3話
身体のあちこちが痛い。家に帰り、血を流すためにシャワーを浴びようと服を脱いだ時、あまりに傷だらけな身体に思わず笑いが溢れた。頭から顔にかけてはコンクリートに打ち付けられたときにできた、大きなアザと痛々しい傷。肩や肘の皮下も真っ赤に染め上がって腫れていて、左手首に関しては、多分ヒビが入っている。幸い、まだ涼しい時期だ。顔以外の怪我は隠すことができる。
けれど、なによりも、ジンジンと沁みるような痛みを持つ下腹部が私に吐き気を与えた。
「ノヴァ様、どうか私の弱さをお許しください…」
銀色のノヴァ様の瞳を模したネックレスを握りしめて目を瞑る。懺悔のような、祈りのような複雑な感情を抱きながら。
人と対峙したのは久々だった。ここ最近は気がつかれる前に殺せるぐらいの技術を身につけていたし、優秀な情報屋と契約したおかげで他の暗殺者とターゲットが被るなんて心配もなかった。自分の失態に対し一通り落ち込んだ後、すこしため息をついて、浴室を出た。
拾った子猫はすでに衰弱していた。しかし自分が繋いでしまったこの命を、どうにか救いたくなってしまった。なんて憐れだろう。この子も、私も。
「明日、病院に行こう……」
すでに時計は午前5時を指していた。間違いなく今日は自分の人生の分岐点だったな、なんて暢気なことを考えながら、気がつけば眠りについていた。
目が覚めると、目の前に拾った子猫のしっぽがあった。驚いて身体を起こす。時刻は午前8時。携帯で今日の講義を確認する。…どうしても出席しなければならない講義でもなさそうだ。
子猫を連れて行けそうな箱を適当に見繕って、家を出ようと靴を履いた時、隣の家の扉が開く音がした。心臓が強く跳ね上がる。彼が歩いていく音が遠ざかっていくのを確認して、ため息をついた。
「…いこっか」
動物病院に着くと、問診票を記入するようにタブレットを渡された。記入を進めるうちにペット名のところで手が止まる。
(名前…)
その様子を見ていた看護師さんは受付から「お名前決まっていなかったら空欄で大丈夫ですよ」と笑いかけた。少し悩んで、結局私は名前をつけてあげることができなかった。
「生後1ヶ月ってところかな。おそらくオスですね。脱水しているので点滴しておきます。目立った外傷もないし、ご飯さえ食べてくれれば元気になると思います。…あなたの方がよっぽど重症に見えますが」
「はは…いえ…大丈夫です」
苦笑を浮かべながら答えると、獣医さんも困ったように笑った。
「そ、そうですか…。まぁいいや。この子飼われるご予定ですか?里親を探されますか?」
突然の質問に私は言葉が詰まってしまう。里親、そんな選択肢があることをすっかり忘れていた。自分だって教会で里親さがしをされていた身だというのに。
「え…あ…」
「…その様子だと里親に出されることはなさそうですね。猫の飼い方の資料を受付でお渡ししますね」
言い淀むと獣医さんは優しく笑い、点滴の準備を進めていた。
診察を終え、会計を済ませたあと、先ほど笑いかけてくれた看護師さんが私に猫の飼い方が書かれた資料を渡してくれた。
「お名前、決まったら教えてくださいね」
携帯に受け取った診察券データの名前の欄は空白のままだ。私はどうにもそれが嫌になって、この子猫にすぐに名前を与えたくなった。それにどういう意味があるのかは、私自身も知らないままだったけれど。
「動物の名前ってどうつけるんですか」
私が尋ねると看護師さんはすこし驚いたような困ったような表情をしたあと、色々と提案を繰り出した。
「食べ物の名前をつける方とか多いですよ。クッキーとかチョコとか…飼い主さんの好きな食べ物とか、それっぽい見た目だったから……そうですね、見た目で決められる方が多いかも?モコモコだからモコちゃん、とか…」
「見た目…」
「決まりそうですか?」
ちらりと子猫を見ると、看護師さんは私の頭の中を読んだかのように、名前を尋ねた。
「みたらし…とか…」
「ふはっ…みたらしちゃん!いいですね!ちなみにどうしてですか?」
「コイツ見てると、なんか、食べたくなるので」
「あはは、なるほど、いいですね」
看護師さんは明るく笑うと、箱に入った子猫…みたらしの頭を撫でた。みたらしは自分の頭を撫ぜる手で遊び始める。一通り撫でると、手を引き、彼女はまた笑った。
「お大事になさってください」
その言葉がこれからのことを指しているのか、それとも元気になってねという意味で言ったのか、私にはわからなかった。
病院から出ると、ちょうど携帯が鳴った。画面には紫雲雨音の文字が浮かんでいる。画面をタップし、応えると、電話の先で雨音が心配そうにする声が響いた。
『石榴、大丈夫?』
「え…?」
『盛大に転んで怪我したって聞いたけど』
「…聞かなくても大体わかるけど、誰から?」
『彼岸くんだけど?』
「そうだよね、や、うん、まぁ…大丈夫だよ。午後は行く」
『あっほんとっ?じゃあ席とっとくね!』
「ありがと…」
電話を切ったあと、もっとマシな言い訳はなかったのだろうかと不服が顔に出る。転んでできた傷にしては深すぎる。雨音に詰め寄られて適当にあしらったとしか思えない。まぁ正直に答えられるより幾倍マシだけれど。
(そういえば、仲間になると頷いたはいいものの、仲間って…どうするんだろ…)
今までずっと1人でやってきた。映画とか、よくある話では、仲間になった人たちは同じ目的を持って、協力して何かを成し遂げているようだけれど、私と彼岸でそれが叶うとは思えない。
やっぱり、昨日の話はなかったことにした方がよいだろうか…などと考えながら、ペットショップで必要最低限のものを揃えて、帰宅を目指した。
———
午後の講義に着いたのは結構ギリギリだった。
雨音は私を見ると、ギョッとした顔を浮かべた。どうやら傷が予想以上だったそうだ。全身見たら絶句するだろう。これでも化粧で隠したつもりだったんだけど…。
「お、思ってたよりひどいね…?顔から行ったの?」
「ん…まぁ…そんなとこ…」
「いたそう…」
「見た目よりは痛くないよ。席ありがと…」
礼を告げると、雨音は嬉しそうにして、午前中の講義のデータまで送ってくれた。優しい子だな、と顔が綻ぶ。
「雨音ってなんで好きな人に直接話しかけに行かないの?」
「えっ!?」
唐突だったが、純粋な疑問を素直にぶつける。
雨音はオシャレで見た目にも気を使っていて、おそらく「可愛い女の子」の部類に入る。その上甘え上手で、優しくて、いつもニコニコしていて、空気も読める。入学後、既に何度か先輩たちや同級生に告白されている様子だし、異性からも同性からも人気がある。…欠点を挙げるとすれば、好きな人に対してストーキング行為をするぐらいで。
(…大きすぎる欠点か…?…でも…)
「雨音くらい可愛かったら、積極的に行けばうまく行くと思うんだけど…あと、なんで私と友達なんだろ…っていう疑問が…」
「えぇ〜〜ざくぅ!そんな、急に褒めないでよぉ」
雨音はにやにやと笑いながら両手を頬に当て、ブンブンと顔を振る。ピタッと顔を止めて、じっと私の目を見たあとで、ふっと目を伏せた。
「私って、めちゃくちゃ普通でしょ?両親にも愛されてて、顔もそこそこ可愛くて、頼れば大概助けてもらえる…人生超イージーモードの人間だと思うんだ〜」
「え…あぁ…なる、ほど…?」
雨音は私が思っているよりも自分の魅力と武器について理解しているようだった。
私が困惑しながら相槌を打つと、雨音は笑顔で続けた。
「そんな人間、死ぬほどつまらないでしょ?」
その言葉に悲観的な様子はない。ただ淡々とそんな言葉を吐く。
「そ…そうかな…私は雨音と一緒にいると楽しいけど…」
「えーっもうめちゃくちゃ嬉しいこと言ってくれるじゃんっ!大好き〜〜〜っ!」
雨音はガバッと私に抱きつく。肩に多少の痛みが走るが、表情には出さず、どう反応していいかわからないで狼狽えていると、雨音はスッと離れて私と目を合わせた。
「私ね、石榴とか…彼岸くんとか、夙くんみたいにどこか現実離れてしてる人が好きなの」
「マダキ…?」
「私の好きな人の名前!内緒ね!」
雨音はまたニコリと笑ったが、その目の奥は私の秘密を暴きそうな予感がして、すぐに逸らしたくなってしまった。そんな会話をしていると、ちょうど先生がやってきて、講義がはじまった。少しほっとしながら、タブレットを開く。
(ほっとした…?どうして…?)
雨音の中に隠れる才能に、私も気がつき始めていた。
4話
怪我の理由をいろんな人から尋ねられた。普段話したことのない子も、心配そうに私の怪我を見る。私はその度に愛想笑いのような苦笑のようなものを浮かべた。それよりもそのあとが憂鬱で仕方なかった。今日も変わらず他国語サークル活動がある。率直に言えば、彼岸に会いたくなかったのだ。
「…あの、ごめん。昨日ちょっと、猫拾っちゃって…、心配だから今日はもう帰るね」
「えーーっ猫ちゃん拾ったの!?」
「う、うん…まだちょっと弱ってて…」
「そっか、それは心配だよねぇ。わかった〜先輩には私の方から言っておくよ。落ち着いたら会わせてねぇ」
「うん、ありがと…」
悩みに悩んで、みたらしを言い訳にサボることにした。いや、実際にみたらしが心配なのは本当のことだし、なんて誰かに言い訳しながら。しかし帰宅中、背後に彼岸がこちらへ向かってくるのを感じた。向かう場所は同じだし逃げたってしょうがないと私が足をとめ、そちらを振り返る。
彼岸は機嫌が悪そうな顔をして、私のそばに寄った。
「なに…?」
私が怪訝な顔を浮かべながら尋ねると、彼岸も鏡写みたいに怪訝な顔を浮かべながら応える。
「俺のこと避けてんの?意味ある?それ」
「…ない、と思う。けど…」
「けど、なに?」
彼岸がぐいっと一歩近づいては、私が半歩下がる。思わず彼岸の真っ黒な目からさっと目を逸らす。しかし、このままではと思い再度目を合わせ、口を開いた。
「正直言って、全く意味わかんない。私の技術に興味惹かれるほど、彼岸の技術が劣ってるようにも見えないし、そもそも仲間って何?彼岸もなにか目的があって暗殺してるの?」
「目的?ないけど。そんなの。」
「なら私に何をして欲しいの?」
質問をすればするほど、彼岸の機嫌が悪くなっていく。居た堪れない感覚と同時に、理不尽だという憤りも感じる。彼岸のイライラと比例して、私もだんだんとイライラが積もりだす。
「別に、変わらず人殺しててくれればいーよ。それを近くで見たいだけ。どっちかっていうと石榴の目的に協力するよ?って言ってんの」
「…」
「邪魔はしないし、死にそうになってれば助けるし、なんか不満なわけ?」
確かに私に不利益は全くもってない。暗殺をやっているとバレた以上、口を噤んでくれるだけでも十分ありがたい。(まぁ言いふらしたところで誰も信じないだろうが)それどころか、仕事を手伝ってくれるというのだ。みたらしのことも、本当に見逃してくれた。
しかし、この男…まっっっったく信用できない。
約束事なんて守るタイプには見えないし、私の信仰なんて絶対に理解しない。「何それくだらない」と一蹴する方にいくらか賭けたっていい。
「…協力関係を結ぶ上で2つ譲れないことがある」
「……なに?」
「一つは私の大学生活の安寧。私の周りは殺さないで。もちろん、私が暗殺を仕事にしてることも、彼岸が殺しを楽しんでることも、周りにバレないようにして。
もう一つは彼岸の殺しに協力はできない。しないんじゃなくて、できない。…それでもいいなら、いい、よ…」
条件を出したことに対しても、彼岸は心底興味なさそうに、しかし心底嫌悪しているような顔を浮かべる。
「だっる…いちいち覚えてらんないし、そっちが交換条件出せるよーな立場じゃないと思うけど?」
「…飲めないなら、大学もアパートも捨てて、名前も変えてこの国出てくだけ…別にいい」
「チッ…まー別にいいよ。最初からそのつもりではあったし」
嫌悪の顔を浮かべながらも、彼岸はそれを了承した。口約束という、脆い契約ではあるが、しっかりと確認できたことによって、少しだけ安心する。
「じゃ…もう帰ろ…」
「…」
私がそう言って彼岸の横に立つと、彼岸は少しだけ目を丸くした。きょとんとしたその表情に私は疑問を抱く。
「…?なに?大学、戻るの?」
「別に」
私が何気なく呟いた「帰ろう」という誘いに彼岸が気を良くしていることなど、私には知る由もなく。
彼岸の横を歩きながら、近所のお店の話をしたり大学の講義の話をしたり、他愛もない話を広げた。思えば、私は彼岸とちゃんと会話をしたことがほとんどなかった。2人きりになれば「血塗れのザック」について聞かれるから、その状況を避けていたし、雨音と3人でいる時は基本的に雨音と彼岸が会話を楽しんでいて、私は2人の会話を聞いているだけだった。
「そういや、あの猫飼うの」
彼岸はただただ純粋な疑問をぶつけてきた。
「え…あぁうん…あのままにしたら、死んじゃうし…」
「は?なんで?」
「は...?だってお母さんもいないのに…」
「母親がいないと死ぬわけ?」
「当たり前じゃん…まだ狩りもできないのに…」
わかってはいたけれど、彼岸はまさに異質だった。倫理観なんてものは持ち合わせていない。まぁそれは関わり出した頃からわかっていたことではあるんだけど。…「母親がいないと死ぬのか」というこの質問だけで、彼岸がどんな人生を歩んできたのかがぼんやりとわかる。雨音のいう「人生イージーモード」でないことは確かだ。
「ふーん」
訪ねてきたくせに、全く興味がなさそうに彼岸は呟く。彼岸の隣を歩いていると、遠くから女性の声が響いた。
「彼岸くーん!」
彼岸が振り返るのにつられて振り返ると、長い髪の綺麗な女性が小走りでこちらへ駆け寄った。近くまで来ると、軽く髪を整えて、彼岸の服を軽くつまむ。
「あの、このあと暇?うちでご飯食べない?」
少し顔を赤らめて、上目遣いで言葉を紡ぐその表情は少しだけ見覚えがあった。
(”マダキ”の話をするときの雨音と同じ顔…)
この人は彼岸のことが好きなのかもしれない、と思うが、確信は出来なかった。たしかに彼岸は端正な顔立ちをしているが、それを簡単にかき消してしまうほど嫌な噂が多い。多くの女性と関係を持っているだとか、気に食わないことがあるとすぐに暴力に走るだとか。…そして昨日それが真実なのだと痛感した。もし本当に彼女が彼岸を好きなのだとしたら是非「やめておいたほうがいいんじゃないかな」と伝えてあげたいが、それは彼女自身が判断することだろう。
「今日食べる気分じゃねーからいい」
まだ会話を終えていないように見えたが、彼岸はそれだけ告げると歩みを再開した。私は彼岸の冷たい態度と、少しだけ傷ついた表情をする彼女の間に阻まれて狼狽えてしまう。私のそんな態度を見た彼岸は眉間にしわを寄せて、「何突っ立ってんの?」と腕を引っ張った。昨日の怪我の痛みがビリビリと掴まれた腕に走る。
「っ…」
私の痛みも、彼女の痛みも全く気に留めない彼岸の思い通りに事が進むのが気に食わず、私は腕を振り払う。彼岸は敵意とも悪意とも、殺意ともとれない妙な気を私に向ける。
「痛い」
彼岸が不機嫌な態度を剥きだすのと同じように、私も不機嫌を彼岸に向ける。すると、彼岸は私の奥で立ち尽くす彼女へ目を向けたあと、私の腰に手を回した。先ほどまでの乱暴な触れ方と打って変わって、あまりに優しい手つきに私は虚を突かれる。驚いた表情を向けたまま、彼岸の顔を眺めた。彼岸の視線は私ではなく、彼女の方へ向いている。その視線を辿って、私もそちらへ目を向けた。
「今日は”この子の日”だから。邪魔しないでくれる」
彼岸がそういってニコリと笑うと、彼女は少し目線を下げて「そっか」と笑い、その場を後にした。彼女が立ち去ったのを確認すると、私に触れる手をするりと離した。
「どういう意味?」
”この子の日”という意味が分からず、尋ねると彼岸は少し口角をあげた。先ほどまでの不機嫌が少し治っているようだ。
「昨日みたいなことを、石榴とする日ってこと」
「え……嫌なんだけど……」
”昨日のこと”がどれを指しているのかいまいちわからなかったが、どれであってもお断りであることには変わらない、と拒絶の態度を示す。怪我も癒えていない上に、みたらしの様子もどうしても気になってしまう。彼岸に構う暇なんてない。
「なんで?」
「なんでって…痛いし…みたらしも気になるし…」
「あー…なに?初めてだった?」
「?」
彼岸の意図が上手く汲み取れない。雨音がいないとこうも会話に困るものか、と少し戸惑う。そんな様子をみた彼岸はまた少し口角をあげて、今度は機嫌がよさそうに笑った。
「処女だった?って聞いてんの」
「あぁ…」
それのことか、と話の流れを理解する。と、同時に彼岸への嫌悪感が強くなる。そもそもそちらに関しては気持ち悪い感覚は残れど、他の痛みで掻き消されているに決まっているのに、彼岸はわざと私をからかうようにそう尋ねた。彼岸が話しながら歩き出すので、私も少し後ろを歩いた。言ってやりたいことは山ほどあったが、ありすぎて最早何も言えなかった。
「次はもっと良くしてやるよ」
「次なんてないんだけど……」
「それはどうだろーね?」
私は彼岸に警戒の視線を向けながら歩いていく。彼岸はすっかり機嫌がよくなって、時折私の方へ視線を向けながら会話を続けた。
短いようで長い道のりを歩いていく。アスファルトに伸びる私と彼岸の影が重なっている。さっさと家についてはくれないかと願っても、家までの距離が短くなるわけでもない。それでも、他愛もない会話はほとんど途切れることなく、私たちが住まうアパートにたどり着いた。
5話
家にたどり着き、「じゃあ」と短い別れを告げて互いの部屋へ分かれた。部屋の中へ入ると、みたらしの髙い声が響いた。かわいくて無意識に顔が綻ぶ。小さな体でトテトテと必死に私の元まで走ってきた。私の元までやってきたみたらしに対し、どうしていいかわからないでいると、みたらしは私の足へと身体を摺り寄せた。
「蹴りそう…」
気を付けて足を進めていく。家を出る前に入れておいたご飯は空になっていて、設置したトイレにも排泄がされていた。生き物の機能を全うしている小さな存在に少しだけホッとする。昨日…というか今朝の弱弱しさが嘘のようにみたらしは元気になっていた。
みたらしのトイレの掃除を終えるころ、携帯端末がメッセージを受け取って震えた。
『ざく〜!猫ちゃんの写真見たい!』
雨音から可愛らしいスタンプと共にそんなメッセージが届いている。
(写真…なるほど…)
そう思って携帯端末をみたらしへと向けるが、みたらしはずっと私の足元で動いていて、上手く撮ることが出来なかった。
『ごめん…全然上手く撮れなかった…』
ブレブレの子猫の写真を送ると、雨音は笑い転げたスタンプを3つも送ってきた。
そうだ、と思いつき、ご飯をお皿に入れると、思惑通りみたらしはご飯に夢中になった。食事中のみたらしを撮って送って見せると、今度はハートを抱えたくまのスタンプが画面に映る。
『かわいい~~!会いたい会いたいっ!』
雨音の素直な反応に悪い気はしなかった。猫の飼い方資料にも「社会化は大切」と書かれていたし、色々な人に会わせるのもいいかもしれない。
(それに、もしも私がノヴァ様のもとへ還った時、この子をもらってくれる人を見つけておかないと)
決して安全な生き方をしているわけじゃない。たまたま昨日は彼岸が見逃してくれたけど、いつああいったことが起こりえるかわからない。生き物と暮らすと決めた以上、出来る限り選択を間違わないようにしたい。
『いいよ、いつにする?』
『今日はダメ…?ざくの怪我のこともあるしあんまり長居しないから!』
私の承諾に雨音はこれ上ないほど最短の日付を指定する。今日は家から出る用事もないし、断る理由もなく、私は更に承諾のメッセージを送った。
『やった!じゃあ夕飯何か買っていくね~!』
雨音の一文に「そういえば自分の夕飯のことを何も考えていなかった」とハッとする。
雨音が来るまでゆっくりしようとソファに座ると、みたらしもソファをよじ登り、私の膝までやってきて、背中を丸めた。
「わ…えっと…」
無防備に私を信用するみたらしに若干の心配が芽生える。私にはまだ、それが「心配」という感情だということに気が付くことはできなかった。みたらしの暖かさを感じながらボーっとしていると、私は知らないうちに眠ってしまっていた。
手から離れた端末がヴーヴーと規則的に鳴っている。ハッとしてそれを手に取り、耳にあてると、聞き馴染みのある声が響いた。
『あ、よかった繋がった!』
「もしもし、ごめん、寝てた」
『着いたよ~』
「今エントランス解錠するね、ちょっと待って…」
眠っているみたらしをそっと避け、立ち上がると、雨音は続けて口を開いた。
『あっ!ううん!もう玄関前に居るよ!』
「え…」
雨音のその一言に嫌な予感が迸る。次の瞬間、その予感は的中したことを証明した。
『俺が開けたの、さっさとここ開けて』
つい先ほど別れたばかりの彼岸の声が耳元で響いた。電話の向こうでは雨音が『ちょっと〜勝手にとらないでよ』と抗議の声をあげている。ちらりとみたらしへ視線を向ける。…正直言って、とても会わせたくない…が、ここまで来て彼岸が居るなら帰ってというのも不自然が過ぎる。…仕方ない。
「今…開ける…」
重い足取りで玄関に向かい、扉を開けると、いつもの二人が玄関先で立っていた。
「…どうぞ」
雨音も彼岸も部屋の中へ入るの自体は初めてだった。雨音は「お邪魔します」と丁寧に靴を揃えて室内に入ると、辺りを見渡して「ふふ、石榴っぽい」と肩をすくめて笑った。私っぽい、というのがわからず、雨音が眺めたあとを追って見渡すが全く理解はできなかった。
「ごめん、人呼ぶこと想定してないから、なんか…適当に座って…」
そう言ってリビングへと案内すると、騒がしさのせいか目を覚ましたみたらしが丁度ソファから飛び降りていた。
「んんん~~かわいいぃっ!」
雨音は大きな声でびっくりさせないように極力声を抑え込んだ。それでも高揚を抑えきれていないのがよくわかる。スッと手を差し出し、みたらしがそれを嗅ぐと優しく頬を撫でた。
「名前は?」
「みたらし…」
「あははっみたらし?かわいい」
みたらしは雨音に満足のいくまで撫でられると、彼岸の方へと足を進めた。私は思わず彼岸を睨む。私のその視線に気が付いたのは雨音だった。
「石榴?どうしたの?」
「えっあっ…、ごめん、なんでも…ない」
雨音は妙に鋭いところがある。A大(石榴たちの通う大学)の心理学を専攻しているだけあって、人の心の機微に非常に敏感だ。…まぁそれを抜きにしても、今のは警戒をむき出しすぎたなと反省する。彼岸は私の心情に気が付くと、ふっと笑った。
みたらしはにゃぁにゃぁと声をあげながら彼岸にすり寄る。
「彼岸くんのこと好きなんだねぇ」
「え」
雨音の言葉を聞いて思わず戸惑いの声をあげる。本当にそうなのだとしたら、本能に欠陥があるとしか思えない。あそこで彼岸がみたらしの母や兄妹を殺さなくとも、この子は野良では生きていけなかったかもしれないな。
彼岸はみたらしがすり寄ってくるのも気にせずに、ソファに腰かけた。
「あ、そうだ、これご飯!お皿とかある?」
雨音は持っていた袋を広げて私に見せる。中にはポテトやピザに唐揚げ…随分と高カロリーなものがそろっていた。
「大きいお皿とかないかも…ごめん」
「じゃあこのまま広げちゃえばいっか!」
「えっと…お茶かコーヒーなら出せるけど……コップがないな…」
「あ、いいよいいよ、飲み物も買ってきたから!」
そう言って別の袋から3本のペットボトルを取り出す。…初めから彼岸も誘う気だったんだな、と少しだけ裏切られたような気持ちを抱く。まぁ昨日の出来事なんて、雨音は知る由もないわけだし、仕方のないことではあるんだけど。
「はい、どれがいい?」
「ん」
雨音がテーブルにカフェオレとお茶とオレンジジュースを並べると、彼岸は何も言わずにカフェオレを手にした。彼岸が選択したのを確認すると雨音はこちらを見る。
「じゃあお茶、もらおうかな…ありがと雨音」
私が告げたお礼に雨音は嬉しそうににっこりと笑った。雨音が私にお礼を告げられ、嬉しそうにする理由がわからなかった。嬉しいのは私のほうなんだけどな、と思いつつ口を噤む。
「2人とも偉いねぇ、私一人暮らしとかめちゃくちゃ自信ないや」
「なんで?」
「料理とかめちゃくちゃ苦手だし…絶対寂しくなっちゃうな~~」
彼岸と雨音はテーブルに並べられた食事を摘まみながら、いつも通り会話を始めた。私はやけにホッとする。
「ふーん」
「でもいいね、2人、お隣さんならすぐ遊べるじゃん!」
「あぁ…まぁ、たしかにね。これからはたくさん遊ぼっか。石榴」
「え…なんかすることある…?」
彼岸の誘いに怪訝な顔を向ける。2人で話すこともなければ、することなんてもっとない。今日だって、みたらしに会ってもらうってだけで、このあとどうするんだろ、なんて考えているくらいだ。雨音はそんな私を見てにっこりと笑った。
「あのね、私ほんとに2人と友達になれてよかった~って思ってるの」
友達…そう思ってくれていることに何とも言葉では言い難い気持ちが芽生える。目立たないように、と人と一線を引きながら生きている私には初めて受け取る言葉だった。彼岸は雨音の言葉にあまり興味がなさそうにみたらしの顎を撫でる。
「私、今まで友達って心から思える人に出会ったことなかったの」
「え…雨音なら誰とでも仲良くなれるんじゃない」
「ん〜私はね!でも私が本当に仲良くなりたい!って思える人って2人が初めてなんだよ」
雨音は少し顔を赤らめた。照れているような面持ちで、それでも嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「だから、これから2人といろんなことしたいな!」
雨音の真っ直ぐで優しい言葉に私も心地のいいむず痒さが生じた。私は思わず雨音から目を逸らす。少しだけ目線を下へ向けて雨音の言葉に応えた。
「私で、いいなら…」
私の言葉に雨音は明るく「うん!」と頷くと、また食事に手を伸ばし始めた。食べながら、どこのカフェに行ってみたいだとか、あの映画を見たいとか、大型遊園地に行きたいとか、行きたいところややりたいことを電子端末にリストアップしていった。全ての食事を終えるころ、そのリストはズラリと画面を埋め尽くしていた。
「こんなもんかな!さて、と。食べ終わったし、みたらしも寝ちゃったし、そろそろ帰ろっか」
テーブルの片づけを済ませると、雨音はスッと立ち上がる。
「は?なに?勝手に帰れば?」
雨音が帰ってもなお居座るつもりか、とジトリと目線を向けるが、彼岸はそんな視線を気にも留めなかった。彼岸にくっついて眠るみたらしに「わかってる?この男お前のお母さん殺してるんだよ」と教え込みたくなる。
「だめだよ~!石榴、すごいたくさん怪我してるんだから、今日は休ませてあげよ?無理やり押しかけちゃってごめんね」
「大丈夫…あ、ご飯のお金…後で送っておく。いくらだった?」
「あー、いいよいいよ!お邪魔しました代ってことで!」
「え、でも…」
「次はちゃんと割り勘しよ!ほら彼岸くん、行こうよ~」
彼岸は雨音の言葉に面倒くさそうに応え、立ち上がり、玄関へと向かった。2人を見送りに一緒に歩き出す。
「じゃあ石榴、今日はありがとね!また明日!」
「うん…こちらこそ」
靴を履きながら、別れの言葉を告げている間に彼岸は私の部屋から出て行ってしまっていた。彼岸が出ていったのを見ると、雨音は声のボリュームを小さくして私に尋ねた。
「彼岸くんと何かあった?」
雨音の言葉にドキリとする。が、特に何もない素振りを見せる。
「ううん、ちょっと言い合いしただけ」
「…そっか。話したいことがあれば何でも聞くからね」
私の返答に気遣いの言葉を返し、雨音も小さく手を振って部屋を出ていった。2人が出ていった玄関の扉の鍵を閉め、リビングに戻る。静かになった部屋で時計の音とみたらしの寝息だけが響く。
「コップ、買い足そうかな」
心地のいい虚無感を埋めるように、小さくつぶやいた。