根崎には、時々眠れない夜が訪れる。身体は泥みたいに思い通りに動かない、意識を保ちたいとも思っていない、なのに目を閉じた時に闇が皮膚に侵食するような感覚がじわりと伝わってきて、とても目を閉じていられないような夜が。浅く息をしながら、あり得ない幻覚と戦うせいで、衝動的に時々無理にでも身動きを取って自分の肉体があることを確認してしまい、また眠りにつけない。それが気を失うまで続く、夜。しかも今夜はより一層不快な夜だ、そう、たとえるなら、自分の上に落ちた瓦礫に圧迫され続けているような息苦しさとか…….。
……すぐに聞こえる大きめの寝息。流石に違和感の正体に気付く。動きにくい身体を捻ると、見飽きた顔が人の布団に涎を垂らしていた。
「………なにやってんだ馬鹿野郎!!!!」
大きく振りかぶった拳が奴の後頭部に直撃した。……のに、起きない。不審感を抱き、試しに鼻と口を抑える……起きない。となると、何かあったとしか思えない。一番最悪の事態は神関連の何か、次に良くないのは、神関連のものほど切迫感はないが、誰か悪い人間に騙されて薬を盛られたか(そもそもこいつは、気付いてもそれを断れない)、あるいは何も考えずに部屋を間違えてそのまま気絶したかのどれかだ。だが、どれであったとしても今根崎にできることは何もなかった。
……昏倒している高田は大体70キロ程度ある。両腕が無いくせに、尋常でない筋肉達磨だ。おまけに、そいつが自分に絡まっているのだ。暗闇で身動きが取れないため「絡まっている」としか表現できない。……キッッツ。
根崎は普段から恨み言の多い男ではあるが、自らの不運を普段の3倍くらい口汚く罵り神を呪った。呪おうが恨もうが身をよじろうが何も進展がないことがわかったので、諦めて動くのをやめた。苦渋の決断で透子に助けを求めようかとも考えたが、この部屋が防音仕様であることを思い出し、途端に力が抜けた。詰んでいる。もう目を閉じてしまった方がマシだ。できないことへの更なる打開策を考えられるほど、自分の頭は上等にできてない。
しかしこの筋肉達磨、不幸中の幸いと言うべきか
さすが筋肉達磨なだけあって非常に良く熱を発した。それは根崎の幻覚をぶち壊すほどにむさ苦しい現実だった。更に季節が幸い冬だったこともあって不快感は軽減されていた。その上高田は無防備に呼吸しながら大人しく眠るばかりで、何も起こさなかった。流石に暫くは苛々としていた根崎も、それが全く安全かつ無防備であることを嫌でも実感してしまう。すると、久々に自然と意識が柔らかく溶けていった。それは砂糖菓子が湯の中に溶け出すように自然なものであった。
ふと、高田は何かを知覚した。先程までの記憶が断絶して、急に薄暗い部屋の中にいた。頭も意識も回らず、ぼんやりと目を開ける。彼にとっては見慣れたものが目に入る。
(……わぁ、根崎だぁ……)
思わず彼は破顔した。夢か何かだと思った。根崎が同じ布団で寝ているなんて、まるで子供の頃に戻ったかのようだ。あの頃はお互いの家によく泊まって、同じ床に布団を敷いてこうして眠ったものだった。それは高田に穏やかな過去を思い出させた。静かに寝息を立てる根崎は、久々に見た顔をしている。
……なんて良い夢見だろうか、まるで何も起きなかったみたいだ。
ああ、明日起きても、忘れてないと、いいなぁ……。高田はまた静かに瞼を伏せた。
朝、久しぶりの熟睡から根崎が目覚めると、即座に達磨の寝相が悪化していることに気付いた。頭の上に人の足が乗っている。
根崎は躊躇せず、スーツのまま大の字で寝ている男の鳩尾に肘を落とした。
「うっ……あ、根崎……え?根崎?」
防御力が高いので軽くうめくだけで彼は目覚めた。
「やっとか……早くどけ!!!」
「え、あれ、俺、なんで?!ええっ……ごめん!!!」
「だから早くどけって!!」
「わかっ、わかった!!えーっと」
「あだだだ?!テメェわざとだろ?!?!殺すぞ!!!」
「ちがうちがう!!、ちがうけどごめん!!」
暫く悶着あった末、昨日何があったのか確認したところ、明らかに怪しい青いお酒を女性に勧められ断れず呑んだ高田が、そのまま強靭な理性と類稀なダッシュで帰宅した上で昏倒した事を聞き、不可抗力とは言え腹を立てた根崎に追加で三発殴られるなどの珍事は起きたが。
それはとても平和な朝であった。