【め】
めざすのは にのみやおうの そのこころ
目指すのは 二宮翁の その心
●二宮翁
馬宮東小学校の校歌に、【ぼくらが ともに あがめあう 二宮おう の その心】という歌詞があります。「あがめる」とは、「尊敬する」という意味です。「二宮おう」の「おう」とは、年をとった男のおじい様に対して、尊敬の心をこめる呼び方です。「おう」は、「様」「先生」「氏」より、おじい様に対する、少し、親しみを込めた、近い感じのする尊敬の心をこめた呼び方です。馬宮東小学校の東門の近くにある石像は、「二宮おう」が、まだ、皆さんと同じ、子どものころの姿を表しています。その時の名前は、「二宮金次郎」といっていました。
今から200年前、江戸時代の後期に二宮金次郎は、神奈川県小田原市の農家に生まれました。金次郎が、まだ、幼い5歳の時、家の近くの川の堤防がやぶれて川の水がおしよせ、田んぼや畑は、どろでうまり、家は全部流されてしまいました。お父さんは、一生懸命、田んぼや、畑をもとに戻そうと、必死で働き、病気にかかって金次郎が14歳の時に亡くなり、お母さんも、16歳の時に亡くなってしまいました。金次郎は、おじさんの家に、預けられることになり、身を粉にして、昼は、一生懸命に働きました。そして、夜は、一生懸命に本を読みました。夜、本を読むために、使う油は、川の堤防に、アブラナを植えて、なたね油を作り、あかりを灯しました。二宮金次郎は、大人になると世の中は、【天保(てんぽう)の大飢饉(だいききん)】など、お米がとれなくなり、多くの人々が、飢餓(きが)に苦しみますが、幼いころたくさんの書物を読んで、磨いた、才覚を生かして、全国600もの農村を復興させ、人々を救います。金次郎は、死後、【二宮尊徳】と呼ばれるようになりました。二宮尊徳が、全国の農村を救った「考え方」が【報徳(ほうとく)】と言われる「考え方」です。これは、【すべてに、よいところがあり、そのよさを生かしていく】という「考え方」です。校歌にある 【二宮おう の 心】とは、二宮おうが、自分が子どものころ、必死で学んだように、「いざや学べ!いざや自分のよさを磨け!!」と、現代の子どもたちに語りかけているようです。