衆トイレ)で俗に「ニイハオ、トイレ」と言われ、大便はムシロ一枚での仕切りで、しかも入口には戸が無くて、外から丸見えですので、女性の方は二人位で人垣を作り、交代で用を済ませておりました。「ニイハオ、トイレ」とは、用を足しながら、隣の人と顔を見合わせて「今日は」と挨拶をする程、開放的であるのでその名が出来たとの事です。
昨日までの北京観光も終わり、今日は国内線飛行機で西安へ飛びました。西安は長安と呼ばれた名高い古都であり、秦代に西安付近が都となって以来ほぼ千年にわたって断続的に各王朝の国都となったと言われます。特に唐代の長安は世界最大の国際都市として栄えた都であって、日本の平安京等は長安の都市計画にならって作られたそうです。
西安空港は軍用との共用空港でした。ホテル「喜来登酒店」に到着し、休憩後市内観光を始めました。シルクロードの出発点の西安は中国の六大都市としての観光都市となっております。
慈恩寺は、唐の第三代高宗皇帝が皇太子の時に、母の追善のため建立した寺院で、インドから帰国して間もない玄奘法師(西遊記で名高い三蔵法師の名で知られる)に統轄させた寺院であると言われ、寺内に建立された七層(約六四米)の大雁塔は、中国仏教の名塔として唐代建築を代表する建物との事です。又、玄奘法師がインドから持ち帰った教典を四百数十巻に及ぶ仏典漢訳をした所でもあると言います。
兵馬俑については、秦の始皇帝の守衛部隊の土人形・銅馬車等八千余体も土中から発掘され、今は三号杭まで掘られています。発見されたのは、農民が井戸を掘って居たら、土中から土人形が出てきたので、これを掘り出し始めて現在もなお発掘を続けているそうです。一号杭の広さは幅三十米位で長さは七十米位でした。秦の始皇帝の権力を示した大工事であったと思います。兵馬俑博物館は、発掘現場をドームで覆い、一般に公開されてい
ます。
唐の玄宗皇帝と楊貴妃の愛の日々を送った宮殿、離宮華清宮も西安の郊外にあり、華清池は浦島太郎の龍宮城の話のように原色の色も鮮やかに、建物にも細かな細工を施してあり、自分でも浦島太郎になったような気がしました。池も人工池で二軒四方もあろうかと思われる広さで、片側は廊下伝えに池が見える造りで、すぐ傍らには温泉も出ていました。又このすぐ上の山の中腹には、例の西安事変で有名な蒋介石総統が張学良と揚虎城の二人の指導者により監禁され、内戦停止を要求され、党から派遣された周恩来が事件を調定し、蒋介石は釈放されると言う舞台になった小さな建物が、今でも中腹に残されていました。
碑林には漢代から清代までの石碑の名作が、二千点位収蔵され歴代石碑の宝庫となっています。蘇州の寒山寺境内にあると言う有名な唐の詩人張継の『月落ち鳥辛いて霜天に満つ』という「楓橋夜泊」の詩で親しまれている詩碑等もあり、拓本もとっておりました。
西安最後の夕食はレストラン唐楽宮です。ここでは舞台があって、唐の舞楽をやったり、色々なショウを見せてくれました。約二時間ばかりでしたが、ショウを見ながら飲んだり食べたりで、揚貴妃の服装をした美女がサービスをして呉れたので、自分で玄宗皇帝になった様な夢のような気分でのひとときを過ごしました。
翌日西安より上海に飛び、一日中上海の市内見学で、夕方にホテル華亭賓館に入り、訪中最後の夜を過ごしました。最後の日はショッピングや、市内観光をしましたが、上海には歴史的な見学場所は無いようでした。上海は十四時三十分発、成田へ十八時の便で無事日本に到着しました。
中国を旅して気付いたことは、ホテル等でのチップは全っく必要が無いことでした。これは中国は社会主義国家のため、従業員は皆公務員であるので、給料以外は貰ってはいけないようになっているそうです。又観光地でバスから降りると、物売りが二十~三十人位してワッーと寄って来て、筆や硯を執拗に売りつける事ですが、中国人の添乗員も、売りに来た筆はすぐに筆先が軸より取れて仕舞うので買わない方がよいと言っていました。
とりとめの無い事ばかりを記しましたが、数えて五年も前の事となり、思い起こしながらですので、何卒ご判読下さい。
(平成八年十二月記)
これで良かったかな
長野教室 竹前俊宏
仕事ばかりに追われて、本もろくに読めない生活は良くない」「八十八歳の母親のそばにいて、これからは気分の安らぐ生活をしてもらおう」という考えから、五年半続けてきた運送業の自営を中止してから一年たちました。
朝早く家で出て夜八時、九時に帰宅するというような毎日は終わり、時間に充分余裕があり、したいことは何でも出来る条件が整った......はずでしたが、振り返ってみると、やはり、こうしようという方針がしっかりしていなかったせいでしょう。何か中途半端な一年が過ぎてしまったと反省の気持ちが先にたちます。六割がたの出来、というところでしょうか。
母親は九月に八十九歳になりましたが、父親が亡くなる前の半年間、足腰不自由の七十キロ近い体重の父を看病していた頃の、体力精神力ギリギリであった状態から幸いなことに、様変わりしたように元気になり、恒常的に高かった血圧も、月に四回、デイサービスセンターで受ける測定では丁度良いところに安定していて、天気のよい日は散歩に買物にとなるべく出歩くようにして運動し、食事の用意後片付け、洗濯はキチンと担当し、傍にいる私は大いに助かります。これは私も素直に、常時傍にいてあげたせいではないかと自負します。おりしも、阪神大震災から丁度二年になり、テレビで未だに仮設住宅で独り暮らしで居られるお年寄りの姿を拝見すると、やはり身内のものが一緒に生活しているということは、老人の精神力をしっかり保つための、なによりの源であろうという気がします。
かつて母が教員をしていた時の同僚の家を千葉県に訪ね三十年振りに合い、船橋にいる次男の所に泊まり、更に八王子の三男の家を訪ねて一泊、高速道で帰るという軽自動車による大旅行を敢行し(この時帰りは丁度台風十七号の襲来で激しい雨の中、恐る恐る来ましたが、大型のバスやトラックに凄い勢いで追い越され、その度に大量の水を被り往生しました)、戸隠村へは姪の所に行き一晩泊まり、お寺の集まりで赤倉温泉、年金の関係で戸倉温泉と、それぞれ一泊して来たり、いわさきちひろ展覧会、池田満寿夫展を見にゆく、エムウエーブ見学、その時々ひょいと思いついて頼まれれば、なるべく逆らわずに行ってもらい連れてゆき、確かに時間のあるということは良いことで、大抵のリクエストには応じることが出来ました。母は「やれやれ今年は橋本総理も真っ青なほどのスケジュールをこなしたわい」だそうです。
かたわら、長年父親に任せて手をつけたことのなかった畑を耕し、作物を作るというのを春からやって見ました。農業・農作物についての本を参考にして、手さぐり状態でやる俄農夫の事ですから当初の思惑通りに行くわけもなく、葡萄は選定のやり過ぎ、殆ど丸裸になる程に摘んでしまい、ろくに成りませんでしたし、本のとおりにやったつもりの白菜は二つ程しか玉にならず、サツマイモはどこが悪かったか、ばかでかいのが五本ばかり採れた外はスジばかりで、程良い大きさのものはまるで無く、葉っぱと蔓だけが山のよう、ほうれん草も失敗で小さいうちから葉が縮んでしまったりと、うまく行かないものだと思い知りました。一方、ナスきゅうりトマトえんどう豆、大根などは、この位で適量かと作ったのが多過ぎて、身内三軒で食べるのは追いつかず、知り合いに分けて上げたり、丁度収穫している時に通り掛かった知らない主婦に上げたりしても消化仕切れず、大分畑の肥やしになりました。ナスはすぐに固くなり艶が無くなって割れて来、大根は土の中で腐ってしまう。きゅうりは生長が早く、放っておくと大根ぐらいに大きくなって黄色くなり、こんなのが畑にゴロゴロしていると、見て恐ろしいようなものです。
とうもろこし、スイカ、メロン何れも出来はいまいちという感じでした。とうもろこしは穂が茶色くなったら、ちょっと皮を広げてみて出来具合を確かめられるし、メロンは軽くひねっただけでポロリと取れれば食べられる。しかしスイカを一番美味い時に採るというのは面倒でした。「なり花が敢然に受精し着果したところを確認したら、その日付を書いた標識をつけます」と本にあるのを忘れて「一般には花が咲いた後小玉スイカで三十日」が確定できず、また「受精後の累積気温、品種によって違うが、八○○~一○○○度」が食べごろと読んでも分かりにくい。結局、平手で叩いた感触で判断するという昔ながらの方法でやった結果、三つも四つも未熟なのを採って食べられず、なにしろ同じ日に植えたものだから熟すのもほぼ同じ、丁度良いのが食べられたと思ったら次々と熟れてきて、三日も採らずにいると包丁を当てるや否やパカッと割れはじけて、こうなると中はジューシイでなく水を絞ったスポンジのようで、悔しい思いもしました。
しかし出来は悪くてもそこは自家使用、例えば白菜等の丸まらなかったのでも、味噌汁の具、浅漬けにすれば十分に使用に耐えるわけで、野菜をスーパーから買って来る事は少なかったですね。今後は失敗を少なくするというのが課題です。やった結果は全部自分に還る、やりがいは大きいですよこれは。農業専門の方々から見ればまるで幼稚な、またいい加減なものでしょうが、自己満足というのも悪くないものです。
運送をやめようと決めた時、自分の年齢から考えてもこれから先、全く仕事というものをせずに行こうと思ったわけではありませんで、今までのように、やせ細る程の重労働と引き換えに大金を稼ぐ必要はないが、何かしなければならない。何もしないでいると、ろくな事にはならないという考えはありました。
いくら元気だと言っても八十九歳の母ですから、できればなるべく傍に居て、緊急の場合にすぐアテンド出来る環境で、即ち家に居て出来る仕事はないか、宅配をしていた時に漠然とですが心にあったものがあり、それは「校正」という仕事でした。四、五日に一回大型の封筒に入った荷物が来る家があって、封筒には、原稿在中。と書かれている。荷物の送主は名の知れた出版社ですしここの人は物書きかなと思っていたのです。ある時聞いてみました。「お客さんは文章を書いておられるのですか」そうしたら中年の女性のその人は、いや、校正をやっているのだと言われるんです。「校正」とは岩波国語辞典によれば「ゲラ刷りを原稿と比べながら、種々の誤りや不備を正すこと」とあり、印刷物の誤りや不備を正すために、原稿と照らし合わせて、校正刷り(ゲラ)に訂正を加える作業、という事になります。あの荷物、大型封筒の中には、執筆者の書いた原稿と、印刷所で組版を終えて刷った最初のもの即ちゲラ刷りが入っていたわけです。印刷物が一回の印刷で指定通りに完全であるという事はあり得ません。人間が、しかも急いでやることですから.........。そこで本になって出されるまでには、あるいは新聞に挟み込むチラシ等でも、途中で綿密な校正が必要となります。例えばチラシの場合で、大売り出しの日付をうっかり間違えそのまま配ってしまったら、大変な事になりますよね。書籍の場合ですと初校から始まって再校、三校と、何回も校正するそうです。こんなに丁寧に間違いを正したつもりでも、皆さんもよく御存知のように、買った本の中にも時々まだ誤植が残っている事があるものです。
新聞に通信教育の募集があり、その中から「校正」というのを選んで、案内書を取り寄せてみると、「校正ぐらい、色々な知識を求められる仕事は少ないかも知れません」とあり、国語の素養、「温故知新」「五里霧中」これらの間違いにパッと気がつくようでなければならない。雑学的知識が必要なうえ、注意力の持続も不可欠と書かれており、たじろぎましたが、面白そうだという気が先ずあって、ええままよ、普通の人に出来る事なら自分に出来ない筈はないと挑戦的な気持ちも生まれ、やってみよう、ではと早々受講を申込み、受講料は分割でなく一括払い、後へ引けない状況を作っておき四月から取り組み、十月に修了しました。思った通り相手は想像以上に手ごわく、課題の提出では最後まで百点が取れず、これでは仕事にならないと感じて、今、そのコースの上級、「練成コース」というのを勉強しています。
ものになれば、まあ運送業と同じで、やっているうちにコツを会得し、仕事としてこれは長期間できるのだがと皮算用していますが、なにせ今まではいわゆる現場一筋、デスクワークの経験は全く乏しい私ですので、このような知的な事にどれだけの力が出せるか、それ以前にこの事に自分がどれほど適性なのか、分かったものではなく「五里霧中」です。
それから校正の勉強をしている間に、出版界では従来の活字組版はほとんどなくなり、現在は電算植字、ワープロで文字を入力し、コンピューターで組版するシステムに変わったということを知り、そのせいか新聞の求人広告にワープロ入力の出来る者を求めるものが時たま見受けられ、これも家にいて仕事になるかも知れない。基本的に優柔不断な性格の私にしては珍しくすぐワープロを買い求め、これも春から練習開始、どうせこれを仕事に役立てようというのなら無冠ではアピール力に欠けるので、せめて日商の検定二級は取りたいものだと悪戦苦闘しているところです。
テレビを見る、新聞を読むと言うことが従来に比べて大分できるようになりましたが、全くろくなことはありませんでしたね。安倍さん、郡司さん、茶谷さん、岡光さん、和田さん、オレンジの友部さん、社会福祉法人小山さん、負けずに地方の偉いさんたちもカラ出張、カラ雇用、水増し牛乳だと悪い事ばかりしている。私だって目の前に大金積まれて動揺しないほど人格高潔である自信はありませんが、何千万円も持って私の所に便宜を頼みに来る人がいない事だけは確かで、なおさら腹が立ちます。いや、チャンスがあれば私だってどうだか分からぬという事からすれば、こんな事に縁の無い今の境遇が身のためでしょう。
長野日赤教室へは今年もなるべく顔を出して仲間の皆さんにお会いしたいと思います。宜しくお願いします。
県内ほかの教室の先生方、生徒さんたちも、どうぞお元気でこの一年をお過ごし下さい。(平成九年一月)
"非美人"長命
長野教室 坪井冽
元気の良い親しい友に、私が「お前は長生きだ」とやった。彼は「何故だ」と聞いてきた。すかさず「にくまれっ子世にはばかる」と言うではないか。とやった。すると彼はすかさず「お前も長生きだ」ときた。理由を聞くと「美人薄命と言うではないか」ときた。お前は非美人だから長生きだと言うのである。そこで二人は大笑い。共に長生きしようと話し合った。
その彼と喉摘手術後に合った時彼は「お前は今まで人の何倍も喋って来たのだから声が出なくても我慢しろ。そのかわり,非美人長命。のたとえあり、それで我慢しろ」と激励だか、何だか分からぬ励ましを受けた。
なるほど、彼の言うとおり人様の何倍も喋りまくってきたと思う。労働組合中央本部で五年間、県本部に三年余、地区評でも数年間を努めてきた。その間全国オルグ、大会、団体交渉等々喋りまくって来た。特に大会での提案や答弁では、速記者泣かせの早口で喋りまくった。ある速記者は私に、「ゆっくりの人に比べ二倍の量だ」と嘆かれた記憶がある。このように、友の言う通り人の何倍も喋ったのだから、声の出ないのは天の報いと潔く諦めようと考えた。
しかし発声教室での指導を受け、先輩各位の発生に接し、自分にも出来るかも知れないと思い、自宅ではテープを使っての発声教本、お経、そして以前やった謡の小謡集と、手当たり次第にテープを使い、再生しての声の調子に、一喜一憂しながら練習した。その結果、通常の会話や用件はどうやら通じるし、特に電話での用件は略通じるようになった。そうなると人間というものは、横着で、又飽きっぽいもので、練習はおろそかになるし、仕事を口実に発声教室もつい御無沙汰になり勝ちとなっている。『初心にかえらなければいけないなぁ』と反省しているこの頃である。
喉の手術を受けて一年
長野教室 小林栄
昨年十月三日、私は東京築地の国立ガンセンターで、咽頭下部及び右甲状腺の手術を受け声帯を失いました。しかも小腸を三十センチ位切って、十センチ程を食道の入口に移植する大手術でした。
手術後は傷の経過は良くて、十月三十一日に退院となりましたが、それからの生活が大変です。先ず食べること。家は三世代六人家族、しかも育ち盛り食べ盛りの盛が二人いるので、食事は特別なメニューはありません。私はいきなり普通食から入りました。朝はパン、昼と夜は普通の御飯です。量はパン六枚切一枚、これは手術前から今も変わりありません。御飯は茶碗半杯で一般老人の半分位でしょうか?、これを三十分以上かけて食べます。だからおかずが問題になります。始めは野菜類を主に食べ、魚は脂っこい生ものや鯖煮などは駄目、肉は何時もほんの少し採るだけでした。それでも今年の二月頃まで約半年近くは食欲が無く、何を食べても少しで食べる気が無くなりました。腸の調子が良くならず、便秘が続き、下剤を飲むと今度は下痢と、その調節がつきませんでした。それに食事を採るタイミングを少しずらしたり、一品の量を多目に採ると、喉に移植した小腸が拒否反応を起こし、突然本来の蠕動を始めるともう駄目。飲食したものが、鼻と口から逆流してきて、一時間から酷い時には二時間もズルズルと少しづつ流れ出し、上を向いて座るか又は腰掛けて、静まるのを待っていました。
半年を過ぎて、喉の拒否反応も月に一、二回迄に減ってきて、と言うより、自分で飲食の量を加減し、時間をかけるようになりました。食欲もやっと出てきて、主食よりも副食を主として食べています。それでもドロドロした茶碗蒸しとか、細い麺類等ほおり込む力が無いので食べられません。今でもラーメン、そうめん、蕎麦等は一旦小皿に移し、水分を切ってから口に入れるようにしています。それでも体力がいくらか回復してきて、やっと食道発声の練習を手掛ける気持ちになってきました。
しかし練習は食事の前後は避けています。午前は九時から十時半まで、午後は二時から四時か五時位の間しか出来ません。それを外しますと、喉につけた小腸の拒否反応が心配になります。練習も一回十五分か二十分で休まないと、頭が痛くなってきます。
四月から「(1)口を開いて空気を吸う、(2)口を閉じる、(3)空気を呑み込み、(4)一挙に口を開き『ア』と発声する」を、信鈴会長野教室へ月三回の勉強会に出席して訓練し、井出さん、古澤さん、山崎さんなど先輩のご指導を受けました。しかし出てくるのは「ガア」「ガア」で声とは似つかない音ばかり。食道再建手術を受けた人の発声成功率は単純喉摘者の七十パーセントに比べ二十五パーセントである、とテキストに出ていたので、或いは声を永久に失ってしまうのでは?などの心配を一方に抱きながら九月頃から毎日三十分から一時間の練習を続けました。ただ「ガア」「ガア」を繰り返しながら......。
十月二十七日の午前十時、突然「工」の音と「オ」の音が、私の予想していたよりずっと喉の下部から出てきました。何回かに一度は声がはっきり出るのです。翌日は母音が五つ全部出るようになりました。母音発声が出来れば、食道発声は六十パーセントの成功だと聴いていましたので、私はやっと一歩前進できたものと嬉しくてたまりませんでした。これが声帯を失った私にとっては、一年過ぎて得た第二の声なのです。家族、周囲の人、そして教室の皆さんは、屹度よろこび励まして呉れるだろうと思いました。
それから今日まで、四十日が過ぎました。毎日正味四十分から五十分、多い日は九十分位、十五分練習しては十五分休む。という練習を続けて、二音の「アメ」「アサ」等、教本から漢字に書き取ってアクセントの高低をつけて練習をしています。「サ」行の発音がなかなか出ませんが、それはそれとして「ナ」行まで進みました。次は一番難しいと言われる「ハ」行に入ります。日本語に無い「F」のついた英語のような発音を、心がけるようにとテキストに書いてあるので、試して見たいと思っております。又、今でも「ア」と「ハ」が混同されるので困っています。練習を始めてから、ときには十分も母音が出ない日があります。食道再建手術を受けた者の宿命で、仕方無いので練習でカバーしようと、毎日励んでいる昨今の暮らしです。
信鈴会教室の先輩皆様のご指導により、早く会話が出来るように願って止みません。
(一九九六年十二月八日記)
先輩を偲んで ―わが先達―
長野教室 村田俊雄
「声を失うことが、これほどシンドイとはね。にわか身障者はつらいよ」喉頭癌で手術後仕事に戻って、リハビリ中と言いながらも、言葉ほどには深刻でもなさそうな表情で、生ビールのジョッキを片手に、凄いスピードで筆談した先輩のTさんも、亡くなって七年になる。そして年齢的にも病状もよく似た状態で、Tさんと同じことを言う羽目になった。私もTさんと同じコースを歩んでいるのである。
平成七年七月、日赤長野病院で診察を受け、家族と共に診断を聴いた時、最初に頭に浮かんだことは、Tさんとの筆談のことだった。そして『生きていればTさんと同じことだ』と割り切ったつもりだったが、『シンドイ』ほうは忘れていたのでもある。ただ、手術に直面して比較的静かに状況を受け入れることが出来たのは、文字通り『ひょっとしたら......』という楽観と、その一方での諦めもさることながら、Tさんのその後の生きざまを見たからでもあった。
Tさんとの出会いは、昭和四十一年、名古屋で入社四年目の駆け出し記者時代。Tさんは大学の先輩でもあり、花形の社会部記者だった。そして十数年後、私が北関東の支局に赴任、Tさんが支局長で、以来四年間、一緒に仕事をし、何よりも"よく飲んだ"ことだった。東京の本社に転勤後も、Tさんが定年退職するまで同じ職場で働いたが、病気を抱えていたとは気付かなかった。発病は退職して第二の人生を踏み出した四年後。手術、退院後のリハビリ、職場復帰、そして時折、社に我々を訪ね、ビルの地下街の酒場で飲みながら、筆談混じりで現役の記者時代と同じように話していた。再発は術後五年であった。かなり悪いと聞いて見舞ったが、二週間後に亡くなった。「少しは話せるようになったぞ。」と言っていたのに。
今の私には大変辛い話である。私も平成五年に定年退職、発病が平成七年、手術、退院してリハビリ。特に私は発病十三年目の糖尿病患者。一日四回注射が必要なインシュリン依存症であり、今回の手術でも大変な面倒をおかけした。既に合併症も出始めており、『そして(癌の)再発は?、あと何年あるか......』等々、思い悩むときりがない。
こんな時、Tさんは言うかも知れない。「六十年安保の時、俺は記事を書いていたが、君は学生でデモ、国会乱入組だろう。まだ終わっていないよ。見極めろよ」「多少とも飲めるんなら、もっと生きて飲めよ」「やりたいこと、あるっぺよ......」
正月、Tさんの奥さんから年賀状をいただいた。「Tと同じ病気と聞きました。Tは逝くのが少し早過ぎましたが、頑張って下さい。還暦は第二の人生のスタートですよ」
そう、平成九年、私は楽観的にスタートした。取り敢えず読みたい本のリストを作っている。百十五冊まで来たが、まだ続く。 (合掌)
食道発声教室に参加して
長野日赤B4棟看護婦 青木玲子
「食道発声教室」と貼り紙してある扉。始めて参加させていただく私は緊張のかたまりだった。そして扉を開けると、その中はとても暖かなムードに包まれていた。ポットを運びながら、にこやかに微笑んで下さった方。座る場所が判らずウロウロしていると、優しく「こちらです」と教えて下さった方。とても嬉しかったです。
寒さは酷しかったが幸い天気も快く、この日出席された方は3名。皆さん集まったところで、1~10までの基本の発声訓練から始まり、ビデオによる発声訓練、そしてそれぞれの方が集まってのお話合訓練、私がさせて戴く事は血圧測定です。そして測定しながらの数分間の会話です。「一生懸命に話をすると、身体が暑くなり血圧が上がる」「遊んでいると調子がいいけれど、りんご畑があるので遊んでもいられない」「血圧が前は高かったけど今日はいいね」などなど。また、名札を持って何も話さず血圧の値だけ聞いて行かれた方。「○○さんが最近来ないが、体調でも壊しているのでは?」と心配されている方。タピアを使用して会話されている方。新聞を声を出して読んで訓練されている方。上手に発声が出来る方にいろいろと聞いている方。空気の使い方が......指導されている方。そして時間が流れ、また1~10の本の発声訓練をして、終わりとなりました。
茶碗等を片づけて、皆さんそれぞれの生活の場へと戻って行かれました。本当に皆さん努力され、刺激し合っているのがよくわかりました。そして、表情が生き生きとされていました。声が出るまでに3年かかったと言う話も聞きました。
「声」「話す」ことについて考えさせられた感動の二時間でした。新しい方も増えています。これからも勇気と感動の場に、是非参加させて戴きたいと思います。
六年間を振り返って
信大病院東2階病棟看護婦 北澤弥生
「北澤さん、今までに信鈴会へ原稿を書いたことあったかしら」と百瀬婦長さんから、お声がかかり「え!」一瞬戸惑ってしまいました。今までに6年間病棟に居ましたが、運よく?、一度も書かずにすりぬけて来ていました。今度ばかりは直接のご指名で今まで書いていない事、今年で移動になる事等があり、断られないと感じました。思っている事や、何でもいいからと言われたものの、作文を書くということは、就職試験で書いて以来、すっかり御無沙汰しており、急に書こうと思っても、何を書こうかと時間ばかりが過ぎてペンが進みません。こういう事に慣れて、スラスラと書ける人が羨ましく感じました。しかし、そんな事ばかり言って居られませんので、六年間耳鼻科の看護婦として、働いてきた事の感想を少し書こうと思います。
私は看護婦として、北3.東2病棟で一から覚え学ばせてもらいました。看護婦としてもそうですし、一人の社会人としても、ここで成長させてもらったように思います。礼儀作法やお酒の飲み方も教わりましたし、一生の伴侶との出会いも、この病棟の中にありました。(耳鼻科ではありませんでしたが......)とてもあり難く感じています。
まず、一年で仕事を覚え、二年目で更に勉強し、三・四年目で何とか仕事がスムーズに行えるようになり、五・六年目で自信を持って仕事が行える様になった。そんな感じであった様に思います。
そんな中で、多くの方と知り合ってはつらい別れもありました。毎日いろんな人に出会い、いろんな人生を見て、とても考えさせられ、それが又楽しいから看護婦を続けているんだろうと思います。
新人として耳鼻科の配属になった私は、他の科をあまり知らないため、比較は出来ないとは思いますが、それでも想像として、こんなにつらい手術をする科は、なかなか無いのでは、と思っています。舌を取る手術の人は一週間も寝たきりで、自由に動けず・喋れず・食べられずと言う状態になりますし、声帯をとる手術の人は、術後は動けるものの、しばらくは食べられず、さらに失声という負担を一生背負わなければなりません。
手術の説明をする時、「でも......電器発声や食道発声という方法があります」と、よく言いますが、これは私の心の中では、逃げのセリフでもあるように思います。辛さや大変さは痛い程わかります。「一生声が出ません」だけでは、説明する方としても辛過ぎます。「大変ですが、努力をすれば声も出せます」と言える事はとても心の負担を軽くしてくれます。そして毎週木曜には、以前手術した方が明るく挨拶を交わして下さり、更に心がホッとするのです。
これからも皆さんが明るく声をかけて下さることを心から望んでいます。
館山寺温泉と鳳来寺山の旅
松本教室 田中清
平成八年度の信鈴会レクリエーションは、前年の北陸旅行で行程を無理していただいた伊那教室の皆さんに、今年は楽をしていただこうと、南信から近い浜名湖の館山寺温泉を選択した。残念ながら諸般の都合で、伊那教室から四名の参加は例年に比べて淋しい感でした。それに佐久教室の参加者零というのは、信鈴会で始めてのケースであり本当に淋しかった。
ともあれ、松本駅前で長野勢と合流して一路南へ。途中高速道の岡谷・伊那・飯田インターで南信勢を乗せて全員が揃った。一言挨拶をして恵那山トンネルを過ぎると昼食の時間となり、恵那峡の山菜園という庭園の立派なレストランで、一同和やかな昼食となった。ふと思い出したのが、昭和五十九年度の下呂温泉の旅で、場所は違うが、同じ恵那峡で昼食を取った事を思い出した。三十名参加のうち、鳥羽前会長、大橋副会長を含めて、十四名の方が故人となられたが、この方々の一人一人の顔を目に浮かべて傾けるビールの味は、何とも言えぬものがあった。再びバスは一路南へ。小牧から南に折れる。
この頃から雲行がおかしくなり、天気が崩れ初めて来た。又交通事情もあって、予定の西浦無量寺へ着いた頃は十六時近くとなった。無量寺で癌予防の法話(?)を聞いて洞窟巡りを終えた頃、雨が落ちて来たため、本日予定のメイエベントの大草山観光は明日にして、今夜の蜻、館山寺温泉ビューホテル開華亭に到着した。
一風呂浴びて、恒例の宴会となったが、今年は参加者が少なく、又新しく参加した人は長野教室の三名ということで、顔見知りのベテラン揃いで、話が弾みゆっくり酒杯を重ねた。添乗員の熊井君のカラオケは中々のものであった。
翌日は雨を心配したが僅かな霧雨で、待望の大草山口ープウェイの搭乗ができた。途中から霧も晴れ始め自慢の三六〇度の眺望は素晴らしかった。残念だったのは、秋晴れでなかったため富士山が見えなかったことであっ
た。
浜名湖から伊那路へ向かう道路は、噂のとおり狭い道路で時間のかかること、バス内貯蔵の酒類があっと言う間に少なくなる。それでも予定時迄には鳳来寺山の麓に着き昼食となった。其処から歩いて鳳来寺へ向かう。一寸お年寄りにはきつい道かも知れなかったが、義家・花村の長老も元気良く歩く。鳳来寺は今から約千三百年前に造られた真言宗の古刹で、源頼朝・徳川家等の縁りのある寺で、何か本当の山寺という感がした。帰りに"ふと"佛法僧の鳴く声を耳にした。佛法僧は吉野か、鳳来寺山かで昭和の初め頃問題となった鳥で、結局鳴くのは鳳来寺山(コノハズク)で、鳴かぬ綺麗な鳥は吉野に決まったようだ。
さあ‼後は帰路のみだと思うと、何か旅行の空しさが心の残る中で、何んの変哲も無い道筋に咲く真っ赤な曼珠沙華が目を楽しませてくれた。飯田のインターで飯田勢三人と別れる。「来年は伊那の幹事だよ」「頼むよ」と声を掛け乍ら手を振る。往路と同じ伊那・岡谷インターでそれぞれの友と別れて松本へ。あっと言う間の旅であったが、皆健康で楽しく旅をすることが出来ると言う事は、我々障害者団体として最上の幸福であるとしみじみ思い直した。さあ今年も又期待しよう。
巻頭言
会長 田中清
平成十年度は信鈴会創立三十周年の年であります。信鈴会は昭和四十四年一月二十三日信大の鈴木篤郎教授.今野看護婦長のご指導と、島成光・碓田清千さん達のご努力により、信大石村吉甫先生を会長に選出し、輝かしく発足しました。当時の教室は長野・松本の二教室で、会員数は五十名、発声方法はタピアが主体でした。昭和五十四年創立十周年目に鳥羽源二さんが会長に就任し、発声方法の主体を食道発声とし、新しく伊那・佐久の二教室を解説し、会員も百五十名と増加しました。又鳥羽さんは対内的には各種行事の制度化、レクリエーションの定例化を図り、対外的には日喉連の役員に選出され、他団体との交流化に力を入れ、日喉連東ブロックの副ブロック長も務め、平成五年体調を崩されるまで、十四年間の長きに亙り会の組織化に大きく貢献されました。
平成五年から私が鳥羽さんの跡を継ぎ五年経過致しました。その間信鈴会の規則改正と諏訪教室の開設、電器発声指導の定着化をしましたが、今後の課題としては、NPO法案国会通過により、日喉連の法人化と信鈴会としての対応、指導員の資格認定に対する会としての進め方等、問題が山積されています。
信鈴会は三十周年記念事業の一つとして、日喉連東ブロック食道発声指導員研修会を、松本浅間温泉へ誘致することにしました。
この研修会は効果的指導手法を、常に新たな発想で展開させるための研修会であり例年行われていますが、特に本年は従来と異なって、完成された発声補助装置をめぐるいろいろの研修・討論が主体となると思います。会員の皆様には地元でありますから、多数の傍聴参加を希望します。又会としても、この補助装置を如何に有効に活用するか、又その指導は如何にあるべきかを勉強するため、発声コンクールを計画しております。
終わりに信鈴会関係各位には、本年度計画のイベントが無事成功致しますように御協力をお願い致しまして擱筆します。
長野県障害者計画
―さわやか信州障害者プラン後期計画―について
長野県社会部障害福祉課長 須江守
日頃より信鈴会会員の皆様におかれましては、発声訓練や会員のそれぞれのニーズに応えた各種の事業を展開され、県の障害者福祉施策の推進にも多大の御協力をいただいておりますことに対しまして、深く敬意を表しますとともに感謝を申し上げます。
さて、県では、平成四年に策定した「さわかや信州障害者プラン」に基づいて、障害者施策を進めてきましたが、障害者を取り巻く社会情勢の変化に的確に対応するため、二十一世紀初頭に達成すべき障害者施策の目標と具体的な方策を明らかにした、「長野県障害者計画ーさわやか信州障害者プラン後期計画ー」を本年三月に策定いたしました。
この計画は、「障害が重くても、地域で当たり前の生活ができる社会を創る」ことを基本理念とし、
①障害者自身が、日常生活や社会生活のあり方を選択し、決定していく「自己決定権の尊重」
②利用者の視点に立った「多様なサービスの提供」
③障害者の利用や参加を当たり前のものとした
「すべての人のための平等な社会づくり」
④障害者に最も身近な「市町村を中心とした生活支援」
⑤精神障害者の自立や社会参加を促進するなど
「精神障害者施策の充実」
の五つの基本的視点を踏まえ、県民みんなで知恵を生かし、力を合わせて、障害のある人もない人も「一人ひとりが輝く社会」をめざすことを基本目標としています。
また、基本目標の現実をめざして、次のような主要な施策を五つの柱に体系化し施策を推進してまいります。
①地域で共に生活するために
障害者の生活を支援していくためには、住まいや活動の場の確保をはじめ、保健・医療・福祉サービスを質的・量的に充実させることが大切です。
施策の一つとして、新たに設定した障害保健福祉圏域ごとに、障害者の自立を支援するため、各種講座や相談、情報提供などを行う「自立生活センター」を整備します。
②自分らしく生きるために
障害者の主体性・自立性を確保し、その個性や可能性を最大限に伸ばし、生かせる社会をつくって行かなければなりません。
施策の一つとして、障害のある子供が心豊かに育つよう、圏域ごとに地域の基幹となる障害児者施設を「療育等支援施設」として指定し、障害児やその家族が療育相談や指導を気軽に受けられる体制を整備します。
③安心して生活するために
障害者の視点に立って、多くの人が利用する建築物や公園、駐車場を整備するなど、だれもが安心して暮らすことができる「福祉のまちづくり」を進めます。
また、人と人をつなぐ手段として、情報・コミュニケーションの確保は、障害者が住み慣れた地域で安心して生活し、社会参加していく上で極めて重要な意義を持っていることから、貴会に委託しております「音声機能障害者発声訓練・指導者養成事業」を引き続き実施する他、手話通訳者等の養成などコミュニケーション手段の確保を図ります。
④うるおいのある生活をめざして
来年四月にオープンする「県障害者福祉センター(愛称サンアップル)」を整備するなど、障害のある人が障害のない人と同じようにスポーツや芸術文化活動を通じ、生きがいのある豊かな生活を送れるよう支援します。また、来年三月に開催されるパラリンピックの開催を支援し、参加を促進します。
⑤相互の理解を深めるために
すべての人が互いに気持ちや願いを大切にし、尊重し合う社会をつくるため、啓発・後方活動や福祉教育の充実に努めます。また、ボランティア活動の振興や交流を通じた理解の促進を図ります。このほか、知的障害者等からの法的手続きなど専門相談に応じる体制を整備するなど、権利擁護を推進します。
以上、本計画の主要施策を等を紹介いたしましたが、今後とも、二十一世紀へむけた新たな障害者施策の指針の下で、すべての人々にとって暮らしやすい社会の実現を目指してまいりたいと考えております。
なお、この計画を推進するためには、貴会をはじめ障害者団体やその会員の皆様のお力添えが是非とも必要でございますので、今後とも一層の御理解・御協力をお願い申し上げる次第でございます。
最後に、長野県信鈴会の益々の御発展と、会員の皆様方の御健康を祈念申し上げます。
(平成九年十二月一日)
豊かさを実感できるふるさとづくりを目指して
特別顧問長野県議会議員 本郷一彦
信鈴会におかれましては、田中会長さんをはじめ、役員さんを中心に音声機能障害発声訓練をはじめ、多くの分野で活動をされ、心から敬意を表するものであります。
私も信鈴会の会員皆様の心あたたまるご理解のおかげで、県議会に議席をいただいてから早いもので三年近くが経過致しました。福祉・教育・まちづくりを基本理念として、県政に参加させていただきましたが、とりわけ福祉・医療をその中心テーマとして勉強させていただいております。
そうした意味で一年目の最初の委員会は、社会衛生委員会に所属させていただき、また県政会においては社会衛生部会副会長、医療福祉に関する調査会の副会長等を経験させていただき、今日の日本における福祉・医療がかかえる課題の大きさを痛感しております。
21世紀を間近に控え、本格的な少子高齢化時代を迎える中、政治は誰もが心豊かに安全で快適な社会を形成する責任があります。その実現の為には保健・医療・福祉などの各分野が連携しながら、総合的に実行ある施策を展開していかなければならないと思います。とりわけ障害のある方々が、社会で日常の生活が送れるようノーマライゼーションの理念は極めて重要な位置づけにあります。「さわやか信州障害者プラン」を基本として、私もその実現の為に全力を傾注する決意であります。
そのような中、金融機関における不良債権処理の遅れや、大手証券会社や、都市銀行の経営破綻が続くなど、戦後私達が経験したことのない極めて厳しい社会状況が続発しております。安定した金融システムの確立はもとより、低迷する景気の回復に向け、今ほど政治の指導力を求められる時はありません。平成不況のスタートの年と指摘される今日、真に豊かさを実感できるふるさとづくりを目指し、会員皆様のご期待にそえるよう、県政を通じて今後とも精進する覚悟であります。
信鈴会の御発展と会員各位のご多幸を心から祈念致しご挨拶と致します。
(平成九年十二月八日)
黄昏を生きる
顧問 信大医学部名誉教授 鈴木篤郎
残り少ない人生の毎日を、どう充実して生きるかということが目下私の最大関心事である。
「貴方はこの頃、死についての本ばかりよんでいるようね」と家内は言うが、そうではない。終わりに近い人生の道をどう歩いたらよいかに関心の中心があるので、それを立派に生き切った人のことなどに興味がある訳である。
医者になって三十年、人の生死に直接関わる仕事を続けてきて、癌などの難病に対する闘病記なども、かなり沢山読んできたつもりだったが、六十になる頃までは、ただ病気そのものを治してやろうと努力するだけで、死を眼前にした病める人が、どんなことを考えて生きていのかなどには、全く思いが及ばなかった。
ちょうどその頃、私は偶然一冊の本に接して、それまで経験したことのないような大きい衝撃を受けた。それはエリザベス・キュブラー・ロスという精神科医の著した「死ぬ瞬間」という本である。この本の日本語版は昭和四十六年に出版され、私の求めた昭和五十年には既に二十三刷を重ねていたから、当時かなり評判になっていたものと思われる。
彼女は、死が最早避けられなくなっている二百人のごく普通の患者さんに直接インタビューし、病の真相をあからさまに告げた上で、彼等の死にいたるまでの心理状態の変遷を克明に追跡していった。そしてその成績を基に、死にゆく人の心理過程に関する一つの仮説を打ちたてたのであった。私が衝撃を受けたのは、彼女の打ちたてた研究成果の見事さにではなく、死にゆく人々と死についての赤裸々な対話をするという彼女の採った研究方法の先見性と、患者の主治医たちの強い反対を押して仕事を遂行し切った彼女の勇気に対してであった。私はこの本によって新しい視野が開かれたように感じ、私の診療に役立てようとしたが、時既に遅く、何らの結果をうることもなく定年に達してしまった。
学校を止めてから後も、私は後任の田口教授のご厚意によって教室に出入りさせてもらい、それまでの研究を継続することができた。その頃はまだ自分の老いを感ずることはなかったが、キュブラー・ロスによって触発された人生の終末期に関する興味は衰えることなく、むしろ大きくなる一方であった。我国の医学界で死を視野にいれた、いわゆる終末期医療への関心が高まってきたのも、丁度そのころからだったような気がする。この分野、終末期医療やホスピスなどについての本がいくつか出版され、私は眼につき次第に買い求めて読んだ。
そのうち何時からとなく、この問題を、他の末期患者のことではなく、自分自身の問題として考えるようになって来た。それまで日本ではどちらかというと、死はタブー視され、話題になることを避ける傾向があったのだが、上智大学のデーケン教授の提唱する「死の準備教育」の主張などに刺激されて、老いや死をテーマにした本が沢山出版され、私もつられて一時期かなり熱心に読んだことがある。
私が老いを自分のこととして実感するようになったのは、二年前、平成七年の春以降で、満八十一歳を過ぎてからである。実はそれ以前、平成五年の年末に軽い脳出血の発作に襲われ、左の上下肢に麻痺が来ていたのだが、起居動作には全く不自由はなく、それからの一年は何事もなく過ごすことができた。六年の夏には、上高地で往復二十キロを歩いたが平気だった。ところが七年の春頃から、はっきりした原因もないのに、脚力が急に衰えだした。歩き方が何となく老人くさい「よちよち歩き」になり、一旦膝を曲げて座ると、立ち上がるのに非常な努力を要するようになった。俗に言う「足が萎える」とはこんな状態をいうのかもしれない。ある人は「これは八十を過ぎた老人によく見られる自然の老化現象で、自動車などでいう部品の耐用年数が切れたのと同じ状態だ」と言っている。真偽のほどはわからないが、こう説明されるとよく理解できる。とにかく足が弱っては困るので、それからは、せっせと散歩に出かけることにした。
幸い私の家からは、北へ上がって十五分ほどすると、家並みが途切れて田圃が一望に見渡せる場所に出る。その中を車の通れるほどの道が縦横に何本か通っているので、その道を適当に辿ると、恰好な散歩道のコースがいくつも選べるようになっている。私は七年の春から初夏にかけては、日中の暖かい時間に四十分から八十分、雨天でないかぎり必ず歩いた。
七月に入って日中が暑くなりだしてからは、朝散歩に切り換え、早朝六時前に出かけることにした。朝散歩になってから、同じ時間帯に散歩している人が少なくないのに初めて気付いた。グループで歩いている組も何組かいた。すれちがう時お互いに「お早うございます」と挨拶しあい、早朝の澄んだ空気のなかを歩くのは、何とも言えない快い経験だった。朝散歩は肌寒くなる十月初旬まで続けた。
こうしてこれまで二年半近く散歩を続けてきたが、我ながらよくやったと思う。そのせいか脚力も二年前に比べてほとんど衰えておらず、その他の起居動作も大体現状維持といった形である。もっとも一番怖いのは転倒で、骨折でも起こせば忽ち要介護老人になるのは必定なので、屋外屋内を問わず用心を怠らないようにしている。
それにしても、これまで高齢者介護についての知識が皆無だったのは恥ずかしい限りである。現在は身の回りのことは殆ど自分でできるので、介護の必要はないが、若し何らかの原因で動けなくなったら、とりあえずはお医者さんに診てもらえばよいと簡単に考えていた。
しかし新聞や雑誌等で、老人の介護をめぐる家庭内のトラブルや家庭崩壊の危機に関する記事を読んだり、知人のところでの似たような話しを聞いたりしているうちに、この問題はそんなに簡単なものではないと思うようになった。そこで取り急ぎ老人福祉についての何冊かの本を求めて、つけ焼き刃の勉強をしてみた。従って、これからの話はすべてそれらの本の受け売りである。
今迄だって、老人は足腰が不自由になったり、ぼけ老人になったりすれば、他人の世話を受けなければはらなくなる。それが介護である。以前は平均寿命も今よりは随分短かかったし、家族の中に世話をしてくれる同居の若い人も今より多くいた関係で、老人はそれらの家族の暖かい介護をあけて、安楽に永遠の旅路につくことができた。介護は主に家族のなかの女性に任されていたが、習慣として誰も疑うことなく従ってきた。
ところが近頃では、平均寿命が伸び、老人が他人の介護を必要とするようになっても、そう簡単には死ななくなった。一方核家族時代になって、介護のできる家族の数は減る一方であり、介護を家族に任せてはおけない時代になってきた。福祉先進国、特にデンマークやスエーデンなどの北欧諸国では、高齢者に対する公的介護のレベルはわが国に比べ遙かに高くなっているが、わが国では介護は相変わらず家族がするもの、それも妻や嫁、娘など専ら女が背負うべきもの、という観念が、夫婦愛や親孝行への美徳観念と結びついて、郷愁のように残っており、行政の担当者も、少なくとも以前には、介護は家族がやるべきものという観念を煽っていた形跡がある。
しかし家族による介護が難しくなってきても、それに代わるべき在宅公的介護サービスはまだとても十分とは言えない段階である。そこで要介護老人をどこかの養護施設へ入れようということになるのだが、これも現在は必要数の一割以下の充足度のようで、よほど運のよい人でないと入所まで長いことまたねばならない。
ところが、これらの要介護老人も、一度病名がつけられて、病人ということになると、医療の対象となり、入院できる病院(いわゆる老人病院)は沢山ある。しかも安い。家族と同居できる時期には自宅で介護を受け、家族が出稼ぎで居なくなると、入院患者として病院暮らしをするという、一年を二時期に区分して優雅に暮らしている人もあるという。
福祉に関する本を読むと、世界中で、日本ほど介護の世界に医療が入りこんでいる所はないらしい。もともと医療と介護は視点が全く違い。医療は、医者や看護婦などの医療スタッフが担当する。患者の病気を治すのが主目的だから、スタッフはそれに全勢力を注ぎ、患者の気持ちや生活上の不自由さについては関心が薄くなりがちである。介護だけを求めて入院しても、一旦入院すれば、一人の患者として病院の管理体制に組み込まれてしまう。だから自力で歩いて老人病院に入院した人が、ベットに横にされて、点滴や検査を繰り返され、退院する時には「完全な」寝たきり老人になっていたというような話も聞こえてくるのである。
行政の方でも、このような老人介護の現状に危機感を抱いたとみえ、早急に介護保健制度を確立して、介護サービスの充実を計る計画だという。時々新聞などで読むだけで、具体的なことはよく分からないが、うまく軌道にのって、これからの老人が明るい余生の日々を送れるよう期待したい。
(一九九七・一〇・二七)
新入生ゼミ
顧問 信大医学部耳鼻咽喉科 田口喜一郎
信州大学では、平成七年の改革で教養部がなくなり、いわゆる四年間(医学部は六年間)一貫教育が行われるようになり、専門の教官が新入生と接する機会が多くなった。医学部のように、患者に接する機会の多い部門は十分な一般教養を身につけて上がって来て欲しいと念じながら、以前は教養部の先生方にお任せしていた訳であるが、今度は高見の見物とはいかず、その責の重大さを認識している。平成九年度に私がやったのは、「新入生ゼミ」というもので、何でもよいから週一度十数名の学生にシリーズ講義をすることである。何しろ専門的な教育のみやってきたわれわれにとって高校出立ての若者をどのように扱ったらよいか、慌てて教育心理学の本を覗いたりした。しかし、悪いことばかりでなく、純粋な若者の心理はわれわれに訴えるものさえ持っており、週一回の講義が楽しみになった。唯専門的知識がほとんどない学生を対象に何を教えるかが問題で、今回は主題を「医療と人生」として、医学概論的に講義することにした。各回のテーマも「4世紀の医療」、「死を巡るロマン」、「身体障害と福祉」など学生が理解しやすく、又関心を持ちそうなものを選んだ。また、教室の助教授、講師にも新入生と接することは無駄ではないと考え、一回ずつ授業を受け持って頂いた。
最近は大学教官も「自己点検・評価」をしなければならず、講義も工夫を求められる。一方的講義では学生は誰も出て来なくなる。そこで、学生自身にある程度の主導権を与え、講義に自ら参加する喜びを持って欲しいと考えた。一週間前に次の講義の資料を与え、学生の中に進行役を予め決めておき、学生中心の講義を進めることにした。私は最初に解説をし、学生の反応を見ながら進行過程で時々助言を与え、最後にまとめをするといった方式を試みた。目論見は見事成功し、学生は関連した専門書などで勉強してきて議論百出、学生が面白かったという所まで漕ぎ着けた。医局でお茶を飲みながらやったのがよかったかも知れない。回を重ねると学生の性格が分り、意見の引出し方を心得たこともあろう。
今どきの若い人は患者さんに対する接し方を知らないことは事実で、将来こんな学生に診てもらうのは御免こうむるといった輩も確かに居る。しかし、よく考えてみるとこれもわれわれ教育者の責任で、今まで患者とし何か、どのように対処すべきかの教育を全くしていなかったことに気付いた。診断とか治療に関してはじっくり教えたが、医の倫理とか生命の尊厳さ、あるいは患者との交流といった教育は全くなされていなかったと言ってよい。そこで、例えば「ムンテラ」(患者への説明の仕方の意)といったテーマで長時間の議論を行ない、ともすれば医学部の教官や学生にみられる、患者の都合など考えず研究さえすればよいといった考え方に反省を求める事かでき、やってよかったという満足感を味わうことができたのは幸いである。
さて、このようなムードを高学年の専門的講義まで持込み、無味乾燥といわれがちな医学部の講義を面白くするにはどうしたらよいか。また、今度は人の死を厳粛に受け止めない教室員の教育を考える番であると思っている。更に宿題が増えた感じがする。
(平成9年1月9日)
戒石銘の真髄
北長野病院院長 河原田和夫
小院も八年の歳月が流れ、三万余の方々と医療・福祉・保健などかかわらせていただきました。何とか「柿」の域に達したような気がいたします。いよいよ「実をつける」段階です。小院も受付正面にかかげました戒石銘の真髄をくみとり、今後共努力したいと存じます。戒石銘の所在と精神について記し、御参考としたいと思います。
福島県二本松市の霞ヶ城公園の東側入口、丹羽公時代藩庁通用門のあった地点に巨大な花崗岩の自然石があります。
丹羽家七代高寛公が、儒学者岩井田昨非の献策によって藩士の戒とするため、この自然石に四句十六字を刻せしめたといわれ、これを戒石銘とよんでいます。
爾俸爾祿(なんじの ほう なんじの ろくは)
民膏民脂(たみの こう たみの しなり)
下民易虐(かみんは しいたげ やすきも)
上天難欺(じょうてんは あざむきがたし)
「お前の俸禄は、人民が脂して働いたそのたまものより得ているのである。お前は人民に感謝し、そしていたわらねばならぬ。もしこの気持ちを忘れて弱い人民たちを虐げたりすれば、きっと天罰があるであろう。」
戒石銘の原点は、中国の唐末、後蜀の君主孟昶の作によるものでありその後の中国においても各州県に戒石銘を建立したということであるが、現在残っているものは、ほとんどないといわれています。
二本松観光協会刊行物より引用
付記
医療、福祉の総元締といわれている「厚生省」の事務次官室に掲額されていたものです。かの「岡光」元事務次官、が就任時撤去させたということで全国的一躍有名になり、はじめて知りました。
最近の新聞を読んで
顧問 長野日赤 菊川正人
この2・3ヶ月、病院全体の外来患者数が激減しているらしい。消費税が5%に上がった事もあるし、健康保険の負担率が本人で3%になった事が原因であろうと思われる。公的資金を三十兆円用意して、不良債券を抱えた銀行を助けるために使うことになったのに、一向に景気は回復のきざしをみせない。どうも不況下で、軽い病気なら自分で治そうと皆が思い出したらしい。患者でごった返している当耳鼻咽喉科外来にとっては、よい傾向であるが、個人病院にとっては相当な痛手をこうむっているらしい。
オリンピックが終わって、長野市民は一世帯当たり参百五拾六万円、白馬村民は五百六拾万円もの借金を背負わされ、踏んだり蹴ったりの惨状でもある。NACOが長野招致に使った三十億円とも言われている接待費用の帳簿が未だに紛失したままである。私も一度だけアイスホッケーを観戦しましたが、三階の良く見えない席で居眠りばかりしていました。一階のVIP席はガラガラで、スポンサーとIOC関係者重視の姿勢がみえみえでした。
ジャンプ会場は、白馬の駅から一時間二十分も歩かされて、その横をVIPを乗せた車が通り過ぎて行った様です。バスの便も悪かったらしく、ジャンプ競技が終わった後も、千人以上の積み残しが、長野駅東口にあったそうです。NAOCの会長が、大蔵省の天下りと聞いてむべなるかなと納得しました。
名護の海上ヘリポートの住民投票と市長選のかいり現象も、結局は大蔵省と自民党のゼネコン的発想に、沖縄住民が翻弄されつづけているだけだと思った。後藤田正晴ですら、嘉手納基地にまとめればいいし、本当は、海兵隊などの兵力をさらに削減すべきだと言っている。そのような事もアメリカに言えずに、太田知事ばっかり批判する橋本首相は何を考えているのか。余程建設業界との癒着が強固であるらしい。
大蔵主計局と国税庁の完全分離についての問題は、国民投票で決めて欲しい課題である。このままで行くと、財政と金融の分離すら、大蔵官僚の反対で潰されていく運命にありそうだ。
川柳でブレイク
顧問 佐久総合病院 小松正彦
会員のみなさま、お元気でいらっしゃいますか。いつもくだらないこと書いてすいません。格調高い文を書こうと努力はしてるんですが、うちの病院の霜田先生(作家の南木佳士)に言わせると私は東スポや内外タイムスの記者になったほうが良かったそうで、医学随想よりも風俗の記事が向いているそうです。間違っても文芸春秋や文学界ではなく週間宝石やアサヒ芸能的な文章だそうで。もう少し自分では品がいいと思っていましたが。
さて信鈴とのお付き合いも十年余になりました。私の原稿も近年いささかマンネリ状態となってきましたので今年はがらりと傾向を変えて自作の川柳を中心にご披露させていただきます。私、詩や短歌は苦手ですが川柳はけっこう得意なんです。しばしばお付き合いのほどを。
まずは行革も一段落ですが、不況には公共事業と相変わらずの土建屋さん天国の日本を憂いてまず一句。
『堰(せき)とめて己(おのれ)も干上がる日本かな』
いわずと知れた諫早湾の干拓事業のことです。米あまりの日本にさらに農地を作ってどうすんの。諫早湾に限らず他にも無益な公共事業のなんと多いことよ。中央も地方も土木事業しか能がないんでしょうか。わが家の横の道路など三回も舗装をし直しました。なんでも最初は通常の舗装で次はガラス廃棄物を使った舗装、最後は雨水が浸透する舗装路になりました。一本の道路で三回の工事が行われたんです。我々が一人の患者に三回も手術したら家族から殺されますよ。
諫早湾もいまはムツゴロウが干上がって大騒ぎですが、高利の赤字国債や建設債でいずれは国民が干上がるんですけどねえ。
さて世界に冠たる長寿国、日本の長寿県はわが長野県ですが、長寿必ずしもめでたからず。寝たきり、痴呆、家族に捨てられた行き場の無い老人がうちの病院にもいっぱいです。棄老とでも言うんですか、長寿の悲しい現実を詠んでまた一句。
『喪主問はば妻子の名無く孫の嫁』
近くの村でおじいさんが亡くなりました。九十八でした。天寿を全うされおめでたい限りですが、喪主の名前は孫の嫁さんでした。あんまり長生きしたもんだから妻も子もみんな先立って、孫にも死なれ、その嫁さんに葬式を出してもらうとはこのおじいさん、露ほども思わなかったでしょう。周囲の物が次々と死んでいくのをこの老人はどんな思いで見送っていたのでしょうか。
定年退職者の三分の二はまだ親があると、新聞で読んだことがあります。私の外来に来るたびにもう死にたいようと嘆く九十過ぎのおばあさんがいます。おばあちゃん、寿命は神様が決めるもんねとしかいう術を知りませ
ん。
この長寿社会を作ったのは自分達だと鼻息は荒いが、世間の人からはそっぽを向かれている団体を詠んだのが、これです。
『竹枯れて雑木(ざつぼく)残れり日本医師会』
ちょっと字余りですいません。竹とは武、すなわち故武見太郎会長のこと。医師会のご老人方にはいまだにファンが多いようですが、部外者をすぐに無学の輩と称して議論をさえぎり、歴代の厚生大臣を困られた罪はです。国民は医師会が人々の健康を大上段に掲げながらしっかり利益誘導に長けている姿を良く知っていますから、医者への風当たりは最近は厳しくなる一方です。
健保財政が存亡の危機に瀕しながら医師会はまだ出来高払いに固執していますが私は反対です。最低の費用で最高の治療を施す医者こそが名医として尊敬されるべきです。手術が下手なほど病院の実入りが良い現実は間違っています。私も医師会の会員ですが、医師会は純粋に学術団体であるべきと思います。
かたい話題が続いたので思春期の甘酸っぱい思い出をひとつ。私も根は純情なんですよね。
『思い出にとどめておけや初恋の人(ひと)』
これはわかっていただけますよね。実はひょんなことから岡谷の中学で同級だった〇美さんと再会することになりました。なんという偶然か、彼女のおかあさんは私の患者だったんです。彼女、今は佐久に住んでいるという。実に二十七年ぶりの再会です。中学時代の○美さんは松たか子似の、細身で目が大きくて頭もよく、文化祭でロンドンデリーの歌を独唱したときは私は口を半開きで聞き入っていました。彼女は女子高からどこかの文学部に進んだとは聞いていましたがまさか再会できるとは。失楽園みたいになったらどうしようとあらぬ妄想に身もだえしながら待っていたら、「お久しぶり。○美です。」の声。振り返ると中年のおばさんしかいないんです。これ以上は恐ろしくて書けません。わたしの淡い期待は奈落の底につき落とされたのです。やっぱり歳月は冷酷ですね。
紙数も尽きてきました。もう人生の半分を過ぎた自分の心境です。
『来し方を振り返りなば先はなし』
まだまだ若輩ものと思っていましたが皆様とご一緒させていただき十六年が過ぎました。もう十六年たてば私は五十八です。はたして今と同じ医療活動が体力的に可能か大いに危惧しています。外科系医師の社会的寿命は五十といわれています。アクティブに活動できる時間は多くは残されていません。わずかな時間に己の成しえることの乏しさを思えば暗澹たる気持ちになります。人間なんて所詮は遺伝子の伝達人にすぎないのかも知れません。
ヨボヨボの老人やいつまでも特定のセクションにしがみついている老人を身近に見ていますので自分としてはとくに将来に希望は持ちません。定年がきたらあっさり引退して後進に道を譲ろうと思ってます。長時間の手術と術前後の管理を一人でする民間病院はしんどいです。
今日は外来を午後一時までしてすぐに手術に入り、夜の九時まで病院にいたらぐったりしました。
ただもし神が私に長命をさずけたなら、最後の一句は
『願わくば現世におれよ二千三十九年』
最後の句でまたまた字余りすいません。二千三十九年をご存じの方はいらっしゃいますか。故ケネディ大統領暗殺の秘密資料が公開される年です。なぜすべての捜査資料が当時発表されなかったか。社会の大混乱を招きかねない政治家と暗黒街の関係が当局の手により封印されたからだと私は考えます。
昭和三十八年十一月のみぞれが降る朝、母と二人で内職の荷物を駅まで運ぶ途中でした。駅前の新聞店に赤インクで「ケネディ暗殺さる」と書かれたビラが貼ってりました。小学生のころから彼の死が気になっていました。JFKの死の真相を私は知りたいんです。嫁さんはあんたのお墓に必ず報告してあげると笑います。
Mさんの思い出
相談役 元信大病院副部長 今野弘恵
今年は珍しく二十八日に外の仕事が終わったので、人並みに大掃除をして大晦日迎えることができました。特に押入れに雑然となっていた未整理の写真や、ひと昔ふた昔も前の手紙や葉書の束を、長時間かけて整理をしま
した。
私は職業柄患者さんやその家族の方からの便りが沢山きます。みんな心のこもった便りです。
時々読み返してみますと、当時の状況やその方のお顔や姿等が一つ一つが鮮明に頭に浮かんできます。片付けの途中ふとMさんからの古い封筒が目につきました。中を開けて読んで見ると、当時のMさんや亡くなられたMさんの父親のHさんとの出会いや入院時の思い出が甦ってきました。Mさんの原文の手紙には次のようなことが書かれていました。
拝啓
この度は何かとお心をおかけくださりまして厚く御礼申し上げます。十四日に初七日も無事に済みまして、目まぐるしく過ぎました七日間を振り返る心の余裕も出てまいりました。喉の手術から亡くなるまでの五年余りの間、父をはじめとして私達家族を何かと励ましてくださりほんとうに感謝しております。辛い時には一緒に辛い気持ちになってくださり、嬉しい時には心から一緒に喜んでくださった副部長さんのお優しい心も私は忘れません。生きることにほんとうに一生懸命で、最後まで頑張った父に、副部長さんも云っておられましたが「御苦労様」という言葉が一番ふさわしいような気がします。今までの過程をしっかり見て来た亜美も一生懸命生きること、そして人はいつかは天国にいかなければならないことを、小さいながらも心の隅にしっかりと刻んだ事と思います。これからは母を大切にし、皆仲良くしっかり生きていかなければと思っています。末筆ながら今までのかずかずの御親切本当に本当にありがとうございました。これからもどうかよろしくお願い致します。朝夕は冷え込んでまいりました。くれぐれもご自愛のほどをお祈り致します。
かしこ
Mさんは当時喉頭癌手術のため入院されたHさんの病床へ、当時三才の亜美ちゃんを連れて、毎日のように足を運んでいました。Hさんは手術のあと食道にできた小さな穴のために口から食事が取れず、鼻腔カテーテルによる経管栄養をしいられ、声が出ない苦しみに加え、味気ないつらい毎日を過ごして居られました。一日も早く口から食べられるようになりたい、食べさせてあげたいという切ない願いが様々な工夫につながり、病院の食事のほかに、Mさんは少しでも食事を楽しんで貰えるように、小魚・くるみ・ごま等をHさんの目の前でミキサーにかけ、注入袋に入れ食事をとるなどHさんを中心にナースと共に力を合わせた看病の毎日でした。その頃主治医から食道の穴を塞ぐ手術の話があり、Hさんと御家族へ医師から皮膚移植手術の説明がなされました。即座にMさんは「先生手術には私の皮膚を使って下さい。経管栄養の父の皮膚は衰えていると思います。私の皮膚だったらきっと食道の穴を早くふさげて呉れると思います。ぜひ私の皮膚を使って下さい。」......と進言しました。
骨身を削ってでも父の病気を癒して上げたい、一日も早く口から食べさせてやりたいとやさしいMさんの心からの願い、あたたかい気持ちにふれ、看護の基本となる心を学ばせていただいた思いを、今でも忘れられない貴重な体験は、今でも私の大きな財産となっております。
ストレスと健康管理
長野日赤看護部長 松尾文子
ストレスは、この地球上で生きていく限りさけられないものです。
暑さ寒さなどの自然環境がもたらす刺激を始め、病気やケガからくる不安、さらに職場や家庭の社会のしくみのなかでの人間関係の難しさなど、ストレスのタネは限りなくあります。
人は例えば暑さ寒さなどによるストレスは、それに対応する知恵を働かせ、かずかずの対策を身につけてきました。又人間関係から生ずるストレスに対しても、新たな決まりや文化を生み出し解決してきました。見方によっては適度のストレスこそ新しい文化や文明の産みの親であるとも言えます。ストレスが問題となるのは、そのダメージが強すぎて対応しきれなくなり、ついには病気になってしまうなどの場合です。病状は全身に及びますが、解決の手段がないわけではありません。
ストレスとの上手な付き合いをしましょう。
ストレスに狙われ易いところは、心臓や胃腸など自律神経に支配されている臓器です。
心臓はストレスによって脈拍が強まり、血圧も高くなります。この状態が動脈硬化・狭心症などに移行します。胃腸もストレスに左右される代表的な臓器です。胃がいたむ・もたれる・食欲がない等の変調をもたらします。
心身症は『病は気から』ということばの通り、まわりの者は別に悩む程の事ではないのにと思っても、本人は深刻な状況にはまってしまいます。
ストレスを解消するにはどうすればよいか
その1食事・仕事・運動・睡眠など『健康的な生活習慣を身につける』
その2ストレスに強くなる食事をとる。ビタミンCはストレス耐性を高めます。イライラを鎮める牛乳カルシュウム食品を忘れずに。ストレスに負けない体力ずくりには、良質蛋白質は欠かせません。
その3疲労は溜めない。入浴やマッサージで、心や身体の疲れはその日のうちにとりましょう。
その4スポーツで十分な酸素をとり込み、汗を流して身体を柔軟にすれば心もほぐれます。
その5なんでも話せる友を持とう。一人で悩めばストレスは一層深まってしまいます。
その6良く眠る。ぬるめのお風呂で疲れをとり、ぐっすり眠りましょう。
その7自分に適した趣味をもちましょう。絵画・歌・書・ダンス・囲碁・将棋なんでも結構です。
常に気分転換をはかりながら、ストレスに狙われない身体をつくりましょう。そして人生を楽しもうではありませんか。
〔平成九年十一月]
ストレスと健康管理
長野日赤看護部長 松尾文子
ストレスは、この地球上で生きていく限りさけられないものです。
暑さ寒さなどの自然環境がもたらす刺激を始め、病気やケガからくる不安、さらに職場や家庭の社会のしくみのなかでの人間関係の難しさなど、ストレスのタネは限りなくあります。
人は例えば暑さ寒さなどによるストレスは、それに対応する知恵を働かせ、かずかずの対策を身につけてきました。又人間関係から生ずるストレスに対しても、新たな決まりや文化を生み出し解決してきました。見方によっては適度のストレスこそ新しい文化や文明の産みの親であるとも言えます。ストレスが問題となるのは、そのダメージが強すぎて対応しきれなくなり、ついには病気になってしまうなどの場合です。病状は全身に及びますが、解決の手段がないわけではありません。
ストレスとの上手な付き合いをしましょう。
ストレスに狙われ易いところは、心臓や胃腸など自律神経に支配されている臓器です。
心臓はストレスによって脈拍が強まり、血圧も高くなります。この状態が動脈硬化・狭心症などに移行します。胃腸もストレスに左右される代表的な臓器です。胃がいたむ・もたれる・食欲がない等の変調をもたらします。
心身症は『病は気から』ということばの通り、まわりの者は別に悩む程の事ではないのにと思っても、本人は深刻な状況にはまってしまいます。
ストレスを解消するにはどうすればよいか
その1食事・仕事・運動・睡眠など『健康的な生活習慣を身につける』
その2ストレスに強くなる食事をとる。ビタミンCはストレス耐性を高めます。イライラを鎮める牛乳カルシュウム食品を忘れずに。ストレスに負けない体力ずくりには、良質蛋白質は欠かせません。
その3疲労は溜めない。入浴やマッサージで、心や身体の疲れはその日のうちにとりましょう。
その4スポーツで十分な酸素をとり込み、汗を流して身体を柔軟にすれば心もほぐれます。
その5なんでも話せる友を持とう。一人で悩めばストレスは一層深まってしまいます。
その6良く眠る。ぬるめのお風呂で疲れをとり、ぐっすり眠りましょう。
その7自分に適した趣味をもちましょう。絵画・歌・書・ダンス・囲碁・将棋なんでも結構です。
常に気分転換をはかりながら、ストレスに狙われない身体をつくりましょう。そして人生を楽しもうではありませんか。
〔平成九年十一月]
はじめまして
伊那中央総合病院総婦長 鈴木のり子
信鈴会のみなさま。こんにちは‼
今年の四月総婦長を拝命致しましたが、何せ未熟者故今まで以上に気長にお付き合いのほどをお願い申し上げます。
思いますと三月二十五日、全く予期しない突然の内示を戴きました。それから四月までの一週間というものはただ、ただ『驚き』と『不安』がいっぱいで総婦長としての業務内容を理解するいとまもなく、心の準備をするゆとりすら持てずにスタートしてしまいました。
あれから既に八ヶ月が経過したのですが、やはり今でもあたふたしております。私にとっては毎日が新しいことの連続であり、しかもそれらの何をするにしても『不安』の二文字が付きまとって一向に離れようとはしてくれません。そのため常に期限ぎりぎりの仕事となり悪循環となっている現状でもあります。更に当院では今新病院に向けての議論を重ねているところでありまして、まさに頭も身体もフル回転が要求されているのですが......なかなか思うようにいかず、実力不足を痛感させられている日々でもあります。
こんな事情で信鈴会伊那教室の皆様には御無沙汰ばかりで、今だにお目にかかれたのは三~四人と大変御無礼をしているのですが、私の無力さをご理解していただきまして、その上での末永いお付き合いをお願いしたいと思います。
私は看護婦になってから今年で二十七年目になりますが、何故か耳鼻科病棟(外来も含む)の経験はありません。僅かにあるのは小児病棟へ入院してきた子供さん達との関わりだけでした。従って皆様方のように人生にとって重大な意味をもつ手術を受けられた方への看護は全くゼロの状態であり、素人同様であります。しかし現在活動されているお姿や会誌『信鈴』並びに他の活動状況の書物を拝見しているうちに、一昨年私が産婦人科病棟で看護研究を行った時の、患者さん達の活動に、とてもよく似ていることに気付きました。そこでの研究は切迫早産で、六人床の大部屋に入院していた五十四名の妊婦さん達を対象にして行った『患者さん同志の情報交換と行動との関係』で、質問紙並びに面接法で調査し明らかにしたものです。切迫早産という同じ病状、持続点滴を受け同じ安静度という状況下で生活している妊婦たちの結びつきは想像以上に強いものがあります。病室内における行動や会話が、そこにいる人達の日常生活動作に、また医療者に援助を求める時の判断基準に、更には今後起こり得る分娩、育児の学習の場に、しいてはプライベートに関する精神的ストレスの除去にまで関連していることが明らかになりました。つまりこの集団が信鈴会同様に一つのセルフヘルプグループとなっているために、そこから支え合う力が生まれ、強い結び付となっていることがわかりました。
そこで信鈴会の皆様の活動で考えてみますと、咽頭摘出術を受けるまでの決断、手術後の身体的苦痛、声を失った事への精神的苦痛と生活的苦労、食道発声と言う新しい方法での声の習得と、今までの人生の中で経験したことのない強いストレスを体験している仲間同志が集合して、お互いに共感し、励まし合う。そして先輩の姿を見て、自分のモデルを見い出し、創意工夫しながら努力する。更には新しい声を得たメンバーは、新しいメンバ1の良き相談相手、良き指導者へと援助する側にまわり
ーダーとなって活動を支え合っているからこそ、私たちには無い決して変わることのできない強い力が生じてくるのだと思うのです。同時にこの努力されているお姿を拝見した時、これ以上の苦しみは他に無いのでは無いだろうかと思え、ただただ頭が下がる思いでした。
そこで、このグループの方々にとって看護婦の役割とは何だろうかと考えてみますと、側面的援助者になりきることなのかなと思えるのです。然しそれらは何時でも必要とされている時に、即対応できることが肝心であるため、常に新しい知識・情報を入手して置くことが要求されます。そのためにはアンテナを高く張り巡らす事が大切となります。そして時には良きコーディネーターとしての役割も必要でしょう。この様に考えれば、常から常へと行うべきことだらけですが、私としては先ず皆様と共に学ばせていただき、その中で私なりに、援助者となるべき看護婦の育成方法を見いだして生きたいと考えております。又同時に新病院建設においても、皆様の過ごし易い病院造りや、患者会の学習の場としての会場の確保等についても共に考え、検討して行きたいと思っておりますので宜しくお願い致します。
とりとめの無い事ばかり申しましたが、最後にこの信鈴会の益々の御発展と、会員皆様方のご努力が一日も早く成果となられますようお祈り申し上げます。
(平成九年十二月記)
自然に生きる
諏訪日赤看護部長 牛山洋子
私は昨年十一月、安曇野の穂高町に終の栖を構える事ができました。穂高町は安曇野の中央に位置し、常念岳と有明山を前山に、雄峯北アルプスの山脈を望み、烏川・乳川の清流の流域に広がる田園と、その中に草屋根の民家の点在する村落があり、何処を見ても大自然そのものの町であります。
私は以前から此の地が好きで何度も訪れました。訪れる度に心打たれ、こんな美しい所に住めたら一生幸福であろうなぁ、と願っておりましたところ、それが叶えられた訳です。今の我が家を取り巻く環境は、従来と違って、赤松が美しい肌を太陽の光りに晒し、その間に生える雑木が自然の調和を保ち、澄んだ空気のなか小鳥の囀りが朝の息吹きを呼び起こします。本当に大自然に抱かれているという実感がします。従いまして私、現在仕事の関係で週に一度位の帰宅しかできませんが、帰ればこの自然の景観が私の疲れを癒してくれ、安らかな憩いの場になっているのです。
朝我が家の窓から見る外の景観は本当に一枚の絵のようです。今は秋で紅葉の季節ですが、春夏秋冬それぞれの季節の特徴ある景観が見られます。今私は朝露に光る松の青葉と、しっとりと濡れている色づいた赤い紅葉、黄葉の美しいくぬぎ・楢等を見ています。良く見れば、赤い紅葉でも楓・鷺・漆それぞれ色が異なり、やがて朝日を浴びればその色は益々鮮やかになり、特に漆の赤と銀杏の黄は格段と美しい色を呈します。桜も赤と黄の混合で、変わった趣を見せてくれます。
しかし、やがて木枯らしが吹き、落葉の季節となり、樹々が裸になっていくと、根元に溜まった落葉は樹々を温め、腐食して養分となり、裸の樹々を厳寒から守るのです。そして東風が春を伴い訪れる頃、樹々は一斉に芽吹きを始めます。樹々の中には逞しいもの、ひ弱なもの様々です。しかしこれらの樹々はそれぞれそれなりに生きています。たとえその一部が枯れても又別の所から芽を出し、そして落葉の養分は自分だけのものではなく、あまねく樹々に分配されているのです。
私は今、窓から自然の景観を見ながら、植物達がそれぞれお互いに協力し合い、自然の摂理に基づいて繁殖しているのを見て、人間もまたこの様に親愛、助け合い、共存共栄していかなければと思いました。このように人の行き方を教えてくれる大自然の声が聞こえる我が家、そして明るい太陽の射し込むこの我が家に、やがて私は毎日を此処で暮らしていける幸せを感謝しております。
(平成九年十月記)
指導員二十年を顧みて
伊那教室 桑原賢三
昭和五十二年松本教室の指導員は、塩原会長・鳥羽副会長・平沢理事の三人でした。同六月の総会で今は亡き大橋さんと私が指導員を命ぜられ、同時に私と山下さんが信鈴会の理事に推薦され、現在に至りました。
平成九年六月の総会で、二十年に亘り努めて参りました指導員と理事の役を辞させていただき、重荷が下りた感じです。
昭和五十三年伊那教室開設に伴い、私と山下理事が担当指導員として指名されました。開設当時耳鼻咽喉科の矢田先生、宮原総婦長さん、中西婦長さん皆さんの御協力により、会員数五~六名と少なかったが、順調な滑り出しでした。教室日には必ず矢田先生がお顔を出して下さり、張り切って指導に当たり、山下さんとも順調な状態を喜びあっておりました。
昭和五十五年鳥羽さんが会長に就任すると、是非副会長にとの要請があり、就任して会計兼任となり、指導員も再び松本教室の兼務となって、松本は毎週木曜日、伊那は第一・第二の水曜日で、加えて体調復活に伴い家業の農作業や、公的役職も重なり、多忙な日々を送る様になりました。
さて、伊那教室は開設三年を経た昭和五十六年十二月矢田先生が病院を去る事になり、よって先生不在の耳鼻咽喉科となり、信大病院からの出張ですから、教室へ顔を出してくれる先生も看護婦さんもなくなり、淋しい教室となりました。それでも会員の数は僅かではありましたが、漸次増加してきて指導担当として張り合いが出て来ました。
しかし、五十七年・五十八年とこの様な状態が続き、私も伊那教室の心配で、松本教室への出張指導は無理が生じ、副会長の職も大橋さんに継承していただき、伊那教室指導に専念できる様にして参りました。然し、力になって戴ける先生も看護婦さんも、教室への足は何時しか遠くなり、矢田先生に心配して戴いた使用許可の教室の保健指導室も追われる様に、作業療法室という六畳間位の畳敷の部屋に移りました。湯呑み茶碗を置く台すら無く、急遽自宅から飯台の小さいものを持込み、薬缶と茶碗も準備して、一応教室らしく整えて発声指導を続けて参りました。たまたま五十九年に納谷先生が着任されまして、全摘手術も二、三行われ、術後の発声指導は教室で、との依頼も受ける様になり、漸く中央病院の手助けをするという事で、何となく肩身が広くなった様な気分となりました。
然し、困難は再びその年の暮に訪れました。納谷先生が信大病院に帰ることになり、送別会を兼ね納会を行ないましたが、担当の先生は又不在となってしまったのであります。この日から更に教室の苦難が始まるとは誰一人として思っていなかったのです。
年が変わっても、代わりの先生は着任されず、一月早々先生不在と言うことで、ついに耳鼻咽喉科は閉鎖となり、私ども教室は孤立してしまいました。此の様な状態が二年ほど続き、この間教室は病院にとって何か邪魔物ではないのか?などと、心の奥で考える様になり、当時山下さんも同じ心境であった事と思います。こんな時は会員の皆さんも同じで、教室へ来るのに遠慮が見え、初め二日に一度が、三日に一度と言う様に熱心さが欠けてきて、時々山下さんと二人で、一時間待っても誰も見えず、したがって今日は早仕舞いするか?と言って帰る日が多くなって来ました。
このような状態の続く中、教室の先行きを心配したのはこの時期で、教室の有る日には家を出る時必ず家内が「気をつけてネ」と車を見送り、帰ると「今日は大勢見えたかネ」と聞くが、これは教室が始まって以来続いていますが、早く帰った日は家内が心配して、「どうかしたかネ?」と聞くが、まさか「一人も来なかったから」とは言えず、「都合で早仕舞いにしたんだヨ」と誤魔化していたが、聞けば山下さんの奥さんも同じだったと言う。
此の様な悩みの続く中で、唯一悩みを打ち明けられたのは、岡谷の現副会長の小林さんであった。私の愚痴を聞いて貰い、悩みを共に背負って貰った人であり、当時を思い起こし、今更に心から感謝しております。又教室としてお借りしている療法室の職員皆様には、畑違いの私共が世話になるための気遣いが大変で、皆様の昼休みの部屋を占拠しているわけで、何となく後ろめたく気兼ねをしましたが、この気持ちは山下さんも全く同じでした。
此の様な惨めな状態も、晴れる日が参りました。それは耳鼻咽喉科へ信大病院の助教授山本先生が、深沢先生とお二人で着任され、中央病院耳鼻咽喉科が再開され、俄然活気付き大物先生の着任と評判になり、耳鼻咽喉科の患者は増加の一途でした。この頃より駒ヶ根の伊南病院から中央病院を通じて、声のリハビリの依頼も有り、又両先生の執刀に依る全摘者も数を増し、発声指導も漸く熱が入って参りました。
着任された山本先生は、私の術後の面倒を診て戴いた先生で、親近感もありまして、教室の会員も中央病院と駒ヶ根伊南病院の患者が大半を占める様になり、中央病院への気兼ねも薄らぎ、病院側でも私共教室への理解も高まり、協力が目に見えて参りました。教室も新築された別棟の第二会議室を充当して戴き、又両先生の都合により、今までの水曜日を金曜日に変更されました。会議室のドアーには、第一・第三金曜日は信鈴会の発声教室で使用する旨の下げ札も付けられました。これからは、何の気兼ねも無く訓練に励む事ができ、又会員皆さんの出席率も良くなり、婦長さんや看護婦さんそして先生のお見得になる日も多く、教室らしい教室となり、春のお花見、暮の納会(忘年会)と、家族ぐるみの集いとなりました。
思い出しますのは、開設当時の苦労を共にして発声練習に励み、声を取り戻した皆様は、殆ど此の世を去り、年月の長さを感じます。
忘れられないのは、当時耳鼻咽喉科の金子看護婦さんです。金子さんは発声教室には特に気を使って戴き、病院内に発声教室ありと、その存在を高めて戴きまして、今も感謝の気持ちで一杯であります。
その後は山本先生も開業され、深沢先生お一人となりましたが、喉摘手術は行われておりまして耳鼻咽喉科の評判も高く、患者数も増加し教室の時間帯には、外来患者の診察に追われ、顔を出して下さる事も少なくなりましたが、手術する患者も増して来て、又伊那教室の特色として、県外各地で手術された方々も多く、話題も多いのが他の教室と少し異なってきて居ると思います。
手術は中央病院で、その後の発声リハビリは発声教室でと言うことになり、病棟、外来共総婦長さん始め婦長さん看護婦さんとの交流も多くなり、病院に於いても教室の存在を高く評価して下さる様になり、納会には前記看護婦の皆さんが参加して下さり、教室参加の会員家族の皆様との交流を深めて現在に至って居ます。
その後伊藤良長さんが信鈴会の監事となり、教室は私と山下さん伊藤さん三人で協力し合い守り通して来ました。私も山下さんも病気入院以外は、一日も欠かさずに教室へ出て、会員が一人でも居れば発声指導する気持ちで、頑張って来ましたが、前記の様にカラ振りの時も何度かありました。
まだまだ述べきれず、今回はここまで記述して見ました。後は又の機会にするとしまして、改めて中央病院の皆々様に御礼と感謝を申し上げ、信鈴会会員皆様の益々の御健康と一層の御精進を心から祈念申し上げまして筆を擱きます。
(平成九年九月記)
信鈴会三十周年雑感
長野教室 村田俊雄
「信鈴会」が平成十年、創立三十周年を迎え、記念事業がいろいろ計画されている。うれしいことである。平成七年九月の手術で新参者の私などは、発声教室で指導を受けながら、こうした会を地道に運営、継続されてきた先輩の方々に心から感謝している。
三十年前を考えてみた。信鈴会の創立は昭和四十四年一月。この年の春、私は東海地方の地方都市から名古屋市の中部本社に転勤している。世は大学紛争の最中で、一月には東大闘争の安田講堂攻防戦があった。前年の歳末には東京府中市の三億円強奪事件、そして十二月には赤軍派の大菩薩峠検挙など騒がしいことだった。米国のアポロ11号が月面着陸したのもこの年の七月で、約三十年後の今年、日本人初の宇宙遊泳、緊急任務などを含め船外活動を成功させている。
自らの不摂生ぶりを示すようで恥かしいのだが、私は糖尿病の患者会にも入っている。『りんどう会長野中央分会』で、この会は今秋、創立二十五周年で記念式典や記念誌発行などいろいろなイベントを行なった。昭和四十七年九月の創立だが、この年は私にとっても忘れられない年であった。名古屋から東京本社に転勤になり、いま基地問題で揺れている沖縄復帰、佐藤首相の退陣、田中内閣誕生、日中国交回復があり、さらには連合赤軍浅間山荘事件など、あわただしいことだったが、札幌五輪もこの年で、長野五輪を迎えて感慨深いものがある。
こうしてみると、"死んだ子の年を数える"ようであるが、むろん、あの頃は一応健康で病気のことなど全く考えることもなく、毎日忙しい不規則な生活と、よく酒を飲んだことだった。なにしろ午前一時すぎに仕事を終えて社を出て、それから夕食?と称して午前五時、六時まで、早朝帰宅して風呂、着替えてすぐ出勤、というようなことも珍しくなかったのである。いまのような厄介なことになるとは夢にも思わなかったし、こうした病気についても無関心で過ぎてきたが、いざかくなってみると、それぞれの困難を克服してライフスタイルを確立している先輩諸氏は、まさしくわが先達であり、患者会の存在意義も大きいと思う。
創立当時、どのような時代だったのか、これは私の一種の条件反射のような習慣であるが、そうすることで自分とのかかわりもよく見えてくるような気がする。さらに、今よりもさらに厳しい条件の中で、信鈴会というような会を設立し、運営してきた指導者や先輩諸氏の労苦も偲ばれる。また自ら障害と病気を持ったことで、当然のことであるが、『からだの不自由な人は大変だ』とよくわかる。これまで気にもせず、見えなかったものが、見えてくることもある。
例えば、長野駅前周辺を歩いていて、折角広くなった歩道に、自転車やバイクがいっぱいに置かれている。目の不自由な人の為のタイルもその下である。目の不自由な人は歩けない。電車やエレベーターで、扉の前をふさいで、降りる人をかき分けて乗り込む若者グループや又子供たち、それを注意もしない母親。私でも突き飛ばされそうになるが、目の不自由な人はどうだろう。糖尿病による失明者が大変増えているのだが、自分も若しそうなったら、と思うと身が竦む。
この拙文が出る頃には、長野五輪もパラリンピックも終わっているが、さて、長野は世界の人達にどんな印象を与えたのだろう。一時的なお祭り騒ぎや歓迎ムードとは別に、普段着のちょっとしたことが、肌で感じたことになるのは、誰でも経験することだろう。身体の不自由な人たちは楽しい思い出を持ち帰ってくれただろうか。
私は仕事や転勤で全国各地を歩いたが(引っ越しは十三回)長野、というか信州に対するイメージは、概して"好意的"なものが多かった。恵まれた自然によるところが大であるが、先人の功績も大きい。ところが、このところ信州のイメージに陰りが出ているようだ。平成十年に向けて、二つの国際大会が終って(成功して)再び落ち着きを取り戻して、そう、また"よき信州"になっていてほしいものだ。
(平成九年十二月記)
思いのままに
可児市 脇坂雅夫
私は、昭和十八年十二月現役兵として金沢に入隊し、翌年仏印(現在のベトナム)へ派遣されました。途中南支那海でB25の空襲を受け、戦友二名が名誉の戦死を遂げましたが、その一名は、戦後私が丘南子の号で俳句を作っていた頃の黒姫誌の奥様の弟で、長野市の徳永君でした。奥様の案内でお邪魔した時、金鵄勲章と一緒に「これは戦地より届いた中隊長からの書状です」と言って見せて下さいましたが、それは中隊長の命令で私が書いたものでした。空襲時の詳しい状況を知っている私の訪問に、ご家族の皆様からも非常に喜んで頂きました。戦友の御仏前に香を手向け、在りし日を偲び心よりご冥福を祈念致しました。
私は、通信隊に所属していた為に、あまり危険な目にも逢わずに終戦を迎えましたが、部隊の中からは多くの戦友が激戦のビルマに転属され、飢餓と病魔のために全滅に近い状態であったと聞いております。戦後は中隊と部隊本部の書記として、主に終戦処理の任務に就いておりましたが、終戦の詔勅を拝して中隊長が詠んだ『忍ベとの大詔かしこみて 忍び難きを忍べますらお』の短歌は、今もって忘れることは出来ません。その短歌を書記の私が毛筆で書いて事務室の正面に掲げて毎朝拝礼していました。
南方特有のマラリアには二度も悩まされましたが、復員後は全く再発しておりません。下伊那郡出身の宮島君は、アメーバー赤痢の為に苦しんで戦病死致しました。その遺骨を私が抱いて原隊へ帰還しましたが、彼の切ない胸中を察する時、悲しさがぐっとこみあげ泣けて仕舞いました。
中学時代速記を習っていた関係で、ラジオを聞いて部内報を発行していましたので、内地の事は多少判りました。復員の命令が出たのは昭和二十一年三月、やっとの思いで四月十三日米軍のリバティー船に乗船、翌十四日ハイホン港を出航し、一路祖国日本に向かいましたが、途中コレラが発生、戦友の一名が亡くなり、深夜汽笛を合図に海中に葬りました。祖国日本を目前にして、さぞや無念だった事と推察致します。このためコレラ船のレッテルを張られて、浦賀沖に停泊して、諸検査の末に、漸く五月一日上陸し、全ての手続きを済ませて、五月四日一面焦土と化した東京を経由し、青空に泳ぐ鯉のぼりのなか、懐かしい我が家へ無事帰ることができました。駅まで出迎えてくれた両親に「脇坂ただ今帰りました」の軍隊調の第一声にはびっくりしたようでした。軍隊の兵舎や戦中の高い天井ばかり眺めていたせいか、我が家の天井の低いのに驚いた事をはっきり覚えております。
昭和十八年十二月入隊以来、昭和二十一年五月復員まで二年五ヶ月。昨年『恩給欠格者として七十歳になられたことにより、平和祈念事業特別基金宛に賞状と銀杯を請求するように』と、市役所を通じて書類が来ましたので、必要事項を記入して提出しました。大分日数はかかりましたが、平成九年三月二十三日岡谷の小林政雄さん同様内閣総理大臣より『あなたは先の大戦における旧軍人としての御苦労に対し衷心より慰労します』との賞状と銀杯を頂きました。これで漸く私なりの戦後が終わったような感が致します。
前文にて俳句のことに触れましたが、平成七年七月に長男を不治の病で亡くしましたので、少しでもその寂しさを紛らわして余生を有意義に生きようと、実に四十年振りに俳句を始めました。まだ未熟ですがご笑覧下さい。
声帯の無き者同士や初笑顔
秋風や声失いしのちの日々
声帯のなきこと憂しや秋の暮
意のままにならぬ言の葉いわし雲
少女期の胸のふくらみ夕蛍
寡婦の住む裏木戸木の葉掃かれいて
古稀過ぎて句を嗜むや鰯雲
菊出荷済ませ安堵の朝餉かな
(平成九年十月記)
三浦半島の旅に参加して
松本教室 小林政雄
三浦半島は私の青春時代の一番思い出深い場所です。それは私が東京で青年学校一年の時のことでした。当時支那事変中で、軍事訓練の一つとしての鎌倉旅行でした。その時の写真をみますと、セピヤ色には変色しているけれど、鶴岡八幡宮も大仏さんも当時とあまり変わって居りませんが、時代が余りにも変わり過ぎて、何か夢のような気がして、その頃の事が瞼に浮かび、非常に懐かしく感じられました。
その後昭和十六年横須賀海軍工廠へ就職し、その当時戦艦大和の製作ドックの近くの工場で、軍艦のスクリュ1の製作に従事しておりましたが、十二月八日米軍との戦争が始まり、若い私はこれに参加すべきと心に定め、海軍志願をした処合格したので、海兵団へ入団する十日前、体馴らしの為に三浦半島を横断して、大楠山を横に見ながら葉山まで歩いた事がありました。そんなことをバスの中で思い出しながらのこの度の旅でした。
そして昭和十七年五月横須賀海海兵団へ入団し、飛行整備兵として二ヶ月の教育訓練を受けた場所を、丁度バスが通過しました。然しそこは立派な自衛隊の兵舎に変わっており、隊員の様子が良く見えましたが、その頃の事が懐かしく次々と思い出されてきました。そして、先の大戦に参加して九死に一生を得た、私の兵歴の第一歩のこの横須賀は、忘れる事のできない青春の一大事件の発端でもあり、伊那教室の皆さんの計画された旅に参加できたことは、非常に意義があったと思います。
先年水戸で行われた日喉連の東日本指導者研修会の時にも、私の戦時中の思い出深い茨城市筑波谷田部、土浦等航空隊で海軍飛行隊教員として、練習生の教育をしていた所で、茨城県一帯を飛び回っていた場所であります。
また航空隊での一員として沖縄戦の出発基地としての場所でもありました。
何はともあれ旅にしても、又研修会にしても、昔の思い出深い土地に、戦後一度も行けなかった所へ行かれまして感慨一入です。これも信鈴会の行事に参加できたからであり、心から感謝しております。
この度の恵まれた旅について思い出すままに綴ってみました。
川崎付近空襲記
長野教室 古澤實
これは、太平洋戦争末期の昭和二十年四月十五日夜半より十六日未明に亘り、川崎・大森・蒲田・鶴見・横浜の一部の大空襲の模様を記録しておいたものです。実は昨年九月下旬に伊那教室の計画で三浦半島・油壺の旅で湘南方面のレクリエーションに参加した時、五十年前の事を思い合わせ、その時川崎方面の大空襲の事を綴ったものがあったのを思い出し、当時の記述をそのままここに写したものです。
私は会社より帰り夜の九時頃床に就いた。眠るか眠らないうちに、ラジオで「敵数目標南方洋上より本土に向かい北上しつつあり。」との報が入った。間もなく警戒警報が発令された。早速待避の準備をしたが、空襲警報が発令されるまで部屋に居た。やがて空襲警報が発令になる。全員身軽な体で集合した。鈴木舎監長から「本日の空襲は大規模らしいから全員注意するように」との命令があった。
今までの経験では、川崎は未だ一度も空襲が無かったので、荷物を全部部屋に置いてきたのがいけなかった。持って出れば少しは助かったのだが、......四月十日の給料日に頂いた給料全部の月給四十二円と手当の十五円ばかり一切灰にしてしまった。
体だけで多摩川の川べりに待避した。そのうちにB29一機が軍のサーチライトに照らされながら川崎上空を通過した。高度約八千m位、そのうちに大森付近でパァーと火の手が上がった。焼夷弾を落としたらしい。B29が一機づつ照らされながら通過する。
然し段々B29の数が多くなってきた。ラジオの状況では、「敵は京浜西南方を爆撃中なり」の報あり。頭上をごうごう音をたてて飛んでいる。高射砲の音も入り乱れて凄い。来るなあーと思った高射砲の破片がシューと音をたてて付近に落下する。
川崎を中心として、回りの都市は真っ赤である。多摩川の土堤のすぐ向こうの蒲田では火が見える。火の明かりで新聞位は楽に読める。B29は真っ赤になって京浜北方へ落ちて行く。敵は三段構えになって、入れ代わり、立ち代わりに攻撃している。一番低いのは、高度約三千m位で、次の高さは約八千m・一番高いのは一万m位らしい。
爆弾は段々近づいて来た。爆弾が落ちる度に腹の底に響く。川崎市役所付近がやられているらしい。相次いで東芝柳町工場もやられたようだ。高さ約70mの鉄塔の回りから盛んに火が吹いている。(私はこの東芝柳町工場に勤めていたのですが......)焼夷弾の落ちる時は、38本が1体となって途中まで落ち、破裂して長さ約50cm、直径10cm位の六角形の弾となって拡散され落ちて来るのであるが、破裂する時は花火をみるようだ。
友軍機の機銃弾は赤い尾を引きながら敵機を追う。突然頭上で"ザー"という音がした。と同時に"シューシューシュー"と聞こえたので、すかさず目と耳を押さえて伏した。今まで聞いた事のない"ドドーン"という音がした。これは近いな?と思って目を開いて、見れば東芝小向工場の六階が火の海である。その傍の聯合紙機会社も同じように火に巻かれている。付近の民家からも火が出ている。第2回目の"ザー"という音と同時に、先程と同じ"シューシュー"の音、そして腹の底からの"ドドーン"があり、そのうちに火薬臭い臭いがしたので、目を開けたらその前で、何も燃えるものが無いのに、一本の油脂弾から5m位の間が盛んに燃えて火の海となっていた。
私達の周りに50~60本位落としたらしい。早速違う場所へ移動しようと思った。他の寮の男子・女子達も続々と移動している。私も待避壕を出て見たら廣い原が真っ赤である。小向工場も盛んに火を吹き出している。回りの民家の燃える火で熱い。自分の寮の方を見たら赤く燃えているようだ。同じ寮生五人で寮へ向かったが、途中5~6回ほど,ザー:の音で地に伏せた。
寮へ来て見れば、哀れにも半分以上が焼けている。これでは駄目だと諦めて前の民家の荷物を出してやった。火の粉と煙で目が痛かったが続けて行い終わったので、舎監以下七名で前の麦畑へ行って休んだ。しかしもう自棄気味で"ザー"と聞こえても伏せる気にもならない。
煙も凄くて敵機が見えない。突然"バンバン"と機銃の音だ。敵機の機銃掃射である。
次の朝の話で聞いたが、川崎のロータリーで二十人ばかりの人達がやられたそうである。寮は全焼して十六日二時ころ沈火した。好美荘の最後であった。そのうちに空襲警報解除となった。火は未だ盛んに燃えている。
八重垣寮へ友達と行って見た。帰りに同じ現場の山梨高等工業の学生(勤労学徒)坂井さんに会って、三時頃よりその寮で寝た。その部屋は同じ現場の学徒だけである。だから仲々親切にして頂いた。休ませて頂いたが、眠られぬ。昨夜から大分目を煙と火の粉でやられて居たので、洗うけれど止めどなく涙が流れ落ちる。何時の間にか三時間ばかり眠ったらしい。
朝六時頃目が覚めた。未だ凄く工場より火が吹い出している。油などが燃えて居るのだろう。時限爆弾が時々大きな音がして破裂する。
九時頃三人で空襲の後を見に行く。何と見事に一軒の家も無い。よくも一夜にして焼けたものだと感心する位である。焼夷弾の殻が消防隊の前に山と積まれていた。道の真ん中の所々に『不発弾につき近寄るべからず』と書いた立札が立っている。何時破裂するか不明なので、遠く離れて通って行く。罹災者が後片付けをやっている者、バラック小屋を建てている者等種々雑多である。
柳町の会社へ漸く到着した。コンクリート建屋だけに外観は何ともないが、中は皆焼けて居た。四真工場へ行って見た。昨日帰るまでは良かったのに、来て見たら、パイプが落ち、変圧器が焼け、シーレックスマシンが溶け、目も当てられない。自分の居た真空管組立場所へ来てみた。トランスとウエルダーかあるだけだ。自分の机に来て見れば、机の鍵・ピンその他の鉄製品があるだけで、何にも無い。真空管の製品も焼けている。
十時近くに会社の門の所へ集合の指示があり、工場長から訓話があった。この工場の災害の後片付けの為に、今日より作業を始める。一日も早く通信機を造るため、皆一生懸命にやって貰いたいとの訓話であった。
その日はそれで帰り、翌十七日から工場復興に全力を尽くし、先ず後片付けから始める。十日ばかりで約半分片付けが終わる。真空管製造部長より全員集合の命があり、三十五号建屋前に集合、部長から「四真は本日より直ちに間門新分工場へ行き作業せよ」との命令があった。兵頭課長からは、「これより全員間門へ行く故、明日からは間門工場へ集合するように」との指示があって、本日は解散となる。
次の日からは、皆新しき希望を胸に抱きしめて、間門分工場の作業に取り掛かった。地下工場へ機械を入れたり、配線・配管などの補助作業をした。六月末には完成するだろう。今はマツダ(東芝)の真空管科に出張しているが、近き将来は地下工場へ入ると思う。
―昭和二十年五月十七日記―
癖(くせ)
伊那教室 桑原賢三
人間には『無くて七癖』とよく言われてきましたが、同じことを言葉にしたり、動作に表わしたりする事が重なると、それが『くせ』となり、あまり意識しなくても、言葉になり動作に表われます。
私は昭和五十年一月二十日全摘の手術を受け声を失いました。そして間もなく退院して、次の週の木曜日から信大の発声教室に通い、発声の練習に取り組みました。然し『食道で喋る・声を出す』このことが如何に難しいことか痛切に感じ、当時五十二歳と言う若さで声の無い生活が始まりました。早く喋りたい。早く社会復帰したい。このあせりが禍いしてか、社会復帰どころか、家庭内においてでも会話は閉ざされてしまいました。この時私は一生死ぬまで声が出ずに終わってしまうのか?、と心の奥で考え初めて、当時便箋に筆記して子供や家内と筆談で会話をしていました。然し毎日のことですので、一冊の便箋は忽ちに終わってしまいます。そこで配達される新聞の折込み広告の裏の白いものを見つけ、毎日これを二ツ折りにして筆談用に使うことにしました。それで一生使うにはいくらあっても足りないと思い、毎日此の裏白の広告を取り出し、白を表に畳む毎日でした。これで便箋を使わずに済む。おかしなもので、裏白の広告があれば取り出して畳む。何時しかこれが声が出て筆談の必要がなくなった今日この頃でも、この裏白の広告があれば取り出して畳む。これを見ていた孫達も取出しては畳んでくれている。今ではこれが溜まる一方で、原稿の下書き、手紙や回覧文の下書きに使っています。
一生使うには、いくらあっても足りないと思ってやったことが、今でも続いております。全く癖と言うものはおかしなものですが、人間として持つならば良い癖のみを持ちたいものです。
(平成九年八月記)
犬と私
伊那中央総合病院 山崎桂子
犬好きな私は十年程前から雄のヨークシャーテリアと一緒に暮らしている。
その犬が最近お腹が膨れ出し、腹水が溜まりフィラリア症によるものとわかった。予防薬を服用させていなかった事を後悔した。腹水が溜まったら抜いて暖かくしてやれば、二年位は生きられるそうだが衰弱してきて元気もない。小犬一匹ではあるが、一人暮らしの私にとっては、今は特に大切な家族である。
二、三年前から白内障で視力を失っていたが、至って元気で犬特有の耳と鼻で家の内外を飛び回っていた。朝出勤する時は、なぜか『仕事か』と言うような顔で後を追う事はなかったが、その他で外出しようとする時など私の化粧や着替えの先き先きまで、ソワソワとついて来て、一緒に行く気になっているので、ついしかたなく連れて行く事もあったが、行く先や時間帯等の都合で連れて行けない時は後を追って鳴いた。
私が帰宅すると玄関口に待ち構えていて、全身で喜びを現わし、キスぜめにあう。しっかり口を閉じて居ないと、小さい舌が強引に入り込んでくる。息を止めて受けてから「もういいよ」と頸をさすってやると、興奮がおさまっていく。
もう一回のキスは、私が入浴すると風呂場の入口で、じっと出るのを待っていて、出てくるとキスをせがまれる。これが又何とも憎めない犬の可愛い仕草である。
犬は何かにつけてスキンシップをしてお互いの信頼関係を確かめているように思える。
叱られると居間の端のテレビの後ろの安全地帯に逃げ込む。お尻が丸見えなのに、暫く縮まって隠れている心算。五分もすれば、何時しか出てきて居て、前足で私の体をたたいて食物をねだる。
四季折々の周囲の景色や、足もとの草木の美しさや変化に心を動かされながらの散歩は犬にかこつけて、私自身が毎日散歩出来た喜びであった。
返事をしなくても、私の話を聞いてくれた。「お前の生きる権利はすべて私が握っているのよ」といって美味しいものを焦らせてやったこともある。ほんとうに語り尽くせない沢山の想い出をつくってくれた。
最後が近いと思われるこの犬に、心から感謝の気持ちを贈りたい。
『ありがとう海(かい)‼!』
(九七・一二・二)
我が家の『診療所』が再び『教室』に‼
長野教室 Mt.West
私は十年程前『退職したら、落ち着いた書院障子のある座敷が欲しい』とひそかに考えていた。そして漸く、その思いが叶う退職の時を迎え、来年は増築しよう、と計画した。ところが、年老いた母から「どうせ造るなら一年でも、一日でも早く、私の元気な内に.........」との意見が出た。それではということで急遽その年の五月に着工した。
座敷は十畳間で、床の間のほかに懸案の書院は、南側へ幅一尺五寸長さ二間の出窓風に造った。この結果南側に細長い三畳部屋として使える部屋ができたので、これを私の城『教室』と名づけ待望の尺八の稽古の場となった。後日、佐藤幸宇山師匠が来訪の折、「これは明るくて良い部屋ですねえ‼」とお褒めの言葉を頂戴した。
冬暖かく夏涼しく、しかも遮音性を考えて、当時未だ目新しいペアグラスを奮発して、厚手の二重カーテンを取付け、西側の障子窓の上に換気扇を設置し、まあまあの空間が出来上がったのである。その後数年は平和に何事もなく、百十坪の野菜作りと、尺八稽古の『晴耕雨吹?』の楽しい日々が続いたのであった。
ところが、平成七年七月の喉摘術により状況は一変してしまった。楽しんでいた尺八が吹けなくなってしまったのだ。当時は言葉が話せないことよりも、その事の方が寂しく、残念で仕方がなかった。したがって退院後その部屋を整理する気持にもなれず、そのままであった。しかし入院中に何かと励ましてくれた六人の看護学生さん達が、心を込めて折ってくれ、皆で感涙した思い出の千羽鶴と、鏡だけを新たに持ち込んで、尺八の教室を『診療所』と改名した。本来ならば小さな診療室であるが、語呂からして『診療所』としたもので、他意は無かった。
以来二年半、ガーゼ・テッシュペーパーの交換で、日に数回ほど鏡に向かう場所となっていた。
ところがである。この度(平成九年十一月)長野市の『いきがい講座』で『ギターの初心者講習会』が開講された。そこで、これ幸いととびついた次第である。
実のところ夏頃から独習しようと、甥のギターを借りて練習を始めてはみたものの、独学では駄目かと思い悩んで居った矢先であり、正に『渡りに船』の思いであった。講習会では、男性五名・女性十一名の同級生を得て、ボロロンボロロンと幸せ気分、六十八歳の手習いであるが、何よりも我が家の『診療所』が『教室』として再開出来たことが、今年のビックニュースとなった。
思えば、小学二年生の音楽会の時、体操場で教壇を重ねた上で、真新しいガブガブの茶色のセーターを着て、「凧々上がれ‼」を独唱した事から始まり、戦時中は吹奏楽に熱中し、戦後はヴォイオリン教室に通い、そしてアマチュア合唱団にも所属して楽しく歌い、文字通り青春を謳歌して遊び回り、ついには尺八に手を出したりして、営々六十年間持ち続けた『音』への夢を捨て切れず、今度はクラッシクギターに挑戦したと言う訳である。
しかし果たして今度のギターは、何処までやれることやら、体調にも自信が無いので、心許ないのが正直なことろである。
発声教室
長野日赤B4棟看護婦 金本美佐
私がはじめて発声教室と出会ったのは、看護学校の学生の時でした。授業の一つとして参加させていただきましたが、はじめて聞く声に少し驚きを感じました。教室には二十人近くの会員の皆さんが発声訓練をしていました。お茶を啜りながら何事もなくお話をしてくれる方、顔を真っ赤にして、とぎれとぎれではあるけれど一生懸命にお話をして下さる方、電器具を当てながらお話をして下さる方等々お話の方法は様々ですが、どの方もとても表情豊かに、生き生きとお話をして下さいました。
その時ある方から、「私たちが一番辛いことは、私達の声が聞き取り難くて判らなかった時でも、判った振りをされる事です。」と言われた事が大変印象深く、それが重要な事であったとして、今でも脳裏に刻みこまれています。
私が耳鼻科病棟に勤めるようになって三年が経とうとしております。発声教室にも何度かお邪魔させて戴いておりますが、始めの頃は、誰が誰なのか一致せず、戸惑っていましたが、今では発声教室の指定日に廊下や、階段ですれ違っても、○○さんだとすぐに判る程になりました。特にこの病棟に入院された方等は、手術前の不安感な表情や、手術後の辛そうな表情をじかに見て居ましたので、教室の先輩方に指導を受け、時々頸をかしげながらも頑張っている姿や、或いは声が出た時の嬉しそうな顔を見ますと、私も嬉しく感じます。
まだまだ不勉強でしたので、思い切って教室当番の時に指導員の方に次のことをお聞きしてみました。それは
①誰がはじめて食道で発声できることを発見したのでしょうか?
②こうした発声の会は何時創られたのでしょうか?これについては次のように話していただきました。
①について(日喉連会誌第四号中村会長さんの挨拶の中から説明があったのですが...)
発声訓練の歴史は、最初は心ある医師の啓蒙活動によって端を発し、ついで喉摘者自身の絶望的苦悩を克服しようとする自助努力と医師の指導協力によって、急速に第二の声を形成することに成功し、活発に展開されてきたのであると言うことでした。
②については
信鈴会は創立が昭和4年1月8日でありますが、東京の銀鈴会はすでに昭和29・9に創立されておりました。又信鈴会は、日本咽摘者団体連合会(略して日喉連と呼称し、昭和45・3・30設立)の全国7ブロックのうちの、東日本ブロック所属の1団体のなかでは、横浜市港笛会(昭和42・1創立)についで3番目の創立であって、今年平成10年はその大きな節目の三十年を迎える記念の年になるのだそうです。
こうした会であるので、月3回の訓練会でお互いに励まし合い刺激しあっていると思います。また教室での訓練ばかりでなく、私も参加させていただきましたが、時には親睦を兼ねてのレクリエーション先でのカラオケにより発声訓練等、皆さんの団結は更に深まっているように思います。
そこで『私は皆さんのために一体何が出来るのかな』と考えてみますと、『その中に混じって一緒に楽しむこと。これだ‼』と思いました。皆さん何時までもお元気で発声訓練頑張ってください。
どうかこれからも宜しくお願い致します。
鎌倉・三浦海岸の旅
伊那教室 矢崎明
九月二十九日、平成九年度の信鈴会レクリエーションは晴天に恵まれ、当番教室の地元飯田を車の出発点としてスタートしました。長野教室からの参加者は松本に集結しての再スタート。岡谷と小淵沢とで、それぞれ諏訪・佐久教室の合流があって、3名の参加者のすべてが出揃いました。どのような行事にせよ、当番にとって参加予定者全員の参加と、天候に恵まれるほど嬉しい事はありません。そんなよろこびと安堵感を乗せて、バスは小淵沢駅前から実質的出発となりました。
会長さんのあいさつをいただき一路東へ。いくつかのアクセントがあったからこそ、瞬く間の東京。石川サービスエリアで昼食を積込み、やがて高井戸にて中央道とお別れ。首都圏の西寄りをかすめるようにしての環八、そして第三京浜。バスは横浜の中心街を走って本日の目的地の一つマリンタワーの玄関に横付け。
展望台から眺める横浜は、いつの頃か私たちの常識の大阪を越えて、人口日本第二の都市となっていました。私たちにとって、この横浜は、東京とともに若き時代の思い出をそそる場所ではないでしょうか。それは昭和10年代から3年0年代、あるいはもっと後ほど、いろいろな意味での日本の政治・経済のあゆみとともに、若き日の心とからだを預けた場所。心なしかあちこちから、思い出をこめてそこここを指す姿が見えました。
つづいては幕末から明治、そしてその後の横浜を特色づけるような、様々な姿を見せる山手の狭い道路を抜けて、バスは三浦半島へ。逗子・横須賀・衣笠と南進するのは通称横浜道路。衣笠からは半島を横断する形で西海岸へ。そこでは、戦前、戦中の私達の苦しかった共通体験の一端について耳を傾け会うひとときもありました。
第一日の宿泊地を目の前にして、太陽が傾きかけたひとときを、バスは城ヶ島大橋を渡って島内へ。この島は詩人白秋の名とともに美しい風光の地だが、この時何故か静かな雰囲気。しばし足を止めた土産物店で、私達のカバンは思いがけず家への土産の磯の香りで、みんな大きくふくらんだ様でした。これは、店主の「気を使わんでもいいから金を使って。」と、バスから降りた私たちに親しげに呼びかけたその声に答えた形となりました。
定刻、私たちは宿舎観潮荘の前庭に降り立ちました。女性参加者に一室と、他は六室に、主として所属教室単位の部屋割で、先ずは安堵の一こえとともに旅装を解きました。この日の宿泊地については、文末にも触れますが、私達の集まりが、平均的に夢を寄せ会うことのできる空気が、ここ油壺観潮荘にもあったことを、誰よりも当番幹事が先に自画自賛する中で、飲み語り歌いそしてまた飲みして、やがての一夜の眠りとなりました。
第二日が昨日と同様の晴天であることを喜びながら、バスは逗子・葉山を通ってほどなく鎌倉へ。海岸を離れての見学地は鶴ヶ岡八幡宮、そして大佛。八幡宮では若宮大路・舞殿・大銀杏・拝殿。大佛では体内にも入り、建造物としての大佛をしばし見上げる。吾妻鏡をとおして見る鎌倉。そして太平記をとおして見る鎌倉。そういうものを超えて、頼朝に、護良親王に、静御前に心を寄せてみる。大佛の前の石段に並んで記念写真。自由行動の中で土産物店のおばさんも、折しも今日予定されていた能が、延期になったことを教えてくれました。大変限られた時間での鎌倉に後ろ髪を引かれながら、私達は楽しい食事の江ノ島へ。此処では先ず江ノ島神社に参詣。両側に軒を連ねる土産物店を覗くことを忘れずに、楽しさと共に訪れた空腹を抱えて食堂へ。大変美味しく楽しい食事でした。
帰路は一瀉千里。車内ではビデオあり、唄あり、眠りありとはいいながら、あっという間に最初の解散地小淵沢に到着しました。
第一日宿舎での宴会に先立って、この旅行の経過報告の要請を受けた当番の答えは舌足らずでしたが、まず第一に当番教室では、旅行目的地を四月お花見会の節、提示した三つの目的地案についてアンケートをとり決定したこと。第二に横浜八景島が目的地メインであり、後刻変更したこと。宿泊地が横浜から油壺に変わったこと、以上であり、初めの案も、変更後の実施内容も共に良かったことを、この旅行記の文末に付け加えさせていただきます。
広い長野県の五つの教室の一つにまとまっての目的地が、北に南にそして東に西に、伊豆堂ヶ島温泉・水上温泉・北陸芦原温泉・そして館山寺温泉と、楽しい思いを残していただいたこの五年間に改めて感謝しながら、平成九年度鎌倉と三浦海岸の旅の思い出の記を閉じさせていただきます。
(平成10年2月7日)