葵√の三井と白井のお話。両者とも存命だし恋人と結婚してる。
久々の平和な朝だった。平和な朝というのは突然の急患の少ない夜勤を終え、死んだ目を擦りつつではあるが仕事が終わったということだ。我々医者にとって、仕事がないと言うのは何よりも素晴らしい。そしてそういう時でもそうでない時でも腹は減る。だから同僚であり友人である三井を引っ張り出すことにした。あいつも同じく夜勤だったはずだが、どうせ太陽が昇ったのを良いことに文庫を取り出して読んでいるに決まっている。奴は度を越した本の虫だ。人間に本来備わっている生存の欲求や安全の欲求を度外視して読書をする。一見、勉強家のように見えるが、病院で行き倒れているところを発見され患者に担ぎ込まれる、長期休み明けに逆にやつれて出勤してくる、家の中が火事になった際に本を優先したせいで大火傷を負うなどの医者の不養生どころか生き物としてダメな有様が散見されるため周囲が気を配ってやる必要があった。
あいつの首根っこを掴みながら来たのは近所のラーメン屋だ。ラーメン屋と言っても、家だとか俺だとかついた日本人好みのザ・ラーメン屋ではない。坂の下にある、こじんまりした中華料理屋のラーメンである。値段はそれなり、朝でもやっているが、昼時でも満員になっていることは不思議とないような、そういう小さな店だった。俺は特別味にこだわりがあるわけではないので、行く店は正直どこだってよかった。だが同じ位の距離にある別のレストランに行くよりは、こちらに来たいと思う、そういう店だった。
ラーメンを二つ注文する。三井は結局ポケットから出した文庫を読み始めている。馬鹿だ。頼むものはいつも同じなので特に迷いはない。
三井が結婚してから、もう一年か。
あいつの腕の尺骨茎状突起が小さくなったのを見て思う。確かに三井は人としてダメなところは数え切れないほどにあるが、その分良いところも多い。例えば、こいつは人に好かれる才能のようなものがあった。昔に負った大火傷のせいで見てくれこそミイラ男だが、そんな男が小児科医をやっていて、子供からも保護者からも大いに慕われている。これだけでも、俺はできる気がしない。そんな三井だから、皆なんだかんだ言いながら放って置けないのだ。そりゃ、結婚も早かろう。
三井はラーメンを啜りながら、未だに本に入り込んでいた。片手で文庫を抑えているこいつの左手の尺骨茎状突起とは顔なじみだったから、少し前と様子が違うことはすぐにわかった。包帯から浮き上がるそれの輪郭が薄くなっている。
「お前太ったな」
「えーマジー?」
「マジマジ」
「そういえば包帯量が微妙に増えた気がしてたんだよね」
話を始めるとこいつはゆっくり顔をあげる。普段も、その位の緩めの集中力で読んでいて欲しい。
「てっきり財政難で短くしたのかと思ってた」
「……ちゃんとパッケージに書いてある長さ確認すれば済む話だろそれ」
「まーそうなんだけどねー」
思えば、顔色も良い。低血糖で箸を持つ手が震えていることもほとんどなくなったし。奥さま様様といったところか。時々あいつが本に完全集中している時に、あの若奥様が彼の口に飯を突っ込む姿がフェイスブックに上がっている。あれは「三井が飯を食ってるってだけでありがたい」と俺たちの師である石沢先生にも好評だ。医者特有の夜勤の多い生活も、小説家特有の昼夜逆転生活と程よく噛み合っているようで、俺たちのオンタイムに投稿されるのも良い。
話が逸れた。
「昨日の睡眠時間は?」
「五時間」
「随分とったな」
するとふ、と包帯の奥の目が天井を見上げたのがわかった。彼が言葉を選ぶ時の癖である。
「……いや、俺も、一冊位なら読む時間あるな~と思ってたんだけどね……ははは歳かな~……?」
いや、それはない。こいつの体力は一年前と比べて明らかに上がっている。スタミナもついたはずだ。だって先ほど挙げた不摂生伝説を、ここ最近めっきり聞かなくなっているのだ。それはもちろん奥さんがコイツに飯を食わせているのもあるだろうが、それだけじゃなさそうだ。それなのに歳というのはこれいかに。肉体年齢的にはむしろ若返ってるだろお前。
肉体年齢?運動か……?
ふむ。
「……お前美杏さんと昨日は性「あー言うと思った言うと思った誤魔化してすみませんでした!!」大声で言葉を被せるな他人の迷惑になるだろう」
昼時のラーメン屋は病院の関係者だけじゃなくて親子連れを含む患者さんも多いんだぞ。他人の迷惑を考えろ。
「……いや……うん、そうだけど……」
「単語に関してなら別に二人で普通に話す分には問題ないだろう。人間の営みの一つで人類全ての起源だ。第一それならそんなわざわざ注目を集めるようなことをすれば余計に話し辛くなるし、下手したらもう聞き耳を立てられて墓穴を掘ることになるぞ」
「…………そーだね、白井、お前はそーいう奴だよ……」
静かに席に座った三井の目が泳いでいる。医者なんだから、シモの話だろうがなんだろうが日常茶飯事じゃないか。今更だろうに。後ろの女の子が、手振ってる。三井の患者だろう。つぶらな瞳をキラキラさせて知り合いの先生がいたことを喜んでいる。俺がそれを顎をしゃくって伝える。なぜか一瞬の間に三井は何か言いたげに百面相をした。なんだ?と聞く前に、彼はチラッと振り返って、何かを確認し、手を振り、親御さんに頭を下げた。その後またこちらを向いて、深く深くため息をついた。
「お前さ、本当に……空気を……いや、ごめん。それができるならお前はとっくの昔にできてるよな……はあ。あと、この際もう一度聞かれる前に答えとくけど、まぁ、そうですよ……しましたよ」
「何が?」
「あー!」
その後三回くらい耳打ちしてもらってようやく聞こえた。声が小さすぎて聞き取れなかったんだよな。もっとハキハキ喋れよ。
「……俺……昨日のこと話すだけでなんでこんな疲れてるんだろ……」
「騒いだからだろ」
「そうですね……で、何?詳細でも話す?」
「いや?聞きたかっただけだ、それ以降はいい。健康的で何よりだ」
夜勤明けとはいえ、伸びたラーメンと同じくらいぐったりとしている三井が、俺がそう言ったのを聞いて、一瞬眉を顰めてから、ふと合点がいったように言った。
「あ、心配してくれたのか」
「そうだよ、それ以外何があるんだ」
「いや美杏と話してると感覚が俗な方面にすげー引っ張られるからさぁ……そうだよ、白井はそういうタイプじゃないもんな」
何の話か見当も付かないが、誤解があったのであれば解けたようならよかったのだろう。立ち上がってレジに行き千円札を二枚出した。あ、良いって、貰っとけよ。奥さんにたまには甘いもんでも買っていってやれ。