佐々木side
それは世界中が同じ色なのではないかと錯覚させるくらい真っ赤な夕焼けの中でのことだった。低い轟音が腹の奥まで響いて、灰色の鉄筋コンクリートの壁が粉を吹き上げ轟音を立てながら崩れていく。ここは見慣れた市役所の古い建物のはずで、本来薄汚れたクリーム色の床の黒いシミの位置から一箇所だけ足りていない丸椅子のことまでわかる十年来付き合った職場のはずだった。なのに、まるでどこか異世界に飛ばされたような気持ちになった。
オレンジの色を吸い込むほど赤黒い血の海と、崩れた壁と床でサンドイッチされた同僚がいた。彼女の眼鏡はどこかに吹き飛ばされ、コンクリートの粉まみれになった頭の下の顔は泣きながら前に手を伸ばしていた。俺は無傷とはいかないまでも助かっていた。彼女が伸ばした手の先には携帯が転がっていた。
「ぁ………ぁ……」
既に端末は半分潰れて、とても使えるとは思えない。彼女には夫がいて、さっき彼女を前に押し出すように突き飛ばした。でも、瓦礫のもっと奥の方に沈んでいる。家では子供が一人で留守番をしていると言っていた。一瞬、ためらった。彼女の手元にその潰れた使えそうにないケータイを持っていってやるべきか、自分の命を優先させるべきか。
でも悩む時間はなかった。鉄筋でかろうじて支えられていたらしい大きな瓦礫が、灰色の石の山を滑り降りたからだ。重い石は彼女の頭を覆い隠して、血の海を広げた。そして飛び散るピンク色の……。
「っ!は、はぁっ……はぁ……」
目の前にある景色が錯覚で、今まで見ていたものが現実だったような感覚……夢の残り香を感じながら、私は少しずつ冷静になった。明るい天井、細長い蛍光灯、触り慣れないシーツ。見覚えのない景色に頭がぼーっとしていたが、あたりを見回して記憶を辿ると、そばに男が座っていた。真っ赤な夕日が窓の外の低いビルも住宅も全て照らしていて、全てを燃やし尽くしているかのようだった。それを背にする男は真っ暗闇から現れた悪魔のようにも、後光を背負った神のようにも見える。
「!佐々木さん…!佐々木さん!」
「……はぁ……は……」
男は静かにこちらに腕を伸ばすと、何かを握った。
「どうされましたかー?」
「佐々木さん、お目覚めになったみたいです」
「あ、はあい、ありがとうございまぁす」
きっと、ナースコールを押してくれたのだろう。そして彼はスマホを取り出して、部屋を出て行った。
「……。……」
頭が、痛い。
自覚をした途端にその意識は風船のように膨らんで、私は思わず額を押さえた。だが腕からのびる見慣れた点滴の管が視界に入って、私は腕を戻す。何もないことを確認した上で再度左手の方を額に持っていくと、ざら、と慣れない手触りのものが、顔にあることに気付く。これは……動く……布、包帯かな……。
「渡辺さんが、すぐ来るとおっしゃってましたよ」
戻ってきた彼、本田さんがそう告げた。彼は椅子を、壁際に寄せて、大きな体を縮こまらせるように座った。丸々とした体は、小さな椅子の上でもバランスを崩すことはない様だった。
「どうして、ここに?」
「三日ほどお目覚めにならなかったので、お見舞いに」
「そんなに?一体何が……あっ、たか、高田さんは!」
その時静かにドアが滑る音がして、白衣の男が入ってきた。
「……よかった、佐々木さん、目が覚めたんですね」
「っ、白井さん!高田さんは……!」
彼の私を見る表情はあまり変わらないが、なぜかどこか呆れている様に見えた。白井さんは私の隣にいる本田さんに会釈する。すると本田さんは会釈を返し、何かを察した様に「では僕はこの辺で」と言って席を外し、病室の外に出て行ってしまった。見送った白井さんが、ほう、と息を吐く。
「生きていらっしゃいますよ。でもまずは、あなたのことが先です」
「なんでですか、高田さんの方が……!」
「いいえ、あなたも重症です」
何を言っているのかわからない。高田さんは足を失ったはずだ。いくら神の御加護があるとはいえ、彼は……。
「脳卒中で倒れたんです。安静にしてください」
「……。」
「覚えていませんか、病院で倒れたんですよ」
「……。」
……この体は、もうそんなガタがきていると言うのか。そんな、じゃあ私は、この子は……。
「佐々木さん、奇跡は、奇跡です。ずっと続く保証なんてどこにもない」
「……。」
「あなたの脳はつぎはぎなんです。それに体もまだ小さい。もっと自分を大事にしてください」
その瞬間ピンク色の肉片が視界の後ろで蠢いたような気がした。それは生きることを拒むように震えて、私の頭から剥がれていくように思われた。
……これ以上、どう大事にしろって言うんだ。
あの子たちに全て押し付けて後ろに下がっている私に、それすらやめて一体何ができるっていうんだ。誰かに代わってもらうわけにはいかない。これは最小限でなくてはならないことだ。知られてはいけない事象、あってはならない出来事。知った時点でこちら側になる。じゃなければ、私は、彼らにこんな仕事をさせたりはしなかった……。
……いや、それは言い訳だ。無力だったのを、子供たちに押し付けただけ。積み上げた石の山が、崩れて彼らに降りかかったように。危険な崖に、柵をこしらえなかったみたいに……。真島貴一の亡霊が、私にそう囁きかけてくる。
「佐々木さん?」
「……あ、えっと……お見舞いも、ダメですか?」
「まだダメです。もう少し先になってからにしてください」
「……はい」
まだ絶対安静です、という言葉に頷くしかなかった。夕焼けが、だんだんと黒く染まっていく。燃え上がって、黒焦げになっていくかの様だった。今はもう、何も考えたくないのに、不吉な考えばかりが浮かんでいた。
白井side
彼女にはああ言ったが、高田さんが平穏無事であるわけではない。精神的に参っている部分がどうしてもある。が、彼は気丈であった。
「白井先生、高田さんすごいんですよ、もう義足で歩ける様になったんです」
前原さんが褒めるとは珍しい。だが確かに、驚異的な回復力ではあった。神様の加護があるのでも無い限り。
「両手と比べると楽でした、体重を乗せるだけなので……」
「もう!それができたらみんな苦労してないんですよ!」
バンッと前原さんが強く高田さんを叩いても、彼は少しもよろめかなかった。元々成人男性がぶら下がっても微動だにしない人ではあったが、今はまだ療養中で体力も減衰しているだろうに。
「この分だと、退院も早くてすみそうですね……あ、前原さん、ちょっと……」
「はい、では高田さん、お大事に」
前原さんはいつもより二割増くらいに高い声を上げて出て行った。高田さんは男前だからなあ、いつもよりはしゃいでらっしゃるようだ。
……これで、ようやく本題に入れる。
「加護は、ちゃんと発動したみたいですね」
「はい、ありがとうございます」
彼は穏やかな笑顔を浮かべている。作り笑いにしては整いすぎていて、かといって今の時点で屈託なく笑えるのはおかしい、と頭の中にいる医者としての俺が警告してくる。しかしそれは、彼が神愛であるというだけで理由として成立してしまうのかもしれない。神愛、神に愛される存在。神がどんな感情を抱いているのかはわからないが、人間のことなら多少はわかる。彼はたしかに、執着されやすい人間だ。彼は誰も否定せず、ひたすら受け入れる。それこそ俺から見れば「それはどうなんだ」と思うことですら受容するのだ。しかもこの柔和な笑顔は、人の話を引き出すのがうまい。三井の話を初めて持って行った時も、この笑顔にやられた。初対面の人間に夢中になって話をするなんて、初めてだった。……三井のことを思い出した時、ふと、性格の悪いひょろっとした男の姿が頭に浮かんだ。
「……そうだ、佐々木さん、ついさっきお目覚めになりました」
「!ほんとですか、よかった〜」
彼は一安心と言った様にほっと息をつく。
「まだ安静が必要なんで、こちらには来れてないんですが、あと三日もすれば動ける様になると思いますよ。それと……」
「あら先生、こんにちは」
「渡辺さん」
渡辺さんは、頻繁に病院に足を運んでいた。おっとりとした、不思議な美しさと気の弱さのあるこの人は、確かに高田さんと良く似た神愛だった。
「具合はどう?」
「もうほとんど元気ですよ」
「高田君は元気ね〜、さっき透子ちゃんの所に行ったのだけれども、まだ疲れてるみたいでね、寝ちゃったわ」
「そうですか……」
やはりまだ体力が戻っていなかったようだ。本田さんは、おかえりになったんだろうか。
「……ところで、根崎はどうしてますか」
まるで『知りたくて堪らなかった』演技をしているのかと、疑うほどの早さで、高田さんは渡辺さんにあの人のことを聞いた。彼は確か、一度もこの病院を訪れていない。
「ん〜あんまり変わらないわよ…強いて言えば、昨日おじいさんに灰皿投げて、始末書書かされそうになってたわ」
「書かなかったんですか?」
「逃げちゃったみたい」
そう言うと高田さんがふふっと笑った。完璧な笑み。
「らしいなあ……、元気そうで良かった」
らしいなで済ませて良いのかそれは。いや、良いのか、神忌だから。高田さんは満足そうな、どことなくホッとしたような顔をして、壁にもたれかかった。その言葉のどこに安心できる要素があるのかは全くわからないが……。
俺はいまだにこの二人のことが掴めないでいた。根崎さんはあれ以来、一度もこの病室を訪れていない。それどころか、病院にすら来ていなかった。
「そうだ、高田君、何か買ってきて欲しいものはある?」
「いや良いですよ、申し訳ないです」
「こういう時くらいは甘えてちょうだい」
「……じゃあ、えと、ガリガリ君が、食べたいです」
「無欲ですね」
俺が言うと、渡辺さんは色っぽく口に笑いを含んだ。
「違う違う、白井さん、高田君、ガリガリ君好きなのよ、そう言うと思ってもう買ってきたし」
「ありがとうございます。いやー、なんか、こういう時こそ食べたくなるというか、あー生きてるって感じになるっていうか。元気出るんですよ」
「へえ……」
その後、渡辺さんが買ってきたビニールの袋を開けた高田さんは、確かに嬉しそうだった。普段からニコニコしている人ではあるが、特にその笑みが深いものになっていると感じる。
「おいしーです、ありがとうございます渡辺さん」
「ふふふ、よかった」
暖かい空気が流れている。神愛が二人、同じ病室にいるからだろうか。問題が起きないのは良いけども、と思いながら、包帯の状態などを軽く確認する。
「……ねえ、ほかに何かしたいこととか、元気になってから、行きたいところは?」
「え?そ、そう言われましても……」
「どこでも良いわよ。何なら市外だって」
なぜかそこで、会話が途切れた。思わず頭を上げると、なぜか二人は笑顔で互いを見つめ合いながら、静止していた。
「?」
「……市外は」
「……いいの、ごめんね。あ、ていうか私無しでもいいのよ?それこそ、お小遣い渡すし」
「?」
「いやいやそんな、僕もうそんな年じゃ」
「私からすれば子供は子供だもの。それに、高田君や根崎君はもっと色んなものを見たり聞いたりした方が良いって」
……この二人ってどういう関係なんだ?まさか親戚?それとも親子?確かに似ていると言われれば……。
「……お二人は、血縁関係がおありで?」
「え?、あ、ああ!違いますよ白井さん。高田さんや根崎さんのご両親と私が既知なんです。だから子供の頃から知っていて、つい……」
「なるほど、だから親戚の叔母さんみたいな感じなんですね」
すると渡辺さんがちょっとピクッとした。
「えーっと、その、ほら、渡辺さんは親しみがあって接しやすいというか」
これにも反応する。なんだろう、女性だし、年齢の話に反応するんだろうか。でもさっきのは親戚のとつけたし、蔑称の意味でのおばさんという意図は含んでいないはずだが。聞き逃したのだろうか。
「……別にまだまだ渡辺さんはお若……」
「私が親戚だなんて、ね、よくないよね」
ん?
「そ、そんなことないですから、渡辺さんはいつだって……」
「いや、高田さんには、高田さんのお父さん、お母さんがいるんだから、私があんまりね、勝手しちゃ悪いって」
「渡辺さん……」
……どうやら、俺の判断が間違っていたらしい。首筋が錆び付いて、動かなくなるような気がした。
「……ところで白井さんごめんなさい、話被っちゃいましたね、何か言いかけました?」
「……い、いえっな、なんでもないです」
なんでもない、俺は、何にも言っていない。セーフだセーフ!何も起きていない。
「でもね、高田さんも、根崎さんも、もっと甘えてくれて良いんだからね!」
「いつも、ありがとうございます」
きっとここに三井がいたら相当笑われてるよなあ……と思いながら、にこやかに話している二人を眺めていた。
佐々木side
本田さんの足が回復するのと、私の検査が終わるまでに約半年が経過していた。半年というと、あの怪我からの回復の部類としては相当早い方になるのだろうが、私はその間、気が気ではなかった。幸いにも、大きな事件はその間に起こったりしなかったが、もし起きてしまっていたらと思うと、心臓が握られるような心地がする。
そして今、私たちは本田警備保障の会議室の一つに座っていた。
「では高田さんと佐々木さんの退院を祝して、乾杯!」
「……。」
「……。」
「……。」
「ノリ悪いな君たち」
本田さんは並々注がれたワインに口をつけた。全快した私たちは、本田さんが今回の事件の半神に関する情報を掴んでいるということで、急遽彼に呼ばれたのだ。だが着いた先ではなぜか見知らぬコックが肉を切っていて、テーブルにはワインが置かれていた。部屋は確かに会議室だったが、大テーブルの上にクロスが敷かれて、しかもプラスチックのカトラリーが丁寧に並べられている。椅子までレストランにある様なものに変えられているせいで、会議室の雰囲気は霧散している。そしてなぜかいるウェイターにあれよあれよと座らされた上になぜか弁当の黒いプラケースの中に肉が置かれ、本田さんが乾杯の音頭をとったのだ。私は冷や汗をたらしながら本田さんに耳打ちする。
「……本田さん、公務員倫理規定というものがありましてね?仕事でつながっている役所の人間に接待などを行うことは基本的に禁止されているのでこれは……」
「硬い肉だな」
「根崎さんステイ!!」
テーブルマナーも気にせずにフォークに刺した肉に豪快にかぶりつく根崎さんを思わず叱ってしまった。
「それって君たちにも適用されるんですか?人に発砲したり第三者に釈放を手伝ってもらったりしてるのに」
「うっ、いや、それは……確かにそうですけど……」
それを言われるとぐうの音も出ない。でもルールはルールとしてあるわけだから…、いやいやそもそも私たちは他の人たちとはだいぶ立場が違うんだよな。……人権だって危ういところがあるし。しかしルールを守るからこそ……。うんうんと悩んでいたら、渡辺さんがぽんぽんと私の肩を叩いた。
「大丈夫よ佐々木さん、これはほら、お弁当じゃない」
「いや、え?」
「ほら、お弁当のパックにも入ってるし」
渡辺さんが分厚い肉の入ったそれを掲げた。肉の熱でプラパックが変形しそうになっている。ていうかそういう意図か?!このパックは?!
「そうだよ、これはお弁当です。うちの職員も食べてるし。ちなみにこれは私が個人的に飼育してる牛の肉で、色々あって殺処分になったやつだから実質タダですよ」
「……この料理人は?」
「あーー……弟です」
本田さんご兄弟いらっしゃいましたっけ?いなかったでしょ?!さっきの話だって、どこまで本当か。
「まあともかく気にしなくていいです。これはあくまで私の食事に付き合ってもらってるだけなので。皆さんが弁当で、私だけステーキなのも良くないですし」
「みんなでお弁当というわけには……」
「それだと私の体が保たないんですよ、すみません」
彼は巨大な体を叩いて言った。お腹を叩いてるだけなのに説得力がすごいのはなぜだろう。
私は根負けして肉を切り始める。プラスチックのナイフが通る肉は、根崎さんの言う様な「硬い肉」には思えなかった。高田さんも出された肉を恐る恐る食べ始めている。彼は基本食事として出されたものは拒めないので仕方ないのだが、目が死んでいる。まだ良心に咎めているのだろう。あ、めっちゃおいしいやつじゃんこれ。
「で、頼まれていた資料なのですが」
かばんから出してきたそれは普段彼が提供してくれる量の倍はあった。
「……随分熱心に調べていただいた様ですね」
「半神に関しては元々そちらよりもデータがある。それに食人をする半神ってのは意外と珍しいんで、関連情報が集めやすかったんです」
「へえ……」
というか、人の肉を食うヤツの話をしながらステーキを食べるのって、なかなかエグくないかこれ。いや文句とかは言えないけど。
「あいつらにとって人間なんて消しカス同然だろ、なんで食う奴は少ないんだ?」
「何に使うのかは私も知りませんが、素材としての方が有用みたいですよ。そもそも人間の肉はカロリーが低く、食材としてはあまり上等なものではないですし、珍味が好きみたいな感覚だと思います」
「良い身分だこと」
テーブルマナーなんて気にせず、根崎さんは食べ物を食い散らかしている。白いクロスに、ソースのシミがいくつもついていた。
「しかしみなさんが対峙した際に見たという変身や現実改変能力は、奇妙ですね」
「はい、半神は、基本的に一つの能力しか私たちに見せないというのが定説でしたから」
「定説つってもあくまで過去にどうだったかって話でしかねえってことか」
「それともあれで『一つの能力』なのか……」
高田さんが呟く様に言った。……まるで、雲を掴む様な話だ。
「神と同じ様に、わからないことを推測するのはあまり良いとは言えません。私たちの想像をはるかに超えてくるものなので、理屈で考えない方が良い。ただ、今わかっているのは、彼らには重火器が通用すること、そして、存在を認識できると言うこと。目的は、神と同じく退散させること、あるいはうまくやれば、殺傷することも可能です」
「半神を、倒したことがおありで?」
「ええ、一度きりですが……」
根崎さんが皮肉っぽく言ったことに、本田さんはさらりと返した。私はそれに食いつく。
「ど、どうやって?!」
「マシンガンで蜂の巣に」
「マシンガン?!」
「外国でのことです。日本でぶっ放したりはしませんから。不自然では無い程度に神々または半神は、神南市以外の人間も襲っています。平和な国と戦場とを交互に行き来するのが彼らの常套手段で、平和な地域では、大事にならない程度に人を襲って、事件性が明るみになる前に戦場に行く。戦場では殺戮に加担しつつ、それが激化してきたら平和な国にいったん退避する、の繰り返しで、人間を狩っています。しかしそうやって転々としていた半神、神々も、今のこの神南市のいわば『在庫一掃セール』によって続々と集結してるみたいですけどね」
上手いこと言いながら、彼は少し昔を思い出すような口ぶりで、静かに視線を肉に落としている。切っては口に入れ、五回ほど噛んでから飲み込む間、表情は変わらない。
「紛争地帯に行った経験があるんですか?」
「ええ、これでも、警備会社の人間なものですから、研究がてらに。一時的に私兵部隊に所属したこともありますよ」
戦争は、日本という国において、あまりにも遠い出来事だ。遠すぎて、まるで生まれてから一度も人を害したことなんてないみたいな考え方をする人までいるくらいだから、相当だろう。だらしなく座る根崎さんと、姿勢が綺麗な高田さんと渡辺さんを見つめる。渡辺さんが、根崎さんにナプキンを渡そうとして、叩かれた。
……見るたびに思う、彼らと世間の人々、あるいは地球の裏側にいる人々、どういう差があるのだろうかと。不幸と幸福の境目はどこにあって、誰の何がそれを判断しているのだろうかと。路地裏の娼婦は古代から笑顔で、戦勝者は首を掲げて戦果を喜ぶ。では人にとって、本当は何が幸せで、何が不幸なのか。それともこんな過激で偏った考え方をすること自体が、そもそもおかしいのだろうか。
数回瞬きをして、考えるのをやめた。肉が不味くなる。せっかくのご飯の味を落としてしまう必要はない。せっかくおいしいものなんだから。脂身のしっかりと乗ったお肉は、価値を想像するのが怖いくらいだ。それを本田さんは、何の躊躇いもなく、それこそ普通のご飯を食べる勢いで体の中に収めていく。しかもよく見ると、懐から何か調味料を出しては時々味変していた。ステーキを食べるプロか?
「それは……ドレッシングですか?」
「……?ああ、すみません、これ薬なんですよ」
「薬?」
「はい、普通に飲むとうっかり忘れてしまったりするので、特別に作ったものなんです。ほらこの通り……不健康なもので」
そしてまたすごい説得力のお腹を叩いた。良い音するなそれ。
「ははっ、金持ちは薬の飲み方まで好きにさせてもらえるんだな」
「そうだ、だから君も稼ぐと良い」
「皮肉か?」
「そういう選択肢もあるだろう、まだ」
根崎さんの嫌味にも屈することなく、肉が口の中に吸い込まれていく。根崎さんはケッとだけ言って食事を続けた。嫌味を一つは言わないと気が済まない彼は、最早半分真面目と言っても差し支えないんじゃないだろうか。
「……それでですね、今回こうしてお集まりいただいたのは、ただ情報共有を共有するためではなくてですね、奴を捕らえる、または処理するための作戦を立案させていただきたいな、と思いまして」
本田さんが目配せすると、シェフが肉の塊を載せたワゴンを引いていく。私たちもある程度食べ終わったところで、渡辺さんと高田さんに食後酒が、私と根崎さんにはジュースが運ばれた。根崎さんが飲めないことまで知っているのか。給仕の人が部屋から出ると、本田さんは話の続きを始めた。
「……実は、今回の事件の大元となった半神の位置を突き止めることができまして」
「?!ど、どうやって」
「神景会が協力してくださいました」
思わず倒れない様に体を支えるので必死になった。心の底から湧き出る嫌悪と歓喜が、全身をぐるぐる回っているのを感じる。
「ど、どうして……」
「あなたたちに大きい借りができたと、教主様直々に連絡がありましてね?呪術的な観点から後方支援していただけることになりました」
おかしい、あくまでビジネスだと、龍禅院さんなら言うはずだ。むしろそういう条件で私たちは手を組んできた。私たちが彼らを支援し、多少のことに目を瞑ることで、代わりに調査の代行や資料の提供を行うと。しかし前回の襲撃で、私たちは確かにあの宗教団体が崩壊するのを防いだのは事実だ。その点では大きな借りになった、といえるのか。それに、龍禅院さんは前に会った時、明らかに天蓮景様に逆らえない感じだった。これがもし天蓮景様のご意向なら、話がスムーズにいくのも、あり得なくはないか。
「兄弟姉妹全員誠心誠意を持って対応するとおっしゃっていただいてます。教主自ら儀式も執り行ってくれた様で、おかげで想定以上の情報を得ることができました。また佐々木さんたちにもお会いしたいとのことなので、今度お礼を言っておいていただけませんか」
「は、はい」
はい、とは言ったが、やだなあ……行きたくないなあ……。あそこに行くと、本当に冷静でいられない。でも高田さんや根崎さんとは相性が悪いと言っていたわけだし、一人でいかなきゃダメな奴だろう、これは。儀式。そういえば、高田さんと根崎さんを見た時に、一眼で神山の術と見破っていたっけ。そして、自分が術を使うという話もしていた。他の宗教団体から分離したと言う話もしていたし、ということは彼女もまた、失われた技術の継承者だ。会いにいかないわけには、いかない。
佐々木side
「それで半神の潜む場所が、なんでよりにもよって……遊園地なんですか……」
「老若男女が分け隔てなく来る場所だからじゃないですかね」
指摘したかったことはそこではなかったが、本田さんは丁寧に答えてくれた。私たちはいつもの黒スーツを着たまま、遊園地の前で立ち往生している。ネズミがモチーフの巨大遊園地は、当然市内には存在しない。いや、ちょっと出かけるくらいで死ぬのが早まったりはしないけど、私は普段からあまり市の外には出ないから少し緊張していた。あと単純に、遊園地は苦手だ。それにしても、半神の棲む遊園地か……。
「半神の人を襲う頻度はある程度の周期があり、今日はその周期に合致する時、人間でいうところの、お昼時って感じですね。そして、今日真っ先に狙われる人間は、この遊園地に来ている神南市の人間です。今日、ここに来ている神南市民は六名。全員には職員さんにお願いしてGPSと盗聴器をつけてもらっています。ただし、今日襲撃が行われなかった場合は、お帰りの際に速やかに両方を外すことになっています。では対象者の氏名をお伝えしておきましょうか?」
「お願いします」
しかし、せっかくの平日の人が少ない時に遊園地に来て命を狙われるのか……勿論そうならない様に全力で対処するつもりではいるが、まさに知らぬが仏。
「上から順に敬称略で、及川晴人、斎藤文、福田綾、松島涼子……と、白井隼人と黒木清花」
あ、知り合い。
「デートじゃん」
「デートですね」
「デートか」
「デートだね」
……四人の言うことが、揃ってしまった。
「ゴホン、ともかく、主にこの六人を追います。全員ペアチケットで入られていて、既にうちの職員がマークしています。尾行する人間はローテーションにして気づかれないようにしており、こちらの人員も、大人数ではなくてできたら別れたほうがいいとは思いますが……。昨今はいろいろ厳しくて、血縁関係でない成人男性である私や職員と佐々木さんが行動すると、高確率で『事案』が発生しそうなので、四人で行動しましょう」
「何から何まですみません」
なんで成人男性と女の子が歩いてるだけで声かけられにゃならんのだ。勿論、真島貴一もその辺は気をつけていたけれど、こういう面倒が起こるとおもわずゲンナリしてしまう。私は特殊だからしょうがないのだけれども。
「ところで皆さん、その服で入るつもりですか?」
「え、ええまあ。仕事ですし」
「私服で良いと、しおりには書いたはずですが」
「しおり?!あっあの資料の中にあった緑色のちっさい冊子のことですか」
「そうです、ごめんなさい分かりづらかったですかね」
いやしおりて。遠足だっけ?調査じゃなかったっけ?
「でも、やはりその格好は目立ちますよ」
「いや、その」
「半神に意識されたら、事件が起きる可能性が高くなりますよ」
「……。」
電車で一駅行ったところに服の量販店があったため、そこで他二人にお金を渡し、リュックと私服を買い、スーツはカバンに詰めた。高田さんは薄い水色のシャツに濃いモスグリーンのカーディガン、黒いジーンズを選び、ブラウンのベルトを締めている。一方根崎さんはベージュのスキニーパンツに、元の白シャツをそのまま着ている。どうやらあまりお金をかけたくなかったようだ。靴もそのままだし。一方私は、考えに考えた末にちゃんとそれっぽく見える様に水色のよくわからないキャラクターの描かれた女児服と、ピンクのスカートを選んだ。靴はあまり良いものがなかったが、まあいいだろう。ともかく普通の女児に見えるならいい。いたたまれない気持ちもすごいけど。
……でもその後店を出たら、わりと周囲の子供は落ち着いた格好をしていた。私が周囲からかなり浮くくらいには。子供服に対する時代の変遷を感じて、なんだかすごくつらかった。
「これでどうでしょう」
「いいと思いますよ」
一方本田さんは物の良さそうなポロシャツとスラックスを履いている。たとえ大きい体であっても、上等なものを着て、清潔にさえしていればある程度は見た目が良くなると言われているが、実際のところその通りだなと感じる。彼に不潔な印象を抱いたことはなかった。まあ、私の感性はおじさん寄りだから、うら若い女子高生とかなんかからしたら気持ち悪いのかもしれないけど。
「ではこれ、チケットの代わりです」
「本田さん、流石にそれは」
「いえ、お金で買ったものではありません。特別な許可証です……お二人とも、持ってらっしゃるでしょ?」
そう言って本田さんは胸のあたりと上腕を叩いた。……根崎さんの拳銃と、高田さんの仕込みナイフのことを言っているのだろう。特に根崎さんなんて、荷物検査で口論になって追い出されるのがオチである。
「いいですか、できるだけ普通に楽しんでいるように振る舞ってください。神南市から来ている時点で、神にはマークされていると思ったほうが良いですし、対象者にも不審がられます。あくまで、普通に」
そう本田さんに言われたのもあり、遊園地内に入って、ゆっくりと対象に近づきながらも、さも遊園地を楽しみにきた風に広い敷地内を歩いていた。が、私は思い悩んでいた。楽しむ、楽しむ……どうやるんだ楽しむって。なにせ、遊園地にはこの体では来たことがない。興味も持ってこなかった。だから遊園地でどう遊ぶかって全然わかんない。だって基本的に遊園地の乗り物って、その場から動く以外の動作がないじゃん。その場から動いて戻る。その中で上がったり、下がったりするだけなわけで。それの何を楽しめっていうのよ。イラスト?それとも人形の笑顔?
ふと見渡すと、子供たちは素直そうな笑顔で遊園地に来たことそのものを喜んでいる。いいな……いや私としてはそれがむしろ羨ましいわ……それで楽しめるのならなんてコスパが良いんだろうと考えてしまう。コスパなんて考えている時点で、きっともうダメなんだろうなあ。私はすがる様な気持ちで手を繋いでいる高田さんの方を見た。
「根崎あれ何」
「ブラックサンダーマウンテン」
適当に言わないでよ根崎さん。
「乗りものなのあれ」
「馬鹿当たり前だろ、さっきからキャーキャー言いながら人が通ってるじゃんか」
二人の視線は火山の上から離れない。ワクワクしてるじゃん。なんだ君達、楽しむ天才か?
「乗っていいのかな」
「さあな」
「ところで何食べてるのそれ」
「チュロス、やらねえからな」
あ、根崎さんさっきので浮いたお金で買ったなそれ……。
へぇー!と言いながら高田さんはさりげなく屋台を探している。カチューシャとか欲しいかな?あげたら喜ぶかな?ポップコーンとか食べたいかな?思えば、彼はあまり遊園地そのものに来た経験が少ない。……連れてってあげるべきだったな、二人とも。
「乗って良いですよ。というか来た時点でファストパスも買わずに園内をフラフラするのはかなり不自然なので」
途端に高田さんが光ったような気がした。振り向いてみると気のせいであったが、いつも通りの笑顔なようでいて、喜色満面を隠せずにいる。
「透子ちゃんどれ乗りたい?」
それでも私に乗りたいものを聞くのが、彼の特質なのだ。しかしどうしよう、今私が乗りたいものなんてないし、かといって私がどれでもいいよと言えば、根崎さんが茶々を入れてくるだろう。でも今の私には高田さんが乗りたいものがわからない。センターオブジアースはまだ遠いし……。
「……ちなみに、この辺だとあの落ちるお化け屋敷みたいなのが人気らしいです」
「落ちるお化け屋敷?」
怖いものに怖いものを掛け合わせるとは斬新な。
「確かタワーオブテラーっていうらしいです」
と、マップから視線を上げた本田さんが、ん?と目を細めた。
「どうかしました?」
「……あれ、今回の対象者ですね」
本田さんがタワーオブテラー前方の入り口を指差している。
「やだやだやだやだ行きたくない!やだーーー!!」
「だからって五回連続メリーゴーランドはないわ!!あんたもっと怖いもん乗ったことあるでしょうが!!」
「でもなんかやだーーー!!呪いとか怖い!!」
「小学生か!!ないから!!そういうの無いから!!ほら行くよ晴人!!」
「ヴァーーーー!」
長身のお兄さんが小柄な女の子に引き摺られていった。なんだかああまで騒いでると、狙われないような気もしないでは無い。
「……アクの強い対象者ですねえ」
「殺しても死ななそうなカップルが二組になったな」
確かに根崎さんのいう通り、白井さんと黒木さんもあまり死ななさそうな感じがする。片方が重傷を負っても蘇生してくるタイプの敵だ。敵じゃないけど。
「一応、対象者ですし、着いて行きますか?」
「そうですね」
あ、高田さんが嬉しそう。よかった。
結論から言うと、私も思ったよりも楽しめてしまった。勿論、高田さんが楽しそうにしてたことや、根崎さんがわりとソワソワしてたのが嬉しかったのもあるが。……予想以上にあのカップルが逸材だったのだ。しっかりしてそうに見えるのに、男は入った瞬間部屋が暗いと怖がり、呪いの人形がヤバイと飛び上がり、バレバレの「早く立ち去るんだ!まだ間に合う!」というアナウンスに「ほらおじさんもそう言ってるし……」と及び腰だった。しかもいざアトラクションの段階になれば、多分今日だけで人間一人が発せられる悲鳴のレパートリーを全部聞けたと思う。あんな声出るんだなあ、人間の喉って。帰り際「生きてるうーー!よかったあ!」と曇り空の下で万歳してたのも、もう完全にそういう人なんだなという感じがして地味にツボに入ってしまった。高田さんですらこうではないのに、なんだろう、世間知らずなお坊ちゃんかなんかだったのかな。それを無視してずるずる引っ張っていく彼女さんも彼女さんだけど。
「楽しかったー、何かお土産とかあるのかな。名物とか」
「名物はテラーまんじゅうだぞ」
そんなものはないよ根崎さん。
「ディズニーランドにおまんじゅうって売ってるの?」
「バッカ、ホテルや旅館といえば饅頭だろ?売ってねえほうがおかしーんだよ」
いやそれはそうだけどそうじゃない。
「おまんじゅうはなかったけど、クッキーならあるよ!ほらこれ!」
「え?!根崎!無いってよおまんじゅう」
「ちっ、下手なことすんなよ」
クッキーはディズニーランド中どこでもあるだろ。対象者二人は男の方がへっぴり腰になっているのを見かねてタートル・トークに行くらしい。亀さんとお話しするだけだよ〜という彼女の言葉にすら疑心暗鬼になっている男性の顔は、どう見ても騙されてジェットコースターに乗せられた幼児のそれである。
「んふ、もう少し、付いていきますか?ふふふ」
「……佐々木さんもなかなか良い性格をしてるなあ」
「ですね……」
だってしょうがないじゃない。あんな仲睦まじいと笑わずにはいられないでしょ。
次の対象者は女性同士で来ているみたいだった。友達かな?
彼女たちはアトラクションに乗るまでの小休止のつもりなのか、リフレスコスというカフェにいる。骨付き肉にかぶりついてビールを飲みながら、今日の計画を話しているようだった。
「文、ディズニーってのは遊びじゃないのよ」
「うん」
遊びじゃないのか?
「今の時期はハロウィーンの真っ只中、昨日も言ったけどイベントが目白押しなの。次のパレードは十五時からだから、それまでにこのエリアにあるショーとこっちのショーを観に行くからね。で、その前にはさっき買っておいたこのファストパスで文が行きたがってたセンターオブジアースとレイジング・スピリッツに……」
……この子たちの尾行ってできるのか?センターオブジアースのファストパスとか、もうとっくに売り切れてたけど。
「……レストランの予約もしておいたから。いい?かっ飛ばすわよ文、ディズニーで私と一緒にいる限り、失敗はさせない」
「ありがとね、何から何まで」
無理そう……さっきだって本田さんがいつの間にかアプリでファストパスの予約してくれてたから乗れたようなものだしな……。高田さん乗りたかっただろうに、残念だな。いやいや、公私混同良くない。これはあくまで仕事、仕事。
「でも文がディズニーに興味持つなんて」
「たまにはいいかな〜と思って、チケットこんなに高いと思わなかったけど……」
どうやら友達に連れられる形で一人は来たらしかった。静かにビールを飲みながら、外を眺めている。
「……異世界だねえ」
「夢の国だもの!」
「そうだねえ」
「あ、ちなみに今回のハロウィーンの魅力は……」
口数の少ない女の子がディズニーに詳しい女の子の話を頷きながら聞いている。朗々とわかりやすく、ショーのどこが面白いのかを話す女の子はなかなかに話し上手だったが、相槌を打つ子のタイミングもいい。ああして聞いてもらえると話すかいがあるだろう。
「……センターオブジアースに行くのは難しそうですね」
「そうなの?」
「うん、ファストパスがないから」
「ああ、それなら問題ないですよ」
「え?」
「そういうこともあるだろうと思って、予め買っておきました」
本田さんがそう言って取り出したのは、日付だけが書かれたチケットの束だった。
「これもファストパスなんですか?」
「ちょっと特殊なパスですが、問題なく使えますよ」
「へえ」
予め買っておけるんだ、便利だな。
と、思っていたのだが。どうやら私が小柄なせいで、後ろの対象者二人に机が見えたらしい。
『文やばい、後ろやばい』
『どうしたの』
『後ろの人たち、バケパのファストパス束で持ってる』
『なんて?』
二人は私たちが盗聴しているなんて露にも思わないようで、ひそひそ話をして、聞こえてないつもりでいる。
『バケパっていうのはディズニーの宿泊プランのチケットで、一枚が普通の入場券の倍とか下手すると十倍とかするチケット。それについてるどれにでも乗れるファストパスが束でって……確実に金持ちね、あの家族。……くぅ〜羨ましい!!』
マジかよ。そんなにするのかよディズニー。ていうか本田さんそれいいんですか、どうやって手に入れたんですか、お金を正規で払ってるんだとしても払ってないんだとしても色々問題あるんだけども?!高田さんがビールの泡を口につけたまま静止してる。根崎さんは普段通りを装ってスマホを弄っているが、一瞬顔を上げていたのを私は見逃さなかった。
『……お父さんわりと若いな……ヤンパパ?再婚?成金?社長?』
『愛人や子供たちを連れて豪遊するヤクザ?』
『っぽい!確かに!』
「はは、想像力が逞しいですねえ」
その話だと差し詰め高田さんや根崎さんが愛人になってしまうんだが。
「……じゃあそろそろ行こっか!」
「うん」
二人が席を立ってから、少し時間を置いて私たちも席を立つ予定だ。二人は歩いている間も始終話していて、笑って、小突きあったりしていた。友達と呼ぶにふさわしい二人だった。無事でいてほしいと願うような、そういう二人だった。
「さて、次はようやくメインディッシュだね」
「メインディッシュじゃないから、野次馬しに来たんじゃないんだよ私たち」
呆れた私の声に、本田さんが答えた。
「白井さんと黒木さんのお二人は、今はマーメイドラグーンにいるみたいです。こっちの対象にはもう認識されてしまっていて、着いていくのは難しそうですし、彼らの方にいきましょう」
デートスポットって感じだなあ。
「でも彼らは知り合いだし、見つからないようにしないとだよね」
「最悪バレたら遊びに来たってことにすれば良いでしょ」
「それこそ不自然だろーが」
敷地内に入ると、盗聴器の電波の範囲内に入ったらしい。二人の会話が流れてきた。
『アリエル!!ああああアリエル!!かわいい!!人魚!!天使!!』
『ファンサが完璧すぎる……これが日本最高のテーマパーク……!』
『隼人!噛みしめてないで写真!写真!!』
……そういえば隼人さんってドルオタだっけ。え、彼女さんもそうだったの?それにこの感じはアイドルだけが好きってわけじゃないってことか……?
『ダメだ手がぶれる!!無理!』
『隼人後ろ後ろ!』
『え、ああスタッフさんありがとうござ……お、王子……!』
普段とのギャップがすごい。え、二人ともどんな顔して言ってるのこれ。白井さんは当然のことながら、黒木さんだってかなりのクールビューティーだったよね?笑顔は素敵だけど笑顔に無言の圧があるタイプのクールビューティだよね。クールもビューティーも吹っ飛ぶ謎めいた気持ち悪い例えるなら南国の猿の奇声って感じの笑い声が聞こえたのは気のせいだろうか。
『王子すみません王子あの、お、お写真……ァ、ありがとうございます……』
『いや惚れるこれは惚れる隼人短い恋だったわね……王子と達者で暮らして……』
『バカヤロウ王子にはアリエルがいるんだよぉ!』
前、高田さんが白井さんの話を引き出していたときのことを思い出す。あの時も、高田さんにそっちの話題を振った時には、今になって思うと人格が変わったんじゃないかって位のギャップがあった。あの時彼はどんな顔をしていたっけ?思い出せないのが非常に、非常に悔しかった。
白井side
「いやあれは神だったわ……神……神のファンサ……」
「アリエルめっちゃ良い匂いしました」
俺たちはマーメイドラグーン内のカフェで一息ついていた。名前はわからないが、ともかくもう息も絶え絶えだったのでありがたい。
「やっぱ綺麗なものっていいわね……心が浄化されるわ」
清花も息が上がっている。清花にはじめ勧められた時には特に何も思っていなかったが、まさかこんな沼が広がっているとは思わなかった。いちいちサービスが良すぎる。特に最近そっち方面の情報収集ができていなかったから、かなり心に染み入った。
「何か食べようか……」
む、ピザとスープくらいしかない。だがあのサービスを考えると妥当だ。アイドルのコラボカフェだって、カフェなのにも関わらず少し前まで似たような感じだったわけだし。
「ここのチャウダー好きなんだよね」
「オッケー、あとピザ食べて良い?」
「勿論、というか私も食べたい」
彼女はそう言って笑った。
……彼女には、随分苦労をかけている、と思う。神のこと、神南市の真実を、彼女には何も伝えられない。伝えたら最後、彼女の命の危機が近づくだろう。
俺は、今このタイミングで彼女が死ぬことは本当に耐えられない。自分の中で信じていたものと、世の中で起きていることのズレを知った時に、そしてそれを深堀していくたびに、自分が別の生き物に変化するような不安を覚える。その度に、彼女の存在が、俺を本来の立ち位置に戻してくれるような気がしていた。……だから、彼女が失われれば、俺はもうきっと、戻って来れない。
だからこそ……別れるべきなのかもしれない。少しでも、彼女の安全を考えるのな……。
「いった!」
「虚空を見つめてどうしたの?猫ちゃんなの?」
「誰が猫ちゃんだ、だれが」
突然のデコピンは、彼女の俺と比較すると少しだけ長い爪のせいでダメージが倍加してる気がする。
「ほら、ピザ持って来たから、食べよ」
切り分けた薄い生地を、彼女はフォークで畳んで器用に丸めると、一瞬で、一口で食べてしまった。
……なんでそんなに大きい生地を一気に口に入れたんだ?案の定苦しそうだ。噛めてない、噛めてないぞ。今にも口から出そうじゃないかあーあー。
「……出して良いぞ」
そう言っても首を振って断固として譲らない。なんならちょっと口からソースが出ているのに。
「……た、食べ切った!」
「ヤムチャしやがって……」
へへ、と笑う彼女がいた。さっきまで考えていたこと、思い悩んでいたことが、どこか遠いところに飛んでいく。よかった、今日ここに来て、そう心から思っていた。
その時、背筋にピリッとした感触が走った。それは緊張感のような、焦燥感のようなもので、今唐突に起こるのはおかしい、プレッシャーのようなものだった。
「……隼人?」
おかしい、何かがおかしい、何かが……こっちをみている。
とっさにあたりを見回した。だが見回すまでもなく……そこに、それはいた。
「隼人、どうしたの?ねえ!」
立ち上がって、その方向に向かわずにはいられなかった。目を逸らしたくなるほど怖くて、ただでさえ薄暗いパーク内で、なぜか視界がさらに暗くなって、その一点以外に目が行かなくなっている。怖い、恐ろしい、それは病院内で体験したこともある感覚だった。清花に、ちょっと待ってて、と言った。言ったつもりだが、届いているか?彼女の方を見る。視界が暗い、暗いというより、認識できない。目には確かに情報が入っているはずなのに、そこに何があるのか、よく見えない。どういう顔をしているのかわからない。
「頼む、そこに、いてくれ」
俺は歩き出す。
「……知り合いが、覗き見してるみたいなんだ」
「え?」
「ちょっと怒ってくる」
「なに、隼人!」
頼む、頼む、そこから動かないでくれ。一歩も、こちらを見ることすらしないでくれ。頼む。まっすぐに歩いていく。彼らがいるそこに。
「っ、あ、えーっと奇遇ですね白井さんこれは!」
「ちょっとこっちきてください」
「スミマセン」
俺は彼らを人気の少ないところに押しやった。死角の多い場所でよかった。奥へ奥へ押し込んで、ほとんど人が見えなくなった、展示エリアでそいつの胸ぐらを掴んで壁に押し付けた。
「ちょ、ちょっと白井さん」
「誰だ」
「あ、スタッフさんすみませんこっちは大丈夫なので」
「お前は誰だ…!どうして、どうして三井の顔をしている!!」
瞬間、周囲の全てが、音を立ててくずれたような感覚がした。震える声で聞いている。今この瞬間、俺の腕も、首も無くなるかもしれない。だがその恐怖によって震えたのではなかった。
佐々木さんも、根崎さんも、高田さんも、本田さんも、黙っている。何も言ってこない。こいつは、なんだ?どうしてここにいる?
三井の顔が、こちらを真っ直ぐ見て言った。
「……あちゃー、可哀想に。ズレちゃったのね……私が、その男に見えるんだ」
鼓膜が割れるほどの大きい音がした。振り向くと、根崎さんが至近距離で発砲していた。だが、ヤツは手で、それを受け止めていた。大きい音に、背後からざわめきが聞こえる。
「白井さん!」
とっさに引き寄せられた、目の前には、ただ伸ばされた手。その手が自分をつかもうとしていたのがわかった。間一髪、佐々木さんが俺の背中を引っ張ってくれたらしい。しかしそのまま硬直もなく手が右に逸らされる。その先にいたのは……。
「っ高田さん!」
高田さんが、前に手をやり、迎撃態勢を取る。しかしその前に、高田さんが消える。
「あれ?」
「った!」
……高田さんが転んだ、あの体幹の強い人が、突然後ろに倒れ込んだのだ。
「ならこっち」
その直後素早く掴まれたのは、本田さんだった。
「なーんで人助けなんてしちゃうかな」
「っう!」
「まーしょうがない。今日の獲物はこれでいーや。じゃあね」
バツン!という音とともに二人が消えた。
佐々木side
まずいまずいまずいまずい!何が起こった何が起きた!!
「白井さん、あなた一体何をみたんですか!」
「……あれが三井に見えたんだ。そこにさらに君たちがいたから」
「なんで三井さんに見えたんだ!!」
「透子ちゃん一旦落ち着いて!」
いつからいた?あれはいつから私たちのそばにいた?!どうしてわからなかった?!わからない!落ち着け、まずは情報把握、状況把握、今ここでできる最善を……。
「あの、佐々木さん」
突然知らない声がかかり、私はその場から飛び退いた。
「失礼します。私、本田警備保障に勤めております李と申します。社長よりこうしたことが起きた際にお伝えするようにと仰せつかっていることがありまして」
「な、何?!教えて!!」
藁にもすがる思いで私は男性に縋り付いた。だが帰ってきたのは、非情な答えであった。
「……『僕のことは、忘れろ』と……」
「そんな……!」
「何言ってんだあいつ、化物放置してほっとけって意味か?」
「でも今彼らを追う手立ては無い……」
根崎さんが腹立たしげに壁を蹴る。高田さんは俯いている。私は……どうすればいい?
「……その話って、つまり本田さんはこうなることを想定していたって意味ですよね」
「いえ、万が一とおっしゃっていました」
「それは万が一と言うでしょう。社員さんには。でもさっき、本田さんは高田さんの足を払ってましたよね。高田さんなら、多少半神とも戦えるし、近くに根崎さんや私もいたから、他のやり方はあったのに」
わざと?その考えは突飛ではあったが、嫌な予感がした。
「……李さん、私たちが得た情報以外に、半神のことについて本田さんが持っている情報はありませんか、知っていませんか」
「私は……」
「本田さんの命の危機なんです!頼みます教えてください!」
そう私が言うと、水面を模した灯に照らされた李さんの瞳が揺れた。しかし、すぐの頷く。
「……わかりました、お連れします。外に車を用意いたしますので、お待ちください」
「ありがとうございます!」
本田が目を開けると、見覚えのない傘付き電球が揺れていた。
「おはよう」
黒いイブニングドレスを着た女性が、テーブルセッティングをしながら言った。
「……なんと言っていいのか、わからないな」
「余裕ね?私としては、騒がない獲物は嬉しいけども」
彼女は丁寧にカトラリーを用意している。銀色のナイフやフォークは良く磨かれていて、曇りひとつない。本田はテーブルの上に転がされていた。自分の下に冷たくて丸い感触があることから、ここがおそらく皿の上なのだろうと言うことがわかった。自分が乗っても割れない皿があることにも驚いたが、まあ、彼女ならできなくはないのだろう。真っ白なテーブルクロスがしかれた四角いテーブルもまた、自分の様な巨漢が乗っても潰れない程度の強度はある様だったが、身動ぎするとミシミシ、という小さな音が響くので、おそらく木製なのだろうと思う。自分が寝っ転がっても問題ない程度の大きさのあるそれは、最期を迎える場所として、病院のベッドよりは同じか少し劣るくらいだろうか、と感じられた。本田は髪をかき上げながら、呟く。
「いやあ、だって……もう、二十年ぶりに、なるのかな」
……その言葉を聞いて、女の綺麗な眉間に一本の筋が入った。インテリアのない部屋の中で、上からの光に照らされている彼女はスポットライトを浴びる女優の様にも見える。
「……かわいそうなあなたに教えてあげるけど、この姿はあくまで仮のもの、誰かと間違えているんだとしたら、ご愁傷様ね。まさか、そのためにわざと捕まったの?かっわいそう」
「大丈夫、ほとんどのやつは君を見てもかつての君と同一人物とは思わないさ」
「話を聞きなさいよ!」
振り上げられたカトラリーが本田の掌を貫通する。まっすぐに力がかかったそれは、一滴の血飛沫すらあげずに、テーブルと彼の手を固定する。骨は砕け、筋にはミシン目のようにフォークの穴が空いたが、醜く肉をため込んだ男はぼうっと前を見ていた。重力のほうが重いとでも言わんばかりで、その目は揺れない。
「……変質者の才能があるのね」
女は席に着いた。激昂したのが咎められたのか、癇癪を起こしたことを恥ずかしがる女の子のように細い腕を立てて本田から目を逸らした。
フォークを左手から抜き取り、自分の盛り付けを気にする豚の丸焼きのような恭しさで、本田は皿の上に座り直す。
「提案があるんだけど」
「自分の立場わかってるのあんた」
「わかってる。料理として可能な限り礼儀正しく振る舞ってるつもりだよ、口調はお互い既知なんだから許して欲しいけど」
「そうだけどそうじゃない」
「もしかしてネクタイゆがんでる?」
「歪んでない。さてはあなた、頭沸いてるのね?」
半分神と呼ばれる彼女にとっても初めてのことだった。まさか料理としての礼儀正しさを説く人間がいるとは。命乞いをするか、命乞いをするか、あるいは知恵を巡らせてこちらを騙そうと余裕ぶって、でも足の筋を切り分けられて命乞いをするか、死にたいと言って連れてこられた時にはちょっと嬉しそうにしてたくせに、いざナイフを入れたらぎゃあぎゃあ言って命乞いをしたところしか、彼女は見たことがなかった。だから生きた食事を捕らえた時、面倒になって首筋をつっついて動けなくしてしまうことも多かったのに。
「まあいいや、ともかくこれは君の食をより楽しくするための提案だ。君にとっても有意義な話だと思うよ」
「言っとくけど、今食べる分だけ切っておいて、それを食べる間あなたを生かしておくとかそういう話は無駄だからね。これでも私よく食べるのよ。あなたくらいなら一日で全部いただけちゃうから」
「うーん、似てるけど違うな。君は鮮度の高い人間の肉が好きだろ」
女は目を細めた。やっぱりそうか、さて、この男の希望をどう砕けばいいだろうかと。こいつは肉の皮が厚いのか面の皮が厚いのかまるでなんでもないことのように振る舞っているけど、所詮は死ぬのが怖いだけだろうし……。
「だから僕の致命傷を避けて少しずつ食べていったほうがいいと思うんだよ」
しかし男が提案したのは、想像の百倍馬鹿な話だった。
「……本気?」
自分の苦しみを伸ばすつもりか?それとも、生きてれば大丈夫なんてお花畑な脳味噌してるのか。……この男は死ぬか死なないかギリギリのところにいるのが、どれだけ苦しいことなのか知らないくらい、馬鹿なのだろうか。それとも、生きていればなんとかなる、と思うほど楽観的な思考をする人間だっただろうか。
「本気に決まってるだろ、信じられない気持ちはわかるけど」
「そりゃそうでしょう」
「そういう積もる話も含めて、食べながらしていこう。このままだと死ぬぞ?僕は」
無理やり引き抜かれたフォークの穴から血が溢れて、グローブのような手とアイロンのかかった綺麗な袖口を赤く染めている。放っておいても失血死しないような傷口ではない。本田は自分の背後に置かれている薄口の小さなワイングラスを持ち、掌から溢れる血を注ぐ。それは電球の光に揺らめいて、まさにそのグラスにふさわしい色合いをしていた。
「これが残りの資料です」
「僕たちに渡してたののさらに倍はありますね、これは」
「そしてそれとは別に、こっちが映像資料です」
「……まんまと嵌められたってことか」
高田さんと根崎さんの呟きが、冷たい部屋に響いた。
「こんな量、いったいいつから……」
「……本田社長は十年以上前から、この半神に関する資料を集めています」
「十年?」
「はい、私が本田社長の元で勤めさせていただいたく前から、何かを調べていらっしゃいました」
そう言う李さんは俯いている。彼は外国人的な切れ長の目を斜め下に向けて、何かに思いを馳せている。メガネの銀の蔓と、左耳の銀色のピアスが同じ色に光っていた。
「……この会社が設立した当初は、普通の警備会社として立ち上げたと聞いていました。そうじゃないんですか?」
「……本当に、社長を助けてくださいますか……?」
私がした質問に、彼は質問で返した。本田さんの部下である彼は、時々見かけることがあったが、気の強そうな、相当、気の強そうな、いやちょっと外から聞いてるだけでも怖いなあと感じるところがある人だった。お人好しの気がある本田さんとは、良いコンビなのだろうと、思っていたが。
「……最善を尽くします」
「……まあ、そういう答えですよね……はは」
しかし彼は、どこか諦めたような顔をして、流暢な日本語で言った。
「……うちの前身は、ほぼほぼマフィアと暴力団です。勿論堅気の仕事しか今はしていませんが、社長は基本的に前科者や親がソッチだったり、グレたりした連中ばっか集めてね。かく言う私も、ソッチ系です。ここに雇われた当時、ソッチの仕事をする気がないのに、どうしてそんな人間ばかり集めるのかと聞いたところ、現代日本の常識と権利が通用しない相手と戦うから、枠に収まらない連中が欲しい、とおっしゃっていました。だからあの人は、そもそもあの化物と戦うつもりでこの組織を立ち上げたんです」
「……。」
「その中でも、この『変身する食人鬼』は人生をかけてでも捕まえるつもりだと言っていました」
彼は眼鏡を外して、疲れたように瞳を覆っていた。指の隙間から、涙ボクロが覗く。
「社長には、恩があるんです、お願いします、どうか、どうか……」
「……本田さんがソッチ系の人だったと言う話は、こちらでも把握していました」
私がそう言うと、振り返った瞳が少々濡れていた。
「李さん、あなたがどこまで把握しているか私たちは知りませんが、今は前身、出自によってどうこう言っていられる問題ではないんです。そんなことくらいで、見捨てたりはしません」
彼らは行政を信用しない。指の隙間からこぼされてきた人たちだからだ。親がどうだったから、前科があるから、そこにすら責任が発生し許されてこなかった。しかし私たちは、求める人材に条件をつけるような、そんな贅沢を言ってはいられない。
「李さん、私たちの秘密も、お話ししましょう。私たちは今でこそ公務員の立場にいて、人を殺す権利まで与えられていますが……もし仮に、明日以降、神的災害が起こらなくなったとしたら、きっと刑務所に入ることになります。最悪、処刑かも」
「……なぜ」
「そういうものでしょう、戦争って」
これは、神と人間の戦争だ。しかもこちらは圧倒的に不利な消耗戦。勝ち目があるのかすらもわからない。でもそんなことは市外の人間には関係なくて、事情を知らない市民には関係ない。だからその危機がなくなった時、それは無かったことになり、私たちはただの犯罪者となる。それが、秩序だ。
私は小さい。小さくて弱い。小さい私が大きい大人の李さんを見上げた。彼は、途端にまた泣きそうな顔になっていた。案外、涙脆いのかもしれない。
「だから、数少ない協力者である本田さんのことは、可能な限り、最善を尽くして、お助けします。それが、私たちの使命です」
「……ありがとうございます。ありがとう、ございます……」
「資料を確認しましょう。時間がない」
高田さんがそう言うと、李さんは頷いた。
結果として、彼女は本田の提案を飲んだ。そもそも、悲鳴をあげて暴れ回らない食材を、わざわざボロボロにする必要はない。きっと彼と同じく命乞いをしない獲物がいたとしたら、彼女は同じことをしているだろう。別にこの男の提案があったなかったは関係ない。
上等なスーツはすでにかなり汚れてしまっている。無理やり止血した左腕だが、それでもやり方があまり良くなくて、まだ血が漏れ出ていた。
「……もう一度聞くけど、本当に生きたまま少しずつ食べるわよ」
瞬間、指が一本切り落とされる。さすがの本田も一瞬眉をしかめたが、深く息を吐いて、落ち着きを取り戻した。
「……思ったより優しいんだな、神っていうのは。それとも半分ある人間の要素がそうさせているのかな」
本田はテーブルの上から、椅子の上に座り直していた。ちょうど半神とは対面で座るような形となり、彼女に血塗れの腕を差し出している。
「バカ言わないで。神は合理的な生き物よ。恨みつらみなんてされたらたまったもんじゃないから言ってるだけ……グチグチ呪われるくらいなら、死んだことも気づかれないうちに首を切り落としたほうがマシだもの」
「……それは合理的なのか?」
男のいぶかしげな声色に、女が笑った。
「冥途の土産に教えてあげるけど、恨みのこもった素材っていうのは扱いづらいの。食べてもまずいし、効率も悪い。古代の神がどうして素材でしかない人間たちに恩恵を与えてたと思う?自分が死ぬ代わりに何かが与えられるなら良いって、生贄も納得して、安らかに死んでくれるからよ。高位の聖職者や、子供が生贄にされることが多かったのも同じ、責任のある人間は自分の命よりも他者を優先するし、子供は死も道理も理解してないから、高い確率で良い素材が取れるの」
「ふうん、それは、勉強になったよ」
皿の上で少しずつ分解されていく左手を眺めながら、本田はそう答えた。尋常ではない痛みと恐怖が彼を襲っているはずだが、指先一つ動かされることはなかった。
「でもだからわかるわ……あなた、ほんとに私を恨んでないのね……とっても美味しい……」
女は綺麗に血と肉が舐めとられた骨や爪すら丁寧に噛み砕きつつ、そう恍惚と呟いた。頰は紅潮し、浮かべられている笑みは、それこそ絶世の美しさがあった。
「私、こんなに美味しいお肉食べたの、はじめてかもしれない……」
彼女は思った。これが、神を受け入れる人間の味。もう食べることはできないと言われている至高の味覚。かつてのこの肉の味が忘れられず、人を食わなくなった神がいるというのも、納得がいく。もちろん、かえって質の低い素材の需要が高まったところもあるけど。
「それならよかった。自分の肉がうまいかまずいかは、さすがの僕にもわからないから」
「私も食べるまでわからないわよ、でも……そうね、今の私は、かなり機嫌がいいわ。あなたが死ぬまでのおしゃべりとお芝居くらいには、付き合ってあげる」
女は左手を食べきり、次にパイの中身を確かめるようにフォークとナイフで器用にスーツだけを切り裂いていった。しかし、切り裂かれた袖の下を見て、今度は女の手が止まった。そこから覗いたのは、見慣れた皮膚ではなく色鮮やかな文様だったから。
「へえ……あなた、ヤクザだったのね」
そこに現れたのは見事な和彫の刺青だった。しかし彼女からすれば、それも料理の美しい彩りの一つに過ぎない。
「いや、これはただの趣味だ。どこかに属してるわけじゃないからね。ところで、刺青の入った肉の味は変だったりしないの?」
「問題ないわ。むしろ、目も楽しめて最高」
そう言う女の姿は心からの喜色に染まっているかの様だった。
佐々木side
「変身する食人鬼は、大体一日程度で一人の人間を食べきり、その後長い休止期間があって、また食人を再開する。それが基本的な行動パターン、か、ならまだ間に合うな」
「いやでもすげー速度だぜこれ、変身できてなかったら、今頃ブクブクに太ってそうだ」
映像資料と紙の束を散らかしながら、全員でめぼしい資料を探していく。行動パターンや傾向で、何か掴めることはないか、探っている。本田さんの携帯のGPSは当然のことのように繋がらなかった。私は神景会に電話をかけ続けている。
本田さんはこの作戦を行う際、呪術的な観点から天蓮景様のバックアップを得たと言っていた。ならば今回も、そのやり方でうまくいくかもしれない。もちろん、本田さんが既に手を打ってしまっているかもしれないが……。そして嫌な予感ほど的中するもので、いつも数回のコール音ですぐに出てくれるはずの龍禅院さんに、繋がらない。二回、三回と電話を重ねていく。
『……なんだい』
つながった!
「お忙しいところすみません、先に用件をお話しします、今力を貸していただくことはできませんか」
『無理だね、今日は全体修練の日さ、こっちの都合も考えず不躾だねえ』
ぐ、と唸った。
「そこをなんとかお願いできないでしょうか」
『もうあと五分で集合が始まるんだ、そんな余裕はないよ。少なくとも明後日までは無理だね』
「それでは遅……、う、く、すみません」
盛大なため息が聞こえた。
『うちは宗教団体なんだよ、佐々木透子さん。儀式っていうのはあんたらが思っている以上に重要なものなんだよ。ただの集会じゃないんだ。だから今回ばかりは……』
『あら別にいいじゃない』
突然割り込んできた声は、こうして聴き比べるととても差がある、龍禅院さんの姉のものだった。
『天蓮景様!』
『お姉ちゃん』
『……姉様』
『何?どうかしたの透子ちゃん、話してみてちょうだいな』
電話を勝手に奪ったらしい天蓮景様の声が、受話器から響く。衣擦れののような音が側でしていた。私は今回起きた事件について話す。
「……ということなんです。なので是非天蓮景様のお力をお借りできないかと」
『いいわよ』
『っ姉様!』
「本当ですか!」
私と龍禅院さんの声のタイミングが被って、それを面白がるように鈴のなるような笑い声がする。
『だって恩があるもの、それくらいお安い御用だわ』
『しかして……姉様、今回の儀式は年に一度の大々的なものですし、何より信者が穢れに触れたことへの浄化も含めた……』
『一時間後にいらして、もう今はあまり時間がないから』
「ありがとうございます!」
『姉様!』
そこで電話が切れた。龍禅院さんは、まだ納得が行かなかったようだが、これは、とても心強い味方を得たのかもしれない。嬉しい反面、体の奥底がざわついた、血が騒ぐような内側からの抗議を、私は息を飲むようにして、無視しようと努めた。
「天蓮景様!一体何を考えておいでなのです!」
「考えてるのは前から一つだけって言ってるでしょう、香織ちゃん」
天蓮景こと、花江は妹を抱きしめた。
「……本当に、あなたが五体満足でよかった」
「聞いていらっしゃるのですか?!」
「あなたこそ昔からずっと聞いていたはずよ、私は信者のことなんて本当はどうでもいい」
「……。」
「ただ、私達の生業として、生き方として、これがあるだけ。香織ちゃん、あなたがいなくなったらなんの意味もないのよ」
花江にとってたった一人の妹は、幼少から栄養状態が悪い環境で育てられたせいで、こうして独立していくら良い暮らしができるようになっても、かわいそうなくらい細いままだった。何もしなくても良い環境を与えても、天蓮景様を働かせるわけにはと小さな雑用を見つけてはそこからたくさんの仕事を見つけてこなしてしまう妹。自分よりずっと優秀で賢い彼女は、なぜか自分の置かれてる環境を疑問に思わなかった。今だって思っていない。賢いのに、その点だけはずっと馬鹿な子のままだった。
「あの組織は、あなたを救ってくれたわ。それだけで私にとっては、儀式なんかよりずっと大事なものになる。あそこがまた、あなたを助けようと思ってくれるようになれば、私が地獄に落ちようが幸せなの」
「姉様……!そのような!」
彼女はそのまま二の句が告げなかった。花江は愛してるわ、と囁きながら、香織の背中を叩いた。しばらくして、彼女が分かりましたと言うまでの間。ずっと。
儀式開始の時間をアナウンスで遅らせて、その十分前に天蓮景が部屋に入ると、そこには既に木下が座っていた。
「てんれんげさま」
「木下さん」
「花名(かめい)で呼んでください、てんれんげさま」
「あら、今日は甘えたなのね……シラユリさん。修練まではまだ時間がありますよ」
「だめですか……?」
「まさか、ダメなんてことはないですよ、いらっしゃいな」
白檀の香りが満ちたドーム状の部屋の中は、全てが彩り鮮やかに染められたクッションで覆われている。中心に向かって蓮華の花のように敷き詰められたそれは一分の隙間もない。そしてその真ん中に座っているのは、歳の離れた裸の男女二人。
「あなたは、この時期になると随分寂しがり屋になりますね」
「……だって天蓮景様、外でコスモスが咲いているんです」
そう言う木下は、甘えるように天蓮景様の胸に埋まった。彼女は思った、まだ、あの外の子が恋しいのだろう。無理もない、あれは誰が見ても大恋愛だったから。彼女の名前をコスモスにしようと話していた、それが叶わなかった、たったそれだけで今も傷ついてしまう彼は、幼い時から変わらない純朴なままだった。
「……そんなことで、思い出す私がいけないのでしょうか」
「過去は過去ですよ。でも、無理に忘れろとは言わない。それもまた、あなたの道ですから」
天蓮華は母親の様に木下を抱きしめた。彼が生まれた時から続けてきた抱擁は、今になっても同じ暖かさを保っている。
「……佐々木さんのことは、残念でしたね、でも彼女は、あなた自身を見てくれる人ではなかった。だからこれはもう、仕方のないことです。……あなたがあなたらしくいられないのであれば、どんなに好きになっても、意味がありません。ねえ、シラユリさん。忘れましょう。今日この修練の間だけでも、少しずつで良いですから」
「あ、てんれんげさま……」
彼は今日メガネすら、していない。細身で筋肉質な体つきは、瑞々しい若さ輝く様にも見える。天蓮景の胸の上に、大粒の涙が落ち、彼女はそれを宥める様に男の頭を撫で続けていた。
「あ!きのし……シラユリさんずるーい!天蓮景さま独り占めしないでよ!」
「ねえねえ今日はカラタチさんが久々にいらっしゃるみたい」
「キンポウゲさん!探したんですよ!」
時間が来て、修練のために多くの男女が裸のまま部屋に訪れる。こしみの一つ付けていないはずなのに彼らは恥ずかしがることなく部屋の中で楽しくおしゃべりをする。まるでそれが自然なことの様に。焚きしめられる香の匂いが強くなり、部屋の明かりが絞られた。薄暗い部屋の中は、最早人の輪郭がうっすらとわかる程度でしかない。天蓮景は腕の中でまだ涙ぐむ男を抱えたまま、部屋中に向かって告げる。
「修練者の皆様、遅くなってしまい申し訳ございません。そしてさらにもう一つ、皆様に謝らねばならないことがあります。本日は年に一度の大修練の日ではございますが、今日は通常修練の日とし、また後日、大修練の日を設ける運びとなりました」
途端に信者たちがざわつく。今日のために地方から渡ってきた人もいるのだから、動揺は当然のことだ。
「私は、本日もこうして、皆で修練に励むことができてとても嬉しく思います。ですが先日、突然の不審者の襲撃により、本部は一時危機的な状況に追い込まれました。その中で、怖い思いをした方も多いでしょう。結びがより深まった方もいらっしゃるでしょう。ですが、誰一人欠けることなくまた集まれていることは、大変幸運でした。それもこれも、市役所の方々や、皆様の行いがあってこそです。しかし私の信念が足りなかったために、犯人は依然としてつかまっておりません。そこで、市役所の方から、私に儀式をしてもらいたいとの要請がありました」
その言葉にさらに周囲がざわつく。当然のことだ、行政が特定の宗教法人を支持し、儀式を依頼するなどは神南市以外ではあり得ない。
「私は皆さんのために、そして助けを求めてきた彼らのために、儀式を行うことを選びました。この場を借りて、ご迷惑を欠けた皆様にはお詫び申し上げます」
堂内の乱れた空気が、その言葉で一斉に整う。もはや誰も、今回の件で不満を感じる者はいなかった。なぜなら彼らはすでに兄弟姉妹だからだ。通じ合う彼らは、ただ演説によって思想が統一される以上の一致団結を生んでいた。少なくとも本人たちはそう信じていた。
「それでは皆様、本日は俗世の全てを忘れ、修行に励むことにいたしましょう」
清廉な音が、部屋の中に響き渡った。それは鈴の音の様にも、鐘の音の様にも聞こえる澄んだ音だった。暗闇の中で、人々が動き始める。笑い声や、ひそひそ話と共に。香の匂いが強くなる中、自動でゆっくりと、ドーム型の扉が閉まった。その中で起きることは、中に入った人間以外は知らず、外に漏れることもない。ただ芳しいお香の残り香だけが、白い廊下に満ち満ちていた。
佐々木side
「すみません佐々木さん、お待たせして」
明らかに風呂上がりの濡れた髪をタオルで押さえながら、天蓮景様が会議室に入ってきた。彼女は待たせたと言っているが、幸いなことに私がここに来てから五分ほどしか経っていない。
「突然すみません」
「大丈夫よ、もう一度要点を説明してくださる?」
「……私たちの不手際で、本田警備保障の本田さんが、半神に拐われてしまったのです。彼女は食人鬼です、ことは一刻を争うんです」
「……わかったわ、村上さん、皆さんにすぐお伝えして、先日いらっしゃられた本田さんというお客様と例の関係者を探してって。前ここを襲ってきた人よ。佐々木さん、今の姿は?」
「背の高い女性、前こちらに来た時に最後に変身していた姿です」
「ならそういう特徴の人には特に気をつけてと伝えて。ただ優先するのは男性の方、そっちの特徴に近い人がいたら情報を集めて」
「かしこまりました」
「しかし、変身されてるかもしれなくて……」
「あの半神の能力は変身じゃないわ」
てきぱきと指示を出している天蓮景様に助言のつもりで返したところ、彼女はそう返してきた。急ぐ様子で手招きするので、彼女に言われるがまま、席を立つ。
「彼女は見るものの姿を変えるんじゃなくて、見ている人間の意識を変えてる。いわば人類全体への永続の催眠術のようなもの。人間が人間以外とコミュニケーションが取れず、見た物より常識を信じることを利用したね」
「どうしてそう思うんですか」
「あなたも今日体感したんではなくて?うちでは、あの人を見た時に、自分の知り合いに似ていたと主張している方がいらして……それでわかりました」
冠を被り、突然廊下で服を脱いで着替え始める天蓮景様。
「世間的に言えば彼らは狂人とか錯乱といった風に扱われますが、それだけってわけでも、ないんですよ。理性や知性ではない、人間の本能や感性が強く出て、神の術に対して同じ反応が出ないことがあります。人間ってのは、思ったよりしぶといものなんですよ。勿論神にあてられて狂う場合も多いので、全部が全部そうってわけじゃないから、あとは、魔女の勘ですね」
「勘ですか……魔女?!」
「あら、ご存知なかった?」
進む間に信者から次々と不思議な道具が天蓮景様に差し出される。お寺や神社で見たことがある様なものから、なぜかファブリーズまで。天蓮景様は何を基準にしているのか、それをいくつか指差し、持って来させる。
「魔法を使う女、つまり巫女やシャーマンだって、立派な魔女ですから」
最終的に着いた部屋には、一人の男性が立っていた。重い扉がゆっくりと開く。
「そうだ、ちょっとそちらで待っていてくださいね、すぐ済ませるので」
「私が入ってはいけませんか?」
「十八禁です」
「……ハイ」
「もっと大人になってから、いらっしゃい」
妙に彼女が協力的なものだから忘れていた、そうだこの組織はそういうところだった。母親の様な顔で彼女が笑うと、男性と共に部屋の奥に入っていった。
「ああおいしい、本当に美味しい」
「っ、それは、よかった。本当に」
ナプキンで口元の地を拭いながら、そう言う彼女に本田は答えた。
「だが、君がそんなにテーブルマナーが良いとは思わなかったよ」
「この肉体でいる時に、一番綺麗な姿でいたいじゃない」
「だから女性の姿でいることが多いのか?」
「よく知ってるわね、でもそれは関係ない。男だって、あんたとは違って美しい肉体を持った奴はいっぱいいる」
女はさらに、本田のスーツを剥く。現れた刺青は、皮膚に引っ張られて変形している箇所はあるものの、色鮮やかで肉を彩る装飾の様に見えなくもなかった。
「僕は綺麗じゃない?美味しそうには見えない?」
「……人間たちの固定概念の話をしただけ、私からどう見えるって話じゃないわ」
「じゃあ、どうなの」
「十分美味しそうに見えるわよ……何この模様」
スーツの腕を全て切り裂いて、ようやく彼女はその刺青の違和感に気付いた。気になった彼女は、そのまま立ち上がり、本田のスーツを完全に切り裂いていく。彼はじっと座ったまま、ナイフが皮膚を多少切り裂くのも気にしないままでいる。それは和彫りらしい、龍や天女といった艶やかな姿ではなかった。
「何これ」
「どこの?」
「……右肩?」
「それはカマプアアだね、ハワイの方の神様らしい」
「左肩甲骨は?」
「牛頭と馬頭かな」
それは混沌とした彫り物だった。様々な獣の頭部や、体を持ったいわば『怪物』のような存在が、彼の背中にはひしめき合っていたのだから。その意匠は細かく、ヤクザの刺青の様な一種神々しい工芸品の様な美しさを放っている。
「……どういう意図でこんなものを掘ったの?」
「綺麗だろ」
「まあ」
「それに、なんというか、先輩に対する敬意ってやつかな」
「……。」
それは暗に、本田が自分のことを家畜だと言っているようであった。ということは、彼は随分前から、自分が食べられることを予知していたということになる。
「ずっと、私に食われるつもりでいたってわけ?」
「そうだ」
「どういうつもり?」
「……話しただろう、君のことを追っていた、もう二十年以上も。君は次々に人を襲っては食べ、地域を転々としていた。時に紛争地帯、時に平和ボケした地区を選んでは、食人行為を繰り返した。……だが、それは僕が、させてしまったことだと思っている」
「はあ?」
本田は無事な方の手で髪をかき上げた。さすがに体力が消耗して、汗が滲んでいる。なのに彼の表情はどこまでも穏やかだった。
「西村、僕は……君を捕まえるつもりで、調査していたわけじゃない。僕の目的はただ一つ、君に謝ることだ。こうして『菓子折』までつけて」
女は、嫌な感じがして、上半身をほとんど裸に剥いた男の腕に、再度ナイフを突き立てた。しかし彼はそれに臆することもなく、話し始めたのだった。
約二十年前、本田仁孝は青年だった。ただの青年だ、強いて言うなれば、周りより少々厳しく育てられたところがあった。父親は彼に「仁義を重んじ、困っている人や弱っている人がいたら必ず助けるように」と教えながら、彼に様々な教養を与えていたのだ。彼はそんな厳しい父に反発する気持ちは持ちながらも、そう言って聞かせる親を尊敬していたし、いずれは自分もそういう人間になるのだと懸命に努力していた。十五歳のときまでは。
彼が十五歳の夏に、彼の父と母は死んだ。ある二つのヤクザの間で大きな抗争が起こったためだ。彼の父はやくざ者だった。母親も姉と呼ばれるような人間だった。組長の突然死によって内部抗争が勃発し、次期組長最有力候補と言われていた父も殺されたのだ。
「残酷だよな。今になってみると、親父が言っていた理想と親父の生業の理想はそんなに離れたもんじゃなかった。……ほら、任侠ってやつ。でも僕は、勝手に思い込んだんだ、親父は嘘をついてたって……だから全部やめた。良い人間でいることも、努力することも、遺されたマンションの家賃収入で細々一人で暮らして行けばいいだろって。今になって思えば、逃げる言い訳が欲しかったんだよ。そんで拗ねてたんだよ。もうこのまんま生きていけるだけのものはあったんだから」
何もかもやめる理由が欲しかった。親が殺されて、資産があって、高校生で。そしたらもう充分理由になると思った。そして僕の思惑通り、それはきちんと理由になってくれた。
父が友人だと紹介してくれたおじさんたちが、実は父親の舎弟で、彼らが土下座して後を継いでくれと頼んできたこともあった。それも含めて嫌だった。だから弁護士を雇って、全部そちらに任せた。父と縁のあった弁護士は優秀で、その後のニュースで殺傷事件の末に一つの暴力団が消えたという話をたまたま見かけるまで、その存在を忘れさせてくれた。入ったばかりの高校は忌引きのまま無断欠席し、このままで良いと思っていた。
その一ヶ月後、家のチャイムが鳴った。また舎弟の人たちかと思ってドアの覗き穴を見ると、インターホンの先にいたのは同じ高校の女の子だった。別に居留守をしても良かったが、不登校の人間の家に女の子が訪ねてくるというシチュエーションに、少しワクワクしてつい扉を開けてしまった。当時アニメや漫画ばかり買い込んで見ていたのが祟ったのだろう。
「本田じんこー君ですか」
名前の読みが間違っていたが、それを言うタイミングを逃した。シチュエーションに好奇心を抱いたのは良いが、声の出し方も人とのコミュニケーション方法もわからなくなっていたのだ。
「委員長の西村です。プリントを届けにきました」
「……どうも」
何度も季節外れの暑さにべったりと張り付く黒い前髪を手で避ける彼女は、確かに真面目そうに見えた。彼女が渡した一枚のプリントは、大した内容が書かれているとは思えなかった。
「ねえ、どうして学校来ないの?」
「……行く必要がないから」
今度こそ声が出たが、出さなくなったせいで蚊のなくような声しかでなかった。いやもしかしたら出ていなかったかもしれない。
「え、いいなー」
「は?」
「遊び放題じゃん」
「委員長としてどうなんだ、その発言……」
「だってくじで決まっただけだもん」
不真面目な委員長は、そう言って笑った。うるさい笑い声だった。笑い袋でもここまでうるさくはないだろう。言ったことも面白くもなかったし。
一気に不快指数を上げてきた彼女だったが、その後もうちに何度もやってきた。
「今日はプリントだけじゃなくていいもの持ってきたよ、いつも来てるのに何もないのは悪いからね」
「……何もってきたの?」
「セミの抜け殻」
「なんて?」
「ほら、この時期に残ってるの珍しくない?宝物にしてね」
「いらねーーよアホ」
「ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽーーーーん!!」
「うるさい」
「ぴんぽん」
「なんで口でも言った?」
「このクソ寒い中一秒でも外で待機しないで済む方法を考えたら早く気付いてもらうのが一番だなって」
「前から思ってたけど君相当バカだろ?」
「ち、ちっげーし!成績トップ二十点中百点の天才だし!!」
「逆だから、逆、分母が。いや逆でもバカだ」
「ジュース買ってきたよ、入れて」
「段々遠慮がなくなってきたよなお前」
「ほら、振りたてでおいしいよ」
「振るなよコーラを」
「溢れたやつを机からズズッといくのがいいんじゃない」
「その感性は何?やらせねえよ」
僕は……今思うと、寂しかったのかもしれない。あれだけ不快だ不快だと思いながら、最終的には彼女を家にあげるようになっていた。当時の僕には、彼女以外の話し相手はいなかった。もちろん恥ずかしいからそんなことは言わなかったけど。家の前から、家の中に、そしてなんだかんだで一緒に遊ぶ様になって……いつの間にか、そんなルーティーンが一年続いていた。
最後の日は突然やってきた。
「ねー、じんこーくん」
「よしたかだって言ってるだろ」
「お父さんと、お母さんって、どんな人だったの?」
「……嫌な人たちだったよ、生きてた頃は尊敬してたけど」
それはもうお互いに雑誌を読みながらくっちゃべる位には仲良くなっていた頃のことだった。
「え?意外。じんこー君育ち良さそーなのに」
「良くない」
「礼儀正しいじゃん、お人好しだし」
「……暴力団員だったんだよ」
だから、素直になってもいいかと思ったんだ。素直な気持ちのつもりだった。
「……。」
「子供には色々言うくせに、自分達の行動は伴ってない。最底辺のゴミみたいな存在だよ」
だからこそ、耳を疑った。
「へえ〜、じゃあゴミの親子共々死んだほうが良かったんじゃない?」
……失礼なやつだとは思っていたが、まさかそこまでだとは思っていなかったから。もしかすると、わざとだったのか?わざとだったのかもな。
「は?」
「ほら、カエルの子はカエルでしょ。生きてる意味あるの?」
「僕は違う」
「じゃあ私のこと抱いてみなよ」
ただ、突然豹変した西村の言動はむちゃくちゃだった。
「は??」
「自分はクズでもゴミでもないんだったら、子供ができても怖くないでしょ」
「頭おかしいんじゃないかお前」
「何その言い訳、意気地無し」
西村が僕の服に手をかけた。僕は裏切られた、と思った。
「やめろ気持ち悪い!!!」
突き飛ばした彼女はそのまま転がって、頭を机にぶつけた。
「あっ……」
「……。」
「ご、ごめ…「帰るわ」」
……流石にやり過ぎたと思った。明日謝ろうと思った。でもあの日以来、西村がこなくなった。それで、学校にならいるだろうと思って、悩んだ末に……行くことにした。別に行くことに抵抗感があったわけではないし、それで謝って、嫌な思いをしたらまた引きこもれば良いと思っていた。
でも、久しぶりに行った学校には、西村はいなかった。
委員長だと言ったのは嘘だった。彼女は本田が学校に来なくなってから二ヶ月ほどして、同じく不登校になっていたのだ。教員は、僕が西村のことを聞くと、どうやらそれで知り合いだとわかったらしく、大量のプリントを渡してきた。それは彼女が持ってきたプリントの十倍はあった。それを唖然としたまま受け取ると、隣の席の誰かが言った。
「やめといたほうがいいよ、バックレちゃいなよ。西村さん家、ヤクザらしいから」
隣の席の誰かは心から僕を心配して言ってくれていたみたいだった。
後から知った。抗争が激化したことで、暴対法でただでさえ資金難に陥っていた組が、余計に己の首を締めることとなり、無理な金の回収を行ったこと。末端の組員である西村紘子の父親が「トラック運転手」から「薬売り」になったこと。彼女の両親が売り物の薬を飲んでいたこと。
彼女が僕の家に訪ねてきた理由は、ライトノベル的シチュエーションが起こったわけでも、先生が気を利かせたわけではない。ただ、彼女は本田仁孝という人間を利用したかったのだ。本田が誰かに一言言うだけで、自分の家が助かるかもしれないと言う淡い期待を抱いていただけだった。
走った。走って向かった。がむしゃらに。僕が逃げていた分を取り戻すために。でもそれは遠くて遠くて、たまらなく離れていて、しかも道に迷って余計訳がわからなかった。走りながらようやく気付いた、僕は自分が楽な方向に行く理由が欲しかっただけだ。そのための大義名分が向こうから転がり込んでくれたから、それにあぐらをかいて楽しく過ごしていただけだ。父親や母親と比べてどちらがクズか、考えなくてもわかるほうだ。父は慕われていた、多くの人に。両親がいなくなって、我が家に来ていた多くの人たちはぱったり家に訪れなくなった。追い返したのは僕だ。それすら憎たらしかった。
僕が彼女の家に初めて訪れると、そこには異様な気配が満ち満ちていた。暗い部屋と、錆び付いた階段と、傷だらけのドア。全部僕には初めてのものだった。扉は少し開いていて、そこから異常な生臭い匂いが漂っている。セミのけたたましい悲鳴が頭の中で反響していて、それに伴奏を付けるかのように扉の隙間をハエが行ったり来たりしていた。
その先には、蝿と共に腐肉を喰らう西村がいた。
漫画を見ているみたいだった。真っ赤に濡れた人間の頭を、骨も髪もものともせずにおいしそうに食べていた。大きな畳や古びて黄ばんだ壁には大きな血のシミがたくさん広がっていて、机にも床にも謎の肉片が飛び散っていた。僕に不躾なことを言ってへらへら笑っている西村も、笑うと部屋中に声が響く西村もそこにはいなくて、ただ風鈴の音を聞きながらスイカを食べるみたいに人間にかぶりつく女性がいるだけだった。明らかに気狂いの様相だった。しかし彼女がたった四口で人間の頭部を食べ切ってしまったのを見て、僕はこんな現実でないことが現実に起こってしまったことに呆然とした。そして、思わずその場で腰をついてしまった。
……西村がこちらを見た。
「に……にしむら……」
「……。」
真っ赤に濡れた西村の顔面の中で、唇だけが生々しく艶めいていた。西村はじっとこちらを見た。見ていた。笑っていた。
西日が強くなって、その瞬間、彼女の顔は見えなくなった。着ているのは制服だった。ほとんど破れていて、なのに全身が赤く染まっているせいでまるで半裸には見えなかった。
そして、西村はいなくなった。真っ赤でハエがひっきりなしに行き交う部屋意外、全部が幻であったかのようにきえてしまった。
「西村が消えたことを誰もとりあってくれなかった。遺体がないことも、僕が見たことも、全部なかったことになった。行方不明事件だってさ。目の前で起きたことだったのに……僕は、自分の信じていたことがもしかしたらすごく些細でちっぽけなことだったんじゃないかと思い始めた。だから、君を追った」
「……そう、大変だったわね。それで、あなたは謝るためだけに、私に命を差し出したと」
納得がいかない様な不満そうな声が返ってきた。それでも食事は続く。腕を途中まで食い散らかした彼女は、男の腹を切り始めていた。
「……そう、追いかけていた。僕は、謝るために、君に選択肢を与えられなかったことを」
吐き気、胃のよじれる様な苦しみ、そして舌の痺れ、彼女が全てを察知した時には遅かった。
「っウゲエエエエエエエ!!!」
女が悶え苦しむ。恥も外聞も捨て去った声を部屋中に響かせて、彼女は転げ回った。吐き出されたものは赤く、白く、彼女の黒いドレスを汚していく。咀嚼された自分の皮膚を見るのはあまり気分の良いものではなかったが、本田はこうなることを見越していたため、悶え苦しんでいる彼女を見ながら、テーブルクロスの白い布を引いて手をゆっくり拭き、止血し始めた。
「おまえ、おまえええ!!!何をしたあああああ!!」
「……僕は大人しく君に食べられただけだ」
「はあ?!お、ぐえ」
カトラリーが消える、テーブルが割れる。本田は椅子からも放り出された。電灯一つだけが揺れる部屋では、食事をしていた痕跡すらなくなっていた。本田は話し続ける。
「神話において、人間が怪物を倒した話は、数えるほどしかない。そしてそれの多くは、武力ではなく、毒で行われてきた」
「な……なにがいいたい……!」
「十年間、僕は西村、君に喰われるために努力を重ねてきた……僕が、君の食べる最後の人間になるために」
合点が行かない様に半神はしばらく眉を寄せたが、しばらくして訝しげに、しかし確信を持って言った。
「……自分の体を、毒で浸したのか……!!」
「半分とはいえ、神を苦しませる毒だ。それこそ十年がかりで馴染ませたよ……効いたと言うことは、なんとか間に合ったってところかな」
血を拭っている本田は、まるで食事終わりに身嗜みを整えているだけの様に見えた。しかし拭きながら、ふと本田は自分の掌の感触が変わったことに気づく。見ると掌が元に戻っていた。どうやら、彼女が元に戻したらしい。いや、食べたことを「なかったこと」にしたのだろうか。しかし彼女の記憶は残る。腹を下した事実そのものを忘れれば、彼女はまた、本田を食い始めるだろう。だから己の身を守るためにも忘れることはできない。さらに、彼女は半分人間で、半分神だった。既に体内に取り込んだ毒は人間の部分にだけではなく神の部分にまで入り込んでいて、そこに彼女の術は及ばない。猛烈な吐き気と腹の痛みは治ったものの、神の臓腑が悲鳴をあげる。
「謀ったな!貴様、よくも、よくも!」
「ああ、謀った。本当にごめん」
「許すと思うか?!」
「思わないし、許されるつもりもない」
「はあ?」
本田はじっと女を見下ろした。怯えはなく、呼吸は静かだ。
「西村、君に選択肢をあげよう。今を過去に戻し、今までの罪を滅ぼし、全てなかったことにすることだってできる」
「そういう立場か?それに、ずいぶん抽象的だな」
「なら具体的に言おう。西村、まだ戸籍の上で西村という人間は死んでいない。そしてその記録の上の西村には犯罪歴がない。君はまっさらな人間として、生きていくことができる」
彼がそう言った途端、責める様に睨み付けていた彼女の瞳の力が、ふとゆるんだ。固まったまま、彼女は男から目を逸らす。一方で本田は彼女から目を離さなかった。
本田は彼女に向かって右手を差し出した。まるで左手が失われたことなど気にも留めていないかのような素振りに、半神は初めて身震いした。彼女にとって、勇士の魂を持った気高い男なんて生き物は、魔法やモンスター以上のファンタジーだったから。
「西村、この手を取ってくれ。そうしたら僕は、君をこちらの世界に戻せる。君は今まで、食べる以外に人間を使ったことはない。そして今、君はもう人間を食べる気がしなくなっているだろう。少なくとも、西村紘子という人間の寿命が終わるまでは」
「何を勝手に、何がわかるっていうのよ。ていうか!私が類人猿に戻りたいと思うわけないじゃない?!」
「いいや、戻れって言っているわけじゃない。君は君のままでいい。ただ、選択肢が一つ増えただけだ。半神としてどこにも混ざれず追われて生きるか、僕ら下等生物のコミュニティに所属するか」
「誰がそんなところに!それに追われたって、あんたたち程度敵じゃない!」
「でも君は寂しがりじゃないか!」
それは慟哭に近い声だった。本田の声は暗い部屋の中に反響してワンワン響いた。女は思わず黙ることしかできなかった。
本田の記憶の中の西村は、一人が嫌いだった。憎んでいるとさえ言っていた。夜、誰も家にいない時には、繁華街で人の流れを眺めている。変な人に声をかけられることもあるけれど、かけられない方が嫌だから、むしろ嬉しい。若い女の子でよかった、それだけでみんな見てくれる。彼女は人が好きだった。声をかけて、返事が返ってくることが好きだった。人の家の電話に勝手に出たり、御近所さんと話してしまうような人だった。そんな話が、いくつもいくつもあった。数え切れないほどあった。だから本田は、彼女が学校に行っていなかったことが信じられなかったのだ。半神に成ってからの彼女は、自由気ままに生きている。でも本当にそうなりたくてなったのだろうか?将来の夢は、最初から食人嗜好の連続殺人鬼だったのだろうか?
「……西村、もし、このままでいいというのであれば、それでいい。気が済むまで、僕を煮るなり焼くなりすればいい。だが、もし……君が、人間という猿にまだ愛着があって、もうしばらく位は……せめて、西村紘子としての人生を全うしたいという望みがあるのであれば、この手を取ってくれ」
「……。」
「半神には集団がないだろう。それぞれが違いすぎて、利害関係で一時的に繋がることがある程度だ。それこそ、覚醒したことそのものを隠している半神もいる。君もそうなればいい」
「っは、戸籍だけあったって、人間の生活はできないわ」
「なら僕のところに来ればいい」
「……。」
「僕がなんとかする、なんとかできる。なんとかしてみせる」
本田の会社は多国籍企業だ。その上、犯罪歴のあるような人間だって雇う組織だ。治安は悪いが、受け皿としての役割がある会社。だから一人素性不明の人間が紛れ込んだところで、誰も怪しまない。そういう場所を、作ってきた。表向きには多様性のある会社、裏向きには半神に対抗するための反グレ組織として。結局、気づけば父と変わらないような仕事をしていた。それに気づいた時、本田は刺青を入れることにした。神への毒を含ませて。
アメリカに渡っていた時に手に入れた毒だった。売っていた男は自分は魔術師であると名乗っていた。製造方法を買い取る代わりに、彼はウチの社員となった。食事にひとたらしするだけで、通常の食中毒の十倍は苦しむことができる代物だ。これを皮膚と内臓に染み込ませるために、本田はこれを十年間接種し続けた。健康と食の楽しみは失われたが、今この瞬間、それが無駄にならなかったことが証明された。
本田は、ゆっくりと彼女に近づく。
彼女によって噛み潰され、跡形も亡くなっていたはずの本田の手の肉はすっかり修復され、咀嚼されて肉塊になっていたのが嘘の様だった。神話のとある逸話を思い出す。魔女が老人の全身をバラバラにしたあと、呪文を唱えながら煮込むことで元に戻るどころか若返る話。英雄(ヒーロー)の女性バージョンは魔女だ。ヒロインではない。身内を惨殺したせいでその神話における女は魔女と呼ばれたが、ヘラクレスだって自分の子を焼き殺している。この二者は本質的に同じものだ。彼らはきっと、神対が言うような半神だったのだと、本田は考えていた。
「君の借りはもう何もない」
彼女は自分の肉を食べた、酷い食中毒を起こした彼女は、おそらくきっと、神にとっての「当分」くらいは人の肉を食わなくなるだろう。それは自分の体や、様々な証言が証明している。そして彼女は人間を神々との取引に用いたり、中身を引き抜いて道具に使うようなことはほとんどやらない。もはや彼女が人類と敵対する可能性はかなり低くなった。
大丈夫だ、きっと。
「神に効く毒……いくら時間をかけたとはいえ、お前も無事では済まないだろう、それは」
「ああ、どこもかしこもガタがきてるよ、きっと長生きはできない」
「……そこまでするのか、西村のために」
「するさ、これは僕の罪滅ぼしだ。君の選択肢を知らず知らず奪ってのうのうと生きてきた僕の、君という人間を食い物にしてきたことそのものへの精一杯の謝罪だ。受け取るか受け取らないかは、君が選べば良い」
本田は思う、人の世も、獣の世も、本質は変わらない。食って食われ、勝って負けての繰り返しだ。ただ人間は無駄に情などというものがあるせいで、敗者が命を失っても、同情するのが苦しいからと見て見ぬ振りをする様になった。そんな不幸な話は存在しないのだと、あるいは、自分だけがその罪から遠いところに行って関係のないことだと遠ざけようとする。……なら、目の前の嘆きを見つめたまま人を食らう彼女と比べて、どちらが残酷と言えるだろう?
「西村、選んでくれ」
本田はさらに手を伸ばす。血も肉も戻ったはずなのに、ふらついていた。それは精神的な疲れのせいだったのか、それとも緊張のせいだったのだろうか。
……彼女は、二度、本田を見た。一度目は目を、二度目は手を。そして男がふらつくのを支える様に、彼の手を取った。それは咄嗟の、優しさだったのだろうか?
女は、体勢を立て直した本田を支えに、自分も立ち上がる。
「お人好しだよ、あんた」
「いいや、僕はほぼほぼ悪党だ。この街にとって、まだ君が危機であることは確かなのだから」
「悪党は二十年も罪悪感を引っ張ったりしない」
立ち上がった女は、本田の手を握り返した。奇しくもその形は、握手の様な姿になっていた。
……それは暗黒から手の形をした影が伸びてくるかの様な悪寒だった。
銃声、それは聞き慣れたアサルトライフルのものではない、掌大の拳銃から発せられる発砲音は、夢の中で聞いたのかと思うくらい現実感がなかった。右胸上部に熱さ、痛み、押さえたところにあったのは、熱を持った金属の塊だった。そして、目の前の彼女が、倒れた。
視界が揺れた。理解が追いつかない。何が起きているんだろう。半分神様になった女は、僕が持っている毒程度で倒せる存在ではない。血がゆっくりと広がっている。背中に大きな穴が開いていた。
「にし、むら……」
茫然とする時間が長すぎた。それが銃痕だと気づいて、冷静に動く時間は十分にあったが、本田にとってその突然の死はこの国で起こることではなかったから。
リボルバーの回る音。革靴の足音が、いつの間にか目の前で止まった。
「……誰、だ」
「俺だ」
かすれた様な声には聞き覚えがあった。本田は両手を挙げる余裕もなく、真っ黒な人影を見上げた。
「何やってんだアンタ」
振り向いた先にいた彼、根崎は全身にタバコと硝煙の煙を纏っていた。
「そ、れは、……」
本田は立ち上がろうとして、そのまま倒れた。ただでさえ手や腹を食われ、気力が落ちていたところで銃撃を浴びたのだ。痛みが正常な思考を奪う。この場から逃げなければならない、という本能の叫びが、心臓から全身に通り抜けていく。銃撃を浴びたのだ、彼女とともに。そこで本田はようやくハッとした……女は、彼女は不自然に震えている。そこにまた発砲音。額に大きな穴。
「っやめろ!!」
「気でも狂ったか」
「違う!!彼女は……!」
さらなる発砲音、今度は足。女はまるで壊れたゼンマイ仕掛けの人形の様だ。
「お前!」
本田が根崎につかみかかろうとすると、躊躇いもなく根崎は本田の足を撃った。
「黙ってろ、次邪魔したら殺す」
銃声、銃声、銃声。既に穴だらけになった女は、まだ動いている。それはもはや関節も筋肉も関係なく、粘菌のような動きで震える。黒と赤と白の混ざった、別の生き物のように。根崎はリボルバーを開き、素早く弾を込める。それは本田にとっては不自然なほど見慣れた光景だった。それは銃を日常的に扱う人間でなければ到底できないような素早さだった。それは子供の頃から殺戮を学んだ人間でなければ得られぬ速さと戸惑いのなさだった。そして撃つ、撃つ。
本田は戦場での光景を思い出していた。彼女はいろいろなところに現れた。人が何人死んでもおかしくないような土地にもよく赴いていた。そこで何人死んでも大きい事件にはならないから、そこで彼女はいつも派手に暴れていた。彼女の血は溢れ続けて本田の体をも濡らしている。骨によって止まっている銃弾に血が当たって、焦げる音と独特の匂いが漂う。そして思い出す。根崎は……根崎という男は今、あそこの空気をまとっていた。人間の定義が違う国からやってきた、異邦人の気配。生理的な嫌悪感が体の奥を這い回る。
「……よし、流石に死んだか」
もう彼女は動かない。
「……なぜ」
「お前いい加減にしろよ?頭に風通してやろうか?え?」
「違う……、そうじゃなくて……いや……」
本田の頭が痺れる。そして再度、彼女の死体が目に入った。頭が真っ白になっていく。自分の目的が果たされなかったことに、今になってようやく気づいた。だが、何を考えれば良い?突然増えた『考えなくてはいけないこと』に動揺して、衝動が本田を動かした。
「……殺せ」
「あ?」
「俺は反逆者だぞ!殺せ!!」
本田は瞬間、根崎が持っている拳銃の先を握り、額に当てた。銃口は火傷するほど熱く、気が遠くなるほどいやな匂いがした。
「……お前分かって言ってるだろ?」
本田の顔面に衝撃がくる。そこで彼は、根崎という男は頼まれたことを易々と叶えてくれるタチではなかったことを思い出した。
「っ、は、がは」
「で?弁明は……しなさそうだな。そうだな、お望み通り殺してやろうか?俺は優しいから。頼めば必ず聞いてくれないのが神忌だと思ってたんだろうけどな。俺は神忌としては善良すぎて出来が悪いくらいなんだよ」
次は腹を蹴られた。鈍い痛みが鳩尾から内臓に直下して、本田は胃液を吐き出した。根崎の服には血がかかっている。だが黒いスーツに吸収されたそれは、全く色が変わった様には見えない。シャツはまだ白いままだった。
「ったくよお、どいつも、こいつも……」
頭にまだ暖かい銃口が突きつけられる。だが床に広がる彼女の血は最早冷たくて、本田は静かに目を閉じた。銃の機構の音が、死へのカウントダウンを始めた、その時。
「っ根崎さん!ストップ!!」
「根崎!!」
子供の声と、青年の声。考えるまでもなく、高田さんと佐々木さんだ。本田はゆっくりと目を閉じた。これは、助かったと言うことなのか、だがもうこのまま意識が戻らないような、息をするのさえ億劫なような心地がしていた。もう目覚めないとしても、それでもいいと、鉄臭い血溜まりの中で思った。
ジン対の人たちがいなくなると、病室は一気にシンとした静寂に包まれた。本田はその時にはじめて佐々木透子が高田さんのところに行きたがった理由がわかった気がした。体力が一気に落ちたせいもあり、なかなか心にくるものがある。病室の静かさは、体に毒なような気がしてならなかった。もっとも、全身に毒をため込んでいた自分が体に毒と言うのは少しおかしいような気がしないでもないが。
彼女が、死んだ。
本田はジン対に洗いざらい吐かされた。食人鬼である半神の彼女を追い続けていたこと、それを隠していたこと、西村紘子という人間についてまで、全部。最早死も怖くないつもりでいたが、ああして迫られると、どうも言わずにはいられなかった。それに、言ったところでもう影響はないのだ。
彼女は、死んだ。
初めて半神が死にうるのだということを意識した時、本田に沸いたのは焦燥感だった。人を狩って、食らっている彼女は、わかりやすく人類の敵だ。それこそ本能に訴えかけるほどの恐怖を人間に与える。いつか、殺されるのではないかと、考えずにはいられなかった。それに、もっと巧妙な方法はいくらでもあったはずなのに、彼女はああしてテーブルクロスを敷き、皿を並べ、恐怖に慄く獲物と対話しながら食することを好んだ。なのに、相手が正気を失って、まともな会話ができなくなると、それだけで腹を立てて、昏倒させてしまうところがあった。ハンニバル博士のような残虐性だと、生還した人々はよく言っていた。本田にとっては、彼女が会話を欲していただけに見えた。
死んだ、もういない。
本田にとってそれは受け入れ難かったが……受け入れ難かった。どうしてだろう。彼女を、倒すつもりがなかったわけではない。もし、自分の言う条件が受け入れられないのであれば、最後はせめて共倒れにまで持っていくつもりだった。それが、あれを追う人間である以上、使命であるとずっと考えてきた。人は、人として生きるべきだ。戦争だって、起こるべきじゃない。三大欲求が満たされない危機が消え、生存の危機が消え、存在が認められ、社会的に守られ尊厳が満たされた時、人は初めて幸せになれる。そういう世界を目指すことが、我々の未来を作ることになる。でも、それが得られなかった人を、なかったことにして殺してしまうのは、本当に正しいことなのだろうか。
彼女は、奇妙な半神だった。人を食べるくせに、人のためになることをしたがるところがあった。彼女を人外だと夢にも思わない人たちに対して、笑顔で話しかけ、施すような矛盾した部分があった。それこそ、食べたくせに戻したそれを、なぜかきちんと本田の手として戻したくらいには。勿論ただ「元に戻れ!」と考えたらこうなったのかもしれないが。でも彼女は、寂しがりだったから、突然僕に優しくしたくなったのかもしれない。
「しかし、あれで……最後なのか」
「何が最後だって?」
左を向くと、そばかすの目立つ女性が丸椅子に座っていた。今までで一番、見覚えのある顔だった。西村にもそばかすがあった、おまけに髪質が変に堅いようで、不思議な跳ね方をしていた。気の毒になるくらい薄い肩が、合わないリクルートスーツの中に収まっている。
「……西村」
「だから違うってば」
「……なんで、ここに?」
「私の肉片ががあんたの体に入ったから、これはその残留思念よ。他の人には見えない。あんたの幻覚。あなたの肉になじんだら消えるわ」
そう言う彼女は不服そうな、ぶっきらぼうな口調だった。
「……僕を、洗脳するのか?」
「まさか!今の私はおしゃべりしかできないよ」
彼女は口を釣り上げるようにして笑った。自嘲気味にも、反抗的にも見える笑顔は、しかしとても素直でもあった。こちらを馬鹿にしていることを隠そうともしない。
「惚れた女のためにここまでやるかね普通」
「惚れてない」
「惚れてるじゃん」
「……ならそういうことでいい……で、君は、死んだのか?」
それは本田が一番聴きたかったことだった。半神がああして死んだ後に、どうなるのかはわからない。というか、肉片?血?だけでこんなことができるだなんて想定外だ。もしかしたら、まだ何かしらの方法で、生きているのでは…。
「肉体は失われたよ。完全に、確実に。で、魂は、あー、天に登った」
「天?」
「そう。私ね、神様になるんだ」
本田は目を丸くした。
「あー、もう少し、中途半端が良かったなあ」
神が増える、この街の敵対者が増えるということ。ライオンを増やしたがるシマウマはいない。だとすればジン対が行ってきたことは……。本田は飛び起きて、足の傷が痛んで思わず俯いた。
「あはは、神が増えるのが怖いの?大丈夫よ全ての人間がいずれこうなるから」
「全て?」
「人間っていうのはね、神様の卵が生みつけられた芋虫なのよ」
そう言う彼女は言葉の割に普通の顔をしていた。哀れみでも、嘲笑でもなく、ただただ静かに凪いだ水面の様な顔つきだった。
「……西村」
「だから私はあんたの言う西村じゃないってば」
女は本田の手を振り払うそぶりをみせた。触れもしない幻覚にも関わらず、本田が手を伸ばしたわけでもないのに。
「いいや、そんなはずはない、あの時人を食っていたところから、お前を追い続けて……」
「どうしてそこで人間を食ったのが西村だと思ったの」
「だって、いたじゃないか」
「私はいくらでも変身できるのに?」
本田の口は、縫い付けられたかの様に動かなくなった。彼女の黒い瞳はこの世あらざる輝き方をしている。彼女の目は石をはめ込んだだけのように温度が感じられなかった。本田は、本田は苦し紛れに言葉を紡ぐ。
「……それは、君自身の能力では」
「私はあくまで顔の情報を買うだけで、そういうことをする能力はある。調べたあなたならわかるでしょ」
「……、いや、だが……」
本田の沈黙は重く、暗く、日光の差し込む部屋には不釣り合いだった。いつの間にか空いていた窓からは爽やかな秋の風が入り込んでいて、防火カーテンを揺らしていた。
「……なんで、そんな西村ってやつに執着するのよ」
「話ならしただろ」
「ねちっこい奴」
「……。」
「あら傷ついちゃった?」
本田は、黙って俯くことしかできなかった。あの日見たのは確かに西村だった。西村だったはずだった。でもその時のことを、誰かに話したことはなかった。あのコンクリート張りの狭い部屋で、皿の上に乗ったまま話したのが初めてだった。その次は、やけになって詰問されたのに答えた、ついさっき。だから彼の思い込み、矛盾に気づいて、指摘してくれる人がいなかったのだ。指摘されないまま、本田は過ごしてきた。彼女は、西村ではない、ただの化け物じみた、半神……それは最早、本田に否定できなかった。
「……聞く気が無いなら聞き流してくれていいんだけどね、ちょっと前に、私がこの市で人間が叩き売りされてるってことを知って、手始めにある家の一家三人をぺろっといただいた時の話なんだけどね」
そこにいたのは栄養状態の悪そうな男と女と、制服来たまんまの生娘一人で、男女は娘に何か言うでも無しに天井を眺めていた。なのに突然変な挙動を初めて、男も女も娘に化け物だー!殺せー!って言いながら殴りかかって、なのに突然笑い出したりして、明らかに正気じゃない様子だった。だから私は本物の怪物が現れたらどんな反応するのかな、と思って腕をパクッと食べてやった。でもやっぱり正気じゃないから笑ったり泣いたり痙攣するばっかりでどーしようもなくて、面倒になって二人ともさっさと動けなくした。そしたら娘が腰抜かしちゃったみたいでね。まあ今時、食人鬼が出た!って言っても大概の人は信じないし、むしろ両親を殺したってなったらこの子極刑だろうなあと思って、火炙りとかよりは食べてあげるのが情けだし、コストも削減できるよねって思って、シメちゃおうとしたら、彼女が言ったの。
「許してくださいごめんなさい許してください」
「それは無理」
「ならお願いします、恨みもしません、憎みもしません。出来るだけ美味しく食べてもらえるように頑張りますから……最後に伝えて、ごめんなさいって。私知らなかった。なにも、彼だって苦しんできたってことを。なのに利用して、迷惑かけて、傷つけた。だから、ひどいこと言ってごめんって……」
「彼って誰?」
「お願いします、お願いします神様」
「かみさまぁ?」
「神様……」
そのあとラチがあかないし、ひたっすら神様しか言わないもんだから彼女も早めにシメた。で、三日くらいかけて一人ずつ食べたところに、多分、あんたが来た。
「まー、だから、多分、あの子の言ってたのって、あんたでしょ?ごめんなさいって。ま、そういうことで、伝えたから」
「……え」
「じゃあね、時間だわ。できるだけ、健やかに生きるんだよ」
「そ、んな、どうしてそんな……なんで、待ってくれ!」
「何」
「どうして、俺に、それを伝えたんだ」
本田は静かに聞いた。彼女は面倒くさそうに答えた。
「あの子が気に入って、あんたのことも気に入ったから」
本田がその後掴んだのは空気中の埃だけだった。幻覚だと言っていた彼女は本当に幻覚のように消えて、いなくなってしまった。
呆然と空中を眺める。何が起きたのかわからない、何を話されたのかわからない。ただ、西村ではなかったらしい彼女は神になるだなんて言い残して、しかも西村の最後の言葉を置いていった。それは本田の中にじわり、じわりと染みて、さっきまであった失望感も喪失感も全部無くしてしまっていた。
西村は、西村は……僕を許していた?
ずっと前から?むしろ僕に謝っていた?
そんなまさか、でも彼女が僕にそんなことを嘘をついてまで伝えるメリットがあるのか?いや逆に、嘘をついてまで僕の罪悪感を拭おうとしたのか?わからない、余計わからなくなったぞ、え?どうして?どうして……。
「……かみ、さま……か」
日が傾いてきていて、もうすぐ夕方になる。空は色づき始めていて、別の表情を見せてくる。それでもまだ青い空は高く、病室から見えるビルの屋上をきらめかせていた。
指が、戻っている。その奇跡が語りかけてくる。超常的な存在である彼ら彼女らは、人間の想像や理屈を遥かに超えて、あまりにも理不尽に対峙してくる。人間は、これからも彼らと戦っていかなくてはならないのだろう。それは正しい。戦おうとするくらいでなければ、あの理不尽さに対抗していくことはできない。でも、恨みつらんで呪い忌み嫌うことまでは、本田には出来そうになかった。それが彼らの思う壺なのだとしても、彼にとってこれは、それくらい大きな出来事だった。
しかし、見事なものだ……。そう思いながらつなぎ目すらない指を眺めていたところで、ふと本田は気付く。よく見ると、薬指の第二関節から第三関節の間の肉が、表裏反対についている。
「……っは、はは!なんだこれ!」
おっちょこちょいなのか悪意なのか。だが本田からすれば、これは凡ミスとしか思えなかった。あの場で彼女に、ちょっとした嫌がらせをするような余裕があったとは思えない。それにもし嫌がらせであったならば、関節を逆につけられる方がずっと困る。しかしこの程度では、滅多なことで周囲にバレはしないだろう。あまり意味があるとは思えなかった。凡ミスであることが、嬉しかった。神様らしいなと、思ったから。
「最後まで楽しませてくれるな」
今度、西村の墓参りに行かないと。薄情なことに、一度も行けてなかった。それに、彼らに対抗するために、もっともっと頑張らなくては。これでは西村も浮かばれない。
変な感触の掌を口元に当てながら、本田は笑っていた。
佐々木side
「こんにちは〜」
そう言って入ってきたのは、ウチの協力者だった。
「ご無沙汰してます。神山さん」
「ご無沙汰してます。あ、こちらつまらないものですが」
一見昭和的な、パリッとしたシャツとスラックスに身を包んだ痩せ型の男性は私にそう会釈した。隣にいた青年も、それに合わせて丁寧に「こんにちは、よろしくお願いします」と笑顔で言った。純朴そうな彼もまた、きちっと学ランを着ていて、好感が持てた。人間の単純さが恨めしい。
「……それで、こちらの方が」
「中嶋英樹、といいます。来年から、こちらに配属できると思います」
「……ああ、この方が」
連絡は入っていた、進捗も。
彼は次の神愛だ。たった十六歳のあどけない青年だった、かつての高田さんと同じく。頬のあたりに淡いそばかすと、大型犬のような丸い目をしている。背は高田さんよりは低いが、そこそこある。そして低い腰と小心者そうな態度のせいで分かりにくいが、身体の中に鉄芯が入っているかのような綺麗な姿勢をしている。
「未熟な所が沢山あるとは思いますが、どうかご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
私はうまく挨拶できただろうか。いやできたはずだ、できた。落ち着け、最初は肝心だ。
「こんにちは、よろしくお願いします」
私は子供であることを意識させないように深々とお辞儀した。しかし青年がなにを考えているのかは読めない。彼はただ人懐こそうな目をそのまま私に向けて挨拶するだけだ。
「……高田くんは元気にしてますか?」
「はい。いつもお世話になっています」
神山清一さんは、神愛を育てる専門家だ。高田さんも、彼に育てられた。
「そうですか、よかった。今日はお休みですか?」
「いえ、今は少し席を外していまして」
「あーそうですか」
「お弟子さんをお連れくださったということは、本日は、弟さんの方も……?」
「あ、はい……すみません、さっきまで居たのですが……」
あたりを見回すような素振りを見せるも、少し諦めたような顔で神山さんは苦笑いした。しかしそれも束の間、怒号が響いた。廊下内に反響するほどの大声は、野生生物の咆哮に似たものを感じる。
慌てて駆けつけると、ヨレたTシャツを着た壮年の見た目の男が別の職員を恫喝していた。その横に派手なピンクの服装の女の子が一人。
「次濁、やめてください」
「……はっはは、おーいぃ、おせーよぉ、佐々木さぁん」
清一さんの注意を無視して、彼は私に近付いた。彼、神山次濁は、神忌の養育者だ。ニヤつく黄ばんだ歯は謎の透明物質で無理に固められている。
「折角連れてきてやったんだからもう少し礼儀ってもんがあるんじゃないのか?え?」
「次濁、いい加減にしろ」
「……っ、るせぇなぁ、兄貴は」
テメェの大声で耳垢が溜まんだよ。と赤茶けた指で耳を穿ったあと、男はタバコに火をつけた。後ろの職員が俯いている。恐らく、このタバコを注意しようとしたのだろう。若い職員だった、ご愁傷様。隣の女の子に目を向ける。一見すると、ツインテールの可愛らしいファッションを見に纏った女の子であるが。
「何見てんだよオッサン」
やはり神忌だ。小さな、しかし私より大きな彼女は仁王立ちのままこちらに近付いてくる。
「アンタがオッサンなのは分かってんだよ、鼻の下伸ばしてんじゃねぇぞ」
「やめて、沢口」
「っキモッ!!さわんな!!」
持っていたキラキラゴテゴテのスマートフォンが、中嶋くんの頭に思いっきり振り下ろされた。彼はそれを避けずに受け止め、しかし彼女を抑えた。その目は真っ直ぐ沢口と呼んだ女の子を見つめている。
「やめて」
「離せ!離せ!!近寄んな!!」
「瑠璃亞。ならこれ以上暴れないで」
中嶋くんが手を離すと、長い爪が彼の顔に向けられた。整った青年の頬に、数本の血の筋が滲んでいた。私と、保護者兄弟二人はそれを注意するでもなく、ただじっと見つめていた。
「……さて、積もる話もありますし、こちらにどうぞ」
「最初っからそうしてくれよな〜」
「……ほんっと、気の利かない」
険悪な雰囲気に、申し訳なさそうに会釈する中嶋さん。でも私が土下座したい気持ちになった。意味のないことだとわかっていたけれど。薄汚れたクリーム色の床の黒いシミの位置を確認する。それは彼らの黒い瞳のように、こちらをじっと見ていた。
つづく