我が説く所は、仏道にあらず、儒道にもあらず。・・・というて、丸で離れもせず、また今の世のありふれ行われている神道そのままにもあらず。トンと世に風義のなき、-天地開闢(てんちかいびゃく)以降絶えて世に有りふれざる、いとも珍しき教えにて、誠に有り難きご時節運り来りて、天の我れに得さしめ給う所、おそれながら天命直授の御道なり。
その道というのは、素より、この黒住宗忠の道ではない。もったいなくも、日の神の大道を説き奉る。-恐れながら、天照大御神の大道を明らかにして、御神徳を世の人々に少しも早く知らせたいばかりなり。
天照大御神は一切万物を生じ給う大御神ゆえ、天地の間、一切生じ、一切何事も成就せずということなし。
「天照す 神の御徳を 世の人に 残らず早く 知らせたきもの」(宗忠神 御歌)
「本(もと)」を知れ。-「一(いち)」を知れ。一を知るは凡(すべ)てを知るなり。
その本と申すは、畏くも 天照大御神の御事なり。誠に尊きこと極まりなく、有り難きこと限りなく、天地の間一切を生じ、一切を生かし、一切を主宰(つかさど)り、一切を統(す)め給う、大御神にまします。-御神徳によれば、一切何事も成就せずという事なし。・・・誠に有り難き御事(おんこと)なり。
天照大御神は、天地萬物(てんちばんもつ)の親神にましますが故に、常に萬物を生かし、悦ばしめ給いて、萬物の生々と生き栄え、悦び楽しみを見て、楽しみ給う。
天照大御神の御神徳は丸いかしの御神徳なり。
誠に天照大御神の御神徳の儀は、尊くも尊く、とうてい我等人間の言葉をもってこれを説き奉る事は出来ぬ。ただ有り難いと申すほかなし。
抑(そもそ)も、誠の本体は、天照大御神の御心なり。
その大御心(おおみこころ)の誠、大天地に満ち渡らせ給う。
「天照す 神の御徳は 天地(あめつち)に 満ちてかけなき 誠なるかな」
一切有るものは無きものなり。-その「無」こそ一大事なり。・・・「天」は即(すなわち)ち「無」にして即ち「有」なり。人の「心」もその通りなり、無にして有り。誠に、一切は「無」なる「御いきもの」-(大生命-大活霊)-にして、これ即ち天地(てんち)に満つる「御心」なり。-大天地一体の「御心」なり。
畏れながら、大御神様は天地萬物(てんちばんもつ)の親神様にまします。人は、身も心も、その本(もと)の親神様より生みつけられしもの。思えば思うほど、有り難い事なり!されば、時々事ごとに、その親神様の御心に背(そむ)かぬようにせねばならぬ。-これを天命に従うというなり。一から萬まで、何事も何事も天命と心得て、有り難くこれに従いまつるのが、天地の大親様(おおおやさま)への孝行というものなり!
陰気にせめられてご分心を穢し奉り、心気を枯らす事、天地の親神様に対し奉りて、此の上の大きな罪は有るべからず、まことに不幸の第一なり。
大御神様には、一切我物(いっさいわがもの)と申すものなし。その大御心が、我が本の心と思えばまことに有り難うて有り難うてなりませぬ。人の心は、もったいなくも、大御神様の御分霊(みわけみたま)なり、ご分心なり。罪を祓い、穢れを祓い、我を祓うて清浄無我(しょうじょうむが)の場に到れば、すぐに神なり。人々直ちに神の一柱なり。有難き御事ならずや。されば、時々刻々に、神と離れぬようにせねばならぬ。隔てのなきようにせねばならぬ。それが何より肝要な道の修行なり!!
心安らかに楽しみ暮らす所、即ち、高天原にして、その原にこそ神はましますなり。
いずくのはてにても親神様の御神徳の及ばぬ所はない。御目の届かぬ所はない。いつ、どこで、何をしておっても、ちゃんとご照覧遊ばしていられる。思えば、畏くもまた有り難い御事である。何をするも、どこへ行くのも親神様と一緒と思えば、つとまらぬ事はない。畏れながらいつも御供をさせていただいていると思えば、少しも怖いことはない。淋しいことも、悲しいこともない。ただ日々有り難いばかりぞ!!
「天照す 神もろともに 行く人は 日毎日毎(ひごとひごと)に 有り難きかな」