ベートーヴェンはボン時代にハ長調のバイオリン協奏曲(Wo05)を書いて、第1楽章の第259小節目で中断し、この曲は未完に終わってしまった。そして彼の死後、この作品は1870年に発見された。
この未完のコンチェルトは、たまたま今年2022年の第42回草津夏期国際音楽祭にて、ウィーン育ちのカリーン・アダムがバイオリンのソロを受けもって演奏された。生演奏で聴くことができるなんて何という幸運と思い、興味津々で傾聴させて頂いた。(ちなみにパトリシア・コパチンスカヤが作品61を録音したCDにもハ長調のバイオリン協奏曲が収録されている。彼女のことは後ほど詳しく述べることにしたい)。
このコンチェルトは、研究家たちの推測によると1790年から1792年までの間に書かれたそうだ。その時期は、フランス革命が起きた1789年から幾らも経っていない。1770年12月16日に生まれた彼は1789年5月、18歳にしてボン大学で聴講をはじめていて、カントやヘルダー、ヴォルテール、ルソー、シュナイダーを読み、哲学以外でもザイラー、フェスラー、トマス・ア=ケンビス等の神学者の書物、文豪や詩人についてはゲーテやシラーをはじめ、シェイクスピア、レッシング、クロプシュトック、ヴィーラント等々を貪欲に読み啓蒙思想の精神を頭の先から足の爪先まで浴びた。これについては以下の研究書を参考にさせて頂いた。
** 『ベートーヴェンが読んだ本』藤田俊之 幻冬舎
この研究書には、「ベートーヴェンに革命的、啓蒙主義的思想を植えこんだのが、シュナイダー教授で、シラーの友人フィシェニヒがギリシャ文学と、自然法、人権について講義した。・・・中略・・・ベートーヴェンがシュナイダー教授から受けた精神が音楽のなかで生き続けたことは間違いない」とある。ベートーヴェンはウィーンに住み着いてからもカントの哲学は決して忘れることがなく、カントの『天界の一般自然史と理論』は彼の死後、遺品のなかから発見されたという。
そんな彼にとってフランス革命は対岸の火事どころか、すぐ隣の出来事であって「自由、平等、博愛」の精神に、彼の鋭い感性はたちまちのうちに共鳴した。何ごとも学びたい年頃の彼に、フランス革命はきわめて大きな 暴力的とさえ云える影響をおよぼしたようだ。その影響の大きさが多くの作品に顕れているが、このハ長調のバイオリン協奏曲にも明らかである。ベートーヴェンは<自分はこのフランス革命の続きを剣とギロチンではなく、音でもって実践するのだ!!!>(ちなみにベートーヴェンは感嘆符を同時に3つ付ける習慣があった)と天に向かって絶叫し、その叫びをこの曲に込めたのであろう。構成やフォルムは二の次、叫びを響きで表現するしか眼中になかったようだ。だから途中で息が切れて中断してしまった。
しばし寄り道することを許して頂くと、一般に『スプリング・ソナタ』と呼ばれるバイオリン・ソナタ第5番(1801年)は、ただ単に季節の春を描くために書いたソナタではない。これはフランス革命を経て人類が貴族社会の足枷から解かれて、これから人間らしく生きる時期に入ったという歓びを謳った作品である。
かれこれ10年以上になるが、バイオリニストのヴェンゲーロフが多摩センターホールにこの曲を弾きにやってきたことがあった。ところが第1楽章で弦がプツンと切れてしまった。出だしは優美な旋律とともに人類の春に至るまでの苦悩が厳粛に描かれていて、決してセゾン・ゲフュール(季節感)を前面に押し出してはいない。優美な旋律でありながら裏に厳しい闘争が描かれているために弾き手は力を込め過ぎたのであろう。やはりプロのバイオリニストは演奏の前段階に曲を丁寧に研究したということが如実に見てとれた。
ピアノ・ソナタ第5番を<人類の歴史のうえでの春>と解釈したバイオリニストには他にも和波孝禧がいる。長年、ピアニストの妻と演奏するうちに、原作者が人類の春を表現するために春のような雰囲気を用いたと、和波ご夫婦は研究されたのであろう。和波氏の演奏するバイオリンは一つ一つの音がはっきりと言葉を刻んでいて分かりやすい。
その他、ピアノ・ソナタ『悲愴』も恋愛の悲しさを謳ったものではなく、身分の格差がいまだに蔓延している社会で耳疾がひどくなるまま、経済的にも不安定な状況で生きていかなくてはならない現実を悲しく思う気持ちを表したものだと言うピアニストもいる。私もこの曲の2楽章を弦楽器で弾くとき、このメロディーの美しさが悲しみと紙一重であることに胸を打たれる。
さてバイオリン・コンチェルトに話は戻るが、未完のコンチェルトと1906年に書かれたバイオリン協奏曲と聴き比べると、違いが歴然だ。ベートーヴェンが1792年11月にウィーンに移り住んでから、ハイドンのもとで約1年間対位法を学び、その他シェンクやサリエリ、アルブレヒツベルガー、シュパンツィヒなどに学び、自らも研鑽と実績を重ねた跡が、実にうつくしく、深い考えに裏付けられた作品を生んだといえよう。
このバイオリン協奏曲は日本人にも大変好まれ、ウィキペディアに児島新の詳しい解説があるし、たった3週間ないし1か月で書かれたことや、楽譜のインクも乾かないうちに12月23日、フランツ・クレメントのソロ・バイオリンで演奏されたことは割愛させて頂く。その他次の研究書も構成その他について参考にさせていただいた。
** 『作曲家別 名曲解説 ライブラリー ベートーヴェン』音楽の友社
この作品の新しさについてはまず冒頭のティンパニに注目したい。
# 冒頭でいきなりティンパニの音、これは一体何?
トントントントンとティンパニがそよ風のように静かな音を寄越して曲がはじまる。時に1806年の晩秋、従来、指摘されてきたように、この音は軍楽隊の音である。前年の1805年にナポレオンがウィーンを占領して、今シェーンブルン宮殿に総司令部を置いている時期に、メルカーバスタイのパスクァラテ・ハウス5階でこのコンチェルトを作曲しているベートーヴェンにも、窓を開けるとこの音がかすかに届いたであろう。多分、出だしのささやくようなティンパニの音は、耳疾を患うベートーヴェンの耳がキャッチしたそのままの音量だったのではなかろうか。このティンパニの音は、彼にとって現実世界で自分に打ち克つ闘いの音である。であるから第1楽章と第3楽章では響きつづけて自己がつぶれてしまわないように、自己を励ましつづけるのである。
シェーンブルン宮殿
パスクァラティハウス
ちなみに老いたギドン・クレーメルは第3楽章のカデンツァでバイオリンとティンパニだけでベートーヴェンの内心の闘いを表している箇所がある。彼はアーノンクールの指揮で演奏したときはピアノを使ったがピアノよりティンパニのほうが、ふさわしいと考えてのことであろう。クレーメルの演奏については後ほど触れるつもりだ。 (4章の末尾で彼の演奏を聴くことができます)
それでは2楽章ではどうしてティンパニは休みなのか。2楽章は、現実ではうまく行っていない出来事、とりわけヨゼフィーネとの恋を作品によって夢で成就させている仕組みになっているためにティンパニは使えないのである。3楽章になると、思い通りにいかない現実と向き合い、自分に打ち克って人類のためになる作品、つまり自由・平等・博愛をすべての人間が享受できる作品を作りつづけるのだというという決意に至る経緯を物語っている。素朴なロンド形式ではあるが、主題が繰りかえされる度に決意が濃密になり、ティンパニが最大の音を披露してフィナーレとなる。
ちなみにfやff 、sf の記号が付いているティンパニの音はどれも、耳疾が進んだベートーヴェンが記憶のなかで想像した音だ。というのは絶対音感を身に付けている彼は、音の高低や長さで美しいメロディーを生み出すことはできても、音量については想像で書くしかなかったのではないか。ここは絶対音感があっても自在にコントロールできない領域だ。<fは力強く、sfは限りなく勇猛に>といった心理面のことだけしか彼の思い通りにならなかった。
私はこの14か月、作品61番のバイオリン協奏曲をCDやユーチューブ、或いはテレビでかれこれ50回ばかり聴いた。これだけ聴くと、冒頭のトントントントンを聴いただけで、そのオーケストラの全容が分かるというものだ。これまで聴いたうち、ティンパニの存在意義をしっかりと捉え、美しく演奏したティンパニ奏者としては、前橋汀子のソロで秋山和慶指揮、オーケストラ・アンサンブル金沢の演奏と、ムターが今年2022年、ミュンヘンでウクライナの子供たちへのチャリティーコンサートで弾いたとき、ティンパニ奏者は実に巧い演奏だった。バチさばきは優雅で、曲全体に対するティンパニの役割を実によく弁えていた。(ムターの演奏は章の末尾で聴くことができます)。
ティンパニが後ろの一段高いところで、指揮者から良く見えるところ、ないしティンパニ奏者から指揮棒が良く見えるところに置かれているときは演奏がともかくすばらしい。事前にソロのバイオリニストが指揮者とティンパニ奏者と綿密に相談し合っていることが聴き手にすぐ判るし、演奏中も指揮者は棒の先、あるいは指先でティンパニ奏者と密に連絡を取り合えるのだ。
ソリストと指揮者次第でティンパニの音量に関して楽譜に書かれたf や ffや sf をどのように解釈してどういう音量にするか、皆違う。ソリスト、指揮者、ティンパニ奏者を含むオーケストラの3者はベートーヴェンの難聴を鑑みてfやffやsfの音量と表情を決めるようだ。こうした苦労があるから、ソリストが休みのところでオケの団員は、ティンパニ奏者も含めてかなりに音量を上げて自由に演奏する。
話をティンパニにもどすと、ハイドンの、日本で『びっくり交響曲』と呼ばれる交響曲94番の第2楽章の16小節にもティンパニが出てきて、ここでは優美な音楽につい居眠りしてしまう紳士淑女の目を覚ますという趣向になっている。モーツアルトの『トルコと行進曲』ではオーストリアとトルコの戦時下に書かれたもので、軍隊行進曲が基調になっている。
こうした先例があったとしてもティンパニの同音連打でバイオリン協奏曲をはじめるというのは当時、大変革新的な試みであった。出だしの5つ目のトンと同時にオーボエとクラリネットとファゴットで第1主題を奏でる(1~9小節)。p dolceではじまったのが、6小節目でいきなりクレシェンドcresc。次の7小節目はスフォルツァンドsf、つづく8小節目は再びピアノp。ベートーヴェン先生、心臓がとまりそう、びっくりさせないでください。これで第1主題の提示はおわる。何と衝撃的!!ここで聴き手の心を鷲づかみにしてしまうのだ。いつものやり方である。
いつものやり方といったのは、交響曲第5番『運命』の冒頭でも革新的といおうか、暴力的といおうか、冒頭からsf。それも最初の音は休符で ン ジャジャジャジャーンとくる。アウフタクトではなく、休符という音なのである。聴く側は安心していられない。その後、pが来るのは作品61と真逆だ。ここでも聴き手のこころを鷲づかみにする。こうした出だしは交響曲第3番『エロイカ』にしても同様で彼の作品の随所に見られる。いや作品の多くがこのような仕掛けでびっくり箱のように聴き手を驚かせる。聞き手は「果たして何がはじまるのか?」と耳を欹てる。
オペラ『レオノーレ』でベートーヴェンはヨゼフィーネへの灼熱の思いを存分に表現し、<永遠に女性的なるもの>を一つの理念にまで高めた。科白のなかには例のボードマー・コレクションのなかにある恋文の文章とそっくりのものが幾つもあり、現実とオペラというフィクションが層となって折り重なっている。
さてバイオリン協奏曲ではヨゼフィーネという女性のことを描くだけでなく、彼女に対するベートーヴェン自身の歓びと苦悩を描きたいと考えた。実に彼は近代的自我で<考える人>になっていたのである。
ところで『運命』の第1楽章のスケッチのなかに、このバイオリン協奏曲の第1楽章の輪郭と第3楽章の冒頭を記したものが認められるそうだ。であるから、書きだすまえに準備はかなりできていた。
このトントントントン(レレレレ)という同音連打音のあと、やがてオーボエとクラリネットとファゴットが麗しい第一主題(部分譜[1])を奏でる。やがて同様に木管楽器で唄うような第2主題(部分譜の
[2〕)があらわれる。
ティンパニはレとラしか音が出せないので(ララララ)という連打音と並んで第1楽章には随所に出てくる。例えば50小節目のティンパニはレララララであり、ソレレ(101小節から102小節)と合いの手を出す。104小節からはレララララ(104小節から106小節)という具合に全体を盛り上げる。しばらく成りをひそめると224小節からはffで16分音符のララララ、ララララがソロの休みの合間にオケの第1、第2バイオリン、ヴィオラ、チェロで奏でる。440小節から446小節までは嬰二音レ♯に変容した音がソロのバイオリンやオケの第1第2バイオリンで使われることになる。
第2楽章ではティンパニは普通、お休み。といってもトントントントンの調べは別の楽器で奏でられている。68小節目では第1バイオリンがスタカート付きのドファファファファ、第2バイオリンが同様にラドドドド、ヴィオラも同様にレララララと続く。
第3楽章では20小節目から「待ってました」と言わんばかりにティンパニが勇ましくf fで登場し、『月光の曲』の第3楽章と同様、希望へのエネルギーが湧いてくるよう、自分に打ち克つ戦場へまっしぐらに驀進する。すでに31小節でティンパニはsfへ上りつめ、指揮者は両の腕を大きな扇のように広げ<憧れと希望を宇宙の果てまで広げよう>というオーラを会場一杯に広げる。
こうして見るとティンパニは、作品という建造物を支える梁の役割をしていることが判る。作品がぐらつかないためには、全体を見渡して音符をバチでしっかり刻まなくてはならない。
# 時に二人の恋路は、はてさて如何に?
1804年から1805年にかけてベートーヴェンがオペラ『レオノーレ』を書いている間、ヨゼフィーネに対する愛はレオノーレに乗り移っていた。芸術家とは困った者、凡人には起こりえない事ではないかしら? ヨゼフィーネに逢わなくても、『レオノーレ』の創作中、彼は心の内奥でいつも逢っていた。が、ヨゼフィーネの側から彼への愛はどうであったか? ここには温度差があった。このオペラに関してぺピ―は家族に「ルートヴィヒは今、オペラを書いているらしい」とだけ記していて、このオペラへの彼女の思い入れは手紙には見られない。彼の側では、ヨゼフィーネへの愛の焔は女主人公レオノーレの上に延焼し、現実のヨゼフィーネを超えてイデアの世界へ昇華されていった。夫を助け出すレオノーレの働きには敢えて言うとゲーテの『ファウスト第2部』の終わりがたで謳われる<永遠に女性的なるもの>が強く出ているし、またその背景にはカント(1724~1804)の哲学が聳えている。男、女の関係を越え総じて人と人との神聖な関係をリスペクトする哲学があり、そのまた向こうには神の温かい眼差しがある。ちなみにカントの『純粋理性批判(第一批判)Kritik der reinen Vernunnft』は1791年、つまりフランス革命の2年後に発表され、この頃、ベートーヴェンは未完に終わったほうのバイオリン協奏曲を書いていた。つまりベートーヴェンの青年時代とカントの活動期とが重なっているのである!
つまるところ、ルートヴィヒがヨゼフィーネへ向けて引き絞った恋の弓矢は恋人本人を超えて人間の道徳律という的を射抜くことになったのである。
1805年の6月半ば頃にベートーヴェンは『レオノーレ』のスケッチをおえて、その夏はウィーン近郊のヘッツェンドルフにステイして一心不乱に総譜にとりかかり、9月の終わりには完成させた。その間、7月5日にオペラ関係の来客があったほかは孤軍奮闘したそうだ。オペラを作曲するというのは生半可なことではない。なにしろ一人前の作曲家として認められ、安定した収入を得るためにであった。ボードマー・コレクションに収められている手紙に「もっとしばしばあなたにお逢いしたいが、ともかく仕事が忙しいのです」とあるが、それが彼の現実で、作曲家として不動の地位も欲しいし、戦時中の物価高騰の折柄、生活費を稼ぐのも大変であった。
仕事で多忙をきわめるルートヴィヒから、さほど相手にしてもらえないヨゼフィーネは彼にこんな手紙を書いている。
「さてあなたは如何お過ごしでしょうか、何をなさっておいでですか、健康は、ご心境は、日常は如何か、教えてくださいー-あなたのすべてのことに対して関心をもっているし、生きている間もちつづけるでしょう、だから知りたい必要にかられるのです・・・」。
私は女だから、この切ない気持ちが良く分かる。愛する男のことであれば夕飯がおわってお茶を飲むのかコーヒーを飲むのか、朝食はパンなのかご飯なのか、寝るとき鼾をかくのか、かかないのかといった些細なことさえ知りたいものだ。男の人はこのような事は想像しないのではないかしら? ヨゼフィーネのこの短い文章は如何にルートヴィヒのことを慕っているかの証しだと思う。が、多忙を極める彼にそんな気持ちが伝わるか否か。どうも二人の歯車はギシギシ音を立てているようだ。この年の11月20日に『レオノーレ』が初舞台を踏んだ。ルートヴィヒにしたら、猫の手も借りたいくらいの忙しさだ。例えば<今朝、家政婦がコーヒーの豆の数をまちがった>といった些末なできごとは読んでも楽しいはずがない。そんな暇はないのだから。
初演は時期が悪かった。ベートーヴェンがヘッツェンドルフで頑張っている頃すでにナポレオン軍はイギリスとロシアとの間に締結した対仏同盟にオーストリアも加盟させ、8月9日にはスウェーデンを含む対仏大同盟が締結させられて、ナポレオンはシェーンブルン宮殿に総司令部を置いた。貴族たちは田舎へ逃げ去り、ウィーンに残る人々はこの先どうなることやらとびくびくしていた。初演を見に来たのは一握りのフランス軍人だけ。コロナ禍でもないのに会場は閑古鳥が鳴いていた。
翌1806年の4月10日の再演は大成功だったそうで、「幸先良い将来がひらけた頃、ベートーヴェンの劇場監督に対する怒りが爆発してしまった」。その顛末については次の研究書にこれ以上リアルに描くことは誰にもできないと思われる位に書かれている。細部のリアリティーがきめ細かく、すべてベートーヴェンの遺した手記や友人たちの手紙をもとにして書かれていて、何より良いのは書き手がベートーヴェンに成り代わっていることだ。『レオノーレ』にまつわる箇所だけで最高級のノンフィクション・ドラマを成している。
* 「ベートーヴェン研究(合本)」山根銀二 未来社
1976年 鳥居賞(サントリー賞)受賞
1000ページ以上で目方はほぼ2キロ。将来、もし私が余命6か月などと宣告されることがあれば、この本を4冊に分けて製本し、ベッド用の書面台で日がな一日、最期の日が来るまで読むつもりである。そうしたら歓喜とともに(mit der Freude)昇天できると思う。あわよくばあの世では、ベートーヴェン先生のお近くで過ごしたいものだ。以下、山根銀二氏の文章を約めて引用させていただきたい。
『レオノーレ』の初演から翌年6月までのさまざまな苦労のうち、アン・デア・ウィーン劇場の監督になっていたブラウン男爵とのやり取りを抜き書きしてみることにする。
その日は6月10日の再演を控えてゲネプロだった。テノール役のレッケルという男が報告しているところによると、ベートーヴェンは報酬に関してあまりに少ないのに驚いたそうだ。すると男爵は「・・・特別席はいっぱいだったとしても、ひしめきよる人民大衆がモーツアルトのオペラのときのように収益 を生み出す席はいっぱいというわけにはいかなくて」
と言い、出納上の欠損を説明した。そしてこう言った。
「ベートーヴェンの音楽はモーツァルトが毎回そのオペラでいわば全人民を感
動させたのとはちがい今にいたるもなお、教養階級にのみ受け入れ口をこしら
えただけである」と。
ベートーヴェンは怒りにたけりたち、部屋を駆けぬけ、大声で叫んだ。
「私は大衆のために書くのではないー――私は教養ある者のために書く」
と。男爵は静かに言った。
「それだけでは、われわれのために劇場をいっぱいにしてくれません。われわれの収益のためには大衆が必要です。貴方はけっして自分の音楽のなかで大衆に譲歩しようとしないものだから、配当が少ないのです。もしわれわれがモーツァルトのオペラの収益から同じ配当をするとしたら、モーツアルトは大金持ちになっちまっているはずです」。
こう言われては腹の虫がおさまらない。ベートーヴェンは心の底から怒った。モーツアルトとこんなふうに比較されて彼は席から跳び上がり、怒りに咳込んで「私のスコア(総譜)を返してください」と叫び、給仕の手らそれを掴みとると階段を駆け下りていった。(『ベートーヴェン研究』からの要約的な引用おわり)
普通このような出来事があったら、しばらくは仕事ができないところであるが、それが何と、まるで油でもさされたように素晴らしい作品をつぎつぎと生み出していく。ベートーヴェンの叩かれ強さにMinaeは呆気に取られる。自分に打ち克つ強さが彼を脂の乗り切った作曲家に仕上げるのだ。
『ラズモフスキー四重奏曲』は7月の初旬には第1番が完成し、つづいて2番、3番がつくられ、ピアノ協奏曲第4番は『レオノーレ』の改訂版の上演の頃すでに完成し、第4交響曲は『ラズモフスキー四重奏曲』と並行して書かれていった。
次の手紙には日付がないが、この夏ルードヴィヒがヨゼフィーネに宛てて書いたもので、再会するかなり前に投函されたらしい。先に引用した「如何お過ごしでようか・・・」に対する返事だ。
「あなたがまだ少しでもわたしのことを心に掛けていてくださるようにおっしゃることは、どうせ誰にでもなさることでしょうけれどもありがたいことです。
・・・・わたしがどうしているのか、言えとおっしゃいますが、そんなむずかしい問いを出さないでください・・・・あまり本当のことを申し上げるよりは・・・・むしろ返事をしないほうがよさそうですね」
ルートヴィヒさん、それはないでしょう? ほかに言い様があるでしょうに。 どうしてこんなに関係がこじれたのかしら? こうしたやり取りの少し前にヨゼフィーネは、ルートヴィヒが自分に「官能的なもの」を求めるといって苦言を呈している。
「あなたとの交際が私に与えてくださった喜びは、あなたの愛が官能的なものでさえなければ、私の生涯のもっとも美しい飾りとなるでしょう。私がこの官能的な愛情に満足できないことに対して・・・あなたは怒っています。あなたの言葉に従えば、私は神聖な境界を犯すことになるのです。・・・お察しください・・・私は自分の義務を果たすことで、誰よりも苦しんでいるのです・・・」と書いている。やがて彼女は「私が好きなら・・・それならもう少し思いやりの気持ちを持ってください。・・・何よりも私を間違えないでください。・・・どれほど深くわたしの心の奥まで苦しめているか、たとえ心の中だけのわずかな気持ちでも私に下賤な女のように特性や義務までを犠牲にせよとおっしゃるなら、我慢ができません。・・・・私のほうが、あなたよりはるかにもっと、はるかにもっと悩んでいるのです・・・はるかにもっと!・・・」と、日付不明の手紙に記している。(主として属啓成の訳を使用。ただ表現の点で多少手を入れました)。
この手紙の「官能的なもの Sinnlichkeit 」については研究家のあいだで、しかつめらしい議論があって、<感覚的なもの>だという研究家もいれば、<道徳的ではないもの>だという研究家もいる。あのそのう・・・こう言ったら身もふたもないのですが、ルートヴィヒは何でもいいからヨゼフィーネと契りを結びたいわけでしょ? 『レオノーレ』公演ではストレスが山のように溜まり、堪忍袋は二つも三つも切れ、ついには大爆発し、それから幾らも経たないうちに曲をつぎつぎに書いていった男としては、平たく言うと、最愛の女を抱きたいという欲望が湧いても仕方ないと私は思うのだが・・・如何かしら? 下司の勘ぐりかしらねえ。ヨゼフィーネとしては斜陽の貴族といっても、いやいや斜陽の貴族だからこそプライドが邪魔してそんなルートヴィヒを受け入れることができなかったのではないか。普通、表に出さない貴族という特権階級意識が丸出しになっていますね。でも、このように手紙で強く拒否するところからすると、彼女も実は彼を求めていて、その欲望を必死で抑えていたのでは・・・というのは考えすぎかな。
彼女の手紙を読むと、ルートヴィヒとは違う苦労が頭にあったようだ。本来だったらダイム伯爵は亡くなっていて、まだ誰とも再婚していないのだから、<「私の天使」とか「あなたの心臓と私の心臓がいっしょに胸を打つ日がきたらいい」なんて言っておきながら、プロポーズの一言だってあっていいじゃない! 婚約もしていないのに官能的なものを求めるなんて順番が違っていないかしら?>という不満があった。そういう不満とともに、<一体ルードヴィヒは4人の子供のパパになれるのかしら>という疑念もむらむらと湧き上がってくるのだった。
ところで『レオノーレ』の初演以来、さんざんな目に逢ってくたびれた上に幾つもの作曲を手掛けたルートヴィヒは6月の末か7月の初め、旅に出た。手紙のうえでの気持ちのずれがあったとしても、足の向く先は自然にヨゼフィーネのいるハンガリーのマルトンバシャール。だがブルンスヴィック家の館にはヨゼフィーネはいなかった。そこでシュレージエンのリヒノフスキー侯爵の領地へ足をのばし、8月の半ばにマルトンバシャールへ行ってみると、テレーゼもヨゼフィーネも帰館していた。
ブタペスト近郊にあるブルンスヴィク家の館のファサード
マルトンバシャールの館の食堂でベートーヴェンがぺピ―と顔を合わせたとき、彼女は瞳をきらきら輝かせたものの、傍目にはぎこちない空気が流れた。そこは女扱いに慣れたルートヴィヒ、「うふん」と軽く咳払いをし、それから満面の笑みを浮かべた。
「やあ、ブルンスヴィック家の皆さま、しばらく。ヨゼフィーネさん、ご機嫌麗しゅうございます。テレーゼもフランツもご一緒とは、私はなんと幸福な男でしょう」。
とかなんとか言って「今回はわたくし、曲作りの仕事を沢山携えてまいりましたゆえ、館のいちばん外れの、ピアノの置いてある部屋を使わせていただきとうございます」と言って、深々とお辞儀をした。食事がすむと、家族との団欒は、耳が遠いこともあり、ほどほどにして、そろりと部屋を出た。
数日経った昼下がり、戸外の空気がボヘミアンブルーに染まっているのがルートヴィヒの目に入った。到着した日から雨つづきだったため、ひねもす作曲の仕事にかかりきりだった彼は戸外の空気に惹かれた。庭の大理石のテーブルをテレーゼやフランツが囲んでいるのがルートヴィヒの目に留まると、仲間に加わろうと肚を決めた。
「ぺピ―は子供たちと遊んでいるわ。もうしばらくしたら、こちらへやって来るでしょう。ところで『ラズモフスキー四重奏曲』の進み具合は如何?」
とテレーゼが手振りを加えてルートヴィヒに伝えた。作曲しているあいだは、侍女が食事を部屋へ運んでいたので、彼が家族に会うのは数日ぶりだった。
「1部はほぼでき上りだけど、2部はまだまだ」
とルートヴィヒは応えた。
「僕はちょっとした事務仕事があるから、ペピーがきたら席をゆずるとしよう。近いうち、僕のチェロにピアノで伴奏してくれないかなあ。もちろん 君のチェロ・ソナタだよ」
とフランツがチェロを弾く手振りを加えてルートヴィヒの耳元で言った。察しのいいテレーゼも言葉を継いだ。
「私も読みさしの本があるから、すぐにお暇しますわ。ペピーとお話があるのでしょ?」手振り身振りでそう伝えた。
「そんな。皆さん、お気遣いなく」とルートヴィヒ。
チチチチ チチチ リリリリリ チロチロチッチ リロリロリッリ
かすかに聞こえてくる小鳥たちの囀りは、ルートヴィヒが耳を欹てると、どうやらペピーと子供たちのおしゃべりの声らしい。手を額にかざして眺めやると、やはりそうだった。ヨゼフィーネはなかなかやって来なかった。テーブルのレモネードを飲みながら半時も待っただろうか。振り返ると、そこには純白の地に深緑色の刺繍で縁取りした半袖のドレスを着たヨゼフィーネの姿があった。薄緑色のオーラがその姿を取りまいていた。ルードヴィヒにはそう感じられた。
<美しい、この世の人とは思えないくらいに! ミューズの女神が降りてきたようだ!>
と、彼は息をのんだ。彼女はルートヴィヒの斜めに腰をおろした。
「私たち三人がいっしょになるなんて、しばらくぶりですわね」
とテレーゼが言った。
「えーえー、今年はまったく忙しくて」と、返事がすこしぶれているかもしれないと思いつつルードヴィヒは適当に応えた。
「それではごゆるりと」とテレーゼは言って、館のほうへ歩き去った。
「ヨゼフィーネ、お顔の色がいいですね」と、ルートヴィヒから言葉を掛けた。
「日差しが心地いいので子供たちと長いこと遊んでしまって。日焼けしたのだわ」とヨゼフィーネ。ごめんなさいと言わないのは普通で、ここに画然と身分の格差があった。そこには
「二人で林を散歩しませんか」とルートヴィヒが誘うと、
「ちょっとだけなら、いいわ。子供たちは侍女にすっかり懐いていますから」
とペピー。
細い小川沿いに歩くとき、ルードヴィヒにはその流れの音が琥珀色に感じられた。ゆっくり歩くとブナの幹の香りがして、そこにはすっかりくつろいだ恋人同士の姿があった。ルートヴィヒの耳にまた遠くから、音がかすかに届いた。郵便馬車の音かもしれない。この音はライトブルーに感じられた。ペピーに確かめると、そうだった。
「あの郵便馬車はウィーンのほうへ行く今日最後の便かな。それともウィーンからやってきた今日最後の便かな?」と彼が訊くと、
「西のほうへ向かって走っているからウィーン行きですわ」
とぺピ―。そんな何でもない会話がルートヴィヒの胸に甘露のように一滴一滴したたり落ちた。
# このバイオリン協奏曲は何を表現しているか。さらに名バイオリニストたちは、どのように演奏しているか
<1> 第一楽章
彼はスケッチブックに「自分は作曲しているとき、いつも考えのなかに絵を描きつづけていて、それにのっとって仕事をしてきた」と語っていて、シンフォニーの『田園』や『運命』は<詩的イデー>(poetische Idee)であって「私はそれを両手でつかむことさえ、できるかもしれない。・・・中略・・・それは詩人の場合には言葉のうちに、私のところでは音のうちに置き換えられ、響きを発し、ざわざわいい、嵐をまきおこし、ついには音符となってたちあらわれる」(シュレッサーに語ったベートーヴェンの言葉。山根銀二訳)。
このバイオリン協奏曲も終始一貫して音の絵にしたがって作られているといえよう。一番顕著なところは第2楽章の緩徐楽章でベートーヴェンがヨゼフィーネと懇ろに語り合っているところだ。我々聴き手には、ボヘミアの広い庭園のなかのベンチに二人して腰を下ろし、肩を寄せ合ったり、手を取り合ったり、手を愛撫したりしながらヨゼフィーネは優しくベートーヴェンに微笑とともに語り掛ける、ベートーヴェンもそれに優しく応じる、そんな様子が彷彿とされる。作品による夢の実現は最高峰に達すると、ヨゼフィーネからベートーヴェンのほうへ強い愛を乞い願うような仕草さえする・・・(残念ながら現実は逆であって、そのようなヨゼフィーネからの積極的な愛をベートーヴェンがどんなに強く願っていたか、如実に想像できるではないか!)。モーツァルトが歌劇『イドメネオ』で試みたように、現実では極めて苦しい状況であるのに、その苦しみの大きさに比例するかのように夢は大きい。
やがて庭の向こうに陽が傾くと、現実の世界がバサリと目の前に落ちてくる。
冒頭からソロのバイオリンが始まるまでの序奏は約3分つづき、かなり長い。普通、1分くらいではないかしら? この長い3分は、前のチャプターに記したブルンスヴィク家の庭でルートヴィヒが待ちぼうけを喰らっている場面だと私は解釈したい。テレーゼとの会話はうわの空で彼は『レオノーレ』の初演や再演にまつわるもろもろのこと、つまりヨゼフィーネのことを胸に温めながら曲を拵えたことや、初演では閑古鳥が鳴いていたこと、それに再演は成功したものの劇場監督のブラウン男爵と派手にやり合ったことなどを反芻していた。
さていよいよソロのバイオリニストが登場する。
ここでお断りしておくが、自分の感性を信じて曲の解釈をした場合は、自分とはまるで違う解釈にも理解を示さなくてはならない。というわけで、これから自分の解釈 を記すに際しては、あくまでも多くの解釈のなかの一つとして読んで頂きたい。尚、往年の巨匠たち、たとえばメニューインやオイストラフ、パールマンやハイフェッツ、シゲティ、コ―ガンなどはこれまで称賛され、いろんな批評をされてきたから、恐れ多くもあるし対象外とさせて頂く。現在存命中のギドン・クレーメル、パトリシア・コパチンスカヤ、チョン・キョンファ、アンナ=ゾフィー・ムター、デイヴィット・ギャレットの5人について楽章ごとにどう弾いているかを検討してみたい。他にも優秀なバイオリニストが沢山いてベートーヴェンのバイオリン・コンチェルトをさまざまに弾いておられるが、読み手の皆さんが全部読むのは大変かもしれないので、すばらしい演奏を割愛させて頂く。
このコンチェルトは全般にソロのバイオリンパートが大変に難しい。部分譜[3]をご覧のように、ソロ・バイオリンの出だしも然り。上げ弓ではじまり、上行するメインの音には1オクターブ低い16分音符の装飾が付いている。この装飾音符は、ブルンスヴィク家の庭園でもルートヴィヒに待ちぼうけをさせたあと、ヨゼフィーネが彼の前に現れるとき彼女がミューズの女神のオーラに覆われているようにルードヴィヒには感じられたという意味であって、きわめて重要なところである。第2楽章やカデンツァで32分音符の連続がしばしば出てくるこのコンチェルトの演奏では16分音符は結構長い。ベートーヴェンがこの装飾音符を小さく記してしまったことに惑わされて、弾き手によっては、弓で弦をちょっとかすめる程度の弾き方をする人がいる。反してその重要性を踏まえてしっかりと丁寧に弾く人もいる。実は第1楽章には89小節に、同じメロディ―が出てくる。やはりヨゼフィーネの立ち姿を唄ったところだと思う。
ちなみに巨匠のオイストラフは、このソロの出だしは装飾音符の存在をくっきりと押し出し、上行がつづく限りゆっくりと余裕で弾く。そうすることで聴き手はこれから先のストーリーを大いに期待することになる。(オイストラフの演奏は章の末尾で聴くことができます)。
さて、白髪の、75歳になったクレーメルの演奏を聴くことにしよう。現在使用している楽器は1641年製のニコロ・アマティだが、アーノンクールの指揮で演奏した際はストラヴィバリウスを使っていると思われる。 モスクワ音楽院でオイストラフに8年間師事だけに響きの豊かさは半端ではない。クレーメルの演奏は、決して一枚岩ではないベートーヴェンという人間を表わすのに人並みのカデンツァでなく摩訶不思議なメロディーを奏でる。まるでセザンヌの風景画にピカソの「ゲルニカ」の一部を切り取って貼り付けたような感じだ。数年前に初めて聴いたときは、「エー、これってなあに⁉」という悲鳴が我が喉からほとばしり出た。が、今はすんなりと胸に収めることができている。というのはクレーメルがベートーヴェンの作品ないし経歴、それに何よりも、女性遍歴を相当詳しく研究していることが判ってきて、奇抜なところはそれなりに重要かつ、新しい感覚で聴きとれるようになったのである。さて第1楽章でソロのバイオリンが登場するところは、クレーメルは装飾音符を丁寧に弾き、上りつめたところでスフォルツァントのビブラート抜き、つまり響きを抑えて重厚に弾く。10小節後にドルチェとなってヨゼフィーネの優しさが出てくるので、そのコントラストを狙って、計画的なのだ。
ここで断っておくが、ベートーヴェンのスコアは出版社によって付属のfとかsfという記号が違っている。音符は皆同じであるが。第1楽章は最後のカデンツァの前でベートーヴェンの独白部があり、ここではティンパニを効かせて身分の格差や、ウィーンの音楽界での彼の敵の存在なども描かれる。この楽章の終わりがたでカデンツァがはじまり、ピアノとティンパニの豪華な二重奏が入る。このような方法は誰もやっていないだけに心惹かれる。ピアノのあとは例の現代音楽風のバイオリン演奏がつづく。そしてコーダがあり第1章はおわる。
さてコパチンスカヤの番だ、と思った途端に私のうなじには汗がびっしり出てきた。それ位、彼女の演奏はエネルギッシュなんだ。今回はヘレヴェッヘの指揮でガット弦を使っての大奮闘である。ガット弦は慣れるのに時間と熱意が必要だったらしい。例のソロのバイオリンが登場するところは、迫力満点。「ガット弦とは、こんなにも骨太な作品を演奏してくれるのか」とびっくりしてしまう。カデンツァに入るまえのベートーヴェンの苦悩の場面は事実が目に見えるようだし、ヨゼフィーネを愛しく思う気持ちもこれまた豪華に表現される。カデンツァに入るとこれまたびっくりさせられ、ティンパニとガット弦でスフォルツァントの競演は迫力満点だ。1807年に書かれたベートーヴェンのピアノ協奏曲をベースにしてコパチンスカヤが編曲ないし作曲したそうだが、『ファウスト第2部』のワルプルギスの夜も舞台で見た限り、ここまでエネルギッシュではなかったように覚えている。 敢えて申し上げると、彼女の演奏はベートーヴェンの作品というより、コパチンスカヤの作品になっている。が、まあ、女性がここまで自己を主張するというのも良いのではないかしら。
コパチンスカヤの演奏と対照的なのがキョンファの演奏と云えようか。ソロのバイオリンが登場するところでは気高いミューズの女神がこの世に降り立つといった雰囲気で、バイオリンの音を美しく繊細に響かせる。装飾音も16分音も丁寧で、オイストラフ風に弾いている。ヨゼフィーネとの紆余曲折ありの付き合いも苦悩がいつしか美に変貌している。クライスラーのカデンツは第1楽章にしては極めてゆっくり演奏され、コーダでは一気に激しくなり1楽章の終わりとなる。彼女は決してベートーヴェンの作品であることを忘れないように気をつけながら、原作者の格調を保ちつつ演奏する。
さてムターは今年、ミュンヘンでウクライナの子供たちを支援するためのチャリティーコンサートでベートーヴェンのバイオリン協奏曲とモーツアルトの『バイオリンとヴィオラのための協奏交響曲』を披露した。(この時の演奏は章の末尾で聴くことができます)。挨拶のとき、1万人はいるかと思われる聴衆を前にして「ロシアのWahnsinn(狂気)のために苦しい思いをしているウクライナの子供たちをサポートしましょう」と、毅然とした口調で呼びかけ、そして演奏も毅然としていた。現在59歳。10代でカラヤンの指揮のもと、ベルリンフィルと共演した際より音に深みがあり、カデンツァときたら目を剥くような味のある演奏であった。日々努力する人は徒らに歳を重ねないのだ、これホント。昨年はベートーヴェンのバイオリン・ソナタ10曲を世界のいろいろな国で演奏して回ったそうだ。まさか一晩で10曲弾けないから、1か所で多分2晩、演奏しているのであろう、日本の徳永二男さんのように。音楽の精力的な活動の他に、例えば2011年の東日本大震災に際しても支援を惜しまなかったという。
バイオリンのソロで登場する場面では正確に、あまり目立たないように演奏に加わり、次第に技術の冴えを見せていき、独白部分では、<ヨゼフィーネがいなかったら、この数年の日々はどんなに辛かったか>といった回顧の調べで曲をすすめる。アレグロ・マ・ノン・トロッポより速度を落とし、じっくりとゆっくり弾く。
アーノンクールとクレーメル
ギャレット
この5年位でにわかに名を馳せているダーヴィド・ギャレットについては、その演奏をユーチューブで聴いて驚き、さっそくCDを買って何度も拝聴した。そのすばらしい音色はストラディバリウスのなかでもハイレベルのロレンツォという楽器だそうだ。映画の音楽監督をやったことや、ロックバンドを結成していることなどはインターネットで検索すると詳細が出ているので、ここでは割愛させて頂くとして早速ソロのバイオリンが登場する場面を聴きたい。装飾音符は丁寧に且つ華やかに付けて上行が行きついたところで、つまり楽譜ではsf(編集者によってはf)のところでヴィブラートで強くアクセントを付ける。次の小節では ウルル といったロック風にアクセントを付けて、一気に会場をドラマチックな雰囲気にしてしまう。第1楽章のあちこちでこうした魅力的なアクセントが置かれ、滑らかなペースで聴き手をベートーヴェンの音楽世界へいざない、さすが映画の音楽監督を務めた経歴がある人は違うなと唸らせた。
思うに、4歳の頃から父親の監督のもとに1日に長時間を稽古に費やし、17歳頃には働きながら学費を稼いでジュリアード音楽大学で学んだことなどギャレットの人生はベートーヴェンのそれと似たところがあり、彼の心理を理解しやすいのではないかしら? ギャレットは第1楽章のバイオリンのソロが始まるまでに作者の現実世界における挫折の側面を描くように配置し、バイオリンのソロが登場してからはヨゼフィーネとの起伏ある愛の恋路をひたすら唄いつづける。長いカデンツァも恋の歓びと哀しさを唄ってあまりあり、何ら奇抜なことはやらない。歓びは哀しさと苦悩で裏打ちされているから美しい。クレーメルとは対照的にカデンツァは、ギャレットが幼少から親しんだクライスラー版を忠実に演奏している。(この演奏は章の末尾で聴くことができます)
<第二楽章>
第2章は最後の4小節までは、ベートーヴェンがうまく行かない現実を逆さまにして夢の理想を作品にしたものである。苦悩が大きければ大きいほど夢は大きく美しくなる、モーツァルトのオペラ『イドメネオ』のように。モーツァルトのこのオペラは、書物にしたものをヨゼフィーネから借りてルートヴィヒが読んで間もないので、自分もこの形で作品をこしらえ、現実の日常生活がうまくいかない分、夢をたっぷりと膨らませた作品を創造したいと考えたのであろう。
第1楽章については5人のバイオリニストを一人ずつ標的にして自分の解説を付けたが、かなり冗長になったので、第2楽章はこの5人の演奏のなかで目立ったところを記すことにしたい。
クレーメルはもちろん、ドラマチックな効果をあげるのが得意なギャレットも、その他の3人も、ラルゲットで始まる2楽章は第1楽章とは世界がまるで違うことを皆、承知で演奏する。端的にいうと、楽譜にそう書いてあるのである。22小節目からのソロのバイオリンは手の込んだ技法で30小節目まで世界の切り替えをきちんと行う。2章はcon sordini(弱音機付き)で弾くこと、sempre perdendo (消え入るように小さく悲しげに)等々細かい指示が付けられている。第1楽章では見られなかった32分音符がソロでしばしば出てきて、ファッゴトとクラリネットが大きな効果を出し、クレーメルの演奏では第1楽章で活躍したピアノはなりを潜め、この部分は全曲を通じてもっとも美しいところで聴き手は恋人の睦まじい語りのやり取りを想像したり、二人の散歩や愛撫を想像したり、あるいは熱い抱擁を想像することができる場面である。終わりがたのカデンツァではクレーメルはしばらくの間、斬新なメロディーを聴かせるが、第3楽章でカデンツァを盛大に披露するつもりのようだ。
ギャレットがこの曲をメニューインに教わったとき、マエストロは2楽章の美しさを almost religious beauty (ほとんど宗教的といえる美しさ)と言ったそうである。ヨゼフィーネとベートーヴェンの恋が天上の美にまで昇華しているという意味であろう。そう教わったギャレットは極めて神秘的な雰囲気になるように、p のところも繊細に、はっきりと演奏をしている。
ただ2楽章の最後に近い88小節目では夢からさめて 現実にもどる。
<第3楽章>
第2楽章の終わりに、そのまま休まずにロンドへ(attacca subito il Rondo)という指示があるので、2楽章から休まずに第3楽章へ移ることになる。このコンチェルトをどう解釈するか、ベートーヴェンの心の裡はどうか、ひいてはソリストはベートーヴェンをどのように解釈しているか、さらにバイオリンを奏でるソリスト自身の生き方さえも問われるのである。ここの演奏こそ百花繚乱、どのソリストも渾身の演奏を見せてくれて、小説以上の面白さを見せてくれる。ベートーヴェンの近代的な自我、そしてそれを演奏する人の自我、ひいてはこのような自分に打ち克つ闘いを聴きに来る人々の作品受容と感動。舞台も客席も熱気にあふれる。
ところでこの第3楽章の構成を仮に図式化すると以下の通りになる。
A B A C A B A
Aの部分の楽譜を示すと以下の通りである。
ロンド形式をとったのは、Aの比較的軽快なメロディーを4回にもわたって弾くことで聴き手に強く印象づけようとしたのであろう。さまざまな苦境に逢っても結局は軽やかに超越することだ。そう言いたかったのであろう。例えば『月光の曲』の第3楽章や『悲愴』の第3楽章より軽快でしかも美しい。
クレーメルの場合は3楽章がはじまって幾らも経たないうちに編曲が現われ、ロンドの3番目のA はピアノ付きの豪華絢爛たる現代音楽、カデンツァはシュニトケのものを編曲して私には表現主義の絵のように感じられる。自分を取りまく世界を絵にし、それを音にしたものが演奏されて、それから最後のAが演奏されてコーダがあって終わる。ただ、クレーメルの頭髪が雪のように白くなった頃の演奏は、ベートーヴェンの心の裡の池に深く深く沈潜して、そこに在る近代的な自我をベートーヴェン自身が透徹した目で観察し、それにふさわしい不可思議な、聞いたことがないようなメロディーを賦与していて大変に興味深い。(この演奏はまだCDになっていないらしいが、ユーチューブから録画したものを章の末尾で聴くことができます)。
コパチンスカヤは1807年に書かれたピアノ協奏曲を、コンサートマスターに手伝ってもらって大幅に編曲した。ティンパニには大音量を出してもらって、自分に打ち克つ闘いを明るく、重厚に表わし、すぐそのあとでA のメロディーを置くことで、Aのように明るい闘いがベートーヴェンのこの曲の目的であることをおおらかにアピールしてフィナーレに流れ込む。
ギャレットのようにクレメンティー版を流れるように、だが自分流に編曲して収めるものもいれば、ムターのようにピアノ協奏曲を大幅に編曲・作曲した堂々たる長いカデンツァを奏でながら両肩に銀青色の汗を光らせる人もいる。
5人のバイオリニストには入れなかったがヴェンゲーロフや前橋汀子、ギル・シャハムやアラベラ・シュタインバッハー、ジャニーヌ・ヤンセン、等々、見事なカデンツァを聴かせてくれ、聴衆を万雷の拍手に巻き込むバイオリニストが後を絶たない。私はこうしたバイオリニストが命を懸けて渾身の演奏を聴かせてくれることにどんなに励まされたかしれない。
**使用したCD やユーチューブ
クレーメル:(指揮)ニコラウス・アーノンクール ヨーロッパ室内オーケストラ 1992年 グラーツにて録音
コパチンスカヤ:(指揮) フィリップ・ヘレヴェッへ シャンゼリゼ管弦楽団
2008年 メッス、アースナル(ライブ&セッション)
キョンファ:(指揮) クラウス・テンシュテット ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 1989年/1900年
アンネ・ゾフィー=ムター (指揮)
2022年ミュンヘンにてライブ録画 ウクライナ支援のためのチャリティーコンサート
デイヴィッド・ギャレット(指揮)ロン・マリン ローヤル・フィルハーモニック・オーケストラ 2011年 ベルリンにて収録
( 鑑賞ページ ) 聴き比べてお楽しみください
オイストラフ クレーメル ムター ギャレット
2022年12月、檸檬の実の色づく頃 良いお年をお迎えください