「不滅の恋人への手紙」1通目
2通目 3通目
# 「不滅の恋人への手紙」の宛先は誰か?
1812年7月6日の朝、ベートーヴェンはチェコの温泉地テプリッツの『ゴールデネン・ゾンネ』というホテルのデスクに向かって、まるで作曲をしているかのように熱心に手紙をしたためている。窓のそとでは雨に洗われた木の葉が、ボヘミアン・ブルーの輝きを見せている。
さて誰に手紙をしたためているのか?
コロンボならぬ探偵ミナエはずばり言ってしまおう。手紙は表向き恋人のヨゼフィーネへ宛てたものではあるが、自分へ宛てて書いているのである。一通目の手紙の書き出しに「僕の天使へ、僕のすべてへ、僕の私自身へ」(他の文と混同しないように、手紙の文章は茶色で記すことにする)とある。もとになっているドイツ語は
Mein Engel, Mein Alles, Mein Ich
となっている。「僕の天使、僕のすべて」とは、明らかにヨゼフィーネのことだ。が、「僕の私自身」とは、はてさて、これってどういう意味? ハイ、Minaeはこれを解明するのに、ゆうに2年はかかった。こういう大切な事に足を掬われると、誰よりもスローモーションになるのだ。「僕の私自身」とは、「僕のなかの表現者」という意味であることに気付くのに大変な時間が必要だった。
それでは本文の最初の文章を見てみよう。
今日は二言、三言、それも鉛筆で(君の鉛筆で)__明日にならないと僕の宿ははっきりと決まらないのだ。
「君の鉛筆」は、秘密を握る大切なキーワードだと思うのだが、大勢のベートーヴェン研究家のうち誰一人として、鉛筆などには着目していないのは何故であろうか? 鉛筆は今では、居間や書斎にいくらでもころがっているからだ。が、1812年といえば今を遡ること210年。ものを書くのに蛾ペンか、木製の棒の先に金属製のペン先を付けたものを使うのが普通であって、鉛筆はまだめずらしく、貴重品だった。今だったら、刺繍の付いた絹のハンカチくらいの価値はあるであろう。
ドイツで鉛筆が登場したのはルートヴィヒが生れる10年前の1760年で、二ュールンベルク付近で製造がはじまった。これが有名なバヴァリア鉛筆だ。1795年にはフランス人のコンテが、黒鉛と粘土で芯をこしらえるようになって爾来、この製法が用いられるようになった。1812年といえば、まだ17年しか経っていない。ベートーヴェンが恋人から記念にもらった鉛筆はこのコンテではないかしら? 彼がヨゼフィーネと一夜を過ごした部屋に、半ばインテリアとして置いてあったのであろう。
おそらくヨゼフィーネに断って、旅の道具の一つに貰ったものであろう。(君の鉛筆で)という言葉には<何と素敵な夜だったことだろう、その記念の鉛筆だよ。君との恋が永遠につづき成就するように、この鉛筆はいつまでも持っていよう>という意味である。ここからルートヴィヒが如何に深くヨゼフィーネを愛しているか手に取るように分かる。
時にルートヴィヒは前日の真夜中、嵐をついた厳しい旅のあと宿に着き、これから夏場を過ごすホテルを決めなくてはならない。ゆえに荷物をすっかり解いているわけではなく、その日か翌日使うような物だけを椅子かテーブルに置いていたに違いない。とするとコンテは上着かズボンのポケットに入れていたのであろう。紙は普通ホテルの部屋に置いてある。それを使ったかもしれない。そうするとコンテがあれば、インクを荷物から取り出さなくても手紙が書ける。とにもかくにもヨゼフィーネに手紙が書きたかったのだ。胸のうちは片時でも早くヨゼフィーネと語り合いたかった。手紙が彼女の許へ着くか否か、そのようなことは問題ではなかった。
以前、「不滅の恋人」はアントニア・ブレンターノではないかと言われてきた時代があった。アントニアの家族は夫と娘のマクセの3人で一足先にテプリッツへ着き、ベートーヴェンと同じ宿へ泊っていた。同じ宿に家族で泊まっていたアントニアと密会できるわけはないし、ましてや鉛筆を家族のいるところから持ち出せるわけはない。
当たり前のことだが、この深い悲しみは何故だろう? 僕たちの愛は犠牲を忍び、お互いに総ては求めない、というのでなければ成り立たぬのであろうか?君が僕だけのものではなく、僕が君だけのものでないことを、君は変えることができるだろうか?
文章のトーンがボードマー・コレクションとは随分違うようだ。愛しい恋人へ恋を叫びながら、早くも微妙な変化が見られる。まず自分の悲しみを訴えて、恋人の辛さを慰めるのは二の次になっている。自分の悲しみの言い表し方もいささか理屈っぽくて、悲しみを解析するという感じ。ヨゼフィーネは夫のシュタッケルベルクと離婚はしたいけれど、まだ離婚していない人妻。そんな女性と契りを交わした数日後であれば、女性の苦しみを察してあげるのが最初にするべきマナーではないかな?
ルートヴィヒの悲しみのもっと大きい原因は、自分は神から作曲家としての使命を受け、人類の幸福のために尽くさなくてはならない身。こじんまりとした家庭に閉じ込められてはならないのだ。我が身の手首、足首、首回りはがっちりと鎖で絡めとられているという、そんな感じなのである。
おお神よ、麗しい自然をみつめ、このどうにもならないことに対し、気持ちを静めてください。
麗しい自然で癒されるのはルートヴィヒのほうで、ヨゼフィーネは日頃マルトンバシャールやコロンパなど、美しい自然のなかで暮らしている。この辺り、すでに自分に言い聞かせている口調だ。
それからテプリッツへ着くまでの苦労が語られる。愛する人には、どんなに細かいことでも伝えたいものだ。この辺りはドラマチックで話の調子がクレッシェンド。なかなかデクレッシェンドにならず、やがて心のことに話は移ってラルゲットに落ち着く。
__しかし、うまく切り抜けた時はいつもそうだが、僕はむしろ愉快だった。__さて外面のことから心のことに急ぎ戻ろう。きっともうじき逢えるだろう。(中略)__ああ、__言葉なんか本当に何の役にも立たぬ瞬間があるものだ。気持ちを明るく持ってください。(中略)僕たちがどうでなければならぬのか、どうなるだろうか、と言うことは、何もかも神様が決めて下さるだろう。 君の忠実なルートヴィヒ
<気持ちを明るく持とう><神の導きに従おうではないか>と言いきかせている、これは自分で自分に言いきかせるトーンだ。その裏にはあるのは境地ではなかろうか?さて同じ日の晩、ルートヴィヒはまたしても鉛筆を握る。
人間が人間に対し卑屈になる__僕はそれが苦痛なのだ。
41歳になった中年男性の独白のトーンを前面に出しているものの、自分がヨゼフィーネを諦めなくてはならないということへの弁解ないし、そうしなければならないことへの悲しみが出ているようだ。
ああ、僕が居る所、君は僕と一緒なのだ。僕は独りで、自分とまた君と話し合っている。君と一緒に暮らせるようにする。どんな人生だろう!!!! 今までのように!!!! 君の居ない。
と呟くが、どうも脈絡が合っていない。そうではあるが、中年男の理性は健在である。
宇宙全体のなかに自分を置いて見る時、自分というものは一体何だろう。(中略)ああ、神よ__こんなに近く! こんなに遠い!__われわれの愛は、本当に天の一殿堂とも言うべきものではなかろうか__しかも蒼穹の如く堅固でもある。
宇宙的な広がりのなかで自分たちの愛を眺める・・・これって自分の世界を一つのシンフォニーとして客観的に眺めながら、そして形造っていやしないか? 第1通が第1楽章としたら、この2通目は第2楽章。ぐいぐい盛り上がる。
3通目は一行目に「不滅の恋人」という言葉が出てくる。
床にいるうちから、想いは君の許に馳せる。わが不滅の恋人よ、
最終章は冒頭から劇的だ。トーンはフォルテだ。
運命がわれわれの願いを聞き容れてくれるか、と期待しながら、時には喜ばしく、やがてはまた悲し。__君と全く一つになって生きるか、すっかり別れてしまって生きるか。僕が君の腕の中に飛び込んで行けて、君の側を本当の我が家と思い、君に抱かれて魂を精霊の国に送ることが出来るまで、僕は遠くを彷徨う決心をした。
君から遠く離れて彷徨う・・・・これがルートヴィヒが自らに下した結論であった。フォルテからピアノへ移行してきて、その後、
僕の年齢になれば、生活にある確実さと安定が必要
だと言って、ヨゼフィーネとの恋の成就に諦めムードになる。おそらく<それでいいのだ>という気持ちに落ち着いたのであろうか。
最初に記したようにこの手紙は自分の気持ちを整理するために、自分へ宛てて書かれた。だから投函しなかった。この3つの手紙は一つのシンフォニーを成している。音ではなく、言葉で創られたシンフォニーを。もちろんベートーヴェン自身はそう自覚していなかったであろう。
ルートヴィヒはヨゼフィーネを心底愛していた。だから彼女には幸福になって欲しかった。人類の幸福に身を委ねる自分より、シュタッケルベルクとよりを戻して、6人の子供たちの良き母親でいて欲しかった。そうするのが彼女への愛だったのである。
この時期、ルートヴィヒは第7交響曲をほぼ書き終えて、第8交響曲を書こうと構想を練っていて、3通の手紙を書き終えたあと、第7と第8を並べて書いた。思いきり情熱を吐き出したことはカタルシス効果を生み出し、心の整理がついた。そのおかげで第8交響曲はじつに軽快な足取りで書き進められた。
# 「不滅の恋人」とは、どういう意味か?
ところで、この手紙は1通目の冒頭に受取人の名前の代わりに「不滅の恋人へ」と書かれている。「不滅の」という表現にベートーヴェンは unsterblich いう極めて激しい言葉を選んだ。私は自分の恋をこのような言葉で表現した作品や人を見たことがない。普通、ewig(永遠の)という言葉を使うように思う。Unsterbliche Geliebte( 不滅の恋人)という言い方は非常にめずらしい。この語は「死ぬことがない恋の相手」という意味であり、「死なせてはならない恋の相手」ともとれる。
すでに述べたようにその言葉のあとに「わたしの天使」と呼んでいる。天使とは、文字通り神への使者であり、天才を自認する作曲家にとっては、なくてはならない貴重な存在なのだ。つまりベートーヴェンはこの不滅の恋人を自分という人間にとっても、表現者としてのベートーヴェンにとっても「決して死なせてはならない極めて高貴な存在」と捉えているのである。
さて、ここらでルートヴィヒさんのもう一つの顔を記さないわけにはいかないようだ。正直に申して気が進まないのだが、彼の創作したものを正確に理解し、享受するには残念ながら、避けて通ることができない。
# 「不滅の恋人への手紙」の素性
まず、この手紙の素性を記さなくてはならない。冒頭に記した1812年という年代は手紙には書かれていなくて、多くの学者、就中、トーマス・サン=ガリとマックス-ウンガ―の細かな調査のおかげで手紙が1812年の7月6日から7日にかけて、テプリッツに泊まっていたベートーヴェンによって、同じ時期にカールスバードにステイしていた<恋人>に宛てて書かれたことが証明された。
さてこの手紙はどこで見出されたかのか? それが重要なポイントである。これについては
ロマン・ロラン全集(みすず書房)の24巻の「ベートーヴェンの恋人たち」に対するノート
を参考にして探偵してみたい。
ベートーヴェンの存命中は、友人たちは一人としてこの手紙のことを知らなかった。<へえー、そんなことってあり?>まず、ここでMinaeは足止めを喰らった。<このように有名な手紙をベートーヴェン以外誰も知らないとは、一体なぜかしら>。周りに秘めなければならない恋だったから?それだけ?
この手紙はベートーヴェンの死後にシュテファン・フォン=ブロイニングとシンドラーが発見した、とロラン先生は書いている。この手紙が隠されていた場所については、ブロイニングは仕事机の秘密の一部分で見つけたと言い、シンドラ―は衣裳戸棚の小箱の底に見つけたと言っている。いずれにしても秘密の場所で、ベートーヴェンはこの手紙を人に見られたくなかったのであろう。
見出されたのは手書きの本物。書き写されたものではない。いずれも人目に付きにくい場所である。現在とは違って、自宅でいくらでもコピーができる時代ではないし、しかも3通にわたっているから、そう簡単に筆写できない。とすると大変なこと!この手紙をそもそもヨゼフィーネは受け取ったのか?ヨゼフィーネや姉のテレーゼの手記には、ボードマー・コレクションのことはごまんと出てくるが、この手紙についてはこれまでのところ何ら触れられていない。それに、これほど熱烈な手紙をもらった女性は、何らかの返事を書くのが普通ではないかしら?それがないのだ。おかしいではないか。手紙にもあるように、当時、郵便物は郵便馬車が運んだようだから、手紙を出すとは、投函するというのではなく、ホテルのフロントに頼んで郵便馬車の停留所へもっていってもらうという手筈を踏んだはず。彼はその行程をとらなかった。3通の手紙は彼の作品である、「詩」と「真実」が共に込められたシンフォニーなのである。敢えて言わせてもらうとしたら交響曲7.5番。
# 不滅でない恋人がいたのか?
ここで最後の寄り道をさせて頂こう。ついてはロマン・ロランの小論文「ベートーヴェンの不滅ならびに不滅ならざる恋人たち」を参考にしたい。「ベートーェンの20歳から50歳までの年月のあだ、その心が愛を抱いていなかったことはなかった」とは、私が神の如く尊敬する先生の事実であるらしい。この際私は、尊敬するがゆえに、生身の男の全体像を詳しく知っておかなければならないと思う。そうでないと、ベートーヴェンの人間も作品も立体的に捉えることはできないであろう。
1792年ウィーンに出てきたルートヴィヒは友人のヴェーゲラーの言によると、数年間のうちに「幾人もの女性の心を獲得し」たそうな。<ほんと? 田舎出のルートヴィヒがそんなにモテタとは、やはりこれって、いい作品が書けたお蔭じゃない?ルートヴィヒに惚れたのではなく、いい作品が書けたからモテタのでしょ?>と、そう思いたくなる。彼は自分の若い弟子フェルディナンド・リースに「自分を誘惑したが、けっきょくは想いをとげなかった沢山の女のことを自慢している」そうである。もしかしたら「自分を」でなく、「自分が誘惑したが」というのが事実・・・だったのかな?
どんなに或る女性を愛しても、その関係は6か月か7か月を超えなかったという。つまりその時期の恋は大抵 sterblich だった訳である。飽きっぽかったのか、それとも欲望の度合いが高かったのか、どうしてそんなに次々とガールハントをしたのか?
*フェルディナンド・リースとはルートヴィヒのボン時代の隣人であるフランツ・リースの息子で当時、ピアニストを目指してベートーヴェンのもとで修練していた。ルートヴィヒの借家に同居した時期もあり、師匠がハイリゲンシュタットに滞在していた時期にはウィーンを往復して雑用を引き受けてくれたりした誠実な男である。ヨゼフィーネとルートヴィヒの関係については比較的早い時期に「極めて真面目で深刻な関係になっている」と記している。
フェルディナンド・リース
そのリースの語るところによれば、「1800年から1805年のベートーヴェンは街の浮気男であった。手鏡で無遠慮に女たちを眺めたり、歩き寄って女のあとをつけたり、きれいな女と見れば誰にでも情を燃やしたりした」。信じられないような話ではあるが、リースは立派な人格であるから嘘はつかない。うーん、とMinae はここで唸った。<お母さんには早くに死なれ、耳の病がじわじわと進む一方、出版社への借金はじわじわと多くなった時節柄、彼、寂しかったのではないかしら?><それにしてもこんな女垂らしのベートーヴェンなんて、いけ好かない!>。
ようやく辿りついたようだ。「不滅の恋」とは、これまでの泡のような恋ではなく、永遠に続く真面目な恋、という意味である。つまりunsterblich(不滅の)というのは、全く神聖な意味で<永遠の>という意味と、現実的に<浮気っぽくない、一生続く愛>という両面があるということである。
*フェルディナンド・リースとはルートヴィヒのボン時代の隣人であるフランツ・リースの息子で当時、ピアニストを目指してベートーヴェンのもとで修練していた。ルートヴィヒの借家に同居した時期もあり、師匠がハイリゲンシュタットに滞在していた時期にはウィーンを往復して雑用を引き受けてくれたりした誠実な男である。ヨゼフィーネとルートヴィヒの関係については比較的早い時期に「極めて真面目で深刻な関係になっている」と記している。
# 「不滅の恋人への手紙」を書くに至るまでの経緯
ベートーヴェンがテプリッツで「不滅の恋人への手紙」を書くに至るまでの数日間のことをMinaeは書かずには夜、枕を高くして寝ることができない。事実は小説より奇なりというけれど、まさにその間の事実は麗しくも奇である。
さて1812年の7月。ベートーヴェンはファルンハーゲン侯ならびにキンスキー侯と年金の話をするためにプラハへ赴いた。ところが7月3日、そのプラハでぱったり出会ったヨゼフィーネにベートーヴェンは目を丸くした。二人の恋の炎はめらめらと燃え立ち、二人とも抑えに抑えてきたものが、ここに壊れた、怒涛のごとく。7月4日午後に旅立つまで彼は否、彼もヨゼフィーネも幸福の絶頂にいた。
現在のプラハの街
さてここに看過できない事実がある。ヨゼフィーネの姉のテレーゼは1812年夏にヨゼフィーネの子供たちを引きとってウィーン郊外のドルンバッハで面倒を見ている。当時ヨゼフィーネには6人の子供がいた。故・ダイム伯との間に4人、シュタッケルベルク男爵との間にはすでに2人いた。大変な数である。そのうち何人をテレーゼが引きとって面倒を見たか詳らかではない。ともあれ子供用のベッドはいくつも要るし一人では子供たちの面倒を何十日もみるのは無理で、侍女たちの手も借りたのであろう。それなりの理由あっての大事業であった。
さらに6月6日から8月8日までテレーゼの日記はとつぜん、空白!一体何故か。几帳面なテレーゼの不自然な空白、これはどういうことであろうか。
テレーゼは進歩的かつ利発な女性。結婚するつもりはなく社会的な活動をしたかった。事実、後に彼女はハンガリーの幼児教育の分野で後世に名が残るような活動をしている。ベートーヴェンへ手紙を書くときは「神のように尊敬すべきベートーヴェン様」という出だしではじめる位に彼を尊敬していて、何年も前から、妹がベートーヴェンと結婚したらどんなにいいかと考えていた。妹のシャルロッテへの手紙に「ぺピーはどうしてさっさとベートーヴェンと結婚しないのかしら」と、じりじりしている。身分の違いなど彼女にしてみれば如何ほどのことでもなかった。テレーゼは妹がベートーヴェンと結婚することを夢見ていたのではなかろうか。自分にできなかったことを妹が実現することで、我が事のように満足するといったそのような心理的な傾向があったように私は感じるのである。
それだけではない。ここに至ってヨゼフィーネよりもテレーゼのほうがベートーヴェンとしっかり向き合っていないか?この頃、テレーゼは彼に頼まれもしないのに自分の肖像画を画家に描かせ、立派な枠に入れてベートーヴェンに贈っている。(この肖像画が、今日私たちが見ることができるテレーゼの顔で、頭髪を太いターバンのようなもので束ね、実に理性的かつ情熱的な顔立ちをしている)。ルートヴィヒはまだ若く、テレーゼに肖像画を所望してもいない。これについては、私は長いあいだ考えた、どうしてかと。やがて大変なことに気付いた。この出来事はテレーゼが<自分は心だけであなた様のお力になりたい>という強い意志表明ではないか。いささか凡俗になるが、平たく言うと「体はあなた様にあげられませんわ、その代わりに肖像画を差し上げます」という意味に違いない。
ヨゼフィーネの姉のテレーゼ・ブルンスヴィック
画家のヨハン・バプティスト=ランピに描かせてベートーヴェンに贈られた。
そうすると内実の面では、ヨゼフィーネとベートーヴェンの間にできた子供はテレーゼの子ということにならないか?何とこれは、恐れ入ります!
しかしベートーヴェンにだってプライバシーはある。これ以上踏み込まないのがマナーではなかろうか? 後世の私たちは、作品の理解に役立つことがらだけを知っていればいいのではないかしら。ラッキョウの皮を剥きに剥いたら最後には何も出てこないではないか?
テレーゼはベートーヴェンがファルンハーゲン侯およびキンスキー侯に7月2日、プラハで会うことを何らかの伝手で知っていたらしい。マエストロとは、妹たちが彼と会うまえから親しくしていたせいで互いに話がしやすい仲になっていた。もしかしたら彼から直接聞いたのかもしれない。テレーゼは<チャンスだわ、これを逃したらぺピーの幸福はない>と感じたに違いない。そこで彼女はウィーン近郊にぺピーの子供たちを引きとって面倒をみることに決意したに違いない。<計画はどこまでも周到に!>という訳だ。
とすると当然、ぺピーも承知のうえでの出会いということになる。ばったり出会ったと思ったのはベートーヴェンだけ。二人の女性の計画的な行為! わたしたち女性は、時として何をするか分からない。ほんとうに女性はこわい!
ただこの事実からは、ぺピーもベートーヴェンのことを密かに激しく愛していたことが判る。そしてシュタッケルベルクとまだ離婚が成立していない身では、その愛を抑えに抑えていなくてはならなかった。ぺピーのそのような苦悩は妹思いの姉には手にとるように判っていたはずだ。
7月3日からベートーヴェンがテプリッツへ旅立つまで二人は激しく愛し合い、その焔は燃え立った。
ちなみに、一足先にテプリッツに着いたブレンターノ夫婦とは、やがてベートーヴェンは家族同士の付き合いをすることになり、娘のマクセも彼は大変可愛がることになる。
→ つづき 第2章 その2 二人の『それから』