タイトル:声に誘われて
作家 :杉野 郁
画廊 :ギャラリーニイク
購入日 :2020年6月28日
サイズ :F3
技法画材:ミクストメディア
「声に誘われて」は、「眠れない夜の底で」、「罪悪感」、「冬の芍薬」に続いて「MY ART ROOM」で紹介する杉野郁さんの4つ目の作品になります。最近、Twitterを見ていたら、「○○の作風に似ている」という言葉は、作家を傷つけるので止めたほうが良い、というコメントがありました。鑑賞する側は分類する習慣のようなものがありますので、ついつい似ていると言ってしまいがちです。もちろん悪意はありません。一方、作家の側からすれば、嬉しくはないのだろう、とあらためて思いました。多くのアーティストがいる中で、誰とも似ない作品を生み出すのは、極めて難しいでしょう。独自性を追求しすぎると、作品の幅が狭まってしまう危険があります。そんなことを考えながら、これまでに購入した作品を眺めていると、杉野さんに似た雰囲気の作家さんは見当たらないなと思いました。そればかりか、杉野さんの作品には、猫が頻繁に登場しますが、モチーフ、風景、場面は毎回異なり、いつも新鮮な気分にさせてくれます。そのため、他の作品がもっと欲しくなるのです。
それでは「声に誘われて」を見てみましょう。タイトルのとおり、猫の鳴き声を聞いた女性が、隠れている猫を探している場面になります。右手に持っているのは、マタタビを入れた靴下です。と、さらりと書きましたが、マタタビは知名度の割に、植生は知られていないように思います。私も知りません。調べてみると、「山地の林縁などでみられ、他のものに巻きついて登る落葉つる性木本。葉の縁には低い鋸歯があります」と記載されていました。写真を見ると思いのほか地味で、白い小さな花はこれといった特徴がありません。全国の山に自生しているようですが素人が見分けるのは難しそうですね。本当に猫を魅力する魔力があるのでしょうか。都市伝説の類かもしれません。
折角の機会ですので、マタタビについて深追いしてみます。「またたびの木には、正常な実と「虫えい果」と呼ばれる実の2種類がなります。猫が好むとされているのは「虫えい果」で、ハエやアブラムシが実に卵を産み付けることで変形したものです。」とありました(アクサダイレクト ぺっとの便利帳)。効果があるのは、花ではなく、実、しかも虫の卵で変形した実だったとは驚きです。写真を見るとわかりやすいですね。それではマタタビは本当に猫寄せに効くのでしょうか。「マタタビラクトンやアクチニジンなどの成分が含まれており、これらがヤコブソン器官と呼ばれる、猫の上顎にある器官を通ることで、猫が酩酊するような効果が得られる」、「脳の中枢神経が刺激され、一時的に軽い麻痺状態の症状が出る」という解説がありました。なんだか麻薬っぽいですが、ストレス解消、食欲増進、老化防止が主な効用のようです。また、マタタビには蚊を寄せ付けない成分があり、それを体につけているという新説も提唱されています。さらに、「マタタビラクトン」は人間にも効果があるという記事もありました 。古来よりマタタビは木天蓼という生薬の一種として用いられているようです 。マタタビに関する記事はたくさんあるのですが、匂いはあまり解説がありません。
ところで、「声に誘われて」の女性のようにマタタビを靴下のような布に入れるというのは、一般的にあるのでしょうか。猫の遊び道具として、「猫キッカー」というのがありました。商品として販売されているうえ、自作される猫好きも多いようです 。杉野さんの作品には猫がよく出てきますので、マタタビの知識は作品を鑑賞するうえで、他にも役立つ機会があるでしょう。モチーフを調べるのも絵画鑑賞の楽しみ方の一つだと思います。
■またたびのあれこれ
1.植物図鑑エバーグリーン https://love-evergreen.com/zukan/plant/11972
2.アクサダイレクト ぺっとの便利帳 https://www.axa-direct.co.jp/pet/pet-ms/detail/9211/
3.南相馬市 https://www.city.minamisoma.lg.jp/portal/sections/61/6150/61503/study/1/R2/12376.html
4.朝日新聞 https://www.asahi.com/articles/ASP1N51LVP1LPLBJ007.html
5.DIAMONDオンライン https://diamond.jp/articles/-/137750?page=2
6.日本薬学会 https://www.pharm.or.jp/flowers/post_40.html
7.ねこちゃんホンポ https://nekochan.jp/goods/article/11191
さて、今回の「声に誘われて」ですが、最初に見たときに最初に気になったのは、キャンバスの形です。キャンバスの形自体は、一般的なF3号ですが、もっと大胆に画面上部はカットしても良いのではないかとも思いました。猫が隠れるものと女性が見つめる二つの換気口、キャンバス、額と4つの長方形がつながることで、面白い構造になると思ったのです。あえて画面を窮屈にすることで、鑑賞者も屈んでいるような感覚にさせる仕掛けですね。ところが、この作品では壁を広く取っています。壁にはタイルのような文様はなく、窓もありません。やや不自然に感じるくらい高い壁に見えます。また、杉野さんはどちらかといえば多くのモチーフを描きこむことが多いので、F3号のキャンバスをそのまま使うにしても、例えば、塀の一つを透かしブロックにして、隠れる猫を配置し、ブロック塀の上には庭の樹木や屋根が見えるという構図にすれば、色々なモチーフを入れることが可能であったはずです。
ところで、杉野さんは立体作品として「おうち」を制作されています。詳細は作家さんのホームページを参照下さい [1]。丸いガラス窓から部屋を覗くのが特徴で、外見は灰色の石膏ボードのようなものに包まれています。屋根も壁と同じで、大きな窓やドアはありません。「声に誘われて」の壁は、立体作品の外観を制作する際に使っている材料を塗っているということでした。近づいて眺めるとわかるのですが、油絵でも水彩でも胡粉でもないようなマットな質感があります。きめ細かいコンクリートといったマチエールです。もしかすると、立体作品の何かとのつながりがあるのかもしれません。
もう一つ、この壁を見ていて気づいたことがあります。それは余白の効果です。日本画では余白が大事であると言われることがよくあるのですが、なぜ余白が必要なのか説明されていることは殆どありません。説明があっても画面をゴチャゴチャさせず、主役を害しないぐらいです。結論から述べますと、この作品では、広い壁は鑑賞者のいる世界と作品の世界をつなぐ効果があると感じました。余白と言っても、真っ白ではなく先に述べたように独特のマチエールをもった灰色です。さらに、壁の中心から右上にかけては、緑っぽい色彩になっています。壁だけをじっと見つめると空を眺めているような感覚になります。女性と猫の部分にフォーカスすると面白い場面ということで終わってしまう気がしてきました。壁の部分があることで、作品の側に「行く」という心地になるのです。
[1] https://suginokaoru.wixsite.com/suginokaoruwebsite/3d-works
冒頭で、「○○に似ている」という言葉は作家に対して避けたほうが良いというお話をしました。これはモチーフや設定、ジャンル、技法といった観点もありますが、その作品から感じられる雰囲気も重要です。杉野さんの他の作品と共通する雰囲気は、例えると、子どもの頃に知らない隣町に出かけるような心地になれることです。ノスタルジーともファンタジーとも違う不思議な感覚です。私は小学生の時に放課後いつものようにクラスメイトと遊んでいると、誰かが自転車で隣町に行くことを提案しました。転入生が前に住んでいた街に行こうという話になったように思います。自転車で30分ほどですので、さしたる距離ではありません。ただ、いつもと違う日常、何か起きるかも知れない期待感というのは、大人になると簡単には得られない感覚です。今は、どこにでも自由に行くことができますが、自分がどの場所にいて、そこに何があるのか知っているというのは必ずしも良いことではないのかもしれません。杉野さんの作品は、遠くない、近くにあるのだけれど、訪れることのできない場所に鑑賞者を連れて行ってくれるのです。
この女性は左手にペディキュアを持っています。よく見ると左足は塗り終わっていますが、右足はこれからです。また、顔もすっぴんという感じがします。少なくともアイメイクをバッチりしているようには見えません。部屋着の格好からして、急いで玄関を出てきた様子が伝わってきます。お出かけ前なのに、猫の声に誘われ、しかもマタタビまで直ぐに持ってくるとは、かなりの猫好きなのでしょう。厚めの靴下の色合いとヨレ加減がいい塩梅。ここから猫の鳴き声が聞こえてきたはずなのに、、、という表情が良いですね。ペディキュアをして気合が入っているのに待ち合わせに遅刻しないか心配になります。それにしてもマタタビ入りの猫キッカー(?)はだいぶ使い古した感じがします。洗濯しすぎなのか澱んだ色になっていませんかね。近所の人に見られたら怪しまれそうな行動です。髪留め、ズボン、ペディキュアは青です。よく見ると、猫の首輪も青になっています。そこまで統一しているのにサンダルの鼻緒は赤というチグハグ感が面白いですね。慌てて出てきた印象が強まります。単に指し色として赤を入れるのではなく、場面に適した配色になっているのがポイントです。くるぶしやシャツのしわなど細かい点までしっかりと描かれているのも見逃せません。猫キッカーの端をそっと持つ姿からも猫を呼び寄せたい様子が伝わります。
続いて猫に参りましょう。鈴をつけているので近所の飼い猫なのでしょうか。人間を日々、観察しているような賢い猫のような気がします。私は自分たちより知能を持った動物はいないと確信しているのに、時折、動物たちの方が真理を悟っているのではないか、という疑念に囚われることがあります。この白猫は隠れんぼをして遊んでいるわけではありません。何か試しているようにも見えますね、と言いつつ、唐突に人間に出くわして本能的ににじっとしているだけかもしれません。この捉えどころのない感覚がいいのです。
画面右下に描かれている紐で縛られた石は、止め石です。関守石や結界石と呼ばれることもあります。太い縄は棕櫚縄です。神社や日本庭園で見かけたことがあるという方もいるかもしれません。そこを通過してはいけないという意味です 。日本庭園では分岐点の一方に止め石を置いて、道案内の役割を果たすこともあるようですが、神社では結界の一つとして、邪気を避ける趣旨と思います。写真の止め石は乃木神社で撮影したものですが、社殿の前に鎮座しています。ここを通らないと参拝できないので、皆さんスタスタ通過しちゃいます。子どもなら蹴りかねません。親に怒られる場面がありありと想像できます。作者にお伺いしたところ、猫の領域を示す結界のようなものとして描いているということでした。この女性が、サッシが外れた側の通気口を見逃しているのは、結界の効果かもしれませんね(なぜ、反対のサッシに気がつかない!と普通であれば言いたくなるわけです)。
参道のど真ん中に鎮座する乃木神社の止め石。参拝人は素通りしますよね。
通気口の脇に置かれている植木鉢も何やら特異な意味合いを帯びているように思えてきますね。結界の呪力の一つかもしれません。と、金継ぎの湯呑というのが、芸が細かい。さらに、画面手前に生えている雑草も結界を張っているように感じてきます。通気口のサッシの錆具合も年季が入っていることが伝わってきます。
これらのモチーフは画面構成という点でも優れた場所に配置されています。止め石があることで、女性の頭、背中、植木鉢と直線で結ぶことができ、通気口の二つの四角に対して、非常にバランスが良くなります。また、手間の雑草は、作品の舞台の仕切りとして、鑑賞者と作品をつなぐ効果があります。左上の署名にも注目しましょう。ここにも猫が隠れています。石畳に置かれたサンダルの微妙なズレ具合がいいですね。また、止め石と対角線上に位置しているのもポイントです。モチーフは画面の下に寄っていますが、右上を大きく空けることで、鑑賞者の視線を右上から取り込むことができます。作品の世界に入る前の序章と言っても良いかもしれません。何処かに出かけたいけど、なんか気分が乗らないという時に眺めていたい作品なのです。(2021年9月23日)