アルバム「14番目の月」1976年11月発売 ユーミンの4枚目のアルバムである。なぜこのアルバムを最初に紹介するかというと、自分にとってユーミンのアルバムでは最初に買ったアルバムだったから。大学に入り最も聴いていたレコードと言える。この年ユーミンは松任谷正隆氏と結婚し、1年間のブランクを置いて78年に松任谷由実として復活するわけだが。このアルバムはファースト(ひこうき雲)セカンド(ミスリム)の文学少女的な世界?(どう表現して良いか分からないが、彼女特有の感受性から成り立つ世界ともいえば良いか?)から3枚目のポップな音楽へ、、そしてこのアルバムは、その両方が混在していると思う。このアルバム全体的に明るい印象だ。最初の「さざ波」や「天気雨」が大好きな曲だが、最後の「晩夏『ひとりの季節」は毎年夏の終わりに聴いてはセンチメンタルな気分に浸る。この曲、最初に聞いたのは高校の時にNHKの連続ドラマの最後にかかっていた曲だった。そのドラマの舞台が北海道で、広大な大自然とこの曲が自分に北海道への憧れとして積み上げられていったんだと思う。
ユーミンのデビューから時系列で追ってみる。ユーミンは1954年生まれがから、自分より4つお姉さんということになる。中学生の時から作曲していたというから早熟だったに違いない。本人は作曲の創作活動はするとしても歌には自信がなく、自分が歌うことは考えていなかったようだ。しかし、ユーミンのデモテープを聴いたアルファミュージックを設立した村井邦彦がその才能を見抜き、1972年シングル「返事はいらない」でデビュー。このシングルはかまやつひろしがプロデュースしたが、まだデビューもしていない少女のような音楽家はしっかり自分の意見を主張し、かまやつさんを困らせるという場面もあったようだ。しかし、このシングルは数百枚しか売れなかったという。当時、多摩美に入学していたが音楽活動との両立は大変なことだったようだ。 ひこうき雲」1973年11月発売 このシングルの失敗にもめげず、村井邦彦はアルバム作成のゴーサインをだす。レコーディングは当時、細野晴臣が結成したティンパンアレイがバックのメンバーとして参加このメンバーの中にのちに結婚する松任谷正隆がいたわけである。レコーディングはオケは順調だったが、ボーカルが難関だった。何度歌ってもOKが出ないのである。レコーディングはかなり長引き、アルファの村井邦彦は、とことんやって良いという指示を出す。彼女の才能を信じていたのだ。しかし、このアルバムも次の「ミスリム」(1974年10月発売)も商業的には成功しなかった。特にライブはひどかったようだ。チケットが売れなくて友人知人を動員してなんとか開くことができる状況で、ユーミンの繊細な歌に対するクレームも多かったようだ。デビューまもないライブで5曲歌う予定が1曲目の「ひこうき雲」の途中で歌えなくなり、後の4曲はインストのみの演奏だったという。その間ユーミンは泣きじゃくってたという逸話には、こちらが泣かされる。そんな不遇な時代を通り越し、3枚目のアルバム「COBALT HOUR」(1975年6月発売)はポップな路線で曲作りをしていく。この年「あの日にかえりたい」のシングルがヒットし、ようやくユーミンがブレイクし同時にアルバムも遡って売れていくことになる。4枚目の「14番目の月」が発売されその年の暮、ユーミンは結婚し引退するつもりだったようだ。しかし1978年にはニューアルバムをリリースし音楽活動を再開させている。
1979年(自分は大学2年)「OLIVE」
1980年(大3)「時のないホテル」
1980年「サーフ&スノー」
以上が大学時代に買ったユーミンのアルバムで、どのアルバムも懐かしい。好きな曲が目白押しだが、特に教育実習期間に聴いていた「時のないホテル」は当時のことが蘇る。「サーフ&スノー」確か正月親戚のある豊橋のレコード屋でキースジャレットの「ケルンコンサート」と一緒に買い、その時に店員さんから「素晴らしいチョイスですね」と褒められた覚えがある。