白井side
親より先に子供が亡くなることを「逆縁」といって、親不孝の象徴になるらしい。それを聞いたのは、受付で参加者名簿に名前を書いている時だった。
なのに、三井の葬式の参列者は想定以上に多かった。だが、それは三井の知り合いではなく、ほとんど三井の父親の知り合いであった。まあ、当然の話ではある。それを今の今まで思いつかなかったあたり、俺は相当ダメになっているんだろうな、と他人事のように思う。三井が、三井総一郎先生の息子であることを、俺はすっかり忘れていたのだった。藤田院長と清花まで参列していたわけだから、三井先生という存在は未だ様々なところに顔が効くらしい。まあ清花は、俺と同じで三井の縁者だけども。
大きな式場で何人もの人に焼香された割には、誰一人として三井がどんな人間なのか知らないような、よそよそしい空気がずっと流れていた。耳を不快にくすぐるような内緒話。俺は焼香の香りの中に三井の面影を探そうとしていたが、いないものはいなかった。
「不肖の息子でした」
ハンカチで目元を押さえている三井の母親と、三井先生の淡々としたスピーチ。
「前から人様に迷惑ばかりかけるとは思っていましたが、まさかこれほどとは私も思っておらず」
三井先生の講演は聞いたことがある。真面目で、几帳面で、神経質そうな様子が見て取れた。でもそれ以外に印象がない、三井に会う前だったし、当時は興味のある範囲が限定的だったから、印象に残らなかったのだ。それにほっとしているような、苛立っているような不思議な心地がした。この人に興味はないが、この人のことを知っていたら、俺はもう少し三井の役に立てていただろうかと。
あいつは、親とは不仲だと言っていた。そして悪いのは自分だとも。三井先生は神経質そうな人に見えた。三井は神経質とは程遠い性格をしていた。あいつはいつも何かを許してばかりだった。
あいつの遺体は足しか残っていない。他は全部燃えてしまった。だから棺の中を覗くことはできない。これを火葬場に持っていって、また燃やすのだ。三井の母親はひたすら泣いている。三井先生はただ頭を下げている。
「このたびは、お悔やみ申し上げます」
石沢先生が三井先生と奥様に頭を下げる。三井先生もそれに習って、頭を下げて。三井の母親が言った。
「石沢先生には大変ご迷惑をおかけしました」
「いえそんな」
「全く・・・どうして、ああも反省できない子だったんでしょう、煙草の不始末なんて・・・」
あいつの最期を、誰も知らない。
「ですが……。」
「いえ、石沢先生、昔からそういうところがあったのです。思えばとんだ馬鹿息子でした、最期まで人様に迷惑かけて・・・こんなこと、言いたくはないですが、早」
そこでぷつりと何か切れて。
そういうつもりはなかった、というのはやらかした人間の常套句だ。でも、やってしまったことは元には戻らない。小さなコップに注がれたビールを、俺は反射的に目の前の三井総一郎に吹っかけていた。多分、ビールでも水でも、どうでもよかったんだと思う。ビール瓶が置いてあったらそれを振りかぶっていたんじゃないだろうか。いやどうだろう、実際のところ、覚えていないのだ。何を口走ったのかも、どう騒いでしまったのかも。医者どころか、社会人失格だな、とやっぱり他人事のように思う。気付けば、ホテルの一室に突っ伏して寝ていた。横を向くと、清花がいた。
「あなたって前から馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけど、ここまで馬鹿だとは思わなかったわ」
清花は鏡の前でパールのネックレスを外しながら言っていた。年季の入った木の縁の全身鏡が、彼女の喪服を全面に写して真黒になっている。
「……ごめん」
「なんで私に謝るのよ」
「……。」
「……言い方が悪かったわね」
振り向いた彼女は笑っていた。
「私は割とすっきりした」
「……。」
「まあ、やってしまったことは、しょうがないじゃない」
彼女は優しく笑っていた。
佐々木side
「それって干されたって奴じゃねーか」
「根崎」
ケラケラ笑っている男を高田さんは嗜めた。お約束という奴である。そして根崎さんの指摘が事実だからタチが悪い。
……三井さんの一件以来、相当協力的になってくれた白井さんが、ここ最近になってこちらに通う日数を増やしたいと言ってきた。健康診断やら何やらで既にかなりお世話になっているので「いやそちらのお仕事もお忙しいでしょうし、無理には……」と謙遜したら、ポンと出たのがこの話である。いや軽い。軽すぎるぞ。もう少しそういう話は隠したりとかオブラートに包むものだと思うのだが、その時の諸々の感情含めて丁寧に説明するあたり、彼にとっては違うらしい。なお、三井さんのお葬式から、現在は約半年が経過している。
「まあ俺としてはそんなに悪いこととは思ってないんですよ。三井の遺言も守れるし」
「ま、前向き~」
キャリアの道が閉ざされたことなど、白井さんはちっとも気にしていないようであった。やっぱり基本給が良いと「まあいいか」とか思えるようなものなんだろうか。
彼は公私を分けるタイプなようで、私たちのところで仕事をすることになってから敬語が増えた。私に対してもそうっていうのは、彼の真面目さが現れているんだと思う。それはつまり、融通が効かないってことでもあるかもしれないけど、大丈夫かな。
「でも、助かります、所属してくださる医者がいるのは、心強い」
そう言うと彼はうっすらと微笑んだ。本当にうっすらだ。彼は基本的に表情が少ない。そのくせにこっちの目を凝視してくるものだから、時々背景にワシだとか、タカだとか、そういう生き物の影が見えることがある。爬虫類でも可。だが彼がこうして笑っているのをみると、やはり人間なんだな、と失礼なことを思った。
「それで、今日は俺の身の上話をしにきたわけじゃないんだ、佐々木さん、定期検診させてください」
「あ、え、それって今日だっけ」
「今日ですよ、月に一回で済ましてるんですから、覚えておいて下さい。ただでさえ普段から負荷かけてるんですから。これでも少ないくらいです」
「ええ~」
背中を押されて連れて行かれる。せめて書類のハンコだけでも検診前にもらいたかったところだが、後の祭りである。
「……で、頭痛はないですか、それとも、何か不安に思うことは」
「あー、うーん特には、強いて言えば、めっちゃ眠いですかね。夜更かしできなくなりました」
「なるほど……まあそれは、年齢的なものもあるでしょうから。健康の範疇だと思いますよ」
年齢的なもの、が年寄りに使われないのは新鮮な感覚だ。彼は市役所内にある産業医用の一室を借り、私の診察を始めている。白いスクリーンに貼られたレントゲンは、私にはよくわからない。
「……はあ、ほんと奇跡みたいな事例ですね」
「実際奇跡でしたよ、あれは」
私はそう言いつつ、白井さんの様子を観察する。彼は、感情が表に出ない人だから、こうして、じっくり見ている必要がある。爆発する寸前になって、初めて全身に現れるような危うさがあるのだ。彼は、私の発言に対して、特に思うことはないように思える。彼は私が生きていられた理由を、ちゃんと消化できているのだろうか、なら三井さんも助けられたんじゃないか、と思っていたりはしないだろうか。
「……まあ、そうですね、確かにそうとしか言えない」
彼の心はカルテの中に沈み切っていて、そこから私は何も見つけることはできなかった。死にかけた、というか実際死んでいた私と、蘇らない三井さん。もしかしたら、心の中でははらわたが煮えくり返っているのかもしれない。
「……頭痛用の鎮痛剤は……」
「あー、市販の買ってるので」
「いや、頓服で出しておくから、こっちに変えたらどうでしょう。市販薬は、あなたの体には強すぎますよ」
「うーん、なら、お願いします」
彼は慣れた手つきで処方箋を書き始める。産業医としての能力もあることに最初は驚いたものの、事も無げに「石沢先生の弟子なんだから当然だ」と返された。そこまで言わせる力がその石沢先生にあるというのも、すごい話だ。余程慕われているんだろう。
「……あ、そうだ、高田さんと根崎さんは、どんな感じでしたか」
私が聞くと、彼は瞳だけちらりとこちらに向けた。髪が伸びたらしい、針金の集まりみたいな頭髪の格子が、蛍光灯の光を瞳から遮っている。
「……、あなたからも言ってくれませんかね、根崎さんに」
「と、いうと」
「明らかに放置しちゃいけない怪我でも、あの人真面目に教えてくれないんですよね」
「あーー」
「この前も痛いとこ無いって言い張るので、少し「ここかな?」ってところを小突いたら、そのままひっくり返ったんですよ。見てみたら打撲のまあひどいことひどいこと。肋骨も一本折れてました。毎回嫌がる成人男性を裸に剥くのも疲れるんで、お願いします」
絵面がひどいな。天邪鬼であることが根崎さんのアイデンティティであるとはいえ、白井さんの苦労もしのばれる。ん?待てよ。
「……剥けたんですか?成人男性を」
根崎さんが嫌がるんだとしたら相当抵抗されたと思うんだけど。どうなんだ。あの人結構強いぞ。体柔らかいし。根崎さんは神忌という性質上、不運体質なので高所からの落下などの事故が多い。だからそれをカバーするほどの身体能力を身につけている。だが白井さんは「コツがあるんですよ」というだけでそれ以上取り合ってくれなかった。コツってなんだ、ちょっとこわい。
「……で、高田さんはね、前から佐々木さんもおっしゃってましたけど、幻肢痛がまだきついみたいで、両腕とも」
「そうですか……」
両腕が義手の高田さんが、前から幻肢痛に悩まされていること自体は知っていた。夜中、結構な頻度で目を覚ましていることも。もうそれが二年以上続いているが、彼はそれをあまり悟られたくないみたいだった。
「本来ね、幻肢痛って時間の経過とともに消えるものなんですよ、でも彼の場合あんまりそういう傾向がないみたいで……」
彼の話ぶりは純粋に高田さんを心配してくれているもので、ほっとすると同時に、やっぱり複雑な気持ちになる。
「義手の勝手とかを聞いてると、我々の手を使う感覚と全然違うみたいですからね、腕があるって感覚というよりは、何か別のものが両肩から生えてるような感じらしいですし、多分それが、うまく脳に「回復できた」って信号を送れていない原因なのかなと」
彼の両手は、神から与えられたものだ。
より正確に言えば、高田さんの肩からハーネスで固定している木製の義手はただのマネキンであり、上腕と下腕に小物入れが付いていることさえ目を瞑れば、多分スーツのモデルとして使われていたって違和感がない、普通の人間による大量生産品だ。だがその力は神由来のものだ。彼は神通力?超能力?サイコキネシス?わからないが、なんらかの力を神から授かり、それによって木製の義手を動かしている。ただ、神の力だからと言って万能でも際限なく使えるものでも我々の両手よりも便利なものでもなく、その神通力の範囲は両肩の間から約1メートル以内、しかも同時に2つの方向に力をかけることに限られる、らしい。だからアニメや漫画にあるような、自分の周りにたくさんの物を浮かしてどうこうということはできず、むしろ指先を同時に動かすような細かい動きができないため、パソコンのタイピングなどにはかなり支障があった。それこそ腕の代わりになる程度でしかない。
だが彼はそんなことはおくびも見せない。むしろ義手であることすら言わなければ周囲にはわからないほど、それを使いこなしている。
……かつて、はじめてこの事情を話した時、白井さんは思ったよりも冷静だった。
「……加護?それは、神懸かっているのとは違うんですか」
「そうですね、神に懸かると、人は人ではないものに変化しますが……加護の場合は、むしろ人間性が保持されます。そして、基本的に神愛にしか降りかからないものです。白井さんは、古代の神話などはお好きですか」
「ほとんど知らないですね」
「なら、神様が『こいつは人間であって欲しい』とかけるのが加護、『それ以外になって欲しい』とかけるのか神懸りと覚えていただければ良いと思います」
……本当は、加護も神懸りも、本質的には同じものだ。私が言ったこれは、もしかしたら言い訳にすぎないのかもしれない。相手を納得させるために、言葉を巧みに使い分けるのは、昔から発達した人間の悪知恵だ。だから本来、神の手がかかっている以上、高田さんのことだって殺してしまった方がいい。理屈だけで考えるならそうだ。だが……彼から受ける恩恵が大きすぎたのもあり、当時決まったのは「保留」という判決だった。そう考えると、高田さんは罪を犯していないのに裁かれているみたいだった。
「あの人もあの人でね……夜しか痛まないと言っていますがね、多分、昼間にも出てますよ、痛みが」
白井さんの言葉で、私の意識は一気に急上昇した。
「昼も?」
「ええ、さっき、腕をさすっていたので。おそらくですけど」
そう言われてみると、感覚のない腕を触るというのは少々不自然な話だった。なんで今まで気づかなかったんだろう。
「わかりました、覚えておきます……ありがとうございます」
「……そうやってやってると、本当に大人みたいですね」
私が頭を抱えるような素振りをしたことに意識が向いたのだろうか、彼がぼそっと言った。
「え?あ、どうも……」
彼には一通りカルテを作るにもあたって症状や経歴なども話したから、私のことに関しても色々を事情を知ってもらっている。本当に、専門で診てもらえる医者がいるのはありがたい。
「……頭を掻いてかしこまるのもやめた方がいいんじゃないですかね……大人っぽいですよ」
大人っぽい、が褒め言葉にならないあたりも、新鮮な感じだ。うーん、女子小学生って難しいなあ。彼は私の様子を見て、ふうと息をついて、またうっすらと微笑んだ。彼のその微笑みにどういった意味があるのかはわからない。しばしの沈黙が流れる。
「そういえば、何か今日は用があったんですか」
「あー、ちょっと、書類の申請が……いやでも、明日でも大丈夫です」
「今回の調査は長期戦になっていると、根崎さんがボヤいてましたが」
そう、今回の話は思ったよりも時間がかかっている。いや、未解決事件で終わる事も多い神的災害は、そう多発するものでもないし、解決に時間がかかる事もある。特に神々の腰は我々からすると結構重いことが多く、数年単位で起きる事件も当然あるものだ。もしかすると数十年単位になるものもこの先現れるのかもしれないが、創立してまだ十年経たないこの部署ではまだそういった事件が扱われたことはない。そして、事が進まない時などは普段は市役所の雑用などをこなしていた。今回の話も、少々進みが遅い。
「話せば長くなるんですけど、情報共有ってことで、白井さんにも伝えておきますね、実は……」
神景会にはその日も漂白されたような日光が入ってきていた。
「行方不明者?」
「そうさ」
そんな神景会のイメージとは真逆の暗い地下室で、龍禅院さんはスマホをいじりつつ答えた。もちろん龍禅院さん専用の部屋であるそこには中華風のランプであるだとか、細かい細工の机であるだとか、きちんとしたインテリアの揃えられた明かりのついた空間ではあったのだが、どこか閉塞的で、暗い雰囲気があることは拭えない。
宗教法人神景会は、バブル崩壊後も少しずつ徐々に力をつけている新興宗教団体で、龍禅院さんは組織内の権力を一手に持つ、実質の権力者である。一応姉がこの教団の教祖であるらしいのだが、残念ながら私はお目にかかったことがない。実務のほとんどを龍禅院さんが行っているそうだから。
しかし、宗教団体で行方不明というのはどういうことなのか、正直ここには、悪い噂も多くある。なんなら失踪者とかも普通に出る。こっそり処分されることもある。
「何考えてるのか顔に書いてあるよバカ、まあ確かに、いなくなった程度じゃ私だって疑いやしないさ。ただ、何も持ち出さないで消えたってのがきな臭い」
彼女は蝶のモチーフをした扇子を閉じて、葉巻に火をつけた。
「下着一枚も持たずに出ていくのは、ちょっと不自然なんだよねえ」
「……信者の下着の枚数まで把握してらっしゃるんですね」
「共有財産だからね、当然のことさ」
そういうあんたの下着の数は誰も把握してなさそうだけどね。
「そういうアンタの下着の枚数は共有されてねーんだろうがよ」
私が思ったことを、ほぼそっくりそのまま根崎さんが後ろで言った。しかしそれはあくまでも小さく。ぼそっという感じだった。彼にしては珍しいことに。そもそも、今彼は居心地が悪そうではあるもののソファに割ときちんと座り、貧乏ゆすりをしている。いつもなら、そこの机とかに足乗っけているのに。
実は、根崎さんは龍禅院さんが相当苦手だ。理由は簡単、向こうのほうが明らかに立場が上だからだ。むげにすればジン対の数少ない協力団体を失うことになり、自分の首を締めることになるが、彼の性質が、懐柔することを許さない。ならばと普段はここに来ることを避けたり、黙っていたりすることでトラブルを回避しようとしたが、そうもいかない日だって当然ある。そして龍禅院さんはその根崎さんの小物くささをひと目で見破り、面白がり、おもちゃにしていた。余計に根崎さんはここに来たがらなくなるわけだ。
現に、彼の小さな呟きを、待ってましたとばかりに龍禅院さんは拾った。
「ほう?何か言ったかい蛇蝎男」
「いいえ、なにも」
「ん?言いたければ言っていいんだよ、何も怖がることはないだろう、言ってごらん、それともなんだい、言えないようなことでも言ってたのかい?」
「大したことではないので」
「大したことじゃないんなら余計に言えばいいじゃないか、ホレホレ、どうした」
根崎さんがからかわれている間に、私は高田さんを手招きして信者名簿を読み始めた。ああなると長いから、こっちはこっちで話を進める方が効率的だった。まあ、あれで結構根崎さんもうまくごまかして回避できているし、というか龍禅院さんが面白がっているだけなので、私たちまで付き合う必要はない。
「今回行方不明になった人は……この人か」
「井脇結さん、四十五歳、女性……ずっと神景会で育った人なんだね、それに学歴も全部神道系列みたいだ」
「この施設内で結婚、そして長男と長女がいる……と、じゃあこの正爾さんと華鈴ちゃんは二世、いや下手したら三世ってことになるのかな」
二世というのは、その名の通り親と二世代で宗教に所属している人間の、子供のことを指す。三世は三世代目のことだ。
「戦後から続く組織だもんね、神景会は」
私には大きすぎるファイルを、高田さんが支えてくれる。
「他に手がかりはないんだろうか」
「まあこれ読むだけだとねえ、とりあえず息子さんと娘さんのことも見ておこうか」
高田さんがページをめくった。人差し指に吸着するようにして広がるページは、今はもうなんの不自然さも帯びていなかった。義手になったばかりの頃は、自然に動かすことに結構苦労していたのをふと思い出す。腕を動かす前にページがめくれたりとか、そちらをうまくやっても手の形を整え忘れて、指があらぬ方向を向いていたりとか。
「アッハッハッハ!じゃあ、一万円でどうだい?」
「ぅぐ、く……金銭の、関わる取引には、応じかねます」
「ふーん?」
「……申し訳ありません………チッ」
「お?今なんつった?え??私に向かって?なんて??」
後ろでは相変わらず龍禅院さんと根崎さんが騒いでいる。何を取引しようとしているんだか知らないが、根崎さんの額に青筋が浮かんでいる。可哀想に。
「なんでもありません……」
「え?聞こえたよ?ほら言ってみな、大きい声で、ほら、俺的には?」
「………っ私、としまし、ては……!」
「ハハハハ!!ゲッホ、ゲホ、ゴホ、くっ、ハッハハハハ」
「………!、……!」
「……楽しそうですね?」
「楽しい!!」
むせるほど笑っている彼女に私がそう聞くとすぐに答えが返ってきた。朗らかに言うな朗らかに。子供みたいに無邪気な顔して言うことではない。するとふっと龍禅院さんが真顔に戻る。
「おっと、遊びはここまでだね……ここから先は、今から来る奴に引き継ぐよ、あんたたちも場所とか人とか見たほうが、少しでもわかることがあるだろうからねえ」
どうやら、監視カメラか何かの装置を用いて、誰かが来る状況を察したようだ。化けの皮が剥がれたら大変だもんね。
その言葉からしばらくして、ノックの音が部屋に響いた。龍禅院さんの返事を待って、扉が開く。
「失礼します、今回龍禅院様から案内をまかせていただきました、木下虔一と申します」
うわ、と見た瞬間に思ってしまった。見た目が悪かったわけではない。蔓なしスクエアの眼鏡が光る男は、真面目で優しそうな見た目をしていた。清潔なシャツと暖かそうなコーデュロイのパンツは、一つも人に悪い印象を与える要素はない。だが私は彼が嫌いだった。
「じゃあ、よろしくお願いしますね、木下さん」
「わかりました。龍禅院様」
完璧に顔を整えていた龍禅院さんに命じられた男は、その柔らかな笑窪をこちらに向けた。
「布教とか始めないでいいんでさっさと案内してください」
「ねーざーき、他の人に当たるんじゃない。すみません」
「いえいえ」
私は彼を知っていた。だって……彼は。
いや向こうは覚えていないと思うけど。それが唯一の救いだ。龍禅院さんもきっと知らないだろう、知らないはずだ、いやでも、嫌がらせで近づけられたとか?うーん根崎さんへの対応見てるとあり得なくないんだよなあ。勘弁してほしい。
「そこの子は?」
「あーっと」
私は高田さんの腕を引いて、じっとその目を見た。できるだけ鋭く、できるだけ強く。それは一縷の望みと言っても過言ではなかった。そして彼は、察しよく私の視線を察してくれたらしい。
「……ちょっと能力の関係でこちらに手伝いに来てもらっている子なんですよ」
「能力ですか」
「ええ」
「それはそれは……てっきり、外側の人なのでそういったこととは無縁だと思っていましたよ。特に行方不明事件ですし」
「警察が出れない代わりに俺たちが出てるってことはそういうことなんだよ」
高田さんの台詞は完璧だった。しかし男は優しく微笑みながら私の目線に合わせてしゃがみ込む。勘弁して。
「こんにちは、お名前は?」
「……まじま、えりな」
「えりなちゃん、よろしくね」
眼鏡の底から覗く瞳が心からの優しさを込めていることがあまりにも気持ち悪かった。私は思わず高田さんの後ろに隠れた。
「こいつ、人見知りするんですよ」
「あぁ、ごめんね、じゃあ行きましょうか」
根崎さんが返事をしながらこちらを見ている。私は口だけでごめんなさい、と言った。あとで説明するから、ここは黙って案内されて欲しい。
この宗教施設の居住スペースには、扉がついておらず、のれんが一枚かかっているだけだった。男女の分け隔てもない。床は明るい茶色のフローリングで、壁は漆喰のように白いが、よく見ると消し損ねたクレヨンの跡があった。中では複数人の喋り声がする。プライバシーも何もない空間は、私からすると非常に居心地が悪かった。
「ここが井脇さんのお部屋です」
彼に声をかけられて、根崎さんと高田さんが部屋に入っていく。よく見ると、この部屋には扉がついているようであった。まあ子供が出入りしたら、という観点からなのだろう。
部屋は少々散らかっていた。というよりも、ちょっと部屋を抜けてトイレに出たのかと思うくらい雑然としていた。書きかけの手紙が机には置いてあり、万年筆のキャップすら閉められていない。ベッドにはステーショナリーセットがまとめられた箱と、それを少し漁ったような形跡。使う予定だった金色のリボンのシールが、行き場を失っている。
「それと、実は、机に他に、食べかけのクッキーも置かれていたのですが……腐ってしまうと良くないので、下げてしまいました」
「警察には?」
「新興宗教の居住区で人がいなくなるのは当然だろうと、取り合ってもらえませんでした。彼女の母親はもう亡くなっていて、届を出すのも難しかったですし」
ここでは全員が家族である。特に父親の存在が伏せられている、という点は他の宗教組織と比べても独特だろう。ここの教義では、所属する全ての人が親であり、兄弟なのだ。実際に、兄弟のようなものであるし。
それは、机の上の手紙の内容からも察することができた。
『愛する私の兄弟、敬仁さんへ
最近いかがお過ごしですか、私は昨日、徹さんと美知さんと一緒に修練をいたしました。晶さんも最近あなたが修練場にいらっしゃらないので、心配しています、ですので三日後の土曜日に……』
生理的嫌悪が体の奥を走っていく。私はそれをなんとか抑えた。
「何か、わかりますか」
「いや無理だな」
「ええ」
男は声色に戸惑いをにじませながらも、こちらを心配そうに少々伺ったが、すぐに平静さを取り戻した。龍禅院さんが指名した私たちを信頼すると決めたのだろう。そこに畳み掛けるように根崎さんが言う。
「俺たちは探偵でもなけりゃましてや警察ですらねーんだよ、そこのところわかる?」
「こら根崎、でも、確かに龍禅院さんが不自然だという理由はよく分かりました」
机の下には、クッキーの食べかすがまだ落ちていた。クッキーを下げたのは、本当に止むを得ずだったのだろう。ここではお菓子を手作りすることも多いと聞く。添加物の入っていない食べ物は足が早い。
「ねえ、ひととおり、しせつを見せてもらおうよ、もしかしたら、神様の気配、するかもしれないし」
「そうだねえりなちゃん」
わざとらしい舌足らずな口調を咎めるでもなく、高田さんは私の手を握ってくれた。手袋の下の義手は硬くて、握りかえす力は存在しなかったが、優しさから私を気に掛ける男の目がそれですっと他に逸れたことで、今は何よりもの安心を生み出す手となっていた。
「ちなみに木下さんのご職業は何をしていらっしゃるんです?」
「現在はIT関係の仕事に就かせていただいています」
高田さんは大礼拝堂、大広間などを見せてもらいながら、男と世間話をしている。
「ITですか、私は機械関係にはめっぽう弱いので、いつもそういう系列の人には支えていただいています」
「いやあ、ははは、とは言っても、大したことは……」
必要なことなのはわかっているけれど、私は話し始めた高田さんからゆっくり離れて、ポケットにあるタバコを手持ち無沙汰にいじくり回している根崎さんの元に向かい、彼の手を無理やり握った。
「……んだよ」
「私、あの人嫌いなの、遠くに居させて」
「あ~?何ワガママ言ってんだよ」
「父親なの、佐々木透子の……」
「……。」
彼は心底面倒くさそうな顔をした。そうだね、私も面倒なことになったなと思ってるよ、気が合うね。
「ねーお願い」
「なんかお前、子供返りしてないか?」
「だってそう見せとかなきゃじゃん」
私がそう言うと彼は目を閉じて一呼吸置いて、私の手を握り返した。根崎さんにしては珍しく禁煙を保っているくらいだ、今日の彼は少々言うことを聞いてくれやすいのは把握済みである。
そうこうしている間に、高田さんはうまく相手の懐に入り込んだようだ、相手の緊張が少しほぐれているように見えた。
「高田さんは偏見なく話を聞いてくださるので話がしやすいですよ」
「そうでしょうか、僕も義手のこととかで色々お話を伺えているので、お互い様ですね」
もうそこまで話したのか。それでも礼儀正しさはお互いに失われない。二人はよく似ているように思われた。というか……高田さんの方が思った以上に心を開いている、ような。
「……そうだ、少し休憩しませんか、色々回って疲れたでしょう」
実際そんなに長いこと歩いていたわけではないのだが、男の目が私の方に向けられるあたり、彼はよほど子供慣れしているようだ。
「食堂に行きましょうか、おやつ時ですし……」
彼が案内してくれた食堂もやはり白かった。オレンジ色の日光が照らす部屋の中では、子供たちがきれいに並んでケーキらしきものを食べている。
「あら木下さん、今日はお休みでしたっけ」
「そうなんですよ、ちょうど修行前なので……あ、この方達は龍禅院様の紹介でいらした市の職員さんで……」
ふと、腰のあたりが引っ張られるような感覚があった。
「どうしてお姉ちゃん、スーツ着てるの?」
いたのは小さな女の子だった。私も十分小さな女の子だけれど、この子はまだ小学校に上がったかそうでないかくらいに見える。
「お仕事で来たからだよ」
「えー、子供なのに変なの」
「私にしかできないことがあるんだって」
「ふーん」
頭の上で丸い飾りのついた二つ結びが揺れている。子供は白い服を着ていないみたいだった。まあそれもそうか、かなり汚れるだろうし、子供服はお金がかかる。
「お名前は?なんて言うの?」
「先にお姉ちゃんの名前を教えて」
「あ、うん……えりなだよ」
「えりなちゃん!私華鈴。井脇華鈴」
井脇、の苗字に引っかかる。下の名前。ああ、じゃあこの子が、井脇さんの娘さんなんだな。
「ねーあそぼー」
「華鈴ちゃん、これからおやつの時間だから、遊ぶのは後にしましょう」
上から声がするので見上げれば、先ほど木下さんと話していたらしい保育士さんがこちらを見ていた。白い服にブラウンのエプロン姿、髪を一つにまとめた素朴なその人は、ゆっくり華鈴ちゃんに合わせて腰を落とす。
「なんでー、えりなちゃん行っちゃうじゃん、遊ぶの~!」
華鈴ちゃんが駄々をこねるのを、彼女は困ったような顔で何か返事を考えているようであった。すると奥から別の子が声をかける。
「きょうケーキだよ、華鈴ちゃん食べたいっていってたじゃん」
「う~」
「いっしょにおやつ食べたら?」
「そうだ、食べよ!ね!!」
そう言った3人が一度に保育士さんの方を向いた。そして大合唱のお願いコールが始まる。あー長いよねこれ。しかも断りづらいんだよなあ、なんというか、あの目に人間は弱い。たぶん古今東西あの目でお願いされてゆらがない人がいるとしたら、それはよっぽど子供にトラウマがあるとかそう人なんだろうなと思う。保育士さんが助け舟を求めてか、許可を取るためにか、高田さんと根崎さんの方を振り向いた。予定は、とかそんな言葉が聞こえた気がするが、お願いコールの渦中にいては周りの声なんて聞こえやしない。そして二人はこちらにアイコンタクトを取る、私はそれに、しぶしぶ無言でうなずいた。
普通の保育施設だったら、突然人が増えたからお菓子を増やすことなんてできないと思うが、そこは複合施設の利点なのだろう。
「うちでやっている食堂は、外部のお客さんも入れるようにしてあるんですけども、そちらで作ったケーキなんです」
真っ白なホイップが乗ったショートケーキ、久々に食べるなこういうの。もう胃がもたれるようになっちゃったからなあ……あ、でも待てよ、子供だからいけるんじゃないかこれ。ケーキとかいつも高田さん経由で根崎さんにあげちゃってたから、あまり試したことがない。奥の方で、あの人と高田さん、根崎さんが何か話しているが、こちらはこちらの声が騒がしくて何も聞こえなかった。あ、高田さんが根崎さんにケーキ譲ってる。辛党だもんね高田さん。側から見れば、根崎さんが高田さんのケーキを横取りしたようにしか見えないのが、悲しいところだ。
「ねえお姉ちゃん何歳」
「えっとね、十一歳だよ」
「ふーん」
ふーんだけかい。彼女は手も顔もクリームでベタベタだ。でも確かに、ベタベタになるのもわかるくらい、無性に美味しく感じた。ふわふわした甘さは頭を直接突き抜けて、何かの力を抜いていく。
「俺知ってるよ、しょうがっこうで、くく、とかやってるんでしょ」
「くくってなあに」
「なんか、数字の、うわーってやつ。すごいたくさんあって、なんか、なんかすげーむずかしいの」
「俺のねーちゃんが言ってたのきいたことあるよ、にーちとかさんごとかいってた」
「さんごならクマノミもいるかなあ」
「そういえばね、私今日かえったらね」
情報量が少なくてぽんぽんと飛び跳ねる会話は、空気抵抗を受けて浮かぶビーチボールみたいで取り留めなく心許ない。ただ、それで当たり前のように続いていく会話は、不思議とどこか落ち着いた。大人の会話は、もしかしたら小学生の私には重すぎることもあるのかもしれない。ねえみてみてと、フォークを鼻に刺して遊び始めた男の子を尻目に、華鈴ちゃんになんとかお母さんのことについて聞けないかと画策する自分が、なんだかひどく馬鹿らしくて、甘いクリームとスポンジと一緒に、胃に流れてしまえばいいのにとも思った。
そのままご馳走になったのち、やっぱり遊ぼうと駄々をこねられ、私は高田さんや根崎さんと別れて華鈴ちゃんたちと遊ぶことになった。どうやら例のあの人には私がよほど遊びたい盛りに見えたらしい、彼が高田さんを説得するような形で私はそこに残ることになった。これ私が着いてきた意味がなくなっちゃう気がしたんだけど……。いや、意味がなくなるはちょっと言い過ぎか、重要参考人である井脇華鈴ちゃんから話を聞くのは、子供である私の方が有利だ。そういう意味では、良い配分になったんじゃないだろうか。
「華鈴ちゃん、何作ってるの?」
「むし」
そう言いながら砂場の上にひたすら線を引き続ける彼女は、打ち解けたのか、そうでないのか。ただ、ずいぶん、自由な感じなので、案外初めから心の壁がないタイプの子なのかもしれない。
「虫さんいっぱいだねえ」
「これがかりんで、こっちがお兄ちゃんで、これが木村さん、福田さん、本村さん、お母さん」
虫さんなのに家族なのか。不思議な感性だな。と思ったところで、ちょうどお母さんの話題が出たので、それとなく聞いてみる。
「お母さんそこでいいの?」
「みんな家族だから……あ、お母さんは今いないんだ」
そう言って彼女は何の躊躇もなく足で棒の跡を消した。そしてさらにのたくったミミズを足していく。
「このいっぱい重なってるのは?」
「しゅぎょう」
……もうそんなこと知ってるのか。私は思わず、話題を変えた。
「……お兄ちゃんは隣なんだね」
「だってかりんのつきそいがいるもん」
本来こういうのは保護者が付き添うものだが、神景会では基本的に子供の付き添いは年長者が行うという風潮がある。もちろん、大人が面倒を見ることも多いけど、子供のことは子供同士で、という意識が強いらしい。その時私はとっさにあの人を思い出してしまって、うえ、と思った。
「お兄ちゃんとは仲良しなの?」
「うん、いつも一緒。この後もお兄ちゃんと一緒にお祈りに行くの」
彼女はさらに無邪気に言う。
「私もおおきくなったら、お兄ちゃんとしゅぎょうして、天の花の一つから、もう一度生まれ直すの」
「関心ねえ、神様も喜んでくださるわ」
そう声をかけられて振り向くと、そこには少々ふくよかな、言ってしまえば普通のおばさんが立っていた。白いセーターに、緑と水色の中間色みたいな色のカーディガンを着ていて、どうやら華鈴ちゃんの知り合いらしかった。いや、みんな家族なんだったっけ。だったら、知り合いで当然なのかもしれない。
「でも、お兄ちゃんとばかりじゃだめよ。近い人とばかりじゃなくて、遠い人とも関わらないとね」
「はーい」
……その人の、普通のおばさんと違う箇所を挙げるとすれば、髪だろうか、油で撫でつけたみたいな真っ直ぐで長い、年齢にしては艶やかな黒髪が、乱れることなく揃えて切られ、腰の辺りまで伸びていた。また、顔の造形自体は特筆するべきところはないはずなのに、警戒心を解くためだろうか、こちらを見て一瞬見せた笑顔が思考の端に残り続けている。記憶に残る、正直に言ってしまえば、恐ろしいほど綺麗な笑顔だった。次の瞬間には、華鈴ちゃんの方に意識を向けてしまったため、気のせいだったのかもしれないが。
「天蓮景様!」
華鈴ちゃんがそのおばさんに抱きつくのを見て、さらに驚いた。そして教祖様の顔を事前に調べていなかった己の勉強不足を後悔する。彼女は愛おしげに華鈴ちゃんの背中を叩き、その抱擁を受け入れると、またこちらを見てにこりと笑った。その笑みは、先ほど勘違いだと思ったほどの美しさはなりを潜め、ただ優しさと受容だけでできたような親しみのこもったものに変わっていた。変わった?
「こんにちは、かお……龍禅院から話は聞いていますよ、いつもお世話になっています」
「こんにちは、お邪魔しています」
まるで友達の家のお母さんに会った時のような緊張感だ。本能的な不安と、なぜか「信じなくては」という意識がインクのシミのようにじわりと体の奥に広がる。それを客観的に警戒できる理性が、私の中にあったのは救いだ。
「天蓮景様どうしたの~?」
「お客様がいらしたって聞いたから、会いにきたんですよ」
「ねえ、ねえ!えりなちゃんも神景会にはいるの?はいるの??」
……子供は残酷である。真っ直ぐな欲求だけで全部が貫き通せると、信じているのだから。
「……いずれは入るかもしれないけど、今はまだなんじゃないですかね、さあ、さっき鈴木さんが呼んでいましたよ、いってらっしゃい」
鈴木さんと言うのは、さっきの保育士さんのことだろう。遠くの方で、こちらを伺っているのが見えた。何かの授業をしているのか、集まって別の遊びをしているのか、それとも別の理由か。しかしおそらく、この天蓮景様が私と話をするために、話を通したのだろうと思う。視線の中にある緊張感が、場の空気を少しだけ冷やしていた。華鈴ちゃんは素直に鈴木さんとやらの方に駆けていく。
「……嘘をつくなんて、いけない人ですね」
彼女は私の名前を知っているようだった。細身のスカートのなかで、彼女の足が動くのが、どこか別の生き物を想起させる。
「……十年も生きていると、名前が知られて面倒なことも多いんですよ」
「ふふふ、面白い」
彼女は砂場の淵に座った。スカートも、カーディガンも、汚れることをなんとも思っていないみたいだ。
「でも香織ちゃんは、ずっとあなたたちとお話ししてたのに、私だけはじめましてだなんて、寂しいですね」
不思議なひとだ、私のことを、子供扱いも大人扱いもしていないように思える。龍禅院さんも時々年齢を感じさせないような話し方をするが、この人の場合はその部分がもっと顕著だ。
「私はあまり俗世の汚れた人間と話さないほうがいいんだって、いつも言うんですよあの子」
「はあ」
「なので、挨拶が遅れてしまって申し訳ありませんでした。谷原花江と申します。天蓮景、と呼ぶ方の方が多いですけど」
私は握手をして佐々木の方の名前を告げた。
「結ちゃんを探してくださっていると聞いています。私がお力になれるのでしたら、いつでもおっしゃってくださいね」
「……でしたら、少し、お話したい人がいるんですけれども」
ならばと、私はその提案に乗ることにした。こういうときには多少遠慮なく言ってしまった方がいい。それに教祖様直々に頼んでくれた方が、いちいち探したり、あの人経由で人を探すより、ずっと早く済むような気がした。
そして私の予想は当たった。やはり、権力が集中しているというのは、根本的に楽だ。
「お呼びですか、天蓮景様」
井脇正爾くんは、華鈴ちゃんを抱きかかえながらそう言った。十五歳には見えないしっかりとした佇まいだ。しかし、それと同時に、短く切りそろえられた髪に、詰襟の制服姿がよく似合う、今時珍しいくらいの中学生然とした中学生だった。
「この方、かお、龍禅院さんのお知り合いなんですけども、結さんを探す協力をしてくださっているの」
彼は眉をぴくりと揺らした。こんな子供に、何を話すことがあるのか、という顔だった。しかしすぐにその表情は消えた。天蓮景様の言うことだから、という感じだ。説得してみて、もしダメなら高田さんか根崎さんを再度呼び出そうと思っていたので、少なくとも話を聞いてもらえるのは大変ありがたい。しかし、まさかこの私が宗教団体の信仰心に感謝する日が来るようになるとは。
「こんにちは、私、神南市役所に所属している、さ……まじま、えりなという者です。お母様のことについて、少々お伺いしたいのですが、大丈夫でしょうか」
「……どうぞ」
彼は私がきちんと挨拶をしたのに驚いたような素振りを見せ、同時に用意された椅子に腰掛けた。さすがに砂場で話し続けるわけにもいかないので、小さな部屋を一つ借りてお話をさせてもらうことになったのだ。華鈴ちゃんは兄の裾にひっついたまま大人しい。仲睦まじい兄妹だった。
その後、話を進めれば進めるほど、正爾君が母親のことに関してさほど動揺していない様子に目がいった。いなくなるにしては、週末に約束をしていたことや、夕飯の支度の当番を他の人の代わりに受けたと言う話からして、おかしいと思うと言っていたものの。いなくなることのカモフラージュや突発的に出て行きたくなることはあったかもしれません、とか、まあ、彼女なりに思うところはあったのかもしれませんね、と平気で言い放ったのには耳を疑った。あえて冷静になろうとしているのだろうか、それとも本当に何とも思っていないのか、私はあまり品のいい質問ではないとわかっていながらも、そっと彼に尋ねた。
「お母さんがいなくなったのを、寂しいでしょう?」
途端に彼は眉をしかめた。
「長年仲の良かった人がいなくなったことを寂しいと思うことはありますけど、そもそもあまり気が合わなかったし、すごく辛いというほうではないです。むしろ仲の良い鈴木さんがいなくなることや、天蓮景様がいなくなってしまうことのほうが、僕はいやです、比べるようなことじゃないですけど」
私はゆっくりと深呼吸して落ち着いた、そうだ、ここはそもそも常識が違う。だから苦手なのだ、と。この小さな箱庭は、開放されているようでとても閉鎖的で、神の法という前提を元に、価値観を作り替えられた人間達が住んでいるのだ。まだ、自分から入った人たちであれば、世間の常識とこの箱庭の常識との乖離に気づきもするのであろうが、彼は違う。
「他に、お母さんと仲の良かった人はいる?」
「いや、知りませんね」
私は息を吐いた。まさかここまで感覚が違うとは……天蓮景様に彼らを呼んでもらったのは、徒労に終わりそうだ。
「……さっきから、あなたがそういう顔をする理由が、よくわからないのですが、血のつながりが家族なら、それは人種差別と同じなのでは?」
中学生の言葉は尖っている。彼らは疑問に思ったことや、感じたことを、社会も知らないままに平気で口にするからだ。それは人によっては無知蒙昧と言えるだろうし、私からすればヒヤリとした氷の切っ先が首筋に当てられたような気持ちになった。恥じ入ることも馬鹿馬鹿しいと話半分に聞くことができないのも、全て私が混じりものだからだと思いたい。
「同じ肌の色、同じ髪の色、同じ親、同じ血筋、全て肉体だけの話じゃないですか。なぜそれが違う存在は家族ではないんですか?最終的に交わって、溶けてなくなるものですよね、我々の中には既に数えきれない異文化の遺伝子が眠っているのに、見てくれに囚われているのは、精神を侮辱していることになるのでは?僕らがたくさん交わり、たくさん子供を為すことが、社会に何のデメリットをもたらすんですか、僕らが自由に生きることのなにが問題なんですか、そちらの常識を押し付けないでもらえませんか?」
「おにいちゃん!」
隣に座っていた華鈴ちゃんが大声を出した。途端に15歳が、はっと我に帰る。
「おにいちゃん、だめだよ、強い言葉を使うのは、よくないよ、しかも小さい子だよ」
「……そうだね、ごめん……ごめんなさい、ただ、君が、あなたがとても大人っぽかったから……」
彼はきゅっと口を結んで、黙り込んでしまった。繊細な十代だ、特に常識を知ったばかりの頃。私も、もう少し気をつけて接するべきだった。でもどうだろう、私は今でも、きちんと顔に思っていることを出さないでいられるのだろうか。さっきまで、全く顔に出ているつもりはなかった、のに。私は本当に、大人でいられている?
「いえ、私も、不躾な態度でした、ごめんなさい」
私が謝ると、彼も恐縮したような素振りを見せた。天蓮景様は柔和に微笑んだままだった。
面談は、その後滞りなく終わったものの、特にこれと言った成果は挙げられなかった。その後、高田さんや根崎さんと合流して、私たちは帰った。現在でも少しずつ調査を進めてはいるが、なにぶん決定打が無いため、保留状態のまま今に至っている。
白井side
「というところですかね」
「なるほど……」
「……あまり驚かれませんね」
「一夫一妻制だけが、家族の形態ではないですからね」
「さいですか……」
彼女は深くため息をついた。彼女の中の常識では、あまり受け入れられなかったのだろうか。そういえば、父親がそこの出身と言っていたから、何か悪い思い出でもあるのかもしれない。
「いやうん、自由よ、自由、基本人がどう生きるかなんて……それに、私とはもう一切関係ないことなので、忘れます。そういうわけで、白井さんも気をつけてください。また「神的災害」が発生する恐れもありますし。特に神景会本部の方には近づかない方がいいかと」
「わかりました、わざわざありがとうございます」
「……ところで、渡辺さんの容体は?」
彼女の言葉に、額の筋肉が収縮するのを感じた。
「……慣れていると言っていましたが、正直、心配はつきません」
彼女は妊娠している。これで五度目の妊娠だそうだが、今まで一人も子供ができたことはないという。そして、彼女が今まで生きてこれたのは、一重にこの「妊娠」のおかげだったという。
神愛、神忌という存在に関しては、俺がここで働くことになったとき、透子ちゃんの口から注意事項や、気にしなくてはならない点、かれらの特性について、教えてもらった。特に神愛については、最初の「神に愛される」という端的な説明だけでは、神忌と比べると随分楽そうだという印象を抱いていたが、むしろ、それは壮絶の一言に尽きた。
神々は、我々を素材としか思っていない。我々が珍重する食べ物を手に入れたり、ペットを飼ったとしても、人間と全く同じようには扱わないように、神愛は神々にとって都合の良い形でしか愛されない。
渡辺さんは、はどんな状況にあっても、ほぼ傷一つなく生き延びる。なぜなら、彼女は優秀な母体だから。今まで産んできたのは、すべて神の子だ。渡辺さんは神愛だ。それも、ここが設立された当初からいる。彼女の周りに危機は訪れない。彼女がいる場所を可能な限り避けて、彼らは我々に手を出してくる。だが、万能ではない。所詮は、気を使ってもらえる程度にすぎない。だが、彼女が拠点にとどまっているだけで、彼らは背中の危険を感じなくて済むのだ。その代償が、これだった。
「なにせお腹はいくら大きくなっても、その中身は空洞にしか見えないので、状態がわからないんですよね……渡辺さん自身も、気丈に振る舞ってはいますが……」
逆子なのか、きちんと大きくなっているのか、そもそも一人なのかすらわからない出産は恐怖だろう。さらに一度、腹の中で目覚めた子供が、彼女の腹をむりやり引き裂いて出ようとした事もあったとまで聞く。今後も似たようなことが起きないとは限らない。
「ただ、最善を尽くします」
「本当にそう言っていただけると心強いです。渡辺さんも、かかりつけのお医者さんができただけで、負担が減ると、言っていましたから」
腹の中で育て、体調を崩し、生みの苦しみを味わっても、渡辺さんから出てくるものは毎回形容し難い異形であり、生まれた瞬間に空気に溶けるようにして消えていく。そう語る透子ちゃんの目は、虚空を見つめていた。
……三井が、死んだことは、よくないことだった。それは今でもそう思える。だが、彼が最期に言ったように、ジン対に当たるのは、違うことなんだ。それを、気づいていなかったらと思うと、ぞっとせざるを得ない。俺は、身勝手だから。身勝手な俺を、最期まで踏みとどまらせてくれている。
「……では、今日のところはこのくらいにしておきましょう。薬局、行くの忘れないでくださいね」
「はーい」
最後くらい、子供らしくしようと思ったのか、そう素直に返事をする彼女は、間が抜けているというよりは、どこか虚しさのようなものを含んでいた。
「隼人」
彼女が俺を呼んだ。
「大丈夫、ちゃんと休んでる?」
「休んでるよ」
清花も医者だ。彼女は、親のコネとは離れたところで研修医時代を過ごし、ここに来たのだという。そして、藤田院長との関係性を指摘されないためにわざわざ母親の旧姓を使っている。……そんなことをしても、昔から彼女が院長の娘だというのは公然の秘密だったらしいが。「な、な、知ってて付き合ったんじゃねーのかよっ!」というかつての三井の声が、浮いて、消えて。
「新しい仕事始めたって聞いたから」
「市役所のやつな」
彼女は押し黙った。
「……前、あれだけ市役所のことでどうこう言ってたのに、なにがあったのよ」
「……仲直りしたんだよ」
面食らったような顔をされた。なんだよ、言葉の通りだよ。
「仲直り?」
「ああ」
「え、何それ……珍しいわねあなたがそういう言葉使うの……で、あー、何で争ってたんだっけ」
「まあいいんだろ、それは……で、どうしたんだ」
……俺は彼女に神のことも、三井のことも話したくなかった。いや、例え他の人に話したとしても、彼女にだけは隠し通せたらと思っている。三井がいなくなった今、彼女までいなくなってしまうようなことがあれば……。
「ああ……その、言うべきか迷ったんだけど、あなたも関わりがあったからさ」
「なんだ」
「美杏ちゃんが、今朝運ばれてきたのよ、事故で」
美杏?
「だれだっけ」
「えーっと、ほら……三井くんの患者だった子。あなたも何度か、挨拶したことあったじゃない……ほら、お葬式の時にもいたでしょ」
三井、の言葉にさっきの言葉がまた頭の中を反射して駆け巡る、知ってて付き合ったんじゃねーのかよ、知ってて、知ってて……彼はその後笑っていた。だめだ、あまり思い出すべきじゃない。俺はもうずいぶん長いこと、、自分が冷静ではないことを察していた。もう克服したつもりでいても、人間の感情の波は引いては押し寄せて、知識でわかっていても、どうしようもないことがある。
「覚えてないな」
「……そう。いや、私も途中までわからなくて、処置に参加しようとして、顔を見たら思い出してね……彼女、三井くんのこと、随分慕ってたから」
俺はそこで、ようやっとはじめて、俺たち以外に三井のことを惜しんでいた人がいたことを知ったような気持ちになった。当たり前のことなのに、なぜかようやく安心できたような、自分の中に刺々しく湧いていた猜疑心が少しだけ軽くなった。記憶を辿る。どの子だろう。長髪の女の子?それとも背の低い子?ああ、三井にきければ一発でわかるのに。一度、会いたいなと思った。でも、その子も死んでしまったのか。なんだ、三井の周りでは人が死ぬみたいなジンクスでも産むつもりなんだろうか神は。いや偶然だ。変な確率が当たった時にすら理由を付けたがるのは人間の悪癖の一つだ。
「あ、そうだ二十三日の夜って空いてないかしら、例のチケット、とれたんだけど」
「ごめん、今はあまり、行く気になれないんだ」
いや、ここは無理にでも行くべきなんだろうか。三井の一件以来、環境を変化させすぎている気がする。だが、ジン対との連携は三井の遺言だ。それに、俺は神だの仏だのとは無縁に生きてき過ぎたせいで、そちらのことについて知らなすぎる。
「……ねえ、何か、できることあったら、言ってね」
「……ああ」
救急搬送された彼女の顔を、見ればわかるだろうか。彼女がどんな人だったか、三井がどう接していたか。俺は何とかあれから、情報を頭の中で反芻して、いくつか思い出した。三井の一番古株の患者で、検査の関係でいまだに付き合いがあるのだと話していた気がする。病院の廊下で母親と一緒に軽く立ち話をしているのも見たことがあるはずだ。でも顔がわからない。電子カルテを開いてみると、河田美杏、二十五歳と書いてあった。先天性心疾患のある子だった。
事故、車の前に、突如彼女が飛び出してきたらしい。どうしてそんなことをしたのだろう、三井のあとを追うつもりだった?馬鹿な、それはいくらなんでも親しすぎる。いや、しかし、俺だって三井の全部を知ってるわけじゃないんだ。というより、俺は三井のなにを知っていると言えたのだろう?
ICカードを通して、地下二階の冷たい部屋に向かう。遠いとはいえ知人だから、手だけは合わせておきたいという旨を伝えると、快く霊安室に向かう許可は出してもらえた。「お前って見た目より情にあついよな」と言われたのは、なんとなく癪に障ったけど。……三井に言われてたら、どうとも思わなかったんだろうな。あいつは俺のこの予感を笑うのか、それとも「まあそういうこともあるよな」と付き合ってくれたりするんだろうか。わからない。確かめる術もない。
馬鹿みたいだな、俺。考えれば考えるほどドツボにハマることがわかっていながら、このザマだ。あいつは死んだんだ、確かに、あいつの死に顔はなかった。焼け焦げた両足だけだ、遺っていたのは。でも、確かにあいつは死んでいるんだ。じゃなきゃあんな遺書は残さないだろう。そう、それに透子ちゃんも見たと言っていたじゃないか。たとえ伝聞でしか知らないのだとしても……。そこで立ち止まる。自分が思ったよりもあいつの死を信じられないでいることを。既に半年が経過しているのにかかわらず、まだまだあいつが戻ってくるんじゃないかと、本当は生きているんじゃないかと、思おうとしている自分がいることがおかしい。そういう風になる患者の遺族はたくさん見てきたが、自分に降りかかると、思ったよりも対応できない。
息を吸って吐いた、こういうとき、人がこういう感情に陥ったとき、まずすべきなのは、自分の感情を冷静に受け止めることだ。散らかった部屋に何があるのか認識できないと、どこに何を片付ければ良いのかわからないように、まず俺がすべきなのは、俺の心に何があるのか考えること。さっき、悲しいと思った、他に、信じられないという気持ち、そう、信じられない。まさにこの角を曲がって、扉を開いたら、霊安室で患者を看取る三井がいるような……。
「あ、白井、お前も来たのか」
……そう俺に声をかけたのは三井だった。
彼は、霊安室で、女性の遺体を見ていた。
三井が、目の前にいる。
死んだはずの三井が。
息ができない、さっきの瞬間に、俺が死んでしまったみたいだった。だってそうじゃなきゃ、そうじゃなきゃこいつがいるわけがない。
ぎし、と頭から軋むような音がした。
「………?!」
「おいどうしたんだよ、そんな鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔をして」
彼は彼のままはにかみ笑った。古い患者の遺体を前にして、彼女が死んでしまったことが悲しいという空気を背負いながら、あの時のあのころそっくりそのまま笑って見せた。
「彼女は……前も話したように、俺の一番古い患者だったんだ」
割と冷静にそう言う様はまさにあいつそのものだった。少し不格好に見える自分で巻いた包帯も、白衣のポケットが文庫で膨らんでいるのも、これは……幽霊か?病院では時々怪奇現象が目撃されることがあるらしい。俺はそんなの徹夜しすぎた人間の幻覚だろうと思っていたが、これは……。とそこまで考えてはたと気づく。いや、気づいてしまったという方が正しいのかもしれない。気づかなければよかった、よくある不思議な出来事の一つだと、名前を付けずに受け入れていればよかったのだ。だが俺はもう既に、これの名前を知ってしまっている。
かみさま、頭の中で浮かんだその言葉は、憎悪と共に、祈りみたいな響きを含んでいた。
「……み、つい、本当に三井、なのか……?」
……とっさにとったのは、知らないフリだった。それが本当に正しいのかもわからない、ただ、知らない方が良いと俺の中の何かがささやいた。だから言葉を失ったのがまるで失った親友をまた見かけたからだと、全力でそう演じた。嘘をつくときに出る体の咄嗟の防御反応を知識と理性で必死に抑えて、恐怖を三井にまた会えたという安堵と喜びに変えた。
「お、お前、生きて……!」
「お、おい、どうしたんだ急に」
幸いにも、相手は完璧だった。掴んだ腕の感触から、体から立ち上る匂いまで、完全に三井そのものだった。だんだんと演技は体に馴染んでいく。ああ、本当に三井が帰ってきたみたいだった。むしろその方が現実的だった。俺にとっては神がいることよりも、あいつが死んだことの方が非現実的だ。
「三井、よかった……よかった」
「……何だかよくわからんが、俺は大丈夫だよ、どうしたんだよ」
例えるなら、悪夢から醒めたような安心感だった。べったりと不快で、どうしてもこちらを現実と思いたくなるような安心感。
「トラックに撥ねられた、というよりは轢かれたって感じだって聞いてる」
「そうだな、脊椎も粉々だし、内臓の損傷も激しい。むしろしばらく息があったのが奇跡に近い」
だってこいつは俺が思う十倍も二十倍も確信を持って三井だ。偽物どころか、夢だとも言えないくらいあいつだ。
「飛び出したそうだ」
「……そう、なんだ」
彼は静かに手を合わせた。俺もそれに合わせる。即興の演劇をしているみたいだ。演じるのは大根役者の俺と、神懸かった役者。この空間に違和感を覚えれば、多分ただではすまないんだろうなと思った。でもそれ以上に心地よかった。こんな異常事態に心から安心している俺が、異常だった。あれは悪い夢だった、本当はなにも起きていなかったんだ!そういう安堵が全身を薬で無理やり眠らせていた時のようにドロドロに理性を溶かしていく。
「……重い心臓病でさ、彼女、走るってことは、よっぽど何かあったのかな」
彼は死体を覆っていた袋のファスナーを丁寧に閉めて、棺の蓋を持ち上げた。俺も端を持って手伝う。彼は俺が手伝うそぶりを見せると、彼は困ったような顔をして笑った。
「ありがとな」
「別に、当然だろ」
夢は続く、霊安室を出ても。俺が見ていたのは、どちらが夢だ?
「……実はさ、さっきお前が死ぬ夢をみたんだよ」
「は?!突然なんだそれ、縁起でもない」
「葬式まで出てさ、清花に心配されて、ライブにも行く気なくしてたんだよ」
「おいおいお前からオタク趣味抜いたら人間性ゼロになっちゃうじゃん、こっわ」
「なんだよそれ」
「俺が本に火つけ始めたらどう思う?」
「核の炎の暗喩か?」
「スケールがでけーーよ!まあでも、そういう感じだろ?」
「違いない」
「いやぁ、でもなんか、そんなに心配してもらったと思うと照れるなあ」
「……そうでもないぞ、どうせ夢だろうって思ってたからな」
「……あー……」
「なんだよ」
「気付いてないの?」
「は?」
「お前、泣いてるじゃん」
……漫画や、小説の中だけだと思っていた、自分が泣いていることに気づかないだなんて。そんなの劇的に悲劇を演出するためにある表現の一つでしかないと思っていた。
「え、うわ……うそだろ」
「いやこっちだってびっくりだよ……なんだよ、そんなに俺がいないのは辛かったか?」
「……ああ」
三井が隣を歩いている。ビニールの床に、いつもの足音が響く。本当にいつも通りだ。
三井、俺は、お前が死ぬ夢を見たんだよ、全身火だるまになって、足だけ残して死ぬ夢を見たんだ。足ってなんだ、何かの比喩か?フロイトの性のアレか?時代背景違いすぎるから違うよな、ははは。笑ってくれよ、何度も笑ってくれ、全部嘘だって、思い出させてくれ。三井、そんなことは起きてないって俺に言ってくれ、神も仏も百鬼夜行も全部いなくて、俺が生きている世界はかつてのまま変わらないでいると、そう言って聞かせてくれないか。子供に戻ってしまったみたいなんだ、まだ昨日見ていた悪夢が本当に起きるんじゃないかって、肥大した想像力が囁いてきて不安なんだ。あとでどんなに馬鹿にしてもいいから、みんなに言いふらして、からかったっていいから、だから、これが、もう一度、夢だって教えてくれないか。
浮かぶ言葉はなにも口から漏れることはない。それはただ頭の奥を旋回しては消えていった。あまりに感傷的すぎて、あまりに滑稽すぎて、あまりに……非現実的だったから。
「……白井」
「…、……なんだよ」
「白井……」
「だからなんだって」
「これは夢だよ」
それは……それはなんだったんだろう。今思うと、俺は神に憐まれるほど、酷い顔をしていたのかもしれない。ただその時はそんなこと思っていられなくて、ただ、去っていったはずの寒い恐怖心が一瞬で指の先まで舞い戻ってきたのを感じていた。
「ごめん……いや、まさかこうなるくらいまで思われてた人だったとは思わなかったというか、いや、当然かもしれないけどね、良いことだと思うよ、人間だしね?」
「な……に、言ってんだよ、三井」
「あーもう、見てらんない。ほら、もう返してあげるから、ね?今日見たことは忘れて、誰かに言っちゃダメだよ?全部夢だから、そう、全部夢……今まで見たのは、ただの幻……」
佐々木side
「と、いうことがあったんです」
「いや言っちゃってますよ?!」
思わずそう叫んでしまった。ここはいつもの産業医用の面談室だ。彼が突然、大事な話があると言って、夜に私たちを尋ねてきたので、連れてきたら、これである。二度目じゃんこれ。
「現状の報告は大事でしょう?」
「ええ、いや、ええ……」
自分の精神状態まで丸っと含めた重ぉい報告を、すっごい冷静に説明されて、私は温度差で気が狂うかと思った。三井さんへの感情のベクトル重すぎない?とか、それを真顔で言うの何?とか言えるわけも聞けるわけもなく、私は大きくため息をついた。
「どう考えても、現状の報告の方が大事じゃないですか、今後のことを考えたら。神がいるとなれば、前の君たちの話ぶりからするに、犠牲は大きいはずだし。一人より二人、二人より三人助かるほうがずっといい」
「……なんかさ、白井さんって、なんというか……」
「なんですか」
「なんでもないです」
本人は冷静で合理的なつもりでいるけれど、多分絶対、確信を持って、本来はそういう人じゃないって言える。じゃなきゃ三井さんの一件の時には、もっと冷静でいてくれたはずだ。というか、顔も無表情じみていて、本人も頭が良いから、どうしても冷静沈着な医師、みたいなイメージを持ちがちだけれど、それって後付け感がすごい。彼なりの役割意識でそう生きるようになったんだろうか。
「あなたが死んだら悲しむ人もたくさんいるのに、生き急ぐような真似はしないで欲しいなって思っただけです。その、神に黙っていろって言われたわけじゃないですか、なら黙っていた方が、あなたにとってはいいでしょう」
「そりゃ俺だって死にたいわけじゃないですけどね」
もし、三井さんと世間の人々を天秤にかけさせたらどうなったんだろうな、という一種のバグ技めいたことを思ったが、もう過ぎてしまった話を蒸し返すのもよくないと思うので、黙っておくことにした。それともなんだ、死にたがっているんだろうかこの人は。
「……わけで、って、聞いてます?」
「……ともかく、身柄を保護していいですか?」
「だからそういう話をしています」
「んえ?あ、すみません」
私が話を聞いていなかったとわかっても、彼はまた同じように説明してくれた。
「だから、俺が今危険な状態なのは確かなので、こちらに泊まっても大丈夫ですか?と話してるんです」
「は、話が早くないですか?」
「三井の時にあなた達が要観察者をこちらに泊めているのは知っていましたから、それをさせてもらえないかなと思っただけですよ、もちろん、無理にとは言いませんが」
そう、こういうところだ。察しというか、構造把握、みたいなものにこの人は強い。少しの情報で、色々なことが予測できてしまえる所がある。頭はいいのだ、確かに。そして冷静な面もあるし、基本的には短気なわけではない。ただ、アンバランスなだけ。
「いや、こちらとしてもそのつもりだったので、それで大丈夫です」
「よかったです、すみません、お世話になります」
じゃあもしかして、いつもと違って少し大きめのボストンバッグを背負ってきたのは、着替えとかその他もろもろを入れてきたからなんだろうか……と思ったら、案の定そうだった。用意、早すぎませんかあなた。
「いやでも、断られたらどうするつもりだったんですか」
「そうしたら、近場のホテルにでも行こうと思っていました。家に帰るよりは、転々とした方がマークされにくいかなと」
前、三井さんが一時期泊まっていたところと同じエリア、市役所の半地下にある「関係者以外立ち入り禁止」の一角に案内した。そこは私たちが管轄しているエリアなのだ。もちろん三井さんの時みたいに、保護しなければならない人たちを泊めたり、ちょっとした治療を行ったりするために使う事もあるが、基本的には私たちの居住スペースだ。
社宅は市の外れにあって使いづらいことや、我々にとっての防犯の観点から、私たちは基本ここで暮らす必要があった。つまり、立地とか諸々の面やら何やらを組み合わせた、呪術的な結界が施されている。ここでは神の影響が少ない。神愛や神忌であってもある程度のプライベートは保たれ、私が迷子になることも少ない。現に、私たちが普通に暮らしていても、市役所に一件も「終業後も電気がついているなんておかしい!」みたいなモンスタークレームは来ていない。それは結界が機能している何よりの証拠だ。ちなみに、残業していた上層にはきちんとクレームが来ているとか、おーこわ。もちろん、それだけでは心許ないので、本田さんのところの警備システムもつけてもらっていたりする。
ちなみに、市役所の正面玄関以外の入り口もいろいろとあるので、パジャマで夜中に役所に忍び込む不審者が通報される、みたいな失態も起きない。白井さんは「世間に発覚したら税金泥棒とか言われてむちゃくちゃに叩かれそうだな」と言う感想をこぼしていた。
「でも相手は神ですよ?点々とするくらいじゃ、見つけられてしまうとか、考えなかったんですか」
「……思ったんですけど、あなた達が言う神だったら、あんな回りくどいこと、するのかなと思ったんです」
彼は私が案内した和室に荷物を下ろしながら言った。
「だって、見られた時点で俺の記憶を消すなり、殺すなり、まあともかく、もっとスマートなやり方があるでしょ、神なら。前の時には、俺を殺すことになんの躊躇もなさそうでしたし。それなのに、そうしてこなかったってことは、もしかしたら今回俺が遭遇したのは、前に三井の時に出た神より、ただの人間に近いのかなと思いまして」
あ、頭いい人間って怖いな~逆らいたくねえ~。今私の中で怖いものランキングの更新がされたぞ~!
「……その通りです、思うに、白井さんが遭遇したのは『半神』でしょう」
「阪神?」
「はん←しんではなく半神です。野球はしませんよ。その名の通り、半分だけ神様っていう存在です。神懸かりになった人間は、必ずしも完全な神になるわけではなくて、一部人間の特質を持ち続けたままの存在もいるみたいなんです」
つってもこれは、本田さんからの受け売りなのだけれど。
本田さんの会社「モトダ警備保障」は、名前こそ警備会社で、実際そう言う仕事も請負ってはいるが、もともと私たちが活動するころか、その前から神、特に半神の存在について研究を進めていた組織だ。そう、彼らの警備会社という名前は表向き、いや、半分正しいか。だって「半神」は半人間なのだから。まあつまり、半神から人間を守るために立ち上げられたのが、あの組織の起源なのだ。だから我々よりも半神に関しては詳しい。ただ、最初は彼らは超能力とか、もっと科学的な存在として半神を扱っていたそうだから、呪術的観点から見ると、私たちの方に分がある。
「神とは、どう違うんですか」
「一応、私たちは、人間の肉体から逸脱できないもの、という定義で扱っています。目の届く範囲のものしか見えないし、手の届く範囲にしか半神の手は届きません……と、言うとすごく弱く聞こえるかもしれませんが、それって戦車には勝てないけれど自家用車にならタックルできる気がする、みたいな発想で、人外じみた存在である事に違いはありません。そうですね、例えるなら、神話に出てくる英雄とか、聖人とか、そういうものに近い感じでしょうか」
「ヘラクレスとか?」
「そうそう、素手でライオンを鯖折りにできちゃうような存在です」
私が手でぽっきり、というジェスチャーをすると、なんとなく想像がついたらしく、彼が上を向いて小さくため息をついたのがわかった、まあ、うん、そうですね。
「ただ神とは違って正面から対峙しなければ大丈夫です。おそらく白井さんが私たちに情報を漏らした事もまだ知られていないでしょうし、彼らが使う神的な能力って、そんなに多くないんですよね」
「なぜ?」
「彼らは自分の手の内を明かすのを恐れるので、一つか二つしか能力を使用しないみたいなんです。白井さんの話から聞くに、その半神が使ったのは変身能力みたいなものなんじゃないですかね、それを使っている以上、他の能力を行使してくる確率は低いですよ」
神々は我々人間に自分たちの技術を知られることを恐れているらしい。常に彼らは認識の外にいようと心がけているし、それができない半神たちは、その分動きが制約されるということなのだろう。
「……さて、お部屋の案内もしましたし、えーっと、シャワールームはこっち、お手洗いはその隣にあります。夕飯は、まだ食堂が開いているとおもうので、そちらでできたらとってもらえますかね」
「わかりました、あ、コンビニってこの近くにあります?少し買いたいものがありまして……」
白井side
地上に上がると、見慣れた二人の後ろ姿が見えた。透子ちゃんがわざわざ呼んでくれた彼らは、俺の護衛だと言う。件の話を聞く限りだと、そこまでする必要はないと思ったのだが「いや、万が一があるので」という彼女の言葉に従った。専門家には従うに限る。
「こんばんは」
「こんばんは、白井さん」
ふたりとも、いつものスーツ姿でないと違和感があった。というか寝巻きだろう。コートの裾からジャージのパンツがのぞいている。笑顔で会釈を返したのは高田さんだけだった。
「その上っ面の敬語、やめたらどうだ」
「じゃあ遠慮なく、すまんな付き合わせて」
「いえ、ちょうど僕らも向かうところだったんです」
「あーめんどくせえめんどくせえ」
そう言って二人は歩きだした。二人の対照的な物言いは、人の本音と建前を同時に聞いているようで面白い。というか、この二人は二人で本音を言っているようにも感じた。多分どちらも、面倒とも、ちょうど買いたいものがあるというのも思っているんじゃないだろうか。だってお互いがそう言うのをまるで予想してたみたいに、行った直後にちら、と顔を合わせていたのだ。冷静になって観察すると、彼らは結構面白かった。
月明かりは薄く、白い街灯が月を補って視界を確保している。俺は彼らを、一歩離れてみることにした。高田さんが気にかけて何か話しかけようとしてくれているのはわかったが、気のない返事を続けていたら、察してくれたらしく、それからはあまり話しかけてもこなくなった。
目の前にいる二人は、不思議なほど対極なようでいて、ひどく似ているように見えた。特に後ろ姿、根崎さんは猫背で、高田さんは姿勢がいいから、身長差があるように見えるが、あれは多分同じくらいだろう。体格も、細身の根崎さんとがっしりした高田さんで、しかも普段の言動があれだから、全く違う存在のように感じていたが、見れば見るほど似ているように感じる。距離は近すぎもせず、遠すぎもしない、大体二十センチ位の間隔を開けて二人は歩いている。
「……二人は、兄弟か何かなんですか?」
「えっ?!あ、ああ……別にそういうわけじゃないですよ、なんでですか」
「後ろから見てると、似てるなあと思って」
すると今まで紫煙を燻らせながら無言で前を歩いていた根崎さんが「あ?」と不愉快そうに振り返る。
「俺とこいつのどこが似てるって言うんですか、気持ち悪ぃ」
根崎さんがそう吐き捨てると、高田さんはまるで慣れたことであるかのように微笑んだ。ただその顔は、なぜか普段より少し柔らかい。
「……付き合い、長い感じですか」
「え、ええまぁ……もう十……いや、親同士で元々付き合いがあったらしくって、それ含めると……二十年くらいなのかな」
幼馴染という奴か。にしてはよそよそしい。彼らより付き合いの短い俺と三井は、側からみてもう少し親密だった。それとも逆に、幼馴染ともなるとそういうものなのだろうか。近いからといって人が親しくなるわけではないのだから。だがそう断言してしまうには形容し難い関係が二人の間に繋がっている気がした。命のやり取りをする仲だからだろうか。
「根崎、あんまり前を行かないでくれ」
「俺の勝手だろ」
「そうだけどさ、寂しいじゃないか」
「ばーーーかかお前?いくつだよ、え?夜道が怖いって歳かよ」
根崎さんの口の悪さに全く物怖じせず、高田さんははははと笑った。
思っていたよりも広いコンビニだった。まあ市役所が近くにあるわけだから、需要はあるんだろう。タバコを買いに行った根崎さんと別れ、俺は買いたかった歯ブラシのセットをカゴに入れたのち、そのまま何の気無しに、冷蔵庫で冷やされている飲料をぼーっと眺めていた。ヒヤリとした空気に、霊安室の空気と似たものを感じる。
「寝酒ですか」
高田さんが声をかけてきた。
「……いや、体に良くないから、寝る前には飲みません」
「まあそのほうがいいですよねえ」
と言っている高田さんのカゴには、日本酒が一瓶。もちろん丸々一升瓶が、だ。
「……痛みを堪えるために飲むのは、やめたほうがいいですよ。眠りも浅くなりますし」
「へ?……ああ、大丈夫です、私、酔っぱらったことないんで」
事も無げに言われたそのセリフにぴしり、と固まる。
「……酔ったことがない?」
「ええ」
「少しも?」
「多分……変な気分になった事もないですし、ただ味が好きだから飲んでいるだけで」
「それはガチだから安心していーぞ先生。こいつおかしーんだよ」
根崎さんは買ったばかりのタバコに火をつけようとして、やめた。スプリンクラーの存在に気づいたらしい。
「多分その日本酒一瓶飲んだって、そいつは顔色すら変わらねーよ」
「そ、そうなんですか……」
「そう、らしいです?」
高田さんは無邪気に紙パックの焼酎のラベルを見ている。
「なんで疑問形なんだよ」
「だって分からないんだもの、なったことないからさ。どんな感じなの、あれって」
途端に根崎さんがしかめっ面をして、しゃがんでいる高田さんを蹴り上げようとする。それを自然な動作で掴んで避けた高田さんは、瓶の裏面から視線を外さない。
「嫌味かお前!」
「知らないものを知らないって言っただけじゃないか。別に君が一滴も飲めないことと関係は……」
「えっ、根崎さん飲めないんですか」
「やっぱりわざとだな!!」
自分の中では根崎さんは酒もタバコも嗜むイメージがあったものだから、思わず口に出してしまったことが火に油を注いだらしい。沸点の低い根崎さんが高田さんの胸ぐらを掴もうとする。が、それを高田さんは素早く払い退ける。最低限の動きで払われたそれは、高田さんの義手に捻られ巻き込まれそうになるものの、根崎さんはそれを知ってか知らずか、簡単に腕を抜き、逆の手で二撃目を振る。それを高田さんが掴み脇の下で抑えようとする、のを根崎さんが払って、元の位置に戻った。この間一秒も経っていない。コンビニの狭い棚に一瞬も触れることなく静かに行われたこの攻防を、五十代くらいのコンビニ店員のおっちゃんが見慣れたことのように流し目で見つつ、横で棚の整理をしている。
コンビニ店員が怒ってこないからか、それとも日常なのか、再度根崎さんが手を出す。真っ直ぐ出された拳が、また高田さんに払われるも、今度はその反動のまま根崎さんが高田さんの腕を掴み、捻る。ありえない方向に回転する肩を気にすることなく高田さんは根崎さんの首に左手をぶつけて下に落とす。決着が付くかと思いきや、根崎さんの体はそのまま倒れることなく異常なほどに折れ曲がり、それに伴って今度は高田さんの首に根崎さんの足がかかった。そのまま根崎さんの体が床から離れる。しかし成人男性の全体重が首に掛かったにもかかわらず高田さんは微動だにしない。
「はい、俺の勝ち」
言ったのは根崎さんだった。彼は高田さんの首から静かに降りると、右の義手を振ってみせる。その姿は一種人外じみて見えた。彼らが動いている間、商品は一つも揺れたりする様子はなく、多分後ろを向いていたら、気づかなかっただろうと思うくらいだった。根崎さんは何事もなかったかのように高田さんに右腕を投げて返し、高田さんは高田さんでまた何事もなかったかのように腕を元の位置に戻す。
「勝たせてあげたんだよ」
「負け惜しみ~はい負け惜しみ~~!」
「いやあいつ見ても見事だねえ」
「すみません」
「いーんだよ、こういう楽しみがなくちゃあ、やってらんないからね、この仕事は」
おっちゃんはそう言って笑った。治外法権、という言葉が脳裏に浮かぶ。
「……なあ孝平、もう一回外で組み手しないか」
「嫌に決まってんだろ体力お化け!!」
なんだか幻覚を見たみたいな気持ちになった。商品を揺らしもしなかったとはいえ、見ているこっちはヒヤヒヤしたわけで。そして、さっき感じた二人の関係に対する違和感の正体がわかった。これはあれだ、兄弟弟子という奴だ。高校時代に、そういう関係の人間を見たことがあった。
とりあえず帰り道、なぜ義手を取ったら勝ちなのか聞いてみよう、と思った。聞きたいことや指摘したいことはいろいろあるが、とっかかりはまずそこからでいいだろう。
佐々木side
高田さんがコンビニから帰ってきたみたいだ。扉が開くとともにコートをかける音がする。
「おかえり、お疲れさま、白井さんどうだった?」
「特に変わりはなかったよ」
彼はゆっくりと部屋の扉を閉めた。
「いやごめんね、護衛お願いしちゃって」
「大丈夫だよ、ちょうど買いたいものあったし」
「そう?……ってずいぶんまあ大きいものを買いましたね」
「まあね……ていうかさ、白井さん肝座りすぎてる気がするんだけど、あれ、いいのかな……?」
高田さんはそう言ってちゃぶ台のそばに腰掛けた。確かに、白井さんには狙われていることをもう少し自覚して欲しいとも思うけれど、案外あれはあれでちょうどいいのかもしれない。下手に意識をしすぎるほうが、よくないものは寄ってくるものだから。
「いーのかなといいますと?」
「無理してるんじゃないかなって」
「うーん、そうは見えないけどなあ」
「そう」
彼はそう言いながら、日本酒の瓶を開けた。と、言っても腕を動かしたわけではなく、私からすると、勝手に瓶が空いたように見えるのが不思議だ。しかし、コップに注がれたそれが、なにも支えのないまま、彼の口元に持っていかれるのも、高田さんが水と変わらない感覚で日本酒を飲むのにも、私はもう慣れていた。
今日は、高田さんのところに行くか、根崎さんのところに行くか迷ったのだけれど、ひとまず今日は高田さんの方に行くことにした。私はよく二人のどちらかの部屋に泊まる。ほら、子供のうちって、どことなく人恋しくなるじゃない、なるよね?うんうん大丈夫。まあ根崎さんには追い出されることもあるけど。
私は高田さんの背中に回り、ハーネスで固定されている両腕を取りはずす。
「ありがとう」
「洗濯しとく?」
「いや、自分でやるよ」
「いいって、たまには甘えてよ」
ハーネスは布製なので、時々中性洗剤を使って洗う必要があった。いや、高田さんの場合は毎日やる必要がある。でも、彼にとって洗濯は割と重労働だから、できる限り手伝ってあげたい。というのも、同時に二つの方向にしか、物を保持、動かすことができない、つまり物を持ちながらスポンジを挟むとか、石鹸を手のひらに出す、みたいなことができないから、工程の一つ一つがかなり遅くなってしまうのだ。肉体としての手が無いというのは、思ったよりも厄介だ。木製の手も、普通の手ほど器用じゃないし、濡れてカビが生えたり、ネジが緩んだりすることもある。だったら、私が手伝う方が彼の負担は少なくて済む。彼は「じゃあ遠慮なく」と言ってテレビを点けた。そういえば、彼が見たいと言っていたドラマの放送時間だった。
サスペンスドラマの結末は「実は同性愛者だったからばれなかった痴情のもつれ」という結果で終わった。最近、こういう結末多いな。まあ面白かったからいいや。歯を磨いて、シャワー浴びて、身支度を整えた。ウサギの模様がたくさん入ったピンクのフワフワのパジャマを「最新モードよ」とキメポーズで見せたのが受けたのはよかったな。高田さんったら歯磨き粉吹き出しながら笑うんだもの、それを見て私も笑っちゃった。
「消すよ」
「うん」
電気も消した。あとは眠るだけだった。
……腕のない高田さんは新鮮だ。彼は普段から自分の手が不自然に見えないように努力しているから、こうして何もないのが逆に不自然に見える。同じ布団に入ってはいるが、実は腕がない高田さんと、根崎さんは幅が同じくらいで、私が一人追加されても十分に余裕があった。いつも、高田さんの方が体の幅が大きいから、この違和感のなさが面白いような、そうでないような。
……私は、さっきからずっと聞きたかったことを聞くことにした。
「ねえ、腕、痛いの?」
「……まあ、少しは」
彼はそう言って寝返りを打った。触れて欲しくないのだろうか、いや、ここは聞いておいた方がいい。
「少しだけ?昼も、なんだか腕を摩ってるように見えたけど」
「透子ちゃん」
「いいよ、前の名前で」
普段、私は佐々木透子という名前を用いているが、私にはもう一つのかつての名前があった。普段は面倒さと周囲への配慮から、透子の方の名前で統一してはいるが……彼は私がそう言うと、唇を真一文字に引き延ばした。私は彼から笑顔が消えたことに少しほっとしていて、あまりの本末転倒さに面の皮を引き剥がしたくなった。
「……いや、外で呼び間違えちゃったらまずいから透子ちゃんのままで……」
「あはは、そんなこと、前も言ってたねえ」
私はうまくできているだろうか、かつての私みたいに……。高田さんに、かつての小さな善輝君の面影はほとんどない。でも、そんなはずはない。人の根本は、さして変わらないものだ。
「じゃあ、透子でいいからさ……どんな感じに、痛むの?」
「……。」
「話して、今は、言っても大丈夫だよ」
私は彼に免罪符を渡した。それがただの紙切れであることは私が一番よくわかっていたけれども。
神は私たちをきっと見ているだろう。どんなに呪術だ警備だなんだで私たちがどうこうして身を守ってプライベートを確保しようとしたところで、彼らからすればままごと遊びみたいなものだ。
……神愛としての教育がどんなものか具体的には知らないものの、基本的に、「言うこと」を許さないように教えられていることはわかっている。だからこそ、私は「話して」と言った。大丈夫とも言った。それが必要だと思ったから。
「……まだ、腕があるのに、それが締め付けられているみたいな感じがするんだ、特に左腕が」
私の身体は小さすぎて、彼と同じ布団に入ると、胸しか見えない。
「左が一番怖かったから」
「はじめてだったしね」
「それも、ある。それもあるけど……」
彼の言葉を待つ。彼の鼻先が、頭の上にあるのを感じる。
「……、……あの時のことを、思い出すと、無いはずの手から血の気がひくんだ……」
「うん」
「ごめん、なさい、こんな……」
「謝ることじゃない。良いんだよ、言ってくれて」
私は布団から少し這い上がり、彼の首に腕を回した。幼い頃、母にこうしてもらうととても安心したから、多分私もこうしたほうがいいんだろうなと思ったのだ。それに、彼は他人にすがる腕を持っていないから、私から行くしかない。
高田さんは、静かに息を整えていた。
声も上げないで、彼は静かに、息を整えていた。
私は彼の頭を撫でた。ずいぶん大きな頭になったものだ。いや私が小さくなっただけか。
「……ごめんね、ごめん……」
彼はやっぱりなにも言わなかった。こわい、こわいよ……しにたくない、しにたくない、左腕をなくしたばかりの時、そう言って彼が魘されていたのを思い出す。彼はもうその時の恐怖を克服したとばかり思っていたが、きっと、そうではなかったのだろう。私に気づかれないように、誰にも気づかれないように振る舞っていただけで。
そのまま彼は眠った。子供の高い体温は、侮れない眠気を誘う。彼が少しでも良い夢を見てくれることを祈って、私も目蓋を閉じた。
あの後、運よく襲撃もなく、白井さんは元気に起きて病院に向かっていった。命を狙われていたくせにぐっすり眠ったらしい彼は「仕事があるので」と言って東遠大学病院に向かった。理論上狙われることはないから大丈夫とは言ったけれど、切り替えの速さがすごい。
一方私たちは、神景会に向かった。もちろん協力を要請するためである。特に一度騒ぎを起こしてしまっている病院に再度向かうのは、今回は協力者がいるとはいえ難しい。神景会に所属している医者や看護師に、調べてもらうほうがリスクは低いだろう。もちろん、内容は可能な限り伏せて、だが。……龍禅院さんが、その辺りの忖度をしてくれている。彼女は裏表が激しいが、それは裏を返せば相手によって対応を変えることができる柔軟性があるということだった。
相変わらずの漂白された日光、それはたとえ曇りの日でも、雨の日でも変わらない。特殊なガラスを通って窓から照らされる光はいつも白かった。光すら変えていくようで、私はこの施設が嫌いだった。今もきっとそうだ。
アポイントメントの時間になった時、信者の一人が姿を現した。
「お待たせしてすみません、もう少々お待ちいただけますか」
「大丈夫ですけど、何かあったんですか?」
龍禅院さんが時間に遅れるのはとても珍しい、初めてかもしれない。
「それが……」
「あらあら透子ちゃんいらっしゃい!」
信者の言葉に被せるように、龍禅院さんの部屋から出てきたのは天蓮景様だった。
「よくきましたね、あ、この人が根崎さんと高田さん?はじめまして」
「こんにちは、あの、龍禅院さんはどうされたんですか?」
「それが持病の腰痛が悪化したみたいでね、今整体師の資格を持っている人に診てもらっている所なの」
そう言う教祖様は背筋も伸びていて、全くそういう様子は見えない。たしかにおばさん然とはしているが、少なくとも龍禅院さんの「姉」らしくはみえない。しかし、今まで姿を見せなかった天蓮景様が、こうして私たちを迎えるようになったのは、どうしてなのだろう。
「はは、あのばーさんも年齢には逆らえないみてえだな」
「根崎」
高田さんと根崎さんのいつものやりとりに、ふと、天蓮景様が動きを止めた。彼女が顔を上げる、笑みの形で整えられた表情は真っ直ぐ二人を見つめた。
「あら……あらあらあらあら」
「っ、んですか、天蓮景……さん」
はい、はいはいと彼女は呟きながら二人に近づき、柔らかな手指で二人の手に触れる。されるがまま笑みを保っている高田さんと、高田さんに当たることも気にせず手を大きく振り払って天蓮景様の手をはたきおとす根崎さん。信者の人が思わず何か口を出そうとしたところを、彼女が制した。
「……これは神山のところの技ね」
「……!」
「……香織ったら、いったいいくつ隠し事をすれば気が済むのかしら……ま、いいか、村上さん」
はい、と従ったのは後ろにいた信者の人だった。瞳の中に怒りを隠そうとしていない。
「一時の感情に流されてはいけませんよ。あなたの修行のためにも、このお二人を大礼拝堂にお連れして」
「は?何言ってんだババア」
「礼拝の参加は、部外者でも自由だから安心してくださいね。お話は、透子ちゃんから伺います。高田さん、【お願いします】、いいですね?」
「!……は、い……」
突如彼女が言った言葉は別に不自然さを感じさせない普通の言葉、しかし高田さんにとっては違う。
「っ、俺はごめんだぞ」
「別にいいですよ……じゃあ村上さん、高田さんだけお連れしてください、もちろんその後はぜひこちらの活動などのお話もなさってね」
「!」
根崎さんも気づいたようだ。彼女は、わかっていてやっているのだと。高田さん一人では、神景会の勧誘を断ることは難しい。私は、てっきり天蓮景様は龍禅院さんの傀儡なのだと思っていた。主な活動は、すべて龍禅院さんの手で行われたものばかりだったからだ。でも、そうではないのかもしれない。
「……あら?あなたもいらっしゃるんですか」
「外部の人間の出入りは自由なんだろ?え?」
根崎さんは村上さんと口論をする態勢を取り始めている。高田さんは、無言でついていった。
「なぜ二人を別の場所に?」
私は天蓮景様に連れられて龍禅院さんの部屋に通された。
「神山のやり方はうちのやり方とは相性が悪いんですよ」
神山、とは神愛、神忌の技術……通称「双覡(そうげき)」を創設した、神山神社の神主の家系のことだろう。根崎さんと高田さんの師匠が、そう言った名前だったはずだ。
神愛とは、文字どおり神に愛される者だ。時々いるだろう、やっていることは大したことではないはずなのに、妙に人から好かれる人。運の良い人、憎めない人が。高田さんはいわゆるそれだ。そういう人を、儀式のために教育したものが「神愛」となる。そして根崎さんはその逆。何をしたって憎たらしいのに、そこにあの嫌な言動が加わる。きっと殺意を抱かれた事も少なくないはずだ。その二人と相性がよくない、とは。
「かーおーりーちゃん、具合はどう?」
だからこの発言に違和感をおぼることに一歩遅れた。
「姉様!」
疑問はこの一言で散ってしまった。姉様?
「姉様、私は大丈夫です、すっかり良くなりました。それよりも何かご無礼はございませんでしたか、私昨日は結局何も」
「大丈夫だってもう、あなたいっつもそうなんだから」
「しかししかし天蓮景様」
「お姉ちゃんって呼んでってば」
「姉様」
さっと頭の中で言葉を整理して、状況と現状を把握して、なんとかかんとか、一つだけ解ったのは、この天蓮景様は色々と確信犯だということ。多分、この短い時間の会話で分かった限り、人に一杯食わせた後さらに二杯、三杯食わせてこちらが目を回しているところで「おかわりいかが?」って言う人だ。似たもの姉妹か?厄介なのは龍禅院さんだけで十分だよ。……いや、龍禅院さんより厄介そうだなこの人。や、やだ~!
私はこの会話にいたたまれなくなりすぐにでもこの小さな体を隠してとっととこの会話を聞いていなかったことにしたかった。
「……元はと言えば姉様のご要望に私が答えられぬのが全て悪いのです。その上年も重ね……」
願い叶わず、私室だったらしい扉から、一瞬だけ顔を覗かせた龍禅院さんは、白いワンピース状の寝巻きをきていた。だが私の姿を認識した瞬間、扉が閉じられた。閉じる勢いが強すぎて、ドアの端に布の裾か挟まっている。
「……なんでアンタがいるんだい」
「と、通されたからです……」
当の天蓮景様はニコニコと笑っている。その笑みは整っていたが、どこか子供じみていた。
「……天蓮景様のお言葉なら仕方ありません」
そして龍禅院さんの言葉にはいつもの覇気がない。いや覇気というか、闘争心のような野心というか……。
「急いで支度をするから、もう少し待っておくれ」
「裸で来てもいいじゃない、女の子同士なんだし」
「え」
「では」
「冗談よ」
……いつもの百倍聞き分けの良い龍禅院さんが怖い。
「じゃあ待ってるわ。私、礼拝の時間まで透子ちゃんと一緒にいるから」
「申し訳ありません天蓮景様」
「お姉ちゃん」
「……姉様」
天蓮景様のすごくいい笑顔に既視感があって、はっとした。根崎さんを揶揄ってる時の龍禅院さんの顔と、そっくりそのままだった。どうやら、彼女にとっての標的は、根崎さんではなく私らしい。か、勘弁してくれ。根崎さんを助けなかったバチが当たったんだろうか……いや神的に、あの人が庇われるとかはちょっとありえないので、多分、ただ私の運が悪いだけだろう。
「かわいいでしょ、香織ちゃんって」
そう言いながら天蓮景様は出された紅茶を飲んだ。気が重い。
「かわいいでしょと言われましても……」
確かに、今までにない一面が見れたところはあるが、別に知りたいとか言ってない。
「だってあのまま五十年ですよ……もう六十年かな、ずーっとお姉ちゃんって呼んでって言ってるのに、なかなかそうしてくれないんです。姉様って言わせるのにも随分かかりました」
天蓮景様は世間話を続けている。私は、早く龍禅院さんと合流して、本題について話したい。というか帰りたい。この人怖い。なんか知らない間にやばいところに首突っ込んで頭落とされそうな感じがする。
「私たちね、離されて育ったんですよ」
扉を見つめる目が優しい。いや、いいんですよ昔話とか、そういうの、いいんで。お祈りでもなんでもいいから高田さんの手を握って根崎さんの嫌味が聞きたい。
「異母姉妹でね、うちは元々母体となっていた宗教組織があって、そこから分離して、今の形になっているんですけどね、そこから離れた理由があって。というのも、私はそこの後継となるように育てられていたんですね、でも、彼女はそうじゃなかった。私の召使になるように教育されてきたんです。それが、本当に嫌でねえ……姉妹なのに上下があるなんて、おかしいじゃないですか。そもそも、人はみんな、本来平等であるはずなのに」
「……平等という割に、あなたや龍禅院さんは崇められているように見えますが」
「あら、猜疑心が強いのね、それは、信者の皆様がしていることで、私たちが強要しているわけじゃないんですよ……それに、あまり人を信用しないのも、よくないんじゃないかしら、特にあなたみたいな子供のうちは……」
彼女はもっともらしいことを言っている。しかし、これまでのことや、噂などを耳にすれば、疑うのは自明の理で……。
「お父様が嫌いなのはわかります」
ガツンと頭を殴られたような気持ちになった。
「今、なんと?」
「木下さんとは、親子ですよね?似てないから最初わからなかったわ」
彼女の笑みは深い、深く、美しく、一種の引力めいたものがあった。
「私もね、親のことは苦手だったから……あなたと似たようなこともしたし、それで別の道を歩んだ」
「……。」
「誰かを嫌いになるのは、誰かを好きになるのと同じくらい、人間である以上、当然のことです。ただ、嫌いだからと言って、攻撃してはいけないわけで……あなたはその点、私よりずっと良い子ですよ」
じわりと胸に染み入るものがあった。それはかつての私の記憶だ。彼女は母のような顔をして、私に語りかける。それは非常に魅力的な空気だった。記憶の中の母親が今目の前に現れて語りかけてきているような、一種神秘的な心地すらした。
「あなたは香織と似た所があるわ」
「……。」
「何か、困ったことがあったら、いつでも頼ってくれていいのよ」
私は、息を吸って、吐く。そして、
「……お気遣いくださりありがとうございます」
とだけ言った。
「……そう、でも、無理はしないでね」
「お待たせいたしました。佐々木さん、時間がかかってしまいもうしわけありません」
「いえ」
龍禅院さんが出てきた時、そのやわらかな空気は霧散した。
「では、失礼いたします」
「はい、私も礼拝に向かいます、今日は色々とごめんなさいね」
「いえ……」
彼女はゆっくり歩いて行った。やはり、龍禅院さんの姉には見えない。
先ほどの話の、どこまでが本当で、どこまでが私を懐柔するための方便なのかはわからない、が、悔しいことに、彼女に興味を持ってしまったことは、確かなようだった。彼女が教祖としての才能があることは、確からしかった。
「龍禅院さん、木下さんに案内させたのって、意図的ですか?」
「は?何の話だい?」
彼女は私がそう声をかけると訝しげにそう言った。……ちょっと疑っておいて良かった。やっぱり、彼女が仕組んだわけではなかったのか、よく考えれば、この人は人間関係に関してはちょっと疎いところがあるから。
「あいつは真面目だし、仕事も丁寧だから、私の周りの世話も頼んでいるんだよ。何か気に障ったのかい?」
「いや、全然……そんなことは、それより、実は今回はですね、東遠大学病院で……」
コール音。
「……悪いね、もう少し待っておくれ」
着信が来たようだ。龍禅院さんが電話をとる。また待つのか、いや電話はしょうがない。
「……はい、はい、なんですって?」
そしてその声色が変わる。どうやら、私はまた話をする機会を奪われたらしい。
……しかしそこまでは予測できても、電話を切った龍禅院さんの言葉には対応できなかった。
「……蛇蝎男が発砲したらしい」
「はい?」
それは、それが意味することは。
……いくら根崎さんであっても、無闇矢鱈に拳銃を取り出すわけがない。
つまり、神だ。
しかしなぜこのタイミングで?……いや、今は考えている暇はない。準備は何もできていない。今できることは、とても少ない。
「っ龍禅院さん、この施設に武器は」
「ちっ、あんたらには見せたくなかったんだけどねえ!」
そう声をかけたときにはすでに彼女は何かを用意していたようだった。預かっていた根崎さんの銃だけではなく、小型の拳銃を三丁ほど持ってきていた。
「他には」
「あるわけないだろう!護身用で手一杯だよ!!」
「すみません!」
しかし弾は相当あるみたいだった。私はそれをなるだけ回収する……正直、護身用ならここまで弾はいらないと思うけど、あえて突っ込まない。
「じゃあ、私はこれを二人のところに……」
「……いや、残念だが、あんたは逃げるんだね」
「なんでですか!」
「時間切れだよ」
そこに入ってきたのは、私が最も嫌いな人。真面目で仕事が丁寧らしい男は、龍禅院さんの評価の通りだった。彼は会議室のドアを明け放って言う。
「っ!龍禅院様!と、えりなちゃん?!と、ともかく緊急事態です!避難してください!!」
彼は誠に憎たらしいまでに誠実な人であった。
私は彼に抱えられている。
「や……だ!離して!!」
「そんなこと言ってる場合じゃないんだよ、えりなちゃん」
彼は私を抱え、龍禅院さんの前を守りながら、急いで裏階段(龍禅院さんの部屋にあった隠し階段だ。私も存在を知らなかった)を駆け上がっていた。
「何があったんですか」
「不審者が侵入して、礼拝堂の中で発砲したもようです……私は天蓮景様から命を受け、お二人を逃すようにと……」
「天蓮景様は?」
「まだ中にいらっしゃいますが、警備員たちが迅速な対応を……」
その瞬間、龍禅院さんの動きが止まった。聖職者としての顔に、一本のヒビが入るのを見た気がした。
「なんですって?」
「ですから……」
「それは、天蓮景様を置いて逃げろと?」
それは修羅のような顔だった。今まで私も、龍禅院さんの様々な裏表の姿を見てきたが、こんな顔は見たことがなかった。永遠の信仰も冷めるような、いや逆に畏怖を覚えてしまうような、そういう顔をしていた。私を抱えた男がこれを見ていなかったのは、幸いだったのだろうか否か。そして龍禅院さんは和服の裾を持ち、壁に手を突きながら来た道を戻り始めた。
「お、お待ちください龍禅院様!」
「その子を上へ、私は戻ります」
「しかし龍禅院様無くては……」
「馬鹿をおっしゃい!」
それはいっそ清々しさを感じるほどの喝だった。
「天蓮景様の死は我々教団全体の死を意味するのですよ!私の命とどちらが大事かなど比べ物にもなりません!私は天蓮景様の盾となってでもかの方をお守りしに行かねばなりません」
「……!では私も」
「天蓮景様のお言葉に逆らうおつもりですか!!」
言っていることは無茶苦茶だった。だって彼は、私と龍禅院さんの命を預けられたのだから。しかしそれは言い返せない気迫となってコンクリート張りの階段の中に響き渡った。彼からすれば、それは福音に聞こえるのだろうか。
「私は、私の意思で天蓮景様の元に向かいます。木下、あなたが咎められることはありません、お行きなさい」
「ですが」
「行きなさい!!」
そのまま龍禅院様は階段をゆっくりと下って行った。私はただ、動かぬ木下の上で、茫然としていることしかできなかった。
広場は騒がしかった。
「まだ人が中に……」
「だが中に入るのは……」
「天蓮景様は?!」
「っ、行かなきゃ」
私が向かおうとすると、そばに立っていた男が私を止めた。
「だめだよ、心配なら他の人が向かうから、えりなちゃんはここで待っていて」
彼は私に目線を合わせた。両肩に置かれた手は強すぎもせず、かと言って逃げる余裕はなさそうに思えた。私の頭の中に様々な言葉がぐるぐる攪拌される。能力、正体、本名、おねだり、やり方は悪いものからいいものまでよりどりみどりだったはずだ。なのに。
「っ、さわらないで!」
私は思いっきり彼の手をはたき落としていた。私が明確に彼への拒絶を表したのは、これが初めてだった。それは彼にとっても驚くようなことであったらしい、
「え、あ、ご、ごめん」
可哀想なくらいに動揺した彼に、それでも嫌悪感が勝る。そしてできたチャンスに体は勝手に動いていた。
「あ、待って!」
「来ないでってば、嫌、きもい!!!」
「ちょっと……っああ!!」
力の入ってなかった大人の体を突き飛ばし、建物の中に走った。無我夢中だった。後ろから騒ぐような、バタバタとした音が聞こえるが、私はそれを無視して、全部全部なかったことにして、階段を転がるように登って行った。
妙に冷静な私が頭の奥にいて、自分に対してため息をついていた。いくらでも方法はあったはずなんだ、能力のこととかをもっときちんと言うとか、それでも、あのときああして走り出さずにはいられなかった。
私の中の私が再度ため息をつく。明らかに最適解ではなかった。彼は罪悪感に苛まれて私を追おうとして、それを誰かに止められて別の子の避難を優先させていた。よかった、あの場で追いかけられていたら、私はいずれ追いつかれていただろう。
大礼拝堂を目指しながら、私は携帯電話を取り出す。何も準備できていない中での襲撃だ、神ではない、半神とは言え、今回は正直勝ち目が薄い。神愛と神忌などの力は貴重だ。確かに、ときには市民の盾となって戦うことも重要であるが……ここで犠牲になれば、また1から育てなければならなくなる。今養成されている神愛、神忌は、こちらに来るには若すぎる。
コール音、今回は仕方ない、ひとまず撤退しなければ。高田さん、出てくれ。コール音、コール音、コール音……つながらない、だめだ。私は息が肺から無くなってしまうんじゃないかと思うくらい、全力で走った。
二人が行ったの大礼拝堂は、三階だったはずだ。階段を必死で登る。エレベーターなんて悠長なことは言ってられないが、私の小さな体は階段でももどかしかった。一段一段が、昔と違って高くて、スーツの中のポケットに入れた、拳銃と弾薬が重い。早く、はやく、あの部屋へ……。
大礼拝堂は、劇場と教会の礼拝堂が合わさったような内装をしている。真ん中のステージのような場所に祭壇があり、傾斜がついた周囲の席のどこからでも教祖様の姿が見えるような作りになっていた。だから一見すると、それは劇場のようにも見えた。パンとサーカス、なんて言葉があるくらいだから、その演出重視の作りは、いろいろな意味で理にかなっているのだろう。
はやる息を抑えに抑えて、静かに扉を開いた時、その祭壇の真ん中には、一人の男性がいた。彼は、さも自分が主人公であるかのように、演壇の上に座っている。周りには血溜まり、十数人ほどの人間が、倒れていた。彼らは手や足を怪我したり……ヘタをすれば、切断されている者も多く、しかしその切断面は生々しいのに、その割に出血量が少なかった。彼らは形容し難い声を上げながら、ずるずると床を這い回る。ほとんどが、まだ息があるようだった。さらに端には人だかりが。彼らも逃げ遅れたのだろう、その中から、若い男性が前に出て、奥にいる人たちを守ろうとしている。そこには、天蓮景様の姿もあった。龍禅院さんは……そのそばに、体を無理やり捻られたような、不自然な姿勢で倒れ伏していた。悪夢のようだった。現実だと信じたくないような光景だった。しかも、その上、ステージに立つ男の顔は。
……かつての自分そっくりそのままだったのだ。
「ごめんなさい」
そう言って艶めかしく足を組んだ。手を顎に乗せて神経質そうに唇に触れる様は、記憶の中の男の指と同じなのに、入るものが違うだけで、冗談のような非現実性を保っていた。
「他人の空似なの、まさかこんな、あなたたちが知っているくらい近い時代に生きてた人の容姿になっちゃってたなんて思わなくて……あーもう二度目よ、やんなっちゃう」
そんな風に誰かのような男は言いつつ、自然な手つきでポケットから手鏡と口紅を取り出すと、丁寧にそれを唇に塗り付けた。それがあまりに異様な光景で、皮膚の下の冷や汗が全身に噴き出す。
「……あ、また間違えた、男は口紅はしないんだった」
「その姿をやめろ、虫唾が走る」
声は斜め前から聞こえた。客席の真ん中に立つ根崎さんが、銃をむけている。
「……ほんっと失礼なやつ、突然撃ってきた上に、名乗るってこともしないんだ」
「てめえみたいなバケモンに名乗る名はねえんだよ」
「……むかつく」
男が跳躍した。いや、跳躍と言っていいのだろうか、ただ、ともかく、大きな大人の体が飛び上がったかと思うと、次の瞬間には、根崎さんの元へ……だが客席の中をバク転することで、根崎さんは彼の攻撃を回避した。だが二撃目が既に根崎さんを既に捉えていた。それを、近くにいたらしい高田さんが引き寄せ回避。
「……失礼いたしました。私、高田、こちらは根崎と申します」
「そう、よろしく、礼儀正しいのは好きだよ」
さも当然のことのように彼は答えた。歪な方向に首を捻っている信者の首を、片手でつい、と元に戻しながら。手持ち無沙汰に、皿の上の料理を整えるが如く。まだ息のあるらしい彼女は口の端からぶくぶくと泡を垂らしている。
「はぁ、にしても、やっぱり同じ半端者でも、ずいぶん感覚が違うんだ。似た人間が近場で死んでるんだったら、普通配慮するでしょ。じゃなきゃこんな空気にならなくて済んだのに」
「……一旦、その姿をやめてくださいませんか」
「あ、そうだね、冷静に話そっか」
彼の輪郭が歪み、溶ける。次の瞬間には、見覚えのない女が立っていた。
「あー、この姿やだけどしょーがないよねえ、あーやだやだ」
「もう一つ、お尋ねしてもよろしいですか」
「なあに」
「これから、あなたは一体何をする予定ですか?」
「……うーん、食事、かなあ」
それはとても真っ当な答えではなかった。
「ちょっと量が多いから、小分けにして冷凍したりするとは思うけど、食べるよ」
「なにを、ですか」
「ここにあるもの、ほら、もったいないじゃん」
ドッペルゲンガーの食人鬼はそう言って高田さんに笑いかけた。
「……もったいない、とは」
「いやね、どうせなら、食べちゃおうかなって、どうせいずれ誰かのお腹には入るんだし、早い者勝ちってことで」
「……なる、ほど」
高田さんは無理やりうなずいたようだった。これは……おそらく半神だ。人と話し、しかし人の枠から逸れている。しかし彼らの存在は、神よりも珍しいはずだ。神の一面が、人間に認識されることを嫌うが、肉体を捨てられない半端者である半神は、普段は隠れていると。では、彼、いや彼女は、東遠大学に現れた半神と同じ……?
半分人間で、半分神であるらしい彼女は、素直に頷く高田さんの頭を撫でた。
「いい子ね~物わかりのいい子も好きだよ~、でも大丈夫!ひとまずは、殺さないから。みんなまだ息があるよ」
「つまり、我々は」
「ん~、とりあえず、収穫しちゃう」
いつの間にか、彼女の手には、細身のカッターが握られていた。小さくて、とても人を傷つけられるようには見えない。だが。振られた腕は女性のものとは思えない速さと重さで、高田さんの方に振り下ろされた。
……高田さんの義手の上腕には鋼鉄のプレートが仕込まれており、これを使うことで緊急時には銃弾からも身を守ることができる……半神がカッターから繰り出す突きを、高田さんが右手で受け止めた。安物のカッターとは思えない鋭く重い一撃は、木製の義手に受け止められ、食い込みその動きに隙を与える。しかし、高田さんは他者を傷つけられない。彼は神も災難も人間も、受け入れることしかできない。それが神愛というものだ。彼は穢れから最も離れた人間でなければならないのだ。
「根崎!」
だから彼は義手の左腕を根崎さんに差し出した。根崎さんはそれを掴み、ひねる。高田さんの手首は簡単に外れ、中からむき身のコンバットナイフが現れた。根崎さんはそれを瞬時に抜き取り、彼女の腹に向かって突き刺す。だが鈍い音とともに根崎さんの一撃は弾かれた。風貌とは正反対の力で彼女は高田さんの体を引き、彼の右の義手をカッターごと握り込み、盾代わりに使ったのだ。
しかしさらに二撃、三撃と連続で振り下ろされた根崎さんのナイフ。その一撃が、なんとか彼女に当たる。真っ白な彼女の腕がぱっくりと開き、とめどなく血が溢れた。実体があるという、何よりの証拠だった。半神の彼女が反撃としてカッターを振りかざすも、それは高田さんが阻止する。傷のついた木製の腕は段々と食い込みが増し、彼女の刃を鈍らせる。
私は息を潜めながら、龍禅院さんから渡されていた銃に弾を込めていた。オートマの、見たことはない種類の銃だ。私はできるだけ見えない場所に移動しながら準備を進める。相手は半神だから、私の隠密能力も半分しか効かないと考えていたほうが良い。どこからができて、どこまでができないのかは不明だ。侵入はできたので、おそらく視界には写っていないのだろう。だがそれが、もしかしたら半径何メートルまでなら認識されないのかもしれないし、五感の一部が働かないでいてくれているだけで、聴覚では私のことがわかるかもしれない。だが、わからない中で下手に動くのは自殺と同じだ。
私は立ち上がった。目の前では、高田さんがすんでのところで半神のカッターを受け止め、根崎さんが銃を構えて撃つ所だった。発砲音、肩に命中。よし、ならばここで二人に気づいてもらえればあるいは……。と、いうところで。
「えりなちゃん!早く逃げて!!」
それは善意だった。人だかりには、保育士の鈴木さんの顔が。信者であり、善良であり、子供のことを考える人の、叫びのような祈りだった。普通そうだ。目の前の不審者の視界の中に映る子供を、認識していないなどと思うはずがない。おそらく、意識をたまたま失っていた女の子が、朦朧と立ち上がったように、見えたのだろう。
目の前に黒いものが広がった。それは、振り飛ばされた高田さんの背中だった。
「っ!!!」
七十キロ近い男性の体重が、全身にのしかかる。衝撃と共に、全身を殴打する。
「……っ、透子ちゃん?!」
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」
口に出した大丈夫はとっさに出た言葉だった。正直現状がよくわかっていなかった。視界は点滅し、体の奥から嫌な音がした。ただ、口から大丈夫と言う言葉がついて出ただけのこと。
「あ、ぐぁあああ!」
さらに根崎さんが礼拝堂の床に転がった。彼の腹には、深く、異常なまでに深く、彼女のカッターを握った手が刺さっていた。
「あたった」
……私の油断だ。血の気が引いた。高田さんが何か言っている。
私のミスだ。見えていなければ大丈夫だろうと、思って、普通の人に、どう映るか考えなかった自分の落ち度だった。ばか、ばか、大馬鹿、神には映らなくても、今の私はもう普通の人には見えるんだ。しかも、ああ、普通の人にとって、私はただの子供。そのバイアスを忘れていた。私は口で大丈夫と言い続けた。そして頭では、次にとるべき行動を考え始めていた。でも頭がまとまらない。一瞬で形勢は不利から絶望に変わった。私のせいだ。高田さんの硬い片方の腕が、私を抱えている。彼はきっと自分を責めているのだろう。そう言う人だから、そういうひとだから。
「あー時間かかった。さて……まずは、彼かなあ、やっぱり、逃げられちゃったらやだし」
彼女はカッターを握りなおしつつ言った。彼女がそれを振るって根崎さんの血を払うと、その簡単な動きだけで全ての血と脂がカッターから振り払われた。明らかに物理法則を無視している。そしてゆっくりと、彼女は近づいてくる。
「高田さん、逃げて、逃げて」
「でも」
「たのむ、たのむから、逃げて高田さん、それで、おうえんを、いや、もう、だめだ、ごめん、【お願い】逃げて」
どこまで口にできていたのだろう。どこまで冷静だったのだろう。私は思いつく限りのことを言った。
「……っ、わか、りました」
……私を、抱えていた暖かさが、消えた。
「あ!ちょっと待ちなさい!」
そこに倒れていた根崎さんが半神の足元にすがり付き、その白い脚にナイフを突き立てた。待ってましたと言わんばかりの獰猛さでニヤリと笑った。
「っ、この」
半神がカッターを突き立て、根崎さんの悲鳴が響く。彼女は何度も何度も、それこそ害虫を駆除するみたいに念入りに、根崎さんの体を穴だらけにしていく。あきらかな急所を刺されても、根崎さんは息があった。肺に血が混じり、不気味な音を立てている。しかし息があるならと言わんばかりに、根崎さんものたうつ。ああでも、段々と彼の動きが鈍くなってきた。もしかしたら、彼女は根崎さんだけでも殺すつもりなのかもしれなかった。だめだ。それは、でも、今できることがないのはすでにわかっていた。私のミスが少しだけあったチャンスを逃したのだ。でも、ああ助けなきゃ、助けなきゃ。逃げて、根崎さん。君がそんなことをする必要は。
……その時、突然部屋の空気が変わった。理屈にならない生き物が、ピタリと動きを止めるような、大きな変化が起こった。それは例えるなら、祝福だった。でも私たちにとっては、祝福ではない。
「っ違う!だめ高田さん!!」
部屋の空気が清浄なものに包まれている。さっきまで漂っていた燻る血の匂いが、どこからともなく流れてきた冷たい空気によって押し流されていった。私はこの感覚を知っていた。私が……私が、死にそうになったときにも、同じ風が吹いていた。
「違うの!そういうことじゃない!!」
何が起きたのかはわかる。高田さんが祈ったのだ。渡辺さんが神の子を孕む代わりに安全を手に入れられているように、高田さんもまた加護を得ている。それは彼の祈りは必ず聞き届けられる、という加護。
彼は特別神に愛された人間である。なぜなのかはわからない、理屈もない、ただ、そういう風に生まれた。そういう才能があった。でもそれだけならば本当にそれだけの話だ。それ以上の意味はない。しかし彼はこの市に生まれ、この道を選んでしまった。
半神は何かを感じ取ったのか、つ、と上を向いた。目の前の血塗れで今にも噛みつかんばかりに睨みつける這いつくばった根崎さんには目もくれず。彼の蛇のような目にも、何かと通じている半神の姿が写っている。しかし彼も動こうとはしなかった。いや、動けないのかもしれない。だとすれば……。
「っ高田さん!!」
私は振り向いた。何かが崩れている、何かが話しかけている。静寂の中で何かが蠢いている。空気の中で踊り回る何者かがいる。いるということだけわかった。それしかわからなかった。私は走り出そうとする。平衡感覚を失っている体は、立ち上がろうとするだけで激痛とめまいが走り、倒れてしまう。胸が痛い、肋骨が、折れているのか。でも、這いずって扉に向かう。違うの、違う、私が望んでいたのは、あなたに祈りを強要させることじゃない。
彼の祈りは聞き届けられる。必ず。彼は神に取り合われるような、愛された人間だ。そんな彼を特別気に入って、独り占めしたいと思うような神がいたんだと思う。かつて高田さん本人が話してくれた、昔の話、彼が実戦に投入されてまだいくばくも立たなかった頃に、彼に取引を持ちかけた神がいた。わざわざ人の言葉を使ってまでその神が持ちかけた提案は「願いを一つ叶えるごとに、五体を一つずつ神に捧げる」というものだった。彼はそれを飲んだのだ。だから彼の腕はない。
腕は一本ずつ取り上げられた。なら次は、足だ。
「やめて、ねえ、やめてってば……!」
わかってはいた、ここから後戻りするはずもないこと、こんなところでがなり声をあげたところで、わがままを言ったところで、意味がないということを。根崎さんは虫の息だ。意識が途切れ始めて、口に入った血を咽せて吐き出すこともできずにただ泡立たせている。このままでは死ぬだろう、いや、何もしなければ、彼は死ぬ。ここから救急車を呼んで、運んで、治療したところで死んでしまうかもしれない。なのに半分の神様はまだ彼に敵意を向けているのだから。でも根崎さんも失うわけにはいかない、今私たちの部には神忌は根崎さんしかいないし、まだ誕生日のお祝いも渡せてないし、それに彼は、彼は、それに、でも。
「……とんだ反則技ね、全く」
彼女は、半神は……何かと話し終えたらしかった。明らかに不機嫌な顔をしていた。そして彼女が手を前にやるような素振りを見せると、誰かの手に顔を覆われるような感覚がして……。
惨劇は消え去っていた。噎せ返る血の匂いも、根崎さんの詰まったような呼吸も、ねじれたまま震えるいくつかの肉体も、私のめまいと痛みも、何もかもが消え去って、ただここには平和な礼拝堂があった。端で小さく固まってその場をやり過ごそうとしていた信者たちも、皆倒れ伏していた。
「あー、もう。そういうのあるんだったら初めから言ってよね、反則でしょ」
私たちには未知の技を散々使ってくる理不尽な災害は、そう言って長椅子に座った。私は怪我のショックからか、気絶している根崎さんの元に寄り、その肩を抱えた。傷はなかった。でも氷を抱えてるみたいに冷たい。正直、私が抱えて素早く動けるはずもないが、できるだけ早くこの場から離れるに限る。彼女は恐ろしいものだ。今、触れてはならない。牛の歩みで根崎さんを引きずりながら、私の意識は高田さんに向く。フラッシュバックするのは、彼のおかげで私が生き延びたこと。
「ちょっと、何も言わずに出て行くことないだろ、せめて挨拶くらいするのが人間の礼儀じゃないの」
何が礼儀だ、言いかけた言葉をゆっくり、ゆっくりと飲み込む。
「……失礼します。部下を、探さなくてはならないので」
「怯えなくても、もう襲わないよ、今回のことでは。止められちゃったもん。流石に私でも、神様には逆らえない」
彼女はどこからかタバコを取り出した。火はなぜかもう付いている。それをひと吹かしすると、すぐに「まっず!」と言って握り潰してしまった。そして「はあ~クソウザい上に持ってるものまで悪趣味なんて、終わってるじゃん」とボヤき、立ち上がる。
「いーい?今回は引くけど、次会ったら解体して冷凍庫に保存してゆっくりおいしく食べちゃうんだから」
抵抗する子豚に言うみたいな声だった。彼女はそのまま根崎さんを抱えた私の鼻をくい、と押すと、ヒールを鳴らして部屋を抜けていった。そしてそれすら夢か幻だったかのように、次の瞬間には消えていた。
高田さんを、すぐ近くの階段の踊り場で見つけた。そこは地下の中で一番近い窓がある場所であった。窓から暖かな光が漏れて、彼に降り注いでいる。それを振り払えたらどんなにいいだろうと思った。でも、根崎さんを抱えたままでは私はここを登ることができなかった。根崎さんの身体は、怪我が治ったはずなのに驚くほど冷たくて……。
根崎さんの下敷きになったまま、わあわあ泣いている私が発見されたのは、それから三十分後のことだった。冷静さを欠いて、混乱の極みの中で、ただどうしようもできず泣いていた私は、今思うと恥ずかしいくらい不可解で、どうしてあんなことをしてしまったのか、冷静にスマホで連絡を取るとか、一度二人から離れて上に人を呼ぶとか、できたはずなのに。ただ私が、そうさせてはくれなかった。小さな体には私の癇癪は大きすぎて、抱えきれなかった。
いずれ、起こるであろうとは考えていた。彼が四肢を失うのは、これで二度目だ。
彼の判断は、正しかった。神景会は数少ない我々の協力団体で、特にパイプ役である龍禅院さんがいなくなれば、たとえあの組織が生き残ったとしても、今後の協力を仰ぐことなど不可能だろう。それに、根崎さんが五体満足で帰ってきたのも大きかった。
ただ正しかったからと言って、正しいからと言って……良いわけない。良いわけないじゃん。そんなの。思い出すのは、彼が右腕をなくしたときのこと。頭の中で幻肢痛に耐える彼の呻き声がこだまする。まるで他に降りかかるはずだった苦しみを全部背負ったみたいで。そこからだ、私がそっと高田さんや根崎さんの部屋に忍び込むようになったのは。眠れないんだ、私はそれに甘えただけ。頭の上を通っていく、少し荒い寝息を聞くまで眠りたくなかっただけ。
病院の廊下は明るい。足を切るとなれば、市役所の地下なんかじゃ足りないから、遠い病院まで運んだ。手配してくれたのは神景会の、天蓮景様だった。夕日が灰色の床を濡らして、嫌が応にも先ほどの一瞬の惨状を思い出させてくる。人気は不思議なくらいなかった。
根崎さんは変わらず煙草をくゆらせている。病院だからと言っておかまいなしに彼の周りをもうもうと白い煙が舞う。石膏の天井もクリーム色の壁も、おそらく煙草の煙なんて浴びたことがなかったろうに。真っ白なそれは彼の全身をぼやかしているかのようにも見えた。
「……なんて顔だよ」
彼は私の姿を分厚いレンズ越しに見つけたのだろう、そう話しかけてきた。そんなものはないはずなのに、彼は血濡れてみえた。厚いはずのスーツから染み出した血が病院の椅子を汚して煙草を持つ掌にすら、赤黒くこびりついたそれが残っているような。
「……根崎さん、大丈夫?」
「一番軽傷のやつは言うことが違うよな。はは、まあいいや、一本吸うか?」
彼の上機嫌な口ぶりに体が固まる。それを見て彼は面白そうににやりと笑った。
「けけ、辛気臭え顔しやがって、まだあいつは死んでねーだろ、今そんなことでどーするよ」
彼が吐き出した煙が顔面に直撃する、目に染みた、いや、染みただけじゃない痛みが両目に降りかかる。
「高田さん、は」
「お前さあ……考えすぎなんだよ、大体、生まれた時から恵まれたやつなんだからさ、これくらいの不幸があるくらいでちょうどいいだろ」
「なにを」
「俺と違って良い思いしてきてんだからよ、これくらいの不幸がある位でちょうど良いと思わねえか?」
だから嫌いなんだけどよ、と、吊り上がる口の端、慌てて押さえつけた左手は、やはり血に塗れていた。
「見たか、わかってたくせに、足が動かなくなったってわかった瞬間、すげえ顔してたぜ……」
「……っ……根崎さん、あなたって人はほんとうに……」
いいかけて、やめた。私が言えることじゃない。
「おい、お前も良い加減目ぇ覚ませよ。あいつは今回怪我も何もしてねえだろ、俺と違ってよ。そんで祈るって決めたのはあいつの勝手だ。なのにあのざま……あれはよ、かわいそうだね、辛いねって言われたいだけなんだよ、アレはよ。裏で陰口叩いてるくらいでちょうどいい……」
ばしゃ、と突然彼に横殴りに水がかかった。白井さんが、水の入った紙コップを持ってそこにいた。
「館内は禁煙だ、消せ」
「シケたこと言ってんじゃねえよ先生様よ、にしてもアンタも学ばねえなあ、人にコップの中身をかけるのが趣味なんか?」
「…、…吸うなら出ていけ」
「うわあ、うっぜえ」
大体濡れたから持ってたやつはもう吸えねえよ、あとで弁償しろよお前、と、ブツブツとぼやきながら彼は立ち上がった。私は彼の後に続こうとして、やめた。
「最低だな、お前」
椅子を擦る後ろで、白井さんの声が聞こえた。
「……褒め言葉だな」
対する根崎さんは笑っていた。そのまま、肩を震わせ、廊下に革靴の音を響かせて行った。