第2 章

その2  二人の『それから』

# ヨゼフィーネ懐妊


 ベートーヴェンに隠し子ができたとは! あまりにも深刻な事態となったため、ユーモラスな寸劇仕立ての一コマをここに入れることにした。わが尊敬するベートーヴェン先生、あなた様を揶揄する気はないのですよ。


時は1812年9月末。ベートーヴェンは第7交響曲を仕上げ、第8交響曲は完成に近い。ゲーテと会って話をするなど実りの多い夏を過ごしたあと、ボヘミアのテプリッツからウィーンの自宅へ帰宅し、相当くたびれていたにもかかわらず間もなく第8交響曲を書き上げて、その事をライプツィヒのブライト&コプフェル出版社へ報告する手紙をしたためている。助手、といってもすっかり誠実とはいえない助手のシンドラーが師匠の仕事の邪魔をしないようにと、そうっとドアを開け、デスクへ近寄る。<作曲に自分も協力した第8交響曲はもう仕上がっているはずだから、ちょっとお邪魔しても差しさわりないであろう>と思ってのことだった。ベートーヴェンの住いには、他に弟子のフェルディナンド・リースと家政婦のソフィアがいる。

S(シンドラー);マエストロ、体調は如何ですか。お手紙が来ています。テレーゼ様からでございますよ。

B(ベートーヴェン);ブルンスヴィック家のテレーゼから? それともマルファッティ家のテレーゼから?

S;女にモテル方は戸惑いますね。はい、ブルンスヴィック家のいちばん上のご令嬢からでございます。あの方とはしばしば外でおしゃべりをしていらっしゃるのに、わざわざお手紙とは、一体何事ごとでしょう? 何かしら胸騒ぎが致します。

B;余計な事を言うでない。君はいつも一言多いからな。

S;でも、私の一言が師匠の人生を大きく左右することだってございますからね・・・。

ベートーヴェンは手紙を書く手を休めて、ブルンスヴィック家の封印を灯りに近付けて溶かし、手紙を取り出す。

B;ギャオウ  ウウウー! 大変なことになったー!!!

S;師匠、一体どうされました? 何ごとですか?

騒ぎにおどろいた家政婦のソフィアと、フェルディナンド・リースが部屋へ駆けこんでくる。

So;どう、どうされました?

R;まるで猛獣の叫び声。何があったのでしょうか? 

B;僕に子供ができてしまった!!! ヨゼフィーネとの間にできたのだ!!! 彼女は身も心もぼろぼろだそうだ。

So;まあ、なんて事でしょう! ヨゼフィーネ様が、あんなにお美しい方が身も心もぼろぼろだとは! お気の毒過ぎます、先生。だってあの方は男爵様の奥方でいらっしゃいますよ!

R;でもまあ、マエストロ。素晴らしいことではありませんか! マエストロとヨゼフィーネ様は、1800年初めにはすでに深い心で真剣に愛し合っておられた。ただの遊び心ではなかったです。愛の結晶はこのうえなく神聖な命ではございませんか。お二人のお子であれば、定めし音楽の才能に恵まれていることでしょう。

B;ソフィア、赤ワインを熱くしたものを持ってこい、今すぐにだ!

So;承知しました。でも先生ー、落ち着いてくださいましー!

  ややあって湯気の立つ赤ワインが大きなグラスに入れて運ばれてきた。ベートーヴェンはそれをグググと飲む。グラスの半分は空になる。

B;神よ、あなた様はどうして僕をここまで苦しませるのかあー! 僕はこれまでも随分、あなた様に苦しめられてきた。優しい母には早く死なれるわ、作曲家なのに耳疾になるわ、ああ、それなのにそれなのに、まだ足りないのか? おまえなど神の仕事をリタイアしろ! もう何千年も神をやっているじゃないか。もう歳だ、1812歳で退職だ、退職だー!

So;何と恐ろしい事をおっしゃるのでしょう? 神を冒涜するようなお言葉はお止めくださいまし!

ベートーヴェンは残りのワイングラスを壁に向かって投げつける。辺りはさながら血の海。

S;ジャジャジャジャーン 運命の扉は開けられた! 

   半時ばかり皆、沈黙、沈黙、沈黙・・・

   ややあって、ベートーヴェンが口を切る

B;ヨゼフィーネのお腹のなかにいるのは僕の分身なんだ、そう分身だ。僕はその子をここで育てる。ソフィアも手伝ってくれるね。

So;もちろんでございます。及ばずながら、できることは何でも。

B;じゃ、すぐに揺り籠を買ってくるんだ。

So; かしこまりました。今日のうちに。(ソフィアはぽろぽろ涙を流す)。

R; だかさあ、ピアノの下に便器を置きっ放なしにするような先生のところで赤子が育つかねえ!

So; そこはわたくしめがちゃんと致します。

R;男ながら私にできることは何でも・・・

B;君には、子育ては無理さ。今まで通り、毎日ピアノの稽古をするのだ。(寸劇終わり)


#  隠し子の誕生

   翌年の1813年4月9日、ヨゼフィーネは女児を出産した。名前はMINONA(ミノーナ)と

付けられた。ゲーテの『若きヴェルタ―の悩み』の劇中劇に出てくる女性の名前にヨゼフィ

ーネは同意した。ただ彼女は心身の衰弱から回復できなかったので、姉のテレーゼが「気高

い厳粛な気持ちで」その子を養育しようと決心する。そして1年半ばかり、ウィーン近郊のヒ

ュッテルドルフで育てた。        

ベートーヴェンはなす術もなく、自分を責めた。まず養育費はシンドラーに命じて、これまで交渉していた出版社5社ばかりに連絡を取り、今後数年間に入ってくる印税を前借りしてブルンスヴィック家に払った。相当な額になったらしい。現在の日本円にすると数千万円になるそうな。

繊細な性格のベートーヴェンは深く悩んだ。1813年5月27日にはエミリー・アンダーソンに宛てて「不幸な出来事が次々に起っては、本当に私を錯乱状態ぎりぎりのところまで追い込みました」としたためている。

彼が好意を寄せ、とくに尊敬していた友人マリー・エルデーティ伯爵夫人のもとで安らぎを見出そうとした。彼女がイェドラー湖にもっていた領地でのことである。・・・彼がそこから姿を消してしまったために伯爵夫人は彼がウィーンへ帰ったものと思った。それから三日後に夫人の音楽教師が、邸の庭の片隅にベートーヴェンがいるのを見つけた。彼は餓死するつもりでいたが、辛うじて息の根があった。それから、そこの家族の温かい介護で心身ともに回復した。この出来事は側近のあいだで「不滅の恋人との後遺症」と言われている。


# ヨゼフィーネのその後

一方、ヨゼフィーネの方ははるかに悲惨であった。シュタッケルベルクの嫁いじめがはじまったのである。彼はウィーンの警察へ出向き、妻を姦淫罪で訴えた。その訴状が今に至るまで大切に保管されていることは、インターネットにしばしばこの訴状が取り上げられるから分かる。シュタッケルベルクにとって最大のいじめは、ベートーヴェンと妻が結婚できないよう、離婚に応じないことであった。彼は郷里のエストニアへ家族総出で赴き、そこで暮らそうと妻に提案するが、ヨゼフィーネは拒否した。夫婦の間は冷え冷えとしたものになり、子供たちは、夫婦の叫び声や罵り合う声で朝、ベッドで目を覚ますことが多くなった。何と痛ましい! ヨゼフィーネはしだいに心身ともに衰弱していった。それを尻目に法律上の夫は7人の子供を連れて郷里へ旅立った。

さらなる不幸はヨゼフィーネの兄のフランツが「心の病になった者は家系から抹殺する」と言って、それを実行したことだった。ヨゼフィーネは満足な食事にも事欠くようになり、その頃流行ったチフスに罹るとひとたまりもなく、大輪の深紅の薔薇ははらはらと散った。1821年3月31日、42歳の若さであった。

  庶子の名前のミノーナは寸劇でも述べたように、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』の劇中劇にでてくる名前で、大変おしとやかで気品のある女性の名である。この名前をヨゼフィーネも、成長したミノーナも名誉ある名前として受け入れている。が、後世の人々はMINONAのスペルを逆にしたらANONYM(匿名)となり、無慈悲な名前と見る者もいる。ヨゼフィーネ亡き後、テレーゼがミノーナの精神的な支えとなっている。

ミノーナが成人してからテレーゼは、ヨゼフィーネとベートーヴェンとの間にあったことをつぶさに話し、その熱い恋の結実がミノーナであることを伝えた。ボードマー・コレクションについても報告して13通の手紙をミノーナへ渡した。その手紙をミノーナは生きる縁(よすが)として大切に保管するとともに、自分の父親がベートーヴェンであることを誇りにして生きた。若い頃少しばかり作曲を試みたが、偉大な実父の陰では如何ともしがたかった。1841年にシュタッケルベルクが亡くなるまでエストニアで暮らし、その後はウィーンで友人と暮らし、ピアノ教師で生計を立てた。周りの人々の、庶子への差別意識は日本よりも強く、弟子もけっして多くはなかった。<ベートーヴェンの実子であれば、定めし弟子が仰山ついたであろうに。当時のやり方で隠し子を認知することはできなかったのかしら>と、私は哀れみを禁じ得ない。晩年には法的に後見人がついていたという。84歳で結核になり死亡。ちなみにヨゼフィーネの7人の子供は皆が未婚を通し、早世した。ミノーナが一番長生きしたそうな。どこに葬られたか誰も知らなかったが、長い時間をかけて探された結果、ウィーン中央墓地に友人とともに眠っていることが分かった。


若い頃のミノーナ

晩年のミノーナ

→ つづき 第3章 ピアノ・ソナタ第14番(『月光の曲』)

    その1 単一の和音と分散和音で構成された曲