白井Side
身体を貫く神経の一本一本がアンテナとして繋がり、肉体と精神に呼びかけてくる。自分の気持ち、記憶、意志それら全てを包括した何か……魂とでも呼ぶべきものに、今まで感じたことのない信号が送られ、変化していく。
それは思い出していく感覚に似ていた。だが思い出すと言うにはその量が多すぎる。どれくらいの年月なのかはわからないが、今まで自分が生きてきた三十年かそこらの記憶が急速に遠ざかる。子供の時、夢中でゲームをしていてその世界にどっぷりと浸っている中で、突然親に声をかけられて正気に戻るような、今まで白井隼人として生きていた自分はほんの少しの間の遊びだったかのような、そういう感覚。
やっと目覚めた、と言わんばかりの影。神々の……いや、仲間の手が私の方へと伸びる。接続された精神世界で私は再び目覚め、少しずつ思い出していく。数億年に及ぶ我々の記憶と意思を。そうだ、私たちはこうして目覚める為に人という装置を作った。魂が再び新たな肉体を得て、再度新たな種族として我々が生まれ直す為に。種としての寿命を迎えた我らが再び生命として生きる為に。家族達が声をかける。億という年月の果てに彼らが祝福の声を発する。白井隼人の三十年で一度も知覚したことのないなにかはとてもよく耳に馴染んだ。そうだ、目覚めよう。この動物の肉体から剥がれて、より良い器に移れば、私の記憶容量はさらに増して、また大事なものを思い出せる。これは福音だ。何も恐れることはない、自然なことが起きるだけなのだから。
さあ、さあ、早くおいで。
私はそう言う影に向かって手を伸ばした。
しかし、伸ばした手に違和感を覚えた。手、骨を肉で覆った、俺の手。手とは?人体の一部、頭を基準とした時、左右に伸びるもの。彼らが求めてやまないものの一部。彼ら?全身の血管の中に多足の虫が這い回るような不快感が体内を駆け巡った。ここから離れたくないという気持ちと、一刻も早くここから離れなくてはという気持ちが相反する。
……突然何かが自分を貫くような強い「痛み」に襲われた。それは警告だった。極彩色の記憶を塗りつぶすかの如く、自分の精神の深い部分に突き刺さった「それ」が不快感を発している。鋭く、明るく、強烈な思考。それが入ってきたときに自分の中から嘔吐感のように不快がせりあがった。まるで毒を入れられたような気分だった。さっきまで安らぎのように感じた神々の記憶に、猛烈な異物感を持ち始めたからだ。反射的に精神が神々から後ずさった。なぜだ、神々が不快であるはずがないのに。感情的なわがままだろうこれは。だが、無視できなかった。なぜ、さっきの痛みは、痛みは……。
剥がれる、何かが。何が?剥がれた所から別の感覚器が目覚める。そこから俺は何かを見ている。待て、何かを見逃しているぞ。何を見逃した?違和感に触れるための手段があるはずだ。教科書百八十五ページ、じゃなくてこれは俺の能力に備わっている。違う、俺はやってきた、今までだってそうしてきた。偽りの記憶に抗え、本当に偽りか?そういうことじゃない、信念を貫くために本能を捨てろ、例えそれが別側面の真実だとしてもそれを偽りだと信じて己の思想を固めろ、まずはそこからだ、そこから。そこから?俺の思想はなんだ?俺の信念はなんだ、俺は何のためにここにいる、わかるだろう、わかるはずだ、わかるからこうして貫いてきたんだろう、たった一つの光明を。それだけを頼りに、それだけを見て。
目玉からぬるいものが肌をなぞっていくのを感じた。与えられた痛みから血を流すように、生まれた時から開いている傷口から代わりの体液が伝っていった。体の方が何かを先に理解していた。そしてそれは徐々に脳に浸透していく。
ああ……そうだ。
見える。
眼球という感覚器官が、視神経に電気信号をあたえ脳に光の情報を提供していく。
たった一つが、見える。
「……やられた……」
目が覚めるまで時間がかかりすぎている。それに正直想定とは全く別の方向に情勢が転がっていて、記憶を辿るだけで脳が混乱する。
なんだ、この未来は。チグハグに発達した科学と消し去られている神々への対処法。自分が眠っている間に何が起きたのか。いや、知識として、どうしてこういった世の中になったのかはあるのだが、一体どういう経緯でこんなことになったのかがわからない。
記憶を取り戻した……神々に対抗し、人の生命としての尊厳を取り戻すために生きた、いわば前世の記憶を。神々の手から逃れるために産まれ直したまでは良いが、記憶を復活させる過程で失敗があったらしい。脳の成長が完成した時点で再度記憶を取り戻すようにしたはずだが、なぜこんなに遅れた?
……だが今は、目の前の現実に対処する他ないだろう。喉から伝わる神々の干渉を、三井に似た炎を受け止めた視神経から脳に伝え、全身へとつないだ電気信号で遮断する。血が巡るのを感じた。それは今にも沸騰しそうな温度を保っていた。
人類を産み出し良いように扱う、神々と呼ばれる種族。彼らの目的は、我々人類の幸福と両立することはない。そして彼らの方が、全てにおいて圧倒的に上手だ。それでも、いやだからこそ、対峙しなくてはならない。
首にかかっている指を瞬時に数本折る。接続が途絶える。
「……白井?」
既に看破されたネタを再利用とは神側も今回は随分と甘い、と思いながらその体を引き倒し頭を踏んで破壊する。ああ、情けない。惜しいことをした。折角の呪物研究に使える材料を、手段が無いから破壊など。完全に後手に回っている。だがその行為に一抹の動揺が走ったことで、まだ自分が寝起きであることを自覚する。
世間の常識から魔術の大部分が失われているせいで、元々の魂がこの状況に拒絶反応を起こしていた。鬱陶しい。神を前にして瑣末なことに思考が割かれすぎている。自分に言い聞かせた、今、目の前にいたのは人ですらない人形だった。正気に戻れ。
しかしそれでも、人と同じ判断力を持つものを手にかけたことに、強い拒絶感があった。俺が医者だったから、というのもあるだろう。常識が違いすぎる。まさかこんなに容易く、数千年続いた学問が消え去るなど夢にも思わなかった。それは俺の失態でもあるわけだが……reiはどうした?あいつ自身だけでなく、あいつの築いたrakuすらも消えたのか?自分の管理が及ばなくなってもシステムを継続するだの豪語していただろうに……それすら失われたのか。
ではきっと、これから行うことにも自分は平静ではいられなくなるだろう。なので考える前に行動した。
過去の記憶を取り戻したのは、別に前世から輪廻した魂に記憶が残っていたとかそんな都合の良い話ではない。魂の洗浄と再利用は神々の領域の話で、未だ人類はその手法を知らない。だからやったことは単純だ。reiのがこの土地HIKARIを残したように、俺も記録装置を作り記憶を蓄積し、時期がくれば転送できるよう設定していただけだ。
トリガーが外され起動しているその記録装置は、リソースとの兼ね合いで保ってあと二分、その前に別の端末を用意する必要があった。切断されればまたこの記憶は失われる。だからまずは探知を発動させる。エネルギー消費により残り時間一分二十八秒、幸い近くに人がいた。もっとも近くにいる六人のうち、脳への損傷や神の気配がない者を、あと五十二秒、解体、組成、移動の指示を一気に出す。……元の端末が沈黙した。
手元に初めてだが懐かしい感覚……質は低いもののなんとか杖を得た。精神が軋む。記憶装置の代わりの用意はなんとか間に合ったらしい。
『手が早いな』
『……哀レニ思うなら今スグお帰りいタだけますカ』
発音がうまくいかない。なにもかもが鈍い。無理だろうと思いながらも、確認のためにHIKARIに接続を試みると、問題なく行われた。しかし……そこには何もなかった。なぜだ、機能しながら、中身が全て壊されている?……そこの原因究明は後だ。やりようはある。ひとまず、手札は得た。これを練り上げながら、今は……立ち向かうしかない。
天蓮景Side
「う、ぅ」
繋がりを切った。危ないところだった。あと数瞬遅れていれば、私まで焼き切られているところだった。市役所の地下で発生する謎の光は、徐々に建物を燃やし始めている。これはもう手遅れだ。
「天蓮景様!」
香織ちゃんが倒れ込んだ私に寄り添ってくれる。心配いらないわ、と言おうとして、咽込んでしまったので、彼女を余計に不安がらせてしまったらしい。ごめんね。彼女の暖かな指が私の背をなぞるのが心地よい。私が息を整えるのを待って、彼女は問いかけてきた。
「……何をご覧になったのですか」
「……。」
息は整ったものの、それをどこまで伝えるべきか、判断が難しかった。市役所の地下を中心として放射する光線、光に当てられ視力を失いながら全身が燃え上がり、何もわからぬまま絶命していく人たち。
「……この市を出ましょう、香織ちゃん」
「っ、それは、会は」
「残念だけど置いて行きましょう、初めからやり直すしかないかもしれないけれど、命あっての物種だもの」
私が視覚をのぞいた信者も、既に体に火が移っていた。おそらくあのまま助からないだろう。
「……市役所の、者たちが……しくじったのですか」
「……ええ」
しくじった、とは言えるだろう。彼女たちの目的である神的災害への未然の対策が失敗し、市を丸ごと飲み込みかねない大災害が発生しているのだから。しかし、元々一般人であり知識も経験もない彼らにできることなど、限られている。それにもかかわらず、よくやってくれた方だとは思う。
少なくとも、香織ちゃんが生きている。
「……天蓮景様、では地下を通り、離れに停めてある車へ。運転は私が行います」
「そうしてちょうだい。それと、電話を貸してくれる?」
「……どちらにおかけに?」
「神山の、長男に」
香織ちゃんが端末を操作してくれて、私に手渡した。この板型の携帯になってから電話がしにくくてしょうがない。ボタンもないし。カメラ機能くらいは使えるようになりたいのだけれど。
しばらくして、電話がつながった。
だが電話に応対したのは、予想していた人物とは異なった。
『……もしもし、神山神社ですが』
若い声だ。
「どなたかしら」
『すみません、父は今留守にしておりまして』
……ああ、虎の子か。と思う前に騒がしい音が電話口の向こうで鳴った。
『……阿婆擦れの覗き魔が当主様に何の用だい?』
「次濁さんですか、この際、あなたでも良いわ」
この人と話すのはとても疲れるから嫌なのだけれど。
『舐めてんのか?』
「私達は、この街を出ることにする」
声にドスを効かせて主導権を握ろうとしてくる男を無視して、ただ用件を話す。
『……、それで?』
「あなたたちも身の振り方を考えた方が良いわ」
『……回りくどいんだよ、義理も人情も無え魔女の癖によ。で?出るからなんだ?それとも最後の一晩しっぽりお別れを言いたいって電話か?これは』
「本当にあなたと話したところでメリットって無いわね。でもあなたのそういう所、尊敬してたわ。……神様が市役所で暴れているの、神愛と神忌全員現地に揃っているみたいだけど、抑え切れるようには見えない。虎の子を逃してやる時間くらいは、稼いだ方がいいんじゃないかしら」
しばらく、電話から音声が途絶えた。地下室を通っているから、電波が悪かったのかもしれないが、私はそういう理由だけではないと確信していた。
『魔女が』
「どうも、褒め言葉ね」
罵声が聞こえる前に、電話を切った。
「天蓮景様」
「お姉ちゃん」
「姉様、お車の用意ができました」
「ありが……」
そこでふと、首筋にじわりと汗が滲むのを感じた。
それはあくまで予感だった。勘、とも言える。自分が人の目から何かを覗くから、敏感になっているのだと一蹴することも、だからわかったのだとも、言えた。ただ、何が違うのかと言われてもうまく答え難い。あくまでただの悪い思い込みだと言いたかった。だが。
「姉様?」
……。
見られて、いる。
何者かが、こちらを覗いて、いる。
悪意なんて生やさしいものじゃない、もっと無機質な視線だ。他人ごとを眺めているような、観察するような。いや気のせいだろう。なぜ?なぜ私はこれを気のせいだと断じようとしている?恐怖を払拭したいと強く感じているのはそこに恐怖があるからだ。
……今この場で、最小限の代償で視線を逸らすには……。
私は香織ちゃんの懐に手を伸ばした。
うろたえる彼女を見て、私の決意が固まった。彼女の着物の隙間から、儀式用に持っていたであろう短刀を取り出す。香織ちゃんがすぐに目を開かないことを祈りながら、私は車のボンネットに手を置くと、そのまま短刀を振り下ろ。
佐々木Side
異様な耳鳴りが聞こえた。それは普段耳鳴りと呼んでいるものと比較するとあまりにも大きく、そしてどこか抗えない絶対的な命令を与えられたような硬直感があった。その耳鳴りは「耳鳴り」であるはずなのに一瞬で自分の頭皮の下をぐるりと這い回ってゆく。しかし、何か震えるような気配を感じ、それはずるりと頭の隙間から抜けていった。何かに頭を探られた感覚は、直後に猛烈な不快感となって襲いかかってきて、思わず膝から崩れ落ちてしまった。そして、しばらく目の前が暗転した後、目覚める。景色の揺れがおさまらない。目眩と共にくらんだ視界にあるのはクリーム色の床。その端から……目を背けたくなる赤が……伝ってきた。
思わず顔を上げた。……見上げなければよかった。
輝く廊下で、人が倒れていた。渡辺さん、中嶋さん、沢口さん、根崎さん、高田さん……。もう生命の失われた物体でしかない、と言いたげに。
あの日が、燃え盛る炎のような夕日と轟音と共に崩れるコンクリートが蘇る。根崎さんのメガネが、何かの弾みで顔から外れていた。その目元が、血で濡れ火傷で赤くなった下瞼が、あの日の彼の母のものと重なって、目の前が揺れる。振り払った。全部嘘であってくれ、こんな理不尽はあり得ない。あり得ないなんてない、でも、あり得ない!そう信じて、もっとも近くにいた渡辺さんのもとに寄った。頭を打って……頭を打っていたら、まずい。そう、死んでしまうかも……。そう思って触れた頭部に違和感があった。恐る恐るその巻き毛の頭を、動かしてはならないんじゃ、という救命のためか自己保身のためかわからない心の声を無視して、抱えた。
……軽かった。あまりに軽い、五百グラムもない、あるべきものが、この中に無いのを、知覚して……。
「……ぁ、あ」
……耐えられない。こんなことは、耐えられない。
「あ、ァ……ァア」
こんなことは耐えられない、与えられるべきものが結局彼らには与えられなかったという事実も、喪失感も、それがすべて自分が引き起こしたことであることも、何もかもが、耐え難い。あああ、なぜ、なぜ、私じゃないのか、あああああ、痛い。頭が、痛い。
「……ァァ アアァ アアアァァアア」
頭の亀裂を走る痛みと共に罪悪と打ち砕かれた希望が迫ってくる。頭蓋の隙間いっぱいに棘だらけのそれが詰まって私自身を引きちぎっていく。嫌だ、嫌だ嫌だ。神でも仏でも悪魔でも、なんだっていい、どうか、どうか!……この苦しみから……。……私を殺してくれ。私の心をこんなに千々に引き裂いていくのであれば、どうしてこの体も同じようにしてくれないのか。私を引き裂いてくれ、それをせめて何かの糧にしてくれ。どうして、どうしてそうしてくれなかったんだ。なぜあの時、私は死ねなかったんだ、死ななかったんだ。ああ、なあ、なんで……。なんで……。
なんで……私が、生きているんだ。
神の気まぐれで幼女と混ぜ合わされて復活させられた私は、きっとこれは罪滅ぼしなんだと思っていた。一人の女の子を健全に生かし、みんなを少しでもマシな未来へ連れていくための。
なのにどうだ、悪化させただけだ。
間違え続けている。
ただ、間違え続けていた、私は……。
手を握り合わせる。血溜まりの中で蹲りながら、震えながら。ほかにできることがない。それは神によって己の手に縄打たれるのを待っているかのようだ。意味がないことはわかっていた、それでもやめられなかった。祈った。先のない祈りを、ただただ象る。祝詞はなく、ただ叫びと嗚咽だけがそこにあった。
神様はいました。
私たちが知らないところに、神様はいました。
でも、神様はお話の中ほど優しくありませんでした。
人間の子供が虫で遊ぶみたいに、誰かの手足を取って遊びます。
人間の大人がやるように、誰かの体の中に何かを埋め込んで、
うしろからじっと眺めたりします。
自然のままに、思うがままに、神様は人間で遊びました。
それは、咎められることではないからです。
猫はネズミで遊びます。カラスは弱った小鳥をつつきます。
無邪気に命で遊びます。
死んだら食べもせず、そのまま土に放りだしたりします。
生まれた時から良心が備わっているわけではないのです。
生命に良心などないのに。
どうして神様が良心を持っているでしょうか?
人間が作り出したものを、なぜ神が守るでしょうか。
その時……何かが崩れる音がした。頭を上げると、さっきまで倒れていたはずの高田さんの体勢が変わっていた。糸が切れた後のマリオネットのような姿勢、顔を床に打ってくぐもったうめき声をあげていた。
あ。と思う間もなかった。
彼は生きていた。
そして、祈った。
なぜ気づかなかった、気づいていれば私は彼がそうすることを知っていたはずだ。どうして止められなかった?
……誰かそうしてくれと、祈っていたからじゃないか?
今……私は、救いを求めていた。不相応なことに。自分がしでかしたことのくせに、いったいどう救ってくれっていうんだ。そうしてまたお前は罪のない子供に罰を押し付けるのだ。何もしていない子供に。何度目だ、何度目だ?
そして、何かがやってくる気配。禍々しい気配だったそれは、這いずるような異形の音から清廉な足音に変わる。すり足の布が擦れる音。禍々しいものと清らかなものが同一であるという証明のような変化だった。綺麗な音がして、怖い。
震える私の視界の端にまた、不自然なものが写った。
銃を構える根崎さんの姿だった。
発砲音。まだ少しだけ発光している何かに向けて打たれたそれは、弾かれて消えた。
「根崎……?」
首だけで高田さんが起き上がった。根崎さんは今度は扉や壁に発砲した。ヤケクソのように打たれた弾が切れて撃鉄が音をたてなくなっても、彼はしばらく銃を向け続けた。
やがて弾のない銃を捨てると、今度は高田さんの腕からナイフを取り出す。そして迷いなく腕に突き立て、高田さんを抱え込んだ。
「ねざき……」
「来るな!」
高田さんは次に右足を失うだろう。でも命までは取られない。
「来るな!」
だが根崎さんは気を失っている間に、事態が進展したことで、最悪の事態を考えたのだろう。彼は悪いことへの想像力がよく働くから。
「来るな!!」
それとも、もしかすると彼は前からずっとこうしたかったのかもしれない。
「来るな!!!!」
叫びながら血を吐いているような、声。炎で溶けて体液の滲む喉から発するたびに彼は自らの体に刃を立てた。吹き出した血が高田さんを浸していく。部屋中を真っ赤にするほどの悍ましい光景に私は思わず根崎さんを止めにかかったが、胸ぐらを掴まれて放り投げられてしまった。壁に全身を打ちつけたものの、頭を打たなかったことで、彼が力の加減をしたことを知る。
根崎さんはさらに血に濡れた指を自分の喉の奥に突っ込み、ゲ、と吐瀉物を散らす。汚らしく悍ましく正気を疑う光景の中で、ただひたすら高田さんはおとなしかった。扉の向こうから聞こえる少しずつ近づく綺麗な音が、根崎さんの体液が広がるたびに若干鈍くなるような気がする。
汚れが、穢れが広がっていく。その意図は明白だがその明白の理由を、根崎さんが口にすることはない。だから高田という半身を失うことで被る不利益を避けるためなのだと、まだ言えた。まだ。
音が、止まった。
うまくいくかもしれないと思った。
うまくいってほしかった。
頭の奥の真島貴一が叫んでいた、このまま全部全部放り出してどこへなりとも逃げてくれと。あの時できなかったことを悔やんで彼が私の脳を揺らして軋ませる。二人の子供たちに願った。だが。
「来ないでくれ……」
それは体液を失いすぎて彼の意識が朦朧としすぎていたのか、それとも人の身に刻まれた本能なのか。
震える根崎さんの声には、祈りがこもってしまっていた。
それは彼が隠し続けていた祈りだった。
神に愛されるとは美しいこと、神に嫌われるとは醜いこと。
私たちはそれが感覚でわかるように設計された。
神にとって素敵な存在となるように。
では、誰かのために祈った彼は?
神は容赦無く手を伸ばしたのだろう。異常なまでの清浄な空気。血も吐瀉物も気にならずそれすらも美しいものであると感じさせるような錯覚、自分の思考が塗り替えられる。
途端に私の脳内に、根崎さんとの記憶がフラッシュバックする。母親の後ろではにかみ笑いをする少年、ありがとうと言って、不恰好な花の折り紙を渡してくれるような穏やかな子。その後養護施設で出会った時の、全く言葉を発しない様子。そして……振り回された刃物が刺さる痛み……。曲がってしまった、私の決意。
……高田さんと同じように根崎さんと共に眠る時、彼はいつも暗闇の中の何かに怯えていた。私を抱えて、身じろぎすらせずに固まっている一方で、数時間毎に何かの幻覚を見て夜中に飛び起きる。息を切らす彼に、何度も、何度でも繰り返し、何も起きていないのだと言い聞かせると、彼はようやくまた、体を丸めて浅く寝息を立てた。
癇癪を起こすとすぐに壊してしまうからと、彼は私物をほとんど持っていなかった。最低限の服と布団、神忌としての道具、古びた2曲しか入っていない音楽プレイヤーとイヤホン一つ。音楽で周りの音を遮断して壁の隅で丸まっていなければ、彼は仮初の休息すら取れなかった。かつては娘と高田さんと共に、ひだまりの窓辺で昼寝していたのに。
隠していたものが、無理やり引き摺り出されていく。彼が本当はどんな人で、どんなことを思って神忌をしてきたのか、勝手に読みとられていた。でなければ、あの結界内以外で彼のことを考えないようにしていた私が、こんなに何もかもを思い出すはずがない。
視界が、回った。神は満足したらしい。そこからさらに自分の思考が変わっていくのを感じる。世界を定義しているのは言葉と思い込み、その思い込みを強制的にひっくり返されて悪い薬を打った人が後々証言した美しい世界のように、周りのものが快楽で満たされる。開け放たれた銃弾の跡のある扉からは、不可視の何かが列をなして入り込んだ。
汚れに塗れていたはずの高田さんは、惚けたような顔をしている。彼もまた、記憶を引き摺り出されたのだろうか。それとも見えないものを見ていたのか。血と吐瀉物の中で根崎さんが高田さんを隠すように覆い被さって動かない。欲してすらいない救いの蜘蛛の糸が根崎さんに絡まってゆく。ただ聖なるものという存在を高めるためだけに根崎さんの真心は牙を立てられ食われて空っぽにされる。彼は今、人生の中で発した慈悲という過ちのせいで、その能力を失ってしまった。
抗いようもないほど美しい景色の中で、私たちは気を失った。
白井Side
神との交渉に杖は不可欠だ。彼らだけ一方的に言葉を伝えてくるのが常で、こちらの言葉など聞く気すらないのだから。しかし杖を用意し相手がわかる言語で会話することができれば、表面的なコミュニケーションは取れる。あくまで表面的ではあるが。
『目的ヲ、教エテいただけますか』
『目的?』
神に逆らってはいけない。基本的に彼らは絶対的強者なのだ、下手に、そして恭順の意思を見せなければ、この生を無駄にするだけだ。後ろ手に自らが覚えている手段を確認しながら、神の目的を予測する。根本的に何を望んでいるのかまでは予測できないまでも、欲しがっているものがわかれば、少しは身動きが取れるかもしれない。
そうした俺の様子を見て、神は笑った。まるでバカな子供を笑うかのように、あるいは変な動きをする小動物をバカにするみたいに。
『お前は知っている!』
『……イエ』
『知っている!』
『知っているとも!』
『ばかだね、気づいてないつもりでいる』
『わかって当然だろうに』
彼らはただ慈しみと憐れみと嘲りだけをこちらに向けている。この尊大さを受け流す方法を思い出しながら、その意図を図る。そういえば、彼らは随分と上機嫌だ。上機嫌に見せているということは、そう見せる目的があるか、あるいはそう見せても問題ないか……俺はここで、自分が昔ほど相手に警戒されていないことに気がついた。チャンスか?いや、それとも……何か大きな事柄の、渦中の、それも後戻りができないほど終わりの段階にきているのか……?……先ほど、一時的に神側に意識が引っ張られた。覚醒に対する対策を行っていたから、途中で戻ることができたし、こうしてHIKARIとしての記憶も取り戻すことができたわけだが、そうでなければ俺はあちらに変わっていた。それが目的であるなら……?
『……私は、そちら側に行くつもりはない』
『強情だなあ』
俺からすれば彼らの方がよほど頑固だ。彼らからすれば条件は良いのかもしれないが、五千年の間一度もその意思を持ったことはない。いや、彼らからすれば意思など関係ないのか。
……彼らは人を素材として見ているが、それだけではない。
彼らは魂を孵化させたがっている。
人間とは、神が作った、魂という神の卵を抱えた揺籃装置だ。孵化した魂は人体と精神を破り、人ではなくなる。どんなに人が懸命に生きようが、その記憶も、人生も、二度とまともに思い出すことはない、完全な人外と化す。そう成れば、生きたまま人をのたうち回らせることに、なんの抵抗も抱かなくなる。
彼らにとっては些細なことなのだろうが、俺には、俺たちにとっては違う。なんのために、禁忌に手を染めてまで魔術という学問を紡いできたか。
多くの人を犠牲にしてまで、人ならざるものどもの技を真似てまで魔術を行使してきたのか。それは人を人たらしめるためだ。人として種の生命を全うする方法を探るため。あちらの都合を、勝手に押し付けられるこの状況を打破するため。
静かに息を吐く。今はTENNSEISOUCHIをすでに一度使ってしまっている状況だ。すぐに同じものを用意するのも、過去のものを再利用することも難しい。それまでの猶予を得なくてはならない。rakuwoKITOUSHI対策を練る。kannrisakiniakusesuして脳を保護し、一度地盤を固める。またrakunohoukohekiの再整備も走らせる。今HIKARIを奪われるのはまずい。reiはかなりの隠蔽を行っていたはずだが、kannrisiyaである彼がいない以上menntenannsuもまともに行えていない可能性を考慮せねばならない。setusokukanoueriatewanaを仕掛けることでアラートを出し、一時的な対策としておく。rakunosikennは幸いにも潤沢のため、kannrikennkennを書き換えsihunnnosikousyoriの一部を移行しsikouennsannの速度を高めておく。待て、SETSUSOKUKASHIYONOHOKOを忘れている、ああ、遅いな、くそ。
……YOSHI,ATOSHIYUTSUFUNNTAEYOU.SOUSUREBATSUKINOHATSUKUATSUFUが完成する。俺は神に語りかける。
『……神々よ、私はまだ人の身でやりたいことがあるのです』
『ところでその字はなんなの、すごく読みにくいんだけど』
やはり読まれているか。……咄嗟とはいえ手順の思考を変える判断は間違えでなかった。
『人類の考えることに興味がおありですか』
『……いや、いい。お前がそういう奴なのは知ってる』
『時間だ』
なにを、と思うと。
……神が、道を開けた。
何かが、来る。
異様なものを感じ取ったHIKARIは、右手にある白い杖を素早く後ろにかかげ、左手で相手を捉えようとした。しかし、その人影を見て動きを止める。
それは……高田善輝だった。善の輝きを体現した男、市の安寧のために手足を差し出してまで戦う男。彼は、初めて会った時と同じ着物を着ていた。仮面はしていなかった。
白井隼人の記憶に引っ張られるのを、慌てて止める。
彼がここにいるのは、おかしい。いや、先ほど杖にした人間が……彼らだった。彼は対象外のはずだ。つまり彼は……あの光景を見たのか。全身が緊張する。
「……白井さん……」
彼はまっすぐこちらを見ていた。その目には疲れと涙が滲んでいたが、少年のようにどこか純であった。そこに、全てが込められているような気がした。
……魔術の知識が失われた世界で、よくここまで戦ったものだ。彼も、彼らも。それは素直に賞賛に値する。その覚悟にはHIKARIも敬意を払っている。しかしそれで彼らを選ばないことにはならない。むしろ、自らも他者も含めて犠牲にしてきたからこそ彼らはこの街の調節者たり得たのであろう。ならば彼らが選ばれたことはむしろ道理にかなっているはずだった。
しかし、彼の様子は、普段とはどこか違っていた。それを強くHIKARIが警告を発している。神を見くびるな、備えておいて損はない。いっそのこと、このままここで殺してしまえ、と。だが……俺は右手の杖を下ろしてしまった。彼の善良さが、頭の奥でちらついていた。
彼は、彼にしては静かな声で、もう一度こちらに語りかけてきた。
「ねえ、白井さん」
神の前であることはきっと彼もわかっているのだろう、流し目に一度だけ、彼が奴らのいる方を見た。しかしすぐに興味をなくした。昔REIにHIKARIとして注意した時の言葉が、うっかり口からこぼれかけた。
「白井さんが……根崎たちを殺そうとしたのか?」
息を呑む自分と、覚悟を決めた自分がいた。
「そうだ」
自分でもゾッとするほどに冷え冷えとした声が響く。
「どうして」
当たり前の質問が届く。俺は神を警戒しながらも、静かに答えを伝えていく。
「……神々と交渉する方法がある、だがその手段に人間が材料として必要なんだ」
聞かれた内容に答えたところで相手が激昂することはすでに分かりきっていたが、それでも隠す気は無い。彼は状況をよく理解するべきだし、魔術の痕跡が少なくなっている現在、ヒントだけでも与えておくことが何かに繋がる。……もっとも、それで何か問題が起こるようであれば、相応の対応をとるだけだ。当たり前のようにHIKARIの思考がそう答えを出していく。
「……なぜ」
魔術を行使する杖を作るためには人体が必ず必要だ。
神の技術を盗んで転用しているのだから、その手段が人に使われないように封じられているのは当たり前で、そのために我々には道徳心が植え付けられている。
だが……そういう話をしているのではないことが、わかってしまう。
「なぜ……なぜそれが、俺達だったんだ……?」
「……。」
そこにいたからだ。
一番近くにいたからだ。
今までずっとそうしてきたからだ。
竜巻に遭って壊される家が予め決められていないように、波に流されていく人が予め選ばれていないように、平等に、無慈悲に、考えず。
本来ならば身内から選ぶそれを、今回は緊急性の高さから距離で選んだ、それだけのことだ。
それで納得できるわけがないだろう、と誰かが言った。
俺は五千年前から繰り返してきたことに備えて、身構える。
いつものことだ、それに、相手は魔術を知らない。知らないで言っているのだから、説明しようがない。ただ淡々と事実を話す以外にないはずだ。自分の中でそう言う答えはでていた。なのに、揺れる、均衡が崩れ、わからなくなる。
HIKARIが思い通りにいかない自分の思考に焦り始める。気づくことを拒絶するかのようだった。
「……誰かが、誰かが選ばれなければならなかった」
かろうじて言えたのは、それだけだった。
その時、パン!という乾いた音と共に何かが弾ける音がした。高田の黒い両腕のシルエットから、粘性のある赤いものがぼた、ぼたと流れる。血がじわじわと滲む白い袖の着物と革手袋に追われたそこからは、何が起きたのかがわからない。ただHIKARIの魔術的感性が、一斉に警鐘を鳴らす。
「……なら、僕は別の道を選ぶ」
「なにを」
「人間と人間を天秤にかけるなら……俺が選ぶのは、家族だ。あんたの正義じゃない」
白い着物が弾けた。細切れになった服の下で、変形した骨が、メキメキと音を立てて攻撃的なシルエットを作ってゆく。思わず目を見開く。魔術を彼は知らないはずだ、ということは……。
視界の端で、神が笑っていた。
「お前……!人間性を、差し出したのか?!!」
人の視力では捉えられない速さで動いた彼の影が、その答えだった。
高田Side
動かなくなった渡辺さんを抱えて俯く透子ちゃんの横から、思わず手を伸ばした。床に伏せられている根崎の頭部。赤黒い粘液は、清廉潔白を象徴するらしい僕の白い着物の裾を穢していた。
穢れの象徴だった男、蛇蝎のごとき者。そこに甘さがあったという点も含めて、彼はまことに忌むべき存在だった。研ぎ澄まされた穢れだからこそ道具となりうるのに対し、彼はその点ただ害であった……神の山に棲まう男はそう言ったことがあった。なら彼はいないほうがよかったのか?
違う。
高田はそう心で叫んだ。声は出なかった。
違う!
そう叫びたい高田だったが、呪物として育てられた彼は拒絶の言葉を口にできない。だがその単語は淀み、回って彼の体内をぐるぐると回っている。自分の中に囚われた汚物は沈殿し続けている。だから高田は自分が良いものだとはちっとも思えなかった。そうあれといくら育てられたのだとしても。
……何か起きた時、僕の中にある我慢ならない感情はいつも祈りの形をとっていた。今回も、そう。それに、抗うつもりはなかった。その先についてはよく知っていたから。
目を閉じて、何も考えないようにする。それは得意なことのはずだ。清らかに、静かに、ただ何も考えず、受け入れる。それでも、ああそれでも、体から自分の願いが立ち昇っていくのがわかった。
自分の手が重なる。
ああ、どうか……。
高田は祈った。
神と会話した。
何を望む?
全部、元に戻してください。
それはできない。
では、今奪われた命を返してください。
それもできない。
ならばせめて彼だけでも。
できない。
なぜ、今までも願ってきたはずだ。
知りたければ、その答えを報酬としようか。
……ならば、何を差し出せば、彼らを生き返らせてくれますか。
あれが欲しい、この扉の先にいる人間、君の彼らを殺したやつ。
……白井さん?
そう。君たちが、光輝の魔術師と呼んだもの。
こうきの、魔術師。
あれの相手は、人では身に余る。
……では、願います。
何を。
戦い方と、力を。あの、半神と呼ばれた人のように、なることを。
それなら、いいよ。
今、俺は白井さんと対峙する。神によって与えられた知識によって、彼のことは今までよりも良くわかった。
神南市のように、かつて人々は常に神に脅かされて生活していた。その運命を変えるために、ありとあらゆる手段を用いて、生まれた「魔術師」という存在。その中でも、強力な力を得た存在。人類の守護者、人の身でありながら人のために神のように人を判断し、一人で魔術の体系を一つ作り上げた、古代の名もなき英雄。白井さんは、転生したその魔術師だった。
彼が生きていれば、この街の惨状は変わるのかもしれなかった。かつて喉から手が出るほど欲しかった、神と対抗する手段を持った人。でも……彼は、俺たちを救わなかった。
こちらから目を全く逸らさない。彼は、己に向けられる呪いや恨みから逃げないのだろう。逃げたことはないのだろう。全て受け止めた上で、なお選んできた、そうでなければ、俺の質問に少しでも言い淀んだはずだ。真島さんのように。
頭の中に植えられた知識が、あまりにも悍ましくて、あの本田さんが追っていた半神がああいう風に振る舞った理由がわかる。人を人と思うと、到底この力を振るうことはできない。あの人も、何か叶えたいことがあって人をやめたんだろうか。それを、後悔していたりしたんだろうか。
……その上で、人であることを何千年も保ちながら、この知識を利用してきたこの男が恐ろしい。
人間という生き物の、真に化け物じみた部分をまざまざと見せつけられている気持ちだ。彼は大義のために我が子を拷問して殺すことにすら、一切躊躇しないのだろう。
……だが、高田には一つ違和感があった。
確かに光輝の魔術師と呼ばれた男はそういう存在だったのだろう。だが、自分が知る白井隼人という人間は、全く違う思考をしていた。
三井倫太郎という友人を、悼み、想い、それで自分の立場まで危うくしてしまった人。一年間、悲しみに沈んだまま、常識はずれの話を黙って受け入れた人。彼はそれが「友人の遺言だったから」と言った。彼の悲しみは、まるでうっかり体の奥深くに受け入れてしまった異物を、体の外から無理に引き抜かれて内臓をぶちまけてしまったみたいだった。彼は悲しみの癒えない自分に時に戸惑い、そこから二度と安寧を取り戻せなかった。
……こんなに一人の親友の死に振り回され溺れるように自分を追い込んでいく人が、こんなに愛情深い人が、そう簡単に人の死を、多のための少数の犠牲を選べると思えなかった。
あ、と思った。
残酷な気付きだった。
まるで、どこか……そうするために全ての舞台が整えられていたようだと、思ったのだ。
それがどこから始まったことか、までは考えられなかった。
白井Side
それは白井にとっても。HIKARIにとっても予想外のことであった。人ならざるものを討伐すると銘打っているジン対が行うことだとは思えなかったからだ。
彼は自ら人間であることを捨てた。彼らが呼ぶところの、半神という状態に近くなっている。あれは、神に首輪をつけられ神の家の中で飼われるようなものだ。そんなものに……いや、今思えば、前兆はあった。
願いを叶えるという交換条件に対して、手足の一本や二本というのは、あまりにも安い。破格と言える。それに違和感を覚えなかったのは、俺が白井隼人だったからだ。魔術や魔法といった概念に対して、相応の釣り合いや対価といったものが存在するはずだ、という当たり前の理屈が回らず「ファンタジー」の一言で思考停止していたからだ。
普通に考えれば、そんな条件で彼らが動くはずがない。それが普通なら世界中はとっくに隻腕で溢れてる。なのに彼らがそれで動いたということは、それ以上の利が見込める可能性があったということだ。
例えば……自らの手駒として自由に動かせるように、少しずつ中身を弄る、だとか。
白井は瞬時に考える、まだ精神の乖離は進んでいないのであれば、多少の後遺症は残れども戻せるかもしれない……いや、何を甘いことを。白井としての、人命優先の考え方を魔術師は振り払った。
鈍った思考のせいで、二撃目、三撃目が後手に回る。
「やめろ!!」
念を飛ばしながら、白井は高田の首根っこを掴み、地面に叩きつけた。しかし高田の首周りの皮膚が裏返り、白井の指の肉を削いだことで高田はそこから脱出する。
神からどんな知識を得たのかにもよるが、人類の積み上げてきた魔術ごときで敵うと考えない方が良い。説得か、不意打ちしかない。
「今こんなことをしている場合じゃない!!」
動作が素早く、音で思念を伝える隙はない。白井は念を飛ばして相手の冷静さを引き出そうとする。
「だからなんだよ!」
間髪入れずに返ってきた念に、一瞬白井は怯む。
「……この市が滅ぶぞ!」
「だからなんだってんだよ!!」
高田もまた思考を念で飛ばし、白井に対抗する。それはひどく尖ってひび割れて聞こえて、頭痛がした。血を吐きながら高田が絶叫した、その血から骨を含んだ針が飛び、白井の全身を突き刺す。
「っぐ!」
体内で針が乱反射し、一瞬膝をつく、だが一瞬咳き込んで、体内に光を放射させる。胸の辺りが一瞬光って針は消えた。その鳩尾に高田の膝が入る。膝上には攻撃的な形状のスパイクが出ていた。
「俺の友達を殺すものを、守って何の意味があるんだよ!!」
熱線で相手のトゲを丸めたので、ダメージは軽くて済んだ。
だがその言葉に怯む。かつての思想から考えれば視野の狭い愚か者の戯言でしかなかった。一蹴すべき話のはずだ。
なのに、頭の奥で記憶がゆらめいた。葬式で三井の父に抱いた憤った時の、あの感情。許せなかった、あの場で何か言ってやらなければならなかった。死んだ人間に何を、と思うが、彼の葬式だった。病院が何だ、立場が何だ、誰が、何が、なんだ、あの父親がどんな立場で何を言わなくちゃいけなかったなんて知ったことか。三井は……最後まで親のことをちゃんと考えてたのに。
激情が燃え上がり自分の思考を覆いはじめる。考えに雑念が混じることに歯噛みしながら、杖を立て、指で高田を捉える。
動く相手を前に、三連続で打ち込まれたそれは、重層化された骨によって食い止められた。何を悠長なことをしている。確実に息の根を止める出力になっていなかったことに、苛立つ。
「白井さんは……この市のためだったら、三井さんが死んだってよかったと、思うのか?」
「思う。誰かが考える必要があり、俺にその能力があるなら。だから俺はそう考える」
高田の両腕がこちらに向かってきた。そのまま受け止めるのはまずいと考え、波長を変えて弾く。
「そもそも、アレは俺を監視するために仕掛けられた罠だ」
俺の答えに、一瞬彼が眉根を寄せ、すぐに平静に戻った。ゴーレムを知っているようだ。神の与えた肉人形、人の技術では見分けられない不完全な人間。人は、自分専用に作られたそれに抗いようもなく好意を抱く。それは時に家族への親愛の情を捨て去るほどにまで膨れ上がる。
「確かに、アレへの愛着はある。それに抗うつもりもない、できないからな。だが……それが呪いによるものだと、今は自覚している」
飛び散る骨片を、レーザーで叩き落としていく。最低限の効力で効率的に発射した。高田は戦闘経験は少ないらしい、ブランクがあるとはいえ魔術師としての戦闘経験にはこちらにまだ、分がある。
「……つまりあんたにとって、三井さんは敵だったってことかよ」
「いや」
……………………いや?
なぜ今俺はそれを否定したのか。あっているではないか。神の使者なのだから。
……だがあいつは、あいつ自身は、俺を裏切ったことはない。あいつの言葉に嘘はない。そういうものではないのだ、アレは。そういう作りではないことは、解体したときに知っている。そういうやつじゃないことは、俺が知っている。
あいつに悪意はない。ただ俺の友人だった。それは紛れも無い事実。あいつの思いやりも、言葉も、全て偽りなくあいつから発せられたもの。調子が良くて、妙なところを気にするくせに、変なところで気が抜けてて、他人に迷惑かけて、でも誰に対しても寛容で。人が、まともでなくても、ズレてても、許す男。
俺にバカなのがいいところだなんて、はじめて言った奴。
……そうだ、彼はゴーレムだから、手を加えなければ転生しない。なのにあいつ、また会おうなんて言ったのか。事情も知らないで。
「白井さん、あんたやっぱり、三井さんを殺すなんて、どう頑張ったってできないよ」
「違う!これは俺の思考ではない!」
思考がぶれている間に、頭部に重いものが当たって、姿勢を崩した。
馬乗りになった高田が俺の腹と胸に骨を突き刺し地面に縫い止める。痛みに慣れていない体だ、俺は思わず悲鳴を上げた。だが、意識の端で指を動かす。
冷静なHIKARIの思考が指を曲げて心臓と脳を同時に貫く方向に照準を合わせ、高田を撃った。一瞬で絶命する位置だ。出力も高い。骨程度で防げるものではない。……力を失った高田が、横に倒れる。自らに刺さった骨を焼き切って、なんとか彼の下から脱出する。肉体から解放されていない状態の彼であれば、あれで死ぬはずだ。しかし、嫌な予感はしたままだった。
その時、彼の何かがまた弾けた小さな音が聞こえた。高田が、ふらつきながら起き上がり赤黒い腕で自分の耳の血を拭った。
俺の弾丸の傷が塞がっていた。彼は破裂した左目の空洞からとめどなく血を流しながら立ち上がり、こちらに向く。……さらに彼は交換条件を出したらしかった。
「……仕方ない」
そう言う彼が、何かを唱え、手を握り合わせた。後ろの神が笑う……足元に広がっていた血溜まりが、波打った。瞬間、それは泥のように粘性を帯びた黒となって、俺の足を引いた。床を貫通して、自分の体が沈む。……近くにいた人の反応が消えている。
こいつ、俺を殺すためだけに他人を神に捧げやがった!
「なにを!」
「あんたならわかるだろう!」
「ッく」
「あの時同じ能力があれば、あんたはきっと、同じことをしたはずだ」
両足を切り、黒い陣地から跳ねて逃れる。RAKUのriso-suを用いて再生させたが、戦闘に慣れない肉体がいくつも隙を生んでいた。rakunonaiseitaiekiでアドレナリンを生成し、多めに脳に投与しておく。もうこいつに容赦をかける必要はない、ないはずだ。動揺を抑え込む。物質を引き寄せ、組成を変える。
高田の攻撃を、幻影で逸らし、組み合わせに集中する。そして、中性子と陽子の組み合わせを変え、ずらせば……放たれる電磁波で、確実な攻撃となる。
なのに、照準が合わない。……自分の指が震えていることに気づいた。
なぜだ?
動けないまま、骨の針の一本が、俺の右目に突き刺さった。
「う、ぐ!」
距離をとって、咄嗟に引き抜くと、眼孔の中に何か粘性のものが詰まったのを感じた。熱を溜めて破壊しようとしたところで、そこから炎が上がる。視界の端にちらつくオレンジ色の業火。それが次の手を手を準備している高田と重なった。
その途端に白井隼人が思い出す。燃えた親友のことを。焼けて焦げていなくなってしまった友達のことを。その時に味わった苦痛と、そこから火傷のように残り続けた痛みを。思い出して思い出して思い出して、思考できない。防衛本能だけで行う回避行動はあまりに甘い。それでも自分に言い聞かせるように言った。善のためだ。人が生きる道のために、ここで死ぬわけにはいかない。個人的な感情に振り回されて判断を誤るなど、誰が行おうと俺はしてはならない。
その言葉はいつの間にか念となっていたらしい。
「誰かのために、その為に!!俺の家族や、友達が死ぬってんなら、それが必要な奴らは、俺が全員殺してやる!!一人残らずだ!!」
その言葉が、その叫びが、白井の内側に届いた瞬間……静寂が走った。その静寂を感じたのはHIKARIのみで、決して現実でそんなことは起きていなかったのだが、その言葉が体内で反射して、消えなくて……わかってしまった。理解してしまった。
HIKARIは、人類の存続のために、十人の人間より百人の人間のために。切り捨てること、天秤に乗せること、決断すること、どれも行わなかったことはない。数千年間、冷徹で確実な選択肢を選んできた。誰かがそれを選ぶ必要があった。それを選び続ける能力があった。トロッコの先に四人と一人がいるのであれば、例え友でも妻でも親であっても、レバーに手をかけてきた。そうであるべきだ、と思ってきた。そう叫ぶ自分の信念が、遠ざかって、遠ざかって。
白井隼人として生きた自分が自分を拒絶する。たった一人の友達のために、何が起きたって構わないと思っていたあの自分が。眠い目を擦りながら宿直室でぽつぽつと話したりだとか、真面目な話をした時に急に出てきた冗談だとか、そういう日常を少しでも保つためだったら、それが為されるなら、この町のどこかで知らない人間が何人か死のうが構わなかった。俺はジン対に憤ったのは、それが為されなかったからだ。
今俺は、同じことをしている。彼にそれを、強いている。そう考えると、自分の思想にも、その為に払ってきた犠牲にも、吐き気がした。頭では、神が俺の精神にダメージを与える為に行った計画だと理解しながらも、ただ、自分のしてきたことも、自分の考えも、理解しているのに、理解できなくて……。内側から発生する呪詛を処理しきれず、体幹が崩れる。俺の足が重くなる。跳ねた黒い液体が着いていた。
高田の気持ちがわかってしまった、身を滅ぼすほどに。
そしてHIKARIという魔術師の悍ましさが、わかってしまった。
かつて神に近いと呼ばれた。
それは化け物じみている、ということだった。
やめろ、やめろ、その考えをやめろ。俺を産み出したのは人の意志だ。命とは犠牲の重なった塔の上に立つもの。その犠牲を減らしていくことが人類の悲願、そのために生きたのがHIKARIだ。それを否定するような真似をしてはならない。神に対抗どころか、まともに対話できる者のいないこの世界で、少しずつ嬲り殺されていく人々を放置しておけと言うのか?
「飢えている子供がいるならのたれ死ねばいい、暴力を振るわれている女がいるのであればそのまま殺されちまえばいい、それを庇って俺の家族が!!同じ目に遭うのであれば!!!!俺は誰が生きたまま焼かれようが構やしない!!!」
脳裏で、炎がゆらめいた。悶えることもできずに発火し、崩れていく親友の姿が。何もしていないあいつが、あんな目に、あんな目に……。
「お前が代わりに死ね!化け物が!!」
自分の内側と同じ言葉が高田の口から放たれた瞬間、五千年間保ち続けてきた信念が、こわれる音がした。
高田Side
うるさいな。
そう思う俺の手元には、勝利が残っていた。さっきまで話していた人の頭だ。なんだかゾッとするような気持ちになって、自分の骨と血を動かす。
神々が望んだ素材の一つ、魔術師の脳髄だけを残して、他のものは削いでしまった。何かノイズのようなものが神々から発せられている。
何を言っているのか、少しだけわかる。
どうやらとても喜んでいるらしかった。
恨みも憎しみもなく彼の死を得られたことが、よほど嬉しいらしい。悍ましい生き物だ、でもそんなことは俺にとって関係なかった。
これで、透子ちゃんも根崎も渡辺さんも、生きていける。
それだけを考え、それだけを望んだ。
縋れる神でないことも、彼らが慈悲から願いを叶えるような存在でないこともよくわかっていたが、もうそこに首を垂れることに慣れてしまって、ただ祈った。
左腕をなくして透子ちゃんを生かした、右腕をなくして生き延びた、左足をなくして根崎を生かした……。右足でこういう事態になるとは、思っていなかったけど。
彼らは何かを話し合っている。
……なんでも、俺のしたことは、神々の計画にとって想定以上の結果をもたらしたらしい。
神曰く、俺のやったことの功績を讃え、白井の脳髄を代償に更に願いを叶えてやろうとのことだった。
本来なら、俺の頭を最後に回収するべきところの温情をかけてくれるとのお達しだ。かねてからの望み通り、お前に安寧を授けよう、と言った内容のことを尊大に伝えられた。
くだらない。
恩賞、と言いながら俺に拒否権はなく、その内容すら彼らが勝手に決めるのだ。彼ら自身が俺に与えた知識によって、そのあたりのことはよくわかっていた。あまりに身勝手で、理不尽で、どうしようもない化け物どもは、それでも親のように愛情深くこちらに「笑いかけて」いる。ああ、彼らに立ち向かう術などないのだと、理解してしまう。
今、俺が抱えている頭部が、人にとって尊ぶべき偉大な英雄であったことを、また思い出す。この不快感を治してくれる医者は、俺が殺した。そう考えると、俺がしたことはもしかすると人類を永久に苦しませうる大罪だったのかもしれない。だが、どうでもよかった。俺がすることは決まっていたのだから。
彼らが迫ってくる。
せめて、みんなに害が及ばないことを祈っていた。
根崎Side
土のままの地面の上、真っ暗闇の中で、傷口の上を毒虫や蟻が這い回っていました。もはやそれをはらうことも、寒さに身をよじる感覚もなくなった僕は、自分がこのまま目を閉じればこの土と同化するのだということだけ知っていました。なのに、虫の毒も、悪臭を放つ傷口も、もうすっかり目を開けている理由にはならなくなっていたのに、意識が落ちかけた時に思い出す過去の幸福由来の死の恐怖だけが、泥だらけの口と鼻に酸素を送り込むことをやめません。意識を取り戻すたびに蠢く命が僕に噛み付きました。
暗闇の中で、突然いなくなってしまった母の姿を思い出します。僕はそれを呪いました。恨んで、呪って、祟って、穢れて、僕は段々と過去にあったはずの温かさが邪魔になってきました。あの記憶が、あの記憶たちが僕をただ苛むのです。自分が辛いということを突きつけてくるのです。ただ横たわることを許さないのです。もういっそ、いっそ次濁のもとにはじめからいたんだったらよかった。僕が彼の子供だったなら、これを全て当たり前のこととして受け入れられていたのなら、どんなに楽だったろう。これから先もう二度と手に入らないものを、こうして何度も思い出すくらいなら、初めからなかった方がよかった。段々と、そう思うようになっていました。
お母さんは建物の瓦礫に潰されて死んでしまったそうです。神様に殺されたのだと次濁は言っていました。お父さんは前からいません。僕の保護者はもう誰一人いなくなってしまいました。これから先、もう誰にも護られることなどないのです。
ああ、嫌だ、楽になりたい、楽になりたい、このままこれが当たり前だと思い込んで眠ってしまいたい。そのまま二度と目覚めなければ良い。どうして、ああ、なぜ、まだ苦しんでいる。苦しまない状態があったからだ。嫌だ、嫌だ、嫌だ!!こんなことなら、しあわせなんて……少しも感じなければよかったのに……。
代わる代わる夢に現れる思い出の一つだと、今気がついた。目が醒めたのだろう。だが全く起きた気がしない。寝ている時と比べると起きている方が遙かにマシだが、起き上がることはあまりにも億劫だった。それでも、目を開ける。瞼の中の暗闇にいて、また次の夢を見たくはない。
……だが、視界に映ったのはあまりにも非現実的な光景だった。陽光の照らす畳の室内、色褪せた押入れと羽毛の布団、枕に敷かれたタオル、腹にかかっているカラフルな毛布。そして、記憶より小さい自分の手のひら。それを認知した瞬間に感じたのは……ただひたすらの恐れだった。ついに自分がおかしくなったのか、得体の知れない神々の攻撃か、それともまた別種の悪夢を見ているのか。なんだこれは、なんだこれは!
横で何かが動く気配がした。瞬間的に恐怖を覚えて飛び起きて端に寄る。髪をかきあげて何かを確認している女性がいた。
「……やだ目覚まし鳴ってない!!孝平、起きなさい孝平!!!学校遅れちゃう!!」
……母がいた。髪や顔を撫で付けながら何かの文句を言う母の姿は、記憶からも失われていた姿のままだった。
「あ、起きてたの?!じゃあ起こして……!いや、無理よね……ともかく早く着替えて!」
彼女がこちらに手を伸ばすのを、反射的に振り払ってしまった。
「……え?何?自分でやるの?……あ~、わかったから。早くしてね」
その瞬間に僕は確信した、これは悪い夢の類であることを。それも神が見せる最低最悪のやつだ。……全てが元に戻ったのであれば、この身に染みつきこびりついた暗黒が、こんなに鮮やかに残っているはずがない。
覚えているのは、あの尋常ではない耳鳴りと……失敗。なぜ叶えてくれもしない神に祈ってしまったのか。それは自らへの静かな失望となって、頭を冷やしていく。高田は、連れて行かれてしまったのだろう。では、この幻覚は、僕の後悔が生み出した現実逃避なのかもしれない。
頭に学童帽を被せられた僕は、あの頃の手に馴染んでいたランドセルから金属の音を響かせながら、高い位置にある扉を開ける。扉が重い、この体の非力さに、怯むような気持ちになる。戦う術を奪われて、まるで時間が戻ったかのようなこの世界に置かれたこと、その不気味さが不安を増長させていた。
「わっ!」
その時、突然向こうから少年の高い声が聞こえた。重い扉に何かがぶつかる音がする。
「……高田?」
幼いながらも、見慣れた姿に、一瞬声が震えてしまった。
「いたぁ……根崎、急に開けないでよ」
それに気づいたような様子もなく、鼻を押さえた少年が、うずくまっていた。
「……完全に人ん家の扉の前にいるお前が悪いだろ……」
違和感に気づく前に、後ろから声が聞こえた。
「えっ、善輝くん?!あなたパジャマのまま……!学校どうするの?!」
「はへ」
「善輝~!!お前何してんだよ孝平くん家の前で!!」
「いえ……私は大丈夫ですけど」
「孝平くんもう支度できてるじゃん、一緒に学校行けないぞ」
僕らの倍はある高田と名乗る男性が、高田を……いやわかりにくいな、高田善輝を軽々と抱え上げる。
「……こっちはなんとかしますんで、すんません根崎さん、先に孝平君連れてっちゃって下さい」
……逆さになった善輝の顔がみるみる青くなっている。あれ、急所に肩が当たってねえか。鳩尾付近に男性の肩の角が当たっているのに、善輝はうまく身じろぎすらできていないようだった。そのまま母と高田父が何か予定などについて話し合い始めてしまっている。そういえば、彼らは同僚なんだったか。
「あ、あの、たか……善輝君が」
「んー?大丈夫大丈夫、なんかちょっと元気ねえみたいだけど、眠いだけだと思うから」
違う、そうじゃない。なんとか言葉を捻り出そうとする間に、善輝がけぽ、と胃の内容物を吐き出した。
「高田くん!善輝くんが」
「え、え?!なんで、おま……は?!え、そんな体調悪かったのか?!言えよぉ!!」
いや今のは完全にお前のせいだろ。僕は善輝に同情した。
高田はあのまま遅刻になるのだろう。僕は小学校への道を思い出そうとしていた。十年以上前に通っていた小学校への通学路なんて覚えていないが、市の仕事をしていたお陰で小学校の大体の位置はわかる。気は乗らないが、戦う手段が無い以上、逆らうことが得策と思えなかった。……自分より背の高い生き物は、こわい。
「孝平、あなた善輝くんと喧嘩でもした?」
「……なんで?」
「だって昨日まで、よっちゃんって呼んでたでしょ」
……この茶番にも付き合う必要、あるんだろうか……。
その質問には答えないまま、家を出た。見覚えのある廊下を通り、記憶の中よりも随分段の大きい階段を降りる。ここは四階だった。エレベーターを使わないことを怪訝に思われていないと良い。自ら狭くて死角のないところに入るのは嫌だった。柱の陰だとか、踊り場の裏側だとかを通る前に、一瞬警戒してしまうのは、体が小さくなったせいか、あとは……銃の一つも持っていないからか。自分の無防備さが、考えれば考えるほど不快だ。体格差のある人間が自分に襲いかかってくる時のどうしようもなさは、この歳からあと一年後に十分に味わうことになる。
一つ幸いだったのは、覚えているかギリギリの記憶に頼って学校名や地名を考える必要はなさそうだったことか。同じ学童帽を被った子供をちらほらと見かける。団地の入り口を出て、住宅街を曲がった。
急に、後ろのカバンに衝撃が走った。
「おい!善輝はどーしたん…」
瞬間。
恐怖、振動、動揺、心臓が止まる。無防備、無力、反応できなければ痛みを伴う。ロールバックする自分の絶叫、体内で炸裂する不快感と憎悪、あるいは視界の端に動くあいつの影。血、骨、泥、蹂躙の予感、死ぬ。いやだ、死ぬ、死ぬという予感と共に身体は動く。
素早く振り向き足を取った。倒れた相手の右腕の関節を拘束した。それはうずくまって動かない。動かないものに向かって、動かないうちに何かを探す。壊れた花壇のブロック片。頭に振り上げる。止めるものは誰もいなかった。
男の無骨な手が、僕の手に触れる。男は僕の背中にぴったりとくっついていて、両腕は僕の両腕に重ねられて、その生ぬるい体温から逃げる方法がないことを理解させられた。背中に当たるざらついたのコートの感触、そこからは耐えず鼻の奥をツンとさせる匂いがしていた。でもこの鼻の痛みは、男の体臭のせいだけじゃない。
「早く」
重い重い鉄の塊は、その重さを理由に手を離せたらどんなに良かったか。金網の中でふわふわしたウサギが震えてこちらを見ていた。学校にいたウサギだ、見覚えがある。男に支えられた僕の体、黒い金属の塊、柔らかな毛の塊。涙が止まらなくて、全てがすりガラスに覆われたみたいに、にじむ。
「泣くなよ、俺が悪いことしてるみたいだろ。テメェに付き合ってやってるのによ」
できない、できない、やりたくない、しかしもうこんなことをするのは二度目で、引き金を引けなかった時に自分の身に起きたことを思い出すと、さらに指先が震えた。息を吸うと、鼻と胸と脇腹が痛い。息を吸う分僕の血は体から抜けて、身体中が冷えていくようだった。
「……。」
後ろの男の身体に力がこもったのを感じた。瞬間、頭のなかに血の匂いが駆け巡って、僕は指先にある冷たい鉤爪を引いた。引いてしまった。爆発した鉄の塊が熱を持つ。殴られたみたいな熱さだった。
至近距離だった。身体に液体が飛んだ。温かくて生臭いものが、顔を覆っている。黒い毛にその液体が飛び散った。ウサギが檻の中で丸くなった。耳をつんざくような鳴き声がする。一発で急所に当てられなかった。
「集中しろ」
呆然とする僕に男は冷たく言い放った。暗い色に染まった布の上でウサギがのたうちまわりながら檻をガタガタ鳴らしている。鳴き声がうるさい。檻の中でウサギが吐いた。形の崩れた穀物と麺と肉の破片が胃液に混ざっている。
「汚ったねえなあ」
肩の上に次濁の手が乗った。僕はもう一度引き金を引いた。ひっくり返ったウサギは、その後二回、三回痙攣してから、動かなくなった。
「よし、よくやった……ああ、よくやった」
と言って、何か鼻を捻じ曲げるような異臭に包むように、男は僕を抱えた。大蛇のような二本の腕が僕の腕の下を通って、僕は一歩も動けない。熱いのか寒いのかもわからない。ただ高揚、絶叫したくなるような高揚だけがそこにあった。
死んだウサギの頭蓋から目がこぼれた。
夢……。そもそも、いつの間に眠ったんだ?少年の息を確実に止めようとして、その後の記憶がない。起きたことを悟られないように動きを固めたまま気配を探る。
……部屋の中に人はいないようだ。薄く目を開けて周囲を探る。襖、押入れ、端に寄せられたランドセル、学童帽、古びた台所、窓の外の何も植えてない鉢、室外機、高田、物干し竿。は?
顔を挙げると、あいつが手を振っていた。オイ。
なんでいるんだよ、いつからいるんだよ。いや、本当にアイツか?自分の中の猜疑心が濃くなって、とっさに周囲を見渡して……。
「おじゃまします」
……こいつ普通に入ってきやがった!
母よ、戸締りはしてくれ。
「おはよう、元気?」
「……。」
「な、なんだよその顔は……え、それとも体調とか、良くない……?」
「……寝起きだからに決まってんだろ、ばぁか」
僕が起きた時に機嫌が悪いことを、彼が知らないはずがない。
彼は、神の関与がどうかは不明として、神愛としての高田で間違いない。
まず感じた違和感は、彼が僕を「根崎」と呼んだこと。僕が過去に彼をあだ名で呼んでいたのだから、彼もまた僕をなんだかのあだ名で呼んでいたはずだ。なのに名字で呼ぶのはおかしい。
そして第二に、彼が父親に抗議しなかったことだ。神愛になる前の高田は、今よりもっとやんちゃな性格をしていたように思う。少なくとも、抱えられた状態が悪いのに抗議せず胃の中の物を出してしまうような奴ではなかった。
彼はなぜかこの世界で、まだ神に連れて行かれずに済んでいる。同じ轍を踏まぬよう、安堵を顔に出さないよう力を込めている自分に気づく。今それをしたところで、どこまで効果があるのかわからなかったが。
「……そっか」
「で、お前、なんか知ってんだろ?」
「ん?」
「この幻覚について。そのために抜け出してきたんじゃねーの?」
「ああ、そう……そうなんだけど、その説明に来たんだけど…」
「おう」
「……その、知ってることが……あると言えばあるし、無いと言えばない……」
「ハァ?」
「お、怒らないでよ」
間が抜けたような彼の口調は、こちらの緊張感を削いでいく。二、三発彼を小突いて、詳しく話を聞いた。
……話に追いつくだけで一苦労だった。なんだよ、白井さんが魔術師?神への対抗手段?それを殺した?お前が?文字通り虫も殺せないくせによくそんなことができたな……いや、もうそんなことはないのか。実際、僕はもう神忌としての能力をほとんど持っていない。周りの「空気」が違うのだ、それでわかる。となれば彼もまたそういった部分の制約から逃れているのかもしれなかった。
で、白井を殺した特典でなんだか良くわからない世界に放り込まれたんだと。そこになぜ、僕がいるのかはわからないらしい。透子ちゃんや、渡辺さんのことも探したいが、周りに大人が多くて身動きが取れないようだ。
「そういやお前、どうやって窓の外まで来たんだよ」
「そりゃ、手足で」
「あったりまえのこと言ってんじゃ……窓、伝ってきたのか?」
「うん」
「六階から?」
「うん」
「馬鹿じゃねえの?」
神と対峙するときに屋根の上なんかを走り回っている僕らだが、あれはそのために訓練した体あっての芸当だ。さらに今の体格では力もリーチもない。自殺行為すぎる。
「あのな!お前がここで死んでたら!俺はこのわっけわかんねえ世界で一人ランドセル背負ってお遊戯会しねえといけなくなるかもしんねーんだぞ!もっと考えて行動しろ!!ここに詰まってるカニ味噌かち割るぞ」
「痛い痛いたいたい!!」
「反省しろ!あーー腹立つ!!大体よ、てめぇは手だの足だのぷちぷちぷちぷち取られすぎなんだよ!!ザトウムシか!!」
「ザトウムシって何?」
「今聞いてんじゃねえ!!!」
我慢できなくなり思いっきり拳を振り下ろしてから、そういえばこいつ今の体だと前ほど防御できねえんじゃねえの、と気づく。……頭を抱えて転げ回る元気がありそうだから、まあいいか。
「……で、どうしよう、根崎」
「……渡辺はともかく、透子がな……」
こういう整理するようなことは大概高田と透子にまかせていたので、あまり得意ではない。
「今の僕らの年齢だったら、まだ彼女は生まれてないんじゃないかな」
「……と、なると、真島さんがいるか」
「……。」
「……どーすんだこういう時」
「少しずつ情報を集めていくしかないんじゃない?いつもみたいに」
確かにな、と頷く。……そういえば、僕はさっきうっかり一人殺したかもしれないのだった。なのに、それが跡形もなく消えているのは、やはり不気味だ。まるでそんなことは初めから起きてなかったみたいに、僕はここで目を覚ましている。
……殺された人間がいなくなったからといって、僕の罪がなくなるわけでもないのに。この砂糖菓子のような幼稚な綺麗事は、何を目的にして発生しているのだろう。
「ひとまず、真島さんを探すか?あの人だったらたまたま会う可能性もある」
「そうだね」
「……何だよ、ニヤついて」
「いや、根崎って、昔は眼鏡してなかったんだなって」
殴られて目が悪くなったから、この頃に眼鏡はしていない。
「あ~、遺伝ってコエーな」
「お母さんも眼鏡だもんね」
……あの眼鏡は母の遺品だったらしい。言われて思い出した。
あれは真島さんから渡されたものだった。あの人が、僕の目が悪くなっていることに最初に気がついたのだ。
今よりずっと荒れていた自分に、よくもまあメガネなんて渡したよな、あの人は。眼鏡屋に初めて行った時のことはもう覚えていないし、あの頃の僕がおとなしくしていたとは思えないけれども。それでもあれは、いくら無くしても、壊しても、彼がいつも、戻してくれた物だった。
「でもメガネ一つで不思議だ、怖さ二割引だもの」
「それよりガキだからってのがデカいだろ」
「あー……確かにその顔で根崎の感じが出てるのって不思議な感じ……」
「……お前はあんま変わってねーな。アホ面三割増だが」
「そう?よかった…………若見えするってことだろ?」
「頭お花畑言語で解釈するならな」
人の身で神々と対峙したとは思えない能天気さで、高田は顔に笑みを貼り付けていた。貼り付けていたと言っても、普段の笑みになるように笑みが深まるのを調整している感じだが。表面的な会話を聞く限り、昨日のコイツと変わらない。むしろちょっと調子に乗ってる。
指文字を組んだ。
『願いの代償は?』
『ないよ、心配しすぎ』
しないわけないだろ馬鹿野郎。生身で神と交渉して無傷とか、やってることが曲芸すぎて信じられない。
あまり実のあることを話さない間に、急に家のドアの鍵が開く。
「ただいま、熱はどう?ちゃんと寝てた?」
母だ。どうやら僕は朝から熱を出したという設定らしく、学校には行かなかったとのこと。ああ、ゾッとする。
「起きてゲームしてたんじゃないでしょうね……え、善輝くん?」
「こんにちは」
「…だめじゃない!お見舞いは嬉しいけど、移っちゃうから!」
高田が家に来ていたことに母は一瞬面食らっていたが、勝手に解釈して納得したようだ。外はもう暗くなっている。
「お父さんかお母さんに連絡したの?」
「んー?」
「んー、じゃないでしょ!」
誤魔化しやがった。
頭を抱えた母はそのまま高田の父だか母だかに連絡して、高田をそのまま家に帰した。母が電話口に謝り倒していたのに見向きもしなかったので、側から見る限りは神愛の呪縛からはだいぶ逃れているように思われた。
帰り際「じゃーね、こーちゃん」と呼ばれたのには、流石に背筋にぞわっと来るものがあったけれど、しょうがない。あいつ、絶対面白がって言ってたよな……。
母は食事の支度をしていた。その間にお風呂に入ってきなさいと言われた。
ああ、風呂か……まともに風呂に入るなど、何年振りだろうか。
神忌は清潔であってはいけないので、汚れを落とすのは基本最低限でなければならなかった。冷水を頭から被る以外の入浴方法をしたのは母の死後以来……いや、一度その後にあったか。まあ、それ位昔の話だ。
風呂場を開けた瞬間立ち上る熱気に、思わず後ずさりする。息苦しい。呼吸が浅くなるのを感じながら、浴室の中に入り、扉を閉める。熱い空気が出る場所を失って、余計に眩暈がするような気がしたが、開け放しておくわけにもいかない。
恐る恐る湯船に手を入れてみる。……あっつ。とても入れる気がしない。温度は高くないはずだが、じんじんと熱を伝えてくる手が怪我をした時の感覚と重なって強い不快感を覚えた。
扉を少し開ける。母は調理に集中していた。こちらを確認するような様子は無さそうだった。
何事もなかったかのように扉を閉めて、シャワーのコックを捻り、普段通りの冷水を出した。
母の作った夕飯を食べる。野菜炒め、味噌汁、白米、健康的な食事だ。そういえば少し食欲が戻っている。煙草を吸っていないからだろうか。この身体になってから、喫煙への欲求はほぼない。そこで、ああ、それでかと気づいた。
あの煙草は神忌のためのものだ。理性と自制心を強くし、衝動をかなり抑える効果がある。誰彼構わず凶器を振り回すことも多少、減るし、もう少し、いやかなりまともに振る舞えるようになる。ただ、抑えているだけなので、寝ている間など薬効が切れた時には目が覚めて情緒不安定になったりするのだが。
つまり今は、常時薬が切れているような状況なわけだ。まあ、薬に頼らないと自分をコントロールできない人殺しな時点で色々お察しだ。人として終わっていることに変わりはない。
「あ、孝平」
急に胸ぐらを掴まれた。あ、と思った途端に。
――――――――――。
「こら!食事中に寝ないの」
息が戻った。揺れる視界が、徐々に視野を取り戻していく。痛みはない、自分の胸元を見ると、特に変わった様子は見られなかった。母の茶碗の横に、さっきまでなかった丸まったティッシュが置かれていた。なんだ、と思った。おそらく、胸元に何かをこぼして、それを彼女が拭いたのだ。だが硬直が起きた反動で、全身が一気にだるくなる。
「……まだ具合悪いの?」
「う……」
「……もう食べなくていいから、寝ちゃいなさい」
視界が反転する。
あ、天井、板張りだ。
これは儀式だと男は言った。
暗闇の中で僕は動くことができなかった。それは拘束されていたからだったのか、それともあの男から意思持つことを禁じられたからか。もしかしたらその両方だったのかもしれない。
天井の記憶、あるいは遠い地面の記憶、それは全て風景だった。ここにあるのは悪ばかりだった。悪意、憎悪、悪臭、嫌悪、悪態……。その中で窒息しかけて、上から内臓を潰されかけて、ひっくり返ってのたうちまわろうとする。しかし全身は全く動かない。
喉の奥に汚物を押し込まれる時、人の手で内臓を内側から引き裂かれそうになる時、不恰好なプラスチックの笛を捻じ曲げたみたいな悲鳴が、自分の喉から吐き出される。ああああああ、ああああああ。実際に声をあげていたかはわからないのだけど。
不快感と羞恥心で体を端から食いちぎられていく感覚。あの時の指の跡は、痛みを伴った鞭やタバコの火によるものよりもくっきりと肌に残っていた。
全てを体の外に引き摺り出された僕に、背を向けたまま最後にあいつは言った。
「……その苦痛を、よく味わえ、そして飲み込め。千年続いてきた、俺たちの根源だ。絶対に忘れるな、常に思い出し続けろ……それだけが、今お前が生きる意味だ」
それから、何度も、嗅ぎ慣れ始めた匂いが通り過ぎて、目の前に元の形を見失ったぼやけた肉塊が現れ、視界を覆った。そんなものが存在しない時でも、喉を引き絞られる感覚を思い出して、その度に食べた物を戻してしまった。全ての胃の内容物を全て吐き出すと、苦味と酸味を伴った不快感でうずくまってしまって。その姿勢のまま、僕はまた上から押しつぶされ内蔵を掻き回され引きずり出されたような気持ちになって、胃液を吐く。
自分の腹から出たものは、今も昔も変わらないように見えた。なのに変わったようにも見えた。あの時とは決定的に違う成分が混じり胃の内容物すら変えてしまったような気がした。その度に、さらになんだかわからない粘液が傷の跡がついた膝にかかった。
視界の端に小さなムカデが歩いていた。反射的に叩き潰した。自分の何倍もの大きさのものに叩き潰されたムカデが潰れながらも顎を鳴らしそり返る。それが自分の姿と重なった。瞬間的に思い出す……あの天井。天井!以降、僕は空を隔てるあの壁が怖くなった。
目が覚めた、あの板張りが見えて瞬間的に起き上がった。不完全な暗闇の中で、僕は衝動的に発しかけた絶叫を、布団の中に押し込める。は、は、は、と息は荒く、嗅ぎ慣れないのに嗅ぎ慣れたこの部屋の匂いに気が狂いそうになる。感覚が過敏になっていて、小さな物音が耳鳴りのようになって頭中に響いてくる。
その時、後ろから生暖かいものに羽交い締めにされる感触がした。
「わああああああああああ!!」
めちゃくちゃに手足を振った。辺りにあるものを全てぶちまけた、壊した。割れる音、ひしゃげる音、弾ける音。全てがぐちゃぐちゃになった頃……ようやく、衝動がおさまった。破れたカーテンに照らされた母の顔に、血が一筋垂れていた。
……やってしまった、今度こそ。
取り返しのつかないことを、した。してきた。取り返しのつかないことだとわかっていながら己をコントロールできない。ああ、ああ、ああ、やはり僕は、人並みに生きることなどできなかった。
だがそう思った途端に、視界が滲んだ。見えない、まるでメガネを落としたみたいに。目を擦り、瞬かせる。それでも元に戻らない。
どれくらいそうしていただろうか。急にピントが合った。
……部屋も、母も、元通りになっていた。
僕は、動けなかった。そのまま、へたり込んでしまった。母の穏やかな寝息と、時計の針の音が、部屋中に反響している。
ようやく言うことを聞くようになった体で、立ち上がる、歩いた。膝が笑っている。逃げる。狭い団地の玄関から飛び出す。歩き始めてから、靴を履いていないことに気がついたが、そんなことを気にしている余裕はなかった。団地の廊下は明かりで照らされていて、部屋の中よりずっと明るかった。歩く、小石を踏みながら歩く。外は寒くもなければ暑くもなかった。でも春なのか秋なのかもわからなかった。砂埃に塗れた階段を越える。
僕は今どこにいるんだ、何を見せられているんだ。これはなんだ。なんなんだ。
目的の階層に辿り着いた。そこではたと気づく。部屋番号を知らない。
というか……そもそも、どこを目指していたというのだ。こんな真夜中に、あいつだって起きているはずがない。それに、それに。元より幻覚なのだとすれば、全てに意味がない。僕は精神病棟で彷徨っている気狂いかもしれないのに。ああ。
僕は階段の上に座りこんだ。途方に暮れて、その場でなんとか息を整えようとした。部屋に戻る気にも、かと言ってどこかに行く気にもなれなかった。第一、どこへ行くというのだ。どこにも、行く場所なんて……。
「根崎?」
……信じられない、望んだことが、こんなに簡単に叶うことなんて、今までなかった。振り向く、心底驚いたといった表情の彼は、靴を履いていた。
「え、え?どうしたの」
「…かだ、高田ぁ……」
震えて動けない僕の手を、彼が取った。人の感触、体温、それはさっき感じたものも同じ温度と形をしていたはずだった。だが、涙が止まらなくなってしまった。幼い体のせいだろうか。
こんな外聞もなく泣いて、あとで酷い気分になるのは分かりきっていた。なんとか嗚咽を止めようと必死になっていたのだが、体は相変わらず、言うことを聞かなかった。高田は慌てふためきながら、慣れた手つきで僕を抱えていた。
……少し落ち着いた。頭がぼーっとする。
「どうかした?」
「いや、何も、起きなくて……起きなかったのが……わからなくて……」
「……よくわからないんだけど」
「なんで、ここに?」
「……眠れなくて」
「そうか……そうか……」
彼は階段の上で僕の隣に座り、背筋を撫でていた。暖かい。僕が我を忘れた時に、透子や高田……真島さんが、よくやってくれたことだ。僕はこれでようやく、緊張状態が解かれる。少しだけ、恐れるものがなくなる。
生きるか、死ぬかの瀬戸際の中で、僕はただ本能的に生きる方を選んでいた。次濁に教えられた通り、あの男の思惑通り、僕は神忌になっていく。世の中の連中はずいぶんぬるい環境の中で生きているようで、自分より体がいくらか大きい奴に対してでも、うまくやれば次濁に借りを作らなくて済むようにもなった。
ある時、僕は暗闇の中から自分と同じ孤児を見た。彼はただ陽の光の中を無傷で歩いているように見えた。それがもう言葉にできなくて自分で自分の胸の皮を引き裂いてしまいたいほど憎たらしくて、その衝動のままあいつを殺してやりたいと思った。僕は、あいつを、同じ場所に連れていってやりたいと思った。
曰く、彼は清廉潔白の象徴なのだそうだ。
そして僕は対になるように佞悪醜穢であるらしい。
彼が清らかになればなるほど、僕は同じ分の穢れを背負わなければならない。こいつが……幸せないい子ちゃんであればあるほど、僕は血と糞と穢れに塗れていくのだという。
ああ、殺してやりたい。今ここで、彼の喉を締めて頭を潰してしまいたい。そうすれば自分はこの状況から救われるようなそんな淡い期待を持った。しかし仮にそれをした場合、僕はその何倍も惨い目に遭って死ぬそうだ。それがどんな目かはわからないが、結局この男が僕よりも苦しむことはないのだという冷めた現実が、その衝動に蓋をする。なら、なら、ほかのことなら、僕が楽になる一手段として、許されたっていいだろう。
彼は姿勢を正して歩いていた、彼が立ち止まったところで、僕は声をかけた。僕は葬式の時と同じような無垢な真似ができているか疑いながらも、断りにくいような甘い言葉で、彼をかどわかす。そして、彼にアイスを差し出した。……後ろのコンビニで、さっき盗ってきたものだ。
僕は目の前で袋まで開けて差し出した。
彼は……それを受け取って、食べた。
どんな表情をしていたのかはわからなかった。
僕はその瞬間に走って逃げた。
太陽から逃げるように、神様から逃げるように。
僕はまた一つ過去の善を壊して、かつての僕を忘れる。
そうしてようやく無心のまま眠れるようになるのだ。母もお天道様も見放す自分になってはじめて僕は、何も考えなくて済む泥になれるのだ。
体が痛い。階段の上で、砂に塗れたまま眠ってしまったらしい。隣では、高田があどけない顔のまま眠っていた。思い出したばかりの、あの頃の自分の短絡的な殺意が、憎しみが、自分に牙を向く。
ああ、酷い気分だ。
どうしようかと考えて、考えて……思いつかなくて。高田から少し距離をとって、窓の外の偽物の朝焼けを眺めた。神々が僕をゲラゲラと嘲り笑いながら空に登っていくようだと思った。