はてさてベートーヴェンはこの曲で何を表現しようとしたのか? そもそも第1楽章の摩訶不思議な雰囲気は、一体何を表現しているのか? 日本の或る音楽評論家がこのソナタの第1楽章はベートーヴェンのほかの作品とは「表情が違う」と、書いておられる。シャープな批評だと思う。たしかにキリスト教の文化では珍しい世界・・・もしかしたら仏教の世界でいう冥途ではないかしら? 彼は当時、苦悩の真っ只中にあって、しかも自分が天才であることをすでにはっきりと自覚していた。耳疾があり、それはじわじわと進行していた。さらに幸せな結婚生活も望めそうになかった。彼は日々自殺と紙一重な生活をしていたようだ。気が狂ったように作曲、また作曲、さらに作曲。1802年にしたためた「ハイリゲンシュタットの遺書」にその苦労を綿々と描くことで、辛うじてこの先、死なずに生きていこうと決意した。「ピアノ・ソナタ14番ー2」はそうした苦悩の渦中にある時期に書かれた。
キリスト教の世界では自殺は、自分を殺すのであるから罪になる。もし自殺するとしたら、自分の魂はどこへ行くのか? 天国へ行けないとしたら、どこへ? おそらくこのような世界であろうと想像されるものが第1楽章に展開されていると私は思う。ただ私たち日本人が想像する冥途と、西洋人が本から学んで想像する冥途にはかなりの差異があるように感じる。
西洋で書かれた詩のうち、19世紀、20世紀のもののなかで冥途に近い世界を描いたものを捜してみると、ないわけではない。第1章で触れたホーフマンスタール 、この人は偶然にもウィーンに生まれ、ウィーンで教育を受けた詩人である、この詩人の詩に前存在(Praeexistenz)を想定して描いたと思われる詩が幾つかある。そのなかで「体験(Erlebnis)」という詩が「ピアノ・ソナタ14番ー2」の世界と極めて似ていると思う。日本語にするとかなり雰囲気が損なわれるのであるが、川村二郎さんの訳で冒頭の10行ばかりを記してみたい。
フーゴ―・フォン=ホーフマンスタール
銀鼠の靄は うすらあかりの谷あいを
ひたひたとひたしていた 月かげが雲間から
もれ出る時とも思われたが 夜ではないのだった
暗い谷間の 銀鼠の靄と溶け合って
ほのかなわたしの思いはただよい流れた
そして静かに わたしは ゆれ動く
中略
この世界全体には 盛りあがる深い音色の
憂鬱な音楽がみちあふれていた そしてわたしは知っていた
どうしてかわからないが わたしは知っていた
これは死だ 死が音楽になったのだ
第1楽章の冒頭からBのso do mi so do mi が so# do# mi so# do# mi になるだけで聴き手や弾き手は何だか不安定で幻想的な雰囲気へいざなわれる。人影がまったくない無人の世界、音もない。作者は音のない世界を音で表現しようとする。このような第1楽章の舞台は、第2楽章に入ると暗幕がサーと開けられる。そこに現れるのは清らかな美しい乙女が一人。明るくて全く華麗な人間の世界だ。ヨゼフィーネかもしれないし、ジュリエッタかもしれない。この二人はもともと従妹同士だから、どちらでも構わない。Minaeはヨゼフィーネと捉えたいのだが、ベートーヴェンは黙して語らないから、はっきりしたことは分からない。
すると第3楽章は<自殺しないで生きることにしても、こうした理想的な女性を妻にするのはまず身分の違いという高い垣根があるから困難、無理である。それに僕は天才なんだ。良い音楽をつくるために神から召喚されているのだ。音楽に身を捧げることが僕の何ものにも優先しなければならない務めなんだ。孤独でなければ神からから伝えられるメロディーが捕らえられない、人並みの幸福なんて糞喰らえ! 真の音楽へひたすら邁進、驀進、驀進、それしか生きる術はないのだ!!! こうした心の軌跡がピアノ・ソナタ 14番ー2に込められているのである。
バッハの音楽をもとにして、それを起点として音楽に革命を! バッハだけではない、モーツアルトの手から、ハイドンの手から音楽に革命を! それがベートーヴェンの音楽の課題であった。
ここでしばしMinaeの私見を挿入したい。ベートーヴェンの爆発的な改革精神は如何にもバッハを超えてその上に近代的な新しい音楽を爆発的に築いたかのような印象を与えてしまったかもしれない。そうではないと、敢えて言わせて頂こう。
バッハの音楽も不死身であって、現にMinaeは弦楽器の稽古をはじめる際、娑婆のいろいろな喧騒や主婦の些末な、だが累々と積まれた仕事を離れて神聖なひとときを求める際、まずバッハを弾いて身を清める。コロナ禍がいつ収束するか分からないこの2022年の初夏には、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」をヴィオラでまず弾くことから一日が始まる。ベートーヴェンの曲ではない。
バッハのシャコンヌはバイオリニストにとってばかりか、我々音楽愛好家にとって云わば聖書だ。『無伴奏』にしても然り。『トッカータとフーガ』を1回聞いただけで残りの人生をパイプオルガンの練習に捧げた人もいる。つまりバッハは不死身の存在として人類にとってかけがえのない存在である。ベートーヴェンはバッハをあくまでも足がかりにしたといえよう。
ちなみにピアニストたちは、この曲をどのように解釈して弾いているのであろうか。私が第一楽章を冥途を表したのではないかと思うに至ったのはモーリッツ・ポリーニの演奏を聴いてからである。非常に厳しくて暗い世界である。およそ華やかさは微塵もない。ポリー二の他にもアンドラーシュ・シフはさながら夢のなかの葬送行進曲のような雰囲気を出し、ダンパー・ペダルを踏んだまま摩訶不思議な世界の効果を出している。スタインウェイではなく、ヴェ―ゼンデルファーを使ってどこにもない鈍いトーンを出すピアニストもいれば、エレーヌ‣グリモーにいたっては、狼の映像を背景に遠吠えを低く鳴らしながらゆっくりとこの第1楽章を奏でる。それぞれがベートーヴェンの苦悩、ないし自殺したとしたらどのような世界に陥るのかを創造しながら演奏する。
さらにこのピアノソナタの第3楽章を辻井伸行は「悲しみ」を表現していると語る。彼の演奏は3楽章全体を通してかなり明るく整然としているのであるが、この明るさは単純な明るさではないらしい。障害を抱えながら芸術の高みを志すことから生じる苦悩、また苦悩を乗り越え、苦悩が極限まで昇華されたところに生まれる明るさだと思われる。
章の最後に付け加えておかなければならないことがある。これを記すにあたってMinaeは、肩に力をこめなくてはならない。
音楽の作品は、文学や絵画と同じく、いったん作者の手の離れると独立する。独立した作品はどのような解釈にも門戸が開かれている。であるから、ベートーヴェンはこのピアノ・
ソナタを月光とは関係ないものとして作曲したが、「月光を浴びて湖上に揺らぐ小舟のよう」(レルシュタープ)と解釈しようと、「ルツェルン湖にたゆたう小舟の感じ」と感じようと、それは鑑賞する者の自由であろう。
この曲はどのように弾こうと第1楽章からとにかく美しい。たとえベートーヴェンが美しい曲を書こうと意図しなくても美しい。例えばヨゼフィーネが弾いたとき、空で囀る雲雀のように美しかったのではないかしら? やはり彼には神の恩恵が如何なる時にも注がれているようにMinaeは思う。
こうした自由は次の章のバイオリン協奏曲 作品61の解釈にも如実に顕れることになる。最近の演奏では、はてさてベートーヴェンの意図はどこへいったのかな、と思われる節もある。ベートーヴェンを神の如く尊敬するMinaeとしては一抹の寂しさを感じるが、鑑賞する者の人間性を鑑みると致し方ないであろう。
モーリッツ・ポリーニ
第3章までのあとがき
取り敢えず最初の3章だけをHpとして公けにします。全体は8章ないし9章位になるでしょう。ついては参考図書や利用したCD等は全体が終わってから末尾に付ける予定です。ご了承ください。
第4章はヴァイオリン協奏曲 作品61 について書きたいと予定しています。それ以後は、オペラの『フィデリオ』について、ゲラートが作詞した曲にベートーヴェンが曲を付けた6曲について、交響曲第8番について、最後は第9交響曲の合唱部の歌詞をシラーの原詩と比較してどのように変更させたかについて書きたいと予定しています。ご支援のほど、宜しくお願い致します。
2022年 檸檬の花咲く頃
→ つづき 第4章 バイオリン協奏曲 ニ長調