※いじめや暴行などの表現がございます。苦手な方はご注意ください。
ユスティア国内最大のサーカスである「トランプサーカス団」。シレネとコロン……これは当時まだその名前を持っていなかったころの話だ。
「待っててね」と笑いかけ、去っていった母はついに日が暮れても戻っては来なかった。楽しかったサーカスのショーとは裏腹に、凍てつくような冬の寒さが皮膚に張り付いたことを、コロンは今でも覚えている。その寒さの中でも同じように冷え切った兄の手だけが、コロンにとっての安堵だった。
そしてトランプサーカス団団長であるトランプ=ピッチェは、ちょうど空きのあったJokerの席に就くことを条件にその兄弟を引き取ったのだ。
赤と黒がモチーフカラーとされていたサーカスの中で金色と黒色、金色と白色の衣装を纏うJokerたちの存在はよく目立った。悪くいえば異端な存在として扱われた。
トランプの中でも重要な役割を持つJokerの訓練は厳しく、当時5歳と4歳だった子どもであろうと泣き言が許されない日々が続いた。
シレネは母親に捨てられたことや厳しい訓練に対し、まったくもって不満を感じることはなかったが、コロンはそうもいかず、就寝中に粗相をしてしまったり、癇癪を起こしたり、訓練中に動けなくなってしまうことも多々あった。
それでもそのサーカス団に席を置いていられたのは、兄の存在……それから新たな友人、スペレイがいたからだ。
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入団して間もなく、黒ジョーカー(シレネ)と白ジョーカー(コロンバイン)には訓練期間が与えられた。“黒”や“白”もしくは”ジョーカー”という呼ばれ方にも次第に慣れていった頃……訓練以外の時間を見つけては、スペレイ・黒・白の3人で練習に励んでいた。
「白の手の取り方だと、多分そのうち黒が怪我しちゃうから……えっとね、僕の見てて」
スペレイは他の団員に劣らないほどの技量の持ち主だった。しかし生まれた時からサーカス団にいたにも関わらず、未だショーに立ったことはなく、その日を夢見て訓練に励んでいた。
スペレイは空中ブランコを手に取り、宙を駆け抜ける。その様子は綺麗で無駄がない。黒の手をとって、また次のブランコへと移動したかと思うと、さらに高く舞い上がり、次の瞬間にはブランコのバーの上に立つスペレイの姿があった。右手側のブランコのロープだけを持って外側へくるんと身体を回し、左腕を広げてポーズをとると、少しだけ口角をあげて兄弟へ視線を向ける。
「こう!」
「……わかんないよ」
口で説明することが苦手なスペレイは実際にやって見せるが、白の目には自分の動きと何が違うのかさっぱり理解できず頬を膨らませる。すると黒は少し考え込んだあと、身体と言葉を使いながら白へ説明を施した。
「スペレイが飛ぶときは重さがこっち、ジョーカーのときはこっちにあるんだよ。そーすると僕が手を取るときにスペレイのときよりジョーカーのときの方が重くなっちゃうから……そのうち僕が怪我しちゃうかもってこと。スペレイに比べると、ジョーカーの方が足を前に持っていくのが遅いから、もうちょっと早く足を前に持ってってみればいいんじゃないな」
「……やってみる」
スペレイがやるように、黒が言うように、白は何度も何度も練習を繰り返した。スペレイはあまり感情表現をする方ではなかったが、彼らにできることが増えていくたび、自分のことのように喜んだ。まだショーに立ったことがない白にとって、訓練の日々はただただ苦痛であったが、それでも全てを諦めずに黒の手を取れたのは、それが白にとってなによりの生きる理由だったからだ。
2人は驚くようなスピードで成長していき、入団して1年ほどが経つ頃に初めての公演の日がやってきた。その日はスペレイにとっても、初舞台だった。ショーの技術に関してはまだまだ他の団員には劣っていたが、瓜二つで容姿端麗な2人の幼い少年はたちまちファンの間で話題になっていった。
「長いこと席が空いてたJoker、新しく入ったんだってね!ショー見た?」
「見た見た!私ポストカードも買っちゃった!」
「幼いわりに危ないことするんだな、感心したよ」
「技術としてはまだまだだな、成長する前に命落とすんじゃないか?あれじゃあ」
スペレイへの声はJokerの登場でかき消されてしまったが、それでも彼にとって2人の成功が何よりも嬉しかった。
様々な意見が飛び交いながらも、その多くは明るいものであった。今までは苦痛でしかなかった訓練もやがて意味があるものに変わっていき、白は黒と作り上げるショーを心から楽しむようになっていた。
しかしJokerへの声援が大きくなると比例して、団員からの反感もまたどんどんと大きくなっていく。黒は自分たちの成績に不満を抱く団員を面白がり、白は団員からなにか言われればすぐに黒の側へと駆け寄って、敵を睨みつけるような表情を向けていた。
そして、元々彼らを特によく思っていないスペードチームに属していたスペレイは、周りの空気に飲まれ、彼らと共にいる時間が次第になくなっていってしまった。
黒はもちろんそれに対して何の感情も抱かなかったが、白は少しの寂しさを感じていた。それでも、黒が隣にいる限りは白が絶望することはなかった。
入団して4年が経った頃、ついにジョーカーが人気No.1、No.2の座に輝いた。ジョーカーへのいじめがわかりやすく悪化したのは、ここからのことだ。ほとんどの団員からは「無視」や「情報共有の遮断」などの陰湿なものを受けていた。しかし、スペードチームの団員からはそれらとは比にならないような危害を彼らに加えていた。
ガシャン!!と大きな音が響いたかと思うと、女の子の喚き声が鼓膜を劈いた。
「ありえないありえないありえない!!!!なんで!!なんでコイツがディンのお仕事とっちゃうの!!!??」
スペードチーム5番のディンクは手元にあったジャグリング用のクラブを白のジョーカーへと投げつけた。それだけでは気が収まらず、手に掴んだものを周りの被害など一切考えずに泣き叫びながら投げ続ける。スペードチーム8番エディは声をあげて笑いながら、その様子を囃し立てていた。逆にディンクの実の姉・兄であるクイーンとキングは彼女の気を収めようと、声を掛け続け、その場は混沌とした空気が流れる。それは特段珍しいことではなかった。
ディンクはトランプサーカス団の中で最もトランポリンの技術が優れている団員だった。スペード公演の際には、トランポリンの時間配分を少し長めにとり、ディンク以外のスペード団員は彼女のトランポリンを際立たせるバックグラウンドのような役割を担うこともあった。今回はショーのモチーフの関係上、トランポリンは2人で演じる必要があったが、ディンクの技術についていけるのはジョーカーのどちらかのみであったが故に、団長はいっそのこと今回のトランポリンの主役にジョーカーの2人を当ててしまったのだ。もちろん、ディンクのトランポリンを見に来ている観客も多く存在する。きちんとディンクの見せ場も作られてはいたが、自分の誇りを奪われたような感覚にディンクは癇癪を起こし、ぎゃあぎゃあと泣きながら誰彼構わず八つ当たりを始めたのだ。
「死んじゃえ!!さっさと死ね!!!わああああああ」
クラブを投げつけられたところがジンジンと痛む。黒は呆れたように投げつけられたクラブを手に取ると2、3回自分の手元でくるくると投げ遊んだあと、それをディンクへと強く投げ返した。しかし彼女の兄であるキングがそれを受け止め、妹へ危害を加えようとした黒へ強い敵意の表情を向ける。その表情を見て黒はくつくつと笑うとディンクへ煽情的な言葉を口にする。
「アンタにはトランポリンしかないもんねぇ。僕は別にこんな役要らないんだけどさぁ……なんていうか~……とっちゃってごめんね?」
一瞬訪れた静寂。次の瞬間、ディンクの瞳孔がカッと開き、再度叫喚の声が響く。手の付けられない光景に白は黒の袖を引き「ジョーカーやめようよ」と仕返しを恐れたが、黒がそれを聞き入れることはなかった。
「アンタらぜーーんぶ負けてんだよ!実力も、才能も、努力も覚悟も!あははっ、本気で僕に勝てると思ってんなら傑作だね!」
黒はまだ幼い身体であろうと、仕返しだけは欠かさなかった。一回り以上も年の離れたAのペイズが彼に暴行を加えようとも、黒は煽り口調を止めない。次第にスペード団員は黒へ危害を加えることを控えるようになり、不満の矛先は白へと向き始めた。白もやり返しこそはしなかったが、従順ではない。その態度がスペードたちには一層気に入らず、いじめはどんどんエスカレートしていく。やがて、命に関わるような”悪戯”が白の回りに張り巡らされるようになっていった。
物を隠されたり、壊されるのは日常茶飯事。罵倒や無視、暴行や恥辱。白になら何をしてもいいという雰囲気が、彼の人権をどんどん奪っていった。
白へのいじめがエスカレートしていっても、黒は団員を煽ることをやめず、白を助けたりはしなかった。
トランプサーカス団の団長であるトランプ=ピッチェはその現状を把握しておきながら、根本的な解決を図ることはなかった。一時的に団員たちを窘めては、どちらかといえば現状を悪化させるだけ。トランプサーカス団に入団してから、人に頼ることが出来なくなっていた白は、黒にさえ「助けて」と言えなかった。唯一の救いである黒に「助けて」と言って、助けてもらえなかったら、いよいよ絶望するしかないからだ。
(大丈夫、大丈夫……大丈夫…………)
白はいつも心の中でそう言い聞かせながら、何度もその場を乗り切った。
トランプサーカス団では、クラブが春、ダイヤが夏、ハートが秋、スペードが冬というようにスートごとに公演する季節が決まっていた。しかしJokerだけは全てのシーズンで活躍することもあり、人気が集まりやすかった。TOPをとってから一度もそれを他へ譲ることはなく、白にとって2人で並ぶTOPこそが現状を耐え抜く唯一の光となっていた。白の中でいつの間にか黒とショーに立つことが何よりも優先されるべきことになっていたのだ。
「あ!ジョーカー!!ジョーカーだ~~!サインちょうだい!」
「あははっやーだね!」
「黒ジョーカーってばいつも意地悪!ねぇねぇ白ジョーカー!サインちょうだいよ!」
「うん……いいよ、トランプ持ってる?」
「ハイ!これ!」
サーカスの公演後に暇があればジョーカーたちは表に出てファンと交流をとった。白はその時間を作ることで、多くの人間に愛されていると実感できるのが嬉しかったのだ。
白の中で母親に捨てられたという事実はいつまで経っても簡単に癒えるものではなく、そうやって他者から向けられる愛情を渇望していた。
本当は何よりも黒からそれを注がれることを望んでいたが、黒からの愛情を確かめる勇気はなかった。
「ほら、セルヴィ、ジョーカー大好きだって言ってたじゃない。全く……、緊張しちゃって」
「……」
小さな青髪の少女は緊張で表情を強張らせていたが、その目には確かに憧れが宿っていた。白は困ったようにその少女に目線を合わせ、優しく微笑む。
「あ……えっと、今日のショー見に来てくれたの?」
「!……」
話しかけられた少女は焦ったように母親の後ろに逃げていくと、その場でパタパタと足踏みをした。その子の母親はその様子をみて呆れたように笑う。その時の母親の暖かい目には見覚えがあった。自分を捨てた母親もかつては同じ目をしていた。喉の奥に風船が膨れ上がるような感覚に襲われ、白の表情は暗くなる。そんな白を見て、少女の母親は少し焦った口ぶりで付け足した。
「ジョーカー、ごめんね。この子ってば本当にあなたのことが大好きなのよ。家では何回も何回もあなたたちのショーを見てるんだから」
「!……そうなんだ、嬉しい。これからも頑張るね」
ジョーカーたちはまだ11歳と10歳という年齢だったが、大人も顔負けなパフォーマンス技術と、生意気な黒とそれに乗じる白という双子のようなキャラクター性は老若男女問わず多くのファンに愛されていた。やがて、2人はサーカスの顔のような存在になっていった。
=
そして、2人がTOPに立って4回目のスペードシーズン。
スペードチームの公演は最もジョーカーの魅力が引き立つと言われ、非常に人気だった。何事もなく公演が続き、ついに最終月に突入したある日、黒は白へとある提案をした。
「ねぇジョーカー。今日、役交換しない?」
黒はそう言って自身の衣装が掛かったハンガーを差し出してくる。特別不思議なことではなかった。黒は時折「この役回りに飽きた」と言ってショーの役割の交代を提案してくることがあったのだ。その日もそんな気まぐれだろうと白はその提案を受け入れた。
(自信がないときは嫌なんだけど……今のショーなら大丈夫かな)
調子が悪い日や、自信がないときは「まだ自信がない」といえば、黒は大概聞き入れていた。黒は白になにかを強要することなどはほとんどなかった。足を引っ張っても、お願いを拒んでも、黒は怒らない。黒が強い感情を向けてこなかったからこそ、白は「助けて」の一言がどうしても言えなかった。
トランプサーカス団はその日も満員御礼。ざわざわとショーを楽しみにする観客の浮足立った声が耳に届く。
(黒の服着てるだけで団員たちが何もしてこなくて楽だな……)
誰にも気が付かれないわけではないが、後ろから突然付き飛ばされることはないし、耳障りな声を浴びることもない。ただ自分の格好で黒が何かをやらかしていないかというのは、多少不安ではあったけれど……。
「ジョーカー」
「!」
突然話しかけられて、心臓が飛び出そうなほどに強く波打つ。振り返ると、そこにはかつて友達として練習を繰り返した、スペレイの姿があった。すっかり関わることは無くなってしまったけれど、白は唯一スペレイだけは恨んだり憎んだりしていなかった。スペードたちが暴行や恥辱を浴びせてくる間、スペレイが罪悪感でいっぱいの顔をして目を逸らすのを、白は「仕方がない」と割り切っていたのだ。白にとってスペレイが一番ではないのと同じように、スペレイにとっても白が一番ではないというだけだと。優しく真面目な彼が現状に心を痛めていることは、いやでもわかった。
「この間のことなんだけど……今日……ショーが終わったら、少し時間ちょうだい……」
(この間……?何の話……?……あぁそっか、黒と勘違いしてるのか……。……黒と何の話をしたんだろう……)
緊張した面持ちで少し目線を下げているせいで、スペレイは兄弟が入れ替わっていることに気が付いていない様子だった。「黒じゃないよ」と告げようとした瞬間、スペレイは他の団員に呼ばれ「じゃあ……よろしく」と一方的に言葉を投げ、タタタとスペード団員の元へと駆けていく。間もなくして黒と合流し、そのことを告げると黒は「あぁ……」と少しだけ笑っていた。
「何の話なの?」
「ジョーカーには関係ないよ」
「……」
白が尋ねても、黒は適当に誤魔化した。それに対し、わかりやすく不満げな表情をすると黒はケタケタと笑って白の頭を撫でた。
「そんな顔しないでよ。大した話じゃないからさ」
こう言う彼に何を言おうと教えちゃくれないとわかっていた白は大人しく引き下がった。
いよいよ開幕だ。辺りは暗くなり舞台にスポットライトが当たる。
トランプ団長の真っ白な髪と肌が照らされると、観客は「待っていました」と言わんばかりに黄色い歓声を上げ、指笛を鳴らし手を叩いた。
出番まではショーの流れやお客さんの空気感などを読み取るのが2人のルーティンだった。いつもならその時間はお互いずっと黙ったまま、集中している。
しかし、珍しく黒は白へと話しかけた。
「ジョーカー、サーカス嫌い?」
「え……」
全く黒らしくない質問だった。黒は心象把握に長けており、大概の白の感情は見透かしていた。何をされると嫌なのか、何をしてほしいのか、悲しいのか、怒っているのか、楽しいのか、そういった感情を読み取るのが上手かった。だから、そんなことを聞かれるだなんて思ってもいなかったのだ。
そして、その問いに白は上手く答えられなかった。
「……ショー自体は……好きだと、思う」
「ふーん」
「……?」
そこからはいつも通り黙り込んで、ショーの流れを見ていた。白はなんだか不安になり、ちらりと黒の手に視線を向けた。黒はその視線に気が付いたのか、いつもより少し早くスッと手を差し出してくる。この瞬間が何よりも好きだった。手袋越しに感じる手の暖かさが、舞台裏の寒さを和らげた。
いよいよ出番がやってきて、2人は手を握ったまま舞台の一番高いトランポリンへと飛び乗る。そこから高台に飛び乗って手を広げると、今日一番の歓声と拍手がテント内に響いた。
彼らに恐怖はなかった。白はショーに命を懸けていたし、黒はそもそも命を落とすことに恐怖など感じなかった。そんな2人だったからこそ、観客たちはJokerの登場に歓喜した。
首が締まるようなエアリアルアクト、輪刀を使ったジャグリング、トランポリンと空中ブランコのコラボ技、戦うようなアクロバット……それらを命綱なしでJoker兄弟は華麗にやってのけた。
ついにショーはクライマックスを迎える。綱渡りのロープの上に立つ2人。盛り上がっていた観客席はシンとなり、全員が手に汗を握り固唾をのんだ。
損傷によりロープがバチンッと切れ、ジョーカーたちの身体はふわりと宙を舞う。観客から短い悲鳴が響くも、すぐにその真下に在る空中ブランコをつかみ、悲鳴は明るい声に変わった。しかし、その時ーー…….黒が掴んだブランコを支える支柱が、ガコンッと舞台全体に嫌な音を立てた。
「!!!」
明るい声はまたも悲鳴に変わった。明らかなアクシデント。手に汗を握るスリルではなく、脳の奥が冷える様な出来事に観客は思わず目を逸らした。
「ジョーカー!!!!!」
黒より少し下のブランコを握っていた白は迷いなく黒へと飛び込み手を伸ばした。その後、どうするかなど考えずに。
黒はそんな白に少し驚いた表情を向けたあと、伸ばされた白の手をつかみ、咄嗟にトランポリンの方へと投げ飛ばした。
「うっ……!」
白がトランポリンの上に投げ飛ばされ、バウンドする頃には会場内は騒然としていた。痛みに堪えながら、恐る恐るトランポリンの下を覗き込む。
覗き込んだ先には絶え間なく広がる血液。裏方の団員が彼を囲み、応急処置を施していた。ジョーカーの失敗を心配する人が多数の中、面白がって動画を撮る人や、突然のショッキングな光景に悪夢化してしまった人も。
「ジョーカーッ……!!ジョーカー!!ジョーカー!!!!!」
ただ我武者羅にその名を呼んだ。取り乱す白をスタッフが必死に抑え込む。搬送されていく黒に伸ばした手は行き場をなくした。
そのあとのことはよく覚えていない。数日後、白は団長に呼び出され事の顛末の弁明を求められた。
「何故衣装の交換を?」
「……」
白は何も答えられなかった。ショーが始まる前、黒の妙な態度が脳裏によぎる。きっと黒はあのブランコが落下することを知っていた。
(本来、あのブランコは僕が使う予定だったもの……スペードの誰かが仕組んだ……?どうして黒は、公演を止めなかったんだろう……)
「……まぁいい。どちらにせよ、黒があの状態じゃしばらくお前たちを出演させることはできない。しばらく休みなさい」
「え……ぼ、僕は出れる。僕はやれます」
「黒がいないのでは、お前が出ても仕方がないだろう」
「な」
「お前にとっても黒がいないショーは意味があるのか?」
「あ……あります……」
白はNo.1と2の座を守りたかった。あんな事故があった上にしばらく公演に出られないとなると、確実に人気は下がる。せめて自分だけでも、と白は出演を懇願した。しかし、当然団長はそれを許さなかった。
「自分のその座を譲らないために私のサーカスを無茶苦茶にしてくれるなよ。お前がその様子ならなおさら出演はさせられない。いいね」
団長はそれだけ告げると、それ以降耳を傾けようとはしなかった。白は、黙ってその場を後にした。
トランプサーカス団で起きた事故は新聞の一面記事を飾り、不名誉な称号をいくつか与えられた。Joker不在であることも相まって、客足は遠のき、今シーズンであがった売り上げの多くは観客が悪夢化してしまったことによる損害賠償や修繕費、そして、ジョーカーたちの治療費に消えていった。
団長は新聞やネットの記事を見て、机の前で眉間を抑えることが増えた。
「お前らが失敗したせいでしょ。責任取ってさっさと死ねば?せーっかく今期の売上調子よかったのにさ~」
「ずいぶんしれっとしてるな。この伍落者」
「あっははははは!もーめっちゃくちゃいい気味なんだけど!」
スペード団員たちは好き放題に罵詈雑言を浴びせた。白への暴行も当然悪化した。少年であるにも関わらず、複数人で服を脱がされ写真を撮られたり、散々弄ばれた。団長が厳しく取り締まっても、その地獄はずっと続いた。
黒はというと団員どころか、白にすらどこで治療を受けているかは知らされなかった。
スペードシーズン最終日、相変わらず白が舞台に立つことは許されなかった。スペードチームがショーを行っている間、楽屋で1人遠くから聞こえてくる歓声を聞いていた。ガチャリと扉が開く音と同時に聞き慣れた声が耳に届く。
「久しぶり。何そのかっこ、どうしたの?」
「ジョーカー……!!」
白が振り返った先にはいつも通りな黒の姿があった。不自然なほどに。生死の境をさまようほどの大怪我だったのにも関わらず、後遺症の気配も、怪我の治療痕すらも見当たらない。むしろ、団員から凄惨な扱いを受けている白の方がボロボロだった。
黒は白のそんな姿を見て案じるわけでもなく、ただ疑問をぶつけるが、白はそれに答えずに問いを重ねた。
「どうして僕の代わりなんて演じたの……?ああなるってわかってたんじゃないの……」
「んー、まぁ。だってその方が面白そうじゃん」
「死んじゃうかと思った」
幸か不幸か、スペードチームが公演中だったため、2人の会話を邪魔する者はいなかった。
白は黒の手を掴むが、黒はその手をスッと外した。白はそのことに少しだけ驚いて黒の目を見つめる。今までそんなことは一度もなかった。それは黒の明らかな拒絶だと白は察する。
「死んだら死んだじゃん。僕が居なくなって何か問題ある?」
その言葉は白にとって「僕はお前がいなくても平気だもん」という裏返しに聞こえた。いつもであれば聞き流すことが出来た言葉でも、今の白にはそれができなかった。
「ぼ……ぼくを……ひとりにしないで……」
白はボロボロと泣き出して、黒に懇願する。
「2人だったから、がんばれたんだ。ジョーカーが居たから……」
白の言葉を受け取って、黒はしばらく黙っていた。時計の秒針の音だけが小さな楽屋に響いている。
そして、黒はついに沈黙を破った。
「あーあ……これ俺に出来んのかな……。できる限り合わせてきたつもりだけど、やっぱ無理だ」
突然一人称が変わったことに対しても、珍しく自信のなさそうな態度にも、白は驚きを隠せなかった。
「ヒトハには俺しかいないからって、仕方なくヒトハの面倒見てたけど、やっぱりそーゆーの向いてないわ」
「なんで……名前……」
黒は心底どうでもよさそうにしながら、既に忘れかけていた白の本名を口にした。
「俺は、お前が生まれた時からずっと邪魔だなーって思ってたんだよね」
そのあとも、黒は何かを言っていたが、白の耳には届かなかった。その場にいること自体が苦痛になっていき、白は楽屋を飛び出す。黒はその背中を眺めたまま、追いかけようとはしなかった。
いつの間にか公演は終了していたようで、ちょうど2人の楽屋に訪れたスペレイに勢いよくぶつかった。スペレイは焦ったように「ジョーカー!待って!」と声をあげたが、白は立ち止まらなかった。
しばらく走り続けていたが、裏口のすぐ側で、手首をつかまれ足を止めた。息を切らし振り返ると、そこにはスペレイの姿があった。
「……ジョーカー……やっと追いついた……」
こんなところを他の団員に見られては、彼もいじめの標的になりかねない……と振り払おうとしたが、スペレイはそれを拒んだ。
「はなしてよ、スペレイ。今更なに……?」
「は……離さない……。今更だって言って……この手を離したら……もう、一生助けられない」
「助ける……?スペレイにできることなんてない。スペレイが居たところで……!!」
白の心根にある暗い感情をぶつけても、スペレイは目を逸らさなかった。初めて会ったときのように、青色の瞳が揺れている。決意の瞳が鏡のような白の瞳に映る。
「黒に……何を言われたの……?」
「スペレイには関係ない」
「黒は、白の味方だよ」
「そんなわけない」
「黒は白を何よりも大切に思ってるよ……!」
「そんなわけない!!!」
2人の口論はどんどんヒートアップしていく。お互いに感情を抑えきれずに、声を荒げた。
「騒がしいな、まだお客様も近くにいる。何をしているんだ」
不機嫌そうな団長がその口論に割って入った。
「今後の打ち合わせもある。キャストは全員舞台裏に集まるように言っておいたはずだが?戻りなさい」
今の白にとっては何もかもがどうでも良かった。団長の言葉は耳の中をすり抜けていき、頭の中は混乱と絶望が入り混じる。スペレイは白の手をさらに強く握ったが、白はそれを勢いよく振り払った。
「もういい……もうどうでもいい!!僕はもう公演に戻るつもりはない!!!」
反動で白は後ろへ2、3歩よろめく。ガタンッ!と大道具にぶつかり、立てかけられていた梯子がグラッとバランスを崩した。
「!!」
スペレイは振り払われたその手で白の身体をその場から押し退ける。倒れ出した梯子はガシャァン!!!と大きな音を立ててスペレイを下敷きにした。
押し退けられた白はその光景を呆然と眺めていた。スペレイから流れる真っ赤な液体が瞳の奥でチカチカと乱反射する。同時に黒が落下した時の情景がフラッシュバックした。
団長は大きく目を見開いた後、青ざめた顔でスペレイを救出した。
「スペレイ、スペレイ!!出血が……」
団長に抱えられたスペレイはぐったりとしており、白の呼吸はどんどん浅くなっていった。
(どうして……??……僕、僕なにか悪いことしたかな……)
頭が真っ白になり、虚空に問いかけることしかできなかった。混乱した頭で下した判断は「初めからこんなところ、なければよかったんだ」だった。
(お母さんも、ジョーカーも僕も……初めからいなければ、こんなことにはならなかったのに……!!!)
そんな考えが頭の中を埋め尽くしていき、チカチカと光が反射したかと思うと、たちまち目の前は真っ暗になっていった。
……気が付けば、火の海に飲まれたサーカステントの傍らで黒が自分をおぶってその火を眺めていた。熱気が頬を刺し、自分と同じ銀色の瞳が赤く反射している。
(僕……何してたんだっけ……)
そんなことをぼんやり思っていると、弟が目を覚ましたことに気が付いた兄が話しかけてくる。
「ようやく起きたの?おはよ」
ガンガンと頭に響く痛みが、先ほどまでの出来事を思い出させた。目の前の炎はまさに自分の仕業であるとなんとなく思い出しても、反省や罪悪感どころか何の感情も湧かなかった。
「……生きてたんだ」
「生憎ね。この有様じゃ、誰が生きてるか分かったもんじゃないけど。みんな死んだんじゃない?よかったね」
たしかに抱いていたはずの兄への尊敬や好意も、今はもうすっかり失われていた。ただ、憎悪に近い感情を抱きながらも、兄が生きていることに安堵している自分がいた。
辺りには既にルドベキア隊や警察が駆けつけており、2人は保護の形でその場に待機させられていた。
「シレネ、こちらへ」
ルドベキア隊の隊服を着た人間が兄に話しかける。聞きなれない名前に疑問符を浮かべていると、兄は弟を降ろした。
「じゃ、俺はもう行くから」
「は……?」
突然の別れの宣言に弟は思わず困惑の声をあげる。兄は少し悩んだあと、弟へ自分のこの先について説明を施した。
「ルドベキア隊に入ることになったんだよね、ほんとは今日、それを皆に言ってJokerを脱退する予定だったんだけど」
「なにそれ意味わからない」
弟は兄の服の裾を掴んで睨みつける。兄はそんな弟の頭を撫でて笑いかけた。
「……お前は好きなように生きなよ」
兄の表情を見て弟は確信する。「待っててね」と笑いかけた母の顔を鮮明に思い出す。裾を掴む手をさらに強く握って、弟は兄へ言い放った。
「絶対許さない。僕を置いていくなんて絶対に...…!僕もルドベキア隊に入る……一生お前を自由になんかしない……!」
「!」
弟はパッと手を放し、ルドベキア隊員の方へと歩いていく。その背中を平然とした様子で眺めていた兄が、少しだけ困ったように笑ったことを弟……コロンはこの先も永遠に知らないままだ。