昭和61年刊 第16号

巻頭言

信鈴会会長 鳥羽源二

会報第十六号を発刊出来ましたこと、まず感謝申し上げます。

信鈴会も、長野日赤病院・松本信大附属病院・伊那中央病院・佐久総合病院に、それぞれ発声教室を設けさせていただき、各病院の深いご協力のもとに、指導員・参加者の宜しきを得てその成果を上げていることは、誠に喜びとするところであります。

しかし昨年は、当会の良き理解者であり後援者でありました、信州大学附属病院の石田看護部長や中西耳鼻咽喉科婦長が、停年や家庭のご都合で退任されたことは残念でございました。ご健康をお祈りいたすと共に今後共ご協力賜りますことをお願い申し上げます。

尚、長野県信鈴会の生みの親であり、会の成長発展のために終始された前事務局長の島成光氏が七月、九十一才にて逝去されました。長い間のご苦労を感謝すると共に御冥福をお祈り致します。

また、長野日赤病院耳鼻咽喉科長(副院長)の浅輪先生が急逝されたあと、さきに信大附属病院にもおられ、信鈴会の良き理解者であられた河原田和夫先生が着任されましたことは、信鈴会にも長野発声教室にも力強いことであります。一層のご指導を賜りますこと願って止みません。

今年のレクリエーションには、喉頭摘出の際舌をも切除して発声不能の方も、仲間とのふれあいを楽しみに、勇気をもって参加して下さいました。会員の皆さん、発声の向上と、情報の交換等の場として、県内四ヶ所最寄りの発声教室、また信鈴会の諸行事に是非ご出席下さい。

私のバードウォッチング

信大医学部名誉教授 鈴木篤郎

全く恥ずかしい話だが、私は現役時代には、庭にどんな鳥がやってくるかなどということに興味を持ったことは一度もなく、鳥の啼き声をきいても、区別できたのは、鶏のほかはスズメやカラスぐらいのもので、その他の鳥のことには全く無智・無関心であった。ところが、退官して日中も家に居るようになると、部屋で本を読んでいる私の耳に、今まで聞き馴れないかなり色々の鳥の声が入ってくることに気がついた。それでも、現役時代の惰性で、なにげなくそのまま聞き流していたが、そのうち何時とはなしにそれらの声が気になり出し、また庭の樹や、時には芝生の上に、自分では今まであまり見かけなかった鳥の姿を見つけると、飛去るまで眺めているようになって来た。

そのころ、嘴の黄色い鳥が二十羽以上芝生の上で群れているのに驚いて、「何という鳥かしら」といったら、「ムクドリも知らないの」と家内に笑われた。これがきっかけになって、信毎から出版されている長野県野鳥図鑑という本を買って来た。庭に来る鳥をこの本と照合して名前を知ろうという考えであった。しかし実際にやって見ると、枝に止っている鳥の姿を見かけてから、あわてて図鑑と見比らべても、なかなかこれだという結論は出し難く、今のところあまり効果はあがっていないようである。やはり鳥をよく知っている人から直接教えて貰うのが一番よい方法とは思うが、その機会もなかなかやって来ない。

それでもこれまで庭で見かけた鳥のうちの何種類かは多分これだと確認できた。それはヒョドリ・ジョウビタキ・ツグミ・ジジュウカラ・セグロセキレイ・オナガ・モズなどで、いずれも町の鳥・里の鳥として皆がよく知っているありふれたものばかりらしい。しかしこれだけのことでも、これまで鳥に全く関心を持っていなかった私自身にとっては、一つの新鮮な喜びであった。それに、鳥の声をきいたり、その姿を眺めたりするというごく単純な行動が、人の心にある種の感動、少し大袈裟に表現すれば、「お互によく生きているね。これからも楽しく生きようよ」といった「生きていることへの共感」を感じさせるとは、今まで全く予想もしていないことであった。来年の宿題は、庭に来る鳥ばかりでなく、郊外の森などにも足をのばし、人なみにバードウォッチングらしいことを始めて見たいということである。

今年の夏、芝生の上に出しておける安物のテーブルと椅子を求めて来た。夕方涼みながらビールなどを飲んでいると、やや暗くなりかかった夕空をバックに、「クイッ」「クイッ」と啼きながら二・三羽ずつ北から南へ飛んで行く鳥の群がある。カラスと同じほどの大きさで、毎日のようにいつも北から南の方向へ飛んで行くので、培に帰るカラスの群かとも思えるが、どうも啼き声が違う。例の長野県野鳥図鑑を見まわしても、これだと思われる鳥は載っていない。専門の先生にきけばすぐわかると思いながらも、そこまでやるほどの積極性も持ちあわせていない。ぐずぐずしているうちにその鳥の姿も消えてしまった。

十月中旬に大学時代の同級会が会津の温泉であり、出席者のなかに日本野鳥の会何とか支部長といった肩書の男がいたので、この話をしたら、それはカケスだろうとの答であった。喜んで家に戻って本を見たり、テープでカケスの啼き声をきいたりして見たが、どうもあの鳥はカケスとは違うようだということになった。解答はおそらくたわいもないものだろうが、私自身にとってはこの鳥の正体を知ることも来年の宿題の一つになってしまったようである。

(十一月二十三日)

ポートランドの秋

信州大学医学部教授 田口喜一郎

昭和六十一年九月十一日から十一月十二日まで、文部省の在外研究員として、カナダおよびアメリカ合衆国で過ごす機会を与えられましたので、その御報告を兼ねて感想などを書かせて頂きます。

学会などで外国に行く機会は今までも度々ありましたが、長くて二週間程度で、その国の人々の生活に直接触れるという機会はほとんどありませんでした。今回は研究を目的とする渡航でしたが、アメリカ合衆国のオレゴン州にあるポートランドに六週間滞在することになり、現地の人々と多少の交流を持つことができました。

ポートランドは人口四十万人弱の中都市ですが、面積は大阪位はあるので、どこに行っても人は少なく、いわゆる繁華街でも肩をすれ合う程混雑するということはありません。

気候は、ほゞ松本と同じで、夏は特に過しやすいとのことです。オレゴンの雨は有名で、丁度私がいた九月下旬から十一月上旬にかけては、一週毎によい天気と雨天が交互に続き、理想的なハイキング日和と憂うつな日々を経験することができました。天気の悪い日は少し寒ささえ感じましたが、真冬でも厳寒に悩まされることはなく、雪も一冬に十センチ程降ることが数回あるのみということです。

市はコロンビア川の支流であるウィラメット川で東西に分けられ、周辺は山と丘で囲まれた美しい街で、私が研究をしたグットサマリタン病院は北西二十二丁目にありましたので、ホテルは歩いて十五分程の所に探してもらいました。ホテルのすぐ近くには西ノ丘の上に広がるワシントンパークという公園があり、こには快適なピクニックエアリア・ハイキングコース・テニスコートの他、国際ばら庭園と日本庭園があります。ばら庭園には数千種のばらが植えられ、毎年こでは世界各地から集められたばらのコンテスト(品評会)が行われるとのことで、毎年の優勝品種は庭園の中に植えて保存されることになっております。ばらはハー七月頃が一番見頃とのことですが、十月にも沢山の品種が甘い香りを放っており、冬でも咲く品種があるとのことです。ポートランドは『ばらの市』とも呼ばれ、一般家庭の庭先にもばらを多く見かけました。また毎年こ、で行われる美人コンテストで優勝した女王の名前は敷石の上に刻まれており、市民の憩いの場になっています。日本庭園は段差のついた広大な土地に、平庭・茶室・池山回遊式の浄土庭園・枯山水そして自然庭園と多彩で、更に大きな殿堂は各種催し物に使われるよう一番眺めのよいところに配置されており、私が訪れた十月中旬は紅葉の盛りで、生花展が開かれており、洋装の教授に混って数人の和装の女性の姿が目を惹きました。

ポートランドの東方にはフッド山(三四二七メートル)秀麗な山容を見せ、頂上に雪を戴く姿は恰も富士山のようであり、また見る方向によっては松本から眺める常念岳のようでもあります。ポートランドからフッド山に向う一○○キロメートル弱のハイウェーはコロンビア川に沿って走り、滝や奇岩を中心とする景勝の地であり、コロンビア川峡谷と呼ばれています。花嫁衣裳の滝・馬尾の滝そして二〇〇メートル近いマルトマの滝など一つ一つが観賞に値するものといえます。

一度だけゴルフ場に連れて行ってもらいましたが、パブリックコースでありながら、後続は三十分後ということで、ゆっくりプレーできる点は私のような初心者には大変有難い点でした。また値段も二十七ホールで十八ドル(約三千円)と安く、ゴルフが日本ではブルジョアスポーツであるが、アメリカでは大衆のスポーツといわる理由がよく理解できました。なお最も人気のあるーツは野球でもゴルフでもなく、アメリカンフットボールであることは御存知のこと、思います。

このような環境ですから人々は毎日のんびりと暮しているとお思いかも知れませんが、さにあらず、連中の勤勉さはわれわれも学ばねばならない程です。医師はアポイントメント(予約)により患者さんを十分時間をとって精査し、手術し、そして診察結果を逐一テープに吹き込み、秘書がタイプ(ワープロを使っている)して完全な診療録を作る。看護婦も休む暇なく順序よく仕事をこなし、医師を助ける。検査技師は前日まで決められた検査を次々とやるといった具合で、見ていて小気味よい程です。私が実験を夜八時過ぎまでやっていたらさすが連中もびっくりしましたが、その時まだ残業している看護婦がいるのを見て驚きました。一般の人々も大部分が夫婦共稼ぎか、妻はボランティアとして無料奉仕の仕事(例えばリハビリの介助)をやっており、日中遊んでいるのは僅かの不良少年のみという訳です。

しかし時間外と週末の遊び好きも顕著で、よくパーティをやり、家族や友人達と食事に出かけ、また観劇・楽会・映画など大繁盛です。丁度私が居た時ハロウィンのパーティが行われ、私も招待されましたが、大人が仮装して現われ、自作の料理を持ち寄って楽しむ様子は、さすが開放された民族という感じを深くさせられました。また家の立派さ、その中に持つ家具類の豪華さと相俟って、吾々日本人の多くが持っている中流意識をぶちこわすものでした。医師という訳でなく、看護婦や事務員といった一般職の人々が平均五十六室以上で大きな庭を含む住宅を持ち、車も夫婦なら二台は持っているという生活状態、そして二十人位の客なら平気で歓待できる程の食器や椅子類を揃えているのを見ると、私が今住んでいる家は下流のうさぎ小屋に近い住居と云われても反論できないことを実感致しました。私の収入が同じ年の看護婦以下である点、貿易摩擦云々といっても、アメリカの一般庶民には全く関係ないことで、大型車を持ち、日本車はセカンドカーとして利用し、日本製のカメラや時計を買い、北欧の家具を揃えて、ウオーターベットで休むという生活を十分楽しんでいる訳です。

ポートランドは札幌と姉妹都市となったということで、札幌市民病院の医師が二人来ていましたが、私の行った研究室では私が始めての日本人ということで随分珍らしがられ、また好遇されました。お蔭様で短期間ではありましたが、研究と共に連中の生活や考え方の一端に触れることができたのは幸でした。

廔らく留守をしたため、皆様方や教室の諸君には何かと御不便をおかけしたことと思います。今後吸収してきたものを、日常診療や学問の世界に反映して行きたいと思いながら筆を擱く次第です。


松本市横田 石田愛子

みなさまお変りございませんか。教室でのお元気な姿を思い出します。路傍の空地にヒメオドリコ草が温かそうな枯葉をまとって、はやくも若々しい緑の葉をのぞかせています。

みどりのまま冬にたえ、やがて早春をいろどることでしょう。落葉の季節は同時に芽生えの季節ともいえます。今野副部長さんより原稿の依頼をいただき、お役にたっているわけでありませんのに、折角お声をかけて下されはずかしいやら喜しいやら、ことならぬ弘恵さんにたのまれてわねと約束しました。

在職中は多くの方々にささえられ、無事長いこと勤められましたのも皆様方のおかげと、そして良き友人に恵まれましたこと感謝しています。今は平凡な生活のなか些細なたのしみを求め、規則正しい日々をすごしています。

もみじに寄せて小唄の稽古をおもいだして、

師匠、よくきいて下さい。サラットしたうたです。

チントンシャンチンチン

人と契るなら薄く契りて末まで遂げよ

チチチン トンシャン

もみじ葉を見よ チンチン 薄きが散るか

(ちるかはゆっくりうたう。)

濃きがまづ散るものに候 そうじゃわいな

チントンシャン(やさしくね。)

師匠、なんでもないところを大切にうたう。ぞんざいにならないように。末長く添いとげるには、はじめから熱しすぎるとつづかない。燃えつきて疲れてしまう、深なさけをいましめている。隆達小唄のなかに、「人と契らば薄く契りて末遂げよ紅葉ばを見よ濃きは散るもの」とあります。江戸初期に堺の富商の出身で僧となった高三隆達(たかさぶりゅうたつ)が室町以来の小歌と独自の声調で一新した。又一方では、「人と契らば濃く契れ薄き紅葉も散れば散るもの」と、同じ材料で結論は逆、それぞれ一理ある。

小唄は一芸にひいでた人がやるのでそれぞれの味がある。芝居・俳諧に関係がある。江戸風の粋というのか、発声は江戸べん、榎本武揚の江戸ベランメイ口調の作もあり、魅力があります。小唄のことを、三下り女のぐちにふしをつけ、とわる口もあります。

かけ足で冬がやってきます。逆にゆったりした気分でお互い元気よく、いきたいものです。

ではみなさま、ご機嫌よう。

コミニュケーション障害のとりくみ

日赤病院 河原田和夫

毎日の診察の中で、コミュニケーション障害の方々が多数みえるのですが、時間的制約があってじっくりとりくむことができないでいます。

月二回、県リハビリテーションセンターに出かけ、聴覚・言語機能障害の方々に、身体障害者診断書を交付したり、補聴器の判定をしていますが、なんとなくおざなりになってしまいました。これはいけない、なんとかしなければと思いながら、どうすることもできず今日に至ってしまいました。

長野県耳鼻咽喉科医会(平林栄次会長)のおすすめもあり、テキストをつくってみようということになり、十一月末日に「音声・言語・そしゃく機能障害の診断ー障害診断書の記入要領」と題して刊行しました。会員の皆様はそれぞれ三級の障害手帳をお持ちと思いますが、昨年から重復障害が認められ、加算昇級ということが可能となりました。

ですから、脳血管障害の後遺症で体が不自由でしゃべれない方については、これまで二級しかもらえなかった方ですと、今回の措置で「言語機能障害」三又は四級が加わりますので一級となるわけです。

福祉・医療がかなり難しい状況の中ですが、誰れもが安心してかかれる医療にしたいし、福祉の恩恵が弱い方々に行きわたるようにしたいものです。

微力ですが、診療のいそがしさにかまけないで、表題に示した事項について努力してみようと思います。

フキノトウ

信大病院 山本香列

フキノトウと言えば、大部分の人は、早春の、所々に雪の残る野に、春の訪れを精一杯表している可憐な蕾を思い浮かべることと思う。所が私の場合は、南安曇郡穂高町の出身である所から少しちがっている。穂高町は、「穂高のワサビ」で有名な所である。私には、祖父と共にこれを取りに行った懐かしい思い出となる。春の日差しを感じさせる二・三月頃であったと思うが、ワサビ畑の日溜まりに周囲の景色とはちがう春の息吹きがあった。

所が、昨年の暮に北信の病院に出張した際に、飯山市の患者さんが、フキノトウの蕾を数個きれいに鉢植して持って来てくれた。時期はずれの物珍らしさもあったが、フキノトウのもつ早春のイメージからか、その場の雰囲気がパッと明るくなった。折しも、北信地方は終日の大雪で、雪が激しく窓外の木の枝に降りかかり、締め切った窓ガラスも湿気で曇っていた。その場に居合わせた人は、診療の手を止めて、ひとときフキノトウに引きつけられた。

この強い印象から、正月の暖かい日差しの中、田の畔にフキノトウを捜しにでかけた。冬にフキノトウを見付けることは痛くむずかしいことで、フキの出る所を知っていれば容易なのかも知れないが、田の畔ならどこでも生えていると言うものではなかった。半ば諦めて、暖かい正月をブラブラと自然を楽しんでいた。一時間くらい経ったであろうか、親指頭大の見事なフキノトウが凍った土の上に顔を出しているのに出合った。今にも開いて黄色の花がみられるかと思う様な大きな蕾であった。

今は、我家の居間に鉢に移されて開花を待っている。人がこの蕾を見た時には、色々な反応を示しておもしろい。大人は一様に興味を示し、しばらく眺めていてくれる。フキノトウの蕾に早春を重ねて見てくれるのであろうか。子供は、低年齢ほど冷たい反応であった。我家の末の小学生は「こんなきたないものを家の中に持ちこむな」と。毎日家に帰ると、まずフキノトウが気掛かりとなる。生き生きとしているかどうか。水が足りなくはないかと。やがて花開き、フキの匂いが部屋一杯に広がってくれる日を待ち遠しく思っている。

信州のエイズ騒動

佐久総合病院耳鼻咽喉科 小松正彦

松本市内の飲食店で働いていたフィリピン人女性にエイズの疑いが生じ、ここ数日来松本を中心に県内は一寸したパニックに陥っている。身に覚えのある男性諸兄は戦々恐々の日々だそうである。

エイズが医学的にまだ充分解明されないに加え、保健所も当女性の検査結果をプライバシー保護と称して公表していない。なのに彼女を強制的に本国送還させたものだから一般の不安は高まる一方である。最近は問題が、東南アジアの女性に対する民族差別にまで発展しつつある。

彼女がしばらく当地(佐久地方)にも滞在したとの真ことしやかな噂が流れたためこの辺の少々怪し気な飲食店は閑古鳥が鳴いているそうだ。詳しいことは知らないが......。

それにしてもこの種の騒ぎがこともあろうに長野県でおきたものだがらマスコミは、これ幸いと、教育県の裏表と題してとんでもないことを書きまくっている。日く、表向き個室浴場設置を許可せぬ裏側での非合法的風俗営業が多くの外人女性を取り込んでいる等々。これには私も信州人の一人として苦笑してしまった。鋭いところを突いている。

今度のエイズ騒動は奇しくも信州人の建前と本音の違いを露呈した形になった。自ら清潔と称する県内にどれはど多くの東南アジア女性が蠢いているだろうか。聞けば長野県はジャパゆきさんの入県数に於て全国一・二を争うという。なるほど当地より更に奥の寒村にもその種の女性がいると聞いたことがある。

この際だからこのエイズ騒動を良い機会にして、長野県も道徳とか倫理とか色々と難しい問題もあろうが、建前論はさておきひとつ個室浴場を許可したらどうだろう。そして衛生面をきちんと保健所の管理下におくのである。信州の若さを持て余す青年達が金と時間を使い他県へ遊びに行く現実を。数年前、「トルコ許すまじ」なる本を書いて得意の絶頂にあった市民団体の方々は御存知だろうか。彼らはこのエイズパニックをどう捉えているだろうか。疫学的見地から一言述べた。

信鈴会の皆様の会報にとんでもない一文を載せていただいたこと、どうぞ御容赦下さい。

この内容に関する思想は全て私個人のものであり、佐久病院とは別個のものであることを明言します。最近の社会問題で特に思うところがありましたので書かせていただきました。

手術と発声

副会長 大橋玄晃

先日車中で、東京の銀鈴会特別常任顧問高藤次大博士著"こえよ、いまひとたび"を読んでいる内に手術の方法と食道発声の関連に就いて書かれていた点に深い関心を持ちました。

文中、下咽頭胃吻合術や頭部食道再建術の手術者は普通の喉摘者より食道発声がむずかしいと思われているという文を読んで、同じ喉摘者の手術にも色々ある事を知り、その点に就いて、今野看護副部長さんにお願いして説明をして頂きました。私達が一般に受けている喉頭全摘出手術その他に喉頭形成手術・食道形成手術・下咽頭胃吻合手術等があり、喉頭形成手術は気管口から食道にパイプでつなぐ手術で、この手術を受けた人が指で気管口を軽くおさえて発声している事は割合い多くの人が知っていると思われますが、皮膚・筋膜等を使って食道を作る食道形成手術や胃をつり上げる下咽頭胃吻合手術等に就いては知っている方は少ない様です。これ等の手術の結果、狭窄部がなくなる為食道に当たる部分はズドンとしたホースの様な状態となり、収縮がきかないので仲々食道発声がしにく、なる訳です。私も、高血圧・心臓病・喘息・難聴の人の食道発声が困難である事は聞いておりましたが、前述の手術を受けた人の食道発声のむずかしい原因を改めて知らされました。そして、高藤先生の仰せの通り、発声を指導する立場の者は、どの様な手術を受けたのかを確認し、個々に応じた指導を行わなければならないと痛感いたしました。又一方、手術を担当された先生方から看護婦さんを通じてでも、指導員に手術の内容に就いて一応お知らせ頂ければ当初から的確な方法を選べると思った次第です。曽てこの様な特別な手術を受けられた方々でも銀鈴会に於ては三人に一人の割合で食道発声に成功しているそうです。その場合、発声練習で首の前のところを軽く左手の人指し指をあて、発声するのも一方法の様です。発声の方法に就いては手術の内容と本人の希望によってですが、先づ指導員とよく相談されて決定される事が望ましいと思います。最近の例をあげて見ますと、人口笛を使ってから食道発声を習いたいと言うケースが増えて来ており、そして仲々要領がつかめず苦労している様子が見受けられます。人口笛を使っての発声は手術前と同様な呼気で気管口を通しての発声であり、食道発声は全く逆で、気管口から空気が出て終っては声にならないのであります。従って、人口笛を先に使った場合その時の呼気の癖が抜けきらず、食道発声が仲々うまくいかないのであります。

私も食道発声と人口笛を使っての両刀使いですが、経験上から申上げると、先ず食道発声を習い、その後に人口笛を使うか、どうしても食道発声が不可能と分った上で人口笛の方法をきめた方がよろしいと考えます。食道発声は、人口笛を使うのと異なり、習得に時間もかゝりむずかしいですが、辛抱強く、あせらず、飽きずに、マイペースでこつこつと努力してやって頂きたいと念願する次第でございます。

信鈴会長野発声教室の生いたち

吉池茂雄

信州の北半分をうるおして、とうとうと流れる日本最長の千曲川(信濃川)の、雄大な姿は誰でも知っているが、甲武信岳の山肌のコケの群からしたたり落ちる水滴や、日本アルプスの雪解け水のしたたりを見た人、そしてそのしたたりが、千曲川につながることを考えた人はそんなに多くはいないと思う。

長野県信鈴会の最大の事業である発声訓練も、県内に四教室をもって活発に活動しており、その実を挙げている。この点では全国に誇り得るものだと思う。

しかし、その起源がどんなふうであったかを知る人が今何人いるだろうか。年々その人達が少なくなって、やがてさびしい事だが、起源がわからなくなってしまい、日本の神話のように幻の彼方の物語になってしまうのではないかと考えると、今のうちに、その発生源をはっきりさせておくことが、当時を知っている極く少数の者たちの責任であるかのように思えてならない。

お前なんか生意気云うなと叱られるかも知れないが、覚悟の上で筆をとりました。

鈴木ふささんが日赤長野病院で喉頭全摘術を受けたのは、昭和43.11.6であった。術後の経過も順調だった。受持の医師・看護婦の方々は、日赤での女性の患者で第一号という事もあってか、退院までに何とかして、失った声を再生させてあげたいと熱意を燃やした。

その頃、東京の銀鈴会で食道発声の指導をうけて帰って来られた更埴市の碓田清千氏(信鈴会の初代副会長)を招いて、相談・指導を受けた。碓田氏は非常に熱心で、電話一本で何時でも駆けつけてくれたという。

昭和43.12.7、碓田氏の案内で、看護婦数名と鈴木さんは銀鈴会に出席した。これが日赤発声教室の、事実上の発足と見てよいのではないだろうか。銀鈴会から帰った鈴木さんは、看護婦の激励と碓田氏の熱心な指導を受けて、食道発声の習得に懸命だった。

鈴木さんは長野市内の会社の事務をしていた。一日も早く発声を習得して復職したいという鈴木さんの願いと、発声を身につけて退院させたいという看護婦たちの熱意とが火花を散らしてからみ合って、と云ったらオーバーな表現になるだろうか、両者懸命の努力だった。

鈴木さんが会社に復帰して、牟礼の自宅から長野までの往復のバスの中で、般若心経を口ずさみ、ついにあの難かしい経文を全部暗誦できるようになったという。

又、ハーモニカを吹くことを覚え、銀鈴会の席上吹奏して、満場の拍手を受けたという。この経文の暗誦とハ1モニカの吹奏は、食道発声の呼吸や息つぎに大変役立ったと云っている。

この事を聞いて、同じ悩みをもった人たちが大勢集まってきた。柏原の清水勇・大町の武井邦一・木曽の伊藤太郎吉・岡谷の田村平吉・須坂の山岸国治・上田の北沢兎一郎・高田の春日北雄の諸氏をはじめとし、大勢が集まってきた。これらの人々の中で、大部分の方は今故人となってしまったが......。

毎週金曜日の午后、耳鼻科外来の待合室を使わせてもらって教室を開いた。狭い部屋に膝をつき合わせて、碓田氏の指導を受けた。看護婦さんたちも、忙しい仕事の合い間を交代で湯茶の接待の外に、集まった機会にというので、血沈・血圧・体重の測定をしてくれた。金曜日に集まるので金曜会と命名された。日赤長野教室の歩みがはじまったのである。

この中で、清水勇氏は、はじめ笛を使っていたが、途中から食道発声に移り両刀使いをしていたが、晩年はきれいな食道発声で話していた。

又、昭和44年の秋頃だったか、看護婦の全国大会に参加出席した日赤の看護婦は、食道発声の鈴木さんの声をテープに採って会場で発表し、質疑応答も行なわれたという。

これらの活動の中で、年一回、会員の親睦旅行が行なわれて、修学旅行の子どもたちのように若返ってはしゃいだことも楽しい思い出となるであろう。

碓田氏が不慮の病で早世された後は、武井邦一氏が大町から通って指導に当った。

長野のバスターミナルと旧日赤病院との丁度中間にそば屋があって、そこで武井さんがそばをすゝっていた。そばの器の横に、氏好物のお銚子が一本立っていたのが印象的だった。又、大町の武井さんの家の近くに、氏所有の空地があって、時々そこへ家をこわした廃材が捨てられていて、「風呂屋をやっている私の家では、燃料が大変に助かりました。」と笑って話された事もあった。

その武井さんが、長野にも松本にも、顔を見せなくなってもう十年になる。やはりお歳のせいかなと淋しくなる。

昭和44・1・3、長野県信鈴会が創設され、その年の四月、信鈴会の春季総会の席上、金曜会の発声教室は、信鈴会の事業として認められた。

これに続いて、昭和44・5・8、松本発声教室が信大病院内に発足した。

南信方面の人はこれで大分うるおったのだが、まだ不便が多いというので、昭和53.10.18、伊那市中央病院内に伊那教室が開設された。

ひとり取り残された感の東信地方にも、地元の人々の強い要望から、昭和56.4.21、佐久教室が生まれ、これで県内四地区に四教室ができたわけである。これらの教室は、地元の人々の熱心な願いと、病院側の絶大など厚意によって生まれ、運営されて今日に至っているのである。

金曜会発足当時の長野日赤耳鼻科部長(晩年は日赤長野病院副院長)の浅輪先生はすでに天の星となられ、当時若い血潮を燃やした看護婦の皆さんは、それぞれおさまるところにおさまったのだろうか。今の病院には、その姿は見えない。当時の話を聞くすべもないので、私の聞きかじりを整理して書きました。間違いがあってはいけないと思います。あったら直して下さい。当時を知っていられる方で、私が数えられる人数は、片手に満たない僅かな人です。直すなら今のうちです。そして間違いのない正しい記録として、次の代へ譲りたいと思うのです。

長野の事ばかり書いて、手前味噌のようであるが、これは、長野に住んでいる私がこの目で見たり、この耳で聞いた事実を書いたものです。他の地区、松本・伊那・佐久(歌の文句のようだが)のことは、教室ができたというニュースは聞いて知ったが、そこまで至った経緯は判らないのです。地区の人々の熱心な要請が実ったとは思うが、それは私の推測にすぎない。推測やつくり話では歴史にならない。歴史は事実の記録でなければならい。

それぞれの地区で創設に関与された方、又その当時のことを知っている方が、健在であられるうちに、生々しい活動の事実を記録して、次の代へ遺してほしいと、私は切に念願しています。

声のありがたさ

伊那教室指導員 桑原賢三

先日、入院中の義兄の訃報に接して急拠馳せ参じ、その善後策に奔走した時のことでした。

義兄は子供がなく姉一人のため、どうしても私が先達で事を進めなければならない状態でした。何にしても行事のシキタリの違う他所のことで、お寺のこと、火葬場のこと、病院、支役所と、物言わねば事が進まず、葬儀屋・料理の発注・人員の確認等々三日間に亘り終日喋り通しでした。料理の注文に行ったとき、其の店の七十才位のおやじさんが私の顔を見ながら、風邪でも引いたのですかと問われ、声帯のないことを説明し、聞きとりにくいことを詫びながら打合せを終り、帰り際におやじさんが不思議そうな顔をして、「声帯が無くても喋べれるのですね」と言った言葉が心に残りました。

又、会葬者の方とも会話の中でさほど聞き返しのなかったことを思い合せ、食道発声でも結構通用するものだと思いました。

行事も無事終り、先方の身内の方々とのねぎらいの席でも食道発声の珍らしさも加わりいろいろと質問され、感心されていました。然し、大勢の人の集まりの中で食道発声が通用したことは、葬儀の場所と言うことで比較的静かであったことが幸いしたことと思います。

この三日間を通じて無事責任を果たし得たことを思い、今更乍ら声のありがたさを心より思ったことはありません。嬉しさや幸せは今迄何回かありましたが、本当に有難く思ったのは初めてです。

これからは、多少騒々しい所でも通用する声作りに精進したいと思います。

転ばぬ先の杖

茅野市 小池増晴

やァやァ暫らく振りじゃねえかい、そうさネ、六年振り位かネ。車社会と云うご時世に常日頃は町の中を歩いては通ることの少ない私が、街角で出会った旧友との会話です。大病とは聞いてはおったがと、外観で見る限りの今の生き態を如何にも不思議な眼差しで、折畳むように話し掛けてくる。それでも元気そうなので驚いたヨ、何にせ達者になってよかった、よかったと大変に喜んで呉れた。兎に角いろいろ心配を掛けたが、お陰様で。それじァ今は悠々自適と云うもんだネと、此の最後の彼の一語に私は咄嗟に背筋に冷や水の流るる思ひでした。過去の苦渋の思ひが、日々うす紙を剥ぐよう消え去ろうとする矢先、再び脳裏に句となり甦った。「予後の身を自適てふかな冬帽子」予後とは病後の容態を見守るの意。旧友の喜んで呉れる手前、まァ頑張ってをるヨ、とは云ったものの、病むことで自適とは?、空翔ける鳥でさえ雨・風に遇へば羽繕いを忘れぬものを、今更に無智を悔ひ残念に思へた。ある俳人の句に、「浜までは濡るるを愛とふ海女の衣」、所詮、海女は海に潜ぐるが生業、せめて潜ぐる迄の身をいつくしむと、己が身を己れが守るこの秀句に触れ感動亦あらた。旧友との出会ひに依って、生活の指針、転ばぬ先の杖、古諺を授ったことに触れて見ました。

最後に皆さまのご健康とご多幸を祈り上げます。

古時計の修理

岡谷市 小林政雄

八月初め、四十年前の戦争中に使用して持ち帰った海軍飛行時計を出して、其の頃より止まっていたものを自分の手で思い切って修理してみる事にしてみました。三日間かけて分解・掃除・注油をしてみると部品はピカピカになり、組込んでみると何か動きそうな気がしました。胸のドキドキするのを押へて震へる手でリューズを巻いてみるとコチコチと動き出しました。そして二十四時間止まりません。四十年ぶりに生き返へりました。しかし今までに五・六個の時計を分解しましたが、一つとして直ったものはありませんでしたが、懐中時計は部品も大きいし、今までの知識が積み重なって成功したと思います。時間も正確で、何か天にでも昇る様な子供の様持になりました。

音を聞き時計を見つめている内に、昭和十八年当時、台南海軍航空隊、戦斗機教程を卒業して別れた九六名の同期生の面影が次々と蘇がへってきました。亜熱帯の太陽のギラギラと照りつける広い飛行場で、毎日毎日飛び廻り真黒に日焼して練習戦斗機に乗り、国の為には何が何でも一人前のパイロットに成らなければならないと一年間頑張り通した仲間は......卒業后は外地南方の戦場へ又は教官になり内地の飛行練習生の指導に当り、其の後一年半の生死の間を通り終戦になり、生き残った同期生の六名と一昨年十月靖国神社で再会する事が出来て、零戦搭乗員会の五〇人と一緒に昇殿参拝して亡き友の慰霊祭をして、其の晩九段会館で語り明かしたけれども、皆六十才を過ぎた初老の好々爺になり、当時凄かった面影を残しているけれども、落ちついた穏やかな顔をして楽しく語り会い、本当に生きていてよかったと喜び合いました。

国の為とはいゝながら

「国の為何か惜しまん若桜 散りて甲斐ある命なりせば」

の句を残して散った少年の様な顔をした戦友・戦斗機搭乗員の九十名が戦死してしまった戦争は余りにもみじめでした。私達はこの戦友達に守られて生き残ったと思います。

戦後四十年も過ぎ、若い人達の間では戦争を忘れかけていると思います。

けれども、私達は一年に一度位は思い出新にして敗戦を思い出し、大切な平和を確立する様に心掛けたいと思います。一個の古時計から四十年前の命がけの日々を目の前に見る事が出来ました。私達の生活もその時計の様に日々新しい気持で時々注油して元気を回復して若さを取りもどして頑張らなければならないと思います。

さて現在の私ですが、七年前に声は失ったけれども、健康を取りもどして、又以前より尚一層丈夫になり、又どうやら会話も大体出来る様になりあまり不便を感じません。今后はより一層良い発声が出来る様に工夫して努力しています。尚、最近の新しい会員の皆様は非常に熱心で、上達も早く、一緒に勉強していても私達は毎回楽しみに出席しています。

何事も、今回の時計の話の様に、手を入れ、毎日コツコツの努力が積み重なって実が結ぶとおもいます。特に食道発声は毎日毎日の練習が無ければ決して上達は望めません。ともかく健常者と普通に話が出来る様になる事が一番大切な事だと思います。ですから関係者の皆様どうか尚一層の御支援・御指導を御願い致します。

私の老後

諏訪市 笠原よ志

チャンコラチャンコラ これは私が七十五才過ぎて始めたハタ織りの表現の言葉です。ずっと織って居た人もやめる年令になって始める物好きさに、我乍ら呆れたりおかしかったりで、五反も六反も目開きやら四ツ入れやらハゼこぼしを繰り返し乍ら、九反目頃漸くキズ物で無い物が出来るようになりました。喉頭の手術をする前から、その後も二十年近く息子の家内工業の仕事を手伝ってきたのですが、時代の不況で閉鎖になり、老後の手慰みに始めたハタ織りなのです。物の言えない私に遠ざかっていた子供達がハタを見乍ら寄って来るのが何よりの楽しみです。まだ子供の頃、祖母がいろいろ手ほどきをしてくれ乍ら「ハタの様な心になれ、ハタは素直でなければまともな物は出来ない」とよく言ったものです。ハタを織り乍ら、老後は素直になろう素直になりたいの一念で頑張っております。

十年目を迎えて想ふ

南安曇郡安曇村 宮本音吉

子供の頃むかしむかしと云えばおじいさん・おばあさんがいて、浦島や桃太郎がと子供心にもずい分遠い昔の事を連想したものでしたが、戦後四十年、最近の急速なる高度成長は目を見張るばかりで、現在では十年や五年前さえ一昔も二昔も前の様に感じます。私しも十年前に天与の声と決別致しました当時の苦慮心痛は終生忘れる事はなかろうと思っておりましたが、第二の声を取戻す事が出来会話も出来る様になるにつれ、当時の思いもだんだん遠い昔の出来ごとの様に感じられ、ともすれば忘れ勝にさえなるのが不思議な位です。何より大切に考えていた検診さえも年に一回か二回と云ふ有様です。「喉元過ぎれば熱さを忘れ」の言葉通りになりつゝあります。第二の声を取り戻すまでの人知れずの本人の努力は当然の事ですが、それにも増して発声教室の先生方や先輩・仲間の皆さんそして関係各位の方々の陰に陽にの協力・指導の賜ものを忘れてはならないと思います。声を取り戻すことにより多少の不自由は感じるものの、旧来の自分の姿を取り戻すことの自信はやがて完全な社会復帰となり、身の廻り以外の仕事も自然に多くなり、兎に角教室出席等も疎遠勝ちとなって恐縮して居ります。

十年目を迎え今更ながら想いを初心にかえり一層努力をしなければと思います。そんな意味からも昔になっ当時の想い出を二・三書いて見ます。退院直後お世話になった村役場へ退院の挨拶に行く会話中途にして、村長さんから気の毒だから休む様にいわれた。あとで聞い事ですが、村内でたった一人の病名(ガン)であったから大勢は絶望視しての同情からだったとの事です。又或る時は知人の先輩が大分病名に詳しい様子で、何人かの好例を取って慰めてくれたのですが、時がたつにつれて声もだんだん出るだろう、声が出てくればその気管口も自然にふさがるでせうと言われ、余りにも病気に対する無理解さに涙したこともありました。

又祝賀会に参列した時には大勢の知人・友人と同席し病後の慰めの言葉を戴いたが、さて飲食の時となると、喉頭を摘出しても食事はどうする、飲物は飲めるのかとの質問攻めにあいむしろ本人が驚かされた感じです。飲口は同じでも食道と気管は別々ですからといってもなかなか解って貰えず苦笑しました。多分入院当時のゴム管注入に依る食事の事を記憶してのことだったろうと思います。そしてそれならと煙草を出してくれました余りの好意に受け取っては見たものの、当時としては大変でした。幾月かたって笑ひ話しになりましたが、こうした数々の困った苦しかったこと、周囲から容易に理解して貰えなかった事等は限りないものでしたが、十年たった今日では周囲からも充分理解され、自からも生活の智恵と申しますか、自分なりに不自由さに対する諸々の補ひ方法も習得し、十年前を昔し話と思える事を大変有難いことと思います。「初心忘るべからず」を今一度胸にきざみ、お世話になった皆様に感謝致しながら一層の努力を致したいと思います。

誌上時事放談

岡谷市 武内基

皆さん昔は人生五十年と言いましたが、もう現在では人生八十年の時代です。良く眠ることが長寿の秘訣ですね。アテント褓をあてゝぐっすり眠ることです。このアテントなら一晩に三回ぐらい漏らしても楽にもちます。

こんなこと書いたのは私は暇だからテレビの見過ぎで書いたのではありません。私も来年四月で八十歳になりますが、自分の身にひきくらべて、いゝ老寄が赤チャンじゃあるまいし褓をあて、眠っておるとは考えるのも嫌やですね。今のところ私は身のほど知らずに大言壮言するようですが、褓をあてゝまで長生きしたいとは思っておりません。

さきの藤尾文部大臣の日韓合併問題や中曽根首相の知的水準問題の様に失言になるのでないかなあ。言う人、その場所、その相手によって失言になる。私が現に褓をあてゝ寝ておる人の前で何の同情心もなくこんなことを言えば人を侮辱したことになるのだなあ。結局政治家とか人気商売の人等は思ったことそのまま、自分の知っておることそのまま、又は直感したことそのまま、腹にあることそのま、言葉にしたり文字に書いては駄目だということで、建前とか本音とかの難かしい問題だね。そうかと思うと政治家の間で毛針で釣るなんて言葉もあるんだね。選挙に当選すればあれもやるこれもやる。これはこう改善するなんて出来もしないし、やる気もその力もないのに大法螺を吹いて、当選すれば私利私慾追及にきゅうきゅうとしており何もしてくれない。何か不満を言う者があれば、そう言う意味で言ったのではない、貴殿等の聞き違いだ、感違いだと居丈高に詭弁もって相手を説得するなんてよく政治家先生方のなかに使う人があるとのことだから、人生に練達の士のなかには政治家でばけの皮をかぶっていない人は見たこともないなんて嘆く人もあるとのことだ。

災は口より出でて身を亡ぼすとか、雄弁は銀で寡黙は金だとか昔の人は言ったが、これは昔の人は国内平和集団内の独裁平穏を保つため色々の意見論議を嫌って民衆というものは頼らせるもので知らせるものではないと、知る権利なんか認められない封建時代の愚民政策の一つだ。それで現代では言論は自由で、知る権利が尊重されているかと言うと、上には上があるもので、何か言はれて窮すると最重要事項として前向きに鋭意検討中ですなんで口で言って腹では、いちいちそんなこと取りあげておられんと思っておる者もあるだらう。口は重宝なものです。

防衛戦力増強のためと称して福祉も教育も犠性にして必要最小限度のものだなんて、分かった様なわからないことを真面目に言ったり聞いたりしておる様だが、真に必要か否かも解からないし、必要最小限度なんて言っても度量衡法による秤や物差がある訳でないから、世界の情勢を見間違ったり判断を誤まって国民総生産の何パーセントだなんて、国の大金を使うなんて全く無駄金と言うもんだ。第一戦争を抑止するなんて初めから自分の血を流して闘う本気がないのだから、本物の戦争になれば負けるに間違いないから、無駄な軍備なんか初めからせず、宣伝だけは日本は世界の現情勢に鑑み軍備こそ世界平和のため、国家安全のための唯一の最重要事項と判断するに至ったとして、全国民の頭脳と物資の総力を傾け尽して侵略戦でなく、いくらでも無制限にやっても良いという日本国の憲法の精神に基づいて防衛のため世界類史上かってない超新型特種の精強無比の膨大なる戦力の蓄積を遂に成しとげたと世界にそれとなく流布すること。これと併せて待望の軍機秘密法を制定して、その防衛の武器なるものは竹槍でも良い。絶対に秘密にしておけば金がかゝるだけで何の役にもたない子供の玩具の様な軍艦や航空機なんか不要になるのでないか。自衛隊の陸海部隊は災害時には実に威力を発揮するたのもしいものである。

この十一月十日の国会の中継放送を聞いたが、質問の中で、中小工業者の円高不況経営困難を説明する言葉の中に、倒産したくてもその手続に七十万円も必要なのでその費用さえなく倒産も出来ないでおるものが沢山あるなんて説明しておったが少し誇大でないかな。円高の差益を抜け目なく着服して所得申告となれば、これ又抜目なく申告洩れをなし、脱税でないと抗弁する。これに対してやんわり赤字だ赤子だといつも言っておるが、倒産なんかちっともしないではないかと答弁すれば、人の倒産を喜ぶ言動として問題になるかなあ。円高のことを言えば、最近まで外国に輸出していた豚皮が円高で売れなくなったので、豚皮と言ったのでは日本人に受けがよくないので、トン革とかピッグスキンと呼ぶことにして内需に向けることに皮革業者の申合せで決定したそうだ。良い呼名は良い。

最後にフイリッピンのアキノ大統領が十一月十日に来日され、四日ほどで帰国されたが、友交親善に大成功であった様だが、内容は経済援助の要請が主であった様だが、こんなことで吾々の僅かの年金が減ることはないから安心だ。以上妄言多謝。

十日間の入院

小県郡丸子町 西沢治宣

声が思うように出ない。食道発声と言うが、そんなこと一辺倒で十年。気管口がだんだん小さくなって呼吸が苦しく、町の病院近頃住民の要望で耳鼻科を開設したので、診て貰ったら『口摘手術のカルテのある病院で、開口手術をして貰いなさい』と言われ、信大で切り開いて穴を大きくして貰った。

呼吸も楽になり、発声の効果もめきめき、気分もすぐれ気持よくなりました。

口摘手術の際、大手術で苦しんだことが頭にあり、恐怖感に襲われたが、痰が詰り呼吸が苦しくなって、斯んなことで寿命を断つのかと思うと、余儀なく切開手術の決心をせざるを得ませんでした。まだまだ成さねばならぬ事が沢山あると心に誓い、懸命に生きることの努力と、健康に留意して努めて運動を、運動と言っても屋敷内の畑に野菜の自給自足の農作業位だが、婆さんも白髪頭になり元気。私も自分で出来ることは動く、それが健康の秘決であると思う。来春は七十七才。食は細くとも晩酌の一合位は百薬の長でもある。

二年前の六月、観光会社のツアーに誘われて、羽田から北海道に一と飛び、八日の旅をした。老妻と共に帰路は函館より青函連絡フェリーで、青森より寝台車で上野駅に夢を結んだ。両親が達者のうちにと子供達が送金してくれたので感謝しながらの旅行と言う訳。

病気はしたが、眼の見えぬ人、耳の聞こえない人、義足・義手の人が居ると思えば声が出ないばかり、他には特に悪いところはなく健康である。『お父さん、海外旅行もして来い。どうせ、外国語は通じないんだよ。』と励ましてくれる。

再入院の時、発声教室を覗き今野婦長さんや先輩指導の諸先生に、又当時からの看護婦さん方にお逢いできて懐しかった。短い十日間の入院だったが、同じ病気で入院中の人達とも親しくなって。未だ、追想するのです。

娘からの手紙

佐久教室 工藤務

一週間ばかり前、朝起きると喉が痛い。そっと押してみる。やっぱり痛い。つばを呑んでみた。あまり感じない。次の日も朝起きると、又痛い。

昨日昼間は何も感ぜず。家に帰ってから少し体がだるいと思ったが、風邪には気をつけなきゃと思いながら出勤。通勤途中片方鼻がつまる様な感じで少し息苦しい。車からおりる時いつもの通り気管孔のタンを取る。血が混じっている。前に風邪を引いた時に何回が血が出た事がありましたので別段驚かなかったが、咳をすると少し頭が痛い。

いよいよ迎冬に当り気をつけなければいけないと思っていた矢先、風邪の方が一足先に来た。私は、普段健康にはあまり気を使わない方で、家事から自分の健康管理まで女房まかせですので、一旦病気になると非常に困ってしまいます。手術后、風邪を引き易くなって、夏でも風邪を引く。風邪を引くときまって頭痛と下痢がともなう。喉も痛いが寝込む程でもない。ただ咳が出て苦しい。一度にあっちこっち具合が悪くなると、ただの風邪だろうが、特に喉の痛みは気になる。けれど、どんな薬を呑んだら良いか、どこの病院へ行くべきか、いつも迷う。昨日は大分具合が良くなってきたし、午後発声教室のある日なので、皆さんの顔を見たら気持も晴れて一層具合も良くなるだろうと思い、喉の痛みも気になって居りましたので佐久病院に行く。胸の写真も撮ってもらい、診察してもらった。異状なし、もう五年ですから病気の方は気にしない方が良い。と云われて、喉の痛みはやっぱり風邪のせいだなとほっとする。と同時に癌は治る。十日ばかり前に娘からの手紙に、その癌は五年たつと治ったと云う事だそうです。と書いてあった事を思い出した。先輩方にも色々と聞いて居りました。無罪放免の満五年俺も無事過ぎたのだと自分に云い聞かせるように呟いてみた。何の感激もなかった。たゞ五年前、あの苦しかった五年前の手術当時の事が想い出された。五十六年九月だった。声の調子は二年位前から悪かったが、朝咳をした時に膿のような血の塊りのようなものが出た。それから二日たって意を決して佐久病院に行く。会社でいろいろと喉の癌の話も聞いて居たので、もしやと思って居りましたが予感的中。出来るだけ早く入院する様にと云われる。俺もとうとう癌になってしまった、もうだめだ。整理をしなければいけない事が一度に頭の中で渦を巻いた。会社の事・地区の事・家の事、長女が高校三年生で先日進路について三者懇談会があったばかりだった。この娘だけは自分の好きな道へ進めてやりたかった。長女は内反足で、生後四十日位で手術を受けて、小学校三年生まで病院から病院、又施設へと自由のない幼年期をすどして来た娘なので意に添わない職業を。癌になれば手術をしても長くて三年位と聞いて居たので、たゞ慌て、親戚ですゝめてくれるまゝに押し付けてしまい悔まれてなりません。

又親しくお付合を戴いて居りました一番大切な方々にも御迷惑をかけてしまいました。その頃まだ中学生だった二女も今春高校を終り、飯田に居りますが、癌の予防について習いましたので書きます。と先日手紙をくれました。口には出さないが、皆いつも心配していてくれるかと思い少し感傷的な気分になる。癌は五年たては再発とは云わないそうですから、今後は自分の健康は自分で管理する事......。娘に云われて色々と反省している次第です。

私は言葉の方は恵まれて居りまして、手術を受けた前年から佐久発声教室が、御先輩方の御苦労により発足して居りまして、手術前から教室のお世話になり、三瓶会長の親身になっての御指導を戴き、半年位で自分の云いたい事だけはなんとか相手にわかっていたゞける程度に話せるようになりました。その後は、時に用事が足りますので、私の発声練習はストップして居りますが、佐久教室では山浦先生はじめ看護婦さん方の積極的な御支援と役員の方々の温情に包まれて、新しい方の指導に、又会員の心の寄り所として活発に活動をしております。私も今後隣人に迷惑をかけない様心掛け、発声練習にも励み、少しでも何か教室の役にたてる様努力したいと思います。

少し遅いけれど、癌予防の十二条(娘からの手紙)を参考に健康には充分注意して一生懸命生きて行きたいと思いますので、宜敷御指導御願い致します。

癌予防の十二条

一、偏食せずバランスのとれた食事をする事

一、同じ食品を繰り返し食べない

一、食べ過ぎない事

一、深酒はしない事

一、適量のビタミンACE・繊維質をとる

一、塩辛いものは多量に食べない(あまり熱い物も)

一、ひどくこげたものを食べない

一、カビの生えたものは食べない(部分的に取ってもだめ)

一、タバコを吸わない

一、過度の日光に当らない

一、体を清潔にする

一、過労を避ける(ストレスを貯めない)

人の生命

伊那市 伊藤良長

三日前、私の家で家内と三人で一緒にお茶を呑んで元気に種々四方山話をして嬉んで帰って行ったお婆さん、七十四才。

昨日昼頃、胸が苦しいから医者へつれて行ってくれと云ったので、急いで息子が車で伊那中央病院に行き、診察の結果入院と云ふ事で入院したけれど、いのちながらへる事が出来ずにとうとう他界されてしまった。

お婆さんは、戦争で夫は戦死、一男二女を育て、此の世に生を受けてただ苦労をして来た人でした。たゞ子供の成長丈けを楽しみに、旅行もせず百姓一筋に生きて来た人でした。

人間の一生なんてはかないものですね。

我々摘出者も多くの人が他界され、其のつど自分の事も深く考へざるをえません。

それでも喉頭摘出后、満五ヶ年の歳月が過ぎ、私なりの仕事も出来毎日を楽しく暮して居る次第です。でも今だに先生や婦長さんから手術の事に付いてお話しをお聞きした時のあの気持、今だに忘れる事は出来ないおそろしい事でした。

でもお蔭様で手術后元気で皆様にお会ひ出来、新しい旅行又新年会・総会等々で片言の様に話すのがなによりの楽しみなのです。気軽におつき合ひ出来るのは矢張り摘出者の方々なのです。

今後共よろしくお願ひ致します。むづかしい事等は新聞「テレビ」等でいち早く報道してくれますので、皆様も百も御承知の事ですのでひかえさせて頂きます。

終りに、前者のお婆さんの様な事なく、お体を充分御留意なされて一日でも長生きを致しませう。

一、駒ヶ峯に雪化粧して秋深

一、林檎畑野鳥群して秋深み

一、裏山の龍胴霜に首をたれ

一、伊那の谷目にうるわしき山紅葉

一、枯山間に紅葉ちらほら秋は行く

写真と私

南安曇郡穂高町 清水清二

私は、写真を始めて十五年になります。年に何回か撮影のための旅をする。写真を撮りながら旅を楽しむ気持ちはまた格別。写真は人に迷惑をかけずに自分一人で楽しめる趣味と考えている。

私にとってカメラほど都合の良いものはないと云えよう。「これは絵になるな」と思った瞬間の緊張感は何とも云えず、ストレス解消を超えて尚余りある喜びである。

ポートレート、風景など撮り続けるうちに、自然の美しさというか輝きみたいなものを見過していたことに気がつきました。なんでもないもの、普通のものの内に潜んでいる、大げさに言えば命といったもの。それは、風景であれ、人間であれ、移りゆく流れの中で忘れていた美しさ・やさしさといったものでしょうか。一枚の写真をはさんで、撮る人もそして見る人も何か心を動かされる時、人は心の内に自分自身を見つめかえすことが出来るような気がするのです。

人と人とのかかわりのなかで生きてゆかなければならない時、つらいこと・悲しいことに何度あったことか。そんなとき写真を撮ることによってどれだけなぐさめられたか知れません。写真をやっていなければ、朝やけの美しさ・夕焼けの色・すすきの輝き・人の心の美しさもいまだ気にとめることはなかったでしょう。これからも自分の心に感じるものを見つめ続けてゆきたいと思います。

思い出

駒ヶ根市 中村慎一

第一回の手術は、駒ケ根の伊南昭和病院であった。約二ヶ月半の入院で、昭和五十六年七月に退院をし、その後、東京の癌研附属病院で、昭和五十六年十二月九日に検査を受け、再度手術。これは喉頭切除であった。約一ケ月入院し、昭和五十七年一月退院をして、しばらく東京で寒い冬を過し、同年三月頃駒ヶ根市の自宅に帰ってきました。

私の生れは明治四十二年十二月十八日、そして東京の手術の日が昭和五十六年十二月十八日。考へて見れば奇縁であって、新らしい人生の出発とつくづく思いました。

癌研退院後、東京にある発声教室で、最初に銀鈴会の前会長重原勇治先生に声の出し方のイロハから教へて越き、深く印象に残って居ります。

駒ヶ根市に帰ってからは、毎日事務所に出て、自己の業務・税理士業で活動して居ります。現在は、信鈴会に入会させて頂いたので、月二回の発声教室には出来るだけ出席させて戴き、皆様との交流を深めて居ります。伊那の中央病院の教室に行くのを楽しみにして居ります。

先に親睦旅行があったのですが、やむを得ない都合により欠席したのが残念です。現在は、電話会話・日常の話しには不自由して居りません。第二の人生を健康で毎日を送っているのを心から感謝して居ります。末筆乍ら信鈴会運営の役員の皆様の御尽力に心から御礼申します。

想いのままに

伊那教室 井原長男

会報に寄せて、いつも乍ら筆不精と薄考とで思案に苦しむ繰り返しですが、一年の歳月の過ぎ行く速さ、窓辺に映へる遠き眺めに中央アルプスの頂上にも白く薄化粧を始め、近き野山の色、美しき紅葉もつかの間に色褪せて風に吹かれ空に高く舞いあがる時季となり、冬将軍が間近に迫って来て寒さを肌に感じます。歳老いた私達には、時計の針の廻転も早く見へ、又秒を刻む「セコンド」の音も気になり、淋しさを感じる昨今であります。会報十五号も昨日のような気が致しますが、次稿の依頼を受け、猶更らその様に思へて来ます。私事で誠に恐縮ですが、私は去りし日の、徒にあせり・悩み・苦しみ過して来たあの一年間が、胸中に焼き付いて思い出して仕方がありません。私のにがい体験から、一言申し述べさせて戴きます。

喉摘者の退院後、一日も早く「リハビリ」練習に入る事が出来るよう配慮願ふものです。退院し、「リハビリ」教室の現況も判らず、探すのに一苦労して居る者も多いと思います。病院間、そして医師の先生方、又信鈴会の役員の方々には、相互の連絡を密にして、患者の心境と、発声教室の現況を察知して頂き、どこの病院でも安心して手術が受けられるよう願ふものであります。

六十年正月、伊那教室に仲間入り出来、その後は、桑原・山下両会長さん、教室の皆様をすべて我が指導員とあがめ、発声指導及び援助の「アドバイス」を受け、心温まるご交情に接して来ました。楽しく、又苦しみつ過した教室も早いもので二ヶ年にならんとして居りますが、私にとりまして、数々の尊い教訓と、又得難き体験を味わふ事が出来ました。去る六月二十八日、松本市で開催された総会の折、練習成果発表会です。伊那教室より、先輩の伊藤さんと二人で参加致しました。丁度私が一年六ヶ月の時であり、練習日数も浅く、上達も遅々の私でしたが、私なりきに練習も致し、若干自信もあり、成果を試す時が来たと自分に鞭打ち、勇んで演壇の前に立ちました。「マイク」を手にして、一声発して驚いてしまいました。自宅での練習の「マイク」とは異なり、調子も良好と言へず、発声も伝へる事ならず途中にて早目に切りあげ離壇する哀れな結末と成り、あの自信はどこへやら、自信喪失の感に落ち入り、時機尚早であったかと後悔が残る思ひがしました。各教室から数名の発声もありました。上手に発声出来、これが喉摘者であろうかと、我が耳を疑ふ程の人も居て、自分の未熟さに腹が立ちました。しかし乍ら、良き体験が出来たと自分に言い聞かせ、内心安堵して喜んで居ます。こうした体験こそ、我々喉摘者には一番必要な事であり、「金で買っても」と思いを深め、指名を受け参加出来た事に深く感謝して居ます。

この頃、日喉連会報を拝見して、銀鈴会の会長さんが栄ある「朝日社会福祉賞」受賞の記事に接して、心温まる想いと、この重き賞の価値、そして栄光と人徳に、心より敬服し頭の下がる私であります。又、同連の構成団体が四十五年には二十二団体であり、年毎に一~二団体加入され、五十五年には五十三団体にも増大せり。と記されており、日本全域には何千何万の喉摘者が居るだろうかと思いが深まり、本当に驚いてしまいました。食道発声法の先駆者として、日本全土に、又世界各国を股にかけ発声法を拡め、一生をかけ研究に研究を積まれ、後世に普及し、功績を残された重原会長さん、その先輩を助け、協力し、食道発声法の助言等世に拡め、女房役となり、終始補佐役に徹し、今日迄二人三脚で来られた中村副会長さんの業績にも頭がさがります。この食道発声法の恩恵を受け、今日迄に上達出来まして社会復帰された数多き仲間と共にお祝ひ申し上げます。日喉連会報を拝読し妄想にふけり、原稿の系列を考へて居ると御両名様の偉大なる御雄姿が目に浮び、今だお会いした事もなく、見知らぬお人なれど親しみが沸き、懐しく思い一層身近に感じて来ます。今後益々御健康で多くの人の為御活躍されますよう御祈り致すものです。

最后に信鈴会の皆様の御多幸を祈りまして乱筆にて想いのままを綴り筆を止めます。

障害者への道

上水内郡小川村 染野忠一

あれからもはや三年も過ぎ、四年に手がとどこうとしているこの頃です。

発病当時、私は人前や集会などでは、皆さんに声変りを槍玉に上げられていたので、その先を制して、私は「にわか」の身体障害者です。などと前杖をついて言ったものでした。もともとあまりきれいな声ではなかったのに、いつともなしに段々声変りがし、ついには浪曲調になってしまい、友達には浪曲の練習を始めたのかなどとからかわれる事もございましたが、まさか本当の身障者になるとは、爪の垢程も思いませんでした。

自治消防団の操法競技大会なるものが、今もって毎年行われていますが、当時村を代表して私も指揮者として、出もしない大きな声をはり上げ、数々の大会を乗り越えました。その為、およそ一年間大きな声をはり上げる事に専念しました。今になって振返って見ると、無理して発声したのが病因に連なったのではないかと、くやまれてなりません。

五十九年の春、病状が進み検査入院しましたが、説明では二週間位の予定でとの事でしたので、神様が下さった大型連休と思い、今までの疲れを取るには又とない機会かとも思いましたが、一方では喉頭ですので、重大な事にならなければ良いがと、そればかり心配していました。手術の結果は一番心配していたものでした。先生の説明では、ごく初期の発病だから心配ないとの事でしたが、そのおどろきはたとえ様もなく、大きなハンマーで全身を強く打たれ、目の前が真暗になった様な感じでした。この病気の恐しさは常日頃見聞し、又母を癌で亡くしてからいやと言う程、その恐しさを知っておりますだけに、びっくりすると共に、もうだめなのか、それとももう少し生きられるのか、さまざまな事が浮んでは消え消えては浮ぶ苦しい日々でした。

それから薬を頂きながら放射線を受けました。最初は順調でしたが途中からどうしてもついて行けず、何回も休みを頂きましたが、最后の方は、食べなんだり、食べなんだりで頑張りましたが、青菜に塩みたいでした。

退院后もづっと薬を頂き、家族の人達も一生懸命で、「サルノコシカケ」を通院する二年間毎日作って呑ませてくれましたが思う様に行かず、今年の春、再度検査入院する事になりまして、二回目の手術を受けましたが朗報を受ける事は出来ず、坂口先生から病状等細部に亘って説明がなされ喉摘手術を勧められました。答はお願ひします以外にはないのですが、なんとも未練がましく、くやしくてなりませんでした。喉頭摘出以外生きる道のない私は其の場で即答をし、先生のお力を信じお願ひを申し上げました。

お願いはしたものの思切りが悪かったので外泊を頂き、一人家で親から頂いた最后の声をテープに録音し「二回目手術后のダミ声」五十年間使用した声に別れを告げましたが、さすが涙が出ました。そのあとさばさばした気持で先生を信じ手術室に向いました。手術も大成功回復も順調でしたが、声を失った鳥は「せんせい板」を利用して自分の気持を伝えたりしましたが、なんともどかしい事か。急いで書くと乱筆になり皆さんに読んで頂けないし、あて字を書くやら文字を忘れるやらでさんざんな目に会い、又、途中瘻孔という病気にか、り入院生活が長引き、つらい思いをしました。入院から退院まで四ケ月か、りましたが、胃管が取れてからの回復は早く、先生・婦長・看護婦の皆さんに深謝を申し上げ退院しました。

退院前から長野発声教室を見学させて頂き、すばらしい声で会話している皆さんに勇気付けられ、早速入会をお願ひし指導員さん初め、取巻く皆さんのご指導のお陰で今では片言ながら喋れる様になりました。

伊香保の旅

長野市松代 吉池茂雄

伊香保の旅は階段の旅、坂の旅だった。

榛名神社の参道は小雨が降っていて、時刻にすればそれほどおそくはないのだが、もう夕暮のように暗くなっていた。荷物はバスに残して来たので何もないが、洋傘を片手に、次第に息づまって来る呼吸を気にしながら、一歩一歩、どっこいしょどっこいしょと登る。最後の一段を登り切って、やれやれと腰を伸ばす間もなく、次の石段が目の前に両手をひろげて立ちふさがっている。両側は杉の巨木の林で、空の明るさを妨げている。もう行くのはやめて下ろうかと思うが、下る人は誰もいない。さっきの石段で、最後の段に足先をひっかけて前につんのめって、周りの人達を驚かせた自分の脚の衰えを、しみじみと感じた。

向うの杉の枝ごしに、ちらりと社の屋根が見えた。もう一息だと思ったが、足が動かない。そこへ参拝をすませた一隊が下って来た。

義家さんが、ステッキをついて下りて来る。義家さんは出発の前に、身体の調子が悪いから山へは登らないつもりだと話していたのに、参拝をすませて来たのを見て、私は途中から引きかえす訳に行かなくなって、重い足をはげまして、最後の石段を登って参拝した。バスから往復登降三・四十分の行程だが、五・六時間も歩いたように感じた。

「おつかれ様でした。お宿につきました。」と云うガイドの声に窓の外を見たが、夕闇の中に旅館らしいものは何も見えない。ふとヘッドライトに照らされている前方を見ると、一ノ谷のひよどり越えの坂のようなすごい下り坂があり、その底に旅館らしい建物の一部が見えた。バスはその坂を、エンジンブレーキをきかせて下り、旅館の玄関前に止った。玄関へ入ると、一列に並んで迎える女中たちの前に、プロらしいカメラマンが右に左にうろちょろして、私たち一人一人を撮していた。うるさい奴だと思いながら、案内の女中について部屋に入った。

翌朝下のロビーに、昨夜のうるさい奴のとった私たちのスナップが並べてあった。一枚いくらだか聞いてもみなかったが、あとで聞くと、私のスナップもあったというが、私は買わなかった。

朝食前に部屋から見ると、道の向う側に五階建ての旅館が見えて、その四階・五階の部屋の前に狭い庭が作られていて、その庭に植木があり、大きな石(岩)が据えられていた。そんな高い所まであんな大石を運び上げる必要性があるのだろうか、私は不思議に思った。五階には五階の庭が、殊に伊香保のような山腹に作られて、前面がひらけた所では、五階ならではの庭が考えられるのではないだろうか。造園ブームにあおられてか、五階の空中へまで地上の風景を持ち上げることに、私は疑問を感じた。

私が最初に伊香保へ行ったのは、昭和七・八年頃だった。東京へ秋の美術展を見に行った帰りに寄ってみた。当時は渋川から軽便鉄道で伊香保まで入ったように思う。終着駅で下りたが行先もわからない。駅前に屯していた客引に連れられて、一軒の宿に入った。小さな宿だった。風呂に入ったが、泥にごりの湯で気分が悪い。私はその頃、山ノ内の渋温泉に下宿していて、毎日きれいな澄んだ湯に入っていたので、この泥湯には閉口した。そのうちに、さっきの番頭が入って来て、背中を流しましょうと云ってこすりはじめた。この湯は濁っているが、これがよく効くのだと云う。しきりに湯の効能を述べたが、それよりも私は、番頭のバカ力に閉口した。あとで気がついたが、背中の皮がすりむかれていた。旅なれた客ならこの番頭にチップを出すだろうが、一人旅をした事がない私は、勿論チップなど考えてもいなかった。

そんな事で夜は一杯飲んで、湯の街の散歩もせずに寝てしまった。

二度目は昭和三十四年で、この時は十数人の小団体で、伊香保でバスを乗りかえて、上の榛名高原まで登ってしまった。

榛名山は二重式火山で、一回目の火口壁と二回目の火口丘との間の火口原に水がたまったのが火口原湖で榛名湖と云う。

榛名湖でボート遊びをしたり、ケーブルカーで榛名山頂一三九一メートルの榛名富士へ登ったりして高崎へ下りてしまったので、二度も行っていながら、伊香保の街は歩いていない。今回も、バスから旅館へ、旅館からバスへで、温泉街の様子は旅行案内の冊子や写真からの知識である。

因に、我信州の浅間山(群馬県では、我上州の浅間山と云うだろう)は、三重式の活火山(二五四二メートル)であり、上信国境にそびえている。

高崎で昼になった。白衣の観音の下の食堂で昼食だという。

朝は少ししか食べられなかったので腹はすいていた。早くたべたいのだが我々の席がない。いくつかの食堂で聞くと、上だ上だと云われて、階段を幾つ登ったことか。やっと席を見つけて箸をとったが、もう食欲は半減してしまって、さめた汁やこわい飯がのどを通らない。やっと流しこんで、幾つかの階段を下りた。途中で「御婦人浴室」と書いた看板が見えたが、「男性浴室」という看板は見えなかった。女性上位の上州なのか、あっても私が見おとしたのか。

白衣の観音さままで、また坂を登って、お姿の下から見上げた。近くに居てはお姿全体はよく見えなかった。やはり遠くから拝むように出来ているのだ。

観音さまの体内へ入るしくみもあったが、もう階段登りはたくさんです。早々にバスの所へ引きかえした。

徹頭徹尾、坂に階段に悩まされて、逃げるように帰りのバスへ乗りこんだ。

伊香保の旅は坂の旅・階段の旅、ほんとうにおつかれさまでした。

術後(主人)七年を振りかえって

飯田市 林ちよ

昭和五十四年一月六日、市内の開業医の紹介状を持ち信大病院に診察を受ける。結果は悪性と云はれ、直ちに入院する様にとのこと、一瞬目の前が真暗になった様ななんとも云へない悲しさであった。一応家に帰り、翌日入院する北病棟三○三号室であった。

隣のベッドに花田さんがいて大変お世話になる。私は毎日様子を見に通うわけにもゆかず、幸にも孫(伸圭)が在学中だったので放課後を毎日ベッドを訪ねて呉れるといふのでほんとうに助かった。

放射線照射の後、手術と云ふことで四月まで続けていた結果、良好にて手術しなくてもと退院許可が出る。そして四月廿六日退院する事が出来てなんとも云ひ様のないよろこびで家に帰る。

その後も一ヶ月に二回の外来検診を受けに通院する。そして十月はじめ、六ヶ月の検査入院といふことで一週間。結果は手術をしなければとの宣告をうける。二度目の悲しみであった。一旦帰宅して廿九日に入院。十一月二日愈々手術を受ける。

その朝、孫(伸圭)が、おじいちゃんの生の声を残す様にと云ってカセットに兄弟・親戚大勢寄ってきて話しをする。

八時少し過ぎに手術室へ、そして手術の終ったのは夕方五時過ぎていた。手術室を出て来る最後の様だった。その一日の長く感じた事を今も時々思ひ出すこともある。

心配していた術後の経過も順調に過ぎて、馴れない流動食の注入も二週間足らず、十五日夜より口から食事を頂ける様になり、共によろこび合う。

十一月廿四日、念願の退院となり、そのよろこびは今も忘れる事は出来ない。

先生はじめ、大勢の看護婦さんに一方ならぬお世話になり退院する。その後も一ヶ月に二回、だんだん通院の回数も遠くなり、五年を過ぎた頃異状もなく、通院しなくてもよいとお許しが出る。その間木曜日の発声訓練の教室へ出る。何時も腰巾着のごとく付き添って出かける。

しかし主人の場合、食道発声がうまくゆかず、筆談と・云ふ不都合なことしばし、全部書き終らないのに返事をしたりといふ様なもどかしさに何時も叱られるばかり、そのうちに人工喉頭のお世話になる事が出来る様になり、今日この頃は、発声教室へも付き添はなくてもよい様になり、感謝の毎日を過している。

今年など一度も病院へ診察を受けに行かず、気にしつつも七年の歳月も過ぎる今日この頃元気一杯です。

これも皆様方のお力添へのおかげと感謝してペンをおきます。

「一年も危ぶまれたる時ありしわが命かな」と今朝夫のいふ ちよ

今、自分を省みて

信大病院北三病棟 赤羽睦

耳鼻科病棟に勤務して五年になろうとしています。毎週木曜日発声教室にみえる皆様の中にも、入院当時から存知上げる方も多くなりました。看護婦となって後悔したことこそありませんが、病床での様々な苦痛を知り、やり場のない気持ちになることもたびたびあり、つらくなることもありました。

しかし、少しでも病状が改善に向かったときは、喜びが何倍も大きくなって、私達もいっしょに味わうことができ、それが仕事の上での糧になってきました。発声教室の皆様はそれぞれつらい入院生活や手術を家族の方々に支えられながら、言うまでもなく自分の力で克服さきました。そして新たな目標を持って努力を続けられいます。そんな皆様に教えられることは、困難にあってもたくましく乗り越えられるような精神力と、土台のしっかりした人間関係など様々です。そればかりか、反対に励まされることもしばしばありました。皆様にお会いするたびに、無防備な自分を省みておりますが、新たな気持ちで頑張って少しでも皆様のお役に立てたらと思っております。どうか御身体を大切に今後も頑張って下さい。

「日頃思うこと」

信大病院北三病棟 後藤美加

私は看護学生の時に耳鼻科に於ては外来実習のみで病棟実習がなかった為、病棟に勤務してはじめて喉頭摘出術を受けられた患者さんに接する事が出来ました。そして健康であるという事がこれほど尊い事なのかという事を実感しました。病室に喉頭摘出を受けられた患者さんの援助に行った時、その方は私が部屋を出ていく寸前までおじぎをして下さいました。私はこの患者さんに心の健康について教えられました。声を失った方でありながらそれを乗り越えようとしている中で、人間として生気が漲るとともに、「心」を決して忘れようとしないそんな患者さんをみて、我を振り返り、至らない自分を反省する機会を得ました。毎日が勉強のこの頃ですが、一日一日大切にしていきたいと思います。

これからも信鈴会の皆様が健康で明るい発声教室を続けていかれるよう心から願い、私も努力して行きたいと思います。

『ア、イ、ウ、エ、オ、』

信大病院北三病棟 坂井和代

周囲の山々も雪化粧し、寒さも厳しくなる中、信鈴会のみなさんお元気でしょうか。

季節にかかわらず、毎週木曜日必ず病棟に顔を出され、今年一年めのたよりない私達にも温かい言葉をかけていただき本当に感謝しております。

私は、今年より病棟で働き、手術から回復、そして食道発声への道が、どれ程大変な事であるかを実感しました。それを乗り越え、指導にあたっている方々には本当に頭のさがる思いです。

あれは、まだ夏の頃でしょうか。そろそろ退院も決まり食道発声に参加されたTさんが、準夜勤の私達の所を訪れ、今日習ったばかりの発声法で『ア、イ、ウ、エ、オ......』と一生懸命きかせて下さり、「どう?わかるかいって」と尋ねられました。私達はその時、「初めてにしては上手ですよ」と声をかけ終ってしまいましたが、その後消灯になり巡廻をしていると、ひとりお茶の入ったコップを握り、汗をかきながら廊下で「アイウエオ」と繰り返し繰り返し練習しているTさんの姿を見つけ、なんとも言えず感動を覚えました。

食道発声に参加すると、「家ではあまり練習しなくてねぇ......ここでの練習が一番だよ」などとおっしゃる方もおられますが、みなさん最初の「アイウエオ」の基本からどれだけ頑張られたのか。私など想像も及ばないと思います。そうした苦労の末得られた言葉は、大変貴重なものに感じられます。

これからも、まだ未熟な私でありますがみなさんと共に苦労をわかち合い、頑張っていきたいと思います。今後もよろしくお願いします。

昭和62年刊 第17号

巻頭言

信鈴会副会長 大橋玄晃

昭和四十三年に更埴市の碓田清千氏が東京の銀鈴会に入会して、重原会長さんの御指導を受けて、同氏により長野県に食道発声が始めて行われ、長野日赤病院に発声教室が発足、昭和四十四年に信鈴会が創設され、同年松本信大病院に発声教室が出来たと聞き及んでおります。

現在は伊那市中央病院に伊那教室、佐久総合病院に佐久教室の四教室となり、益々食道発声が普及されつゝある事は喜ばしき限りでありますと共に先輩諸氏並に各教室の責任者の御労苦に対して心から感謝申し上げる次第でございます。発声の上達は本人の努力は当然ではありますが指導員の正しい助言は是れ又大きなウエートを占めるものと思います。重原日喉連会長、中村副会長さんはこの点を重視して昭和六十一年十月四日の日喉連総会に於て全国を七ブロックに分け、各ブロック毎に発声研修会を開催する事を決定いたしました。

信鈴会も東日本ブロックに所属して、六十二年三月十八日に東京に於て行われた第一回の指導員研修会に六名が参加、十月二日には第二回の研修会に二名が参加、十月十六日には全国ブロック正副会長会が開催され各ブロック会から研修会についての報告及び意見が交換されました。指導法も愈々組織的具体的な段階に入って参りました。これにより指導法も統一され全国が同レベルにそして更により早い上達、社会復帰を目的として行われた事は非常に大きな意義があると思います。どうぞお互いに常に学んで努力し、大きな成果をあげて頂きたいと念願する次第でございます。

又人口笛を使わざるを得ない方々も、たヾ音が出ればよいと言う丈けにとゞまらず、どうしたら普通一般の人の声に近いものになるかを研究してやって行って頂きたいと存じます。

続「私のバードウォッチング」

鈴木篤郎

昨年私は「私のバードウォッチング」という雑文を「信鈴」の十六号に載せていただいたが、そのなかで、やや暗くなりかけた夕空に「クィッ」「クィッ」と鳴きながら二、三羽ずつ北から南へ飛ぶ鳥の群れのことを述べ、この鳥の正体を知ることが来年の宿題の一つだと書いた。

今年の五月、たまたま駅へ行くタクシーのなかで、運転手の方と話していたら、その人が永年野鳥に興味を持っており、自宅でコマドリを何羽も飼育しているのだということだった。そこで、この夏の夜の鳥のことを持ち出してみたら、一言のもとに「それはゴイサギですよ」という。「県の森」に百羽はいるということだ。帰って早速百科事典を見ると、「ゴイサギ。サギ科の鳥。頭頂から背まで緑黒色、翼は灰色、日本では本州以南各地で繁殖し、冬季には一部は南方へ渡る。低地および低山の林に他のサギ類と共に集団で住み、松林や杉林に営巣、夜行性で魚やザリガニなどを食べる。夜間クワッと鳴く声をよく聞く。名は醍醐天皇がこの鳥に五位を授けたという故事による」とある。成程この鳥に違いないと直感した。別の本で「夜ガラス」という別名のあることも分かった。夜ガラスとはよく付けたものだ。薄暮この鳥が空を飛んでいる時の印象は力ラスそのものだ。これで去年からの疑問は一応解けたような気がしたが、よく考えて見ると、ゴイサギは夜行性で、夕方県の森の巣から出かけるとすれば、東南から私の家の上空に飛んでこなければならぬ。ところが、私たちの眺めたのは例外無く北、あるいは北東から南へ向かっていたので説明がつかない。

一度県の森へ行って確かめて見たいと思いながら日を過ごしていた。

六月に信鈴会総会があった。この日の懇親会の席上で、"かねてからこの会のために格別の御力添えいをいただい

ている県議の深沢賢一郎氏から大変耳よりの話をきいた。氏は「信鈴」にのった拙文を読んでおられたとみえて、松本北郊に「新池」という農業用溜池があり、そこには沢山の水鳥が住んでいるということを教えて下さった。松本の北郊に、田溝池、塩倉池などいくつかの池のあることは知っていたし、何度も足を運んだことがあるが、それよりも遙かに近い所にそんな水鳥の沢山集まる池のあることは迂闊にも知らなかった。

二、三日した早朝早速出かけてみた。家から北へ行く道を上がってわずか十分ぐらい、まだまだ先だろうと思っていたのに、思いがけぬほどの近さだった。一辺が二百メートル程の四角形の池で、南西の隅が道路に面し、そこからは池の全体が眺められるが、その他の場所は石垣とそのすぐ上のかなり密な樹林で囲まれており、一寸近づけそうもない様子であった。朝早いせいか辺りは静寂で、時々魚の飛びはねる姿と、力モの類と思われる水鳥が二羽ほど泳いでいるのが見えるだけで、目指すゴイサギらしい鳥は見当たらなかった。

暑い日がやってくるようになり、毎日夕方になると気になっていたが、まれに遠くでそれらしい声をきくことはあっても、夕空を「クイッ」「クイッ」と鳴いて渡る鳥の姿は一向に見られなかった。そこで八月十三日の朝六時前、思いたってもう一度新池へ出かけてみた。池の近くまで来た時、二、三羽飛んでいる鳥の姿が見え、それが時々「クイッ」という鳴き声を発していたので、期待は高まっていたが、池畔に近づいて北側の石垣の方を双眼鏡で覗くと、灰色でかなり大きい鳥の立ち姿が何羽も視野に入ってきた。それはかねて図鑑で見た通りの猫背の、間違いなくゴイサギであった。その数は二十羽ほど、距離があるので、双眼鏡を通しても、ただじっと立っているようにしか見えない。

翌日同じ時刻にもう一度足を運んだ。眼が慣れたせいか、昨日より数が増えているようだ。池の端にだけでも二、三十羽がもし、その上の樹林のなかから何羽も飛び出したり、飛びおりて葉のかげにかくれたりしており、『クイッ」というくぐもった鳴き声もあちこちから聞こえ、林全体が何となくざわついた雰囲気に感じられた。これはひょっとしたら何百羽ともしれぬ大集団かもしれぬというような気さえしてきた。この日はまた白サギが何羽か池の上空を飛んだり、樹の枝に止まったりしていた。近くで仕事をしていた年配の人に尋ねると、「ゴイサギは年中いるが、今頃から九月にかけてが一番多いようだ」という答であった。

八月十六日、夜の七時に今年になって初めて上空を飛ぶゴイサギを見ることができた。短い時間だったが、二羽、一羽、二羽、一羽、三羽、二羽と例の鳴声を出しながら、薄暗い空を北から南へ飛んでいった。

これで昨年からの宿題に一応の解答が出たようである。予想した通り、解答は誰でも知っていたと思われるたわいもないものであったが、しかし私にとっては、自宅のすぐ近くにバードウォッチングに格好の場所をひとつ見付けたことの喜びは大きい。

〔一九八七・十二・三十一]

マントバを想う

信大医学部耳鼻咽喉科学教室 田口喜一郎

今年は辰年、飛躍に例えられる龍の年を迎え、皆様方には一段とお元気で御活躍のことと拝察申し上げます。

円高と貯蓄の増加で日本は今や世界に冠たる経済大国になりましたが、私共の生活感はそれ程豊かになって居りません。最近の土地高騰の結果、我が国の資産評価は面積約二十五倍のアメリカ合衆国と同等に近づこうという異常事態を招いております。言わば東京の真中のあばら家はアメリカの中都市の大邸宅に匹敵する価値を持つことになります。これでは生活感覚として豊かさを感じることができないのは当然でありましょう。

一方、このような状態は、戦前に生れた世代と戦争を知らない若い世代とでは、著しく違った感覚で捉えられるのではないでしょうか。私共にとって戦後の飢餓の経験を想い起すとき、今は何と幸福な時代ではなかろうかと思われます。欲しい物は何でも手に入るし、飢えることなどとてもありそうに思えません。例えば一眼レフのカメラを買うとき、私の初任給(昭和三十五年)では実に三カ月分必要でした。今では多分一カ月で充分でしょう。自動車に到っては実に丸三年分の給料をそっくり要したのが、現在は遙かに性能のよいものが一年分の給料で手に入ることでしょう。しかし生活を拡げる一方の若い世代には、欲求は止まる所を知らず、満足できるのはごく一部の人々ということになるかも知れません。

物の使い棄て、情報の氾濫の時代の背景の下に、常に新しい物を求め、不要なものは棄てねばならないといった感覚は戦前派にも出てきております。またある程度そうしないと私共は遠からず物と情報の中に埋もれて、身動きさえできなくなってしまうからです。 昨年六月学会でイタリアのボローニアという街を訪れました。イタリアは外貨がほとんどなく国家財政は破綻に瀕し、大学の医学部を卒業しても医師になれない人がうようよしている国ですが、人々の顔に深刻さは全く見られません。尤も南のナポリやシシリー島へ行くと貧富の差が著しく、観光客は物売りや物乞いの子供達に囲まれると聞いていますが、平均的な日本人より遙かに収入が少ないとされる人々が街の中で、劇場やレストランで自分達の生活を楽しんでいる風景に接する機会が、日本におけるより遙かに多かったのであります。日本人はよく働くことに喜びを感じるといわれますが、本当にそうでしょうか。連中はいつも働くのは楽しむためにあるという哲学を持ち、人生を楽しくする手段を求めているとされています。連中の勤労時間は日本人に比べると遙かに短いのですが研究面に限ってみますと、勤務時間中は一分たりと無駄にせず、今日できることは今日の中に完成させるといった態度がみられ、我々日本人の学ぶべき点を見出した気分にさせられました。

学会の最終日には、懇親旅行でマントバという所へ行きました。こゝは余り知られておりませんが、フィレンツェと並ぶイタリアの国宝的遺蹟がよく保存され、その規模の大きさは、例えば我が国の奈良公園に匹敵するものでしょう。そこで昼食の時間、我々の感覚では一~二時間というところでしょうが、これが何と午前十一時半頃から午後四時頃まで四時間以上に亘り、その間食事をしながらお互いに心の底からゆったりした気分で話し合う機会を持たせてくれました。日本では食事にこんなに長い時間をとることはないでしょうし、もしあったとしても必ず何かアトラクションを入れるでしょう。人生における豊かさとは、このような心の中を洗い出す機会を持つことであると感じた次第です。

信鈴会の皆様は、我が国の敗戦時の無から今日の隆盛を築くために、休む暇なく努力されてこられた方々ばかりであります。これからは、是非心温まる時間を十分とって頂きたいと思います。

年頭に当り、皆様の御健康と御多幸を祈りながら筆を擱かせて頂きます。

(一九八八年一月八日記)

八七年努力の記

長野赤十字病院 河原田和夫

会員諸兄姉の方々の御努力に比べ、おこがましい点は多々ありますが、この一年職務を通じて努力した事などを紹介させて頂きます。

《身障診断書の迅速処理》

身体障害者診断書は指定医の記載の後、福祉事務所あるいは市福祉課を経て県の障害福祉課に提出されています。毎月下旬に開かれる社会福祉審議会身体障害者福祉専門分科会審査部会で等級が決められます。この審査部会にタイミング良く提出できる事が大事になってきますが、診断書の記入不備などがありますと判定が遅れてしまいます。事務処理にも気を使ってもらいますが、指定医がきちんと記入してくれればそんなに遅れる事はありません。そんな訳で『音声・言語・そして機能障害の診断—障害診断書の記入要領』という小冊子を作り指定医の方々に配布した所、少々の改善が見られました。

《報道関係者へのはたらきかけ》

医療に関する事を正確に、かつ簡潔に報道してもらう為にも日常的なお付合いが決め手になる訳ですが、現実にはそんな余裕はありません。いささかずるいと言うか遠回りの感がありましたが、夜の街の居酒屋でちょっと一杯やりながら懇談する機会がありました。県庁所在地という事もあってか、高校・大学の先輩・後輩に報道機関の支局長・報道部長の方々がいる事が分り、某夜都合して集り、コミニュケーションの原点・その障害の程度などの諸問題を話合う事ができました。

サラリーマンは気楽だ

佐久病院 小松正彦

働くことは厳しい事と幼い頃から聞かされていたので、大学を卒業して病院勤めを始める時はこの先どうなる事やらと一抹の不安があったのだが、月給取りの身分を得て早いもので六年が過ぎて見ると、その感想はただ一言、「サラリーマンは気楽だ」となった。やはり植木等が気楽な稼業と言った事は本当であった。

何が気楽かと言って、まず試険のないのが嬉しい。試験がないと落第もなし。なにせ私は高校・浪人生活に加え入った大学はそれは進級に厳格で卒業まで試験に苦しめられた。試験されるのが大好きな少々マゾ的な人も最近の受験戦争の影響で多い様だが、私はもううんざりである。国家試験が終わってほぼ合格を確信した夜の解放感はまだ覚えている。もっともこの頃は専門医制と称して学会の老人連中が何やらうごめいている様だが、迷惑な事である。試験も程々にして欲しい。

働き始めて次に気楽というか有難いのは給料が貰える事だ。当り前と言うなかれ、これは有難い。しかも仕事で少々失敗したとてクビはおろか減給処分も稀である。更に加えて年に三回は月給の他に賞与が貰える。私は勤めるまで恥かしながら月給と賞与が別々とは知らなかった。ボーナス月など二週間位の内で大金を二度も戴くのだから堪えられない。クロヨンだ・トーゴーサンピンだと甲斐性なしのサラリーマン連中が騒ぐけれど、彼等が次々と自分で事業を起こす様な話は聞いた事がない。これも偏に給料という安定収入の為である。医者の世界でも開業すれば外車に乗れるしマンション投資は出来るし、NTT株は買えるしと端から見ていると豪勢な話だが、私の様に勤め人根性の染み付いた者には別世界の出来事である。

また働くと適当に体を動かすので心地好い疲労が得られ、夜熟睡できる。私は学生時代は不眠症に苦しんだ。今そう言っても嫁さんをはじめ誰も信用してくれないが、眠れぬ夜が続いたのだ。学生時代はどうも漠然とした不安があった様だ。今は寝床に入り暫くすると朝が来ている。患者に飲ませる睡眠薬を自分で服用して色々とテストして見たが、どれを飲んでも寝つきは同じで比較にならなかった。気楽だから良く眠れるのだ。

大学卒業後も医局に残った先生方はもっと大変だろう。私の性格等考えても卒業後すぐに一般病院に就職したのは正解だった。大学で厳しい教授の下、訳の分らぬ研究などやらされていたら私は今頃発狂して、教授をバットで殴るかバナナにチフス菌でも混ぜていただろう。

以上こんな所が勤め始めて六年過ぎた今の感想である。読み返して見ると、どうも怠惰な医者の開き直りみたいで汗顔の至りだが、会員諸兄姉の人徳をもってお許し願いたい。

中国の研修生をむかえて

長野赤十字病院 西澤喜代子

私の病院では中国河北省からの研修生を受入れて数年になります。職種は医師・看護婦薬剤師・検査技師等ですが、今年は看護婦が四名・医師一名がみえました。看護婦四名の方は九月九日から十月十七日までを当院で研修され、その内の一人、王さんが耳鼻科病棟に見えました。

王さんは三十四歳で、河北省省立病院耳鼻科・口腔科・皮膚科の混合病棟(五○床)の副婦長さん、御主人と七歳の子供さんのいる方でした。日本語は八ケ月間、日本語の教師より特訓を受けたとのことで大体の事は話せましたが、少し混み入った話になると理解出来ない様でしたが、書く事によってお互いに分かりあえました。

研修期間中に発声教室にも二回程出席してもらいました。中国では咽頭摘出患者さんは人工喉頭を使用していると言う事でした。発声教室の方々の発声に大変感心され、中国へ帰って皆さんの努力している様子を話したいと言っていました。発声教室の皆さんとも友好を深められ、「中国で逢いましょう」「ぜひ中国へ行きます」などという言葉も取交わされていました。

王さんのお話を総合すると、医療も看護も現在の日本に比べ、まだまだ発展途上の様に思いましたが、中国の人達の熱意や意欲にとても力強さを感じました。私達は自分の病院の中の事しか分らない様な状態ですが、もっともっと広く眼を向けて行く事も大切なのだと考えさせられました。「中国で逢いましょう」という王さんとの約束を出来るだけ早く実現できる様頑張りたいと思っています。


佐久総合病院 嶋田和人

六十二年四月より佐久病院で山浦・小松両先生に御指導戴きながら診療しております。長野県は初めてですが、前におりました茨城とは種々相違も感じられます。喉の病気に関しては、こちらの方々の方が受診に熱心な様で、医師側からすると大変喜ばしい事です。茨城県、特に南部は少し前まで東京に近い割には病院への便が非常に悪く、特に耳鼻咽喉科に関しては十年程前からようやく事情が改善されて来た様な次第です。その為か、何とか『我慢』してしまわれる傾向がある様です。佐久平に来て見ますと施設も多く、医療環境は良く整備されているなあ、という印象を持ちました。

信鈴会の活動につきましても、佐久教室の充実振りには目を見張るばかりです。先日、春日温泉に御一緒させて戴いた折りには、皆さんのパワーに圧倒されました。地域によっては仲々うまくいかない所もあります。やはり熱心な方が最初に何人かうまく集まらないと軌道に乗らない様です。東京に近いと反って銀鈴会に頼ってしまい、交通の面で通いきれない方が続かない、という事もある様です。その点、佐久教室の様に出来ていれば新いメンバーのレッスンもスムーズです。先日は発声教室で励まされて手術を受ける事に決めた方がいらっしゃいました。

今後とも宜しくお願い致します。

入浴考

松代 吉池茂雄

昔、藤で編んだ夏椅子があった。三十度位の傾斜が付いていて全身を長々と伸して、腰掛けるというよりも仰臥してゆっくりとリラックスするというのだ。今では自動車の中にも長時間運転の疲労回復にと、リクライニングシートが設備されている。列車の中にもある。但し私はリクライニングシートはあまり好きでない。

長々と体を伸して顎まで湯につかって、「いい湯だな」とか「極楽極楽」などとつぶやいている温泉の宣伝写真を見ると羨ましく思う。私達喉摘者はあんな姿勢で湯に入る事はできないのだ。

私は術後二十六年間、顎どころではない、肩まで湯につかった事は一度もない。そしてこれから後の何年間もそうだろうと思う。「孔をふさいでもぐればいい。」と言った人がある。瞬間的にはできるだろう。しかし『いい湯だな』の醍醐味は味わえない。

家庭風呂の浴槽を見ると側壁の一つは後ろに傾斜が付いている。これに背を持たせ掛けて『いい湯だな』の気分を出そうという配慮なのだろう。なお注目すると背を持たせ掛けた姿勢の前方の床に排水孔があって、床面はこの孔に向って極めて緩やかではあるが傾斜している。つまり背中の壁から排水孔まで一連の斜面になっているのだ。私達の体重は水中(湯の中でも)では軽くなる。軽くなると浮き易くなる。斜面に座って体が浮いたらどうなるか、しかも脚を伸して『極楽極楽』とやっている姿勢で、体が水中に浮いて斜面を滑りだしたら・・・・、・極楽行きは一変して地獄行きになるのではないか。

更にもう一つ考えられる事はその時の呼吸である。私達が危険を感じて思わず「あっ」と叫ぶ(思う)時の呼吸は『吸』の方、息を吸込むのが普通である。水中で「あっ」と息を吸い込んだら・・・思ってもぞっとする。「俺は脚を前に突っ張っているから大丈夫だ」と言った人がある。なるほど賢明な策だ。だがその突っ張った脚が、何かの拍子で突っ張りがはずれる事がないだろうか。

不慮の出来事・思いがけない出来事、千に一つ・万に一つ、否、一生に一度もないかも知れないが、絶対にないと断言できるだろうか。その一生に一度もないかも知れない事態が起きた時は即ち『死』である。転んで擦り剝いたとか、こぶができたのなら我慢できるが、死は我慢できないだろう。

私達が術後初めて入浴した時の事を思い起してごらん。恐る恐る、徐かに徐かに体を胸まで湯に沈め、湯船の縁につかまって静かに体を暖めていたではないか。共同浴場で隣人が跳ね飛ばした水滴にむせた事、その防御策として浴槽の縁につかまって、外を向いて身を守った事はなかったか。初めの内は誰も慎重にやっているが馴れて来ると油断がでる。そして思い上りが出る。交通事故などもそうだというが、免許を取って一年位、車にどうやら馴れてきた頃が一番事故を起し易いという。馴れに伴う油断、思い上りではないだろうか。今までなかったからこれからもないとは言えないだろう。

私は入浴についてこんな事を考える。

*立った姿勢でも、しゃがんだ姿勢でも、必ず足を床に着けたり浴槽の縁につかまったりして身を守る。浴槽が広い場合は真中へは入らない。つかまる所がないと危険である。

*二人以上の複数で入る。事故が起きた時、早く処置してもらえる。

*温泉などの共同浴場では、隣人の悪意のない不注意からの攻撃に対して、いつでも応じられるように防御態勢をとる。

私は水に対して疑問がある。

*喉摘者が水中に沈んだ時、呼吸を止めていても水が気管内へ流れ込むだろうか。

*入るとすれば、その水を自力で吐き出せないだろうか。

実験すれば簡単にわかるのだが、これはちょっと実験という訳にはいかないだろう。

私達喉摘者は、水に対しては全くの弱者である事を忘れてはならない。そしていつでも情況に対応できる態勢をとって身を守る事が大切である。

ランニングでスタートの『用意』の姿勢に脚は縮んでいる。ジャンプの前には必ず体を屈める等を考えると、「いい湯だな」の姿勢は余りにも無防備な姿勢というべきだろう。水に対して弱者である私達は、あの用心深く湯につかった初心を忘れずにもう一度、いや何度も思い起して事なきを得たいものです。

一日を大切に

長野市 義家敏

人生を振り返って見ると色々な事が誰にも幾つか思いだされるものがある。楽しかった事も悲しかった事もある。私は今思い出してもハッとする様な事、命拾いをした様な事が何回もあった事が思い出される。

先ず私は戦争で応召して数日後戦地に送られ、終戦まで二年間便り一つできなかったが帰国できた事である。元の職場へ自転車で通勤していた当時は、犀川と千曲川の合流点にある落合橋は板で架けられたおよそ五十メートルの長い橋で、両側の所々に一メートル位の鉄棒が立てられ鉄線のロープを張って手すりにしてあったのである。ある朝、私が渡り始めた所へ右の道路からトラクターが入り込んできて、私の通っている左側に押し寄せてきた。これを避けようと左に寄りすぎて自転車はロープで止まったが私は橋の外に転げ出され、運良くロープにつかまりぶら下がってしまった所を、橋の工夫が見つけ駆けつけて引き上げてくれたので助かった。橋の下は五メートル位もあり護岸の杭が列をなしており落ちたらどうなったか、無事ではすまなかったと思う。

また或る年の事、庭師が手入れを残してあった庭隅の白蓮の枝を少し整枝しようと梯子を掛け、梯子から枝に移り上の枝に乗ろうと枯枝と気付かず手をかけた途端に、ポッキリ折れて仰向けに落ちたのであるが、地面まで落ちれば命はないと無意識の中に両手両足を広げ、下の枝の何処かで止まってくれればと広げたのである。神の助けか、下の枝の階で止まり臀部に打撲症を受け、十日間位の通院で奇跡的にも助かったのである。そして思いもよらない喉頭摘出者となり、手術後病室を見舞われた鳥羽会長さん桑原さんに励まされて食道発声に頑張ってきたのであるが、まだ下手ではあるが今年十二年を過ぎホッとしている所である。

この間六年前の事である。バスで帰宅しようとバス停に向う途中に横断歩道があった。私は左右を確認して手をあげて道路の中央を過ぎた頃、突然バイクが右から突っ込んできて激突され吹飛ばされてしまった。瞬間『しまった!』と思ったが何とか歩けると思い懸命に立上がろうとしたが、全然膝が痛くて力が入らない。這っても動けない。道路の端にも行けない。どこかで見ていた中年の人が駆けてきて医院に運んでくれた。バイクの青少年の様な男は幸い何もない様だが、ヘルメットを取らないし顔も見せないが、病院までは親切な中年の人に連れられてきた。私が病院に行く前に彼の住所氏名等を書かせたが、私は無意識の中に彼の車のナンバーを見て覚えておいた。そしてその男は私の診断中に去ってしまった。私は膝の内出血で直ぐ血を抜き取り、このまま入院と告げられたが着る物から何までこのままでは困るので、応急手当だけしてもらい帰宅して翌朝入院する様頼んだのである。家で長男が警察に通報しておかなければと言う事で地区の駐在官に通報した所、直ぐ来宅され携帯の無線でバイクの男の有無を問い合わせた所、全部架空のものであったが私が見覚えてあったナンバーによりすぐその男は確認された事に驚いた。まだ十九歳の男であった。二度ほど病院まで花を持って見舞ってくれたが、ヘルメットは何時も取らなかった。私はこの様な男の父親に痛く同情した訳である。

こんな様な事が今の私の胸に残っている主だった思い出であるが、考えて見ると『もしあの時』と幾つかの死線を越えてきた事に感無量たるものがある。人生は誰もが振り返って見るとこんな様な『アァあの時』という過去があると思うが、私は老人臭くなったからこんな事を思い出したのでしょうか。

とにかく今や人生八十年時代と言われ八十年型生活文化創造運動をと称えられている。まだまだこれから交通事故を始め幾つかの山を、谷を、乗り越えて行く事を思うにつけ、何としても老若を問わず、お互いに一日一日を大切に過ごす事に心掛けようではありませんか。

初期の食道発声法

副会長 大橋玄晃

去る十月二日東京都障害者福祉会館に於いて、日喉連東日本ブロック会指導員研修会が開催され出席致しました。そして初歩の食道発声についての実技指導が中村先生によって行われました。それはなかなか原音の出ない人に対しての指導法で、お茶を呑む事による発声法で全員その場で「ア」がでました。

この発声の原理は目に見えない空気を呑む事の難しさを、お茶によって空気を食道に押し込み、それに腹圧を加えて戻す事によって原音が出る事を知る為のものであります。これを図示しますと、

一、口にお茶を十分含む(発声に必要な空気は飲んだお茶の先の方にある)

二、次にお茶を静かに飲み下すと空気はお茶に押されながら食道に向って下りて行く

三、そのお茶が口腔から食道に向って落ちようとする時

四、腹圧を加えてお茶を再び口中に戻すような気持ちで一気に押し上げる

五、この時「ア」の原音が出る

注意する事は

一、お茶はあまり熱くないものを口中に含む。(お茶は多い程たくさんの空気を押込む事になる)

二、お茶を喉から呑み込むと同時ぐらいに腹圧を加えて空気を戻す事がポイントで、このタイミングが遅いとお茶も空気も胃に入ってしまう。

三、空気を戻す時、力を入れる部位は図のAの部分である。

四、最初に出る原音はほとんど低い音で聞き漏す位ですが、何回も練習している内に次第に大きくなります。

*但しこの練習は何時までも続けないで、発声の呼吸が判ったら直ちに吸引法に切替える事が望ましいです。

呼吸法の一番簡単な方法としては、風邪のとき鼻汁を鼻孔から喉に飲み込んだ時の要領で空気を吸い込み、腹圧を加えて原音を出す法です。また初期の人の発声について空気の呑み込む位置と声の出る箇所を先ず知っておく事は非常に大事なポイントと思いますので更に図示いたしますと、下図の通りでございます。発声に当たってはその要領を覚えるのに人によって早い遅いがあり、、またその手術の方法、及び持病等によって不可能の場合がありますが、担当の医師、及び指導員と相談して決めることが必要と思います。

然し普通の手術の方々は必ず発声出来るのですから、根気よく第二の人生の勉強と思って頑張って下さい。

倅の転勤

伊那教室指導員 桑原賢三

今年の五月初旬のある日、いつもより早く会社から帰って来た倅が突然私に「今度転勤になるかも知れない。」と言うのです。突然の事にびっくりしてしまった。今までに子供や孫達と別れて暮す事など夢にも考えたこともなかった。倅もまた障害を持つ親父を残して転勤はできないと会社への返事を保留して来たとの事。勤務の内容は出向転勤で期間は五ヶ年らしい。社員千人もいる中で三人に白羽の矢が当った訳で、出向先も福島県で車で九時間もかかる会津若松市との事で、倅達は子供も幼いので一家挙げての転居となる。

私も会社の期待に応え倅の将来を考えて見る時、私の障害のため出向勤務を断る事は出来ないと思い、その夜家中で相談して自分の事は心配せず会社の指示通り出向する様に話合いをした。しかし倅は私の体を心配して心は重い様だった。自分として現在日常生活に何の心配もなく、農時についても殆ど機械を使い作業をしており、発声も一年毎に楽になり何の不自由もない事を強調して子供達に安心して転勤する様に説得した。翌日会社へ返事をして五月の末、孫を連れて会津へ旅立った。そしてもう半年の月日が流れて現在倅達も自分達も寂しいながらもそれぞれの天地で生活の基盤を守っております。私は今度の転勤により、色々と考えさせられる事がありました。

昭和十五年信大病院で喉頭摘出手術を受け、白衣の皆様のお陰で命長らえ現在に至っております。この間唯々自分の為に一生懸命に発声訓練をし、一日も早く自由な発声を、又会話をと努力して来た。そしてどうにか自分の声を取戻した。しかし今にして思えば自分の声が子供達の勤めにも影響している事が分かりました。もし私が本当に障害者であったなら、倅も会津転勤は私に相談する迄もなくお断りしていた事でしょう。精一杯の努力が倅の勤めの足しになった様な気がします。

自分のためと思っていた事が自分だけの事でなく、家中また回りの色々の事に関わっている事に気が付きました。同じ障害を持つ仲間の皆さん、自分の事だけでは済みません。一生懸命努力すれば自分だけでなく回りの色々な所で多くの幸せが生れて来ます。どうか頑張って発声訓練に励んで下さい。今夜も会津若松から孫の声が届く様な気がします。暫く通話料のかさむ日々が続きます。

発病以来お世話になった先生方・看護婦さん・婦長さん・発声指導の先輩諸兄・数多くの皆様に改めてお礼を申し上げると共に、会員皆様の御多幸と御精進を祈念して筆を置きます。

六十二・十一月記

角田利一さんのこと

佐久教室 三瓶満昌

角田さんは佐久発声教室の開講当時から得意のタピアでどんどん話していて、主治医の山浦先生が感心した程の上達振りだったそうです。何事にも積極的で特に初心者の面倒を良く見てくれて、タピアの扱い方や調整の仕方を良く教えていました。若い頃はきっと体も筋骨隆々としていた事でしょう。色は浅黒く背骨をシャンと伸ばし、足速に歩く人でした。話をしながら歩いていると、返事が終らないうちに角を曲って行ってしまった。と言う事は良く聞きました。

戦時中は憲兵として中国にいたそうですが、強い意思•体も強靱であったでしょう、強さを感じさせる所があったと思います。野生味ある風貌からは大陸とか軍人とかのイメージが浮んだものでしたが、もう故人になられました。

私は角田さんを想像して考えた事がありました。相対すると射る様な眼を感じる、と言う事でした。しかしその様な目を見せた事は一度もありませんでした。教室でも冗談を言っては破顔一笑、良く笑う人でした。

家では良いお父さん・優しいおじいちゃんだったそうです。とりわけお孫さんは文字通り目の中に入れても痛くない程の可愛がり様で、お小遣いをくれるのが唯一の楽しみで、「おじいちゃん、ノート買うから百円ちょうだい」とせがまれると、「ほいよ、落すな」と言っては相好を崩したそうで、また缶の中の小銭がなくなると、いそいそ立って一万円札を崩しに出掛けるという事です。お孫さんもその様な優しいおじいちゃんが大好きで、一生忘れない事でしょう。

最後まで痛い・苦しいと言わなかった角田さんの体は、余す所なく病魔に冒されていたそうです。御冥福を祈ります。

合掌

再出発して八年

指導員 小林政雄

私は昭和五十四年二月全摘手術を受けました。それ以来色々の体験をさせて頂き、今年で最早八年の年月がいつの間にか過ぎてしまいましたが、その間大病もなく思ったより充実した月日でした。振返って見ると私にとっては大変貴重な尊い人生体験となりました。健康な時には考える事もなかった事が数多くあり、何か今まで見えなかった事が段々と見える様になり、またそれが自分の為となり、何か本当の幸せが得られた様な気がします。この様に元気で健康になれた私の尊い命を助けて下ださった信大病院の先生・看護婦さん、その他の皆さんが親身にも及ばぬ気持ちで手を貸して下ださり、尚且、信鈴会の先輩や友人・沢山の人々の係わり等、皆さんが私の病後の気持ちを明るく希望の持てる様に手助けをしてくれたお陰と深く感謝をしております。

発声教室の暖かい御指導等により会話が出来る様になり、指導員となりましてからは、東京銀鈴会の総会及び日喉連の会合、又は指導員の研修会にも度々出席をすゝめられ、その都度食道発声法の新しい指導の在り方・その心配り等大変勉強になり、今までは指導すると言うより教えられた事が多かったと思いますが、段々と指導の意味がはっきりとして来ました。その為、今になって先に明るい見通しが出てきて、ある程度の指導が出来そうです。

最近の発声教室は家庭的に明るく、一人一人真剣に一生懸命勉強して、又その合間には世間話も加えたりお互いの生活の話など、なるべく声を出し合って誰とでも自分の意志をはっきり伝えられる様に話合いする事を重点にして、気楽に会話を楽しむ様に心掛けています。又、会話が出来る様になり教室に来なくなる人があるけれどし、又新しい会員が入会して来て充実した教室が開かれています。

私の本当に嬉しい事は、声の出なかった人が会話が出来る様になり楽しそうに話をしている事です。その様な事が嬉しくて毎週の教室が待遠しくて楽しみにしている今日この頃です。8年間を振返って見て思いついた事を書きましたけれども、私はまだまだ未完成で未熟ですがこれからは尚一層教室で皆さんと一緒に一生懸命楽しく発声の勉強をして行く積もりです。

私達は力は小さいけれども、要は喉摘者の皆さんが一日も早く声を取り戻して楽しい毎日が送れる様に、少しでも手助けをして役に立ちたいと願っています。どうか病院の先生看護婦さん、又は関係者の皆さん尚一層の御指導を今後共宜しくお願い致します。

昭和六十二年十一月

百姓になって

伊那市 伊藤良長

公務員から百姓になって、勤務していた頃の方が気楽で楽しい生活が出来た。今、百姓になって体の苦労は当時の倍以上働かなければならない。米はあまり野菜その他百姓の作る物は全然駄目だ。私も家に入ってから米・アスパラ・りんご等々やっているけれど、なかなか思う様に行かない。今農協では来年度の水田農業対策を効果的に進めるため、集落ごとに行う地域的輪作農法、いわゆる『ブロックローテーション』方式を取り入れ、転作田の集団化に積極的に取組む方針を固めたポスト水田利用再編対策とした。水田農業確立対策はその政策上転作強化に一層拍車がかかり、我が伊那農協管内でも水田面積の三分の一に当る千百四十二ヘクタールの転作が余儀無くされた。したがって農家経済は圧迫され生産意欲を無くした。零細農家の荒廃農地が目立ってきた。

今度の『ブロックローテーション』方式は近時この様に農村全体を覆っている沈滞ムードを一掃する事を狙って、集団ぐるみで取組まなければならない課題の一つを実行策として具体化したものだそうである。基本的な考え方は個々の農家がその所有する農地を自分一人の意思で自由に使うという事でなく、当該農地を含む一定の地域全体で有効に使おうとするもの。一定地域は集落単位として農家組合が中心となって話合いの場を作り、総意に基く作付け計画を集団的土地利用の方向で作成する。

転作する水田の連鎖障害を防ぐ為、『ブロック』ごとに転換して行くそうであり、百姓も種々とだんだん難しくなり嫌になる。長生きして苦労をする。農家でない人に右の様な事を書いても解り難いと思いますが、私はやたらと書いてみたく筆を取りました。

最後に信鈴会の皆様増々健康に留意され、信濃の人が鈴の様な声の出る事を願い、また耳科看護婦の皆様の御健康で働かれん事を願い、筆を置きます。

歌を一つ

一、発声に日脚のびきて車窓よりさわやかに見ゆ松本の野辺

一、信濃路の春はうるわし今日もまた肌にやさしく淡風ぞ吹く

一、草を刈る吾が鼻先をたのしそに飛んでたわむる紋白の蝶

一、今日もまた長雨やまず老人のゲートボールはお流れとなる

龍年にあやかって

宮本音吉

今年は辰年私も六回目の年男となりました。龍は想像上の動物といわれながらも海に千年、河に千年棲み山西省黄河の激流龍門を突発出来た時、龍となって地上にきたとも言われ、非常に運気の強い生れ年と喜ばれています。この年男と生まれ音吉と命名されここに七十二年目を迎え、此の間喜怒哀楽が様々な姿となって感じられます。十二歳の時「ハシカ」にかかり高熱の為、中耳炎となり結果は右方聴力不能となり、其れが原因か?歌唱力は音吉とまで行きませんでした。「名は体を表す」とも言い折角両親も子供の幸せを願っての命名もどうかと・・・・徴兵検査も右耳聴力不能が原因で自分では人並勝れた体格と自負していたのに、当時としては誠に不名誉な兵役免除(丙種)となりました。やがて大東亜戦が勃発するや昭和十七年八月国民皆兵令と共に兵役編入となり直後第一先発應召となりました。軍隊経験の人は唯しも思う事でしょう。初年兵当時の体力と音声の重要性を私は平常聴力が弱いせいか地声は大きく太く体力にも恵まれ、軍歌等は余り神経を使う事なく容易であり助かりました。何回となく繰り返される空爆下にあって遺書の書き替えも再三の戦火の中左程の苦労とも感ぜず大きな声を張り上げての毎日でした。そして敗戦・・・・復員やっぱり音吉で良かったと思い以来三十余年声に不自由もなく過ごし昭和五十二年太い地声とは言え最近特に「ダミ」声と感じ大声を続けると翌日は声がかすれる様な事が再三ある様になり、入院精密検査、結果は其の保四カ月で喉頭全摘出となって、吉どころか音無しとなってしまいました。幸にして地元信鈴会東京銀鈴会と摘出者団体である先輩の諸先生方の御指導にたすけられ、再び第二の声を取り戻す事が出来、一年後には就職、第二の人生出発を果たし一昨年退職する迄大過なく過ごす事が出来、摘出以来十一年目を迎え不勉強ながらも一般会話もどうやら通じる様になり昨年より村身障者協会長に推薦されこれに伴う二、三の役もあり今迄世話になり通した身が幾分でも皆様のお力になる事が出来たらと張り切って居ります。音なしとなり異音とは言え第二の声を取り戻し多少の不自由は感じながらも、こうして元気な毎日を過ごす事の出来る時、私はう「ふと」こんな事を考える様になりました。命名の理由については、十四歳の時父が他界しましたから知る由もありませんが私達の村には「末ッ子」つまり幾人目かで出生最後と思われる子供に「末」又は「オト」ッ子とも言い、其の一字を取って名付けられる例は少なくありません。私の場合も多分兄姉の六番目でしたから末は吉である様にとの願いから「おときち」と名付けられたのではと・・・・音をなくして「おときち」となって以前に増して大勢の方々と接する機会にも恵まれ、又自分の健康管理についてもより忠実になる事が出来今後の余生を大切により良い声を求めながら名前通りの毎日である様に龍年にあやかって努力して行きたいと思うこのごろです。

(六十三・一・六)

王さん

信州新町 西沢功一

九月十八日(金)長野日赤病院教室日たまたま当日は信鈴会恒例のリクレーションが終わった翌日で、若干疲れ気味も残っていたが旅行のバスの中で指導員の鈴木さんから『明後日の教室に中国から研修に来られた看護婦さんから見学したいとの申出があったので、大勢の方に出席して貰いたい』との話しを思い出し、「今日もまた出掛けるのかえ」と老妻の声を後に長野行のバスの車中の人となり、ターミナルで乗換え病院に近付けば巨大なる白亜の殿堂と言うべき建物の頂点に真赤な日赤マークが誇らしげに輝き、その下の通路は盛夏の蟻道の如く老若男女外来患者が、今日も何時もの様にひしめき合っている。早々一階の保険室兼用の教室に入れば、見慣れぬ看護婦さんが中央に掛けられていたので、「あなたが中国のナースさんですか」と問えば、即座に澄んだ瞳に微笑みを交えて「はい、王シンピョウです。宜しく」と。「良く日本の言葉勉強しましたね。」「まだまだ良く出来ない時は書きます。」と、メモ用紙とボールペンを用意して出された。自分達が教室で意の如く声が出ない時、メモを交えたことを思い出す。来日された時期や日本の印象等を伺って、自分一人で独占してはならぬ、他の仲間の方にもと黙する。それぞれの方々の思い思いの質疑応答が続いた後、指導員の義家さんの先唱で「一、二、三、四、五」と例の如く開始され、暫く各人の練習が熱心に。然る後休憩の合間が出来たら、王さんは私に「先生に漢詩書きます。」と、『落月鳥啼天霜充』の文字を自分のメモに書かれた。「あなたは中国で大学まで勉強しましたか。」首を振り、『小・中です』と書かれた。そして私に「先生は書好きですか。」と問う。「書の事は分からないが大好きです。」すると、物入れから一枚の漢詩と思われる物を「これ上げます。」と出された。「戴いて良いですか。」「ハイ、上げます。」読みは全く分からない象形文字と言うか、日本では隷書と呼ぶべきに思えた。分からぬことを際知してか『春の花、秋の実り』のメモを下ださる。言われてみれば成る程と頷けた。同時に武者小路実篤の『花は実りの為、実は花の為』を思い出し、何と味の深い言葉かと思えた。

誰かが「中国でも私達の様な病気の人が居ますか。」と問えば、「ハイ、沢山居ります」私が教室の事を問えば、「ハイ、山東省の済南市・北京・天海・天津に有ります。まだまだ足りないと考えます。」思うに日本の十二倍もの国土、四億人口とも云われる膨大な国には足りない事も感じられた。そして気になる事は、「私の様な無学の老人を先生と呼ばないで下さい。私の子供の頃は家が貧しく小学校しか勉強しません。」と語ると、「老人の人は人生の先生です。沢山経験有りますから。」と言われ、背負った子に教えられるの例えが実感として蘇り、次に中国侵犯の歴史を何かと聞き及んでの体験多き言葉かと、心臓を突き刺さるる思いも。

何時もより時間の経過が早く、閉室が近付いたので漢詩の書を頂いた御礼を重ねて心から述べ、低徊顧望去り難きを感じながら帰宅の人々の中、日中友好親善使者王シンピョウさんと語り合えた不思議の縁と、短い時間ではあったが幾多思い出多き数々を心のアルバムに大切に保存しようと吾が心に誓い、日本の勉強を糧に祖国河北省病院にて精進されん事を祈念した。また、戴いた漢詩の書は表具して記念に残そうと決めた。

時まさに『信濃路は漬菜山なす冬支度』なんて詩がぴったり。そして、駆足で冬が追いかけて来る。

同床同夢の会員の皆さん、只管御自愛の程、くれぐれも。整わざる幼稚極まる拙文御笑読戴ければ、大変幸せです。

以上

寿詞を頂戴に行って来た話

岡谷市 武内基

暗黒の月曜日だなんて言われた昭和六十二年十月十九日には、日本だけでない世界中で株の大暴落があり、流石の経済大国日本でも株の世界は混乱驚倒したなんて新聞・テレビで見たり聞いたりしたが、実際に誰も知らなかったのかな。『経済のことなら俺に任せて安心しておれ』とか言う経済の神様だの経済通とか言う人は、日本にだって政治家・評論家とかその道の大家権威なんて人は大勢おるんではないか。こんな偉い人が解からないなんて真実なら私と同じただの人に過ぎんではないか、事が起きてから後になって屁理屈を言う位、誰にでも出来る。私は株には縁がないと思っておるので混乱もなかったし、勿論驚倒もしませんでした。

こんな事悪く勘繰ればお偉方達には先々まで解っていて、株は最高値で全部売り払い、暴落を待っていてガッポリ買占めたもので、それが十数回もの暴落暴騰を繰返したので、その都度最低を買い最高を売っておれば、今頃は千億万長者になって米国でビルディングを買ったり、英国で大農場付きの古いお城を手に入れることも出来る。仏国にも手を廻してゴッホやコローの名画の買占めなんて道楽も出来ると言うもんだ。

こんな事を私が考えておる間に、退職公務員長野県諏訪支部から『総会をやる、その席上会員で今年中に八十歳になる人と八十八歳になる者に記念品を差上げるから、十月二十六日に出て来い』と言う通知がありましたので、私の持ってもいない株の夢も覚めて当日会場に一緒に行く同年齢の者を捜したが、いづれも八十歳にもなれば体の具合が悪かったり孫の顔を見に出掛けたりで、仕方無く単身で諏訪市の会場まで行きました。

参加者は約二百人でいかにも退職公務員の堅物ぞろいらしくチマチマと三人宛並んで腰掛けて、年間会員から集めた僅かの会費が間違いなく使われておる状況や、今後の年金恩給の増額見通しの困難な事について細々と話があり、何もロンドンやニューヨークでビルやお城を買ったり、パリでゴッホやモネーの名画を買い漁るなんて景気の良い話は全くありませんでした。それから敬老行事と言う事で、八十歳の方と八十八歳の方が寿詞という貴殿は八十歳とか八十八歳だとかいう書面と記念品を頂きました。私は八十歳ですから寿詞と記念品として壱千五百円の商品券と交通費として六百十円を頂きました。次に会場の近くの丸光百貨店の五階で祝宴接待を受けましたが、日本酒・ビールに海老・メロン等の馳走になり、午後四時頃散会帰宅しました。

因みに八十歳該当者は四十三人中十六人出席、八十八歳該当者は十四人中三人出席したもので、欠席者は大部分老弱で出席出来なかったものと思われます。八十歳を越えれば心身も弱るものですね。人ごとではない、今からでも私は健康に心しなければならないと思いました。尚、記念品授与式に招待客として参加された方で、癌の特効薬と言うのか妙薬と言うのか癌に効を発揮する茸を知っておるから電話でも良いから問い合わせてくれとの話もありました。これは私が茸を確めたいと思っております。別に私はこの茸と関係ある会社の株を買占めてから話すという野心がある訳ではありません。

それからこの十一月六日に竹下新内閣が発足して、竹下さんが『今度こそ経済大国日本である事を我々庶民に至るまで実感させてやる』と言う様な事を言われました。是非お願いします。少しでも良いから経済大国日本としての実感を味わせて下さい。永い事待っておりました。キングメーカーと言われる人を囲む二・三の人だけで今日の日本の繁栄は決して生まれて来たのではない。ゴルフの後、山荘で豪華な祝杯とまで行かなくとも良いのですから。

以上

末筆ながら皆様向寒のみぎり、お達者で。

私と信鈴会

岡谷市 小松賢吾

私が信大の耳鼻科に二回目の入院をしたのが六十年の八月一日、その日は大変暑い日だったと覚えています。

喉の痛みと糖尿病と闘いながら一日一日が長く感じ、心の詰まった毎日を送りました。そして尚更に早く治して家に帰らなけらばと私の気持ちの焦りが続き、血便・そしてストレス潰瘍の治療と、ただ点滴をガラガラと病棟を引摺りながらの病院生活は四ヵ月も続きました。治すには摘出手術しかないとの話は聞いていましたので、心の中には多少の諦めはあったけれど・・・・。そして十二月四日摘出手術。哀しさと不安で目の前が真暗になりました。励ましの言葉を聞いても即答できず、筆談しようにも字まで忘れて全く途方に暮れてしまいました。

こんな時信鈴会の勧めでした。入院していた時、木曜日になると数人の人達が食道発声の練習をしていました。私ばかりが不自由な訳ではない、同じ病にかかった仲間がいる、この人達と手を携えて頑張らなければと。そして病を克服して食道発声により社会に復帰して、第一線で活躍している人もいる。等色々お話を聞いて私も気持を新たに頑張ろうと決心しました。

入院生活一年余り、通院一年二ヵ月続きました。お蔭で漸く食道発声の練習が出席出来る様になりました。やって見ると大変難しい事が分かりました。でも負けてはいけない、努力しなければと心に言い聞かせながら一生懸命でした。私の場合、一回目の手術が思う様にいかなかった為、二回目の手術(食道形成手術)で物が食べられる様になった訳です。

私の入院中に次男が三月・長女が四月と結婚し、今年それぞれの孫の誕生。また九月には東京に住む長男に二人目の孫が誕生して、嬉しい悲鳴をあげている昨今です。時折、東京の孫から電話があり、「モチモチバアチャン元気?ボク元気ジイチャンモ元気?バイバイ。」と片言ながら可愛い声が電話の向こうで聞こえます。東京の孫が初孫とあって可愛く、入院中は私にとっては何よりも良く効く薬でした。現在は病院生活に終止符を打って、内孫と共に声は出なくとも身振りであやしながら幸せな毎日を過ごしています。この様な生活が出来るのも、当時糖尿病が悪化して九死に一生を得た事です。これは一重に主治医の先生はじめ諸先生方、そして看護婦の皆さんの行届いた温かな看護のお蔭と、改めて心から感謝申し上げる所であります。

信大北三病棟から見た樹木

塩尻市 西野進一

昨年十一月、落葉が散り冷込むような日でした。集団検診の再診で喉に異常があり、即入院しなさいと言われた。日頃病院には縁のない方で、耳を疑いました。自己症状も少なく、風邪による喉の『いがらっぽい』程度で、一ヵ月もすれば帰れるだろうと家族に伝えて入院した。病室は暖房が利き、窓から見える風景は枯木ばかりだった。

翌々日頃から放射線照射が始まった。照射によってなんとか早く直るだろうと思っていたが、十二月に入り摘出手術をしなくてはならない旨の宣告を受けた。しかも喉頭腫瘍で声帯にまでおよび、摘出の必要があるとの事。いよいよ来るものが来たか、身障者となるの恐ろしさ、人間これで終わりか、五十八歳にしてと思ったら全身が硬直し、目の前が真暗になり、神も仏もない、なぜだろうと涙が出て止まらなかった。

様々な事が浮かんでは消え、消えては浮かび、家族になんと言えばいいか、『寂しい思いをさせなくてはならない、一生涯迷惑を掛けるが許せよ』と、心で懇願した。家族は「病気だから治す事が先だから頑張ってね」と、さり気なく言っていたが心の負担の大きさは測り切れないものがあります。病める家族のみが知る事かも知れません。

いよいよ手術日程が一月十二日と決定し、年末に一時帰り正月には最後の声を録音し、自分の声に別れを告げ三病棟に戻った。窓越しに見える枯木はすっかり雪化粧し、待っていたと言わんばかりだった。この雪が溶ける頃には元気になって退院出来るであろうと、自分なりに励ましつつ一月十二日が到来した。一切の事はドクターの力に任せ、安心してストレッチャーに乗り三〇五号室を出た。麻酔から覚め手術は成功、頑張ったねと皆さんから言われたが、確かに声が出ない、鼻と口で呼吸をしていない、止めど無く涙が出た。これで命が助かったんだと思うと、尚更止まらなかった。

しかし、首が動かず身動き出来ない苦しさは生涯忘れられないものです。日が立ち寒気もようやく緩み始め、柳の目が黄色く目立つ様になっても(IVH)が外れ気が遠くなり、何時になったら我が家に帰れるのか心配でならなかった。花見は是非家の庭でと思ったが、やがて『ボケ』が真赤に、『チューリップ』が、『水仙』がと、花が次から次へと咲き、『桜』も咲き始め、女房が「花見は病室だよ」と言い、(IVH)スタンドを押し押し南玄関から表玄関へと。「今年はこんな姿で花見をするなんて、夢にも思わなかったね」と言い、『そうだなあ』と返事をしてやれず、これが言語障害者の泣き所で、心から『病んだばっかりに済まないなあ』と頭が下がった。

季節の移り変わりは早く『ケヤキ』の芽吹き、『藤の花』と新緑が増して来た。

ゴールデンウイーク明けに六ヵ月の長期入院に終止符を打つ事が出来ました。この間随分と我がままを申し上げ、ドクター・看護婦の皆様に不愉快な思いをさせ、本当に申し訳ありませんでした。良い思い出を沢山残させて頂きありがとうございました。

食道発声教室では優秀な指導者の方々に恵まれまして、三歳児より劣る私達を指導して頂き、日毎に筆談の機会&も少なくなって来ました。これからも普通の人の様に会話が出来る様、頑張りたいと思いますので今後も宜しくお願いします。

三病棟から見た樹木など、思い出のままに貴重な紙面を汚した事をお詫び申し上げます。

思いのままに

長野日赤教室 宮坂信子

葉桜の緑の木々の間を縫って、南風吹く何とも言えない六十年の五月始め、信大病院へ入院手術の為、あれもこれもと身の廻りを整理し、気持ちも何となく重く家人の励ましの言葉に見送られ、息子夫婦の車に同乗早朝出発。二度と再びこの峠を超える事が出来るのかしらと不安な気持ちを押さえて、一眺千里の美しい川中島平を眺め万感心に沈黙しておりました。母の気持ちを察したのか、日頃余り話掛けない息子が峠に差しかかると、「ばあちゃん、悠太(小学四年)が保育園に行っている頃には・・・お父さん僕日本一高い山は冠着山(稲荷山町の南正面に見える山)だと思ってた。・・」と笑いながら話し掛けて来ましたが、その孫も四年生の現在では、

「おばあちゃん八ケ岳は標高二八九九米、浅間山は二五六○米、富士山は三七七六米」と良く覚えたものだと感心したり親馬鹿ぶりを発揮、明るい話題に花を咲かせ私の気持ちを引立ててくれ、一路松本へと向かいました。

入院・検査の後、放射線照射二十回、その後七月一日悠々『喉頭摘出手術』。皆様から「頑張って」と励まされ午後八時手術室へ、十時間以上の長時間かかりました。終ってから個室へ。先生始め看護婦さん息子達の話声で目を覚ました瞬間、一条の光は見え・・・・・その感激は一生忘れる事は出来ません。"私は生きているのだ"と自分自身に何度も言い聞かせました。長時間に亙り困難な手術をして下さいました先生始め看護婦さん方に感謝の気持ちで一杯で、唯々涙が止め度もなく出て止まりませんでした。本当に有難く心より御礼を申し上げます。

十月退院近い或日、今野副部長さんより懇切丁寧に人口笛発声を御指導して頂きました。入院中にも発声教室へお誘いして頂き、皆様方の真剣に取組んで居られます姿に感動致しました。当時、パイプ発声も少し出来ましたが、現在は毎月二、三回長野日赤教室へ通い、先生・看護婦さん・会長様・指導員の先生方に御指導を頂き頑張っております。

現在は食事も美味しく体重も手術直後の三十八キロが五十二キロにも増え、家族や身内の温情に励まされ希望を持って毎日を送っております。諸先輩の御努力に依り、国の福祉行政の恩恵にも恵まれ本当に幸せな事と思います。

昨年度は忘年会・新年会・また和倉温泉にとお誘い頂き、楽しい日々を過ごさせて頂き有難うございました。仲間のリクレーションの集い、佐久・松本・伊那の方々にもお会い出来、本当に懐かしく心が温まります。会長様始め役員様方の御苦労・御努力に感謝を申し上げます。

信鈴会の皆様、至らぬ私ですが今後共何卒御指導御鞭達頂きます様、お願い申し上げます。主人始め息子夫婦・身内の方々の温かい理解の下に希望を持って毎日を幸せに送っております今日この頃です。

会長様始め会員皆様方の御幸せを祈りつつ。

発声教室の参加して

長野赤十字病院B4病棟 大和美華

耳鼻科に勤務して早くも一年になろうとしています。何もかもが初めての経験で、患者さんからもたくさんの事を教えていただきました。そして毎日患者さんと接していく中で患者さんが一体何を考え悩んでいるのかも少しずつ感じ取れる様になってきました。特に喉頭摘出手術を受けられた患者さんが。術前の声を失うという説明に対して、声を残すか命を延ばすか、どれ程悩むのか想像もつきませんでした。症状が苦痛のものでなく痛みがない場合はなおさらの事手術を受けるという決心をつけ難いと思います。そして患者さんがはっきりと手術を希望された時、患者さんの気持ちなど私には理解できないものと思っていました。しかし発声教室で一生懸命練習をしている方々の姿を見たり、その成果を実際に聞いていただき、患者さんが手術からこの時まで色々あった悩みを乗越えて、ここまで努力してきたのだなあと、とても感動させられました。それと同時に、術前から術後をとうして十分に患者さんの気持ちを理解する事ができなかったかも知れないけれど、何らかの役に立てたのではないかという安心感を自分自身も得る事ができました。

それから以前病棟において、私が首を縦に振るか横に振るかするだけで答えられる様に症状を聞いても、必ず息を飲み込んで「はい」と答えて下さる患者さんがいらっしゃいました。その方の努力を思うと頭が下がる思いです。「はい」という一言でも自分の思いを言葉で表現したいという一心が努力に結び付くのだと思います。

発声教室には私も何回か出席させていただきましたが、毎回必ず顔を見せて下さる方や新しく見えた方が、熱心にコツを教わりながら練習しているのを見ると、私も頑張らなくてはいけないなあと反省させられる次第です。これからも発声教室が益々充実したものとなる様、一緒に頑張って行きたいと思います。


信大病院 矢ヶ崎智子

信鈴会の皆様いかがおすごしですか?今年は比較的あたたかな十二月で、すごしやすく一日もこんな日の多いことを願っております。

私も、北三階病棟へまいりまして、三年を過ぎようとしています。信鈴会の会員の方々の中にも、私と一緒に苦しい時期をすごされたかたがたのお顔が増え、毎週楽しみにしております。一人一人のお顔をみるたびに、あんな苦しい時期があったのによくがんばって下さった。と、闘病中のことが思い出されます。

私が看護婦として仕事をはじめて十数年となり色々な患者さんお世話してきましたが、十年目くらいより感じますことは、『病気は本人が治すもの医師や看護婦はそれをお手伝いすることにある』ということです。そして、このことを身をもって体験し、実証された方の代表が信鈴会の皆様ではないかと思っています。

今年はごぶさたしてしまいましたが、昨年出席させていただいた忘年会では、病気とたたかわれ勝ちとったその笑顔にたいへん心をうたれ、胸につまるものがありました。

どうぞこれからも、この貴重な体験を、はからずも皆様と同じ戦いをしなくてはならない方々に(そして私にも)御教示下さいますよう、お願いします。

一九八七年冬至

信鈴会の皆様こんにちは

佐久総合病院耳鼻科外来 半田とも子

佐久に発声教室ができて何年になるでしょうか。東京へ発声練習に通っていると、病棟に報告に来た患者さんが聞けば羨ましいと思うことでしょう。

いつも後輩の発声練習に御指導いただきありがとうごさいます。お陰様で喉頭全摘出術を告知された患者さんも発声教室で皆さんの経験談を聞く事により、とても勇気づけられ手術に臨む姿勢も積極的になって来た様な気が致します。

『声が出なくなる』と告げられた時の気持ちはいかばかりかと。よく「死んだ方がいい」と言った患者さんがありました。しかし今、手術後の皆さんに接していると第二の声を取り戻され、また声を無くした事にもめげず明るく、第二の声の獲得に精を出されている姿を見て感心しております。

生きる事にもよく『第二の人生を歩んでいくつもり』と言われる人がおります。

食道発声は毎日毎日の練習が無ければ決して上達は望めないとか。毎日毎日の積重ねが大切なのですね。

これから手術をしようとする人には優しく接し、励ましの言葉を掛けていただいております。これからも自己の練習に尚一層励まれ、また後輩の指導も宜しくお願い致します。

皆様の第二の人生の姿勢を見習いながら、私も毎日毎日を大切に生きたいと思っております。

信鈴会の皆様こんにちは

佐久総合病院耳鼻科職員 小泉和子

私は佐久総合病院に二十数年勤務しておりますが、六十二年四月より勤務交替で耳鼻科外来にお世話になっております。耳鼻科のお仕事は初めてでしたので、数ヵ月は機器の名前・置き場所も分からず右往左往しておりました。六ヵ月を過ぎた今、ようやく気持ちの上でもゆとりが出来、患者さんとも慣れ、お話もスムーズに出来る様になりました。

先ず耳鼻科で驚いた事は病名の告知でした。長い看護婦生活で初めての経験で、医長と患者さんの会話を隣の部屋で聞いていて患者さんの気持ちを思うと『なんと残酷な』と、思わず涙が流れてしまい医長を恨めしくも思いました。しかし医長は『心配する事はないよ、大丈夫なんだ』と言う様に淡々と病状・経過を説明しており、心の動揺を隠しきれない患者さんは同じ事を何度も聞きかえしておりました。もし私が患者さんの立場であったらもっともっと精神的に立ち直れない程の打撃を受け、病気に負けてしまうかもしれません。しかし患者さんは自分の病名を知ってから、『生きる!』という執念の様なものを持ち、医療に積極的に協力し、反って慣れない私達を励まして下さり、毎日を明るく精一杯に過ごしておられる事を聞き、本当に感激致しました。

これからの体調に充分留意され、長く長く色々な方面に御活躍下さる事を心からお祈り致し、また人生の師として未熟な私達を御指導下さる事をお願いし、つたない文章ではございますがペンを置かせて頂きます。

Yさんへ

一看護婦より

こんにちは、御無沙汰しております。食道発声、順調にいってますか。

手術が決まった時は不安を隠しきれず、いつもあまり話さないYさんが、色々な事を話してくれましたね。その時の声が今も私の耳に残っています。

食道発声を練習していた人を何人か知ってるため、『頑張るんだ!』と意欲満々だった事が、看護婦である私をかえって安心させてくれました。

手術後は順調に経過されたのですが、少々元気のないYさんが気になりました。

・・・・無理もないですね・・・・・

何のお役にも立てない自分が情けなくなりました。退院される時には教本や先輩の指導で方法はマスターされた様ですが、『ゲップがうまく出せない』と言っていましたね。

・・・・人の倍かかってもいいじゃないですか・・・・・

焦らず気長にやる気持ちも大切ですよね、と申し上げたのですが根気のいる事ですよね。

でもYさんの生の声が再び聞ける日を三西のスタッフ、また信鈴会の皆さんも心待ちにしていることを忘れないで下さい。

どうぞこれからの生活を大切に、御幸福をお祈りします。

昭和63年刊 第18号

巻頭言

鳥羽源二

昭和四十四年一月松本信州大学病院内で、県下喉頭摘出者の"集"である信鈴会が創立発足して二十年。六十三年六月、松本に於て第二十回目の総会が、中央より日本喉摘者団体連合会の中村正司会長をお迎えして、開催されました。

私の師である、大町の武井邦一さん等県下の先輩の皆さんが仲間をまとめて、長野日赤病院内、及び松本信州大学附属病院内に、発声教室を開設して今日迄、数多くの同病の皆さんが再び第二の声を取りもどし、強く社会復帰されており、その後長野県の地理的条件の必要もあって、昭和五十三年十月、伊那中央病院内に伊那教室、そして昭和五十六年四月、佐久郡臼田町の佐久総合病院内に佐久教室が発足、運営されて今日に至っております。

此の間、東京の銀鈴会の主催により、全日本食道発声コンテストが、東京に於て実施されて参りました。第一回の優勝者は、現日喉連の会長であり、東京銀鈴会の会長である中村正司先生でありましたが、第二回大会には、吾が信鈴会佐久教室の三瓶満昌さんが、第二位銀賞で堂堂入賞されました。また六十三年十月に行はれた第三回全日本食道発声コンテストには、松本教室の小林政雄さんが全国強豪の中、同じく第二位銀賞で入賞されました。この成績は、誠に優れたものであると自負致した次第です。入賞者の努力は無論のことですが、当会の発声に対するレベルも相当なものであると思はれると共に、会員の皆さんの平時の勉強と、関係の皆さんのご理解とご協力の賜と、深く感謝致しておる次第でございます。

今年もまた、県下四カ所の教室で、私達口喉摘出者の社会参加促進のため、発声教室を開いておりますので、*会員の皆様、積極的にご参加下さいとお願い致しますと共に、関係病院の皆様のまた変らぬご理解とご協力をお願い致します。

サンセットクルージング

鈴木篤郎

私は海辺に育ったせいか、海の向こうの水平線上に沈む落日には、昔から一種の憧憬に似た思い入れがあり、機会があればその姿に接したいという気持を強くもっています。むかし秋田へ行く途中、羽越本線の車内から見た日本海の落日の息をのむような美しさは、今でも瞼に焼きついていますし、昨年の秋には、南紀伊の白浜で、予期しなかった太平洋(正確には紀伊水道)への落日をみて、胸を打たれたことがあります。いつもそんな思いでおりましたので、先日家内と山陰への小さな旅をした時も、ひょっとしたら今度も日本海の日没が眺められるのではないかと思った次第でした。山陰本線は、竹野のあたりで海辺にでて、そこから鳥取に着くまで、車窓に日本海の眺めがひろがります。天気も良く、そのころ丁度夕方の五時前でしたので、ここで海への落日を期待したのですが、期待に反して、太陽は岬の陰に落ちて行ってしまいました。よく考えてみると、同じ日本海でもこの辺の海岸線は南北には延びておらず、海の向こうへの落日を期待したのが間違いのようでした。

翌々日の昼すぎ松江にはいりました。来る前に読んだガイドブックに、宍道湖の夕日が素晴らしいと書いてありましたが、その時には、諏訪湖を連想したせいか、太陽が湖面に沈む光景を頭に描くことはできませんでした。しかし、駅で貰ったパンフレットのなかに、「ロマンティックセイリング、真っ赤に染まる宍道湖や、城下町松江の美しい風情を湖上からゆっくりお楽しみください」という宣伝文とともに、宍道湖遊覧夕日コース最終便(サンセットクルージング)四時三十分出航と書いた一枚のビラを見つけた時には、即座にこれを今日これからの松江における行動の締め括りにしようと決心しました。この日は朝から雲一つないよい天気で、もし船上から落日が見られるのなら、それが海でなくとも今日は絶好のチャンスだと思ったからです。「サンセットクルージング」という、かってアカプルコ、ハワイ、ホンコンなどを旅した時しばしば耳にし、そして一度も体験したことのないその言葉に惹かれたのかもしれません。

予約はいらないということでしたが、少々早めにタクシーで着いた観光船の発着場は、かなり場末の殺風景な桟橋で、子供が二、三人釣りをしているだけであたりに人は誰もおらず、物寂しい光景でした。片隅に小さな小屋が一つポツンとたっており、それが事務所のようでした。部屋にはいると若い女の人がいて、今日は混んでいないから、時間ぎりぎりにおいでになってもよいですよといいます。そこでこの人に教わった近所の喫茶店にはいり、見掛けによらず美味しいコーヒーを御馳走になり、時間がせまってからさっきの船つき場に行ってみましたが、相変らず誰もおりません。そのうちに白い小さな船が川上のほうからやってきて船つき場に着きました。

結局この船の客は、私どもの他には、この土地の人らしい女の方が二人と、最後まで一言も口をきかなかった五十がらみの男の三人だけでした。先程松江城や小泉八雲記念館にあれほど沢山群がっていた観光客のうち、ほとんど誰一人このクルージングをプログラムにいれていないのには、一寸意外な気がしました。二人の女の方はどちらも三十五、六ぐらいで、一人は松葉杖をついていました。話をきいていますと、二人は友達同志で、一人は交通事故か何かで入院中なのだそうですが、もう一人のほうが、今日の夕日はきっと素晴らしいだろうからといって、病院から引っぱり出してきたのだそうです。そして、この船には二、三度乗ったが、つい一度も美しい夕日に出会ったことがない、今日は雲一つないから、きっと素晴らしい夕日がみられる、それにしても、この船は知名度がいま一つだ、宣伝が足りないのではないかなどと、お互いに知り合いなのでしょうか、操舵中の若い船長に遠慮なく話しかけています。この船にはもう一人、さきほど小屋のなかで仕事をしていた若い女の人が乗っていて、雑用やサービスを受けもっていましたが、見うけるところこの人と船長とはどうも夫婦のようでした。

「はくちょう」というしゃれた名前をもつこの船は、大野川にかかる四つの橋をくぐり、間もなく宍道湖にでて、西のほうに方向に向けました。この時はじめて、真正面に輝く太陽のすぐ下に、左右一文字に広がる水平線を眺めることができ、この湖の大きさを実感したのでした。風がほとんど無く、湖面は本当に静かでした。船の舳先が太陽のほうを向いているので、船首の窓が赤く輝き、その窓越しに見える太陽は、刻々赤さと大きさを増しながら、水平線に近寄ってゆき、それにつれて、湖面にキラキラと輝く光の波も赤みを加えてゆくようでした。船長が、そろそろですからエンジンを止めますよといい、舳を右に向けて船を流しました。私達は、エンジンの響きも、スピーカーの音も消えて急に静かになった船の舷側にすわり、ただ黙って沈もうとする太陽を見つめていました。それは、もちろん錯覚だったのでしょうが、この日の太陽は今まで見たどの落日の時よりも、はるかに巨大に見えました。五時一分、太陽は水平線に触れ、そして沈みだしました。太陽のまわりには、幾重にも赤い同心円のようなものが見え、それが微妙に動いているような気がしました。誰かが落日を「太陽は身悶えしつつ沈んでゆく」と表現していますが、私には、あたかも自分の運命を大悟した巨人が、静かに静かに消え去ってゆくように見え、何かしら、人間の生命の崇高な終焉を連想して、胸がしめつけられるような感動を覚えました。五時七分、水平線の一点が一瞬光で泡立つかに見え、太陽が没し去りました。すると、湖面の光波は急に短くなり、西の空の残光も少しずつ鈍くなってゆくのでした。

突然エンジンの音が鳴りだし、船はもと来た方に走りだしました。船内は急に賑やかになり、二人の女の客は、素晴らしかった、やはり今日でてきてよかったといい、船長も、今日は最高でした、こんなに美しい夕日は毎日走っていてもめったに見られませんよと、満足そうでした。私達も、たまたま松江についた日に、このような幸運にめぐりあえて本当によかったと、船長や奥さんに何度もお礼をいって下船しました。帰りのタクシーのなかで、運転手にきくと、やはりあの二人は夫婦で、一年半ほど前に隠岐の島からでてきて、二人だけで観光船をやっているということでした。私達は車のなかから、彼等の遊覧船がもっともっと知られるようになり、たくさんの観光客が乗ってくれることを心から祈りました。

サンセットクルージングといえば、大変豪華でロマンチックな印象を与えますが、私どもの乗ったのは、湖水をたった一時間走るだけの、文字通りのミニ・クルージングにすぎませんでした。しかしあの日に見た、六分間の壮大なドラマは、私も家内も決して一生忘れることはないと思います。日没といってしまえば、それは私達が毎日経験するありふれた現象にすぎないのに、あの日のたった六分間が私どもにあたえてくれた感動は一体何だったのでしょうか。それは単に美しい光景への賛美だけではなかったようです。もしかしたら、水平線に沈む太陽の姿に、宇宙の営みの一端をかいま見たためかもしれません。

(一九八八・十一・二十五)

二十年前のこと

信大医学部耳鼻咽喉科 田口喜一郎

人は時々過去を振り返ってみる必要があり、またそういった感慨に駆られることがある。その理由は、過去の輝かしい業績であったり、人生にとって重大な転機であったり、悲しむべきことであったりする。私が二十年前を思い出すのは、私の人生における大きな転機を意味するからである。

二十年前に当る昭和四十三年はカナダのトロント大学に留学しており、新生児の聴覚の研究をしていた。御承知のように、欧米の学期は九月から始まり、八月に終ることになっとおり、この年の八月カナダ政府の医学研究奨学金による研究が終り、九月からは二年間の別の奨学金(労働者の厚生年金奨学金)で脳の障害と聴覚の関係の研究を行うことになっていた。私は二年間に課せられた研究を一年間でやってのけ、残された一年間は別の研究のための充電期間、特に当時欧米でスタートしたばかりの宇宙医学に入り込んでみたいと思っていた。当時トロント大学にはマネー博士という人が居り重力と内耳の耳石の関係や重水による平衡障害といった研究をしており、また私の直接の指導教官であるジョンソン博士は眼球の動きをコンピュータで解析するという研究をしておられ、関心が高められていた。当時トロントには若い学者が多数集まり、一九七一年に開かれるバラニー学会の準備が始まろうとしていた。慶応大学からアメリカに留学して、ヒューストンに永住を決められた、五十嵐先生(現ベイラー医大教授)が訪ねて来られ、アメリカにおける研究事情を伺う機会があったが、その内容はアメリカにおける医学研究費の潤沢さと融通性、そしてアメリカの医学部卒業生は臨床の方ばかり熱中し、研究へ眼を向ける者が少ないので外国人の入り込む余地のあることなどであり、まだ若かった私の研究心を駆り立てるものであった。私は当時信州大学は辞めた形になっており、恩師鈴木教授からは何年でも好きな勉強をして来てよいといわれ出てきていたので、帰国の意思は毛頭なかった。しかし日本と違ってあくまで実力主義であり、結果を出さねば首になる覚悟をしていなければならない。そのため、復活祭と夏休みを除いては、現地人の出て来ない土曜日も含めて朝九時から、夕方六時迄きっちり仕事をした。

当時日本ではいわゆる大学論争の嵐が吹き荒れており、日本では医学研究がストップしていると聞き、外国であれ研究に熱中できることは大変有難いと感謝していた。日本からの報道で印象に残っていることは、マラソンでオリンピック優勝候補に擬せられた、自衛隊の円谷幸吉選手の自殺で、アキレス腱断裂により成績不振で悩んだ結果と知り、気の毒に思った。イタイイタイ病の原因が神岡鉱山から排出され神通川に流入したカドミウムであることが確認され、園田厚生大臣が患者に対する補償を認めたというニュースがあったが、その原因究明の糸口が地元の医師萩野昇氏の強い探究心の賜であることに深い感銘を受けた。他方、川端康成氏のノーベル文学賞受賞、日本の国民総生産が米国に次ぎ西独と並ぶ額になったなどの明るい話題にはほっとしたことを覚えている。現在は日本の新聞も主要な外国の都市では同時印刷が行われ、一日遅れで日本国内のニュースを知ることができるが、当時は外国に居ると余程大きな事件でないと知らされることがなく、日本の存在価値はカメラと時計位しかなかったので、現在の欧米との経済摩擦など予測すらされなかった。現に二十年前の公務員の給与は同じ地位の米国人の二十分の一に過ぎなかった。

私は諸般の事情により、未練を残しながら昭和四十四年の八月に帰国することになったが、研究に対する情熱はその頃培われたものと思っている。

人生八十年時代を迎え、今や二十年が人生の一区切りとされている。皆様も二十年前を想い起される時、現在に繋がる何かに感懐されることでありましょう。人生は後悔と希望との連続であるが、時には過去の経験を生かし、時には過去を断ち切って常に新しい人生を目指すことが必要である。大切なことは必ず未来に夢を持つことであり、夢はできるだけ大きい方がよい。新しい年が皆様にとって夢多き年であることを祈っている。

(昭和六十三年十二月十日)

電波の利用で効率アップ

長野日赤耳鼻咽喉科 河原田和夫

会顧問の末席にいるだけで、お役にたったことはないが、今年こそ汚名返上し、地位・立場を利用して、会のために何かをしたいと、合同新年会の席上で考えた。

どこかの会社の様に、ばらまくものはないが、少々さびついた行動力を元手に、テレビ放送会社にかけあってみたい。そして電波のおすそわけをしてもらうのである。

それぞれの発声教室の効率アップのためである。北信地区についていうならば、わざわざ病院まで来なくても、もよりの放送局にいけば、練習も出来るし交流も出来る、そんな風にしたい。月三回の練習のうち、一回は放送局でやりましょう。もっともぼやぼやしているうちに、テレビ電話が普及してプランのみで終ってしまうしもしれない。

会員全員が、失った声をとりもどすために生きいきと練習したい。本年の御健勝を祈念いたします。

結婚披露宴

佐久総合病院医師 嶋田和人

秋は結婚シーズンです。いつも病院では白衣で済んでしまいますので、披露宴はネクタイをする数少ない機会のひとつです。結婚式そのものはあまり見たことがないのですが、式次第はどこでもたいして違わないのだろうと思います。(教会は教会なりに)ところで、神通力は神主さんのいるところで有効なのでしょうか?神社でやっていたのは一度しか見たことはありませんが、そのほかの場所では、神式ならばどの神様も出張してきてくれるのでしょうか?クリスチャンの場合は教会に行かなければならないようですから神様も腰が重いのかもしれません。

私の同級生などは殆ど千葉・東京出身なので式場も東京に集中しており、披露宴も関東のならわしでやっているのでしょうが、だいたい似たもののようです。臼田にきてから披露宴によばれる機会がありました。することはどこでもおなじようですが、お客さんの人数には驚きました。百五十人を超えるのも多いとの話は聞いていたものの、実際に二百人の宴席に出てみてやっぱり迫力があります。

式場の大きさからして、ほぼ、物理的に限界なのではないでしょうか?いっそ屋外ならもっとリラックスできて良いかも?

はやっているもの。●おいろなおし二回。わずらわしいとお感じのかたもいらっしゃるようですが、いっそファッションショー形式で、ちらっと出ては引っ込むことにしたら?十分で着替えれば十回はできます。●「てんとうむしのサンバ」。昔、流行歌として聞いた世代が式をするからでしょう。もうすぐすたれそう。●キャンドルサービス。独自の進化をとげつつあったようですが、ハート型のでけりをつけるのが普及してしまってから、やや新味にかけているようです。でも、ともしびを見つめて雰囲気をもりあげるのはヒトラーも好きだったそうですから、ドライアイスのけむりのように、あっというまにすたれてしまうことはないでしょう。●こどもからの贈りもの。このところ急速にめだってきているようです。来年にもなれば一才児がハイハイしながら登場か?●両親への花束贈呈。新郎と新婦の両親にクロスして渡すところが日本的アイディアだったようですが、あきられて感動うすく、次の項に急速にとってかわられているようです。●新郎あいさつ。あたりまえのようで少なかったようですが、増えつゝあるようです。信鈴会のみなさんもマイクなんかにおじけないよう練習おこたりなくがんばってください。

長野教室の風景

日赤病院 渡辺峯子

この発声教室は、訓練の結果発声が出来るようになった方が指導員となり、自分の体験を後輩に伝える会である。又、声が出ない人達で苦しみを共感し支え合う意味もある。その他に、これから手術をうける患者さんへ、手術の決断と勇気を与えることもできる、とても意義深い教室である。,

この長野の教室も、先輩の指導員の皆さんによる、ボランティア活動で支えられています。最近は、出席者も十~十五名と大分固定されてきました。今日も又、指導員の適切な指導のもとで教室が開かれています。私達看護婦も、毎回出席させていただき、教室の様子を、ノートに記録しております。その中で、勉強の様子を、ここに二、三、紹介させていただきます。

「お茶がほしい時は、黙って茶碗を出さないで、『お茶を下さい』と、一言声を出してみて下さい。一日に何度も言いますので、進歩しますよ。」と、目の前のお茶をのみながらの説明ですので、効果があります。そしてすかさず「黙っていては、ダメ、声を出して下さい。」と

「言葉を失った時は、つらかった。それを乗り越えるべく何でも言葉にした。夢は、皆さんの前で歌をうたうことです。」と、経験もまじえます。

「あの人を乗り越えようと思ってやってみて下さい。」と励ましの言葉も出ます。

「寒くなって来たら咳き込んでしまい痰が多くなる。二年もすれば良くなりますか。」に対し、「いつまでたっても、寒くなれば、咳もでる。風邪で気管口が炎症を起せば、出血もする。かさぶたも出来る。心配するな。」と味のある返事が来ます。そして、発声は、その人その人のテクニックとのことです。

そして、全員の号令で終ります。

私達看護婦の役割は、あまりありませんが、私達がいるから、元気が出るとの暖かいお言葉をいただきました。

これから私達も教室の皆さんの個人カルテを作ったらよいと思っています。その人の問題点を明確にし、その人の発声の方法、訓練の内容、病状の変化を記載し、今後の指導に結びつけると共に、来られない方への何らかの援助にも、と考えています。

この教室が、いつまでも今の様に活気のある会でありますよう、見守っていきたいと思ってます。

ある日

佐久総合病院病棟看護婦 関康子

ある日突然、婦長より、心暖まるプレゼントを貰った。(実は、あまりうれしくなかったのだが)それは、この原稿の依頼であった。貰った瞬間に、何を書いたらいいのか、とても悩んでいるときに、ストーブの前で、悩んでいる私をよそに、大きな態度でねこが安気に居眠りをしていた。そうだこのねこについて少し書いてみようと思った。

私の家には、十匹のねこがいます。その十匹のねこには、それぞれ名前がついているのですが、名前のつけ方も、そのねこの特徴を生かした名前をつけておかないと分らなくなる可能性があります。ですからユニークな名前が多くあります。古い順に、「クロ」これは真白なねこなのに、頭の上に少しだけ黒い毛があったのでつけたのですが、今は、はっきりしません。次に、「デメ」目が大きくて、落ちそうな目なのでデメ。「ネコ」これは、最もねこらしいねこなのでつけたのですが、単につける名前が思いつかなかったと言うこともあります。「イロ」何種類もの色が混っているのでつけ、「ゴン」テレビのコマーシャルで有名な、タンスにゴン、の「ゴン」をもらいました。「ラブ」このねこは、家で唯一のシャムネコで、他のねことは、ちょっと違って、一匹だけ鈴をつけており、盗難にあわないように守っています。でも特別あつかいにはしていません。次のねこからは、子ねこ達になります。まずイロの子供で「マーチャン」この名前は、私の子供(人間の子供)の、ボーイフレンドの名前をつけたのですが、マーチャンは、メスねこだったのです。

次に、「ブチ」毛の色が、ブチブチと、何色にもなっているから。それから、もらわれて来た先で、かえれなくなって家に来た「ゼロ」。ある朝、家の車庫に捨てられていた「いち」。以上、現在家にいるねこ達ですが、このねこ達、それぞれに個性があって、人間社会の血液別による特徴によく似ていて、毎日見ていても飽きない所をもっていると思います。私もねこのようにのびのびと生活できたらと、うらやましく思う今日この頃です。

食道発声教室と私

信大病院北三階病棟 五十嵐すみ子

目を閉じても、なつかしい教室の皆さんの顔が浮かんで来ます。皆様とお逢いする時の私には、何の言葉もいりません。スンナリ、会話に飛びこむ事が出来るのです。どなたも皆、病気と闘い立派に現在立ち直っていらっしゃる姿を拝見する時、何とも云えず胸がジーンとなります。

一人では出来なかったでしょう。御家族の皆様と力を合わせ、口では云いあらわせない事もあったでしょうが、皆様のあの力強い、お元気な姿に、ただただ頭の下がる思いです。

何も出来ない私は、患者さんに何が手助け出来るのだろう?と、一人悩んでばかりでした。でも、苦しいお立場にいらっしゃった皆様は、力強く病気と闘って下さいました。

今では、反対に皆様に私自身が教えられ、勇気づけられて居ります。

どうか皆様、いつ迄もお元気で、食道発声教室が、明るく楽しい教室として、希望にみちた、そんな教室で存在する様、頑張りましょう。

病院以外の全く違った場所で、発声教室のどなたにお逢いしても、元気な笑顔で声を掛けて下さり、本当にありがとうございます。

皆様より学ばせていただいた数々、一つ一つ大切に、私自身の宝物として、身につけさせていただいて居ります。これからも、よろしくお願いします。

結婚しました

佐久総合病院耳鼻科外来 碓氷篤子

「信鈴」への原稿を会長さんより依頼され、何を書いていいのか迷っている間に、昨年、私にとってたぶん一生に一度の大イベント「結婚」をしました。幼い頃からの夢、お嫁さんになったのです。

山口百恵の「コスモス」と言う歌を皆さん、ご存じですか?私、花嫁の心情を大変よく歌っている、大好きな歌なんです。コスモスの咲く九月嫁ぎました。

嵐に遭って茎が無駄に倒されてしまっても、土に接したところから根を出して、そり身になりながらしゃんと立って、さわやかな秋空の下に花を揺らしている。

しおらしくて、いじらしい。そんなふうに生きてゆきたいと思います。そして誰よりも優しい母は、縁側で娘の荷物をまとめながら、古いアルバムを見ながら涙ぐむ、ということはなく、「息子が一人ふえたようだ」と言いながら明るく笑っていた。

涙なんて流されたら、とてもお嫁になんて行けません。そして詩の最後、「もう少しあなたの娘でいさせてください」いいえ、とんでもありません、私は一生、あなたの娘です。いつでも頼りにしています。あなた方もいつでも私を頼りにして下さい。頼りない娘ですが、頼りない息子がもう一人ふえたのですから。

教室のみなさん、娘さんいらっしゃいますか?娘が嫁ぐときは、笑顔で見送ってしたさい。決して、あなた方の娘でなくなった訳ではないのですから。

雑感

長野日赤 松沢幸枝

先日、私は発声教室の忘年会に出席させて頂きました。最近まで入院されていた方、なつかしい方、又、初めてお会いする方と、大勢の方と共に楽しい時間を過ごすことができました。皆さんの多くの方が、長く、辛い闘病生活を送られたはずです。その入院生活は長い人生に比べれば、短い時間だったかもしれませんが、その間に、"発声".という大切なものを失ってしまった。その時の思いは、私達医療従事者であっても、充分理解することは不可能でしょう。が、食道発声法という、本来人間には与えられていない能力を獲得され、第二の人生を送っている皆さんを見ていると、何か、とてもたくましいものを感じます。

発声教室に参加される方の人数も、以前より増えたとききます。励まし合える仲間が増え、良かったと喜んではみるものの、反面、会員増加を喜んでいいのか、複雑な気持ちです。が、皆さんが、第二の人生を楽しく迎えるために、励んでいるということを実感します。皆さんと話をしていると、生きることの厳しさと楽しさ両方が感じられます。これからも多くのことを教えて下さい。

信鈴会の皆様こんにちは

信大病院北三階病棟 野口千里

信鈴会の皆様こんにちは。

今年は冬将軍の到来が早く毎日寒いですが、いかがお過ごしでしょうか。

私も、北三階に勤務して早くも二年を過ぎようとしています。この間、患者さんからもたくさんの事を教えていただきました。あの苦しい闘病生活を乗り越え、またここにこうして発声教室え参加され頑張っている皆様のお姿を拝見しますと、私も、とても元気づけられる思いがします。

はじめはただ『いがらっぽい』だけであったものが、治療を進める段階で、喉頭全摘手術を宣告され、『声を失う』ことを知ったときの患者さん、そして御家族の皆様のお気持ちには、どんなに悲しく複雑なものがあったでしょう。しかし、手術を決意し、手術を受けられ、第二の声の獲得に精をだし新たな人生を歩まれている姿を拝見し、手術で失ったものは大きいけれども、術前とは違う、何かいっそう人の強さ・丸さ・大きさのようなものを得られたように思われます。

どうか、これから手術を受けようとしている方に、励ましの言葉をかけてください。また、まだ未熟な私にもこの貴重な体験等々御教示いただければ幸いと思います。

皆様の御健康をお祈りしつつ、つたない文章ではありますが、ペンを置かせていただきます。

余生いろいろ

松代 吉池茂雄

日赤長野病院前副院長の浅輪勲先生が、ある時、こんな事をおっしゃった。

「一人の命を救うために、その人を身体障害者にしてしまった。その人が失った声をとり戻すために、懸命の努力をしている姿を見ると、胸をえぐられる思いがする。皆様に会うのが辛い。障害者を出さずに治療する方法はないのだろうか...。」

浅輪先生は責任感の強い方だった。

今、天上から私たちを、どんなお気持で眺めて居られるのだろうか。

私が五年間勤務した或る学校の、PTAの役員をされたSおばさん、年に一、二回街でお会いする。会うたびに

「先生は医者にだまされたのだよ。実験台にされたのだよ。本当にあの病気なら、今、こんなに元気で居る筈はないよ。」と、大声で話しかける。

私を慰めてくれるのはよく判るが、その言葉が二度、三度と度重なると耳についてくる。

「Sさん、私は医者の云う事を信じて、医術を信頼して手術を受けたのだ。そして、今でもそう信じている。私を慰めてくれるあなたのお気持ちはありがたく思うが、その話は、もうやめてくれ...。」と云わうと、次の機会を待ちかまえているが、その後三年ほどになるが、会っていない。どうしたのだろうか。

その学校に籍はあったが、学校では一度も会ったことのないT君と、年に二、三回は会うことがある。

その日、私が中央通りのバス停でバスを待っていると、わざわざ自転車を下りて、

「先生、いつもお元気で結構ですなァ。病まない者が先に逝って、病んだ者が後に残る。これが浮世と云うものですかなァ。お元気で...。」と、悟ったようなことを云って、また自転車に乗って行ってしまった。

彼は、その学校に在籍中、胸を病んで、須坂の長野県職員療養所に入所(入院)していたが、その後全治退所して退職し、奥様が営んで居た土産物店を手伝っていたが、店を息子たち夫婦にゆずって、郊外に引退しているのだ。

私の在職当時の同僚で、年配者の中には、他界したものが大分多くなっている。


親戚の者が集まる機会があって、私も同席した。米寿に近い義兄と義姉が話していた。

「兄さんは、いつもお元気でいゝですね。」

「耳が遠くなってしまって、人の話が判らないので、外へ出るのがおっくうになった。生きすぎたのだなァ。...そう云えば、こ、にも生きすぎたのが、もう一人居る...」

と云って、そばに居た私を指差した。「なるほど、『生きすぎた』か」と、私は胸の中で反芻した。


私たちが発声練習をしていて、又実際に会話をしている時に、自分の発声と、相手が聴きとった言葉と喰いちがっている場合が時にある。私はこの事で苦がい経験をもっている。

東京で会社を経営している弟へ電話した。いつもは自宅の方へかけるのだが、その日は珍しく会社へかけた。若い女の人が出た。事務員である。

「モシモシ、○○会社でございますが、どちら様でしょうか」

「長野の吉池だが...(社長に...)」

「あ、、長野の池田様ですか」

「違うよ、池田ぢゃない、吉池だ」

「ハイハイ、長野の池田様ですね」

「吉池だと云ってるのに判らないのか―ガチャン」ついに癇癪を起して、こちらから切ってしまった。

そのあとで考えてみた。吉池がどうして池田になったのかを。

その結果次のような結論に達した。

ヨシイケダガ...この"イケダ"の三音が、強くひびいてイケダになった。こちらが怒れば怒るほど、イケダが強くなってしまったのだろう。

その後私は、「吉池だが...」という云い方をやめて、「吉池です。」と云うように努めている。そして、それから今日まで、この事だけについては、誤ってとられた事はなかった。


大分以前の話だが、NHKの鈴木謙二アナウンサーと、野球の神様のような川上哲治監督との対談の中で

「あなたにとって、野球とは何ですか」と鈴木アナが尋ねたのに、川上監督は

「相手が捕り易い球を投げてやる。相手もまた、こちらが捕り易い球を投げてよこす。この思いやりの心、チームワークが野球です。」と答えたと云う。

野球を見ていると、落球や逸球の大部分は、投球者の悪投によるのがわかる。この事は、私たちの発声、会話でも云えるのではないか。

「相手が聴きとり易い発声で話す」これである。

相手が、何を云われたのかと、懸命に聴きとろうとして、目を白黒させているのにおかまいなく、滔々としゃべりまくる。

聞き手が、間で何か云わうとして、話し手のスキをねらっていても、そのスキを与えないで、便々と続くおしゃべりに、ついには降参して、しまいにはどうにでもなれというような気持になってしまって、相槌をうつのも忘れてしまう。

結局、話し手の云った事は、聞き手に何も受取れない事になる。

つまり、話し手の投げたボールは、聞き手のグラブに入らずに、どこへ行ったか行先不明の暴投になったと云うわけだ。


私の祖母は、明治四年生まれで、昭和二十七年に八十二才の生涯を閉じた。

明治初期なので、学校教育はほとんど受けていない。読書算盤を除いて、女一と通りの道を身につけて、十六才で隣村から吉池家へ嫁入りした。当時松代でも有名な(?)飲んべいな夫に仕えて、昭和十三年にその夫を見送って、肩の荷をおろした気持でか、その後の十五年をおゝらかに余世を送った。読み書きこそ出来ないが、責任感の強い人だった。

その頃祖母は、台所をまかされていて、父と私が持って出る翌日の弁当のおかずを、何にしようかと考え迷って、とうとう一睡もしないで朝になってしまった事があった。

又、私の末の妹が幼かった頃、背負い紐なしで、手かてでおぶって散歩に出たが、石につまづいて前にのめった。手をついて体をさゝえれば、手かけの幼児は前へとび出して大怪我をする。祖母は幼児をしっかり両手でおさえたま、、顔面制動で受け止めたのだ。血だらけになって家へ戻って来た祖母は、

「児に怪我がなくてよかった」と一言云って、自分の顔の手当をした。

「お陰様」と云うのがある。

祖母がよく使っていた。祖母と同年配の人は、男女とも「お陰様」をよく使った。

お陰様で達者で...

お陰様でお天気がよくて...

お陰様で実のりもよろしくて...

などゝ、何事によらず「お陰様」がつく。

自分の力だけではなくて、何かの、大きなもの、お陰で、そうなったのだと、謙遜と感謝の気持の現われであると思う。

近頃この「お陰様」が使われなくなったのはどうしてだろう。何も彼も、自分の努力だけでなしとげたのだ、俺がやったのだと信じているとすれば、何とも恐ろしいような気がする。


私の寺の住職は、檀家の家族の誕生日が近づくと誕生祝のハガキをくれる。お誕生日おめでとうの次に、何か一言その人に宛てた言葉だ添えてある。

今年の私の誕生祝には、次のように書かれていた。

お誕生日いかがお迎えでございましょうか

生かされて 生きてきた

生かされて 生きている

生かされて 生きていこう

手をあわす 南無阿弥陀仏と

(お元気でお大切に)

私は今、生きているのではなくて、生かされているのだ。

何かの力で...お陰様です。

十五年を顧みて

副会長大橋玄晃

昭和四十七年秋頃から喉の調子が少しづ、おかしく、四十八年大町病院で診察を受け七月ポリープの手術を受けましたが思った程の声は出ませんでした。昭和四十九年四月息子の大学入学につき上京すると家内の弟がひどく心配して弟の親しい間柄である慶應病院の先生の紹介で同病院耳鼻科斉藤成司教授の診察を受ける事になりました。結果は即座に入院を言い渡されました。然し慶應病院に入院する事は家の都合上出来ませんでしたので、斉藤先生から信大病院教授鈴木篤郎先生(現、名誉教授)を紹介して頂き入院、同年六月十二日助教授廣瀬毅先生(現、形成外科部長)により喉頭全摘出の手術を受けました。月日の経つのは早いもので十五年目を迎えました。仏教の教への中に"諸法無我"と言う言葉がございます。これは人は一人で生きているものではない、多くの人々によって生かされているものであると言う意味でございます。この十五年間を振り返って如何に多くの人人によってなぐさめられ、はげまされ、教へられ、そして生かされて来たことか深く感謝申し上げております。私が入院して間もなく今野婦長(現、看護副部長)さんが鳥羽源二さん(現、信鈴会長)を同道して食道発声をきかせて下さいました。そして渡されたのが、"食道発声の手引"でございました。その中の十六頁の"手術前の注意"と言う項の中に、手術前の一週間か十日位の間に、しきりに"ゲップ."を出す練習をしておくと発声が早く出来る云云とありました。私も最初から食道発声に取り組む積りでありましたし、今野婦長さんも食道発声に関しては、当時は非常に力を入れておられましたので毎日毎日口の中へ指をつっ込んでは、"ゲップ"の練習をいたてしおりました。手術后経過も順調で口から食物が入れられる様になると同時に発声教室に参加、鳥羽さんの指導で原音"ア"の発声法、所謂嚥下法(のみこみ法)を教はり第一回で"ア"が出ました。その時は本当にうれしくて、毎日毎日退院まで暇さえあれば"ア""ア"の練習の連続でした。お陰様で七月十六日退院の時には片言ながら,"ア、リ、ガ、ト、"と言って退院する事が出来ました。それからは毎週木曜日の発声練習が待ち遠しい位で、家に帰っても三時間位は最低でも練習いたしました。その間に銀鈴会発行の"発声練習教本"を取りよせて頂き、二字、三字、四字と進みましたが、五字、六字頃から仲々進歩しませんでした。本当に泣きたい位の時が度々で、時には教本をた、きつけたい位の衝動にかられた事もございました。昭和五十年五月二十日、鳥羽さんに誘はれまして東京銀鈴会の総会に初めて出席いたしました。そこで食道発声の上手な方の多いのにおどろきましたが、殊に中村正司現会長さんの声をき、これが喉頭を摘出した人の声かと本当におどろかされましたと同時に、丁度落ちこんでいた私に、発奮の気持ちを起させて頂きました。直ちに入会して銀鈴会へは毎週土曜日に東京まで通ひました。然し中村先生は仲々お忙しくて直接指導は時々しかして頂けませんでした。丁度その頃非常に親しくして頂きました先輩の今は亡き増田栄次さんから、中村先生は横浜の神奈川銀鈴会の会長さんもしておられ、毎週火曜日が練習日で会員もまだ少ないからそちらへ行って見てはどうかと教へられ、早速神奈川銀鈴会に参り入会したのが十月でした。そこで中村先生共々手をとって本当に親切に指導して頂いた方が、現在佐賀県に居られる女性第一人者の保野千代子さんでした。朝大町を六時頃出て大糸線に乗車、松本で特急あずさに乗り換え八王子で横浜線にのりかえて神奈川県立障害者福祉会館につくのが十二時半頃で、一時から三時迄の練習を終えて家に帰り着くのが九時半頃でした。然し何として、も上手になりたい一心でしたので、それ程遠いとも苦労とも感じませんでした。そして帰りの車中まわりに人がいなくなると、そっと教へられた発声法を小さな声で、忘れない内にと復習したものでした。火曜日は横浜へ、木曜日は信大病院へ、時には土曜日に東京の銀鈴会へ、この様な発声教室通ひが五年程続きました。然しそれも少しづゝ上達してくるに従って、月に一回、そしてその次は二月に一回と段々と足が遠のき、今では年に一回の総会しか顔を出せないと言う様な事で神奈川銀鈴会にも東京の銀鈴会にも申し譯なく思って居ります。

私が横浜へ参りまして指導を受けたのは徹底して吸引法でした。然し一年有余嚥下法で発声して参りましたので仲々吸引法になじめず、嚥下法と吸引法がごっちゃになったりしてどうやら吸引法らしくなったのに二年を要しました。嚥下法の場合は続けて発声する場合、スムーズに会話が出来ないのみならず、空気を呑み込む為めにその都度"ゴクン"と言う雑音が相当の上達者でも必らず出て参りますので、皆様も原音"ア"が出る様になったら直ちに吸引法に切り換えてやって頂きたいと存じます。幾度となく壁にぶつかっては又気をとり直しての十五年目、又本年は小生教へ年で七十才、そして年号も平成元年、私の人生の一区切りに来たものゝ様に考へられます。本年は新たに第二の人生の再出発の覚悟をもって更に発声練習に精進し力不足ですが発声指導にも努力して行き多くの方々の御恩に少しでも報いたいものと存念いたしておる次第でございます。何卒本年もよろしく御指導の程お願い申し上げます。

教えられ教える

伊那教室指導員 桑原賢三

昭和五十年一月五十二才で全摘の手術を受け、発声機能を失い幻滅の悲哀を感じ現実の社会より逃避する生活を余儀なくされた。

然し当時末っ子の男の子が未だ高校在学中で長男長女共に半人前とお金のかかる時期で、勤めの方も現場の管理職でどうしても声が必要で、一日も早く会話の出来る発声をと一生懸命で松本教室に通い、鳥羽先生、大橋先生、平沢先生の三人の先生の指導のもとに懸命に努力しましたが、何にせよ一日も早く少しでも早く会話る出来る発声を、そして会社へ復帰をしなければ、収入が途絶える、このことが常時脳裏を去らず、唯あせりと力みが先に立ち、気管口からの空気にやたら力が入りのみこんだ空気を止める「ゴクッ」「ゴクッ」と言う雑音のみ耳につき会社への復帰が出来る声など程遠いことだった。

この頃私の力みと雑音に鳥羽先生も大分手古摺った様でした。又大橋先生が毎週東京の銀鈴会や神奈川銀鈴会の教室に通い、中村先生から吸引法を教授され、この雑音が消えた大橋先生の声を聞き私も何とかして吸引法をマスターして一日も早く職場復帰をと、大橋先生の東京の教室から帰るのをまって執拗に教えを乞うたものでした。

それでも中々先生についてゆけず努力したものでした。然し十年近くたった今日この頃、やっと吸引法らしい発声が身について来た様な感じです。今になって先生に感謝しているところです。

昭和五十二年十月伊那教室開設に伴い、担当の指導員を仰せつかって今日にいたっていますが、この教えることが教えられることより一段と難しく、どの様にしたら相手に納得させ又効果が表れるか、それに果して教える資格があるだろうか?等自分なりに悩みます。

然し自分も同じ悲しみ苦しみ悩みをもち、当時先生方に教えられ励まされ今日に至って居る訳で、相手の気持ちを理解出来るものの内一番近い所に居る訳で、其の時の気持ちを忘れずに其の人の気持ちになって接すれば、自ずから道は開けるものと信じて居ります。

現在の伊那教室は、他の教室と違って手術を受けた病院がそれぞれ違い、患者同志のつながりがなく教室へ来て初めて知り合いになると言うケースが多く、お互いに気兼ねが見られ、この点早く教室になじむ様気を遣っております。

第二に、手術をして声帯を摘出したのだから喋れない譯で、声帯は音を出す所であって音さえ出れば喋る機能は全部口の中に残っている。だから音さえ出れば必らず喋れると納得する迄、初日から説明いたしております。

第三に、空気をのむことについては、形の見える水はのめても空気はのめないことはない。のむことは水も空気も同じであることを説明して、お茶をのむ要領から教えこむ。

第四に、のんだ空気を胃を下げずに食道内にある内に腹圧をかけて口内に逆流させる。これは一様にむずかしいと言うが、これはだれしも経験するところで、ビールをのんでゲップが出る又悪酔いした時たべたものが逆流して戻すことがある。この時食道入口で音が出る、「ゲーゲー」と言う、これと同じで、ゲップの要領で空気を逆流させ、食道入口でゲップ音を出させる。この時に、腹部をへこませて横隔膜でのんだ空気を押し上げて、食道入口でゲップ音を出す。この横隔膜で押し上げることが先決で、吸引法に切替へた時に横隔膜の上げ下げが大事になってくる。即ち下げる時に空気を吸引して、上げる時に空気を押し上げ発声する。要するにポンプの原理だ。日常腹式呼吸で訓練をして置くことが肝要である。

一番大事なことは、教室へ来た初日に、音は小さくとも原音の「ア」の一声を出させることだ。私はこの初日の第一声を重視して、何としてもこの第一声を出させる様に指導する。

この声を聞くことに依り、前に述べた様に摘出された声帯の替りが出来たことを説明して、喋ることに希望と自信をもたせることにしている。

だから、初日の指導こそ自分としても真剣に取組む、又この時の気合いの入れ様で、教へるものと教へられるものとの心のつながりが強くなり、後々の発声上達に大きく影響が出ることに成功している。又其の後の進歩も順調な成果を見ている。

ここで問題はいつ「のみ込み法」から「吸引法」に切換へるのが適当かと言う所ですが、これは次の機会にします。

伊那教室も最近駒ヶ根の伊南病院、伊那の中央病院にて摘出手術が実施され、又高速自動車道が開設され、これに依り東京、名古屋が近くなり、この関係で県外で手術を受ける人も多くなった様で、下伊那、飯田などは松本より名古屋の方が近くなった様な状態で、今後、愛知ガンセンターなどで手術を受ける人々の教室への参加が増えるのではないかと思はれます。

教室への参加者も次第に増へ、常時十人以上で多い時には二十人近い時もあります。

山下さん、伊藤さん、それに病院の宮原総婦長さん始め関係の皆様の、献身的な協力を得て運営して居ります。

御協力のみなさんに厚くお礼を申し上げるとともに、これからもよろしくお願い申しあげます。

S六十三年十月記

食道発生十年の成果

信大発声教室指導員 小林政雄

第三回オール日本食道発声コンテスト大会に出場する為めに、其の「課題曲の鯉のぼりと、故郷の空の歌の練習をしている内に、私はあのきびしかった少年の頃の生活が思い出されてなりませんでした。当時は非常に景気が悪くて我が家では苦しい生活を強いられておりました。それは子供の私でも良くわかりました。そこで日曜になれば山へ薪を取りに行ったり又川へ魚を取りにゆき、少しでも家計の足しにして居りました。そして高等小学校を卒業すると同時に追われる様に東京の会社へ就職をして寮へ入りました。そこで六ヵ月間の社員見習教育を受ける事になりましたけれども、私は言葉のナマリが仲々とれなくて大変苦労しましたが、六ヵ月にはどうやら普通の会話が出来る様になりました。一日の仕事が終り夕食を済ませて夜間の工業学校へ通学して夜おそく寮へ帰って来て、あたりが静かになると遠くからポーッと汽車の汽笛の音が聞へてきます。あ、あの汽車に乗れば田舎へ帰れる、そして年老いた両親に会う事が出来るなどと色々の事が思い出されて涙を流した事が幾度かありました。しかし段々と会社になれて仕事も面白くなり又学校の生活も身について、色々楽しい事がありました。春になれば墨田公園で花見を行い又盆がくれば会社内で盆おどり大会なども行い、そして一番楽しかった事は一泊の修学旅行でした。日光や箱根や鎌倉、京都、奈良等、行った事です。そんな事が大変うれしかった当時の思い出話をしました。」この文章が今度のオール日本食道発声大会の時のスピーチです。おかげ様で過ぎ去りし昔を思い出す事が出来ました。今回は運よく入賞する事が出来ましたけれども、これは十年間の食道発声の訓練と、熱心に指導してくれた鳥羽、大橋両先生及び関係者の方々、先輩の皆さんの御指導のおかげと深く感謝しお礼申し上げます。今后も一層発声を勉強して皆様方の御厚情に報いたいと思います。 十一月三日

リクルート・コスモス事件を憂える

岡谷市 武内基 八十一歳

この十一月一日は日本退職公務員連盟長野県諏訪支部の年一回の総会が諏訪市内の教育会館で行はれて行って来た。参会者は百三十余人であった。会員全部が来れば三百人ぐらいになるのだが、半数程の欠席であった。欠席者の大分は定年退職しても六十歳台では第二の人生だなんて言って、自宅近くの保険会社や、工場や工事場や有料道路の料金徴収所や自動車学校等の職場に勤めており、火曜日では休む訳にもゆかず欠席したのだろう。結局出席した者は七十歳前後から上の、就職口のないほんとの老人なのだろう。

この総会での話は大体年金の話で、それも大した増額なんて見通が考えられないと言ふ様な不景気な能のない話だった。この次は敬老行事として本年八十歳と八十八歳になった人、これからなる人に寿詞と記念品が授与された。八十歳該当者四十四名中十六人出席、八十八歳該当者九名中三人出席で、欠席者は老弱出席困難というのだろう。私も八十八歳には元気で是非出席したいものだ。体に気を付けなければならないと思った。

諸行事が終って近くの丸光百貨店の五階で会費二千五百円で懇親会が行はれた。この二千五百円も、地元出身の国会議員等数名から会の盛大成功ならんことを祈念するなんて祝電が来たのだから、これらの有力者に何らかの名で懇親会費ぐらい出してもらえば良かったのに、がいもないことだと思った。懇親会は型の如く鮭、海老、貝、鶏肉などを料理したもので、外にメロン、葡萄、野菜のテンプラ等、それにビール、日本酒で、飲み喰いには充分の量であった。約一時間余で散会になった。歌も無論踊りもなく淋しいものであった。私は午後五時ごろ帰宅した。

十一月九日水曜日、晴、朝六時屋外で零下二度であった。いつもの横河川の川原まで往復七十分の散歩から帰って、朝日新聞を見た。今日も又リクルート・コスモス株問題が、第一面に掲載されているのを見て、急に会報『信鈴』にリクルートのことを書く気になりました。

近頃連日全くやることもないまま、炬燵でリクルート問題を新聞、テレビで見たり読んだりしておるが、仲々難しい問題の様だ。相手は、大体国会議員で前の総理大臣なんかも見え隠れしておる。それに高級官僚でこれ等の者が関係しておる問題だ。政治家は選挙して吾々が出したものだ。政治家は選挙に立候補した時は真面目そうで、握手なんかやってニコニコして、粉骨砕身国家社会のために尽くすから是非投票してくれと言うので、惚れこんで投票してやって出たものだが、一旦政治家として偉くなり、これが本物の豹ならツブシテ敷皮にもなるが政治家はその地位権力は法律上でもある程度の身分の保証がある。中には成り振りかまわず財テク蓄財に専念狂奔する者が相当数あるものですね。今回のリクルート事件でも早々で判っただけでどうせ内輪に言っておると思うが、何千万円とか一億二千九百万円だとかと、ほんの一寸の間に儲けて家を買込んだとかそれも世の批判の目をごまかすため自分の名義に書換ず、故意にそのま、にして税金は名義人に送って納めて貰うなんて、手のこんだ慎重細心の輩もおるなんて恐い様だね。まだある、俺が買ったのでない秘書が買って来たんだ、俺は全く知らない関係ないと言うので、その秘書さんにお聞きしたいと言へば、ソ連モスクワに行っておるかも知れないと言う。仕方がないので何時日本にお帰りになりますかと問へば、ソ連に何用で行ったか帰るのか帰らないのかも知らないとの答である。こんな重宝なリクルート株を買って来て行方不明になる秘書なら私も借金してでも二人ばかり頼みたいものだ。

そうかと思うと疑惑の人物にリクルートの株を真実お持ちですかと聞くと、高飛車に絶対買ってもいないし、無論持ってもいないと言ひ張る。確たる証拠があって執拗に追及すると、妻と息子が買って各自分名義でリクルート株を持っておるなんて手間のかゝるのもいる。更に家族がリクルート株を持っておる現在の心境はどうですかと問えば、出来るだけ堂々と行動と態度をしておるなんて答が返って来る。これでは最早や手がつけられないと言うものだ。こんな者こそ盗人猛々しいと言うのですね。今になって初心に還れなんて手緩いことを言ったり政治家の倫理なんて言っても解るもんでもない。既に病膏盲に入るです。結局吾々は斯様な悪徳政治家や官僚を出さない様に気を付けることだ。殆んど大多数の国民は気弱の真面目者だ。会社だ工場だ工事場だ農場だ漁業で役人だで、残業に次ぐ残業、早出だ日曜出勤だ、お盆も正月も返上なんて牛馬の如く働き稼いでも、何年たっても自分の住む家も持てないなんて。しかも一方では経済大国日本とも言はれておる。悪徳政治家、官僚をのさばらせるのも悪いが、その原因の一部は確かに吾々にもある。反省しなければならない。

その点韓国は偉い。全国民が集会デモを敢行して、前大統領全斗煥夫妻の不正、蓄財等が白日の下に自分達の眼前に見えるまで、後えば引かぬと宣言しておる。

この気概があるから、植民地から独立して僅か四十年余でオリンピックを盛大花やかに行い、世界の先進国の座に連なることも出来たと言うものだ。建国の意気に燃えあがっておる。いづれにしても日本国民は挙げてリクルート事件の今後のなりゆきを見守るべきだ。

以上、新聞を見たりテレビで聞いたことを思い出して作文を作りました。御笑覧下されば幸甚です。

向寒の切り、皆様お健康に御注意下さい。終り

(昭和六十三年十一月十日)

闘病記

松本教室 田中清

五十七年十月二十日、東京の朝はどんよりしていた。昨夜ホテルの近くの、柏戸が経営していると聞いたステーキ店で、妻子と東京に住んでいる竹馬の友とこれが最後かと飲んだビールの酔いか、病気が進んで息苦しい一夜を過ごしたせいか頭が重かった。ホテルを出て国立ガンセンター病院の裏門をくぐる時、もう再びこの門は生きて出られまいと思った。

長男が世話になっているガン研の諸先生に挨拶をして予約していただいた小野ドクターの所へ行く。出掛ける時部長先生から「お父さん、心配ないですよ。よく小野君に話をしてあるから」と言われて幾分気が楽になったが、病院が広いため妻がはぐれてしまったのも気が付かない程神経が高ぶっていた。

診察室で先生が口腔を一寸鏡で見て「どうしてこんなにまで放って置いたんですか。誰か付添の方は居ませんか」と声が激しい。次男が申し出て母も来ているというと「とに角検査を急いで下さい」とレントゲン・血液・尿の検査を指示する。病院を案内して呉れたガン研の内田君につれられて各室で検査を済して研究所へ戻ると、部長先生が「いま病院から話があって一時半から病棟の五階で一寸手術をするということです。そうそうお昼は食べない方がいいですよ。なあに簡単に済むといっていましたから」と言われて来るものが来たなあと思った。一時半局部麻酔で気管切開手術が始まった。途中麻酔がさめた時のあの痛さは生涯忘れられない。耳が聞えるのでドクター達のさゝやきが耳にはいる。あきらかに癌であることがはっきり分る。喉にカニューレを入れられ血が止まらないまゝ、入院のベッドが空かないからと部長先生の友人の大森のピース病院へ入院することになった。すでに声と匂を失い筆談で妻に伝えるが中々意思が通じない。腹がたってもどうしようもない。夜痰がつまり呼吸が苦しくなった。看護婦が酸素吸入をしましょうと鼻にあてゝいる。私が手真似で違うといっても妻も子供も友人も気がつかない。やっと筆談で院長先生を呼んで貰った。院長先生が笑いながら説明したら看護婦が変な顔をしていた。早速吸入器を用意させ扱い方を教わり血や痰を取り除いたら楽になった。しかし頭頸部の痛みはますます激しく眠れない一夜であった。その日昼前妻が部長先生に呼ばれて「奥さん、御気の毒ですがお父さんの『ガン』は肺までいっている。あと一ヵ月の命です」とひそかに言われたことがあとで分った。それから二日間頭頸の痛みと闘う。三日目にはじめてポタージュを食べる。非常にうまかった。二十三日にガンセンター病院のベッドが空いて移ることになった。ガン研の皆さんが総動員で引越やらテレビを入れたりいろいろ面倒を見て呉れたのでやっと人間らしくなった。翌日からの日課は八時朝食、九時半診察、十二時昼食、十四時入浴、十七時夕食、薬は一日二回食後と判で押したようなもので、そのせいか不思議に頭慶頸の痛みも取れ、又吸入、吸引も自由で呼吸も楽になった。

二十四日には、内田君と有馬記念の分析をやる余裕がでて来た。二十五日にカニユーレを金属に変えて貰って夜も安眠ができるようになった。二十六日ガン研の先生が夜七時頃こっそりビールを持って来て「お父さん今だから言うけれど、小野さんの診断では肺がやられているからもう無理だといっていたが、昨日電話があって、肺は昔の傷らしく喉頭手術で治るといってきた。お祝いにやりましょう」と二人でビールを乾杯した。たまたま看護婦に見つかって大分油を絞られた。ガンセンター病院に移ってから毎日毎日見舞客で忙しかった。中に松本、長野から来て呉れたが、みんな声の無い私に驚いていた。この頃苦しさや忙しさで忘れていたが二十日以降大便がないのに気が付いた。看護婦に話をして飲薬と座薬を貰ったが一向に効きめがない。看護婦が浣腸をと言って呉れたが、くせになるからと断ったが、何しろ力むことができないのでどうしてもだめ。三十一日の真夜中トイレで三時間頑張ってやっと終った時は夜が明けかゝり、朝日の上る前の東京の明け方の空の美しさをしみじみと見た。年末も押し迫ってくると病室の窓下の築地の魚市場のせりが活気に満ちてくる。さすが東京だなあと思った。

三十一日に隣の舌癌で入院中の横浜の方が四日まで帰宅が許されて喜んで帰って行く。この人も七日に手術をし早く退院したが、一昨年再入院し不帰の客になられた。一人になり友人からいただいたおせち料理とカンビールで淋しく年を取る。一月六日手術に備えて総合検査を行う。終了後手術日が十三日にきまる。十三日朝手術着に着替えて見送られ手術室に向う。途中、麻酔注射を受ける。エレベーターに乗り長い廊下をゆられているうちに分らなくなる。十四時二十分目がさめた。小野先生が、「田中さん手術はうまくいきましたよ。普通の人は五時までかゝるんですがね」といった。再びエレベーターで下り個室へはいった。間もなく看護婦がポリ製の容器を取り替に来た。見ると、血とうみを喉から管で取っている。頭頸の痛みが前回より一層激しい。生れてはじめて点滴をやった。ぽつぽつ落ちる液体が何か淋しい。痛み止を一服飲んだが効きめがない。たヾ布団に寄りか、って痛みをこらえているだけだった。尻が冷い。妻に見て貰ったらポリ容器の栓がゆるんで血の海の中で寝ていた。それから二日間個室を出るまでは苦痛との闘いであった。三日目頃から点滴の効果か、痛みが薄らいで来た。点滴は四日間で終った。ガン研の先生が身体にいいとスッポンの缶詰を届けてくれた。一月二十六日総合検査があり二月三日退院がきまった。先生は案ずるより易しというが、今考えると束の間の闘病生活あったが、その間涙と笑いの連続であったと思う。本人よりむしろまわりの人人が。

思い出いっぱいの発声教室

信大教室 長岡幸弘

信大病院で手術を受けてもう十五年近くなり初めて思い出を書いてみました。

十五年も立つと手術の時の苦しさ、切なさも、今では嘘のような思い出になってしまいました。その時は、婦長さん、看護婦さん、会長さんや仲間の方々に励まされどのくらい力付けられたことですか本当に嬉しく有り難かったことを今でも目の前に浮かんできます。

私は、退院後発声教室にも真面目に通いましたがどうもあの発声の声がどうしても嫌でオレもあの声で話をしなければと思えば練習にも力が入りませんでした。(これはオレの負け惜しみですが)でも社会に出てみて初めて言葉の大切さがわかりました。自分の意思を人に伝える難しさ、紙に書いて人に読んでもらっても私の心はすこしも通じず、笛も使ってみましたが初めての者には、高い低いの音が出せないので相手の方が聞きづらく結局駄目、また元に戻って発声教室へ鳥羽さん大橋さんに教えていただき今ではやっと少しは人と話ができるようになりました。人間だれでもがそうだと思いますが、切羽詰まれば何でもできるものだと思いました。これからは少しぐらい役に立つ人間になりたいと頑張っています。たまに、教室に顔を出すと新しい仲間の方々が一生懸命頑張る姿を見て、喜んでいいのか少し戸惑います。

十一月に(生まれて)初めてバスで伊勢に行った時のことですが、サービスエリヤで私と同じく首にガーゼをしている人に逢い懐かしくなり話し掛けてみましたら、人工咽頭(穴を指で押さえて声を出した)で昨年鉄道病院で手術をし、いまは元気になって伊勢にいくとのこと。近くにお婆さんや奥さんや息子さんらしき人がいて、私の声を聞いてよく分かりますねとおだてられて気分をよくした旅でした。これからも教室の皆さんに負けないようにガンバリます。

折々に

西條八重子

長くて短い八十八年もあと一月半で暮れようとして居ります。人生健康でなければつまいらないと思って居る今日この頃です。でも与えられた運命のようなものがあるような気がして、それに負けずそれなりに生きて行かなければと思って居ります。

やがて二才を迎える孫と長男夫婦との四人暮しで、幸福の毎日です。孫は「バーバー、バーバー」とそれはそれは可愛らしい声で呼んでくれます。来世があるならば健康でチョッピリ頭の良い人間に生まれてきて、モリモリ仕事をして、それから山歩きなどを楽しむような暮しがしてみたいと思って居ります。上田には太郎山と言う山があります。海抜一一六四メートルです。一年を通じて三回程登ります。頂上には太郎神社がありまして、それはそれは素晴らしい山です。その時の体調に合わせて途中までにして、先に登って行った息子と合流して下山するようなこともあります。早く孫も大きくなって連れて登りたいと思います。

十五年ほど前から始めました茶道をまた始めさせて頂きまして、週一回おけいこに通って居ります。先生もグループの皆様も本当に良くして下さいまして、古寺の庭の中にあります茶室にて午後の一時心から楽しい思いをして居ります。

とりとめのないことを書き連ねてみました。どうぞ皆様、いつまでもおすこやかにお暮しの程を......

夕暮れて孫と見る庭、敷もみじ

(十一月五日)

思うまゝに

中村慎一

昭和五十六年十二月に、喉頭を切除する手術を受けてから、早や約七年になります。私の生れは、明治四十二年十二月十八日、手術をしたのが、昭和五十六年十二月十八日でしたので、くしき縁とでもいうのでしょうか、第二の人生を出発した事になります。

病後の生活で、一番私を元気づけてくださったのが、長崎県佐世保市長であった、辻一三さんの事でした。声帯がなくても、あれだけの公私の生活活動をせられた事でした。

手術後の健康状態は順調であって、自分の仕事(税理士)をやって居ります。発声は、普通の生活上の会話で苦労することもありますが、電話をかけられて話が出来ることは、不幸中の幸いであると思い感謝して居ります。

伊那教室の役員であられる、桑原賢三さんを始め皆様には、色々御世話を受け深く感謝致して居ります。仕事や都合により、この頃は教室はの出席が思わしくなく、深く申し訳ないと思って居ります。

最近は、駒ヶ根市方面でも、喉頭の病いの方が(会員外)何人かおられるようです。その御家族の方が、御相談にこられる事がありますが、其の際は、御病人には私の経過をお話して元気づけられるよう、申し上げて居り

ます。

本年の信鈴会の年一回ある旅行には、参加出来ず残念に思って居ります。おいでになられた方が、「同病で苦しんだ人々の旅行であるので、お互いに思いやりがあり、気のおけぬ旅行であった」とのお話しを、お聞きして居ります。またの旅行をたのしみにして居ります。

未筆ですが、信鈴会の御活動御発展を、深くお祈り申します。

(六十三年十一月記)

長野日赤教室 宮坂信子

四月の花見の頃より、仲好しの友人三人と伊勢神宮に参拝旅行をしましょうと、二、三回寄り合って相談して参りました。結局気候の好い九月の中旬、十八日より二泊ということに纏まりました。当日は珍しく晴天で青空の下、心もうきうき篠ノ井駅を出発、名古屋から知多半島を縦断、右側に太平洋を眺め、南国特有のシュロの並木を車窓に内海より師崎港に向かいました。広々とした伊勢湾、波静かな大海原、果てしなく広がる真青な海、そして紺碧の大空、素晴らしいわ素晴らしいわの連発でした。師崎に到着、これから伊勢湾を渡るべくフェリーを待ちました。日曜とあって親子連れ、若者達のグループで大賑わひでした。私達一行も記念写真を若者に撮って頂きました。待つこと二十分、船内に車が次々乗り込み、その後から乗客が乗り込みました。船内には設備万端が整ひ、喫茶店あり、テレビ室あり、売店等々とても便利でした。波静かな大海原に只うっとり、近くに遠くに点々と突出している島々を眺め、楽しい話に花を咲かせていました。暫くすると前方に白亜の灯台が見え、碧い海、きらめく陽光に鮮やかなコントラストを描く大自然、伊良湖岬は私達を気分良く迎えてくれました。フェリーより降りましたが、時間も早かったので、美しい自然の中に史跡を巡る事にしました。最初フラワーセンター花摘み園え。尚、運転手さんの話ですと、此処いら一帯は有名なメロンの産地とのことです。入園して見ますと、私達の見たことのない何百種類の熱帯植物、見事なお花畑、そして珍しい鳥類等々、行けども行けども広々とした、そして素晴らしい眺めでした。本当に時のたつのも忘れた楽しい一時でした。

次に愈々跡巡りです。彼の有名な石門を見、芭蕉の句碑、藤村の詩碑等、私達信州の生んだ偉人の作品を懐かしく見学致しました。亦恋路ヶ浜等、潮騒に心をあづけて詩情豊かな一時の散策が楽しめました。そして日暮れの早い秋の夕、岬の上に立つ白亜のホテルへと向ひました。

お部屋に案内され早速窓を開けますと、海岸線が限りなく続き、私達山国の信州人には到底味わう事の出来ない見事な眺めでした。一風呂浴びて心身共にさっぱりした気分で夕食です。広い食堂、見事な"海の幸"の数々、舞台では豪華な宴に、火の粉舞ひ散る下では"フラダンス"、亦南国情緒豊かな”サウスアイランドショー"と次々に運ばれる御馳走と宴にスッカリ満足し、会場を後にお部屋に引き上げて参りました。美しい水平線の見えた"リゾート伊良湖"の旅は何時までも何時までも私達の心に残りました。翌朝九時出発、伊良湖より伊勢湾、賢島へ"フェリー"にて渡り、当日は海が荒れ船も大分揺れました。一日違ひなのにと思い乍ら、横になって雑談をしておりました。一時間程して"賢島"に上陸、港よりタクシー、幸に運転手さんがとても親切な方で、大王崎灯台、真珠の出来る過程やらの話をして下さいました。"食用のり"の養殖、賢島、あご湾、そして二見浦の見物を致しました。

鳥羽の水族館を見物、未だ見たことのない魚介類、大小様々の珍しい魚にはびっくり眼を見張る許りでした。そして"オットセイ"の輪投げ、球ころがしなどなど、訓練とは申せ大したものだと感心させられました。水族館を出て、車は二泊目の志摩観光ホテル"南風荘"えと到着、ホテルはやはり海辺でした。部屋に落着き"ゆかた"に着替え、ゆったりとした気分になりました。一泊目の伊良湖と同じく水平線が実に美しい眺めでした。波静かな海原、誰れ云うとなく"好い旅だったわね"と、お茶を飲み乍ら昨日今日のことなぞ話し合いました。

愈々三日目九時半、ホテルの車にて"近鉄宇治山田"迄送っていた'き、駅前よりタクシーにて"伊勢神宮"に参拝、大鳥居をくぐり大樹連なる参道、美しい球砂利を踏んで参拝致しました。五十鈴川は夜来の雨でや、濁っておりましたが、只々神々しく頭の下がる思ひでした。神宮を出て、愈々帰郷です。しなの二十三号に乗車、席に着いてホット致しました。

二泊三日の旅、本当に悔しい想ひ出の多い旅でした。信鈴会のお知らせが、私達が旅行社より周遊券を入手してからの為、皆さんと御一緒の旅が出来ず相済まなく存じております。

障害を持つ私でも元気でこんな素晴らしい旅が出来ました事は、先生始め看護婦さん並びに会の皆々様方の日頃のお励ましと御温情の賜と深く感謝しております。

最后に皆様方の御健康をお祈り申し上げペンを置きます。

重病と闘いの思い出

大町市 西沢平

昭和十六年九月、支那事変に招集され、獨立混成第二連隊機関銃中隊に入隊した私は、十月に中隊より抽出された分隊の一員として第十二中隊に配属され、含山地区の警備について居りました。十七年二月二十五日より発熱して、三月一日の夕方には三十八度九分ありました。翌日二日午前七時に敵襲があり、折から雨降りの中、敵は我が軍の五倍の大軍だったので大激戦となり、機関銃弾は残り少なくなり心細くなったが、十二時頃より敵は退却しました。

私は分隊長で高熱の中で指揮を取ったが、射手でよく戦った長野市出身の丸山兵長が戦死したのが実に残念だった。戦いは終ったが、私は高熱の中で戦い、しかも雨に濡れたので、震え出しが出て熱も上り動けなくなった。医務室のある本部とは遠く離れ、軍医も居らないし、衛生兵が一名居るだけの前線で、雨降りの日がつゞくので粘土だけで砂利のない地区の道路は軍用トラックも通れない。四日間寝て居るだけ、薬も無ければ飯も喉を通らない。六日になってやっとトラックが来た。十時に担架に乗ったまゝ、トラックに乗せられ出発した迄は覚えて居るが、途中で意識不明となる。トラックは雨降りの後のぬかるみの悪路を、夕方迄かゝり連隊本部のある巣県についたと、後で聞いた。夢の中の様に誰かに怒られている様な、頬を打たれた様な気がする。気がついて見たら、軍医の診察を受けて居るところだった。軍医はおゝ気がついたか一ー(イチー)と言って見ろと言った。二回一ー(イチー)と言ふと風邪をこじらせた様だ、今から野戦病院へ入院する元気を出して早くよくなって来いと言われ、すぐ又担架に乗せられたが、そこで又意識不明となる。入院して十二日目に気がついた。後で聞いた話だが、野戦病院の軍医の診察でも、手遅れだ手当の仕様がない死亡室に入れて置けと言い、更に機関銃中隊へは電話で、西沢はだめだから明日火葬にするので遺骨箱を用意する様にと連絡したそうだ。当直の看護婦さんが親切な人で、一時間毎に死亡室に置かれた私の所へ来て、体温、脈搏、呼吸等を計り、記録した。朝になっても入院時と同じだったそうで、出勤して来た軍医に報告した。軍医も驚きすぐ診察し治療が始まった。病気は腸チブスで、難病のうえ、手遅れで大変苦労をしたそうだが、幸にして全快し退院して中隊に帰り、挨拶に事務室に入ったら、すぐ前にある書類戸棚の上に白布で包んだ遺骨箱があり、故陸軍伍長西沢平の霊と書いた札が貼ってあった。

四十五年十一月、腰痛で整形外科病院で診て貰い、脊髄注射をした。三十分過ぎた頃、血圧が下がり過ぎたとかで眩暈いがし吐きっぽくなったが、そのまゝ何も分からなくなった。今度は血圧を上げる注射をした。その内に頭が痛くなって気がついたが、段々痛みが強くなって耐え難い。血圧は二百五十を越した。先生は付き添いの妻に近親者を呼べと言った。その一言で鳴呼これで最期かと覚悟をしたが、幸にも大事に至らず翌朝は血圧も下がり、腰痛も一ヵ月後になおった。

六十二年四月二十一日、喉頭腫瘍の為、信大の耳鼻咽喉科へ入院し二十四日より放射線照射の治療が始まる。第三十回目照射の六月十五日頃より喉の痛みが強くなる。六月二十四日に第三十七回目の照射でこれ以上は出来ないと放射線治療は終了、二十七日退院。七月二十九日再入院、喉頭手術の為の検査、小手術を行い、八月十日退院。八月十七日再入院、二十一日咽頭摘出手術を行い、経過良好九月十一日退院した。

今度の入院は主治医が親切で病状、注意事項等よく説明してくれ、病室では看護婦が親身になって面倒を見てくれるし、その上一週間に一度は教授に診て貰える。幸運で危機感が全くなく、安心して治療を受ける事が出来ほんとうに嬉しかった。感謝して居ます。

関係の皆様に心から御礼を申し上げます。有難う御座いました。

追憶

佐久市 市川直太郎

去年十一月中込農業協同組合の秋期慰労旅行に招待され、日本三景の一つ、松島方面に一泊二日の旅に出かけました。車中では酒を呑み話は弾む。其の中の一人に、「市川さん今日は声が変だね。カゼでもひいたかね...」と聞かれ、「いや...もう半年ぐらい前から声変わりしてた、大人の仲間入りだよ...」などと話した処、「わしの仲間にもいたが、小諸に好い先生がいる。注射二、三本やったら治ったよ。上手だ、早く行った方がよい」と、住所を書いて呉れた。四、五日后に診察を受けに行く。町の開業医だが、患者数が多かった。やっと診察がおわり、其の結果先生は言葉少なに、「紹介状を書くから、佐久病院で診てもらいなさい」との事。ことはこゝから始まった。厳しい肩書きの気管食道耳鼻咽喉科の先生に紹介状を提出した。先生は書類と私の顔を見ながら顔色が少し曇った様に見へた。「これは検査しないとね...」「入院して下さい。何時が良いか家族と相談して早い方が良いですね...」とのこと。なんと注射の二、三本どころか大変な事になった。入院とはやはり癌かな...と直感した。家で話したところ、「前林区の人も喉の病気で十六年も前に手術をしたが、声が出ない様だ」と言う。大変な事になった。来年こそ三月で区長職を辞めなければと、後見者を密かに探索中の矢先、まだ大分仕事が残っている。急遽役員会を開き、事情を説明して其の中から代理者として来年三月までを繋ぐ選出をしてもらった。人の仕事の後始末など大変ご苦労なことは十二分に理解できる。しかし私はこれから病魔と闘うのである。

すまぬすまぬと心で詫びて入院への手続きをする。私は今まで喉頭摘出者を見たことがないので、理解に乏しい。元気な時は俺の親も二人共癌で死んだ、どうせ俺も癌になるだろう、などと人には冗談に話していた。だがいざ入院となれば、あの時の父五十一才が私の招集礼状と死が一緒とは、一時の猶予も与えぬ軍のこと、隣組の皆様方にお願ひして入隊しました。兄弟はまだ小さいため母を先頭に、隣組の方々の力で葬儀は後日無事すみました。戦いは一年六ヵ月で終戦となり、翌年の四月まで今の中国で捕虜生活をして来ました。戦争のためとは言へ、親の葬式も出来なかった自分が残念でした。母も、三十九年の元旦、癌のため七十二才で他界いたしました。今もあの時の父母の最期の病魔と闘う姿が私の脳裏に浮かびます。遂に来たな...と先生の顔を伏目で見上げた。十二月七日入院、今日から病棟生活が始まる。一週間後から放射線治療開始、病名は声門部周囲の腫瘍(ポリープ)との事。全治三ヶ月との診断でした。二月十日、予定通りの手術で経過は順調でした。二十日間で退院の指示が有り、声無き我が身も其の時より言葉の話せる人への怨めしさがこみあげてくる。其の間看護婦さん達が一生懸命ア音の発声の特訓をして下さいましたが、中々出てこない声のまゝ三月一日退院となり、先生や看護婦に発声練習は怠らないで頑張って下さいと激励されて門を出る。院内にある発声教室は、月に二回練習があり、入院中に一度見学で顔を出した事があった。十四、五名の先輩を指導員の方々が親身になって、訓練をしておられた。私もはや9ヵ月がたちますが、未だに要領を得ず、声量が小さく人様との話しには大変苦戦をしています。最近新たに二人の同志が見へましたが、初期生の私達は牛歩亀歩と言はれても、最後までやらねばならない訓練です。皆様宜しく御指導の程をお願い致します。

それにしても会員の皆様を拝見致しますと、年長者の多いこと。長い人生を身をすり切らせて漸く老後を楽しく愉快に暮らさんと、あの長い苦難の道を登って来た方方が、又この様な病いとの闘いです。憎いこの病敵は、二度と体内に住ませじと先生方を先頭に健康管理に努めようではありませんか。

終始辻褄の合はない文面で失礼致します。

最後に会員の皆々様の御多幸を心からお祈り申し上げ、乱文乱筆をお詫び致します。 (終り)

ひどいことになった―しかし―

竹前俊弘

私のセールスポイントは健康なことです、と言えば、それ以外に取柄がないと言っていることと同じで、「趣味は?」「読書です」というのと比べて幼稚さ、つまらなさではいい勝負だろう。だが。

高等学校から、一年間の海員養成所の訓練を経て船乗りとなり、今回、一すじにつとめきてた会社を七月末に退職するまで二十九年間、急変する気象条件、ほこりと騒音、様々の化学薬品の使用に伴う危険の中で、昼夜を分かたず寧日なき毎日、劣悪過酷な労働環境のもと、ほとんど病気や事故で休んだことがなく、無事に働いてこれたのは、「ありがたくも、健康であったお陰だ」と胸を張って言ってよい。

しかし、どこも悪くなくても、年令を経るにしたがって身体組織のあちこちが老化してくるのは仕方のないことで、書類を見るのに背を伸ばしてあごを引き顔をだいぶ離した格好であると仲間から指摘されたのはもう五、六年も前になろうか。続いて、虫歯入歯の全然ない口の中の、右上奥から二番目目歯を支える肉がゆるんで歯がぐらつき、あまり痛いので診てもらうと歯槽膿漏で、歯ぐきのマッサージを医者のいうとおり励行することで、痛さをだましだまし使う仕儀となった。

巷間、老化はこの順序で始まるといわれるとおりのなりゆきで、目、歯ときたからこんどはもっと下の方かと思っていたら、そうではなくて声が嗄れてきた。病状に気づいたのは四年ほど前で、友人、家族から医者にみてもらえとも言われたが、なに、そうあわてることもあるまい、うまくいけば放っといても治ってしまいやしないか、何の根拠もない希望的観測ばかり強くて、まず、今までだと、この考えでだめだったことはなく、たえていて、いよいよこらえ切れなくなってから医者へ駆け込めばそれで間違いはなかった。

だからこの喉のイガイガも、外人相手の仕事のやりとりは英語だから、ただでさえ片言に毛の生えた程度の会話力でダミ声ではめっきり通じが悪くなり、一杯飲んだときのカラオケが駄目、仲間との日本語会話さえ不自由を感ずるということになるまで放っておき、いよいよ手当をする時期である。今度の休暇中に声を元通りにしておかぬと次の船では仕事にならぬ、と判断し、須坂病院耳鼻咽喉科に診ていただくと、のどの奥からポリープのサンプルを掻き取り、まず松本続いて金沢と長いこと専門家の検査に回っていたので、ちらりと悪い予感がした。これが当って、私の喉の奥に巣喰ってじっくりと時間をかけて私の声をだめにしてきたものの正体は、「えー、私もね、そんなに悪性のものじゃなかろうと思ってたんだけどね、どうもあれですね、良性のものじゃないらしいですね」と先生をして言わしめるタチのものであったのだった。

ではどうするのがベストであるか伺うと、これは、手術をしてあたり一面広範囲に、声帯を含めて取り去り、きれいにする必要がある、とのこと。なにせ、専門の先生が、この方法に若かずと云われるのだから逆らう理由は一つもなく、「ではそうして下さい。よろしくおねがいします」無理して平静を装ったけれど、声帯も取ってしまうというのでこれはショックであった。

オペ着という、ヒンヤリとして重たく薬臭いものを着せられベッドに寝たまま、よくテレビの病院場面にあるのとそっくりの手順で手術室、手術用ライトの下まで押されてゆき、戦闘機のパイロットがするのと似たものを、鼻と口にかぶせられ、すぐ失神して、次に気がついたのは、ひどく光量の少なく感じられる集中治療室にからだ中しびれて身動きできぬ状態でベッドの上におり、妻とこの病院のこの階で婦長をする妹とがのぞき込んでいて、「わかる?」「きこえる?」とたずねる。

手術は終って助かったらしい。

実は私は前回、ポリープのサンプルを採取するときも全身麻酔でやってもらっており、今回、本物の手術をしてもらう直前、「この間にように気絶してるうちに手術が行われるなら、万一そのま、死んでしまったら、これは楽なものだな」と、真摯な態度、必勝の意気込みで私の命を扱って下さる先生とそのスタッフに対しては全くの失礼、わが家族肉親に対しては誠に無責任な考えを、半ば本気で思い、わり切ったつもりでも、前日、手術前のカウンセリングで、「もう1ペン確かめておかねばならないが」と、手術を受けることに異存のないことの確認を記録にとられ、手術すればこれこれのようになるのだぞ、といわば引導をわたされ、それから余り時間も経っておらず、血迷っていたらしい。

入院中から、退院の後でも、簡単会話ができるようになるまでの間、一ヵ月半ほど、全く大量の字を書いた。新聞の折込み広告の裏、同じ病室の、印刷所経営の人からいただいた紙、友達が会社からもってきてくれたコンピュータに使用した反古紙に、今まで、これだけ短期間にこれだけの量の文字を書いたことはない。看護婦さん、医師との病状に関するやりとり、面会の家族、見舞いに来てくれた人々との会話、保険、会社退職に関する手続き、連絡のてがみ、みるみる、という感じで会話し終った紙が溜まってゆく。これでも、口でしゃべっている会話量と比べれば、いくらもものを云っていないので、これだけ見ても、ことばの出せなくなることがいかに大きな損失であるかがよくわかる。

昔の人が、「物言わぬは腹膨るる心地す」と云っている。このことは想像以上に本当で、手術前に、「まあ大変だろうが、しばらくの辛抱だ。ほかの人はとも角、自分だけはこのことでみっともないところは見せまいぞ」と、軽い気持でした決心、覚悟などは、いともあっさりと効力を失い、言いたいことが言えぬ、言いたい分量のごく一部しか表現できぬことから腹の中、頭の中にたまって慢性的に苛立ったとげとげしい気持を作り出すこの始末に負えぬ怪物に比べると人間の理性というもののひ弱さはびっくりする程で、こちらは文字で、相手は自由に使える口でもって、あれこれ云い合ううち、じきにこらえ切れなくなって暴力に走ったりするなど、私もとんだ災難に合ったものだが、家族の方も思わぬとばっちりを食い心外極まることだったろう。これを早く解消さすためにも、食道を通しての発声又は器具を用いての声を得ることは、我々に課せられた緊急の義務といってもよい。毎月三回、金曜日に長野日赤病院で開かれる発声教室には、できるだけ出席し、発声法を早くマスターしたいし、また、この会合に加わることにより、自分だけでなく、ほかにも似たような境遇の人のいること、同じような種類の苦労を共有していることをじかに見聞し、まだ発声を始めて日の浅い私には、発声法だけでなく、日常生活上で注意すべきことなど折りにふれてたずねたりと有効なことが多く、ともすれば、こんなことが、他人には起らず、自分にのみ起ったという不公平性、不当性をうらみ、いじけて性根ひん曲りそうになる自分のふがいなさを自覚させ、諭し正してくれる効果も持つものでこのおつき合いはだいじにしてゆきたいし、また、長野日赤教室の皆さんばかりでなく県内の他の教室の皆様方にもどうぞよろしくとお願いいたします。

ひどいことになってしまった。しかし、私にはまだ小さな子供もいるし、このことですっかりめげてしまっている余裕はない。ことばを取り戻す訓練にはげみ、諸先輩方と同様、よそへ出てもはづかしくない程度にまで早く到達し、社会復帰を果たし、この経験を笑って他人に語る事ができるようにならねば。

声帯との決別と新たな声への決意

長野市平林 井出義祐

八月十八日朝六時零五分、目をこすって体温計を見る。もう一度見直す。確かに体温は四十度五分、全く考えられない発熱である。ゆっくりと起き上ってトイレに行ってくる。しかし、数値に比して、めまい、ふらつきが少ない。生れて初めての四十度を超す体温になってしまった。前夜九時には、よく眠れるようにと安眠剤を飲んだが、時々目を覚しては考え込んでいたからなのか?或は風邪を引いたのか?いよいよ当日は午后二時から喉頭摘出の手術が予定された日である。これでは手術にならないだろう等と、ほっとしたりした。とすると原因は嫌悪感からこんなに体温が上昇したのではないかと、今になって思う。水枕とアイスを両脇に抱えこんだらすぐに平熱近くに下った。

私は二年前、声の掠れで八月から十一月にかけ、右喉頭腫瘍で入院、「コバルト」施術を受け、綺麗な声に戻って退院したが、再び七月十九日入院、全身麻酔の上、検査の結果は再発との診断がされた。永年連れ添った妻は、こういう話しは非常に弱いため直接話せば、目を回して寝込んでしまうと判断、代りに妻の妹と、近くに嫁した次女、在京の長女とその婿を呼んで、一緒に主治医先生の説明を受けた。それによる私のショックは大きく、先ず喉頭に気管口という呼吸する穴が開けられる。次に従来の発声は不能となり、唖と同じ状態になって声のはたらきを失うと言うことであった。しかし代用の発声法があって、発声教室をもって皆様が頑張っている。殆どの人が成功している。その点は昔と異なり、安心して喉頭全摘出手術を受けている、との説明があった。当方は相談の上その場でお願いの御返事を申し上げたが、さて、ベッドに入ってから考えた。当年六十五才、数字上はまだ二十年近くも生きなければならないと思う。そこで、社会生活を営んでいくのに、まろやかな言葉が出なくて人様との話しが面倒になり、やがて一人前の人間としては見てくれなくなり、そして孤独な生活となってしまうのではないか等々、考えれば考える程限りなく心配が湧いて来た。私自身、代用発声法があること等、見た事も聞いた事もなかったのだから無理もない。しかし、婿や娘達はこのような教室のあることを知っており、又実際にその人達にも会っていたから、手術については私を励ましてご返事をしたのだった。妻には妻の妹から、安心して納得のいくように話をして貰ってある筈で、今日は手術のため妻も早目に病院に来ることになっていた。結局発熱のため手術は延期となり、内科で精密検査を受けたが、特に異常なしであった。

そして九月一日が指定された手術の日となった。五人の孫達からも「頑張れ」とのメッセージが届いている。「よし、孫達のためにも頑張らねば」と、家族、近親の皆さんの見守る中で無事完了し、先生からの結果の良いことを知らされた。もうこれであと約三週間で退院となるか。皆様ご苦労様でした。

ところが、私の体質がよくないのか、不調なのか、栄養不足で少しも快方に進まず、遂に再手術をすることになった。それ迄の苦悶は想像以上であった。走馬灯の如くに種々の思い出が脳裏を去来し、そしてもうこれで、すべておしまいか等と思ったりした。しかしここが頑張らなければならないところなんだぞ、妻も寝ずに看てくれており、看護婦さん方も一生懸命に面倒を看てくれているではないか、と自身に言いてかせて頑張った。

そして再手術に当り先生のおっしゃった言葉、これは妻と共に生涯忘れることのできない嬉しい言葉であった。「これこれの方法によって必ず完全に治癒します。もうひとふん張りですな」この強い自信に満ちたこの言葉は、まさに「地獄に仏」であった。妻と二人で共に喜び合い涙した。実は、妻も私の病状をみて落胆していたのだった。「よし、前途に光が見えたのだ。生きる張合いが出たのだ。頑張らなければ」と。そして十月六日の再手術となったが心は安定していた。十六時過ぎに手術室に入室し、呼ばれるまで覚えなく、二十時半に退室、病室に帰りベッドに入る。婦長さんにお願いして妻も泊りがけで、既に一ヵ月半も続けた後であったが、張合いをもって頑張って泊って手足となってくれた。「たん」の吸出しも繁く、度々看護婦さんも呼べず、したがって上手になってくれた。体重も手術時四十二キロまで減った体は、何かと医療に支障をきたしたことと思う、先生は真剣な眼でよく診察された。ガーゼをとって診て「よし、経過はいいぞ」と励ましの言葉を戴き、又看護婦さんに「ガーゼは汚れたままだと治る病気も治らないのよ」等とジョークを、或いは「ウィット」に富んだ言葉により緊張を柔げて戴いた。まさに患者の心理を捉え心を安定させるという扱い馴れた立派な先生であった。又婦長さんを始め看護婦さん方皆様は真剣に、身も細まる如くによく歩き面倒を看てくれた。真夜中の呼出しにもすぐに駆けつけてくれた。しかも常に優しい顔付きで、まさに患者に対する愛情がなければできないことであろう。名のとおり尊敬する看護婦さん達であった。先生方の真剣さを始めとし、看護婦さん、家族、近親者、そして妻、皆様方のご努力、励まし等により本人は頑張る力を増し、闘うことによって病気が治癒するのではないだろうか。そのような感じがした。

私も丸二ヵ月、口からは何も入らなかったが、漸く十月二十八日から流動食、そして十一月一日から、おかゆとなり、十日現在体重も手術時より六キロも回復し、消化器も好調である。口から入る食べものの、おいしいこと、これも永久に忘れられない思い出となった。

そして十一月四日、私の初回の食道発声教室へ婦長さんに導かれて参加した。何と皆様頑張っておられ、先輩上達者の方等は食道発声ではないような上達振りで、その流暢な発声を聴き、又更に励ましの言葉を戴き、食道発声に対する決意を新たにした次第である。

新米から一言ということでその場で会報の原稿を依頼されましたが、食道発声練習については未経験のため、私の闘病生活の一面についての拙文をお届け致します。先輩会員の皆様よろしく御指導をお願い致します。私も一日も早い快癒を持って、訓練に精進したいと念じています。

頑張れと言ってくれた孫達のメッセージのなかから、一番年少の小三の孫娘のものを御紹介致し、ご挨拶方々拙い文を閉じます。


おじいちゃん、しじゅつがんばって下さい。

早く元気になっていっしょに遊んで下さい。

また顔を見に行きます。

がんばれ、おじいちゃん。

しょう子より

病床生活一年を振り返ってみて

佐久市中込 木内純一

私、佐久病院教室の木内と申しますが、昭和六十一年十月初旬頃より咳がしきりに出て少しも眠れず、三月頃より血痰が混じって出ましたので、早速浅間病院へ出向いて診察して貰ったところ、入院の必要ありとの事。入院前、町の医師に診察していただいたところ喘息位にしか安易に見てくれませんでした。私も当時てっきり喘息としか思いませんでした。そしてとても不安にかられながらも、秋の野菜取り入れ、庭木の手入れやらで忙しくやっと十二月五日に、浅間病院に十五日間入院、その間一通りの内蔵検査を済ませ異状なしとの事で、一たん、二十日に仮退院、一ヵ月在宅。翌六十二年一月十九日再入院、検査の結果、耳鼻咽喉科の宮崎先生に、貴方は癌になる恐れがあるから手術した方が良いでしょうと云われ、恐怖感に襲われ思い切って意を決し、一月二十七日に喉頭手術にふみきったのです。

仮退院中、(市内、石神集落の小林たまじさんに)手術から経過をアドバイスして貰い、大丈夫、手術してもらいなさいと云われまして、約九十日間入院、三月三十日に退院しました。

入院中時々血痰が出るから心配のあまり先生に伺ったところ、まだ完全に治っていないし、咳が出ると咽喉の表面で荒れている関係から出るので、苦にしなくとも大丈夫、安心しなさいと云われ、ホットしました。

入院中も退院後も少しも痛みを感じない、現在のところ咳が多少出るのと相変わらず痰の出るには閉口致しております。

光陰矢の如く、手術して、早や一年三ヶ月の歳月が過ぎます。吾々のような病気の持ち主には、風邪が恐いので自分に云いきかせながら健康管理に留意しなければならないと痛切に思います。

退院間近く佐久病院発声教室に通いはじめ、現在人工喉頭にて発声しております。

三瓶会長始め先輩指導員各位の、親身になっての指導により、何とか相手にわかって頂ける程度に話せるようになりました。

そして昭和六十二年三月退院後、事情の許す限り休まず発声教室へ通い、夏中は野菜の手入れやら雑務に追われ、秋になりいよいよ迎冬に当り気をつけなければいけないと思い、意を決し暖かい千葉県浦安の息子のところへ静養に来ました。

郷里に居る時から銀鈴会に参考の為に参加したい心づもりでありましたから、二月二十五日に出席しましたが出席会員五十名位、未加入参加者六十名でした。

会場は、熱気あふれるような、一人一人にアドバイスしてくれ(私も会長より紹介状を頂いて来た関係上とてもよかったです)皆、会員は人工喉頭を使用せず、食道発声には普通の人と何等変らない明朗そのもの、声であり、そしてすばらしいものでした。

私も初めての参加でもあり地理不案内の為、嫁に案内してもらったのです。

会場は、東京都福祉会館、道順は、上野―都営バスー三田駅終点右側のそば、......

若し参考の為に見学したい方は、飯田橋の事務所に照会するとよいと思います。

終りに臨み浅間病院宮崎先生、並びに佐久病院山浦先生、両病院看護婦さん方の温情に感謝し、会員各位の、ご多幸をお祈りいたしまして、筆を擱きます。完

食道発声一年生

岡谷市 脇坂雅夫

私が初めて信大の北三病棟へ放射線治療のために入院したのは、桜の花も満開の六十二年四月二十七日でした。三人の子供を次々に片づけて妻と二人で気儘な毎日を過していた私にとって、これから始まる入院生活に大きな不安が募るばかりで眠れない夜も何日かありました。また放射線と聞くだけで四年前、許容量以上の照射の甲斐も空しく、舌癌から転移した癌によって肉体を蝕まれ、四十五歳の若さでこの世を去った弟の悲惨な姿が思い出されてなりません。

連休も明けた五月一日より照射開始。当初案じていた放射線に対する恐ろしさも徐々に薄らいで、三十回、六○○○ラードの照射の効果と先生方始め看護婦皆様の行き届いた医療と看護のお陰様を以て腫瘍もきれいに消失して八十日ぶりに退院を許されました。

退院後は、二週に一回の外来でその都度異状もなく充実した数カ月を過ごしておりましたところが、好事魔多し...病理検査の結果遂に再発が認められ、即入院。十二月四日摘出手術をする旨宣告されました。再度の入院のため或る程度の覚悟は出来ていたつもりでしたが、一瞬目の前が真暗になり奈落の底へ突き落とされたような、そんな感情をどうすることも出来ませんでした。

入院当日は千葉から駆けつけて呉れた長男一家と塩尻峠を越えて一路松本へ。車窓から眺める新雪の八ヶ岳の峰々、鏡のように波静かな諏訪湖など、再びこの景色に接することが出来るだろうか?自問自答しながら途中松本城をバックに写真を撮り、北三病棟三〇三号室の人となりました。手術前の検査が続く十一月三十日は私の六十四回目の誕生日。殺風景なベッドの上で意義深い誕生日を迎えました。何はともあれ今日からは六十四歳、七人の孫たちのおじいちゃんとして頑張らなければと決意を新たにする。

師走に入って四日。摘出手術の日、家族や同室の皆さんの「がんばって」の声も麻酔のせいかうつろに手術室へ...看護婦さんや家族達の話し声にふと目が覚めた時、生命あるものの歓びをしみじみと感じると共に「先生、看護婦さん本当にありがとうございました」と心の底からこう叫ばずにはいられない感謝の気持で一杯でした。特に入院中はいつも頭痛を訴えたり、又ひどい便秘に悩

まされたりして座薬や浣腸薬を注入して貰ったりで、人一倍看護婦さんにはお世話になりました。長男の会社の関係で女優沢口靖子さんより贈られた「脇坂さん病気早くよくなって下さいね」の色紙の加護もプラスされてか、術後の経過も頗る順調で、食道発声教室へも婦長さんの紹介で見学させて頂き、明るい雰囲気の中で皆様が真剣に取り組んで居られる姿に感動致しました。そして年の瀬も押し迫った十二月二十八日無事退院。新しい年を吾が家で楽しく迎えることが出来ました。

食道発声教室では会長さん始め先輩各位の熱心なご指導と適切なアドバイスにも一向に原音のゲップ音を出すことが出来ず、何度か挫折感にさいなまれていた時。信鈴会の定期総会に出席して直接、日喉連の中村会長先生より原音を出すコツをご教授頂く機会に恵まれました事は、一生忘れることの出来ない感激でした。その後体調をくずして二ヵ月程ブランクはありましたが、最近になってやっと母音、子音の発声を不充分ながらマスターすることが出来るようになり、食道発声に対する意欲も次第に湧いてきて、教室のある日が待ち遠しくさえ感じるこの頃です。今吾が家では昨年生れた二人の孫とどっちが早く喋れるようになるか競争中です。孫たちのためにも早く言葉を取り戻して一緒に遊んでやりたい、こんな気持ちで今日も練習に励んでいます。これからも更に訓練を重ねて一日も早く一般の人達と肩を並べて会話を交すことが出来るよう努力する覚悟です。今後とも宜しくご指導の程お願い致します。

不断の努力

飯山市 坪井冽

私は、昭和六十三年三月二十八日に、北信総合病院で全摘出手術を受け、手術後三週間の四月十九日に退院しました。病気の方は、きわめて順調に経過して来ました。

五月六日から信鈴会の長野教室に御世話になっています。

手術によって急に声の出なくなった苦しみは判って貰えないし、かと云ってどうしようもない毎日の中で、発声教室で指導員の方々が、全く自由に話をされるのに接し、練習次第ではあのように話が出来るようになるのかと思い、希望と勇気が湧いてきました。以来、発声教室の日が待ち遠しく、また、つぎの教室定例日に、前の一週間の練習結果について指導員の方からの講評に期待して、一生懸命練習にはげみました。その甲斐あってか、二音、三音、までは「食道発声教本」のスケジュールに沿った速さで進んで来たように思はれます。然し人間とは横着な動物で、順調にゆくと、なめてかかり、それが気の緩みになって、発声練習の熱意がうすれ、進歩がみられませんでした。

そんな時私より二ヵ月位あとから長野教室へ入って来られた若い人が、二ヵ月位で会話が出来るようになられました。丁度気が緩んでいた私にはパンチを一発、ガツンとやられたように、反省の機会となり、あらためて練習に熱が入るようになりました。

一生懸命熱を入れて練習すれば、その成果が挙がるし、怠れば進歩が止まる、一流のスポーツ選手にしろ、他の一芸に秀でた人々でも、不断の練習努力が、良い結果をうんでいる。ましてや喉摘者である私達の発声は、スポーツ選手以上に、毎日毎日の努力が実を結ぶと云う事を痛感し、発声練習に励んでいる次第です。

(六三・十・二八記)

手術前後の思い出

長野教室 古澤實

昭和六十三年春頃より、大きな声を出した後一~二日位声がかすれて風邪でもひいたかな、と思って大して気にも止めなかったが、だんだんとかすれが長くなり、八月頃になったら普通の会話もかすれ勝ちになって来ました。

友人達は冗談に「若返って声変りが始まったのか」等言われる様に、廻りの人達も気付く様になりました。そんな時一泊で山の内温泉で兄弟会があり、夫婦六組十二人で行き、其の時も皆に早く医者に一度診てもらった方が良いと言われたが、なかなかいそがしさと病名が分るので内心の怖さもあり、十一月迄延び延びになってしまいました。其の頃になると、すっかりかすれて普通の声は出なくなりました。

十一月八日頃だと思いますが、意を決して北信総合病院へ診察に行きました。耳鼻科の横田先生の診察で、声帯の基に腫瘍が出来て居るので、精密検査が必要だから十日午后検査をするから来る様に言われ、いよいよ入院になるのかなあーと思い、内心承知していながらもガックリしました。

十日の検査は、腫瘍の所からの肉片の摘出や、レントゲン検査等いろいろの事をやりました。やはり入院といふ事になり、先生より「一ヵ月余り入院が必要」との事でした。

十九日入院、放射線照射十五日間、日曜日以外毎日やりました。一週間位過ぎた頃より声が出る様になって来ました。先生も「十五回やり様子を見て又十五回もやれば手術をしなくても良いかも知れない」と言われ、本当に助かったと思いました。最後の十五日の照射も終り、診察後、家族の者に話があるので病院へ来る様に言われ一寸気持ちにひっかかりました。

先に家族の者が呼ばれ話をされ、其の後一緒に話を聞きました。今の所放射線照射で表面は治って居るが、病巣の中迄治って居るかどうかわからない、此のま、にしておけば、又半年くらい経つと今迄と同じ様に声が出なくなるかも知れないので、此の際思い切って手術をした方が確実に治るので、後が安心ではないかと言ふ様な意味の説明があり、声が無くなっても食道発声法という方法があるので、全然声が出ないという事は無いとの事と、私の場合気管口より細い管が食道入口を通じて居るので、小さいが気管口をおさえて話が出来るとの事、いろいろ考へ手術を十二月二五日にする事に決まりました。

いよいよ手術の朝を迎へ、六時に検温に来て看護婦さんが「いよいよだね、頑張って下さい」といわれた時、さすが胸がどきどきしましたが、強がりで「大して気持ちには変わりは無い、度胸を決めたから先生に体を一任だ」と見栄をきったりして居りました。

午后一時半頃注射、点滴をして二時に手術台に乗せられ手術室へ行き、そこで看護婦さんより「麻酔をしますよ」、「はい」の最後の一声で眠ってしまいました。何時間経ったのか、どこかで「古沢さん、古沢さん、手術が終りましたよ」と言われたのを夢の様に聞いて、又眠った様な気がします。後で聞いたのですが、四時間ばかりかゝった様です。手術後、傷口が痛かったり喉が渇いたりするかと思って居たら、傷口の痛みも余りなく喉の渇きもありませんでした。

唯、熱が三八度五分もあり、三日間位頭が痛くて氷枕に氷嚢で頭の下と上で冷やしました。食事は鼻より管を胃迄通して流動食で味もわからず、只胃袋がふくらむだけで味気ないものでした。四日目に初めて起きてみたら、フラフラしてとても歩けませんでした。

約三週間後、管を抜き初めて食事を口よりした時に喉へやるのが恐ろしい様な気がしました。

診察の時、先生が「気管口を指でおさえてアイウエオと言ってみる様に」言われ、声を出してみると、小さな声で「アイウエオ」と声が出た時に本当に嬉しかった。此れで不自由長乍ら発声が出来ると思ふと、希望が出て来ました。

二十三日に無事退院が出来ました。此れも先生始め看護婦さん方が、親切にして下さったお蔭と心から感謝して居ります。拙文を書きまして思い出と致します。

平成1年刊 第19号

平成2年刊 第20号

巻頭言

理事 田中清

会報「信鈴」が本刊で二十号となりました。このことは信鈴会のみでなく、日本喉摘者団体連合会の一貫の中で特筆される一事業であると思います。この二十号までの「信鈴」の発刊には、幾多の苦難を超越した諸先輩の御尽力と、豊富な体験を基盤とした教訓や話題、発声に関するアドバイスや感想、さらに又各教室の目覚しい活動の状況や記録等を熱心に御寄稿下された諸先生はじめ看護婦の皆様並びに会員諸兄の御努力が、この成果を生んだものと思います。

この「信鈴」は、信鈴会の歴史でもあり、又喉頭摘出により音声を喪失した我々会員の第二の人生や、社会復帰のための最良の教科書でもあると言っても過言ではありません。会員の皆様にはこの「信鈴」を心の糧として、熟読玩味の上御活用のほど御願いいたします。

最近のテレビで「カニ」が縦に歩くことを知りました。「カニ」を器に入れて急激に廻して取り出すと、驚いたことに「カニ」が縦に歩き出しました。この実験は何かのショックを与えたり、環境を急に変化させることにより機能転換が生じ、思いがけないことが起きることを証明しています。今信鈴会で練習している発声法はこれと全く同じで、健康時の声帯を使った発声から百八十度の機能転換した発声方法です。発声初心者の方は早い機会に声帯発声から完全脱皮し、新しい声作りに精進していただきたいと思います。

東大医学部の広瀬肇教授は、食道発声等の上手な人は、「楽天的な人」「外交的な人」「独立心の富む人」等と言って居られます。会員の皆様音声喪失のハンデに怯まず、家庭に引込むことなく、家族共々諸会合やリクリエーション等に積極的に参加し、明るく楽しく仲間と交流することにより発声技術を磨き、信鈴会を盛上げていただきたいと思います。皆様の御健康をお祈りいたします。

いいお医者さん

鈴木篤郎

最近読んだ本のなかで、阪大の中川米造教授の「いい医者とは」という話に耳の痛い思いをした。氏は以前阪大で三千人ぐらいの一般市民に、「いい医者の属性を五つ挙げてください」という問いを出し答えを求めたところ、その答えのなかで一番多かったのが「患者の不安や苦痛をよく聞いてくれる医者」ということだったという。そして、二番目に腕のいい医者、三番目にいつでも診てくれる医者、四番目に高くない医者という答えが出てきた。ところが同じ質問を医者にしたところ、一番いい医者というのは腕の言い医者、そして患者によく説明する医者だという答えが返ってきた。このことから氏は、患者のほうでは自分の話をよく聞いてほしいのに、医者のほうではそのことはあまり重視しておらないようで、そこが完全にすれ違っているとし、いい医者であるためには、やはり患者の話をまず十分に聞かねばならないことを力説されている。私も若い時は、年配の患者さんなどに、身辺の出来事を具体的にこまこまと話しだされると、つい不快を面に表わし、その話を途中でさえぎったりしたものだが、氏に云わせれば、このような態度は、いい医者であるための最大の資格を欠くものということになり、慚愧に耐えない。

これも中川教授の受け売りだが、一般に質問の形式には三つの種類があるという。第一は答えが一しかないもの。例えば「お名前は?」とか「お歳は?」とかというもので、答えは一つしかない。第二の形式は答えがイエスかノーになるもの。「胃が痛いですか」とか「めまいがしますか」とかという質問には、イエスかノーかどちらかの答えを選択するしかない。三つ目の質問形式は答えが無限にあり、どのような答え方でもできるものである。例えば「どうなさいましたか」というような問い方である。医者は自分に必要な情報を一刻も早くつかみたいために、第三形式の質問はなるべく短くして、第二形式の質問に患者を追い込んでゆきたがるが、氏にいわせるとこれはいい医者のやることではなく、まず患者が何とでも答えられる第三形式の質問で患者の不安を十分に聞いてやり、それから第二形式の質問にはいるのが、患者を安心させるいい診察の仕方であるという。「そんなことは百も承知している。患者が多く時間が足りないのだから止むを得ないのではないか」という医者の反論が聞こえてきそうで、そういわれてしまうと、どうしようもないような気もするが、実はそうではなく、患者の悩みをじっくり聞いてやるというような、大学ではあまり教えられないことが、実は医療のなかの極めて本質的な要素であり、単に時間がないという理由だけで欠落させるわけには行かないものだと思う。

医者と患者の信頼関係が揺らぎだしたと云われてからもう二十年以上にもなる。医者のほうから云わせると、民主化の波に乗って患者の権利意識が向上した、情報化社会になって患者が自分の病気にたいする知識を持つようになった、昔のような劇的に治療効果の挙がる急性疾患が少なく、慢性病が主になったことなどがその原因だという。それはその通りであろう。しかし一方、医者にたいする市民の不満を分析した或るデータを見ると、上位一、二と四位が医者と患者のコミュニケーション不足に関するもので、わずかに三位に医者の知識や技術にたいする不安がはいっているに過ぎない。このことは、医療というもので決して医学の社会的応用といった一方通行的のものではなく、医者と患者という一人の人間と人間との触れ合いのなかから生まれてくる極めて人間的なものであって欲しいと云う患者の願望を示しているように思われる。

十周年の意義

信大医学部耳鼻咽喉科学教室 田口喜一郎

 先日教室同窓会の肝いりで私の開講十周年のお祝いをして頂いた。鈴木篤郎名誉教授を始め信大耳鼻咽喉科学教室の先輩諸賢、同級生、後輩、教室員、永田哲士医学部長始め教授会の同僚、今野弘恵副看護部長始め耳鼻咽喉科に関係のあった看護婦、百瀬領子婦長、関連病院の院長、副院長など多数の方々のご参集の下に、曽ての同級生井沢一義先生と私の特別公演と祝賀会が行なわれた。私にとってこれだけ多くの方々に祝福されるのは結婚式以来のことで、いささか緊張と冷汗の連続であった。その時ふと考えたことは、さて何のためのお祝いなのだろう、なぜ十年だろうかということであった。人は区切りを重んじ、年齢にも還暦、古稀、喜寿、米寿などがあるが、仕事の上でも十年、二十年の区切りがあってもよいということとは別の話であろう。仕事を始める時と辞める時はあってもおかしくない。理詰めで話しを進めることは必ずしもよくないが、私共にとって一番大事でことは年限でなく何をしたかということである。何もしないで十年、あるいは二十年経たから祝って貰うというのは大変有り難いことであるが、祝われる当事者にとってはむしろ迷惑なのではないかともいえよう。私の場合も七年目に祝ってくれるという話しがあったが、この時はただ記念会を開くだけの企画であったのでお断りした。そして十年目、今度は教室員が中心になって論文集を完成し、心から祝福を受ける気になった。論文集は我々の教室のほぼ2年分の仕事の内容に相当する三十二編の論文からなり、何より嬉しかったことは今まで一編も論文を書かなかった者が何人か書いてくれたことである。このような教室の行事に教室員が一丸となって打ち込むことは教室をまとめ、活性化する上に最も大切なことであり、それだけに私の喜びも大きかった。

 信鈴会も年々組織を拡大し、その活躍の場を広げており、ご同慶の至である。そして会員誌「信鈴」は会員を結ぶ大きな絆であり、信鈴が続く限り、信鈴会も益々発展を続けることと確信している(平成二年十一月)。

なんとかならないものか

佐久総合病院耳鼻科 小松正彦

喉頭腫瘍ほど治療に関して言うは易く、行うに難い疾患はないと思う。胃や腸の腫瘍のように病変を発見次第切除できない。腫瘍は原則として切除しなければ治らないことはわかっているのに。手術すなわち失声が積極的な手術治療を躊躇させているのは明らかである。全ての喉頭腫瘍に対し手術治療が施行されたなら生命は一○○パーセント保証されよう。それでも手術は受けたくない。いったいどうすべきかと、このジレンマに患者と担当医は苦しめられる。

喉頭摘出術は特別難しい手術ではない。新米の耳鼻科医でも四、五例経験すればすぐにできる。輸血を必要とするほど出血もしない。時間も三時間あれば頸部のリンパ節を含めて十分廓清できる。術後の管理も特別に問題はなく手術後四日目くらいから歩かせることもある。手術を執刀医としてやり始めた頃は喉頭摘出は楽しくて仕方がなかったが、最近は上頸腫瘍の眼球摘出と共に、最もやりたくない手術の一つになってしまった。手術後の声を失った患者さんの姿は手術終了の当方のささやかな充実感を駆逐するに十分である。患者さんの声を出すに出せないいら立ちと、当方の聞くに聞けないもどかしさ。食道発声も全ての患者に獲得可能ではない。シャント手術も声がよく出ると誤嚥がひどいし、細くすると声が出ない。思うようにいかない。なんとかならないものか。喉頭を保存して病気が治らないだろうか。生命を尊重し、かつ声も保存できないだろうか。私を指導して下さった山浦先生は見事な手術で多くの患者さんの命を救われた。先生に追いつくべく私も一生懸命手術をしたが結果として多くの身体障害者三級の人々が残った。そんなわけで私自身はこのごろ喉頭腫瘍の治療に対し、少々方向転換をした。以下に述べてみると......

まず放射線を目いっぱいかけてみるということ。放射線科の先生も喉頭腫瘍はできるだけ照射単独で治したいというお考えなので、症例によっては七○○○ラドも照射することがある。これは一見無謀のようだが、最近の文献を見るとアメリカではとにかくどんな症例でも放射線でいけるとこまでいってみようとのこと。その結果、全喉頭腫瘍の半数以上は照射単独で治りそうなことがわかってきた。不幸にして照射で腫瘍が制御できなくても、その時点で手術をすれば十分救命できる。喉頭腫瘍は甲状軟骨(いわゆるノドボトケ)に囲まれているため周囲に浸潤することは少なく肺や骨などの遠隔転移も少ないからだ。もちろん過剰照射による粘膜の浮腫(むくみ)や、のどの乾燥感はひどいものだが声を失うよりはましである。自分自身がこの病気になったとしてもやはりまずは放射線で粘ってみると思う。

つぎに薬(化学療法剤)を的確に使うということ。最近の薬の発達はめざましく、抗腫瘍効果は強く副作用は弱い薬剤が使用できるようになった。投与方法も今までのように静脈にいれて全身投与するのではなく局所の動脈にいれて病気の部分だけに到達させる方法である。一部の施設では過去に行われていたがまだ一般的でない。方法は耳の前を走る細い動脈に管をいれて薬剤を送る。この血管(浅側頭動脈という)を下にたどれば外頸動脈となる。喉頭を栄養する動脈の中心は外頸動脈の分枝である上甲状腺動脈なのでここまで管を進めて薬剤を送るわけである。まだ十分な症例がないので明らかなことは言えないが割と期待できそうである。 少々話しが専門的になったがとにかく極力喉頭は保存したいのである。信鈴会の皆さんには悪いけど皆さんの仲間を増やさないことが医療人の大きな目標なのだ。そのために私共は乏しい知恵を必死に絞っているのだ。それにしても現在の腫瘍病変が過去の結核となる日がくるんだろうか。新薬が登場するたびに製薬会社のおかかえ学者が品の悪い勉強会を主催して取り巻き連中と大さわぎするけれど、一般病院で毎日患者を診ている限りは日暮れて道遠しですね。頸動脈にしっかりくっついた腫瘍を仕方なく残して手術を終えるとなんと無益な、患者に有害なことをしたのかと自己嫌悪に陥ってしまう。どこかの天才が明日にも特効薬を発明してくれないだろうか。早くしないと人類は腫瘍とエイズで滅びてしまうよ。

ある出会い

長野赤十字病院B4病棟 臼井百合

私が食道発声というものを初めて知ったのは、看護学生のときでしたが、実際に食道発声をなさる方々とお話しするようになったのは、B4病棟に就職してからのことでした。

B4病棟で看護婦として働きはじめたものの、新米で、はじめは毎日毎日、緊張の連続でした。特に、朝一番に患者さん方のお部屋を訪れるときは、その極地であり、胸がドキドキしながら発する"おはようございます"に対する患者さん方の反応が、私のその日一日の気分を左右する、といっても過言ではありませんでした。

そんなとき、いつも大きな声でニッコリと"おはよう"と答えて下さった方の中に、あの食道発声の声がありました。その方は、以前喉摘の手術をし、発声教室にも参加されて、かなり上手に話せるようになっていらしたのですが、再入院となり、闘病生活を続けていらっしゃった方でした。その方のいる部屋に行くと、いつも話しかけて下さって、楽しくお話ししたり、冗談を言って笑わせてもらいました。元気のないときなどすぐ見破られてしまって、逆に励まされたりもしました。私にとって、この方との関わりが、どんなに励みになったかしれません。「これは、毎日やっていないと下手になってしまう。だからもっともっと話しかけてやって下さい。」と、よくおっしゃいました。

食道発声による声をはじめて聞いたときは、正直いってとても驚きました。でも、今は亡きあの声が、「何でもはじめは大変だ。」と励まして下さったことは、忘れることができません。私も皆さんに負けないよう、日々頑張っていきたいと思います。


信鈴会の皆様へ

信大病院北病棟三階 松沢咲子

耳鼻科病棟に勤務して四年目になります。

今年九月から外来担当になりました。度々外来で、退院された皆様の懐かしいお顔を拝見し、大変うれしく思っています。たくさんお話をしたいのですが、業務の忙しさを理由に、窓口での会話で終えてしまっているのが現状です。時には、すごく嫌な顔をしている事もあると思います。すみません。ゆっくり、腰を据えてお話が聞けたなら、お家で困った事など、何か私でも力添えできる事もあるかも、と思うのですが、残念です。

そんな、頼りにならない私たちですが、発声教室の存在は、様々な心配事を解決し、勇気づけられる場であり、とても大きなものと感じています。手術前の入院中の患者さんも、教室を見学し、大いに励まされてきます。それは、同じ苦しみを経験し、乗り越えてこられた皆様であるからこそ成し得るものと、日頃よりお世話になっている事を感謝いたします。

全く力不足な私ですが、皆様にお逢いできる事を楽しみにしています。病院は、どちらかと言えば縁遠くありたいものでしょうが、ぜひ、お元気なお顔で立ち寄っていただけるよう、心待ちにしています。

信鈴会の皆様へ

信大病院北病棟三階 松沢咲子

耳鼻科病棟に勤務して四年目になります。

今年九月から外来担当になりました。度々外来で、退院された皆様の懐かしいお顔を拝見し、大変うれしく思っています。たくさんお話をしたいのですが、業務の忙しさを理由に、窓口での会話で終えてしまっているのが現状です。時には、すごく嫌な顔をしている事もあると思います。すみません。ゆっくり、腰を据えてお話が聞けたなら、お家で困った事など、何か私でも力添えできる事もあるかも、と思うのですが、残念です。

そんな、頼りにならない私たちですが、発声教室の存在は、様々な心配事を解決し、勇気づけられる場であり、とても大きなものと感じています。手術前の入院中の患者さんも、教室を見学し、大いに励まされてきます。それは、同じ苦しみを経験し、乗り越えてこられた皆様であるからこそ成し得るものと、日頃よりお世話になっている事を感謝いたします。

全く力不足な私ですが、皆様にお逢いできる事を楽しみにしています。病院は、どちらかと言えば縁遠くありたいものでしょうが、ぜひ、お元気なお顔で立ち寄っていただけるよう、心待ちにしています

ストレスとの上手なつき合い方

信大病院北病棟三階 坂井和代

地球は温暖化しているというのにやっぱり寒いと感じる今日この頃です。

最近は、ストレスなどという言葉がもてはやされ、それに関する本が大変売れているそうですが、人は多かれ少なかれだれにも存在するものだと思うのです。

まして、手術をうけられたみなさんのストレスは、大変なものだったと思います。発声教室にきてらっしゃる方々は、ストレスを克服した代表選手だと思うのです。手術をする迄のストレス。男泣きしたり、最後迄手術を拒否されたり、いろんな方がいました。そして手術後のストレス。声がでなくなるとはわかっていても、自分の意思が伝わらないもどかしさ、テーブルをたたき、ペンを投げ、イライラを家族にぶつける姿。晴れて退院してもまわりの人とのストレス。自分は、社会から見離されてしまったなんて思いがよぎるのでしょうか。お酒の力に頼ったり、家から一歩をでなかったり、それらをみんな通り過ぎてきた人達が今、発声教室に顔を出してくれる方々だと思うのです。ストレスをストレスとして受け入れ、あるがままの自分で、努力していく姿が、最高にすばらしいと思うのです。私自身もなかなかそれができず、ともすればストレスに押しつぶされそうな毎日ですが、一度しかない人生、みなさん、これからもストレスと上手につきあっていこうではありませんか。

あっちゃん

信大病院北病棟三階 宮島さおり

「あっちゃん、必ずおそば食べに行くよ。退院おめでとう。」こう言ってあっちゃんを送り出して3ヶ月が過ぎたある日、私はやっとあっちゃんとの約束を果たすことができた。あっちゃんの家は、鹿教湯病院の近くの、『俵屋』というおそば屋だというので、適当に散策していると目の前に俵屋の看板が見えてきた。店に入ると奥から入院していた頃より少しふっくらとしたあっちゃんが顔を出した。相変わらずの元気で、本当に健康そのものだった。あっちゃん自慢の手打ちそばは、本当に一言、「うまい」そばだった。満腹になった私を「近くの神社なんか案内してあげるよ」と、あっちゃんは元気良く飛び出して行った。すれ違う人みんなに「こんにちは」とあいさつをし、あっちゃんは、まるで「この町内の人はみんな知り合いなんだよ」と言わんばかりだった。「ここは学問の神様だよ。」「この温泉は百円で入れるんだよ。」「このお湯は本物の温泉水で、飲めるんだよ。」とあっちゃんは地元のことを本当に良く知っていた。きっとこの鹿教湯がとっても好きなんだろうな、と思った。川の上、四十メートルのところにかかっている橋の上から下をのぞくと、紅葉した紅や黄色の葉が風にふかれてサラサラと川面に落ちて行くのが見えた。「わぁ、すっごい。きれいだねぇ...。」「うん、きれいだよ。」あっちゃんは自慢げに答えた。「下の方から見ると、この黄色い葉っぱが太陽の光に当たって、金色の雪が降っているみたいで、すごくきれいだよ。今日はちょっと曇っちゃって、残念だけど...。」

金色の雪が降る光景を私はまだ見たことがない。紅葉の季節になって、風にふかれて落葉していても、私の目には、葉っぱとしか映っていなかったのだ。だけどあっちゃんには、ただの葉っぱとは映らない。私も小さい頃には、あっちゃんのような目を持っていたのに、いったいいつ、どこに忘れてきてしまったのだろうか、と悲しくなった。今日のこの日にあっちゃんに逢わずにいたらずっと忘れたままでいたかもしれない。それに、こんな風に自然にふれられなかったかもしれないと考えると、彼女に感謝せずにいられない。私もこれから少し、純粋な瞳で、世の中というと大げさすぎるが、物事を見て行きたいな、と思っている。あっちゃんありがとう。

信鈴会のあゆみに寄せて

義家敏

信鈴会報「信鈴」がこんどの刊行で二十号となります。私も喉摘手術を受けてから十五年目を迎えることになります。

入院当初信鈴会副会長の今は亡き島さんが見舞われ、いろいろと激励された折、これまで刊行された「信鈴」の残部三号から六号までをくださいました。退院後は信鈴会に入会しましたので、その後の「信鈴」は全部揃っております。

或る日、余暇に全部取り出して見ました。毎年の表紙の色も変えての二十冊近くの一つ一つを積み重ねて見ただけで、私はこの素晴らしさに感動しました。

私は年毎の一冊一冊を散見ではあったが、創立から名誉教授鈴木先生、教授の田口先生には本当に感謝の外の言葉はありません。その外この「信鈴」は各教室の先生方、看護婦さん方、会員の皆様方から、あらゆる面で教え、激励、体験、感想、希望等々のご寄稿で、私達共通の痛み、悩みを持つ者にとっての心の糧となる貴重な記録史でもあります。これを一括して製本にしたら信鈴会の素晴らしい記念誌になるだろう、と痛感したこともありました。

こうした二十年の積み上げの中で会員の努力も大へんですが、何時も私達を激励して支えてくださった今野婦長(現病院の看護副部長)さんのお力添えも忘れることの出来ない一つです。信鈴会の中の第一人者、それは吉池茂雄さんと思います。氏は昭和三十六年喉摘手術をされて今は信鈴会の大先輩です。信鈴会の創立当時の役員からお世話をしてこられ、特筆したい事は信鈴会の起源と歴史を何時かどこかで伝えておかなければならないという責任感のような気持ちで「信鈴」十六号十三貢に、「信鈴会発声教室の生いたち」と題して今日までの経過を書かれており、このことは誰にも書けることでなく、吉池さんでなくては書けないうん蓄のある記録だと思います。そして氏のこの二十年間休まず寄稿されてきた業績に感嘆した次第です。

昭和四十三年の十二月七日長野日赤教室がはじまり、四十四年一月信大病院内に於て鈴木先生、田口先生、今野婦長さん等のご尽力で信鈴会が創立され、四月には信鈴会の総会の席上、長野発声教室は信鈴会の事業として認められ、これに続いて翌年には松本発声教室が信大病院内に発足した。その後地域の要望と、その必要性を考えられ、五十三年に伊那教室、五十六年に佐久教室が生まれ、今では全国に例のない県下に四教室が開設され、それぞれの地域の人達が近くで発声指導を受けられる事になり、喉摘者の増えている中で甚大な成果をあげておる事は、実に素晴らしい事と喜ばなくてはならないと思います。

信鈴会員の数は四十六年の「信鈴」によれば、四十七名となっておりますが、その推移は左表のようです。(注:表は転載省略しています)

表に示されているように会員数は当初五十名足らずで発足し、主たる事業は何としても喉摘者に再び声をと、発声指導に重点がおかれ、多くの会員にその成果をあげて今日に至っております。この表に見る限り五十五年頃までは長野教室、松本教室だけのため、遠隔地の人の多くは交通的事情等もあって入会できない、発声指導も受けられないという事であったと思われますが、五十六年以後の会員数はおびただしく増えたことは、それぞれの地域に発声教室が開設された事であって、このような意義深い事はないと思われます。

長野発声教室で私がはじめ学んだ頃、訓練に来られる人は大体六~七名(内一人は女性)で、何事をやるにもその場で頭を寄せて相談もでき、一入ちがった親しみもありました。長野教室の現況を見ると、発声教室の名簿には四十二名(内女性4名)と多数になり、発声教室への出席者は入れ替わりはあるが十五名から二十名という多くの人が出席しており、発声可能になった人は上級、中級、初級の差はあるが家庭で、社会で、職場で、生業に復帰していることは大きな成果であり、感動でもあります。

私達の第二の人生に限りない深いよろこびを得られた事であります。しかし、当初とくらべ信鈴会員は増えてきたが、県内にまだ入会しない方は数十名が予測されます。この事が会の発展と言って喜ぶべきかは私には分りません。ただ、願う事は一人でも多くの人が発声教室で学んで一人でも多く社会に、職場に復帰されることのみ祈っております。

菊と私

伊那発声教室指導員 桑原賢三

私と菊の出会いは昭和四十五年からで、つきあいはもう二十年になります。当時会社で担当が変り、新しく担当した職場が割合年配者が多く、共通の趣味に依り職場の融和を目的に、菊の会を作り毎年自作の菊を持ちより職場で展示会を実施して年毎に盛大になり、昭和四十九年私が入院する前年より社長を招待する花見の会をもつ程盛大になりました。入院する時も約五十鉢程の大菊を手がけて居り、九月入院時にはゴルフのボール程の蕾がついて居りました。

入院当時は病気の事が苦になり、菊のことは一時忘れていました。然し、一週間程過ぎベッドでの夜も眠れる様になって、菊を思い出し、翌日見舞いに来た長男に菊の水や脇芽の摘み方、台をつける時期等教えて、手入れをしてもらうことにした。それからは、家族がくるたびに菊はどうか花は開いたか?と会うたびに菊のことばかりであった。其の後、放射線をかけて検査、又かけて検査と続いて、十一月に一時帰宅を許され帰宅、三ヶ月ぶりに見る菊は、私の悩みも苦しみも知らぬ様に大きな花をつけて私を迎えてくれた。やはり物言わぬ菊も私の帰りを待っていてくれた様であった。

それから翌昭和五十年一月、全摘の手術を受け、二月から声のない生活が始まった。近所の人達も又親戚の人も声の出ない私への気遣いから、訪れることも少なくなり孤独な私の気休めは、盆栽や菊の趣味へ移行していった。特に菊は手をかければかけるだけ、大きな花をつけてくれる。もの言わぬ植物だけに声のない私と気が合うのか、当時他の仕事も出来ぬ私の日常は、菊のある内は発声練習と菊との会話で過ごす日が多くなり、益々菊とのつながりが強くなりました。

それから年々菊の種類も多くなり、七十~八十種類となり、私も声も出て何の不自由もなくなり、長男の転勤等もあり、農作業も老妻と二人の肩に重くのしかかって来ました。水田五十アール、畑三十アールと、障害者にとっては少々負担は重いが、農作業もトラクター等機械化の現在、どうにかこなして居り又、菊も私から離れず昨年は町の菊友会も結成され、菊花展には入賞と楽しみも増して来ました。

今年は大菊百鉢、小菊も加えれば百二十鉢位となる。三台分の車庫が我が家の展示場となり、公民館のとなりと言うこともあり、文化祭には公民館が第一会場で、我が家の菊が第二会場として多くの人の目を楽しませてくれた。

老妻は田畑の仕事が重なり、無理をするから菊を五十位に少なくしたらと言うが、これも病気と言うか、時期がくれば挿芽の数が一〇〇~一五〇と多くなる。菊が離れないのか?私が離さないのか?声のない時におつきあいをしてくれた菊だから、これから一生私から離れることはないだろう。

発声練習中、何度も何度も行きづまり、心のあせりと不安を覚え、だれにも言えぬ悩みの時も、菊と話し合い明日への希望をもった時も数え切れず、今日も終りに近づいた花を見ながら筆を置く。

平成二年十一月記

思い出

伊藤良長

九○年の我が信鈴会の「リクレーション」石和一泊旅行には、佐久の皆様には本当に御苦労様でした。又看護婦の半田さん、岡部さん、小出さんには、車内其の他宴会等を盛りたてていただき、心から御礼申し上げます。

我が摘出者にとって元気でこうした会に出席出来得ます事は、最大の幸福だと心から思って居る者でございます。幸福は受けるべきもので求めるべき性質のもので無い。求めて得られるものは、幸福に非ずして快楽だと言ったのは、作家志賀直哉ですが、私達は「幸福」と言えば求められればなんでも得られるものを幸福だと思って居る様な気がいたします。手もとに金が沢山あるので、何でも求めようとすればなんでも「手に入る」事を幸福と勘違いしている様な気が致します。

快楽は欲望の充足と言ってよいでしょう。お金が無くとも貧しい生活の中でも、幸福は有ると言う訳です。ボロは着てても心は錦と歌った通り、信鈴会の皆さんが本当に元気で楽しく暮らす事が先ず第一だと感じます。

石和の一夜のカラオケ、私達は歌う事は出来得ませんが、佐久の三人の方の歌を聞きながら、健康に感謝しつつ部屋に帰りました。

歌一つ

一、歳ごとに寒さ身にしみ春を待つ

一、盆栽をハウスに入る今日の淋しさ

一、松かざりだいて春待つ道祖神

一、玉つばき赤実切り取り待つかざり

一、孫が来て先に手を出す御年玉

続・余生いろいろ

松代 吉池茂雄

「無くて七癖」という諺がある。円満で、癖のない人でも、七つ位は、癖があると云う意味だという。癖という語を、辞書で調べてみる。

癖 たびたび繰りかえしているうちに、習慣になってしまった動作や身振りを云う......とある。

ことばのくせ、動作・身振りの癖・趣味のくせ(これはくせというよりは、センスと云った方がよいかも知れない)いろいろあるようだ。


中学生の頃、国語の担任で、『そうしてネ』という語句を、言葉の間にはさんで講義をする先生がいた。学校を卒業したての若い、おとなしい先生だった。ある日、クラスのいたずら小僧が、その先生の癖を数えて、授業が終ったあとで、発表した。今日は一二三回だったと。授業などそっちのけで、『そうしてネ』を数えていたのだった。

ことばの間に、意味のない語句をはさむ人が、かなりいる。

ア・アアー・エー・エット・デ・ウン......など、全く無意味なことばや、それ自体はある意味をもっているが、前後のことばの連絡に、何のつながりもない語句をはさむ。そう云っている間に、次のことばを考えているのか、それを云うと、次のことばの滑り出しがよくなるためか判らないが、ご本人は無意識にやっているらしい。

そして不思議なことに、一人で幾つかの語句を云うのでなくて、一人の云うことばは、一つにきまっているのである。但し、その人のある時期に、その語句が変わることがあるが、そういう時でも、一つの語句だけで、複数になる事はない。


私は二週間毎に病院へ行く。薬を二週間毎に、そして月に一回、主治医の診察を受ける。現在の病院は、殊に内科の外来は、年配の患者が多い。

病院の診療開始時刻から、順番が来て、薬をもらうまでに、三時間ぐらいは待たされる。その間、待合室のテレビに見入っている人、持参の本を読んでいる人、備えつけの週刊誌を、片っぱしから読みまくる人、大声で隣の人と話し合っている人、サッサと歩く人、杖をついている人、曲った腰を二つ折りにして歩く人、車椅子で運ばれて来る人、自分で運転して来る人など、いろいろで

ある。

癖が多いのは駅の待合室である。少しオーバーな云い方をすれば、全国各地から集って来た人々であるから、

癖の見本市の感がある。


待合室の一隅に、公衆電話のコーナーがあって、数台の電話機が備えてある。

今、しきりにかけている人がいる。これから、かけようという人もいる。先ず電話機に向って立つ。右手で送受器を取る。左手に持ちかえる。右手で硬貨を所定の所に入れて、ダイヤル又はプッシュボタンを操作する。相手が出る。送受器を右手に持ってモシモシとやる。先ず、挨拶から始まって、丁寧にお辞儀をする。テレビ電話でないから、最敬礼したって、相手には見えないのだが...。大きな声で話している人がいる。あの位の声なら、電話でなくても、相手に伝わりそうな声だ。隣でかけている人が背中を向けた。それでも足りなくて、耳をふさいでいるのだが、それに気がつかない。電話の相手の人も、多分、受話器を、耳から二〇センチも離して、応対している事だろう。そのうちに、クルリと後ろ向きになった。別に、後ろの誰かをさがしているのではない。ただ向きを変えただけだ。その姿勢で、しばらく話す。送受器を左手に持ちかえる。やがて、向きをかえて、元の姿勢にかえる。時々、丁寧にお辞儀をする。メモを取ることになった。送受器を、肩とアゴでおさえて、両手でメモ帳とペンを操作する。器用なものだ。面白い。実に面白い。いつまで見ていても、あきない。電話機では、送受器は、向かって左側に、ついているのだが......。

押しボタンは、いろいろな器具についているが、その数字の配置を統一できないものだろうか。一から九までの数字が、三段に配置されているが、上から三段と下から上へと、ある。これを、どの器具でも同じ配置にしたら、利用者にとって、大変便利になると思うのだが。


送受器を取って、ポンポン、ポンポンと、すばらしい速さで、押しボタンをはじく人、この人は電話を使い馴れている人である。

一字ずつ、メモとにらみ合わせながら、丁寧に、しっかりと、ボタンをねじこむように押しつける人は、あまり馴れていない人だろう。

ダイヤル式の電話で、指を数字の穴にあてて、指止めまで回し、その指を抜かないで、元へ戻す人がいる。電話に馴れた人で、見ていても、中々カッコイイ姿だ。

ダイヤル式では、指止めから戻る時間(距離か?)によって、相手の番号につながるのだと、聞いたか読んだかした事がある。もしも、そうだとすれば、指を抜かずにダイヤルを戻すと、指に不自然な力が入って、別の番号につながる事が、ありはしないかと、心配になるのだが、どうだろう......


女性の電話は、なかなか終らない。終りそうになっても、また別の話に移って、えんえんと続く。

私の友人が、用件があって、ある人へ電話したが「お話中」でかからない。しばらくして、またかけたが、何度かけても「お話中」でかからない。夜になって、やっとかかったという。一日中、同じ人と話していたのかどうか判らないが、もし友人の電話が、人の生き死に関わる事だとか、或は何か緊急の用件であって、一日中相手の電話がふさがっていた為に、ついに間に合わなかったとすれば、これは笑い話ではすまない事になる。


数台の電話機に、それぞれ取りついている何人かの後ろ姿を見ると、ここにもいろいろな事が考えさせられる。

今年は女性のミニスカートやパンツ姿が多くなったが、これをはく前に、自分の脚をじっくり眺めてごらんと云ってあげたいような人がいる。

今年のもう一つの傾向は、ズックの運動靴が多くなった事だ。老いも若きも、男女を問わず、運動靴が多くなった。

ズック靴とロングスカートの組合せは、明治生れの私には、どうもしっくりしない。パンタロンでハイヒールは、なかなか粋なものである。

ハイヒールのヒールの部分が、野球のすべりこみの姿勢のように、斜に傾いているのを見ると、その靴が、かわいそうになる。こういう足は、ハイヒールをはかない方がよいのではないか、さもなければ、痛いおもいをしてでも、足の変形を矯正するがよいと思う。 頭や顔や手の化粧や装身具には、気を使うが、足元にまで意識を向ける人は、案外少ないようだ。

靴の手入れがしてない。昨日の泥が、まだそのままで、今日もそのままはいている。朝、ブラシか布きれで、ちょっとこするのに、何分、何秒かかるだろうか。

何に気なく立っている時の、足のおき方に、無関心である。道路で信号待ちの時、上りのエスカレーターでの足のおき方にも、気をつかってほしい。


だいぶ昔の事だが、

東京の姪が、ソックスを編んでいた。赤い毛糸で、ちょっと黒みがかった渋い色で、私の好みの色の一つである。

「おちついた、いい色だネ」

「お父さんもお母さんも、みんなが、いやな色だと云うの。ほめてくれたのは、伯父さん一人だけ、伯父さんだいすき」

一五才の都会の娘には、少し地味かなと思ったが、これは口に出さなかった。


私は赤い色が好きだ。純粋の赤でなくて、薄墨の混った渋味のある煉瓦色とか、黄色味が混ったオレンジ系の赤、朱色と云うのか、そんな色が好きだ。

赤は、恐ろしいと云う程ではないが、何となく敬遠したくなる。

昔のダルマストーブの、たき口のすき間から、チロチロと見える焰の色、盛に燃えている時のよりは、火勢が少し衰えはじめた頃の畑の色、たまらなく好きだ。

そんな色のシャツを着てみたいと思うのだが、「あのジイサン、頭に来たのではないか」と思われはしないかと思って、手が出ない。これを着るには、かなりの勇気が要るようだ。実は一枚買ってあるんだが、まだ手を通してない。


女性が、最も美しく見えるのは、喪服を着た時だと、誰かが云った。

黒一色の着物を裾長に着て、その裾から白足袋を、チラリとのぞかせ、襟元に、白い線のアクセントをキュッときめて、その上に、憂いを含んだ顔を、向き加減にのせれば、それを美しくないという人は、いないだろう。黒と白の組合せ、最高の美だと思う。


『女性は美しく......』とう云うのが、私の持論です。

(平成三・一・一)

私の近況と希望の一端

岡谷市 武内基 八十三歲

今も書いた様に、私は対面しておる時には相手が私を見ておるのでその必要はないが、相手が見えない作文を他人に読んで貰う様な時には、必ず自分の年令を書く様にしております。年令を書いてあれば、どんな世代の人でどんな世の中を生き抜いて来たか判り、書いていることに興味が湧くし、関連の想像も付くと思うからです。

さて、そこで私はこの十月二十九日月曜日に、例年行く長野県退職公務員連盟諏訪支部定期総会に行って来ました。出席者は約百人ぐらいで、内婦人の方は十数人でした。会に魅力がないと云うのか、それとも停年まで勤めて老齢というのか、大部分の方は定年後二十年は生存しておると考えると、ごく出席率は悪い方ですね。

総会での話は、世界で今話題の中東でイラクのクウェートに侵攻した話など片鱗もなく、終始年金の話で、私の様に脳力の低下しておる者には、中々難解だ。結局、年金というものは、当局の係りの者が出来るだけ少額の年金を出来るだけ遅く、然も受給者が出来るだけ老齢になってから支給する様に、色々と考え、工夫をこらしておるものですね。その内容は恐ろしいものです。経済大国日本も、内実はこんなものかと思います。尤も、年金なんか貰う側としては、金額の多いほど良く際限がないから、そこで貰う側としては、出来るだけ会員を増やして、団結して関係者に圧力をかけることです。例えば、相手が政治家なら、選挙の時に多数の有権者のあることを誇示して、いざ選挙、というときは年金増額に熱意、関心を示さない候補者には投票しないぞ、と牽制するのですね。

年金の話が終って、今度は敬老行事ということで、本年八十才と八十八才になった人、今年中に八十才と八十八才になる人に、記念品を贈るのです。該当者には、交通費を支給する連絡があれば、送り迎えはサービスすると優遇しても、八十八才該当者は九人全員欠席。八十才該当者は四十七人中十八人出席で、欠席の理由は定年まで勤めて精根つきはてた病老弱者の様でした。私もあと五年で八十八才です。そしてこの病老弱者の一人になるのかと考えると、先ほどの会員の訃報発表の中に私と一緒に定年退職した四人が次々に亡くなり、最後に残った一人も亡くなり、私一人が残ったことを知り、感無量のものがありました。すぐ思い返して、なに、元気で生きて生きて生抜くぞ、と固く決意を新たにしました。

次にテレビの話ですが、皆さん、どうです、角力と野球の放映が、あまりに多過ぎると思いませんか。もっとも、私は角力も野球も嫌いです。これは、スポーツであると思っておりません。それに、テレビの放映もその日によっては放映の資料が無いと云うのか、私が見ても単に時間塞ぎではないかと思われる様なつまらないものを放映しており、体操だか、ダンスだか判らない、徒らに飛び上がったり、足を蹴り上げたり、手を振ったり、ギャーギャー騒いだりするのがあるが、こんな時には、放映は何時から何時まで休み、としたらどんなものですか。それから、私は連想ゲームとか云うのは、気に入らないのです。例えば、この十一月七日夜のもので、「丸かじり」と言うので答は「リンゴ」でも「柿」でも良いではないか。それをシシャモ(乾魚)でなければ正解でないなんて、何処が面白いのか、脳の運動にあるのか知らないが、言葉を色々憶えるのに役立つと言うのかね。

それからまだある。中東のイラクがクウェートに武力で侵入して、中東に戦争の危機があると云うので、日本がその一方の国にお金をバラ撒いて来たり、又は日本の憲法を変えて、又は憲法を都合の良い様に曲解してまで国連平和協力貢献法をつくりたい、そして戦争になろうとしておる一方の国にだけ戦車に必要な人員、食糧、材料等と安全な戦地まで日本の輸送艦、それも戦車用の精巧な火器類を装備したもので、無論乗り組むのは日本人で、軍人とは云わないが、拳銃、小銃、機関銃で武装した者であると云に至っては、何のことはない、四十数年前に日本は敗戦で、それこそサンザンな目にあい、もう戦争なんて馬鹿なことを金輪際やらないと言うことで、制定した憲法の本来の精神にもどるものと思います。

こんな法案とか方針は、無論駄目になるに間違いないが、それにしてもこんなことを考えたりして、国会で大騒ぎをしておるのを、本気なのか何かの人気取りの八百長なのか、疑いたくなる。尚、現在の日本の自衛隊も、今回の中東問題で何の役にもたたないことが証明されたね。「百年兵を蓄えるこの一戦」と言うが、国に何かあった時に、何の役にもたたない様なものを創設して、国力国費乱費するなんて国賊といってもよい。

か様にあれこれ考えると、やはり「触らぬ神に祟りなし」だね。日本は少しばかり持ちつけないお金を持ったなんて偉い気になって、戦争の危険のある中に割りこんで無駄金を使ったりせず、戦争には中立だ、戦争には反対だ、人質を早く帰国させろ、と掛け声だけかけて、戦争には絶対手出しせず、お金も出さないことだね。そんな余分なお金があるなら、何とか貢献だなんて生意気を言わないで、我々年金生活者の年金を思いきり増額して今度こそ経済大国日本に生れ合わせて幸せだと思わして下さい。日本が経済大国だなんて、誰かのお金の勘定違いだと思っておる人だってある筈だ。

以上の様に、テレビを見たり聞いたりして、書きました。誰も本気にする方はないことは承知ですが、何も書くことがないので、書いたのです。でも、いつの日か、私も世界漫遊の途次に大英博物館を二週間ほど見物してパリにとび、一寸遅かったが特別注文の昼食を食べて来ましたが、土産物は宝石貴金属品をつい買過ぎてしまい、税関でこんな人は初めてだと、驚かれた、なんて書きたいと思っております。以上です。

皆様には、向寒の切り風邪などおめしにならぬ様、お体に気を付けて下さい。

平成二年十一月二十日

思うままに

伊那 中村慎一

私は昭和五十六年十二月に、東京都豊島区の癌研で喉頭摘出の手術を受けました。病名は喉頭癌でした。早いもので、手術を受けてから約十年経過いたしました。現在は元気で暮らして居ります。病院の先生は、職業が弁護士さんでなくてよかったね、と言われました。

信鈴会の伊那教室では、指導員の先生に色々御世話になりました。退院後は、出来るだけ朝の散歩を、健康維持のため続けております。そして歩行中も発声訓練をいたしました。「あいうえお」や、会合での挨拶とか、詩吟の発声等を低音でやりました。そのおかげか、低い声ですが、日常の会話は先方に通じます。又、道で三、四才の子供に会うと、話しかける様に致しました。子供が返事をすると、それがはげみになりました。会合で、マイクを通じて挨拶することがありましたが、その時、聞いてくれる人から、よくわかると言われうれしくなることがありました。発声は努力であると、しみじみ感じております。

現在、私は明治四十三年生まれの八十才ですが、特に健康に気をつけて、頑張って行きたいと思って居ります。心から、信鈴会御活動の御発展を御祈り申し上げます。

発声の思ひ

佐藤常尾

皆様、御元気ですか。秋も深まり、大変涼しさも感じさせる今日此の頃、私達には、冬は大変です。お互いに気をつけましょう。

私は五十八年六月に喉頭摘出を致しまして、もう七年になりました。先輩や先生に心から感謝致して居ります。術後はもう大変でした。教室に参加しても発声も出来ずに、早く声を出したいと思う心でいっぱいでした。

月日のたつのは早いものです。練習を一生懸命にやり、三年位たった頃だったと思う。ようやく発声が出来る様になり、自分ながら喜んだのでした。

今、会話の出来ない人も決してあきらめずに、出来る丈け人の前で発声する事が、大切です。話す事によって自信が出て参りますので、恥ずかしいと思わずに、ゆっくり落ち着いてやれば、出来ると思います。固くなれば声が出ないものです。以上、発声について少々私の経験を申し上げました。皆さん、共に頑張りましょう。お元気で。

平成二年をふりかえって

佐久教室 松田松枝

一月二十三日、佐久教室の初会であるのに、朝起きようと思っても、足腰がいたく体が自由に動かない。正午までに行けばと思い、寝ていたが、十時になっても駄目、とうとう発声教室を休みました。風邪薬をのんで眠り、翌朝気分良く起きる事が出来たのに、熱は三十九度、近くの先生に往診をして頂きました。夜中より痰の出が苦しく、少し黒ずんだ血のかたまりが何度も出ました。もう、終りの時が来たと思い、心用意をする様、嫁にいいました。是非一度、佐久病院へと無理にしいられて病院へ。「窒息と云う事もあるから」と耳鼻科へ入院。夜九時、「病院にいるのだから心配しなくても」と、付添いを帰し、点滴の落ちるのを数えながら眠りました。

「本人は知っているだろうか」

「眠っていて何も分らないでしょう」

目をあけると、先生と看護婦さんが話しながら、病室を出て行く姿が目に入りました。まだ病室に残り、血圧を計っている看護婦さんに時間を聞きましたら、三時半との事。酸素吸入をした、色々の器具があり、人工呼吸のボールもころんでいました。窒息してしまったのかと考えながら、又、眠りました。

翌日、小松先生が出張からお帰りになられ、内科の先生と共に診察においで下さいました。

「いつ、どうなってもおかしくない状態」との話し声が聞こえてきました。

酸素と薬で血液のかたまりをとかすとの事。吸引器で毎日チュウチュウと赤いロート状の大きなおたまじゃくしのようなものを取り出して頂きました。最後にカニューレをはずしますと、小松先生が驚く程、次から次へと赤いおたまじゃくしが吸引器の器にいっぱいになりました。後で数えておけば良かったと思いました。

二月三日、お陰様で点滴も酸素も必要なくなり、入浴も許可され、又一人の人間として生きる事が出来る様になりました。耳鼻科の皆さんに大変な御世話になり、感謝の気持ちでいっぱいでした。

最初の夜、当直であった看護婦さんに、

「松田さん、良くなってくれてありがとう」と手をにぎって頂いた時、思わず涙がこぼれました。

恩返しは、発声教室でお役に立つ事と思ってましたのに、四月二十三日、今度は腹痛のため入院しました。入院後、一時間ないし1時間半ごとの下出血が四日間続きました。楽しみの佐久教室の親睦旅行の万座音声行きもだめになりました。

五月八日、大腸の透視をして頂き、血管の切れていることが分り、治療後無罪放免となり、元気で退院しました。秋の信鈴会の研修旅行は、佐久教室が当番とのことで、今度こそと前々より用心をして参加させて頂きました。会長さん始め皆さんにお目にかかることが出来、天候にもめぐまれて、ほんとうに良い旅行でした。

旅行から帰って間もない十月十六日、外科の診察から内科へ廻されました。先生が、「自分の病気、知ってますか」「次は何んだか分るかね」とおっしゃいながら、九月十八日に撮ったCTの写真をならべていました。のぞいて見て、私もびっくり、「こんなもの、いつ出来たんですか」と思わず声を出しました。

「今迄生きている事を有り難く思っています。時期ですね」と、私は落ち着いていいました。

「もう手術は出来ないから、薬で治療します」と、二十三日入院し、二十五日より抗癌剤の治療が始まりました。肺炎の心配があるからと、肺炎の予防ワクチンも打って頂き、とても元気になりました。

十二月三日の検査の結果、退院ときかされました。佐久病院の先生方、看護婦さん、ほんとうに大勢の方々のお世話になり、今年一年生きる事が出来ました。心から幸せな年であったと思います。

信鈴会の皆さん、病気に負けないで、お元気で頑張って下さい。

皆様の御多幸をお祈り申し上げます。

手術して四年が経って

塩尻市 西野進一

昭和六十一年十一月、小さなポリープ程度であってくれと願いつつ入院、検査の結果「よくない」。年が変わると早々に摘出手術をと宣告された。親からもらった大切な声帯を、五十数年間使って来た声と訣別しなくてはならず、こんな病に罹り、神も仏もないと悩み続けること二ヶ月、でも生命と引換えとなると、摘出を選ぶより道はないと悟り、術後をどうしたらよいか、意志をどのようにして伝えればよいか、「嘘じゃどうにもならない」と何度となく悩み続けた。しかしながら、悩んでいてもどうにもならない。家族に励まされながら、同じ病気で立派に声を取り戻された人が大勢おられることを聞き、その気になりました。

摘出する日は、昭和六十二年一月十二日でした。摘出後に待っていたのは、会話でした。勤めの関係から、一日も早く会話をしたい。病院からの勧めで、食道発声を選びました。先ず、発声の基本である「あいうえお」の「あ」が出ません。声帯が無いことが、こんなに苦しいものか、病に罹った不運さが先走り声が出なければ筆談があると、出ない声に鞭を打ち、教室に通いました。立派な指導員の方々に恵まれ、親切に発声の基本について学び、又家庭にあっても会話の機会を少しでも多くするように心掛けました。

小生の場合、食道再建部位が狭いため、声が小さい、出が悪いのではないかと思っておりますが?、初期は夢中でした。いくらか声らしくなってきました。

或る日の日記にこんな事が記されていた。

(昭六十二年七月三十日(木))定期検診日、外来へ。看護婦、五十嵐、杉岡逸美さん(山口さんのこと。女優の大沢逸美さんに似ているのでつい逸美さんと書いてしまった)、病室へ見舞う。小林紀子、高橋静江さん、元気だったが、紀子さん、食べ物が少ししか入らないとのこと、無愛想だったが、頑張れっていってやった。

後藤、降旗さんに逢う。声が出るようになったね、頑張ってね、と言われて本当にうれしかった。この一言が大きな励みになり、ようし頑張るぞ、と言い聞かせ帰った。

こんな事など、色々とあり、益々練習を続けた。いずれにせよ、短期には望めず、時間が経つにつれてどうやら声も出るようになってきた。

発声教室には、勤めの関係やら諸般の事情により、疎遠がちで失礼をしておりますが、事情が許す限り教室に出席し、上達をしたいと思っております。現在では筆談が殆どなく、どうやら意志が通ずるようになってきました。これも指導員の先生方の御陰と喜んでおります。今後友一層のご指導をお願い申し上げます。これから何年かかるか判りませんが、誰とでも会話ができるように頑張りたいと思います。

貴重な紙面を汚したことをお許し下さい。

「今日は」が言えるまで

白砂永蔵

御要望でございますので一筆申し上げてお読み戴ければ幸いと思いまして書きました。私は一ヶ年近くも小さな医院に通い、治療して居りましたが、少しも良い方に向かわずだんだん悪くなるばかりで、これでは駄目だと言う事で、大きい須坂病院に行き診察して貰いました。手術をしなければいけない、それも声帯摘出手術をで、そうでなければ声も出なくなり、人と話も出来なくなり社会生活も事欠くことになるとの事でしたが、そんな事に負けてはいけないと自分の心に鞭うって手術を受けることにしました。手術は六時間位で終了したそうですが、其の後療養も順調に進み、二ヶ月十日で退院になりました。平成元年六月半ばでした。

其の後、六月末日の金曜日に先生の口添えにて日赤信鈴会を紹介され、先輩の皆さんの御親切なる御指導のもとに、三ヶ月、一ヶ月三回だから十回目位で「今日は」と一息で言える様になりました。勿論自分は何れの場所にても基本の(アイウエオ)を稽古しました。然しながら、今さら申し上げるわけではないけれど、世の中にはなんでこんなに大勢の人達が居るのでしょう。而も声帯摘出手術を受ける人、又受けて入院中の人、退院して只今日赤信鈴会に入会したばかりの人、私達はなんと運の悪い人間だろうと思います。然し、こんな事に負けてはいけないので、退院したからには病気の事は考えず一生懸命に基本の(アイウエオ)を稽古すると何時の間にか一息で「今日は」と言える様になりました。そうなると、人とも大いに話も出来る様になります。私は長い間謡曲をやって居りましたので、この謡曲には拍子と言う事が有りますので、この拍子を利用して(アイウエオ)も調子をとって声を出す。するとやがて楽に物が言える様になります。何は共あれ、稽古をやらねばだめです。お陰様で、今では新しい入会者に助言する様になりまして、頑張って居ります。

それでは皆さん、風邪を引かぬ様、元気を出して稽古いたしましょう。

"心に残ることば"から

長野教室 井出義祐

学校での先生、職場の先輩等、また、翻って昔からの有名人、時代を担う政治家、文化人等多くの人達の"一ことのことば"に惹かれ、感動を受けた経験は多くありますが、いまだに私が「心に残ることば」として忘れられない「ことば」があります。その中で最近経験したもの一つを紹介させていただき、稿に代えさせていただきます。


(その一)宗教哲学者・民芸研究家 柳宗悦

―偉大な古作品は一つとして鑑賞品ではなく、実用品であった。ということを胸に明記する必要がある。いたずらに器を美のために作るなら、用にも堪えず、美に堪えぬ。―


(その二)陶芸家 第十四代柿右衛門 酒井田正

―陶磁器には生活の器と言う面と、美術作品と言う面がありますが、見て使うもの、使えるものが楽しめるとも言えますが、使い易いもの、見て楽しむもの二つあっていい。重なっている部分が広ければなおいいと思います。見る用と、使う用を近づける努力は、すべきですね。食器でも器が独り歩きするのはいけない。使う人の楽しみを残すように、絵は七分通りでやめるのです。かき残す勇気は大変ですが、やり過ぎると、おさまりがわるくなります。―


私ごとき凡人には、この二つのことばのほんとうの中味など、到底解されるものではないけれど、何んと奥ゆかしく、又、明快でスッキリとしていることばでありましょう。私には、人生そのものが形容されたものとして、深く心に残ったことばの一つです。特に、その二に「勇気をもって残し与えよ」と、言われていますが、この三分は無限の数(盡くせない賞賛)となって、かえってくるわけですね。心から感動させられることばと思いました。


(その三)長野赤十字病院 看護部長 岡部はま子先生

―人間であるための条件は、ことばを使いこなし、社会的生活ができ、そして「歩けること」です。毎日山野を跋渉し、河川を潜り抜け、獲物を捕らえ駆け歩いた太古に、現代といえども何等変わる筈はなく、よって、五体満足としたら、歩けないようでは、それはもう人間とは言えない。よって死ぬまで歩き続けることです。―


このことばは昨年六月のこうねん大学で岡部先生の、「こころとからだの健康」講演の中での一言であります。歩くことの大切さは、十分承知している筈の私であったが、生来田舎で生まれ育ち、山坂道を通学し、徴兵されては、軍靴での演習強行軍から、もう歩くということが慢性になっていたのかも知れません。先生のこの、「ことば.から、全身に刺激を受け、未だ脳裏に焼き付いています。その大切さを強烈に気付いたのが、はじめての事であったためと思われます。しかも、数ヶ月の入院生活から解放された時の、足の脆さを痛切に感じた経験があったからだと思いました。

お陰様で以来、毎朝楽しく歩き続けております。そして歩きながらの発声訓練です。今朝も最初に会った方には、ウォーミングアップ不足のため、ゼスチャー(帽子に手をつける)で誤魔化してしまったが、今度向こうから来るあの方には、ハッキリと、「お早う、ございます」とやろうと思っております。今年も又、岡部先生の講演の日が近づいており、今から楽しみです。

さて、この信鈴会紙面をおかりして、私の個人としてのお礼のことばを一言申し上げたいのですが、会員皆様のお許しをお願い致します。

永い間、長野赤十字病院の耳鼻咽喉科発展のために、尽力、貢献され、特に発声教室では、温かい御援助、御指導を賜わっている河原田部長先生が、この十二月に御開業なされると承りましたが、誠におめでとうございます。私は患者の一人として、全摘の温かい説得と直接の執刀をいただき、又第二の産声を賜わりました大恩ある先生です。心より感謝、御礼申し上げるとともに、前述の弥栄、御繁盛を祈念致します。先生、今後とも、時々優しいお得意の笑顔を、教室へ見せて下さい。私の心に残る、そして忘れることのできない先生のことばを紹介させて戴きます。


(その四)河原田和夫先生

―従来の発声は不能となって、声のはたらきは失われます。しかし、代用の発声法があって、これは発声教室で皆さん頑張っていますが、ほとんどの人が成功していますよ。要は本人の努力次第です。―


という説得のことばでした。そして長野教室の、義家様、鈴木様の熱心な指導振りを、現実に拝見し、「成功間違いなし」と、判断させていただき、前途に光が見えた私たち夫婦でありました。ほんとうにありがとうございました。精々努力して参ります

なお、先生は、JR北長野駅前に新築中のながの東急ライフの三階に御開業の運びとの事です。

信鈴会の皆様、勝手なお願いどうもありがとうございました。これからも一層の御指導のほど、お願い致します。

(一九九〇年、十月末日記)

私の手術前後と食道発声

駒ヶ根市 石田祐一

昭和六十三年三月、のどが妙にえがらっぽく、何となく違和感を覚えへんだなと感じました。早速町医者に診て貰ったところ、医者から「何でもないし心配いりません。少し通ってみて下さい。」とのことで、一ヶ月半位通院しましたが、何の効果もなく、ずるずると止めてしまいました。同年七月、昭和伊那総合病院の内科の中谷先生(毎月一回か、二ヶ月一回位かかっていました)に久し振りのドックを申し込み、その月の二十日すぎに一週間のドック入りで入院しました。最後の耳鼻科の検査でひっかかりまして、内片をとる検査、喉の写真をとるなどの精密検査を行いました。ドック退院の際、中谷先生からは内科的所見については何等異常がないし、眼科にも異常がないと診断されました。耳鼻科については、一週間後に直接外来に伺って、先生に検査結果を聞いて下さいとのことでした。八月初め検査結果を聞くべく、耳鼻科の外来に伺ったところ、先生から「悪質の腫瘍がある。放射線照射で治療をするように」とのこと。紹介状を書くから、松本信大病院か、伊那の中央病院へ行くようにと、申し渡されました。この時、変な予感がしました。八月の盆明けより約二ヶ月、伊那の中央病院に入院、所定の放射線治療を終え、退院しました。あとで考えて見ますと、私の腫瘍は声帯より遠い所に出来て居った関係で、声そのものにはしゃがれ等の変化がなく、発見が遅れたのかなあーと思いました。

近所に先輩で中村慎一さんが居られますが、中村さんは五、六年前喉頭摘出手術をされ、現在は御元気で現役復帰をされ、税理事務所を経営されて居り、この先生の奥さんと私の家内とはいろいろの関係で親しくさせて頂いて居り、中村さんの経験で東京の癌研付属病院の内田部長先生に診て貰ったら、ということで、伊那中央病院を退院した十月に癌研病院を訪れました。喉頸科の内田部長先生から診察され、その時からレントゲン、断層撮影、その他あらゆる検査を三ヶ月位に亙って通院の都度受けましたが、その時は異常が認められませんでした。一ヶ月一度の割合いで診せて下さいと言われ、それから平成一年三月迄約一年六ヶ月通いました。いつ再発するかとびくびくして通院しました。その間、薬の関係で伊那中央病院も一ヶ月一回の割りで受診していました。平成二年二月の受診の際、深沢先生から「何でもないと思うが、念の為に組織をとります」と言われました。いやな予感がしました。一週間後、深沢先生より「残念ですが再発しています。放射線照射はもう出来ませんので、手術をしてとるより道はありませんよ」と申し渡されました。ある程度覚悟はしていたものの、血が逆流する思いで一杯でした。帰宅途中、車を運転しながらこれは大変なことになった、これから身辺整理を大至急しないと家族のものに迷惑をかけることになる。万一ということも考えなければ...。と帰ってきました。その夜、妻に話しを、倅にもそのむね話しをし、とも角、癌研の内田先生に診て貰って相談をしようと話し合いました。結果は同じであり、手術を癌研の病院でするよう、申し込みました。

癌研では入院患者が多く、一ヶ月位まって下さいとのことで、一日千秋の思いで連絡をまっていたところ、三月末電話連絡がありまして、四月三日入院と決まりました。身辺整理をし、妻やにそれぞれ引き継いだり、又役職等についてもそれぞれの役員と打ち合わせをすませました。一ヶ月位の猶予があったものの、忙しくて大変でした。その間、他家にとついだ妹達が一所にきて見舞いをかね激励会をやってくれたり、又分家夫妻を呼んで、あとのことを頼んだりして、結構多忙でした。四月二日、世田谷の妹宅へやっかいになり、翌三日入院ときめ、二日朝上京しました。二日の夕方より義弟がカラオケに連れて行ってくれ、その店を貸切で一晩、兄貴の最後の声を記念にとっておこうと、総勢十五人位で歌を唱ったりさわいでくれて、励ましてくれました。身内を始め大勢の人達の励ましと見舞いを有り難く感謝いたしました。

入院より約一週間は、検査、検査の連続、手術は十日と決定しました。手術前の九日は、朝から不安で病院から逃げだしたい気持ちで一杯でした。午後担当医の中溝先生より呼ばれ、手術に対する心構えとか、手術予定時間とか、夕方から明朝室を出る迄の予定とかの説明を受けました。先生は、貴男の手術は簡単です、約五時間で終る予定です、毎月貴男の様な手術は五人~六人当病院ではしていますが、成功率は九十九%ですので安心して下さい、と言われました。ただ残念ですが、今の声は失われますが、銀鈴会で食道発声の教室があり、しゃべるようになりますからと申されました。この言語を失うということについては、入院前内田部長先生より、こまかい説明があり、食道発声で上手にしゃべるようになります、現に都内の一流会社の営業部長さんが、手術をされ一年で現役復帰をして、頑張って居られるし、人によってはカラオケで歌も唱えるようになりますから、安心して手術をうけて下さい、と激励して下さいました。

九日夕食後、浣腸をする。そして麻酔科の先生、来室打ち合わせ、十日朝早めに気性、愈々八時三十分より手術だ。術着にきかえる。時間で麻酔科の先生来室、まず注射、廊下に容易されたベッドに移る。顔を白衣で覆われた。ベッドが手術室(二階)に向かうべく動き出した。ゴトゴトとベッドの車の廻る音が、とぎすまされた耳にひびく。入院は三階でしたので、エレベーターで降ろされ手術室に入る。顔を覆っていた白い布がとられた。テレビで見る手術室と同じように天井にとりつけられている円形のサンサンと輝く日照灯のようなあかりが、眼を射た。壁の色は白一色であった。担当医の中溝先生がのぞき込んで、これから手術を始めます、という言葉が耳にきこえました。カチャ、ガチャ、ジーという音がして、のど元が何かきれていて少しいたいなという感じと、肉の焼けるような臭いがしました。これまでで、あとは一切わかりませんでした。何か人声と何か冷たいものの感じで、眼が覚めました。そこには、妻子の顔が見えた。ああ、手術が終ったのだなあと思いました。つめたいものは、熱を下げる為のタオルだったと思います。話しによると、五時間かかるといわれた手術も、四時間半で終ったようだし、倅の話しでは、中溝先生より切除した肉のかたまりを、家内も一緒に見せて頂いたようで、その量の多さにびっくりしていたようだ。特に悪い部分のものは、小指の先程のものだったと報告があった。未だ麻酔のせいか、夢うつつの状態でした。

手術後三日目の十二日の夕方には自分で床をはなれ、用足しも出来るようになり、経過も良く四月十八日(術後十八日目)には銀鈴会に行く為の外出許可も出て、昼食は初めて街の食道でとりました。本当に美味しかった。その味は今でも忘れることが出来ません。ともかく、食道発声の第一歩の為の入会届けをすませ、全員の皆さんの前で紹介を受け、その日は銀鈴会の常務理事、寺坂昇一先生の御案内で、初心者、初級、中級、上級と各クラスの練習ぶりを拝見し、上級クラスの人達のおしゃべりを聞いて、びっくりしたものでした。私も何とか頑張らねばと、心にちかいました。入院中私のベッドの前に四国高松の方で、鈴木武則さんという方が入って来られました。お話しを聞いてみると、既に喉頭摘出手術を当病院で四年程前にすませたこと、その後何回も手術をされ今回が十一回目の手術であること、又信州とはゆかりのある方で、松本に於いて発病されたこと、等々のお話しを通し、貴重な体験談を聞かせて頂いた。そして、食道を背中の皮膚をとって作り、食道とし、その身で食道発声にとり組んで、今では四国の高松の方の会で、食道発声のお手伝いをしていることなど、お聞きしました。同病院内で奇しくもレントゲン検査が一緒になり、お互い上半身裸になったとき、鈴木さんの背中一面と腕のところは、皮膚をとったあとの白い皮膚の色変わりした状態を、見るともなく見てしまい、胸のつまる思いがしたものです。この鈴木さんとの出会いは、失意のどん底にあった私をどの位励ましてくれたものかわかりません。術後の身体の健康管理のこと、運動のし方、食道発声への心構えなどお話し下され、特に重要なことは、メモ紙に丁寧に記されて、御教え頂きました。初めての病気で何もかも一年生の私にとって、本当にうれしく地獄で仏にあったと申しますが、感謝の気持ちで一杯であります。月一、二回は文通にてお互いの近況を知らせあい、励まし励まされています。大手術を何回もされ、不屈の精神で見事病魔に打克って、食道発声も東京で上級クラス迄到達して鈴木さんを見て、私もこれしきのことで負けたら、恥ずかしいと思って頑張って来られましたし、又これからも頑張らねばと思います。

とも角、三日の教室へ本格的には月より火、木、土と通い、中村会長先生直接の教えも頂きました。会長さんの御すすめもあって、神奈川銀鈴回の教室へ、五月十一日入会をいたし、月、金と通いました。東京三田教室では、お陰をもち初級、中級と夏休み前に認定を頂き、七月七日~八月一杯の夏休み後九月十三日上級と認定されました。神奈川銀鈴会では、一学期で青組に認定されました。九月一杯でどうやら話しが少しは出来るようになりましたので、故郷へ帰りました。十月五日、信鈴会に入会させて頂きました。

東京、神奈川での教室の思い出や、途中ふとした油断から風邪をひいて病院へ駆けつけ、一週間教室を休んでいたときの切なかったことなど、走馬灯の絵の様に思い出されます。このことは、又何か機会があったら、筆をとりたいと思います。現在健康で頑張っていられるのも病院の先生を始め看護婦さんの皆様の御陰であり、お互い声を失った者同志の相互扶助の精神と、先輩のボランティア精神による後輩への御指導等、全く頭の下がる思いで一杯でございます。これからも一生懸命訓練、練習と努力をいたし、健常者と肩をならべられるようにしたいものです。今後ともよろしく御指導の程お願い致します。

天国と地獄の貴い経験

信大教室丸子町 原田行夫

私は平成二年六月八日に喉頭摘出手術を受け、幸い大変順調な経過で、七月十四日に退院後、早速信鈴会に入会させていただきました。まだ全くの初年生ですが、どうか今後共よろしくお願い申し上げます。

入会に際して、大変熱心にお世話いただいた百瀬婦長さん、そして入会後、とても温かく親切にご指導下さっている鳥羽会長さんはじめ諸先生方に、心から感謝し、厚く御礼を申し上げる次第です。

さて私は、今回の入院生活・手術を通して、少し大袈裟かもしれませんが「天国と地獄」を、身をもって体験したような気がしています。天国と地獄については、死んでみないとわかりませんが、子供の頃から色々な話を聞いたり、又絵図なんかを見せられたりしていますが、遠い遠い彼方の無関係の空事のように感じていたわけですが、今回の手術を境にして、今でも頭の中にしっかり焼きつき、貴重な体験だったなあと、思っております。

それは、全身麻酔による深い深い眠りからうすぼんやりと覚めた瞬間、目の前に、煙にかすんで美しい二つの顔を見たのです。一つは天女のような若い看護婦さんの顔と、もう一つは、長い間見慣れたような懐かしい顔、この時は、観音さまのように見えた女房の顔があり、この二つの顔がニコニコしながら話しかけているので、私も一生懸命応答しようと思っても、いかんせん声がでないので、もがいていたら、それを察してか、予め用意されていた小型白板とサインペンが渡された。

「何か書け」ということだろう。私の頭に咄嗟に浮かんだのは「天国」という言葉である。そこで、「昨日は地獄、今日は天国、今日から人生が変わる。皆さんによろしく」と書いたらしい。女房がカメラに納めてくれていたので、入院記念のアルバムにはってある。誠に貴い記念だったと感謝している。

今でもその写真を見るたびに、あの瞬間の美しい光景を思い出します。「鳴呼、これが天国なんだ」声の出ないのは、いかんとも口惜しいが、胸のところに開けられた小さな孔で、たしかに呼吸している。私は糖尿病の体なので、先生方も随分と気を使ってくれたようです。手術前日までの重苦しい気持ち、そして麻酔科の先生より「万一の場合に備え、輸血は多量に用意しておきます」との言葉、何だか死の宣告を受けたようないやな気持ち、「鳴呼、これが地獄なんだ......」

手術室の向かうため、浴衣に着替えた時の無償にわびしい孤独感、無人島へ送られる罪人のようで、今思い出しても背筋が寒くなります。「このまま死んでも仕方ない」と一度は死を覚悟した私ですが、うれしいことに呼吸をして、しかも天国が待っていてくれました。「ようし、この命を大事にしなければ!」はじめて六十七年目に得た貴い体験でした。

決断できず悩んだ日々

伊東克夫

十月上旬信鈴会々報の編集に当り原稿の依頼をされましたが、九月中旬に信鈴会に入会したばかりで、会の様子も良く分からず、何を書いて良いか締切りを気にしながらペンを持ちました。

信鈴十九号を読ませていただき、又食道発声教室に参加させていただき、声を失った皆さんが会話をしているのに驚きました。又会話が出来るように一生懸命努力している姿にふれ心強く感ずるとともに、発声法を習得すれば、自分も声をとりもどせる日が来るんだと励みになりました。

唯、信鈴会々員名簿を目にしたとき、茅野市の方は一人のっているだけでした。やっぱり非常に少ない病気なんだとショックでした。

自分の健康管理は自分でしなくてはと思い、今迄病気になったこともなく過ぎて来ましたから、入院生活をするなんて夢にも思いませんでした。思えば最初声が「かれ」、おかしいな、風邪かなと思いあまり気にもしませんでした。レントゲン撮影の結果も異常なしと云うことで、一年が過ぎ二年目には、声の「かすれ」がひどくなり、検査入院することになりました。

その結果、喉頭に異常があるからと紹介状を書いていただき、信大病院へ入院しました。入院後放射線治療を続け、この時点ではこれでよくなり退院出来ると思っておりました。ところが、主治医の先生に喉頭摘出手術をした方がよいから、家族を呼んでくれと云われ説明を受けました。手術をすれば声帯をとりのぞくことになるから、声は出なくなると云われた時のショック。家族と相談をして返事をしますと申し上げるのが精一杯でした。

それから毎日毎日、どうすればよいか悩みました。深刻な日々。看護婦さんには、伊東さん決断出来ましたかと云われるし、出来るものならこのまま手術はしたくなかったのです。ところが手術をしなくては生きて行けないんだもの...と云われ、日一日と過ぎて、こんどは先生に(二週間前)手術の日が決まりましたよと云われ、まだ決心がついていなかったので、どうしたら良いか自分が情けなくなりました。自分の心の弱さを知りました。

それから三日間の外泊許可をいただいて、自宅へ帰り地区の公職の代行をお願いし、又営業に関する整理等をして病院に戻ったときが、自分の心の整理が出来た時だったと思います。その後日が過ぎ、手術についての注意説明を受けました。手術はいやですねと、筆談で看護婦さんに会いましたとき、看護婦さんは「やだきゃあ、しなくてもいいだよ」と云われ、「やだきゃあ」とはどこの方言なのか、未だに忘れませんね。

とにかく毎日毎日、一人悩み、日一日過ぎて行くなかで、自分の心も生きて行くためなら、音声機能喪失もやむを得ず...、とにかく長い長い毎日でした。それから、主治医の先生始め、看護婦さん方のチームワークにより退院できました。本当にありがとうございました。心から感謝申し上げます。

現実の社会はきびしく、音声喪失者には何んの意志の伝達も出来ず、電話のベルが鳴っても出ることが出来ず、失望することの多い毎日を送りながら、退院後二ヶ月がたちました。

信鈴会の発声教室にも出席させていただき先輩の皆さんの指導により、声をとり戻せる様努力しなくてはと思っております。まだアイウエオの発声が出来る様になったところです。今後努力を重ね、再び会話が出来るようにと一歩一歩頑張りたいと思います。

決断できず悩んだ日々の記録を書いて見ました。乱文で申し訳ありません。


佐久教室 寺尾安雄

障害者になって、特にうれしく、力強く、有り難く感じた事を、一筆申し上げます。

佐久総合病院への二回目の入院は、平成元年十一月、退院は十二月十日、二回目に喉頭摘出手術をやりました。麻酔から目が覚めた時、もうろうとして居て、かすかに見えるのは看護婦さんに妻だったと思います。寺尾さん、つばを吸い込んではだめですよ、又喉に痰がつまる時は行って下さい、首も動かしては絶対だめ、私は健康の時と違って、手術がどんな形でやってあるのか、自分の体で有りながら苦しさと痛さをがまんするのが先で、わかりませんでした。それでも、看護婦さんの言う通り、ロの中のつばを容器で一秒もはなさず、一日中、毎日やめて良いと言うまでやりました。又痰は五分おき、いや一分二分おきに、自分でも何分おきかわかりません、妻がブザーを鳴らすと看護婦さんが来て、きたない炎を何回となく取ってくれました。其の時、顔色一つ変えないでむしろ寺尾さん、がんばってと言って、はげましてくれました。特に夜勤の看護婦さんは、何人もいないのに大勢の病人を其の都度見なければならないので、大変な事です。御苦労様です。

手術後幾日か過ぎ痛さも少しなくなり、体もはっきりし、流動食も管で胃袋に、この時初めて自分の体は先生、看護婦さんのお陰で命有るものと思いました。又其の日其の時、枕元で今日から寺尾さんの面倒を見る、一科の見習生です、よろしくと言って来てくれました。前以上に前途が明るく、力強く感じられました。私は夜になると高熱が出たり、十二支腸潰瘍が有り、今日は何の検査、明日は何の検査と、他の外来診察によく行く事がありました。まだ、足がふらふら、頭がぐらぐら、よくころびそうになり、見習生に何回かおさえて頂き、特に胃の検査の時、喉の手術後二週間位だったと思います、検査鏡を喉へ入れられる時は大変でした。横にねて居る自分が苦しく、痛いので、そばに居る見習生のところへ無意識のまま抱きついてしまいました。先生は頭を上げると息が止まる、其のまま其のまま、其の時も私の手をはなそうとはせず、むしろ私の肩をさすって、寺尾さん、がんばってと言って、力をつけなぐさめてくれました。看護婦学校の教育の真剣さが良くわかります。立派な生徒です。有り難うございました。

もう一つの問題は風呂に入る時、頭をどうやって洗うかです。看護婦さんに喉へお湯を入れない様にと言われて居るから、自分も考え、見習生も大変です。一回目は手拭いを二枚首に巻いて出来るだけ頭を下げて洗って貰いましたが、まだまだ心配で二回目は見習生が家に帰り、自分が風呂に入り色々の形で練習をしたようで、考えた案で洗って頂きました。湯船に入り頭だけ外に出し、出来るだけ下げて洗って貰い、これが一番安全で良い方法でした。今でも其の形で、一人でも安心して出来ます。

発声指導も良く、私と同じ気持ちになって教えてくれました。お陰様で一ヶ月位で原音が出来、今では自分が「自分の点数をつけるなら、五十点です。最後に御厚情により、まだまだがんばります。

そして一句。

親子より情の深い名医神

看護婦はきたない仕事顔変ず

退院して一年

松本市笹賀 中平正

平成元年十一月六日に退院し、早くも一年が過ぎ此の一年間、何をしたかもわからず、ただすごしてしまった感じです。退院時には、自分なりに声を失う事の重大さを考えてはいたものの、現実は自分の考えていた事とは程遠い事で、ただ困惑するのみ、あまりの事に食事もあまり進まず、本を見ても頭に入らず、又他人には会いたくない気持ちが強くなるばかりで、実に長い一日でした。何とか、気持ちの切替えをしなければ、と思いはするが気持ちのみが先走るのみで実に情の無い状態でした。

此の様な時期に初めて発声教室に参りまして、練習をしている皆様の様子を見て、自分の現在の精神状態を見つめてみました。実に情無い事ばかりを考えていたものと気付きました。

それには、先ず頭の中を良く整理しようと考え、先ず歩行運動を実行する事にしました。目標を四キロとし、バイクにてキロを計り、コース(安全の道路)をえらび時間を四十五分とし、毎日雨天でも実行しました。時間を四十五分から四十分、三十五分と短縮しながら、何も考えず、空気呑み込みの練習をしました。

此の様な時でした。障害者手帳の申請をする事になり、今までは、他人にはなるべく会いたくない気持ちでしたが、自分の事をするのに他人に会いたくない、などと言ってはおれない。とに角、実行するのみと決心し、市役所に出掛けました。何をどうするのかを全部筆談でやるしかない。此の筆談が中々出来ない。ただお願いをするだけしかない。筆談を家以外でするのは初めてでしたが、色々と説明を受け、申請をしましたが、書く事の苦手の自分には、実に大変な事でした。

ところが、更に此の時期に厚生年金の申請をもしなければならず、この事も初めてで、自分にはわからない事ばかりで、苦手の筆談質問をする事になりました。質問をしている間に、自分でも何を質問しているのか判らなくなる様な事が何回も有りましたが、此の様な時でも、市役所や社会保険事務所の方々は、親切に説明をしてくれました。時には、二時間にも及ぶ程の長い時間、御世話になった事も何回か有りました。役所関係ばかりでは有りません。社会の皆様方の御世話になりながら、生きて居る事に気付き、何事も感謝しながらやっていかねばならないものだと実感しているこの頃です。

退院時に、先生、看護婦さんの、頑張って、の励ましの言葉をいつも思い浮かべては、頑張って一年がすぎました。

最後に、これまでに健康になりました事は、先生始め看護婦さん方のおかげと感謝致しております。又発声練習の指導して下さる、会長さん、信鈴会員の皆様に御礼を申し上げ、今後共よろしく御指導の程、御願い致します。

助けられた余生を

伊那 登内千春

例年にない今年の酷しい暑さに悩まされた夏も、ようやく凌ぎ易くなり、秋のきざしを肌に心地好く感ずる様になった頃は、農家では秋野菜の蒔つけも一段落し、撫でる様に、そよ風が田一面に色づき始めた穂波を、静かに渡って来る風情は、一年中で最も季節の移り変わりを感じる頃だと思います。

そして、いま既に秋もすっかり深まり、収穫のときを迎えようとしています。

早いもので、あれから二年の春秋が流れ去りました。思えば、私が運命の宣告を受けて信大の北病棟三階にお世話になったのが、昭和六十三年八月二日の暑い夏の最中でした。

そして途中十月半ば、術後の治療のために、伊那中央病院に転院し、退院したのが十一月二十五日で、もう木枯らしの吹き始めた頃で、あのとき程、移り行く季節の色合いをひしひしと肌に感じたことはありませんでした。

その間、信大と中央病院の先生方や看護婦の皆さんには、本当にいろいろとお世話になりました。医療への全幅の信頼と併せて感謝の気持ちで一杯です。

それからは、所謂喉摘者として今日まで六十路も半ばを過ぎ、言語障害と体調への不安と、ときには希望とのはざ間で、とかくゆれ動きがちの心を抱えながら、伊那教室で桑原先生、山下先生をはじめ、会員の皆さんにお世話になりながら、励んで居ります。教室では、留年組で殊更したためることもない訳ですが、折角先生方や、看護婦の皆さん、そして家族や親族、知人、その他大勢の方々にお世話になって助けられた、これからの余生を、種々の不安と闘いながらも、大切にして、発声への願いと期待をこめて、一生懸命にその鐘を鳴らし続けて行きたいと思います。

私は入院四ヶ月に及ぶベッド生活の影響もあって、退院後持病の腰痛に悩まされ、体調には人一倍苦労を味わって居りますので、体力増強と趣味をかねて、少しばかりの盆栽と、菜園作りに励んで居ります。特に若い頃から日曜仕事に続け来た菜園作りは、朝な、夕なと畑の中に立つと、いきいきと其の生物の息吹きが肌に迫って参ります。良い香りです。そして其の時は、吾が生の息吹きを一番に意識するときでもあります。

私は其のときがすきです。

そしていまに感謝したい気持ちです。

これからの深まり行く晩秋から、冬にかけてのひとときを、居間の陽当たりの良い窓辺で孫と一緒に陽なたぼっこしながら、とぎれとぎれの片言の会話を交わしながら、余生を大切にして頑張って参りたいと思って居ります。

陽ざしの先にやがて来る春の光りを見つめながら