佐々木side
「ちょっと!聞いてますか?」
その言葉にはっとして目の前の景色にピントが合う。
「あ、ああ……すみません、根崎さん」
彼女、根崎穂花さんは眼鏡を押し上げて眉間を抑えるような仕草をする。
「真島さん……あなたが普段からそうしてぼんやりしているから私たちが文句を言われるんですよ。ちゃんと話くらい聞いてください。それくらいできるでしょ」
苛立ちを隠せないという仕草に、申し訳ない気持ちになる。確か今日は保育園のお迎えがあるから早上がりしたいんだったか。
「申し訳ない、気をつけるよ、ほんとに」
「お願いします」
僕にも娘がいる。ちょうど彼女のところの息子と同じくらいの年齢の娘が。可愛くてたまらない。だから彼女の余裕がない理由もわかる。僕がそう答えると、彼女は少しバツが悪そうな顔をして、分厚いファイルを抱え直していた。ちら、と時間を見て聞いてみる。
「仕事、代わろうか?」
「大丈夫です、私だけじゃないんですから」
言葉のきついところがある彼女だが、言っていることの中身をきちんと理解すれば、そのきつさがただ表面的なもので、それだけではない一面があることがわかる。ただ、子育てというのは過酷だ。時間に追われる仕事の中で、さらに時間にナイーブにならざる得ないのだから。真面目な彼女には耐え難いのだろう。
「……うちは交代制だから、今日は余裕がありますよ?」
「つまり?」
「明日僕がてんてこまいだろうから恩を売りたいです」
「……もうちょっと言い方ないんですか」
「あはは」
そう言って彼女は僕にファイルを渡して、今日やる予定だった業務について説明した。……え?これあと数時間で終えるつもりだったのか?
「というわけで、お願いします」
「……高田くぅん」
「はーい?」
「手伝って」
「何をです?」
「手書き文書のエクセル入力」
「……はーい、いつものっすね。半分いただいていきます」
高田順平くんは僕や根崎さんより少し年下だが、まあ大体同じくらいの年代である。そして彼もまた僕らと同じくらいの年頃の子供を育てている。つまり、この部署は丁度今育児をする若手たちが一時的に異動させられる、そこまで忙しくない部署という奴だ。根崎さんは焦りがあるみたいだけど、それは彼女の気質によるものもあるし、まあ仕方がない。
「さっきはごめんなさい」
……書類を片付けて、一息着いたところで、もう出るらしい根崎さんが声をかけてきた。こうして後になって謝ってくるのは、彼女にはよくあることだ。
「私本当に……いつもこうで」
「……なら来月の話なんですけど、うちの嫁の繁忙期と僕の出張が重なっちゃってるんで、もしよければ、またいつものようにお迎え頼めますか?」
「もちろん、あ、それって高田くんも一緒のやつですよね?もし良ければ一緒にどうですかね」
「あー……助かると思いますそれ。後で伝えておきますね」
「ありがとう、じゃあお先、失礼しますね」
「お疲れ様」
彼女はそのまま小走りで廊下を抜けていった。高田くんや根崎さんと特別仲が良いわけではない。ただお互い立場が似ていたことと、市役所という職場柄の、住む場所が近所だったというだけの関係だ。だがこうして互いに情報交換と助け合いができるという点は、本当にありがたい。
「ん?根崎さんもう帰られましたか?」
「うん、あ、そうそう、さっき根崎さんに来月の出張の時、お迎えお願いしたんですけど、君のとこの善輝くんもどうかって」
「え、あ、すみません。ありがたいです。是非お願いしたいんで、メールしときますね」
高田くんが柔和な笑みを浮かべる。割と軽いところのある子だが、なんだかんだで誰からも好かれるんだよな。
「真島さん今日何時上がりですか?」
「あー、んー、ちょっと残る予定」
「久々に飲みいきません?うちの奥さん、遅くなるなら外で食ってこいって」
「あー、俺もそうだわ。行くか」
「うっす、連絡入れときます。ゴチになります」
「おいおい奢るなんて誰も言ってないだろ、割り勘だ割り勘……」
「……なんて夢だ」
佐々木透子は突き飛ばされるように起き上がった瞬間、崩れ落ちた。
肌触りの硬いシーツが、やけに重い気がした。頭が痛い。
頭蓋骨の内側で脳が自分を打ち付けて死のうとしているみたいな痛みだった。
白井side
「……あまり眠れていらっしゃらないみたいですね」
俺がそう声をかけても、佐々木透子はぼうっと虚空を眺めている。
「佐々木さん」
「え、……あ、はい……そう、ですね」
小学生には到底思えない歪な表情で、彼女はこちらを見つめて、それから少しずつ正気に戻るように瞳に意思が宿った。
「……白井さんはすごいなあ」
彼女はまだどこか呆然としたまま答えた。俺は頭の傷跡を調べる。薄い肉に赤い跡が走っていて、そこを掻きむしったことが明白だった。その心もとない返事を聞いて、俺は誰が見ても彼女の顔色が良く見えないであろうことは、指摘しないことにした。
薄く盛り上がっている傷は、髪の間を通り抜けながらもまっすぐで、細くて、頭蓋骨を割って脳に触れられたような傷にはとても見えない。しかし彼女の傷はそうなのだ。でなければ、彼女の言動からうかがえる精神年齢の高さが説明できない。
脳挫傷によって死んだ幼女に、ある男の脳を張り合わせて蘇生された人間。それが佐々木透子の正体だという。
二人の人間の脳が継ぎ接ぎされて生きている彼女の言動は、大人と子供の間を行ったり来たりする。あるところまでは責任ある大人なのに、不意に子供の部分が顔を覗かせ危うくなる。二人の人間が記憶も感覚も共有し、シームレスに重なりながらも、互いに完全に交わることはない。永遠に同化できないマーブル模様のように存在している。
「白井さん」
「はい」
「一個、聞きたいことがあるんです。これが……これが、わかったら、多分ちょっと、気持ちが晴れるというか、眠りやすくなるような気がして」
「なんでしょう」
「……良い、良い親というものは……その、どんなものなんですかね。……いや違う、ええと……うん、その」
「……。」
「わからないんですよ。社会的な常識を与えてくれるものが良い親なのか、それとも愛情を注いでくれる存在がいい親なのか。いや、理想的に言えば、臨機応変に動けることなんですけど。臨機応変ってなんだよ、というか。じゃあ他人がどうしているのか、ただ真似ればいいわけでもないし、いや、そういう話じゃない。違う。……ただ、幸せになってほしいんですけど、そのためにどうすればいいのかわからなくて。私はそもそも、善意だと思って彼らに接することもよくなくて、でもだからといって考えなしに接していいとも思えなくて。ああだめだ、ごめんなさい、ちゃんと話せない」
「……」
「……私ね、良い親になろうと思ったんです。真島貴一だった頃にね、そう思ってね……子供のためなら、なんだってしてやろうと思った。きっと根崎さんのお母さんも高田さんのお父さんもそうだった。同僚だったんだよく覚えてる。あの二人もきっと同じように思っていたはずなんだ。だから真島は自分のしたことを間違えだとは思っていなかった。でも今は、どうしたら良いのかわからない。それが良いことだったと思えない……」
そこまで彼女は一息に話して、黙り……大きく息を吸った。
「違う。ごめんなさい。ごまかすような話し方で、あなたを混乱させてちゃいけない。あなたに話すようなことでもない。忘れてください」
「佐々木さん」
「忘れてください」
「透子ちゃん」
「忘れてってば!」
彼女は感情的に机を叩いた。握った拳から見える指はささくれ立っていた。泣くのを堪えるように、彼女は二度、肩を大きく震わせて息を吸った。俺はもうこれ以上、何も聞き出せないと判断した。
佐々木透子が去った後の診察室で、俺はカルテを整理しながら、ぼんやりと天井を見た。そこには何もない。俺は問いかける。
「どう思う?」
『どうって?』
声のしたほうを振り返ると、反対の天井の角に三井が張り付いていた。
「透子ちゃんことだ。かなり思い詰めてる」
『確かになあ』
彼は文庫本を閉じて、俺のそばに降りてきた。
「小児科医かつ石沢先生の弟子であるお前の意見を聞いておこうと思って」
『いやあの子、ただの子供の精神構造じゃないだろ』
「でもお前の方が人の気持ちがよくわかる」
『買い被りすぎだって』
彼は俺の肩からカルテを覗いている。あいつの気配が肩にかかった。俺はその度に安堵の息を漏らすのだった。
ある日、突如として三井は俺の隣にぼんやりと現れた。思わず後ずさる俺を知らん顔して、この三井の輪郭はまるでどこにも不自然な部分は無いと言わんばかりに口を開いた。
『なんか文庫本持ってないか?』
「……お前じゃないんだから持ってねえよ」
信じられない気持ちで口に出した言葉は、切実に求めていたあの日常の延長だった。
『それもそうか』
そう言って神妙そうな顔をする三井は、俺の願望が生み出した幻覚に見えた。みえたが……。
わかっていたはずだ。自分の妙な思い詰め方がこうした事態を引き起こす可能性を孕んでいたことは。俺は狂ったのだ。受け入れ難い現実を知識で取り込もうとする。が、これまでの月日がそう結論づけようとする医者としての俺を否定する。
かつて、三井の姿をした半神が、俺の目の前にあらわれたことがあった。見ず知らずの人間が三井の姿に見えたこともあった。ジン対という、神々と戦う常識はずれの組織と仕事をしたことで、俺の常識は崩壊しつつあった。幻覚ではなくて、この三井は、まるで本当に……。
『……なんて顔してんだよ』
「どんな顔だよ」
『死んだ人間が起き上がったみたいな顔』
「そうだろ」
俺が思わずそう返すと、幻覚は快活に笑った。そういやそうだった、と言う彼は俺が思う以上に三井倫太郎だった。その姿は対話性幻聴でも、注釈性幻聴でもない、かといって過去の彼をリピートするような姿でもない……説明がつけられないほどリアルな幻覚、幻聴だった。精神が参った際の幻覚、幻聴は、こんな健康的に会話したりしない、はずた。いや、俺が狂えば俺の判断力がおかしくなるのだから、信用できるはずないのだが、それでも……。
俺は自分の平静を取り戻そうとして、あえて確信を突くような質問をしてみた。それは自分の身を危険に晒す行為だと分かっていたのだが、そうでもしなければ、死ぬことよりも耐えられない事が起きるような気がした。
「おまえは、半神、神懸かった何者かなのか」
クソファンタジー・リアリティショックにこれ以上自分の親友を踏み躙られるのは、もううんざりだった。親友の顔をした怪異に騙されて殺されるなら、信じる前がよかった。
しかし彼の答えは恐ろしいほど三井らしい曖昧な返事だった。
『え、違う……か、どうかは、ちょっとわからない、かも……』
三井は自然と宙に浮き、頭をひねる。見慣れた白衣の裾が、俺の頬を抜ける。ああそういえばこいつは甘いかしょっぱいかみたいな単純な質問でも時々「わからない」などと言う事があったと、不意に思い出した。
『だってさー、ジン対?が使っている区分って、わかりにくいんだよ』
「超常現象を扱う不可視の知的生命体が神、超常現象を扱う可視の知的生命体が半神、神あるいは半神によって超常現象を与えられたものが加護、神の影響下に置かれている人間が神懸かり、独自に超常現象を研究するものが魔術師と認識している」
『え、あー……なるほど、そういう区分なのか』
「で、どうなんだ」
『わかんない』
わかんないんかい。
「……」
『本当だって!』
……この男が、なぜ俺の前に現れたのか、これが俺の作り出した幻なのか、何か意図があって俺の前に現れたのかはわからなかった。だが俺に対して、どうにかこうにか言い訳をしようとするこいつの姿は……今までのこともあり、ひどく俺の気を抜けさせた。
『……眠い?』
「眠くない……」
それはなぜか俺に急速な眠気となって襲い掛かる。なぜ、と思う間もなく、充電の残量を表示する機能がバグって突然落ちる携帯みたいに、自分の体が思い通りに動かなくなっていく。
『寝ろ寝ろ!!僕にはいつも言ってたくせに、ていうか顔色悪いぞお前!』
警戒しなくてはいけない、理性的な思考がそう警鐘を鳴らしているのはわかった。それでもこの安心感は、なんだ。
「寝ない、寝ないぞ」
『寝ろ!!ほら、毛布あったぞ』
「だめだ、寝ると……お前、いなくなる」
『み、未開の部族みたいになってる。大丈夫だから、ここにいるって』
「いや、こういう精神的に追い詰められたような状況で見る幻覚は……十分な睡眠と休息で消えると相場が……」
そんなくだらない話をしていたことは覚えている。
彼が後ろでひらりと翻る気配がして、振り向く。
『正直、なんとかして話を聞いた方がいいと思うけどね、俺は』
「……俺には荷が重い、怒らせるだけだ」
『……そうかな?』
「ああ」
俺は三井ほど人に配慮した物の言い方はできない。
『……そう考えると、暇だな』
「なんでだよ、俺は業務中なんだが」
俺が悩んでいることを悟ったかのように、彼は呑気な話題を持ち出した。そうだ、彼のこういうところに、憧れていた。
『……そう言う割に、眠そうだぞお前』
「……随分寝たはずなんだが……」
『知ってるけど、そういう問題じゃないのはわかってんだろ』
「まあ」
三井がいなくなって以来続いていた睡眠不足は、休日に一日中眠った位では解消してくれない。まあそういうものだってことは知識ではわかっているんだが、ひたすら面倒だった。……体の防衛機能が働き、発生した幻覚の割には、三井は俺がいくら睡眠をとっても姿を消すことはなかった。
『しりとりでもするか?』
「お前とやるといつも俺が知らない”ん”ではじまる単語で蘇生して終わらないからやだ」
三井は消えない。こいつは俺の視界の中を漂って、ダラダラと過ごすばかりだ。人の家の蔵書を、過去に一回やったくせにもう一周して、ついでに俺が独自で調査していた神と半神に関する調査にも全部目を通したりしている。最近は読むものが無くなったと言い、人の好きなアイドルの歌詞カードにまで目を通している。三大欲求の上位概念に活字中毒のある男は想像以上に健在で、睡眠不足の名残で細切れに目を覚ましても彼はただ彼として存在し続けていた。これでコイツの姿が他人にも見えるのであればより安心できたのだが……。いや、それはないか。非現実が現実となって牙を剥いてくる恐ろしさを身をもって体験しているので、もはや幻覚の方がマシだと思ってしまっていた。実際、三井は無害ですよと言わんばかりに、何かに物理的な影響を与えることはできないようであった。本を読む時にも、本棚に頭を突っ込んで一枚一枚ページを透過しながら見ているらしい。やっぱりバカだ。こいつは救いようの無いバカだ。でもバカは俺も同じだった。俺はこのまま死んでもいいから三井が見えたままでいた方がよかった。なぜそこまで思うのかは、もはやわからなかった。ただ、ずっと暗いトンネルの中を歩いていたところで、突然光が見えたような安心感が、俺を微睡に誘う。
『おーい……だめだこりゃ、そんなにキツいなら、無理せず寝てろよ、お前みたいな医者がこんなに休めるなんて貴重だろ』
「そういうわけにはいかないだろ」
『十分経ったら起こしてやるよ』
彼がそう言うので、俺は少しだけデスクに突っ伏して眠ることにした。でも悪いな、俺が寝たらこいつは暇だろうに。口に出していたのか、三井は気にすんなよ、と言って天井に浮かんでいった。幽霊でも足あるんだなあ、と思ったあいつの足首の包帯が解けかかっていた。声をかけようと思ったが、俺はそのまま夢の中に沈んでしまった。
佐々木side
狐憑き。
それは、昔の日本で信じられていた錯乱状態の一つ。
……とされてきたが、今の世の中それで解決できるはずがない。神がいる世界なのだから。
「あの児童養護施設?の子供がね、うちでタチの悪い悪戯をするんですよ。
「それは大変ですね」
「例えばこれ、石で扉に落書きされちゃって……」
「なるほど……」
今回我々のところに訪問してきたのは、若い夫婦であった。新城と名乗る夫妻は、よく喋る妻とやけに無口な夫で構成されている。彼女はスマートフォンで撮影した写真を高田さんに見せた。
「最初はもちろん、施設の方に連絡させていただきました。施設の職員さんには謝っていただきましたし、弁償もしていただいたんですけど……子供の方がね……」
彼女は弱々しく困惑したような振る舞いを見せたが、その目は少しもブレていなかった。彼女は真っ直ぐに高田さんの目を見つめて言った。
「謝るどころか……動物の鳴き真似をするんですよ」
その言葉に、根崎さんが高田さんの方を見る。だが高田さんは受付の方にかかりきりになっているため、こちらを振り向くようなことはなく、根崎さんもまたその雰囲気を察して、席を立ち上がった。根崎さん、まだ午前中にも関わらず本日5回目のタバコ休憩である。
「……本来ならね、別にそんなことを市役所に言いに行こうとか思わないんですけども、ちょっとあまりにもおかしいなと思ったので、ね……これ以上大変なことが起きても、良くないですし」
妻、新城茜さんは高田さんに引けを取らないような綺麗な笑みを浮かべた。一方、溌剌とした美人である彼女の隣に座る夫は、陰気を漂わせた猫背のまま、微動だにしない。
相談者が来ている時に子供が受付を彷徨いていると相手を困惑させてしまう問題を回避するため、今回私は待合の席でどこか別にいる存在しない相談者の連れ子を装って座っていた。スーツを脱いでワイシャツになっただけなのだが、案外バレないものだ。もう少し夫妻の様子を眺めたくなり、それとなく受付横の小さな長椅子の座る位置をずらす。比較的綺麗な身なりをした妻と、そこまで見た目を気にしていなさそうな夫はあまりにも対比的だった。夫婦仲はそんなに良く無いんだろうなと勝手に邪推していたら、机の下で手を握っていた。わお。出っ歯亀太郎のきもち。
「……ありがとうございます。いただいたご意見をもとに、調査を進めさせていただきます」
「……よろしくおねがいしますね?」
妻の笑みの中に有無を言わせない何かがこもっていた。それに突然夫が反応する。
「……あんまりそうやって圧をかけるなよ」
「かけるよ役所って仕事遅いんだもの」
びっくりした。夜中に突然テレビが点いたみたいなノリで起動したな旦那。
「相手の事情も考えずに物を進めようとするのは、君の悪い癖だぞ」
「相手の事情を汲みすぎてクソガキに噛みつかれても黙ってる君に言われたくないね」
さらにそこから、まるで事前に打ち合わせでもしたのかと思うほど、流れるような応酬が行われた。テレパシーの使い手か?いや洒落にならないからそういうことを考えるのはやめよう。
奥さんが旦那さんの腕を掴み、袖をめくった。大きなガーゼを剥がすと、肉の一部が取れかかった丸い傷跡が現れた。酷いものだった、まるで野生動物に食いちぎられかけたかのような……。少なくとも、遊びでつくような代物ではない。
「これは……」
「施設の子に噛まれた痕です」
「言うなよ馬鹿」
「私、澄さんのそういう所、本当に嫌い」
「ま、まあまあ、この話も含めて、対処させていただきますので」
高田さんが仲が良いのか悪いのかわからない二人の仲裁に入る。ぎゃいのぎゃいのと口喧嘩が始まったのを、そもそも部屋の中でも平気でタバコを燻らせるくせに休憩を取ってきた根崎さんが戻ってきて、見て、引き返していった。おいこら。
そういえば、今回の現場である児童養護施設は、高田さんと根崎さんが一時預けられていた場所だったな、と思い出した。
あそこに二人がいたのは、ほんの数ヶ月のことだったはずだが、二人も思うところがあるのでは無いだろうか。しかし見上げた彼らの表情は、いつもと変わらなかった。いや、私がわかっていないだけかもしれない。あそこで預けられた数ヶ月の後、二人は神愛と神忌として育てられるために、神山兄弟に預けられた。
……また、頭の傷が痛む。こんな風に神の災禍があの施設にも振り撒かれるんだったら、引き取っておいて良かったじゃないかと頭の奥で誰かが言った。そう思った奴を殺してやりたくなったが、それは他ならぬ自分だった。当時の私は、二人を選んだ。それ以外の子を選ぶこともできたはずだった。だが私は、その決断をしなかった。しなかったのだ。
ふと、高田さんが私の肩を木の指先で叩いた。
「透子ちゃん」
「ん?」
「どうかした?」
彼の瞳には明らかな心配が浮かんでいる。私は、普段通りのつもりでいた。だが彼は、こうした人の機微に聡い……優しい子だ。心配させては、いけない。
「いや?なんで?」
「……なんというか」
歯切れの悪い高田さんの言葉に内心ハラハラしていた。そして、どんな言葉を返すべきか必死に考えた。私の罪悪感を彼らが知る必要はない。それを彼らが考えるほどに、二人が嫌な思いをする時間が増えるだけだ。
「……夜更かしした?」
彼の指摘は当たらずとも遠からずだった。こんなことをつい考えてしまうのは、寝ていないからなんだろう。ここ最近は特に、昔の夢をよく見てしまう。だが誤魔化しようはある、良い指摘だった。
「病院で夜更かしする要素ねえだろ」
「いやぁ折り紙が楽しくて」
根崎さんの言葉に、軽く返すこともできる。……大丈夫、なんとかなる。
「自分のための千羽鶴でも折ってたのかぁ?」
「いやドラゴンを1匹」
「「ドラゴンを1匹?!」」
「捨てたけど」
「病院のゴミ箱にドラゴン捨てんなよ!」
「も、勿体ない」
二人の追求を逃れられたことに心の中で小さく安堵した。そうだ、私の罪悪感は、彼ら二人は知らない方がいい。例え二人が真島貴一がしでかしたことを許さないとしても、だ。知らなくてよかったことを教えてしまって苦しめるより、ずっと。
……しばらくして、あれ?これもしかして私が折り紙でドラゴン折れることになってないか?ということに気づく。適当に相槌を打ちすぎた。まずい、今度やってって言われたらどうしよう。
私がくだらないことに頭の処理を向けていると、冷や水のような言葉が飛んだ。
「キモ」
「沢口」
「いやキモいっしょ、何あれ」
……私の中のおじさんの心が深く傷つくのを感じた。それもかなり深めに。新しく入ってきた神忌の沢口瑠璃亞さんは、対角線から言葉の矢を飛ばしてきた。そして高田さんのように同じく新人の神愛、中嶋英樹くんがそれをなだめる。
「沢口……君が憤る理由もわかるが、それを口にしたらだめだよ」
いやわかるんかい!という言葉が喉まで出かかった。高田さんと比べると、中嶋くんもまだまだ前途多難なように思える。でも何も否定できない、という神愛の特性を考えると、あれで正しいのかもしれない。新しく入ってきた二人は、まだ実戦を経験したことはない。だが神山(かみやま)のところで育てられたのだから、実力はお墨付きのはずだ。
かつてこの市役所で初めての神的災害が起きた時、それを沈静化したのは神山清一と神山次濁という兄弟だった。彼ら二人は、神南市役所が初めて接触した神愛と神忌だった。
神山(しんざん)神社という神南市にある神社を守護する二人は、それこそ数世紀前から代々神と相対し続けてきた一族の末裔だった。神忌なんてほぼほぼ犯罪者でしかないにも関わらず、なぜそんな存在がお縄にもつかずに生きてこれたのかと最初は驚いたりもしたのだが。
……不思議なことに、神々の存在を認知した瞬間、日本国憲法の条文が増えた。そしてこの条文は、神がいることを理解した人間以外には、読むことも知ることもできないらしかった。その条文から派生した法律によって、彼らは守られているようだ。
だが何百年という月日を経て、神の影響も少なくなったことでその技術はほぼ失伝寸前となり、二人の兄弟も引退の直前になっていたという。しかしそこで、あの事件が発生した。彼らは神愛と神忌として、再び神と対峙しなければならなくなった。訳のわからぬ災害に、現実と常識が狂わされていく中で、適切に対処できたのはあの時は彼ら二人だけだった。だから当時の私たちは、あの二人の協力を仰いだ。
視線を、沢口さんと中嶋くんの二人に戻した。こんなことを考えている場合ではなかった。二人から目は離さないでおく。なぜなら。
「アンタに言われんのが一番腹たつんだよォ!!!」
動物のような反射神経で、スカートのポケットから折りたたみナイフを取り出した沢口さんが、中嶋くんに切りかかったからだ。いつの間にか接近していた根崎さんが、彼女の手を蹴り飛ばし、高田さんが空中に舞ったそれを難なく掴んだ。私は折り畳まれたそれを受け取る。
「……流石に没収かな」
「無駄なことすんな、手に持つもんが百円のカッターに変わるだけだ」
根崎さんがそう言いつつ沢口さんを制圧した。腕を捻られ、床に叩きつけられた沢口さんは、根崎さんが上から体重でもかけているのか、潰れた声でなお何かをがなっていた。
「中嶋君、怪我はない?」
「大丈夫です、ありがとうございます」
高田さんの声かけに、中嶋くんはうっすらと微笑みを浮かべた。沢口さんは軟体動物のような動きで身体を捻り、根崎さんから逃れようとするも、一回り大きな蛇男はそれを許さない。複雑な形で固まった人体から目を逸らさずに、根崎さんは「……根本の立場から叩きこまねぇとダメか?え?」と関節の可動域を超えるような捻り方をする。すると中嶋くんが言った。
「どうぞ」
「え」
え、と言ったのは渡辺さんだけだった。
「必要ならば、そうしてください。僕にはその辺りのことはわからないので」
そう言う中嶋くんに対して、高田さんも根崎さんも一瞥もくれなかった。私も、ゆっくりと頭の中に真島貴一の記憶が浸透して、その状況を納得しようとした。この中で唯一、神山兄弟とあまり関わりを持たない渡辺さんだけが、オロオロと視線を彷徨わせていた。
彼女は当たり障りなく言う。
「……そ、そうは言っても、暴力は良くないんじゃない?」
「……あ、そうですね、すみません」
彼は素直に謝る。
「でも神忌は僕らと育てられ方が違うじゃないですか。言って聞くんですか」
彼は不安そうに、全く悪気なく言った。彼女は二の句が告げなくなってしまった。
白井side
時々思う、時計の秒針は本当に1秒で動くのかと。
電力が供給され、歯車が周り、様々な機構を経て秒針は1秒を刻むようにできている。もしもその何処かに問題があれば他の時計とは違う時刻を表示するため、人は時計が間違っていると認識する。だがその前提が間違っていたとしたら?
世界中の1秒がいつの間にか2秒に書き換えられ、世界が48時間になり、全ての時計がそこに合わせられたとして、俺たちはその違いに気づくことができるのだろうか。48時間かけて日が沈んで登り季節の長さも一年の長さも倍になった時、人はその時抱いた証拠のない違和感を表現することは出来ないのではないか。
『その場合、人間は2秒が1秒になったと主張する奴をおかしいと言うだろう。結果人間は少しずつ全員狂っていく。全ての時計が2秒間で1秒を刻むようにね』
俺は斜め後ろを瞳だけで追う。よく見慣れた色黒でケロイドの覗く腕がぬうっと伸びてきた。彼は見慣れた顔で笑っている。目の下に彼の指が伸びる。しかし感触も圧力もなかった。彼は俺に触れないと分かってから、こうして妙に近づいてくる。
『お前にクマが浮かんでんの、初めて見たよ』
「俺だってクマくらい作る。完璧人間じゃないんだから」
『いいや、お前はほぼ完璧だよ』
目の下の皮膚を揉まれるような気配がする。
『俺の神様だった』
「……やめろ、洒落にならないだろ」
神、と言う単語に背筋が冷えるような気もしたが、彼の指先がほのかに暖かいような気がして、その冷たさは忘れ去られた。
『本当だって。俺ができないこと、お前は全部できてたからさ……正直、すげえなって思ってた』
「突然なんだよ」
そう返しながらも、それは……、それは、俺にとってもそうだった、と思った。三井は俺にできないことは何でもできた。他人の失敗を許すことも、自分の不甲斐なさを認めることも。
……俺はただ自分ができない一つ一つが許せなくて、それを一つずつ子供の頃から潰していった。だからできない奴でも、努力を続けたり、自分で対策を考えれば、そのうち大概のことはできるようになると、どこか無意識では思っていた。できない奴を見ると、努力をしなかった、あるいはそれを悪いことだと教えてもらえなかった自分を見ているようで関わりたくなかった。自分ができないことがあると、それが自分の存在を脅かすような気がして、その弱点を潰すことばかり考えていた。できない奴を見ると、どう接すればいいのかわからなくて、放っておくしかないとも思っていた。だが三井を見ていると、自分も他人も許す彼を見ていると……ただ生きているだけでも、許されるような気がした。
『白井は、誰にもほとんど迷惑をかけずに生きていけたし、誰もが白井に頼めば何とかなるって思うような、すごい奴だよ。俺は、まともに生きていくのすら下手くそだったから、正直羨ましかった。期待されても、答えられなかったことばっかりで、助けられてばかりだった』
そう囁く言葉の何と心地の良いことだろうか。俺は自らが彼の幻影を生み出しているかもしれないという現実を、数瞬忘れた。
「……だから俺が弱った今、出てきたのか」
『……あー、うーん、そうかも?』
「そこは即答しといてくれよ」
彼は苦々しく笑った。
『えー、だってさあ……お前がそんなに引きずるなんて、思わなかったんだよ』
心地の良い幻だった。幻、と呼ぶのはあくまで医者をしている自分が警告して言っていることであり、俺自身が本気でコレを幻と呼べているのかは、定かではない。ただ三井が隣にいることが、たとえ幻であっても実在しているという事実に何よりも何よりも安堵している自分がおかしいのはわかっていた。
立ち上がって、診察室のドアを開ける。
『どこへ?』
「本田さんのところ」
『白井の患者だっけ?』
「お見舞いだよお見舞い」
『ふーん』
佐々木side
あの建物を見ると、過去のことを思い出さずにはいられなかった。
ただの曇りの日であったはずなのに、記憶の中の情景は日に日に暗くなっていくように思われる。当時、あの大規模な神的災害によって亡くなった人の中に、高田さんと根崎さんの両親が含まれていた。そのうち、高田さんの父親である高田順平と、根崎さんの母親である根崎穂花は、佐々木透子の半分、真島貴一とは同僚の関係にあった。もちろん真島貴一は、同僚である高田順平と根崎穂花の死を悼んではいたが、当時そこを深く考える余裕はなかった。彼は自分の娘と妻の無事を、理不尽な神々から守ることに必死だったのだ。ただ二人の安全を守るために、万が一があるからと縁まで切り、もう二度と会うことはない二人のために、市を守った神山兄弟と神南市役所を何とか繋げた。そのために発生する犠牲には、全て目を瞑ってきた。
だから神山兄弟に、神愛と神忌の技術を継承させるために「大災害関係者の子供を提供しろ」と言われるまで、貴一は彼らが孤児となったことも知らなかった。そして孤児となったと聞いた時、つい「助かった」と思ってしまった。自分の娘が、この世界に巻き込まれなくても済むかもしれないと。
学校の門と同じスライド式の鉄柵を開きながら考える。あの曇天の日に、こうして辛気臭い顔で訪ねてきた中年男に、ただ顔見知りだからといって寄ってきた少年たち。彼ら二人に真島貴一が何をしたのか、忘れてはならない。
「……なんだコレ」
「うーん、さぁ?」
「あ〜悩めるほど暇で良いねえ、佐々木透子さんは」
「こら、深刻な悩みかもしれないじゃないか」
「たとえば?」
「……急に髭が生えてきたとか?」
「お前真面目に考えてそれかよ」
後ろの二人のあんまりにあんまりな会話に、思わず振り向いてしまった。途端に視線を全く別に逸らす二人。彼ら二人の示し合わせたかのような行動が、妙にコミカルだった。別に生えてきてないから、と言う前に、向こうから職員がやってきた。
「……入園希望の方ですか?」
「いえ、私達、こういうものですが」
私が名刺を差し出したため、その職員は非常に胡乱な目で私を見た。高田さんと根崎さんも同じく名刺を差し出したため、彼は慌ててそれを受け取る。
「ええ、はい……えっと……その子もですか?」
「最近ウチで始まった取り組みあるじゃあないですか、あれですよあれ」
「はあ」
「……もしかしてご存知無いんですかぁ?」
「い、いえ」
根崎さんが有る事無い事を言う臨戦体制になっている。あーあ刺激するから、と思っていると、私の体が持ち上がった。
「た、高田さん」
「ん?」
「足、足、負担でしょ、歩けるから」
「んー……これくらい大丈夫だよ。それに……」
いやいや待って、流石に十歳だから抱き抱えられて移動するのは恥ずかしいんだよ。おっさんの精神の方も悲鳴あげてると思う、し……今、彼に触れられると、自分の中で渦巻くこの罪の意識を悟られるような気がして、怖かった。
それでも彼は笑って私に囁く。
「……それに、うっかり子供に紛れちゃったら大変じゃないか」
「いやそれは……あー……」
「児童福祉課とかに連絡されたらさ」
「……はい」
そこまで言われてしまうと、私はどう断っていいのか、わからなくなってしまった。高田さんは既に義足には慣れているようだが、前ほどは動けない。未だに根崎さんが上に乗ったところでびくともしない程体幹は強いのだが、早く走ることができない。それに……彼はきっと、今は腕だけではなく、足の痛みにも耐えている。少しだけでもその痛みを軽くしてあげたかったし、できることなら代わってやりたかった。なのにうまく丸め込まれてしまった事が、たまらなく嫌だった。そうすれば自分の罪悪感が軽くなるからだろ、とどこかで笑う声がした。私はそれを無視する。高田さんの髪から、かすかに白檀の香りがした。
心なしかげっそりとした職員が、小さな声で「どうぞ」と私たちに言った。根崎さんの「最初っからこうしとけよな」という言葉と共に、私たちは園の中に入った。
施設内は、古びた木造の下駄箱があること以外は、比較的軽い色彩で統一された、きれいな施設であった。だが鉄筋でできた施設や公共のものとして置かれている本棚は、明らかに児童館や学校の雰囲気を放っており、「家」ではなかった。
高田さんのかすかに不揃いな体重移動を感じながら、周囲を見回す。子供たちの様子も知りたかったため、夕方にこちらには訪問したのだが、妙に静かなこと以外はこれといった違和感はない。いや、静かだ、静かすぎる。前に神景会の居住区にお邪魔した際には、もっと子供の金切り声のようなものまで聞こえたように思う。そう考えると、神景会の方がよほど健康的だった。
「静かですね」
「え?ああ、はい、そのように指導しておりますので」
……そう言われてしまうと、思わず黙ってしまうのだが。モヤリとした感覚は消えない。ただ、私達が今回調べにきたのは児童養護施設の実態ではなく、狐憑きに神が関わっているかどうかだ。
頭を振って、冷静さを得ようとしたところで、ふと、見たくない影を見かけた気がした。
私は、自然と視線をそちらに動かす。
……木下、皓。
思考が停止する。なぜ、と。
その善良さを身に纏いながらなんの道理も理解していないような顔つきが、私の生理的嫌悪を加速させる。彼を見ていると母を思い出した。彼を見ていると昔の自分を思い出した。全てが重なり、口から出た虫唾がそのまま指先にまで浸透していくような感覚がした。
そして……彼と、目が合った。そこに見覚えのある影が重なる。神景会であの半神がとったかつての自分の姿。真島貴一の陰鬱な影が彼に重なった。瞬間私の中の恐怖心は爆発して、いてもたってもいられなくなって走りだした。
嫌だ!!
「っ!ちょ、え?!透子ちゃん!!」
高田さんから飛び降りて、無我夢中になって走った。待って、という声が聞こえてきたが、そんなことに構っている暇はなかった。後ろの方で何か揉めるような声が聞こえる。それをいいことに、がむしゃらに逃げ回り、どこかに逃げ込もうとした。アレに捕またくない、という強い思いが、この小さな体を思いっきり動かしていた。
転がるように走りながら、周囲を見回す。職員の目は訝しげで、こちらに声をかけようとしてくる者もいたが、それも掻い潜っていく。その一方で血が巡るに連れて体の中に思考も巡っていく……なぜ今走り出した?あそこでなりふり構わず逃げる必要なんてなかっただろう?その意識を覆すほどの嫌悪感と焦燥感が、冷静な判断を飲み込んでいく。いやだ、アレに追い付かれてはいけない。なぜ?嫌いだから。嫌いだからって根崎さんや高田さんの元を飛び出すほどなのか?そうだ。なぜ?だって彼は……脳の中で記憶が混濁していく。視界が渦巻きを描いて明るくなったり暗くなったりする。この事実から逃げるみたいに頭が痛かった。
あの日ここを訪れた僕はすぐに見慣れた同僚の子供たちを探しました。彼らは僕とも顔見知りだったので僕を見かけるとすぐに寄ってきてくれました。僕は覚悟を決めていたつもりでした。僕は娘のためだったらなんだってしてやろうと思っていたので、同僚の子をこの世界に叩き落とすことを選んだのです。いけないのは子供を守れずに死んだ同僚二人の方なのです。僕は生き延びたから自分の娘を助けるが、彼らはそれができなくなった。相互扶助の関係が崩れ生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたのですから、この選択をすることは間違いではなかったはずです。間違えではなかったはずなんです。でも何も言わずに走り寄ってきて、走り寄ってきたにも関わらず、無言で……1メートル程の距離をとって立ち止まった二人が。その目元の強張りと震えが、僕をひどく貫いて、貫いて、貫いて……。
逃げ込んだ場所は、広い教室のような場所だった。だが教室と違うのは、席が全く整頓されておらずバラバラのぎちぎちになっているところと……そこにいる子供達の年齢差があまりにも大きかったところだ。高さも年齢も異なった視線が、一斉にこちらを向いた。その目線は、こちらを見据えているはずなのに、なぜか全くこちらを見ていないような気がした。でも私は、あの男に捕まりたくなかった。
嫌だ、嫌だ、と思いながら、私は後ろの扉を閉じた。
痛いほどの視線と静寂。彼らは私が来る前もこの静けさを守っていた。やはり、異様だ。子供がこんなにおとなしくしているのはおかしい。神景会の施設の方が、まだ自然だった。私がせめて何か声を発しようと横を向くと、目の前5センチの距離に私より頭ひとつ分小さい男の子が立っていた。彼はじいっとこちらを見つめている。そして。
「わん!」
私が何かを言う前に、彼はそう言った。さも当たり前かのような顔で。面食らった私の喉の奥に用意していた声が降りていく。その嚥下を見守ると、彼は目を細めて無邪気に微笑み……。
「わんわんわんわんわんわんわんわんわんわん!!」
「あうー、わんわんわんわんわんわん」
「ばうあうばうあうああうわうわうわん」
「ぐうーあ、あ、あ、ぁああーー!!」
「わんわんわんわんわんわんわんわんわん」
「きぃーーーーあああーーーーひゃぁーーーーーー」
「わうわうわうわうわうわうわうわう!!!」
「きゃははははははははははははは」
突然始まった鳴き声の大合唱、皆一様にこちらを見つめたまま、犬の鳴き声を発する。子供独特の奇声や笑い声が混じって、もはや狂気の域に達しようとしていた。絶叫と熱狂と興奮が、空間を覆い尽くしている。私はただその錯乱じみた大合唱に着いていけなくて、思わず耳を覆う。ばたばたという大きな足音、入ってきた大人たちがやめなさいと絶叫する。それでも大合唱はやまない。指し示したようにはじまったそれを、もう一度確認しようとついでに閉じていた目を開くと、見ず知らずの男の子が大口を開けてこちらを見ていた。
ガチン!という強い音が、私の体があった場所で鳴った。頭の中に浮かんだのは、あの男性の腕に残っていた、ひどい歯形だ。それが私の首筋に残る想像をして震えた。狂騒は止まず、ついに職員が怒号の中で子供の首根っこを掴み始めた。だが子供の数が多すぎて、とても賄える人数ではない。誰かが私の髪を引っ張った。姿勢を崩した私の上に、ゲラゲラと笑った子供が二人、三人と乗っかってくる。私はそれを退かそうと体をねじるが、体格の大きい子供に乗られて少しも動くことができなかった。拳を振り上げても十歳の女の子の拳など誰に通じるはずもない。興奮してずっと三日月型に細められた目がこちらに近づいてくる。思わず目を瞑ったところで、私が下敷きになっていることに気づいた誰かが、その男の子を持ち上げた。その隙に駆け出す。
は、は、と息を切らして、廊下に飛び出した。
先ほどの静寂がまるで嘘であったかのように、今度は子供たちの騒ぐ声が止まない。廊下を走る。あの時の子供たちがまだ追いかけてきているような気がして、ひたすら恐ろしかった。全く理解のできない、理解を超えた現象が起きたような気がして、私は丸腰で神と相対してしまったのかもしれなかった。
あまりに狂気的な出来事があったせいで、私はなぜ自分が走って逃げ出したのかを忘れてしまっていた。流石に走り疲れて外廊下にふらふらとよろめきながら出てきた瞬間に、大きな大人の手が私の腕を掴んだ。今にも泣き出しそうな目で、木下はこちらを見つめていた。
白井side
向かいの部屋にノックを入れてから入る。中は陽光に照らされた病室で、本田さんが横になって、スマホを見ている。
「お加減いかがですか」
俺がそう聞くと、本田さんは丸い顔と同じくらい目を丸くして、こちらを見た。
「……いつの間にいらっしゃったんですか」
「あれ?ノックしたと思ったんですけど」
『してたしてた』
「……そう、ですか」
「お加減はどうですか」
俺がそう尋ねると、彼はしばし考えるようなそぶりを見せた。
「……正直、あまり良くないんですよ」
「そうですか……お大事になさってください」
「症状とか、言った方が良いですかね」
「いえ、今日はお見舞いで来ただけなので」
「……お見舞いですか、すみませんわざわざ」
俺はつまらない物ですが、と言って、お土産の羊羹を手渡した。量は少なめにしてある。後ろの方で『いやお前今の言い方はもうちょっとなんかあるだろ』という腑抜けた声が聞こえるが、空中に話しかけるわけにもいかないため、目配せするだけにとどめた。本田さんは確かに前と比べると顔色は悪いように思われたが、話すことには支障がないようだ。
そこから、話をした。お互いに、神によって友人を喪ったという共通点があるからかなんだかんだ話が途切れることはなかった。ただ俺の場合は、自ら生み出した幻覚とはいえ、そばに三井がいる状態にもどっているため、その機会を完全に失っている彼と話をするのは、少々心苦しさがあった。
本田さんは時々、左手の薬指を撫でていた。見ると指の腹と背がひっくり返って付いていた。彼曰く、あの半神が遺していったものらしい。そこから派生して彼は、その時彼女が強烈な話を残していったと話した。
『人は、神様の卵が生みつけられた芋虫である』
それは全身が総毛立つような薄気味悪い言葉であった。本能的な拒絶感を覚えながらも、疑問が頭の中で回転してく。ではなぜそんな自らの卵を産みつけた生き物を弄ぶような真似をするのか、彼らの卵に影響があるのではないか。それに、その前提で考えるとあの「半神」とはそもそもどんな状態なのか。考えても、わからない。
「三井、どう思う」
小声で三井に話しかけた。しかし、返事が返ってこない。不安になって顔を上げると、彼は本田さんのベッドを挟んだ前にいて、微笑んでいた。緩んだ包帯の下から、ケロイドが覗いている。
「三井」
「……白井さん」
「え、あ……」
「三井さんが、どうかしましたか」
誤魔化すようにかねてより抱いていた疑問を吐露した。
「……三井、は死んだんです。体から火が噴き出して、それで……。ということは、あいつもまた、神になったのか、と」
すると本田は、眉間に皺を寄せる。
「……少なくとも、半神にはなっていないと思います。あくまで僕の経験上の話ですが、半神というものは総じて、神に対して反抗的なものです。人間を見下しながらも、神の中に加わろうとしない、中途半端な者たちです。ましてや、自らを消滅させるような意志に殉ずるとは思えない……。やはり、神懸かりに遭い、神の意志によって命を落としたという可能性が高いでしょう」
本田は長年半神を追ってきたスペシャリストだ。こと半神に関してだけは、ジン対を上回る知識をもつ。その本田が言うのだから、半神のことに関してはかなり信憑性はあるように思われた。
「ただ、疑問なのは……なぜ、三井さんは燃やされたのか、ということです。確かに神々は理不尽な生き物ですが、なぜわざわざとある人を燃やす必要があったのか、わからないんです」
「……我々には理解できない、神々という生命体独特の何らかの利益みたいなものががあるんでしょうね」
「ですね、ただ……」
そう言う本田は、まっすぐにこちらを見た。彼の黒い目に、俺の姿が白く映る。
「……いえ、やっぱり僕にわかることでは、なさそうです」
「そう、ですか……すみません、長々と」
「大丈夫ですよ、羊羹、ありがとうございます。もう帰られますか?」
「ええ、まあ」
「お気をつけて」
「お大事に」
本田さんが深々とお辞儀するのを見て、俺と三井は病室を後にした。
一人になった病室で、本田は深く息を吐き、背もたれの作られたベッドに深く寄りかかった。まるでドアを開くかの如く、当たり前のように空間を切り拓き出ていった白井を、ついさっき見送ったところなのだ。気疲れもする。常識外れの現象は度々目にしたことがあったが、その中でもこれは特にひどい。何もないところから茶菓子が出てきたり、言ってもいないことを彼が知っていたり、生きた心地がしなかった。白井がいなくなった瞬間、眩しいほど入ってきていた陽光が弱まる。西村、いや、あの半神の周りでこんな現象が起きたことはない。それに、彼はまるで普通の人のように振る舞っていた。ということは……彼は「神懸かっている」状態の可能性が高い。そして、不自然に宙を眺める目は、まるで何かを追っているようであった。
神々という生き物の、利益。神懸った白井さんと、宙を彷徨う視線、妙に頻発する三井さんの名前。嫌なことを考えた。もし、三井さんの死が、白井さんの神懸かりと関連しているのだとすれば。
……ともかく、ジン対に連絡しなければ。と体を起こそうとした瞬間、本田は突然強烈な吐き気を催した。
「……う、ぉ、……げ」
胃が痙攣を起こし、内臓が冷えていく。何らかの意志を体現するように、全身に不快感が巡り始める、まずい。
ここで今までのツケを回してくるあたり、神様という存在はよっぽどタチが悪い生き物らしかった。いや、違うか、死にかけた俺が今、急死しても問題ないってことか。ならばあの会話も仕組まれていたってことか。だから今、なのか。畜生。本田は自分を見つめていたらしい何者かに呪詛を吐いた。
全身が急速に冷えていき、視界が暗くなる。いずれこういう日が来ることはわかっていたが、今でいいはずはない。それでも何とか、サイドボードに手を伸ばす。体を支えきれなくなり、倒れた瞬間、スマートフォンが滑り落ちる。最後の力を振り絞り、ベッドからずり落ちた。体から針などが無理に引き抜かれる痛みを感じたが、それに構っている暇はなかった。
おそらく……おそらく僕は、この後死ぬ。もし僕が神なら、そうする。息ができなくなってきた。肺の中の酸素が尽きたら、声が出せない。這いつくばって、遠くに滑っていったスマートフォンに指を伸ばす。せめて、せめて李に、あいつならうまくやってくれる、後少し……。本田は肉に埋もれた指先を精一杯前に、前に伸ばした。全身は震え、目は霞み、頭の中で体内で鐘が鳴っているかの如く全身に痛みが響いていた。それでも彼は、自分がすべきことを、最後まで貫き通すために、手を伸ばした。それは彼の意地だった。
届いた!本田は震えて効かなくなった指をなんとか動かし、連絡帳の一番上にある部下の名前をタップした。うまく、つながった。コール音が一度、二度と響く。彼はすぐに出た。すごく焦った声が聞こえた。
その瞬間、今までのことが、今まで起きたことが本田の頭の中を巡り始めた。西村の死、半神と戦うことを決意した時、さまざまな国で半神の情報を追ったこと。そして、父の組の後始末について。若頭を喪った組は弱くなり、無くなり、そこに中国のあるマフィアが進出したこと。李は、そこに踏み躙られた者の一人だった。一人で立てるようになったなら、早く逃してやるべきだった。なのに連れてきてしまった、こんな所まで。
「……李」
『社長、大丈夫ですか?!聞こえますカ?』
あいつにしては珍しく、発音に訛りが出ている。白井のことを伝えなければ、という気持ちと……最後まで、こんな今際の際になっても、コイツを使おうというのか、という抗い難い抵抗感が心を巣食った。もうそう思ってしまうと、残った肺の空気に乗せられる言葉の優先順位は、変わってしまった。
あいつは勝手に俺に恩義を感じていてくれたようだったが、あいつが過去に苦しんだことの元凶は俺だった。国を跨いで、李の人生まで狂わせた。俺は彼に対しても、償いきれない罪を犯していた。いずれ寝首を掻かれるだろうとすら思っていたのに……できた部下だった。だから。
「…………今まで、付き合わ……すまな……」
『社長!待って、待ってくだサイ!!今………』
そこに、なんとか感謝の言葉を重ねようとしたが、もう無理なようだった。腕の力すら入らない。息もできない、目も見えない。俺が落ちた音を聞きつけた大人数の足音すら、耳から遠ざかっていく。それは微睡に落ちていく感覚と、よく似ていた。
佐々木side
彼の手が、私の手に触れた瞬間に、今度は真島貴一の記憶に覆いかぶさるように少女の記憶が流れてくる。
今の「私」が思うに、あの頃の佐々木透子の母、佐々木朋美は子供を育てられるような精神状況ではなかった。
「騙された」
……が、母の口癖であった。
いつもいつも、既に画面の割れた携帯電話を何度も投げては母はそう呟く。また携帯電話がひび割れる。私は当時は母が何に騙されているのかなど検討もつかなかったが、今になればほんの少しだけ理解できた。正気と狂気を繰り返す母は電話口に向かって同じ話ばかりするから、幼心が話の内容を覚えていて、真島貴一としての思考力を得た際に、理解できてしまったのだ。
箱入り娘として育てられた母、大学生の時にイカれた男に恋をして、自分の身分も家族関係も捨ててしまって、それでも愛する人と過ごすつもりでいたのに、相手を愛し切ることができなかった。あれは彼女にとっては、裏切りに等しい価値観だった。もう少しまともだった頃に、父を庇うようなことも言っていたが、私の記憶に確実に定着したのは嘘か本当かもわからない、父への嫌悪感だけだった。自分に別の人間の能力が入ってきて、客観的にものを見れるようになっても父への感情が変わらなかったのは、多分このせいだろう。
母にとって心配する声は被害妄想に、猫撫で声で自分を肯定する相手には泣きながら惨状を訴え、そこに少しでも否定が入ると苦しみ出す。そんなことの繰り返しばかりしていた。親どころか、人として生活することもままならなかった。幼い娘は母親を拒絶できなかった。母がそんな風になったのは父のせいなのだと、私は思わざるえなかった。
私の手を掴んだ木下は、真っ直ぐ私を見つめた。どこの何から情報を得て、どうして確信を持って私を「娘」だと判断したのかはわからないが、彼の掴む力の強さは痛くもないが逃れられない絶妙な加減で、私はこの場から逃げられないことを悟った。父の姿は過去の自分を何度もフラッシュバックさせていく。その横を、二つの記憶がすり抜ける。私を別の生き物のような目で見る母、子供たちの警戒心を解くためにまるで父親のように振る舞った自分、詭弁を振りかざし思考停止した真島貴一の暴力性と、父に似ていると言われた名前の呼ばれない女の子。
「……えりなちゃん……いいや、きみは……」
木下は善良そうな男だった。いや実際善良ではあったのだろう。母と同じくらい善良で、無知。木下は神景会の教義が個人の尊厳にダメージを与えうるものだと理解していない。いや、頭では理解しているんだろう。説明すれば理解してもらえるかもしれないとでも思ったか。彼は私に嫌が応に全てを思い出させた。
「きみは……どうしてこんなところにいるんだい?」
「……」
「大体、君がこんな、大人の服を着ているのは、なぜなんだい」
彼は唇をわななかせていた。彼の仕事はこんな児童養護施設とは関係のないものだったはずだ。つまり、私こと佐々木透子を、探していたんだろう。
彼は私の目の前でしゃがんだ。明るい色のスラックスが土に汚れるのも構わずに。彼は、善良だ。善良な男だった。
「……僕がなんとかする。父親と思わなくたってかまわない。だから……一緒に来てくれないか、きちんと君が生活できる環境を用意する」
それは多分本音なのだろう。
「……君が嫌なら、天蓮華様のもとに行かなくったっていい。大丈夫、君がしたいことは、全て叶えよう。だから……」
……胸を刺すほどに、彼の気持ちは理解できた。頭の傷口が、その愚かさで染みるように痛んだ。私はその瞬間、理性を総動員させて、自分の全ての気持ちをねじ伏せた。恐怖も嫌悪も何もかもを叩き潰して押し殺して圧殺して、理性的な大人を口から搾り出す。
「……木下さん、お伝えしなくてはならないことがあります」
私は彼の情愛を断ち切るように言った。
「私はあなたの娘とは、違う人間です」
「いや、そんなはずはない、君は名前だけじゃない……こんなに朋美さんに」
私の肩を潰さないように、しっかりと持つ彼の手をつかみ、私は自分の後頭部に彼の掌を触らせた。子供には似つかわしくない、大きく歪に歪んだ桃色の三日月を、髪越しに確かめさせる。
「……これは」
「私は、純粋な十歳の少女ではありません。……俄かに信じがたいとは思いますが、私の頭には真島貴一という男の脳を一部移植されています」
彼の眉間にぐっと皺がよった。その深さが、自分が相手にとってどんなに常識外のことを言ったのかを物語っている。
「ありえない」
「ありえないですよね」
「……冗談を言うのはやめてほしい」
「知能テストでもしますか?」
その言葉に、彼の目が泳いだ。薄々は気づいていたんだろう。私の言動があまりに子供らしからぬことを。それがただ話題が古いだけならまだしも、話の構築の仕方がそもそも子供のそれと違うことを。彼は子供に慣れていたはずだ。
「……しかし、そんな、できるわけがない」
そうですね、できるわけなければよかったんですけどね。
あの時、きちんと真島貴一が死んでいれば。
あの時、きちんと佐々木透子が死んでいれば。
彼の言うことは正しい。倫理と道徳の内側にいる人間は決してやらないことだし、道徳と倫理から外れた人間であっても、そもそも人間にこれは真似できない。でもこの世界にいるのは、道徳や倫理や常識を兼ね備えた物ばかりじゃない。
「私は、戸籍は佐々木のままですし、半分より多いくらいはあの子の脳で構成されていますけどね。でも木下さん、あなたが探している女の子は……」
「いいかげんにしなさい」
言い聞かせるようなつもりで言った。それは私の中にある佐々木透子の要素が木下と言う男を拒絶していたからかもしれないし……あるいは同じ父親だった真島貴一が抱く同情心だったのかもしれない。しかし彼は受け入れられないようだった。それもそうか、彼は神様を知らない。神に膝をつき続ける生活を送りながらも、神を知らないのだ。苛立ちを抑えるように、彼は眉間を指で揉んだ。土についた片膝が両膝になっていた。
「……そんな妄想を、大人が信じると思うのか」
「……」
ああ、話が通じない相手になってしまった。しかし幸いにも、潰して殺した感情が戻ってくることはなかった。私は今、平静を保てていた。
「……君にはきちんとした保護者が必要だ。そして少なくとも、ここにいるべきじゃない。僕が見てきた施設の中でも、ここは明らかに良くない。ここを出よう」
「いや、私はここの子じゃなくてですね」
「……そのあたりの詳しい話は、また後で聞くから、ひとまずは」
まずい、血の繋がった親なんかに連れて行かれたら、私はそのまま彼に身柄が預けられてしまう。そうしたら、二人は。咄嗟に踵を返して走り出そうとした。しかし彼は私の服を堅く掴んだ。私が足を踏み外しても転ばないように、しっかりと。ああ憎たらしい。
「僕のことを今信じられなくてもいい!でも今は一緒に来てくれ!頼む」
憎たらしい!
大人には時に、子供を無理にでも押さえつけなければならない時がある。子供の身に危険が及びそうな時だ。それは美談だが、そんな美しい話をゴリ押ししないでほしい。まともな大人はまともなことが好きだから、いざまともな状況じゃなくなっても、まともであることを貫こうとするから困る。困るのは私の勝手で、この人が悪いんじゃあないのが余計癪だ。ああ。
噛み付いて、引っ掻いて、暴れ回っても押さえ込まれてしまった。本当にまずい。このまま攫われてしまったら、本当に戻れなくなるかもしれない。市役所の部署全部に私たちの話が行っているわけではないのだ。それで順繰り順繰りに手続きがされている間に、数ヶ月拘束されれば……いやでも最悪、天蓮華様には話が行ってるからなんとかなるかな?……うちの子にならない?って言われたらどうしよう。なんかあの人言いかねない気がしてきた。龍禅院様は多分天蓮景様に逆らえないし……!
「誘拐かよ、いよいよここも終わってんな」
「っ!」
「根崎さん!」
聞き慣れた声に振り返る。子供のいるところであることなどお構いなしに彼は紫煙を全身にまとわりつかせてやってきた。
「、君は!」
「おーーーい!!責任者ァ!!誘拐だ!!!!ゆーーかい!!!」
「違う、僕は彼女の父親だ!」
「嫌がる子供抑えてるのはどこのどいつですかぁーあ?」
……あ、そうか、私は子供だ。子供だった。子供というのは印象操作に、とても有利だ!
「っ、助けて!!誰か!!!」
「なっ」
「だとよ!」
何の躊躇もない革靴の爪先が、私を抑え込むために屈んでいた木下さんのこめかみに当たったのが見えた。根崎さんの向こう脛が私の頭をかすめたけど、なんとか避けて彼の元から転がり出る。それを根崎さんがすかさず持ち上げた。
「何事ですか!」
「不審者だよ!!ロリコン!!!オイ!管理者呼んでこい!!」
根崎さんの怒号に、木下さんが職員に囲まれた。その中にはぶつくさと文句を言う人もいたが、彼らはきちんとさすまたまで持ってきて木下さんを取り押さえた。木下さんは最初こそ自分が透子の父親であることを話そうとしていたようであったが、職員たちの目を見て話が通じないことを理解し、おとなしくしたようだった。それを見て、私は自分の中で曲がりなりにも持っていた正義感が、神という理不尽の前に砕かれたことを、改めて思い出した。力でねじ伏せられれば、その前に抱いていたキラキラしい愛情も、正義感も、消え去る。
大捕物が無事に終わる前に、職員はこの場から離れるようにと私たちに指示を出した。根崎さんは私を抱えながら「きちんと仕事しろよな、無能が」とぼやいて、屋外の廊下から建物に向かって歩き出した。
あとは……多分、神景会が介入して、なんとかなるだろう。その時、天蓮景様あたりが我々の事情を説明してくれることを、少しだけ期待しておく。
……木下さんは、悪いことをしたわけではない。木下さんに離婚を突きつけたのは佐々木朋美の方であるし、何も考えずに実家を捨てて逃げた上に、離婚後も親に謝って助けを求めなかったあの人が悪い。そもそも、木下さんは自分の信仰のことについても話していたし、教義についても、佐々木朋美はちゃんと知っていた。でも、今回の私の話を信じられなかったように、受け入れられないこともあるってことを、理解していなかった。
「……」
「……」
「……セーーーーッフ!」
「何がセーフだ馬鹿野郎、よりにもよって実父に見つかるとか運気0か?」
根崎さんの軽口に、なんだか少し安心した。
「神様に楯突いてる私たちに運が味方してくれるもんか」
「それもそうか」
「そろそろ降りるよ?」
「また十ちゃい透子ちゃんが迷子ちゃんになると迷惑なんですけどぉ?」
「あー」
私はまた、断れなかった。
根崎さんは抱え方が、ここ数年でうまくなった。昔は骨張った腕が体に食い込んで痛かったのだが、……いや、私の体が根崎さんに抱えられることに慣れた可能性もあるか。自分の長い髪が、根崎さんの顔にかからないように右肩にどけた。根崎さんは鬱陶しそうに「あんま動くなよ」と言った。私が小さくなったのもあるが、彼は随分と大きくなった。親のような台詞を口走りそうになり、慌てて飲み込む。
いつのまにか根崎さんの口元からタバコがなくなっていた。私を両腕に抱えているので、多分庭に捨てたんだろう。厚底の眼鏡の奥で、夜の水溜りに落とす前のビー玉のような目が、皮肉っぽく歪んだ。
「どっちが誘拐犯だろうな」
「あっちあっち、絶対あっち」
「言い切るじゃねえか」
「事実は違っても年甲斐のままに喚き散らして周囲にそういう印象植え付けてやる」
「えっぐ……」
流石の根崎さんもドン引きしているところで、報告する。
「さっき、その……たまたまだったんだけど、児童が集められているところに入ってね……見たよ、狐憑きの現場」
「へえ」
「正直、尋常じゃないものは、感じた。確証はないけど」
私は至極冷静を装いながら、根崎さんに聞いた。先ほどの子供たちの異様さは、只ごとではなかった。私は確実に神か何かが関わっているつもりで、彼に聞いたのだが。
「あー……、でも多分、俺ら今回関係ねーよ」
彼から返ってきたのは、予想外の返事だった。
「そうなの?」
「ああ」
彼は顎をしゃくって私に何かを見るように訴えた。その先にいるのは、黙々とご飯を食べている子供と、それを作業的に見ている大人。
「黙ってるように見えるだろ」
「うん」
「あれ子供同士でくっちゃべってる」
「え」
どこが、と聞く。根崎さんは私をおろした。机の下で、子供は行儀も考えずに手を握ったり離したりしていた。
「あれ、会話」
「……手を握るのが?」
「指で文字作ってんだよ。この施設、会話禁止だからな。職員には行儀の悪い子にしか見えないだろうよ。何か手紙を受け渡してるわけでもねえから、注意してないんだろ」
聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「行儀は注意しないのに、会話はだめなの?」
「……ガキが多いと管理に困る、悪い奴とつるむクソガキと大人を信じねえクソガキが施設を出てから徒党を組んで悪さをする。でもここにいる職員は熱血指導もできねえし人格を矯正するほどの権限は与えられてねえただの役人だから餌を与えて平等に管理することしかできねえ、っていうのがこの場所の言い分でな」
まるで自分が見てきたことであるかのように、彼は話した。私がいなくなっていた小一時間の間に、聞いてきた情報量としては、妙に多い。
「一ヶ月もいると、喋り方忘れるぜ……俺らがここにいた時から変わんねえな、ここは。まだ神景会や、南の方にある施設のがずっとマシだ」
「へ」
「昔っから膿んでるんだよ、ここは。じゃなきゃガキどもの指文字なんてわかるわけねえだろ。俺たちがここにいた頃からあるんだぜ、あれ。大の大人が一人も気づいてねえの笑えるけどな」
「そんな、いやでも」
話がうまく整理できずに、混乱する。ということはあの狂気的な騒ぎは、子供たち自らが起こしたものだった、ということか?私は俄に信じがたかった。あの子供たちの獣性が、狂気が、まるで理解できなかったからだ。あれは本当に、人間から発せられる物なのか?それに……そこで私は、事件後に始めて会った高田さんと根崎さんのことを思い出した。当時の二人は妙に語彙が少なかった。精神的なショックによるものだと思っていたが。
「……ここに吹き溜まったもんは神なんかのせいじゃねえよ。さっきの騒ぎも、計画を指で話してるガキがいた。多分……騒いで、大人を困らせて、全部明るみにしようって魂胆なんだろうぜ」
「……、…………」
私は息を吐くことしかできなかった。
「フン、ガキの悪知恵に振り回されるバカってのは、滑稽でいいな」
そう言いつつ、彼は顔から侮蔑の表情を外して、ふとこぼした。
「……あんたが俺らを拾わなきゃ、俺らもああしてたんだろうな」
その言葉が食い込んだ。歯が立てられ、目を覚まさせられたかのようだった。
根崎さんも、高田さんも、本当は……本当は、その方が良かったんじゃないか。確かにこの施設がやっていることは良いことではない、良い環境でもないが、少なくともその「先」がある。今の私たちに、それがあるのだろうか。
もし、先の自由があれば……彼らの、私への接し方はもう少し違ったのではないだろうか。私は二人を神山の弟子にした。そのつもりで引き取った。そんな私に彼らは一度だって噛みついてきたことはなかった。二人が私のしでかした事を糾弾できる年になった時には、真島貴一は既に他界していたし、たった十歳の精神を兼ね備えた佐々木透子となった私に当たり散らすことはできないはずだ。それはつまり、ただ根崎さんや高田さんはそれを口にすることはできなかったって事なんじゃないだろうか。
幼女を盾にして生き延びている。その事実に、時々堪えきれなくなる。
「……お前まじふざけんなよ」
「え?」
「死ぬ気か?ぼーっとしやがって。目の前で突然神なり半神なりが出たら俺は見捨てるからな」
「……ごめん」
ずるずると記憶の波に引っ張られて目の前のことに集中できないでいるのだから、彼から責められてもしょうがない。
「何考えてんだよほんと……」
「いやー、面目ない」
「……。」
彼は、何かを言いたげに少し口を開いて、やめた。そして突然、私を抱えたまま歩みを止める。何か気になることでもあったのかとあたりを見回すが、特にそれらしきものはない。彼は黙っていた。黙って私を抱えて立っていた。目線は、ただ遠くを見つめ、眉間にはきつく皺が寄っている。にもかかわらず、私を支える腕は、少し体勢を変えるために身じろぐ以外は動くことなく、重いとも軽いとも言わず、抱き寄せるでも離すでもなく、その場に止まっていた。名前を呼んでも、無視された。いや、眉間の皺がより深くなって舌打ちはされたが。
段々と、私の足の下と背中に回る彼の手が温かくなっていくように思われた。体温が移っているので当たり前なのだが、なぜかそれが、私を安心させた。彼は何を考えているのだろう?何か引っかかることがあったのだろうか。でもその割に、彼は随分と長い間微動だにしなかった。
……私は、彼が自分の立ち振る舞いについてひどく敏感なことを知っていた。だから、何も言うことはなかったが、彼が「立ち止まる」という行動を選んだことを問いかけたくなった。だがもちろん、何も聞くことができない。ただ彼の腕の中は温かかった。皺の寄ったウールのスーツから彼の体温が通ってくるはずはないのだけれど。べたりとした髪も油と脂の混じった独特の匂いも、全て私を拒絶しているように思われたが、ただ、彼は何もしなかった。その温かさは静かに何かを肯定されているように思われた。いや、私がそう思いたかったのかもしれない。そう思い込んで自分を楽にしようとしているだけなのかもしれない。
彼が突然、私を引き寄せた。そして小さく何か耳打ちした。私は耳を疑った。幻聴のようにも思われた。だって、ありえない言葉だったからだ。そもそも彼は、こうして耳打ちで自分の意思を伝えてくることすら、滅多にやらないというのに。
私は彼の言葉を反芻しないように、耐えた。普段は、もうある程度しょうがないと思っているところはあったが、この言葉は……この言葉だけは、神に絶対聞かれてはならないような気がした。私はただ彼がそういう言葉を口にしたことの意味を強く意識する。先ほどまでの真島貴一と佐々木透子の歪な感情の不協和音は、抑えつけても抑えつけても消えてくれなかったそれが、流水によって洗われるように、静かに消えていくのを感じた。
顔を見上げて、根崎さんの目を見つめると、思いっきり叩かれた。私はそれが痛くて、泣いた。
世界は認識によって作られる。
例えば過去の症例として、夫が浮気をしていると知って以来、夫の姿を認識できなくなったというものがある。認識できなくなった、というのは本当にその名の通りで。そこにいるのにわからなくなった、ということなのだそうだ。その瞬間妻の世界から夫の姿は消え、家の中で一人で過ごすこととなんら変わらなくなった。
それは他の人間から見れば異常だとしても、本人にとっては事実なのだ。
『……そろそろかな』
「なにが」
『白井、君は神様になれるんだよ』
「……。」
三井は……いや、三井の姿をした何かはそう言った。俺は、俺は叫び出したくなった。
『でも、留まってる。なんでだ?』
「……なんの話だ」
微笑んでいる。まるで子供を診療しているみたいだった。
『もうあと、気づくだけで良いはずなんだけどな。良い加減、死ぬのにも飽きたんじゃないか?』
「いや、死んだことはない」
『あるよ』
彼は音もなく俺に近づく。
『じゃなきゃコレは生まれてない』
三井はそう言って自分を指差した。突然の頓珍漢な話に思わず落ち着け、と言いたくなった。なぜか背中にじっとりとした嫌な汗をかいていた。そも、新興宗教のような頓珍漢な話を見聞きするのは幻覚の常套だ。頭の中に浮かぶ不穏な神々の手を払いのけ、俺は三井の声を無視しようとした。やはりこの男は自分の幻覚だ。これは結局、俺自身が作り出したまやかしかもしれないのだ。ならば落ち着くべきなのは俺の方だ。
『ゴーレムとか言ってたっけ、君らは。三井くん含めたお人形さん達の話でしょ、あれ』
なんでもないことかのように言う彼はあまりに、あまりにも現実離れしてあり得なくて、脳が理解を拒絶した。
「……今度はロールプレイングゲームか?」
『あれ、知ってるでしょ、土塊で作った人造人間って意味が正式だけど。魔術師の言葉で言うとこの、要は僕らが作った人間社会に紛れた人間のふりしたデコイ人形』
「……良い加減やばいな、俺」
『やだ全然聞く耳持たないじゃーん』
「うるさい、黙れ……だめだ、病院に行こう」
『狂ってるとかほざく癖に冷静すぎる。もう……たのむよお』
彼はそう言って困ったように微笑んだ。その顔つきが、俺の奥深くに突き刺さる。それは紛れもない三井の顔だった。俺は混乱する、いや確かにこの男はついさっきまで三井とは違う顔をした。これは危ないものだ。でも、思えない。なぜ?
これは、あくまで俺の頭が作り出した幻だ。彼が存在しないという事実を俺が受け入れられなかっただけだ、と思おうとした。できない。
これは三井ではない。これは幻覚だ。俺は俺の認知の歪みでこれが見えているに過ぎない。なのにそう思えない。
俺は俺が狂ったんだと思った。狂ったんだと思いたかった。その方がずっと分かりやすかったからだ。でもそれだけじゃなんだか済まない気がしてきている。俺はさっき、本田さんのところに向かった。どうやって?思い出せない。
『白井隼人、良い加減限界だろう。お前は、もう人間を続けるのは無理だよ。誤魔化して誤魔化し続けてきたみたいだけどさ』
「……、……」
『でもやっぱり君は頭いいよね、自分と人間の架け橋として[これ]を逆に作り替えちゃったわけだしさ。よくできてたと思うよ。まあ運が悪かったのは、現代社会が発生したってことか。あの頃の君のように魔術も僕らの技術も使えてたらこうはならなかったんだろうけど。流石にメンテなしで輪廻に潜らせて数百年は無理だよねえ……だから、なおしたよ』
「……。」
『ほら、あとは君が思い出すだけだ。きっと、もうそれは気付いてるんだよな。無意識で魔術も使ってるみたいだし。ね、あと少し』
こいつが言う言葉は全部無視するべきなのに、それがあまりにも頭に届きやすくて無防備な奥に届いていく。何が起きている?わからない。わかりたくない、考えたくない。それでも思考は止まらない。強制的にまとまっていく。ジン対のことを思い出した。願いによって妄想が具現化することはある。あり得ないことは起きる。だが俺は、神と近くにいたわけじゃない。
……いや。
ふいに本田さんから聞いた話が頭をよぎる。そう、半神を殺した時にあの女が発した言葉。人は神様の卵が産み付けられた芋虫である。つまりいずれ神に我々は乗っ取られるという意味なのか、あるいは神々に内側から食い破られる運命なのかとそう考えていた。しかしそれは否なのかもしれないと思った。では……。
一つの突拍子もない可能性が思い浮かんだ。我々は思考する。思考し想像する生き物である。しかし他の生物にそんな機能は備わっていない、かもしれない。頭の中に浮かぶ様々な映像、文章、作られた世界、これは我々が当たり前のように持っている事象だ。だがそれが我々だけのものだとしたら。我々にだけ存在するのだとしたら。
人は現実を認識せず、思考の中で生きることもできる。見えるはずのものが見えなくなることも、聞こえないはずのものが聞こえるようになることは難しいことじゃない。
……それは人間だけに起こる事象なのか?
現実から目をそらすことは合理的ではないはずだ。なのに僕らがなぜどうしてそのような特性を持つに至ったのか。
……答えはないだろう、まだそこは、見つかっていないはずだ。
『いや白井、君はもう今まで見てきただろう』
「なにを」
『思考が現実に介入する姿を』
その時、なぜか不可視の神が三井の中に乗り移ったことを思い出した。
意識に意識が宿る、思考が自立して頭と目玉という感覚器から剥がれていく。ずっと繋がっていなかったバックアップファイルに接続したみたいに、膨大な知識、経験、記憶がなだれ込んでくる。ああそうだ、俺は……。
すると、実体を持った燃える腕が、俺の喉にかかった。すごい力で、握られる。握った腕が、首を絞め、貫通し、首の奥にある神経に届いたのを感じた。そこに上書きされるように強烈な電流のようなものが当てられた。瞬間、長々と考え続けていたのに目をそらし続けていた何かがつながった。意識、思考という動物的でない異形の何かが、頭の中でぐるりと寝返りを打った。俺はもう既に白井隼人としてではなく、白井隼人の中から世界を覗いていた何者かの思考になろうとしていた。その瞬間、目の前の三井が微笑みながら、燃えた。赤々と煌めく光が、思考に届いていった。
佐々木side
私たちは児童養護施設を後にして、市役所に戻る途中だった。その帰路で一瞬、強烈な光が地面から噴き出すのが見えた。それはほんの2、3秒のことで、自然現象として観測するにはあまりに短い時間であった。私たちがそれを観測できたのは、その超常現象が私たちの目的地付近で起きたから……。つまり、光の柱が立ったのは、私たちが戻る予定だった市役所からだったからだ。
「高田さん?」
「……いるね」
「ああ……”来てる”」
久々の、本格的なジン的災害だった。
半神ではない可能性が高い。なぜならこれだけ派手なことが起きているということは、派手なことが起きても人々の認識から外れられるという自負があるということに等しいからだ。根崎さんと高田さんに現場にまず向かうように指示してから、私はまず宿舎に向かった。汚物と血と死骸の煮汁で染められた黒い衣装と、香で燻された白い着物を引っ張り出す。仮面、草履、ある。大丈夫、この準備だけは欠かさないようにしておいてよかった。
幸い宿舎は役所と近い。神南市役所からは、人々がいつもと変わらず出入りしている。だが市役所の建物の影がなくなっていた。なのに誰も気づいていない異様さ。それを利用するように、根崎さんは半地下にあるトイレへとつながる窓を蹴破っていた。
「現場は?」
「俺らの部署付近だ」
「嘘でしょ」
「嘘じゃないよ、透子ちゃん」
嘘を吐きかねない根崎さんの言葉を高田さんが素早く訂正した。三人で、根崎さんが躊躇なく割った窓から市役所内に侵入する。中はいつもよりずっと明るかった。公共の場にある職員用のトイレにもかかわらず、妙な清潔感がある。異様だ。私は持ってきたものをそれぞれ高田さんと根崎さんに手渡す。異様な穢れの塊となった根崎さんと、清廉なものの象徴となった高田さんが出来上がる。
「行って!」
そう私が言うと、二人は仮面をかぶる寸前、一瞬目を合わせてトイレから飛び出した。
明るい。
第一印象はそれだった。そして妙に清潔だ。どんなに新築の建物であっても、人がいる以上汚れや歪みが発生するのが物質というものだ。私はすでに、かつての大災害の小さな片鱗であった、建物の小さな亀裂が消え去っていることに気づいていた。そう、あの時……同僚だった根崎穂花さんと高田順平くんが死んだ時も、同じだった。倒壊した建物は消え失せ、元に戻り、空間が歪み、二人は……土砂崩れで死んだことに、なった。
私は清廉な床を蹴って走った。まるで地面があることを確かめるように。
まず向かったのは、私たちが普段使っている仕事場の方だ。案の定、誰も異変に気づかずにいる。
「あら、おかえり透子ちゃん、お疲れ様」
「渡辺さん」
「あれ?二人は?」
「落ち着いて聞いて……この庁舎に、神がいる」
初めに浮かんだ表情はなんの冗談を、という笑顔だった。続いて疑いの目、まさかそんなと眉間に皺が寄ったところで……目が見開かれる。恐怖と、疑問の顔。
「な、……なん、なんで」
「渡辺さん」
「なんで、私、いるのに」
「……神がこちらに危害を加えるつもりがないからだと思う」
「じゃあなんでいるの?!」
「……それを調べてくる」
私の言葉に、渡辺さんが一瞬涙を浮かべて……二、三滴と涙を落としてから、顔を上げた。
「……私にできることは?」
「安全地帯を作りたいの」
「どうすればいい?」
「おそらく向こうの奥に神がいるから、そこから可能な限り離れてほしい」
「……わかったわ、救急セットも持っていくわね」
「ありがとう、お願い」
後ろにいた中嶋くんと沢口さんが、私の指示を待つことなくそのまま出て行こうとした。
「二人ともまって」
「あんたに指図されたくない」
「二人の支援じゃないんですか?」
「……一度に神愛と神忌を失いたくない。一旦ここに留まっていて。状況がわかったら指示を出す。でも、もし三十分経っても戻らなかったら、来て」
「…ガキ扱いしやがって」
そう言って出て行こうとする沢口さんを中嶋くんが止めた。殴る蹴るといった方法で抵抗する彼女を、あっさり抑え込んでいる。
「……行ってください」
中嶋くんが静かに言った。
「……わかった」
私はそのまま廊下に駆け出した。
地下会議室の奥が、明らかに発光している。私はその横の見慣れた背丈の横に立ち、声をかけた。
「二人とも、神は……」
その時、私は気づいてしまった。ここが、白井さんが診療のために借りていた部屋だということに。
「……白井さんは?!」
「わからない、でも……」
「でも?」
言い淀む白い翁面の高田さんの横に黒い影が降り立つ。
「覚悟しとけ……神懸かったのは、白井かもしれねえ」
脳が無意識に排除していた可能性を言い当てられて、震えた。
焼け付くような光がドアの隙間から降り注いでいる。その反射を見ただけでも、目が焼けるような心地がした。私は顔を逸らしながら、高田さんと根崎さんの方ににじり寄る。面を日除け代わりにした二人が、私を陰に招き入れてくれた。
「今出てる光は見ちゃダメなやつだよね?」
「うん、時々弱くなったりもするけど、段々光量が増してて、危ない」
「これが放射能だったりしたらもう俺たち終わりだけどな」
「縁起でもないこと、言うなよ」
その光は強すぎた。ドアの隙間から漏れるほどの光量なんて、どんなに西日が輝く日であっても見たことがない。もしこれが放射能でなくとも、溶接の時に発生するアーク光やそれに近しいものであるとしたら、人体に悪影響がないとは思えない。何が光源なのかはわからないが……鎮まってもらわなければ、まずい。
「やっぱり渡辺さんを呼んでこよう」
高田さんがそう提案した、確かに彼女がいれば、害のある光線を神は減らしてくれるかもしれない。だが彼女のことを、神がどこまで加護してくれるかは未知数だ。そもそも彼女は神山の下で修行をした経験はないのだから。
生まれつき神愛の特徴を持っていた彼女がいなければ、神山が我々に力を貸すこともなかったが、均質化されていない力を持つ彼女の能力は、未知数だ。だが、打てる手は打たなければ、下手をすれば、本当にこの市が今日、終わりかねない。
……しかし神様はそんな準備をさせてくれる程優しくなくて。
突然、ドアの空気口が、割れた。入ってきた光が、一瞬で床を焼く。そこからは炎が立ち上がった。
瞬時に根崎さんが私と高田さんの腕を引いて、突き飛ばした。着火され続けた床の炎が、どんどん大きくなる中で、根崎さんが転がってそこから離脱する、が、既に彼の衣装には炎が移っていた。炎の勢いは収まることなく、まるで意思を持つかのように、根崎さんの全身を駆け回っていく。そこに、飛び込むものがあった。
高田さんが、根崎さんを抱きしめた。すぐ近くでは炎が広がり続けているにも関わらず、彼は動きの鈍い根崎さんをその大きな体で締め付け、炎を消そうとしていた。それは高田さんにも燃え移る可能性があった。その上、彼の両腕と片足は木製であり、さらに彼の加護では力がうまく入らない箇所もあった。
それでも、幸いにも……火は鎮火された。私はその間に、消化器をなんとか探して、持ってきた。炎の勢いをなんとか一部弱めたが、着火原があのままな以上、食い止められるのはほんのわずかだろう。
根崎さんの顔半分や首は赤く爛れ、朦朧としているようだった。高田さんは、根崎さんにもはや火種が一つも残っていないことを確認すると、少しだけ大きく息を吐き、こちらを見た。
逆光となったその表情は、わからなかった。
高田さんは、根崎さんをなんとか自分の生身の足の方に寄せて、抱えた。そしてその場からずるずる、ずるずると動き出す。私も二人の様子を見ながら、それに続いた。
渡辺さんの元に辿り着くと、彼女が息を飲んだのがわかった。
「根崎君、なに、一体何が」
「……神、が」
「ああ、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
彼女はどうしようもならなかったことに泣いて謝った。既に意識は回復した根崎さんが、手当をしようと救急箱からガーゼを取り出してきた彼女の手を叩いて払う。私はその後ろで、根崎さんの背中にある火傷を、なんとか確かめていた。
「……ねえ」
普段通りの応酬に、口を挟んだのは沢口さんだった。
「……もしやとは思うんだけど、あんた、神愛庇ったりしたの」
根崎さんはそれをチラリと一瞥すると、何も言わずに視線を自分に巻くための包帯に戻した。それを、無言の肯定と受け取ったらしい。
みるみるうちに沢口さんの表情が変わった。まるで猿の人権を求める人間を見たとでも言いたげな、信じられないものを見るような目をしていた。
「あんたたち、おかしい」
頭の高い位置にあるお下げを揺らして、普段の凶暴さをひそめさせた彼女が言った。
「あいつらって本当に神愛と神忌?」
「そうだよ」
渡辺さんが不安そうな表情を浮かべながら、答えた。確かに、根崎さんが来ると神は離れ、高田さんが来ると神が寄る。その効力は健在だ。すると沢口は顔の片方を醜く引き攣らせながら言う。
「信じらんない……」
「……何を根拠に、そんなことを言っているの」
「足りないから」
「何が」
「憎悪だよ」
彼女は当たり前のように言った。そこにペンがあります、という言葉と同じ調子で。おかしいのはそちらだと言わんばかりの顔で。
「それって、どういう」
「ほんっとに、ほんっとにさあ……」
「沢口さ……」
「なんで神忌が神愛庇ってんだよ!!!」
沢口さんの本気で嫌悪を込めた口調が、私たちに貫くように発せられた。彼女はまだ傷に手当をしてる最中の根崎さんに掴みかかる。
「ちげえよ!!ちげえんだよ!!あーーもうマジ意味わかんねえ、ほんっとキモい!!!わけわかんねえ!!!別に放っておきゃあいいだろうが、のたうち回ってようが見捨てろよ、それがアタシらの役目だろうが、それでいいだろうがよ!!」
「人が足りねえんだ」
「嘘こけ!!神愛のが神忌より多いじゃねえか、一人殺してあのババア引っ張ってきても構わねえだろうが!!!」
反論した根崎さんの胸ぐらを掴んで沢口さんは叫ぶ。
「確かによお、俺らは直接神愛を殺しちゃなんねーよ?でもよ、なあ、なんでお前はアレを庇うまでする?」
なぜか根崎さんが止めに入らない。黙っているのをいいことに沢口さんが喚いた。
「アタシらに何押し付けてアイツらがお綺麗なツラしてんのか、知ってんだろお!!」
吠えるような彼女の言葉、それは慟哭に似ていた。親の仇か何かでも語るような口振りで、彼女は根崎さんの襟首を絞めるように、掴んでいた。しかしなぜか根崎さんが、それに抵抗しない。そのせいか、段々と沢口さんのボルテージが上がっていく。
「なぁ、なぁあああぁ!それともあんたは許すのか、コイツらを!!ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!!なのにお前は神忌だって?舐めてんのかよええ?!」
根崎さんは何も返さなかった。まるで言葉を発することそのものが億劫だとでも言いたげに、冷めた目つきで沢口さんを見ている。自分より身長の小さいおさげ髪の女の子に胸ぐらを掴まれているなんて、普段の根崎さんなら耐え難いはずだった。だが彼は、何も返さなかった。まるでそう言われることが、当たり前だとでも言いたげに。
止めたのは、高田さんの方だった。静かに根崎さんと沢口さんの間に割って入る。
「おい!関係ない神愛がでしゃばん……」
「やめろ」
私が今まで聞いてきた中で、最も冷たい高田さんの声が、廊下に低く響いた。彼の口から聞いた、珍しい、否定の言葉だった。それはもしかすると、燃えた廊下を凍らせるのではないかとすら思わせた。
「今じゃないだろ」
そこに含まれた感情は、あの逆光の中で聞いたものとよく似ていた気がした。
「……は、はは、嘘だろ、おい……あんた……」
「……。」
突然、沢口さんはつんざくような大声で笑い始めた。攻撃的な爆笑は、養護施設で聞いたものとよく似ていた。自分の中にある鬱屈とした感情を爆発させるみたいに、彼女はひとしきり笑い、唾を吐き散らかし、壁を乱暴に叩いた後……、歪に微笑みながら言った。
「……あんたたち、死ぬよ」