気づいたら、ぼう、という音がしていた。目を覚ました時、既に辺り一面はオレンジ色に光り輝き、咄嗟に火事だと思った。体は動かなかった。煙を吸ったせいか、寝起きだからなのか。
悲鳴をあげることもできないまま、呆然と立ち尽くしている。立っている? まさか、僕は寝ていたはず。
目線だけ動かすともう既に服に引火している。ただ怖かった。叫んでもがいて暴れまわって、全身に回る炎をなんとか消したかった。でもなぜか、できない。もう筋肉が死んでいるのかもしれない。
喉の中に水分がない。舌が口内に張り付いて、空気だけがひゅうぅと通っていく。その空気すら熱がこもっていて、じりじりと喉を焼いている。皮膚に張り付いた服が、全身を溶かすのをより早めているようで、硬直した体を振りほどこうともがけないままもがき続ける。いっそ意識がなくなった方が楽だった。いや、むしろここで僕はどうして正気を保ったままでいるのだろう。既に煙か恐怖で意識を失っていてもおかしくはない。
ぱちん、と背後で音がした。振り返ると部屋の隅に積んであった本が引火している。まずい、と咄嗟に布団を掴んで叩いて消す。もう手に入らない古本ばかりだ、命より大事な蔵書である。
そこではたと気付く。なんで今、体が動いたんだ? おまけに、部屋の周りは燃えていない。燃えているのは、僕だけだった。これは一体どういう……?
……一瞬我に返ったせいか、全身が痛みと熱を思い出し、また正常な思考がなくなっていく。棒立ちのまま、一歩も動くことができない。ただ……ああ、僕死ぬんだな、そう思うのが精一杯だった。
ばん、と大きい音がした。何かまた燃えたのだろうか。今度はふり返ることができなかった。
その音はくぐもっていた。もはや音すら聞こえづらくなっているのか。
「三井!!」
人の声のようなものが聞こえる。いや、人が来るわけがない、だってこんな時間帯、遅くに人間が……。
「しっかりしろ!! おい三井!!」
ばっと何かがかけられた。陶器の割れる乾いた音が、耳をつんざいて、そのまま僕は意識を失った。
「人体自然発火ぁ?」
心底馬鹿馬鹿しいという口調で言うのは、いつも根崎さんだ。
「どーせ煙草かストーブだろ。そんなことで呼び出すんじゃねーよ。こっちだって暇じゃねぇんだ」
根崎さんはいつもそう言う。彼が忙しそうにしているところは、見たことがないのだけれど。不健康そうな浅黒い肌に、タバコのヤニで黄ばんだガタガタの前歯。分厚い丸メガネは、どう見てもオシャレでかけているとは思えない。この風貌のせいで三、四十代くらいに見られがちなのだが、実は高田さんと同じ、二十一歳である。
「まぁまぁ、そうやって決めてかかることでもないじゃないか。それにこっちに話が来るってことは、ただの事故ってわけでもなさそうだ」
そしてそれをなだめながら、ニコニコと愛想よく話を聞くのが、高田さん。いつも笑っているせいで、糸目のように思われがちだが、目鼻立ちの整った、端正な美青年である。彼は人の言うことを決して否定しないお人好しなものだから、根崎さんの格好の獲物になりがちだ。
「なんてったってこのご時世珍しい喫煙者様だ。お医者様は値上げなんて屁でもないんだろうよ」
そう言って根崎さんはポッケの中からぐしゃぐしゃになったタバコを取り出すと、エメラルド色の百円ライターを取り出して、火をつけた。狭い室内に、みるみる紫煙が溜まってゆく。
「お前はどうなんだよ」
高田さんは人好きのする笑みを浮かべたままだ。根崎さんはその言葉を無視したまま煙を吸った。この人が禁煙という二文字を律儀に守ったことは、私が見てきた中では今のところ一度もない。結婚式だろうが葬式だろうが、構わずぷかぷか煙を吹いている。スプリンクラーを誤作動させても、逆に怒鳴り込んで行って向こうに謝らせ、菓子折りまでもらってきたことがあった。
高田さんは呆れた様子で「一本だけにしろよ」と言いつつ窓を開ける。
「……さて、話を本題に戻そう。三井倫太郎さん、三十二歳、職業・小児科医。二年前、タバコの不始末によって住んでいた部屋で火災が起き、重傷を負っている。なので今でも全身に火傷の跡がある、と」
「わあ、子供泣いちゃいそう」
「ところがどっこい、全身に包帯を巻いた『ミイラ先生』として、逆に親しまれているらしい」
私の発言に、高田さんは苦笑いした。そりゃそうか、私、小学三年生だった。子供泣いちゃいそうは、どうも不自然だ。
「子供の方が、案外偏見ないしね~」
ふんわりと笑うのは渡辺さんだ。
「バカってことだろ」
「……あー、話して、いいか?」
「あ、ごめんね~」
彼女は我が科唯一にして一番の高嶺の花。最も美しき紅一点……あ、自分を勘定に入れ忘れてた。まあちんちくりんの女子小学生のことは紅に入れずに薄ピンク程度に思っていたっていいだろう。
「オーケイ……今年の一月になって、三井さんは再度火災に巻き込まれた。前回は重症といえど全身がただれた程度で済んだが、今回はさらに重い後遺症が残る見込みだ。良くて指先の麻痺、悪くて腕を切断だろうと」
「死なねーと分からんバカっているんだな、マジで」
「ところが、彼の友人である白井さんの証言によると、二年前の事件の数ヶ月前から、三井さんは既に禁煙し始めていたらしい」
高田さんは細い眉を寄せて言った。根崎さんとは対照的に姿勢も良く、眉を寄せているだけでも絵になる人だった。
「おいおいたかが「友人」の言うこと真に受けてどーすんだよ。どうせ余罪を軽くしてやりたいとかそういう話だろ」
「目の前で『発火するところを見た」って言ってるんだ、きちんと調査すべきだと思う」
「確かに庇うなら、発火したなんて言わない気がするわ、無理があるもの」
渡辺さんはペンを顎に当てつつ、そう呟く。なめらかなグロスが、蟲惑する花弁のようだ。
「……はいはい、おまかせしますよ」
ふう、と吐かれた煙はゆらゆらと舞って根崎さんの視線を覆い隠した。その煙の後ろで、やっぱり高田さんは笑顔だ。こうして渡辺さんと並べてみると、眼福すら感じる。
「それじゃあ神景会の人に、また頼むべきね〜」
「俺は今回は行かねえぞ、あのババアと喋ってるだけでイライラする」
「根崎、失礼だぞ」
「すんませえん、でも何にせよ俺は行かねえ」
根崎さんはいつも失礼だが、言うことには同意してしまう。基本的にあそこに行くのは、気が滅入るというかなんというか。数少ない協力団体だから、大事にしないとなんだけども。
高田さんは渡辺さんと調査の割り当てを始めた。今回は渡辺さんが妊娠しているから、高田さんが外に出ることになるだろう。それに根崎さんと渡辺さんより、根崎さんと高田さんがペアになった方が効率がいい。
「なら、今回は俺が行くよ」
「点数稼ぎご苦労様〜」
「根崎さん、言い過ぎですよ、それと、私も行きます」
「ありがとう透子ちゃん」
流石に高田さん一人だけに行かせるわけにはいかないからね。
「では、そういうことで」
なんにせよ、私の役割はひとまずここで終わった。椅子から飛び降りて、全員分の冷蔵庫のお茶でも持ってくることにする。こういうときはただでさえお荷物気味なので、少しでも貢献度は上げておきたい。
「おかえりなさい」
「おかえりなさい」
温かい笑みが私たちを迎える。迎えられることに強い嫌悪感を覚えてしまうのは、この場所ならではだろう。本当は、そういう差別的な考え方はよくないのだけれど。
「おかえりなさい、みんな待っていましたよ。ささ、どうぞ」
根崎さんの毒舌を聴き慣れていると、今彼の声がしないのが惜しいと感じてしまう。ここで彼が、何か痛快な一言を言ってくれれば、さぞかしスッとするだろうと思うのだが……肝心な時に居ないのがあの人らしい。ただ、彼が来ると基本的にトラブル必須なので、時間の節約という意味では連れてこなくて正解だっただろう。
宗教法人神景(しんけい)会は、いわゆる新興宗教組織であり、わが神南(かんな)市役所ジン的災害対策部の「協力団体」だ。市内のそれなりに広い郊外に建てられたこの施設は、それなりの規模でそれなりに市民の反対を押し切り建立された。
なんてったって肝心の風紀の方が……正直、あまり良い噂を聞かない。信者が家と絶縁しただとか、熱心な信徒が子供に学校行事を休ませてまで修行させるだとか、裏で始末されるとか、そういう噂ばかり流れてくる。もちろん宗教団体という存在そのものに対する風評被害もあるだろうとは思うが、まあここの場合、それだけではないだろう。最近も、別の課の職員がここに入信したとかで、勤怠が良くないと上司がぼやいていた。
だが残念ながら市としては、ここを無くすわけにはいかない。ので、本当に、非常に気が乗らないながら、日夜面倒ごとの「ある程度の鎮火」を請け負っていた。
彼らをかばう理由は二つ。一つは、ここの組織力と情報収集能力。反発されやすい組織なだけはあり、結束は固く、裏から表までありとあらゆる情報を仕入れてくれる。さらにこの町には信者が比較的多いため、町中の監視カメラのように、信者ネットワークが張り巡らされているのも地味にありがたい。監視カメラに映らないで、人目につくようなものも、あるのだ。もう一つは、ここの蔵書。多くの神社仏閣より仕入れた古文書が、この組織には多く眠っている。これらは、私たちにとって、非常に貴重だった。……廃仏毀釈と神仏習合がなければ、ここにこれほど頼る必要もなかったのだけれど。
神景会本部の建物は、日本の古いお寺のような見た目をしている。しかしそれに反して室内は真っ白に統一され、華美な装飾が施されていた。この差は思わず眼を見張るものがあり、否応なしに神の存在を肯定させてくるので、恐ろしい。
「まもなく龍禅院様のお部屋にお通しします。皆さんゆったりしていってくださいね」
通された応接間は高い天井から燦々と日光が降り注ぎ、白い壁を柔らかく照らしている。絹張りの真っ白なソファに出された紅茶を零しそうで、手が震えた。
「透子ちゃん、大丈夫?」
「う、この持ち方が、マナーだもん」
「……無理しなくていいから、両手で持って。誰も怒らないよ」
高田さんがこそっと耳打ちしてくれるけど、なんとなく恥ずかしくて、意地を張る。ゆっくりと近づけて、なんとか飲んだ。
「……あっつ!!」
思わず取りこぼしてしまったカップを、さっと彼が支えた。手元にはハンカチ。う、すみません。高田さんは本当に器用で気が利く。……彼の手袋が、びちゃびちゃになってしまった。
「……透子ちゃん、大丈夫だよ。大人でもそこまでのマナーは気にしてないから」
「そ、そうかな」
「うん、ひとまず置いておきなよ」
私はおとなしくソーサーに紅茶を置いた。……いや、冷静になってみれば、そんな今無理に紅茶を飲む必要なんてなかった。緊張してたのかな。
「龍禅院様の御仕度ができたそうです。皆様どうぞこちらに」
白い女信者が私たちを奥に手招いた。彼女の顔はやはり暖かな笑みを浮かべている。私はその目をみていると、なんだか取り込まれてしまうような思い込みに襲われて、とっさに目を合わせないようにして奥に入った。
信者が下がると、奥では龍禅院さんがお茶を注いでいた。白無垢に似た着物の中から、黒々とした枯れ枝のような腕が覗き、丁寧に茶葉を蒸らしている。
「あら、孝平さんはお留守?」
こうへい、とは根崎さんの下の名前だ。あの人に孝行の「孝」とは、面白いことを言うものだと常々思ってしまう。
骸骨に人の皮を貼り付けたような顔が振り返る。その風貌に反して爛々と輝く両目からは死の気配は一切感じなかった。
「お久しぶりです龍禅院さん」
「ええ、ええ、おかえりなさい、善輝さん、透子ちゃん」
ちなみに高田さんの下の名前はよしきだ。
龍禅院さんはくすくすと笑う。開いた扇子で口元を隠し、所作の一つ一つに気品が溢れている。そう、一見すればとっても上品なおばさまなのだ……。
最後の信者が恭しく礼をして部屋を出た。彼女がもし、龍禅院さんの本性を知ったらどう思うのだろう。傷つくだろうか、あるいは破門するだろうか……手玉に取られて、駒として使われるような気がしなくもない。
信者が十分遠ざかったくらいの頃合いで、白い蝶のような扇がぱちん、と閉じられた。この部屋は完全防音だと前に言っていたと思うが、相変わらず用心深い。
「で、用件はなんだい」
節くれだった腕と足を控えることもなく晒して、彼女は書き物机の側の豪勢な椅子に座った。龍禅院こと谷原香織は、自らの姉、谷原花枝を教主とした巨大新興宗教団体「神景会」の実質的なトップであり、裏を返せば一代で富と権威を手に入れた実力者でもある。その豪胆さは、年老いてなお衰えていない。
「また調査をお願いしたいのです。できれば二、三日中に」
「人使いが荒いねえ、一ヶ月ばかり前にも頼んできてたじゃない」
「それだけ、事態が逼迫し始めているということでもありまして……」
「で、報酬は?」
この人は本来、お金か、あるいはそれに通ずる交換条件がなければ動いてはくれない。その分の交換条件として「目を瞑って」いるはずなのだが。
「ん? 払うのかい? 払わないのかい? 金がないなら、体で払うかい?」
おっと、小学生が聞いちゃいけないタイプの会話だ。
「……僕の立場、わかってておっしゃってますよね?」
「別にどうとでもなるだろう、そこんところ、で、どうなんだい?」
「……断れると、思います?」
「つっまんない男だねえお前は、あの蛇蝎男の方がよっぽどいい」
お? かなり早めに終わったな、よしよし。彼女はタバコに火をつけると面白くなさそうにそれを吹かした。根崎さんが吸う安っぽいタバコではなく、どうやら高級そうな細身の葉巻だ。儲けてるなあ。
「ま、わかったよ。こっちで調べておく。代わりにあの件、火消しを頼むよ」
「わかりました、いつもすみません」
「思ってもないこと言うんじゃないよ。とっとと行っておくれ。調査結果は、メールで送るから、あ、ラインでもいいよ」
扇子と同じモチーフのスマホケースに彩られたアイフォーンが、袖から取り出された。両手打ち派か、しかも結構早い。「これQR」と差し出すのが、一瞬女子高生っぽく見えたので、私は大きく頭を振った。ないない、大丈夫か私。
「はい、お待たせしました白井さん」
男は無言で立ち上がった。なかなかの好青年で、もう少し髪が乱れて、疲れ果てたような顔をしていなければさぞモテるだろうにという風貌をしている。ちなみに私はパソコンの隙間から様子を見ていた。こんなところにスーツ着た小学生がいたら不自然だからね。
「ここは…ここはどういった所なんですか……」
彼は不安そうに周囲を見渡した。確かにここは、他の部署とも離れていて、歩いてくるだけでもどことなく心細いというか、一苦労だったろう。
「あ、そこからですかぁ、見ての通りの左遷先です、相談も人員も厄介なものの吹き溜まり。科学と法で解決できない厄介な「じんてき」災害専門の部です」
「根崎」
ケタケタと根崎さんが笑って、高田さんが指摘する間も無くするりとその場を離れてしまった。そういえば、給湯室のお姉さんたちが、根崎さんのことを「ゴキブリの擬人化」と言っていたのを思い出す。ああいう人たちは、時々結構な本質を突くよなあ。
「大変失礼いたしました」
「いや……はあ……でも、なんていうんですかね、人的災害……」
「ようは、なんでも相談室みたいなものなんです。どうぞ楽にしてください」
白井さんはゆっくりと受付の椅子に腰掛けた。古びた椅子がキイと鳴く。
「正直、半信半疑というか、この目で見るまで、いや、今でも、僕自身、半信半疑なもので……」
彼は手のひらで顔を覆うと、重く疲れの乗ったため息をふう、と吐いた。
「なるほど、確か、人が突然燃えた、と伺っておりますが」
「ええ……そうなんです……いやでも、僕の、見間違いだったかもしれないな、とも思い始めていて……」
もう何が何だか……と言いながら、彼は呆然と宙を見つめていた。高田さんは労うように微笑みかける。
「もう少し、詳しくお伺いしても、よろしいですか?」
「そうなんですよ! ほんっと俺、びっくりして、最初はどうなんかな? って思ってたんですけど、二回も見ちゃったから」
うーん、お見事です高田さん。
彼の人心掌握術は、正直なかなか真似できるものではないだろう。でも意外だったな、まさか白井さんが重度のアイドルオタクだったとは……。
さっき、ライブに誘われてたけど、高田さんは断れない人だから、行くんだろうな……私の授業参観とか言って断らせてあげるべき? いやでも、多分、なんだかんだうやむやになる気もする。
「だから俺、オカルトの掲示板とか、色々調べたんですけど、わかんないというかありえないというか……そのことをポロっと警察の人に漏らしたら、ここを紹介されたんですよね」
人体自然発火、報告の通りだ。彼は自分で自分が狂人になったかのような態度で口を曲げた。もしかしたら、本来は現実主義者なのかもしれない。根崎さんがタバコを吸いに出ていてよかった。でなければ「信じてないのになんで来ちゃったんですかねえ?」みたいなことを言って、また何か面倒なヤブをつついて蛇なり蠍なりを出していたことだろう。
「なるほど」
そこからさらに高田さんの質問が始まる。
「ふむ、それで、突然燃えた、というのは具体的にどういう状況だったか、説明していただけますか?」
「いや、本当に、目の前でパッと燃え上がったというか、夜勤で、コーヒーを淹れようとしたら、奥にいた三井が突然……」
「服にコンロの火が引火したのでは?」
「火がついたら、普通人は暴れるじゃないですか……あいつ、全身ガンガン燃えてるのに、微動だにしなくて……それで……」
お役所らしく時々書類も書いてもらいながら。彼はするすると白井さんの話を引き出していく。事前情報との齟齬は特になかった。
「……ありがとうございます。コーヒーでも、いかがですか、少し休憩しましょう」
「ごめんなさい、ありがとうございます」
「私も根掘り葉掘り失礼なことを聞いてしまっているので、申し訳ないです」
彼は私に目配せした。コーヒーを淹れてきて、と言うことっぽい。もちろん任せてほしい。
「運ぶのは、僕がやるから」
「大丈夫ですか? 腕、痛いんですよね?」
「まあ、なんとかなるよ。ちゃんと一度みてもらったし」
私は淹れたコーヒーをお盆にセットする。
「別に私は、お母さんだかお父さんについてきて子守されてるって設定で、前に出ちゃってもいいと思うんだけどなあ」
「うーん、子供がいるってだけで、不快に思うお客様もいるからね、やっぱり、極力避けたほうがいいよ。でもありがとね」
私の頭を硬い手のひらがぽんぽんと叩いて、彼はお盆を持っていった。優しさでやってくれているのはわかるが、背筋の毛が逆立つような恥ずかしさがある。あまり子供扱いされたいわけじゃない時もあるのだ。ただ、されたい気分のこともある。しかしそれを他人に察しろと言うわけにもいかない。でも高田さんはそこの察し力が絶妙で、今はむしろちょっと嬉しかった。うん、嬉しかった。くそう、めんどくさいぞ私。
「なぁ、今日の昼メシなんにする?」
「オメーとは食わねぇよ」
事件があろうとお腹は空く。
「僕はチキン南蛮が食べたいなあ」
「チキン南蛮なんて油の塊じゃねーか」
油の塊に油かけるとか正気を疑うね、と言いつつ、ぴ、と根崎の手によってボタンは押される。きっと、出てきた券には「チキン南蛮」と書いてあることだろう。捻くれ者ここに極まれり。
彼は、高田さんの前をわざと邪魔なように通って、閑散とした食堂のカウンターに歩いて行った。人が少ないのは、今が午後三時だからで、決してこの市役所のメニューが人も寄り付かないほど不味いからではない。美味しくもないけど。
「透子ちゃんは何がいい?」
「からあげ定食!」
「それ好きだよね~」
そう言って彼は私の代わりにボタンに手を乗せてくれる。私はポケットから某シンプルなネコキャラクターの財布を取り出し、五百円玉を入れた。
「高田さんはチキン南蛮?」
「うん」
「払おうか?」
「……」
「あ、いやその、ごめんなさい」
「だ、大丈夫だよ」
子猫ちゃんのお財布持って私払おうかとは何事だ私よ。いやこれが高田さん相手でよかった。根崎さん相手だったら嫌味百倍で返ってきてたところだ。ううう、なんか最近ミスが多いぞ私。脳がバグってるのかな。
大人しくカウンターに向かえば、案の定根崎さんがチキン南蛮を運んでいた。
「油の塊なんじゃないの?」
「……俺はこの通りスリムだからいーんだよ」
スリムというよりは不健康、という言葉を飲み込んだ。
高田さんに唐揚げ定食のお盆を持ってもらうのは流石に申し訳ないので、えっちらおっちら、がんばってお盆を持つ。おばちゃんが心配してくれたけど、だいじょーぶだいじょーぶ。あ、お味噌汁こぼれた。
「龍禅院さんから調査の連絡来てましたか?」
「あー、来てた来てた」
「結果は?」
「クロだってよ」
スマホをいじりながら根崎さんは答えた。
「どう考えても、神だってさ」
「……何を調べたって、言ってた?」
高田さんが根崎さんのスマホを覗き込むようにして隣に座った。
「隣来んなっつってんだろ……あー、一度目の時は自宅だったろ? 同じアパートに信者が一人住んでたらしいんだが、火事にしては家の被害が皆無で、畳すら燃えてなかったんだと、本人があんなになってんのにな。んで、二回目は別の信者が見てた。映像はもちろんない」
根崎さんはスマホを見ながらチキン南蛮をご飯と一緒に食べる。タレの乗ったマヨネーズが、ぼたっと落ちた。
「それは、なかなか……今時スマホもあるのに、だれも撮ってないってのは、怪しい」
「俺だったら人が燃えてるってだけで面白いから絶対撮るね」
不謹慎なことと米粒を同時に根崎さんが口から飛ばすので、高田さんはそれを払いつつ聞き返す。
「誰かに殺されかけたっていう可能性は?」
「同じ手口はねーだろ。おまけに二度目は病院内だ、なんでわざわざリスク上げてんだよ、縛りプレイか? 中卒でもわかるわこれくらい」
人の神経をカリカリと削るような言動を横で受けながらも、高田さんはやっぱり姿勢良くしっかりと座っていた。二人はコンビを組んでずいぶんと長いから、さすが慣れている。
「なるほどね……でも、しっかり検査はした方が良いよね、わかる人たちに見てもらうべきだ」
「あ~? とっとと殺しちゃえばいいだろ、めんどくさい」
高田さんと私の手が、ピタリと止まった。
「……一般の市民に手をかけるわけにはいかないだろう」
「俺たちは一般人を殺そうが天然記念物仕留めようが、罪に問われないけどな」
根崎さんはいやらしくニタリと笑った。ヤニで色のついた、別の生き物みたいな歯並びが、彼をより一層おぞましいものとして演出する。
「それは食堂でしちゃいけない話だろ」
「……細けえないちいち」
「ともかく、一度話くらいは聞くべきだ」
「はい了解~わかりましたわかりました。その意見に従います~はい解散~」
根崎さんは席を立った。心底面倒といった態度に腹はたつが、彼に怒ってもしょうがない。重苦しい空気の中で、彼の不真面目な口笛だけが、空虚に響いていた。
最近の病室は白くはない。人が少しでも安心感を覚えるようにと、クリーム色の壁や、木目調の棚など、比較的日常感のある材質で揃えられている。まあ、死にかけの人間に常に死を意識させるような色合いにするよりは、ずっといいのかもしれないが。
「失礼します」
小児科医の先生らしいから、今回は私も同行した。あわよくば、昔の患者だと思ってもらえるといいのだが。
が、それ以前に、病室が妙に騒がしい。
「いい加減にしてください先生!! 本取り上げますよ!!」
「ああ~~! 後生だからそれだけはぁ~~! それだけは堪忍してくださいお屋形様ぁ~~~!」
「誰がお屋形様ですか!! じゃあ『ながら』じゃなくてちゃんとご飯食べてください!!」
「やだぁ~~~!」
「子供か!!」
……看護師のお姉さんと包帯ぐるぐる巻きの男の人がベッドの上で攻防していた。あ、そういえばここの病院で働いてるわけだから仕事仲間なのか。
「滅多にないせっかくの長い休みなんだぞ~~~! ここで読むしかないでしょお~~~!」
「どこから出してるんですかその馬鹿力! ほんっ! ほんっといい加減にしてくださいもう!!」
しかし看護師さんパワーは強かった、むしり取るように文庫本が取り上げられる。古本らしいそのタイトルは私が全く知らないものだった。
ちら、と後ろを見る。何とも言い難い顔をした根崎さんが高田さんにひそひそと何か話していた。多分悪口だろう。
「ああ~~~!」
「はぁ……はぁ……それだけ力が出るなら、リハビリも増やして大丈夫ですね!!」
「ええー!! 前原さんの鬼! ゴリラ!!」
「は?」
「ごめんなさい」
ごめんなさいが速かった。すごく速かった。体感的にF1がすり抜けるレベルで速かった。
前原さんと呼ばれた看護師さんは本を抱えて後ろを向くと、私たちが来ていたことに気づいたらしかった。はっとして、バツが悪そうに顔を赤くし、そそくさと「失礼いたしました」と言って出ていく。あらやだ、可愛いところあるじゃない。
「……こんにちは、あれ? ……初めましての、子じゃない、よね?」
真っ先に子供に目が行くあたりさすが小児科医といったところか。
「む、むかし! 予防接種のときに、見てもらったから……お兄ちゃんに言って、お見舞いさせてもらいにきたの……」
うー! 全身に鳥肌が!
「こ、これ、お見舞い」
「そっかあ、ありがとう」
全身包帯まみれだった。ギプスもしていた。表は真っ白で清潔な布が出ているが、そのすぐ下にちらりと見える皮膚は白くなって血が滲んでいる……。なのに、不思議と怖いという感情は起こらなかった。
「お名前は?」
「佐々木、佐々木透子! 八歳です」
「なんか予防接種の時に? 全然怖くなかったのが不思議だったみたいでえ、また先生に診てもらうために来たがったんスよね」
ナイスフォローだ根崎さん! ありがとう!
「ちなみに僕たちはこういう者なんですけど」
「え、あ、ハイ……」
彼はボロッボロの名刺入れから名刺を差し出した。ヤニで黄色くなっている。
「神南……市役所?」
「よろしければ少しお話を伺えないかなと思いまして」
「事件当時はどのような状況で火災に遭いましたか」
「一度目は、家で寝てる時に突然、二度目は仕事の最中に」
「二度目の時は、どういう状況でしたか」
「え、えと、夜勤中で、コーヒーを飲もうと、給湯室に入った時に」
「……火は、使っているところでしたか?」
「は、はい……」
「本当に?」
「……実は、信じてもらえないかもしれないんですけども、使う前でした。あのこれ、なんで市役所の人が聞くんですか?」
「同じ給湯器の事故が相次いでるんスよ、ていうかこっちも仕事なんで、ちゃっちゃとお願いします」
「根崎! ……失礼しました。最近、起きていなきゃならないところで眠くなることはありますか?」
「日中の仕事中はないです。でも、家で本を読みながらとか、一人でいる時にうとうとと、することは」
「歩きながらでも?」
「それはないです」
「……、……」
「いや、逆にそういえば行ってませんでしたね」
「……、……」
「ああ、ええと、あんま、食べてないです」
「……ゲホ、失礼……、……」
「ああ、あいつとは、同じ先生のところで学んだ仲というか、石沢先生って知ってます? 総合医療で有名な人で、テレビにも出てるんですけど、あ、知らない?」
彼は朗らかに笑っている。とても、優しくて、人と話すのを心から楽しんでいるような、無邪気な目をしていたが、私は表情が凍ることを抑えるのに必死だった。
……途中から、高田さんは話していない。
口パクをしていただけだ。さらに、むせたふりをして、口を隠しながら話もした。ただ、頭の中で質問を”考えた”だけ。それなのに、彼は明瞭に答えていた。
それは、つまりそういうことだ。彼は、「神懸かって」いる。
……根崎さんはすぐに動いた。彼はこういうときばかり行動が早い。
「もうわかっただろ、こいつは”懸かってる”」
彼の手には、どこから出したのか、すでに拳銃が握られていた。
「人体自然発火……勝手に火のつく人間か、くだらねえもん神も作りやがる」
「根崎!」
「んだよびびってんじゃねえよ」
「は、ちょっと、何ですか、え。何の、撮影?」
「じゃあな、先生」
引き金は確かに引かれた。サプレッサーを通して、目の前の人のいい先生は考える間も無く、息をひきとる。
はずだった。
「おいあんた! おもちゃにしたって冗談が過ぎるぞ!!」
扉の向こうからかかる声。白井さんだった。根崎さんは別に射撃の達人なわけじゃ無い。彼の狙いはそれで少し外れて、三井さんの隣にあった何かの機器を破裂させた。
「……は、な、なな、なん?! え?!?!」
「ちっくしょ」
根崎さんがもう一度彼を狙う隙はなかった。白井さんの渾身のタックルが根崎さんの足元に入る。彼の痩身は崩れ、したたかに頭を壁に打ち付けた。いとも簡単に手からは拳銃が飛ぶ。
「三井ナースコール!!」
「……!」
【……三井先生、なんですか、本は】
「不審者だ!! 男呼んでくれ男!!」
素晴らしい手際だった。組織として見習いたい。
根崎さんはもう目を回してしまっているし、逃げられるとも思えないので、おとなしく従って警察に連行されるしかないだろう。
……ああ、まずった。向こうには話は通っているから、すぐに解放されるはずだけど。
バタバタと人の波が押し寄せる。現れたのは屈強な男性看護師三名。彼らは白井さんから根崎さんを引き継ぎ、連れて行く。
彼らは、同行していた私たちも同じく連れて行かなきゃならない、と言って取り囲んだ。私も高田さんもそれにおとなしく従う。
後ろを振り返ると、完全に警戒した目で私たちを見る二人と目があった。その通りだ。その目は正しい。私は軽く会釈して、その場から立ち去った。
なんで、という言葉ばかりが俺の頭の中を渦巻いていた。なんでだ、なんであの人たちが。
「なあ、なんか、なんか、市役所? のひとたち、だったみたいなんだけど……」
「……子連れでか」
三井は、うつむいていた。彼がこんなに憔悴しているところを、今まで見たことがあっただろうか。
「……なんかさ、俺、死ななきゃいけない、みたいな、こと、言ってた……」
さっきの喧騒が嘘みたいに病室の中は静まり返っている。大きい音に驚いて寄ってきた患者たちも、高橋さんら看護師さんたちが戻してくれたようだった。
俺は黙っていることしかできない。彼らがここまで来て、事情を三井にも話したことにも驚いていたが、なんだ、死ぬって。わけがわからない。
……三井には、俺があの男性二人と、市役所内で会ったことがある、とは、言わないことにした。
「ただの、ただのその、愉快犯、だろ、よくわかんないやつ」
「そう、か……そうだよな、うん、普通そうだ」
最初にそれを疑っていいはずだ、なのに彼はそんなこと思いもつかなかったみたいに、呼吸を落ち着けている。パニックだろうか。
「誰でも良かったんだろ、どっかから、二度火事に遭った人間、なんて情報を嗅ぎつけて、変に脅しに来たに決まってる」
「……あの子はなんだ」
「は? あの子? ああ、あの子供……」
「な、なあ、俺変なこと言ってると思うけどさ、あれ、あの子、あの子さ、子供の気配じゃなかった」
「なんて?」
俺は聞き返した。三井は俺の腕を、弱々しい力で握っている。
「い、いいにくい、んだけどさ。子供、こどもって……白か黒か、みたいなとこがあんだよ。すっごい、わかりやすいか、わかりにくいか、みたいな……なんていうか、悪と善を簡単に決めちゃうというか、好きと嫌いをすぐに決めちゃうっていうか」
「大丈夫だ、あいつらはもう高橋さんたちが連れてってくれたから」
「あの子は子供じゃないものが入ってるみたいだった」
彼は一息に言った。その一言に、肺の空気を全部使ってしまったみたいな顔をしていた。
「……無いだろ、なんだそれ、ファンタジーか」
「……そう、か、あれ、おかしいな……何言ってんだろう僕……」
「考えすぎだよ、小説の影響か」
「うん……て、ていうか、さ、一介の市役所にそんな権限、あるわけないよな、なあ」
「そうだ、その通りだ。そんなのタチの悪い冗談に決まってる」
「だよな、な? ……あの人たちの言ってる、理由、わかんなかったんだよ。なんだよ自然発火って、俺自身が燃えてるって、あり得ないよな、な? そんなデタラメみたいな話」
今度は黙るのではなく、口を噤むことになった。彼が発火したと証言したのは俺だった。彼の焼け焦げた指がより強く俺の白衣の裾を掴んだ。体液で黄色く薄汚れたそれは、明らかに前よりも短くなっていて、やっぱり力も弱々しい。
「なあ、俺、ひとりでに燃えるんだって、おかしいよな。何かの間違いだよな」
「そうだ、ありえない。理由がある。解決する」
彼の息は浅く、震えていた。多分、皮膚が焼けたせいで体温調節機能が落ちているのもあるだろう、きっと。一度目の火事の時はもっとこっちの気が抜けるくらい、こいつは明るかったはずだけども。
「お前から見て、どうだった?」
「え」
「お前、あの時、近くにいただろ……お前から見て、どうだった?」
彼の質問に、俺は答えられない。言葉が空虚に喉の奥で渦巻くばかりだ。
「俺は、ぼくが、僕だけが、燃えていたか?」
「……いや、火事だったよ、あれは」
まぶたが焦げて閉じにくくなったせいもあり、彼の目元には包帯が巻かれている。血の混じった涙がボロボロとそこに染み込んでいくのを、俺は誤魔化すように言った。
その後、俺は新聞をよく読むようにした。もちろんニュースも。理由は簡単だ。あいつらがきちんと逮捕されたことを、三井に知らせてやれば、少しでも不安がなくなるだろうと思ったからだ。普段賑やかな奴が、あれだけ憔悴しているのは見ているこっちもどうも胃がキリキリとさせられる。……それに、市役所職員が錯乱したとなれば、絶対にマスコミは食いつくだろ。しかも二人だ。たとえあの人たちが偽物の職員……いやきっと偽物だ。そう、偽物だったとしても、だ。そうに決まってる。俺が記者だったら逃さない、そんな情報。なのにいつまでたってもそんな話はどこでも聞かなかった。ネット検索もした。友人にも聞いて回った。見たくもないワイドショーを録画したりもした。でも、でも、そんな話どこにも出ていなかった。
「うちの病院が隠蔽体質かって? めっちゃストレートに聞くわね」
「うん」
折角の恋人とのデートだったはずなのに、結局俺はそのことで頭がいっぱいだった。
「推しを前にしてする話でもないでしょ」
「そ、うなんだけどさ」
「……まあでも、特別に、聞いてあげるわ……みくりんに、おまじないかけてもらってからね!」
「は~い! いきますよぉ~! おいしくなあれ! まじかる! みらくる! めるてぃはぁ~と! ……じゃん! もっともぉっとおいしくなりましたよ!」
「わーい! ありがとう!!」
普段なら嬉々としておまじないに参加する俺だが、今日は本当に調子が良くない。
「……ほんっとに大丈夫?」
「うん……」
「……質問の続きだけど、大なり小なり病院はそういう部分あるわ。わかってると思うけど。でもうちはかなりクリーンな方よ。パパがあんな感じだし、これ以上あれなら石沢先生とか、辞めてるでしょ」
「……それも、そうだけど……」
オムライスの、味がしない。
「……少し前のさ、院内での発砲事件、覚えてるか? 三井の病室の」
「発砲? エアガンでしょ」
「違う、実弾だった」
俺の言葉に彼女は強烈に眉を顰めた。
「何言ってんのよ、実弾だったらもっと大騒ぎになってるから。私だってここに来れてないわよ」
「……あれは確かに実弾だった。銃声がしただろ! ……輸液ポンプがぶっ壊れたんだぞ?!」
「音まではわからないけど、大人向けのエアガンならそれくらいの威力あるんじゃない? それにぶっ壊れたって大げさでしょ、少し倒れただけって聞いたわよ」
「……そ、んなんじゃなかった……」
全身に嫌な汗が広がっていく。
「あの後、警察が一応中を見ていったけど、大したことじゃないって……捜査に入った本人から聞いたから、病院の隠蔽は無いわよ、私を疑うならそれまでだけど」
自分の意識が、体を抜けてばたばたと暴れまわってるみたいだった。でも結局指先一つ動かなかった。視界が暗い、意識だけ動きすぎて、めまいがしているのかもしれない。焦燥感、と大きな不安が、ドリンクの中の氷みたいに、じわじわと体を蝕んでいた。
「あーくそ、てめえがちょっとビビってなけりゃあれで殺せたのに、なんで止めんだよ」
「ごめん、あそこで銃を出すより、もっとやりかたが、あると思ったんだ」
根崎さんと、巻き込まれて捕まっていた高田さんが釈放されたので、私もそれに続く。約二時間程度で済んだのは不幸中の幸いだ。
「それであの病院が燃えたらどーすんだよ」
「今までだって、不自然なくらい延焼はしてないだろ」
「次は無いって保障がどこにあるんですかねえ! 低脳! クズ! ガキと混じって足し算でもしてろ!」
高田さんは黙ってそれを聞いている。自分が悪いと思っている部分もあるのだろう。
「殺すとか銃とかまだ署内なんでやめてもらえますか? 引き取るのやめますよ」
「ごめんなさい本田さん」
私たちと連れ立って歩いている巨漢は、本田仁孝さん。私たちと提携する組織の一つ「モトダ警備保障」の社長で、彼もまた結構すごい人なのだが、龍禅院さんほどタチの悪い人では無い。むしろちょっとお人好し。でもでっぷりと太った見た目のせいもあって、あんまり良い印象は持たれ辛い。
「それで、今回はどのあたりで動く予定なんですか」
「例の人が入院しているのは東遠大学総合医療センターです。が、正直もうかなり警戒されてしまっていると思うので、別の場所にするかもしれません」
「……わかりました。はあ、あんまり目立たないでくださいよ、無いとは思いますが、あなたたちの存在が下手に知られたら、私たちの組織の信用問題にも繋がるんですから」
彼は敷地から出ると、そこから車に乗ってしまった。私たちは歩きだ。ここから市役所までは約二キロ。うーん、小学生の足では、ちょっと辛いところだ。
「神になった人間は、本当に人間に戻れないんだろうか」
……独り言だったっぽいけど、聞いてしまった。無視を決め込んでもいいんだけども。
「無理だ」
この場には根崎さんもいた。
「でも、三井さんはまだ神としての意識はない」
「孵りかけの卵を卵黄に戻せるか?」
二人は今年二十一になったばかりだ。でももうすでにここでは数年正社員として働いているし、中学の時から仕事の手伝いはしていたから、最早ベテランの域にいる。昔はなぜかよく似た見た目をしていた。今は根崎さんは四十代のおじさんのように見えるし、高田さんは十代の若者のように見えることもある。人は環境、生業、生き方によって、随分と見た目が変化するものだ。
「前から言ってるだろ、割り切れよ、いつまでガキのままでいるんだ」「できるだけ殺さない方がいいに決まってるだろ……やっぱり、探してみるべきなんじゃないか、すぐに手にかけるんじゃなくて」
「俺らの相手はそんなに悠長なこと言ってられるようなもんじゃねえだろ」
「じゃあ、この市に生まれたことそのものが、あまりにも不幸じゃないか、そんな、他の町に住んでいる人たちは、脅かされないで生きているのに……」
強い風が吹いている。轟々と唸って、何かを探しているかのようだった。あたりは真っ白な曇り空で、寒気のするような冷たい光が、ゴミとタバコが散乱する遊歩道を照らしていた。
「ああ、そうだな、俺たちは不幸だ」根崎さんはさらりと言った。
「この市も、アフリカだかアジアだかのどっかの国にも、宇宙のどっかの異星人にも、きっと不幸な所があるだろうよ。でも、だからなんだ? それがなんだってんだよ、え? 他が恵まれてるから羨ましいって? 吐き気がするような嫉妬心だな。で、だからなんだ?」
「……」
「生きたいから生きる、それだけだろ。そのために害虫は潰す」
「……僕は、家族を、友達を、この町を、少しでも長く、守りたい」
「あっそ、じゃあ、そのために殺す。以上だ。何か質問は?」
「……ない」
「あいつを生かしたら、もっと多くの人間が死ぬぜ、お前の考えだと、個より多を優先すべきなんじゃないか、あとは贔屓してる人間。あいつのために、友達殺せんの?」
「いや……」
「だろ」
結論が、出たみたい……二人の会話はそこで終わった。私はポッケに入れていた、キャンディをなんとなく二人に渡す。
「はい」
「ありがとう」
「子供の飴ちゃんごとき腹の足しにもなんねえってのによ」
そう言って二人とも同じタイミングで口に入れた。
……やっぱりこの病院にいるのは危ない。彼らが逮捕されていない以上、もしかしたらまたここに来るかもしれない。そしたら、三井は……。
「三井、一旦ここを出るぞ」
「白井……?」
「言わないようにしてたんだが、あいつら、捕まってないんだよ」
あいつら、で分かったらしい。一瞬で三井の顔が青白くなった。包帯の上からでもわかるほどの驚きの白さだった。
「そ、それ、って……」
「……車椅子持ってきた。点滴も、パクってきた」
俺は持ってきたカバンの中身を見せる。これで少しは家の中でも治療ができるだろう。
「は? おまえそれ、ただじゃすまないやつだろ!」
今度は別の意味で三井の顔面が蒼白になった。まあ、そりゃそうだが。だがな。
「お前が殺されたら俺も『ただ』じゃすまないんだよ」
また清花との食事を邪魔されでもしたら困る。推しの前では、もっと困る。俺は三井の数少ない持ち物を取り出しはじめた……本に、本に、本。このアホめ!
「お……おまえは、前から思ってたけど、ほんと……」
「?」
「ええい分かった! お言葉に甘えます!」
チキチキチキ、車いすから小さな音が響く。
「……清花さんじゃなくて俺と逃避行してどうすんだよ」
「あいつも共犯だよ」
「……まじかあ」
彼女は俺たちが怪しまれないように話をごまかす役を買って出てくれた。あいつはそういう奴だ。一緒に悪事を働くのにだって加担してくれる。だから、一緒にいて……楽しい。
「でも薬もいつかはなくなるだろ? どうすんだよ」
「退院手続きはこっちでなんとかする……お前は市外……いや、念の為県外の病院に移ってもらうよ。多分、あいつら、管轄が変わったら来ない」
「……」
薬の入ったカバンは俺が背負っている。はやる気持ちを抑えて、不自然じゃない程度に、はやく、はやく、外に向かう。
「なんかさあ、青春って、感じだな」
「はい?!」
間の抜けたセリフに思わず足が止まりかける。
「映画っぽいじゃん?」
「なら最初からそう言え!」
心底愉快だという調子で彼は笑った。そういえば、あれ以来きちんと三井と話せていなかった気がする。軽口が妙に懐かしかった。
彼とはもう長い付き合いになる。
研修医時代、石沢先生の講演で隣同士になって、名前が似てて話題になって、そのあと先生の講演に大興奮して……。勢いで弟子入りなんてして。
今はよかったなって思ってる。先生は時々迷惑そうな顔をするけども、半年に一回くらい、向こうから「おい、飲みにはいかないのか」って無愛想なメールが来る。三人で近所の行きつけの居酒屋に行くのが好きだ。先生の話を聞いてる時に「お前ら似たような顔で聞くな、飽きるわ」ってどーしようもないこと言われたことあったっけな。あと、俺が清花とまだオタ友達でしかなかった時に、背中を押してくれたのが三井だった。なんかめちゃくちゃいろんな本のいろんな引用をしてくれていた覚えがあるのに、一つも思い出せないのが笑える。ただ「お前ならいける! 根拠はない!」が、結局一番印象に残ったんだっけ。それから、それから……。
病院のビニール製の床で時々滑りながら、長い廊下を渡っていく。前原さんと目があったが、彼女はすぐに逸らしてくれた。今度、お礼をしないとだよな、高くつくぞこれは。三井と折半すればいいか。
この間、三井ともう少し、話しておけばよかった。今になるとそう思うが、当時は前に歩いて行くことばかり意識していて、彼の顔を覗こうともしなかった。ただ、鋭い日差しが差し込む、裏口を目指すのに必死で。
「……病院から、三井さんがいなくなった?!」
「ま、妥当な判断だわな」
根崎さんは、本当に憎まれ口しか叩かないんだから。
「わかってたなら先に言ってくれません?」
「俺は妥当だって言っただけだ。親友が殺されそうってなったら逃す、普通の人間の心理だろ」
「にしては動きが早くないか、俺たちが警察に連行されたってとこは、見てたはずだが」
高田さんの表情は重い。開かれた切れ長の瞳は、青空を溶かして澄んでいる。
「釈放されたって情報でも入ったのかもな」
根崎さんも珍しく窓の外を見つめていた。きっと、天気を見ているのだ。
「あの人はもういつ発火するかわからない……人の少ない領域に行くほど、危険だ」
「わかってること言わないでいいんだよ……南西だ」
「今度の準備は、大掛かりになりそうですね」
あーめんどくせえめんどくせえ、と根崎さんは言いながら奥に入っていく。高田さんもそれについていった。天気が変わるということは、本当に本格的に「動く」必要がでてくる可能性があるってことだ。なんてったって、本当に神が出てきたら、私たちは戦いようもなく、基本的に殺されるだけなのだから。
「行く前に、俺の部屋によってくれないか」
そう言ったのは三井だった。
「前原さんに、本を取り上げられてしまって、できたら、一冊だけでも欲しい」
「あんなにあるのにか」
「もう読んじゃった」
「あとで俺が届けるよ」
「いや、俺の蔵書、お前じゃ漁りきれないだろ」
そう言う声がやけに真面目な気がして、まあ、病院を出れた以上いいかと、俺は彼の安アパートに車を回した。
彼の部屋は、ワンルームで、小さな冷蔵庫と万年床が転がっている以外の家具がない。では、他に何があるのかというと……床が抜けるのではないかと言うほどの本の山だ。三井は度の超えた本の虫で、常に仕事をするか本を読むかしかしない馬鹿なのである。だから長期休暇をもらうと、食事も睡眠もとらないせいで、普段より体調が悪くなって帰ってくることを繰り返していた。盆休みや正月休みの時、出勤していた連中よりずっと顔色が悪いのだから本当に本当にバカとしか言いようがない。だから俺や石沢先生や、清花は、時々心配して食料などを支給していた(当然お金はきっちりもらっている)。
「三井、あんまりたくさんは持てないからな」
「……」
「無視すんな」
「……」
「おい、集中しすぎだっての」
俺は本の山をかき分けて、本を選んでいる「風な」彼の肩を叩いた。
「え」
彼は振り返った。振り返ったのだが……じっとこちらを見る目がおかしい。おかしいというのは、様子じゃなくてそのままの意味、色が……。
ずるり、と彼の包帯が剥がれ、いや、剥がれたのは包帯だけじゃない。あいつの肌が、火傷でピンク色のまだら模様を描いているはずの肌が、割れて、中から……? いやこれは外から? 皮膚から薄ピンク色のロウのようなものが、ねじれて。
ハッとして後ずさった。本の山が崩れる。でもたぶん、それはあまりにも遅かった。すでに視界が「何か」に覆われている。時々脈打ちながら赤黒く変色していく謎の物体は、俺の顎と頭蓋骨、首、鎖骨までがっちり掴んで離さない。微動だにできない。ふつう、何かに圧迫されても、肉がズレて多少の身動きはできていいはずだ。だって痛みは全くないのだから。ドライアイスの煙が指を撫でるような曖昧な感触しかない、はずなのに、なぜか頰を引きつらせることすらもう叶わなかった。
「ごメンなあ」
聞き馴染まない声のトーン、まるで別の誰かが、三井の喉を借りているみたいだった。そこでようやく、まずい、と……。
ぴんぽーん。
唐突に、ワンルーム賃貸の安いインターホンの音が部屋中に響きわたった。直後。バキンという音。鍵はしていなかった筈だが、なんだ、バキンって。
何事か、と思うと扉の開く音が聞こえる。なぜか、ぎ、ぎ、ぎ、と思い鉄のうなり声がする。安アパートの扉が立てる音じゃない。混乱のさなか、突如視界が開いた。首の骨に自由が戻り、そのままどっと全身が畳と本の上に打ち付けられる。頭を上げると、三井の体が溶けていた。その溶けた肉体が、何か別の意思を持って四方八方に飛び回っている。これが、スライムのようになって俺に張り付いていたのか? さらに三井の足元には、いかにも重そうな工具が落ちていた。後ろを振り返る。
そこにいたのは真っ黒な着物を来た人間だった。
着物といっても浴衣のようなものではなく、平安時代のイメージのもっと古いものだ。さらにそれはボロボロに破れており、亡霊のようにしか見えない。そして能楽を思わせる真っ黒な面が顔に張り付いていた。彼が手を引くと、三井の足元にあった工具がさっと回収される。それは見たことのない形をしたもので、賃貸の木の扉のドアノブのあった箇所に穴が見えることから、おそらくそれが特殊な工具であるらしいとわかった。
「こんにちはあ、私、神南市役所の者ですけどもぉ?」
男の声だった。彼は土足のままズカズカと部屋に上がってくる。もわっと顔に何かが押し付けられたような感覚が、度の超えた臭気であることに気づく間も無く、彼は手に持った工具を振りかぶると、俺の頭に向かって振りかぶった。動けないまま顔を強打され、起こしていた半身を支えきれず、糸が切れたように床に倒れこんだ。なんだ、なに、何が起きた……?
「っ、へへ、お返しだよ、ばあか」
頭が追いつかない、理屈とは離れた何かが起きたことはわかった。そして目の前の命の危機が倍になったことも。殴られたせいか不可思議な力のせいか、視界がぐらんぐらんと揺れている。
なんだ……なにが……おきた…? これは、こいつは、殺人鬼? 快楽殺人鬼か? このタイミングで?! なんでこんな、こんな時にかぎって……! 変なのにモテすぎだろ三井!
這って本能的にその場から逃げようとした。男は俺の顔面を足で踏みつけ、逃げられないように抑え込んだ。妙な冷たさに、思わず上を向くと、靴の下は得体の知れない虫の潰れた死骸がびっし
りと張り付いていて、とっさの嫌悪に体が跳ねる。情けない声が腹の奥からせり出た。恐怖以上に全身を不可解が占めていて、口 の中が酸っぱくなる。なんだ、なんだ、これは……! こんなものに殺されるのか……! 俺は!
しかし恐れていた追撃はやってこなかった。
目の前の三井が、同じ人間とは思えない声を出して、俺を踏みつけていた男に襲いかかっていたのだ。
「三井……!」
「……っっ、来たなぁ?」
男は猿のような身のこなしでそれを避けた。三井がありえない速度で突進するのを、男は最低限の動きで躱していく。
「ノロマだなあ? 神のくせに、低級霊かあ?」
彼の言葉に三井の動きが止まる。霊? 神? 俺は発火した彼のことと、それらがありえないこととつながっていく。いや、そんな、まさか。
「……! ……、……!」
すると突然、三井が何か不可思議な言葉を話し始めた。うがいににた音を含むそれはあまりに聴き慣れない。
「……、…………」
男はいつの間にかいなくなっていた。締め切っていたカーテンが開き、窓からは風が漏れている。窓から逃げた? ここは五階だぞ?
思考は何か重いものが落ちた音で中断された。音は三井の体からだった。彼の体が溶けて、裂けて、透明色の何かが、三井の体から出てきていた。それがどうやら何か黒幕のようなものであることを、本能が知らせていた。しかしそれは、おちたそばから空気に消えるように霧散していく。そして。
ばりん、と窓ガラスが割れた。そよそよと心地の良い風が、部屋の中を通り抜けていく。部屋にこもった臭気が、風とともに抜けていくようだった。
「……! み、三井っ……!」
俺は転がるようにして友達のもとに駆け寄った。さっき確かに見たはずの体の裂け目も溶けた跡も無くなっていた。強いて言えば、ケロイドが目立つ程度だ。本来重症患者であるはずの彼は、病院着と解けかけた包帯に血をにじませて、浅い息を繰り返している。
「三井、三井……! クソッ!」
早く病院に行かなければ。でもまだ頭を殴られたせいか、立つことができない。電話、スマホ……! カバンの中……!
「白井さん、大丈夫、落ち着いて」
凛とした声が響いた。振り向くと、今度は白い着物を着た男がいた。しかし彼は面をかぶっていない、見知った顔をしていた。
「た……かだ……さん?!」
俺はとっさに倒れた三井をかばった。が彼らは全く違う方向を向いている。
「説明は……後にしましょう。透子ちゃん」
「本田さんにもうこの一帯は封鎖してもらったから大丈夫だよ。あとは私がなんとかするから……高田さんも、そろそろ」
「わかった」
俺は夢でも見ているんだろうか。変貌した友人、突然現れた黒い殺人鬼、白無垢の男、スーツ姿の女子小学生……気が遠くなったのは、怪我のせいだけじゃないはずだ。
「高田さん、無理しないでね」
「うん、大丈夫」
彼は白い面をつけた。日光に照らされたそれは、翁面と呼ばれるものに近かった。彼はゆっくりと窓を超えていく。逆光の効果か、それはひどく神々しく見えた。
「そうだ、白井さん、三井さん、今死にたくなければ、これから言うことをよく聞いてください」
彼女は、もはや小学生の雰囲気をしていなかった。ゆっくりと、人差し指が、口の前に当てられる。
「絶対に、喋らないでくださいね、あ、フリじゃないですよ」
窓から身を乗り出すと、屋根の上で根崎さんがちょうど宙返りをするところだった。だがそれも長く保たないのは明白だ。よく見れば、既に腹をかばっている。
「根崎さぁーーーん!! そろそろ! 戻ってきて!!」
小さい体で、あらん限りの大声を出した。私にできるのはこれくらいなのだ、精一杯やらなくては。根崎さんは声に気づいたのか否か、動きにくい服で慎重にこちらに跳んでくる。
「無理しないでください、気をつけてぇーーー!」
彼は回ってこちらを一瞬向いた。お面をしていても、きっと「うるせえ!」って思っているだろうな、とわかった。
彼は走って、後ろに宙返り、片手で体をひねって不可視の神の触腕を避け、大股で民家を三つほど跳び、また走る。彼が近づくにつれて風がごうごうと勢いを増していた。割れた窓ガラスが震え、さらにヒビが入る。
神様はお怒りだ。暗雲が立ち込め、今にも雨が降ろうとしている。屋根の上で滑れば、無傷では済まないだろう。私は持ってきた毛布を広げた。短い腕で、目一杯。少しでも距離が稼げるように。
根崎さんは次の屋根に移り、私のところまでわずか五メートルほどのところまできた。が、足を滑らせる。地面に落下しなかっただけマシと思うべきだろう。屋上で倒れ伏した彼は、瞬時に何かを避けた。近くにあった雨樋がひしゃげる。危なかった。
彼はその隙を逃さず、一歩、二歩、三歩とこちらに近づき。
「っ! 掴んだ! 高田さん!!」
おぞましい匂いのする彼を毛布で包みながら、窓の中に引き込むのを手伝う。それを見送るようにして、高田さんが香の匂いを振りまきながら入れ替わりに屋根を跳んで行った。
「お疲れ、根崎さん」
【う、る、さ、い】
激しく動いた後なのもあって小さく咳き込んでいる彼は、咳き込んでいても相変わらずだった。口を動かすだけでそう言ってくる。
倒れ込んで動けない彼から急いで血と糞尿で染めた着物を破く。さらに毛布の中に手を突っ込んで服を脱がせようとしたら叩かれた。ごめんて。彼は自分で着物を脱ぎ始めたので、私は見えた傷口に急いで消毒液をかけて、ガーゼを当てた。さらに中にファブリーズを吹く。これでいくらかマシになっただろう。
用意してあった袋に穢れきっている着物を放り込み、口を縛る。流石にもう、大丈夫なはずだ。
「高田さん!」
窓の外を見る。見ない間にすっかり彼は奥に行ってしまっていた。そうだ、根崎さんより高田さんの方が、力はずっと強いんだった。彼は真っ白な着物をたなびかせながら、二棟先の建物の上で手を広げている。外はすっかり雨模様だったけれども、雲の隙間から光が差していて、一見してみれば某映画のパッケージのように見えなくもなかった。しかし彼はどちらかというと、目の前のものに両手を伸ばしていた。自らの体を預けるように、力なく、ぼうっと前を見つめている。
「高田さん!! もう戻って!!」
風に遮られて、声が届かない。声が足りない。ああ、前の体だったら、もっと声が張れたのに……! 彼のかかとが浮き、そのまま、つま先も屋上から剥がれていく。
私は裏から窓枠を叩き、窓ガラスの破片を作った。鋭い痛みが、指先に走る。でも今はちょうどいい。私はそのガラス片を思いっきり投げた。血で濡れたガラス片が彼の前にぴしゃっと落ちる、血は、穢れの一つだ。
瞬間、風が止まる。
「高田さん!!」
今出せる一番大きい声を出す。彼の体に、すっと力が戻った。よし!
ここまでくればもう大丈夫だ。彼は少し身じろいで、地面に戻った。
腕が宙に浮いたままなので、やはり超然的な力が関わっていることがはっきりとわかる。もちろん、義手は後で回収すればいい。彼は着物の一部を破き、前に振るった。何かに布がかかる。そして二歩、三歩。私は当然、毛布を広げて待っていた。
「よっと!」
彼は頭を振って正気を取り戻そうとしている。その間に、襖で割れた窓を塞いだ。雨風は、まあこれで多少はなんとかなるだろう。両腕のない彼から、服を脱がせるのは簡単だった。また別の袋に、香のたかれた服を放り込む。
【はぁ……はぁ……】
【もっと気をつけろよ】
【はぁ……ごめん】
口だけの動きで、二人が話している。毛布をかぶったままの根崎さんは、いつのまにやら冷蔵庫の中身を拝借したらしい。五つのコップと、炭酸水。彼はコップに注いだ水を飲んだ。私と高田さんも、三井さんに会釈してありがたく拝借する。あと十分もすれば、雨も止むし、私の匂いのついた毛布の効果も薄れるだろう。それまでの小休止だけれども、ひとまず、なんとかなって、よかった。
「さて……私の言う通り、黙っててくれて、ありがとうございます、白井さん。あ、まだ静かにしててください」
「……」
白井さんはこちらをじっと見ていた。色々な見方のできる目だった。三井さんも、白井さんの処置が良かったのか、いつの間にか意識を取り戻していた。……雨脚は少しずつ遠くなっているが、まだ神は去っていない。
「ではまず、突然押しかけてしまい申し訳ありません。改めて、私たちは神南市”神”的災害対策部の佐々木、根崎、高田と申します。壊した器具などは改めて私たちの方で修復させていただきますので、今はひとまずご容赦ください」
私と高田さんは姿勢を整え、深々とお辞儀した。根崎さんはそのままだ。
「雨がやんだら、車を出しますので、一旦私たちと一緒にきていただけないでしょうか?」
まず一般的に言われている神と私たちの言う神についておさらいする必要があるだろう。一般的な神、には、大きく分けて二種類の存在がある。まず、一神教から来た「万物の創造主であり、絶対的な存在である神」。感覚的に説明すると、大地に寝転がる時、その地面が唐突に無くなるとは人は考えないように、心の中でその「大地」を感じ取る人々がいる、それが彼らの呼ぶ神である。これは時代が経るにつれて生まれた概念であり、正直人間にとっての理想像という意味合いが大きく、私たちの使う意味の「神」とは全く異なる存在だ。実はこれは翻訳のせいでややこしくなっている一面もあるのだが、その説明は面倒なので割愛させてもらう。
もう一つは多神教の神である。本来日本語における神とはこちらを指す。端的に言ってしまえば「有象無象」のことだ。理屈にできない超常的な意思を感じた時、昔の人々はそれを「神」と呼び、様々な対処を生み出してきた。特に、日本における「神」とは、決してただの人間の守護者のことは差さない。ただただ理解の範疇を超えた、壮大な「何か」、それが彼らだ。
そして、そんな意思はなく、すべてはコツコツと実証していくべきことなのだ、という価値観が科学である。彼らからすれば、「実証できない知識」または「未実証の知識」は一旦保留、または淘汰すべき存在だ。……おかげで、偉い誰かがカラスは白いといえば白、というような邪智暴虐の知識は無くなったし、積み上がった知識は大きく我々を進化させた。
しかし彼らはいた。
存在を証明できなかった彼らは、存在していた。
……神という存在は、私たちより常に上の存在であると考える必要がある。その名の通りだ。神は私たちの生活にずっと密着しており、進化し続けており、人類の手の裏をかいて隠れていた。彼らは知っているのだ、私たちが、存在していると立証できないものへの対処ができないと。
「そして、私たちの住むこの神南市では、約十年ほど前にこの一帯を守護する神が消えたと言われています。以来、この市では怪事件が続き、変死体、あるいは行方不明になる人が増えています」
「……どれくらい?」
「平均で年間十人ほど、多い時では、百人ほどが、一度にいなくなります。しかしこれはあくまでいなくなったと「判明した人」の人数ですので、原因不明の事故や戸籍のない人の失踪を含めれば、もっと多くなるでしょう」
白井さんは口をはくはくと動かして、何か言いたげなようだった。
「そんなこと、もっと人が死ねば、もっと! こう……」
「三井さんのことは、どれくらいの話題になりましたか? せいぜい、市内男性が火傷を負い重症、というニュースが流れた程度ではありませんでしたか?」
「……」
「火傷はまだ良い方です。交通事故、土砂災害での死者は、ただの数字になります。大きい組織に関われば、事故そのものが隠蔽されることもあります。また、病気の場合はもっとニュースになりにくいですよね……案外、人は、本来他人の死に興味なんてないのかもしれません」
「な……なら、その情報を公開して、この市から逃げるべきだろう!」
彼は当然、激昂していた。いや……むしろ一度彼の親友を殺しかけているのに、こうして大人しく付いてきてくれるあたり、根はかなり冷静で、聡明な人なのかもしれない。もちろん、三井さんのそばを離れようとはしないけど。
「それで解決するなら、そうしています。しかし我々を守護する神は、我々が生まれた時に決まっているものなのです。家畜が、自分の生まれる牧場を選べないように」
「かち……?!」
「引っ越しても、どこに行っても、自分の所属は変えられない。逆に市外に越す方が、死亡率が高いというデータもあります」
私はスマートフォンから市の統計資料を見せた。年間の行方不明者、死者……全部載っている。そして、市外に出ていた人の事故などによる死亡数も。
彼は神経質に顔を拭ったり、三井さんのベッドの周りをウロウロと歩き回ったりして、なんとか心を落ち着けようとしているみたいだった。一方で、三井さんは不気味なほどにおとなしい。
ベッドのある屋内をそよ風が通っていく。レースのカーテンが揺れて、室内の光量を順々に変えた。神がこの一帯をを右往左往してるのかもしれないし、ただ単に雲の多い日なのかもしれない。用心に越したことはないので、まだ高田さんと根崎さんには黙ってもらっている。猫の鳴き声も虫の羽音も、今は神を刺激するだけだ。
「……まずは、整理させてほしい……君は、君たちは、なんだ?」
「……私達はこの市を少しでも長く存続させるために、特殊な訓練を受けた存在です。神々を惹きつけたり、遠ざけたりする力があります」
「ひきつける? 我々より高等な生物を、操るような真似ができるのか?」
「道端で猫やゴキブリを見たときの人の反応と同じです、大きい拘束力があるわけではありません」
彼はピタリと歩みを止めた。
「……人が、ゴキブリなどと変わらないと?」
「ええ、そしておそらく、彼らにとって三井さんの「殺害」は、生ごみの袋を縛るくらい、些細なことなのだと思われます。あくまで、人間における喩えでしかありませんが……」
彼は怒っているのか、焦っているのか、貧乏ゆすりと手のささくれを噛むのが止まない。三井さんがそれを制したいのか、白井さんの名前を呼んだ。が、彼はどうしてもやめることができない。私は話を続けることにした。
「人間で言うところの、猫……高田は、神に無条件に愛される存在です。神に愛されると書いてそのまま『神愛(カンマナ)』と呼んでいます。一方、根崎は神が忌み嫌うと書き、『神忌(カムイミ)』、その名の通り神に嫌悪されています。そして私は『路傍(ロボウ)』、神の意識をすり抜け、関心をもたれないという特質があります」
「じゃあ、そこの人が、俺を殴ったのって」
「それは、まあ、なんというか……でも、だからこそ神からも嫌われる、ともいえます」
濁した言葉に途端に彼が胡乱な目をした。しょうがないでしょ、うち一番の問題児……問題のある人だけど、彼がいないと困るのだから。
「私たち神南市神的災害対策本部は、死者と行方不明者が急激に増え、それが謎の超常現象が原因とわかり、国に業務を委託されて、設立された組織です。私はこの年齢ではありますが、なにぶん特殊な立場ですので、訳あって成人としての権利を得、ここの部長として働かせていただいています」
私は名刺を取り出して、差し出した。
「……」
「一応、生きてきた長さはこの中で一番長いので、ご心配なく」
「はい?」
「神さまと同じような理屈です」
つまりこれ以上聞かないでほしいと言うことなのだが、彼は何度か私の方をチラチラと見て、名刺を名刺入れにしまった。彼もファンタジックなコミュニケーションに慣れてきたのだろうか。
「他に何かご質問は」
「……これだけの被害があるのに、「国」が主だって動いていないのは、なぜだ?」
「理由は二つあります。それは被害が「この町の人間」に限定されるため。もう一つは……知る方が危険だからです。もうお二人もこちら側の人間になってしまったので、お話しするのですが……神の存在を「きちんと」知ってしまった人間の死亡率は跳ね上がります」
「は」
「国の側にいた協力者は、この部の結成間も無く、心臓麻痺心筋梗塞フグ毒脳卒中その他諸々の急性の病で、そして我々の組織にいたベテラン達も、ほとんど全員亡くなっています」
これには三井さんも驚いたみたいだった。二人して顔を合わせている。
「そんな、知っただけで……?」
「ええ、知っただけで……白井さん、神はどこにいると思いますか?」
「どこにって……さっき、どこでもって」
「そうです。そしてそれは、人の中、も例外ではありません」
「……」
「彼らには「情報が漏れた」ことがすでに知られています」
「……」
「危険分子は早めに摘んでおく、勤勉ですね、彼らは」
私たちよりずっと勤勉で、賢く、強い存在が、敵なのだ。種族として、あまりにも差が大きすぎる。
「……それと……少しでも長く、というのはどういう意味だ?」
「神を知ってしまった以上、むしろ注意した方が良いので、お話しするのですが……この市が滅ぶことは、もう決まっているのです」
私の言葉に、今度は三井さんも目を見開いた。
「この町の人間は、一人残らず競りに出された家畜と同じです。誰の所有でもないということは、いずれ買われていくと言うこと、そのあと実験動物になるか、調理して喰われるか、あるいはペットとして飼われるのかは、わかりません」
「他の神の庇護に入ることは」
「ないです。それは古代の人間の「一部」だけが、死線をくぐり、勝ち取った「契約」です。……私たちには、その契約をどうすればまた結べるのか、何を捧げれば良いのかすら、もうわからないのです。それらは全て、失われてしまった」
彼らに対抗する知恵は失われ、契約は失われている。今あるのは、ただ終わりまでの時間だけ。
「……」
「でも、期限を”延ばす”方法を、私たちは探しています。神の寿命がいくらあるのかはわかりませんが、すくなくとも人間の感覚とは桁が違う……売られる日を、神の感覚の二日、三日と伸ばしていければ、もしかしたら、あと五百年くらいは大丈夫かもしれません」
「そういうレベルの話なのか」
「あくまで、希望的観測、ですけどね」
彼はもう、腕をむやみに擦ったり、ウロウロと動き回ることをしなくなった。私みたいな、小さなガキの言うことを信じてくれるあたり、この二人はとても良い人なのだろう。ああ、本当に。
「他に質問はございますか」
「なぜ被害者である三井を殺そうとする」
「……燃えるということ、そのものが危険だからです」
「炎を即座に消すというアプローチをすれば? 冷やし続ければ、あるいは水を携帯するなどすれば、燃えるということそのものは避けられるはずだ」
彼は真剣に三井さんを生かす方法を考えていた。医者でなくとも、そういう発想には、当然至るとは思う。だが。
「それではダメなんです……神懸かった……つまり神によって「変異」させられた人間がもどることはないから」
「なぜ」
「それは、神に近づくということだからです。たとえ、三井さんの燃える、という症状が治まったとしても、いえ、むしろ治まった場合、三井さんは確実に神に意識を乗っ取られます。人が、記憶を失っても、箸の使い方を覚えているのと同じ理屈です。どうなろうと、知る前には戻れません。彼らの思考に染まってしまう」
白井さんは少し考えるようなそぶりを見せた。ゆっくりと、言葉を咀嚼して、飲み込んでいるみたいだった。そして、最悪の思いつきをしてしまったかのような顔をして、私の瞳をその迷いで射抜いてきた。
「……人を殺すようになるのか? 三井が?」
「そうです、今は意識を蝕むほどの兆候は見えませんが」
「絶対に?」
「絶対です。かつて捕獲した”神懸り”は、『五分間戯れた虫と付き合うために家族を捨てるのか?』と言っていました」
彼らの理屈は、彼らの思考は、私たちにはわからない。向こうも、明かそうとはしてこない。こちらが彼らの「仲間」であるらしい神懸かりを殺したところで、怒るわけでもなく、静観している。
「……」
わからないことを、人の言葉に例えるのは難しい。あっているのかもわからない。もしかしたら、全然、見当違いなのかもしれない。白井さんは今の説明で納得してくれただろうか、無理だろうな。突然人の意識が変わるなんてこと、人の感覚が変わる、価値観が変わるということを、受け入れられる人は少ない。
「……たくさん、話しすぎましたね、すみません……今日はひとまず、お暇させていただきます。しばらくは不安も多いと思われるので……こちら、私たちと提携している警備会社です。神対からの紹介、といえば、今後の対策などを、詳しく教えてもらえると思います」
私たちが立ち去ろうとしたところを、白井さんが引き留めた。
「……だから、三井を殺すのか」
「……」
「神様の、理不尽に、巻き込まれたから、こいつを、殺すのか」
だよね、そう思うよね。
「そうです。古代の、疫病への対処法と同じです」
「……」
ただ、私たちは忘れている。この世の中があまりにも不条理であることを、思い通りにならなくて、どうしようもないことが、私たちのすぐそばに横たわっていることを。それはかつて普通のことだったのだ。元に戻るだけ。
でも、だから受け入れろ、とは、今はとても言えなかった。
「……でも、もう少し考えてみようと思います。三井さんは、まだ意識まで神懸かっているわけじゃない。その……別のアプローチというものを、少し試してみるべきかもしれません」
「え」
「会議にかけさせていただくので、一週間ほど、お時間をいただきます。それからのことは、また後ほど」
白井さんはホッとしていた。今まで見た中で一番の安堵の表情だった。ただ、三井さんがそうじゃなかったのが、どうも気になっていた。
「会議にかけるだなんて勝手に決めるんじゃねえよ。ベッドにロウソク載せとくような真似しやがって」
「でも、ああでも言わないと、納得してもらえないと思ったんです。一旦、白井さんには落ち着いてもらわなきゃ」
「うん、確かにね、あまりにも多くのことが彼の周りで起きすぎたし、彼はもうこちら側の人間になってしまったから。むしろ協力してもらえるように、取り計らうべきだよ」
「あいつは、どうせ死ぬけどな」
根崎さんは短くなったタバコを潰して消す。胸元を探り、新しいものを取り出そうとするが、もう無かったらしい。舌打ちをして、足を組んだ。
「みんなお疲れ様〜」
「あ、渡辺さん、お帰りなさい」
「……」
「んだよババア、ジロジロ見てんじゃねえよ」
他部署に行っていた渡辺さんは、私たちのほうをじっと見て、少しため息を漏らした。
「三人とも、一旦休んだ方がいいわ…特に根崎くんと高田くん」
「指図してんじゃねえよ」
「今日、鎮めてきたのね〜。お疲れ様〜……だから、ねえ」
「……」
「……」
「二人とも、お願い」
この部にはルールがある。
たくさんの、個人個人のルールがある。それは言語化してはならないもので、暗黙のものだ。この場にいる「神愛」「神忌」である三人の「巫覡」の力を保つために、
「俺は絶対てめえの言うことなんて聞かねえからな」
そう言って、根崎さんは部屋を出て行った。一度、地下にある自室に戻るのだろう。そこでは、特殊な結界が貼ってある。思考も言葉も行動も自由だ。十分に、休めるはず。
「わかりました」
高田さんはまだ、動かない。こういう時に、神愛同士が残ると、話がこじれるので、私の出番だ。
「高田さんはまだ行かないの?」
「うん、一人は、三井さんを見ていないと」
「私が見てるよ、渡辺さんもいるよ」
「そうだね」
「……」
「……」
「高田さんは、どうしたいの?」
私は、耳を寄せる仕草をした。彼は内緒話をする時みたいに、私に顔を寄せる。その時、彼は三日ぶりに口をきくみたいな顔をしていた。
【 。】
私にだけの言葉は、神には伝わらない。彼らの声を聞き、彼らの心を円滑に伝えるのが、私「路傍」の役目だった。
三井は考えていた。月明かりだけが照らす寝室で。むしろ考える以外のことができなかった。だって本を読むには光量が少なすぎる。
真っ暗闇のなかにいて、なにもしないでいても、三井は寝ないでいることができた。三大欲求をかなりコントロールできるのが、自分の強みだと思っていたし、現にそれはかなり役に立っていた。もしかしたら、それすら神の采配なのかもしれないな、と思うと笑える。一体、人間が人間の意志だけで選んできたものが、今までの世の中でどれだけあったのだろう。
違和感を覚えることが、今までの人生でなかったわけじゃない。でもそれは、すごく些細なことばかりで、今思えば「あれも変だったよなあ」と考えてしまう程度だ。もしかしたらその違和感すら思い込みで、間違っているのかもしれない。本当に何もわからないもんだ。
星が少ない。この小さい窓から一つ見えるだけでも良い方なのだろう。包帯が少し減った手のひらを月にかざしてみると、やっぱり指が欠けている。できなくなったことを頭の中で連ねそうになって、かぶりを振った。
一度目の火災の時、やめたはずのタバコが燃えたと聞いて、正直動揺した。やってない、という言葉をかざすには信用もなく、俺の人生終わったなと思った。小児科医がタバコの不始末で火傷って、印象が悪いにもほどがある。
でも、こうして続けられた。なぜかはわからないが、運が良かったことは確かだ。白井は俺のせいじゃないと言い張ってくれたし、院長先生は「以後気をつけるように」としか言わなかった。前原さんは皮肉を言いながらも同情してくれたし、何より子供たちが、僕を怖がらなかった。
あれはどうしてだったんだろう。院内の子供達がお見舞いに来てくれた時、僕は恥ずかしさやら居た堪れなさやらで、正直顔をあわせたくなかった。きっともうここを離れることになるだろうと思っていたし、何より彼らに怖いと言われることが目に見えるようで。なんだか彼らからクビだと宣言されるような、そんな気持ちになっていたんだ。
でも、あの時、あの時誰が言ったんだろう。
「先生、ミイラ男みたい」って、ああ、本当に思い出せない。「三井先生がミイラ先生になった?」「ミイラ男だ、せんせえミイラ男!」「やっべー!」「先生がおーってして! がおー!」そんな話になって。何も気にしないで、彼らは僕のベッドに乗り上がろうとしてきた。
彼らは一度決めてしまった感覚に従う。だから、最初にミイラだと言った誰かの言葉のおかげで、僕はミイラ先生になったんだ。別に僕がどうしたとか、何をしたってわけじゃなかった。ただ彼らが、救ってくれたのは、確かだ。
ああそうか、と思う。子供は神様に近いっていうのは、こういうことだったのかと。彼らの行動は人によっては気まぐれで、全力で、時々災害のように感じることがあるけど、でも確かに必要なものだ。彼らは自然そのものなのだ。人はそれに従い、時に少しだけ軌道修正しようとする。だが主体は彼らなのだ。
月が雲で隠れたのか、欠けた指が闇の中に同化して消える。僕は目を閉じた。まぶたのひきつる感覚だけが、僕の肉体があると認知させてくる。でもそれだけだった。それは僕にとって、怖いとか、恐ろしいとか思うような類のことではない。
……覚悟が、決まった。決まってしまった。
隣の部屋にいる白井のことを考える。あいつは、きっと今でも起きているんだろう。ごめん、と思った。思うだけにとどめるのが、少し難しかった。
「まさか最後にあなたの方から受け入れてくださるとは思いませんでした」
私は言った。ただ、「やっぱり」となっても決定を覆すことは出来ない。もう後戻りできるようなことじゃないんだ、これは。それでも聞いてしまった、これはただの私のわがままだった。
「はい」
それなのに彼が答えたのは、予想通り以上に予想外の言葉で。私は問い返すことすら出来なかった。思いつくのは紋切り型の言葉ばかりで、文房具屋で百円で手に入ってしまいそうな程陳腐だ。
「難しく考えなくていい。僕は自分の意思で、死ぬって決めたんだから」
「……あなたが決めようと決めなかろうと、きっとあなたは殺されてます、私たちに」
「……それでも、いい、んだ」
どうして、彼はそんなことが言えるのだろう。なぜ、こんな目に遭ってまで。私は問いかけた。うまく質問できていたかは、怪しい。
彼の微笑みは死を前にして随分穏やかだった。私はそれに、一種の人ならざるものの風格を感じた。……いや、しかし……神々しいと、呼ぶべきではないんだろう。
「気に障るとは思うのだけれど」
「え?」
「僕は、さ、やっぱり君を、大人としては見ることができない、ごめんね」
「はい? いやいや、小学生ですから、普通ですよ、普通」
「ど、どっちなんだ君は……ほんとに……まあ、それなら、いいんだけどね」
彼は曖昧に笑った。無邪気な子供みたいな顔ばかりしている人だったから、こんな顔をすることそのものが、意外だった。
「話を戻すと……だからね、君がそうして辛そうな顔をしているととても困るんだ」
その言葉に、私はゆっくりと顔を上げる。焦げて色の濁った瞳は、恐ろしげなのにどうしてだろう、確かに優しかった。
「してます? そんな顔」
「してるように見える」
思えば、彼と二人きりで話すのは初めてだった。
「辛いのはむしろあなたの方でしょう」
「それがね、思ったより受け入れてる自分がいるんだよねえ」
はははは、と彼は乾いた笑いを漏らした。目元には紫色のクマが滲んでいる。
「いやね、これが、僕の役割だって言うんなら、なるほど、確かにって思うところがどっかにあるんだよ」
「人のために死ぬことがですか?」
随分殊勝な人だ。
が、三井さんが穏やかな気持ちで死ねるのだとしたら、それは、それは彼自身の意思ではなく、神の意志だろう。神だって、暴れないで死んでくれた方がいいに決まっている。あといい加減、しびれを切らしてきてもいるのもありそうだ。ただ、人間からすると神の意志なんてものは、自然現象、災害、あるいは運とあまり変わらないものだから、妙に受け入れられたような気がしているだけ。
……それに、関係ないと言われればそれまでだけど、三井さんが良くても、白井さんはどうなるんだろう。あの人は、三井さんに死んでほしくないはずだ。先延ばしをすると言って、あんなにホッとした顔をするくらいなのだから。正直、いまここで彼を手にかけるのが、本当にいいのか、今でもわからない。
三井さんから「白井には内密でサクッと僕を殺っちゃってくれない?」と聞いた時には本当に耳を疑ったものだ。それが、真剣そのものだったから、もっと驚いたけれど。
私は目を伏せた。今、優しく微笑んでいるだろう彼の顔を直視できなかった。
「違う、僕はどっかの誰かのために死ぬんじゃない」
考えるのはよそう、と思う前に、三井さんは言った。私は彼の目をもう一度見た。白く濁った瞳が、一瞬真珠を連想させた。
「じゃあ、なんのために」
「君たちを生かすためだ。前に君たちが言ったように、延命治療、医療行為だね。医者として本望さ」
「いや、変わらなくないですか」
「全然違う……大人と子供じゃね」
彼の声はほんの少しだけ、震えているような気がした。彼は窓ガラスに手を当てた。彼の死に場所として選ばれたのは、全面コンクリートに耐熱、耐久ガラスの窓がついた部屋。あまりにも殺風景だ。本当はもっと、協力的になっていただいた分、相応の対応をしようと思っていたのに、彼が、ここのような場所がいいと、言ってきた。
欠けた人差し指、中指、薬指からは、まだ体液が滲んでいる。
「いいかい、知っているかもしれないけど、大人の役割というのはね……大人の役割の一つはね、子供を守ることなんだよ。もちろん君たちはそれに責任を感じる必要はない……今までずっと、ずっと昔から大人という役割の人たちはそうしてきたんだ。それが、人間の生き方のひとつなんだ。世の中が良くなって、それを意識しなくなっていっただけで」
閉じにくいであろう目を閉じて、彼は小さく息を吸って、吐いた。
「今起こってしまう僕のことはいい。未来の君たちに、同じことが起こらないように、頑張って欲しい」
「……それは」
それは、それは確かにそうなのだけれど、そうなのかもしれないけど。
「言いたいことは、わかりました……」
……ここで彼の言葉を否定する必要はない。死んでくれると言うのなら、それでいいはずだ。私はそれ以上考えちゃダメだ。役割を、役割を、果たさなきゃ。
もう一度、彼の目を見た。曖昧な微笑み。
「……わかった。じゃあ君に大きな呪いを残そう」
「呪い?」
「そうだ。僕の怨念、無念全部まるっと君に押し付けて、大いなる呪いを残してやる、はぁ!」
何言ってんだこの人。
「これからは……君が僕になる!」
「は?」
「君の魂に、僕の魂を移した。だから君はこれから先、自分の命を僕のものと同じだと考えなきゃいけない。大変だね、もう君の命は君だけのものじゃない。滅多なことじゃ死ねないし、何より、幸せにならないといけない。幸せになるのは大変だぞ~結構難しいぞ~」
「いやいやいや」
「僕は来世だか天国だかで君のことをずっと見ていよう。君があんまり不幸なようだったら、祟ってやる」
……実は、それはちょっとシャレにならない話だった。人が生前に残した想いは、神が汲み取って使い回す可能性がある。それは本人の意思とは違い、宣言したことがその通りになるので、ツンデレを拗らせて恨み言を言って死んだ女性のパートナーが、後日ほんとに死んだなんて事例もあるのだ。しかも……神にとって嘘とは、言った本人がどれだけ本気で言ったかに比例する。彼の目は呆れるほどに、マジだった。
「君には僕の魂をコピーアンドペーストした! だからこっちはゴミ箱行きでも大丈夫!」
「……」
「いやー助かって良かったな! 僕! なによりだ!!」
彼にとって、小児科医は、きっと、天職だったのだろう。それが今は、何よりもありがたかった。
「もーえろよもえろーよー炎よもーえーろー」
笑いながらこんな歌を歌うものだから、あまりにも不謹慎すぎて、少し私のほおがヒクついたのを、彼は見ていただろうか。
「ひーのこをうずまーきーてーんまでてらせー」
「こんなとこで歌うなんて、前代未聞ですよ」
私は最初、もっと苦しくない死に方を提案した。どうせ死ぬなら苦しくない方がいいに決まってる。なのに彼は「神の御心のままに燃えること」を選んだ。
死体を調べれば、少しは役に立てるだろと、彼は言った。そんなことを言う人は初めてだった。
「ん? だって僕死ぬわけじゃないもん。ちょっと刺激的な経験をするだけ」
「そうでしたね」
私は笑った。彼に引き出してもらった笑いだった。自然に笑えている事実が、私の胸をムカムカとさせたが、コーヒーのせい、ということにした。
部屋には、いつ神が来てもおかしくない。それらが来やすい環境を整えた。この絶好の状況下で、三回も邪魔された神が反応しないはずはなかった。
決着は三十分で着いた。
コンクリート張りの部屋の中、彼の指先が光り始める。それはゆらり、ゆらり、ぐしゃりと歪んで、炎が上がり始めた。途端に彼が痛みで呻いた。歌が途切れる。部屋の真ん中で、立ち尽くしたまま彼は自らの指先を見つめていた。ロウソクのように皮膚が溶け出し、中から力を失った骨がほろりと落ちた。思っていたよりも、燃焼が早い。もしかすると彼は人ではなく、何か神様の特別製だったのかもしれない。
肩肘はブルブルと震え肉体の本能が神の意志に抗おうとしているかのようだ。それでも唇は、歌の続きを型取り続けていた。焼けつつある呼気が、時々赤い炎を膨らませるので、まだ、一応息があるのだとわかる。
火が強まった。一気に燃え広がり、彼の全身を包む。歌はもう見えない。ついに膝が落ちた。炎の真ん中で、光に照らされ肉体が焦げ付いていく。炎の中でぐあ、と口が開いたようだった。それが叫びだったのか、別の何かだったのかはわからなかった。考える間も無く次の瞬間にその体は床にどっと倒れてしまい、地面に顔を伏せたまま、ぷっつり、何も動かなくなってしまった。
爆発しそうなほどの大きな炎が、十分ほど上がり続けていた。人影が崩れ、部屋が煤けて、煙がたまる。そしてゆっくり、ゆっくり炎が消えていった。思ったよりも、ずっと、ずっと早い終わりだった。最後、膝から下の両足だけが、なぜかコンクリートの床に残される。
……本当は目をそらしているべきだった。この身体と精神に、変な負荷はかけるべきじゃない。私の健全な成長に影響するだろう。それでも、死を選んだ彼が、何を思って逝くのか、見てみたかった。彼の意思がなくなる瞬間まで見て、得たのは「割とあっさりなんだな」という冷めた感情だけだった。これなら、見ない方が良かったかもしれない。このまま眠れなくなっても困る。
私は後ろを向いて部屋を出た。きっと高田さんが待っている。私が彼の死ぬところを直視していたと聞いたら、きっと高田さんは驚いて、そのあと怒るはずだ。根崎さんは嫌味を言うだろう。渡辺さんは心配するだろう。今の私は小学生だから。
……だめだ、冷静で、いようとすればするほど、涙が溢れてくる。私が泣いてるわけにはいかないのに、この体は億劫だ。理性が効きづらい。神はいつだって理不尽だ。そんなこと、知っているはずなのに。
しばらく、部屋の隅で涙が止まるのを待った。できるだけ早く、早くと思うたびに何度も何度もせり上がってきて、一時間もそのままでいた。
「……、……!」
待てよ、待ってくれ、そんな、ありえねえだろ。
膝から下が震えていた。怒りなのか、動揺なのか、それとも別の何かなのかわからない。血が台風みたいに心臓を叩きつけていて、頭が真っ白になっている。
「こ、殺したのか?! もう、もう……!」
俺は衝動のまま少女の胸ぐらを掴んでいた。やっていることが冷静を欠いていることくらいわかる。でも冷静を欠いていることしかわからない。
「なんでだ!! あの時お前らは!! もう少し待つって! 騙したのか、騙したのか?!!」
騙したのか、自分たちのいい方向にことを運ぶために、騙したのか、それでいっとき安心させるために。少女はじっと俺を見つめている。その目は確かにいたいけな女の子のものじゃなかった。こいつの中にいるのは、もしかしたら、人間以外の化け物なんじゃないか、なら、なら……!
「……落ち着いてください、ごめんなさい、三井さんの頼みでした。あなたが知らないうちに殺してくれと」
「嘘をつくな!! そんな、そんな言葉で、なんで……!」
取り返しのつかないことなんだぞ、死んだら戻ってこない。二度と帰ってくることはない。あいつの周りにあったものが全部失われて、全部なくなって、なくなった分、なくなった分……。体の奥では心が暴れてのたうち回っているのに、俺はそれを一%も発することができない。あいつが死なないで済むにはどうしたらいいかずっと考えていた。それが思いつかなくとも、せめて、何ができるか、それまでに、どうしたらいいか考えていた。なのに、ああ、俺は、何をしていた……?
「許さない……呪ってやる……お前ら全員……全員……」
「……」
少女は答えない。その目はどこか虚ろな気がした。くそったれ、畜生、ちくしょう……。俺は、俺の言葉はこいつらには何にも届かない。何が神と戦うだ。延命だ。人としての尊厳まで、捨てておいて……!
「お前らは、お前らは……」
「……」
「どうしてそんなに……」
ぱたた、と水の落ちる音がした。それがあまりにも手術中に血管を切った時の音に似ていて、ハッと下を向いたら、それは自分の涙だった。
「……、三井さんは、下手に見送られるのは嫌だとおっしゃっていました。そういうことをされると、なんだか大層なことなような気がして、嫌だと」
「……は、大層なことに決まってるだろ」
「私もそう思います」
彼女は何もしない、ただ話しているだけだった。
「誰も知らないうちに、さっといなくなりたい、まだギリギリのところで、いつも通りが続いているうちに、と」
「……」
「どこがいつも通りなんですかね」
「……そうだな」
だがそれは、その言葉は、確かに三井のものだと思わせた。あいつはふざけたやつだから、ふざけたやつのくせに、妙に神経質なところのある、あいつっぽい言葉だった。
「……手紙を、預かっています。これとは別に、きちんとした遺書もありますが、こちらはご家族にお送りする予定です。市からはある程度の補償金も出るでしょう」
「……手紙」
「はい、白井さん宛です」
封筒には、俺の名前、字は震えていたが、この読めない「白」は確実にあいつの字だった。中身は流石にワープロで打たれていたが、なぜか子供向けのファンシーな絵柄が散りばめられている。俺はその場でそれを開いた。
——————————————————————
君がこれを読んでいるということは、僕が死んだか、うっかりどこかからこの恥ずかしい遺書が漏れたということだろう。
僕が確かに生きているのであれば、早急にこの手紙を破り捨てるかファイルをゴミ箱に入れてしっっっかりと中身を消去して欲しい。頼む、後生だから。本当に。マジで恥ずかしいから。
誰かに渡したりするなよ? 友達間で回し読みとかされてたらお前のパソコンの「医局内名簿2」フォルダ黒木さんに送るからな?
で、この先を読んでいるということは、本当に僕があの時死んでしまったということで間違い無いのだろう。間違い無いよね? まあいいや。もうその体でいくよ、話進まないから。
君は最高の友達だった。いやこれを書いている今もそう思っている。僕は今までそれなりに仲の良い友人は作ってきたつもりだったけれども、君ほど良い友達は他にはいなかったと思う。同じ志、同じ夢、同じ目標を持って、君と生きられたことは僕にとって本当に恵まれたことだった。あの時たまたま隣に座ってなかったら、俺は今よりもう少し不幸せだったし、今より自分の死を惜しんでいなかっただろう。
入院してた時、変に泣いたりして困らせてごめん。いやだって普通に死ぬのは怖いし、突然言われて混乱したところは確かにあったんだよ。俺自身、自分の体が勝手に「燃えている」自覚、実はあったから、本当に殺されるんだと思ったら、いてもたってもいられなかったんだ。いや本当にダサい。恥ずかしくて死にそう。
ただ、あれが君の変な熱を起こしてしまったような気がして、僕はそれが心残りだ。
白井、僕は、自分で選んで死ぬことにした。
君はそれをあまり信用できないかもしれないけど、落ち着いて聞いて欲しい。
なあ、俺たちはさ、今まで医者やってきて、良いこともあったけど、色々嫌な思いもしてきたよな。小さい女の子が放射線治療でボロッボロになりながら死んでいったりとか、中学生の子が突然手足を切断する羽目になったりとか。
お前もそうだと思うんだけど、僕が代わってやれたらって、何度も思ったさ、何度も何度も。こんなまだ何も知らない子たちが、良いことも悪いこともまだほとんど知らないような子たちじゃなくてってさ。
だからさ、これは僕がその「代わりになれた」って思うことにしたんだ。生きたまま体が突然燃えるなんて、正直本当に死ぬほど痛いし、苦しいし、酸素燃えて息もほとんどできなくて、マジで最悪だよ。それがさ、他の子供たちにならなかっただけ、ずっと良いってね。これはきっと僕が前から望んでいたことなんだ。
神対の人に聞いたんだが、こういう事例は、ここ十年で一気に増えているらしい。数年前にも、実はでかい災害が起きていて、人が何人も死んだらしい。僕らが知らないところで起きているのはそういうことなんだ。
だから僕から最期の望みを言わせて欲しい。もちろんただのお願いだ。僕から返せるものは何もないし、君の人生を縛ってしまうかもしれないから、嫌な予感がするなら見なくたって良い……と、言いたいところなんだけども、やっぱり同じ医者として、ライバルとして、君にこれを託したい。
どうか、彼ら神対の手伝いをして欲しい。
彼らは多くの犠牲を払って、この市の延命治療をしている状態なんだったよな。これから先、僕のような事例はどんどん増えて、その多くが闇に葬り去られていく。それは別に彼らが暗躍しているわけでもなんでもなくて、何か大きい、そういう意思が働いているわけで。まあ神様が相手なんだから、そういうこともあるだろう。
馬鹿馬鹿しいよな、ほんとありえねえ。でもお前も、もうただ誰か悪い奴がいて、それで何かがどうこうしてるんじゃないってことくらい、わかるだろ。少なくとも、何か今までの「やり方」じゃうまくいかない何かが、この街で起きていることは確かだよ。
納得いかないなら、彼らの担当する事件の「被害者」を治してやることだけでもやって欲しい。それなら問題ないだろう? 気の遠くなるような症例が、きっとこれから先山ほど出てくるぞ。
僕の望みはそれだけだ。あとは葬式で号泣するふりをしつつ、俺がどんなに良いやつだったか吹聴してくれるだけで良い。多分それっぽいことを言ってくれれば、父さんや母さんにもそれなりに良い息子だったと思ってもらえるだろうから。
最後に、僕のカルテも同封しておく。経過も含めて、できるだけまとめておいた。透子ちゃんにはよく手伝ってもらったから、後でお礼をいっておいて欲しい。
今までありがとう。来世か地獄か天国かはわからんが、神様がいるなら、またいつか会えるだろう。その時に、また会おう。
P.S.
透子ちゃんのことは、許してあげろよ。大人げないぞ。
——————————————————————
「……心より、お悔やみ申し上げます。そして……申し訳ありませんでした」
「……はは、これ、読んだか」
「いえ」
「なんか……お前らのこと、頼んだぞって、書いてある……」
「はい?」
「なあ、俺、さっき、許さねえって、言ったけど……どうしたらいいと思う?」
「……」
彼女は頼りなさげに後ろの大人二人を見上げた。でも後ろの二人も、顔を見合わせるばかりで、肩をすくめている。それはずいぶん、人間臭かった。
「……もう一度、冷静になることにする」
「え」
「拍子ぬけた……掴んだりして、ごめん」
「あ、いえ……」
俺は頭を抱えて、もう一度考える。頭は相変わらず働かないが、体の奥のものはずいぶんと大人しくなった。
「……また連絡させてくれ」
「は、い……」
最後の頼みなんかされたらよ、三井、聞きたくなるじゃねえかよ、ひどいことするよな。俺の復讐心とか、悲しみとかさ、全部俺だけが抱えてたものってことじゃねえか。単なる俺の身勝手だったってことじゃねえか。
もしかしたらあいつは、最初の火事に巻き込まれた時から、何かしらの覚悟が決まっていたのかもしれない。それが何者かに植え付けられたものだったとしてもだ。そしてそれが「神」の采配だって言うなら、こいつらに当たるべきじゃ、ない。
……復讐心を燃やすべき相手は、もっと別のところにいる。そう思うと、落ち着いた。
俺にはこれからやるべきことがいっぱいある。そのために、このジン対とは、関わっていかなきゃならないだろう。なら、敵対するのはやっぱり、得策じゃない。
外に出た時、空を、睨みつけた。
かんかん照りの、綺麗で眩しい空だった。
つづく