姉が病院の白い天井を見つめた後、そっと目を閉じ、そのまま眠るように呼吸をやめたのは、夏の終わりだった。
彼はその日のことを自分の研究ノートに短く記した。「仕様不良」。
研究ノートとは言っても、世に出ることは無い、あくまでも彼個人だけが見るノートだ。秘密裏に実施した実験結果の他、思考実験や単なるメモ書きなどが雑多に書き込まれている。
彼以外の誰かがそれを読んだとしても、意味を理解するのは難しいだろう。
製薬会社の研究室は静かだ。冷蔵庫のドアが閉まる音、遠心機の振動、試薬の匂い。
人類の設計はスパゲッティコードだ、と彼は思う。継ぎはぎのパッチは、新たな不具合を呼ぶ。
ならばいっそ、既存の見かけはそのままに、内部だけを改めて整理すれば良い。
リファクタリング。
完成したウイルスは目に見えない。
潜伏期間は三か月。その間にウイルスは、人々の間に広がっていく。
このウイルスはTP53遺伝子に作用し、極端に活性化する。その産物であるp53タンパク質は、異常細胞の修復や修復不能となった細胞のアポトーシス(細胞死)を促すため、がん化した細胞の暴走を抑えるはずだ。
ゾウやクジラに学んだ仕組みを、人間に埋め込む。ヒトに対する臨床試験は未実施だが、彼にとってそれは大きな問題ではなかった。
AIが、たんぱく質の構造予測に成功して以来、生化学・医学の分野でもAIの利用は急激に進み、シミュレーションの結果と実際の試験結果の乖離は殆ど無くなっている。
新しい薬剤や治療法の認可が下りるまで、いまだに長い時間がかかっているのは、単に法整備が科学技術の進歩に追いついていないためだ…と、彼は考えている。
病に苦しむ人と家族が現実にたくさんいる。
姉をがんで亡くし、それがきっかけで研究者を目指した彼にとって、病気を治す手段があるのに使えないというのは社会のルールの方が間違っているとしか思えなかった。
彼は、バイオテクノロジーに関しても稀有な才能を持っていたが、実はそれ以上に天才的なハッキング技術を持っていた。もっとも彼は、自分のその才能については徹底的に隠していた。
さまざまなシステムに侵入し、痕跡を残さず立ち去る。
それを繰り返し、技術を磨く。それは、ただひとえに今日、この日のためだった。
会社のセキュリティ・システムを突破し、改変した遺伝子を持つウイルスを外部に持ち出すことに成功した。
改めて彼は、彼は試験管を立て、窓を開ける。
ウイルスは空気に混ざり、静かに広がっていく。
表面は何も変わらない。昨日の顔と声のまま。
彼は、椅子から立ち上がり、何事もなかったように退勤した。
五カ月後。国内の病院から不可解な報告が相次いだ。
「末期がんの患者が、治療もなく快復した」
「腫瘍が消えた」
医学誌は特集を組み、論文が次々に投稿される。
自然寛解──奇跡と呼ばれる現象が、統計的に説明できないほど多発していた。
二カ月ほど遅れて、同様の報告が世界各国から出てくるようになった。
やがてそれは、明確に数字にも反映されるようになる。各国のがん死亡率が目に見えて下がり始める。
各国の製薬会社は騒然とし、巨額を投じた研究開発は宙に浮いた。
製薬会社は、がんが自然寛解した患者のサンプルを集め、原因調査を進めたが、調査は遅々として進まなかった。というのも、SNSの普及以来、勢力を伸ばしている一部の陰謀論者が調査の妨害を始めたからである。
「製薬会社は自社の利益のために病気を作り出している!」
「がんが世の中から消えようとしていることこそ神の意思だ!」
「人の命よりも金が大事なのか!?」
あらゆる大手製薬会社のビルの前で大規模なデモが起こり、会社として「調査を行わない」という声明を出さない限り、通常の企業活動さえままならなくなっていくのは目に見えていた。たとえその裏で、そのような騒ぎを利用して企業側から金を強請りとろうとするのが目的の人間が大勢いたとしてもである。
政治家は困惑し、記者はおもしろおかしく「人類史の転換点」と書き立てる。
人々は奇跡と信じ、街に笑顔が増えた。
彼はニュースの音量を絞り、机に置いた妹の写真立てを見つめる。
「もう二度と、あの悲劇は繰り返されない」
口元にかすかな笑みを浮かべ、リモコンを置いた。
――しかし。
寿命は大幅に伸びた。人類は健康を保ち、死者は減った。
人口は急増し、食料と水の需要は尽きることなく高まり続けた。
穀倉地帯は酷使され、漁場は沈黙し、価格は跳ね上がる。
発電所は昼夜を問わず稼働し、排出は地球を包む。
海は温まり、山は短い雨を繰り返し、街の空は霞んでいった。
人類は「健康」を手に入れた。だが、惑星そのものの呼吸はこれまで以上に浅くなっていた。
長寿は祝福であるはずだった。しかし、地球にとっては…。
彼はやがて老い、静かに息を引き取った。
最後に見た夢の中で、姉は若く元気な姿のまま微笑んでいた。
研究ノートの最終ページには短い行が残されていた。
――コメント整理、完了。
***
地球から少し離れた空間で、観測装置が淡々と記録を続けている。
青い球の表面で光の網は年々密になり、夜の闇は薄れていった。
記録:対象E-3の高等種は、異常複製因子の抑制に成功。
補遺:惑星にとって最大の異常複製因子は、依然としてその高等種である。
送信。
光は無言で遠ざかり、網は今夜も細かく編まれていく。
【了】