タイトル:眠れない夜の底で
作家 :杉野 郁
画廊 :八犬堂
展示会 :大場咲子・杉野郁・真鍋由伽子 三人展-平面と立体-
購入日 :2019年4月7日
サイズ :F3
技法画材:ミクストメディア
この作品で描かれている世界は、現実ではなく空想であることは疑いありません。7段以上の高さがある本棚の隣で眠るのは地震を考えれば危険です。白熱電球がむき出しになった電灯は寝室には適していません。しかし、多くの人はそのような違和感を持つことなく、「眠れない夜の底で」を見れば、少年少女時代を思い起こし、過ぎ去った時間の切なさと愛おしさに浸ることができるのではないでしょうか。
私はこの部屋は地下室のように感じました。元々は父の書斎であった部屋を、繊細な少女が眠れない夜に過ごすようになり、いつしかベッドまで用意されたという物語です。地下室といっても湿気の嫌な感じはなく、静寂に包まれ、時が止まったような海底にいるような心地よい場所です。少女は眠れない不安と同時に、明日が来ることを拒んでいるようにも感じます。彼女にとってこの空間は自分がもっとも落ち着ける場所なのでしょう。
絵画の感想は、鑑賞者が自由に述べれば良く、正解も間違いもありません。ただ、なぜそのように感じるのか、丹念に観察することでより一層絵画を楽しめことができます。この作品を構成するモチーフのうちもっともスペースを割いているのは、画面に収まりきらないほど高い本棚です。鑑賞者は、吸い込まれるように背表紙に何が書いてあるか目を凝らしてしまうでしょう。自分が知っている本を見つけると何故か嬉しくなります。実にバラエティに富んだ本が並べられていますね。「リア王」や「こころ」といった文学作品もあれば、「茶道辞典」や革装の百科事典、「かわいいおうち」や「おかしな家」といったお家にまつわるものも多いです。必ずしも子ども向けの本ばかりではありません。元々は少女の部屋ではなかったと推測できます。この少女は、沢山の本の中から自分でも読めそうなものを選んでいるのかもしれません。手にしている本は大きさから絵本か画集のように思われます。
書籍の並べ方も熟考されています。所々、本を横置きすることでアクセントをつけています。また、少女とは対角線に離れた場所に重厚感のある革装の本を置くことで、静寂感を増しています。白熱電球の左側は、山積みされた本と倒れ掛かる本がなんとか均衡を保っているものの今にも崩れそう。背景としての本棚ではなく、1冊1冊がちゃんと意味合いを持っていることを感じられます。書架に本ばかりを並べると絵画としては、単調になってしまうため、ドロップ缶、小さな植木鉢、コップ等の雑貨も描かれています。唐突にエッグスタンドまで登場するのが面白いですね。並んだ時計の時間が合ってないのも時間という概念を否定しているように思いませんか。雑貨は無造作に並べられているように大人は思えても、この子には「おまじない」のような思いがあるのかもしれません。
地下室のような空間に感じられるのは、窓やドアなど外部に繋がるものが描かれておらず、壁全体が書架であり、閉ざされた印象を与えるからでしょう。また、電球が吊るされたロープが長く天井を感じさせないこと、電球の光が部屋全体に届いていないことが「夜の底」という雰囲気を巧みに演出しています。白熱電球は、懐かしさを誘うだけではなく、狭い部屋にあっても明暗を自然に生み出し、海底と夜の暗さを同調させることで、鑑賞者を物理的かつ精神的な夜の世界に引き込む役割を果たしています。さらに、配色の気配りも見逃せません。書架の下段は、棚板の部分が電球に照らされるため明るくなりますが、反対に電球より上にある段は棚板に光が当たらず、本の下に暗い線ができています。これは私たちが現実の世界で目にする影と言えるでしょう。しかし、全てを自然界の法則に従って描いているわけではありません。影の写実性を高めれば、もっと黒になるはずです。ところが、この作品の影は、海中をイメージしやすい青系の微妙なグラデーションがつけられています。作品の世界観に相応しい色彩を選んでいることが覗えます。
ベッドの隅にクッションを重ねて背もたれをつくって、本を読む少女の姿は誰が見ても愛おしく感じるはず。本に目を落とす様は、少し眠たそうにも見えますが、そこかはとない不安が眠りを妨げているように見えます。クッションを並べてちょうど良い姿勢をつくりたいのは共感しますね。特に曲がったつま先が、微妙な心の内をほのめかしてます。パジャマも可愛らしいデザインであるだけでなく、寝巻き独特の生地感が伝わるよう筆致や色彩を工夫しているのも素敵です。
構図について深堀してみましょう。頭から足先、積み重ねた本、ベッドの上に置かれた一冊の本を線で結ぶとベッドを底辺に三角形が構成され、構図の安定感が増していることが分かりました。木目調のベッドは、無数の本が描かれた上段との対比することで、絵画に落ち着きが生まれます。絵の中に無地ではない余白を入れるわけです。そして、この安定感が海の底にいるかのような静寂に繋がっています。一見すると単純な構図に見えるかもしれません。じっくりと眺めてください。電球のロープの長さ、本棚の高さが、綿密に検討されていることに気が付くはずです。これらを長くすれば「底」であることは伝わりやすくなりますが、あまり長くすると不自然になってしまいます。また、少女と電球の距離は近すぎず、離れすぎず、微妙に灯りが届く適切な場所に描かれています。
白と赤のストライプのマットは大胆なデザインですが、派手さはなく、青系統の色が多い中で不思議なほど調和しています。ベッドの柄はこの作品のトレードマークと言っても良いでしょう。杉野さんはこの部屋のミニチュアを製作していますが、本棚だけではこの部屋とは判別できなくても、ベッドがあることで即座にこの絵画がモデルになっていることがわかりました。マットはぼかして描くことで、柔らかみを感じさせているのもポイントです。
技法はペン、水彩、色鉛筆を用いたいわゆるミクストメディアですが、それぞれの個性を上手くかけ合わせ、他の作家にはない雰囲気が醸し出されているのが特徴です。雲母の類も使われており、柔らかな光を感じることができます。最後に、杉野氏の作品はサインが工夫されているので是非着目してください。今回のサインは家の外観をシンプルにデザインしていますが、斜めの屋根は、電球の光や少女の姿勢と同じ傾きになっていて、余白にバランス良く配置されています。(2021年3月29日、2021年9月12日修正)