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ときわ公園
ときわ公園
関ヶ原の戦いで敗れ、領地を大きく減らされた毛利氏。その家老の福原氏は現在の山口市のあたりから、当時、水がなく満足に稲作もできない寒村であった宇部へと領地替えとなりました。領民からの嘆願のもと、福原氏を中心として、元禄8年(1695年)に築堤、通水し、人造湖として完成したのは元禄14年(1698年)のことです。当初、常盤湖に流れ込む川はなく、北側の黒岩山一帯への降水を溜めていました。
常盤湖ができる前から手堀りで石炭を採掘していた跡が、常盤湖畔にも残っていますが、明治時代より盛んになった宇部炭田は海底炭田が主となっていました。この頃、常盤湖の見晴らしのよいところは、地元有力者の私有地になっていて、料亭などで賑わい、一般市民は入場料を払っていました。これらの土地を渡邊祐策が買い取り、宇部市に寄進したのをきっかけに、周囲住民の協力のもと整備が進められ、ときわ公園として市民に開放されることになりました。周遊園路ができたのは平成になってから。そして、2025年はときわ公園誕生からちょうど100周年となります。
昭和31年(1956)年にオランダよりコブハクチョウを譲り受け、継代飼育に成功したことにより、数百羽のハクチョウが常盤湖を泳ぐようになりました。全国の動物園へ移譲を行い、一時期は国内のコブハクチョウはすべてときわ公園の子孫といわれるときもあったくらいです。しかし2011年、鳥インフルエンザの影響でときわ公園のハクチョウはすべて殺処分されることになります。2017年よりハクチョウの飼育を再開し、現在は夏季のみ、ハクチョウを常盤湖に放しています。
ときわ公園では、昭和42年(1967年)よりペリカンを飼育しています。昔はペリカンが自由に飛んでいけるようになっており、人工飼育で育てられ、人慣れした「カッタ君」は近所の幼稚園に毎日遊びに出かけていくようになりました。その様子がニュースで放送され、全国的に人気者になり、ついには映画化(「カッタ君物語」)。街のあちこちにその名残りをうかがうことができます。鳥インフルの影響後、ペリカン島は周囲にネットがかぶせられ、遠くに飛んでいくことができなくなっています。
産業の発展とともに、かんがい用のほか、工業用水としても使用することになり、8km離れた厚東川から汲み上げた水を引いてくる常盤用水路が昭和18年に完成しました。この用水路ができる前は水不足で干上がることも度々あり、干上がった際に池の中から行方不明になっていたお地蔵様の胴体が見つかりました。これがときわ正面入口の少し西側にある「飛上り地蔵尊」です。