闇のなかで光をつかめ

ベートーヴェンにまつわるエッセイ集  

 向井みなえ

1803年のベートーヴェン

ヨゼフィーネブルンスヴィック

「闇のなかで光をつかめ」とは、耳が聞こえなくなっても作曲を続けた男がつねづね自分に言いつづけた言葉である。ボンで生まれウィーンで活躍したその作曲家の名はルートヴィヒ・ヴァン=ベートーヴェン。彼は「つんぼでなかったら、これほどまでの作品はできなかったであろう」と言い放った。

話は、ベートーヴェンとヨゼフィーネ・ブルンスヴィックとの出会いから始まる。忠実な史実をユーモラスなコメントや批評でやんわりと包んで皆様に提供できたら、こんなに嬉しいことはない。

 ただ私はプロのベートーヴェン研究家ではない。あくまでベートーヴェンとその作品をこよなく愛する愛好家でる。研究も嫌いではないが、それにもまして探偵大好きな古希のばあさんである。

目次


第1章 ヨゼフィーネとの不滅の恋

第2章 その1「不滅の恋人への手紙」をめぐって

    その2 二人の『それから』

第3章 ピアノ・ソナタ第14番(『月光の曲』)

    その1 単一の和音と分散和音で構成された曲  

    その2 この曲は何を表現しようとしているのか

第4章 バイオリン協奏曲 ニ長調


第1章 ヨゼフィーネとの不滅の恋


# 出会い 


ヨゼフィーネとの出会いはルートヴィヒが29歳のとき、1799年5月のことであった。ヨゼフィーネは20歳。その輝くような美しさは神秘的なオーラに囲まれて、一目見たルートヴィヒは釘づけになった。

ときにヨゼフィーネは母親のアンナ・バルバラに連れられ、妹のシャルロッテとともにハンガリーの居城マルトンバシャールからウィーンへやってきた。アンナは娘たちの音楽教育にはことに熱心で、彼女たちはピアノの基礎教育を済ませていた。アンナはこのウィ―ンで二人に、ウィーン随一のピアニストとして有名なベートーヴェン先生のもとでピアノのレッスンを受けさせようと考えていた。娘たちが巨匠のもとでピアノの腕をあげるとしたら定めし箔が付き、良縁を射止めるに違いないとアンナは目算した。彼女は、姿形が美しいうえに思想の面でも進歩的だった夫に先立たれ、何としてでも独力で二人の娘に良い結婚をさせなくてはと、肩に力が入っていた。

さてアンナはまず、宮中顧問官にしてチェリストのニコラウス・ズメスカルにベートーヴェンへ弟子入りする仲介を頼んだ。この人はマエストロの無二の親友だということは誰もが知っていた。<はてさて、ルートヴィヒはレッスンを受け持たなくても今は生活ができている、どうしたものかな>とズメスカルはためらった。

そんな緩慢な対応にいらいらしたアンナはマエストロと直談判することにした。<何が何でも成功しなくては>と彼女は、力んだ肩をいからせた。聖ペータース広場に面したマエストロの住いへ向かい、両手の細い指先で長いドレスの裾をひょいとつまんで、石造りの狭い螺旋階段をのぼった。サワサワと絹連れの音をさせて、ハイヒールで裾を踏んづけたら大変なことになったかもしれない。が、史実にここで転倒したとは記されてはいないから無事に部屋へ辿り着いたのであろう。

直談判は巧くいった。というのは勇敢にも単身乗り込んできた伯爵夫人の長女のテレーゼとは、ベートーヴェンはすでに馴染みの仲で、なにかにつけ相談に乗ってもらっていた。いわば彼はテレーゼに「お姉さん」を見ていた。彼は、聡明にして美貌のテレーゼの妹たちにして、かつまた友人のフランツの妹であれば間違いはないと踏んだ。

二人の娘はウィーン市内のエルツヘルツォーク・カールというホテルでレッスンを受けることになり、冒頭に記したヨゼフィーネとルートヴィヒの初対面に相成ったのである。二人は音楽の神秘にすっかり沈潜し、たちまちにして強い恋心に酩酊してしまった。シャルロッテのほうはその不穏な雰囲気に危機を感じて、姉のテレーゼへ手紙でその模様を知らせている。毎回1時間という約束を大幅にこえて3時間、4時間とマエストロは熱心にレッスンをつづけて倦むことを知らなかった。その月の下旬には、ゲーテの詩『汝を思う』にベートーヴェンが曲をつけて、三姉妹の記念帖に添え書きした。こうしてヨゼフィーネはもとより、ブルンスヴィック家の人びとと末永くお付き合いしたいという気持ちを伝えた。彼は慎重に品良く、姉妹とその家族に近づいた。やることが速く、そつがない。


# ヨゼフィーネ、ダイム伯爵と電撃結婚 

 

ところがヨゼフィーネに狙いをつけた人間がもう一人いたとは、ルートヴィヒは知る由もない。ヨーゼフ・ダイム伯爵なる中年の独身男性で当時、蝋人形館の館長をしていた。他人と決闘してまずい結果になったという男であった。彼は、容姿端麗にして才気豊かなヨゼフィーネのうわさを風の便りに聞き、ブルンスヴィック家の三人の女性がウィーンに着く日をあらかじめ調べておき、到着したその日のうちに三人を訪問した。この伯爵、行動にはスピードがいると考えていたらしい。うわさに違わぬ美貌にダイム伯も目をみはって、それから瞳をぐりぐりさせた。この男は彼女より26歳年を喰っていて、<うかうかしていられないぞ>と焦った。ほとんど初対面のアンナに「お嬢さまと結婚させてください」と申し込んだ。単刀直入な所業はそれだけではない。翌月の6月29日には、自分の居城ではなくブルンスヴィック家の居城の、ハンガリーのマルトンバシャールで結婚式を挙げてしまった。妻の親族に、待ったを掛ける暇など許さなかった。当然のことながらブルンスヴィック一族を大勢招待したであろう。翌年ではなく、翌月である。なんという早業! 大変なスピードである。この際、慎重さや品の良さなど糞喰らえ、というわけだ。鳶に油揚げをさらわれてしまったルートヴィヒはポカーンとしてただ、空を眺めるしかなかった。

肩に力が入っていたアンナは、末娘のシャルロッテもまだ結婚していないことだし、ぐずぐずしてはいられないと焦ったようだ。ヨゼフィーネはベートーヴェンに魅せられているというのに、母親はブルンスヴィック家の経済的な事情を優先した。事実、財政は傾いていたのだった。当主であり、ヨゼフィーネの兄のフランツは音楽をこよなく愛してはいるが、働いて収入を得る才覚はなく家の財政を立て直すような力はなかった。それは母親も重重承知していた。なにしろマルトンバシャールの館をはじめ、コロンパやウィーンその他の分館では大勢の使用人が働いていて、そうした人件費は毎年、ブルンスヴィック家の金庫から、枯れ葉が風に吹かれて散っていくように消えていった。母親の度重なる説得にヨゼフィーネは涙をのんで、この結婚を承諾した。

 一方、困ったことにダイム伯爵も事情はそれほど変わらなかった。ダイム家の逼迫した財政を救ってもらうためにブルンスヴィック家のお宝娘と結婚したかったのだ。貴族とはなんと困った人種であろう!類は友を呼ぶとはいうけれど・・・。

 我が国の明治維新後の武士たちと同様、フランス革命後のヨーロッパではダイム家やブルンスヴィック家に限らず、貴族は安穏としていられなかった。収入がなければ、どこも大勢の従業員を抱えて財産が目減りするしかなかった。このように当時の伯爵家の雰囲気は例えばモーツァルトの『フィガロの結婚』のアルマヴィーダ伯爵家とはまるで様子が違うのである。

アンナは早とちりするまえに、どうしてダイム伯爵家の財政事情を調べなかったのであろうか?ついでにどのような人柄かも調べるべきだった。自分で調べるのがためらわれたのであれば執事か家僕に調べさせたら良かったものを!街には「結婚に関する相談ないし、探偵事務所」なるものが、ありていに云えば「興信所」があるというのに。ダイム伯も、そんなに慌てずにブルンスヴィック家の斜陽ぶりに探りを入れることはできなかったのかしら?せめて数か月、いろいろ調査したら実情がわかったものを。なにしろハンガリーのマルトンバシャールの城は豪邸だ。ウィーンの館だって何十も部屋があるそうだ、<果たして何を調べる必要があろう>と呑気なダイム伯は、というよりダイム伯も早とちりしたのだった。

ダイム伯は自分のウィーンの館に新妻を連れていき、彼女には精一杯贅沢をさせた、ただし可能な範囲で。さらに邸内でコンサートを開き、そこへ今を時めくベートーヴェンを招じ入れ、演奏できるようにした。妻にも精一杯妥協して、結婚前と同じようにレッスンをつづけられるように手配した。が、レッスンが始まると彼はそそくさと自室へ避難し、こらえていた欠伸を天井に向かって放った。これでズキズキしていた頭もすっきりした。とは云え、音楽は当時貴族のステイタス・シンボルであったし、ぺピー(ヨゼフィーネの愛称)は音楽が大好きだったから彼は我慢した。

ただ、彼はぺピーの旺盛な読書欲には我慢できなかったらしく眉を顰めて、本はすべて取りあげた。ぺピーにとって本がどんなに貴重なものか、彼には理解できなかったのである。というわけでぺピーは大好きな子供はつぎつぎに授かったものの、けっして幸せではなかった。彼女はハンガリーにいる家族へ宛てて書いている。「夫は善良な人なのに、私は幸せなどではありません。受けた教育も、ものの考え方も、歳もぜんぜん違うのです。姉さんや妹には、もっと自由でご自分の天性にあった相手を選ばれるように、是非ともそうしてくださいね」と。

ベートーヴェンが「君はダイム伯にお金で買われたのだ」とヨゼフィーネをなじった話は私が知る限り、ウィーンで現役の女性ジャーナリスト兼作家として活躍しているクリス・シュタットレンダーさんだけが取り上げている。このお叱りに対して彼女が書いた返事の草稿が今も残っているそうな。ヨゼフィーネは彼の言葉にショックを受け、痛く傷ついた。が、健気に返事をしたためた。

「私があなたにとって大切な人間だと仮定して、そしてあなたからの友情に見合う人間だと仮定しても、どうしてそのように私を悩ませるのですか。あなたとのお付き合いはまだ日が浅く、そんなことを口にされるような信頼関係は築かれていないのではないでしょうか? あなたは私が信頼の置けない女だ、人柄にしっかりしたところがない女だとおっしゃるのですね。私の結婚に関してもろもの責任は私にあるのだと非難されますが、そんなふうに叱ってあなたは気がすむのですか」と書いた。

ただこの返事の文章はあくまでも草稿であって、ベートーヴェンがその清書を受け取った確たる証拠はない。それ故、シュタットレンダーさん以外の研究家はあまり問題にしなかったのであろう。

ここで参考にさせて頂いた文献を記しておきたい。

*クリス・シュタットレンダーという女性研究家の次の書物を紹介しておきたい。

      Chris Stadtlaender;≫Ewig unbehaust und verliebt ・・・ ≪

         Beethoven und die Frauen

AMALTHEA

クリス・シュタットレンダー:『永遠に家庭を成さずに惚れ込んだまま』 

ベートーヴェンと女性たち    (出版)アマルティア

Minaeは唸った。ベートーヴェンはぺピ―を大人の人間に育てようとしているではないか。彼はジェンダーの壁を超え、男であろうと、女であろうと、家の事情に流されていちばん大切なものを等閑に伏すようなことは以後、けっしてしないようにと願っている。考えが新しいと、私は思う。これぞ愛の証ではないか。彼女は一時的に傷ついたけれども、見ないで済まそうとしてきたものに直面せざるを得なかった。お家の再興のために犠牲になるのは美談にはなるが、それより自由、平等、友愛を身につけた自立した人間にならなくてはとヨゼフィーネは考えたにちがいない。ちなみにこの頃のぺピーはルートヴィヒが作曲したピアノ・ソナタ14番 嬰ハ短調 作品27-2、のちに『月光の曲』と呼ばれるようになった曲を弾くのを楽しみにしていたそうな。第1楽章と第2楽章ばかりではなく、弾くのが難しいプレスト・アジタートの第3楽章も見事に弾いたという。第2楽章まで弾くのなら誰でもできるが、第3楽章となると簡単ではなく、内面が大人になっていないと弾くのは無理と思うのは私、いささか早合点かしら?


# ベートーヴェン、耳疾が進み、ハイリゲンシュタットへ保養に

 

1798年頃からベートーヴェンは、聴覚の異常を自覚するようになった。<作曲家なのに、それに若い盛りではないか>と苦しんだ。医者を渡り歩いても好転しないどころか、じわじわと進む一方であった。外ならぬそうした時期に、ヨゼフィーネの電撃結婚に傷つき失望したが、けっして諦めることなく、何としてでも彼女の近くにいたいと熱望する。

 聴覚障害は作曲家にとって非常に辛いことで、彼はこれがもとで何度も自殺を考えた。生涯を通じてベートーヴェンほど数多く自殺を考えた作曲家はいないのではなかろうか。

自殺を試みることは彼にとって

<自分はこれほどまでに苦しんでいるのだぞー!!! 周りにいる君たちよ、もっと俺のことを気遣ってくれてもいいではないか!!!>(ちなみに彼の場合、感嘆符は一度に3個付される)

という叫びであった。自己顕示欲がきわめて強いのである。しかし手紙の終わり方で

「ただ彼、女がー-芸術がー-僕をひきとめてくれた。ああ、僕には自分に課せられていると感じられる創造を、全部やり遂げずにこの世を去ることはできないのだ」

と決意表明をしている。

 ちなみにこうした文章を「遺書」と呼んだのは後世の人びとであって、ベートーヴェン自身は何とも名付けていないし、弟たちに宛てて投函してもいないそうな。日付だけは、はっきりと1802年10月6日と10日と記されていて、ベートーヴェンの死後、書類のなかから発見された。

アメリカのベートーヴェン研究家、メイナード・ソロモンはこの点に注目し、ベートーヴェンがいろいろな制約から解き放たれ、自由になって、多様なモティーフをこれまで考えもつかなかったような形式や構造に結びつけたり、さらにそれらを再構成することができるようになったことを評価している。友人に対してマエストロは「(ピアノを)弾いたり作曲をしているときには、病のことなど全く気にならない」と言ったという。後年、彼はルドルフ大公に宛てて「ほかの人よりももっと神のそばに近づき、そうした接触によって神の光を人類に広めることほど気高いことはありません」と手紙にしたためている。こうした使命感こそ、終世彼が胸の奥底に温めつづけたものである。

加えてヨゼフィーネのためにしっかりとした作曲家になってみせるぞという強い意志が使命感に共存していた。ロマン・ロランの美しい表現を借りると、「情熱は天憫の才の帆をはらませる風である」。

このエッセイ集にはときとして過去のエピソードが挿入される。その部分はタイムトラベルとして紫色で記すことにする。途中、話が現在にもどると黒の文字にもどる。

&&&&&&&&&&   タイムトラベル (1)

20年前の2001年7月、私たち夫婦は家族ぐるみでお付き合いしていた Nさん夫妻とオーストリア旅行を楽しみ、明日はいよいよウィーンの郊外ハイリゲンシュタットを散策することになった。そこはベートーヴェンの難聴がじわじわと進み、何人かの医者を渡り歩いても無駄だった頃、シュミット博士が、彼の日々のストレスを少なくするためにしばらく田舎へ引っ込んでいたらいいと勧めてくれて31歳の彼が1802年の5月から10月まで長逗留したところだった。当時、ウィーンまで馬車で30分。近くにはヘレネンタールの静かな谷があって、ここで後年、「田園交響楽」の構想を練ったといわれている。

そこへ至る1800年と1801年は、彼が音楽家として大きな飛躍を遂げた時期だった。1800年にはリヒノフスキー侯爵から大きな額の年金を支給されはじめて経済的にようやく自立でき、4月には初めて公開の演奏会を開くことができて、第1交響曲のほかに有名な7重奏曲やピアノ協奏曲15番を演奏した。ピアノ・ソナタでは革新的な形を打ち立て、全般に古典派の様式を我が物にしたばかりか、全く新しい様式へ向かって邁進した時期である。1800年には作品18番の六つの弦楽四重奏曲や作品22のソナタ等々、1801年には『プロメテウスの創造物』や作品29の弦楽五重奏曲、作品23と24のバイオリン・ソナタ、作品26と27の1,2および作品28番の四つのピアノ・ソナタが書かれ、1802年については、第二交響曲と作品30の三つのバイオリン・ソナタや作品31の三つのピアノ・ソナタ等々枚挙に暇がない。

しかしながら、1802年の春には心身が思うようにいかなくなり、4月の終わりに医者のシュミット博士の勧めでハイリゲンシュタットへ行き、そこで保養することにした。その10月には「ハイリゲンシュタットの遺書」を弟たちに宛ててしたためた。

『テンペスト』は2021年6月12日、立川市民会館で田部京子さんがすばらしい演奏を聴かせてくれた。ハイリゲンシュタットの自然が控え目に背景をなしていて、それが曲全体に高貴さを添えていると私は思った。

いよいよ当日、地下鉄の最寄りの駅で降りて一行四人はそぞろ歩き始めた。歴史的建造物は、入り口に旗が立っているはずだから大丈夫と暢気にかまえていると、かれこれ半時ばかり歩いた頃、「Minae さん、なんだか見覚えのあるところに辿りついたわ」とNさんが宣う。「あらあら、出発点に舞い戻ってしまった。どうしましょう?」と私。どうしたら良いか四人は雁首をそろえ、かくてG4首脳会談と相成った。「それでは向こうに見えているハイリゲンシュタットの丘に登るのが、ベートーヴェンの世界を眺められて良いのではないかな?」そう言うのは困ったときにひょいと助け船を出すNさんのご主人だ。「それがいい、そうしましょう」とG3も同意した。

 ワイン畑のあいだを縫うように登っていく道すがら、四人とも額や首筋の汗をハンカチでおさえた。畑の入り口にはアールヌーボウ風の模様を鉄でかたどった扉が見られ、如何にもウィーンらしい。やがて眼前にひらけたのは息を吞むような眺望!葡萄がたわわに実り、その向こうにはなだらかなモスグリーンの稜線。それを眺めるうちに、すっかり癒されて風景に溶け込んでいる自分に気がつく。

 弧を目で下方へなぞっていくと黄金色の平面に目がとまる。8月に収穫を控えた麦秋の豊かな畑。パッチワークさながら段だら模様を描いているのは、ライ麦、小麦、大麦と種類が違うのではないかしら。しばし目を離すことができないくらいに美しい。小川は視界に入らなかったが、もと来た方へ向き直ると、旧市街が遠くに霞んでいた。

「ベートーヴェンは贅沢な方、毎日このような景色を楽しみながら散歩していたのですもの」というG2の声には<羨ましい>という気持ちが滲み出ている。

 夕暮れに近づくにつれて近景のものの形が鋭くなり、緑が深くなり、それから靄りだした。その瞬間、私は思った、<「ハイリゲンシュタットの遺書」はここで書かれなければならなかったのだ、他所ではいけない>。自分の障害と折り合いをつけるという激しくも前向きの決断はこの素晴らしい自然のなかでしかできなかったのではないか? 

「木や岩は、聴きたいと思う木霊をたしかに作ってくれる」(テレーゼ・マルファッティに宛てた1810年5月の手紙)と書くベートーヴェンは、石畳に埋めつくされた旧市街の、石の壁で区切られた部屋ではなく、夢のように美しい風景のなかで「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いたのだった。<思いきり怒りと苦しみを吐き出したら、僕の嵐の人生の真只中で光を掴むことができかもしれない>彼はそう思ったであろう。

それにこの手紙が近親者に宛てて書かれていることにも留意したい。恋人にはそんな無様な手紙は一通として書いていないのだ。弟たちへ死にたい、死にたいと叫ぶことで<俺のこの苦しみをちょっとは分かってくれないかね。ほんとのほんと、自殺したいのだよ!>と、自分への関心を寄せ集める無意識の意図もあったと思う。作曲という繊細な感性を必要とする人には、とりまく自然は大きく影響するようだ。自分が死んでしまったら、この素晴らしい自然が自分の世界から消えてしまう、<そんなことがあってたまるか>と彼は呟いたのではなかろうか?

のちほど扱うボードマー・コレクションのうち、1807年と推測される年の9月20日にベートーヴェンがヨゼフィーネに宛てて書いた情熱ほとばしる手紙もこのハイリゲンシュタットで書かれている。

 ところでハイリゲンシュタットのベートーヴェン記念館へは翌日行き、十分に見学させてもらった。

           &&&&&&&&&&

                     

 さて本題に返って、ヨゼフィーネがよその男と結婚してしまって、ルートヴィヒは嘆き悲しんだ。それでも日記に「彼女の近くにいたい」と記す。この未練は、ジュリエッタ・グッチャルディの場合とはまるで違う。というのは1800年頃、彼はある時期ヨゼフィーネの従妹のジュリエッタと刹那的な恋に落ちたことがあった。ジュリエッタの場合は、彼女がガレンベルク伯と結婚してイタリアへ行ってしまうと、ルートヴィヒには彼女への未練はまるきりなく、心は再びヨゼフィーネのもとへ向かった。


# ダイム伯急逝。それからベートーヴェンは・・・・

ダイム伯爵は1804年1月27日に急逝して、結婚生活はわずか4年余りで終わった。ヨゼフィーネは4人目の子供を懐妊して孤独に打ちひしがれてしまった。1804年12月21日付けの、シャルロッテが兄のフランツに宛てた手紙に拠ると、ベートーヴェンはほとんど毎日ダイム邸へ見舞いに訪れ、ヨゼフィーネにピアノを教えて年が明けると彼女に1曲のアリアを贈った。それは『希望に寄せて』という、ベートーヴェンが『ウラ二ア』という本から歌詞をとって自身で作曲したものであった。

希望は、聖なる夜々に現れ

優しい心を苦しめる悲しみを

そっと穏やかに覆い隠してくれる

おお、希望よ!苦しみ苦悩に堪える私を

希望の力で高めておくれ

そこで一人の天使が泪また泪しているのを見せてくれ (第2節)

そして彼が運命を嘆こうとして

見上げ、最後の光さえも

残された時を照らしつつ去ろうとするとき、

希望よ、彼に近づく光で雲の淵を照らし

地上の夢を見せてくれ             (第4節)(訳 向井)

*アンドラーシュ・シェフのピアノ伴奏でペーター・シュライアーが歌うベートーヴェンのリート曲集はポリドール株式会社から出ている。

やがてヨゼフィーネの病は癒えてピアノの腕はあがり、ベートーヴェンは新しい曲ができるとまずはヨゼフィーネに弾いてもらった。彼女の批評を仰ぎ、いろいろ手直ししてから写譜へ廻した。彼の手書きは大変読みにくく、それに彼のピアノ・ソナタやピアノ協奏曲はどれも弾くのが難しい。ちなみに現在の日本の音楽大学で彼のピアノ・ソナタは、しばしば卒業演奏の課題になるそうな。そんな曲をほぼ初見で弾いたとは驚き、桃の木、山椒の木!何事もスローの私には想像さえできない。恋の力は奇跡をも起こすようだ!

ヨゼフィーネの実力は極めつきとなり、今や作曲家としてもヨーロッパ中で勇名を馳せていたベートーヴェンの特別アシスタントに昇格した。そうなると彼女はいよいよ大切な存在となり、響きの世界でかけがえのないパートナーとなった。彼が手紙や創作日記でよく使う「音楽の精霊」とは彼女なのだ。

先に挙げたクリス・シュタットレンダーさんの調査によると、ルートヴィヒはこの頃、定期的に理髪店へ通って姿形をきれいにしたそうな。何と健気なこと!!乗馬の稽古などしたことはないのに、立派な馬を買った。何しろ立派な馬は、当時、ステイタス・シンボルであったから。だが、彼は一生、山小屋は別として自宅というものを持たなかったのに、馬はどこで飼育したのか?リヒノフスキー侯が自分の厩をつかってよいというのを、彼は意固地に拒否している。彼は若いときから胃腸が良くなかった。それならばウィーンの郊外を馬で散策などしたら身体に良かったものを、と思うのは老婆心というものかしら?                        


リヒノフスキー侯爵

さて、ヨゼフィーネは思いがけず独り身になり、こうなるとベートーヴェンは大手を振って彼女にプロポーズできる身になった。それなのに、彼は煮え切らない男になってしまう。熱い恋文はごまんと書くのに故・ダイム伯のようにはさっさと行動できないのである。彼を神の如く尊敬するMinaeとしては、もうイライラしてしまう。ゲーテと同様、そのラブレターが一つ一つ、作品のように美しいし、相手の女性も詩人のように素敵な文章を書くようになるのもゲーテの場合と同じだ。だがルートヴィヒにとって恋文はあくまで恋文。行動はどうなっているのかしら?

「ルートヴィヒさん、ちょっとは行動しなさいよ。ヨゼフィーネさんのお兄さんのフランツとはお友達でしょ?将を射んとする者はまず馬を射よというから、まず兄さんの心を射たらどうなの?」と申し上げたく相成り候。

だが彼は<こぢんまりとした家庭に収まってしまったら一体、自分の作曲家としての使命は果たせるのか>と悩んだし、すでに、自分が天才であることを傲慢なくらいに自覚していた。が、一方では、かわいい嫁さんが欲しかった。ベートーヴェンの事務方をやっていた友人のグライフェンシュタインに宛てて「さて君は僕がお嫁さんを探すのを助けてくれますね、君はF(フライブルクのことらしい)で誰かきれいな子を見つけるかもしれない・・・・そんなことがあったら、どうか前もって関係をつけておいて下さい」(徳丸吉彦・勝村仁子訳)と書き送っていて、結婚願望も人並みにあるのである。ほんとうに彼の心理はヤヤコシイ!

岩波書店から出版されている『ベートーヴェン』(メイナード・ソロモン)の特に会話部分の翻訳は、当時のベートーヴェンの心理状況をうまく捉えていて訳文がすばらしい。

こうした心理的な葛藤を抱えたまま日は過ぎていった。「ベートーヴェンとかいう男、気むずかしそうだし、耳が悪いというじゃない? 音楽だけで食っていけるの?」と母親のアンナや親族の者からはしきりに苦情が出た。フランツでさえ、音楽家としては尊敬していたが、妹の連れとなると、<どうしたものかな?>と首をひねった。


# 独身となったヨゼフィーネと恋文の往復

1949年に発見された13通の恋文は(以後これを「ボードマー・コレクション」と呼ぶことにする)ヨゼフィーネがダイム伯爵に死なれてからシュタッケルベルク男爵と再婚するまでに書かれたらしいと、訳者の属啓成氏は推測しておられる。が、日付が付いているのが1通あが、他は何年何月何日に書かれたか記されていないため、正確なところは未だに判明していない。ぺピ―の文章にベートーヴェンの創作状況が記されていて、そこから推測するほかない。さらにベートーヴェンからのほぼ全部の手紙の宛名がMadame la Comtesse Deym (ダイム伯爵夫人)になっていることなどから、1799年6月29日以後、1810年2月13日までの手紙ではなかろうかと推測されている。

ただこれらの恋文が発見されたお陰で「不滅の恋人」が多くの候補者のなかから、ヨゼフィーネに的が絞られることになったその功績は大きい。

*「不滅の恋人」が誰であるかについては、このボードマー・コレクションのほかに、後に述べる「不滅の恋人への手紙」をも多くの研究者が綿密に調査した。なかでもカツネルソンや、ブロッシェ=グレーザーや、ソロモンや、テルレンバッハなどの労作が出された結果、アントニエ・ブレンターノとヨゼフィーネの二人が有力な候補になった。クリス・シュタットレンダーさんはその著書で「不滅の恋人」をヨゼフィーネと最初から断言している。彼女は医学も研究していて、ベートーヴェンとヨゼフィーネとの間にできた娘ミノーナの骨格をベートーヴェンのそれと写真で比較して二人が親子であるに違いないとした。さらに近親者に詳しく聴きとり調査を行って確信を深めた。


# 1800年から1803年頃までのベートーヴェンの豊かな創作 

 時間は少し遡るが1800年と1801年にはベートーヴェンの人生のなかでも、きわめて素晴らしい曲がいくつも生まれている。ドイツ語圏はもとより、日本でも大変親しまれ、例えば大変人気の高い七重奏曲 変ホ長調 Op20。これは1800年4月2日にブルク劇場で交響曲第1番などとともに初演され、大変な人気を博した。Minaeもこの曲はこよなく愛していて気分が優れない日など、これを聴いていると曲がおわる時分にはすっかり気持ちが晴れてくるから不思議なものだ。

2年後に出版された折には皇后マリア・テレジアに献呈された。ベートーヴェンが晩年になってから若い時の作品を演奏会で取り上げるということは稀であったが、この七重奏曲は1824年1月25日にハイドンの弦楽四重奏曲とともにとりあげられて人気を集め、「人々はドアの外に立って聴き入るというほどであった」(甥のカールが叔父に報告)という。ちなみにこの作品のことを他の作曲家の七重奏曲と区別するために「セプテッド」と発音される人がいて、じつに優雅にきこえる。多分、ウィーンで人々がそう発音するのであろう。

『ロマンス』第1番と第2番は1802年と1803年に作曲され、小品ながら若々しく繊細な雰囲気を漂わせて美しい。作品24『春』も主に1800年に作曲して翌年の1801年に完成している。この曲の瑞々しいこと、華やかなこと!どんなに暗い気分のときでも明るい未来を彷彿とさせてくれる。たとえどんなに努力しても人間の業のおよぶところではないと、凡人の私は溜息が出てしまう。以下に冒頭の3小節を引用するピアノ・ソナタOp.2,1には早くも音楽の一大改革への野望が見てとれる。

# ボードマー・コレクションの恋文のあらまし 

ところで13通の恋文からは、ヨゼフィーネはベートーヴェンに会うまえにまずその作品に惚れたことが分かる。やがて出会った二人が愛し合うようになったのは、すでに述べた。それに対してルートヴィヒは、

「わたしはあなたの愛を得たのです。・・・・あなたのために、そしてわたしのために、りっぱになってみせることを約束します。・・・・おお、あなたの愛によって、わたしの幸福が築かれるよう、・・・・それがもっと多くなるよう心がけてください」

と、燃え上がる。ちなみにボードマー・コレクションの手紙を丁寧に読みたい方は岩波文庫本やみすず書房のロマン・ロラン全集で読むことができる。

 *「ベートーヴェンの手紙」 小松雄一郎編訳 岩波文庫 青501―3,4

*「ロマン・ロラン全集 」22巻 ここではフランス語訳を蛯原徳夫氏が翻訳

 二人の交わした手紙をお読みになる際はタオルを用意されるのが宜しいかと思う。なにせ熱い恋文ばかりなので、読むほうも汗をかいてしまう。ハンカチでは足りないのではないかしら?

 この手紙シリーズで私が注目したいことが幾つかある。一つはベートーヴェンからの手紙に記されていることがらの一つで「自分は気持ちを表現するのに言葉よりも音で表現するほうが巧くいく」ということで、これは重要だと思う。つまりぺピーへの恋心を表現している曲が一つか二つか、あるいは多数、存在するということであるから。

さらにぺピーからの手紙に「何でもいいから、あなたの事を報せて欲しい」という件だ。日々どんなことをしているか、なるべくたびたび、なるべくまめに報せてくれと彼女は書いている。これって、読者の皆さんは身に覚えがあるのではないかしら?恋する相手のことであれば、昨日頭の毛をカットしたとか、ピアノでスケール練習をしたとか、とにかく日常茶飯事がきらきらと輝くのである。

今一つは、1807年と推測される年の9月20日、ハイリゲンシュタットからヨゼフィーネに宛てて出された手紙である。

「愛する、いとしいただひとりのJ・(ヨゼフィーネ)――こんどもあなたの数行の手紙がわたしには大きな喜びでしたー-愛するJ、わたしに課せられた禁制をのりこえないように、どれほどわたし自身とたたかってきたかー-しかしむだでした。そのたびにいろいろな声がささやくのでした。あなただけがわたしの親友で、愛人だとー-わたしはもはや、自分が自分に課したものを守る気はありません。おお、愛するJ・、かまわずに好きな道を歩こうではありませんか。・・・・」

ここで記されている「禁制」とは、気を付けなくてはならない。時代柄、身分違いの恋にはバリアがあることを言っている。

 ちなみにヨゼフィーネとの愛が最高峰にある時期に作られた曲を羅列してみよう。

ピアノソナタ第23番『熱情 Appassionata』op57 (1804年~1805年) 

交響曲第3番『英雄』op55(1804年) 歌劇『レオノーレ』(1804年~1806年) 

バイオリン協奏曲 ニ長調 op61 (1806年) 

バイオリンソナタ3部作中2作、『クロイツエル』 『ワルトシュタイン』op53

この他10作近くの作品が書かれていて豪華絢爛である。


# ヨゼフィーネへの愛から生まれたバイオリン協奏曲 

こうした曲のなかでも1806年に作曲されたヴァイオリン協奏曲 二長調 op 61 について、ヨゼフィーネが創造の原動力となったと、昔から言われてきた。第2楽章の緩徐楽章でヴァイオリンとオーケストラとの掛け合いは、ぺピーとベートーヴェンの睦まじい語り合いを美しく表現している。お得意のメタモルフォーズが高い効果を生み出していて、第3楽章のロンドに至っては、二人の睦み合いが極致に達する。

メイナード・ソロモン先生も「緩徐楽章は対話として構成されている・・・・仲のよい、話上手同士による抒情的なやりとりが聴かれる」と記しておられ、「音による会話は、特に恋人同士のとき、まことに美しくて聴き手は泣きそうになる」とも記しておられる。

このヴァイオリン協奏曲は、当時名だたるバイオリニストのフランツ・クレメントが1806年11月下旬に「クリスマスまでに、コンチェルトを書いてくれないか」と懇願したのに応えてベートーヴェンが作曲した。冒頭に「クレメントへのお情けで(par Clemenza  pour Clement)」という駄洒落が記されているように、彼は軽やかな気持ちで引き受けて5週間足らずという異例の速さで書きあげたが、12月23日、クレメントは初見で演奏した部分もあったそうな。この曲については第4章で詳しく記す予定でいるので読者の皆様には乞うご期待!!

始まりはオーケストラ風でなかなかヴァイオリンが登場しない。ソロモン先生の表現によると、「長い分化の過程を経た後にやっとソロがオーケストラの網の目から次第に姿を現わしてくる」。ちなみに以前N響の第一ヴァイオリン奏者だった鶴我裕子さんの言葉を借りると「ソリストだって幸福ではない。長々とオーケストラの前奏を聴かされて、指も冷え切ったころ出番になり、あとは試練の連続」だそうな。

カデンツァの部分に至ると、演奏者がこの曲をどう解釈しているかがはっきり分かって私は物凄くおもしろいと思う。これについては第4章でくわしく述べたいと予定しているので読者の皆様には乞うご期待!!!


# 若きベートーヴェンの音楽における野望、そして恋の底力 

ここで若き日のベートーヴェンと、その作曲家としてのデビューについてローボルト叢書の『ベートーヴェン』(マルティン・ゲック著)の力を借りて邦訳はまだ出ていないことだし、少し述べてみたい。ゲック先生は作曲家ロベルト・シューマンが1835年に書い、た『音楽と音楽家についての著作集』から少しだけ引用している。僭越ながら私が翻訳してここに載せたいと思う。

「荘重な鬘頭があちこちにちらほら。コルセットや紐で鍛え上げた身体の女性たちがしなやかに優雅にうごめいている。ややあって若いベートーヴェンが入って来た。息せき切って、困惑、当惑して、頭の毛はばさばさ、胸と額は曝け出して、まるでハムレットだ。一同、この変わり者の姿にびっくり仰天する。この舞踏会場は彼には窮屈、早くも欠伸、また欠伸。彼は外の暗がりへ突進した、太っちょの人もガリガリの人もかき分けて。この流行、儀式、糞喰らえ!!美人の足を踏まないよう、これも避けなきゃ。」

鬘頭とはバッハやハイドン、モーツアルトのことである。これだけ簡潔にベートーヴェンの神髄を著してくれれば、Minaeの出る幕はございません。表現者というのは音であろうと言葉であろうと何という達人だ!verlegen und verstört や dick und dünn などと韻まで踏んである。行変えを巧くやったら一つの詩になるのではなかろうか?シューマンは、バッハやハイドン、モーツアルトの世界へ突如として猛進してきて、彼らを礎にした上で我が道をどんどん驀進するベートーヴェンの姿を描いたのである。

 それはさておき、心理的な葛藤を抱えた時期のベートーヴェンは作曲し、また作曲した。作曲していなければイライラしたのではないかしら?交響曲はもとより、ピアノ・ソナタやバイオリン・ソナタ、それに歌曲などなど、膨大な数の作曲を成し遂げた。その全てを生放送で聴いたわけではないが、『ヴァルトシュタイン』にしても、『悲愴』とくに第2楽章にしても、月光ソナタにしても、ヴァイオリン協奏曲にしても、ロマンス1と2、どれも逸品そろいではないか。

ところで作曲家としてのベートーヴェンは、ウィーンに来てピアノ三重奏曲ではじめてOpus1と番号を付けてから公私ともに作曲家と認められたと、普通は価値づけされているが、ゲック先生はボン時代にすでにクリスティアン・ゴットロープ=ネーフェがベートーヴェンにカント哲学などを読むように勧め、ベートーヴェンはそうした書物をつぎつぎに読破して身につけた 。ボン時代以来、彼はインド哲学にも傾倒し、後に親鸞の思想的変遷に近いものを体験している。


 クリスティアン・ゴットロープ=ネーフェ

 創作の動機になるものは、激しい愛以上に強いものはない、とはよく言われる。このような激しい恋に、リヒノフスキー侯爵が異議を唱えた。が、彼は意に介しなかった。

 あのう、Minaeは分からない。くどいようだがダイム伯爵は1804年に亡くなった。今、彼女は独身で、プロポーズするにはチャンスではないのか?これほどまでに激しく愛しているのに・・・何故?どうやら彼にとって、恋人といっしょにいることと結婚とは別物らしい。

 恋の強さ激しさは尋常ではなく、期待と絶望はピアノ・ソナタ第8番、作品13 ハ短調の『悲愴』(1798年から翌年にかけて作曲。発表は1799年)を生むことになった。神はヨゼフィーネの美しさを謳いあげたに違いない。やがてこの曲は、発表した8年後の2月に彼女の兄のフランツへ捧げられた。

# 近代的自我の叫び 

 

&&&&&&&&&&    タイムトラベル (2)

 Minaeが20歳になる2か月ばかり前、春休みを過ごしていた生まれ故郷の水俣は菜の花盛りであった。時に1965年、といえば水俣病が今や大きな社会問題となり、インターナショナルな関心を巻き起こしていた。

医者を生業としていた父親の大きな声はしばしば母屋を通り越して近所中に響き渡った。水俣病患者に違いないと診断するや否や、熊本大学付属病院へ報告する父の声は切羽詰まっていた。まずは症状を詳しく説明し、これこれしかじかの手当をしたが、これ以上は手の施しようがない、ところで何か質問はないかというものだった。彼の午後1時から4時までの昼休みには、この頃から『苦界浄土』を書きはじめた石牟礼道子さんや、水俣病訴訟の旗頭に立つことになるHFさんや、患者の代表が入れ替わり立ち代わり父の許を訪ねてきては真剣に討議が行われた。

石牟礼さんは母屋の入り口のたたきに直立不動で冷静に話しをし、父の返答を待った。母が座布団を持ってきても、ただの一度も座らなかった。<自分は井戸端会議をしに来たのではない>という強い意志が全身にみなぎっていたし、HFさんのほうは意見を闘わすとき父と同様に声が大きくなった。熱がこもると大声になるというのを自覚していらして、そのために入り口に入らず、井戸端で父と熱い闘いを続けた。そんなとき、父は相手が女であることを忘れて対等な立場で闘った。そうした父親の姿勢にMinaeは痛く感激し、「進歩的ないい男」だと思った。

 ある晴れた日曜日、すでに山行きの支度を終えた父が私を誘った。私も父も生死をさ迷った過去をかかえており、健康にはことのほか気をつけていたため、私もすぐさま支度をした。

 バスが終点に着くと、そこはもう森の入り口だった。森はどこまで歩いてもしーんとしていた。ふと、すばらしい響きに足を掬われた。啄木らしい。ポクポク、ポクポク、ポーク ポーク 静まりかえった森をその響きは貫いた。私は石のうえに腰を下ろし、父も樹木の切り株にすわった。

「ええ処じゃろ?」と、家を出てからの父の第一声だ、

「うん、ええ処。ついてきて良かった」と、私。「おやじさんは、ここ初めてじゃないネ?」

「ああ、何度も来たよ」

すると、違う方向から ポクポクポクポク ポークポク と、どことなく甘い響き。<ああ、つがいなんだ!>。

「夫婦なの?」

「ああ、そうじゃ。ここに棲んでいるのは一組だけじゃない。つがいが3組くらい、棲みついとるらしい」

「そうなんだ。3組がいっしょにポクポク演奏したのね。すばらしかったでしょ?」

「ああ、娑婆の苦労が吹き飛んでしまうよ」

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その素晴らしい響きは未だに私の心の深奥に鳴り響いている。そしてこれが私の音楽の原点になった。自然に芸術は追いつこうとするが、足許にも及ばないのだ、大自然の生業に比べると芸術は仮の姿、つまり仮象だ。だが人間は仮の姿だと分かってはいてもクリエイトすることを止めない。例えばMinaeが尊敬する詩人のフーゴ―・フォン=ホーフマンスタール(1874年~1929年)はウィーンの郊外で17歳から約10年間、仮象の極致ともいえる素晴らしい詩を沢山書いてその後、突然詩作をやめた。だがリヒャルト・シュトラウスと組んでオペラを創作したとき、『薔薇の騎士』の歌詞はどこにも見られないくらいに、まさに奇蹟といえるように見事だった!これ以上に美しいオペラの歌詞はないとまでいわれている。仮象は仮象を超えて疑似現実となり、人々に現実にはない美しい世界を提供する。ベートーヴェンの音楽も同じではないか?

                     

そのあとお昼を済ませると父の「さあ、これからは登りになるぞ。頑張るとするか!」という掛け声を引き金に歩きはじめた。

「あのさ、ちょいと相談があるのじゃけど」と父が切り出した。「兄ちゃんが裏の座敷でプレイヤーかなんか知らんが、それを使ってジャジャジャジャーンと物凄い音を鳴らしているんじゃが、あれ、何とかならんかのう?」

「ジャジャジャジャーンというのは、ベートーヴェンの『運命』のこと?」

「ああ、そうらしい。父ちゃんは表の座敷で本を読んでいるじゃないか。人さまの身体を診たり、治したりするには日夜、最新の医学を勉強せなならん。うるさくて適わんのじゃ」

「そのお父さんの学問好きで我が家は成り立っているけどね、ジャジャジャジャーンがうるさいとはインテリ・パパには相応しくないよ」

「あれって何がいいのじゃ?」

「いいか悪いではなくて、そうね、お父さんの書斎にムンクの画集があったね、そのなかに『叫び』という絵があるでしょ。ベートーヴェンのジャジャジャジャーンも同じ叫びなんよ。ちょっと気取った言い方をすると、近代的自我の叫びといったらいいかもしれない。石牟礼道子さんの静かな叫びも、H・Fさんの大声の叫びも同じじゃない? この二人は<資本主義は人間の命を犠牲にしてもいいのかー>と叫んでいるよね」

「ムンクの『叫び』は青少年が大人になるときの不安の叫びとして、医者にも関係あるから眺めているのじゃが、フーン、それと同じかね?」

「同じ。近代合理主義の強烈な自我の叫びだよ」。「ところでおやじさんは、ベートーヴェンのこと、全部が全部嫌いというわけじゃないと言ったよね?」

「うん、言うた。例えば第キュウの合唱の歌詞はええな」

「あのう、第キュウではなくて、第九(だいく)と言うのよ」

「あれは良い。フロイデ、フロイデ、シェーナーゲッターフンケン トホター アウス エリージウム・・・」

「ええ?おやじさんは第九の合唱部分を空で言えるの?それも全部?生れてこの方20年、初耳だよ!」

「ああ、昔とった杵柄だ。第5高等学校で覚えたのじゃ、寮で夕飯がおわってから盛大にやりよった」

「せっかくだから歌もつけてみて」

「唄は歌えん、音痴じゃけん。ほかの者は歌っていたよ」

「それじゃ、ちょうどいい、啄木鳥のほかは誰もいないけん、Repeat after me! いい? せーのー フロイデ、フロイデ、どうしたの? どうして歌わんの?」

「無理じゃ、今からでは無理、無理」

「ああ、そうかー。残念ねー。ところで途中に 献身的な(hold)女を得た者は、喜びに参加せよ というところがあるでしょ?それでお訊きしますが、あなたの奥さんはホルト(hold)な女ですか?はい、こたえてください!」

「献身的な女かと訊いとるのか?いやいや、母ちゃんは、いれば避けて通るばってん、いなければ困る」

「ははは。うははは」笑い声は向こうの山に木霊した。のさりの一日だった。

(「のさり」とは熊本県南部や天草の方言で  天からの素晴らしい恵み  という意味。尚、「ばってん」とは英語のbut then とほぼ同じ)、

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