「神社崇敬の疑問」

海老名弾正「神社崇敬の疑問」(『国民道徳と基督教』所収、北文館、明治45年〈1912〉2月3日、pp.35~44)

*初出:『新人』12巻7号(明治44年〈1911〉7月1日)

*旧字体を新字体に直し、合字は開いて表記した。


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 内務省と文部省とが昨年殊更に神社崇敬を奨励し始めたのは、定めて時勢に感激したる深き仔細の存する所であつたらう。吾々は当局者が国家の為にする腐心の程を察せねばならぬ。然れども神社崇敬は古代の遺物なるが故に、科学教育を受けつゝある今時の者には、明確なる理由を示さすして之を強ふる訳には行くまい。単純にも祖先が崇敬したりとの理由を以て、吾人に之を崇敬せよといふが[p.35]如きは、今時の日本人を馬鹿にするものである。神社崇敬には幾多の疑が起らないのであらうか。

 第一に起るべき疑間は神社崇敬は宗教なるか、しからざるかである。明治政府従来の方針によれば、神社を以て宗教以外に独立せしめやうとしたかの如く思はれる。果して然からんか、神社崇敬は断じて信教の自由を妨ぐるものではない。耶仏の異同を論ぜず、信教の一事は各人勝手に営み得べきことである。神社崇敬を以て之に干渉すべからざるは明々白々である。神社崇敬と信教自由とは衝突なくして何処までも並行すべき筈のものである。此の如く神社崇敬をして宗教以外に独立せしめんと欲せば、全然之れより宗教的分子を取り除かねばならぬ。若し日本人には日本の神あり、外教の神を信ずるは、日本の神々に封して不敬なりと主張するものあらば、是れ取りも直さず神社と宗教とを混同するものである。当局者は斯る愚論の跋扈を取締る責任があるのである。荀も信教の自由を憲法に於て公言したる以上は、若しこゝに神社崇敬を以て帝国臣民の信教自由を妨碍するものあらば、神社崇敬の奨励者たる当局者はその責任の甚大なるを自覚せね[p.36]ばならぬ。世間には神社と宗教との区別を弁へず、神社崇敬を以て信教を妨碍し、以て帝国憲法の権威を無視せんとするものもある。当局者は果して之に注意し居るだらうか。神社崇敬は全然宗教より区別するにあらざれば、之を奨励する当局者自からが信教の権利を奪ひ、憲法の違反者となる恐れないともいへぬ。吾人は二者の明確なる区別を聞かんと欲する。

 吾人は当局者が神社崇敬に苦代の迷信が付随し居るを承知し居るや否やを疑ふ。日本の神社は従来神明の鎮み安んする所なりと思惟せらる。然らば個人の霊魂不朽は先天的に承認せられて居る筈である。古来鎮魂祭なるものあり、又近時招魂祭なるものあり、是れは孰れも霊魂不朽を承認して居る仕方である。しかしてこの霊魂不朽は物質不滅の如きものにあらずして、個々別々の霊魂不朽を意味するや疑ひない。此の如き信念は従来の神社よりは除き去られない。此の信念を除き去るならば、神社は忽にしてその尊厳を失ふのである。当局者は果して霊魂不朽の明確なる信念を有するのであらうか。若し是れなからんか、神社崇敬の主張は是れ己を欺き又人を欺くものといはねばならぬ。神社崇敬は果して文[p.37]部省の真面目に重大視する所であらうか。然らば上は大学教授より下は小学教員に至るまで、苟も霊魂不朽を承認せざるものは、断じて教鞭を執る資格なきことゝなる。文部省は果して不信の教授教員を免職する勇気があるだらうか。さて霊魂不朽の信念は宗教問題であらうか、将た国家問題であらうか。若し夫れが宗教問題であるならば、之を信ずると信ぜざるとは個人の自由である、誰れも之に干渉し又は之を強ゆる訳には行かぬ。若し夫れが果して国家問題であるならば、荀も日本人たるものは之を信せ[ママ]ねばならない。然るに内務省と文部省とが神社崇敬を奨励するのは、従来の信念を承認した上の事とせねばならぬから、是れ取り直さず宗教問題に干渉するものといはねばならぬ。霊魂不朽の信念を神社より取り去らざる限りは、神社崇敬は依然として宗教問題である。当局者は果して此重大なる宗教的分子を神社より除き去る識見と勇気とを有するのであらうか。

 しかのみならず、日本の神社には、重魂不朽以上の意味なくてはならぬ。何んとなれば次に起るべき問題は某々の霊魂が神殿の中に鎮み居るといふことゝなるのである。霊魂不朽を信ずるものも、その霊魂が特別の意義を以て特別なる家屋[p.38]に鎮み居るといふことは、容易に信じ得べき所ではない。神社崇敬を奨励する当局者は果して之れが証明を立て得ることが出来やうか。この信念は民族幼雅の信念にして、本来証明を要する価値あるものではない、しかし神社崇敬を奨励する当局者は必ずこの幼稚なる信念を価値あるものとするものである。然らずんば之を奨励する筈はないのである。神殿に於ける霊魂鎮在の信念は今日より之を見れば、則ち迷信である。当局者は国家の為めに尚此迷信を鼓吹せんと欲するのだらうか。此迷信には更に又面白き迷信がある。そは他にあらず、霊魂分[ルビ:ミタマワケ]のことである。同一の神霊が一個神社に鎮在することすら、極めて訝しきことであるが、所々の神社に霊魂分[ルビ:ミタマワケ]せらるゝの一事に至つては、全く迷信といはねばならぬ。然れども之を信ぜざれば、同一の神霊を二ヶ所以上に祭ることは不可能である。此迷信を承認せざる限りは、神社の尊敬と神聖とは保たれないのである。神社崇敬は果して古代の宗教観念より脱却せらるべきであらうか、吾人は疑ひなきこと能はぬ。当局者の意見果して如何。

 日本の神社には必ず神霊なるものがある。鏡剣玉等即ち是れである。幼稚の[p.39]人々はこの神物に神霊が宿るとの信念を有する。世界何の民族を間はず、蒙味の時代には此の如き信念があつた、之をアニミズムといふ、即ち死物を生物視し、神霊の身体と視するのである。日本の神社には今尚此信念の遺存するではなからうか。又トテミズムと称して、狐狸猿蛇等の動物を祖先とすることがある。我日本人の中には此類の動物を祖先として崇め奉れるものがあつた。故に祖先崇拝の鼓吹者は深く此辺の事を研究して置かねばならぬ。若し十把一束に祖先崇拝を鼓吹せんか、是れ我明治盛代の人民をして動物崇拝の愚を学ばしむることゝなる。是れは吾人を侮辱するものにあらずして何んであらう。此の外フエテシズム鏡剣玉等に奇妙不思議の霊能ありと信じ、驚くべき奇跡をなすものと思ひ、真面目に之を畏敬するものもある。之れは野蛮時代の崇敬にして、現代の蛮民にも依然として存するのである。我日本の神社には是等野蛮時代の遺物が崇厳なる神体として、神殿に飾られ居るではなからうか。是等の信念と科学思想とは天地も啻ならない。我日本の当局者は果して是等迷信の巣窟たる神社を我明治盛代の人民に崇敬せしめんと欲する意あるだらうか。吾人はその然らざるを知ると雖も、当[p.40]局者にして若し是等の迷信を除き去らざる以上は、神社崇敬の実行を奨励す[ママ]権利ないのである。従来の神社にはこの迷信あることは疑ひない。本居宣長の玉鉾百首の中に

 神といへばみなひとしくや思ふらん

  鳥なるもあり虫なるもあり

とあるを以て見れば、日本の神社には此の如き愚なる動物崇敬も混同し居るが故に、神社崇敬の奨勘は正しく迷信の奨励となるのではなからうか、又虚偽の鼓吹とならないのだらうか。当局者は果して此辺に留意したことがあるだらうか。

 以上述べたことのみならず、天体及び自然界の現象を神として崇敬することは、アニミズムの一種として見るべきものである。此迷信は古代より博へ来つて、日本神社の真髄となつて居るもある。日輪は申すに及ばず、月輪も暴風も、雷鳴も神霊あるものとなし、之を崇敬したのではなからうか。本居宣長の歌に

 いやしけどいかづちこたまきつねとら

  龍のたぐひも神のかたはし[p.41]

日本の神社には現代の人より見れば、実に驚くに堪へたるものをすら装置することがある、鏡剣玉を始として狐狸の属、甚しきは生殖機をも安置することがある。内務省や文部省は神社崇敬を奨励せんと欲する以上は、先づ神祇の神体調査をなして、一大改革を断行せざるべからず。所謂神体なるものには取り片付くべきものもある。若し之を断行することができないならば、其希望に反して驚くべき不敬漢を生じ、虚偽の奴を作らんは、智者を待つて知らないのである。

 此外尚研究すべきものがある。日本の神社には史的事実ならざる神話より成立つ想像を神視するもあるだらう。元来古事記や日本書記にあるものを、そのまゝ史上の事実として信ずる時代は、既に遠き昔しと過ぎ去つた。現代の科学的研究法を応用し、精密に古代の伝説を批評したならば、吾人はその神社に祭られ居るものゝ多数が妄誕不稽となるを驚くのであらう。是等は悉皆神殿より除き去らるゝを要する、然らずんば我が教育ある明治盛代の崇敬を鼓吹すべからざるや明である。内務省や文部省は果して之を断行する勇気と確信とがあるだらうか。然らずんば当局者の奨励は深き根底と厚き真実とより出たものとは思はれない。[p.42]当局者は帝国臣民の崇敬心を古代迷信の上に築いてはならぬ、宜しく科学研究の結果の上に建立すべきであらう。是れ正しく現時の盛代に為すべき事ではあるまいか。

 之を要するに政府当局者が帝国臣民の恭敬心を高調せんと欲し、浅薄なる唯物主義以上のものを青年男女に与へんとするは、正しく明治教育主義の過れるを看破したるものには相違ない。吾人はその識見の寧ろおそかりしを悲しむのである。国家の忠臣義士を尊重し、碩学名工を頌誉して、以て国民的道徳の生命を発揮せんと試むるは、所謂忠孝の道を顕揚するものであつて、吾々も当局者の意見に同意を表するを躊躇せぬ。然れどもその目的を貫徹するの方便として神社崇敬を携へ来りたるは、日本現時の状態としては亦止むべからざるものもあらうが、こゝには深慮遠思を要することである。若し軽卒[ママ]に之を賞行せんと欲すれば、却つて忠孝の道を傷ふものとなる。以上論じたる如く、神社に祭られ居る、所謂神明なるものは、神話や荒唐の伝説を旨とし、アニミズム、トテミズム又はフエテシズムなどの迷信に由れるもの多きが故に、之を現代の教育ある人々に強ゆるは、恰も或人に[p.43]幼時の犬張子人形、竹馬等の娯楽を強ゆるが如し。盛代の人民を馬鹿にするものにあらずして何んであらう。甚しきは信教の自由を奪ひ、憲法の権威を無視する恐れともなる。忠孝の道を顕揚するに際し、古代宗教の遺物たる神社崇敬を奨励するは、却て忠孝の道そのものを閉塞することゝなるの憂がある。当局者は我精神界に正反対なる復古主義と進取主義、迷信と科学とを投げ入れ、我思想界を益混乱せしむるものではなからうか。明治の精神界を攪乱するものは果して誰れの所為だらうか。神社崇敬を奨励する者は是等の疑間を弁明する義務がないのであらうか。


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