[ベトナム中部の農村で生まれ、祖父の支えで勉学の道に進む]
―先生は、1949年、ベトナムの クアンナム省ご出身です。ダナンから少し離れたところですよね?先生が生まれ育った村は、どういったところでしたか?
ダナンというより、ホイアンが近いね。当時、クアンナム省の省都は ホイアンで(現在の省都はタムキー)そこから西に15キロくらい離れたところで生まれ育った。今年の現役生はベトナム合宿で私の通ったホイアンの高校を訪れんだよね。ホイアンって、みんな知っている?ホイアンは日本とベトナムの関係の発祥の地。江戸時代に朱印船が来訪し日本人街ができた。その後、鎖国で関係は衰退し、かわりに華僑が流れてきたけれど、今ホイアンは観光地としてとても栄えている。
―小学校はいくつかあったのですか?
小学校はいくつかあった。ベトナムの教育課程は5,4,3制(小学校5年、中学校4年、高校3年)。小学3年生までは寺子屋のような場所で学んで、4年生になった時に近代的な小学校ができたので、そちらに最後の2年間だけ通うことができた。
―当時は、みんな小学校に行くのは当たり前のことだったんですか?
都会は近代的な小学校があったけど、私は田舎だったから、家の農業を手伝いながら通っていてね。村の中には、家の事情で、近代的な小学校に通えなかった人もいたし、女の子は学校に行かなくてもいいという考えもまだあった。私は長男で、弟妹は最初6人だったけれど、今みたいに医療が整っていなかったために、2人の弟は小さい頃に病気で亡くなってしまった。母も早くに亡くし、その後父が再婚して異母妹が2人できたから、計6人弟妹。同じ母の弟妹構成は妹2人、弟1人。妹2人は小学校を卒業できなくて、その後結婚したね。弟は有名になって、最近までダナン大学の総長だった。
―ご両親に、ちゃんと小学校に通わせてもらっていたのですね。
小学校まではよかったけれど、中学校は、家から5キロ離れていたし何より学費が問題だった。というのも、完全な公立ではなくて半官半民だったから、毎月学費を払わなければいけなくて。農村は現金収入がなく、学費が払える家庭は少なかった。当然、私の家も厳しかったし、学校に行くことは簡単ではなかった。幸い学校の制度で、毎月の成績トップ5人は授業料免除だったので、トップ5人の中にいつも入るように頑張って、4年間の学費を大部分免除することができた。
―お父さんから勉強しなさいと言われましたか?
言われなかったよ。自然と勉強が好きだった。今の日本人みたいに進学塾に行ったり、勉強を強制されてというのはなかった。私は特に、祖父に可愛がってもらったの。祖父は、「この子は体があまり丈夫じゃないから、将来、農業は無理でしょう、大工のような体を使う仕事も難しい。勉強しかできないから、何とかその道で身を立てさせよう」と周囲に話していた。祖父は、よく宝くじを買って、当たったら全て私の学費にまわすつもりでいてくれた。当たらなかったけど(笑)。宝くじの当選結果は中学校に張りだされたから、家から5キロ歩いて確認して帰ってきて、また宝くじを買ったら数週間後に結果を見に行くわけ。毎回大変だった。このエピソードは、「ベトナム経済の新展開」の最後に書いてある。この本は1996年に出版されて、祖父が生きていれば100歳だった。この本の印税を全部使って、故郷の中学生達のための奨学金制度を作り、その奨学金には祖父の名前をつけた。
―戦争中でしたが、文房具や本などはあったのでしょうか?
卒業式の時に優秀な成績の学生は賞が授与され、文房具や教科書をもらうことができた。私ももらったけれど、本はもちろん、文房具も貸し借りが当たり前だった。ベトナムはまだ発展段階が低かったし、戦争中で、しかも農村だったから非常に貧しかった。
―ベトナム戦争を身近に感じることはありましたか?
当時、ベトナムは北と南に分断されていて、クアンナム省は南ベトナムだった。ベトコンを知っていますか?サイゴン政権の反体勢力(共産党)のこと。ベトコンはゲリラ戦をやっていて、都会より農村のほうが狙われやすかった。群長だった中学校の同級生のお父さんが襲われて暗殺されたり、そういうことが時々あった。早く終わってほしいと祈るばかりだった。
[高校はホイアンで下宿。そこで運命の出会いが!]
―まわりから神童と言われていたんじゃないですか?勉 強がよくできるねと。
勉強はよくできたね(笑)。農業も手伝いながら、片道1時間歩いて中学校に通った。途中で自転車を買ってもらえたけど、そんな中よくできた。当時はフランス制度の影響で、中学生は全国試験を受けて、その試験に合格しないと卒業を認められなかった。合格者の成績は(優・良・可)の3つに分かれていて、私は優で最高の成績をとったの。当時、クアンナム省に高等学校はホイアンに1校あるだけで、全国試験で優を取れたから、入学試験なしで自動的にホイアンの高校に入ることができた。
―その時のベトナム語は漢字ではなく、クォック・グー(アルファベット)を使っていたんですか?
クォック・グーだった。中学校に入ると第二外国語でフランス語か英語を選ばなければならなくて、私は、どういうわけかフランス語を選択した。日本に来て、フランス語を使わなくなったから、結構忘れたけどね。
高校になるとどんな人が集まってくるか想像できます?優秀な人しかいなかった。大都市サイゴンは別として、クアンナム省では高校はもう最高学府。通える人が非常に少ないから、ちょっとした知識人みたいな感じに振舞っていたし、みんな高校生であることに誇りに思っていた。
―高校のお金はどうしたんですか?
高校は公立で学費はなかったけれど、家から15キロで離れていて交通手段もなかったから下宿代が必要で、私のようなものは困るわけ。そこでホイアンで住み込みの家庭教師をやることにした。住み込みなら食事や家賃の心配はいらなかったから、3年間ずっとやったの。子供たちに多く教える時間が極端に多いとか、親の態度が悪いとかで何度か泊まる家庭を変えたけれど。だいたい夕食のあと2時間くらい、国語、歴史、数学、物理などの教科をみて、子供たちが寝てからが自分の勉強の時間だった。
―得意教科や好きな教科はありましたか?
当時、高校は3つのグループに分かれていて、AとBは理系で、Aは物理化学中心、Bは数学中心、Cは文学・外国語だった。Bが一番花形で、中学校で優秀な学生はみんなBに行って、私もBに行った。中学校4年生の担任の先生も「君はホイアンに行ったらBに行くでしょ」と当然のようにおっしゃったことを今も覚えているね。でも高校1年生の終わりごろ、なんかだか数学が物足りなく感じてきて、自分は文学が好きだなと。当時は音楽に興味があって、ギターを弾いたり、文学もたくさん読んでいてね。成績はクラス2番目で、数学ができなかったわけではなかったけれど、それでもCに行きたい気持ちが強くなった。担任の数学の先生に怒れたけど、2年生からCに移り、文学・外国語(フランス語、英語)と哲学を学んだ。これも運命だね。そしてCに移ったから今の家内と出会えた。Cに移らなかったら、違う人と結婚していたね。(笑)
―奥様は、高校の同級生だったんですね。
そう。Cはクラスが2つあって、私はC1組でトップの成績で、彼女はC2組でトップの成績だった。高校2年生が終わると全国試験があって、合格しないと3年生に進級できなかった。不合格なら留年か退学しなくてはいけなくて、合格はできたのは半分だけ。3年生はC1組とC2組のクラスが1つに統合されて、その時に家内と同じクラスになって一緒に勉強した。クラス内の成績は私がトップで彼女が2番目だった。逆だったら結婚できない。(笑)
―高校卒業後の進路はどう考えていたのですか?
祖父が言っていた通り、体が丈夫でなかったから、何か知識的な仕事しかないと思っていた。同じクラスの人は、大部分が公務員になったね。当時は、徴兵制があって、18歳以上が対象だったけれど、高校を卒業して大学に進学した人は徴兵されなかった。高校2年の全国試験で落ちた人は徴兵される可能性があり、徴兵されて戻ってきたら仕事がなくて、農業をやる人もいた。でもそれは例外で、高校まで行った人はエリートだった。 私は中学生の時から教師になりたくて、何か人に教えたいとずっと思っていた。だから今こうして、大学で教鞭をとっていることは本当に幸せ。高校卒業する頃には、「大学に行って、高校の文学の先生になろう」と決めていて、高校3年生の全国試験で、理数系Bに有利な中、(優・良・可)の良を取ることが出来た。良といっても、文系Cにとってはとても優秀な成績で、この成績がのちの日本留学に非常に役にたった。
[いざサイゴンへ。日本に留学することになったのは偶然]
―次は大学に行くわけですね。
当時は、ホイアンはもちろん、ダナンにも総合大学がなくて、サイゴンに行かなければならなかった。たまたま親しい高校の先輩が先にサイゴンに進学していて、「君もサイゴンに来ないかい?なんとかなるよ」と誘ってくれた。本当に面倒見のいい先輩で、サイゴンで一緒に下宿して、中学校の非常勤講師のアルバイトまで世話してくれた。そして学費と下宿代を稼ぎながら、文学の予備大学(1年制)に入った。卒業後は文学の師範大学(3年制)に進んで、高校の文学の先生になろうと、本当に日本に来るまではそう考えていたの。運命の日が来るまでは。
―運命の日?日本に来ることになったのは、偶然だったのですか?
本当に偶然、もう運命的。ある日、自転車でサイゴン政権の文部省前を通った時、掲示板の前に立ち止まっている人が何人かいて、気になって自転車を止めてみると、そこに日本政府の奨学生(国費留学生)募集の張り紙があった。応募資格が2つあって、①20歳未満 ②高校3年生修了時の全国試験の成績が良以上。2つとも満たしていたし、幸いサイゴンに来るときに、戸籍や高校卒業証明書も余分に持ってきていたので、書類関係も揃っていた。全然期待していなかったけど、受けてみようと。願書提出締め切りの3日前だった。
―日本に興味があって、自ら進んで留学したのかと思っていました。
いやいや、今の若者の発想はそうかもしれない。今は情報があって、日本のことをよく知っていて、日本に留学したい学生はたくさんいる。けれど、あの時代はそうではなかった。日本のことは高校の世界史の知識や武士道、桜、富士山くらい。そもそもホイアンからサイゴンに上京できたこと自体、すでに留学以上のことだった。ベトナム戦争中だったし、飛行機のチケットも高額だった。言うなら戦前の日本で、九州から東京にでてくるような感じだろうと思う。地方では留学の情報もなかったし、私を含め誰も留学という発想がなかった。
―国費留学生の試験・選考方法は?
サイゴン政権文部省に留学する目的についての作文や必要書類を提出し、書類選考後、30人から40人が面接に進んだ。そこから20人まで絞り込まれ、日本大使館へ推薦者リストが出された。数週間後日本大使館で筆記試験を受け、最終的に6人の合格者の中に入ることができた。3人は自然科学で、もう3人は社会人文科学。私は社会人文科学で採用された。他の人は裕福な家庭で、私のような農村出身の学生が採用されたことは珍しかった。
―留学への不安はなかったのですか?
不安よりも喜びのほうが断然大きかった。サイゴンで苦学していたから、もうお金の心配をしなくていいと、一気に世界が広がった感じがした。自分の中で「新しい時代が始まる」と、希望を胸に1968年に来日し、駒場留学生会館に入寮した。
―それまで文学を学ばれていたのに、「一橋大学」で、「経済学部」に入学することになったのはなぜですか?
6人の奨学生の中で、自然科学の3人は千葉大学で学び、社会人文科学の私は3年間、東京外国語大学の留学生コースで、日本語と一般教養課程を学ぶことになった。ちょうど3週間前に、外語大時代にお世話になった先生に約50年ぶりに会ったんですよ。英語の斉藤先生とは、ずっと年賀状をやりとりする仲で、去年の年賀状に「今年90歳をむかえました。一度会いたい」と。あの頃は先生も40歳くらいだった。(笑)。リーガロイヤルに招待して、昼食をとりながら、懐かしい話で盛り上がった。
さて、それで留学生コースを卒業したら、次にどうするかで3つの方向を考えた。文学か、教育学か、経済学か。外国語で文学をやるのは難しいと思ったし、自信がなかった。教育学も悩んだ。当時、日本は高度成長期まっただ中。ベトナム戦争が終わったら、国家再建のために経済が重要だと感じ、日本の経験を学べば、ベトナムの発展戦略に貢献できるのではないかと思い、経済の道に進むことを決めた。東京外語大学でもトップの成績だったので、希望する大学に進学することができたが、東京大学は闘争中で募集がなかったため、経済学で著名な一橋大学に進学した。
―留学中、奥様とはどんなやり取りをしていたのですか?
ラブレターを書いて文通していた。彼女はサイゴンの師範大学を無事卒業し、高校の先生になる予定だった。しかし、1972年、東京大学大学院教育学の研究生として私費留学で日本に来てくれた。翌年、23歳の時に結婚した。
[小島先生と雁行形態論の出会い]
― 一橋大学在学中に、小島清先生に師事し、雁行形態論と出会ったのですね。
赤松要先生を知っている?日本の経済思想家で、「雁行形態論」(flying geese pattern)は赤松先生が、今から70年以上前に創った日本オリジナルの造語。詩人でもあった赤松先生は、輸入、輸入代替品の生産、輸出というプロセスを雁が飛んでいく姿に例え、詩的な表現をされた。小島先生は、赤松先生の後継者で、赤松先生の考え方を展開した方。小島先生は、当時52,3歳で、すでに有名だった。学部のゼミの中で、途上国の経済開発や、国際貿易論を専門とされていたので、このゼミに入りたいと思って、門戸をたたいた。とても厳しかったけれど、日本的というか、厳しい中にも優しさがある先生だった。だから、のちに、小島先生の論文に自分の論文が引用された時は、本当に嬉しかった。大学院に進むと、小島先生の考えを実証した山澤先生(当時助教授)にも出会い、教わることができた。山澤先生とは、今の苅込先生と現役生みたいな関係ね。(笑) 苅込先生(現在 帝京大学准教授)は、トランゼミで博士号を取得して、学部のゼミを一緒に見てもらっている。因みに、山澤先生の教え子には竹中平蔵先生がいっらっしゃって、竹中先生には、書評を書いてもらったこともある。
― 一橋大学大学院卒業後の進路は?
1978年に博士課程を終了したけれど、博士号は取得できなかった。(当時、社会人文科学で博士号を取得するのは難しく、40歳代でも早いほう。)例えばタイ人の友人は母国に帰国したけれど、博士号を取得するために、アメリカへ再留学した人もいた。 一方、そのころベトナムは戦争が終わり、1976年に北ベトナムと南ベトナムが統一されて社会主義国になった。そして、マルクス経済学が適用されたために、南ベトナムで活躍したいと思って学んだ近代経済学は、搾取の経済学、ブルジョアの経済学と批判され、帰国しても仕事がなかった。ドイモイ政策の前だったからね。その他にも、ベトナムは中国やカンボジアとの戦争があり、混乱状態であったため、帰国を断念し日本で就職することに決めた。
[コンサルティング会社を経て、日本経済研究センターの研究員へ]
―就職はどうやって探したのですか?
まずは生活費を稼がなければならなかったので、なるべく自分の知識が生かせる研究・調査職がいいと考えていた。新聞の求人広告でアメリカ系コンサルディング会社を見つけ、4年間働いた。結構楽しかったよ。日本に来た外国の証券会社、銀行が顧客で、日本経済の調査・研究をし、英語で定期的にレポートを書くのが主な仕事だった。3年後にはシニアコンサルタントに昇格し、給料もあがった。しかし、カスタマーの要求に次々こたえていくより、そろそろ腰を据えて、自分のやりたい学術的な研究に専念しようと転職をした。
―転職のタイミングは?
関口末夫先生が日本経済研究センター(日本経済新聞社が開設した研究センター)に誘ってくれた。関口先生は、横浜国立大学を卒業後、北海道拓殖銀行に就職し、日本経済研究センターに研修生として銀行から派遣されていた。研究能力が非常に高い方で、日本経済研究センターの理事長が銀行に、研修期間終了後もそのまま研究センターに残ってほしいと、懇願したほど。のちに大阪大学、成蹊大学の教授を歴任された。コンサルティング会社時代、関口先生から日本経済研究センターの研究会に誘っていただく中で、「コンサルティング会社を辞めて、こっちに移ってきませんか」と勧めてくださった。日本経済研究センターには4年間在籍し、日本経済新聞の経済教室(学者の登竜門といわれている。)を執筆したり、運がよく研究助成金をもらったり、学会で発表したりと、次第に研究者として自分の名前が世間に知られるようになった。
[教師になる夢が叶った、桜美林大学で過ごした時間]
―桜美林大学へは、どのような経緯で行かれたのですか?
1989年に、桜美林大学国際学部が新設された。実際は、その2年前の1987年から文部省の認可を得るために、当時の研究科長だった佐藤東洋士先生が筆頭となって、文部省との交渉や教員採用に動いていた。その時、佐藤先生は山澤逸平先生と文部省で仕事をしたの。佐藤先生から相談をうけた山澤先生は、私を推薦してくれて、桜美林大学の助教授になった。いずれは大学の先生になりたいと思っていたから、教師になる夢が叶った桜美林大学は、とても思い出が多い。1993年、44歳の時に「産業発展と多国籍企業:アジア太平洋ダイナミズムの実証研究」という本を出版して、博士号を取得して教授になったの。
高橋君たち、桜美林2期生は、町田の自宅に来たでしょ?町田の自宅は桜美林に行く前に購入したの。当時、国分寺でのアパート生活からそろそろマイホームを購入したいなと思っていて、小田急線、京王線、中央線の3路線の中から探していて、たまたま町田の地が気に入って1986年にマイホームを建てた。よく、桜美林に行ったから、町田に引っ越したといわれるけれど、それは逆で桜美林の話が来たのはそのあとだから、本当に運がよかったね。(笑)
―桜美林大学では、他の教授との交流はありましたか?
国際学部は、できたばかりの学部で、外国人の教授が多かったね。アメリカ、カナダ、韓国、ベトナムなど。そして、外国で学位を取得した教授も多かった。高橋裕子先生は桜美林の同僚だったけど、数年後に辞めて、津田塾大学に移ったの。彼女は今は、津田塾大学の学長になったね。ヒックス先生とも交流があった。今は九州の立命館大学APUで活躍されている。一番親しかったのは、高橋順一先生。残念なことに、2年前に亡くなってしまった。
実は、関東圏や九州、東北などたくさんの大学からオファーがあったけれど、桜美林はとってもいいところだったから、その話にはのらなかった。というのも、研究と教育以外の仕事はしなくていいと優遇されていて、対外活動に専念させてもらえた。日本経済審議会の専門委員やベトナムの経済諮問委員をした結果、桜美林大学の知名度アップに一役かったし、実際ベトナムで一番有名な日本の大学は、桜美林大学ね。(笑)桜美林の関係者も喜んだ。
[早稲田大学へ、ハーバード大学へ遊学も]
―次は早稲田大学に移ることになりますが、またオファーがあったのですか?
2000年に、早稲田大学の社会科学部に移ったのだけど、最初は政治経済学部の西川潤先生から声をかけてもらっていた。同時期に、以前より付き合いがあった当時社会科学部、現アジア太平洋研究科の浦田秀次郎先生より、国際貿易論の先生が来年、定年になるので来てもらえませんかと、オファーがあった。これまで他大学からのオファーは断っていたけれど、早稲田大学は都内にあって、ベトナムの要人とも会いやすいので、移籍を決意した。政治経済学部にも書類は出していたけれど、先に社会科学部が決まって、西川先生もそれであるなら大丈夫ですよと。仕事を探したのは大学院卒業後の最初の時だけだったから、職場には本当に恵まれたね。
―ハーバード大学へ、遊学もされました。
早稲田大学に移籍してから7年が過ぎた頃、9か月間(4月~12月)ハーバード大学に遊学し、アパートを借りて一人暮らしをした。昼は寿司バーなど外で食べて夜は自炊。簡単だから、よくステーキを買って焼いて食べていたね、ワインも飲みながら。ただ、アメリカの牛肉はプライム、チョイス、セレクトとランクがあって、近くのスーパーには硬いセレクトの牛肉しか置いておらず、どうしても軟らかいプライムの牛肉が食べたくて、週に1回、地下鉄で遠くのデパートに買いに行っていた。
ひとつ残念だったのは、最後に盗難事故にあって、パソコンが盗まれてしまったこと。遊学期間を終え、ちょうど12月30日に日本に帰国することが決まっていて、その前のクリスマス時期の頃。ニューヨークの友達の家に遊びに行って一泊し、ボストンに戻ってきて、現地で親しくなったベトナム人の若い学者に車で迎えに来てもらった。そのまま、アパートに帰ればよかったんだけど、途中の町で2人で昼食をして戻ってきたら、車に置いてあったパソコンの入ったバッグがなくなっていた。彼の携帯電話も盗られてしまって…。パソコンに、ハーバード大学での9か月間の日記が入っていたから、あれは痛かったね。アメリカから帰るときにコンピューターがなくなっちゃった。(笑)
[プライベートでの変化ー息子の誕生]
―プライベートでは、息子さんも生まれていらっしゃいます。
1985年、36歳の時に、息子のジュンイチが生まれた。
―それまで仕事や研究に打ち込んできた中で、子供が生まれるというのは、また別の喜びがあると思います。
そうね。そうね。(深くうなずく)
― 一人息子だから大事に育てられてんじゃないですか?
私は忙しくて家内に任せていて、家内が大事に育ててくれた。息子が3歳になる頃からピアノを習わせた。家内は、息子をピアニストにさせるつもりはないけれど、最高のピアノ教育を受けさせたいと専門コースを選んだ。私は、趣味の範囲でほどほどでいいから、普通のコースでいいんじゃないかと、家内と意見が合わずけんかしたこともあった。でも家内のおかげで、息子はプロ並みにピアノを弾ける。君たち保倉さんを知っています?トランゼミ大学院OBで、東京音楽大学の理事を務めておられ、非常に丁寧で、思いやりがあり、日本人のよさをすべて身に着けていらっしゃる方。5,6年前に、大学院のゼミ生がお正月に家に遊びに来て、息子もたまたま家に帰っていたので、息子の伴奏で保倉さんが歌ってくださった。初対面なのに息がぴったり合って、みんなびっくりして喜んだね。
インタビューは一部、高田馬場にあるベトナム料理のレストランで食事をしながら進めさせて頂きました。先生が、ベトナム人の店員さんとベトナム語で気さくにお話されている姿が印象的でした。チャオハノイさんは、先生お気に入りのレストランだそうです。生春巻きやバインセオがとても美味しかったです。
今回のインタビューで、トラン先生の人生やお人柄をより詳しくこと知ることができました。特に幼少期のお話は、はじめて聞くことも多く、先生ご自身の努力、意志の強さ、前向きな性格、運を引き寄せるパワーなど、とりわけ、「人との繋がり」「人との縁」を大切にされていらっしゃると感じました。人生の大先輩として、色々なお話をお伺いすることができ、本当にありがとうございました。