御祭神

・大己貴命 (おおなむちのみこと)

・素戔鳴尊(すさのおのみこと)

・天照國照彦天火明櫛甕玉饒速日尊(あまてらすくにてらすひこあめのほあかりくしみかたまにぎはやひのみこと)

・倭建尊(やまとたけるのみこと)

・熊野三所大権現《家都美御子大神、速玉男神、熊野夫須美大神》

(くまのさんしょだいごんげん 《けつみのみこのおおかみ、はやたまおのかみ、くまのふすみのおおかみ》)

・金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)

 ・市杵嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)

・子守大神(こもりのおおかみ)

 …以上の神々を始めとして、天地坐八百萬神をお祀りしています。

由緒

遙か太古の昔、大海原の彼方から、龍王、妃、王子の三柱の神々が、荒藺乃崎(現在の真鶴岬)に御船に乗られて御出でになり、当地を開拓されたと伝えられています。その後、文武天皇4年(西暦700)、役行者と共に、当地を訪れた御杖代・穂積濃美麻呂卿が、師である役行者と共に、陰陽の秘法を以て、金剛蔵王権現、弁財天、子守大明神をお祀りしたのが当神社の創祀であり、その折に、当地に「霊妙なる薬湯」を見出したのが、現在の湯河原温泉の始まりと伝えられています。

時は移ろい、平安の世は、天暦7年(西暦953)、濃美麻呂卿の十代目の孫、穂積俊基卿が、当地海岸の「竜宮の鼻」と称される大岩に、金色に輝く神霊が降臨されたのをお迎えし、初めてやしろを設け、お祀りしたのを創建とします。

その後、当地の豪族、荒井刑部實継公一党の崇敬が篤く、その主君、源義家公、その子孫、源頼朝公、源義経公も、篤い信仰を寄せました。時は降り、應仁の大乱も収まりし、南朝・明應10年(西暦1478)、戦乱に明け暮れる都を逃れ、御一門の山田宮を伴われ、楠一族、菊池党、高橋党などの忠臣の警護を受けつつ、当地に尊き御身を寄せられた、後醍醐天皇の玄孫の宮に坐す、小倉宮尊成親王は、時の神官、大和守重勝の娘、安津佐姫を娶られ、祀職となられ、お若きみぎり、吉野は金峯山に於いて、修行に励まれていた折のこと、大天狗から法力を授けられた故事にちなみ、「天佑」と称され、この名が後の代々の宮司の法名とはなり、又、平安京の北方の守護である子之宮の神霊を、当神社に併せ祀られました。

 他に、やしろの杜に住まう梟の鳴き声を、「東路(あづまぢ)を 吾が越へくれば ひなの里 福ぞ来たらむ みつかひの声」との歌に詠まれて、このことを瑞祥とされ、この地を「福ぞ来たらむ里」と名づけられ、それが現在の福浦の地名の由来となった、と云う逸話も残されています。爾来、第五十三代宮司、穂積天佑、こと、天佑宜龍に至るまで、連綿と途絶えることなく、その血脈法統は受け継がれ、地元はもとより、広く日本全国、また海外に至るまでも、多くの人々の信仰を集め、心の拠り所となっています。

御利益

当社の主祭神、大己貴命は、神話によれば、181人の御子をお儲けになられたと言う子福の神。そのような由来からか、古くより『子之大明神』と称せられ、また『関東最古 子授け子育ての神』と云われ、子授け子育ての祈願が盛んであり、遠方よりの祈願者も数多く訪れます。

また当神社の宮司を代々務める神官家は、古代の大族、物部氏の本宗の嫡流といわれ、古神道の正統を継承する我が国最古の神官家であり、祖神・櫛甕玉饒速日尊(くしみかたまにぎはやひのみこと)以来連綿と伝えられた『十種の神宝の神法(とくさのかむたからのみのり)』を始め、数々の祈祷・禁厭の秘法を伝承し、祈願に訪れる人々に福音を与え続けています。

中でも、浄火を以て、天地の神々をまつり、人々の願いを神界に送り届けるという 『最勝王法神道大護摩(さいしょうおうほうしんとうだいごま)』は、神話にある『天の石屋戸開き(あまのいわやとびらき)』の時の、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)による御神楽にその由来を持つ由緒ある神事で、燃え上がる炎に向かい、宮司が秘咒を霊唱し、秘印を結ぶさまは、見る者を神々の世界に誘う心地すらする神秘的な光景です。

この護摩を受ける者には、祖先九代が浄霊され、諸々の願いが成就され、開運に導かれる霊験が授けられると言われています。

まつり

一年の始まりである元旦には、年の初めに当たり、人々の本年の開運厄除けを祈願する初護摩が、古式のままに行われ、二月節分の日には、その年の年男も参加して盛大に追儺行事が行われます。

また古くは旧暦の六月十四・十五日に行われていた例大祭は、現在は新暦の七月最終土・日曜日に開かれ、二日目に行われる「お浜行事」は、海岸の祭場で、数基の神輿と山車がお練りを行い、お浜入りを行う勇壮な神事で、祭礼のクライマックスであり、神奈川県下でも代表的な浜降神事の一つです。

三種の神宝

悠久二千数百年の歴史を有する宮司家には、天皇家と同様に、剣・鏡・玉の三種の神宝が伝えられています。八握神剣・八稜神鏡・八尺瓊勾玉と呼ばれるものがそれで、当神社本殿(奥の院)に奉安されています。このうち、八握神剣・八尺瓊勾玉は、当家始祖 饒速日尊以来伝えられたもので、十種の神宝の根本ともいわれる霊宝です。そして八稜神鏡は、朝廷に古来より伝わった、日月二面の八咫の鏡のうちの一面といわれ、『月輪 八稜の鏡』と称され、これは南北朝時代末期、代々南朝に仕えてきた当家祖先が、南北朝の合一後、後亀山天皇より南朝の正統を受け継がれた南帝 小倉宮良泰親王(第100代 招慶院天皇)より託された神宝と言われ、この時、この神鏡とともに、歴代の天皇が行われた『はふりのみわざ』という、天皇のみが行い、伝えてきた神法(南朝 大覚寺統にのみその正法が伝えられ、南北朝統一後、南朝の正統を受け継ぐ小倉宮家にひそかに伝えられた。)をも託され、現在まで守り伝えられています。

はふりのみわざ

古く大和朝廷時代より、宮中に仕える神官であった、当宮司家は、今から600年程前の南北朝時代、第五拾二世・次郎左衛門重範以来、代々南朝に仕えてきました。そして当家第五拾四世・大和守重勝が、南北朝合一時の、後亀山天皇の後を継がれた南朝の皇統の最後の帝とも言うべき、南帝 小倉宮良泰親王(第100代 招慶院天皇)より、皇位の象徴である三種の神器の一つ、日月二面の「八咫の鏡」のうちの一面である『月輪 八稜神鏡』と「八坂瓊曲玉」の一部を始めとする『くしきみたから』と称される宮中に古くから伝えられてきた霊宝と、それらの霊宝を用いて行う、『はふりのみわざ』という、歴代の天皇が行い、伝えてきた神法を託され、また将来この霊宝、神宝を伝えるべき人として、帝の三ノ宮をも預けられました。足利氏の天下の下、尊い皇統の身分を隠されて成人なされた宮は、育ての親、重勝の娘を娶られ、当家第五拾五世・左京進重就となられました。

 当家の所伝によりますと、南北朝合一の南朝・後亀山天皇から北朝・後小松天皇に後譲位があった時、皇位の象徴である神器は、代宝を譲り、正統な神器は、ひそかに南朝の末裔・小倉宮家に伝えられたと言います。

そして、南朝・大覚寺統に伝わった神法・行法、ならびに神器は、小倉宮家の血脈・法統を受継いだ当家に伝えられ、現齋主・天佑宜龍に至るまで、連綿と継承されています。

そして、現齋主により、いつき行われる「はふりのみわざ」により、日々、人々の願い事を神界に送り届けるとともに、世界平和、日の本つ国・大倭(おおやまと)の安泰と繁栄、人々の幸せを祈願しているのです。

これらのことからも、当家に伝わる神器、はふりのみわざ、そしてその血脈・法統が、いかに尊いものかおわかりになると思います。

尚、はふりのみわざは、一子相伝、他伝は禁じられており、既に穂積家の次世代を受け継ぐ若宮霊童への伝授は終了し、希望の未来へと受け継がれることと相成りました。

社殿

摂社/龍神社

龍神社(龍宮御霊神社) / 御祭神・海住大神(わだずみのおおかみ)

 歴代宮司、氏子信徒の祖霊 古くから、当地に鎮座し、大海原の主宰神である、大龍神、海住大神をお祀りしています。また、歴代宮司の御霊、及び、氏子信徒の方々の御祖先の御霊をその相殿に祭祀しています。

摂社/淡嶋神社

淡嶋神社 / 御祭神・淡嶋神、少彦名命

古くより、当地に鎮座し、医薬の祖神、また針供養、人形供養、婦人病平癒の守護神として、信仰を集めています。

本殿内/高木稲荷

高木稲荷大神 / 御祭神・高御産巣日神、倉稲魂命

太古の昔、倭健尊の王子である、武田王(たけだのおおきみ)により、祭祀された神体を、甲斐源氏・武田家の祖である源義清に見出され、それ以来、武田家の守護神として、累代にわたり、祀られ、信玄・武田晴信の代に至り、家臣筋の家に下賜され、最近まで、その家系により祀られてきたものを、縁あって、当子之神社で祀られるようになりました。天下取り稲荷、とも称される霊験あらたかなお稲荷さまです。

彫刻

陰陽道の守護聖鳥である鴨(かも)の彫刻

古代よりの風水一族である賀茂氏は、伊豆国賀茂郷より出ており、陰陽道、風水術など、後の我が国の運命学の基礎を築いた一族です。今から千三百年前、賀茂氏の祖であります、役行者(賀茂役君小角)は、後に当子之神社の初代宮司になる、穂積濃美麻呂に、賀茂一族に連綿と伝わる、風水術、陰陽道の奥義を伝えました。平安の世、陰陽師として名を馳せた安倍晴明公が、賀茂忠行、保憲父子から、賀茂家に伝わる陰陽道を伝えられた約三百年前の出来事です。鴨は、賀茂一族を守護する聖鳥として、賀茂一族より代々伝承された陰陽道の奥義を守護すると言われています。

獏(ばく)

この獏の彫刻は、拝殿入り口に、左右、阿吽(あうん)の形状であり、江戸後期の伊豆の名匠・石田邦秀(いしだほうしゅう)の作になります。獏は、古代中国の想像上の聖獣であり、悪夢や、人の心のうちの不安を食べ、幸運をもたらすと伝えられ、古来より、現在に至るまで、多くの人々の信仰を集めています。