昭和44年刊 創刊号

巻頭言

顧問 鈴木篤郎

皆様の会報「信鈴」の誕生を心からお喜び申し上げます。皆様は長い間困難な病気と取り組み、そして克服して再び健康を獲得されました。しかし、たとえ手術が成功し、全治されたとはいえ、その後のご苦労は喉頭摘出という手術で経験された人でなければ到底うかがい知ることのできぬものと思います。しかし一方、生きていることの尊さ、美しさ、楽しさを誰よりも身近に感じているのも皆様であり、これは生命をかけた大病を経験した人でなければ得られぬ至高の境地でありましょう。

皆様の会は、決して単に「同病相憐れむ」ためのものであってはなりません。そのような消極的なものではなく、お互いに励ましあってより充実した毎日の生活を切り開いて行くと共に、同じ悩みの方々に適切な助言と指導の手をさしのべるためのものであると信じています。どうぞ、毎日を元気に楽しくお過ごしください。

最後に医師としての私からお願いがあります。それは他でもありませんが、術後5年間の定期検診は、異常の有無にかかわらず必ずお受けいただきたいということです。これが皆様の健康を確保する一本の柱なのです。

創刊を祝して

信鈴会会長 石村吉甫

われわれ喉頭摘出者は、発声不自由のため意志の疎通を欠く場合もあり、どうしても消極的になりやすいのである。そこで健康保持の上からも、また相互の福祉の点から喉頭切除者が常に連絡をとり、何事も話合える機会を得たいものと思っていた。勿論東京の銀鈴会や大阪の阪喉会というような全国的組織もあるが、もっと身近かで直接手術を受けた信大病院の先生方を中心とした会でもあったならば、どれだけ気丈夫なことだろうと思っていたところ島成光氏から信鈴会創立の話があり、双手をあげて賛意を表したわけである。

本年二月二十日信大病院の会議場で発会の運びに至る迄には島氏を初め碓田清千氏等のなみなみならぬ御努力と鈴木篤郎教授を初め信大耳鼻咽喉科の諸先生の御後援のあったことは忘れることが出来ない。その後五月四日には松本美ヶ原温泉郷で春の総会を開き、来る十一月二日には秋の総会が開かれる予定で、それまでに会報が刊行されるときき、着々発展することは、役員各位の御努力の賜ものと深く感謝している次第である。会長に選ばれたが、当時公務多忙のため充分責任をはたすことが出来ず、まことに申訳なく思っている。実は昨年六月手術後当時在職していた信大人文学部(文理学部)長の職は勿論教授の在官も困難と思っていたが、教授諸氏の慰留と退院に際しての佐藤育蔵先生や今野婦長さんの激励に力づけられ、どうにか本年三月停年迄勤めることがたが、その間発声について佐藤先生を初め林利津雄、島成光氏から手にとって指導していただいたが仲々思うにまかせず、その際つくづく喉頭摘出者がお互に助け合い互に励まし合う必要のあることを痛感したのである。皆様の御蔭で先に述べたような信鈴会が出来たので、会員諸賢の御協力を得て、ますます発展することを祈ってやみません。

重責を担うて

副会長 碓田清千

今般ここに私達喉剔者の集い信鈴会の発足を見ましたことは本当によろこばしいことで御座居ます。何分にも喉頭を剔出いたしますと言語の発声機能を失ってしまいますので、これがためだんだん引込思案となり、一般人に背を向けてしまうという様な傾向がままあります。夫れを思います時私達同病者が一堂に会し、おたがいを慰め励まし合い、又術後の体験などを語り合い一般人に背を向けつつある者の明るさをとりもどし一般社会人として復帰して行く様に出来るという事は私達喉剔者にとってこんな嬉ばしい事はありません。

はからず今回この会の副会長という重責を仰せつかり増々この会の発展につくしたいと念願いたしておる次第で御座います。どうぞ皆様も心を一つにして手を取り合い大いに喉劇者のためにつくし合いましょう。

今回信鈴会誌創刊号の発行に当りましてほんの所感を述べて私の御あいさつにかえさせて頂きます。

信鈴会の道

医師 佐藤育蔵

長野県にも東京の銀鈴会や大阪の阪喉会の如きものが本県にも是非必要で会の発足を常日頃から鈴木教授が話されておりましたが、古い木造の病棟の頃には喉頭を剔出しなければならないような患者は年に2~3人位でありましたが、新しい病棟に移るや否やその数は急に増加し、10人から多い年には20人を越える年も出る位増加致しました。こうなりますと病気を治す所までには今日の医学の進歩により吾々医師のつとめとして何んとかなりますが、その結果無喉頭となり言葉がしゃべれなくなってしまった現実に対しては、なかなか思うようにゆかなく吾々の力をもってしてもどうにもならない場合が多いわけで、いつも心苦しく思い、責任を強く感じておりました。

たまたま非常に熱心な方々にめぐまれ、長野県内にも一つの集まりを...との事でお骨折り下さり、

『長野県喉頭切除者の健康をまもる会「長野県信鈴会」』

として発足致しましたが、こんな喜ばしいことはありません。会員各位の努力の結晶が、幅広い活動を産んで無喉頭の方々の福祉並に特に各人に心の支えとなる点、ますます内容ある集いに成長されますことを切望致しております。

健康第一、この点皆様には最も幸せなことによい妻、よい夫、又よい家庭にめぐまれ、しあわせな生活をされておりますが、そこには皆様方各人の言葉にては云い現せないなみなみならぬ御努力と、困難を克服された力強い信念が満ちあふれております。また会員の方たちの仲間意識というか、お互に励まし合ってゆくという強い態度、また一生懸命に困難に打ちかとうとしている努力、なれない引っこみ思案の人たちに対する他の会員の助言の真剣さに驚き、声を出すといえば声帯から発声することだけしか知らなかった私には本当の所非常に驚きました。同じ言語障害をもった人が互に励げまし合って練習している姿、特に指導する側が皆自分自身で努力した経験のある人たちばかりであること、又新人側の目標となるよい実例として最も効果的である点、非常によい訓練の場であり又方法と思います。それらの人達の注意やはげましを、ひとことも聴き洩らすまいと聞き手の熱心な表情...といったものから考え、この様な会のあることを知らない同病の人たちにももっとPRして何んとか全員が″話すこと"をとりもどせたら何んとすばらしいことかと思います。

人間は社会的動物といわれておりますが、言葉なしには一ときも生活できません。人と人との意志交換にはいかに言葉が大切なものかを実感され、人類の発見した言語は如何に貴重なものか、それを実際に失ってみた人でないとその価値はわからないと思います。一方では人類が月の世界まで行き無事帰ってこれる時代になっており、無喉頭の人達に対する社会福祉はもっと真剣に行われるべきだと思います。現在では声を大きくして発表するのでなければ社会から忘れられてしまいます。この意味で信鈴会が新たに発足出来たことは大いに意義ある喜ばしいことであると同時に今後は社会に対する大きい発言者として信鈴会のますます成長されますことを心から祈って止みません。

カナダの医療保険

信大耳鼻咽喉科 田口喜一郎

私は昭和四二年の九月から本年の八月までカナダのトロント大学医学部耳鼻咽喉科に留学の機会を持ちました。

カナダは医療保障の非常に進んでいる国でして、有職者には半強制的な入院用保険があり、この保険金は給料から天引されます。その額は独身者で月二二〇○円位、夫婦で月三三〇〇円位、夫婦の他に扶養家族がある場合は月四二○○円位で、これに加入しますと一応入院の方は安心できるわけです。この額は少し高く感じられるかも知れませんが、国民一人当りの平均収入が日本の約五倍ということを考慮に入れればそんなに高くはないことがお解り頂けると思います。

この他に一般の一寸した病気で開業医に診てもらうためには別の保険が必要です。これには政府で扱う物の他に一般の保険会社や新聞社等が各種の医療保険を扱っていて、保証額によって保険金額も異なっております。政府管掌のものを例にとると、その保険金は独身者で月三三○○円位、夫婦で月四二○○円位、その他扶養家族ある場合(何人でも同じ)月五○○○円位です。この場合年収一○○万円以下の家族は保険金を支払う必要がありませんし、その他収入の少ない者は保険金割引を受けることが出来ます。

以上二つの保険に加入していればよい訳ですが、御承知のようにカナダは医薬分業が完全に実施されておりますので、どうしても薬は医者の処方により薬局で買うこととなり、この方の保険には加入している人が少ないので、一且病気になると大変です。そのために人々は病気の時の支出に備えて預金を行なっているといわれます。又よい医者に特別患者として診てもらう時は保険が効かないことになっております。

患者の診療は全て予約制であり、このため予約から診療までに要する期間が一週間から二ヵ月という状態です。緊急患者はいつでも緊急外来に飛び込むことができます。ここでよい点は余り多くない患者を医者がじっくりと診療することが出来るという点でしょう。

患者の社会復帰に対する政府の力の入れ方は大したもので、各地に社会復帰のための病院があり、そこでは各種の専門治療が行なわれています。然し喉摘者の言葉の回復という面は可也特殊な治療に属し食道音声よりも電気発声器に頼る人が多くなっているようで、そのためその器械の製造会社の技術者が各人に適応した性能に調節する為にやって来るという程度です。以上簡単ですが、今回はカナダの医療制度の一半を述べました。概して日本の医療制度は金持ち貧乏人も公平に恩恵を受けられるようになっているという点では勝れていますが、特殊な検査や治療が大学病院を中心とする特定医療施設でないと受けられないという点ではカナダに劣るように思われます。

信鈴会の意途慶びて

耳鼻科婦長 今野弘恵

自分自身の可能性をいつもできる限りの範囲においてためしたい。そしてそれはつねに何か新しいものでありたい...

そんなことを考えてはみても、それが毎日の忙がしい仕事や時間にすっかり遠くへ押し流されてしまって結局何もしないで終ってしまっている、それが私の日常であります。

それにひきかえ、島さんの勇気と積極性は私にとって常によい教訓となっております。御自分の過去の経験をもとに同じような悩みや苦しみをもった人達と相まじわり生活の中ではげまし分ち得る面があれば、それとをあわせさらに将来少しでも他の人にとっても積みあがっていく価値をもつことだったら...というのが...今日信鈴会の発足の動機の一つであっただろうと思います。島さんが老いて益々盛んなのもここらに秘決があるのではないか等と思ってみたりしています。兎に角こうした形で生まれた会を非常に意義深くおもっております。今後よりよく発展していくことを願ってやみません。

随想

上伊那郡 田中芳人

東京には銀鈴会あり、大阪には阪喉会あり、会員の親睦の場として、夫々成果を挙げているのを見るにつけ、うらやましい限りでありましたが、昨年島さん、碓田さんのお骨折りにより信鈴会の創立をみましてから一ヶ年、日に月に内容を充実し茲に会報創刊号発刊に至りましたことは、会長さん初め役員諸氏の並々ならぬ御努力の賜と深く感謝致します。

私は昭和三十五年十一月九日信大附属病院に於て、喉頭全摘手術を受けるまで約半年間、身体は衰弱し声はかすれ乍らもまだ何とか治す術を求めて、あちこちの病院の門を叩いて廻りました。

世間の人は満州、支那、南方と強い酒を呑んで歩いた酒のタタリだといい、又余り声を出したためだといい、煙草を呑んだ為だといい、いろいろに臆測してくれましたが、何せ始末にいかないものは癌のようだという位で、何が原因で私がマナイタの上に乗る破目になったか判りません。

こんな訳で入院ということになり、今より素晴しい声ですぐ話が出来る様になるからということを半信半疑で聞き乍ら、とうとう声と一時お別れということになりました。

以后、鈴木先生を初め諸先生、今野婦長さんと大ぜいの看護婦さん等皆さん方の献身的な治療と、手厚い看護をいただき、三途の河原で「廻れ右」をして戻って来て以来己に九年間、良く永持ちするものだと吾乍ら感心しつつ、生きる為には止むなく唯今の仕事に取組んでいる次第です。

若し私が童話の主人公であって、神様が「一番ほしいものを一つだけ与えてやる」と云ったら、私は即座に喉頭と答えます。(もう己にあきらめ切っている筈ですのに...)

唯今の私は職業柄声がどんなに大事であったかを、失ってみてしみじみ感じました。

手術直後から浅輪先生に食道発声の練習を奨められ、入院中何とか物にしようと、サイダーの力を借りてゲップをしてみたり、食道の中へスポイトで空気をつめ込んでみたり、何だか水と空気でパンクしたタイヤの修理の様なことをし乍ら、それでも声を出したい一ぱいで練習してみましたが、中々万足の発声も出来ないままに退院し再び仕事に取組みました処、声のない仕事は私の場合、一日としてやってゆけない破目になりましたので、仕方なく人工笛を使用して事務処理に当り、以后食道発声は段々私から遠のいてゆき、唯今では無理をして発声しても母音発声がようやくという有様になってしまいました。

人工笛必ずしも悪い訳ではなく、むしろ短期間に話しの出来る便利さは、食道発声の比ではないと思いますが両手を使って仕事をし乍らの応対、瞬間的な応答等、やはり幾多の不便は免れません。

私のこうした経過から考えてみまして、若し不幸にして之から喉頭を失った方がありましたなら、無理をしても『第二の声の第一声は食道発声で』この信念の下に、萬難を克服して食道発声の訓練に邁進されます様お奨めいたします。

此の会にお仲間入りのしるしに、何か一言書きたいと筆をとりましたが「貧乏暇なし」のたとえの通り中々思う様な時間も得られず遂に〆切り瞬前までかかり乍ら尚まとまらぬ文章のまま筆をおきます。

最后に、此の会と会報をみんなで暖かく育みお互に励し合い慰めあって、人生を強く生きぬいて行くためのきづなといたしたいと念願してやみません。

手術の前日

松代 吉池茂雄

明日は手術だというので、子どもたちや親戚の者が入れかわり面会に来た。かすれて聞きとれないような声だが、自分の声は今日限りだと思い、いろいろ話しておきたかったが思うように声が出ない。疲れてはいけないというので面会人たちも早目に引き上げて行き一人になるといろいろな思いが頭の中をかけめぐる。

「あなたの手術は、声帯を取ってしまうのだから声が出なくなります。あとで、そんなはずではなかったなどと云われても困りますから、いいですね。けれども人工喉頭を使って話が出来ますから心配はいりません。『社会に出て働いている人が大勢あります。』という前日の婦長の話をいく度か思い浮かべた。声がでなくなったらどうなるのだろう。人工喉頭ってどんなものだろう。それより手術はうまくいくのだろうか。不安がひしひしとおそって来る。しかし、もうここまで来たのだ。今更じたばたもがいても仕方がない。かくなる上は現代医学と医師の力を信頼するより外はないのだと自分自身に云い聞かせる。まな板にのせられた鯉はビクともしないそうだ。おれも鯉のように落ちついた気持で手術を受けよう。

夕食の時に、今夜九時以後の飲食は一切止められた。八時四〇分血圧を測る。『わりに落ちついているのね』と看護婦が云った。九時白い錠剤を三錠やって来て、これを飲んでねなさいという。何かと聞くと睡眠剤だという。これを飲んでも明朝目があくかと聞くと大丈夫よといった。

何か重大な事件が迫ってくるような異常な圧迫感を感じる。昔の武士が切腹する前夜はこんな気持なのだろうか。明朝目がさめたらすぐに下着を着がえておかなければなどと考える。まさかの時の必要事項を書き記したノートをもう一度読んでみる。

翌朝四時にちょっと目があき、六時に目が覚めた。体重を測る、五八キロ。

昨日子どもたちが買って来たゼラニウムが一輪だけ咲いていたのが、また一輪咲いた。明日は更にもう一輪咲きそうだ。

七時四五分また睡眠剤三錠を飲む。下着をかえてベッドに入った。何も考えない...。

× × ×

この日自分の喉頭は全部取り去られて標本ビンに移され、自分の肉声は永遠にこの世から消え去ったのだ。時に昭和三十六年五月二十二日月曜日。(療養日記から)

第二の人生に残された者の「生活の智恵」

上田市 北沢兎一郎


声をなくして一年十ヶ月漸く二年目を迎えようとしている私の第二の人生がひしひし現実となって迫って来た。退院したのは昭和四十二年六月の暑さに向う頃で夏物らしい物を着るとグロテスクな気管口はそのまま出てくる、手術前喉頭癌の手術をすれば気管をとってしまうので声帯も無くなるので声は全然出なくなりますと、そればかりが悩みの種でしたが、食道発声の方もいくらか言葉になりかかって来たし、いま少し頑張ればなんとかなるような気がしてきたいま、今度はこの穴は...よく考えてみると、死んでも開いている一生開きっぱなしの穴だ、今更あわてているような次第です。人間の欲望にはきりがないのか社会生活が身近になって来ると日常生活にも湯に入るにも気管口が苦になって、なんで場所もあろうにこんな大きな穴を開けてくれたかと今更恨みたくなります。

盛夏なぞ裸で居るガーゼの前だれ姿は石の地蔵さまそっくりです。兎に角夏は暑くてやりきれません。たとえシャツの下でもガーゼの前だれをかけた時は呼吸口から出る息で体の中へ暖房を送り込んでいるようなもので夏懐炉を抱いている様なものです。浴衣着た時丁度穴が正面に出るので前だれを掛けると、なんと言っても着物のポイントは衿元に白いガーゼがいっぱいにのぞいて居るのは気のきかないことこの上もありません...自分のプライドがゆるさないのです。そんなわけでここ一年有余おそらく前だれは寝る時掛ける位で寒い冬の日などともすると血痰をみるのでしばらく掛けますがおそらくあとは掛けたことがありません。素人考えかもしれませんが自信のようなものが今では付いて自然に抗抵力が付いてくれば外菌も防げるような気がして居ります。

以前私達が造った旅行会で町内有志が毎月掛金をして毎年皆で行く先を決めて五月行く楽しい旅行会で前の年は南紀方面で私は入院中で行けませんでしたが今度は伊豆めぐりと決ったとか聞いていましたが退院したばかりで諦めておりましたら幹部の旁が来てこの旅行会も北沢さん達が造られて今年で九年目になります。今まで永い間観光の心配から会計の心配までされて来たので、今度私達がお連れしますからぜひにとすすめられ自分では考え込みました。退院後は妻を共にして温泉やバス旅行の経験はありますが、他人と一緒ははじめてでしたが友人達だしおととしまで共に楽しい旅行をした仲間なので連れていっていただくことに決心したのです。

さて行くと決まるといちばん先に心配なのは呼吸口のことで、お湯に入る時のこと旅館に着いて浴衣に着替える時のこと社会へ出る時しみじみ感じます。気管口を穴けられたことが喋ることの出来ないよりつらいです。禅の教えではこうゆう時「諦めろ」と言うでしょう。あきらめられるでしょうか。二十世紀の悩み!

こんな時考えました。浴衣に着替えれば穴は出るし、まず旅館へ着いての浴衣は洋服の場合ならくだけたオープンシャツ...これなら人並に浴衣を着た感じにはなれる用意したオープンのいちばん上のボタンを掛けるとちょうど穴はかくれる湯上りに着替へのオープンこれで良い。ガーゼの前だれも寝る時浴衣に着替えの時掛けないと同部屋で泊る友人にこういうグロなものは見せないよう掛けて寝ますと旅館の蒲団のホコリもよけますので一石二鳥...。

列車の中でも友人達と一緒に掛けて友人達がおもしろい話を聞かせてくれるので、表情でおかえししているのですが、それでも結構話しかけてくれるのでありがたい中には錯覚をおこし私がワイシャッにネクタイですまして居ると「あなたも唄いませんか」なんて喋れないことも忘れて話しかけてくる友人もあります。宿に着いて温泉に入る時がいちばん抵抗を感じます。脱衣場で裸になるにもあたりに気がねして、何も悪いことをしているわけではないのにあごの下へタヲルを当て手早く湯に浸るのですが人は見ないような顔して見て居ります。こんなグロテスクな穴は見落すわけがありません。奇形には違いないからなる可くみなさんに背を向けて徐々に浸み胸のあたりまでで出ると、手早く胸から下に石けんを塗り付けて洗い流して、その時の状況でぐるわの注目が多ければそのまま上ってしまいます。二回入れれば上等です昔のように肩まで浸ってのんびりと醍醐味にひたると言うわけにはゆきませんが、そこへゆくと家の風呂場ですと不自由はあっても自由がききます。たまには無理をして水を入れてむせることもありますが、風呂のふちにあお向けに頭をのせてしづかに沈むと何んとか肩まで入れます。人の居る風呂ではそうはゆきません。そんな具合で上るとすぐ今度は持って来たオープンシャッに着替えるのです(浴衣替りに)その時はじめてホットします。

しばらくして宴会となりました。酒は二十五年も前から今だに晩酌はやっておりますから人並に呑めるので困りませんが飲むほどに酔うほどに唄が出はじめました。私も以前は宴会で唄も相当唄いました、皆の唄に合わせて手拍子を打ちました、なかなか楽しいふん囲気でお酌のおねえさん達も結構相手にしてくれますので思い切って踊りました。私達唄えない者は踊の一つ位覚えておくのも必要だと思いました、そうした楽しい伊東での一夜を過してまいりました。

我々身障者は不自由な体に生活の知恵を活かして残された人生を楽しく有意義に過してゆくことだと思います。

生命の貴さ

松本市 島成光


人は一代名は末代と昔しから言伝わるが如く人生の一代は、生れて親により育ち青春を迎えて結婚して家庭をつくり、子孫への子宝を授かり社会人として幾多の苦難の道程を一日一歩歳月を過し、人生の希望のまにまに歩み続けて行くものである。

其道程の中に社会人として、世の為人の為ひたすら貢献して子孫への家名を伝え得る一生である。虎は死しても其皮を残す。

我々はより良く生き、希望にみつる楽しい人生を終るであろうか。

昔から人は病の器であるとか云われている此世に一生を無病で過せる人が有り得るや。

私しの人生を同病の諸氏に述べて如何に人生が自然であるか否不自然であるか、大海に舟をうかべ目的地に無事着く可きや否運命のいたす処である。

私は二十三才で満州に大望を志し渡満して盛京省、奉天省。三東省と十三年にわたる海外生活は劇的一ページであった。

日本人の居らぬ奥地でヤブ医者として満州人の病める農民の治療に精進して過したのであるが、ある時は馬賊に二三回も遭遇し、ある時は山間で狼とも戦い死をまぬがれたのである。以後山東省の竜口の奥地黄県で馬賊に又々遭遇してより過労が原因で病の床につき医師の無い無医村にて思うように手当もできず、体は弱るばかりを待つより道はなかった。其時竜口の日本人が私に大連に渡り日本の病院に入院するよう進められたので船で黄海を越え満州の大連につき、慈恵病院に入院したのであるが、今より五十年と前の事とて医術も進歩しておらず薬石効なく六ヶ月の入院も心臓病を併発し体は骨と皮のみとなり身動きもできぬ身上となった。

青春志を立つ身も今となっては死を待つのみと感念した。

フト其の時光りを見出した。救いの神は世に無形の神仏あり。神仏の加護により再生を念願して、天命を待たんものと、神道、天理教の教理を信仰して、教師の説き諭すまにまに、過去のざんげを誓い次女に病状も回復し八ヶ月後内地に帰る事ができた。

奇蹟にも死を脱し郷里松本に帰り今尚神恩感謝の日々を過している。以後現在に至る好きな趣味として三百羽余りのアメリカ輸出向けの『カナリヤ』を飼育している。九死一生を得た私は『趣味と人生』への生活を営んでいるが、去る五年前北海道各地を輸出カナリヤの飼育指導講演に廻り最后函館市の労働会館に於て講演の中途声が出なくなり、筆法で三時間の趣旨の責任を了え、急拠急行で東京都の大学病院にて診察をしていただきましたが松本には信州大学病院がある故早速見てもらった方が良いといわれ、早速信大病院耳鼻科にて診察を願い、当分コバルトにて照射療法が良いといわれ、一ヶ月余り通院したが、一向に声は出なく、ますます呼吸困難となり、同科教授鈴木先生に前途生命の御相談を致しましたところ、手術以外に生きる保障ないと申されたが?然し心臓の弱い私は意を決し手術とふみ切ったのである。今野婦長さんの親実の一言に力づけられ、『人口笛』を使用すれば何不自由なきよう聞され生命を天にまかせ、最後の言をテープレコーダーに納めて言語さらばと三十九年三月入院四月十七日喉頭摘出の手術を致しましたが、非常に経過が良く五月末人口笛を片手に退院したのである。

以後大阪の阪喉会に入会して年々総会に参加して国内の同病者に接して居ります。

来る十二月一日より四日まで台湾に旅行を致しますが十二月二日台北病院に於て日本の阪喉会員として同病院の医師及び台湾の喉頭摘出者の方々に私の五年間に渡る苦難斗病生活の講演をマイクを通し致します。

又三日には台北にて輸出カナリヤの講演とカナリヤ品評会の審査を台湾省飼鳥招会より頼まれまして有意な社会的な働きができる。今日の喜びこそ貴きものがあります。

青春若かりし時代海外で苦難と戦い、又病苦とも戦い信仰により、九死一生を得、帰省後好きな道、愛鳥一途に全国をカナリヤの講演をして廻り、函館にて喉頭の障害となり呼吸困難におちいり、信州大学病院に於て喉頭切除以来健在で意義ある生活をしております。

現在七十五才ではあるが、世の為人の為につくし、よりよく永生きして世のうつり変りのすばらしさを見聞して楽しい人生を終りたいと希うものであります。

実に生命の貴さを痛感せざるを得ない。

四十四年の秋の日

喉剔者よ確信を持て

副会長 碓田清千

前々から長野県内にも我々喉剔者の会があったら好いと思っては居たが、中々その期会がなく日は流れてしまいましたが今回鈴木先生のお力添え島成光さんの御努力によって信鈴会の誕生を見ましたことは本当に我々喉剔者の心の寄り処が出来、皆一堂に会して励まし会うことが出来るのはこの上もないよろこびです。又それに加えて長野赤十字病院耳鼻科の浅輪先生始め婦長さん看護婦さん達の御好意に依り信鈴会食道発声教室が出来ましたことも嬉ばしいことです。

長野は交通の便の都合で中々東京まで出ることが出来ない人達がありますので、長野で練習が出来ますと、その人達にとっては大変好都合です。そして又食道発声のどうしても出来ない人には「パピヤ」(人工喉頭)の使い方も又島さん清水さん等の練達者により練習をして貰えますので本当に好都合です。

ここで私が思いますのは食道発声についてですがこれは誰しも出来ることです。只その人の練習に対して熱心不熱心が発声の上に大きく及ぼすと思います。

兎に角人生は確信を持つことが唯一の成功の鍵ではないかと思います。いつであったかテレビでこんなものを見ました。私だけではない大勢の人が見ている筈だと思いますが、一人のヒンズー生れの男が自分の前髪の一つかみほどの分量をつまんでそれに麻縄のようなものを結びつけ、その縄を自動車にしばりつける、自動車には箱の中といわず幌の上といわず数えて見ると十一人の大人が乗っている。その十一人乗りの自動車をつまり自分の一つかみの髪の毛で引張るのです。そんなことが出来るものかと唯でもが思うでしょう。始め自動車はビクともしない、色の黒いその男は懸命な表情で前に進もうとする。動いた、あれよと見る間に徐々にそれからするすると十一人の人間を乗せた自動車が一つかみの髪の毛によって曳き出されたのです。テレビを眼の前に見ていても、唯がそんなことを信じるものでしょうか、なぜ、その男の髪の毛は、それによって皮膚をもぎとって血をふいて、抜けて了はしないでしょうか。理由はただ一つそのヒンズー生れの男は自分は髪の毛だけで十一人乗りの自動車を曳き出すことが出来る。そう思っているのです。その確信です。絶対に曳き出せないと万人が万人、どう考えても思う筈のところをその男はそう思わない。曳き出せると確信しているのです。自分の髪の毛は決して血を吹いて抜けて了ったりはしない、と確信しているのです。それです、どういう仕掛けがあってこのヒンズー生れの男にだけこの確信が有るのかでは確信する事さえ出来れば、普通人の眼にはどんなに不可能だと見えることでも可能なのか、そうです出来る確信さえすれば、どんなに不可能と見えることでも可能なのです。人間の心というものが、そういう不思議な働きを持っているのです。しかし、私たち現代人は何事でも出来ることと、出来ないこととをしない前からちゃんと区別して知っているのです。これはできない。これは出来ると生まれてこの方からの経験か知識か或いは科学的な根拠からかで、ちゃんと区別して知っているのです。出来ないと決っていることは出来ないのです。知っているから出来ないのです。もし私達が生まれた時のままで自分の力を評価することを知らなかったとしたら、私たちは吃驚仰天するようなことでも平気でしとげて了ったかも知れません。しかし私達はもう既に知ってしまっているのです。もう既にそれは出来ないということを確信して了っているのです。悲しいことに考えて見ると私たちのしていることは不思議なことだらけです。朝起きて食事をする。いまこの口の中へ入れている食べ物が果して食道を通って胃袋へ這入り、そこで消化されて腸を通って首尾よく紅門を出るだろうかと心配する人間があるでしょうか、それは出るにきまっていると生まれた時から確信している。その確信のために出るのです。食道発声もこれと同じだろうと思います。声が出るという確信です。確信をもってすれば必ず発声は出来ます。甲に声が出て、乙に声が出ないという事は有り得ません。要は確信と努力、この言につきます。皆さん大に確信を持ってがん張って下さい。

闘病とは...

松代町 吉池茂雄

「病気は医者や薬だけではなおりませんよ。自分がなおりたい、なおしたいと努力しなければね...。」

手術後三、四日して婦長さんがはげましてくださった。なおりたい、なおしたいの心が闘病というのだろうか。

あれから八年すぎて、九年目に入っている。何人かの病友(むかし戦友ということばがあったが)を訪ねて、たがいにはげまし合ったが、その中に再発した友も何人かいた。

「元気を出すんだ。希望をすててはいけない。」とはげましたのもむなしくあの世へ旅立った人もいる。

一昨日、半年近くもど無沙汰していたN氏を訪ねた。「お変りないかね」と声をかけると、「よわっちゃった」と、しおれている奥さんの言葉に「どうしたんだね」と上りこむと、隣室にねていたN氏は、私から逃げるように、うつぶせになって顔をみせない。

奥さんの話では二月ほど前から再発して食事もほとんどとれない状態だという。手術はいやだと入院も拒否しているとのこと。家族もほとほと困りきっていた。

私のまっ黒に陽にやけた姿が、N氏には刺げきが強すぎるのか、前には私の声を聞くと、上り口まで走り出して迎えた彼が、今日は隠れて出て来ない。

「Nさん元気を出しなさい。病気になんか負けてはいけないよ。元気を出しておくれ。」

長居をすることが一層彼を苦しめるのではないかと思い、早々に辞去した。

私は、何人かの病友の顔を思い浮かべ、そしてN氏が元気に立ちなおってくれる事を祈りながら、秋の陽をあびてバイクを走らせた。一九六九.九.二

七年間歩み続けた道

伊那市 上野新三

ガンだ、ときくと、もう駄目だ。とか気の毒な人だとかよく耳にする言葉ですねェ。然し喉頭ガンと、子宮ガンは、早期に発見すれば其の内の七割位は全治すると申して居ります。その為か私の場合は昭和三十七年七月十八日に信大鈴木教授の手術を受けて以後七年間病気のことなど決して心配せず今日の健康をつゞけております。それは、悪るかった病気は信大の手術室に捨ててきたからです。だから病気は心配はいらんあとは栄養と精神力だと心にきめて其の日其の日を最も健康で楽しく過して参りました。現在も最も健康、生物はいつかはきっと一度は行かねばならない所があります。マラソン競争ではありませんので先方を走る必要はありません、まあゆっくり走るようにして下さい。そこでマラソン競争に私が走り続けてきた方法を参考迄に二・三申上げてみたいと思います。

先づ第一に、各自が持合せの精心力特に心掛けねばならないことは よく聞く言葉 つまり(かたわこんじょう)にならないこと これは誰でもが想い当ることがあると思います。一寸したことに気を廻し、家の者に当り散らして居る人も相当あると思います。これは私が退院後半歳位によくありましたので、恥をしのんで特に書き加えました。皆さん気をつけて下さい 決して此の事だけはやめて下さい。又今もなお人院中の方、退院して半歳 一年 二年 三年と数多くの方も居ることと思います。皆さん決して心配は無用ですよ。皆さんの悪るい喉頭は前に申し上げた通り手術室に捨ててきております。声が出なくとも心配はありません、いくらでも声も出るし、不自由ではありません。然し歌が歌えないのがチョッピリ淋しい位です。まだ申し上げることも多くありますがあまり長くなりますので次回に申し上げます。どうか皆さん私が申し上げました内でなる程なあとかそうかも知らんと思う方がありましたら幸いと存じます。終りに皆さんの御健康をお祈りして終ります。

感謝 感謝

上水内郡牟礼村 鈴木ふさ

鈴木さん電話、の声に受話機を持ったら日赤からの電話だった。今日は発表会というのにすっかり忘れていた 早速とんで行ったが 宿題の歌は歌えない 少しの間先生やほかの皆さんと話して気を落付けたがやっぱり駄目では更まった席という程でなくても大勢の人の前では持合せの心臓では少し小さいようだ。碓田さんの御親切な御指導を受けてやっと少し話せるようになった 仲間も増えることは余り喜ばしい事ではないがおとなりの新潟県からも来て勉強している。いろいろと私達の為に便宜を計って下さる病院側の御好意には常に感謝し、又此れに応えるには食道発声の上達という事以外にはないと思っている。農繁期も過ぎれば又元気な顔を見せて呉れるであろう、みんなが揃って話せるようになりたいものだ。

四四.九.五

「信鈴会発会の日に」

茅野市 上条行雄


喉頭を取り除けて九年ぶりはへて 今来り立つ信大病院の前

和蘭薄荷館大葉子らはびこりし 庭に建ちたりこれこの新病棟

松葉杖をたよりに我の行き惑ふ 今日初めての新病棟第三会議室

信濃路の南北より寄り来り今日を喜ぶ 喉頭摘出者二十六人

喉瘦ひ蹇となり来り会ふうべ老いはすれ 未だ死にはせぬ

わが喉頭取り除け命守りくれし 薬師有りがたし永久に思はむ

定かならぬ人口喉頭の声気にしつつ 言あげするわがどちのため

田中氏と我と語りしレコードが 役立ちしゃ如何君は今日あり

人院の日を重ねつつ夏蘭けて 草茂る庭べ踏みるとほりき

病棟の庭に種採りしピロードモーズイカ 今に保ちて畑畔に咲く

出で来れば合歓の実乾び垂りをりき その種育ち年のに咲く

生き死にはつひに明らめ難くして 山草花木に心遣りて老ゆ

親しみし木草はつひに拠るとも 体いたはり長生きをせむ

松葉杖つを横断歩道渡るさヘ 由由しく今日は草花を見ず

退院後予後の受診に通ひなれ 寄りし酒場に今日二年ぶり

随想

伊那市 上野新三

テレビドクターの言葉を借りますと、生き物はセックスなくして生きる事は不可能とか申されます。つまり健康でなければ駄目だと言ふ事を意味して居ると思います。人は誰しもが健康で何の不自由もなく気楽に暮して行き度いと願って居ると想います。然し世中はなかなかそうは問屋さんがおろしてくれません。経済の問題は別としてもせめても体だけは健康で毎日を楽しく過して行き度い事が唯一の望みではないでしょうか。ところがお天気と同じ様に雨になったり風になったり雲ったり、仲々日本晴と言ふ日が続きませんと同じ様に頭が痛いとか、風邪をひいたとか、自分の体がいつも日本晴といふ事がなかなかありません。然し私は退院後七ヶ年何ヶ月が毎日日本晴ですこぶる附きの健康で毎日を楽しく過して居りますので、私の日常の生活状態を少々申し上げて皆さん方に少しでも参考になりましたら幸いと存じます。

先づ朝は必ず六時に起きます。夜はつとめて早く寝る事に心掛けております。食生活ですが、あまり書き度くないのですが一寸書いて見ます。私は味噌汁に重点を置いた食生活です。味噌汁の中実は青い物を何んでも沢山入れます。汁は少量で其の外に(バター、玉子、ニンニク)をなるべく多量に入れます。とても格別の味が致します。昼はパン二切と牛乳が二合で、夕食は婆さんの手料理でお肉か魚で、お米は一日に一合せいぜい位です。然し夕食後は決してお茶も呑みません。それから毎食事の時間を定めておく事も必要です。それと食事と食事の間には何も食べぬ事、必ず守って下さい。之れが私の七年間病気に見放された唯一の方法と思って今日迄続けおります。但し年台に合った毎日の仕事と少量の運動(三十分位)つまり歩け歩けは忘れないで毎日続けて下さい。誠に勝手な事を書きましたお笑い下さい。では皆さんの御健康をお祈りしてペンを置きます。

木曾駒高原紀行

上田市 北沢兎一郎

このところしばらく信鈴会の発声練習も思い乍らつい出ることが出来ず御無沙汰に打ち過ぎて居った。実は今度私達の住む家を新しく建てるので何かと取り紛れておったら突然に日赤の信鈴会からの便りで秋の木曽駒高原えの旅のしらせであった早速往復はがきに出席として返信した。

台風十一号の本土接近を心配して居ったが幸いそれたので九月二十七日は秋晴れの良い天気であった、長野駅待合室午後一時半までに集合と言うことで上田正午発のバスに「乗り遅れたので」次の十二時二十分の急行に乗った、長野ターミナルで降りた方が駅に近いのかと迷ったが車掌に聞きたくも声が出ない、時間が無いので筆談もして居れないので次で降りたが急行のため駅まで相当聞きながら歩いたので定刻より十分遅れてしまった、早速待合室へ入ったが信鈴会の人はだれもみえないので腕時計はまだ五十分になるところであった改札口へ出ようとした処で吉池さんの顔がみえた続いて碓田さんも居ったのでホッとした、碓田さんが私の顔を見ると早く切符を買うよう言われ私は木曾福島往復と急行券を買って改札を出た。木曾三号は乗車しだしておった、吉池さんが席を取っておいてくれたのでやっと腰をおろした。列車まだ発車前であった、碓田さんが皆に車中で飲む様に酒の二合瓶と罐ビールを置いていった、朝からのあわだしい気持ちがやっと落ちついて車窓より秋晴れの外を眺めた時はじめて間に合って良かったと思った、間もく列車は発車した。篠ノ井を過ぎた頃より吉池さんとぼつぼつ酒を汲みかわした格別とおいしかった。いつも再診のため松本信大病院へ行く時乗るドン行とはちょっと違う、いっぱい飲んで良い気持ちでうとうとしたらもう松本だった。松本駅に着くと島さんやら懐かしい方々の顔が見えた、塩尻を過ぎ木曾路に入った。暫くぶりだった、谷合いに見える細い舗装道路が列車と並行しておるテレビニュースで毎日の様に木曾路での交通事故が放送されるがなるほどと思った、狭い谷合いの道路を大型のトラックがしきりなし走って居る関西方面との要衝だ、昔の仲仙道の面影がそれでもまだポッポッと町並に古い土蔵や家が見うけられ昔を偲ばせてくれる。奈良井を過ぎて鳥居峠にさしかかるころ車掌が説明をはじめた、此処は有名な分水嶺の拠点でこの鳥居峠を過ぎると川は反対方向へ流れて居りますなぞと聞いているうちに早くも目的の木曾福島に着いた、駅前には旅館義仲荘と書いたマイクロバスが待っていた、傍らに見知らぬ夫妻も待って居った、碓田さんが紹介したこの方は塩尻駅前で内科の医師をして居られた方で、同じ手術をされて八月三十日退院されて今度信鈴会え入られたのだと、一緒にマイク口に乗って同行された。私は車の中で思ったお医者様でも癌はさけられないのだと思えばあきらめもついた。義仲荘は駅より車で十五分位乗ったか、山の中の林の中に別荘の様な宿でした。宿に着いて女性、男性の部屋割りが決まると早速風呂えと急ぎました。階下のトイレの横にうす暗い殺風景な言いわけにある様な風呂場で、私はまだ家の風呂の方が良い位だと思った、でも山で焚く物には困らないせいかお湯は草津温泉の様にどんどん沸いて居った、吉池さんがさかんに板切れで湯もみをして居ったみな入るわけにもゆかず立ったままで入れるまで待って居った。私は可笑しくて困ったみんな穴が開いて居って肩まで浸かることは出来ないくせに一人前面して.....と思ったら、そのうちパッアと明るくなったどうも薄暗いと思ったら螢光燈が切れて居ったのだ、漸く入れる様になると競って入ったが湯舟に掛けたり立ったりしてみな異様な風景でゆっくり肩まで浸かると言うわけにはゆかないので湯の中に座って肩は丸出し、そのうち体に湯をかける者の使う湯がハネ返って来るので温るひまもなく出てしまった、家の風呂なら生活の知恵でなんとか上手に肩まで浸るがこんな時は情けないと思う。間もなく宴会となった、先づ碓田さんの挨拶があり今夜のお酒は木曾日義村の伊藤さんよりの贈りもので、おビールは塩尻のお医者様からの御挨拶の贈りだから皆さんゆっくりやってくれとのあいさつがあり、何しろ美人揃いの看護婦さんにかこまれて差しつ差されつの宴会で私は生きて居って良かったと思った。碓田さんの御苦心の唄から長野日赤の天使達の皆さんの美声を聞き、そのうち飲むほどに酔うほどに木曾踊りがはじまった、それは盛大な宴会となりました、のるかそるかの手術をされた人達とは思われぬ程の盛会となりました。それは楽しい木會の一夜を過して寝に就きました。

翌朝六時半に目が覚めた、トイレに行き顔を洗って来たら皆ボッボッ起き出して寝床の上で発声練習をして、外を見ると看護婦さん達がみんな外に出て写真を撮ったりして居った。私達も降りて行って朝のひと時体操をしたり写真を撮ったりして食堂で朝食を済ませた。さて今日の予定が決り宿のマイクロバスの案内で御岳山に登るのだそうでした、私も一度は御岳山に登ってみたいと思って居った天気は今日も良かった。黒四ダムは昨年の夏行って来たが三千メートル級の山も今は車でどんどん登って行ってしまう時代となった。カーステレオの甘いメロデーを聞きながら八号目まで登った頂上は中部山岳国立公園だ、雄大な箱庭を思わせる様な景観であった。帰り道で車で登って来る修業者に逢った修業者でも昔と違い車で登って来る様になったのかと思った。山を下り国道十九号線に出たら十七時十五分の木曾福島発にはゆっくり間があるのでと宿の運転手さん寝覚の床へ今度は案内してくれた、寝覚の床も周囲の形態がすっかり近代的になって変ってしまった。思い出せば昭和十四年頃私は町内の三峰講で先輩の方達と周遊切符で中央線廻り名古屋経由で上田から上田までの切符が当時忘れもしない七円○七銭でした、物価の差の大きいのに驚かされました。当時上松駅で下車して寝覚の床へ下って床の上でいっぱいやったことがあるが、其の当時の上松はまだ広重の絵を見るように片田舎で道筋にそばと書いたのれんでわらぶき屋根のそば屋へ入って食べたことがある生れてはじめてあんなうまいそばを食べた。今でもハッキリ覚えて居る、其の後あんなおいしいそばにはありつけなかった。...「生涯だめになった、手術後はそばの様なものをすゝるということが駄目になった、御岳山のホールで碓田さんや他の方々がそばを取って食べて居ったが一口入れては前歯で食い切って食べて居ったあれでは粉かきでも食べて居る様で側で私は笑いを堪えて見て居った、私なぞ手術後特に匂い嗅覚に弱くなった、そばの風味なぞ縁遠く、取り柄と言えばトイレに入った時くさくなくなった位だ」

昔の細い田舎道は今の十九号線も同じ辺だと思うが今は懐しい昔の思い出となった。木曾福島駅十七時十五分発のきそ四号で帰路についた、列車の中で夕食をすませ條ノ井駅で碓田さん、吉池さんが降るというので、さんざん御世話になった看護婦さん達に別れを告げて下車した、駅から国道まで碓田さんの車で送っていただき川中島バスで無事上田へ帰宅しました。一泊二日の短い旅行でしたけれど幸い天気に恵まれ皆様と親しく交わることが出来、皆様の美しい人間性に触れて私も感謝して居ります。

木曾路を訪ねて

長野赤十字病院耳鼻科内 信鈴会食道発声教室

金曜会のメンバーと、看護婦で木曾の伊藤さんを訪問かたがた、秋の木曾路を訪ねました。

新しく塩尻の医師田村さんを迎えての練習、病院での場合と異って皆の顔がとても生々と見え、大変うれしく思いました。翌日は木曾路巡り、紅葉にはまだ早い山々でしたが、田の原辺りはわずかに色づいていて、第二の人生を歩けるうれしさと、沢山のボーイフレンドを持ったうれしさで堪能してきた木曾路です。同行の皆さんに一言感想をおたずねしました。

その日の一言を集録しました。

・美しい人達と木曾駒に来て、おいしいお酒を頂いて唄っておどって、とても楽しい行楽でした。春、夏、秋冬年四回はこうした催しをしたいと思います。(確田)

・長い間憧れていた木曾路を、本当に良かったと思いました。(松本)

・発声教室の皆さんと一緒に来た木曾路は、恋人と一緒にきた様に、楽しく、素晴らしい所です。(飯島)

・木曾駒へ皆さんにきて頂いて、本当にうれしく思います。これからも宜しくお願いします。(伊藤)

・久振りで、発声教室の皆様と木曾義仲山荘で、発声練習をし、美音が出て一生忘れません。今後も日赤の教室でなく、お願いします。(山本)

・特別に偉くならなくても人並みにだけはなりたい、おしゃべりも人並みにやりたい、声が出るということは楽しいことだと思います。木曾駒の空気は声を出すのに大変適していると思いました。(吉池)

・第二の人生に入って木曾駒高原に義仲公の想い出も新たに若い天使に連れられて楽しい旅はつい昔に帰った様な気になり喋べることも口に出してハッと思い、私は第二の人生にあるのだと...:こんな楽しい思い出は実に素晴しい事です。是非又お願いします。生涯の思い出となります。(北沢)

・紅葉にはまだ少し早いと思っていた木曾路で、思いがけなく紅葉にめぐり逢いました。でもそれよりも嬉しかったのは、大勢の皆さんと楽しい旅をしたことでした。またいつかこんな旅が出来たら.....と思います。あすなろ、ひのき、こうやまき、さわら、ねずと木曾の五木も覚えてきました。(六川)

・夢にみていた木曾路寒い位で空気はおいしいし、ロマンチックだった田の原高原、皆んなと楽しみ、語り合う時このような集いの存在が、とても大きいものに感じられ、うれしく思います。楽しい思い出になりました。(大塚)

・金曜会の旅行会に参加、木曾駒高原行、非常に楽しく得る所有り、これも永生の功徳か。(山岸)

・紅葉が始まったばかりの美しい木曾路、肌寒い高原に元気な皆様と旅し、心暖まる思いがしました。厳しく、辛い練習も又今回のように楽しい旅行も共に手を取り励まし合って、より精進してまいりましょう。参加させて頂きありがとうございました。(田中)

・木曾を訪ねて一言づつなんでうまい事言われてもなかなか思うようには書けないもの、嬉しい事は皆さんが元気なお顔を見せて下さった事、やさしいお姉さま方の心労を思って、又こんな楽しい旅行を計画されて、いつまででも参加させて頂きたい。(鈴木)

・しみじみとした秋の気配に満ちた素晴しい木曾、この自然の中での発声練習。

「碓田さん」:ありがとう御座居ました。これから宣しく御指導お願いします。

「鈴木さん」:食道発声もはや板につきましたネ、これからは新しい会員の指導者となって頂きますネ、自信を持って

「松本さん」:元気な姿安心しました。これからは上達するのみ頑張りましょう。

「山本さん」:ちょっとおやせになった御様子、でも意欲的なものが感じられました。タピアの感想は?食道発声ももう一息

「武井さん」:相変らずハッスルなさっておられますネ。大町から大変でしょうが、毎週約束しましたよ。

「山岸のおじいちゃん」:久しぶりの遠出、疲れたでしょう、タピア初めてなのにはっきり出ましたョ、ヤマギシと聞いた時、すごく嬉しかったですよ、早速お家の方に聞かせて上げて下さい。

「北沢さん」:時々食道音声が聞かれました。もっと自信を持っていつも何処でも話しましょう。

「吉池さん」:タピアの先生御苦労様でした。これからも宜しくお願いします。

「田村先生」:来週十月三日御待ちしております。今週はとても楽しい週末でした。(花岡)

・本当に良かったと思いました。

碓田さんを筆頭に新しく田村さんをお迎えして、こんなに楽しい旅ができた事を誰より幸せな思いで、会う人皆に話して上げたい程です。

とにかく偉い人達の集りです。何故って時々喉頭をとった事が幸いな事かしらって、私に錯覚を起させるような碓田さんや皆さんですから。そしてその都度思います私の辛いことや、悲しいことは、まるでちっぽけにすぎない事を.....。

今度は紅葉で埋っている木曾を訪ねたいなって。

沢山の勇気ある人を知った幸せをしみじみ感じさせられた木曾でした。 日赤(小松)

「金曜会に想う」

長野日赤病院 岡部はま子

紅葉狩りに万座、白根山、志賀高原を一巡して参りました。全山錦絵のように美しく山頂では緑と紅葉の上に霧氷の白がきわだって美しくハイカーは口々に"ア"と歓声を挙げた信州の秋でした。静かで幽玄な山々からは自然の持つ無限の神秘さと厳しさ、美しさ、人間の力の及ばない物を感じ頭を下げて山を下ってきました。

金曜会にお集りの皆様お元気にて実りの秋を堪能していらっしゃる事と思います。私共長野日赤耳鼻科病棟の看護婦も皆元気で働いて居ります。ひょんなきっかけで皆様と一緒に苦楽を感ずるのも大変意義深い事で私達の看護の大事な役割でございます。

過日九月一日東京の銀鈴会十五周年記念大会にお招きを頂き金曜会の大先生U氏T氏と看護婦のK嬢と私四人で出席させて頂きましたが会員一人一人が生きる喜びを更に大きくするために専心努力されて居られる姿を拝見し私自身鞭打たれ努力する事の美しさ、尊さを痛感し帰長致しました。

銀鈴会の子供か、金曜会も先輩の方々に負けずいつまでも絶えることのなき様会員一人一人が喜んで参画できる様、私共も出来るだけのお手伝いは致しますのでどうぞ会員の皆様頑張って下さい。

人は生きる苦悩を噛みしめながら一歩一歩前進を試みる努力を続ける。真剣に取り組む事により成功えの道を歩む、苦しい事も、辛い事も、いやな事も、どんなにむずかしい事でも一生懸命取り組む姿勢その努力が必ず成功へ導くものと信じたい。

幸いにして金曜会の中には立派な指導者も何人かいらっしゃいますのでこの先生方を中心に一人一人がその目的に達せられるよう頑張りましょう。

会員の皆様お互に手をとり合って健康に留意され益々会の充実発展を祈ってやみません。

″御苦労さま”

雜感

長野日赤耳鼻科 小松芳子

今日、鈴木さんからTELがありました。昨日で、手術をしてから一年目だという電話の中の声。もうそんなになったのだろうかと感概深い思いです。食道発声も、もうすっかり板について、電話の中からはっきりと聞きとれます。第二の人生のスタートをきってより一年、誰よりもまだ若いんです。でもこんなに上手に話せるようになってと、感謝の気持で思わず一杯になりました。この一年、どんなに努力した事か。ただ、練習練習という私達に、女性というハンディを乗りこえて、本当に良く答えてくれました。昨年の十二月、碓田さんと共に銀鈴会を訪れ、原音を得て帰りの車中、一生懸命、練習をしていた姿が浮びます。この一年、鈴木さんを是非、食道発声で社会復帰させたいという、私達一同の願い、そんな願いから、碓田さんの好意に甘えさせて頂いた一年であったとも言えます。どんな時も、いやな顔一つせず電話一本で、とんできて下さった碓田さん、最初は山岸のおじいちゃん、鈴木さん、碓田さんと三人で始めた金曜日の練習も、いつしか多勢になりました。そして現在、会員増加を喜んでいいのか複雑な気持の私達です。いずれにしても、話し言葉がないという、辛い苦痛より脱皮するべく、一人でも多くの方がここ発声教室にて、なんらかの方法で話せるようになって頂きたいと思います。木曾へ行った時の吉池さんの言葉に特別に偉くならなくても、人並みにだけはなりたい、おしゃべりも人並みにやりたい....こんな言葉を深くかみしめています。生きるということの厳しさ、又楽しさを教えて下さる金曜会の皆さん、いつまでも元気で一緒に励んでいきましょう。微力ながら、お手伝させて下さい。

「我が家の猫ちゃん」

長野日赤耳鼻科 X生

主人が上役のところから小ちゃな三毛猫をもらって来ました。ペットによる寄生虫の害が問題になっている折から「もう子供を作ってやらないぞ。」とがんがん喧嘩はしたものの相手は可愛いし、子供はすっかり気に入るしで私も仕方なし家族の一員に加えました。わがままいっぱい育ったらしく好きなようにはねまわって障子は破く、寝室へ入れないようにふすまを閉めておいたら、それまで穴を開けるでずいぶん頭にも来ました。町の中では雌猫は敬遠されるらしく近所は雄猫ばかりでまだちびのうちから三交代から四交代で誘いに来るしまつ、かなり大きくなるまで、さっと隠れてしまってついて行かないので、この猫はきっと中性なんだね。それとも飼主が妊娠しないからこちらも遠慮してるのかな、などと噂さをしているうちに今年の春頃からどうも夜遊びをするようになりました。と思って見ているお腹もはたして日に日にふくれてきて、どうも様子がおかしいと思って巣箱を作ってやったのに、生まれたら目の開かないうちに処分しなくてはと悲愴な決意を固めているのを感づいてか、物置の奥でごそごそ。そのうちにぎゃあぎゃあ鳴いたと思ったら親猫が出て来ました。お腹はぺちゃんこ。やっぱり。まだ子供の鳴声は聞こえません。そのうちにかすかな声で「にいにい」と聞えて来ました。入口の近くで聞えるので開けてみると茶のとらと黒とらの二匹が一緒にかたまっているので寒くないようにと例の巣箱を入れてやったら親は警戒してずっと奥のわからいところへつれて行ってしまいました。早く捨てなけばと心は重い。ところが鼠がいて困るからともらい手が現れてくれました。そのときの感激、安心してしばらく見ないでいて、だいぶにぎやかに鳴くようになったのそろそろ御飯を喰べさせようと開けてみたら、もう捨てられないと安心したのか、巣箱の中に四匹も。あとの二匹はどうしよう、とまた悩みの種。家の家族が四人。子供は子猫をこれは父ちゃんの、これはばあちゃんの、これは母ちゃんのと指定しています。たいてい意見の合わない主人とも猫の好みは全く一致しました。子供は白黒斑のありふれたちょっと落つるのが良くしたもので一番気に入っています。そういっちゃなんですが、皆器量良しで、四交代に愛しただけあって皆毛色は違って個性的。傑作のできばえです。一年たてばもう四児の母となって鼠を取って来ては子猫に教えたり、体中お尻までなめてやったり。そして長々と寝そべってお乳をのませて、ちゅくちゅくとおっぱいに吸いつくときの快感を楽しんでいるのです。今回の子供等は行くさきがほぼきまりましたが、今後ますます生み続けると思われます。鼠の出て困る方、猫を飼ってもいいと言われるかたどうか我が家の猫をもらってやって下さい。お願いします。

「この頃思うこと」

長野赤十字病院耳鼻科 六川貴子

学院を卒業し、真新しい白衣を着てから、もう半年が過ぎようとしています。新しい環境の中で一日が夢中で過ぎ、寮へ帰るとただ眼かった日々から、最近はようやく看護婦としての自分を見つめられるようになりました。

病院とは一般社会とは違った、別の異常な社会という言葉を聞いたことがあります。健康な人達の活動的な社会とは確かに違います。病院にはいろいろな人がいます。そして、その一人一人が病気と闘っています。それは静かな闘いの場であると共に、自分の今までの生、これからの生に直面する機会であると思います。

看護婦は、それを理解し、よき援助者でなければならないと思います。よく言われることですが、病気を治すのはその人自身の気持の問題です。医師や看護婦がどんなに治療や看護しようとしても、その人に病気と闘う気持がなかったら、全て無になってしまいます。先頃、私は、他の看護婦と一緒に、食道発声を勉強している皆さんと練習会を兼ねて木曾へ行ってきました。声を失うということがどんなものか、察するにあまりありますが、その方々は、木曾の清浄な空気の中で一生懸命練習に励んでおられました。

声を出そうとはしないで、家の中に家族に見守られていれば、それで生きていかれるかも知れません。それでも、声を出そう、他の人と同じように生活していこうとする意欲や努力はすばらしいものだと思います。それは自分自身でやらなければならないものだと思います。全ての人がそのような気持になったら....そして、看護婦として、良き協力者になりたい....練習風景をみて、そんな事を考えました。

金曜会の日記より

長野日赤発声教室

・六月二十日

碓田さん、鈴木さん、春日さん、山本さん、松本さん皆でアイスクリームを食べる。

・七月十八日

出席九名、武井"ア"音時に大きく、時には小さく出る。中屋氏はづかしいのか消極的であった。最後に全員で数字を数え終会とする。

・八月一日

出席七名、出題を全員に出す、九月五日に発表予定

武井氏 三音

松本氏 童話(金のタマゴ)

清水氏 (草津節)

鈴木氏 歌

碓田氏 同期の桜

・八月八日

出席五名、炎天下汗をぬぐいながらの熱演、熱い番茶を出したらだめだ!という。無喉頭者は、口腔より呼吸出来ないため、冷す能力がなく、熱いものをそのまま飲むと火傷を起す由、今後要注意

武井氏の"ア"音は退院後二十八日にしては非常に立派派なものである。

鈴木氏は暑いためか、あまり元気なし

北沢氏は大人しいがねばりがありそう。

いつも感じることながら碓田氏の忍耐強い指導を感謝している。

・八月二十九日

出席者六名、萱津氏ア音美しい音が出る様になる。毎回同じ様な練習方法では、進歩がないので浅輪Drとも相談して段階にわけクラスを作る事にする。

・九月五日

出席四名、宿題発表

碓田氏 同期の桜

清水氏 草津節

鈴木氏 童話「金の卵」

萱津氏 原音「ア」

浅輪Dr五十嵐Dr他看護婦10名程の出席で発表された。皆大変上手であった。

・九月十二日

出席者碓田氏一人の為流会となる。秋のやわらかな日ざしがさし込み練習には最高のコンディションというところなのに、今日は残念ながら流会になってしまった。碓田氏は一時半、鈴木氏は二時から皆の参会を待っていたが、碓田氏は都合により二時半に帰った。この辺で金曜会のあり方を考えなければならないのか、次回には話台いをしてみる必要があると思う、せっかく発足して、"金曜会"を長続きさせるためにはどうすべきか?

・九月十九日

出席四名、この様な会をもっともっと普及させて、同じ様な悩みを持っている人がはげまし合って、楽しい人生を送れるようになったら大変いいと思う。吉池さんがおしゃっていた、「声が出る様になって人生が変った」という言葉が印象的であった。何かを考えさせられるひと時であった。

・九月二十八~二十九日

木曾駒高原行 出席者九名看護婦六名

・十月三日

出席者十二名、すばらしくにぎやかな会であった。塩尻の田村さん初出席、練習会場がせまくうれしい悲鳴をあげた、大変有意義な会でこれからの会のあり方についても話われた。一ヶ月間の会費を百円に決める、皆大変張切っておりこれからの練習が楽しみである。高木氏もひさしぶりの出席であった。北沢氏血圧測定にて高血圧がわかり内科受診をして注射、内服薬を投与されしばらく休んで帰られる。健康管理として毎月第一回目練習日に血圧測定、赤沈を行う。皆ニコニコとうれしそうな笑顔を残して散会す。終りにこれからの信鈴会、金曜会の発展を心から期待しております。

信鈴会今日までのあゆみ

・昭和四十四年一月二十三日(木曜)

信州大学医学部第三会議室に於て同病院の賛意を得又、松本市福祉事務所長殿の本催に対し御厚意を賜りまして。いとも盛会裡に発会ができまして、県内喉摘者の同病者が一堂に県内各地より参集せられ、病院側より鈴木教授、耳鼻科佐藤先生、松本市福祉事務所長殿等よりの祝詞を頂き、NHK放送局より発会の実況をローカルで二回放送され、各新聞社の報導陣が、力を合せ健康を守ろう「長野県信鈴会結成」声の不自由な人たち と中日新聞と信毎、読売等に報導された。

本会設立発起者である松本市 島成光、更植市 碓田清千 両氏によって信大病院耳鼻科教授及彦の御協力を辱けなくして多数の参加者を迎え本会の創立と発会の式の終了した喜びの第一日であった。

同日三時より総会

一、会の結成による会則、会の名称の審議

一、役員選出

一、会の事業検討以上決定二六頁記載

一、顧問証認と委嘱

・一二月二十日発会式 記念写真三枚と会報を全会員と病院に発送する。

・三月二十日 松本市信州大学東曙荘に於て役員会を催し四月の春期総会の件につき打合せをする。出席者北信碓田氏、吉池氏、北沢氏南信島氏、上条氏、上野氏、六名なり

決定事項

1.山辺温泉で春季総会を催す

2.長野日赤病院に於て食道発声教室を行う

3.会報を秋の総会までに作る事

4.早急会員より原稿の送付方頼む事 以上

・四月二十四日

山辺温泉にて第一回春季総会会場みゆき荘出席者鈴木教授以下二十三名鈴木教授の挨拶より始まり、各員の陽気なそして楽しい姿は実に喉摘者とは思えぬ。感、胸にせまるものがあった。

「桜花匂いなけれど うつくしく 声はうせても 今日のたのしさ」 (春の総会にて) 島氏

・七月二十日

会員に暑中見舞を出す

・九月一日

伊那市 上野新三氏を通じ県会議員宅を尋ね、県に本会に対する助成金の給付方を碓田、島、上野、三氏依頼する。

・九月十四日

松本第一会館に於て役員会を催す 出席者六名

1.会則の一部変更

2.総会を中心地松本で行う件

3.東京銀鈴会、大阪阪喉会と連繋をはかる事

4.秋の総会を十一月二日山辺温泉にて行なう事「決定」

・九月二十七日

長野日赤耳鼻科食道発声教室主催、木曾駒高原ハイキングを催し出席者十余名、塩尻市田村平吉氏夫妻も参加。伊藤太郎吉氏の案内で木曾義仲荘一泊、日赤看護婦の方々の会員の上に心を労されし事を感謝してやみません。

「秋晴や たのしき旅の ありし日を」 島生

各地のニュース

一、昭和四十二年九月信州大学病院耳鼻科医師田口喜一郎先生が外地カナダ、トロント大学に留学なされ、最近まで医学を研修せられ、帰省後同病院にてお勤めされて居ります。

一、昨年九月大阪の阪喉会の吉本繁雄副会長さんが台湾に行かれ台北の台北大学に於て洪教授、謝富美、食道発声の先生と御面接致され、無声者の多い台湾に、指導者が少なく現在、筆談で、笛の使用者が少数で、吉本副会長の渡台を非常に観迎された由

一、昨年倉敷市の山村キリスト教牧師がニューヨーク市に於て世界喉頭摘出者大会に参加し、食道発声と人口笛を使用し、満場の拍手をもって迎えられ、日本の人口笛は世界一であり、肉声である事を証明され世界の医学上に新面目をもたらせた。

一、本信鈴会副会長碓田清千、島成光、両氏は十二月一日大阪より台湾に行き十二月二日台北大学に於て午前中二時間東京銀鈴会会員とし食道発声、大阪阪喉会会員とし人口笛の講習を行う事を決定した。両氏の今回の旅行は日本喉摘に対し注目されるであろう。名誉の事と言わざるを得ない。

編集後記

前日長野赤十字の発声教室に出た、長野の原稿を全部集めて今日島さんまで届ける事になって居たけれど三時半から歯医者に行く事になって居るので明日行く事に電話連絡した。

十九日は丁度日曜だから長野日赤から誰か行かないかとさそって見たが小松さんは稲刈りのお子守り、飯島さんは勤務明け、いち子さんは何かデートの予定である様な顔をして居るから結極一人で島さんへ行く事にした。丁度晴天に恵まれた日で久しく聖高原を通らないから聖高原を越す事にした。万山紅葉何んとも言えない美しさ、本城村の滝沢狭の美しさには本当に見とれてしまった、こんな美しいすばらしい所は知らなかった。

道は悪るいが三十分早く松本に着いた、島さんと編集打ち合せをやり、九州土産のウニ、鮮の肉でウヰスキーを御馳走になったが実にうまかった。これで会報のまとまりもついてやれやれ、

島さん御苦労さん

四四、十、十九

昭和45年刊 第2号

巻頭の言葉

信大附属病院耳鼻咽喉科 鈴木篤郎

信鈴会も順調な発展をとげ、「信鈴」も第二号の発刊の準備とのことで、心からよろこんでおります。また会員の皆様もそれぞれ御元気にお過ごしのことと存じます。

病める人の苦痛をとり、病気を治してあげることは、勿論医師としての第一の努めではございますが、それと同時に、病める人や病後の方の生甲斐の灯を、ともしてやることも、また医師としての大切な仕事ではないかと思います。しかしこれは云うのはやすく行うのは大変難しいことでありまして、医師となって卅年の私も、今日に至ってもまだまだ患者さんの心のなかに入りこむことは、なかなか難しいものだと思っております。よく「手術をするくらいなら死んだほうがましだ」と云われる方があります。その方の心の中をお察しするに、例えば手術をして声が出なくなっては、もはや生甲斐はないと考えられており、それが「死んだほうがましだ」という言葉になったことであり、それは当然のことだと思われるのであります。わたくしどもは、それが病気を治すために、どうしても必要なのだということだけでなく、手術をされても、生きる喜びは決して失われるものではない、ということを何とか、わかっていただこうと努力するのでありますが、なかなかうまく行かず、困りはてることがしばしばあります。そのような時、同じ病気で、現在はたくましく、愉快に毎日を生きておられる方が来られて、短時間言葉をかわされますと、それだけで、たちまち不安は飛び去り、あとは順調に手術や術後の経過が進むものであります。同病の人のはげましが、医師の百万言の説得の何百倍かの力があることに、いつも驚嘆させられるのであります。

信鈴会の皆様は、一人残らず、どうぞこのような新しい病める人のために大きい灯となっていただきたく存じます。そのために、皆様の身体は勿論、精神も健康で、御自身の毎日毎日が生甲斐のある日でありますように切に御祈り申上げる次第であります。

花不語 人饒舌

長野日赤病院耳鼻科 浅輪勲

私は以前から、もし自分が盲になったら、その後どうゆう生活をしていったらよいだろうか、もし聾になって 全然音が聞えなくなった時にはー、又唖になってしゃべ れなくなった時は、どうゆう生き方ができるだろうかと云う様な事を時々考える事があります。その様な方々をいつも身近かに見ているせいでしょうが、どれをとっても人間にとってそれまでの生活を一変させる大変な事です。殊に最近は、その様な状態に何時自分がおかれるかわからないと云った情勢にありますので、それに対する 心がまえも必要ではないかと思っています。もし目が見えなくなったら、私はこうゆう事をやってみたい、耳が聞えなくなったら、そしてしゃべれなくなったら、その時には、あれを是非やってみたいという様に、まともな人間には出来ない様な事に、ある種の期待をさえ持ちたいと思います。

大体において、人間はしゃべりすぎる様に思われます。 云わないでもよい事をしゃべってしまって、後悔するのは、毎度の例ですし、だまっていれば無事すんだのに、一言多かったため首をはねられた例は、古今東西枚挙にいとまがありません。昨今の自己主張のはげしい世の中において、沈黙しているのは、おいてきぼりになり、時に大変不利な状態にさえなります。しかしそれだからこそ、だまっていると云うのは、あながちヘソ曲りとは限 らない、むしろ勇気のいる事とさえ思われます。

だまってひとの話を静かに聞いているのは、人間の一 番奥ゆかしい所です。花の美しく愛されるのは、まずは、ものをいわない点です。

創業は易く、守成は難し

石村吉甫

古来創業は易く、守成は難しと申します。何事も創めるときは、希望にもえ、熱情をかたむけ多少の困難はものともせず、成しとげやすいものですが、いったん出来上りますと、兎角初めの情熱は薄れ、惰性に流れ、ついには維持することさえ、むずかしくなり勝ちなものです。

信鈴会も発足以来二ヶ年を経過し、会の組織も一応出来上り、創業の時代を経て守成の時期へと進んで参りましたが、これからが仲々大変と思います。

雑誌を発刊するに致しましても創刊号は非常な意気ごみで、経済面でも相当無理しても立派なものが出来上るものですが、これが続刊となりますと、原稿 も集まりにくくなり、経済面でも初めの無理が崇り、思うに任せなくなるのが常であります。色色の会から次ぎ次ぎに出る 雑誌は枚挙にいとまない程ですが、創刊号は花花しく出るが、後続継がず、知らない内に立消えになっているものが、非常に多いのも、そのためと思われます。如何に 守成が困難であるかを、つくづく思い知らされるのであります。

ここに「信鈴」も漸く第二号の発刊を見ましたが、関係者の労苦は、ある意味では創刊号以上のものがありました。どうか会員諸氏も最初に示された熱意を失うことなく、自からの会誌として盛りたてて頂き度いとお願い致すものであります。

又総会も回を重ねるに随い出席者が固定する傾向のあるのは、何れの会でも見られる遺憾な現象であります。 どうか自分の会として、万障お繰合せの上是非出席して、 どしどし御意見なり御希望なりを述べて頂き度いと願ってやみません。

最後に御断り致し度いのは、昨秋発刊の予定で、原稿を御願い致しましたが、種種の都合で発行が遅れましたために、早目に頂いた原稿が秋にふさわしい字句のありますのは、そのためでありますので、悪しからず御諒恕頂きたいと思います。

又副会長として活躍頂いた碓田清千氏が一月急逝されましたので、本誌の原稿が絶筆になり、御元気な氏をしのぶ、よすがとなりましたことを附記致します。

諏訪日赤病院耳鼻科

佐藤育蔵

広辞苑によりますと、医学とは人体の研究および疾病の治療や予防に関することを研究する学問で、基礎医学 治療医学・応用医学などに分たれる、とありますが、しかし医学とは病気を治す学問ではあるが、病気を治すだけでなく、病気を予防しさらに健康を保持増進することであって、人体の研究は単なる自然科学的な研究ではなく、そこには少なくとも病気の治療や健康の問題を目的とするものでなければならない。

「産業が高度に発達し、情報革命とか脱工業化時代といわれるようになってきますと、今まで予測しなかった公害や病気が逆に増加してくるようです。しかし自然界の移り変わりには依然として著変がなく、ことしも天高く稔りの秋が訪れました。皆様その後も御変りなく御元気にてお過しでしょうか。信鈴会会報も第二号・・・と、立派な創刊号が発刊されたばかりと思ったのにと・・・月日のたつのは早いものです。私も諏訪日赤に参りまして早や一年以上たちました。その間に多くの患者さんに接しましたが、特に喉頭の病気の方で喉頭剔出すれば治癒するのに・・・・と思われる方がこちらの意途が通じなく、唯自宅にて療養されている事に対して痛く感じさせられてしまいました。

その一人は七十一歳の男性、病気の全ての経過を知り尽くしておるかの如くに見受けられ、入院治療をすゝめ ましたが、悪い病気だろうからこのまゝそっとしておいて....、家族も何回も病院に見えて策をねりましたが、 結局、本人をなっとくさせる事が出来なく、現在も尚そのまゝ自宅療法と思います。

もう一人の方もやはり男性の方で末だ若く六十歳代でした。やはり始めはわかってもらえなく自宅療法との事でしたが、やっと何んとか話して大学病院へ紹介しましたが、検査中途で自宅に帰ってしまったとの事、その後どうなってしまったのか、或は他の病院へ行かれたのかもしれない、そうあってほしいと希望します。

しかしもっともっと制度が確立されておったならば、 例えば失職に対して、又身体障害の等級にしても、会員相互の利益保護、社会福祉の分配等多くの恩恵が与えられておったならば喜んで喉剔者になる程に、進んで入院されてきておった事と思われる。残念でならない。一日も早くその様な日の来ることを望んで止みません。

幸い信鈴会なるものが、かくも盛会にあり、又この様に活動しておることをもっともっと世間一般の人に知ってもらう様に心がけ、そして社会福祉国家をめざして努力している吾が国ではもっともっと喉剔者に対して援助の手をさしのべ、もっと多くの恩恵が与えられるべきと思います。

これからは日増しに寒さが加わる季節、特に吾が長野県は海のない大陸性気候のために乾燥する%が高く、鼻で呼吸が出来ない無喉頭者にとっては、特に気管で直接に乾いた空気を呼吸する様になり、風邪を引き易くなり、気管からの出血等の合併症を起し易い一年中で最も悪い季節、健康には呉々も御用心。

昔から大病した後は、病ぬけして達者になる、と云うことをきゝます。喉摘者は概して以前より食慾旺盛となり体重も増加し、顔色もよくなり、元気になった人が大勢居られます。どうぞお互に励ましあって毎日を元気に楽しく有意義に過して下さい。

信鈴会創立二年を迎えて

副会長 島成光

人類は其昔・原始創造の神があり現在に到る血統の流 れにより、幾千年幾万年の経過をたどり今日の知能と文化により人間完成と相なったのでありまして、偶然ではなく自然の力、元一日の種が芽ばえ今日の文明と繁栄が有り得た事と思います。

種を蒔かねば草木は芽ばえなく花も実も結ばぬものであります。

本信鈴会も役員諸氏会員の皆さんの御協力により事業も順調に進展してまいりましてこゝに第二周年の秋をむかえる事となりました。

此間信州医大耳鼻科の諸先生、長野日赤耳鼻科の浅輪先生や看護婦の皆様、諏訪日赤の佐藤先生方の私し共喉摘者に対する深甚なる御心づかいにより健康を保ち安心して日々を過すことのでき居る今日を喜びとして居ります。

長野県社会部福祉部の本会に対し御理解を得て本県より補助金を下付下され実に本会にとっては力強く事業の推進に役立ち会員と共に感謝を致して居りまして此上共に我々身体障害者である喉摘者は老を問わず、社会に復帰して再び人間味のある楽しい生活をしなければなりません。私は本年七十六歳になりますが、歳を忘れて日々勇んで、社会の上人の為めに御つくし人生の終りを遠かれと神に祈りつゝ本会の役員として奉仕いたし皆さんと共に栄ある長野県信鈴会の前途に光明となり、いついつまでも此信鈴会が何年も何十年も永続して堅実な社会福祉の会であるよう念願して創立二年の秋に会誌に寄せて御挨拶と致します。

創立二周年を顧みて

副会長 碓田清千

信鈴会も二周年を迎えました。会員の皆様の努力によりまして益々発展の途上に有る事はよろこばしい事です。

昨年来始めた発声教室も大変良い成績で、練習する人達の九十パーセントまで会話が出来るようになりました。一寸他に例を見ない事と思います。これはかかつて長野日赤の浅輪先生及び看護婦諸氏の御協力の賜と信じております。三月には東京神田如水会館に於いて全国喉摘団体の聯合会の結成を見ました。

吾等喉摘者の団体代表者が、北は北海道、南は四国まで集う団体十四団体、略称して全喉聯と名づけられました。こうして全国的集団として身障者の社会復帰、厚生について政府要路に働きかける事が出来る様になった事はよろこばしい限りです。

五月は発声教室の旅行、潮来のあやめ祭り、鹿島臨海工業地帯の見学又香取神宮参拝と一泊の旅行でしたが皆楽しく元気にやって来ました。この時東京の銀鈴会に皆で見学に寄りましたが、吾が教室の鈴木ふささんがハーモニカで、銀鈴会歌をふいたのには皆一驚して居りました。

九月はガン制圧月間で、信越放送より信鈴会に放送に出てほしいと云う要請が有り、日赤発声教室より看護婦 小松さんを先頭に、私、清水、鈴木、松本、北沢、萱津 の各氏が出演しましたが、うまく声が出るだろうか皆心配しましたが、中々上手にお話しが出来ました。 かえってアナウンサーの方が上り気味になって居りました。 アナウンサーと云えば、この時の女性アナウンサー浜さんと云う人は八頭身の中々の美人で末だ独身との事、吾三 十歳若かりせばとの感を深めました。

ここに特筆すべき事が一ツ有ります、吾が発声教室の協力者、日赤の看護婦竹前和子さんが、国際恋愛を勝ち得て、タイ国の人パトムノンタワリさんと結婚される事になりました。彼女はあらゆる障害を乗り越えて結婚にゴールインしたのですが、本当に彼女の心意気に対して大いなる拍手を送りたいと思います、と同時に遙かな南の国へ旅立つ彼女の未来の幸福を祈りたいと思います。

而しこうした中にも又悲しい事も有りました。吾等が 病友、田村平吉さん、佐藤福太郎さんのお二人は帰らぬ客として、あの世に旅立たれた事です。人間一度は行く所とは云え、本当にお気の毒に耐えません。

お二人の冥福をお祈りいたします。

何かめまぐるしい七十年でしたが、皆さん大いに健康に気をつけて来る三周年を迎えようでは有りませんか。

全喉連総会に出席して

副会長 碓田清千

本年結成した、全喉連の総会が去る十月三十日東京飯田橋会館で開催され、吾が信鈴会からも会長、副会長、幹事が出席された。

集う団体二十九団体、北は北海道、南は九州と実に盛会で有った。吾々がこうした全国に亘り組織を持つと云う事は、実に心強い事で有ると同時に、今後手術される患者にとっても、非常に力強い事と思わなければならない。自分が手術をした時の事を考えて見ると、何もこうした組織もなく、又発声についての指導機関も知らず、只一人しょんぼりして居たもので有る。処が昨年からは吾が長野県にも信鈴会が発足し、食道発声教室も始まり、 又人工喉頭の使い方の指導も始まったので、手術後の厚生には、本当に皆力強く感じて居る事と思う。

それに加えて、今回の全国組織が出来た訳で有るから、吾々は今後如何なる地に行くとも、必ずつながり出来て居る事になる。その意味に於いても吾が信鈴会も大いに会員一同が手を握り合って、大いに発展をさせねばならないと思う。

先ず年弐回の総会には、振るって参加をして頂き度い。 ごく一部の人の集まりだけに終ってしまわない様にしたいものだ。

今度全喉連の総会に出席して、特に其の感を深めた次第で有る。

台北医科大学耳鼻科 主催の講演会に招かれて

島成光

台湾国立医大耳鼻科教授 供先生と寥先生の御招きにより、昨年十一月六日羽田空港よりキャセイ機にて三時間余り台北に着き出迎えの親友の案内で汎亜ホテルにつ いた。

台湾は日本の九州に等しい面積であり気候は日本の春から夏にかけての気温で平均三十三度ぐらいで、暮し良い国で一年中花が咲いて居る。年中うまいバナナや、パパイヤがたべられる。物も豊富で、実に安い。タイもウナギも安く買える。二度行って見たくなる国である。あんな良い台湾を戦争で取られたのが残念に思える。

日清戦争で中国より台湾が日本の領土となって日本政府の統治下であり、教育施設も日本の台湾であったが、 大戦でつい返還せざるを得ない現在は中華民国として独立して居り、実に美しい国と云えよう。 文化も、交通も貿易も 、したがって医学も産業も盛んになって居る。

私しは今度の旅行は観光に行ったのではなく、台湾の我々と同じく喉頭切除者の先達として、同地の数多い悩める喉頭摘出者に面接して、人工笛の使用を教え社会復帰の喜びを与えたく、又日台親善の意味に於ても好ましいことだと思ったのである。

台湾医大病院耳鼻科主任 寥教授の招きで訪台一泊翌八日ホテルに迎えを受け車で病院に着いたが実に美観内地の病院に見られぬ美しさで、ロウカにジユウタンを敷き クツの足音がせず各室共に設備等大したものであった。 やがて会議室に案内された、九時前より台湾全地域より集まれる、喉摘者二十数人とつきそい等で三十余人。医師より私の訪台につき紹介があり、続いて私の病状から手術後今日に至る経過と人工笛使用により全国各地の同病者訪門旅行して至極健在で居る事を述べ挨拶とした。

十時より十一時まで精神講話十一時より十二時まで人工笛の使い方につき説明をして、一同に日本製の人工笛の良さを知ってもらい関声感であると医師や全員に感銘を与えた。時十二時、新聞テレビ関係者で室内が一パイになり、二時間にわたるマイクを通して通訳を通しての講義は同病院の一ページを飾る記念とも云えよう。

一時よりハイヤー五台にて医師二人婦長及遠地から台北 に集れる喉摘者の案内で、台北一流の飯店に於て懇親会を催して頂き台湾の目新しい料理を賞味して喜々愛々再会を約て三時再来再来、謝々謝々と諸氏の見送る中を思い出深い台湾訪問の一日を過したのである。

国は異国であっても人情には変りはない。アジアの同胞であり、悩める同胞の上に救済の手をさしのべてこそ我々の生きがいのあることを今度の訪台によって知ったのである。

摘出十年

茅野市 上条行雄

私が喉頭摘出の手術を受けたのは、丁度十年前、一九六〇年六月二十七日、鈴木先生のご執刀で、佐藤先生のおっしゃる古い病棟の手術室でした。退院したのは九月一日、入院七〇日、手術後のコバルト照射はその後半を自宅から通って完了しました。その後五ヶ年の定期検診には一度も心配になることはなくその後の五ヶ年も無事に過ぎて、今手術後十年になりました。 まことに有難いことで、鈴木先生はじめ世の人々の人情のお蔭と感謝の外ありません。

会報へ何か書くようにとの仰せ、十年生きながらえた喜び、それを大方の皆様にお知らせしたいと思い、多くの方がどんなことをお書きかと、手もとにある「信鈴」の創刊号と、十年前の東京銀鈴会の「銀鈴」第七号をのぞかせてもらいました。どちらも会員の福祉啓発増進と相互の親睦をはかることが目的であり、筆者はほとんどが、喉頭摘出の経験を持った人々だから、最も多いのは食道音声にせよ、人工喉頭による発声にせよ声についての訴え、報道で、これに次いでは、日常生活や時々の感懐を述べたのが多い。

声を失ったための失業、転職或は生活の不安定など、リハビリテーションについての訴えの少いのは、喉摘の経歴者が、比較的高年齢者であることと、声以外の障害がなく、肉体労働に支障がないためであろうか。

もう一つ、特に気づいたのは、声が不自由になり、劣等感から過度の自己卑下、ひがみ、いじけなどのコンプレックスに陥るのをいましめ、しっかりした人生観を持ち、よい趣味を持ち、精神の安定を計れというど意見でした。その方は趣味は野球でも、碁、将棋でも何でもよいが、書道、読書、朝顔の裁培などに打込まれた体験を述べておられる。

私は、喉頭を取り除き声を失ってから、求めたという趣味ではなく、健康を誇っていた青年期から、趣味どころか生活の一端とも思って、短歌を作り鑑賞し、山野を歩いて山草花木を楽しみ、地域の同好の人々と諏訪山草会を創めて二十年近くなります。四年前にリウマチを病んで脚が不自由になり、松葉杖に頼らなければ歩けなくなり、山にも行けずなったのに、畑の往復は息子の車で送り迎えをしてもらい野菜作りをしているのも、金の勘定を問題にしていないから、これも趣味の一つと言えるでしょう。囲碁も少しやりましたが、老来読みがきかなくなって、ほとんどまれにしか打ちません。勝負を争うのは、ギャンブルに落ちやすいので手を出さないがよいと思っております。

嗜好は、呼吸器の構造が変って嗅覚がよわり、煙草の味が変ったので喫煙は手術後全く止めてしまいました。消化器系統は以前から健康なので、好きな酒は今でもたしなんでおります

私は短歌の方は、アララギの会員で、古い仲間の一人です。アララギの大先達土屋文明先生は今年の一月読売新聞に、新春詠として「老著年を迎ふ」一連五首を発表されましたが、その中の一首

年々を待ち兼ねるのか青年等よ 十年くらいを歴史の尺度と見よ

というのがあります。そのためかあらぬか、今年は七○年代という声が大分かまびすしい「七〇年代の政治」 「七〇年代の社会」「七〇年代のビジョン」こんなに七○年代を言うのは、今後の政治―内政、外交―社会、生活に期待するものがあるからでしょうが、十年前の昭和三十五年には、今ほど六〇年代とは言わなかったと思うが、私には実に重大な十年で、今日まで生きながらえることができるかどうか、手術が生涯での重大事であるとともに、この十年も重大な意義をもっていました。元首相 池田勇人氏は喉頭癌を放射線療法でなおそうとしたが、 だめなので手術をしたが病気が進んで亡くなられた、それは私の手術より二年後でお齢は私の手術した年と同じの六十四歳でありました。もし手術しなかったならば・・ とたびたび思います。十年前はダッコチャンのはやった年で病棟を歩くと、あの病室この病室にダッコチャンのだかっているのを見ました。それはたやすく忘れてしま ったが、手術のことは忘れられません。

その十年、久しく怠っていた歌作りも昨年の「信鈴会 発会の日に」からアララギに投稿するようになり今だにつづけております。山草花木の方も、冬の寒さや夏の乾きなどで枯れるのも止むを得ませんが、この齢になって種を蒔いたり挿木をしたり、人にやったり人から貰ったりして楽しんでおります。最近タキイ種苗会社出版部から求められて、全国各地の山草会のリレーによる「自然散歩」のシリーズに釜無山の植物について発表したので、 その一本を島副会長さんにさし上げて、喉摘者の趣味生活の一斑をうかがっていただきました。

短歌の方も今年の喉頭全摘記念日の作からアララギに載せて頂いたのを録しましょう。

手術して十年経ちぬ有難や気負ひ起き出づる今朝の梅雨晴

手術してわが声ならぬ声に生き存へし十年かりそめならず


喉頭を取り除け十年存へぬ老いてなほ恃む終の十年


過ぎた十年を省みて人の世の厚い人情に感謝し、来るべき残年を思う感慨を述べたつもりです。

今日も友人から便りがあり、又猛暑ぶり反し閉口とあり、連日日照りつづきで畑が乾き秋の漬菜も蒔けないのを苦にしながら、毎日畑仕事で、紫外線の強い濁りのない日の下で、汚れないおいしい空気を吸い、好きな木々の緑や白い花紅い花を眺めて過すことのできるのを幸と思っております。(一九七〇、九、六)

闘病

松代 吉池茂雄

全身麻酔からさめたのは手術の翌日五月二十三日の午後だった。心配そうにのぞき込む家族の者に、声をかけようとしたが声が出ない。首が繃帯で固く巻かれていて動かない。 『あゝ、手術がすんだのだな、』 と思った。 麻酔はさめても頭はもうろうとしている。はっきりしたのは翌々日だった。枕もとにノート大の黒板とチビた白墨が置いてあった。これから筆談生活がはじまった。

五月二十四日、ブドウ糖とビタミン剤千百ccの点滴注射が毎日続く。 一時間半の不動の姿勢は仰臥していても 苦しい。

五月二十五日、婦長が枕もとに来て話してくれた。 「病気は薬や医者だけではなおりません。病人自身が、 自分はなおる、なおすのだという気持で病気と戦わなければね...。声帯をなくしても、大ぜいの人が社会で立派に働いています。がんばってくださいね...」

五月二十八日、ゴム管を鼻孔から胃袋へ入れて、大きな注射器で流動食を押し込む食事がはじまる。口を通らないから味がなく、腹だけがふくらむ。まことにへんてこなものである。 「味気ない」とはこんな事か。

五月三十一日、主任教授が診察の時強い口調で云った。 「君の悪い所は全部取ってしまったのだから、君はもう病人ではないんだよ。ただ傷があるだけだ、傷口がふさがればいいんだよ。自信をもつんだね。」

六月五日、端午の節句(月おくれ)町のあちこちに鯉のぼりが見える。 五階の病室から見下ろす鯉のぼりはだらしない姿だ。鯉のぼりはやはり下から見上げるものだ。

六月某日、看護婦にも患者に対するけん怠期があるらしい。患者はそれを敏感に感じてじれたりすねたりして 看護婦を困らせる。すべてを抑制されている患者のせめてもの反抗であろうか。

六月二十四日、この頃においがわからないことに気がついて、婦長にその旨を伝えた。婦長はエーテルを綿にしませて鼻孔に近づけてみたがにおわない。シウサンで試みたがだめ。アンモニアを近づけると刺げき臭で涙が出てくるが、においは全然わからない。翌朝診察の時、 教授にその旨が告げられた。教授は一瞬不審そうな顔をしたが、すぐに「それは呼吸気が鼻を通らないので、においが臭覚神経に触れないからだよ」と云われ、一同なるほどと合点した。私の体は味に続いてにおいからも断絶されたのだ。

六月二十六日、今朝からかゆと梅漬が配られた。三十六日ぶりに歯でかんでたべる食事涙がにじむ。流動食をポンプで押し込まれたのと違って、充実した満腹感だ。看護婦控室へかけこんで、筆談でその感激を伝える。婦長が「本当にうれしいでしょう。三十六日ぶりですか。よかったですね」と云った。私はメモ帳 へ大きく丸を書 いて同感の意を表した。

七月三日、発声練習がはじまる。 口から空気をのみこんで、食道にひゞかせる食道発声法だ。しかし、空気をのみこむ事が出来ない。ゲップを出せというので、売店からサイダーを買って来て飲んだが、ゲップが一つ出てそれでおしまい。 目を白黒させ、口をパクパクやって苦しむ。

七月二十六日、連日のコバルトの放射でのどがはれて痛く、食事が通らない。 せっかく常食になった飯を、またかゆにしてもらう。

七月某日、放射線科の教授が診察の時聞いた「どうだ、においがしなくなったのがわかるか」私が何の事かというような顔をしていると、「そうだ、自分ではわからな いだろうな」とひとり言のように云った。この言葉のな ぞが解けるまでに数日かかった。

いつ頃だったかはっきりしないが、或る日何とも云いようのないいやな口臭が出た。何の臭かわからなかったが、教授のにおいと不思議に結びつき、またそれが数年前に子宮ガンで死んだ祖母の、死ぬ前後のにおいと結びついた。『ははあ、おれの病気はガンだったのだな』と 自己診断した。 「 八月二日、退院にそなえて体力づくりに院内散歩をせよと云われた。

結核病棟を除いて院内の廊下をくまなく歩き、裏庭へも出てみた。草いきれの中を汗と土にまみれてほふく前進をさせられた練兵場はこの辺だったかなどと三十年前を思い浮かべて歩きまわった。

八月某日、ここ三・四日アルプスから山の遭難者を運ぶ自衛隊のヘリコプターが病院の中庭へ降りる。患者たちが病室の窓からそれを見下ろしている。

八月某日、外出の許可が出た。まる三カ月半隔離されていた街の姿が物めずらしく歩きまわった。二・三日前から食べたくてたまらなかったそば(信州そば)を食べに駅前の更科屋へ入った。そばはうまかったが、すすりこむ事が出来ないので、口からあごから汁だらけにして、やっと食べた。手術のあと、鼻も口も吸いこむ力がなくなったのだ。

_八月二十六日、今朝結核病棟の二十四歳の青年が七階の窓から飛び下り自殺をしたというニュースが、誰からとなく伝わって、患者たちにショックを与えた。火葬場の煙を見ての絶望感からだという。「気の毒な」という気持と、反面、現代医術の進歩を信頼できなかった青年にいきどおりを感じた。

八月二十九日、食道発声がどうしても出来ない ので、 人工喉頭(笛)を使う発声法にかえる事になった。笛を使うとらくに発声が出来る。しかし、明瞭な発音はなかなかむずかしい。 毎日練習を続ける事にして、以後は筆談は禁止された。

九月五日、首の孔にはめていたカニューレーを取ってもらう。やっとらくになり自分の首のようになった。

九月十六日、朝教授の診察があって、ようやく退院の許可が出た。台風十八号が接近して、雨がはげしく降っている。婦長が、今日は病院に泊って明日退院したらと云ってくれるが、帰心矢の如し、退院ときまったら一刻も早く帰りたい。 迎えに来た長男をせきたてて、荷物をまとめ、呼んでもらったハイヤーに乗りこむ。看護婦や同室の患者たちに見送られて雨の中を松本駅に向う。見送る患者たちのうらやむような顔が私のまぶたに焼きつ

いた。

退院後も笛の練習をするのだが、なかなかうまく発声できないので、次第にいや気がして、笛を使うことをさけるようになった。月に一回の診察を受けに通院する時だけ笛を持ったが、それもなるべくしゃべらない事にした。そんな逃避生活が一年余り続いた或る日、大阪に、 笛を使ってとてもじょうずに話す人が居るから行って見たらと奨められ、紹介状をもらって行く事にした。

長野から大阪直通の急行が出ているが、それでは向うへの着時間がおそくなるので、その前の列車で名古屋乗替えで行く事にして、着時間を先方へ連絡し会社で待っていてもらう事に打合せておいた。家内が付添って行く と云ったが、一人でよろしいと断って、土産物のリンゴの籠とメモ帳とを持って列車に乗り込んだ。名古屋に近づいた頃、回って来た車掌に障害者手帳を示して、名古屋で大阪行に乗りかえるのだが発車 ホームは何番かとメ モ帳に書いて見せた。車掌は耳も聞こえないと思ったのか私のメモ帳を取って、ていねいに中央線の到着ホームと東海道線の発車ホーム、発車時刻を書いて説明してくれた。大阪到着が夕食時になるので名古屋で弁当を買って乗り込んだが満員である。弁当をひろげるわけに行かない。そこでメモ帳に弁当を使う間席をかしてもらいたいと書いて横の中年の紳士に見せたら、いやな顔をして、 メガネがないから読めないと云って横を向いてしまった。 しかたがないので、すじ向いの会社員らしい青年に見せたら快く席を立ってくれた。私は大いに感謝の意を表して、そこで弁当を使い、青年に席を返した。

大阪駅に降りて、まごつきながらタクシー乗場の長い列に並んだ。順番の来るのが何と待ちどおしい事か。 やっと番が来て車に乗りこみ、運転手に行先を書いたメモ帳を見せる。大阪では著名な大会社なので運転手はうなずいて走り出した。

会社ではもう時間すぎなのに社長と専務がストーブを囲んで待っていてくれた。初対面の挨拶も筆談でした。 社長は見事な食道発声で、いろいろな笛の中から私に合う一つを選び出して組立てくれた。これで話してみろと云われて、口に入れて発声してみた。前に病院で苦しんだ効果か、我ながら驚くほど見事な発声が出来た。肉声に大分近い声が出る。社長の家へ泊ってもよし、旅館がよければ旅館を紹介すると云われ、初対面の家は気がねなので旅館へ案内してもらった。 会社の接客用常宿らしい。宿の人も身障者を心得ていて何かと親切にしてくれた。

翌日午前の列車で帰ったが、往きと違って今度はメモ帳の必要がなくなった。

こうして私は失った声を取り戻した。手術の翌年の秋の終頃であった。次の通院の日が楽しみだった。信大病院では、この阪喉会の笛ははじめてらしく、先生方も珍らしそうに見ておられた。

昭和四十一年四月七日、術後五年間の監察期間が無事に過ぎて、無罪放免、卒業だと云い渡されてほっとした。

今は十年目を迎えて元気に第二の人生街道を歩いている。この十年間に次のような事を私は学んだ。

『ガンはけっして致命的な病気ではない。ただ、患者に自覚症状がほとんどなく、そのために発見が遅れる事が恐ろしいのだ。どんな病気にも、なおせる時期が必ずあり、最初から不治の病というものはないのだ。その時期を失すると手おくれという。手おくれになったら、どんな名医でも直せないのだ』と。

あとがき

私の使っている笛は、何人かの同病者に紹介したが、 奥歯に欠歯のある人でないと使えない。健全な歯又は総入れ歯の人は、むしろ銀鈴会の笛の方がよいようだ。しかしこの笛も、歯を一本抜いて、ロゴムを出来るだけ奥へ入れると明瞭な発声が出来る。振動ゴムは二・三日使ったあとの方が柔かい発声が出来る。新しいゴムは発声が固いようだ。

大阪で社長さんから云われた。一つの道具を徹底的に使いこなす事だ。

私の手術の実況は八ミリ映画に記録されているそうだ が、私はまだ見ていない。

術後七年のあゆみ

島成光

生あるものは必ず死すものであるが。人は此世に生を受けて、より良さ生活と共に楽しい人生を過したいものである。生命は貴い理想の生活をするには、健康の保続が大切なことで自からの肉体は自から護らねばならぬものである。運命は自からが開拓しなければならぬものであって、良き運命はだれもが望んで居るものである。さて私は本年七十六歳になる老でありますが六十九歳の時喉頭腫瘍で声を失ない喉摘手術後もすでに六年になり、 現在に至る健康で日本各地を世の為人の為めにと社会の上に飛び廻り人工笛を使用して不自由なく過して居り死ぬまで運命の開拓に日々を労して居ります。

昔から虎は死して皮を残し 人は死しても其の名を残す と申されて居ります

人は常に自然より護られ自然を貴び、神恩感謝敬神崇祖の念と共に社会への恩を知り社会の恩に報いる為常に社会への奉仕が必要であることを忘れてはならぬと思います。我身を忘れて対他の為めに勤めつくすことこそ、良き運命は必然我身に復るものである。貴き人生を有義に過し日々希望にみちた生活こそ大切なことである。

私は笛と共に日々の言語を不自由ともせず我身を忘れて社会の上に役立たせて頂くことを一つの張合として通して居ります。

昨年十二月八日は台湾に旅行して台北医科大学に於て台湾喉頭摘者大会に臨み十時より十二時まで精神面、体験談。人工笛の使用につきマイクを通して講演をさせて頂き多数の喉摘者及医師に感激を与えました。 七日は台湾文部省主催のカナリヤ品評会の審査と、飼育についての講演会を無事勤めさせて頂き、又台湾の飼鳥界にセンセーションとなり日台親善の大任をはたすことができ慶びとして居ります。

__十月十一日より十八日まで中国より北九州大分、広島県呉市に於てのカナリヤ飼育の講演等々八日間の旅行に二十四日から二十八日まで京都奈良三十日~一日東京全国喉摘者団体連合会行千葉と休むひまとて無く社会の上に勤めさせて頂いて居りまして健康の有難さをつくづく感じさせて頂きます。

信鈴会の事業も日と共に多事多端となりまして秋の総会も余日少なく会報の編集会場及通信、総会までにまとめなければならぬ仕事が山積して居ります。県の本会に対する補助金も見通しがつき、長野日赤、松本信大に於ての食道発声教室の先生方の労を謝さなければならぬと思って居ります。役員会に於て定められた規定による御礼を致し度と存じて居ります。食道発声教室も他に優る成績を納めて居り皆さんの御熱心を多謝致します。

今後会員は和をもって臨み本会の末永く永遠に此長野県信鈴会が隆盛する事を念願するものであります。

三年前の追憶

上田市 北沢兎一郎

昭和四十二年は私にとって最悪の年であった。... 此の年の冬は雪も多く近年にない凍みで、春とは言って もほんとうに寒い日が続いた。二年後には私も還暦を迎える年であった。当時子供達も皆職も決り、他には何不自由を感じない幸福な日日であった。

忘れもしない二月二十三日の朝のことであった。トイレに行こうと床から起き上がったら、体が自然に左へ左えと傾いて歩行困難となって、その場にすくんでしまったことがある、軽くきた高血圧であった、私の人生のはじめての成人病であった。その後言語障碍の様な症状となり、当時上田市にはじめて脳神経外科専門の病院が出来た、先生は東大出の博士で、相当評判も良いので、その先生に診てもらった。 半月程通ったら、言語障碍の方 は快方に向ったが、今度は右の顎の下に、小さな淋巴線のあることに気づいた。此の時既に私の喉頭には因果の虫が巣掛けて居ったのだ。

次の日先生に淋巴線を診ていただいて、癌の前兆ではないかとお尋ねしたら、先生は、そんな悪質なものではないと思いますが、一度専門の医師にみてもらったら、と言われた。結局先生には結論的なことは出なかった。 医師でも専門、専門があるので、専門以外のことはだめだと私は覚った。癌の様な前癌症状を早く知らなければならない場合は、専門と経験と設備のある医師を探すことだと思う。

四月に入り淋巴線は母指大となり、たまに痰の中に血液の糸筋の様なものが混って居った。声も嗅がれてきた。 心の中にもし癌であったらと恐怖のようなものがあって、 医者へ行くのが億劫になって居った。思い切って近くにある石塚耳鼻咽喉科へ行った。玄関には子供の下駄やズックでいっぱいであった。待合室には大勢の子供の患者で午后に来た私の番が廻って来たのは夕刻であった。 先生は立ったままで淋巴線を手さぐってみたり、舌にガーゼを巻いて引き出して奥を診て、急に椅子に掛けて考え込んでしまわれた。私は直感的に九年前のことを思い出した、隣りの奥さんが咽喉に大きな腫れものをつくり声はガチョウの鳴くような声をして、東京のガンセンターへ入院して手術はしたが、手遅れで見放されて家に帰った。しばらく鼻からゴム管で流動物を流し込んでもらって生きて居られたが、間もなく亡くなられた。一人娘で婿とり精神的、物質的に何んの不自由もない幸福そのも のの様な奥さんでした。なんの因果か生地獄そのものの最後の姿を見て居る。人生には必ず死はあるが、こんな惨めな病気で死にたくない。と印象が残って居る。私は思わず先生喉頭癌ではと、お尋ねした。喉頭に少し腫瘍の様なものがあるので、明日僕と一緒に松本の信州大学附属病院へ行ってみませんか、僕もここにある血液を持って行って検査するので、僕の車で行きましょう。信大病院で診てもらえばハッキリします。初対面の先生のご親切さに感激して家に帰った。家では、みなで心配して私の帰りを待って居た。癌とゆう言葉で、事態は急変してしまって、妻も子供達も暗い気持ちで、家の中は暗くなってしまった。私もその夜は「これで現世は終りだ」とゆう様な虚無感におそわれ、まんじりとも、しない夜を明かした。

翌朝先生の車で松本へ行った。車中でお聞きしたら先生は松本信州大学医学部ど卒業とのことで、信州大学附属病院は、もとの松本五十連隊跡で七階建の広大な建物で、五階の耳鼻科へエレベーターで石塚先生の紹介で診察を受けた。見立ては、先生と同じで喉頭に悪性腫瘍があるので、今日は入院手続きだけとって、通知がいったら、すぐ入院出来る様用意して置く様言われた。 ベットの空きが無かったのだ。

九日程して入院通知が来た。入院は四月十五日だった。 十五日は町内の氏神八幡神社の春祭だ、町の役員だから当然出るのだが、なんの因果か、私はこんな業病にとりつかれて総べてはもう終りなのだ、諦めるのだと心の内に言いきかせて、近所の方々の皆さんに見送られて車に乗って此の家に二度帰れるだろうかと考えた時、人生なんて儚かないものだ。 自分の家を見返したとき心の内で ほんとうに泣けた。

病室は五階の耳鼻科中央の室で、松本城に面した窓は一枚硝子で松本全市に遠く塩尻市を望む眺望の良いマンションの様な感じの病室だった。六人ベットで淋しいこともなく入院後はすることもなく「徳川家康」を読んで居た。順に家から運び全巻(二十二冊) 読んだ。家康も若いうちは人質に、壮年時代は戦いに明け暮れ老年に入っても秀吉との間に苦労したのだが、そして戦国の世を安定させたのだ。私なんかも第二の人生にも、よろこびとか仕合せなんてあるだろうか、なんて考えたこともある。生れてはじめて入院して夜の長いのに閉口した。夕食は五時で消灯は十時だ。 四月の午後五時は、まだ日が高いうちの夕食で、食後は同室の方がたと雑談にふけり、 日が落る頃より松本中央街のネオンの夜景がきれいで見とれているうち、つい昔のことを思い出した。 宴会の帰り友達と飲んであるいた楽しかったことなどいろいろ思いに耽けって居るうち消灯の時間がきた。ベットの回りに白いカーテンを廻した中で、一人寝て居ると、みな過去の夢なのだが、未練があるのだ、いろいろのことが思い出され床に入って寝つくまでが苦しみだった。・・・・早く寝るため夜の明けるのも待ちどうしかった。夜が明けると皆が起きる迄カーテンの中で本を読んで居た。 朝食が済むと毎朝点滴、血管が細いので看護婦さん達に苦労させたらしい。手術前の午前中は忙がしかった。 コバルト照射レントゲン撮影と治療と検査と両方で、毎日食べて自由に遊ばされて入院前痩せ形だった私は、売られてゆく木曾馬の様に肥えて六十四キロに体重もなって 形も顔も変ったと言われた。

とある朝、診療のあと担任の吉江先生が、北沢さんチョット宿直室へ来て下さいと言われた、参りますと十九日手術をしたいのですが、喉頭の腫瘍を執れば声帯も執らなければならないので、手術をすれば声は出なくなります。しかし今は食道発声といって練習によって声は出ます、それに入工喉頭 (笛)もありますから心配ありません。執ってしまいなさい、あなたのような体力のある方は練習すれば、すぐ声も出ます。昨年ここで同じ手術をして、もう喋べれる碓田さんという先輩の方に来ていただいて逢せます。お聞きしたり、話し合ってごらんなさい。碓田さんにお逢いしたのはその時からでした。吉江先生は熱心にすすめられた。同じ病室に居られる銀鈴会の会員で大先輩の佐藤勝平さんからもいろいろとお聞きしたり「食道発声の手引」もみせていただいて覚悟はして居りましたが、その場になると声帯摘出後は今までの様な生活は全く出来なくなり、第二の人生に入ってしまうのだ。頭をガーンとなぐられたような気持ちで先生に 素直に返事が出来ずに居た。先生はここで手術をしないでおけば、二年か三年の寿命です。その時は手遅れで、どうすることも出来なくなります。そこまで言われると命には替えられず、手術は五月十九日午後一時と決った。 あなたの場合、淋巴腺も執りますので万一の場合に輸血を十人程必要です。O型の若い方を十名程必要です。早速家へ連絡して子供達の友人やお知り合いの方たちにお願いして、貴重な時間をさいて、遠隔の地松本信大病院へお越し願い尊い血液をいただいた様な次第で、皆様の人情に私はほんとうに感激した。

とうとう手術の日がきた。朝食は軽いパン食で、昼食は午後一時からの手術のため抜きで、しばらくして看護婦さんが来て注射を二回して自然に眠くなって、寝台車に移され、部屋の皆さんから頑張ってと励ましの声をかすかに残して手術室へ向った。廊下の途中で全く覚えはなくなった。

手術は信州大学医学部附属病院耳鼻科鈴木教授の執刀、広瀬助教授吉江講師主治医のもとにおこなわれた。 寝たきりで首筋が痛いので、気がついたのは翌朝七時頃で、付添人の妻が一睡もできず眼を赤くしてベットの傍に居た。妻から聞いたのだが、手術があまり手間どり子供達が心配して手術室の前まで何回も通ったが、手術室へは入れない ので、様子がわからず相当心配されたそうだ。手術が九時間以上もかかったらしい。消灯後十時半頃やっと病室へ運ばれ、主治医の吉江先生が寝台車についてこられ、輸血十本もみな使って、手術が長かったために先生方も苦労されたのだそうだ。子供達はそれから車で上田まで帰ったのだそうで、妻からはじめて聞いて皆様に御心配をかけて申し訳なく思った。鼻の先にゴム管がはめられて、「隣の奥さんも亡くなられるまでこんな具合いにと私は肌で感じた。」咽喉には カニュレーがはめられて、そこから非常に粘液が出るのだ、咽喉に穴が開い て居るらしいが、書いて聞くことも出来ない。あお向けに、寝たきりで首が痛いのだが、体を動かすことも出来ない。それからしばらく苦しい日が 続いて、流動食も二週間ほどで鼻のゴム管はずされ普通食になった。その後経過は良くて六月二十一日に退院 した。声を失くした不自由さというものは、声帯を失くした者ならでは判りません。

家へ帰ると、親しかった友人が次から次と見舞に来てくれる。私はただ頭を下げるだけ、首ふり人形のように。 自分ながら哀れになって来る。私が帰った当時は、だんだん暑さに向う期節で呼吸口を出して居るとグロテスクな穴に人は不思議がり、石の地蔵さんのようにガーゼの前ダレを掛けると内臓から出る熱い息で、からだの中へ 暖房を送り込んでいるようなもので暑くてやりきれないし、「声は出ない。 穴は開きぱなし」何かと都合悪い体になってしまってo 人中に出るどころではなく、自然人に逢うのが臆病になって、退院の折も今野婦長さんが、北沢さん帰ったら、つとめて人中に出ること。老化は足からと言いますから運動して下さい。 と言われたことが耳に残って居ります。朝の散歩だけは五時に起きて続けて居りますが、人中に出る方は家の中で読書して居た。

幸い其後信鈴会の発足、発声教室と出来ましたので私も出る機会を得てよろこんで居る一人です。毎月お合いして気兼ねのない 話し合いが出来ることを楽しみにして居るのです。私共は最初の人生には永久に戻れないので す。人の、人情にふれた時がいちばんうれしいのです。 長野日赤耳鼻科の浅輪先生の御親切さ御理解には私共感激し、感謝して居るのです。此の先生にして、この看護婦さんありと申しますが、みな素直で親切な方達ばかり で。丁度これを書き終ろうとしている時、テレビの二十四の瞳の最終回であった。あの大石先生のような方達ばかり私達は仕合せです。

体験

木曾郡日義村木曾駒 伊藤太郎吉

皆様こんにちは、御元気ですか? 未だ見ぬ多くの方々に紙上で御目にかかれます事を嬉しく存じます。恥筆では御座いますが、私の手術から現在に至るまでの様子をまとらぬ乍ら御話しを致し皆様の何かの御参考にして戴ければと寄稿致します処で御座います。

私は、四十三年七月に手術をしました。経過は今日に致る迄非常に良好で現在は家族と楽しい毎日を送って居 ります。

今迄大声をあげて居た私が手術四時間の後には、声をなくした鳥の如く、何も言葉として意志を伝える事が出来なくなったので御座います。いち時は、これからどうすればよいのか思案にくれました。自分の将来と、家族の将来に対する不安とが脳裡をかすめました。声・・・言葉のない人生・・・・。 淋しさが私の心を一層暗くしました。 不安にくれるそんな私の所へ或る日、信鈴会会長の松本の島さんが尋ねて下さいました。そして悲観にくれる私に励ましの言葉を下され「声は出さなくとも心配する事はありません。こうして私は貴方と御話しが出来ます。 私をみて下さいよ!。」 とおっしゃられたのです。その声は何んとフエではありませんか。一瞬、戸惑いを感じました。何うしたらこのフエを此の方の様に、上手に使える様に成れるのだろうか? と。これに対して島さんは訓練有るのみと云われました。

病床生活に有って私は訓練の要領を想いめぐりました。 が考えてみても駄目でした。実行する以外に方法がない事が分かりました。経過も良く退院間近かになった頃より先生に言われて、フエの訓練を始めました。出ると思った音が一向に出ません。背中、腹と訓練をすればする程あちこちが痛くなるのを覚えました。然し諦められませんでした。健康な声帯をもつ人と話しをしなくてはならない と思うから一生懸命に訓練をしました。そうこ うしている内にその甲斐あって少しずつ音が出る様になってまいりました。

もう片言乍ら話しが出来る様になりました時には、心の中の嬉しさが涙となって頬を伝いました。本当にうれしかった。その時私は思わず心の中で叫びました・・・・・。

「アア! 生きて居て良かったなあ!」

と、つくづく「生きる」嬉しさが胸の奥から込み上げてくるのでした。

そんな訓練を感激し乍らも、又くり返し痛みを覚え乍ら訓練をしたのでございます。半月ばかり経ってから今度は碓田さんが御尋ね下さいまして、食道発声法について教えて下さいました。

「食道発声をすれば、どんな事でも話しが出来るから決して心配したり悲観したりする事はありません!」 と言われ碓田さんも島さんと同じに、「現在の私を御覧なさい。食道発声の訓練でこれまでになりましたョ。」それを言われて私は、再び「生きていて良かったなあ!」 とつくづく感じました。

今度は改めて食道発声の訓練をも始めました。それも大変でございましたが、今ではこの食道発声の甲斐もあり、健康の声帯をもつ方々と話しをするのに不自由を感じなくなりました。その楽しさ、健康であることの 味を一層強く感じるのでございます。一生懸命に働き家族と語らい笑顔で毎日を楽しく暮して居ります。これもひとえに信大の鈴木先生始め、指導承りました諸先生 方の御陰でもあり、信鈴会の島さん、碓田さん、又、多くの皆様の指導の御陰でございます。これ迄になれた事を心より有難く感謝致して居ります。 こで私は、不幸にも同じ運命 会ってしまわれる今後の方々、又、今迄に諦めてしまって居られる方々に気を落す事なく、あせらず、声は出せなくとも種々の訓練の仕方で、健康な声帯をもつ皆さんとは不自由なく話しが出来る様になりますから頑張って励んで欲しい念じます。又、病院へ入って以後は、先生、看護婦さん等の指導に従って絶対に自分勝手な事はせず指示通りに実行する様に、あせる事なく忍耐し明日の希望をもたなくてはならないと思いますし、これは私が敢えて御話しをしておきます。私の経験でつくづく有難味を感じて居るからでございます。確かに声の出ない絶望感で自暴自棄になって勝手な事をしたくなる事と思います。私もそう思う事もありました。然し生きていたい!と思い、又、 家族達の事を思うと、とてもそんな事してはいけないと反省せざるを得ませんでした。

今後も仲間として一生懸命頑張って声をなくしたなどと悲観する事なく互に励まし合って信鈴会を育て将来くるやも知れない人々の力になりましょう。

最後に一句心のままにつづりました。


木曽駒で声はり上げてなく蝉よりも

声なき吾れは心でうたう


声もなく楽しくうたう吾がこころ

そも知らぬ気に鳥はさえずり

総入歯の方へ

石村吉甫

手術後二年有余、其の間発声に就いて色々苦労したのは、誰しも同じですが、其の間一寸した注意を受けたり、「阪喉」や「銀鈴」の苦心談やら闘病の記事の中に大変参考になったことがあり、それに刺激されて、私の貧しい経験がひょっとすると何かの参考になるかも知れないと思って一文を綴る次第であります。

私の手術は、後に発声が出来るとのことで、咽喉部に二つの大きな穴と顎の下に小さな穴と計三つの穴が開けられましたが、一ヶ月後再手術が困 難とかで、下の気管口(多くの方のある場所)と顎の下の小さな穴とは縫合され、残された中央の穴は、軟骨が周囲にある所謂喉仏の場所で、大きく開いてい ます。したがって他の方々より上部にありますので、入浴の際には一寸ばかり楽ですが、包帯の上に出やすくて困ります。又周囲が軟骨のため傷口が収縮する心配はありませんが、そのかわり何時までも大きく開いています。先の顎の下の小さな穴は、牛乳等を飲むと洩れてこまりました。今では大分よくなりましたが、まだ流動物は多少洩れます。

以上のような状態で、信大病院入院中林利津雄氏から 食道発声の指導を受けましたが、容易なことではないことが分かりました。且つ公務の関係から何としても早く発声する必要があったので、人工喉頭で発声しようとしましたが、是また思うにまかせませんでした。其の頃島様が御訪ね下さって口内式の笛を御教え下さったのですが、島様が使われると立派に発声するのに、私がすると声にならないし、たまに声が出ても継続することが出来ないので、色々調べてみますと、私は総入歯で、口腔がせまく笛が落付かないことが分かり、東京の銀鈴会から譲ってもらった口にくわえるプラスティク製の笛で練習し、ぼつぼつ発声が出来るようになりました。しかし信大病院へ行く度に佐藤先生から、正面では唇音が出ないから横にくわえるようにとの御注意を受けましたが、これまた中々出来なかったのですが、其頃阪喉会の人工喉頭中に、総入歯に適する口外式のあることを雑誌で見て早速送ってもらいました。これは奥歯でくわえるように嘴管がついていますが、入歯がはずれてうまくいきませんので、信大病院の歯科へ行き相談の上、上で奥より二番目の歯をとってもらい、そこへ嘴管をくわえることとしました。私は左を取ってもらいましたが、右でも勿論差支えはありません。ただ歯医者の先生方は、経験がないので、奥すぎはしないか、もっと前の歯をとった方がよくないかと云われますが、出来るだけ奥の方が、笛の明瞭度がよろしいようです。

その後は、よく発声が出来、島様からお褒めを頂きお陰で日常生活には不自由を感じなくなり喜んでいる次第です。

万博に想う

須沢登美子

思いがけなく誘われて万博見物に行きました。大阪へ着いたのは夕方で夜の部の会場に入り、ソ連館、アメリカ館、松下館と余り時間待ちもしない で見ることが出来ました。文化の速度はその国によって相違は有っても、過去より未来への道は同じである事を痛感しました。

又夜景の美しさは格別で何とも云いようもないほどです。あの小さな電球の一個一個の光が積み重なって森のようにかたまりあい宙に浮き立って居ります。まるで光の殿堂かと思われる素晴しい夜景です。五重のネオン塔も強く印象付けられ、たえず滝のように流れる噴水、照明がよく変化して水煙の踊りとでもいうような感じです。何時までも見とれ、からだ中しぶきにぬれて来ました。そしてこれが万博なんだと思いました。万博に来ること が出来て良かったとしみじみ思いました。

私達は主人が手術してより常に心にかかって居ることは健康です。四年前手術を受けて今日の日迄、それはいろいろの事がありました。目をとじると当時の手術のあの模様が脳裡をかすめます。

タンカに乗せられ大勢の医局の人達に囲まれて運ばれて来た時の顔。輸血、点摘、吸入、吸引の連続。数日後声のない人の動作に注意し、目の動き、口びるの動きに全神経を集中しました。鼻孔からの注入がとれ、はじめてお湯が通った時のあの表情の明るさ。「おいしい」とくり返す口びるを何度真似たことでしょう。経過は良く思いの外早く退院し自宅療養がはじまりました。

発声の練習も毎日するようになりました。話し方も大分上達して、仕事の打合せ等にも出る事も多くなりまし た。しかし不自由さはかかせなく、やはり様々な精神的問題に直面して来ます。苦脳も焦燥もいつか劣等感になり、物事に感情的で涙もろくよく泣きました。

人間の体の大切なものを失うと、心のどこかにもすき間が出て来るものでしょうか。

お酒も以前より強くなり飲めば時間もルーズになりました。会合に限らず帰りが遅く、制限なく徹底して過ごすようになり、子供達に「夜の蛾」だとか「午前様」だとか悪口をいわれています。

ともあれ何事も克服して行かねばなりません。毎日会社で朝礼に始り仕事の一線に立って、従業員の指令にあたって居ります。何時か声も地声に聞え、少しも不自然に思わなくなりました。出張旅行に出る機会も多くこうして万博にも回を重ねて来て居ります。

今日は二日目めぐまれた天気、晴れた空に高くのびた太陽の塔を見上げ共に健康の幸せを殊更感じました。

これからの私達の人生にも、進歩と調和の意義あるよう大いに頑張るつもりです。万博会場での一時に、過し日の出来事を思い合わせて記しました。

病後読書記抄

小野正幸

○月○日、藤岡由夫博士の「中谷宇吉郎-小伝と科学随筆抄-」を読む。雪と氷の研究に前人未踏の仕事を残された世界的の雪博士の小伝と、科学的精神にうらうちされた美しい随筆のいくつかを読んで、何かさわやかな思いが心をおおった。特に小伝の中に記された中谷先生の最後の言葉「人には親切にするものだよ」という言葉は、かたわらにいられた奥さんにようやく聞きとれたものであったという。前立腺のガンと戦われながらも、雪と氷の研究のまとめを一途に意図されていた先生の残された言葉は、あたりまえの、余りにあたりまえの言葉であるが、それだけに私は強く打たれるものを感じた。私の今まで生きて来た道程において、特に今度の長い病院生活の中で、どんなに大勢の人たちに親切にされて来たかを思う時、しみじみとありがたい人と人とのふれ合い と思う。ところで自分は一体、他人に親切にふるまって 来ただろうか。

いつも、何もかもわがままで、いいかげんな事しかして来なかった自分をかえりみて心苦しさがひたひたと心にひびく。今からでもおそくはあるまい。この病癒えようとする今、自分で自分にいいきかせる言葉。「人には親切にするものだよ。」

○月○日 山田吉彦氏の「ファーブル記」を読んだ。 長い一生を貧しさと戦いながら独学で勉強をし続けたファーブルは、ついに科学の書であるとともに文学の書でもある「昆虫記」という不朽の名著を世に残した。困難に遭遇する度に、ファーブルが、自分にきびしくいってきかせた言葉が、この本には記されている。 -希望をもて、そして前へ進め。

これはラボオアジエが、幾何学を学ぶ若い学生たちにいつもいい聞かせた言葉だという。

ファーブルは、ラボオアジエのこの言葉を自分を励ます箴言としたのである。「さて、私も手術後、声が出なくなり、自分の思っていることを自由にほかの人に伝えられない、そんなことを思っただけで、前途に何か暗いものを持つ、そして人の中に出ていくことが恥かしいような気にもなる。そんな時に、ファーブルが自分を激励していたこの言葉に限りもない力強さを感ずる。

○月○日 「茂吉のうた」をひもとく。

「白き山」には昭和二十一年、斉藤茂吉六十五才の時の歌がのせられている。病後の作がしきりと心を打つ。

わが病やうやく癒えて歩みこし 最上の川の夕浪のおと

やうやくに病癒えたるわれは来て 栗のいが焚く寒土の上

最上川のほとりをかゆきかくゆきて 小さき幸をわれはいだかむ

このような美しいひびきを持つ歌を、心の中で誦する時、何か心あたたまるものを感じないではいられない。全く望ましい境地だ。

○月○日 きょう伊藤金次郎氏の「のどぼとけ念仏」を読み終る。本文は、著者が長くつとめた東京日々新聞 (今の毎日新聞)の記者として、出合った人々、扱ったいろいろの事件の回想録であるが、サブタイトルにあるように「毎日新聞発展外史」として興味尽きないさまざまの記述があり、過ぎた日のことを思い出させてくれる。しかし私は、この本文より附録としてのせられた「ガンの闘病十年-のど笛のない私の白書-」に心をうばわれた。この四十ページ近い附録から、この本の名前を「のどぼとけ念仏」とした意味も察せられる。著者は、たゞ精いっぱい病床でがん張りとおし、この本の大半を仰臥の姿勢で執筆したと、序文に記してあるが、それだけにこの附録の文字は、貴重なものに思えてならない。そしてこの文字は、ともすれば引込思案になり易い自分を、そんなことでは駄目だと強くきびしく叱たする声となっているのをひしひしと感ずるのである。苦しい中にいても、ほほえみを忘れず、もとめても社会的の仕事に身をのり出されている著者の心意気は、ただただ頭のさがる思いである。この白書の内容は、次の見出しだけでも、汲みとっていただけようか。

珍らしいケース―ガン切除の前後―邦楽に亡妻を偲ぶ―病室に汪兆銘を想う―不具者の悲しき特典―流動物をこんなに飲んだ―病臥六百三十余日―注射三昧―コンゴ (アフリカ)のラジュウム―前代未聞の奇景(人工のど笛での折衝)―指環を失なうも指はある―むすび。

私は、スペインのことわざにあるという「指環を失なうとも、なお、指はある」ことの意味をいつまで抱きしめていきたい。

○月○日 会津八一先生の「鹿鳴集」を開く。

夢殿の救世観音にと題して

あめつちに われ ひとり いて たつごとき この さびしさを きみはほほえむ

という歌がのっている。心にあたたかいものを感じながら、何度も口ずさんだ。

○月○日

わざわざに伊那よりここに正子らは見舞いてくれぬ涙あふるる(古い教え子たちの訪問を受けて)

この病癒えなば大和をへめぐりて古き仏をおろがまんと思う(旅に出られる日を待ちのぞみつつ)

退院後十日過ぎたり「死よおごるなかれ」という書読み終りたり(「死よおどるなかれ」という本は、アメリカのガンサーという人の著したもので、最愛の一子ジョニーの「脳腫」と戦うきびしい日々がこくめいに書かれていて、忘れないものを与えられた。岩波新書のひとつ、中野好夫先生などの訳)

食道発声の喜び

大町 武井邦一

私は昨年五月二十一日、信大病院耳鼻科へ入院いたしまして、六月始めに喉頭切除の手術を受けまして、耳鼻科の新井先生及び婦長さん、島さん、碓田さん、小松さんの御勧めにより、七月十八日より長野赤十字病院食道発声教室へ毎週金曜日に参りまして、碓田先生の御努力によりまして、約六ヶ月ほどにて、人と対話も出来、電話もかけられるようになりまして嬉しく思って居ります。 その御恩を御返しするために、六月より信大病院を御借 りして、一人も多く食道発声が出来ますよう御指導申し上げて居ります。

今年と去年

鈴木ふさ

食道発声教室も八月中は夏休みという事で、九月第一土曜日は、夏休み中の宿題発表という事だったのが、去年と同じ九月五日だった。

去年は歌をうたう事、これが私の宿題だったけれど、とてもとても難問題で、それどころではなかった。そして十二日にはと、その時約束したのだった。

歌らしくき いて貰うには、どうしてもやらなければ、 自分からした約束ですもの、頑張らなければ、そんな毎日だった。

はじめは棒切れで、いくら振り廻しても、繰返しても思うように振り切れなかった。

秋も深まり、そろそろ炬燵がほしくなる頃のある夜、 廻らない節廻しで、クサーツヨイトコとやり出した。主人はだまってきいていたが、一番を歌いおわると急におき上り、「おい、歌になるぞ。」といって、その次は一緒にうたってくれた事もあった。

声を出さないことには、どうしても仕方がないので、出勤のとき、バス停迄の間や食事の用意をしながらも、練習、練習だった。

決してらくではないが、とにかくやらなければと思い乍らもいつの間にか、だまってしまっている私を見つけて、仕様がないナア、なんて思うこともしばしばだった。十一月初旬に、病院へ行ったとき、今年の締括りの発表会は、十二月第一金曜日と決った。

そしてその日は来た。皆さんの前で発表するなんて、とても大変な事で、胸はドキドキ、身体はガタガタ、目をつむってやっと歌い出した。クサツヨイトコ 一生懸 命にやっと歌い終った。

そして、SBCテレビ放送に参加したのだった。私にとっては、意義深い九月五日でした。 音を声にしたいと、そんな事を思っている今の私です。

四五、九、一○

思いつくままに

長野日赤 小松芳子

一年はまるで早い。去年の今頃は何をしていただろうかと思い出そうとしてもつい昨日のことか、それとも遠い昔のことかと薄れているこの頃の私である。

今年こそはと、毎年意気込んでみる。

年頭に、新年も始まって間もなく、不覚にも入院生活を経験するはめになった。こんな私に両手をたたいて、ざまあみろと云う調子で、肩をたたいた萱津さんが目に浮かぶ。金曜会のメンバーと共に過して来た一年間余り私は余りにも萱津さんに厳しすぎたか、それとも特別意地の悪い目つきをしたのだろうと、その場は涙をのんで我慢することにした。とにかくいい、不治の病であるまいし、優秀な我が日赤の先生と看護婦が私にはついている。退院したあかつきには、今まで以上に目を光らせてやろうと・・・・・ 幸にも訳のわからない現代病(?)から逃れられて現在に至っているが、日々何気なく行なっている、看護の患者に与える影響の大きな事に改めて考えさせられた次第である。金曜会のメンバーは誰も一度は耐えがたい試練を越えて○才からの出発をやむなくか、又は、勇んでしてきた人達の集りであるだけに、ベットに居らざるを得なくなった私にとって、その訪問は非常にうれしかったと同時に、甘えてはいられないぞという 気持にさせられた。そしてこんな事に気がついた。言葉を失って取りもどそうと努力している時の眼は、実に物を云うと云うことを。うれしい事に一生懸命目を追っての会話がだんだん少なくなってきた証拠に、私の隣りのベットのおばあちゃんに「皆さん風邪でもひきやしたか。」 と云われる程に成長した。○才、これからは、これは〇○さん、これは△△さんと一日も早く集団風邪から脱皮 して欲しい。

いつか皆で行った楽しかった木曽行を思い浮かばせてくれる、ここ飯綱の晩秋のよそおいをしつつある落葉松林である。色々な所に、色々な思い出がある。それが、たとえいやなものであっても、何もないよりはいいだろう。

残り少ない 今年金曜会の思い出も良いものでありますよう、ちょっぴり秋の感傷に酔って祈りたい。(日赤同窓会にて 飯綱高原で)

試みる勇気

長野赤十字病院 岡部はま子

信濃路に美しい秋がやって来ますと「信鈴」の発刊が近づくのでしたね。

信鈴会の皆様、お元気でいらっしゃいますか。私も皆様の様にもっともっと勉強しなければいけないと思って居ります内に、又一年が過ぎてしまいました。あれもこれもと思うのみで、試みる勇気を失って居ります。大人になるに従って種々の行動を試みる事がおっくうになる。子供等が羨ましくなる。もう一度子供に生れ変りたい等とまで思う。人目を気にせず、何でも試みる勇気がある子供達、傍でははらはらしながら眺めている大人達、大 人が試みたのでは、とてもおかしな事でも、子供の世界では公然と許される。一方大人の社会では、種々と制約もあって、試みていけない事は自ら分かる。していけない事を試みる事は困るが、して良い事までも試みない人が、世の中には沢山いる。私もその一人かも知れないが その点皆様は一見不可能と思われた事を、見事に成功された。そして立派な社会人として精進されている。これは、皆様自身の努力、試みる勇気があったからこそと感激し、陰ながら声援を送る者でございます。日頃余り皆様に御協力は出来ませんが、こんな役割が果せたらと思っています。

「水」の原理

一、自分で行く道をみつけて進んで行く。

一、自分が動いて他を動かす。

一、自分がきれいな時だけ他をきれいにする事が出来る。

一、自然の理法にかなった時だけ柔順で、自然の理法にかなわない時はまことにあばれる。

一、水はおさまる所におさまって極めて冷静である。

私にとって大嫌いの原稿書きもU氏の熱心な催促に対して、した方が良いと思う事に対する試みる勇気を出した一つである。


希望

島成光

人は常に希望を失なってはなりません。死ぬまで希望を失なってはならぬ。生命のある限り一つの張りをもって日々を楽しく過すことこそ、生きがいがあるといえよう。

私達喉頭摘出者であっても然りである。三度のメシを食うからには生命は保証される。生きるということは生きぬくことである。

私達は声は不自由でも、人工笛により食道発声により 社会人としての一員である以上、社会の上に勤め働く可く勇気を失なってはならぬものであります。

心、心、心 五尺の体に精神は生きている。心を倒せば身は倒れ

健康でこそ楽しみは味わえるものであり、美味美食の真の味が味わえる幸せがあり、毎日の感謝の生活が営まれるものである。

私は、六年前信州医大で喉頭の手術をしましたが、前述の如を希望を失なわず、日々を勇んで社会の上にと役立たせて頂いて居ります。神より、自然より護られて健康に毎日を楽しく勇んで通っております。

会員の皆さんも、やればできる心の厚生、心の立替えが必要であることを知って頂き、より良き人生とより以上の幸福を求めて頂きたいと思います。私は病のもとは、心からとも申したい。心の持ちようで、苦しみともなり 楽しみともなる可きものであります。楽しみがあれば苦痛も病気も忘れ明日への希望をもてるのであります。七十七才になる私は歳を忘れて日々の仕事に熱中して明日の希望を失なわない。昨年は台湾に九州に四国に東北に中国に社会の上に飛び廻って居ります。健康の有難さをつくづく感じます。何の宝より、富より健康は宝であります。健康を得るには前述の如く自身の心の使い方によるもので、地極も極楽も心の持ち方一ツであることを知っていただきたい。

尊言に『心豊かな人は日々感謝をもち、心貧しき人は不足を言う』とありますが如く、常に今日現在の有難さを知り感謝の毎日を過ごさねばなりません。不足不満の心は我身を傷つけ、不満不快な日々を通らねばなりません。言語を失なっていても、感謝の日々と幸せは、だれにも、心次第得らるるものであります。

以上、私の理想と実践の上から申しあげたのでありまして、皆さんに感銘していただき、より良き幸せと健康の有難さを味わって頂き、この上共に日々を死ぬまで希望を持って御通り頂き、共々に長野県信鈴会の一員として互助の精神を御忘れなく、五月松本の美ヶ原温泉で春季総会を開催致しますので、勇んで御出席下さるよう、同病の喉頭摘出者の集りでありまして、全会員の喜々として語り合う姿を目のあたりにみて、共々の健康の喜びを語りあう一日であります。又信州医大の鈴木教授の御出席を頂き私等に有益の御話

で御都合して頂き、御出席を頂くことをお願して、希望に生きる、私の信条を申しあげてペンを止めます。

「親」

島成光

「親」

島成光

人は祖先があり親があり、今日自分の存在があるのであります。母の胎内より母の教育を与えられ前生の因縁をもって産れ出されるものであるが、人の成人は親によって育てられ、教育され日々常に親の恩に接し海山ならぬ慈愛のもとに育てられて来たのであります。

昔から『親の恩子知らず」と申されて居りますが、因果応報と云うことを知る時に子としての私達は親に勤め尽すことこそ孝養の道である事を考えます。やがて家庭を持ち子の父母としての私達は子孫の上に心すべきことと思います。昔から『播いた種は良きに悪しきに皆生えるものである』と云われて居ります。

◎良き子孫を得るには常に子の親として、良き種蒔が必然の事を心せねばならぬと思う。

編集後記

新年の正月元旦があれば、十二月の年末三十一日がある如く、信鈴第二号編集にあたり諸先生始め、会員各位の御協力により、不備乍ら、内容ゆたかとは申しませんが、出来得る限りの努力を致しまして、ここに会員の皆さんの心の集いとしての表現が記され、お互い喉頭切除して言語を失い 、食道の発声に或いは人工笛により社会人として復帰してより良く人生を有意義に過ごすことのできることを望んでやみません。 どうぞ本会報を御らん頂き、皆さんの気持と勇気に直感して、心の糧として頂き、御愛読を願う次第であります。 編集氏も多事多端で全国各地を旅行いたして居り発行の遅れた事を御詫びして、皆さんの御多幸で良き新年をお迎えあらんことをお祈りして筆を止めます。島生

昭和46年刊 第3号

昭和47年刊 第4号

思うこと

信州大学医学部教授 鈴木 篤郎

長かった冬も終わりとなり、やっと暖かい日が続くようになりました。信鈴会の皆様も一番苦手の寒い冬が去ってほっと一息されていることと思います。

「福祉元年」などという言葉が昨年あたりからマスコミに登場しておりますが、わが国にも遅ればせながらこの問題を国民的な拡がりで取組んでゆく時代がやってきたものだとよろこんでいます。私は幼児の難聴のことに興味をもって、その早期発見をテーマにここ二年間仕事をやってきましたが、おかげ様で廿年前には想像もできなかったような進歩が見られ、耳の遠い子が早期に、正確に発見されるようになりました。この点では世界のどの国にも負けないものと思っておりますが、しかしその発見された子供をどのように取扱って行くかということになりますと、わが国には組織的なものはまだほとんどできておらず、他の先進国との間に格段の差がある現状です。難聴児ばかりでなく、他の心身障害児、スモンやベーチェットなどの難病、公害病など、ハンディキャップを持つ者に対する力の入れ方が、関心の持ち方が、今までは非常に不充分だったと思います。これはもちろん国家の方針の間違いもあるでしょうが、そればかりではなく、他人のことには無関心でいられないくせに、一方では自分の家の前だけ綺麗になればよいといって道路のゴミを隣家の方へ掃き出したりするような奇妙な国民性に起因している面も多いと思います。従ってよほど声を大きくして叫ばないと、このような福祉的なものの考え方は国民の間に定着しないのではないかと懸念されます。

喉摘者の方々の実情なども、先日テレビで放映されたものは多大な反響をよんだということですが、まだまだ一般の人々にはわかった貰えない面が多いと思います。その点からいうと、一般社会に対するよい意味でのPRは決して悪いことではないと考えます。「信鈴会」の存在や活動もなるべく一般の方々に知ってもらうよう努力することが、会の目的の会員の福祉増進に直結するのではないか、こんなふうに考えます。私もできる限り、そのパイプ役として御手伝いしたいと思っております。

会員の皆々様が益々健康で、家庭や社会において充実した一日一日を享受せられるように心からお祈り申し上げます。

(三月卅一日)

集まって話しましょう

会長 石村吉甫

今年の冬は暖冬であったとよくいわれますが、松本平は去年の暮に大雪があり、その後例年になく雪が多く、 寒さも厳しく軽井沢より寒い日が度々ありました。我々喉摘者には、ただでさえ凌ぎにくい冬の間を、ひとしお苦労しました。人工喉頭には水滴がたまり発声が思うようにゆかず困りましたが、聞くところによると、食道発声も寒い朝などは不充分とのこと、健康な人にはわからない苦労が数々あります。入浴の際もその一つです。いつか島様と話している際、先夜風呂で背を流してもらい、ついうっかり最後の湯を気管口にいれ苦しかったといって笑っておられたが、島様のような手術後年数を経られたその道の先輩でも、かような失敗はあるものかと自らを慰めたことがありました。「信鈴」第三号に北沢兎一 郎さんが「入浴の知恵」を書いておられるが、それをほほえんで読んだり、うなずいたりして楽しく読みました。 北沢さんのように風呂場を改造することは出来なくとも 入浴時の数々の注意は大変有益で、日常生活で得られた 知恵を披露してくださるのは誠に有難いと思います。大阪の阪喉会では、京都の社寺の庭園をめぐりながらお互いが話し合って、知らず知らずの間に、発声や健康等色色な問題を研修する機会をつくっています。我々もできるだけ機会をみて研修したいと思っています。いままでの会でも、経験歴の永い吉池さんに笛の音を注意されたり、手術後の苦労話を聞いたり、水野さんと金属製の笛について話し合ったり、田中さんの笛の音質がよいので聞いてみたら、ゴムの切り方が特殊で教えられたりしました。 やはり会って話し合っている間に色々教えられたり、健康上の注意を受けたり、随分とうるところが多いと思います。兎角我々喉摘者は、ついつい引込みがちに なりますが、同病者の間であるからもし発声が不充分でも何にも遠慮することなく話し合え、楽しみの中に得るところがあると信じますので、どうか会のある場合は、万障繰合せの上一人でも多く出席されることを切望してやみません。

五年を顧みて

上田市役員 北沢兎一郎

思い出せば昭和四十二年は私の人生の終りだった。...二月頃より右下に母指大の淋肥腺が出、頭に何かつかえたような感じでよくたんが出た。今まで健康であっただけに淋肥腺が苦になり、近所の石塚耳鼻で診てもらった。先生はどうもガンと疑わしいので、石塚先生の紹介で松本信大附属病院に四月十五日入院した。約一ヶ月は点滴、レントゲン撮影、コバルト照射と、毎日食べて自由に遊ばされて、入院前はやせ形だった私は、体重六十四キロとなって顔も形も変ってしまった。

入院前仕事に就いて居った時とは違い、ただ今は欲もなければ目的というものもなく、ただガンという病気でこの先どうなってゆくのだと不安と焦躁で夢中の日々を送って居った。

当時、今は亡き副会長さんの碓田さんにはじめてお会いしたのだ。碓田さんはもうすっかり流暢な食道発声で、北沢さん早く退院して一緒に食道発声を練習しましょうとはげまして下さった。私はうれしかった。とある日、担任の吉江先生が、北沢さん十九日手術をします。喉頭の腫瘍を執れば声帯も執らなければならないので、手術後は声は出なくなります。しかし今は食道発声といって練習により声は出ます。それと人工喉頭(笛)もありますので心配はないということで、五月十九日手術といよいよ判決は言い渡された。其の時の心境は、あ、これで 私は第二の人生となってしまうのだ。声も出ない不具者になってしまうのだ・・・・ 、当時不安と焦躁で食も進まず、時々考えては呆然として居った。

幸い、手術後再発もなく早や五ヶ年を過ぎてしまった。

退院後一ヶ年位は喋べれないということは、人に自分の意志を相手に伝えることができないので、ただ頭をペコペコ下げてばかり居るので自分が情けなくなり、人に会うのがおっくうとなり、毎日家の中にばかり居った。当時松代の吉池さんが、私をはげましに訪ねて下さった。私は心の中ではうれしいのだが、表現できないので悲しかった。ただ好きな酒を毎晩飲むのが楽しみだけだった。それにテレビにしがみつき、運動などは全然しない不健康な日々を送って居った。今考えるとゾッとするような時代であった。

その後碓田さんが来られ、長野日赤で金曜会を発会されて、同じ苦しみの同志が寄って発声の練習をするようになった。私は自然に金曜会に出るのが楽しみになった。 同じ苦しみの同志で気兼ねもなく、筆談で片言の発声で も笛でも自由に談笑できる場所、ほんとうに楽しい会で ある。自然外出するようになった。運動も朝早く起きて朝歩もするようになった。年を経るにつけて生活の知恵というのか湯の入り方とか、汽車やバスに乗る時とか、 何事につけても生活の知恵と要領を自然身に付けた。私は食道発声の会話は駄目なのです。四五音の言葉だけで練習の折続けて息を吸い込むことがうまくゆかないのであきらめております。必要な折には筆談、笛、片言で間に合わせておりますが、今後も食道発声の練習を続け、早く会話のできるよう心掛けております。退院の折、吉江先生が「北沢さんは食道発声は少し皆さんより遅れると思います。淋肥腺を取る際再発しない様組織まで深く 取ったので」といわれたことが、今だに耳に残って居る。 生きていて良かったとつくづく思います。お互いに私共同志はガンという病気と闘い、生死の間を生きぬいてきた人達で、地位も名誉もすてて気楽に話し合い、助け合いのできる集りで、同志の会へ出れば何か得る処があります。皆さん一人も多く集まろうではありませんか。 一九七三

声に感謝・総合の楽しさ

木曾日義村 伊藤太郎吉

歳月のたつのは早いもので、私が声帯手術をしてもう五年になります。当時は何の望みもなく唯うろたえておりました。島さんに色々とお話を聞いてはげましていただき、今日これまでになり、人様の前へ出て色々話すこともできるようになりました。もう大丈夫だ、これからは自分自身の体に注意して一日でも長く生きることを考えています。寮の利用者にも私の話すことがよく聞きとれてくれますので本当に楽しい日々が送られます。 山荘でも管理人同志の会合があり、其の後酒盛りが始まり、其の次は二次会にボーリングというわけで、気分転換で若い人とおつき合いもできます。何はともあれ、健康であれば仕事も又遊びの方も楽しんでできる、それだけでも本当に幸せと感謝して暮しております。

寮のベランダに出て見ると、駒ヶ岳の残雪が夕日にきらめいておるのです。毎年のことですが、あの雪がとけて山の色が緑に変る頃は、この木曾駒高原もにぎやかにな ります。生きる大きな望みを持ち、これからもがんばりたいと思います。年二回の総会を何よりの楽しみに待っております。私達 声のない仲間達に再会して話し合うよろこびは、みなさんも同じでしょう。

長野県信鈴会に思う

副会長 島成光

一才の子供も翌年は二才となる。我信鈴会もここに五才を迎え、日と共に成人して、限りない人生行路を歩み進むものであるが、年ごとに知能の発達と、親の見る目、 人を見る目も知能と共に進歩して、やがては社会人として対社会に奉仕するのであるが、本信鈴会の会員の皆さんも日と共に本会の事業の意のあるところを、よく認識せられ、失望することなく、社会人として社会の上に奉仕する信念こそ大切なことであります。

喉頭は摘出して声を失なった我々は第二の声、人工笛、食道発声により得らるるものであって、声というものが生活の上に如何に必要であり、大切であるかを痛感するものであります。

五年前長野県内に喉摘者は二十余名であったが、年々喉頭腫瘍、喉頭ガン患者が増加して、少なくとも毎年県内各病院で摘出さるる数は七・八人以上に見込まれており、日と共に本会の事業は多端であります。

毎週長野日赤病院及松本信州医大の耳鼻科に於て発声教室を催して発声の指導をしております。

現在、食道発声指導者 四名

人工笛による発声指導者 二名

によりその実績をあげており喜ばしい極みであります。

県より発声事業につき補助金を下付されておりますので。

会の運営には会員より会費にて補足しており、できる限り会員の福祉の上にまんぜんを期したいと思っております。

又発声不能の会員には人工笛の指導をしており、遠方にて参加でき難き会員や病弱の会員には、役員・指導者が訪問して見舞い、精神的協力をしております。

声なくして社会人とはいえぬと申しても過言ではないと思います。なせばなる。たとえ会員の皆さんも言語の如何に必要性であるかを知って頂き、ふるって本会に入会して発声に御努力して頂き、社会人として立派に対話ができ、社会に奉仕して頂くことを希望する次第であります。「私は七十九才になりますが健在で、日本各地を飛び歩いて社会事業の上に活躍しており、健康の喜びに感謝して 勇んで本会の上にも貢献させて頂いております。

『人類の存在する限り病いはあり得る』

『本会の発声事業は永遠に多端である』

会員の皆さん、本会の意のあるところをおくみとり頂き御協力を希う次第であります。

奉仕の一念

理事 武井邦一

社会人として声は日常生活に重要で、声なくしては一日も過ごせない。

私は老年にして声を失ない失望した時もあったのであるが、長野県信鈴会に入会して、故碓田指導員により長野日赤病院に於て毎週発声の練習を懸命にいたしましたところ、意外に早く上達しまして六ヶ月で対話ができるようになりました。 この時は、天にでものぼる嬉しさと感謝が胸一杯でした。この上はこの恩に報いるために一人でも多く同病で声の出ない人に声を出して頂きたく、人助けのためにと思いまして、現在は故碓田さんの後を引受けて、長野日赤病院と松本の信州医大と毎月四回皆さんに発声の指導をさせて頂いております。

おかげ様で皆さんの御熱心で発声が上達せられ、四五人の方々は完全に対話ができ、指導者になって頂き、私の助けをして頂くようになりました。

私はおかげさまで体が健康でありますので、できる限り社会奉仕の一念にもえております。

現在では声の尊さを知り、声を失った喉摘者の方々にこの第二の声を一日も早く修得して頂きたく思う次第であります。

発声教室に寄せて

信州医大耳鼻科婦長 今野弘恵

発声訓練の場をもつようになってから満三年を迎えました。島さんや、今はない碓田さんの並み並みならぬ御努力と熱意のかいあって信鈴も第四号を発行することになり、年々会としての福祉活動事業も盛んになり、充実したものになってきたことは大変よろこばしいことと思 います。週一回の訓練日には武井さん、塩原さん、須沢さんなどの御指導をいただき、この間すでに十数名の人達が食道発声の技術を身につけ、それぞれの場で人並以上にがんばっておられます。

指導にあたって下さる方々は、自分の時間をさいて雪のまう寒い日も、又やけつくような暑い日も惜しまず声の出ない人の為に足をはこびつくして下され、本当に頭のさがる思いが致します。自分と同じ苦しみをもった人達に一人でも多く声を出す技術を伝え、生きるよろこびをもたらしめんと――――そんな努力に答えるべく私共も側面から応援をしております。

最近の訓練日の模様を二・三お伝えしてみましょう。

四十七年四月二十一日 晴 出席四名

西沢さん今日で四回目の訓練。一言一言ははっきり発声できるが、言葉として続かない。皆一生懸命で、ヤカン一つの水ではたりず、二つ目を追加して訓練にせい出す。榑沼さんは手術後日が浅く見学程度にとどめる。

六月三十一日 曇 四名

榑沼さんはまだ食道に空気がのみこめない。武井さんがゲップの利用をさかんにとく。アの音が出さえすれば…。今日は訓練中五・六回アが出た。 西沢さんは三ヶ月目の今日、もう充分お話ができる。 武井さんに励まされながら積極的に努力する。

九月一日 晴 出席六名

夏休みを終え久しぶりの顔合せ。 北原さんが顔を見せて下さり、にぎやかに体験談など語り合う。大塚さんが新しくメンバーに加わる。

十月二十七日 晴 出席六名

今日は久しぶりに大塚さん一緒に参加。 鳥羽さん、尾本さん大部空気をのむ要領がわかって、三つ位続けてアを発声。 堀内さん退院後初めての出席、顔色もよく元気そうであり安心する。

十一月十日 雨 出席五名

外は冷たい雨がはげしく降っている。それでも皆元気に集まる。鳥羽さんも尾本さんも前回は 「ア」が必死であったが、今日は段ちがいによく出る。 「アイ」「アイウ」「アイウエオ」「マツモト」、塩原さんに元気づけられながら何度も何度もくり返す。元旦にお孫さんに「おめでとう」とお年玉が渡せたらきっとうれしいでしょうね、尾本さん。ためらわないで思いきってしゃべってみましょう鳥羽さん。

一月十二日

島さん、武井さん、塩原さん、須沢さん、鳥羽さん、 西沢さん、榑沼さん、藤森さん、皆元気で集まって新年会。鈴木先生始め医局の先生方、当日勤務の看護婦多数参加してたのしいひとときをすごす。今年も又元気ではりきって一歩一歩努力しましょう。こうしたみんなの集 まりの中から生命の尊さときびしさをしみじみ感じ、発声訓練教室の皆さんに心から声援をおくります。

人工笛私考

上伊那郡箕輪町 田中芳人

私は手術以来十三年間自分の不便さから推して、喉摘者の発声は食道発声をと常に提唱してきたのであるが、不幸にして食道発声をものにできずじまいの私が現在使用している笛の発声部分が同じ立場の諸兄の何かの参考になりはしないかという意見をいただき、いささか躊躇しながらも筆をとった次第である。

私も入院中どうしても食道発声をものにしようと努力し、尚且つ当時信大におられた浅輪先生も非常に熱心に御指導下さったのであるが、その発声のコツを会得できないまま四ヶ月の入院期間がすぎ、退院と同時に職場に複帰して連日人に接するようになり、こうなると第一番に欲しいものは何といってもなるべく肉声に近い声であり、何とかして一刻も早く満足の対話ができるようにということで、早速銀鈴会の事務局から人工声帯器一個を購入し練習を始めたのであるが、日夜仕事に追われ、以来食道発声の練習をする暇もなく、遮二無二笛を加えての明け暮れになってしまったのである。

然し、この笛もいざ実用に供してみるとなかなか意の如くならず、管の長短、ゴムの張緩及びその形状、寒暑の差等、千差万別の障害にあい今日まだ万足の域に達しないが、唯今の処この笛が私の生命に次ぐ大事な資本であるので、今日尚あれこれと創意工夫をこらし研究しながら用事を達している次第である。

これからお話する振動部分のゴムの取付は銀鈴会の笛であり、振動部分を口中に入れる阪喉会の形ではなく、又私は今日まで後者を使用した経験もないので、もし私の方法を試みられる方は前者の器具か、阪喉会の口外型を使用することを前提として行なってみてもらいたい。

1.ゴムは一般に市販されている氷嚢のゴム程度の薄いものを用意し、直径八ミリの円型に切るか打抜く。私は八ミリの鉄パイプの先を砥いで打抜き器具を作ってこれで打抜いている。

2.長さ四センチ位の同質のゴムを巾一・五ミリ乃至二・ ○ミリに切ったものを二本作る。

3.絹絆創膏というかビニールの布地のような薄い肌色の絆創膏(一センチ巾位に切って巻いたものを薬局で売っている)、これをやはり八ミリの円形に打抜いて一枚作る。

4.径が五~七ミリ位のゴム管をうすく切って輪ゴムを一ケこしらえる。このゴム管は理科学機械等を売っている店にあり、一○センチ十円か二十円であり、一○センチあれば輪ゴムが約八〇個位できる。

以上が材料であるが、これを組立てるに私は次のようにしている。 先ず、1の円いゴムを置き、この上に2の細いゴムの帯を十文字にのせる。 この場合2のゴムの十字の中心は1のゴムの円の中心で重なるようにする(末尾の図面参 照)。この上に3の絆創膏の切った円を1,2が動かないように静かにのせてしっかり押しつける。

出来上りは四本足のクラゲのようなものになる。これを笛の声帯箱の金属部分の中心において4のゴム輪で四本足を止める。 この場合ゴムの面を肺からの空気が押す側におき、絆創膏の方を押される側、つまり口へゆく管の側に向ける。理由は知らないがこうしないと音質が非常に悪くなる。この時クラゲの足は余り強く張ってしまうと振動しにくくなり、その声は泣いているようなあわれな声になる。この場合はピンセット等で静かに足の部分をゆるめて、僅かな息でも「ブーブー」という振動音の出るように調節する。反対に余りゆるめると、へたな浪曲師のウナリ声みたいになって文句にならない。この辺が聞き良いか聞きにくいかの境であり、なかなかむずかしい。

これで出来上ったので器械を組立てて使用するというやり方であるが、このタコ足の巾、ゴムの厚さ、張り工合等で、音質、音量が極端といって良い位変るので、出きたもので先ず音を出してみて、明瞭度等を人に聞いてもらい、いろいろに加減する。

自分では中々上手にしゃべっていると思っても、人が聞くと何とも聞きにくい場合があるそうである。これと同時に口中に行くビニール管であるが、太くて短いと大声になり、この逆だと声も逆になる。私は現在この管を内径五ミリのビニール管を全長十八センチに切って使用している。

話が前に戻るが、私はこの振動板を当初は1のゴムに2のゴムを一枚一枚ゴム糊で貼りつけて使用していたが、作るのに手間がかかるので、今では以上申し上げたような簡単な方法でこしらえているが、この方法だと一組作るのに四・五分あれば足りるし、この方法でも意外に長持ちすることが判った。私は一回ゴムを張り替えることによって、ほとんど一日中使用しながら半月、長い時には一ヶ月も持つことがあるのでさして苦にしない。

以上は私なりのやり方であるが、笛を使用している方方は、夫々の良い方法を取り入れていることだろうから、どうか使用例、御意見等お聞かせ願えれば幸甚である。

阪喉会発行の「阪喉」第十四号に「人工喉頭特集」として参考になる記事が沢山載っているから付け加えておく。

さてゴムの話はこのくらいにして、こうして私達の意志表示を努める笛の創意工夫もさることながら、私が常に不審に思っていることは身体障害者の補装具について、補助、斡旋、順廻修理等があり、難聴の人は補聴器を、手足のない人は義手、義足をといろいろ心配してくれているようであるが、私達の声の代便を勤める器具については何のてだてもなされていないということはどうしたことだろう。

それは僅かな金で買えるものであり、一度買えば相当永く使えるものであるとはいえ、そうした金銭問題は別として、補装具という点においては、耳も手も足も声も何等変るものではないと思う。より一層精度の高い補聴器、より一層工合の良い義手義足をと、改良に改良をされて使用している今日、私達の器具だけが旧態依然たるものであり、総てが等閑に付されているということはおかしなことではないだろうか。こう考えるのは私だけだろうか。

私のところへも時々民生委員等を通じて現在の状況調査等のカードが配布され、その調査内容は実に微に入り細に亘って記載されているが、この回答中何か一つでも実行されているのであろうか、実に疑わしいといいたくなる。

然しこんなことはいってみたところで、天に向っツバを吐くより愚かなことかもしれない。

オエラ方にいわせれば、つまらんことをいうひまに食道発声の練習でもして"早くアの字の一言でも言えるようになれ"というかもしれない。又その方が賢明かもし れない。

いわれるまでもなく、私も現在老骨に鞭打ちながらまだ食道発声の希望は捨ててはいない。

どなたか発声のコツを真から教えて下さる方はいないだろうか。

日喉連総会に出席して

会長 石村吉甫

去秋日本喉摘者団体連合会(以下略して日喉連という) の総会が東京神楽坂の出版会館であり、それに須沢さんと出席する機会を得ましたので、その報告かたがた感じたことを少し書いてみたいと思います。

元来日喉連ができた動機は、各地に散在する喉摘者の団体がばらばらでは国からの助成も受け難いし、活動が不便だから一致団結しようということから発足し、早速厚生省へ働きかけたのであります。当初の計画では、日喉連一本で国から助成を受け、各支部である各地の団体が会員数に応じて配分されるというのでありました。ところが運動が漸く進み、国の予算が計上されることになりましたが、国ではその配分にあたり、日喉連を認めないで地方自治体である都道府県に配分しました。そこで都道府県では、夫々の地方の喉摘者団体と話し合い、都道府県主催の発声教室が行なわれることとなりました。これについて各地の団体から報告やら希望が述べられました。例えば東京の銀鈴会や大阪の阪喉会では、会で主催する従来の発声教室と地方庁が主催する教室とが行なわれることとなりました。ここに困ったことには、東京の会へ千葉、埼玉や神奈川等の会員も参加するし、大阪では兵庫、奈良又は和歌山等近県の会員の参加者も多いのでありますが、これが問題となり、東京都なり大阪府なりの費用で、他県の者まで教えるのは如何かというので大変困っているという話を聞き、大いに考えさせらました。当時長野県ではまだ決定していなかったので、その席では報告できませんでした。帰宅後早速島・吉池 両副会長と同道、県庁に出頭御願いしたところ、県では発声についてのすべての活動を当信鈴会に委託するとのことで、その費用として十万円が送られることとなりました。他府県に比べたいへん有難いことで、食道発声室は従来通り長野日赤病院と松本信大病院で行ない、将来は諏訪日赤病院等にもお願いし、南信地方の会員の便をはかりたいと思っております。特に他府県と異なるのは、人工喉頭電気発声等、発声に関することはすべて行 なうようにとのことで、人工喉頭を手にしても仲々うまくいかない方々は、進んで事務局へ連絡下されば何かと便宜を計る考えでおります。

前に述べたように、日喉連の当初の計画が厚生省の方針で無視された今、単に年一回タブロイド判の会報を発行するだけでは会員も少なく、財政上の基盤も弱い地方団体が高い納入金を払ってゆく必要があるのかどうか、大いに疑わしいと思います。

『吾人は希望を失ってはならぬ その精神力こそ生命力である』

無題

副会長 吉池茂雄

昨年の秋十一月の初に、会長、島副会長に同道して県庁を訪れた。その帰途島副会長から日喉連の会報第三号をもらった。さっそく目を通すと、五頁の「音声の意義」と題した名声会のH氏の文の一カ所が気になった。それはH氏の文の中の二十九行目から五十四行目にかけての文章である。どこかで読んだことがある文だなと思って、帰宅後信鈴の第三号を取り出した。その五頁、私の書いた「しゃべる」の初の十四行の文章と一字一句比較しな がら読み合わせてみると、途中二・三ヵ所ほんの少々加除されているが殆んど同じであり、その間のいっている意味は全く同一であることがわかった。これが文人の間では大問題になり、時には裁判ざたにまでなる「剽窃」(ひょうせつ)になるかどうかは知らないが、はなはだ面白くないことである。否いきどおりさえ感じる。しかしそれが自分の一人合点であってはいけないと思い、数人の人に両文を読みくらべてもらった。その結果次のような読後感をいただいた。

同じ手術を受けた者同志であるから同じ感をもち、同じ意見をもつことは不思議ではないが、文字で表現された文章まで合致することは考えられない。 H氏の文章は前後「あります」口調の文であるが、私が指摘した所だけは私の「である」体の文である。文中少し違った語句を使っているが、その間でいっていることは全く同じことだ。私の文は四十六年の九月に書いたものだが、H氏の文は四十七年九月十五日発行の会報にのっているから常識的に考えても私の文の方が先で、H氏は私の文からぬきとったものと考えられる等のことがあげられた。そこで私の文がどうして名古屋の人に読まれたのかと思い、念のため信鈴会の事務局へ問合せてみると、信鈴三号が名声会へも配布されていることがわかった。そこですベてがわかったような気がした。それからしばらくの間、いや大分長い期間、私の頭の中にはこのもやもやがこびりついていた。

すりにあった人はわかるだろうが、物を落としたり、おき忘れたりした場合は比較的きっぱりあきらめられるが、すられた時は何とも後味が悪いものだ。

私も今までいろいろな所へ文を出してきた者の一人である。他の人の考えや意見に同感してその文を、或いは意見を引用させてもらう時には、「『 ....』と誰それがいっているが自分も全く同じ意見である」と記している。そうすることによって、直接ではないが、その人の文を引用することに承認をいただくものだと思っている。何のことわりもなしに、あたかも自分の意見であるかのような書き方は、余りにも無神経な失礼なやり方だと思うが、これは考えすぎだろうか。

信鈴三号も日喉連会報三号も、多数の人に読まれていることと思う。その片方だけを見た人は何とも思わないだろうが、両方を読み合わせた人は、どんな感じを受けるかと思うと私はだまっているわけにはゆかなくなった。そしてこの文の題を何としようかといろいろ思いなやんだ。 ′盗すまれた文´など、どぎつい題も考えた。しかし気持がだんだん静まるにつれて、「・・・ 」と信鈴三号で何がいっているが、私も全く同感であるという一節をH氏は書きおとしたのだと考えて、どぎつい題はやめて、結局「無題」とした。 一九七三・三・二六

人生の春

信州大学医学部附属病院耳鼻咽喉科 田口喜一郎

春が来ると桜、桃と次々と花が咲き誇り、春は人生の最盛期に例えられます。人生も春夏秋冬と同じような経過を辿るでしょうが、その流れは人によって千差万別、全く特徴ある個々の私小説をみるような気がします。詳細に検討すると、人生の春は決して若い時にのみあるのではなく、各年代に様々の形で現われてきます。例え七〇才になろうと、八○才になろうとその人独自の春の花を咲かせることができるのです。そしてその花はその人の「何かしよう」という意欲から成立っているのです。人が何か仕事に打込んでいる姿程美しいものはありません。それこそ人生の春そのものです。

こんな例があります。今年八四才になる老店主(皮革製品)は若い頃から骨董品を集める趣味がありました。最近は足腰が不自由になったが、彫刻や書画の類を出しては整理や考察を楽しんでいます。そのため話すことはしっかりしており、少しも「老」を感じさせません。

この例にみるように、人間は常に熱中できる何物かを持っていなければなりません。一般に同一年令だと女性の方が早くぼけてしまうことが多いが、これは子弟を一 人前にしたことに安心して、五〇~六○才位で楽隠居と 称して無為に毎日を過ごすようになるためではないかと 思います。

生きている限り熱中できる仕事なり、趣味を持ち続けたいというのが私の願いであり、皆様への些やかなヒントです。

声......声

副会長 島成光

昔から無言の教訓ということを聞かされて居るが、実行である。然し無言では日々は通れない。人に思ったこと、人に信を伝えるには声である。

声は常に我心を人に通じ、人に意志を伝えてこそ、日常生活の上に社会人として意義があるものであり、社会に奉仕することができ、声は人生に欠くことのできない大切なものである。

尊言に『暗やみは声がたよりや。声をたよりについてこい』と教えを頂いてある如く、親の声、人の声を信じたよりにして実行してこそ対他に喜びを与え、満足を与えて自他共に意の通ずることにより日常生活に不自由なきことを感ずるものである。

植物は肥により成育さるるが如く、人は人の声により 成人と発達が望み得るものである。然し声の良悪、高低により人心を左右するものであって、静かな声は人の感情の温かさを求め、中音は日常生活の対話として常に用いられているが、高音調の対話は人に怒りを与え感情を損ずるもので、高音にも講演の如く人情味のある高音は大衆にその意を述べることができるものである。私等は声の使い分け、使い方は日々心すべきことである。児童が一年一年初声より声の発達を見る如く、我々喉頭摘出者は常に児童の如く食道発声により、又人工笛により発声を自由自在に対話ができるよう心掛けねばならぬ。『何事も努力でなせばなる』ものであるから、発声に大なる希望をもって、努めて日常生活に使わねばならぬものである。私は手術八年になり、現在人工笛により何不自由なく全国各地よりの電話も、自宅の来客にも応対して用を便じ、何不自由なく社会人として社会の上に奉仕しておるのである。余生を趣味と共に楽しく過ごして、より長命を望んでいる者であり、天寿を声と関係の調和した生活により得られていることを常に感謝しておるものであります。

希望を、自分の思いを人に通する声は実に貴いものであり、意志を人に通じてこそ声の重要さが感じるのであり、声の有難さが明らかになるのであります。 「長野県信鈴会は、長野日赤と松本の信州医大の耳鼻科において毎月二回の発声教室を開いておりますので、会員の皆さんには重要性のある声を食道発声により、又人工笛により修得して頂き、声~声を日常生活の上に使って頂くことを希望する次第であります。

『声の貴さと重要性を』

健康と言語の貴さ

丸子町 吉池許由

「健康に勝る幸はない」とは誰も知っていることでありますが、丈夫な時は兎角健康の有り難さを忘れ勝ちなものです。病んでみると健康の有り難いことがしみじみ感じます。一昨年喉頭部の病気で入院、ベータートロンの治療を受けて一旦治ったかに見えたが、徹底した治療は手術でなければということで結局再度入院、手術を受けることになりました。幸い手術後の経過がよく、散歩に出ては色々な健康な人に会いました。魚をとる人、オートバイでつっ走る人、畑を耕す人、田植えをしている人、たまにはつづれをまとった人も見かけました。主人が車を引いて妻君がその後を押して行く行商人の風景も見ました。・・・・・然しどの人達を見ても健康あれば たとえ粗食を食べ、腕を枕に寝ているような生活でも、楽しみ其の中にあるのに等と考えてみたこともあります。幸い手術の結果は良くて、只発声ができないだけで退院ができました。以前喋べれたのに、それが喋べれないとなると不自由この上もありません。時々喋べっている夢を見てハッと思って目が覚めてみると依然喋べれない。

私には一才になる外孫があります。近くにおるので月二回ぐらい遊びに来ます。この孫が片言交じりに幾らか喋べり出してきました。この孫と競争でどっちが早く喋べれるようになるかとやっていますが、段々負かされてしまいます。発声練習にも参って(仕事の関係で兎角欠席がち)先輩の皆さんのご指導を受けておりますが、なかなか思うようにまいりません。早く先輩のように喋ベれるようになりたいものだと思います。

喜寿賀

理事 上条行雄

天つ日が南回帰線より立ち帰る七十七回のわが誕生日

妻亡くて生し立てたる十人の子に囲れて今日のわれあり

わが喜寿を祝ひて集ふ子ら孫らはらから並べて四十二人

赤彦にみ歌いただき睦びたる妻身罷りて四十年経つ

先妻後添幼きを遺し早く逝き鰥ぐらしの三十年になる

喜寿を祝ぐは孫子を祝ぐに外ならず律義に生きて子沢山われ

多く生み苦労するぞと亡き父に言はれしことを思び出しをり

明治の末癌を病みし覚えありかかる病をその後聞かず

三・一五に連座したりし弟も已に七十今日俱にあり

障子あけ緑清けき庭を恃み街中のくらし五十年になる

祖父をはじめ十一人を葬りきそのいやはては已が長男

喉癈ひ脚なえとなり存らへてなほ残年に懸くる願あり

編集後記

思いを筆によって記し、対他に感心を与え、喜びと勇気を与え、自己の反省を得る記録こそ大切なものであります。

信鈴第四号発刊に当り、多事多端の中御寄稿賜りましたことを厚く御礼申し上げます。

人は何でもないことができ難いもので、夜分の一時本会の上に御寄せ頂いて、御感想や、思いでや、闘病の生活や、現在声を失った私達の健康の喜びや、苦難の体験こそ人生行路に益するものが多いのであります。

今後共本会の上否社会の上にふるって御投稿下さるよう願い上げます。 以上

昭和48年刊 第5号

挨拶

信州大学医学部教授 鈴木篤郎

最近は何かと雑用に追いまくられ、皆様にはつい御無沙汰がちになってしまって、お役に立つことが何一つできないことを心苦しく思っております。

過日豊中市の矢頭多一氏から「阪喉 」の第廿一号を送っていただきましたが、阪喉会創立廿五周年記念号と いうことでした。四半世紀もの間の地道な活動は本当に立派なものですが、そういえば信鈴会も創立以来もう六年になるのではないでしょうか。そうなると、いよいよ創業時代を脱するところに来ているということになります。

昔から「創成は易く、保守は難し」といわれているそうですが、一つの仕事を作り出す段階では皆が自己を おさえ、気持を一つにして努力するために予想以上にうまく行くものですが、一旦でき上ったものを保持して 行く段階になると、それまで埋れていた色々な不満や矛盾が浮上ってきて、立派に保持し、充実させて行くと とは非常に困難だといわれております。その意味で、信鈴会もこれからは保持、充実のための困難な時期 に さ しかかっているといってよいと思います。何とぞ皆様が心を一つにして、皆様のための会でもあり、さらに皆様の後から来る人々のための会でもある信鈴会の発展、充実を計られるよう切にお願い申上げる次第であります。 (五月冊一日)

信鈴会を想う

副会長 島成光

社会は常に進歩から進歩を辿る

化学の進歩ことに、医学の進歩は言うまでもない。しかしインフルエンザー、風の病原菌と発癌細胞を根絶する医療はまだ発見されていない。老人病の一部である癌の思者は日と共に増加するばかりである。

癌により摘出手術を施行する患者は日本のみでない。 世界各国に非常に多いのである。長野県内に今日まで多くの患者が其の悩みを克服し病魔とたたかい他界せられた人も少なくないのである。

今日ここに長野県信鈴会が四十五年四月松本医科大学で発起人により創立を見るにいたり。日と共に手術後理解ある会員の増加を見るにいたり。内容の充実と共に、県の委託と補助により発声指導を強化し、長野日赤病院~松本信州医大病院に於て毎週発声教室を実施し、指導者の熱心なる指導により、発声可能者も多く、好成績を納めている。

対話のできるまでに、努力して遠路を通い、社会人として復帰されし会員が多数おられることは、本会として誇りとし喜びとするところである。

前途は多難である。会の運営も諸搬に意をそそぎ、永遠に信鈴会の存立を維持して行かねばならぬのである。

本信鈴会の上に、賢明なる会員諸君の理解と協力を得、会の運営に寄与して頂きたいことを念願する次第であります。 以上

『人は真心をもって、人に接し ことばにより 信をもたらす』

しゃべる (その二)

副会長 松代町 吉池茂雄

信鈴第三号に「しゃべる 」と題して私の発声法に対する意見を述べたが、その続きというわけではないが、ここでまた同じ題目で私の考を述べてみたいと思う。

自分の意見或は用件を相手に伝えるのに、文章による法と、しゃべる方法との二つがあることは前にも述べた。文章は文字を並べて伝えるので、その内容は正確に相手に伝えられるが、しゃべるように言葉の抑揚・調子というものがないから、話し手の心情まで相手に直接的に伝えることはできない。

例えば(誠に拙劣な例で恐縮だが)「バカ」という二音をとってみよう。私たちが日常の会話の中で「あの人! はバカだ」という時の、単に「リコウ」に対して言う「バカ」と、若い女性が、極く親しい人や恋人にからかわれた時に、相手を軽く打つようなしぐさで身体をくねらせて中ば甘えたように言う「バカ」、又相手を憎悪し怒髪天を衝く思いでどなる「バカ」とでは、それぞれ言葉の調子、抑揚がちがう。文字に書けば「バカ」の二字にすぎないが、言葉になるとその調子のちがいによって、聞き手は話し手の心情まで聞き分けることができるのである。

こういう点から言っても、しゃべる事が、私たちの生活の中で、いかに重要な領域を占めているかという事は容易に考えられると思う。

しゃべれるようになって、自分の接する社会が広くなり、生活が明るくなった事は、一旦失った声をとり戻し得た人のみが感じとる事のできる感激であると思う。私は、しゃべれるようになってはじめて、しゃべる事の重要さと、しゃべれることのありがたさを知ることができた。そして更にしゃべる事のむずかしさを今、感じている。

この頃、朝のNHKテレビ放送 「奥さんごいっしょに」 の中で聞いた二つの言葉がある。

「結婚披露宴でのスピーチ 」という番組の中で、心に 残っている印象深い言葉とは、『人の心に働きかける言葉』であるという。又同じ番組の二、三日後で、「お母さんの口ぐせ」の中で、お母さんの小言は『声ではなくて音である』といった。昔の言葉で中国風に言えば「馬耳東風 」、日本風に言えば「馬の耳に念仏」である。耳には聞こえるが、相手の心に通じないのである。

話すとは音ではなくて、声でなければならないのだ。 人の心に働きかけ、相手の心の奥に深くしみこんでゆく言葉でなければならないのだと、テレビでのこの二つの言葉を、しみじみと聞いたのである。

食道発声法や人工喉頭によって声が出るようになるともうそれで目的を達したと考えるのは間違いである。努力の結果出たのは、音であって、それはまだ声ではないのだ。その音を、絶えざる努力と研究工夫によって声にし、更に人の心に働きかける言葉にまで引き上げるには実に並々ならぬ忍耐と努力とがいるのである。

言葉は、前にも述べたが、相手に聞かせるものである。しゃべる時には必ず聞き手がいるのであるから、話し手が自分だけがいい気になってしゃべっても、聞き手が納得しなければ何にもならない。常に相手を意識し、聞き手の反応を計算に入れてしゃべらないと、せっかくのおしゃべりも無意味な独り言になってしまう。

食道発声の人たちがよくいう、「何も道具がいらない便利さ」ということは、たしかに便利ではあるが、それは話し手の側の都合であって、しゃべること本来の目的達成には、大して重要な条件とはいえないと思う。聞き手の側にとってどうかという事が、大事な条件になるのではないだろうか。

松本の須沢氏が、鏡を見ながら食道発声の練習をしたと話されたが、食道発声の、聞き手の側にとって大変気になる点、聞きにくい点を矯正する為の努力であって、大事な、有意義な努力であったわけである。

私は食道発声法を否定したり、それに対抗したりする者ではないが、私にもし酷評を許されるなら、私はこんな事をいいたい。現在私の知っている範囲(といっても僅か十数人しか知らないのだが)では、見事な発声だと 感服できる食道発声をする人は、銀鈴会のN氏一人である。この人の発声には文句なしに賞賛の拍手をおくることができる。他の人のは、仲々立派な発声ではあるが、それぞれ食道発声臭さがある。いかにも食道で発声しているとわかる発声である。

そんな生意気をいうお前は、食道発声で原音の「ア」 も出ないではないかと叱られるだろうが、全くその通りで、私は食道発声では何もできない。しかし私は考えている。人工喉頭にも人工喉頭臭い所がある。私が電話で話し合っている知人は、私が名乗らなくても私だとわかる。これは人工喉頭臭さがあるからだろう。この臭さをなくして感じのよい肉声に近づける事が大事な今後の宿題なのである。

私は人工喉頭を使って、人工喉頭臭くない、聞き手の心にしみこむような声を出したいと念願し、私の生存中に達成できるかどうかわからないが、この努力を続けてゆくつもりである。

以上述べて来た事は、過去十二年(そして現在十三年目)人工喉頭と共に生きてきた私の実感であるが、今発声練習を始めようとしている人、ようやく原音が出はじめた人たちに、私のこの実感が、どの程度理解していただけるか疑問である。理解いただけない点が多いのではないかと思う。これらの方々の為に、私の経験の中から具体的な話を二、三付加えてみよう。

人工喉頭でしゃべれるようになって、私は妻と何度も口論(夫婦げんか)をした。気持が高ぶって来ると自然に声も高くなる。「そんな大きな声をして、表を通る人に聞こえるではありませんか」と妻が顔をしかめて、この戦争は爽やかに終結となった。これがしゃべれない頃だと、すねて黙否権を通すか、ハンガーストライキで抗戦するかで、暗い戦になってしまったのだ。

これは前に書いた事なので、要点だけ簡単に記すが、私が退職した時、使い始めて間もない人工喉頭で、五百人に向って告別の挨拶をした。あとで一番遠くに居た者に聞いたが、よく聞きとれたと答えてくれた。

つい二、三日前の日曜日だった。大屋根のテッペンのトタンがはげて、風でバタバタしているので、息子に登ってなおしてもらった。急傾斜のトタン屋根で、しかも折からの好天気でトタンが焼けていて、すべる足をふみこらえるのに苦心している。私は下でヒヤヒヤしながら「もう一メートル後ろだ」とか、「すべってこらえ切れなくなったら、腹ばいになって、脚をひろげて瓦棒でブレーキをかけて、静かに下の雪止めまですべって来い」 などと助言した。私の見上げている所から屋根のテッペンまで約二十メートルあるのだから、筆談など勿論できるわけではない。しゃべる以外に方法はないのだ。

これは大分以前の事だが、夕方で車の往来がはげしくなった歩道のない通りを私は歩いていた。私のすぐ前を、白衣を着たアンマさんが、白い杖を持って歩いて行く。 対向者が来たので、アンマさんは道路の右端によけた。 そのすぐ前に、一台の車が止めてあった。私は急いでアンマさんの手をとって、そこを通りぬけさせてあげた。アンマさんは感謝の言葉を残して歩いて行ったが、その後になって、テレビの身障者の座談会か何かで、そういう時は、直接手を取ってあげないで、「もう少し左 」とか「前に車があるから少し待ちなさい 」とか、言葉で注意してあげて、行動はアンマさん自身に任せる方が、メクラの人には親切なんだという話を聞いて、ここでもしゃべる事の必要性を痛感したのだ。

これらは私の術後十三年間の生活経験の中の、ほんの一部分にすぎないが、これによって私は、私たちの生活には、しゃべる事が必要だという事と、しゃべらなければいけないんだという事を申したかったのである。

そこであなた方が、私たちが、今当面している、失った声をとり戻すこと即ち発声の問題に移るわけである。

発声の練習については、指導員の方々が、それぞれの立場から、直接的具体的に指導されるので、また文章ではとても説明しきれないので、それはそちらの方へ譲って、私はここで発声練習に入る前の心構えについて申し述べたい。

手術の前に、「声帯を取っても、いろいろな方法で声が出るから心配はない」という事を、医師や看護婦にいわれて、手術を受ける決心をされた事と思う。私もそうだった。しかし今になってみると、あの時言われた言葉は、けっしてうそではないが、そんなに簡単に声が出るものではないという事を思い知らされるのだ。

又「人工喉頭はらくだ、すぐ声が出る」と、よく言われるが、これも間違っていると私は思う。なる程人工喉頭は笛の原理であるから、吹けば音が出る。しかしそれはあくまで音であって、声ではないのだ。人工喉頭で音を出すのは誰でもすぐできるが、声にし、心にしみとおる言葉にするには、言語には表しきれない幾多の困難があり、それをのり越えてゆく強い忍耐力と不屈の精神とそして旺盛な研究心がなければならないのだ。

どの方法がむずかしいか、らくかという事もよく話題にされるが、私なりにいわせてもらうと、一番らくなのは食道発声である。これは何も器具を使わないで、自分の肉体だけでやるのだから、自分の思うとおりにできるはずである。次が人工喉頭で、これは簡単なものだが笛という器具を操縦するのだから、自分の身体だけを操るよりは少しむずかしい。一番むずかしいのはエレクトロ何とかという電気器具である。これは人工喉頭より精巧な器具だから、操作には一段と困難さが加わるわけである。ところが私たちの周囲を見ると、食道発声や人工喉頭を、ちょっとかじってみて、うまくできないからと、この電気器具にうつる人がある。これは大変な考えちがいだと思う。エレクトロ何とかを使って、心にしみ透るような発声をする人を、私はまだ知らない。食道発声や人工喉頭さえできない人が、一番むずかしいものに取組んで成功するわけはないといったら、あまりにも酷だろうか。これらは私のへ理屈であって、実際には種々な条件、個人差で違ってくるものであるから、一概に決することはできないのだ。だから私は発声練習をすゝめるのに、どれが一番よいとか、この方法にしなさいとかいう事は、できるだけさしひかえている。どれに決定するかは、あなた自身で決めなければならないと思うからである。あなたの周囲を、先輩たちをよく見て、よく聞いて、これならできる、自分にはこれがよいというものを、あなた自身が決定すべきである。そして決定したら あれこれと助平根性を出して迷わずに、その道を真すぐに進む事だ。

人工喉頭と食道発声の両方ができればいいという人がある。なる程、できればそれに越した事はない。しかしある程度一方を習得して他方に移ると、前の方が後退するようである。したがって両方があぶはちとらずになってしまいがちである。両方を巧みに使いこなす人もあるが、両方とも一向に進歩しない人も数多くある。二兎を追うの古言の通りである。しかし自分はどうしても両方をものにしたい、どんな障害を乗り越えてみせるという勇者は、私はあえて止めはしない。 私は今、人工喉頭で、耐えられない程の不自由は感じていないし、又、これからもう一つの方法を練習する余力があるなら、その力を人工喉頭の完成に注ぎたいと思っているから、私は今後とも一匹の兎を追い続ける事でしょう。

― 一九七四・五・一五 ―


食道発声と人工笛の違い

理事(塩尻市) 塩原貢

信鈴会々報第五号発行に当り、人工笛と食道発声に就いて私の体験を書いてみたいと思います。私共会員は全員声帯を失ない、社会復帰のためにも、又私生活のためにも何んとしても声を求めなければ成らぬ者ばかりでもあります。声が出なければ死人同様であります。そこで声を出すには人工笛と食道発声との二通りに限りあるものであります。私は医学的な知識は全然ございませんが 手術を授けられた方々に接して色々と話を聞いてみます と、手術後声の出ない事は各人皆同じでございますが、其の他の食物の通り飲物等に就いても皆個人差がある様に思われます。何れにせよ、生きんがためには声を求めねばならぬ気持ちの重苦しさには変りはありません。但し発声出来て自分の意思を他人に伝えられる様に或るには、只々自己が努力以外には何ものもありません。そこで私の体験について愚筆ではございますが、一寸書いて皆様の御参考になればと思います。私は四十六年の五月に手術を受けまして生後六十余年使って来た声に別れを告げまして声のない人間となりました後、何んとかして一日も早く食道発声の指導を受けて厚生の道を開かねばと毎週木曜日信州大学病院に於て開かれる食道発声教室に通い、当時教室には松本市の須沢、大町の武井御両が指導員で御出席下さって熱心に発声方法に就いて御 指導下さいました。私は其の御指導の許に懸命に発声に 専念し回を重ねて何らかずつ発声が出来る様になり十月頃はどうやら話しが通じる様になりました。それから一年話す機会を成るべくつくり、語る度に段々声の出も良くなり、上手とは申せませんが、他人からも語る事が理解して貰える迄になりました。そして一年後 の四十七年秋でした。人間特有の強欲というのにさそわれ、これで人工笛を習えば鬼に金棒であると信じ、又新しく人工笛の練習に初まり、これも一生懸命に練習、只今では人工笛で他人に接する事が出来る様になりましたが、さてそこで只今から私が申し上げたい事は前述した如く、我々は声を出すには食道発声と人工笛と二通り更ありませんが、発声練習に初に何れかにして迷わず一方に専念する事です。私は人工笛に無中になっている内に折角習得した食道発が一向に駄目になり、現在ではほとんど人工笛で話して居ります。益々食道発声が出来なくなる事が目に見える程です。それは食道発声と人工喉頭とは全然基本が異なって居るからであると私は信じて居ります。両方は先ず駄目であると申上げたい。人工笛は肺から来る空気を利用して皆に伝え口の中で言葉にするのですし食道発声は食道に空気を飲んでそれを又戻して食道の入口で声にするという事ですから、食道発声は使えば使う程声もよくなり、出もよくなりますが、折角上手に発声できるようになりましても使わずに捨て置けば段々によい声は出なくなります。それが人工笛と異なる思います。

終わりに臨み、人工笛と食道発声の長所短所を一寸申上げますれば、食道発声は何れの場所に於てもすぐ声が出る誠に都合がよいが、残念な事に雑音の高い場所に於ては声が低いためか、他人に通じない場合がある。人工笛の音は食道発声と異なり、高いが一種の道具であるから、一先ず人工笛を取り出し、所定の位置に付けなけば話せないという欠点があるが、私は両方使ってみました経験から申上げると、食道発声より楽に話せるという長所もあると思います。何れにしても声を失った我々は健康な人とは違って更生するには一方ならぬ努力が必要になってきます。取りとめのない愚文を長々書きましたが以上経験の有りのままを書いて御参考になればと思います。

発声雜感

会長 石村吉甫

松本県町の元信大文理学部の前に文具類や煙草を売る店があり、懇意にしていたが、私が手術後訪ねた時、そこの奥様が私の発声を不思議そうに眺めるので、例の好奇心からかと思ったが、訳を聞いたところ、男がやはり喉摘者であったが筆談で一生を終えたが、あの時そんな便利なものがあったら、さぞ喜んだであろうし、あんな気の毒な思いをさせなくてすんだものをとの話であった。

この話を聞いて、わが信鈴会の使命をつくづく感じた次第である。喉摘者には手段方法は何如ようであれ声を与え、日常生活に不自由なくし、ひいて社会復帰に資することこそ、われわれの使命であると痛感した。

私が手術を受けた昭和四十四年には、今のように食道発声の指導者が手近かになく、東京へ行って習得する有様で、碓田さんが屢々東京の銀鈴会へ通って習得し、長野日赤病院で希望者に指導をしようとした時期であった。その後信鈴会が出来、食道発声教室が定期的に開かれ、熱心な指導者のお蔭で習得者も次々に上達し、今日の盛況を見ようとは夢想もしなかった。まことに喜ばしい次第である。私は公務の関係から出来るだけ早く発声することが必要で、病院に居られた佐藤先生から会う度に指導やら叱責をうけ、どうにか人工喉頭が使えるようになったが、塩原さんのように食道発声も出来、人工喉頭も使えるいわゆる両刀使いが理想的かもしれない。東京や大阪を初め喉摘者の団体の雑誌類にもよく両刀使いの人の話が出ているが、これは極めて少数の限られた人のことで誰にも出来るという訳にはゆかない。年齢や体質の関係から食道発声の出来ない人は、会の人工喉頭の係に相談されるのがよいと思う。人工喉頭は容易に発声出来るというが、やはり口中笛・金属製或はビニール製の笛又長短型式の相違等によって使用するゴムの厚さ、はり具合等多少要領も違うので、是非同じ型式の笛を使用している人に指導を受けられるとよいと思う。ただ音が出ても他人に通じなければ意味がない。どこの会へ行っても、ご自分は正確に発声しておられるつもりでも、仲々聞きとれぬ人がかなり居る。これは食道発声、人工喉頭何れにも通ずることである。そこで私はラジオカセットに録音して再生してみた。すると自分ではいい声のつもりが、がっかりするような声であったり、早口では聞きにくいとか、言葉のきり方、オクターブの高低等実によくわかる。電気発声器は、意外にオクターブが低く、振動音がめだつ。これは練習不足のためと思う。なぜなら長野で電気発声器のみでやっておられる神津勤様 発声器の使用を記したパンフレットを全国に配布された東京の小林治朗様と話した際ちっとも振動音が気にならなかったからである。かように幾多の反省すべき点が多くみつけられる。このごろはカセットテーブも安く手に入るので、家族との対話など録音し喉摘者でない人の声と対比など試みられるのもおもしろいと思う。

七年を経ても

理事(上田市) 北沢兎一郎

手術後の苦しい時代を経て早七年である。私は未だ会話という様な事も出来ずに居る。ただ声は出るが短い四・五音の単語が出るだけである。故碓田氏からの練習で今漸くそんなことである。毎日弐十分位は練習は欠かさない。そう言っても誰も本気にしないと思う。人が思うより当人の私が思う.......。

しゃべるということは自分の意思を相手に伝える事である。それが出来ない程つらい悲しい事はない。しゃべれる人が羨しいのです。手術後いつか信大の担任の吉井先生が私に、「北沢さんは右あご下の淋巴腺を取る時、再発しない様組織まで深く取ったので発声は他の方より少し遅れる」と言われたことがある。未だ耳に残っておる。 私は想う。人工喉頭でも食道発声でも、うまい人は単時間で実に早く進んで行くが、下手な者ほど苦しんでなかなかうまく行かないのが発声の例である様だ。勉学と同じ頭の良い悪いの差があるのだろうか、と私は思う。発声もしゃべる事も何かコツを得た時からがうまくなるのだが不思議でならない。私は手術前は商人で、しゃべる事によって生活をたてて居った私が手術後逐いに声が出なくなってしまったのだから人生とは皮肉である。

今私の苦しんで居るのは、アイウエオの五音位いは一気に出ても、続けて息を吸い込んで第二音が少し間を置かないと出ないことです。

今後も練習を重ねて下手でもしゃべれる様になりたいと思います。

再出発

須坂市 羽生田守夫

あなたはどこが悪いのですか、手術はいつですか、隣室の人からこんな質問をうける。六月十日に入院して二十日も手術を受けずにいる私を不思議に思ったのでしょう。同室の者は皆二、三日か一週間で鼻や耳の手術を受け、全快され喜んで退院してゆく中で、一人取り残された私は不安と焦燥の中で手術日の決定を待っていました。

四十七年七月十日手術の日が決定しました。いよいよ自分の番が来たかという感じと同時に、声帯をとられて声を失なうのかと思うと、一抹の淋しさが込み上げてみました。午後一時より五時間位かかって手術は無事済みました。気管孔にカニューレというものをはめられ呼吸をする訳ですが、ときどき痰がつまり息が苦しくなるのには閉口しました。一生こんなものをつけていなければならないのかと思うと悲しくなりました。又食事も口からは取れず鼻孔にゴムの管を通され、注射器のようなもので押込まれました。一週間位でこの管もとれることが出来まして、自力で味を賞味できる食事の美味さは今で も忘れることが出来ません。

体力が回復してくると同時に声が出ないという不自由さが身に沁みて来ました。会社へ復職するにしても声が出なければ不可能ではないか、そんな不安が頭から離れませんでした。なんとかして退院までには、片言でもよいからしゃべれるようになりたい、これが私の悲願でもありました。

婦長さんから「食道発声の手引書 」を頂き、それから私の発声練習が始った訳です。朝夕屋上に出ては練習をしました。原音が出ないことにはしゃべることは出来ない、原音の発声が基本であると書いてある。口の中に空気を頬張っては食道へ押し込む。初めの中は空気が食道へ入ってゆくのかどうかわからない、雲を摑むような練習でした。それでも何回も何回も練習していると、胃の部分が張った感じがして来ましたので空気が入ってゆくことを知りました。呑んだ空気の出し方もなかなか要領を得ませんでした。胸をすかせるようにして力むこと数回「ゲー」というゲップ が出ました。この「ゲップ 」の出たことにより非常に元気づけられまして、練習にも一生懸命になりました。

発声教室の清水さんから「信鈴」三号を頂戴したのも この頃でございました。皆さんの手記を読ませていただき、殆んどの方が食道発声に成功されていることを知り私にも出来ないことはないと勇を奮い練習に努力致しました。お蔭様で現在日常生活に不自由なく話が出来るようになり会社へも復職し、手術前と変りなく働いています。発声についてはまだ未熟な点も多く、これからも先輩の皆様の御指導をいただかねばと思いますが、よろしくお願い申上げる次第です。

うたえるか

牟礼村 鈴木ふさ

いつになったらうたえるかナ 声が悪くてナ

でもいつかは、きっと、うたってやる

そんな事を思いながら夕食のあと片付けをしている。

もう六年目、五年すぎた、十一月六日、遂に行きついた。

向岸、待って待って待ちこがれた五年、随分ながかった。張りつめた気持のゆるみとつかれで、十一月末からひどい風邪を引いて、始めて十日ばかりつとめも休んでしまった。

いろいろあった でもどうしても話せるようになりたい。うたいたい 話せる事って人間の特権 私にだって出来るさ。

あせりもした、イライラもした、おかげ様で少しは話せるようになって、とにかく時間をかけて練習、あせったって駄目、それより話すことが判って貰えるようにならなければと、もう一人の私はいう。全然駄目でなげ出した事も何度もあったが、此の道は決してらくではありません。千里の道も一歩から 歩け歩け まづいたら そこで考えて工夫して又やって見る いつかはきっと 道は開ける。私にだって出来るさ。

うたらしく うたえるようになるには まだまだ

でもいつかは皆さんに聞いて頂くときがあるだろう

それまで元気で頑張ろう。

声無き七ヶ月

中野市 永池広唯

昨年十月手術を受けて無喉頭になってから早いもの最早半年も過ぎ術前予想もしなかった声なき悲しい事実をともすれば孤独感や卑屈な心に成り勝ちで、一日も早く食道発声を物にしなければと思い練習してみますが、空気がのめないのかのんでも胃の方へ落ちてしまうのか、稀にアと言い位で自由自在というわけにはどうしてもだめなので思いきって一先人工笛を用いてという事に決め 早速五月十日に長野赤十字病院の耳鼻科発声教室へ島副会長様から心配して戴いた人工笛がありましたのでそれを持って伺いました。幸に吉池先生もお見えでしたので要点を色々と教わりたどたど乍らも少し話せる様になり僅でも勇気付けば過ぎし声なき七ヶ月は、もう問題ではなくなりました。私は信鈴が好きです。同病者の皆様のどんな細いことでも心から本当に理解しあえる良書です。 その良書に心の糧にもならないような一筆ですがお許し下さい。第五号の発刊を心からお待しています。

役に立つおしゃべり

松代町 吉池茂雄

きょうは日赤の練習日なので、早目に出かけて待つ。 中野市のNさんが入って来た。二週間前の練習日に、人工喉頭の使い方の手ほどきをしてあげたのだが、入って来るや否や私に話しかけた。たどたどしい話しぶりで、借りた本を返すつもりでいたが忘れて来てしまったという。初めは家に忘れて来たのだと思ったので、次の時でもよいではないかというと、家ではなくてバスの中に忘れて降りてしまったのだという事が、しばらく話し合っているうちにやっと判った。どうしたらよいかと言うわけである。バスの中だと、運がよければ残っているだろ から、営業所へ問い合わせるがよいというので、病院 の事務員の所へ私と二人で行って、事の次第を話して問い合わせの電話をたのむ事にした。

今日の0時00分中野発長野行のバスに、紙袋を忘れて来た事、紙袋の大きさ、色はこれこれで、中味は雑誌二冊、袋は〇〇さんからNさん宛に来た封筒で、表にNさんの住所氏名が書いてある事など話した。事務の人が承知してバスの営業所へ電話してくれた。一時間近くたって営業所から電話が来て、紙袋はあった。中野の営業所送っておくから、帰りに寄って受取ってくれとの事であった。

「Nさんよかったなあ、どうです、話ができるという事はいい事でしょう」というと、Nさんは喜びを顔にあらわして、「そうです、そうです」と言う。

「忘れて来た本が戻った事よりも、自分の話が相手に通じた喜びと感激が大きかったのだろうと、自分がかつてしゃべれるようになった時の感激を再び思いかえしてみるのだった。

「今日の事で、話ができる事の大事な事はよくわかったと思う。しかし今日のあなたの声は、ようやく、かろうじて相手の人にわかってもらえたという程度で、これからの練習が大切なのだ。そして今に奥さんから、話せるようになってから、うるさくてうるさくて、こんな事なら話ができないままで居てくれた方が静かでよかったなどと言われるようになりますよ」と言うと、Nさんはてれたような顔でうなづいていた。

今日のNさんは、話せる事の重要性を知り、自分の話が相手に通じ、自分のしゃべった事が役に立った喜びを知ったのだ。

『しゃべる時には常に相手がおり、自分のしゃべる事が相手に通じ、そしてそれが役に立つ』という事が、おしゃべりの大事な条件なのだ。ただ単に奇声を出す。声が出たというだけでは、おしゃべりの意味はないのだ。

人生の中ばで、心ならずも声を失った私たちにとってどんな発声法がよいかということが、しばしば話題になるが、私はこんな風に考えている。

「私は人工喉頭でしゃべる。あなたは食道発声法でしゃべる。あの人はエレクトロでしゃべっている。それでいいじゃないか。何も皆が同じ方法でなくても、方法にこだわらなくてもいいではないか。方法の論議よりも話せる事の方が大事なのだ。自分の意思が相手に通じ、それが役に立てば、そして更に望むなら、相手に気持よく聞いてもらえれば、それが最高の発声なのではないだろうか。」と。

Nさんは、今日の発声で自信をもち、更にその上のレベルに挑戦すべく精進することだろう。そしてこの自信は、バスや電車に乗る時の、又は知らぬ土地へ行く時のしゃべれない事に対する不安を追放してくれる事でしょう。そしてそれらの事が、Nさんの接する社会を広くし明るくし、楽しくすることに、大きな役割をもつという事を、Nさん自身が身をもって体得されることでしょう。

― 一九七四・五・二四 ―

健康の喜び

木曽駒高原 伊藤太郎吉

私は、昭和四十三年に信州大学病院耳鼻科に入院しました。七月八日に第一回の手術をしました。第二回目は九月四日に手術をしました。私は大きな手術を二度しましたが、お蔭様でその後七年の年月日がたちましたが風一つ引かないで元気に働いております。此の頃は毎日山にわらび取りに行きます。とても健康な毎日を送っております。此れも鈴木先生又は信鈴会の皆様方に色々と勇気をつけて頂きましたので、今は大衆の中に行てどんな話をするにも今は何んともなく、思うまゝに話しも出来ます。此れも長野赤十字病院耳鼻科内 信鈴会食道発声教室に行きまして一生懸命に発声練習をしました。そのお蔭で今は何んでも話しが出来るようになりました。毎日を楽しく働くという事は、ほんとうにありがたい事だと思い居ります。

信鈴会の皆さん一日一日を楽しくあかるく達者と勇気をもって毎日をお互いにがんばりましょう。

総会には、お元気なお顔を拝見しましょう。

其の日を楽しみにして居ります。

― 昭和四十九年六月 ―

しゃべれないで重責を担うて

上田市 北沢兎一郎

上田―松本間のバスが四月で止めてしまったので、汽車で篠ノ井乗り替えるためか、なんだか遠いような気がする。

先ず、朝五時半起床洗面朝食をとり、上田駅まで二十五分かかる。下り八時○四分の直江津行に間に合って三十度近い暑い日であった。篠ノ井で松本行十二分待ちで 待ってホームを見渡したら、保全橋の入口あたりに吉池さんを見つけ安心した。間もなく列車が入って、案外すいておったので同席できた。おばすて、麻績と窓の外を眺めると、いまや田植えの真盛りで農家は忙しい盛りである。そんな風景を眺めながら、明科を過ぎると間もなく松本であった。私は松本市はぜんぜんわからないので先ず一人で来れば駅前のバス停の前で待つより仕方なかった。

吉池さんが、見当がつくので歩こうということで歩くことにした。一ッ手前を右折したので、少しまご付いたが、横手にみどりやが見つかった。お城の入口である。二階の一室に通された私達は先着の方であった。間もなく会長の島さんが見えられた。いつも御壮健でお若い。それから議案を色々と審議された。無事終ったが、当日同じ会計監査の上野新三さんがお見えにならず、今更乍らしゃべれない私一人で、此の重責を担うて行かれるか心配である。良い機会に変りの方を見付けてほしいと思う。

しゃべれない程悲しい事はありません。責任のあるうちは苦しくもなんとか無事過し度いと思っております。

雑感

小諸町 吉池許由

「上見れば限りなし、下見て暮せ、下には遊山の尾形船」......病気をして発声が不能になってから、昔の様に自由に喋れたら、などと考える事も屡々ですが、友達や知人、教え児(教え子と申しましてももう四十才から年長者は六十)達が来て「ものは思いようだ、目でも見えなくなってしまえばテレビを見ることもできないし、外へ出歩くこともできない。世の中には中風で口も聞けない寝たっきりの病人もある。外に悪い所がなくて、盆栽をいじったり、碁を打ったり、出歩いたり出来るので などと論すべき子等に却って論されたりして、それもそうだ。それに喋る事も全然不可能な訳ではなく、自分の努力次第で喋る事も出来る。仲間の大勢の方々が喋れている、中には市長をやっている人もあり、歌を自由に歌いこなす人もある。手術をしない人と少しも変りない人がいる。昨年丁度今の頃松代の同人吉池さんが応々訪ね下さって、どんな方法でもよいから、早く喋れるようになる事だ。とご親切に色々と教えて下さったり、激励して下さった。そんな時や、こんな時、色々と焦って、会長さんにもお願いして、早速人工笛を送ってもらったり ネオボックスを使用してみたり、又日赤の発声教室の皆さんからも格別なご指導を賜わったり・・・こんな時に本当に心の輪の広がりの大きい事を有り難く感じたり、又元気づけられ、色々ともがいてみましたが、結局肺に力を入れると、気管孔よりの粘液の排出が多くなり、前掛がすぐにくしゃくしゃになってしまいますので、現在は発声練習を止めて専ら筆談によっております。(家族や、時々会う人等は口型を見て殆んど喋る事が解ってくれます)ただ凡人のあさましさで、一人でじっと考えておる時や、自由に喋っておる人達の話を聞いておると、 自分も昔のように自由に喋れたら(他の方々が殆んど練習によって喋れる様になっておるのに自分が努力もしないで)などと考え、こんな時によく自由に喋っていた時の夢などを見ます。

「野の鳥は籠の鳥の安全を羨やましく思い、籠の鳥は野の鳥の自由を羨やましく思うようなもの」かも知れませんが、ただ身体障害者であっても、精神や、心の障害者にまでならない様にと努めておる今日此の頃です。

人生と声

松本市 島成光

人生は初声に始まり、子供も成人も、親の声、師の声により教養を得、社会人として終生声により左右され、未来この希望を遠し得らるゝものであり、声は人生の肥であり、肥なくしては、草木も成育不可能である如く、声は社会人として一時も不可欠のものであります。

我々喉頭摘出者は、予期せざる喉頭疾患だが生命を護るためには、喉頭摘出手術を行ない、無言の余生を過す身となり、心痛のことであるが、然し医学の進歩にともない、無喉頭の我々に天与の発声電機器具や、人工喉頭笛により、又食道発 声法により、意中のことを、電機により、笛により、食道発声により、対他に話し通ずることのできる可能となったことを、我々は喜ぶ次第であります。

昔から無言の教訓ということを聞かされておるが、実行である。然し無言では日々通れない。人に思ったことを、人に信を伝えるには声である。声は常に我心を人に通じ、人に意思を伝えてこそ、日常生活の上に、社会人としての意義があり、社会に奉仕することができ、声は人生に欠くことのできない大切なものである。

親の声、師の声、社会の声を信じ、実行してこそ対他に喜びを与え、満足を与え、自他共に意の通ずることにより、日常生活に不自由なき日々を過し、感謝の生活のできるものである。

植物は肥により成育さるるが如く。人は人の声により成人と発達があり得可きものである。

しかし、声の良悪、高低の発音は、人心を左右するものであって、静かな声は人の温かさを求め、中音は日常生活の対話として常に用いらるるものであるが、高音調の対話は人に怒りを与え、感情を損うものである。

しかし、講演のごと大衆に接し、人情味のある我意見を述べる如き高音は実用で、私達は常に声の使い分け、使い方に心すべきことである。

児童が初声より一年一年声の発達を見るが如く。我々喉頭摘出者は常に児童の言語の如く、食道発声及人工笛により発声を自由自在に、対話ができるよう心がけ、常に発声に努力して頂きたい。

『何事も努力なせば、なるものである』

日常の生活に発声を怠たることなく、社会人としての本分をつくして頂きたいと思う。

『私は術後十年、八十歳の今日、健康で、社会の上奉仕して、日本各地を飛び廻る。何不自由なく。日々感謝の生活をしております。

身体障害者である私達は、健康は何よりの宝であると共に、健康に留意して。食道発声、人工発声により、社会人として屈することなく発声を推進して人生の本分ををつくし喜び勇んで通られんことを切望する次第であります。

『声は社会人として重要である。声は心から口から声により人心は左右さる可き貴重なものである』

喉摘者でない人へのグチ噺

鳥羽源二

大声で怒鳴ることも、抱腹して笑声を発することも、そして興に乗じて歌うことの出来ない人生は寂しいものだ。

思えば一昨年四月、喉頭摘手術の必要を言渡されて一応は承諾したものの、何とか手術せずに済まないものだろうかとの未練に東京へ飛び、筑地のガンセンターの耳鼻科の戸を叩いた。しかし結果は、信大附属病院で安心して手術を受けなさいと言われて帰松、五月手術を受け十月再び全摘出手術を受けました。音声は出なくなるとは予期していたものの麻酔がとれて来るに従い、現実に直面して、ほんとに言葉の出ない程のショックとはこのことだと思いました。

手術前に声帯は摘出しても、食道発生術があるから十分会話が出来ると言われてはいましたが、さて手術後会話のない生活が始まり、ジェスチャーを交えながらの筆談、なんと情無いことか、言いたいとの十分の一も相手に通じないもどかしさ。一変した己が人生を口惜んでもどうにもならない。兎に角会話を得なければ意見の交換も、接触もままならない。何とか食道発声で会話が出来るように成りたいと思い信大食道発声教室で武井、塩原 両先輩の御指導の下に懸命に発声訓練に取り組みました。一ヶ月、二ヶ月、漸く会話が出来るようになりましたが健康時即ち手術前といろいろ身体の器能の変化を認識しました。

先ず気管口で呼吸をする為、鼻孔を空気が通りません。だから嗅が解からなくなった。それ故においしい御馳走を食べても味覚が半減してしまう。例えば豚カツとゆこう。揚げたてのものにソースをかけて、その嗅を感じつつ、フォークとナイフを使い美味しそうだなと思いながら食べた過去と現在。折角季節のものだからと食膳に添えた高価な松茸の香の解らない今、茶保台を叩きたくなる口惜しさが身をつつむ。 味噌汁にしてしかり、カレーにしてしかり・・・・好きだった生そば、うどん、ラーメンも、今は余り好んで食べない。それはスルスル吸込んで食べることが出来なくなったからです。そして猫舌、熱いものは全くだめ、しかる食事と一緒に空気を呑み込んでしまうので思うように食事が通らず、少し食べれば満腹感で食欲がなくなる。鼻孔を空気が通らないことには鼻汁が出ても思う様にかめない現在では食道発声の要領で或程度は取れますが、スッキリ全部という訳には行きません。美しく咲き誇った花の香も、行き違った美人の香りも知ることが出来ないとは、何と味気ない人生だ。味気ない人生といえば静かな処では、食道発声で十分会話が出来ますが、大勢の人の寄合の席や、宴会の席では殆んど会話が通じない。だから宴会の席では専ら独酌するしか手がない。言いたい放題な事をいって飲んでおる人が、ほんとにニクラシク思える程です。先に気管口と記しましたが、このことで入浴の問題を考えられると思 いますがその通りです。気管口から湯が入らないようにせねばなりませんから、首迄湯につかることは無論のこと、肩からザブッーと湯をかぶることも出来ません。風呂好きの日本人の一人としてたまらなく物足りない入浴です。

食道発声、それはどういうことでしょう。喉頭摘出手術に依って声帯を失い、呼吸は気管口でします。だから声を出すには、一般の人の異った方法でなければ出来ません。そのため食道に空気を飲み込んで、之を逆流させ発声会話するのが食道発声術です。飲み込んだ空気が、全部発声する時に出てもらえば良いのですが、その一部が胃から腸へと入ってしまう。そればかりでなく食事の時、又それ以外な時にも何時か空気を飲み込んでいるらしい。その為に胃腸の中にガスが充満して下から爆発し飛出す。大きいときはゴヂラの息子の泣き声にまがうような音を出します。時間を決めて出て呉れば良いがそう は行きません。又普通冷房のきいた部屋は御気嫌な訳だが、これが駄目、厳寒時の外出、ホコリッポイところ、風の強い日にオートバイに乗ること、皆駄目、それに昨年四月リンパ腺転移の手術をしてから、右手の作動が何かと不自由になった。日によって一様ではないが、字を書いたり、算盤をハジイたりするにも思う様にならないことが間々有りますが、それより膚着の脱着で脱ぐことは左程ではないが、着るとき仲々うまく行かなくて閉口することがあります。着るもののついでにYシャツなど首にサイズを合わせると、身体にキュウキュウ、 合わせると首廻りがスカスカで結局市販品では不可になったのも困ったものだ。こんなことを書いていれば未だ未だいろいろあってきりがありませんが、生命は継いて頂いたが、種々と不自由があり、又食道発声にしてもより良く己れの意思を先方に明確に伝達する為に今後も発声の訓練と勉強を怠たることは出来ないのです。そしてよし現在よりも上手になったとしても、どこまでも代用音声であることには変りがない訳で、やはり周囲の方々の温かい理解と協力が是非必要であることは申すに及びません。現在の喉摘者及び今後喉摘手術をされる方への理解の一助にもなればとたわごとを記してみました。私達も喉摘者であるからと社会に甘えず、自分の努力と勉強で生き得る限り社会のお荷物にならない様頑張らなければなりません。尚信大附属病院内食道発声教室では毎週木曜日午後食道発声の訓練をしながら皆で情報の交換をしたり、励まし合ったりしております。そういう席へ出ることが喉摘者には最大 のプラスになることだと思いますから、是非積極的に出席して下さることを願って止みません。

食物について

松本市 石村吉甫

食道発声の市長として有名な佐世保の辻市長との会見談を見ると体力保持に非常に力をそそいで居られる。我々喉摘者は体力保持に努力しなければ発声も充分に出来ないこと銘記すべきである。

手術後の健康管理につき会員諸氏の実状を聞き度いと常々思っているが、いつも機を失しているので、私の実情を述べて、それについての御意見など伺えれば幸と思い二、三述べることとする。

手術後は味覚が変り手術前の味がわからなくなった。こんな筈ではなかったと思うことが屢々である。したがって食欲も減退しがちである。米食もすし、おじや等以外はまずくて殆んど口にしない。喉の通りが悪いためかと思われる。麺類は通りがいいため常に用いるようになった。猫舌になるのは喉摘者に通ずることと思うが、私はそれ程ひどくはない。ワサビが食べられないとよく雑誌等に出ているが、不思議に私は好物ですし、刺身にたっぷりワサビをきかせてよろこんでいる。煙草は手術前は学校でも有名なほど喫煙家だったが、手術を境にやめた。もう人の一生分はすったのだから悔はない。嗅いのわからないのは残念で、そのため味覚も半減すると思うが、阪大の佐藤武男教授が書いておられるところによると、嗅いがわからないのは、鼻から空気が通らないからで、口の中の空気を上手に動かしたり、鼻の空気を動かす様練習すればわかる様になるとあるが、どうもうまくゆかない。これは今後の課題である。こう書くと味覚ゼロのようだが、昨年東京の深大寺に案内され、名物深大寺ソバを馳走になったが、実にうまかった。又湯島聖堂内で中華料理の卓をかこんだが、是またすばらしくうま かった。そこで味覚いまだ衰えず美食あさりをしている。とはいっても、やはり流動食が食べいいので嫌いな野菜類はジュースにしたり、保健食のハウザー食を毎朝飲んだり、それ相当に注意しているつもりだ。喉摘者が体力が衰えると発声も出来なくなった例を聞くにつれ、充分体力の保持に努めたいものである。

私の日常生活

松本市 須沢徳正

「今夜もまたお出掛けですか 」と妻に聞かれ一寸皮肉に感じ、「又とは何んだ 」と思いながらメモを開くと二ヶ所、会合がつづいてある。時間は多少づれてはいるもの代人というわけにはいかない集りだ。

今日は特にいそがしい日で、午前中は葬式、午後は婚礼というかけ、しかし全部出席は出来ないし、仕方なく午前の部だけ代人をたのみ結婚式と晩の会合は私の出番ときめる。毎晩家に居ることのなくてとおし、朝は八時半の従業員朝礼に始まり、仕事の配置、専務、部長等の意見を聞き、時には見積り月末のまとめもやらねばならないが、夜はほとんど会合出勤だ。

そして次はボーリングとつづけ、ボーリングの腕前も決して若い者には負けないと思っている。東京から花の本以知子さんが出張して来ると、舞踊のけいこもしなけ ればならないし、好きな庭いじりも数ヶ所かけもちで、庭師先生も大変な仕事だ。

そんなに忙しく毎日を過ごして、良く馬力があると感心されるが、「かんれき」済みでいつ子供達が祝ってくれたのかもわからない。妻が赤白のトカゲのベルトを二本買ってきてお祝いといってくれたが、余り嬉しくもなく、だいたい本家がえりなんていうことは大嫌いだ。

先達ってライオンズの集合で、須沢ライオンは萬年青年といってくれたが、その言葉なら大いに歓迎する。とはいうものの、今年で何年目になるのかな、と考える時も折々ある。そうだ、あれは昭和四十一年の秋だった。生涯忘れ得ないあの日から自分の声とは永久に訣別したわけである。

それから八年、良くまあ無事で過ごしたものだと思う。 何時も後から死に神が追っかけてくるような錯覚がおき再発するのではないかと心配した時代もあったが、現在の私には、それは通用しない。

食道発声で話も出来るし、如何なる場所でも出席し、去年は以知子先生と組んで市民会館で、源氏物語の「光源氏 」を踊って大いに人気をよんだ次第である。

お蔭様で裏町や天神のお姉さん方も応援してくれ、まあまあ男みょうりというものではなかろうか。とも思う。

病気とは、読んで字のとおり、気の病が先達っている。こんなにも元気な私をごらんなさいといいたいが、考えると声も人並みでなく、切ないことだらけではあるものの、心のもちようで克服出来るし、又克服しなければならない。絶対に悲感は禁物だ。

医学は年々発達して私の手術の当時よりは、すべてが向上している折から、近い将来には声帯と同様なものが出来るかも知れない。手術をしないでも回復する時が来るに違いないことも確信している。 私達が病気したのも、医学の歴史に尊い記録の一ページを残した者だというように考えて、お世話になった先 生方の御指導のもとに頑張らなくてはならない。

最近手術をなさった方々も、体力ができたら勇気を出して社会復帰をしてほしいと考えております。

私に限らず、大先輩、島先生は八十歳の高齢を返上しそれこそ南は台湾、北は北海道と東奔西走して活躍しておられます。

こうした、はっきりした事実を見ても、お互い一層健康に気をつけて、信鈴会の一員として発奮しようではありませんか。

無題

理事 伊那箕輪町 田中芳人

会報の原稿をとの御連絡をいただいたが、何分にも貧乏暇なしで今日まできてしまったが、いよいよ今日が期限一ぱいということなので、仕事が終ったら今夜もまた十一時をすぎてしまったが、がまんして何か書きたい 思って筆をとってみた。

病気に関連したことは出来るだけ忘れようとしているので書く気はないが、さてというと中々とれという話題も浮んでない。

私は毎日出歩いて人と接するのが仕事なので、その間いろいろの話題も豊富にあり、中には事実は小説よりも奇なりというような実話もちょいちょい出てくるが、やはりこうしたことは私達の仕事の上で、口外することは禁じられているので、さしさわりのないことを何か拾ってみたいと思う。

話は昔(といっても十年位前だが)にさかのぼるが、私が自動車の運転免許をとろうとして喉頭摘出後、自動車教習所へ出頭したところ、受付の係員があなたは身体障害者だから公安委員会の適性検査を受けて、運転出来る車種を定めてもらわないと教習が出来ない、といわれたので、早速その手続きをとったところ、一週間程して出頭する場所と時間を記した文書が送達された。その時間に定められた場所に行ったところ、検査官(本当は何という職名か知らないが)が二人来ていて私の病気の発端から経過、使用している器具(私は人工笛を使っているので)の名称、構造等に至るまでの質問があり、最後に、此の人工笛の発売元及びパンフレット等(その内容には構造が記されているもの)を提出する様にと言われた。が、私は「出来て売っているものを買ったまでで、指摘されたようなものの提出はほとんど不可能だ」というと、それでは自分で構造を書けというので、有合せの紙に断面図を書いて出すと、今日は之で検査は終るが此の様な障害者については車の指定を直ちにすることは出来ないから何れ帰ってから指示するから待っているようにといわれて、当日の検査は終った訳であるが、帰路私は唯声帯がないというだけで、その他は五体満足なのに、声の出ない者の乗る自動車は一体どんなものかと実に不審に思い、帰宅後、誰彼にその話をすると、「べらべらしゃべり乍ら運転するより、だまって運転する方が事故も少ないだろう に ナァ・・・・」という、私自身も、もっともなことだと思い乍ら待っているとそれから約半月位( 検査後十七日目だと記憶している)たってから、検査の結果、普通車の教習を受けることを許可する旨の指示書が来たので、必要な書類其の他を揃えて教習所へ行ってようやく車を転がすことが出来るようになったが、こんなことで一ヶ月近くも延びてしまった。丁度此の時期は高校の子供達の卒業直前で就職の為の教習等と重なって時間をとるために中々苦労したことを覚えている。

適性検査のいきさつもさることながら、此の期間中に憶出に残るいま一つのことは、教習課程が全部終って検定を受ける当日は、教官と公安委員会の試験官が同乗して定められたコースを、定められた方法で一週する訳であるが、若し一、途中でコース等を忘れたり、その他のことで質問するときは運転し乍ら質問することが原則であり、若し不用意に一旦停車でもすると即座に失格となる訳であるが、私の場合はどうしても笛を使用しないと話が出来ないので、運転し乍らの質問は不可能だということで、構造の講義を受持っておられた相沢さんという教官の方が、わざわざ試験官の人に事情をいって、私に 限って質問事項があったらどこで停車しても宜しいという、それこそ異例の処置をとってくれた。

幸にコースもどうにか聞違えず通過して事無きを得て一回で合格ということになった訳であるが、此の措置に対しては相沢教官初め、同乗された試験官の諸氏に今でも深く感謝している。

こうして、当時の受講者としては年長者の分にはいり乍らも、教官諸氏の熱心な指導のお蔭で順調に免許が与えられた訳であるが、今でも時々適性検査、其の他のことを憶い出して一人苦笑している次第である。

これからの人たちにも、或は音声機能そう失後、免許をとりたいという人もあるであろうが、このことにつけても食道発声を十分に身につけて、障害者乍らも会社に不自由がない様訓練をしないと、思わぬ処で曲り道をしたり、足踏みをしたりで、貴重な日時を空費することもあろうかとも思われるので、私のにがい経験から一言申し添えておく。

思い出

塩尻市 塩原貢

過去を省り見ますれば、小生が信鈴会の会員に加えて貰ったのは三年前である。其の当時の会員は四十数名でありましたのに、目下六十余名というものものしい増員を見ている会員が増えることはいわゆる会の発展につながる事で、我等会員は大声をあげて喜ばねば成らぬが残念な事に喜べない。深く考えると実に悲しい事である。 一般の活動的な会とは異なり、我信鈴会は悲しくも声を失った身障者の集まりである。この悲しき運命の人間が年々と増加の一途をたどっている事は実に悲しまざるを得ません。社会復帰の為には苦しい困難を克服して、食道発声又は人工笛に依って声を求めねばなりませんが、 一般の人から見ると、我々が食道発声にて声を出して居る事は普通健全な人が声帯から出る声と同じ様に考えられて居る。私が申上げるまでもなく、食道発声にて会話する事は一通りの苦しみではない、重労働である。我々食道発声者は成可く言葉の節約する様務めている。話したい事も骨が折れるため、遂い十分に語り尽くすことが出来なく、口数が少なくなり、言の少ない事は何かと不理になる場合が多い。普通の人は話し疲れるという事はおそらくないであろうが、私共は話し尽さねばならぬ問題があっても遂い苦労なので口を閉じる場合が多くなる。誠に残念な事であるが、運命には勝てない物であまり悲観的な事を書きましたが。これがいつわらざる事実である。残念乍ら悪い運命の星の下に生まれた不運の一人一 人でありますが、こんな事で悲観してはおられない。大いに元気を出して我個性を十分生かして活躍しようではありませんか。孤独にならぬ事です。我共障害者は別段国や県に使って生きようとは思っては居りませんが、国が定めた福祉法に依って障害者年令制度という法がありますが、国はその制度を公平に適用してはいないのが現状であります。これは仲間から聞いて知った事ですが、厚生年金を掛けてきた人が、障害年金として昨年から障害年金を貰って居る。但し国が進んで調査して適用して居るので無く、申請した者に限り適用して居るのです。 此の法を知らずに無申請で居る者は、そのまま放置され ておる事で、誠に残念な事です。受ける資格があり乍ら定められたる法を知らぬために障害者年金を貰わずに居る人が相当な数にのぼって居る事と思います。国民年金に此の法が適用されるか否かは私もまだ知らない。しかし、厚生年金であろうが、国民年金であろうが、障害者には変りはありません。国にこうした制度がある限り、医師の診断書を貰って勇気を出して申請する事を望みます。申請書は各市国民年金課にあります。

さてつりつまのあわぬ事、長々書きましたが、何れにしても我々の仲間が段々増えて居る事は悲しい事です。

願わくば、我長野県信鈴会が会員なくして解散出来る様な時の来る事を期待して止みません。

Kさんへの手紙

松代町 吉池茂雄

Kさん、昨日は松本の総会ご苦労様でした。帰りの松本駅で列車待合せの時間中に起きた事件、それは事件というほどの事ではなく、たった一、二分間の出来事であったが、それは貴方にとって、新しい決意を固める重大なきっかけになった事と思います。もし貴方がそれほどに感じて居ないのなら、ぜひ考えなおしてもらいたいと私は切に望んでおります。

貴方は急行で帰るべく一足先に会場を出たが、私が駅に着いた時には乗りおくれて待合室に居られた。次の列車は普通列車だったので、買い求めた急行券は不用になってしまった。そこで不用になった急行券を払い戻してもらえるかというのが事の始まりである。私が改札係に聞いてみると、払い戻しが出来るから精算窓口へ行けという事である。私がその旨をKさんに話し精算所の場所を教えてあげた。貴方は、自分は声が出せないから一緒に行ってくれといわれた。それ位の事は一人で出来るだろうと思ったが、それでもと思って一緒に行ってあげた。 精算窓口で私がしゃべった事は

「この切符払い戻しできますか 」

「すみませんでした。」

たったこの二言だった。そして七十円の払い戻しを受け取った。

事件・出来事というのはたったこれだけの事である。 しかし私は、この事は重大な事だと思っている。

貴方は楽隠居(と申し上げてよいかどうかわからないが)の身分で、家では何不自由なく暮らして居られるが一歩外に出れば、こんなささいな事でも人手をかりなければ出来ないという事は、男一匹、あまりに情ない事ではないか。どこへ行っても、誰とでも、自分一人で用が足せる事が、貴方が社会に出るために大事な条件になるのではないだろうか。貴方は今まで、しゃべる事の必要性をあまり感じていなかったと思う。そして、それで何とか生活を続けて来られた。しかし社会は、他人の世界は、そんな甘い考えで渡れるものではありません。自分の意見を、要求を、ことばによって表現しなければ、相手には通じないのだ。私たちが社会生活をするには、しゃべる事が絶対に必要なのだ。

貴方が食道発声の練習をはじめて、もう五年を越したと思う。その間、途中で一度人工喉頭を口にされたが、すぐに吐き出してしまった。それは奥様や御家族の方々が、人工喉頭の音色をきらわれた事も原因していると思う。そして再び食道発声を続けてきたが、指導に当っている人は、大分声が出るようになったと言われるが、私には進歩の跡はうかがえない。お気毒だがそうなのだ。

指導者は努力が足りないからだと言う。貴方は、自分の身体が合わないから声が出ないと申される。そこで私は申し上げたい。自分に合わない事を、貴方はいつまで続けるつもりか。そして人手をかりなければ出来ないような生活をいつまで続けるつもりなのか。

食道発声がだめなら、人工喉頭があるではないか、もっと他にも発声の方法はあるでしょう。どの方法でなければいけないという事はないのだ。要はしゃべる事なのだ。しゃべれさえすれば私たちは常人と変りないのです。

昨日の出来事を契機として、貴方の進路変更の断を下すべきだと思います。

ずい分むごい事を申して来ましたが、これによって、

「なにくそ、おれだってやるぞ。」と貴方が奮起してくれれば本当にありがたいのです。

私はこの手紙を貴方に送るために書き始めたのだが、書いている途中で、貴方と同じ悩みをもた仲間が、他にも居るのではないか、少しでも多くの人の指針となればと思い、そして、そうなれば貴方も許して下さるだろうと思って、この手紙を信鈴五号の編集室へ送る事にしました。私の独断の行為を、どうぞお許し下さい。貴方の前途に光明が現われるように祈っております。

― 一九七四年七月一日 ―

松本市 須沢登美子

雨の夕暮れ時、なんとなく縁側の端に腰をおろし池を眺める。

音もなく降るのを五月雨というのか、坪足らずの浅い池の水面に、こまかな波紋が広がっては消えるのをただ見ていると、錦鯉が足許に集まって来ているのに気がつく。口をいっぱいに開けて、パクパク水をはじかせ待機しているのは餌の催促と知りながら、水中に手をふせると、きそって指先にまつわりつき、さわっても一向に逃げようともしないばかりか、背ひれをなぜると気持ち良さそうな顔をしているのに、笑いがこみあげてくる。

餌を手の平にのせ水に浮かせると、次第に飛びついてきてくすぐったく感じる。そんな池の真中に取り残された循環ポンプの蓋があって、あじさいの鉢植えがのっている。白い花が二輪、鉢いっぱいに咲いて、雨が手伝ってか、今にもしほれそうにたれている。

向いの石の間からは、かすかに水が落ちこみ、しぶきに打たれた海どうの葉や、いつも原始的な感じを思わせる雪の下の赤いつるがのびており、葉と葉の間を這っている。それに若い緑の苔が庭石をやわらかに包み、きれいさを増して美しい。

早咲きのつゝじも、盛りを過ぎて色はあせてさびしげな後方に、こんもりとした茂みの中から、真赤なつゝじの花が二つ、三つ、ちらほらして咲き始めて妙に対照的な感じを与え、ふと何をか思わせる。

ひっそりとのぞいている石楠花も、まだ固そうではあるが今年もまた、たのしませてくれる予感がし、まだ皮のはげ切らない青竹は、特に主人の好きなものの一つである。

突然に、ピシャビシャと音がする

鯉が一匹はねておどり、水面に落ちて背を横にかしげ、すべるように石かげにかくれた。その音におどろき、今迄あまり意識しなかった表通りの騒音、自動車のあわただしい気配に、自分も急にいそがしさを感じてきた。

ほんの一時の間であったが、自然の中にとけこんだ私をたのしくしてくれ、はずんだ心で夕餉の仕度にとりかかることが出来る。

いつか主人も横に立って、庭をながめていた。

それはある日の雨の夕ぐれでした。

老耄春を待つ

茅野市 上条行雄

七十日八十九日耄 礼記曲礼篇

年老いて人中に出る稀となり今日の集ひにわれが年嵩

この冬の厳しき凍みに怯えをり障りある身の齢重ねて

無為自然心むなしくこもりをり長き冬越す老いの養生

父の忌に挿しし千両そのままに花瓶にありて今日の大寒

視野狭く行動範囲更に狭く老いて佗しき如月に倦む、

老い耄け寒さに怯え籠りをりさあれ隠遁は許されぬわれ

日にいく度眼鏡を探しペンを探し人工喉頭を探す老いの籠り居

二月尽冴えかへりたる静けさに雪踏みて剪るまんさくの花

しゃべりすぎ憎まるること多き世に喉笛除けし友の集り

手術して呼吸の仕方変りしが嚔鼻風に悩むはじめて

老い耄け声失ひて脚なえぎ畑に出でむ春を待ちわぶ

赤彦門残り少なき一人となりおほけなくして参る忌歌会

われよりも年若き友の死にゆくを次ぎつぎ悼み彼岸会迎え

喉の手術己に手遅れ伝へ聞きこころひそかに虞れゐたり

同病の喉頭癌に身まかりし君はわれより十歳年下

― 昭和九・一月~三月 ―