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石炭の街から…
石炭の街から…
常盤湖が築堤される前から、ときわ公園の周辺では石炭が採掘されていた跡が残っており、宇部炭鉱発祥の地となっています。人力で採掘していた竪穴のことを炭生(たぶ)と呼び、ときわ公園周遊園路、彫刻作品「wind whisper」や「掘ることは生きること、生きることは掘ること」の付近にある、中山炭生跡には約30ヶ所の炭生跡が確認されています。そのうち1ヶ所については埋め戻さず、その様子を保存しています。
昭和42年に宇部炭鉱はすべて閉山し、機械・化学工業へ注力していくことになります。昭和44年に、炭鉱の歴史を後世に伝えるため、日本で初めての石炭記念館が開館しました。館内では、当時の坑道や炭鉱住宅が再現され、屋外には機械類が展示されています。また、当時使われていた竪坑櫓を移設し、展望台として使用しています。展望台は宇部有数のビュースポットで常盤湖はもちろん、空港や瀬戸内海が見渡せます。
明治から昭和にかけて石炭で栄えた宇部でしたが、昭和30年代からのエネルギー革命の影響もあり、昭和42年にすべての炭鉱を閉山します。宇部で最も大きかった沖ノ山炭鉱の創始者、渡邊祐策(わたなべすけさく)は、まだ石炭で栄えていたころから「石炭は有限の資源。掘り尽くせば子孫の代には何もなくなる。有限の鉱業から無限の工業へ」と、鉄工所、紡績所、セメント工場、宇部電気鉄道(現在の小野田線)などを次々と起業し、後にこれらが合併して、宇部興産(現・株式会社UBE)となりました。
昭和17年に設立された宇部興産株式会社は、化学・機械分野を中心に宇部市の経済を牽引してきました。セメント製造においても日本有数の大手で、生産拠点である宇部と美祢市伊佐をつなぐ全長28kmの専用道路は日本一長い私道として知られます(現在、セメント事業は分社化し、UBE三菱セメント社に引き継がれています)。また、グローバル化に合わせて、社名は2022年に宇部興産から株式会社UBEへと変わっています。
渡邊は教育機関、道路、上水道、港湾といった社会インフラの整備にも尽力し、常盤湖周辺の土地を買い上げて寄進したことが、ときわ公園ができるきっかけにもなりました。宇部村から一気に宇部市へ昇格するほど発展した背景には、渡辺翁ばかりでなく、その周囲や市井の人々の積極的な寄進や協力もあってこそだと伝えられています。宇部新川駅近くにある、渡辺翁記念会館は、その功績を称えて昭和12年に建設されました。村野藤吾の初期建築としても知られ、旧宇部銀行舘と共に、戦火での焼失を免れた数少ない建物のひとつでもあります。