ソロモンは、「それ」の見た目を、オレンジ色の宝石のようだと言っていた。
彼曰く、そのフォトンがこの場では予想より少なかったらしい。体の奥で燃えていたメギドの力が突然消えて、思わず膝が落ちた瞬間、敵の攻撃が頭の横を掠めて行ったのを感じた。
振り返った時、あまりにも見慣れ感じ慣れそこに居るだけでいつもの戦闘だと実感できる、どんなに辛い時もむしろ楽な時も疲れる時もともかくどんな戦いであっても、そばにいた気配が、彼の気配が、消えていた。
骨の仮面は彼の矜持だけでも守るかのように無傷だった。
彼の胴体に穴が開いて受け身も取れず倒れた時、彼が纏っていたらしいなんらかの「もや」が敵に襲いかかっていった。彼の身体に張り付いていた呪いが幻獣に向かったのだと気付いたのは、突然敵が全員倒れ、死にかけたオロバスの応急処置が終わったあと、アンドラスが心配そうに、いつもの半笑いでこちらの顔をのぞいてきてからだった。あのもやが無ければ他のメンバーの命も危なかったかもしれない。しかし一瞬、それは彼の犠牲に比べればひどく些細なことのように感じた。ばかなことを、と思わず自分の頬を叩いたのを覚えている。
幸いにも、ソロモンが持たせてくれていた趣味の悪い鞄のオーブのおかげで、オロバスの命は本当に首の皮一枚でつながった。彼を救ってもらって趣味が悪いとは失礼だけど、動かない彼を見てこんなに肝が冷えるだなんて思ってなかったんだから、仕方ない。
私達は重傷者であるオロバスを搬送するため、という理由もあって、一度アジトに帰還した。一旦休憩する運びになり、私もひどい顔をしているという理由でオロバスと同じ医務室に寝かされている。ひどい顔だってさ、血の滲んだ刀に映してみたけど、よくわからない。17歳の私が、ひどく不機嫌な顔でぶすくれているだけだった。そんなの、よくあることだ。
隣のベッドに、仮面をつけたままのオロバスがいる。折れた骨のカケラを踏むと痛い、と言っていたのを、唐突に思い出した。首の角度が仮面のせいで鋭角になっていて、寝苦しそうだし出来ることならその頭の覆いをとってやりたかった。でもできない。彼のポリシーを尊重して、アンドラスですら手をかけなかった仮面なのに。
……いや、正確に言うと、魔術的な作用が働いているらしく、取れなかったみたいだった。隣でバティンがめちゃくちゃな罵倒をしていたのを覚えている……私はそのとき何もしていなかった。何もできないで、それを眺めているだけだった。
アジトの医務室ではカーテンに木漏れ日がチラついていて、さっきの戦闘の気配なんて一つもない。最早傷口から血の一滴すら溢れていない。アンドラスとバティンの治療のおかげだ。でも、受けた傷の痛みだけが名残りとして残っていて、ザガンにさっきまでの焦燥や緊張を囁いていた。オロバスはまだ起きない。
頭部の骸骨も相まって、彼はまるで無垢な屍のようだった。健全に風化して、二度と動き出さない白骨死体に見える。きっと彼の声や、香りや、仕草を知らないヴィータが見ても同じことを思うだろう。
まだ陽の高い午後の陽気の中、ふとザガンは全てが夢や幻であるような気がした。本当は、ほんとうは、メギドの話も、私の能力も全部が全部幻覚で、隣にいるのも仲間ではなく実際は白骨死体なんじゃないか。私は腐臭漂うサナトリウムだか精神病棟にいて、白昼夢のままに死体を掘り起こしてきて仲間だと呼んで、服を着せて、丁寧に寝かせただけなんじゃないか。今、たまたま正気に返っただけの狂人。その思いつきは妙にしっくりきた。
メギドだった頃の自分との精神性の違いに、違和感を抱いていた頃の自分を思い出す。最初こそ驚きのほうが大きくてなんともなかったが、後々になって、そのギャップに内臓が跳ねるような不快感を覚えることがあった。それは平たく言ってしまえば、私の感覚が変わってしまったのを、ヴィータの私が拒絶していたのだ。あのときのように、背筋に不愉快が這い回った。誤魔化すように掻きむしっても、それは依然として背後に取り憑いたままだった。
寝てもいられなくて隣のベッドに立つ。彼の意思を尊重して衣類は戦闘時のままだった。アンドラスは、彼の肉を見ただろうか。彼が本当にヴィータの肉と精神を被ったメギドなら、この服の下にあるのは男性の皮膚で、めくれば鉄の匂いが薬品越しに漂ってくるはずだ。でもザガンはどんなに悲しくてもそんなマネはしたくなかった。だって私、彼のこと何も知らない。この青い布を開いたとき、彼がどんな反応をするのか全然わからない。でも、今すぐ彼がほんとにここにいるんだという確証が欲しかった。彼は10代の少女に持ち去られた哀れな白骨死体なんかじゃなくて、正真正銘の旅の、戦いの仲間だという確信が、ほしくてたまらなかった。彼の吐息か、心音か、声か、それとも何か。
なんでも良かった。ただ鬱屈とした妄想を払いたいだけ。思考を乱したまま、彼の骨の仮面を見た。落ち窪んだ目の奥にあるはずの黄金色の光は失せている。不思議と、木漏れ日が刺してもその空洞の奥は見えない。その時一つ、さっきの妄想よりずっとバカバカしい思い付きが、ザガンの頭によぎった。夢物語に聞いた話。しかし彼女は決めたら早い性分だった。
……触れたのは一瞬だった。
「……う"……ぅ、…………ざ、がん?……妙な所に、いる"っ…ね……」
「オ、ロバス……オロバス!ぁ、えと、待ってて!今ソロモンたちを呼んでくる!!」
彼女は慌てて立ち上がる。顔一杯に喜びを浮かべた彼女の、薄紅色の頬は春先の果実のようで、瞳は燃えた石炭のごとき輝きを取り戻す。でもそれは少女的と言うには、なぜか妙に男らしさのようなものを湛えていた。
彼女はそのまま駆けてゆく。安堵と、緊張と、一気に戻ってきた現実感が、彼女の中の分裂した「己」を一人に戻していくかの様だった。
オロバスが意識を取り戻すまで、時間がかかったわけではない。たかが2、3時間、よくある程度の気の失い方だった。今では、ザガンも自分がどうかしていたことくらいわかる。でも、なんだかあそこで彼に死なれてしまったら、こちらも死んでしまうほど後悔するような気がしたのだ。それこそ彼の最期の魔術みたいに。ただ、こんなことでは戦闘に支障が出る。これから、いっぱい死線を潜るだろうし、また彼や、私が死にかけることもあるだろう……早急に、昔の感覚を取り戻さないといけない。
「ザガン」
治療が終わり、騒がしくも安心したような様子で、みんな病室から撤収していく中、彼に声をかけられた。
「なに、オロバス」
「なんだか君が、随分と心配をしてくれたようだからね、私が目を覚ました時も、真っ先に知らせてくれたようだし。お礼を言わせてほしい、ありがとう」
「いや、結局なにもできなかったし……守りきれなかったし」
「大丈夫、君はできることをしてくれていたよ。今回のことも君の落ち度じゃない」
彼が優しく笑っているように、ザガンには見えた。
「ああでも、寝込みを襲うのは感心しないな」
彼は仮面の歯のあたりを爪で叩いて言った。
それから三日間、ザガンがオロバスと目を合わせることはなかった。