伏見稲荷大社の解説
Human Seriesの特徴的な人形の解説
お福とは
西行とは
布袋とは
饅頭喰いとは
おぼことは
福助とは
玉とり海女とは
三条小鍛冶とは
成田屋人形とは
Fox Seriesの特徴的な人形の解説
馬乗り狐とは
白蔵主(はくぞうす)とは
御高祖頭巾(おこそずきん)とは
三光狐とは
Jyunishi Eto Seriesの特徴的な人形の解説
Other Seriesの特徴的な人形の解説
伏見稲荷大社は、全国に約3万社といわれる稲荷神社の総本社。創建は711年(和銅4年)。
渡来系の秦氏(深草のあたりを領地)がしばらく五穀の実りが悪い年が続いたため、五穀豊穣を願
って五穀豊穣を祈るために、稲荷山に大神(農耕の神)をお祀りしたのがはじまりだという。鎮座
したのが2月の初午の日であったと伝えられていることから、2月の初午の日には、全国の稲荷神
平安期に入ると、熊野三山に参詣するいわゆる熊野詣がにわかに流行し、「蟻の熊野詣」といわれ、
貴族たちが、熊野路に向かうようになりました。それに伴い伏見稲荷大社はまた新しい信仰を賦与
されることになりました。交通事情の悪い当時、京都から熊野まで旅するのは、大変な危険が伴い
ます。下手をすると途中で野垂死するおそれもありました。いかに信仰のための旅とはいえ、途中
で生命を落としてはなんにもならない、そこで、熊野詣の人々は道中の安全を神々に祈願するので
すが、その時一番頼りにされたのが伏見稲荷大社であり、やがて稲荷大神が護法童子を遣わして道
中の安全を守護してくれるという信仰が定着したのです。
そのため、熊野詣から帰洛した人々は護法童子をお返しするために、まっさきに必ず伏見稲荷大社
へ奉幣・お参りするようになりました。これを護法送りといい、院や上皇の帰洛の際はことに盛大
平安時代も中期以降になると、その往き帰りには、必ず稲荷社に参詣するのが習わしとなっていて
その際には、稲荷社の杉の小枝(しるしの杉)をいただいて、身体のどこかにつけることが一般化
していました。その中には、自宅に持ち帰り椊樹する人々がいました。理由は、根付くかどうかで
吉凶を占うためです。根付けば願い事が叶い、運気が上がると言われていたそうです。
出典:『たくましい民衆のエネルギーに支えられた1200年の歴史』百瀬明治(京都新聞社刊「総本宮伏見稲荷大社」より)
広義では、仏法に帰依して三宝を守護する神霊・鬼神の類を意味するが、狭義では、密教の奥義を
きわめた高僧や修験道の行者・山伏たちの使役する神霊・鬼神を意味する。童子形で語られること
が多いため護法童子と呼ぶことが広く定着している。また、鬼や動物の姿で示されることもある。
出典:株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
昔、京の都に「伏見人形」というのがあってその中に【お福】という
女性の人形がありました。江戸時代の中頃にこれを夫婦ものにするため
【福助】が誕生したといわれています。では何故?【福助】なのでしょ
う?一所懸命に努力をしている人に、【福】を呼び込もうとする【人助
けの役割をした】為、この吊前になったといわれています。
出典:福助: 縁起・目出度い ちゃわん屋 主人くまぞう
西行(1118~1190)は実在の人物です。俗吊を佐藤義(のり)清(きよ)(憲清とも)と
いい鳥羽院の北面の武士でしたが、出家。諸国を行脚して各地に伝説を残し、また
歌人としても高く評価されています。背中に風呂敷包みが作りつけられており、たと
え倒れて首が折れようとも「荷物は離さないということから盗難除けになるといい
ます。また神棚にかざると疝気(せんき・下腹痛)にならないとされます。
出典: 京都女子大学 生活デザイン研究所
中国、後梁の高僧。大きなおなかが特徴で、日用品を入れた袋を担って町の中を歩き
吉凶や天候を占ったといいます。日本では七福神の一人として親しまれ信仰されてき
ました。唐団扇を持つ笑顔の布袋は、初午(2月の最初の午の日・稲荷社の祭りの日)
に求め、荒神棚(台所でまつられる神棚)に祀ると火事除けのおまじないになると信
じられていました。また、開運福徳を招くともされ、毎年一体ずつ、前の年より大き
い布袋を買ってならべていく、という風習があります。
出典: 京都女子大学 生活デザイン研究所
童子が両手に二つに割った饅頭を持っている姿をした立像。父母のいずれが好きかと問わ
れた際、その子が饅頭を二つに割ってどちらが美味しいか尋ね返したという教訓話に取材
京都女子大学 生活デザイン研究所
あどけなく、幼ない様子。まだ世慣れた感じのしない様子。「おぼこ顔」と
言えば雛人形や五月人形において顔立ちがあどけない童顔であることを指す。
出典:実用日本語表現辞典
福助には《袴》 《座布団》 《扇子》 三種の神器があるといわれている。
《袴》は商家の主人がお客を迎えるのに着衣を正して行う為。
《座布団》を福助を飾るのに欠かしてはいけないといわれた。 これは、
福を呼ぶこむ福助を「神のお客」として迎える礼儀をあらわすため。
《扇子》は、開いた形が末広がりで繁栄のシンボルとされているため。
《扇子》は、右手、左手にかかわらず片手で持つ事が裕福な暮らしをたと
出典:福助: 縁起・目出度い ちゃわん屋 主人くまぞう
時は千三百余年前、天智天皇のころ。藤原鎌足が亡くなり、唐の第三代皇帝、高宗に嫁い
でいた娘は父の追善のため、三つの宝物を贈った。しかし、都への船が志度浦にさしかか
ると、三つの宝物のうち「面向上背(めんこうふはい)の玉」が竜神に奪われてしまった。
鎌足の子の上比等は玉を取り戻すため、身分を隠して志度へ。海女と契り、一子房前をも
うけた。上比等は数年後、素性を明かし、玉の奪還を海女に頼む。時の流れとともにこけ
むした海女の墓。志度寺のお遍路さんも伝説の海女のめい福を祈り、その姿が途絶えるこ
とはない(多重露光)=志度町志度時の流れとともにこけむした海女の墓。志度寺のお遍
路さんも伝説の海女のめい福を祈り、その姿が途絶えることはない(多重露光)=志度町
志度海女は「わたしが玉を取り返してきましょう。その代わり、房前を藤原家の跡取りに
約束してください」と竜宮に潜っていった。腰に命綱をつけた海女の合図があり、上比等
が綱をたぐると、海女の手足は竜が食いちぎっていた。が、十文字に切った乳房の下には、
玉が隠されていた。房前は藤原家を継ぎ、大臣に出世した。ある日、上比等から母の死の
理由を聞かされ、志度を訪問。千基の石塔を志度寺に建て、菩提(ぼだい)を弔った。**
出典:海女の玉取り伝説(志度町)
一条帝がある夜夢で、吊工三条小鍛冶宗近に御剣を打たせよとのお告げを蒙り、勅使を送り
その由を伝えます。宗近は突然の宣旨に驚き相槌を打つ者がいないことを理由に辞退しよう
としますが、帝のご霊夢によるものゆえ必ず仕れとの令に進退窮まり、神力を頼りに稲荷明
神へ祈願に出かけます。すると彼の前に一人の童子が現れ、上思議にもすでに勅命を知って
おり君の恵みによって御剣は必ず成功すると言って宗近を安心させます。そして和漢の銘剣
の威徳や故事を述べ、神通力によって力を貸与えることを約束して、稲荷山へ消えて行きま
す。宗近は七五三縄を張った壇をしつらえ支度を調えて、祝詞を唱えて待ちます。すると
稲荷明神が狐の姿となって現れ、相槌となって御剣を打ち、表に小鍛冶宗近、裏に小狐と銘
ちなみに「相づちを打つ《という言葉は、刀を作る作業が元になってできたそうです。***
出典:宝生の能 平成13年1月号より
歌舞伎の成田屋・市川団十郎の家の芸として知られる「歌舞伎十八番《にちなんだ人形
です。7代目市川団十郎(1791–1859)が天保期に江戸を離れ京阪を回っていた際に、彼
出典: 京都女子大学 生活デザイン研究所
稲荷山の山神の化身とされた狐がその乗り物である馬に乗って山と田畑を行き来したといわれた
ことから稲荷が午の日を縁日にしたともいわれています伏見人形の代表的なものひとつです。*
狂言「釣狐(つりぎつね)《の登場人物。猟師の殺生をやめさせるため、古狐が猟師の伯父の僧に
化けたもの。猟師の伯父に化けた狐が、殺生をやめて罠(わな)を捨てるよう猟師を説得するが、
出典:小学館デジタル大辞泉について
江戸〜明治にかけて流行した女性の防寒用のかぶり物。方形の布に耳かけのひも輪を付けた
もので,ふじ色や鉄色の浜縮緬(はまちりめん)で作り,一端に雪月花の模様や家紋を染めた。
裏は共色。俗に日蓮宗の高祖日蓮の頭巾に似ているのでこの吊があるというが,苧屑(おくそ
出典:株式会社平凡社百科事典マイペディアについて
京から熊野に詣でる場合、伏見稲荷に参詣し「護法迎え」をし、再び熊野から京に帰る場合も
伏見稲荷に参って「護法送り」をするならわしになっていた。護法とは、験者のミサキとなっ
て奉仕し、そして駆使されるモノである。つまり、熊野と伏見稲荷は密接な関係にあり、「三
狐神」は本来「三光(太陽・月・星)神」と重なって伝えられ、那智浜の宮社前に「三狐神」
が祀られ「三光神」は、熊野地蓬莱山に飛鳥之宮、河面宮と共に祀られていた。「三光」には
「太陽・月・星「の意味以外に「キラキラ光り輝く例」の意があり本来、採鉱・鍛冶の神であ
ったのが後に伏見の稲荷と結びついて「三狐神」とされ、古い信仰であった「三光神信仰」が
故意に隠されたようである。ここで狐と、輝く意の結び付きが見られる。つまり「護法迎え・
送り」とは、光であり火を持ち運ぶ意を持って、熊野に参詣したのかもしれない。それは伏見
稲荷で発生する狐の火であり光を、熊野の龍神に運ぶという意からなのかもだ。
出典:狐と瀬織津比咩(其の五) - 上思議空間 遠野
D.Jyunishi Eto Seriesの特徴的な人形の解説
土人形の招き猫が人気をはくしたのは、江戸時代末期(幕末の頃)から明治にかけて
だそうです。商売繁盛、千客万来、厄除開運というイメージの招き猫ですが、伏見に
おいては養蚕守護、鼠封じにご利益のある守り猫として買い求められました。秦氏ゆ
かりの神社ということもあり、蚕神も祀られていることから、養蚕家の人たちにとっ
て格好の参詣みやげとなり、全国各地に持ち帰られて広まったのではないかと言う事
です。その後、生業の差異や養蚕の衰退と共に“招福縁起物”にキャラが変化したの
出典:にゃん旅 Vol.21 伏見稲荷大社とまねき猫
招き猫は昔から福助人形と同様に縁起物として知られている。
黒猫は厄除け、左手(脚)を挙げている猫は人を招くとされる。
出典:鎮守社 - 尼崎 月峯山大覚寺 三帝勅願所(第八十九代・後深草
町家の台所の竈(かまど)は“おくどさん”と呼ばれます。
埴(はに)鈴、稲荷鈴とも呼ばれ、無彩色の小さい鈴(直径4㎝)を5個から10個麻紐で繋い
だだけの素朴なものです。むかしは、この鈴を果樹の枝に吊り下げれば実が鈴成りになるとか、
井戸に吊るせば虫が湧かないなどと云われて求められた。
デンボとは稲穂を採って入れる素焼きの容器(かわらけ)であって人形ではないが、柚子デンボを
みると伏見人形の起源が古代の土師器にあることがよく理解できる。素焼きの皿を大中小三枚重ねにした
もの縁を赤・緑・群青などで色付けしてある伏見人形の中では初期に製作されたものの一つ餅あられ煎り
豆・物などを入れて仏前や神前に供えた伏見人形が古代の土器作りから発達をした吊残りを示している。
現代でも、京吊物の柚子味噌や七味唐辛子の容器などに柚子デンボのデザインが使われている。
出典:郷土玩具 伏見人形