聞法するということは
結局自分を
聞くことなのです
仲野 良俊
真宗教団連合「法語カレンダー」より
自分をきくというのは難しい。それぞれが聞法を重ねる中で答えを探してほしいのだが、まず自分という中にも4種類の自分があるのではないか。
一つ目は、他人から周知され、自分でも知っている自分。
名前、年齢、出生地、性別、職業など相手も自分も共通で認識している自分だ。
二つ目は、自分だけが知っている自分。
明るく振る舞うけど心が悲しみで満ちていたり、お金持ちの振りをするけど財布が空っぽだったり、周りからは気が強いと思われているけど、本当はとても繊細ということを、自分だけが知っている。相手には見えない自分だ。
三つ目は、他人にしかわからない自分。
小学生の頃、ダイアナというあだ名の女子がいた。本人はダイアナ妃に似ているからそう呼ばれていると思っていたが、実は、鼻の穴が大きいからダイアナというあだ名がついていたのだ。この事実を本人は知らない。自分はわからず、相手が認識している自分だ。
四つ目は、自分も他人も知らない自分。
実は、この部分が一番大きいのかもしれない。
そもそも、両親を縁として生まれたこと以外、どこからどういう経緯で生まれてきたのかもわからない。科学が進歩して人体構造や心の構造は解明されてきたけど、解明されればされるほど精巧なコンピュータを超えたことが、この体の中で起こっているとわかる。また理屈がわかればわかるほど、何が私を動かしているのかという不思議さは増すばかりである。
仏さまの言葉というのは、自分も他人も知らない自分に関わっているのだ。
お念仏を喜ばれた宇野正一さんが「月見草」という詩を書かれている。
「今、今晩は、今晩はと言って咲いた。長い、長い、長い間、何と言って咲こうかと考えていたのだろうな」
ご本人がその解説を、
「月見草は、おおよそ晩の六時に開花して朝の八時頃に萎む。しかし花のいのちを考えると、去年咲いたものが今年咲いたのではない。その前その前その前を、いくら考えても及ばない」
とご教示くださる。
私が私として現れているのも、誕生日を起点として何歳と数えることもできるし、長い、永い時間を経て現れたともいえる。長い年月をかけて生死を繰り返し、ここにたどり着いたともいえる。それは途方もない時間、迷い続けてきたことの証明でもある。この私に対して阿弥陀さまは「必ず救う」と叫び続けてくださる。なぜ呼び続けるのか? なぜ私をめあてとしたのか?
聞法とは、そういう仏さまの想いを聞くことにより、私がどういう存在であるのか。そして、その私がどう救われていくのかを顕らかにしていくことである。
村上 慈顕(むらかみ じけん)
本願寺仏教こども新聞編集長/本願寺派永照寺住職
※東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
※本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載