日も落ち白みかけた頃、一人尖った岩場の多い洞窟の入り口で、白髪の青年が焚き火の準備をしていた。
彼はなんだか落ち着かない様子で頭を掻いては、火付用の木材を積み上げようとしたり、はたまた崩してみたりしながら岩場で足を組んでいる。
一見目立つ白髪以外あまりにも普通の青年である彼は、そのくせ普通の人間ではなかった。
魔術師と呼ばれる、神に逆らい人の理から外れた存在。その中でも相応の地位にいる彼は人からは「冷徹の魔術師」と呼ばれていた。
冷徹の名は彼が魔術師集団の中で下す判断や行動に由来するものであったが、誰かを待ってそわそわしているその見た目からはとてもそうは見えない。老化を止めており相応の年齢に見えないこともその理由の一つだ。
彼の様子は、まるで厳しい師に叱られるのを待つ弟子だとか、あるいはよく知らない相手を待つ少年のようにすら見える。しかしそんな甘い話で彼が心ここにあらずなわけがなかった。
冷徹 Side
……胃が痛い。
ああもうやだ、なんで忘れちゃったんだろうな私。
結局今日まで思い出せなかった。
魔術師にはままあることだから仕方がないとはいえ、本当にそういうつもりはなかった。
今日の日没後、……光輝の魔術師と私はここで待ち合わせをしている。
さらに加速したであろう、高速で捲し立てられる質問と情報共有に私が果たしてどこまで着いていけるのかとか、うっかりあの人の判断に障るようなことを言って殺されかねないかとか、そういういつも通りの心配はあるのだけど、それよりも何よりも。
……忘れてしまったのだ、あの人の本名を。
私は深く深くため息をついた。
どうせあの人本人も覚えていないだろう、と思ってもそれでも後悔と自己嫌悪が渦巻く。
我々魔術師は、もちろんその習熟度にもよるが、スキルによっては、とんでもなく長寿になることができる。
かくいう私もすでに700歳を超えた、はずだ。
はずだ、というのは、それだけ長く時を超えると同じ場所には留まれなくて、そうなると持つものも限られる流浪の身の中でさまざまな暦や文化、言語の中に身を置く。つまり、しっちゃかめっちゃかの国やら集団やらに身を置く中で、私たちはどうでも良いものからどんどんと忘れていってしまう。
だから、私は何年に生まれて、そこから何年経ったか、なんて正確にはわからないんだ。
そして魔術師の職業病として、いずれ自分の名前を忘れる、というものがある。
だってその時々の文化圏の中で発音できないとか、意味がわからないとか言われるうちにそれが通称になって、二つ名になってと混迷していくうちに、自分の名前なんて簡単に風化してしまうのだ。
大体個人が識別できさえすれば、そこまで大切なものでもないよね、というのが割と良くある考え。
ちなみにメモは、すでに読めなくなった字で描かれた石板を旅には持っていけないことや、紙や布は魔術を書き留めるために使うので精一杯で、それも簡単に風化してしまうので持ち続けられないため、あまり意味を成さない。
だから、時々自分の名を呼んでもらえる、というのはそれだけ貴重なことなのだ。貴重なことの、はずなのに。
「火はつけないのか」
上から声が降ってきて私はハッとして振り向く。
仁王立ちした光輝の魔術師が、こちらをじっとみていた。その瞬間、地平線に最後の日の光が落ちていくのが見えた。
いやすみません、今点けます。そう言おうとしたら目の前で赤い炎が灯った。
「お前が築いた新たな拠点のことだが、そちら神が注視しているようだ」
本題が始まってしまった。
「……それについては問題ないですよ、あれは私の系譜のものがいるのではなく、あくまで実験的に作った集落の一つなので」
「問題ない、というのは集落に襲撃される要素がないという話をしているのだろうが、そうではなく、神々が我々の行動を把握しようとしている。魔術師の有無ではなく魔術師に利用されているという事実が彼らの視線を誘う程度には状況が良くない」
「……なるほど、ではあれは普通に村として動かし、私の手を離します。豊かにしておけば集落が増えるでしょうから、そこの一つを選別して囲います」
「そうなると宗教対立が起きるだろう」
「今実験的に作ろうとしている概念があって…。」
「わかった、ではこの内容で進める」
あー、終わった、疲れた……疲れたけど、言わなければならない、そしてこの人すぐ消えちゃうから今言わなきゃ意味がない。
「あの、すみません」
「なんだ」
「ごめんなさい」
「だから何がだ」
「……あなたの、本名、忘れました……」
「それがなんだ」
……ああもう、だから嫌だった。
「お前が私の名前を覚えていようがいまいが些細なことだ。一々そんなことで気に病むんじゃない」
当たり前のことのように言う。
当然だ、私にそう教えたのはこの人なのだから。
光輝の魔術師は、こういう人だ。
神と対立するために、すべての無駄を削ぎ落とし、可能性のために賭ける人。
私も大概自分のことはわからなくなったが、この人はもう、ほとんど残っていないんじゃないかと思う。彼が人であった時代を覚えている人物なんてもう一人もいないのだから。
そして今ここで、この人は自分の本名を呼ぶ人を失った。
またひとつ、この人の人間性が失われたのだ。
それは、私からすればとてもではないが耐え難い内容に思える。
まあ、それに頓着しないことに、肝心の彼の名を忘れた私が腹を立てる資格はないのだが。
「……いや、でも、覚えていたかったんですよ、私は」
「いいと言っているだろう。自己満足の部類だ、それは」
「……まあ、はい、そうですね」
「では、私はそろそろ下がる……、冷徹の」
「はい」
「……お前が気にかけるべきは、もっと下の人間だ、覚えておけ」
そう言うと彼は振り返らず、闇の中で蝋燭を消した時の光のように一瞬で消えてしまった。
胃の次は頭が痛かった。まだ光輝の魔術師が点けた焚き火は燃えている。
私はかつて神から得た魔術を、自らの共同体を保護するために用いた時、光輝の魔術師と出会った。
彼は魔術師となってからずっと神と対立してきた者であるため、私達を敵性勢力と見たらしい。
一瞬で私の首は掴まれ、あと数秒あれば喉ごと潰され脳髄を破壊されていたと思う。だが彼は私が神を憎んでいることを、私の目と村を一瞬眺めただけで洞察した。そして一言二言会話したことで私が人類にとって有用であると結論づけた彼は、そこから少しずつ適切な魔術の使い方を教えてくれた。
彼は……私の師に近い存在だ。
共に過ごした時間は短いようで、生きてきた年月を思えば数年共に暮らした程度の年月にはなるはずだ。
……だから私は知っている。あの人は本当はもっと人間らしい人だと。
うちの集落の子供からままごとで手渡された泥団子を、手放すタイミングがわからなくなってしまったりだとか。
彼が誰か知らぬ女衆に、家事手伝いに連れていかれてなぜか一緒にパンを焼いていたこともある。
多分、元来のタチみたいなもので、頼まれたことを断るのが割と下手な、不器用なところがあの人にはある。
だから、使命を得て彼は魔術師となったんだろう。
そして、使命感と役割意識のために、あの人は簡単に自分にとって大切なものを捨ててしまった。自分だけしか大切でないのなら、多数決で他が大事なものを守る方が合理的だと自分に言い聞かせたりしながら。いや、多分あの人はそれが正しいと本気で信じている。
……私がそんなことはできない、と言ったら、彼は「できないのか、なら仕方がない」しか言わなかったのに。
……あなただって、私や誰かがそうするように、やりたくない、という意味で少しくらい「できない」と言ったっていいだろう、と思う。
だからせめて、私はあの人が人間であることのかすがいの一つとして、名前を覚えておきたかった。
幸い私が会ったばかりの頃の彼は、魔術師の原則も知らず無邪気に名を聞いた私に、素直に名前を答えてくれた。
その後150年ほどしたら、本人はもう忘れてしまっていて、私が何度教えても眼中にないし脳の容量がもったいないとでも言わんばかりに一切覚えてくれなかった。
なら仕方ない、私が覚えといてやるかと思って、とっくに失われた発音も意味も、大事に唱えて抱えていたつもりだったのに。それなのに……。
今の私の頭にあるのは神に立ち向かうための綿密な計画と人々にそれをうまく伝えるための単語、そして、自分の抱え切れるだけの自分のものだけだった。
あの人の名前は、もはやどこにあるのかわからない。ただどこか、砂漠の砂粒が擦れるような音が含まれていたことだけぼんやりと覚えている。それくらい曖昧で輪郭の伴わない形に成り果ててしまった。
魔術師にとって、自分より上の存在は貴重だ。
魔術を用いている己が万が一何かに精神をやられて狂った時に絶対に首を取ってくれるのだから。
あの人にはもうそんな人は一人もいなくて、ただ正気と正道を通ることを己に課すことしかできない。
ならばどこかで、どこかで振り返られるように、そういうものをいくつか私が取っておきたかったのに。まぁそんなことを言ったら、今日みたいにまた他のやつの事を考えてやれって、あの人は言うんだけど。言われてしまうんだろうけど。
ただ自分の薄情さと情けなさが、じわじわと心臓の上を這っていくのを感じていることしかできなかった。
私は、用事を済ませたのだから早く集落に戻らなければと思いつつ、それでも光輝の魔術師がつけた焚き火を眺めていた。炎の中にまだあの人の名前が燃え切らずに残っているような気がしたから。
しかし、元々短時間用で量の少ない薪だったからか、その後10分と経たないうちに形が崩れて、その火は消えてしまった。
私は諦めて、その場を去った。