冷徹の魔術師が死んだ。
その知らせは、まだ一部の人間しか知らない極秘事項。シビュラはその秘密を抱えながら、タイルの床を走る。
こんな建物の中で息を切らして走ったのは初めてだった。
夏が過ぎ涼しくなった夜、月の光は体を温めてはくれない。
彼女はそこから更に地下へと向かう。土っぽい匂いのする建造物の端にある、高位の神官と巫女のみが伝え聞く開錠方法を用いて扉を開く。
そこは現代の文明から隔絶された空間、魔術によって実現された空間が姿を表す。土でできていながらどこにも崩れや欠けのない、完璧な直方体の廊下は、光源は無いのに視界が遮られない。彼女の目的は、その奥の実験室だった。
「ヒエレウス!」
その声はシビュラが普段彼を叱りつける時のものに似ていた。
人の分のお菓子を勝手に食べたとか、実務をサボったとか忘れたとか、ヒエレウスはそういうくだらないことをよくやるのだ。そんな時に彼女はいつもこういう声を発した。
彼は巨大な配管に繋げられた装置の前でビクッと肩を揺らした。バツの悪そうな顔で振り返った顔は……少し、疲れているように見えた。
「な、なんでしょうかシビュラ統括巫女」
「なんでしょうかじゃない!!あなた今何しようとしてるの!!」
「えーっと……、修理?」
「何が修理よ、ふざけんじゃないわよ!」
シビュラは怒髪天の勢いだった。しかし普段ヒエレウスを叱る時以上の真剣さが籠っている。
冷徹の魔術師は自らの死期を悟った時、ある置き土産を残した。
それは、これまで冷徹の魔術師が使用してきた杖と、彼本人の脳髄を使って作り上げた……一つの世界、と呼べるもの。
楽園、と彼の人が呼んだ世界は、人間が死後神に囚われないようにしたシステムで、そこでは人が無念の死を遂げないよう、それぞれが満足するまで静かに余生を過ごせるという、いわゆる死後の世界だ。その効果範囲はこの集落全体の、その子孫に永遠に続く。
そして、今はただ、この混乱を民に伝えないようにするにはどうしたらいいのか、という話し合いで毎日忙しい、はずだったのだ。なのに。
「このシステムには、まだ欠陥がある、ほら、この絵を見てくれ。こことここの論理回路が破綻しているだろ。素材が少なかったせいもあるんだろうが……あの人も、間際だったから、そこまで見ておけなかったんだろうなあ」
「それであなたが犠牲になるつもり?」
……ヒエレウスは、今度は反応しなかった。
この巨大な装置は、人間でできている。修正するためには、当然材料として人間が必要だ。彼はそういう時に他人を使うような男ではない。
「……これは……人類の悲願だ。人類の人としての自由の奪還に、一歩近づく。そうだろう? シビュラ」
彼は当たり前のことのように言った。
それはシビュラが普段外から見ていた、強がって人前に弱さを見せないでいる時の頼もしい彼の姿だった。それがシビュラには非常に癪に障った。
「……ふざけんじゃないわよ……あんた、あれだけ……あれだけ死にたくないって、言ってたくせに……今更、できた為政者ぶってんじゃないわよ」
ヒエレウスは、ちょっとしたことですぐに自分の死を察知して泣き言を言う男だ。わあわあ弱音を吐いて、しばらく暴れて……それでその後、腹をくくって良い方法を探る。ただシビュラは今回、ヒエレウスが静かに決断をしたことが不可解で気になっていた。
「……息子だったんだ」
ヒエレウスは、シビュラの鋭い視線に観念したかのように、ぽつ、と話し始めた…
「……なに?」
「僕……あの人の、冷徹の魔術師の……血のつながった息子だったんだってさ」
そう言って髪を用いて神経を接続するヒエレウスの表情が、読み取れない。
「それも、神の呪いでできた子だったって。ルクスさんと混ぜた命を体に植え付けられたとかで」
あれ待てよ、僕は父様の体から出てきたらしいから、ということはあの人は母上ってことになるのかな。などと、緊張感の無いことをヒエレウスは言う。
彼はただひたすら冷静だった。
何が言いたいのよ、シビュラはそう言ってやりたかった。しかし言葉が詰まって出てこない。
「父様が言っていたよね、女は魔術師になってはいけないって。それはあの人がきっと自ら感じていたことだったんだと思う……僕が、生まれた意味が、あの人を殺すための呪いだったとしたら……せめて、最後にはあの人の祝福になりたい」
……なんてバカなことを!
シビュラはこの男を平手打ちしてやりたかった。
「シビュラ、君には悪いことをしたと思ってる。でも、君以外に特に迷惑のかかる人もいないから……どうか、許してほしい」
ついに我慢できず、シビュラは男の胸ぐらをつかもうとした。
しかしその手は、空を切った。
「……え?」
「……君に説得されるとさ、僕って折れちゃうじゃないか。いや、まあ、その、なんというか……惚れた弱みというか……」
男の体は、よく見ると透けていた。シビュラが辺りを見渡すと、ヒエレウスお得意の魔術による多重構造体が、周囲の光を反射させてどこからかこの男の影を映していたことに気がつく。
「……だからその前に、決断しないとさ」
笑う男はすでに残像だった。
そしてシビュラは気づく。これは、最後シビュラが駆け込んでくることを察知してヒエレウスが残した何かなのだ。
……つまりもう、この世に彼は、いない。
「……、……嘘よね……」
「……嘘じゃない」
「嘘でしょ?!嘘って言いなさいよ!!ねえ!!」
少しずつ、少しずつシビュラに実感が伴ってくる。
その絶望の輪郭は、大きすぎてとてもじゃないが、シビュラの心では抱えきれなかった。
「どうして、どうして!ねえ、なんでよ!!そんな急に!!」
それでもその暗黒は身体中に広がって、耐えきれずシビュラの瞳から涙が溢れる。
「なんで、なんでよぉお!ねえ!!なんで……なんであなたが……!」
「……あの人の次として、責任があるから」
彼が言ったその言葉が、最もシビュラにとっては腹立たしかった。
「ふざけんな!!そんな馬鹿なこと……!そんな、その、そのためにあなたが……あなたがいなくなるなら……人類なんて全員滅べば良いのよ!!」
叫ぶように発した本心に、彼は一瞬、はにかむような顔をした。
しかしすぐに、諭すようにシビュラに言った。
「ダメだよ、それは……根本的な解決にはならない」
「だって、だって!!知ってるでしょ、私が今までどんな……!」
シビュラは元々、大きな憎悪を抱いていた。
人に対する、強烈に暴力的な憎悪だ。
だって彼らは攻撃的で、弱いと断じた相手を簡単におもちゃにする。
あいつらが勝手にこちらの生まれ育ちを使って気持ちよくなっているのを見るたびに、シビュラは常に獣に蹂躙されているような強烈な嫌悪感を持った。
昔から、ずっとそうだった。両親から見捨てられた時も、孤児である事を理由に卑しいと断じられている時も、実力で立場を得ても下駄をはかされていると陰口を叩かれる時も、彼女は常に憎悪を燃やしてきた。
それでも、憎しみを心の軸に持つ彼女が、社会のために生き、冷静に振る舞ったのは、ヒエレウスがいたからだ。
……彼は、シビュラにとってたった一人の家族、いや、同族だった。
それ以外の人間には同じ生き物という感触を持ったことがなかった。もちろん、そう振る舞わないように努めてはきたが。
だから彼女は、辛かった。
ただ一人の友を、同胞を、仲間を失うのであれば、それ以外の命をどうしてさっさと駆除しておかなかったのかと。
油を撒いて火を放てばよかった。
外の世界に情報を流して攻め滅ぼさせてしまえばよかった。
井戸や作物に少しずつ毒を撒けばよかった。
何度そうしようと思ったかわからない。
それでもシビュラがその行為を思いとどまり、この共同体を守る立場にいたのは、ヒエレウスがここでの生活を愛したからだった。
なのに。彼がいないのであれば、全てに意味はない。
ヒエレウスはかつてシビュラに言った。
バカは教育を受ける機会がなかったか、教育の内容が悪く知識を広められなかったのだと。
性格の悪い奴は自分が生きることに必死で他人を見下さなければ余裕が持てないのだと。
だからシビュラが人を憎むようになったのは政治が悪かったのだと言った。そして彼は、人を満たせるような政治ができれば、問題は解決できると信じていた。
その結論が楽園とは馬鹿馬鹿しい。修正にヒエレウスを使うということは、彼はそこにいないということなのだから。
「……あとどれくらい、あなたはここに?」
「……夜が明けるまでかなあ」
「あなた、私が今夜来なかったらどうするつもりだったのよ」
泣くことにも疲れて、世間話のようなものを、つい、いつものようにシビュラはしてしまう。
「ははは、君は来るだろ。家にも帰ってなかったらまず怪しむ」
確かにそうだ。同じ屋根に住んでいるのだから。
「……ねえ」
「うん?」
「私、本当にあなたより大事なものなんてないんだよ……ほんとに、ないの」
「……知ってる」
「なら、どうして……どうしてこんなことを、したの」
「……。」
彼の表情は動かない。もしかすると、多重構造による投影では、複雑な表情変化を作れないのかもしれなかった。
「……もしかして、私が死んだ後、その楽園に行けるようにって?」
「……バレたら恥ずかしいじゃないか、言わないでよ」
「何それ、ムカつく、気持ち悪い。何も意味ないから。あんたの人生全部無駄よ」
「……そうだね、そうかもね。でも……そうじゃないかもしれない」
投影された実態のない姿で、ヒエレウスはシビュラの頬を撫でる。感触はない。
「でも、僕は訳のわからない神に魂を握られるのではない、本当に自由に生きた君が、最後満足して消えるという話が、とても魅力的に聞こえちゃったんだよ」
「身勝手、エゴイストすぎる、本当に最悪。このままここで死んであげましょうか」
「それは勘弁して、僕が出てる間は楽園は処理中で入れないんだから」
「ふぅん、良いこと聞いた……」
「……。」
「……いや、あなたがそこの対策をしてないはずがないよね」
「さすがよく分かってる」
石橋を叩くことに関しては、彼以上に得意な人物はいない。だからこんな真似ができたのだ。
つまり、シビュラに最早何も打つ手はない。
また彼女は涙を流した。そこに、ただ、シビュラの悲しみを少しでも慰めようという目的を持つ、なんともお優しい死人のホログラムだけが、彼女に寄り添っている。
それでは何の意味もないはずなのに、それでも、今ここでこの残像も消えてしまえばそれこそ耐えきれないとシビュラは思った。
「本当に、あなたって私のこと、よくわかってたのに。なんでよりにもよって、1番嫌なことするかな」
「……1番嫌な事をすることになったから、色々用意しといたんだよ」
「……本当に嫌い、そういうところ。馬鹿で」
これは私が全てを受け入れられるように、彼が最後に残したありえないほど頭の悪い優しさだ。
だって本当に彼が器用で賢かったら、先に死んでおくなんて最悪な行動をとるはずがない。
……ずっと賢い人だと思ってたのにね。
ヒエレウスは最早言い訳しなかった。それがもう本当に諦めるしかないのだという事をシビュラに強く痛感させ、また彼女の瞳に涙が滲んだ。
どれくらい経ったのだろうか、ヒエレウスが空気に紛れはじめた。
「……もう、行くの」
「うん、そうだね」
「……どうしても、どうにか、ならないの」
「……ならない……だから君は、僕のことなんてとっとと忘れて、もっと良い人を探すとか」
「ふざけてるの殺すわよ」
「死んでるんだよなぁ。……でも、人生まだまだ長いんだから、僕なんて簡単に……思い出になるよ」
ああ本当に、なんて残酷な人なのか。
シビュラは最早、かける言葉を失ってしまった。
「……じゃあ、シビュラ……」
「またね」
その言葉は最後の反抗だった。意味のないこととわかっていたのに。
「……また、ね」
彼が、一瞬泣きそうな顔をしたような気がした。
そして、残像は消えた。
……まるで夢でも見ていたみたいだ、とシビュラは思った。そしてその瞬間、人のための理想郷が後ろでようやく正常に鼓動しはじめる音がした。
しかしシビュラにとっての楽園は、今この瞬間に死んだのだ。
そう思うとシビュラは本当に、何かにこの悲しみをぶつけてやらねばいられないと、強く思った。
それこそ、繁華街を飛び出して、手当たり次第に人を殺してやりたいと本当に思っていた。どうせそんなことをしても、彼らは楽園に取り込まれ、傷を癒やされ何の復讐にもならないのだけれど。
今度こそ本当に虚しくなった彼女は、楽園の配線のつながりをぼうっと眺めた。なにかに手をつけなければ、とても正気でいられる自信がなかったのだ。
「……あれ?」
ふと見かけた回路に、違和感があった。このままの配線では、今は稼働できても、そのうち暴発してしまうのでは?
何度も何度も通り道を眺めたが、その異常に間違いはなかった。
「……はは、あはは、どうしようね、ヒエレウス。本当にずっとやってやりたかったことが、目の前で実現できそうなのに……いざ目の前にすると、どうしてこんなに、虚しいんだろ……」
……これを、見逃せば、みんな無駄死にするだろう。それこそ自分の望んだ通りに。なのに、食指が動かない。それをしても何もならないと体が知っているかのように。
だって誰を害したところで、その後の目的が達成できないじゃないか、そう考えている自分に気がついて、シビュラは頭をあげた。そうだ、憎たらしい人間を殺すことが目的なんじゃない、ただあの人たちから二人で解放されたかっただけなのだ。
「……そっか。それなら私は、ただあなたと……旅にでも出ればよかったんだ。なんだ、なら、もう全部、本当に意味がないじゃない……そこまで見越してたから、私を一人残せたわけだ。……意地悪なやつ」
シビュラが目を閉じると、思い返されるのは、普段割とみっともないけれど、正直に、素直に人のためになることを考えてはそれを実現しようとした彼の姿ばかりだ。あー嫌だ嫌だ、面倒臭い、関わりたくない、なんで自分がこんな苦労を、嫌いな奴に塩を送るような話だ、そう思い浮かぶ愚痴は、ヒエレウスの姿形と重なって消えていく。そして。
「……それで、この後は切り替えて……腹括ってやり切るんだよな、あなたは……そんなに楽しかったの? そういう苦労が。どうなんだろうね」
シビュラはふと、自分がヒエレウスのようなことをしてみたら……いなくなった彼が自分の中に戻ってくるのではないかと、ふとそんなことを考えた。それは非常に現実味のない逃避行動だった。でも。
「……やるだけ、やってみる、か」
時々ヒエレウスが頭を抱えながら口にしていた言葉を自分も唱えてみる。
すると不思議と、やることが頭に浮かぶ、足が動き始める。それがまるで彼に背中を押されているように、思えてならなくて。
シビュラは歩き出した。その先に続くのは明るい道ではないような気がしたけれど、今はただ、それ以外にできることが思い浮かばなかった。