「日本化かはた基督化か」

海老名弾正「日本化かはた基督化か」(『新国民の修養』所収、実業之日本社、明治43年〈1910〉9月21日、pp.273~281)

*初出:『新人』11巻3号(明治43年〈1910〉3月1日)

*旧字体を新字体に改めた

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   (一)


基督教を日本化して、日本的基督教とせよとの叫びは二十年前より聞き始めたるものなるが、この声は一朝にして止むべきものにあらず、実に百年以上の永き年月を経過するにあらざれば、その大目的は達せられざる也。今後幾久しくこの声は叫ばるゝならん。否叫ばれざるを得ず。日本国民よりいへば、基督教にして若し日本化せられざる性格を有するものならば、国民は二千有余年の奮闘を以て贏ち得たるその性格を維持する上よりして、勢ひ基督教を排斥せざるべからず。又基督教よりいへば、日本国民を教化せんと欲する時、双方の性格に於て同化する結合点を見出さゞるに於ては、到底その教化の大目的を達する事能はじ。故に孰れより見るも基督教の日本化は必然の運命なり。基督教も二千年の歴史を有し、日本国民も二十年の歴史を有す。その人類史上に於ける価値は毫も毀損せらるべからず。基督教の日本化はその性格をそこなひ又その価値を損ずる所以たらざるベきを期すべき也。

ダニエル書又はヨハネ黙示録に示されたるが如く、異邦の帝国を以て悪魔の所為となすが如きは、浅薄なる二元論の見地より観察したるものにして、近代の史眼を[p.274]以て見れば幼稚といはざるを得す。若し夫れ基督教が天啓に由来するものならば、日本国民も亦神の摂理に基きて生れたるものと論断すべきなり。二つながら同じく神より出でたるものならば、等しく使命を有することは疑を容れず。故に基督教の日本化は即ち日本国民の使命を完うせしむる所以にして、断じてその使命を毀損するものたるべからず。


   (二)


従来基督教の日本化を論ずるものは一にそが欧米式を脱して日本式となるを云へり。而してその欧米式といふも専ら外観をいふに過ぎずして、国家の大祭日に国旗を建るとか、陛下の御真影を拝すとか、墓参をするとか、焼香をするとか、斯ることを云々するに止まれり。然れども是等は毫も宗敷の本領に関することにはあらず、偏に国風に関することなれば、基督教徒たると否とを問はず、無論日本人として行ふべき礼儀のみ。基督教が是等の風俗にまで干渉するが如き、固より其本領にあらざるは論を待たじ、是等の形式的日本化は皮相のことにして、俗輩より見れば、基督教が能く日本化したりと喜ぶべけれども、此位にては未だ日本化と云ふこと[p.275]を得ず。天皇皇后両陛下の御真影を会堂又は学校の講堂に安置したればとて、未だ以て吾人の大和魂を安心せしむること能はざるなり。基督教も天主教となつては羅馬法皇を神聖とし、其命令を以て絶対の権威となす、之れ果して天皇の神聖と尊厳と両立するものなるべきか。地上に於て二人の主権者を仰ぐこと果して矛盾に非ざるか。若し夫れ二者の権威が衝突することあらば、吾人は夫れの孰れにか服徒せんとする。日本人として天皇の命令に服従すべきこと素より論なき也。天主教徒をして此けぢめを承知せしむることは即ち天圭教の日本化なり。又新教の連中にもナザレの耶蘇を以てキリストと信ずるにより恰も地上の主権者なるかの如く思惟するものあり。新旧約聖書中には基督を全く地上の主君として歌ひたる所もなきに非ず。斯るキリストは時の皇帝と衝突を免れじ。黙示録のキリストは羅馬皇帝と衝突し,ダニエル書のメシヤはスリヤ国王と衝突せり。斯の如き基督教は到底日本の国体と衝突を免れす。故に皇国の基督教は宣しくその政治的キリスト観を去つて、全くロゴス哲学のキリスト観とならざるべからず。黙示録の基督観と約翰伝の基督観との間には大なる相違あり。彼は日本の[p.276]国体と衝突し、而して此は断じて然らざるなり。故に日本のクリスチヤンは全く政治的キリスト観を排除せざるべからず。此の如く独り形式の上のみならず、信仰の見解に於ても、日本人として其本領を保守する点に於て、また断然欧米に行はるゝ信仰の形式を棄つるの要あるものなり。


   (三)


吾人をして二者の結合する二三の要点を論ぜしめよ。基督教は歴史の神を信ず。その起源以前に遡って遠くユダヤの歴史に神の摂理を認めたりき、従つてまた初代のクリスチヤンはギリシヤの思想史にも神の摂理の存するを確信したりき。約翰伝の総論も希伯来書の立論も又は保羅の歴史哲学も史上に於ける神の智恵又はロゴスの内在的霊能を認めぬ。日本帝国は国民を指導し鑑臨する神明を信じたり。此史的神明の信仰は日本国民と基督教との主要なる結合点なり。旦又日本国民の神が人格的性質を有せるは、新旧約聖書の神と酷似す。日本国民の神が仏教と儒教との感化によって凡神的傾向を示せるは、恰も基督教の神がギリシヤ哲学の凡神的思想の感化を受けながら、その固有の人格的性質を失はざり[p.277]しが如し、二者の性格よく酷似す。又日本人は敬神忠君の二徳に於て敬神よりも忠君の方面に発展したること昭々として史上に明なり。而かも決して敬神を軽視するにあらず。旧新約聖書は忠君の真理を軽ぜざりしと雖、専ら敬神の方面に於て著しく其発展を遂げぬ。而かもその所謂敬神は熱烈なる忠君に外ならざる也。専ら忠に発達したるは帝国を造り、著しく敬に発展したるは人類の宗教を生じぬ。故に旧新約聖書の敬神の教は我が敬神の道と結合して、又能く我忠君の至情を深うすること[「こと」は原文では合字]を得べき也。しかのみならず、基督教は厳格に正義公道を高調し、日本国民も亦古今を通じて大義名分を主張せり、二者の倫理的なる蓋し肝胆相照らして結合し一致し得る所以なり。基督教の方面より論ずれば、その偉大なる理想を実現せんと欲して奮闘しつゝあるが故に、それが日本国民に同化してその霊能とならんことは、則ちその深遠なる神国の理想を地上に実現する所以なり。夫れ道は器を要す。国民は最も有力なる活ける器なり。この器に充実するに非らざる以上は道は空にして力なし。基督教は本来冥想の宗数にあらず、又空しく未来を予想し翹望するの宗教にあらず、実際国民の中に充実して天国の実現を企図[p.278]し経営する倫理的奮闘の宗教なり。日本国民はその本来の生命を盛んならしめて、世界に膨張せんと欲するが故に、基督教の理想と生命とを取って自己の能力とするは則ちその使命を遂ぐる所以なり。故に二者の婚姻は世界の最も祝すべき事実にあらざるべきか。


   (四)


こゝに基督教が日本を基督化する使命を主張し、日本が基督化せらるゝを許容する所以のもの多々あるべし。試みに吾人は僅々その二三要点を挙げて論ぜんと思ふなり。抑も日本が基督化せらるべき所以は、先づ国民を指導し、訓練し、鞭韃し、慰藉する所の神明を明確に承認することなり。日本国民の史的精神はその根ざす所深く、その発展する所遠し。しかしてこの国民的生命は道義的にして之を万国に施して戻らずと確信する所のものなり。彼の利己主義の如きは全くこの国民的生命の性格に反するものにして、日本国民の敵たるべし。基督教の信仰に由れる義人は生くべしと主張するものは、則ち日本国民の自覚を要する所なり。この道義的精神の本源は深く宇宙の根底に発するもの、又その人格的実在は国民の[p.279]父母として尊崇すべき天父にあり。この天父は独り日本民族の祖先にあらずして世界万民の主宰なり。この信念の内容には世界が宿れり。天父は一人又は一国民の父母にあらじ、実に世界人類共通の公父なり。この公父は独り大慈大悲の理体にあらずして、公義正道の霊能なり。畏るべく恭むべく敬すべく愛すべく又親しむべき活ける神なり。日本国民をして雄大ならしむる所以のもの此世界的信念にあらすして何ぞや。過去二千歳の日本史は光栄あるものには相違なしと雖ども、その敵愾心多くして防禦的なるは亦已むを得ざる所なりき。日本の僧侶にして韓国又は満州又は支那帝国の教化に従事し、その同胞をして此事業に貢献せしめたるものあるを聞かず。基督教は目下外部より日本国民の世界的運動を促し居ると雖も、未だ内部より已むにやまれぬ博愛心の勃興を奨導するものなし。是れ真に人民各自の深き信念より来るべきものなり、言ひ換ふれば内在の基督を自覚するものが増加するにあり、然らば則ち博愛の事業勃興して世界に貢献するものゝ多らん事吾人の信じて疑はざる所なり。これ則ち日本国民の基督化なり。基督教の精髄は先づ国民と婚姻して、一心同体となり、而してその所謂基督教なる[p.280]ものは全然日本国民に併呑されたるの観を呈せざるべからず。国民をしてその根底よりして新なる神的生命を発せしめ、その従来の狭隘なる民族主義を脱却して人類主義を旨とするに至らしむる、即ち吾人の所謂基督化なり。日本化と基督化とはその根底に於て一なるが如く、その発展に於ても亦一なり。即ち世界人類の幸福を増進するに外ならじ。吾人が国民の基督化を主張するは則ち国民本来の性格を完成せしめんとする所以なり。


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