タイトル:冬の芍薬
作家 :杉野 郁
画廊 :ギャラリーニイク
購入日 :2020年6月26日
サイズ :F4
技法画材:ミクストメディア
風邪を引いたのかもしれない。彼女は薬を飲み一息つくと、次第に心地よくなり、居眠りしてしまった。不思議と時間が流れるのが遅く感じられる。偶然通りがかった私は何故かこの瞬間を崩したくないという気分になった。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」のとおり、芍薬はピンク、黄色又は白系統の鮮やかで高貴な花を咲かす。原産は中国で、日本には古くから薬用として伝わり、江戸時代は肥後六花と謳われるように各地で薬用・観賞用に栽培されるようになる。西洋での品種改良が進むと、花弁が多くより豪華な品種が広まってく。開花は5~6月頃で、ボタンは冬でも枝を残すのに対し、芍薬は、地上部は枯れてしまい根のみ越冬する。彼女の居眠りと芍薬の休眠を重ねあわせ、そのうち美しい花を咲かせるという趣旨であろう。服装やストーブからも冬であることは明白であるが、日めくりカレンダーは2020年1月11日となっている。
この女性は田舎っぽい雰囲気で描かれている。太目に編まれた三つ編み、赤い「はんてん」、厚手の靴下はバランスが悪く、風邪気味を言い訳としても、垢抜けない格好である。「はんてん」の芍薬と思しき花柄は、昭和家電のような恥ずかしさがあり、高貴さとは縁遠い。とは言え、顔立ちは整っており、おそらく自分が美人であることに気がついていないのだろう。普通にお洒落をすれば十分なのに、どこか空回りしてしまうような女性の方が男性の側からすれば愛おしく思える。もっとも、女性の側からすれば「あざとい」と指摘されるようで、なんとも複雑である。
絵であることを口実にもう少し彼女を見つめてみると、丁寧に検討し、細部まで考慮して描かれていることがわかる。単に頬を赤らめるのでは、暑いようにも見えてしまう。目の周りを中心に赤らめることで、風邪特有の熱っぽさが示されている。白い肌は、熱で赤らむ様子が強調されるだけでなく、冬の季節や芍薬のイメージにも合う。ちょっと前歯を見せることで、無防備な印象を与えている。うっすら瞼に引かれた線は、二重のぱっちりした瞳を想像させる。ストーブと湯呑で暖められた指は、若干赤くなっていることにも気付く。脚の組み方も良い。面接を受けているように揃えてしまうと不自然であるし、広げるとみっともない。脱げそうなサンダルが脱力感を助長させている。つま先に比重がかかり、踵はだいぶ余っている。青い甲革のサンダルは男性用なのかもしれない。居眠りをする姿だけで、実に物語性のある作品に仕上がっている。
次に画面全体に目を向けてみよう。年季の入った大きな漢方棚は女性とともに主人公と言って良い。難しいと思われるのは、漢方棚は重量感が強すぎるため、普通に描くと全体的に重苦しくなってしまう。そのため、背景の壁を薄く青みがかった色彩とし、やかんから吹き出る湯気と合わせ、靄がかかった雰囲気に仕上げている。この靄は、木製の漢方棚のアンティーク感とも調和している。鑑賞者は、作品とその中で居眠りをする彼女の夢という二重の幻を眺めている感覚になる。漢方棚の引き出しに貼られた生薬を一つ一つ確認していくのも面白い。引き出しの木目はそれぞれ違っていて、線画によりアンティークの味わいを深めている。
漢方棚の中段は、生薬の入った瓶、ハサミやピンセット、書籍が並べられている。葛根湯の札が貼られた染付の大壷が良い。また、他の作品にもしばしば登場するドロップスの缶は、色彩的にも華やかになる。そして、香箱座りで居眠りする猫がすっぽり収まっている。猫の指定席なのだろうか。この部分の棚板の木目は猫を中心に広がっており、自然と鑑賞者の視線が釘付けになる。この猫は長年、薬局と彼女を見守ってきたように思えてならない。上段は引き戸の棚は、何が入っているのかうかがい知ることはできない。店主も久しく開けておらず、誰も知らない謎めいた空間に感じられる。
画面左は、漢方棚のある右側と異なり、大きく余白をとっている。窮屈になるのを避けるためであろう。壁は空のように微妙に色彩が変化しており、夢見心地な感覚を引き立たせている。提灯に照られているのか、僅かに左上が赤っぽくなっているのも見逃せない。この芍薬が描かれた提灯は、彼女が着る「はんてん」と同じく田舎っぽく、良い演出をしている。構図としても、女性や漢方棚に奪われがちな鑑賞者の視線を上部まで広げてくれる。棚や小箱など四角が多い中、丸い提灯はインパクトがある。また、提灯から垂れる房紐によって、縦のラインを強調できる効果もあろう。
古めかしいストーブの橙色の明かりは、優しい暖かさを感じさせてくれる。「当帰芍薬散」は冷えに効く漢方薬として有名らしい。この大きな瓶は、隣の柑橘類とともに存在感を放っている。やや唐突に描かれているようにも思えるが、作品と鑑賞者の境界を示す重要な役割を果たしている。もし瓶や柑橘がなければ、鑑賞者は自らの立ち位置がわからなくなるだろう。画面に奥行もなくなる。これらにより鑑賞者は薬局に立ち寄ったところ、居眠りする女性が目に入ったという舞台が整うわけである。
最後に、これだけ多くの生薬を揃えながら、彼女が服用したのは「パブロン」のようである。(2021年5月23日)
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生薬の小箱を一覧にしました。「葛根」や「桂皮」のように一般にも知られたものから、
「川芎」、「蒼朮」など読み方からして難しいものまで様々です。一つだけ「mon petit」となっているのも目を引きますね。何が入っているのかとても気になります。「猪苓」の小箱は六とあり、「赤芍」や「黄芩」はつまみにメモがついています。生薬を調合するときの目印かもしれません。
小箱のうち2つ判別しないものがありました。一番左下は「非木」と書かれていますが、そのような生薬は見当たりません。辞書を引いてみると、「棐」という漢字があることがわかりました。音読みは「ヒ」、訓読みは「ゆだね」、意味は「①弓のゆがみを直す道具。②助ける。支える。③木の名。かや。イチイ科の常緑高木」となっています [1]。もう一つは、一番右の下から2番目は、「饂飩」(うどん)なのでしょうか。似た漢字の生薬は見つけられませんでした。「饂」は、つくりが日と皿となる異体字があります。真相はわかりませんが、「山薬」(自然薯)、「生姜」のように医食同源という点で、温かい「饂飩」は健康に良さそうです。寒い冬の饂飩は最高ですね。
赤芍 猪苓 葛根 丁子 半夏 大棗
白芍 甘草 当帰 黄芩 附子 地黄
川芎 人参 白芷 芍薬 牡丹 百合
杜仲 五味子 山薬 蒼朮 桂皮 紫蘇
紫根 乾姜 陳皮 生姜 煮干 饂飩
棐 厚朴 石膏 茴香 mon petit 蓮根
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[1] 漢字辞典オンライン https://kanji.jitenon.jp/kanjiy/12113.html
■追加情報
作家の杉野郁さんから、「Mon petit」は、キャットフードのメーカーの名前で、そこの抽斗には猫のおやつを入れているという設定と教えていただきました。猫さんが漢方棚で安眠するのも納得です。(2021年5月26日)