彼らの継承してきた魔術は、神々の感知・探知を歪ませることに特化した技法である。二人の人間を用意し、幼少期から特殊な環境下で養育することで神々の悪意や善意を片方に偏らせることができる。ただしこれはあくまで神に本格的な関心を寄せられない場合のみ有効な技法であり、認識の修正が行われた瞬間に全てを失いかねない諸刃の剣でもある
神山神社ではこの魔術を代々受け継ぎ続けており、自らの子供に、時には孤児を拾ってきてでもその継承を行なっている。
幼子を教育し、善に偏らせた人間と悪に偏らせた人間を生み出すことで、神々に認識阻害を起こさせる技法。
神々からの干渉をある程度コントロールすることが可能となるため、有用性が高く、かつて創始者は冷徹系統の魔術師たちと手を組むこともあったと伝えられている。
魔術的現象を対処するための窓口として神山神社は建立されたが、現在はその意味をほとんど失い、ただの神社として扱われている。
幼少期から神職としての教育を受け、神が欲するほど美しく清廉に育てられることで作られる人型の呪物
(成人してからこの要素を与えることも可能ではあるが、能力は限定的になる)。
対として育てられる神忌の分も神の寵愛を受けるため、自らの肉体を神々との取引に使うことも可能である。神主としての正統な教育も受けているため、神山神社を引き継ぐのは主に神愛の役目となる。
神愛への教育は難しく、身のこなしから思考内容にいたるまで徹底的な矯正を行い、全てが統制される必要がある。他者への思い遣りとそのための自己犠牲を厭わず、清廉潔白で他者を決して否定しない人間であることが求められ、それ以外の思考は基本してはいけない。
その思考回路は冷徹系統の魔術師に似せて作られたという説もある。
神愛が神への寵愛を受けるために穢れを流した存在だとすれば、神忌は穢れを受け止める存在である。
この世の全てに刃を向け、他者から嫌悪され顧みられない人型の呪物として育てられる彼らは、基本的に世間に対して強い憎しみを抱いている。その憎しみの中心にいるのが彼らにとって全ての元凶である神愛なのだが、神忌は神愛を殺すことができない。
神の認知を歪めて存在する神愛と神忌という呪物は、互いを攻撃してしまうと、その歪みを悟られ突然その能力を失いかねない危険がある。また仮に殺してしまった場合は、その歪みが直接反動となってかえってきてしまう。その反動については諸説があるが、悍ましい死に方をするとだけは伝えられている。
人間の多くは神愛や神忌の要素をある程度持っているとされ、成人後にその要素を増長させることで仮設の神愛・神忌にすることができるが、稀にどちらの性質も持たないこともある。
彼らは路傍と呼ばれ、神の関心を寄せ付けないことから、神愛や神忌のサポート役に回ることが多い。
だが神に関心を寄せられない、という説は間違っていると筆者は考えている。
神に関心を寄せられないことは、そもそも人類の悲願なのだから。