み教えによって
自分のありのままの相が
知らされるのです
藤田 徹文
真宗教団連合「法語カレンダー」より
この法語は、藤田徹文著『はじめて仏教を聞く人のための13章』(本願寺出版社)の「信心」という章に記された言葉です。
藤田師は、「今の若さも、健康も、生命も、確かなものではありません」、「信用できないものを信用できると思いあやまって、自分に固執して、結局、自己と人生の方向を見失っているのが私たちではないでしょうか」と述べられています。そして、仏の教えによって、普段、頼りにならないものを頼りにしている「ありのままの自分」があきらかになり、さらには「本当に確かなものは「どんなことがあっても、あなたを見捨てることのない私がいます」と呼びつづけてくださる阿弥陀如来であったということが審らかになる」と記されています。
私はこの法語と文章を読んで、中国の善導大師の言葉を思い出しました。
経教はこれを喩うるに鏡のごとし、しばしば読み、しばしば尋ぬれば智慧を開発す。
(『観経疏』『真宗聖教全書』第一巻493頁)
これは「仏の教えは鏡のようである。しばしば読んで、しばしば尋ねていくと、智慧を開き発す」と、仏の教えが鏡として喩えられ、そして、その鏡によって仏の智慧の眼が私の上に開かれてくるということです。
み教えの鏡によって映し出されるのは、自分自身の心の相です。それは、世間の価値観と自分中心の思いとで、どこまでも偏った見方で人や物事を受けとめてしまう私の相です。そして、思い通りにならない現実まで、どうにかして自分の思いどおりにしようともがき苦しんでいる、そのような無明(道理に暗い)の私の相があきらかに知らされるということでしょう。
私は以前、高齢者施設で相談員をしていました。たくさんの人生の先輩方と日々を共にする中で、さまざまなことを学ばせていただきました。その一つは、私たちは人生の終わりが近づくにつれて「自分の人生を、どう受けとめていけばよいのか」という問いが、折に触れて湧き起こってくるということです。なかには、人生をどうしても否定的にしか受けとめられないという方も、少なからずいらっしゃいました。
私たちの人生は、自分の思いや計らいだけではとても受けとめきれないような様々な出来事が起こります。
仏の教えの鏡によって、私に開き発る智慧の眼は、「逃げ出したくなるような病気も、老いも、つらい様々な出来事も、すべてかけがえのない尊い私の人生なのだ」と受けとめることができない私たちを、ありのままに見つめる仏の眼です。言いかえれば、それは自分の思いをはるかに超えて、私の人生をまるごと引き受けてくださる阿弥陀如来のお心なのでしょう。
阿弥陀如来は、自分の人生の出来事をなかなか承知できないでいる私の思いをよくよく知ってくださっていて、そのような私たちに、全てを引き受けていける智慧の眼が開き発ることを本当に願っているのです。
私たちの生活の中では、いつでも、どこにいても、ありのままの私を映し出す鏡のはたらきが「南無阿弥陀仏」のお念仏であるといえるでしょう。
中島 航(なかじま こう)
真宗大谷派京都教区山城第2組浄泉寺衆徒
※東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
※本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載